電子版・湖の本エッセイ 6
 
 
 

  神と玩具との間

   -昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち- 

 

                 秦  恒 平

 

     書き下ろし 六興出版刊 昭和五二年四月・・ 湖の本エッセイEFG         


(現在稿は、スキャンしただけの未校正状態で、校正は中途です。相当な長編です。小刻み連載の感覚で読み下さい。)
 
 

   はじめに

 大学に入るについて、教授が何人かで口頭試問とでもいう場面があった。昭和二十九年初春だったか。面接室に呼びこまれてあれこれ一問一答の間に、好きな文学作品を挙げよと求められた。予期した話題だったから、すぐに志賀直哉の『暗夜行路』とトルストイの『復活』だと答え、すると「なぜか」と追及された。弱った。問うも答えるも型通り、その先はないものとたかをくくっていた。「それは、二つとも『男』を主人公にしているからです――」  質問者の方が絶句の体だった。答えた私も答えてから自分で吃驚していた。「面白い…」と咳くような低声(こごえ)が聴えた気もしたが、やりとりはそれきりだった、と、こう思い出しながら、私は今でもまだ吃驚している。返事にうそはなかった、そのことに対して吃驚するのである。おそらく高校入学の場面でなら、全く同じ答え方でこれは夏目漱石の『こゝろ』を挙げていただろう。その頃も多分今も、私の文学に学ぶ思いにはこういう作家たちのこういう作品をこういう眼で読む態度があったし、今もある。
 「男」という答え方が的を射ていたなどと強弁する気はないが、くどい議論を避けて自分の実感を表わすには何より端的で、この一字一語ほど「いかに生きるか」の自覚や探求にふさわしい言葉は思い当たらなかった。つまりはかなり根の深い、私の或る偏見が露われた答えだったのかもしれない。
 「女」の一字一語に負の評価を下していたとは思わない。が、なぜ教授の質問に対し『源氏物語』を挙げず、また谷崎潤一郎の諸作品を挙げなかったのか、私が今も吃驚するのはそのことでもある。『源氏物語』と谷崎とはすでに私の中で一とつづきの世界になっていた。そして『痴人の愛』から当時『少将滋幹の母』に至るまでの昭和期谷崎の殆ど全作品を私は何にもまして愛読していた。何かしら質問されて谷崎とは答えにくかったのか、その辺がよく思い出せないのだが、かりにそうだったとして、それは「なぜか」と自問すれば、やはり反射的に「女」という自答がはねかえって来る、そんな気がする。
 私は、もののはじめにわが「谷崎愛」を思わず隠した、のかも知れない。それで谷崎に背いたとも、時任謙作やネフリュードフをだしにしたとも決して思わない。外に表わし、内に秘めた、その両方が私自身の表現であり納得であった。私の「谷崎愛」は、そんな口頭試問のような晴れの場面で口にするにはあまりに心情的に私的に過ぎた。そして、その過ぎた部分にやはり「女」が隠れていたと言っていい。「女」のことは、晴れがましく口にすべきことと思わなかったまでだ。
 私自身の根の部分にこういう思いがある以上、今、この本を書き進めていく作業は正直のところ大変苦痛だと正直に告白しておきたい。或るめぐり合せがこれを書かせ、めぐり合せを幸せと思いながら、或る意味でこんな本は書かるべきでないとすら、私は今も考えている。昭和初年に限っての谷崎潤一郎の人および文学に絡む「女」の状況を、隠すどころか、露わに照し出すものになってしまうからだ。そんな作業を自分に課するに、どれほどの正心誠意を以てすべきか、一度ならず眼を通してみた貴重な未公開資料を前に私の気は重い。
 谷崎潤一郎は、「女」とは神か玩具かのいずれかだと作品(『蓼喰ふ蟲』)の中に書いた。谷崎らしい或る確信に違いなかったが、それとても神でも玩具でもない「女」を知り尽していたから書いた、書けたということだろう。そのいわば「神と玩具との間(間、に傍点)」の、谷崎にすれば「女」ならぬ女、問題の昭和初年のうちに劇的に去来した谷崎三人の「妻」を、この本は事実上の主人公にせねばならぬ。
 むろん、「神と玩具との間」を彷徨(さすら)いつつも讃嘆すべき芸術家として無類に強靱に生きた谷崎潤一郎の「男」をも、主人公にせねばならぬ。
 私は亡き野村尚吾氏の今は声なき負託にこたえて、心してペンを執る。間違いなく、昭和初年の谷崎を語って、これは通らねば済まぬ谷崎潤一郎論の関所のような本になる。そう信じている。それならただ真直ぐ他意なく、その関所の戸を丁重に開くだけのことをしたい。(昭和五十一年三月二十四日)
 

 

  第一章 「小田原事件」始末
 

      一

 『全集』に収録されていない谷崎潤一郎自筆書状一通をまず紹介したい。受取っているのは、昭和六年当時阪神間でも有数の資産家として知られていた人である。手紙はすべてみごとな毛筆で、数ある谷崎書簡の中でも最も筆跡雄運かつ流麗の一通と見える。気を入れて書かれたことが文面にも察しられる。
 

    昭和六年十二月十五日朝 阪急夙川根津邸内 倚松庵主人より
        阪急岡本駅本山村北畑 妹尾健太郎様あて 封書 毛筆
先夜は参上御馳走様になりました
扨(さて)今回は御蔭様にて漸く前途に目鼻がつき全く安堵いたしました
貴下とは交際の日比較的浅きにも不拘(かかはらず)いかなる因縁にや実に筆紙に尽し難き御芳情を蒙りました近頃はあまり親しくなり過ぎ改まつて御礼を云ふのも変な工合なので茲(ここ)に書中を以て衷情(ちゅうじやう)を披瀝いたします
夫人に対しても勿論同様であることを御伝へ下さい
先(まづ)は御挨拶まで如斯(かくのごとく)であります
  十二月十五日
                   谷崎潤一郎
 妹尾(せのを)健太郎様
              侍史

追白
○千代子すゑ子鮎子三人十七日に下阪の由昨日しらせがありました、電報か(ママ)来たら御一緒に梅田まで行かれますか如何(いかが)
○例の話で昨日根津夫人を小生一人で訪問、夫人九度近き高熱なれども二三日を争ふ場合故、枕頭に侍って暫く談じました大いに意を安んじた点があり矢張り夫人にきいていい事をしたと思ひました 以上
 

 たった一通のこれだけの手紙ではあるが、谷崎の読者とりわけ谷崎論者や研究者にとって看過ごしがたい内容を備えている。
 昭和六年といえば数え歳四十六歳の谷崎が最初の妻千代子夫人(のち佐藤春夫夫人)と離婚の翌年に当たる。この年初、秀作『吉野葛』を発表の傍(かたわ)ら谷崎は二人めの妻となる当時二十五歳の古川丁未子(とみこ)と婚約、三月に同棲、四月に挙式した。当時谷崎は阪急沿線岡本に豪邸を構えていたが維持しきれず、一切を売りに出すとともに税務署その他債鬼の追及を避けるべく、さながらの蜜月を高野山(こうやさん)龍泉院内の泰雲院にこもったのが五月だった。谷崎は十月初めまでここに滞留してまず『盲目物語』を書きあげ、次いで『武州公秘話』に着手している。が、ほかならぬこの二篇の小説は、谷崎自身も後日認めたように、当時大阪の豪商根津家の若夫人、昭和二年三月の初対面以来親交のあった根津夫人松子を念頭に書かれていた。
 とくに『盲目物語』は松子夫人を描いた北野恒富(つねとみ)画『茶茶』の印象を慕情をこめて女主人公お市の方の上に映したもので、言うまでもなくお市の方は茶茶すなわちのちの淀殿に生き写しの生母に当たるし、根津夫人松子はのちに谷崎三人めの妻となった人である。谷崎は、つまり丁末子(とみこ)夫人との蜜月さなかにも根津夫人の面影を作中に書き表していたのである。高野山下山後も谷崎夫妻はひとまず大阪府下の根津商店寮に、次いで十一月に西宮市夙川(しゅくがわ)の同じ根津別荘の離れに仮住居を頼むなど、根津方の好意に負うところ大きかった。母屋(おもや)には家産の傾き始めていた根津家の人々も移って来ていて、垣根ごしにいつも往来があったという。
 この夙川時分の前掲書簡の封裏に「倚松庵(いしょうあん)主人」と署名があるのは、文字どおり松子夫人の「松」に「倚(よ)」るという意味深長の名乗りなのであって、決して根津別荘にそんな名があったわけではない。事実、谷崎は七年二月に兵庫県下魚崎町にようやく自前の新居を構えるとすぐ倚松庵と呼び、挨拶代わりに佐藤春夫の主宰誌「古東多万(ことたま)」三月号に『倚松庵十首』の述懐を寄せた。ただしこの述懐、雑誌読者には全く通じるはずのない、秘めごと歌だった。
 おそらくこの手紙は「倚松庵主人」と名乗った事実上の第一通に違いなく、その一点からも、あて先の妹尾健太郎(せのおけんたろう)と夫人とが当時の谷崎にとってなみなみでない友人であり訳知りであったことを存分に証ししている。ちょうどこの十二月上旬には売りに出していた谷崎の家もやっと売れた。妹尾の奔走もあったらしく、丁寧に謝意が表されている。
 断言できる。昭和初年の谷崎潤一郎、ことに『蓼喰ふ蟲』連載の昭和四年半ばから丁末子夫人との別居や離婚、松子夫人との同棲や結婚に至る昭和十年ごろまでの谷崎の私生活のみか谷崎文学の十全な理解に、妹尾夫妻の果した役割の大きさ広さはまずは無視できない。亡き野村尚吾の『伝記谷崎潤一郎』(以下すべて『伝記』と略)にも『全集』(中央公論社刊)書簡群にも妹尾の名は見えるが、野村でさえ妹尾夫妻の存在を十分質的に評価できていなかった。従って『伝記』の読者も軽く読み流して妹尾の名にも働きにもほとんど注目するに至らなかった。私は今、この妹尾夫妻にあてた主に谷崎潤一郎、佐藤春夫、千代子夫人、丁末子夫人、松子夫人、他にも若干谷崎の娘鮎子、弟終平、妹すゑ子らの書簡(全部が昭和初年のもの)都合約百六十通を託されているが、すべてこの時期の「谷崎論」をなす上ですこぶる貴重なだけでなく、逆にこれらの人々が妹尾夫妻をいかに敬愛し重宝し、親交を享楽していたかが実によく分かる。特に谷崎にとって妹尾夫妻が、おそらく二度の離婚と二度の結婚の、そしてそれとはなはだ密接にかかわるほとんどの創作の信じ難いほど常に近くにいて、良きにつけ悪しきにつけ知恵も手も金も貸していた、協力していたことが、実によく分かる。そうと知って冒頭の書簡一通を熟読すれば、この時期、この内容、興味津々の秘話があとからあとへ行間に浮かび上がってくる。本書は、都合百五十余通もの前記の手紙を以下つぎつぎに紹介しながらそれをつぶさに読み解き、併せて、昭和初年と限っての谷崎潤一郎の文学および人と私生活とにつき、いささか私自身の感想ないし批評を加えてみたい。
 それら一束の書簡は一見して確認できる範囲では昭和五年二月二十日付、兵庫県室(むろ)の津で投函された谷崎自筆のものが一等古く、昭和十年七月三十日付、東京小石川で投函された離婚後の古川丁未子のものが一等新しい。
 昭和五年の室の津行(ゆき)が、同年三月から九月へかけ朝日新聞に連載された『乱菊物語』取材の旅であったろうことは谷崎の愛読者なら容易に察することができる。この「大衆小説」と銘打たれたすこぶる面白い小説は、だが「前篇」を一応終ったまま中断されて二度と書き継がれなかった。そしてこの作品を連載中の三月から九月に至る間に、谷崎は佐藤春夫への「細君譲渡事件」と世間に騒がれた最初の離婚を体験している。この尋常ならぬ事の経過をいささか強調し評価して言い表わすなら、谷崎はこの昭和五年八月、ついに最初の離婚を成就(傍点)し達成(傍点)したのである。
 しかし谷崎が離婚を成就(傍点)し達成(傍点)したのはこの一度と限らない。先にも言う昭和六年四月、谷崎は古川丁未子と再婚し、翌七年十二月には早くも別居、八年五月には事実上の協議離婚を遂げている。
 そして昭和十年一月には谷崎はすでに先夫根津清太郎と離別していた森田松子と三度めの祝言(しゅうげん)を挙げ、その秋からは名高い『源氏物語』現代語訳の難業に着手する。同年七月三十日の丁末子前夫人の妹尾夫妻にあてた手紙は、傷心癒(い)えぬ侘びしさに病弱と生活苦が加わって、毛筆の運びも乱れがちに見える一方、谷崎潤一郎の文学生涯はこの日以後なお正確に三十年をまるまる剰(あま)していた。谷崎は数え歳で数えて五十歳だった。
 今(昭和五十一年現在)、『全集』には昭和五年ないし十年の谷崎書簡が都合五十三通収められている。谷崎清二、佐藤春夫、谷崎鮎子、岸巌、佐藤豊太郎(春夫の父)、長田幹彦、和辻哲郎、秦豊吉、笹昭夫妻(偕楽園主)らのほか担当編集者や出版社にあてたものもあり、とりわけ昭和七年九月二日付以降の森田(根津)松子にあてた恋文数通は、後年松子未亡人の著『倚松庵の夢』(昭和四十三年刊)で公開されすこぶる注目を浴びた。が、妹尾健太郎・君子夫妻にあてたものは一通も含まれていない。この当時の妹尾夫妻あて谷崎自筆の書状は全部で四十六通(内一通は委任状)、悉く今、私の机に積まれてある。日付不明ながら内容から察して、その一等古いものは昭和三年頃に遡りうるものも含んでいる。
 ひとり谷崎に限らず、三人の夫人や佐藤春夫らが書いたこれら一束の書簡群を特徴づけるのは、一つには差出人がいわば「渦中の人」だという点にあるが、二つにはそれ以上に全部の手紙が同じ一と組の夫婦にあてられている点にある。しかもおいおいに分かることだがこの夫婦自体また「渦中」に身を投じて、手紙の主の一人一人に対し実に緊密な連絡と調停と奉仕の労を惜しんでいない。事実、くどいようだが百五十余の書簡の一通残らずが、異口同音(いくどうおん)この妹尾健太郎・君子夫妻に深い親愛と感謝の念を表わしているのである。
 『全集』には、妹尾(せのお)健太郎にあてた谷崎書簡は現在(昭和五十一年)僅か四通(昭和二十年分一通、二十九年分一通、三十三年分二通)しか収められていない。何らかの事情があってに相違なくとも今それに触れる必要はないだろう。ただ谷崎潤一郎が、昭和の十年代という空白を隔てて、かつて昭和初年代の妹尾夫妻に対しどんな感慨をもっていたかを推測するに足るので、簡単に二十年代以降の四通を顧ておきたい。
 昭和二十年十一月三十日、谷崎は戦時疎開先の岡山県勝山町から兵庫県武庫郡本山村の妹尾あて「封入の香華料何卒先夫人の御墓前に御供へ被下度(くだされたく)願上候」の一節を含む消息を送って、その追伸に、「年月を重ぬるにつれ先夫人を偲ぶの情切なるものあり先夫人の死後何と世の中ハ浅ましくなり行きしもの哉これハ我等の家族一同(中略)始終申居ることに候」と書き添えている。妹尾夫人君子の急死が昭和十二年十一月下旬であったことは、これも近刊の谷崎潤一郎家集『松廼舎(まつのや)集』に収めた歌一首の詞書に見えている。右の消息は終戦直後の感懐であり、谷崎は当時『細雪』の出版を期して東京、熱海、阪神間に約二十日を費し、この月半ばに勝山町へ帰ったばかりだった。「昨今の旅行ハ我等老人にハ中々困難にて帰来疲労基しくれうまち(傍線)の気味に相成折角静養罷在(まかりあり)候」とも言っているが、ちなみに谷崎はこの年、数えて六十歳になる。
 また、昭和二十九年七月八日、熱海市伊豆山の自宅から伊豆大島在の妹尾にあてた手紙では、妹尾の再婚したことが察しられるほか、「小生ハ今も昔も同じやうに金のこと八一向無頓着の方にて生活は派手なれども貯へと申すものハ別に無之(これなく)」などと書いているのが目を惹く程度で、過去はともあれ、現在では両者疎遠のさまが措辞の末にやや窺われる。思うに谷崎の気もちが一つには妹尾夫人の方に重きを置いていたからではないか。先に挙げた『松廼舎集』には「ゆかりの月と云ふ舞を好みて舞ひし人なりければ」と添えて「面かげの忘られなくに秋の夜はゆかりの月の影の冴ゆれば」と詠み、さらに日をかえ「妹尾夫人をおもひて」の前書で「傘さして舞ひけん人をしのべとや昨日もけふも淡雪のふる」と詠んでいる。昭和三十三年九月四日付、伊豆山から大島の妹尾へあてた手紙には谷崎の亡き妹尾夫人びいきがよく読みとれるとともに、「往年」の彼らの交情がどのような日常下にあったかを、雰囲気程度は伝えてくれる。
   

先般京都ではお忙しい中を度々おいで下すつて有難うございます
その後私も熱海に帰り書斎を整理してをりましたが意外にも思はぬ古い手文庫の中から往年の「お栂(つが)」の古原稿を発見いたしました、焼失したと思つてゐたものが幸運にも保存されてゐた譯であります、原稿は二種類ありまして、一つはきみ子夫人の談話の一部を筆記したもの、一つは小説「お栂」の冒頭の一二章で、これはたしかに私の書いた創作の文章であります、但し二種とも私の直筆ではなく恐らくは丁未子(とみこ=鷲尾夫人)か誰かに筆写せしめたものと思へます、赤裏の話や童謡なども出て来まして此の上もなく懐しい気がいたします、失礼ながら先日のあなたのお話よりも、この君子さんの筆録の方が遥かに芸術的要素に富んでをりますので、これを生かすことが出来れば或は小説が作れるのではないかと存(ママ=考?)へてをります
兎も角も早速君にお見せして御感想と御意見を伺ひたいので、二種の原稿を別便を以てお届けいたします、御覧になりましたら何卒なるべく早く御返送下さるやうにお願ひいたします
私の今の考では君子さんの生ひ立ちよりあなたと恋に陥る迄の前半生を一つの物語にしたいのですが、それにしても昔の大阪の風俗や地理をもう少し詳しく知らなければ、これだけでは不十分なので、あなたがこの筆録を読んで補足して下さるわけには行きませんか
丁末子夫人もあの当時傍で聞いてみた筈ですから彼女も何か補足するやうな材料を記憶してはゐないでせうか
兎も角も御精読の上御考慮を願ひます
    九月四日
               谷崎潤一郎
 妹尾健(ママ)太郎様
 

 谷崎はさらに同年九月二十二日、前便に対する妹尾の返事のないのを心配した書留封書を送っている。「図らずも古い手文庫の中から、紛失したと思つてゐた往年の『お栂』の原稿と、貴下の先夫人の談話筆記とが出て来ましたので驚喜のあまり、何は措(お)いても貴下にお目にかけたいと存じ、それをそのまま大島のお宅あてに発送したのです、コッピーを作つて置かなかつたので、(中略)不安を感じてゐるのです」という息づかいの聴えそうな文面のあとへ、「まさかあの手紙や原稿が不着の筈はないと存じますが、至急何とかお便りを下さい、気になりますから」と書く調子には、やや相手をなじるほどの語勢があり、「末筆ながら奥さんに宜しく」の軽さが目立ってくる。
 谷崎潤一郎の「驚喜」「不安」あるいは「願ひ」には一途(いちづ)なものがある。わるく言えば妹尾やその新夫人の心情に構わぬ我儘すらあり、さすがに直かに自分でとは言わないが、今はすでに「鷲尾夫人」である前妻「丁末子」の協力をすら望んで、暗に妹尾の周旋を期待している気味もある。事実かつての妹尾夫妻は、文字どおり谷崎潤一郎の身辺にいていろんな意味で厄介な事情を抱えていた前記「渦中」の人たちの間を、あくまで谷崎を軸に種々斡旋し奔走するていの、極めて重宝で親しい友人と秘書の役を専ら引受けていたのである。それも私生活の面に限らず、今の手紙が明すように谷崎の創作生活にもいろんな形で関わっていたのである。
 野村尚吾の『伝記』には、昭和五年夏、最初の千代夫人との離婚公表直後の身辺の煩わしさを避けようと谷崎が大阪浜寺の一カ楼に身をひそめたのも、「同じ岡本に住む、若い芸術家志望の妹尾健太郎夫妻」の「案内」だった由を書いている。「妹尾は近くに住んでいたこともあるが、潤一郎が『黒白』(昭和三年三-七月、朝日新聞連載)を連載したさい抜擢した新進の日本画家中川脩造の紹介で訪問するようになり、その後は双方が三日にあげず往来する間柄になっていた。とくに夫人の君子は、数奇な生涯を歩んだひとだが、気さくで人づきあいのよい才気が、潤一郎の気に入っていた」ともある。
 原稿『お栂』の行方は今や「行方不明」という以外にない。多分谷崎が君子夫人の生い立ちを聴いて、そのまま当時の妻に筆録させたものだろう。この妹尾夫人は或る商家の若旦那と行儀見習いの娘との間に生まれ、生後まもなく貰い子に出されたものの、養家も零落、十歳にならぬ前に自分の意志で狭斜の巷に身を寄せた人だったという。芸もよくおぼえ才覚も人気もあったことから、さる貿易商社の人に落籍(ひか)されて結婚し子供も生まれたものの、夫が浮気する一方その頃通訳兼社員だった年若い妹尾健太郎と知り合って恋愛、昭和二年ころ円満にその夫から君子夫人は妹尾に譲られ(三字に傍点)再婚したのだという。谷崎の手紙に「赤裏」とあるのは大阪の古い町の名である。
 

   昭和五年二月二十日 「室の津にて谷崎生」より兵庫県武庫郡本山村北畑 妹尾健太郎様あて 端書 毛筆
瀬戸内海の家嶋へ渡り二泊、唯今室(むろ)の津へ帰りました、廿二日か三日帰宅珍談満載
    *以下、妹尾の住所に変更のない限り「本山村北畑」の宛先を略す。
 

 谷崎と妹尾の交際はこの昭和五年二月以前、遅くも三年夏頃に遡る間に始まったらしく、ここに、行文および書体から推しても、谷崎の娘鮎子がまだ関西で通学中という点からしても、この室の津の旅よりかなり以前かと推定できる(年月不明の)一通がある。
 

    年月不明十一日夜 摂洲武庫郡岡本(角白印)姓名(角朱印)谷崎潤一郎より妹尾様あて 封書 毛筆
先日は失礼いたしましたその節御話の子供さんの転校の事ですが昨夜根津さんを訪問奥様に御頼みしましたところ奥様から早速八木さんに話して取り計らつて貰ふやうにするとの事でしたそれが一番有効のやうです、猶うちの子供に本日学校でそれとなくきかせましたら三年級は缺員があるから大丈夫はひれさうな様子です何にしても早い方がよろしくと存じ一寸御知らせいたします、一度根津夫人を御訪ねになつてハ如何かと存じます、先方でも妹尾様をよく知つてゐると申て居られました、明十二日午後は拙宅へ夫人が見える筈につき都合でその時刻に御しらせしてもようございます
    十一日夜            谷崎潤一郎
  妹尾様 侍女
 

「岡本」は大正十五年からの住地名である。昭和三年からは「岡本梅ヶ谷」の豪邸に住んでいた。おそらく昭和四年春先かその前年にも繰上げられそうな右の手紙は、妹尾夫人君子あてのものと読める。事情が十分は分からなくとも妹尾家の方から私立校へ途中入学の用件で谷崎の周旋を頼むことができ、こちらも煩を厭わず好意をもって世話を焼いている趣が見える。妹尾家には夫人の連れ子で、谷崎の娘鮎子とほぼ同年の美津子という娘がいたのである。「なにしろこつちへ来てから出来た友達といふものは、殆ど婦人ばかり」(『関西の女を語る』昭和四年七月号「婦人公論」)とあるが、震災を遁れてきた谷崎潤一郎の関西暮しを概して順調に定着させたには、つとめてこうした人交わりを厭うまい、避けまいとする谷崎自身の努力ないし好奇心が大きくものを言ったに違いない。
 しかしこの一通からは、何より谷崎と根津夫人松子との親密度が「拙宅へ夫人が見えるほど」濃やかに、すでにかなり進んでいる点を看取すべきだろう。文面の字句から推して谷崎と妹尾との交際はまだ日浅く、摂津夫人と妹尾とにはまだ表立って交際がない。ちなみに昭和三年から四年へかけて『卍』『黒白』『蓼喰ふ蟲』などが連続して発表され、谷崎の思いには千代子夫人につき、また佐藤春夫について大正期以来の久しい懸案がわだかまっていた。そんな頃の「根津さん」や「根津夫人」の文字の見えるこの手紙は書簡群中でも最も古い一通に相違なく、谷崎の暮しに根津「奥様」の存在はすでに十分、重い、という実蟲感をもたせる。と同時に、妻を男から奪ったのでなく、譲られた夫(五字に、傍点)としての妹尾健太郎との交際にも、谷崎は谷崎なりの眼を光らせていた気がしてならない。「阿曽」の一件がもし無くとも、名作『蓼喰ふ蟲』の構想ないし後の「妻譲渡事件」をすら使嗾(しそう)する出逢いだったかも知れないのだ。
 ともあれ、一妹尾夫妻に集中した書簡群だけで万事を割切るわけにはゆかぬことは重々承知しながら、しかもそれら多くの手紙は、この夫婦が谷崎・佐藤両家に対して占めた独特の位置、立場、役割をおいおいに必ず明らかにするはずだ。谷崎潤一郎個人に対する一読者、一崇拝者という間柄を遥かに超えて、はなはだ具体的に彼らは谷崎の生活に密着して"働い"ている。それに、宛先がもし一人一人違えばきっと捉え難いであろう各書簡を貫流する"事情"なり"感情"なり"配慮"といったものをここでは、ある順序と統一のもとにかなり正確に読み取ることができ、それが大事なのだ。ある限られた時期ではあれ、ふしぎにも潤一郎や春夫の生涯にとりわけ重要な意味を持つ昭和初年代を通じて、両家の家族からこれほど集中的に親しい書簡を貰えた人物、夫婦は他にいまい。妹尾夫妻のとりなしに、たんに重宝というばかりでないよほどの実意と魅力とが溢れていたということだろう。

 例えば、 ここにも年月不詳の一通がある。
 

   年月不明二十五日 佐藤春夫より妹尾健太郎様あて 封書 毛筆

拝啓
 只今は御馳走を頂き有難く存じます 別葉は廃物ですが何卒御利用下さい 奥様御同伴遊ばされてよろしくと存じます
右        二十五日
                         佐藤春夫
       妹尾健太郎様
 

 文面からは、何かの入場券で佐藤春夫が行けなくなったものを回したらしい。これ自体は些事に過ぎない、が、親交の間には些事とも言えない交渉が生じ易いわけで、次に掲げる佐藤から谷崎潤一郎にあてた一通も、実は妹尾健太郎の手もとに久しく保存されていたのである。春夫からか潤一郎からか、「別葉は廃物」とあるのが或いはまさしく(四字に、傍点)これか、いずれにせよ妹尾健太郎が貰うか預かるかしたとしか思えない。「大正十五年九月八日」の日付をもつこの一通、実は初公開のものでない。野村尚吾の『伝記』が改訂のさいに補註の形でちいさく加えられ、それ以前にも『谷崎潤一郎文庫』(六興出版)月報中にささやかに紹介されていた資料である。が、久しくその存在は推測されながら見つからなかった実物ではあるし、内容は谷崎にとっても当の差出人である佐藤春夫にとっても個人的に大事な、しかも十分文学史的資料とするにふさわしいものとして、いささかの感想を加えながら昭和五十年十月十四日付の毎日新聞夕刊に二度の公開役を私が頼まれたこともある。
 手紙は四百字詰の原稿用紙二枚を満たして勢のあるペン字で書かれている。
 

唐突だけれども貴君に手紙を上げる。ともかくも読んで貰ひたい。僕は御承知のとほり改造へ作品を書いてゐる。それを貴君が何と見られるかは知らない――いや、この手紙はかういふ風に書いたのではいけない。出直す。
実は僕このごろ、ごくこのごろ情婦を持つたのだ。それで貴君がおせいに対する感情をやつと理解することが出来た。そこで今まで貴君に抱いてゐた感情はすつかり消却した。また貴君の夫人に対する感じも歳月とともに極めて平穏なものだ。むかしの人々に対するなつかしい心持を貴君と及びその夫人とに同じやうに持つことが出来る。きのふまでは千古滅却せずと信じてゐた貴君に対する恨は釈然とした。さうして君に対する見方が足りなかつたことを後悔してゐる。あれは僕の三十の時の見方だと思つてくれるやうに願ふ。それで今まで書いてゐるのを書きつづけることは見合さうかとも思ふのだけれども、さうもいきにくい。といふのは、ともかくもあれはあの時の僕の見方として正しい――といふか、ともかくも本当にさう思つたのだからである。それで貴君は不満足かも知れないが、あの作はあのままの気持で(と言つても自然これから先のところは変つてくるだらうけれども)書きつづける。さうして別にこの次にもう一度同じやうなものを書くつもりである。この事を僕は貴君に告げたい。
それから僕の女房だが、あれが貴君の夫人に是非逢ひたいと願つてゐるのだ。僕もその事は希望してゐる。彼女を貴君の夫人に逢はたい(ママ)のだ。それらの事を君に話したいので、僕はもし君さへこれを拒まないやうなら、一度君と会見したいのです。
君が僕の手紙を愉快に読むか不愉快に見るか。さうして僕の申出を受けてくれるか拒むか。その返事を聞かせてもらへると甚だうれしい。へたな文章だけれども、書き直さないでこのまま出す。いろいろ考へた末の事である。
    九月八日夜                 佐藤春夫
  谷崎潤一郎様
 

 差出住所は東京小石川区音羽町九丁目十八番地で、宛先住所は兵庫県武庫郡本山村北畑になっており封書に「直披」とあって、封はかなり荒っぽく破られている。切手は貼ってなく、郵便局の消印もない。当時所用で上京中の谷崎が、佐藤の妻からの電話をきっかけに普請中の佐藤宅へ突然立ち寄り、佐藤は生憎留守だったが投函前の手紙があることを聴いて即座に立ったまま開封したためで、佐藤は、互いに"絶交中"とはいえ人聞きにも谷崎の上京を知っていたらしい。
 大正十五年初秋のこの手紙の背景を悉く説明すれば、優に面白い本が一冊書けるだろう。が、ごく簡単にいうと、大正六年の出逢い(年譜的にはこういわれているが、事実はもう少し早い出逢いと思われるフシがある。)このかたの心友佐藤春夫と谷崎潤一郎は当時の谷崎夫人千代子をめぐって、大正十年の、世に「小田原事件」と謂われたトラブル以来、全くの絶交状態にあった。この事件では、手紙に「おせい」と名の出てくる夫人実妹に当たる女性と谷崎との不倫を表面の問題に、そして夫人に同情しかつ恋慕する佐藤春夫の介入を裏面の状況にもちながら、ついに谷崎の発意で夫人を佐藤の妻に譲ると話も決まった土壇場で、谷崎が突如翻意し、千代子夫人に恋していた佐藤は無残に傷つき怒ったのである。
 ところが五年を経て佐藤は進んでこれを和解に導く目的で前掲の手紙を自ら書き、谷崎ははからずも佐藤の留守宅でそれを読んだ。
 翌日谷崎は再度佐藤家を訪ねて、十年三月以来久々にかつての友と「会見」――、また岡本へ帰ってからもこんな手紙を出している(『全集』所収)。

拝啓
帰来早速手紙を出さうと思ひながら例のずべらで失礼した
いつかは君と再会の喜びをえられると云ふ気はしてゐたがそれがこんなに早く来ようとハ思ひもかけぬことであつた、あまり意外だつたので帰つて来てからあれも話したい此れも話したいと思ふことがいろいろ出て来た、別にまとまつた問題ではないがせめて二三日ゆつくりとくつろいで昔語りをしてみたい気がするお千代も君や奥さんに会ふことを切に望んでゐる、それで当方の都合がついたら御知らせするから一度奥さんと来てくれないかおつりきな妹(*)はすでに東京へ帰つたし移民(**)の方も近くブラジルヘ出発する、その時分までには多分私達は今少し広い家へ移転する予定だ、その家は非常に好い家で必ず君たちの気に入ると思ふよかつたら奥さんに幾日でも逗留して頂きたい、お千代も早く御友達になり東京へ行つたらとめて頂くと云つてゐる、
が、その後君の方の事件はどう発展してゐるかそれも聞きたい、暇があつたら手紙くれたまへ
   九月二十四日              谷崎潤一郎
  佐藤春夫様
        侍史
唯今午前三時
僕ハスタンダルの英訳 The Charterhouse of Parma を読了した、二冊で六百ペーヂほどある実に驚くべき作品だ、これが今迄日本で評判にならなかつたのが不思議だ誰かが翻譯すれバいいと思つてゐる、
     *谷崎の妹の、すゑ子
      **谷崎の妹の、伊勢
 

『パルムの僧院』への傾倒は特に注目に値いするが、今は措く。
 これらの手紙をきっかけに急速に取り戻された谷崎と佐藤の親交は、のちに夫人譲渡の一件を熱心に再燃させ、『『蓼喰ふ蟲』』事件を経て、一転昭和五年八月、今度は無事円満に谷崎と千代子夫人の離婚、石川千代子と佐藤の再婚が成り立った。ただし大正十五年「和解」の時点で三人がこの日のあるのを期していたかどうかは想像にあまる。
 この頃、谷崎と妹尾夫妻とは同じ本山村北畑に住みながら、まだ出会っていない。のちの丁未子夫人、松子夫人すらまだ大正十五年秋には谷崎との出逢いを果していない。
 谷崎潤一郎の生涯をおよそ前半生と後半生に分けて、その折り目をいつ頃のどの事件に見当てるかがよく問題になる。一例として関東大震災による「関西移住」があげられる。作品としては、大正十三年の『痴人の愛』か、昭和三、四年の『蓼喰ふ蟲』かで議論が分かれる。佐藤との「和解」は.移住」後のこの両作のちょうど中間点で起きた事件であった。が、これに着目して一つの折り目を見ようとした例はないようだ。だが「和解」はまさに問題の両作を前後ににらんで、谷崎文学と私生活との秘密をこれ以上もなく鮮やかに照明しえている。少くも「関西移住」で『痴人の愛』は書けたろう。が、「和解」ぬきに『蓼喰ふ蟲』は到底書けなかった。
 よく知られていることだが、谷崎と佐藤は小田原事件をめぐって幾つかの興味ある作品を競って発表している。ことに佐藤春夫は『侘びしすぎる』『この三つのもの』などの長篇以外に、有名な『殉情詩集』や『秋刀魚のうた』など人気をえた詩業をさながら武器にして、ほとんど容赦なく当時の谷崎夫妻の心線を揺り動かし、さすがの谷崎もあれには^辟易したと後日に告白している。佐藤の手紙に.「改造」連載中とあるのは彼の側から小田原事件をリアルに小説に仕立てた『この三つのもの』をさし、これは同じ谷崎の『神と人との間』に鋭く応酬する作だった。もし「和解」がなければなお幾らもの競合が繰返されたかもしれず、少くも『蓼喰ふ蟲』のような、作者自身述懐しているほど快く気もちの落着いた本格小説は書けなかったのではないか。
 しかしまた「和解」だけで『蓼喰ふ蟲』が書けたとも言いがたい。この作品に小田原事件以来の家庭のトラブルが影響しているのは言うまでもないとして、今一つ、妻千代子(美佐子)と年若き和田六郎(阿曽)とのあわや結婚の日程も定まろうとしていた全く別の新しい恋愛事件が主軸になっていたことは、谷崎末弟の終平氏に詳しい証言がある。さらにこの作品には別趣の「関西」の翳もさしている。
 「.関西」の翳なら先立つ『卍』にすでに濃厚に見えるというなら、『蓼喰ふ蟲』には、ただ「関西」の風俗や雰囲気というにとどまらずして昭和初年の谷崎文学に於けるまさに女主人公たる根津夫人松子の影が早やはっきり落ちていると言いかえてもいい。と同時に、まわりくどい言い方だが根津松子の影は、実はもう『卍』の中にも朧ろに、というよりまだ希薄にと言うべきだろうが、見え隠れしていなくはなかった。
 だがこまごまと作品に触れる話題は、まだその時機でない。
 私はこう思う。
 谷崎潤一郎の生涯を前半と後半に折り返す折り目は、一つは大正十五年九月佐藤春夫との「和解」であり、今一つは翌昭和二年三月根津夫人松子との「出逢い」だった、と。わずか半歳をへだててこの二つは表裏合体し、そのいずれを欠いても谷崎文学の成熟は絶対に不可能だった、と。まことこの「和解」「出逢い」が依って以て昭和十年の谷崎と松子夫人の「結婚」を導いたのだし、昭和初年の谷崎文学および私生活の目標は、ここに至って全く達したと言いきれる。それのみかこの間の谷崎の全文業は、さながら松子夫人との「出逢い」の意義を「結婚」の体で成就せんまでの貴重な副産物であり、交情の証言、愛の引出物だったかとまで言いきれるのである。そしてその原点が、「和解」だった。佐藤との「和解」の意義は、十二分に吟味されていい。
 作品の上で『蓼喰ふ蟲』と『痴人の愛』のいずれを折り目とみるか、私の考えははっきりしている。『蓼喰ふ蟲』が朝日新聞に連載されはじめた昭和三年十二月-四年六月には、谷崎と妹尾夫妻はもう相識の間柄だった。先に掲げた書簡「三」の書かれたのもこの連載期間に重なる可能性を十分もっている。とすれば根津夫人との親しい交際は、出逢い以来深まりこそすれ停滞していた気色はまるでない。そもそも新聞挿絵の小出楢重は根津夫人の縁者であり紹介であった。谷崎から根津夫人にあてた手紙が、昭和二年以後七年までの間、(昭和五十一年現在の)『全集』にただの一通も収められていない事実の方がよほど不自然で、奇妙なのである。のちの「恋文」効果を斟酌した意図的な措置なのは明白である。
 他方、谷崎が佐藤に対し、「どうだろう、お千代を貰ってくれぬか」と言いだしたのは昭和五年六月中旬、佐藤が「女房」のタミと全く離婚手続きを終えて岡本の谷崎を訪ねて行った時、谷崎自身大阪駅に迎えに出てその足で一緒に食事に行った席上だったと、千代の兄の小林倉三郎は証言している (『お千代の兄より』) が、果してそうもだしぬけの話が信じられるものか。少くも谷崎と佐藤の仲で、この件が「和解」以来のまる四年間一度も話題にならなかったとは信じがたいし、『蓼喰ふ蟲』の美佐子・阿曽の恋愛が、いたく現実の佐藤春夫(高夏秀夫)を刺戟したことも容易に想像できる。さらには結果的にみて根津夫人松子が、谷崎のそうした「細君譲渡」の意向に影響しうる存在に日一日なっていたことも否定できない。『松廼舎集』にはすでに昭和二年七月と信じられる「いにしへの靹のとまりの波まくら夜すがら人を夢に見しかな」という歌があって、「心におもふ人ありける頃、鞆(とも)の津対山館に宿りて」と詞書がある。淡路島へ、そして屋島から鞆の津への旅は、根津夫人と初対面の年の六月から七月へ、芥川龍之介自殺の直前に或る新聞社の依嘱を受けてしたものであり、「心におもふ人」といいこの歌といい、ごく自然に根津夫人をあてて想う以外にない。「又その頃」と前書して、「津の国のみぬめの浦に住む海人(あま)の夢にも人にあふよしぞなき」「津の国の長柄(ながら)の橋のなかなかにおもひの川のわたりかねつも」という二首を録してあるのも、歌がらから見て、根津夫人のほかに思い当たる人は全くない。
 千代子夫人との離婚事件は、たとえ大正十年に遡る小田原事件を度外視しても、『蓼喰ふ蟲』執筆の頃にはすでに事実上始まっていた。谷崎は千代子と和田六郎とをあえて広い自宅に同居させながら二人がいずれの「結婚」を黙認の体で、しかも佐藤春夫の意向をもうかがっていたし、他方、憧れの根津夫人は大家(たいけ)の御寮人であり谷崎とても結婚はおろか現実まだ愛人にもとも願えなかったろうが、それとても根津夫人の魅力を容認することが、必然、千代子夫人との結婚生活に対する疑念と不満とを深めずには済まなかった。千代子夫人との夫婦生活は、関西移住後やや薄ら日のさす僅かな一時期もありながら、概して他人同然の寂しいものだったというし、根津夫人との「出逢い」に加えて若き和田と千代子との新しい恋もその寂しさをいや増したであろう事情は、ちょうど若紫に出逢ってのちの光源氏と正妻葵上との間がしらじらと寂しさを増したのといくらか符合する。根津夫人松子の印象をおよそ『卍』的なところから『蓼喰ふ蟲』ふうに高め深める期間というものがあったと考えるなら、そしてその時期にはもう何かが(三字に、傍点)進行中だったと考えるなら、例の谷崎前半生と後半生の折り目に、つまりは後半生のもののはじめに『蓼喰ふ蟲』を置くのでは、いささか遅れ気味と言うしかない。
 一方、『痴人の愛』は「和解」および「出逢い」以前の作品ではあるが、谷崎自身「会心」の作と自負したようにそれ以前の停滞、とくに小田原事件以来の藝術的停滞にあたかも終止符を打つ出来栄えをみせて、つづく『卍』ともみごとに共鳴する点を私は重視したい。女主人公のナオミは、まさに小田原事件を産み出したと思える千代子夫人実妹の「おせい」と谷崎との情事の体験ぬきには造形できなかったろう。が、より大事なのはこの作が生ま身の「おせい」になんら支配も影響もされず、ほぼ完璧な創作と化していることだ。やがての「和解」を私人として進んで受け入れたい心理的な素地以上に、谷崎の中に藝術家としても小田原事件から脱却しようとする意欲が固められつつあった。ナオミは即「おせい」とばかりは言えず、いわば、もういい加減に谷崎は「おせい」から足を洗いたくなっていたのだ。『痴人の愛』が作者にも「会心」の作と思えたのは、このあとに「和解」さえ続けば、完全に足が洗えるぞという見通しが着いたというにほぼ等しいだろう。
 私は夙く (『谷崎潤一郎-〈源氏物語体験〉-』所収の「谷崎潤一郎論」一九七一筑摩書房)から、『痴人の愛』こそ谷崎潤一郎の「源氏物語」体験の有意味な第一歩と言ってきた。この作は、譲治という名の谷崎が、光源氏よろしく若紫を育てようとして育て損じた、一種のパロディになっている。男が少女を意のままに訓練し操縦しようと意図した類の作品は『痴人の愛』が決して最初ではないまでも作品として最も成功した最初のものはこれであり、成功の理由は作者が作品として十分モチーフを対象化した点にあるのだろう。そしてこの場合は、谷崎がかの「おせい」を対象化して眺めることに十分成功したとも言えるので、逆に言えば所詮「おせい」は谷崎にとって若紫たりえない、神であれ玩具であれ「女」でこそあっても「妻」たりえない存在であることを確認したのが、『痴人の愛』だと言えることにもなる。されば谷崎は、単にナオミを求めてやむことのできない己れをそこで確認したうえで、ナオミ的要素をも兼ね持ってなお「母」なるものにも代りうる現世の女性、願わくは同時に最愛の「妻」たる女性への探求を意識して志すしかなかった。そして谷崎にとって光源氏の葵上に当たる現夫人千代子にはすこぶる飽き足りなかったこと言うまでもない。「婦人ばかり」が「友達」でありえた谷崎の関西での暮しは、かくて一種の紫上を尋ね当てよう暮しにならざるをえなかった。
 ただ谷崎にとって紫上は、どこかにまたナオミでもありうる女人でなければおさまらない。『卍』を私が重視するのは、谷崎が出逢った当初の昭和二年から三年への根津夫人松子との、双方物珍らしい交際心理の隠しがたい反映を見るからである。もしナオミズムを欠いていたならば谷崎が根津松子にああも傾倒するわけがなかったものと私は信じている。事実『卍』のはじめの本文には「ナオミズムの女」とか「お前の理想はナオミのようなワ゛ンパイヤになることか ?」などの
、のちには削除された表現が目立ち、『痴人の愛』を『卍』の作因が確り受けていたことが察しられるが、これを言い換えれば両者の主題は、谷崎のいわゆる「神」か「玩具」かいずれかだという「女」であると同時に、「神と玩具との間」の即ち「妻」でもあったこと、かくて、『蓼喰ふ蟲』とも必然主題的につながる作品であること、が共に諒解できる。
 かくて、谷崎の生涯を後半の成熟へと折り返させた作品の上での折り目は、紛れもなく『痴人の愛』であったと私は断言する。
 以下私は、『痴人の愛』ないし佐藤との「和解」以降、昭和十年松子夫人との「結婚」に至る、作品の上では『源氏物語』現代語訳など昭和十一年発表の『猫と庄造と二人のをんな』に至るまでの谷崎潤一郎のすべてにわたって、一方に妹尾夫妻に集中した多くの書簡を紹介し公表するという目的を果しながら、一谷崎愛読者としての感想や見解を、思いのたけ、語り次いてみたい。
 

      二

「和解」によりはじめて小田原事件は決着したと私はみている。つまり、昭和五年の谷崎離婚を大正九、十年の小田原事件のいわば第二幕とはみないのである。たんに一連の離婚問題として捉えるなら、谷崎にとってそれは大正四年の結婚当初よりもはや将来必ず果すべき懸案だった。が、千代子夫人との離婚を一概に私生活の経緯とのみ眺めてしまうのでは、有効な谷崎論の視角は浮かび上がってこない。、、、、「和解」以前と以後では、離婚をめぐる状況も意義も大いに違っている。質的に違っている。小田原事件での谷崎には「おせい」が絡んでいた。彼女は「妻の実妹」であり、しかも千代子夫人は妹と夫谷崎との情交をかなりの期間まるで気づかなかった。佐藤の『この三つのもの』にしたがえば、当時ともに小田原ずまいだった多分北原白秋の妻や谷崎家に同居していた年寄が見かねて夫人に耳打ちしたようだ。佐藤春夫が千代子夫人に惹かれたのは彼女のそんな人の良さ、谷崎からすれば鈍感ないし「馬鹿」としかみえない人の良さ、にでもあった。やがて紹介する千代子夫人の幾つもの手紙は、必ずや谷崎と佐藤の「千代子」観に対して、読者なりの判定を促すに相違ない。同時に二人のすぐれた作家の「女」ないし「妻」についての感性や態度の違いをも雄弁に証ししてみせるに相違ない。「おせい」ぬきでも谷崎に離婚問題の起きる条件は十分備わっていたが、佐藤にすれば、絡んでいたのが「おせい」という千代子夫人の実の妹てなければ小田原事件は起きなかっただろう。佐藤の場合、無節操に、一途に「お千代」恋しという事件への捲きこまれ方ではなかった。谷崎は佐藤をいかにもよく

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識っていて、すこぶる巧みに彼を渦中に誘いこんだことが谷崎の『神と人との間』と佐藤の『この三つのもの』の両方から十分察しられる。しかも概して小田原事件では、谷崎と佐藤は互いに直面し合っての当事者でなかった。女二人、それも温和な姉と奔放な妹とを仲に、かつ傍に、置いての関わり方だった。谷崎や佐藤の文学.芸術に質的に直かに触れるものはまだ稀薄だった。言ってみれば小田原事件はまだ内輪同士の浮気と色恋沙汰に過ぎなかった。それすらも男同士の一種の心理的なたてひきだった・(平成五年春に至って佐藤の遺族から公表された対決する二人の手紙は、二人の気質や方法の差を証しして余りある、まt、に心証であった。)だから「絶交」も男同士、、和解」にしても男同士でいとも簡単にやってのけられた。佐藤の手紙もそうだし谷崎の手紙もそうで、どことなく男同士の調子のよさがある。当時佐藤の妻女、、、も谷崎の妻千代子もさも「和解」のお相伴にあずかるといった体ではないか。だが小田原事件は、結局谷崎と佐藤との文学に.絶交」後遺症となって影響した。私的な交際を絶つことで、それまで表立たなかった創作の上での競合、抗争が露骨になった。若い佐藤は積極的に挑み、先輩谷崎もむきになって応えた。文壇ジャーナリズムも読者もそれをとにかくも歓迎した。或いは煽った。そして評判は概してよわい佐藤に高く、つよい谷崎は分がわるかった。が、大事なのは、いずれにせよそんな争いが作家の才能を鼓舞昂揚するものではなか,かことだ。私的な.絶交Lを文学的な.和解」に導く必要をともに聡明な二人は誰よりも痛感していたはずだ。佐藤はこの時期に代表作をもたず、真の成熟の機を逸した。谷崎は『痴人の愛』で盛り返した。もはや「お千代」も、おせい」も二人の念頭からはみ出ていた。「和解」の時点ではいやおうなく谷崎と佐藤は二人の作家、芸術家として久々に対面したのである。小田原事件はこの時、男同士、双方からもはや積極

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的に解決させるべき全くの過ぎ去った私的な事件だった。関東大震災および谷崎の関西移住や佐藤の結婚を経て、生活環境も文壇事情も互いに激変していた。以上の理由から私はかねて小田原事件にそう重きを置いていない。谷崎の文学を肥やしたかという積極的な観点からすればこの事件は次元が低過ぎ、むしろ小田原事件は「佐藤春夫論」の大きな主題だと言った方がいい。作家論ふうに整理すれば、佐藤春夫にとって谷崎の存在如何を問うのと、谷崎潤一郎にとって佐藤の存在如何を問うのでは、視野も視点も大きく変ってくるし、私自身の関心は、そして本書の目的も、むろん後者の問いかけに大きく傾く。小田原事件をこの程度に評価すると、例えば佐藤の『佳しすぎる』(大正十二年)と谷崎の『神と人との間』(大正七一、三年)と、また『神と人との間』と佐藤の『この三つのもの』(大正+四、+五年)との比較評価も動かざるをえなくなる。いずれも事件そのままの私小説構成ではないが、それでも佐藤は谷崎の作に鋭く応酬して、あたかも真相はこうだったというふうにとくに『この三つのもの』では事実の再現に重きが置かれてある。事件の経過や葛藤がかなり信適性高く事実に即して書かれ、作の意図も、「あれは僕の三十の時の見方」とは断りながら、「あれはあの時の僕の見方として正しい」と佐藤は「和解」の手紙の中でなお主張している。小田原事件をわが「谷崎論」の上に重く見るなら佐藤のこの作は資料として貴重だろうが、さほどと思わぬ以上事実との距離よりは小説としての仕立て如何の方が私には問題に思え、文学的な良さ面白さの度合いもその一点でのみ測りたくなる。佐藤の『この三つのもの』と較べて、谷崎の『神と人との間』は作者自身生前の全集から敢て除外し

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たような、読書界にさほど好評をえていない小説だが、今改めていずれも「絶交」後遺症候群に属する作品とみた場合、『神と人との間』は佐藤の作の相当に単純なモチーフからは遥か越えた、谷崎ならではの図太い趣向が見え、私には十分面白い。傑作でも佳作でもないが、すこぶる次元の低い谷崎・佐藤の抗争は度外視し、ただ文学的な腕力からのみ見直せば、『神と人との間』は明らかに『この三つのもの』を読書の興趣と文学の構築との二点で凌駕している。中でも谷崎が自作の主人公を谷崎自身に擬した「添田」でなく、佐藤に擬した「穂積」を以てしている点に谷崎の辛辣な趣向がある。谷崎は事件当時の自分の行為や感情や分別については熟知している。その熟知しているところを佐藤の身になって「穂積」にあれこれ推量、判断させながら、そういう「穂積」の外と内とを徹頭徹尾弱者かっ敗者として書き尽すのだから、佐藤の『この三つのもの』が、終始、佐藤自身に擬した「赤木」の立場で書かれて、谷崎に擬した「北村」が現実世界に於てそうであったとおり、向う側に相手として書かれているのと較べると、谷崎作の方が佐藤作よりもう一層小説の仕立てとしては手がこんでいると言うしかない。谷崎に事件の経過を事実に即して"報告"する気はほとんど、、、なく、逆に事件を利用して現在の自分と佐藤とのあらゆる意味での力関係を辛辣に戯画化しようとして、、いる。佐藤春夫がこの"小説"を読んだ時、谷崎潤一郎の眼に相手として映じている自分ではなく、まるで佐藤なる自分自身に谷崎がなった気で、なった体で、しかも本気で谷崎の勝手気侭にこの自分らしき「穂積」に煩悩と苦悩と道化の限りを尽させているのが、堪らなく不快だったに違いない。不快に耐えかね対抗的に佐藤は、事件の真相はこうだったという、より"報告"的な『この三つのもの』を彼自、、、身を主軸にして書いた。いや、書かされた。"事実"に足をとられ、文学的な解釈や趣向や構成を制限

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された分だけ佐藤の作はすでに後れをとっている。"小説"としての面白さが薄弱になっている。谷崎の作ほどわるくふざけていないと言われるのが、ほめ言葉として精一杯、という出来で、実際に当時この画作は、佐藤作のひたむきな方に高い点が入ってしまった。谷崎潤一郎と佐藤春夫の交情の深さはそれ自体が近代文学史上の一課題たりうるもので、だからこそ簡単に、安易にうるわしい友情物語として見過ごすにはあまりに複雑で微妙な二人の関わりようが、いっそう厳しく今日も問いつめられねばならないだろう。例えば谷崎は佐藤を意識した大概の小説で、自分自身をメフィストフェレス風に書いているし、佐藤の方でも外向きには意識してファウスト役を現に演じなかったわけではない。そこには二人の親密な黙契があったとすら言える。だが、二人きりの内なる葛藤にあっても、はたしてこの役まわりどおりだったかを私は疑う。谷崎潤一郎に対し、少くも「絶交」後の数年、年少の佐藤春夫こそがファウストめいたメフィストフェレスをしんし演じたのではなかったか。佐藤が谷崎にあてた「和解」の手紙の、率直とも真蟄とも読める文体のかげにさえ、本質的に冷淡で攻撃的な加害者の口吻がひそんでいなくはない、(それは、平成五年公表、谷崎夫人千代に宛てた超長文の恋文にも読める。谷崎も必ず読むとみて書かれてある、)と私は読む。にもかかわらず、文学の実質、文学者の生涯と評価に関わるということからすれば、結局谷崎は佐藤に悪影響される点は寡く、逆に佐藤の方が決定的な影響下に「和解」以後、大船が傾くように一種の低落線へと沈んで行った気味がある。いわば佐藤は大変な損、文学的成熟への逸機を負うたのである。谷崎に認められた『田園の憂欝』(大正七年)から谷崎に当でつけた『律しすぎる』や『この三つのもの』に至る佐藤の文章は、大正十五年「和解」以後の作者によって、それほども、生涯、質的に乗り超えら

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れたとは思えない。一方、小田原事件以前から昭和五年最初の谷崎離婚成立までの、まず生活に限って言えば、谷崎はと、、くに大正八年ごろから佐藤春夫の存在に重要なブラス・マイナスの価値を認め、ほとんど天恵の直感に助けられながら彼自身一種の不振ないし危機に近かった人生の荒波を、佐藤をむしろ掛に利用するくらいにして乗りきったと見られる。、、谷崎にとって最初の妻との離婚は、あらゆる意味で必要なことだった。結果論をいうのでなく、それなくて谷崎には後半生の円熟や円寂は不可能だった。それについては私の既刊『谷崎潤一郎』(筑摩叢書)をも参照願いたい。が、その上に、大正十五年九月という「和解」の時点で、谷崎とすれば、佐藤、、春夫の過度に刺激的な介入からもはや私的にも文学的にも自由になっていい時機に到っていた。すでに谷崎は大正十二年の関東大震災以来関西の住人となり、新境地を、ぽぽ確実に見通かしていたからだ。『痴人の愛』の達成が、また『神と人との間』の過去(佐藤春夫)を突っぱねる気力が、それを雄弁に保証している。折もよし「和解」の手は「情婦」をつくった佐藤の方から差し出された。谷崎に何の否やがあろうわけもない。そして、以来数年を経過する間に、さながら恋い妻のかたちで佐藤春夫に対し、和田六郎という日くつきの千代子夫人を譲り渡すことで、谷崎潤一郎はまことあざやかに古く重苦しい重ね着を効果的に一度に脱ぎすてたと言える。讐えればみごとな併殺(ダブルプレイ)、いや三重殺だ。「和解」以後谷崎の文学がどんなめざましい達成を遂げて行ったか、今多弁を弄する必要はまったくない。

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むろん佐藤春夫は家庭の幸福と安定とを一時にえた。が、同時に多感な文学青年期をはっきり脱け出し、しかし脱け出た先は、彼の文学にとって決してそうも産出的な世界ではなかった、と私は思う。

拝啓炎暑之候尊堂益ヒ御清栄春慶賀候りぷれぱ険者我等三人化度合議を以て千代は潤一郎と離別致し春夫と結婚致す事と相成潤一郎娘鮎子は母と同居致す可く素より双方交際の儀は従前の通に就き右御諒承の上一層の御厚誼を賜度何れ相当仲人どもとりあへfすんち上をもってを立て御披露に可及候へ共下取敢以寸楮御通知申上條敬具昭和五年八月日谷崎潤一郎千代佐藤春夫様侍史尚小生は当分旅行致す可く不在中留守宅は春夫一家に托し族間この旨申し添へ候谷崎潤一郎

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今やあまりに有名なこの離婚挨拶は、谷崎にとって、また佐藤にとって、まさに揮身の努力の結果にすぐせ辿りついた「宿世の縁」の表明であった。私に、千代子夫人を加えたこの三人の私生活上の幸不幸を詮索したい気は微塵もない。しかしこの機を生かして谷崎と佐藤との文学的な充実が如何に深まりえたのみひらか、えなかったのか、には眼を瞠かずにおれない。

五昭和五年十月一日石川県片山津温泉方言研究御参考迄に裏面御一覧被下度候

谷崎潤一郎より妹尾健太郎様・御奥様あて

終端書毛筆

片山津矢田屋

潤一郎

六昭和五年十月三日石川県山代温泉北陸方面猪内払底早野助平失望之段

谷崎潤一郎より妹尾健太郎様・紀美子様あて

終端書毛筆

田代くらや

潤一郎

右の二通はささやかなものではあるが、離婚後の塵労を辛うじて北陸への一人旅に慰めた谷崎の、さすがに人恋しげな客愁がにじみ出ている。なお『全集』には十月二日づけ谷崎鮎子あて終端書一通が収録されているのが、父から娘への生まれてはじめての手紙だったろうか。

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、、そもそも手順をふんだ折衝があって最後的に谷崎夫妻離婚へのつめのため千代子夫人の兄小林倉三郎を含む関係者が岡本の谷崎宅に顔を揃えたのが昭和五年七月二十日、夫人が離婚そして再婚へと心を決めたのが同二十四日で、翌日の晩には聖心女子学院の二年生で数えて十五歳になっていた娘鮎子に対し事の成行がすべて告げられたという。鮎子はこの事件のとばっちりで学校から半ば退学を強いられた。谷崎は四十五歳、佐藤は三十九歳、そして千代子夫人が三十五歳だった。

七今朝出発、

昭和五年八月四日大阪商船会社那智刈谷崎潤一郎より妹尾健太郎様あて終端書ペン書水曜日(六日)夜かへります、そして又御一緒に海水浴へ行きたいものと存じます那智丸にて谷崎

四日

この八月四日は、もろもろの相談がすべてまとまり、谷崎、佐藤、千代子の三人が佐藤春夫の両親に対し一切を報告かたがた諒解をうべく和歌山県東牟婁郡下垂町へむけ大阪を船出した朝だった。さりげない端書ではあるが、妹尾夫婦との当時の親交を偲ばせるだけでなく、谷崎の心境の如きものも淡い哀感となって「御一緒に海水浴へ」の一句ににじみ出ている。まだ秘密だったはずの離婚の事情をも妹尾が或る程度承知している背景の窺える文面で、谷崎がこの件に触れた当時唯一の書簡として見過ごせない。紀州では、幸い万事が好都合に運んで、谷崎はかねての予定どおり佐藤家に一泊して岡本へ帰り、佐

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藤と千代子は{、らに二拍した。千代子が佐藤に、一切を任せた」のはこの時が「はじめて」だと『僕らの結婚』に佐藤自身わざわざ書いているのは、どうでもいいことながら、快いあと味である。.細君譲渡事件」はかくて八月十九日の新聞社会面のトップに大きく報道された。概して千代子夫人が非難の矢面に立たされ、谷崎は思わぬ同情を受けたりした。かつての小田原事件に較べてまるで逆様だった。谷崎の弟終平は群がり寄る新聞記者の撃退役に疲れ、谷崎は、乱菊物語』の連載中止に踏みきった。鮎子も聖心女子学院を事実上追放の処分に遭った。佐藤春夫もまた軽い脳出血の発作で一両日は顔も曲るほどだった。佐藤は千代子と郷里から先ず岡本へ戻ると鮎子も連れて八月十五日に谷崎家を出・途中養老へ三晩泊って十八日に東京小石川の自宅に帰ったが、下旬再び岡本の谷崎家に身を寄せた。発作はこの時或る晩の佐藤らしからぬ深酒が崇ったもので、幸い大事に至らなかったが当分の静養を必要とした。世間には発病を知られたくなかった。ほぼやむをえず谷崎は自邸を今は佐藤夫婦に明け渡し鮎子をも残してひとり北陸の旅に出ていたのである。こうした経緯は、今少し詳しく野村尚吾の、伝記』が叙しているので、参照されたい。むろん谷崎・佐藤という名だたる作家が演じてみせた.珍事」だったからこそ世間の反響も大きかった。これほどの事件をこれほど明快に合理的に解決しえた彼らの聡明さと誠実さも、当時は全く評価されなかった。ところで谷崎が片山津や田代温泉へ旅に出たのは佐藤が発作後の小康をえてからのことだが、『伝記、に、.北陸の旅行から帰り、佐藤夫妻も鮎子を連れて(再度紀州へ)帰省したが、それから潤一郎は思いだったように、十月中旬に吉野に出かけた」とあるのはどうだろうか。十月中旬には佐藤はまだ岡本海ヶ谷の谷崎私邸で療養中だったこと、東京から谷崎鮎子にあてた十月十七日づけ佐藤智恵子(の

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ち三好達治夫人、春夫の妹)の手紙に.春夫先生もあのお手紙から見ると大分にお元気らしくさぞ色んな無理を言っては婦長さんを困らせてゐることでせうと思びます」とあってはっきりする。谷崎はまたしても佐藤夫妻に留守宅をあずけて、吉野に旅立ったわけで、、離婚挨拶」の谷崎による追伸は笑止にも佐藤の発作のため言葉どおりに実現されつつあった。ところが・嬬屠にあてて、九月十二日とも読める左の一通が遺っているのだ。

八昭和五年(十)万十二日岡本自宅谷崎潤一郎より妹尾様あて封筒先毛筆昨日は失礼いたし候今日は生憎の御天気ですが奈良へ行くことにいたし候べつし御面倒ながら別番小切手御両替下され侯ハ?幸甚に御座候尚ヒ大丸へ御出での節昨日脚話しの健康ふんどしとやらを一つ御買求め願上條小生の事なればサイズは極小赤ん坊用にて結構に候呵ヒ(十)万十二日

谷崎潤一郎

妹尾様侍史(ママ)佐藤今日はますく快方禦心被下度候

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九月十二日だと谷崎の北陸行以前に当たっている。文面の「奈良」が奈良県下の吉野行を意味するのかどうか断定できないが、少くも谷崎は九月中旬に一度金策の上で奈良方面に足をむけ、そのあとで九月二十九日に石川県片山津温泉へ旅立ったという順序になる。ところが不幸にも封筒を紛失したこの手紙の「九月十二日」の「九」の字が、九と書きかけて途中気づいて「十」にしたかとも、ふと、読める。谷崎の「十」の筆順とは明らかに逆で「九」の筆順にしたがいながら、危く途中筆勢を殺して十らしく「月」の字へつづけてある。ここは「十月十二日」が正しいのであろう、それだと野村のいうとおり「十月中旬」(但し年譜の方には「下旬」とある)の吉野行に合致して、「奈良」はたぶん「吉野」を意味することになる。しかも今度は漠然と旅情にひたる旅立ちではなかった。この吉野で谷崎は、名作『吉野暮』(.中央公論」昭和六年一、二月号)を執筆しているのである。、芳、「+月+二日一塁一て追伸にいう「佐藤今日はますく快方御安心被下度候一は、佐藤智恵子の十月十七日づけ「大分にお元気らしくさぞ色んな無理を言っては」という手紙に呼応するものであろう。谷崎が「九」と書き出していたことは間違いないけれど、やはり「十月十二日」と取るべきではないか。佐藤春夫はいったいいつ脳出血を起こしたか、昭和三十九年五月佐藤の病残を悼みながら谷崎が朝日新聞に書いた『佐藤春夫のことなど』はなかなか貴重な文章で、昭和五年当時の佐藤発病にもかなり詳しく触れているのだが、何月何日のこととは「よくおぼえていない」のである。わずかに「いずれ佐藤夫婦は、私の娘をつれて、両親のいる紀州に帰り、私は一人になりたかったので、旅に出ることになっ

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ていた」としか読み取れない。しかし佐藤がさながら新婚旅行の体で鮎子ともども養老に三日を過ごして八月十八日に東京の自宅に帰り、下旬再び岡本の谷崎邸に戻って以後の「ある晩」の出来事だったことは確かだから、ここで.旅に出ることになっていた」とあるのが北陸行を意味するならば八月下旬以、降九月二十九日以前のこととなり、また「九月十二日」の「奈良」行きを意味するならば、それより以前のことに限られる。しかし.十月十二日」の、奈良」行き以前と取れる可能性が濃く、そうとすればこの場合は谷崎が岡本に居合わせたことからしても北陸の旅から帰って以後の出来事となる。この旅は「約一週間の予定で」(『伝記』」)新聞は「鳥打帽に十徳といふ身軽ないでたち」と報じたというから・実はその足で東京へも内々立ち廻っているにせよ十月十日以前には岡本へ帰っている。佐藤がその、直後に発作を起したのなら、そして二、三日で小康をえたのなら谷崎の.十月十二日」と佐藤智恵子の「十月十七日」とに脈絡は通じている、と言える。だが、思うに佐藤とすれば、一度は千代子鮎子ともども東京へ帰りながら再度岡本へ舞い戻ってきたのには・さすがにむろん銘々に残務も多かったのだろう、また鮎子の新学期が迫っていながら聖、小女子学院の乱暴な処置で今後の就学に窮していた折から、前記の谷崎の回想どおり佐藤らはひとまず鮎子ともどもに紀州の実家に身を寄せ、兼ねては内輪での結婚披露もするつもりだったらしい。それが岡本で何となく日を過ごすうち佐藤の.脳出血」でその予定も停頓した。酒を飲まない佐藤が、「どうしてそんなに飲めたか、不思議だが」神戸上筒井の,アカデミi」という.ハーで、.ブランデーを、一びんの半分くらい飲んだらしい」「顔がゆがんで、なにかいうことがわからない。ふだんは非常に、しゃれやこっけいなことをしゃべったが、このときは、ろれつのまわらないままに、こっけいなことをいってい

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て、気味がわるかった。妻はもう佐藤夫人になっているはずであったから、これは随分彼女を苦し佐藤らは岡本の谷崎邸に入って、いかに表向き谷崎は「当分旅行致す可く不在中留守宅は春夫一家に托」すとはいえ、佐藤らもそうのんびり岡本に根を下すのははためにも妃カ属という状勢だった。佐藤の思わぬ発病は八月下旬か九月上旬のこと、「顔の曲ったのは、一日か二日でなおったので、安心した」とあるように「九月±百一には「まずく快方一と見定めて予定どおり、多分後事を妹尾夫妻にも托して谷崎は先に手近な「奈良」へ行ったのかも知れない。再婚した千代子を「気の毒に思った」のもこの際の出立を動機づけていたかも知れない。だが厄介なご養毛筆の走り婁のっね三まずく快方一が「まずく快方一と轟めるから毒は扱いにくい。「まずく一だと+月+七日頃の「大分お元気一とちょうど呼応してこの手紙はまず「+早盲あものと読みたくなる。それに旧仮名づかいの手紙で「まずく一は無い道理で、正しくは「まづく一となる。すこしくどくな一たが、「+月一と定めて、いい。ところがやはり野村尚吾の『谷崎潤一郎風土と文学』(以下『風土と文学』と略)も、捨子夫人による『「吉野暮」遺聞』も、谷崎のこの秋の吉野山桜花壇逗留を「約一ケ月」=カ月Lと書いている。これは宿帳の昭和五年十月二十一日の欄に「兵庫県武庫郡本山村谷崎潤一郎四十五歳著述」とあるのが根拠になっているのだが、問題の.九月十二日」の手紙をかりに「←万十二日」と読み「奈良」を即ち「吉野」と読むと、およそ十日間の空白が出てしまうのだ。わら一見些細に過ぎないことをことごとしく言うと読者は嘘うかもしれないが、肉筆の、ことに毛筆の手

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紙には本書に限らず何としてもこういう煩わしい含みが生じやすく、今一例に挙げたような点を慎重に考慮し確認しながら以下順々に手紙を紹介するのだ、ということを断っておくのである。、、問題はまだある。と言うか、「十日」間の空白は実は簡単に埋められて、やはり「九月」より「十月十二日」の方が正しいと思われる今一通の手紙があるのだ。もともと『吉野暮』は決して長大作ではない。が、かりに宿帳や「年譜」どおり「十月下旬」に吉野に出かけて「十一月の終り頃」まで籠ってみても、遅筆の谷崎に三十日余りで「脱稿」できたものかどうか。辛うじて小康をえた佐藤ら夫婦親子三人が思わぬ春夫静養のために那智丸で紀伊へ発ったのが十一月二十八日のことであり、ともに律儀な谷崎と佐藤がここで顔も合わさなかったわけがなく、とくに谷崎にとって鮎子との別れはそれなりに気がかりだったから、少くも二十八日より何日か以前には吉野滞在をきりあげ岡本へ帰っていたと考えられる。しかも谷崎はこの三十余日の間にも少くも一度二度は所用で岡本の自邸へ帰っていたし、執筆の間に奥吉野へも二、三拍の足を伸ばしているのだ。くだん中千本の桜花壇で野村や松子夫人が見せられた件の宿帳は、谷崎が寝入りの二日前に志賀直哉の逗留をも記録していたので、併せて旅館ではとくに貴重視していたのではないか。ひょっとして十月二十一日以前にも谷崎は、「宿帳」を書いては所用で岡本へ帰りしていたかもしれず、また、居心地のいい中千本の桜花壇が見つかるまでに吉野のほかの宿に何軒か泊り歩いていたかもしれない。谷崎の吉野滞在、、期間は存外に長く、「十月十二日」に「奈良」へ行ったのが、即ち「吉野」籠りの最初というのが結局は真相に近いのではなかろうか、次に紹介する終端書一通の文面からもそれがはっきり窺える。思わず「九」「十」万十二日の手紙一通に拘泥ってしまったが、どうやら避妊具と覚しき「健康ふん

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とし」の話など前後の事情はよく分からぬと言っておくが、谷崎の男の部分を垣間見る心地がするし、それにまた谷崎の気力回復の兆がこの手紙の躍動する筆勢にありあり見えて頼もしい。佐藤の病状推移にも筆が及んでいて、安堵感が言外によくあらわれている。

九昭和五年十月二十二日奈良県吉野中千本谷崎潤一郎より妹尾笹様・きみ子様あて御ハガキ有難う存します観艦式までに一寸かへりますそのせつ方々申述ます

絵端書毛筆

潤一郎

(裏面に)たいへん静かでおちついた気分になれます仕事が出来さうです。

十昭和五年十月二+日岡本(自宅)潤より律様あて封書毛筆先夜は失礼いたしました留守中御いで下すったさうですが今度は御目にか、らずに山へ参ります十日頃に帰って参ります実印を終平に預けてありましたところ本日小生代理として大阪まで参りましたので小切手に印を捺^ママ)いたださた(す事が出来ません、終早帰宅次第後刻小切手御届けいたしますから乍勝手ながら御金だけ先へ硬度金額は七拾円にて結構です

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毎度ながら何分御願ひいたします十月世日

健君

これで見ても谷崎は順を厭わず吉野山と岡本とを往来したらしく『全集』所収の次弟精二あて、十月廿三日づけ吉野山中千本を見下ろす旅館桜花壇からの書簡の冒頭に、、真後小生当分此処之山中に立籠り仕事をしてみるので、手紙もここへ廻送されたやうな訳にて、鮎子に相談する機会を得ない。二十五いかん六日頃一寸帰ってよくきいてみようと思ぶが、」とあるように、桜花壇の宿帳如何にかかわらず、谷崎の山籠りはもうかなりの時日を経ているとみるのが順当なのである。清二との往来は鮎子の東京転校に関してで、谷崎が.しかし学校の好意はまことにありがたいけれども・実ハ佐藤の方の家庭の都合で今すぐハ東京へ出られない事情があるのだ」と、佐藤発病のことをこの弟にすら伏せていたことが分かる。結局、鮎子の単身上京や転校は、当人も.イヤ」がり、谷崎としても「僕は東京はキラヒで、第一関西でなければ仕事をする気になれない」と一一.一口いきるに及んで、翌春の新学年まで断念されたというのがその後の成行だった。鮎子は結局この年度休学してしまうのである。

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十一昭和五年+一月二日夜奈良県柏木潤一郎より妹尾健様あて絵端書とうとう奥吉野まで行って来ました、今夜は柏木泊、昨夜は北山泊

毛筆

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つくされず自画車の危険は風景の絶佳と共に言語に不破尽、四時間と云ふもの生きた、心地なし十一月二日夜(裏面に)フォードにて又越ゆべしとおもひきや命なりけり北山の道

潤一郎

十二昭和五年十一月四日奈良県吉野中千本欄より妹尾健様あて終端書毛筆いもや!昨夜無事サクラ花壇へ帰着、吉野川上流に又もう一つ妹山背山がありました土地の人は此方が元祖だと威張ってみました四日

谷崎が十一月の何日まで吉野に逗留していたか、『伝記』に一一一.口うように「十一月の終りごろまで籠って、『吉野暮』を書き上げた」かはっきりしない。いっそ十月三十日に妹尾にあてた「十日頃に帰って参ります」とあるのに目をとめていい気もする。十月末に一度岡本へ帰っているのは、精ニベ返事を書いたあと佐藤夫妻と鮎子転校問題の結論を出すためだったし、もう一度吉野へ戻ったのは、「とうとう奥吉野まで」行って『吉野暮』の仕上げに最後の現地踏査を行うためだった。私は、『吉野暮』の脱稿完成は吉野滞在中ではなく、岡本へ帰って十一月二十八日に佐藤らを紀州へ送り出したあと、なお十二月に十分食いこんでいたかと推測する。野村も、『風土と文学』では『十二月にかけて」と書いている。この点は暫くのちに今一度触れる。

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それにしても奥吉野、上北山村河合の渓谷を写した終端書の上に、谷崎の数多い毛筆中ひときわ端正な佳い字で書かれた「フォードにて又越ゆべしとおもひきや命なりけり北山の道」の一首は、実に見過まつのやごし難い述懐である。『松廼今集』にも洩れ落ちた歌だが、有名な西行法師の「年たけて又こゆべしとおもひきや命なりけりさ夜の中山」の感慨を大事に踏まえているのはむろん、「又越ゆべしと」の一句、、には吉野探訪が昭和五年秋のこの一度の機会にとどまらなかった事実をきっちり表わしているし、「命なりけり」には『吉野暮』生成の根源的な或る覚悟が表白されているとみなければなるまい。『吉野暮』の、「その一目天王」の書き出しに、「私が大和の吉野の奥に遊んだのは、既に二十年程まへ、明治の末か大正の初め頃のこと」とある。一つには創作上の前置きであるが、谷崎自身にもこの昭和五年秋の吉野行は少くも四度めであった。谷崎が千代子夫人と離婚直後の第一作に敢て『乱菊物語』を中断しても『吉野暮』を書き、執筆の場所を吉野山にえらんだには、幾重にも深い動機や理由の隠れていることを私は想わずにはおれない。谷崎の初夏の吉野行は大正十一年の春、小田原事件で佐藤春夫と絶交の翌年だった。『佐藤春夫に与へて過去半生を語る書』(昭和六年)に谷崎は、「君との葛藤があってからは、僕の方から彼女(千代ほんもく子夫人)の心を迎へるやうにしたこともあり、小田原から横浜の本牧へ移った最初の半箇年程」は、今迄にない「睦ましい夫婦だった」と書いている。「そして大正十一年の春には、僕は彼女と娘とを伴って両親の白骨を高野山へ納めがてら吉野や京洛の地に遊び、その翌年の春にも、娘の学校を休ませてまで京都から奈良へ連れて行った。」「彼女に関する思ひ出のうちで、僕には不思議にもあの旅行中の出来事が一番なつかしい」とも書いている。「それと云ふのが、僕が彼女を京都や奈良へ連れて行ったの

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は、彼女がいかにもああ云ふ閑静な土地にふさはしい人柄であり、佳びしい古美術や古建築を背景にして彼女と云ぶものを眺める時、僕の心も次第に彼女に惹かれるやうになるであらうと思ったからだった。」とみここの文章が書かれた時、千代子はすでに佐藤夫人であり谷崎は古川下未子と二度めの結婚後半年経っていたことは十分記憶すべきだが、この文中の旅に出ながら、またその旅をなつかしく思い出しながら、うら谷崎はかつての妻が決してあの「おせい」のような魅力をもちえなかったのを憾みに思うというのではなかった。それよりも、あの妻がひょっとして『吉野暮』に登場する「母」なる面影の人とも重なり合うようなそんな「妻」たりえたかもしれず、しかし結局はそうならなかった、なってくれなかった、という物悲しい気もちを抱いていたのではなかろうか。今は佐藤夫人の千代子が『吉野暮』に及ぼしたかもしれない影響を、私はこれ以上強調する気はないけれど、たとえ幻滅に終ったにせよ一時は前妻千代子に寄せた夢の如きものが、この小説を吉野の山中で谷崎に書かせる或る催しになっていたことも疑えないのである。しかもこの一度二度だけではない、谷崎は大正十五年春にも吉野に遊び、昭和四年秋にはまたも妻子を連れ、識り合ってまもない妹尾健太郎・君子夫妻も一緒に、吉野に出かけている。『吉野暮』は百十枚の小篇でしかない。しかし谷崎の小説への取り組みは、例えば「理想を云へば、予め利休を書く目的で茶の湯を習ふのでなしに、茶の湯を習ってゐるうちに利休を主題にした物語が自ら構想されて来る、と、云ふやうであって欲しい」というもので、「仕事と云ぶものを念頭に置かない悠々たる時間が、真の準備なのだ」と『私の貧乏物語』(昭和十年)に書いている。だから、「多少の無理を覚悟の上で、と云ぶのは、借金が殖えたり支払びが滞ったりするぐらゐは我慢をして、頑張れるだけ頑張ってみる。『吉野暮』の時は、あれは早くから腹案らしいものがや?漠然と出来かけてゐたが、それでもそれから足かけ三年と云ぶものは頑張り通したLとも書いている。くf「私は最初あのテーマを『葛の葉』と云ふ題で書きかけてみたが、吉野の秋を背景に取り入れ、国柄村の紙すき場の娘を使ふことが効果的であることに気が付いて、五十校まで書いてから稿を捨てた。さうくずして、その年の秋の来るのを待って、吉野山から国柄村に遊んだ」のが、妻子および妹尾夫婦と連れ立って出かけた昭和四年秋のことである。もうはっきり、花の吉野の春ならぬ「秋」をめがけて出かけているところに作品構想の熟してきているのが察しられる。すくないったい、五十校もの(谷崎としては寡からぬ)前編を「捨て」てまで「国柄村」の紙すきに着眼させたきっかけは何だったろう。「足かけ三年」といえば、『吉野暮』の腹案は昭和三年に「や、漠然と出来かけてゐた」ことになり、一方谷崎が妹尾夫妻と交際を始めたのはほぼ実にこの年の夏から秋にかけてであった。根津捨子とはさらに一年前の昭和二年から交際があった。私は、『葛の葉』の「五十校」が途中で放棄されたのは、妹尾との親交が深まる中で、何らか有効な示唆か助言があってではないかと疑っている。さればこそ気むずかしい谷崎が妻子のみならず妹尾夫婦をも伴う取材の旅にはるばる「国柄」まで出向いたに違いなく、そこへも摂津捨子の存在が影さしていたと私は見たい。妹尾健太郎は『伝記』が証言するように絵ごころもある「芸術家」志望の青年だったがそのことはむしろ、本物のかっ気むずかしい芸術家谷崎に近づくにはごく不利な条件だったはずだ。事実後年には不出来な谷崎塑像を造って手ひどく不興を蒙っだともいうが、少くとも当初その不利が克服できたのは、

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たしかに妹尾の妻君子の人柄だった。夙くに触れた昭和三十三年の手紙で、谷崎は今は亡き妹尾君子のつが面白い話を小説に仕立てた『お栂』という題の旧稿を発見した「驚喜」を筆にしていたが、君子や健太郎との交際はどこかそういう面で谷崎をイシスパィァしたらしい。妹尾は大阪の糸商の一人息子に生まれ、父の早死で祖父に育てられたが家業をっがずにさる貿易商社に入社し、語学の才を生かして重宝されたという。かなり年かさな君子夫人との出違いがあって退職、結婚するとやがて昭和二年二十四歳の若さで私学を経営したともいう。ともかく育ちのいい家産にも恵まれた「半芸術家」気どりの青年だったらしい。妹尾夫妻の出身について私はとくに詳しく調べていないが、大阪の青年「津村」の像に重なって、大阪の人妹尾の存在が透かし見られる『吉野暮』の趣は、執筆事情から十分推察できる。谷崎は昭和七年なかんづく出版の『盲目物語』「あとがき」に、「就中『吉野禽』を書くに就いては、大阪の妹尾健太郎氏、大和かみいちすこぷ上布の樋口氏、飯見村の尾上氏、吉野桜花壇の辰巳比等の好意と配慮とを煩はしたところが頗る多い」と書いた。が、妹尾以外の人からは一々具体的な助力をえている。まさか金策の面で助けられたことを言ってはいまい、とすると、妹尾らはよほど創作上大事な「役」どころを引受けたかと想うよりない。昭和四年秋の吉野へは、はっきり言って妹尾夫妻が谷崎を案内したのではないか。そして、この時わざわざ谷崎が妻子を伴った意味も大事に取っていいと私は想う。旧稿の題が『葛の葉』だった趣旨は『吉野暮』の世界に適切に引継がれているが、狙いは当初からまさしく「母恋い」だったとよく分かる。もしも妻の千代子に今なお「おせい」的な変貌を望んでいたのなら決して吉野へは伴なわなかったろう。大正十一、二年の妻子水入らずの「なつかしい」旅を忘れていない谷崎が、昭和四年の吉野へ千代

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子夫人を同行させたのは、和田六郎とのあわや「結婚」こそ流産させたものの、佐藤春夫多年の因縁も再燃していてもう離婚は必至の状況下に、それでもなお一纏の望みをっないで「妻」の内なる「母」の面影が見つかるか、この「妻」に「母」の意味を托しうるかどうかを、再度も再度、確かめたかったのであろう。だが不幸にもそれは千代子との離婚を決定的に谷崎に覚悟させる旅ともなったらしい。もはやたんなる『葛の葉』ではならず、谷崎は『吉野暮』の中に、千代子夫人に望んでも到底果せない新たな「妻」の像、「母」なるものの面影を本質的に確り備えた「妻」の姿を書く方へと、作の重心を置き直した。ただの「母恋い」から「妻問い」へと重、心を移した。まさしくそれは『乱菊物語』中断直前の「妻」問いの主題を承けついで確証し強調して行く移動でもあった。『乱菊物語』中断は一つには離婚騒ぎも影響したろうが、文学的にはもはや『吉野暮』を早く書く以外に谷崎自身突き進む道がなかったのだ。『痴人の愛』『蓼喰ふ轟』以来の「女」と「妻」との対立という主題が、ここへ来て「妻」なる「母」ないし「母」なる「妻」という主題へ動いてきたのである。谷崎には、千代子夫人がだめなら、別に思い当たる特定の「妻」のイメージがはや用意されていた。昭和三年にも遡るかと読んだ、妹尾君子あて谷崎の一等古い手紙では、すでに摂津清太郎夫人捨子と谷崎とのなみなみでない親交に筆が及んでいた。二人は昭和二年三月芥川龍之介を介しての「出違い」以来、つまり即日即刻の「チークダンス」や芝居見物以来、とくに『蓼喰ふ轟』を連載の頃からは挿絵を描いた小出檜重も介して、急速に親しくなり、谷崎家での地唄舞の会やダンス。パーティーに捨子姉妹がしばしば顔を見せていたという。妹尾の「子供さん」の転校問題ばかりでなく、谷崎のいわゆる「おっりきな妹」すゑ子を一時根律家に奉公の体で預けるなど、いわゆる通り一遍のっきあいをずんと超え

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ていた。摂津家の内に捨子夫人のそういうつきあいを黙認する家庭の事情があり、それに彼女自身も芥川龍之介に紹介されるべく大阪「南地のお茶屋」へ単身、「お酒落もそこそこに、胸をときめかせて車を走らせる」ふうの積極的な今めかしい女性だったことも、谷崎との急速な親近に或る種のものを言ったことだろう。名だたる豪家の若奥様とはいえ根律家そのものは徐々に微禄の傾向にあるに加えて、夫清太郎と捨子夫人の末妹信子との間には道ならぬ関係も生じていると知るにつけて、谷崎の方からも自然摂津夫人には近づきやすい心理的条件は熟していたのである。『吉野暮』執筆当時、根津夫人捨子に対する私的かつ文学的欲望は我々の想像以上にすでに深く静かに谷崎の創作に影響していたと私は信じて疑わない。それでもなお昭和四年五月二日づけ東京の佐藤春夫にあてた手紙に、谷崎は「覆水辺盆」と出して「この春は庭におりたち妻子らと茶摘みにくらす我にもある哉」「をかもとの宿は住みよしあしや潟海したたを見つつも年をへにけり」という二百の歌を認めている。「覆水」とは何を指すか。「返盆」とは「返る」なのか「返す」なのか。いずれにせよ「返らず」では、ない。二着の歌は家庭平和を詠んだかに見、、、、、、えるが、「住みよし」なのか「あしや潟」なのかは微妙で、「海を見つつも」という心をよそにした述懐ぶりも気になる。第一、一度は冷えきった夫婦仲を指して「覆水」と言うには、そもそも大正四年の結婚以来まるで温かくはなかった夫婦ではあるし、(平成五年に新公表の)当時佐藤春夫宛書簡によっても、昭和四年の初春二月末には千代子夫人と和田六郎との同棲ないし結婚が予定の事実としてなお伝達されていたような微妙な時だった。『蓼喰ふ轟』がもうすぐ脱稿という時点での「覆水辺盆」の含蓄を読めというのなら、どうしてもこれは和田事件が急激にご破産にされた上で、あの小田原事件で一度

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は覆えされた「細君譲渡」という「水」を、再度盆へ返すぞという意向表明と読まざるをえない。一見知やかな歌を添えたのは、それが小田原事件の時のような「おせい」は抜きであるということかもしれないが、「いづれ拝顔の節方々」という簡単な文面には、実に沢山の思いが籠められてあると私は読む。「おせい」に代る根津夫人捨子の存在はもはもはやこの時点で往時の「おせい」以上に決定的に無視できない、新鮮で充実した魅力を谷崎の日常に注ぎこんでいたのである。いわゆる折り返し以後の谷崎文学にどんなに捨子夫人の、というより捨子重子信子ら森田三姉妹の存在が大きかったか、その意義については昭和五十年に『夢の浮橋』を論じた私の「谷崎の『源氏物語』体験」がおそらくほぼ剰すことなく説いているので、ここには繰返さない。が、『夢の浮橋』(昭和三十四年作)との関連でとりわけ重要な谷崎の小説が『吉野暮』であり、それ以上に昭和七年の『藍刈』であり、また昭和二十四、五年の『少将滋幹の母』であり、遠く遡っては大正八年の『母を恋ふる記』であること、言うまでもない。むろん単に「母」恋いの一点からのみ追及さるべき単純な作品ばかりではないが、現実の生みの母をイγヤスト一越えて理想の「母」を恋い慕いつつ母子相愛(時に、父子一体)の近親愛を実現して行く谷崎独特の玲璃たる文学系列には相違ない。『吉野暮』では、根の部分に「葛の葉」伝説による母と子との相愛が置かれながら、より大事に謡曲くず「二人静」を配して、「母」の面影を加佐という妻たるべき国柄の少女に夢うつつに重ねあげて行く。そこに最大の動機が秘められている。これは、生まれながらに生母桐壺を喪って育った光源氏が、そのかたしろ面影を義母の藤壷に求めつつ現実には藤壷の形代である若紫を現世理想の最愛の「妻」に迎えたのと全

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く想を一にしている。但し『吉野暮』では津村と加佐の婚約が成ったところで終っているのが、翌年の『藍刈』になり、また後年の『夢の浮橋』に至っては手のこんだ趣向のもとに、文字どおりの母子相愛と父子一体を成就する。谷崎が千代子夫人との離婚後第一作に『吉野禽』のような作を成したという不思議な面白さは、私が谷崎文学に惹かれた最大の理由と言える。この小説を知らなかったら自分がこうまで谷崎文学に入って行けたかどうか分からない。『吉野暮』を読んでから、今一度前作の『乱菊物語』に眼を戻してみると、先にも言うようにこの「大衆小説」には、もう『吉野暮』のひたむきな「母恋い」「妻問い」に至る作者の熱情が籠められているのに気づくだろう。ほかでもない『乱菊物語』もまた光源氏の物語同様に、母を喪った子の「母」に似た「妻」を求める物語として中途で終っているのである。残念にも中断されたこの作の一種悲痛な読後感は、孤独な赤松の大守がやっと手に入れた「母」のような美女「胡蝶」を人に奪われてしまう底知れ、、、そうげきない喪失感に根ざしている。谷崎は、その部分を千代子夫人との離婚表明という忽劇の間に書きあげていたことをなぜ評家ははっきり指摘してこなかったのか、あの概して不評に見舞われた離婚騒ぎの中で、谷崎が幾分同情を買ったのには連載を中止した『乱菊物語』終嬉部の読後感が響いてはいなかったか。そして、それは「夫」谷崎の「妻」を奪われた傷心の表現でもあったろうが、それ以上に「作家」谷崎の際どいところで企んでみせた読者への、心憎いサービスでなかったとも言えない。もうこの時、谷崎は『吉野暮』の執筆に十分な自信と意欲とを持っていた。書かずにおれなかった。北陸への旅立ちは、逸る思いを静めるための一種の深呼吸であったろう。だが、それだけの旅でも、実はなかったのである。その点はやがて触れる。

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岡本海ヶ谷の谷崎邸に逗留のまま脳出血の予後静養につとめていた佐藤春夫の病状は、次第に快方に向いはしたものの、「完全に回復するのに、一、二年かかった。その間は書くものも、全然間が抜けていたし、佐藤はどうしてあんなにボケたのかと、いうものもあった。回復するにしたがって、また才気候発になり、機鋒の鋭さももどったが、でも、もう若いときのような、おそろしい鋭さはなかった」と谷崎は後年『佐藤春夫のことなど』で率直に書いている。「この時のことは、佐藤の文学によほど影響していると思う。私としては、若いときのもののほうがなつかしいし、私が影響を受けたのも、それ以前の佐藤の文学にあるという気がする」とも書いている。佐藤が残直後の手記である。谷崎は「この時」以後の佐藤の文学を沈滞ないし鈍化とみており、全く同感であるが、その理由を谷崎が「この時のこと」即ち脳出血という生理的異変に見ているらしいのはいわば谷崎の慎んだ物言いなのであって、その実、谷崎は私同様、「発病」がではなく千代子との「結婚」が佐藤を鈍らせたものとはっきり見抜いていた気がする。今あげた谷崎の感想は昭和三十九年五月六日、心筋梗塞による佐藤春夫の死の直後に書かれ、谷崎自身は翌四十年七月三十日に腎不全から心不全を併発して、七十九歳で死んでいる。谷崎が佐藤春夫との関わりを表立って書いたのは、昭和六年後半に『佐藤春夫に与へて過去半生を語る書』を書いて以来で、もう一篇、やはり佐藤病残直後に毎日新聞に『佐藤春夫と芥川龍之介』という回想を書いている。これ

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は、佐藤と芥川とを一対の好敵手と見て押し並べつつ佐藤との往時の親交を偲ぶもので、やや谷崎の身構えに面白いものが感じられる。それは『佐藤春夫のことなど』でも同じで、つまり親友眼前の逝去にあまり動じていないどころか、言ってみればあの昭和五年の離婚再婚およびそれ以後の佐藤春夫は、もはや自分には何者でもなかったということだけが言われている気味なのである。スペイγいぬ谷崎は佐藤春夫を誰よりも早く、『田園の憂欝』より早く大正六年『西班牙犬の家』の頃から認めていたと言う。谷崎の眼に、当時「佐藤と芥川の競争意識は、かなり激しかった」と見えており、「芥川の方では、佐藤を尊敬もし、おそれてもいた」としている。これは或る程度「芥川」を「谷崎」と置きかえても通用することで、「世間では、よく二人を比較して芥川を上位に置くが、私は必ずしもそうとは思わない」というのも、「芥川」を「谷崎」に置きかえると「和解」以前の谷崎と佐藤の文壇評価に似通ってくる。事実、その頃までに限って言えば、「私と佐藤の関係では、私の方が先輩なので、儀礼的にも兄貴扱いしてくれた。しかし、文学上の影響という点では逆に私の方が影響されたところが多い」と谷崎が述懐するのも決してただの謙辞ではなかった。だが、「私の最初の妻が佐藤と結婚」してからは、あたかもその直後の「病気を契機」とするかのように谷崎の眼に佐藤春夫の「おそろしい鋭さ」は失せてしまった。そして「おたがいに係累が出来、だんだんと足が遠のいた。(中略)夫婦関係もよくいって、たいへんけっこうだと思い、私はあまり出入りしないようにしていた。」「そのうち私が再び家庭を持つと、全然疎遠になったわけではないけれども、お互い世間並みの遠慮も持つようになり、昔のようにひんぱんに行き来することはなくなった。」「佐藤がまた昔のように交際したい様子をみせたが、これはむしろ、私の方から遠慮していた」と谷崎

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はほとんど冷淡なくらいあっさりと書く。むろん「特殊な事件はあったが、そこは文人同士のこととて、こだわりはなかった」ことは十分信じられるし、のちに「娘が佐藤の甥の竹田に嫁ぐということもあり、交際は続いた」のだ。問題はそんな私生活面の親密とか疎遠とかにはなく、どうみても昭和五年以後の、いやすでに大正十五年の、和解L以後の佐藤春夫が谷崎潤一郎にとって、もはや文学上、刺激的な存在で全くなくなっていたという事実が重い。繰返し言うが谷崎の千代子夫人離別という事件は、妻と佐藤と両方を一時に身辺から遠ざけた、古く重い重ね着を身軽に一度に脱ぎ捨てたという事件であったのだ。もしあの「和解」がなければ、佐藤春夫は谷崎潤一郎に対して、少くともその二人きりの世界では世間が見るのとは正反対に、かなり剣戟のつよいメフィストフェレス役を執勘にやめなかっただろう。「和解」後にも谷崎は佐藤をどこかで断ち落す必要を感じつつ、まさしく「覆水を盆に返す」式にあざやかに二枚いや和田六郎も含めて三枚の古着を一時に脱ぎ捨てたのだ。『佐藤春夫に与へて過去半生を語る書』の如きは、佐藤春夫との「過去」を全くの「過去完了」と化すための、谷崎らしい真の離別状であったと私は読むのである。

十三
昭和五年+一旦千八日大阪商船会社那智丸鮎子より妹尾健太郎様.小母様あて先程はありがたうございました。お菓子早速頂きました。波は大へん静で船はちっともゆれません。今和歌浦へ着きました。はしけで人がたくさん乗込みました。

終端書ペン書

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母がよろしく申しました。なち丸にて

鮎子

脳出血の予後静養のため、鮎子の転校を断念して佐藤夫妻と娘鮎子とが岡本の谷崎家をあとに紀州の佐藤両親のもとへ出発当日の終端書である。

十四昭和五年十一月二+九日和歌山県東牟婁郡下垂町佐藤春夫・千代より妹尾健太郎様あて封書毛筆(ママ)先ほどハおなつしいおたよりを頂きほんたうにうれしく拝見いたしました。里人様誉びにおくまますく御きげん蓑ろしくゐらっしやい手御様子価より嘉めでたく存じあげて居ります。岡本で八一方ならぬ御せは様にあづかりまして御礼の言葉も御ざいません(ママ〕一たたく感謝いだして居ります。遠くへまゐりましたあ荷差念理事ばかりです、皆に可愛がって頂いては居りますが何と云ってもおなじみがうすう御ざいますのでやっぱり岡本のみ恋しくて困ります、かべる家もないくせにして、いまからホームシックとやら云ふ病にとりつかれてゐる始末です早く春になって皆様に御目にか?らせて頂きたいものとそれのみたのしみにいたして居ります、きっとくおこし下さいまし御待ち申上層呈す。岡本の先生はますく御せは信く妻御礼を申上ます。何卒よろしく御ねがひ里芋、おひまの折ハどうぞ御ふみ下さいまし、ひるまは別にさびしくもありませんが夜ハいくじなしの私は泣きさうです。

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末ながら御主人様へくれぐもよろしく申上て頂きます。下手な手紙でお恥しう存じますがおもひきって書きました、御判読ねがひます。千代妹尾御奥様御もとに封書は表裏とも春夫の自筆、本文は千代子夫人の自筆である。以下、単に「千里町」よりと書く。十五昭和五年+一月三十日下垂町佐藤春夫.千代より妹尾健太郎様.御奥様あて封筒柔毛筆拝啓一昨日出帆之際ハ御揃にて御見送下され有難く存上升御かけ様にて海上極めて平和に御恵与のたじながらなが御土産を頂き乍ら翌早朝ニハ勝浦へ入港八時半頃ニハ一同無事当地へ到着致し族間年他事御安心下たくきんちされ度先ハ右御礼を兼ね御殿せまで尚当地ハやハり錦地より余程温かですからお正月頃には谷崎氏と御同道是非御来遊御待申上條佐藤春夫千代妹尾健太郎様御奥様

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佐藤春夫権種の帰郷癖があり、事あるつど両親のいる新宮の重町へ糧て幽居一した佳藤の父豊太郎には谷崎も知己の思いを持って親しんでいたが、鰍な抱擁力があったものか・佐藤の帰巣本能の如きものも佐藤文学の研究者によく見極めてもらいたい。十六昭和五年+二月五日記下垂町佐藤春夫より妹尾健太郎様・貴美子様あて端書ペン書お手紙拝見いたしました益ヒ街きげんの中大賀に存します一昨日野雄一羽お送り申上ましたあれはローストにして御上り下士、いそれが一番よろしいかと存じますハッ白にが養子に行ったさうですがあれは宗く犬情にあついからいい養子になるであらう意って居り{イチ濁世藍なって居ります事やらもしさうならばどうぞよろしく御願申上ます。十七昭和五年+二月五日紀伊下男佐藤様方谷崎鮎子より妹尾君子様あて封書毛筆小母様お端書ありがたうございました、ずっと無事に暮して居りますから御安心下さいませ(ママ〕毎日朝から蜜柑をたべて居ります、お天気が良いと毎日二時三時頃裏の畑へ行っておいしそうなのをとってたべて居ります、こちらは随分あったかです今日は朝から少し寒いと思って居りましたら今雨が降って参りました、こちらは思ったよりにぎやかです、三四日前此所の小学校に大根の品評会がありました、おぢいさんとおばあさんがつれてゐつて下さ

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いました。私の足なんかも出したら一等になるだらうと思びました、それではお正月には是ひお出で下さいませ、お待ち申して居ります、小父様美津子さんにどうぞよろしくおつたへ下さい、乱筆にて、十二月五日小母様

鮎子

十八昭和五年+二月二+一日下里町高芝懸泉堂裡佐藤春夫より妹尾縫太郎様あて封書毛筆つ1びらか(ママ〕拝啓犬属一同の近況ヲ詳ニセラレタル犬物語面白ク貴読仕リ候トン吉君はまことに気の毒に存じ■ますトン吉君トン死の悲報ハ既二一昨日タケより鮎子への手紙ニモ記サレアリ早速一掬の熱涙をソなさるベソイダトコロデシタ何シロ奇犬デシタカラ奇生涯モ亦マヌガレ得ナイト御あきらめ被成可く候本日ハ少々曇天ですが当地ハ毎日好晴デも一っ非常二温カデス鯨モ本年ハ近年トシテハ珍ラシク今マデニ頭も捕獲シマシタニ頭トモ大ヘン美味ナ奴デシタが正月十日頃御光来とのお話ですかその頃に捕れるとよろしいのですが令夫人から度々御手紙を頂きお返事差上へきのところお千代この程少し腕が痛いとやらでブラくして居りますの夷礼致して居昇●‡右の趣何卒夫人へよろしく御鶴声願上ます小出画伯御入院の田谷崎氏より伝聞致し候自然御会ひの節は御見舞の言葉脚伝へ下さいませ妹尾健太郎様佐藤春夫

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*谷崎家の女中**小出檎重。『蓼喰ふ轟』

の挿絵を描いた。

摂津家と親しかった。
 
 

何ら註釈を加うべきものでない。佐藤春夫の書手は病気で多少は乱れているのかもしれないが、ほとんど気にならない。むしろ私は、十一月二十八日、彼ら出立を見送った当日の谷崎に興味をもつ。ここに幸い、ちょうどその直後に妹尾健太郎か君子かが佐藤家にあてた手紙が手もとに有るのを挙げてみたい。差出しの日付は残念ながら分からない。

拝復天保山で御別れしましてから谷崎様と苦々夫婦らハ、八幡筋の(二字不明)へ参り、タ頃時分になりましたので軽い食事を済せまして、寄席へ御伴しました。寄席はあまり面白くありませんでしたが、それでも兎に角愉快に数時間を過して岡本へ帰りましたのは十二時過ぎでした。それに尚谷崎様へ御邪魔して二時運く迄、とりとめもないことを喋らして貰びました。翌日一寸宅へ御越しでしたが御仕事がはかどつて居る様で真後は未だ御目にか?りませんが御勉強に油がのって居る様です。(中略)懐旧と云ふ程古いことでもないのに御滞留当時が随分月日が経った昔の様に思出されました。皆様御元気な由何よりのこと?存じます。最近宅では、「アナタオィシィ、ドウ」「ウム、オィシィ」と云ふダィヤログが交されるのです。

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かげながら即ち御二人が岡本へ残された円満のシンボルです。何卒御幸福に御暮しの程乍蔭祈って居ります。御滞留中は一方ならぬ御交誼に預りまして、深く恐縮致して居ります。尚御言葉に甘へて谷崎様の御伴をして御邪魔に上ることを楽しみに致して居ります。皆様の御健康な御顔を拝するのを待ちこがれて居ります。御尊父初め皆様に宜しく

佐藤らを見送った日、さすがに妹尾夫妻と別れがたい心地で時を過ごしたらしい。しかしその後は「仕事」がはかどったり「勉強」に油がのる毎日を送っていたという。『吉野暮』を翌年の「中央公論」一、二月号に発表するまで、谷崎の仕事として他には具体的な小説も随筆も見当たらない。『吉野暮』本当の脱稿は、吉野より出て十二月にも食いこんだはずという私の推定をこの手紙は支持している。それにしても新婚の、そして病中の佐藤春夫と看護役の(佐藤智恵子の手紙にあった「婦長さん」その人かもしれない)千代夫人(区別のため谷崎夫人時代を「千代子」、佐藤夫人時代を「千代」と一応原則的に以後分けておく)とが「岡本へ残された円満のシンボル」だという「ダイヤログ(対話)」を、谷崎も直かに見聞きしていたのだろうか、それとも谷崎が北陸や吉野へ行っている留守中のラブコールだったのか。紀州の佐藤家から「ホームシック」を涙がちに悪える千代夫人の手紙と佐藤ののんきに犬や鯨を語る手紙との微妙な差に眼をとめるのは余計な勘ぐりに過ぎぬとしても、世にいう「細君譲渡事件」後の谷崎と佐藤とに早くも或る差が見えてくる興味ある妹尾の手紙だとは言えるだろう。6だが、我々はこのまま昭和五年の彼ら、というより谷崎を見送ってしまうことができない。

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谷崎潤一郎は千代子夫人と離婚の直後に北陸へ旅立ったが、正しくは前にも触れたように北陸および、、、、、、、、、、東京へ、と言い直さねばならず、しかもその東京へ、谷崎は次の「妻」を得んがためにわざわざ足を向けていた。目星をつけていたのは旧友笹沼源之助が経営の信楽園に住みこんでいた或る女中だった。「妻」問いとしてはまんまと失敗に終ったこの一件については、のちに谷崎の『幼少.時代』(昭和三+年)が明記しているので深くは触れない。が、なぜ急に、その女に、という疑問は残る。この「女」が佐藤の『この三つのもの』に現われる大正九年十月当時、信楽園、作中では「太平楼」にいた「監国」ふうの女中と同人かどうか、この間の「女」の十年は久しいものゆえまずは別人かとも想われ、谷崎は「美人」をそろえたという信楽園の女中に、一度ならず関、心を寄せていたことがよく分かる。この「妻」問いの旅もまた『吉野暮』の津村の「妻」問いにかすかに影を落しているのだろうか。ところが、離婚直後の「妻」問いの旅はこの一度にとどまらなかった。昭和五年十二月十五日、「仕事」や「勉強」が一段落したのか谷崎はまたしても上京して日本橋亀島町の東洋ホテルに宿をとってお、、、、、、り、これまた再婚を目的に人の紹介でさる女性と見合いをしているのだが、やはり不首尾で、谷崎は空しく岡本へ帰った。「相手の女性といふのは今年二十六歳、相当な家庭の婦人」と口さがなく新聞は報じたが、谷崎は記者の追及を巧みに逸らしとおした。この人がのちの丁米子夫人であったことは、年が明けてすぐに分かってくる。ここに、ちょうどこの頃と推定するしかない谷崎の手紙が二通ある。「谷崎氏用筆」と毛筆自署を左端に刷りこんだ原稿用紙を用いており、前日の文脈上、同じ年の十二月四日と五日と分かる。

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十九昭和五年十二月(推定)四日潤一郎より妹尾様あて封書毛筆○昨日はおすゑが御世話様でした、カーボン紙唯今一寸品切になりましたので二枚ありましたら御渡し願升○例の女馨嬢電話の首尾如何にや吉報待人○今夜十時すぎ西宮か上筒井へ一杯のみに行きますが御同伴下さるならこちらから御誘ひに出ます、ひとりでも行きますから、御都合でどちらでもかまひません、御返事御きかせ下さい四日潤一郎妹尾様

二十昭和五年(推定)主戸五日潤一郎より妹尾様あて封書毛筆お早うございます、今起きたところですカァボン紙ハ昨日神戸へ新しいのを買ひにやりました、依でこれハそちらで御使ひ願か井原稿御渡しいたします御訂正の上卿返し願ます吉頃迄繕嘩す、その時分からいよく取りか、る予定です、お著者さんの返事来ましたら御しらせを待ちます十二月五日潤健様

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この二通、おそらく『吉野暮』の少くも前半の原稿を潤一郎が持参、上京する直前のものか。とすると、古川丁未子への最初のプロポーズに出向いた直前ということになる。すると妹尾は、谷崎潤一郎の原稿を、ここでは明らかに『吉野暮』の、文面を「訂正」したりするほどの作業もしたらしい。これ以前にかかる形跡は全くないのだから、よほど『吉野暮』では谷崎が妹尾夫妻に負うところ有ったととるしかない。その上、この二通では窺えないプロポーズの一件についても妹尾はすでに関知、予知していたことが、やはり年明けてすぐに分かってくる。何にもせよ吉野に籠っての『吉野暮』執筆の前と後に、八月に離婚してすぐ十月の初めと十二月の半、、、、、ばとに、早くも谷崎はまるで違う二人の女性(実は三人。後述)を再婚の相手と目して東京まで出向いたり見合いをしたりしていたその事実と、『吉野暮』のモチーフをめぐって私が考え、書いてきたこととは、いったいどう折り合いのつくことなのか。この様子では谷崎の、というより私の摂津夫人捨子に対する重い評価が重きに過ぎるというよりないのではないか。摂津捨子は、現実、人妻として谷崎の前に現われた。初対面の時、すでに近隣に聴えた美しい御寮人だった。『雪後庵夜話』にも捨子夫人の『椅松庵の夢』にも詳しいが、要するに根津夫人に対する谷崎の「敬意の溢れた礼儀正しさ」は初対面以来一貫していささかも横柄や失礼に転ずることがなかった。類稀れな勘と言うのか、むしろ「芝居気」と言うべきか、この御寮人に対してどう振舞うのが適切かを谷崎はみごとに適切に心得てそう振舞いつづけてきた。すぐれた女性への純然した敬意の発露である以上に、そうも振舞っでみることにより、自身が最も鋭く強く深くイシス。ハイァされる「態度」を自分で自分に谷崎は科したとみた方が正しい。『椅松庵の夢』に、そして今では『全集』書簡に盛られている

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驚くべき拝脆の表白にしても、谷崎潤一郎という稀有の作家の、作家ゆえの、醒めた振舞いなのだ。垂鉛をひのの深みに垂れて、微妙に指さきに触れて来る別世界の反応を慎重かっ尖鋭に測定するほどの醒め方だけが可能にした振舞いなのだ。一言に言えば「はにかみ」を隠す「芝居気」であり、すぐれた「演戯」なのだ。そうも読まねばとても理解が行きかねる。そう読むことで少くも作家谷崎の態度も、摂津夫人への拝脆も、ごく正常な醒めたものと言える。谷崎潤一郎に何を読みとるのも読者の自由ではあろうが、谷崎が自分自身を演出する、律する、ことに於て生涯ほとんど一度たりとも狂ったり失敗したりすることのなかった、意志的に醒めた健康人だったという点は決して誤解してはならないだろう。谷崎は、それだけに摂津夫人と自分との結婚を当初予想もしなかった。一つには人妻ゆえに不可能としか見えず、二つには結婚ないし「妻」に対して幻滅し警戒していた。一度は「おせい」を妻にと決断ぎ土しながらナオミにしか、つまり「神」であり「玩具」である「女」にしか仕立てられず、御しきれなかった谷崎なのだ。それが小田原事件の顛末であり、『痴人の愛』はその清算書だった。「妻」の飼育には挫折し懲りていた。そしてそのことと新たな摂津夫人崇拝とは少しも矛盾しなかった。現実に「妻」たる期待はもてず、しかも捨子は、みごとな谷崎流の「女」たりえたからだ。千代子夫人との離婚はこの摂津夫人捨子の存在価値をまた格段に高めるものだった。千代子は去ったが捨子は相変らず身辺に実在し、谷崎をひそかにイシスパィァ(鼓舞.鼓吹)しつづけていた。離婚によって谷崎は身軽になり、根津夫人を喪うところか、身軽さに乗じてよりつよくその価値を実感できた。私的な欲求には制限があっても、この時の谷崎は、文学的な欲求に於て捨子に、より満たされこそすれ何も喪っていなかった。そして今後もやはり満たされっづけるうえに、谷崎らしい身勝手さながら、別に新しい妻がいて都合が

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わるいとは見えなかったのだろう。それどころか世間並みの結婚生活をしている方が、阪神間での社交生活には安定感を増し、摂津夫人との交渉にも形が調うはずであった。先の手紙に見える今日なお健在の「女医嬢」も、実は妹尾の推奨で谷崎の再婚相手に擬されていたのである。「妻」としてともあれ根津夫人と似た相手を捜すような愚は、滑稽なくらい慎重に避けられた。例の信楽園の女中を「かねてから意中にあった」と『幼少時代』に書いている。この「かねて」が大正九年頃にまで遡れるものか疑わしいとは先に述べたけれど、それでもなお佐藤春夫の『この三つのもの』の女中は見直しておく価値がある。「ここにひとり別娯の女中がゐるんだぜ。僕の気に入ってゐるんだ。今に見せるよ」と作中の「北村」、即ち谷崎は言い、「穂積」即ち佐藤との間で、「お八重」即ち千代子夫人の苦悩をそこのけにして「あ、くのないくっきりした顔立ちだね」「費国の絵にあんなのがあるよ」「さうかい、江戸末期といふ感じではあるね」「さうなのだ。それが近ごろ殊にさうなって来てね、聴けば鳶の者か何かと出来てゐるらしいのだ。(中略)だんだん伝法になると言って(中略)あれでよく気のつく賢い女なんだ。(中略)あれならば器量も気質も、僕は女房にして見てもいいね」などという会話が交される。そのあげく浮世絵の話になって「やっぱり歌麿が第一さ。……豊麗で」と、この「豊国」女中も「第一」ではないと言い捨てている。さらに、「よく見たらう。え?・」「うむ。君が気に入るのは判るよ、あだなところがあるね、なかなか。惜むらくは少し背が低い」「低いものか」などとやり合う。この女中をこう酒の肴にしていたのは大正九年十月小田原事件発端の頃に当たっている。昭和五年秋に、信楽園の女将が巧みに「捌いて」谷崎の思いを遂げさせなかった女中とこの「費国」に似た女中と

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が同一人であるかどうかを別としても、谷崎のなかに千代子夫人と別れた直後にまだこういう「おせい」や「ナオミ」ふうの女性を「妻」にしたい情念が生き抜いていたことを我々は決して看過ごせない。それどころではない。うつつ千代子犬八と別れ古川下未子と結婚の後も、二の「費国しならぬ因縁深いかの「おせいしの現の影は、谷崎の身辺に、家庭の中にまでも、なお失せきってなどはいず、摂津清太郎と離別して旧姓に復した捨子と谷崎とが、事実上の夫婦生活に入る頃までその人も名前も現実に、また手紙の中に、ちらついているのである。この点やがて改めて今一度言い及ばねばならないとしても、ここでぜひ言いたいのは、「おせい」とは言わないが「ナオミ」と根津夫人との質的な関わりについてである。例えば『春琴抄』のあの「女」春琴の面影に、遠くは『刺青』のヒロインや近くは『痴人の愛』のヒロインの残像はやはり正確に見届けねば済むまい。とすれば「ナオミ」と摂津夫人捨子とが完き対立者であったというが如き陥り易い誤解は進んで否定せねばならぬ。むしろいかに捨子夫人が「母」なるものに通う紫上的部分と、「ナオミ」ふうの魅惑とを兼備しえていたかの見極め、浮世絵でいえばまさに「第一」の「歌麿」風な魅力に通じえていたかが見極められねばならぬ。ここで私は、改めて谷崎潤一郎に於ける「女」および「妻」の関わりについて観ておきたいと思う。いづれ『蓼喰ふ轟』で主人公斯波要にとって「女といふものは神であるか玩具であるかの敦か」であると谷崎が書いているのは有名な事実だが、これが昭和三、四年当時にはじめて谷崎の思い至った情念である道理はなく、少くも大正十三年の『痴人の愛』が主人公議治にとって「神」でありかつ「玩具」であったまナオミを書いていることは言うを侯たない。さらに正確に言うならば、譲治にとって「女」は神か玩具

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かのいずれかでしかないという認識は、神でもなく玩具でもない「妻」として一人の美少女を完全に飼育しそこねた失敗、挫折の過程と結果との上に手痛く自覚したものであった。つまり『痴人の愛』根底のテーマは「女」でもあり、しかし「妻」でもあった。そして谷崎という男の眼に「女」と「妻」とはとも頑固に瞑に天を戴くことの叶わぬ対立者として久しく映じていた。筋道立てて言い換えれば、「女」即ち神か玩具かである以上、「神と玩具との間」に「妻」は位置して、その挾撃に遭って谷崎に於ける「妻」の座も意味も、最初の結婚(大正四年)このかた丁末子夫人との法律上の離婚(昭和十年一月)に至るまで、所詮は定まるすべない宿命を荷っていたのである。『痴人の愛』のナオミは、一度は谷崎が「妻」にしようと思い定めたことのある「妻(千代子)の実妹」が、「おせい」が、モデル、で悪ければ原像だった。しかもこの現の妻は「妻」なるがゆえに本来「神」でも「玩具」でもありえず、谷崎にとって「女」と目しえない存在だった。「妻との折り合いがいづうまく行かないのは、彼から見ると、妻がそれら(神、玩具)の敦れにも属してゐないからであった。」『蓼喰ふ轟』の要が、「美佐子が妻でなかったら、或は玩具になし得たであらう」と述懐するのは、谷崎の千代子夫人に対するそのままの思いと読める。逆に、「女」の魅惑を十分に備えたと見えた「妻の実妹」は、それゆえにまたいかに「妻」にしようと試みても、所詮はナオミになるしかなかったのである。「女」と「妻」が一体たりえなかったというのが久しい谷崎の実感であり、しかもその「女」すらよく御しきれなかった、だから小田原事件は起きた、という清算書でも『痴人の愛』はあった。このテーマは『卍』に重なりつつ『蓼喰ふ轟』に引きづかれ、しかも今度は「女」ならぬ現の「妻」が作の中心に据えられる。『蓼喰ふ轟』の核心に位置するのは、「神と玩具との間」なる「妻」であり、じやその胸には「鬼が棲むか蛇が棲むか」という深い怖れがあったことは、重要な下敷きに上の一句を眼目とした人形浄瑠璃『心中天網島』が慎重に布置されていることで十分明らかだろう。「おさんしという妻と「小春」という愛人の間を紡律する紙屋治兵衛の位置に感情移入して行く斯波要の情念、そして谷崎潤一郎の脳裡には何があったか。前年昭和二年三月一日、道順堀弁天座の初日に谷山L本一音乏プ本一〔セ唐辛ヲ三{-、一.題←・ク遣遣寧ズ観,.リp江ガρか、{玉.し,へ亘巨伺返,L穆拝あや夫人払子と初対面していたのである。この運命的な「出違い」に対する錯またぬ直感こそが『蓼喰ふ轟』には宿されていた。谷崎はこの直感を要の岳父の「妾」お久に胚胎せしめて「妻」美佐子に対置し、しかも、お久の面影に永遠の「女」と眺めやった舞台の小春を重ねたのである。しかも同じ『心中天網島』のこの日の舞台を、谷崎が千代子夫人とも同座で観ていたことははっきりしている。ナオミからお久ないし小春への転換は、しかし「女」は神か玩具かであるという認識の変更ではなく、より強い確認であった。ここに早くも根津夫人松子の印象が生きているとは前後の事情からもはや動かしがたいこととして、この小春ないしお久が一直線に『春琴抄』の春琴に至り着く初の関西「女」性でうべなあったことは肯うしかない。そして先にも述べた如く、春琴には紛れなくあのナオミに通じ、ナオミを受けた谷崎の「女」を見る眼が生きている。佐助にとってただ「神」であった春琴も、作者谷崎の視線には同時にまた「玩具」であったがゆえに比類なく分厚く造型された「女」になりえており、それは譲治に於けるナオミと寸分遣わぬ輪郭を備えて谷崎と根津夫人との一面を十分類推せしめているのだ、事実上の同棲であり女は男の妻同然である点までも。かくて小春ないしお久と春琴とを同じ「女」の原型と完成と眺めた場合、一見違いの甚しい『痴人の

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愛、のナオ、、、と、蓼喰ふ轟』の小春、お久にもともに、妻」たりえぬ、女Lとして却って現実の「妻」の座を脅かす同じ立場は見抜いておかねばならない。それにしても、先に触れたように、今後いよいよ捨子夫人の存在を大事な鍵にして昭和期の谷崎文学がより充実した解明を急がれるに違いないけれど、昭和初年に限って言えば、その摂津夫人のキ偉榴だ・ただ上。加で教養深い上方の御寮人というイメージだけを見るのでなく、例えば『細雪』の幸子や『台所太平記』の讃子だけを見るのでなく、つまりは、心中天網島』の女房おさん(この名が『台所太平記』の理想的女房讃子の名に直結していることを正確に見るべきだろう)だけを見るのでなく、むしろ小春・むしろナオ、、、やのちのお逆様や春琴に、それどころか遠く、刺青』の女にも確かにつながっている,女」の魅力そのものを見通さねばならないだろう。さもないと谷崎のあの度外れた捨子神聖視は彼本来の生理的根拠を喪失してしまうのである。先の手紙に登場する、女医嬢」にしても、再婚相手としてより、実は昭和五年というあの時点であの、春琴抄』(昭和八年六月発表)の佐助が自ら眼をつぶす方法にっき、早くも医師としての意見を徴していた(ないし、書き始めてすらいた)のだという隠れた事実は、ここに特筆しておく価値がある。摂津夫人が例えばナオミとは全く違う春琴だったからこそ谷崎を惹,.ろけたと思い過ごしてはならない。むしろ違いは違いとしてなおかっ「女」の本性に於でより強烈で豊醇なナオ、、、ズムをすら体しえていればこそ、摂津夫人は十二分に谷崎潤一郎を関西の風土の中に取り籠めることができたのである。、蓼喰ふ轟』に時期的に相重なる、卍』にしてもまた然り。明らかにナオミズムを踏まえながら「女」と、妻」を主題に当時谷崎の眼に見えた限りの摂津夫人の魅力を、この作も、また反映させていたのだ口

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思わずも谷崎再婚の話題からは逸れて行くようだが、私の言いたいのは、たとえ谷崎が別の女性との再婚を願って見えようとも、昭和五年末から六年の初めにかけて、久しい根津夫人への関心を見捨てても忘れてもいなかったという事実である。それは決して忘れようのない宿世の縁であった。ついとは言え、信楽園女中への求婚は至極あっさり潰えたものの、当時文蘂春秋社員であった古川下未子との見合いは、一度は不調に終りつつ、やがて再び実って行った。この、谷崎潤一郎二度めの妻については、かってほとんど語られることがなかった。語るに足ることが乏しかったのか、有っても敢て語ら、、、れなかったのか、いずれにせよ本書は「神と人との間」に位置したただの「妻」丁末子について、かつてなく多くのことを語らずには済まぬ。かくて谷崎潤一郎は、前年に増して問題の多い昭和六年の正月をやがて迎、んる。

第一章

「小田原事件」始末

二十一昭和六年王旦平日下男町佐藤春夫より妹尾健太郎様あて封書毛筆これなくさうらふやまかりありくだされたく拝啓寒気殊之外科嶋のところ皆様御変りも無之候哉当方は一同無事消光罷在族間御安心被下度抑只今は御恵贈のおかき正に入手人へんおいしさうだといふので母なども大へんよろこんで居りますかくのごとく右両人に代りてちよつと御礼申述度如斯に御座候不文正月二十日佐藤春夫妹尾様当地八一時寒カリシモ只今ハ再び春暖に御座供御来遊持上條末筆なから奥方へよろしく御鶴声願上條

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二十二 昭和六年正月二十三日 東京市日本橋区亀島町壱丁目二十八番地 東洋ホテル 谷崎潤一郎より
妹尾((けん))太郎様あて「御直披」封書 毛筆
昭和六年正月廿三日(ホテル便箋欄外に)
Dear Mr.Senowo
 I must confess to you that, having arrived at Tokyo, I was perfectly "moritsubusareta" by  her at the first moment. How could I do otherwise when she was so lovely,beautful,fine,clever & everything? Now we are only waiting for her father's consent which she says will be gotten without so much difficulty. Anyhow I shall go home within a few days "avec beaucou(ママ)de noroque(ママ)" Please my kind regard to to (ママ)your wife.

不思議な宿世を担い合った二人の作家のこの対照的な年明けの光景はどうだろう。谷崎の毛筆走り書き英文のこの手紙は、類のない唯一通だけにつとめて正しく読める限りを読んでみた。が、部分的にやや怪しい。「盛りつぶされた」と読むしかない大変な受身形や妙な「ノロケ」もあったりして、谷崎の生まあったかな息づかいが直かに顔に当たる感じだ。今や佐藤のことは措く。谷崎潤一郎はなぜこの手紙を敢て英文にしたか。なぜ妹尾健太郎にあてているのか。私はここで今一

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通、昭和五年、つまり前年師走のものと十分推定しうる谷崎の、一見向でもない「妹尾御奥様侍女」、、と宛名した手紙を紹介したい。女中のたけに持参させているため、消印を頼ることができないのである。

二十三昭和五年(推定)十二月二十四日夕(自宅)谷崎潤一郎より妹尾御奥様あて封書毛筆
昨夜ハ御主人わさ(ママ)((縦書きくりかえし記号))御出で下され難有存ました
御病気いかゞですか御案じ申ます
たけに此手紙を持たせ伺はせますから宜しく願ひます
今夜夕食後一寸伺ひます
又御主人に御相談したい所が出来たと御伝え下さい
アカデミーの電話番号を書いて御渡し下さい、英語の原書もついでに御渡し下さい
十二月廿四日
谷崎潤一郎
妹尾おくさま

「御主人に御相談したい所」とある。
 谷崎は作家であり、それも慎重な作家で、いわゆる間違いをしない作家である。何年何月何日、その日が晴だったなら、創作の必要上勝手に雨は降らせない作家である。例えば『卍』の大阪弁は然るべき助手を雇ってでも正確を期し、『源氏物語』現代語訳には山田孝雄以下の専門家に礼を尽して校閲を乞

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う作家である。妹尾が、或いは妹尾夫妻が、その方面でも谷崎の原稿を読んで助言したり、簡単に手を加えたり、『お栂』の場合のように、またおそらく『吉野葛』の場合のように作の内容にも立入った協力をしていたらしい形跡は彼らにあてた谷崎の他の書簡からも明白に読みとれる。そういうことが日常茶飯のことになっていた様子が今の手紙にもはっきり読みとれる。「所」という用字にはっきりしてくる。「アカデミー」とは、神戸上筒井にあった行きつけのバーである。

二十四昭和五年十一月(推定)十五日 潤より((けん))様あて 封筒失 エンピツ書
原稿たしかに落手、ランプの件、あれだけ分れば結構です、ソレ以上の必要ハありません、樋口さんによろしく願ひます
忙しいので、こんな紙ヘェンピツで失礼します。
原稿一応読んでから明日か明後日御相談に出ます
十五日

((けん))様
カキをくひすぎ、今日は一食です、今朝ハユーハイムの菓子二つだけ。

年月は不明なのだが、吉野から十一月「十日頃に帰って参ります」とある昭和五年十月三十日の手紙を信じて、また佐藤らの紀州出立を考えに入れて、私はこの年の吉野籠りを野村尚吾の言うように「十一月終り頃まで」とは考えない、とすると、岡本へ帰ってすぐ、『吉野葛』の原稿に関するこれはごく

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実務的な内容をもった手紙かと推定するのだ。十二月十五日では上京と重なって合わない。「樋口さん」というのは『盲目物語』出版のさいの「はしがき」に、「此の書の装幀は作者自身の好みに成るものだが、函、表紙、見返し、扉、中扉等の紙は、悉く『吉野葛』の中に出て来る大和の国柄村の手すきの紙を用ひた。此れは専ら樋口喜三氏の斡旋に依るのである」としてある人に違いなく、この人物の祖先が吉野紙を開発したのだと言われている。
 谷崎は妹尾を介して何か「ランプ」に関して問合せてもいたらしいが、『吉野葛』のほぼ終局ちかくに、「国柄の昆布家」に津村と一緒に泊った語り手が、「おりと婆さんや家族たちの印象、住居の様子」などに触れつつ、「当時あの辺はまだ電燈が来てゐないで、大きな爐を囲みながらランプの下で家族達と話をしたのが、いかにも山家らしかったこと。爐には樫、櫟、桑などをくべたが、」というあたりに、そうした問合せが含蓄されていたに違いない。「あれだけ分れば結構です」というのも、つまりはこの程度のことさえ十分に納得し、分かったうえで書くという、谷崎らしいまさに賛沢な、たっぷりした制作態度のあらわれなのだろう。「原稿」を読んでもらい、人に問合せてもらい、そしてなお「御相談」している相手が妹尾である事実は、谷崎が妹尾の文学的才能などを頼むわけがないとすれば、妹尾が少くも『吉野葛』に限って何らか谷崎の執筆に資するだけの知識ないし便宜を持合せていたと考えるのが素直であり、自然であるだろう。前年秋に吉野へ夫婦して同行した理由もその辺からはっきりしてくると私は見ている。
 ところで、『吉野葛』について「御相談したい所」が十二月二十四日の時点で本当にまだ残っていたのかどうか、また二月号の原稿といえどもこの時点の念入れが間に合ったのかどうか、むしろ、この年

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末ほかに妹尾を煩わす類の原稿を執筆していなかったはずの谷崎にとっては、(有るとすればむしろ、先にちょっと触れた『春琴抄』ないしその原型を私は想っているが、)今すこし別趣の「相談」事と読みとっていいのではないか。ここは、「又」の一字に絡んで、ついこの十五日に不調で帰ってきたさる女性との東京での見合い一件の蒸し返しではなかったか、と、私は想像する。この以前以後の妹尾との交渉からして、谷崎は誰よりも気安くこういうことで妹尾を煩わせうる点を徳としていたらしく、年明けての先の珍奇な英文の手紙は、年の暮の彼ら密議に呼応する高鳴りとも読めるのではあるまいか。前にも言うように、..8一〇奉!g2年三、一目互2自やo奉三三椙..の女性がのちの丁米子夫人とは、はっきりしている。谷崎は正月早々の見合いに成功して「完全に盛りつぶされ」、あとは相手の父親の承諾一つという事態に漕ぎつけたことに御満悦の態に見える。英文にしたのは、英語の分かる妹尾相手に満悦ゆえの表現なのか照れてのことか、それとも例えば妹尾の妻や、彼女から話の流れて行く可能性の濃い摂津夫人を揮るためか。とまれ私はこの英文の手紙を谷崎らしい興奮が知的に照れてはにかんで屈折した表現、と思っている。この時点で、見合いの相手が大いに気に入ったことははっきりしている。暮と正月の二度の上京を敢てしただけのことはやはりあったのだ。だが、谷崎の妻三人のうち、この二番めの丁米子夫人の存在理由を文学的に価値評価する仕事は、前の千代子夫人、のちの捨子夫人と較べても、異様に難しい。事実、誰もが敢でそこへ手を触れてこなかった。が、作家谷崎潤一郎をよりよく知るためには、捨子夫人の貢献度を慎重に見極めるのと必ザ並行して丁末子夫人についても重大な関心を払う必要はすでに生じてきている、少くも『盲目物語』『武州公秘話』および『藍刈』成立の素地を適切に探るためにも。

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第二章 高野山の蜜月

「鳥取が生んだインテリ美人」と新聞が報じた当時数えて二十五歳の古川下未子は、昭和五年七月以来菊池寛が社長だった文彗春秋「婦人サロン」の編集者で、谷崎とは、鳥取高女を出て大阪の女子専門学校英文科に在学の頃、『卍』の創作を手伝っていた秘書の武帝遊電子や隅野澄子らのグループと一緒に何度となく谷崎家を訪問していた、いわば相識の間柄だった。卒業後の就職先だった関西中央新聞社から文革春秋へ転じる際にも谷崎が編集長の菅忠雄あてに紹介推薦の労をとっていた。但し古川下未子が谷崎の秘書として働いたことはなかった。『伝記』によれば、谷崎は前年末の一応不調に終っていた見合いのあと、「再婚七箇条」を新聞記者に示して煙に巻いている。
 

1 関西の婦人であること。ただし純京都風の婦人は好まぬ
2 日本髪も似合ふ人であること
3 なるべくは素人であること
4 二十五歳以下でなるべく初婚であること(丙午()ひのえうまも可)
5 美人でなくとも手足の奇麗であること

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6 財産地位をのぞまない人
7 おとなしく家庭的の婦人であること
 このうち、第3、5、6条は谷崎の本音を反映しているとみてよい。これに対し第1(の但書)、4、7条には煙幕の臭いが漂い、それもどうやら古川下未子一人を念頭に置いているとは思えない。記者とたんげいの対応に谷崎はたいした,上機嫌」だったというが、端視すべからざる七箇条と読める。にもかかわらず、古川下未子との再婚に谷崎がやはり.上機嫌Lだったことは、昭和六年一月三十一日・丁末子の両親の承諾をうべく鳥取市両町の古川家へと二人で旅した甘い味の、鳥取行き』(.婦人サロン」三月号)の一文が、また正式に結婚してのちこの年の、中央公論」十一、十二月号に発表した『佐藤春夫に与へて過去半生を語る書』が証言している。.婦人サロン」三月号には丁末子もまた、われ朗らかに世に生きん』の一文を寄せ、谷崎清二、岡十津雄がそれぞれ谷崎と丁末子について書いている。古川下未子はこの前年、毎日新聞Lに連載された横元利一、農園』挿絵のモデルだったともいわれ、画家は谷崎とは縁の深い佐野累次郎だった。前夫人千代子とも、またのちの捨子夫人とも一見してタイプの違う、まだうら若い未婚の職業夫人だった。だが・結果的にみて、丁末子夫人との結婚に谷崎が何を期待していたのか、ほとんど何も期待していなかったのではないかという仕儀に事は推移して行く。薯えようにも決してふさわしい讐えではないが、いわばワンポイント・リリーフのピッチャーのように古川下未子は登場し、やがて降板を強いられる。谷崎文学に即して言えば、ワンポイントとは、盲目物語』の完成をいうのだが、それとても丁末子夫人が直かに谷崎をこの小説のためにイシスバイアしたのではなかった。丁末子夫人は谷崎が高野山に籠り

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きって『盲目物語』を書いているあいだ、ただその傍に侍していささか退屈な日々を送っていただけでつねとみある。今やよく知られているように、出版された『盲目物語』には大阪の画家北野恒富が描いた『茶奈』の絵像が口絵に入れてある。「茶茶」はのちの淀君であり『盲目物語』の文主人公お市の方に生き与しの娘だし、しかもこの絵のモデルは根津夫人捨子だった。谷崎が『盲目物語』を構想する直接の動機は、恒富の絵を根律家で観たことと想ってほぼ誤りがない。再婚という大事を経てなお谷崎の念頭には一貫して摂津夫人捨子が生きていた。丁末子夫人はおそらくそれに気もつかないような幸せいっぱいの蜜月を楽しんでいたのである。古川下未子は鳥取行きから帰ると、文蘂春秋を退職し、二月か遅くも三月には谷崎家の風に馴染む「練習」のために早や岡本海ヶ谷の豪邸に入り、昭和六年四月二十四日にこの邸内で二人は、内輪の、つつましい結婚式をあげた。私は谷崎の千代子夫人との離婚とそのための周到な配慮を、いかに当時の世間が非難しようとも、賢明ないし聡明な処置だったと感じ入らずにおれぬ。が、それと較べて吉野下山後二度三度の慌しい上京によって辿りついた古川下未子との再婚の経緯にはまるで感心できない。何かしらばたばたと、要は結婚のための結婚、という印象ですらある。そのあまり良くない印象を側面から支持する或る文章をとりかきおろさくらがさねあげてみよう。昭和四十三年『椅松庵の夢』出版に当たってとくに書下された『桜襲』の一節で、むろん筆者は捨子夫人である。題にも暗示されているように「桜」の話題を幾つか重ねながら亡夫谷崎潤一郎を追憶するもので、ここに引用するのは冒頭の一部分である。

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若しも夫の健康が保たれていれば、最も早咲きの国の桜から晩(おそ)咲きの、南の果てから北の果てまで、大和島根を巡り、風趣の異る所で風致の違った桜を心ゆくまで愛てたい、と云い合っていたが、遂にその日に恵まれなかった。平安神宮は別として、是までに見た桜の中で印象の鮮やかなのは、紀州の道成幸の桜で、ただ一本、、、、、、、、、、、、、の大木であったが、いつも春がめぐって来ると話題にしたもので、三十年前に見たその桜の風情と色、、、、、、、、、、、、、、香は私たち二人の眼に映じて消えなかった。折よく咲ききわまった時に出過い、その時の心情も亦格、、、、、、、別情景に適っていたからであったろう。、、、、、、、、今から振り返って、造成寺を訪れた旅が実に珍かな顔ぶれで、結婚後、落着かれた佐藤春夫夫妻に、谷崎は未だ新婚の月日も浅い丁子夫人をともない、それに岡本の家の近くにお住いの当時ゆき?の多、、、、、、、、、、かったS武夫妻、そういうお仲間にどうして私が一人知わったのか、今考えても奇妙でならないが、、、、、、、、、、、、、、、、、、勿論谷崎に誘われたから従いて行ったのであろう。ねごろ旅程は谷崎が周到に立てていて、宝生寺を振り出しに此処では確か一泊それから根来寺にこかわ粉川井、粉川寺でも一泊したと記憶しているが、何でも薄汚い宿で、内、心もっと他に宿を借る処もありそうなものをと思っていた。私だけが独り寝の遣る瀬なさもあった故かも知れぬ。佐藤夫妻が谷崎夫妻の隣室で、谷崎の蔚がよほど高かったと見え、翌朝、「ゆうべはトナカイさんが大変でね」と千代子夫人がおどけて皆を笑わされた。トナカイとは隣の怪物と云うことでー。終始、当意即妙の酒落や警句が飛び出した。殊に佐藤さんと谷崎の応酬はまろび出る珠玉のように趣が深く、言葉の遊びにしては貴重に感じながら、こういうことは兎角その場きりに消え去ってゆくもので甦って来ないの

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は口惜しいことである。それにしても悠長に長閑な花の旅であった。

 この四節に分かれている文章のまず前半二節だけを、私が傍点を付した辺りに心をとめれば、これがさながら、谷崎と捨子夫人との新婚の旅を想い出すような感慨に彩られているのに気づく。私は『椅松かきおろ庵の夢』一冊を編むに当たって、わざわざこの一文が「書下」された事実を重く見る。話題は「桜」であり、この花のもつ意味が、谷崎と捨子夫人を結びつける重要なシムボルであることについては私は最初の『谷崎潤一郎論』(昭和田+六年)以来度々強調して来た。松子夫人が、花は「桜」と言いきって夫を深く驚かせた『細雪』事実上の女主人公である幸子そのままのモデルであることは、誰よりも夫人自身が信じきっていることだ。その上でこうも書き加えられた『桜襲』の冒頭に、昭和六年(としか思いようのない)春の造成寺の桜があざやかに取り出されて「私たち二人」の記念とされているのだ。(「三十年前」は明らかに夫人の錯覚。)しかもこの小旅行こそは、新妻「丁子夫人」と谷崎との事実上の新婚旅行というにふさわしい旅だった。文中の「S武夫妻」が妹尾夫妻であるのはもはや言うまでもなく、丁末子夫人が妹尾なみにイニシアルで書かれているのは、どこか捨子夫人の執筆心理に遠慮という以上の屈折があることを感じさせる。なぜ「千代子夫人」同様に「丁米子夫人」と書かないのか、やはりこの旅を想い出す松子夫人としては、亡き谷崎と自分とで共有しえたもの、造成寺の桜、を丁末子夫人とは頒ち合いたくないというくらいの衝迫を制しえなかったのだろうか。さらにはあの谷崎二度めの結婚を、やはり捨子夫人は認めたくなかったのか。たしかに摂津夫人捨子がこの顔ぶれにコ人」加わって「独り寝」の旅をするのは「奇妙」だ。常識

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つをかなり逸脱していて、いっそ不安定でもある。まして「勿論谷崎に誘われたから従いて行った」という、誘う方にも従いて行く方にも一種異様なところが感じられ、同行の佐藤夫妻、妹尾夫妻はさておき、誰より新妻丁未子夫人の思いに摂津夫人単独の同行はことに異様ではなかったか。不安ではなかったか。それが察しられぬ谷崎でなく摂津夫人でもなくて、しかも敢て男は誘い女は従ったというのだ。重ね重ね言おう、捨子夫人の魅力或いは性格には谷崎にとって「藤壼」と「紫上」を混合したものだけでなく、『刺青』や『麟麟』や『少年』や『旬間』のヒロインたち以来『痴人の愛』のナオミに至る、魔力を秘めた「女」たちの魅力や性格も含まれていなければ、あんなにも圧倒的に谷崎を魅惑し吸引できなかったはずだ。『春琴抄』や『鍵』や『夢の浮橋』のヒロインでもありえた素質、少くも谷崎が望めば、誘えば、そのように振舞ってもみせられる素質を捨子夫人がもちえておればこそ、いっそう「母」なるものとしての愛妻的魅力が輝いたのだ。思えば前年の吉野籠りに、摂津夫人は一度も足を運んだようでない。自身もそう『「吉野暮」遺聞』に書いている。だが、私はここへも、この年娘恵美子出産の前後にも、秘かに一度二度、谷崎が摂津夫人を誘っていて、また訪れていたとして、少しもおかしくはないほどの親交があったとすら思っている。そしてこの年に生れている摂津家第二子の恵美子さんだけを、谷崎らは、同じ一つの谷崎戸籍に「松子の連れ子」の体で入れているのである。『藍刈』お遊さんの長男「一」ならぬ第二子のあの出生を、ふと聯想させられさえ、する。さて、一方和歌山県下垂町の両親のもとへ新婚の千代夫人や娘の鮎子ともども病後静養に赴いたまま出昭和五年を送った佐藤春夫も、六年春には新婚の谷崎夫妻らに同行して宝生を振り出しに造成寺の桜を

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観る小旅行ができるまですでに恢復していた、らしい。『桜襲』ではこの年の「春」としか分からないいつこの花見の旅が、実際には何時だったか、妹尾あて四月七日の佐藤の手紙がすでに東京小石川区関口町から出ており、四月十日の谷崎鮎子の手紙が同じく関口町の佐藤宅で書かれていて、これを久々の上京と語っているのだから花見はそれ以前に相違なく、桜という盛りの短い花のことではあり四月上旬と考えるしかない。造成寺の桜はかなり早咲きであるらしい。佐藤一家上京の道順は決って一度大阪神戸へ人って岡本の谷崎家を煩わせる習いだったから、これはその途中、谷崎新婚、佐藤快癒の祝儀がわりのおめでたい旅だったのかもしれず、谷崎自身が周到に練った計画だったと松子夫人は書いている。が、谷崎の身辺慌しかったこの花見の旅以前に妹尾あて佐藤が紀州から寄越していた手紙を、一連紹介しておこう。佐藤春夫逸聞ほどの意味はあろう。

二十五昭和六年正月二+八日夜下里町佐藤春夫より妹尾健太郎様あて封書毛筆拝啓年頭早々奥方は御不快の由御当人は勿論御主人様も御困却の御事と拝察致します先日は奥方の御厚情により非常においしいおかきと又長文の御手紙を頂き有難く御礼申し上けます千代子より御返事を差上ける可きのところ今にも御目にかかれるやうな気がして打すててありますからどうぞよろしくお詫をなどと申して居ります当地も当年の冬期は希有な寒さで閉口致しましたがしかしコレハカナワヌと思つたのは今までほんの一両日位でした昨今又々少し寒い方ですさて来月六日は新宮神倉神社の夜祭でこれは一寸めづらしいお祭ですからなるべくその頃にでもお出になって御見物なさっては如何お迎へがおそいので鮎子も少し悲観して居ります、貴下からよろ

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しくおさそひお勧めを願ってこの際ではありますがなるべく早く御来遊下さるやう願上度小生初め一同御待申して居ります御礼と寒気御見舞のつもりがっい不得要領に長くなりました文字も文意も御判読下さい
春夫
妹尾様御夫妻坐右

正月になれば谷崎自身鮎子を迎えに佐藤の家を訪ねる、妹尾らも同行する、というのが前年中の口約束だったのだろう。が、谷崎の日常には少くも佐藤を訪ねる余地はなかった。新聞は古川下未子との結婚を報じ、婚約者たちは浮き浮きと記者尾行をまいての「鳥取行き」を思っていたさなかの、谷崎流にわるく言うなら、少々ぼけた感じの佐藤の手紙である。

二十六 昭和六年二月十日 下里町 佐藤春夫より妹尾((けん))太郎様あて 封書 毛筆
佐藤春夫
千代
妹尾様御夫妻
拝啓只今終平君難路を経て到着行李の中より御恵与のお菓子を出され候に就き得たりと直ぐさま賞味致し容易に得がたき名品かと存じ有難く存し候且又、谷崎君御勧誘の為め種々御尽力被下候趣たとひ奏功せずとも御厚志の程充分徹底的に感謝致し申し居候

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ともあれ錦地之御消息よくわかり候と共にお目にかかりたくなりましたもう無理には急きませんがそのうちには必ず御光来の程持上條二月十日佐藤春夫千代

 末弟終平は、谷崎や妹尾に代って、再婚ばなしの近況報告かたがた千里まで出向いたと見える。終平は、古川下未子と兄の結婚には「驚きました」と『回想の兄・潤一郎』に率直に書いている。話ははずむんで、佐藤夫婦もきっと岡本での成行に眼を剥いたのではないか。

二十七昭和六年二月±二日兵庫県武庫郡本山本村岡本谷崎潤一郎より健様あて封書(持参)毛筆小出氏逝去の肇にく驚入罐今早速参上すべきであ呈すが執筆中につ琴夜彗くξ蕃マ)夜に参り度存じますもしお先へ御いでになりますならバ右一寸御伝へ置願びます夫人の悲嘆嚥かしと存ます二月十三日潤健様侍史

天才的な小出檜重の画業については敢て言わない。大阪が生んだ洋画家として抜群の人であっただけでなく、日本の近代画の中でも図抜けて個性的な、しかも十分な評価と吟味のまだ尽されていない優秀な画家であったが、谷崎潤一郎との関係に限って言えば、小出自身、これは谷崎氏が私の家から近いの

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と、背景が主として阪神地方に限られてゐる点から、私は引受けても大丈夫だと考へたLと記録している『蓼喰ふ轟』連載時の新聞挿絵を担当して、その絵の佳さが著者毎日の執筆をすこぶる鼓舞したと言われている点でまず記憶されねばならぬ。出違いも大正末年に遡るらしく、それのみかこの小出檜重をしんじつ介して谷崎が摂津家、ことに夫人捨子への親呪を深めて行った点でいっそう特筆されねばならない。摂津家に嫁いだ大正十三年当時の松子御寮人は、「家こそ新築の数奇を凝らした住居に迎えられた幸福そうな新嫁であったが、船場風のお店の旧習の執勘に踏襲されている家の中は、息の詰るような空とつべん気」の中で暮していたという。「この当時、時折画家の小出檜重氏が来訪、調弁のとぼけたユ・ーモアで、憂欝を吹っ飛ばされた。今も猶、真似の許されぬ面白さを忘れ得ない」と夫人は『銀の蓋』で回想してはんぎいるが、谷崎はこの『蓼喰ふ轟』挿絵の「原画を小出氏に頼みそれを版木にして、自分の原稿紙と同じ色に刷り、版木と一緒に贈」ったのが、摂津夫人捨子に対する「思案の末」の「初の贈物」だったとも『夏から秋へ』で捨子夫人は回想している。私はこの「贈物」一件をとくに重く見るとともに、おそらく従来言われていたとは逆に、むしろ新連載の挿絵画家に小出棺重をと谷崎に勧めたのが摂津夫人だったろうとも推量している。小出を介さずとも、昭和二年三月一日晩の初対面、そしてその翌日にはもう「少しチークダンス」気味にキャバレーで踊ったというこの二人の仲には、早くも曰く言い難い宿世の「出違い」が果されていたとみていいのである。それにしても小出の原画を調えたという「初の贈物」の手のこんだ心入れは、思わず凄いと捻っ、てしまうほど豪儀ではないか。谷崎と小出檜重の出違いを記念する意味で、私は敢てここに現『全集』には洩れている小出残後の随筆集『大切な雰囲気』(昭森社、昭和+一年一月)に寄せた谷崎の『序』を

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再録しておきたい。

 人と人とが長い人生の行路に於いて偶然に行き遭ひ、相接触し、互ひに感化を及ぼし、やがて再び別れくになって行く因縁意含、奇妙な感じがしないで轟い。
 私は関東の震災のために関西へ来、大正十三年から阪神間の住人になつた。小出君は元来大阪の人であったが、藍屋にアトリエを建て?移って来られたのは、大正十四年頃であった。そして最初は山口謙四郎氏邸の会で、次にはつるやの朝日新聞社の会で、:一度顔を合はすうちにいつか私は小出と云ふ人をはっきり印象させられたのであるが、今考べると、それは故人の有名なる話術に魅了された結果であった。忘れもしないが、故人は山口邸の時、弟の縁談を断りに行ってアベコベに纏めて帰って来た滑稽談を一席弁じた。つるやの時は、奈良の色きちがひのお婆さんの話をして、そのお婆さんの顔が「わらじの底のやうだった」と云った。斯くて両人の間には当然長く続いたであらう交際が始まったのであるが、それが僅々数年の後に、突然の故人の逝去に依って絶たれてしまった。故人は私からどのやうな影響を受けたか、恐らく何も受けなかったであらうが、反対に故人の芸術が私に及ぼした感化の跡は可なり大きい。あの『蓼喰ふ轟』の挿絵時代に、遅筆の私が故人のかゾやかしい業績に励まされつ?筆を執った一事を回想するだけでも、思ひ半に過ぎるのである。(ママ)早いもので、来年の二月にはもう七回忌が来ると云ふ。もし此の遺著の出版が丁度その時分に間に合ってくれたら、近代の大阪が生んだ稀有な画人の悌を偲ぶのに此の上もないよすがになると思

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ふ。敢て所感の一端を記して序に代へる所以である。
昭和十年十一月
谷崎潤一郎しるす

情理を兼ねた佳い文章である。

二十八 昭和六年二月二十七日 下里町 佐藤春夫より妹尾((けん))太郎様あて 端書 毛筆
過日は御苦労千万御礼申上候帰路風波相続(カ)候由定めし御困却の御事と拝察申上條扨て先日お話の熊野鯖一尾今夕小包便にて発送致し候間乍御手数谷崎家へも御分け下されて御賞味被丁度(くだされたく)よほどおいしいつもりなど申し居り候が果してそのへんは如何なるものにや。
文尾なから奥方へくれ((くりかえし記号))よろしく

二十九 昭和六年二月二十七日夜 下里けんせん方 千代より妹尾((けん))太郎様あて 端書 毛筆
道中いろ((くりかえし記号))と御せわ様になりました事あっく御礼申上ます、御遠方わざぐ御光来頂きましたのに何の風情もなくほんたうに失礼をいたしました、その折は結こうなおみやけを頂きありがたう存じます、久しぶりにて御目にかゝり主人も大へんうれしかったと申してよろこんでおうはさのみ申上て居ります、唯あまりおかへりがおはやかったので名物のさばもお目にかけられなかっただけハさんねんなど申して居ります。来月ハ参上おくさまに御目にかゝりますのを何よりも楽しみに

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いたして居ります。

三十昭和六年三月二日夜下垂町佐藤春夫より妹尾健太郎様あて封書毛筆拝啓先日は遠路御光来のところ何の風情も無之加之鮎子など御世話様に相成御蔭様にて安心致し申侯且つ学校の件に就ての御伝言も先方に充分御伝へ下され候模様にて谷崎より小生宛て満足致す返事これあり有之是非篤く御礼申上條今二日も御ゆっくり願へれば新宮や吉野や串本など御目にかけ候ところもありしものをとこれのみ残念に存居候御、心にかけられ候小包の品と昨日落手o呂eも結構に頂いて居ります筆の方はまだ試用の機を得ませぬが御礼申上ます奥様間一層御自愛の程桁上條また御序の節には小出氏未亡人へもよろしく御弔問下され度額上條草ヒ佐藤春夫千代妹尾様御夫妻

このあと三月九日(消印十日)とある佐藤より妹尾健太郎あての封筒が一っあって、相当すべき中身が散逸している。或いはこの頃から、奈良方面花見の小旅行の話が伝えられ、佐藤夫婦も鮎子の春からの転校通学のこともあって上京準備にかかり出したのであろう。鮎子を迎えに、或いは終平が連れて来たのをまた送るために谷崎に代って短時日妹尾が千里町まで出向いたことが分かる。『全集』書簡に収

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められたこの年の二月十九日、三月十五日、三月二十四日の弟清二あて谷崎書簡は、すべて鮎子の新しい学校を決めるに際しての父親らしい心づかいを見せている。このうち、「尚入学試験はヤハリやるのかどうか・やるとすれバ、科目、期日、時間至急知りたし、期日当方ハ佐藤一家が十八九日でなけれバ丘てさうもないので、なるべく月末を望むが、」などとある三月十五日の手紙は、さきの中身のない佐藤の書簡内容を受けているのかも知れない。妹尾はこの辺では谷崎と佐藤ほどの間をほぼ自在に事務的に周旋し仲介していたのである。鮎子は結局東京市内の.成文」へ、無試験入学許可」をえたとみえ、、これにてほっと重荷をおろし候Lとも谷崎は弟にもらして「御尽力恭い」と全く頭を下げている。大正五年三月に『父となりて』以来、この谷崎は少くも著述上かなり冷淡な父親ぶっているが、育ち行く娘筋子に対し豊かな肉親の愛を、表現のうまいへたはともあれ、終生喪わなかった人とみていい。終平の『回想』にも、コ体、兄は恥しがり屋だったせいか、身内のものには用の日以外に殆ど喋らないのです。僅かに鮎子とは話していました。例えば、カキクケコを挿んで話したりします。『アカィキココハカネケ!』『ハーカハーカ』といった調子です。また一冊の本を二人で覗き合って読んでいたこともあります」とある。『鵬廼轡集』昭和十三年の.六月廿五日南」とある項では捨子夫人の実子板津おの清治の「可愛らし」さを一首詠んだあとへ、己が子を嫁に行かせて人の子を育つる我は老いにけらしも」と嘆息しているし、.九月七日L或る女性の結婚を祝う、、いつしかと見し故郷の人の子はよき児になりて嫁ぎけらしもL、嫁ぎ行く故郷の子に幸あれと祈るかわれも人の親にして」の二百などには、しみじみと鮎子を思う真情がにじみ出ている。ちなみに鮎子は昭和十三年六月、佐藤春夫の甥の武田龍児と結婚している。泉鏡花の媒酌であった。両家の和合をねがう春夫の父らの望みでもあった。さて、それならば昭和六年春の造成幸花見にはいよいよ鮎子転校が決まったお祝いの意味もあったかと思うのだが、鮎子を同行した様子がない。なるほどこの少女に一行の顔触れは、あまりにも刺戟が強すぎたであろう。それにしてもこの繁忙の間、周到に旅程を練る余裕が、はて、谷崎潤一郎にあったのだろうか。

三十一昭和六年四月七日東京小石川区関口跡二の七佐藤春夫より妹尾健太郎様あて封書毛筆れいに上り拝呈先日貴地通過之節は法例種ヒ御好情に預り有難く御礼申上條早速無事着と御礼状とを差上司きの所久しぶりの上京にて多用の為め延引御宥恕下され度候中旬には谷崎君上京の由その筋ハなるべく御同伴御上京遊ハされたく楽しみにして御持上條イチは一昨朝無事者家の中で元気よくして居ります四月七日佐藤春夫ちよ妹尾健太郎様貴美

以下車に「関口町」と書く。

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三十二昭和六年四月+日関口町(佐藤方)谷崎鮎子より妹尾君子様あて封書毛筆一昨日夜無事つきましたどうぞ御安心下さいまし。そちらに居ります間はいろくお世話ま袋呈して何と轟礼の里享・つ轟座ゐ喜んいろく御厄介をおかけいたしまして申訳けもござい毒んまた此方へまゐります時は結構な品をいたゴきましてまことに有かたうございました皆大喜びでございました此方も今日は少し寒うございますが昨日などはわりに暖で思った程寒くはなささうで御座居ます。まゐります途中桜が大変にきれいでございました汽車の中でお花見をしながらまゐりました、あしたからいよく学校一まゐります(ま脱力)小母様おからだどうかくれぐ身大切に遊ばします藩願ひ里けず。小父様みつ子様にどうかくれぐれもよろしくおつたへ下さいまし。先っは右御礼まで。乱筆にておゆるし下さいまし。鮎子拝四月十日夜妹尾小母様

右の二通から、佐藤夫妻が東京小石川の自宅へ四月七日以前に「久しぶりに」先着し、何らかの事情で鮎子は一人でか、或いは叔父終平か叔母すゑ子かに送られて四月八日に後を追ったと分かる。谷崎四

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月中旬に上京予定があったのは、古川下未子と挙式前に勤務先だった文葵春秋の社長菊池寛や編集長菅忠雄へ挨拶に出るためのものかと推量できる。折返し岡本の自宅へ戻って内輪の式を挙げたのが、前にも書いたように昭和六年(一九三一)四月二十四日だった。『桜襲』の矛盾がますます露わになる。ところで、いま挙げた谷崎鮎子の手紙は、その毛筆書きの美しいこと驚嘆に値いする。僅か半年足らずのうちに+五、六歳の少女の筆つきが愛している。「いよく学校一という思いに無量の感詣もるのだろうか、大体、あの「離婚挨拶」を素直に読めば、当時少くも鮎子転校のことは考慮もされていなかった。在学中は新婚の佐藤夫妻も大阪近郊に暮すっもりであったと思われ、彼らが東京行きを半ば余儀なくされたのは、鮎子の退学を迫ったまことに心ない聖心女子学院の無残な処置だったとも言える。むろん佐藤の急の発病も禍いしたのだが、すべて大人の事件のとばっちりでこの少女はみすみす半年の間、学校から閉め出されっ放しだったのだ。

三十三昭和六年五月+四日関口町佐藤春夫より妹尾健太郎様あて「御返事」封書ペン書御手紙拝見致しました当方こそ久しぶりの東京生活に道ひ立てられて御無沙汰に行過ぎて居ります毎々御心配を賜はる病気の方はその後日一日と快方再発の憂もないらしく、この十六日からは時(ら悦カ)事新報紙上に愚作を試みて居る程でありますかこれは何卒倒安心下さいませ先日の谷崎の手紙によりますとおせいの事でも御世話をお掛け申しました由又谷崎家財政の処置に就てもいろいろ御奔走下され候模様をも拝承しお千代は無論小生も甚だ感謝致し居りますイチはその後すっかり元気よくなり只今ではビツコもひかず客間のストオブの前やら小生書斎や

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なじん〔ママ)ら常に小生の後を追ひすっかり家に慣染んで楽しく生活致し居ります。さてお話のミィは当方で引き取る事に決定し谷崎氏へも返事致し置きましたが=弓ξは少し大きいだけに拙宅の小庭では養ひ兼ねます貴下に於かれても折角きれいに飼ひならされたものだから、寧ろ吉野の野人クロ君をどこかよそへお渡しになり、=昌ξはお宅へおのこしなされては如何なものに候やまたイチの伜と娘なども大人数の中をいつまでも御世話になる事恐縮ですから、もしもう旅行に堪へられますやうならばいつでも御送り下されば当方は喜んで飼ふ用意を致し居ります。実はこの豫定もあり満員で=弓ξは収容しきれないのであります。一昨日根津氏来訪あり半日お目にかかりました。御多忙とは存じますが貴下かたも一度御出かけ下さいますまいか。右は御返事まで用事のみ不尽佐藤春夫^ママ)妹尾健太郎様

この手紙には注目すべき字句が幾つか含まれている。「愚作」を試みているというのは「時事新報」に十一月まで連載の『武蔵野少女』のことで、前年十月「婦人公論」に書いた『僕らの結婚-文字通りに読めぬ人には恥あれー』以来の文業だった。佐藤春夫の文学活動は、昭和十年に法然上人を書いた『掬水謹』がめぼしい程度で、以後昭和廿九年のせいぜい『晶子曼茶羅』に至るまで要するに低調の一語に尽きた。一刀両断の乱暴な言い方は慎しま

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ねばならないが、佐藤春夫の文学は谷崎との「和解」で弛み、千代夫人との「結婚」で沈滞して、晩年再度の浮上までに霧しい歳月を要したとせねばならない。かつて輝かしいまでに大正文学の一面を代表しながら、もはや昭和文学に何ほども付け加ええなかったのが、谷崎が好意的に言うようにあの「脳出血」のせいだったにせよ、それすら「和解」と「結婚」の思わぬ副産物でなかったわけはない。全然の憶測に過ぎないが、もしかして佐藤は谷崎より早く、短時日芸者に出ていた頃の石川千代子を知ってはいなかったろうか。たんに可能性を空想してみるだけではあるが、谷崎の『神と人との間』には、千代子夫人に当たる「朝子」の芸者時代の名を「照千代」としてある。「長野」と事実は前橋との相違を度外視すれば、照千代が芸者に出て、引かされて、谷崎に当たる「添田」と結婚するまでの経過はむしろありのままの事実らしく丹念になぞってあり、その中で、実は照千代との縁は佐藤に当たる「穂積」の方が「添田」より早く、「穂積」さえ望めば結婚も可能だったのを、「添田」に横からさらわれたことになっている。隠された或る事情がここに露出しているのではないか、と言うのも、大正三年の「我等」三月号に絶妙の暗合ではあろうけれど佐藤の短歌『一夜妻千代の』が寄せられていることが或る年譜に見えている。「我等」は前年十一月春夫自身が創刊発起人として事務にたずさわった雑誌で、昭和三年の作は悉くこれに寄せて十一月に廃刊した雑誌だ。いわば自前の雑誌に、さらに短歌という述懐ではあり、当時『情戯録秘抄』なども書いて露出的傾向にあった佐藤の場合、一見芸者を思わせる「一夜妻」やはっきり「千代」とある名前など、暗合にせよ気にかからないでもない。この年十二月に佐藤は女優川路歌子(遠藤幸子。名作『田園の憂欝』時代の女性として記憶されていい)と同棲し、まさに「どん底」にいた大正六年六月頃までに谷崎潤一郎と初めて相い識ると、すぐ川路とは別れてい

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る。すでに四年五月に谷崎と結婚していた千代子夫人とも、この時に佐藤は顔を合わしたことになる。「一たい、赤木(佐藤)を不遇のどん底から拾か上げて光栄を浴びさせたのは、北村(谷崎)その人であるといふ事実を、赤木はいつも念頭から失はなかった。さうしてさまざまな感情に於て容易に人を許さない赤木には、一たん許す段になると最も深く感銘する気質があった。(中略)肉身の弟に対してさへさういふ点にかけては冷い北村が、赤木の出世のために尽した友情に就ては、世人がさうであると同打のづかじやうに赤木自身不思議に感ずる程である。それだけに、赤木が北村に注ぐ感謝と敬愛とは自ら深かった。さうしてただ芸術上の自尊と従ってその議論との外では赤木は、一切、年長の北村にひけ目を感じきぱくてゐた。自ら遠慮がちであった。また、世俗を無視して飽くまでも自我を屈しまいとする北村の気塊を、赤木は自分の弱気に比べていつも畏敬してみた」と佐藤は『この三つのもの』の中で谷崎と自分との関とげ係を要約している。むろんこれがこう書かれた時点(大正十四、五年)での一種疎をむき出した攻撃的意図は正しく読み取るべきだが、およそ小田原事件に至るまでの二人の力関係はこうだったに違いなく、その親交の深さは全く「不思議」と言うしかない。この所では却って余談に亘るのだが、かかる「不思議」は、質こそ明らかに違え、のちに今一度谷崎と妹尾との間に再現されている。谷崎にとって佐藤春夫と妹尾夫妻とには(より多く妹尾君子には)一、、脈相通じた必要が感じられたと私は見る。のちに機会を見て再言するつもりだが、この両者(佐藤、妹、、尾)には、たしかにあの「庄造と二人のをんな」にとっての「猫」に通ずる意義が谷崎によって創造的に付与されていた形跡がある。「猫」に未練は深くとも、結局はより大事なもの、佐藤に対しては谷崎自身の文学、妹尾に対しては捨子夫人との生活、のために打ち捨てられて、佐藤春夫は旧妻の手に、妹

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尾夫妻もまた旧妻古川下未子の手に渡されてしまう運命にあった。佐藤および妹尾に於けるあの「庄造」にとっての「猫」的意味は、これ一つを以て或る「谷崎論」に好課題たるを決して喪うことはあるまい。閑話休題とするには大事な余談ではあるのだが、ともあれ文脈を失しないためにも話題を佐藤と千代夫人との上に戻そう。瞠目すべき二人の作家の「不思議」な親交には、たんに芸術家としての親近感を越えた何かが、むしすぐせろ最初から谷崎の妻千代子が、或る有形無形の役廻りを宿世の縁としても引受けていたのではなかったか。「僕はお八重(千代子夫人)を捨てやうと思ふ。君は喜んでお八重を拾ふかい」と『この三つのもの』の中で北村(谷崎)は赤木(佐藤)に言う。「あの女は、君、馬鹿だよ……」と北村が言えば、「僕はお八重の馬鹿なところは発見出来ない」と赤木が答える。、、「要するにただうまが合はないのだよ。何から何まで。理窟はない、ただそれだけの事かも知れない。それがしかし男と女-夫婦の場合にはどんなに困ることだか」と北村が妻を評し去る言葉に憤りを感じながら、「翻って赤木自身は自分で思ったよりももっと多くお八重を愛してゐたのにも気づくので」あった。北村は妻のことを「ただ柔順なだけの家畜見たやうなものだ。霊性などはありやしないのだ」と言い、逆に今や夫婦別れの種になっている妻の実妹いわゆる「おせい」のことをさして、「お雪か。あれは君、

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猛獣だよ。しかし僕は家畜り嶽獣が好きだ。我侭でいきくとしてゐる。同じ獣な豪童り撰は猛獣を択ぶね。たとへ噛み殺される倶れはあってもね。いや、その倶れのためにもっと猛獣を愛するかも知れない。恐怖といふものは一種の強い魅力だからなL「お八重と別れることだけはもう動かない決定だ」と断ずるのである。この「お雪」が即ち『痴人の愛』のナオミになり、『卍』の女になり、『藍刈』のお逆様にも『春琴抄』の春琴にも、遥かのちには『癒癩老人日記』の螺子にもなりうるのであり、少くも昭和初年の摂津夫人捨子もまた、この「お雪」の「猛獣」的「恐怖」を「魅力」として体していなかったなどと想っては、よくよくこっけいな誤解に陥る。だが赤木は北村につくづくと言う。「お八重には何の欠点もないのだのになあ。温い純粋な心持を持ってゐる女だ。快活でもあれば柔順でもある。何よりの事には人を疑ふといふことを知らないのだ。馬鹿かも知れないが尊いやうな気がする……」と。そして、「さういふ風に君が思へばこそ、女房にしてもいいやうな心持にまでなるのさ」と当の夫の北村は赤木のお八重に寄せる愛を複雑に肯定する。これほども一人の「妻」をめぐって二人の男が、相反すること遥かに遠い感想を抱いたのが「細君譲うつつ渡事件」の一切だった。まさに必然の事件であったと言うよりなく、この「妻」の現の印象は、たとえ十分でなくとも千代夫人の数ある手紙が紛れない一端を明すことになる。「絶交」と「和解」の因縁にモんたくは、「離婚」と「結婚」に至る因縁には、余人の俄かに何度し切れない部分があるのだ。佐藤作『この三つのもの』は間違いなくその部分に意志的に迫っていて、二人の作家の資質を流石に的確に表現しえている。或る意味で信頼が利く。佐藤が『律しすぎる』で谷崎を目して「添田」と呼び、これを受けて、

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『神と人との間』で谷崎がわざと自分に擬した男の姓にも用いたことは前にも触れた。黙契あってのいわば競演かとも見えるくらいで、「絶交」の間柄でありながら話の分かりが早過ぎる感さえある。この「添田」一件が、谷崎の意図的な手口とすれば、ずいぶん無造作など思われる谷崎潤一郎の作中人物命名に、たいへん気になるいま一人の名がある。『細雪』の「雪子」だ。これ以前にも同じ「雪子」「お雪」という名の女性を何度か書いてはいるが、それ以上に今も引いた佐藤春夫の『この三つのもの』の「お雪」を谷崎は意識して受けていないか。これまた「谷崎論」の一つの狙い目とはならないものか。『細雪』の「雪子」は捨子夫人の実妹森田重子をモデルにした女性で、どこからみても作中の「雪子」に「ナオミ」の原型と言われたいわゆる「おせい」ないし「おせい」をモデルにした佐藤の「お雪」と似通うところはない。むしろ先にも言うように捨子夫人にこそ或るナオミズムが見抜かれていい。しかもなお谷崎潤一郎にとって千代子夫人の実妹「おせい」と捨子夫人の実妹「重子」との微妙な相似状況があったか、ありえたか、という問題の提起には意義が生じよう。おそらくこの問題は本書が関わっているその次の時期、昭和十年代、二十年代の谷崎潤一郎を論ずるに当たっての最大の伝記的かつ文学的課題の一つに相違ない。またも話が佐藤春夫の文学から逸れたが、ことほどさように千代夫人との再婚は佐藤の生涯をさながせのら完結させた、終嬉させたかも知れぬ、ほどの大事だったし、その安息した感じは昭和五、六年頃の妹打尾あての手紙、その文体、その内容によくもあしくも表われていると言っておけばおよそは足る。佐藤の前掲の手紙で、今一つ飼犬やら飼猫やらが話題になっている。谷崎、佐藤両家とも犬猫を飼う

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せのおのが大好きだったが、妹尾はその方面でも親切に世話を焼いていた。そもそも作家が私生活で犬猫を飼うくらい、話の種にするまでもない。が、少くも谷崎潤一郎の場合には『猫と庄造と二人のをんな』という傑作ゆえに無視できない。その理由は一端を先に述べ、今またおりその機でないのは承知の上で、やはりここは佐藤にのみ限って少々「猫」の話をしたい。はや私は、夙くに言い及んでおいたが、かねて谷崎と佐藤の間が世間もそう思い二人もそう振舞ったのとは逆に、或る時期までむしろ佐藤の方がメフィストフェレスでありえたという想像をしている。大胆に、というより突飛に聞えるかもしれないが、『猫と庄造と二人のをんな』のあの「猫」は、まずは谷崎の内なる佐藤春夫その人として生きてはいなかったか、やや類推するに形は崩れて見えるが「二人のをんな」とはこの際千代子夫人と丁末子夫人(ないし前夫人に代りうる「女」)と見ていいだろう。むろんこの作にはまた別の微妙に重層化された視点と読みとが留保されねばならぬことは先に余談的に述べたとおりとして、例の佐藤の「和解」の手紙にみえる、(また平成五年に至って公表された谷崎夫人へのこうふん佐藤の恋文にみえる、)率直とも真蟄とも読める文体のかげに、本質的に冷淡な「猫」的加害者の口吻がひそんでいなくはないというのが私の読み方なのである。私は、遥か大正初年、まだ石川千代子が谷崎潤一郎の妻ともならない、佐藤と谷崎ともまだ相識でなかった頃の、佐藤と千代との一夜の出違いをすら恐に空想しながら、そんな佐藤の存在を千代もろとも切って落さずに済まなかった谷崎の、それとは一度も外に言い表わさなかった被害感の如きものをかなり手強くさぐり当てている。その感触は、佐藤の死の直後に谷崎が書いた前山二つの新聞原稿にもよく読みとれる。私の「猫」佐藤春夫説のこれがたわいもないおよその骨子としておきたい。今一つの「猫」説については、改めて別の章で触れる。

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またもとの手紙に戻って、佐藤が上京してまもない昭和六年五月に、「摂津氏」が佐藤家を訪ねたこあまつさと、半日「お目にかかりました」と佐藤は妹尾に報じ、剰え妹尾らに多忙だろうが一度「お出かけ下さいますまいか」とは、どんなことを意味するのか。はじめ私は、妹尾に上京来訪を勧めるのかと取ったものの、文脈から推して妹尾も一度「摂津氏」方に出向いて話を聴いてやれということだろう。「根津氏」とは捨子夫人の夫清太郎に相違なく、「半日」の話の事実上の主題も、恵美子出産も絡んで多分妻に関わる谷崎の存在そのものと想うしかない。谷崎と摂津夫人との交際の進度ないし深度は、たしかに従来意図的・演出的に告白ないし証言されていたよりも、遥かに早くに進み深まっていたという私の推測を、この佐藤の手紙もまた傍証している。佐藤は、また千代夫人も、およそ摂津夫人がらみの全部をことたま遅くともこの頃には承知していることが知られ、だからこそのちにあの『椅松庵十首』を「古東名刀」に送ってこられた際にそれが何を詠じての挨拶か、直ちに思い当だったはずだし、昭和八年十二月一日夜脱稿の『最近の谷崎潤一郎を論ず』の末尾に、ことさら「詠嘆的な『藍刈』、拝情的な『春琴抄』を書くに霊感と情操とを作者に与へし佳人のありやなしや」を示唆することも十分可能だった。さてこの根津夫人との親交に呼応する当時の谷崎作品として、『恋愛及び色情』(「婦人公論」昭和六年四月-六月号)を挙げていい。谷崎はこの時期、一つには鮎子の就学問題について、二つには妹すゑ子や伊勢や弟終平らの身の振り方について、三つには重圧となっていた財政逼迫および税対策上やむなく岡本海ヶ谷の豪邸を一切売却する問題について、頭を悩ませていた。しかも古川下未子との縁談をどんどん進めてすでに同棲中だった。その真最中に谷崎はこのかなり長いエッセイを書きついたり、根津夫人も誘って新妻(挙式前)や

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佐藤・妹尾夫妻らと一緒に造成幸花見の旅にも出向いていたと『桜襲』は謂うのだ。その日常はあまりに忙しいものだった。が、その忙しいさなか、谷崎は『恋愛と色情』によって何を書こうとしていたか。まず『源氏物語』を話題にしながら「平安朝の恋愛文学について少しく観察」を加え、そこに見た「男女関係」の特徴を、「女性崇拝の精神」「女を自分以下に見下して愛撫するのでなく、自分以上にひざまづ仰ぎ視てその前に脆く心」だと言いきっている。女人拝脆そのものは谷崎文学の誕生このかた見られた傾向とはいえ、これを『源氏物語』以下の平安朝文学に大がかりに絡めつつ遠くから持って廻ってきたような論法に、むしろ当時の谷崎のいわば計算づくの肉声が隠されてある。それを隠すようでちらっかせている自愛自慰の如きものが谷崎の文章を鷹揚にもエロチックにもし、勢い読者の気分をもおっとりとなやましいものにさせている。例えば「源氏物語の主人公は、大勢の婦女子を妻妾に持ったのであるから、形から云へば女を玩弄物扱ひにしたことになるが、しかし制度の上で『女が男の私有物』であったと云ぶことと、男が心持の上で『女を尊敬してみた』と云ふこととは必ずしも矛盾するものでない」というのは、遠い昔のことを話すようでいて、、谷崎の「源氏物語」体験の根を固めた一節と読まねばなるまい。まして「私かご?で問題にしてゐるのは」男が女の映像のうちに何かしら「自分以上のもの」「より気高いもの」を感ずることだとして、「光源氏の藤壷に対する憧爆の情は、露はに表現してはないけれども、や?それに近いものだったことが推し測られる」と言い進む谷崎は、今まさに書こうとしていた『盲目物語』にかりて、心秘かにその女主人公に擬していた現実の摂津夫人捨子の姿に、紫上は無理とえじたしても同じ叶わぬなら「藤壷」をなぞらえつつ、あやしくも衛士の焚く火の夜は燃えていたのかもしれ

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ない。もっと大胆な想像をすれば、おそらく谷崎としてはじめてここへ「藤壷」の名があらわれたのは、「摂津氏」が東京の佐藤宅で「半日」も何か話して行ったという事情と思い合わして、もう忍びよるよる光源氏「憧慣の情」の幾分かを秘かに満たす機会すら、後日の冷泉院に当たる胚胎すら、はや、ありえたのかも知れない。谷崎はそのうえで、「われわれの歴史には個々の男性はあるけれども、個々の女性と云ぶものはない」といった古代の認識に立ち、必ずしも谷崎には、谷崎のこれからの文学には、それがただ古代人の認識にとどまるものでなく、自分ないし自分の文学の大事な認識になるであろうことみなぎをはっきり予言する。自信が滋っている。それにしても谷崎がこの長いエッセイの中ほどで、「西洋には『聖なる淫婦』、もしくは『みだらなる貞婦』と云ふタイプの女が有り得るけれども、日本にはこれが有り得ない。日本の女はみだらになると同時に処女の健康さと端麗さを失ひ、血色も姿態も衰へて、醜業婦と選ぶ所のない下品な淫婦になってしまふ」と書いているのが、十分に注目されていい。文意は、裏返すまでもなく、谷崎の求めて求めえざりし「女」ないし「妻」の一つの理想像が、「聖なる淫婦」「みだらなる貞婦」だったことを明らかにしているとともに、日本の伝統的な恋愛および色情の系譜上にこれから谷崎が文学的につけ加え創り出そうとする「女」や「妻」の像がそこへ向かう、ということを宣言している。その到り着いた一つの表現は、昭和三十一年の『鍵』に表現された「妻」を経て、三十四年の『夢の浮橋』の「母」となるのだろう。そうであると否とを問わず、谷崎はまずその手物めに、戦国の世を生きたお市の方や淀殿幼少の頃の、、「茶茶」の面影を一盲人の触覚を通して描き出そうとしていた。その現実の下絵を、谷崎が新婚早々の

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丁米子夫人ならぬ人妻の根津夫人にはっきり見定めていた事実は、やはり千鈎の重みをもっている。

谷崎潤一郎、昭和六年五月下旬、新妻丁末子を伴い『盲目物語』執筆のため密教研究を兼ねて高野山へ上る、と書けば恰好はいいが、半分以上は債鬼に追われての山篭りというのが実情だった。『伝記』はその間の事情をこう要約している。「そのころ潤一郎は、借財が約二万三千円ほどあったが、そのうえに昭和四年、五年度の所得税が二千四百円と付加税四百円の滞納があったので、その返済にどうしても家を売るよりほかなかった。前年には一高時代の親友津島寿一が財務官だったので、それに頼んで納入を一年間延期してもらうよう、取計らってくれたが、二度目はそうもいかなかったことが『同窓の人々』に出ている。そのため取りあえず、三万円程度で売却する考えであった。権ヶ谷の家は、毎月の出費も多かったが、土地だけでも四万二千円支払い、そのあと新築したりして、六万円以上の金がかかっていると語っている。しかし、いまはそれに拘泥しているわけにいかなくなっており、ともかく早く売る必要から、安い値段でも我慢せざるをえなかったのだ。」ハネムーン所詮蜜月という仕儀ではなかったが、丁末子夫人にとっては、事情は事情としてもやはりこの高野山行きは人里遠ければ遠いで、新婚の夢まどかな蜜月旅行には相違なかった。

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三十四昭和六年五月二+一日和歌山県高野山龍東院谷潤より妹尾リーク様あて端書毛筆山はまだ寒いです、牡丹の蕾はこれから開くところ、っつじもつぼみです、寺は大変気に入りまし(ママ)た、ぜひ遊ひにいらつしやい、毎朝六時起床、ねむいです

高野山へ上っての第一報である。

三十五昭和六年五月二+一日和歌山県高野町龍衆院内奏雲院谷崎丁米子より妹尾きみ子様あて封書毛筆いろくとお世話様にな呈してまこ差ありがたう存じ手貴女がいらつしやって下さらなければ到底容易には出来さうもなかった整理がおかげ様でこんなに早く出来ましてこうして今気持のよい生活をさせていたゾけますほんとにありがたうございます御家では刺激剤が居なくなりましても御変りなくムッシュー・セノヲは名誉維持をなさっていらつしやること?存じますが、如何でせうかあの日私共はおそく志賀さんの所へつきました、盛に志賀夫人の御口から貴女様の御事が洩れてゐました(志賀夫人も月〔一字不詳〕さんです。)次の日、起きたのが十一時、三時迄志賀邸に居座って庭で面白く遊んだ上、志賀さんに見送られて、夜の八時過ぎに目的地の親王陽につきましたこ?の和尚は学者なので大変結構でございます、その上非常に親切なので何も彼も大変好都合に参ります、昨朝は驚いてはいけませんよ五時に起きました、

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何だか小僧が襖の隙間から覗き見してゐるやうでどうも安心して寝られませんでした、その日の午前中にこの泰雲院へ移りました、こ?は新築された寺ですが仏像もなく完全な一軒の家で大変に広うございますが住むのは私共二人限りです。ですから御いで下さいましたら御好みの御部屋を提供することが出来ます早くいらつしやい食事はこ?の隣りでこの寺を管理してゐる龍泉院から三度づ?運んでくれます山は大変に気持がよくて何も彼もい?のですが矢張り新聞記者やその他の人々がやって来まして困ります一番困るのは思ひもよらない時に小僧が現れることであります、兎に角、非常に面白い所で自由に立川流なども研究出来ますから出来るだけ早く御出かけ下さい二人してとても首を長くして御二人の御いでをおまちして居りますまことに恐れ入りますがその折に、こちらは朝タがまことに冷えますので潤一郎の袷せ羽織をどれでもよろしうございますから御もち下さいませんでせうかどうぞ何も彼もよろしく御願ひいたします御主人にもどうぞ山々よろしく潤一郎も山々よろしくと申しました五月二十一日朝下未子拝妹尾御奥様二伸

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しやくなげ今こちらには山吹、石南花、牡丹、が美しく咲いてゐます、昨夜ホテレ町を見物してきました、ホテレの多いのにおどろきました、みんなきたない女でした、こちらは肉が高うございます、

三十六昭和六年五月二+一日紀州高野山龍衆院谷崎潤一郎より妹尾健太郎様.全御奥様あて封書毛筆禦紙二通たしかに肇、いろく御、心配ありかたく存亨電燈会社その他請求の方面少からずあること、存じますがそれらの負債すっかりきれいにするために山で仕事をしてゐるのでありますから遠からず悉皆消却いたすべく今後一箇月ぐらゐの間に順ヒすゑに処理いたし切ると思ひますなるべく急なものから先へいたしますからその順序等をお末に御き?しかるべく置をねがひます、又請求者かまゐりましたら可然御話し置きをねがひます、さて山中の生活はまことに快適にて此分ならミツチリ仕事が出来さうです、泰雲院と申すのハ龍泉院の中にある寺にて、寺とハ云うもの?普通の平屋住宅にてそこを全部提供され自炊も出来るやうになつて居ります、大兄にもここは必ず脚気に召すこととおもひますから是非最近に一度御いでを願びます、電話は大阪以西八通じませんから一寸電報でも頂けバ好都合です、いづれ拝顔の節万ヒ申述べます何分ひろい家にたった二人きりですから丁末子ハ「ピコン」以外に^ママ〕何の仕事もなく退窟の体ですが、そのうちにお友達も出来さうです五月二十二日

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潤一郎

健太郎様きみ子侍史

夫婦それぞれに相当興味深い手紙になっている。丁末子夫人の幸せそうな言辞の端々に、幾分その人柄が反映している点もほの見える。そのうえ、春浅い頃からの「練習」が効果をあげてか、コ番困るのは思ひもよらない時に小僧が現れることであります」とか、「自由に立川流なども研究出来ます」とくだ、、いった条りに谷崎の性生活お仕込みのほどが想像されたりもする。密教研究とやらも、もっぱら「立川流」であったものか、谷崎の方の、「丁末子ハ『ピコン』以外に何の仕事もなく」とある「ピコンしは当時好事家に受けていた一種の催淫剤であるし、「リーク様」とは、やはりそんな効果の西洋韮だというから、なにしろ日ごろ暗号で喋るのが好きな谷崎だけに、やはり蜜月というにふさわしい濃厚な雰囲気は醸されている感じだ。高野山の片隅ながら「ホテレ町」は繁昌の遊女町であり、「刺激剤」「名誉維持」といったいかにも谷崎、妹尾両家の、やや異常環境に於けるセクシイな譜諺に、特にこの時期の妹尾夫妻が谷崎のために、その文学と私生活の両面で果した特殊な雰囲気づくりの役割が察せられる。それは日を次いで手紙の中にもあらわれてくる。以下差出地はたんに「龍衆院」と書く。一方、谷崎が「ミツチリ仕事が出来さう」だという仕事とは、『盲目物語』を書きはじめ書きあげることだった。かねて準備はされていたのである。しろもの谷崎にとってたかが借財の負債のといった代物は何もこの時に限ったことでなく、頭から稿料の前借

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か借財かで暮すしかないと生活態度ははるか昔に決めてかかって意図的な賛沢を絶やさなかった人だから、ほとんど苦にもしていない。参考までに、この谷崎の高野山第一声と奇しくも同日に書かれた佐藤春夫の書簡を挙げておく。

三十七昭和六年(推定)五月二十二日関口町(推定)佐藤春夫より妹尾健太郎様あて封筒先ペン書御手紙拝見ランプや厚犬やらいろく御面倒馨の畜保存下されありがたく存します。一度御上京遊ばされる出御待ち申し上ます。夫人は近ごろ御健勝の御事と存じますちよも御噂申しては居りますが多分御無沙汰申して居る事と存しますが不思御恩召を乞びます五月廿二日佐藤春夫妹尾健太郎様玉几下

佐藤が自身ぜひ書かねばならぬ手紙とは見えない。わたさて谷崎潤一郎の高野籠りは、私的事情と文学的要請の両方に応じて予想外の長期に亘った。さきの丁末子夫人の手紙から推しても、高野山親王陽、そして龍衆院内の泰雲院に腰を据えたのが、遅くも五月二十日より幾日か前と考えられる。直前、奈良に住んでいた志賀直哉邸に一泊したようで、一女学生、

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一婦人雑誌記者から三段跳びで谷崎夫人となった丁末子の、「志賀さん」「志賀夫人」「潤一郎」といった呼び方に幾分上気した火照りのような語気が響いている。くさかはたそして谷崎夫妻がついに高野山を下りて、大阪府中河内郡孔舎衙池ノ端稲荷山遊園地にある根津商店寮の仮住居に転じたのが、十月極初だから、足かけ六ケ月、正味四ケ月半に及ぶ龍衆院での執筆三昧だった。「仕事」ができると言った予感たがわず、「中央公論」九月号に発表の『盲目物語』だけでなく、ノノクニ「改造」九月号に『紀伊国狐葱二漆掻一語』を、「犯罪公論」十月号に『覚海上人天狗になる事(原題「天狗の骨」)』を、そして「新青年し十月号からは『武州公秘話』を連載し始めるところまで、さらにその他に『「っゆのあとさき」を読む』(原題「永井荷風氏の近業について」)を「改造」十一月号に、『佐藤春夫に与へて過去半生を語る書』を「中央公論」十一・十二月号に発表する少くも準備や用意は高野山暮しの間にしていたのである。その充実ぶりは驚くべく、この期間、或る昂場感の如きものが谷崎を捉えていたことを推量させずにいない。九月一杯仕事をしていたとなれば、まず普通十一月号くらいまで少くも草稿は仕上げていたと見ていいだろう。これらの「仕事」について考える前に、ちょっと当時谷崎夫妻の日常も垣間見ておこう。おいおい龍衆院に来客も顔を見せはじめていたはずだ。

三十八昭和六年五月二±二日龍衆院谷崎丁末子より妹尾律太郎様.善美子様あて封書毛筆たゾ今奥院から帰って見ますと手紙の束がとゾいて居りましてその中に御手紙もまじって居りました

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荷物などのことまことにどうもありがたうございます一昨日と昨日は雨、今日はまた大変にい、お天気です私は手紙を書くことの外用事がなく怠くつで困ります、まだ後の荷物がとゴきませんので本をよむことも出来ませずあくびばかりして居ります、マイは勉強、感心に夜は十二時まで朝は六時頃に起きます、小僧の神出鬼没は決してピーに邪魔になるといふのではありません、聖山のこと故、まことに清浄無垢な心をもつてVATや百フランなどのことは思ひ起しだにしないで居ります、あくびの出るのはつまり(こ、の所一行半削除)龍泉院の和尚が毎日一度は尋ねて下さいます、六十三才ですが奥さんは三十七です、私共の好敵手です、潤一郎は今錘詰を開けるに苦心してみます、シャケで今晩たべるためのものです、おせうじん窪かくお℃うございますがすぐ要かが窒一ます、今日輪林院からいともや?こしいローマ字の手紙が来ました、ツノダルの御礼です、早く遊びにいらつして下さいしげきざいがないと大変淋しうございます待ってみますチューちやんギンちやんチビ公達によろしく

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五月二十三日リーク御夫妻

丁末子

たいへん面白い。高野山での日常については谷崎丁末子の署名で「改造」に『高野山の生活』と題してこまごまと報告しているのがとにかく便利だが、やはり妹尾夫人あてのこの手紙には、相手が妹尾夫人でありまた手紙でなくては書けないむれたような筆触がある。当時者以外には判じのつかない暗号めいた「ピー」だの「VAT」だの「百フラン」だの「聖山」だの「好敵手」だの、みな新婚者らしい、セクシィで女らしい内緒ばなしかっは狼談じみた口調であり、(こ、の前一行半削除)など思わず読んでいてにやりとしてしまう。美食家の谷崎が「精進料理」の空腹感に耐えかねて、「シャケの罐詰」をえいえいと開けている図もいいが、フランスでは女性の尿を百フランで買う変態者がいるなどという話をし合ってきた仲で、夫人が、六十三歳の和尚と三十七歳の奥さんと引き較べて、「マイ」(ハ.スバンドか)との年齢の差を感じているあたりにも、微妙な「怠くつ」感の漂っているのが分かってはなはだ面白い。「翰林院」は例の神戸三宮のバー「アカデミー」のことである。これらの手紙から敢てげすの勘繰りを試みる限り、丁末子夫人という女性は「練習」しだいでかなワあけすけな、それがまた谷崎好みとも谷崎に向かぬとも取れる"若い"妻だったとよく分かる。またそういう谷崎や丁末子夫人と同次元で親しくつき合えていた妹尾夫妻であったことは、秀作『武州公秘話』にも関って来そうなので、思いのほかこの際大事に記憶されねばならぬ。だが、何と言っても貴重なのは、この手紙から、もはや谷崎が本調子で仕事に取組むらしいのがよく

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分かることである。多分『盲目物語』が入山以前すでに着手されていて、或る程度の勢いもついたところで高野山へ持ちこまれたのではないか、との推量も十分科く。私はかねて、この作の真の推進力が、例の造成寺の桜を摂津夫人捨子と「二人」で観た前後に具体的に胚胎したものと想像してきたが、根律家で北野恒富描く『茶茶』の画像を実際に観せて貰ったのが、或いはその頃だったのかも知れない。昭和七年九月二日に摂津捨子にあてて書かれた谷崎の仰々しいほど有名になった恋文には、「実は去年の『盲目物語』なども始終あなた様の事を念頭に置き自分は盲目の按摩のつもりで書きました」と明言されている。たんげいむろん、谷崎の内長と外面とには端視すべからざる本質的な「嘘」と言ってわるければ「演戯」が介在し、谷崎は嘘を真にし、演戯を現実行為に振り替えることを、己れに対してはもとより、身辺の他者にも持前の圧力と芝居気で勢い強請するところがあった。谷崎自身の言葉を多少翻訳して伝えるなら男が「女」を「玩具」にする一方「神」のようにその前に脆くのは、何ら矛盾も背馳もしないのである。谷崎は、『佐藤春夫に与へて過去半生を語る書』(以下、『語る書』と略)に於て、『盲目物語』執筆こうやろうき上当時の、丁末子夫人と二人で高野に籠居当時の心境を、こう書いている。「御承知の通り現在の僕は自分より二十一歳も若い妻を迎へて、夫としては至極幸福に暮してみる。ただ四五年前に比べると非常に貧乏してゐるので、その点が妻に気の毒だけれども、しかし金の問題などは、夫婦間の不和から見れば何んでもないことだ。それに、自分の口から云ぶのも可笑しいが、丁末子は僕が最初に考へてゐたよりずっと欠点の少い女であることが、一緒になってみてよく分った。」「僕は丁米子との結婚に依って、始めてほんたうの夫婦生活といふものを知った。精神的にも肉体的にも合致した夫婦と云ぶものの有り難味が、四十六歳の今日になって漸く僕に分った訳だ。」普通に読めば、ここは谷崎、根津夫人に対してか丁末子夫人に対してか、どちらかで「嘘」をついているが、「嘘」をそのまま「本当」に変える論理は谷崎のいわゆる「神」と「玩具」との「「間」にいささか都合よく、しかし谷崎的には「必然」の帰結としてちゃんと用意されていた。谷崎という人は、決して同時に二人の女を愛することができなかった、と捨子夫人は後年に証言し、一度ぴ摂津夫人に愛を告白して以後は丁末子夫人にそれを隠しておけなかった、とも書いている。それ上うらん自体を疑う気は毛頭ないが、高野山の蜜月がさながら摂津夫人を賛美した『盲目物語』一篇の揺藍でもあった点はやすやす看過ごしてはしまえない。どうしてもどちらかを「嘘」とするなら、結果論めくが、丁末子夫人への『語る書』での評価を割引くしかない。一つには、『語る書』一篇が雑誌発表の以後、谷崎によって優遇を受けなかった点を野村尚吾も意味ありと考えている。佐藤夫婦への呼びかけはいい。が、新婚生活への感懐そのものにやや上ずった自分を見出して谷崎の心にふと臆するところがありもしただろうし、その後の成行と大いに餌語するのも気後れがしたに違いない。だがそう読むまでもなく、まさに今引用した部分の前後には、もう少し谷崎の丁末子夫人に対する「本音」がすでに窟出しているのではないか。「千代子との十六年間に亘る生活が、いかに不具な夫婦生活であり、いかに双方のために不幸なものであったがが、1勿論それはその当時から感じてゐたには相違ないがー、此の頃になって一層はっきりと呑み込めて来た。」「僕は前の結婚生活に於ける最後の五六年と云ぶものは、殆ど性的能力を喪失

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したかとさへ思った。」この辺から、谷崎のいう「ほんたうの夫婦生活」が、「精神的」によりも、より「肉体的」に「合致」する方を「有り難味」としていたらしいことが分かる。丁末子夫人や谷崎の高野山に落着くと早々の手紙に、しきりに「刺戟」を求めた「夫婦生活」の一面が好んで暗示され話題にされている事情とこの谷崎の述懐とは、鮮明に照応する。さらに注目に値する発言もある。「よく世間には、二十も歳の逢ふ女房を持つと女房のやうな気がしないで、娘のやうな気がすると云ふ、、、、、、、、人がある。僕も結婚する迄は大方そんなことだらうと思ひもしたし、又実を云ふと、そこに一種の興味を感じてもゐたのだったが、結果は予想の外だった。」(傍点秦)谷崎は、二十五歳の古川下未子を、例えば光源氏が若葉を二条院に根移しし、思うままに農け、教え、お、、、生うし立てようとした親がましくかつは好色な少女愛とほとんど軌を一にする興味と関心とをもって妻●たしろに迎えたのではないか。摂津夫人捨子という「濠壺」を手に入れることが叶わぬと見た上の一種の形代であり、それも前妻千代子夫人との場合のいわば男としての不能感覚を脱却することさえ期待しての、性欲対象としての「若い妻」だったのではないか。だが「葉上」は光が「藤壷」に寄せる理想の「母」の面影を文字どおり「紫のゆかり」として本質的に備えていた。業上その人の美しさ聡明さも限りない魅力になっていた。ただの形代を溝か抜け出た理想そのものの個性を「妻」として備えていたがために、光源氏の現世の愛を終始一貫つなぎとめることができた。

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根岸夫人を彼方に置いて丁末子夫人を「藤壺」に対する「紫上」とみるには、捨子と丁末子に何一つ「ゆかり」がない。育ち、教養、人柄、肉体的生理的特徴などどちらが上か下かと言えないにせよ、ほおとんど共有する雰囲気をもたない。しかも情欲を底に秘めて「娘のやうな」若い女を生うし立てるといλら一う一点が際立って意識される時、それはナオミに寄せたあの誠治「痴人」の欲望や態度と択ぶところがない。言ってみれば、谷崎はこの時点で、何としてもまだ「痴人」の愛に「一種の興味」を失いきっていなかったのだ。それところがこの「興味」は最晩年の『痕韻老人日記』の蠣子に対する「興味」にまで、地下水の如く脈々と谷崎の中に終生生きのびた。興味がついに十分な満足をえたかどうか、敢て今は言うまい。ともかく、丁米子夫人との場合に限れば、「結果は予想の外だった。つい去年までは僕を『先生々々』と呼んでみた彼女であるが、一旦妻に持ってみると、やはり『妻』以外の何者でもない。『妻』と云ふ感じがする程度は、千代子の時と少しも変らないしという不満足に終ったのである。これを、谷崎が丁末子夫人に対して、讐えば「聖なる淫婦」「みだらなる貞婦」を求めて失敗した、「おせい」の場合以上に失望した、という本音の言表と読めなくない。またーえば、丁末子夫人が谷崎にとって「神」にも「玩具」にも成りきれず、却ってただ、、、谷崎潤一郎の普通の「妻」になりたがった、それが谷崎を落胆させている、とも読める。この反映がのちに捨子夫人に対し、なるべく「妻」らしく迎えない、「妻」らしくさせない、という頑固な仕向けになり、夫人はひたすら夫の望む「演戯」をしつづけることによって壮烈に「妻」の座を天成の「芝居気」で守りきったのである。さて・ここに五月二十六日づけ東京牛込書久井町の多分谷崎精二宅から末弟終平が嬬屠にあてた長い

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一通がある。が割愛する。『回想の兄・潤一郎』『懐しき人々』の筆者で、一風ある視野と感覚をもって谷崎潤一郎・精工および谷崎家の内情と周辺とをかずかず証言しつづけてきた谷崎終平という人物に私はたいへん興味を持っている。その手紙にも奇妙な味が出ている、のだが、それは自ずと本稿の将をはみ出た興味に過ぎない。

三十九昭和六年五月二+九日龍衆院谷崎潤一郎より妹尾甚太郎様あて端■毛筆先日は何の御あいそもなく失礼しました、無事御かへりの事と存じます、御預けした書籍の中に菊版洋綴で「日野川誌」と云ふ土中下三巻の本があります、この中の上巻一冊だけ至急御送り下さいませんか、右御顧ひ申ます

妹尾夫婦が龍衆院を訪れたのは先の丁末子夫人の手紙の日付からして五月二十六、七日頃と想われる。ここに「日野町誌」とあるのはむろん『盲目物語』資料の一つで、「奥書」第四条に「蒲生氏脚後室」との関連で「可レ見」とある。谷崎は同じこの「日野町誌」に拠って、のちの『春琴抄』佐助の出身をも江川日野に当てている。その発想の時期が昭和五年以前の岡本時代にも遡りうることは、先に「女医」の話題が出た時に触れておいた。同じ盲人の糸、竹に関わるはなしではあり、『盲目物語』が却っ、て原『春琴抄』ともいうべき作の着想を手直ししたものか、と推量することも十分可能だろう。次の手紙でも分かるように琴三味線は谷崎家日常の習いであり遊びであった。妹尾はこの当時、谷崎家の家財、蔵書、衣料および留守宅のほとんど一切を預り管理していたとみえる。

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四十昭和六年六月一日龍泉院谷崎丁未子より妹尾喜美子様あて封書毛筆今朝程は御手紙をありがたうございました御二人様がいらつして下さいました間は非常に賑やかに楽しうございましたのにまた淋しくなつてしまひましたまた早くいらつして下さい待つて居ります写真は現像だけ出来ました近日中に焼いて御送りいたします●'4御琴は昨タの夢の今朝さめてゆかしといふところまで習ひましたが昨日も今日もさぼってしまひましたから何時あがりますこ撃ら、その上に奈く繁お窪雇く菌り手、私がおけいこをしてゐます時潤一郎がはじかりへ入りますと(帽子をぬぎますから御ゆるし下さい)切角のお通じがなくなるさうです、こんがう羊じ昨夜散奉がてら大門へゆきましてまた仏法僧をき、ました、金剛峯寺の前の道の電柱にむさ、ぴ(のぶすま)がのつかつてゐました、おぎんちやん位の身体の大きさですゴちやん位の尻尾の長さでした、むさ、びを飼びたいと思ひま、、、、す、もうぢき梅雨になりますからお庭の白椿やさんしよなどを御移し植えになれますね、その他何でも御入用の花はみな御移し下さい、それを喜びます、まことにすみませんが潤一郎愛用の手紙用封筒即ちこの封筒を至急一箱御送り下さいますやう御題ひいたします

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泰雲院の庭先きに咲いてゐます黒っぽい紫色の花(注……ここに巧みな昼絵で草花が描いてある)は「とりかぶと」と申しまして猛毒を持ってみて北海道ではアイヌが矢尻に塗るのに用ふるさうです、今かみなりがなりはじめましたからこれでやめます、恐しくて頭痛がいたしますから御きげんよういらつしやいませどうぞ家のことをよろしく御顧ひいたします六月一日丁未子拝御奥様二伸●▼浅野遊量子さんは大阪府中河内郡枚岡村字額田でございます、(巻紙上に別に、左の一文のあるのは溜一郎の筆跡。)午後六時半、だし今書物落手、まことにありがたうございました、*『卍』の大阪弁などのために一時、秘書として潤一郎の劇作に協力した人。丁末子夫人らの仲間と理解しておよそ差支えない。

四十一昭和六年(推定)六月五日関口町佐藤春夫より妹尾仁太郎様あて封一●毛筆犬の事ハそれとして御門を得次第一度是非御来遊持上帳仔犬運送之件に就き御心配をかけ毎度乍ら有難く御礼申し上條御来状の趣一ヒ拝諦承知致し候間万

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事よろしく顎上條又本日は珍味を御恵送被下着嚇有難く賞味致し候右御礼まで六月五日妹尾様

佐藤拝

四十二昭和六年六月六日寵泉院谷崎丁未より妹尾喜美子様あて封■毛筆毎日快晴がつゴきまして今日はまるで真夏のやうに喧しく揮の声がきこえて参りますがそれでも家の中に居りますと薄ら寒くてまだ袷がはなされませんあまりいろくと御聖姦って農れ奮やしまいか忘配いたして居り手姦何でいらつしやいませうか^ママ)岡本の梅ヶ谷邸が瀬尾夫妻の嘉であるこ差んかよく奪て居り手奮う薫轟差かくのやきもちやきですから戦闘中は側へ寄せつけないやうになさいますことを御注意申し上げます御夫嚢いらつしてからそれ葬健強く製剤差りす茎して手く私はこの頃痩せました、^マ5矢張り妹尾夫妻の効呆は威大なるかなと私共三嘆いたした次第でございます写真は例の新聞屋さんに焼きっけをたのんでありますからもうぢき御送りいたします五日頃に下山致しますやう申して居りましたが仕事の一段落がつきませんので十日頃になると思びます、おたけをどうぞよろしく御題ひいたします、今月の文楽は是非見たいと申して居りますが御定様は如何でいらつしやいますかすえ子さんが東京へ参ります時にはまことにおけっこうな御饒別をいただきましてありがたうござ

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いましたチビ公のこと京都にさう申してやりましたからそのうちにいたゴきに参りますこと、存じます、その節はどうぞよろしく御題ひいたしますおことは黒髪がすみましたが、おけいこをするたぴに潤一郎が、「ぢようずです、恐れ入りました一と申しまして如何にも馬塵したやうにニダく笑ひいたしますので私書箸ておこ呈す、ですからまだ二三日は黒髪ぱかりしやうと思ひますがお師匠さんが怠くっさうなのでどうしやうかしらと迷ひますどうぞ御きげんよういらつしやいませ六月六日丁未子拝妹尾御奥様た■今小包たしかに落手、まことにありがたうございました

このあとの六月十日づけで、東京市外小松川町谷崎すゑ子から岡本を睡れるに当たって世話になった妹尾宛礼状が一通残っている。終平といいすゑ子といい、またこの時期には上の妹の伊勢といい、潤一郎と清二の兄弟にとってはなかなか荷の重い負担になっていた。それが理由で一時期、この長兄と次兄との間に感情的な溝を生じたりしたことも今ではよく知られている。が、それもこの際谷崎文学の理解には第二義のこととして、すゑ子の手紙も割愛する。

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やはり丁孝夫人の手紙に、妹尾夫妻の来訪が、「非常に強い刺戟剤となりすぎ一て、「まずく私はこの頃痩せました」という暮しぶりに眼をとめて欲しい。これは、つづく→武州公秘話』のサディスティックなマゾヒズムと大事に関わっている筈で、「妹尾夫妻の効果」の大きさに改めて言い及ぶ機会があろうから、なおさらである。

四十三昭和六年六月+二日鷺泉院谷崎とみ子より妹尾甚太郎様・喜美子様あて封■毛筆タ食を終つて昨日の日記をつけるために机の前に座りますと「オクサマーオクサマー」といふ声がいたしますはてき、覚えのある声だが誰かしら、まさかたけの声ではあるけれども今時たけが来やう筈が無しといぷかしみ乍ら出てみますと、矢張りたけでした、やれやれこれで私は明日からおいしく食事が出来ます、それにつ茎しξまことにいろくと御世話様になりましてありがたうござい壱た、長々とどうもアキシデントなどにはとくにお邪魔でございましたでせうに、今日は丁度私の誕生日でございます、そこへ沢山のお菓子を御奥様からはいた■きますしカラスミは参りますし、「さすが奥方の誕生日で大したものです」といってからかはれてしまひました、この順風呂は龍衆院の方に入りに行って居ります^ママ)所が小僧氏ながく親切ぶって畳加勢君にきては亨アルをいたし手、そこ酒一票川柳を作りました御加減は如何ですかとのぞいて見

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するとまたすぐに、昨日のある夫婦の生活をよみました、女房は昼寝、亭主は頭痛なり、今晩からはもうこういふわけには参りませんですね、大変な税かか、つて参りましたさうでほんとにいくら、お金に御不自由はないとは申せ、一万円とはまた大変でございますね、うまく話がつきますやうに祈って居ります、支払が大変におそくなってしまひました、岡本以外の所のはこちらから直接送りまして払びますが岡本の分だけまことに恐れ入りますがどうぞよろしく御たのみいたします、仕払はなけれぱなりません所と金額とを下に列記いたします。山田(五月分)百三十六円四十二銭中西二十六円七十三銭佐海谷(ニケ月)十五円弐十銭

薬中大北西難局乳家屋何万

(二ヶ月)三十八円二十八銭四十三円二十九銭十五円二十六銭五十六円八十銭六円八十銭七十一円九十三銭

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大西(ニケ月分)十七円七十銭鳥安三十三円六十二銭洗濯屋十七円三十六銭綿屋三円五十六銭計四百七拾参円四銭也もし私の計算に間違ひなけれぱ以上の様になります、しかし、今お金は参百五拾円しか御送り出来ませんので恐れ入りますが、参百五拾円だけ支払つて下さいますやう御顎ひ申上げます、いつもくまことに薯わ燵の謹呈してまこと箱すみ喜ん、キオキこれは私からのお願ひでございますが黄漉(これによく似た紙でもっと安価なのがありますれば安い方がよろしうございます、習字用ですから)五拾枚ほど御送り嶺ひたう存じます、マニ圭アの葺喜いそ姜せんどうもいろくお手数をかけましてすみません、今日は梅とりを遊ぱしたさうでございますが毛虫はいませんでしたか、百合は咲きましたか、お琴は「春雨」の次に高砂をやってみます、「春雨」はホテレが弾くやうだからといってひくと怒られてしまひます、雨の魚を昨夜と今日高野食堂で料理させて食べました。鮎によく似たものです、鮎より美味だと申しましたが、私は鮎の方が好きでございます、こちらは今日ひどい通り雨が降りました、どうぞ御きげんよろしくいらっしやいませ

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早く(二字ほど不詳)下りたうございます、チュウちやんの病気お大事にではどうぞよろしく御顧ひいたします、^六カ)六月十二日夜、妹尾健太郎様御奥様マニキュアの皮をありがたうございました、ことによりますと十九日文楽を見に行きますどうぞよろしく

丁末子拝

この手紙は、或いは封筒の中と外とが入れ違って、中は六月十六日のものではないかと想えるふしがある。次の、谷崎書簡の、その次に位置するのが万事に自然のようだ。料理は前の千代子夫人と違って二度目の夫人は格別苦手だったらしいから、料理上手の女中到着がさも嬉しそうだが、「女房は昼寝、亭主は頭痛なり」といった夫婦生活も、「今晩からはもうこういふわけには参りませんですね」とちょっぴり惜しそうなのもおかしい。「アキシテント」も妹尾らの夫婦生活を暗に謂う隠語か。「ゴマァル」は分からない。「ゴマスル」かも知れない。いずれ小僧の覗き見に関係したものらしく、相変らずエロチックな感触を多く読むべき文面である。ひとごと「大変な税が」と他人事のようだが、実は谷崎が年々に滞納の所得税であるやも知れぬ。「ホテレ」は高野山のホテレ町との縁で、下品な端下女郎式の女をさしている。「雨の魚」は「アメノ

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ウオ」で関西ではアマゴなどともいう山女魚、綜のこと。「チュウちやん」は飼い犬のこと。但し、愛猫にも「忠」がいた。前後ちょっと読み切れないものの、多分山から「早く下りたうございます」というのは、さもあろう。その辺が夫人の本音だったろう。谷崎家の岡本での暮しむきもよく分かる。

四十四

昭和六年六月十三日

龍衆院

谷崎潤一郎より妹尾従太郎・起み子様あて

「お宜披」封■

毛筆

拝啓仕事中はつい筆無精になりますのでいつも丁未子に代筆をたのみまして失礼いたして居りますか毎ヒ御たより有難く存升拠十日頃下山之由御約束致ましたが登山いたしましてより仕事之時間等変更いたし生活を一新いたしましたせゐかそれに馴れる迄あたまの具合わるく岡本当時程進行いたしません、それに在南米之妹危篤(お末の姉)其他のことにて月末に予定以外之出資出来それやこれやにてそちらの方がおくれて居ります、っきましてハ≡二日中に先づ三四百円おくりますから順々に片端より片附けていた■きたく(なるべく早い方がよいもの五百円程有ります明細書ハ金子と一処におくります)今後生活に馴れますにつれて追々仕事の速力も早くなりますから後よりぢきに三四百円づつおくるやうにいたします実八文楽座之加賀見山の人形が見たいので大阪までハ其内に行たいのですが兎に月先に少しつつにても御送りいたした方がよいとおもひます払ひをすます迄は家をあ、しておいた方かよいとおもひますがぢいやさんにでも番をしていた寸いてたけを呼寄せる方法ハありますまいかさうすれぱ竹の旅費を一緒におくります乍勝手卿相談のう

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へ御返事をまちます六月十三日朝

覆言様能率の上らないのは決してぴこんのためにあらず御安心を順升丁末子はアンプロムプチュはきらひのよしにてペェジエントの要求に応じてくれません、室内にても白昼はいやがります是にハ図り升

この手紙の追伸部分は、つとめて正確に音字を写し取っているが、明確な意味は取れない。取れないけれども、またこれで十分分かっているとも言える。「室内にても白昼はいやがります、是には困り升」など、谷崎「武州公」の姿や表情が徐々に輪郭を濃くしつつある。

四十五昭和六年六月+七日龍泉咲谷崎生より妹尾律太郎様あて端書毛筆●唯今丁末子より別便差立ましたか文楽はいつまでありますか一寸電報でしらせて下さいませんか、事に依ると十九日か二十日に行くかも知れません、電報でそのせっはしらせます*この「別便」が書簡(四十三)の封筒の中の、差出し「十六日」と読める手紙ではなかろうか。

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高野山での『盲目物語』は吉野山での前作『吉野暮』に較べて量的にちょうど二倍、しかも『吉野暮』がこの昭和六年一、二月号の「中央公論」に分載されたのに対し、『盲目物語』は同じ「中央公論」九月号に一時に掲載されている。脱稿はほぼ七月中とみていいだろう、七月三十一日(消印八月一日)づけ「原稿在中」の封書が高野山龍衆院より東京小石川の佐簾春夫に送られているのが佐葭主宰のことだ■-雑誌「古来多方」九月号の『覚海上人天狗になる事』だし、「改造」九月号にも今一段小説らしい『紀''クキニ伊国狐葱二漆掻一語』を送っている。さらに「犯罪公論」十月号に『天狗の骨』という小文を寄せている。まちがいなくすべて高野山仕込みの作である。ところで他方、谷崎潤一郎は自称「遅筆」の作家で、一日に三枚、寡い時は一枚か一枚半がやっとだという類の述懐やら告白やらを何度か公表している。五月下旬に入山して、最初はよかったが、やはり「生活を一新」のあとの「あたまの具合」のわるさなどで「岡本当時程進行いたしません」日々があったにしては、僅か六、七十日のうちにめざましい筆の運びと言わねばならない。格別の集中と努力があってはじめて可能な仕事量で、前にも言ったように、『盲目物語』の分は「岡本当時」すでに相当の用意ないし執筆が進んでいたと見るべきなのだろう。だが、この以前に『恋愛及び色情』の連載はあり、結婚、小旅行、経済的窮迫などがあって、そう悠然と首座頭弥市の物語に嵌りきれなかったはずだ、高野山へは、一っにはたしかに岡本海ヶ谷の豪邸を売却せざるをえない、のちに佐濠春夫の書簡に「谷崎

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家店じまひ」とあるような事情があって遣れ出たにせよ、またたしかに『盲目物語』に集中すべく龍衆院住居は創作上必然の要請に応じたものでもあった。むしろ私は谷崎の自称「遅筆」説の方にここで一応の疑問符を付しておく。そもそもこの頃谷崎が盛んに用いた物語の文体は、ともすると量が進んでそれをどう抑制するかにむしろ苦心があるものではなかろうか。調子に乗るのが物語文体の表裏する長所短所であって、長を助け短を捨てる工夫は、千枚を七枚に、五枚を三枚にとなんとか抑える呼吸にある。近松秋江であったかが、モし『盲目物語』式のあんな文体でなら自分にも幾らも書けると諺ったのは、その辺の事情に触れていると同時に、幾ら書けても、谷崎のように辛抱して筆の滑り流れるのを防がねぱ、所詮は似て非なるだらけたものになり終る。谷崎が自ら「遅筆」を声を大にして言うのは村税務署や射出版社用のポーズでもあったろうと同時に、また識者ないし自分自身に対する戒めでも誇りでもあったのだろう。『盲目物語』執筆に谷崎はむろん熱中していたが、手紙の感じではただ緊張一途とも思えない。「密教」の勉強を心がけて後日の蓄えにしたい目的は高野籠りの一つの建前で、事実そのためにも時間と機会をもうけ人の教えにも接し、努めて人の話を耳に聴こうとしたらしいことは当人や丁末子夫人の手記に窺い知れるし、先の二、三の短篇、小文はその証しになっている。それどころか、谷崎終焉の際に机辺に遺されていた「創作メモ」には著しく密教的雰囲気に近い字句や登場人物などがあって、谷崎の書かざりし大作の、少くもその内の一つには、たとえ立川流であったかも知れないが「密教」に取材したそれなりに面白いもののありえたことが推量され、惜しまれる。も

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っともその勉強がどの程度だったか、谷崎といえども本腰がそこにのみ入っていたとは思えない。私はむしろ、『盲目物語』を書いていた高野山時代の前半、谷崎は専ら次の『武州公秘話』の構想と用意に頭を使っていたように想う。『盲目物語』『武州公秘話』の画作を通して読んでみると、その上に、手紙に見える丁米子夫人とのエロがかった夫婦生活や、にもかかわらず「お市の方」や「茶茶」を通して根津夫人捨子を念頭にしていたという事実を加味して考えると、さまざまな綾が実によく眼に見えてくる。いったい『盲目物語』の語り手「弥市」も、『武州公秘話』のかげの語り手として「道阿弥話」の筆どうあみ者とされている「道阿弥」も、初期谷崎の秀作『帯間』(明治四+四年「ス.ハル」九月号)の主人公「桜井」の変身に相違なく、後日谷崎は自ら「松子御寮人様」に奉仕する「順応」「潤一」とも恋文の中で、、何度も自称したように、彼らはみな谷崎の一分身たるを免れないたちの人物として創作されている。しかし、谷崎に桜井や弥市、道阿弥となる素質があると同様、また谷崎は彼らに対しても「お市の方」「茶茶」や「桔梗の方」「粉雪院」に対しても、さながら浅井長政、柴田勝家の如く、それ以上に羽柴秀吉や武州公の如く支配的、加虐的に振舞う気質体質をも十分併せ備えていたのである。弥市や道阿弥にはお市の方や粉雪焼は「神」でありえた。が、秀吉や武州公にとっては「玩具」だっりりしげた。そして長政や勝家や則重にとっては同じお市の方や桔梗の方は「妻」であった。谷崎は、その時に応じて十分意識的に弥市になり勝家になり秀吉になった。道阿弥になり則重になり武州公になった。そう化け変れるだけの「芝居気」を、本当は誰よりもたっぷりと谷崎潤一郎がもっていて、その「芝居気」に十分応ええた人だけが谷崎の「神」にも「玩具」にも、そして「妻」として添い遂げることもで

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きたのである。やがてその時機が来れば改めて触れることだが、この翌昭和七年末に書かれた名作『藍刈』の中で、語り手の「男」はこう一言っている。「父はお遊さんといふ人は生れつき芝居気がそなはってゐた、自分でさうと気がつかないでこ、ろに思ふことやしぐさにあらはれることが自っと芝居が、つてゐてそれがわざとらしくもいやみにもならずにお遊さんの人柄に花やかさをそへ潤ほひをつけてゐた、おしづとおいうさんとの違ひは何よりもおしづうちかけにさういふ芝居気のないところにあったと申しますのでござりまして禰福を着て琴をひいたり小袖幕のかげにすわって腰元に酌をさせながら塗りさかづきで酒をのむやうな芸当はお遊さんでなかったら板につかないのでござりました。」この『藍刈』については昭和七年十一月八日の根津夫人捨子あて恋文に、「目下私は先月号よりのつ寸きの改造の小説『面刈』といふものを書いてをりますがこれは筋は全くちがひますけれども女主人公の人物は勿体なうございますが御寮人様のやうな御方を頭に入れて書いてゐるのでござります」と谷崎は書いている。されぱこの「お遊さん」の最大の美点として特筆されている「芝居気」とは、ほかでもないこういう仰々しい意図的な恋文に時に「順帝」の「潤一」のと名乗って脆いたなりじりじり寄り添ってくる谷崎潤一郎その人を、それ相応に遇する、捨子夫人の器量なり態度なり辛抱なり、を指すとしか言いようがない。この「芝居気」で生涯演じ通す覚悟でなければ、所詮は同じく「芝居気」の多い谷崎潤一郎のかた「はにかみ」に満ちた私生活に於て、不即不睡の好伴侶たることは難い。

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千代子夫人も丁末子夫人も、手紙に見るかぎり大同小異、丁末子夫人は最初のうちこそ「練習」の功を積んで調子を合わせていたように想われるが、体力的にも到底長くつづかなかった。「神」にも「玩具」にもなれず、「妻」でありたいという姿勢が見えてくれば、その「平凡」を忌む谷崎の「落胆」は早かった。その事情が何より露骨に、しかし実に巧みに『武州公秘話』には書かれているのである。私見によれば、この作品は『盲目物語』以上に谷崎の根津夫人に対する期待、頼望、夢想、憧僚を明らさまにしたふしぎに底の深い、隠された述懐の意味深さに於て底の知れない、作である。と同時に、高野山の蜜月を過ごした谷崎と丁米子夫人との夫婦生活そのものにずぷりと根をさしこんだ小説でもある。結果的に『盲目物語』よりは、『武州公秘話』を書くため高野山へ上ったと言いたくなるほど、龍衆院での私生活を谷崎はこの一作に反映させた。それは谷崎の丁末子夫人に対する満足と落胆との明暗双方の光条をふしぎに美しく、しかしもの畏ろしく刻印した記念作とも言えよう。そして妹尾夫妻も、必ずや谷崎の構想に何らか具体的な役どころを受け持たされた、半ば強いられた、に違いないと私は考えている。細かなことはもうやがて後で触れる予定だが、妹尾夫妻は性的興奮の欠かせない「刺激剤」でもあることを谷崎に期待されていたことは、手紙にも冗談めかしながら何度か書かれている。作中「道阿弥話」の道阿弥および「見し夜の夢」の妙覚尼という男女の手記が『武州公秘話』の種本という仕掛けになっているのもすこぷる暗示的であり、妹尾健太郎および君子の芸術好き(所詮一流とは言えないにせ

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よ)が巧みに利用されている。私は『盲目物語』の弥市やこの道阿弥が谷崎の分身である反面、当時谷崎の私生活にあって妹尾健太郎という人物がどこか弥古風、道阿弥風に周旋していたのではないか、ださいからこそこうも重宝されていたのではないか、と猜しているのである。『盲目物語』は、言ってみれば単純なできである。が、『武州公秘話』は人物の出し入れや性根や表現に多くの秘密をたっぷり埋蔵していて、小説としても独特の辛味の利いた谷崎文学になりきつている。昭和六年の高野山暮しでは私は一等この『武州公秘話』胚胎を重視したいし、丁末子夫人はこの一作を谷崎に書かせた点で一つの役割は果したのである。谷崎自身の思いにも、多分、この作の方に自負は深かったし、「後篇」を書くことを念願しつづけたのも道理と思う。

四十六昭和六年六月+八日関口町佐藤春夫より妹尾甚太郎様あて封■ベン書先日は仔犬の件にていろいろ御手数をお掛け申し有難く存じました。幸におかげ様にて無事者その^ママ)後もきげんよく宅に居ります。男犬の方が気が強くで女丈をいぢめます。小生はどちらも同様に可^ママ)愛いいのですが皆からは女丈の方か好かれてゐます。昨日は地震で少々驚かされましたが幸にどこにも何の被害もなく、拙宅では書斎にあった花瓶が棚から落ちて口が破れました。やはり同じ棚の上の書物が一冊落ちたぐらゐな事でしたが急激な襲撃とて驚かせることは一通りではありませんでした。祐子の如きは顔色なくなりましたかこれも一語^ママ}柄ぐらゐなところでこわれた花瓶もたいしたものでなく修膳も出来ます。さて谷崎家の店じまひ(?)の節、竹の聯一対(無事弦閑居有情月賦詩の句のあるもの)当時谷崎

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邸よりの手紙では運送屋に送らせるとありましたが未だに着せず心配致し居りますが、どこの運送屋であったか御存知ではございますまいか。御多用中毎度下恐縮お序もございますまいがもし運送屋おわかりならぱ一度おしらべを願上げます。それともそちらでお判りなければ高野へ小生から一度尋ねて見た上で改めてお顎ひ申すことに致しませう。お預け申してみるランプの件などとは関係なく、一度御来遊下さいませんか。右近状御報告を兼ねて例の如く御願ひまで。奥方へもよろしく御鶴声頭上ます、おちよ事無事ではをりますが多用の為めか近頃話方様へも御無沙汰の様子、定めしお宅様へも失礼して居る事と存じますがよろしく御寛恕の程願上ます。六月十八日夜佐藻春夫妹尾健太郎様きみ子様坐右(欄外に)「竹の対聯柱かけ様のものですと運送やにお申し下さい」(と、ある。)

四十七昭和六年六月二+日関口町佐藤方谷崎帖子より妹尾きみ子様あて封■毛筆御端かきありがたうございました御無沙汰ばかり申し上けまして申し訳もござい喜ん。それから梅をわざくお誉否いまして

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真後当地にも中ヒ上等な牛肉を売でみる店を発見いたしましたからもはや大阪がそんなにこひしくもなくなりましたハムもありました全く何も不自由はありません、寺男にき、ました夏の飲物を紹介いたします、焼酎一升にごく上等の酒三合くらゐ混和しこれに氷砂糖を煮てとかした物を少ヒ和へる、比例は各人之好みにて加減するのですが小生実験にてハ酒八四分の一乃至三分之一、さとう水はほんの少量がよいやうです、暑気孔ひ、睡眠剤代用にハ酔びが残らず.ヘタづかないで最も妙です、ブランデーよりずっと経済です、つぎに焼酎に黒豆を加へて三週間密閉しておくと神経衰弱に効能顕著なる飲料となり黒豆も非常に美味となる由、これハ実験の上卿報告しますダー=麻の下着類及び夏物御ついでの節御送り下さい、シレットのプレード半打もそのうちに御題いたします廿九日潤健君君君侍史

さきの佐藤春夫からも「近状御報告」かたがた用を頼まれ、また谷崎潤一郎からも「御報告」の三字のある手紙で用事を頼まれている。妹尾健太郎、君子の立場はもはや十分分かったとして、こういう人物ないし夫婦をしてこうも奉仕させるだけの親密さというのは、やはりそう例のないことではなかろうか。ただ泥懇という域を越えたはだかの付き合いが、少くも谷崎と妹尾にはあり、余波が佐藤家にも及んなご●ているのである。小田原以来の、また「細君譲渡」以来の余波と眺めうるのである。鮎子の手紙にも「文楽」を佐藤家と揃って観に行くか、といった意味の文面が見えていた。千代・鮎子の母娘を抱えた佐蕊家の内情に否応なしに谷崎および岡本時代の谷崎家の好みや家風が乗り移っていると言わねばならぬ。また退屈している丁末子夫人と対照的に、谷崎が高野山暮しに腰を据えている意味も、創作好調、を裏づけている。

四十九昭和六年七月三日寵衆院谷崎丁末子より妹尾喜美子様あて封書毛筆製紙書かう恵か乍ら亘皇ついのばして居呈したら今皇うく奥健先を警れてしまひました、御久し振りの御手紙なので大変に嬉しくなつかしく拝見いたしました、いつでも山では郵便は夕飯の頃に配達されます、今晩も丁度食事中に御手紙だったので二人とも直ぐ箸を置いてしぱらく食事を中止して拝見したやうなわけでございます、御多忙な世話女房様(律ちやんの御言葉を借りますと)に色々とつまらないうるさいことを御親切に甘えまして御顧ひ申しましてほんとにすみませんでした。それでも御心よくして下さいましてほ

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んとにありがたうございます、京都へこねこを御もちくださいました由恐縮の至りでございます、昨日京都からの来信によりますと兄が少し変人でございまして、送っていたTけるやうな工夫は無いものかしらと相談がございましたのにそんなに御しん切に御取り計らひいた寸きましたのは願つても無い幸でございます、どうもありがたうございました、御礼申し上げることに気をとられてしまひまして御見舞を申し上げるのが大変をそくなりましたがまだあれから歯痛が御なほりになりませんでしたのでございますか、こんな暑い時に歯がいたむなんて全くやりきれませんね、私も時々歯はいたくなる方なのでどんなに御苦しいかしらとひどく気になります・夏歯医者通ひは憂彦ですがそれでも早く御治りになりますためには仕方ありません、早くすつかりよくなつて下さいまし、柳かげを発見いたしましてから、もうワ禁湧こと、といふ例の証文奮無視しまし毒晩くとても沢山にのみますので大変いけないと思ひます、困つたものを発見したものでございます、私共が出かけますよりまた皆様を御誘ひの上御出かけ下さいまし、こちら此の頃やうやく外出から帰りますと発汗するくらゐでございます、お琴はとてもよく休みますので御師匠がいけないと申します、今日も休んでしまひました、あれ以来三回しか参りません、やつと高砂がすみまして、鶴の声を始めました、冷か{、れ乍らおけいこをして居ります、今十一時の鐘がひドいて居ります、

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もう遅うございますからこれで欄筆といたします、ミスタ・セノオヘどうぞよろしく御願ひいたします七月三日夜御奥様

丁末子拝

「京都へこねこ」とか「兄が少し変人」とある事情は十分分かりかねるが、昭和五年一月に、京都で結婚生活に入っていた和嶋「せい子」との関係かも知れない。「店じまひ」に応じて谷崎家の小動物たちが妹尾家や佐簾家へ四散した模様は、これまでにも見えていた。それより、谷崎がいい地酒でもあるのか「禁酒」の誓言に背いて「柳かけ」というのを連日鯨飲して仕事に差支えているらしいのが面白い。何かごの手紙の辺から丁末子夫人の手紙の様子がよく言えば尋常、わるく言うと平凡に落着いて行くのと関連しての谷崎「落胆」現象ででもあろうか。例えば丁末子夫人の「お琴」の稽古が、谷崎が期待したほどは熱心でもなく進歩しないらしいのにも注目していい。言うまでもなく『盲目物語』は首座頭の物語であり、一種の音曲世界ででもあるのだから、谷崎がわざわざ師匠を頼んでまで龍衆院での執筆生活に琴や三絃を持ち込んでいるのは、ただの風流がりではないはずだ。『春琴抄』への下地とも併せ推量するなら、この辺の夫人のサボタージュは、ちょっと気になる。手紙に「御師匠がいけないと申します」とある「御師匠」も谷崎その人を指すように読める。谷崎の音曲趣味が、女学生上がりの若い丁末子夫人を質的に凌駕していたことはこれは確かなのである。1以下・次巻1

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私語の刻

いつであったか、自分は谷崎文学について書きた<、その便宜のために先ず作家という地位が得たかったと、そんな意味の述懐をした記憶がある。半ばは本音であった。それほど谷崎文学に心をとられていた。『少将滋幹の母』を毎朝の新聞に、小倉遊軍の挿絵とともに、待ちうけて読んだ。中学二年生だった。同じ頃に与謝野晶子の現代語で『源氏物語』を耽読し、いつしかに源氏と谷崎とわが生い立ちとが重なりあった。「母」に死なれた者が、「母ににた妻」を求める物語という「読み」が、■自分の中で重みをもって行った。作家になって、かなり早い時機に、自発的に私は「谷崎潤一郎論」に取り組み処女評論集の『花と風』におさめた。その縁で私は、基本図書である『伝記谷崎潤一郎』の著者の故野村尚吾に知られ、野村氏は、さながら遺言かのようにこの『神と玩具との間』の資料となる貴重な書簡群を私にゆだねて亡くなった。有り難い御縁というほかはない。昭和五十一年三月二十四日に私はこの書き下ろしに着手し、七月三十日に七百七十枚を脱稿している。この間に筑摩書房からは『谷崎潤一郎1〈源氏物語〉体験1』の出版も決まっていた。『神と玩具との間-昭和初年の谷崎潤一郎1』は大奥出版でと、野村氏在世中から話は決まっていた。社長の賀来寿一氏は、それ以前に私が遠くから親愛した女優賀来敦子さんの兄上であり、

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また担当してくれたのは、青梅市にある現吉川英治記念館の館長の城塚明和氏であった。敦子さんも城塚氏も、湖の本創刊いらいの有り難い読者であり心皮である。筑摩の本は五十一年十一月に出来、この六興の本は翌年の四月二十五日に出来た。筑摩の本には大岡倍氏が、この本の帯には「労苦に敬服する」と題し、水上地氏が推薦の文を下さった。

秦さんは「谷崎愛」と自らいわれるほどの敬愛の誠心をこめて、ぽくらがこれまでもやもや感じとってきた谷崎の三人の妻との交渉を、未発表書簡その他の資料を得て丹念にさぐり、当時の代表作「蓼喰ふ虫」「春琴抄」等とのかかわりを作品行間に追跡して、神と玩具との間を求めた谷崎の女性遍歴の実像を彰りあてている。ここを通らなくては一語も語れない場所に立ってその眼識は深く確かである。前人未踏のもう一つの照射がここにある。出色の労苦に敬服するばかりだ。

場所も場所の、亡き松子夫人のご法事のおりに水上氏と思わずわらいあった内緒ばなしを、ここでなら披露しても叱られはすまいと思う。氏は、それより以前、ちょうどこうした谷崎詮の本を私が連発していた頃に、筑摩書房の私も親しいある編集者に、「秦さんは、ひょっとして谷崎の隠し子じゃないのか」とそっと聞かれたらしい。なるほど谷崎と捨子夫人との祝言は昭和十年一月であり、私の誕生日は同年師走の終い弘法の日であるから、勘定はあっている。「谷崎愛」の「捨子フアン」たる私にすれば、これは最高に嬉しい内緒ぱなしであった。ちょっとした宝も

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のににた誤解であった。それは余談、まさに私語の最たるもの。要するにこの本は、谷崎文学にとって「妻」とは何であったか、その無視しがたい重みを、昭和初年に集中してくわしく評論している。むろん「本書なしに昭和の谷崎潤一郎は語れないしという程に気をいれ、息のながい文章で書き下ろした。この版のために、新たな資料も踏まえ、全編に補足や推鼓も加えたのはもとより、更に下巻には、十本余の「谷崎感想」を数十頁介添えることで、わが谷崎愛をいっそう親しみやすく表現してみようと思う。最近の未発表書簡等に関連して、たて続けに新聞に発表したエッセイも、この際とり纏めお届けしておこうと思う。それもこれも決して谷崎私生活を覗きみるといった興味からの文章ではない。谷崎の人と芸術とをより豊かに確かに、読む.読める、ためのあくまで「文学」に心ひかれての「批評」である。こういう本では、関係者に遠慮で筆を曲げるということが、最もこわい落とし穴になる。事前にみな「書いてよし」の承諾をえたが、どなたともこの本のために会って話を聞くということは、徹して避けた。親しい捨子夫人とも、この件では一度も話し合わなかった。大なり小なり関係するお人にはつらい思いをさせた本に相違ないのだが、「谷崎愛」を心の盾に、一切は私の読みと責任とで書き切った。そういえば、懐かしく思い出す、これも亡き主原正秋が旅さきの大和の宿から、いまもこの本を読んでいる、よく書いた、ほんとによく書いたと手紙をくれた。とても嬉しかった。「小説もお書きなさい」と添えてあった。痛み入った。心緒にふれてくるお人だった。

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ところで水上氏の帯の文に『春琴抄』の名が出てくるが、じつはこの本の当時は、まだこの作品にとりついていなかった。『夢の浮橋』についで『■刈』を詮じた頃であった。だがこの近年は、「春琴自害」説で私は谷崎学徒の集中砲火を浴びてきた。ま、先入観に惑わされずに作品をよく読もうと、私の説など雫ほども知らぬ東工人の学生諸君には勧めている。ちなみに、大教室からも溢れ出て、よぎなく各十校の「論証」論文で評価をうけた三四九人中、一〇三人が『春琴抄』を論じてきた。うち八割が賊または佐助による春琴火窃をきれいに否定し、春琴自窃をていねいに本文から導いて納得させた。また二四六人もの学生は漱石の『こころ』を読み、七割近くが「私」と「先生の未亡人(静)」との結婚を理非をわけて的確に「論証」してきた。彼らは一度も私の授業に出られなかったし、残念にも私の著書『名作の臓れ』を読んでくれた形跡は、ただ数篇にしか読みとれなかった。だが単に鑑賞でなく、本文に即して論証を求めれば、さすが理系の諸君は、ごく自然にこういう「読み」を定めて来る.心底私が驚くほど鋭くて適切な漱石論や潤一郎詮も現れる。こんなに楽しんだレポートはない、二度も三度もよく読んだ、まさかと思いつつ読むほどに作品がまるで別の顔をして見えてきたと書き添えたものに出会うと、そこへ気がついて欲しかった、ほんとによかったと思うのである。ただし「文学概論」一科目だけでも聴講と論文とで計九九七人、他にもう二科目二二〇人の成績評価を、すべて夏休み中に几帳面に遂げたのは、息もつけない苦しい楽しみであった。あと二年半。だが、本音は、いつやめてもいい。後期は二年生の「文学」と三年生の「侍講」を月・水曜日に。学生諸君の優秀さに、なお当分は助けられて、私自身が大学を楽しみたい。