晩 晴    長谷 えみ子
 
 

深き日々なりしかも春の花みな集めきて風に伝へむ   『風に伝へむ』より

思ひ切り生きてみよとぞ聴く哀し春の墓辺のきみは風にて

残生の如しときみがふと告げし冬枯れの池蓮も折れゐつ

想ひ出は凌霄花(のうぜんかづら)の彼方よりときに優しくわれを戦(そよ)がす

冴返る日ぞ身を緊めよ不器用に生きしひとりの死の憶ひ出に

春しぐれやみて無韻のこの夜半をあはれ寂かにさくら開かむ

目鼻なき道祖神(くなど)六臂の自在さよわが黒髪のむずと攫(つか)まる

短か夜を風のなごりに訪ひ来しか翅息(やす)らへよ燈心蜻蛉(とうすみとんぼ)

急(せ)くごとく蜩(ひぐらし)鳴ける夕つ方如何に生くるもわがひとつ道

落蝉の脚こはばらせ転がれり拒否の象(かたち)のひとつ身に沁む

くさぐさの花芽の眠り呼びさまし春あかときを淡雪ぞ降る   『風に伝へむ』以後に

十三屋、蓮玉、道明、池之端、母の上野の細ぼそ遺る

公園に盗まれさうな子がひとり立ち去りかねし春の暮れ方

自らに課して重たき春疲れわれのフーガ(遁走曲)を誰か奏でよ

をみならのこころに棲める鬼の貌(かほ)秘めて古面の小面(こおもて)ほのか

まう知らぬまう知らぬとぞ呟きて遣り処(やりど)なければ身辺整理す

夜の海淋しと言ひつつ母と見る燈台の灯の秋の明滅

ぐんぐんと朝日子海境(うなさか)昇りゆく息呑みし吾を置き去りしまま

夕暮は薄墨いろとなるさくらさびしき彩(いろ)は遠く眺めむ

超モダン地主屋敷を出で入るは働き者の媼(おうな)のみにて

マンションは出産ブーム華やぐを誰にも言へぬわが人嫌ひ

無心なる嬰(こ)に統べられて囲みたるひとおのづから善人のかほ

冷房の二十七度に夏を生き一日五分健康体操

午後九時半宅急便と不機嫌を男が届けくる熱帯夜

髪染めし少年を率(ゐ)て黙々と草引く初老の植木職人

卵割ればとろりと黄身の沈みをり 胸の底ひに理不盡とふ語

十二分に騒ぎて座席に居眠りの女子高生のルーズソックス

ハケの道共に歩みし日は杳(とほ)く<武蔵野夫人>のみ書架にある

人生は闘ひなりときみ言ひき折にかみしむその言の葉を

つぎつぎとひと訪ねきて去りゆけり昔話の魔法をかけて

待ちかねてわれのもとむるポーチュラカ恋ごころなどとうに忘れて

斜面には柑橘の黄が溢れをりたつぷりたつぷり朝陽を浴びて

ケ・セラ・セラわたしはわたしゆつたりと目線の先をとんびが舞へり

淡彩のモネの睡蓮やはらかし病癒ゆとの春便り来る

はんなりとさくらさくらのあきつしまこころうるめり存(ながら)へあれば

古稀近き女性の白きヘルメット箱根路指して遠去かりゆく

二度三度途切れし電話たれかいまわれに何をかこだはりてゐる

この深き黙(もだ)何ならむ秋の夜の焦点あらぬくらき母の眸(め)

丹沢の稜線目守り東上す何かが足らぬ初冬のこころ

遠く近く輪を描きつつ鳶の二羽<晩晴>とふは成り難きかな

楽しみつつ歩めば見ゆる風のいろ豊かになさむ残り生(よ)こそは

騙すより騙されむとふひとことの忘れ難しも春の墓原

雲迅し薄墨いろの騎馬の武者追はれてゆきぬ消えのこりつつ

丘陵にケーキのやうな家並ぶ幸せゲームなされてをらむ

丘陵の蜜柑も色づきそめたりと書きて続かぬはがき一葉

夕顔のふた花咲きし名残りありわが在らざりしひと夜さのこと

目を閉ぢてきくに笙の音もの哀しなべてのことを夢と思へと

受話器とればすでに切れをり 初島へ向かひ出でゆく白き船みゆ

われと娘(こ)のつかず離れぬ冬の日々宅配便の今朝届きたり

わが裡(うち)の小鬼もさびし海を背に黒塚鬼女の白頭揺らぐ
 
 

(作者は、歌人で、人形作家。湖の本の読者。文学の深いご縁にむすばれ、三十年、心親しくいつも健勝と平安を祈ってきた。五十首、しみじみと読んだ。無名鬼の声もしみじみ聴いた。1.4.18寄稿)


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