「e-文藝館=湖(umi)」 小説 寄稿
はいばら ろくろう 小説家 香川県在住 「書下し長編作品」におさめた同じ作者の『石火のごとく』に先行し潜流した作で、これも謂う所の
「悲哀の仕事 mourning
work」であり明らかな私小説である。2003年頃の作だそうである。 06.3.27 掲載
桑
楡
榛原 六郎
くりかえす世代交代にも
喜びは受け継がれず
わけあえぬ
苦しみのみが伝播する
【晩夏】
戸を引くと叔父がいた。父の家の玄関からつづく板の間に、はだかの左足を投げだし、傾いだ上半身をうしろ手にささえて叔父が坐っていた。座布団は斜めう
しろによけられていた。
「あっ、おじさん。こんにちは」
うれしそうに妻がいうのを受けて、叔父はあのとき、少しだけ微笑んだ。静かな笑顔だった。玄関であり応接間でもあるその板の間に叔父はだいぶ前から居る
ようだった。父も居た。父はステテコ姿で、いつものごとく座卓に新聞を広げていた。
「マイクはおらんよ」
いいながら父は、そばにあった薄い藺草の座布団を、板の間に上がったわたしの足元に投げてよこした。
「かあさんと買物にいった」
投げられた座布団を壁ぎわに移して坐った。たぶん駅向こうの大型スーパーまでいったのだろうと、マイクと歩く母のいきいきとした姿を思いえがいた。土間
に立ったままの妻は、もじもじと、そのうち帰ってくるからという父の言葉を押し返して、「表通りまで」と迎えに出ていった。叔父とわたしと父が残された。
「おとなしい子やな」
叔父はわたしの方にからだをふりむけて、そういった。いつにない、しみじみとした口調だった。
「そうやろ、藍子の子供とは思えんわ」
うなずきながら、わたしはそう答えた。
「しかしえらいよ、あの子は。アメリカから一人で日本までくるんやけん」
「忙しいらしいわ、藍子」
「忙しいのはええけど、夏休みはガイドのかきいれ時なんよオトウサンいうて、電話一本入れてきたきりで、いきなり小学生の子供を荷物みたいに送りつけてく
るんやから、母親失格だ、あれは」と、新聞をたたんだ父が横から割りこんできた。
妹の藍子は、アメリカの首都ワシントンで、裕福な日本人観光客相手のガイドをしている。ホテルまでリムジンで送り迎えをするようなそんな気疲れのするガ
イドだと妹はいってきていた。
「だけど、親孝行かもしれんよ。孫の面倒をみさせてあげようという」
笑いながら、わたしは妹の肩をもった。
「親孝行なもんか。かってなんや、藍子は。おまえや裕子さんにも迷惑かけるし、第一、お願いします、すいませんという気持ちがあれにない」
父は言いつのったが、それは反対だった。子供のいないわたしたち夫婦にとって、マイクの帰郷は喜び以外のなにものでもなかったし、そしてたぶん父や母に
とっても、唯一の男孫の滞在は、くすんだ日々の活力剤のはずなのだが、いかんせん父と妹はマイナス同士で、ああいえばこういう、そんな関係がだいぶ以前に
始まって、今もつづいている。
「ま、藍子ちゃんもたまには子育てを休みたいやろし、マイクもみんなに会いたくて、遠いとこから来てくれたんやから、大事にしてあげないかんけど、実際、
この年になったら子供の面倒みるのが思っているよりも大変なのは事実や。とくに、子供が一人で歩けるようになってからが」と叔父は、遠くをみる目つきで、
つぶやくようにいった。
そういえば、従妹の和美の産んだ女の子を、こわれもののように抱いて離さない叔父の姿を何度も見たなとわたしは思い、そのときのうれしそうな叔父の顔
と、いささか冷静にそんな二人の様子を眺めやっていた叔母のたたずまいが思いだされて、なにかを合点したようにかんじた。
その叔父の孫の女の子も、いまはT市の幼稚園に通っていて、ときたま現れたときの世話係は、もっぱら叔母がうけもっているらしい。
「ただいまっ」
いきおいよく玄関がひらいて、マイクが帰ってきた。
「おかえり」
わたしの言葉に、マイクはうれしそうに反応して、ひっついてきた。
「おばあちゃん、すごいんだよ」
マイクの手に、ぬいぐるみのアンパンマンが握られていた。
「UFOキャッチャーか」
「うん」
母が、ゲームコーナーの係員にいきなりクレームをつけたり、子供をだしに頼みこんだりして、都合のいいように人形の山を変えさせていることは知ってい
た。
「インチキなんだけど、うまいんだよ」
どこで、インチキなどという言葉を覚えてきたのだろう、マイクは、さも感心したようにそういってわたしの背中にもたれた。
「ただいま」
妻と母が帰ってきた。
「じゃ、そろそろ」
そういって叔父は立ち上りかけて、大きくよろけた。はだかの足が土間にこぼれた。
「だいじょうぶな」
母がそういうのを手で制して、叔父は無言でサンダルを履いた。そしてゆっくりと玄関のガラス戸を引くと、へたへたと茂木町へ帰っていった。
「具合悪そうやな」
わたしの声に、父も母も答えなかった。
「かずのりさん、あしたもくるやろか」
「たぶん、くるぞ」
その秘密めいたひびきに、「叔父さん、どうかしたんですか」と妻が反応したのを「うん、ちょっとな」と父は流して、「それより、あんたは」と話題をかえ
た。「わたしはあいかわらず」。腎臓に持病をもつ妻はわたしを見ながら、不得要領にそう答えた。
次の週の金曜日にやっと仕事が一段落ついて、これから一週間はマイクを家であずかれるからと電話をいれて、夕刻、実家にいくと先日と同じ姿勢で、座布団
をうしろによけた叔父がいた。今日は叔母も一緒だった。
「あれ、裕子さんは?」
「あれは家で料理をつくってる」
「マイちゃんの」
「うん、今夜は手巻きずしらしいわ」
「そう、それはたのしみ」といいつつ叔母は手元の風呂敷包みをほどいて、「よかったら、これもどうぞ」と、パックに詰まったおはぎをとりだした。どうや
ら、わたしの来ることを聞きつけて余分につくってくれていたらしい。大きな、横綱級のおはぎだった。
「ええのに」
そういいながらも、わたしはそのパックを受けとった。おいしそうだった。
「なんでも、食べられるうちが華」
つぶやいた叔父の声に張りがなかった。
「具合、わるいんな」
「うん、ご飯が食べれんのよ。食欲はあるらしいんやけど、固いもんは咽喉を通らんゆうて、のみものだけ」
叔父を制して、叔母が答えた。聞くと、先月のはじめ以来だという。
「こんなこと、うまれてはじめてよ。ものが食べられんで、おまけに、せっかく食べたもんを全部もどすなんて。もったいのうて、三日三晩寝れんで、しかたな
いから医者にいったら、ようけ血とられて、おまけにカネまでとられて」といいつつ叔父は、はだかの足をかかえるようにあぐらを組んだ。叔父はもともと話を
面白くするたちの人で、そこに脚色の入っていることは間違いなかったが、笑える話ではなかった。急激な叔父の衰弱がそれを阻んでいた。めずらしく父も母も
黙りこんでいる。マイクは二階でファミコンらしかった。奥の階段を上がった二階の、結婚して家を出るまで弟が居た部屋に、古いファミコンが置き去りになっ
ているのをマイクが使って、遊んでいる。
「あの子、よんでくるわ」
おはぎのパックを手に、わたしは二階に上がっていった。廊下の向こうに、チャラン、チャランと景気よくゴエモンが小判を投げる音が響いていた。
「ちょうどよかった。ちょっと留守番しててくれんか」
あわただしい一週間が過ぎて、来週にはマイクがアメリカにかえるという日に、彼をつれて実家に行くと、父はでかける用意をしていた。母は化粧中だった。
「病院にいかないかんのや」
茂木町の叔母の代わりだという。「わたし恐くてよう行けんから、あにさん代わりにいって」と頼まれて、耳の遠い父だけではと、母も一緒にいくことにな
り、でかける直前だったらしい。「ぼくの車でいこ」。一瞬、父はかんがえていたが、「ふん」とうなずいて「たのむわ」といった。病院は隣町の総合病院だっ
た。
それまでにぎやかだった車の中が、国道に入ったあたりから急に静かになった。一人ではしゃいでいたマイクも異変に気づいたのか、いつのまにか押し黙っ
て、外を見ている。駐車場の奥に車を停めてわたしが、「ここでマイクと待っているから」というのをさえぎって父は、「おまえも一緒に来てくれ」といった。
「ぼくは?」
「あんたは、ここにいなさい」
母の言葉にしぶい顔で、マイクはバックからゲームボーイをとりだし、電源をいれた。
午後も三時を過ぎると、病院は閑散とするものらしい。そこここに入院患者の姿はあったが、潮干狩で賑わったあとの海岸のごとく、ひそやかな癒しの波が廊
下をつたって院内にうちよせ、照明さえもが、なにか膜のかかった薄ぼやけたものに変化していた。階段横のエレベーターで三階に昇って、胃腸科の看護師詰め
所を探した。
看護師に、そこで待つようにと指示された暗い廊下の長イスに母とわたしが腰かけ、例によって父は、なにかを探索するごとく、きょろきょろ歩き回っては
ひょいと戻ってきて、「レントゲン室は廊下の端らしい」などと報告してくれるのだった。手持ち無沙汰に缶コーヒーを飲み切ったところで、声がかかった。
看護師に案内されたのは処置室の奥で、込み入った器具類の間をぬけてその簡素な部屋にはいると、中央にテーブルがあって、折畳みのパイプ椅子が六脚、
テーブルを囲んで置いてあった。医師たちが簡単な打ち合せをする場所のようにおもえた。
「ここで」と看護師が去ってから、十分ほど待たされた。来るのが早すぎたらしい。父の習慣に従って、告げられた約束の時間より三十分以上早く来たことが待
ち時間をつくった。たぶん医師は、分単位のスケジュールに基づいて行動しているはずである。あらわれた叔父の担当医は、三十代前半の物静かな人だった。余
計なあいさつは省いて、持ってきたファイルから一枚の紙をとりだすと、彼はそれをわたしたちの前に拡げた。それは、内臓の簡単な解剖図で、手書きだった。
赤線が引かれていた。それが癌の侵食部位を示すことは一目で判った。
「ガン、ですか」
「ええ」
「いかんのですか」
「・・・」
医師はまっすぐに父をみていた。まるで診察をしているようであった。
「一度開いてはみますが、私の予測では、たぶん手がつけられないとおもいます」
「・・・」
母のため息がきこえた。
「お兄さんですよね」
「はい」
父は頭を縦にふりながら答えた。
「こちらの方は、息子さん?」
医師はわたしをゆびさした。
「はい。あっ、いえ。これは、私どもの息子で、あれの息子はいま徳島におります」
「そうですか」
医師は、それ以上聞こうとはしなかった。
「いつまでですか」
「一年、もてばいいんですが」
「だめですか」
「おそらく」
「・・・」
父がかすかに首をふっていた。わたしたちに言葉はなかった。そんな、と震えがきた。なぜ、そんな理不尽な、メロンが中から腐っていくような死に方を叔父
はするのか。そうおもうと切なかった。くやしかった。
「最善の手は尽くします」
その言葉だけが救いだったが、救いがあるわけではなかった。いずれにしろ叔父は死ぬのだ、理不尽に。なんの罪障もないというのに。
その八月の終わりの日。黒い不安は消しがたいものとなって、秘密が生まれた。見え透いた、うわべだけの秘密。しかし、それは叔父へのせめてものはなむけ
だった。あの日、病院であと一年と宣告されて消化試合が始まって、来シーズンはなかった。いわれなく叔父は、もうすぐ「生」から解雇されるのだ。
「痛みは来ますか」
「痛みは、すでに来ているはずなんですが」
と、あのとき医師はいった。
「よっぽど我慢強い人ではないでしょうか。普通であれば、痛みで、もう少しまえに病気が発覚していたはずなんですが」
「そうですか」
父は最後にそういうと、なぜか満足そうにうなずいて、「できるだけ苦しませずに往かせてやってください」と頭をさげた。蒸し暑い、なんともやりきれない
八月の午後だった。
その晩夏の一日から、やがて秋となり、冬となって、叔父の衰弱は段をつけたように深まっていたが、なんとか十ヵ月はもちこたえて時間切れ間近の延長戦で
はあったが、春以来、叔父は奇跡的に小康状態を保って、初めがっくりと肩を落としていた父もいまでは諦めきった透明感を漂わせる十一ヵ月目を迎えようとし
ていた。
死者をまえに、父が冷静であることは、過去の経験から知っていた。元、陸軍衛生兵で南方の戦火をくぐりぬけて生還した体験が、一種の慣れをうんでいるの
かとも考えられたが、なにせ自分が病気のときはいつも大げさにいいつのる父ゆえ、瀬戸際で過剰な反応をしめさないかと母はひそかに心配して、家ではその話
題をなるべく避けているようだった。わたしたち夫婦もまた、父の前でそのことに触れることはなかった。
父と叔父とは、基本的に異質な風容の持ち主であった。叔父は、どちらかといえば頑健で骨が太く、病気とは無縁の人だった。父は、芯は強いが、時々病を呼
びこんではそれを人に吹聴するタイプの人である。たぶん父は祖父方の血を受け継いだのだとおもう。叔父はあきらかに祖母の息子で、祖母の実家である富山家
の骨調と気質をそのままに体現していた。
祖母の里はうどん屋で、七人姉弟妹の長姉が祖母で、下に妹が三人と弟が三人いた。その祖母の三人の弟たちはそれぞれ陽気で健康で、しかしなぜか一人では
生きていけない男たちだった。
気の強い、愉快な祖母だった。猪の首の太ったからだをまっすぐに、少し背中を反らせ気味に歩いて、角々でむやみに声をかけられた。身内には優しい人だっ
たが、わたしの母とは確執があった。
長男は、教員として独立した生活を送り、次男であるわたしの父が、復員後、ささやかな家業を継いで一家をささえた。祖父はわたしが生まれてすぐに隠居生
活に入ったが、祖母は、死ぬまで現役で采配をふるった。
父の下に昇という弟がうまれて、ハーモニカを吹ける年令までには育ったのだが、あっさりと死んだ。叔父は、そのつぎに生まれた四男坊で、父とは八つ違い
の末っ子だった。
祖母は誰よりも叔父を可愛がっていた。長男と次男は早くから外に出て、そのためか、どちらかといえば向学心にあふれた独立欲の強い息子たちであったが、
末っ子である叔父は、いつまでも両親のそばにいてのんきにかまえているのをそのまま容認され、放置されていた。
祖母の出里である富山家の男たちは、みな人が好くて、ぐうたらだった。働き者は祖母だけだった。その血筋をそのままに、叔父は働き者であると同時にぐう
たらだった。生活に必要な分だけは一心に働くが、それ以上あくせくすることはなく、仕事よりも遊びが好きだった。それも金のかからぬ、こどもじみた、たわ
いのない遊びが。
叔父は結婚後もしばらくは家に同居していたが、長男が生まれ、その下に女の子が生まれてから別所帯となった。「一時は十一人もが家にいて、それは大変
だった」は母の口癖で、それは経済的にもそうであっただろうが、むしろ精神的な逼迫感の方がつよかったのではなかろうか。その当時の一触即発の緊張関係
を、映画の断片のごとくにわたしは覚えている。
わたしが、叔父のことを「おまえ」と呼んでいたのは、叔父が二十代前半の、まだ結婚するまえのことだったとおもう。改めるように父からきつくいわれるま
で、わたしはそれが異常なこととは夢にも思っていなかった。叔父は友達であった。わたしの一番親しい、気心の通い会った、父よりも母よりも誰よりも多くの
時間をわたしのために割いてくれるその人が、父の弟であり、わたしの叔父さんであることをわたしは忘れていたのである。いわれて気がついて急に恥ずかしく
なった。子供心にわるいことをしたという気持ちが沸いて、しばらくは叔父の顔をみるのがつらかったが、それは、けっして蔑みでもなく、軽視でもなくて、一
種の愛情表現だった。
何年か前、まだ幼かったマイクが、「まもーる」と、変なアクセントをつけてわたしを呼び、わたしの頬に自分の頬をこすりつけてきたり、わたしの手をに
ぎって離さなかったりして、わたしをくすぐったい気持にさせたとき、そのことに気づいた。
だが、その時わたしが抱いた、できるならばマイクよ、このままわたしを「まもる」と呼ぶ気持のままに大きくなってくれと願った心情と同じものを、当時の
叔父がもっていたかどうかはわからない。やがて、わたしが離反していく予感は叔父のうちにあったはずだし、今だに子のないわたしと違って、叔父はやがて結
婚してすぐに長男に恵まれたのだから。
その長男、わたしにとっては従弟にあたる孝史が、いつ結婚したのか、わたしは知らない。二人の子持ちだという。いつのまにか疎遠になってしまった日々の
長い綻びがそこに示されている。
父や母も連れて、叔父と一緒にどこか静かな保養地に行ってみたい、そう思いだして、がまんして、また思いだして矢も楯もたまらず妻に話すと、「わたし
も」と妻はうなづいて、いさんで実家に聞きにいってくれたが、「もう駄目みたい」とがっかりとした様子で帰ってきた。予想よりも病状がすすんでいるらし
い。入院してすぐに開腹手術が行なわれて、崩れた部分を始末して、食道から腸にぬけるバイパスがもうけられたが、それは最初の診断を覆す延命策とはならな
かった。「もう、帰りたい。」との本人の希望がようやく聞き入れられて、先週から自宅に帰っているという伝聞が叔父の小康状態をあらわすものと考えたわた
しの認識は、甘かったようである。すでに病院にいる意味がなくなっていたのだ。
遅かったと、こころの中で舌打ちした。なぜもっと早く気がつかなかったのか。チャンスは何度もあったのに。おもえば、何年か前に、毎年夏に帰郷するマイ
クにかこつけて叔父夫婦を誘っておけば一緒に小旅行ができたかもしれないし、あるいは叔父一人を海水浴か、釣りに誘うこともできた。機会をもうけて、頼み
にいけば断る叔父ではなかった。だが、そのことが却って仇になったのかもしれぬとわたしは思った。いつでも応じてもらえると思うから後回しにして、とうと
う機会を失った。
「あした、一緒にお見舞いにいこうよ」
妻の言葉に「ああ、そうしよう」とわたしはこたえた。はっきりと叔父の顔を視ておきたかった。
テレビが鳴っていた。振り向いた顔が別人だった。骨だけが叔父のカタチをとどめていた。正視できなかった。
「でかけた」
のどを絞るようにして、叔母のでかけていることを教えるのに数秒かかった。
「ねてたらええ。おきあがらんでも」
布団のそばによって手で制したが、叔父はからだをねじるようにして布団の上にあぐらをかいた。入歯のない口元が無残だった。おおきな眼だけがそのまま
残って、鈍い光をたたえていた。
「叔父さん、これ」
服紗から取り出した見舞いの熨斗袋を妻が畳のうえにさしだした。きょとんとした表情で、それを見ていた叔父は、「裕子さん」とうつろに言って、あぐらを
正座に変えようとした。
「おっちゃん、うごかんとき」
わたしの声に、叔父は動きを止め、ゆっくりと頭をさげた。
「すまんな」
「いいえ。なにもできなくてすいません」
妻は、服紗をたたみながらそういった。熨斗袋のなかには、叔父夫婦とわたしたち夫婦とが一泊旅行にいけるだけの金が入っていたが、それはただの紙幣だっ
た。カネというだけの値打ちしかない、形式でしかない、そして来るのが遅れたことの言い訳であるような、そんな。
扇風機が回っていた。表で、子供の声がした。小学校からの帰りらしかった。連れ立ってカバンを揺らしながら歩いている様子が手にとるようにわかる。わた
しもよく、この家の近くで遊んだ。路地の入り組んだ、息を殺さなければハミだしてしまうような一角だった。叔父が、不自由に手をのばして扇風機の向きを変
えようとしていた。
「いいのに」
そういって妻が手をふったのをうけて、叔父はあっさりと腕をひいた。そして、なにをおもったのか、今度は枕元の箱に手をのばすと、そこから何枚かの
ティッシュをくしゃくしゃとつまみだして、「こんなもの」と叔父は、そのわしづかんだティッシュを顔の前にもってきていった。「あれの時にしか使わんもの
とおもっとったけど」
叔父は苦しそうに息を吸い込みながらそういうと、注視しているわたしと妻の反応を確かめるようにまた大きく息を吸い込んで、「ようきてくれたな」といい
ながら、見開いたままの眼に、その紙を当てた。
奇妙な姿だった。目に涙はみえなかったが、叔父は確かに泣いていた。骨だけのからだをねじまげて、何かをしぼるように叔父は、声もなく泣いていた。唖然
として、わたしは言葉を失った。妻も同じだった。わたしたちは、なにか奇妙な、人間の芯のようなものを見せられて、ただそこに凝固していた。
叔父の口から病気に関する愚痴が、ただの一言もでなかったことが瞬時によみがえって、病名を隠し通そうなどと示し合わせたことが、なにか戯言のような、
間の抜けた厚意の押し売りであったことに気づいた。一緒に泣いてあげるべきではなかったか。自分は避けてとおってきたのではないのだろうか、死にゆく者を
例外として見るために。
そんなことをおもいつつ、そっと叔父の横顔をうかがうと、叔父は、泣き笑いのようなベソかきのような表情をうかべながら、じっとうつむいて、放心してい
た。
【暗海】
海は、夜に蘇生するものらしい。ものうげで他人行儀な昼間の佇まいからは想像できないほど馥郁とした表情をみせて、海は、闇のなかに横たわっていた。
遠浅の砂浜にかぶせた半透明のゼラチン、そんな感じの海中にそっと忍びこむと、ふんわりと海水が脛をつつみ、ゴム草履の足裏を柔らかく砂浜がささえてく
れた。
「深くへは入るなよ」
うしろで声がする。ふりむくと、叔父が立っている。砂浜と草地の境目に立って、遠くをみている様子だった。カンテラがゆれながら光っている。そのノズル
がつまってカーバイドの出が悪く、点けるとすぐに消えるカンテラをようやく叔父は直しおえたらしい。
いったん着いた砂浜でカーバイドに用意の水をそそいでから、ノズルがつまっていることがわかった。ここでまっていてくれといわれたが、闇の深さに怖気づ
いて、わたしは、「一緒に行く」とバイクの荷台にまたがった。
来る途中の畑の中に一軒家があって、かすかに灯りがもれていた。たぶんあそこに行くのだろうと思ったその通りに叔父は、その家の草むした庭先にバイクを
停めて、暗い道を歩いていった。虫の鳴き声ばかりが高い、淋しい場所だった。農家のようだった。庭に西瓜がころがっていた。
玄関に灯が点り、叔父の頭をさげる姿が見えた。わたしは駈けていった。暗い奥から錆びた針金をもって出てきたその家のぬしは、「ぼくもいっしょやったん
か」といいながら海水パンツ一枚のわたしを一瞥して、すこし和らいだ目つきになった。
「かえさんでええよ、あげるから」
そういって渡された針金の先をカンテラのノズルの穴に差し込んで使えることを確認した叔父は、「夜分、どうも」と頭をさげた。
「海老な」
「ええ」
「海老もええけど、いまごろのツブ貝もおいしいで。今日みたいな闇夜やったら、岸のほん近くに転がってる。ぼくに拾わしたら」
そういって農家の主人はかすかに笑った。
「そうしてみます」
叔父は、急いでる様子をみせて、再び頭をさげた。それからまた海岸にもどって、わたしが浅瀬をうろうろと歩きまわっているそのあいだに叔父はカンテラを
直したのだった。ようやく点った白い炎は、妖しく叔父のからだを浮き上がらせた。
「直った?」
「おう」
みると、叔父はズボンを脱いで、ステテコすがたになっている。近づいて、わたしにカンテラを渡した叔父は、沖のほうへと歩きだした。牽かれてあとを従い
ていった。
静かな夜だった。じ、じっとカーバイドの爆ぜる音だけが高かった。海が腰まできていた。目をこらすと、海老が飛んでいる。カンテラの火に白く照らしださ
れた海ずらを、鮮やかな光跡を残して海老たちが、闇の中へと過ぎていく。
「いたっ!」
わたしの声にふりむいた叔父は、「うごかんと、手だけのばせ」と、タモで自分の前方を指差しながら身構えた。カンテラをさしだすと、うっすらと海の中が
透けてみえた。海面の少し下になにかがいた。それは、海の中を漂っていた。
「あそこ」
「どこよ」
「おっちゃんの腰のとこ」
叔父は静止して眼をこらしたが、見つけられない様子だった。
「そこ」
「ああ」
それは小型のチヌで、ゆらゆらと居眠るごとく海に身をあずけているのだった。
「とって」
「ああ」
叔父は海に沈めたタモをすっと動かして、チヌを掬い上げた。
「こっちに」
わたしのさしだした魚篭の中に魚は収まった。叔父は肩先でくるりと柄を回して、タモの水気を払った。
「びっくりしとるわ、このチヌ。きっと」
「当歳やからな」
「まだおるやろか」
「そら、おるやろ。けど今日は海老獲りにきたんやから、チヌはそれ一匹にしとこ」
叔父は、海面に眼をこらしながらそういった。だんだん深みに入っていくことに、かすかなためらいが生じていた。叔父には腰の深さが、わたしには胸だっ
た。つんつんと無作為に海老が飛びはねていた。眼が慣れてくると、海老は海面すれすれを滑るように泳いでいることがわかった。
「そこ」
サッ。
「あすこ」
サッ。
叔父のタモはわたしの指示どおり動いて、三回に一度くらいの割りで海老を捉えた。みると叔父のランニングは完全に濡れていて、頭髪には海水がかかって、
ひたいに垂れていた。
「これぐらいか」
「うん・・・」
「まだ、獲るか」
「うん。」
「そしたら、やってみ」
叔父はわたしにタモを渡して、カンテラと魚篭を引き取ると、海の中を移動した。つられてわたしも動いた。
海が深くなるにつれて、闇が濃くなった。わたしは叔父の腰にへばりつく感じで海面に眼を凝らしていた。ポマードの匂いがした。足裏が頼りなかった。突
然、あごが海中に没した。もがくと余計深みに填まった。支えをなくしてわたしのからだはずぶずぶと海に沈んだ。
「チカラ、ぬくんや」
遠くに声がした。海中でもがくわたしの首を叔父の指先が攫んでいた。叔父は、うしろから胸をあわせてわたしをたぐり寄せると、移動しつつ、膝で、わたし
の尻をつきあげた。海面にわたしの腹がぷくりと浮きでた。
「もう大丈夫や」
叔父の声が頭上に聞えた。手を放されて、あわてて足を伸ばすと思いがけぬ近さに海底があった。
「死ぬかとおもうた」
「足をとられただけや」
「・・・」
「もう、帰るか」
「うん」
浅瀬の露出した砂浜まで引き返してふりかえった海は、遠かった。足元に丸い貝が、転がっていた。
「ツブ貝?」
「そうや」
「ひろていこ」
わたしは魚篭のなかに貝を集めはじめた。叔父はそんなわたしの様子に安堵したのか、ふっと息を吐いてからだをねじった。そして濡れた髪の毛を手で梳いて
後ろに集めると、ステテコを脱ぎ、ランニングを脱いで絞った。海水がじゅるじゅると砂浜に垂れて、夜の深さが雫に凝縮した。
わたしがついていったのだった。叔父の新しい銀色のバイクはのろのろと前を走っていた。荷台に商品が満載で、カーブの時だけ叔父の頭が見えた。わたしは
景品の自転車に乗っていた。新興のガムメーカーが、市場拡大のため一万セットに一本の割りで設けた一等賞の当たりガムはあらかじめ別送されていて、それを
この地方の代理店である我が家で猫ばばして、わたしに新型の自転車が与えられた。
土曜日の午後だった。朝の配達をおえて、なにか気乗りのしない様子で昼めしを食べていた叔父に、わたしが頼み込んだ。
「あぶないから、やめとき」
祖母がとめたが、わたしはきかなかった。
「えろなったら、途中で帰ってくるから」
そういって強引に出てきた。経験はあった。父が何度かわたしを隣県の自分の得意先に連れていってくれていた。が、そのときは箱バンの助手席だった。わた
しはただ黙って車に乗っていれば、それでよかったのである。
バイクの進み方と自転車の走り方が違うことは、すぐにわかった。スピードの問題ではなかった。形は自転車と大差ないが、バイクはあきらかに車の仲間で
あった。おくれまいと必死で自転車を漕いでいるうち、街を外れた。時折停まって、叔父はわたしを待ったが、近づいて声のとどく範囲までくると、先に進ん
だ。
小高い丘の全体が神社になっている「丸山さん」の手前を左に折れて、農家の納屋が並ぶ裸道をぬけると、見覚えのあるトタン屋根が見えた。そこは青竹やら
孟宗竹やらを売る竹屋で、その店の裏口でいつか、釣り竿用の竹を小銭で買ったことを思い出したが、そこから先は未知の土地だった。
木造の古びた郵便局の角を曲がった。道は腰砕けにくねりつつ少しずつ登り勾配になって奥が見通せなかった。田舎の匂いがしていた。匂いもそうだが、街と
田舎の決定的な違いは、むしろ音にあった。どんなに閑静な住宅街にいっても音はこもっている。静けさは仮初めで、一皮むけばそこに音は渦巻いていて、たえ
まない振動と饒舌が隠されている。だが、当時の田舎には白黒の音しか存在しなかった。音には細かな濃淡があり、ときに複雑な錯綜をみせて濁りもしたが、し
かし、そこに生じている音のすべては風景の中にあった。例えていえば、それは減衰音であった。
そんな田舎と街の境界を自分が越えたのを、わたしはそのとき感じとった。ふしぎなくらい静かだった。叔父の銀色のバイクがつきあたりの雑貨店の前に見え
た。人影はなかった。あるのは、光と影だけで、道を囲む農家の板塀が、やわらかく凹んだ裸道に濃い影を落としていた。自転車をおりて、ハンドルとサドルで
自転車を支えながらわたしは、雑貨店への登り道を上がっていた。水の音が聴こえた。しょろしょろと涼しげな音だった。それは足元から聴こえた。みると、道
端の細い板囲いの中を水が流れていて、何粒かのふやけた米がそこに交じっている。水は、生活排水にしては異常なくらい澄んでいて、もったいない程であっ
た。うちの近くのドブとは大違いだとわたしは思い、そう思ってまわりを見渡すと、付近の古ぼけた粗末な家さえもが、なにか品のあるものに見えてくるのだっ
た。
叔父はすでに荷をほどいて上がり框に並べ終えていた。これから商談がはじまるのだと思い、わたしが立て簀の影に隠れようとするのを、その店の女主人が目
ざとくみつけて、「見ん子やな」とつぶやいた。
「うちの、あにきの長男」
叔父が低くそう言ったのをうけて、雑貨店の女主人はおおきな笑顔をつくった。「ほうな。野田さんとこの跡取りさんな」
わたしは、付いてきたことを少しばかり悔やみはじめていた。店の奥に土間があって、七輪に大きな浅いナベがのっている。ナベの中には見知らぬ茶色い植物
があふれかえっていた。惹かれて近づくと、それは刺のある小さな三角の実のかたまりで、湯気のなかにかすかに甘い匂いが混じっている。
「ヒシノミ、いるんな」
うしろから届いた女主人の声に、わたしはからだを固くした。
「ちょっとに、しとき」
叔父の手が横からわたしのポケットにのびて、バラ銭の中から、十円玉がひっぱりだされた。「食べ慣れんもん食べて、腹こわしたらいかんけん、おまけはい
らんよ」そういいながら叔父は、その十円玉を女主人に渡した。網ですくって、新聞紙の筒に入れられたヒシノミを前にして、食べ方が解らなかった。
「つめで剥いてたべるんよ」
雑貨店の女主人は実演してみせてくれた。粉っぽいものだった。三個食べて、後は新聞紙を丸めてポケットにしまった。腿に水気が沁みた。
叔父の商談は一向にまとまらなかった。一人の客がきて乾麺を買い、つぎに来た中学生が、「おばちゃん、トコロテン」と声をかけると、つづけて三人の仲間
がかたまりで入ってきた。
「いっしょ」
四人は奥の土間の黒ずんだ木卓を囲んで、タガのゆるんだ醤油樽をそれぞれの尻の下にひきよせた。
「おっちゃん、あの自転車、どこからもってきたんな」。かれらは叔父と顔見知りのようであった。
「この子が乗ってきた」
叔父はわたしを指差した。
「ほう」
トコロテンが出てくるまでの場つなぎに違いなかったが、ヒヤヒヤした。知っているかもしれないと思った。
「見たことあるよ」
それはそうであろう。この雑貨店の立て簀の影のガラス戸には、色は褪せていたが、例のガムメーカーの宣伝ポスターがまだ貼りつけてある。かれらは暇つぶ
しに何度もそれを見ているはずだった。わたしも先程それを見た。そこには景品の自転車が大きくカラー写真で載っていた。
「おれも」
もうひとりがいいだして、ばれそうな気配だった。わたしはもじもじとポケットから袋をとりだして、うつむいてヒシノミを爪で割いた。
「新型やろ、あの自転車?」
「そうや、新型のピカピカやで」
叔父はこともなげに答えている。
「変速機がついとるで、あれ」
「レバー引いて、力いっぱい漕いだら六十キロはでる」
「すごいな」
「そやろ、あんなんはなかなかない」
「ほしいわ」
「がんばって、買ってもらい」
叔父はそういってほほえんだ。わたしは、からだが縮む思いだった。
トコロテンが出てきた。中学生たちはあらそうように醤油をかけて、いっきに啜った。ずるずると景気のいい音がした。
「おれ、これ飲めるで」
みると、中学生の一人が、食べ終えた空の器いっぱいに醤油を流しこんでいる。
「うそやろ」
はやしたてるように仲間がいった。
「ほんとや。これぐらい屁でもないわ、見とき」
そう言い放つと、その中学生は醤油の入った器をゆっくりともちあげた。
「やめとき、死ぬぞ」
商談を中断して、叔父が止めにはいった。「おっちゃん、だいじょうぶや。こいつは、馬の糞でも食べられるやつなんや」
仲間がいった。
「けど、醤油はいかん。あとでどっと鼻血がでて、凄い苦しみかたするで。へたすると死んでしまう」。まるで経験済みのような口ぶりに、中学生の手が下がっ
た。
「今日は、やめとくわ」
「そうし、それがええわ」
女主人もでてきて、いった。器は下ろされ、蓋をあけたガラスの醤油入れに醤油が、こぼれながら戻された。
「またな」
その店の女主人にではなく、叔父に向かって一人がそういうと、四人は帰っていった。わたしは、ほっとした反面、気抜けもしていた。半分だけでも醤油を飲
ませてみたかった。どんな苦しみかたをするのか見てみたかった。
「あれ、景品のな?」
ようやく商談がおわり、詰め替えた商品をバイクに積む叔父に女主人がきいてきた。
「さあ、違うとおもうけど」
「・・・」
叔父の顔にかすかな羞恥がうかんでいるのをわたしは見つけた。
そのころがわが家の最初で最後の繁盛期だった。まだスーパー形式の大型店が地方に出現する前の昭和三十年代前半の数年間は、家で扱う安直な、子供だまし
の菓子や玩具類のなにもかもが、その仕入れが間に合わぬほどに売れて、家はうたかたの好況を享受していた。
わたしが幼稚園をおえて小学校に入学した頃が、そのまぼろしの頂点であったらしく、園服はもちろんハンカチから靴下まで、クリーニング店でアイロンがけ
したものを身につけてわたしは幼稚園に通い、小学校入学時には母方の祖父が手配して、大阪の専門店に誂えた牛皮のランドセルと編み上げの特注靴が用意され
た。
東京から出張してくる取引先の営業マンに依頼して、台東区にある玩具メーカーに、地元の駅名と地酒の広告の入った精巧な鉄道模型を作らせたのは、わたし
が小学二年生のときで、畳二畳分のその模型を、わたしは一人で組み立てることができなかった。叔父がほとんど組み立ててくれた。
楕円形に敷いたレールの真ん中に座って、トランスのレバーを、叔父はいかにもうれしそうに操作した。わたしはレールの外で、ただそれをながめていた。商
売はヘタだったが、手先の器用な人だった。バルサ材の飛行機の作り方を教えてくれたのも叔父だった。
衣服にこだわらず、暑い時分には、いつも裸足で、あぐらを組んだ叔父の足先の太い親指に黒い毛が密生しているのが、わたしには不思議だった。
その、親指が太くて全体がまるっこい足のかたちは祖母とまったく同形だった。汗かきで、すこしでも熱く感じると、真冬でもすぐに靴下を脱いだ。その靴下
が臭いと、わたしの母は目の敵にした。「かずのりさん、どうにかならんのえ、そのくつした」そう責められて、叔父は無言で、床に脱ぎすててあった靴下をズ
ボンのポケットに押しこんだが、たしかに叔父の靴下は臭かった。が、それは、わたしの父も同じであった。そして、わたしも。
母がなぜ、叔父だけをやりだまにあげたのか、そのわけは、祖母が死んでからしばらく経って、ある日台所の様子が一変して、古い祖母にゆかりの戸棚や食器
類が一夜にして捨てられたとき、見慣れた風景画のその実景に出交わしたようにわたしに解ったが、当時、叔父や父は、そのことをどのように考えていたのだろ
うか。思いつつ、しかしそれは、聞くに聞けぬ、ひそやかな深夜の物音のような事柄でもあった。あれは、わたしだけが気づいていたことなのだろうか?
【桜よ】
朝から、蒸し暑い一日だった。昼前にあがった雨のなごりが夕刻まで尾をひいて、ぺたぺたと病院の廊下が湿っていた。早めに仕事をきりあげて駆けつけたこ
れからが正念場ではあったが、先はみえていた。「仕事を片付けてからでええから」との母の電話が、そのことを教えた。三階の廊下の長イスに父がひとり座っ
ていた。
「どんな?」
「・・・」
父はからだを小さくゆがめた。
「サンマルロク」
一番奥の右の病室が、叔父の最期の居室になるようであった。息をつめて、扉をひらいた。ベッドをはさんで従妹と叔母が詰めていた。
「・・・」
声がでなかった。無言で顔を見合った。隅の丸イスに腰掛けていた母が、かすかに手をあげてわたしをまねいた。わたしは母の横に立った。
「おとうさん、まもる兄ちゃんがきてくれたで」
そういいながら従妹は叔父の耳に口をよせたが、むろん、反応はない。死の床についた者が最期にどのような反応をしめすか、わたしは知っている。テレビド
ラマがいかに絵空事であるか、それをなぜ多くの人が指弾しないのか。その秘密が、まさに、この無反応にあることは明らかであった。現実はドラマにはなりえ
ない。それは、現実が現実であるゆえに。
「おとうさん、まもる兄ちゃんやで。おとうさん。きこえるやろ。返事して」
従妹は、だだをこねるように叔父の寝巻をわしづかんで身震いしていた。
思えば彼女は、叔父に一番近い存在だった。兄は手間のかからぬ優等生で、早くに自立していたが、生まれてすぐに小児麻痺にかかった従妹は両親の愛と苦難を
独り占めして育った。
美しく成長し、結婚し、一人の子をもうけた今も、彼女は両親の元を完全には巣立っていない。ふと、わたしの脳裏に、内に曲がった幼い細い足を太い手で優
しくいとおしそうにいつまでも撫でて、「痛いけど」と呟きながら、悲しそうに矯正ギブスを填めていた叔父の、遠い日の姿が浮かんだ。ついこの間まで、そん
な、生きることに不器用で我慢強い叔父はいたのだ。叔父の息が荒くなった。
「おとうさん、しっかりして。もうすぐ孝史がきてくれるから」
芯がぬけたみたいにベッドの脇に屈みこんでいた叔母が、色の抜けた叔父の毛深い右手を深くにぎってそういった。
たぶん従弟は、いま車を走らせていることであろう。スーパーの店長なのだ。休みがとれなくて帰郷できなかった日々を悔みながら県境の山を越え、もう少
し、あと少しと念じつつ、従弟はハンドルを握りしめている。そうおもうと胸が痛くなった。
通用口から外のテラスにでて、従弟を待った。先程は空きを探すのに苦労した駐車場も、今は盤上の駒のごとく車が留まっているだけで、薄闇が靄となってそ
のまばらな車と車のすき間をうめていた。端に止まった車の中から人がでてきた。弟のようだった。弟は、結婚して女の子が生まれて四駆から乗り替えた新車の
ワゴン車で、いましがた着いたらしい。丸いからだをゆらして弟が外階段を登ってきた。
「どんな?」
わたしを見て、同じ聞き方をしたのが、可笑しかった。
「もう、あんまり」
わたしはそうこたえた。
「サンマルロク」
弟はスタスタと歩いていった。わたしはそのままテラスにとどまって、闇の中に目をこらしながら従弟を待った。もうなにもすることがなかった。叔父の死は
予測されていた。約一年まえ、この病院の一室で内蔵の解剖図を見せられたときから、この日のくることは確定していた。よくもったとさえいえる。叔父の無垢
に報いがあったのか、それとも、残される者たちにより深い悔恨を兆させるためにか、叔父はここまでもちこたえて、しかも痛みの醜悪を感じさせずにいま、去
こうとしている。そのことが、なによりも美しいことにおもえた。
ふりかえって、自分の怠惰がおもわれた。自分はなにもしてあげられなかった。形式だけの見舞いをして、ただ記憶を呼び戻しただけだった。もういちど、た
だもういちど、叔父と遊んでみたかった。無心に、「おまえ」と呼び交わしながら・・・
通用口にある夜間受付が終夜ひらいていることを確認して、わたしは三階にもどった。従弟はまだだった。父と入れ替わるかたちで廊下の長イスに弟が腰掛け
ていた。わたしも横に坐った。
「なんにもイヤことをいわんかった」
ぽつりと、弟はいった。その一言で弟の気持がわかった。本当にそうだった。怒っている顔はみたことがない。そしりに動ぜず、また人をそしりもせず、貧し
く、おおらかに生きた人であった。まわりを明るくもりたて、かつ、そこにわざとらしさのかけらもなかった。「小学生のとき」と弟が話しはじめた。
ぼくが昼休みに家に帰ると、おっちゃんとおばあちゃんがおった。検便をわすれて、先生に「とってこい」といわれたんや。でも、どうしても出てこんかっ
た。嫌やったんや、便をマッチ箱に詰めるんが。それでトイレの前でうろうろしとったら、おばあちゃんが、「どしたんな」いうから、「ウンコがでん」いう
た。「それやったら、かずのり、おまえが代わりにしてやり」そうおばあちゃんに頼まれて、おっちゃん、なにもいわんと、自分の便をマッチ箱に詰めてくれ
た。ゴムバンドで括ったその箱を学校にもっていく途中、もしかしたら、便のなかに虫がおるかもしれんおもて、ぼくはその箱をちょっとだけ開けてみた。きれ
いなウンコやった。これやったら先生がほめてくれるかもしれんと、そんなバカをかんがえたけど、あれは先生が見るもんちがうわな兄ちゃんと、弟は、わたし
をさぐる目つきをした。
「あほやな」
笑いながら、わたしはその話にひきよせられていた。弟は照れたようにほほえむと、真っすぐに前を見てかすかに唇を噛んだ。
院内のざわめきがふっと薄れて、病室の扉がつぎつぎに閉められた。とうに面会時間が過ぎているのにそれでも残って、ひそひそと廊下で立ち話していた夫婦
らしき人影も、気がつくと消えていて、看護師詰め所の前だけが明るかった。移された叔父の病室にさきほど顔をだした担当医も、そこに詰めているようであっ
た。
病室の扉がひらいて、従妹がとびだしてきた。従妹は上気した顔でパタパタと看護師詰め所に駆けこんでいった。扉は半開きのままだった。病状が急変したら
しい。
看護師と従妹が連れだって病室に入った。弟とわたしもあとにつづいた。父が、叔父の頭を撫でていた。
「がんばれよ、かずのり」
その声にこたえるように、叔父は口もとを少しゆるめた。が、声はでなかった。
「おとうさん」
従妹が声を高めた。そして、甘えられるのはこのときが最後だといわんばかりに「いったらいかんで」と、そういって彼女は泣きじゃくりつつ叔父の手をにぎ
りしめて、なにかをねだるように、ふった。「先生に来てもらいます」。看護師が立ち去って、崩れるように叔母が部屋の隅にへたりこんだ。
「つらかったわな、おまえも」
父は叔父に語りかけていた。
「なにもしてやれんと、えらかったやろ。ようがんばったな、かずのり」
父の目に涙がにじんでいた。
「おじいちゃんとおばあちゃんが、待っとるかもしれん。とみやまのおっさんたちもおるやろ。おまえはみんなにすかれとったから、みんな喜んでくれるやろ。
よろしゅうな。よろしゅう、みんなにいうてくれ」
そういうと、いとおしそうに父は叔父の頬に自分の頬をひっつけた。そして、さぐるように叔父の痩せこけて筋ばった頚に指をあてると、かすかに身構える仕
草をした。
初め、わからなかった。どうしたんだろうと思い、あっけにとられていると、父は振り返って「まだ生きてる」といった。おそらく戦時中の体験からだったろ
う、父は死を確かめるべく指を当てたのだった。わたしは父を見ていた。なにもない表情をしていた。悲しくも苦しくもない、ただ静かな、夕暮れに日没を待つ
人のごとき目つきで父はじっと叔父を見守っていた。
医師が入ってきた。脈を計り、計器類を確かめただけで、もう医師にはなにもすることがなかった。
「先生、拭いてやっていいですか」
乾いた唇をしきりに歪めはじめた叔父をさして、叔母がいった。
「いいですよ」
医師は病室の隅に移動しながらいった。叔母が、濡れたガーゼで叔父の口元を拭きはじめた。
「くるしかったわな、おとうさん。孝史がもうすぐ来てくれるから、ちょっとだけがまんして、ちょっとだけ。もうちょっとよ。ここまでがまんできたんやけ
ん、なっ、おとうさん」
そういいながら、叔母は泣きくずれた。
従弟が着いた時には叔父は息をひきとっていた。その診断は医師ではなく、父がした。心臓の強さが、なんとか叔父を支えていたが、夜を越えることはできな
かった。はあはあと荒い息になって、赤子みたいな身震いして叔父は息を止めた。素早く叔父の頚に手を当てた父は、なにかを発見したかのごとくふりむいて
「先生、死んでます」といった。そのあとを、医師が確認した。
「おとうさん!」
痛切な声が病室をつつんだ。詰めていた看護師が、器具類を片付けはじめ、医師が父の肩を叩いて、「ちょっと」といい、二人は出ていった。ちょうどそのと
きだった、孝史があらわれたのは。はにかんだ、かすかに笑顔さえ含みもった表情で孝史は入ってきた。
「にいちゃん」
従妹のその一言で、事態は伝わった。孝史はたちすくんで、一瞬、天を仰いだ。ああっ、という声がもれた。
「おとうさん、ようやく孝史がきてくれたで、あんたの大事な孝史が」
叔母はそういうと、たちすくんでいる息子の手をひっぱって叔父の遺骸に近づけた。
「おとうさん・・・」
従弟はひきつった表情で声を詰まらせた。そして、顔をそむけるようにからだをねじると、くやしそうに虚空に拳をふりおろした。たぶんいま、従弟の心中に
あるのは、怒りであろうとおもわれた。悲しみよりも先にとまどいがきて、そんなとまどっている自分に気づいて驚き、そして、なぜと自問するうち、怒りがこ
みあげてきた。そんな道筋だったのではないだろうか。
なぜ?その疑問符は、すくなくとも、叔父の死が完全な過去形になるまでは消えないだろう。なぜ、自分は今日、電話をもらってすぐに早退するといえなかっ
たのだ。そしてなぜ、今夜はあれほど道が混んでいたのか。それも長距離のトラックばかりが。
そんな繰り言が、偏頭痛の頭に難解な数式を与えられたごとくに停滞して、従弟の表情を複雑な、まるで子供と老人が同居しているようなものに変えているの
だとわたしはおもった。
父が帰ってきた。わたしと弟を廊下に連れ出して父は、「霊安室で朝まで預かることもできるが、できるならば、早めに引き取ってくれと婦長にいわれた」と
告げた。
「・・・」
「にいちゃんは?」
「おれは乗用車なんや」
「そしたら、ぼくのワゴンで」と弟が申し出たのをうけて、父はまた看護師詰め所に向かった。
「いまのうちに家にかえって、新しいシーツとってくるわ」
なぜそんなことに気がついたのだろう。弟のすばやさに驚きつつ、わたしは静まりかえった病室にもどっていった。
葬儀は二日後に行なわれた。
「お寺さん」である、檀家寺の住職が先年亡くなって未亡人が跡を継いではいたが、「充分なことができませんので」という断りがあって、同じ宗派の代わりの
僧侶が、少し遠くから来てくれた。町内の浄福寺さんが、本堂を貸してくださった。大黒さんが母の友人で、親しいつきあいのある禅寺であった。
すでに教職を退いて、せめて老後は娘たちの近くでと近畿地方に移り住んでいる伯父夫婦や、祖父の生家である「おも」の二郎さんの姿もあったが、人数的に
多かったのは叔母の出里である森家の縁者たちであった。
叔母はその森家の長女で、男三人と女二人が、その下にいた。みんな同じ顔とからだつきをしていた。そのおおもとが、森のおばあさんにあることをわたしは
知っている。
森の兄弟姉妹は、それぞれ連れ合いとともにきて、娘や息子も一緒だった。こどもたちも似たような顔をしているので、名乗ってくれなくとも、森家の一族で
あることは、すぐに知れた。
かれらは一様におだやかで、物静かな人たちだった。たぶん兼業農家だったろうとおもうのだが、叔母の実家はN町の、訪ねていくには案内の要る土地にあっ
て、子供の時、わたしは何度かその家に泊めてもらったことがある。
あれは、どの道からいったのだろうか。辺境のN町に鉄道は通らず、バスだけが唯一の交通手段で、そのバスの乗り継ぎ点であり、町のへそでもあるバス停を
降りて、山寺の脇を抜けて、細道を右に折れたはずであるが、その先はあやふやで、小川のよこの広い土庭の家が叔母の生家だったはずである。
あの家の跡は誰が継いでいるのだろうか。覚えているのは、玄関と客間と風呂場で、とりわけ、その別棟の風呂場のことは良く覚えている。田舎の風呂とはこ
んなものなのかという風な記憶の仕方で、土で固めた風呂釜のかたちや、薪の匂いのことを覚えこんだ。幼いわたしにはものめずらしかったのである。
そういえば、あの家の客間で寝ている自分の姿が、子供の頃、なにか不思議な幻想のように思い返されて、なぜだろう、どうして自分はあそこに、あんな広い
部屋に、一人で寝ていたのだろうと戸惑ったが、あれはたぶん叔母の指示であったのだろうと後年、気づいた。
N町の農家からK市の商家の四男に嫁いだ叔母としては、わたしの機嫌をとること、自分の生家の豊かなることを間接的にしらしむることが、あの頃、必要
だったのではあるまいか。そのためにわたしを一番風呂に入れ、天井の高い床の間つきの客間の真ん中に、ふかふかの布団を敷いて寝かせたのではなかったか。
町に一軒の、小さな映画館にもつれていってもらった。何が上映されていたのか覚えていないが、観客の熱気だけは覚えている。
すごい興奮状態だった。まるで歌舞伎に魅せられて歓声をあげる人たちのように、観客は高揚して、その熱気はわたしに恐怖さえ感じさせた。
あの、森家の人たちがいま、浄福寺の本堂に座っている。ただそのことがこの場を和らげ、葬儀をなにかまるいものに変えているのだとわたしは思った。
叔父の遺骸は正面に安置されていた。痩せて、あぶらも汗も涙もなにもかも失ったはずのその遺骸を弟と二人で担架から降ろして、ワゴン車に積みかえたと
き、なにさま重かったことを、弟が思い出したようにわたしに語りかけてきた。
「あれ、ふしぎやったわ」
「ほんま」
弟の言葉に相槌をうちながらわたしは、あのときの手の感触は、たぶん一生消えないだろうと、ひそかに考えていた。そして、たぶん人は、そんなことで人生
の重さを識るのではないだろうかとも思った。
年老いた僧侶の読経が始まった。同時に急に風が吹きはじめて、開け放した扉から吹きこんできたその風は、それぞれの想いを胸に幾許かの過去をふりかえる
時間を与えられた者たちの間をすりぬけて、仏壇よこの足高の生花を、二脚一緒になぎ倒した。
「おっ」
ちょうどその近くにかたまっていた森の親族から驚きの声があがって、年かさの、たしか大工をしている叔母のすぐ下の人がすかさず立ち上って、柔らかな動
きで倒れた生花を元にもどしたが、こぼれた水はどうしようもなくて、畳の上に大きく拡がってしまった。
「ちょっと」と、そう声をかけるよりも早く、騒ぎに気づいた手伝いの人たちが庫裏から出てきて、雑巾で水を拭きとった。その間、数分の中断はあったが滞り
なく葬儀は進み、やがて霊柩車に遺骸は移されて、出棺の時がきた。
えー、本日は、ご多用中にもかかわらず亡父の葬儀にお越しくださいまして、まことにありがとう云々という、喪主の挨拶が霊柩車を囲む形で前庭に集まった
人々をまえに始まった。ちょうどその頃からだった。わたしが奇妙な感慨に捉えられだしたのは。これはシュミレーションではないのだろうか。わたしはそんな
ことを考えていた。
叔父は、おもわぬ病で父より早く往ってしまったが、やがていつか自分が喪主となる日がくるかもしれないのだ。そのとき自分はなんと挨拶するのだろう。や
はり、従弟と同じように葬儀社の用意してくれた例文をたどるのだろうが、その後半でなにかをつけくわえてしまいそうだった。これをサービス精神の発露とい
えば聞こえはいいが、結局は自己の不足を言葉で補おうとする悪あがきにしかすぎない。だが、そうでもしなければ納まりのつかぬ暗部がわたしにはある。それ
ゆえわたしは、言葉を切ろうとして斬りきれず、とりとめのない小さな思い出を延々と話して参会者の失笑を買うような不様を演ずるのではないだろうかと、そ
んなことを、それこそ、とりとめなく思いつづけ、しかもそんな雑念の片方では、そういえば今日一日の従弟の言動がなぜか好ましくて、自分はある種の満足を
味わっていたと気づくのであった。それはわたしに、なにか微笑ましいものを感じさせてもいた。
気のつよい妹の鋭いつっこみにたじたじとしながらも、メモを片手にこまごまとした雑用をこなし、的確とまではいえないまでも大雑把ではない、熟考のあと
を感じさせる指示をまわりに与えて、なんとか円滑に一日を経過させようとしている従弟のすがたが、わたしには微笑ましく、好ましいものに映っていた。
たぶんそれは、従弟の現在を表してもいただろう。スーパーの新任店長として派遣され、苦労している従弟の仕事ぶりが、そこに垣間見えた気がして、わたし
には従弟の言動のひとつひとつが面白かった。そして更にいえば、その屈折した生真面目さの様態は、わたしがかつて関係していた地元スーパーの何人かの雇わ
れ店長に通底するものでもあった。
彼らはいずれも好ましい人物であった。業者に対しては尊大に見栄をはるその裏面に、相貌は必ずしも一様ではなかったが、なにかおどおどとしたひるみのよ
うなものを、彼らは宿していた。それは生来のものにも思えたが、複数の人物に不思議なくらい共通して窺えたところからすると、それは職責のもたらすもので
あったかもしれない。あるいは逆に考えれば、そのような自負心の裏側に小心さを埋め込んでいるような人物だからこそ、店長として登用されたのかもしれない
が、いずれにしろ彼らはなべて、わたしには好ましい人物だった。
だがもちろん、その好ましい人物の内面がわたしにわかっていたわけではない。わたしには無い美点を彼らが備えていたからこそ、彼らが好ましく映じたので
あって、有り体にいえば、彼らはわたしとは別種の人間であった。どうしてそこまでがんばれるのか。なぜ、そこでガマンするのだ。わたしならとっくに切れて
いるのにと少々呆れながら、わたしは彼らを眺めてきた。
いま挨拶をおえて、深々と頭を下げた従弟の脳裏になにがあるのか、わたしには解らない。悲しみをゆっくりと噛みしめる間もなく喪主としての仕事をこなさ
なければならなかったこの二日間の、ようやく、ひとつの区切りを終えて、ほっと一息ついてはいるだろうが、たぶん、これからが大変なのだ。従業員が帰った
あとの事務室で缶ビールを隠し飲みしながら、たまたまわたしと目があって、にっこりと、「これからなんですよ僕の仕事は」と照れたある店長の気弱な笑顔が
そのとき思い出されて、わたしは従弟に、「ご苦労さん」と声をかけてやりたい心境だった。
霊柩車を間にはさんで、六台の車が出発した。わたしは先導のタクシーに乗った。隣に森の親族の代表として、叔母の末弟が乗り合わせた。
「さっきは驚きましたね」
「畳が染みにならんとええけどね」
そんな後のない短い会話をかわしつつ、狭い路地を抜けて、車が土手沿いの道にでたときだった、
「花見にいったよ」
と突然にその人がいった。
「えっ」
「花見につれていったんだよ、おれが、あんたの手をひいて」
「はっ」
「おぼえてないかい?」
「・・・」
「あのころはみんな元気で、楽しかったよ」
「・・・」
わたしは呆然としていた。突然に、風景が変った。桜並木が頭のなかを領していた。樹々は巨大な枝を一面に伸ばして空をさえぎり、わたしはその桜色に染
まった空を見上げながら手を引かれていた。この人が、あのときわたしの手を引いて歩いてくれた、あの顔のない人だったのだ。いまわたしの隣にいるこの人
が。驚きで声がでなかった。
花見のことは覚えていた。しかし、それは前後関係のない、孤島のような記憶だった。覚えているのは満開の花と、わたしを引いてくれた手と、ゴザの上に広
げられた弁当だった。その重箱に詰まった揚げ物の甘い匂いとそこに伸びた箸の朱色と、「どれでも、すきなもんを」という声までは、はっきりと覚えているの
に、それがどこで、だれと一緒だったのかは、今の今まで不明だった。
何度か、その記憶を手繰りよせては、欠落している部分の多さに、というよりも、手がかりとして残っているものの余りの少なさに失望し、その特定を諦めて
いたわたしの幼い記憶のその正体が、今はっきりと明かされたのである。
そうだったのか。場所が定まらずに、まるで絵空事のようになってしまっていたわたしの、あの明るい、もうひとつの世界は確かにあったのだ。幻視ではな
かった。すると、あの、わたしが長年もちつづけてきたもうひとつの謎も、それは単なる思い込みではなくて、幼時の残像がもたらした未分化の疑似体験という
ことになるのかもしれない。
わたしは、太宰の『津軽』に惹かれていた。就中、その終結部分に。高校時代、教養の一部として読んでそのほとんどが心に残らなかった太宰文学の、最後の
一冊として友から借りた本のなんと魅力的だったことか。後年、古書店で文庫本を手にいれ、憑かれたように読み返していて、ふと途中で、自分がその文中に
入っていることに気づいた。早く、「小泊」に行きたい。そうおもいつつわたしは一語一語を舐めるように追いかけていた。
奇妙な錯覚だった。しかしわたしが『津軽』に惹かれたみなもとは、まちがいなくそこにあった。早く小泊に行って、「昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑
やかな祭礼」を見てみたい、そして、「海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽が催されていたというよう
なお伽噺の主人公に」、わたしはなってみたかった。
そうして、もし許されるならば、「竜神様の桜」にも触れてみたいと切望し、その切望は膨らんで、とりあえず青森に行かなくてはという風にさえなったのだ
が、しばらくして現実にかえると、自分の熱中が知恵熱のように感じられて、なにか恥ずかしい夢をみたあとで、それを誰かに話したいのに話せなくて抱え込ん
でいるうち、消し炭となってしまうみたいなそんな経路で、その熱の記憶は、謎になっていた。
だが、謎は解けた。わたしは『津軽』のなかに遠くN町を、そしてその町のはずれで美しく催される春の宴を意識下の目で視ていたのである。
春よ、こい。桜よ、咲け。わたしは、その満開の桜の下で、叔父と逢おう。そして、すこしだけ酒を呑もう。なにも語らずに。なにも疑わずに。
霊柩車は街を外れて、埃っぽい道を焼き場へと進んでいた。
――了――