古澤 宏幸
とりあえず着るものをカバンに詰め込む。パスポートを持ってカバンを引っさげ、電車に飛び乗った。上野からのスカイライナーに間に合い、ほっとした。
成田空港で、ごった返す人混みの中にやっとサングラスのMを見つける。これで出発できる。目的地は、アンコール・ワット、カンボジア。
無事に博士課程を卒業と決まって、この際だもの卒業旅行に海外へ、と二人してふっと盛り上がったのが一月前、研究室の前の廊下でのこと。そして予約待ちで、なんとか航空券を手に入れた。世界遺産、幻の寺院のアンコール・ワットが見られるなら、長かった、ほんとうに長かった学生生活の最後をしめくくる旅行として不足なし、と、思った。小学校の頃、図書館のノンフィクション・シリーズにはまった時期があった。ヒマラヤ初登頂の話、アマゾンの奥地で消えてしまった探検家の話、インカ帝国の黄金の仮面、ナスカの地上絵。そんな中に、アンリ・ムーオによる密林の奥深くに眠り続けたアンコール・ワット発見の物語もあった。見にに行きたい!!
そんな忘れかけた気持ちも、胸のどこかにのこっていたのだろう。
空港内の銀行で、とりあえず一万円分を外貨に換金、USドルがまずは$140あれば何とかなるだろう。HISカウンターに並んで、ようやくチケット・チェックイン。出国手続きの後、46ゲートからノースウエストNW001便に乗りこんだ。満席か、搭乗口がやたら混んであわただしかった。
カンボジアは、ここ一、二年政情は落ち着いたと報道されている。だが長引いた内戦、アジアの中で豊かとは言い難い経済情勢、それに治安面で政府の力がどこまで及んでいるのか未知数ゆえ、観光地のメッカとまではなっていないのが現状のようだ。日本からカンボジア直通の国際便もなかった。われわれも隣国タイ・バンコク経由でアンコール・ワットに最も近い町、シェムリアップへ空路で入るのが安全と聞いてきた。カンボジア旅行は外務省海外危険情報のホームページで十分な「注意」を呼びかけていたし、地域によっては「観光旅行延期勧告」が出ていた。インターネット上には、道路から逸れれば地雷が埋まっているという噂も、まことしやかに流されていた。
どうにも好便に恵まれず、バンコクに着いたのは現地の23:00。夜でもむうッと土の臭う熱気で、ああ南国に来たんだなと思った。カンボジアへの便は明日だ、タクシーで予約しておいたホテルへ向かった。気持ちは高揚していたが、堪えるように今後に備えて寝ることにした。
翌日、バンコクを発ち、アンコール・ワットの町、シェムリアップへ向かった。バンコク・エアウェイズの最終便にチェックイン、乗客はほかに数人程度で、ほとんどが日本人だ。一時間ほどのフライトだ、小さなプロペラ機だったがよく飛んでくれた。下は、果てしない緑の密林。しかし、シェムリアップに近づくにつれ、だんだん乾ききった砂色の平地に変わっていく。丈高い樹木はみるみる疎らになる。シェムリアップ空港とは、つまり密林の木々を伐り開いて造ったような、ま、至極簡単な空き地のようなものだと、飛行機を降り地面に足をつけたときに合点した。国際空港とはとても思われない。それほど小さい。予想はしていたものの、それ以上、いや、以下だった。日本の小学校校舎より小さい建物。ロビーと思しき場所も、まるで一教室の広さに、机と、係りの人と、それだけ。入国手続きも、なにやら印を押しただけ。コンピューターなどどこにも見あたらない。
手続きが済むと同じ入国審査官が町までのタクシーを手配してくれた。人数も少なく、順番はすぐはけた。一律5ドル。カンボジアではアメリカ・ドルが重宝する。タクシーといっても一昔前の乗用車。エアコンがついていて幸運だった。運転手は温和しそうな人で、自分では軍人だといっていた。
カンボジアという自分にとって未知の国。あやふやな想像しかできないこれから訪れる町。何もない原っぱを貫く未舗装道路を飛ばす車。この車、本当にホテルまで行くのだろうか。このまま自分達が行方不明になってもこの国の誰も困りはしない、探しもしないだろう。幾分弱気なそんな思い過ごしが窓外の殺風景な景色とともに心をかすめていく。たぶん、20分くらいして、車は速度を落とした。町に入り、人が行き交い、建物が見え始めて、ようやく杞憂は薄らいだ。
ホテルは日本で予約しておいた。奮発したお蔭でかなりグレードの高そうなホテルであった。ドア・ボーイはにこやかに出迎えてくれ、赤い絨毯の階段を案内され、日本製のエアコン付きの部屋に通された。真っ白いシーツをぴんと張ったベットにどさッと倒れてみる。ふう…。初めて、くつろげた。
レセプションで、明日のアンコール・ワット一日ツアーに飛び入りさせてもらった。夕食はホテルのダイニングで。西洋系の客数人と、中国系の家族が一組。Mと私は、まだ見ぬアンコール・ワットにかくも近づいたお祝いにと、カンボジア産のアンコール・ビアで声をあげて乾杯した。カラカラの喉に淡い味の冷えたビールがうまい。落ち着いた。ようやく落ち着いた。
朝、7:30に起きた。濃い日差しが、カーテンの隙間から突き刺さるように射している。東南アジアにいるんだなと実感させられる。
8:30にホテルを出た。現地のガイドがなんと日本語で案内してくれる。20人乗りほどのマイクロバスに乗り込んだ。我々二人の他に日本からのツアーが、十数人。みな年輩の人たちだ。我々に飴や煎餅や、水まで、親切に勧めてくれる。子ども扱いだ、バスの中はまるで日本的。ガタガタと町からの一本道をアンコール・ワットに向かった。20分程度。風景は、町から原っぱへ、密林へと目まぐるしくかわり、樹木の葉っぱの形まで物珍しくて見飽きない。
バスは、アンコール・ワットに隣接する都市遺跡、アンコール・トムの入り口で先ず止まった。石造の橋の向こうに同じ石造の聳え立った南大門と城壁が見えた。圧倒的な迫力。アジア建築美術の写真全集にでてきそうだ。ツアーは始まったばかりなのについ写真をたくさん撮ってしまう。
もう一つ、圧倒的だったのが物売りの少女たち。バスが止まるか止まらぬうちに少女たちが賑やかに駆け寄ってくる。日本の小中学生くらいか、民芸品や、絵はがき、ガイドブック、カメラのフィルムなどを手に手にぶつかる勢いで迫ってくる。どこで覚えたか流暢な日本語を話す、「ニイさん、これ1ドル」。相手を見て英語と日本語とを使い分け、「1ダラー」とも言い「1ドル」とも叫んでいる。発音はかなり正確だ、その語学力にちょっと舌を巻く。世界の観光地なんだ、ここは。いやもう、物売りの少女四人に入れ替わり立ち替わりしっかり囲まれ、ひっきりなしに「ニイさん、1ドル」と囀られて、写真を撮るどころではなかった。どう辟易しようが、拒もうが聞く耳など持たない。頑固に知らんぷりを決め込んだ。他の皆は門をくぐって行ってしまった。意を決し彼女たちを振りきって進んだ。さすがにあきらめたのか、それぞれ持ち場に帰って行くらしく、その時背中から「あなた、ワルイ人ね」という罵声が飛んできた。ワルイ人──。予想もしなかった。あの瞬間に感じた、あの気持ちは何だったろう。怒り、それとも少女らが日本語を誤って使ったという疑問、どっちだっただろう。
アンコール・トムは、3キロ四方を城壁で囲まれた、今では雑木林の自然公園のようになっていて、中に、ざっと800年前の寺院や宮殿跡が点々と残る。中心をなすバイヨン寺院もその一つ。巨石を巧みに積み上げたその石造建築は(一見に値する。=これでは折角の旅行の感動が具体的に伝わりません。一見に値する感動の中味を書くのが旅行記のシンの目的だから。読者も、筆者がそれをどう観て来たのか知りたいのです。うわべを評論風に撫でないで、そのモノゴトの内側へ言葉を生き生きと具体的に投げ込んでみて下さい、写真に頼らず。)惜しむらくは部分的に崩壊している、が、幸い中央の高い塔は健在だ。囲むようにしていくつもの塔がそそり建っている。塔の四面には人の背よりも大きい仏像の微笑。一段高いテラスに立つと、囲んでいる巨大な微笑の表情から言葉にならないメッセージが放射してくるような錯覚を感じた。
暑い。日が高くなるにつれ子供らのように水浴びしたくなる。海の家に似た簡単な出店で休憩、他の観光客たちもとびつくようにして冷えたコーラを飲んでいる。
バスに乗り込み、いくつか周りの遺跡を巡った。
タ・プロームもそんな一つだ、密林にながく放置されてきたこの遺跡は、完全に樹木の支配下に存在していた。観光客も多く、ここにも二、三、物売りの幼い女の子たちがかけまわっていた。かわいらしく人差し指をたて、「1ドル」と、はにかみながら見上げてくる。1ドルくらいならと、涼しげな音色を出す民芸品を買っている客もいた。「売れないと親方にしかられるのよ」。だが、私は買わなかった。なにかしら、ためらうものがあった。女の子たちは、一つまた一つと売れると、嬉しそうに我々から離れて駆け去って行く。いい歳の男がただ座って木陰に涼みながら、女の子たちの稼ぎを手に受けていた。
ホテルに戻って昼食。ヌードルとハンバーガー&ポテト。次の集合は午後3:30と聞いた。時間がある。シェムリアップの町へ散歩に出た。首都から250kmも離れた小さな町。半日あれば一周りできてしまう。カラカラに乾いた地面を道路に、車やバイクが通ると、盛んに土埃りが舞い立つ。道の両脇に家もある、店もある、宿らしきものも建ち並んでいた。鉄筋の建物がある。その傍には日本史の教科書にでてきそうな高床式倉庫のような木造の小屋だ、開け放した入り口から見えるのは、ハンモックとテレビと、それだけ。くらくらするほど何もない。これだけで、生活なの。映画か何かのセットに入り込んだかとさえ思った。
雑貨屋でMが、お土産にとタバコを買った。1ドル出して、20箱分のタバコを受け取っていた。気ままにぶらついていても、汗が止めどなく流れる。慣れない暑さに疲労を感じる。思い切りシャワーが浴びたい。集合時間までに余裕の理由が、やっと、わかった。
アンコール・ワット。かつてのクメール文化が創り出した石造寺院。一キロ四方の堀に囲まれた中へ、石の橋をしずしず渡っていく。大勢の観光客が来ている。地元民とも大勢すれ違う。地雷の心配は取り越し苦労であったのか。橋の向こう、正面には堀に沿って水平に延びた石造の回廊が、拒むような緊張感を醸し出しながら近づいてくる。気合い負けすまいと回廊をくぐると、銀色に見えてそびえ立つ巨大な塔、塔、塔の大伽藍が、のしかかるように視野を覆う。耳鳴りがしそうな圧倒感とでも謂おうか。よく見ると左右対称、すさまじい容量を内蔵した立体的な配置で、どんな角度から視線を送ってもはじき返してくる張りつめた緊張感に、これでは楯突こうという気も失い、むしろ恭しい気分に落ち着いてくる。
建物の中へ案内される。漂う程度の光。石の冷たさ。ひんやりした空気。均一に延々と並ぶ支柱。ため息。迷路のような回廊を通り、急な石の階段を上って中央祠堂に向かう。壁という壁に天女の像、デバター、が妖艶に彫り込まれている。人の意志など取るに足らないと言わんばかりに、気づけば、我が心はデバターに魅せられて小刻みに震えてさえいるのだ、クメール人は何というものを創り出したのだろう。失いたくないものが宝なら、アンコール・ワットはやはり至宝だ、これが至宝というものだと感じ入った。小さな人間が占有などしようものなら、畏怖のため押しつぶされるだろう。
一番高い回廊から見渡す限りの密林を遠く望み、悠久の時空に沸騰する人智・人工のスケールの大きさに、深い深い息をはいた。かつて知らぬこの感嘆が、吹き抜ける風の勢いと共に、たまらなく心地よかった。
夕食は、チキン・チャーハンと、魚のフライ。元はどんな魚だったかは考えないことにする。アンコール・ビアがおいしい。夕食後、ツアーのオプションでカンボジアの伝統芸能アプサラ・ダンス見学があると聞いたが、その手のものは正直のところ興味がなかった。アンコール・ワットの余韻に満たされていた。だが参加者の多い方がオプショナル・ツアー代が割安になると言われ、飛び入りで昼のツアーに参加させてもらった成り行きからも、すげなく断るのも何かなという気持ちで参加した。
町のダンス学校でと説明されていたが、行ってみと、どう見ても木造の掘っ建て小屋。さしづめ校庭の脇の体育倉庫といった感じで、扉もない。入ってみると、正面には学芸会のようなセットが置かれていた。壁際に小学生くらいの子供たちがよれよれの白の半袖シャツを着て、笛や太鼓や木琴などを各々持って神妙に座っていた。プラスチックのイスに勧められたままに座った。いつしか集まってきた近所の子供たちが背後から鈴なりにのぞき込んでいる。外は真っ暗。舞台はこうこうと電気の下。軽快なアジアっぽい音色と共に、濃い色とりどりの衣装を着飾った踊り子たちが舞台の上に登場した。タイの踊りに近い手と足を曲げたしなやかなポーズを多彩に繋いでゆく踊りが優雅に優雅につづいて行く。足の先、指の先まで体全体で何かを訴えかけるような、流れるような、華麗な華麗なしなやかさ。そしてあの微笑。アンコール・ワットのデバター像を思い出すではないか。アプサラ・ダンス。アプサラとは天女のこと。天女の踊り、驚き、陶酔。少なくとも私には天女に見えた、天女であって欲しいと思っていたのかもしれないが。アンコール・ワットの遺跡が「静」ならアプサラ・ダンスは「動」。元々はアンコール・ワットを造営したクメール王朝の宮廷舞踊だったそうだ。自分の中の「文化」という言葉が今まで狭い領域しか指し示していないことに改めて気付いた。踊りにはそれぞれ逸話があり、全部で六話、一時間のそれはそれは華やかな世界だった。
カンボジアの三月は、乾季に当たる。ツアー二日目も朝から強い日差し。今日は、少し郊外の遺跡に行くという。昨日と同じマイクロバスはシェムリアップの市場見学をしたあと、国道から外れてガタガタ道を走る。何回も座席からふっ飛んだ。舌をかみそうなので黙って外の風景を見ていた。程なくして、町の郊外の小さな小学校に着いた。学校見学もツアーに組み込まれたものらしい。一クラスに三十人くらいの子供たち。裸足だったり、ぞうりだったり。見たことのなかった石板を持っている子もいた。歴史の教科書に載っている日本の戦前の写真をふと思い出す。ガイドブックに載っているカンボジア語で「こんにちは」と声をかけてみる。神妙な顔の彼らも手を合わせて「チョンムリアップ
スア(こんにちは)」と、ちょこんとお辞儀する。素直な目に、思わず日本の少年少女たちの昨今と比較してしまう。三十年後はこの国も変わっているのだろうか。
ほどなくシェムリアップの十三キロ南東に位置するロリュオス遺跡に到着した。ここの歴史は、アンコール遺跡よりもさらに数百年もさかのぼるという。そのためか遺跡は崩れかかっており、廃墟の印象だった。規模もうんと小さく観光客もまばらだったが、ここにも物売りの少女たちはいた。ガイドが遺跡の説明をしている最中にもシルクの織物を何枚も手に掛けた少女たちは、「ニーサン、一ドル、一まい、一ドル」と商売をしかける。ツアー客は相手にしない。私のそばにも一人張り付いて離れなかった。ちょっと色黒の小学校高学年くらいの女の子で、おかっぱ頭。塾講師のアルバイトでこの年頃の生徒に苦労したのを思い出していた。「・・・一ドル、一まい、一ドル」。友達に言わせると私の顔つきはカモにされやすいんだそうだ。甘いのは禁物、禁物と知らんぷりを通したが、うんざり。ろくにガイドの話も聞けない。ムッとしてみせる。だが離れて行く気配なく、ごそごそと何をしているのかと思ったら今度はポケットから小さな花を取り出してきた。
「あら、そんなの受け取ったらお金取られるわよ。」
日本語のささやき声が聞こえてくる。小さな白い野草のような花だった。私は横目でちらちら見ながら、まさか花なら、いや受け取ったら、などと考える。やはり知らんふりを決め込もうとした瞬間、少女は声を和らげた。
「Free!(ただでいいのよ!)」
衝撃!。その一言は私の胸をいとも簡単に射抜いた。心が動いたのだ、選択肢はほかになかった。
「Thank you(ありがとう)」
彼女の指ほどの小さな白い花が、私の手に残った。
自由行動。皆、思い思いに遺跡を散策する。私の後ろにはおなじ女の子がついてくる。好きにさせておいた。好きに写真を撮っていた。次の団体客が到着したようで、欧米人が数人でやってくる。その雰囲気に、他の物売り少女たちはそっちへ殺到して行った、のに、その子だけはやはり私から離れない。
「向こうの方が売れるぞ」
「Too many(売り手が多すぎる)」
少女はかるくふくれっ面して離れて行く気配がない。
またポケットをごそごそしたかと思うと、また、器用に草で結んだ指輪を取り出した。聞き取れない言葉をつぶやきながら、私の左小指にはめてくれる。もう、されるがままの、私。客待ちの間にその辺で摘んだのだろうか。何を思いながら作るのだろうか。普通の女の子。
小さな遺跡はものの十分もあれば一周してしまう。集合の時間だった。少女は、売り物のスカーフを自分の首に巻いたりして、「どうお?」と見せに来る。
「Hot!(暑いよ)」と言うと、今度は頭に器用に巻いて「Cool(すずしい)」としなをつくる。仕事と遊びのはざまを、行ったり、来たり。私の気持ちも揺れ動く。
「一つくらい買ってあげてもいいかなぁ」
しかし煮え切らない私は、何かをチクチク胸に感じながら、逃げるようにそのままバスに駆け込んでしまった。内心ほっとした気がした。窓から外を見下ろすとバスの周りでまだ少女たちが売り込みに専念している。あの子もその中にいた。目が合ってしまった。無表情の彼女の顔つきに、つい、目を逸らしてしまった。ほどなくバスは走り出した。振り返ると、彼女らは皆もう自分の所定の場所に戻ろうとしていた。自分を「ずるい」と思った。顔が熱かった。
学校に通う子供たち、通わない子供たち。遊びたい子供たち。一方で子供を商売に利用する大人たち。それに反発する自分。郷に入っては郷に従え。彼らの立派な仕事。観光資源として外貨を落とすのが、善か。今だにどうすれば良かったのかわからない。
自問自答。一体誰が彼女にFreeと言わせたのだろうか。
ホテルに戻って昼食の後、ちょっと昼寝したら午後三時になっていた。午後はトンレサップ湖へ。
東南アジア最大の湖、魚の宝庫。シェムリアップから南に十キロほどを、バイク・タクシーで行った。まだ高校生くらいな男の子のバイクの後ろに、ヘルメットなしで、友人と三人乗り。転んだら終わりだろうなと思う。町から川沿いに三十分くらい走らせた。
心地よく吹き抜ける風。運転の腕はよかった。舗装道路のでこぼこしたのをうまくかわしながらバイクは走ったが、舗装の無いところは歩いた方が速かった。道の両脇に延々と、粗末な木の小屋が建ちならんでいた。魚の発酵する生暖かい臭いの中を突っ切って行った。
湖畔に近づき、からりと視野がひらけて十分ほどすると、入江の船着場に着いた。日本の公園の、手漕ぎボート乗り場程度だが、十艘くらいは、四、五人乗り観光用の小舟が泊めてある。大学生くらいの日焼けした体格のいい男と値段を交渉した。七ドルと言うのを五ドルに値切って、一時間ほど湖の上をクルージング。水はミルクティーのように白濁し、岸辺のマングローブの茂みが坦々と続く。あまり風光明媚とは言い難い。しかし、いったん入江を抜け出ると、ここは海かと見紛うまでの水平線。宏大、偉大なトンレサップ湖に、気分は、脱帽。
湖畔にも人々が暮らしていたが、驚いたことにトンレサップ湖上にもじつに大勢の人が日々の暮らしを営んでいた。灰色をした木造船が水上に数多く停泊しており、それぞれが家なのである。雑貨屋や金物屋も船、病院、学校、警察までが船である。文字通りに水上の町で、移動にはボートをつかう。これまで私の想像だにしなかった生活が、目の当たりに存在していた、それは目眩のする現実だった。
ちょうど学校の引け時か、生徒たちがボートで帰宅するところだった。こちらから手を振ると愛嬌たっぷりに手を振り返す。二十歳くらいの娘のボートともすれ違う。手を振る。彼女の微笑み、天女の微笑み。困惑するほどの親しみ。私もアジア人だと思い知らされた。
あくる日。カンボジア最終日。荷物をまとめてホテルをチェックアウト。ずいぶん長いこと、ここにいたような気がした。空港まで送ってくれるようホテルで頼んだ車の中で、過ぎゆく町を見ながら彼らの現実と我々の現実との間に、もあもあした境界があるのだろうななどと考えていた。物理的な距離と心の距離。科学技術は飛行機により物理的な距離は縮めたが、心の距離は縮めることができるだろうか。もし可能なら、情報伝達の技術が果たすのだろうか。いやいや、そんなものだろうか。
この、もあもあとした私の実感を、誰かに伝えられたらと思ってこんな風に書いてみた。こんなに長くものを書いたのも、初体験だ。
(筆者は、東工大博士課程修了。こういう文章は、学部の頃に提出していた感想文以来の、いわば初体験。旅の思いともみ合うように、熱心に書きつづられている。書いてみようと思い立ったエネルギーに敬服する。)
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