「e-文藝館=湖(umi)」 寄稿
はいばら ろくろう 小説家・文藝批評家 香川県在住 表題が、筆者の自覚と内情とを雄弁に物語っている。
不覚をかぞふ
――書くべきわが立ち位置――
榛原 六郎
師は違い、結社は同じでなかったけれど、あなたのお父さんから助言をもらったことがありますと告げてくれた真部照美の歌集『心宿』(しんしゅく)に、印
象的な一首がある。
一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ九つ不覚をかぞふ
指を折って数えているのではない。「心」に拾っている。等置することのかなわぬ歪(いびつ)な過去のそのときあのときを、のみこめぬ異物として、あるい
は補えぬ空白として、彼女は「心」に拾っている。
こまやかで清冽な、どちらかといえば「詩」に近い質をもつ歌たちのなかから、そのいくつかの「不覚」のこだまを聞いてみよう。
いらくさの刺にさされし指腹の疼みにふた夜ひとを忘るる
夜の夢にあかあと焚く母の火へ過去世のひとりまたひとり寄る
抱擁を愛と決めねどたちどまるわれより出でて翳なき一軀
「怒ってなんかいないわよ」といひたるわれ自身を汝より先に驚きてゐる
ふきこぼるるたびに水さす春まひるあきらめやすきわれの注す水
ここにある「水」はまた、内なるわれにもそそがれる。
死をひとつ眠らせて暗きわが内の花壷に水を満たしゆくなり
剰余の「なり」にひそむ胸騒ぎは、「突然に」そのすがたを変えて、ささやかな覚醒となる、その歌。
ほのしろくふたつの種子を巻く果肉生の畏れは突然にくる
突然にきて「生」をおびやかし、「性」を異化する「畏れ」は、外から「くる」のではなく「わが内」からあふれでてきたものではないのだろうか。「畏れ」
にひるみつつ、その「影」に彼女は親しむ。
うかがひてゐしかふたたび首折りてみづからの影のなかを食む鳥
ここまできて気づく。「不覚」が彼女の「詩」の源泉であり、そこに文学の原初の森があるらしいことに。
「不覚」とは覚えずということであろう。その未分化・未整理の薄暮に彼女は立っている。佇んでいるのでなく、立ち尽くしている。いま、そのことをあえて
概念化するとすれば、そこに判然とあるのは、消化しきれぬ「体験」と、昇華にいたらぬ「覚醒」であり、そのどちらにも行ききれぬ薄暮の路地に彼女は立ち尽
くしている。すくなくとも「歌」のなかでは。
「抒情の泉」とはこのことかと思いつつ、翻ってわたしは、そこに隠見する文学の原初のことを考えている。
過日、主に志賀直哉を論じて「小説の原初」という論をまとめた。もともとは藤枝静男に関する論考から生まれたそれは、元の論に収めておくには量が殖えす
ぎたために志賀直哉論として独立させたものを、さらに腑分けして二種の論に仕立て、一方を、小説に限定して文学の森をさぐる手始めの意味をこめて「小説の
原初」とし、もう一方も、例の「気分」の問題を芯にまとめてはあるが、そちらの方はいまだ発表の機会を得ていない。
その「小説の原初」をまとめたあとに、釈然としないものがあった。もちろん文学は数学とちがうのだから最終解答などありはしないがそれにしてもと、いく
つかの未解決がこころにひっかかった。ひっかかりつつ、了解は、論に格闘した志賀直哉を離れて広く文学の荒野を見渡すことから始められる彷徨、たとえばド
ストエフスキー、あるいはアンチ・ロマン(ヌーヴォー・ロマンの方が一般的であるが、サルトルの呈示を尊重してこの用語をつかう)を論じて、その帰り道で
わが国の文学の現況を問う作業にもとめられるのではとかんがえた。そうしてそろりとその作業にかかったとき、いま自分はどこにいるのかの疑念がわいた。わ
たしは、「私」の立っている位置を確認しておく必要を感じたのだった。
出発のその地がはっきりしていなければ、彷徨はその帰着点を失う。むしろ、そのうやむやを内心では、文学が数学ではないことの傍証として望んでいるし、
それが整理に了るのならば帰着点に辿り着く必要もないのだが、しかしその途次で発する言葉が世迷いごとに堕するのは避けたいとおもう、そのゆえだったかも
しれない。
出口は知らぬが、自分が迷路のどこにいるのか略図だけでも作っておきたいと思いはじめたそんなとき、誰の導きであったのか、『心宿』の歌たちがあらわれ
た。そして、そこに「不覚」を拾う人を見いだした。ああ、そういうことなのかという、ささやかな理解がわたしに開けた。
むろん答えがそこにあったのでない。わたしを開くきっかけが、そこに裸形のまま佇んでいたというようなことだった。
不覚をかぞふ。なんと奥深い言葉であろうか。そこにあるのは不明であり未整理ではあるにしても断絶ではない。「私」は「不覚をかぞふ」ことによって自我
の扉を開き、そしてそこに芽生えた未覚醒の感知(それを「もののあはれ」の原形あるいは幼形とみなしてもよいだろう)によって、世界につながろうとしてい
る。
それを、「世間」もしくは「人間」に置き換えて大差のない未明の薄闇。その薄闇のなかで、ふと、過去からいまに幽隠(みえかくれ)する記憶の砂子に触れ
て、そこに置き去りの悔恨、怨嗟、喜悦にたちどまる。そして嘆息しつつ、その影に親しむ。その投影のかたちが「不覚をかぞふ」ということではないだろう
か。真の覚醒がそこにあるわけでなく、またそこに「味わう」余裕があるわけでもない。
「経験」というよりは「体験」のなかに秘匿あるいは放置されていた悔恨、怨嗟、喜悦。それらが「私」のなかで相貌を変える、その変貌の瞬間は、また
「歌」の場であることがわかる。
だが、むろん、そこで産みだされるものが、かならずしも「歌」である必要はないし、その、いいかえれば雑念をふくむ世間知が清澄な人生知に羽化する刻
(とき)に、人がおぼろげに「生」の意味を感じ、知る、その母胎は、「私」のものであるように見えてそうではないのだから、そこから自戒がひきだされた
り、あるいはひらめいた直感が認識に固められたりする、その多彩をくくる縄はない。
かつてサルトルの見抜いたごとく、「私」から純化された「意識」は主観でもなければ諸表象の集合でもなく、端的に、存在の条件でありその源泉であるのだ
から、そこからなにがひきだされても不思議はない。
もちろん、その未覚醒の薄闇から、「覚醒」に達することはできる。人はいかなるときにも、雑念をのぞいて思念を澄ませば、そこに深浅の差があり、真偽の
不確定があるにしても、なんらかの「覚醒」に達することはできる。そしてそこからすすんで、人生を析断(しゃくだん)するがごとき、あるいは、悟りには遠
いけれども、そこに到る透視図となるようなそんな「覚醒」に達することも不可能ではない。そして、その到達は人を喜ばせる。
「ああそういうことだったのか」というようなゆるやかな覚醒。また一瞬のまばたきの中に把握される鋭角的な覚醒。それらはそこに遅速の差はあっても、
「不覚」からの「目覚め」であることにまちがいはない。
だが、その「目覚め」の朝に、「覚醒」をかかえて、さて人は、なにをしようというのか。
たとえば、わたしがいずれは論じたいとおもっているアンチ・ロマンのことについてそれを語れば、かれらアンチ・ロマンの旗手たちが制作の動機としたもの
は「覚醒」であったようにおもえる。横溢する意識をそれぞれがおのおのの流儀で煮詰めたあとに、蒸留して冷ました「覚醒」。かれらの作品が、文学に新しき
流れを呼びこむものとはなりえても「反小説」とはならなかった真因は、そこにあるようにおもう。
「私」から純化された意識。そしてその純化された意識から抽出される「覚醒」。それはあの融通無碍(むげ)の利得を失った、あえていえば「自覚」に固着
した「覚醒」ではなかっただろうか。あるいは方法論に転化した「覚醒」といっていいかもしれない。
むろんそれへの固着に瑕疵(かし)はない。そこにはたしかにひとつの新しき文学の流れがあり、そしてそれを指標として、いくつかの鋭利な作品がいまも制
作されている。だが、そこには人生にとまどう忸怩(じくじ)がなく、押し倒すべき相手もいない。あえていえば独白があるのみである。
独白? ここにきて、わたしはある符合にきづく。そしておもう。アンチ・ロマンもまたひとつの私小説ではないのかと。そこにドストエフスキーのあの地下
生活者は登場せず、そして「マダム・ボヴァリィは私だ」と告白したあのフローベールの方法論は忌避されているにしても、「私」はそこにいる。意識として覚
醒として濾過されたもののなかに判然と棲んでいる。そして作為を巡らせている。だが、肉体は消えている。夾雑物であるかのごとく、それは「私」から切り離
されて、検査対象物となりはてている。
それは「私」の分裂であるように見えてそうでなく、意識が巨大化して「私」を飲みこんでいると映る。飲みこまれて「私」はその外皮を破ろうとする。だ
が、そのメスがまた「意識」であるために、外皮のその上にまた外皮がの徒労の役にさらされる。そこにある孤立無縁。
だが、かれらはその徒労の日々において、言葉を告白にも弁解にも使おうとはしない。なぜなら、すでに「私」は意識に純化されて余分な熱を抜きとられてい
るのだから、そこからぶつぶつと世迷いごとを並べることはできない。そこが、近代文学の悪しき典例と貶され殲滅寸前の「私小説」との分岐点であろう。
そうしてこのことを別の角度からいえば、いわゆる私小説が「体験」に多く依存するのと異なり、アンチ・ロマンにおいては、「体験」は素材として、あるい
は「覚醒」の源泉として利用されているといえるが、その方法は、よく考えてみれば、別段目新しいものではない。過去、意識的に文学を創ろうとするものの幾
人かが辿った道である。
たとえば藤枝静男の改稿『空気頭』を見るといい。そこには、その試みのひとつの限界が、奇妙な異質感をともなって示されている。彼はコラージュという手
法をとりいれて、素材の混合による小説の偶発性を利用した。そしてその混合の只中に、もうひとりの「私」を曝すことによって、小説に生きる肉体をもたせよ
うとした。だが、その、あえていえば実験は、それが彼の「私」を破ろうとする焦燥のもたらしたものであることによって生体実験の観を呈するものとなる。情
趣を逸脱したといってもいいし、瀧井孝作の疑ったごとくに「私小説」の道を踏み外したものといえばいえる。
だから藤枝静男は、「ひとのことなんか、いくら想像をたくましくしたところで知れたものだから、自分のことを書くしかないと思って努力してきたが、これ
までの自分の文体では結局それも駄目だと感じ」て、「多少はヤブレカブレの気味もあって」書いた改稿『空気頭』の「方法」を、「くり返しのきかぬやり方だ
ということは知っているから二度とやる気はない」としたのだろう。
だが、改稿『空気頭』の存在がなければ、たぶん、わたしの藤枝への傾注はその度合いを半減していたはずである。(この間の機微については藤枝静男論とし
てまとめてあるのでここに省くが、わたしは、そこにある逸脱にひとつの可能性を錯視し、文学の別領域がかくされているのではとさえ考えている)
そうしてこのことを、さきの論にもどしていえば、たとえば『空気頭』における錯綜が暗示するごとく、「私小説」という括りには「フィクションとしての小
説」という妄想からの差別化以外に、別段の意味のないことがわかる。「私小説」がそれとして差別化される元凶が、己れの体験への過度な、あるいは安易な依
存にあることは自明であり、そこから抜け出さぬかぎりそれは「私小説」とよばれつづけるのだろうが、呼称はどうあれ、重要なことは、それが「表現」となり
得ているかどうかにあって、それが「小説」であるかどうかにあるわけではない。
あえていえば、「小説」とは文学の一形式でしかないのだから、そのなかに偶々、人生の深奥を秘めたものがあったとしても、それをもって、「小説」を他の
ものから峻別してその優位をいうほどのものがあるともおもえない。問題は、それが人をうごかす「表現」となり得ているかどうか、その一点にかかっている。
さて、それでは「表現」とはなにかとかんがえるとき、それが文学を超えるものであることはだれもが識っている。パフォーマンスもまたしかり。音楽表現も
あれば、絵画によるそれもある。そしてわれわれが言葉を発するそのことがひとつの確たる「表現」になることさえもある。
だが、それらが真にわれわれを撃つ「表現」になりうるかどうかには、簡単に言い表わせない「奥義」のようなものがある。
優れた歌論であり、俳論であり、表現論でもある竹西寛子の『日本の文学論』のなかに、そのことにふれた文章がある。彼女は世阿弥の能楽論書「風姿花伝」
を解いて、こんなことを述べている。
花は咲くものであると同時に、咲かせるものである。花に即して花を超えた時に、 人は初めて真実の花を見せることが出来るという彼の論
法には、具象と抽象を自由に往き来しながら、精進とひきかえに到来する瞬間に賭ける、有限の存在としての表現者の自覚をよむことができる。
「花」とはなにか。
それは、世阿弥を解する竹西寛子の言葉によれば、「猿楽から発展した「詩劇」であると同時に「歌舞劇」でもある能の命」であり、能を演じる者の生涯をか
けて具有すべきものではあるのだが、「花の失(う)するを知らず、もとの名望ばかりを頼まん」「古き為手(して)」ばかりいるなかに、「老軀になっても
「花」は残り、ゆとりをもって「花」を見せることが出来た」「まことの花」の体得者は、父観阿弥のほかにしらないと世阿弥の述べる、その深みに寓意される
ものである。
「花」はまた「年々去来の花」であり、「「時分の花」を得ることと、「時分の花」を失うことの積み重ねの上にしか「まことの花」は得られない」が、しか
し、そうではあっても、そこに積まれるものが、そのまま「まことの花」に変るわけもなく、「花の永遠への転化には「工夫」が要る。「公案」が必要にな
る」。
なるほどとおもう。そして、そこに優れた表現の論を見てとった竹西寛子の炯眼に感服しつつ、説かれていることの意味を咀嚼して、これを文学の問題として
かんがえてみるに、「花は咲くものであると同時に、咲かせるものである」の裏面に、まずあらわれているのは、「花」の意識化ではなかったろうか。たとえば
「花」を「文体」という語に置き換えてみるとき、そこには「文体の意識化」すなわち「表現」の問題があらわれてくる。
「花」は、「咲かせるものである」まえに「咲くもの」であり、そして同時に、「咲かせるものである」。これを「表現」の問題として、文体は産まれるもの
であると同時に、産みだすものであるとした場合の、そこにあるのは意識の統御ではなくて、その横溢であるようにおもう。
「花」は、精進によって咲く。そして精進は、意識の統御によってではなく、その横溢によってささえられる。だが、意識の横溢が、「表現」をひとりよがり
にすることも当然にある。世阿弥のかんがえるその機微を、たとえば藤原俊成らの「歌の論の先人達」を引き合いにして、竹西寛子はこんなふうに読み解いてい
る。
ただ稽古あるのみ、訓練あるのみと切実な声をあげながら、経験を通じてしか体得 できない表現のある次元について、空白のまま問う者に
投げ返していた歌の論の先人達と、世阿弥の立っていた場所とが非常に離れていたとは思い難い。しかし、評価の基準に、つねに自他を説得できる根拠を求めて
いた世阿弥は、人間の限界により敏感であり、表現に対する万人の理解など、容易にかなわぬことを承知していたからこそ、あえて万人の理解に向けての精進を
自分に義務づけていたという点で、歌の論の先人達よりも禁欲的、より理知的であったと言えるかもしれない。
竹西寛子らしい、しなやかな理解にうっとりとしながら、そこに描かれる一人の表現者の有り様に胸をうたれる。そして時代を超越して響き合う表現の魔力の
存在に、あらためて気づかされる。
「経験を通じてしか体得できない表現のある次元」。その高みは、「万人」に共有されてはじめて意味をもつ。そうしてこのことを文学にあてはめて、世阿弥
の「禁欲」と「理知」は、時代を超えてどのようなかたちで生きているのかとかんがえるとき、「精進とひきかえに到来する瞬間に賭ける、有限の存在としての
表現者の自覚」の言葉につきあたる。
ごくごく普通に解すれば、「世界」のうちに立つ「私」が意識化されることによって言葉が溢れる、その内から外への流れを「表現」と呼ぶのだろうし、「文
学の原初」もむろんそこにあるのだが、この内から外への流れをそのまま「表現」とすることに飽き足らぬ、あるいはそれを安易と感ずる人たちがいる。多くい
る。それらの人たちは「意識」を意識化することによって「表現」を立たせようとする。「私」から切り離すといってもいいだろう。もはや死語になった「客観
小説」というようなものが、そのあまり意味のない一例であるし、身辺雑記、あるいは単なる自伝が、「小説」の仲間に入れてもらえない理由もそこにある。
竹西寛子の言葉にあるごとく、「表現」には「次元」がある。それは標準を意味しはしないが、「表現者の自覚」として保持され秘匿される、いってみれば、
そこに近づいたときに初めてわかる許容範囲のようなものとして存在する。もちろん、あるとはいっても、それは「自覚」のなかに遊泳する幻影が、「表現」に
触れたとき現われる刹那の反応でもあるから、確たるものでなく、「体験」と「覚醒」の中間地帯に浮遊する。
そうして、その「経験を通じてしか体得できない表現のある次元」の浮遊する「体験」と「覚醒」の中間地帯には、「抒情の泉」があり、「文学の場」があ
る。しかし、そこに立つことのみで「詩」が生まれ、「小説」ができるわけでない。
過日わたしは、「小説の原初」のなかで、志賀直哉を見据えて、そのような中間地帯からいかに彼の小説が生まれたのかを探った。彼の特異性にふれて、それ
を「視点の透明性」ということと、心構えとしての「実感主義」に要約したのである。そしてその同じ論のなかに藤枝静男をとりあげて、藤枝もまた、師の心構
えを引き継いで「実感」を芯に小説を書いたのだと解説した。
いまそのことをふりかえって、彼ら二人の表現者に、「理知」はおいても、とりあえずの「禁欲」のあったことがわかる。そうしてそのことの理解に及ぶと
き、そこに深浅の差はあっても、ともに「経験を通じてしか体得できない表現のある次元」に達していた志賀直哉と藤枝静男の作物をひとからげにして、あれは
「私小説」とくくることの蒙昧をおもう。
そんな蒙昧に、そして「表現者の自覚」にだれよりも敏感であった明哲の人小林秀雄が、その晩年を費やした本居宣長への傾倒の言葉のなかに、「表現のある
次元」について語った一文がある(『本居宣長補記』)。そのひそかな啓示に耳を傾けてみたい。
「側ヨリ人ノモノイフモ、耳ニハイラヌ」ほど「心上スミキラズンバ、秀逸ハ出来マ ジキ也」といふ斷言は、「源氏」の作者の事を言つてゐ
るのだと、端的に受取ればいゝ。式部は「よろづの事にふれて感(うご)く」己れの心情(ココロ)を、感(うご)くがまゝに物語る事によつて、明瞭に意識し
たわけだらう。其處で、式部が、物語作者として體驗してゐるものは、自分自身の心と、これに直結して離す事の出来ぬ「世の有さま」といふ、たつた一つの疑
ひやうのない實在である筈だ。
もちろんこれは『源氏物語』の作者紫式部について述べた言葉である。しかし、わたしには小林秀雄のこの言葉は、あたかも「文学の原初」のそのありようを
語っているようにおもえる。
「自分自身の心と、これに直結して離す事の出来ぬ「世の有さま」といふ、たつた一つの疑ひやうのない實在」とは「現実」ではなく「無名なるもの」でもな
く、「明瞭に意識」して「體驗してゐるもの」であるのだから、それを「実感」といいかえても、さしたる齟齬はないだろう。しかしもちろん、そこにあるもの
が「実感」だけのわけはない。
小林秀雄は、さきの言葉のあとで、『源氏物語』の「秀逸を物した作者の心上」を、本居宣長の評釈にしたがって、つぎのように解いている。
作者の心境とは、外界の知覺が、その確かな手應へを少しも失ふ事なく擴大され、表現性を命として生長する言葉の力に導かれて、内界の想
像力の裡に、そのまゝ深化する、さういふおのづからなる心の展開以外のものではない
そしていう。「この作者の心の經驗は、極めて自然なものであり、又、充實し、自足してゐるところから、無私と呼ばれていゝものでもあ」り、「さういふ經
驗を積み重ねて行くうちに、それが、心に籠め難いといふ、たヾそれだけの理由から、物語の世界が創り出される事になる」のだと。そして、それが健全な「言
辭の道」であると小林秀雄はいっている。しかり。
そして彼はこうもいう。この「言辭の道」を「脇道に逸れずに歩く人が稀なのは、これが單なる文才の問題ではないからだ」と。
「世に經る人の有様」といふ言ひ方に、よく現れてゐるやうに、人の有様は、多種多様で、同じ物は二つとないばかりではなく、絶えず移り変つてもゐるの
だ。これに眼の焦点を合はせるには、己れの眼も絶えず動かして、両者が常に呼應してゐると言つた一種の均衡を保持しなければなるまい。さういふ事になれ
ば、これは、もう歌の上手下手に関する技術は言ふまでもないが、實生活上の技術も超えた人生観上の工夫となるだろう。この絶えず再新される工夫により、實
人生は、式部を代辯する源氏君が言ふやうに、「後の世にもいひつたへさせまほしき」自立した姿に作り直されるのである。
まさに文学の原初とその到達の夢想が、式部を想い、宣長を借りて、ここに語られている。そしてそこにはおぼろげながら志賀直哉の姿もある。夢殿観音を前
にして、ああ、と嘆息する志賀直哉の影が。
ああ、とわたしもいま嘆息している。ああ、なんということか。はるかな昔の「物語」から逆算して、われわれは測られている。
しかし、それは、悲観するようなことではないのかもしれない。なぜならわれわれは、「到達」のひとつの姿をおしえられているにすぎないのだし、そこにい
かに優れた「到達」があろうとも、心配することはない。われわれは「物語の世界」の住人でなく、また「映画の世界」に居るのでもない。ただただ未覚醒の渾
沌の中で右往左往しているだけである。そしてうじうじと訳の解らぬ言葉を発している。
とりあえずは「覚醒」に達すれば、それでいいのだ。身の丈ほどの「覚醒」に。そうしてそこから言葉を発すればいい。
が、しかし、そのように言葉を発することによって「不覚」が「表現」に羽化するわけではない。そこにはいくつかの奥義がある。そして「禁欲」と「理知」
とが求められている。そこが勘所であろう。
ところで、さきに「表現」の奥義にふれて引用した竹西寛子の『日本の文学論』のなかに、『源氏物語』の「心」にふれた一節があり、そこに、その勘所らし
きものが見えている。
「もののあはれ」や「あはれ」を見事に使い分けた「源氏物語」は、「心」の使い分けにおいても非凡であった。心臓そのもの、あるいは胸を
さす即物的な「心」から、精神、意識、魂、気持などの意にわたる「心」、物の中心や、事の本質をあらわすような「心」、譬喩としての「心」まで、一語の多
様な用い方は、ここでもこの物語の美学を象徴していると言えなくもない。
この竹西寛子のやわらかな論考にふれて、小林秀雄の述べた言葉を思い浮べ、「よろづの事にふれて感(うご)く」己れの心情(ココロ)を「心上スミキラ」
して描くそこには「実感」を超えた「美学」があり透徹があるのだと、わたしは理解する。
そしてその「美学」はすなわち、紫式部という、「使い慣れてきた言葉を、いかにしてそのようにではなく使うか」に賭け、「踏襲、反復、安住をきらって新
たな地平に身の置きどころを探ろうとしているひとりの作家の生き方」の反映なのだと理解する。
たぶん竹西寛子は懸想している。奥深くはあるけれども曖昧でやっかいな「日本語の限界よりも可能性にかけて、日本語でなお生きようとしている自分」を、
はるかな思いで源氏
物語の作者紫式部のその美学に仮託して、そしてそこにある自在に懸想している。それは、そこに文学の到達を見ているのではなくて、一人の表現者のその覚醒
の姿を視ているのだおもう。
竹西寛子は述べている。「紫式部の学びの規模は、知れば知るほど大きくなって私に見定められるようなものではない。知識どまりの学びは創作ではないと考
え、学びの肉体化を表現の条件にしていたらしいという点でも彼女の存在はぬきんでている」と。
そうして「源氏物語」に同化しつつ、一方で、「源氏見ざる歌よみは遺恨の事なり」という藤原俊成の有名な言葉を引いて彼女は、優れた歌論を『日本の文学
論』のなかに展開していくのだが、そのなかに、つぎのような一節がある。
情緒のさまに対する「名づけ」の言葉をもって歌を種々に批評する。例えば「艶」「優」「あはれ」「妖艶」「幽玄」、あるいは又「をか
し」「うるはし」「心深し」「たけ高し」「姿さびたり」「余情あり」など。こういうたぐいの言葉に、論理の明晰を求めるのは難しい。けれども、経験に根ざ
した直感の明晰は感じることができるし、発言ならぬ表現についての思考を種々の言葉でせめ探り、論理によって起つ言葉ではなく、詩的直感の生動する言葉で
とりあえずの拠点を示しているのは、古人で終った方法とも思われない。
たぶんわたしのかたくなな偏位によるのだろう、「歌」または「歌人」を論じて秀逸なこの論のここに描きだされる「詩的直感の生動する言葉でとりあえずの
拠点を示している」人物を、わたしは藤原俊成ではなく志賀直哉と見てしまう。そしてそこに、それが竹西寛子の本意とは異なるにしても、「古人で終った方法
とも思われない」小説の可能性を想起して、そして安堵するのである。ああ、まだ可能性は、われわれがそこに己れを賭けうる文学の可能性は充分にのこされて
いるのだと、わたしはひそかに胸を撫で下ろし、そして自らの「不覚」をかぞえる。それがやがて「表現」に羽化する日を夢見ながら。
さてさて。迷走しつつもなんとか、「私」の立っている位置だけは知ることができた。そのうえ、いまだ多くの未解決が残っているにしても、小説の可能性ら
しきものを想起することもできた。そこで、二首。『心宿』から、甘いもの好きのわたしのお気に入りの短歌を紹介して、拙文を閉じたいとおもう。
かたはらをすりぬけゆきし蝶の眼のみてゐん花野死後のごときか
いちめんの緋のしばざくら踏みまどひふみまどひつつわが生きて来し
かろやかな意識の飛翔。すべては夢か。ゆえしれず、いい匂いがする。
――了――