千利休の孫元伯宗旦に、"悟了同未悟"という書があり、依田は茶名にその"未"の一字を貰った。当時の家元の命
名で、家元は依田のことを、「お前はおとなしいから」と微笑(わら)われたそうだ。
依田は二十四になっていたが、家元の諧謔を解さなかった。生憎と彼は亥歳の生まれだった。
"ごりょうは、みごにおなじ"と、そう読まれていた宗旦のことばを依田は大事に覚えた。"悟り了るは未
だ悟らざると同じ"と読み直してもみて、よくは分らなかった。依田はもともと謎々のようなこういう文句を敬遠していた。痛いも寒いも面白いも、からだを動
かしてそうなってみないと納得しないと.いう所が彼にはあり、おとなしいどころか意固地なのだと同僚は思っていたらしい。
だが元伯の一軸を床に掛けて家元に教えられれば、依田は悦んでそのことばを覚えた。七十四まで五十年、
依田はひょっとしてときどき癖のように指を立て、空に"未"、"未"と書いて来たかもしれない。ひつじ(傍点)のようにと思っていたか、未だ悟らざると同
じと諦めていたか、珠子と一緒に最期の一度きりのそんな場面に出逢った私は、依田との初対面から半年と経っていないこと、その間僅か三度しか逢っていない
ことが、訝(いぶか)しくてならなかった。
珠子は祖父をあんなに遅くに見直したが、私の方はそんなにも早く依田宗未と別れねばならなかった。依田
は私を初対面から身内と思って呉れた。臨終の時、私は遠慮もなく声をあげて泣いた。
依田の妻は三年早くに先立った。アルバムの写真では、ただ珠子の祖母というだけだった。
珠子の母は依田夫婦の一人娘だった。麩屋町の直木康彦、珠子の父に嫁いで、一度流産し、二度めに珠子を
産むとまもなく死んだ。やはり写真で見ると、やがて母と同い年になる珠子によりも、病衰した依田の、白皙の容貌に肖ている。依田老人は、若い頃さぞ佳い眼
をしていただろうと想える、澄み切った、意志的な表情を最期までなくさなかったが、珠子を産んだ人の眼も、細おもての温和しい表情の中で涼しく光ってい
た。珠子は祖母に顔かたちは肖たらしく、美人だが、祖父や母ほどしんとした所がない。
依田らは一人娘を望まれて他家へやり、そして呆気なく死なれた。珠子の父は再婚し、下にもう一人女の子
が生まれた。そこで、というのも変だが、珠子は結婚の際に直木籍を離れて依田を嗣ぐ約束のようなことが両家で円満に話し合われた。依田が孤りになると、珠
子は必要上ほとんど祖父の傍で暮した。家元業躰(ぎょうてい)の首座を占める依田には弟子も多く、稽古日と限らず茶室の用意も、当人でなくて済む分は珠子
が代ってした。黙っていたが、老妻の死後依田がどれだけこの孫娘に慰められていたかしれない。いやがるのをむりにも茶室に引き据え、人の来ないまに珠子の
点前(てまえ)を見てやったというはなしも、依田の老いての甘えだったか、どうか。
私が依田を初めて梶井町の家に訪ねたのは、ただ挨拶にでなく、むしろ掛け合いのためだった。依田の姓を
引き受けるのはいい、しかし私に茶の家を嗣ぐ気はなかった。だがぜひ珠子と結婚したかった。講師とも呼ばれないまだ研究室暮しで、自然親のすねをかじって
いたが、幸い先の道がすこし明るんで来ていた。
珠子自身は屈托がなく、私の方では意外に母が乗気だった。依田宗未の一人きりの孫娘ということは、多少
斯の道を知った母に窮屈な思いをさせるのではないかと心配したが、珠子に逢えば分って呉れると思った。その通りになった。
珠子は英文科の四年生になる所だった。卒業したら国際電話の交換手になりたかったと言い、せっかく米人
の個人教授まで受けて堪能になった英語を、朝から晩まで使っていたいからと笑うのだ。会話の苦手な私は珠子の笑顔に、その他愛なく描かれた夢に、かるい嫉
妬を感じる。院政期荘園関係の古文書解読にうつつを抜かしている私に、英語を使う機会はめったになかった。
直木の両親には、逢って丁寧に自分の口で話した。いよいよ最後は依田宗未だった。
おじいさんはよく話す人か、と珠子に訊いた。口かずのことだ。珠子は首を横に振った。それは本来好もし
いことだけれど、この際は気がるに喋って呉れる相手だと有難かった。七十四という歳は自分は構わないが、意固地に黙りこまれた時に弱る、と思った。
その日、平日同様鞄をもち、とくべつ手土産もなく、大学を四時前に出た。
正門前の電車通を南側へ渡ると、御所の中は、わさわさと梢の枝を鳴らして二月の空に白い風が流れてい
た。樹々の根かたには前夜の雪がすこし残っている。砂の道をざくざく踏んで、築土塀の蔭を溝の水音に沿って歩いた。
泥のついたトレパンの膝を元気よくはたきはたきバットをひきずって、学生が一人小走りに帰って行った。
御所の中に大学で借りている運動場がある。私も前にはそこでソフトボールなどで体育の単位をとった。だが何で彼だけ一人抜けて帰って行くのかと思った。そ
れから唐突に、今日はうまく行きそうだと思った。わざと、むっと口を結んでみた。梅が匂っていた。
無邪気なくらいむきになっているソフトボールのゲームを横目に眺めて、東の、清和院御門の方へ通り抜け
て行った。珠子も四年生ならあれよりはおとなだと想い、汗くさい男子学生と較べてまでそんなふうに思おうとしている自分が、おかしかった。
珠子は玄関に手をついて私を迎えた。冗談かと思った。あわてて返礼したが、勝手がちがった。心配になっ
た。
「だいじょうぶよ」
珠子は小声で言い、私は鞄をどこへ置こうか迷った。
「また重いのね」と、寄って来て珠子は赤ちゃんを抱くように鞄を受けとり、冬日の洩れた畳廊下を先に
立った。青竹に青い葉をピンと立てたちいさな筧(かけひ)が、坪庭の白い石組に懸かり、つぶらな実を朱く垂れた万両の株は縁にちかい庇(ひさし)の蔭に葉
をひろげていた。
八畳の座敷は総栗のがしっとした造りで、翳の濃い、茶人の居間というより武家の書院の趣だった。柱も床
がまちも鴨居も、全部がざらりと手強い栗だった。"満城流水香"と筆太の一行を掛けて尊式の唐銅(からかね)に山茱萸(さんしゅう)と本阿弥椿が生けてあ
る。
座布団を使ったが座卓はなく、膝の前が広かった。
珠子が出て行くと、仕方なく私は腕を組んだり眼をつむったりした。炉に火が入っていた。華籠(けこ)に
似て、時代の艶も黄金色(きんいろ)に鈍んだまんまるい手焙(てあぶ)り。それにも火が入っていた。雪見になった障子の外は張り出した広い竹の縁で、藁を
巻いた松に半ば隠れて三尺ほどの古い石幢が見えた。
大きい家ではないが奥深そうだと思った。
依田は先に私に話させた。順序立ててはうまく喋れなかったが、依田が聴き上手なのか胸にたまったこと
は、みな外へ出した。それだけで気もちは佳かった。
「これの母おやのことは、ご存じですか」
珠子ひとりを産むため嫁に行き、そして死んだことを依田は言うらしく、だが私は縁起をかつぐ気はすこし
もなかった。頷くと、依田は、それを気にしないで下さるなら自分に異存はない、珠子が望むことを自分も望んでいますと静かに言い切った。あっけなくて私は
きょとんとしたらしい、依田は微笑って、その余のことはよく二人で相談して下さいと席を立った。珠子も立って、私を促して障子をあけた。竹の縁から、五葉
の松の下枝をかすめて曲尺(かね)なりに苔の庭を石が伝っていた。
あどけないほどの笑顔になって、珠子は沓(くつ)ぬぎに用意した庭下駄で奥の茶室へ入るようすすめた。
半蔀(はしとみ)の傍に背に余るみごとな南天があり、やがて破風(はふ)に松庵と額を打った軒のひくい
茶室があった。珠子は蹲踞(つくばい)で手に水をかけて呉れながら、あのにじりロへどうぞと教え、耳もとへ口を寄せて、あぐらかいていいのよと言う。珠子
は、飾らない白いブラウスの?上に藤色のふわふわ毛の立ったカーディガンを着ていた。ことさら和服を避けたそんなふだんの姿が新鮮で、自分も学校の帰りの
くせして、何かもう珠子たちに家族ぐるみ待たれていた気がした。
珠子は私のはきものを沓ぬぎのわきへ揃えると、自分は元へ戻って行った。
茶室も、茶室の中で茶を振舞われるのも初めての経験ではない、が、依田宗未ほどの人が私のために茶を点
(た)てて呉れるのは望外のことだった。
依田はすでに取り返しのつかぬほど健康を害していた。だから珠子も祖父にそうまでさせたくなかったが、
私が訪ねると決まった時から依田は自分で茶道具の取り合わせも考えているとは聴いていた。猫に小判だなあと苦笑いし、珠子はもう何も成行きですものと寂し
い顔を見せた。私は二着あるうちの新しい背広を着ただけで菓子折りももたなかった。母に言うと却って小うるさくなるので黙っていた。
一礼して茶室へ入って来た依田宗未は意外に長身だった。そしていかにも病んだ人という翳の浅さを肩さき
から両腕へかけ感じさせた。珠子の日ごろの話からおそらく死病と見当をつけていながら、だが依田の作法は、門外漢の眼にも、自然にとはこうかというよう
な、清い、こだわりのないものだった。とりわけ肉づきのやや落ちた二つの手は、しなやかに、よく鍛えられて、惚れ惚れするほど軽く、静かに、道具を運び道
具を使った。
私は茶の作法は皆目分らない。だが、何であんなふうに帛紗(ふくさ)を使うか茶盆を扱うか、とは、依田
は微塵も思わせなかった。
手も美しいが、依田の眼はもっと胸を打った。立派な手を生かして無礙(むげ)に使っているのは老人の優
しく和んだその眼だった。的確に、無心に、二つの手は依田の眼が湛えた或る愛情のようなものと気息を合わせて動くのだ。手が触れると、茶碗が、茶器や茶杓
が、水指(みずさし)や釜が、銀ねずの魚子地(ななこじ)の帛紗が、銘々に、此の世ならぬものを言った。
珠子は菓子を運び出したまま茶室の中に残っていたが、お菓子をどうぞと懐紙をさし出して呉れるまで、私
は依田という初対面の老人に心を奪われていた。
菓子は青磁の端反鉢(はそりばち)に入っていた。干菓子は透き漆のさわらの輪花盆(りんかぼん)に青と
白の吹き寄せだった。青いのが雪間草で、白いのはもう蝶だった。
「――さん、お酒は召しあがる」
依田は黄瀬戸の水指から黒い塗蓋をとりながら突然そう訊いた。好きです、と答え、依田は黙って木地の炉
縁(ろぶち)の柄杓に手を添えていた。肩をつむつむと丸く張った釜から盛んに湯気が立ち、あごを引いて湯を茶碗へはこぶ依田の一瞬の姿がひどく幸せそうに
見えた。幸せなのはだが私だった。そう思うと訳もなく私はあわてて珠子を見た。珠子はにっこりした。
元伯の雄健な一行の下で、ひき緊った備前の火襷(ひだすき)に谷桑と乙女椿がほころんでいた。座布団も
手焙りもない三畳間に湯音が鳴り、丸窓の障子の外はタやみに落ちこんでいた。颯と茶筅が入ると舞台がまわるように茶室が花やいだ。依田の点てた茶を珠子は
にじって出て私の前へ置いた。青い茶碗から湧いて出たように青い泡が盛り上がっていた。
美味かった。唇に触れてまったりと流れる口中(こうちゅう)のかすかな重み。両の掌(て)に包んだ茶碗
の手ざわりの確かさ。依田と珠子は今自分を見ているだろうか、いやいや二人とも銘々の思いを抱いて膝に手を重ねている――。
「美味しゅうございました」
「それは、どうも」
替(かえ)を使わず、依田は私の戻した茶碗で珠子にも一服点ててやった。
珠子が神妙に吸い切ると、依田はあぐらになるようすすめて呉れた。会釈してあぐらをかいた。珠子が立っ
て水屋へ入った。
炉のわきへ直った茶盆を取り込み、一度左の掌にあずけ依田はふと、とまった。そして湯を通しただけでそ
のま依田は客付(きゃくつき)へ膝から向き直り、私に真向って坐ると掌の茶碗を元の釜の蓋の傍へ戻した。
依田が何か話しはじめると気づいて私は坐り直そうとした。優しく、依田はその必要のないことを言い、点
前の途中で妙なはなしだが、明るい部屋ではわたしが気恥ずかしいから、と、はっはと笑った。
珠子が折敷(おしき)の膳を運んで来て前へ置いた。鶴丸の蒔絵の椀を左右にならべ、向附(むこうづけ)
に赤貝の色と防風の若芽が添えてあった。私と依田の前へそれぞれ運び終ると次に珠子は青竹の箸をのせた鼠志野ゅょ(ねずしの)ふうの八寸をもち出し、また
木盃と銚子を運んで来た。
依田はお前もと珠子に言いつけ、珠子は素直に自分の膳も取りに立った。
「はじめてお目にかかってこういう作法外のことをするのは無調法ですが、ま、老人に免じてゆるして下さ
い。食事はあちらで改めて用意させますが、ま、こうしてすこしわたしがおしゃべりをさせてもらいましょう」
依田は珠子を制して自分で銚子を取りあげ、私に朱い盃を一枚とらせた。
二枚めの盃で珠子が依田の酌を受けた。そして依田には珠子が出て酒を酌(つ)いだ。
酒が好きで、ずいぶんと失敗をしましたと依田は年寄りらしくない高い笑い声で初めて笑い、この頃は酒も
とめられていて、自分はこれだけで遠慮するがと、また私に銚子を向けて呉れた。珠子は二人のために八寸から、大徳寺納豆を包んだ鯛の薄造りと青いちしゃ軸
の味噌漬けを椀の蓋に分け盛って呉れた。椀は一文字の白い飯、それに四方焼豆腐に黒豆をのせた味噌汁だった。依田が何を思って酒を酌(く)んだのか、珠子
にも私にも、分った。杉の真新しい箸に赤貝をもたせて私は釜の鳴りを、一瞬、聴いていた――。
何もしてやれないが珠子に此の茶碗を持たせてやりたいと、依田は畳の上の青い茶碗を見て話しはじめた。
私も珠子も黙って聴こうとした。
それは井戸茶碗の一種で、とりわけ青井戸と呼ばれた。井戸の名には幾説もあり、朝鮮人の飯茶盆を見立て
て日本の茶人が茶に使いはじめたというが、この青井戸は小ぶりで、手にのせると高台の梅華皮(かいらぎ)が、物のもつたしかな感触を伝えた。青い釉(くす
り)、といっても淡い乳の色を含んで、緑の底にまぢかい夜明けの空のようなほのかな白の印象が漂うのだ。あらためて手に持つと、掌を吸うように無数の気泡
を秘めた茶碗の肌は、夜露に似て、甘い寂しい冷たさが感じられ、涙の痕と斯の道の人が呼ぶふしぎな色変りも点点と見えた。
粗相の美、と、そんな言葉も使って依田は宗匠らしく先ず一通りは青井戸のことを説明した。むかしから茶
人は、支那の正格の天目(てんもく)以上に井戸茶碗のことを"首掛け"と呼ぶくらい珍重した。"一井戸、二楽、三唐津"というのは私も知っているが、身に
も財宝にも代え難いとしたらしい首掛けの呼び名は初めて聴いた。
もっとも青井戸だけは一般の井戸茶碗の碗胎、釉調から一と手異っていて、枇杷釉でなく乳青色を帯びるの
が特色で、そのための、いわゆる井戸形(いどがた)といわれる開いた碗形や胴ろくろ、竹節高台、総釉、それに秀逸の梅華皮(かいらぎ)など、みな一通りの
約束を備えていてもよほど初対面の印象はつねの井戸より違うという。
依田はこの青井戸を、今から十数年前に或る有名な美術館の持主から突然贈られた。ちょうど美術館の持主
は先代が逝(なくな)り、あとつぎは四十代の、依田も何度か茶会で面識のある実業の方のやり手だった。
依田は先代とも道の上で交際があり、招かれれば茶事にも出向いたし、請われれば水屋方の手伝いも然るべ
き弟子をやって見させた。だが、依田が客の時にこの青井戸の出されたことは覚えている限り一度もなかった。その美術館の硝子越しに、依田は何度も何度もこ
の茶碗を眺め直し、言いがたい熱い心に襲われては、秘かにこれに、"青春"と我一人の平凡な銘を付けていた。また、"はかなくて過ぎにしかたをかぞふれば
花に物思ふ春ぞ経にける"という式子内親王の春の御歌を依田はこの茶碗に寄せてなつかしむこともあった。
だから、突然若い当主の丁寧な添状も添えて、茶碗と、先代が生前に書き置いた手紙とが使いの手で齎(も
たら)された時、依田は年甲斐もなく胴震いがした。
Gというその故人の手紙は、簡潔だったが、依田には幾重もの好意が直ぐ分った。
G氏は、この青井戸を差上げるのは自分一人のはからいでなく、もう何十年も前、まだ自分もあなたも若
かった頃に当時の御家元から自分が頼まれていたことですと書いていた。その約束を長いあいだ反古(ほご)同然にしていたのは却って自分の方で申訳なく、そ
れというのも青井戸に寄せる深い執着のせいだった、恥ずかしいがどうかゆるして貰いたい。
「依田に茶盆の本当の値打ちが分るようになったら」と家元はG氏に頭を下げ、G氏はその当座、家元ほど
の人がそうも言われるならと、余計茶碗が手離せなくなった。一応は承知しましたと笑って答えておいたが、茶碗を買ったのさえまだ自分の眼鑑(めき)きから
でなく、出入りの道具屋が損はないと売りすすめたからだった。
だが、G氏は家元の重々しい負託を、青井戸の佳さに眼を開かれるにつれて意識するようになった。飾り気
のない姿、慎ましく落ちついた釉色、それでいて茫洋たる風格。G氏には分って来た、井戸茶碗は佗びた茶室で実際に使われてこそ激しいまでに美しさの汲める
茶碗だった。そして、何を考えて家元が愛弟子の茶の道に、あたかも光る関守石かのようにこの茶碗を置かれたかが分って来た。虫のいいはなしだとG氏は何度
か心中にF反撥した。だが家元はもう逝り、依田宗未の茶名は人柄の静かさ毅(つよ)さとともにG氏の耳にやがて届いて来た。
とうとう死に際まで我を張り、それでもG氏は最期に青井戸は必ず依田さんへと息子に命じた。息子の手紙
には、若いに似合わぬみごとな手蹟(て)で、茶碗の名誉ですと書いてあったのを依田は涙ぐんで有難いと思った。そしてこの茶室に終夜釜を懸け、存命だった
老妻とこの茶盆で茶を点て茶を喫み、往時を思ってはなしは尽きなかった。"四海皆茶人"と書かれた先々代、当時まだ先代家元の軸を床に掛けて、依田は初め
てこの青井戸を手にした昔を想い出さずに居れなかった。
依田の生まれは加賀金沢当来町だった。生家は代々糸屋だった。京都の大学に学んだ頃、人にすすめられて
初めて茶を習い、熱心の余り直かに家元の門を叩いて聴(ゆる)されたが、卒業して金沢に帰った。
茶の湯執心(しゅうしん)の依田は家業に就いてからもわざわざ年に一度二度京都へ出て、家元の薫育を受
けた。加賀は北陸道一流の茶どころだが、茶道の格の高さ厳しさは断然京都だった。当時茶道衰微の折とはいえ却って心ある僅かな人の修業に支えられて、京都
の一画には嚠喨と鳴るような風雅の松韻を楽しむ茶人が潜んでいた。
当時の家元は、篤実な人柄のままに厚味に富む機鋒鋭い茶風といわれていた。物の出し入れにもずかりと客
の気もちに割って入る気概があり、よほど強腕の正客を迎えても、ぴんと張りつめながら思わず寛いで破顔一笑させてしまう、そういう応対ができたという。
依田は家元に教えて貰うつど、加賀に帰るのがいやになった。実は姉の夫に家職を譲れば万事好都合な家の
事情もあり、それに幸いまだ独身だった。
とうとう依田はまたしても家元に決心の談判を試み、業躰(ぎょうてい)内弟子に加えて貰うことに成功し
た。明けて正月、祖堂へ通う手洗いの上の軒に、業躰依田武と書いて貼り出された――。
――依田老人は食べものに殆ど箸をつけず、時々珠子に声をかけて私の盃に酌をさせた。珠子も、自分の塗
り盃にまだ酒の色をあましながら、ほっとあかい顔をしていた。鯛の造りもなくなると、珠子は水屋へ立って、海老芋とうずら肉の叩き寄せを取り合わせた中へ
柚子(ゆず)の細切りをふつさりと盛った、これが祥瑞(しょんずい)かと想われる藍の深鉢をもち出して来た。
依田は修業時代の若々しい想い出は途中で言いさし、青井戸へ話を急いだ。その方が自然でらくなのか、依
田は茶室へ入って来た時からいささかも正坐を崩していない。湯がたぎって来るとかるく膝を送って水指(みずさし)の水を釜に足してはまた私の方を向き、と
くべつ横道に外(そ)れず、物静かに、むしろ先刻来何か独りごとめくほどのやや伏し目のままで、言葉をついだ。
前に言うように依田が若い業躰に加えられた頃は、今日と違って茶道界もひっそりしていたのだ。家元に寝
泊りし、朝夕に家元や老母堂の薫陶を受ける内弟子の数は意外にも二、三に過ぎなかった。流儀の許状(きょじょう)を受ける全国の入門者も近頃とは較べよう
がなく少なく、組織立った会のようなものは家元も秘かに心中用意されていたようだが、それも今日の――会ほど厖大で整然として、そのためにまるで客商売め
いて人に言われるようなものになろうとは、誰も予想しなかった。
家元を訪ねて来るのは大概大徳寺の法類とか、重だった地方の宗匠や業躰が時たま姿を見せる程度で、常時
に受付を置き、種々雑多な、中には観光気分の地方会員や外人客までまじる来客をひつ切りなしに応接するなどは、夢にも想えぬほど、家元の日ごろは清潔だっ
た。森閑としていた。
依田は朝暗いうちに床を出て、着物の尻を端折って黙々と広い家元の内を同僚と掃除した。順番を決め、家
の内の掃除と玄関から庭さきの掃除と、それに大小の茶室の飾りつけや道具の取り合わせを分担するのだが、掃除には掃除の、取り合わせには取り合わせの呼吸
があり、依田は凍える底冷えの朝立ちに雑巾を使い竹箒を使い、或は羽箒や灰匙を使いながら、世界中にただ一人自分がこうして手を動かしからだを働かせて一
心に胸の内につむいでいるふしぎに色彩(いろ)ゆたかな、暖かな、手触りたしかな織物を、大事に、今日も一反また今日も一反と心に積み重ねて倦(う)まな
かった。そういう想いようには糸屋の息子らしい聯想が働いていたにしても、依田はその心に積んだ織物をやがて吾がためにだけ裁ち縫いしようとは考えなかっ
た。誰かが思うまま自分の胸の奥から持ち出して、それで美しく身づくろいをして呉れそうな予感があった。
依田は茶の湯をただ禅坊主めかした修練とばかりは思わなかった。人と人との寄り添って建立する不可思議
の愛の如きものを、流石に学生生活をして来た依田は書生っぽく斯の道に期待していた。
二畳、三畳の茶室の中で、依田は五徳を合わせたり火種を入れたり釜を据えながら、雪の下に春待つ青草の
ちいささよりもっと静かな寂しさを感じた。指さきがかじけて割れて稽古帛紗にざりざりと引っかかる。そんな時家元はふと眼を向けて「依田――」と呼ばれ、
は、と依田も眼をあげると家元はうんうんと頷くだけで、さ、と次を促される。依田は次の所作に戻りながら、自分が一人いて、それからそこにお家元がおいで
になる、自分がここにいて、そこにお家元がおいでになる、とそればかりを呪文のように心中繰り返し繰り返し、他に何がこの世に必要なものかと思うのだっ
た。
家元と依田とはおよそ二十四、五も歳が違っていたが、一脈気質に似た所があった。
たとえば家元は、ことば一つでものを教えるということがなかったし、依田も、その場その場へからだを動
かして行って合点するという、依田自身の表現によれば"鈍い"所があった。だから、毎朝掃除や用意の終った頃家元がすっすっと足袋の音をさせて祖堂へお詣
りに入られる時、ちらと依田の掛けた床の間の軸に眼が行く、生けた花に眼が行く、その瞬間が、依田には落ちて来る天を支えるような重さだった。それで、も
うみな分るのだ。佳ければ佳い、わるければわるい、何も会話なしに分ってしまい、祖堂でお経をあげておられるのをじっと聴きながら、依田は、まるで新しい
ものを眺めるように自分が拭き掃除した廊下の長く伸びた柾目(まさめ)を見、また自分の取り合わせた軸と花や置物のさまを見直すのだった。
依田は大体最近の茶人がお喋りに過ぎると思っていた。それから、すぐ、わたくしどもお茶の世界では、と
いう言い方をするのを苦々しく思っていた。その辺から茶の湯の道が揺らいでいる、大事な道筋の節々に汚れ水のしみ出るように腐った臭いが漂っていると言っ
た。賑わう客商売にあまり自足していると、誠の薄い言葉ばかりが塵や芥になって斯の道を汚し、心の奥にしんと見据えるべき人一人の寂しさとか、それを僅か
に慰める主と客との嬉しい出逢いとか、その出逢いに一期の重みを懸けるほどの工夫はなくなる――。
依田はだがすぐ苦笑いして、また脇へそれたと私にあやまるのだった。
私は珠子の横顔をそっと窺った。依田の息づかいにかすかではあるが急なものが感じられた。珠子はじっと
身を固くして、膝に重ねた自分の白いちいさな手の甲を眺めていた。そう見えた。
依田はまた青井戸を掌にのせた。
指をさされて、見るとなるほど茶碗の口造りは、貝の口といってコムパスで描いたような円形とは違ってい
る。口あたりの部分にかなりの厚い薄いがある。依田はこういうベベラ(三字に、傍点)を御愛嬌と呼んで、ははと笑った。だがすぐ真面目な顔で、この愛嬌が
茶碗の魅力、いわば造型の眼目で、ほらここからこう、と指を当てて、いびつがいびつのままこれ以外どう考えようもなく定まっている、こういうのを自然な、
というのかもしれませんがと謙虚すぎるくらいに言い添えた。高台(こうだい)の内側は梅華皮釉(かいらぎぐすり)で埋まって深くなく、一滴二滴赤味もさし
て粗相な中に愛らしい景色も見える。眼を静かに口辺(こうへん)へ移して行くとかすかに鳶色の茶渋に染まっているのも、依田は茶碗が使われ慈しまれて来た
ものと言って、老眼らしく少し反り身になって眺め眺めした。
「珠子、一服差上げないか」
孫娘の方はそのような慳貪な言い方で慈しむらしく、珠子も笑って依田と場所を代った。朱の梅鉢の帛紗を
ちゃんと腰につけ、両掌に青井戸を包んでゆっくり膝がしらで湯をまわして見せる珠子の靨(えんぼ)に私は幾分照れた。こそっと炉の火が動き、香が匂った。
「どうぞ先生からー-」
. 依田は一礼も美しく珠子が点てた茶を喫んだ。
そのあとで私も、重ねて青井戸に唇(くち)を当てて思わず眼をとじた。その私の方へ依田は芦をかけた、
「そう、そんなふうにしてその茶碗で家元もわたしの点てたお茶を喫んで下さった。」自分はそのとじられた家元の瞳(め)の奥に拡がる闇の遠さを、どんなに
床(ゆか)しく想ったか知れない――と。依田は語を次いだ。
その朝は露路の石まで凍てていた。冷えた庭草履でその上を一つ踏み一つ踏みして、雪消えにぬれた敷松葉
を指でつくろい、荒れた苔を丁寧に指でいたわった。空さす銀杏の大樹――その木蔭で、雪を凍らせ燦(きらめ)く杉苔に井筒の根を囲まれた撥釣瓶(はねつる
べ)が、濃い寂しい翳になっていた。暁けの空は底鈍(に)ぴの青磁が淡い灰を被(き)たように薄曇り、聴松軒の萱屋根で鳩の羽(は)づくろいの音が聴こえ
た。
――
依田は小手をかざして晴れて行く空を仰ぎ見た。
冷気が、うすく口をあけた咽喉の奥まで真直ぐ降りそそぐ。素足が痛いばかりかっかし、草履は濡れて足の
うらで夜寒の凍てを溶いていた。なぜ此処に居るか、自分はこの寝静まった庭の中で、空の下で、石を踏んで、何ものでありうるか――。故郷を出て来る時、何
人もの人が自分を嗤ったのを依田は覚えていた。
だが感傷は依田のものでなかった。今朝はお家元は何を教えて下さるだろうか、.今日は金沢や高橋は家元
の御用で大阪へ行き大津へ出かける、自分も午後にはお供をして府一の女学生たちの稽古に行く。
依田は自分一人家元のお供なのが単純に嬉しかった。一刻でも家元のそばに居れれば、それだけ多くきっ
と、何かにがんと頭をぶつけるように覚えられることがある。「依田、右だよ」と、.それだけでどんなに軸を床中央に真直ぐに掛けるのがむずかしいか、分っ
た。「依田、さかさま」と、それだけで棗(なつめ)と茶碗、或は茶杓と茶入の取り合わせ方を、季の感じ、色どり、大小、場所がら、ちょっとした味わい、な
どを間違えていたのが、合点できた。田舎育ちの依田は、家元の何気ない物言いから、言葉づかいの微妙なあやも習った。"語是心苗"と、家元は平常好んでそ
う書かれた――。
――l私はもう盃を膳に置いていた。なかなか青井戸のはなしにならないけれど、依田が、ただむだに話し
たかったことを述懐しているだけ、とは思わなかった。
依田は唐突に口をつぐみ、妙に気恥ずかしそうにもぐもぐ唇を動かした。すっと膝を進めて珠子が銚子を
取った。
「いや僕が、お酌ぎしたい」
私は物狂いの心地でそっと珠子を遮った。依田は冷酒を珠子の朱塗の木盃に受け、水を引くように呑み乾し
た。
――家元に起居して以来依田は、家元と老母堂との他に心を移す人を知らなかった。むろん較べようのない
相手だが、一人だけ、家元へ出入りの或る炉壇塗りの職人と妙にうまが合った。三十すぎてまだ独り身の小沢というその男は、依田のことを業躰(ぎょうてい)
さん業躰さんと呼び、訳もなく、いや多分彼も金沢近在の出身というだけのことで好感を寄せて呉れた。家元での例で、出入りの職人は大概柴田、樋口などと呼
び捨てだったが、依田はこの小沢と二人切り、たまに表の道で出逢ったりすると小沢さんと挨拶し、暑い寒い程度でも、若ものらしく元気に、真面目に応対し
た。
この小沢がその朝、突然稽古に入る直前に勝手元から依田を呼んだ。
ちょうど依田は、家元の言いつけで、奥庭へ小窓を開いた三畳の桐蔭席(とういんせき)に釜を懸けてい
た。へぎ目の炉縁(ろぶち)に乙御前(おとごぜ)と呼ばれた釜を合わせ、家元お好みの猿臂棚(えんぴだな)、それに極く最近若宗匠が工夫された猿尻棗を使
うつもりだった。花は竹の一重切(ひとえぎり)に蝋梅(ろうばい)と侘助(わびすけ)を、時間をかけ、苦心して挿した。小沢は何でこの大事な時に何を言っ
て来たか。依田は真正直に驚いていた。もう奥から家元が出て来られる――。
小沢はそわそわしていた。頼むから内緒で一枚茶碗を見て下さい、と言った。そして依田の返事も待たず、
そそくさと上がりがまちに腰かけて、古びて傷んだ箱の紐をときはじめた。
気は茶室へせいたが、茶碗といえば茶人の生命だし、そうでなくとも道の道具を眼の前に置かれて立ったま
ま応対はできない。依田は板敷に正坐して小沢の手から手へ一枚の青い茶碗を受け取ってしまった。
古い――それだけは分った。罅(ひび)が入っていそうだ。その余のことはよく分らなかった。井戸茶碗に
手は似ているが、依田はこんな異色の、青い肌を以前に見たことがなかった。つまり、どうも、感心しなかった。口造りに奇妙に焼けただれたような、小石か混
りもので引っかき瑕(きず)めいた痕(あと)がある。乱暴に造りっ放した雑器ではないのか、小ぶりで懐の深いのも却って貧相なのではないか。
依田は自分で未熟な眼鑑きをして小沢にいやな思いをさせたくなかった。お家元に見ていただこうかという
と、小沢は恐縮して、もともとそんな大それた茶碗やない、ちょっと急に金の要り用ができたまでだからと腰を浮かした。つねはしゃきっとした職人なのにと思
うと、よくよくの急場らしいのが気の毒だった。依田は、遠慮なら無用だからと持ったままの茶碗を下へも置かず、稽古に遅れた言い訳半分に、奥へ運んだ。
家元は青い茶碗を一目見て、誰が、と訊かれた。依田は隠さず事情を話した。
「依田。これは昔、家元から外へ出た物だよ。買っておおき」
家元は畳の上に茶碗をそっと戻し、すぐ、今朝は桐蔭(とういん)だったかなと呟くと自分から先に廊下へ
出られた。
依田は家元を待たせてしまう遠慮ばかりが先立ち、買っておけと言われた意味もよく呑みこめなかった。
小沢はほっとした顔で、幾らだってけっこうなんでと、僅かの金でもとにかく急ぐという顔だった。依田は
どうやりくりしても四円と五拾銭しか持ち合わせがない、それでは足りないかと言うととんでもないと、小沢は茶碗を箱に戻す手間も惜しんで掌の上で金を勘定
して、帰って行った。
依田はなぜか淋しくなった。四円五拾銭は当時依田が家元の供をして女学校一校お茶を教える一月分の手当
に近かった。だが、それが惜しいのではなかった。
撫然としている依田に家元は気がつかぬふりをされた。依田は蓋置に三ツ猿を使っていた。猿三種を取り合
わせたつもりだったが、「ちがうね」と直されて「庚申」と朱で直書(じきがき)の竹に替えた。宗入(そうにゅう)の赤い筒茶盆に家元自削(じさく)の「一
笑(いっしょう)」という茶杓を添えると、「ま、佳し」と言われた。「花。佳いよ」とも言われた。
薄茶を一服点(た)てた。わざわざお家元にお稽古を見ていただくのに薄茶、それも平点前(ひらでまえ)
じゃ、珠子など勿体ないと思うだろうが、依田は席を代ってからは炉の前に坐っている孫の方を、ちよっと覗いてみるような顔をした。
だがそうではなかった。家元の前では簡単な初歩の点前がどれより難しかった。無尽蔵は単純の裡に秘めら
れているといえば聴こえは面白いが、さてなかなかそれが理解できない。家元はどんな時も最初に薄茶の平点前を稽古させられ、あまり出来がよくないと、その
日は余の点前を習わせて下さらなかった。むかし或る能の達者が、師匠に素っ裸で羽衣を舞わされた話をしていたが、それに似た厳しいものが、端的で簡潔なこ
の点前には籠っている、じっと家元に見ていられるだけで骨と骨がはずれて自分の手も脚も胴もぎくぎく鳴る気がする。見た眼も大事、だが、「見た眼の佳さが
お前の気もちの佳さでなければね」と言われると、もう作法とか点前とかでなくて、種々雑多のお道具と格闘している戦士のような荒けた気分になったり、傷つ
いて孤独に血を流しながら砂漠の真中で夢から醒めたような、怖い思いがしてしまう。
こんなことがあった、依田は或る夕方、自分の部屋で休息していると突然家元母堂の声がして襖が明いた。
まさかと思って足音にも気をゆるしていたが、流石に慌てはしなかった。だが母堂は何も言わずまた襖をしめて行ってしまわれ、依田は怪訝(けげん)な心地
だった。そして次の朝、依田は稽古の前に家元に呼ばれた。
お前の部屋の花は枯れてはいないのか。は、と俯いて、竹籠の都忘れの一本が色変りしていたのを依田は思
い出した。花を生ける何とも言えない嬉しさはお前もよう覚えた。だがそれだけなら小学校の女の子にもできる。しおれた花に恥ずかしい死にめをさらさせては
いけないねと言われて依田は頭を低(た)れた。すぐ立って、花も水も改めて来た。のこった花はどうしたと訊かれ、お水屋のそばの竹筒にと答えると家元は頷
いて、さ、はじめようと稽古の席へ立たれた――。
――依田はあの朝、桐蔭席での稽古で、あとさき二度とも茶杓が拭けなかった。どうしても帛紗(ふくさ)で
本当にしごいてしまい、それではだが清めには見えないのだ。
家元は叱言は言われなかった。かえって、あとで先刻の青井戸で美味しい濃茶(こいちゃ)を練っておくれ
と言われ、あれだけの物をもてばお前も立派な茶人だ、と微笑まれた。青井戸という初めて知る茶碗の名や、あれは小堀遠州の蔵帳にも"曙"の銘で残っている
逸品だとも依田は点前の最中に聴いた。見どころは類のないみごとなベベラロだなどと、耳に縁遠いことも聴いた。どうして茶碗が家元に納まり、どうして家元
から身売りするはめになったか古い話も家元はされた。
家元の口調はつねと変わらなかった。窓に大明竹(だいみょうちく)の影が揺れて急に小雪が散るらしく、
寒いかなと咳きながら、珍しく席を立って障子を明けてみるほど家元の表情は和やかだった。明るかった。
水屋で、次は盆点(ぼんだて)をと四方盆(よほうぼん)など用意していると、庭木の世話をしながら外ま
わりの掃除や使い走りのため通って来る徳さんという爺さんが、依田を小声で呼んだ。それがまた小沢だった。依田は流石に迷惑に感じた。
小沢は小鼻をふくらませ斑らな赭い顔で肩で息していた。茶碗を買い戻したいというのだ。依田は一瞬ふき
出した。そういう噺を聴いた気がする。笑いやめずに依田は手を横に振った。慾はなく、だが、家元がすすめて下さるほどの茶碗が買えた嬉しさは、すこしずつ
実感になっていた。小沢は唇を噛んで渋面をつくり、くどくど青井戸を持ち込むまでの事情を釈明しながら、とうとう、倍額ではとまで、眼の色も変っていた。
依田は厭な気がした。
小沢は奥を気にしていた。上がりがまちを思わず両手で掴む恰好で、五拾円、と言った。米一升拾銭の時代
だった、依田は吃驚した。拭き込んで光った板敷に膝を揃えたまま手こそつかなかったが五拾円と聴き、一瞬かるくのけぞった。子どものように足音をさせて桐
蔭席にかけて戻った。
家元は一声、「売らずにおけ」と言われた。
依田が返辞に戻ると小沢はしんから恨めしそうな眼でちょっとの間依田を睨んだ。そして不貞くされたよう
に横坐りに腰を据え、両の拳をごりごり自分の太ももへ押しつけ、五百円、とそっぽへ吐き棄てるように言う。くるっと振り向き、ね業躰(ぎょうてい)さん五
百円や、五百円でわたしに売って下さいよと殆ど怒鳴るようだった。商人の家を宰領したこともある依田は、今さら五百円に驚かないが、先(さ)っき四円五拾
銭で押しつけられた茶碗が五百円という事実に魂消た。そうなる理由が、茶碗の佳さが、依田には皆目分らなかった。またも依田は家元のそばへ舞い戻った。
「五百円に驚いてはだめだよ、依田」
家元は待っていたように笑って居られ、依田は気味わるい物に触れる面持で、盆点に使おうと茶筅茶巾を仕
組んで置いた青井戸の曙を家元の膝もとへ運んだ。今にも茶碗が煙と化して消えて失せそうな気がした。どうにも判断がならなかった。
「依田。この井戸はお前が買った、もうお前の持ち物だ。だから手もとに抱いて秘蔵するもよし売ってしま
うもお前の勝手だ。ただ大事なことは、今のお前にはこの茶碗の美しさが薩張り分っていない。その点では四円五拾銭で売りに来た人もお前も同じめくらだ、茶
碗は可哀想だ。むろん五百円に驚いてはだめだよ、依田。だけれども、どうも今小沢のうしろには、五百円が千円でもそれ以上でもこの茶盆を買おう、欲しいと
思う人ができたらしい。それならいっそそういう人に当分預けてみるのも、茶碗の冥利だろうか、な」
「けれどお家元。当分と申しましても」と依田は訳が分らなくなった。
家元は頷き頷きして、道具というものは人手から人手へ伝わって行くうち、佳い物はいよいよ佳くなる、だ
めな物は消えてしまうと教え、たった一時間でも二時間でもこれほどの茶碗を所有した依田が、その冥利の重さに負けまいと稽古に励めば、また茶碗の方から自
然と帰って来る、と言われた。だが依田はますます混乱した。千円に値するという茶碗の美しさが、やっぱりよくは分らない。そのことだけが重苦しく確かだっ
た。依田は肩先の寒さを耐え青井戸を掴んで身動きならなかった。顫えていた。
「五千円」
家元は厳しく咳かれ、依田は小沢に五千円、と告げた。その時依田は家元を信じ切って、五千円はまさかと
微塵も思わなかった。何よりもその真正直の気もちを依田はのちのちまで、誇らしくよく覚えていた。四円五拾銭支払ったことなど、百年も昔のことみたいに綺
麗に忘れていた。美しい青い茶碗――青井戸。一枚のその茶碗を抱いた僅かな時の移りが、若い依田の内側で刻々と古いものを新しく脱ぎ替え、また脱ぎ替えす
るに似た変貌を進行させていたのだ。
「五千円――。――けっこうです」
小沢は生来の毅げな表情を気弱に笑み崩して、唇も歪め、ほっと肩を落としていた。小沢の詳しい裏話を依
田は自分から訊き重ねようとしなかった。家元も、小沢が何故にと一言も問われない。つねは腕達者な活気に富んだ職人が一人、眼の前で、一枚の茶碗の重さに
ひしがれて男の頭を何度も何度も年若な依田にさげた。それが依田の眼に、しっかり残った。
依田は小沢に、頼んだ。もう一時(いっとき)だけここで休息して待って呉れますか、あの茶碗でと、お家
元は先(さ)っきお茶を所望された。自分も生涯一度の思いでお家元にあの青井戸で濃茶を練って差上げたい――。
不安そうにしながら小沢は納得して、五千円の用意に一度帰って行った。
「お家元はこのお茶碗を、こうじいっと両掌に持たれてな、眼をつぶって暫くおいででした。それから、お
前もお上がりと、きちんと懐紙で口あたりを拭って、わたしに直かに手渡して下さったですよ」
依田は、しみじみとそれを私と珠子に言った。それから一年して宗未という茶名を依田は貰った。家元が逝
ると、形見分けに例の宗旦の"悟了同未悟"の一軸を若宗匠の手からいただいた。
私も珠子も、依田も、静かに床の間を見上げた。元伯とかすれた署名に勢いのある花押(かおう)があり、
気丈な一筆で最初の"悟"から末字の"悟"まで、鋭い掛声のようにぴしりと認(したた)めた半截(はんせつ)の一行は、藍地に金の菊唐草の上下を添えた、
武人の覚悟めいて張り詰めた佳い表具がしてあった。
依田は、悟ったとも悟れなかったとも言わなかった。青井戸を師とこもごも掌に抱いた一期(いちご)の一
会(いちえ)に就いても、もうそれ以上は話すようすでなかった。五千円という、当時相当な家の五、六軒は買えた大金のことも、有るまじいことかのように二
度と口にしなかった。もし依田が、家元のためというより、斯の道の人として確かな者に育ったと思って下さった時は、あの青井戸の曙を依田に譲ってやって下
さいませんかと、さる機会に家元が、当時の持主の若かりしG氏に真面目に頼まれたという、そのことを、もう死のうという依田宗未は老いの顔を晴れやかにほ
ころばせて、嬉しそうに、何度も、私に言った。
家元と二人で唇をつけて喫み分けた濃茶(こいちゃ)の味は依田の舌に頭に刻まれた。依田は、あの時茶碗
の底に覗き見た何かに就いて、解説も述懐もしはしなかった。だが、最期に珠子の方へ軽くあごを振って、これのばあさんもお家元のお世話で貰いましたよと、
これはさりげなくぷいと言ってのけ、そして、すこし涙ぐんでいた珠子に、中途になった点前を、あと、仕舞って呉れるように頼むと依田は私に会釈して茶室を
出て行った。一人の老人の顔に戻って通い戸を作法通りに外からしめている依田の方へ、私は坐り直して丁寧に頭を低(た)れた。
― 完 ―
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