母 藤野 千江
母は、八十二で、ものが食べづらくなり、検査の結果、胃に潰瘍ができているのがわかった。母の高齢を周囲(はた)の者は心配したが、
「ご飯がたべれるようになるんやったら、手術するでわ」と、平然と言い放った。
摘出された潰瘍は、干し柿ほどもあったが、良性で予後も良好だった。
手術以前、もしも転んだりしてはと無用の事故を不安がった家族は、母を寝たきりにさせていた。それも原因で、もともと膝に水がたまっていたため、歩行障害がでてきた。説明を聞いてもわかりにくい治療薬の数が、なにかと増えた。
母に痴呆症が見えかくれしはじめたのは、手術から一年後、末娘千江の一家が
I 市に転勤して、二年もしたころだった。義姉からの電話が思いがけぬ母の異変を告げてきた。
「千江ちゃん、おばあちゃんがな。ヨシ君とハル君がおらんようになったけん、はよう探してきてって、ゆうんよ。きとれへんてなんぼゆうても、ほなって、隣でねとったのにてゆうけん、電話かけて聞いてみたらええでえ、ちゅうてこの電話したんよ。」
電話口に出た母の口調はまだまだ元気だった。、
「ほんまに来とれへんだでぇ? 隣に来て、ねとったんでよ。くるまがよおけとおりよるけん、ケガでもさせたらいかんおもてな、ねえさんに、はようさがしてきてえ、ゆうてたのんみょったんよ。ふしぎやなあ。ほんまにおったんでよ。」
「ばあちゃん、こどもらみんな、学校へいっとうけん、そっちやにいんどれへんでよ。夢みたんじゃわよ。」
「おまはんがゆうんじゃけん、ほうかいなあ。」
お盆休みに千江たちは母の元へ帰省した。
見た目に元気な母も、話す内容(こと)には、ときに過去と現在がないまぜになっている。
「こないだ、正っさんがきて、てつのうてくれてなあ、屋根もあんばいようなおっとうだろ?」
五年も前のことを昨日のように話してくる母。兼業農家で共働きの兄夫婦だから、ひとり家にいる母の症状が進むのも無理ないことかもしれないが、記憶の鮮明な部分だけがなんの違和感もなく、つなぎあわされているのだ。
大阪に住む長女の照子が、ときおり見舞いに来ていた。照子は自分の子供たちがみな結婚して手を離れ、身軽になっていたから、日帰りででも様子だけは見にちょくちょく訪れていた。照子と千江は二十三も年の離れた姉妹だった。
二男七女の末っ子で、千江は、月足らずで生まれた未熟児だった。高齢出産の母の産後はよくなくて、乳飲み子への授乳も禁じられたが隠れて母は赤ん坊に乳を与え、姉は重湯を飲まし、親代わりに世話をしてくれた。いまその母を看病する照子は、よく言った。
「千江が、おかあはんと、おる時間がいちばんみじかいさかいに、思い出がすくのうてかわいそうやなあ。ちょっとでもなごういっしょにおれるように、看病しとくさかい。」
その後再度の転勤で千江たちは前任地に帰ってきた。一年後には家を建てた。兄に伴われて母が新築祝いに訪れてくれたが、そのときにはもう、介添えがなければ歩けなくなっていた。畳の上をにじり寄ることでしか、母は身動きできなかった。
この頃の母は、辛い口惜しい思いの毎日だったらしいと、後々に、照子は話した。
ひとりで立ちあがれない母には、排泄の始末も無理だった。食べれば排泄物も増えるからと、お茶わんにご飯が一杯とお菜がすこし。お櫃は手の届かないところに置かれた。母は一食を二回に分けて食べていた。背中が丸く曲がって、入浴時の衣服の脱ぎ着にも手間がかかる。介添えの義姉は姑の背中を棒っきれで叩いて罵り、だが、気丈さの残っていた母も、売り言葉に買い言葉でかなり応戦したらしい。
「背中がまがっとおのわな、肋膜の手術をしとおけんじゃ!
ほんなに世話するんがいやんじゃったら、かんまんわい! おまはんやの世話にゃあ、なれえへんけん!」
頭のケガも照子は見つけていた。
「こけて、コンテナのかどで打ったってゆうてはったけど、あれかて叩かれてはったんかもわからへんで、なあ。頭のてっぺんさん、どないしたら打つのんよ。」
八年経て今も口惜しさがこみあげるか、照子は声を震わせた。
だが、歩けないはずの母が深夜に徘徊して、暗がりの中でケガをした。家族の負担はさらに加わっり、千江を訪れた姪は「やさしゅうしてあげなと思おとんじゃけんどな、ゆうこと聞かんけんナ、つい、きつうにゆうてしもて…。」と、涙ぐんだ。
昼間は閉じこめておくしかなく、見かねた民生委員の口利きで特別養護老人ホームにと、話がそこまでくると、跡取り息子の兄にはそれも辛い選択だった。付き添いに照子が来てくれた。
母をそんなとこへ入れてと、兄たちの仕打ちをなじるべつの姉もいたが、気がねなく見舞いに行けるし、なにより母が「安全」なのに安心した。兄は仕事の行きかえりに、毎日見舞っていた。
母は、自分が今いるところも分別できぬまま、いつしか心の奥底に押し殺してきた憤懣をふきだし始めた。声をあらげ、嫁をののしる声がとげとげしく部屋の外へも洩れた。
もともとは人に仏のように慕われてきた母だった。貧乏にくじけることなく、いつも気丈だった。小学校二年で奉公に出た母は、本を読んで字を覚え、行儀作法や包丁さばきなども、人に見習って覚えた。なにをさせても前向きで陽気な人。難儀な姑につかえ、大酒呑みの夫を支え、おおぜいの子も無難に育てあげて、きょうだいのだれ一人も理不尽に母に叱られた覚えなどもっていないのだ、そんな母だった。
その母の初めて見せた修羅の険しさに、照子も、兄も他の姉たちも胸がしめつけられた。
だが、混沌とした記憶の奥では幸せだった昔をさまよっているとも見えた。先に逝った人たちが母をしきりに訪れては話しかけているらしく、娘たちもみな若くて、末娘の千江などまだこの世に生まれてもいないのだ。千江はそんな母の世界の外にいた。それはそれで千江には寂しいことだったけれど、母が幸せそうに混沌のうちに心身をひたしている様は、安心でもあった。
だが、それにしても、どこか変なのでは…。
注意深く見守っていた照子が、或る奇怪な原因らしきものに思い当たった。日々に数種類も与えられている中の、或る薬をのむと、きまって母の行動に異常が現れるのだった。そう気付いた照子は何度もためらったのちに、主治医に相談をもちかけた。渋い顔をしながら、だが、主治医はその薬を母の処方からとりのぞいた。混沌の淵からしずしずと這い上がってくるように、母の記憶が、少しずつ正常化されてきた。姉も兄夫婦も固唾をのんで日々見守っていた。照子の機転(はたらき)でたしかに症状はすこし落ちついた。照子がついて車椅子で出歩くことさえ出来た母だった。だが、何としても家には帰らないと、鬼でも棲むかのように拒み続けた。
「としいったらなあ。こどもらあがもんてくるゆうたら、ごっつおうをつくってまっといたろう、思とったんになあ。こないになってもて。」
仏の顔つきにもどったかの母は、つぶやくようにさびしく、それを、言うのだ。母の記憶がもどったことが本当によかったのかどうかは誰にも分かりはしない。
容態が落ち着いたのを見届けて、照子は大阪へ帰った。
もう母は一日の大半を、静かに、眠りの世界に身をゆだねているようになった。母を見舞う千江の目に、穏やかに眠る母の顔が、一瞬ゆがみ、ツツーと涙が頬を伝った。そっとぬぐってあげた。頬はやわらかく、野良仕事で日焼けした名残りはどこにもなく、かたかった手も色白くなり、皮膚のしたで肉付きは目立って落ちていた。枯れ木の音もなく朽ちていくように母は衰えた、衰えていった。
平成六年三月二十日。
足をさすっていた兄の手の中から、静かに、静かに母のぬくもりが消えていった。八十六歳。よく謂う「眠るような」おだやかな死だった。
(筆者は、徳島県の働く主婦。湖の本の読者 推敲を重ねに重ねてもらい、読める私小説によく到達したと思う。)
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