電子版・湖の本エッセイ 8
 
 
 
(現在稿は、スキャンしただけの未校正状態で、校正は中途です。相当な長編です。小刻み連載の感覚で読み下さい。)
 

( )はルビなどで後置しました。(( ))は漢字がない時など困った場所です。--はその他説明です。
   
 
 
 


  神と玩具との間

   -昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち- 

 

                 秦  恒 平

 

     書き下ろし 六興出版刊 昭和五二年四月・・ 湖の本エッセイEFG       



 
 

(湖の本 エッセイ8 神と玩具との間 下)(エ8下281-
 第四章椅松庵主人(神と玩具との間 中よりの続き)

十二

 御主人様、どうぞどうぞ御願ひでございます御機嫌を御直し遊は(ママ)して下さいましゆうべは帰りましてからも気にかゝりまして又御写真のまへで御辞儀をしたり掌を合はせたりして、御腹立ちが癒へ(ママ)ますやうにと一生懸命で御祈りいたしました眠りましてからもぢっと御睨み遊ばした御顔っきが眼先にちらついて恐ろしうございました、ほんたうにゆうべこそ泣いてしまひました、取るに足らぬ私のやうなものでも可哀さうと思召して下さいまし何卒御慈悲でございますから御かんべん遊は〔ママ)して下さいまし、外のことは兎も角も私の心がぐらついてゐると仰つしやいましたことだけは思ひちがひを遊ばしていらつしやいます、それだけはどうぞ御了解遊ばして下さいまし、そして今度伺ひました節にはたつた一と言「許してやる」とだけ仰つしやつて下さいまし
先達(せんだつて)、泣いてみろと仰つしやいましたのに泣かなかつたのは私が悪うございました、東京者はあゝいふところが剛情でいけないのだといふことがよく分りました、今度からは泣けと仰つしやいましたら泣きます、その外御なぐさみになりますことならどんな真似でもいたします、むかしは十何人もの腰元衆を使つていらしつた御方さま故、これからは私が腰元衆や御茶坊主や執事の代りを一人で勤めまして、御退窟(ママ)遊ばさないやう、昔と同じやうに御暮らし遊ばすやうにいたします、御腹が癒えますまで思ふさま我がまゝを仰っしやって下さいまし、どんな難題でも御出し下さいまし、きっときっと御気に入りますやうに御奉公いたします、その代りどうぞくあの誤解だけは御改め遊

281(5)  --校正の際に目安になるように、頁数を残しておきます

ばして下さいまし、外のことならば我が儘を遊ばせば遊ばすだけ、私になさけをかけて下さるのだと思って、有難涙がこぼれる程に存じます、ほんたうに我がまゝを仰つしやいます程、昔の御育ちがよく分って来て、ますます((縦書きのくりかえし記号))気高く御見えになえいます、かういふ御主人様にならたとひ御手討ちにあひましても本望でございます、恋愛といふよりは、もつと献身的な、云はゞ宗教的な感情に近い崇拝の念が起って参りますこんなことは今迄一度も経験したことがございません、西洋の小説には男子の上に君臨する偉い女性が出て参りますが日本に
あなた様のやうな御方がいらつしやらうとは思ひませんでした、もうもう((縦書きのくりかえし記号))私はあなた様のやうな御方に近づくことが出来ましたので、此の世に何もこれ以上の望みはございません、決してく身分不相応な事は申しませぬ故一生私を御側において、御茶坊主のやうに思し召して御使ひ遊ばして下さいまし、御気に召しませぬ時はどんなにいぢめて下すっても結構でごさ(ママ〕います、唯「もう用はないから暇を出す」と仰っしやられるのが恐ろしうございます、

十≡二日頃御うかゞひいたすつもりで居りますがそのまへに今一度御文さしあげます、しげ子御嬢様にも何卒宜しく御伝えへ願ひ上げます、そのうち一度神戸へ参り根津様こいさまに御目にかゝり度(たく)存てをります
何卒何卒((縦書きのくりかえし記号))御きげん御直し下さりませ、これ、此のやうに拝んでをります
十月七日
潤一郎

(6)282

御主人様
侍女

「神」か「玩具」かではない。「神」でありかつ「玩具」でもあるのだ。より正しく谷崎の思いに即して言えば、根津夫人松子は「神」である「玩具」か、「玩具」の「神」かではなかったか。世のつねの「妻」の座を望む女なら、こういう迫られ方を到底、心情ないし度量に於て許容し難いに違いない。谷崎のこの迫り方は即ち相手を「神と玩具との間」の、つまり「妻」としては受取らぬという「芝居気」たっぷりの、しかも強引に本音露出の意志表示だと見られなくない。ともあれ、これに応じうるのは同じ「芝居気」以外の何ものでもなく、普通の「沙婆気」では耐えられまい。「男」谷崎にむろん惹かれたとしても、その「男」が卓抜な芸術家でなかったら、その芸術創造の秘儀に加わる満足や感激がなかったら、根津夫人はかかる谷崎の「芝居気」に満ちた求愛に応じ切れはしなかった。応じると決めた時に一切が選択された。不真面目なものというより、生来の「はにかみ」を包もうと生得(しょうとく)の演戯力が養っている「芝居気」であることを松子夫人ほどよく承知していた人は他になく、それが即ち不可能なはずの「妻」の座を可能にした「女」の愛そのものだったのだ。
「先達(せんだって)、泣いてみろと仰っしやいましたのに泣かなかったのは私が悪うございました」などと書いてある。
『蘆刈』にもお遊様の似たいたずらの例が幾つも書いてある。その一つ。
「お遊さんのいかにも子供らしい我がまゝの例を申しませうならあるとき父(慎之助)にもうよいとい

283(7)

ふまで息をこらへてゐてほしいといって手を父の鼻のあなの前にかざすのでござりました。ちゝはいつしよけんめいにがまんをしてをりましたけれどもようこらへなくなりまして少しいきを洩らしましたらまだよいといはなんだのにとえらくむづかり出しましてそんならといって指でくちぴるをとぢ合はせたり、ちいさな紅い塩瀬の袱紗(ふくさ)を二つにたゝんで両端を持ってぴったり口にふたをするのでござりましたがさういふ時はいつもの童顔が幼稚園の子供の顔のやうにみえて二十を越した人のやうにはおもへなんだと申します。またあるときはさう顔を見んとおいてほしい、両手をついて首をたれたまゝかしこまつてゐてほしいといひましたり、笑はんとゐてごらんといつてあごの下や横腹をこそばゆがらせたり痛いといふことを口にしてはならぬといってこゝかしこを((手へんに爪))(つめ)りましたりそんないたづらをしますのがいたつて好きなのでござりましてわたしはねむつてもあんさんはねむつたらあかん、ねむくなつたらじつとわたしの寝顔をながめてしんぼうしてゐるがよいといひながら自分はすやすや((縦書きのくりかえし記号))とまどろんでしまひますので父もうつらうつらし出してついゆめごこちにさそひ込まれてをりましたらいつのまにやらめをさまして耳のあなへいきを吹き入れたりかんぜよりをこしらへて顔ぢゆうをこそぐつたりしてむりにおこしてしまふのでござりました。父はお遊さんといふ人は生れつき芝居気がそなはってゐた、自分でさうと気がつかないでこゝろに思ふことやしぐさにあらはれることが自(おの)づと芝居がそなはつてゐてそれがわざとらしくもいやみにもならずにお遊さんの人柄に花やかさをそへ潤ほひをつけてゐた、おしづとおいうさんとの違ひは何よりもおしづにさういふ芝居気のないところにあったと申しますのでござりまして(うちかけ)を着て琴をひいたり小袖幕のかげにすわって腰元に酌をさせながら塗りさかづきで酒をのむやうな芸当はお遊さんでなかったら板につかないのでござりましたL

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、りつりいいぐt、どちらが現でどちらが夢と言えることだろうか。お逆様はあなた様という谷崎の言草にうそ偽りはない。たとえ谷崎以外の人の眼には摂津夫人捨子がどう尋常ないし凡庸でありえたにせよ、少くも谷崎の主観を刺戟しえた夫人は文字どおりにお逆様と輪郭を共有する「神」のような「玩具」か、「玩具」にも似た「神」的な存在として十二分に脆拝と玩弄とに耐えたと言わねばならぬ。摂津夫人捨子もまた、谷崎以外の人には尋常かつ常識的な一私人であったことは疑えず、しかも谷崎一人に対しては、敢てその脆拝と玩弄とにひたすら応じて行ける天成の「芝居気」を備えていた。おどうあみこの十月七日付の手紙の調子は、今筆を欄いたばかりの『武州公秘話』に於ける道阿弥の、また、のちの名作『春琴抄』に於ける佐助の態度と相通う。そして同じ十月の「十≡二日頃御うかゴひいたすつもり」とあって、「そのまへに今一度御文さしあげます」とある「御文」は現在公表されていない。ほらところが、十月十八日、さきに妹尾あてに摂津夫人払子との結婚、丁末子夫人との離婚とで肚を割った手紙を書いたと同日に、東京の娘鮎子にこんな手紙(『全集』)を書いている。これまた無視できない内容をもっているので引用する。

十四十五十六と三日遠足をして帰って来ました、途中から松茸を送ったがもう届いたこと?思ふ、あれはほんたうの山奥の松茸だけ散風味も格別の等ナリ、御座の知らせを待ってみたが、月末袋る支執筆最りか言のξつく待って戻ら窪いから明後二十日朝出発、途中調べもの?ため江川に一二拍しておそくも廿二日には東京へ行きます、

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(多分廿一日に行けると思ぶが汽車の中から電報を打ちます、但し出迎へには不及)依って二十日以後だったら御座があっても別に電報には及びません、学校のこと其地上京の上にてきめます十月十八日父より
鮎子殿

手紙を並べて行くとこのあたり日を追っての谷崎の行動が浮かび上がるが、「十四十五十六と三日遠ご足をして」とは呑気すぎる。この期に及んで丁末子夫人と水入らずは到底有るべくもなく、また谷崎ひとりで松茸狩りに行くわけもない。順当に根津夫人捨子と、おそらくは『藍刈』同様カムフラージュに妹の重子も同行しての「遠足」だったろう。松茸はお添えもので、一種の今後を策する作戦会議を兼ねた遊覧だったかとみて、当たらずとも遠からぬ帰宅後の妹尾との談合であり手紙である。「月末になると又執筆」とは『盧刈』後半を目したもので、その後半部とは、「おしづは婚礼の晩にわたしは姉さん(お逆様)のこ?ろを察してこ?へお嫁に来たのです、だからあなた(慎之助)に身をまかせては姉さんにすまない、わたしは一生涯うはべだけの妻で結構ですから姉さんを仕合はせにして上げて下さいとさういって泣くのでござりました」といった前半場面を受けて展開する。なんとかして夫と姉とを男女あんぢ上の仲に仕向けようと、妻であり妹であるこのおしづは心を砕いて工夫し、ついにすべてが「味善う行った」のだ。くだこの異様な三角関係がさまざまに語られる中にこんな条りがある。

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「おしづは妻ぐにちゑをはたらかせまして女中をつれて旅岳るのは無筆っひえではあ呈せぬかわたしがゐたら不自由なおもひはさせませぬからとお伊勢さまだの琴平さまだのへ三人きりで出られるやうにもいたしました。そして自分はぢみづくりにして女中らしくこしらへたりしまして次ぎの間にねどこをとらせるのでござります。もっともそのときの都合で三人のくわんけいをとりかへまして言葉づかひなどもきをつけるのでござりましたが宿屋の首尾はおいうさんと父が夫婦になりましたらいちばんよいのでござりますけれどもお遊さんがをんなあるじのやうなかたちになりがちでござりましたので父は家令か執事かといふ?うにみせかけましたり御ひいきの芸人になりすましたりいたしまして旅へ出ましたらお遊さんは二人から御寮んはんと呼ばれるのでござりました。さういふこともお遊さんにはたのしいあそびの一っなのでござりまして多くはたしなみませぬけれども女御飯のときにすこしお酒がはひりました串々だいたん姦りましてゆつた呈したおちつ茎見芸がら薯ぐころくと派手なわらひごゑをたてるのでござります。」捨子重子姉妹と谷崎との小旅行が全くこのとおりだったなどと言うのではない。が、作中おしづの役どころと現実重子の心づかいとは軌を一にしていたとは証明できる。鮎子へあてた手紙に「途中調べもの?ため江川に一二拍」とあるこの「一二拍」こそ、後年『雪後庵夜話』の冒頭、「M子とS子と私、この三人は十月の或る夕暮に大阪から上りの汽車に乗って普通急行の停車する或る駅で下りた。何処と云ぶことは書かずにおくが、大阪から名古屋に至る中間の駅である。M子より四っ年下のS子は当時二十八九歳で、年よりはずっと若く、二十四五歳に見えた。三人は表向き二人連れの姉妹に伯父が付き添って行楽の旅に来たと云ふ体裁で宿を取った」とあるのに符合する。

28フ(11)

ういざん表向き、前夫人千代子が佐藤春夫の妻となっての初産を見舞うのが目的の東上と見える。が、一つには手紙にあるように鮎子の就学上の配慮や相談もそうだし、谷崎自身の現夫人との離婚、摂津夫人との同棲ないし結婚の意志をも早や伝えるのも、目的の一つにしていたはずだ。この「江川」での一泊に谷崎らは当局の臨検に遭い、窮地を機転で救ったのは「S子」即ち義妹重子だったことを『雪後尾夜話』は感謝と称賛の弁で明している。先の『藍刈』の旅は、この谷崎東上の旅を終えてまた横尾に戻ってから書かれているわけで、さきの、、、、「三日遠足」といい「江川に:一泊」といい、何にしても谷崎が姉妹との秘密旅行を以て『盧刈』の下敷きにしていることは確実だ。「これは筋は全くちがひますけれども」と恋文に言うのも、ここに関係ぞうがんしているので、つまり「江川に一二拍」的経験を創作に象嵌していることの断りになっている。十月七日づけ手紙の追伸に、「しげ子御嬢様にも何卒宜しく御伝へ願か上げます」とは、「遠足」や「一二拍」への同行がすでに打合わせられていての「宜しく」であろう。では、谷崎はこの"事実"有った秘密の旅を利用してのみはじめて『藍刈』後半を書き進めえたのか。そうではない。物語の筋、構想はこの作の場合、執筆前、ないし少くも前半執筆中にすでに十分確認されていた。同じ『雪後庵夜話』の中で、谷崎はこの作に触れて、「最初は荘漠とした幻想のかたまりのやうなものが雲の如く脳裡に湧き、何かしらものを書かずにはゐられなくなる。そんな状態のまま原稿用紙に向ふことがしばくである一と般論を述べ、「するうち、次第に考が纒まって行って、--さういつてそのをとこはしやべりくたびれたやうに言葉をとぎつて腰のあひだから煙草入れを出したので、いやおもしろい窪しをきかせていた二てありがた享んじますのあたりまではすらく蓮んで

(12)288

行った」と話しているのだ。この場合、創作が"事実"を模倣したのでなく、どうやら"創作"のために事実が演出され合意で演戯がなされたと考えても差支えない。そのような「芝居気」が作の、執筆の、感興をいやが上に促進したのである。谷崎潤一郎には類稀な創造力構想力がある。と同時に、リアリティ確保のための周到を極めた私生活上の演戯性にも我々はもっと注目する必要がある。いわゆる谷崎の芸術至上主義とはまさにこれを謂うのでなくてはならぬ。事実に芸術を模倣させ、造体験させているのだ。『蓼喰ふ轟』以降、少くも『源氏物語』現代語訳を含めて『細雪』までを、ほぼすべて私は「捨子もの」と考えているが、その作の一つ一つに私生活の事実が谷崎式に反映、などというも愚かに"構想"はつねに"実演"によって追認造体験されながら創作の資とされた例が枚挙にいとまないはず、と、私は確言する。さ扱てさきの「三日遠足」の茸狩りには、妹尾夫妻も同行していたらしいことが「父より」の手紙を見ない前に、鮎子から妹尾にあてた手紙で分かる。松茸は十月十七日には東京へ到着したようだ。

九十六昭和七年+月+八日関口町佐藤方谷崎鮎子より妹尾君子様あて封書毛筆大分お寒くなってまゐりましたいつも御無沙汰ばかり申上げまして申訳けもございません皆様お元気の御様子でお喜び申上げて居りますこちらも皆元気でございますからどうか御安心下さいまし、とて昨日は松茸をいたゴきましてありがたうございました蓮もい、にほひでこんなのは始めてだと大喜

289(13)

びでございますお端書をいた寸きまして皆首狩りに行ってみたくなりましたが東京では行く所がございませんのでつまりません二言前か早稲田大学の五+年のお祝覇からぽんく花火をあげ唐ります昨晩神楽坂へ葛りましたらずっと早稲田のちやうちんと旗が出してございましてにぎやかでした。こちらへお遊びにお出で遊ばしませんかお待ち申上げて居りますでは、末筆なから小父様みつ子様にくれハ?もよろしくおつたへ下さいまし。+月+八日鮎子
株尾御小母様

「途中から松茸を送った」として、もし丁末子夫人が同行なら礼状が妹尾君子あてになるわけもない。推測すれば、松茸と一緒に妹尾夫妻も「途中」退散したのではないか。なぜなら松茸狩りは郵送の日数からどうみても「三日遠足」の初日十四日のことのように想えるからだ。妹尾らは谷崎秘密旅行のカムフラージュ役を引受けてはいなかったか。

九十七昭和七年+月二+四日関口町佐藤春夫方谷崎潤一郎より妹尾健太郎様あて「親展」封書毛筆昨夜上山華人留守宅に一泊、これより輝青年のことにっき蒲田を訪問する予定です、多分うまく行くと思びます、

(14)290

ひとり旅に出てゐて家庭のことを考へると、丁未子の立ち場なども冷静に考へることが出来ます、小生が丁未子に望むところは何よりも出所進退を立派にしてもらひたいことです、小生の一番恐れるところは、丁未子が哀れむべき人間、尊敬に値ひせざる女になってしまふことです、婦人に虚栄心のあるといふことは、悪い事ではない、唯その虚栄心を有効に生かしてくれることです、丁未子がおせいなどを相談相手にして小生の愛を取り戻さうなど?してゐることが事実とすれば、甚だ悲しむべきことです、可哀さうといふ感じは起りますが、敬愛の情とは最も遠いものになります、丁(ママ)(ママ)未は何処までも彼女らしく自尊心を以て行動して貰たく、又、それに堪へ得る婦人だと思びます、此のこと、貴下よりよろしく御仁へ願ひたう存じます

こ≧真+円封入いたします+円は先達奥様より拝借の分です、彦根旅行中いろく珍談あり(旅館で臨検にあひ危さ所を切り抜け申侯)帰宅後ゆっくり御請いたすべく候、輝さんのことはいづれ電報にて御知らせいたすべし廿四日潤一郎妹尾健太郎様御奥様(欄外二)別れるとしても敬愛の情を以て別れたきものなり、丁末子が浅ましく哀れなる女になっては互ひの悲しみも膚深かるべし、蕎家の書い奮のは簡集璽肌に行動する高然故よくく立

291(15)

派に振るまふこと肝要なり、遠き将来のことも思って、勇気を以て進退してもらひたし、そ小生も生涯丁末子を尊敬いたすべし

コノ手紙ハ為替ノ時間ガオクレタノデ廿五日二出ジマス今週青年ガ乗テヰマス僕ハ廿七日ノ夜ニハソチラヘ帰リダイトオモヒマス

いかに谷崎愛の衰えぬ私も、この手紙だけはなかなか素直に読めない。丁末子夫人の動顛や逆上もこの種の事態に遭遇した普通の「妻」の域を烈しくは踏み外していまい。谷崎の我儘で暴君的かつ加害者的な態度が露出していて、一つ一つの言葉はそのとおりに読めても、ちょっと一方的に現夫人を断罪し過ぎている。根津夫人にあてた恋文と全く同時期のものであることと比較しても、この丁末子夫人に対する心情には「芝居気」のかけらもない本音そのままだと分かり過ぎて、読んでいて居ずまいが悪い。逆に言えば、恋文の方が特別のもの、巧んだものと分かるのだ。『武州公秘話』の中で『藍刈』が構想され、さらに次の『春琴抄』を予期しての演戯いっぱいの恋文だったと分かるのだ。とりわけこういう恋文がこの時点に急に書かれた理由は、恋の進度との関連以上に、『藍刈』という作品が書きたくて堪らなくなったからだろうと私は推断する。それこそが『武州公秘話』中断の直接の原因だったはずだ。『武州公秘話』では、二人の主要な女性に丁末子、捨子二人の面影が混線した気味がある。それに作中桔梗の方の最後が、父の報復に自身画策して鼻をそいだ夫則重に対する尋常な妻として晩節を完うすることにもなっていた。これは谷崎との恋を打切って落胆の摂津清太郎という夫のもとへ戻る捨子夫人と

292(61)

い一た、やや現状に逆行する話の納まりようで、私は、+月七日付の「御美様、どうぞく御願ひでございます御機嫌を御直し遊ばして下さいましゆうべは帰りましてからも気にか、りまして又御写真のまへで御辞儀をしたり掌を合はせたりして、御腹立ちが癒へますやうにと一生懸命で御祈りいたしました眠りましてからもぢつと御睨み遊ばした御顔つきが眼先にちらっいて恐ろしうございました、ほんたうにゆうべこそ泣いてしまひました」という、こう書き写していてもなんだか吹き出したいような恋文を書かせた、本当の理由のように想像されてならない。さればこそ『藍刈』に取りかかる私的な必要が谷崎にはあった。『藍刈』は一つにはそういう催しによって成立って行った名作なのである。お逆様という理想像を二人の愛、かなり風変わりな恋の焔が、取り包んでいたわけだ。念のために谷崎のこの小石川佐藤方からの手紙を受取ったころ、妹尾夫人は丁末子夫人のこんな手紙を読んでいたことを我々も見て置こう。

九十八昭和七年+月二+六日丁末子より妹尾君子様あて封書毛筆御丁寧なお電話とお手紙有難う存じました院展御ゆっくり御見物なすっていらつしゃいませ明後日朝参上いたしまして京都のおみやげ話おうかドひいたしませう明日はよる草木氏と一緒に帰ってくるさうでございます(ママ)だし今加藤夫人と同氏御帰宅で後藤氏と和島夫婦でくわん談を交へてゐるところでございますせ三味線などひいて大さわぎしました御奥様もいらつしたらどんなに面白かったかしらとお勢いさん

293(17)

といひ合ってみます服わ国さん達に渡します何卒倒ゆっくりお使びいたドきますでは明後日あさおめにか?りませう御返事まで旦那様へよろしく十月二十六日妹尾御奥様

御ゆっくり行ってらつしやいませ

丁末子拝
 
 

余のことはすべて措いても、手紙という手段に籠めて谷崎潤一郎はよかれあしかれ、どれほど他人と較べて率直に言いたいことを書いているか、感想としては末梢に部類するようでいて私はこれほど谷崎理解に有効な理解はない、少くも手紙を一つの主役にしたてた本書では、この辺が大きな見どころだと言わずにおれなくなった。(小田原事件最中の佐藤春夫へ叩ぎつけた谷崎書簡なども凄じいまでに率直を極めている。)とまれ谷崎が少くも私生活上いわば生涯のピークに差しかかっていたこの時に、佐藤春夫もまた対照的におめでたい記念日を迎えていた。

九十九昭和七年+一月六日

関口町佐際春夫より妹尾律太郎様あて

封書毛筆

(18)294

謹啓先日は早速御祝電賜はり感謝致しました小児の名は去二日別辞とつけました右何卒倒承知置きの程願上ます+一月五日春夫妹尾様御曹吉昭和七年十一月±一首関口町佐藤春夫より妹尾健太郎様あて封書毛筆謹啓一昨日は方哉への御祈として結構な品物御恵贈賜はりいつも乍らの御芳情恭く御礼申上條ひだちたくま一つ母子とも日ヒ肥立居り候間御安心賜はり度先ハ右御礼を兼ねて御殿まで忽々十一月十三日夜佐藤春夫妹尾健太郎様過日は御夫人より家内宛御懇切なる御見舞を頂き喜び居り候も尿中不本意乍ら失礼致し居候事と存し候間何卒この段よろしく御仁声下され度額上條

295(19〕

この間に谷崎潤一郎は見過ごし難い大事な手紙を摂津夫人捨子あてに二通つづけて書いている。

いつぺんに御寒くなりましたが御寮人様には如何御くらし遊ばしていらつしやいますか、先夜丁未子が御目にか?りました由をき?ましたので御寮人様もこいさまも御元気で御いで遊ばすこと、存じ少からず安心いたしました御家庭内にあまり御苦労がたえませぬ故外で愉快に遊んでいらつしやる御様子をき、ますとまあよかつたと思ふのでございます目下私は先月号よりのっゾきの改造の小説「藍刈」といふものを書いてをりますがこれは筋は全くママちがひますけれども女主人公の人柄は勿体なうごさいますが御寮人様のやうな御方を頭に入れて書いてゐるのでござります、全部で百枚程のものでござりまして十二月号で完結いたしますので、そがんぴのうへで私自筆の原稿を雁皮ヘオフセツト版にて印刷いたし桐の箱へ入れまして非常なる賢沢本として正月に出版いたしますつもりでをります、さしゑは樋口さんに頼みまして女主人公の顔をそれとなく御寮人さまの御顔にかたどり描いてもらひたいのでござりますが私からはさうはっきりと申しにく、困ってをります御寮人様が御許し下さいますならば一と言おつしやって下さいましたら有り難う存じます、両ヒ印刷にしました原画と原本は別に保存して

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(ママ)御寮人様の御筆にて箱書きして頂き御めしもの、一部か何かにて表紙を作ておきたいと存じます、私は今後少しにても御寮人様にちなんだことより外何も書けなくなつてしまひさうでござります、しかし御寮人様の御ことならば一生書いても書き?れないほどでござりまして今迄とはちがったカが加はって参り不思議にも筆が進むのでござります、全く此の頃のやうに仕事が出来ますのも御寮人様の御蔭とぞんじ伏し拝んでをります、いづれ時機がまゐりましたらば自分の何年以後の作品には悉く御寮人様のいきがか、つてゐるのだといふことを世間に発表してやらうと存じますあ、こんなことを書いてをりますと限りがございませぬ、御目にか、りたくてなりませぬがそれでも御寮人様を思って書いてをりますのでいくらか慰められて居ります、今夜はこれだけにいたしまして又後便にて申上ます十一月八日夜潤一郎御寮人様侍女樋口さんへ依頼の件は御めにか?りまして御意見をうかドひましてからにいたします多分十三日午後うかゾびますが後便にて御打ち合せいたします

)21『雪後庵夜話』や『椅松庵の夢』の予告と言える、こういう口調自体にたとえ「芝居気」ありとするも、xηそれは谷崎真実の恋の深さと、何ら矛盾するものではなかった。それを十分察しさせる燃えた口調で、

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「五十に近」いと『藍刈』中に述懐した谷崎の老いの予覚を若々しく裏切っている。「御寮人様」の家庭内の「御苦労」を思いやる谷崎が、現夫人工未子の苦痛には眼を背けている感じは、平凡ながらやはり恋は盲目というべきなのか、それとも谷崎ならではの芸術至上主義的打算の深さとみるべきなのか。けな私の思いは八分がた後者に傾く。谷崎を財す気ではむろんないが、どんな経緯であったか「おせいなどを相談相手にして小生(谷崎)の愛を取り戻さうなど?してみることが事実とすれば」丁末子夫人は本当に辛かったのだと、気の毒に思うだけだ。同時に、谷崎の「妻」としてこういう事態に処した点では前夫人千代子は稀に見る辛抱強さを発揮したと言える。むろん千代子夫人には佐藤春夫のような熱烈な支持者があったにせよ、辛抱のよさは当の加害者谷崎自身が呆れもし感嘆もしたほどだった。この点、知的な現代女性と目されていた分だけ丁末子夫人は脆く崩れ易かった。妹尾夫妻もはっきり夫人の側にばかり立った人たちとは言い難い。根津夫人捨子への谷崎の関、心についても妹尾らが早くから関知かっ周知しつつ、ずいぶん協力さえしていたことは疑えない。
 
 

†ゑ又いくらかあたふ窪りましてござい手、先日は渠が頂薯のをいたしまし毒度くありがたう存じます。京都のおばあさんは毎日子供になじんでまゐります、森田様に大変御、心配してい^ママ)あひにく、たゾき且先日詮蔵様衝立ちより下さいましたが生憎朝でそれを知らずに罧てをりましてお目にカ、かたがたたくらず何とも失礼いたしました、暇になり次第御礼勇ヒ仕送りのことなどうか寸か度森田さま御定へ参上いたし御姉様に拝顔いたしたいと存じますが御寮人様にもその節御同道下さいましたら有難く存じます、かへりに又心斎橋でも散歩いたしたうござります

 (22)298

今日までの私の経験では恋愛事件がおこりますと一向仕事が出来なくなるのでござりますが御寮人様のことを思ひますと筆がいくらでもす?むのは唯ヒ不思議でございます、御蔭様にて私の芸術は一生ゆきっまることはござりませぬ、御寮人様が即ち芸術の神さまでいらしって私はそれに恵まれてゐるのでござりませうほんたうにそれを思へばどのくらゐの御恩を受けてゐるか分りません、御寮人様こそは私の思想精力の源泉でいらつしやいます樋口氏は近日拙宅へ来てもらふつもりでをりますが来ましたら一緒に御宅様へうかゾひハィウェーか何処かへ参りませう、尚ヒ私の方からも一度京都の樋口氏宅へまゐるつもりでござりますがその節御都合がよろしうござりましたら御供いたしたうござります、丁末子は二十日頃より暫く東京へまゐります筈になってをります、そのころは私も新年号の用事がすみひまになります、何にしても早く大演習がすんでしまってくれることを希望いたしますもうあと≡二日で御目にか、れるとおもひますと楽しうござります十日夜潤一郎拝御寮人様侍女

離婚、同棲ないし結婚に至る手続きで、もう森田本家との折衝も進行していたらしいと分かる。「大演習」は文字どおりに取るべきなのだろうが、家内紛糾を寓したお得意の隠語かも知れない。かくて十

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今日までの私の経験では恋愛事件がおこりますと一向仕事が出来なくなるのでござりますが御寮人様のことを思ひますと筆がいくらでもす?むのは唯ヒ不思議でございます、御蔭様にて私の芸術は一生ゆきっまることはござりませぬ、御寮人様が即ち芸術の神さまでいらしって私はそれに恵まれてゐるのでござりませうほんたうにそれを思へばどのくらゐの御恩を受けてゐるか分りません、御寮人様こそは私の思想精力の源泉でいらつしやいます樋口氏は近日拙宅へ来てもらふつもりでをりますが来ましたら一緒に御宅様へうかゾひハィウェーか何処かへ参りませう、尚ヒ私の方からも一度京都の樋口氏宅へまゐるつもりでござりますがその節御都合がよろしうござりましたら御供いたしたうござります、丁末子は二十日頃より暫く東京へまゐります筈になってをります、そのころは私も新年号の用事がすみひまになります、何にしても早く大演習がすんでしまってくれることを希望いたしますもうあと≡二日で御目にか、れるとおもひますと楽しうござります十日夜潤一郎拝御寮人様侍女

離婚、同棲ないし結婚に至る手続きで、もう森田本家との折衝も進行していたらしいと分かる。「大演習」は文字どおりに取るべきなのだろうが、家内紛糾を寓したお得意の隠語かも知れない。かくて十

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一月十二、三日には『藍刈』が脱稿した。『盧刈』こそは「芸術の神さま」がそのままお逆様と化して成った作だった。では、お逆様とは、お逆様に擬された根津夫人捨子とは、この『盧刈』という作に於て作者谷崎にとっていかなる意味での理想像だったのか。それはまた『藍刈』をどう読むかという問いにも繋がる。それにしても迂潤なはなしだった。「夢の浮橋』について書いた時(「海」一九七五年九月号「谷崎の『源氏物語』体験」)に私は気づいてよかった。昭和三十四年の『夢の浮橋』は昭和七年の『藍刈』を文字どおりに仕上げた作だったのだ。誰もが、私を含めて、『夢の浮橋』は昭和二十四年の『少将滋幹の母』や昭和五年の『吉野暮』などを発展させたいわゆる母子相姦達成に至る一連呼応の作と見ていたし、それは紛れもない真実だが、その際『藍刈』に思いつく人が絶えてなかったというわけだ。だが、何に似ていると言って『夢の浮橋』は、よほどわるく言えばまるで焼き直しか二番煎じかとも見られかねないくらい、さまざまな点で意図的に二十七年前の『藍刈』一篇にこそ重ね合わされていた。だが、本当に誰も今まで気づかなかった。少くもそう書いた人はいなかった。『夢の浮橋』も私の読んだようにそれ以前に読んだ人がなく、あたら見当ちがいへ久しく沈みこんでいた不運の作だったが、『藍刈』に至ってはその比でない。発表以来四十四年間も名作傑作と呼ばれ『夢の浮橋』より遙かに多く読まれながら、精妙な谷崎の趣向が読みとれないまま『夢の浮橋』と全く同然の誤解、無理解に曝されつづけてきたのだ。早々と具体的に言えば、『藍刈』という夢幻能仕立ての作品で、ワキに当たり谷崎その人にもほぼ正

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確に重ねられている「わたし」の前へ芦間を分けて姿をあらわし、月光にぬれながら遠いむかしの世にもふしぎな物語をして聴かせる「男」は、繰返し当人が二度三度自分の母は「お逆様」の「実の妹」の「お静」であると確言し明言するにもかかわらず、それこそうわべのことで、実は彼の父「慎之助」が「お逆様」に産ませていた子なのである。ところが、そんな一見無茶なはなしを信ずるはおろか思いっく読者・批評家は絶えて四十四年間に畦の一人も表に立ちあらわれなかったのが、問題の一つ。その「男」の語り口に、そして谷崎潤一郎の絶妙な話術と文体にたぶらかされて、馬鹿正直なくらい「男」はお静の子とばかり読んできたために、作品の奥行や主題や妙趣がさっぱり正解をはずれて、いささかむにゃむにゃめいた名作にされ、真正面からの手応えたしかな評価や鑑賞を受けられなかった作者と作品の不運不幸というのが、問題の二つ。作中の女主人公であるお逆様が伯母ではなく、生みの、そして憧れの母親であると読めれば、右の問題は一挙に鮮かに解けて、一度そう読めば『夢の浮橋』の時にもそうだったようにコロンブスの卵よろしく、もう二度とその「男」がお静の子などとは思えもしなくなり、『藍刈』という小説が生き生きと新しい面持に若返って、かつてなく読者を魅了するに立ち至る。『藍刈』は、わざわざそれを否定する人すらあるにかかわらず、『吉野暮』を直かに受け、それ以上に遥かに大正八年の『母を恋ふる記』の雰囲気をよく受けた、みごとに典型的な谷崎潤一郎の「母恋い」小説なのだ。)窃早くから、実は、意識下に気づいてはいた。と言うのも、『吉野暮』以上に先ず、心意かれた作品たつKηた、のに、追い追いに『盧刈』に私は不満を覚え、向うへ押しやってしまったのだ。理由の第一は、物

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語っている「男」がお静の子であっては物語の主部がちいさく遠くに感じられるばかりで、聴く「わたし」も語る「男」も御都合主義に仕立てられた、ともにただのワキ役になって一篇の結構が大きくふくらまないばかりか、例えば「わたし」の登場部分などことごとしく冗漫に見えかねないこと。第二は、お静の子であっては、お逆様への異様に久しい愛執が真実味をもたず、生母が妙にないがしろにされるばかりか、谷崎独特の妻11母をはさんで父と息子とに生きる濃厚な一体感が鋭く結晶してこないこと。つまりは第三に、憧れ心がしんそこ満たされず、物足りないままに読後しきりに苛立ってくること。おそらくお逆様をこそ「男」の母と思ってしまえば、今あげた全ての不満は雲散霧消して一気に月の光の玲瀧と美しく輝くように、『藍刈』一篇の真価が立ちあらわれることを、この作品を熟知の読者なら早くも納得されるだろう。だが私は、「お静」の子とある念の入った断言を多くの読者評家ともども覆えせるものとは思えぬまま、一種生煮えの幻想趣味だとして、ながい間、この期の谷崎作品中とくには重視しないできた。捨子夫人にあててお逆様はあなた様と書かれた谷崎の恋文がすでに種明しであったのに、とりわけ「愛着」のある作だという谷崎の言葉をも、松子夫人ゆえとこそ思え作の出来栄えとは無縁の私的な愛着なんだろうと深く顧みなかった。何という迂潤なはなしか。そこで私は『海』一九七六年七月号に『お遊さま』一篇を寄せて『藍刈』の読みを根本からあらためる考証を、本文に密着しながら仕送げた。お逆様は決して.男」の伯母でなく、生みの母親だった。証明は最初のうち極めて難儀だった。が、本文を信じて読めば心証は鮮明だった。ただ、随処に置かれた人物の年齢に関わり合って読んで行くと、お逆様がお静に代って「男」を産む可能性は一見皆無に見え・キイしかもそれが絶妙にひっくり返せるのだ、鍵ナンバーは、=と、半Lと.八十Lだと。その詳細は

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「海」の考察(筑摩叢書『谷崎潤一郎』所収)を参者願いたい。多分多くの人が、たかがそれしきのことをと曝うだろう。だが曝って済むことではない。谷崎に於ける「母恋い」はその文学的主題の中で最も重く大きな本質的な主題の一つである。とすれば、従来数えられていたこの系列の作品群中、どこから見ても最も典型的に美しい物語である『藍刈』が見落されていたのだから、作品鑑賞としてはむろん、谷崎論の一環としても私が出した解答は哩って見過ごせない性質のものだ。と言うのも、一つには『痴人の愛』『蓼喰ふ轟』以来『細雪』に至る創作群の中で『盧刈』の占める位置が、二つには『藍刈』という作品世界そのものが、三つにはこれを書いていた時の谷崎の私生活およびその作品への影響や反応が、昭和初年の谷崎文学にとって際立って大事なことを物語っているからだ。この三つのポイントは当然ながら微妙に絡んでいて、併せて一つの『藍刈』とは何か、という問題を構成している。こう言える。『藍刈』のお逆様は、谷崎が関西移住後に明確に意識し創造した最初の「母」だ、と。またこの「母」は、谷崎が、お逆様を意識してほぼ正確に摂津夫人捨子に輪廓を重ね合わせてのみ創造しえた、と。そしてこの「母」を書きえた時に谷崎は摂津夫人との恋を十全に達成したのだ、と。かたしろ二人が特別の「愛着」をこの作に対して持つのはむりもない。「母」なるものの形代として愛された、ことで捨子夫人ははじめて「神と玩具との間」という呪縛をはなれて「妻」の座へ近づけた。千代子夫人も丁末子夫人も、谷崎潤一郎にとっては「母」なるものを体しえなかった女性だった。源氏物語で言)27うなら、先君の生母桐壺、理想の義母藤壷との同一人格としてのみ紫上という妻は物語世界に女主人公xやとして君臨しえた。同じ妻でも奏上や六条御息所では所詮先君の切ない母恋いは満たされなかったのだ。

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お遊様=松子という女人は、作品の中で谷崎の「母」となり、現実には「妻」へと近づいた。それが『藍刈』の真相だ。とすれば、お逆様を「母」と読みとれなかった四十四年間の「谷崎論」は大きな欠陥をもっていた、少くも正確な論を立てる上での基礎作業に大きな欠陥があった、とは、言わざるをえないことになる。『藍刈』には、だが今一つ別に着目すべき大事な観点がある。即ちお逆様の「実の妹」の登場だ。強いて言えばその妹お静がお逆様を慕う慎之助の名目の妻となって夫と姉との橋渡し役をしていることだ。谷崎にとって妻の「実の妹」はいつもゆるがせにできない存在であって、一人は千代子夫人の妹「おせい」であり、もう一人は捨子夫人の妹の一人、S子こと「重子」がこれに当たる。前者は『痴人の愛』に至る多くの作品に、そして佐藤春夫の『この三つのもの』にも「お雪」の名で登場する女性であり、目下、丁末子夫人破鏡の危機に相談役を引受けていそうな忘れ難い女性である。谷崎はどうやら京都の人に嫁いだはずのこの「おせい」と、自身関西へ移住後も親類づきあいは絶っていなかったし、京まつのや都や神戸や、自宅ですら顔を見合う機会はあったようだ。家集『松廼今集』に、「京の女と奈良あたりに遊ひける頃」という春の歌五音が「造成弁花見」「室の津にて」の各一首に先立って録されており、あモびb室の津の遊女を想う歌はあの『乱菊物語』へ結びつくとみて、明らかに昭和五年二月の取材であるからは、「造成弁花見」は遅くも昭和四年春、「京の女と奈良あたりに遊ひける頃」も多分同じ頃の春と見なければならない。この点、昭和五年七月号の「ス.ハル」に『秋・冬・春』十二首を寄せた中に、「大和めぐり六首」として「造成弁花見」の歌もろともこの五音が発表(一部字句は異っているが)されているのよりも、『松廼今集』の記述や記載の方が実情に近いはずだ。

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この「京の女」をすでに摂津夫人と見立てて間違い、とも言えない。京都とも無縁でない家柄だし、「大阪の女」と如実に言わねばならぬほどのことではないからだ。が、これを「おせい」に差し当てる可能性もなくはない。野村尚吾が、この頃の一と夏をわざわざ黒谷山内に籠った谷崎の行状を、「おせい」に懸けて不審としていたのも思い出せる。が、目下は「おせい」ではなく森田重子の方へ眼を向けたい。とは言え、この二人、谷崎の胸中では或る具体的な脈絡を保って眺められる対象でなくはなかった。「文学界」昭和五十一年六月号に私は『「添田」と「お雪」』なる小文を寄せて置いた。「添田」については早くに触れたので措くが、佐藤と谷崎とが共に小田原事件に取材した小説の中で谷崎に擬した人物の姓である。一方「お雪」とは佐藤の『この三つのもの』に於て実在の「おせい」に当てた名前である。この小説を熟読していた谷崎には忘れがたい名前である。しかも谷崎は生涯の代表作と目すべき後年の『細雪』ヒロインに、敢て「雪子」の名を与えていた。「おせい」と同様、現在の妻の「実の妹」に、だ。『細雪』ほどの作品で、姉妹の命名に作者が周到な考慮を加えなかったわけはなく、一方小田原事件渦中の義妹「お雪」の意味についてもつくづく銘記していた谷崎が、選りに選って『細雪』の中で現夫人捨子の実妹に「雪子」と名づけたのは、果して「細雪」という題の文字に惹かれたこの作限りの偶然と読んでいいのだろうか、谷崎は谷崎流に物を言わせているのではないか。『藍刈』は、ともあれこの義妹がはじめて作中に登場する作品として注目されるばかりか、作の要請に於て現実の成行と「筋は全く違う」にせよ、この妹は姉の愛人の名目の「妻」として夫を姉に逢わせるかしづ役目を引き受ける、或いは夫とともに姉に侍く女性として登場する、点に注目しなければならない。

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「筋」は違っても、『藍刈』はまた『細雪』の前駆として重い意味をもつ。谷崎文学に造型された森田重子の姿はこの二作でのみほぼ真正面から眺められ、『三つの場合』『雪後庵夜話』そして幾らかの重子あて谷崎書簡が参考資料を提供している。、、、ここは率直に眺めよう。妹重子は姉松子と微妙に一体の、光に対するかげのような女性であったとは、捨子夫人自身が側近の人に洩らされたと聴いている。各方面各資料から窺うにたやすい事実なのである、この姉と妹こそ相い映じ相い発して谷崎潤一郎の「光源氏」体験に光とかげを添えた。これはもう全く讐楡的にではあるが、谷崎は上方の風土に身を沈めて、この光陰一如の姉妹とさながらに結婚したと考かいさいえた方が、あらゆる面で間違いがない。谷崎家は森田姉妹に占領された、と谷崎自身がのちに快哉を叫んでいるのだ。そしてその上で、私は、『盧刈』のお逆様とその妹、その夫との関係を想起し、事実はかしづいたわいかにあれ、妹と夫とが相接けてお逆様に侍いたのと相似た気味が、捨子夫人を助る谷崎と義妹重子との心情の中にもありえただろうと想像する。光のかげのような眼に見えない重子の存在が、谷崎文学大団円に至るまで意味を喪わないだろうということを私は大事に推量したいのである。ここまで言えば、谷崎にとって義妹重子のもつ意味を主題として考える作業は自っと別の場所を要することになる。今は視点を『藍刈』の頃に限定しながら考えれば、谷崎はこの頃まで、なお未婚の佳人であった"森田重子との結婚"を、一度も考えたことはなかったのか、という問題点に逢着する。思うにこれほど実現の可能性に富んだ縁組はなかったろう。谷崎がどう摂津夫人捨子を望もうが、一と頃のお逆様同然に所詮絶望だった時期は長く、谷崎は断念の辛さを忍ばねばならなかった。その心情は『藍刈』の慎之助にうまく再現されているのだから、谷崎の情を察しえた摂津夫人にそれなら実の妹

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の重子をという気もちが生じてふしぎはなく、谷崎にもその思いがあっての『藍刈』の筋だったろう。作中模之助とお逆様、お静との初対面は「道順堀の芝居」で男の「まうしろの桟敷」に姉妹が来ていた時としてある。どんな芝居を観だとは書いてないが、少くも谷崎潤一郎が摂津夫人を想起する時、この芝居ないし芝居小屋は或る重い意味をもつ。谷崎が、大阪南地の「千福」、芥川龍之介と同座の席ではからずも根津夫人捨子と初対面の昭和二年三月一日は、また谷崎が、「君(芥川)と佐藤夫婦と私たちの夫婦五人で(道頓堀)弁天座の人形芝居を見」に行った当日でもあった。この日の舞台では『心中天網島』の「河庄」と「紙屋内」の段が上演されており、これがそっくり『蓼喰ふ轟』に利用されて、じは斯波要が日本の伝統へ拒みがたく惹き寄せられるはじめての重要な契機をなすばかりか、摂津夫人捨子の面影がはじめて或る理想を宿すかたちで小春ないしお久という女人に映し出されることになる。そして翌日には芥川と谷崎は、早くも摂津夫人に誘われて「ユニオン」というダンスホールで遊んでいる。『蓼喰ふ轟』に於ける『心中天網島』という人形芝居の意味の重さについては千葉俊二という若い学究の労作(「近代文学研究と資料」2号)があるが、作中の観劇は「三月末の彼岸ざくらが綻びそめる時分」とあるのをこの千葉は、「その後夫婦して(千代子夫人と)もう一度見に行ったのかも知れない」と推量する。しかし姉妹との秘密旅行に触れて書いたように、この時も谷崎は三月一日ないし翌日ダンスホールでの歓楽をも含めた印象の上に、早くも『蓼喰ふ轟』を構想、持ち前の強引さで摂津夫人を煩わす体で、それこそ桟敷も前後に隣り合うか共にするかほどの親しさで再度の観劇を実現したのかもしれぬ。その時に根律家の桟敷に妹の重子や信子の姿もあり、或は根津清太郎の姿すらあったのではないか。そして

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森田重子が谷崎に与えたその当時の印象は、『藍刈』のお静の表現にほぼ重なるものではなかったか。とすれば、谷崎の好む、「神」にも「玩具」にも共にやや足らわぬ、と言って、また「母」なるものでろうもなければ、蘭たけて徳の厚い、それなりの芝居気ももった、という人柄でもなかったのだろう。摂津夫人捨子の方から、何度かお逆様が慎之助にお静との結婚をすすめたと同様に、妹を、重子を、谷崎の妻にとの申入れがなかったではあるまい。それが作中では実現しても現実には実現しなかったのは、現実というものの限界を知った谷崎なりの賢こさに違いなく、それは、重子をもやがて身辺に誘致し親近したい秘かな欲望とも決して矛盾するものでなかった。捨子夫人との同棲、結婚後も谷崎が重子を身辺に招き寄せるのにどんなに熱心であったかは『雪後庵夜話』などに異様に詳しく、また義妹の結婚に一向身を入れず、縁談にも終始下熱、心であったことは雪子(重子)を私邸にとり込んだ『細雪』の真之助に、よくあらわれている。その結婚後もかなり強引に重子と夫渡辺明との離間を(悪くは取れないが)考えていた事情は、『三つの場合』などにふと認しいまでに率直に書かれている。思うに義妹重子は、決して紫上とはなりえなかった。しかし『細雪』の雪子同様、谷崎にとってはあの光源氏が玉髪を愛したような具合に重子は愛しい存在だった。玉髪が光をはじめ疎ましく、のちには慕ったように、重子も初対面の頃の谷崎よりは姉捨子との恋を結婚へと運んでいた『藍刈』の頃から、自ら進んでかげの親切を尽したいすでに義兄のような、または擬似愛人のような存在になって、終生相変ることがなかったのだろう。谷崎家集『初音きのふけふ』の最晩年に属する歌の中に「重子夫人」を詠った、「五十余年五しき道を歩みたまひすがた形を崩し給ばず」の一首があるが、不思議というも愚かな歌ではないか。

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第五章 神と玩具の間

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十三

かくて『藍刈』は書かれた。今や谷崎は『青春物語』を執筆のかたわら、もはや悠々、また一段充実の昭和八年を心がけている。

百一昭和七年十一旦二+日横屋谷崎潤一郎より妹尾律太郎様あて封書毛筆「美ヒ卯」の田舎そばと申候ハ田舎そばにあらずその実むかしの純江戸風のそばに御座候現在ハ東せいろう京にてもめったにあんなそばはなく候蒸籠に盛らず皿にもってくるのも古風にてなっかしく存候是くだされたく非く御試食套るべく候、そして東京の荏といふのは脅い奮のと御承知被下度候但し美ヒうにてハニ人前以上ならでは注文に不応、且手打ち故二十分ぐらゐ待たされ候、又あ上ろた、めませうかつめたいま、にして宜しきやと尋ねに参り候、これハ冷めたくなくては駄目に候つめたいところがねうちに候、「つゆ」はたくさんつけずほんの少と裾の方をぬらす程度にて食するを東東人は通といたし候苫小吉奪ぢにたびく注蔓れ候、東京にて田舎そば畠候♂つと野蛮にて又一層田舎くさきもの也あれを江戸児にくはせたらバ大阪にこんなものがあるかと、驚喜すること必定化、是非おためしあるべし二人前くらゐ大丈夫いけますと存候

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冊目

健様

百二昭和七年十二月六日本山村北畑谷崎潤一郎より妹尾様あて封書鉛筆昨日は失礼きんナくだされOOOOO金子五十封入いたし候ともかくもこれだけ御渡被下時計は是非御取り戻願上條無断にて持出し必要品を返さぬでは困り候箱書は出来て居り候へ共乾いてから御届け致候今日は遠足に参り候六日潤一郎妹尾様

丁末子夫人との別居状態および生計をめぐるこぜり合いの気味で、仲に立って妹尾が面倒に捲きこまれかけているようだ。「遠足」は例の松子夫人語でか、重子を含めての遠出か。谷崎の方が妹尾の近所に単身居を移している。

百三昭和七年十二月十一日谷崎潤一郎より妹尾健太郎.御奥様あて昨夜は失礼仕候御中きけの性ハ布の如くに御座候

(持参)封書毛筆

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一「大阪府全志」一著者「井上正雄」一発行所及発行年月ハ記載ヲ欠ク、コレハ小生ノ借用シタルモノハ全書第二巻ノ、、一ニテ奥附ガ附イテヰマセン、全部ニテ何巻アルカ不明ナルモ此ノ書ノ最終ノ巻ヲ見レバ奥附ガアルト思ヒマスカラ学校ノ蔵書二就イテ御調べ下サイ以上の如くに御座候封入いたし候金子三十円、これは先日の手金と合して岡本新居の家賃(十二月分)として家主へ御渡し願候次ぎに七面鳥残骸は昨夜小生の留守中丁未子一存を以て悉く和嶋夫婦に提供し酒もりを始め小生帰宅してみたら和嶋がもう一人の友達をつれてゐて酔ひつぷれ居り、三人とも泊まり込み候、たけが七面鳥は半分わける約束だらうと申候ところ丁未子が構はぬとの事にて仕方なく出したと申居候、丁末子も大分めいていの様子に見え候間何も小生も叱言を不甲そのま?にいたし置候、有様の次第に毛鷺は小生轟だ残念に存候何卒く御ゆるし下され度候

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今朝小生痕てゐるうちに丁末子大岳社へ参り候につき帰宅の時間不明故今夜のところは参上出来るかどうか不明に候、それより明日脚都合宜しく侯ハ9堺へ参りその帰途相談いだした方が一遍に片^ママ)づく存候へ共如何に候哉、今夜か明朝電話にて改めて卿相談致べく候+一日潤一郎

健太郎様御奥様

野村の『伝記』では、「丁末子は潤一郎と別れて、親しくしてきた妹尾健太郎の家に当分身を寄せた。潤一郎も妹尾夫婦の家ならば丁末子を預けて置く気になれたであろう。その年十二月(昭和七年)、潤一郎も魚崎町の横尾の家を引き払って、独り岡本の本山村北畑へ移った」とある。かつて一度位んだことのある本山村北畑とは、妹尾の住所と全く同じなのである。十二月十一日付の手紙では全くの別居でナさもなかった。そして丁末子夫人の欝々と暮らしていたらしいやや荒んだ日常がほの窺える。和嶋とはあの「おせい」の姓である。谷崎も家では鳴りを静めながら、盛んに妹尾との間で善後策を講じていた。

百四昭和八年一月+九日夜関口町佐藤千代より妹尾喜三子様あて封書毛筆あんまりなかいこ萄無勢畠上てしまひ御挨拶の申上様轟ざい喜ん、何卒く御ゆるし頂きたう存じます、おくればせながら明けましておめでたう存じます。皆様御揃ひますく璽げんうるはしく御整遊ばされ何より轟めでたく御祝ひ申上ます。私事もおかけ様にて一同無事に過ごし居りますゆへ揮わ様ながら御安心頂きます。扱で私出産の折は御ていねいなる御手紙を頂きその上に大へん結こうな御祈ひものを頂だい致しかまさや姦ぐありがたく、こ受おくれば芸がらあつくく御礼を申書す。方哉もこの腰元気よ

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ろしくニコくとわらふ様になりました、+七年ぶりの子供持ちにてまるで始めて生ん穫§わぎでからつきし意久地なく日ヒ子供におわれっづけて居ります。あゆ子まゐりいっもながら一方ならぬ御せは様にあづかりまことにありがたく、御厚礼を申上ます。つぎに一寸おたづねいたしたいことが出来ました、実は谷崎家の近状についてで御ざいます、せい予三四日前に上京いたしまことに意外なことをききました、尤もせい子の申すことゆへいちがひに信用もいたしがたく、しかしまんざら火のないところにあがったけむりともおもはれませずおたづね申上る次第で御ざいます何分手紙にてはことめんだうにてじゆうぶんうか寸へるともおもひませんがおさしつかへのないかぎりおもらし頂きたく御ねがひ申上ます。産後のせいかささいなことも、心にか言讐て日盛配は議だしく薯おちくねむれない様奮末蓼つし婆、勝手ながら折かへし御返事下よます様禦かひ申圭す。子供がまだねないでそばでふんく申し唐りますゆえ今夜はこれで失礼させて頂きます。末筆ながら御主人ま三津子まへくれぐ凄ろしく禦かひ申上ます。御琴の折からおく様くれぐも御墨のほど御祈り申上ます。乱筆御ゆるし下さいまし。かしこ一月十九日夜十二時千代妹尾御おくさま

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いろんなことが、さまざまによく分かる手紙だ。佐藤夫人千代が谷崎と摂津夫人との事情をまるで知らなかったわけはなく、それでもなお気の探めるほど急激な変化が谷崎の身辺に渦巻いていた、だからより詳細に知りたかったと、いうことだ。「谷崎家」への千代の思いが、意味深い。その頃、谷崎はのちに『芸談』と改題された『芸について』(昭和八年「改造」三、四月号)に取りかかっていた。私は早く、はじめての『谷崎潤一郎論』(一九七一)でこう評価している。この『芸談』は有名な『陰窮礼讃』とともに谷崎のまとまった芸術論としては最後のものと言ってよく、両篇が発表された昭和八年以後もむしろ霧しい随筆こそ書かれはしたが、もはや『芸談』『陰署礼讃』に説くところを根本から言い改めたものは全く書いていない。むしろ谷崎は繰返し繰返し両篇の趣意を、作品に随筆に具体的に実現してきたのである。昭和二年『饒舌録』ないし『芸談』から『細雪』へ、そして絶筆『七十九歳の春』まで、谷崎の境涯は小説も歌も随筆も、おそらく実生活をも含めて、全く一貫していると言いうるので、まことに『芸談』を中軸とする『饒舌録』『陰窮礼讃』の玉篇は、谷崎の人生中途にあって過去を顧み、自信に裏打ちされて前途を展望しえた文学的方法の核心を語り明あやしたものと考えて間違いない。語り口の平俗平淡なことに惑わされて軽視し看過するのは谷崎を見錯まることになろう、と。また、こうも註記している。伊藤整はその『解説』の中で、『芸談』を、『陰緊礼讃』とまた違った意味で「重要な長篇随筆である」と評しているが、一般にこの谷崎の文章はそう重んぜられて来なかったようである。それは原題が『「芸」について』で、何か、文学とはなれた歌舞伎役者のはなしなどからはじまるので、例の谷崎の

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芝居好きかくらいに見過ごされたのかもしれない。しかし、実際には、昭和八年の時点で谷崎が殊さらに「芸」を語り「芸人」を語りつつ自己の文学と日本の文化とを語らねば居れなかった事情は、谷崎にも、日本文学史上にも、ゆるがせに出来ない重大なことであった点をよく洞察すべきである。『痴人の愛』以後の諸作品と、『饒舌録』以後の諸文章とを読み併せ、また当時の谷崎の文壇的孤立の状況を知れば、この『芸談』の内容は実に多くのものを告げていることが分かる、と。こう考えて五、六年になるが、私の『芸談』評価は基本的に変っていない。谷崎がここで確言したのは、「現実をまともに視つめ、そこから発足して新しい美を創造して行く文学」と、「美の極致を一定不変なものとして、いつの時代にも繰り返し繰り返しそこへ戻って行く文学」との識別であり、前者の文学をいわば西欧的今日的文学と見立てながら、谷崎は後者の文学を東洋の、日本の伝統的な文学芸術の行き方だと言おうとしている。谷崎は、積極的に「繰り返し、繰り返し」そこへ"同ずる"という仕方で戻って行く一定不変の「美の極致」を求めて語り、ここに「伝統」の所在を見極めようとしている。詳しくは前山の私論に譲るとするが、大事なのは右の二様の文学の優劣を谷崎は一度も語っては居らず、ただ難易という点ではむしろ今自分がそう考えそう書こうとしている東洋と日本の伝統的文学の行き方の方が、新しいものを追及する文学より遙かに難しいのではないかと言っていることだろう。と同時に「繰り返し」「繰り返す」という、むしろ西洋と近代との両方から否定されたような原理を積極的に肯定しているところに、『芸談』に於ける谷崎の論の当時としては、いや今日ですら極めて孤立的な独特の視点があり、また谷崎自身による谷崎文学を顧ての視線も窺える。『春琴抄』は、『芸談』の自覚を踏まえて「芸」を尽した、谷崎ならではの達成と読まねばならぬ。

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百五昭和八年四月九日関口町佐藤春夫より妹尾健太郎様.貴美子様あて端書ペン書き拝啓御病臥遊はされ候趣なるも一向存ぜざりしため御見舞も申上げず失礼の殿御寛恕願上申侯鮎手事いつもいろく御高配嶺り御芳葉く感謝仕候同人も昨夜無事帰京仕り族間御安心下され度その節は例によって品々の御土産を頂き毎ヒのお情恭けな

くうれしく拝受、錦地の牛肉は今更ながら格別の美味にて近頃あまり肉食せざる小生もこれには箸を動かし申し候先は右御礼申上たく寸楮如斯に御座候四月九日小生誕生日

相変らず佐藤春夫はほとんど今日に残る仕事もなく、ただ文壇的に忙しげに過ごしている東京の人であった。一方谷崎潤一郎は、大袈裟に言えば日本中を驚倒せしむる名作『春琴抄』を京都で書いていた。

百六昭和八年四月二十二日京都嵯峨潤一より妹尾健太郎様あて終端書(表)毎日散歩心行くまで散り行く花を眺め申侯此のはるハ嵯峨や御むろやあらし山みやこの花に心残りもなし

(裏)再訪落柿舎神主や梢の嵐心あらバいかで昔の吾を知れかし

毛筆

潤一

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「みやこの花に心残りもなし」とは、かの藤原道長の「望月のかけたることもなし」という歌句を想い出させる。

百七昭和八年四月二上二日京都嵯峨潤一郎より妹尾健太郎様・君子様あて終端書毛筆小生二十五日よる一寸帰宅いたします大阪言葉を見て頂かないでは東京へ原稿が送れないので同日夜おそくても結構敬一寸拝顔数度その上にて二十六日朝原稿発送いたす予定化宜敷願上條万事拝顔の上(丁末子にも一寸御シラセヲ乞フ)二十三日潤一郎

『春琴抄』は「中央公論」六月号に一挙掲載となっている。が、脱稿はこの端書により昭和八年四月二十四、五日と確認できる。丁末子夫人はまだこの頃、妹尾家に同居していた。『伝記』によれば,執筆場所」は京都神護寺の地蔵院という尼寺だった。この由緒ある寺は捨子夫人の父森田安松(藤永田造船社長永田三十郎の又従兄弟で、大株主)が親戚ら数人と協力再建したものらしく、「M子は私を伴ってその尼寺に十日ばかり匿まって貰ったことがあったが、私はその間にあの作品の大部分を脱稿したのであった」と谷崎も認めている。捨子著『椅松庵の夢』にも谷崎を案内して行っ壮かどだ神護寺の夜景が印象的に書かれている。「これなら仕事も捗りそうと、大層上機嫌」な谷崎を置いて捨子も一泊のあと「満足して山を下った」という。

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「帰宅後、今度は、私から高尾山へ歌を贈った。とタ霞棚引くころは佐保姫の姿をかりて訪はましものをね夜もすがら枕に通ぶ清滝の音をこそ我のささめきときけ」本当なら私はここで『春琴抄』を論ずるのでなければならない。がこの作品について、今(昭和五+一年現在)はとくに私が付け加えうる新しい視点はない。正宗白鳥は、「聖人出づると錐も、一語も挿むこと鰍はざるべし」と賞讃し、川端康成も、.ただ嘆息するばかりの名作で一一.百葉がないLと絶句した。白鳥・康成ともに谷崎に対して従来点の甘い評者ではなかった。佐藤春夫また『最近の谷崎潤一郎を論ず』という好評論を「春琴抄を中心として」書いて、「それにしても明治四十二年彼が『刺青』によって女体の美をその作品の主題として採り上げつづいて、麟麟』によって女色の魅力に配するに徳性を対立させることをした。その出発点から持越しの主題が後に、少年』、、人魚の嘆き』、、悪魔』、、饒太郎』、『痴人の愛』その他長短名愚の諸作によって反復的に繰り返されて最近の『藍刈』『春琴抄』とてもこの主題から離れたものではない」とし、また、「思ふにその出発の最初からその目的の地点を確実に認知して、一歩一歩その目的地に踏み進んでわき目もふらぬこと彼の如き作家も珍しい」という。まさに「繰り返し、繰り返し」の一筋道を佐藤また谷崎の『芸談』に呼応して承認したのではあろうが、やはり谷崎に最も近かりし佐藤春夫にしてなお『春琴抄』の或る私生活的背景の解釈にはやや疎いままの総論と印象批評とに終っている。『春琴抄』には実に多くの論究が現に書きつがれていて一つ一つ無視しがたい実績を収めているが、例えば佐藤が見抜き、谷崎自身が早くに興味をもって翻訳していた『クリープ家のバーバラの話』(昭和

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■や二年「中央公論」十一月号)との密接な関連はあるにせよ、そして、その証拠にも夙く、あの佐助に自ら眼をつぶさせる方法を谷崎が専門の眼科女医に訊ねていたという事実があり、岡本時代にはすでに『春琴抄』の少くも原型は書き始められていたという妹尾の証言があるにもせよ、やはり『盲目物語』を書いて江川日野町誌に関、心を寄せつつお市の方拝脆の感覚を造型したことや、『武州公秘話』を書いて加虐的なマゾヒズムを以て強力な物語世界を創造したことや、いわば『藍刈』体験によってお逆様思慕の夢幻世界を自ら浮滋して来たことぬきには絶対に成立ちがたい『春琴抄』だ、とは認めねばならない。言い換えれば、捨子という理想の女人を現実に彫琢しえてこその構造的美観が谷崎文学に於て可能になったことを認めねばならない。私はこの『春琴抄』が成ったことではじめて『盲目物語』に重要な意義そきゅうが湖及的に加わったことを信じている。『蓼喰ふ轟』は、「神」か「玩具」かを語ることを介して、実は「妻」を主題にした小説であった。その点は文楽の『心中天網島』を大事な下敷きの一枚に敷きこんだ展開からも明らかであり、その以後、『源氏物語』の現代語訳を経て『細雪』に至る谷崎の文業また同じ主題の展開、達成であり、結果論を敢てすればそれは私生活ぐるみの追求であった。その追求は現実、創作、ともに「母」なるものの示現と、崇拝し拝脆すべき美なる威力としての「女」の造型とに、結晶した。この二つのどの一方を欠いても谷崎が谷崎にならない。『藍刈』『春琴抄』は谷崎が極めた谷崎本然の最初の高峰、二連峰だった。ことごとしく街学的でこむずかしい谷崎論も、好んで読む分には面白いが、谷崎文学の魅惑に直かに触れたという感銘とは意外に遠々しい評論、批評、も多いのだ。谷崎くらい構成にも表現の端々にも心を語り尽した作家の、その文章や字句に密着して作品を読まず、ただ仰山な議論を幾っ積み上げてみて

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も、批評家の門戸は張れた覧えて、谷崎文学はとくべつ肥ったとも、よく分かったとも、思,誘い。『春琴抄』脱稿まもない昭和八年五月十六日、丁末子夫人は、伝記』によれば、、阪神沿線の御影に一軒の家を借りた」とある。「潤一郎からは毎月百五十円の生活費を、妹尾を通じて渡されていた。だが、引越して二週間もたたない五月下旬に、その隠れ家が新聞記者に発見された。御影の郡家一〇八番地の家にかけられた、古川寓』という表札が、不審を持たれたのである。そこには丁末子が、妹のひで子と二人で住んでいたのだ。しかし丁末子は、健康をそこねたので、しばらく別居しているだけだと突っぱねた。だが、記者は納得したわけではなかった。そのためたちまち新聞に報じられた。、古川』という表札が出ている以上、そう簡単に言葉どおりに取れなかったからだろうが、しかしそれ以上は追及していない。だが丁末子のこの別居転宅は、実際のところは第三者をまじえての離婚成立の結果だったのだ。」この離婚は事実上の離婚であり、驚いたことに戸籍の上ではこの後一年余の後日、即ち昭和九年七月十八日にはじめて潤一郎・丁末子の正式の結婚届が出され、ついで昭和十年一月二十一日に合意の離婚届が提出されている。そしてすでに摂津清太郎と別居、離婚、谷崎と同棲していた森田捨子が正式に谷崎夫人となる初一一.昂式は・この直後の昭和十年一月二十八日に挙げられた。場所は王宮塚の谷崎自宅で、媒酌人は捨子の友人木場悦熊夫妻だった。「式は部屋に金屏風をめぐらせて、燭台をともし、古風な感じで本格的に挙げられたというが、式に列したのは、捨子の妹二人と友人一人を加えた七人だった」と、伝記』にある。妹尾夫妻のいずれか一人が加わったと想うのは自然でなく、むしろこの際に妹尾夫妻は除外されていた

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ところに、昭和八、九、十年の或る経過が見られる。やがて妻の座を逐われた旧姓古川下未子の何通もの悲痛な手紙が、側面の事情を明すであろう。この間に、谷崎のいわゆる「順帝」演戯が徹底的に捨子との間で演じられる。昭和八年六月上旬、さくさくほしいまま『春琴抄』が噴々の名声を恐にしていたさなか、丁末子夫人と事実上訣別した直後の谷崎は、「御寮人様より改めて奉公人らしい名前をつけて頂きたいのでござります、『潤一』と申す文字は奉公人らしうござりませぬ故『順帝』とか『順吉』ではいかがでござりませうか。柔順に御勤めをいたしますことを忘れぬやうに『順』の字をつけて頂きましたらどうでござりませう」と書いており、事実この後の捨子あて手紙には「順帝」の署名が何度も見られる。だが、もはやこういう谷崎の「芝居気」に一々立ち停まることはない。同じならこのような冗談どころか真剣を極めて物畏ろしい「芝居気」にぴたりと歩調を合わせつづけた、つづけられた、捨子夫人のみ■驚嘆に値する文学者の妻としての努力と適性とに眼を瞠る。みごとというしか私は言葉を知らない。ここに私は、差出し年月日は不詳従って順不同ながら間違いなくまさにこの時期に属する「捨子」と署名の妹尾あて四通の手紙をもっている。一方では「順帝」の「御主人様」でありとおした松子が、他方では谷崎の愛人そして妻としてどんな世間なみの苦労もしていたかの一端を物語っていて、谷崎をめぐるまた新しい視野ないし少しでも正確に焦点を結んだ視野を開くことに役立ちそうに思う。
百八毛筆墨鯉韓沓ます上に裏たかおぐの事に御礼の申上げ様裏く痛み入って居呈す御影

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様にて近頃になく面白く過させて頂きまして是又ありがたう存じます御礼に伺ひたく存じますが昨日より一寸風邪気にて今日は失礼させて頂きますがいづれ近日中に御邪魔にうかゾふ心組でございますいかが奥様の御気分如何で御座いませうか御胸のつかへは如何気に致して居りますそれから御コートも有難う御座いました今日もまだふりつゴき欝とうしいことで御座いますつかひの者が伺ひますっいでに誠に御面倒で御座いますがずっと前に亡くなりました父が買って置きましたヒスイこの際の足しにもなればと存じまして都合ではなしてもと思ひますが、何しろそのころハ八百円あまりにも買はされて居りまして御値段のところさつぱり見当もつきませぬこの道の卸商売の方の御出入りのある御定様ゆゑ一度御たづね下さいませんでせうかそして若しも御心当りでも御ありになりましたら御聞かせ頂けましたら幸で御座います随分ヒスイはどこでも高くした値段がついて居りますがどうせ売る時には御安いもので御座いませうがせめて丁末子様の分と一昨日拝借の分とでも何とか出来たらおやぢさまが助かること?存じまして勝手に思ひつきましたが卸値段の上で(四字判読不能)相談いたします少しでもよけいに売れたら結構でございますが決して慾深いことは画一って居呈せぬゆゑ御斐一沓ればど身く御問ひ合せ願か上げます不順のをりどうぞ御大事に遊ばして下さいませ皆ヒさまに御よろしくねがひ上げます

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妹尾旦那様
御奥様
かしこ松子
まゐる
尚々一昨日憲繧かり聞いて頂美して碧く相すみませぬこ垂寸御わび致し手

百九 毛筆
花の雨は何となう憎らしう御座いますその後は御無沙汰に導算し下さい喜いっもく御讐いだして居ります先日は御元気な御顔を見せて頂いてかへり大そうよろこんで居りました相変らず人様の事の為に御骨折りにて御いそがしく御出でになりますさうに申して居りましたがどうぞくれぐ為大耀覆して下さい喜又何よりの御品御心に懸けて頂きいつもながらの御親切をよろこんでをります前に頂きましたのも大切に致して居りましたが昨今少しよごれひとつ欲しいと存じて居りましたところあつく御礼申上げます旦那様如何遊ばしてゐらつしやいますか久しう御目に懸らぬやうな気がいたします近々御伺ひいたし度く

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私いまだ御墓の方へ参詣させて頂いて居りませぬゆゑ是非御まゐりさせて頂き度くとぞんじて居ります御花見にどちらへか御出でになりましたかいつぞや染織祭のころ京都ではしやいだことを思ひ出してひとりおかしくなつて話しました御ひまにどうぞ御顔を見せて下さいませこちらへ参りますとやつぱりさびしう御座います一寸ふだんぎのさ書せてい冬裟く苔ましてつひく御無沙汰に薯て申訳御座い毒んけふ鳥取よりおみやげをことづかり持たせてやりますのにそへて御礼申上げます御めもじを楽しみに致して居ります筆末ながら旦那様へ山々よろしく申上げて下さいませ走りがきにて御判じ御よみ下さいませ囹蜀よりもくれぐよろしくと申して居りますかしこ松子〈捨五日〉(封裏に)

「おやぢさま」「内の先生」といった表現が、丁末子夫人から松子のものになっていること、丁末子がもはや妹尾家の側に身を置いていることがよく分かる。

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百十毛筆めつきり春めいて参りました(五字ほど判読不能)御体の御様子御良好のこと?ぞんじあげます長々御目もじいたしませぬ様な気がいたしましてそれに御話も積りさびしい気持になります旦那様は如何遊バしてゐらつしやいますか旦那様にも一度御目にか?り度くてなりませぬ丁未子様には御体あまり御すぐれなさらぬ御様子に承り案じてをりますいつもく姜りのものおくれ勝ちにて奥様萄迷惑をかけ謹申訳無く存じて居呈す奉為承知の様な気分の人ゆゑは入れば何を打ちすて?置きましても丁未子様の分は一番先きにまはすので御座いますがつひ出費かさみ相すまぬ事で御座いますそれに一ケ月以上におくれて居りますとうちか是非はやく追ひつく様にいたし度いと申して居りますその中にはきっとはやいめに御送り出来る様になること?待って居ります私見頃より風邪から例の気管支おこしぶらくして居りますどう希るいくせでこれ奪こるとしっこいので閉口で御座います先生も歯がひどくはれて痛みつ寸け人弱りで御座いましたしかし明日は北野の演舞場にて上方の舞の御さらへが御座いますので大変楽しみに致して居ります事とて少ヒ気分わるくとも参り度いと申して居ますほんたうに時ヒ御目にか?り度くて妹と丁末子様のやう始終奥様と御一緒に居られたらよいのにと申して居ますあのやう今更感謝の言葉とて御座いませんがおやぢ様もいま彼様に出来るのは御夫妻の御影と改めて深く感

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謝する時が御座います考へますといつもほんたうに御親切に私を庇つてゐて下さいましたのは貴方様だけであつた事がだ^ママ)んくよく智れさうして婆しには居れ喜ん唯御多妾念じ少しは私共で御役に立つ事がなければと明け暮れ思ふて居ります思ひきつて御伺ひして見度いと存じます事が度こながら私の方は兎に角丁未子様が御心持わるいであらうと遠慮いたして居りますがいっか御許しを得て御目にか?り度いと希って居ります持参させます品は昨日おやぢ様が左団次に頂いて参りました大変いろもしぶくくすんで居りますも為私には向きま芋誠にく失礼なこ差がら奥燵は高曇びいきゆゑ若し禦にめした轟っかひ願つたらどうかと申しますので一寸御覧に入れます先頃中より毎日払のかはりにお竹なりと持たせ御きげん御うかゴひに参らせるつもりで御座いましたゆゑけふ是を御目にかけがてら御きげん御伺ひ申上げます御目もじを何より楽しみにをりを待って居りますかしこ捨子キミ御奥様御前に旦那様はじめ御皆様へよろしく御仁へ願びます
百十一ペン書

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このたびの事については何とも御礼の言葉も見あたらぬ様で御座います何時かこの感謝が言葉でなく実際に表せる日がある様にと懸命に思つて居ります何から何までの御心づけ嬉しうくぞんじます御情深い樋口様の御意見私共よくく心髭じました清太郎も以前よりどんなにねがつて居りましたでせう現在に即しましてもしかし私共には到底許されぬ事になつて居ります店の者も無給でもかまはぬからい?成績を挙げるから商売を続けて貰ひ度いと切な願ひを出されて居ります武田氏も面目をつぶしてくれぬ様と様ヒの理由が御座いますが皆ヒ義理のかせにかけられて居りますいづれ明日とくと御相談いたし度いと存じますどうぞそのへんも御推察ねがひ度う存じます御忙がしい中を私共の為に惜しみなく御つくし下書御芳瞳窪く涙無しに居れません尚この上の事痛み入りますがすまの方どうぞよしなに御願ひ致しますいそがぬ事でも御座いますが実は割合値が良いやうに清太郎が申して居りますどうせ処分し度いのですから少しても値のある間にと存じます仰せの値から逃げはしない事と存じられましたので御願ひ致しました様なわけで御座いますこまごま御目もじの上山ヒ紙ヒと御話し申上げます何卒よしなに御願ひ申上げますかしこ健太郎様まつ子き美子様御前に

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朝夕冷やく致します御厨を召しませぬやうに

この年昭和八年の残る谷崎の仕事では、際立って『陰署礼讃』(「経済往来」十二月号-九年一月号)の名が高い。が、『春琴抄』とこれとの間に、戯曲『顔世』(「改造」八月-+月号)と評論『直木君の歴史小説について』(「文葵春秋」十一月号-九年一月号)の二篇はぜひ挙げて注目しておかねばならぬ。『顔出』は久しい谷崎の創作戯曲に於ける事実上の最終作であって、この後昭和四十年の終焉まで本格の戯曲を書いていない。根から「芝居」好きの谷崎にとって戯曲は決して興余のすさびでなく、むしろ劇的なるものへの本質的な好尚に根ざしたれきとした谷崎文学の一翼と見なければならない。和歌や数寡い俳句の類は或は冷笑され酷評されても、谷崎なりの考えあって作っている「趣味」か「遊び」かで、谷崎自身も平気の平行だったが、戯曲は、大正期に映画製作に賭けたかなり次元の高い本質的な理解と両翼をなす、谷崎文学の佳い意味の幅を創っていた。その数多い戯曲の最後の作品が『顔出』であって、舞台のことに疎い私に的確な評価はしにくいが、レーゼドラマとして読む限り、或る悠揚せまらぬ内懐の深さが窺われる。たわいない構成に見えながら第一幕以来劇的な盛上りも十分感じられる中に、また谷崎ならではの例によって例の如き入浴中の顔出こうのもろなおを覗く高師直のおかしな道化ぶりがあったりして『乱菊物語』的雰囲気の継続とも読める。しかも一巻の結末は悲惨なものであって、必ずしも師直の好色に対する谷崎の視線は甘くなく、ただおかしみをから追うだけでもない辛さ苦さが加味されている。うがった言い方を敢てすれば高師直というこれもまた同じ武蔵守(武州公)と呼ばれた武人をこう書くことで、谷崎は私生活上の自分自身をやや戯画化したと

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も、批評したとも言えなくない突き放し方を、男主人公の上に試みている。、顔出』の男主人公を必ずしも師直と二.口っていいかは別の問題もあろうが、現実にこの舞台で文主人公顔世はほとんど顔も出さねば言葉も発しない。僅かに物蔭を鹿ろな影になってゆっくり通り過ぎるだけという極端な鹿化法を敢てしている以上、この秘められ隠された劇中の花なる女人を、痴人の愛さながらに手段をえらばず追求する師直の道化ぶりと暴君ぶりとを描くのが、一篇の趣意の、少くも一半の眼目とみなくてはならない。ただもう娯楽的通俗的な仕事ならばともかく、これだけ本格の歌舞伎仕立てで大きく創った戯曲なればこそ、谷崎は、この作品を今が今生きている環境、私生活とまるで疎遠無縁なものには作れなかったはずであり、とくに第一幕第二幕あたりの痴愚人師直が漂わせているおかしみはおかしみとしても、他方かすかな。へーソスの如きものを全篇に汲みとってみていいのではないか。・いして読めば一人の、妻」を去りまた一人の.妻」をもはや捨てていた谷崎の、幾分切なく苦しげな自己弁護の如きものが、顔出を追う師直を通じて表明されているはずであって、そういう読み方が果して谷崎の小説や戯曲の正しい読みになるのかどうか別途の問題に触れてくるにしても、少くも昭和初年(十年頃まで)の谷崎文学には、こういう視線に照されることで新たな興趣に富んだ文学世界の情況がまだたまだ顕ち現われてくるという予感を、私は振り捨てることができない。今一っ、直木三十五の歴史小説について語ったかなり長篇に属する評論は、額て他を言うのでなく・他を見て願て己れを語るいつもの谷崎流で、論旨の詳細にことさら触れて紹介するがものは特に認められず、なぜこの時に当たって『直木君の歴史小説について』谷崎がものを言うか、言ったか・がむしろ問題になる。.現実を尊重するのもいいが、空想なしでは大が、りの小説は出来るものでない。科学小

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説でさへ清澄な空想がなければ書けない。だからそれを排斥したのでは、理窟で割り切れるものばかりが多過ぎ、創作家は狭隙な自己の経験の範囲内に立て籠るやうになり、ひいては国民性全体が奥行きの浅いものにもなる。批評家はさう云ふところでこそ多少の手心を加へ、我が文壇の色彩を豊富ならしめるやうに仕向けてはどうか」と谷崎はあたかも直木の文学作法や創作態度に手厚い援護射撃をしているのだが、その実、はっきり自己弁護、防禦、主張、をしている。この弁護防禦主張のかげに・聡嬰谷崎簾く嚢知していた或る行きづまりの自覚の隠れていることを見抜きうれば、『春琴抄』のあとの約一年半を空白にして、大阪毎日と東京日日新聞に昭和九年一月から六月に亘って『聞書抄』を連載するまで、さらにはその後はあの、源氏物語』の現代語訳という大業に突入して行くまでの谷崎の足どりが忍ばせていた意味あいも、従来推量されていた以上に或る危機感もろともに推察できるのではないか。谷崎の想像力は、空想力は、而して構想力はたしかに昭和初年の一つの絶頂期を支えていた。谷崎の自負自信は一作ごとに確かなものになっていた。と同時に谷崎作品のモチーフは、当時の文壇や読書人が想っていたより遥かに或る面で.狭降な自己の経験の範囲内」で醗酵していたことも今や否めない。そして谷崎は必ずしもそれに十分満足していなかった。少くも捨子夫人への恋文にもあったように、その創られた物語の数々が実はただ一人の捨子御寮人を後世に.伝べるため」に書いていたのであり、それ以外の何ものでもないという自覚を谷崎自身否認しないまでも、、そんな事を今直ぐ世間に悟られて.は困ります」「いづれ時機がまゐりましたらぱ自分の何年以後の作品は悉く御寮人様のいきがか、つてゐるのだといふことを世間に発表してやらうと存じます」のであった。

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谷崎にとってその時期とは、一つには『細雪』を完結公刊した時点であり、さらには『三つの場合』や『雪後庵夜話』を発表した時点であった。さらには自分の死後だった。谷崎潤一郎の本心本性は、たしかに「我といふものの心はた■ひとりわれより外に知るものはなし」であって、捨子夫人にすら分からない深秘の奥処を持っていたが、逆にまたこんな歌を以てこうも述懐してみせる形で当人が露わにしている本心本性も、外の眼にはやはりかなりの部分映っていた事実を割引く必要はない。私は、谷崎がことさら身構えて「われより外に知る人はなし」の心境や状況を語り明してくれようとした文章ほど、よほどこちらが慎重に読まないとしてやられる気がしている。谷崎という人は、語り口、、、、、、に於て隠して語る名手でこそあれ、明して語るということは文学の体質と当人の気質の両面からしてま、、、、、、ずないと承知すべきなのである。建前王明して語っているというものほど、何か大事なことやものが守られ隠されているかも知れぬ、守り隠すために明したかに見せられているのかもしれぬくらいに、慎重に応ずべきであろう。世間に知られたくない、とは、自分は重々知っているということで、「御寮人様のことを思ひますと筆がいくらでもす?むのは唯々不思議でございます」かも知れないが、「御薄様にて私の芸術は一生ゆきっまることはござりませぬ」かどうか、いわゆる「捨子もの」は尽きなくとも、そればかりではやはり満足できないのは聡明かっ貧慾な芸術家として当然だった。まして『春琴抄』のあと、さしもの谷崎とてちょっとその先が簡単には出なかった、行きづまった、点には注目していい。昭和八、九、十年という時世の緊迫と暗転も影響していた。が、これはその当時の誰しもに当て嵌る環境全般のわるさだった。となれば谷崎の場合は、捨子夫人との恋の成就と同棲、さらには結婚という

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成行、行く所へ行き着いてしまったことの一つの反動的な行きづまりと見ていいのではなかったか。『陰易礼讃』は申し分なく立派な文学作品であるが、私など必ずしも所説の卓越ゆえに立派と思うのでなく、あのような所説をあれほどの文体と文章とで首尾一貫書き切った一点を遥かに立派な文芸とみている。と同時に、昭和初年の谷崎の文業を支えていた美意識、と言うよりは趣味、の美的総括と読み取って差支えない、一種の"結論"になっている点に注目するのである。小説としてはおよそ最高の達成を『春琴抄』で遂げた谷崎は、次に最後の戯曲『顔出』を立派に大きく仕上げ、さらには谷崎文学の魅惑と独自性とを『陰署礼讃』という暗示的、暗楡的、象徴的に美しい文体と文章とで十二分に趣味佳く披漉してみせたことになるのだろう。そこに書いてあることは、当時はなにしろすべての作家が田舎侍のいでたちで東京中、心に結集していた時代であり、総じて貧しい時代みほだったからこそ、大変に眼を瞠らせたろうが、今となって、京都有ちの私などが、とくべつ影響されたり示唆されたというほどのことは書かれていない。それより私はなぜ谷崎が「陰易」というかげなるものの美しさと豊かさとに眼をとめたか、そこに漸くはっきり自覚されてきた義妹重子、妻の実妹重子への日く言い難い谷崎独自の共感を読まずにおれない。『藍刈』のお静と『細雪』の雪子には、このままでは必ずしも一線に繋がらない性格の女性であるのに、中にこの『陰窮礼讃』を置いてみると、微妙に或る情緒的なかげを持った現実の一女性に輪郭を重ねて行く印象が生まれる。あの妹は自分のかげのような人だったという意味の述懐を後年捨子夫人が私に向かっても妹について洩らされていたことは、聴き捨てにならない大事な証言ではなかろうか。かくて昭和八年は、谷崎潤一郎の昭和初年を、およそ締めくくる一年だった、と言っておこう。

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締めくくったのは小説、戯曲、随筆だけでなく、捨子夫人との恋を達成する一方、完全に捨て去った。丁末子夫人この年末の端書一枚は、もう谷崎丁末子とも書けず、子とも書くに忍びないただ名ばかりの署名で、鳥取市両町の実家で書かれている。

丁末子夫人をほぼさりとて古川下未

百十二昭和八年上一月三+白鳥取市西町四六古川方丁末子より妹尾健太郎様・御おくさまあて端書毛筆たゾ今荷物落手仕りましたまことに御手数をおかけまうしましておそれ入りました厚く御礼申のべます昨日の午後から少しくたびれて居りますが熱は七度前後でございますから御安心願ひますよき新年をお迎あそばしませ、

十四

『伝記』年譜による谷崎潤一郎の昭和九年(一九三四)四十九歳の頃は、「三月、根津捨子と兵庫県武庫郡精道村打出下宮塚十六番地に同棲生活を始む。四月、捨子は摂津姓から森田姓に復帰し、王宮塚の家に戸籍上分家する。十月、『文章読本』の書下しのため、大阪市天王寺区上本町五丁目の正念寺に滞在」となっている。たわわに熟れた果実をついに枝から我が手にもいたという年に当たっている。また昭和九年内の文業をこうまとめている。「東京をおもふ」(「中央公論」一-四月号)、「追悼の辞に代へて」(「文葵春秋」四月号、直木三+

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五追悼)、「春琴抄後語」(、改造L六月号)、「夏菊」(.大阪毎日.東京日日新聞」八1九月、二+八回中絶)を発表。『盲目物語一基琴抄』(新選大衆小説全集第+八巻)を.非凡閣」、、文章読本』を、中央公論社」、新版『春寒抄』を「創元社」より刊行。要するに『文章読本』の年とでもいうか、世人瞠目の昭和初年代を悠々闇歩してきた谷崎としてはちょっと一服の一年だった。しかもこの一年の谷崎をよく考えれば、必ずや、なぜ、源氏物語』現代語訳という大業がこのあとへ続かねばならなかったのか、さらにはなぜ、細雪』が書かれたかという、十分説得的に説明されてこなかった大事なポイントを、より的確に明らかにしうるのである。生涯に幾つか創作上の山や峰をもっていた谷崎の、とりわけ大正十二年の関西移住以来昭和八年に至る昭和初年代が・真に最盛期の名にふさわしい多くの作品群を積み上げて成ったという認識に大方異存はあるま、とすれば昭和九年、、文章読本』をしも勘定に入れてのちょっと一服にはよほど大事な意味が含まれたものとして見ていい道理が十分ある。まして昭和十年秋いよいよ.源氏」の訳業に入って以後は、『猫と庄造と二人のをんな』を十一年春夏二度に分けて.改造Lに発表したほか、十七年に熱海で久々『細雪』執筆に取り組むまで文字通り.源氏」に明け暮れの歳月が流れたことを想えば、いよいよ昭和九年に或る意味深い一と区切があったと想うのがむしろ極く自然な、順当な推定になる。私生活に於ても、丁末子夫人と事実上の離婚は前年五月すでに周到な協議による別居で遂げられていた。あたかも谷崎の関西移住は、そして昭和初年のほとんど全部の文業は、根津(森田)捨子との出違

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いと結婚とにいたる豊饒かつ華麗な通過儀礼ないし引出物の体をなしていたのである。事実、谷崎ほど「妻」なるものを内、心火しく拒み通してきた世にも難儀な「夫」が、昭和十年一月の祝言以来三十年に余る捨子夫人との家庭と夫婦生活とを完うしたことは、むろん谷崎自身の老いを無視できぬとはいえ、今やあの小田原事件、細君譲渡事件、さらに蜜月が即ち破鏡にも等しかった丁末子夫人との新婚事情刻々の推移を承知しているだけに、やはり昭和九年振津夫人捨子との同棲ないし十年の結婚という事実に、格別注目せざるをえないのである。私は一度二度「ちょっと一服」と書いたが、より正しく谷崎潤一郎の昭和九年は意味深い或る折り目であり、折り目というからは同時にもののとじめでありまたもののはじめである、そんな大事な一年だったと言い直すべきだろう。その折り目の意味深さをこもごも語ることは、少くも谷崎後半生の核心へ有効に垂鉛を下すほどのことには必ずなると思い、別に『谷崎潤一郎の昭和九年』(「国文学解釈と鑑賞」昭和五十一年十月号・「谷崎の妻」と改めて筑摩叢書『谷崎潤一郎』に収録)の一文をまとめて置いた。繰返し言う、谷崎にとって「妻」は久しく「女」でなかった。神とも玩具ともなり難い愚かしい俗女だった。だが大衆小説『乱菊物語』を必然中絶して書いた『吉野暮』で予感し、通俗説みもの『武州公秘話』を必然中断して書いた『藍刈』で確信に大きく近づいたのである、即ち、「妻」は「母」なるもかたしろごん『のの形代、権化、象徴としてのみ永遠の理想女人に等しくなりうるものと。『藍刈』のお逆様は、谷崎作品中段も「神」にも「玩具」にも近い「母」なのであった。『盧刈』こそ典型的な「母恋い」小説なのであった。谷崎はこの想念を、一つには『源氏物語』に於けるみごとに「母」即ち「妻」という理想的な物語の

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主軸を読みとることで再構築した。同時に谷崎は、完全な.女」である摂津夫人捨子との恋を、、盧刈』の頃から急激かつ実質的に成就して行く中で、理想の、女」が理想の、妻」たりうる可能性を、「母」なる鍵で確実に開きうる見通しをもったのである。かくて谷崎にとって『藍刈』とは、余の何ものを措いても書かずに済まなかった久しく久しい課題への解決作であり、この作こそ捨子夫人との魂の感応の中で恋の焔と燃え上がった名作だった。問題作だった。谷崎は愛情こめてこの名作を捨子夫人に贈ったのである。谷崎が関西へ移り住んだ真の意義は、、藍刈』を書くという行為が即ち捨子夫人との久しい恋の成就ともなる、そういう表裏一体を果してついに結実したのと同時に、谷崎にとっては当分のあいだ頭を離れぬ基本の創作意図もまた、神か玩具かである.女」の表現から、、母」なる.妻」或いは.妻」なる「母」という母子相愛(同時に父子相愛)の達成へども動いた点にある。動いたというより、そういう「女」としての「母」と、妻Lが一体となって谷崎の文学生活および私生活に定着して行く太い道が拓かれた点にある。すごろくそして昭和八年は、あらゆる意味で谷崎の昭和初年代を完成する年となった。双六で一一..口えば、完全な「上がり」である。文学生活での、上がりしが、丁末子夫人との事実上の離婚、別居および摂津夫人捨子とのほぼ公然の恋愛状態という私生活での「上がり」ともくっきり照応している。だが「上がり」とは即ち眼に見えない.行きづまり」でもあった。文学生活には私生活での安着と同じ安着は有り得ない。「女」捨子からえていたと全く同質の刺戟を直ちに、妻L捨子に期待するには、谷崎好みの異様な「芝居気」を発揮しにくい或る種の日常性が生活そのものに濡漫してきた。先に捨子

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夫人の手紙で知り、これから当の丁末子夫人の手紙で分かってくるように、別れた妻の生計費を負担するだけにも谷崎らは四苦八苦しているのだ。しかし谷崎はこの三度めの結婚をぜひ成功させたかった。と同時に自分の文学の新たな展開に、広い視野と深い動機とを再び発掘し確保しなければならなかった。それにもかかわらず昭和九年唯一の小説『夏菊』は、批評するにも当たらないうちに未完中絶に終った。摂津夫人捨子が元の森田捨子に復して王宮塚の家に戸籍上分家した、そういう直後に摂津家内情に取材した、当然障りの多かろう『夏菊』連載になぜ思い至ったか、心境上の一種の気負いと停頓感とがやや性急に事を起こしたものか。少くも、こうは言える。『春琴抄』は書いた。『顔出』も『陰甥礼讃』も書いた。丁末子夫人と別れ、松子夫人と一つ家に棲むようになり、谷崎には夢中でかけてきた昭和初年代への回顧と精算の姿勢が生じていたと。回顧は昭和に限らず、大正に限らず、明治の幼少年期へも向かう。『東京をおもふ』(「中央公論」一-四月号)の連載は、そういう意味で「関西」以前に対する、谷崎自身底入れの、分母づくりの、作業だった。少くもその一環だった。「東京」は前半生の分母であり「関西」の谷崎自身を回顧するに先立ち確認されていいものだった。「関西」の谷崎自身を回顧するとは、どういうことか。言うまでもない。やがて「結婚」する森田捨子との「出違い」の必然を顧ることであり、思索の核は、「神と玩具との間」で久しく否定的存在だった「妻」なるものに肯定的契機を見出す作業であって、前述の如く、谷崎は「母」なるものの意味を媒介することでそれに成功した。私のいわゆる"谷崎の「源氏物語」体験"の自覚的確認がそれであり、従

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って『吉野暮』が、それ以上に『藍刈』が、昭和初年の谷崎文学の文学と生活とを融合させる核、心だったと私は見るのである。『夏菊』は或いは、そうした確認作業の一環だったろう。生煮えながら、すでにのちの『細雪』のモチーフともつながって、私生活上、一種離見の見を求める谷崎の衝動が働いてはいた。が、取材がなまなおそましくて純然の契機を欠いていた。故障が出なくても中絶の倶れはある仕事だった。谷崎は急速方向を転じて『文章読本』の書下しに熱中した。解説を加えるまでもない、谷崎文学が自己の立場を文章表現、とくに表現としての「含蓄」の一点にかけて公然主張し補強し総括したものである。今私の手もとに昭和九年と確認できる妹尾あての手紙は三十五通あり、うち、谷崎鮎子のと将来その夫君となる竹田寵児のものが各一通、その余は全部、戸籍上はじめて谷崎との結婚届(昭和九年七月十八日)を出し、また戸籍上の離婚届に至るまでの、その実もう久しく事実上の離婚状態にあって妹尾家みささに身を寄せ、鳥取の実家に帰り、王朝温泉の油屋に身を隠していた丁末子夫人が、専ら妹尾君子にあてるるて衷情を纏々湖心えつづけたものばかりである。古川下未子の手紙は昭和十年に及んでなお五通が残され、その七月二十九日づけ、すでに東京で再就職し、茗荷谷ハウスに傷心を抱いて貧しく暮したらしい近況を妹尾夫婦に報じたものが最後の一通になっている。もはや谷崎潤一郎の手紙も佐藤春夫の手紙もぷっつり妹尾方には届かなかった。残ったものは谷崎のとどこお古川下未子に対する「債務」だけであり、それも滞りがちであった事実でしかない。私は四十通に及ぶそんな丁末子の手紙をも紹介すべきだろうか。

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本書の願いは一人の「妻」たりし女性が辿った運命を再現することではない。あくまで谷崎潤一郎という大きな作家と作品とをよりよく所有するのに役立つ道を拓きたいだけだ。むろん谷崎を弁護し、臭い物に蓋をしようとは毛頭考えない。それも谷崎、これも谷崎で、事情はいなじかにあれ、丁末子が恕えたり詰ったりしていることを、谷崎は事実していた。それらの手紙から、せめてそんな谷崎にも触れる部分を抜藁してみることは許されていいだろう。

百十三昭和九年三月二十一日関口町谷崎祐子より妹尾キミ様・丁末子様あて封書毛筆大変に御無沙汰申上げてしまひまして本当におわびの申上げようもござゐませんどうかおゆるし下さいますようお願か申上げます、また先日は結構なお品を頂戴致しまして有難うござゐます、本当に何より嬉しうござゐます、いつもいつもいた寸いてばかりで申訳けもございません、もっと早く御礼申上げなければなりませんのにっいいそがしかつたものでござゐますからおそくなってしまひ失礼致しました。御礼より先きにもう昨日早速卒業式に持って参りました、そちらはもう随分お暖かでござゐませう、こちらも…二日暖いと思ってをりましたら、また今日はとても寒く嫌になります、明晩龍さん出発致すことになりました、どうかまたよろしく御願ひ申上げます、では御身くれぐ嘉大切に遊ばし手やう籟か申あげます。小父様にくれぐまろしくおつたへ下さいまし。

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あゆこ養魚子拝

二十一日夕小母様丁未子様

竹田寵児の手紙はこの三日後の日付で大阪市浪速区の遠藤方から妹尾健太郎にあててあるが、本書には無縁のものゆえ割愛する。鮎子の一通は多分、妹尾夫人と丁末子と連名の卒業況品の礼状であろうか、宛名もただそれだけのことで連名にはなっているが、今や妹尾方に細々と身を寄せている継母への思い入れは、それが当然と言うべきか、全く感じられない。そしてこれが谷崎・佐藤両家から妹尾家にあてられた当時全部の手紙の末尾をなしている。行間、かすかに儀礼に終始する印象が漂ってすらいる。折しも鮎子の父谷崎は、まだ摂津姓の捨子御寮人と、ついに打出下宮塚にもう恋を確かめ合う共棲みの隠れ家に入っていた。

百十四昭和九年五月一日、鳥取市西町四六古川方丁末子より妹尾キミ様あて「親展」封書毛筆お手がみ大層うれしくうれしく拝見致しましたもう一週間のうちにおめにか、れるとは何といふうれしいことでございませう西村さんや樋口さんはご一緒にいらつしやいませんか西村さんとこ立派なお店が出来ましたよし早く見せて頂き度うございますわお手がみ拝見と同時に一寸ないしよですぐおめにか、りたいと存じましたが父母にとめられまして

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今夜相談することになって居ります、ご心配かけましてすみませんどうも勿論家には引取るわけにはゆかぬが以前住家に金があれバお前にもこんな恥多い思ひをさせ(ママ)なくても思ひ切り咬可を切って別れてやれるのにと母がふんがいしてゐましたやっぱりお金なんか貰ひたくないくやしい気もちで一杯なのでせうしかし考へやうでお金山ざせたって出させさせてやると思へば平気なものですが何だか私の気性も恥を感じすぎる方なのかくやしいとも思ひますしかしよくく孝一ますから次便をおまち下さい取り急ぎ五月一日丁末子おくさま

百十五昭和九年六月二日鳥取市西町古川方丁末子より妹尾キミ様あて封書毛筆お手紙た∵今有難う存じましたやっぱりおせきが出てお熱が出ましたかそれが大層気になってをりましたがほんとにすみません御病気にまでなって頂いておわびの申しゃうもありませんおゆるし下さいそして筆く肩章くよくなって下さい喜私の方はねてゐて嘉きてゐて高じ身代って私がねてをきますからどうぞ早く元気になって下さいませ妹尾様へも申しわけがありませんめだ雪のこ孝んなこと恵つ藁じてをりましたで峯だ宗く助手のめだ雪纂ても

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ろと芝だまし込んでゐますから奈く本性は露はしませんでせうしかし「時節をまっべし一で(ママ)ございますね少しでもその間に披害の少いやう気をっけるべしでございますわ私も相当狸の子位つうりきのわざは出来るやうになりましたが狸には狸でつき合つても真人間には真人間でつき合はねば通力を失ってしまひますわね狸戦法などサラリとすて、しまへる日の早からんことをのぞみます貴女様が御全快になりましたら校長さんとこ一度見て頂けませんか南向きで一室なら八畳くらゐあって床と押入がありませうかしら西向きは少しあっすぎてこまると思ひますがどうでせうかおかほ見たら急に又鳥取にゐるのがいやになって気分がわるくてこまります早く大阪へゆきたくてゆきたくてたまりません(中略)みささ王朝へいらつしやいませんか(後略)六月二日丁末子おく様

百十六昭和九年六月五日鳥取市西町古川方丁末子より妹尾キ、、様あて「親展」封書毛筆お熱が少し下りましたさうでございますがそれからは如何でせうかお手紙拝見してゐながら大層悲しくなってしまひ飛んで行って大きな声をはりあげて泣き出したくなりました御病気をおしてまでほんとに御力添を下さいますのが有難くてすまなくてそれなのにまあ私はそれだけの御厚意を受ける値があるかしらと考へますとゐてもたってもゐられなくなりました

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どうぞく早くよくなって下さい喜快くなつて頂裟いと私のために余計わるく馨れたやうな気がしましてすまなくてくなりませんおやぢのことも大層悲しませますおやぢ気のどくでなりませんわあの狸でもほんとにもう少し人間らしいならばどんなにせめてもおやぢを祝福してやれませうに結局おやぢは神聖なる女性を感得せずして終るのではありますまいかあの狸からおやぢがはなれられないのは狸に心酔してるからより以上に他の意味があるやうに思はれますね私は一旦おやぢさんのために何も彼も投げ棄てたものなのでございますしおやぢさんをよくするためには自分を亡ぼしてもい?と覚悟してゐましたのに不覚にも時々周囲になやまされて切角の、心境をくもらせ病んでしまひましたけど今後はおかげさまにてこんなに淡々たる位置にゐることが出来るやうになつたのでございますから本当におやぢのために生きてゆけるやうにたすけて下さいませ真実私の、心の中を割りますと多勢の悪魔どもも棲んで居りますから私のまけずぎらひや傲慢や自尊心がおやぢをうらませにくませさげすませることはひどいもので心をたけり狂はせもしますがもう一方にそれをすつかり超越して立派な人物を送りだすためにそれだけになる資格のないものはそのえんの下の力もちになつてその人物のためにつくすのが生きる立派な目的だと思はせる心があります私は別に生きてゐたいと云ふ望みはありませんが生れてきてそれだけのおみやげを現世にのこさずしてた■酔生夢死は堪えられませんから自分の心がまんぞくして死ねるだけのことはしてをきたいものと思びます私は心臓が欠かんが出来てしまってるのでそんなに長生するとはどんなに慾目で見ても考へられません心臓のために血清注射の一本も打てないやうなことでございますから

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ですから私は早く天国へ這入り得る人間になつておかねばなりません貴女様方はきつと私をそんな風に導いて下喜お方ですからどう毒圏で嘉ねがひ致し手奪ぢえのためくと申しますと結局潤一郎を思ひきってゐない心のわざと思はれますしかし本、心まだどうしても忘れかねる所があってもおゆるし下さい仕方がありませんわそれだけ私は深く愛してゐたのでございませうでもその愛情は今は浄化されてゐることもおみとめ下さいませですから私は狸だってよくなれる見込があればどんなにい・かしらと思ってをりますのよ私の対象ぱけは狸ではなく潤一郎なのですから潤一郎が幸福になれますれば狸だつてお化だつてい?と思ひますのよ私も改めてもう少し「男おみなの道」を習はふと思ひます、それでなければ天国でみじめな失恋者になつたりしては大変ですものね昨日大毎の支局長にあひましたとき「奥村さんが来られてその時貴女のこと話したら奥村さんは僕には谷崎さんのことは分らないけど何だか大層丁未子さんが可哀さうで仕方がないと云つて居られましたよそれで鳥取の支局にそんなことになつたら使ひませうかと云つたと笑つてゐました」と云ってゐましたので「さうですか先日みんなで遊びに来てくれましたよ、貴方そんなことならどうして潤一郎が来てくれませうしつかりなさいよ」と申しますと「僕ははじめからあれはっまみ食ひだと思つてました」と申しましたので「潤一郎がつまみぐひしたつて私が文句言へませんわ此方、、、だって勝手させてもらってるんですから」と云ひますと「してそのおなごも来ましたか」と云ひましたので「い?え」と云ひますと「勿論さうでせうな図々しすぎるや」と云ってゐましたけどあ、不覚にも私はおもはず潤一郎のっまみぐひを是認してしまったことになりました

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籍のこと≡二日中にお送り致しますから何卒よろしく願上ますおそれ入りますが名前早くい、のがつけてほしいですね「おむつちやん」もおかしいけど「むっさん」でもかまひませんわこれは字の意味から発展家になりますのでございませうか小川先生に早くおねがひして頂いて下さいませ潤一郎上京してしまひましたのなら当分名前しらべてもらへませんわねお能だとか活動だとかき?ますと早く大阪へゆきたくなります九日までに快くなってお能のおたよりき?度う存じます長い手がみかいておゆるし下さいもうこんな心のことかきませんから妹尾様へよろしくねがひます御快ゆを祈りつ?六月五日丁未子株尾奥様

凄絶というべきか、こうもなればこうもなると平凡に眺めていいのか、敢て私見は控えておこう。入籍していなかった古川下未子を一度は正式の谷崎潤一郎夫人たらせるべく奔走したのは、この手紙から、妹尾夫人君子であった気がする。妹尾らの介在は、丁末子夫人に幸いであり、不幸でもあった。必ずしも妹尾夫婦が丁末子夫人にのみ良かれと働いていた人でないことはもう分かっている。調停と仲介と斡旋とで、結局妹尾夫妻の立場は微妙の一語に尽き、微妙ゆえに谷崎から、捨子夫人からやがて離れ、谷崎家が離れれば佐藤家も離れたのであろうか、丁末子夫人だけが最後の最後まで妹尾を頼ったのは、或る意味で傷ましい限りだった。よしもっと直接的な傷手を与えようとも谷崎自身不未子との問題

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に自ら手を下して処置していたなら、丁末子の思いももう少しさばさばしたことかどうか、安直な想像は許されないが、むしろ谷崎の方が妹尾夫妻のかげへ進んで身を隠した気味があるのは、私にも今一っ飽き足りない。別れて行く人への誠意を全幅には信じ難いのである。捨子夫人の『椅松庵の夢』は流石に谷崎の丁末子夫人に対する誠実さを強調しているけれども、ほぼ自身は表立たずに生活費や金銭上の補償の一切を妹尾を仲に、一種の"交渉"事項として片付けようとしていた、いわば古川家として「恥多い」成行には、第三者が「気の毒」に思った、眺めた、というのも頷かれる。「狸」うんぬんについて私は何も信じない。こういう言葉が丁末子夫人自身を財すことにも捨子夫人を責めることにもなりえない点を私ははっきり言いたい。すべては時の勢いであり、我々は谷崎潤一郎の人および文学にこそ鋭い眼を向けねばならない。むろん読者も、また私も、いわばこの女の戦いとも透けて見えるむずかしい事情を下敷きにしてあの『猫と庄造と二人のをんな』を想う自由を留保している。と同時に、そのような自由な想像を我々に許して一つの傑作の名にふさわしい小説を書きえた作家の、旺盛かっ強靱な創作刀により正しい評価を与えねばならない。けや夙くに私はこの「猫」に擬して佐藤春夫の名を挙げる冒険を敢てした。相応の理解も提示した。それ、、、が、あくまで千代子夫人との離婚に至るあらゆる情況を勘酌しながらの、幾分讐楡的な物言いたとも、読者は諒解されているはずだ。だが、同じく警楡的に言ってより直接にこの「猫」に相当して二人の女性と谷崎とが互いの葛藤をつぶさになめ合っだとするなら、「猫」とはこの際、誰よりも妹尾夫人君子のことであったに違いない。

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妹尾夫人は谷崎の久しいお気に入りであり、二人の女(丁末子、捨子)を十分刺激する存在であった。坦そして離婚騒ぎに至るや丁末子夫人は、妹尾夫人を最後まで味方にづけることで谷崎の意を再び迎える力72に脈あり、復縁も可能かと見ていたらしいとは、挙げた手紙の端々によく窺える。(

百十七昭和九年六月六日鳥取市西町古川方丁未子より妹尾キミ様あて封書毛筆その後如何でいらつしやいませうか、おうかゾひ申ます今日廃家届をかいてもらひましたこの廃家届に潤一郎さんの印をもらつて本籍地書き入れてもらひ^ママ)ましてそして戸籍騰本下附申請書と一しよにおそれ入りますが大阪市住吉区役所へ送り願ひ度う存じますそしますと私は廃家出来ましてすぐそのま、潤一郎さんとこへ入籍することになるのださうでございます本当にお手数乍ら何卒よろしくおねがひ致しますみささいよく明後皇朝一たちます油屋旅館と申しますのにゆきます此方へいらっしやれますとほんとにい?のですけど御病気をほんとに案じてをりますからくれぐれもお大事に願います
妹尾様へよろしくおねがひ申上ます

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百十八昭和九年六月八日鳥取県東伯郡王朝油屋旅館方丁末子より妹尾キ、、、様あて封書毛筆真後如何でせうか今朝此方へ参りました静かない?ところでございますが家をはなれますとむさくるしくてもあの大きな樺の木蔭がなつかしうございます一と風呂浴びて今までねてゐましたのでまだ何も見てゐません.取り急ぎましておしらせのみ

谷崎側が丁末子夫人に対して取った処置や抱いていた感情は、要約すれば、この年昭和九年五月六日発信の魯友笹沼源之助にあてた手紙が諸般の説明を試みており、かつ詳しい。やや表向きに構えてもいるこの手紙は、『全集』に収録されているので、丁末子夫人に関する部分のみを引いておく。

○丁末子とハ昨年五月媒酌人及び妹尾氏夫婦立会の上にて事実上離婚したる証書を双方並びに立会人全部取交し申侯、小生ハ将来丁末子が結婚するか独立して行ける職業でも覚えるか、兎に角安心出来るまで毎月金百五十円づ?仕送る約束にてこれは以来実行敷居候、金子は妹尾氏が預かり毎月少しっ?貯金を致しぐれ候、妹尾氏八丁未了側に立ちて彼女の利益を計ってくれしこと少からず、此点の好意は筆紙に尽し難く、感謝敷居候、いさき上○丁米子が身を引いてくれた態度八大体に於て潔く、夫人に対しても務めて悪感情を忘れ将来は

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仲良く暮さんとする意志にて、此れも偏べに小生の、心事と芸術とを理解してくれてゐる結果と、此れ亦感謝に不堪候、しかし目下神経痛にて鳥取の実家に帰って居りますので、(略)

これに較べ松子夫人については、「小生は夫人に対する尊敬の念強く対等の夫婦として暮す気にハなれ不甲候、又過去に於ける再度の結婚生活の経験に徴するに普通の夫婦生活としてハ結局小生の我儘が出て不幸に終る恐れなきにあらず、矢張何処までも夫人ハ実家の森田姓を名のり小生ハ春琴抄の佐助の如くにして生涯を送り度と存候」と書いている。この場合覆水は到底盆にかえらない趣がありあり見えて、却って丁末子夫人の手紙は悲風をかなでている。「名前」を別につけて貰うというのは三期温泉での手紙の往来に丁末子の名では新聞記者などの眼に触れやすいとの配慮に出たものか。或いは何かの信心わざか。

百十九昭和九年六月+二日油屋旅館丁末子より妹尾キミ様あて封書毛筆書留のお手紙たゾ今落手いたしましたおねつは下りましたご様子大層うれしうございます何卒倒無理のありませぬやうにでも割にお早くよくなって下さいまして安心致しましたお能は如何でしたか朝日会館ってほんとに楽しいところでございますね(ママ〕潤一郎が私のことむやみに敵視しなくなりましたのだって女指令長官があればこそでございますわ

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私は侯爵をさし上ることも出来ませんし正一位もさし上げられませんけどおゆるし下さいましね私も此方へ参りまして一人ねてゐて考へましたの今月は潤一郎には収入がなかつたゴらふしその上松子えでは享く入用の多いことだら走気の棄何だつてむやみに買はれやし在とえなこといつでも潤一郎と一緒にゐる時には考へどほして悲しくてたまりませんでしたのよやつぱり今だつてさう考へますわ私はとても気が少・いの潅んと菌ります歩し自卑のびくした性格になりたいと思ひますそこへ貴女様もやっぱり私と同じやうにお考へ下さるお手紙でせう私は少し安心致しましたそして私は現状維ぢの間はこのま」お金もとつてもかまひませんけどはっきりしてしまふ暁にはお金芝か亀ひたく奈審ち奮だまだ、劣底でゑくして居ります潤廊えはどうしξやりたくてやらずには居られなくて呉れてるのなら私も喜んですみませんと云ひ乍らもらひませうけどあの様子ではをしくてたまらないのにと思へましてそうすると私のしてゐることが何か汚らはしいことのやうに思へてなさけなくなつてしまひますのよお金がなくつちや生きてゆけぬ世の中とは智つ毫金やつてるのだから何しても℃とい態度がいやらしくてく苔喜んけどまあこんな問題は今年中に考へてをけばい、のですわね三週間はいらないと利目がうすいとき?ますし丁度っゆがよくきくさうですし月末から月初めにはコーテツクスなので歯も何も放つてやつて来ましたこちらの様子は次便で詳しくおしらせ致します父より百円かりまして五月の払ひしてその残りをもって参りましたがこ、を引きあげる時にはも少

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たりしないと足ないと思ひますまことに申つらいのですがもう七十円お送り下さいませんかかはせの受取人は鳥取市西町四六古川憲として下さいませそして書留は此方へおねがひ致します。六月分の中より歯をしてしまひますれば沢山お金のいりますことはすみますがそれまでは何しろこんな風でございますのでっゾれの帯大層ほしくてたまりませんが今すぐ注文しなくても七月になってからでもい、のなら私もお仲間へ入れて頂きたう存じますが今でなくてはいけないのなら判断に迷ひます参謀長殿の御指揮をあほぐより外ありません無地でございますか名前のこと(中略)「おしげ」は意地悪ばばみたいで嫌ですから「お」をっけないでほしいと思ひますね潤一郎が自分でさがしてやると申して居りましたからおそれ入りますが一度話してみて下さいますやうおねがひいたします此の宿は父母が以前よく行つた旅館の主人の姉の家で私の家のことよく知り居りますので名前も古川と申すわけにゆかず大岳の連中もよく知って居りますので谷崎と申して居りますどうぞお手紙下さいます時には左様願上ます私の手紙はいつも長すぎていけませんからもっとかきたいことが山の様ですけど明日にゆづります何卒御身お大事に願上ます妹尾様光子様へよろしく願ます六月十二日入梅小雨しげ藻

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百二十昭和九年六月+七日油屋旅館丁末子より妹尾キ一、様あて封書毛筆御きげん如何ですかどうもやっぱり此方はさびしくていけません(中略)風呂はこの頃朝ダニ回であんまとってもみほぐして居りますからもうこれですっかりよくなれるかもしれないと嬉しうございます潤一郎東京より帰ってから手紙くれましたが大層きげんのい?ものなので余ほど東京でうれしいことがあったにちがひないと思ってをります潤一郎のには「睦」がい?とありましたが一体どうなりましたのでございませうか(中略)此方もなかなかおあつくなつてまゐりましたどうぞ皆様が御自愛あそばしますやうおねがひ申上ます六月十七日丁米子

百二十一昭和九年六月+九日油屋旅館丁末子より妹尾キ、、様あて封書毛筆あんまりくだらないことばかり書きますので妹尾さんが驚いていらつしやりはしまいかとおそれてをりますがまあもうしばらくの間のことですからどうかこんなをかしな手紙かきましても勘弁して下さいませ(中略)籍のことおそれ入ました早く片づけて早く古川になりたう存じます(中略)

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ほんとに私はお金使ひが荒すぎるのでせうか(中略)貴女様にこんなに御心配かけ乍ら飛んでもないことながら目の前でひどく困る者を見れば出さずには居られなくなりますので困りますでは五十円だけ送つて頂きます父へは八十円だけ返しておきまして二十円来月返すことに致しますながらあの、心地よき青年は十八日に帰阪してしまひました明治大学出身で長柄の人ださうですその人が手相人相を見るので見てもらひましたところ私は玉の輿に乗る相があるが乗ると他人に羨まれつ?も自分は内、心大層苦しい生活をしなくちやならなくなるからうつかり乗られませんよと申し(中略)結婚してゐたら主人と別居しなきやならなくなると申しましたよ私が何者であるとも知らないのに後にきれいな例の二人の青年が残ってみて昨夜もクラフで出会ひましたがお互に何者とも知りませんけど(中略)別に仲よくなりませんから御安心下さいませつばめなど?さわぐのはもう廃業しましたから昨年の此頃はそれでやかましく申してゐましたのねほ?えましく思ひ出してみます(中略)名前はいよくおむっえに沓ました宴らしくてわりにい?患びます一議一六月+九日睦妹尾おくさま

百二十二昭和九年六月二+二日油屋旅館谷崎丁末子より妹尾キミ様あて封書毛筆今川端の散歩より帰ってきました(中略)もう一週間したら両町の家へ帰らふと思ひますそれでおそれ入りますがお金まだでしたら二十円小

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みささかはせにして王朝で私が受取れるやうにしてあと一んか(後略)六月二十二日妹尾かあちやんおんもとに

二十円は鳥取で受取れるやうにしてくださいませ睦

百二十三昭和九年六旦子六日油屋旅館谷崎丁未子より妹尾キ、、、様あて「大至急」封書毛筆大そうおあつくなりましたがその後おかはりいらつしやいませんかお風邪もおよろしいでせうかこの湯大へんよろしいやうに思ひますのでもう:一週間滞在しまして根からなほしてしまふことに決心致しましたそれでまことにおそれ入りますがおくにさんに私のたんすの中からゆかた帯と真岡小菊模様のとしぼりのとゆかた二枚それから青色の派手なあかし一枚とを送つてもらつて下さいませんか(中略)せつかく見っけた美しき青年の一人帰ってしまひましてっまらなくなりましたがもう一人の方が残つてゐまして此頃よく散歩の途上出あひますのですつかり道づれになりましてフランスのはなしなどきいてゐますのでたいくっがしのぎよくなりましたから御安心下さいませ(後略)六月二十六日睦おくさま

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おそれ入ますがお金太至急おねがひします

百二十四昭和九年六月二+九日油屋谷崎丁未子より妹尾キミ様あて「火急」封書毛筆大へんおあっいことですがその後おかはりありませんかおかげさまで私は段ヒ元気になつて参りますから御安心下さい(中略)^ママ)何もお金つかはないのですが何しろ毎日のあんま代ですかり予算ぐるゐで払ひが五円と少し足りなくなりましたので相すみませんが小かはせで十円だけ大至急御送附願上ます潤一郎さんよりお金と寸きましたら百円父宛お送り下七、いますやう願ひますやつぱりこうしてゐるとお金がいりますがしかしすつかり治れば結こうなのでのんきにゆつくりなほしますまことにすみませんがおあひになりましたら潤一郎にも左様おったへ下さいましてなるべく早くお金くれますやう願ひますせきのこと代書が質問することに答へれないところがあるので私のかへるのをまつと云ふことでしたからどんなところがわからぬかしらせてくれと父へ書いてをきました帯のししゆうどなたにしてもらふのでせうか赤味の多い朱骨銀扇と黒骨の畳んだ金属はふるくさいでせうか銀扇に誰か佐藤さんか吉井さんに字をかいてもらふとしては如何でせうか(後略)六月二十九日夕睦妹尾おくさま

百二十五昭和九年七月二日

油屋谷崎丁末子より妹尾キミ様あて

封書毛筆

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た■今書留落手まことに有難う存じました(中略)芦屋の友達も帰つてしまひましたしこの頃全く一人でつまりません早くお代りを見つけなくては面白くありませんがしかしそれでもこ、は大層居心地がよくなりまして一そ一と夏ゐて見やうかと思ひますそしたらすっかり治ってしまふのぢやないかしらと思ひます此方へ来ましてから段ヒと眉間の八字しわものびて来ましたし顔の色つやもよくなりました肩のいたいのも段々に薄らぐやうに思ひますこんな風ですから何卒御安心下さいませ先夜大川へ投網を見にゆきました一時間半ほどの間に鮎が二十匹もか、りましたつゾれの帯まだたのんでありませんでしたら刺しゆうは芙蓉の花にして下さい(中略)潤一郎一寸も手紙寄こしませんどうしましたのでせうか何もかはりありませんでせうかしらどうぞ御からだお大事に願びます七月二日睦おくさま

百二十六昭和九年七月四、五日油屋谷崎丁末子より妹尾キ、、様あて封書毛筆書留案外早かったのでおどろきましたどう慎ろく御配慮おそれ入ます一露一^ママ)籍のこと相すみませんでした(中略)潤一郎の戸せき謄本もいりますが其方へ用意しておいて下さいませ潤一郎へ一ふで私より申しておきます

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妹尾様今何をおやりになつてらっしやいませうか温泉でふとつたらモデルになりませうか、、、帯そんなすごいのが出来ますのですかそれでは今年は帯と帯どめ来年それに似合ふ着物と長嬬神をつくりませう刺繍何したらい?かよくわかりませんから何かおとなしくて垢ぬけた品のい?ものをして下さいませ(中略)お友達がなくなりましてどうも淋しくていけません早く以前のやうない・人が見つかりますればとたのしみでもありますがしよんぼりしてゐます又かきます取急ぎ御礼のみ七月四日睦おくさまたゾ今書類送つて来ましたそれではおそれ入ますが潤一郎の署名と印と何業といふところと本籍地書き入れの上潤一郎の戸籍とう本と共によろしく御配慮願上ますそれからおそれ入ますが妹尾様へ保証人になって頂きますやうおねがひ致します(中略)おなかが蔭窪くてあついのにくしやくいたします一後略一五日

百二十七昭和九年七月九日きびしく拝啓毎日暑気配敷閉口至二存候

鳥取市西町古川憲より妹尾様あて

封書ペン書

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貴家皆々様如何二候ヤ御機嫌御伺ヒ申上條始終了未子ノ身上二就キ御厚情ヲ蒙リ且又戸籍上ノ件二就キ格別ノ御息カラ薮キ難有存上條丁未子王朝二滞在中ノ為メ書類調整上案外手間取リ遷延ノ段幾重ニモ御容赦被下度候去ル五日丁末子ヨリ貴家宛発送シタル車ト存候間北上トモ万事官敷御願申上條六日谷崎氏ヨリ催促ノ打電有之候二付右ノ次第返電仕置候御序ノ筋ハ不惑御伝言ノ程御依頼申上條かたがた右ハ御機嫌御伺ヒ勇御願ヒ申上條敬具七月九日古川憲妹尾様追テ過日三〇御送金下サレ確二受取敢シ侯

正式に谷崎潤一郎「妻」として谷崎家戸籍に入り、然るのちに離籍という通過儀礼が、この昭和九年当時の丁末子夫人側の一大眼目だったことが分かる。演出者は妹尾夫人であったかもしれず、丁末子夫人の口吻には庄造の「猫」を奪取した先妻晶子のそれに重なるものが、たしかにある。むろん、「猫」ではない妹尾夫人君子の胸の内は推測しがたいけれども、終始この女性を連日連夜の手紙漬けにしてもてい確保した丁末子夫人、むざむざそれを許していた松子夫人、やむをえずあたかも丁末子代言人の体でお気に入りの妹尾夫人の諸要求に応じていたかもしれない谷崎。だが、転んでもただ起きるどころではない谷崎の胸には早くも『猫と庄造』の世界は「もやもや」と想い描かれながら、場合によればこんな丁

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未了夫人の手紙にすら妹尾家で眼を通すくらいの用意をしていたのではないか。みt」さ籍と金と、療養、この三期温泉油屋ぐらしを語る手紙の裏に、やはり一人の女性のやるせなさもさりながら、或る人となりないし性格が浮かび上がって来て、そこから逆に谷崎の思いを推量することも、かなり利く。丁米子夫人自身にはまだまだこの段階、完全な離婚の自覚が薄く、もしかしてまた元の鞘におさまる可能性すらある戦略的別居、離籍とくらいに思うている気はいもある。谷崎の浮気をがまんあししてやる良妻の芝居気すら窺えていたましい。よくも悪くも人物として分厚さに乏しいことがよく分かる。油屋で同じ境遇の女性に同情して同居生活するような場面もべつの手紙に見えていたりするし、妹尾夫人との交際にも昭和初年の大阪神戸有閑マダム連中の雰囲気がかなり露骨に反映していると見ていい。そういう中へ一度は身を浸した「谷崎夫人」が谷崎夫人ではなくなって行く不安、焦慮、強がりもよく出ていて、やはりいたましい。

十五

百二十八昭和九年七月+八日油屋谷崎丁末子より妹尾キ、、糠あて端書毛筆又昨冬と同じやうになりさうですので少しくるしいけど今夜か明日かにいよいよ鳥取へ帰ります風しや邪ひいて熱があるのに湯でもありませんし早ぐみ者にみてもらひたいと思ひますので、それでも神経痛の方は大へんによくなったやうに思びます三期から何か送りたいのですが何もないので仕方ありませんから絵葉書送ります

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潤一は塩原で原稿かいてゐるさうですお松は多分留守番だらうと存じます風邪がなほり歯がよくなりましたら帰りますまってゐて下さい私をまって下さるのはお宅ばかりでございますね忘れません次便は鳥取へ願びます

ちょうどこの当日、古川下未子と谷崎潤一郎との「結婚届」が出されていたのである。谷崎の塩原での執筆はおそらく『文章読本』と思われ、とするとこの時の原稿は、『夏菊』中絶後に改めて大阪正念寺を借りて存分に書き直されてしまう。『文章読本』がこの年の眼目になりそうだという自覚と、それが売れるだろうという自負は、相変らず金詰まりの谷崎をして真剣にならせていたのである。この本が、或る意味で文章家谷崎の軽重を世に問う仕事になることも重々承知の上だった。谷崎もまた苦しい淵を渡っていた。丁末子夫人の鳥取の実家へ帰っての第一便は七月二十三日づけになっている。

百二十九昭和九年七月三+日鳥取市西町古川方丁末子より妹尾キ、、様あて封書毛筆妹尾健太郎様今朝ほどは書類お送り下さいましてありがたう存じました父母と?もに厚く御礼申上ます御製作の御成功をいのりつ?居りますおくさまに先日はおやさしいお手紙うれしく拝しました(中略)

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着物一枚でがまんしようと思つてをりましたが毎日の病院通ひでこれからもまだ歯に通はねばなりがすませんのでまこ差く申難いのですが紹の着惣楚の長葎と昨年買ひました白地瓦斯肇のひとへおび単帯とを大至急御送り頂きたう存じます歯が出来ましたらそしたら早速上阪致しますまつてゐて下さいませたのしみでございます(中略)(ママ〕それから七月のお金とゾきましたら百円送つて下さいませ実は三朝で三十円ぼと足が出ましたのにじん±しん又ヒ董麻疹のために二十円借金が嵩みまして七月分はおろか八月分のお金なるべく早く送ってもらはないと歯のれうじに安心してか?れませんと云ふ始末どうぞ折を見て潤一郎にその旨おつたへ願へませんでせうか(中略)潤一には気のどくですがどうぞよろしくおねがひ致します(中略)七月三十日夕睦

百三十昭和九年八月二日鳥取市西町古川方丁末子より妹尾キミ様あて封書毛筆書留たゾいま有難う存じましたおあついことですがその後おかはりありませんか(中略)もう歯の療治しないで岡本へ帰りたいやうな気が致しますがそんなことしてはいけませんかしら岡やたら本へ帰りたいと思ひ出しましたら矢鱈に帰りたくなりましたがまだ両親にはそんなこと話しても居りませんが如何なものでせうかしら(中略)ダンスやお茶の存いご差かく大引力でございましてそのために島本套っかしうございま

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す(中略)此方は防空演習は巻三月にすみましたからこの度はありませんでした

(後略)

百三十一昭和九年八月七日鳥取市西町古川方丁未子より妹尾キミ様あて封書毛筆昨日は小包有難う存じました(中略)着物や時計など早く拝見したいものですでもそんなにお使ひになつてはいけません妹尾様の田虫がひどくなるといけませんから歯は前歯の四本はそれでは大阪でやることに致しますそして奥の二本の手術とその他三本を埋めるのとを此方でやります奥は見えないところですから少しでも安く上りますやうにもうそろく私鷺取事揚げ喜ん薫評のたつ享号あり手しそれより嘉会の美しい生活がなつかしくなりました松さんは根津さんのお金をかりに歩いてをりますのですかそれとも潤一郎のためのですか自分のためのでせうか潤一郎のためとはどうしても思はれませんけどお美津ちやん姉さんはいつ頃から私のところへいらつしやりたいのでせうか大変ぜいたくな話で恐縮ですがどうも私は今まで身のまわりから台所まで一人で切り盛りしたこともありませんしこんな身分てぜい沢な事は言へませんがやはり肩が凝りましたり頭痛が起りますので台所をしてくれる人を近所の娘か婆さんでも通ひでもかまひません安くて安心の出来る炊事女をやとひたいと存じます(後略)

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八月七日奥様

捨子夫人の金策に触れている部分は、年月不詳のため早くまとめて紹介した捨子夫人自身の手紙のどれかと照応しているのだろうから、明らかに丁末子夫人の方にも邪推ないし誤解はあるというべきだ。もっとも情報はほぼ一切が妹尾夫人経由で入るのだから、機微に触れてくる情報もまたその間の手ごころ、手加減しだいでかなり大きく揺れ動きながら伝わったに違いない。それにしても「都会の美しい生活」がなつかしいという一節には切実なものがある。両親揃った故郷の暮しすらそれには勝てず、遂に単身居坐っていては「悪評」の種になるという。女三界に家なしとはよく言ったものだ。

百三十二昭和九年八月二±二日鳥取市西町古川方丁末子より妹尾キミ様あて封書毛筆お手紙が私のと入れちがひになりましたのですねた上りいろくとお便なつかしく拝しました一露一利は歯の手術後がよくなく毒日奮して氷落してねてゐます首にぐりくのいたいのが出来まして右なのであいにく筆がもてないのでこまります(中略)夏菊は蒲田で映画になるさうです蒲田で権利を買ったと映画の友に出てゐましたからそしたら清太郎さん使ってもらってあつぱれスターになって妙技をふるふとよろしいのにねあまり身近かでナマくしてゐて変恋ゑでよんでを呈す一後略一

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八月二十三日妹尾おくさま

百三十三昭和九年八月二+八日鳥取市西町古川方丁未子より妹尾キ、、様あて封書毛筆お葉書有難う存じました相かはらずお忙しさうですね(中略)じゆんちハータロ氏はどこに住んでゐますのでせうそんなにみなから言はれるやうなことかくと尊池は今にゆすられてしまひませうね映画になるのは日活ではなくて松竹の方ですあれをよくよみますと小説のかき方の勉強になりますね播画も大層好ましく思ひますが何だか魚崎時代を思ひ出して変な気がします(中略)九月になればどうしても中旬までに必らず出てゆきます(中略)^ママ)私は大分ヒステリーになつてゐましてすぐひどく腸がたちまして我まん出来ないことがしばくあります何といふこまったこと袋ったことか悪しく沓ます荏方あり喜ん岡本ξっと陽気な生活はじめたらなほるかしらと思ってをりますお茶は九月何日から始りますかなるべくそれに間に今ふ様に帰りたいと思ひますそれからお金は八月分の中より百円だけお送り下さい九月分を九月はじめにくれませうかしら(ママ)お金のこと云ひたくないのですけどやくそくのまもれない人ですからこまります潤一も大抵ではないのですがまあ九月のことは九月に考へませう

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おそれ入りますがどうぞおねがひ致します八月廿八日妹尾キミ様御侍女

(後略)

百三十四昭和九年九月八日鳥取市西町古川方丁未子より妹尾キミ様あて封書毛筆(前略)東京は如何でしたかほんとに此のたびは輝かしい御上京でしたね早く二科が大阪へ参りますればよろしいですのに拝見したくてくうづくしてをります一露一度およろこぴの禦^ママ)ほを早く拝したいので十九日には上岡いたしたいと存じます(中略)私のつもりではいつまでぐづくしてゐまして三出戻り娘一の評判が高くなるばかりですから一露一それでまことに享れ入ますが八月分のお金百五十円全部送つて頂きたいと存じますそして岡本へゆきますれば生活難ですから約束通りその月初めにまちかはぬ様お金とゴけてくれます様潤一郎にお話下さいませんでせうかそれで九月分のお金も出来るだけ早くと■けてくれます様おねがひ致します八月分だけのお金で上板しますと四捨円借金のこしてゆかなければいけませんが兎に月近ヒ出かけますことにしましたからどうぞくおねがひ致します、潤廊は私から茎のこ畠しますと茎の・轟妹尾様の口からき?たいと申しておこりますので本当にっらいのですがどうぞ手紙でなりと事情おったへおき下さいます様伏しておねがひ申上ます(中略)何でも彼でも御迷わくばかりおかけ申しまして何ともお礼も申せませんがどうぞおゆるし下さい又

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岡本へ住みますれば一層の御やっかいですがどうぞよろしくおねがひ申上ます九月八日妹尾おくさま

(後略)

百三十五昭和九年九月+二日夜鳥取市西町古川方丁未子より妹尾キ、、様あて封書毛筆(前略)潤一郎さんの返事如何でしたか私も潤一郎さんは気のどくだと思つてをりますしお金お金と意地汚く云ふのもいやですけどお金がないとやつてゆけませんので困ったものです実際のところ早く上阪しませんとほんとに鳥取の人々は私がもう別れて帰つたのだと云ふ噂を信じてしまひますちよいくそん藷肇ますしそん叢あっかひ蔓けま菟に角しばらくξこの睾取り消さないと色々不利ですので経済上から考へれば鳥取にゐる方が安定なのですけれどもそんなわけにもゆかないやうです私の心もちもどうしても一度岡本で自分の生活をして見たいと思ひますがもし潤一郎さんが九月のお金月末までに寄越しません様な形勢ならば一寸考へ直さなければなるまいと思びます如何な形勢でございませうか(中略)早く岡本にておめにか?れますのをたのしみにしてをります九月十二日夜睦妹尾おくさまへ

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状況が切迫している事情が伝わってくる。離婚(結婚入籍したばかりなのに)という現実が有無を言わさず丁末子夫人の将来を不安なものにしている。しかもなおどうかして岡本の生活へ帰りたい未練のつよさは、もう切上げようと思いながら、私に手紙を書き写させっづける。一つには、これらの手紙に溢れている心情はあの庄造を猫がらみ引寄せようと必死の前妻晶子のものそのままと言いきっていい。逆に言えば、いかに谷崎が『猫と庄造と二人のをんな』で別れた丁末子夫人の心情を冷徹に見通していたか、再現しえていたか、驚くよりないということになる。しかしまた、こういう状況が流石に谷崎ほど強硬な芸術家の筆をも渋らせ湿らせ、『夏菊』の失敗を招いてしまったことは十分注目に値する。松子夫人との同棲も、丁末子夫人との事実上の離婚後の交渉も、ともに相乗倍加の勢で谷崎文学の一つの行詰まり状態に拍車をかけていたのである。『猫と庄造と二人のをんな』の或る意味で一等資料としても、今しばらく丁末子夫人の手紙を追っておく。岡本へ帰りたい念願も、何より経済的な理由で阻まれていたようだ。

百三十六昭和九年九月+八日鳥取市西町古川方丁末子より妹尾キミ様あて封書毛筆(前略)それではお金の顔を見ましてから私は岡本へ出かけることに致しませう返すものは返却し払ぶものは払ってしまひましてきれいになりましてからでないと心もち悪いですから出来るつもりで行ってみて出来なかったら又御心配かけることになりますと心苦しうございますから今しばらく鳥取に籠ることに致します家のことあまり御心配頂きますから一とまづことわつてもらひませうかしらそしてたしかに上板出来ます見こみがつきましてからその時空いてゐましたら

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かりることにしましては如何でせうかそれでお金参りましたら百五十円送って下さいませそして十月五日の九月分のお金はそちらで貯金して下さいませんかそして貯金の名は古川睦として下さいます様おねがひ致します三百円貯金が出来ましてから岡本へゆくことに致します鳥取にそんなに長くゐますのはっらいですけどその方が経済的にい、やうに思はれますから(中略)秋になりましてから雨ばかりで又少しちくくいたしますが大変肥りまして妹達がもうこれより肥ってはみぐるしい畠してをりますが神経過敏のカミくは直窪く菌呈す一露一取り急きお返事のみ早々九月+八日睦妹尾おくさま

百三十七昭和九年九月二+九日鳥取市西町古川方丁末子より妹尾キ、、糠あて封書毛筆(前略)校長さんの家は大層い?家ださうでをしいのですがどうしたものでせうかやはり二百円くらゐ貯金出来ませんと心細いと思ひますから私はそれまで鳥取に籠りませうと思ひますそれには十二月までか?りませうからもう二三十円投げてしまへばそのま、かりられるのですが二三十円でも大金ですからそまつに出来ませんし私も迷ってしまひます(中略)しかしお説にしたがひます(中略)うちでお金のことで度々打出までうるさい御足労勿体なく思ってをります(後略)

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九月二十九日妹尾おくさま

百三十八昭和九年+月三日あさ鳥取市西町古川方丁末子より妹尾キミ様あて封書毛筆書留有難く落手仕りました(中略)色々御心配下さいまして有がたう存じます参謀本部からの帰還命令謹んで拝聴早速引揚げの準備に取りか?りますこの百五十円は先月今月の仕払ひ汽車賃お土産費としますとおみやげに支障を来しますが倹約にしましてこれだけですましますから岡本にての生活費は潤一郎さんがお金もって来てくれませんとないことになりますので潤一郎さんのお金がとゾき次第に出立教しませう(中略)やっかいものが又々お身近にうろつきますがよろしくおねがひいたします十月二日夜睦妹尾おくさま

百三十九昭和九年+月+四日鳥取市西町古川方丁末子より妹尾キミ様あて封書毛筆その後お変りありませんか此頃は光子様為帰り宏ってらつしやいます由譲やかでよろしうございますね二科がいよく京都へ参りましたが招待日にお出かけになりましたかせいもんこの頃誓文払ひですから又わ買物にお忙しいのぢやないかしらと思ってをります

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潤一郎さんからまだ届きませんでせうか十月も十一月も鳥取に居りますならば八月分の百五十円だけのお金で充分なのですが岡本へ出かけますとやはり大分その準備にお金がいりますので潤一郎さんから届きましたら御面倒ですが七十円お送り下さいます様おねがひ致しますそして残りのお金は貯金しないでおいて下さいます様おねがひ致します十八日が日が良いさうですから十八日にたちたいのですがお金が届きませんうちは心細いからお金と■きましたら何卒よろしくおねがひ申上ます(中略)まことにおそれ入りますが時間きまりましたら電報打ちますからお春どん梅田駅までお出しねがひたう存じます(中略)それから校長さんの所番地名前おしらせ下さい手荷物を配達させますのに必要なのでどうぞ至急願上ます何卒お大事に十月十四日睦御奥様御侍女

百四十昭和九年+月+六日鳥取市西町古川方丁米子より妹尾箆太郎.キ、、、様あてお変りありませんか思びたったが吉日で十八日に矢張り出立いたしたいとおもひます

封書毛筆

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今日父よりお金はかりましたからしやく銭のこしてたちます十八日午後一時半頃此方たちますので午後八時頃大阪につくと思ひますその朝電報うちますがその時刻に梅田駅までお春どん迎べに出さして下さいませまことに一層のお世話様ですが何卒よろしくおねがひいたします取り急ぎましておねがひとおしらせまで十月十六日夜睦妹尾御夫婦様

結局大通分を無用とみて全文割愛しただけで、重苦しい丁末子夫人の昭和九年を通過した。むろん常識的に、こういう手紙を谷崎は見ていないに違いない、が、他方「潤一郎さん」とも直かに書信の往来はあったろうし、妹尾夫人も辛いお使者で何度も打出の谷崎ら隠れ家へ足を運んでいる。谷崎も捨子夫人も他事ならぬこの丁末子夫人の生計費捻出には苦労していた。ましてこの年谷崎は、月々の原稿料収入もとくに『夏菊』中絶以後はゼロに近かったろう。『文章読本』は書下ろしだった上に、校正副を見てからほぼ一新に近い書き直しすらしていて、ちょっとした八方ふさがりだったのだ。だが、八方ふさがりの行詰まりと思えばいっそう、谷崎潤一郎は新たな視野、野望を求めて真剣を極めていた。結果論ではあるが、この後に『源氏物語』の現代語訳という大業をえらんで没頭した谷崎ならではの意義づけは、ぜひ問わねばならない我々の課題に相違ない。この問いに正しく答えるためにも谷崎潤一郎の「昭和九年」は、ただ『文章読本』の年というにとどまらない昭和初年の谷崎を総括する、

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大事な折り目になる。ともあれ、『夏菊』は失敗し、昭和八年の諸作を越える動機性の強い構想は湧かぬまま、昭和九年末には「第二盲目物語」の『聞書抄』を資料を上手にこなして谷崎は書き出した。その連載の間に昭和十年正月ついに丁末子夫人との離婚が成り、森田捨子は正式に谷崎の「妻」となる。谷崎はいよいよ、「妻」の何ゆえに「妻」であって、いかに理想の「妻」たりうるかを、昭和二年宿命の出違い以来を感慨深く顧みながら、何としても百足竿頭なお一歩を進むべく真剣に「妻」の論理を、考え究めるしかない時に立ち至った。『源氏物語』の現代語訳は、他のいかなる必然偶然の状況や条件を考えに入れても、なおこの理想の「女」森田捨子を念願の「妻」にしたことの谷崎なりの意義づけそのものに、最強最深の動機を見なくてはならない。私のいう『谷崎の「源氏物語」体験』(「海」昭和五十年九月号)は、この現代語訳という大業の必然の動機を、谷崎の文学および私生活の両面から考え抜いた結論であったし、同時に、時局柄「藤壷」の項の削除を無残に強いられた訳業に対する谷崎の不満、遺憾の念がいかに深かったか、その洞察を抜きに捨子夫人を事実上の主人公と見立てた『細雪』の書かれた真の意味を理解するのは所詮むりということも示唆したものであった。谷崎潤一郎の昭和九年は、「上がり」のあとの軽い放心と真剣を究めた次への模索とが、「我ひとり」の胸底で人知れず渦巻いていた。『源氏物語』へとひたすら身を寄せて行くまさに揮身の情熱ともいうべき執勘な意欲は、まちがいなく必要以上の必要に迫られてこの昭和九年当時からひそかにかきたてられていたかと私は想像する。もはや避けがたい関頭に立って、谷崎は『源氏物語』をただ読み直す

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のでは足りなかった。自分のものにする、ことがぜひにも必要だった。そしておそらく、谷崎はあれほど多年を要した二次三次に及ぶ大偉業を実はこよなく楽しみながら、同時に自身日常の「光源氏」体験を悠々と日々豊かに愛し深めて行ったに相違ない。『台所太平記』の家庭は即ち、光源氏の六条院に相当し、女主人讃子は理想の紫上であるとともに、あの弁天坐の舞台に、、、観た記憶すべき女房おさんの打って変った幸福な姿であった。捨子夫人の昭和九年以後は、藤壷から紫上へ、そして小春からおさんへ変貌の道程であった。それゆえにまた、紫上が他の女人の存在に幾度も涙ぐんだような場面にも、新たに別の小春の出現にも、悩まされなかったとは言えないだろう。谷崎とむしろの三十年はどこかやはり一つの「針の雛」であり、反語的にはそれゆえにこそ十分充実して幸せだったであろう。谷崎は終生二度と「妻」捨子を他の「女」に見換えてしまうことはなかった。表立たない幾度もの暗い淵に臨んだに違いなくとも、この「妻」の内なる「女」は、理想の「母」へと通い合うものゆえに十二分に谷崎潤一郎の愛を享けきったとすべきであろう。捨子夫人の幸福に較べて、丁末子夫人の不幸はどう慰むすべもない徹底的なものだった。不幸の答が「夫」谷崎にのみ帰すべきかどうか決して確言しえぬにせよ、昭和九年から十年に至って丁末子夫人の不幸は極まって行く。

百四十一昭和+年一月+八日鳥取市西町くだされ拝啓只今ハ御打電被下難有御礼申上帳

^ママ)古川憲より妹尾健太郎様あて

封書ペン書

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なにかかかはらナ始終何角ト御厚情ヲ蒙リ居リ候ニモ不拘御礼ノ書面モ差上申サズ誠に不人情者ト思召サレ候事ト存候モ何分小生近来寒サノタメ病勢少シク増進シ既二昨夜ノ如キハ医師ヲ招カンカト致シ候モ其内いささたく些カ平静二相成安心仕リ候様ノ次第ニテ御無沙汰ノミ申上候段幾重ニモ御容赦下サレ度候かねサテ、丁未子ノ身上二就キ離婚ノ件ハ予テ御約束ノ通リニ付何等異議無之候ヘドモ其実行方法ハ如何ナル手段ニョルカ当方ノ意見トシテハ成ルベク秘密主義二基ク方希望二候へ共先方ノ御意見ヲモおとりけからひ尊重セネバナラヌ事ト存ゼラレ候兎角双方ノ不名誉トナラヌ様御取斗被下度其ノ義ハ貴下へ御一任仕リ候間宜敷御願申上候右ハ病中乍失礼代筆ヲ以テ御願申上條敬具一月十八日古川憲(ママ)妹尾健太郎様

年譜によっては「昭和九年十月」を古川下未子との離婚としているが、昭和十年一月十八日以後、捨子夫人との祝言がなされた同年一月二十八日までの時点で法律上の離婚手続きが踏まれたことが分かる。なお松子夫人の入籍は同年五月三日となっている。思えば当然ながら、あれほど切望していた丁末子夫人の岡本柱まいも長続きはせず、また鳥取へ帰らねばならなかった。が、帰りっぱなしでもなくて、必要やむをえず何度かは妹尾の方までは出向いていた。当面の所用の第一は、滞りがちな谷崎からの生計費支払い問題につきあれこれ対応の策を取ることだったろう。そしてもう第二と挙げるほどの用件も、谷崎と古川下未子との仲には生じえなかった。

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百四十二昭和+年四月+六日鳥取市西町古川丁未子より妹尾律太郎様・キミさまあて封書毛筆御母堂様方如何にいらつしやいますか福知山のあたりまで参りましたら雨がふつて居りましたのでもしや京都も降り出してゐるのではあるまいかと心配しましたが如何でしたか御二方とも御気分はさつぱりなさいましたか(中略)父はやつぱりあまりい、方でもありませんが今日のやうに陽気がい、と気分も少しはい・らしくひなたぼつこしてゐねむりして居ります五千円の話を決めて来たのかと思つたらしいのですがさうでなかったので少しがつかりしたらしうございました早く片づかぬと気懸りらしく見えます潤一郎さんにおあひの節によろしくおねがひいたします(中略)鳥取は今共進会がありまして賑やかです汽車が混雑しまして肩が凝ってしまひましたどうぞお達者でいらつしやいませとりいそぎ一ふで安着おしらせまで四月十六日睦妹尾御夫妻様

百四十三昭和+年四月二±官鳥取市西町古川下未子より妹尾キミ様あて封書毛筆先日はおなつかしいお手紙まことにうれしく拝見いたしました(中略)二十六日にお宅へ百五十円だけ持参すると潤一郎さんより便がありました後は来月上旬になるさう

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ですそれで誠に申しかねますが此の月のはじめに妹尾氏より拝借の百五十円来月上旬潤一郎より届けてくれます時までおまち下さいます様おねがひいたしたう存じますが如何でせうか(後略)四月二十二日丁米子キミおくさま

五千円の一度払いで一切下といった案もあったらしいが、結局、古川下未子は上京、再就職のほかに生活のてだてなく、もう一度もとの文葵春秋に入社させて貰った。

百四+四欄轟賄備嚢太腰辣概袈茗露八難荷谷ハウスおみ足まだよくないさうでいけませんね(中略)大雨は如何でしたか昨日潤一郎上京まだあひません色々と御心配かけましてすみません何だか御上京になるかもわからぬと潤一は昨日電話で申して居りましたが本当でせうかもしそれならほんとにうれしいのですけれどもお金のこと勿論岡さんにもお印ねがはねばなりませんしそれはおたのみしてあります二千円のお話結構に存じます併し三千円のことが一寸脇に落ちかねますどうして三年もか、るのかわかりませんそして月々百五十円づ?出してくれても二年か?らず三千円になるのですからも少しこの点考へてみたいと存じます第:二年と云ふ年月が長すぎてあてにならないやうな気がします潤一郎の誠意が

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OOOみとめられずコス七、がまざく見えていやらしくて沓毒ん文章一染誉月害だ大分売れてゐ(ママ)る{、うですし島中さんにも会つて「たのみます」と話してありますのにそんな話する筈がないと思ひますお松のさし金があるやうに思へます三年になるなら二千円今もらつてあとは三千円になるまで強制貯金三年してその間は百五十円になるやうに私の月給の差額だけ出すと固い証文出せばそれで原あですがあんまり次からくへと人を喰つた話のやうに思へて言喜ん潤廊に会ひました時には何も云はずにたゾきいておきませうどうぞ御心配なくそしてゆつくり貴女様方お二人にお目もじの時お話伺ったりいたしませうと存じます父もこの事その他私の上京など気に病みましてもう上京してくれるなと申し居りましたがやはり私といたしましても先々のことを思へば七、うもならず思ひ切って上京いたしましたもの、三年では父のきこへも如うちで何かと思ひます打出でき、ますともう間がないとのことにてなるべく早く安心してもらひたいと思ひますが潤一郎の方にもわけもありませうからゆっくり拝てういたしませう父は一寸きげんよくなりましたのでつとめに気兼してしばらく帰らなくてもよいと申しますそれでもし御上京ならいっ頃でせうか御上京ないなら私が参上いたします私は元気もよく食物もよく食べられますのですが心臓がめっきり悪くなり困って居ります足など少しむくみます三年た?ぬ間に死んでしまふかもしれません何だかお金うるさくていらないやうな心もちにもなりますこんなに皆様に御手数かけたり御心配かけたりしてつまりませんしかし父はそれで私のことを安心してくれるのですから孝行と思へばいやらしいことでもがまんしなくてはなりませんね月給がやすくてとてもくらしが大変です身うごきもなりませんがたのしいこともあります

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仕事は一寸もたのしくはありませんし皆に気兼ねして遠慮してみますから大変疲労しますが自分でもうけて自分で使ふのがたのしいのですお払ひすみません光子さんお帰りになりましたら早そくおしらせ下さいませお送りいたしますどうぞ御身御大切にねがひます御参集の皆様によろしくねがひます七月二日あさ睦御夫妻様

百四十五昭和十年七月二+九日茗荷谷ハウス古川下未子より妹尾健太郎.キ、、、様あて封書毛筆おからだおわるいさうでおあんじいたしをります一寸も存じませんので御無沙汰ばかりおゆるし下さいませまだベットにおやすみですか早く快くなっていたゾきませんと私は心細くてこまります大変い?きぬ麻お送り下さいまして有難う存じましたうれしうございます早速田村さんが仕立てると持つて帰られました月給日に早速浅草へまゐりましてお中元の、心もちもとめて参りましたが気に入つた柄がなくてほんとにっまらないのですが竺仙のゆかたですからあゐの香でも味つて下さい安月給で病院通ひしてゐますので何も彼も思ふにまかせずおゆるし下さい仕払ひの残金どうもすみませんあれは私が払ひますからおそれ入りますが九月の終りまでおたて替えねがひます九月に丁度五十円ばかり手当が這入るつもりですからそれでお払ひいたします心膜あつ喜つかれで悪いので倒れるつ吾奮汽裏のれとのこといろく面倒なご姜巌

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ひしてゐながら涼しい顔してゐるとお考へでせうが神戸でね込んだらどうにもなりませんのでおゆるし下さい契約書のこと一寸おまち下さいませおそれ入りますが何分ともよろしく願上ます七月二十九日夜睦妹尾御夫妻様

ここにも紛れない一人の「妻」の、ただ「妻」なるがゆえに妻の座を喪った普通の女性の嘆息がひびく。本書が確認しえた限りの、これが日付の一等遅い手紙であって、その内容について今さら何を言う気もしない。古川下未子はのちに或る男性と出違って「幸福な」家庭をもったと『伝記』の著者は書いている。が、今はそれすら私のこの重い気分を軽くはしない。いf「女」を「神」か「玩具」かの敦れかであると思うような男を夫にしてしまった普通の女性の、ほぼ当然必然とでも言える筋道を辿って千代子夫人も丁末子夫人も谷崎世界から無残に突き落された。それは奏上や六条御息所が、物語本来の構図からしても、本質的に光源氏世界の失格者であったことと恐ろしいまで符節を合している。谷崎は二人の前妻を「過去半生」に埋めこむことを通して、一方では捨子夫人へ、他方では自らが先君に対応する谷崎源氏の世界へ、と近づいていくのを自覚したはずである。昭和十年秋にはじまる『源氏物語』の現代語訳はその確認にほかならなかった。紫式部の文章を谷崎潤一郎の文章に換えてしまうことで谷崎は自ら光源氏たらんことを意図したのである。そういう法外なこと

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を平然かつ「我ひとり」の、心Lひとつで沈着にやってのけられたのは、谷崎潤一郎がとてつもない「芝居気」の持主であり、同時に捨子夫人という稀有の才能がこの.芝居気」を共演しえたからでもある。「はにかみ」屋の谷崎は、この「芝居気」という表裏一体の仮面をえた時に最大限の暴君的マゾヒストに変身したのである。昭和初年の谷崎潤一郎は、.武州公Lの本性を.佐助」の仮面に隠した、光源氏」を生きようと己が後半生を志向した芸術至上主義の演裁者だったのだ。その私生活、実生活はその演戯のあたかも稽古舞台かのように、いつも谷崎文学にわずかに先行しながら、すでに作者の頭の中で構想された幾場面もを慎重に模倣し修正し確認する場所なのであった。

この上は・蛇足じみるが、本書の目的の一つが未発表書簡の紹介にあるので、正確な年月を確認できないまま残して置いた谷崎潤一郎自筆のもの四通をまとめて掲げておく。

百四十六(不明)鉛筆昨夜西宮日本盛より使が来まして、本日二時に会社へ来て頂きたいとの事でした、そして全コース、、を見るには明日の朝、ひる近くまでか?るさうです、夜中にも時々起きてみる必要があり、ごろ寝の準備もしてあゑの事、そのつ吾の用意窪すって勝義がら唯今よりボツく拙宅の方へ御いで下さい

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活版原稿用紙の中央に活字で「谷崎潤一郎用紙」とある。私は昭和五年当時の用紙と見ているが、年月日は分からない。宛先はむろん妹尾健太郎であること疑いないが、日本酒造りの見学か、内容はたいそう面白そうなのに事情は判明しない。

百四十七昭和五年(推定)月(不明)+四日潤一郎より妹尾様あて封書毛筆昨夜は失礼いたしました本日午後萩原は宝塚見物に行くさうですから夜分一緒に御伺ひいたします私はひるま事に依ったら摂津夫人御見舞ひに行くかも知れません、行ったらあちらから電話かけてみます毎度御手数ながら五十円御両替願ます萩原来泊の事又新聞に書かれると厄介故摂津家はじめ何処へも御内分に願升+四日潤健様侍史

左端に「谷崎氏用筆」と毛筆署名を刷った原稿用紙を使っており筆致も持参の形式も昭和五年当時の書状に近似しているが、何月かは目下分からない。文中「萩原」は萩原朔太郎であろうから、谷崎実妹のすゑ子との縁談のあった頃かもしれず、但し佐藤春夫の影も見えない手紙で確かなことは分からない

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し・その辺は私の興味を惹くものでない。むしろ摂津夫人との特定の親近がいよいよ裏づけられることが分かって有難い。

百四十八昭和八年(推定)月(不明)三日潤一より妹尾様あて御無沙汰してゐてすみません、折角ですが私はやめます故丁末子を御誘ひ下され度願びます潤三日健様

椅松庭用筆を使っている。やや雲行の怪しい手紙であり、逆に妹尾らが、心を用いて、谷崎と丁末子夫人との仲を和らげようと努めていたかもしれぬことを想わせる。昭和八年の春ごろまでと読みたい。

百四十九昭和八年(推定)月(不明)二+五日潤一郎より妹尾様あて封書毛筆昨夜は失礼致ました本日これより一寸青木へ参りそれより京都へ参ります、大東さんの叔父さんが、京都にいい寺の座敷があるので一と晩泊まりで案内すると云ふ故、あまり心身疲労してゐるの藻養かたく一と晩どまり肴つ蓼ります。右下季藷して了蟹得ましたから・たとひ家をあけましても丁末子の方は御、心配御無用に願ます詳しき事は帰りましてから申上ます、寺の座敷の模様、気候温度、小道具など

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廿五日夕健太郎様君子様

潤一郎

椅松庭用筆である。どうも『春琴抄』執筆前ではないかと想われる。丁末子夫人への気づかいとか京都の寺とか、心身疲労とか。「青木」には摂津別宅があって松子夫人がいたのだから、この京都一泊にも、同伴を十分想像させる。昭和八年三月頃ではなかろうか、そして四月の気候温暖を見はからって改めて『春琴抄』執筆に出向いたのではないか。それにしても「詳しき事は帰りましてから申上ます。寺の座敷の模様、気候温度、小道具など」とは何だろう。また、なぜとりわけて妹尾健太郎や君子に谷崎はそれを「申上」げるのだろう。本書の成るのは全く妹尾健太郎氏の無私の配慮による。氏がこれだけの手紙を私蔵し秘蔵されてしまえば沢山のことが分からずじまいだった。その分からずじまいになったかもしれぬことのうち、一等大きなのは、谷崎と妹尾夫婦との日く言い難い親交そのものだと思う。妹尾夫婦の介在を十分承知の人もかつては沢山いただろう。今(昭和五十一年現在)では、捨子夫人および佐藤春夫夫人だけが、谷崎にとって妹尾夫婦がどんな存在であったか、その比重を過不足なく認識する唯二人の人となっている。多くの谷崎論者も、故野村高吾以外ほとんど妹尾氏には直かに接していないのではないか。だが、昭和初年の谷崎を語ってどうやら妹尾夫妻ぬきでは如何ともしがたい事情を、せめてはそれだけを、本書はさまざまに説き明しえたようだ。

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単に私生活上の交際にとどまらない、或る種の作品では構想から成立にまで質的にも関与していたと想える二人だった。金銭、物質面でも、また社交上、対外折衝上も、この夫妻は重い役割を谷崎に対し引受けている。夫婦ともども家令か執事か番頭か秘書かという役どころをいとわず引受けながら、時としてわる遊びにも関わり合い、また含みの多い参謀役も果している。関係者の誰彼となく親しまれ好意をもたれ、またそうされるほどに十分母している。妹尾夫婦を芯にして谷崎、摂津、古川、佐藤らの人間関係が入組んで見えるとすれば、まさにこの夫婦こそ全ての人から「手」を出される愛すべき「猫」だったと言える。「庄造」も、「二人の」いや「三人のをんな」も、この「猫」がよほど好きだった。だが八方美人の成り難い状況も、ほかならぬ谷崎という「庄造」が産み出したのである。この「猫」が、最初に「庄造」にそっぽを向いたとてなに不わけ思議あろう道理はなかったのだ。昭和十二年十一月下旬、妹尾夫人急死と聴いて、谷崎は「面かげの忘られなくに」と歌を詠んだ。また昭和十三年には、妹尾夫人をおもひて傘さして舞ひけん人をしのべとや昨日もけふも淡雪のふると詠んだ。夫妹尾はむろんとして、谷崎と、そして今は古川下未子と、少くともこの二人は妹尾夫人の死を心から悼んだに違いない。妹尾健太郎はのちに再婚して、関西を離れ、今は東京住まいである。折から今日昭和五十一年七月三十日は、谷崎潤一郎没後十一年めの祥用命日に当たる。初稿の欄筆に当たって感無量をおさえ難い。(完)

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おわりに

この本の中で一番幼少の人であった竹田鮎子さんも還暦を過ぎられ、しかし、佐藤千代夫人も谷崎捨子夫人も、資料提供者たる妹尾健太郎氏も健在である。すべて互いに過去完了とも言いすてがたい場面場面を私は筆にしなければならなかった。たとえ泉下の人であれ谷崎潤一郎、佐藤春夫、それに古川下未了士、んにとっても、これは、今さら人目に曝されたくない部分へも筆の及んだ本に相違ない。重々承知だった。妹尾資料がどんな経緯でこう私の手へまで届いたか、詳しくは知らない。ただ、資料を一覧のうえ・妹尾氏と面談し谷崎をめぐる往年の交際事情をつぶさに訊く、ということすら敢て避けた。ただ会って、:.目先ず挨拶することも避けた。妹尾氏当人の.事実」を超えた主観的な人物論や作品論や観察を聞くこととなれば、私が心に決めていた、"資料"をして自ら語らしめ、判断は読者や研究者にゆだねたい執筆態度が歪むと思った。それのみか、もし資料の読みや記述が妹尾氏という特別のレンズ越しにされていると思われては、登場する関係者も愉快であるまい。この本が示した判断、論評、推理から想像、臆測に至るまで、悉く私の責任と能力とに応じでなされている。誰一人のためにも筆は樽げなかった。"資料"はいたずらに取捨せず、明らかに「谷崎論」と無用無縁でない限り全文を明らさまに表に出した。私が犯す間違いや見当違いは後日の批判を幾らも受けることができるし、強い願いでもある。そのため資料は残りなくかつ正確に出しておくのが、せめてもの誠実な用意と考えたからである。むろん関係者事前の諒承も及ぶ限り得てある。それでも私の気は重い。心苦しい。気弱になるつど、私は亡き野村尚吾氏を思った。はじめての、谷崎潤一郎論』を書いた時、故人の好

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意溢れる書評を受けた。著書に引用もされ、何冊もいただいた。急な他界のあと六興出版より資料を譲られ、これは野村さんがなさるはずの仕事だったと聴かなかったら、この本をここまで書き切れたか、自分でもわからない。あの『伝記谷崎潤一郎』の筆者なら、この手紙の山をどう利用{、れたかと考え考えする中で、私は私なりに思い切った。思い切れた。それで良かった。未熟な問題提起も含め、この本は、昭和初年の谷崎潤一郎を語って、言うべきほとんど全部を言い尽したはずだ。最後に、はからずも妹尾氏あて書簡群の中から近日発見できた、谷崎潤一郎自筆(鉛筆)のなかなか貴重な逸文をここに採録して、本当の「おわりに」したい。昭和五年末から六年半ばに気軽に用いられていた活版「谷崎潤一郎用紙」に正味二十七行文、表題と署名を備え手も入っていて、原稿の体裁を調えているが現『全集』には洩れており、未発表ではなかろうか。昭和十年の『職業として見た文学』に先駆する述懐と読めるのも、今の私には、とりわけて、感慨深い。

趣味と娯楽

谷崎潤一郎

文学上の労作は私に取っては職業である。しかしながら、何がいちばん楽しいか、いちばん好きかと云はれれば、やはり思ふやうに筆が動いて、自信を以て仕事をしつつある時である。さう云ふ時、全く此の道ばかりはいくつになっても止められないと云ふ気がする。年をとればとる程、小説を書くのが楽しくなる。と云ぶのは、すつかり手に入ってラクになったと云ふ意味でない。なかなかムヅカシイものであることが分って来るにつれ、一層精魂を打ち込むかひがあるのを感じる。私はその点で敬二葉亭とは反対に考へる。文学は男子一生の仕事として有り余るほどに思ってゐる。もし私にして生活に追はれる心配がなければ、書き上げることよりも書くあひだの道程を、もっとゆっくりと楽しむであらう。食ひしんぼうが一と箸づつ物を味はふやうに、今日は一行、明日は一

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う行と云ふ風に、書いては眺め書いては眺めして行くであらう。そして倦んだら釜の湯を汲んで、こころし.つかにお茶のうまいのをすすりたい。多少でもそんな工合にして何物にも妨げられずに暮れて行く一日が、私には最も愉快である。趣味も娯楽もおのづからその中にある。実に晴れ晴れとした気持ちになれる。外にも道楽はないこともないが、そんなものは第二次、第三次である。

最初の校正を今終え、明年には谷崎潤一郎十三回忌および野村尚百三周忌を迎える。重ねて、感無量

というしかない。一九七六年大晦日

秦恒平

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谷崎感想

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ごまかしの無い魂

谷崎潤一郎の、佐藤春夫にあてた未見の手紙数通が「中央公論」平成五年四月号に公開された。谷崎の妻を間にはさんだ大正十年のいわゆる「小田原事件」で、才盗れる二人の作家が激しく絶交した直後の手紙を含み、幾重にも関心をそそられる。先立ってテレビ朝日が「お千代」夫人のめったに見られなかった美しい写真と一緒に、『痴人の愛』のモデルといわれる問題の「妻の妹」にも登場してもらい、すてきに面白く報じてくれた。文学の話題としては珍しく懇切な紹介で、テレビの前に釘づけにされた。此の度の谷崎書簡がなぜ意味をもって面白いのか、関、心を惹くのかを、とりあえずの感想として、ここでは考えたい。谷崎潤一郎は大正四年に千代夫人と結婚し、翌年に鮎子さんが生まれると即座に、『父となりて』という複雑に身構えたエッセイを書いている。極端に妻子に冷淡なこの身構えの背後から、やがて影を濃くあらわして来るのが妻の妹の「おせい」さんであった。母に死なれ、父にも死なれた谷崎の身辺に、彼を敬愛する文学青年佐藤春夫の姿の立ちはじめるのが、大正六年の晩春頃から。天才比類ない二人は、あたかも求めあう魂として認めあい親しんだ。愛憎ただならぬ心安であった。佐藤もほどなく文壇に名を成して行き、そしてその年末、谷崎は小田原へ居を移した。佐藤もしばしば谷崎家に客となった。

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この間に創作上の必要からも谷崎は「妻の妹」への惑溺をふかめ、逆に『途上』などの「毒殺し」作品が目立った。事は、だが、谷崎の思惑のようには運ばなかった。小説と戯曲と、とりわけて義妹を女優に映画制作へ一時熱中の「大正期」を、谷崎はかなり難渋しつつ歩んで行くのだが、ところが幸か不幸か佐藤春夫に、谷崎夫人をいたわり愛する態度が見えた。千代夫人にもそれに応える気持ちがあった。谷崎は佐藤に妻を譲ろうと思った。しかもその事の今まさに成る瀬戸際で、谷崎は翻意したのである。「お千代」を「僕の妻」として別離を思い切れなかったのである。佐藤は激昂し、絶交した。大正十年三月だった。「小田原事件」はその後も展開をみせて、互いに作品を介して応酬が繰り返された。『秋刀魚の歌』など佐藤は詩と小説・評論とで攻め立て、谷崎には閉口の気味もあった。だが、根底のところで二人はなお敬愛の思いを喪わなかった。それどころか二人は手さぐりの交渉をへて真剣に和解し、ついに昭和五年には「妻君譲渡事件」として騒がれたような、当初のはからいへと立ち帰ったのである。谷崎夫人千代は正式に佐藤夫人となり、鮎子さんは母とともに佐藤家に入った。ながい目でみて、まことに賢明・適切な決着だった。今度の手紙は佐藤が千代夫人に託し、夫人は鮎子さんに託されて公表にいたったと漏れ聞いている。文学史の一挿話たるを失わない谷崎・佐藤絶交直後の、壮快に男っぽい谷崎憤激の文面には、一種のさわやかさと勝手さとが躍っていて、それはそれで当時の「文学者」魂のいかがなものであったか・あり)15えたかを、送(ほとばし)る面白さで伝えてくれる。こんなやり取りがやっぱり在ったんだ、この二人心39なら在って当然だというのが実感であり、この手紙もふくめて「小田原事件」の全部を、わたしは、決

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して醜聞とだけはとらえない。それよりも二人の作家の精一杯のぶつかりかたに、創造的な強いエネル中ギーを感じる。また幸福な運命をさえ感じる。「小田原事件」はかくて、よくもあしくも「文学」ファ町nンの間で堂々と「説話」化してゆく内容を、また確保し充実させたのである。(なによりも今度のこの手紙を、葬り去ることなく夫人に愛娘に託された佐藤春夫の思いをわたしは思う。また谷崎や佐藤や、小田原事件をすら「私する」ことを拒んでよく手紙を公表して下さった方へも、感嘆と感謝の念をおさえがたい。谷崎は「問題の手紙」作家であった、恋文でも借金の申し込みでも肉親への指図でも。しかもそれが谷崎作品をより豊かに読ませる味を秘めている。今度の手紙は、「神と玩具との間」に住んだ「谷崎の妻」なる存在をまた新たに考えさせる誘惑に富んでいて、正直、どきどきした。-平成五年三月一〇日東京新聞夕刊1

鮮やか、谷崎の「三重殺」

谷崎潤一郎と佐藤春夫の仲が、「妻」がらみでこのところサワめいていると前置きして、英紙の匿名欄に「鍵」の名乗りで、谷崎の「妻」交替劇に「ものを尋ね」ている投書があった。昭和五年八月に谷崎が千代夫人を親友佐藤の妻に譲った事件は、今となれば三者のただゴシップというにとどまらぬ、両作家の「文学」的課題性を帯びている。「遠慮があるのか」と題したその投書にはわたしの名前もあがっていて、ものを尋ねるという以上にまことに興味ある問題提起でもあった。反応が、なにかしら待た

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れる気がした。あ予感は的中し、本紙(6月25日朝刊)に谷崎から佐藤宛ての、すこぶる興味深い未発表書簡が公開された。紙面には、「佐藤に譲る前年」「千代子夫人に、もう一つの譲渡話」と見出しが躍り、昭和四年の二月から三月へかけて、千代子夫人には、佐藤春夫ではない「和田六郎(筆名・大坪砂男)」なる年若い青年との結婚へむけ、谷崎家「離籍」のことが着々進んでいた由が、谷崎毛筆の写真人りでていねいに報じられていた。上谷崎の当時毛筆の佳い書簡を多数わたしは見ているが、今回の写真ではやや粗く細く単調で、一抹の不安もじつは持っている。だがこの書簡の伝える事件の事実行ったことは、「文学界」の昭和六十三年五月号に谷崎末弟終平が細かに明かしていて疑えない。むしろ、以来だれもここへ触れなかった方が異様で、だから「遠慮があるのか」という投書も現れたのである。まことに適切な指摘なので、その投書から紹介したい。先ず谷崎三度めの夫人捨子に、こう言及している。-学者の書いた年譜だと、谷崎と摂津捨子との「恋愛関係」は昭和七年春から「はじまる」としてあるが、ただならぬ出会いと恋愛進行は昭和二年春以降見え隠れしていて、証する書簡・作品・証言は、みの今や公然の事実。作家秦恒平は二度めの夫人との結婚も「隠れ蓑」と断じている。七年には、始まりどどうせいころか捨子との「同棲・結婚」が現実の日程に入っている。ただの私生活とはいえぬ昭和初年の谷崎論には重大事のはずだが、五年の差、作家と学者の「読み」がちがうのか。うえん迂遠なようでも、投書のこの前半の指摘こそが、昭和田・五年の谷崎二度の「委譲渡」意図に関わっこもりづてくる。谷崎と摂津夫人との親密は、じつに「委譲渡事件」の隠水となって四年にも五年にも確実に伏

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流していた。多数の書簡群を検証したわたしの『神と玩具との間』(昭和五十二年刊)はその事情をほ叫ぼ明かしており、「昭和七年に恋愛始まる」説など、例の芝居気たっぷりな共演の「恋文」に惑わされ助11たものと、「鍵」氏とともに、退けたい。(その「鍵」氏はさらに語をついている。1また昭和五年の委譲渡事件主役の千代は、佐藤春夫との間柄ばかり言われているが、昭和三・四年の谷崎作『蓼喰ふ轟』の妻の恋人「阿曽」は、春夫に擬されるべき相手でなく、千代のべつの恋愛を踏まえているとか。へんに遠慮せず言及し議論すべきだろううな-と。本紙公表の新書簡は、まさにこの投書の要望にこたえた格好で飛び出てきた。捻ったのはわたしだけで無かったろう。問題の一つは、昭和四年三月中に「離籍」し「和田」の方で同棲と予定されていた谷崎の「妻」が、なぜ翌五年夏には「佐藤」の方へ「譲渡」される仕儀に至ったか、だ。これを佐藤の側でみれば、谷崎に千代恋愛の事情を小出しに知らされ、いわば「小田原事件」以来「先約」の権利行使を、多感な佐藤が主張せざるをえなくなったと、推察できる。『蓼喰ふ轟』の高夏とが(佐藤)が、美佐子(千代)にむかい、阿曽(和田)との恋愛をみっちりと智めている図を作中に読めこうちば読むほど、作者谷崎の巧繊な私生活上の戦略も透けて見えてくる。根津捨子はほとんど「より理想のたいけナオミ」(『痴人の愛』のヒロイン)でありえたが、大家の人妻であった。だがこの人妻に「文学」的に迫りに迫りたい思慕は、谷崎に根づいていた。現在の妻千代との離婚は大正期以来の懸案だったから、つぷ譲る相手が和田でもいいと一時は思ったが、佐藤と千代との恋を破約で潰した負い目も谷崎にはあった。他方その頃の佐藤は結婚していて、これまた別れたいとも漏らしていた。佐藤の離婚は千代を譲るには

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不可欠の前提であり、それも谷崎の頭にあった。和田と妻との恋愛を黙認の一方、その状況を佐藤に伝しんち上一くえていた事実は、『蓼喰ふ轟』進捗とあわせ、なかなかの意図を暗示してあまりある。小田原事件以後、谷崎は佐藤に相当悩まされた。大正期の佐藤文学も谷崎はよく認めていた。だが佐藤の没直後の追憶で谷崎は、あの委譲渡直後、佐藤が深酒のあげく顔がしびれ言語不明の状態になっていた事件を明かし、あれ以来「書くもの」にも往時の鋭さがなくなったと簡明に切って捨てている。そっけない程の一文が佐藤文学には重い批評となっていて、それは、わたしにも適切に読める。谷崎は、明らかに昭和田・五年の二度の「委譲渡」の意図に、妻千代とライ.ハル佐藤との鮮やかなダブルプレイを、いや和田も含めて三重殺を仕組んでいたのであろう。和田は谷崎夫人との恋を失い不幸な余生をはり上うがやくに終えた。佐藤は家庭の幸福を凌駕するほどの昭和の代表作を、ほぼ持つことなく終わった。その一方で谷崎は続々と捨子イメージの名作を積み上げ、二度目の妻を隠れ蓑にしてまで、ついに松子の摂津家離籍と同棲とを実現、昭和十年には結婚へと漕きつける。『猫と庄造と二人のをんな』や源氏物語の現代語訳、さらに『細雪』や『少将滋幹の母』などへとつづく衰えない文学生涯が、堂々の足音もたかく、うち続いたのである。1平成五年七月一九日読売新聞夕刊1

潤一郎の妻と、妻の妹

一度は佐藤春夫に妻を譲ろうと約束したものの、やはり「お千代は僕の妻だ」と前言を撤回して「絶

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交Lとなり、「ゴマカシ」の和解などもちかけるなと猛烈に佐藤にたたきつけた谷崎潤一郎からの未発表書簡が、「中央公論」誌上で何通もまとめて公表されたのは、この春のことだった。追いかけて今度はまた、佐藤春夫から谷崎の妻千代へあてた、綿々たる殉情の恋文が公表された。正直のところ、やれやれという思いもした。だがこの大正十年に始まる一連の「小田原事件」も、大正十五年の和解で一段落した。関東大震災を契機に関西へ移住をとげていた谷崎は、すでに名作『痴人の愛』を成して問題の「妻の妹」おセィさんとの映画体験や大正時代をほぼ払拭し、昭和二年早春には、後に生涯の好伴侶となる根津松子夫人との運命の出違いを迎えていた。ならしげその後の偉大な成熟を予兆する『蓼喰ふ轟』の発表は昭和三年内に始まり、小出檜重の巧妙な新聞挿絵は、のちに丁寧にそろえられ、摂津夫人への豪華な初の贈り物にされた。小出はもともと根律家に親しい人物であり、谷崎に推薦したのも御寮人捨子であった。谷崎と根津夫人との親密は、出違いの当日から、すでに「猛烈」な谷崎の意欲に彩られていた。私的な親しい往来を証する書簡にも不足せず、しかも、その間にも、ということは問題の『蓼喰ふ轟』公表のさなかにも、じつは谷崎の妻千代と、青年推理作家ともいわれる大坪砂男(和田六郎)との、あまり人に知られぬ恋愛が進行していた。夫谷崎はこれを許容し、和田を自宅内に同居すらさせて、昭和四年三月ごろには、正式に千代離籍、和田との同棲・結婚へという日程を、蹟跨もなく着々具体化しつつさえあったのである。『蓼喰ふ轟』は文字どおりその「状況」を取り込んでの、しかも入念に美しい悠々たるフィクションで

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あった。日本の小説および小説家として初のノーベル賞候補にもといううわさが、事実あった、それほどの作品になりつつあったのである。千代夫人は、だが、結局は年若い和田の妻とはならず、翌五年八月、周知のように佐藤春夫夫人として、妻譲渡事件として、カタが付けられた。佐藤もこの情勢下、千代への求婚によほど頑張ったと想像され、かくて小田原での違約は元のとおりに満たされた。谷崎の述懐どおりにいえば、まさしく「覆水辺盆」の解決となった。理想の「妻」たるべき根津捨子の存在を、無意識に、また強く意識もして情念の底に蔵した谷崎は、もののみごとに、久しい懸案であった千代との離婚を果たすとともに、ライ.ハル佐藤にはじめて平和な家庭を呈し、表裏してその文学的脅威を和らげた。事のついでに和田六郎をも遠のけた。かなめ谷崎潤一郎は、『蓼喰ふ轟』の主人公である「要」に、「女とは、神か、さもなければ玩具だ」というおそるべき感想を言わしめているが、「神と玩具との間」にある女性をすなわち「妻」だと厭悪しつつ、久しい大正時代を経過していた。それは妻千代との離別を念頭に「妻の妹」である濃利美貌の人を、猛獣のようにもてあまし飼育し損ねるに至る期間でもあった。その「女」が『痴人の愛』のあの「ナオミ」なのであり、「ナオミ」をやっと清算しおえたのには、これも摂津夫人との避遁が実はあずかってカあった。しかもその摂津夫人がまた「より理想的なナオミ」の素質に恵まれていたことは、この稀有の女人をモデルに描いた「お遊さん」や「春琴」をみれば瞭然である。そういう夫人を生前よく存じあげていた。はんなり(花有り)と、はんなりと、それでいあぴとてタフにモダンな先駆的な艶で人であった。

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谷崎は、大正初年の初婚以来まこと年入しく「妻」を疎んじ、「神」か「玩具」かの別の女に耽溺してきたが、ここに至って、「神と玩具」との「間」には、慕わしい「母」とも成りえて、かつ「女」に相違ない「妻」の可能性を、十分、実感しはじめたのだ。実感させたのが、のちに三度めの「妻」となり、生涯を立派に添いとげた根津捨子夫人であったのは言うまでもない。この女人との「逢い打愛-結婚」のためには、佐藤も千代も、二度めの妻も、あの「ナオミ」をすらも、谷崎は、みな過去完了のかなたへ清算し尽くしてよかったのである。しかもなお、忘れてはならない、その捨子夫人のかげには、またも新しい「妻の妹」の面影が常に見え隠れした。『藍刈』お遊さんの妹の「お静」であり、『細雪』の「雪子」である。捨子夫人実妹の重子さんである。谷崎文学論には、まだ、この「妻の妹」という、大正昭和期を通じて未開拓の論点の残されであることを、いま一度も二度も忘れず提言しておきたい。-平成五年七月共同通信配信・各紙1

芝居気-谷崎週郎の方法-谷崎潤一郎の夫人捨子さんによる名高い『椅松庵の夢』の最後に、「薄紅梅」という一篇がある。衝撃をはらんだ一読胸騒ぐ内容で、文豪の恋文混じりに、昭和四二年四月号の「中央公論」へ発表当時から注目を浴びた問題の一文であるが、加えて、微妙な夫婦関係に筆の及んでいるところがことに大事であり、「晩年の谷崎」理解には、作品の上でも伝記的な側面からもとても見逃すことが出来ない。

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もっとも、ここは谷崎論の場所ではない。詳しくは別の機会と場所とに譲るしかないが、一つだけ、触れてみたいことがある。余の一切は省いて、いきなりその部分だけを引いてみる。(潤一郎が言うことに……)描くものの上では、「自分は作品の中に持って来る女性には相当込づかないと書けない方なので、変に思うかも知れないが、誓って節度を守り羽目を外すことはしないから」と、それも一度きりしか云わなかった。前後の文脈からも、『少将滋幹の母』の原稿が机上に載っていた頃のはなしだと夫人は回想されているようだが、作品の名はおそらく別の、もう六七年後のものとも推量できる余地がある。しかし、それも今は敢えて措く。谷崎潤一郎は「自分は作品の中に持って来る女性には相当込づかないと書けない方」だと、これは間違いなく、夫人に告白したのだろうと思う。かりに告白しなくても事実そう自覚し意識していたにちがいなく、また、夫人も察しておられたことだと思う。世に名高い谷崎潤一郎の「順一」演戯「佐助」演戯、その確証としての恋文の数々が、それを証している。しかもそれら『盧刈』や『春琴抄』を書いていた頃の「女性」とは、まだ恋の間柄にあったのちの捨子夫人(当時は摂津夫人)にほかならない。言葉はやや安いかも知れないが、私は、谷崎潤一郎の文学にみえる繊密で高度な「芝居気」を、早くから極めて重視してきた。と同時に、彼の芝居気に応じてみごとな共演関係にある相手役がいつも必要だったし、事実谷崎はそういう相手役を、たいていの場合確保していた。夫人の回想に漏ら七、れた七、きの言葉は、みごとにそこを指ざしている。夫人としてはさぞお書きになりにくい所を書いて下さったわ

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けで、「谷崎愛」を自称の私など愛読者には、ひとしお有難い。ああそうか……そうなのかやはり……うなづと首肯けるのである。しかし、また、ひるがえって思うに谷崎潤一郎の「方法」は、一面において、創作者の目にはとくに意外なものとも見えない。菊池寛の作品に『藤十郎の恋』があった。女形の芸を磨くために敢えて恋をしかけて、恋に酔う女の姿態を冷めた目で観察した役者藤十郎。だが、相手の女はそれと知って自ら死ぬ。いわゆる「藤十郎の恋」をたやすく容認することは、誰しも出来はしない。が、しかもなお役者と限らず我々小説家の場合にも、「藤十郎の恋」をすすんで全否定が成るものかどうかは、極めて微妙にむずかしい問題である。藤十郎の場合、そうまでしなくてはならぬ位なら、役者をやめるか、へたな役者に甘んじればいい……と、やはり言い退けるべきだったろうか。そうまでしても大根役者でしかないなら、これは話にならぬ。だが、そうまでしたために舞台の演技に、無類の美と真実とが光ることになった場合が、問題だ。藤十郎の場合が、そうだった。そして、谷崎潤一郎の場合もやはりそうだった。人は、ために拍手喝采を惜しまず、かつ多くをその演技や文学に教えられたのである。ただし藤十郎と谷崎潤一郎で、はっきり異なる点がある。かの歌舞伎役者はあくまで女をあざむき、この小説家は、覚めた意識のまま相手にも高度の「芝居気」を求め、共演関係をいつも約束していた。そういう「愛」を深めあう態度があった。それぞれ浮気とも言えたけれど、女をあざむく真似はしていない。『痴人の愛』をはじめ多くの大正期作品で、その共演関係を十二分に価値あらしめた当時の妻の実妹、女優葉山三千子との場合もそうだった。「薄紅梅」の当時もまた、そうであったろう。

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今一度いうが、谷崎潤一郎の「方法」は、大なり小なり私小説基盤に乗るしかなかった日本の近代作家たちには、無縁でない。敢えて大胆にいえば、数ならぬ私の場合でさえ、そういう「方法」とまったく無縁だとは逃げ切れない。思えばどれほど数多い恋文をこの私ですら日本中に撒き散らしていることであろう。いつもいつも身近に接しうる「お梶」がいるわけでない以上、作家としての一つの心得としいちごても、まったく見ず知らずの人であれ、手紙の返事一つを書く時にも私は一期の恋文を書く気で、心を籠めている。も一度、しかし、言いたいのは、やはり、あざむく「藤十郎の恋」は許されないということ。せめて、、、、、最低限度、相手を重くみて愛する態度が肝要だろう。相手の女とても、いわば此の世ではただ「共演」の仲でしかありえぬ現実に、気は覚めていただろう。そうは言え、谷崎の先の告白を受けた捨子夫人のショックは「薄紅梅」において大きかった。かつては最良最高の恋の共演者であった捨子夫人にして、そうだった。ひとえに「妻」だからであろう、当然であった。「妻」にはむごい文豪だった。だが谷崎潤一郎は、「節度」といい「羽目」といい微妙を極めてはいたものの、この終生の妻松子に対しては、「誓って節度を守り羽目を外すことはしな」かった、と、私も見ている。だからこそと言いたい、『癒癩老人日記』や『台所太平記』の最期に至るまで、その文学は薄汚れずに気が澄んでいた。どこか至醇の「芝居気」が読者を楽しませながら、惹きつけた。余裕があった。生誕百年、私はやはり谷崎潤一郎の小説が好きだ。-俳誌「みそさざい」昭和六十年八月号

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捨子未亡人の

「桜襲」不審

本誌八月号の谷崎潤一郎特集に、千葉俊二氏が新資料として谷崎の筆になる『木彫の露の記』を紹介し、昭和十一年一月八日の「大阪毎日新聞」に掲載された文章で、全集には収録漏れであると解説を付していた。いかにも「古典」の文日記がこういう書きようであったかと、逆に想像させるような、おおどかな、そして懐旧・回想の気味の濃いもので、概ね事実どおりに谷崎その人の生活記録と読ませる工夫がしてある。自然、この手の文章を証拠よろしく伝記的背景をかためた谷崎論が多い道理ではあるが、慎重に読まないと思わぬ迷路へ誘い込まれる。作家自身の自伝的な文章には、わざと事実に背いて書かれたものも混じりやすいし、実は秘められた事実が暗示してある場合もまま有るので、研究者はよほど丁寧に前後を調べながら読んだ方がいい。例えば本文中に引かれた自作の一首「みよしのの吉野の川の川上に、妹脊の山はありと知らすな」の、せのお由ありげな据え方。昭和五年十一月四日に友人の妹尾宛て、「吉野川上流に又もう一つ妹山背山がありました土地の人は此方が元祖だと威張ってみました」と書いた葉書の意味にも重ねて、作品『吉野暮』の動機にひそむ、まさに「命なりけり」と漏らしたほどの「母恋ひ1妻問ひ」は、具体的に、この時もう醸成されつつあったのだ。吉野は、古くに「母」と、また前妻と、曽遊の地であった。前妻とは、こじれた夫婦仲をなんとか修復したい願いも秘めた旅だったが、成功しなかった。昭和五年秋、今その前妻を佐藤春夫に譲って間もない谷崎吉野行に他ならなかったが、この時、彼は吉野恋うる想いの果て

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、、に、「又もう一つ」の妹背山を心に深くすでに確認していたのである。「もう一つ」がやがての丁末子夫人とすれば、「又もう一つ」が生涯の愛妻捨子夫人であろうとは、今なら証明も利くことだ。だからこそ昭和五年のこの時点では「ありと知らすな」であったし、昭和十一年にもなればその事実がこうして暗示されてもいたのだ、知る人は知れ、と。「木彫の露」という、「松」の恵みを暗示のこの風変りな表題がこうした事情を主題化しているのだと読みとられなくては、「新資料」たる意味も乏しくなる。かうや「さてその年の秋の初めに高野の山を降ってから」とあるのは、『盲目物語』や『武州公秘話』が書かれた昭和六年のこと、すでに丁末子夫人とは破鏡の危機にあった。そして摂津捨子との縁にしたがい、、「やはり松青く水溝き」地が恋しくて阪神沿線に移っていた翌る七年の「四月の末ごろに」、佐藤夫妻が娘鮎子もつれて東京から遊びに来たので、「その人達と一緒に」宝生から奈良まで三、四日の旅をしたと谷崎は書く。千葉氏はこれを「花見旅行」と読んでいる。が、「花見」とはどこにも書いてない。花見でありえようはずはなく、「四月の末ごろ」とあるのが事実は五月の末の話であって、桜の花などどこにも無かった。そして佐藤らも東京へまた帰って「一日二日過ぎた時分のしある夜中に、「谷崎情死事件」なる人騒がせな誤報が、当の谷崎家にもたらされていたのだ。私の書き下ろし『神と玩具との間』には、その前後のことが谷崎自身の書簡や述懐の和歌も含めて詳しく書いてある。間違いなくそれは、昭和七年六月上旬の事件だった。佐藤らとの旅もむろん桜貝ではなかった。千葉氏がいうようにこれで「伝記的空隙が谷崎自身の言葉」で正しく「埋められた」と思うのは、誤解なのである。それ自体は、しかし、たいした問題でなく思われる。が、なぜ千葉氏がそんな誤解に陥ったかを考えてみると、一つの別の疑問に遭遇する。それは捨子夫人が『椅松庵の夢』に書き下しで添えられた「桜

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かさね襲Lの冒頭、造成幸花見の一件に関係して来る。「新婚」の谷崎夫妻、佐藤夫妻、それに妹尾夫妻ばかりか当時は摂津夫人の捨子も加わっての、それはにぎやかな「花見」の旅であったという。昭和六か七年にしか可能性なく、それにしても谷崎三人の妻の顔が揃うとは、思えば異様な一行には相違ない。しかし七年に、その事実は無い。六年春にも、とてもその裏づけは取れそうにない。佐藤夫妻や鮎子転校問題のからみでその前後を眺めて、花の短い桜貝の旅が可能な期間は限られているのに、関係者の当時の書簡群はむしろ、そんな花見の旅など無かった、と言いたげですらある。むしろ昭和七年四月十四日、「本日より一寸一と晩か二た晩どまりで紀州方面へ花見旅行に参ります帰って来る時分に八本が出来るであらうと思って楽しみにしてゐます」と創元社の社員に宛てている谷崎走り書きの手紙が気にかかる。佐藤らは確実に東京にいた。谷崎のこの当時下未子夫人と二人での花見など、もう絶対あり得ない。さりとて独りで花見の旅をする谷崎でもない。捨子夫人「造成幸花見」の感動をせつせつと回顧の先の一文は、この「紀州方面へ花見」に重なる、むしろ二人きりで秘密旅行の、幻惑(カムフラージュ)ではなかったろうかと私は読みたい。「桜襲」その部分の筆の運びに、濃密に「二人だけで見た」花への感激が籠められているのも、私の推測を支持していそうに思えてならないし、なによりもあの、「お慕い申しております」事件と重なる時機なのだ、やがて書かれる『藍刈』に繋がる「恋」体験としても、真実感は一層深まる。折り返して今一度、谷崎が「四月の末ごろ」と書き、間をおかずに「情死事件」と書いていたのが、何故かと疑われて来る。これもまた、「妹脊の山はありと知らすな」ではなかったのだろうか。「知らすな」とはしかし別の方面からは、暗示していた事にもなる。それが、谷崎のカタリの「方法」てあっ

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た。『雪後庵夜話』にも至る、いや『椅松庵の夢』などにも至る一貫した夫婦共演の「芝居気」濫るる「方法」であったのだ。『木彫の露の記』も、そう読みたい。そう読めば、また別の暗示も拾えて来る。1「国文学」昭和六十年十月号1

春琴抄-自傷の応酬-読書は、旅である。それも繰り返す旅である。曽遊の地を、また訪れまた訪れる。再訪し、歴訪し、そして探訪する。訪れるつど、また見知らぬ町小路や裏山道や思いがけぬ人に出会う。よく知った筈の人が、そうでもなかったらしいと気づいたり、こんな所にこんな道しるべが隠れていたのかと気づいたりする。一度しか読まない本、二度と読む気を起こさせない本、それでも構わないと書かれ読まれ捨てられてしまう本や作品。そこには、もともと「読書」は無い。本当の読書は、二度目を読み出す瞬間から始まる。記憶力、想像力、そして辞書を引く意欲、さらにいささかの芸術的感性を参加させながら、繰り返し読む一度一度にコ期一会Lの感動や発見を確かめていくのが「いい読書」である。そういう作品を提供するのが「いい作者」である。谷崎潤一郎は、私には少年の昔からそういう意味の「いい作者」である。繰り返し読んでいる。この近年は、昭和八年発表の『春琴抄』を何度も読んできた。盲目の美女春琴が顔に火傷をする。献身的な侍僕佐助が自ら失明して、火傷の顔を見まいとする。大筋はそういう物語になっている。映画にも芝居

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にも繰り返しなっていて、谷崎作品ではことに広く知られている。春琴が顔に熱湯を浴びて火傷をする。それは作品には不可欠の事実であるが、事故ではなく被害として確実に書かれている。だが被害がどう起きたかは「かたり」の妙を尽くしてまるで分からないように書かれ、あたかも侵入した「賊」のしわざであるかに敢えてあらわに示唆しつつも、結果としてそれの在りえないことも、微妙な話法で巧みに表現してある。火傷が現に起きた以上、現場に当事者はいて、作品では賊と佐助と春琴の三者しか在りえない。その賊による犯行がとうてい信じがたいとなれば、残るは、忠実で献身的な佐助による犯行が考えられ、いわゆる「佐助犯人説」が近年一部の読み手から出され、一部の研究者が同調して、にわかに定説化しかけていた。だが、それは本文の表現に即して表から裏から慎重に「読まれ」て証明された説では何らなく、強引という以上の単なる面白づくにちかかった。ていねいに読めば読むほど、佐助がたとえ春琴を独占したいにもせよ、感覚するどい春琴の顔へ鉄瓶の湯を注いで美貌を損ね、しかもその後の幾久しくをそしらぬ顔して主従相愛の至福に生きえたなどとは、けっして読めない。むしろ佐助の善意などを否定する内証・心証は濫れんばかりなのである。つまり、「佐助犯人説」のごときは『春琴抄』の本来を、見失っていたのである。これは春琴と佐助、との相擁して演じ切った異様異色の、だからこそ聖人とて一語をも挿みえない愛欲表現なのであり、けっして「佐助抄」かのように偏して読むべきものではなかったのである。よく読めば、分かる。では、火傷は、どう起きたのか。言うまでもない。老いの脅えに佐助をもはや絶対に手放せない盲目の春琴が、身を賭して、容貌をあえて犠牲に自害・自傷の決行だったのであり、それにより佐助を自身

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と同じ盲目の境涯へ、一連託生の至福へと強烈に誘い込んだのである。佐助も、春琴の(禅にいう)挨拶(互いに、つよく押し合う意味。禅問答)にみごとにこたえたのである。『春琴抄』は、観念と観想の盲世界へ相擁して身を躍らせる為の、春琴・佐助ともに自害.自傷の応酬という、凡夫にも聖人にも計り知れない愛欲の「共演」劇だったのである。1平成元年十二月十日東京新聞朝刊-

谷崎潤一郎家集のこと

まつのや谷崎潤一郎の文芸作品で今日なお公刊されていない最後の一つに、「松廼今集」および「初音きのふけふ」の二冊の家集があると知ったのは、一昨年(昭和五+年)の夏初めだった。写真に撮ったその二冊を或る人を介して見せて貰えた時、歌稿の全部に凄いまで入念な手が入っているのにまず驚いた。書痙に悩んで文章を口授していた谷崎が、自作の歌だけは不自由もいとわず最晩年まで、一字一句自身篭をもちペンをもって繰り返し推敲していた。それは文字どおり我一人の思いで谷崎が真向っていた家の集にほかならなかった。苦吟の息づかいもありあり聴えた。私は咄嵯に、二冊およそ四百首足らずのこれらの和歌を、一部の『谷崎潤一郎家集』として公刊する意義如何を思い量っていた。谷崎の和歌には爾来或る種の悪しき定評が行なわれている。が、それが谷崎文学という巨きな全体と不可分に関連した適切な視野での定評かどうか、はなはだ読み辛いこの自筆家集を入念に読み終えて、

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私は「否」の答を出さずに居れなかった。捨子未亡人のお許しをえて私はその答を「谷崎潤一郎の和歌」と題し、家集の紹介かたがた「文芸展望」誌上に発表した(筑摩叢書『谷崎潤一郎』所収)。谷崎の和歌は謂う所の現代短歌ではない。また谷崎文学の主要な創作でもない。あたかもそれは、谷崎文学という健康極まりない肉体の興味ある分泌物、排泄物なのである。私は疑わない、谷崎生涯の歌を通読される愛読者や研究家は、如実に谷崎潤一郎というすぐれた芸術家の生理ないし病理を、興味津々、或る意味で驚異と好奇との思いで目前にされるはずだ。しかもそれらは、谷崎の小説、戯曲、随筆等の本当の魅力を減殺するどころか、堅固に補強し充実させる秘密にも満ちている。わが谷崎愛の深さにかけてそう断言する。谷崎の和歌は何より、面白い。尊敬の念のいやます歌でこそ少しもないが、この文豪の気質に実に気安く近づきえて、思わず微笑を誘われる体の面白さである。谷崎潤一郎の長所もまた限界をも剰さず露呈する体の面白さである。そこが分泌物、排泄物と謂うにふさわしい面白さなのである。聞けば昨今は谷崎の家集といえども(或は谷崎の歌なるが故に)気軽に出版してくれる所がないとのことだった。しかも私は借越ながら捨子夫人に、せめて十三回忌に間に合う出版をぜひにと勧めた。意義ありと十分信じえたからだ。その上で湯川書房主人多年の谷崎愛に湖心え、大谷崎最後の出版にふさわしい豪華限定本ならびに普及本の制作を依頼したのが、やがて『谷崎潤一郎家集』の名で世に出る。よかった、と、心から思う。1「季刊・湯川」昭和五十二年四月第2号1

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けも祇園社の神輿洗いがすんでまもなく、谷崎潤一郎夫人のお誘いで、東京新橋の「京味」へ鰹を食べに行った。いつもはカウンタァの奥から捨子夫人、私、私の家内と並ぶのだが、幸い二階座敷がとれて、それなら向かい合って話もはずみやすい。話はずめば、食べものもうまい。とても楽しかった。祭りには、祭りの噂をするだけで十分といったところがある。兼好法師はそのへんに早くから気づいしんげんていた人だ。「すべて月花をば、さのみ目にて見るものかは」とは、私のことに好きな蔵書だが、祭見物に右往し左往する田舎者を指さして、「ただ物を見んとするなるべし」と吐きすてた一句も、はじめて胸に響いてこのかた忘れた時がない。「都の人のゆゆしげなるは、睡りていとも見ず」とまで胸を反らす気は無いけれど、東京ずまいながらも「鱈を」と思いたって、食べて、それで京の祇園舎はちゃんと迎えたのである。谷崎夫人とは、少しまえ潤一郎を語る日本近代文学会の例会に早稲田大学へ二人で出むいて、奥さんはご主人の想い出をこもごも話され、私は作品『藍刈』について駄弁を弄してきた。お堅い学会としては異例の超満員で、三時間があっというまに過ぎた。「京味」の鱒は、いわば我々後日の二次会だった。話題は自然潤一郎の人と文学に的が絞れるわけだが、目前の美味佳肴がさながら谷崎を語る恰好のきっかけになる。たとえば、かの『美食倶楽部』の著者は、とかく出されたものの、)331「正体がわからんと旨くない」と言い言い眼鏡をかけて健咬ぶりを発揮したそうだ。奥さんが二度もそ〆叩の、「正体」を確かめる亡き人の身ぶりと口真似をされたのが可笑しく、私たち夫婦は腹をかかえた。

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「旨くない」は、たぶん東京っ千谷崎に根を生うた言いかただろう。現に奥さん自身は「おいしくない」と言いかえておられた。むろん京都でも「うまい」は通用している。「なんぞ、うまいもん食べさしてんか」と、台所に立った母に父が声をかけていたのを思いだす。「あの店イ行くと、わりと、うまいもん食わしよるで」などとも言っていた。学芸会で稚い芝居をして饅頭などほうばる場面では、生徒は決まって、「これはうまい。ムジャムジャ」などと言ったものだ。だが、京都人がつかう「うまい」には、何かしら技の上手さ、たとえば細工や、芸や、高校野球のファイン.プレーなどにぴったりした語感があって、食べものの「旨い」も、その吟味、調理、盛付けなどの技の冴えに送る拍手であるように、聴きとれる。これは、だが、「おいしい」にも言えること。「おいしい」の語幹は「いし」であって、岩波の古語辞典では、「技能・細工の巧みなこと、転じて、味わいのよさを形容する語」と要約してある。概して京言葉に、ほめ言葉のすくないということは何度も書いてきたが、総じて食べもの飲みものについて京都人は、その味や料理をほめるのに、行きつくところ常に「おいしい」を直接の表明としてきた。やや間接に評判する場合、または菓子や酒の場合には「うまい」もつかわれる。そして周辺に、「あっさりしてる」「かげんよう出来てる」とか、今すこし微妙な「しんみり」「しっとり」「はんなり」または見た目のよさを加味して、「きれい」などとほめる。これに対し、けなす言葉は「あじない」が端的で、「みずくさい」「ひっこい」「もっちゃりしてる」「さんない」「えずい」などがあり、「からい」「あまい」も、京料理でははっきり度を越してい

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るという否定語になってくる。「おいしい」「うまい」はもはや全国通用の言いかただろう、この二語を質的量的に超えた批評語は生れていない。そして大なり小なりこの二つの表明には、技の冴え、佳さ、巧みさがそもそも秘められていたということを、食の文化に関連して、どう考えれば、いい展望がえられるか。「手が利く。鱒の骨切りにしても、日本人は何よりそれをほめるのだろうか」「谷崎先生の旨い、奥さんのおいしいにも、そのお気もち、あったのでしょうね」ほる杏かな祇園嘩子を耳の奥に聴きながら、家内と帰り途、そんなことも話した。1「月刊京都」昭和六十一年八月号1

魂の色が似ている

娘夫婦が日比谷の帝国ホテル「光の間」で結婚の披露をして、はや四年近い。その宴席で、新郎新婦双方の主賓にお願いして、皆さんに見まもっていただきながら結婚届けに保証人のご署名をいただいた。それを以て結婚の「式」ともした。娘の側からは谷崎潤一郎先生の奥様が出でご署名下さった。私には何よりの大きな慶ぴであった。私はご生前の谷崎先生を存じあげない。お亡くなりになった昭和四十年のその日は、たまたま勤め先)35から夏休みをとって京都の家に帰っていたのだが、テレビの報道を耳にしてすぐさまタまぐれの東山法o}然院墓地へ、無二無三に私はひとり走った。朱の入った「寂」の文字のお墓の、はやくにそこに出来て

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いるのは知っていた。蚊に食われながら、私は小一時間もお墓の前を動けなかった。人影もなく、夕闇せまる暑い暑い七月三十日であった。まだ私は「作家」以前の、谷崎文学に魅された一愛読者で一サラリーマンであった。墓前に誓ってやがて大谷崎に捧げる小説『蝶の皿』を書いた。後に最初の単行本に収めたのを、編集者が松子奥様へお送りしたらしい、思いがけず美しい巻紙の長い長いお手紙を初めていただいたとき、少年の昔からあこがれた数々の昭和初年谷崎文学のヒロインのまなざしに、一時に射抜かれたような感動を覚えた。私の娘は、朝日子は、まだ小学校に入って間がなかった。いまは小説を書くのが本業である。しかも小説のほかに最も心して書いてきた私の仕事は、「谷崎論」であったと思う。ときには「谷崎愛」という妙な言葉すら用いたし、また「谷崎学」とも呼んで若い学究の仕事に声援を送り続けてきた。谷崎作品へ一人でも多く若々しい関心が運ばれるように、それを不思議に自分の課題のように考えてきた。捨子夫人には、以来、私ども親も子もそれはそれはよくして戴きづめであった。人にもいわれるが、必ずしも私自身は谷崎文学の作風を追っていない。だが「谷崎愛」は不動にしてく'つ抜きがたい。いまでも活字に唇を受けてすすりたいと思う唯一の人である。±え娘は、結婚より以前のばなし、お熱であった或る友人のどこがいいのかと聞かれて、即座に「魂の色が似ているから」と答え、私をうならせたことがある。「魂の色」という「不思議色」の確かに在ることを私もまた信じている。たとえば愛読者にとって、その作者は、作品という精神的所産をはさんだ間柄だけに、ひとしお「魂の色」が似ているという幸せな実感を分ちあえることが多い。

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谷崎夫人お祝いのスピーチに耳を澄ましながら、私は、娘を嫁がせる父親としてよりも、大谷崎の愛読者として涙をぬぐっていた。1「ひびや」平成元年六月第七号1

荻江 細雪 松之段

あはれ春来とも春来ともあやなく咲きそめぐり逢ふまではただ立ちつくす春の日のえにしの糸の色ぞ身にはしむ

繭糸か桜

あはれ糸桜かやくれなゐなみだか紅に

秦恒弔詞

夢の跡かや見し世の人にしをれて菅の根のながき

さあれ

我こそは王城の

盛りの春に

咲き匂ふ花とよ

人も

いかばかり

b愛でし昔の

しの偲ばるれ

きみはいっしか春たけてうっろふ色の紅枝垂雪かとばかり散りにしを見ずや糸ざくらゆたにしだれてみやしろやいく春ごとに咲きて散る人の想ひのかなしとも優しともいもと今は面影に恋ひまさりゆくささめゆきふりにしきみは妹にて忍ぶは姉の歎きなり

だいごくでんあはれなげくまじいつまでぞ大極殿の廻廊に袖ふり映えてときわえにとはに絶えせぬ細雪いつか常磐にあひ逢ひの重なる縁を松

幻のきみと我との花の宴さちと言ひてしげれる宿の幸多

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キ、

夢にもひとの

た顕つやらむ

ゆめにも人のまつぞうれしき1昭和五十八年三月七日作五十九年一月六日

国立小劇場初演1
 

谷崎捨子さんのみごとな昭和さいご最期のお顔が、うつくしかった。ほんのりと紅をはいて。唇にも紅をさして。お若くなられたようであった。白い布をそっとかけて、お別れをした。いくつふたりで芝居を観れば、役者の所作のおもしろさに、座席にいて自然と手の舞い足の踏むのを、幾歳になっても楽しむ人であった。そして、うまい隙をみつけて手ばやく化粧をなおし、刻限になるとあつらえの弁当がはなやいで座席へ届く。はんなりした含み声で機嫌よくふたつに分け、わたしにも下さった。淡い紫いろがお好きで、それとなく指さきに触れても、豊かに佳いものをいつも身につけておられぎれけた。そうした衣裳好みのあまり裂を、ご自身で色めも美しく矧きあわせ、大きな座蒲団にして頂戴したこともある。なにしろ「もの呉るる友」であった。わが家には、わが妻子らのおりごとに戴いたものが、それこそ.バスタオルに到るまで数えきれず、一つ一つがよく選んであった。娘など、就職の後押しから結婚式の主賓・祝辞・証人にまでなっていただき、しかも娘よりも嬉しかったのは、わたし自身であった。中学生のむかしから、谷崎潤一郎以上に作中の「その人」に憧れながら、一歩一歩「その人」のほうへわたしは近づいて行った、行けた。ふしぎなほどであった、のに、「その人」に今、死なれてしまった。

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じゆち上づ谷崎潤一郎のなくなった日、わたしはたまたま京都にいた。夢中で、法然院のいまだ寿塚であったすくお墓へかけつけた。タぐれてしまうまで、墓前でわたしは疎んでいた。捨子夫人逝去の急報がはいった翌朝から、わたしは京都での仕事を予定していた。一瞬法然院のお墓を想ったが、仕事をキャンセルした。お別れに、嫁ぎ先からの娘を伴い世田谷の土用賀の新しいお宅へかけつけた時は、お手伝いの人たちばかりで、何冊も積まれたまだまっ白い芳名録の第一行へわたしは自分の名を書き入れながら、どっと、こみあげる悲しさに負けていた。ひた「谷崎捨子」の世界がまざまざと在り、「潤一郎の文学」は昭和期に入ってその世界へ潤沢に浸されて行った。誰かも言っていた。昭和期の谷崎文学における捨子夫人の「書かれざま」の如きは、じつに稀有というよりほかないと。しかも創作の根には潤一郎が当時名乗った「椅松庵」、つまり「松(子)にから椅る」実意と方法意識とがとほうもなく絡みついていた。だがこの「松」は椅られようが絡まれようが、びくともせず神とも玩具とも化して谷崎の「女」を演じえた「妻」であった、と、今こそ言える。『乱菊物語』『吉野暮』『盲目物語』『武州公秘話』『藍刈』『春琴抄』『猫と庄造と二人のをんな』から源氏物語の訳業をへて、『細雪』『少将滋幹の母』『鍵』『夢の浮橋』そして『台所太平記』などに到るまで、「松」蔭に夢を宿さない作品はないのである。いや、昭和二年、二人が出会い直後の、『蓼喰ふ轟』や『卍』から、もう、当時は根津夫人「捨子」さんの、すでにしてただならぬ影はさしていたのである。だが、ここでわたしは「谷崎捨子」について、ひとり作家の妻としての経歴にたちどまらず、「時代」ないし「昭和」という視点でも、一、二書き記しておきたい。昭和の前半は、軍が動いた。後半は女が動いた。かりに今、そう言おう。だが戦後、にわかに女が動

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きはじめたのではない。助走の期間があり、捨子さんは、もっとも早く助走を始めていた一人であった。応谷崎はみのがさなかった。捨子さんの少女時代や学校生活を、なんどもわたしはご本人から聴いた。x40たっぷりと但し書きは必要だが、いい意味で「痴人の愛」のナオミに近い性本来を、捨子さんはいやみoなく持っていた。少なくも作中人物ナオ、一一を理解できる陽気と元気とを、上等の気品に包んで、花有り、、、、、つまりはんなりと持ち合わせていた。なにしろお孫さんと覚えたピンクレディーのダンスを、わたしや妻のまえでも踊ってみせようという人であった。八十すぎてなお、妻との長電話で、ちょっと不調を訴えながら「わたし、更年期に入ったせんぱとんでしょうか」とわらう人であった。大阪船場の御寮人から一文士谷崎の妻へ翔びたって行ける若い気迫を、昭和初年にすでにあのなよやかな佳人は身に蓄えていた。谷崎はみのがさなかった、のである。谷崎潤一郎は知られるように生涯三人の妻と出違ったが、決定的に三度めの捨子さんとの出違いが大切で、捨子さん以前の谷崎の「女」では、ナオミのモデルであった人が重い。この人のもっていた魅力ごうしやをも実は捨子さんはしっかり身に備え、しかもナオミの全くもたなかった「上方」の豪本官にゆたかな素養と気品と才能とを、捨子さんは、運命の出違いを果たした夫潤一郎のうえに、ふんだんに恵んだ。文字どおり、恵んだ。昭和七、八年のお遊さま、春寒の二人など、文豪のささげた限りない感謝の造形であり、むしろ優位の性として男へ立ち向かうスコい女の豪華な表現が、「昭和」後半の女を先取りしていた。しかし昭和四十年夏、夫に死なれて以後の松子さんの頑張りも、偉かった。手塩にかけるようにして文豪の生前を丁寧に整え、証言し、一人でも大勢の読者を広げたいと、東奔西走の活躍、こわいほどで

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あった。念願の記念館がゆかりの芦屋に出来るまでの、心尽くしもなみの事ではなかった。そして、えも言われかがみず美しく老いて、なお匂いをあましていた。作家の妻の、手本の鑑のとはいわない。が、県下の文豪の「まつ」思いは、きっと和やかに優しいことであろう。咲きのこってあでやかだった花が、静かに地に帰した。1平成三年二月十九日毎日新聞夕刊1

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私語の刻

献一枝春。

たくさんのお年賀状を頂戴しました。ありがとうございました。

わたしの谷崎論をいち早く評価してくれたのが野村高吾氏であったことは、本書の成り立ちを語ってとうに触れたところだが、ちょっと意外に思われるかも知れないが瀧井孝作先生も、谷崎についてわたしが文章を書くとよく目にされていて、来ませんかとお電話があったりした。仕事の手をとめ、八王子のお宅までお訪ねするようなことが一度ならずあった。志賀直哉に傾倒され純粋に私小説作家であられた瀧井先生と、谷崎潤一郎とでは、接点など有りそうになく思われるのだが、そうでもなかった。瀧井先生にはたしか改造社の編集者だった一時期があり、ご出身が飛騨高山でもあることから、谷崎の希望で、飛騨春慶塗の炬燵机というか炬燵櫓というか、なんでもそのような調度の制作を斡旋されたことがあった。使い勝手のよさに、谷崎から感謝の手紙もたしか書かれていたと覚えている。その後も瀧井先生は谷崎家と没交渉ではなかったらしく、現にわたしは捨子夫人の口から、何度か「瀧井さん」というお名前を耳にした。はじめて聞いたときは意外な取合わせに感じたが、おや…といった気持ちはすぐ解消した。同時に、べつの、おや…という気持ちにも、ふと、とらわれた。

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谷崎没後、夫人は湯河原のお宅と、東京乃木板の、お嬢さんの恵美子さんの嫁ぎ先である観世家とを自在に往来されていた時期がながかった。湯河原へも子供づれでお邪魔したこともあったが、お目にかかるのはやはり東京へ出ておいでの時が多かった。あれで昭和五十年秋であったろうか、ホテル・オークラの広いロビーの辺でお茶をのみながらお話ししたこともあり、その際に、「瀧井さん」ともここでお喋りをしましたのよとうかがった。いっしょに絵を観に誘われたこともあるのとおっしゃっていた。いい話だなと、よそながら、心うれしかった。最高にうまい焼き栗のようにクリクリつとした味わいの瀧井先生が、すがやかに、優美な京菓子のような捨子夫人を誘われて、しかもブリジストン美術館なんぞへ西洋の絵を観に行かれるということが、何というか、とてもとても佳い感じに想像できた。わたしの「夢の浮橋」論が世にでた頃で、お茶のあいだにも、あの批評はほんとによく書けていたと、後の渥濃亭を想い起こされながら太鼓判をおしてくださったのを忘れない。それから数年して…、昭和五十四年のだしか春であったと思うが、中央公論社の文芸誌「海」に、瀧井先生の『相聞の俳句など』六十四句が発表された。「正述、心緒害物述志」と前書されて、いきなり、みごとな瀧井俳句があらわれた。B美術館にて、美娼とふたり、四十九年八月二十日すずしの衿かいつくろはる手のかるさ涼しいセザンヌの前のやはらかい革椅子線蔭のブラン氏が私共を認めた

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マチスの青いジャケットの女さわやかルオーの絵ピエロの秋のきつい眼よ瀧井先生は八十歳を過ぎておられた。「美娼」のことは言うまい。いい句だなと思った。翌年春、「ホテル0のロビーにて」おのづか涼しいロビーの椅子に自らなるあなた白いコート頭の細っそり花の冷えともに読む椅子近寄せて花の文五月十五日には「博物館に誘ふ」とあり、「書跡室にて」「浮世絵室にて」「法隆寺宝物館にて」君が手の秋萩帖よ春又春情長より春情の絵に似ておはす観音の春の細っそり似ておはすそして「同夜書斎の庭は満月にて」とあって、大手毬抱きたいほどの花傍泥大手毬垂り花かなし頬ずりもてまり花かなしきひとの目ぞみゆるなどと、じつに瀧井俳句の頂点をなす絶唱が目白押しであった。「美娼」が谷崎捨子さんであったかなかったかは、なにも、もう言うまい、ここに「相聞」の二字が用いられ「正述心緒」とも

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つとあるまっすぐな述懐の清さに、ふかくふかく、心を打たれた。瀧井先生の愛読者たちも夙に『相聞の俳句など』に注目し「美姻」をも推察されていたように漏れ聞いているが、「美しい」という日本語のはらんだ「清さ」「静かさ」が、まことに魅力的に全句に盗れている。瀧井先生には『傭山』を芥川賞に、『罪はわが前に』を谷崎賞に推していただいたり、『月皓く』に推薦の佳い帯の文をいただいたり、忘れがたい思い出ばかりが懐かしく、とりわけ『相聞の俳句など』と出会った感慨は、言い尽くすことが出来ない。瀧井先生には、昭和五十年、鉛筆で自筆丹精の句集『山桜』に、「法然院谷崎家墓域」と題し、こんな句もあるのを披露しておこう。しぐれ行く山が墓石のすぐうしろ話変わるが、荻江寿友氏のりっぱな曲になる『細雪』に、ちと常識はずれな「松之段」という題も副えてもらったのは、谷崎に「花之段」と題された小唄の詞があったのを慕ったにすぎない。作詞には、平安神宮の春をうたった谷崎の和歌から、あえて詞を多く借用して私の思いをこめた。捨子夫人の次の妹の「重子」さんももう亡くなっていた。そのお寂しさを思い入れつつ、谷崎をおもう姉と妹との情を、幽明境を異にしたまま曲のなかで交わしあってもらった。初演はわたしの読者の藤間田子さんが振り付けて二人で舞い、次には捨子夫人のご希望で今井栄子さんがひとりで舞った。捨子夫人が涙にむせんでおられたのを思い出す。二度とも国立小劇場だった。京都げいここぞかぷれんじよう先斗町の美しい芸妓さんたちが、挙って、歌舞練場のおさらい会で演じてくれたこともある。次に「魂の色が似ている」に触れて、これは私も迂潤であったが、またひとしお感慨を覚えた

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ことがある。娘の口から「魂の色」などと言われて、シャレたことを言うなと思ったし、誰の口64からも誰の文章からも聞きも読みもしなかったと思って来たが、ところが谷崎の出世作『刺青』工に、ちゃんと「魂の色」という表現が出ていた。だいぶ後れて気がついた。参った。そして何とはなし、ナットクした。『谷崎潤一郎家集』をつくらせていただけたのも、有り難かった。いわば谷崎作品集のこれが事実上「悼尾」を成す出版になったのであるから、嬉しい以上に信じられないような思いだった。捨子夫人のあとがきを頂戴できたし、湯川書房主人もはりきって豪華本を二た色っくり、さらに立派な普及本もつくってくれた。繰り返して言うが「国風」としての谷崎の歌は、和歌であり、短歌ではない。「難波江にあしからんとは思へどもいづこの浦もかりぞつくせる」とは鮎子さんの送金希望の手紙に応えかねた即妙の返事であり、「今絶ゆる母のいのちを見守りて「お関」と父は呼びたまひけり」も、生死の境に臨んで、味わうに足る歌になっている。かるく見過ごしてはなるまい。『春琴抄』の読みのことは、まだまだホットな話題なので、ここでは深入りをしない。ただ一つ、春琴の火傷が、賊によってであれ佐助の手にかかってであれ、はたまた春琴自身の覚悟の自傷でくみあれ、作品の読みに本質的に関係がないといった乱暴な投げだし方には与しえない。人間関係の形づくる「構造的美観」を見極めずに谷崎文学の面白さは、いや文学そもそもの面白さは、読み切れないものと思っている。『藍刈』についても、芦間の男がお遊さんの子か甥かは作品の読みに関係がないように論じている人がまだ少しいるが、賛成できない。

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『藍刈』『夢の浮橋』論もふくめて谷崎についての主要な議論は、本書以外には、大方が筑摩叢書『谷崎潤一郎』に収めてある。ぜひ、それによっていただきたい。思えば最初の小説私家版を、谷崎潤一郎、志賀直哉、三木露風、窪田空穂、中勘助の王氏に送ったのをよく覚えている。もう一人、『天の夕顔』の中河与一氏にも送った。それくらいが当時の日本文学の世界にたいする「わが認識」だったようだ。そして谷崎をのぞく他のみなさんから、本を受けとったと葉書でご挨拶があった。志賀直哉のそれは印刷された所定のものに、万年筆で署名だけされていたが、文字の大きくりっぱなことに感動した。中河氏にはお宅へお誘いいただいた。気恥ずかしいのと遠慮とで行かなかった。ひとりで何度かお訪ねしたのは瀧井先生のお宅くらいだ。谷崎潤一郎の返事などあるわけがないと思っていたから、むしろ、ほツとした。二冊めの私家版をつくった時にはもう谷崎は亡くなっていた。巻頭に『蝶の皿』を収め、献じた。捨子夫人にそんな本を送るなど考えも及ばず、谷崎精二先生にお送りしたところ、丁重にご返事を頂戴して、霊前に供えましたとうかがい感激した。清二先生には一度もお目にかかっていない。しかし末弟に当たられる谷崎終平氏とは中央公論社などのパーティで何度も立ち話を楽しんだ。もっとゆっくりした場所でゆっくり話しましょうと言われていたのに、根が怠け者で、つい機会を逸したまま終平氏も亡くなられた。鮎子さんとは一度だけ電話で、この本を書くためのご了解を事前にいただいた。気持ち良く励ましていただいた。恵美子さんとは今も錺仙会や夫君観世栄沢氏のお能の会などでお目にかかる。娘の就職をお世話いただいた際にも結婚式の日にも、お母様に付き添

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われ、重ね重ねお世話に成った。私ひとりの勝手な想像にすぎないが、有名なはにかみやの谷崎のはにかみようを、とても優しくよく承けておいでのように思われてならない。時にはお母様よりも谷崎に、面差しが似ておいでに思われたりもする。そんなことまで想ってみだいどころが、まこと度しがたい「谷崎愛」であり、ご勘弁ください。鮎子さんも恵美子さんも、いついつまでも、お元気でありますように。

さて、わが東工大生活も、二年半になろうとしている。あと二年間で定年、せっかくだから、わたし自身が楽しみたいという気持ちは少しも変わりない。去年の師走、最後の授業のあと、女子学生たちが何人もて昼食を作ってきてくれ、男子学生もまじって教授室で食べてかつ語りあった。けっこう広いと思った教授室が若々しい来客のために手狭に感じられるこのごろである。夕方、帰宅しようとしていると、またべつの男子学生が一人できて、今からぼくのピアノを聴いてくださいと誘われ、大教室にあるピアノで、バッハ、ブラームス、シューマン、フォーレなどのものきんいちようぱ曲をたっぷり楽しんだ。なかなかの演奏だった。黄金の銀杏葉はキャンパスに散り敷き、大岡山からのタ菌はまっかに遠く、冬空は昏れていた。階段教室を一人じめして音楽に聴きほれた。秦さんの家を設計しました。評価はAでしたと、茶室のあるりっぱな住宅模型をもちこみ、教授室に飾っていってくれた建築学の二年生。三年生から飛び級で大学院にパスしましたと家へ電話をくれた前年度の男子学生。旅行先で地酒を買って帰ってくれたり、ニュージーランド土産に長い長いモヘアのマフラーをくれたり、自分の好きな音楽をテープに吹き込んできてくれたり。

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吉左衛門の熱いファンもいるし、丹生や文楽の大好きなのもいる。教授会には失礼つづきだが、学生たちとは美術館へも行く。飯も食う。恋や前途への悩みもいっぱい聴く。わたしのような妙な授業をしている先生は無いらしい。他大学の学生が再々文学概論の教室にもぐり込んでいて、毎時間の課題も提出して行く。課題に応じて学生たちが書いたわたしへのメッセージは原稿用紙にして、もう二万枚をかるく超えた。貧と弧と病と兵と。恐れる順にならべ、一つについて所感をと問うと、各クラス、一番恐れているのが、孤・病・兵・貧の順。一位と二位を合計すると病気を恐れる者が多くなる。貧乏はなんとでも凌げると思っている。所感は兵役ないし戦争に多く集まる。また、佐佐木幸綱氏の短歌「父として幼き者は見上げ居りねがわくは金色の()子とうつれよ」の漢字一字埋めに、予想より多数の正解(獅)もあった。父を強いものと見てきた学生と、父の弱りに寂しい思いをしている学生とが、両極から正解してきた。断っておくがこういう課題は、いわば枕、本題の授業の導入部として趣向してあり、詩歌の創意に参加させ、また自問自答を書き表すことも習慣づけている。文学をふかく楽しく読むためにそれらは必須の用意であり「フィロンフィー」なのである。知識はあとから付いて来る。いっそ「東工大生の『文学』的青春像」をまとめてみませんかと、退任直前の学長と学部長の急の配慮で、特別経費が二百三十余万円も舞いこんだ。どう使えばいいのか悩ましいが、ともあれ「ボクの学生たち」とのあと二年を、迷いなく楽しみお金は適宜に使って余ればお返ししたい。広大な東京工業大学キャン。ハスの四季も、とりどりにすばらしく、すっかり馴染んで来た。さて次回は小説『誘惑』一篇を晩春を目途にお届けする。巻末の予告をどうぞご覧ください。

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