書 縁 千 里 長谷川
泉
秦恒平について書くのに、なぜ「書縁千里」などということを持ち出したか、ということを、まず最初に書いておこう。
秦恒平が、私の書を求めたことがあった。いつの頃か忘れたが、書いて与えた文字は、よく覚えている。
文字は「文質彬々」であった。
「文質彬々」は、王羲之にかかわる。
そして、また蘭亭にかかわる。
蘭亭にかかわれば、往年の会稽、現在の紹興につながる。
紹興は、魯迅・周恩来・秋瑾の出身地としても有名であるが、ここでは、そのことよりも、秦恒平が紹興を訪れたことがあるということに深くかかわる。そしてまた秦恒平の「中国に旅して」という文章にもかかわる。
それだけではない。秦恒平の「蘭亭を愛(を)しむ」という文章にもかかわる。
私も、昨年、平成四年十一月には上海・南京・揚州・蘇州・紹興・杭州などを巡遊した。日本翻訳家協会と、中国外国文学出版協会との翻訳文化交流実現の為であった。まず南京の訳林出版社の李景端社長を団長とする中国側七名が、六
- 七月に訪日したのに対し、日本側は私が団長として七名の訪中団を組織し、上記の各地を訪れたのである。上海外国語学院と南京大学では、私の文学講演も組み入れられていた。それらの報告は日本翻訳家協会の機関誌「JST
NEWS」や「鴎外」、「日本文学」近代部会誌、「国文学解釈と鑑賞」、又「解釈」などに記したので、ここでは繰り返さないが、それらの中ではセーブした紹興のことだけは、秦恒平とのかかわりで、記しておくことにする。
秦恒平の「中国に旅して」では、井上靖を団長とする日本作家代表団の一員として北京・大同・杭州・紹興・蘇州・上海を廻った時の感想が述べられていた。紹興では、「牧歌的な水郷」の裏町の美しい民家と運河と橋のたたずまいに感嘆した趣きが活写されていた。そこには、まぎれもない、作家の目が光っていた。
秦恒平の「蘭亭を愛しむ」では、王義之をめぐっての「たん({のヘンが貝ヘン。ダマスの意)蘭亭」や太宗の「蘭亭殉葬」、はては則天武后時代に、この「稀代の猛女が寵愛した張易之」によって太宗の陵墓があばかれ、「蘭亭序」が逸失するまでのことが記されている。すなわち、「中国を旅して」の紹興観とは違ったアングルでの、紹興にまつわる話である。
「まつわる」ということでいえば、「蘭亭を愛しむ」では、太宗が死に臨んでなお伴侶たらんと切願した「蘭亭序」への純粋愛(芸術
+ α)への感銘が中核となっているが、この文章の導入は「大学問題」の原稿依頼をされた実体験から始められ、さらに上野の東京文化会館での第二十回美学会全国大会への顔出し、「勤め柄、各種の医学会を傍聴取材する機会」があったこと、そこでの大学紛争などの外面的状態、内部の取引のこと、美学会会場を出て小走りですぐ近くの国立東京博物館で王義之の「蘭亭序」を見ての感慨、その中にはさまれている戦国末期武将松永久秀が信貴山落城の際、愛蔵の平蜘蛛の釜と一緒に自ら火に入ったという茶器酷愛の話の紹介と、感想とが述べられている。
紹興に「まつわる」ゆえに、以上のようなことを述べて来たが、ことは秦恒平の作品構成の手法にかかわるから、このようなことをまず述べたのである。
作家・批評家秦恒平は、私が役員をしていた医学書院を受験して来た。京都の大学の美学の大学院在学という履歴から、家庭関係も、ふつうの受験者よりは複雑であるという、言ってみれば、変わり種であった。このことは、秦恒平自身が文章にもしているので、ここに記してもかまわないと思う。そして秦恒平の作品は、そのような出自のこと、入社試験のこと、医学書院での勤務ぶりのこと、医学界の内情のこと、大学紛争だけでなく、一時出版社各社に吹き荒れた労働争議のこと、などなども盛り込んだ作品群がある。
秦恒平には、身辺の切実な事象のフラグメントを素材にした作品群がある。もちろん、小説としては、鴎外のいう「歴史其儘」と「歴史離れ」の機微がひそんでいる。私小説といわれるものでないにしても、作家には、写真機とは違った事実処理の手法がある。虚実皮膜の論は、そこいらにも存在する。
秦恒平には、森鴎外の「歴史其儘と歴史離れ」文に触れて、歴史の「自然」を尊重する、その「自然」なるものについての論評がある。だが、秦恒平に限らず、小説家は、あげて身辺を擦過した素材
─ それは現象だろうと、精神的な、「夢幻」のようなものであろうと ─ に拠りかからずに作品が書けるであろうか。そのメカニズムの機微は書き手である作家自身だけには分明であっても、作品に対する研究者、評者、読者には、いっこうにはっきりしない事柄が幾らでもあるだろうと思う。その度合いの濃淡が、また作り手の人によって異なっているから、始末が悪い。
もちろん、作品の水底に、深く沈殿している諸事象は、すっぱり切って捨てて、文章面だけを見て行けばよい、という学究の方法論がないわけではない。しかし、問題は、活きて動いている作品であるから、水面上に姿をあらわした字面だけから、ほんとうに理解・享受ができるかということになってくる。
秦恒平が「源氏物語」を初め、古典に密着し旧来の読み方の外皮を引っぺがして、赤い血を流させたことは、忘れられていない。外皮だけでなく、さらに皮膚と粘着した肉質そのものを切ったこともある。また近代作品にしても、いわゆる、かいなでの定説的読み方を、根本から引っくりかえしたこともある。それは、作家の目の確かさであり、切れ味の爽かさである。作家は鈍重なまでに剛直であり、詩人は清爽であるとすれば、秦恒平の切れ味は、剛腕に似て、案外、清爽である。ということは、作家だけでなく、詩人としての資質をも持っているということになる。
紹興の王羲之の書が、格の正しい楷書だけでなく、行書、草書までを確立させたことを思う。秦恒平は、まだ春秋に富んでいる。
[注]「鴎外」の「鴎」は正字が正しい。(機械で誰にでも「鴎」の正字が自由に出せるという段階でないのを遺憾とする。)
─「文藝空間」9 特集・秦恒平の文学世界 巻頭言 1993年10月─
(筆者は、国文学者。川端康成研究会、森鴎外記念館等を統べ、浩瀚な著作選十二巻がある。精緻な解釈学を確立した碩学として広く知られている。久松潜一賞。日本ペンクラブ名誉会員。この編輯者は、長谷川氏の部下として多忙を極めた「編集長」の背中をみながら、作家活動へ歩み出していった。湖の本も支えて戴いている。)
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