電子版 秦恒平・湖の本 エッセイ45
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
秦 恒平・湖の本エッセイ 45
文学講演集「色の日本、蛇と世界ほか」
ーーーーーーーーーーーーーーーー
目 次 文学講演集
色の日本 ─日本人の色と色好み─
蛇と世界 ─アジア太平洋ペン会議・差別と文学分科会・演説─
蛇と鏡花 ─水の幻影・泉鏡花の誘いと畏れ─
藤村『破戒』の背後 ─悩ましい実感の意味するもの─
島崎藤村文学と私 ─ペンクラブ、緑陰叢書そして『嵐』─
川端康成の深い音 ─体覚の音楽─
わたくしの谷崎愛 ─いま、谷崎文学を本気で読むために─
お静かに ─漱石そして日本人の久しく美しき自覚─
湖の本の事
私語の刻 この時代に……私の絶望と希望
装画 城 景都
<表紙> 印刻 井口哲郎
装幀 堤 ケ子
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
色の日本 ─日本人の色と色好み─
朝日ゼミナール『色と生活文化』基調講演 一九八六年五月 於・朝日ホール
『色をみる、色をつくる』金子書房 一九八七年九月三十日刊
ーーーーーーーーーーーーーー
はじめに──色雑感
私は、いまご紹介いただきましたように、小説家でございます。小説は、絵の具では書きません。そういう意味では、色彩ないし色というものの専門家ではご
ざいませんが、例えば文学の色気とか、言葉としての「いろ」、文字としての「色」といったものとは、お相手を願わざるを得ないわけです。
文章上の色の表現は、かりに顔色ひとつ書きあらわしますについても、容易ではなくしかも大切なことでして、なかなか色抜きで色好い小説が書けるわけがな
い。その意味でも、私の申し上げますことは、ややもすると文学的に話が片寄っていくかもしれませんが、お聴しいただきます。
色について考えます場合に、まず注意したいことが、少なくも三つほどあると思っております。
一つには日本語では「イロ」といい、しかし「シキ」「ショク」という場合もあって、いわば和語、日本語としての「イロ」と、漢字からはいって参りました
「シキ」との融通の利いた使い分けをしています。「日本の色」「色の日本」を考えます場合、一つのポイントになると思います。
次に、とかく色、とくに色彩について考えますとき、個別の色に何か特殊な意味づけをするといいますか、場合によってはこじつけてしまう場合すらありま
す。その功罪には十分慎重でありたく、色の一つ一つに妙に外からもちこんで意味をこじつけ過ぎてしまいますと、なにやら奇妙な独断が横行しかねない。しか
し色の議論には、まま、その種の臭みがついてまわる気がいたします。
こと日本列島と限りましても、地方差や時代差を考慮に入れずに妙に一事が万事型の色の意味づけをしますと、とんでもなく、時には正反対の間違いをしたり
します。実例はめいめいお考えいただいても、文字どおりいろいろ″ありましょう。日本列島北から南へ、かなり細長く緯度の差がございますから、風土も人
情も生活も色の感じかたも、かなり違ってくるのがむしろ自然です。
例えば、白い色は味方同士で赤い色は敵であるということが、源平の昔の源氏の陣営ではあり得たことでしょう。それが同じ旗印のもとに、という意味でしょ
う。その延長で昨今でも紅白合戦といって赤勝て、白勝て″と挑み合っていますけれども、むろん白が味方、赤が敵とは決められない。源平の昔とて平家の陣
営へまわれば赤は味方で白こそが敵を意味したのは当然です。色そのものに意味がある場合よりも、人間が色に約束事を付加している場合が多い。従って、約束
の通らない場所では意味も通らない道理になります。色を絶対化し、意味を押しつけてしまうことを度を過ごしてやりますと、恐い厄介な問題も出てくる。それ
についても後々触れて参りたいと思います。
さてもう一つ、色について注意したいと思うこと、それは、色は最も記憶しにくいものの一つだということです。ご承知のように非常にたくさんの印刷物が出
版されております。洋の東西を問わず、画集も数え切れぬほどございますね。私はもともと、絵を印刷された写真で見ることに基本的に反対でして、印刷物を見
て絵の原作と同じものを観た気持ちについなってしまうのを、こわいことだと思っております。
もし同じ有名な絵が、三社で三冊の本に出て参りますと、細かく比べてみればどれを信じていいか分からないほど、必ず色彩が違う。何度もそういう思いをさ
れているだろうと思います。
製版やインク調合や印刷など技術上の問題もあるでしょう。しかし根本には色校正の段階に問題が出てくる。つまり色調ほど正確に記憶しにくいものはないん
ですね。よほどの専門家でも、海外のすばらしい絵を観て帰って、さてその絵画の色調を正確に色校正で再現できない。十人十色、だから十冊十色にもなる。い
ろいろ色見本を見せられてこれかと訊ねられれば訊ねられるほど、かえって混乱してしまうんです。色は、印象には強烈に残るけれども、さて正確には記憶しに
くい点に、たいへん大きな一つの特色があるわけです。言いかえれば、色ほどはっきりしたものはないようでいて、実際には、うろんな感じ、うさんくさい感
じ、感情的に拡散して流れ去って全幅の信をおき難いもの、という感じを私はもっております。
美術の方で色は、しばしば線との対比で大切な話題になります。線には、方向性があり勢いがあり、また限界を画して形体・形状を表出したり、感情に対比し
てかなり意志的な精神的な表現力をもっている。比較すればやや表層表面的な色彩よりも、線は、ベーシックな心根に深く触れた表現上の魅力があるといえま
す。日本人はまたとくに線的敏感において優秀な才能をもち合わせているように思われるのです。
線と色の問題は限りなく興味深いけれど、時間の制限もあることですから、とにかく私は「色」ならぬ「色彩」の方の話題は専門家にお任せしておいて、先へ
進みたいと思います。
魂の色
私事にわたって恐縮ですが、この昭和六十一年秋には、この私が「爺」になります。そういう年になったかなあと思うのですが、これで私はまだ満五十一歳に
はなりません。
娘を、去年六月に嫁がせました。この秋にはもう孫ができてしまう。とても楽しみにしておりますけれど、そうなってみればみるで、娘が小さい頃のことなど
つい思い出すことも多いのです。
ときどき面白いことを言ったりしたりする娘でして、幼稚園時分、私が京都生まれの京都育ちなもので夏休みに親の家へ帰りまして、大文字を一緒に見まし
た。祇園界隈のビルの屋上で見たんですが、見ながら娘が声もなく涙を流しているのです。よく私も記憶しているのですが、娘の幼稚園の友だちが少し前に、東
京郊外の電車に不幸にもひかれて亡くなっていた、それが娘の胸にあったのでしょう。はたで大人が暗示的な何ひとつ申したわけではなかったのですが、大文字
の火の色を見ながら、一種永遠なもの、神秘なもの、胸を打つ死者の声を、幼稚園児なりに聞いていたのだろうと想うのです。
さて私は私で、大文字の方から視線をふと南へ東へそらせますと、東山の奥ぐらい山腹に、東大谷の墓地がもう間近に見えまして、そっちには、無数の墓とい
う墓の、たぶん一つ一つの前にでありましょう、供養の燈明が揺ら揺らとそれは大きな火の波となって瞬き揺れていました。濃い藍瓶を伏せたような深い夏の夜
空の色と、はかなげに美しい無数の火の色。美しいだけではない、物心も十分つかない幼い娘の涙をまたしても誘うような色といいましょうか。私もまた、いの
ちの儚さ、悲しさ、敢えなさ、といったものを、そのとき強く感じました。そのときの感動を、もうだいぶ前になりますけれども、『みごもりの湖』(新潮社)
という長い作品の書き出しに生かしました。
その同じ娘が、去年はやくも二十四歳で結婚いたします少し前、婚約のハラを一家して決めるというときに、私は、娘にどういう気持ちか決意のほどを訊ねて
みたわけです。すると娘は、あの人、つまり今の婿殿と自分とは「魂の色が似ている」と言うんです。
私は長いこと文字と言葉で世渡りをしていますけれども、「魂の色が似ている」というもの言いは初めて聞きました。しかし、それ以上の説明をされなくて
も、非常によく分かった。いいだろう、と返辞してやりました。魂に本当に色があるかなどと言い出せば盛大に親子ゲンカができたでしょうが、とにかく「魂の
色が似ている」といわれて私は納得する気になりました。
思えば、嫁いでゆく娘が父親の私に、置きみやげに残していった、これはひとつの「色」の認識でした。皆さんにも、「魂の色」といって、なんとなくお分か
り願えた所があるんじゃないでしょうか。
とりとめなく話は変わりますが、私は、十数年前まで医学書の出版社で編集者をしておりました。ある日の座談会でのことです。産婦人科の老練な教授が司会
をされ、若い眼科学の教授がメンバーの一人にはいっておられました。そして医学上の話がかなり佳境にはいったところで、ふと息抜きの感じで司会の老先生が
突如眼科の先生に質問をされました。「よく『目の色が変わる』また『目を光らせる』ともいうが、その場合の『目の色が変わる』には、何か医学的な所見があ
るのですか…」
まあ、それはそれだけのことでしたが、言葉としての「目の色が変わる」、「目を光らせる」というのは、文字どおり私どもの顔面に位置して生理的な機能を
もっているこの「目」の色がすなわち変わるすなわち光るということだけではないわけです。私の著書の一冊に『からだ言葉の本』(筑摩書房)というのがあり
ますが、例えば「頭ごなし」にものを言う、「口が重い」「尻が軽い」とか「肩代わり」をする、「腹黒い」「鼻にかける」とか、勘定の「足が出る」「手配
り」をする、など、さまざまにからだ、肉体、の部位に添えて熟した言葉があります。もの言い、といってもよい。私はこれをからだ言葉≠ニ呼んで考察する
一方、おびただしいからだ言葉″の辞典も作って一緒に一冊の本にしたのです。
この際の話題に関連させて申すならば、例えば「骨を折る」という言葉があり、これを骨折の意味、文字どおりからだの骨が祈れる意味にとれば、これは私の
いわゆるからだ言葉≠ナはない。しかし、就職の世話で「骨を折る」とか、今度の一件ではずいぶん「骨を折ったよ」とかいう場合は、実際に骨折するわけで
はない。こういう場合の肉体や生理に接した言いまわしを私は”からだ言葉″と呼び、日本語の表現力としても大切な民俗や文化遺産の一つだと思っているわけ
ですが、先ほどの座談会で質問をされた老教授は、いわば、事実レベルで目が光る、目の色が変わることを、表現レベルに絡めて話題にされたわけでしょう。も
ちろん訊かれた眼科の先生は、頭を抱えてお答えは出ませんでした。
しかしながら私どもは、魂の色を納得できる以上にもっと日常的に、「目は口ほどにものを言う」「目にもの言わせる」といったからだ言葉≠介して、
「目の色」という事実や効果をほぼ信じているわけですね。目の色というのは、もう少し広く〃からだ言葉≠ノ拡大して考えると、いわゆる「顔色」の一種、少
なくとも顔色につながってくる色だろうと思います。
顔色というのは、その人のもっている健康・不健康、あるいは精神的に安定しているか動揺しているか、不安か、喜怒哀楽のどれかをいま激しくもっているか
どうかということを、無残に外へあらわしてしまう。だからこそ、百人一首の和歌にある「しのぶれど色に出にけり」というようなことがいえる。「わが恋はも
じの袋に色小袖、何とつつめど色に出で候(そろ)」というように、顔色はとかくその人の精神状態を裏切ることなく、露骨にもち出してしまう。だから「顔色
がすぐれない」、人の「顔色を見る」「顔色を伺う」とか、またときには「顔色無し」「色をなす」というように、なかなか微妙に「顔色」はものを言うわけで
すね、日常生活の中で。言うまでもなく、これが、どこかで「魂の色」の一種にもなっているわけです。顔色ひとつ変えないというよりは、よほど素直で人間的
であるかもしれない。
論語に、例えば「色難(かた)し」ということが出てきます。親の顔色を正確に読みながら暮らすのは子としてなかなか難しいという意味にも解釈されていま
すし、穏やかな顔つきをいつも人として保っているのは容易でないという意味でもありましょう。
あるいは君子たる、賢者たる一条件として「色を避く」という言葉もあります。真実の君子や賢者ならば、人に仕えないで世を避けよ、また乱れた時勢を避け
よ、失礼な顔色をみせる人は避けよ、さらには無礼な口を利く相手は避けよ、というその中の一つとして「色を避く」ということを言います。
ところで中国では、「明眸皓歯」という表現が、もともと美人、美貌を意味したのは事実でして、その意味でも「好色」という言葉が使われていました。必ず
しも今日一般にセクシイに用いる好色、色を好む意味でなくて、端的にいい色、好ましい色、言うなれば顔色が良くて、肌の色艶もよくていかにも健康そう、
「明眸皓歯」的な顔色、目の色というふうに意味が生きていたと思われます。「艶」という字は、書いて字の如し、豊かな色。それが言ってみれば女の人の魅力
である「艶」になり、美人という認識が出てくる。
つまり色には、魂の色もそうでしょうが「不思議色」とでもいう色が必ずある。必ずしも目には見えませんが、心でみられるような色、そういう色の感じとい
うものが、われわれの生活に生きている。その不思議色の不思議の魅力を、われわれは赤や青の色彩を眺めたり考えたり、受けいれたりする際のスピリットとし
て尊重していたいと思うのです。
日本の色と美
私が『日本の美学』の同人であることを、先刻ご紹介いただきました。
美学的には、先刻も申したように「色」は「線」とならんでも重要な主題の一つですが、「美学」というのに引かれて色と美とのかかわりを強く感じすぎるの
も問題があります。美しい、美としてだけ「色」があるわけではない。あるとき美しいと見た色が、他の色との取り合わせではボケた、濁った、駄目な色に見え
たりする。配色で色価(カラーヴァリュー)は動きますし、状況差、個人差もあります。色盲、色弱など生理的な面も絡みましょうし、時代によっても色の趣味
が変わってくる。個々人の趣味判断能力によっても、色の実の感受は痛烈に違ってくる。都会と田舎、大人と子どもでも違う。
最近、「騒色公害」ということを聞きます。東京・世田谷の住民が、あるマンションの屋上の広告ネオン灯の赤がとても騒がしい、ケバケバしいというので、
運動して、撤去に成功したという新聞記事を見たこともあります。
たしかに赤いネオンが非常にウルサイことがあります。それなら赤は全部邪魔で醜いかというと、そんなことはあり得ない。赤い色は美しい色だと思っている
子どもは多いし、久しぶりに田舎から戻ると街のネオンに心惹かれないでもない。ソビエトでは「赤の広場」があり、必ずしも共産主義と関係していない。各家
庭に「赤い隅」といわれるコーナーがあって、そこでは一番大切な、日本でいえば神棚やお仏壇の感じで、小さな聖画(イコン)がそれぞれに祭ってあり、家庭
の大切な場所になっている。ロシア人には「赤」はもともと、美しい色なのです。「赤」というと、すぐにイデオロギーを感じるアレルギー日本人が多いが、赤
い色を美しいと感じている人も、民族も、ある。当然のことだと思います。日本人の人気を源氏と二分した平家の旗色も「赤」でしたね。
そんなことよりも何よりも、私が大切に思いますのは、もともと日本人の色彩感覚は、湿潤な日本列島の自然と深くつよくかかわってきた事実です。あたかも
水蒸気でまぶされたような色というか、色と色とのかかわりで色をしっとり殺しながら、かつ目立たせる、そういう感性や配慮が非常にはたらいてきた。色を殺
して生かす。どんな一見派手な色を用いても底に渋味を秘めて沈めていて、その渋さが、派手に華麗な色をふしぎに落ち着いた品の佳い色に見せている。
これには恐らく、日本人の知性も関係していましょうし、むろん気象の微妙さ、四季の変化の微妙さなども反映していましょう。水蒸気の量や日照時間ももの
を言っているでしょう。また、顔料、いわゆる絵の具の性質・材質にもよりましょう。なんとしても日本の絵具は、絹や紙に描いたときに、色がしっとり、はん
なり、落ち着いて見えるように出来ています。
ところがこの戦後、さらには昨今最近に及んでカラーテレビ等のマス・メディアが、かなり機械的に露骨な色を露骨に並べて、強烈なコントラストで見せる。
人は、それをあるときはいいと思い、あるときはうるさいと思い、しかし徐々に馴らされてきている。少なくとも、日本の色彩の伝統的なものから比べて、色を
殺すという形での妙味をだんだん忘れつつあるのは、どうやら遺憾な事実となっていそうに思います。「騒色公害」の起きるゆえんです。
「色」には、この文字どおりに色々な意味があるものなんですね。例えば意思の伝達や表示にうまく役に立つ色もあれば鼓舞激励する色もある。沈静した気持
ちを伝えやすい色もあるし、攻撃的な色もあれば、注意を促す色もあって、信号の青や赤や橙色にも生かされている。戦中派なら苦い思い出の国防色がある。赤
い組合旗がある。降伏の白旗がある。かと思えば灰色高官、桃色遊戯とか、性風俗地帯の赤線青線とか、いずれの色もけっしてそれ一つにきめつけることができ
ないのは、最初に申し上げたとおりですが、たしかになにかを伝え、あらわそうとしてはいる。
鎧の緋縅とか紺糸縅とか、縅という言葉からわかるようにあの美しい色彩もなんらか強さ、男らしさの意思表示になっている。海女さんの赤い腰巻には海の魔
物から身を防る意味があるでしょうし、昔の棺の中に塗られていた丹の色にも、やはり魔除けと清めの意味があっただろうと思います。刺青も古い海の民族が長
く伝えてきた、やはり色を通しての威嚇の意思表示や鼓舞、変身あるいは意気地の表現だったろうと思います。
平家の赤、源氏の白などは、中でも最も単純明快な旗色、旗印であって、あの時代に平家と源氏とが、赤と白で戦ったというのは、あたかも「歴史」そのもの
の美意識を感じさせる絵に描いたような事実だなと私など思うわけです。かように赤は平家で白は源氏ということになって参りますと、当然そこに「色」を用い
て「我々」と「彼ら」とをいわゆる色分けするはたらきが出てくる。なかなか大事な問題で、単に、赤は平家だ白は源氏だ、あそこには敵がいて、あそこには味
方がいるという識別や分別だけではない。敵・味方と限らず、いわゆる階層の分別や差別に色が利用されるという所へ繋がってゆく。われわれは日常あまり実感
していませんけれども、実は歴史的にみて、「色」を管理する、支配するということは大変大きな政治的意味をもっていたわけです。
色を管理して、そのことを通じて社会と人民を管理してゆこうという思想。これは日本だけでなく、かなり世界史的に権能をもっていたということです。日本
では少なくとも聖徳太子以来のことです。
高松塚の古墳絵画にもあらわれておりますように、東西南北や春夏秋冬を青、赤、白、黒の四色で表現し、配するに中央に鳳凰を置き、青竜、朱鳥(朱雀)、
白虎、玄武を描いて、それらで一種の世界観をあらわしたりします。世界を色の秩序で眺めるという思想でしょうか。
典型的なのは、いわゆる位色(いしき)ですね。位の高下を色であらわす。例えば紫を最高位におく。そして青、赤、黄色、白、黒の順に並べ、それぞれ上下
優劣の序列をつける。すなわち位階勲等を色で形造ってゆく。
色による家門と人材の管理は、奈良朝、平安朝の朝廷では常住行われていたことで、聖徳太子時代から天智天皇の頃になりますと、深紫、浅紫、緋の色、紺の
色、緑、黒というように順序が変わってくる。天武天皇の頃になりますと、ほんの短期間ですが、一番上の色のところが朱華、つまり「はねず色」になって、深
紫が第二位になる。さらに養老令の中の位色令をみますと、白が天子の色として使われ、黄丹が皇太子の色と決められ、以下紫、蘇芳、朱、紅というように色に
段階をつけ差別をつけて、そこに位階の差を表現するようになります。
日本の社会は「位どり」の社会です。とくに京都がそうで、京都ではよそものがなんとなく住みにくいとよくいわれるのは、日常の人間関係に微妙をきわめた
位どりの難儀さが生きているからなんですが、そういう都市環境で、率先して色を位に分けるという政治を頑固にやってきた。禁色(きんじき)を定めたのもそ
れです。この色はこの階層の人しか用いてはいけないなどという。禁色は普通、僭差、位越(いおつ)、過差と謂いいますが、上の人の使う色は使ってはいけな
い。間違えても位を飛び越してはいけない。華美に過ぎた色を使いすぎてはいけない。このように色の管理をするわけですね。ところが奇妙なことに、逆にきわ
めて下々の人、下賤と思われている人には、ことさら派手な、キンキンマンマンの色を身につけさせる場合もありました。例えば能装束のあの派手やかさ、歌舞
伎衣装の派手やかさなどは、ただ舞台栄えのする美しい色を使いたいためというより、もっと根の深い、あるいは根の悲しみを秘めた色づかいともいえて、色に
よる人間や階層や社会の管理がなされてきた権力政治の意図と歴史をも同時に知らなければならないと私は思います。
しかも人と人に、階層と階層とに、社会と社会とに「我々」と「彼ら」との間に「色分け」をして、位を決めたり貴賤上下や優劣の序列を決めるということに
なると、自然と今度は隠し色という形で、目に見えないところで禁じられた色や好きな色を使うという抵抗や工夫も出てきます。着物の表は地味に、裏地などを
派手にといった屈折した風流の表現などは、それだろうと思います。
禁色や位色とは全然違う感じの色もあります。私の作で、『秘色(ひそく)』という小説があります、「ヒソク」と読むのですが、ナニを書いたのかといやら
しく誤解するような人もいましておかしかったものですけれど、秘色とは、やきものの青磁の色、青磁の佳い色、格別佳い青磁そのものをいうのですね。
『枕草子』にも、満開の桜の枝を秘色の甕にさして勾欄に据えてあるのがみごとだった、そこへ清少納言も敬意と憧れを惜しまない貴公子が、美しい衣装で登
場したのがまたすばらしかった、というようなことを書いています。
なぜ青磁の色を秘色というか。そもそも青磁や白磁のあの滑らかに美しい肌色がどのように造り出されてきたかというと、中国で玉(ぎょく)、秘玉、美玉に
対する信仰的な貴重視があったわけですね。しかし簡単に玉は手にはいらない。それで、土を焼き釉をかけて青玉の色など出せないものかと、数千年にもわたる
工夫が凝らされて、やっと到達した青磁なんかであったわけですね。
この青磁も、硬いグリーンに近い越州青磁あたりから、龍泉窯の潤んだようなスカイブルーっぽい砧青磁あたりまで、ずいぶん色調が変わりました。ほとんど
白に近い青白磁もあります。
こういう色は、日本の技術ではなかなか出せなかった、大陸からの舶来品しかなかった。そういう非常に高貴な色をもったやきものということで「秘色」とい
うほめたたえた言葉も出来たのでしょう。
私の先の小説では、この秘色が主人公です。天智天皇近江京の西の山中に崇福寺という勅願の大寺が昔あって、近江京と共にほぼ滅びたのですが、そこの塔の
心礎から、それは美しい豪華な三重の舎利容器が発掘されました。これは現在、京都の国立博物館に保管されています。この発掘の際に古い貨幣とか鏡などと一
緒に秘色の盞が一対見つかった、というところから、壬申の乱の秘話を、天智天皇と天武天皇と額田姫王、あるいは大友皇子(弘文天皇)と正妃十市皇女らの奇
しき人間関係とともに、しかも現代の視座から彩(あや)に不思議に謎をといてゆく歴史・現代小説なんですね。古代の青磁の色に魅かれて、書きました。佳い
色というのは一度魅きつけられるとなかなか強力です。作品の話をいくらしてもきりがないのですが、しかし作家の生活には色の魅力はかなり内面的に、テーマ
としてもモチーフとしてもはたらきかけてくる重みをお分かり願えれば幸いです。
暮らしの色、その光と影
いろいろに「色」の話題を追って、さて暮らしにかかわってゆこうとなりますと、いきおい衣・食・住の「色」を考えることになります。
言うまでもなく、衣装の面で日本の色彩は、最も優れた成果を発揮しました。『源氏物語」は言うに及ばず、『枕草子』なども、まさに日本の色と衣装の宝庫
ですが、具体的な大方は、色彩学の大家でいらっしゃる伊原昭さんのお話に譲りたいと思います。
伊原さんによれば、古代の記紀歌謡などの中に、色の名前というのは、赤、青、白、黒、それに丹など七つぐらいしか出てこないそうです。用例は約四十例あ
るそうです。万葉集になりますと、一挙に三十種類くらいの色の名前が出てきて、七百例以上の用例が出てくる。私の勝手な解釈ですけれども、最初はいろいろ
に微妙にちがう赤い色でも、概念的に赤ひとつで用を足していたのだと思います。全部ひっくるめて赤です。ところが、だんだん中間色への目が利いてきます
と、それぞれに別の名前をつけたくなる。さらには新しい魅力ある中間色を創作したくなる。欲求と需要とがともに生じてくる。
延喜式は西暦九〇五年ぐらいに発起がありまして出来あがってゆく膨大な古代法上の細則ですが、その延喜式の定めている色名には、すでに実におびただしい
間色、混合色が羅列してあります。
さらに平安時代以後の物語から調べますと、実に百七十種からの色名が出てきて、四千例を越す用例が認められます。しかも大半が衣裳に用いられています。
いかに多く、豊かに日本の古代の衣裳が、あるいは現代にも及ぶと思いますが、色を用いてきたかが分かります。
もうやがて鎌倉時代という、十二世紀後半ぐらいには、藤原定家の姉にあたる建寿御前の日記などをみましても、まだ、王朝の女文化をまざまざとみせる、実
に多彩な衣裳の描写がたくさん出てきます。ところが十四世紀の『問はず語り』という、宮廷の内部を露骨に書いた私小説になりますと、もうあまり色気がな
い。
日本の色が爆発的に飛躍した時代は、やはり平安時代なんですね。色を重ね、色を匂わせ、いわば色合いでもっていろいろの色を、この時代は、存分に創造し
享受した。自然の色の把握と解釈、親和関係、その獲得と表現。とにかく平安時代こそは色と格闘した時代、と同時に色と歓び合う時代であったと言えるでしょ
う。
さて食べ物の色が日本人の意識に上るのは、衣裳よりだいぶ時代は降ります。私の育ちました京都の京料理では、ピンからキリまでありますけれども、単に食
べ物の取り合わせだけでなくて、食べ物と器との色どりに気を使います。互いに色を引き立たせ、しかもうまく殺し合ってしっとり調和のとれた、繊細な、渋い
色彩で食べ物を盛りつけてゆく。そういう伝統があります。加えて調味料の色遣いも繊細です。およそは江戸時代を通じて培われ近代に及んだ食趣味の洗練でし
た。
衣と食の色については情報も非常に多いことですから、私がこれ以上深追いすることは避けておこうと思います。
問題なのは、住空間での色でしょう。そうも外国のことは知りませんが、それでも中国、インドやヨーロッパにくらべ、日本の建物は色が控え目に使ってある
とは言えます。ネオンなどは別ですけれども、どちらかというと光よりも陰とか闇とかいうものを効果的に生かすための色が住居には使われています。例えば茶
室の壁がそうですね。利休の建てた山崎妙喜庵の待庵(たいあん)に見るような、まさに色という色を渋く殺して、そしてその茶室で用いられる器物や花の色や
形を引き立てる。こういう日本の住空間に着目して、優れて文学的なエッセーを書いたのが、谷崎潤一郎ですね。『陰翳礼讃』がそれです。比較的簡単に入手で
きる本ですので、とくには触れませんが。
それでは日本の建築はひたすら黒っぽい暗い色ばかり使ってあるかといいますと、時には金閣とか銀閣とか、あるいは金碧障屏画とか、また日光の陽明門と
いった、非常に華麗な色も使った例があります。桂離宮にだってびっくりする花やかなデザインの襖などあります。
ただし、言うことにいささか矛盾を呈するのですが、例えば奈良の都を形容する枕ことばはあをによし≠ナあって、青や丹の色が照り映えて美しい奈良の都
ということに相違ない。きっと、それが異国的にすてきに美しく思われたのでしょう、その好みが現在京都の平安神宮などにうかがわれます。けれどもそれさ
え、どこか日本風というよりは上古の人が憧れた中国風の好みだったとも言えましょう。
その点、京都御所や、先ごろ英国のダイアナ皇太子妃らが泊られた大宮御所など、建物の色彩は非常に抑えて、殺して使ってある。一事が万事型の言い方につ
いなってしまいますけれども、日本の住宅の色には、いいえ色そのものは、どちらかというと闇とか陰とかとの相対関係の中で輝いたり照ったり光り出したりす
るものという、根本の認識がはたらいている。
それを象徴的に暗示してくれるのが、『源氏物語』の主人公、光源氏と息子の薫君、孫に当たる匂宮の、その「光」に対する薫と匂との関係でしょう。
どういうことかと申しますと、光源氏には紫上という奥さんがある。まずは理想的夫婦であるわけですが、光が晩年になりましてから、余儀ない事情で先帝の
内親王、女三宮という方を正妻に迎えなければならなくなるのですね。しかもこの女三宮が、うっかりしたことから藤原氏のある若い男性と密通いたしまして、
そして生まれた子ども、表向きには光源氏の子どもですが、実は藤原氏の子ども、これが薫君という貴公子です。一つ、こういう筋があるわけです。
ところでまた別の筋で、光源氏が明石上という女人に生ませた女の子がありまして、成人して、中宮に立ち皇子たちを生む。その一人が匂宮、光源氏の実の孫
になります。なんでこんな薫、匂というような名前がついているのか、私は子どもの頃から不思議に思っていたのですが、どのような『源氏物語』の注釈書にも
体臭などという適当な説明しかついていない。しかし、素人考えながらこれは簡単に解ける疑問なのではないか、と私は生意気に考えました。匂うというのは代
表的には桜の花に使う言葉で、薫るというのは梅、ことに白梅にほぼ限って使う言葉です。「あをによし奈良の都は咲く花の薫(にほ)ふがごとくいまさかりな
り」と万葉集は表記しています。薫るという字が使ってある、ここからこの花は白梅であったことが分かる。事実、白梅であったのです。
梅の花は、闇の中でもまぎれなく薫ります。桜の花が匂いたつためには闇ではいけない。ある程度の光というものが必要です。「丹秀(にほ)ふ」という原義
からしても、匂うのは一度視覚を通過してくる嗅覚なのですね。薫るのは直接の嗅覚で視覚の媒介を必要としない。「光」を必要としない。光君と血縁を断たれ
ている闇の子薫君は、光がなくてもいつ知れずその本性が薫ります。
それに対して匂宮の方は、光源氏という人のいわゆる血脈をじかに受けてこそ匂いたっている皇子なのです。光が色をうつし出し、だから匂う。薫るのに光も
色も要らない。「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる」という古歌は、色好みの光や匂とはおのずと別人格の薫の本性を表現しえていま
す。
光源氏の光とも色とも切れている、これが薫君の運命です。その人生はおのずと光源氏や匂宮とは別の道を歩んで行くだろう、と私は考えます。
『源氏物語』は、古来好色の物語、色を好む物語といわれてきましたが、光に対する薫と匂。まさにここに『源氏物語』の色の世界が枠組みを得ています。光
と色との相関関係を太い軸にしながら、『源氏物語』が書かれ、源氏の血脈は書かれ、それからはずれるものが光を要しない存在として書かれている。宇治十帖
を導く、それが一つの基本線だと私は思っております。この私の素人考えは、源氏物語学者としても知られた慶応の池田弥三郎先生に秦さんとてもいいよ、発見
だねと褒めて頂いたんです。
要するに薫は光とは血縁を断たれている。匂は血縁を保っている。その匂宮が物語の中でどのような扱いを受けるかというと、紫上が亡くなりますとき、わざ
わざ匂宮を近くへ呼んで、私はもう死んでしまうけれども、あなたには形見にこの二条院の庭の樺桜と紅梅とを受け取って欲しい。この二条院をそっくり受け
取って欲しい。そして花が咲く頃には私のことを思い出して下さいますように……と言い遺すのです。
この紫上が臨終の「二条院」という家屋敷は、もともと光源氏の生母、桐壷の屋敷です。それを伝えるのだから、実に深い意味が込められている。ここでもは
なやかな樺桜と一緒に紅梅が象徴的に譲られています。他ならぬ匂宮に与えられています。紅梅は薫るという花でなくて、むしろ匂う花なんですね。昔から、そ
う扱われてきている花なんです。
『源氏物語』に対しては久しく、色好みの文学という評価がありました。まあ、一筋縄でらくに括れる作品ではありませんが、たしかに光、匂、薫の関連から
鍵になって出るのは、「色」だということが分かります。光り匂う色の魅力をバネに、一種独特にスケール豊かにいわゆる男と女との「世の中」を表現していま
す。
それで、ちょっとここで、この「世の中」ということを考えておきたいと思います。
男と女との「世の中」
われわれは世の中というと、いわゆる社会を考えがちですが、もともと日本語の「世」は、主として男女の仲をあらわす言葉です。『伊勢物語』や『源氏物
語』以来のその伝統が深く流れて、西鶴の『好色一代男』の主人公である「世」之介という抜群の好き者の名前にまで生きのびています。
世之介は、社会を代表している男という意味ではなく、文字どおり男と女の世の仲を色を通してあらわしています。古典や和歌に頻出する、この「世」という
言葉が出てきたときには、だから、よほど慎重に読んでいただきたい。いきなり社会の意味などと決めつけないで、ともあれまずは男と女とのエロスの世界をか
い間見つつ、さらにその奥に世間だの社会だの国だのと、遠い深い読みを添えていって欲しい。
例えば百人一首に、「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」とか、あるいは「ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋し
き」とか、どちらかというと、かなり抹香臭い、妙に哲学的に思われている歌があります。ここにいう「世」も、やはり男女の世の仲というところへ引きつけて
読みますと、歌のもつ意味や魅力がぐっと濃くなってきます。
「世の中よ道こそなけれ……」の歌は、藤原俊成の歌です。この人は九十歳すぎまで長命した人ですから、ついこの歌など、お爺さんの悟りすました歌のよう
に思ってしまうのですが、実は、二十七歳時分の歌なんですね。二十七といえば、もう私などの子どもの世代になる。そんな青年、しかも俊成というなかなか若
くから色好みの人です。有名な建礼門院右京大夫、あの人のお母さんとも関係があって男の子を生ませている。その縁で右京大夫という建礼門院に仕えた女房
は、俊成の官名を名乗っているんですね。まあそんな俊成が二十七歳で「世の中よ道こそなけれ思ひ入る」と詠んだとき、彼はいったいどのような状況にいたか
想像を逞しくして欲しい。くわしくは申しませんがとんだ修羅場にも似た男女の世のしがらみを、まずは嘆息している歌だと読めてきます。こうなれば歌もたい
そう面白く読めてきます。
「ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき」も、同様に非常に痛烈な歌に読めてきます。もともと、ずいぶん陰気くさい歌として知られ
ているわけです。厭世主義的な、何かにつけて悲観的な作者が詠んだものという解説がよくしてあります。先入見が強すぎやしないでしょうか。目の前に女がい
るんです。男はその女に厭(あ)き厭きしている、そしてその女を前において男は昔の女を思い出しているのです。昔の女ともいやでたまらなくて別れたんで
す。しかも昔のその女ですらまだしも今の女よりましかなァと男は思っている。それほど今の女が鼻についている。しかし長生きすれば、昔の女が今妙になつか
しいくらいに、このいやな今の女でもなつかしく思い出すということになるのだろうかな…男女の世の仲とはさても難儀なものだなあ…だけど、おもしろいと。
そう読める、読むべきです。
ずいぶん話題がきわどくなりましたが、何がさて色気を欠いた人生など、私に言わせれば、どうしょうもない。「英雄色を好む」ということを、軍国主義の昔
によく聞かされました。原拠のある言葉なのかどうかわかりません。英雄が色を好むか好まぬかはともかく、英雄でなくても色を好みます。色好み、好色という
事実も伝統も洋の東西をとわず、即、人類の歴史と言えましょう。
今さらに不思議なことですけれど、人間、男と女としかつくられていない。男だけでも女だけでも寂しい、しかし三種類あると混乱するだろうと思います。性
的なもの。異性間に魅き合う恋愛的な感情。それが愛欲へ、色欲へと嵩じて、そこに特色ある情緒あるいは情趣が生じる。批判的にもそれは評価できるけれど
も、事実として拒否はできないことですね。
「徒然草』第二三八段に、兼好法師は自讃七ケ条を書いております。なあんだという程度のことばかりですけれども、最後の一つにだけは注目したいと思いま
す。
二月の十五日頃に京都の千本釈迦堂で念仏会(え)があって、そこへ若き日の卜部(うらべ)兼好が参りまして、人混みにまぎれて聴聞しています。と、くら
がりに乗じて、身の傍へ匂いやかな色めく女人が近寄ってきます。あまつさへ、妙に膝を寄せてもたれかかってくるぐらいなんですね。兼好はさっと立ち退いて
しまいます。少なくもその女性を拒みます。はねのけたわけです。
その後しばらくして、彼がある御所方に参上しますと、そこの古参女房の一人が兼好の近くへきて、「むげに色なき人におはしけりと見落したてまつることな
むありし。情なしと恨みたてまつる人なむある」と、まあこんな恨みごとを言います。何のことかと思うと、あの釈迦堂での念仏会のときのことで、ある高貴の
人が若い女房に、あの兼好の傍へ行ってものを言いかけてごらんと言われてせっかく近づいて行ったのに、はねつけられた。「むげに色なき人」ですことと誰方
でしょうか、お恨みになっていますよ、と言うのです。
事の成り行きはおきまして、この話で、兼好は何を自讃したのでしょうか。
大概の参考書は、女に暗い中で言い寄られたけれど、はねのけた、その道心堅固ということを兼好は自讃しているのだと説明してあります。私は、そうではな
いと思う。兼好は、それほど高貴のたぶん女人からその種のいたずらをされた事実そのことを、またそうされるほどの自分を暗に自讃していたのではないか。そ
のように読みまして、その謎ときから、私は、これを『慈子(あつこ)』という歴史と現代との交錯いたします小説に仕立てております。
ともあれ私はここで、「むげに色なき人」と評され、それは情ないことだといわれている点に注目したいのです。色欲に溺れてしまっても困るけれど、さりと
て当の兼好法師はこう書いています。「よろづにいみじくとも、色好まざらん男は、いと淋々(さうざう)し」と。玉のさかづきの底の無い心地がする、気がす
ると。兼好は、ここでは「男は」と、限定して物を言っているんです。なぜ女は外されるのか、ちょっと反問したいところです。というのも、もともと好色とい
う二字は男にだけ使われている言葉ではなく、古い時代へ遡りますと、むしろ色好みの用例は、女人の形容に使ってある場合の方が多いからです。どうもこの方
が当たっている気が、私にはします。色を好めばこそ女の人は魅力がある気がする。
例えば桓武天皇の皇后であり、また同胞でもありますところの酒人内親王とか、あの 『伊勢物語』で、業平が「色好める女」と知る知る通って行った女がい
ました。あの色好みの業平が、そう女のことを謂っているぐらいです。小野小町にしても和泉式部にしても、やはり色好みの女とされていました。
「色好み」という言葉自体は、日本語としては大体八世紀以前までは遡れないとされています。有名なのが「古今集仮名序」でしょうか、紀貫之の書いた序の
中に、色好むという言葉が出てきています。ここで私は、はるかに神話時代にまで遡って、ひとしお象徴的に意味深い色好みについて考えてみたいと思います。
『古事記』に、いわゆる天孫降臨という場面があります。天照大御神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が笠沙御崎(かささのみさき)へ天降(あまくだ)っ
て、そして一番最初に何をしたかというと、美しい乙女をみつけて名前を聞いています。乙女は木花咲耶媛(このはなさくやひめ)だと答えます。
「そなたを妻にしたい」
「でも、父のゆるしを得ませんと…」
いい娘さんですね。で、大山祇神(おおやまつみのかみ)に相談をします。天孫の望みを知って喜んだ父神は、妹の「花」なる木花咲耶媛だけでなくて、姉の
石長姫(いわながひめ)という「花」に対する「巌」もー緒にどうぞ貰って下さいと連れて行ったわけです。石長姫は、不幸にして妹ほど美しくない。木花咲耶
媛は、古来美人の代名詞のようにいわれています。それかあらぬか、天孫瓊瓊杵尊は石長姫を拒んで受け容れなかった。つまり天の神の子が、地上の人の世で下
した最初の選択に「花」を選んで「巌」はうち捨てたのです。むろん辱められて姉は、泣いて恨んだでしょう。『古事記』では、これが人間の、以来「花」のよ
うに短命であることの理由だとしてある。なるほど、そうとも言えるでしょうね。
しかし、私は、こうも考えてきました。「花」というのは、咲いて散り、また繰り返して咲く。つまり繰り返すという「人間」の時間の「花」は象徴でありま
しょう。それに対し、巌というのは、永遠不変に続いてゆく時間、いわば「神」の時間を表現しています。
私は、神の子が人の世で人の子、かどうか、優れて人間的にかつ最初に選択した時間が、「繰り返す」時間であったということに、深い深い意義を求めるもの
です。
まあそれはそうとして、しかしこの天孫が、やはり花の色香を愛でたのだろうということも間違いありません。女人の色を好むという選択を、この神様は意識
していたのです。
この色を好む、花の色を好む、そして花と色とのかかわりがずっと流れて、現在でもある種の社会、例えば色街、色里、花街、そしてそこにある人間的な色模
様や色ごと、色気や色よい返事や色目といった色々の、色めく伝統が生き続けてきたわけですね。われわれとても、かかる種類の色と、いまだに無縁ではない。
神様の時代からいまの時代まで、決して無縁ではない。ひどい言葉かもしれませんが、イロ″という言葉だけで情婦をあらわしたりもしますよね。実にいろい
ろある世の中だなあとわかりますと同時に、日本の「色」の根に、男と女との「世」の仲が横たわっていたのだなという感概を生じます。
世の中とは、根本男女の仲の意味だと申しました。小野小町の「花の色はうつりにけりな……」という「わが身世にふる」の一句にも如実にあらわされていま
す。
もう一つ、われわれは、色について独特の世界と判断とを承知しております。文字を最初に覚えるのは、いまでは五十音のあいうえお″からかもしれません
が、昔は概ね「いろは」つまりいろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ≠ニ続く形でひらがなを覚えました。誰がつくったかわかりませんが、非
常に内容の深い、いい今様歌になっています。「色は匂へど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ。有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず。」日本人の感覚
では「色」とはほとんど「花」と同義語でした。花と同じで散るからこそ匂いもはなやぐのです。もし花が散らなかったら、それは醜いものになってゆく。花は
繰り返して咲く、咲いてまた咲く、その間に必ず散るということが挟まってくる。散ることを通して、花の美しさ、花の色香の美しさというものを日本人はしっ
かり胸の奥にたたみ込んできたと言える。私はそう思うのです。
平安時代の文化の特徴は、ほぼ「花」といって足りそうです。それと女です。平安時代に大成されていった文化を、私は十数年来(いまや四十年近く)私の言
葉で、「女文化」と呼んできました。女性の文化というのではありません。根は男尊女卑だけれど、女を表に「立てて」ゆく文化です。今はこれ以上申し上げま
せん。
女文化に対して中世以後、義経や頼朝以降は断然男の時代になり、男の意志が時代の行方を決め、方法を決めてゆきます。譬喩的に古代の「花」と対照させる
ならば、つまりは花を散らせる「風」が中世を決めているのですね。
考えてみましょう、「風」とは力です。風は方向をもっています。和風洋風という謂い方をしますが、風は方向、方角と同時に方法や手段や様式をもあらわし
ています。そういう力をもった中世の「風」が思いきって古代の「花」を散らせたからこそ、花のもつ色香が、日本列島、津々浦々の伝統に無数の色どりを添え
て、しっとり息づいてきた。そう言って私はあやまりないものと信じております。
散りゆく運命に順応すればこそ色ある花は初めてはんなり≠ニまた甦る。はんなりという言葉は私の大好きな言葉です。京都ではよく使います。花あり
の意味であろうと私は解釈しています。花あり、これがはんなりになる。花のある生活をはんなり感じる、これが日本の「色」感覚の基本だろうと思うのです。
それでは平安の京にもう柳暗花明の巷が出来上がっていたかというとそうではない。狭斜の巷があったわけでもない。それはあまりにも色好みにはなじまな
い。
こういう「色」は佳いものです。文句なしです。しかしこの色を好むということを古今集の序でもやや否定的に書いてありますように、誰もが表だって大声で
は言えない。言わない。性の匂いがするだけに、表向き晴れやかに表明しにくい、むしろ隠さねばならないのですね。
隠さねばならぬとなると、かえってどこかで解放しなければならなかったわけです。そのような色好みが市民権をもつことができた一番最初は、やはり和歌の
表現においてであったし、また物語においてであったでしょう。和歌と物語、これは男の文学である漢詩や漢文に対する、まさに女の世界でした。和歌といえ
ば、今日でも女歌と言いますし、物語はことさら女物語という言い方もします。古代、和歌と物語とはまさに婦女子のもてあそびとして容認され、であるからこ
そ、内々に色好みの情も表現も解放され隠然として市民権をもったのでした。表向きは女の世界ですが、内々という建前で男がそこへなだれ込みます。これが女
文化の一つの原型ですね。女が女だけで創るわけではない。男は表向きは鹿爪らしい顔をしていますが、内々には遠慮なく女の世界へなだれ込んで行き女ととも
に享受し、また才たけた女に創出させ、しかも管理は男がしてきた文化。そういったいわば「好色の文化としての女文化」を古代にあっては考えることができ
る。いいえ考えねばならないのです。表向きの儀式の世界で色めいていたのでは厄介です。大学で講義したり会社で仕事をしているときに、色めいていたので
は、「これで会社をやめました」と小指を立てねばなりません。しかし色めくことの許される場所も機会も、ありました。
いわゆる狂言綺語の世界、作り物語の世界、フィクションの世界へ「色」を持ち込むのは、その第一でした。よほど色めく男が、色好みの女があらわれてもそ
こでは楽しまれ、共感され、許されます。つまり主役です。
しかし、それにもかかわらず『源氏物語』にしても、作者紫式部は死んで地獄に堕ちたといわれたものです。あのような色好みの作品をつくったからだと、そ
んなふうにまことしやかにいわれた時代があったのです。
さように、色好みということが否定的にもみられていた事実の反映でしょうか、日本の色好みの文学、藝術、ないし社会観、人生観には、とかく別の方面から
のブレーキがかかりやすい。へんな言い方をしますが、妙に色好みにも意義を求めたり、道を求めたりするのですね。純然と没頭的に色好みにはなりきらない。
どこかでいわば罪というものにかかわってきます。「色」が、いつも「罪」と裏表になって認識されてきた歴史というものがあるわけです。それがいやらしい。
言いかえると、何か罪につながれた世界として、色のある場所が容認される。いわゆる色里とか遊郭とかいった場所がなんとなくそのように伝統的に受けとら
れてきたわけです。しかもそれだけではない。そのような罪の世界の中から不思議なことに仏菩薩があらわれたり、あるいは罪のまま色に染んだまま頓證菩提の
境地に入ったりという、一種の願望が加上され、またたくさん説話化されてきます。日本人はどこかしら罪というものを思いつつ、色に染んできた、それならい
いのだと暗に思ってきた。
平安時代からずっと現代でさえ、そうです。罪を思いながら色に染むのですから「これで会社をやめました」と小指を立てるようなコマーシャルにも、なんと
なく罪っぽい表情を出して、それを皆、思わず笑うんだけれども、しかし納得している。納得して、ゆるしてさえいる。だからコマーシャルになるということだ
ろうと思うのです。
平安時代の仏教の介在がここのところで、はっきり出てきます。いろは歌ではありませんが、ともあれ仏教的雰囲気を背後に負いながら、「色」を受け容れた
り拒んだり、楽しんだり悪いなと思ったり、さまざまに回路があらわれてきます。
仏教と色気
仏教と色とにどんな関係があるかとお思いの方も、あるいはあるかもしれませんが、深いかかわりのあることは事実でしょう。この場合はしかし、まずは「い
ろ」であることが多い。
漢字の色を「シキ」と読む。一番わかりやすい例は、色即是空空即是色という「般若心経」の有名な言葉です。色即是空をわかりやすく言えば、およそ物質的
な現象というものはすべて実体がないのだということですね。色は即ちこれ空なるものなり。およそ物質的な現象などというものには、すべて実体がないと説
く。われわれの肉体はまさに物質的現象ですけれども、間違いなくここにいる人一人として、あと百年とは存在していないわけですから、そういう意味では永遠
不滅の実体ではないということですね。
どんなすばらしい顔色で毎日元気に生きていても、あっという間に病み衰えて死んでしまうかもしれない。第一ここで皆さんは、現に二十世紀(二十一世紀)
の日本に生きて存在している実体のある存在だと思っていらっしゃるかもしれないけれども、あるいは、今現在実は死後の生活をおくっているのだと想像されま
しても、これまた何不思議はないのです。われわれは、ここにいる一人残らずがもう何度も何度も死んでいる「死後の存在」かもしれない。ないし此の先から見
て「前世の存在」なのかもしれない。そういうことをつい忘れがちなんですね。至極単純に、いま生きているまだ死んだことはない、これから初めて死ぬことに
なるだろうと思うわけです。
こういう奇妙なことをちょっと考えてみますと、不思議な安心が湧いて出ます。色即是空といったことが、いっぺんにわかってくる。われわれのいのちさえ、
われわれの意識ですら確実なものではない。夢の中をいま生きているのかもしれない。だからこそ逆に空即是色という言葉もあるのです。およそ実体がないとい
うことは、物質的現象なのであるとお釈迦様はわれわれに説いたわけですね。色即是空空即是色、物質的現象はすべて実体がないのだということを悟ろう。この
「色」の理解が、「色」の理解にかかわってこないわけがない。
サンスクリットでは色という言葉をルーパないしはルーと言いますが、ルーパというのは形づくるという意味なんですね。あるいは形づくられたもの、物質的
現象でしょうね。ルーというのは、壊すもの、変化し変わってゆくものという意味です。つまり形があり、生成し変化してゆく物質的現象の一切、そういうもの
として「シキ」あるいは「いろ」が仏教では認識されている。決して色彩には限られてないわけです。むしろ色彩は広い意味で色ある物、物質的現象の一つの属
性だと認められています。
言うまでもなく、物にはすべて色がある。さっき白梅には色がないように申しましたが、白いという色がある。そこは光や闇とのかかわりで比喩的なもの言い
をしただけです。色があるから物なんです。そしてもう一度思い出さなければいけないのは、大和言葉である「いろ」という色と、漢字の「シキ」という色との
二面が、日本人が日本語として使っている色にはあり、この二つがいつも微妙に表裏し交錯していることです。
例えば「色」という漢字は、もともと日本人のよく言う色好みなどという性的意味は体していないかというと、そうではない。むしろこの漢字は非常に具体的
に「性」のかたちを象形しているんですね。「色」という文字は、男の人が女の人をひざの上に抱いて性的に楽しんでいる様を文字にしたものだという、非常に
有力な説があります。もっと露骨な説もあります。それは、漢字については辞典も編んでいるある有名な学者の説です。それによると、ショク、シキ、イロと訓
むこの漢字は、元来は塞ぐと訓む逼塞の「ソク」「塞」という字と発音もほとんど同じ、意味もきわめて重なりあったものだと解説されています。女性の性器の
狭い隙間を男性の性器が満たしてそこを塞ぐ意味、まさしく性交そのものを色という字は言いあらわしていると解釈されているのです。この解釈は、学問の世界
でも大方認められています。非常に露骨な話ではありますが、文字そのものの象形上の由来がそうなっているということは、「色」を考えるときにやはり忘れる
ことはできません。それは漢字の話であって、日本語の「いろ」の話ではないとも言いたい所ですが、漢字の「色」のもともとの意味が、日本語の「いろ」へど
の程度深く浸透し影響したかということは、漢字からひらがなが出来、中国の文化から日本の文化や伝統が出来てきたことを思えば、一概に切り捨ててしまうこ
とはできないでしょう。
何よりも私たちの心の中に巣くっている色に対する考え方を、逐一検討してゆけば、この塞ぐとか、ひざに抱いて男が女を楽しむといった露骨な意味を拒絶し
てしまうことはできませんね。つまり男女交合のセックスの愛から、そのさなか男の感じたであろう女の美しさ、優しさ、可愛さというものへ色の意味が移って
くる。さらに、美しいものの表象としての色彩へも意味が移ってくる。
つまり、色彩が先にあったのではなく、先に男と女の愛の形があり、「世」の仲があり、それが女の美しさに反映して美人の意味の好色というような言葉を生
む。そして、美人の美しさ、色好さをさらに尖鋭に感受しつつ、美そのものとしての色彩という意味を生み出している。こういう深く遠い背景があったことも、
やはり「色」を考えるうえでは、忘れてはならないだろうと思います。
では、日本語の「いろ」は、どういう語源をもっていたかということですが、はっきりはしないんです。たくさん説がある。中で一つ有名なのは、「うるお
う」の「うる」の部分が「いろ」に転訛したのではないかという説でしょうか。なんとなく感じは出ていますが、ハキとした話ではありません。色のもっている
ある種のうるおい。これは感情にじかに訴えてくるもので線の魅力とはやはり対照的な気がします。
ちょっと申し添えますと、色の性愛的な一面にかかわる言葉で、関西ではよくいらう≠ニ言います。母親が子どもをとがめたりするときに「ソンナものいろ
たらあかん」などというような言い方をします。「いらふ」というのは、ものに触れる、さわる意味が一つと、返事をする意味もある。しかし、もう一つの意味
は、自分の手を使って手でもてあそぶ。関西ではそういう意味でも使っているわけですね。講座風の堅い会合なわけですから敢えて遠慮せず申し上げますが、
「いらふ」「いらう」というのは性愛の手技といいましょうか、性行為のさなかに手でたわむれる、もっとはっきり言いますと、性器へ手をかけ合っての愛の交
歓という意味があります。転じて、単に物に触れることを「いらう」と言います。触れるだけでなくて、もてあそぶ、いじくるのも「いらう」です。「いろ」か
ら発しているわけです。
関西だけの最近の言葉ではありません。根の深い遠い言葉で、またもや神話の世界まで帰って行けるくらいです。『古事記』をお読みになれば、何度も出てく
るのでご承知と思いますが、「いろせ」「いろと」と申します。兄や弟の意味、それも母親を共にしている兄弟のことをいいます。「いろね」「いろも」といえ
ば、母親を共にしている姉や妹です。さらに「いろは」というのは、まさに自分を生んでくれた母親という意味ですがそれに対して、生んでくれはしなかったけ
れども義理の母親を「ままは」と言うわけですね。だから異母同胞のことを「まませ」と言います。非常に古い言葉です。これは、元東京大学におられた今道友
信氏の解説に拠ってお話ししております。つまり「いろ」というのは、生みの母親のことを意味している。というよりも生みの母親のからだのことを意味してい
る。そこから生まれ出てきたもの、ところ、という意味がどうもついてまわる。そこから生まれ出てきたといえば、これは母なる「女性自身」をさす意味にも
なってくる。「色」というものが「女文化」の基調になって、大事な文化的な伝統、生活の伝統のベース・トーンをつくってゆく、つくってきた、のは道理と言
わなければなりません。
そのような「色」に価値を求めたり、置いたりしておりますうちには、仏教でいう、いわゆる歓喜仏といった男と女の交合をあらわに示す仏像が出てきたり、
豊満な乳房をもったり秘所を明らかに備えた像などがつくられたりします。仏像と言ってしまうと語弊がありますけれども、そういう歓喜仏、性の歓喜というこ
とに「色」の意味を体した思想や信仰があらわれてきます。爛熟し、多少ゆがんできますと、中世に流行した立川流密教といったような、男女の性の交わりその
ものをもって、悟りの一番大きな手段としてゆくような考え方まで歴史上に出てきます。煩悩の極地のような愛に染まって、迷い、惑い、イリュージョンの世界
を生きる愛染無明という世界が即、頓證菩提、悟りの世界へ転じてゆくのだという教えも出てきます。遊女が即、女(にょ)菩薩といわれ、白象に乗って普賢菩
薩に変化(へんげ)するというような説話までがまことしやかに流布される根拠も、ちゃんとそういうところにあるわけですね。
つまり遊戯(ゆげ)の秘境といったものを、どうもわれわれ日本人はどこか心の片隅に、罪の意識を伴いつつも感じ取っている。その感じ方も、その人その人
の個性的な角度に応じて、少しずつ違った形で日常生活にあらわれてくる。それを「色気」というのかもしれません。上品な色気もあれば、歪曲され、猥雑・低
俗な色気もある。しかし、いずれにしても人間である限りは、その種のものを自分のからだに、心に、一つの種としてもっていて、そのときどきの判断なり思想
なり態度なりに、チラッチラッと角度をもって表現している。それが思わぬ色気になって、ビュツと人を魅惑したり、あるいは大勢の顔をしかめさせたりするの
だろうと私は思います。
おわりに──「線」と「色」
「色」には根本そういう誘惑があるのです。色とは、人を誘惑するものだと思います。線の誘惑よりももっと感情的に誘惑してくる。色に圧倒的に誘惑されて
しまわぬためにも最初の発言に戻りますが、他方に精神的・意志的な「線」を置いて、生活にも文化にもよくバランスを考えたいと私は思っております。
日本文化の基本に、もし健康なもの、強いものがあるとしたら、私は、日本人の線的敏感ということが大いに機能してきたと信じております。色のあいまい
さ、色の強力な誘惑から、よく身をかわして盲従してこなかった。そして線の文化を大切に育ててきた。だから日本の文化は、どこか健康で強いものももってい
るのではないかと私は思いたいのです。
線は、その気になって見ないとなかなか見えにくいものです。線というのはきわめて抽象的なものでもあるからです。しかし例えばわれわれの、世界に誇りう
るひらがなという美しい文字を見ていれば、日本人がいかに優れた線的敏感に恵まれてきたかが、分かります。
あのひらがなを創造しえなかったら、日本の古代人は、あれほどの和歌を書き残すことができなかったはずです。また、『源氏物語』や『枕草子』といった優
れた物語や日記を残すことはできなかったはずです。そればかりか、仏師定朝(じょうちょう)による宇治の鳳凰堂のあのすばらしい阿弥陀仏に代表されるよう
な、優美な仏像の線も表現されなかったでしょう。漆器の文様もそうです。仏画の線、狩野派絵画や円山・四条派の日本画の線もそうです。あの美しい不動尊が
背負っている炎の線、あるいは尾形光琳の紅白梅図を流れる水の線、ああいった、類いも稀な線の美はひらがなの発明なしには生まれてこなかったのです。
なんだか「色」に非常に冷たい結論へ近づいたようですけれども、しかし色のもっている大切さ、その深さといったものについてはおおよそ触れえたと思いま
す。
最後に言うなれば、私は、男と女しかないこの世なんだから、男と女との世の仲を、もっともっと大切にしなければいけないと「いろ」という言葉「色」とい
う文字は訓えているのだということを、申し上げておこうと思います。
ーーーーーーーーーーーーーー
蛇と世界 ─「蛇」表現から共同の認識と成果を─
アジア太平洋ペン会議・差別と文学分科会 一九九六年十一月二七日演説 於・京王プラザホテル
ーーーーーーーーーーーーーーー
*レジメ*
グローバル(地球規模)の視野で、グローバルな協働の成果のまだ十分に現れていない、未開拓課題の一つに、「蛇」ないし「龍」があると考
えている。生物の蛇にかぎらない、もっと広範囲にイメージをひろげて、言語、神話・伝承・説話・詩歌・散文・小説・演劇、また多彩な造形に、表現され、示
唆され、象徴化され、信仰ないし忌避されてきた「蛇や龍」が、東西南北を問わず広く広く実在している。しかも必ずしも各国・各地において表現も造形も乏し
いわけではないのに、各国間の境界を越えて大きく深く意義や問題が関連づけられ、構造的に把握されてきたとは言いがたい。
しかし蛇や龍の問題は、人間のがわの恐れや嫌悪とも関連しつつ、想像以上に各国各地の「社会」の底辺に、「信仰」の名に隠された「差別」の源泉としても
沈んでいる。その意味で上古いらい今日もなお、「文学と人間」との、かなり危険をさえ含んだ主題であり得てきた。根強い禁忌の判断によって意識外へ押しや
られながらも、現在なお微妙に表現を変え、場面を変えて、主題化され作品も成っていると思われる。例えば「いじめ」問題にも、根をたどればこれが抜きがた
く関係しているが、暗に社会も政治も目を背けて触れることが出来ずにいると言える。
ましてアジア・太平洋地域に、水(山)神である蛇のイメージは、また生物としての繁殖も、著しく豊富であり、人はこれと無縁に過ごしえた歴史をもってい
ない。
今すぐ論考の結果を取り纏め語ることはできないが、いかに重要な文藝・藝術の課題であるか、ひいては人間社会の根底にとぐろを巻いている問題であるかを
示唆し、各国各地からの、今後、豊かな連携連絡可能な共同の認識が生れくるのを、また深刻で歴史的な人間差別の根が急速に絶たれ行くことを、ぜひ「ペン」
に期待し、提言しておきたい。
秦恒平です。べつに、凄い話も、恐ろしい話も致しません。
(板書して) 公園で撃たれし蛇の無意味さよ
中村草田男の俳句です。句の背景や作者のことなど一切省きます、が、ちょっと気になる俳句になっています。これを、何の説明もせずポンと投げ出してみせ
て、今年(平成八年)の三月までおりました東京工業大学の二十歳前後の学生大勢に感想を聞いたことがあります。彼等の多くは、先ず「公園」と「蛇」とを、
対照的にとらえます。「公園」とは、典型的な「人工」のものだと言う。人間が作り出さない限り在りえない、第二次の自然だと定義してきます。それに対し、
「蛇」は、典型的に「自然」そのものの精のような生き物だと言う。第一次自然の、いわば主(ぬし)だと言う。大国主の主ですね。その二つの自然の間で、明
らかに人間によって「撃つ」「撃たれる」という事件が生じている。それを「無意味」と見ようが「無気味」と見ようが、それは「解釈」だけれど、とにかく、
人間の手で作った人工自然である「公園」に、とにかく自然としての性格を異にする「蛇」が、つい、紛れ出てしまって「撃たれて」いる。それが紛れ出た、人
工世界を侵犯したと見るのは人間の勝手であって、むしろ「蛇」本来の自然を、人間の都合で勝手に「公園」にしたのだと読むほうが理に合っているでしょうけ
れど、そんなことにお構いなく「撃たれて」しまうので、だからこそ「無意味」ないし「無気味」なという批評が、詩人の胸に、また学生たちの胸に立ち上がっ
て来ているわけです。
これは私のウカツということも有るけれど、教えられました。いい句だなと思っていたけれど、「公園」と「蛇」との、そんな「自然」の質の次元からなん
て、この句を読んではいなかった。で、そこで、二つの方面へ話題を運んで行こうかというわけですが…。
一つは『趣向と自然』ということです。
学生たちの曰く、「公園」は即ち「人工の自然」であるという指摘は、言い換えれば、人間が趣向して創作したものという意味です。趣向とは、なにかしら面
白いものを創り出し、それにより我・人ともに楽しもうという意向=精神的活動です。藝術と限ることなく、人間はいろんな畑で「趣向」を立てて楽しんでいま
す。日本文化でいえば、古今和歌集も枕草子も、絵合・歌合もそう、連歌・能・歌舞伎や茶の湯も、浮世絵も読本も、明治の正岡子規や樋口一葉の創作にして
も、りっぱに趣向の産物です。
ただ、こういうことは認めねばならないでしょう、趣向だけで成功したものは実は少ないのだと。趣向好きに加え、もう一つ、いつの場合、いつの時代にも、
日本の創作には自然好きという一面が生かされていた。ただ、「自然」「自然な」という産物では、「自然な」だけでは、大味な、尋常な、退屈しやすい、ぬる
い、穏やかなものに成りやすい。それを趣向好きの強い工夫で、藝や技で、面白くしなければならない。しかし又、趣向じたいが不自然なものでは、所詮、永く
は生き延びられない。わるふざけの悪趣味に陥り、タネと仕掛けのアクの強い趣向倒れに陥りやすい。
だいじなのは「趣向と自然」の、相反する志向・意向の緊張したバランスによって、日本の創作は、日本人の好みを歴史的に反映してきたと言えるわけです。
そういう例が、いくらかの例外はむろん認めざるを得ないとしても、圧倒的に多かったと、そのように申しましても、ま、あんまり言い過ぎでは無い。どこか
で、「公園」的発想と、「蛇」的なものとを、いきなり「撃ち」殺して、ただ片方へ片寄せてしまうのではない、或る「折り合い」へ持ち込む意向を、比喩的に
謂えばでありますけれど、聡明に持ち合わせて来たわけです。「趣向と自然」「自然な趣向」というのは、少なくも日本の「創作」の、或るプリンシプルのよう
に働いていたと私は考えてきたわけです。
で…、学生たちにも、一つ、そういう点に注目を呼びかけまして、それは創作に限らぬ、生活の、学藝の、世間智の、いたるところで見られるプリンシプルで
すらあると指摘しておいたわけです。
しかし、それだけでは済ませておけない問題が、もう一つ、この草田男俳句から読み取られねばならぬと、私は考えていました。じつは学生たちの「読み」の
多くに、「蛇」なるものへの嫌悪・厭悪の気持ちが露骨に出ていた。無用の存在。撃たれても当然の「無意味」で「無気味」な存在という見解が多かった。それ
を批判するような口調のものにも、どうも裏返せば似た悪感情が籠っているように、私には聞こえたんです。しかもなお、彼等は「蛇」を、自然のシンボルと評
価もしている。と、なりますと、若い学生たちのいう、この「自然」とは何であるのか、背後の真意のようなものを、さぐってみたい誘惑をつよく覚えました。
が、ま、それは今は措きます。
白状致しますと、私は、処女作以来、じつに頻々として「蛇」を書いてきた作家です。「蛇」が好きなのか。とんでもない!「虫」ヘンの漢字は、見るのもイ
ヤなくらい、少年の昔の、或るトラウマによりまして、「蛇」がイヤでイヤで堪らない。育ちました京都市内の我が家にも、いました。戦時中に疎開した丹波の
山奥にも、いっぱい、いました。ま、蛇の好きな人も少ないでしょう、が、実はそこのところに、大きな「問題」が潜んでいると…そう、思っています。
なんで、人は、こうも「蛇」を邪魔にするか。嫌うのか。キリスト教の聖書を持ち出すまでも、ない。たしか、中国の『白蛇伝』でも、最初期の頃は、蛇と人
との、いわば純愛の物語として成り立っていたものが、だんだんに改変されて行って、蛇の役回りは悪くなっています。しかし物語自体には人気があった。日本
でも、恋しさあまって憎さ百倍のヒロインが、蛇になって男を焼き殺す『道成寺』ものに、なんともいえない国民的人気が、大昔からあった。ただのコワイもの
見たさ、とばかりは言えない。上田秋成の『蛇性の淫』にしても、あの蛇の「真女児=愛子」が、ただただ嫌われて読まれてきたとは言えません。しかし好まれ
ていたとも言えない。なにかしら無視できない凄いモノとして、存在理由を主張してきたのだと言えそうです。
日本の近代作家で、「蛇」を書いて最も注目しなければならないのは、泉鏡花でしょう。彼の多くの作品には、処女作の一つと言ってもいい『蛇くい』の昔か
ら、生身であれ、シンボルとしてであれ、幻影のようであれ、しばしば「蛇」が現れ出ます。彼は一時「白水郎」という署名もしていますが、単に「泉」の姓を
もじっただけでない、太古の海や水と、海の民・水の民とを、鏡花は、いろんな作品に、淡いが、リアルな影のように反映させている。おそらくは「鏡花」の名
乗りにも、私は、彼の、「蛇」ないし「蛇の民」への哀愁と根の哀しみとを、美的に秘めたつもりだったろうと読んでいます。「鏡花の蛇」は鏡花研究の、未開
拓主題の、だいじなだいじな一つであると思っています。
私は考えます、「蛇」ないし「龍」への視線を欠いて、人類の文化史・社会史なんて、いったい書けるのだろうかと。彼等が占める、人間社会ないし文化現象
における重みは、とうてい無視も軽視もできない、のに、しかも当然のように、とかく見て見ぬふりをされてきたのが、「蛇」や「龍」であったと思う。それに
もまた、解かれてしかるべき、或る理由があったのでありましょう。ことに日本では、それが国体の神話に関わるが故にでしょうか、ことに禁忌じみて、表向き
の話題にされて来なかった。
日本は、水の、池や沼や川の、また海の国であり、それらに囲遶され、またそれらを深く抱き込んだ、山や谷や、野や、里の国です。蛇の棲まない所は無い。
それかあらぬか、出雲、諏訪、鴨、伊勢、住吉、八幡、八坂、熊野、稲荷、貴船、気比、佐多、金比羅、厳島、丹生、三輪、鹿島、三島、松尾等々、古い神社の
神々と目されているのは、大方が水の神で、つまりは「蛇体の神さま」たちです。そしてそういう神社の大方が、もうそこから先へは、出てこないで頂きたいと
いう場所に、きわどい位置に、荘厳に、かつ厳重に、斎(いつ)き籠められ、或いは葬られて来たわけです。加えて、そういう神々ないし死骸の世話をする、少
数の人々の生活を起点に、社会的な差別、別火別食の隔離風習なども、拡大されて行ったように、よく見ていると見てとれます。あたかも「蛇」を忌むかのよう
にして、「人」まで忌みかねない、いや、事実忌み隔ててきた風習が、遥か昔から根づいていた。
古事記や日本書紀の神代の記述などによれば、皇室の起源にも、「蛇」は、「龍蛇」は、「水神・海神また山の神・野の神」は、絡みついて離れません。あた
かも「蛇」の頭が、尾に噛みついた格好で、日本の社会の、貴と賤とは、都と鄙とは、清いと穢いとは、隣り合って差別構造化して来たのだ…と見えてくるわけ
です。そしてその差別構造を、じつに手前勝手に世襲的に固定したまま、手直しを施そうともしなかった。それが即ち、日本の歴史を成してきました。
いやいや、どうも、それは日本の歴史に限っていないのではないか…というのが、「蛇」をこうして持ち出した一つの動機なんです。
世界中の「蛇」や「龍」神話や伝説を、歴史の解くべき、しかも現代からなお未来へかけて容易ならぬ重い課題として、はっきり認め、問題の収集から考察
へ、理解へと持って行くことが、ひょっとしますと、例えば「イジメ」問題などの深い理解のためにも、また多くの美術形象にあらわれている深層意識や意義の
解釈にも、それはそれは豊富な未解決なフィールドを開拓して行く、本質の要件なのではないかということを、私は言いたい。
日本だけの問題であるわけがなく、極東でもオリエントでもヨーロッパでも、南海の国々でも、無視しつづけていい事とは思われない。農業にも医術にも漁業
にも呪術や信仰にも、また文藝や美術の造形にも、今も申しました人間関係の構造的な力学や心理にも、深刻に関連している「蛇」がいます。「龍」もいる、と
言っていいでしょう。もともと龍の問題であったのが龍頭蛇尾と化してきたものか、蛇と謂いたくなくて龍と、便宜にイメージを動かし意識して来たものか、
ま、根は、同じでしょう。
新井白石という江戸時代の政治家で優れた学者だった人に、いまの茨城県の辺が、よく謂う「芦原のナカつ国」だったとする議論があります。ちょうど常陸国
風土記に重なる地方ですが、この風土記を読みますと、これが、なかなかの「蛇」の国でもある。「那珂郡」があり「那珂川」が流れています。「ぬかひこ・ぬ
かひめ」伝説もある。「蛇」を「おおかみ」とも崇めています。漢字の蛇を「な」と読み、「処(ところ)」を「か」と読んで、「なか」「なが」は、蛇に関わ
る場所風の名乗りとみますと、恐縮ながら、中川、長島、中野、長山、中谷、長岡とか、川名、山名、浜名なども、なにかしら「蛇」と共存した人間の場所とい
うふうに理解できて参ります。そういう場所が実に多い。
この「なか」や「な」「なが」を「蛇」の意味と取ることには、かなりの類推根拠が認められていると思う。今も申しましたように、日本中に、「な」「な
か」「なが」とつく郡名は多く、まして地名も姓名もべらぼうに多いのですが、これが「長」虫つまり「蛇」ないし「蛇」信仰に結ばれた社会に関わっていない
かどうか、例えば、東南アジアでの、アナンタナーグなど、ナーグライや「ナーガ」神信仰、遥かには「スネーク」といった名前との脈絡を想像することは、必
ずしも不可能ではない。
蛇の摘みをもった「委(わ)のナの国」の金印なども、その宗俗を見極めて「与えた側」で摘みの形象を選んでいたと言われているわけで、「ナ」の国が、な
にらか「蛇」との関わりありと見ましても、そう突飛なはなしではない。綱引きや竹切りの神事にも「蛇」のイメージは絡んでいます。「チの輪」潜りなどに認
められる、また、太いしめ縄などにも様態の似通いは顕著に認められます、蛇本来の豊産精力への農事がらみの信仰も、「蛇と人」との習俗に優に示唆されてお
ります。
言うまでもない、例えば中国の意匠では、龍は、もっともありふれた一つです。宮室や墓室を守り、石に彫られ、土に象られ、鏡に刻まれ、巨大な九龍壁にな
り、また、青銅器や玉器に、旗に、剣に、衣服に、陶磁器や調度に、屋根に壁に欄干に、そして日常の食器の図柄にも、そんなふうに挙げ始めれば、かえって不
十分が目立つほど、いたるところ、ほぼいつの時代にも龍がいました。表現も密あり略あり、多彩あり簡墨あり、しかも印象として、龍のあるところ妙に派手で
賑やかです。伝えられた長崎くんちのお祭りなどにもうがえます。豊かに勢いある高揚感は中国の龍のもちまえであり、「天」に連なる瑞祥の思いが、きちん
と、ものを言っています。
鱗に覆われた長い胴、二本の角、前脚の根にある翼、尾へかけての強烈な背鰭、凄い爪など、これぞ龍の基本型といえるものは、ほぼ漢の時代にもう成ってい
たといいますが、想像上の霊獣と思う安心とゆとりとが、むしろ「蛇」の血を這う陰気さにくらべ、表現を大いに陽気に、めでたくしている。四神のなかでは、
日昇天の東方を占めまして、天子十二章の一つとして、皇帝を象徴する紋章に用いられています。明・清代の磁器を魅力あらせている意匠は、私など、「龍」の
図ではないかと思って参りました。その姿が見えないと即ち、味わいうすいかのようにさえ、感じてきたものです。
日本ではどうも「龍」はさほど闊達に世渡りをしていません。観念的に、「蛇」の出世をしたのが龍…くらいな感覚なのでしょう。そもそも身のそばに、いつ
も、何にでも飾り置くといった相手でなかった。龍宮とは言うが、龍そのものが出現する事例はめったになく、現れるときは、たとえ八岐大蛇であれ、要するに
「蛇」です。しいていえば出雲の祭礼ではいつも主役の「龍蛇」です。そしていわゆる神様のご正体めいて想像され、敬遠されていた。諏訪の「室縄編み」も、
御柱(おんばしら)も、蛇形象です。
中国の国造り神話のいわゆる「三皇五帝」の最初は、風姓、その一族は「蛇身人首」であったと言われます。この種の「蛇」創世神話は少なくないでありま
しょう。地球規模でいえば、もっと、たくさんなことが目に見えて来るはずです。マリア図像などに、しばしば蛇の頭を踏んだものが見られます。シベリア・ロ
シアにはバーバ・ヤガーがいます。オリエント周辺の上古の画題にはしばしば特異な龍が登場しているようです。バビロンにもヒッタイトにも小アジアにも、微
妙に重なりあった「龍」や「蛇」の表現が在るようです。しかもその多くが、キリスト教世界の聖伝説や造形に影響しています。エデンの園にも蛇がいた。現代
の『ゲド戦記』も人と龍の世界です。
すべて、単に忌避するのなら無視して済みますが、何らか、積極的な意義を見ようとしますと、勢い、表現されざるをえない。必然美術に「蛇」や「龍」は数
多く生息し、それは、われわれの言語表現においてもそうでしょう。
だが、比較と検討は十分な段階になく、例えばアジア太平洋といった広がりの中でも、あまりに個別に孤立して、ま、敬して遠ざけられてきた話題主題です。
その敬遠の姿勢に裏打ちされて、難儀な歴史的な「人間差別の暗い絵」が描かれつづけているのなら、これは問題です。ペンを握っている者としても問題です。
顔を背けていていいわけがない。
「蛇」の話は、こわいけれども、しなくちゃならん大きい話題であると、いつも思ってきましたが、もっと広い範囲の方々にも関心を深めていただきたいと願い
まして、不十分と承知で、話してみた次第です。ご静聴を感謝します。
(演説集は数か国語で、日本ペンクラブから刊行されています。)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
蛇と鏡花 ─水の幻影・泉鏡花の誘いと畏れ─
「石川近代文学館主催講演会」一九九九年十月二三日 於・石川県文教会館
「日本の美学」27号 一九九八年四月刊の掲載論文に、大幅加筆
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
鏡花(と、敬称抜きで呼ばせていただきますが、)鏡花について、纏まってものを書いたことは、私、ございません。学研が、『明治の古典』を選んで、十巻
の、大判で、写真の沢山入ったシリーズを出しましたときに、『泉鏡花』編を担当いたしました。
私の選びました作品は、先ず『龍潭譚』次いで『高野聖』と『歌行燈』の三編でした。『龍潭譚』は、私の言葉で、現代語訳をしました、そうする約束でし
た。『高野聖』と『歌行燈』とは、ご承知のように、現代語訳の必要はございません。
そして三編を通じて、私なりの或る意図を活かして、脚注をつけて行きました。脚注だけを通して読まれましても、何か、私の「鏡花観」といったものが、な
いし、鏡花に関わる問題意識が、ほの浮かび上がればよいがと、目論んでおりました。
その前後に、どこかで、どなたかと、座談会で、鏡花にふれた話し合いをしましたが、よく覚えておりません。司会が、篠田一士さんであったと、朧ろな記憶
が残っています。
それよりも忘れがたいのは、前の(石川近代文学館)館長さんの新保千代子さんのご好意で、能登島のあの名高い火祭りを見せていただきました。あれが、と
ても嬉しかった。あの、前でしたか、次の日でしたか、この文学館で、「鏡花」について、よたよたと、頼りない、講演ともつかないお話を致しました。なに、
ろくに私自身も記憶しないようなものでした。
その折りであったかも知れません、さきの、『龍潭譚』を訳しました私の原稿を、「館」に、お収めいただきました。ご縁、というものでございましょう。
ご縁といえば、新館長の井口哲郎さんとのご縁は、もう話し始めれば尽きないほどで、ただ有り難く、この場を拝借し、一言、久しい感謝の気持ちをだけ、申
し上げておきます。
で、その、『龍潭譚』を訳しました私の原稿で、少しく問題を生じましたことを、思い出します。
一箇所で、問題が起きたんです。或る箇所で、「渠=かれ」という、いわば異風の代名詞が使われていました。それは誰を、何を、指しているのか、わたしの
理解に、異存が提出されたんです。
じつはそのような注目が寄らないものかと、脚注で、ことさらに、鏡花原作の草稿まで持ち出して、「深読み」のおそれが無くもないが、あえてこう訳してみ
たいと、理由を書き添えて置きました。
『龍潭譚』の少年は、斑猫(はんみょう)といわれる毒ある虫に、さも嘲弄されますように、山道を誘われ、山道に迷います。
斑猫は「道教え」という名もある虫でして、本文に、「渠(かれ)は一足先なる方に悠々と羽(は)づくろひす。憎しと思ふ心を籠めて瞻(みまも)りたれ
ば、蟲は動かずなりたり」とあります。ここの「渠」が、「蟲」を謂うているのは明らかです。あげく、少年は躑躅の花の燃えるように咲いた山坂の道で、斑猫
を石で撃ち殺してしまいます、が、すでに刺されていて、虫の毒で、面体(めんてい)が変わりつつあります。少年はまだそれに気づかす、むず痒い痒いと思っ
ている。そしてますます道に迷い、泣き叫んで、優しい保護者の、我が姉を、声いっぱい呼ぶのですが、「こたへやすると耳を澄せば、遙に瀧の音聞えたり。ど
うどうと響」いています。その瀧の音の「どうどうと響くなかに、」透けるように、「いと高く冴えたる声の幽(かすか)に、
『もういいよ、もういいよ。』
と呼びたる聞えき。こはいとけなき我がなかまの隠れ遊びといふものするあひ図なることを認め得」まして、少年は、やがて見なれぬ土地の子らが事実「隠れ遊
び」していたらしい、或る「鎮守の社」にたどり着きます。ほっとして、少年は里心地のうちに、家は近いと一息つくのでした。
さ、そこで。問題になった「渠」は、章節の見出しを「かくれあそび」と替えまして即座に、こういう風に使われていました。
「さきにわれ泣きいだして救を姉にもとめしを、渠に認められしぞ幸なる。」と。
さ、この「渠」とは何なのか。何を指すのか。慶応義塾大学図書館の鏡花原稿では、実は、ここの「認められしぞ幸なる」の「認められ」のあとに、二字分の
抹消があり、私は、「認められざりしぞ」と打ち消されていたのが、「認められしぞ」と直ったのだと考えます。で、「認められざりしぞ」だと、姉を求めて呼
んでいたのですから、微妙な「幸なる」との関わりこそともあれ、単純に「渠」は「姉」と読めてしまうのです。しかし、鏡花は二字を消しまして、「認められ
(* *)しぞ幸」いと直し、活字本ではその後、一度も変更されて居りません。 私は、こう訳しました。
「先刻山なかで、泣いて助けてと姉を呼んだ時、瀧の音や「もういいよ」に前途を誘ってもらえて、ほんとに良かった」と。
そして此の箇所脚注の最後に、「深読みの惑いは抱いたまま訳稿を定めた。他日、論考の機会をえたい」と書き記して置いたのです。
さて、この箇所について、私に宛てて、直接、異存を申し立てて下さったのは、一人は寺田透氏で、もうお一人は鏡花夫妻の養女の泉名月さんでした。こう申
してはたいへん失礼だが、わたしは、大物を確実に釣り上げたわけです。
三人の間で、しばらく、私信を通じて意見交換が続きまして、やがて終熄しました。だれもが、自説を曲げるほどは、説得されなかったんです。問題は、残さ
れたままになっていて、寡聞にして、他の場所でこれが論議されたことがあるかどうか、私は、知らないでいます。ま、古証文を引っぱり出すのは専売特許のよ
うなもの故、この辺から、ものを申してみようかな、と、腹を、八分がたくくって参りました。ご心配なく。あまりこまごまと細部にこだわり続けようとは思っ
ておりません。
ここの「渠」の字は、もともと水路や溝を意味しています。暗渠、溝渠などと熟しますね。また、かしら、親分ふうに、渠魁などとも熟するそうです。「なん
ぞ」「いづくんぞ」と、漢文では疑問や反語の助字に用いている。それでも「彼」「彼女」風の代名詞なみに使われる例は、鏡花ひとりに限らないし、また人間
だけでなく他の生き物や、擬人化して、物にも宛てて使われている例もあります。
で、寺田さん、名月さんご両人は、この「渠」とは、ここまで物語を読んできまして、実は、まだ作中に全く姿をみせていない、登場していない、やがて登場
してくる、けれども読者は、その存在すら、まだ、全然知らない、或る不思議の「女人」のことだと言われる。
なるほど、読者はまだそんな「女人」は見も知らない、けれど、作中の少年はこのお話を、はるか後年に追懐している体裁ですから、その「女人」のことは語
り手は承知している。承知の上での「渠」であるから、読者の知る知らないは問題ではないと、言われる。
しかし、叙述に即して本文を読めば、あくまで頑是無い少年の心理的な「現在」感覚に貫かれつつ、コトは進んでいるのでして、決してはるか後年の海軍少尉
の追想・追懐は微塵もまだ混じっていない。それは小説作品の最後の最期にパッと初めて明かされるんです、だからこそ「締めくくり」効果も挙げている。少年
の現在感覚、それと同調して読み進んでいる読者の現在感覚に即して申しますと、登場もしていないモノを明確に「渠」とは、この際指さしたくても指せないの
が道理であり、小説や物語の、ないし叙事・叙述の、力学というものです。
で、私は、その不思議の「女人」に、確かに「なぞらえられ」ているが、直接に指さした「渠」ではない、この「渠」とは、該当個所の直ぐ前で、ほんの直ぐ
前の語りで、語り手の少年を、道に「迷い子」の窮地から救った、「瀧」ないし「瀧の音」それ即ち「もういいよ」という「迷い子からの解放=侵しのゆるし」
に、宛てて、読んだのです。少年は或る魔境を「侵し」ていたのです。
「渠」は、そもそも常用の代名詞では、ない。「かれ」と読むからそんな気がするわけですが、先にも申しますように、本来の字義を体していまして、白川静
さんの『字通』によりましても、この「渠」という文字の第一義は、中国の字典『説文』をも引き、「水の居る所なり」とされているのです。本義は、「水」の
在る「場所」を明確に指さしています。沼や池や、淵や瀧。この語りのごく近辺から代名詞的に指さして謂えるのは、「瀧」「瀧の音」が、まさに実在していま
す。そして、件(くだん)の「女人」は、まだ、その「瀧・瀧の音」の背後に、文字通り、「隠れ」ていましたから、少年も、むろん読者も、女人の姿も存在も
予見もできず、ただ「瀧の音」を耳にしつつ「もういいよ」と、迷い子の窮地から放免されたのでした。宥(ゆる)され、助かり、安堵しながら、その背後に、
かすかな不思議への「誘い。いざない」を感じていたというのが、より正確でしょう。この「瀧」や「瀧の音」は、ちゃんと書き込まれています。それは鏡花に
も少年にも、聖と俗を分かつ結界に位置した、さながら「龍」潭への門かのようにきちんと表現されています。
これが、私の理解でした、主張でありました。この「瀧」こそは、物語の題の、「龍」ないし『龍潭譚』に、文字の姿からもハッキリかぶさり、そして、やが
て登場する神秘の女人の「水神」性につながるあだかも擬人化された化性(けしょう)と、私は、読んだのでした。そしてその「読み」の延長上に、名作『高野
聖』と『歌行燈』の読みをも、まさぐって行ったのでした。
これら秀作・名作には、まさに「水の幻影」としての「龍神」「蛇神」が、支配神・地主神のごとく、たゆたい生きている。鏡花の世界に、遍満している神様
です、化性のモノ、です。
で、今日は、そのお話をしに参りました。じつは「書いた」ものでありますが、私の声と言葉とで、みなさんにお話しし、ご批判を願おうと思っています。鏡
花から、ぐうっと離れて行くようで、そうでは、ない。鏡花の「誘いと畏れ」に、きっと触れあって参りますので、モノがモノ、少し長めにお時間を、ぜひ頂戴
したく、お願いします。
(*補注 ここで会場から、この「渠」は即ち毒虫「斑猫」だと考えているという強い意見がでた。「さきにわれ泣きいだして救を姉にもとめしを、渠(斑猫)
に認められしぞ幸なる。」だが「さきに」は時限を特定した指示句であり、明白に「われ泣きいだして救を姉にもとめ」た時点をさしている。ところが少年は、
この毒虫を「その時」よりもっと早くにすでに石で、撃ち殺し叩きつぶし蹴飛ばしている。「認める」は「見留める=受け容れる」のであり、殺し殺されてし
まっている美しい毒虫が、泣いて「救を姉にもとめ」ていた時点での少年を「認めた」と読むのは、本文に即して道理を得ない。「道教え」のこの毒虫は、物語
の結果から見て少年を不思議の女に誘い寄せる役をしていたのであるが、それは物語をすべて読み終えて識る筋書きで、文章表現の、また作中人物の「現在進行
感覚」を恣に無視した議論であってはなるまいと思うが、どんなものか。)
がらっと話を変えるようですが。あの、飛行機の窓から大地を見下ろしますと、大きな河川ほど、大木の、無数に枝を張ったように見え、また、長大な「蛇
体」の、のたうつようにも見えるものです。シベリアからモスクワへ向かう飛行機では、そんな大河の蛇行が、日本列島とは、比較にならないほど、もの凄い。
「蛇行」という譬えは、河の流れにいちばんよく謂われますね。「蛇」とはいわなくても、大河を「龍」に見立てた例は、天龍川、九頭龍川など、他にも、幾つ
もある。「水」をさながら「龍」と見立てたのが「瀧」であることも、言うまでもありません。瀧が、そのまま「神」かと拝まれ・祀られます時、例外なく、そ
れは「龍神」としてであります。幸いに「龍頭蛇尾」という言葉もございます。それもよし気楽な蛇行を、委蛇(いい)として、試みて参ります、が。
「水」は手にむすぶ。渇きもいやす。煮炊きにも用いる。日常的だけれど、また、広大に茫漠としたものでもあります。海、河川、池沼、また雨露や雲霧。現代
ならダム、また水道水。みな、どこかで一と繋がりであり、その不思議が即ち「水」の恵みでした。畏(こわ)さでもあった。
それほどの「水」に、神の住まぬ、また憑(よ)らぬことは、人間の想像力では在りえないんですね。水の神は、日本では即ち「龍ないし蛇」と信仰されてき
た。龍宮伝承などが、何のよるべもなく生まれ出た、わけがない。天照る神の子孫ウガヤフキアエズを産んだ豊玉姫は、龍宮から迎えた龍女でありました。出産
時の正体を、「けっして見るな」の禁忌(タブー)を夫に侵されますと、産んだ子を地上におき、海底に帰り、育ての母の役に、妹の玉依姫を送りこむ。やはり
龍女であったこの姫が、育てた甥神のいつか妻となって、後に、大和の橿原に即位する、人皇第一代の神武天皇らを産んだわけです。日本神話です。
どんな正体を夫は見てしまったのか。後にも触れますが、それは、男神のイザナギが、女神イザナミの死を、悲しみ、追うて、黄泉国(よみのくに)に下り、
そこで、やはり「見るな」の禁忌を侵してしまったときの、すさまじい「死者イザナミ」の容態と、そう大差のない姿であったことでしょう。
「水神=龍=蛇」とても、いわば歴史的な存在であり、スサノオ(子)とイザナミ(母)とに繋がれ、海と黄泉とを跨いで、「死」の世界に接していた。日本神
話ではスサノオが八岐大蛇を討ち、その尾から剣を獲たように、また蛇が、しばしば太刀=剣に譬えられるように、鉄や銅の技術や社会にも接していた。その
「タチ」も、「イカヅチ=雷=稲妻」にリンクされまして、雨や雲に、水に、接していた。スサノオの獲ました草薙剣は、初め「アメノムラクモ」と名付けられ
ていましたし、天(アメ)と雲雨(アメ)とに違和感は、なにも無いんですね。その眼下には、農耕社会も、はっきり目に見えてきます。
オロチ大蛇・タチ太刀・イカヅチ雷のそんな連携を、「チ」の一音が通分しています。「チ」が、蛇ないし蛇体を原意としたであろうことは、「オロチ」「ミ
ヅチ」「カガチ」もさりながら、日本中の多くの神社、それも地主神を祭った地域の鎮守に多く見られる「茅(ち)の輪くぐり」が、なにを象っての信仰かを想
えば分かります。「茅の輪」は、蛇形象の愕くほど数多い日本の民俗のなかでも、ことに分かりやすい、まさしく「チ=蛇の輪」であり、大きな茅の輪を潜って
受ける恵みは、端的に、蛇の、豊かな精気でした。蛇が、古来絶倫の精気で「神」なる威力を畏怖されてきたことは、人身御供(ひとみごくう)に美しい女体を
要求した八岐大蛇はもとより、多くの「蛇婿入り」や「蟹満寺」系の説話が雄弁に物語っています。 ついでに言えば、同じ形象を「ミの輪」と称している神社
や習俗も少なくないが、現在どのような漢字を宛ててあるにせよ、それが「巳=蛇の輪」を意味したことは、「茅の輪」潜りの例と、なんら変わりはない。蛇
の、互いに身をよじり合うておそろしく長時間に亘る性の姿態は、太古このかた多く久しく見聞され、畏怖されてきました。神社の結界であるあの「しめなわ」
の容態に、その姿態が象られているかという観察も、真実であろうと想われます。「しめなわ」を結うた古代の多くの神社、日本の神社は、あだかも「蛇」と
「人」とを分かつ、それ自体が、聖なる「結界」であったのでしょう。
「しめなわ」の巨大さで聞こえた出雲大社は「スサノオ」を、また「オオクニヌシ」を祀っていますが、ともに「大蛇神」であり「大水神」であることは、大蛇
とは異体同質の神と目されてきたスサノオが、「海・黄泉(よみ)」を統べる神とされていること、後者オオクニヌシが、後にも触れますように、蛇と縁の濃
い、ないし蛇そのものを意味した「オオアナモチ=大穴持」「オオナムチ=大巳貴」「オオモノヌシ=大物主」を「異名」にしていることからも、伝承のそれを
疑う理由が、ない。出雲大社の祭は、今日なお、真っ先に日本海の稲佐浜にうちあげられるという「龍蛇神」を渚に出迎えまして、行列の先頭にたてて社に入る
ところから始められています。
諏訪神社は、天つ神に敗れ出雲を逐われた「タケミナカタ」が、いわば押し籠められ祭られた神社であることは、よく知られています。その祭事は、先ず神官
が地下の土室(むろ)に籠り、藁で、小さな蛇身から、だんだんに大きな蛇体へ綯い上げてゆくという、神秘の作業から始まるとされています。「オオクニヌ
シ」の子の「タケミナカタ」が、蛇神である心証も、これを疑う理由は、何もない。諏訪の祭事には、聞こえた「御柱(おんばしら)」が、大きな役割を占めて
いますが、するどく頭の尖った形象が、「蛇」の威力を示しておればこそ、神域の四囲を護っているとされて、きわめて自然なんですね。大縄といい御柱とい
い、諏訪の神が蛇神である心証と、伝承とは、諏訪湖の「オミ」渡りを、祭事絡みに大切に見守ってきたことでも補強できます。「御身(おみ)」は、また「御
巳=御神(おみ)」にほかならず、「タケミナカタ」のムザネ、正身が「巳ぃさん」であることと、きっちり呼応しております。
「巳」の文字が出たところで、少し、こだわって置きたいのですが。
よく似た文字に、「己=コ・キ」と「已=イ」とがあります。前者は「おのれ」を、後者は「やむ・すでに・より・はなはだ・のみ」等を意味している。それ
に対し「巳=シ」は、和音では「み」で、十二支の第六、蛇が配してありまして、この文字そのものを、古くから「蛇」と弁えてきました。さきに大国主神の異
名として「大穴持神」「大物主神」などと一緒に、「大巳貴神=オオナムチノカミ」を挙げておきました、が、この表記は、従来は「大己貴」で通って来た。
「大きな貴い己れ」では、他からの尊称でなくて、尊大な自称になってしまう。自称でもよいけれども、「己」を「ナ」と読むのは、じつは意義の上で、縁が全
然、無い。おそらく他に用例も無いと思います。
これが「大巳貴(おおなむち)」ならば、「大きな貴い蛇」神であり、「大穴持」「大物主」「大国主」「大国魂」などとも、見るからに太い意義の繋がりを
もって来ます。「アナ」と蛇はもとより、「モノ」も、ともに神異を示唆した和語であり、「大きな貴い蛇」は各地で地主神として、岩の上などに「イワナガ」
とも影向(ようごう)し、礼拝され、まさに大地を統べる自然神の意義を負っている。ただ、蛇を、死や穢れとの連想により、つよく忌避する世俗の風習に影響
されまして、ここでも「巳」の字を慣習的に避けてしまい、「己」の字を、代用したものと、私は解釈しております。
しかし「巳」の訓みは「シ」か「み」であり、「ナ」ではあるまいと、一応は言わざるを得ない。しかし、もし「ナ」に「蛇」の意義が添うのであれば、義訓
として「巳=ナ」が成り立っていいでしょう、いわゆる万葉訓みの時代の、これは表記でありますから。
では「ナ」に「蛇」の意義があるのか。有った、と、ほぼ断言できます。
海の民の最たる、安曇族の根拠地でありました博多沖、志賀島の渚から、後漢の宮廷から「漢の委の奴の国の王」に授けられた金印が発見され、国宝に指定さ
れている。有名な史実です。ところでこの「印の摘み」は「蛇」に造ってありますが、この種の「親授印の摘み」には、相手国の宗俗・風習への認識を示すの
が、いわば作法であったと申します。
わが国では、従来「委=イ」を、あえて「ワ」と読み、ニンベンを添えた「倭」つまり「大和=日本国」を謂うものの如く、決めてかかってきました、日本国
の一小部国なる「奴」の国が、在ったものと。
しかし「委」に、「ワ」の音はないんです。「奴」の音も「ヌ・ド」で、「ナ」ではないんです。漢の支配下にある「委奴=イド・イヌ」国の「王に」と理解
するのが、素直で、自然であり、「奴」は、「婢」と一対の、つまり男隷への蔑称でありまして、主意は、この「奴」よりも実は「委=イ」の方に在ったろうと
私には考えられるのです。
そしてこの「委」こそが、「蛇=イ」に通じている。「委蛇=イイ=うねうねと、なよなよと、曲がっている」という熟語にもなる。「委奴国王」とは「蛇に
親しみ暮らす者どもの国ないし王」の意味でしかなく、これを「倭=日本の中の、奴=ナという国の王」と読むのは、「委」の「蛇」イメージを嫌っての、故意
に看過しての、歴史的にねじ曲げられてきた、無理筋というものでありましょう。
金印には明らかに「委=イ」とあって、「倭=ワ」とはないのです。だが、それにもかかわらず、ここから「ナ」の国という読み取りの定まって来たのも史実
でありますからは、「ナ」または「ナカ・ナガ」の国は、事実自称としても実在し、後漢は、その事実を蛇紐(じゃちゅう)に依って認識し表示した上で「委
奴」と義訓し、つまりは宗主国による属国への他称印を授けたものと思われるわけです。「ナ」には、「蛇」の義が、たしかに添うていたんです。
柳田国男は、蛇の名称のおどろくほど多数で多様であることを、詳細な論文に書いている。わたしが戦時に疎開していた丹波では、「クチナ」と呼んでいまし
たが「くちなわ」の訛ったものという人もある。口のある縄と謂うのかもしれません、が、私は、「ナ」の音こそ、原初のものと考えています。「ナやらい」な
どという悪魔秡いの「儺(な)」にも、蛇への、古代の畏怖が忍び入っていましょうし、それも「ナカ=ナガ」と根の同じ「ナ」であろうと考えています。我が
国の「ナ=蛇=長虫」の源流は、明らかに、東南アジアに瀰満した「ナーガ=蛇」神でありましょう。
カシミールのアナンタナーグ(=数え切れない蛇)は、ヒンドゥー教の久しい聖地ですが、名のとおり無数に棲む蛇を祀っている寺々が多いそうです。蛇の王
は「ナーグライ」と呼ばれています。細心無比に水利を工夫して、奇跡の王国を「水」ゆえに大繁栄させたアンコールワットの初世王が、壮麗な城館を幾重にも
巻いて守護させたのは、長大な水神「ナーガ=蛇」でした。日本中に散らばった「ナカ」「ナガ」ないし「ナグ」「ナ」とつく土地には、遠く、インドや東南ア
ジア、南シナに由来の「ナーガ(蛇)神」を畏(かしこ)み祀った海(山)の北上民が、日本列島にちりぢりに別れ住んだのだとは理解できないものでしょう
か。「委のナの国」と言い伝えたのも、そのような一ヶ所だったんではないでしょうか。
単純に、日本の姓名・地名で、頭に「ナカ」「ナガ」とつく例は、「大」「田」「高」などにも増して、断然多い。「ナ」「ナグ」等を加えればもっと多い。
中間、中部の意味と取れる「中」がむろん有ります。が、まるでそうは受け取りにくい例えば中郡や那珂郡、那賀郡や名賀郡が諸方にあり、長郡もあった。た
とえばナガ野もナガ島も、ナカ川もナカ山もある。山ナ、川ナ、浜ナもある。桑ナ、椎ナ、榛ナ(はるな)もありますし、ナ切、ナ倉などもある。もしこれを、
おおかた、「蛇の棲む」「蛇に親しい」と翻訳して読み取れるものならば、高天原からは服(まつろ)わぬ国と見えていた、生い茂り蟠る『葦原の「ナカ」つ
国』の国情も、由来も、がぜん南方的、水上民的な背景を背負うて読めて参ります。
思いつく限りを挙げてみましょうか、出雲、諏訪、三輪、鴨、松尾、熊野、神魂(かもす)、八幡、八坂、稲荷、伊勢、貴船、丹生、琴平、厳島、住吉、気比
(けひ)、佐太、白山、生玉、三島、熱田等々、名だたる古社は、源をただせば、みな「蛇体」の水神だというのが意味深長ですし、反抗する「ナガすねひこ」
を先ず討って、初めて、神武天皇の即位が実現したという、古事記の謂いにも聴くべきものがあります。「討っておいて、祀れ」ば、日本ではそれが即ち「神」
であり「社」でありました。押し籠め、伏し鎮める。もう、ここから外へは、出て来ないでほしい。現れないで欲しい。その代わり、もう、そっち側へ我々も、
決して踏み込みません、と、日本の神社は、大方が、そういう場所に、鎮守され祭祀されて来た。
ひとつご注意下さい。「祭祀」の「祀」の文字に、どうぞご注目下さい。まさしくこれは「巳ィさん」を祭るという字義を如実に示しております。
常陸国風土記に、こんな事が言われています。
継体天皇の頃という。箭括(やはず)氏の麻多智(またち)は、或る谷=ヤトの葦原に目をつけ、新たに田を切り拓きました。ところが、先住の蛇たちがおび
ただしく現れ、「左(と)に右(かく)に」耕作の邪魔をする。もともとこの国の「郊原(のはら)」には、蛇があまた棲みついていました。麻多智は為体(て
いたらく)に大きに怒り、「甲鎧(よろい)」を着「仗(たち)」をとって、蛇の群れを、谷に打ち山へ逐って、山口・谷口に境を固め、きびしく杭を植え、堀
を掘った。そして蛇たちにこう宣言しました、「これより上(かみ)はお前たちの世界として許そう。これより下(しも)は、人が田を作る土地だ。この後は、
ながくお前たちを祀っておろそかにしないと誓おう。だから、祟るなよ、恨むなよ」と。ついに一宇の社を建てまして、麻多智の子孫が畏み祀ってきた、と、い
うんです。
おおよそ神社「祭祀」の起源をこのようなものと理解すれば、じつに分かりがいい。出雲も諏訪も伊勢でも、この例と、何ほども違わない鎮められ方をしてい
ます。
ところが孝徳天皇の頃になり、さきの麻多智の子孫で、壬生連(みぶのむらじ)麻呂という者が、境より上へ越えて谷を占め、大きな池の堤を築いてしまっ
た。谷にひそむ蛇という蛇は、蛇を即ち風土記は「夜刀(やと)の神」と呼んでおりますが、この池のほとりの、椎という椎の木の枝に蛇が、夜刀の神々が、無
数に垂れ下がり、怒って去ろうとしなかった。しかし麻呂はひるまず、この池は、人間の暮らしにいかにも必要なもの、もし神といえどもオモムケ「風化」つま
りは開発政策に従わぬヤツらは、と、手の者たちに、一切容赦なく目に見ゆる限り「打ち殺せ」と命じたものです。蛇たちは余儀なく、さらに山奥へ姿を隠し、
その池は「椎の池」と名づけられたというんです、が、退去退散を「強ひの池」の意味であったに、万々、相違ないでしょう。人間の水利にからむ自然開発の葛
藤は、上古以来、今も少しも変わっていないという、これは典型的な例話であります。ここから「椎ナ」「榛ナ」「桑ナ」などの「樹上蛇(じゅじょうだ)」を
表した地名表記が生まれたと想ってみるのも、そう見当ちがいだとは思われません。
中村草田男に、「公園で撃たれし蛇の無意味さよ」の一句がある。この句の無意味さ不気味さを東工大の学生に解いてもらうと、先ずの手順に、「公園」とい
う人為・人工と、「蛇」なる自然と、を対比させてくる。そして公園の地に先住していたのは蛇だと言う。学生たちのこの読みでいう蛇と、常陸国風土記にいう
「椎の池」の蛇とは、まるで同じ座標にいます。その「撃たれ・打たれ・討たれ」ようの、或る「無意味さ」は、無残というよりない。
ただし風土記に「蛇」と語られている「夜刀=谷(やと)の神」をば、即ち、地を這う蛇そのものかと思うのは、神話の話法に聴いてみせるだけのことでし
て、事実は、水の神、土地の神、山の神として「蛇」を太古このかた崇め畏れてきた、ワダツミ(海民)ヤマツミ(山民)が、力ある異族に父祖の地を逐い払わ
れた悲劇──と、こう読むより、ない。常陸国風土記に、道をサエぎり王化に服さぬ化外の民としてしばしば見えますサエキ、クズ、ツチクモらの運命がそれ
だったでしょう。神とまじわり、蛇の子を産みまた育てた額田の「ヌカ」ヒメや兄「ヌカ」ヒコのいわば神話にも、「ナカ」や「ナガ」に通じた、そしてシャー
マンかと想われているあの額田姫王(ぬかたのおおきみ)や姉の鏡王女(かがみのひめみこ)へも通じた、上古日本の不思議が、アリアリと生きていると申せま
しょう。「カガミ」とは「カカ=蛇(かか)、の目」という説も在るのです。
常陸国を流れる大河の一つは、水豊かな那珂川であり、流域は、幾つもの蛇伝説に彩られた、那珂郡です。君臨したのは久しく那賀国造(ながのくにのみやつ
こ)でした。常陸国風土記の或る記事では、大蛇が即ち「オホカミ」と呼ばれ、訓まれています。豊葦原の瑞穂の国。日の本、日立つ常陸、は、ことに潤沢な水
と草木に恵まれた、米どころでもある。そういう大地の蛇は、まさに水を恵み水を統べる「地主神・国主神」であったと想像されます。
大国主神はまたの名の一つを「葦原シコ男の神」といわれていますが、高天原から見まして、葦原を委蛇(いい)として這いずる「醜男(しこお)」とは、ま
さに蛇(のごとき存在)をさしていた。おそらくは、それは、後漢の王朝から見た「委奴=地を這う者ども」の国への思いと同じ視線であったでしょう。この
「醜(しこ)」の姿は、根源の大女神「イザナミ」が神避りし黄泉国での、「見てはならない」禁忌の姿に、露骨に表現されていると思われる。凄まじい腐爛の
屍体に「八色の雷公」の、即ち蛇性の、まつわりついた姿でありました。
蛆たかれころろきて、頭(かしら)には大雷居り、胸には火雷(ほのいかづち)居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には 析雷(さくいかづち)居り、左の
手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足 には伏雷居り、并せて八の雷神成り居りき。
「蛇と死」との印象的な等質・等価の認識が、おそろしいまで表現されています。「イザナミ」は、まさに地底に棲む「大地母(だいちぼ)なる大蛇神」で
あったという認識も示されている。そして男神「イザナギ」の訪れていった黄泉の国は、いかにも「大穴」の底のように描写されているんですね。禁忌(タ
ブー)を侵して「黄泉醜女(よもつしこめ)」に追われつつ辛うじて遁れ出る時の「坂」や「道」の描写にも、さながら深い「室」や「穴」をのがれ出たように
書かれ、穴道を巨大な千引岩(ちびきのいわ)でふさぐとき、ああこれが「墓石」なのかと連想の利く書き方を古事記はしています。追った「醜女」が「八色
(やくさ)の雷公(いかづち)」と同類であることも疑いない。
日本の神話では、大地母神を地底の闇に大岩で伏せておいて、父神ひとりで「日」「月」「海」の神を生む、と、それらがまた不思議に、「母なる蛇神」の属
性を分かちもつという「世界の構図」を得ていたのですね、面白い興味深い話ですね。
少し話の向きを変えましょうか──「水」を美しい「線」で描ける力を、日本人はもっています。到達した典型のひとつが、尾形光琳の『紅白梅図屏風』の水
流であり、現代では小野竹喬「奥の細道」連作中の『最上川』などが思い出せます。するどい視覚の持ち主であれば、滞りなきそのような「水の線」に、身を添
わせて走る「蛇」の姿を透視することもあるでしょう。水は蛇で、蛇は、水の精でもあり神でもあるとの信仰が、この島国に避けがたく育まれてきた。水を「美
学」の話題にすることは、いろんな面で有効でありますけれども、美学を溢れ、こぼれて、日本の「社会」に何とも悩ましい幻影をさしかけた「水」の問題があ
ります。そう思いつつ、話題を、ややに押し拡げてみたい。
ごく一例を挙げても、京都の鞍馬には大青竹伐りが、南国には、男綱女綱のまぐあいを象った勇壮な大綱引きが、多くの村はずれ町はずれでは、塞(境=幸)
サイの神の前までひきずった長い竹や笹や綱を、伐ったり打ったり燃したりの、また、しめ縄をまとめて焼く、お火焚きなどの行事がある。みな、蛇への畏怖を
下敷きにしてこそ、よく、その意義の読み取れる行事ばかりです。
鬼や化性を演じる者のきまって着る「鱗」の装束。能や歌舞伎での装束。多くの古社にみる「二重六角」蛇鱗の神紋。山姥や山の者らの常に携え持つ、蛇をと
らえる鹿杖(かせづえ)。一本足の案山子を山の神とみて、蓑笠を着せ、それと同じ蓑笠姿のまま闖入してくる客(まれびと)を、極度に嫌ってきた風習。大木
の洞(うろ)や根方に生卵を置き、きまってその周辺には白神、姫神などの小さな祠の群集するさま。「シラ」も「ヒメ」も漢字にとらわれてはなるまいと思
う、あの卑弥子の「ヒミ」「ヒメ」は、古代朝鮮語では「太陽」でもあり、しかし風土記などに謂う「ヘミ」「蛇」の意味でもあったといいます。
蛇のとぐろを巻く姿は、しばしば人の目を驚かせましたし、その長くのびた姿、ことに恐しい三角に尖った頭や、まるく膨らんで威嚇する頭などは、諏訪の御
柱にも、日用の杓子にも形象化された。岩に現れるいわゆる石神(シャクジ)と、あの日用の杓子との縁など、また蛇のとぐろから缶(ホトキ)に、またホトケ
にも転じた器の名「ヒラカ」への経路など、今日ではあまりに気疎くなってはいますが、例えば太刀魚や鰻など「ナガ」いものの小絵馬を売っている神社では、
間違いなく祭神としての水神・蛇神・龍神を拝むことになる。それどころか、京都御所内に鎮座しています厳島社には、思わず声をあげて走ったほど、恐ろしく
リアルな「蛇の絵馬」が掲げてあります、現に。
折口信夫(しのぶ)の有名な論文『水の女』は、水沼(ミヌマ)という表記の背後に、女蛇神をそれと意味した「ミツハノメ=罔象女=ミヅチ」の実在を精妙
に読み分けて行きます。同じく男蛇神には「オカミ=─龗」があり、万葉歌にも見るごとく、水や天象の不思議に深く深く関わっています。
目を外国に向ければ、日本のミツハノメに近い、シベリアやロシアの「ルサールカ」がある。一本足の蛇婆さん「バーバヤガー」がいる。八岐大蛇なみの「コ
シチェイ爺さん」や恐ろしい「ドモヴォイ」もいる。北欧へ行けばブヤン島の「ガラフェン」が、スラブには「スビャトビト」がいる。むろん創世神話をさぐれ
ば中国にも朝鮮にも蛇や龍が出てきますし、宗教説話にも、しばしば出てきます。キリスト教のマリア像にも、蛇の頭を踏んだ図像がある。マリアの名は「海
(メール)」に由来しています。むろんそれらには、水と深く関わる蛇のほかに、べつの意義を担った蛇もいますでしょう。しかし大方の蛇ないし龍は「水」と
かかわることで畏怖されていたのは、間違いありません。
いわゆる道成寺ものの久しい人気に触れ、また上田秋成の『蛇性の婬』を何度読んでも、一方で蛇を厭悪し忌避しつつも、また、蛇に悪い役を勝手に押しつけ
てきた、うしろめたさの気持ちも、或る「あはれ」とともに読み込める。そんな気が、してならないんです。おそろしく根の深い近親嫌悪、アンビバレンツとも
読める。
その辺へ、いま少し話題を、蛇行させて行きたい。
「鏡花文学の核心にわだかまるものは、端的に『蛇』へのアンビバレンツ」であり、「水神へのいわば畏れと帰依心だと思う」と、かつて、私はどこかで書いて
いたようです。田中励儀さんの著書『泉鏡花文学の成立』を興深く読んでおりますうち、鏡花作『南地心中』の成立過程を論じた章で、そう私の言葉が引用され
ているのに出会い、おやおや、なるほどと、思わず頷きました。田中さんは、「上方の<巳(みい)>さん信仰に動かされて成立した本作=南地心
中など、その典型であろう」と、私の言説を肯定されています。明治四十四年七月の『祇園物語』も大正八年三月の『紫障子』でも同じです。
泉鏡花ほど「蛇」をしばしば、それも重大な主題意識をもって、さまざまに書いた作家はいないと、繰返し、私は言い、かつ書き続けてきました。
事実上の処女作かも知れない『蛇くひ』が、凄い。『龍潭潭』では「龍」に「瀧」の誘いが、みごとにかぶっていました。『歌行燈』では、海女郎であったヒ
ロインに、謡曲の「海人(あま)」がかぶることで、「龍神の珠取り」へ話が繋がって行きます。『高野聖』も、さんざんに生身やイメージの蛇を出し入れしな
がら、水の精の蛇性の女、を書いている。『天守物語』の大獅子頭も、もともとは「龍ないし蛇」の変化(へんげ)と、折口信夫らは認めています。蛇にゆかり
の、女や、イメージや、また蛇そのものの姿をあらわす、鏡花の小説は、全作品中の、しいて言えば何割にも相当しているとわたしは見ている。書かるべくして
まだ書かれない鏡花論の最大の主題は、『鏡花と蛇』であると、今もわたしは確信しています。
『蛇くひ』や『妖剣紀聞』前後篇をみれば、鏡花が、「蛇」を被差別のシンボルかのように、女性をもふくめ、藝能もふくめ、つねに社会や歴史の敗者弱者と
等価的に提示していたことはあまりに明らかです。そしてより多く、他界・異界に半ば身を隠しながら、現世に、出入りさせた。死の世界を統べるものかのよう
に働かせた。
他界異界も死の世界も、鏡花の表現では、海、山、川、池、沼、湖、原、沢などの一切を通分して、「水」に浸されていました。『龍潭潭』や『沼夫人』や
『高野聖』がそうです。『歌行燈』でも、そうなんですね、実は。そして姿をみせる時は、凄艶な謎めく「女」か、醜悪な「化性(けしょう)のモノ」か、それ
とも切ない女の吐息のような「生身の蛇」としてか、でありました。
それを総じて、田中さんの謂われる「巳(みい)」信仰というもよし、大きく深く「水神」信仰、いやそれよりもっと広く、「水」「海」世界への畏怖と郷
愁、または共同幻想、が、鏡花をとらえて放さなかったのだと考えるべきでありましょう、か。鏡花の背後にかなり間近くいた柳田国男らの民俗学の感化を指摘
するのもいいでしょう、が、そのような外的な感化や影響より以上に、鏡花自身の、秘し持っていた「根の哀しみ」のようなものにこそ目をとめるのが、もっと
もっと適切なのではないか。
「鏡花」という号は、たんに本名の鏡太郎に由来するとみて済むかもしれない。「泉」は戸籍の本姓で、特別な何でもなかったと、そうは言える。言えるけれど
も、だが、なかなかそう簡単に我々を、いえ私を、解放してくれる名乗りではないんです。「泉鏡花」の名乗りに、いま少しこだわってみたい。
鏡花の早い時期の文名に、「白水楼」がある。「白水」はそのまま「泉」であり、寄る辺として「楼」を添えたのだから、単純な雅号といえる。その一方、上
古の文献に「白水郎」があった。「アマ」と訓まれてきました。海人、海士、海民のことをそう書いたのです。この海人には、水上を水平にもっぱら移動する系
統と、水底に垂直に潜水して生きる系統の、二つあるのが指摘されています。龍宮に珠を求めた類いの伝承は、むろん後の系統のものでしょう。鏡花は比較的、
この水に潜る、水底や海底の世界に関心をもっていた。広大な海上よりも、深淵や海底や、池沼、川の底の深い闇にうごめき、そこから現れるものを見つめてい
た。『海神別荘』は典型的な、その魚くずの世界ですし、また『天守物語』のような、地底の水をくみあげて可憐に咲く草花をいとおしむ世界も、あります。さ
ながらに水の底を遊泳しているに等しいとみた、大気に舞う鳥類『化鳥(けちょう)』の世界もある。
鏡花は、同じ人間でも、狭斜の巷にすべり落ち、くらい苦界に沈んだ女たちを、多く、愛をこめて描いています。俗悪なものには「現世」をのみ与えて、哀切
に生きるものには「他界」への切符を発行するのが、鏡花世界の律法でした。彼の他界は、あたかも海の底のような「黄泉(よみ)」の国に膚接していた。鏡花
ほど切ない「入水」を繰り返し書いた作家はいないのです。
海の国と黄泉の国とは、神話的には次元を異にしています。「黄泉」には、死者の肉身に蛆たかりころろいでいる、腐乱と崩壊との、大墓所の如きイメージが
ある。戯曲『海神別荘』に拠れば鏡花は明白に「蛇」の国と表現していまして、しかも、海の国は「白水=泉」の根底の国であり、陸上の現世と異なった、また
一つの「清い」活世界であり、他から侵されてはならない律法をもつべしと、鏡花は、つよくこの世界を庇っています。
しいて通訳すれば、まともな者だけがそこへ帰って行ける、受け入れてもらえる、あるいは、許され解放してもらえるのだと、鏡花はその文学を通じて終始言
い続けている。彼は、「泉」「白水」という自分の姓を、「海」に、「水」に、深く深く根差した、歴史的にも由緒あるものと自ら意識し、本能のように意識
し、心から愛していた筈であります。
彼の小説は、ときに解読のむずかしい不思議なメッセージを示します。朱の色で光る、三角や丸や四角の単純なそんな記号が、ぽっと輝き出て、すぐ消える。
太古北欧の水上民らの船に、そういう記号を描いた船印や旗印があったり、似た図像が、太古の墓室の壁などに描かれていたりします。鏡花は、潜水だけでな
く、航海系海上民の「船魂(ふなだま)」の祈りとも感応できるだけの、あわれに、確かな、知識を、持っていたようです。
ここで一つ、関連づけて申し上げておきますが、日本の古典のなかでも代表的な古典に、源氏物語や平家物語を挙げますのは、むしろ常識でございます。その
源氏物語と平家物語とが、これがまた深く深く「海」に、「海の神」に支配されていた文学・藝能であると申せば、異な思いをなさるかも知れません。ながく話
せば、これはこれで何時間もかかる底知れないお話でありますけれど、一例を申せば、思うままの栄達と安穏と幸福とを得た光源氏が、先ず真っ先に、なんで
「住吉詣で」をしたのか。住吉は、申すまでもなく海の神そのものです。凄い龍神です。光源氏の世界は、この住吉の海の神により予言され守られていたのでし
た、須磨と明石への源氏の君の流されは、けっしてダテに構想されていたのではありませんでした。源氏物語の根は「海」の龍神の意向に支えられていたので
す。
平家の運命は、厳島神社に根拠をもち、瀬戸内海を舞台にして開け、そして海に沈んで行きました。彼らは三種の神器の一つ、宝剣を抱いて海の藻屑となりま
した。この剣は、あの八岐大蛇の尾から取り出された、まさに蛇の化身でしたが、後白河や後鳥羽の朝廷は必死で海女などつかって捜索したのです。すべて空し
かった。海女の一人は、巨大な龍宮の大蛇の膝に乗った今は亡き平清盛が、傲然として宝剣は返しはせぬと叫びました由を、朝廷に呼ばれて話した、という平家
物語の異本の記事も残っています。
事ほど左様に、「海」の意思や意向は「日本」を支配し、同じことは「世界」中に拡がっていました。われわれは、そういうことを忘れるわけに行かないので
す、泉鏡花という作家には、そういうことが、しっかり根づいていました。「海」の意向の、申し子のような作家であったと申し上げたい。
言うまでもなく泉鏡花は金沢の人で、生涯この故郷に対し、凄絶なアンビバレンツを抱いていました。ひたすら愛し、ひたすら憎悪していた。だが、愛憎を分
別するのは、そう難儀なことではありません。要するに鏡花は、「海=水」の側の清さを愛し、「陸(おか)=土地」の側が占める俗世の栄燿を憎んだ。海の側
には、あらゆる被差別の者、山の者や川の者や、野や墓に生きる者や、いわゆる水商売の者や、貧しい者や、藝人、職人などを見ていた。逆に、高級軍人や、知
事や、富豪や、大名や城主や、鉄道を敷く者や、利権に群がる者などを、具体的にキッと睨んでいた。それは、格別な思想的下支えのある分別ではなかった。た
わいないけれど、だからこそ生得の、弱い者へ味方せずにおれない「不平」の表明でした。ただ鏡花は、それを、彼が生きた時代の、限られた視野でするのでは
なく、広大な世界史的視野で、かつ「水=海」への直観や洞察や、いくらかの学習を通して、していたのです。そういう意味では、日本に、それほどグローバル
な思想的立場を持ち得た作家は他にいなかった。じつに世界的な作家だったといわねばならないんです。
もうすこし「泉鏡花」にこだわっておきたい。
鏡花が加賀金沢の人であることは繰り返すまでもないが、「カガ」の国とはどんな国であったのか。これに関連しては、吉野裕子さんが多くを説いています。
「カガ」は、湿生の草地を意味したであろうといい、またそういう場所を多く占めて棲息したものとして、「カガ」または「カカ」などが、蛇の古名ではなかっ
たかとも言われる。多くの神社が、御正体(みしょうたい)に鏡をもつのは、「カガ(蛇)身」ないし「カガ目」であろうと言われる。一本足の「カカシ」は蛇
の変化(へんげ)もの、山の神の姿を表したものとされ、蛇の一種に「山カガシ」「山カガチ」のあるのもそれかと説く人もおられます。誕生の際に、母神の
「陰部=ホト=火処」を焼いて死なしめた「カグツチ」の神も、たしかに系譜的にも「蛇」神でした。
また吉野さんは、古い祝詞に「カカ呑み」「カカ呑む」などとある難解なことばも、がぶりと呑むにはちがいないけれど、鵜呑みという言葉もあるのだから
「蛇(かか)呑み」と取った方が呑みこみが早いと説いています。なにしろ蛇の口は自在に顎の骨がはずれ、顎の直径の十五倍程度はらくに呑みこむといいま
す、それも、噛まずに。
出雲国風土記では「加賀」は「カカ」と清んで訓んでいる。佐太の大神は加賀の潜戸(くけと)の名で知られる海中の大洞穴に鎮座していましたが、その闇い
岩屋の奥を、金の弓矢で射た者がいた。岩屋の奥がそのとき「光加加」やいた、だからもとは「加加」といったのを「加賀」と改め書くようになったと言い伝え
ています。佐太大社の大祭は十一月二十五日ですが、そのお忌(いみ)祭には、社頭で、凄い生身の蛇にとぐろをまかせて、ギヤマンの蓋のついた三宝にのせて
祀る。その日には出雲中のどこかの浦に、きっと龍蛇と呼ばれる、背の黒い、腹の黄色い海の蛇が、海神の御使いとして上がると、いまもって信じられていると
謂います。
光輝いて「カガ」なのではなく、吉野さんらの説くように「カカ」「カガ」が蛇の古名の一つであったろうと、たしかに想像されるんですね。洞窟が光ると見
たのは「鏡」さながらの「蛇の目」だったからです。蛇の目には瞼が無い。開きっ放しでまばたきしない。まるで鏡なのです。神社に鏡を祭る遠い遠い意味は、
おそらく、ここにあったでしょう。清んで訓もうが訓むまいが、要するに「カカ」「カガ」また「カグ」「カゴ」の音を含んだ山や川や沢や湿地は、みな、蛇と
関わりをもっていたかと読めば、「ナ」「ナカ」「ナガ」などの例と同様、多くが納得され、モノがよく見えて来ます。鏡花は、そういう「カガミ」の意義を、
よく幻視しえていたように思われてならないのです。
鏡餅は、蛇のとぐろを巻いた形象を祀るのだと説く人がいました。枝につけた餅玉は、蛇の産卵だと説く人もいました。餅をたくさん甕に隠していたけちんぼ
うが、開けてみると、みな蛇に変わっていたという説話もあります。餅を的に矢を射ると、餅は鳩になって翔び去ったという稲荷社の伝承もあれば、蛇が鳩に変
じて翔んだという伝承も、八幡社には古くから伝わっている。能登島の火祭りにもそれが実感されます。つまり鏡と餅と蛇と鳩とは、或る、不思議に一連の「変
容譚」を担ってきています。じつは酒も、その輪に加わっているんですね。
われわれの文化は、多くを、漢字に負うています。また漢字ゆえの惑いも負うている。例えば「出雲」「泉」と漢字で書いてしまう以前の、「イヅモ」「イヅ
ミ」のままモノごとを感受できるのなら、湧く雲や湧く水のイメージにのみ、想像を、限定されることは少なかったでしょう。折口信夫も言う、音声の似通い
に、おおらかな広がりを持ちえていた、太古上古の慣いのままに、「アダ」「アド」「アドメ」「アドモ」「アヅミ」「アツミ」「アタミ」「イヅミ」「イヅ
モ」「イヅメ」「アヅマ」「ウヅメ」など、一連の「上古音」が即ち、一連の海民・水民の移動や分布を、優に、示唆し暗示しえていたことを、もっとたやすく
洞察できたのではないでしょうか。その背後に、総じて、かの「安曇」なる海族を透視して、大きな謬(あやま)りがあったでしょうか。いま、これらを日本地
図上の該当する地名に置きかえ、視線を移動させて行けば、ありありと、幾筋も、太古の海路や水路が目に見えてくる。天龍川上流の奥地に、遠く南海の花祭の
伝承されている由来などにも、察しがついてくる。
同じことは、「ナ」「ナカ」「ナガ」「ナゴ」「ナグ」の場合も然り、あるいは「ウラ」「アマ」「シラ」などの海民由来を思わせる地名等にも、類推の範囲
を、広げて謂えることでありましょう。おシラ神は海人の畏怖した醜悪な海底神「磯良(しら)」に深く由来し遊行分布した筈と私は確信しています。「磯良」
を「いそら」と訓むのは間違っていましょう、「磯城(しき)」を「いそき」と訓むようなものです。
これらは、要は「ウナカタ=海方=宗像」に由来したでしょうし、「ヤマカタ=山方」とも、諸水路を通じて連帯していたでしょう。
泉、和泉、出水、夷隅、射隅、出海。それだけでも各地に散開しています。漢字を便宜の当て字とばかりは言えないにしても、とらわれなければ、かえって
「見えてくるもの」が、あります。泉鏡花は、そういうことも、よく知っていた察していたと想われます。そして、その、至るところ、蛇は、巳(み)は、なに
らかの形で信仰され、畏怖され、またじつはアンビバレントな差別を、久しく、受けて来たと思う。
田中励儀さんの本に戻って、鏡花の『南地心中』の「蛇」信仰を見てみましょう。舞台は大阪住吉大社の神事、宝の市。筋は作品でお読み願いますが、ここで
女主人公のお珊が、懐から祭礼のさなかへ投げこむ、二条の、蛇。元はといえば、心願を抱いて多一とお美津という若い二人が、言い合わせたように、お互い
に、身に、秘め持っていた蛇でした。
「生紙の紙袋の口を結へて、中に筋張つた動脈のやうにのたくる奴を買つて帰つて、一晩内に寝かしてそれから高津の宮裏の穴へ放す」と、願いが叶うという言
い伝えがあった。その蛇を売る家も、買う人も、放つ穴も、事実在ったんです。高津神社にも生国魂(いくたま=生玉)神社にも在った。この「巳(み)ぃさ
ん」信仰を、ながく熱心に支えたのは、多く、廓の:藝妓たちでした。田中さんは、大阪は水と縁の深い街であり、「水の神さんである『巳さん』をお祭りする
社が多い。(略)普通『お稲荷さん』としてお祭りしてある祠も、実のご本体が『巳さん』であることが多い」という、往時の証言を引いていますが、これとて
も大阪に限ったことではない。京の八坂の旅荘の女将が、庭内の亭(ちん)に二尾の蛇を祀っていた『紫障子』のような作も、同じ鏡花にあります。
ともあれ、『蛇くひ』を書いた昔から、「蛇に対する異様なほどの執着を示していた鏡花は、若い女性が蛇を持参する上方の 巳さん 信仰に驚嘆し、これに
触発されて」この小説を「成した」と、田中さんが説かれるのは正にその通りでしょう。いや、触発される以前の下地を鏡花は根の哀しみのように身に抱いてい
た。
だが、また、鏡花が或る作中、たしか『勝手口』と謂いました、あの『龍潭譚』と同じ明治二十九年十一月発表の短編ですが、妻子ある男が自宅を出掛けに、
ふと邸内でみつけた蛇を、袖の中に掴みこんだまま、愛人の家を訪れて、即座にその蛇を女に手渡し、女に始末をつけさせるといった場面に、決定的な或る「意
味」を持たせて書いている相当に露骨な作品も有ったのです。これなどは相当に露骨です。
蛇を渡された女は、それを機に、自死を覚悟する。この蛇は、男(や男の妻子)から、その女への、差別意識の、いわばシンボルとして働かされていた。その
日男は、この女を捨てる意思を抱いて、女を訪れていたのでした。処分すべき「蛇」と、あだかも等価値的にみなされた「女」の背後に、えんえんと連なって、
例えば『南地心中』の蛇を懐中して祠(ほこら)に放つ式の、狭斜の巷に愛をひさぐ女たちの影がならんできます。ここの「お美津」が、「おミィ」と呼ばれて
いることも、鏡花はおろそかには書いていない。『歌行燈』の「お三重(みえ)」もまた、これら女たちに繋がる一人として、謡曲「海人(あま)」を、同じ藝
人・能役者への恋を胸に、懸命に、舞いに舞うのです。
鏡花の作に「蛇(みィ)」さんの意義をもとめて探索するのは、せつなくも、哀れな、豊かな、「水の美学」そのものなんですね。同時に、厳しい「水の歴史
学」なんですね。
数年前の秋、アジア太平洋ペン会議の分科会に、ついぞ経験のない演題「『蛇』表現から共同の認識と成果を」を提出し、採択されまして二十分ほど演説しま
した。演説集は数か国語で、日本ペンクラブから刊行されています。
同じ「期待」を泉鏡花研究にもかけることが、無理難題だとは、少しも考えておりません。ちなみに私は、文壇処女作『清経入水』このかた、『みごもりの
湖』『初恋』『北の時代』『冬祭り』『四度の瀧』など、「蛇の問題」にかかわる小説を、何編も、意図して書いて参りました。ここで言い尽くせなかった幾分
かは、それら作品に譲っておきとうございます。ご静聴有り難うございました。
ーーーーーーーーーーーーーー
藤村『破戒』の背後 ─悩ましい実感の意味するもの─
「藤村学会」招待講演 一九九六年十月二八日 於・明治学院大学
「島崎藤村学会機関誌」一九九七年
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
秦恒平でございます。こういう壇の上に立とうとは、ゆめ、思いませんでした。お引き受けしてしまったのを、何度も後悔しました。皆さんは藤村の研究者で
いらっしゃる。私は、愛読者ではありますが、それだけです。他の作家で、曲がりなりに書いたり話したりして参ったことは、幾らか、有るには有りました、
が、藤村については、たったの一度も、ございません。難儀なことに、私の読んだような文献は、皆さん、先刻よくご存じなんです。受け売りは、まったく利か
ない。「藤村」理解に付け加えられるものなど、今さら勉強したって、在りっこないんです。もののはずみは、ほんとに怖い…。
ま、事のここに至って何を言おうも、無責任の上塗りでしかありません。お許しを願って、しばらくお付き合いをいただきます。藤村文学とまともに交錯しな
い方向へ、話を、あえて逸らすつもりでいます。かと申しまして、逸れきってしまうことの決して出来ない話題──私の、と限定させていただきますが、私の
「差別」に関する知識なり見解なりを率直にお話ししてみることで、遠巻きに『破戒』の外堀を一寸でも二寸でも掘ってみたいと思うのです。
たいした仕事をして来たわけではありません、が、概して、私の小説については「美と倫理」とか「幻想」とか「王朝の伝統」とか言って紹介して下さる向き
が多いのですが、全体の流れでみますと、最も私の力をいれてきました主題は、いろんな意味の「歴史的な差別問題」であったろうと自覚しております。人間差
別に対し、反省と抗議を示したということになりましょうか。そして、それは「京都」で生れ育ったことと無縁ではないはずです。京都は、千年の久しきにわた
り、いわば貴賤都鄙の集約された町ですし、私は、その中でも、歴史的にも、風土的にも、社会的にも、色濃く寺社支配の残っています東山区で、明らかに人を
差別してきた一人として、育ちました。東山にも、鴨川にも、ごくまぢかに育ちました。「日本の歴史的差別」を考えますときに、この、山は紫の東山、水は明
らかな鴨川は、無視できない大きな大きな意義をもっておりまして、そこに育まれました問題が、また、藤村の『破戒』に見られますような差別問題と、決して
疎遠ではありえないという事を、問題を、かなり時間的にも空間的にも押し広げまして、お話ししてみようと思うのです。それならば、藤村研究と即(つ)か
ず、またしかし離れることもなく、私なりに、責(せめ)を塞ぐことが出来ようかと思うのです。
長い前置きのついでに、それでも、藤村と私との関わりをちょっと、ごく私的にお話しして置こうと思います。
私の育ての母親は、おそらく自分で実際に読んだということは無かったに違いありませんが、明治三十四年に生まれておりまして、小説家や詩人の名前を、と
きたま、口にするぐらいのことは致しました。例の、紅露逍鴎といい夏目漱石といい、芥川、菊池寛、谷崎潤一郎なども、いま思えば、まるで知り合いの小父さ
んみたいに口にしましたし、泉鏡花や国木田独歩や田山花袋の名も知っていました。どういう情報によって知ったものか、我が家には、絶えてそのような小説本
の影も形も、在ったためしは無かったのです。ただ、祖父の趣味だったと思われますが、漢籍はかなり豊富にございました。唐詩選、古文真宝、白楽天詩集など
は、子供ごころに気をひかれ、よくひろげました。日本の古典も、湖月抄や俳諧ものや謡曲本などがあり、例えば謡本の、扉の裏の梗概など、面白がって読んで
いました。私は、ことに日本の国史に興味をもち、明治時代の通信教育の教科書などがありましたのを、むさぼり読みながら幼稚園から国民学校三年生ぐらいま
でを、つまり戦火を避けて丹波の山奥に疎開いたしますまでを、京都の町なかで過ごしました。すぐ近くに、上田秋成や、たぶん与謝蕪村なども住んだことのあ
りそうな、知恩院の袋町がありました。
ちょっと話が前後しましたが、じつは島崎藤村の名前も母に聞いたのが最初でした。母は藤村の作品として『若菜集』と『破戒』を、名前だけでしょう、知っ
ていました。詩と小説とであることも知っていました、が、読んだとは思われません。
私は、恥ずかしながら、国民学校の、あれは二年生だった筈ですが、自分も小説というものを書いてみたいと思い、なんでも、武者修行に出て行く侍の門出か
ら書き始めまして、ものの三行も書けずに、こりゃ大変じゃと投げ出しました。小説家の名前ばかり聞いて、なんとなくえらいものに思ったものの、作品は全然
知らない。小説といえば、猿飛佐助や霧隠才三のようなのを書くものと思っていたのが、これで、ばれてしまいます。
なんだか、母の話ばかり致しまして恐縮ですが、今年で九十六になり、まだ、なんとか私や家内と、筆談ができます。耳は全然聞こえません。で…、その母
に、あれは私が高校の一年生ごろのことでしたが、谷崎さんの『細雪』が一冊本で出ていたのを、なけなしの小遣いで買いまして、読みまして、母にも見せまし
た。母は読んで、「これは、ええ小説やね」と、一言、感想を漏らしました。あのとき私は、自分の母を尊敬しました。そして、もし本が読みたいだけ読める暮
らしを、もし母がして来れていたなら、いろんな知っていた小説家たちの名前も、もっともっと母の心を豊かにし得ただろうにと、気の毒に感じました。残念な
事に、私が、どんどん本を溜め込んで行くようになりました時分には、もう母は、骨の折れる読書などに、気を向けようとはしませんでした。
私自身の、藤村文学との出会いは、むしろ、遅い方でした。筑摩書房から現代日本文学全集が出て、第一回配本が、島崎藤村集でした。昭和二十八年八月初版
で、それは久々に『破戒』が初版本文に復元された本でした。高校三年の二学期に入る直前でした。インクの匂いだかクロースの匂いだか、プンプン・クンクン
するのを、清水の舞台をとびおりる気分で ー三五0円でしたー 買ってきまして、それはそれは夢中で読んでいました時に、『新生』という作品についてふと
話しますと、母は、妙に、にやっと笑いました。母は、つまりはスキャンダラスに『新生』のことを、聞き齧っていたんです。
いったい、母だけじゃないんでしょうが、私の母はとくに、えらい人の名前を、或る種のスキャンダルと一緒に覚えていることが多かった。作家だから尊敬し
て覚えていたんじゃない、作家には自然スキャンダラスな話題がこびりついていたということになります。作家だけじゃない、母は、上村松園といった閨秀画家
のことも、要するにアンマリド・マザーとして認識しながら、私に、その名をいつ知れず教え込んでいました。そして私は、後年に彼女を、松園を、小説に書か
ずにいられなかったのでした。
スキャンダルであろうと無かろうと、『新生』は私をびっくりさせました。ああいう話にびっくりしたというのでは、ありません。作品の力にびっくりしまし
た。『新生』を読み出した日、その頃持病のようにしていました腹痛に、夕方から悩んでいましたが、ねじふせるようにして二階の自室に腹這いまして、うんう
ん唸りながら「新生」に取り付きました。そして、いつのまにか腹痛など忘れ、寝るのも忘れ、明け方までまじろぎもせずに三段組みの長編を、ぜんぶ読んでし
まいました。母との間で『新生』が話題になったのはその徹夜のためでした。そして母は、なぜか、にやっと笑ったのです。
『新生』に優るとも劣らぬ感銘を得ましたのは、それより二、三年して古本で手に入れた『家』でした。さらに雄大な感動をもって読み終えました作品は、
『夜明け前』でした。これは、しかし東京へ出てきてからでした。講談社版の、百冊以上もある全集を一冊一冊買っていました。そのうちに、私自身、小説を書
き始めていました。その頃に『夜明け前』を読んで、深々とした読後感に満たされました。
笑っちゃいけません、私は、こんなふうに思ったんです。これは、この小説は、長い長い日本の無明長夜を、とりわけ「神と仏」とが熾烈に闘って来ての「夜
明け、前」を書いたもんだと。そういう長いサイクルで、私は、ものを見てしまうヘキが有るんですね。しかし、それについては、今日は、これ以上触れませ
ん。
昭和四十四年六月に第五回の太宰治賞を受けましたとき、選評のなかで、太宰治とずいぶんタチの違う作風だと言われていました。事実、私は太宰をあまり読
んでいませんでしたし、太宰治賞のことも、雑誌「展望」の存在すら知りませんでした。賞は、偶然の事情で向こうから、招待状のように舞い込んできたのでし
た。
で、その受賞の記者会見ででしたが、尊敬する作家はと聞かれました。即座に答えたのが「藤村・漱石・潤一郎」でした。一瞬座がどよめいて、なんだかむ
ちゃくちゃに写真のフラッシュが焚かれ、ぼおっとしました。けれど、そう言ったことは実感でした。今でもそう考えています。この三人、家と詩性の藤村、私
と心との漱石、性と美との潤一郎の、それぞれに抱えた文学的課題が、打って一丸となって達成されるほどの日本文学が生まれれば、どんなに立派かと、ま、こ
ういうのを素人考えというのでしょう、が、自分の仕事は棚に上げておきまして、夢見ているという次第です。
そこで、唐突に、本題に入ります。ところが、その本題も、なんだか閑話休題じみ、とりとめないと、そう思われるかも知れません。微妙に難儀な話題である
ことを、学問学会の名においてご了解いただきながら、ちょっとだけ、ご一緒に考えてみたいと思います。
私ごとばかりを申しますが、『からだ言葉の本』というのを、昔に、筑摩書房で出しております。「腹藝」「肘鉄」「目を付ける」「腕が立つ」「背に腹は替
えられぬ」「尻餅」「顎を出す」「爪弾き」「肩すかし」などと挙げますだけで、私の命名するところの「からだ言葉」は、説明の必要もなしにお分かり戴けま
しょう。おそろしい数、これが日本語の中にございます。そして日本人ならほぼ説明の必要なく、意味をとり違えることなく、日々に愛用し慣用しています。い
わゆる慣用語の最たるものです。その本には、その語彙集も大雑把に編んで収めました。ついでに「こころ言葉」も…。「心根」「心得る」「心づくし」「心か
ら」「気は心」「心底」「無心」などというもので、これまた慣用語の微妙なものとして、日本語を特色づけております。これについても、昔から、継続して発
言し、また書き次いで参りました。日本人の「からだ」と「こころ」に就いてものを言うなら、これら極めて具体的な「からだ言葉」「こころ言葉」を通して考
えるのも、実に実に大事な手続きであると、ま、そう信じておるわけでございます。
で、その厖大な量にのぼります「からだ言葉」の中でも、体の、どの部分に熟した「からだ言葉」が多いかといえば、第一に「手」です。ものすごく有る。次
いで「目」と「頭」です。それぐらい「手」「目」「頭」に、人の意識は集まっていた。人体の部位で、「からだ言葉」に熟していない箇所は、ま、足の裏ぐら
いなものです。掌には「掌を返す」というのがある。
「手」という漢字を宛てた「手ことば」の、最もお馴染みのものを挙げてみますと、上と下、これに手の字を添えた「訓み」が幾種類もありますね。「じょう
ず=へた」「かみて=しもて」「うわて=したて」「じょうて=げて」「じょうしゅ(ず)=げす」
中学だったか、高校でしたかの国語教科書に採用されたこともあり、もう古証文なんでありますが、要するに、人間は「手」を使います。最初は「手当たり次
第」の「手さぐり」ですが、おいおいに「手順」「手続き」を発見して行きます、つまり文明が「手」に導かれて行くわけであります、が、この、「手さぐり」
「手当たり次第」から「手順」や「手続き」への道程で、適切な「手加減」や「手直し」が、細心に成されねばならない。
ごく象徴的・比喩的に申すのだとは、ご理解願いますが、ここのところで先ず「じょうず」と「へた」とが、個人の、集団の、種族や民族の、国の「運命」を
分けて来た。それが、「歴史」です。歴然としております。あげく「じょうず」なものは、いつか「かみて」を占め、いつも「うわて」に出て、「じょうて」の
文物を、欲しいまま用いまして、「じょうしゅ」つまり王や覇者や貴族や上つ方と、名乗りも、呼ばれも、するようになる。
一方、「手さぐり」も「へた」なら、ものの道筋を、優れた「手順」「手続き」として適切に所有できない、つまり「へた」なものは、いきおい「じょうず」
の「しもて」に立つよりなく、万事に「したて」に出て、「げて」ものばかり与えられ、「げす」と呼ばれますことに、甘んじなければならない、と…こういう
個人や集団や国の歴史がこの地球上に展開されて来たわけであります。
おおまかに申しますと、「上手」か「下手」かで、何と申しましょうか歴史上に分担すべき、広大な意味での「手分け」が出来てしまうわけです。私どもも、
その「手分け」に応じ、生きている。生活している。これで、誰も彼もが例えば「文学」研究では、世の中成り立たない。広い世間は、つまりは「手分け」の出
来た世界であります。
そしてこの「手分け」というヤツが、また至極微妙でありまして、満足している人もあり、甚だ不満、甚だ苦痛な分担を強いられている例もある。どうも「手
分け」に満足し切っている人の方が少なくて、そこに進歩、向上、上昇志向も働くわけでしょうが、つまりは、損や得が、どうしても「手分け」にはついて回り
ます。そして大きな得を自覚している連中、つまりは「じょうず」に「かみて」を占め、「うわて」に出てきます連中ほど、得な手分けのまま、子々孫々まで伝
え継がせたいと頑張ります。得な方の、つまり世襲です。王侯貴族たちがそうでしょう。地主や金持ちもそうでしょう。
こういう連中が、世襲の「得」を、永代抱き込むためには、いきおい「損」な手分け、「損」な世襲を他者に押し付けておきたい。うっかり「手分けの手直
し」などしては何が押し付けられるやら分からない。革命を恐れるのは常に「得」な、「楽」な手分けに安住してきた連中であり、一方不利な、「損」な、「苦
痛」な手分けを代々世襲させられた者は、当然ですが、その桎梏(しっこく)をはねのけて、「手分け」の「手直し」を切望するでしょう。ま、大なり小なり、
人間の世の中は、そういう損得や、分担・手分けをめぐる複雑微妙な網目を成していると申して、否定できる人はいないでしょう。
一つ、ここに、大きな大きな円卓が在る、大勢が、この円卓を囲んでいるとしましょう。
円卓の上には、無数の、形あるもの・形無きものが載っていると、想像してみて下さい。そして、いちばんすばしこく上手なヤツが、真っ先に手にし、一抜けた
と、一人高い場所へ上ってしまいます。その手には王冠が握られていた。ま、そんな具合に、皆が、てんでに、我勝ちに円卓上のモノを掴んでは、己(おの)が
手持ちに従い手分けの場に赴きます。そこに「損得」や「美醜」や「強弱」や「苦楽」などの選択肢が働いてくるのは自然当然です。少しでもマシなのを取りた
い。そして後へ残ってくるものほど不満や不足や不愉快や不利益の度が強くなる。そう想像して不自然でないはず、あくまで象徴・比喩的にですが。
では、いったい、最後まで円卓に残されてしまうのは何なんでしょう。
私は、最後にその場に残った二人の兄弟が、目の前にした二つのモノは、それは、一つは「神」で、一つは「死体」であったろうと思っています。
文明を持っていようと、持っていなかろうと、「死」「死者」「死体=死骸」の三つとは、人類在るかぎり、太古このかた付き合わずには済まなかったので
す。中でも「死体」と「死」という観念、この二つは、最も早く、人間の視野と理解とにこびりついたと思います。見るも無残な死骸=死体の、変容と腐乱は、
古事記のイザナミの死に、黄泉(よみ)の国の描写に見えています。「死」への恐れ=畏怖、「死体」の穢れへの恐れ=忌避。その「死」から、死者なる「神」
が生まれ、「死体」からも、死者なる「神」が生まれました。前者の神は、おそらくは古事記に「そのミミを隠したまひき」とありますような、根源の姿を自然
と化したような、観念の神でしょう。一方、具体的に「蛆(うじ)たかり、とろろぎ」て腐乱死体と化してしまう変容の死者も神とされ、敬遠ないし忌避の対象
となります。霊魂の神でしょう。
歴史が堆積すればするほど「死」の観念は、むしろ背景にますます隠れ、前景に「死者=神」と「死体」とが、処置を要する対象として、いつも取り残され
る。取り残したままでは済まなくて、結局は、誰かに、その面倒を見て・扱ってもらわねば困るわけです。
円卓のそばに、最後に取り残された兄弟は、余儀無く、兄が「神」を、弟は「死骸」を、己が分担として手にします。「手分け」を、受け入れるしかなかった
のです。祭りと葬(はふ)り。祝(ほ)ぎと清め。どっちも、欠くことは出来なかった。しかし、誰も、自分ではしたくなかった。いわば、押し付けたわけで
す。押し付けて置いて、しかし、その手分けを、けっして代わってやろうとはしなかった。身寄りの死者であり、生前は偉大な力をもったり、絶大な愛の対象で
あった死者の場合ですら、「死体」と化し「神」という死者と化したからは、出来るかぎり専従の世襲者に、代人(だいにん)に、その面倒見を委ねて行きま
す。平安時代も中期までに、既にその風を伝えております「金鼓(きんく)打ち」のような、死者の供養に、あちこち、霊験で以て聞こえた寺や社へ、金鼓を打
ち打ち代理で参詣参拝する、いわば代参を業といたします者が現れています。「死・死者・死体」をめぐって、大きく申しまして、信仰と藝能とが、大昔、神代
の昔から、日本でも、しっかり手を繋いでいる。
神楽の起源として語られております、例の、天の岩戸前での、あの、アメノウヅメらの「歓喜咲楽(えらぎあそび)」の様子、あれなどは、まさしくアマテラ
スのための葬送儀礼、ないし魂(たま)よばいが、幸いに成功した場面として語られておりまして、いかにも神事藝能の淵源と言い得るものを示唆しておりま
す。また、天つ神々の命をうけ、国譲りの交渉役として地上に派遣されながら、国つ神々に籠絡されましたアメワカヒコが、高天原からの矢に射抜かれて死にま
したあとの、「日八日(ひやか)夜八夜(よやよ)を遊びたりき」と語られております「遊び」にも、明らかに葬送儀礼としての芸と遊びのさまが、彷彿として
おります。
さらには「遊部(あそびべ)」の伝承、それに発しまして後々の、「猿女(さるめ)」のこと、「猿さま」猿同然の女が宮廷まぢかに出入りしまして、歌・舞
いの藝に遊ぶ様子を報告しております『枕草子』の記事、そしてまた万葉集から梁塵秘抄どころか今日の港・港に至ります長きに亘って、いわば水辺の、また山
辺の女でもありました遊女たちの、性と藝での神(まれ人=男客)への奉仕など、はなはだ示唆するところの豊かな、「葬(はう)りと遊び」との切っても切れ
ない習俗が、否認出来ないわけなんですね。鳥居本といわれ、またお寺の境内にまで、遊所・遊郭ができて行く、水駅(みづうまや)ができて行く。参詣参拝と
いう信仰の行為に、そういう女たちの性的な、また遊藝での奉仕を期待する楽しみ、そっちの方が優先しそうな「旅情」の演出が、いかに楽しまれたかは、盛ん
な熊野参詣や、厳島参詣や、お能の「江口」「住吉詣」「熊野(ゆや)」など、これを支持する例証はふんだんにございます。
藝能がいかに華やかになりましょうとも、そこに、常に死ないし死体、さらには死者への深い畏れや、忌み避ける気持ちが、下敷きに秘め抑えられていたこと
は、それがまさに、日本での、また世界での、根の深い藝能差別の理由でした。藝能は、死者の荒ぶる霊魂を宥め葬りつつ、裏返しには、生者のために寿福と延
年とを祝う職掌にありました。それが「手分け」になっていた。観世・宝生・金春・金剛・喜多といった能楽座のめでたい名乗り、例えば万作とか千五郎とか文
楽とか喜左衛門とか成駒屋とか、藝の一つ一つの中仕切りに「おめでとうございまぁす」と叫ぶ雑藝軽業とか、みな、祝う、言祝ぐ、つまり祝言の藝としての役
割に忠実な、めでたい名乗りであり作法でありますけれど、その根底には、死・死者ないし死体との膚接が、歴史の名において認知し続けられていましたから、
漠然とではありましたが、どこかに畏れ・忌み・避ける態度が持続され、その感情に添いまして、それを利用致しまして、「近世の身分化」が法制的に強行され
てしまった。
言うまでもなく、その背景に、その根底に、は、無量無数の差別への前提事例が、古代の律令制の中ですら積み重ねられていて、その丁寧な検索はまだまだ出
来ていない。検索されないままに、じつに謂われのない、「人種の違い」といったような決定的な笑うべき誤解、或る意味で我田引水の都合よい誤解が、ことさ
らに先行してしまいました顕著な例の一つが、『破戒』です。
藤村は、または丑松の意識にも、「人種」という、とんでもない言葉を用いて、差別の理由を固定化していますが、藤村の頭に、その根拠など、ほとんど無
い。狭い範囲の慣習を盲目的に追認しているだけです。しかし、そこに「死体=死骸」処理にかかわる何かの視野を有していたことも、また、表現や叙述のなか
に幾度となく見受けられる。ただ藤村には、死と死骸とをめぐる久しく久しい歴史上の役割分担、その社会的・階層的な世襲の強要、信仰と藝能との不可分で
あった伝統、まれ人として漂泊した藝能人たちの祝言藝の根のところへは、認識は殆ど及んでいません。人種差でも何でもない、政治の悪意が便宜に固定化して
しまった「手分け」の問題でもあったことを、まったく認め得ない無知のなかで、『破戒』は書かれています。力作であり、文学史的にはじつに貴重な傑作であ
ると推すに躊躇するところは、まったく無い。無いけれども、そのモチーフかのように利用された差別問題への認識・知識は、じつに嗤うべきヒドイものであり
まして、猛然として抗議をよせた人たちの議論は、その観点に限って言えば、実に正当であると同時に、強烈に文学的な批評たりえています。ただ付録かのよう
に扱うのでなく、『破戒』論の基本文献として、つねに参照されて至当な、読ませる文章になっている。
それですら、差別を、近世の政治的桎梏の程度に限定し過ぎています。もっともっと人類社会の根源に発した、「手直し」を拒まれ続けた、不利な、損な、い
やな「手分け」、強いられた分業という「手=職掌」の問題として見直すべきだと思う。
ところが「手直し」「見直し」は容易に行われずに、それを、「人種」といったばかげた固定化へ、つい、下心や恐れもあって人は持っていってしまいます。
その証拠堅めかのように、いろんな勝手な伝説をつくり挙げて行く。じつに歴史の悪意というのはむごいものでありまして、みんなで渡れば怖くないとする大衆
は、これに便宜に応じて、片棒どころか、全面的に差別やいじめを当然の役のように振舞って来た。明らかにそういう歴史がつい最近まで、どころか、今も、続
いていて、いつまで続くやら知れたものではない。
藤村は、何も知らないと言いましたが、むろん、或る面で、これは私の言い過ぎです。 ご承知のように、藤村に『海へ』というエッセイがある。その第一章
の冒頭で藤村は、「再生」の願いを抱きながら、「海」という名の「死」と対話しております。
自分の周囲にあつたもので滅びるものはだんだん滅びて行つてしまつた。私は自分独り復(ま)た春にめぐりあふといふ心持が深い。私はいつまでも冷然と
して自己の破壊に対す ることが出来なくなつた。ふと私は思ひもよらない人の前に自分を見つけた。
『君は。』
と私が尋ねて見た。
『僕は海から来たものです。』
『海から?』
『さういふ君を誘ひに来ました。』
この言葉に私は力を得た。私はその日まで聞いたことの無い声をその人から聞いたや うな気もした。左様だ、心を起さうと思はば、先づ身を起せ。海から
来たといふ人は一 すぢの細道を私にささやいて聞かせて呉れた。私は長年住み慣れた小楼を、幼い子供等 を残して妻が死んだ後のがらんとした屋根の下を去
らうと思ひ立つた。老船長よ、死よ、 と呼びかけて地獄の果までも何か新しいものを探し求める為に、水先案内を頼んだ人も ある。死よ、その水先案内を私
も一つ頼もう。
例の『新生』事件を背景に、深い読みも浅い読みもいろいろ可能な箇所ですが、私は、そこへは関わりません。ただ、藤村が、「海」に「死」を、「再生」と
表裏した「死」を、感じとっていた事実だけをここで指摘します。地球規模に於て伝統的な、いわば単に知識の問題に溶かし込んだだけの、認識だとも言えま
す。同じ伝統でも、島国日本の古来の感性に根差した理解を、奥深くから汲んだものとも、だが、申せましょう。
たしかに日本の、死も、生も、海とのかかわり抜きに語ることの出来ない民俗により、支持されて来ました。もとより日本の海は、日本の山へ、いきなり続い
ています。南方の花祭が天龍川の最上流の山奥に綿々と保たれてきた事実一つを挙げれば、足りるでしょう。そして、それを可能にしたのは川の働きでした。海
と山と川とに、日本の死は、死と表裏した生の繰り返しは、支えられていました。さらにいえば海は天とも遥かに溶け合っていました。「アマの原」という時、
遥かに天と海とは一つものと意識されていました。国は、天と海とに挟まれた世界であったと思われます。そこに世界と世界との交渉があったのでしょう、天津
神と国津神との国譲り神話は、太古の政治ドラマを、優に想像させます。
しかし、その方向へ私は話をもって行く気ではありません。
話を海へ戻します…と、海あり、川があり、湖や沼や池もある、湿原・湿地もあった。日本の風土は、莫大な山地と狭い平地を覆うようにして、それらに織り
成された世界でした。しかも、一言でいえば、つまり「水」に浸された世界でした。海と山と平野を、水が支配していた。「水の神」が支配していたとすら、言
えるはずです。それは、あてずっぽうではない。日本中で、真に古社と言われるかぎりの古社に祭られた神々を調べて行けば、ほぼ例外なく「水の神」です。
「水神」や「海神」です。もっとハッキリいえば、性根は「蛇」の神が殆どです。諏訪の神事の根は、藁の蛇体を室(むろ)の中で、神官が大きく育てて行くも
のです。諏訪湖の「お巳(み)渡り」もそうなら、蛇の化身とされる太刀を逆立て、その上に座って、国譲りの交渉に抵抗したタケミナカタの神話も、それを明
かしています。出雲、熊野、三輪、住吉、八坂、松尾、気比、八幡、伊勢、稲荷、厳島、竹生島、白山、佐多、鴨、琴平、丹生、貴船、三島、熱田、籠(こ
の)、鹿島等々挙げれば際限ない、どの神社も、まず間違いなく水の、海の、川の、湖の神々、それも根は、蛇体へと辿り着くことになる神々を祭っているので
す。水の神は、そのまま農事や猟(か)り漁(すなど)りを守る神でも在り得ました。
蛇や龍への畏怖は、人類全体に、大きな根深いものでした。その豊かな生殖の能力を、目の当たりにしていた日本太古の人々にとって、結界を意味したあの
「しめなわ」のようなシンボル、青竹や綱で長虫を印象づけた民俗は、極めて自然でした。人の側からも、蛇なる神の側からも、お互いに、ここから先へは、出
て来て下さるな、踏み込むな、という微妙な場所に、そういう神社は建てられ祭られてきたことは、その地勢に鑑(かんが)みまして容易に知れる、見て取れる
ものです。神ではあるが、それは「生」と表裏した「死」のシンボルでもあったし、正体は蛇かのように見立てられて、恐れられた。崇められた。
神は祭られるものでした。祭られるものとして祭るもの、神に仕える、奉仕する者、を要求していた。それは重労働でした。「髪落ち体痩(やす)かみ」痩せ
衰えてと古事記にもありますが、とても女には負担のきつい仕事でした。遊部(あそびべ)の職掌を伝えました古伝承にも、喪屋に籠り、死者の鎮魂慰霊に勤め
ます身分は、どうか男であってもらいたいということを、職掌を伝え保っておりました一族の女から申し出たことが語られております。しかし全体に神に奉仕し
て、つまり死者の霊魂に奉仕し、その荒ぶる威力を静め・慰めた担当者は、つまり遊びの女たちであった。神の妻として性的な奉仕と歌い踊りの藝能による奉仕
を事としてきたようです。大神や末社どもを遊ばせた遊所の風(ふう)を思ってみれば分かりは早い。
しかし、そういう「生き神」様との遊びで、事は済みません。現実に人は死んで死骸と化し、人の側では無数に鳥・獣も死んで死骸を晒します。死の穢れ畏れ
をそのままに人は日常を暮らして行けません。神を祭る職掌と重なって、死体と触れ合う職掌も分担された。 藤村に、『海へ』『エトランゼエ』と並んで、フ
ランスから帰国後に『幼きものに』という、子供むけのお話の本がございます。その最初の呼び掛けが『驢馬の話』です。
太郎もお出(いで)。次郎もお出。さあ父さんはお前達の側へ帰つて来ましたよ。一つ驢馬の お話をしませう。仏蘭西の方で聞いて来たお話をしませう。
ある時、年をとった驢馬が自分の子を幾匹も連れて、草藪の側をポクポク歩いて行きました。そこへ悪戯好きな学校の生徒等が通りかかりました。『驢馬の
お母さん、今日は。』とその学校生徒の一人が挨拶しました。驢馬は何と言って、その時返事をしましたらう。『オオ、倅(せがれ)共か、今日は。』
仏蘭西あたりでは、驢馬とは馬鹿の異名です。いたづらな学校生徒がその驢馬を年よと見て馬鹿にしてかかったのです。『馬鹿のお母さん、今日は。』斯
(か)ういふつもりで、からかつたのです。そこで驢馬は、ふざけることの好きな少年に、すこしばかり『礼儀』といふものを教へたのです。
あの年をとつた驢馬の返事を、もう一度繰返して御覧なさい。
『オオ、倅共か、今日は。』
こう結んでいます。藤村は、なにも民話を拾いあげて「幼きものに」語ろうとしていたわけではない、続く話題をみれば明らかです。この『驢馬の話』は、甚
だ寓意的に感じられるのですが、では、何を寓意しようとしていたか。「学校生徒」と「驢馬」という顔合わせが、既に寓意的です。驢馬が「馬鹿の異名」な
ら、学校生徒は、教育のある、しかも「悪戯好き」で「ふざけることの好き」な人間を代表している。しかしこれを動物と人間の問題とは読めない。馬鹿な動物
扱いをされている人間と、動物扱いをしている人間との応答であるのは確実でしょう。それでこそ、驢馬のお母さんが、「オオ、倅共か」と即座に打ち返した挨
拶の強さが響くわけです。ただ賢い、愚かといった対比には止まらない、明らかに人間差別の実情を見通しまして、藤村は、差別をされる方も、する方も、どこ
かで、みな親同士であり倅同士であらざるをえない、つまりそれは人種の差なんかではありえない、背後の社会の機構そのものが孕んできた「悪意と偏見」とに
基づくことを、洞察し得ていたのだと読んで上げたい。「幼きものに」に対し、「あの年をとつた驢馬の返事を、もう一度繰返して」、耳によく聴けよとと教え
ています藤村は、たんに老人の知恵を若者に訓戒しているのでは、ないでしょう。おそらくは、はじめて藤村の耳にも、「瀬川丑松の父」や「猪子蓮太郎」の声
が、本質を帯びて、聞こえだしていたのではないか。まこと人が人を、あたかも種類の違う驢馬かのように見る、人外(にんがい)に見る空しさ謂(いわ)れな
さを、藤村は、ようやくようやく骨身にしみ、気付いていた…だろうと思いたい。
猿、犬にはじまり、げじげじだの蛆虫だのと、人が人のことを譬えて謂うことは、古来ありましたが、さよう露骨なものには、まだしも渾名(あだな)っぽ
く、空気の抜ける逃げ道があった。しかし、無意識に、意識の深層で、そう想っていながら、禁忌(タブー)のように表に出さず、しかし、重大な差別の根に蟠
(わだかま)ったもの。歴史的に、また地球規模でも推量して、それは「蛇」や「龍」であったろうと、私は思います。ことに日本の「蛇」意識の背景には、
「海」と「水」への信仰が大きく深くものを言っていた。ことに柳田国男との交友と感化のなかで、あの椰子の実を歌った藤村は、それに気付いていたでありま
しょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
島崎藤村文学と私 ─ペンクラブ、緑陰叢書そして『嵐』─
木曽馬籠「藤村記念館」講演 二○○三年八月二二日
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
秦恒平です、お招きにあずかり、恐縮でございます。
なぜ私を、この席に呼んで下さいましたか、なんで私が、厚かましくこのお誘いをお受けしてしまったか、多少の自己紹介も兼ねまして、もっぱら私自身の、
「藤村先生」とのご縁の方から、何かしらへのいとぐちを見つけ、話題を手繰(たぐ)って参りたい、と。暫く、お耳を拝借いたします。
つよい地震の、被害も出ました宮城県・松島や仙台へ、地震より十日ほど前に遊びに参りました。青葉城の城址にも登りまして、藤村先生の詩碑にもお目にか
かってきました。松島の瑞巌寺をうたわれた詩も『若菜集』に入っています。東北学院で教鞭をとられたことは、島崎藤村の文学生涯をつよくプッシュした文学
史的な事跡でした。仙台へ発つまえから兆していた先生の詩情は仙台で『若菜集』として萌え立ち、さらに前途を祝したというわけでした。
わたくしの勤務時代の後輩でまた久しい読者でもあります人が、いま、東北学院大学で教授をしていまして、私は、その学院の風情にも触れてみたかったので
した。
ま、ささやかにも遠回しな「ご縁」でありまして、話のマクラとも申せませんが…。
さて、顧みまして、三十四年前に溯ります、昭和四十四年、一九六九年、に、私は小説『清経入水』という作品で、第五回太宰治賞を受けました。ま、これ
は、藤村先生の御作とは似ても似つかない、平家物語に取材し、遠い過去と現在と、此の世と他界とを、幻想的に往来して紡ぎ出した、ま、自然主義や写実主義
とは途方もなく異なった仕事でした。
幸いに、当時の選者は、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫という、最高級の「知性」であり「書き手」であり「読み手」であり
ました。こういう、鳴り響くような選者先生方の満票を得て受賞できましたことは、今でも、私の、それは大きな支えであり、誇りであり、心して、この方達に
恥ずかしくない仕事を、いわば「答案」を此の後も提出し続けたいと思いました。 今も、そう思っております。
受賞しますと、初体験の記者会見が東京都内のホテルであり、目の前が真っ白になるほどフラッシュを浴び、質問に遭いました。
その中に、「どんな作家を尊敬してきたか」という、思えばお決まりの質問がありまして、即座に、「島崎藤村、夏目漱石、谷崎潤一郎」と打ち返すように返
辞しました。挙げた名前の大きいことに、それだけに余りに尋常なと聞かれたかも知れませんし、また余りに方角の異なる三人だとも思われたのでしょう、少な
からず、記者席が、呆れたのでもありましょうか、どよめきました。くわしい理由も聞かれずに、そのまま次へ次へと、一問一答は動いて行きました。
この席へなんだかノコノコ出て参りました気持の奥に、あの時のあの自分がした返辞に、幾らかでも理由を述べることは、もう久しく成りました作家生活の、一
つのケジメかも知れないなという気持が働いたのかも知れません。
で、それを、直ぐさま話しにかかってもいいのです、が、そもそも、そんな、第一番に「島崎藤村」の名前を挙げるに到った、もう少し以前の「出逢い」に触
れておくのが、順序のように思われます。
断っておきますが、第一番ということは内心の序列を意味してはおりません。文学史的に早く登場していた順に随ったまでで、三人に優劣を付けるぐらいなら
「三人」を並べたりはしませんでした。
三人に、「質的」に、まともに出逢った順番でいえば、戦後京都の、新制中学二年生で、毎朝待ちかねて読みました毎日新聞連載の『少将滋幹の母』つまり谷
崎潤一郎が早く、そして、中学二年生の最期、上級生の卒業式を終えまして以降に、耽読また耽読した、夏目漱石の『こころ』になります。次いでずっと遅れま
して、高校三年生、昭和二十八年八月二十五日発行の筑摩書房版、『現代日本文学全集8=島崎藤村集』を、発売早々、乏しい小遣いをはたいて、胸轟かせて
買ってきた、という順番になります。
この藤村集は、此の文学全集の確か第一回配本として大きく広告され、強く刺激されたにちがいありません。文学少年で、ことに小説が好きで、当時の秀才達
は挙って小林秀雄にイカレておりましたけれど、私はもともと小説が好きで、それも谷崎より前に、与謝野晶子を介して源氏物語に強く強く惹かれていました
し、谷崎や漱石以外にも、沢山な国内外の小説に親しんでいました。
むろん島崎藤村の大きな名前は、『若菜集』や『破戒』などの教科書からの知識でよく承知していました。その意味からは、むしろ藤村小説との出逢いは、た
いへん、遅きに失していたと言えるほどです。
ご承知と思いますが、此の筑摩版の一冊は、『若菜集』『破戒』『新生』『ある女の生涯』『嵐』『山陰土産』を収録し、正宗白鳥の「島崎藤村」と題した昭和
七年二月の論考も収められていました。解説は瀬沼茂樹が書いていました。奥付には「島崎」と大きめの円い朱印の検印紙が、版元のミスですが、真っ逆さまに
貼られていました。しかも奥付には、定価というのが印刷されていなかったのですね。ハコにだけ附いていました。売値を、いつでも付け替えて行こうという、
そんな出版慣行が出来て行く、あれはハシリではなかったでしょうかね。この頃の筑摩書房は、文京区台町にありました。
インクのプンプンいい香りのする、装幀もまことに当時として洒落て堅牢な佳い本でしたから、私はハコから出したり入れたり抱きしめるように「吾が物」の
藤村集を愛しました。
しかし藤村小説については、少しだけ遅れまして矢張り高校のうちに、古本屋で手に入れた、別のもう一冊、これが頗る大事な藤村認識の契機となりました。
四六版でしたね、『並木』が巻頭に、ついで『家』が入っていまして、この『家』という小説から受けた底知れない感動は、ちょっと言い表しようがないくらい
です。『家』『新生』『嵐』が胸の底に刻みつけられました。『破戒』を大事に感じたのは少し後のことでした。
その後、大学時代に手に入れた角川版・昭和文学全集の中で、また上京し結婚してから、毎月、水かさを増すように買い求めていった講談社版の日本現代文学
全集。いずれも島崎藤村集を二冊ずつ入れていました。ことに後者の講談社版では『夜明け前』を、それはそれは気を入れて読みました。
私は、日本の近代文学に関する限り、かなりな読書家だと自分で言うても差し支えないだろうと思います。のちほど少し触れます、今も日々に「植林」するよ
うに作品の数を増しつづけています「日本ペンクラブ電子文藝館」の数百人に及ぶ作家達の作の九割九分は、私が選んで、私が初校して、掲載してきた物です。
そんな中で、尊敬する作家として躊躇なく「島崎藤村・夏目漱石・谷崎潤一郎」と三人に絞り得た読書体験は、認識は、大方この頃までに形作られていたと申し
上げていいのかも知れません。
白状しますと、むろん此の三人の全集を私は愛蔵していますけれど、潤一郎、漱石のものは、ほぼ残り無く読んでおりますのに対し、藤村先生の作品は、詩の
全作品と、小説は、「破戒」「春」「家」「櫻の実の熟するとき」「新生」「夜明け前」「東方の門」の他は、初期の「旧主人」や愛読した「嵐」「配分」「あ
る女の生涯」などの他は、あまり手をつけてこなかったし、莫大な随筆類は「春を待ちつつ」などのほかはあまり読んでいないのです。私の、藤村世界を眺める
視野には、明らかに多くの欠落のあることを自覚しております。そのへんはどうかご容赦下さいますように。
また、私のことを谷崎文学の研究者と紹介してくださる向きもあります。決してそんなことは有りません、漱石についても同様、熱心な一人の愛読者に過ぎま
せん。とはいえ、潤一郎・漱石、ともに著作を何冊かずつ出版しております。
けれど島崎藤村については、藤村学会に招いて戴き、『破戒』に触れて拙い講演をしたのが、ほぼ一度きり、の言及でありました。藤村先生に触れて何かを論
じる、語る、という原稿を書いた記憶が、ほぼ全くございません。
それにもかかわらず、やはり「三人」なのでありました、動かせないことでした。
その話をすべきでしょう。したいと思います。が、今しばらく棚に上げておいて、さらに、藤村先生と私との、そうですね、「ご縁」ですね、それを話すのが
「順」のような気が致します。
ご承知でしょう、島崎藤村は、日本ペンクラブの初代の会長でした。
日本ペンクラブは、国際ペンの、いわば日本支部に当たります。国際ペンは、国際ペン憲章によるグローバルな、文筆家の思想団体です。昭和十年、一九三五
年、十一月二十六日に発足しました。 余計なことですが、私は、その一ヶ月近くあとに、京都市内で生まれました。私はペンクラブと全く同い歳の、今年の暮
れには、満六十八歳を迎えます。
では、どういう思想でこの団体は運営されているかと申しますと、ちょうど今年四月、第十四代会長に就任した井上ひさし氏は、就任挨拶で、私たち理事に向
かってこう言っています。「自分は、反戦・反核をつよく求め、日本国憲法、国際ペン憲章、国連憲章を尊重しつつ、世界平和への努力と自由な言論表現活動と
がますます活溌に成されるよう尽力したい」と。 そういう思いを、「文学・文藝」の力を基盤にし、遂げて行きたい、と。
藤村先生が最初の会長に推されたのは、まさに日本は戦争へ戦争へと傾斜して行く不幸な険しい時代でしたが、しかも国際ペンの意図するところを受け容れて
「発会」に到ったのは確かでありましょう。
索引の完備した全集があれば、藤村先生のペンクラブに寄せられた内心を幾らかでも窺えるのでしょうが、あやふやな推測を申し上げるのは控えねばなりませ
ん。
そして藤村より以降、次に正宗白鳥、さらに志賀直哉、そして川端康成、芹沢光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀
樹、梅原猛さんを経まして、井上ひさし新会長下の体制が調いまして、まだ四ヶ月しか経っていません。
井上新会長の決意、まことにけっこうだと、私も率先して支持したのです。とは言え、現実問題として、そうそう「ペン」がいつも立派にやれているとは、胸も
張りにくいし、活動を支える筈の「文学・文藝」の力が、今日どのようであるかと顧みますと、会員は二千人にも達していますけれど、これまた、あまり、威勢
良くは胸が張れない。
一つの表れを謂いましょう。
毎年十一月二十六日の「ペンの日」の集会です。大会場に群衆しまして、型どおり会長と来賓の挨拶のあとは、殆ど全部の時間をかけ、嬉々として「福引」を
します。景品は、みな、寄附された品物です、各方面からの。これが、ずうっと「ペンの日」の慣例なんです。
六年前に理事になりまして以来、毎年この「福引」を見てきました。みんな楽しそうです。福を引くのですから、お祝いらしくて悪くない。が、妙に、私は寂
しい。へんに、情けない。藤村や白鳥や直哉が「福引」なんかで、「ペンの日」を祝う気になれただろうかと。
提案するのです、わたしは。いつも。
たとえば「ペンの日」には、現会長挨拶よりも先に、初代会長「藤村詩集」の、あの、有名な序、少し抄して申しますが、
遂に新しき詩歌の時は來りぬ。
そはうつくしき曙のごとくなりき。うらわかき想像は長き眠りより覚 めて、民俗の言葉を飾れり。
詩歌は静かなるところにて思ひ起したる感動なりとかや。げにわが歌 ぞおぞき苦闘の告白なる。
誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと 思へるぞ、若き人々のつとめなる。
思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動 に勵まされて、われも身と心とを救ひしなり。
(抄出)
などと、誰かが朗読し、森繁久弥なんかも会員なんですからね、初代会長の若き雄志に耳も胸も洗われてから、せめて此の会を始めようではないか、と。
こんな書生流に耳をかす人なんか一人も居ませんが、残念なことです。
大きな組織ですから、維持するにも運営するにも、お金がかかります。理事会は、もう何かというとお金の話に流れがちです。うそじゃないし、幾らかは仕方
がないんです。
また例の、「声明」また「声明」です。余儀なく、国会に提出される、ややこしい、問題の多い「立法」に対する、監視と、抗議声明とが必要になります、投
げ出してはならない、それは本来のペンの活動であります。反戦・反核も大切、人権侵害・情報管理、そして言論の侵害に対しては、敢然、立ち向かわなくては
成りません。
いきおい、理事会や例会で、「文学・文藝」は、めったなことでまともな話題にならない。話題になんか成らなくても、現代文学が活溌であるならいいのです
が、ご承知のように、出版界は、異様に荒廃の気味すら窺えますし、それも、とても近年に始まったことではない。
わたしは政治家でも思想家でも運動家でもありません、「文学・文藝」ないし「藝術」に関わっている以外に、取り柄のない人間です。そういう人間としてペ
ンクラブに身を置き、まして理事の一人として何か役立てるとしたら、何をすればいいのか。
頭の中には、あの島崎藤村を先頭に立てて歩み出した「日本ペンクラブ」なんだ、という思いが、ずんと、根をおろしているわけです、私の胸に。いつもで
す。ああこういう時に、島崎藤村先生なら、正宗白鳥先生なら、志賀直哉先生なら、何を考え、どうなさるだろう、と。
それで、私の企画を仲間に提案し、理事会にもはかって、実現したのが、「日本ペンクラブ電子文藝館」の開館、でした。
現在、初代館長の梅原猛さんに次いで、外向きには私が「館長」役を務めています。その「電子文藝館」に、真っ先に掲載したのが、なによりも藤村先生の作
品であったのは、私にすれば、当たり前の当ッたり前でありました。私は、その作品に、名作『嵐』を、ためらい無く選びました。なぜ「嵐」か。一つには適当
な分量であったことですが、それよりも、私が、そうですね、こう申しましょうか、「最も親しんだ、心なごんだ、読んで嬉しかった」作品だったから、と。
その余は、もう少しあとに、時間の許す限りお話しすると致します。
コンピュータの、インターネットの、時代が来ています。
ペンで紙に書いた原稿も、ディジタルに、電子化してインターネットで発信しますと、ワールド・ワイドに、蜘蛛の巣のような電子の網を通じて、たちどころ
に、世界中に発信されます。 適切な用意さえ有れば、全く同じ条件で、世界中の至る所へ同じ作品が届きます。
現在、「ペン電子文藝館」には幕末のお芝居の河竹黙阿弥、落語や講釈の三遊亭圓朝、新知識人の福沢諭吉らに始まり、紅・露・逍・鴎から藤村・漱石・潤一
郎・樋口一葉はもとより、白秋も朔太郎も梶井基次郎も太宰治も、むろん歴代全会長の作品も、この私のも、若い三十代現会員の作品も、およそ三百数十編が、
無料公開されています。いつでも、タダで読めます。
もし、これらを紙の本にして出版しますと、経費は何千万円かかかり、数十巻もの大部に及ぶのです。紙の本は、いちど造れば経費を回収しなくてはなりませ
ん、つまり売らなくては。しかしそれが容易でないことは、よくご存じでしょう。売れなければ保管に場所はとるし、第一ペンクラブは簡単に破産します。
ところが、電子メディアを介して公表するのに、経費は、かぎりなくタダに近いのです。しかもいついかなる時にも「ペン電子文藝館」のサイトを機械上に開
けば、簡単に、好きなように、いつ何時でもタダで読めるのです。
つまり「ペン電子文藝館」の掲載作品は、そのまま「公共の文化資産=パブリックドメイン」として、あらゆる人たちのための「大読書室」を成しているわけ
です。紙の本のように、ヨゴレも、廃りも、絶版にもならないで、半永久的に、作品はいつも世界に開かれているわけです。
私は、そういうものを創始創設することで、「島崎藤村以来の日本ペンクラブ」が、「優れた伝統に支えられた文化的な文筆家団体」であることを「自己証
明」するとともに、会員に、誇りと自覚を新たにして貰いたかった。
で、藤村以来ということに、さらに藤村以前も……気持の上では近代日本どころか、はるか万葉集や源氏物語以来の日本文学史的伝統を受け継いできたという
自覚も新たに、世界文学の一員でありたいと願ったのです。先達に恥じない仕事を遺して行くことで、日本ペンクラブとしての諸活動が、広範囲に訴求力をもて
るようになりたい、と願いました。そういう希望こそが、島崎藤村以来という看板にふさわしいのだと考えたのです。
入会したら、名刺に肩書きかのように「日本ペンクラブ会員」と刷り込んで、あとは年会費を払っていればよろしい、なんて、そんなペンクラブに何の意義が
あるか。会員の一人一人が自分はこういう仕事をしていると、自愛の作品を「ペン電子文藝館」に掲載し、広く社会の前に示すことを通して、会員らしい自負や
自信をもちたい。
そのためには、亡くなった物故会員、藤村先生も其のお一人ですが、与謝野晶子も徳田秋声も谷崎潤一郎も横光利一も、岡本かの子も林芙美子も、みなもとは
ペンの会員だった人達です、こういう人達の作品もご遺族から頂戴したい、さらには、日本ペンクラブ創立以前に亡くなっている先達たちをも「招待席」に招き
入れて、力作・秀作・問題作を戴きたいと、そう願って、着々それを実現してきたのです。
一例をあげれば、第一回芥川賞作品、石川達三元会長作「蒼氓」も、遠藤周作元会長の芥川賞「白い人」も、また由起しげ子さんや木崎さと子さんの芥川賞作
品も掲載されています。出久根達郎さんの直木賞作品も、私の太宰賞作品も掲載されています。
みな、「ペン電子文藝館」の趣旨に賛同してもらったもので、豪華に贅沢な作品と作家が、幾つも、幾人も眼に入って、魅力溢れる図書室になっています。梅
原前会長の「王様と恐竜」などは、新刊ピカピカの単行本表題作でして、こういうことは、他の類似のサイトでは逆立ちしてもありえないのです。
しかし現会員には、厳しい。これら優れた先達の作に質的に拮抗するものを出稿しなければならないプレッシヤーを感じています、現に。
それも、実は、私のひそかに願っていたことで、「ペン電子文藝館」は、このご時世、薄っぺらい出来合いの無料作品掲載場なんかにしてはいけない、「現代
文学の自己証明の場」でありたい。そのためにも、「歴代会長作品」や「物故会員作品」や、ことに「招待席」作品が、むしろ質的な重圧になって欲しいわけで
す、質的なレベルアップのために。
小説だけではありません。
藤村先生には「嵐」とともに、詩も頂戴しております。評論・論考も、戯曲も、随筆も、詩歌のすべても、翻訳も、取り入れています。また純文学と読み物
と、といった差別もなく、そういうことでの評価は、みな「読者に任せる」という、たいへん多彩で、自在なんです。
掲載の仕方にも、何一つ差別を付けていない。藤村先生の「嵐」も、入会して間もないほぼ無名の会員の作品も、全く、分け隔て無く同じように掲載されてい
ます。それもまた、私の「理想」とした文藝館の在りようでした。文豪とならんで誰それサンの随筆が「ペン電子文藝館」に掲載になったと、地方紙に大きな記
事が写真入りで出た例もあります、私は会員に会費だけ払えばいいなんてことでなく、こういうふうに自身を鼓舞し激励し、良い文学・文藝の誕生に力を尽くし
て欲しいと思うのです。
つまりは、ペン電子文藝館とは、私の、初代会長島崎藤村先生への深い尊敬から出た、一つの「文学的答案であり文藝的創作」であったと申し上げておきます。
さて、どうしても今一つの、藤村先生に戴いた、「ご縁」に触れねばなりません。 それは、先生の「緑陰叢書」という出版のことです。
私はそれを研究対象として語ろうというのでなく、その動機の深みに降り立とうというのでも、ない。また、それぞれの、経済上の収益とか損失とか、製作過
程や、読者へ流通の手段や実際などを、コト細かに、問題にしようというのでもありません。それは、もっとふさわしい篤学の方にお願いしたい。
では、何故に。
「緑陰叢書」が、文字通り「作家による自費出版」であったという簡明な事実、私は、それに眼を止めるのです。
ご承知のように「緑陰叢書」の第一篇は、あの「破戒」です。明治三十九年(1906)三月の、まさに画期的・文学史的な大事件でありました。
次いで明治四十一年十月に「春」が、さらに第三篇として明治四十四年十一月には、「家」上下二巻、が刊行になります。
第四篇は短編集の『微風』でした、大正二年(1913)の四月刊行。
島崎藤村による、少なくも第三編まではハッキリしております、著者「自費出版」による「緑陰叢書」は、この大正二年で、跡を絶ちます。実に、この、同
じ、大正二年四月のことでした。藤村は、「新生」事件を契機に、以後三年にわたるフランスヘのいわば「流刑」を自身に科したのでありました。
「緑陰叢書」を、なぜ、藤村先生が考え出されたか、かすかに仄めかした物言いは、たしか「家」のなかでも、なさっていたようでした。
私は、それにも深入りしてみる気は今は無いのですが、また顧みて、小説家が、雑誌ならともかく、自作を単行本として出版するのに、出版社に頼まず、自分
の手で出版する、といったようなことは、日本の近代、島崎藤村以前に、また以後に、有ったことでしょうか。現代では、どうでしょうか。
申すまでもなく「緑陰叢書」という「出版社」から出されたのでなく、ご自身で命名された、これは藤村が藤村の作品を出版する「看板」でした。むろん、他
人(ひと)の作品を出そうとはされなかった。
たしかに、無名の折に、「自費出版」で出発する書き手なら、今でも少なくはない。今日でも「詩歌の本」にはその類が多い。殆どがそうだとさえ言える程で
す。が、それでもなお、それなりに出版社らしき所から出版したという「体裁」だけはとっています。私家版ではないんです。
藤村先生の「若菜集」も、春陽堂というきちんとした本屋から出版されていています。費用を自弁されたか、原稿買い上げだったか、印税が支払われたか、そ
れとも出版費用は作者の手で版元へ支払われていたものか、そういうことを、こまごま調べてみたことはありませんが、結果として藤村先生の懐が大いに膨らん
だ、なんてことは無かったかと思います。いくらかは、いや、大いに、不如意な実感をもたれたのではないか。その結果として「緑陰叢書」という作家自身の手
になる出版、私家版が着想されたのかも知れない、と、そう推察していいのではないか。
現に、「著作の出版に関する経済的な問題」についての、「藤村の神経は、かなりこまかかった」と推測している、研究家や批評家はおられます。例えば、詳
細な実証に優れた学風をもった長谷川泉氏は、
「藤村は、『若菜集』以来の詩集出版で味わった、出版資本家と著作者の間に存する、封建的な隷属関係が、嫌いであった。『破戒』が、先ず自費出版の形をと
り『緑陰叢書』第一篇として刊行されたのは、文学者の経済的自立と生活権の確立を期するためであった」と、明白に断定されていますし、これを裏付ける藤村
自身の明白な言及も、有ります。
もう、よっく知られた事実でありますが、『破戒』の刊行に当たって、藤村は、妻である冬子夫人の里の秦家に、「四百円」という資金の提供を求めていまし
た。
それだけではどうでも不足で、長野県佐久の大地主、神津猛にも援助を懇願し、神津氏に宛てまして、『破戒』出版費用の明細を手紙に書き出した、文字通り
「血のにじむ」ような、決意と苦境とを述べた手紙が残っています。
当時の藤村は、妻だけでなく、すでに数人の子の父親でした。文学も、成し遂げるに容易ならず、実生活も維持するに容易なことでなかった。妻の実家から融
通された金額も、その何割かは生計にあてざるをえなかったと、藤村は、神津猛に、ひたすら援助を懇願また懇願していました。しかも、そんな「貧」の結果と
して、相次いで藤村は三人もの我が子を死なせ、ついには妻をも死なせたのでした。
「経済的自立」を図ってそういう血のにじむ苦労を経てきた島崎藤村が、小説『嵐』に前後した名作『分配』のなかで、『破戒』出版の昔を顧みながら、以
下、こんな風に書いている意味は、歴然としています。 即ち、「私はあの山の上から東京へ出て来て見る度に、兎にも角にも出版業者がそれぞれの店を構へ、
店員を使って、相応な生計を営んで行くのに、その原料を提供する著作者が、少数の例外はあるにもせよ──食ふや食はずに居る法はないと考へた」と。
これこそは、「著者」なる立場からする「出版業者」への、まことに痛烈な、しかも意義ある批判であり、指弾であったと云わねばならないでしょう。
忘れてはならない、そういう島崎藤村でありましたことを。
実を申しますと、私は、此の「緑陰叢書」という単行本発刊のシステムに、早くから注意をあつめ、何かしら「理想的」な印象をすら持っておりました。
「出版」繁栄へと向かう時節に、藤村のとった姿勢は、一見時代を退行するような感じでもありますが、さにあらず、これは、実に意識的な姿勢、どこかで退行
どころか、大きく「時代を先取りした予言的な作家の活動」かも知れないぞと考えていました。
そして現に今(平成十五年)、此の私は、もう十七年余に亘り、もう七十六巻の多きを数えて、私自身の、いわば「緑陰叢書」を、いえ名乗りは違いまして
「秦恒平・湖(うみ)の本」という、「全作品・私家版シリーズ」を刊行し続けているのです。 (実物を見せる) 現役作家の手になる、そんな例は、つまり
作品が、作者から読者の手へ、日本列島北から南まで、海外にも及んで、直接手渡され続けている「出版」の例は、他に無いのです。
私の、このような作家としての営みを、私は、まさしく藤村先生の「緑陰叢書」に学んで、実践してきた、いいえ実践し続けて行くのです、この先も。
では何故、そういうことを、私は、始めたのか。
「湖の本」の第一巻を刊行しましたのは、昭和六十一年(1986)の六月、桜桃忌の日でした。太宰治賞作『清経入水』から出版し始めたのです。
私は、太宰賞を受賞するまでに、つまり文壇にはまだ公認されない一人の作家予備軍として、実はひっそりと、四冊の私家版を、そうですね一冊ごとに、少な
いとき百五十部、多くて三百部ずつ造って、知人に配っていました。
イザとなるとそんなものを貰ってくれる知人なんて、少ないものです、狭い家に余ってしまって。
で、知人の他には、何にも誰あれも知らない文学青年は、尊敬していた谷崎潤一郎や、志賀直哉の住所を調べたあげく、恭しく送ったりしました。思うだに冷
や汗ものです。
小説家では他に中勘助、詩人では三木露風、歌人では窪田空穂に送ったのを、今もよく覚えていまして、なんと谷崎先生をのぞく他の四人の先生からは、お返
事まで届いたのですよ、どんなに嬉しかったか、想像していただけるでしょう。
で、数年のうちに続いて都合四冊も出しました、その四冊目の私家版が、どこをどう経巡りましてか、著者の私の全く知らない間に、太宰治賞の最終候補作と
して選考の輪の中へ、差し込まれていたのでした。太宰賞は新人賞ですからね、作品は応募なんですよ。で、秦さん「応募」したことにしてくれないかと、筑摩
書房から、私の勤めていました職場に、医学書院という出版社のデスクへ電話が入った時、どんなにビックリ仰天したか、これまたご想像してみて下さい。
そして当選し、晴れて小説家として「文壇」に登録された、いわば招待されたのでした。「藤村、漱石、潤一郎」と、けれんみもなく大きな大きな名前を押し
並べた記者会見は、その時、のことでした。
以来、十七年間を経た、昭和六十一年、一九八六年の同じ「桜桃忌」を期して、何故、私が「緑陰叢書」の、跡を慕うようにして、私自身の手で、「湖(う
み)の本」シリーズを刊行しようとしたか。
本が出してもらえない、だから、自分の手で…か。全くそうではなく、その時までに、私の市販単行本は、らくに七十冊に及ぶほど出版されていました。ず
うっと、一年に四冊五冊六冊ずつも私の本は出版されて、私の本の広告が、月々の新聞・雑誌に出てないことはないような、人も驚き羨むほど、その点では、此
の世間で、えらく厚遇されていたのです。そしてその後も、ずうっと、本は出続け、今は百冊にも及んで、もう、超えているぐらいです。
それなのに、何故か。
出た本が、あっという間になくなり、そして純文学や、批評・評論・エッセイというジヤンルでは、「増刷」などということは極めて例外に属するのですね。
つまり、引き続いてその本が、あの本が、「読みたい」「探しても無い」と読者に嘆かれるわけです。
ああ、これじゃ読者も気の毒、作品も可哀想、書いた作者も残念至極。
で、今の「出版」企業の在りようでは、少部数の増刷を期待するなんて、実は或る意味で出版社に酷なはなしなんですから、では、それならば、私自身が、
「編集」の経験と腕前とを活かして、出版社に肩代わりして、本を、要望のある読者の手に、自身、お届けしましょう、と。在庫を常に確保して、「読みたい」
人には、即日、ご希望の本を送ってあげられるようにしましょう、と。
絶版・品切れ本を再刊するだけでなく、シリーズの中で、新刊もはさんで、途絶えなく刊行しましょう、と。と、そういうふうに展開していった、それが、も
う、まるまる十七年間を経過しまして、実は、今日明日にも、創作とエッセイとを通算した「第七十六」巻めが出来てくるのです。家に帰るとすぐ、私と家内の
手で、継続購読予約の読者の手に、それを、荷造りして、送り出すのです。
「本=作品」というと、「作者と読者」という関係が、真っ先に大切と、建前では、誰もが考えます。しかしながら、今日の「本=作品」をめぐる環境は、「読
書=本を読む」より先に、「販売=本を売る」という資本の原理が厚かましいほど先行していますから、「作者と読者」の関係なんかよりも、「出版と著作者」
の関係の方が、遙かに重要視されています。事実は、「著作者」なんぞ括弧に入れられ、全く「出版主導」にただに従属・隷属している、というのが実態に近い
でしょう。
私は、よく嗤って云うんです。作家というのは、出版社の「非常勤雇い」に過ぎないと。
そして此の、出版と著作の両者が、揃いも揃って、「読者」とは即ちただの「購買者」であると認知するだけで、「読み手」としては尊重していない。「読者
とはほんとうに本を読む人か」と、疑念すら持ち、それはどうでもいい、「読者とは、本を買う人で」「それでけっこう」という位置づけで、つまり読者を、
「頭の中身」より、ただの「頭数(あたまかず)」として「勘定」してしまう。これが、「出版主導」の「紙の本=ペーパー・メディア」環境になってしまい、
「ベストセラー・システム」という幻想のなかで、ただに「本が売れない」だけでなく、「好い本は売れない」「売れないから造らない(出版しない)」という
「商習慣」に埋没してきた。悪循環してきた、わけです。今では、心ある誰でもが、それに、気が付いています。
例えば今、図書館活動の在りようが問題になっていまして、日本ペンクラブでも、いち早く「図書館」向けに「抗議」声明なんか出したり、「激突!! 著作
者と図書館」なんてシンポジウムを開いたりしました。
この際も、著作者の尻を押すような顔をして、「出版の資本原理」がずしりと坐っているわけですが、かんじんの「図書館利用者」である「読者の意向」など
は、出版も著作者(と称する一部の売れ筋著作者も、)誰も、いっこう、確かめようとすらしない。問題にもしていない。
読者とは「質」ではない、「数」だと考えているからです。図書館を利用する読者達があるせいで「本が売れない」と、かなりもかなりも短絡して、大手出版
も、(小さい出版社たちは、むしろ逆さまのことを考えていますが、)また著作者の一部も(私をも含む大多数の書き手達は、やはり逆さまのことを考えている
のですが、)ま、彼等はハッキリいって、眼前の利害感情や感覚に奔走して、そう、本気で図書館はヒドイというふうに憤慨しています。本は読んで貰って「な
んぼ」のものとは考えていない、まさに売れて「なんぼ」のもの、と、質は二の次なんですね。
さてさて、島崎藤村は、何故に、「緑陰叢書」を発想したのでしょう。それには、出版支配の「主導ないし先導」や「肥大化」に対する、たとえかすかでも、先
見的な警戒心が、働いていたからです、それは、さっきもハッキリ申し上げました。
著作者としての、少なくも「自由な創作」や、「読者への親愛や期待やアピール」、また微妙に関連してくる「著者の収益面」に関する「擁護の気持」が働い
ていたわけです。もう一度、小説『分配』の言葉を、よく聴いておきましょう。
即ち、「私はあの山の上から東京へ出て来て見る度に、兎にも角にも出版業者がそれぞれの店を構へ、店員を使って、相応な生計を営んで行くのに、その原料
を提供する著作者が、少数の例外はあるにもせよ──食ふや食はずに居る法はないと考へた」と。
これこそは、「著者」なる立場からする「出版業者」への、まことに痛烈な、しかも意義ある批判であり、指弾であったと、私も、今一度胸によくよく納めて
おきたいと思うのです。
これ以上は、もはや藤村先生に直接伺えることではないし、藤村研究者や出版研究者が、率先この辺を、一度は考えてみるべきではないのでしょうか。
藤村先生ご自身の「自費出版」であったとはいえ、その実態と成績とが、いかがなものであったか、分かりません。分かりませんけれど、ま、大きなお蔵は建
たなかったことでしょう、先生の経済的な情況は、もっと後々の『嵐』や『分配』などを読んでおりましても、いくらか察しはつきます。
私は思うのです、むしろ藤村先生の配慮のうちで、想像以上に重く、いつも、いつまでも、恐らく終生変わらなかったのは、ご自身の「読者」達を、たいへん
大切に、常に、より身近に遇する、というお気持ちが有ったのではないか、と。「作者と読者と」が、索漠と、大きく乖離していては、実に「好ましからず」と
いう、先生独特の姿勢、日本の作者達にはあまり従来考えられなかった、しかし実に健康で健全な「価値観」ではなかったか、という「推測」を私は持っている
のです。
多くの年譜的な記載は、それを暗示し、示唆し、表明しているように、私一人は、感じ、かつ共鳴し、敬意を覚えてきたのです。
藤村先生との「ご縁」について、あらまし申し上げましたし、これ以上、もう、くどくど申し上げるのは、よしましょう。
これらもろもろ藤村の人と文学への、尊敬や感化や学習を通じまして、いま、私は、自分自身の「湖の本」活動の拡充と同時に、「ペン電子文藝館」の世界化
活動にも、ほとんど身を粉にして、盆も正月もないほど力を入れています。
此の活動を、私や仲間達は、いわば「植樹」活動と同じに自覚しています。一本、一本、良い樹を此の「電子文藝館」という文学の山野に植え続けて行こう
と。
そして申すまでもなく、私は、最初の一本、よく繁って見るから美しい樹木として、島崎藤村、初代ペンクラブ会長の手になった『嵐』という小説を、躊躇い
なく選んで、植え込んだのでした。
『嵐』とは、どんな小説でしょう。その書誌的な解説なら、みなさん、どこででも容易く手に入れて読むことが出来ます。「嵐」を一篇の小説として作品論を展
開することは、むろんこの際の私の任ではなく、ふさわしい大勢の学究がおいでです。今更に、特にこれを付け加えたい論じたいということは、私には無い。
小説『嵐』は、論じたい作品ではない。じつに、「読んで」嬉しい気持のする小説です、『分配』などと、ならんで。
大正十五年九月「改造」に初出、藤村先生は五十五歳、たいへん好評の作品でした。
ただに、私生活に取材しただけでなく、「内も外も嵐」という述懐がありますように、時代の関心や事件とも関わっています。文体は、誠に静穏、かつ素朴な
なりに様式化をさえ帯びていまして、いかにも「藤村文学」が、静かに落ち着いたなあと思わせる。それまでの、響き高く、それが時には曰く謂いがたい高ぶり
とも聞こえたような文体から、静かに平談して、しかも卑俗に流れない。
藤村自身もこの作に触れて云っていますが、「世界大戦後の新しくあわただしい空気の中で、『子ヲ養フ、風塵ノ間』と昔の人の詩の句にあるやうな心持ちで
書いたもの」と。
父の、子たちにあたえた愛情と配慮との、最も静かに美しい表現を得ているところが、『嵐』の、嬉しい限りの、温かみ、だとは、誰しもが肯定するところで
しょう。
この作品『嵐』の舞台は、飯倉片町の家でした。書かれたのも、此の家ででした。
大正七年十月、藤村四十七歳のときにこの家に入り、六十五歳の昭和十一年まで藤村は、此処に住んで、結局ながくながくこの家を動きませんでした。『新
生』はここで書かれ、全十二巻の藤村全集の刊行されたのも、此処からでした。あの大作『夜明け前』も此の家で書かれたのでした。
一番近いポストへも二町、たばこ屋へも二町、湯屋へ三町、床屋へは五、六町もあるという、むしろ不自由な「谷蔭のやうな」家でした。そこへ父藤村は、男
の子を三人、女の子を一人と、「新生事件」このかた離散していた子供達をみなあつめて、「家」の「内の嵐」に真向きに正座して暮らすような日々を送ったの
でした。
ところで、でも、こういう事は申し上げて佳いのかも知れない。
「嵐」は、明らかに二つの、いいえ三つの作品からの「到達点」を示しています、と。
一つは「家」の、もう一つは「新生」の。そして、藤村の「実生活」面からする、じつに緑陰叢書第一巻「破戒」からの苦闘を経てきた「到達」でもあったわ
けです。
では、藤村は、ひとまず「文学・創作」とは別問題としまして、この間に、どんな「現実の苦闘」「生活の苦闘」を経てきたか。
一つは、明らかに「経済」問題です。
作品「破戒」は、まさしく藤村・島崎春樹の家庭を破壊したとすら謂える、或る意味で、「貧」からの所産でした。多大の経済支援を妻冬子の実家「秦」家
や、知人に頼らずには、生活も、出版も、ともに成り立たなかったし、結果として、現実に何人もの娘や、また妻をも藤村は喪いました。『破戒』それ自体は、
文学史の栄光に包まれましたが、一部には激越な非難の的ともなりました。「緑陰叢書」という自費出版の発想そのものも、根は、作家として「経済的な自立」
を図ろうとした、優れて自覚的な「出版」資本への「批評」「非難」の敢為でもありました。
今一つ、「家」からの重圧がありました。多くの親族との、忍びがたき経済的な葛藤が、すでに、いろいろに藤村の肩に、背に、のしかかっていましたし、深
刻な夫婦生活の危機をすら含んだ、「家族・家庭」の、雪崩落ちるような破損と離散とが、「破戒」から、「家」へ、「新生」の時期へかけて、小絶えなく藤村
を襲っていました。
小説「嵐」は、そのような家庭の崩壊から、かろうじて、「二人育てるのも三人育てるのも同じ」「三人育てるのも四人育てるのも同じ」という思いの内に、
亡き妻が忘れ形見の「子供達」との「家庭生活を回復」して行く小説でした。
その子供達の一人一人には、「月給」という名の小遣いも必要なら、引越しして、空間的にも便宜の上でも「ゆとりのある家」を探し出すことも、また必要で
した。じつに改造社による円本の発売、当時にして二万円というオソロシイほど多額の印税収入、その子供達への平等な「分配」に至るまで、島崎家の「貧」、
または、それに近い状態は続きっぱなしであったのです。
もとより、家庭という埒内で完結し得た経済問題ではなく、藤村には終始「親族」との関わりが有り続けました、いろいろに。
そこで親族・血族という「家」との関わりで、もう一つ云うならば、幾重もの意味での、「病」の重圧が、藤村を苦しめ続けていました。『破戒』『家』『新
生』から、その後七年の「寡作の空白期」を経て、文字通り外から内からの「嵐」の襲いくる音に藤村は身をすくめていましたが、その間には、子供達の相次ぐ
貧による死、妻冬子のさながらの窮死、そして親族にも相次いだ、死や、深刻な病気。
その死や病気のかげで、くろぐろと口を開けていた最も深刻な「病」が、父や、姉を襲っていた精神の病であったことはよく知られていますし、さらに加え
て、また『家』にも『新生』にも、なまなましく現れてきた「性的な」淫蕩・愛欲の絡まった、「家」と「血」との暗い騒がしい葛藤や懊悩が、島崎藤村を「執
ねく」捉え続けていましたから、それにくらべれば、『嵐』の数年前に藤村自身を襲った病気・病臥などは、或る意味でまだ堪えやすい苦痛に、部類されていた
ことでしょう。
「貧」と「家」と「いわば血の病」とを背負って、性的にも経済的にも、彼自身の云うほどは淡泊であり得なかった島崎藤村は、それらの一切をも、外なる時代
を襲う歴史的な「嵐」とともに、避けがたい「内なる嵐」と感じながら、小説『嵐』から『分配』への時点に、やっとやっと辿り着いていた、と、いわざるを得
ません。
そしてそれが生活上の「嵐」であるだけでなく、文学・創作的にも「嵐」を乗り越えて行く島崎藤村であり得たことで、この大正十五年の作品「嵐」は、言葉
の正しい意味での、本当の意味での藤村「新生」「再生」「甦生」を、やっとやっと遂げ得た「達成であった」と謂うべきではないでしょうか。
この上に深く『嵐』を追いかけることは、しないでおきましょう。作品を丁寧に、また深く楽しんで読んで読み直せば、すべて足りることであります。
で、時間さえ許されるならば、一番最初の問題提起、というより私の発言に戻りまして、ほんの少しだけ、「感じ」というほどのことを申し上げて終わりたい
と思います。
例の尊敬してきたのは「藤村・漱石・潤一郎」という、もし仮に付け加えるなら「松本清張」かと申し上げた、その私の理解についてです。
もとより三人四人の大きな作家を比較し論ずるゆとりはありませんが、少なくも先の三人について申すなら、藤村はやはり「家」の歴史から日本の歴史へ大き
く歩んで出て行こうとした人でしょう。
漱石は「心」の人でした。心には、「精神・魂」の側面と「分別(マインド)」の側面をもち、その分別は「心理という論理」の駆使に傾きます。漱石は「静
かな心」というものをついに持てないであろう人間の苦悩を、「疑いやすき心理」により書き通したように思われます。
潤一郎は「女」を書きました。それも、善悪を度外視した「美」として追究しました。
そしてこの三人の作家ともに、「性」に動かされました。藤村は「新生」を求めて安住なき嵐の旅人として久しく悶えました。
漱石は「明暗」に惑いつつ、何度となく秘めた性の嘆きを、罪と感じつつ、狂気や自殺を通して業のように書かずにはおれませんでした。
そして潤一郎は、若くより老人に至るまで、終生、性的な「瘋癲」を生きることで、「美」を建立しようとしました。
彼等はいずれも「我という人の心は我ひとり我より他に知るものはなし」という潤一郎の歌に代弁されるように、「我が胸の底のここ」にある洞察や心理や観
念を吐き出すように紡ぎつづけましたが、三人とも、ついに「政治」という社会的・歴史的な犯罪の領域には近づきませんでした。藤村先生だけがわずかに歴史
とかかわることでそこへ接近しかけましたけれども。
そういう領域へ、早く進んで踏み込み大きな仕事をした一人に、わたしは「松本清張」のような存在を顧みても良いのではないかという推測をもっております
けれど、その点は、もっと適切な把握が必要かも知れません。
いずれにせよ「家」「心」「美」を「性」的に通分し得た、打つて一丸とした大作はまだまだ日本文学に見当たらず、まして「政治」と「犯罪」を通じて文学
そのものが大きな分厚い「社会的・文藝的」産物たり得た例は皆無なままに、むしろ現代文学の細小化・通俗読み物化こそが促進されているのではないかなあ
と、ま、私は慨嘆ぎみに眺めているわけで御座います。恐れ入ります。
ーーーーーーーーーーーーー
川端康成の深い音 ─体覚の音楽─
「近代文学館」講演 二○○二年二月一九日 於・駒場 近代文学館)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
とことん、今回は、困惑しております。
川端康成の久しい愛読者ではありますが、殆ど論じた事がありません。そういう気になれない作家なので、何度も、この話は、お断りしましたが。
ほぼ一年、気にかけ、気にかけしながら、また、困惑の余りに「川端康成の深い音」なんて、わけの分からない仮題を出してしまい、それにも縛られまして、
身動きの取れない思いのまま、今日のこの場にいたりました。申し訳ない気持でいっぱいです。
谷崎潤一郎なら、泉鏡花なら、これが夏目漱石であっても、幾らかは「論点」を持てると思います。しかし川端康成のことは、論じたいという欲求が湧きませ
んでした。川端康成は「読めば」いい。それで、自分は、いいんだ、と。
ま、事のついでのように川端康成、また川端文学について、触れたぐらいは、何度かありました、が、感想でした。論証や論考ではありません。
一度、それもごく早く、昭和四十七年、丁度三十年前になりますが、川端康成が自殺し、ほとんど動転のままに、「廃器の美」と副題して、原稿を書いたこと
があります。論証でも評論でもない、ま、エッセイでした、が。あの時、自分がどんなことを思っていたか。かなり気恥ずかしくもありますが、川端研究の人達
から不評を買っていましたかどうか。参考文献に拾い上げて戴いたりもしていたようです。
で、その三十年前に、「死なれる」という喪失感に堪えて、どんな感想を書いていたものか、どの辺が、今も変わりなく、どの辺が、今ではそう思っていない
か。反芻してみたい。 大急ぎで注釈しなければなりませんが、"死なれた"
は、なみの尊敬語ではなく、私には、重い「受け身」の感じ方でした。『死なれて死なせて』という単行本を私、出しておりますが、この物言いは、私の読者は
よくご存知なんですが、私自身の仕事や人生にあって、ゆるがせにならない一つの鍵言葉なんです。
その原稿で先ず、三島由紀夫に死なれて、あの日、昭和四十七年四月十六日、今また川端康成に「死なれた」と私は書いています。谷崎潤一郎の死に遭って、初
めて小説創作の筆を執り、太宰治賞で作家となり、数年のうちに、つづいて三島、川端両氏に死なれてしまった。自分はそういう者だ、そういう者なのだと、喪
失感に堪えて、私は胸の内で繰り返している、と書いています。
川端康成は、私には、こわい作家でした。漢字の「怕い」に借りて謂えば「心持ちの真っ白になるような」こわさであったと思い出せます。存在
そのものが、そのまま、手厳しい批評であるような人には、"好き"というほどの、甘えた近づき方ができなかった。ですが、美しく割れた真っ白な磁器のかけ
らを、こわごわ眺めるように、繰り返し繰り返し、私は、川端康成の幾つもの作品に帰って行きました、何度も。ただ、いつも及び腰に、逃げ支度をしいしい近
寄っていたように思い出します。
谷崎文学の場合は、およそ平凡作・駄作といえども、活字に唇を添えて、旨い滴くを吸っていた私が、川端文学に触れる時は、おそるおそるでした。うかうか
手にとって、怪我すまいというふうだったんです。多少、今もそんな気分は残っています。
よく耳にするように、川端文学が、小説も批評も、たとえ、きーんと鳴る支那の白磁のようであろうと、それが完好の名器であれば、私は、安心して親しみ、
おそれず、何度も手にとって、嘆賞の声を惜しまなかっただろう、と、そう、三十年昔に書いています。ですが当時の私は、川端康成の世界に、十全にして無瑾
(むきず)の磁器を見ていませんでした。
川端文学とは、一かけらの磁片、その断面に、白くてかすかな、焦ら立たしい光を結晶させた、「美しさ」さえもが、幾分危険な、「廃器」だったのではない
か。ただ、それが、秀れてつよい、佳い一かけらだったが故に、充足や十全を超えた地平までを、瞬き照らす、生得の「批評の光」を備えている、と、川端文学
の全部から、尖鋭な「批評性」を私は意識していたようです。
円満具足の完璧なもの以上に、廃器の批評、破片の批評は、一層妖しく光り、一層なまめいて冷たく、何よりも、あまりに、いつもいつも、寂びしげだと私は
書いています。
この感想にも、今も何となし、同感できます。
「寂びしげ」というのは、川端が死を凝視したからでしょうか。そうは思わない、と若い日の私は言い切っています。川端康成は、「死」に親しみ切れない眼
で、いつも寡黙に「生」を眺め、人恋しい「歌」を胸の底に秘めていた。作品は、気早に死化粧を匂わせるかに見えながら、実は、作家は口籠もりがちに、寂び
しい人の寂びしい生き方を、沈黙したまま歌っていた。歌声としては聴き取れなかったし、それ故に、或る種の視線には、あまりに川端は神経質に感じられる、
という意味のことを私は、書いていました。少しく修辞的=レトリカルですが、また、私なりに、感ずべきは、感じ取っていたのかなあと、評価してやりたいと
思います。この辺は、さらに、少しでも言葉をかえて、もっと追って行っていいところかなと、予感もしています。さらに、こんなふうにも書いています。
故人が、つまり川端康成自身が、生前洩らされていたように、「新感覚派」という名称や文学運動にはそう捉われないまでも、結局、終生、秀れた意味での、
「感覚」で書き通してきた、と述懐されていた、その、生来の川端「感覚」の原質というものが、今後、かなり厳しく究明されるに違いない、と。
殊にその文体。繊細で冴えたと謂えばそれまでですが、どこか奇態に大味な、やや一人舞踊にも似て、物寂びしい流露感に、幾分の、「かすれ」や「やせ」の
見える文体に就いては、あんなにも故人が、「日本」と「日本の自然」を語られていながら、果して、どこで、どう、川端文学が「日本的な真相」と関わり合え
ていたのか、という課題と共に、より率直に深切に、論じ直されていいだろう、と。
これは、かなり機微に迫っていたかも知れません。
「一人舞踊」に似て「もの寂しい流露感」というのは、ある種私の、共感でも、批評でも、あった気がします。その上に、畏れ多くも文豪川端の文体に、或る
「かすれ」や「やせ」をすら感じているなどと、ポレミークなことを発言しています。自分でもどきどきしてしまう発言です。
もっと追いかけて、こうも書いています。
川端康成の文章は、時に突然、白銀の糸でぴーんと織りなされていたかの「趣」を、呆気なく、かき消してしまう。匂いの薄れた花びらのように、文字が、た
だ、視野を漂うことがある。忽然と、今までたしかに感じていた或る文体の魅力が、溶暗(フェイドアウト)
してしまう、などと。「なぜなのか、ここでは、言えない」とは言え、これは率直の感想であって、例えば『山の音』に、よかれあしかれ私は一番それを感じて
いるのだ、と。
なんたる大胆、若いというのは恐れ知らずなものです。しかも、「なぜなのか、ここでは、言えない」なんてことで、さっさと逃げています。どうしようもな
い。そして──、同じ匂わぬ花でも、三島由紀夫は、丹念に彩色した輪郭の強い造り花、紙の花のように言葉を駆使した作家だと言っています。
川端康成の花は、決して造り花ではない。だが匂うと思わせて、静かに匂いを喪って行く、枯れる寸前の、寂びしい花の色かのように、川端文学の言葉は織り
なされている、と、三十代半ば過ぎた頃の私は書いています。「枯れる寸前の、寂しい花の色かのような美しさ」は、川端康成にとって、あたかも人間の運命、
衰弱して行く "個性"
の運命として、意識して巧まれたものであったかもしれない。その巧みと絡めて、「感覚」の如何が問われたなら、その時、川端文学の「類稀れな廃器の美しさ
哀しさ」、その「尖鋭に光る批評性」の背景に、意外に「非日本的容貌」の(まして西欧でも大陸でもない)、むしろ一回限りの、 "神経" と" 趣味"
に、構成され・演出されて成り立つ文学世界の表情が、まざまざと読まれるように、私は予測する、と──、ま、こんな大胆予測をしていたんです。
『美しい日本の私』と、ノーベル賞を受けて演説した世界的な「日本的作家」の文学から、こともあろうに「非日本的容貌」を、この私は、秘かに、偸(ぬ
す)み見ていたというわけです。これは大問題です。
そして、短い文章をこう結んでいました。
谷崎潤一郎は、堂々と咲き切った、厚咲きの桜だった。均しく "美学"
の文字を作者の名前にいつも添えられながら、また銘々に「日本の自然や伝統」を、作風の「根」に据えようとしていた、谷崎と、川端と、三島と、それは、想
像以上に種類の異なった存在、異質の三人だった。しかも三者三様に、三人の "死" は、強硬そのもので、長嘆息して、 "死なれた"
とより他に、言いようがない。忘れてはならない。「日本読書新聞」の依頼で、昭和四十七年五月一日号への寄稿でした。
同じ魅力というにしても、譬えれば、三島由紀夫の小説は、「造花」の魅力、川端康成は「雨にうたれた花」のような魅力、谷崎は「満開の花」のよう、と。
ま、レトリックですし、むろんこれは、優劣をつけたのではありません。三島由紀夫と三島文学とに対しては、率直に言いまして、私は、全面に「好き」など
と決して云いません。しかし、川端康成と谷崎潤一郎なら、ほぼ、等価的に好きで、いつも感嘆し、まことに、天才的だと思います。
自然、今日のこの後の私の話は、この二人の、関わりようや比較を、実質とするより他に、間のもてようがない気がしています。が、さ、どうなるのか、見当
がついていません。
確かなこととは謂えませんが、川端は谷崎より遅れて登場したのは言うまでもなく、「新思潮」という同人誌でみましても、谷崎や和辻哲郎らの時代より遅れ
て、芥川や菊池寛の時代があり、川端康成はその菊池寛の引き立てで世に現われて出た作家ですから、谷崎は相当な大先輩です。そして、谷崎が川端康成の文学
について書いたもの、発言したものは、記憶の限りですが、ありません。
谷崎の批評でごく早いものは漱石の『門』を丁寧に論じた作が学生時代の「新思潮」にすでに載っておりますし、後には、『明暗』を酷評しています。また永
井荷風の『つゆのあとさき』を深切に語っています。
しかし谷崎が、後輩作家に触れて特別の文章を書くことは少なく、書けば、大衆文学畑の中里介山『大菩薩峠』だの、直木三十五『南国太平記』だの、また水
上勉さんの『越前竹人形』を褒めています。そしてデビューして間もない頃の大江健三郎の文章については、きつい不満を叩きつけたりしています。谷崎の押し
掛け弟子と自称していたのが、今東光や舟橋聖一や川口松太郎なんぞ、みな、文壇主流を逸れていた人達ばかりなのも面白いような面白くないようなことです。
むろん文藝時評をも得意技にしていた川端康成は、『春琴抄』など、自然に何度も谷崎には触れて書いていますでしょう、が、今日の主人公は川端なので、彼
の谷崎評に重きを置くことは本末転倒だから、これ以上は触れません。興味深いのは谷崎が川端について殆ど口を利いていないという、むしろ、そのことです。
おそらく、同じ畑の人の文学には触れたくないというのが、谷崎の場合、健康法、精神衛生のようなものであったろうと察しられます。川端のような純然文壇
人種とちがい、谷崎は文壇から始終距離を置いて作家生活をいわば源氏物語体験の場のように虚構化してゆくところがありました。菊池寛らの文藝春秋派ではな
かった、彼は終生中央公論派の作家でした。
文春と中公のハナシになったので、本題に入る前に、一つ、脱線します。文藝春秋の創始者が大きな作家であった菊池寛であるのは、まだ記憶されていること
です。そしてそのことを、誰も何とも今は思っていません。が、文春が雑誌や出版活動を始めた頃は、そうではなかったのでして、菊池寛が、中央公論社に殴り
込みをかけまして、あわや中央公論社の当時の嶋中社長と乱闘という騒ぎが起きていたんですね。これは嶋中社長の子息の、次の嶋中社長が書いておられます。
喧嘩の原因は何か。作家が出版に手を出すとは何事だと、事あるごとに菊池寛はやられていた、嶋中さんはむかっ腹を立てていたわけです。堪忍袋の緒を切っ
た菊池寛が中公へ乗り込んできたと嶋中さんは観ていたように書いています。
面白いですね。そういう空気であったんですね、作家と出版というのは。
今日、私が、出版にほぼ完全にそっぽを向いて、自力で自分の本をどんどん出す、それが十六年(今は二十余年)にも成り、もう七十巻(今は百巻近く)も出
し続け維持継続しているなど、やっぱり、既成の文芸出版からは、じつにみごとに総スカンを喰い、わたしは、孤軍奮闘していますが、時代が大きく変ってきま
した。紙の本ではなく、電子の本が可能になり、旧来の出版の力は今や大きく分散してきています。わたしは、「秦恒平・湖(うみ)の本」という紙の本のシ
リーズ出版と併行して、「電子版・湖の本」を発信しつづけ、おまけに、その中で電子文藝サロンである「e-文藝館・湖umi」も創設して、新世紀の電子文
藝に先駆けて行ける「場」を公開し提供して、二百を遙かに越す(今は五百に及ぶ)著者と作品とをすでに満載していますし、その経験を生かしまして、理事を
務めています日本ペンクラブにホームページを立ち上げまして、私の企画でそこに電子文藝館をひらいて、過去現在の会員三千人の各一作品を国内外の読者に無
料公開するという文化事業を展開し始めてもいます。
日本ペンクラブは、昭和十年に島崎藤村を初代会長に発足しました。第一回芥川賞に石川達三の『蒼氓』が選ばれた年で、石川さんは後にペンの会長になられま
したが、私の提唱して実現した電子文藝館には、藤村の『嵐』正宗白鳥の『今年の秋』志賀直哉の『邦子』遠藤周作の『白い人』など歴代会長の秀作と並んでそ
の石川達三作『蒼氓』も掲載されています。川端康成の作は、『片腕』を載せています。川端は、最も長期間ペンの会長を務めた人で、日本が主催国の世界ペン
大会をみごと成功させた人物でした。電子文藝館には、開館以来わずか二箇月半で、与謝野晶子、徳田秋声らから芥川賞の木崎さと子、三島賞の久間十義らに至
る、すでに七十人近く(現在七百作近く)が力作、秀作を展示しています。紙の本でなら三十册近い分量の出版にかけました経費は、限りなくゼロに近いもので
す。
実に、こういう時代に、今は、成ってきています。
このディジタル・ライブラリーは、繰り返しますが、完全に無料公開で、原稿料も、掲載料もなく、課金も一切しておりません。文学好きの読者に、吹聴、愛
用して下さいますように。
冗談のようですが、むろん谷崎潤一郎も川端康成も、たぶん、ワープロの存在すらも知らなかったでしょう、ですが、もしも今日に生き長らえ、パソコンを身
近に知ったとして、二人とも拒絶したか、二人とも興味をもち使ってみようとさえしたか、片方は関心を示し、片方は見向きもしなかったか。これは、なかなか
深読みの利くクイズのようなものであるなと思っています。
機械で小説が書けるモノでないとか、ごたくさ、ものを言う人もいますが、文体をもったまともな物書きなら、何と謂うこともありません。影響があるなら、
見分けが利くはずですが、ある連載の途中から、完全に機械書きに転じたときも、誰一人、ここからが機械だなどと見分けた読み手は無かったのです。そういう
ものです、その手の議論は、もう過ぎた昔話でありましょう、その上で、今のクイズめく問題を、少しく、本題に絡めてものを思ってみますが。機械を実際に
「使う・使わぬ」は別にしましても、川端文学の方が、機械で書くのに馴染みにくく、谷崎文学の方は、むしろ機械書きに応じて行きやすい、そんな、文学自体
の性質の差がありそうな気が、私は、しています。
結論ではありません、ただの予測です。予測以上に踏み込むのは危険過ぎますが、ま、いよいよ、本題に入ってゆき、手短かに、ちゃっちゃっと、お茶にし
て、しまいたいものです。何が本題なのやら、川端康成の「深い音」って、何なんだと思われる方も、苦しまぎれに、あの『山の音』を念頭に置いたろうとは、
見え見えにお察しの通りです。が、ま、その辺へ、話題を運んで行けるものかどうか、まだ分かりません。先が見えていません。お、と気がついたらその辺ま
で、辿り着いているという具合に行けば佳いのですが、実のところ、繪に描いたような見切り発車なんです。御免なさい。
あまりそういう経験は無い方なんですが、一度だけ似た困惑にまさに悶えたことがあります。
「墨」という雑誌に、『秋萩帖』という小説を連載する話がありました。秋萩帖は、小野道風の筆になるかという伝の、極めつけ、書の国宝ですが、草(そう)
仮名という、書の歴史では一時期を画しました書法書体で書かれているのも一特色でして、かなり登場の時期が限定されますが、これに関して、小松茂美博士
の、ま、革新的な研究論文など出まして、私は、ずうっと注目しておりましたし、そのうち、小説に書きたくなりました。で、「墨」から話が来ましたので、な
ら、これでと、先方も大賛成。時間も迫っていましたので、「行けるだろう」という気でスタートしました。
小説の事ですから、小野道風はいいとして、ヒロインも登場させたい。そしてそこには、恰好の女性が存在していたんです、名前は、大輔(たいふ)。古今集
の次の、後撰和歌集で、女では、伊勢に次いで二番目に採られた歌数の多い、交際の範囲も皇太子から藤原時平から藤原実頼などまで絢爛豪華なんです、が、主
人公たるべき小野道風とも、紛れもない恋の相聞歌を、一度ならず交わし合っていまして、これぁもう、ヒロインとして申し分がないと、それは書き出す前から
よく知っていたものですから、よっしゃと飛びついて、創作の進行にも、ま、タカをくくったところがありました。作のモチーフは、恋愛なんかとは別に、ちゃ
んと持っていましたのでね。安心していました。
安心の一つには、大輔ほどの大物女性ですから、氏素性明白だと思いこんでいたわけです。所がこれが誤算で、諸々の参考書に謂うこの大輔は、古今和歌集に
も出ています大輔と同一人で、従って父親は、王族である源弼(みなもとの たすく)だと云うんですよ。
ですが、これは、多くの点で大間違いでした。第一、歌風がちがうし、年齢も、大幅に食い違ってきます。学界によく有るいわゆる孫引きで、誰かの説が無批
判に踏襲されていただけで、精査しますと、早くに、少なくも源弼の女ではありえない、古今集と後撰集の大輔とは全く別人であるという論考が、ちゃんとその
当時に出ていたんですけれど、埋もれていたんです。
それじゃ、後撰の大輔、大鏡にも大和物語にもいろいろに噂の多い、大きな史実にも絡んでいる大輔の、親は誰かとなると、これが全然、研究も言及もされて
いない有様なんです。
弱りました。連載は始まってしまったのに、ヒロインを自信を持って形作ってゆきにくい。なにしろ、彼女の関わってゆく貴族達はみな眩いほど錚々たる連中
なんで、ヒロイン一人を、いい加減には持ち出せないわけです。ほんとうに汗をかきました。で、仕方がない。小説を書いて行く一方で、研究者・学者もして来
なかった、大輔の戸籍調べを、自力でやったんです、うんうん唸りながら。
結果的に、これは、かなりな成功裏に収束しました。なにしろ小説家のこういう言説に、つねづね実に厳しい角田文衛博士が、京都からわざわざ、電話で、
「よう調べあげましたねえ」と褒めてきて下さったんだから、ま、いい線に達していたものと今でも思っています。
その詳細は、この席の本筋ではないのですべて略しますが、後戻りの利かない見切り発車というのは、じつに切ない苦しいものであること、今回の川端康成の
話は、それに近い、いいえ、苦しいそのものの汗の掻きようである、と。泣き言と思ってくださって結構です。
ところで、今、古今和歌集の大輔、これは源弼(たすく)の女(むすめ)でありますが、この人と、後撰和歌集の大輔との、「歌の風」が違いはせぬか、とい
うことを申しました。
この詮議は、むろん容易じゃないんです。古今集には、大輔という女性の和歌は、只一首が採られているだけでして、こういう歌です。
なげきこる山とし高くなりぬれば
頬杖(つらづゑ)のみぞまづつかれける
嘆きという木を、樵(きこり)する山、嘆き・ため息の「き」が凝り固まって、山になっている。そんな「山」に登ろうとなると、途方も無さに真っ先に「頬
杖(つらづえ)」がつきたくなっちまう。ま、そんな歌です。才走った言葉遊びと読めますし、物憂げな恋愛体験に裏打ちされている、とも読めます。
そして、歌が硬い。伊勢ほどの名手と、勅撰和歌集で歌の数を競えるような秀歌詠みでも何でもないんです、「カ」行の、硬い音を、七音も、工夫無しに連ね
ています。
後撰和歌集の大輔の歌は、幾つもありますが、例えば、こんな感じです。
わびぬればいまはとものをおもへども心に似ぬはなみだなりけり
ふるさとの奈良の都の初めより馴れにけりとも見ゆる衣か
ともに古今調です、万葉調ではない。が、心持ち、後撰集の大輔の歌の方が、古今集の大輔のより、柔らかい。ずっと柔らかい。声に出して歌ってみると、感
じがつかめます。が、こんな微妙な「うた」の差異は、感覚的に、直感的に「認める」か「認められない」かのどっちかですから、頼りないと云えば頼りない
が、違いの分かる者には、分かると言うて置くしかないようです。
いま、小野道風の話が出ているので申し上げますが、源氏物語のなかで、紀貫之と小野道風との「書風」が競い比べられて、道風のほうに軍配が上がっていま
す。その理由に、道風の方がわずかに今様である、今めかしいからだ、と言われています。しかし、紀貫之と小野道風との時代差なんて、ものの二十年ともあり
はしないほどなんです、が、物語中の人達は、たぶん、物語を読んで聴いて嘆賞していた読者達にも、この、かすかな古様古風と、新風今様とが、かぎ分けられ
ていたわけですね。二人の大輔にも、わたしは、確実にそれが露出していると読み分けております。
ま、これは和歌の、「うた」の話です、が。
それじゃ、「うた」って何でしょう。「音楽」じゃあ、ありませんか。
詩歌とは、言語の音楽であればこそ、「うた」と呼ばれているわけです。定型による「外形の韻律」も「内在律」も、まさに音楽の効果に導かれて、言葉が、
紡がれるように、好ましく表現されて行きます。これに異存のある人は少ない、無い、のではないか。
と、同時に、では散文は、詩歌とは別ものなのか、と、問われれば、じつは散文もまた「音楽」性を、たとえば「絵画」性よりは、遙かに濃厚に、本来具有し
ていることは、当然です。
いまでこそ、滅多に小説を「音読」はしませんでしょうが、類似・相似のジャンルである、演劇や、話藝・ラジオ放送等の朗読には、言葉の音楽的な響きや、
諧調や、快感に心惹かれることはあり、それが、かなりの度合い、「間」という音楽的旋律感や、文字通り間隔=インターバルの魅力で受け取られています。演
説や講義でもそうでしょう。
想像力を絵画的に刺激することは可能でも、言葉は、どうしても、例えば饅頭の甘(うま)さを、正確には言い得ないし、音色も、色彩も、硬さ柔らかさも、
寓意的・比喩的に「表現する」しかないが、その「言葉自体の魅力」の取り込まれようが、音楽のそれに近いことは、論をまたないわけです。
文学・文藝の魅力には明瞭に音楽性があり、もともと「音の楽しさ」と表記した音楽にならい、文の学問でなくて「文の楽しさ」「文楽」というのが「文藝」
の名称・表記であってこそより快いものが、そういう性格が、認められるわけです。
言い換えれば、文藝活動の芯の所で、意識の深層で、詩人も小説家も、本当は批評家ですらも、一人一人の個性のにじみ出た、独自の「音楽」を「奏でてい
る」のだと謂えるところが、在る。間違いなく在ると、私は思います。
もう何十年か前のことですが、電器屋をしておりました父が、京都から東京の私に、まだリール式でしたが、テープレコーダーを送ってきてくれました。
私は、親にものをせがむ、ねだるということをしない子でしたから、父からの自発的なプレゼントでしたが、その頃、私は三十前で、やっと、小説を書き始め
ていました、ごく孤独に、こつこつと。
私は、カラオケ等の好みのない男でありますから、さて機械を何に使うのか。で、テープレコーダーの届きましたその晩、恥ずかしいものですから、妻子のみ
な寝静まりました深夜に、小声で、いきなり、「男がいた。」と吹き込みました。
その先、思いつくまま「話」を吹き込んで行きまして、そして寝ました。朝起きて、再生してみますと、なんだか、思いがけない自分の心根が覗いているん
で、面白いなと、その試みを随分続けました。
それが、私の「掌説」です。川端さんのいわゆる「掌の小説」です。百編近くありましょう、かなりな意味で、私自身の「索引」を成しているように感じま
す。
そして触発されまして、また古典物語体験の延長上からも、私の、「文学は音楽」である、少なくも音楽的魅力を、本質に抱えているという自覚が、格別に強
くなりました。自分の小説を、書いては音読しつつ推敲して行く習慣のようなモノすら、出来て行きました。
皆さんにも御経験があろうと思いますが、ある種の文学作品を読みまして、その夜の夢に、なんとも謂えぬその作品の強烈な文章・文体の印象が、うねりにう
ねるように、旋回し、連続し、果てしないということ。
私は、そういう体験を、例えば幸田露伴の『運命』、森鴎外の『即興詩人』や、ことに『渋江抽斎』を読んだ晩にしまして、魘(うな9されるというのでは、
ない、えもいわれぬ「波」に載せられ運ばれる思いを夜通し、しつづけた覚えがあります。それは、バッハや、モーツアルトや、ベートーベンの、強い曲を聴い
て寝たときにもあるのと似た、それよりはやや、夢魔に遭ったような疲労感すら伴う、ちょっと「降参しました」という感じなんですね。
小説『清経入水』で太宰治賞を受けましたあとの、記者会見で、私は、島崎藤村、夏目漱石、谷崎潤一郎を愛読し尊敬してきたと告白しまして、ま、驚かせた
というか呆れさせたようなことのある人なんですが、この三人からも、まさに三様の「音楽」を、聴き続けて、楽しんだのだとも謂えましょう。
お前さんの謂う「音楽」とは、「文体」のことではないのかと反問されましたなら、素直にそうですと返事するでしょう、が、しかし、それをわざと、「音
楽」というように申しますのは、比喩的には、その方が明快であるからです。
文学の「文体」とは、というと、「文章」とは、というのと混同されやすく、曖昧に難しくわかりにくいものです、一般には。
それに、文体は、個々の作家と作品とに属しています。
文学の「音楽」というと、文学・文藝全体を覆った体に謂いましても、分かりがいいし、作家と作品とに即しては、もっと納得しやすい。
今も申しました、漱石、藤村、潤一郎が文章によって演奏しています「音楽」は、まず、歴然と、指紋のように異なって聞こえます。甚だ、分かりが良い。
学生時代を終え、京都から東京へ出て参りました数年は、貧しく貧しく新婚生活しておりまして、テレビはおろか、ラジオもなく、新聞もとれま
せんでした。娯楽はといえば読書です、僅かに手元に置いていた潤一郎、藤村、漱石の何冊かを、わたしが、順繰りに朗読し、家内は聴いて過ごす。そういう生
活でしたから、声に出し、耳に聴き、そのようにして文学の音楽を我々は、味わい得ておりました。
では、そんな中に、川端康成は入っていなかったか、というと、じつは、入っていませんでした。
私は、川端康成に、先ず彼の書いていたいわゆる「少女小説」から入ったのです、小学校、五、六年生の頃に。私のためにと新しい書物の買えるような家では
なかったので、読書はというと、家にあった、祖父の買い込んでいた漢籍や古典、父の謡曲本や事典類だけで、他は、古本屋での立ち読みか、人に借りるかでし
た、が、小学校の友達は、貸してくれても、山中峯太郎の『見えない飛行機』のたぐいか、女の子達の少女小説でした。川端康成の名前は、吉屋信子や佐藤紅緑
らと並列で、この手の書き手なんだと思っていました。
じつは、その頃にはわたしはもう縁有って漱石全集というアレには出逢っていましたし、家にあった、頼山陽の日本外史だの、白楽天詩集だの日本国史訓読本
だのを愛読もしていたのですから、とても少女小説として括られた、甘い、センチそうなシロモノに満足するわけがなかったのです。それぐらいなら佐々木邦の
ユーモア小説の方が、上等だと感じていました。
つまり川端康成の名前を覚えた頃の私は、彼を、佐々木邦より下風にみていたとすら謂えます。
そんなわけで、中学生から高校生になり、既に谷崎文学の大方、藤村の代表作も、漱石全集にもあらかた、出逢っていた頃に、ようやく、評判の小説『千羽
鶴』ついで『山の音』を続けて読んで、感嘆しました。笑い話のようですが、見直したんですね、よっぽどの驚きようでした。
とくに『山の音』に、魅了されました。それから、『雪国』を読んだのです。その後は、もう折りごとに読み進みました、いろいろと。しかし、全部じゃあり
ませんし、私よく谷崎の場合にいいますように、活字に唇をつけてうま味を啜るように読んだ、そんな風に読んだ、といった「谷崎愛」的に、川端康成を読んだ
というわけではなかったのです。
ごく尋常にというか、平凡にといいますか、自分にとって川端康成は、『伊豆の踊り子』『雪国』『山の音』そして十ほどの優れた短編、あとは晩年の『眠れ
る美女』『片腕』とか、批評の三つ四つ程度。それでも足りているかなあ、と。
とても、こういう場所で、何かを話せるほどの入れ込みようではなかったのです。
貶(おとし)めていたわけではないのです。ただ全集を嘗めるように読みたいとは考えなかった。鴎外でも露伴でも、大変な敬意と愛情を持っていますが、何
もかもじゃない、選んで、読んできましたからね。
何故だったろう、という、告白をしなくちゃいけませんね。強いて挙げれば、理由が二つほど言えるかも知れません。二つではない、同じ一つであるのかも知
れません、が。
そこへ戻って行くべく、意図的に少しまた、脱線しますけれど。最近、ある人と電子メールで、或るやりとりをしました。その人は、一度も顔を見たことのな
い、関東平野の北の方に暮らしている若い女性のようです、小説を書く志のある人です。
先ほども申しましたが、日本ペンクラブに、「電子文藝館」ディジタル・ライブラリーを創設しまして、島崎藤村初代会長から、以降、白鳥、直哉、川端康
成、芹澤光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀樹、そして第十三代の現梅原猛会長(次いで井上ひさし会長)に至る、物
故会員、現会員合わせて約二千数百人の文藝著作を、一人一作ずつ、作者紹介を添えて国内外に「無料公開」して行きつつあります。
こういうことが可能だと、私が見越して、企画し実現できましたのには、事前に、一つの実験をしておりました。
私は、自分自身のホームページを持っていまして、すでに、二万枚(現在四万枚)を優に越すコンテンツを、多くのジャンルで書き込んでいます。写真など入
れない、とことん「文字」による文藝文学のサイトなんですが、ペンクラブの電子文藝館開館のちょうど一年前から、更にこのホームページの中に、入れ子構造
で略称「e-文藝館・湖umi」という文学サロンを創設し、厳選した招待作品多数のほか、私の責任編輯で全ジャンルの作品を蒐集し募集しはじめたことは、
先ほどもちょっと申し上げました。
文豪の作品も頂戴していますし、高校生や九十のおばあさんの小説も、科学者の随筆も、プロの歌人俳人詩人の作品も、満載しています。原稿料は払わず払え
ず、掲載料はもらわず、読者への課金も一切していません。新世紀へむけて、ディジタルな文藝登場のための、まともな「場」を用意することが、とても大事だ
と思いました。水準の高さを設定すべく、懇意な文士文人の作品も戴いて、あくまで、私がよしと思うものを責任を持って採るという、そういう「電子的な文学
サロン」なんですね。
で、さきほど申しましたメール交換した人、若い女性というのも、「e-文藝館・湖(umi)」への投稿者であったわけで、もう以前に、一作小説を掲載
し、二作目がまた届いたという時の話、まだ最近に属する話、でした。
投稿してきた人の第二作は、前作よりずっとよく落ち着いて書けていました。ですが、前作がストーリィに重きがあったとすれば、今度は、かなり心理的に書
いていた。心の内がたくさん書き込まれていまして、それなりの効果をあげていました、が、ふっと顧みて、これで読者は「面白い小説」と読むだろうかなあ、
と感じました。で、たまたま考えてきたことでもあり、こんな「感想」らしきものを、技術的な二三の助言に続けて、述懐風に、書いて送ったのでした。
川端康成と谷崎潤一郎とを読んでいますと、それぞれの特色が明白に分かれ、川端は、精緻に、せつないほど内心を表現し解釈し、一挙手一投足にも「心理的
な意味や背後」を透かし観せて、書きこみます。
谷崎は、具体的な人物の行為と事件との推移の中で、「筋=ストーリー」に多くを語らせます。心理の説明に重きは置かずに、これで「心理もちゃんと書けて
いるはず」という主張です。『春琴抄』での、彼のこういう言明は、特徴的によく知られていまして、その通りに、私も感じています。
川端作品では、「筋」の面白さのもつ比重は、さほどとは思われない。心理表現の犀利と精緻のなかに「もののあわれ」を感じさせて、大いに魅力に富みま
す。
谷崎は、おおらかに物語自体を掴みだしてきて、具体的で、心理表現に立ち止まる神経質は、殆ど持ち合わせず、かなりストレートに、面白い小説世界へ誘い
こみます。
あなたは(その投稿者のことですが、)自分の意欲が、どっち寄りであるかを、意識的に吟味したりしていますか。
もし川端寄りというなら、まだまだ川端康成の足元にも遙か及ばないのだから、つまり、たいして面白いダイナミックな小説にはなりにくいまま、心の内を、
むやみと解剖するような、そんな仕事ぶりが当分続くでしょう。
また、谷崎寄りに、物語を創り上げて面白くするには、何かしら大きな部分を、吹っ切るようにして断念しなければならず、さらには、多面的な勉強が、話嚢
の充実や話術が、必要になるでしょう…と、 ま、そんな風にメールを送りました。
そして数日して、念のためにもう一度、こう補足しました。
強いてどっちかに寄ろうという必要はないのです。小説の書かれ方には、そういう大きな違いのあることを、分かっていれば済むことです、と。
昔なら、谷崎と志賀直哉といった対比でよく語られました。その頃は、谷崎と川端は、むしろ、いつも一括りに感じられていました。三島由紀夫でさえも。
しかし、書き方となると、三人は、四人は、ずいぶんちがいます。
で、脱線していた話題を、もとへ戻してみますと、大まかな話、私には、「声」に出して読んでみたい作家・作品と、声に出して読みたいとは、感じない、そ
うは、仕難い作家・作品が有る、と、ごく自儘なことが、謂えば、言えるのです。
谷崎は朗読したくなり、川端文学はそういう気にならない。
むろんですが、これは、作品の「質」の高下とは無関係です。が、その「音楽性」の差に、質の違いに、どこかで微妙に触れているのだとは謂えるでしょう。
その際、それは、「私にとっては」という限定が是非必要なのかどうか、その辺、確言できるほどの吟味も追究もしていないのですから、それ以上は申しませ
ん。申しませんが、
かつて、潤一郎作『細雪』を、子ども達との食後に、少しずつ、全編朗読し通したことがあります。漱石の『こころ』も、そうすることで、家族での話題に採
り上げた。昔ですよ、まだ子ども達が小さい頃のことですが、藤村の『家』のような小説まで、そのようにして音読・朗読しました。
藤村などに比べたら、小説の興味からすれば、川端の『雪国』や『伊豆の踊子』の方が、うんと入りやすいのですが、これが朗読となると、すこし違う。川端
の方が入り難いんですね。
二つほど、その、理由らしきものを挙げてみますと。
一つには、文から文へのつなぎに、川端の文章は、思いの外急峻な切迫があり、足が早く、意識して、ゆっくりと息をつがぬ限り、黙読には適していても、朗読
には、少なからず間がもてないところがある、と、私は、実感しています。
谷崎の文章・文体には、創作の際に、口述筆記しても効果をあげられる本来の性質ないし利点がありまして、『夢の浮橋』のように、全編口述筆記されたもの
が、いかにも、物語によく膚接していて、佳い仕上がりを見せていましたし、谷崎自身もかなりな満足を表明していましたが、川端作品に、事実として口述の作
が有った無かったは知りませんけれども、『雪国』にしても、『山の音』にしましても、あれらは、口述では、到底創りきれないのではないでしょうか、息継ぎ
を、一つ、注目しましても、そう思います。
その点にも当然関わりますが、今一つの理由として、さっきの読者・投稿者とのメールに触れて居ますように、川端作品は、佳境に入れば入るほど、「雪国」
「山の音」、また『片腕』なんかでも、心理的な独白、自問したり自答したり、気持や内なる推移にたいする、解釈や斟酌が俄然多くなり、そういう表現が、櫛
の歯のように続き始めますと、これはもう、朗読ができるかどうかよりも、むしろ「黙読」にこそふさわしい、微妙な感情の「出入り」になって参ります。
外へ出る声音(こわね)は、ふうっと殺されまして、内面へ内面へ沈潜した言葉で、読者自身も、対応せざるを得なくなる。
妙な言い方をしますなら、谷崎の音楽は外へ向けて演奏されており、川端の音楽は、地下水のように沈潜して流れていて、「耳」に聞えるよりも、はるかに
「胸」に、よく申します琴線というヤツに、直に、触れてくる。読者に挑発し、読者に和して、自然と「声」を出させるような谷崎流でなく、読者の声を吸い込
んでしまって、自分の作品世界に、惹き入れてしまう、そういう川端文学の、いわば読者への声なく音もない誘惑が、それこそが、川端文学の「音楽性」の特色
かのように、内在し、また内面化されてあると、私は、そのように川端康成の小説を読んできました。読んできた、ようであります。
だから、川端文学を、私は、音読しないのです。できない。それをやると、作品の魅力を、我流に、汚したり傷つけたりするように感じるのです。
映画を多くは観ていません、が、吉永小百合の『伊豆の踊子』原節子の『山の音』また木暮実千代の『千羽鶴』も。川端映画で記憶にあるのはそんな程度です
が、それぞれ気持のいい、また印象的で、映画として佳い出来のものでした。
しかしながら、人物の「会話」だけを拾い出してみますと、まことに、どれも、普通の会話になっています。
原作では普通でないのかというと、意外なことですが、川端の会話は、概して普通の会話のようなんですね。川端康成は、それほど奇矯な言語を、作中人物達
に強要しているとは、私、感じません。
けれど、その普通の会話が、それぞれに、川端流の深部心理や深部意識というか、「内面」という名の「重り」をぶら下げていまして、作品を読んでいますと
きは、その重りと共に一見「普通の会話」を読んでいるわけですが、映画になると、映画の文法によってすべて映像化されてしまい、原作の会話は、只、利用さ
れている。容易なことでは、必ずしも「川端原作の効果」つまり「内面」や「深層」とは結びつかなくなり、ごく普通の会話っぽくなってしまっている。つまり
小説の「粗筋(あらすじ)」が映像化されているので、川端の独特な「深層音楽」が、あまり聞えて来ないんですね。すっかり敬遠されているか、それとも映像
に馴染まないモノに成っている、ようなんですね。
谷崎作品の映画化したものは、幾つも見ています。『細雪』は何度も。『春琴抄』も。また『蘆刈』の「お遊さん」や『鍵』『瘋癲老人日記』『痴人の愛』
『無明と愛染』『卍』『蓼食ふ虫』『猫と庄造と二人のをんな』その他、数々ありましたが、これらはもう、原作にそのまま寄り懸かっても、よし。思い切った
「解釈」を好き放題に加えても、よし。
もともと、外向きに、物語や小説世界があけすけに提供されていますので、かえって、いろんな「趣向」が加えられやすく、原作とは「別の趣」に創られて
も、創られなくても、とにかく一つの映画になりきり、人物も、なかなか奇抜に会話したりしているのですね。
川端原作映画は、それほど、原作から自由になりきれてなかった気がしています。
美しい絵にはなるけれど、川端文学の「音楽」が、絵では、映像という写真表現では、十分に汲み取れない。強い言い方を致しますと、川端文学の強固な意志
として、簡単にその「音楽」は、「映像で」なんか汲み取らさないぞという、そういう途方もなく強い言語性質をもっているのだと思います。
こんなところで、自分のことを喋るのはどうかと思いますが、私のようなものでも、小説を本にしますときに、何度か、担当編集者から、「もし映画化のハナ
シがありましたなら」云々というセリフを聴きました。わたしには、その方の欲望がないものですから、本気にもせず、何の対応も無論しませんでしたが、腹の
中では、いつも、自分は、小説を、音楽として書いているつもり。絵に、写真に、映画になんぞ、出来るものならやってみろ、という気持がありました。今でも
有ります。
そういう気持で居ますときは、「谷崎愛」の私も、文学的には「川端康成の音楽」に、心服し敬愛している自分に、かなり気がついていた筈です。
その点、谷崎は、日本の近代作家の中でも、最も早く最も深く、最も実践的に「映画」を愛した作家でした。映画製作者でもあったし、家族の中から女優を世
に出したり、家族中で映画出演したりしていたのです。
私も趣味として映画は大好きですが、こと文学に関しては、作品に映像性を強いて与えるよりも、はるかに「表現に於ける音楽」を、「内在する音楽」を、
「静かに深い音楽」を、求めてきました。
川端康成が美術骨董の、いわゆるコレクターではなくても、大変な愛好家であったこと。では、この点をどう見るか。美術骨董は、彼の文学と、どう関わる
か。その方面でも、若い研究者から、佳い報告があるようです。
こまかな論証は、私の任ではないので勘弁願いますが、率直な感想だけで申しますと、川端康成という人は、たとえば骨董の場合、手で、掌で、指で、触れな
がら、目は閉じて、骨董の奏でています「音楽」に聴き入っている、それが「鑑賞」というものだと思っていたのではないか、そんな気が私はしています。「視
覚」が行き届いて、まさしく「目利き」になるというのではなくて、むしろ「触覚」に導かれまして、対象への不思議な「聴覚」が研ぎ澄まされてゆく、そうい
う骨董愛好なのではなかったか、と。これッて、かなり本格なんですね。
もっと思い付きに近い推測を致しますと、あれほど内面描写や心理解剖に長けている川端康成ですが、はしなくも今、解剖という言葉を使いましたけれど、比
喩的に謂うと、川端という人は、「心を、あたかも体かのように」解剖してゆく、一種根源的な「からだ主義」者ではなかったろうかと、私には思われるので
す。
女に指を噛まれる『雪国』の島村がそうでありますように、川端康成は、舞踊好きの人でしたね。『舞踊会の夜』という小説もある、『舞踊靴』という小説も
有るから、そう言う、と謂うのではないのですが、『舞踊』という小説には、「女は舞踊によってのみ、美を創造することができる」という、川端風の持論を、
少しく実現してみせた趣もあり、いわば「体の音楽」に、かなり意識して触れています。
つまり、さように、深層の性意識とも絡みながら、文学創作の根底部に、変な言葉を自前で創って申しますと、触覚と謂うよりも、もっと大きい、鋭い、深い
「体覚」性の音楽が、言い換えれば「舞踊的な音楽」が、川端文学言語の「底」を支えているのではないか、という気がしてならないのです。
具体的に、これは、たぶん挙証し論証して行けるのではないかとすら思います。
『音楽奇譚』のような、ややこしい家庭劇も川端は書いていますけれど、そういう、じかに「音楽」という言葉に交わるよりも、『伊豆の踊子』『雪国』『山
の音』そして晩年の幾つかの作品から、それらの「文体の底」から湧いて出たような「体覚性の音楽表現」に、深く深く聴き入ってみることは、朗読するより
も、音読するよりも、遙かに遙かに、川端文学の味わい方として、「理」に、とは謂いませんが、作者の「意」にも「気」にも、「情理にも」よく適うもの、と
私は感じております。
この辺で、ストンと、終らせて戴きます。 (2002.2.13 草稿)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
わたくしの谷崎愛 ─いま、谷崎文学を本気で読むために─
「日本大学藝術学部文藝学科」特別講義 二○○七年五月十四日・六月四日 於・東京江古田校舎
「江古田文学」第65号 日大藝術学部江古田文学会 二○○七年七月三一日刊
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「いま、谷崎を読む」という課題は、いまの私に与えられても困るのです。いま私は「谷崎」を読んでいないし、いますぐ読もうともしていない。それでも…
と押して言われて私に可能なのは、「いま、又はいまから、本気で谷崎を読む人のために」話すことしかありません。
この場合、一般の読書人を相手に言うのではありません。文藝学を学んだり教えたり、そして多少なりと研究・批評的な視線を「文学」に対し必要としている
人たちに話すのです。しかもなお、少し皮肉っぽく推測するなら、私の言おうとすることは、存外一般に「愛読者」といわれる読書人のほうが、学者よりも素直
に聴いてくれそうな気が、しないでもない。ま、それは措くとしまして、何を私は言いたい、話したい、か。
約(つづ)めていえば、言葉少なで足ります。もう少し先で簡潔に、結論ふうにお話ししましょう。
断るまでもなく私は一人の小説家で、一人の読書人です。谷崎に関してですら、学者でも研究者でもありません。しかし、こと「谷崎潤一郎」にかぎって言え
ば「特別の関係」にある「愛読者」と言っていい。私は、心行くまで谷崎について「書きたい」がため、そのために「先ず小説家になりたい」と志した男なんで
す。
書いて垂れ流すHPもブログもない時代でした。
無名の青年が世に埋もれたまま谷崎文学をどう語ってみても、読んでもらう術がない。佐藤春夫は別格としても、私は、尊敬する文学批評家伊藤整の優れた谷崎
論を頭に置いていました。佐藤のをはじめたくさんな谷崎論に接してきましたが、私は不満でした。抜けている落ちている大事なポイントが有る、こんなに有る
有ると思っていたんです。なんとしても小説家になって、好きな谷崎潤一郎を思うまま心ゆくまま「書き」たいと思った。こういう人をよそで聞いたことがな
い。その成行き、多少、人さまの参考になるかもしれません。
私は、ウソでなく一時谷崎先生の隠し子ではないかと「噂」されていました。噂の震源は、私が『神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』を
書き下ろし出版した際に「本の帯」でいい推薦文を下さった水上勉さんでした、ご本人からも笑い話に私は聴きました。
谷崎が松子夫人と祝言を挙げられたのは昭和十年、私はその年の師走に生まれています。有りがたいことに、なんだかツロク(相応)しています、が、むろん
残念無念事実ではない。谷崎と松子さんとの出逢いは昭和二年、お二人は多くのエッセイで深い関わりを昭和七年『蘆刈』のころに調整しておられるけれど、親
密なかかわりは遙かにもっと早かった。
傍証・心証は豊富です。
いま謂う『神と玩具との間』は、念願かなって初めて書き下ろした「谷崎潤一郎論」(筑摩書房『花と風』巻頭所収)が評価され、当時谷崎伝記の第一人者
だった野村尚吾さんが、あちこちで「新生面ひらく谷崎論」ともてはやして下さり、あげく遺言のように、ある人から預かってられた貴重な谷崎資料を、私に託
して亡くなりました。
貴重な谷崎資料とは、こんなものでした、昭和初年の谷崎家がひときわ親しくまた便利にも付き合っていた妹尾徤太郎・君子夫妻がありました。夫妻ともおよ
そ『卍』の頃から『細雪』にまで、いろんな登場人物に姿形を変え痕跡をとどめているとみていい、ことに『武州公秘話』では隠微な役回りを武州公のために演
じています。谷崎が、いいえ谷崎家の全員、千代さん、丁未子(とみこ)さん、松子さん三人の奥さんたちも、弟終平さんも、さらに佐藤春夫夫妻や鮎子さん
も、みなみな挙(こぞ)って信愛し重宝していた、いっそ家の「執事」っぽい位置にいた夫妻でした、ことに谷崎は妹尾夫人君子さんがかなり気に入っていたの
です。
この夫妻に宛てて、上の全員が書きに書いた「私信」が山ほどあって、すべて野村尚吾さんに託されていた。それが私の手元へまた託されてきた。それらがど
う活きて一冊の本に書下ろされたかは、刊行本(現在は、湖の本エッセイEFG)でご覧下さい。本の帯は、先に話しましたように水上勉さんが書居て下さいま
した。
秦さんは「谷崎愛」と自らいわれるほどの敬愛の誠心をこめて、ぼくらがこれまでもやもや感じとってきた谷崎の三人の妻との交渉を、未発表書簡その他資料
を得て丹念にさぐり、当時の代表作「蓼喰ふ蟲」「春琴抄」等とのかかわりを作品行間に追跡して、神と玩具との間を求めた谷崎の女性遍歴の実像を彫りあてて
いる。ここを通らなくては一語も語れない場所に立ってその眼識は深く確かである。前人未踏のもう一つの照射がここにある。出色の労著に敬服するばかりだ。
水上 勉
「谷崎愛」という三字があらわれますね。私にとって「谷崎愛」とはどういうことを意味していたか。それをお話しすれば、つまり私に課された問いに、自ず
と答えることになりましょう。それもまた約めていえば、言葉少なで足りるのです。もう少し先で簡潔に、結論ふうにお話し出来るでしょう。
ここで、私あての一通の手紙、長い美しい巻紙の手紙をご覧に入れましょう、あの『細雪』のヒロイン幸子が、モデルの松子夫人が、下さったお手紙です。
夫君に先立たれた谷崎夫人松子さんが、私の筑摩からの処女小説集『秘色(ひそく)』を手にされて、とりわけ『蝶の皿』を読まれて下さった巻紙…。書かれ
た内容のことはすべて措きましょう、この長い長い長い(数メートルある)巻紙の華奢に美しいこと、書かれた文字や言葉の優美に典雅なこと、一目で、お分か
りでしょう。ここに、明らかに「谷崎世界」の大きな豊かな一面があらわれています。松子さんは亡くなるまでに、これと同じ、豪華な華奢な巻紙のお手紙を三
十通ちかく私に下さった。あの方には、しかし、それはただ日常の自然でした。
いま「谷崎世界」という言葉を簡単に用いました。至りついた藝術家にはまぎれないその人の世界があります。同時にその世界は単純で淡泊な一色で描かれて
いない。それをよく弁えて「世界」という言葉は使われねば間違ってしまいます。お見せした松子夫人による巻紙に毛筆の手紙も、まちがいなく谷崎世界が憧れ
て取り込んだ大きな一つでした。
私はいまも「谷崎愛」を抱いているか。あたりまえです、私にとって谷崎はいつもひたすら懐かしく、少年の昔と変わりなく「谷崎愛」をひしと抱きしめてい
ます。ですから、さっさと言ってしまいましょう、私の「谷崎愛」って何なのか。
その意味は簡単です、「谷崎愛」に私は育てられた、嬉しかった、有りがたかったということ。感謝は「私」に充満し、その愛のちからで私は「いま、」他
の、他の人の、たくさんの本を楽しんで楽しんで愛読しているのです。この述懐は、しかし、説明を加えないとみなさんには所詮実感に成らないでしょう。
で、もう少し聴いて下さい。
みなさんは論文を書かれる。評論もされる。いずれそれを仕事にされるかも知れない。論文と評論のちがいは、難しくいえばいろいろに言える。それはみなト
バしまして、文系の場合、私はこう考えています。即ち、
優れた論文は「正しくて面白い」と。
優れた評論は「面白くて正しい」と。
そして作家論も作品論も、その作家と作品とを未曾有に豊かに太らせるものでありたい、と。批判のための批判だけなら書かない方がマシ。また重箱の隅をつ
ついて爪楊枝の先をねぶって独り満足しているような議論だけでは、しょせん或る「閾値(いきち)」は越えられない。
今、谷崎を読む。
ナミの受け取り方なら、細雪を、鍵を、瘋癲老人日記を、刺青を、少年を、戯曲を、推理小説を、アヴェ・マリアを、痴人の愛を、卍を、蘆刈を、春琴抄を、
藝談を、陰翳礼讃を、猫と庄造と二人のをんなを、谷崎潤一郎家集を、等々どう読むかという「作品論」が先ず念頭に来ます。
それにしても今此の教室にいる学生諸君は、「谷崎」作品をどれほど読んでいるのだろう。
機会があったら、これから読みます…それでも構わないんです、但しそれなら、まだ読んでない作品をどう他人に論じられても理解しにくいはずです。他人の
すでに書いた作品論を識ってみるのもいいんです、論文を読むのもわるくはない、差し支えない、が、だれしもにとって、いずれ自分自身の「読み」が大事にな
る。自分はどう、どこまで読めるのか……。本当の問題は、そこに、すでに生まれているのです。
「今、本気で谷崎を読む」なら、「何が」本当に必要か。作品論より作家論か。いやそれでも時に余計な先入主を植え付けられてしまう。
それなら、いっそわたしは奨めたい。作家の「年譜」を熟読なさるように奨めたい。良く書かれた「年譜」は、つまり「最高の研究成果」と謂える。正確で詳
細なりっぱな年譜が書けるということは、その作家に関する研究が極に近づいている証拠でもある。なかなか優れた年譜はないものですが、概略を書いたもので
も正確でさえあれば役に立ち、また作家への興味を増すことが多い。私生活にも家族や縁戚関係、また交友・交際にも触れた年譜は、じつに貴重です。
私は大学院を振り捨て故郷を振り捨て東京へ出てきまして、卓袱台(ちゃぶだい)もカーテンも買えない妻との貧乏生活のさなか、折しも刊行されはじめた講
談社版「日本現代文学全集」百何巻かを一冊一冊買って行きました。作家の名の出たその箱・箱の背文字を眺め、そして各巻の年譜をみな繰り返し熟読して、作
家が生きた「近代文学史」を身につけてゆきました。
余談ですが、その年譜読みがなければ、いままで「ペン電子文藝館」の責任者・館長として、幕末の黙阿弥からはじまる、事実上湮滅作家も含む、何百人もの
作者・筆者と作品の「略紹介」を問題なく全て書くということはとても出来なかったでしょう。簡単なことじゃなんいんです、これは。
実を言うとその「企画」は編集役の私に気が失せて途中で流してしまったのですが、『谷崎潤一郎と五人の作家』という本が計画されたことがあります。錚々
たる当時の若手、今では東大、早大はじめみな有名教授になっている人たちに書いて貰うことで相談が出来ていました。「谷崎と泉鏡花」とか「谷崎と佐藤春
夫」とか「谷崎と志賀直哉」とか、ま、ぬきさしならない五人の作家と谷崎とを突き合わせた文学的検証と論考をという企画でした。
私がそれを企画した意図は、谷崎を谷崎だけで読んでいてそれで済む、足りているとはいえない、たとえ目先の仕事で必要でなくても、脳裏にそういう蓄えで
の相対化が出来ていないと、論じたり語ったりの視野狭窄は免れ得ないということです。当たり前の話ですが、見渡していると、重箱の隅をつついてその爪楊枝
のさきを舐っているような「研究」ばかり、ま、余儀なくそういうことになりかねない。学者ならしようがない、研究者ならしようがない、と言われるなら承伏
しますが、つまりそこが私自身を「学者や研究者に」催すよりも、先ず「小説家」にし、結果「谷崎論者」にもし向けた一の「姿勢」というものでした。
一時「作家の谷崎論」といって、何人もの作家が、盛んに谷崎潤一郎を論じ、その新鮮な論旨は谷崎研究史に一時代を画したことはよく知られていますが、そ
ういう人たちは、爪楊枝で重箱の隅をせせらずに済むある種の「気まま」な足場を、作家として得ていたのだと謂えましょう。思うまま、心ゆくままに谷崎につ
いて語りたい書きたい、そのために先ず小説家になりたいという希望は、私にとって少しも不純な動機ではありませんでした。いわばそれが「谷崎愛」でした。
どれが…。もう結論へかけこんでいい頃合いです、が、もう少し話します。
みなさんに問うてみますが、みなさんはそれぞれ「読書人」として「いい作者」「いい作品」に出逢いたいでしょうね。ところで、あながたにとって「いい作
者」「いい作品」とはどういうものでしょう。作品はちょっとワキへ置きますが「いい作者」はと自身に自問し自答するのは、そう容易い批評ではありません。
私もまた常に「いい作者」「いい作品」に出逢いたかった。
しかし、今は作者として世渡りをしています。したがって、作者からいえば、いつも「いい読者」と出逢いたい。
私にとって「いい読者」って何でしたろう。
ナボコフという世界的な大作者が、的確にこれを語ってくれています。ナボコフは、自分の求める「いい読者」には、次の四つの力が備わっていて欲しいと言
います。
一つは「想像力」のある読者、二つには「記憶力」のいい読者、三つ目には「辞書」をひくのを億劫がらない読者、最後に、ほんの少しでもいいから「創作的・
藝術的なセンス」をもって自分の作品に向き合ってくれる読者。
これに此の私自身がも一つ加えるなら、本当の読書とは、二度目を読むときから始まると分かってくれている読者が、望ましい「いい読者」です。旅も読書
も、一度目はドアをあけただけです。二度目にやっと中をみまわす、そこから全ては始まるのです。長編はもとより短編ですらそうです。どんな旅行先でも同じ
ことです。
「繰り返し」読む・読ませる。お互い様「いい読者」と「いい作者」の資格はそこにある。想像力を刺激し、記憶のすべてに働きかけ、新鮮な詞藻と表現に富
み、さながら自身も創作に参加しているような感激を与え、人生の糧として何度でも繰り返し読みたい・読ませてくれる作品と作者。当然「いい創作者」とはそ
ういうものではありませんか。そうでない、一度読んだらそれまでという読物は、所詮ヒマつぶしの娯楽を出ません。
その意味で谷崎潤一郎は私には真実「いい作者」でした。
そして私がそんな谷崎にそそいだ「谷崎愛」とは、つまりこういう意味を持っていた、谷崎潤一郎の文学のために最高に「いい読者」で自分はありたい。「谷
崎愛」の三字は、その実意その覚悟であったと申したい。
谷崎ほどの文豪の読者にふさわしい、いわば海面下の氷山ほどの蓄えをもち、航海でいえば十分な船の底荷を積んで、「いい作者」の「いい読者」たるにふさ
わしい用意を常に怠るまい、と。
いま「谷崎を読む」とは、「読む」が可能な無心の勉強が大事と謂うことであり、細雪を読むべきだ、瘋癲老人日記を読むべきだ、初期作品だ、戯曲だ、随筆
だといったことを私はみなさんに言うのではない。
ファスト・フードを口に頬張るようには谷崎は味わえない。谷崎にふさわしい谷崎をよりよく読むための姿勢と用意、繰り返して言いますが氷山の海面下ほど
の「蓄え」「体験と思索」をもたずに、容易く「読む」「読む」などと言っててはとうてい「良い読書」は始まらない。「良い谷崎学」も始まらない。現に、ま
だまだ谷崎学の現状はかなり貧しいのです。ファスト・フードの「一丁上がり」のような文学研究は研究の名にあまり値しない。谷崎でも、鴎外でも、藤村で
も、漱石でも、鏡花でも、秋声でも、直哉でも、川端でも、三島でも、太宰でも、大江健三郎でも。全く同じです。
谷崎潤一郎は、自身、こんなふうに述懐したことがあります。
もし自分が茶の「利休」を書くとすれば、その前に、何年かは茶の湯に親しみ、自分でもよく習い慣れて、ものが分かってからしか手がつかない、手をつけな
いと。谷崎は千利休を結局書きませんでした、が、この述懐は谷崎の姿勢や手法をたしかに言い得ています。谷崎は出たとこ勝負では、少なくも心構えからし
て、書こうとしなかった作家でした。
まこと、それならば、彼の小説や文藝に我々が接するのに、ファスト・フードをインスタントに一丁上がりと読み飛ばして済むわけがない。作者が心がけたと
ころを、読者もよく心がけて然るべきでしょう。
利休の話が出ました。
利休を書いた作家には野上弥生子や井上靖らがある。その井上さんと、新宿から銀座まで車に同乗したことがあります、ちょうど『本覚坊遺文』が予告されて
いた頃でした。私はそれで尋ねたのです、「千利休がお茶を点てるとき、どんな座り方をしていたとお考えですか」と。言下に「それは正座でしょう」と井上さ
んは言われた。事実、この作品はその後に二人の監督の手で映画化されまして、両方ともに利休も誰もかも正座してお茶をたてていました。
ところが「日本人なら正座」というのはただの思いこみで、元禄の頃以前に日本の老若男女、また仏像にも神像にも正座例は、図像にも彫像にもきわめて稀、
罪人のように極度の服従、または極く稀に本尊の脇侍に見られる極度の謙譲の例以外に見あたらない。利休在世時の彼の図像彫像はみな正座していない。しかし
元禄期に描かれている利休孫の宗旦には正座図像が遺っています。光琳描く元禄期の国宝の中村内蔵助像もはっきり正座しています。
これ以上深入りしませんが、谷崎潤一郎を「読む」ということは、こういうところまで読者にも用意があっていい。
谷崎は、昭和八年の『藝談』が示すように、新しいものへものへという創作態度でない、繰返しの一度一度に一期の実意を傾注するという「一期一会の藝術
観」をことに昭和期に確立していった。その辺の彼のフィロソフィーを知らずに志賀直哉や徳田秋声を論ずるのと同じ「日本語」「日本文化」理解で谷崎を解析
しても、誤解をひろげるだけに終わりかねません。もし『春琴抄』なら春琴抄を読むとしても、作品に書かれている時代や土地の生活様式や習慣をのみこんでい
なければならない。わざわざ台所で湯を沸かしてこなくても、寒い季節なら春琴が寝ている枕元に、常に火鉢の埋み火と鉄瓶ようの備えがされていたのは、火の
用心や煖房の慣習からも当然です。盲目といえども慣れた自室で春琴がそれを手にするのは容易でした。
「谷崎を読む」限りは、谷崎にふさわしい勉強を続けて繰り返し繰り返し読んでゆくのだと、私は、関連の世界を広げました。それがまた、谷崎に就いて「心ゆ
くまで好きに書ける」ように成る、人にも「読んでもらえる」ように成る、進むに値する道だと思っていました。そのためにこそ「先ず小説家に成りたい、成ろ
う」という決意を肥やす、確実な道程とも、豊富な糧とも、そういった勉強が私を導き引っ張ってくれました。
私の「谷崎愛」とは、端的に、そういう決意と実現への原動力であったと申せば、もうお話しすべきは尽きています。
一言で尽くせば、谷崎を「読む」のに、目先の作品だけで「読み込める」と思うのは、とんだ錯覚だということです。
そしてそれは谷崎に限らない、優れた作家の作品であればあるほど、みな同じです。
一編の書下ろし論考一冊を書くのに、関連の論文や批評を百や百五十編は当たり前に読みます、私は。それを頭に入ってこなれた栄養にして書下ろしますが、
「小説」を書くのにはそんなことではまだ足りないのです。時代と生活と人間を、よほど日頃から丁寧に多方面に好奇心と関心をもって「船の底荷」に積み込ん
でおかないと、安定した航海は出来ない、佳い物は書けるものでない、と、少なくも谷崎潤一郎は考えていた人です。
私もそれを学びました。
そうして「愛読者から批評家へ、小説家へ」と着々と歩んでゆきました。結果的にわたしは「本望をみな遂げた」うえで、自分の仕事も数多く、本にして百何
十冊も積んできました。蔵は建ちませんが、仕事は心ゆくまでさせてもらえました。
最期に一つ具体的な譬えで、示唆を言い置きましょう。
作品『細雪』に名高い平安神宮の花見の場面があり、その表現の是非については多くの議論がありました。議論には、しかし、此処では触れません。
みなさんに、一つの示唆として、その「花見」がどれほどの「用意」あって為され成されていたか、其処をよく読み取って欲しいのです。前日には御室の花を
愛で、また祇園踊りを愛で、瓢亭の料理を味わい……、それはただの贅沢というよりも、それだけの用意をしてやっとあの豪華な花の美しさに向かう彼ら作中人
物たちの気持ちに、バランスがとれたのです。もっといえば、「用意」は、去年の花見から今年の花見までの間、その一度の繰り返しのために、周到にしかも無
意識のうちに為され続けていたのでした。それほどの「花」だ、大切な「花見」だというのです。
私に言わせれば、それほどの「谷崎潤一郎」なのです。それにふさわしく常に「用意」して渾身の愛で「読みたい」というのです。そのためにわたしは勉強し
たし、そのために小説家に成ったのです。「谷崎愛」です。
日本は四季の繰り返す国です。「繰り返し」の一度一度が、珍しくて新しいと、そう世阿弥は見極めていました。谷崎も見極めていた。「一期一会」の覚悟、
それは一生に一度しかない機会の意味ではない、無限におなじモノ、コトを繰り返しても、その一度一度が「生涯一度かのようであれ」という覚悟です。思想で
す。日本に固有の思想がありうるなら、これが日本の思想だと、谷崎潤一郎は信じていましたし、わたしも信じているのです。
私の「谷崎愛」とは、私の「一期一会」とは、これなのです。
「いま、谷崎を本気で読む」なら「谷崎愛」を以て読まれたいと、それが皆さんに向かって私の申し上げられる全部です。
教室では、二回三時間かけて、もっともっと沢山の「私事」を遠慮なく話しましたが、伝えたかった真意はこの稿に尽きています。余分はすべて割愛しまし
た。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
お静かに ─漱石そして日本人の久しく美しき自覚─
「日本人の美意識」講演会 二○○二年二月八日 於・東京・ワタリウム美術館
ーーーーーーーーーーーーーーーー
与えられている課題(日本人の美の思想)は、申すまでもなく、小さいモノではありません、むしろ、大きすぎる問題です。だから、容易でないのは当たり前
です、が、だから、いろんな話しようがあるとも申せます。易きにつくというのではないが、思いつくまま話してまいります。
自分から言うてみることですが、「さわがし」に対する「しづか=静・閑」、「きたなし」に対する「きよし」に小さい頃より喜びを覚えてきました。「禅
寂」といったことも念頭に、静と清への思慕から、日本の美の思想に向かえればと思います。旨い具合にそんなところへ辿り着けるものかどうか。半端なところ
はおゆるしを願います。
かなり若く、まだ小学生のうちから、裏千家の茶の湯になじんでおりました。叔母が町屋での師匠をしておりまして、ま、かなり気の入った門前小僧でした。
叔母は、遠州流のお花の先生もしておりました。生け花は、とくに、優れた技倆をもっていました。
町屋での稽古場ですから、社中といえば、近在のおばさんや娘さんが大方です、叔母は、お茶の稽古場でも、佗びの寂びのと、難しい理屈はほとんど言いませ
んでした。和敬清寂とも、口になどしません。ま、その是非はともかく、今謂う、この「和敬清寂」という、いわば茶の湯の看板のような標語ですが。
和も敬も、また寂も宜しいとして、三字めの「せい」を「静か」と書く人もいます。利休の七則でしたか、それは「清い」の方でして、「静かな」静と寂で
は、意義がやや重なります。一文字ずつに意義を帯びさせるのなら、清い方が、当然よいと、私も感じてきました。
しかしまた、清いと静かとも、同じ「せい」で、日本語の語感では、親密な親類のような文字であり言葉です。静かなものは清く、清いものは静かである。そ
う、感じてきた歴史が、ある、と言いきっていいのではないか。同時に、それらはまた、日本人の美の趣味から申しまして、美しさの基本の性質のように受け取
られてきた。清らで静かなものが美しいのだ、と。美しいものは、静かで清らである、と。
そして逆に、騒がしく濁ったものは、醜く、悪しきものであるという、裏側の価値判断も、これまた自然に了承されていたと思われます。
その例証をたくさん拾い上げてみる必要すらないぐらい、それは、美の感受・享受の根底に敷かれたコモンセンスのようであった、少なくも、時代を遠く遡れ
ば溯るほどそうであった、と言えましょうか。山や水の自然から、深く受け入れてきた好みとも、そこから形成された古神道的な感化による美意識とも推察し
て、大過ないものと思われます。
また叔母の話をしますが、叔母が生け花を教えるときに、花器を挟んで弟子と向き合う場所から、というのは、つまり活けられる花の、真裏側から、自分は手
を出して、弟子の活けぶりを、ちゃっちゃと手直ししていました。これはたいへんなことなんですね、しかも、ぴしっとサマを成してゆくのです。そういう腕前
でした叔母が、生け花でも茶の湯でも、殆ど唯一、口にした批評語は、「騒がしい」のはあきませんえという、それだけでした。言外に「静かであれ」と言うて
いたわけでしょうが、そうは口にはしませんでした。ただただ「騒がしい」のはいけない、よくありません、と。
ところで、別の生活場面では、叔母に限らず、身の回りにいました京都の大人達は、なにかの挨拶の際に、よく「お静かに」と申しました。たとえば父や私な
どが、外出すべく、「行ってきます」と言うと、打ち返すように、「お静かに」と、母も叔母も申しました。来客が、帰って行く際にも、そう言っていました。
なにごとも起きないで、平らかにという、呪祝の言葉かと私は聞き覚えて育ちましたが、さて、自分では、どういう実感で同じ「お静かに」と言ったかどうか、
はきとしないのですけれど。
しかし、「騒がしい」のはよくない、「静か」なのがよい、静かであるとき、人は、ある「清まはり」の祝福を受けるのだという、ほとんど無言の教えを、霧の
降り積むように、身内に蓄えてきたには間違い有りません。その体験が、およその根拠となり、体内に落ち着いてしまっていると、言えば、多少は言い過ぎかも
知れませんけれども。その辺までを前置きにして、ぐるりと一巡りして、またそこへ、うまく話が戻せますかどうか。いま少し、茶の湯の縁で話して参ります。
「一期一会」という、日本の思想としてはかなり個性味のつよい思想があります。日本の思想は、大概が、背後に外来思想を持っていまして、その換骨であっ
たり、奪胎であったりが多いのですが、換骨奪胎という応用性の濃い中で、日本固有の面持ちをもった一つが、「一期一会」であろうと思います。
一期一会は、もう先年来、コマーシャルの言葉にすら現われるほどですが、語義は、たいてい誤って通用しています。私はそう観ています。つまり、文字通
り、一生涯に一度っきりのことと理解されています。「会」の字が、いわば出逢いの意味に受け取られています、が、本来の意義から、これは、大いに逸れてい
ます。違うゃないかと、私は、早くっから「異論」を唱え続けてきましたが、根づよく、まだ、誤解のまま通用しています。
驚くことに、浩瀚をもって知られた『大辭典』(昭和十年・平凡社)に「一期一会」という語は出ておりません。世上に流布し始めたのも、そう古いことでは
ない。
言葉としては、幕末の井伊直弼『茶湯一会(ちゃのゆいちえ)集』に謂うのが、最も今日でもよく知られていますが、利休の高弟で、秀吉に惨殺された山上宗
二が、どんな茶の湯も「一期ニ一度ノ会(え)ノヤウニ」と書いていたのが、たぶん初例でしょうか、『山上宗二記』の茶湯者覚悟十体の一条に、「道具開キ、
亦ハ口切ハ云フニ及バズ、常ノ茶湯ナリトモ、路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、亭主ヲ敬ヒ畏ルベシ」とあります。もっとも、この言い方
は、更に先行して、千利休の師の一人でありました、室町末から安土時代の茶人、武野紹鴎の『紹鴎遺文』中「又十体之事」にあるのと同文の、いわば祖述で
あったようです。はっきり「一期一会」と用いたのは、伊井直弼の『茶湯一会集』が、やはり最初らしい。和敬清寂などにくらべても、そうそう世に出て知られ
た言葉ではなかったわけですね。
この言葉の理解のために興味深いのは、今謂う武野紹鴎の言葉として、「一期一碗」という物言いも、また伝えられています。
紹鴎によれば、茶人は生涯に何百千度も茶を点てたり喫んだりしますが、その一碗一碗を、一期に一度の一碗「かのように」せよ、という言明であったろうと
思います。宗二も、直弼も、全く同じ趣旨を、表向き「茶会」という「会」に寄せて、謂うているわけで、井伊直弼はこのように書いています。
「抑(そもそも)、茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへば幾度同じ主客交会するとも、今日の会に再びかへらざる事を思へば、実に我一生一度の会(え)
也。さるにより主人は万事に心を配り、いささかも麁末(そまつ)なきやう深切実意を尽し、客も此会に又逢ひがたき事を弁(わきま)へ、亭主の趣向何一つも
おろかならぬを感心し、実意を以て交るべき也。是を一期一会といふ」と。
ですが、そこで上澄みを浅く掬って理解を停止してしまうワケには行かない。こういうことです。
一期は、一生のことでよいが、その一生に只一回きりの一度一会だとは、宗二も、直弼も、決して言っていないんですね。ちゃんと「ノヤウニ」と言ってい
る。
われわれの日常は、日本の四季自然が、うるわしくも、年々歳々繰り返しているのと同じく、いわば際限のない「繰り返し」を生活しています。そう枠づけら
れて生きています。清水(きよみづ)の舞台から飛び下りるようなことは、めったに有るものでなく、また、それは思い切り次第で、一度だけなら可能なこと、
不可能ではないこと、なんですね。
しかし、普通は平々凡々の繰り返しを生きている。退屈し、陳腐に凡庸になるのも無理ない日々を、繰り返し返し生きている。昔は、今よりも、もっとそれが
はっきりした生活の下絵になっていました。
茶人とて、たいていは、そんな具合に、繰り返し何百千碗ものお茶をたて、それでよしとしているのなら、その茶はさぞや不味(まず)いにちがいない…それ
ではいけないと、紹鴎先生は、「一期一碗」に気を入れて、茶はたて、茶はのむようにと教えられた。
山上宗二は「一期ニ一度ノヤウニ」茶の出会いは、常に、心清新にと覚悟していたし、井伊直弼も、深切に先達の教訓を、敷衍(ふえん)していたんです。も
し同じ場所で、同じ道具で、同じ顔ぶれで、また明日「一会」の茶湯を建立しようとも、単なる繰り返しでなく、あたかも「一期」に「一会」かのように清新に
出会おうと。繰り返しの一度一度を、一期一会、かのように、実現し、成就しようと。
茶の湯にかぎった話ではありません。どんなことも、所詮は「繰り返し」であることを免れようがない、日本の四季自然の暮らしでは、特に。その繰り返しの
一度一度を、あたかも「一生に一度、かのように」清新に繰り返せるか、と、われわれは、取り巻く自然の呼び声として、日々に、問われています。その自問が
「一期一会」であり、その自答も「一期一会」なのであって、一生に一度ッきりの機会、出会い、のことと限ってしまうのは、ほとんど誤解というのに等しいの
ですね。
繰り返すぐらい簡単なことはないようで、これほど難しいものは、ない。だらければ、たちまち足下に地獄が口をあく。文字どおり退屈する。
それにしても宗二(そうじ)も、直弼(なおすけ)も、一会(いちえ)の「会」を、茶会・機会・会合の「会」とばかり用いていたのでしょうか。これも、違
うのと違いますやろか。
一期一会の「会」と、あの祇園祭りの祇園会、あの「会」とは同じ意味でしょうか。社会の会は「しゃかい」ですが、法会の会は「ほうえ」だし、会得の会も
「えとく」です、が、会議の会は「かい」と読んでいます。出会いという「会」もある。
一期一会の「え」を、出会いや会議の「かい」のように、茶会という「かい」かのように、さも直弼は書いていますけれど、「一期一会」の背後には、それよ
りも、「一会一切会」という、頓悟・覚悟、の意義が隠れているのでは無かったでしょうか。『碧巌録』でしたか。この「会」は、端的に「会得」の「え」を意
味している。一事一会に徹すれば、他もまた、と。
私は思うのですが、必ずや紹鴎や宗二の示した「ノヤウニ」の四文字は、一期の「一会・一碗・一事・一度」のもつ意義を喝破した、まさに「一会一切会」
「一明一切明」の証語であったことでしょう。「一期一会」は、その、まさに、おみごとな換骨奪胎、転用であったとも言えるでしょう、それあればこそ、紹鴎
も、利休宗易も、山上宗二も参禅していた。
なるべく、野狐禅(やこぜん)に遁走しないように、話題を、自由に創ってゆきたいのですが、今も申しましたように「一期一会」には、日本の、
典型的に四季を繰り返す自然が下敷きになっています。かなり日本出来の思想として、深いモノを持っていて、なにも茶の湯だけのものではない。優れた茶の湯
人(ひと)には、それだけの懐があった、覚悟があった、そういうことです。
では、一期一会は、日本人の「美意識」にも触れているでしょうか。「繰り返し」「繰り返す」ことの負荷=マイナスを、そのままで逆転させる点だけ見まして
も、明らかに、優れた美意識への接点をもっています。
これまで何度も語ってきた古証文を請け出して見ますが、ご承知の謡曲、「鉢木」は、徳川時代、ことに武士達に好まれて、よく演じられた曲目です。なぜ好
まれたか。あれは、梅松桜の鉢木にちなんで、鎌倉より直々に領地を得た、佐野源左衛門常世のいわば出世物語ですから、当然でしょう。
しかし、あの能の感銘はもっと別のところに、実は、あるのではないか。大雪の夜に宿を借りた、貸した、貧しい佐野源左衛門は、何処の誰と知れぬ突然の旅
僧の寒さしのぎにと、他に馳走とてなく、秘蔵の梅松桜の鉢木を伐って、燃して、客僧に煖を与えます。その親切もいかにも感銘深い事ですが、さらに云えば、
この主人公ならば、この痩せ浪人源左衛門ならば、もし同じ場面が、同じように明日もう一度繰り返されても、明後日再現されても、可能な限りは全く同じに、
心して、大事の鉢木を、見知らぬ客のために火に投じるであろうと想わせる、その心事に、必然思い及ぶ、そのことにこそ深い感動を覚えるのではなかったで
しょうか、「鉢木」という能の真の魅力は。
「一期一会」とは、そういう覚悟、そういう実意の深さ、を意味しています。繰り返しをただの繰り返しにせず、幾たび繰り返そうとも、恰(あだか)も、一
生に一度のこと、「かのように」に、振る舞えるという意味でなければ、たいしたことではないんですね。一生に一度こっきりの思い切りや振る舞いでは、さし
たることとは云えない。
いかに深く心新たに繰り返せるか、それが感動の源になっている。それが、私の「一期一会」説です。根に、「繰り返し」という「日本」事情が、西欧的な伝
統では問題にされない、陳腐や退屈と同義語になりかねない「日本」事情があり、申すまでもなく、我が国土の四季自然がかかわっています。
井伊直弼や山上宗二とは、ほぼ無縁の人でありますが、しかも彼等と同じといえるほど、繰り返しの意義をよく悟っていた近代の人に、谷崎潤一郎のあるこ
と、昭和八年に彼の書きました「藝談」という論文のことは、それこそ、繰り返し、私は書いたり話したりして参りました。役者などの藝談ではありません、
が、「藝」という創造行為について語っておりまして、日本や東洋の美の理想は、新しいもの新しいものを追うのではない、一つの価値有ることを「繰り返し繰
り返し」追究するのだと云っています。くわしくはその「藝談」なり私の谷崎論(湖の本エッセイ33『谷崎潤一郎の文学』)なりをご参照願いますが、一つ申
せば、有名な彼の『細雪』のなかで、或る意味で同時代批評家たちの理解が得られなかった、というか、鼻白ませた、と云いましょうか、そういう二つの場面が
ありました。
一つは、蒔岡四姉妹の二女幸子と夫貞之助との新婚旅行で、夫に好きな花はと問われた新妻は、言下に「桜」と答え、では魚はと聞かれて、やはり即座に
「鯛」と答えたというところです。ま、なんと陳腐な、平凡なと、露骨に云うた人もいました。
も一つは、平安神宮の花見の場面です。豪華絢爛の絵巻だけれど、なんとまあと、ま、その辺で絶句した。そこで立ち止まって、その先までは踏み込まなかった
んですね、多くの批評家も、読者も。
花見の場面では、谷崎は、慎重に、蒔岡家の人達が、例年の行為を、例年同じ場所で、意識してでも繰り返す気持を、印象的、いいえ象徴的に、まさに一期一
会の事例として書き表しています。
そしてまた云うまでもなく、日本の桜も鯛も、文字通り、繰り返し繰り返してなお常に新鮮で良きもののシンボルとして、採り上げられていると読めるので
す。はんなり、はなやかであるが、騒がしくなく、清らなもの、人の思い・心を、静かな深みへ誘うものとして。
しかし、また、静かでないと見えるものごとでも、また美しく心に触れてくることを、日本人は見知ってきました。例えば、久方の、光のどけき春の日に、静
心なく花の散るのを、「美」と眺めることを知っていましたが、それとて、神代の天津神々が、地上を眺めて、ウルサイ蠅がぶんぶんと騒ぐように乱れ醜きもの
どもよといった感想とは、根本異なる、美への視線が生きています。
この辺で思い切って「心」の話へ話題の重心を動かしてゆきましょう。
心というのは、さ、どうでしょうか、根は、静かに清いものなんでしょうか。それとも騒がしく、乱れがちに、濁ったものなんでしょうか。
「動揺する」といえば、たとえば地震のような状態より、心理的な不安などを意味する用例の方が多いようです。「こころ」は揺れたり動いたり、また騒いだり
乱れたりする。
先に挙げました百人一首で知られた、久方の光のどけき春の日に「しづ心なく」花の散るらむ、とある「静心なく」とは、花の散りざまにそんな「こころ」の
ありようを重ねた表現ですね。「不動心」とも「平常心」ともよめる「静、心(しづ、こころ)」と、「動き・揺れ・騒ぎ・乱れる、心」とが、どっちも、同じ
「こころ」なんですね。
さらに、「こころ」は、浮きも沈みもする。浮かれも弾みもする。伸び縮みもすれば、湿りも乾きもする。はしゃぐこともあり、萎れることもある。それらが
みな「静心」を要(かなめ)に据えて、扇の骨がひらいたように布置・配置されている。「こころ」は、ある単一の平たい状態としてのみ、把握したり承知した
りは出来ないんで、ほぼ絶え間なく、定まらない視線に似て、揺れ動いているわけです。
が、その根というか要というか、元の状態として「静心」が失せているわけでも、ない。
座禅を組み、禅定といえるほどの境地にまで達すると、なにより脳波や、心電図が、文字どおり「静心」なる状態を、波形で、目に見せてくれます。座禅の効
能がいかがなものか、体験的には何も知りませんが、実験されたその真ツ最中の「静かな」直線を見たときは、感嘆しました。
同時に、こりゃ無理だ、こんな境地に、私などは、立ちも座りもなるものでないと観念した。我々風情にとって生きるとは、まこと、さまざまに「心を騒が
せ」「心乱れ」ていることに、他ならない。
「こころ」と「心臓」とを単純に同一視は、さすがに誰もしていない。しかも、動揺のあまり「心乱れ」「心騒ぐ」状態と、破れ鐘をつくように「心臓」が激
しく脈打つこととは、しばしば重なって、同時に起きる。一方で他方を代替しておくというわけには行っていない。
そして、面白いほど、同じように同じ程度に「心臓」の鼓動も「こころ」の動揺も、やがていつか静まっています。かならずしも、強い刺激に耐えられず衰え
弱まる一方、というのでもない。「こころ」は、あまりに定めなく、つまり静かなままでもいられないが、動揺したままでもいられない。そんな「こころ」の動
きに、われわれの「心臓」は、比較的忠実に伴奏を繰返しているようです。
日本人は「間(ま)」という言葉が好きであす。「間」に関する発言は、それぞれのジャンルで、独特に鍛練され洗練されていて、特異な藝道論や武道論の芯
になっている事例が多い。裏返しに言えば、ジャンルごとに、かなりほしいままな「間」の理屈ではありまして、普遍性のある日本の「間」の本質論といえるほ
どのものは、まだまだ、あまり見た覚えがないのも確かです。
時「間」空「間」という。時空を総合する「間(かん)」の微妙を、たとえば「静--心」から解いてみせることは出来ないもんでしょうか。「静心」を要点
ないし起点にした「こころ」の動揺、ないし活動のリズムとして、「間(ま)」を生理的に問うた議論が十分に行われていないのが、私にはやや物足りない。
文章の「間(ま)」は、例えば句読点の微妙な間隔から読みとることも可能ですが、それが文体形成にどうかかわるか、など、ただ書き表わされた文章からだ
け、現象的に判定するのでなく、書き手の「こころ」の弾みかた動きかた、強いて言い換えれば、「心臓」の働きの、強い弱い・早い遅い、過剰過少等からも検
証すべきだろうと思うんです。冗談でなく、脈拍にも、間伸び・間抜け・間違い、不整脈というのが、ある。
以前に、ある、勝れた臨床医にいわれたことがあります、あなたの文章は、えらく息が長い。つまりセンテンスが概してたいへん長い。よほど息をつめて長い
文章を書いているのだとしたら、健康である証拠でもあり、その一方、心臓や肺をいたわる用意も、必要だと思いますよ、と。
息に乱れがあって、長いセンテンスを維持するのは、確かに難しい。おそらく歌唱でも、音曲でも、朗読でも、書でも、そうだろうと思います。
視線の運びにも、それは、影響をおよぼすに相違なく、「ゆったり」眺めるのと「きょときょと」するのとでは、端的に、脈拍の「間」の在りようが関係して
いるでしょう。裏返せば、「こころ」が、静かか、騒がしいかが反映しているのでしょう。だが、座禅・禅定の人、のように、いつも「心静かに」いるというこ
とは、容易でない。静かに、静かにと思い、願い、焦る、それがはや「こころ」の波立ちなのであり、波は、容易に騒いでくる。荒れてくる。もう一度申します
が、私の幼時、といっても国民学校時代まで、日常に、しばしば「お静かに」という挨拶を耳にしました。だれかが騒ぐ、それへ、静かにしなさいととがめる言
葉では、しかし、なかったのです。
たとえばいま外出しようという折り、また客が立って帰ろうという折りなどに、「お静かに」と声を掛けたり掛けられたりしたのです。バタバタしないで。け
がをするよ……と注意する気もちがあったかも知れません。が、ちょっと様子はちがっていた。何としても、「お心、静かに」の気味に聞えていた。
話は、ポーンととびますが、あの、夏目漱石作『こころ』の「先生」は、つまり静かな「こころ」の持てぬ人でした。下宿の「お嬢さん」に恋をして、以来、
つねに「心を騒がせ」ていました。
ことに友人の「K」を死なせてからは、愛した人を「奥さん」にしながらも、いつも「心の落着かない」人でした。まさしく、自分で自分の「こころ」を御
(ぎょ)しかねた。
そんな『こころ』という作品のなかで、作者は、「お嬢さん=奥さん」に限って、ひとり「静(しづ)」さんという特定の名前を付けています。他は「先生」
「K」「私」「父」「母」という按配です。
愛する「静」ゆえに痛ましくも「静心(しづこころ)」のもてなかった男の、悲劇。その悲劇を綴った本を、この作者は、みずから念入りに装丁しまして、表
紙に窓を開け、荀子の「心」の説を、抜粋していました。
古来、老子の「道」や荀子の「心」の説の重要なキイ・ワードが、実に「静」一字にあることは、原典に当って確かめることが出来ましょう。
当たり前の話ですが、禅=ディアーナは、即ち寂静=静かな意義を体しています。藤原定家のたしか法名が、寂静ではないが、たしか明静じゃなかったでしょ
うか、同義ですね。彼は之を『摩訶止観』冒頭の二字に得ていた筈でして、定家も又、概して「静かな心」にはなりにくいたちの詩人でした。
日本の創作は、私の叔母なども含めまして、静かさを貴び、騒がしきを憎みました。「静か」「騒がしい」は、「清ら」「をかし」「おもしろし」などと匹敵
する、基本の批評語でした。しかもいわば「心術」に触れて、この批評は、直ちに容易に、人柄へも及びました。「静心なく」という詠嘆に、余儀ない、日々の
「悔い」が籠もるのは、凡庸の思いに「心根」のあまり揺らぎやすいのを、つくづく知らされているからでしょうか。
今少し、夏目漱石の「心の問題」に触れて参りたい。あらまし作品はご存じのことと思ってお話しいたしますが、「奥さん」「お嬢さん=静」の軍人遺族の家
へ、帝大の学生だった「先生」が下宿します。彼は両親に死なれ、遺産の大方を叔父一家にかすめとられたのを怒って、人間不信のあまり、家郷を捨てて来た学
生ですが、たまたま入った素人下宿の母子家庭になじんで、「お嬢さん」を好きになる。
そのまま婿入りしていれば何ごともなく済んだものを、やがて彼は、自分より貧しく、自分より不幸だと思うばかりに、親友の「K」を、自分の賄いで、同じ
下宿に連れて来ます。養い親からも、実の親たちからも、離縁され勘当されて、どう取り付き把(は)もない、頑なな「K」は、いつかやはり「お嬢さん」が好
きになり、事もあろうに「先生」に告白してしまいます。
「K」と「お嬢さん」の接近に、事実以上に神経を擦り減らしていた「先生」は、恋する「K」を、さながら出し抜き、「奥さん」に、「お嬢さん」を下さいと
申し込んで、承諾を得てしまいます。貯金利息の半ばを費し暮らして、なお経済に余裕のある「先生」と、貧寒たる「K」とでは、情の如何にかかわらず、優劣
は、分明だったでしょう。だが、青年の純情を問うなら、「先生」が「K」を裏切った事実は動かない。かくて「K」は自殺します、久しい「先生」の友情に、
ただ感謝の言葉を遺して。恋の詐術は、あるいは許されてもいいのかも知れません。しかし「先生」は自身を責め抜いて、「奥さん=静」との夫婦愛に生きる意
欲よりも、「K」に殉じたいほどの決意のみを深めて行く。
その頃から「先生」の家庭に、ふとした事情で帝大生の若い「私」が頻々と出入りするようになり、親しみが深まり、「先生」の「私」に対する信
頼がほぼ決定的になった頃から、「先生」は、はためにも暗い影をはらんだ不幸な過去を、「私」独りに語って聞かせてもいいと、思うようになる。聞いて欲し
い、分って欲しいとすら、思うようになります。
折しも「私」は、卒業して故郷に帰り、父もほどなく重い病いから危篤に陥って、重ねて「明治」という時代までも逝ってしまう。そして東京では、ついに
「先生」が、「奥さん」を独りのこして、宿執の自殺を遂げ、かねて就職の世話を希望していた「私」のもとへ長い遺書が届く。「私」は、遺書を見るなり、瀕
死の父と家郷を打ち捨てて東京へ奔るのですね。
「先生」は「明治」に殉じた。「奥さん」は「先生」に殉じてあとを追った、などという、それでは『こころ』という題の作品が意味を成さない読みが、妙に通
用していますが。「私」などは、ただ遺書を受取る必要だけで作品に登場しているとも、そういう人たちは言うのですが、名作を、台なしにしたいのか、と思い
ますね。「私」は、もっともっと重要な人物であります。
「先生」と「静」とは、所詮「幸福であるべき」実は不幸な一対の男女でした。最初に「K」の割り込むのは、辛うじて「先生」もしのぐ。ですが、あたかも一
人二役めいて、「K」を、ちょうど、やわらかに裏返した感じの「私」が、あらたに登場し、実に自然に、それ故に当然、深く意識下に沈んで、美しい「奥さ
ん」と若い「私」との間に信頼と愛とが育って行く…のを、「奥さん=静」の夫である「先生」は、認めざるをえなかったのです。
「K」をかつては追い落した「先生」も、今度は、「私」の存在に、却って静かな安心を得ながら、「奥さん=静」を、さながら預ける気持ちをも籠め、「私」
への遺書を書いたのですね。
この只一人実名の「静(しづ)」という名は、明治天皇に殉死した乃木大将の夫人静子に擬したなんぞというよりも、わざわざ自装本の表紙に刷り込んだ荀子
「心」論の中でも、殊に一眼目である、「静」の説に宛てたものと見たい。乃木夫人に擬して何の「こころ」の研究になりましょうか。
第一、「静さん」の、「先生」後追い死を暗示する字句など、微塵も作中に認められず、逆に、「私」と「奥さん」とが、出逢いの最初から、どんなに親し
く、心惹かれ合っていたかは、内証に事欠かないんです。結論として、問題作であり漱石代表作の一つである『こころ』の行く先は、生き残った、互いに年若い
前途ある二人の、死者にゆるされた「愛」の確認に、至らざるをえまい、と思われるのです。二人の間には、既に子供の誕生も、かすかに話題に、現実にすら
なっていると読めるのです。それはもうこの頃では、ほぼ定説のように認められつつあります。
我といふ人の心は我一人、我よりほかに知る人はなしと、谷崎潤一郎に、頑強な述懐の歌一首がありまして、だいたい、誰もがそう思っています。しかし、そ
んな、我と我が心が、我一人には自在にコントロール出来るかとなれば、とてもとても、どうにもなかなか成るものではない。
『心』の「先生」は、何とかして「静かな心」を持ちたいのに、それが出来ない、という深い惑いにとらわれて、死んでゆきます。静かな心を期待させる運命的
なシンボルのように「お嬢さん=奥さん」だけに漱石は「静」という名前を与えたんです。荀子、ないしもっと幅広く、漱石は老荘の教えに、また彼自身も参禅
していますように、「禅那」寂静に、明らかに間近な意識をもっていました。しかも、彼はその「門」の前に佇んだなり、引っ返すより他になかった体験、の、
持ち主でした。
少なくも、『門』や『彼岸過ぎ迄』や『行人』や『心』を書いていた時期の漱石は、「則天去私」なんて、とても不可能なほど重苦しく生きていた人です。そ
の漱石が、『心』初版を自分で装丁しました時に彼が表紙の窓に埋め込みましたのは、「心の説」の引用で、そのトップに、荀子「心」の説を捉えています。そ
の言句は荀子の「解蔽編」に見えています。
人間の「心」とは、いつ知れず、汚れ歪んだボロを何枚も纏い付かせているような状態だと、荀子は、言うのです。さまざまな偏見で蔽われているのが「心」
なんだと。だからその偏った蔽いを、ボロの一枚一枚を剥ぎ取って、純真無垢な「心」に人は立ち戻らなきゃ、道を知ることまた難し……と。
さてその「心」ですが……。心の中は、いつも、いろんな事や物でいっぱいなのに、しかも、虚、つまりカラッポな、なお幾らでも収め取れる状態をもってい
る。また、四方八方、天上へも地底へも、いつも限りなく向かえていて、しかも、壱、つまり、ただ一つ事に打ち込める状態も備えている。
それから、これが肝腎のところなんでしょう、心は、いつも活動していながら、その心棒のところに、不思議と「静かな」状態を、しっかり持している。それ
が肝腎要になっている、と。荀子は、そう、この解蔽編で説いています。いわゆる、虚、壱…そして、静の説です。ところが…ほかの何を措いてもですよ……。
小説『こころ』の「先生」には、その「静かな心」ッてのが、持てなかった。
漱石作『心』に関わって大事なのは、「静」の一字を、「心」のもっとも貴い在りようと認めている点だと思います。それを、作者は「奥さん=お嬢さん」の
名前に据えまして、じつにその周囲に「先生」「K」そして「私」という三人の運命の男を意味深く配することで、人間の『心』の研究を果そうとした、果し
た、というわけです。
それにしても、いま世間を一人歩きして、これは、あんまり呑気過ぎてないかと思われる相手に、この「心」があります。とにかく、「心」を持出してさえお
けば善玉で、意味深長で、頼りありげに、高等だと謂わんばかり。新聞雑誌も、テレビもラジオも、学者先生方も「心」のぺージや番組を必需品のように抱き込
んでいます。なんとも「心よげ」に「心ある」「心暖まる」ようだけれど、さて、そんなにも、「心は、頼れる」ものでしょうか。
心が頼れないで、どうして、日々、まともに暮らして行けるものかと考えておいでの方が、多いようです。しかしその一方で、まこと、我も、人も、共に、心
ほど「心もとない」ものは無いなあと、「ほぞを噛む」思いで痛感されている方も、決して少なくあるまいと思います。
ところで、いま「ほぞを噛む」という言葉を使いました。後悔しても及ばない。本当に臍を噛むわけではない。私は、この種の言葉を「からだ言葉」と命名
し、以前に『からだ言葉の本』(筑摩書房)を出し、辞典も添えたことがあります。例えば「頭が痛い」「骨を折る」と、事実骨折しまた頭痛がするのを「から
だ言葉」とは申しません。現に頭痛が無くても「頭痛鉢巻」とか「頭が痛いよ」とぼやき、骨は折れていなくても、「骨を折ったのに。骨折り損だ」などという
場合は「からだ言葉」になります。
人体各部の名称からは、夥しい「からだ言葉」が、湧いて出たように出来ています。「目が届く」「鼻が高い」「口はばったい」「二枚舌」「歯向かう」「耳
ざわり」「眉をひそめる」「唇さむし」「首にする」「顔が利く」「面の皮が厚い」「額を寄せて」「頭越し」「頬かむり」「喉もと過ぎれば」「顎を出す」
「目くそ鼻くそを笑う」「唾をかける」「空涙(そらなみだ)」などと、およそ、首から上だけでも何百とある。首から下へも「胸三寸」「腹藝」「肩で風を切
る」「乳くさい」「手が利く」「足が早い」「及び腰」などと、仰天するほど「からだ言葉」は生まれ出ていまして、ことに「手」には、千にも及ぶ「からだ言
葉」が、まるで生え出ています。「頭」と「目」にも、たいへん多い。
私は、日本人の「からだ」感覚や「からだ」認識を調べるのに、こういう「からだ言葉」の丁寧な検討が抜け落ちていては、たいへん「手ぬかり」なのではな
いかと、ずっと主張してきました。
「からだ言葉」の特徴は、少なくも、二つある。
体中で「からだ言葉」を生まない部位が、まず無いという事実。無数に有るのに、意味の分からない表現が、殆ど無いという事実。いつの間にか識って、使っ
て、ずいぶん便利をしています。もう一つ、あんまり気持ちいい意味の「からだ言葉」が少なく、どれも辛辣な批評味を帯びています。
この二つの事実を、うまく説明するだけでも、日本人の「からだ」についての感じ方、考え方の、大事な要点が見えて来るのではないか。
「ことば」とは、暮しの現場を流れる血汐のようなものであります。「からだ言葉」ほど、多用し慣用されている材料を、もっともっと大切に、「日本人」理
解に、利用し活用してもらえれば、あまり観念的な、ややっこしい「からだ」論から、より有益な実体論の方向へ、転じ得るかも知れない、と、久しく、私は考
えて来ました。その「からだ」と、いつも一対・対極に在るかに思われている「心」ですが、さて、ほんとに「心は、頼れるか…。」実は、かなりもかなり、
「心もとない」のではないか。
「心もとない…」とは、即「心は、頼れない」という意味を謂う言葉では、ありませんが、「心細い」「心丈夫とはいえない」意味である以上は、やはり「心
頼みにできない」ことになり、回り回ってやっぱり「心は、頼れない」というのに近い意味合いを持って来ます。詭弁でも何でもない。これは事実であります。
だが、現に「心丈夫」とか「心強い」という物言い…も、ありますからね。「心頼み」というのも、要するに「頼もしい心」を感じさせる。
私は、こういう「心」のさまざまな、いろいろな状態を、これをまた、無数に表現している日本語に注目して参りました。是を、ひとまとめに「こころ言葉」
と呼んで、これも、辞書にまとめたり、書いたりして来ましたし、こういう「こころ言葉」の数々を、具体的に把握し、理解してこそ、日本人の「心」観……
「心」を、どう把握し、どう考え、「心」と、どう付き合って来たかを、より具体的・実際的・生活社会的に考察してもらう必要が、あるのではないか、と、提
唱して来ました。
「心」って、何? 突然そう聞かれて、とっさに答えられる人が、そう大勢は有るまいと思います。どう思案してみても、なかなか「とりとめない」のが、ど
うも「心」というものです。これかと思うと、あれになる。そうかと思うと、そうではなくなる。
いま「心静か」であったのが、ふっと「心騒ぎ」「心乱れ」「千々に砕け」て、「心ここにあらず」という有様です。いとも「心丈夫」な「猛き心」「強い
心」で、「心堅固」に「心強く」いた「心算=つもり」なのに、一瞬にして「心弱く」「心細く」「心沈んで」しまい、ついに「心病ん」だり「心狂気」に陥っ
たり、してしまいます。
「明るい心」が一転「暗い心地」になる。むろん、これと真っ逆様にもなり得る。「清い心」の人だと思っていたのに、じつは「きたない心」だったと分かっ
たり、「心安い」と「安心」していたのに「心変わり」して、裏切ったり、裏切られたりする。
「心」というヤツ、じつに「とらえどころ」無く、現に、あれもありこれもあり、いろんな相反する意味の「こころ言葉」が、心の「とらえどころ無さ」を、
じつに雄弁に証言して、余りあります。
その「とらえどころの無い心」を、どうか「把握」したい、把握した気になって何とか「心静か」にありたければこそ、「こころ言葉」が、いろんな意味、い
ろんな面でこうも必要になり多産されたのでしょう。
現に、われわれは、在る筈の無いものを、敢えて在るかのように、「心」に、いろんな性質を付け加えて、説明して来ました。具体的な、余りに具体的な、例
えば色や、形や、構造や、行為を付け加え、表現して来た。例えば「心構え」というように、「身構え」に同じ姿勢を、心にもとらせています。構造的な「構
え」まで持たせています。「心」には、「内」も「外」も、「奥」も「底」も、「隈」も、在るのだと観察して来ました。「心根」という根があって、根は深い
「心の闇」に通じ、闇の中には「心の鬼」までが棲んでいると考えて来ました。
「心掛ける」ことも「心を尽くす」ことも「心を残す」ことも「心を宥める」ことも「心を見る」ことも「心をやる」ことも「心を通わせる」ことも出来る
し、「心を休める」ことも「心を隠す」ことも「心を秘める」ことも出来る。「熱く」もなり「寒く」もなり「冷え」もし、「心温かな」こともある。そのよう
に観察してきました。
いったい、どれが「心」のほんとうの在り様かというと、とても、どっちかへ、またどれか一つへ、決めてしまえるものではない。
さらに「気」や、「情」「精」「神」「霊」「魂」「モノ」などに熟している「こころ言葉」までも拾って参りますと、まざまざと、われわれの「心」の複雑
さが、まさに「心の形・象」かのように、夥しくも、目に見えて来るのですね。
「無心の境地」を貴いという、が、また「無心」といえば、金品を人にせがむ意味にも、日本人は用いてきたではありませんか。
「心」なる日本語を、強いて定義づけようというのが、もともと無理なんです。「心」とは、「必定まらない」もの、どうにでも変わってしまうもの、「不動
心」「無心」「一心不乱」のときも、「大きい心」「広い心」でも有り得るけれど、これが、一瞬に揺れて騒いで、「心ここにない」「あやふやな心」「頼りな
い心」に、「狭い心」「ちっぽけな心」に、ぐらぐらと、変わってしまう。変わること、変り易いこと、自体が、「心」というものであり、一定(いちじょう)
ではなく、まこと不定(ふじょう)のものと考えた方が、肯綮(こうけい)に当たっていると、そう考えた方が分かりが早いのだと、云わず語らず、日本人は
知っていました。その証拠のようなものじゃありませんか、わたくしの名付けました「こころ言葉」とは。
むろん、修行や修養で「心を磨き」「心を鍛える」ことの出来た、立派な実例は、古来多かった。ですが、なまなかの「心根」「心掛け」で出来たことじゃ
あ、ない。ただもう悩ましいのが「人の心の持ちよう」だということになります。
「心」という一字一語を、ただトクトクと、掲げておきさえすれば、貴い、美しい、気高い、ご利益(りやく))ありげな…もの・こと…かのように新聞、雑誌
が、「心のページ」を持ち、特集し、現に氾濫していますが、どれほど、効果が上がっているというのでしょうか。「心」に対し、へんな固定観念を持ち、やみ
くもに「信心」してみても、それは、どこかで、間抜けて、間違って来ます。
仏教では、人の「心」は、迷いの根源だとしている。「心」も、「愛」も、仏教はどっちかといえば人を迷惑に陥れる、難儀なものの方に数えあげてありま
す。諸悪の根源かのようにも云う。
「心」こそが、人間の自我(エゴ)の根底をなしていて、人を惑わしているのだと分かってしまった方が、どんなに良いか知れないんです。「心」という「惑
わし」からの「真の自由」を得た方が良いんです。
「静かで清い心」とは、そういう、実に「無心」正に「無心」を謂うものと分かってしまった方が、本当に良いんです。わたしは、そう感じています。
つまり、「心は頼れるか」は、正しい問いなんかではなかったんです。自分の心は、あなたの心は、ほんとうに「静かであるか」と問うのが、本筋なのでし
た。
荀子は謂います、心は森羅万象に関わり得るが、また、只壱つの事に集中できると。また無尽蔵に蓄え得るが、また一瞬に虚に返せると。しかも、心の芯の一
点は、実に深い「静」を湛えて揺るがない、と。「虚」「壱」「静」の、この最も大切な「静」に関わって、人の「心」の不安を抉った、抉ろうとした作品が、
小説が、あの夏目漱石の『心』でした。
人間の「心」を研究した作品だと、作者漱石は、新聞連載の予告に書いていました、が、さ、その結果は、どうだったのか。文明論ふうの批評には多く飾られ
てきたこの小説ですが、根本の「心」に則した作品論は、実に乏しいと私は見ています、私は。
「静かな心」ほど、作者にも、作中のあの「先生」にも望ましいものはなかった。容易に、しかし、得られはしない。
たぶん、漱石『こころ』の結論は、人の求めてやまない「静かな心」なんてものは、死ぬまで手に入らないという、絶望、であったかも知れません。そんな気
が、私にはします。
「静かな」は、この小説の重要な「鍵」言葉になっています。「静(しづ)」という、作中「先生の奥さん」の名前は、かくも深い意義を持っていました。そし
て「静(しづ)」の存在を、「先生」や「K」には手の届かない、深い深い「悩みの種」として、悩ましく、其処に置いたのです、夏目漱石は。
少なくも作中の「先生」は、静という名の「奥さん」に象徴された「静かな心」が、ついに保てなくて、自殺しなければならなかった。「幸福であるべき一対
の(不幸な)男女」であったことを、証ししてあまり在る「心」の悲劇でした。「静かな心」は、この作品にも、我々人間にとっても、見果てぬ「夢魔」なので
しょうか。
深入りしたついでに、漱石の書いた女性に、「清」の名の与えられた例が、大事な例が、少なくも二例あります。ご承知のように『坊ちゃん』の乳母が「清」
で、これは軽々しく見過ごせない、ある種の永遠性を、坊ちゃんに対して帯びたばあやです。もう一人、則天去私の作と謂われる、未完の絶筆作、『明暗』のど
うやら真のヒロインが、「清子」です。
「清」いが、「静」かと、音通の基盤を共有していることは、他にも類字がありますが、他方の極に、「汚」い「穢」れや、「騒」がしいものとの、相対・緊張
の関係で、意識的にも無意識にも捉えられていまして、静かに深く「清まはる」ことを喜び謹んで迎え、騒ぎ立ち、浅く「汚れ濁る」ことを、避け、退けたいと
願う心性──。
まさしく「日本の自然」のありよう、四季自然の運行に学び・まねびながら、果ては、人間の心術や、気稟の清質に、ことを及ぼしていった美意識、というも
のが、ま、およそ基本の線を敷いていました。そして、その助走陪線の体にして、「にぎわふ」といった「趣向」する意向が、また、絶えず通底した価値の試行
錯誤として、存在した。
陰気な静かさや清さではなく、陽気をはらんだ静かさや清さ、を求めるためには、そこへ「にぎわひ」が参与した方が効果があったでしょう。度が過ぎれば
「けれん」の騒がしさに流れたり、走ったりする、が、その間際のぎりぎりまで、静かさと清さとの淵にまで、賑わふものを欲深く呼び込みまして、かくて、花
有り、つまり、はんなりした美意識を満たしていたい、楽しみたい、というわけです。
その際に、最上の理想的な「きよら」な理想までは、たとえ届かなくても、二流の、次善の、つまり「きよげ」なもの、で満たされておくも、また良しと腰を
引いて、「融通」を利かすところが、日本人の美意識の、優しさ柔らかさであり、「いいかげん」に、「適当」なところ、だ、とも言えるでしょうか。
ま、この辺にさせて戴きます。
跋
私語の刻 この時代に……私の絶望と希望
昨日、大久保房男さんの『文士と編集者』(紅書房)を戴いた。毎度の大久保さんである。
文壇小説(狭い文壇の中でしか作中事情のわからない作)は否定、真摯な私小説は肯定、俗物は否定、むしろ伊藤整曰く「文士にもっとも近い社会はゴロツキ
の社会だ」を肯定。文士は権力に歯向って野党的でなければならぬ。文壇は官に弾圧されることがあっても庇護を受けたりせず、いつも時の権力から睨まれてい
る存在であった。軍国主義の時代に、政府が美術家の帝国美術院を改め帝国藝術院を作ったとき、会員に推薦された島崎藤村は、辞退。文士である自分は自分の
藝術で自分の道をひらいて来た、これからも一著作者でだけありたい、と。そういうことも大久保さんはきちんと書いて下さる。
文学と作家を主題の今回この講演集では、たまたま島崎藤村を二度話している。馬籠の記念館では、日本ペンクラブの初代会長であった藤村先生と、その「緑
陰叢書」という優れて批評的な「作家の出版」とに触れながら、私なりに、いまの日本ペンクラブへの批評など、いくらか鋭角に語っている。その先は方向転換
し、講演集にもう一編を加える気で、今も古証文とはいえない表題の一文を読んでいただく。
雑誌「ひとりから」の執筆依頼には、「この時代に……私の絶望と希望」を書くようにと、ある。人は、いつの世にもこういう自問自答を重ねてきたのであ
り、今はまたそのふさわしい必要な時機だと編輯室は認識されたのだろう。で、……少し迂路迂路して話し始めるのを許して戴こう。
チェーホフの芝居をつづけざま二つ観てきた。
チェーホフ戯曲の上演は、日本では珍しくない。「かもめ」「桜の園」「三人姉妹」「ワーニャ伯父さん」など、日本の新劇のおはこに部類される。芝居好き
のわたしは機会があると、観てきた。
チェーホフ劇は好きか。好きだ。だがその先はあまり聞かれたくない。悲劇的な結末なのに原作の題の上に「喜劇」と添えてあったりする。ややこしい。軽妙な
味わいのチェーホフの短編小説に慣れてから舞台を観ると、重苦しい違和感にまいってしまうこともある。
チェーホフの芝居は、帝政ロシア時代の風もあろう、明快でも明晰でもなく、空気は粘っているし登場人物の心情もさらさらと乾いてはいない。暗い吐息を、
よく言えばしみじみと、わるく謂えばじとじととはらんでいる。チェーホフの芝居は暗鬱でもあるなあという嘆息が、だいたいいつもつきまとう。わたしの殊に
好きな「三人姉妹」や「ワーニャ伯父さん」でもそうだ。むしろ、とりわけそうであると言いたいほどだ。何故。何故だろう、と永く思いあぐねてきた。
なんてイヤな一日だったか。なんてつらい毎日であることか。もうイヤ。もう堪えられない。気が狂ってしまう。チェーホフの女達はどの舞台でもそう叫んで泣
く、堪えられない、もう。
分かる。ワーニャ伯父さんやソーニャを、オリガやマーシャやイリーナ三姉妹を観ていると、贅沢を言うななどとは決して思わない。生きながら重い墓石に抑
えられているようで、まさしく気が滅入る。そして彼や彼女らは、しかし、とか、けれどと声を振り絞るようにして言い出す。明日という未来に期待しよう、五
十年、百年、二百年の未来にはきっとなにもかも明るく充たされて良くなっている、と。
これがチェーホフ劇の基調音である。そして陪音として、何百年経ったって何も変わらないさ、今のママさというほぼ全否定、絶望のつぶやきもチェーホフは
忘れずに響かせる。「三人姉妹」の末の妹を愛して明日の結婚を控えながら、死ぬと承知の決闘におもむき銃声一発に斃れる醒めたトゥーゼンバッハ男爵がそれ
だ。
だが総じて「今・此処」の不条理に苦しんで、未来に希望を託しているのがチェーホフ劇のつらい紳士淑女たちの「哲学」であり、「三人姉妹」の中の妹で人
妻マーシャとのひとときの情事におちた、ヴェルシーニン中佐のおはこだ。彼はおそらくその空疎を分かっているのであり、しかし三姉妹はその「哲学」を信じ
るしか道がなくて、眼をはるかな未来へ送るのである。
「今・此処」の暮らしはあまりに酷い。辛い。堪らない。けれど未来は明るいだろう、夜が明けるようにだんだん良くなるに違いない。
おそらくチェーホフもそう思っていた、或いはそう思いたかった。まだ来ぬ「未来」に対するせつない恋、それがチェーホフ劇の基調であるが、その基盤は、
只今現在への底知れない不信と絶望なのであり、まだ見ぬ恋より現実の方が遙かにけわしく人間を金縛りにしている。金縛りの痛苦から来る幻影かのように
チェーホフは、いや、チェーホフ劇の人物達は、「未来」に恋している。夢見ている。チェーホフこそ、「この時代に……私の絶望と希望」を、あまりにあらわ
に書き続けていた作者だと謂える。
チェーホフ劇を観ていて感じる息苦しい悲しさは、どこから来るか。
チェーホフや彼の作中人物達が、明るい未来への「恋にやぶれて」いたこと、「失恋」していたこと、そんな「未来」はやはり無かったらしいことを、現に
「今・此処」の日常体験により、如実に二十一世紀初めを生きている我々は「知ってしまって」いる。此の痛切な「現実」を彼等は知らずに我々は「知ってい
る」からではないのか。
反論もあろう、こんなに「良くなっている」ではないかと。例えば帝政的絶対権力は無くなったではないか、と。だが、ほんとうにそうだろうか。また例え
ば、こんなに何もかも「便利になっている」ではないか、と。だが、全ての機械的な便利の徳を、根こそぎ覆い尽くすほどに、核の脅威も、サイバーテロの脅威
も、大きく現に居座って、そんな便利は瞬時にふっ飛んでしまいかねない。時代の真相が良いとか悪いとかは、この事繁き巨大時代に簡単に言えることではな
い。
それにもかかわらず、こういうことは謂える。
今日よりも明日・未来はきっと良くなるものと希望しがちな人や国民があるだろうし、その一方、明日という未来に望みはもてない、だんだん悪くなるものと
絶望しがちな人や国民もある、ということ。上昇史観と下降史観。先へ行くほどよくなる。いや、わるくなる。我ひとりの人生や我が家族・家庭の将来が、では
ない。もっと広く、たとえば「ロシア人」の、「日本人」のこの先はといったマクロな判断である。
日本人は、どうか。日本人はだいたいいつの時代にも、人の世の中「先行きはわるい」と思ってきたと、或る日本の歴史学者が説いていた。少なくも中世の終
わる頃まで、日本人は、自然環境から、また信仰上から、また政治的にも、概して前途を悲観的に眺めてきたと。
日本は狭い島国で、余儀ない慢性鎖国環境にあったため、土地に依存した経済と社会は、どこかで行き詰まりがくる。零細私民はもとより、貴族達も武士達も
土地という所領の限界にあせって荘園所有に狂奔し、知行地や領国の拡大に戦国の世を過ごした。蒙古襲来を防いだものの恩賞として授ける土地がなくて北条氏
の政府は政治的にも頓挫したなど、顕著な例である。出世の可能性はあっても、どこかで茶道具の一つが一国一城に値するような不自然な価値観を創出する以外
に、この鎖国的島国自然の袋道は抜け出ようがなかった。先が良くなり続ける「芽=目」は無かったし、みながそれを判っていた。
信仰からいえば世は「末世・末法」に及んでいた。先は地獄であった。極楽往生の望みをもつには罪障の自覚はあまりに日常的であった。人は死後という未来を
つねに恐れていた。
天皇制というヒエラルキイのもとでは、すべて袋小路の中であった。たとえ上を凌いで這い上がっても、その上とは、やはり何かの下であった。先へ行けば先
へ行くほど、道は下り坂であるという「断念」が、だいたい、どの時代のだれもかもを捉えていた。道鏡でも道長でも清盛・頼朝でも尊氏でも、しかり。その下
はまして、しかり。それが日本を金縛りにしていた「下降史観」であった。
そんな望みうすい悲観や断念を突き抜き、「上昇史観」ふうに日本人をめざましく刺激し舵取りしたのは、中世末期に顕れた「天下」という「観念」であった
ろうと、その歴史家は説いていた。
日本の國へ広い世界が、西欧文明が割り込んできて、久しい鎖国が大きく崩れ、種子島の新式銃は、戦国大名の戦術を根から変えてしまい、キリシタンの信仰
は急激に日本の神や仏に戦いを挑んだ。
地球規模に「天下は広大」と知ったとき、天下布武の信長は安土の天守閣に大世界地図を飾り、天下人秀吉は本気で「唐渡り」を二度も決行した。その秀吉は
まして支配階層の出でなく、それでいて天皇の権威を小さく下目に眺める「天下」として振舞った。そんな秀吉に可能なことは他の者にも可能かと見えたとき、
旧来の政治的な権威と体制は、事実上の残骸となった。天下分け目の関ヶ原に勝ち大坂に勝った家康率いる江戸の近世は、織・豊のその勢いを当然受け継いだ。
では日本人は一気に未来に希望をもっただろうか。いや、持ちたくても持てなかった。
徳川幕府はまたしても頑なな「鎖国」を急激に強行した。「天下」の観念をみずから圧し殺し、またしても人は希望をうしない、先行きは「わるい」ばかりと
いやでも思い直しはじめた。赤穂浪士の討ち入りなどは、切ない下降史観へのあがくほどのサムライの反撥であったろう。しかし保守的な復古と前例主義は強烈
に足並みをそろえ、蘭学や外国語の普及などに抑制をかけ続けた。
江戸三百年の太平は、袋の中の逼塞と似ていた。未来への断念を代償にした籠居の平安であった。
農業の改善や手工業の進展で、いささかの裕福と便利とが世間に出回ったとはいえ、冨と贅沢とは著しく偏在した。絶対多数の民衆は窮屈さに藻掻くか、諦め
て黙るか、無足の人外に沈むしかなかった、概して謂えばそうであった。
明治維新。富国強兵。滅私奉公。そしていつしか昭和維新と世界戦争。原爆と敗戦。復興。「電気」に全面依存した機械化の便利さを、黒い影のように、黒い
雲のように常に覆っている、核爆発とサイバーテロ、サイバーポリスの脅威。大国エゴの核保有に象徴されている、硬直して強引な新たな絶対権力の、世界支
配。それへ追随また追随の、日本の政治・外交。こういう情況のなかで問われて来た「この時代に……私の絶望と希望」なのであるなと、まずは課題を受け取っ
たのである、わたしは。
編輯子にわたしは問われた、「私」の絶望と希望を語るように、と。わたしは問い返したい。この問いに謂う「私」とは何ですかと。
わたしは、ずいぶん昔、「私の私」を説いたことがある(湖の本エッセイ25講演集)。
自分という「個別の私」とともに、理念として「公に対する私」が在る。公に対峙する「理念の私」によって「個別の私」がしっかり自覚的に支えられ成熟して
いないと、一人一人の「私」は、自儘にただ動いてしまう。そんな「私」は真実自由な「私」ではない。一人一人が思い思いに絶望や希望を語ることは、個々人
にとり、そう難しいことではない。まただからこそ回答や思案の内容はバラついて、何かしら超えねばならぬ閾居の前で、何の力にもならず霧消してしまう。そ
のおそれがある。
その残念な一例が、つまり「選挙」であろう。選挙権は徹底して分割された「私」にだけ与えられている。そう思われている。ただの「個」に分散された
「私」たちが、「私の私」が在るのに気が付かず、それゆえに、「公」をチェックするという「私」の大切な役割を、無責任になかなか果たせないでいるのが、
われわれの、あの、選挙および選挙権ではないか。
選挙権は只の一人一人に「好きにせよ」と与えられてはいない筈だ。「公」に対比される「私」が、政治的に「意思表明」する機会が、選挙だ。ところが個別
一人一人に無償配布された自儘な権利かのように誤解しているから、安易に棄権もされてしまう。「私の私」が分かっていないから、こういう結果になる。そん
なことでは根こそぎ「私」を喪失してしまう危機にも気が付かずに。
編集室の問いかけは、此の「公に対する私」に、しかと思いが及んでいるのだろうか。さもなければ、一人一人が思うままを気儘に言い放ち、しかしそのまま
で済んで、次への「力」には結局ならないのを、わたしは恐れる。「私」の絶望は、その点に在る。「公」は、ばらばらな「私」から好き放題に「私権=基本的
人権」を奪い返している。もっと奪い取ろうとしている。歴史的逆行!
だが、「公に対する私」の自覚が、「国民=私民」の間で互いに手を取り合うように育ってくれば、「私」は、未来になお希望がもてるだろう。
「私」に希望のない「公」とは、絶望の同義語にほかならない。そういう「公」をお上と捧げ持ってきたから日本人は、所詮「下降史観」に我が身をゆだねるし
かなかった。過去の話ではない、今、そうなのである。街頭に出て一人一人に聴けばわかる。「先行きは明るいでしょうか」と。この日本で、無数のワーニヤ伯
父さんや三人姉妹達が、明日に望みを持てずに、今、焦れている。
最後に、しかし、わたし独りの思いも、小声で添えておこう。
いま、わたしは「望み」の有無など、本気ではほとんど考えていない。望みとは、未来にかけた虚仮の幻影であり夢である。過ぎた昔へはだれも望みをかけな
い、甲斐がない。甲斐ないことでは、だが、未来も全く同じである。未来なる時間は実在しない。
過去があり現在があり未来が在るとは、便宜の仕掛けであるが、むろん虚仮に過ぎない。在るのは、「今・此処」という時空だけである。永遠に「今・此処」
だけが推移する、それが、世界。過去も未来も、回顧も予測も、絶望も希望も、可能も不可能も、即ち現在只今の営みである。われわれは、背後にも眼下にも底
知れぬ奈落を控え、切り立つ断崖絶壁の上に生きているのと変わりがない。しかも眼前の底知れぬ奈落へ刻々踏み出せと、猶予なく迫られている。奈落を踏むと
想うとおそろしいが、ところが時空とは、不断に「今・此処」でしかありえず、足下に奈落は無いのである。おそれることはない。
その上、そのような不条理の闇や奈落をかき消すように、われわれの「今・此処」つまり此の世は、いつも脳の電気現象の「夢」を成している。時計は穏やか
に動き、なにもかもが「在る」ように見えており、感触もある。みな刻々と移り行く「今・此処」の「顔」である。そして、それも夢。過去を思い出すのも、未
来を予想するのも、現在のただの「夢」である。頼みになるのは「今・此処」に落ち着いて、元気に生きる意識だけである。ワーニャ伯父さんやソーニャが、三
人姉妹がついにのがれ得なかっただろうように、「今・此処」を脱出できる者など、一人もいない。
しかし、いくら頼みにならぬ「夢」であれ、楽しむ気ならそれは楽しめる。夢と知りつつ覚めざらましをと、「生きる演戯」が楽しめるのである、現実感も
伴って。元気に。その気になればいい。だからわたしは文学も歴史も美術・演劇も、床屋政談も、飲食も好色も、家庭生活も楽しんでいる。「夢」のような
「影」に戯れていると思っている。希望しないし絶望もしていない。よくよくウンザリはしているが、それも楽しめる。だから選挙に行く、パソコンもやる、源
氏物語も読む。ニヒルを気取っているのではない。はてしもない一枚の澄んだ鏡のように、落ち着いて、写ってくる何の影も拒まずに和み楽しみ、去って行った
何の影も追わないで、愛だけは感じていたい。そのうち真澄の空のほか何一つ映さない「鏡」になりたい。そうなんだ、そんな「希望」を楽しんでいるのだ、わ
たしは「今・此処」に生きて。
さてさて、大久保さんの本へ戻るが、昔はこんなことがあった。芥川龍之介は通俗読み物の村松梢風と文藝雑誌の目次に名が並ぶのを「拒絶」したという。わ
たしが文学を一人学びした百何巻の講談社「日本現代文学全集」には、吉川英治も山本周五郎も厳格に排されていた。それを狭量としない風がこの世間を蔽って
いた。あの浩瀚な全集から直木賞作家をさがすのは、井伏鱒二のほか、さ、どうであったか。
わたしが責任者としてペンクラブに「電子文藝館」を企画し建設したときは、藝術文学も通俗読みものも含めて日本の近代文学・文藝の「流れ」をゆるやかに
表現しつつ、加えてすぐれた湮滅作家達の秀作・問題作・記念作に少しでも今一度日の目を当てたかった。それはそれであるが、最近も加賀乙彦さんがどこかの
講演で苦言されていたように、いますこしホンモノの文学と作家とが、この新刊「湖の本」で取り上げた藤村や漱石らの志を「現代」にも生かして欲しい気がす
る。
島崎藤村、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹沢光治良、石川達三、中村光夫、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀樹、梅原猛、そして井上ひさ
し、阿刀田高と日本ペンクラブは会長が十五人並んできた。「電子文藝館」に展示のこの人達の作品をぜひ読み比べて欲しい、現理事達の作品を読み比べて欲し
い。何かをたちどころに悟られるだろう。わたしは、わたしも推して阿刀田氏が新会長になられたとき、ペンの会長はいわば日本文学を代表する「顔」なのだか
ら、ぜひふさわしい作品を「電子文藝館」で読ませて欲しいと直言した。わたしは氏の謂われる「エンターテイメント」とは何か詳しくはないが、大デュマの
『モンテクリスト伯』ほどを謂うのであろうか。
だれもが不思議に思っているのではないか、大江健三郎氏が国際ペン憲章に徴しても思想的実践的にじつに適任の作家であるというのに、なぜ会長に推さない
のかと。わたしのような「非常識な存在」が理事でいるからだろうかとヒガンで推測したこともある、苦笑いして。お年を考えなければペンを出ておられるけれ
ど阿川弘之氏もおられる。三浦朱門氏もおられる、大久保房男さだって文学の鬼として会長にふさわしい。亡くなってしまったけれどあの小田実さんが日本ペン
の会長なら、ペンの「表情」はすばらしく一変していただろう、或る意味で「非常識」なほど。
現執行部に不満を叩き付けて退会届けした或る複数の会員を、理事会が「ゴロツキ」という言葉で揶揄したときわたしは抗議した。同時に、伊藤整がこの場に
いたら何と言い放ったろう、伊藤整に「ゴロツキ派文士」と称賛された高見順がいたら何と癇癪玉を爆発させたろうと、首をすくめる心地がした。
日本ペンクラブが、入会人数より退会会員の方が数増して行く傾向に悩んでいるのは、一部の役員や理事や委員達がペンの事業をほぼ独占気味に癒着風に運営
しているのに対し、いっぱん会員にはほとんど名刺の肩書以外にメリットがないからである。会員には「理事」は選べても、自分を世界へ向けて代表してくれる
「会長」に誰をと「希望する権利」すら無い。しかし方法は簡単そのものである。配布される被選挙人名簿に、三十人の「○」をつけて理事を選挙するとき、
「会長」に希望する一人の氏名だけ「◎」をつければ済む。但し人気投票ではないのだから、規約上はそれに強制力を持たせず、当選理事達で従来通り会長互選
する際に、会員投票で「◎」最多数だった只一人だけを、「会員参考意見」として一応配慮する、ということにすれば、何でもないことだ。こんな簡単で有意義
なことも、わたしが繰り返し繰り返し提案しても、まったく理事会は聴こうとする耳を持たなかった。裏返せばそれほど理事会は「超多年留任理事」達で固定し
て行くのである。会費だけ支払わせて会員たち本気の声を汲み上げる工夫は働いていない。会報の数行の「消息」だけでは力ある意見として纏まらないし、総会
での会員発言もあまりに貧しく心細い。だんだんイヤ気ばかりさしている。