招待席
はら たみき 詩人・小説家 1905 - 1951
広島市に生まれる。 水上瀧太郎賞受賞の掲載作は、郷里広島での原子爆弾体験に基づいて書かれ、占領下の検閲をかいくぐり昭和二十二年(1947)「三田
文学」六月号に掲載された。同年十二月号には続編「廃墟から」も発表。昭和二十六年、鉄道自殺。青土社刊の『定本
原民喜全集』により補訂しつつ「三田文学」初出に拠っている。(秦 恒平)
夏の花 原 民喜
わが愛する者よ請ふ急ぎはしれ香(かぐ)はしき山々の上にありてノロ(=ケモノヘンに、章)のごとく小鹿のごとくあれ
私は街に出て花を買ふと、妻の墓を訪れようと思つた。ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あつた。八月十五日は妻にとつて初盆にあたるのだが、そ
れまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑はしかつた。恰度(ちやうど)、休電日ではあつたが、朝から花をもつて街を歩いてゐる男は、私のほかに見あたら
なかつた。その花は何といふ名称なのか知らないが、黄色の小弁の可憐な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかつた。
炎天に曝されてゐる墓石に水を打ち、その花を二つに分けて左右の花たてに差すと、墓のおもてが何となく清清(すがすが)しくなつたやうで、私はしばらく
花と石に視入つた。この墓の下には妻ばかりか、父母の骨も納まつてゐるのだつた。持つて来た線香にマッチをつけ、黙礼を済ますと、私はかたはらの井戸で水
を呑んだ。それから、饒津(にぎつ)公園の方を廻つて家に戻つたのであるが、その日も、その翌日も、私のポケットは線香の匂がしみこんでゐた。原子爆弾に
襲はれたのは、その翌翌日のことであつた。
私は厨にゐたため一命を拾つた。八月六日の朝、私は八時頃床を離れた。前の晩二回も空襲警報が出、何事もなかつたので夜明前には服を全部脱いで、久振り
に寝巻に着替へて睡つた。それで、起き出した時もパンツ一つであつた。妹はこの姿をみると、朝寝したことをぷつぷつ難じてゐたが、私は黙つて便所へ這入つ
た。
それから何秒後のことかはつきりしないが、突然、私の頭上に一撃が加へられ、眼の前に暗闇がすべり墜ちた。私は思はずうわあと喚(わめ)き、頭に手をや
つて立上つた。嵐のやうなものの墜落する音のほかは真暗でなにもわからない。手探りで扉を開けると、縁側があつた。その時まで、私はうわあといふ自分の声
を、ざあーといふもの音の中にはつきり耳にきき、眼が見えないので悶(もだ)えてゐた。しかし、縁側に出ると、間もなく薄らあかりの中に破壊された家屋が
浮び出し、気持もはつきりして来た。
それはひどく厭な夢のなかの出来事に似てゐた。最初、私の頭に一撃が加へられ眼が見えなくなつた時、私は自分が斃(たお)れてはゐないことを知つた。そ
れから、ひどく面倒なことになつたと思ひ腹立たしかつた。そして、うわあと叫んでゐる自分の声が何だか別人の声のやうに耳にきこえた。しかし、あたりの様
子が朧ながら目に見えだして来ると、今度は惨劇の舞台の中に立つてゐるやうな気持であつた。たしか、かういふ光景は映画などで見たことがある。濛濛と煙る
砂塵のむかうに青い空間が見え、つづいてその空間の数が増えた。壁の脱落した処や、思ひがけない方向から明りが射して来る。畳の飛散つた坐板の上をそろそ
ろ歩いて行くと、向(むかう)から凄(す)さまじい勢で妹が駈けつけて来た。
「やられなかつた、やられなかつたの、大丈夫」と妹は叫び、「眼から血が出てゐる、早く洗ひなさい」と台所の流しに水道が出てゐることを教へてくれた。
私は自分が全裸体でゐることを気付いたので、「とにかく着るものはないか」と妹を顧ると、妹は壊れ残つた押入からうまくパンツを取出してくれた。そこへ
誰か奇妙な身振りで闖入して来たものがあつた。顔を血だらけにし、シヤツー枚の男は工場の人であつたが、私の姿を見ると、
「あなたは無事でよかつたですな」と云ひ捨て、「電話、電話、電話をかけなきや」と呟きながら忙しさうに何処かへ立去つた。
到るところに隙間が出来、建具も畳も散乱した家は、柱と閾(しきゐ)ばかりがはつきりと現れ、しばし奇異な沈黙をつづけてゐた。これがこの家の最後の姿
らしかつた。後で知つたところに依ると、この地域では大概の家がぺしやんこに倒壊したらしいのに、この家は二階も墜ちず床(ゆか)もしつかりしてゐた。余
程しつかりした普請だつたのだらう、四十年前、神経質な父が建てさせたものであつた。
私は錯乱した畳や襖の上を踏越えて、身につけるものを探した。上着はすぐに見附かつたが、ずぼんを求めてあちこちしてゐると、滅茶苦茶に散らかつた品物
の位置と姿が、ふと忙しい眼に留まるのであつた。昨夜まで読みかかりの本が頁をまくれて落ちてゐる。長押(なげし)から墜落した額(がく)が殺気を帯びて
小床を塞いでゐる。ふと、何処からともなく、水筒が見つかり、つづいて帽子が出て来た。ずぼんは見あたらないので、今度は足に穿くものを探してゐた。
その時、座敷の縁側に事務室のKが現れた。Kは私の姿を認めると、
「ああ、やられた、助けてえ」と悲痛な声で呼びかけ、そこヘ、ぺつたり坐り込んでしまつた。額に少し血が噴出てをり、眼は涙ぐんでゐた。
「何処をやられたのです」と訊ねると、「膝ぢや」とそこを押へながら皺の多い蒼顔を歪める。私は側にあつた布切れを彼に与へておき、靴下を二枚重ねて足に
穿いた。
「あ、煙が出だした、逃げよう、連れて逃げてくれ」とKは頻りに私を急(せ)かし出(い)だす。この私よりかなり年上の、しかし平素ははるかに元気なK
も、どういふものか少し顛動気味であつた。
縁側から見渡せば、一めんに崩れ落ちた家屋の塊りがあり、やや彼方に鉄筋コンクリートの建物が残つてゐるほか、目標になるものも無い。庭の土塀のくつが
へつた脇に、大きな楓の幹が中途からポツクリ折られて、梢を手洗鉢の上に投出してゐる。ふと、Kは防空壕のところへ屈(かが)み、
「ここで、頑張らうか、水槽もあるし」と変なことを云ふ。
「いや、川へ行きませう」と私が云ふと、Kは不審さうに、
「川? 川はどちらへ行つたら出られるのだつたかしら」とつ嘯(うそぶ)く。
とにかく、逃げるにしてもまだ準備が整はなかつた。私は押入から寝巻をとり出し彼に手渡し、更に縁側の暗幕を引裂いた。座蒲団も拾つた。縁側の畳をはね
くり返してみると、持逃げ用の雑嚢が出て来た。私は吻(ほつ)としてそのカバンを肩にかけた。隣の製薬会社の倉庫から赤い小さな焔の姿が見えだした。いよ
いよ逃げだす時機であつた。私は最後に、ポツクリ折れ曲つた楓の側を踏越えて出て行つた。
その大きな楓は昔から庭の隅にあつて、私の少年時代、夢想の対象となつてゐた樹木である。それが、この春久振りに郷里の家に帰つて暮すやうになつてから
は、どうも、もう昔のやうな潤ひのある姿が、この樹木からさへ汲みとれないのを、つくづく私は奇異に思つてゐた。不思議なのは、この郷里全体が、やはらか
い自然の調子を喪つて、何か残酷な無機物の集合のやうに感じられることであつた。私は庭に面した座敷に這入(はい)つて行くたびに、「アツシヤ家の崩壊」
といふ言葉がひとりでに浮んでゐた。
Kと私とは崩壊した家屋の上を乗越え、障害物を除(の)けながら、はじめはそろそろと進んで行く。そのうちに、足許(あしもと)が平坦な地面に達し、道
路に出てゐることがわかる。すると今度は急ぎ足でとつとと道の中ほどを歩く。ペしやんこになつた建物の蔭からふと、「をぢさん」と喚(わめ)く声がする。
振返ると、顔を血だらけにした女が泣きながらこちらへ歩いて来る。「助けてえ」と彼女は脅えきつた相(かほ)で一生懸命ついて来る。暫く行くと、路上に立
はだかつて、「家が焼ける、家が焼ける」と子供のやうに泣喚いてゐる老女と出逢つた。煙は崩れた家屋のあちこちから立昇つてゐたが、急に焔の息が烈しく吹
きまくつてゐるところへ来る。走つて、そこを過ぎると、道はまた平坦となり、そして栄橋(さかえばし)の袂(たもと)に私達は来てゐた。ここには避難者が
ぞくぞく蝟集(いしゆう)してゐた。「元気な人はバケツで火を消せ」と誰かが橋の上で頑張つてゐる。私は泉邸の藪の方へ道をとり、そして、ここでKとはは
ぐれてしまつた。
その竹藪は雉(な)ぎ倒され、逃げて行く人の勢で、径(こみち)が自然と拓かれてゐた。見上げる樹木もおほかた中空(なかぞら)で削ぎとられてをり、川
に添つた、この由緒ある名園も、今は傷だらけの姿であつた。ふと、灌木の側にだらりと豊かな肢体を投出して蹲(うづくま)つてゐる中年の婦人の顔があつ
た。魂の抜けはてたその顔は、見てゐるうちに何か感染しさうになるのであつた。こんな顔に出喰(でく)はしたのは、これがはじめてであつた。が、それより
もつと奇怪な顔に、その後私はかぎりなく出喰はさねばならなかつた。
川岸に出る藪のところで、私は学徒の一塊りと出逢つた。工場から逃げ出した彼女達は一やうに軽い負傷をしてゐたが、いま眼の前に出現した出来事の新鮮さ
に戦(おのの)きながら、却つて元気さうに喋り合つてゐた。そこへ長兄の姿が現れた。シヤツー枚で、片手にビール瓶を持ち、まづ異状なささうであつた。向
岸も見渡すかぎり建物は崩れ、電柱の残つてゐるほか、もう火の手が廻つてゐた。私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だといふ気持がした。
長い間脅かされてゐたものが、遂に来たるべきものが、来たのだつた。さばさばした気持で、私は自分が生きながらへてゐることを顧みた。かねて、二つに一つ
は助からないかもしれないと思つてゐたのだが、今、ふと己れが生きてゐることと、その意味が、はつと私を弾(はぢ)いた。
このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知つてはゐなかつたのである。
対岸の火事が勢を増して来た。こちら側まで火照(ほて)りが反射して来るので、満潮の川水に座蒲団を浸しては頭にかむる。そのうち、誰かが「空襲」と叫
ぶ。「白いものを着たものは木蔭へ隠れよ」といふ声に、皆はぞろぞろ藪の奥へ匐(は)つて行く。陽は燦燦と降り灑(そそ)ぎ、藪の向(むかふ)も、どうや
ら火が燃えてゐる様子だ。暫く息を殺してゐたが、何事もなささうなので、また川の方へ出て来ると、向岸の火事は更に衰へてゐない。熱風が頭上を走り、黒煙
が川の中ほどまで煽られて来る。その時、急に頭上の空が暗黒と化したかと思ふと、沛然(はいぜん)として大粒の雨が落ちて来た。雨はあたりの火照りを稍々
(やや)鎮めてくれたが、暫くすると、またからりと晴れた天気にもどつた。対岸の火事はまだつづいてゐた。今、こちらの岸には長兄と妹とそれから近所の見
知つた顔が二つ三つ見受けられたが、みんなは寄り集つて、てんでに今朝の出来事を語り合ふのであつた。
あの時、兄は事務室のテーブルにゐたが、庭さきに閃光が走ると間もなく、一間(いつけん)あまり跳ね飛ばされ、家屋の下敷になつて暫く藻掻いた。やがて
隙間があるのに気づき、そこから這ひ出すと、工場の方では、学徒が救ひを求めて喚叫してゐる――兄はそれを救ひ出すのに大奮闘した。妹は玄関のところで光
線を見、大急ぎで階段の下に身を潜めたため、あまり負傷を受けなかつた。みんな、はじめ自分の家だけ爆撃されたものと思ひ込んで、外に出てみると、何処も
一様にやられてゐるのに唖然とした。それに、地上の家屋は崩壊してゐながら、爆弾らしい穴があいてゐないのも不思議であつた。あれは、警戒警報が解除にな
つて間もなくのことであつた。ピカツと光つたものがあり、マグネシユームを燃すやうなシユーツといふ軽い音とともに、一瞬さつと足もとが回転し、……それ
はまるで魔術のやうであつた、と妹は戦(おのの)きながら語るのであつた。
向岸の火が鎮まりかけると、こちらの庭園の木立が燃えだしたといふ声がする。かすかな煙が後の藪の高い空に見えそめてゐた。川の水は満潮の儘まだ退
(ひ)かうとしない。私は石崖を伝つて、水際のところへ降りて行つてみた。すると、すぐ足許のところを、白木の大きな函が流れてをり、函から喰(は)み出
た玉葱があたりに漾(ただよ)つてゐた。私は函を引寄せ、中から玉葱を掴み出しては、岸の方へ手渡した。これは上流の鉄橋で貨車が顛覆し、そこからこの函
は放り出されて漾つで来たものであつた。私が玉葱を拾つてゐると、「助けてえ」といふ声がきこえた。木片に取縋りながら少女が一人、川の中ほどを浮き沈み
して流されて来る。私は大きな材木を選ぶと、それを押すやうにして泳いで行つた。久しく泳いだこともない私ではあつたが、思つたより簡単に相手を救ひ出す
ことが出来た。
暫く鎮まつてゐた向岸の火が、何時の間にかまた狂ひ出した。今度は赤い火の中にどす黒い煙が見え、その黒い塊りが猛然と拡がつて行き、見る見るうちに焔
の熱度が増すやうであつた。が、その無気味な火もやがて燃え尽すだけ燃えると、空虚な残骸の姿となつてゐた。その時である、私は川下の方の空に、恰度(ち
やうど)川の中ほどにあたつて、物凄い透明な空気の層が揺れながら移動して来るのに気づいた。竜巻だ、と思ふうちにも、烈しい風は既に頭上をよぎらうとし
てゐた。まはりの草木がことごとく慄え、と見ると、その儘引抜かれて空に攫(さら)はれて行く数多(あまた)の樹木があつた。空を舞ひ狂ふ樹木は矢のやう
な勢で、混濁の中に墜ちて行く。私はこの時、あたりの空気がどんな色彩であつたか、はつきり覚えてはゐない。が、恐らく、ひどく陰惨な、地獄絵巻の緑の微
光につつまれてゐたのではないかとおもへるのである。
この竜巻が過ぎると、もう夕方に近い空の気配が感じられてゐたが、今迄姿を見せなかつた二番目の兄が、ふとこちらにやつて来たのであつた。顔にさつと薄
墨色の跡があり、背のシヤツも引裂かれてゐる。その海水浴で日焦(ひやけ)した位の皮膚の跡が、後には化膿を伴ふ火傷(やけど)となり、数ケ月も治療を要
したのだが、この時はまだこの兄もなかなか元気であつた。彼は自宅へ用事で帰つたとたん、上空に小さな飛行機の姿を認め、つづいて三つの妖しい光を見た。
それから地上に一間あまり跳ね飛ばされた彼は、家の下敷になつて藻掻いてゐる家内と女中を救ひ出し、子供二人は女中に托して先に逃げのびさせ、隣家の老人
を助けるのに手間どつてゐたといふ。
嫂(あによめ)がしきりに別れた子供のことを案じてゐると、向岸の河原から女中の呼ぶ声がした。手が痛くて、もう子供を抱(かか)へきれないから早く来
てくれといふのであつた。
泉邸の杜(もり)も少しづつ燃えてゐた。夜になつてこの辺まで燃え移つて来るといけないし、明るいうちに向岸の方へ渡りたかつた。が、そこいらには渡舟
も見あたらなかつた。長兄たちは橋を廻つて向岸へ行くことにし、私と二番目の兄とはまだ渡舟を求めて上流の方へ溯つて行つた。水に添ふ狭い石の通路を進ん
で行くに随つて、私はここではじめて、言語に絶する人人の群を見たのである。既に傾いた陽ざしは、あたりの光景を青ざめさせてゐたが、岸の上にも岸の下に
も、そのやうな人人がゐて、水に影を落してゐた。私達がその前を通つて行くに随つて、その奇怪な人人は細い優しい声で呼びかけた。「水を少し飲ませて下さ
い」とか「助けて下さい」とか、殆どみんながみんな訴へごとを持つてゐるのだつた。
「をじさん」と鋭い哀切な声で私は呼びとめられてゐた。見ればすぐそこの川の中には、裸体の少年がすつぽり頭まで水に漬つて死んでゐたが、その屍体と半間
も隔たらない石段のところに、二人の女が蹲つてゐた。その顔は約一倍半も膨脹し、醜く歪み、焦げた乱髪が女であるしるしを残してゐる。これは一目見て、憐
愍(れんびん)よりも、まづ身の毛のよだつ姿であつた。が、その女達は、私の立留まつたのを見ると、
「あの樹のところにある蒲団は私のですからここへ持つて来て下さいませんか」と哀願するのであつた。
見ると、樹のところには、なるほど蒲団らしいものはあつた。だが、その上にはやはり瀕死の重傷者が臥(ふ)してゐて、既にどうにもならないのであつた。
私達は小さな筏を見つけたので、綱を解いて、向岸の方へ漕いで行つた。筏が向の砂原に着いた時、あたりはもう薄暗かつたが、ここにも沢山の負傷者が控へ
てゐるらしかつた。水際に蹲つてゐた一人の兵士が、「お湯をのましてくれ」と頼むので、私は彼を自分の肩に依り掛からしてやりながら、歩いて行つた。苦し
げに、彼はよろよろと砂の上を進んでゐたが、ふと、「死んだ方がましさ」と吐き棄てるやうに呟いた。私は彼を中途に待たしておき、土手の上にある給湯所を
石崖の下から見上げた。すると、今湯気の立昇つてゐる台の処で、茶碗を抱へて、黒焦(こげ)の大頭がゆつくりと、お湯を呑んでゐるのであつた。その厖大
な、奇妙な顔は全体が黒豆の粒粒で出来上つてゐるやうであつた。それに頭髪は耳のあたりで一直線に刈上げられてゐた。(その後、一直線に頭髪の刈上げられ
てゐる火傷者を見るにつけ、これは帽子を境に髪が焼きとられてゐるのだといふことを気付くやうになつた。)暫くして、茶碗を貰ふと、私はさつきの兵隊のと
ころへ持運んで行つた。ふと見ると、川の中に、これは一人の重傷兵が膝を屈めて、そこで思ひきり川の水を呑み耽(ふけ)つてゐるのであつた。
夕闇の中に泉邸の空やすぐ近くの焔があざやかに浮出て来ると、砂原では木片を燃やして夕餉の焚き出しをするものもあつた。さつきから私のすぐ側に顔をふ
わふわに膨らした女が横はつてゐたが、水をくれといふ声で、私ははじめてそれが次兄の家の女中であることに気づいた。彼女は赤ん坊を抱へて台所から出かか
つた時、光線に遇ひ、顔と胸と手を焼かれた。それから、赤ん坊と長女を連れて兄達より一足さきに逃げたが、橋のところで長女とはぐれ、赤ん坊だけを抱へて
この河原に来てゐたのである。最初顔に受けた光線を遮らうとして覆ふた手が、その手が、今も捩(も)ぎとられるほど痛いと訴へてゐた。
潮が満ちて来だしたので、私達はこの河原を立退いて、土手の方へ移つて行つた。日はとつぷり暮れたが、「水をくれ、水をくれ」と狂ひまはる声があちこち
できこえ、河原にとり残されてゐる人人の騒ぎはだんだん烈しくなつて来るやうであつた。この土手の上は風があつて、睡るのには少し冷え冷えしてゐた。すぐ
向は饒津公園であるが、そこも今は闇に鎖(とざ)され、樹の折れた姿がかすかに見えるだけであつた。兄達は土の窪みに横はり、私も別に窪地をみつけて、そ
こへ這入つて行つた。すぐ側には傷ついた女学生が三四人横臥してゐた。
「向の木立が燃えだしたが逃げた方がいいのではないかしら」と誰かが心配する。窪地を出て、向を見ると、二三丁さきの樹に焔がキラキラしてゐたが、こちら
へ燃え移つて来さうな気配もなかつた。
「火は燃えて来さうですか」と傷ついた少女は脅えながら私に訊く。
「大丈夫だ」と教へてやると、「今、何時頃でせう、まだ十二時にはなりませんか」とまた訊く。
その時、警戒警報が出た。どこかにまだ壊れなかつたサイレンがあるとみえて、かすかにその響がする。街の方はまだ熾(さか)んに燃えてゐるらしく、茫と
した明りが川下の方に見える。
「ああ、早く朝にならないのかなあ」と女学生は嘆く。
「お母さん、お父さん」とかすかに静かな声で合掌してゐる。
「火はこちらへ燃えて来さうですか」と傷ついた少女がまた私に訊ねる。
河原の方では、誰か余程元気な若者らしいものの、断末魔のうめき声がする。その声は八方に木霊(こだま)し、走り廻つてゐる。「水を、水を、水を下さ
い、……ああ、…お母さん、……、姉さん、……光ちやん」と声は全身全霊を引裂くやうに迸(ほとばし)り、「ウウ、ウウ」と苦痛に追ひまくられる喘ぎが弱
弱しくそれに絡んでゐる。――幼い日、私はこの堤を通つて、その河原に魚を獲りに来たことがある。その暑い日の一日の記憶は不思議にはつきりと残つてゐ
る。砂原にはライオン歯磨の大きな立看板があり、鉄橋の方を時時、汽車が轟と通つて行つた。夢のやうに平和な景色があつたものだ。
夜が明けると昨夜の声は熄(や)んでゐた。あの腸を絞る断末魔の声はまだ耳底に残つてゐるやうでもあつたが、あたりは白白と朝の風が流れてゐた。長兄と
妹とは家の焼跡の方へ廻り、東練兵場(れんぺいじやう)に施療所があるといふので、次兄達はそちらへ出掛けた。私もそろそろ東練兵場の方へ行かうとする
と、側にゐた兵隊が同行を頼んだ。その大きな兵隊は、余程ひどく傷ついてゐるのだらう、私の肩に依掛りながら、まるで壊れものを運んでゐるやうに、おづお
づと自分の足を進めて行く。それに足許は、破片といはず、屍といはず、まだ余熱を燻(くすぶ)らしてゐて、恐ろしく険悪であつた。常盤橋(ときわばし)ま
で来ると、兵隊は疲れてはて、もう一歩も歩けないから置去りにしてくれといふ。そこで私は彼と別れ、一人で饒津公園の方へ進んだ。ところどころ崩れたまま
で焼け残つてゐる家屋もあつたが、到る処、光の爪跡が印されてゐるやうであつた。とある空地に人が集まつてゐた。水道がちよろちよろ出てゐるのであつた。
ふとその時、姪が東照宮の避難所で保護されてゐるといふことを、私は小耳に挿んだ。
急いで、東照宮の境内へ行つてみた。すると、いま、小さな姪は母親と対面してゐるところであつた。昨日、橋のところで女中とはぐれ、それから後は他所
(よそ)の人に従(つ)いて逃げて行つたのであるが、彼女は母親の姿を見ると、急に堪へられなくなつたやうに泣きだした。その首が火傷で黒く痛さうであつ
た。
施療所は東照宮の鳥居の下の方に設けられてゐた。はじめ巡査が一通り原籍年齢などを取調ベ、それを記入した紙片を貰ふてからも、負傷者達は長い行列を組
んだまま炎天の下にまだ一時間位は待たされてゐるのであつた。だが、この行列に加はれる負傷者ならまだ結構な方かもしれないのだつた。今も、「兵隊さん、
兵隊さん、助けてよう、兵隊さん」と火のついたやうに泣喚く声がする。路傍に斃れて反転する火傷の娘であつた。かと思ふと、警防団の服装をした男が、火傷
で膨脹した頭を石の上に横たへたまま、まつ黒の口をあけて、「誰か私を助けて下さい、ああ、看護婦さん、先生」と弱い声できれぎれに訴へてゐるのである。
が、誰も顧みてはくれないのであつた。巡査も医者も看護婦も、みな他の都市から応援に来たものばかりで、その数も限られてゐた。
私は次兄の家の女中に附添つて行列に加はつてゐたが、この女中も、今はだんだんひどく膨れ上つて、どうかすると地面に蹲(うづくま)りたがつた。漸く順
番が来て加療が済むと、私達はこれから憩ふ場所を作らねばならなかつた。境内到る処に重傷者はごろごろしてゐるが、テントも木蔭も見あたらない。そこで、
石崖に薄い材木を並ベ、それで屋根のかはりとし、その下へ私達は這入り込んだ。この狭苦しい場所で、二十四時間あまり、私達六名は暮したのであつた。
すぐ隣にも同じやうな恰好の場所が設けてあつたが、その筵の上にひよこひよこ動いてゐる男が、私の方へ声をかけた。シャツも上衣もなかつたし、長ずぼん
が片脚分だけ腰のあたりに残されてゐて、両手、両足、顔をやられてゐた。この男は、中国ビルの七階で爆弾に遇(あ)つたのださうだが、そんな姿になりはて
ても、頗(すこぶ)る気丈夫なのだらう、口で人に頼み、口で人を使ひ、到頭ここまで落ちのびで来たのである。そこへ今、満身血まみれの、幹部候補生のバン
ドをした青年が迷ひ込んで来た。すると、隣の男は屹度(きつ)となつて、「おい、おい、どいてくれ、俺の体はめちやくちやになつてゐるのだから、触りでも
したら承知しないぞ、いくらでも場所はあるのに、わざわざこんな狭いところへやつて来なくてもいいじやないか、え、とつとと去(い)つてくれ」と唸るやう
に押つかぶせて言つた。血まみれの青年はきよとんとして腰をあげた。
私達の寝転んでゐる場所から二米あまりの地点に、葉のあまりない桜の木があつたが、その下に女学生が二人ごろりと横はつてゐた。どちらも、顔を黒焦げに
してゐて、痩せた脊を炎天に晒(さら)し、水を求めては呻いてゐる。この近辺へ芋掘作業に来て遭難した女子商業の学徒であつた。そこへまた、燻製の顔をし
た、モンペ姿の婦人がやつて来ると、ハンドバツクを下に置き、ぐつたりと膝を伸した。……日は既に暮れかかつてゐた。ここでまた夜を迎へるのかと思ふと私
は妙に佗しかつた。
夜明前から念仏の声がしきりにしてゐた。ここでは誰かが、絶えず死んで行くらしかつた。朝の日が高くなつた頃、女子商業の生徒も、二人とも息をひきとつ
た。溝にうつ伏せになつてゐる死骸を調べ了へた巡査が、モンペ姿の婦人の方へ近づいて来た。これも姿勢を崩して今はこときれてゐるらしかつた。巡査がハン
ドバツクを披(ひら)いてみると、通帳や公債が出て来た。旅装のまま、遭難した婦人であることが判つた。
昼頃になると、空襲警報が出て、爆音もきこえる。あたりの悲惨醜怪さにも大分馴らされてゐるものの、疲労と空腹はだんだん激しくなつて行つた。次兄の家
の長男と末の息子は、二人とも市内の学校へ行つてゐたので、まだ、どうなつてゐるかわからないのであつた。人はつぎつぎに死んで行き、死骸はそのまま放つ
てある。救ひのない気持で、人はそわそわ歩いてゐる。それなのに、練兵場の方では、いま自棄(やけ)に嚠喨(りゆうりよう)として喇叭(らつぱ)が吹奏さ
れてゐた。
火傷した姪たちはひどく泣喚くし、女中は頻りに水をくれと訴へる。いい加減、みんなほとほと弱つてゐるところヘ、長兄が戻つて来た。彼は昨日は嫂の疎開
先である甘日市町の方へ寄り、今日は八幡村の方へ交渉して荷馬車を傭つて来たのである。そこでその馬車に乗つて私達はここを引上げることになつた。
馬車は次兄の一家族と私と妹を乗せて、東照宮下から饒津へ出た。馬車が白島から泉邸入口の方へ来掛つた時のことである。西練兵場寄りの空地に、見憶えの
ある、黄色の、半ずぼんの死体を、次兄はちらりと見つけた。そして彼は馬車を降りて行つた。嫂も私もつづいて馬車を雛れ、そこへ集つた。見憶えのあるずぼ
んに、まぎれもないバンドを締めてゐる。死体は甥の文彦であつた。上着は無く、胸のあたりに拳大(こぶしだい)の腫れものがあり、そこから液体が流れてゐ
る。真黒くなつた顔に、白い歯が微かに見え、投出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪が喰込んでゐた。その側に中学生の屍体が一つ、それから又離れた
ところに、若い女の死体が一つ、いづれも、ある姿勢のまま硬直してゐた。次兄は文彦の爪を剥ぎ、バンドを形見にとり、名札をつけて、そこを立去つた。涙も
乾きはてた遭遇であつた。
馬車はそれから国泰寺の方へ出、住吉橋を越して己斐の方へ出たので、私は殆ど目抜の焼跡を一覧することが出来た。ギラギラと炎天の下に横はつてゐる銀色
の虚無のひろがりの中に、路があり、川があり、橋があつた。そして、赤むけの膨れ上つた屍体がところどころに配置されてゐた。苦悶の一瞬足掻(あが)いて
硬直したらしい肢体は一種の妖しいリズムを含んでゐる。電線の乱れ落ちた線や、おびただしい破片で、虚無の中に痙攣的の図案が感じられる。だが、さつと転
覆して焼けてしまつたらしい電車や、巨大な胴を投出して転倒してゐる馬を見ると、どうも、超現実派の画の世界ではないかと思へるのである。国泰寺の大きな
楠も根こそぎ転覆してゐたし、墓石も散つてゐた。外廓だけ残つてゐる浅野図書館は屍体収容所となつてゐた。路はまだ処処で煙り、死臭に満ちてゐる。川を越
すたびに、橋が墜ちてゐないのを意外に思つた。この辺の印象は、どうも片仮名で描きなぐる方が応(ふさ)はしいやうだ。それで次に、そんな一節を挿入して
おく。
ギラギラノ破片ヤ
灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヤウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキメウナリズム
スベテアツタコトカ アリエタコトナノカ
パツト剥ギトツテシマツタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
プスプストケムル電線ノニホヒ
倒壊の跡のはてしなくつづく路を馬車は進んで行つた。郊外に出ても崩れてゐる家屋が並んでゐたが、草津をすぎると漸くあたりも青青として災禍の色から解
放されてゐた。そして青田の上をすいすいと蜻蛉(とんぼ)の群が飛んでゆくのが目に沁みた。それから八幡村までの長い単調な道があつた。八幡村へ着いたの
は、日もとつぷり暮れた頃であつた。そして翌日から、その土地での、悲滲な生活が始まつた。負傷者の恢復もはかどらなかつたが、元気だつたものも、食糧不
足からだんだん衰弱して行つた。火傷した女中の腕はひどく化膿し、蠅が群れて、とうとう蛆(うじ)が湧くやうになつた。蛆はいくら消毒しても、後から後か
ら湧いた。そして、彼女は一ケ月あまりの後、死んで行つた。
この村へ移つて四五日目に、行衛不明であつた中学生の甥が帰つて来た。彼は、あの朝、建(たて)もの疎開のため学校へ行つたが恰度(ちやうど)、教室に
ゐた時光を見た。瞬間、机の下に身を伏せて、次いで天井が墜ちて埋れたが、隙間を見つけて這ひ出した。這ひ出して逃げのびた生徒は四五名にすぎず、他は全
部、最初の一撃で駄目になつてゐた。彼は四五名と一緒に比治山に逃げ、途中で白い液体を吐いた。それから一緒に逃げた友人の処へ汽車で行き、そこで世話に
なつてゐたのださうだ。しかし、この甥もこちらへ帰つて来て、一週間あまりすると、頭髪が抜け出し、二日位ですつかり禿(はげ)になつてしまつた。今度の
遭難者で、頭髪が抜け鼻血が出だすと大概助からない、といふ説がその頃大分ひろまつてゐた。頭髪が抜けてから十二三日目に、甥はとうとう鼻血を出しだし
た。医者はその夜が既にあぶなからうと宣告してゐた。しかし、彼は重態のまま、だんだん持ちこたへて行くのであつた。
Nは疎開工場の方へはじめて汽車で出掛けて行く途中、恰度汽車がトンネルに入つた時、あの衝撃を受けた。トンネルを出て、広鳥の方の空を見ると、落下傘
が三つ、ゆるく流れてゆくのであつた。それから次の駅に汽車が着くと、駅のガラス窓がひどく壊れてゐるのに驚いた。やがて、目的地まで達した時には、既に
詳しい情報が伝はつてゐた。彼はその足ですぐ引返すやうにして汽車に乗つた。擦れ違ふ列車はみな奇怪な重傷者を満載してゐた。彼は街の火災が鎮まるのを待
ちかねて、まだ熱いアスフアルトの上をずんずん進んで行つた。そして一番に妻の勤めてゐる女学校へ行つた。教室の焼跡には、生徒の骨があり、校長室の跡に
は校長らしい白骨があつた。が、Nの妻の骨らしいものは遂に見出せなかつた。彼は大急ぎで自宅の方へ引返してみた。そこは宇品の近くで家が崩れただけで火
災は免がれてゐた。が、そこにも妻の姿は見つからなかつた。それから今度は自宅から女学校へ通じる道に斃れてゐる死体を一つ一つ調べてみた。大概の死体が
打伏(うつぶ)せになつてゐるので、それを抱き起しては首実験するのであつたが、どの女もどの女も変りはてた相をしてゐたが、しかし彼の妻ではなかつた。
しまひには方角違ひの処まで、ふらふらと見て廻つた。水槽の中に折重なつて漬つてゐる十あまりの死体もあつた。河岸に懸つてゐる梯子に手をかけながら、そ
の儘硬直してゐる三つの死骸があつた。バスを待つ行列の死骸は立つたまま、前の人の肩に爪を立てて死んでゐた。郡部から家屋疎開の勤労奉仕に動員されて、
全滅してゐる群も見た。西練兵場の物凄さといつたらなかつた。そこは兵隊の死の山であつた。しかし、どこにも妻の死骸はなかつた。
Nはいたるところの収容所を訪ね廻つて、重傷者の顔を覗き込んだ。どの顔も悲惨のきはみではあつたが、彼の妻の顔ではなかつた。さうして、三日三晩、死
体と火傷患者をうんざりするほど見てすごした揚句、Nは最後にまた妻の勤め先である女学校の焼跡を訪れた。