絵画への讃歌 (講演)    橋本博英
 
 

  人柄のこと

 笠井誠一さんは、その名の通り誠一筋(まことひとすじ)の、誠実で真面目な人柄です。
 大学教授にふさわしい指導力、統率力、そして片寄りのない良識の持ち主として愛知県立芸大を創立当初から育てあげた人格者です。これは衆目の認めるところであって、今更、僕が言葉にしなくても、彼の風貌に如実に表れています。
  しかし、笠井さんがただ真面目一方の堅物(かたぶつ)かと言えば、決してそうではない。そう単純には割り切れない、幅も奥行きもあるスケールの大きな人物なのです。その点は、一見しただけの見かけではわかりません。
 例えば──これは付き合いの長い人は誰でも知っていることですが──真面目な絵画論など交わしている時、突然、とんでもないワイ談や卑猥な譬えが、真面目なままの彼の顔から飛び出したりします。みんな一瞬ポカンとするのを見て、彼は楽しそうにカラカラと笑うのです。これが、それまでの話と関係もない話だったらバカか気違いの所業ですが、彼のワイ談はそれまでの話を受けながら、絶妙なタイミングで堅過ぎる場に笑いを挿入するのです。しかも、見事に的を射た話になっている!!
  その例をひとつ挙げたいのですが、ちょっとこの場でははばかれるので止めにして、別の例を挙げましょう。
 これも、随分キタナイ話で大変恐縮なのですが、重要な話なので思い切ってお話しいたします。
 ある時、数人集まって日本人の油絵とヨーロッパ人の油絵の違いについて議論していました。一応意見が出尽くしたところで笠井さんが、「そりゃア、トイレの落書だって、日本人は鉛筆やマジックでチョコチョコとやるけれど、ヤツらは自分が出したクソを手で掴んでバァーッと書くんだから、とてもかなわないヨ」と、例によっていつもの顔で言ったものです。一同、大笑いしてその場は一件落着となったのですが、よく考えてみると、この話は凄い!! 日本人と西洋人の油絵の根(一字に、傍点)にある神経あるいは感覚の違いを見事に言い当てているではありませんか。これは、お茶漬とビフテキを対比させる俗論などとは比較にならないほど、本質を突いた話だと思います。
 この話を念頭に置いて、西洋人の絵を見ると、あのキーファーやルシアン・フロイドのリアリズムの、荒々しくしつっこく、うんざりするような表現の根っこにあるもの、また今年の白日展に特陳されたオッド・ネルドルムの一種特異な人物表現のなまなましさ、ちょっと日本人には受けつけ難い感覚の根が、はっきり見えるような気がします。このことは、特異性を売り物にする現代絵画に限ったことではなく、我が国で神格化さえされて来たレンブラントや、過剰にムチムチしたルーベンスの肉体表現、イモムシに豪華な服を着せたようなゴヤのスペイン王家の人々の肖像などにも、その根底に、あのトイレの落書に通じる神経が確かに、ある。実際、レンブラントのエッチングには、道端にしゃがんで大便や小便をする農婦を描いたものがあります。
 更に、セザンヌやゴッホの初期の油絵は、まさしく大便を手で壁に塗りつける感覚そのもののような気がしますし、美しい色彩で装ってはいるものの、ピカソやマティスのデフォルメ感覚の根には、同様の、荒々しくネバネバした神経の存在を見逃すわけにはいきません。
 こう考えると、笠井さんの少々キタナイ表現は、真実を鋭くえぐり出す言葉として、これ以外にないほど的確なものとなります。
 笠井さんは、約七年間という長い留学生活の中で、西洋文化、とりわけフランス文化の根底にあるものを目だけではなく全身で見届けて来たという気がします。そしてその上で、東洋文化にも深い関心を寄せています。
 合理では割り切れないもの、西欧合理主義からはみ出した部分を熟知しているが故に、非合理の世界や直観を尊ぶ東洋哲学に、彼は深い造詣を持ち得るのです。
 三十数年間余の在職中、東京─名古屋の過酷な往復生活が二十六年も続く中で、益々輝きを加えて来た彼の仕事、その間の彼の健康を支えて来たのは、実は東洋医学の実践だった、と僕は思っています。
 それは当然、絵そのものにも関わっています。極めて西欧的、本格的な構造を持つ側面から放射される光の質(一字に、傍点)に、僕は東洋、あるいは日本を感じるのです。
 ことほどさように、笠井さんは、あの控え目な風貌からは想像もつかぬほどの、端倪するべからざるスケールの人物であることを、まず申し上げておきたいと思います。
 

  デッサン力と描写力

 さて、それでは人物が立派なら、そのまま立派な絵が描けるかと言えば、そんなことがあろう筈はありません。
 絵を描くのは、あくまで技術によってです。こう言うと、絵に技術はいらない、絵はココロだ、なんていう反論が聞こえそうですが、そういう輩(やから)ほど、反俗という俗性を帯びて鼻持ちならない絵を描くものです。ま、それはともかく、古今東西の名作に、技術のない絵は一点もありません。絵は、あくまで作画上の知識と、それを血肉化した教養に支えられた技術によって描くのです。
 笠井さんの絵は、並はずれたデッサン力によって成り立っている、と僕は考えます。
 こう言うとまた、デッサン力を写真的描写の巧みさと勘違いした人たちに、怪訝(けげん)な顔をされそうですが、僕の言うデッサン力は、写真的描写力のことではありません。
 かつては我が国でも、デッサン力という言葉が生きていて、抽象化された作品にもデッサン力の有無を評価の基準にしたものですが、デッサンという言葉がドローイングという描画材料の違いだけのことにすり替えられて使われ出した頃から、あるいは、アメリカからアンドリュー・ワイエスとかいう腕達者なイラストレーターの絵が、絵(一字に、傍点)として上陸してきた頃から、本来のデッサンの意味は消えました。
 ともあれ、ここで僕の言うデッサン力は、物(ことに人体)のコンストラクション(構造)をとらえる力であり、それはコンポジション(構成)につながる力です。描写力はデッサン力の極く初歩的な力に過ぎないのです。

 僕は、実は笠井さんに会う前に、まず彼の石膏デッサンに出会いました。
 昭和二十八年、僕は芸大の入試に落ちて、阿佐ヶ谷洋画研究所に入りまし.た。当時のアサビは芸大の予備校として鳴らしていました。アトリエに入ると、正面に石膏像がズラーッと並んでいて、その上の壁いっぱいに、すでに芸大に入った先輩の模範的なデッサンが張ってありました。それは、いわば初めて見る実物の石膏デッサンで、たちどころに自分が落ちた理由がわかりました。ちょっと手が届かないと思われるほど見事なデッサンばかりだったのです。
 画学生たちはみんな、壁のデッサンに追い着き追い越せを目標に勉強したものです。いまでも、三輪孝先生のデッサンをはじめ、宮崎、飯島、中川、荒瀬、檜山、鎌形、笠井、星、加藤など、デッサンに書かれた名前を思い出します。
 そのうちに、自分の腕が上がるにつれて、批判力もつき、壁のデッサンの欠点も.見えて来ました。中川のデッサンはどうだとか、檜山のデッサンはこうだとか、仲間と盛んに議論したものです。そして僕が、最後までかなわないと思ったのが、笠井、檜山のデッサンだったのです。とりわけ笠井のデッサンは、逆光の、下から見上げたマルス像で、寸分の狂いもない完璧な形と颯爽とした仕上がりは抜群のもので、いまも瞼に焼き付いて離れません。
 翌年、芸大に入った僕に、友人が「ほら、あれが笠井だヨ」と、前庭を歩く笠井さんを指さして教えてくれました。初めて見た笠井さんは、いまとほとんど同じ体型で、小柄な痩身で、やや背を丸めて歩く姿は歳より老けて見え、あの颯爽たるマルス像とのギャップにちょっと戸惑ったものです。

 ここで石膏デッサンについて少し話しておきたいのですが、お許しください。
 まず、石膏像ほど初歩的な描写力を訓練するのに適した対象物は他にない、と僕は思います。それはまず、動かない上に、白い物ですから明暗の階調が立体の面の変化と一致していて、絵画表現の基礎になる調子(ヴァルール)修得に極めて便利なこと、また、何よりも、石膏像そのものの原形が、ギリシャ、ローマ時代からルネッサンスの名作彫刻ですから、どこから見ても美しい造形的なフォルムを持ち、それをそのまま描写することで知らず知らずのうちに、西欧の伝統的な美の規範を身につけることが出来ることです。だから、ひたすら正確に描写すること以外に.石膏デッサンの目的はありません。そう考えれば目的が単純ですから、あれこれ迷うことなく見ること描くことに集中することが出来て、絵描きに大切な集中力を鍛えることにもなります。
 このように石膏像には、ほかの物には替え難い優れた特質があるのですが、これがうまく描けたからといってデッサン力があるとは言えません。なぜなら石膏デッサンは写真的描写でよいからです。正確にさえ描けば、対象の彫刻として持つ素晴しいフォルムが、模写的に絵のフォルムになってくれるのです。そのフォルムの感覚が、生身(なまみ)の人体を描く時に土台となって活かせるかどうかが、本当のデッサンの入口となります。
 デッサンは創造的な仕事であり、単なる描写ではありません。石膏像とは違って、いわば不完全な生身の人体を対象にしながら、それにフォルムを与えること、そのフォルマションの能力をデッサン力と言うのです。
 それは、人体に一種幾何学的な構造を与えると同時に、解剖学的な正確さが、要求される面倒な仕事です。そういうデッサンを、西欧では「アカデミー」と言います。パリのボーザールのデッサン教室の壁に、アングルやプリュードンなどのアカデミーの複製が張られていたのを思い出します。
 このアカデミーの勉強には、やはり適切な指摘が出来る指導者が必要なのですが、残念なことに日本には、数えるほどしかその能力を持った教師はいません。これでは写真的描写力をデッサン力と勘違いしている人が多いのも止むを得ないことかも知れません。
 何だか愚痴っぼくなって来ましたから、笠井さんのことに話を戻しましょう。

 僕が芸大の四年になって伊藤廉先生の教室に入ると、隣が専攻科(現・大学院)のアトリエで、その中に笠井さんがいました。
  その専攻科のアトリエでは、毎日クロッキーばかりやっていたという記憶があります。時折、覗いてみると、笠井さんは、鉛筆、コンテ、ペン、墨汁などをいろいろ使って、実に味のある達者なクロッキーをせっせと描いていました。流石にうまいものだ、と感心したものですが、後に思い起こしてみると、それは日本流のクロッキー、腕の勢いにまかせた描写的な速写だったと思います。
 夏休みが終わって後期に入ると、卒業制作の自宅制作が許されて、学校に出て来る人数がめっきり減りました。そこで学校に出て来ていた中村清治君、古田帯川君など四、五人と共に、僕らも専攻科に倣ってクロッキーを始めました。我流の描写的デッサンでしたが、その約半年間の勉強は、実によい経験となりました。後にアカデミーでやるべきこと、つまりデッサンとは何かに気付いた時の、描く力の下地になったと思います。
 やがて、僕は専攻科に残らずに卒業し、笠井さんとの縁も切れ、彼はフランス政府給費留学生に合格して渡仏、八年間ほど消息も途切れたわけです。
 

  ブリアンションと笠井芸術

 昭和三十九年の秋、結婚して鎌倉から東京に出て来た僕は、先輩の福本章さんに誘われて、翌四十年四月から代々木ゼミナール・デッサン科で教えることになりました。
 そこでパリ・ボーザールのブリアンション教室に学んで来た、今は亡き進藤蕃さんと、人江観さんに出会い、翌四十一年春、やはりブリアンションに学んで帰国したばかりの笠井さんに再会したのです。
 そして、彼らが交々(こもごも)語るブリアンションの指導についての話は、僕にとってまさに衝撃的なものでした。目から鱗(うろこ)が落ちるとはこのことで、それまでの自分の無知を思い知らされ、疑問が次々に晴れていくのを実感しました。
 アカデミー(デッサン)で何をやるべきか、それがどのように油絵に結びついていくか……僕はデッサンを教えに行って、先輩で同僚の彼らからデッサンを教えられたわけです。

 彼らが異口同音に言うところですが、ブリアンションはフランス人には珍しく寡黙ながらも、誠実な温かい人柄で、決して押しつけがましさのないその作風そのままの、自然が囁(ささや)く声にじっと耳を傾けるような、古来の日本人にも通じる面を持った人で、そこに大いに共感を抱いたと笠井さんは語っています。
 しかし、その指導は非常に厳しく、朝は定刻前に教室に入り、一人ひとりのクロッキーを、丁寧に直し、日本流に明暗の調子をつけたり、伺本かの輪郭線が重なっていたりすると、消ゴムで消して一本の決定的な線を引く、といった具合で、HBかHの固い鉛筆で、建造物を見るように人体を見て描け、と言ったそうです。時には見える形よりも数ミリずれた所に線を引き直し、そう直されると、グッと構築的なフォルムになることを実感させられたと言います。とにかくデッサンは、画面のコンポジションに結びつく構造を持ったフォルムでなければならないと、繰り返し説かれたと笠井さんは言います。
 油絵の習作については、笠井さんの滞仏作品を見ればわかるように、形の秩序あるコンポジションと同時に、色のコンポジションを、単純な寒色、暖色の対比で、その量的な配分や配置を考えるように指導され、笠井さんはその教えに従いながら、それを独自に発展させつつ今日まで来た、と僕は思います。
 ブリアンションは、ベラスケス、マネ、マチス、ボナールなどの影響を受けながら、構成の考え方はセザンヌに典拠するものを、新たにアカデミズムに取り込んだ優れた画家であり、偉大な教師であったと思うのです。

 帰国後の笠井さんは人物画を描きません。あれほど凄い人体デッサンを描ける人が勿体ない気はしますが、彼の絵の目的は、まず構成美にあるのです。
 いま「凄い人体デッサン」と言いましたが、ブリアンション教室で描かれた彼のクロッキーを初めて見た時の、ガツンとやられたような驚きを忘れ得ません。かつて芸大の専攻科で描いていたクロッキーの、達者な描線は面影もなく、むしろ無骨なほどに着実な線によって、まさに建造物のように堅固で緊密なコンストラクションが実現されていたのです。これこそ油絵のコンポジションに、そのままつながるデッサンだ、と思いました。
 笠井さんにとって、人体のアカデミーは、コンストラクション=コンポジションの研究のためのもので、人物を描くための予備研究ではなかったのです。だから笠井さんは、自身の造形空間を生み出すために、最も構成に適したモチーフを選んでいるわけで、その結果、身近に在って愛着深い物たちが主なモチーフとなったのでしょう。一時は漁港などの風景も描かれましたが、室内風景あるいは静物画は、留学以来一貫して続けられて来ました。

 画面に、実体を持った物をひとつ描けば、そのまわりは虚の空間となり、それは四角いフレームによって限定されるのですから、実(物)の形の量や位置が決まると同特に、壁やテーブルや床の、虚あるいは地(一字に、傍点)の形が決定されます。そして実(物)が二個以上の複数になれば、虚(地)のフォルムは、複雑に実のフォルムとせめぎ合うことになります。
 この虚と実を一体の関係として意識化し、秩序づけようとしたのがセザンスであり、マチスであって、そこにデフォルメの必要性が構成上の問題として生まれたのです。このセザンヌやマチスの構成理論に基づきながら、極力デフォルメを抑えて、平明で品位ある絵を描いたのがブリアンションであり、その教えを忠実に受け継いで展開させたのが笠井さんだと、僕は考えています。
 ですから、笠井さんの絵には主役といえる物がありません。.画面全体を統合する構成そのものが主役なのです。そして、実と虚のからみ合いの関係が緊密になればなるほど、画面は澄み渡って輝きを放つようになります。そこには笠井さんの卓越したヴァルール感覚.が働いています。
 一見ブッキラボウな彼の輪郭線をよく見てください。それは常に色(一字に、傍点)による線であり、色面と響き合って色彩的効果をあげていますし、線は実に丹念に濃淡を加減しながら、何度も薄い色が重ねられてヴァルールが調整されているのです。
 また、笠井さんの絵の特徴のひとつは、あいまいな部分が全くないことです。これは瓶でこれは林檎、ここはテーブルの面でここは壁、というように画然と区分けされ、それぞれに余計な調子がありません。これをデッサン力のない人がやれば、ただ塗り絵のように平板なものになるでしょう。
 十年ほど前、彼の絵が真に光を放ち始めた頃、実に不思議なことをやり出しました。
 輪郭線はそのまま残しながら、林檎や洋梨などの果物だけに、くっきりとリアルな陰影を施すのです。陰影をつけるのは物を調子で見ることであり、輪郭を線でくくる見方とはそもそも相容れないことです。これは、写真の林檎などに輪郭線をつけてみればよく解ることでしょう。これを全く矛盾を感じさせずに極く自然に見せるのは、よほどの凄腕です。これこそデッサンの力であり、優れたヴァルール感覚の証左です。
 笠井さんは、陰影をつけて外光を描こうとしたのではありません。これは存在の実感を強め、画面自体が放射する光をより強める目的で試みられた荒業(あらわざ)だった、と僕は思います。それは見事に成功しました。

 絵には新しいも古いもありません。ただ永遠のいのちがあるかどうかです。それは、絵.そのものが放射する浄光が、どれほど強く深く人の心の奥底に届くかという一点にかかっています。笠井さんが求め続けているのは、そのことだけだと、僕は信じています。
 笠井さんの絵を見る時、この光を感じるためには、物と物の間の形、つまり実よりも虚の形を見ることをお勧めします。ちょうど音楽を聴く時、主旋律だけ追わずにむしろ低音部を聴こうとすれば、音楽全体の分厚い響きが感じられるように、彼の簡素な表現にひそむ分厚い空間の輝きが感じ取れることでしょう。
 

  おわりに

 大変、長い話になってしまって恐縮ですが、最後にひとつだけ話したいことがあります。

 この頃思うことなのですが、絵の歴史を考える時、絵描きは真っ暗な夜道を、一人ひとりが後手(うしろで)にカンテラを持って自分のうしろを照らしながら、自分は前を歩む人の光を頼りに、足元を確かめながら歩くのだという気がするのです。
 僕は、代々木ゼミで目の鱗を落とされて以来、笠井さんや亡き進藤さんのカンテラの光で足元を照らされながら、懸命に遅れまいと努めて来ました。.歩く恰好は一人ひとりの特徴がありますから、僕は僕の恰好で歩いて来ました。
 その笠井さんや進藤さんはブリアンションのカンテラに導かれて歩き、ブリアンションはマチスやボナールのカンテラに足元を照らされながら歩き、マチスやボナールはセザンヌやモネに、セザンヌはドラクロアやクールベに、というように、近い先輩のカンテラの光に足元を照らされながら、更にその前方にプッサンやルーベンス、チントレット、ヴェロネーゼなどの光を見つめて歩いたように思うのです。
 絵描きは、それぞれ見つめる光の系統が違うようですが、何といってもありがたいのは、足元を照らしてくれる光です。僕がコローやセザンヌをどんなに慕っても、その光は遠くに見えるだけで足元までは届きません。
 おまけにこの世には、鬼火やらフクロウの眼玉やら、まわりにはいかがわしい光が満ちています。
 笠井さんにお願いしたい。どうか、あまり急ぎ足で進んで、僕を引き離さないで足元を照らし続けてください。僕も懸命について行くつもりですから……。
 マチスは「絵描きは、まず舌を切れ」と言いましたが、絵描きのくせに、今日は長々と駄弁を弄して大変失礼いたしました。どうかお恕しください。
                 一了一

 この「笠井誠一讃歌」風媒社刊は、一九九九年六月十五日、日本橋三越本店で開催された「笠井誠一油絵展」オープニング・レセプションにおける挨拶を骨子としていますが、文章化するにあたって、大幅に削除、追加などの修正を行いました。
    一九九九年七月四日 記         橋本博英

橋本博英(はしもとひろひで)略年譜
O1933年 岐阜市に生まれ 1940年 東京で小学校人学  1946年 富山市に移り高校卒業までの7年間を過ごす 富山中部高校卒業
O1958年 東京芸術大学美術学部油絵科(伊藤廉教室)を卒業 1959年 国画会展に出品するが以後無所属となり個展・グループ展にて発表を続ける
O1967年 渡仏 アカデミー・ジュリアン及びグランド・ショミエールに通う
O1968年 帰国 1969年 新樹会招待 以後各種グループ展に参加して1999年に至る
○その間 阿佐ケ谷美術学園 東京造形大学 女子美術大学等にて教鞭をとり 神戸トアロード画廊 富山青木画廊 東京梅田画廊 泰明画廊 梅田画廊等にて個展開催 国際形象展 具象現代展 現美展等にも出品する
O1997年8月からl1月にかけて富山・名古屋・東京・大阪において「光と風のコンチェルト 橋本博英展」として大規模な個展を開催
○1999年現在 八象会同人 和の会同人
○著書 『私の絵画讃歌』(風媒社)『油絵をシステムで学ぶ』(共著・美術出版社:)
 
 
 

 (出逢いはそう遠くはないが、それでも十余年になる。人に連れて行かれた銀座の「菊鮨」の止まり木に隣り合い、言葉を交わし始めた。同じ店に結婚を報じられていた歌舞伎の中村福助当時の児太郎がいた。橋本さんとはその後にゆっくり時間をかけて話し合ったことは一度もない。だが湖の本や新刊の著書を介して、じつに心温かなすばらしい手紙を何度も何度も戴いた。展覧会にも何度も呼んでもらった。深く深く心をゆるしあえた文字どおりの心友であったのに、橋本画伯は新世紀を待つことなく逝去された。くやしい、寂しい別れであった。死なれたと思い落ち込んだ。今でも寂しいのである。画伯はよく新潟の秘酒というべき旨い酒を、折りごとに送ってきて下さった。足柄の画廊から、発病されて本郷に移転して来られた頃に、逢いに行くべきだったかと悔やまれるが、因果なわたしの性格ではやはり遠慮が先立った。この講演録は、じつに優れた内容と生きた言葉とを蔵しており、むしろ橋本画伯の人と芸術を語ってこれに優るものはそう有るまいと信じている。奥さんにお願いして、ここに掲載させていただけるお聴しを得た。嬉しいことである。一字一句を校正しながら、襟を正していた。原題「笠井誠一讃歌」から「絵画への讃歌」と変えた。橋本さんの遺言のようにわたしは聴くのである。 1.5.31掲載)


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