和歌にみる定家と式子内親王
秦 澄美枝
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
忍ぶることのよわりもぞする
広く知られた式子内親王の代表歌であり、謡曲「定家」に式子その人を象徴するものとして引かれた歌である。この歌では人生のほとんどすべてをかけて長く耐え忍んできた恋情が極まり、命までも「絶えなば絶えね」と絶叫する中で、「玉の緒」という歌語による美的イメージが昇華し拡散する情熱の高まりゆえの一層の悲しさ切なさが詠まれている。これこそ内親王が人間として女性として生涯かけて美しく追い続けた恋の姿勢であり、歌人として摸索し続けた歌のテーマであった。ところでこの歌は「忍ぶる恋」を詠んだ題詠であって、『新古今集』では同題の歌「忘れてはうち嘆かるる夕かなわれのみ知りて過ぐる月日を」「わが恋は知る人もなし堰く床の涙漏らすな黄楊の小枕」と三首連作として恋部に入集していることなど、新古今時代において式子は「忍ぶる恋を詠ませて当代随一」との評価を得ていたのである。そして題詠でありながらもこれらの歌で表現される世界と、歌人としての評価に、幼少からの賀茂斎王としての生活や成長後の長く病気と孤独に苦しんだ実人生が重層化されて伝説の内親王像が形成されていくのである。
なげくともこふともあはむみちやなき
君葛城の峯の白雲
やはり謡曲「定家」に引かれた『拾遺愚草』に入る定家の歌である。この歌は『新古今集』に入る「よそにのみ見てややみなむ葛城の高間の山の峯の白雲」を本歌として、本歌と同趣好の葛城伝説や成就かなわぬ高貴な女性への恋情を詠む神秘的な恋歌である。歌人藤原定家は、式子の歌の師、俊成を父として、後鳥羽院と共に新古今時代を築く当代の代表歌人であり、本歌本説取という方法を極めた歌詠みであった。たとえば、謡曲「定家」後段、クリ「朝の雲、夕の雨と古言も」の典拠でもある文選『高唐賦』を本説として定家も「春の夜の夢の浮橋とだへして峯にわかるる横雲の空」という歌を詠んでいるが、この歌こそ新古今調の非常に色濃いものであると同時に、本歌本説取の方法の最も成功した定家の代表的秀歌なのである。この歌は横雲が流れてゆく春の叙景美を詠みながら、本説の、王が夢の中で仙女と契るというはかなく艶な恋物語を背景として神秘的な余情を漂わせている。しかし創造の世界においてこのような美を求めた定家も、現実においては日記『明月記』に見るように官位昇進を憂え、思うままにならない身体の病に苛まれる人間であった。むしろそういう現実があったからこそ創造の世界においては超現実の神秘な美を求めていったと考えられるのである。
ところでこの式子内親王と定家との恋は実際のところどのようなものだったのであろうか。謡曲「定家」が生まれる背景には、古く『謡曲拾葉抄』『正徹物語』等に式子の忍恋物語が見られるが、この恋の相手が定家か否かという点については定かではない。時代が下って、近世の中院通茂『渓雲問答』には、式子と定家との間について俊成が窘めたところ定家の座右の歌として「玉の緒の…」の歌があり、これほどの歌詠みなら定家が式子に心ひかれるのはもっともであると俊成も定家の心情を理解したという話がある。このような伝承が室町以前から伝わっていたとすれば、伝承が謡曲「定家」の典拠になったことは当然であろう。しかし現在では二人の恋が事実であるという見方は成立しにくく、現実の定家と式子との関係については『明月記』に見られるばかりである。そこで定家が初めて式子に参見した記事を見ると、「今日初参…、薫物馨香芬馥」(治承五年正月大三日)とある。時に定家二十歳、式子三十二歳(従来は年令も不明であったが、近年上横手雅敬氏が陽明叢書『人車記』解説で式子の生年を久安五年と明らかにされた)であった。高貴な身分の内親王ゆえに定家など直接参見することなどできるはずもなく御簾を隔てての初見であった。これ以後の記事にも見られる立場をふまえてのかかわり方や、二人の年齢差、直接に男女の交流を意味する恋の贈答歌が見られないことなどが合わさって、やはり二人の恋の事実は考えにくいのである。そればかりか近年石丸晶子氏は式子の面影人は法然ではないかとの式子伝も述べられた。
それでは定家にとって式子とはどのような存在であったのだろうか。先の『明月記』の「薫物馨香芬馥」によれば、御簾を隔てて伝わる式子のイメージは馥郁たる薫に包まれた定家が手の届かぬ神秘な雲の上人であった。この後定家が式子に参見するプロセスは、琴の音をうかがう折りや、和歌を奉る折りなど、直接に人間的かかわりでなく、香・音楽・和歌という王朝の貴族が愛した雅な世界においてであった。そしてこのような記述から見れば、定家にとって式子とは自分が果てしなく追い求める王朝の文化を体現する人そのものではなかったかと想像されてくる。定家が式子に憧れを抱いたことは確かだが、先の『高唐賦』の世界のような人間界を超えた雲のかなたの仙女に対する神秘な憧れのようなものであったと考えられるのである。
だからこそ禅竹が女体の能の無上の姿として好む「朝に行雲となり、夕には行雨となりけん面影」(『歌舞髄脳記』)の「雲」が、「定家」の構成のポイントになっている事には、ある種の創作意識が伺えるのである。謡曲「定家」は「雲も行きかふ遠近の」で始まり、「朝の雲、夕の雨」でクライマックスを迎え、「ありし雲居の花の袖」と終焉に向かう。この「雲」こそ美的景風としてのそれであると同時に、定家の永遠につきることのない高貴な女性への神秘な憧れを暗示するものと思われる。中段クリに対として引かれた宗貞の「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ」の雲上の美しい天女と、果たせぬ思いの人、先の定家の「嘆くとも恋ふともあはむ道やなき君葛城の峯の白雲」の雲上の神秘な女性と思い人にこそ式子と定家が重ねられてくるのである。
─「橘高」平成五年五月号─
(筆者は、日本文学研究家。日本ペンクラブ会員。姓は同じだが編輯者ととくべつの縁はない。色濃く主観に彩られた著書『和歌戀華抄』の一編を戴いた。周到な研究論文も多く含まれた中で、だれもが知りたい能「定家」にかかわるエッセイを選んだ。この人には、清泉女子大学に於ける教職者の学生に対するセクハラを強烈に告発したね力作『魂の殺人』もある。1.6.27掲載)
HOME |