「e-文藝館
=湖(umi)」小説
でくね たつろう 直木賞作家。あたたかい筆触のエッセイふう小説やコラム執筆にも巧みなことで著名。多年の古書店経営
を通して豊かな人間理解と世間・歴史の観察に、魅力横溢の達筆をふるわれている。ご厚意に甘え、お人を識るにふさわしい二編を、まず選ばせていただいた。
小説作品として編輯者は読んだ。「門出の人」と題を添えさせてもらった。人の決意して立ち上がる姿が好きなのである。もう久しく、湖の本を購読し声援して
いただいている。 (秦 恒平)
門出の人 二編 出久根
達郎
貧の功徳
五坪足らずの古本屋、わが「芳雅堂」が、今夏、開店二十周年を迎えた。
二十年、という歳月が嘘のよう、店に関しては何ひとつ変らない。古本屋という商売は、俗世間の時間と全
く無縁のようである。現在は大不況だそうだが、わが店の売上は、この二十年間まるきり変化がない。良くもならなければ悪くもならない。と言えば聞こえがよ
いが、なに、低いままで一定なのである。これ以上悪くなりようがない、という数字で、考えてみればこれは不思議な話である。やろうとして出来る芸当ではな
い。
集団就職で上京した十五歳の私は、中央区月島の古本屋の住み込み店員になった。小僧、手代、番頭と順を
踏み十三年つとめた。徒弟奉公としては長い方である。
単純な理由だった。独立開業しようにも元手がなくて叶わなかったのである。
十代で酒煙草を覚えた私は、給料の大半をそれにつぎこんでしまった。古本屋は開業資金が結構かかる。三
十歳を目前にして、さすがに私も安閑としていられなくなった。必死に蓄財にいそしんだが、貯金というものは、あれは長い歳月をかけるもので、急に思いたっ
て即席で出来るものではない。
店の主人に保証人を頼み、銀行から二百万円の融資を受けた。先輩たちから百万円借り、退職金が五十万、
手元がなんとか百数十万、総計五百万そこそこ、これがわが独立資金である。
店を借り、造作費を払い、商品を仕入れると、いくらも残らない。当座の運用金三十万を握って看板をあげ
た。店さえ開ければ、なんとかなるだろう、という見込み頼みの、おっかなびっくり、綱渡りの、いざや出発である。
なんとかなる、どころではない。暑い盛りの八月六日にフタを開けたが、口切りの売上、しめて四三七〇円
である。翌日が四〇一〇円、三日め、三九二〇円、四日め、二八九〇円、五日め、一六三〇円と次第に、じり貧をたどっている。
口あけの時期がよくなかった。連日の猛暑で、本を読む気が起こらない。大学生は夏休みで海山にでかけて
いる。
私は懸命に働いた。午前八時に店をあけ、午前零時まで営業した。一週間後には午前三時すぎまで延長し
た。そのころ私は独身だったので、こんな無茶も平気でやれたのである。休みなしで働いた。
当時、夜中まで営業していた古本屋は、おそらく日本で一軒だけだったろう。そのことを報じた週刊誌の切
り抜きを、客に見せられた覚えがある。多分に揶揄(やゆ)まじりの文章だったが、私は真剣だった。
閉店まぎわ、小学一年生という女の子が、ひとりで漫画を買いにきたことがあり、幽霊を見たようにびっく
りした。夜中に起きている小学生を想像できなかったからだが、夏休みでつい宵っぱりだったのだろう。ギョッとした私を見て、女の子もギョッとしたようだっ
た。コンビニエンス・ストアが登場する前の話である。
真夜中まで開店して格段の売上もあがらなかったが、いろんな人たちと知りあう余禄を得た。ひとりはK君
という学生である。
午前一時すぎ、アルバイトを終えての帰途、必ず私の店に立ち寄った。日当が入るらしく、その金で酒とつ
まみを買い、私を話相手に一杯飲もうという魂胆である。下宿のセンベイ布団に腹ばって独酌してもつまらぬ、とこちらを退屈しのぎの具にした。いつのぞいて
も客の姿がなく、あるじが暇をもてあましているように見えたのだろう。K君にしてみれば、同情心である。
こちらは売上の先細りに気が気でなかったが、かといって古本屋はあくまでも蟻地獄の客待ち商売で、いか
んともしがたい。なるようになるさ、と店先で学生と酒盛りである。
K君は北ベトナムの大統領ホー・チ・ミン氏にそっくりの風貌で、ベトナム服に似た上着とズボンを愛用し
ているので、私は彼をホーおじさんと呼んだ。おじさんはないですよ、とK君は笑いながら抗議した。
彼はいつも笑っていた。私は彼のまじめな表情を見たことがない。
K君は私との献酬後、帰宅するのがおっくうになり、泊まるようになった。いっそ同居させてほしい、と言
いだした。寄宿料を支払うかわりに店番をする、と持ちかけてきた。
学校はどうする?
と聞くと、学費値あげ反対闘争で授業どころでなく、勉学の意欲も薄れた、と笑う。古本屋の店番をしつつ好きな本を読んだ方が、よほど身のためだ、と笑うの
で、K君の思うままにさせた。
彼は本好きの若者で、私の店に頻繁に寄ったのも本を捜すのが目的で、酒盛りはそれに付随したことだっ
た。
しかしK君もわが店の不振ぶりには度肝を抜かれたらしい。一日中すわっていて、ひとりも客が入ってきま
せん、ぼくの顔が悪いせいでしょうか、とこぼした。
そんなことはない。K君の笑顔は、誰が見ても福の神の笑顔である。
古本屋の客は面白い本につられてくるのであって、つまりは当店の品揃えが凡(ぼん)なのである。資本金
の多寡が、商品に如実にあらわれるのだ。
店番していて売れないのは肩身が狭い、本を読んでいても、やましいです、とK君は再び割りの良いアルバ
イトにでかけていった。過酷な肉体労働である。そして月末になると、私に現金で下宿代を入れてくれるのだった。
気を遣ってもらわなくてよい、と辞退するのだが、K君は聞かない。この金で本を仕入れて下さい、店に並
べる前に私に読ませて下さい、それで十分です、と笑う。
まったく生き神さまのような男であった。私はK君の好意に甘えた。
少しずつ店がよみがえり始めた。
K君が広告チラシを作って配りましょう、と活を入れた。店の宣伝をしなくちゃだめです、文案を考えて下
さい、絵はぼくが描く、と早速クレヨンとわら半紙をしこたま買いこんできた。
「創業ゼロ年 ゆえに古本高く買います ほこりごとおゆずり下さい」はどうだろう?
売る方は品揃えが不十分ゆえ効果が期待できない、不用の本をひきとる方で、もうけようと思う。そう提案すると、創業ゼロ年のゼロは、楕円を大きく記しま
しょう、と半紙のほぼ中央に、赤色で無造作にその通り描いた。そして私の即興文を書き、最後に、本がまん中から開かれた絵を、ひと筆描きで描いた。そこに
コケシの眼のようなものを書きこんだ。本が笑っている図である。
なんだか古本屋らしからぬチラシだねえ、と感想を述べると、へただから目だつんです、チラシはとにかく
人目を引き、手に取って見てもらわなくては、と断言した。
私たちは酒を飲みながら、興にまかせて手描きのチラシをせっせと製作した。競争で、描いたのである。
出来あがったチラシを、翌日K君は、アルバイト先に行く道筋の、各戸の郵便受けに残らず投函した。これ
を連日くり返した。毎回、往復の道を変えて広げた。
望ましい効果があったとはいえない。
カメラをさげた中年の男性が訪ねてきて、チラシを拝見しました、大変驚きました、ついては店の写真を一
枚とらせて下さい、資料として保存させていただきます、と丁重に切りだすから、なにごとです、と問えば、ポケットからくだんのチラシを取りだし、これはこ
ちらさまではありませんか、と。当店の広告に間違いありませんが、と受け取ってながめれば、どうや私の筆跡、酔った勢いで書きなぐったものだから、「創業
一〇〇〇年」とある。
藤原道長の時代に開業の老舗が、クレヨン描きのお粗末なチラシを配るはずもなく、間違える方もどうかと
思うが、古本屋さんだからあるいは、と考ました、と客に罪はない。
ご覧の店構えでして、と笑うと、客はざっと書棚を見回して、たちまち納得したらしい。
K君はやがて家郷から呼び出しがきて、本意なくも都落ちとあいなった。故郷は九州の宮崎である。
年が年中、ホーおじさんの一帳羅で押し通すK君は、失礼ながら富貴の出とは思われない。私同様、貧家育
ちに違いない。手ぶらで帰郷しようとするK君に、私は両親にせめて手みやげを、とかさばらない荷を調(ととの)えた。
元気でがんばれよ、と握手を求めたら、ご主人も踏んばって下さい、いやですよ、ぼくがいつか上京してみ
たら芳雅堂が影も形もなかったなんて。三倍も四倍も大きな店舗に変っていますように、と涙声で言い、声たてて笑った。笑いながら弁解した。ぼくは泣くのも
喜ぶのも笑い顔になってしまうんです。
結構じゃないか。K君のそれは誇っていい美点だよ、大事にいつまでもその笑顔を続けてね、と私も泣きそ
うになって、あわてて笑顔につくろった。
K君はすぐに礼状をよこした。ご両親がみやげを大層喜んだそうであった。私はK君が自分で調えたことに
して贈るように、と知恵をつけたのである。むすこが人への気配りを学んで帰った、と泣いて喜んだそうであった。
ところが礼状のあとを追いかけて、お米が一俵、貨車便で私あてに届けられたのである。続いて送られた手
紙によれば、彼は手みやげの一件をご両親に正直にうちあけたのであった。親御さんが恐縮してお返しを下さったのである。
私はK君の軽率に眉をひそめ、一方でその正直ぶりを喝采した。しかし貧しい親御さんによけいな負担をか
けたのは気が重かった。
しかしよくよく聞いてみると、K君は豪農の末っ子なのであった。しかも生家は由緒ある旧家だというので
ある。私の思いこみによる、馬鹿げた独り合点であった。
K君は家庭の事情で郷里に居つき、地元の薬品会社につとめた。やがて結婚し、程なく父となった。
私も開業三年めに、身を固めた。男手ひとつの不自由と弊害は、まず健康面に顕(あらわ)れた。食事が不
規則で、かつ栄養不良ゆえ貧血気味で、しょっちゅう風邪をひき、こじらせ、おまけに臓器に石が出来る奇病にかかった。ラーメンばかり食べていたのである。
もともと私は食うことに無頓着であった。東京に出てくるまで、ろくすっぽ白米を口にしたことがない極貧
生活だったから、飢えなければよし、という単純さで食事に対してきた。栄養のバランスなど頭にない。
あけがた、トイレで失神して、水道管のつきだした部分に、右眉のま上を痛打した。あと一センチずれてい
たら、眼球をやられ、どうなっていたかわからない。仮死状態から蘇ったとき、痛みそのものより、独身生活の恐さ淋しさを身ぶるいするほど強烈に味わった。
ふたり口は養える、というけど、私一人の時よりも経済状態はむしろ悪くなった。石油ショック後の長い不
況で、本が売れない。
私と家内は、やみくもに働いた。デパートやスーパーでの古本即売展に積極的に参加した。渋谷の公園通り
に露店を出したこともある。テントを張って、その中で寝泊りした。早朝、カラスの大群に襲われて、こわい思いをした。本屋商売と思えない過酷さである。
かたわら通信販売もおこなった。古書目録を作って、地方の愛好家に郵送し注文を取るのである。金がない
ので手書きし、それをコピーしたものを綴じて小冊子に作った。
K君にも無沙汰の詫び状がわりに送った。
「チラシを思いだします。また創業一〇〇〇年を思いだしました。売価の桁をくれぐれも間違えませんよう
に」と返事がきた。陣中見舞いと称して、米が一俵届けられた。東京生まれの家内が、初めて見る米俵に目を丸くした。
仕事で上京したK君が、寸暇を利用して店に寄ってくれた。十数年ぶりの再会である。
K君は中年太りで、堂々たる貫禄である。鼻下にヒゲをたくわえていた。なんだか、そぐわないよ、と笑う
と、ぼくは童顔だから威厳がなく、人に示しがつかないんです、それで、と妙な弁解をした。
「ご主人も変らないけど、お店も変りませんね。芳雅堂ビルが建っているかと、楽しみにしてまいりましたの
に」と冗談を言った。
「K君がいた時分と、まったく売上が変らないんだよ」とこれは正直な話だった。
「怒らないで下さいよ」とK君が釘をさした。
「あの頃、いい体験をした、と今でも楽しく思いだします。ぼくは貧しさというものを知らないで育ちまし
た。本屋さんのおかげで、一端を味わうことができました。得がたい経験でした」
なるほど当方の苦労を楽しんでいる者もいたのか、と私は笑った。
「申しわけありません。本屋さんと出会わなければ、ぼくは世間しらずのお坊ちゃんで、一生を終りました」
K君が笑った。
「すると、自分は貧乏の功徳を施したわけだ」
「そういうことです」
私たちは大笑いした。
K君の笑顔は昔と変らないが、ヒゲを生やした分、人生の苦渋というものを、どことなく感じさせる。私の
功徳は、彼にはヒゲの知恵程度のものであろう。
しかし私にとってK君は、苦闘時代を苦しいと毫(ごう)も感じさせず、むしろ楽しく過ごさせてくれた恩
人である。大もうけさせてくれるものだけが、福の神ではあるまい。K君の天性の笑顔が、どれだけ当時の暗澹たる気分をやわらげてくれたか。お互いさま、と
いうものである。
─初出「文藝春秋」1994年2月
号 単行本『たとえばの楽しみ』所収─
タンポポ
中学校卒業後の進路は、一存で決めた。私の家は生活保護を受けていた。保護家庭の子女は、義務教育を修了する
と、いやも応もなく働きに出て、稼ぎを家に入れなければならぬ規則だった。国から借りた生活資金は、そういう形で返済しなければならぬ。
私は就職も就職先も、誰にも相談しないで決めた。昭和三十四年当時の、中学卒に対する求人の大半は、商
店員か中小企業の工員である。月給千五百円から二千円が多かった。
書店員、というのがあった。住み込みで食事付き、手取り三千円。書店なら思う存分に本が読めるだろう、
勉強も出来る。私はあとさき考えず飛びついた。菓子屋なら菓子が食える、と幼児が単純に思いこむのと同じ発想である。
上京当日、私は初めて両親に就職の件をうちあけた。出立(しゅったつ)は数時間後だと告げると、両親は仰天した。行先が東京の中央区月島と知ると、母親が
不意に泣きだした。島と聞いて胸をつぶしたのである。鬼界(きかい)ヶ島の俊寛(しゅんかん)を想像したらしい。流人(るにん)ではない、となだめたが、
私にも月島がどういう島であるか見当がつかなかった。銀座に近い島、と職安の係員が説明したが、すると尚更もってイメージできない場所であり土地である。
船で渡るのか、と母が聞いたが、たぶん橋が架かっていると思う、と平凡な答えしかできない。マムシがいるのじゃないか、と東京を見たことのない母が取り越
し苦労をした。人間が多いから蛇はいない、と断言すると、巾着(きんちゃく)切りが鵜の目タカの目で狙っているぞ、とたたみこんだ。
要するに息子のひとり旅が心配なのである。
こんな大事を勝手に決めるなんて、親不孝者の最たるものだ、と母親がぐちり始めた。
私はうんざりして、表へ出た。乗合バスの時間まで大分、間があった。故郷の風景も見納めだ、という気で
私はあちこちをうろついた。数年前、樹上生活を夢みて、椿(つばき)の幹と枝の股に、丸太や板きれやムシロで小屋を掛けた。その椿の大木を見あげると、葉
群れのあわいに小屋の残骸が乗っていた。万が一、東京での生活が失敗したなら、帰ってきてひっそりあの小屋で孤独の生涯を送ろう、と考えた。そう考えた
ら、いっぺんに気分が晴れた。
椿は花の盛りを過ぎていた。ボトッと音がして、私の足元に赤いのが一つ落ちてきた。私の覚悟に賛同して
くれたもの、と受けとった。
花冠の落下点に、黄色いものが光っていた。
タンポポである。早春の陽ざしに、あかりのように見えた。私はしゃがんで、タンポポに語りかけた。お前
のかわりに東京を見てきてあげる。そして唇をすぼめて軽く息を吹きつけた。するとまるで黄色い紙吹雪が舞うように、花びらがいっぺんに剥がれて宙に飛散し
たのである。綿毛に変る寸前の花だったろうか。鮮やかな手妻(てづま)を見せられたようで、私は軽くのけぞった。
月島の勤め先を訪ねると、そこは古本屋であった。田舎者だったので古本屋の存在を知らなかった。書店というか
ら、てっきり新刊店と疑わなかったのである。正直の話、内心がっかりした。古くさい本と湿気(しけ)たにおいと活気のなさ、何やら陰気臭い雰囲気に、これ
は出世を望めるような職場でない、と感じたのである。聞いたこともない書名や著者の本ばかりである。十五歳の少年が飛びつきたくなるような書物は一冊も見
当らない。
到着したのは午後だったが、仕事は明日からだ、と番頭さんに申し渡された。すなわち今日だけは自由に遊
んでよい。私はとにかく月島の町をざっと回ってみることにした。
まず隅田川を眺めたい、と思った。小学校で「春のうららの隅田川」という歌を習った。「うらら」という
意味がわからなかった。「鵜等々(うらら)」のことなのだろう、と独り合点していた。
隅田川にはたくさんの鵜が泳いでいるもの、と以来ずっとそう思っていた。
東京をよく知らなかったからである。
六年生の遠足で、上野動物園にきた。西郷像の前で記念撮影した。東京を見たのは、それだけである。上野
の山にあがる石段のへりに、カリントウのお化けのような巨大な古い犬の糞がころがっていて、東京にも野糞がある、と非常に奇異に感じたのを覚えている。そ
うして石段を昇りつめたら例の銅像で、西郷さんが犬を連れているので、なんだか妙な気がした。一瞬、糞のぬしと錯覚したのである。
隅田川をめざしたつもりが、逆の方向に歩いていた。朝汐(あさしお)橋という橋に行き当った。運河があ
り、一部は貯木場になっていた。そういえば木場(きば)が近い。橋を渡った。のちに地図で確かめると、そこは晴海(はるみ)という、月島と同じく埋めたて
地であった。私は知らなかったが、晴海も島のひとつであった。ハーモニカの吹口(ふきぐち)をいくつも重ねたような建物が並んでいる。高層団地である。
団地の前の、べらぼうにだだっ広い道路を、ひやひやしながら横断した。車の数は少ない.が、いずれも猛
烈なスピードで走っている。
道路の向うは原っぱであった。原っぱの先には倉庫が並び、クレーンのようなものが見える。何より、原っ
ぱの広大な眺めである。
私は草むらに仰向けに寝た。東京に居る、という気がしない。草の匂いは田舎のそれであった。深呼吸しな
がら、ここを秘密の隠れ場所にしよう、と決めた。
そして一ヵ月後、店の休日に私は一人でやってきた。陽気もよかったので寝ころんで本を読むつもりだっ
た。私は思わず目をみはった。草原が、なかった。いや青い原っぱが、一面まっ黄色の花畑に変化していた。タンポポの群生である。出京当日の一輪を思いだし
た。私の息差しで、はかなく四散した花びらを思いだした。あの花の種子が私の着衣にしがみつき、そのままここに運ばれたのだ、と信じた。一つの種子が、こ
んなにも沢山の花を咲かせたのだ、と思った。魔法だ、自分は魔法使いだ、と口の中でつぶやいたつもりだったが、知らず、声に発していたらしい。数メートル
先の草むらから、若い女性がむっくりと起きあがったので、びっくりした。隠れるほどの丈のある草むらではなかったから、タンポポに目を奪われて、こちらが
相手の存在に気づかなかっただけである。
「魔法ってなんですか?
」と話しかけてきたが、相当訛(なまり)が強い。年恰好から私同様、集団就職組らしい。聞いてみると、案の定だった。三月の半ばに、築地の魚屋に店員とし
て勤めた。ところが仕事は店番でなく、いわば女中奉公である。月一回のはずの休日もない。
使いに出されたのを幸い、逃げてきた。そう語った。
「朝だって三時に起こされるのよ」
「三時に? 夜中じゃないですか」
「主人が市場に買い出しに行くの。せっかちな人なの。私眠くて、ぐずっていたら、主人が布団を剥いで、そ
して……」あとは言いよどんだ。
彼女は私の身の上を聞くと、来月の何日にここでまた会いましょう、と約束させた。私はうなずいたが、なんとなくたじろぐものがあって、その草原には再び踏
み人らなかった。
彼女は佃島(つくだじま)の渡船で渡ってきた、と語った。漁師の娘で、晴海という地名と潮の香にひかれ
て、ふらふらと歩いてきた、と語った。
数年後のある日、私はその佃の渡船に乗った。何気なく足もとを見やると、タンポポの花が一輪落ちている
のだった。
娘の名も顔も今は思い出せない。あるいは、彼女はタンポポの精であったかもしれない。
─初出「室内」1993年 単行本『逢わばや見ばや』1997年
所収─
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