文学エッセイ


初出: 雑誌「myb no.26」特集(2009.03.15)





 言葉は心の苗である  秦 恒平  



 ある茶の湯の家元が書かれて「語是心苗」とある軸を、生前の叔母は稽古場によく掛けていた。もらい受けて、いま、私もときどき掛ける。理屈らしく読んだ記憶はなく、その通りと黙々納得していた。どう納得していたかを、まず書きます。
 この際の「語」とは「話しことば」というにちかいが、「文」の場合もおなじで、やはり「心の苗」のように表れてくる。しかもこのI心」、不動心とも無心 とも静かな心とも限らない。刻々千々に乱れ砕けて動揺ただならぬ凡心でも小心でもあり、ことばも、文も、そんなアテにならぬ頼りない心と同心し、静かに も、荒けなくも、深くも、傲慢にも外へ洩れて出る。人の「ことば」や「文」は、あまりに当然に心ざまに相応する。どう繕っても、繕いきれない。人がらは物 の言いように表れる、文は人なりと昔の人の言い置いた事情は、今日とて少しも変わらない。ものの分かった人ほど、だから我々を強く戒める、真相の理解に 「ことば」を信じ過ぎてはいけない、頼い過ぎてはいけない、と。まともな文士なら例外なく「文」や「ことば」への不信を身に痛く抱いていて、それが普通と 思う。
 「美しい日本語をとりもどすために」と編輯氏は問うてこられたが、もともと日本語「が」美しくも醜くもあるのではない。「心美しい日本人」かどうかの問題である。そしてこの問題は、私の手に余る。
 私は「書き手」で、文章語を「書い」て売って、暮らしてきた。話し上手や話藝にふれて此処でもの云うのは、烏滸(おこ)がましい。自然、文学・文藝を念 頭に、「書い」てあらわす「文章」について話すしかないが、これとて、立った足もとを掘り崩すような、やはり烏滸の沙汰になると、じつは甚だ気がすすまな い。卑近な「感想」から書きます。
 明治に、一時期「美文」が流行った。妙なモノであった。昨今は「名文」ということもあまり言わない。名文の議論はよほど多岐にわたる。安易な口出しは避けたい。
 当今は「悪文」の時代であろうか。悪文にもしかし、稀々、あるいは時折り、とても個性的な「佳い悪文」があり、見捨てるばかりが読み手の能ではない。一昔まえの瀧井孝作先生や吉田健一先生の一見悪文は、また名文の一種とも謳われた。
 すぐれた文学か、そうでないか。それは題材では決まらない。文体と文章。その上に造型され表現された作者の「思い」の深さ高さや、オリジナリティーない し作の品、と、ひとまず謂っておく。だらけた陳腐な物言いや決まり文句を多用し、筋書きを説明に説明して、文章を「読むうれしさ」を全然与えてくれない、 それはもう「読み捨ての読みもの」に過ぎない。ほんものの「作品」備わった「作」は二度三度四度の再読を促してくる。名勝が、再訪につぐ再訪を促す魅力に 富んでいるように。
 この節、書きたい人がむちゃに増えている。ケイタイでも書ける。他人のものは読まないのに、自分の書いたものは読んで欲しいからか、私のところへも、見知らぬ書き手が「書いたもの」を送ってくる。
 ものを書くのに、才能は、どう現れるか。少なくも一つ謂える。「推敲する」力と根気、それが創作文章での確かな「才能」です。推敲の力は、数行の書き出しだけでも分かる。一つ、(これで十分なのではない、誤解ないように。)申し上げる。「のようというのだ」と覚
えてくださると好い。
 「(の)ような(ように)」「という(といった)」そして語尾の「のだ」の、この三つは、書きながらも我から首を傾げて思案した方がいい。
 大概、この三つは必然の必要から書かれず、ただの口調子で書かれている。省いてしまうとピンと文章の立ってくる例が多い。この三つの頻出する文章は、たいてい、救いがたい「駄文」である。
 序でながら、例の一つであるけれど、「私がすること」「あなたのなさること」の、「が」と「の」を、確かに書き分けられる人も、少ない。丈章の品位、作の「品」を左右する例が多い。

 さて、では「文学」の徒は、何を大切にしてきただろう。
 古めかしいかも知れないが、やはり「人間」。人を励ますという最終効果は願わしいが、過剰にそれを目的にするのは賛成でない。文学は祝言藝ではない。文 学は追究・探求の「表現」藝術であり、その表現や達成が結果人を励ますモノであれば最良だろうと思う。文学が妥協の所産であるとき、必ず通俗な読みものに 終わる。ひまつぶしは出来ても、人間の闇に光をさしこむことは出来ない。
 では「文学表現」の本質とは何なの。その話題になると、私はいつもこう口にしてきた。
 文学は(絵画である以上に)音楽です。文学の根は詩歌ですもの。優れた文体は、音楽です。「音楽」と書いて「音学」と書かなかった幸せを感じるとき、「文楽」と書かずに「文学」と書いてしまった不幸を思います、と。
 しかし「音楽」もいろいろで、クラシックもジャズもシャンソンも日本の民謡もある。同様に文学・文藝の「ことば」で奏でる音楽もいろいろで、ラコニック (スパルタふう)といわれ、厳格にムダを削ぎ落とした志賀直哉ふう文体の美しさだけが達成でなく、流暢な谷崎潤一郎ふうも、絢爛たる泉鏡花ふうも、さくさ くと砂を晒したような徳田秋声ふうも、じっくりと挨拶のきいた島崎藤村ふうも、それぞれに甲乙ない「文体の音楽」を奏でていて、むろん芥川龍之介も川端康 成も忘れがたい。漱石や鷗外、なおさらである。例は幾昔かまえのに、あえて限っておく。
 だいじなことは、こういった文豪たちの気息にいくら追随しても、あなたの、私の「日本語」は美しくはならない。確かなものにもならない。学べても、それだけでは、物まね。
 「ことば」は、時代と手を繋いで生きる。「時代」という土壌に自覚の根をおろした自分自身の「心の苗」を育てるしか手がない。そういう「日本人」で在れるかどうかに、あなたの、私の「日本語の問題」は戻って行く。
 ある漠然を蔵したふうな「美しい日本語」がだいじなのか。自己批評のするどい「いま・ここ」に芽生えた、「生き生きした現代語」がだいじなのか。そもそも「とりもどす」ようなものか。
 物思い多き「書き手」たちの、その辺が日々の思案になる。態度になる。