身にしたがう心 秦 恒平
「こころ」という言葉を詠みこんで「心」を詠じた和歌は数知れない。が、心ひとつで心の歌には、なかなか、成らない。「かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人(よひと)さだめよ」という業平の歌も、「色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける」という小町の歌にしても、「夢」「花」といったシンボルとの取り合わせで生きている。取合わせ抜きにさも絶対境めいて「心」を純然抽出してみようと、どう「心見て」も、それで「心」が見えるものではない。
わたしの造語で恐れ入るが「こころ言葉」といえるような表現が、日本語にあって、日常にじつに多用されている。「心根」とか「心配り」とか「心地」とか「下心」とか「心ばえ」とか「心掛け」とか「心得る」とか、際限がない。それらの「こころ言葉」をもし用いずに、同じ趣意を伝えたりしなければならぬとなれば、どんなにかくどく、まわりくどく言葉を費やさねば済まないか、「心細い」はなしになる。
ところで、わずかに、こう拾ってみただけでも、じつに「日本語」感覚の把握している「心」には、根や底があったり、分配できたり、地や構えがあったり、下や上になったり、映えたり掛けたり獲得したり出来るもののようである。さらには太くも細くも、広くも狭くもなるようなものとして、「心」は、あたかも形ないし象を成しかつ備えて想われて来たことが分かる。
もとより「こころ言葉」は「こころ」にだけ熟してはいない。「気は心」というように「気」にも「魂」や「意」にも熟していて、表現の多彩さ巧みさには「心奪われ」てしまうほどである。「気」には味あり色もあり、遠くも近くもなる。「魂」は消えたり入ったりする。「意」には内外があったり注げたりもする。こういう全部をひっくるめての「こころ言葉」であり、それ即ち「日本の心」の具体を、よく指し示している。この指示にしたがわずに、ただ観念として「心」を語ろうとしても、かえって「心ない」ことになる。
いま「具体」とわたしは言ったが、もう一度和歌の話へもどってみると、じつは、「心」が「身」つまり「からだ」に取合わせて意識されている時に、往々、おもしろい「心」観察が成っている。とりわけて天才の、内省的な胸に芽生えたこんな一首に、感じ入る。
かずならぬ心に身をばまかせねど身にしたがふは心なりけり 紫式部
心から心にものを思はせて身を苦しむるわが身なりけり 西行
心が身で身が心というような、統制のつかない微妙な関与と反発との隙間を縫い取るように、われわれは生きている。暮らしている。心だけ、身だけで、喜怒哀楽はしていない。しかもなお紫式部ははっきりと「身にしたがふは心」と呻くほどに認めている。西行も心任せにすれば「身を苦しむる」と嘆いている。「身」に「心」をしっかと繋ぐこと。それは、「心」を、「具体」の連関においてのみ働かせてしか、「身」の安堵つまりは「安心」もないとの認識であったのか。
興味ふかい詮索の余地が、ここに、在る。
(いますぐ、初出の場と年次は分からないが、筆者肩書に東京工業大学教授とあるから平成初年頃のもので、「私のマインド・トゥデイ」という固定欄の最初に掲載されていることも、コピーの頁数でわかる。わたしの「心・身」に対する基本の思いを述べているが、これを書いたときまだバグワン・シュリ・ラジニーシに出逢っていなかったのも、バグワンのつねに「落とせよ」と警告する「マインド」なる欄の名付けに少しも反応していないことで分かる。しかも、すでに「心」に戸惑いと疑念をすらさしはさんで、「身・体」にたしかに繋いで置かねばと覚悟している。この原稿、ここ数年どこへ行ったかなと捜索していた。、ふとプリントコピーが見つかったので採録し、「e-文庫・湖」にも掲載しておきたい。1.2.24)
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