電子版・湖の本エッセイ 9
 
 
 洛東巷談・京とあした  上


  完璧の校正は、未了ですが。
 



目次

洛東巷談・京とあした…序…………………4
 呪い人形、そして始めに秦氏のこと…7
 山紫水明、せめて一度は原風景から…15
 貴賤都鄙、なぜか神々の家は都の外…23
 敬神崇仏、それも程々に人の世渡り…31
 三十六峰、いたるところが青山なり…39
 藝と色と、鎮魂慰霊のはては甲と乙…47
 山河襟帯、そこヘカモが葱ならぬ神…56
 宮様本願、めでたやな天皇制は健在…65
 翁と天皇、長(かしこ)し神の役にはおべっか…73
 教育汚染、耐えて忍べば済(な)すありや…82
 問答無情、お国は「日本」お商売は…90
 異人往来、ハテお互い縁は異なもの…99
 世襲都市、よっしゃの綸言汗の如し…106
 京都言葉、所詮は友情が泣く位取り…116
 式の伝統、心も直(すぐ)にない者らの美学…125
 京で賛沢、ただ散財ではただのアホ…下巻
 金の世間、さても恨みは数々ござる…下巻
 千年一日、最敬礼で男が笑う女文化…下巻
 政皇分離、天皇陛下京都へお帰りを…下巻
 京に田舎、不徳ナレドモ弧デモナシ…下巻

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京都私情・きのう京あした…・……………・…………下巻
 京おとこ・京おんな
 京の献立
 京の着だおれ
 京の町なみ
 京ことば
 京根性
京都私情・京あすあさって――兄弟往復書簡………下巻
 京 街を歩く……………北沢恒彦
 貴賤都鄙の流れ…………秦 恒平
 京 歴史を歩く…………秦 恒平
 サークル文化の増殖感…北沢恒彦
 鴨川今昔……:…………・北沢恒彦
 私のサークル論…………秦 恒平
 跋………下巻
私語の刻………………………………133
湖の本既刊紹介と要約・予告………138
〈表紙〉装禎 堤 或子
    装画 城 景都
    印刻 井口哲郎
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 思いがけぬ機会に恵まれ「朝日ジャーナル」(筑紫哲也編集長)誌上に、昭和五十九年の五月十一日号から九月二十八日まで二十週連載したものを、ほぼ初出のまま本にした。
「京都」について書かれた文章はまことにおびただしいが、おおかたは案内であり紹介であり解説であり、皮肉をえぐって深く「京都」や「京都人」をまともに論策した例に乏しい。
 その一例はいわゆる京言葉についてで、概ね語彙を収拾しまたもの優しげな抑揚にのみ注意して足れりとし、独特の位取りのきつい語法にまで正しく触れることがない。よく京都の人は腹が知れない、分かりにくいと一般にいわれるのも、まさに千年の都ぶりに鍛えられ磨かれた、したたかな言葉の用いかた、物言いの凄さに根ざしている。それ以外には暮らしの武器というものをもたなかった町の、心直(すぐ)にない「文化」の質と人間関係の険しさとが京の物言いには凝っている。そこまで見ないと、「京都」と「京都人」の分かりにくさには、理解のいとぐちも持てないであろう。
 だがそういう「京都」を、また日本列島あまねく相対化して眺め直す、歴史的かつ今日的な展望や判断こそが、実はもっと大切なことだった。譬えにも「京に田舎あり」しかし「田舎に京あり」の歴史や現実は、否定できない。京都人ひとりの「京都」でなく、あまねく日本人の胸に巣喰った「京都」の、重い、苦い、しかし無視しがたい意味というものが有ろう。それを思えば「京都」は、想像以上に現代日本人の一人一人にとって、一の踏絵の意味を負うていそうに思われる。
一九八四・一二・二一   秦 恒平

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洛東巷談・京とあした

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「朝日ジャーナル」昭和五十九年五月十一日―九月二十八日号 二十回連載

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呪い人形、そして始めに秦氏のこと

 ふるい話になる――(昭和五十九年からみて、なお)八、九年前の秋だ、京都の清水寺に火が放たれた。坂上田村麻呂の建立(こんりゆう)に成るといわれる古いお寺だ。そしてやがて正月早々にも、今度は桓武天皇を祭る平安神宮が怪火の厄に遭(あ)った。その頃、私は人形、というより、平城宮跡大膳職しき)の井戸の底から出土したという呪いのひとがたに気を惹かれていたからか、あい次ぐ火の手は今なお坂上田村麻呂や桓武天皇を狙ったのだという気がしてならなかった。
「京都」を語りはじめるのに、いきなりあまり物騒な話題ではあるけれど、同じあの当時には最後の太政大臣三条実美(さねとみ)ゆかりの梨木(なしのき)神社や、これも平安京にゆかりの城南宮でも同類の騒きがあって、奇妙に京都の町が揺れつづいたものだった。で、まア、まずはアンノンな観光京都など遠く離れたそんなゴワそうな枕へ頭をぶつけておいて、事実、さまざまにコワい物も事も人も場所もたっぷり抱き込んでいるこの古い都へ、心してそろりと、身を滑りこませていきたい。お断りしておく、私は太秦(うづまさ)に近い左京区西(さい)院で生まれたらしく、やがて四歳の夏までは他人手(ひとで)を転々

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のあげく南山城当尾(とおの)の里の父方祖父の家で育った。祖父吉岡誠一郎は往年の京都府視学などを勤めたという人だが、その後、事情あって私はまた祖父母の手から京都市内、今度は鴨川より東の知恩院新門前通(ちおいんしんもんぜんどおり)のラジオ屋へ貰い子されて行った。現姓の奏家であり、上京就職するまでほぼ二〇年を私はこの東山区の、三条通からも四条通からも中ほど、かつてはしーんしんと静かな、「異人さん」相手の古美術商が並んだなかなか面白い、佳い町筋で暮らしたのである。
 東の町内には由緒ある京都美術倶楽部があり、西には京舞井上流家元の「八千代はん」の家や稽古場があった。目と鼻のさきに知恩院本堂の大屋根が東山に木隠(こがく)れて見えていたし、夕焼け時には遠い西山の稜線がくっきり濃い影を描いて見えた。家並みの北側をせせらぐ白川が西へ流れて、やがて疏水(そすい)へ鴨川へと注いでいた。そして養家のわき、細い抜け路地(ろうじ)を一筋南へ抜けでた新橋通からが、いわゆる祇((示へんに氏))園の廓(くるわ)だった。花街だった。
 私の京都論は、このような地理的条件に、当然、色濃く染められているだろう。しかも私はそのような洛東の地をすら離れて、東京での暮らしが今春(昭和五九年)まさに二五年を過ぎた。それをはっきりさせておきたくて言わずもがなの私事にも触れたし、むろん、その効果を私は議論の支えに程よく用いたい、用いられるだろうと思っている。
 自己紹介かたがたもうすこし地元の話をしよう。地元といっても一度や二度京都へ遊んだ人なら、大人なら、いや男の人なら祇園の花街、花見小路界隈の夜の賑わいはいろいろに印象に濃いのではないか。
 あの花見小(一字傍点)路は、四条通より南へどう歩いても、ひっそりと建仁寺で先がふさがる。ところが四条より北へはまるで花見大(一字傍点)路。南の倍かそれ以上も道幅広く、しかも三条通まで太々しく貫き抜けていて、

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夜分(やぶん)には遊客蕩児を送り迎えの自動車が、洪水もかくやと大氾濫する。もう久
しい東京暮らしから、たまに親の家のある新門前通へ帰るたび、あまりな雑踏
にほとほと怖気(おじけ)づいてしまう。
 あの騒がしい大通りが、戦争前は三分の一あったかどうか、文字どおりの細(ほつそ)り小路だった。そればかりか――寺でこそなけれ、北向きの花見小路も北へ三(み)筋目の新橋通でガンと家(や)並みにふさがれ、行きどまりだった。私の家の通りから廓へは、また逆に廓から北の新門前通へは細い抜け路地(ろうじ)がたった二(ふた)筋、白川新橋をはさんで東と西に一カ所ずつ通じていただけ。その、東のひときわ細くくねった一(ひと)筋が、ちようど私の養家(いえ)のわきへ抜けて来ていた。廓筋と町屋筋とが、概ね文字どおりに隔離されていたわけだ。
 戦時の道路疎開でこの祇園町北側の花見小路は、東片側の家並みが無残に取り潰されて大路に変貌。加えて新橋通を北へ胸中をぶち抜き、新門前通も古門前(ふるもんぜん)通も容赦なしに三条まで、大手を広げた殺風景な大通りが貫通した。
 白川ぞいも、今でこそ辰巳稲荷や吉井勇「かにかくに祇園は恋し」の歌碑を包みこむように柳桜をこきまぜて、石畳の佳い道筋になっているが、戦時中、辰巳橋の西北側の家を縄手まで乱暴に疎開して、見るから白けたはだか道を斜(はす)に押し通したのが、化粧なおしで椅麗になったもの。
 祇園界隈で白川といえば、私の子ども時分は東大路の菊屋橋から順に西へ狸橋、新門前
橋、新橋、辰巳橋そして縄手の大和橋まで、両川べりに軒を揃えた家と家との間を、裏手を、しっぽりと隠れて流れて、橋の上に立ちどまりでもせぬかぎりせせらぐ川面(も)を見ることはできなかった。「枕の下を水の流るなまる」と歌われた、艶めかしくもほのぐらい風情は、そのように瓦屋根と板塀や板壁に静かに両側から蔽われ、めったに人目にふれなかったことと切り離せない。幼かった私さえ、母に連れられ銭湯などへ往

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き返りのちょっとのひまに、狸橋や辰巳橋から川明かりにうつろう瀬音に聴き惚れて、飽かなかった。
 ぶち抜きの花見大(一字傍点)路、便利は便利で有り難い。おかげでネオンきらめく大繁昌、それもけっこうだ。が、この便利と繁昌はほんものだったのだろうか。実は広い意味の"戦災"に遭ったのと同じことではなかったか。それかあらぬか戦後もやがて(来年、昭和六〇年で)四〇周年。八坂神社石段下の中学に机を並べた同士「たんと(沢山)」な彼や彼女らの、まさかまさかと思っていた感じの佳いお茶屋、小粋(こいき)な店構えが、行方知れず影も形もどれほど消え失せてしまったことか。
 この界隈の話題、いやも応もなく繰り返すことだろう。それにしてもあの戦中は、手荒な疎開のあと、北の花見小路をサマにもならず耕して、俄(にわか)仕込みのやせた畑で、各町内がほそぼそと作物を育てていたものだ、どれほどの人が覚えているだろう。
 そして敗戦直後は、かさぶたのように真っ黒にあの広道へ闇市が立った。その闇市がいつ姿を消したか消さぬか、やがて爆(はじ)けたような世直しの盆踊りが、来る夏ごとに、熱狂の渦を幾重にも巻いて昭和二六、七年まで続いた。お高い甲部の歌舞練場でさえ大門をとじた前庭へ、入場の整理券をばらまいて、鳴り物にぎやかに老若入り乱れ踊りの輪がふくれ上がった。
 世直しが、成ったのか失敗(しくじ)ったのか。分からない。
 この辺でしかし話題を、のっけにコワそうだった呪(のろ)い人形へ、もう一度戻してみるのに賛成な読者も多いのではないか。コワいもの見たさ、それも「京都」の話題に背
くものでないならば、なおさらだ。
 平城宮跡大膳職(だいぜんしき)の井戸の底から出土した呪いのひとがたは、わずか一五センチ余の稚拙な板人形だ。両眼と胸とに物凄くも木釘が打ちこまれて、胴体に何者かの姓名が墨書されていたらしいが、もはや読

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み解くすべもない。呪いの文字は、白日に曝され読まれてしまえば解ける。というこ
とは、今なお誰かが誰かの身の上にふりかけた、恐ろしい呪殺の意志がこの人形に凝
結して解けていないわけだ。そんな時代ではもうない、とも言えまい。
 京生まれの私は、やはり京育ちの御所人形などが、好きは好きだ。が、あれほどの優雅、気品、愛矯、が、みやびやかな大宮人たちの暮らしと心ざしの中から、ただ趣味的に育まれたと思うのは早合点が過ぎるだろう。
 京都の歴史は桓武天皇の創業このかた怨霊にたたられ、怨霊をおそれ、怨霊を鎮めつづけた歴史とも言えるのであって、光仁先帝の井上皇后と他戸(おさべ)皇太子とを殺して平城京を長岡京へ逃れ、寵臣藤原種継を殺され実弟早良(さわら)皇太子を殺してまた平安京へ逃れた桓武王政の原点に、今も呪い解けない木釘に打ち殺された呪い人形が、ここかしこに幾体も居座ったままであること、そのおののく畏れを平安京の主人公たちはその後も身に抱きしめながら、そういうコワい役に立つ人形の怖さを宥(なだ)め和らげつつ、「わたしの人形(にんぎよ)はよい人形」にすりかえようと努めた結晶が、あのあどけなく、優しく美しい御所人形だという見方が、存外的を射ていよう。ひょっとして…平城京の井戸底に沈められていたひとがたの目にも胸にも、あれは明らかな反桓武、反平安京の呪いが生きていて、それも、まだ消えてはいない……のか。
 我ながら、まあ、おどろしいこと。だが「京都」を語るには幾らかこれくらいな視線もなくては、相変わらぬ観光京都のご案内だかご散策だかで終わってしまう。それは避けたい。あまり意味がない。
 それに何より私は、血こそ承(う)けていないが、現在「秦さん」の一人である。「平安京」を語って秦氏を措(お)くわけには行くまい、そもそも平安京が成るについて、わが秦氏、相当な発言権は持っていた。桂

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川に大堰(おおい)を築いてともあれ長岡京の建設を可能にし、また盆地の真(ま)んマン中(現在の堀川通)を貫流していたらしい加茂川流路を、ほぼ今日の鴨川の位置へ移す大事業を引き受けて、平安京の建設を可能にしえたのも、秦氏であったとか。もっともこの後の例には歴史的な根拠がないらしく、加茂川の流路は昔から現在とそう変わりない浅い谷を通っていたと、あらたな地質学からの検討で、ほぼ旧説が書き変えられようとしているとか。
 それより、いわゆる今日の「キョート」が「京都」であるなら、歴史的な左京(東)右京(西)を備えた「平安京」と、少なくも大内裏が焼け尽くしてぼうぼうの内野(うちの)の原と成り果て、右京はすべて欠いて、新たに左京に上(かみ)辺(上京、北)下(しも)辺(下京、南)が出来たような中世以降の「京都(京洛)」ないし現在の「京都市」とは、範囲も「町」の性格も別もの、というほどの事が、とかくこの手の話ではいつも整理されていない。
 同じ意味で実は「平安京」以前にも「キョート」はあったことが、とかく忘れられている。それを便宜上「古京都」とここでは呼んでおきたい。秦氏はその古京都に大きな根拠をえていた豪族だった。伝説にもせよ、平安京の大極殿(だいこくでん)は奏河勝の邸趾に建てたといわれるのは、いわば地主の末裔(まつえい)としていささか感慨がある。江戸時代、大名に金を貸したのが焦げついて、大町人が何軒も家を潰したのが妙に侘びしく思い合わされてくる。
 秦氏が、平安京に貸し付けただけ、せめてモトは取ったかどうか、これが実に頼りない。今日「秦さん」の振るわない遠因もここに有ったろう。平安京に貢献した割には秦氏は、そう酬(むく)われなかったのではないか。それとも平城派の誰彼に呪われ目釘でも打たれて、あげく衰弱したのだろうか。

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 古京都での秦氏の根拠地は、あらく見て東南の深草伏見方面と、西の太秦(うづまさ)から嵐山、桂への一帯とが挙げられる。伏見には総本社の稲荷大社が聞こえた氏神だし、嵐山に近くやはり氏神の松尾大社があり、太秦には国宝第一号の弥勒菩薩を擁した現在の広隆寺が氏寺として名高い。この寺の近くには秦氏の勢力と技術のほどを証言していそうな遺跡が多いが、中でも太秦映画村に隣接し面影町の民家に囲まれて遣る巨大な古墳の石組みは、かの飛鳥に遺って蘇我馬子の墓かという石舞台にも、おさおさ劣らない。しかも今にその呼び名を「蛇塚」とは、どういうことか。
 いつか思い立って、きわどい時間のアキに四条通を西へ西へ、松尾大社までタクシーを飛ばしたことがある。
「お酒屋はんどっか……」
松尾さんは、酒造業者の熱い信仰をあつめている。秦酒公(はたのさけのきみ)(奉公酒(はたのきみさけ)とも)という人がいたらしいし、「うま酒三輪」という決まり文句もある大和三輪山あたりでも、秦氏は大きな力を持っていたという。
 いったい秦氏ほど津々浦々に分布の広い氏族もないことは、『姓氏家系大辞典』の著者太田亮がつとに実証的に力説している。特に薩摩の島津氏一族、越中の神保氏、対馬の宗氏、また長曾我部氏、および稲荷松尾社の社家一党が大きく、桜田、井手(出)、前、原、物集(もず)氏ら、また羽田、八田、和田氏など驚くほどの多数氏族が、秦氏に属していた。その秦氏の保有したらしい事業や技術の、地方によりいろいろに多彩なのも興深く、機織、酒造、土木、木工、産鉄、林業、造船、そして芸能の方にも観阿弥、世阿弥の徒を出している……。
「いえ私は、秦さんだから」

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「へ……」運転手氏が戸惑う。
「ま、氏神さんへお詣りなンですよ」、
 彼は納得し、それから「秦はんちゅうたら、向こうから来やはったお家(うち)どすな。ここから太秦(うづまさ)辺へかけて、今も向こうの人が多おすのンやろな」などと超歴史的な当てずっぽうを口にする。「向こう」とは中国、朝鮮半島のことを言っているのだ。日本人中の日本人といえるほど日本列島に莫大に生きてきた自分も秦氏の一人であるなどと、例えば女優の桜田淳子ちゃんも作家の井出孫六さんも気がついているかどうか。現にその運転手氏の苗字が珍しい「依智(えち)さん」も、れっきとした秦氏の一族なのだから面白い。
「えツ。さよか……往生やなア。うっかり人に言えまへんな」と、「秦はん」を前(うしろ)にして慨嘆されてみると、しかし、妙な気分だった。どっちが往生やねン……。
 京都へ旅した人で、市内を走りながら時にこういう運転手氏の口から、わざわざ聞かずもがなの余計な、つまりは差別的な知恵をつけられた経験の持ち主は少なくないはずだ。奇妙な自己防衛の意識が働いているのか、先手を打つ感じにいろんな聞きづらいことを喋りだす、自分はチガウと言わんばかりに。「向こう」と「こっち」とを分けて、いわば「我々」と「彼ら」とを絶えず分別していないと気が気でない、お高いような、実に次元の低い窮屈な人間観が、京都市民の暮らしにもこびりついている。それが昔も今も難儀な社会問題や教育問題に絡みついてくる。
 京都は佳いけれど、京都の人は腹が知れない、分かりにくいという声はいやほど聞いてきた。その「腹の知れなさ」「分かりにくさ」の大きな部分が、いま指摘した所へ関係してくるからややこしい。

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京都で暮らしている京都の人には、存外それが分かっていない。
 さいわい私には「秦氏」の目がある。鴨川に隔てられ東山の裾に開けた「川向こう」――洛東の「町続き町」に育った、いわば「洛外」からのカラい視線も感性も判断もある。しかも現在「京都」から自由にもなっている。「腹の知れなさ」「分かりにくさ」をせめて解きほぐしながら、思うさま、きのう、京、あしたを考えてみたい。

山紫水明、せめて一度は原風景から

 大和から見て山の背後という意味で、「古京都」の一帯をもとは山背国(やましろのくに)といったらしい。それが山城国と変わった時に「平安京」は成った。へんに気はずかしい名だった。私の名、「平(一字傍点)安京」で生まれた「恒(ひさし)」の子の「恒平」と、いつ頃か年寄りの話しているのを耳にはさんで、気はずかしさが増した。いっそ不安になった。「平安時代」とはじめて知った時からこそばやく、あまり前へ出てほしく
ない親類の太った伯母さんみたいな感じがしていた、嫌いではないのに。
 余談になるが雄略、天智、桓武などという上古の天皇の、あんまり堂々としすぎた名乗りは好きでなかった。「平安時代」の四字はそっちに似合う。嵯峨天皇くらいでほツとし、一条、三条とか、白河、

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堀河、鳥羽天皇とかになると落ち着けた。いずれも市内に馴染みの地名――「京都時代」にしといたらええのに、と思ったものだ。
 逆のことを人の名乗りに感じた。天皇があちこち土地の名を名乗りだすのを尻目に、今まで、まあ馬子の、不比等の、麻呂のといった連中が、にわかに良房の、基経の、実頼(さねより)のと仰々しくなり、摂政の関白のと幅を利かしはじめる。律令制の根が揺らぎ、天皇がただの地主なみに名乗り、名実ともエラそうに藤原氏が時めく。それが「平安」と呼ばれた不安の芯になって行く。
 そうはいえ北と東西を山が護って、南へ明るく開いたこの平安の都城、多くの古代的な好条件はよく備えていたと言えよう。まぢかに近江の湖水を控えて北海に通じ、鴨川、桂川などことごとく淀川に注いで浪速の海につながる。舟運よし、東西南北へ幹線道路の整備も比較的に容易だった。景観、すこぶる温和、ただ冬はいたく冷える。夏はきわめて暑い。忘れもしない、熱暑には、扇風機に抱きついたり冷えた畳を求めて裸でノタうつしかなかったし、酷寒には、大火鉢に思わず股火をして、なお家の内で胴震いがするほどだった。「山城」なる地形のそれが天然の贈り物で、その分、春秋の美しさはみごとだ。
 良い意味でも悪い意味でも、だが古京都(平安京以前)、平安京、京洛(京都市以前)を通じて、京都を刺激しつづけたのは、結局「山」よりは「川」だったろう。
 一二世紀院政の並びなき独裁者だった白河法皇にして、鴨川の荒れはサイコロの目ほども思いのままにはならなかった。また保津川から桂川への流域が、いかに古京都の昔には荒く水漬(みづ)いたか。しかし防河治水に成功すればそれなりの利はあった。秦氏は桂氾濫の難儀を大堰(おおい)で巧みに和らげ、結果として下

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流には豊かな田畑が開けたし、長岡京建設の立地条件もほぼ整った。そして土師(はじ)氏や百済王氏の土着勢力が、平城京を捨ててきた桓武天皇の勇断をここによろこび待ち迎えたのは、道理だった。この天皇は明らかにその肉親に、例の「向こうから来やはった」即ち大陸、半島から渡来したと思われる氏族の血を承けていた。そこから妻もえていた。首都京都は、西から開けたのである。
 地図を眺める面白さは、限りない。
 京都盆地の西南部、長岡京市のあたりに目を注いてみると、いったんは、なんでこんな所にと思うのだが、すぐ立地条件の良さにも気がっく。西山から丹波高地の南端を背後に負うて、東側に、いい形の乳房のように張り出た桂川が天然の濠(ほり)を成している。構想は雄大。宇治、大和、近江、丹波そして浪速へも交通至便だった。だが、桂川の治水はなお万全とはいえず、低湿地を広大に抱きこんでいた。東方には巨椋(おぐら)池というとてつもない広大な遊水域が、いっ膨れ上がってくるか知れなかった。
 密集市街区と疎開区とを色分けした地図なら容易に分かる。北と東へは、京都の市街は山際まで、行あまきつく所までびっしり行きついている。が、西と南へは、まだ疎らに相当の余地を剰(あま)している。これは平安京の消長といまもって軌を一にしている
といえようか。右(う)京つまり西をはやく失い、南北へ通った上(かみ)京の町通りが平安京の北へ伸び出し、さらに東西に走った町筋が鴨川を越えて平安京の東へ伸び出して行った。盆地は北と東が高く、西と南は低く出来ているのだから、要は低湿地の方が人が
住みにくかったという、ごく常識的な話になる。
 だが長岡京が京都の首都時代の開幕だったように、この西南地区の未開発という話、いわゆる古京都の昔には当てはまらない。

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 それどころか、中世の山城国一揆に見られるような強烈なエネルギーは、いつも南か
ら西への、桂、久世(くぜ)、烏羽、伏見といった地域に爆発した。いまの京都駅から南
が、本来まるで京都でないように思っている京都人は意外に多いのだが、その偏見がかえって京都観を平板にしてしまっている。本当はのちの都、平安京域こそ細流と湧き水や溜まり水に寸断された太古来の湿気た原野だったのだ。
 京都では先土器時代から人の暮らしはあったが、その頃の遺跡が西の桂川流域ではまだ発見されていない。縄文時代にはむしろ東北、北白川の山辺に遺跡が見え、また意外に、のちの平安京域にも見つかっている。弥生時代になると、ようやく鴨川、桂川にも流路にそい、自然堤防上に着実に田畑を耕す暮らしの跡が見えてくる。盆地内の平野部、のちの平安京域もけっこう人跡稀でなく、やはり遺跡が見つかっている。
 だが、京都ががぜん動き出すのは、四、五、六世紀の古墳時代からだ。大密集遺跡がはっきりと盆地の北(上賀茂)、東(北白川、山科から深草伏見まで)、そして西に、広範囲に群がる。ことに西山に沿った嵯峨、太秦、桂、久世一帯の、たぶん秦氏や土師氏らの遺跡群の偉容には驚く。が、その一方、盆地の中央部はほとんどガラ空きの有り様になっている。比較の問題ではあるが、この当時の生活感覚なり条件なりから見て、平城部は、周辺山麓部にくらべ、まともに住める環境とは見られていなかったのだろう。
 飛鳥、奈良時代になれば考古学遺跡は、西に太秦、北に上賀茂、東に北白川、八坂、南に久世、鳥羽、伏見そして山科などと固まってくる。鴨川より西、天神川より東、つまり京都盆地真(ま)んまン中の平城では、北の出町(でまち)辺の出雲寺跡と、西の、私が生まれた西院(さいいん)辺とにしか遺跡は見つかっていない。平安京直

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前の平安京域に、また後のいわゆる京都洛中に、人の住んだけはいは極めて稀だったのである。
 雑誌『文学』(昭和五九年三月号)での「洛中洛外図屏風をめぐって」の座談会で、私はこんな事を言って、名古屋工大の内藤昌教授を驚かせている。

  秦 洛中なんて、ナニあんなとこは、あれこそ田舎じゃないかと……。(鴨川の東から)
四条大橋を渡って西に遊びに行くなんていうのがいたら、やめとけ、あんな田舎に行
くのはと。
  内藤 はあ、そういう感覚がありますか。ちょっと想像できませんね。
  秦 私などは、鴨川から西へ(洛中へ)行くのは、もう田舎だ。あんなところは外来の異郷であって、水たまりばかりで人の住めないようなところを、知らんやつがよそから来て、都をつくっただけのことで、われわれの京都とは、本来洛外のことだと。
  内藤 それは面白いことを聞きました。京都の外に住んでいる人間にとっては意外ですね。

 もっとも、私はこうも補足している。

  秦 あの頃の日本史の北要素と南要素というか、日本海回りから来たものと、瀬戸内、太平洋回りから来たものの要素が、だいたい出会えるいちばんいい場所で、京都があったのではないかという感じもする。だからあそこに賀茂(鴨)神社がふたつあり、そして出雲系の人たちもおり、それから秦氏や八坂

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氏や土師氏や、だいたいあそこの低湿地を囲んで輪になっていたわけですけれども、その真ん中に都をつくった。僕らの感じからすれば、いちばん住みにくいところへ、ご丁寧に都をつくって、アホかという感じだけれども、いろんな先住氏族要素がぐるっと取り巻いている真ん中に都をつくったというのは、政治的な感覚としてはお見事とも言えるわけですね。

 当時、京都盆地のいわば原風景は、要するに空き地だった。ほぼ手つかずのサラ地だった。三面を鳥が舞う山なみに囲まれ、東のきわの鴨川と西のはての桂川とに率(ひき)いられたように、その葛野(かどの)の原へ幾筋もの小川が南流していた。たぎち流れていた。愛宕(おたぎ)郡の名がそのさまをほうふつさせてくれる。
 この原風景、平安京にもかなりそのままに、風情よくとり込まれていたのである。山は紫に水明らかな風景画のスケッチは、平安京という都市造りのいい下絵になった。
「山城」けっこう。しかし山のない南は無防備だったかというと、さにあらず、平安京の南は原風景がなかなかユニークに出来ていて、なによりも宇治川と木津川との合流点にまこと巨大にふくれ上がった遊水、巨椋池(おぐらいけ)の存在がきわ立っていた。
 今日の地図に、巨椋池は影もない。だが広々と七〇〇ヘクタールにも及んだ「巨椋池干拓地」を宇治川水路の南側に見出すのはなんでもない。
 かつて周囲一六キロもの、だが水深は一メートル半しかないこの巨椋池は、文字どおり異色の水溜まりだった。平均水面の標高は一二メートル、もし五〇センチの増水を見ればこの湖はたちまち洛南の平域を覆って、一気に一〇倍もの面積にふくれ上がり、汀線(ていせん)は「ほぼ乙訓(おとくに)平野の中央部を通り、羽束師(はつかし)か

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こら下久我(しもこが)を経て鴨河を東へ越えると、下鳥羽からさらに東へ伏見の街を横ぎり、桃山の丘陵南端から木幡(こばた)丘陵、さらにここから東へ連らなる等高位線」(城南宮発行『城南』参照、昭和四二年)を、たっぷり満たすまで拡がるのだった。
 地図があればぜひ眺めてほしい。昭和二八年の台風では、巨椋池は標高二〇メートルまで冠水を見たといい、まさかと思う、北はなんと平安京の南限、九条通の東寺近くにまで、南は石清水(いわしみづ)八幡宮のある男山丘陵にまで汀線はひたひた迫り、はからずも「太古の様相」を現出したと、城南文化研究会による貴重な証言がある。大淀も大淀、平安京くらいすっぽり浮かべてしまいそうな大湖面が、治水不十分な古代ほど、再三淀み出たに相違ない。
 天下分け目の関ケ原合戦の以前に、名高い山崎天王山、明智光秀と羽柴秀吉との決戦もあった。関ケ原にせよ山崎にせよ、要は地理的に迫って狭いからこそ攻防の的にもなる。西国から駆けもどる秀吉を京都へ入れまいとすれば、淀川をなかに男山と天王山とが瓶の口のように迫り合うた山崎の地に、先手に栓をするのは、それしかアトのない要件だった。光秀はそれを仕損じた。
 では南の木津川沿いに来た敵はどうしたか。それは浅いがバカでかい巨椋池が相応の道塞ぎをしたのである。京都からは、『平家物語』などにでてくるが巨椋池の西畔、一口(いもあらい)の辺を若干の兵で守るくらいでなんとかなったらしい。
 あたかも巨椋池に北上を阻まれたように、木津川流域には、久しく渡来系の高麗(こま)氏が落ち着いていた。どの経路に拠(よ)ったとも知れず、巨椋池の北、稲荷山から深草、伏見一帯に秦氏が大きな地歩を占めていた。さらに東山に沿って北へ進んだ、ちょうど八坂の美しい五重塔が今日も見えているあたりは、八坂

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氏が占めていた。この秦氏も八坂氏も、ともに近江国ないし北国から栗栖野(くるすの)を渡りまた山科(やましな)を経て入って来たのかも知れない。
 だが鴨氏は、すでに弥生終末期には早や、大和国から木津川沿いに巨椋池を越え、たぶん羽束師辺の合流点で桂川は見切って鴨川を一路いまの上賀茂まで遡っていたらしい。古墳時代には広大な遺跡群を残しつつ、おごそかに氏族の神を祭った。山城国一の宮の上賀茂神社発祥であること、言うまでもない。
 さらにいま下鴨神社のある辺り、東北から高野川へ賀茂川が合流して現在の鴨川になる界隈まで、出雲氏も南下して来ていた。みな、のちのいわゆる平安京を取り巻いた外側の山辺、水辺といえる。奈良時代、平安京よりすこし前の時点で、いわゆる平安京域がどの程度耕されていたものか、いずれ人はあまり住んでいなかった、ろくに住めなかった、ということだけは言えそうである。
 京都を山紫水明と見た目は、利いている。だが呑気な目でもある。山や川をただに景色と眺めている。しかし島国日本の「山」や「川」は、「海」もだが、気らくな貴族や士大夫、文人の風雅、風流の友でおわるものでは、ない。そこで暮らす、いや、そこでしか暮らせない人々の余儀ない生活の拠点であった場合が多い。京都でも例外はない。
 大原女(め)、白川女(め)、雲ケ畑の畑の姥(うば)、桂女(め)など振り売りの女たちはどうか。嵯峨や木野や深草で土器を造り、北山杉を磨きあげ、市中の清流で紙を漉(す)き、また山茶を摘み育て、さらには水べに漂泊して春をひさいだ、そのような女たちが、働(はたらき)き人(ど)も遊女も芸人も、京の山や川にまぢかく住んで暮らしていた。むろん男とて同じだった。天下に響いた旨い野菜を育てたのも、面白い京焼に趣向の冴えを見せたのも、みごとな京染めを花開かせたのも、坂田藤十郎や初代尾上菊五郎らの芸の道に舞台を用意したのも、山

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ひらであり川であって、盆の平(ひら)の消費都市平安京などではなかったと思う。
 こういう京都の特徴を一つに集約して言おうなら、じつに、「東山」と「鴨川」の問題になる。この二つをよくよく解けば、見落とされてきた京都の、一等本質に、伝統に、現実に、手づよく触れていけるだろう。洛中から洛外への、つまりは中央から地方への差別的な視線の根も、たとえて言えばこの東山と鴨川との問題を、アブナく見て見ぬふりをする態度に出ていた。この山と川、真実、紫か明るいか。四条の橋の上に立ってでも「とっくり(入念に)」考えてみよう。

貴賎都都、なぜか神々の家は都の外

 四条五条の橋の上、老若男女貴賤鄙都、袖をつらね、裳裾をかへす有様は、げにげに花の都なり――。およそ似たり寄ったり、こういう決まり文句が謡曲にいくらも出てくる。いささかの誇張を勘定に入れても、一四、五世紀からこういう情景は見られたのだろう。だが、何故だろう。
 橋は往きかい渡るもので、上で人波が停滞しては迷惑する。まして、やわい造りの昔の橋渡しでは、あぶなくて仕様がない。
 では、その昔に四条五条の橋を渡った人々にはどういう目的があって、どっちから、つまり鴨川の東

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からか西からか、どっちから多くどっちへ出かけたのだろう。鴨川東が生産地帯で産物を西、つまり京中へ売り届けに行く人が多いのか。だが範囲を四条五条の橋に限定してしまうと、白川より南、そして五条通(現在の松原通)より北、の鴨川東は農産物の産地ではなかった。むしろ不適地だった。
 明治三一年生まれの養父の話だと、白川界隈は、鴨川を離れ東山通に近くても「さらさらの砂地やった」という、防空壕を掘った私のうろ覚えにも、縁の下の作業はくずれる砂また砂で、なかなか半メートルの深さにさえ掘りこめず、家中で失笑したものだ。末期症状のあの戦争中には、京の一部道路が速成の畑にさえなったのを、今の子供らは夢にも信じてくれないが、事実そうであった。そしてこの白川界隈では収穫は貧弱を極めた。白川右がいく久しく押し流されて、砂礫(されき)になり、砂利になり、砂地になってきたせいだろう。
 松原通(旧五条大路末)、いわゆる六波羅界隈でも事情は同じだったろう。六波羅蜜寺や珍皇寺がある、ろくろ町の辺りでは明治の頃の町道りの際にもかなりな人骨が出たという証言があり、どくろ町がろくろ町に名を換えたのだと口さがない噂もあったという。いわゆる六道の辻、葬地鳥部野の裾だったには相違ない。今は北嵯峨へ移転している愛宕念仏寺も明治までこの地にあった。往時は、と言っても茫々の昔話ではあるが、京中の人が死者をこの辺りまで捨てに、または野辺送りして来ていたにも相違ない。それとてこの界隈に限ったことでない。大なり小なり鴨川東は中世なお他界の観があったし、それなりの生業も地域一帯に成り立っていた。そして洛中から洛外への視線にも、そのことがいついつまでも差別的にからみついてきた、とは言える。お寺やお宮へは参りや遊びに行くが、死者とお墓にかかわることは陰気でかなわんというわけだ。嘆息のほかはない。しかし根の深い問題だと今は指摘してお

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くにとどめよう。
 さて一四、五世紀では清水焼はまだ、白川筋の友禅染(ゆうぜんぞめ)もまだ。栗田辺の刀鍛冶ならどうか、それとて四条五条の橋の上を賑わす手の生産ではない。今日とちがい鴨川西の高島屋や大丸へ買い物にいく人波もありえない。買いは西(洛中)、売りが東(洛外)という分担は、すくなくとも応仁の乱以前はまだ揺るがなかったと思う。
 橋を渡ったのは、しかし、多くは西からの「貴」=「都」の人々であったろう。「賎」=「都」の人々は修辞上の付けたしだったろう。そしてこの「=」の組み合わせが、自在に時に応じて変換可能とは、例えば謡曲の表現者らは考えもしていなかった。内(都)貴、外(鄙)賎の固定観念いわゆる中華思想は、パリであれ京都であれ「花の都」を鼻にかける手合いにこびりついた無意味な装飾なのだが、盲従の意識に当の外(都)側が陥ってもしまいやすい。被虐的に膝を曲げてしまうのだ。
 話を戻そう。では西から東へ、四条五条の橋を渡って行くと何があったのか。
「山」があった。東山だ。
 ばかばかしいと言うなかれ。東山があったればこそ、四条の東に祇園八坂神社は建てられ、五条東の山腹に清水寺は建てられた。東山があればこそ京の人々は死後の世界、墓所がもてた。東山があったればこそ四季自然の美に京の人々は花の都が堪能できた。
 いま仮に鴨川の代わりに壁が立ち、鴨川も東山もかき消えたとして何が花の都でありえただろう。平安京の、東京極の、そのまた東の河原町(かわらまち)が現在京都市の最繁華街になりえている理由はここにある。人は四条五条の橋を東へ越えて、「川」と「山」に潜在的な楽しみを求めておればこそ、至近の河原町へ

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とかく足を運んでくるのだ、無意識にも。京阪電車が鴨川のわきを大阪から三条大橋まで走り、神戸、大阪から阪急電車がどうあっても四条鴨川の西詰まで延びて来ずにおれなかったのも、それだ。鴨川と東山の誘引力が莫大にものを言っている。
 で、東山の誘いの内容を私はとりあえず三つ、寺社(名所、古跡)、墓地、自然美と挙げておいた。鴨川を加えていえば、涼みや遊びの楽しみが追加されよう。この享楽には性の要素と芸の要素が当然のように添うている。「色めく」遊所として川も山も人を誘う。
 だが、まあ、ぼちぼち行こう。さきに京都の原風景を眺めてきた目には、京都の代名
詞のような神社仏閣、ことには先住の「神さん」の前を、柏手(かしわで)うたずに素通
りはできない。
 京都の人には知れた話だが、四条の橋から真東に、八坂神社の西の楼門が朱の色してちいさく見えている。スサノオ(荒之男)を祭ってある。八岐(やまた)の大蛇(おろち)を退治して、その尾から三種神器の一つとなる名剣を獲たという神だ。殺して奪った蛇=剣と表裏一体の、スサノオは海神、龍蛇神だろうと言われている。天下に名高い祇園祭はこの神社の夏祭りだ。
 次に真西を向…いても、四条通の繁華が人波のままに見えるだけだが、人波をくぐってずうツと西へ西へどんどん行くと、桂川に突き当たって大橋がある。渡ったところが、松尾大社だ。ホノイカヅチ(火雷)が祭ってある。雷は剣と同質、水神=蛇にゆかりの物実(ものざね)ものざねと言われている。祇園社の蛇と松尾社の蛇とが、桂川と鴨川の中流で東西に呼応しているわけだ。
 では視線を転じて川上、北の方を眺めてみよう。賀茂川と高野川とがYの字にまじわる股の位置に、下鴨神社と河合神社がある。ともにれっきとした水神、海神を祭っている。賀茂川の西には怨霊七所を

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鎮め祭った上御霊(かみごりよう)神社があり、上流には、言うまでもない上賀茂神社が
ある。ワケイカヅチ(別雷)を祭っている。秦氏が仕える松尾の父神と、鴨氏が仕える
下鴨の母神とが結婚して生まれたのが上賀茂の御子神(みこがみ)だ、この伝承はよく知
られている。
 上賀茂により遡って鞍馬川を行くと鞍馬の豪快な火祭りで知られた由岐神社がある。祭神はオオナムチ、三輪の神と同じ蛇体の神である。そして賀茂川の河上社、河社と呼ばれた貴船神社もほど近い。まさしく水神、蛇体の神のタカオカミ、
クラオカミ、ミツハノメを祭っており、雨請いのつど朝廷は恭(うやうや)しく奉幣使を送った。
 一方、高野川の上流には鬱蒼とした三宅八幡宮(はちまんぐう)が静まっている。
八幡(やわた)ももともと龍蛇神だ。蛇体が黄金(きん)の焔と化し、たちまち一羽の白鳩となって天翔(あまかけ)ったという神仏がある。
 鴨川下流を見よう。
 松尾大社と同じく秦氏が仕えている、稲荷大社がある。狐はお先(さき)、神体は馬の背に乗った巳(み)イさん、即ち蛇かという。清水寺境内にのこる地主神社の神さんも、年寄りは「巳(み)イさんやが」と言うて親しんでいた。「巳(み)イさん」については私に説があるが、今は措(お)く。
 桂川と合流する羽束師(はつかし)辺に、蒼古として鴨川(古くは神川)神社がある。これも水神、海神。さらに桂、宇治、木津三大河の合流点には、北九州に根拠のあった海民安曇(あづみ)族の神楽(かぐら)を宮中儀礼として送りこんだ、石清水(いわしみず)八幡宮がある。幕末攘夷(じようい)の騒ぎのおり、孝明天皇が百官を率(ひき)いて祈願参拝したのはこの南の石清水八幡と北の賀茂神社だったことも、思い出される。
 京都で古い有名な「神さん」といえば、あとは北野の天神さんくらいなものか。これは今では菅原道

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真を祭ったお宮ということになっていて、極めつけの怨霊だった。
 もう一つ、京都ならではの性格の面白いお社があった。北野の西の平野神社だ。いわば桓武天皇が母方の祖神を国家的に公認すべく祭ったもの、明らかに朝鮮系の神さんだ。
 もともと平安京域には、極端な話、宮中賢所(かしこどころ)の神さん以外に、神社らしいものは置かなかったと言える。空き地でサラ地だったのだから当然とも言えるが、勧請(かんじよう)することはできたはずなのに、ほとんどの神さんは平安京の外の山中や水辺に住まわれていた。
 その方が神さんも気らくで暮らしよいといった、しゃれた話ではあるまい。平安京の主(あるじ)たちは、先住の神々には近寄って来てほしくなかったのだ。もうそこより先へは出て来てほしくない場所に、いま挙げたような神さんたちは体(てい)よく押し籠められていたと見るのが正しいだろう。一の宮の正一位の奉幣使たたのと、崇(たた)られたくないから礼は尽くすけれど、敬遠とはこのことだった。京都では、いや日本中でと言っていい、「神さん」には、双手をあげていつも敬愛というばかりではないらしいのだ。だが、何故か。
 理由の一つに、さきに意味ありげにひとつひとつ挙げておいた、御正身(おんむざね)と遠い由来の微妙な問題があったと思う。海、川、水の神々、根源には蛇体の神々の多いことを素直に事実と認めて、そしてその意味深いことに思いを致すしかないだろう。いったい京都と限らず日本の名だたる神々、古いところほど、たいがい海や川や水に縁が濃い。住吉、諏訪、出雲、熊野、伊勢、三輪、厳島、多賀、八坂、気比、琴平、白山、丹生津そして貴船や賀茂神社など、枚挙にいとまがない。
 蛇は一種の禁忌だったはずだ。どうも、それは日本という国の成り立ちの根に触れた、不思議におそろしい秘密だったように想像される。蛇は、日本列島における久しい被征服と不可触の象徴となり、そ

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れゆえ「神さん」として祭り上げられ、押し籠(こ)められてしまったのではないか。
 そういう神さんの代表的な存在が例えば出雲の大国主(おおくにぬし)であり、三輪の大物主であり、至る所の大巳貴(オオナムチ)だ。すべて同一神格の王様の現れといわれてきた。それならば蛇体の神に違いはなく、するとオオナムチは、大きく貴い蛇の意味になり、大穴持(おおなもち)と書かれているのも生態上納得しやすい。「オオ己(一字傍点)ムチ」で、なく、正しくは「オオ巳(一字傍点)ムチ」と書かるべきだろう。「巳イさん」の「巳」が、「ナ」と読まれていい確かな別の理由もあるからだ。
 例の北九州志賀島(しかしま)で発見された「倭(わ)のナの国」の金印を考え合わせると分かりいい。蛇の形した摘まみがついている。印を与えた側は、何らか相手方宗族の特色に応じてこの形をえらんでいたそうだ、「ナ」の国と蛇とを重ねて考える理由が向こうには有ったらしい。
 蛇(龍)くらい世界中の神話に早くから顔を出した動物もない。インドから東南アジアでは「ナーガ(龍蛇)神」のことがすぐ思い浮かぶ。日本列島へこの信仰をもし持ちこんだ
宗族がいたなら、「ナ」「ナカ」「ナガ」といった言葉で蛇を意味しても不思議でない。
 ところが日本中に、「ナカ」「ナガ」とつく地名も姓名も異様に多い。中郡(京都、神奈川)、那賀郡(島根、徳島、和歌山)、那珂郡(茨城)、名賀郡(三重)などの古い国名がある。もっと小さい範囲の「中」や「長」なら沢山ある。それらを、私はいっそ「蛇(に信仰をもった人々)の多く棲む」意味に読んでみていい気がする。日本列島は事実そうなのだし、長島も中野も長岡も中川も、その気で読みとればとても分かりいい。
 葦原の「ナカ」の国を平定すべくわが天皇家の祖先は大和の「ナガ」すね彦を討った。そして日本(やまと)建

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国が成った、という神話は何を意味しているのだろう。「土処(ナカ)」と訓み、砂金の
取れる場所かと説く人もいる。それほどは日本中で砂金がとれたとは思えない。
 むしろ「蛇(な)(巳)処(か)」と訓み、ナガい蛇を畏(かしこ)み祭って生活したような人々の多く住んだ場所か、と理解してはどうか。それは遠く海づたいに来て、海、川、水むろ
ん山にも拠(よ)ってこの国に住み着いた人ちの、太古来の日々の信仰と暮らしを、漁にせよ猟にせよ農にせよ、さまざまな工(たくみ)にせよ、具体的に偲ばせてくれる。蛇はどこで出逢っても畏(おそ)ろしく、しかし豊産の神として深く敬われもしていたのだ。「ナーガ」の国ばかりかこの信仰は、蛇を例えば「SNAKE(スネーク)」と呼んだ国にも生きていただろう。必ずしも朝鮮半島や中国大陸ばかりが日本へ渡来の故郷ではなかったろう。南島づたいに来た雲南、越南をふくむ東南アジア一帯や、もっと南方の海民、水民も考えに入れたい。
 それにもかかわらず蛇は、例えば平安京を占めたような支配者には敬遠された。日本の支配とは、平定とは、結果的にみてむしろ蛇を祭るような人々を辺地に押し籠めてしまう意味でもあった。『古事記』や、ことに『常陸国風土記』などは、その事情を、すさまじい制圧の経過にあざやかに象徴的に物語って倦(う)まない。
 平安京の「貴」い主人公らが考えていた「賎」にして「鄙(ひ)」な者とは、つまりこれだった。べつの言いかたをすれば、失敬な話だがたいがいな「神さん」こそがそれだった。都から遠い場所で温和(おとな)しくしていてくれることのぜひ望ましい手合いが、そういう「神さん」と、その神さんを祭って仕えているような人らでもあった。それが、勝った者から負けた者を見る視線に重なっていた。平安京の四隅には鎮護の大将軍を祭ったそうだ、その名残もある。が、要は都の外へ押し鎮めてある神々の、時ならぬ侵入

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から支配者・勝者の都を守っていたのだ。
 しかも実は守る「貴」の側と疎外された「賎」の側とは、『古事記』など見れば、そうも根を異(こと)にはしていない。あたかも「蛇」の頭が尾を噛んでいるようなもの、勝ったか負けたかの違いしかない。そしてそれこそが、大事な点だ。
 ハヤト、クマソ、ツチクモ、サエキ、クズ、エゾ――いろんな敗者が日本中に分散を強いられた。秦氏もその一つであったろう、「ハタ(ハダ、ワタ、ワダ)」は、海に関連の言葉のようにも私は想う。
 なににせよそうした氏族が古京都に先住していた。それぞれの神をすでに祭っていた。そこへ、平安京の出現――太古の緊張がまたもこの盆地に「内」となり「外」となり、再現した。そしていわば多くの蛇神と蛇族とは「鄙」に、都の「外」に伏せ置かれた。京都は貴賎都鄙の集約された町、それも今なお……という私の認識は、歴史の不思議に教えられて、動かない。

敬神崇仏、それも程々に人の世渡り

 千年の都で、人も家も物や建物も、どーんと落ち着いていそうな感じだけれど、事実そういうムキも無くはないが、千年のうちにはひどい戦乱も天災火災も数々あって、旧平安京域で平安京以前はおろか、

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確実に平安時代へまで遡(さかのぼ)れる建物や庭園など捜すとなると、クイズなみに苦労する。現京都御苑(旧土御門(みかど)御所その他)は別として、神泉宛と東寺はいいだろう。六角堂(頂法寺)は平安京以前の伝承もあって古く、因幡堂(平等寺)、革堂(こうどう)(行願寺)とともに町(まち)堂として庶民の信仰を吸収しつづけた。ただし革堂の
現在位置は移動している。太秦(うづまさ)の広隆寺は古いが、平安京外になる。
 神社となると、平安京域にはそのはじめ殆ど存在しなかった。北野天神も微妙に平安京のはずれに在った。理由ははっきりしている、神は人と住所を共有できない、と言うより、人の方で神を敬遠した。やたらにビルや邸内にお稲荷さんを祭るなど、後世の話だった。神とは大概、畏(おそ)ろしいか、きたないか、邪魔かのいずれかだったろう。なにしろカミさんの名からして、オカミ(タカオカミ、クラオカミ)はこわい水神、しかも蛇体の龍
神として現れている、なるべく山深い水源や、川原近くにいてほしい、すくなくも京の外にいてほしかったろう。平安時代に遡れる京域内の神社などというと、清和源氏が先祖神を祭ったらしい六孫王神社とか、京城の四隅を守ったといわれる大将軍社の名残くらいしかない。それも事実上は、京都ともいえない辺りにあった。
 では、お寺も平安京の昔から京域内に許されなかったかというと、堂々と東寺、西寺(さいじ)が国家鎮護の官寺としてあった。どうやらその威容は、対外的に文明を挙示(こじ)してもいたようだ。貴族の私寺、つまり邸内の持仏堂程度のものは、おいおいに沢山できた。そして沢山が焼けて無くなった。最初から平安京の外へ造営した寺、大きい寺はかなりもとの位置に残っている。延暦寺、醍醐寺、仁和寺、清水寺、三十三間堂、鞍馬寺、
大堂守など。
 だが、焼けなくてもやっぱり平安京の内からは無くなったのが、多い。つまり京外へ移転してしまっ

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たのである。その点、神社は寺とはちがって、徐々に京内にも建って行ったものの、あまり大ツぴらな移転の憂き目に遭っていない。さわらぬ神にたたり無し、神さんのにおいがすれば樹一本、塚一基でもはばかって、現代でさえ、道路のまん中に畏(おそ)れてとり残したりするではないか。だが寺の方は、なにかといえば強制移転されてきた。ことに京都という町づくりに破天荒に手を加えた豊臣秀吉や徳川幕府などになると、容赦なかった。はじめにも言うように、京都には寺は多しといえど、建った時と同じ場所に今も居座った大寺古寺など、平安京域で見つけるのは至難だろう。
 神社ほど、お寺は畏れられてはいなかった。そういう結論は早過ぎるだろうか。よく見れば分かる。多くの寺がもともと、権門勢家や貴族のほぼ私有財産に近いものだった。そ
の代表管理人には大概一族の者が送り込まれていた。そして大僧正の大僧都(だいそうづ)のと高い僧位を占めていた。お寺が、大財産として相続されたり譲られたり奪われたりしている実例は、平安時代から鎌倉時代へかけて、うんざりするくらいである。仏もいい面の皮だった。
 それかあらぬか、あの藤原氏が、奈良に祭った氏神の春日の神を大ッぴらに平安京内へ持ちこんでいないのに、寺はやたらに京都に建てている。もっともそれさえ実は、平安京内というより、たとえば京極外や、鴨川東の岡崎や、宇治や、九条東に多く建てていたのである。御堂(みどう)関白道長の法成寺(ほうじようじ)、頼通の平等院、院政期の岡崎六勝寺や九条法性寺(ほつしようじ)、鎌倉時代のはじめ、東大寺と興福寺とを合わせたという道家の東福寺など、みなそうだ。
 碁盤の目の京の町なみを早覚えするための、口ずさみが昔からある。例えば北から南へ「丸(太町)竹(屋町)夷(川)二(条)押(小路)御地……」などと町筋の名を口調子に覚えていくたぐいだ。東

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京極から西へは、「寺(町)御幸(ごこ)(町)麸屋(町(ちよう))富(とみの)(小路)ヤナ(柳馬場(やなぎのばんば))……」などと続く。ここにいう寺町(まち)は、文字どおりお寺のかたまった町道りだった。政策的にある時期ここにかためられたのである。それさえ、さらに鴨川東や北の方へ再移転、再々移転を強いられた例が少なくない。京都市内の現町名を捜してみると、元何々寺町というのにいくつ出会うだろう。「天真如堂町」「元誓願寺町」「元本能寺町」等}々。へえ……あのお寺、元はこの辺に在ったのかと驚くことが、しばしばある。いま挙げたお寺は現在まるで別の場所にちゃんと在る。が、その実例をいくら挙げてみてももはや意味はない。この種の例が神社にはごく少ないとだけ指摘しておこう。
 こういう事なら言えるだろう。「神も仏もあるものか!」とはいえ、神と仏とにはどこか性根の違いがあり、なかんずく京の代名詞のような寺々に、当の京都人がどのように係わってきたかは、なかなか面白いテーマの一つなのだと。
「お稲荷さん詣りに行こか」「北野の天神さんイ詣りに行こ」「えベツ(恵比須)さんや。詣って行こか」などと言う。が、菩提寺ならば知らず、京都の人がかりに建仁寺や永観堂や智積院や三十三間堂へ出かけて、お宮の前でほど義理がたく立ち寄っているか、手を合わせているかどうか、怪しい。観光的には「観に行く」けれど信仰心から「お寺参りに行くしという意識は、意外に薄い。
 ひろく信仰されているお寺が全くないではない。東寺内の大師堂や清水寺など、純粋に参りに来ている人が多いし、洗い地蔵(寿延寺)など市中のごく小さなお寺には、熱心な信者が今も集まっている。概(おおむ)ねは当座のご利益(りやく)を願ってのことではあるが、それだって市民には有り難い。ところが泉涌寺(せんにゆうじ)のように、本堂の仏さんの前へすら拝観料を払わないと通れない冷淡なお寺も存在する当節だ。さすがそれほ

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ど有名で薄情なお宮の在ることは、京都市内で、まだ知らない。
 まこと当節、有名寺院の大半は仏前へ手を合わせてもらうほどの宗教性も断念して、もっぱら美術館まがいの拝観料を稼ごうとしている。そして市は市でこれへ課税するといい、お寺さんたちは反対運動にもう何年越し大童(おおわらわ)のありさまだ。私は以前から言っている。現在お寺さんにできる有効で息のながい宗教行為は、せめて高校生の三年間に限って拝観料など取らないことだ、と。なにより仏界の異薫に彼ら若い魂を触れしめる機会を、進んで多く与えることだ、と。
 だが信心のない坊主どもは聞くまい。たしかに維持はたいへん、お寺さんも事業なのだ。増収も、だから宣伝も必要
だが、信心はさほどと思っていない。市聖(いちひじり)の空也(こうや)も革聖の行円も今は、いそうにない。
 お寺さんがそれだからか、京都には徹して無信心な市民が、老人ですらも、存外多い。京の寺々の、歴史的なある張りボテなみの空洞感は、かなり正確に市民に読まれてきたし、まして大檀那の貴族たちには楽屋裏まで見えていたはずだ。織田信長らが平気で寺を焼き打ちし、豊臣や徳川が平気で寺の立ち退きを命じたのも、彼らには日本の寺の、いや京都の古大寺の虚妄と特権とが忌々(いまいま)しくよく目に見えていたからだろう。共産党国会議員を時に二人も当選させてしまうような「革新」京都市を可能にできる一根拠を、例えばこの辺に認めてもいい。日本の寺はひところのローマ教会なみだった。寺が魂の救いよりは、金や地位や財産と多く特権的に結びついてきた時代が、ずいぶん長かった。「仏」さんはいつもいい面の皮だったし、仏教は、あげく衰弱の一途を辿っている。ほとんど自業自得の気味すらある。
 寺の役目は、今日、おおかた葬式を出し、法事を営み、墓地を守るといったことに限られ、実際のところ「寺」参りとは今では「墓」参りの意味、「仏」とは、まずまず先祖が近い過去に死んだ身内の意

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味になっていて、阿弥陀も薬師も釈迦もかくべつ認識も弁別もされていない。その必要も、ない。なんの事はない、現代ばかりか一二世紀の歌謡集『梁塵秘抄』にすでに、「仏はさまざまにいませども、まことは一仏なりとかや」と歌われているのだ。お地蔵さん、観音さん、それと何人かのお祖師さんとが、かろうじて今も人気に愬えているようだが、それとて心の籠もった近親のお墓参りほどかどうか、かなり怪しい。
 お彼岸とお盆、そして墓参。仏教で昨今この他に有意義なものが、どれだけ生きて働いているだろう。しかも、これらは皆、祖先ないし近い過去の死者に関係しており、盆も彼岸も、正月と同様、本来は祖先崇拝との係わりがより濃い民俗上の行事だった。
 たしかに我々は儀礼的にも「神さん」をけっこう拝むけれど、それとて心情的にはただ祖神と国土神とがほぼ無記名に融合していて、「学問の神さん」へ合格祈願の菅原道真ぐらいを除けば、他は、固有名詞のついた個々の祭神など、ほとんど気にかけない。神社の名前なども鴨でも稲荷でも松尾でもどうでもよろしく、なんとなく自分たちの親しかりし死者が、今もそれらの神々と変わらない域に到達しているであろうと想える方が有り難い、という程度だ。神棚へ日々手をうつ気持ちはおよそそういうものであり、その上で、天下の無事と一家の安穏などが願われる。つまりは親身な死者を介して日本の「神々」と「仏たち」とは、限りなく無記名の概念化を今や急いでいるのだ、人の心のなかで。
 日本史上、神と仏とははじめに闘い、そして、おいおいに馴れ合った。私はそう見ている。神がなんなく権柄(けんぺい)ととも、仏がなんとなくインギンとも、また神がいやに卑屈とも、仏がいやに横柄とも、いろいろに場合によって演技過剰であった。僧道鏡と宇佐八幡との確執とか、かりにもアマテラスの子孫が

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三宝(仏法僧)の奴(やつこ)とか。
 神宮寺などという混血児ができた。本地垂迹(ほんじすいじやく)などという説もできた。延暦寺は比叡山王と組み、神護寺から護王神社がとび出し、火祭りの由岐神社は鞍馬寺に抱きこまれ、たしかに一時、東寺は稲荷大社と組んで港南の庶民に肩入れしていた。 神仏習合ほど、リクツとして「ええ加減」なのも少ないが、習俗としてこれくらい「ええ加減」に日本人に納得されたものもない。もめごとが減るのは庶民として歓迎なのだ。天皇が率先して三宝のまえに頭を垂れたり、神道の家から兼好法師が出たり、一遍上人が熊野詣でで神託を受けたりするのは、日本人をたいへん安心させる。ミソもクソも「味良(あんじよ)う」雑炊(ぞうすい)に、「赤信号、みんなで渡ればコワくない」というわけだ、昔も今も。むしろ荒法師の神輿(みこし)振りとか、法然上人の吊るしあげを図った大原の宗論とか、念仏と題目との大喧嘩とか、一部キリシタン・バテレンが日本の信仰をことごとく邪教呼ばわりしたとか、そういう刺激的なのは、かえって人気がなかった。「ええ加減にせえ」だ。
「京都」は「ええ加減」の町だった。翻訳すれば「まアまア」の町だ。キッチリでもいけない。度が過ぎてもいけない。とにかく千年もたせた、それが、この都の「政治的」秘訣だったろう。
 歴史上に「力」といえるものはいろいろある。武器や文化を担(かつ)ぐまえは、「神」「仏」を担がれるのが、支配者には迷惑だったろう。担がれるまえに担いで、それも一緒くたに担いでおけば楽だった。道鏡や将門(まさかど)の場合のように、事実危ない事件も有ったわけで、とかく坊主は「寺」を担いで政治に口を挟みがちだったし、「神託」を担いでなにかと利権を求め陰謀を企(たくら)む例も京都では珍しくなかった。
 日本の神仏習合には当然仕掛け人がいたはずで、それを職業的な神官や僧侶かと思うのは間違ってい

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る。概して天皇家や藤原家が、つまり平安京とその体制を守りたい連中が画策し推進せずに、こういう「ええ加減」なことが、すくなくも京都で可能だったとは考えられない。「神」「仏」を「ええ加減」かき混ぜておいて、そして結局、なし崩しに出来たのは「神」や「社」の怖さの方だったかと、歴史は読めそうだ。比較すれば「仏」も「寺」も怖くなどなかったと、京都という町のあしらいがかなり露骨におしえている。
 思うに「悪神」や「怨霊」のたたりを鎮めるべく、「仏」はかなり利用度の高い文明だったのだ、京都では。すくなくも平安京では。その逆は、無かった。近世になっても「幽霊」を見てブルブルッと唱えたのは、「なむあみだぶつ」だった。「幽霊」を仏さんの領分だと思っているのは、むろん錯覚で、そういう錯覚が自然なものとなる所まで、神さんと仏さんとは相寄っていた、ということだ。そして幸か不幸か今や「神も仏もあるかいな!」で、相変わらずものかげに地熱のようにくすぶり残るのは、いつの時代にもマジナイに類する信仰ばかり。まちがいなく「イワシの頭も信心から」などと、「ええ加減な」ことをそもそも言い出したのは、京都人という名の日本人だったろう。
 京都の寺々は京都市に貢献した。それでは、何が一番の功績か。信じられないほど多くの職種を周辺に生み出したことを挙げたい。花、香、茶、菓子、料理、庭、植木、陶芸、漆芸、絵画、彫刻、紙工、染織、紐、皮、石工、金工、木竹工、瓦、建築、土木、音楽、芸能、さらには墓守り、御坊から寺男、小僧までも、どれだけ多くの人がいろんな仕事、職を身に帯びて寺に出入りしていることか。しかもこれは昔も今も、程度の差はあれ、さほども変わっていない。いや衰え絶えたのも有るにせよ、逆に一般の市民へも職能の結果を商売として頒(わ)け売っているぶん、繁盛している職種も多い。生け花、茶の湯、

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菓子などまさにそれだ。
 京都の東山一帯ともなれば、私など顔見知りのあの人もこの人も、あの家もこの家も、大なり小なりお宮はんやお寺はんの関係で「食べたはる」と思える先が多かった。むしろラジオ屋などという、ハイカラなわが家の家業は、妙に土地にそぐわない気のひけるものでさえあった。父の前職は、錺(かざり)つまり金工だったし、祖父は餅屋だった。これならば、よろしい。
 正しい意味で京都の職種は、と言うことは大方日本の職種は、神社や仏閣で培われ磨かれ鍛えられたものが圧倒的に多いのだ。だが、けっして神道(しんとう)や仏教で、ではない。そこを間違えては話がおかしくなる。「神」も「仏」も、京都人の強烈な趣味化の力量により、時代を追って暮らしのアクセサリーにまで、怖くなく、去勢されてしまったというのが、正しいだろう。一途(いちづ)に敬神崇仏で宮や寺が多いとばかりは思うまい。

三十六峰、いたるところが青山なり

「いたるところ青山あり」と目にした高校生、どこの町にだって、東京青山なみの「 」はあるというハナシと読んだそうな。「 」の中へ、若い人ならややためらいながらも、「盛り場」とか「繁華街」

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とかの文字を入れるだろう、「ナントカ銀座」なみに。現にその高校生がそうだった。ヒネったものだ。この伝にならえば、ちょっとした年寄り世代なら、ユーモアのつもりで「墓地」の二字を口にするのではないか、青山墓地は雑司(ぞうし)ヶ谷(や)や谷中(やなか)にならぶ東京都内の大葬祭場なのだから。なるほど墓地がなくて済む世の中もな
かろうから、これは年の功と、高校生が目を白黒させたかどうか、は、知らない。
 それよりも、仮にも「墓地」と答えた年寄りの方が、それで正解と確信していたかどう
かが、よっぽど気になる。もし「アオヤマ」に引かれての思いつきであったのなら、いわゆる港区青山という地域名は、江戸初期の幕臣青山忠成がえていた広大な屋敷地に由来するのだから、これでは、やっぱり高校生なみのアテずっぽうということになる。それにもかかわらず「いたるところセイザンあり」という際の「青山」には、明らかな「墳墓の地」「埋骨の地」の意味が伝統的に生きている。この伝統、蘇東坡(そとうば)の原詩句などをはるか超え、樹木の緑に十二分に恵まれた日本人の感性や信仰にこそ、ごく自然になじむ。
 それのみでない。山中他界観、そして山岳信仰、さらには山林修行、その結果としての最澄や空海の山岳仏教というハナシにもなってくると、いわば平安京の草創とも大きく係わってくる。
 日本列島がさながらの青い山であることは、自然環境として幸いまだ確信できる。「いたるところ青山あり」とは、生き行く覚悟である前に、安らかな永眠を想うに足る根の深い安心でありえただろう。「故山」とは、身にしみ心にしむ故郷を意味していた。「山をはさんで故人あり、川をへだてては敵あり」ともいった。山が終(つい)の栖(すみか)なればこそ、またとかく川が彼我(ひが)の境界と成ればこそのこれは、微妙な物言いではないか。

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 寺参りとは、京都でさえ、おおかた昨今では墓参りの意味だということを前にも書いた。本来、寺と墓とはべつものだったなどといえば、だから意外な気がする人も多いだろう。むしろ東京人の方がこの辺のことは分かりが早いかも。お寺と無縁に、都が都民の税金で、大きな霊園を開発したり買い手を募集したりしている。ほとんど住宅なみで、企業としての大霊園の例もいくらもある。無数の抽き出しに銘々お骨(こつ)を蔵(しま)う、ロッカーなみのビル墓地すら、在るところには在るという。寺より、墓の方がよほど今日的にも大問題なのである。
 言うまでもない花の都にも、人は死んだ。死者は惜しいが、死骸は処分されねばならなかった。処分とは即ち葬送だが、棄てて顧みないということもある。むろん埋葬と限らず鳥葬、風葬、水葬など遺棄が即ち葬送という風儀も古来なかったわけではない。いずれにしても人を葬るという営みは、いつの世どこででも容易でなかった。だから、わざわざ「人のわざ」と呼んだ。取りたてて、そう呼んだ。墓の話、避けて通れない。
 死者は彼の世で生者は此の世というけれど、どっこい此の世は、生者と死者とが両方で占めている。「死体遺棄」という罪もある。死者を死骸のまま放っておけない以上は、火葬、土葬の区別なく相応の場所つまりは墓地が要る。葬処が要る。ところが大都市ほど土地が足りない。
 これぞ現在将来ともに予想のつく難儀に難儀な大問題なのだが、平常は意識して忘れている。ただでもアクセクの日ごろ、そんな事は気に病んでおれず、そのうち大地が「ほとけ」を化学処理してラチを明けてくれるだろうと心頼みにしているのだ、事実それで大概
は済ませてきたのが、墓の問題だった。ハカナイ語である。

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 しかも事はそれで済まない。墓なり葬送なりにたずさわる人手の問題もまた深刻である。死んだ者はかき消えるわけでない。焼くにも埋めるにも、仮にうち棄てるにしても人手はかかる。故人の思い出は貴い。しかし死体と一緒には生きて暮らせないからだ。
 死体をめぐる人手と場所と……、それこそは人間社会の、太古このかた難儀な、大事だった。人の世は、少なくも日本の社会はそのことを目立たない基底の歯車にして、芯棒にして、重く重く動いて来たのだと言える。どう葬うか。どんな墓を築くか、厚くか薄くか。せいぜい墓参りはするのか、しないのか。それに死ぬのは人だけでは、ない……。
 我々は忘れているだけで、こんなことが実はなにより時代により、地方により、また出自や宗俗や身分によってずいぶん異なっていた。河内の応神、仁徳陵だのピラミッドも顔まけの大古墳時代もあったのに、「この世をばわが世」と思っていたほどの平安時代の藤原道長の墓など、まずは尋常な盛り土に過きず、それさえ、どれがそれやら今では分からなくなっている。
「こもりくの、はつせ」と万葉集の昔から歌われてきた。「はつせ」といえば、大和に限らない、どこでも葬地だった。「隠れた国」それが枕詞の「こもりく」だった。生きの「果つせ」として「山」があり、そこは死者たちの「隠国」だった。生者がそうも再々顔を出し足を運ぶ場所では、本来、なかったのだ。
 京の東山もまた西山も北山も、否応なしに平安京都の人々のためには「こもりく」の役を果たさざるをえなかった。西(右京)を事実上うしないながら、東(左京)へ繁昌して行った平安京からすれば、ことに手近な東山、それも皇居からは少しでも間遠な南寄りの、いわゆる鳥部野、鳥郡山一帯は、無く

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ては済まないまさに恰好の葬処だった。
 もっとも、平安京の時代の葬制はとうに古墳時代の厚葬期を過ぎて、まずは薄葬も極まれりという、華やかな文化に比べては、意外なくらいの、ほぼ棄て墓だったらしい。後世菩提(ごせぼだい)はいろいろ死者のために弔うけれど、死体に対する忌避の感触は濃く強く、めったなことに墓参りなどということはしないのが常だった。だから関白道長であれ定子皇后であれ、死んでしまえば墓の在り処も正確には後々へ伝わらなかった。まして庶民の葬礼などは無きに等しく、おおかた死体の処分は河原へ埋め棄てか、鳥部野の裾、空也上人が建てた六波羅蜜寺などがある六道の辻まで運んで、あとは人まかせだった。「ふとんきて寝たるすがた」と京都の東山は、句にもされた。「東山三十六蜂しづかに眠る頃」とも決まり文句ではやされた。山が寝る、眠る。それはただの形容とは思われず、私のように、幼時から東山という東山は歩きまわって育った者には、そういう物言いからごく自然に死者の眠り、永眠の安らぎの意味も感じとれていた。無理もない、文字どおり三十
六峰いたるところに寺があり無数の墓があり、死者が眠っていた。黒谷、大谷、鳥部
野、鳥部山、そして月輪、稲荷、深草、さらには木幡、宇治にまで京の奥津城(おくつき)は北から南へ山腹を這うように延び広がり、仮に京都市内にもはや遠き往時を思わせる何が無くても、まぎれない京都の歴史の久しさは、これら墓また墓波の底知れない暗闇の濃さが、しみじみ実感させてくれる。
 早い話が、東山には死者という名の「ほとけ」たちが住んできた。「ほとけ」と共住みに「寺」が居並んだのだ。東山はすぐれて美しい墓標でもあった。
 現在、京都市に数少ない火葬場である花山は、この居流れた「ほとけ」の山なみのドまん中、国鉄東

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海道線と新幹線とに挟まれて、ちょうど豊国廟(ほうこくびよう)がある阿弥陀ヶ峰のすぐ東裏で、無常迅速のはかない白煙を昨日も今日も、とめどなくあげている。光源氏が雲隠れたのも、お半長右衛門が野辺の露と心中死したのも、ここ、広く言って鳥部野や鳥部山でのことであった。その中心的な位置を占めたのが春は花、秋は紅葉の舞台からの眺めがひとしお美しい、清水寺(きよみずでら)だと言えよう。
 これよりやや南へ、今熊野から月輪(つきのわ)へかけて四条天皇このかた孝明天皇にいたる皇室の御陵で溢れ、日本中でいわゆる山号なしに唯一「御寺(みてら)」と尊称されてきた泉涌寺には、歴代天皇の位牌が置かれているし、同じ月輪には、藤原氏による法性寺跡に今も東福寺の大伽藍がある。摂政兼実や道家ら九条家藤原氏の墓もわんさ、とある。だが東山にいらかを並べた寺々の名を、著名な墓主の名をいくら列挙してみても、ただ際限がない。
 それよりは夏八月、夜空を焦がして燃える京の十六夜(いざよい)大文字、山焼きの風情がなつかしい。盆の明け、かたみに忘れぬ百千万の故人の霊を、またはるか他界へ送り火の悲しさ美しさのゆえに、あの火の色は来る夏ごとに目にしみる。死なれた者は、いつも、死んだ者よりも心寂しいのである。
 断っておくが感傷の涙にくれようと、書いているのではない。ある意味で"東山"は、京都人にとってすぐれて美しい"墓標"でもあったこと、その歴史的な事実が、あるいは花の紅葉の名所であり大小の寺々の密集地であることと、また貴族たちの隠遁隠棲の地、風雅風流の地になりえたこととも、べつだん矛盾してはいないと言いたかった。冗談でない、「ほとけ」に花と寺とは、つきものだ。土着信仰的にいえば東山は現世をはなれた他界であり、浄土教的には風光景観に恵まれたさながら此の世の極楽でありえた。そう言える。自然、行楽へ人々を誘う場所でもありえた。そうも言える。

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 我々は忘れているが、昔の人は死骸や死臭と今日のように断絶した暮らしはしていなかった。それすらも広義の「自然」に数えられていた。「自然(じねん)のことあらば」という平常(へいぜい)の覚悟は、即ち「死」の覚悟を意味していた。事実、東山はおろか都大路にも貴族の屋敷内にすらも、獣といわず人の死屍(しし)すらもうち棄てられていた記事を捜すのは、昨今の交通事故なみに容易なことだ。あさましい話ではあるが、それに驚いていたのでは古代も中世も生きては行けなかった。聖徳太子の昔から落語の世界まで、山に川のさらに、市街地にさえ行き倒れの野曝しはいわば往時日本の一風景であり、花の都の京都とて、けっして例外ではなかったのである。
 九世紀の中ごろのことだ。もう初冬の時分、鴨川をはじめ河原に目にあまる骸骨を拾って灰にするよう命令があった時、たちまちに五五〇〇もの頭蓋骨が集まったという。鴨川だけは一〇日たたぬまに、もう一度拾い集めて処分しなければ片付かなかったという記録もある。骨を集めて焼いた、それが平安京でいう五条、六条の河原での話だった。その当時から界隈の河原は、平安京庶民のごく自然な三昧処(さんまいじよ)、葬処で、鎌倉時代にも室町時代になっても事情にそう変化はなかった。それどころか、鴨の河原や鳥部野までも運ばれれば幸せな方だった。しかも河原も野山も実情は、けっして今いう墓地ですらなかった。ただ、「ほとけ」の世界だった。少なくとも「ひと」と「ほとけ」が、そこでははっきり同居していた。忘れないうちに言っておいた方がいい。東山から話しはじめ鴨川に及んだが、京都人にとって「東山」とは、少なくも、三条通より南へ九条ないし稲荷山まで、現東山区でいう「東山」とは、鴨川の東岸からがもう地続きにそれであった。東山の麓がごく自然にそのまま、切れ目なく鴨の河原に繋がっている感覚だった。

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 しかも、忘れてはならない、山河襟帯(きんたい)のこの世界から少なくもいろんな「遊び」の芸が生まれた。五条河原には遊女乙前(おとまえ)がいて、今様(いまよう)謡いの天才を後白河天皇に伝え『梁塵秘抄』を成さしめたし、鷲尾の雲居(うんご)寺(現高台守)には自然居士(じねんこじ)らがいて、さまざまに面白い能芸で庶人を楽しませた。典型的には、歌舞伎の芸が河原に発祥した。例えば「音羽屋」初代の尾上菊五郎は、清水音羽山を望む五条河原の遊里、宮川町から出た江戸時代中期の名優だった。
 鴨川ないし東山といったいわば「死」の世界にまぢかく接して、「遊び」の芸があった深い意味や由来については、我々はあまり歴史的な関心を払わずに来すぎたと思う。そしてそれ故にまた、多くの誤解も重ねすぎて来た気がしてならない。

遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ 『梁塵秘抄』三五九

 この名高い今様(いまよう)の解は、今もって定まっていない、初めの「あそび」を後の「あそぶ」のようには文字どおりの子供の遊びととらず、そのまま「遊び女(め)」の意味にとり遊女の境涯を読もうとする主張もあるからだ。是非はともかく、「遊女」を即ち、「あそび」と呼んでいた事実は疑えない。彼女らは色も売ったが、また歌や舞踊、鼓、笛など音曲の芸で、さらには物真似などの雑芸(ぞうげい)で男たちを慰めていた。我々現代の語感でもそれらは、まず「遊び」と呼んでよく、今の色里の芸に近いものだったろう。
 だが、神話的な昔にまで遡って「遊び」の様態を探れば、趣意はだいぶ違ってくる。分かりよく言え

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ば、天の岩戸前で神々の喝采を浴びながらウヅメが演じたそうな、滑稽でエロチックなああいう踊りを「遊び」と呼んだ。言うまでもないアマテラスが岩戸の内へ隠れたのは、「死」ないし「仮死」の状態を意味していた。ウヅメのいわゆる「神遊び」とは、そのようなアマテラスの霊を慰め、蘇(よみがえ)りに望みを繋ぎ、かつそれに成功した芸の冴えだった。のちにアメワカヒコが死んだ時にも近親は、その蘇りを期待して「日八日夜八夜(ひやかよやよ)を遊びたりき」と『古事記』は同じこの言葉を用いている。
 もっと印象的には「遊部(あそびべ)」という職掌すらあって、それは天皇が死んでのち一定の期間、その荒ぶる霊魂を慰めるため、死屍と共にいて「遊びに遊ぶ」者らであったという。まさしく鎮魂の、あわよくば還魂の芸が「生死」の境で尽くされていたのだ。 それほどの「遊び」の伝統を汲みながら、京の遊女がそのまま「あそび」とも広く呼ばれていたのを、むげにはとても見過ごせまい。

藝と色と、鎮魂慰霊のはては甲と乙

 東山は、京都人にとってすぐれて美しい墓標でもあったと書いた。
 今もそうだ。

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 東山に限らない。北山にも西山にも言えるし、いっそ「日本中の山は」と書いていい。いたるところ青山(せいざん)あり、と言うより死なれた者の切ない断念や納得のためにも、青山は生ける誰しもに必要だった。
 京都市内にこんもり孤立した、月かかる東の吉田山も、花にさんざめく北の船岡山も古来の大きな葬地だった。吉田は「ほとけ」の黒谷真如堂や「かみ」の神楽岡吉田神社の墓地または葬地を今もかかえ、船岡には紫野、蓮台野や、往時は卒塔婆が林立したという釈迦堂の千本がひかえていた。金閣がまぢかい衣笠山のかげには、以前は東の花山にならぶ西の大きな焼き場があった。また嵯峨の小倉山麓には、あだしり二尊院から念仏寺へかけて化野(あだしの)の墓波がひろがっていた。
 がんらい私は「墓地」「霊園」といった文字を見るのもイヤで、反射的に今でも両の親指を掌に握りしめて隠す。そうしないと親の死に目に会えぬとか、子供ごころにいつとなく覚えこんだ。実の親たちは離れ離れにとうに死にその甲斐もなかったのだが、そして話はなぜか矛盾するのだか、墓地という場所へ入るのがまたいっこう少年の頃からイヤでも怖くもなくて、むしろ不思議に賑やかに今も想われる。たいがいな京都へ足は運んだつもりだが、なかでも、これはと思う墓地へは機会があれば今も入ってみる。そして思わぬ歴史上の旧知に出会う。佳い墓に出会う。
 墓はあくまで墓で、軽率に見てまわるなどということは勧めない。しかし真実敬意があるのならば、それに適切な案内があるのならば、京都こそいろんな意味で佳い古い墓の密集地なのだから、洛中洛外、その気で誰の墓を彼の墓をと探れ歩くという「古都」との対面のしかたは、あっていいと思う。ことに洛外の墓地なら、まず例外なく京都らしい四季の風趣にも恵まれて、墓参に観光料など要らないというご利益(りやく)もある。鷹峯(たかがみね)の光悦の墓、嵯峨落柿舎の去来の墓、比叡山麓金福寺の蕪村や月斗の墓、河原町

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延寿寺の初代菊五郎の墓、木屋町瑞泉寺の豊臣秀次畜生塚、また鹿(しし)ヶ谷法然院墓
地の谷崎潤一郎の墓など、思いつくまま挙げてみても、どの出会いも私には重い有り難いものだった。有り難い出会いがしかも他にも数えきれない。
 前もってはっきり言っておきたい。人が人を葬る営みをさして、ことさら昔の人が「人のわざ」と呼んだ心根を、大事に思い直し解きほぐしていいのではないか、と。そこから始めるしかないような心根の傷みや病いが、日本の歴史の暗部にわだかまってきた。京都を語る以上、むろん心して、しかしここへ敢えて目を背けないで言葉を用いた、と。
 言うまでもない鳥部野、鳥部山をはじめさきに挙げた黒谷、神楽岡、また船岡、蓮台野、化野(あだしの)などかつての大葬地は、どこも、平安京の「内」にはなかった。「外」にあった。そしてこのような「外」があっての「内」という意識に、いつか価値の上下を添えて考えたり振る舞ったりする時、京都に、そして当然に日本中へもひろがって「中央」と「地方」という、また一つの差別の図式が出来ていった。
 極端な言いかたを敢えてするなら、都の内だけが純然「生」の浄界であり、都の外は大なり小なり「生死混住」不浄の田舎と、半ば畏(おそ)れかつ卑(いやし)んだのである。「いたるところ青山あり」とはいわば平安京の「内」に住む者が、「外」へ目を向けた時の、きわだった中華意識の視線でもありえたのである。
 日本の社会の上下構造は、根本の「位」取りは、例えば貧富の差による以上に根深く、「死」ないし「死者」の世界との距離によって分かたれてきたと言えそうだ。具体的には、葬や墓との係わりが容易に、あまりに容易に、その指標にされた。貴賎都鄙の基準にされた。
 だが、これほど不当にゆがめた選択は、ない。この不当を正当に正すためにも、ただ京都の問題とし

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てでなく、また石頭な歴史家の解説につまづくことなく、日本中の者が、銘々の問題として己が「洛中洛外観」を自身の胸に今さらに新たに問い直す必要がある。そのための座標を、私の場合の「鴨川」や「東山」のような座標を、もつ必要がある。
 歴史的にみた「洛外」とは、たしかにさほど広い範囲ではないが、今いう意味に置きかえれば、「洛中」でないその余の日本中が、みな「洛外」だったとも意識できよう。しかも政権は、意図して洛中洛外をふくめた「都」のそとに「畿内」を重く見、その外に「畿外」を、さらにその外へ「あづま」「西国」や、さらに化外(けがい)の服(まつろ)わぬ「みちのく」「蝦夷」「琉球」をと、外には外をつくって、下には下をつくる政策と照応させた。平安京の「外」へ畏れて神々を敬遠したのとも、それは、隠微に照応していた。 そして迷惑なのは、今はちがうとも、とても言えないことだ……。
 が、まア……こう微妙な話の連続では、疲れる。巷談らしい遊びもほしい、と、読者も苦笑いだろう。
 ところがこの「遊び」に、また難儀な由来があるとは、前に、すこし触れた。喪屋(もや)に籠って屍霊を宥(なだ)慰めたという遊部(あそびべ)の「遊ぶ」職掌から、いわゆる遊君や遊女へ、遊里や遊廓へつながる一筋もありげに、話しておいた。遊ぶのも、これで難しい。
「遊ぶ」という物言いには、少年の隠れ遊びや大人の火遊びなど、今日でも奇妙にエロスの匂いがある。色ゆえに匂う感じがある。ストリップまがいに岩戸舞いで八百万(やおよろず)の神のおとがいを解いたウヅメの神楽に、すでにそれはあった。
 ある古語辞典の「あそび」の項の総説に、「日常的な生活から別の世界に身心を解放し、その中で熱中もしくは陶酔すること」とある。「宗教的な諸行事」をはじめ、狩猟、酒宴、音楽、遊楽などについ

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て「広範囲に用いる」言葉とも解説してある。だが狩りも宴も、音曲や雑芸(ぞうげい)・能芸も、競馬や相撲でさえもみな由来を探れば「宗教的な諸行事」の範囲内に入っていたものばかり。
 青森の方で名高い、お告げのオシラさまに働いてもらうことを、「遊ばせる」と言っている。
 もっと身近な話をすれば、例えば幼稚園の明るい庭で「かごめかごめ籠の中の鳥は」と歌って遊んだことがある。京都ではそれが家へ帰ると「中の中の弘法さん、なんで背が低いな」といううたに変わった。遊び方はほとんど違わなかった。ところで「弘法さん」は京都以外では大概「小坊さん」「小仏さん」で、もっと古い形では全国的に広がっているいわゆる地蔵遊びになる。たんに「中の中の地蔵さん」とはやすものから、さらに福島県郡山辺では、明治の末頃まで正月の遊びに少女たちが集まって仲間の一人に地蔵の霊をのりつけたということを、論文で読んだこともある。
 相談が決まると一人を選び、手拭いで目を隠し、笹を御幣(みてぐら)に持たせるのだ。そして取り巻いた少女たちが「南無地蔵大菩薩、おのり申せば、遊ばせ給え」と唱えごとを浴びせかける。この唱えを繰り返しているうち真ん中の少女にがさがさ震えがきて地蔵様がのりうつる。周囲から何でも訊きたいことを訊くと地蔵は一々に答えたという。中の子が、堂から持ち出した石地蔵と向きあって座る例もあったらしい。もはや子供の遊戯とも言っておれない、これは「神遊び」だった。むしろ禁じられ秘められた遊びだった。
 こうして上古から近代へかけ「遊び」が「遊戯」化していった久しい経過のなかで、しかも総じて「あそび」の名にかけて、少なくも古代人は、まず「遊女」の在り様(よう)を意識していたらしい。
 遊女といっても、今日の我々の語感では正しく捉えにくい。それにつけ思いだされるのが『更級日

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記』のはじめの方に出てくる場面、日記の筆者が少女の昔、父に伴われ東海道を任国から都へ上る途中のことだ。
 足柄山の麓に庵(いおり)を求めて泊まった晩のこと、月もない暗やみにかがり火が焚(た)かれた。
 闇と光とが無気味に森の影を映してにじみあったその円光の中へ、「遊女三人(あそびみたり)、いづくよりともなく」現れた。五十ほどの老女と二十(はたち)ばかりのと、十四、五歳の少女だった。人々は庵の前に座らせ、傘の下でうたを歌わせた。髪長く、額ぎわのきれいな子が声も「空に澄みのぽりて」しみじみ歌いおわると、また深い闇の中へ消えて行く。
 紅燈もなく脂粉の香も漂わない。ただ朱々(あかあか)とかがりが時に音立てて燃える火の輪のしたで、『更級日記』の筆者は少女(おとめ)ごころにこの「あそび」らと別れたくないとまで、胸を打たれ涙していた。そういう女たちが宿(しゆく)々のいたるところ山べに水べに住んだかと、想像するだに、日本の国が不思議に私はなつかしかった。
 そして間違いなくこのような女のうた(二字傍点)歌う芸が、いつとなく京都へ流れ寄っては、またいつとなく京都を離れて行き、諸国にひろまった波のような繰り返しがあったと思われる。時代は下るが芭蕉ら加賀山中での三吟歌仙に知られた、

  あられふる左の山は菅の寺    北枝
    遊女四五人田舎わたらひ   曽良
  落書に恋しき人の名もありて   芭蕉

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をみても、色も売ったが貧しい芸も売りながらの文字どおりの遊女渡世がしのばれる。およそ六〇〇年をへだてて、平安時代の菅原孝標女(たかすえのむすめ)の幼時と、江戸時代芭蕉の壮年期とを縦糸に貫いて、およそ定まった遊廓なり茶屋なりに時めく遊君や太夫とは趣の違う、歩き巫女(みこ)めく「あそび」が生きつづけたことだけは、分かる。
 こう想像するよりないだろう。
 彼女らは遊行女婦(うかれめ)の生涯を、おそらくは雑芸と貧しい信仰とを背負って漂泊していたのだ、春をひさぎまた人々の日々を言祝(ことほ)ぎながら、と。
 都を訪れることもしばしばだったろう。必ずしも男連れでなくはなかった。山伏など毛坊主と、さも夫婦連れでさすらう巫(かんなぎ)めく女の例なら、中世以来の記事に幾らも見つかる。「田舎わたらひ」の彼らにすれば都は、稼ぎ、仕込み、出会いも含めて無視できない情報の集散地だった。集散の旅が、それ自体で彼らには修行とも言えたらしい。鴨や桂の河原、寺社の門前や鳥居本(もと)に車座になってのさながら辛い身の上ばなしのような歌謡が、保元・平治の昔の『梁塵秘抄』には数多く採られている。

  はかなき此の世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに よろづの仏に疎まれて 後
生(ごしやう)わが身をいかにせん
  我等が修行に出でし時 珠洲(すず)の岬をかい回り 打ち巡(めぐ)り 振り棄てて ひとり越路(こしじ)の旅に出でて 足打ちせしこそあはれなりしか

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 こんな美しいうたも、ある。

  淀川の底の深きに鮎の子の 鵜という鳥に背中食はれてきりきりめく 可憐(いとを)しや

 男山橋本あたりの可憐な川の遊女が、「鵜(憂)」という男の好色にさいなまれる、切ない性の容態が歌われていると想えてならない。
 なににせよ後世まで、「遊び」には芸と色とがからんだ。太古は「かみ」を相手に鎮魂慰霊の、命がけの奉仕だったのだ。「髪落ち体痩(やすか)み」、まさに性的な燃焼そのものであり、心身の疲労は言語に絶した様子が『古事記』などからも読みとれる。それはあたかも神の妻の厳粛なつとめだった。遊女の本来は「極限の恋」に遊び尽くした神女(みこ)だったと思っていいのではなかろうか。
 もとより時移り人の世はつまりは俗となって、神女(みこ)は律令世界からただの歩き巫女(みこ)とはふれ落ちて、神に遊んだ上古の女たちの神秘的な、独特のこわい迫力が古代へ中世へと薄れていく。そして賎視が逆めに強まると、対応して、遊び女からせめて「芸」の女と、もっぱら「色」の女とが、早い話が芸妓と娼妓とが陽に陰に岐(わか)れてくる。「派アがちごて」くる。
 その近代に至りついた恰好の例が、京を代表する花街祇園町をかって二分した、俗称の甲部と乙部だったと言えそうだ。いや二分といっては当たらない。八坂神社へ向いておよそ「田」の字をなした町の、東北の、一区割が祇園としては後発の新地だった。それで乙部と呼ばれ、先行した三区割の甲部からは

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ひくめに、つい区別されたのだ。「早い話、甲が芸妓で乙は娼妓」と、その意味もわからない年頃に私は家の大人からも、はっきりそう聞いた。
 私の育った家は、知恩院(ちおいん)の門前町にあったからいわゆる祇園の廓(くるわ)からは背中合わせの外だった。だが戦後の学区制で中学は八坂神社石段下、祇園町の真ん中へ通った。中部の子や乙部の子の地元だった。
 断っておくが、三十余年も前の、それでも戦後の話だ。私らからは同じ祇園の子と見えながら、甲部と乙部の少なくも女の子同士には、ついぞ友情は成り立たぬ様子だった。一方が誇らかに「お座敷」へ早く出たいと口にするのを、他方は全身の沈黙で耐えているような場面にも、私はいく度となく遭遇した。
 花街生まれの男の子というのも微妙なものだった。同じお茶屋でも格差があるらしく、まして甲と乙との隔ては、私らよそものの思いを超えた口争いの種になったりしていた。他のどんな力関係に増して、甲は甲である故に断然、乙より優位を保つのだ。ともに私からは親しい友だちの間で、たとえ笑談にもせよそんな葛藤の繰り返されるのは、まぶしいくらい気が気でなかった。そして概して男女を問わず、私は乙部の子に肩入れしたい気持ちだった。およそ「甲」といった態度を憎んでいた。
 同じ祇園町のなかで甲は乙を低く見、同じ京都のなかで上(かみ)は下(しも)を、洛中は洛外を下に見ている。そんなことを日本中で昨日も今日も、むろん明日も繰り返している。こうも下が欲しいのか、日本人は。その根を、だが遡(さかのぼ)り遡って考えていくと結局、誰が死や死体に係わるかという役割分担(忌避と負担)へ、根本の政策へ、突き当たる。外国のことは言わない。わが天皇制国家の、それは暗黙の前提だった。律令政治は天皇を「忌避者たち」の最尊貴の地位に置いて、他方、巧みにごく一部「負担者」を配置しな

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がら、しかもその負担部分を、古代から中世にかけアウトローの世界へと、徐々に苛酷に切り捨てていったのである。
 平安京は、京都は、そういう暗部の日本史が集約された政治風土でもあった。「京」の明日を語ってそれを忘れていたのでは、話しにも何にもならぬ。そう思って私は、私の視線を東山や鴨川に注いでいる。

山河襟帯、そこヘカモが葱ならぬ神

 京都の東山は、どの辺りといわず、また四季をえらばず、まことにそれぞれに美しい。
 南、深草宝塔寺背後の七面山から眺めた、醍醐、木幡(こばた)をこえ近江、大和へかけての春霞む山なみ。泉涌寺月輪御陵の清寂に身を沈めて聴きいる、朝明けの小鳥の声。こんもりと雪で化粧の無常の花山を、人音(ひとおと)絶えた清閑寺の境内から息をのんで眺めあかない夕暮れ。もとより独りでよし、二人ならまた、いい。そしてこの調子で辿っていては、この山なみ、果てしがない。
 若王子(にやくおうじ)山の奥に新島嚢や徳富蘇峰らの、梅薫る清々しい墓地もいい。大文字山の裏へまわって眺める大比叡の、紅葉に照った夕焼けもすばらしい。白川を奥へ奥へ、山中越えに琵琶湖や比良が見えるまで、渓の瀬音に誘われて行く初夏の風情も忘れがたい。

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 だが東山は、いずれかと言えば北山西山にくらべて奥は浅い。街へもまぢかくて、明るい。と言うより無遠慮に町や人の方から山ベヘ、這いあがって行きやすい。あれだけ墓場が多いのに、それさえ賑わいのうちかのように人の足が近いのは、東山が、どこかしことなく景観に恵まれ目も心も慰めてくれるからに違いないが、同時に、深山幽谷(しんざんゆうこく)のおそろしさに怯(おび)えなくてすむ、心易さも与(あず)かっている。
 三十六峰、人里の風情をこうたっぷり抱えた山なみもあるまい。東山へ隠れて真実遁世を遂げえた人などいただろうか。雪月花を欠かさぬ四季の友にして、東山は、京の街を飾る心とろかす美しい衝立(ついたて)のようなもの、日ごろはやや離れて眺めて、それが結構とも。
 そもそも東山なくて、かの「春は、あけぼの」という一句は生まれようもなかった。
 一夜なりと京都市内で過ごした、但し目ざめのいい旅人なら、これは納得されるだろう。むろん向き不向きはある。平安京を上(かみ)と下(しも)に分けた二条大路、それも鴨川の西に沿うた二条辺りの宿からが最適だろう。私ひとりの今の好みでいえば、ホテルフジタの五階あたり、むろん二人部屋、東向きの窓べがよい。多少刻限はちがえ二月末から三、四月の春暁は、春宵千金にまして万金の夢見心地で鞍馬、比叡から遠霞む稲荷山まで、「やうやう白くなりゆく山ぎはすこし明かりて、紫立ちたる、雲の、ほそくたなび」いたさまが、しみじみと、残りなく見渡せる。『枕草子』褒美の「をかし」とは、これか……と、息をのむ。
 断言できると思うが「曙(あけ・ほの)」が佳いのは、二人で見て佳いので、酔興にひとり早起きして見たものではあるまい。うまい酔いざましの清水のように、先立って、夜を籠めての愛欲なり清談なりなくては「あけ・ほの」の妙趣は共感しあえなかっただろう。いやいや脱線をおそれずに言えば、男女の共感こ

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そが癒着型日本の、「世(一字傍点)の中」というものだった。
 清少納言や紫式部の時代には少なくも「世」といえば男と女の「仲らひ」を意味していたし、その伝統は西鶴好色の主人公「(浮)世之介」の名へもきちんと及んでいる。そう想って、例えば「世馴れる」「世を知る」「世離れた」「世の辛酸」などという日本語の味を噛みしめてみると、面白い。
 脱線ついでに、どう考えてもこれは「女社会」に見える。現実の力は男がもっているにせよ、「女」なくてはなんだか夜も明けないような社会は、その文化も「女文化」と呼ぶのが当たっているだろうし、少なくも古今集このかた野上弥生子百歳に至るその証明の作業は、酬いも含みも多い「日本」論になりえよう。
 ともあれ京都という世間は、宮廷社会からやがては市民社会にも及んで、根に、かかる「世の仲(一字傍点)」を結び合わせた「我々(ウイ)」や「手前(アワー)」の意識が形をとったような所がある。そして大なり小なり日本中にひろがり、男女と限らず「俺とお前の仲」でとかく一、二人称が融(と)けあい、癒着した。手を結び、手前を、占め広げあって共通の利害を確かめあう「世の仲」型社会としては、自然の成り行きだったと言える。
 思わず「春は、あけぼの」を置き忘れていたが、その昔の、日から日へでなく、夜から夜へ夜ごと闇の底にほのかにものの映えを美と見さだめて、時の移ろいを艶(えん)に生き交わしていた人らの、あれは未曽有の提唱だった。『枕草子』以前にも中国にも、断然「春曙(しゆんしよ)」を美と見定めたような表現は、見当たらないといわれている。
 あれは、だが極め付き、京の「春」、東山の「あけぼの」だった。それ以外のなにものでもなく、「ふとん着て寝たる姿の」東山の景観美は清少納言のこの一句に今も尽くされて、ついぞアトがつづか

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ない。
「ほらあんた……見とおみやす。あの山の端(は)の、ほうと白うて……。佳(え)え
こと……」
 そう、そばで揺り起こし起こされ、春寒むの暁を覚えぬまだ睡入(ねい)りばなほどの目で、うっとり二人して眺めたい東山だと、王朝の女らは定子皇后のサロンで声をそろえていたのだ、そこを読み損じてはなるまい。
 私「たち」が気に入りの、そのホテルの朝は早い。五時か五時半か、さっきまでの墨のような鴨の川瀬に、深夜の街のとぼしい明かりが黄金(きん)の糸を溶き流していたのが、いつか底白んでくると、藍より濃かった一面の夜空から、まるでなげかけたように東山三十六峰の「紫だつ」稜線がほのくらい虚空に浮かんでくる。およそ真東、黒谷の山墓地頂上にきゃしゃな三重塔が見えそめ、遠く、永観堂や南禅寺の堂塔も見えてくる。
 視線をやや右へふれば、蹴上(けあげ)、栗田口の方角に都ホテルが横顔を見せ、かすかに木隠(こがく)れて平安神宮の失い大鳥居も頭を覗かせている。東海道の起点だか終点だか三条大橋へ、大津からの電車道はその鳥居の向こう、ホテルの真下を西向きに街並みに沈んでいる。朝日は、やがてこの方角から黄金(きん)色に射しそめるだろう、直前の「あけぼの」をさも深呼吸するように、河原へもう犬を走らせて散歩に出てきた人影が、目の下にも向こう岸にも三人、四人と数えられる――。
 思わず指でガラス窓へなぞってみたいほど、山の端が優しい。が、刻々に、鴨川の流れ
にも視線がとらえられる。山に、川が、至極(しごく)に似合っているのだ。
 山河襟帯(さんがきんたい)という言葉が、八世紀末(延暦一三年、七九四)、たしか平安京の成る時に用いられていた。

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むろん京都の山は東山と限らず、川も鴨川に限らない、が、平安京の規模は、年ごとに当初のただ壮大な机上プランを見捨てて、地理上、行政上の必要からもまずます鴨川へ、そして東山へとにじり寄っていった。
 だが日ごろはさほど深くもない、この鴨川が、つい近代まで清いなりに流路も流量もしかと定まらない、たいした荒れ川だった。
 そもそも平安京の大半が、鴨川のいわば氾濫原だった。自然、疫病もこの川から沸いて出たようなもの、そして疫病神の怨霊を洗い流すのも、またこの川だった。東山の方はますます温和な山里風情を包みこんでいたが、鴨川はもっとまぢかに、生きた人の暮らしにしばしば手荒に障った。無視も敬遠もできなかった。御霊会(ごりようえ)にせよ奉幣祈祷にせよ、ともあれ宥(なだ)め鎮めて、無事に鴨川の水を治めるのが平安京の最重要の政治課題になったことは、時代を追うて数えきれない。お祭り騒ぎすらも京都では、難儀な政治の内だった。
 東山はともあれ一望できる。しかし鴨川は、一瞥(いちべつ)に尽くすというわけに行かない。ただ景色のことだけではない。その歴史も意義も評価も、そうだ。不易の山、流行の川――そうとも言える。「ゆく河のながれはたえずして、しかももとの水にあらず」とは、ほとんど人の世の姿にひとしいのだ、鴨川はもっと多く、もっと心して語られねばならないに相違ない。だが、たしかに東山より、ものが言い出しにくい。
 便宜に、『国史大辞典』の解説を借用して手がかりにしよう。「丹波高原の桟敷ケ岳(京都府)付近を水源とし、京都盆地に流れ出て南流し、盆地南部で桂川に流入している河川。河川法適用河川として

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の名称は鴨川であり、一級河川。一般に、京都市東部で高野川と交わるより上流を賀茂川、下流を鴨川、と字を使いわけている。この名称の由来は、川が京都盆地に流入する谷口に賀茂社が位置していることにある。すなわち『山背国風土記』逸文に記されているように、賀茂神が大和から山背(やましろ)に移って現在の上賀茂行付近に鎮座するときに、この川をさかのぼっていったということによっている。」
 ここでいう賀茂川と高野川とが合流した、ちょうど「Y」の字、河合の位置に河合神社があり、深い糺(ただす)の森の奥に下鴨神社がある。以前はここの河原で、はなやかに友禅染の水洗いが風物詩だった。今は商店街が協力の出町(でまち)祭に、賑やかな舞台を提供している。そして鴨川一の橋が、今出川通を東西に流した加茂大橋。
「賀茂」「加茂」「鴨」とややこしい、が、要するに「かも」なのだ。漢字は便利だが、またとかく字義にひかれて意味ありげな誤解へ誘いこまれる。千葉県に「かも」川市がある。岡山県には「かも」川町がある。広島県、岐阜県、静岡県に「かも」郡があり、かつては三河国、佐渡国、播磨国にも「かも」郡があった。また京都府、島根県、岡山県など
に「かも」町がある。
 たんに「かも」という土地なら、大雑把な地図帳の索引ででも、秋田、山形から広島、そして四国各県まで全国的に二〇箇所近くがすぐ見つかる。岐阜県の「美濃かも」市のような地名まで拾えば、さらに増える。「かもがわ」となると、埼玉、千葉、新潟、三重、滋賀、京都、鳥取、岡山、広島、愛媛、大分などでそれぞれの歴史をはらんで、流れつづけている。
 しっこく挙げればこの他に、「かもい」「か(が)もう」「かもごう」「かもざわ」「かもじま」

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「かもしょう」「かもす」「かもだ」「かもちがわ」「かもと」「かものす」「かものみや」「かもべ」などが各県に散開している。この文章を(朝日ジャーナル)誌上に連載のおり、挿し絵をお願いした田島征彦さんは、高知県有ちの人だったが、打ち合わせのおりの雑談でこの話題になった時、四国の「かも」はどこのも、当然、京都にならった地名や川の名のように思ってましたと言われたものだ。
 そうかも知れない。が、その逆かも知れませんねと私は言った。
 賀茂社領のおびただしい各地へ拡散のさまを眺めていると、どれもこれも京都由来とはむろん考えやすい話だけれど、その一方、あまり意味もなく、なにかにつけ京都や近畿を中心に我々はものを考えて来すぎた気もする。「かも」という「かみ」を背負った氏族の太古の移動のあとなどを想像してみた方がより適切かも知れないのだし、移動の始まったそもそも原拠点がどの辺だったか推測してみるのも面白い。ずいぶんアテずっぽうを言えば、鹿児島辺の南九州から海ぞいに、そして川を遡って徐々に東ヘ北へ内陸部へも移り住んできた、やはり、起源(ルーツ)は「海」系の人々で「かも」氏はあった気が、私はしている。少なくも白地図に数多い「かも」や准「かもしを拾いあげ線で結んで、その結果なにかしら大事なヒントが目に見えて来そうな名乗りであり、他にも「はた」「あま」や「なか(なが)」や「あつみ(あと、あた)」や「しら」と付く地名にも、私は同様の関心を寄せている。
 なにより当面の京都「鴨川」にしても、天平の昔には、奈良県から北向きに淀川へ合流している、現在の木津川の名だった。それが天平一五年の恭仁京(くにのみやこ)建設を機に、宮川と改められたそうだ。
 なぜ木津川が「かも」川だったのか。私が幼時をそこで過ごした当尾(とおの)の里は、京都府相楽郡の加茂町

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にあり、この地に岡田鴨といわれる古社があった。天平の「かも」川つまり木津川は、この「かも」社のそばを流れていたのだ。恭仁京も、同じこの「かも」の地に在った。
 なぜ、こんな内陸部に「かも」が在ったか。奈良県南西部の葛城山麓に高鴨神社を擁
して根拠を築いていた豪族鴨氏の勢力がここまで北上していたのだろうか。
 では葛城の「かも」氏は、どこから来たか。紀の川沿いに西の海から遡って来たのか。 紀の川の河口は、紀伊水道をひと渡しに、四国一の大河の吉野川河口と、まるで接吻しそうに向き合っている。これを西へ深く遡って行くと、果たして、徳島県美馬郡の奥の方に加茂男宮や三加茂町の名が見えてくるのは偶然のことだろうか。吉野川よりわずか南、那賀郡那賀川の上流にも加茂の名が見えるのを、ただ見過ごしていいだろうか。
 日本では、歴史の勢いは概して西から東へ動いた。この場合の「かも」もそうではなかろうか。京都からはるばる西へでなく、西からじりじりと東へ、そして京都をすら通過の一大拠点にして、さらに東や北へ移り動いた、広がって行ったと想像したい。
 私の印象では、九州では鹿児島や熊本の一部にしか見えていない「かも」が、ことに四国では各県に目だっている。
 九州では代わりに「くま」が目だち、これがまた海沿いに移動して、紀州や出雲の熊野信仰に拠点を据えた観がある。
「くま」も「かも」も、音通による「かみ(神)」という推測はたぶん当たっているだろう。つまり京都の賀茂社も鴨川も、少なくも弥生期以来の「かみ」の移動そして土着という、東アジアや南島を含め

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た文化史的視野のなかでその根(ルーツ)を評価しなければならない。
 いやいや京都の話題に、そんな大風呂敷は無用のたわごとと言われかねない。が、賀茂社は明治維新の近代まで山城国の動かぬ一の宮、朝廷が伊勢とならんでもっとも畏れた神だった。その証拠に、天皇の血を受けた処女内親王を、久しく斎王としていわば人身御供(ひとみごくう)に捧げつづけていた。賀茂行幸といえば、幕末の攘夷騒ぎのように、よほど厄介な事が起きていて、天皇は「かも」の神威を宥(なだ)め頼みに行く場合が多かった。
 京に田舎あり。いろいろに解釈の利く微妙な物言いだ。が、天皇が都の王者なら、「かも」は、その京の田舎の束ねだった。そのまた親類が「はた」だった。「はた」が桂川を手にしていたより永く、「かも」は鴨川を支配してきた。そうだからこそ、白河法皇ほどの独裁者も鴨川には閉口したのだ。
 さて「Y」の上半分の賀茂川と高野川のことは今はおいて、北の加茂大橋から下鳥羽で桂川へ合流するちょうど羽束師(はつしか)橋まで、およそ十余キロの鴨川を、均等に語るわけには行かない。猪上清子という詩人は、例えば「勧進橋」を境に、

  今まで貴婦人然としていた鴨川も
  そこからは、農婦となって南下する

と、作品「情景」に書いていた。勧進橋は、十条通も越えたまだ南方の橋だから、九
条で果ての平安京をかなり下流へ外れている。それより上流は均(なら)して「貴婦人然」
という受けかたも、私などには大味過

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ぎる。どの辺がとは定かに言いにくいが、およそ北から南へ、上(かみ)から下(しも)へたとえば「みそぎ」の川、「いくさ」の川、「しおき」の川、「あそび」の川、「はふり」の川などと分別したい鴨川が、かつて流れていた。じつに差別のきつい川だった。

宮様本願、めでたやな天皇制は健在

 京都市内から高さで目立つといえば、それは比叡山をおいてない。京都駅前のタワーもかなり目立つが、ものの数ではない。むしろ東山の山腹に清水寺のいらかや八坂の塔の方がよほど遠目は利いている。応仁の乱の昔、敵味方となくこの八坂の塔に大幕をかかげてアドバルーン代わりに利用し、自軍の士気を鼓舞したり戦況を伝えたりしたという伝聞にも首肯(うなず)ける。
 高い場所には、どこからも見える見られるという晴れがましさがある。目印になる。視点になる。ひいては文字どおり「高圧」的な「立場」に利用されやすい。「上手(じようず)」に「かみて」を占めて「うわて」に出るのに利用される。八坂の塔のこともそうだし、山崎合戦で秀吉と光秀とが天王山を奪いあったのもそれだろう。やたら高い建物を建てたがるのもそのクチだ。
 京都には、白河法皇の頃の岡崎法勝寺にべらぼうな八角九重の大塔が建っていた。今の、平安神宮の

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辺りだ。ひときわ山の翠(みどり)の映えて美しい場所だが、大津の方から東海道を上って来た人には、いきなり、皇都の権威と栄華とを見せつける途方もないシンボルと映っただろう。「しもて」に居て「したて」に出させる恰好の威圧だった。その余の役には何も立たなかった。
 京都が鴨川の東へ出張った最初が、この白川ぞいの景勝岡崎の地で、一二世紀はじめに白河法王や待賢門院らにより、法勝寺をはじめ、六勝寺とはやされた六つの大寺(たいじ)がつぎつぎに競い建てられた。天皇をさしおいて上皇が絶対政治を専制した、いわゆる初期院政の花盛りを象徴した副都化の現象で、六大寺のすぐ西には院政の本拠となる豪壮な
南殿北殿が置かれていた。
 今も私も、岡崎辺と想うだけで夢見心地がするくらい一帯に景色は佳し、なにしろ鴨川をわたり京の外へ出て、藤原氏の摂関政治を律令制の外側から牛耳るというのだから、まさに院政の趣旨にかなった恰好の土地柄、「京・岡崎」と古代の末に並び称されたのも道理だった。翠巒(すいらん)に三面を囲われて、ゆるやかな山麓の斜面を、東から南へ西へせせらぐ白川。西には晴れやかに鴨の河原や三条橋の往来を隔てて、上京(かみぎよう)、下京(しもぎよう)の町や公家屋敷や内裏までも見渡せた。光る北山から、遠く西の隅には雲居たつ愛宕(あたご)の峰も望めた。
 こう言えただろう、「岡崎」は、「京」が東山と鴨川白川を自然の借景として意図して活用した、最もめざましい成功例だったと。もっともこの今みる平安神宮や美術館、動物園から南禅寺界隈は、太古来の住居遺跡を抱きこんだ、久しい人間の好環境だった。元老山県や豪商野村が目をつけた土地で、今も、ある事は京都の者はよく知っている。文豪谷崎潤一郎も一時この地に住んで名作『少将滋幹の母』などを書いた。

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 但し院政ほどにも、大塔も大勝寺も永保(も)ちはしなかった。木と紙の日本の建物は、火に遭えばまことにあっけない。火を放つという戦略がかくもしばしば効果を挙げた国は少ない。極端に言えば、火は、しばしば民意ですらあった。今日ではそうは行かない。火の粉をかぶってしまうのは我々、民衆だけだ。
 そんなワケで、かつては不愉快な建物といえども比較的簡単に潰(つい)えてきたのだが、遺憾ながら「かみて」を占めるヤツは、顔ぶれだけ変わっても、なかなか性根の方は変えない。居なくなりも、しない。
 室町時代になって現在の相国寺(しようこくじ)、賀茂川のすぐ西にあたって、またまた七重の大塔が建てられた。最近とみに注目される洛中洛外回の、なかでも古く優れた遺品のひとつは、この塔の頂上から見渡していた体(てい)の洛中洛外を描いたと言われる。ご多分にもれず、塔はすでに屏風絵制作当時には戦火に焼け落ちていたが、相応の記憶なり拠るべき資料が活用されて成った構図らしい。
 なるほど一双の大屏風に京の内外をおさめるには、うまく狙い定めた視点だ。座敷の東西に一隻(せき)ずつ建てて、間に、然るべき座を占めれば、居ながら京都が見渡せるという趣向だ。
 が、当の塔を建てた側は、そのバカ高い塔自体に、もっと威圧的な、べつの効果を見込んでいただろう。
 平安京一条よりわずかに北、鴨川のごく付け根、出町(でまち)の加茂大橋の畔(ほとり)は、南は九条の東寺五重塔の天辺(てつぺん)と同じ高さと、子供の頃から何度聞かされたことか。
 その出町川崎にまぢかく、六、七〇メートルもそそり立ったという相国寺大塔から見れば、つまり当時室町幕府の支配の視点から見れば、眼下の御所も公家も問題でない、とかく革新のエネルギーが拠って騒動の起きやすい下京や洛南庶民のシンボル、東寺の塔を、遠くさらに小さく、農婦でも見る目で見

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下せた示威と優越の効果が大きかった。
 貴婦人然としたこの「かみて」感覚に便乗して「上京(かみぎよう)」は、特権を求めるひと握り中世商人の抜けめない「上層町衆(まちしゆう)」化を受け入れた。いわば「しもて」庶民の政治的権益をあたかも裏切り売り渡すように、やがて彼ら上層町衆は「天下布武」という名の不自由な安定と金ピカの繁昌を欲得ずく取り込み、安土桃山という名の「黄金(きん)色の暗転期」へ、悪しき近世化の道を急いたのだ。
 どう貴婦人然とそっくり返ろうが、まさかに、それで「かみて」も確かな安心が得られたとは言えない。事実そんな七重の塔など、あツという間に歴史の海に沈みはてたが、東寺の塔は生き残った。
 だが問題は、塔ではない。中世の下京にいつも燃え立とうとした、時代の転換を激しく求めた革新の火が、火種が、かつて国一揆の巣だった済南、今日の京都のいわば下町、南区や伏見区や西京区に、向日(むこう)市や長岡京市に本当に消えはててしまったのか、どうかだ。
 三〇年も前だが、ひと夏かけて、私は下京区役所でのアルバイトに、東海道線より北、およそ京都駅と東本願寺の周辺を各戸一軒ごとに、選挙人名簿だったか住人原簿たかの確認
のために巡回したことがある。
 あいにくと私はその六月に移動盲腸のこじれた手術を受けてまもない、病み上がりだった。たしかにそれも有って、京の真夏の日盛りをてくてく歩きまわる馴れない仕事は骨身にこたえた。今では集団住宅化の進んだ地域になっているけれど、その頃は、ちょっとした足の踏み場もないほど入り組んだ町の小路が、軒の低い家並みに沈んでいて、名簿どおり一人一人の住所を捜し当てるのにも途方にくれた。
 だが、その難儀をきわめた体験は、妙な言葉づかいだが私を励ましてくれた、但しその後ずいぶん長

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い時間をかけて。
 正直なところそのアルバイトの機(おり)まで、そういう荒けない顔つきの「洛中」もあるのを、私は知りも、知ろうともして来なかった。紛れもない平安京内に、洛外なみの町があり人が住み、「連帯」可能なのをその時はっきり見知っていて、しかも私はそれに気がつかずにいた。むしろ知識ばかりが増した。
「知識」のはなしは面映ゆい。が、例えば国鉄京都駅構内、ちょうど一番ホームの辺りを、かって豊臣秀吉が築かせたお土居(どい)が東西に走っていた。ここまでが秀吉流の洛中だったのだ。古くは、保元の乱へ後白河天皇を引きずり出した傾国の美女美福門院の御所もここにあった。平頼盛の邸も、裕福で知られた八条女院の邸も同じこの辺にあった。すこし東には平宗盛の、西には重盛の邸があり、清盛の宏大な西八条邸も東寺から見て真北
の辺にあった。平家の巣だ。
 駅の周辺で脱線は、ハナシ一つでも物騒とは承知で事のついでに、言うまでもなく平家の根拠地は、もう一ケ所洛東鳥部野の末に、名高い六波羅があった。六波羅蜜寺から南へ、七条の三十三間堂きわまで、実に広々と占めていた。「国家安康」の鐘銘にケチのついた方広寺も、豊国神社も、国立京都博物館もすっぽり中に呑み込まれている。平家ゆかりの町名が今も二、三は使われている。
 三十三間室は、平家が後白河法皇のために寄進したものだ。今その東側に御陵のあるの
は、その一帯(智積(ちしやく)院や元京都芸大を含む)に院の御所七条殿の南殿、法住寺
殿があった跡だ。北殿はちょうど現妙法院の位置にあった。
 ここまで言えばさらについでに、この後白河院七条殿の真東が鳥部山つまり花山火葬場で、そのわずか北麓(ほくろく)、日々に死者を運んで葬送の車が往来している小松谷には、小松大臣(こまつのおとど)といわれた平重盛の邸もそ

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の当時あった。後白河院というお人は、わるく言えば平家に包囲ないし監視、よく言えばまあ抱き込まれてここ七条東山辺で暮らしていた。五代三十余年の院政の王者も、おごる平家に手こずったのはたしかだが、即位このかた縁の深いことでは源氏は平家の敵でなかったはず、それだけに、ああも徹して西海の藻屑と平家一門を滅し去ってしまった事を、この法皇は生涯悔やんだに違いない。
 その後白河院の悔いと追悼の深さに、そもそもかの『平家物語』の企画は大きく動機づけられ纏(まと)まって行ったもの、のちのち「大原御幸(ごこう)」で平家生き残りの建礼門院とこの院との再会の場面が、特に「平家語り」唱導者らに重視されて灌頂(かんじよう)の巻として特立されたのも、その反映、というのが、長篇小説『風の奏で』(文藝春秋)で示した私の深読みだ。
 いやはや――大脱線。京都の町というのは、うかとすると、たちまちこの手の誘惑で歴史の巷に立ち往生させる。
 この脱線、だが「岡崎」からはじめた話題との連絡、無くもない。あちらは白河院の、こちらは後(一字傍点)白河院の、どちらも鴨川の東(一字傍点)に構えた院政(二字傍点)本拠地の話だ。このようにして天皇を最高位に戴く律令制を皇室が自身で突き崩すぐあいに、上皇支配が都城の外から「京都」を押さえこんだ。逆に言うと、このようにして「京都」は、いわば洛東の開発と都市化に手をつけた。
 ことに後白河院と平家は、鳥部野鳥部山という無類の葬地へ大きく踏み込んでいる。死を自然(じねん)のことと見極めつつ無常の痛みに馴れてきたのか。いや鎮魂慰霊の遊部(あそびげ)の喬(すえ)とみるべき漂泊の遊女や白拍子をひときわ身近に引きつけ、今様狂いに明け暮れたことのある破格無頼の後白河院や平清盛らしい、それも古代が末期(まつご)を迎えての「今様」の振る舞いだったのか。

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 ともあれ七条殿、ないし平家が広大に占めている大波羅から八条、西八条の地は、平安京の外ないし南のはずれから「上京」をにらむ位置に在り、東寺の塔は大きな目印だった。旗印だった。そして、この時も塔だけ残って、平家も、院政という反体制効果もあとかたなく消え失せた。時移り、京の八条九条は東も西も畑になって、すばらしい野菜を潤沢に育てた。ねぎ、くわい、いも類、まめ類、なす、しょうが、かぶら、かぶらな、みずな、なたね、葉藍、うり類、三つ葉、れんこん、そして茶も製した。藍を育て、また諸皮加工の技術も進んだ。

下京や雪つむうへの夜の雨

 凡兆の下句に「下京(しもぎやう)や」と冠せて、これ以上はないと自賛したという芭蕉が、どんな下京を想い描いていたにせよその瞬間にも東寺の塔は、「京の田舎」のその下京を率いて立つ、揺るぎない目印だった。
 初期の洛中洛外因が、相国寺の大塔から見渡した体(てい)に描かれていたと言った。 支配の視点だったろうとも言った。
 そういう京都の見取り図がありえたのなら、立場と視点を換えて、発想を転換して、同じその当時に東寺の塔の上に立ち、「外」や「はずれ」から気概をこめて「上」や「中央」を見返す京都が、描かれてもよかった。
 冗談を言うのではない。そういう発想、いや時勢転換を絶えず狙って東に南に西に、洛外の地力と一味同心の「下京」の意欲こそが、わが中世を活気ある修羅場にひきずりこみ、武家支配確立に待ったを

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かけつづけたのではなかったか。
 だが、それも、利権と安定とを求めた上層町衆に背かれ、潰(つい)えた。たとえて言えば、彼らの黒い手で、「下京」という名、「洛外」という名の日本中が、武家支配に完全に売り渡されたのだ。そうして迎えたのが、とにかくも近世、江戸時代というものだったろう。
 近世以降、京の下京では東寺以上に東西本願寺教団がハバを利かせた。利かせかたがモンダイだった。
 法然の専修念仏を、徹して唯以信心(ゆいいしんじん)の浄土真宗に深めた宗祖親鸞の信仰は、ある意味で世界に類のないほど反体制的、超世俗的な、しかも凡俗への愛に満ちたものだった。私は昨日も今日も明日も、怠りなく『親鷺全集』(真継伸彦現代語訳)を就寝前に音読しつづけているが、時にあまりの感銘に涙を垂れることもある。
 しかしながらこの親鸞の信仰を継ぐべき者らは、唯信の原点を離れて世襲教団の興隆という擬似天皇制への欲望に走りっづけ、それでも中世には反権力の激しい戦いに門徒を指導していたのが、徳川の世となっては、権力に逆に加担して民衆支配の役目をこまめに果たすほどの変質を遂げていた。
 この傾向は近代に入ってさらに強まり、東となく西となく遂に指導的な教学者の福田義導や暇岳宗興は、天皇と阿弥陀仏とを同一視しはじめ、根本法典の『無量寿経』を天皇尊崇、朝旨(ちようし)随順の国家鎮護のお経だとまで言い出した。あげく世襲門主(もんす)の一人は皇室との婚姻関係までも結んだ。
 いかなる人も「信」において如来と等しくなる、なり行ける、というのが親鸞の確信だった。むろん人に上下の区別も差別もない。「国王を敬輔し尊重すること仏の如くすべし」などとは言わなかった。ましてや社会の最下層に謂われなく苦しみあえいだ人々を率先救
済するどころか、戒名の上でまで

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「畜」呼ばわりするような非道は、親鸞の宗教者としての真情に背くことはなはだしかった。だが本願寺は、それほどの非道をも事実犯してきたのだ。
 祇園会鉾町(ほこまち)の旦那衆がおしなべて安泰と姑息の夢をむさぼり、子供もシラける代々の町自慢、家自慢にヤニさがっているうちに、下京は、こんなもの凄い両本願寺とべらばうな寺内町(じないちよう)とを抱き込んで、さながらの城下町になってしまった。むろん寺へ出入りの莫大な職人、商人もついてまわって繁昌した事実も、ある。だが、失ったものも、大きかった。下京の気概だ。
 京都に今、天皇は住んでいない。だが擬似天皇はいて、擬似天皇制もあって、かつての本願寺と同じ道を歩んでいる。例えばそれが「乞食宗旦」を流祖と仰ぐ茶の湯の某家元である事には、今さら驚かない。私がしんから驚くのは、天皇個人にさして人気のない京都でさえ、天皇制(一字傍点)の今も根強い事実だ。宮様を嫁に迎えた堺衆……めでたやな。

翁と天皇、畏(かしこ)し神の役にはおべっか

 あなたは人に「おべっか」をつかうかと訊かれて、怒らない人はいない。「おべっか」をつかわれるのはどうですかと訊ねても、返事はそう変わるまい、但しこの方はまんざらでもない人が、まま居る。

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 怒るのもまんざらでないのも、「おべっか」を人間関係の上と下とでイヤラシク理解しているからだろう。だがこの上と下、たしかにイヤラシク、それだけにそうは単純でない暗い矛盾をはらんでいる。「京都」は、日本の貴賎都鄙を集約した町と私は書いてきた。だから「京都」をよく思い直してみることが、多く日本の歴史
的矛盾や桎梏(しつこく)を解くためにも大事な手続きになる、そう思う、とも言い続けてきた。「おべっか」を考えてみるのも、その意味深長な手続きの一つになるだろう。
「おべっか」は「つかう」ものと決まっている。「おべっかをつかう」とは、どの国語辞典にもあるように「へつらうこと、またその言葉」「追従、愛想」と了解され使用されている。だがそれより以前の、本来の意味はもう我々の意識から落ちている。身のまわりの誰に聞いても、見当もつかないと答える。それなら落としツ放していいのか、その辺が問題だ。
「おベッカ、ねえ、……ベッカ。外国語みたい」
 しかしこう書かれてみると、かえって察しがつく人もあるのでは。
「今日より潔斎別火」などと一四世紀の半ばの『祇園執行(しゆぎよう)日記』に見えている。「べつくわ」とは、「けがれを忌んで、炊事などの火を別にすること」と古語辞典は解説している。だが、「忌みのある人や月経中の女が行なう」ともあるのは、理解を狭めてしまわないか。
 能の根源に、神の影向(ようごう)を示すといわれる「翁」がある。翁登場の、「とうとうたらりたらりら」と謳われる祝言(じゆげん)の意味は、もう今では読み解くべくもないが、とにかくも「おめでたい」ものとして大昔から格別に神聖な能とされてきた。「翁」の能を勤める役者は、厳重に別火を焚いて飲食も他人とは別に調えた。歌舞伎でもその点は同じく、「式三番叟」を勤める役者は楽屋で「お別火」を独りつかい、人

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交わりは避けるのが習いだとものの本に、あった。
「おべつ」「おへつ」「おへつこき」「おべったれる」「おべつする」などの、同じへつらう意味の方言は全国的に多いし、それならあの「おべんちゃら」へも通じていよう。「おべつする」などは、「ゴマをする」にも通い合っていよう。
 しかもなお語感的にも語幹的にも、「べつ=別」が生きていそうに思われる。それならば「おべっか」はもと「お別火」かと思いたい私の推測も、まんざら外れていまい。だが、意味するところはかけ離れている感じだ……が。
「お別火」とは何か、何故か。それがどういう道筋で「おべっか」になり変わるのか。
 若い人にはもう縁のないことかも知れないが、敗戦後の日本列島を、あの当時、天皇はあたかも巡礼するように各地へ出かけてまわっていた。あれはよそめにも、よかった。が、あれぞ「まれびと=客神」という感じもあった。当時の昭和天皇は「翁」ほど老いてはいなかったし、「人間宣言」も衝撃的にまだ耳新しかったが、それでも現入神(あらひとがみ)が訪れたと思って拝み迎えた昔風な人は、是非はべつに、あの混乱の戦後にもそれはそれは大勢いただろうと、察しはつく。
 ああして天皇を迎えた先々では、さぞや文字どおりの「お別火」を「つか」ったことだろう。「火」に限るまい、壁から畳から襖から浴室、湯舟、寝床に至るまで、出来るかぎり新しく、常人とは別に用意したのではないか。
 むしろ「火」を別になどとは、担当の人にも土地柄にもよろうが、かえって思いつかずに有合わせの同じかまどで、またガスや電気で煮炊きしたかも知れない。が、なにもなにも新調してと心がける発想

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の根には、やはり来訪神(まれびと)としての「翁」崇拝が生き、「別火」思想が生きていたと思う、かりに太古の記憶は完全に風化していようとも。
 天皇を迎える場合でも、能や歌舞伎の役者が「翁」などを勤める場合でも、他の人と、つかう火を異(こと)にするとは、だが筋道立てていうと、どういうことか。
 はたの者からすればあれは神様だからという、上目づかいに敬遠の別扱いだし、神様からすれば、汝らと一緒(こみ)ではイヤじゃという尊大な構えだろう。もっとも神様には、こういう事を臆面なく宣(のたま)う方も宣わない方もある。人が勝手に、神様はこう宣うているに違いないと決めてかかっている場合が、やたら多い気がせぬでもない。可哀想な、ひと! いずれにせよこの場合は、聖別、の「お別火」というものだろう。
 だが、その程度で事のおさまらないのが、日本の神様づきあいの難儀なところで、神様、かならずしも尊敬の聖別をただ謹呈され、ただ尊大に嘉納されているばかりとは、限っていない。気がつくと逆に人間の方から、我々はお前さん方とはちがうんだからねと神様を仲間はずれに、煮炊きの火から何から別に分けているという趣も、確かにある。こうなると敬遠ではなくて、もはや差別になる。
 聖別は、おうおう差別と表裏する。いや賎別へ逆転する。とくに日本の神信仰では、そうなり易い。
 なぜかというと、日本では人が神様の役を「翁」のような面をつけて、決まった時と所で「めでたていく」演じてみせる場合が多いからだ。しかもその神様が、たいがい遠来の「客(まれびと)」の体で現れるからだ。早い話が、神の仮面をきたヨソモノという形=約束事でつきあうのが、普通だからだ。
 そのうえ、前にも触れたが、日本の神はキリストでも釈迦でもない。とかくすると正体は蛇かのよう

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に祭られ畏(おそ)れられることの多い、暗い、深い、海の果て、地の底、水の中から現れ出そうな神話的な、かつ民族的な理由がついて回る。わるいことに、征服されたものという敗者のイメージすら絡みついている。誰の作だか、まるで覚えてないが、

元旦や暗きより人あらはるる

とは、まさに五穀豊穣、国土安穏を言祝(ことほ)ぐ、祝い言(ごと)する祝言能(しゆうげんのう)の「翁」の、貴さ、と同時に畏ろしさ、を言い当てている。神様とはこういう感じと、その実は人が願うままに久しい農耕時代を通じて想像し創造してきた。それでいてそういう神様とのつきあいを、胸の一点で敬遠し忌避してきた。しょせん彼は、彼らは、我らと、我々とは、別だ、と。
 今でもこういう土地は多いのではなかろうか、蓑笠のまま不時によその家へ入ると、ひどく嫌われる。
 蓑笠姿は、いわば「遠来の客」としての「旅する神の姿」と見られてきた。たとえお隣さんでもお向かいさんでも、その恰好では神になってしまう。人は時をえらばず神といつも同居はできない。少なくともふだんは神棚へ棚上げしておきたい。人に都合のいい時にだけ現れてほしい。それが祭日だ。ふだんの御入来は、ウソにも願いさげにしたいということだ。「一本足」に蓑笠つけた田の神様(カンサー)が、もともと何を象(かたど)られていたかを想像してみれば、この事情、察しがつくだろう。
 そういう神様には、一年のうち何度か日を決め、なるべく場所も決めて、「お別火」でお迎えしたい。

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それが「人」様のムシのいい神迎えだった。その時ばかりは有り難がって、誰か、他人に、神様の代役を演じさせた。その「役」の者にも「お別火」をつかった。役が済めば境へ追放つか叩き切った。
「役」一字への、なんという危険な、聖別!
「役」が固定し「役者」が固定するにつれ、「お別火」は、アブナい矛盾をはらんだ「人(にん)」外(がい)への差別ないし賎別のマークとしても固定化していった。わが国に今も根絶できないでいる、芸能への、信仰がらみに隠微ないわれない賎視の根を、早い話で説明すれば、およそ、こんなことになろう。他人を、おだて顔に神様扱いして、露骨に棚上げしたのが「お別火」らしい。
「火」の神秘思想をここで面倒に問い返すのはよそう。「火」を別にするのが、そんなにも大事だったらしいということは、とにかく「翁」の能の例で納得しておいて足るものとしよう。その上で「お別火」が日本人の社会や文化にもたらした歴史的な矛盾を考え直してみたい。少なくともそれはどういう事であったのかを、もう少し、日常的な話題から考えたい。
 よく「ひとつ竃(かま)の飯を食う」という。軍隊にいた人は特にこれを口にするようだ。この上ない仲間意識の表明なのだろう。「ひとつ竃」とは「同じ火で炊いた」という意味だから、「別火」の、これはちょうど逆を意味している。「同火同食」そこに「一味同心」という「我々」意識が結集するのだ。即、痛烈に「別火」の「彼ら」を意識し、対抗する身構えでもあるのは言うまでもない。昨今もなにかにつけて大人や子供が合宿(サミットとやらも)を計画する狙いも、当然これだろう。昔からの言いかたでは「寄合い」が、やはり、それだ。
「我々」と「彼ら」を「火」が分かつ。現代人には分かりにくくなっている。だが、例えば競技場を神

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秘に統一しさながら君臨するあの「聖火」の意味などは漠然と感じている。
 京都では、大晦日の八坂神社に人波が浴れて、手んでにおけら火を貰い、いや買い受けていく。外来の客には気ばらしだが、氏子はその神火で、初日と若水とともに元旦の雑煮をつくる。もっともわが家ではそんな面倒は遠慮なく省いたし、仮に省くまいが、まじないのようなものだと心得てはいる。気がすめば、それでいいのだ。
 だが「火」がなにか不思議に清いもの、特別なものとは、やっぱり誰しもが妙に納得している、今も。
 まして日々にナマの火や火種を守って、抜きさしならず火の威力に助けられ暮らしていた昔の人は、あたかも「我ら」の火と「彼ら」の火とは別ものと思いこむくらい、自分の火に忠実だったのだろう。火は、身内意識を貫いて生きた美しい不可侵のシンボルだったろう。さてこそ「彼ら」を「我々」の火から遠のけ、また安易には性根の知れない者の火で、飲食を倶(とも)にしたりはしなかった。
 よくケチと空(から)世辞の見本のように言われる「京のお茶漬」が、それだ。
 この人の世、けっして「我々」と「彼ら」だけ、味方と敵だけでは出来ていない。「お茶漬」を勧めて出さず、勧められても食わないのは、互いに敵でもないが味方でもない緩(ゆる)い付き合いの余地を残し合うのだ。「自由が利く」付き合いとは、それだ。この「自由が利く」という言葉、京都では想像以上に大事に、よく使われている。久しい政治都市市民の、心凄い処世であって、ケチ一幕の話ではない。
 人との縁はまことに大事。だが、だからこそやたら日常茶飯事に受け入れていいものでない。その慮(おもんぱか)り、これも名高い、京の、「いちげんさん(フリのお客さん)、お断り」という徹底して筋を通した身構えになってくる。そのかわり一度結んだ縁はよほど親切に守ろうとする。「別火ん子オ」ど

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ころか親類以上の親類付き合いを、京の宿屋お茶屋で、いや一般の市民とも楽しんでいる他国の人は、少く、ない、はずだ。
「おべっかをつかう」のは、へつらうというのとは、すこし、ちがうのだ。どうやら「べっかんこ」で、相手にしない意味らしい。ただ相手にしないのではない。建前は「神さん」扱いにアゲておいて「我々」では相手ができないと、さも遜(へりくだ)った顔をしてみせる。建前は聖別で、だが大概の場合の真意はそうではない。よく言って敬遠だ。わるくすれば差別だ。それを皮肉にもって回るところが「おべっか」だったのだ。
 確かに、どこかで「神」と「神の役」とが重ねられた。都合よく重ねておいて、勝手に貴(聖)と賎とに大きく分けた。しおらしい建前とえげつない本音とに分けた。そのうえで自分は「どっちでもなアーい」という、中ほどの「どっちつかず」へ九割がたがしがみついた。おかげで、「天皇」制は無キズに永保(も)ちした。だが不幸にも「翁」の「役」を引き受けた方は、はなはだしいワリを食ってきた。おおかたの役者は、遊びの筋につながる芸人は、「真似師・萬歳・役者の子」らは、つい昨日まではおハナシにもならない「おべっか」を公然使わせられてきた。
 性急な議論は避けなければいけないが、それでも率直に言って、人が人を聖別したり賎別したり、いわれもない阿呆らしいことだ。両方(二字傍点)とも、やめたい。片方(二字傍点)だけでは意味が浅い。もともと「神の役」という点では聖も賎も同じだった。
 本当の問題は、では、何か。
 芸能人の真似事を日本中がしはじめたのは、問題だろうか。私は、そうは思わない。私は、芸術もよ

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し、同じように芸能も楽しいと思う者だ。よくて楽しいものなら、誰が心がけてもいい。平和なものだ。「君が世は千代に八千代に」とすべて民衆が民衆のため千秋楽を互いに祝い合うのは、お相撲だけのことでない。あらゆる日本の芸の理想であり、ケチの付けようがない。衆人愛敬(あいぎよう)、寿福増長。少なくも「お別火」をつかうと称して人が人を平然と差別する根拠の、失せてしまうのがいい。
 だがもう一つの方は問題がある。ご本尊は祭りあげ棚上げしておきながら、体(てい)よく、その「神様」なみを気取って、厚顔(あつかま)しくも人に「おべっか」をつかわせたがる(三字傍点)手合いが、出てくる。それがまた盟主だの家元だの梨園の大幹部だのに多そうなのも気色がわるい。
 もっと困るのは、どうも日本人にはそういう手合いの出現をへんに有り難がって、その前へ盛んに「おべっか」を献じたい、卑屈な、自虐型の人の多過ぎることだ。そういう、仰ぎみで聖別志向の人にしもひと限って、下ざまになんとか理屈をつけて他人を見下し、差別、賎別の「おべっか」を陰険につかいたがる。つかわせたがる。
 私の診断では「世襲」日本にメスを入れることだ。良い面もあるとして、悪い面が肥大しすぎている。その悪い面へ右(一字傍点)へならえ右(一字傍点)へならえしている。 特権の世襲も困るが、その裏がえしに、特権などと縁もゆかりも持てない身分を、他人には平気で残酷に世襲させたがるのも、なにかにつけ「世襲」大事の日本の社会だった。日本人同士だった。
 さて京は丸太町でも四条でもいい、団栗(どんぐり)でも五条でも塩小路でもいい、鴨川に渡したどの大橋の上からでも、じいツと川瀬に映る人の世の、いや京都という大世襲都市の、加害と被害に歪んだ「おべっか」の表情を眺めてみるがいい。それは、きっと、私たち日本人一人一人の顔に似ている。「おべっ

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か」――つかっても、つかわせても、ならない。

教育汚染、耐えて忍べば済すありや

 牛込箪笥町の周旋屋で市谷河田町のアパートを紹介された。六貫一間が家賃五千円、借ることにしたわと東京へ先発の妻から連絡があった。あれから二五年、この(昭和五九年)三月で、銀婚だった。年々歳々花相似たり。
 妻の電話を受けて、反射的に「牛込(うしごめ)か。そら佳(え)え」と思った。何がええのか、理屈にもなっていない。京生まれ京育ちの私に馴染みのない東京では、「牛込」は数少ない知った土地の名だった、それだけのこと。それだけのことに、だが妙に安心したのだ。なにかで記憶していて、その記憶の内容に問題がなかったということか。但し肝腎の「市谷(いちがや)」の方はうろ覚えだった。
 当時、東京の地名で例えば順不同に、神田、本郷、芝、浅草、四谷、根岸、日本橋、品川などは覚えがあったと思う。むろん銀座、渋谷、新宿、有楽町など盛り場の名は耳にしていた。が、池袋は知らなかった。盛り場は別としても、東京で暮らしはじめて、医書編集という仕事柄、医学部や大病院を訪れ歩きな

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がら気づいたのは、京都時分から私がうろ覚えの土地の名は、概して「箪笥町」や「河田町」でなく、その一段上の「牛込」や「市谷」に相当するものばかりだったことと、もう一つは、無くはないがいわゆる「通」名のついた町通りが、東京には数少ないンやないかということだった。京都市街であれば、大小となく「通」(または筋)名の付いてない所はないほど、新門前通梅本町という具合に、「町」名と組み合っている例が多い。周辺部へ行くとむしろ「牛込」式のいわば「地域」名が「町名」に冠った例がたくさん見える。浄土寺真如町とか下鴨良川町とか。「牛込」や「浄土寺」式の中範囲に広い地域名で、今日どの程度実務上の役に立つのか知らないが、少なくもかつては江戸も京都もこういう大づかみな地域の把握で、かえって例えば行政的にも便利な単位に出来ていたのだろう。地域の歴史的な成り立ちが、なんとなく地誌的に目に見えてくる気がする。
 地名というのは、まことに貴重なものだ。それ一つでぱッと歴史が見えてくるという経験は、今の仕事柄では、幸い何度もしている。
 東京のことでは皆目自信がない。が、京都にも古くから残るこういう中範囲の「地域」名、この際は鴨川の東を主に手近な歴史地図で拾いながら、いささか巷の匂いをかいでみようか。地名がすらすら並ぶのはある意味で煩わしい。しかし、ある意味では景色を見るようでけっこう面白いものである。どうか読者の皆さんは、律義に地理なんぞ気にしないで、「 」の内の文字面だけを、ぼんやりと眺めでいてほしい。
 左京区(鴨川より東、三条通より北)に、「紅萌ゆる丘の花」と歌われた旧三高逍遥歌で名高い、吉田神社と神葬墓地の「吉田」山がある。かっての神楽岡だ。南へなぞえに「黒谷」金戒光明寺の大墓地

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がある。市街地に南北に細長う、むっくり孤立して緑の濃い、まあ丘陵だ。西麓に京都大学や「聖護(しようご)院」があり、東麓にはかっては栄えた「浄土寺」があった。
 指呼(しこ)の間(かん)の東山には、北の方から順々に「銀閣寺」「鹿(しし)ケ谷」「若王子(にやくおうじ)」「永観堂」「南禅寺」とつづく。南禅寺のすぐ西が、今は平安神宮、昔は白河法皇ら大勝寺で栄えた、例の「岡崎」や「白川」だ。これより南、三条通辺からは私が育った東山区になる。それにしてもここまで、ほとんど寺社ないし墓地の存在に「地域」名が由来しており、まるで一帯に寺社領とでもいった有り様だ。
 東山区の場合は『歴史地名大系』(平凡社)で、時代をおよそ江戸の後期まで遡ってみよう。
 東山区を示す目次には、ずらり「知恩院門前」「建仁寺門前」「清水寺門前」「東福寺門前」「泉涌寺門前」と、門前地域が居並ぶ。さらには「祇園(八坂神社)廻り」「祇園村(町)」「大仏(方広寺)廻り」や「新熊野(今熊野神社)村」「清閑寺村」「栗田口(栗田神社)村」などもあった。あった、と言うより現在でも市街化して事実上はこのまま、在る。まるツきり寺社の支配地だった観が、ある。
 過ぎたことと言えない、こう分けられて今もそう異存のない文字どおりの地元、門前や鳥居本の「生活」がこれら「地域」名には染(し)みついている。重ね重ね言うが、こうして今も昔ながらの洛東がある。
 もっともこの点、北も南も西も、洛外はほぼ同様。寺社や葬地墓地と密接な暮らしの在りようが、いたるところの「地域」名に広範囲に表れている。
「つまり京都の町自体に、祇園町やないが、甲部と乙部とが有ンのや」と川を隔てて言うた人がある。

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それで洛中と洛外とを区別する気だ。露骨な「お別火」だと思う、が、川東でも、似たことを余儀なく述懐する年寄りはいる。
「そうやな……上(かみ)京中(なか)京というと旦那(だん)はんが多かったもんやし、川東いうとどうしたかて、働きどが多かったわな」
 米寿にちかい養父の感慨だ。ごく一般論で、すんなり言葉が出ている。むろん過去形の話になっている。「どうしたかて」の一句が、だが、ずっしり今も重い。父に限らない。東西南北「洛外」の、また洛外と地つづきに全国どの「地方」の「働きど」たちも、この鬱陶しいつぶやきを吐いてきた。「都」とは、いろいろに酷なものだったのだと、私は思っている。
 その「都」の、つまりは洛中にあたる上京、中京、下京区を先の『大系』で見てみると、まるで洛外と地域分けの基準がちがう。ごく一部の地域をのぞいて、大概は明治初年に発足した小学校の通学区域別に目次がつくっ
てある。上京区なら京極、春日、室町学区など、中京区なら立誠、富有、柳地(りゅうち)学区など、下京区なら開智、威徳、邦文学区など、と。ほとんどは寺社と無縁な命名になっている。これを「京都甲部」の趣というのか。たしかに中世このかたの「町」の自治単位「町組」が、この学区割りの至極いい下絵になって透けて見える。父のいう「旦那はん」らのいい伝統や信条が反映しているのだ。この「学区」というのは、明治初年の町組再編で設けられた「番組」が、幾度かの名称変更を経て昭和四年に小学校名を冠するようになったもの、という。小学校区であると同時に、地域における一種の行政・自治単位としても十分に機能して来た。学区制そのものは昭和十七年に廃止されたのだが、現在でも地域の単位として非常によくまとまっている。

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 もう何年も前に洛中に根生いの杉本秀太郎と、雑誌『展望』(昭和五三年一月号)で「洛中洛外・歴史の風景」という対談をしたことがある。床の間の掛け字か置物でも話題にした方が恰好の話し相手だったが、そこで、「学区」についてこんな会話をしている。

 杉本 祇園祭のほかに、これは鴨東の秦さんのお育ちのあたりはとにかくとして、京の
町には地蔵盆という行事が盛んでしょう。
 秦 ぼくは、京都を想うつど一等なつかしいのがその地蔵盆でね。あれこそ町内の、子供の行事ですね。町内といえば、京都ほど小学校を単位に早い時期に整然と地域割りを仕上げた都市は珍しい。
 杉本 学区域でね。秦さんの出身小学校は、有済小学校でしょう。
 秦 ええ。
 杉本 有済とか成徳とかっていう小学校の名前を聞けば、それでどの辺に住んでるか、すぐにわかりますよね。
 秦 それは洛中洛外の別がないですね。
 杉本 京都市が小学校と登校区域をきちんと決めたのは、明治二年のことでしょう。ものすごく早かった。市中を上京と下京の二つに分けて、上京に三三校、下京にも三三校の小学校を作ったでしょう。それぞれの小学校は、所在の区域の中心になって、その区域内の子供は必ずその学校に通ってましたね。ぼくらの所なんかは下京第十一区っていったんですね。十一区が威徳学区で、十一を図案化したのが徽章だったんです。威徳小学校の。大変にしゃれた徽章でした。

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 秦 格致校とか銅駝校とか有済校とか……。
 杉本 銅駝はどうだか知りませんが、大抵は論語から採った名ですよ。
 秦 格致や銅駝は坊城の唐名をとってますね。ぼくは卒業してからもずっと有済の意味を知りませんでした。大学のころ何の気なしに母校へ入って行きましたら、庭の隅っこの石に字が彫っであって、よく見ると、「耐えて忍べば、済(な)す有りと」と書いてあるんですよ。
 杉本 ああ、そうか。

 同じ京都人が読めば、かなり深読みの利く物言いになっている。とくにここで、さりげないが、しかし具体的に「小学校の名前を聞けば、それでどの辺に住んでるか、すぐにわか」ると杉本は言う。それは、まったくその通りなのだが、それが悪用され、とんでもない偏見による無意味な地域差別、ひいては人間差別の手段にされ易いのが、京都の、教育と行政と両面に膚接した実に厄介な問題だ。
 信じられないことだったが、京都市立の中学の先生をながく勤めている友人に聞いた。「汚染度」という学校間に暗黙に通用している評価基準があると彼は言う。汚染度「O」から「5」まで。光公害でも騒音公害でもない。非行とか暴力とかいうが、つきつめれば露骨に表現された地域差別と人間差別の、教師側からする、無力感にねじくれた愚痴と自棄の表現にほかならない。
 汚染度!なんという物言いだろう。こんな逆立ちした批評精神から、まともな教育への手さぐりが、どうして利くものか。だが、それほどにも学校が荒れている事実も、動かない、らしい。
 「0」学校も有るのかい。私の質問にベテラン教師は、有るとはっきり返事した。とびツ切りの「きれ

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い」な「洛中」校が、幾つか。要するに、だが、なにか改善のためには、いっこう役に立たない目盛りだとも認めた。
 こういう評価は、京都の場合、いや残念なことに京都に限らず、それ見たかとばかりそっくり地域への差別視に振り替えられ易い。と言うより、もののとえにも「甲」の「乙」のという尊大な地域への偏見が、先入主として市民を色々に汚染していて、それが学校や生徒「汚染度」の安易な目盛りにイコール横すべりしていはしないか。
 小学校の名前を聞けば、それでどの辺に住んでいるか、すぐに分かる、…といったしたり顔に右へならえで、落ちこぼれも、暴力も、非行も、家庭や地域のダメさ加減も評定しておいて、それでそういう「学区」へは転勤したくないのだ、「教師かツて-…耐え忍んでまんにゃでエ、秦君」と顔を見られても、「そやろそやろ」と相槌はうてない。
 教師も生徒も親も、京都市民も、日本人も、こんな「汚染度」などという発想で、お互い耐えて忍んで事を済(な)していたら、先は――まちがいない、地獄だ。
 京都の学区制は、ことにみごとな市民社会への浸透度を誇ってきた。京都市制が発足した当時、市に力が足りない分を、上京下京の「町組」は(まだ中京区は出来ていない)、自治の伝統と主なき帝都を守りぬく実にめざましい頑張りから、小学校をはじめ公共の施設設備に自前の金を相当注ぎこんでいる。行政側に問題はあったにせよ、それは市民意識の一つの結実に相違なかった。誇りにしていい京都の気概だった。
 だが「学区」が即「地域」に固定しすぎると、もともと尊大で排他的な京の町なかに、いわば学区の

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壁が立ち、子供大人の別なく奇妙に世間を狭くする。
 東山区にも、かつて私の知る限り十一学区が出来ていた。例外なく有名寺社の門前、鳥居本を標(し)め結うたように区域化されている。
 わが地元の有済学区も、知恩院の門前町や八坂神社の所縁で、ほぼ成っているとみていいだろう。京の、また日本の三大祭に数えられる祇園会の神輿(みこし)は、子供神輿を別にして八角のと六角のと四角のと三基が渡御(とぎよ)するが、一番重量の大きい四角いのを、百済学区の若松・若竹町の男衆が勇ましく渡す。戦後の栄養不足で例年のように神輿かづきが途中でダウンしてしまう時期もあったが、この若松・若竹組だけはいかにも耐えて忍んで重い神輿を、元気にワッショワッショとよくかついだ。
 余談とは言うまい。この町内から白井松次郎、大谷竹次郎の双生児の兄弟が出て起こしたのが、演劇映画のあの「松竹」だとよく聞かされた。竹次郎は文化勲章を受けた。なるほど歌舞伎顔見世興行の四条南座から北側へ、北座をはじめ、今の縄手近辺に芝居小屋がかつては五つ六つも居並んだ、茶屋も繁昌したという土地柄だ。松竹発祥にはふさわしい……と、つい勢いづいて、ふと可笑しくなる。まるで地元自慢だ。
 むろん、これしきの自慢なら可愛い。罪がない。しかし、これが高じてよその町内や学区をむやみに見下すようになると、問題は大きい。フェアな競争心でなく、ただ対抗のための対抗心に歪んでいく。知らず知らず「我々」の「彼ら」にたいする排他意識が、いつか見るに耐えない差別心にまで、育ってしまう。現に京都は、そうだ。そうではないと誰が言えるか。
 わが事として思い出す。背中合わせに通りと通りとが路地一本で繋がっているそれほど近い同士でも、

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いやかりに家と家とが隣同士でも、属する町内が違えば断然よそだった。一葉の『たけくらべ』のような子供らしい喧嘩すら起きない。知らん顔。小学校の頃とくにそうだった。まして学区まで違えば問題にならない疎遠な「こっち」と「あっち」だった。
 それだからまた、梅本町の子が仲之町へはみ出て、有済学区の子が弥栄学区まで踏み出して、ルールやフィールドを盛大に広げた遊び、組になって追ツつ追われつの例えば探偵ごっこなどは、スリルもスリル、あんなに興奮したことはない。
 よその町内はあたかもよその府県で、よその学区はあたかも外国だった。子供らしいとも言える。が、不自然に強いられた子供らしさとも、言えるのだ。
 強いられるのはいやだ。まして「耐えて忍べば、済(な)す有り」なアんて都合よく強いられちゃア、堪らない。

問答無情、お国は「日本」お商売は

「あんなあ、へ。この京都ではナ……ほんまのことは、言うもんやないのん。ほんまのことは、分かるもんやのんえ」

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 そう、しみじみと訓(おし)えられて何年になるだろう。私は戦後の新制中学二年生だった。向こうは一年上の女生徒だった。状況は覚えていない。その言葉だけが「讃嘆」の思いとともに、忘れられない。いずれ、私がイコジに何か言い募って学校内で物議をかもしたのだろう、その人は、そういう際に私を諭したり励ましたりしてくれる聖なるマリアだった。だがそれにしても、かって「京都と京都人」「京ことば」について、これほど簡潔に言い当てた人と言葉があっただろうか。
「ほんま」のことは「言う」必要はない、「分かる」ものだ。
 前半だけなら、相当な人数の日本人が口にするだろう。しかし「ほんまのことは、分かるもんやのんえ」とは、ちょっと言えない。これは微妙な認識で、取りようで、簡単にも複雑にもなる。
 私の第一印象では、くらい大地を割ってはつはつの若芽がくっきり芽萌(めぶ)いて出る感じに、「ほんま」のことは、おのずと目に見えてくる、きっと……という感じだった。だが、それだけではないだろう。「わかる」には、顕現する意味も分別する意味もある。私は前の意味を感じたが、むしろ後の意味が重く言われていただろう。「分かる」ものは「分かる」だけでなく、「分かる」者には「分かる」ので、「分からぬ」者には「言う」ても「分からない」のが「ほんま」のこと、だからこそ強いて「言う」必要はないし、ましてや言い過ぎるなとその年上の人は諭(さと)してくれたのだ。露わに言わなくては「分からない」相手は相手にするな、それでも「分かる」はずのことは結局は「分かる」のだから、とも訓えられていたのだ。
 あのマリアに行き別れて、もう三四、五年にもなる。まだ京都にいるのかどうかも知らないが、もしそうなら、昔と同じ考えで今も暮らしているのだろうか。

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「分からない」相手は相手にするな、「分かる」はずのことは結局は「分かる」のだから――。
 これは、はたして一と続きに一つの事が言われていたのだろうか。
 是非はべつにして、前半ははっきりしている。「彼ら」は「我々」ではない。「ほっときよし……」だ。それでも「分かる」はずのことは結局は「分かる」のだから……。
 いやいや、この後半の物言いは微妙だ。
「分かるはずのこと」とは、論理的真実のすべて、を意味してはいない。向こうサンの器量や理解力に相応した、つき放した推測としての「ばず」になっている。ゲタは向こうの度量や能力にあずけてある。「結局は分かる」とは、だから全部分かる、理解が徹底するという意味では、ない。「彼ら」には、どう頑張ってみても、「我々」の言う理屈が「分かる」のに、限度が有る。相手により限度に多少の幅はあるにせよ、そうそう「彼ら」が「我々」なみに、「我々」が「彼ら」なみには分かり合えるものでない……。
 私のマリアは、おそるべきニヒリストだったのか、あの中学生の年齢で、すでに。それなら今もし私のこの文章が目に触れていたりしようなら、顔をしかめ、「派あがちがうワ」と哀れがっているだろうか。
 いや心優しいあのマリアは、「ほんまのこと」は言えば言うほど傷つく人も出る、それも「よう、考えたげよしや」と私をたしなめていたのだろう。言うのは簡単、分かってもらえるように言えと教えていたのだろう。
 そやろ…か。それでは、あんまり話の「分かり」がよすぎて、テンと京都らしないのと違うやろか。

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「派あがちがう」という物言いで、頑固に、京都人は「むこう」側と「こっち」側とを区別する。大きく見れば昨今の政党政治にはびこる「派閥」とも重なる意味はあるが、もともとは大徳寺派とか妙心寺派とか、お寺さんの物言いから出たのかも知れない。つまりは宗派によってお経のあげかた、お葬式のしかたなど微妙にちがうところから出た言葉なら、これこそ京都らしい。
 もっとも日ごろの用いかたは軽いもので、食いものの好みひとつでもご大層に、「あてとあの人では、派あがちごてますよって」などとよそを向きあう。実の兄と妹とでも食卓を倶にしたがらない、などという事が身近にある。つまりは仲がよくないのだが、行きかた、考えかた、付き合いかたから始まり、食い物の好み、女や男の好み、暮らしの立てかたに至るまで、なんでも気が揃いそうにない限り、「派あがちがう」で済ませてしまう。
「宗旨がちがいますよってな」と切り口上の時は、これはもう念仏か題目か、釈迦かイエスかといったことは言うていない。双方の調整不可能、つまり問答無用の喧嘩腰で居直っているとみていい。なまじ判断や方法にイコジになっているだけ、このてのコジレは解(ほど)きにくい。
 同じような物言いでも、「うちのは、チョット流儀がちごてますよってな」位だと、まあ、双方の違いにはほどほどに目をつぶっている穏便さがある。角突きあう手前で、それでも、「あんたは、そっち」「うちは、こっち」ほどに顔を背けている。
 京都の人に意見を変えさせるのは、じつに容易でない。昨日今日のことならまだいい。が、大袈裟にいって家代々の考えや立場となると、ほとんどご先祖の墓を守るようなもの。 地盤、看板、鞄だけが世襲されるのではない。理解や思考の型の方が、家単位だと、もっと頑固に承

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け継がれる。「仕来たり」というヤツだ。「うちは、ずっと、そう仕て来たんやし」「よそサンのことは、知らん」と、なる。「うち」と「よそ」とは違(ちご)てあたりまえ、違いは違いで、「そんなこと、知らんがな」と突き放すわけだ。むろん、残念なことではあるが、お互いさま「よそ」の立場も了解しての「うちはうち」という話では、ない。
 喧嘩腰になった同士、双方で相手の言い分を、「そんなこと、知るけえ」と凄んでいるのを見かける。普通に知らない意味でなく、「そっち」を受け容れる気が「こっち」には無い意味の、手荒い突き放しだ。
 こんな荒けない話には、しかし、京都ではめったにしてしまわない、但し外向きに。「うち」の中ではかなり口ぎたないのが普通だ。なにしろ批評家が多い。うら返しにいうと詩人は少ない。では、外ではどう口を利くか。正しくは、口は利かぬが、良い。
「さあ……どうどっしゃろ」
「ちょっと考えさして貰(も)うて……」
 こういう返事をされたら向こうの考えや態度の変わる望み、まず、ない。
「そやなあ……」とか「へえへ」とかも、同意や肯定と聞いては、早合点の皮算用に終わる。
 問答はほんとに無用なのか。そんなにも排他的か。それでは暮らして行けない。
「話し合いで、なんとでも、さして貰いまひょ」
 父が、よう、こんなふうに言うているのを聞いた。なかなか家族にもご近所へも、常は、こんな穏やかなお人ではない。これはラジオでも、テレビや電気洗濯機でも、ともあれ
値切って買おうというフリ

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の客へ、呼び込みの挨拶だ。
「話し合い」という言葉、こういう場面では大きな顔で生きる。が、商いが済んでしまえば、お互い「よそ」の人だ。フリの客が永のお得意になるかどうかは先の話。お得意になら「話し合い」の必要はない。値がさの品なら父は黙っていて値を引くし、だから客も相変わらず来てくれる。よくもこんな店がやっていけると思う小店古店(こみせふるみせ)のけっこう多い京都だが、細い糸で絡んだほどの久しい馴染み、お得意の関係が暮らしの基盤になっている。
 京都市中小企業指導所がこの何年来、市内の各区別に綿密かつ大胆な『広域商業診断報告書』を出しつづけていて、完結まちがい。稀に見るこの大きい、いい仕事を参照して例えば「東山区」(昭和五八年三月刊)を見ると、商圏の概況、施設利用の類型、商品選好の類型、商店街の現況と構成、今後の問題点が、こまめに足で調べ口と耳で確かめ、統計処理を経た評価で心憎いまでの「診断」が下されている。
 この区の商業空間、いや買い物空間としての特徴は、五条通を軸に北地区と南地区に二分して、「互いに完全といってよいほど自己完結していること」だとしてある。つまり地元で大方の買い物は済ましている、「よそ」はアテにしないという率が抜群に高いわけだ。 もっともこれは「日用品」に限られ、「高級衣料」は鴨川を越えて南(三七パーセント)も北(四八パーセント)も、四条河原町界隈のデパートを利用している。東山区の住民にはここのデパートは、「大きな意味で」至近の地元商店街なみ存在だという。その余は、ほ
とんど全く地区への買い物を必要としない「態度」がはっきりしている。

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 全体に、京都中がおおよそこの調子だと思われる。大概は近所で用が足り、またそれが安心で安価で無理も利く。義理も果たせる。積みあげて崩れ切っていない暮らしの時空間がまだものを言っている。
 東山区へ戻っていうと、六五歳以上の老齢人口比率が市内で一番高いのも、「日常的に地元顧客をがっちりとらえている」理由になるが、さらにそれを「歴史的といってもよい」客観的要素が支えている。「社寺」である。
 区内の有力商店街の、古川町は知恩院と、建松(建仁寺松原)・清水商店街は建仁寺や清水寺と、八坂塔下は法観寺と、五条会は西大谷と、正面会は豊国神社と、七条鴨東は三十三間室と、今熊野は今熊野神社や泉涌寺と軒並み「対応づけられ」ている。「かみ」「ほとけ」の世界と「ひと」の世界とが、運命共同体として、暮らしの利害を分かち持っているわけだ。
 全く同じ事情が、前に触れた学区分けにも歴然と見られる。さながら各門前、各鳥居本に応じて十一学区(弥栄小学校が新制中学に格上げになって、小学校は一〇に減ったままだが、行政上の感覚では、弥栄学区はそのまま通用している)が分立されている。
 たぶん現在も、東山区には弥栄、洛東、月輪の三公立中学校があるだけだ。現在はすこし受け入れ範囲が変わっているらしいが、私の頃は、この上に市立日吉ケ丘高校がひとつだけあって、三中学からの進学を受け入れていた。
 大学時代、自分がどこの高校を出てきたかなど、ついぞ気にかけなかった。大学を出てから、自分の卒業校を気にかけたことも私の場合、ほとんどない。だが高校の頃は、おかしいくらい皆が出身中学を、中学の頃は小学校を、背負っていた。意識から離

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れたことが無いみたいだった。
 個人の人柄や力は、あと回し。出身校を聞き、住んでいる町内を知れば、極端にいうと「向こう」の家のおよそ家業や生活程度まで推量が利く。そして納得したり、安心したり、そっぽを向いたりしあう。
 町内単位、小学校単位、中学単位で張り合うといえば聞こえはいいが、それが地域差別に容易に繋がっているものだとは、生徒の誰ひとりとして察していない者はない。それくらい露骨に、地域の歴史的な背景を背負って人は暮らしている。例えば、あいつン家(とこ)は「どこで」「何屋しとるねん」ということから、容赦なく頭へ入れていくのだ。
 門前町には石屋がある。栗田にも清水にも泉涌寺にも茶碗屋、つまり清水焼に係わった家が沢山ある。清水から祇園へかけては茶屋、席貸屋、料理屋、宿屋が多く、観光の土地柄、飲食店と土産物店も多い。私の実家の辺には、看板を横文字で書いた「異人さん」むきの骨董・美術商が固まっている。
 聞いてへええツと感嘆してしまう、手のこまかな、珍しい家業家職も、区内にちりばめられたように散らばっている。ニセ骨董作り、飾り紐、扇の骨磨き、金銀象嵌、仏像の修理、樽作り、鮒ずし、鰻の佃煮、表具、象牙彫り、紙箱、法衣や数珠、金箔、竹籠、釣り竿。
 まったく、いろいろに「派あがちがう」のだ。しかも、それが日々住民の位取りにいつも微妙に繋がっている。指摘されたらたぶん「そんなアホな」と笑うだろう。が、その尻から「おうち、お住まいは」「お商売は」と、つい聞いている。上か下か。少なくも向こうより下ではないのを願っている。とにかく住空間を共有している限り、いつも「よそ」とそれを比較している。
 それだから、まるまる「よそ」の人との付き合いは、実は、実に気らくなのだ。「へ
え……東京の」

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と知ったとたんに愛想はぐんとよくなる。問題のない、比較する必要もない衛生無害な、安全な相手だ。東京と聞いて恐れ入る京都人はいない。要は東京であれ博多であれ地元に疎い相手なら、無用な気はつかわんでも済む。それが有り難いから目いっぱい親切にできる。むろん、そこまで。外国人と同じこと、それ以上に近づいて来られても応対に困る、「そっち」の方で無難に居てほしい。
 君子の交わりは、淡きこと水の如しという。淡き交わり、つまり相手のプライバシーに触れる必要なく、触れられる不安もない交際の貴さを、京都の者くらい心根の深いところで憧れている日本人はすくないだろう。だが、「よそサンのことは知りまへん」などと言いながら、「隣は何をする人」か、それはよくお互いに知っている。知らなければ聞きだす。その手だては、幾らもある。
 道路事情がわるくなって、こんな遊びは絶えたか知らないが、子供の頃、「お国は日本、お商売は」というグループ遊びをよくした。
 二た組に別れ、一方が他方へ押しかけ声を揃えて「お国は」と問いかける。「にいツぽーん」と大声で返事する。また「お商売は」と訊く。訊かれた組は即座に手分けして、仔細げに一場のパントマイム(黙劇)を演じてみせる。どんな「お商売」かを相手方に当てさせるのだ。「八百屋ア」とか「お豆腐(とふ)屋さあん」とか、たわいなかった。
 それにしても子供の遊びには、妙に底意ありげなのがチョクチョクある。
 京都市内には、ことに鴨川ぞいには「お国は」と国籍を問いかけられて、とうてい素直に「日本」と返事をしかねる日本人ないし在日朝鮮・韓国人がずいぶん多い。私の町内にもいた。小学校ではもっと多く、義務教育の中学へ行けば人数はさらに増えていただろう。余儀ない事情で日本風に創氏改名して

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いて、させられていて、知らないまま行き別れてきた友達もきっと大勢いただろう。
「お国」を知りたがり、「お商売」を知りたがる。ひねくれて考えたくはないが、微妙に意地わるく子供の遊びにも、人と我とを差別するイヤな手さぐりがあったのか。そうまでは思い寄らなかったが、私はこの遊び、なんとなく最後まで好きになれなかった。

異人往来、ハテお互い縁は異なもの

「異人さん」とはさすがに言わなくなった。「赤い靴履あいてたあ」と歌った昔から、可愛い「女の子」を連れて行っちまう「異人さん」は到底好きになれなかったが、今となればエキゾチックな、ある不思議の語感は籠もっていて、「外人」より音もいい。
 私の育った町通りでは、戦前から、軒並み「異人さん」相手の美術商が多かったので、今も多いので、この言葉には馴染みが深い。ことに戦後は来る日ごと、まず占領軍の兵隊たちをわんさと迎え、やがては都ホテルからバスで町内へ乗りこんでくる凄い人数の外国人旅行客を迎えていた。たまには見当ちがいのわが家にまで「ハロー」と陽気な顔を突っこみ、乾電池や、変哲もない和風の電気お燈明のようなものを買ってくれた。それは有り難いが、だが招かざる異な客に家中の慌(あわ)てふためくこと、大変とは正(まさ)

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しくあれだった。
 東山線から縄手通りまで、わが町通りにはへんに賑やかな雑多な美術品が陳列されていた。
 錦絵や浮世絵、現代版画、伊万里、清水(きよみず)など色絵の焼き物、絹の珍奇な衣装、さまざまな金ピカの燭台、時代物の屏風、飾り提燈、人形や古雛、塗りの箪笥や挟み箱、棚や硯箱など蒔絵の文房具、染め付けの鉢、小皿、酒器や膳椀など食器、そして李朝や南蛮の陶磁器や、狩野派歴代の画軸、中国の石造美術、日本の土器や唐三彩など、色々になんでも有った。それを、看板の横文字がなんとなくハイカラに統一していた。いささかバタくさく怪しげではあったが、ショーウインドーを見て歩くだけでも、けっこうな美術館だった。気に入っていた。知らず識らず多くを見覚えた。
 もっともこういう町通りのこと、かんじんの「異人さん」と戦争をしていた間の寂れようは、察してもらえよう。だから敗戦後の、少なくもその一時期の、はじけたような大振わいも分かってもらえよう。閑散を極めていた町内に、にわかにダンスホールや安ホテルが出来た。オンリィの女を白川ぞいの町家に間借りで囲って、自分も下駄に浴衣がけで手をつないで近所の銭湯へ通うような、アメリカ将校もいたものだ。追々にとても「異人さん」などと、呑気なことは言うておれなかった。あの頃はジープと兵士とMPと、うら悲しくて正視できないパンパンガールとで、疎開跡と闇市と民主主義とで、千年の古都が渦巻いていた。
 戦後四〇年になろうという、今(昭和五九年)はああいう「異人さん」たちは影をひそめた。すっかり、オール「外人」になった。
「異人」には幾つかの意味がある。衆に勝れた人、神異を現す人、異国異郷の人、そして別の人。これ

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を拡大解釈ぎみに都合よく一つに撹(かきま)ぜていえば、つよい刺戟をもたらす人の意味に取れる。その意味では必ずしも外国人に限らない。極端にいうと、自分以外の、せいぜい肉親以外の人間には大なり小なり「異人」の資格がある、と……、そこまで話を拡げてしまえば、「異人」は、そのままかなりヴィヴイッドな歴史や文化の話題になる。
 例えば京都の町に「異人」という認識が、衝撃的に産まれた最初はどういう時だったか。たぶん無視しがたいその第一号は、木曽義仲だったろう。彼にはさしも京都も、だいぶ閉口したらしい。義仲に集まる人気には、はじめて京都というカミ(神・上・紙)の壁を力ずく横に破った勇ましさへの、野次馬めく拍手もふくまれていよう。
 以来いろんな「異人」を京都は迎え入れてきたが、今なお少なくも二種類の「異人さん」が、それなりに京都を剣戟し続けているのではないか。
 一つは相当な人数に及ぶ在日朝鮮・韓国人が、現に市民ないし準市民として合法的に暮らしている。世界に名をはせている「文化都市」京都が、この人たちを、「文化」の名に恥じないどんな受け入れ方で遇してきたか、遇しているか。正直のところ私の手に余る話題なので、あいまいな言及はむしろ慎みたいが、「京都」の京・あす・あさってを賭けて一段と努力を積みあげねば済むまい、大きな話題の一つではあるだろう。
 すさまじい差別と逆差別とを温存しつつ、それに無感覚になっている、なろうとしている「京都」が、確かに今も、ある。私自身まぎれもない差別者だった少年時代を回顧した、これは実感である。あらゆる歴史的な差別問題の根は、貴賎都鄙という座標の「象徴」たる「京都」それ自体にあったという実感

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である。
 近世身分支配の矛盾をそのままに持ち越した地域差別があった。学校内差別があった。就職や結婚の差別があった。また主として在日朝鮮・韓国人に向けられた人種差別や、関連する法的庇護のきつい差別は、今もある。悪循環もしている。
 しかも奇妙にも、差別の重荷はあくまで重く、それなのに差別している側はほとんどその事から意識が逸(そ)れてしまっている。いや、たぶん意識して逸らしてしまっている。見て見ぬふりという一等苛酷な優越の態度がびまんしてしまっている。故意に意地悪はしていない、しなかった、などという言いわけは、だが、意味がないのだ。
 だが、差し当たり今は、もう一種類の「異人さん」たち、つまり「よそ」から移り住んで来ている、在京(都)日本人たちのことを考えたい。
 かなりな長期滞在者ではあるが、さりとて京都の人間に成る気はない、好意ある、また悪意もあるか知れない余儀ない旅宿の生活者たちがいる。学生。転勤して来た、そしていずれは転勤して行くサラリーマン。長期「滞在」または頻繁「来訪」文化人、現に瀬戸内寂聴や安田武のような。かつての水上勉やドナルド・キーンのような。また歌舞伎や映画の俳優たちも。大学・研究所へ赴任の学者たちも。
 実のところ、他府県から嫁いできたお嫁さんも、まま、潜在「異人さん」になりやすい。東京の女子大を出てきた北陸育ちのそういうお嫁さんが、今度は純然京育ちのお嫁さんを息子に迎えて孫が出来たときに、孫は京言葉で育ててくれるな、ぜひ標準語で、と懇願したという例を私は知っている。
 謂うところのカルチュア・ショックだが、但しこのお姑さんの抵抗が、一定の効果を挙げたかどうか

i02

は微妙なところだ。「京言葉」については問題が大きいので別の機会をまつしかないが、一言に尽くせばこれは独特の「挨拶」語だ。「アイサツ」には、もともと禅問答などで強く出て相手を押さえる意味がある。「位取り」の物言いだ。これを駆使できないでは、京都では暮らしづらい。
 こんな特異な例はともかくとして、どれほど有効に昨今の「京都」は、このての「異人さん」たちのいい刺戟をえているのだろう。
「京都いは、そういうお人はいつも仰山来といやす。珍しイもナンともない、どうぞご勝手に」といった、やり過ごして、聞く耳持たない応対はしていないだろうか。また女性雑誌などのお飾りのレベルを越えた、本当に聞く耳持たせる京都観察や提唱が成されできただろうか。
 ここはお互い様というもの、真実いい交流がほしいと思うが、よそよそしいのもお互い様という気味もほの見えている。
 最近も瀬戸内さんと五木寛之氏との対談(『ミセス』昭和五九年六月号)を読んでいると、五木氏がこう言っている。「税金を払って地元に迷惑をかけず、いわば長期滞在客という形で、その町のマナーを尊重して暮らそうと考えた。そういう住み方をしてますと、ほんとうに京都の人たちって親切だと思います」。そりゃそうですよ、五木さん。なぜ親切かは、前に書いた。
 気になるのは、この「客」の方も「京都」に対して真実これで親切なのだろうかという事だ。瀬戸内さんは応えている。京都の人って、「親切ですよ。京都の人は底意地が悪くて他国者を寄せつけないなんていうでしょう。私はそれは感じないんですよ」と。「私は」ですか。そんな言い方ないでしょう、瀬戸内さん。「人の生活にあんまり干渉しない……私はそういう意味で京都がむしろ住みいい」とは、ほんとに好意的な観察だけれど、京都人としてはまったくくすぐったい。少々痛くっても結構、京都は

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「異人さん」のもっと的確で親切な刺戟や干渉を必要としている。
「異人」の影響を、例えば平安時代の京都なら、ほとんど勘定に入れなかった。眼中になかった。かりに彼らが貢いてくれる利益があれば、それはただ吸い上げた。
 だが幸か不幸か遅くも木曽義仲以来、幕末まで、このての「異人」の群れをまこと余儀なく京都は応接しながら、彼らを敢えて砥粉(とのこ)がわりに、独特の京気質(かたぎ)を磨きあげてきたのだと言える。
 おおかたは武家に代表されたかつての彼ら「異人」は、歴史の流れからも概して京都への攻撃的な加害者だった。源平合戦でも、承久の乱でも、南北朝の動乱でも、応仁の乱でも、戦国時代でも、明治維新でも、京都はいつも狙いの的だった。守勢で京都は自身を磨くしかなかった。守り抜いて価値あらしめた。勝つよりは負けまいの姿勢だった。政治的にも文化的にもものの両面をよく見て、時に言動の矛盾や撞着もいとわなかった。干渉しないどころではない、秘技秘術を尽くして微妙に干渉し合いつつ「我々」と「彼ら」を分別してきた。その手厳しい武器が「京言葉」だ。
「京都」とは、圧倒的なこうした「異人」の力で社会的・文化的に手荒にもまれつつ余儀なく、独自の態度や処世を磨いてきた土地柄であることが、何故かこの一〇〇年、忘れ去られて来た。純粋培養でもしてきた京都が、超然として在るように思われてきた。滑稽な錯覚だ。「京都」という暖簾(のれん)、むろん良いものだが、その「内」「外」の係わりにもっと目配りが要る。
 暖簾といえば、中京区に錦という町通りがある。道の両側が軒並み食料品を商う店また店の数珠繋ぎで、その盛況ぶりといい、品質のいいこと豊富なことといい、京の台所を賄う町として観光雑誌が争って取材してきたから、今では知らぬ人の方が少ないほどだ。

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 この聞こえた商店街を論じるのは私の得手ではない。ただ、あの通りへ足を向けるつど反射的に想うことがひとつある。これだけ豊富で多彩な品物の、それぞれ本元の仕入れ先を一つずつ丹念に辿って行ったら、どんな地図が描けるだろうと。おそらく、純然京都で出来る、取れる、賄える商品の比率などはたかが知れていよう。
 私が気を惹かれるのは、だが、単に個々の商品の原産地(ルーツ)ではない。それら商品の取引に絡んで幾世代にもわたって培われてきたにちがいない、いわば京と田舎との交渉の「輪」だ、人の「輪」だ、信頼関係だ。
 必ずそういう関係があって、それ故に久しく保たれてきた抜き差しならない縁があり、その縁を伝って嫁や婿にきた人もあろう、女中や店員に雇われてきた人もあろう。それも商いにより、たとえ壁一重の隣同士でも、例えば、佃煮を売る東の一軒はもっぱら滋賀県の北の湖辺に縁があり、果物を扱う西の一軒は四国の伊予山中に縁がある、椎茸が売り物のお向かいは和歌山県に縁がある、といった具合だろう。大きな古い商店ならこういう縁は、遠く近く幾重にも重ね持っているに相違ない。縁が財産であるに相違ない。
 「縁は異なもの」という。あえてひどいこじつけを言うが、「縁」というのは「異」な人との間に出来てこそ、それが新しい価値に成り易い。京都の人こそ、それを一番よく知っていたはずではないか。京都は、今でこそ一等日本らしい都市にされているが、かつては日本の中でも一等、異国や異郷の人なり文物なり習俗なりの異臭も漂わせていた。大陸、半島からの渡来者は想像以上にいつの時代にも多くて、

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意外に自在に日本国内を移動していたようだし、言葉を仲立ちする記語(おさ)(通訳)もいたらしい。同じ日本人でも、

  東(あづま)より昨日来れば妻(め)も持たず この着たる狩襖(かりあを)に女(むすめ)換へ給(た)べ

などという異様な男も都には姿を現した。かと思えば、都の者は人情が薄いと批判して兼好法師を恥じしめるような東国者もいた。
 世情は権力者の交替でのみ変わって行くわけではない。むしろ末端の暮らしのレベルで繰り返される、さまざまな人の縁につれて動いていく変化が、本物なのだ。その意味では、京都ほど「異」な「縁」に恵まれながら動いてきた都市は少ないだろう。
 勝手次第にウロンな「異」論を唱えてきた。だが、広げれば「異人さん」の話題はあまりにも大きいのだ。
 儒仏道にせよ、漢字にせよ、種子島にせよ、キリスト教にせよ、朝鮮の焼き物にせよ、オランダ医学にせよ、黒船騒ぎにせよ、鹿鳴館にせよ、また敗戦後のアメリカナイズにせよ、みな、良かれ悪しかれ外国人という「異人」によるカルチュア・ショックであり、だが同時に、十分には社会が開かれていない日本列島の内部では、いつも日本人同士がお互いに「異人」として刺戟や干渉を繰り返しつつカルチュア・ショックに耐えてきた。
「京都」は確かにショックの震源であることも多かったが、それでも、絶えず新種の「異」な縁を人や

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物との間で繰り返していなければ、なにより「京都」自体が衰弱し破産していたに相違ない。
 古今集このかた、和歌といえば京都の公家の身分証のようであった。平安時代は全くそうだった。だが、今日の日本人が和歌に親しむ一番の接点は『小倉百人一首』だと思うが、あれの成立には、撰者藤原定家が息子の嫁に東武士の娘を貰っていたことが動機として強く働いている。秀歌撰はもとよリ伝統の好尚。色紙一枚に一人一首ずつ古来の名歌をえらんで書いてほしいと定家卿が嫁の親に懇望された、直ちにそれのみを動機と決めつける気はないが、そのような百人一首に至る彼の和歌批評のすぐれた力は、『近代秀歌』に早くに現れていて、しかもその執筆動機は鎌倉の将軍実朝に指導かたがた献上することにあった。
 今様(いまよう)の歌詞を集めた『梁塵秘抄』は後白河院の撰になるが、彼にその実力を授けたのはいわば漂泊の遊女(あそび)たちであった。
 公家の遊びだった連歌史に『道誉千句』を投じ、准勅撰の『菟玖波集』実現に大きな寄与を果たしたのは、南北朝バサラ大名佐々木道誉だった。彼は花道にも猿楽能にもすぐれた見識と発言力を持っていた。
 能にせよ茶の湯にせよ、京都でよく育てられたが、もともと京都生まれではない。歌舞伎でもそうだ。
 京都よおごるなかれ、と言おう。いろんな「異人さん」を、ただ「マナー」のいい「客」のまま帰さない方がいい。ぜひ親切同士、「異人さん」にも率直にものを言って貰うといい。
 そういう率直は、五木氏が案じている「傷つけ合い血を流す」とか「生活と社会をお
びやかす」ような不親切にはけっしてなるまい。

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世襲都市、よっしゃの綸言汗の如し

 昭和十五年の師走に出た真下五一の長編小説に、そのものズバリの『京都』がある。時局けわしい真珠湾攻撃のちょうど一年前に出版されている。なかなか小ちんまりと面白い世話物で、思わず笑ってしまう「京都」が、軽々と書けている。
 視点も気が利いている。京都の学校へ勉強に来ていた実体(じってい)なインテリ男が、縁あってそのまま京の資産家の娘に入り婿でおさまり、ま、いろいろ苦労する。その婿さんの目と立場で「京都」が見てある。この前、よそから京都へ嫁入ってきた人をも「異人さん」に見立てていささか物を申したが、カルチュア・ショックとしては婿の方が家業にじかに触れる機会は多く、むしろ実効は高い。
 私の知っている店で、四条河原町上る西側に「ひさご」というなかなか勉強する寿司屋がある。ここの若い主人も、なんでも「ひさご」の娘さんが、はるばる東北までスキーに行って見初めてきたお人のはず、今は見初められたご主人が、京の繁華での寿司商いに一心に工夫しながら、ご夫婦で仲良く稼いでいる。
 話してみると、やっぱり根から京都の商人とは一と味ちがう。ちがうことを賢く頭に入れて、京の旦

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那衆の「お遊び」に流されず、きちんと家業を発展させたい気概がある。京都の水にはよく馴染みたい姿勢と、溺れてしまうまい用心ができている。商売を、「町」「通り」の性根の把握から大きく組み立てようという展望もあり、そのためには専門家の「診断」や助言にも進んで耳を傾ける。「縁は異なもの」しかし「味なもの」とは、うま<言ってある。こういう人の新たな参加で町も人も仕事も動いていく。それにしても「京都」に馴染む苦労、並ではあるまい。
 苦労も薬と思える人は幸せだが、小説『京都』のご養子さんが嘗(な)めた薬は、まあ良薬なんだろうが、かなり苦(にが)そうだった。
 岳父が、絵に描いたような京の金持ちなのだが、寄る年波と時代の変化について行きそびれ、とかく、昔に「世話してやった」男のこのところ時めくらしいのが、気に障(さわ)る。
 婿さんはそんな岳父の強(た)っての指示で、その「世話になった」男が今や羽振りよく経営している工場へ、目付(めつ)け代わりに派遣されている。微妙な板ばさみである上に、一時教師をしていたほどのインテリの悲しさ、工場でも家でもいろんな事が気になる。目につく。その、気になり目につくいろんな事柄を通して、今々の、だがどことなし古くさい「京都」が雰囲気のある淡彩でよく描けている。病人、まじない、葬式、遺産騒動といった事もあれば、組合組織や労働争議まがいから時局認識や時局協力の、また親子夫婦や付き合いの話題まで、手は相応に広げてある。
 一々引き合いに出すには時代はとんと変わっているが、中身はさして、いや、今でもまるで変わってない気がする。だから、よけい読んでいてホロ苦い。ことに私の苦笑したの
は、「わしが世話してやったんや」「えろ世話になってますねん」という、いわば「旦那はん」と「働きど」との関係だ。その動

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揺のさまだ。「世話」という言葉は、京都に限らない。世話焼きの世話女房の世話狂言のといえば、むしろ江戸前や浪速ぶりが似合う語感だ。
 ま、言葉にはこだわらない。とにかくこの人の世、「世話してやる」人と「世話になる」人とで成っているらしいのは事実だろう。たまに、「人の世話になんか、ならんワイ」とカッコよくやってる人もいないではないが、それは世話をかけたと気がつかないか、忘れていたいだけの話。
 若いもんを世話する。勤め口を世話する。葬式の世話をする。嫁入りの世話をする。宿を世話する。年寄りの世話をする。女を世話する、等々。
 上司や先輩の世話になる。子の世話になる。お役所の世話になる。見知らぬ人の世話になる。旦那の世話になる。等々。
 いずれにせよ「世話」には利益(メリット)が絡む。まずは金か、物か、官位か名誉か、それとも色の道か。どれもこれも、思えばやはり本家本元は京の都。言うまでもない上か下か「位取り」貴族社会のまさしく根性の部分で、常々、否応もなく「世話する」「世話になる」関係が、合法非合法をとりまぜて錯綜していた。賄賂が絡んだ。血縁地縁も絡んだ。「世話」とは「ヒキ」または「コネ」の同義語であり、藤原道長も平清盛も例外ではなかった。彼らも「ヒキ」に頼り「コネ」を利かした人間だ。
 汚職の元総理ではないが「よっしゃ」の一諾(いちだく)、これぞ「世話する」者の心地よい方自慢だったろう。しかも、ギヴとテークとが一方交通という事ではなかった。世話になった者は世話をした者へ貢ぎ続けねばならない。たとえ深甚の感謝にせよ、また肉体奉仕にせよ。
 人の世話ができるのは、たしかに甲斐性があるわけで、市民社会では大きな実力にされてきた。平た

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くいえば支配者階級の物真似のようなものだけれど、だから大概はケチな些細なものでしかないのが微苦笑ものだけれど、それはそれなりにいつも見返りが勘定に入ってきた。エゲツなくなると、貸した金は体で返せ式の女がらみにもなり易い。男の甲斐性という言いかたで「女の世話する」男、「男の世話になる」女がいたのは、今も幾らもいるのは、「世話という好意ないし行為のウロンさをよく表現している。
 つまりこうだ、見返り無しにはしない「世話」が世間に多いぶん、「世話」になった借りはなるべく軽く返して早く忘れたい者も世間には多い、と。そこでトラブルが起きる。あとの車がさきの車を追い越して走ることも、確かに、まま有るからだ。
 小説『京都』でも、縁談を決めてやり、いわば暖簾(のれん)を分ける感じに店を持たしてやった若いもんが、いつか羽振りよく時勢に乗じて、つい挨拶も間遠に近寄って来なくなる。鬱陶しいのだ。
 だが、大変。
 相撲の社会では稽古をつけてもらった相手に本場所の土俵で勝つのを「恩を返す」と言っているが、ふつうの世間では「恩をアダで返す」と言われかねない。「恩を売った」気でいる方は、腹が癒えない。まして落ち目にいると微妙で、喧嘩別れになってはソンだ。なぜなら表向きでも「わしが世話してやったんや」「あのお方のお世話になりました」の関係をこっちから御破算にしてしまうことになる。上も下もなくなる。やっぱりトクをするのは向こうという結果で終わるだろう。
 徒弟制が生きている世間では、こういう例は掃いて捨てたいほどある。だから義理人
情が問題になる。
 日本の市民社会は、中世このかたいわば職人社会だった。その上へ商いが乗っかっていた。つまりは

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技と縁とで成り立った世間だ。しかも技も縁も人から人へ伝え行く無形の財だ。「世話」の現場はここにある。上から下へ、大なり小なり技や縁を世話して貰わなければやっていけない。私が子供の頃にも、そういう大人たちの余儀ない場面に、よそながら何度か立ち会ってきた。父はラジオ技術認定試験の第一回の合格者だった。「ラジオ屋はん」としては、京都どころか日本中でも草分けの一人だった。だからこの業界でもごく初期の頃は、顔はかなり利いたようだ、少なくとも敗戦頃までは。だが何しろ錺(かざ)り職から転じたという、根が手技への興味で最先端のラジオに挑戦した人なもので、からきし商売はへた。幾人か父の技術を学んだ人らも、戦後はテレビ、洗濯機、冷蔵庫、暖冷房機と商いの種類がふえ器械も精密化してくれば、修理なり理論なりの技術面はメーカーに任せて、同じ技術でも売る技術へ専念していく。そして客がつき、儲けも大きく、店も大きくなっていく。父のような技術屋は断然取り残されていった。
 私の目には、父と、かつての父の弟子たちとの今日の落差が、戦後時勢の推移の内である程度いろいろに納得できる。同時に両者の間に、ある、言うに言われぬ窮屈な感情いや勘定の生じているらしいのも察しがつく。「世話」の関係と「羽振り」の上下とはいつも比例はしてくれない。自然、顔でも合おうなら「位取り」は微妙を極める。はためにも辛い見ものになる。
 昔、京都で大きな法事だか祭事だかがあって、知事市長などズラリと並んだ場所へ、尾羽(おは)うち枯らした男が委細構わずまかり通ってズイと最上席についた。微禄はしていても正何位とか、知事さんより位の高い公家華族だったそうだ。
 不愉快は極まるけれどあれで官位というのは、特定の社会内では文字通り「位取り」が割り切れて便

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利な工夫だったのだろう。三位より二位が上、従五位下より従五位上の方が一階上とはっきりしてしまう。その上でまた実力者の「世話」を当てこんだ売り込みやゴマすりや奉仕や賄賂が、「位」をめぐって渦を巻く。「京都」は、この「位」に支えられて秩序を保っていた。「位」の源泉として天皇の権威は合法化されていた。
 だが下々の社会に、ふつう「位」はない。しかしと言うかだからと言うか、「位取り」は頑固にある。無いものを有るように「位取り」をするのだから、厄介で微妙だ。長幼、貧富、知能、体力、学歴、美醜などいろいろ、だが、その最も有力な指標に、「世話を
したしか「世話になった」かがあると言っていい。
 ただ、父の例でいえるように、そういう「位」は容易に空洞化してしまう。風化してしまう。しかも「世話した」側と「世話になった」側とでその残存効果の観測が大いにずれる。まだ効果がある。もう効果はきれた。その食い違いで目が合うと火花が散る。
 金の切れ目が縁の切れ目とよくいうが、「金」即ち「世話」の意味になり易い。ところが額面の値打ちが大幅に減っていくので話がこじれる。昔に千円分の世話も、今ではつい大幅に世話された側で割り引く。いじましいことだが人情の常というヤツだ。
 小説『京都』で、私が思わずうなった場面がある。「世話した」老人の妻が病死した。葬式だ。「世話になった」工場主夫婦が飛んできて万端とりしきる。日ごろの気まずさを緩和するには恰好の機会だ。香典も破格にはずんだ。が、はずみ過ぎたか老人、ぐツときた。あげく「一寸何ぞ感じよらへんか思て」香典返しに同額を包んで返したものだ。「青白きインテリ」の婿さんは、岳父のそんな仕打ちに、

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たいして意味も効果も認めないのだが、老人はそうでない。
「そら、感じよるで……」
 事実返された夫婦は「妙なことしやす思で気持もようおへんしな」と婿さん相手にぼ
やく。
「普通京都の風習では……かういふ不幸の場合には六割見当の返しをするのが本当」だとすれば、底意があるとは読める。香典返しをまた返すわけにも、だが、そんな金額をそっくり受け取るわけにも行かない…。
 あげくどう始末をつけたか小説には書いてないが、老人の腹は、これで「恩返しは済んだやて思てもろたらかなん」ということだろう。「お葬式の費用も全部うちからせんならんくらゐに思て」ますと向こうに言わせたいのだ。そしてそう言わせている。かくては世話を「した」と、世話に「なった」の古証文が再確認され期限は延長されたのだ。
 笑うのはたやすい。が、いずれその場に立てば誰しも五十歩百歩。それほど「世話」の話は、セワが焼けるという話だ。京都のような古い狭い、しかも「位取り」の町では、お互いが知らず知らずその事を意識しながら深く干渉しあっているから、時には、こうまで「底意地」のわるい真似もしてしまうハメになる。
 だが、京都人だけがそうなのでは、けっして無い。但し京都にこそ、そういう「底意地の悪さ」の原型はある。「位」を競いあった千年の都の余儀ない処世、それが貴族から武士へ庶民へと広まったのだから、それも「京都」の伝統に数えるしかないだろう。和歌や茶の湯だけが伝統でなく、人の、心根がそっくり伝統になる。「京都」の心根は天皇制と律令制とに育まれ、自然、日本中へひろまった。その心

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根を意訳すれば、「世話」は「される」より「する」立場でいたいという願いだ。
 滅法居心地の良い立場なら、なるべく永くそこに居直りたいし、子にも孫にも同じ立場に居坐らせたい。かくてピンからキリまで、身分や地位の世襲相続という取り決めが大事な大事な願いになってくる。裏返せば、自分は立場の良い方を世襲するから、立場の悪い方は他人に世襲させようということになる。貴と賎との身動きならない秩序化はこうして出来る。
「綸言(りんげん)汗の如し」という。天子が「よっしゃ」の一語は出た汗のようなもの、元へ返さぬ絶対の建前だ。不動の権威だ。この権威に右へ倣えしたい連中が位階勲等を工夫した。天皇の位が世襲であるなら摂政関白も世襲したい、大臣大将も将軍藩主も世襲したい。日本人が、「世襲」にかなり寛容なのは確かだ。私など列島を揺るがす根本の大事と見るのだが、チャキチャキの総合雑誌の若い編集者でも、「世襲ね。歌舞伎役者なんかそうですね」テナ程度でイナして、「教育の問題の方がだいじですよ」と言う。教育どころか政治、実業はては学問、芸術などの広い範囲でも、問題の芯を探っていくと、日本的な「世襲」の実態が、風通しの悪いイヤな面を出してくる。根が人の欲深さにあるから歪みがひどい。そのくせ外国で、例えば金日成が息子の金正日に地位を譲ると聞くと、したり顔に口の端を歪める。
 日本の世襲には二つあった。親から子へ孫へ本意なく世襲するしかなくて、その余の世界へは自由に出て行けなかった、強いられた身分世襲。今でこそ梨園の御曹子の襲名など、数々の栄典への最短距離切符みたいに華やかなものだが、かつては「河原乞食」、そうより以外に行きどころが無かった。だから、と言っていいかどうか、芸は、磨き抜かれた。

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実はそういう世襲も天皇の世襲と表裏一体、厳然として「日本」の世襲だった。「京都」で確立された世襲の形だった。はっきり言おう、権威の世襲と被差別の世襲。そして大方の日本人が、一方の世襲には知らんふりしたまま、権益世襲は熱烈に願望してきた。今もしている。昨日より今日、今日より明日へ、ますます願望している。そういう方向へ日本の国は今ますます動いている。よほど心していないと、手はじめに華族復活の声がやがて上がって、そして横柄に「お世話」をして下さる「ご身分」が「民主主義」の看板を鉄面皮に塗り替えるだろう。
 少々底意地くらい悪くても、「世話」は、したりされたりが、いい。「よっしゃ」の役はお互い代わりバンコが、いい。

京都言葉、所詮は友情が泣く位取り

「こころやすい」とは、たぶん京都人の心根をまさぐる大事なキーワードの一つだろ
う。
「あのお人とは、心やすうさして貰(も)うてます」
「あの人やったら、ほん心やすしてますワ」
「あの人とは、そないな心やすい仲やないし」

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「易い」のか「安い」のか、いっそ二つの漢字の両方の意味をふくんでいる「心やすい」のようだ。子供はこんな言葉はまず使わない、が、京の大人の世間(よのなか)では、この「心やすい」か「やすうない」かが、かなりの重みで人間関係の親密か疎遠かを表現する。
 人は一日に、どれだけの他人に出会うものだろう。持って行きようでは興味ある詮索だが、今は措(お)く。それより、人は一日にどれだけ他人の噂をするだろうと問い直そう。むろん確かな返事のできる話でない。が、そのつどその噂の人が自分に心やすい人かそうでないか胸に問うては、確かめ確かめ口を利いたり相槌打ったりしている。そして、渡る世間での自身の存在価値のようなものを、人知れず推し量っていったりするのではないか。
「心やすい人」とは、気らくに安心してられる相手、つまりは「我々」「我ら」という仲間内気分で手をつなぎ肩を組みあえる同士のことか。ま、そうだろうが、願わくはそう在りたい相手のことでもあるだろう。それだけ不安なのだ、世渡りが。世の中が、心やすい人ばっかりだったら……どんなに安心か。そう、人は内心願っている。ことに京都のような、歴史的にも世智がらい、心理的にも競(せ)り合っている町では、うわべはともかく真実心やすい同士というのは、ザラにはいない。だから「心やすして貰(も)うてますねン」と言える相手を、日頃、せいぜい物色はしているのだ。それも、なるべく大物がいい。できれば並んで写真に撮られたい! 某首相のように某大統領から「ヤス」と呼ばれたい!「あアあの大学の先生、教授やていう……。それやったら心やすして貰(も)うてますワ、時々、うちで煙草買(こ)うて行(い)てくれはる。こどもさんが二人いやはる」
「上村はんテ、あの文化勲章の。それやったらうちの町内やかな、心やすして貰(も)うてますンやわ。道で

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会うたンびに、よう挨拶してくれはる。えらいのやてナ、あのお人……」
 思わずクスンと来るような「心やすさ」だが、当面の話し相手に対しては、これで実にしっかり「位」は取っている。大学教授や文化勲章とこうまで「心やすう」してる俺が、そうでないお前よりどうして「しもて」に立たンならんものか。ま、こんな具合に人の口から思いもよらない知名の人の名前が「心やすう」とび出すのは、お互いよく経験していよう。へえと驚いて顔を見直したりする、その時の向こうさんの、得意そうな表情ときたら。
 これを裏返しにいうと、つまりときどき煙草を買っていく程度のことで「心やすい」呼ばわりは御免という側からすると、「気やすう、言わんといてンか」となる。京都の人は、これまた、他人に「気やすく」されるのが大の大の嫌いなのだ。京言葉の「気やすい」は、アトヘ必ずと言っていいほど否認語がくる。特に「気やすう」される側にとってはひどく不愉快な言葉のようだ。気兼ねなく「気やすう」できるというのは、相手を呑んでかかって「うわて」に出ている気味がある。明らかに「位取り」のきつい態度と言える。だからこそ、本当に「心やすい」のか、まちがって「気やすう」思いこんでいるのか、人づきあいではいつも微妙に判断していないと、たいへん「ドンな」話に陥ってしまう。京都で「ドン(鈍)な」人は、交際上たいへん厄介ものにされる。気働きがないのだ。
「えろ鈍なこツとして……」と手でももんでいれば、これは確実に頭を下げている。謝っている。「鈍なやツちゃないか」とやられれば、明らかに罵倒されている。
 京都は諸事のーんびりしていると思われがちだ。事実そういう一面はある。「京都時間」は今もある。ゆっくりしたものだ。市電が無くなってからはそんな光景もどうなったか祇園花見小路辺りでは、よく、

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だらりの帯の舞子が片手で電車を待たせ、悠揚せまらずおこぼ(木履(ぼくり))の音を響かせて電車道を「非合法」に横切っているのを見た。電車も自動車も待ってやる。けっこうな情景だった。
 だから諸事のんびりゆっくりか。それは、ちょっと違う。「気働き」とさきに言った。これは「気が走る」「気がつく」「気が利く」ことだ。とっさに何がその場にふさわしいかを、判断することだ。わるく言えば「気をまわす」のだ。「廻す」でもあり、「舞わす」のでもある。「鈍」に「気が重く」てはできない。ドライバーも、のんびり待つのではない。いわば土地柄と状況に気を走らせ、気を利かせているのだ。「鈍なこツちゃったなア」とは、なかなかの慨嘆だ。失敗の認定だ。「気がわるい」「気色のわるい」結果だ。
「そらも、気いようしてくれはるえ」と聞けば、相手の自分(たち)に対する仕向けが、穏やかで親切だったということだ。「気い、わるうせんといてや」と断っていれば、とにかく「気い使(つこ)てる」のだ。相手との関係をその上わるくはすまい配慮がある。その配慮が度が過ぎて必要な相手だと、「気の張る人やナ」と陰口を叩かれる。
 言うなればそのかみの宮廷社会の気づかいや気くばりが、今もって京都の市民を金縛りにしているのだ。むろん京都ばかりでない証拠に、事こまかに「気くばり」の必要を日本中に「すすめ」て下さる、ちと大人気(おとなげ)の無い、いや大人気(おおにんき)のアナウンサー先生もおられる。
 しかし「気の問題」はそう割り切れてはいない。京都の人はよく「気は心どす」という。「気は心」とはえらく哲学じみるが、要は「ホンのちょっぴりですけれども」感謝は感謝、好意は好意、贈り物は贈り物、土産は土産、助勢は助勢、という挨拶だ。借りは返した、貸しは貸した、建前は満たしたとい

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うちょっと都合のいい表明でもある。
 だが「気は心」――無いより有ったほうがいい。みみっちいなどと遠慮してはいけない。建前は建前としてお互い承知の手続きは、こまめに踏んだほうが無難ということになっている。大きなことを出しゃばってハデにするより、誰にでもその気ならできる程度の「気は心」をつかうほうが当たり障りがない。神経をサカ撫でしない。妙な金をつかうと「ハデなことしゃはる」と警戒され、「照り降りのきついひとや」「お天気ものや」とやられる。
 京都ではいわゆる金棒引き、つまりジャランボンと噂をふり撒いて歩く人が、よくよく悪質でないかぎりさほど排斥されない。まさにお互いというところがあって、猿の尻笑いに終わりかねないわけだし、なにしろその手の情報は面白いだけでなく、ある程度はちゃんと知っている必要がある。清少納言の昔から他人の噂ほど面白いことを、一日たりとせンと居れますかというのが京都の風だ。ただのヒマつぶしなんぞでは、ない。「位取り」の尺度がいろいろ有るなら、人の噂も、有力なそれだ。
「いやあ、おうち、そんなん知らはらへんの」
 どこそこの「お嫁さんしが十日も里帰りしてはった、そのワケは……程度の噂でも、知らぬは知るに後れをとることになる。「世間知らず」なのだ。
「しようもない、そんなこと」と思って軽蔑もしていられない。誰しも、そんな噂に尊敬すべき価値を認めてなどいないからだ。だが、「なんにも知りよらへん」と言われるより、「なんでも、よう知ったはる」ほうが治まりがいいのだ。ツーカーで話が通じる、それも「我々」感覚の必要な素地というもの、それだとお互いに安心していられる。

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 そして京都ではこの「ワケ知り」は「モノ知り」への、そして「学者」への初手の感じがある。
「あの人は、あれで学者やしナ」と人中(ひとなか)で立てられるような人が、べつに何かの研究をしたという例は少ない。横町のご隠居よりちょっとマシに本の何冊かを読んでいて、近在の「ワケ知り」で「モノ知り」でもあるなら、まぁ学区内くらいでは十分そう呼ばれる。ただし物柔らかな「ワケ知り」でないと、なんぼ「学者」であれ「ヘンコツ(偏屈)」呼ばわりされかねない。
 私の養家の祖父秦鶴吉などが偏屈のほうだったらしい。大昔にはカキ餅をついて、焼いて、南座の客席などへ売りに出していた「コワイお祖父ちゃん」だったが、幼なかった私の知るかぎりでも、家には老子、荘子、論語、史記、春秋左氏伝、韓非子、孫子、列子、唐詩選古文真宝、白楽天詩集などの漢籍が、いくらかは読まれた形跡もみせて押し入れの奥で山積みになっていた。源氏物語湖月抄があり、古今集講義も神皇正統記も啓蒙日本外史も俳譜の本もあった。枕になりそうな英語の辞典も大漢和辞典などもあった。忘れてはならない京都有ちの心学の本も、ちゃんと備わっていた。簡単で便利な生活百科や、国内旅行の総合案内書などもあった。祖父は私が小学校四年の三学期に死んだ。これらの本は以来私の自由になった。思えば私も「偏屈」たるべく運命づけられていたのか、それも「京都」風の。祖父は、嫁である母などからすれば、ことに「しにくい人」だったろうと思う。「しイよい人」つまり気やすく何でもしてあげ易くて、それがそのまま受け入れられる人は、当然ながら気らくな相手だ。「しにくい人」とはその逆だ。だが、そういう相手にも気をつかっていろいろして上げられる人のことを、「よう、しゃはる」「よう出来(でけ)た人や」と誉める。母がそういう人だったかどうかは分からない。それより、こんな観察をしていた私など、「気のわるい奴」と誹(そし)られても仕方ない。

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「気のいい人」とは、東京語などに馴れるとよく耳にする、たぶんにホメ言葉だと思われる。京言葉でも、「気のええ人やな」とは言う。が、ホメ言葉とは限らず、たぶんに抜けたとこのある、どこぞアホらしいよな人やナ、という批評になる。「ええ気な奴ツちゃな」と言うのとあまり変わらない。この方には身勝手な感じがやや加わっているが。
 微妙な対人関係を反映した物言いを思いつくまま取りあげてきて思うのは、誰もが心細く仲間を願い求めているわりに、暖かい友情の表現語にはあまり出会わないことだ。なにしろ京言葉にホメ言葉は実に少ない。「よろしいな」「ええわ」くらいか。これに「えろう」とか「そうら」とか強調語が加わる程度だろう。否定否認的な批評語は、これに比べると多彩だ。「もっさり」「すこい」「しぶちん」「こーとな」「いけず」「じゅんさいな」「ごて」「ごりょうし」「うるさい」「勝手な」「いちびり」「えずくろしい」「けったいな」「ごくどう」「じじむさい」「しみたれ」「しんきくさい」「しゃべり」「すかたん」「すぼけ」「ちょか」「ねちこい」「ひつこい」「むさくろしい」等々際限がない。どれかしらの言葉で批評して「位取り」に利したい。気イよう何でも彼(か)でも「ええな」「よろしいな」と言うていると、逆に置いていかれる。
 そもそも、無神経に他人のことを人中でホメていると、とりも直さず目の前の人を間接にケナしている事にもなりかねない。
 「あそこのお嫁さん、あーの、しにくいお姑(かあ)さんに、そーら、ようしたげはる。出来たお嫁さんやワあれは」
 これを聞こえよがしに自分の嫁のいるところでやる。それぐらいは京都ではザラだ。そして日本中で

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もそれぐらいなあてつけは、やはりザラになっているだろう。
 意外に思う人は多いかも知れない、京都言葉といえば、まろやかな、もの優しい女性的な言葉として印象づけられている。それが、私の物言いだと、非常に闘争的で攻撃的に聞こえるだろう。
 だが、女性的にもの優しいことと攻撃的なこととに矛盾があると思うのは、早合点に類している。攻撃にもいろいろある。寝技もある。ことに口で言う攻撃となれば、なかなか「言葉どおりには受け取れない」ものだろう。
 つい先日、「友だちの友たちはみな友たちだ」という例のタモリ昼の「いいとも」番組「輪(わ)ツ」に、有吉佐和子が出ていて、「作家先生」の威力というか卓越したユーモアというか、定時の倍もの四〇分にわたり「番組ジャック」のうえ、予定の演(だ)し物の三つ分をフイにするネツ演だった。タモリ以下へきえきして「帰れ」を連発していたが、とうとう帰ったあとの大阪人さんま(三字傍点)らの言い草が面白かった。
「えらいモンですなあ……」
 この「えらい」――言うまでもない、含みはキツい。「おえらい人はチガウなあ」であり、「エライこと、よう、やりよるワ」であろう。そしてやり過ぎて有吉さんは、まもなく呆気なく死んだ。ビョーキだったらしい。
 それにしても「使いよう」なのは「アホ」に限らない。言葉も刃物も使いようであって、単語だけでとかく賢(さか)しらの議論をするのはどんなものかと思う。
「あの人、そーら、しっかりしたはるのえ」と言われている人は、京言葉では抜け目ないと言われているのだ。ホメられてはいない。ちゃんと見抜いているワイという「位取り」ができている。

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「友だちの、輪ツ」といえば、このところ、ヒョンな頼まれ仕事で、近代以前の日本の詩歌からとくに愛と友情の作を選び出しているのだが、愛はともかく友情を示した佳作、秀作の乏しいのに、往生している。実に少ない。詩歌と限らず、日本の物語や説話にも友情が主題のものはまことに数少ない。ヨーロッパ人や中国人が互いに「友たちだ」と断言しあった時のあの重い感銘と信頼とが、どうも日本語の「友だち」には稀薄だ。なぜか。簡単に答は出せない。が、私の選んでいる詩も和歌もたいがい京都を舞台の京都人の作だという事実は、これに、関係しているのかいないのか。
 京言葉くらい、敬語づかいの豊かな言葉はないではないか、そう言う人もあろう。それも認識にやや誤算がある。美学的には、醜も美の範疇に入る。その意味ではやはり敬語といって差し支えはないのかも知れないが、分かりよく言えば、実は不(一字傍点)敬語の方に京言葉の多彩なニュアンスはあるのだ。これでサリゲナク、ぬかりもなく「位」を取る。分かりいいのは、話し言葉の語尾につく「たる」「よる」「とる」だ。もっと口汚い語尾もあるが、普通この三つだ。
「そんな事情なら俺から、返済はもうちょっと待ったれ(二字傍点)て、あいつに言うといたる(二字傍点)よ。言うこときっと聞きよる(二字傍点)て。ここンどこ、うちイ出入りしとる(二字傍点)んや、あいつ……」
 ま、こんな風にでも自然に口をついて出ようなら、「位」はこの場合は話してが上だ。少なくも下ではない。しかもこの上と下、この場にいない「あいつ」との上下である以上に、今向きあい話しあっている当の相手、「あいつ」に負い目のある相手、との露骨な「位取り」が狙われている。だが、とかく優しい物言いにまぶされて、まだまだ他県の人にはとてもそうとは聞こえないように出来ている。
 良い悪いは別として、この辺の底意地が、よその人にはきっと分かりにくかろう。

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式の伝統、心も直(すぐ)にない者らの美学

「京都」を特別なものと考えて「京都」を語ってみても、さほど有効とは思わない。なるほど特別な点が無くはない。千年の都だ。が、それならその特別なものが「都」の特殊性(アドヴアンテージ)においてどう日本中へ影響し拡散して行ったか。その結果が只今の時点でどう認められるか。ナンだ、そんなことなら自分の生まれ育った地方でも同じじゃないか。と、実は読者にそう思い至ってもらうところから、「京都」を、相対化できるかぎりはしたがいい。それが私の目論見(もくろみ)だった。
 中世もごく末になってから、『人国記』という本ができた。朝日新聞で今も夕刊に連載しているあれとは、ちょっと違う。人物紹介よりももうすこし大掴みに、戦国時代当時の諸国別の人情や気質を説いている。もっとも、確たる方法論に基づいての比較とは見えないので、全面的に信をおくのもどうかと思えるし、むろん時代の制限も受けている。が、その程度の割引をして読めば、今でもフンフンと首肯(うなず)ける記述に富んでいる。ことに京都ないし山城国や畿内については、一端を紹介するに足るだろう。
 山城国では、なにより男女を問わず言葉の聴こえがいいという。清(す)んでも濁っても聴きとりやすい。それから人の姿(なり)容(かたち)のいいこと、他にならぶ国がない、と。ま、さもあろう。

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 そうは言うものの都を中心に、ここは、遊びと消費に馴れた文華と商業の地、「実を忘れて虚を談ずるを以て世を渡る本とす」るきらいがあると指摘している。つまり義理を弁(わきま)えない土地柄になってしまっているワケだ。この影響からか『人国記』が見る近隣五畿内の風俗は、概して「知恵」に頼って「実(じつ)」を失う人が多いという。疑い深くて総じて人が「一和」しないともいう。人間が大方「商人」型になり切っているのが、京都人ないし畿内人のもう免れがたいこれぞ「みやび」の気質だと、ウガったことも言う。武家本位の批評軸に副(そ)ってはいるが、独特な「みやび」論として相当に暗示的な指摘だ。
 言い換えれば京都人ないし周辺の人は、勘定高く、他人に気を許さない。だから逆に、孤立していては安穏に世が渡れない。だから本音はお互いバラバラなのにかなり徒党好きで、「町衆」や「株」「仲」の昔から寄合や組を持ちたがる。現代でいうと「ライオンズ・クラブ」「ロータリー・クラブ」だ「没交会」だの。また誰それが親分サンの学派(シユーレ)だの。
 京都の、いい年のも若いのも「経営者」や「先生」級のオッサン、オバハンくらい、その手の会合に加するのを嬉しがる人種は少ない。熱い仲間意識や友情からではない。明らかに他の人々から自身を別できる「ステイタス・シンボル」として彼や彼女らは考えている。そう口にも出してちょっとも照ずにイソイソと出かけて行く。出かけていった話をしたがる。そういうのを見聞きするつど、京都も田舎じゃなあ……と思わせられる。
 この田舎ぶり、むろん今日では大なり小なり日本中に広まっている。そのいい例がタモリの「いいとも」番組だろう。「ご紹介」で、順繰りにいろんな人が「お友だち」の名のもとに登場して「輪ツ」を広げて行く。そのコーナーだけが面白いと家内が見始めたのに付き合っているうち、近来ことに登場者

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らの「カンゲキ」ぶりがヒドい事になってきた。「指名」されここへ顔が出せたことを、本気で(と思う)感涙にむせびそうなのが増えてきた。それはまあ、いい。
 最近になって気になりだした二つの側面がある。一つは、「ご出場、おめでとう」というような電報が舞い込みだしたのと、当のゲストの口からしばしばここへ「出る」「出ない」で「(彼や彼女らの)子供」が学校で肩身が広かったり狭かったりするという告白のあることだ。事実でもあろうし、子に託して自分たちの仲間内での「位取り」を行使している気もする。とにかく過熱状態の「演出」は成功している。問題は「演出」なのか果たして、やはり本音なのじゃないか、といううそ寒い不審だ。
 なににせよこうして広げられた「友だちの輪(ないし和)」が、真実フレンド・シップに値しているとも見えない。「友」の名に便乗して新しい座や組や、幸か不幸か政治的にはなんら特権には縁はないが芸能界では何らかの意味ありげな、「身分=売れでる」志向が露骨になっているのではないか。
 芸能人の世界も大変やなあと同情しつつ、しかし芸能人にかぎらないあれこそ日本人の、遠くは京都人の余儀ない独特の処世に発した、サガとでもいうものだろうかと思わずにおれない。
「みんなで渡れば怖くない」世の中なのだとやみくもに寄り合いながら、実(じつ)のないその「皆」とやらの外見は「彼ら」抜きに「我々」だけでエラそうに飾り立てたがるのだ。なにが「いー、友」やら。
 そもそも伝統的に日本では、市民倫理としての「友」情が正常なかたちでは育ちにくい。実例も少ない。詩歌も小説も少ない。説話も少ない。「親の闇、只(ただ)友達が友達が」だ。
 むろんタモリの番組そのものは、とてもステイタスを懸念する水準のものでなく、むしろ「彼ら」登場者の自称「輪ツ」に白い目を向けているまた別のお高い「我々」グループも出来かけているのやも知

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れない。そういう現象は、事が「我々」であれ「彼ら」であれ、そういう風に反目しあう可能性が双方に生まれ易いだけでも、けっして好ましくはなく、その対立や反目のエネルギーは、必ずや一段も二段も「うわて」に出てくるワルい奴に、「じょうず」に利用されてしまうタチのものだ。
 それはさておいて『人国記』が言葉のきれいなのを、京都の特徴の一に挙げていたのは公正だと思う。今でこそ標準語と比較するから尺度も揺れるが、たしかに京言葉は、もの柔らかで、かつ濁(だ)みたところがない。当たりはあくまでもの優しく、トゲトゲした物言いでは決してない。
 とは言え耳に聴こえはよくても、ものの分かり通りまでいいか、どうか。あまり良くない証拠に、京都の人の気が知れないとボヤく他国の客は多かった。主人の言いつけで祝儀の扇を買いに都へでて、まんまと古傘を高値に買わされて帰る、狂言『末広がり』の太郎冠者の困惑などを思い浮かべてみるといい。だが、あのスッパめく都の男のふるまいが、いつでも、誰に対してでもと決めつけるのは誤解である。「末広がり買はう」と都大路を叫んでまわる買い手をよく見て、売り手はこう考える。
「是は洛中を走り廻る心も直(すぐ)に無い者で御ざる。あれへ田舎者と見えて、何やらわつぱと申す。ちと当てて見ようと存ずる」
 あげく買い手が「末広がり」を扇とは知らず、「存ぜぬによって呼ばはって歩きまする」と言わせている。つまり当ててみたら手応えがあった。太郎冠者は「言葉」を読まれ、そして「位」を取られたのである。買い手がものを知った相手なら、また別のごく自然な問い問われの関係で行き別れたろうに、まさに「偽を以て実とする習はし」に誘いこまれる裏表のない言葉づかいをサラケ出したから、すかさず「人」を見て、足元を見て、一芝居を趣向された。末広がりの古傘を買わされた。

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 その意味で京都の人間はたしかに「底意地」のわるい一面がある。「心も直(すぐ)に無い者」だったと言える。だが、どこか言葉という世渡り道具の、使いでの差がでたとも言える。京都は、久しく言葉勝負で人の上と下とが決まってくるような、油断もスキもない闘諍堅固の町だったし、今も変わりないだろう。
 イエスなのか、ノーなのか。その次元で、他国の人は「言葉」をとかくボキャブラリーから捉える。ところが京都の者は、実はさほどそれに頓着しない。用いる単語は問題でない。またイエスかノーかも超えて互いの「位」を「言葉」で測っている。丸橋忠弥流にいうと、言葉は、江戸城の濠の深さを計ろうと素知らぬ顔で投げこんだ石に似ている。その響き具合で、相手と自分との間の距離なり上下なり優劣なりを、つまり力関係を看て取ろうとする。「言葉」はあくまでも「語法」として機能する。極端にいえば事のイエスやノーなど、その場の相手しだいで「あなたこなた」して差し支えない。「へえ…おおきに」「さよか」と相槌を打っておいて、さしずめ困らない。
 世の中、いつどっちへ転ぶか知れないという認識は京都の気風に染(し)みついている。だから刹那的かというと、逆。「さしずめ無事」ならそれで済むのだ。済ますのだ。そして待つ、風向きが変わるのを。一夜勘定はしない。主役は自分たちだと、市民は、さすが多年体験の蓄積で、心得ている。
 お上(かみ)の脆さに本能的な察しをつけながら、右往左往も結局はしないで「あてらの町」に生きのびてきた京都市民だ。大きな勝負には関係ないが、日々の勝負は市民同士の間でつけるしかないとよく知っている。そこに抜きがたい市民性の限界もある。政治的なようで大事な政治のことはよく考えていない。「お上」へも例えば「アカ」へも、ほとんど無節操なまで等距離にいて、右手でも左手でも好きなように挙げる。政治を判断するのでなく、当面の利害という「位取り」を、そのつど繰り返しているのだ。

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 だが、日本の「政治」そのものが、そういう「位取り」以上の何かであるだろうか。真のステイツマンシップといったものに、我々は飢えているが、癒されたことが無い。国会討論や答弁を聞いていても、ああ、京言葉のイエスでもノーでもない、しかしとにかく我(が)は通す問答無情(一字傍点)の特性は、ここへも、こうも…強(したた)かに移植されていたかと私は思う。あれでなきゃ…、勝てんよ……。
 京都の主人公は、少なくとも足利幕府ができた頃からはもう、むろん天皇でなく、公家でも実は武家でもなくて、市民だった。その時から従って京都は政治都市である以上に妙な言い方をすると「取引都市」だった。政治や文化もなんとでも取引された。根に、財貨と利害が有っての取引だった。公武僧俗男女のべつなく、みな「商人」型の取引に長(た)けていった。
 だが、あの扇の代わりに古傘を高値で売りつけ、まんまと生き馬の目を抜いた「心も直(すぐ)に無い」男が、さて別れぎわに太郎冠者のやがての迷惑を見越し、主人の不興を紛らわす小歌を授けていたのが、面白い。「傘をさすなる春日山、春日山、春日山((縦書きの繰返し記号))。是も神の誓ひとて、人が傘を亨馨、我も傘をささうよ。げにもさあり、やようかりもさうよの」と。まんざらダマしきってはいないのだ。いわば親切にダマしているのだ。「親切」も「ダマす」も、微妙に、べつの事ではないという趣だ。この辺に「都」の怖さも、おそらく楽しさもあった。「都ぶり」があった。
 たぶん中世に入って以後の「みやび」は、良くも悪しくも、こういう振舞いに看て取っていいだろう。「都ぶり」「都ぶる」それが「都(みやこ)ぶ」「みやぶ」という動詞をはらんだ「みやび」への原意なのであり、それへ「雅び」と字を宛てたのは、ともあれ『伊勢物語』ごろからの解釈だった。そのころの都とは「天子の居処」だったし「雅」の語感が生きていた。だが『末広がり』の時分には、もう、都とは広義

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の商いの場所だった。そして商いにサービスは付き物だった。太郎冠者はたしかに授けられたサービスの小歌ゆえに窮地を脱し、面白おかしく、かつは目出度く一場の道化を演じおさめることができた。「風流(みやび)」なことだった。「都ぶり」が、確実に一つ、田舎へ広められたのだ。「アアそれそれ、さすが都の者ぢや。抜かば只も抜かいで」と、太郎冠者も妙に納得していた。
 すこし突飛に話の行方を変えてみたい。安田武著の『型の日本文化』を著者からいただいた。京都の、有り難い異人サンのお一人だ。ことに祇園の色町や、京の、また日本の芸や技に対する愛情の深い人である。それはそれとして安田氏はかねて「型」という事を大事に語りつづけてこられた。そして現代を、「型なし」社会と嘆かれる。が、万事「型通り」も困る。「型」の大事さに異論は少しもない。もっと論じ極められていい。一方、多くの人が「間」の大事さにも気づいている。ところが、この「間」と「型」とのかねあいという事が、存外言い尽くされていない。どうも一般に、この大切な不即不離の二つ微妙な観点が、うまく論者の思索に連動していないで、まるで「派ア」がちがうように「間」の人は「間」を、「型」の人は「型」だけを語りたがる。むろん「型なし」「型通り」が困るように、「間ぬけ」「間のび」も日本の美学や処世としては歓迎されない。が、こ
の二つ、切り離せまい。
 思うに、「間」と「型」とを一撃ぎに連動させるための、いわば「式」の発見が遅れていたのだと思う。「間」も「型」もどちらかといえば静的な概念だ。そして具体的なようで実は抽象された一種の観念だ。具体化するためにはこの観念が、事実「動き」たさねばならない。その動きにいわば手順手続きを与えるのは、「式」の発想だろう。日本人が「型」を重んじ、「型」から「型」への「間」を重んじる民族なのは疑いない。が、それは言い換えれば、より根本で「式」を立て「式次第」に従いつつ生き

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るのを便宜好都合と考えてきた民族だということにならないか。日本の「京都」時代は、二つの「シキ」の認識から始まったと思う。一つは『古今集』が樹立した「四季」観であり、もう一つは『延喜式』に確立された、法・規則・基準・規範をはじめ諸般運用のための手順手続きに等しい「式」の発見だった。西暦九〇五年に双方肩を並べている。
 冠婚葬祭すべて式だ。法律規則すべて式だ。数式、様式、格式があり、正式、本式、略式、みなそれぞれの「式次第」即ち手順手続きを備えている。その手順や手続きを踏んで行くいろんな「行き方」の内に、自ずと独特の「間」が生まれ「型」は生まれるのだ。東京オリンピックの開・閉会式のみごとな演出を記憶している人は多い。ヤクザのあの仁義の切り方、壷の振り方も、歌舞伎や茶の湯や土俵入りの所作も、余りに多くの「しき(二字傍点)たり」尊重にも、すべて根に、「式」相応の態度が生きている。相手の反応を探る利器としての京言葉は、いい「式」を立てる探知器でもありえた。「式」を立てて乗り回すキラクさ。それはついには行きつく「答」がかりに虚でも偽でも、不問に付しかねない危険とも結びついている。行動が、倫理を離れて美学に属してしまう。より美しくという趣味は育てるが、より正しくという責任からは遠のきがちになる。手順や手続きという工夫が本来値えた限界だ。
 手直しが、いずれ必要なのだ。が、一度「仕来(しき)たり=伝統」と化した暮らしと創造の一定の「式」は、容易には直せない。「間」の文化も「型」の文化も、絶えずマンネリズムの危険に曝されている。「伝統」は、だからこそ一つ間違うと、「現代」を無残に腐らせるのだ。蛇足めくが、「京都」はと、これを言い直してもいいのだ。京都は色々の「式」の、今なお、あまりに誇り高い母胎なのだから。――以下・下巻――

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私語の刻

 阪神大震災にはうちふるえた。とても「おやじ」の比ではない。こわいだけでなく、つらかった。私事ながら妻は兵庫県西宮に生まれ、大阪府の千里山で育ち、京都に下宿して大学生活を送った。親の出は和歌山県だった。親友も知人も親類も多い。今度の大地震には真実胸を絞られる思いをしていたようだ。わたしとて同じで、それはそれはたくさんなことを思った。この思いが生きてほしいとも思った。湖の本の読者にも多数の深刻な被害あり罹災あり、当座は電話も通じなかったしお見舞いの手紙も出しづらかった。ただ胸を痛め、東京から、わずかに出来る範囲のことをおぼつかないままするに止まった。心苦しかった。こころからご平安をお祈りします。
 災害のことが頭から離れないのだが、あの谷崎潤一郎が東京を去って関西に移住したのが関東大震災からであった。彼がもっとも長く居を定めていたまさにその地域が、今度の地震でもっとも甚大に打撃を受けた。テレビの面面に現れる「三宮」「青木」「魚崎」その他の地名を見ていると、ああここも谷崎に所縁、あそこにも居た、関わった、あれを書いたところだと思い出せる。「本山」など、さきに出した『神と玩具との間』の名ワキ役の妹尾氏の宅のあった「三人の妻たち」攻防の古戦場であった。そこの小学校も避難所になってしばしばわたしたちの目をテレビに釘づけにした。

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 名作『細雪』のなかでも芦屋川の大風水害の場面は、「こいさん」と「板倉」との切ない恋とともにとくに作者の筆力の活躍したところだが、今度の地震にもし谷崎が存命で出遭っていたならどうだったろう、たちまちに東京へのがれて帰らなかったろうか。京都へでも止まって未曾有の情況に谷崎ならではのドラマを構築していただろうか。折しもテレビ番組「知ってるつもり」から谷崎潤一郎の回に出演解説を頼んできた。これはすぐ断り、学生の時から応援してきた早大の千葉俊二君を推薦した。
 その谷崎潤一郎は東京の大震災をいったん京都にのがれ、やがて阪神間に移り住み、更に戦災をさけて、結局京都へもどって来た。『細雪』出版の大成功があり、そして『少将滋幹の母』から『鍵』『夢の浮橋』あたりまでに谷崎の京都時代が見て取れる。京都とかぎらず、京阪神にとっては大きな「異人」さんの一人であった。すばらしい仕事を残してもらった。
 その点、わたしは逆に関西を、ことにも産まれ育った「京都」を離れて、もう東京での生活が三十六年にも及ぶ。しかもわたしの視線は「京都」ないし関西からほとんど離れたときが無かった。くりかえし書いてきた。今度の湖の本エッセイ、とくに『洛東巷談』は、小説ではないがわたしの「京都」が、京都に寄せる「私情」のおよそ本質が、率直にまとめられていて、かなりの部分「秦恒平の索引」を成しているが、それだけとは思わない。たんに京都のことでなく「日本のこと」だと思って書いている。わたしの「史観」だと言われるなら頷いて責任をもつ。京都をふかく愛しているけれど、だからといって遠慮して筆をまげてはいない。
 いまとなっては、なんで「朝日ジャーナル」とご縁が出来たのか、具体的な経緯は、わたしと

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しては珍しく忘れてしまった。一種のテコ入れのようなことが週刊誌として画策されていた時期であったか、編集長が筑紫哲也氏に交替したばかりだったのは覚えているけれど、筑紫氏との間に。パイプはなかった。うろ覚えだが、とにかく朝日新聞社の記者だか編集者だかの一人にふっとプランを喋ったのが、文字どおりトントン拍子に企画になり連載がきまってわたしのほうがびっくりした。有り難い機会であった。存分に書かせてもらえて今も本当に感謝している。連載後、朝日新聞社から出版された。ほぼ十年たっているが、読み返してみて、「京都」への発言としてまだ十分活きていると感じた。建都千二百年記念のすこし辛辣な殿軍を勤めるが、忌揮ないご批判をいただきたい。なお陽春には『京都、上げたり下げたり』(清流出版)の一冊を、装い美しくはんなりと送り出す用意をしている。 さてエッセイIの下巻には、兄北沢恒彦との昭和五十四年の「往復書簡」を入れる。この兄は、知る人ぞ知る、むしろ弟のわたしなどがいちばん知らないまま来た人で、今日に至るまで顔を合わせたのが数回、ゆっくり話したのはただの一回ぐらいという数奇な血縁である。朝日新聞社刊『現代人物事典』に記載の記事など次巻で紹介したいと思う。
 さてわたしも、還暦。猪突猛進でもなかった、粁余曲折の人生とも思わない、が、とにかく今年の末には満六十歳。明けて来年三月末には降って湧いた東京工業大学教授を定年で退官する。その後の社会復帰はさぞ難儀であろうけれど、あくせくする気はなし、もう宮仕えもしない。ゆったりと人生二学期の後半から三学期へ、勉強をつづけたい。大病や大怪我さえなければ、もう四半世紀ぐらいは妻と二人で普通に暮らしていける心用意が出来ている。小説、それもぜひ書き

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たい題材を好みの手法で書きつぎたく、ジャーナリズムとの縁の糸が今以上に細くならねば有難いが、還暦からの仕事とあれば、なおさら心行くものでありたい。
 ところで「湖の本」も、やがて維持しきれなくなるだろう。この一年で二割以上の部数減となった。この三年、発行だけに精一杯で、こまめに手をかけ輪をひろげることができ
なかった。成り行きに任せれば確実に減るしかない。「紹介」という輪のひろがりにも限度があり、それでもそれがあればアッというまに回復し好転するのは明らかだけれど、作柄が作柄で、じつに厳しい。古典ものを出し、また分冊ものを出すと、ガタン、ガタンと減る。いちど減ってしまうと挽回には、何倍もの手をかけねばならないが、今は、できない。
 創刊から来年の桜桃忌で、十年。胸を張り、維持できるかぎり気を入れて頑張ってみたいので、どうか、変わらずご愛読ご推輓下さい。
 やはり陽春三月中には、平凡社から『青春短歌大学』(一六八○円税共)と題して、面白い本を送り出してもらえる。三校も済んでいる。題名には足踏みしないで。はばかりながら「文学」「詩歌」の作者や愛読者への、これは語感したたかに中身濃い、面白くて厳しい「試験問題集」に出来ている。じじつ東工人の学生たちはこれらをクリヤして秦教授の「単位」を取得していたのだから、趣向の「講義録」ともいえる。いやいや、多くの歌人・俳人や文学・国語の先生方、人生を深く生きてきた大人の方々への、これは、ちょっと考えこませる「詩的質問状」だという方が、当たっている。ぜひ解答し、かつ沈思し熟考してみて下さい。震災地にも、やがて花便り。出来る限りの応援がしたい。

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洛東巷談・京とあした上  湖の本エッセイ9
1995年3月14日 第1版発行○c
定価1900円
著者 秦 恒平(はたこうへい)
発行者 秦建日子(はたたけひこ)
〒202保谷市下保谷2−8−28
発行所「湖(うみ)の本」版元
振替 東京4−168853

印刷・製本 凸版印刷株式会社 落丁本・乱丁本はお取替いたします。

(印2つ:「秦」「湖」)


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「湖(うみ)の本」既刊小説30冊の紹介

(1)清経入水(第3刷)  太宰治賞作品。 「まずもって第一等」と井伏鱒二・石川淳・臼井吉見・唐木順三・河上徹太郎・中村光夫ら選者一致で推された異彩の幻想。 (2)こゝろ(第2刷) 加藤剛主演・俳優座公演の為に書かれ超満員の客を呼んだ。漱石原作を大胆に批評して熱い議論を招いた読みに、著者原質の「身内」観が迸る。 (3)秘色・三輪山 (第2刷)動乱の近江大津京に、古事記悲恋の三輪山に、千年の時空を自在に駆けて、現代を旅する寂しさに不思議の虹をさしかける、歴史のロマン。 (4)糸瓜と木魚 正岡子規と浅井忠との一期の親交を一点のスケッチから手さぐりしつつ、胸に刻まれた少年の昔の恋を検証して行く語り手が必然小説家に育ち行く。 (5)蝶の皿・青井戸・隠沼 妖しく美しい支那の皿、朝鮮渡来のみごとな井戸茶碗、また魅惑のマジョリカ。陶磁の美にひかれて渦まく人間の愛と感動。(6)廬山・華厳・マウドガリヤーヤナの旅  美しい小説、美しさに殉じた小説と芥川賞候補に推された『廬山』他、説話の妙味の仏教文学。 (7)(8)墨牡丹(上下)  最高の日本画家村上華岳の愛と精進との画生涯を、国画創作協会の俊英らとともに、著者の感動を乗せて描いた芸術家小説。第六章百枚を追加完結。(9)慈子(上)  徒然草の世界へ引かれつつ不思議の泉涌寺来迎院の一家に迎えられ愛される青年。少女慈子との、歴史の時空を超えて結ばれて行く「身内」の愛と激情。 (10)慈子(下) ・月皓く・底冷え  最も多く深く読者を著者の小説世界へ誘いいれ、愛と美と倫理の悠久を問いつづけた『慈子』ほか、魅惑の京を描く短編。 (11)畜生塚・初恋 結婚とは何なのか。真の身内、運命をわかち合う愛の可能を夫なき女と妻ある男はどう探りうるのか。京の風土に培われ絵空事の真実が光る。 (12)閨秀・絵巻  上村松園を書き切って亡き吉田健一の破格の絶賛時評を得た『閨秀』と、源氏物語絵巻の成立のかげに保元の乱を孕んで傾国の恋の渦巻く『絵巻』。 (13)春蚓秋蛇(掌篇・短編集) わずか四枚に揺るがぬ小説世界を構築し息つがせず二十七篇を連ねた掌説集『鯛』と、雨戸を慕う短編『於菊』『孫次郎』『露の世』 (14)(15)みごもりの湖(上中)  新潮社新鋭書き下ろし作品。湖国を舞台に恵美押勝の乱に生きた悲運の皇女東子と、山中に姉を喪った女子大生とが紡ぐ「死者の書」 (16)みごもりの湖(下)・此の世・少女 人が人に死なれ人を葬る切ない意義。長編作中作「此の世」の習作に併せ、著者処女作の『少女』を収録。 (17)加賀少納言・或る雲隠れ考・源氏物語の本筋  紫式部集悼尾を締め括った謎の加賀。本文なき雲隠巻を人渦に描く京の旧家。魅惑の源語取材篇。 (18)(19)風の奏で(上下)  平家の最初本はどう成ったか。一門に死なれ多くを死なせた女院徳子と祇園の女将徳子を打ち貫いて、芸と芸人との根の哀しみを奏でる叙事詩。 (20)隠水の・祇園の子・余霞楼・松と豆本  妻ある男と夫ある女との「もう一つの結婚」が可能か。京言葉で徹して書かれた微妙な犯罪篇も。 (21)四度の瀧・鷺  独壇場のエロスの夢に根のモチーフが息づき、常陸国風土記の疼きが、奈良松屋三名器の謎が、もの畏しく、渦を巻く。(22)(23)(24)冬祭り(上中下) ロシアの黄金の秋から冬の気配の京都へ、民俗の不思議と魂のエロスを宿す凄艶な愛の行方は。数千年の根の哀しみに、美しいヒロインは死を賭して極限の命を生き抜く。(25)(26)秋萩帖(上・下)・夕顔・月の定家 十世紀宮廷の一閨秀を愛して、国宝秋萩帖の秘密に千年を彩なす恋。「夕顔」巻の背後に入水死の美女。俊成・西行の薫陶を胸に百人一首を撰ぶ老定家。北嵯峨の風光に奏でる無限思慕の三編。付録に歴史小説論「虚像と実像」も。(27)誘惑 人と人が出逢う・知り合う・愛しあうとはどうゆう“関係”なのか。小説が小説を抱きこみながら、何が事実で何が真実なのかを問いつめる奇妙になまめかしい不倫の愛。(28)(29)(30)罪はわが前に(上中下)・或る折臂翁 娘に語る、真の「身内」を求めた三姉妹との初恋。飾らぬ筆致で痛切に描く起承転転の愛。また幼来愛読の「反戦白詩」を簡潔な文章に託した異色な處女作。
* (1)〜(4)は一冊各2000円、(5)から(21)は各1300円です。
長篇(22)(23)(24)ほ各1800円です。(25)以降は各1500円です。
*エッセイ篇は(1)が1300円、(2)以降は各1900円です。

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「湖の本エッセイ」要約
1 『湖の本エッセイ』は、秦世平によるもはや入手しにくい、また版の絶えているエッセイ集を主題に応じ再編集して、同じ装丁の簡素な形で順次刊行します。
2 この「エッセイ」シリーズは、「小説」シリーズとは別シリーズとして継続刊行します。頒価は一冊「一九〇〇円」です。
3 『湖の本エッセイ』に限り、初刷本が入手可能な最後本になるとお考えの上、なるべく「継続して」ご予約・ご愛読ください。むろん、分売も致します。
4 送金は郵便振替をご利用ください。『湖の本』版元宛、口座番号『東京4・168853』です。奥付裏に挟んだ、所定の(朱い)用紙を御使用の場合、手数料は加入者(版元)負担です。送金は予約時にでも、配本直後に払込まれても、まとめて前納でも、けっこうです。郵便局へ出向くのを省きたいと大まかに前納なさる方がふえています。きちんとお預かりします。
注文(予約)分の返本と不送金とはご容赦ください。またご催促の無用な範囲内でどうぞ、折返しご送金を願えますように。
5 「エッセイ」とも「小説」とも限らず、とにかく読もうと思って下さる方は、住所・氏名・電話番号および作品名ないし刊行巻数と希望部数を明記し『湖(うみ)の木版元』(〒202 保谷市下保谷2―8― 28 秦連日子方)へ、お申付け願います。
6 「エッセイ」 「小説」両シリーズともども、なるべく「継続して」こ予約、また、ご吹聴、ご推挽願います。皆様お一人でも「読者」をご紹介願えれば、値上げをせずにすみます。
▼エッセイ既刊▲(1)『蘇我殿幻想』(2)『花と風・隠国・翳の庭』(3)『手さぐり日本―「手」の思索』(4)『茶ノ道廃ルベシ』(5)『京言葉と女文化・京のわる口』(6)(7)『神と玩具との間』上・中(8)『神と玩具との間下・谷崎感想 11篇』
▼小説・エッセイ共に初刷残部が寡くなっています。既刊分「小説」シリーズの(5)〜(21)各「一三〇〇円」は、いずれ第二刷分以降は、一部について「二〇〇〇円」に頒価が改まります。お早めにどうぞ。
▼次回小説予告▲次回は「エッセイ」(10)本巻の下巻を、そう遅くならずにお届けします。内容は本巻の目次を御覧下さい。さて「小説」は第三十一冊め、また色直しの折り目を迎えます。小説ではないのですが、稀覯本となっています歌集『少年』をとのご希望にどう応え、何とどう組合せるか思案しています。秦の事実上の文学的出発を刻印した所産です、お楽しみください。
▲小説だけでも、「世界」連載の『北の時代−最上徳内』新聞小説『親指のマリア』三部作『亀裂・凍結・迷走』現代能楽集『修羅』連作『懸想猿・猿』その他、さらに未発表の長編『操り春風馬堤曲』『生きたかりしに』等が、まだ「湖の本」で出番を待っています。不景気の煽りで部数がかなり減って来ましたうえに、分冊やむをえぬ長い作品が大方で、ご負担をかけますのか気重ですが、ここまでご支援いただいたのを気の支えに、行けるとこまで頑張ってみます。どうぞ、相変わりないご支援を改めてお願い申し上げます。

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秦恒平の市販エッセイ
『花と風』評論集 * 筑摩書房 昭和47・9
『女文化の終焉―十二世紀美術論―』長編評論 美術出版社 昭和48・5
『手さぐり日本―「手」の思案―』長編評論 * 玉川大学出版部 昭和50・3
『趣向と自然―中世美術論―』長編評論 古川書房 昭和50・3
『日本やきもの紀行』紀行 平凡社 昭和51・3
『優る花なき』随筆集 ダイヤモンド社 昭和51・12
『神と玩具との間―昭和初期の谷崎潤一郎―』長編評論 * 六興出版 昭和52・4
『梁塵秘抄』(NHKブックス) 日本放送出版協会 昭和53・5
『中世と中世人』評論集 平凡社 昭和51・3
『顔と首』評論集 小沢書店 昭和53・12
『牛は牛づれ』随筆集 小沢書店 昭和54・3
『日本史との出会い』(ちくま少年図書館)筑摩書房 昭和54・8
『京あすあさって』随筆集 北洋社→講談社 昭和54・12
『極限の恋』対談集 出帆新社 昭和55・9
『古典愛読』(中公新書) 中央公論社 昭和56・10
『茶ノ道廃ルベシ』長編評論 * 講談社 昭和57・1
『面白い話』随筆集 法蔵館 昭和57・6
『閑吟集』(NHKブックス) 日本放送出版協会 昭和57・11
『春は、あけぼの』評論集 創知社 昭和59・1
『からだ言葉の本』評論と辞典 筑摩書房 昭和59・3
『洛東巷談・京とあした』長編評論 朝日新聞社 昭和60・2
『愛と友情の歌』詞華鑑賞 講談社 昭和60・9
『京と、はんなり』随筆集 * 創知社 昭和60・9
『絵とせとら論叢』評論集 創知社 昭和61・2
『京のわる口』随筆集 平凡社 昭和61・9
『秦恒平の百人一首』私判と小説 平凡社 昭和62・11
『茶も、ありげに』随筆集 淡交社 昭和63・10
『谷崎潤一郎』筑摩叢書 筑摩書房 平成1・1
『京都感覚』評論集 筑摩書房 平成1・2
『一文字日本史』長編評論 平凡社 平成1・6            
『美の回廊』評論集 紅書房 平成2・12
『死なれて・死なせて』(死の文化叢書)弘文堂 平成4・3
『名作の戯れ―「春琴抄」「こころ」の真実―』最新刊 三省堂 平成5・4 
『日本語にっぽん事情』随筆集 創知社 6・7
『青春短歌大学』講義録 新刊 平凡社 7・3
『京都、上げたり下げたり』随筆集 近刊 清流出版 7・5

 *印は、「湖の本エッセイ」として再刊されています。