「e-文藝館=湖(umi)」人と思想

はた   こうへい  作家 1935.12.21 京都市に生まれる。昭和四十四年、『清経入水』により第五回太宰治賞。日本ペンクラブ理事、京都美術文化賞選 者。もと東工大工学部教授。『秦 恒平・湖の本』百巻を刊行、さらに継続。「e-文藝館=湖(umi)」編輯者。「mixi」のハンドルネーム「湖」  掲載作は、秦 恒平・湖の本エッセイ第17巻 『漱石「心」の問 題』 1998.9.15刊 所収。東工大退官後に昭和女子大人見講堂での講演録。「先生遺書」のみによりかかって論じられやすかった原作を、第一部、第 二部を含め「私」の存在に力点を置いて『心』を徹底して読み直し、学界のわだいとなった。これにはるかに先立ち同じ「読み」からした戯曲『心 わか愛』は 俳優座が加藤剛主演で上演し、さらに雑誌「新潮」には、長編の評論『漱石「心」の心見』を発表している。講演録はそれらの一の集成である。


 

   漱石『心』の問題 ーわが文学の心根にー (講演)

                 秦 恒 平                              
        (於・昭和女子大学人見記念講堂 (平成八年四月二十五日 午前十時半ー十二時)
                          
 

 つい先日の朝日新聞に、「何と言っても、白楽天」という文章を書いております。この白楽天の詩集が、昔、私の家 にありまして、小学校、戦時中でしたから、国民学校…へ、入るや入らずの頃の、いい退屈しのぎだったんです。ナニ、明治の出版物です、総ルビ…。それに訓 みと、簡単な解説との付いた詩集でした。なんとなく分かるのもあり、分からない方がもちろん多かったけれども、とにかく、繰返し読んでいました。ま、大昔 のことになりました…。
 私は、秦さんの家に生まれた子供じぁなかった…。貰いッ子でした。事情は知りませんでした。知ろうという気も無かっ た。孤独でいいんだと、六つ七つの歳で、諦めていたんです。育ててくれました父は、根ッから、本を読むなんて、「極道」だと、嫌う人でした。ところが父の 父、おじいちゃんは、やたらと漢字ばかりの本を買い集めていた人でした。ずいぶん在った。袖珍本の『白楽天詩集』も、その一冊でした。有名な「長恨歌」も 入っていましたが、私の好みではなかった。つき動かされるほど感銘をうけ、繰返し読んだのは、「新豊折臂翁」という、少し長い詩でした。
 米寿ほどのおじいさんの、片方の腕が無残に折れている。わけを問われて答えている。遠い昔むかしに、まだ青年だったお じいさんは、無道な兵役を強いられたんですね。万に一つの生還も望めない、しかも、時の権力が、ただ、身勝手に起こした戦争なのだと悟った青年は、敢然と して、時分の腕を、石で砕いて、そうして兵役を拒否・拒絶した。今だに、寒い夜には腕が痛む…それでも、今も、生きて、日々安らかに過ごしていますよと、 この「折臂翁」、腕の折れたおじいさん、は、悪しき政治の、勝手な戦争行為に対する、切実な批判を語る…というわけです。もとより、白楽天その人の思想で あった…でしょう。 朝日に書いた新聞の文章は、この詩「新豊折臂翁」との出会いが、私を、将来の小説家へ、押し出した、という内容のものでした。事実… 私は、その後十七年ほど経まして、あれは、昭和三十七年、一九六二年の、七月二十九日、もう二十六歳半、サラリーマンになって三年めでした、が…突如…、 小説を書き始めました。そして、その年末、満二十七の誕生日に書き上げました処女作、が…『或る折臂翁』と題した、現代の、兵役忌避の小説でした。六十年 安保闘争に、触発された、ま、あまり上手とは言い兼ねるものでしたが…、原稿用紙を、まッ黒々にしながら、書きました。
「何と言っても、白楽天」は、それでも、意外と受けとった方が多かった。秦さんなら、紫式部とか、谷崎潤一郎とか、泉鏡 花とか書いてくるだろうと、担当の記者さんも思っていたようでした。でも…「何と言っても、夏目漱石」と、書いてみてもよかったんです…。
 先刻…私が、貰われッ子だったと、お話ししました…。
お前は貰いッ子だと、もちろん、親は、言いません。けれど、近所の人が、容赦なく私を指さしました。…家の中で、親の前 で、大人になるまで、私は、そんなことは露知らない顔の、演技を、し通しました。その一方で、呼び名のある人と人との関係、つまり親子とか、夫婦とか、兄 弟とか、親類、師弟、上司と部下、そのほか、もろもろの人間関係の、「型」や「枠組み」というものを、信じ過ぎまい、いや、そんなものは、信じないように しようと、幼い子供心に、思うようになって行きました。
 あげく…、人間には、要するに自分と、他人と、世間…、この三種類しか、無いんだという、実感を持ってしまった…。他 人とは、親や夫婦も含めまして、「知っている(だけの)人」のこと。世間とは、世界中の「知らない人=人類」のこと…と。…それが、幼い私の下した、人間 の分類であり、定義でありました。まことに淋しい実感でした。夏目漱石という人は、淋しいを、「寒い」という字で「さむしい」とも表現した人ですが、私の 心のうちは、ちょうどそんな感じでした。
 そして…読書。…友達に、…近くの大人の人に、しきりと小説本を、借りて読みました。買っては貰えない…。本屋での立 読みが、すっかり生活の一部になっていました。
 あれは敗戦後の、小学校六年の頃でしたが、近所の古本屋で佐々木邦というユーモア作家の本を、題も筋も忘れましたが、 立読みしていました。面白いことに作中の男主人公も立読みの常連で、彼の場合は、その本屋の帳場にきれいな娘さんが番をしていて、両方で恋をしていたんで す。でも…青年は告白できない。家の奥に雷親父がいるんです…。そこで一計…青年は本棚の或る一冊を引っこ抜いて、娘さんの目の前へ黙って差出しました。 そして、先ず自分の事を指差します。次に「本」を指差し、次には本の「題」を指差しました。本の題は「心」一字…。つまり自分の恋は「本」「心」からだと 伝えたんです。
 そこんとこだけ、はっきり覚えています。うまいことやりよるなぁ…と思いました。
 それはさておき…読書だけじゃ、けっして満たされないほど、…孤独の毒は、少年の私を、いつも呻かせていました。寒す ぎた。とうとう、こういうことを、私は、思い始めるようになったんです。
 この世界は、譬えていうなら、…みなさん、目に、想い浮かべてみて下さいませんか…、
人の世の中とは、広い広い、果てしない「海」なんだと。その海に、よく見ると、無数の島が、まるで、無数の豆をまいたよ うに見えています。さらによく見ると、その島の一つ一つに、一人ずつ、たった一人ずつ、人の立っているのが見えます。島は、たった一人の人の足を乗せる広 さしか、もたない。島一つに人一人しか立てないんです。そして…島から島へ、橋は、まったく架かっていない。島は…人は…完全に孤立の状態で、「海」とい う名の世間に、寒々と、佇んでいるのです。あぁ…これが「生まれる ウォズ・ボーン」という、受け身の意味なんだ。人は、こうして世界に投げ出され…生ま れ…ているんだと、私は、ぼんやりと、しかし、身を焼くほど寒い気持ちで、思いました。堪らなかった…。 先刻、人とは、「自分」と「他人」と「世間」 だ、それしかないと思った…と、お話ししました。でも、それでは、あんまりだという思いが、だんだん芽生えました。なぜか。「恋」を、して、知ったので す。…恋をして、何を、どう知ったかを、お話ししましょう。
 もう一度、さっきの「海」を、想い浮かべてみて欲しい。橋の架かっていない、島から島へ、人から人へ、呼び合ってい る、声が、聞こえてきます。淋しいから…、孤独で堪らないから、ああやって、懸命に、人は、人に、呼びかけるのでしょう、私も、新制中学に進んだ頃から、 必死に、誰とも、まだ分からない誰かへ、呼びかけていました。
 やがて、一人の女性に出逢いました。…と言っても、それは、転校して来たばかりの、一つ上級、中学三年生の女の子に過 ぎませんでしたが、しかしその人は、たちまち、大きな大きな存在になりました。その人も、私を、愛してくれました。が、あっというまに卒業して、家庭の事 情もあり、そのまま…まったく私の手の届かない、遠くへ、姿を消して行ってしまったんです。…運命…でした。
 その人は、卒業式のあとで、私を呼び寄せまして、手紙と、記念の贈り物とを手渡してくれました。贈物は、一冊の文庫本 でした。夏目漱石の、題が…『心』だったんです。
 あれから、『心』を、何十度読んだことか。…大事に大事に読んで、読んで…そして…こう、考えるようになりました。
 あの「島」には、たしかに、人は、一人しか、立つことが出来ない。それなのに、いつ知れず、人一人しか立てない筈の小 さい島に、二人で立っている、三人、五人、とさえ、一緒に立っている・立てていると、信じられる…時が、在る……。
 人一人しか立てない島に、一緒に立てている。そういう人や人たちのことも、「他人」だとか、「世間」だとか、呼ぶの か。呼んでいいのか…。それは、ちがう…と、私は思いました。そして、そういう人たちを、言葉の最も正しい意味で、「自分」と同然の「身内」…「真実の身 内」と、名付けようと思ったのです。
 この、私の申します「身内」とは、単に「(良く)知っている人」というだけでは、ありません。譬えて言うなら、「死ん でからも、一緒に暮らしたい人」とでも、定義したい。それが真実の「身内」であり、世にいう「親子」「兄弟」「親類」また「夫婦」といった、ひょっとし て、抜け殻でも在りかねないような…ただ呼び名だけでは、何ら「真実の身内」は、保証されてはいないのです。それじゃ、親子夫婦といえども、他人に過ぎな い…。
 むろん…、私は知っていました。一人しか立てない筈の「島」に、倶に立つ・立てる、などというのは、「錯覚」だと。し かし「高貴な錯覚」「愛ある錯覚」…というべきでしょう。人の「孤独」は動かせない。しかしそれを、「愛」という名の錯覚の深みへ、冷たい氷を溶かすよう に、温めることは、出来るのです。私はそれを、「恋」をして知りました。その恋が、あたかも化身したかのような、一冊の文庫本…『心』を、読みに読みこむ ことで、いつか、私の文学の、一つの芯になるもの、思想…を、創り上げて行ったのです。 大学院を、一年だけで中退しますと、すぐ、生まれ育った京都を離 れ、東京で就職し、大学時代に知り合った一つ歳若い妻と、結婚生活に入りました。そして三年めの夏、突如小説を、『或る折臂翁』を、私は、書き始めたので した…。
 以来、七年ーー。私が、小説家として文壇に招き入れてもらったのは、昭和四十四年、一九六九年の六月、桜桃忌の当日で した。『清経入水』という小説が、第5回太宰治賞に選ばれたのです。
 さて、受賞後の五年間は、二足のわらじを履いていました。昭和四十九年に文筆一本になりましたが、心配して下さる方が あって、ご好意を無にするわけに行かず、一年間だけ、或る女子短大に、まるで「文学漫談」をしに通ったんです…。そしてその機会に、また、あの、『心』と いう小説について、考えて見ずに済まなくなったんです。大方の短大生の、この小説を読んでの感想に、どうもこうも…、引っ掛からざるをえなかったんです。
 作中の、あの「先生」は、何という人でしょう。可哀相に…「奥さん」を放っぽり投げて、自殺してしまうなんて、という のが、一つ。
 また…、作中の、あの「私」は、何という人でしょう。今日にも死んで行くお父さんを放っぽり投げて、臨終の枕元から、 一散に東京へ出て行くなんて、というのが、もう一つ。 うーんと、唸りました。
 では、私は、その短大の学生のそういう疑問に、どう答えたのか。じつは、ろくすっぽ、何も答えてあげませんでした。 まったく申し訳のないことで、あの時の無責任さの悔いが、反省が、今度の東工大では、ひたすら親切に親切に接しようという覚悟になりました。その、東工大 の四年間をかけまして、毎年の前半には、漱石の『心』を話題にして来ました。
 話が、すこし前後致しましたが、先の短大の一年間と、今度の東工大の四年半とには、ほぼ十五年ほどの間隔があいていま す。その十五年ほどのちょうど真ん中辺で、たしか…昭和五十九年の秋九月でしたが、これまた突然に、劇団俳優座から、漱石の原作『心』を、『心ーわが愛』 という題で、加藤剛…、永いこと、テレビで大岡越前なんかやっている人ですが、その彼の主演作品として、『心』を、脚色してくれないかと、依頼の電話が突 然飛びこんで来たんです。たぶん加藤さんの発案だったのでしょう、私の『心』への愛着は、妻でさえよくは知りませんでした。むろん、引き受けました。
 そこで…もう一度、さっきの素朴な疑問から、問題点を、こう整理し、少し言い換えてみましょうか。
 第一に、「先生」は、明治四十五年(大正元年)に自殺していますが、親友の「K」が自殺のあと、何故、明治四十五年ま で、何年も何年もの間、自殺できなかったのでしょう。裏返せば、何故、明治四十五年になって、「先生」は自殺できるようになったのでしょう。何がそうさせ た…させ得た、のでしょうか。
 第二に、「私」は、「先生の遺書」を、臨終の父の枕べで受けとります。そして父も母も、故郷も、すべて見捨てまして、 無二無三に停車場へ走ります。東京へ駆けつけます。しかし「先生」は、その時は、もう「とつくに、死んでゐる」のです。「私」はそれを知っているのです。 なのに、何で、父親が、今にも息を引き取るのも待てずに、あんな行動に出たのでしょうか…。
 次に第三に、『心』という作品は、小説内部の建前として、「私」が、自分の手記(上・中)を、「先生の遺書」(下)に 添えまして、世間に、公表していることになっています。「先生」は遺書の最後に、遺書を公表するのは構わない。しかし「妻」の思いは純白に保ってやりたい と、つまり「見せるな」という重い禁忌を、「私」に科しております。それでもなお、ともあれ、大正三年の春から秋へかけ、遺書や手記の公表が、現に、作品 『心』として、世間の目に触れているわけです。…これは、いったい…どういう状況なのでしょう。「先生の奥さん」も、大正元年の秋から、たったの一年半ぐ らいな間に、「先生」のあとを追って、または病気でもして、もう死んでしまっていると言うのでしょうか。そういう脆弱な、脆い女性だったでしょうか、あの 「奥さん」は。どう思いますか……。 で、バン…と、いきなり猛烈なことを申し上げますが、俳優座との最初の打ち合わせに入りました時に、今言った三つの 点について、こう私は、自分の理解を話したのです。
 第一の点。あの「先生」は、明治天皇が何人死のうが、乃木夫妻が幾組み殉死しようが、
それだけでは、とうてい自殺なんかできなかった、と。明治の終焉は、自殺の引金にはなったけれど、絶対に必要で十分な条 件では、なかったんだと。それよりも、「奥さん」のことを安んじて託せる存在、やっとやっと、この世の中で「たった一人」信じられる存在となった、 「私」…というものが在ればこそ、「先生」は、自殺に踏み切れたんだ、と。「K」に死なれたあと、何度も何度も死のうとしながら、そのつどそれを引き止め たのは、「奥さん」を、一人ぽっちで残してゆく、気の毒さだった、不安だったと、「先生」は、繰り返し遺書の中で言っているんです。
 天皇や将軍ゆえに自決を考えるような、そんな外向きの「先生」でなかったのは、作品『心』の、何がテーマなのか、よく 考えれば明白です。まさに人間の「心」が主題であり、明治の精神への殉死なんかではなかった。劇は、あくまで「お嬢さん」の家「先生」の家の中で起きてい た。人間の心が、どこよりそこで乱れ、絡み、問題を起こしたんです。
 次ぎに、第二の点です。「私」は遺書を見て、「先生」がとっくに死んでいるのを知ってしまいました。それでも、いまま さに臨終の父親を見捨て、何故、汽車に飛び乗ったか。父や母以上に大切に感じている人が、東京で、現に悲しみに沈んでいて、或いはその命にも危険を感じて いたからでなくて、他に、それ以上に自然な理由が、有り得たでしょうか。 そうです…。夫に死なれた「奥さん」のもとへ、「私」は飛んで行った。「先生」 の死も重大事でしたけれど、「奥さん」の生、生命は、現実に、もっと重いものでした、若い愛に今はっきりと気付いた「私」には。…それならば、よく、分か る……。
 思わず顔をしかめた人が、たくさん、おいででしょうね。分かっています、その気持ちも、理由も。順々に、いちいち、 チャンと答えましょう。
 さて、第三の点は…。たしかに『心』は、そして「先生の遺書」は、公表されています。
それが小説の建前です。「先生」が遺言で禁止したにもかかわらず、遺書が公表されて行くのは、一つ、「奥さん」がもう死 んでいて、遠慮する必要が無くなっているか、二つ、それとも、元気な「奥さん」が、すべて遺書の内容なんぞ、ちゃんと察していて、ぜんぶ「奥さん」が承知 のうえで公表されているか、…の、どっちかでしょう。
 私の考えは、後者なんです。秘密もなにも、「奥さん」には、およそ「遺書」の内容が分かっている。承知のうえで、公表 を、認めていると読んでいます。
 それだけじゃ、ない。「奥さん」と「私」とには、たぶん結婚が、そして二人の間にはもはや「子供」の存在までも、目前 の現実問題として、予期または既に実現していることが、「上・先生と私」の章を、その本文を、丁寧に読めば、はっきり示唆され、表現されてある…と、私は 読んでいます。どうですか…。笑っちゃいますか…。
 とにかく、俳優座は、加藤剛さんらは、これを聴いて、びっくりしました。
 で…、ビューンと、話を、先へ進めちゃいますが、私の「読み」に、結果として、十分身を寄せてくれました俳優座公演 の、『心ーわが愛』は、昭和六十一年十月八日、六本木の俳優座劇場で、初演の幕をあけました。補助席はおろか、通路にも客があふれるほどの大入りで、興行 は、成功しました。

 やや遡りますが、私は、昭和六十年元旦の奥付で、満五十歳の記念にと、『四度の瀧』という限定本を出版しまし た。俳優座との最初の打ち合わせがあって、暫く後のことです。その本のあとがきに、『心』の、今も申しましたような「読み筋」を、実は書き入れておりまし た。そしてその本は、いろんな方々に贈ったのですが、その中に、別の或る小説の、すばらしい紹介文を書いてくれていました、若き日の、小森陽一君も居りま した。
 小森さんは、明けて新年早々、その、あとがきの「心の説」に対し、やや興奮気味の、共感ないし賛同の手紙をくれまし た。ちょうど今、自分も、同じ趣意の「心論」を書いていますと書いてありました。しばらく経ってから、小森氏は、その論文を載せた雑誌を、送ってきてくれ ました。この小森論文の辺から、学界で、「こころ論争」の火蓋が切られたんだと思います。さらに、私の、『心ーわが愛』の舞台が公開され、同時に、私の戯 曲、『こころ』も出版されまして、火に油をそそぐことになった。そうした成り行きは、平成六年二月の朝日新聞が、「こころ論争」を大きく取り上げまして、 知られています。その新聞記事には、加藤剛の「先生」と、香野百合子の「奥さん」とが、相合傘で歩いている舞台写真を載せていました。この傘が、さながら 私の申しますあの小さな「島」の意味を帯びるように、巧みに演出され使われていたのを、懐かしく思い出します。
 さ、そこで、問題点を、もう一つ出して、それを考えてみましょうか。それは「年齢」のことです。「先生」が自殺したあ の時、彼は、いったい何歳ぐらいだったのでしょう。「奥さん」は、また「私」は、何歳ぐらいだったのでしょう。
 と言いますのも、先刻の第二の点、…父親の臨終も見捨てて「私」が東京へ走ったのは、既に死んでいる「先生」ではな く、生きて今在る「奥さん」のことを思っての一挙であったろうと、私は、解釈しました。これで、だいぶん、私は笑われました。
 一つは、かりにも年齢が違い過ぎるじゃないかと。
 もう一つは、かりにも「先生の奥さん」と弟子たる者の間で、不道徳だというわけです。「先生はコキュか」などと、ばか ばかしい難癖をつけた人までいました。論外です。
 よろしい。二つとも、ちゃんと答えましょう。先ず、二つめの「不道徳」の方…。
 もともと、通俗な道徳つまり「世の掟」に対して、一見背徳的な「人の誠」を重く見た作品が、漱石には、幾つも在るので す。『それから』や『門』を挙げるだけで、足りましょう。ともに、人妻を奪う恋であり、奪った後の結婚生活が書かれています。この恋も結婚も、作者は強く 肯定しています。いわゆる不道徳なんてことを、恐れた作者じゃない。 第一に、「先生」を、「コキュ」つまり寝とられ夫にするような、慎みのない、乱暴な 「奥さん」でも「私」でもない。逆に、若い「私」を、着々と「恋」の自覚へ誘導していたのは、終始「先生」自身であったことが、上の章の会話をていねいに 読めば、歴然としています。「先生」生前の二人に不倫な関係など有るわけもなかったし、万一在ったにせよ、それが「人の誠」に適う愛であれば、それを肯定 して書くのが、むしろ、漱石の信念でさえあるでしょう。
 次ぎに「歳の差」という、問題です。大概が、ここへとびついて、私を笑いました、が、どっちが笑うことになったか…。
 結論を先ず言えば、「私」と「奥さん」とは、「先生」の死んだ時点で、二人ともほぼ同い歳…二十七、八歳なんです。 「先生」は三十七、八歳なんです。作品を、少し丁寧に読めば、証明できるんです。平成六年九月十二日、毎日新聞の夕刊に、私の、それを証明した文章が出て います。よほど目を引いたとみえ、文芸春秋から出た、その年度のベスト・エッセイ集にも、再録されています。
 で、もうずいぶん以前になりますが、私の読者、それも高校の先生なんぞに、この「歳」の事を、「先生」が自殺した時の 年齢をどう読んできたかを、質問してみたんです、試みに…。すると、五十代かと思っていましたが…と、ま、大方が漠然としていて、あんまり、気にもされて いない。驚きました。
 鎌倉の海で、若い「私」と一緒に、雑踏の海水浴客をよそめに、うんと沖の方へ出て、悠々と一人で泳ぎを楽しんでいた 「先生」なんですよ。私も、じつはそういう水泳を楽しむ方でしたが、四十代になってからは、もう、ちょっと怖い。出来たって、しなかった。五十代じぁ、と んでもない話なんです。
 東工大でも、同じアンケートをとりました。「先生」六十四歳「奥さん」「六十」歳というのが最高齢で、やはり夫婦とも 五十、四十代が、断然多かった。一方「私」は大学を卒業したばかりなんだからと、二十二、三歳が多く、以下十八歳などと答えた人もありました。これじゃぁ 確かに、「奥さん」と「私」に、男女の愛が生じたり子供が生まれたりしたら、オドロキです。でも、こんなアテずっぽうには何の根拠も無く、つまりデタラメ な印象を言っているだけなんです。学校制度も今とはちがい、大学生の年齢も、今日只今のとは、違うんです。平均して、三歳余りは、今よりも年上なのが普通 でした。

 さ、よく、聴いていて下さいよ。
 「先生」は、明治天皇崩御の直後に自殺しました。「明治」四十五年(大正元年)で、これは動かぬ史実で、確実です。
『心』には、少なくももう一つ重要な、年代を示す史実が語られています。日清戦争です。明治二十七年八月に始まり、翌 年、二十八年二月には勝敗が決しています。この戦争で、「お嬢さん」のお父さんが、戦死をしたと書かれています。かなり激戦でした。七年の冬、八年の春、 ま、そう前後の差はなかったでしょう。「奥さん」と「お嬢さん」とは、文字通り、軍人遺族の母子家庭となり、その後、引越しまして、小石川の、源覚寺裏の 方に住むことになります。母娘がここへ引越しましてから、また「一年」ほどして、「先生」が、下宿人として、この母子家庭に、同居することになります。 「先生」はもう、帝国大学の帽子をかぶっていました。高等学校を卒業し、当時は九月が新学期の大学に、入学の直前、夏の内のことでした。
 問題は、「先生」の下宿同居が、明治何年だったかです。但し日清戦争は動かぬ史実ですから、明治二十八年の夏以前、と いうことは在りえません。「お嬢さん」のお父さんは、職業軍人でした。屋敷内に馬を飼っている、厩舎などがある、
かなりの上級軍人です。そういう人の遺族が、戦死しましたのでハイと、即座に引越しの許される、そんな世間体でも、時代 でもなかったでしょう。強行すれば、遺族は心無いと、無思慮を非難されたでしょう。世智にたけた「未亡人」です、そんなことはしなかった。一周忌、ないし 満二年めに当たる三回忌までは動けない。主人亡き家屋敷を守りまして、それから引越したに相違ありません。引越しの理由には、家が広すぎるだけでなく、 「お嬢さん」の、女学校進学やら通学の便宜なども、考慮されていたでしょう。

 さ、こうなると、小石川の家に引越したのは、一周忌過ぎた明治二十九年か、三回忌、満二年が経った明治三十年 か、とみて宜しく、私は三回忌を重くみて、明治三十年の春に引っ越しと読み取っております。そして、その後「一年ほど」して下宿希望の「先生」が、初めて この家を訪れて来ます。高等学校六月の卒業式が済んだ、明治三十一年の七月頃でしょう。そしてまた一年ほどして、運命の「K」が、「奥さん」「お嬢さん」 らの懸念にかかわらず、「先生」の、自信満々の好意に導かれて、同じ下宿人として同居をします。あげく卒業もまたず、三年生、明治三十四年正月に、「K」 は自殺してしまいます。
 では明治三十一年に、「先生」は、何歳で、大学に入学していたのでしょうか。ご注意願っておきますが、当時の文科大学 生は、三年間在学して、卒業、でした。「先生」は、明治三十四年六月に卒業しました。年齢さえ判れば、明治四十五年の自殺までを、足算するだけで、ほぼ正 確なことが言えるわけです…、そうでしょう…。
 注意深く『心』を読んでいる人なら、まだ「先生」が「十六七」の歳に、「女」の美しさに目が「開いた」体験を語ってい たのを記憶している筈です。また、自分が「両親」を亡くしたのは、「まだ廿歳にならない時分」だったとも、明言しています。そのすぐあと、「先生」は、高 等学校に入学すべく、満十九か、ないし数え歳の二十歳で、東京に出て来ているのです。高等学校卒業は、順当にみて三年後の、二十三歳頃でありまして、これ は、あの、同じ漱石作の小川『三四郎』君が、熊本の高等学校を出て、東京の帝大へ入学すべく上京してきた際の、「二十三年」という、宿帳記入の年齢とも、 きっちり、一致しています。「先生」が大学に入ったのは、ほぼ間違いなく、数え歳の二十三、ないし、早くに留年か何かの年遅れがあったにしても、二十四歳 でしょう。しぜん、卒業は、二十六歳か七歳です。これも、夏目漱石その人が帝大を卒業したのと、ぴったり一致していますし、例えば、中退はしていますが、 もし谷崎潤一郎が、明治四十四年に卒業していても、やはり同じ、数え歳二十六、七歳なんです。実は統計をとった人もありまして、この入学卒業の年齢は、そ の当時の平均的なものでした……。
 さ、そうなれば、明治四十五年に自殺した「先生」は、明治三十四年から、十一年分を足算した、三十七、八歳であったこ とになる。これならば、それよりも数年前の鎌倉の海で、高等学校の学生だった「私」と一緒に、元気いっぱいの水泳をしてたって、まだまだ元気なもんです。 それと同時に、明治四十五年に、帝大を卒業したばかりの「私」の歳も、これまた、「先生」らと同じく、数え歳の二十六ないし七歳だったと見まして、もは や、何の不自然もないわけです。「先生」と「私」との歳の差は、まずは十歳程、一世代の差、長兄と末弟程度の違いだったんですね。
 それじゃ、「先生の奥さん」の歳は、どんなものであったか。これが何と言いましても微妙に大事になってくる。
 思い出して欲しいんです。鎌倉の海で別れるまえ、「私」は「先生」に、東京のお宅を訪ねてもよろしいかと聞きます。そ して秋になり、訪ねて行く。ところが「先生」は留守でした。二度めにもまた不在でした。じつは、毎月の「K」の墓参りに出ていたんですが、「私」の知った ことじゃ、ない。その日は「奥さん」が出てきて、気の毒がってくれた。 ここで、その時に実に注目すべきことが、二つ、書かれています。
 一つは、「私」が、「奥さん」を、「美しい」「美しい」と繰り返していることです。 そもそも、東京という本舞台で、 「私」の初対面の相手が、肝心の「先生」ではなく、「奥さん」の方だった。この計らいは、作家の私には判るのですが、意味深長な用意だと言い切れる。まし て男が、女と会って、第一印象が「美しい」とあっては、これだけでも「奥さん」が、そう年寄りでないのは確かでしょう。事実「奥さん」と「私」とは、ほぼ 同い歳だったんです。「先生」より十ほど若いんです。あとで、はっきりさせます。
 皆さん方、考えてもごらんなさい。あの軍人遺族の母子家庭にですよ。未亡人とお嬢さんだけの女住まいにですよ。二十何 歳にもなる「先生」が下宿できたのは、近所でイヤな噂もされず、後指もさされないほど、まだ「お嬢さん」が幼かったからです。「奥さん」「先生」「お嬢さ ん」に、それぞれ一世代ほどの年齢差があればこそ、ごく穏便に、素人下宿の共同生活も成り立ったんです。もし「お嬢さん」が既に年頃ででもあったりした ら、身元もよく知れない、男子学生とのいきなり同居なんて、ま、とんでもない話です。「お嬢さん」は女学校を、「先生」の大学卒業とほぼ同時に卒業してい ますが、この当時の制度では、ふつう、十七歳です。たぶんその年の内に、また引っ越して行った小日向台の家で、「先生」と、結婚しています。母子家庭とい う事情や、「先生」の裕福、「K」の変死の事情などからして、また明治の風からしましても、十七八での結婚に、何の問題もありません。また「お嬢さん」 が、上級の学校へ進学していた形跡も、みられません。「先生」と出会ったのは、満で十三か四の少女時代だったんです。不自然はすこしも感じられません。結 論として「先生」の自殺した年に、「奥さん」は、「私」よりも一歳年上か、或いは同い歳かも知れない、二十七、八歳です。それ以上は有り得ないんです。
 確認しておきましょう。明治天皇の死と日清戦争という、動かし難い史実を軸に、本文をキチンとよく読めば、「先生」が 自殺したのは「三十七、八歳」であり、「奥さん」は「二十七、八歳」です。「私」は「奥さん」と同い歳か、僅かに一つ歳下でしかなかったんです。この証明 を引っくり返すのは、たぶん、容易なことではないでしょう。

 こうなって、初めて、よく分かってくる点が、幾つもあります。
 私は去年の暮れに、還暦の六十歳になりました。だから、この三月末で東工大を退職したわけですが、家内も、この四月五 日に、やはり還暦を迎えております。で、かりにですね、私のことを、いたく尊敬してくれます男子学生が、いると仮定しましょう。お宅へ訪ねていいですか、 ええ、いらっしゃい…。で、せっせと訪ねて来てくれる。慣れるにしたがい、家内とも遠慮のない口を利きあうようになる。
 しかしですね。かりに学生が二十四、五だとしましてもですよ、…まさかに六十の婆さんに惚れたりはしないでしょう。六 十が五十、あるいは四十であったって、ま、学生と家内との仲に、めったな事は起きない、というのが順当なところです。でも先生への尊敬は尊敬ですから、学 生がそれで良く、先生もそれで良いのなら、いい関係は続くでしょう。いわゆる良き師弟関係とは、そういうものでありましょう。安定して簡単には変化しない 人間関係が出来上がっている…、そう言い切って済んでしまいます。
『心』の「先生」「奥さん」と「私」の場合でも、もし、これまで一般に漠然と読まれてきたように、「私」より二倍も、二 倍以上も歳とった「先生」「奥さん」夫妻であったのなら、それじゃぁ、私の言うような愛情関係の展開は、当然ながら考えられません。
 しかし事情は、まるで、違っていたじゃないですか。ご夫婦の「先生」「奥さん」対、学生の「私」とばかり眺めていたの が、こと年齢に関しては、年長の「先生」対、若い、同い歳ほどの「奥さん」と「私」となった。これは重大です。人間関係の心理が、年齢で動くのはあまりに も自然なことだから、です。
 作中の「私」は、自分とほとんど歳の違わない、しかも初対面から「美しい」と真先に印象づけられたような、親切で、聡 明で、まことに魅力ある「奥さん」のいる、そういう「先生」の家へ、通いつめていたんです。老人夫婦の家へ、じゃないんです。若者の心理として、「美し く」て若い「奥さん」のいる家にしげしげ通うのと、親ほど歳とった夫婦の家を訪ねて行くのと、同じ気分でなんか、ある、筈が、無いじゃありませんか。従来 の『心』の読みで、こういう自然な生活的実感を、それぞれの年齢に則して、よく調べよく納得してこなかったなんて、まさに、怠慢も極まれり、です。日本中 で、もっとも大勢に永く愛読されて来た『心』ほどの名作にして、こんなに根本の、基本のところで、大きな見当ちがいを平気でやって来たというのが、実は実 情であった。
『心』は、本気で読み直されねばならない、誤解の渦に沈んでいた名作なんです。誤解へ導いたのは、多くの過去の知識人で した。例えば漱石全集の解説を一手に引き受けてきた、小宮豊隆という人は、ただただ「先生」と「K」とだけ、つまり「遺書」だけ重視して、上の「先生と 私」中の「両親と私」つまり「私」の手記にあたる部分は、完全に見捨てていた。「私」はおろか、「奥さん」や「お嬢さん」の存在すら、まるで、デクの坊同 然に、無視していました。積極的に無視していたんです。
 その悪影響ででしょう、高校時代、課題で『心』の感想を書いたという体験談を聞いてみますと、「先生の遺書」しか読ま なかった、それでいいと教室で言われたという学生が、山ほどいる。読まなくて済む部分が、一章も二章分もある小説なんて、名作なんて、在るものでしょう か。呆れて、ものが言えないとはこれです。
『心』の魅力は、上・中の手記の章にも、満載されているのです。私なんか、遺書よりもそこの方が、楽しくて、懐かしく て、夢中で読んだ。芝居の台本のために書き抜きを作った経験からも、特に「上」の章には、大事な、微妙な、伏線になっている会話や地の文が、いっぱい有る のが分かります。
 さっき「私」と「奥さん」との初対面の場面で、大事なことが、二つ…と言いました。 一つは「美しい奥さん」という第 一印象。このことは、今まで話しました。
 もう一つは、「奥さん」が、事もあろうに、全く初対面の学生に対し、事もあろうに、「先生」のお墓参りの話をしてしま います。更に事もあろうに、「K」のお墓のある場所まで、具体的に教えていた事です。教わっていたから、「私」は、雑司ヶ谷の墓地までも「先生」を探しあ てて行くことが、出来た。
 でも、それがどんなに「先生」にすればショックであったかは、墓地で呼びかけられた瞬間、「どうして」「どうして」 と、二度も呻いて、呆れていることで分かります。突然だから驚いたんじゃない。「K」の墓参りという、あの夫婦にすれば、忌まわしいタブーであるほどの、 天罰を償うほどの、いわば秘事とも恥部ともいえる行事を、「奥さん」が、いとも簡単に、初対面の「私」に教えたという事が、信じられなかったのです。いい え、はっきり、心外で、不愉快でさえあったのです。「先生」が、「奥さん」を愛しながらも、信じられずにいたという、かくも歴然たる証拠が、最初ッから、 もう作品には露出していた。それは、逆に言えば、無意識にも「奥さん」が、初対面から「私」のことを、受け入れていた事を示しています。また、夫である 「先生」への、その墓参りへの、意識の深層での、「奥さん」の不快感を示していたのだとさえ、言えるでしょう。
 この夫婦は愛し合っていました。それは疑いようのないことです。しかも幸福な夫婦ではありませんでした。「先生」自身 が、「幸福であるべき一対の夫婦」という物言いをして、「私」から、「べき?」と不審を示されています。愛してはいたが、幸福であるべき筈ではあるが、ど うしても幸福になれない夫婦だという、不幸な認識が「先生」にはあり、「奥さん」にも、それが見て取れます。しかし「先生」は、「奥さん」を、真実幸せに してあげたい愛情を、しっかり、死ぬまで持っていました。でもどうしたら良いのか、気の毒な「先生」が、明治が終わる日まで自殺できなかった、それが、最 大の理由でした。
 幸便に、触れておきたいことが一つあります、「先生」は、「十六七」のいわゆる色気づく年頃に、初めて「女」の「美し さ」に目が開いたと述懐しています。ことさらにしています。夏目漱石自身の体験が反映しているのかも知れませんし、軽く読み過ごしてよいこととは考えられ ません。
 なに一つ注釈はないのですが、べつの箇所で、お互い「男」一人「女」一人だと、夫婦の緊密を語る夫「先生」で在りなが ら、その別枠に、「十六七」の頃の出会いを、ほんの行きずりなんでしょうが、たいへん重々しく、しかしさりげなく「先生」は告げています。「一人」「一 人」とは、言うまでもなく夫婦の間柄での肉体の接触を示唆しているわけで
すが、肉体的な男女関係を取り払えば、「先生」には「お嬢さん=奥さん」以前に「美しい」「女」体験があったのです。 「遺書」に明記せざるをえないほどそれは「先生」の記憶にやきついていた。そう、読めます。
 ズバリ言ってこの「女」こそ、「先生・奥さん」夫妻を、「幸福であるべき(不幸な、或いは幸福になりきれない)一対」 の夫婦に仕立てた根源だったのではないか。そう読み取らせる作意が秘められていないか、漱石という作者のなかに。
 漱石夫妻の在りようについては、従来、種々語られていますから深くは触れませんが、彼にも結婚以前に「女」の原体験が ないし前体験が在ったこと、それがなみなみならず重大な体験だったろうことは、今日、もはやだれも否定していない。
 その反映が「先生の遺書」にももちこまれているのだとしたら、そこに、「先生」の妻に対するいわく言いがたい不充足 も、また「奥さん」の夫に対するいわく言いがたい不満も、ともに垣間見うる隙間が在る。われわれ読者はその隙間を眼前にしている、ということになります。
 もし自分という妻がいなければ「先生」はきっと死んでしまうでしょうと、「奥さん」は「私」に自負しています。だが、 それすら実はかすかな無意識の強がりだとも、目に見えぬ或る存在への悲しい抵抗だとも、また自負の誇示だとすら見て取ることが可能になります。
「愛し合ってはいた、だが充全には幸福でありえなかった夫婦」を、根底から説明すべく「先生」は、また漱石は、この「十 六七」の頃の「女」体験を、「遺書」に、作品に、さし挟んだと私は考えます。そう読んでいます。裏返していえば、「奥さん」が「私」を男として見て行く視 線や心理にも、それが痛烈に影響していたことでしょう。
 「先生」は、結局は、「私」に頼ったのです。「この世でたつた一人、信じられる人間」に成ってくれた「私」になら、無 意識にも「美しい」人に恋をしているらしい「私」になら、妻を安心して委ね、また妻も、内心の隠れた愛にやがて気づくだろう…と、「先生」は信じたかっ た。信じられるようになっていた、のでしょう。
 もう一つここで、これは笑われるでしょうが、言ってみたい。「先生」の選択は、或る実例に則して表現すれば「妻君譲 渡」に近いものでした。或る実例とは言うまでもなく、あの谷崎潤一郎が、有名な「小田原事件」の絶交から歳月を経まして、ついに昭和五年、三者合意の上で 妻千代と離婚し、千代は佐藤春夫と結婚した、あれです。谷崎が「先生」漱石に辛辣であったのは知られています…が、ま、何はさて…本題へ戻りましょう。
 「奥さん」の思い描いた幸福の一つに、この家に、「子供でもあると好いんですがね」という、強い願望がありました。 「奥さん」はその言葉を、「先生」を前にして、「私の方を向いて」口にしているのですが、何という微妙な場面でしょう。「一人貰って遣らうか」と「先生」 は言い、「貰ッ子じや、ねえあなた」と、またも「奥さん」は「私の方」を向いて愬えるんです。すると「先生」は、自分たち夫婦の間に、「子供は何時まで 経ったって出来ッこないよ」と言ってのける。「何故です」と、「私」は即座に反問します。それも、「奥さん」の「代りに聞いた」と、微妙に明記してありま す。「先生」は、「天罰だからさ」と高く笑いました。ヒステリックに笑ったんです。「奥さん」は黙って顔を背けていた。何が、どうして「天罰」なのか、 「奥さん」にも分っていたからでしょう。察していたからでしょう。当然、そう読むべきところです。
 つまり「奥さん」を幸福にするには、「母」たる人生を与えてあげなければならない。しかし「先生」では、それが不可能 なんだと、それを、実にきちんと表現していたのが、この場面です。
 また「先生」には、「私」を「恋」に誘導して行く、無意識の意図が、もう徐々に働き始めていたようです。十分印象的だ から、皆さんも気づいておられるでしょう、「先生」は、故意にというしかないほど、何度でも、執拗に、「私」に向かって「恋」の話題を出しています。「恋 をしたくありませんか」「とつくに恋で動いているじゃありませんか」「異性に向かう階段として同性の私のところへ」「恋は罪悪ですよ」「たが神聖なもので すよ」といった按配に。それにはそれの理由が、動機が、有ったはずです。慎重にそれを読み取るというのも、読み手として、当然、必要だったんじゃないで しょうか。
 けれど、もう一度、さっきの場面に、話を戻します。
 もっと大事な問題点が、あそこには、ちゃんと書かれていたんです。子供が欲しいと、「奥さん」は言いました。「その 時」の「私」はといえば、「同情」のない、鈍い男に過ぎませんでした。それでいて彼は、現在執筆中の手記に、あの当時を思い起こしながら、こう書いている のです。「子供を持つた事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅いものの様に考へていた」と。
 「子供を持つた事のない、その時の、私は、……考えていた」という、少々持って回った物言いを、自然に、素直に、しか し語感をよく働かせて、読み直してみて欲しいんです。普通なら、「子供を持つた事のないその時の」など、わざわざ言う必要のないことなんです。だからこ そ、この事更な物言いは、「子供を現に持った(又は、やがて持とうとしている)現在の私ならば」、決してそうは「考えない」という気持ちを、表明したもの と読んで、いいんじゃないか。そうとしか読めない文章なんじゃないか。普通なら「何の同情も起こらなかった。子供はただ蒼蠅いものの様に考えていた」だけ で済む話なんです。
 こういうことに、なります。「私」が、現に、手記ないし作品を書いている現時点で、彼は、自分の「子供」のことを、読 者に対し示唆しているのだと。日本語の表現として、ごく自然に、そう受け取れます。子供の現実在ないし近未来の誕生を、「私」は、現に、愛情と分別を持っ て認知していると、確かに、十分に、読み取れるんです。子供は「蒼蠅い」といった強い表現が、かえって、実感豊かに、現在の気持ちを言い表しているので す。 注意しないといけないのは、『心』という、建前上「私」の公表している手記の部分は、「先生」の自殺から、最大限、一年半以内に書かれています。し かし書かれている中身は、明治四十五年の九月より以前の事柄に、厳しく限定されています。「書いている」現在と、「書かれている」内容の現在とには、登場 する人物にも、書き手の心理にも、十分な抑制や整理が行き届いています。一つには、「先生」「奥さん」「私」の当時の人間関係を、冷静に、また礼儀にも孛 ることなく、なるべく分かり良く言い表したい、また、そうすべきだという配慮ないし協議さえ、出来ていたからでしょう。なにしろ「奥さん」の承知や同意や 協力が、大きくものを言う公表の筈です。承諾無しに強行するような「私」ではないし、「奥さん」が、夫の後追い自殺をしていたなんて推測を許す箇所は、作 品のどこにも指摘できないんですから。
 では「奥さん」が「遺書」の内容を察していた、「純白」に何も知らなかったわけはないんだ、だから「公表」に問題はな かったんだ、などと何で言い切れるのか、今度はその疑問に答えましょう。
 まず、皆さんに尋ねます。もしも、あなたが「奥さん」「お嬢さん」の立場にあるとしてですね、「お嬢さん」は当然のこ と一年一年成長し、思春期に入って行くわけですが、そんな家に、帝大の青年が二人も同居してきて、この、かなり賢い母親と娘とがですよ、男たちの噂話や評 判を、していなかったなんて想像できますか。あなたがたは、しませんか。するでしょう。しなかったら不思議ですね。ものの分った母親は、もともと男二人は 迷惑だ、宜しくないと、「先生」に忠告していたぐらいです。その懸念が的中して、「K」は自殺してしまった。あんなに仲のよかった「K」に、「先生」は 「お嬢さん」に求婚したとも、承諾を得たとも、告げませんでしたね。「奥さん」はそれと知って、「先生」に剣突くを食らわしています。そしてその直後の 「K」の自殺でした。「奥さん」はテキパキと処置して、「先生」を指導もしていた。
 娘の結婚を現実問題と見きわめて、貧乏な「K」より、財産もあり人も良い「先生」の方が…なんてことは、かりにもあの 母親は考えていますし、年頃になっていた「お嬢さん」だって、そりぁ、夢中で考えていたでしょう。あのよく笑う「お嬢さん」は、いくらか、男二人を手玉に さえ取っていた、けっこう、したたかな女性です。とてもとても夫のあとを追って死ぬ人ではない、生き抜くタイプです。
 結婚のあと、かなり長期間「先生」は荒れています。妻も姑も、ほとほと胸を痛めたでしょうし、何故かと話し合うのも、 当然です。黙りこんで眺めていたなんて、不自然です。と、なると、突き当たるのは「K」の「変死」事件です。「先生の奥さん」は、自分から口を切って、 「私」に、「K」の変死を告げながら、夫の無残な変貌を、どうにか解釈して欲しいと愬えていたくらいです、何が「純白」なものですか、考えようによれば 「先生」より、もっと辛辣に、事の本質を見抜いていたのが、この「奥さん」「お嬢さん」であったとさえ、読み取れるぐらいです。それなのに、女ふたりと も、まるで人形だなどと軽視し、無視してきた、従来の『心』読みたちは、いったい何を読んでいたのでしょうか。

 いやいや、そうじゃない。あの「先生の奥さん」の、「静」という名前は、明治天皇に殉じて自決した乃木将軍、そ の夫希典に殉じて自決した、妻「静子」の名前を用いたものだとして、「先生の奥さん」も、だから夫のあとを追って自殺したんだという説も、あったのです。 もっともらしい説です、が、私の考えを、聴いてください。
 この作品の中で、実名を与えられている主要人物は、奥さんの「静」だけです。ほかに、
「私」の母親が、「お光」と夫から呼ばれている。あの『三四郎』の故郷で、彼と許嫁のように言われていたのが「三輪田の お光さん」ですから、三四郎が美禰子に失恋したあと、もしこのお光さんと結婚して、『心』の「私」の父親になっていたかのように想像してみるのも、ちょっ と面白い。と言いますのも、『心』の「私」という青年は、あの「三四郎」君を、いかにも柔らかに裏返したみたいな、臍の緒の同じい人物とも読めるからで す。
 しかしその一方、「私」は、あの「K」の再来のような存在だとも見える。「先生」もそのように感じていた気がします し、「奥さん」も、最初ッから、そんなふうに感じていたんじゃないか。だから無意識に、あんなふうに墓参りの話もしてしまったんじゃないか。「K」を死な せました「先生」の胸の中には、「K」が愛した「お嬢さん」「奥さん」を、なんとなく「K」の再来かのような「私」の手に、安んじて委ねておいて、自分は 「K」のところへ死んで行こうと、そういう深層の衝動が、働いていたんじゃないか。この私は、そう読みたいんです。だから俳優座の舞台でも、最初、熱心に 加藤剛の「K」と「私」の二役を、私は希望したんです。
 それは、ま、深入りをしませんが、要するに「先生」の悲劇は、彼がついに「静かな心」
というものを持てなかったところに有るのは、確かだと思う。「静か」という言葉が、この小説の要所要所に現れて、それら は、「先生」の騒ぐ思い、揺れる心を示しています。実に大事なキーワードです。言うまでもない、まさに、そこに、「先生」が深く深く愛しながらも、妻の 「静」を、信じ切れずに終わった……、我が物=「我が、静かな心そのもの」として,遂に所有できなかった、という事実が表れている。象徴的に表れている。
 ご存じの方も多いでしょう、『心』は、岩波書店開業の第一冊だったんです。彼は『心』
の出版を先生に懇願し、漱石は本の装丁を自分に任せる事を、条件の一つにして許可したのです。その結果、あの『漱石全 集』の特色ある装丁が出来上がったというわけです。
 ただ、ここに一つだけ、『心』のための、特別のこしらえが用意されていました。表紙の表に、四角い窓を明けまして、そ こに中国の辞典の一つから、「心」なるものについて書かれた或る部分を引いてきて、その窓に嵌め込んだのです。第一番に「荀子解蔽篇」の説が挙がっていま した。以下数行、別の本の説も載っているんですが、その、どれもが、或る示唆を持ち得ているんです。即ち、すべて「荀子解蔽篇」の根本の心の説に合致して いる。漱石は、よくよくそれを理解した上で、ここに挙げているらしいのです。
「解蔽篇」で、荀子が力強く説いていたのは、「心」には「虚」と「壱」と「静」という、三つの性質があるということで す。分かり良くいうと、凡そこうです。
「心」は、無尽蔵になんでも容れることができる一方、いつでも「虚」つまり、からっぽにもなれる。また、あれへこれへと 八方に働きながら、また、たった「壱」つの事に集中することも出来る。そして「心」は、いつもその中心のところに、実に「静」かな一点を、しっかり抱いて いるものだと。その、「静か」という一点の真価が、まさに「心」の命、「心そのもの」なんですね。漱石は、これを知っていた。だから第一番に、「荀子解蔽 篇」の挙がった「心」の記事を、わざわざ、表紙に窓を明けて、嵌め込んだ。
 「静かな心」が持てなくて、苦しみ抜いた「先生」でした。「先生」は、「静」さんとの静かに幸せな夫婦生活を、どんな に心から願っていたことか。だがそれは不可能でした。「奥さん」の名前が「静」であることの、辛辣で、切実な意義は、明らかです。
 「虚」と「壱」と、そして「静」との荀子の説を知ってみれば、「静」の名が、乃木将軍の奥さんの名と同じだからといっ た説は、ニュース記事ふうの趣向としては少し面白いけれども、所詮はその程度のもので、比較にも何にもなりません。
 そもそも、小説『心』は、人間の「心の研究」をうたって構想された作品です。何よりも、「先生」と「K」と「静さん」 と「お母さん」と、そして「私」との、少なくともこの五人が、がっちりと、構造的に組み合って、一つの「心」を真剣に探り合った小説です。その中で、「お 嬢さん=先生の奥さん」に限って、「静」という実名が与えられている。荀子の「心」の説を、あんなに重く見ていた漱石にすれば、「静さん」こそ「先生」 の、また「K」の、さらには「私」の、心から愛し求めていた「心そのもの」であったんだと、まるで、作者の解説をハナから得ていたも同然ではありません か。明治天皇が何人死のうが、乃木夫妻が幾組み殉死しようが、「先生」の目の前に「私」が登場していなかったら、信頼されていなかったなら、あの「先生」 は、「奥さん」を一人ぽっちで残して、自殺は、結局出来ずじまいであったことでしょう。それほど「先生」は、「奥さん」の、幸福な、若々しい再生…最出発 を、祈り、また愛していたのだと、私は、思っています。
 「真実の身内」を切望した、愛の小説でこそあれ、死の小説ではないんです、『心』は。
それがたとえボンヤリとでも感じられていたから、こんなにも大勢に愛読されてきたのです。真の身内でありたいと望む 「静」と「私」とに、今しも生まれくるあろう新しい若い命の誕生を、「先生」も「K」も、心から、安心して、祝福しているだろうというのが、私の「読み」 でした。

 東工大のある学生がこんな指摘をしていました、『心』の「奥さん」は、『三四郎』の美禰子が、三四郎をひきつけ ることで実は野宮を刺激していたように、「私」を介して夫である「先生」の愛情表現を求め、モーションを掛けていたのではないでしょうかと。
 「先生」存命中の「おくさん」の願望としては、それは有り得た心理だと思われます。しかし結果として「先生」は「奥さ ん」を「私」に託し、自殺しました。その限りでは悲劇的な夫婦でありました。
 すこし、顧みておきたい。
 「K」は、「お嬢さん」を聡明な人、可愛い人、笑う人というふうに評価し、評価は徐々に高まり、「惚れる」に至りまし た。死を賭した評価でした。けっして「お嬢さん」を軽くは見ていません。「先生」の方が、むしろ、「K」の告白があってから突発し、友を出し抜いているん ですね。この優柔さは、漱石作品にはまま見られる特徴です。
『彼岸過ぎ迄』では、千代子の須永に対する猛烈な批判がある。「愛してもゐないのに嫉妬なさる。それを卑怯だと云ふんで す」と。千代子が他の男に関心をよせて初めて須永は動くともなく動くから、やっつけられているんです。
 『三四郎』の野宮もそうです。美禰子が他の男と結婚してから嫉妬しています。
 『それから』の代助など、本心に背いて身をひき、愛する三千代を友人にむしろ押し付けた。そうなってから三千代への愛 を自覚し、「世の掟」に背いて奪い返すのです。
 『門』の宗助は、人妻のお米を愛して一瞬に泥に塗れ、そのことに殉じて「世の掟」に背を向け生きて行きますが、子は流 れ、もう出来ないことを夫婦の受ける「天罰」と感じています。『心』の「先生」と同じ精神構造をしている。
 『行人』の兄一郎は、弟二郎に現に嫉妬していながら、その弟に妻の「貞操」を確かめる役を強いています。
 どうも漱石の精神にはこういうタイプの男が住み着いているとしか言い様がない。そしてさまざまに人生齟齬を来してい る。誠実も見えるけれど、卑怯も見える。すくなくも図太くは生きられない。「先生」と「奥さん」に愛は在っても齟齬もあるのも明らかです。「奥さん」の方 がずっと図太く生きられる強さを持っていたに違いない、それがまた「先生」の心を「静か」にさせなかった。
 繰り返しますが「奥さん」は、「先生」と「K」との一件を知らなかったか、知っていたかといえば、知らずにいられた道 理は無かった。狭い家です。かしこい母子です。だからこそ「先生」は下宿の当座、こっけいなぐらい母子の言動に被害者意識の神経を立てていたではありませ んか。
 それじゃ「先生」抜け駆けの求婚、友を裏切った求婚を、「お嬢さん=奥さん」らは、「Kの変死」ゆえに許せなかったで しょうか。とんでもない。自殺は痛ましいが、難儀は失せたと、ほっとさえしていたでしょう。「先生」の抜け駆けも、若い恋のよぎない敢為ぐらいに受け入れ て、いっそ「先生」のしつこい煩悶が情けなかったでしょう、合点できなかったでしょう。
 そもそも「K」が婿がねとして欠格者だとは、母子の間だけでなく、市ヶ谷の叔母さんはじめ、親族中の、もう申し合わせ になっていたとすら思われる。それで自然と読める態度や言葉を、「奥さん」らは繰りかえし『心』の中で漏らしています。
「奥さん」らが心から待っていたのは、「先生」の、ざっくばらんな「K」一件苦渋の告白と、それに対して「奥さん」らか らの慰藉を待ちかつ求める姿勢であったでしょう。
 しかし「先生」は、それを徹底的にしなかった。墓参にも同伴しなかった。話題にもしなかった。妻の「純白」を強いて願 望し幻想した。独り妻をおいて死のうとし続けていた。幸福であるべき不幸な夫婦と思い決めていた。妻を信じ切れず、世の中でたった一人信じているのは 「私」のことだけと、明言しています。「天罰」という過酷な表現で、子供の欲しい「奥さん」の根深い願いすら、むげに退け、協力を拒絶しているのです。
 こういう夫婦の隙間へ(むしろ「先生」の意に誘われる体で)「私」が導かれて行きます。そしてついには「私」と「奥さ ん」との距離が、「心臓」の動きと「奥さんの涙」とで急接近します。
 小説表現の微妙なあやのなかで、あの『門』の一瞬の泥まみれといった表現を背景に見入れますと、まことに危ない男女の 接触すら想像されなくはないと論じてきた学生も、東工大にはいました。若い今日の学生のなかには、「先生はコキュであった」と読み込むほどの者もいたので す。私は、さすがにそうまで読みたくありませんが、「奥さん」と「私」とに、深い心理での接近は、愛は、あったものと当然信じています。『心』の「奥さ ん」は、三人の男に愛された「心」そのものだったのです。しかし「K」と「先生」とは「お嬢さん=奥さん」を幸せにできなかった。だからこそ二人の男の化 身かのような、まさしく身内かのような「私」の登場が、小説『心』にとって必然の要請だったのです。おそらくは長い長い「遺書」を書いていた間かその前 に、「先生」は「私」の「地位」をも周旋し、信頼に報いていた筈です、そう読むのが「遺書」の意図と信実を高めます。
 もう一つ申しそえておきたい。「どこにそんなことが書かれているか」「想像(妄想)に過ぎない」と非難を浴びることが あります。それも文学研究者を自称する専門の読み手から聞く。本文に則して読み、加えて想像力や相応の創造的センスを働かせる。それの出来ない人を、作者 は「いい読者」とは歓迎できない。私だけの思いではない、世界的なある作者の弁です。言わで思い、書かで言い、言いおおせて何かあるという、行間を読み紙 背に徹するという、そうした日本語表現の今に久しい素質に対し、理解が無さ過ぎはしないか。そんなことでは、源氏物語「一部の大事」などまんまと読み落と してしまいます。古今、作者という人種は、存外に作品に仕掛けをしています。意図的でなくても本能的にそれを創ってしまっている。漱石も例外ではないごく 「意識的」な作家であった。どこにそんなことが…。ばかを言っちゃいけない、それを読むのも読者の読書なのです……。
 では、どうか思い出してください。『心』の「先生」は、いま、まさに死なんとして、こう「遺書」に書き、「私」に、祝 福を与えています。
「私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です」と。
 この「新しい命」というのがいかなる「命」であれ、「先生」が、「私」に、また「奥さん」に、「真実の身内」として生 きよ、幸せになれよと願っていたのは、まず、間違いない。万に一つも、あとを追って死んで来いとは誘っていない。さもなければ、あの「遺書」は単なる無駄 になってしまいます。されば「新しい命」とは、「静」に託された「静かな心」であり、また、その「静」によって、やがて「私」にもたらされる、「子供」と いう愛しい希望、ででもある筈です。そう 読みたいし、そう読める、放恣な妄想をせずとも、まさに本文の表現そのものからそう読み取れる、ということを、 今日、心をこめて私は話しました。
 『心』を読んで、ここまで来た、それも、「真の身内」を願う私の「人生」であり「文学」というものであったことを、ご 理解いただけるなら、「満足」です。

     ーー秦 恒平・湖の本エッセイ第17巻 『漱石 「心」の問題』 1998.9.15刊 所収ーー 
 


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