電子版 秦恒平・湖(うみ)の本エッセイ 4 茶ノ道廃ルベシ
 
 
 
 


茶ノ道廃ルベシ
 

秦 恒平・湖の本エッセイ 4

1

目次
匂いと色と…………………………5
桜の時代.…………………………17
淡さ交わり…………………………29
鉢木…………………………………14
異論「一期一会」…………………53
条の間の茶…………………………65
お茶屋の茶…………………………77
茶道具はお道具……………………88
作法・無作法………………………100
平手前の魅力………………………112
お茶の先生…………………………124
茶会のすすめ………………………136
あとかき……………………………148
私語の刻……………………………149
湖の本エッセイ・要約と予告……154
〈表紙〉
装画 城景都
印刻 井口哲郎
装禎 堤いく子

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3

「淡交」昭和五十一年一月号ー十二月号

4

匂いと色と

「夜もすがら降りつむ雪の朝ぼらけ匂はぬ花を梢にぞ見る」という古歌を読むと、情景のあざやかさに
誘われて、若い美しい母親と幼な子との朝一番の会話のような場面が想われてくる。むろん現代の母と
子は、雪を見立てて「匂はぬ花」と理に落ちたことは言うまい、ただ「お花が咲いたみたい」とちいさ
な窓に顔をならべて驚きあうのだろう。
平凡な、陳腐な、ありふれた情景であり思いなぞえでありながら、この歌にも、想像の母と子の会話
にもこうなくてはならない新鮮な、抜き差しのならない感動の質があり、同時に型がある。型と質とが
さか
緊密に契合していて、ありふれていようが平凡だろうが、それはその場に居合わせないものの言う賢し
らであって、そう言う”批評家”すら同じ場面に出会えば似たことを思い、そう思ったり感じたりする
のをとくに恥じはすまい。それどころか、そう思い感じることで眼前の雪はいよいよ美しく照り映え、
心中の花はいよいよ美しく咲き匂う。雪は花に、花は雪に美しさをひとしお深められ、だが、本当にそ
れを深めているのはさように花を愛し雪を愛している人の心のはたらきなのだ。また、さようはたらく
ことで逆に人の心も雪や花ゆえ美しくなり清らかになる。我々は、こういう人と自然との相思相愛に就
て物忘れが過ぎているのではないか。

5

ともあれ、雪が匂わぬ花だとの見立ては、花は匂うものという思いを先立てている。「花」といえば
万葉時代は「梅」であり古今集以来は「桜」である。そして古来梅は「薫る」花であり、桜は「匂う」
花なのである。
梅が薫るようには桜が薫る花でないことは誰でも承知している。花の「匂う」と「薫る」とははっき
り違っている。が、語感の鈍い今日では、その使い分けが十分できていない。どんな花が匂い、どんな
花が薫るか、それはどういう違いなのか、さて問われてみると答えるに難儀な質問になる。そのうえ、
日本語の貧しさで、「いい匂いたわ」とも言い「いやな臭いね」とも言う。但し一概に貧しいとも言い
くたせず、微妙な表と裏の感覚を同じことばで時と場合により使い分け書き分けられるのを、日本語の
豊かさ、と言わずとも、面白さ、そして難しさ、とは言っても差支えないだろう。

薫りや匂いに敏感なのは、今では西洋人の方が長けていると思っている人が多いかもしれない。舶来
の香水を珍重しなれた婦人はとくにそう思っているだろうが、香料は、古くは東洋が西洋に貢いだ最も
貴重な輸出品の一つだった。西洋人には東洋こそ薫り匂う天地だった。西洋人が東洋の香料を熱心に求
めたひとつの大きな目的は体臭や食肉の腐臭を消すことにあったろう。ヨーロッパやアメリカで香水や
香辛料が精製された理由はそこにあり、例えば東洋人がオーデコロンの類からシャネルの五番に至る西
洋香水に千金を投じているのは、逆輸入というに等しい。
ところで、源氏物語の主人公は言うまでもない光源氏である。が、先君や紫上の死後に宇治十帖の世
おんなさんのみやかしわぎえもんのかみ
界を領ずる主人公は、光源氏の子、実は、彼の妻女三宮と柏木石衛門督との罪の子に当る「薫」およ
び、光源氏の実の孫に当る「匂」の二人である。それぞれ「薫る」「匂う」と動詞よみにされ、二人の

貴公子の性格や体質までが、この呼び名には表現されている。
たしひやくぶはか
薫大将はことさら香を薫き染めなくてもおのずと百歩の外までその人の香を漂わせたという。「薫」
は、それをほめた仇だ名であり、彼は衆にすぐれて特異な体臭をもっていたのである。「薫る」とはっ
まりは香気臭気に関わる言い方なのだ。だが、「匂う」は、決して香気臭気に限った言い方ではない。
「匂」という仇だ名にしても今すこしべつの含蓄に富んだ呼び方になっており、「匂う」は「薫る」よ
り幾らか微妙で多彩な語感を備えているのである。日本人が、「薫る梅」から「匂う桜」へと「花」の
観念や好尚を移し動かしてきた事実は、かくしていわゆる日本文化の素質と成熟とを理解するうえで、
すこぶる示唆や暗示に富んでいると言わねばならない。
いささか奇妙な話題へと紛れこむようだが、源氏物語の三人の男主人公たちの「光」および「匂」と
「薫」という名は、決してそう場当りにつけられていない。気づいた人の無かった観点なので、暫く詮
索してみたい。
「光」に就ては以前に拙著『花と風』(一九七二.筑摩輩房、湖の本エッセイ・所収)で言い及んだが、少年
の昔にはじめて源氏物語を読み通した時、私は主人公の「光」を太陽崇拝に根ざした、照り輝く日の光
をいうものと思い、やがてこの「光」は古代の闇の底に本質的な物の映えとして匂い出す光なのだと理
解し直した。光源氏の物語では、時および世界は日から日へでなく夜から夜へと流れ数えられ、その中
で「光」は物の美しさの真相として見据えられている。決して元始の真昼に君臨する太陽そのものの隈
なき「光」でなく、物の隈に幾重にも深い根源の闇を漂わせつつその底から姿をあらわす「光」なので
ある。日本の古代の、それが「美」の発生であり誕生であった。光源氏は、そういう意味で古代日本人

の真に優美と幽玄の典型たるべく創造された理想像なのである。そして、この「光」の真の血脈を承け
嗣ぐのが、「薫」ではなく「匂」であることに、とくに注目したい。
いわば戸籍上、源氏物語の「薫」は「光」の子となっている。そして「匂」は、「光」の孫「薫」の
うと
甥に当っている。が、その実、薫大将は光源氏にとって遠く疎い一人の血縁に過ぎない。彼の実の父柏
木は藤原氏主流の嫡男であり、光源氏の妻の葉上の甥である。薫大将は表向きは源氏だが実は彼こそ藤
原氏の正統なのだ。「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠る、」という古歌がいみじく
言い当てているように、「薫」の縁は「光」より「闇」に近い。闇に生まれた罪の子葉大将にはふさわ
しい名がつけられたと言うべきで、この、形ばかりの父と子との血縁ははっきり切れていたのだ。
ところが「匂」には明らかに光彩、光沢、また威光、勢威などの意味がある。「つかさ位世の中のに
おぽ
ほひも何ともおぼえずなん」(椎本)とか「細やかに思しおきてたるに匂ひいでて宮の内やうやう人目
見え」(蓬生)とか「あざやかに物情げに苦う盛りに、匂ひをちらし給へり」(夕霧)とか、物語本文に
用例は多く、世に謂う「親の光」なら「子の匂」が、因果も正しく的中する。「光」と「匂」とは、ぬ
きさしならぬ縁深い名であり、匂宮こそ光源氏の世界を真に相続する人物なのである。
源氏物語の読まれ方は多彩を極め、なお多くの可能性をはらんでいる。「光」および「匂」「薫」と
いった主人公たちの名前にすらかくも物語の奥行は秘蔵されており、その重ね扉の一つ一つをはじめて
押し開いてみるのは愛読者にはたまらない誘惑である。

宇治十帖で、匂兵部卿宮と薫大将とが宿命的に挑みあう源は、遠く、深い。

みやすどころ
例えば、先君の正妻葵上と愛人六条御息所の名高い車争いは、彼女らの従者が互いに藤原氏と源氏と
いう家門の威勢を背景に惹き起したものであった。藤原氏の葵上方が、御息所を光源氏の庇護下にある
女人と見て、「大将殿をそうも豪家と思わせてなるものか」と突っかかる声ははっきり耳に留まる。源
こういん
氏物語は、一つには、皇胤源氏と権臣藤原氏とが官位、趣味、技芸、後宮から人柄や容貌、互いの女色
いに至るまで、良きにつけ悪しきにっけビンからキリまで果てしなく挑み競うさまざまな場面の積重ね
として読めるのである。しかも薫が恋人の妹宇治中君を匂宮の妻に譲って後悔したり、新しい恋人浮舟
をまで匂宮に奪われる宇治十帖の荒筋からも分るように、源氏物語では当然ながら源氏が藤原氏をこと
ごとに圧倒する。平安王朝の現実と真逆様なゆえにそれは或る痛切な批評性をさえ帯びて、やがてくる
院政を予兆し、古代の終焉をすら予告する。
奏上は六条御息所に怨まれて早く死に、兄の頭中将藤原氏は所詮親友光源氏に及ばない。両者の力関
はま
係は、頭中将の孫に当る「薫」と光源氏の孫に当る「匂」とに正確に当て嵌る。物語世界を光源氏から
正当に承け嗣ぐ縁は「薫」より遥かに「匂」に濃いことが分る。
かたしろ
源氏物語はまた、母を喪った子の物語として幕を明け、母の形代としての妻を迎えた夫婦の物語とし
て展開するのだとも読める。
光源氏は桐壺更衣を生母とし、亡き母にそっくりの藤壺中宮を義母かつ理想の女人として成人する。
しつら
「桐壺」の巻の末ちかくで、光源氏は生母の里である二条の邸をより美しく磨き設え、母の霊に守られ
て心中秘蔵の女人と一緒にここに住みたいという切なる願望を洩らしている。むろん生母の面影を宿し
た義母藤壷のことを思っているのだが、望みは叶うはずもない。そこで光は藤壷の姪に当る少女紫を強

いてこの二条の邸に引き取り、意に染まぬ妻葵上の死後に紫を妻とし、二条院を愛の巣に営むことにな
る。紫上が、光とともに源氏物語の真の女主人公であることは、作者が紫式部と仇だ名されたことでも
はっきりしている。二条院を占める女主人こそ、源氏物語の愛の正統を象徴する「母なるもの」の化身
なのである。はたして紫上は、臨終に際し光源氏一代の楽園である六条院からひとりわざわざ二条院に
帰り住み、誰よりも愛する幼い匂宮に二条院を遺して他界する。業上の二条院へ帰っての他界ほど、物
語の根深い要請と意図を示したものはない。そしてやがて、この二条院は新しい女主人公として匂宮の
妻宇治中君を迎える。句が光の真の相続人であるように、中君は紫上の再来であり、紫上には恵まれな
かった子をこの二条院で産んで母にさえなる。二条院という邸一つの歴史を眺めても、「匂」はまさし
く「光」を承け嗣いでいる。
きず
ところで、紫上が光源氏の子を儲けえなかったのは誰しもが惜しむ玉に暇なのではあるが、彼女も実
は「母」であったことを物語作者は象徴的に語っている。
匂宮は明石中宮の皇子であり、明石中宮は光と明石上との娘が幼くして紫上の養女として育ち、長じ
て後も生母以上に養母紫上を愛し敬う。紫上が孫の匂宮を限りなく愛するいわれは十二分に物語に書き
こまれていると言えよう、しかも紫上の「二条院」を相続する匂宮は、紫上のことを二度三度まで繰返
し「はは」と呼んでいる。
臨終まちがい紫上が人のいない時をえらんで幼い匂宮を呼び寄せ、「私がおらなくなりましたら、思
うち
い出して下さいましょうか」と尋ねると、匂宮は、「いと恋しかりなむ。まろは、内裏の上(父帝)よ
りも、宮(明石中宮)よりも、はゝ(紫上)をこそ、まさりて思ひ聞ゆれ。おはせずぱ、心地むつかしか

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りなむ」と、眼のふちを擦って紛らわしているあどけなさ、思わず紫上はほほえみながらも涙がこぽれ
るのである。
匂宮が紫上を「はは」と呼ぶのは、「ばば(祖母)」の書き違えだとか、匂宮が心幼くそう思いこんで
いるだけだとか説があるけれど、二条院が光の「桐壺」「藤壷」という二人の「母」への見果てぬ夢を
うつつ
「紫上」との共住みによって現に変えた邸であった以上、この邸を承け嗣ぐ匂宮には「業上」はまた最
しか
後の「はは」でなければならないことを、作者は確と意識して書いているのである。
この場面で重ねて紫上は匂宮に意味深い附託をする。即ち、「大人になり給ひなは、ここ(二条院)に
たい
住み給ひて、この対の前なる、紅梅と桜とは、花の折々に、心とどめて、もてあそび給へ。さるべから
む折は、仏にもたてまつり給へ」と。紫上は「春の上」とも書かれている女人であり、いま匂宮に託さ
れた紅梅と桜とはまさしく二条院の象徴である。繰返して言うなら、二条院は物語主人公たちの文字通
りの本拠、実家、故里なのであるから、遺し置く紫上、承け嗣ぐ匂宮、ともどもこの花の木こそは愛の
「櫛形見」であり、夫の先君にでなく、匂宮に譲られている意味も重い。
やがて葉上が幻の人となりはてた次の春、まずさきがけて紅梅が咲き、時うつって樺桜が咲き匂う。
「は・の、のたまひしかぱ」と匂宮は散る花をも惜しむことこの上なく、「まるが桜は、咲きにけり。
とはりかたひら
いかで久しく散らさじ。木のめぐりに帳を立てて、帷子をあげずぱ、風も、え吹きよらじ」と、さも巧
いことを思いついた顔にあどけなく言う。恋妻に死なれて悲しみに沈む光源氏も覚えず笑い泣きしてし
まう。紫上は、紅梅の香を桜の花に匂わせたような人だと夫の光源氏に思われていた女性なのだ、むろ
ん、主体は「桜」にあり「匂」にあり、「匂う桜」をひときわ美しく引き立てるのが「光」であること

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は言うまでもない。紫上がどんなにすぱらしい「桜」であったかは、光の長男夕霧が、たった一度だけ
彼女を垣間見た時の恍惚の印象を、やはり咲き匂う樺桜のようと思いこんでいる場面でも強調されてい
る。

いささかくだくだしく、こうまで書きつらねたのは、源氏物語というすぐれた古典の魅力がさせるわ
ざでもあるけれど、一つには、「薫」はともかく、「匂う」「匂い」ということぱや文字が、源氏物語
以後の文学表現にあって微妙かつ優艶の語感をひときわ強調されて行く事実があり、古代から中世への
美の印象を解きほぐすには欠くことのならぬ大切な鍵言葉の一っになっていると思うからだ。
すくな
今一度話題をもとの「花」に戻してみよう。薫る梅が匂う梅とも書かれている例は実は寡くない。匂
うには薫る意味も加味されている以上当然だけれども、逆に匂う桜を薫る桜とはまず言わない。紫上が
「樺桜」とならべて「紅梅」をも形見として匂宮に託したのは、それが薫りのつよい白梅でなく、遠目
に匂う紅い花であるところに「匂」の意味をさぐるよすががある。
じうつた
薫る花は、嗅覚に直かに悪える。しかし匂う花は、「にほふ」の「に」が語源的に「丹」を意味する
赤や朱の色をさし、「ほ」は「秀」であることからも、まさに色に出でて目に立つことを前提にしてい
る。嗅覚が関わるとしても、より視覚に懸えるのが「匂」なのである。
水仙、梅、くちなし、金木犀などは薫る花の代表格だが、桜、桃、藤などは色に出でて「匂う」花の
代表と言える。百花の王とも富貴の花とも愛される牡丹などは、そして紅梅なども、薫りかつ匂う花で
あろう。匂う花は眼に悪えてくる色どりの美しさをもちながら、みなその色をほのめかせ、にじみあわ

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つせ、そらに漂わせるような、そしてそうであることによって他の物をその色香で染めて行くようなとこ
おぼろ
ろがある。夢もいざよう月夜の桜が鹿に匂うのはそうした「匂」の好例である。暖雪、紅雲、ともに薫
りはしないがまさしく匂う花の美しさを捉えた、眼に悪える色香を見立てたことぱである。
薫りは眼に見えず、匂いは眼に映る。匂いには相応の色がある。いや、匂うとはまさに、「色」が匂
うのだと言える。今一度、「闇はあやなし梅の花」という歌を想い起してほしい。「色こそ見えね香や
は隠る・」とうたわれている。「薫」るのに「色」は見えなくていい。「闇」の中でもいい。裏返せば、
「色」が見えてこそ「匂」うのであり、「光」るからこそ「色」が見えるということになる。「光しも
「匂」もまさしく「色」好みなのであって、光源氏と匂兵部卿宮との血縁はかくて紛れない、と源氏物
語作者は書き示す。「忍ぶれど色に出にけりわが恋は」という古歌を介して加えれば、「匂」う「色」
とは「花」でもあるが、「恋」でもあるということになる。語感は語感を重ね匂わせている。

およそ語感の重層深層を心して手さぐりすることなしに日本語の佳さも、日本語に支えられた日本文
化の佳さも、同時にその限界をも理解することはできない。私は著書に譲語を望まれれぱたいがい「語
長心苦」と書いている。小説家として、日本語の語感を尊重するところから、難くはあるが、心を養い
詩想を磨くよりないからである。
年々歳々、いわゆる受験の季節を迎えるたびに新聞や雑誌は若者の漢字が読めない書けないを面白お
かしく話題にする。事実、こうまでもと驚き呆れる読み書きの出来のわるさには、私も十数年の勤め入
時代に若い同僚や部下の珍解珍答とつき合った経験上よくよく承知しているけれど、本当に日本語の行
く末を憂うるなら、読める書けるもさりながら、ことばの含蓄や情意がこまかに分ること、語感を肌身

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に聴き分け嗅ぎ分けることをもっと大事にすべきではないのか。難訓難読の漢字がかりに読めず書けな
くとも差支えない。しかし、日常に使っている普通の日本語の、さてとなると似たような二2二つのこ
とぱのどこがどうお互いに一と味違うのか、それと知って使い分けられるか、は、たいへん気になる。
「匂う」と「臭う」なら区別はついても、「匂う」と「薫る」では行きづまる、といった不自由が多く
なればなるほど、語彙語数の乏しい日本語の場合は行く末がおそろしい。
「匂う」という和語の第一義は、木、草または赤土などの色に染まること、次に、光沢に富んで花やか
に、うるわしくっややかなこと、そして快く薫ること、光彩を生じて勢いつくこと、しかもにじみ合い
ぼかし合って色の移ろうことを謂う。それさえただあらましで、事に当って具体的に用いればもっと微
妙な使い分けが利くのである。
ことぱには長い時代を生き抜いて行くちからがある。同じ文字、同じ発音をしながら、時代によって
力点を置かれる意味は動いて行く。例えば「手」という一字一語が、平安時代には字を書くこと、楽器
を奏することとして専ら使われたのが、武士の時代になれば「一手御願い申す」とか「手は見せぬぞ」
といった武術上のことばになる。また「働き手」「稼ぎ手」の意味にも、「手を打つ」「手をまわす」
「手練手管」式の政治的謀略的な意味にもなる。そうした「手」のさまざまな語意語感を私は『手さぐ
り日本ー「手」の思索1』(一九七五.玉川大学出版部、湖の本工,ゼイ・所収)という小著であらかた考え
たばかりだが、いま改めてもののはじめに「匂い」の「色」のと言ってみたのは、一つには話題が茶の
湯ないし茶一般だからであり、今一つには、古代と中世を媒介し貫流する「花」の意味をそれなりに暗
示しておきたかったからだ。

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歴史的なことに幾らか興味をもっている読者は考えてほしい。茶の湯は、日本の古典や芸術芸能の流
れの、どういう位置に生まれ育ち成熟したか。そのためにはいやも応もなく「中世」の理解が先立たね
ぱならなくなる。「中世」を理解するには「古代」から承け嗣いたものに就ても考えねぱならなくなる。
いきなり「匂い」の「色」のと口を切られたのにさえ意外の思いをしている読者は、話題の第一番に、
はら
源氏物語にっいてながながと講釈されて、何が茶の湯かと肚立たしく、看板にいっわり有りと思ったに
違いない。
だが、茶の湯が利休このかた懸けてきた看板にしても、本当はこの辺で一度よくよく洗い直さないと、
だいぶん汚れてよく見えなくなってはいないか。看板の文言自体、古くさく偏っていなかったとも言え
ないのではないか。しかもっい面倒がってそれをそのまま鵜呑みにしてこなかったわけでもあるまい以
かみしも
上、源氏物語から茶の湯のばなしが始まるのもこれは一興とくらいに裃を脱いで思ってほしい。
平安時代と呼ばれた日本の「古代」を代表する文化的遺産は、古今集と源氏物語と言って差支えない。
日本の「中世」の手ずから幕を明けた人物は何人かいる中で、例えば藤原定家らは、古今集を尊重して
新古今集を撰し、源氏物語を愛読して価値ある写本を後世に遺した。そして、定家卿の歌に学んで中世
の連歌師は冷え枯るる境涯に達し、観阿弥や世阿弥は猿楽能の夢幻世界に「花」と「風」の理想を樹て
へきとう
た。珠光、紹鴎、利休の茶もまた、定家をはじめとする中世劈頭の歌人たちの美意識を濃厚に、意識的
に、承け嗣いたのである。
今日、定家卿の歌は長短合わせて約四千六百首あまり(中には相聞、贈答の関係で他人の歌も若干混じる
が)認められている。その中で、「色」ということばを詠みこんだ歌は二百八十余首に及ぴ、「匂ふ」

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歌は七十音ある。他の歌人と較べて多いか寡いかはにわかに言い切れないが、私の知る限りこの二つの
ことば、文字の使い方に於て、定家卿の歌はいかにも定家らしく精妙な語感を発揮していると思われる。
「匂いと色と」ということをこの本の書きはじめに思いついた時、私はいちばん先に定家卿の歌業の真
の特色をこの二っのことぱで想い出すと同時に、何よりも源氏物語を、そして、或る意味では源氏物語
に匹敵する大いさで、「中世」の美を完成させた茶の湯を想った。定家の歌を中軸に据えて古代美の頂
点「源氏物語」と中世美の完成「茶の湯」とを貫流するものが、果して「匂いと色と」で正しく掴める
かどうか、そもそもそんな問い方自体に良い答えを期待するだけの意味があるかどうか。ともあれ「色
は匂へど散りぬるを」と私たちは幼い日に先ず覚えることから日本語の音感を養った。
匂い、かつ、散り行くものを「色」と呼んできたその「色」とは、「花」のことだろう。が、ただ咲
く花のことばかりとは想われない。

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桜の時代

かなが漢字を借りて創られたとは誰もが知っている。そのかなを、昨今は五十音図に従って教え習う
のは順当なはなしだろうが、たとえ教室では「あいうえお」でよいとしても、それなら親は家庭で「い
うたいまよううた
ろはにほへと」を、せめて口うつしに唄って教えてほしい。巧みにつくられた今様歌の、意味の方はお
いてよい。ただ、「いろは」の声調とともに文字と音とを習い覚えた人、および時代、のことを、さり
げなく子どもたちに教えておいてほしい。
「いろは歌」は、飽かれも疎まれもせず親しまれっづけてきた、或る意味で日本と日本人の心を開く深
とな
く馴染んだ鍵の一つに違いなく、よかれあしかれ誰もがたとえ「ちりぬるをわか、よたれそっね」と唱
えながらでも、幼な思いに腫に日本語の美しさを感じとったかもしれない歌ではある。美しさぱかりで
なく、おそらく歌に詠みこまれているやや抹香くさい意味以上に、四十八音四十八文字を一字一音量ね
ナく
ず洩らさず手際に掬い上げた知的な遊びを、日本人好みの趣向の面白さとしても感じとっていたに違い
ない。あとにも先にも、これほど安定して上手な四十八守歌はないのだから。
「いろは歌」は久しく弘法大師の作に擬されてきた。むろん違う。が、十世紀末にはできていて、以後
手習い歌としても物の順序を立てるのにも重宝されてきた。「あいうえお」五十音図の成立も決して新

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しいものではないが、圧倒的に「いろは歌」の方が好まれ使われつづけてきた。
十世紀末といえば、紫式部が生きた頃に当る。が、源氏物語では手習いの手本にまだ「いろは歌」を
使っていない。若紫が祖母と隠れ住んだ山里で光源氏にはじめて垣間見られた頃、「なにはづをだには
かぐしうつづけ侍らざめれぱ」先君の懸想も所詮「かひなくなん」などとまめまめしい大人たちに笑
われている。習字の手本は、この頃ではまだ「なにはづにさくやこの花尽ごもり今を春べと咲くやこの
花」という歌の方が一般に使われていたらしい。
仁徳天皇の治世に絡んで伝えられている「なにはづ」の歌は、歌いぷりもたしかに古い。古今和歌集
の仮名序には、「浅香山霧さへ見ゆる山の井の浅くは人を思ふものかは」という古歌とならべて「歌の
ちちははのやうにてぞ、手習ふ人のはじめにもしける」と書かれている。手習い歌としてどんなに人口
かいしや
に膾灸していたかには、有力な証拠もある。
この戦後まもなく、法隆寺五重塔が大修理されたさい、多分当時の工人が書いたとしか考えようのな
なにはづにさくやこ<ま
い「奈爾波都爾佐久夜己」のらくがき九字が、物の隈の積み重なった塵、候の下で見つかった。いわゆ
る万葉仮名といわれる一音に一字を宛てた表記法の遺例で、最古例としては他に貴重な金石文の遺品が
二、三あって五世紀半ばにまで湖れる。が、これは八世紀初めかど見られる法隆寺の塔ながら、金石文
かみしも
のように神を着た表向きの遺品でなく、仕事の合間に大工が手すさぴにこれを書いた、書けた、とい
うことが文化史的にたいへん興味深い。漢語ならぬ和語を庶民が気らくに書いた文字としては、文句な
く日本一方いとみてよく、と同時に「なにはづ」の敬一首が、事実この階層の人々にまで手すさぴ口ず
さみに習われ親しまれていたことがよく分る。

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 ところで、この歌の「さくやこの花」とは、何の花か。諸々の木の花全部をいうとの説もある。が、
「冬篭り」から「今を春べ」と咲きそめる花は順当に梅の花と見た方が印象深い。「木化」ではあるが、
また「此花」とはっきり名ざし指さす歌い口でもある。花の精を目して思わず声高にうたいかけるよう
な健やかな歓びの印象には、たしかに春の花々のすべてと取れる響きはあって、しかもなお「花」と呼
んでただ一種の梅や桜に代表させずにおれない感覚、その方がより美しいとする感覚が、日本語を使う
日本人の心術になり切っている。「なにはづ」の「この花」はもろもろの春咲く花を念頭に、しかも冬
篭りから先ずさきがけて咲く「梅」の花であった方が、一首の和歌としても清潔に美しく感じられ、歌
がぐわ
をよむ心の世界もひとしお香しく美しい。
このはなさくやひめ
「この花」と言えば我々は古事記に名高い「木花開耶姫」を知っている。日の女神の孫が、高夫原から
地上に降り立って真先にえらんだ人の世の妻の名だ。仁徳天皇よりも遥か太古の面影に生きた女人を美
しくほめた名だ。古事記を編んだ頃の奈良の都の人々には美女の仇だ名に呼んだ「この花」も、なには
づに咲いた「この花」も、必然同じ「梅」の花てなければならなかったろう、それが彼らの美と真実と
いうものだ。
だからこそ逆に、今日の我々が、或いは奈良の都から時を経て、すでに「花は桜」と思い定めていた
時代の人々が、「なにはづに咲く」花のように或る限られた季の花はともかくも、「木花開耶姫」とま
で半ば神代の世界にも象徴の美を輝かせた花を、心中秘蔵の「花」の名にたぐえて紛れない「桜」の化
身かと想像することも許される。先年近った堂本印象画伯の若描きの大作に、この女人の名をそのまま
題して、爛漫と咲き匂う桜花をだしか屏風仕立てにしたのに、私はうっとり観とれた覚えがある。私の

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思いにも、それは、「木花開耶姫」は、「桜」てなければ承知できなかった。画家の選択を決して独断
とは感じなかった。
まさ
十世紀前半に活躍して古今集の序を書いた紀貫之は、「桜より優る花なき春なればあだし草木を物と
やはみる」と歌い切る。驚くべき断定ではないか。これを読んでもう一度彼自身が歌の父ととり上げた
「なにはづ」の歌の「この花」を想像すると、うっかり桜かなと想ってしまう。桜でなくとも、梅とは
決めかねる気がする。だから「諸本の花なり」という妥協的な説もまた割りこんでくるのだろう、日本
人の胸のうちで、「花」の座をめぐって盛んに梅や桜が花びらを散らしてきた「時」の久しさが、なつ
かしく眼に見える気がする。
あをに
それならば、「青丹よし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」という万葉集の古歌はどう
ここのへ
か。比較的現代人にもよく知られた歌だし、したがってまた、「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重
に匂ひぬるかな」という百人一首伊勢大韓の歌が、この古歌を念頭に詠んだものだろうとも、難なく理
解できる。自然、奈良の都の盛りさながらに「咲く花」とは、即ち一重と八重とに関わりなく「桜」に
違いないということになって、誰もそれを疑わない。
おののおゆ
この名高い歌を、万葉集は「青丹吉寧楽乃京師者咲花乃薫如今盛有」と書き表わす。作者の小野老は、
しもつけ
病をえて西紀七三七年に下野の那須温泉に赴き死んでいる。法隆寺の塔に人知れず手すさびの落書を楽
しんだ大工が、「なにはづにさくやこ」まで書いて、棟梁にでも叱られてやめたのとそう違わない時期
にほふがごとく
の歌であれば、そして、この花が文字に書き示すと「薫如」いま盛りに咲くのであってみれば、これ
も実は桜より梅、それも紅梅である可能性の方がずっと高いのではないか。

20

うた
「にほふ」には薫る意味も入っている。従って梅の花を「にほふ」と書き、また詠った例は幾らもある。
一方、「かをる」には厳密に言うと「にほふ」意味は含まれない。後世「にほひ」の漂い流れるさま
を「かをる」とまで謂うようになるのはたしかだが、極く稀に桜をさえ「かをる」と言ってしまうほど

語感に交錯を生じはじめる頃になってからのことであり、「薫」をかりに「にほふ」と訓みえても、所
詮「匂」を「かをる」とは訓みえない。意味内容の含蓄において、不等記号は「薫」よりも広く微妙に
「匂」の方へ開いている。
となれば、いよいよ「薫如」と表記されて「咲く花」とは、桜より「梅」であるべき確率が、事実に
もみじ
も援けられてずっと高くなる。万葉集にうたわれた花は、数に於ても梅は萩の花に次ぎ、桜は、黄葉よ
もみじ
りまだ下位にある。古今集になると、桜が第一位で紅葉が次ぐ。奈良の梅から京都の桜へ、交代は顕著
であり象徴的であり、花見といえば後期の万葉びとには主に梅見だった。植えて楽しむ木の花も梅が多
かった。そして、輸入花の梅を愛する風情には舶来の文人趣味が先行していた、とも言える。紀貫之に
は先輩格の文人菅原道真が梅を愛した名高い趣味には、先代の遺風が薫っているとみてよいだろう。
かざ
もはや、「ももしきの大宮人はいとまあれや梅を挿頭してここに集へる」という万葉集請人知らずの
歌が、新古今集では出部非人作となって、「ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざしてけふもくらし
つ」と改作されたことをとかく言うまい。「梅」から「桜」へ、そして、「ここに集へる」から「けふ
もくらしつ」への違いには、時代を経て人の花にむかう生活や心情の違いがこわいほど露出している。
上古、あくまで人が主となって花をたのしみ、中世、咲き匂う花が主となって人の心を奪っている。

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かざ
「梅を挿頭して」で思い出すのが、天平二年(七三〇)正月十三日、太宰府の大伴旅人の邸へ三十二人の
ふじい
役人が集い寄って「梅花の敬三十二百」をものした中の、筑後守葛井大夫による「梅の花全盛りなり思
かざしおのりおゆ
ふどち挿頭にしてな今盛りなり」という一首だ。年紀を眺めて、さきの小野老の「にほふがごとく今盛
りなり」と並べるとはっきり通い合うものを感じる。「奈良の都の八重桜」と名ざした伊勢大輪の歌と
の近縁関係より、気息はよほど筑後守某の梅の歌の方に親しい。いや彼の方が小野老の名歌を伝え聞い
て影響されている、とみた方がいい。
「この花」と名ざして言う花が太古の桜から梅へ、また梅から桜へ交代したこと、そして花は桜とほぽ
そう
定まって以来歳月は今日にまで及ぶこと、その意味で我々が、万葉集よりは古今集を宗とする文化およ
び心情に取り包まれて、そういう、匂いの濃やかな文化や心情を介しつつ、いわば日本人好みなるもの
を否応なく感受していること、を思い知らねばならない。
たけのじようおう
強弁だとも言う声があろう。それなら今一つ、茶の湯の世界では武野紹鴎に引用されてひとしお名高
とまや
い藤原定家の、「み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋のタぐれ」という歌を想い起してほし
い。ここにいう「花」を、定家自身は何と想っていたか。この歌に寄せて茶の湯の心を説いたという紹
鴎自身は何の花を考え、二十世紀の我々が何の花を先ず考えるか。
もはや常識的に「花は桜」と見当をつけた上で、歌に即して合理的に解釈すれば、「秋のタぐれ」に
桜の花はないが当然ということになる。したがって詠者は、いまは秋、桜はむろん紅葉すら見えぬよと
景色の乏しいことを嘆息したかと読める。むろん何だかしっくりしない。どこかおかしい。阿呆らしい。
さりとてこの「花」を季の花、桔梗や女郎花のような秋の七草ないし菊の花かと読めるだろうか。理に

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なず
泥んで読めぱそれしかない。のに、紹鴎も、我々も、秋の「紅葉」にならぶ「花」とは春の「桜」とし
か考えられない。断乎「桜」と言い切ってしまいたい。桜であってこそ辻棲が合う。
古今集に詠まれた花は、一に桜で二に紅葉ということを、知識として承知するさきから、定家も紹鴎
もあなたも私も先験的に知り尽している。思えば貫之の昔から今日まで、着る物が、食べ物が、そして
住む家がどんなに激しく姿や味や形を変えてきたことか。しかも「花」の座には相変らず「桜」が坐っ
ているのだ。それは所詮知識や理屈の次元よりも好むと好まぬに関わりなく肉体化してしまっている。
なぜそうなったか。一つは日本の季節感が衣食住の変幻を超越して今なお或る安定を保っているとい
うことにつながっているのではないか。それも非常に日本人らしく特殊な感覚で、例えば「花ももみぢ
も」と言葉が生きて胸の内に居並へば、もはや現実の季を告げる今日只今の「秋のタぐれ」を一気に深
く押し超え、人それぞれの心に秘蔵された美しく理想的な季感の方がどっと優先して知を抑え情をはら
み意を育ててくる。そこでは季節は、春夏秋冬という順序立った物理的な時間経過の一点一時期として、
しまむげ
四角四面になど蔵われていない。春の精髄、夏の真相、秋の妙趣、冬の風骨が無擬に揮融し自在に取り
出し組み合わせて賞味賞玩される仕掛になっている。その上ではじめて、眼に見た秋の或る夕暮時が、
眼に見えない「花」と「紅葉」とで対比的に認識されるのだ。「花」「紅葉」が、歌の上では「浦の苫
屋」ただ一つの「秋のタぐれ」と言いたいばかりに一度は否定されている効果も、必要も、実は心中秘
蔵の「花」「紅葉」の実在感が深く重く美しくてこそ、詩的に保証されるのである。だからこの「花」
こだわ
は、なんら「秋のタぐれ」に拘泥ることなく「春の桜」であっていいのである。
桜のイメージをかりなければ、「浦の苫屋の秋のタぐれ」を歌う意味も、歌の美しさ佳さも保証され

23

ない秘蹟を、この「花」は厳重に、むしろ傲然と確保している。それを、定家の同時代人も、紹鴎の同
時代人も、今日の我々もわが心の中に確保している。梅でも菊でも水仙でも、ない。否でも応でもこの
「花」は、「桜」なのである。
そういう「桜」を心に咲かせて日本人の文化は、古今集の頃から今なお同じ一つの円環を結び拡げつ
づけて、貫之も紫式部も定家も世阿弥も利休もそしてあなたや私をも一緒に、いわば垣根なしの隣同士、
同時代人として包みこんでいる。
「桜」に花を代表させる日本人の心の紀元は、どうやらまだ一区切りに至ってはいない。そして茶の湯
は、その「桜の時代」ともいうべき経過の、およそ半ばに位置して生まれている。中世の最も中世らし
い芸態の完成と言われながら、想えば茶の湯も、古今集以後今日までの日本人好みにしっかり色染めら
れていることを否でも知らねばならない。
むろん同じことが「花」を固有の美の理想、理念とした観阿弥や世阿弥の能にも言える。「冷え枯る
る」という負の情念に置き換えて「花」の花やぎを見極めた心敬や宗祇の連歌にも言える。茶の湯も能
も連歌も、所詮は中世だけの枠の中でその本質の魅力を味わい尽すことは、また説明し尽すことは不可
能なのである。不可能なことを強いて辻棲を合わせて可能に見せかけようとするから、無理が生じる。
俳譜の芭蕉が定めた、和歌の西行、連歌の宗祇、絵の雪舟、茶の利休という風雅の系譜観は、久しく後
あやま、、
世の日本人を錯らせた、と言わぬまでも偏った眼で中世を、あまりに中世だけをうすぐらく眺めさせて
しまった無理の一例なのである。

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「桜の時代」も分るけれど、桜がそんなにすばらしい花か。日近にしげしげと眺めて姿、形のとぴきり
美しい花だと私も思わない。そういう意味なら牡丹がいい。菊も椿もいい。ちいさな草花にさえみごと
な造型美を湛えた色美しい花はたくさんある。プライベートに桜が一等好きと答える人はむしろ時代が
すくな
下るほど寡かろう。しかも、最も日本的な花は、といささか解答者を試みる式に改まって表向きにもっ
てこられると、無難に「桜」と言って置く人、そう言って置いても嘘をっいたほどは気の暫めない人、
当然と思いこんでいる人は多いだろう。プライベートな趣味や好尚を洗い落したあとの、それは晴着に
近い納得であり姿勢である。「花」は「桜」でないと落着かないという納得の姿勢である。
天皇と桜とは、日本人の心の歴史の中でよかれあしかれよく似た意味の象徴だったのだ。好きな人は
と訊かれたり尊敬している人はと訊かれたなら、親であり友たちであり恋人であってよし、清少納言で
も豊臣秀吉でも夏目漱石でも長島茂雄でもいいが、晴着を着て、外へ出て、人前で、日本を象徴する人
はと訊かれれば、久しく、天皇、と答えて置くのが無難で、自然、だった。むろん天皇が好きでなくて
もだ。というより、個人的な好き嫌いを超えた存在だからこそ象徴性、いささか無責任でもある無難さ、
を持ちうるわけだ。
すこぷ
しかも天皇と桜は違う。桜はそれなりに頗る美しくて、人を楽しませこそすれ迷惑はかけない。天皇
を立てて置く無難さには、立てないと厄介という後難をおそれる思いもあったが、桜には何の義理もな
い。それだけに「桜の時代」も久しいということが無言の重みをもってくる。桜の、この象徴的な無難
さは、或る意味で天皇のそれ以上に大切に評価され認識されていいのだ。
谷崎潤一郎の長編小説『細雪』という題は、主人公雪子の名とともに実は桜吹雪の美しさをも表現し

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ている。「雪月花」という自然美と風雅の眼目は、さらに「花」一字に籠めて久しく理念化されてきた。
世阿弥が「花」といえば、雪、月の魅惑をも体した花なのだ。花やかとはそういう理念の洗練された表
現なのだ。根本はそこへ還って想わない限り、世阿弥の「花」は味解できないだろう。そして『細雪』
の真の主人公と言うべき姉の幸子は、新婚の旅のさなかに夫真之助から花は何が好きと訊ねられて即座
に「桜」と答え、魚は「鯛」と答える女性として書かれている。
それは、谷崎自身の好みを超えて、谷崎が「桜」や「鯛」の象徴的意味にしかと思い当っていたこと
を表わしている。しかも批評家の多くは月並で陳腐な好みと非難した。自分なら、桜よりもっと好きな
他の花があるとまで言った。
滑稽な非難としか言いようがない。例えば幸子がここで桔梗とか百合とかバラとか答えれば、鰯とか
鮪とか蟹とか答えればよかったのか。っまりそういうことではない何かが、谷崎の見た幸子の思いに、
幸子の生きた『細雪』の世界には、書かれねばならなかった。谷崎も、作中の幸子も、昔の人の花を待
ち、花を惜しむ心が、決してただの言葉の上の「風流がり」ではないことが、「わが身に沁みて分る」
のだ。真の批評ならその「分り方」にこそ向うべきではないか。
『細雪』はあの無残な戦時下に軍の弾圧に屈せず書きつがれていた。作のでき映えや個人的な好き嫌い
は別にしても、谷崎の作家魂はどんな口うるさい文学者にもほめたたえられた。悠々たる年中行事絵巻
さながらの小説が、おのずと一種の象徴性を持った事情、持たずに済まなかった事情を想ってみよ、幸
子の「桜」と「鯛」とがどんなに重いか。その重みが戦後三十年の今日には呆気なく失せているとでも
言うのか。

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私は、「桜の時代」に否応なく生きている今日を讃美しているのではない。慨嘆していると言った方
が近いだろう。谷崎の、幸子の、認識と問いかけとは今生きる日本人にとっても決して無難にやり過ご
ゆえん
せない重苦しい課題性を帯びている。敢て「桜」を語る所以がそこにある。
谷崎潤一郎は、『細雪』に至る作家成熟への事実上の出発点で、大正十三年に『痴人の愛』を書き、
ここでも女主人公のナオミにその夫の口を借りて何の花が好きかと問うている。ナオミズムと呼ばれて
一時代を風靡したナオミは、言下に「チューリップ」と答えた。『痴人の愛』から『細雪』へ、そして
「チューリップ」から「桜」へ、ともあれ激しい変貌を通して谷崎潤一郎という現代日本の誇る第一等
の作家は何かが言いたかった。言いうると考えていた。そして、彼は生前、京都法然院の墓地に「寂」
じゆちよういつしゆ
一字を刻んだ寿塚を築いて、愛してやまなかった一株の枝垂桜を自ら移し植えている。彼は、自らを、
「桜」時代を生きた日本人と信じて死んだと言える。その心情は、何百年もの昔に、「願はくは花のも
とにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」と歌って自ら初桜の美しさと化し、寂然と常世に返り咲いて
行った西行法師の覚悟と変らない。和歌清寂の「寂」は、解すれぱさまざまに難儀ではあろう。が、西
行や潤一郎の思いを経てこの一字を見直してみることは、存外、茶の湯に生きた「花」の心にも、すら
りと手が届いてこよう。
貫之、紫式部、西行、遥かに下って谷崎潤一郎と並べて、これら桜を愛した文人の愛がしごく官能的、
耽美的だと諒解するのはたやすい。ひたすら桜の花を匂う美の象徴として、それも木花開耶姫ほどの美
女かと想って愛したらしいことが理解できる。西行にも潤一郎にも、理想の女とはその足もとに伏して
永遠を生きるに足る存在だった。桜に対してそれも一つの姿勢、むしろ最も信頼するに足る無垢の愛に

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私には見える。
だが花は桜、人は武士、といったイデオロギーに変えても桜は久しく意識されてきた。人の生命を散
り行くものと思いじめた人に、桜は無常迅速を象徴する美しさとして、美の生命そのものまでがうつろ
いさぎよ
いのはかなさ、散る潔さとともに理解され肯定されてきた。武士だけが感じたのではない。むしろ桜
を眺めて一日をくらしてしまうような王朝女文化の倦怠と飽満にこそその心情は根ざしている。「花の
いろはうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」という小野小町の歌や、「久方の光
もののふ
のどけき春の日にしづこころなく花のちるらん」という紀友則らの歌に流れていたあわれが、武士の猛
き心に鋭く触れて、久しい「桜」時代を経てなお、「咲いた花なら散るのがさだめ」とうら若き「同期
の桜」たちに唱わせた。「散るこそ花と吹く小夜風」と切腹前の三島由紀夫に詠嘆させた。
年々歳々花相似、歳々年々人不同という。が、眼に見えた花だけが花でなく、心の花は六変れぱまた
変る。同じ「桜」の時代に生きながら、主に花の色香が耽美的にめでられたのと、その色香が散り失せ
なが
るところを無常と詠められたのとは、ものの表裏という以上にわれらの「日本」に就て考えこませる。
「色は匂へど散りぬるを」という詠嘆の声をとるか、例えばあの、「さくらさくら、弥生の空は、見渡
すかぎり、霞か雲か、匂ひぞいづる、いざやいざや、見に行かん」という耽美の歌をとるか。利休が藤
まつ
原家隆の「花をのみ待らん人に山里の雲間の草の春を見せばや」を挙げて茶の心を説いたという、その
「花」に批評的に結晶した中世人の、心の色と匂いは、やはり古代から現代に至る「桜」時代の大きな功
罪および両面とともに改めて問い直されねばならない。と、以下、過去と現代の茶の湯を手厳しく考え
直すためにも、その土台に敢てはじめの二草分を費し、いわば”茶の湯以前”の日本を先ず語ってみた。

28

淡き交わり

雑誌『淡交』(裏千家の茶道誌)の創刊が正確にいつだったかは憶えないが、第三種郵便物の認可は昭
和二十四年五月とある。私が京都市内の新制中学二年生に進んだ春に当り、独り身の叔母について夢中
で茶の湯を習い進んだ時期にも当っている。
さか
「淡交て、ええ一言葉やなア」と何度そう言ってきたろう。創刊時、叔母に見せられて賢しくも感じ入っ
た覚えがある。高校へ入り大学へ進んでも折あればそれを言い、京都を離れて結婚後も、ずっと叔母の
読み終えた『淡交』が月遅れながら送り届けられるっど、妻とそう言い合ってきた。
京都では叔母の稽古場を手伝いっづけて茶名は在学中に受け、東京へ出てからも、望まれれば、六畳
一間のアパート時代でさえ会社づとめの友人たちに手ほどき程度のことはしてきた。茶の湯に多くを享
けている。享けた分、成ろうならそれ以上のものを茶の湯に返すのは当然と思ってきた。小説を書き出
してからも茶の湯に触れた作品の方がそうでないものより多い。雑誌『淡交』との付き合いは深まる一
方で、あの記事と出違わなかったらあの小説は書かなかったなと思い当る作が幾らもある。
雑誌がどんな読者にどのように購読されているかも、よく承知している。叔母の稽古場には記憶する
とだ
限りこの三十年来、土曜日ごとに跡絶えなく二十人前後の社中が稽古に通ってきた。最後まで増えるこ

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とはあっても人数は減らず、近年は稽古日を金曜日にもひろげて教えていた。そういう人の大半が『淡
交』を購読し、事情で稽古をやめてからも雑誌だけ取りつづける人もあった。
叔母は昨春(昭和五十年)逝かれた金沢宗推氏古参の社中で、月例の淡交会に先代家元の前で社中を率
てまえ
いてお手前したことも何度かあり、私は学生服で水屋を手伝った。猛稽古の思い出もなつかしい。
そんな淡交会当日のちょっとした珍しい話をしようか、たしか相国寺を会場に借りていた頃のことだ。
御役を果し、ほっとして便所へ立った。と、間も置かずに淡々粛宗匠も入って来られて、二人は二つの
朝顔へ向いて余念なく並んだ。眼の前に小窓があいていて、新緑がきらきら眩しかった。
「ああ、ええ天気やな」と家元は、愉快そうだった。私もきもちよく「はい」と頷いた。お先にと失礼
こだわ
すると青年のような清澄な返事が返ってきた。私を当日の手伝いとも知られぬままの何一っ拘泥りのな
い唯一度の出逢いで別れだった。昭和三十年頃のはなしだ。
なにかの折に京都へ帰ると私はためらいなく叔母の稽古場へ入った。頼まれれば叔母に代って初歩の
稽古を見もしたし、新顔の社中とも気らくに話した。思えば私は叔母の茶室の中でもっぱら青春を過ご
してきた気さえする。むろん年寄りにも若い人にも顔馴染の相弟子たちが延べ何百人になっていること
か、そういう人たちに囲まれて去年の秋にこの叔母は稽古場をとじ、東京の私たちの家族と唄に過ごす
べく、七十五歳ではじめて生まれ故郷の京都を離れた。健康を損じたからだが、簡単に思い立つには重
大な決心だったはずだ。
たいこだいら
お別れ茶会には太閤坦の桐蔭席に近い中林邸を借りた。好天に恵まれて盛会だった。私もむろん東京か
ら出向いて来客に久しい叔母への好意を謝した。すべての茶振舞いが済んだあと広間に社中一同集まり、

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叔母がごく簡単にお礼とお別れを言うと、思わず居並ぶ人の美しい髪が揺れ着飾った着物の袖が動いた。
たつと
人の交わりは淡きを尚ぷのだという。淡交ー、それはなにも雑誌の名であるなしにかかわらず、思
わず「ええ言葉やな」と言わせる理想の翳を清らかにひいている。と同時にこの声には、なかなか淡交
成り難いのを嘆く思いもまじっている。淡交をゆるさぬものが人の世の仕組み自体に幾重にも根を張っ
ていて、そのしがらみに絡まれ足をとられているうちに自称君子の交わりは手もなく色濃く無頼に堕ち
る。隠逸の誘惑がそこに兆すのだが、当世もはやどんな形での隠逸をも人にはゆるさぬようにでき上が
っている。むしろ「淡交」の理想は往昔に較べてもっともっと厳しい環境の中で追求するしかなくなっ
ている。その自覚がないと、茶の湯ばかりか、今生を生き抜く時々刻々、年々歳々が、泥のような欲に
まみあいぜんひみよう
塗れて、所詮は人と人との和敬清寂など有り難い。茶人だけがかかる愛染無明をくじ取らずに逸れてい
ると思っては虫がよすぎる。へんな茶人にもいやほど私は出違っている。
「和敬清寂」と「淡交」とは全くの同義語と考えていい。茶の湯とは人と人とが寄り合い楽しむものだ
が、さように楽しい入交わりこそ淡くて何よりとは、誰もが体験的に重々思い知っている。知っていて
いち
それが成らず、成らぬ理由にも重々思い当っている。茶は茶室だけにあるのでなく、便所の中にさえ一
ごいちえ
翔一会はあった。「淡交」とはまた「一期一会」と全くの同義語と考えていい。
少年の昔「淡交」の二字に感心したのは幼いながら理詰めの分別で、実感にはやはり遠かった。歳々
年々人不同の嘆息と相伴ってこそ「淡交」が今生容易に成し難き理想だと、不惑の声を聴いていよいよ
惑いは深いのである。それでも雑誌が私の机に運ばれてくる日、中に掲載の何一つを読まずとも表紙に
刻まれたこの二字は、私にしたたか物を思わせる。大概は己が不如意を嘆く切ない思いだが、文字の美

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しさ、言葉の佳さに触れるのはしみじみ有難い。現今の茶人にも茶の社会にも茶道具にも私はすこぶる
飽き足りない思いを隠したことがないが、「淡交」二字に逢う時、淡々と声をかけ淡々と頷いて別れた
人を想い出しながら、いやでも重なる霧しい日々の繰返しの一度一度に、一期の真情を籠めたいと願わ
ぬことがない。
淡交が尊いのは、濃き交わりを賎しいとする感情の裏返しに違いない。そして心ならずも濃き交わり
に染まって行くのが切なくて、人はひそかに嘆くのに違いない。「淡」は保つに難しい生甲斐である。
よほど強い意志の力で持ち支えても容易に保てない処世の理想である。「濃」は逆に、成行きにうちま
かせて誘わずとも誘い寄る情念の沼である。沈めば沈むほど泥は深い。
「濃い」「淡い」は、この際、人と人の間に生まれたいろんな「色」合いを想像させる。没交を尊ぶの

は人交わりにつきものの「色」が徒らに汚れ濁らないことを願うのだろう。「色」がついても清んで淡
い方がいいという価値判断だろう。この場合の「色」とは偏跛の意味であるし、執着の意味でもある。
むろん話を上清みの精神論にしてはならないのであって、逆に、偏破と執着こそ、人が生きて現実に
たと
存在することを姿形あるものとして我々にも人にも分らせているのだと言ってもいい。讐えば何か本質
的な光源のようなものが人それぞれの内ふところ深くに隠れていて、外へ、世の中へ、と折々に光を放
つ、それが即ち人の生きる証したと想ってみれば、光は人目に映えるために「色」をもたねばならない。
個性とか人柄とか癖とか、また好みとか意欲とか能力とかは、大なり小なり当人が外の世界へ向けて表
いい
わす偏跛な執着の程度差の謂でもあるのだ。
そういう人と人が出違いつづける人の世が、あたかも雑多な色をむやみと塗り重ねるのと異ならない

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事情はたやすく想像される。人交わりに「色」がつかぬ方がむしろ不思議なのであり、不思議を不思議
のまま成就したい、その願いが「淡交」という理想になる。かかる理想が現実いかに行われ難いかを知
ってなお求める志が、茶室の内に生まれ育った時代、それが十五世紀末中世乱脈の絶頂期から中世への
つと
断念が深刻になって行った十六世紀末へかけてだった。私が夙に手利休を「最後の中世人」と呼ぷのは
あらわ
それ故である。「淡交」つまり「和敬清寂」と「一期一会」との尊いこともともに知り尽したのは、露
な利害感情を各階級の内に外に渦巻かせて争い合った中世人だった。彼らの茶にどれほどの「淡交」が
ありえたか、それが利休と佗が茶の意味を思う、いちばん本質に触れた具体的な問いになるだろう。

「けれど『淡交』って、ずいぶん色がっいてるんじゃないですか」と人に言われる。この際はほかなら
ぬ雑誌の評判であって、肯定もせず否定もしない。それは読者と編集者が正しい判断を下すべき領分で、
筆者はいわぱおのが偏肢と執着を極力無垢にうち出す以外にない。そういう筆者たちももちまえの色が
すしし
幾つか塗り重ねられて清むか濁るか、「没交」とは色を否定する謂でなく、色の清んで調和することを
ベース
調う以上、企画編集する主体が基調にどんな色を置いているかが何より大きく物を言う。「茶道話」と
銘打っ以上は、企画と編集の在りようにほんものの茶がどう活きているのかと、その気で接する読者の
視線は存外厳しいのだ。
色がついていないかーとは、読者が色眼鏡をかけて読みそうだという響きも多少食んでいるが、や
はり雑誌の発行や編集の意図や方法の方に、度の強い色眼鏡がかかっていないかという懸念と取れる。
たとえば当代子宗室氏に「茶道」は「宗教」だという大きな提唱がある。が、茶聖といわれる利休の

33

時代、利休の言動、利休の茶そのものから直ちに宗教を示唆するような「茶道」という手遣い、言葉遣
さどうちやどう
いは確かめえないと思う。この二字はせいぜい茶頭、茶道と同義の、茶の湯を以て君側に奉仕する者の
じかじようおう
意味を多くは出なかった。宗教的な「茶道」を直に証する文献も徴候も、紹鴎、利休と同時代にそうは
見当らない。市民社会の相応の成熟期にふさわしいすぐれた社交術、趣味性、が倫理的に洗練されて行
く或る凄烈感はあるが、直ちに宗教とは言えない。名高い『南方録』一本を偽書と断じて除外してしま
うと、事情はかなりすっきりする。
おりべ
珠光、紹鴎、利休から織部や宗旦に至る道統がたしかにある。この道統を育てた奈良、京、堺、大坂
の時代背景に打ち重ねながら仔細に当時の茶の湯の楽しまれ方を眺めれば、茶室は或る意味で道場でも
あったが、同時に一種の鹿鳴館でもあり大学でもあり会議室でもあった。「茶道即宗教」で茶の湯とい
う展がりの大きな生活遊芸をすべて説明し去ることは無理が過ぎよう。無理を承知で「茶の湯」を「茶
道」にし「宗教」にする意図の中に色眼鏡がないのか、というのが門外漢最大の懸念であるらしい。
たとえば珠光は茶の湯の心得に次のような五ヶ条をあげている。
一、所作は、自然と目に立ち候はぬやうにあるべし。
一、花の事、座敷よきほどに、かろがろとあるべし。
一、香をたくと、いかにも、さのみけやけやしぐ立ち侯はぬやうにつぐべし。
一、道具も、年寄り人、また若き人、それぞれのほど、然るべく候。
一、座敷へ直りて、主客ともに心をのどめて、ゆめゆめ他念なき心持こそ、第一の肝要なれ。内心ま
でにて外面へ無用なり。

34


また紹鴎にも、「茶事もと、閑居して物外をたのしみ居る所へ、知人とぷらひ来て、茶鮎てもてなし、
何がなと花を生けてなぐさみ候すがたにて候」という言葉がある。彼は、正直に慎み深くおごらぬさま
を「佗び」とも言っている。
いずれも後人が珠光、紹鴎の名に託した気味もあるが、生活的信条のにおいこそすれ、宗教的信仰と
は軌を異にしているのが分る。まさに入交わりが即ち茶の湯だという根本に立って物を言っている。

「そもそも茶の湯の交合は、一期一会といひて、たとへぱ、幾度おなじ主客交合するとも、今日の会に
再びかへらざることを思べば、実にわが一世一度の会なり。(中略)実意を以て交るべきなり」と井伊
なおすけ
直弼が言うのも同じ伝統に立っている。総じて「茶の湯の道」即ち茶道ということばを個性的に愛用し
ふまい
つつ奥行のある茶の湯論をなしたのは、直弼以前にも小堀遠州、片桐石州、松平不味ら武家茶人に多く、
彼らはすべて一言に尽せば「淡交」という入交わりの倫理を理想的に追求している。それは、「茶道」
をいきなり「宗教」視するよりも、遥かに日常の人間生活の作法や配慮と密着しながら、そのさなかに
死生命ありの覚悟を結集して他念がなかっただけ、「淡交」を願う実感も強く感銘も深い。
もしそれ「宗教」が「家元制度」を保守するに必要とあって借り物めいて掛けられる看板ででもある
なら、それこそ本物の宗教に対してもいかがなものか。それ自体、家元制度への危倶をより深める逆効
果の短絡にはならないか、「家元」は「教祖」と同じではないのだから。
世襲教祖の主宰する宗教を自分は信じない。絶対者の恩寵は人間の血脈の如き偶然を遥かに超え、最
も選ばれた者にのみ天来の声を幅きかける。かかる選はれの前に人の世の親も子も孫もない。もし茶道
は宗教であり、従って家元は教祖だという如きなぞらえに自足するのが提唱の本義だとすると、いう所

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あやま
の「茶道」は二重三重の錯ちを犯しかねない。第一に、それは本物の宗教でなく、世襲教団の世俗権力
機構をさらに真似たものということで、真実の宗教を二重に遠ざかり、それが却って茶の湯が本来もっ
ている至純の倫理性をも窒息させることになる。第二に、いわば世襲教祖の地位に家元をなぞらえるこ
とで、家元制度が「芸」の世界に於てもっべき積極的な機能をただの建前として空洞化、形骸化させる
おそれがあり、家元の存在を「芸」の頂点としてでなく、世俗集団の権能上の頂点に変質させてしまう
ことになる。それは最も悪しき天皇制の擬態でしかない。第三に、「茶の湯」が「茶道」に、「茶道」
が「宗教」にという夜即自火の変質変貌を、珠光から利休に至る茶の湯がすぐれて現代(彼らが生きた
現代)に作用しえた社会的、審美的、精神的な働きと比較した場合、あまりにみすぼらしくやせて陰気
な表情をもち、茶の湯という未来へも開かれた可能性に、反時代、背現代性を本意なく負担させて倭小
化してしまうことになる。
利休が、「十年ヲ過キズ茶ノ本道スタルベシ」つまり自分の死後僅かな歳月で茶の湯は心なき繁昌を
謁歌するだろうと辛辣に予言したという伝説は、倭小化しがちな伝統の陥りやすいところを鮮やかに見
当てている。
たしかに伝統とははじめ一種の大風であり強風なので、どんなに強くカある風も必然やむのである。
やむことを知って、やませまいとする次代の志が、次から次へ奮発してその風を吹き送り続けようと努
めなければ、いかに利休の風が大風であり正風であっても必ず衰えてやむ。やんでしまえぱ、あとは風
うつむくろ
の吹き通った道だけが洞ろな骸のように残り、それをただ指さして「道」がここにあると言い道ばたに
多勢がただ仔んでいても、所詮「現代」に背いて「過去」を後向きに見ているに過ぎない。一歩も前へ

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進めないような「道」のほとりにどんなに人だかりがして賑やかに栄えてみせても、利休が「茶ノ道廃
ルベシ」の予言を裏書きするだけに終ってしまう?。

と、まあこんなふうに息巻いて雑誌『淡交』には色がついていないかと懸念する人はいるわけだし、
私は肯定もせず否定もしない。所詮誰しも色眼鏡をはずしては物が見えないので、問題は、その色の質
がどうかだろうと思うだけである。
色々の名もむづかしや春の草1。
色は言葉で言い表わしにくい最たるものだし、時と場合で同じ色が色々にうつろう。「色有って分ち
こころわきまひひ
やすし残雪の底、情熱くて弁へがたし夕陽の中」という詩句は、たとえば紅梅の花が罪々たる白雪に紛
か(やく
れなくとも、赫亦大たる夕陽の中では、「情」を用いて見ないと見分けにくいことを教えている。
色と色の限り無い相対感を教えているとも言えるが、色が色として存在する在りようを限りなく多彩
な物と物の関わりとして教えているとも言える。「色」は、だからその一字で有りと在る「物」の世界
、、
の一切をさ文言葉になっている。人はまさに色々の世界に人ならびに物と交わって住む、ということで
ある。「色」は「交」の中に必然あらわれて、しかもそれが「淡」であれとは難しい望みである。それ
は、「色の色あるところのものは彰わる。色を色となすものはいまだかって顕われず」と古人のいわゆ
くうしき
る、「未二嘗顕一」のもの、つまり「空」を、「色」の中に直ちに求める望みなのであるかも知れぬ。ふつ
まみしきくう
う入交わりとは、色の中で色に塗れるものだが、淡交とは、色の中で空を体する意味なのであるかも知
かた
れぬ。難い哉。

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無色無臭であることが物の、事の、人の立場の或る良い状態をさして言われることがある、色がつく,
においがつく、それが即ち汚れや濁りの意味で言われる。人それぞれの避けがたい偏破も執着も、その
じよくせ、、
意味では汚れであり濁りである。此の世を濁世と呼ぶのも、此の世が物の世であり色の世だという認識
がんにぴぜつしんごうん
である。眼耳鼻舌身に触れるすべての色ある物の世界、五蘊、が即「空」とはとても思い切れないのが
さが
此の世、人の世、つまりは「色」の世を生きる性だという認識である。
この認識から一歩も外へ出ず、そのままの状態で「空」を体しうるという、論理でも直観でもない願
しきくうくうしき
念がいきなり「色は空と異ならず、空は色と異ならない」という大肯定に転じた場所に「淡交」の理想
が現実となる機微を生じる。断念とも諦念とも言えようけれど、やはり一種巧妙な肯定だとみるのが、
日本人の性情に即して正確に近いだろう。無明や煩悩が即菩提という肯定を頼むのである。頼めば直ち
に安心するのである。安心しておくのである。その先へは眼をとじるのである。
ふくさきたな
たとえぱ帛紗で茶杓を、茶巾で茶碗を、本当にしごくように拭えば、見る目には却って械い、という
、、
清さの感覚が入交わりの澄と淡に巧みに転用される。汚れを拭うかに見せて実は拭わないのが清めにな
る。なると思う。肯定する。肯定が断念になり諦念になり、色は空に異ならない所へ無限に近づく。浸
は濃のまま淡と思えば即ち淡となる。
だが、日本人には色不興空を超え出た色即是空、色即空は踏みこむべからざる聖域でしかない。そこ
は神、仏の領分であり、人には人の世がある。色は淡く、しかし入交わりは否定しない。すべくもない
のである。日本人にとって此の世とは、私とあなたと二人が共有の「手前」として拡がっている現実の

場であり、「空」ではないそれが社会なのである。茶人にとって茶室はそういう場所、社会、にほかな

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らない。井伊直弼が唱えた独生観念の茶も、今の今帰途にある客を思い友を思いながらのものであり、
一期一会の「会」の文字には入交わりへの強い肯定と是認が生きている。それが茶の湯の本当の伝統で
ある。
人と人が寄り合い交わる、それが色なきことであるわけも、あって良いわけもない。「色なき人」と
おと
いう言い方があり、それは人情にも風情にも乏しい棒切れのような人柄を賄しめて言っている。やはり
ここら
色はあってよく、だがそれも色々で、とかくその色合いが汚れて濁ってしまうのが却って「情」ない、
わきま
ことになるだけだ。「情」が無いとすべて弁え難くなる。「情」があれば「色」も「空」に異ならずと
いう所べかなり真直ぐ歩いて行ける。だから「情」とは「心」とは、何だろうということになって、心
競べはことに平安時代以来、あらゆる場面で人の魂を絞る営みとなってきた。淡交を願う茶の湯という
のも、そうした心競べの久しい伝統の上に一つの分野を拓いたものと言える。色は色として認めるとい
う姿勢がなくて心膜べは成立たないのである。
どういう時に、どういうことを言い、行い、感じ、決断し、表現するか。衣食住にも詩歌にも調度に
も消息にも趣味にも会話にも表情にも、のっぴきならぬ心競べがあり、そんな心膜べでは、技芸の能力
ならぬ当人の心術が直に評定され、それを通して人間関係のうわてとしたて、かみてとしもてとが峻別
されて行った。平安貴族の女文化に限らず、中世以来の武士にも、やがて庶民にも、日々の心競べが急
速度に浸潤したことと、連歌や茶の湯のような芸とも遊ぴともつかぬ入交わりの寄合が爆発的に歓迎さ
れたのとは、ちゃんと軌を一にしている。それは寄合の衆が互いに互いをどれだけ色々のことをよく分
りよく弁えているか、その「情」を窺い合うのに楽しくもまた厳しくもある交わりの場だったのだ。か

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りに言動に表わさずとも互いの顔色に読みとれすらした。
色の色々が、あたかも紅梅を夕陽の中に置くと同様の分別しづらい状況の中でも、情が深ければ弁え
むか
られるということは、自分の色を極力正して他に対えということだろう。色めき立っていてはならぬと
わげん
いうことだろう。和顔愛語、「色は泥を思え」であって、本来の色をうしなうということではないだろ
う。止水に映る影を見よ、月が歪むのではなく水が動くのだ。色というものの性質が限り無く多彩であ
るとともに相対的であることを、人と人が見合せた顔色、眼色ほど雄弁に物語るものはない。
「色を動かす」と言う。動揺するのだ。「色を失う」と言う。動顛するのだ。「色を変える」と言う。
、、
驚くのだ。「色を辞ける」と言う。人を畏れるのだ。「色をなす」と言う。怒るのだ。「色を正す」と
言う。天真に返るのだ。「色を柔らぐ」と言う。心が通ったのだ。すべて顔に眼にあらわれる色なのだ。
思い内にあれば外にあらわれるその色なのだ。「忍ぷれど色に出」るのは恋ばかりではない。茶人なら、
その人の茶が表に出るのだ。
京都にいた頃、母校の中学、高校の茶道部へ何十人かの後輩たちに手前作法を教えに通った。限られ
た条件で限られた範囲を、週に一度二度ずっどんなに楽しんで皆と稽古したかしれない。が、私は自分
もそう思い仲間にもはっきり言った。もしお茶より大事な何事かが眼の前にあらわれたなら、その時は
惜しげもなくなげうてるようなお茶でないといかんのや、と。吾が仏だけが尊しみたいな茶の湯にはす
まい。交わりは、茶の湯とすら淡くてこそ茶の、心やないか、と。
茶にとらわれた、なんだか茶色い茶人があの頃も多かった。今も多い気がする。

40

鉢木

ここんちよもんじゆう
古今著聞集という本は文字どおりの逸聞逸話集だが、今日ではもうすべてが面白いとは言い切れない。
また史料的価値を過信して物を言うこともできない。それでもなお書架から抜き出してきたのは、この
本が同類の逸聞逸話を前後三十類に分けているその分類に、いささか当てにするところがあったからだ。
三十類全部を書き出すまでもないが、「神祇第一」から「魚虫禽獣第川」までの中に、「文学」「和
歌」「能書」「好色」「武勇」だの「博奕」「愉盗」「哀傷」「飲食」「草木」だのと、人事および自
かいいへんげ
然にわたって、なかなかよく考えた分類ができている。「悟異」「変化」というのもあるし、「馬芸」
ごうりき
「相撲強力」というのもある。編者の好みと時代の好みとがほどほどに折衷されているものと考えて間
違いなく、鎌倉時代ももう中ごろ、建長六年(=五四)秋に編集悉く成った旨の構成季による自序と
きようえん
覚宴の記が付されている。取材はまず平安時代の全域に及んでおり、往昔を偲ぶ懐古懐旧の情が色濃く
流れている。古代の趣味と中世の好奇心とが混清した編著だといえる。
が、それはさて措いて、古今著聞集第一から第州に至る目次を眺めていて、予想どおりに欠けている
ものがある。「政道忠臣」「孝行恩愛」はある。「宿執」「闘謬」もある。だが、八犬伝ふうに言った
場合、仁義信に相当する倫理、平たく言って友情などが見当らない。

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ちなまぐさ
但し、忠といえども、生臭くも血腫くもある別の背信や悪徳に裏打ちされているのが上古、古代の忠
であり、孝といえども家門の利害や保身との絡み合いで成立っているのが上古、古代の孝であった。上
古、古代の逸聞逸話といえども概ねが貴族社会で採集されたものであり、貴族社会を動かしていたのは、
原理原則としてエゴイズムだったからだ。無垢の愛を交し合うにはあまりに彼らの社交世界は狭く、利
きよくせき
害を相争わねば家門の繁栄や保身の成らぬ場所に踊踏していた。従って親と子とすらも、兄と弟とすら
も骨肉の情を滅して争うことは珍しくなく、まして他氏族の利が己が家門の害になるような場合は、必
うが
死に策謀してせめぎあった。源氏物語が、源藤二氏の微に入り細を穿っ式の葛藤と抗争の物語とも読め
いちず
ると早くに言う機会のあったのもそれ故である。一途に貴族社会の優雅に幻惑されてはならない。平安
貴族たちの律令政治ないし荘園に立脚した摂関政治は、結局信義抜きの権威が幅を利かせ過ぎて自壊し
て行くが、武士階級が代って要求したいわゆる広義の封建政治は、仁義信を軸にした主従関係抜きでは
理想的に成立つべくもなかった。
建長六年にもなって、公家階級の末席に連なる構成季には、人事自然の大きな世界を三十項に細分し
さいみよう
てもなお信義や仁愛という項目にたいして思い及ばなかったが、この同じ時に、鎌倉幕府の執権が長明

寺入道北条時頼だったという事実は、ちょっと話題として面白いのである。なぜなら彼は、さながら仁
義信が主題の謡曲「鈴木」の不可欠の登場人物なのだから。
執権時頼は僧形に身をかえて諸国を巡歴する。水戸黄門のように助さん格さんも連れない乞食坊主の
げんざえもんりじようつねよ
態で、彼は或る大雪の夕暮れに佐野生なる佐野源左衛門尉常世がなれのはてのあぱら屋に辿りついて一
つねよた
夜の宿を乞い、常世は極貧の中で秘蔵の梅桜松の鈴木を焚いて客僧実は最明等時頼のために寒さを防い

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でやりながら、問われるままに身上の憂さを語って聴かせる。常世は人のために謀られて所領を失い、
もりりぐなぎなた
幕府に訴え出るすべもなく今はかく逼塞しているが、「御覧候へこれに武具一頭、薙刀一えだ、又あれ
に馬を一匹つないで持ち候。只今にてもあれ鎌倉に御大事あらば、ちぎれたりともこの具足取って投げ
かけ、さぴたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に馳せ参じ」て、鎌倉殿の馬前に身
りり
をなげうつ所存だと、凛凛しくも述懐する。
客僧は常世夫婦の親切に深く感謝して雪中をまた立去り、やがて常世は鎌倉殿が兵を召し寄せている
旨を聞き知ると、一途にやせ馬に鞭打って鎌倉にはせむかうのである。
時頼その人の日くを信じるなら、この召集は佐野源左衛門尉述懐の真偽を試みんがためのものであっ
たが、椅羅星の如き中にただ一人呼び立てられた常世は合点が行かない。かねて己れを敵視する何者か
かうべは
がまたも常世を「謀叛人と申し上げ、御前に召し出たされ頭を刎ねられんためな。よしよしそれも力な
し」と悪ぴれずに出て行くと、最明寺入道こそは雪の日の客僧だった。
ことは
「一番に馳せ参るべきよし申しつる詞の末を違へずして、参りたるこそ神妙なれ。まづまづ今度の勢づ
かい全く余の儀にあらず。常世が詞の末、真か偽か知らん為なり」と、いきなり時頼は大層なことを言
けんじよ
いかける。見所では今しがたアイ狂言で霧しい諸軍勢が陣を鎌倉へと押し進める有様を語り聴かされた
ばかりだけに、能舞台で見るといよいよ時頼の権勢の凄じさに驚嘆してしまう。が、むろん時頼の目的
はそれぱかりではない。常世が所領を不当に奪われながら訴訟にも及べなかった点に触れて、「又当参
の人々も訴訟あらば申すべし。理非によって其の沙汰いたすべき所なり」と幕府の姿勢を正して見せた
うえで、「まづまづ沙汰のはじめには常世が本領、佐野の正三十余郷、返し与ふる所なり」と理非の決

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着をつける。施政の衝にある者の、ここまでは当然の処置であり、あっぱれ時頼の名執権ぶりを鎌倉武
士をはじめ我々の眼前に鮮やかに披歴する。
ゆえんしゆうちやくけんしよ
むろん謡曲「鉢木」たるの所以は今一段の祝着至極を見所に期待させずにいない。時頼の言葉はな
せつ
おもっづいて、「又何よりも切なりしは、大雪降って寒かりしに、秘蔵せし鉢の木を切り、火に焚きあ
てし志をば、いつの世にかは忘るべき。いで其の時の鉢の木は、梅桜松にて、ありしよな。その返報に、
かみつけ、、んが
加賀に梅田、越中に桜井、上野に松井田、合せて三箇の庄、子々孫々に至るまで、相違あらざる自筆の
状、安堵に取りそへ」て、常世の前へぽいと投げて遣るのだ。
みぎようしよ
常世は御教書を賜わり三度頂戴に及んで誇らかに呼ぶ、「これ見給べや人々よ、はじめ笑ひしともが
かみつけ
らも、これほどの脚気色さぞ羨しかるらん」と。そして喜びの眉を開ぎつつ常世は「上野や、佐野の舟
橋取り放れし本領に安堵して、帰るぞ嬉しかりける」とめでたく「鉢木」一番の能は果てる。
私はもう何度このめでたい能を見ただろう、この春も喜多長世が演ずる決死の「鈴木」を観たし、去
年の正月にもテレビで喜多実の清々しい「鉢木」を観た。話の筋は隅々まで承知していて、それなのに
キ、
或る所へくると定まって感応する。つまりは涙ぐんでくる。そういう自分を疎ましくもなく私は放って
置く。
だが、能なり謡曲なりの「鉢木」から受ける感銘はいわゆる芸術的感銘で、その点に就て今は言うま
い。私は理屈抜きにこの一番が好きだし、これからも飽きずに観るだろう。
が、芸術的感銘をひとたび脇へのけて「鉢木」の場面や言葉を批評的に、やや理詰めになぞって行く
なかいり
と、とくに常世夫婦と客僧の三人中入があり早鼓が鳴り響いてからの後半に入ると、急にさまざまの感

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くだん
想が湧いてくる。客僧実は時頼と化けてからの長広言につづいて、件の御教書を大味の上へ居丈高に投
げて遣り、平伏していた常世が一層平伏する辺りで私の感想は複雑の度を加えてくる。
時頼が言う如く、雲霞なす軍勢を鎌倉へ召し出したのは、先ず常世の雪の夜の述懐を試みたのだとし
て、あとの成行から推せば、たんに常世一人の誠忠を確認したい称賛したいぱかりではない。居並ぷ鎌
倉武士たちが常世と同じ忠節を露骨に強請されているのは間違いがない。それは大がかりに過ぎるほど
むそくごけに→
大がかりな一場の大訓示なのである。訴訟の件に就ても、当時所領ばなれの無定御家人が続出していた
鎌倉方の窮屈な財政事情と史実的に一々思い合わせれば、ここは辛うじて常世の本領を芝居がかりで旧
に復することで、御家人たちに沈潜した不平不満に一っのはけぐちを作った、少くも善政への努力と姿
勢を見せたということにはなる。これはまた、北条氏と他民勢力との底流する確執の中での、執権によ
る示威行為でも十分ありえただろう。
そして梅桜松の三庄を「鉢木」饗応の謝礼に千々孫々まで与えるというに至って、権勢の威力は豪儀
に華麗な花を開いて見せる。所領とは、庄とは、土地とは、土地に属する民百姓とは、彼らの労働と生
活とは、つまりはそんなものか、という気が、正直してしまう。が、鎌倉殿には忠義一途の常世もそん
な民百姓のことは考えない。すっくと立って居並ぶ傍輩に「これ見給べや人々よ」と時頼自筆の状と安
堵の御教書とを誇示する常世でしかない。
この誇示の一点から、「鉢木」を焚いた前シテ常世の無垢の心情が、少くもここでは仁愛に富み、ま
た無償の信義を重んじていた鎌倉武士の意気が、後シテ常世の中で封建武士の名誉と実利を悦ぶ一篇の
主従物語に変質してしまう。そればかりではない。あれあれというまに「鉢木」は人情の美しさ優しさ

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もののふ
と武士の気高さを謳うドラマから、一人の気のいい御家人をだしにして権勢が壮大に、意のままに世の
中を動かして見せることができるといううわて、したて、かみて、しもての安堵と奉公のドラマにすり
かわる。
まわりくどく言うまい。「鈴木」一番の劇は、佐野源左衛門尉常世の窮情を予め知っていた最明等時
さい
頼が、一切を企んで自作自演した雪の夜の訪れでありいざ鎌倉への召集ではなかったかとまで猜される。
なるほど常世は雪夜の客僧を時頼とは知らずに秘蔵の鉢木を焚いて暖をとらせただろう。尽忠の真情を
とつとつ
諦々と問わず語りに囲炉裏ばたで話しもしただろう。
しかし、我こそは時頼よ、という大化けは、すでにその囲炉裏ぱたでなされて、仰天する常世夫婦に
むかって諺々と時頼は次なる一場面演出の方策と工夫とを語って聴かせ、常世もまた有難く後シテの役
を引受けたかもしれないのだ。そうまで想像させるほど鮮やかな、水際立った政治的効果を「鉢木」後
半の大場面は展開する。梅桜松を焚いた無垢の人情の方は、豪儀な謝礼にあずかりながら、なぜか白々
しく空洞化と倭小化とを強いられ、本当の狙いは、本当の主役は、シテならぬワキの執権時頼が一切を
居丈高に、露骨に、仰々しく引き受けてしまう。常世はただ平伏し、ただ雀躍するだけでなく、時頼の
意図を忠実に増幅する体で、「これ見給べや人々よ」と操り人形のような真似までするのである。

うたいはん
手近な観世流譜本だと、「林木」は観阿弥清次の作とある。観阿弥は世阿弥の父親で、名高い『風姿
花伝(正伝書)』の事実上の口述者であり、その生涯はいわゆる南北朝時代をちょうど蔽っている。つ
まり鎌倉幕府が滅亡し、建武親政のあと足利幕府が北朝下に発足してなお世情混迷の渦から抜け出せな

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い乱脈乱世を、実力で生きた猿楽能擡頭期の名人であり、すぐれた芸の上の指導者、組織者だ。
それにしても彼がこんな時期に少なくも表面は北条の善政を賛美している「鈴木」を書いたとは信じ
かよひじねん
られない。「江口」「松風」「吉野静」「過小町」「卒塔婆小町」や「自然居士」というのは分る。が、
作風的にも「林木」を観阿弥作とするのは付会というにも当り兼ねる実感の乏しさで、よほど後世の、
つまり武家の好尚に意図して迎合した、それゆえにまた彼らの人気を博した新作能という気がする。
しよさ
世阿弥らの夢幻能がむしろ敬遠されて、ショウまがいの派手な所作や展開に重点を置いた能が創られ
て行った果てには、豊臣秀吉のように自作自演で能を楽しむような支配者が出現した。それだけ武家社
会に能が好まれ遊ばれれば、武士出身の喜多大平太のような名人が一流を樹てる気運になるのもまた自
然だった。江戸初期の徳川幕府にあって、一時喜多流の隆昌には瞠目すべきものがあったと言われてい
る。
それにしても「鉢木」は江戸武家社会にあって祝儀の能として何にも増し愛好された。年頭その他の
きま
慶事のつど彼らは定って「鉢木」の能を舞わせたり謡ったりしたようだ。おそらく江戸封建体制の中で
主君によし家来にもめでたい能として「鉢木」ほどうってっけのものはない。あまりうまくでき過ぎて
どうよ
いるので、その一点から推しても観阿弥作などと、正成や尊氏や道誉らが活躍の昔に創作時期を湖らせ
ることができない。よほど気の利いた帯間的才能の持主、例えば曾目利新左衛門みたいな手合いの新作
なのではないかと想いたい。
「鉢木」にはいわゆる能らしい雰囲気の稀薄な、わるく言えばやはり白けたところがある。物の本の解
説にもそう書いたのが多い。たしかに城中や、武家屋敷の中で、将軍と大名が、城主と家臣が、主君と

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家来が揃って「鉢木」を観る図は、さきのような感想をもって想像すればするほど、これ以上の押れ合
いはない、いい気なものだなあと、何かがそこから欠落していることを想ってしまう。
例えば、江戸四谷鮫が橋近くに又太郎という名主が住んでいた。徳川氏江戸入り以前は後の西河東照
宮になる紅葉山辺に住んでいたのが、江戸城造営と拡大に従って、次から次へ強制移転を命ぜられ、元
禄すこし前に鮫が橋に落着くまで、八回の転居を余儀なくされたと由緒書に書いている。むろんすぺて、
城濠になるとか武家地になるとか、武家の都合で転居を強いられたのだと西山松之助氏の本にも書いて
ある。
「鉢木」という能は、材を鎌倉時代に取っているが、劇中の時頼が企図した上への奉公を下に求める政
治的効果および常世らが期待した上から下への恩賞を望んだ封建的欲望は、まさに江戸時代の真只中に
於て最も強い意味を持った。「鈴木」は鎌倉時代の武士たちが望んで果せず、室町時代の武士たちにも
果せなかった武家の夢が、今は叶ったという満足およぴなお一層の満足を夢見ての、江戸武士たちの大
きな自己満足と絡み合った自己呪縛の能だった、と言ってよい。そしてこの「鉢木」を観ている時こそ
彼らは、庶民のことは、庶民の幸福や利害は、きれいに忘れ果てていたと言ってよい。
だから日本の中世を、武家封建社会の確立にむかう四世紀間だったと言う通説が生まれてくるのだが、
こん
私は、そうではなく、その逆様だ、中世の四世紀間は武家封建社会の成立を根限じ阻んできた時代であ
り、阻み切れなくなった時に中世は果てて近世の幕が開いた、と、いつも言ってきた。封建社会実現へ
の二百五十年、四百年かけての精一杯の抵抗として中世を理解すれば、中世が近世に裏切られたという
言い方にも裏切られた側、即ち庶民の側から、の納得が行くだろう。「鉢木」という能は鎌倉開府以来

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やっとやっと武家社会の封建制を確立しえた近世開幕期の武士たちにとって、さながらの凱歌であり祝
典歌として喝采されたという事情が、このような「中世」観を介して見れば一挙に理解が行くだろう。
ところで、時頼と源左衛門尉常世とが登場した時代には(むろん「鉢木」の物語は史実ではないにし
えいさい
ても)、いわゆる茶の湯は雲間の草ほどの芽生えすら探すに難儀だったろう。むろん栄西の『喫茶養生
記』はもっと早いし、喫茶ないしそれに準ずる習俗や医療はさらに湖って庶民生活にも見られたことだ
しんぎさむ
が、それがいわゆる茶の湯ではありえない。禅院祭礼が難儀な清規(作務規定)の中でたとえ実践され
ていたにせよ、即ち茶の湯の芽生えとは言えない。
それよりもむしろ、常世夫婦が鉢木を切り焚きながら客僧に勧めたまさしき湯茶の類、粥の類にこそ、
、、、いちごいち一え
今日に至る茶の間の茶の原形があったわけだ。原形だけではない、まさに一期一会の真情を籠めて秘蔵
の梅桜松を焚くという行為には、いわゆる「茶の心」のみごとな無垢の表現があったことになる。そう
いう見方が優に成立ってよい。
茶の、心と言って特別の夜即自火や牽強付会や我田引水がゆるされていいわけがない。主人がいて客の

訪れがあれば印ケ一期一会であって、そこで抹茶が振舞われようが粥と漬物が勧められようが、時に白

湯一杯でしかなかろうが、その主客の心映、んの中に茶の湯の和敬や清寂の倫理的な原質がある6文字ど
おり人と人とが寄り合って「一味同、心」するところに欲と楽とがあり、同時に和歌があり清寂があって、
即ちそれが「淡交」という尊い倫理的価値の実現になりうると信仰されたところに、やがて茶の場一会
べつけんこん
を生活の内なるすぐれた別乾坤として構築し確立して行く基盤が生じた。
と同時に、譬喩的に言うなら「鉢木」前半にはっきり芽生えていた茶の湯“無垢の信と愛?淡交の理.

49

想、が、「鉢木」後半になるとそれをしも政治的、体制的な企図の中に組込んで、純真な茶の心に大ぴ
らに報酬を下し給わるという結末へと無残に変貌変質する。北条の世から、それが滅びて南北朝抗争の
乱世となり、その後になおも室町時代という乱世がつづく中で、いみじくも「鉢木」一番の前半と後半
が見せたと同じ、茶の心への絶えざる尊敬や憧憬と、それを政治的、体制的に圧倒する時勢の意志との
組んずほぐれつが、「中世」の底流を流れにながれた。それは、人を信じたいが信じ切れない、というほ
どの矛盾撞着の相をこの激烈な寄合の世界、衆社会、衆文化に対して刻印したのである。
こういう信と不信の葛藤状況の中では、信の確認を「我々」の中で固め合って、不信の対象たる「彼
よう
ら」と闘いつづけねぱならない。それが「中世」の在り様であった以上、一揆や自検断への庶民や国人
たちの衝動を支えたのは、信と不信とを分って確かめ合うための不可欠の手続き、即ち一味同、心である
ことの相互の確認であった。今日に至ってなお、よその家で勧められてむしろ遠慮なく受け入れるのは
一杯の茶であるという思い習わしは、一味同、心の確認が、「我々」と「彼ら」を分つ真剣を極めた検証
であったことの名残だろう。一碗の茶の湯を介してすぐれて倫理的な一座を建立するというような人間
うわナ
関係に至るこうした中世社会の必然の要請を動的に捉えることなしに、ただ上滑みの様式美や禅との関
わりを抽象してくるだけでは、茶の湯に埋蔵された旺盛で陽気で歓楽にも満ちた魅力の大方を、とりこ
ぽしてしまうだろう。
珠光や利休の茶に至るまでに、また彼らの茶の不動の分母となって、何より中世人の中世的な生活が
うんきやく
社会の改革を求めてやまなかった意欲的な生活があったことを認めたい。闘茶、雲脚茶、淋汗茶、下々
の茶、茶の間の茶の中世に於ける爆発的な楽しまれ方の沿革を軽く見ることはできないし、まして珠光、

50

紹鴎、利休らの茶がそれらとまるで無縁なただ禅院や殿中の祭礼の申し子かのように決めっけることも
してはならない。
わび、さぴということの原形、原質には、佐野常世が、「鉢木」を焚くしかなかったあの心入れが生
きている。佗ぷ、寂ぶとは、そうした粗相な暮しに根をもった感情である。「鉢木」が、定家の「駒と
めて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮」をヒントにえての創作であってみれば、まだい
かようの感想をもつけ加えうるのだが、それはさて措いても、多分、常世の頃から徐々に人の眼が認め
はじめた庶民的な粗相美への評価や洗練なしには、と同時に人が人と膝つき合せて何事かを語らい飲み
食いすることの楽しみなり産出力なりに対する鋭い自覚や認識なしには、中世の茶の湯の魅力が形や心
のあるものへと到底育て上げられ得はしなかった。
もし許されるなら、百姓や町人のかかる生活に芽生えた趣味性や社交性こそが、武士独走の封建支配
体制の確立を中世田百年をかけて妨げ通す根本の精力活力動力になったのだとさえ高く評価できる。そ
して、それでもなお執勒を極めた支配者の欲望の前に、信長や秀吉(や、さらには家康)という天才的
支配者の総力の前に、例えば利休は自裁を強いられた。彼が無念のその瞬時に、抵抗の「中世」は崩壊
して屈伏の「近世」に移行してしまった。私が利休をこそ真に「最後の中世人」と呼ばずに居れないの
はそれ故である。
もう一度警喰的に言うなら、「鉢木」の前シテの中に利休が、後シテの中に秀吉が体現されていると
私は読むのである。「鈴木」を客僧のために惜しまなかった常世こそ利休の境涯を象徴するとすれば、
「これ見給べや人々よ」と所領を誇る常世は、いわば百姓同根の藤志郎から絶対支配者たる関白秀吉へ

51

と変身したのであり、中世はそのように近世に転じた。だから「鉢木」は江戸幕府に安住する将軍大名
旗本の喝采を浴ぴたのだし、その裏返しに、利休は茶の心やがて悉く廃るべしという悲痛な予言をしな
ければならなかったのである。そして今日、大手企業然として繁栄を誇る茶道家元とは、名は実と異な
り、その行実において千利休の子孫ならぬまさに藤吉郎秀吉の子孫にほかならぬ。
私は、「鉢木」を借りて中世の茶がどんな際どい時代に芽をふき、花を咲かせ、実をもがれたかを語
ってみた。歴史はつねに一本の物指で測り切れない錯綜した幅と深さと動きをもっている。茶の湯もま
た紛れない大きな文化的社会的な歴史現象として誕生し成熟したものである以上、決してただ一部関係
者の私有財産などではありえない。歴史的なまた審美的な茶の湯の理解には、可能な限りの多面的な接
近方法をとって御都合主義の決定論を人に強いてはならない。「鉢木」一番から讐楡的に辿ってみて、
鎌倉以来江戸に至る中世展開が、間違いなく茶の湯の誕生と成長との時期であったことを、従来と今す
こし別の視線で私は読者と一緒に確かめ合うことができると思った。佗が茶という言い方の中には、こ
うして見れば、いかに中世庶民の健康な、盛り上がる活力が秘められていたか、それがいかに反俗、反
権力を根幹として人と人との心の相寄って咲かせ実らせようとした倫理的な価値であったか、が、分る
のではなかろうか。
梅桜松を焚いて、という佗が人常世の真情は、色あり香もあるものの色香を滅した所に心の花を咲か
せたのである。

52

異論「一期一会」

いちごいちえ
「一期一会」ということばが知られてきて、わざわざこれをと指定して著書などに識字を求められる機
会も多い。物の本や雑誌に「一期一会」が文章の表題や座談の見出しに用いられ言及されている例も多
くなった気がするし、まして茶道話では、場所柄というか、よく眼に触れる。
しかもいつも思うことだが、なんとなく私はそれら賜目の議論に、今一つ底の岩盤にまで手堅く突き
当っていないある物足りなさ、もどかしさを感じてきた。
「一期一会」の「会」の字はまさに人と人が寄り合う、顔を合わす、集うという意味を体している。し
かし暫くその意味を度外視すれば、この回文字を「一期」即ち、「一生」「一世」に「一度」と置き換
たやす
えて、翻訳して、理解することはいと容易い。一生に一度の機会と考え、その「一会」に主客の実意を
あやま
尽すという意味で誰しも殆ど錯たず「一期一会」の語を理解し使用している。そしてかずかずの議論は
、、いいなおすけ
概ねこの原則的ともいうべき理解から始まっている。参考までに井伊直弼の『茶湯一会集』は、「一会
そもそも
ニ深き主意あり、抑、茶湯の交合は、一期一会といひて、たとヘバ幾度おなじ主客交合するとも、今日
の会にふたゝひかへらさる事を思ヘハ、実二我一世一度の会也、去る二より、主人ハ万事二心を配り、
わきま
……客も北会二叉逢ひかたき事を弁へ、.…実意を以て交るへき也」と言い切っている。新刊の『原色

53

茶道大辞典』も大事にこれを引用している。
、、
だが、「一期一会」に就てのそうした原則的理解に至る把握や直観の方は、とかく閑却されてはいな
いか。より大事なのはむしろそれではないのか。
、、
いま原則的に理解された「一期一会」から大概の議論がはじまるのは、例えば応用問題を解くに当っ
て定理ないし公式を用いるようなもので、なるほど中世人の中世的な寄合のもつ性格や機能や意義の解
釈には有効だ。そして有効なのは無効なのより大いにけっこうだが、そういう議論ばかりでは、中世の
中世的現象、事象、の解説に役立てば役立っほどついそのレベルで満足して、より広く中世を超え出た
日本と日本人の原資へも到達して行こうというレベルの思索や究明を、切り捨てるか、なwし閑却して
しまいかねず、それが閑却されては、「一期一会」という「思想」に含蓄された幅、厚み、深さという
ものを、ただ茶の世界のたかだか紹鴎や宗二や直弼の名で語られる程度に倭小化してしまうことになる。
少なくとも古来日本の思想に於ける最も本質的な根に、「一期一会」が深々と触れている点を十分評価
できないまま終ってしまう。
「一期一会」は、ただ一生に一度と言い換えて済む程度のことなのだろうか。
一生に一度、に懸命の意義を籠めるのはむろん大事でありすばらしい。しかしそのすぱらしさは、そ
の一度が本当に生涯唯一無二の一度だからという点に懸かっているのではないはずだ。それどころか、
、、、、、、、
同じ一度一会が際限なく日常繰返されることを以て人の世のつねと十分認めたうえで、なおかつそうし
た日常茶飯の繰返しの一度一度を、あたかも生涯唯一無二の一度と思い入れて揮身の実意をそこに集中
する、というすばらしさでなけれぱ意味をなさない。

54

考えれば簡単に分ることだ、どんなに辛く苦しくいやなことも、それが本当に一生一度だけのことな
ら思い切りよくやってのけられもする。それが一生に五十度百度も繰返されて、しかもその一度一度を
あたかも一生一度の機会かのように丁寧に、誠意を籠めて、立派にやってのけるのはよほど難しいこと
であり、だからこそ繰返しを下敷にしたそういう「一期一会」が、限りなくすぱらしいと言えるのだ。
それを文字どおりの一生一度と取って物を言うのでは、所詮「一期一会」が「思想」的に正しく受けと
られたとは言えないのだ。

かの「林木」の佐野源左衛門尉常世が、雪の日を行きくれて来た旅僧をもてなして秘蔵の梅桜松を載

って焚いたのは、まさに一生に唯一度の機会に実意の限りを籠めたに相違ない。その振舞いの優しさは、
それを「茶の心」と呼んで全く差支えないほどの真情を心憎いまでに尽していて、今日の我々をも十分
感動させる。が、思えばその感動は、生涯唯一度の実意、真情、だからではよもあるまい。それところ
がこの人物ならば、同じ旅僧に対し可能な限り同質同次元の温いもてなしを例えば次の晩もまた次の晩
も厭わずにするだろうという、文字どおり全幅の信頼に根ざした感動であるに違いない。
もし文字どおりの、一生一度といった理解を原則として物を言うなら、私の説では「一期一会」でな
すく
いことになる、が、むろん従来の理解の方が明らかに軽薄な上澄みの所だけを掬っている。幾度同じこ
とを同じ相手に同じ場所で同様に繰返しても、その一度一度がコ期」をかけて唯一無二のコ会」で
、、、、あいわた
あるかの如く、心新たに主客ともに実意を尽して相渉るのが本当の「一期一会」でなくては、何の有難
みもない。大事な点ゆえ繰返し言うが、一生に一度と思えば大事な梅桜松を焚くのも一気に思い切れな
なんぴと
くはない。だがそうではなく、秘蔵の林木を何人に対し何度でも誠心誠意裁り捨てて惜しまぬという、

55

いわば世のつねのただ「繰返し」の中の「一度」「一度」を「一期一会」と覚悟する重さ深さに、この
ことばの真意は金無垢の輝きをもちうるのである。
今一度直弼の「一期一会」観に耳を傾けたい。彼は「茶湯の趣向」に触れながら、茶会ごとに違う道
かざしちや
具を使い、餝りもかえ手前も工夫してひたすら客に珍しいめを見せたがるのは「嗜茶之輩の常」だと批
ほかりいか
判したうえで、利休の、茶道具な荏「呉々相替る事なく、日々同事斗の内、心の働ハ引替べく如何
やうあるべくもつともなる
様二も可有候」という説を引合いに出し、「誠二元成教訓、いつも同物をもちひ、筋り、手前迄尋常
にして、心を引がへ改めもてなす事、茶道の大本也」とひときわ強調している点をこそ、「一期一会」
を語るほどの識者はもっと丁寧に、大事に考えてほしい。
「相替る事なく」「日々同事斗」「尋常にして」とは、みな、要するに人のすることなすことは「繰返
し」が根本の姿だという深い認識であり、「繰返し」の「一度」「一度」を、「一世一度」ほどの気概
で以てただひたすら「心の働ハ引替え■」「改めもてなす事」が即ち本物の「一期一会」の「深切実
意」であり「大本」だと井伊直弼は喝破しているのだ。決して文字通りの一生一度などではないのだ。
我々は、言うまでもなく何度も何度も同じことを「繰返し」「繰返し」一生を生きる。それが人間の
もが
宿業である。そして日本人にとって大切なのは、その宿業から遁れんと空しく身を跪くことではなかっ
た。どうしたら平凡で退屈で陳腐な日常繰返しの中の一度一度を、即、そのまま、新鮮な、充実した、
光り輝く一度一度として結晶させうるか、それが日本人の久しく久しい至難の課題であった。「一期一
会」はその課題に対する古来最もすぐれた解答の一つとして、日本の誇る普遍的な「思想」の高みに達
しているのであり、ただ中世、ただ茶の湯の解説に有効というだけの寸の短な覚悟や認識にとどまるも

56

のでは決してない。朝が来て夜が来る。また朝が来て夜が来る。そして人は朝に起き夜眠る。また朝に
起き夜眠る。自然の「繰返し」に倣って人の世もまた「繰返し」というパターンとともに在る。ことに
日本人はそれを四季自然に学び、四季自然が繰返すように自分の生活をも繰返しつづけて生きてきた。
、、、
それが最も自然な生き方だと信じ、受け入れてきた。
繰返しの一度一度は、繰返しゆえに目新しくも珍しくもなく、面白くもない。目馴れ手馴れ耳馴れて、
あきあきする陳腐な退屈さが、繰返しには沈澱する。そこから物理的に、社会的に、脱出する道はどこ
を見ても開けていない。繰返すことこそ不易の道理かのように自然は悠然と呼吸や表情を変えてはまた
繰返し、さように限りなく繰返すという仕方を通して、自然は厳然たる不動の姿を見せている。
しかも人は、日本人は、自分がそんな自然から生まれ、自然に帰って行くと思ってきた。そんな自然
を生きる手本とすることに躊躇しないで久しい文化と伝統を築いてきた。万古不易の自然の姿を、「繰
返す」という形での一時流行、その無際涯の堆積、に他ならぬと覚悟した日本人には、「繰返し」を生
きることは運命であり必然であり、自然なことだった。その生きょうの肝腎かなめは、繰返さぬことで
はない。繰返しながら常凡と退屈に陥らずに済むという工夫だった。覚悟だった。その覚悟と工夫が真
に日本の思想の核てなければならなかった。
今一度繰返そう、「一期一会」はその覚悟と工夫の最もみごとな達成の一つであり、そこまでを汲み
とらねぱ四文字に籠められた金無垢の価値は決して生きてこない。生涯唯一度のゆえに実意を尽すので
はない。夥しい繰返しの一度一度を、あたかも生涯唯一度かの如く新鮮に充実させようということだ。
「繰返し」を否定するのではなく、さりとて軽々に肯定するのでもなく、もともと「繰返し」それ自体

57

にはらまれた一切の危険なマイナスを、そっくり、無作為に、真に畏るべく純潔かっ清朝なプラスヘと
転ずる機微を、徹底を、自分自身の心に問え、ということだ。

ここでやや方向を転じて、よく言う、「茶の心」なる言い方に就ても異論を唱えておきたい。
とが
私とて譴を免れぬ一人ではあるが、一般に「茶の心」という言い方は茶道関係者がまこと気軽口軽に
頻用する最たるものの一つである。と同時に、およそ当人も何を目して「茶の心」と認めているのやら
よく分らぬ、すこぶる暖昧模糊とした茶界俗語の代表格と決めつけることもできる。

もとより茶の湯に多くを享けた者にとって「茶の心」が虚ろなものでいいわけがない。それをこそ信
じて我々は一碗の茶に一期の深切実意を籠めている。籠めたいと思っている。敢て言うが、軽々に「菊
の心」と言い放ってまるで一種の信心誇りと同然に「茶」に執着し偏愛し拘泥する人ほど、却って「茶

の心」を喪うか虚ろにするかしてはいないのか。それまた古来の「心」の伝統から「茶」だけ切り離し
て考えたがる、窮屈な独り合点ではないのか。
「茶の心」とても、日本人の「心くらべ」という、古来美と倫理を問う基本姿勢がより中世的に具体具
象化したものに過ぎない。大切なのはおよそ日本の「心」のどういう側面を「茶の心」が個性化したの
か、それが中世的なものとどう関わり合っているのか、を思ってみることだ。
そこで今や話の筋道としても、「茶の心」は「一期一会」主客の深切実意と私は言い切っておく。そ
して例えぱあの「鉢木」佐野が家の炉辺に、はやかかる一会が成就されていたと観る。むろん「鉢木」

の舞台はいわゆる茶室でなく、常世は客僧にいわゆる茶を點てもいない。あらゆる点でそれは、用意

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万端とどこおらぬ茶の場一会と状況が違っていた。が、それでもそこに「茶の心」はあった。今すこし
厳格に言えば、やがて「茶の心」として人の心を優に養うに足るものがあった。
誤解を避けるため、はっきり言おう。
茶の湯が形を調え、茶人を名乗る人種が茶を以て身すぎ世すぎするようになってから「茶の心」なる
ものが出現したと考えてはならない。佐野源左衛門のような人物が、無垢の愛を注いで秘蔵の梅桜松を
雪に凍えた客僧のために載ってやる、そういう人と人との関わり、すぐれて人間的なゆえに倫理的とも
精神的とも、またそれゆえに最も望ましく社会的など呼べる入交わりをこよなく佳しと思い憧れる気も
ちが、中世人を中世という乱世の中でぴりぴり刺激し、その結実成果として遂に「茶の湯」という、ご
けんこん
く日常的な寄合そのものがごく精神的な別乾坤へと芸態化して行ったのである。
人と人の世のあるかぎり「心」はいつもそこに働いて、むろん「茶」や「茶の湯」という物や形に拘
束されない多彩な人間関係を旺盛かつ現実に支配していたし、今もしている。その「心」の良き一面を
意図して結晶させ、その心棒その土台の上に「お茶おひとつどうぞ」「いただきます」という姿、形を
肉づけしたのが、つまりは「茶の湯」の原質原型なのだ。
私の最も嫌う茶人たちの傲った言い草に、「わたくしどもお茶の世界では」という類がある。彼らは、
「茶」のある場所と、本来人の世の人交わりが成る場所とは、何ら変りないことを忘れ果てている。
「人交わり」に生きる「心」と「茶の心」とは質的に殆ど同義なのであって、人交わりの媒体に「茶」
という具体的日常的なものを据えたから「茶の心」と言うに過ぎない。人交わりに重きを置いて極言す
れば、「茶」が「コーヒー」であれ「漬物」であれ、或いはもっともろもろの付き合い方であれ、すべ

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でそれぞれに「一期一会」なのであって、それを「茶の心」と全然の別物と思っているような人には、
所詮「茶の心」も働きようがない。彼らは、「茶」が日本人の日常生活にあってごく普通のごくさりげ
ない或る「繰返し」のシンボルであることを悟っていない。日常茶飯という意味を確かに自覚していな
つい
い。だから「茶」を無上の吾が仏と崇めて、ことの序でに唯我独尊の封鎖的で排他的な「わたくしども
かたくなわら
お茶の世界」を夜郎自大に誇るような、頑にひからびた心根をみすみす心ある人に嗤われるようにな
ってしまう。それでは、とても本物の「一期一会」を「茶の心」として打ち樹てられる道理がない。
茶の湯といえば中世ないし近世以降の繁昌をいう。しかし、茶の湯がまだ雲間の草ほども芽生えてみ
えなかった大昔から、いつか「茶の心」へと深まる思いはたとえ飯一椀汁一杯を通してであれ、日本人
の暮しにありつづけていた。それが重なる「心くらべ」に磨き抜かれて風雅となり和敬清寂の理想とな
って、やがて「茶の湯」へと晶化して行った社会史的精神史的な過程は、もっと大事に実感を伴って把
握され理解される必要がある。ことに日本の中世は、ともすれば色がっき匂いがっきがちな人間関係の
こぞ
清い晶化を、何よりも人および時代の要請に於て必然とした四百年だったし、その世を挙っての具体化
が、いわゆる「寄合」であり、そのための「会所」であった。まさに=会」という形で繰返される人
らんぽうじよくせ
間関係「一期」の理想?淡交?を、中世人は、あらゆる濫妨濁世の混雑した状況の中で求めつづけ
ていたのだと言える。
ところで中世がふつう乱脈の乱世であったといわれるその乱脈とか乱世とかはいったい何をさして具
体的にそう言えるのだろうか。いろんな答え方があるに違いないが、端的に言うと、中世に至ってはじ
めて日本人はあらゆる階級階層の差別なく、それぞれに群集し会議し、困苦しく言えば団結して事に当

60

あつれき
ろうとした、その糺櫟と葛藤が収拾不可能なほど熱烈で生々しい欲望を捲きこんでいたが為に乱脈の乱
世が久しく続いたのである。私はそう思う。
従ってこの乱脈を支える基調は決して絶望的な暗い陰気なものではなかった。それどころか、各階級
とも程度差こそあれ何らかの希望を明日に繋ぐに足る精桿で陽気な活力を蓄えていた。何事にせよ人が
寄り集まる所には陽気の渦が巻いているものだ。なぜなら、何とかしよう、どうしたら何とかできるか、
そう誰もが思い願って人は集るのだし、人が集ればいずれ陰気は嫌われ、景気のいい楽しいことが、総
じて陽気な面白さこそが期待された。中世とは、ことに南北朝時代以降の中世とは概してそういう時代
だったのである。

人の集まりがあると、どれくらいの人数が集まったかを気に懸ける思い習いがある。今日でも、主催
者調べで例えば十数万人のものが当局調べでは数万人というぐあいに新聞記事になったりする。なるべ
く一方は多人数集まったと言いたく、他方は小人数しか集まらなかったと言いだけで、おそらく実数の
正確な算定が問題であるよりも、その人寄せの景気を誇示ないし減殺しようとしている気味がある。
なぜそういう配慮が関係者の間でことさら必要になるか。多分その辺の人数の読みを通して、その人
寄せが有効だったかさほどでなかったかが、さまざまな対応、反応、実感に於て話題にされ、評価され
はうへん
るからだろう。場合によっては主催者の力倆なり計画なり配慮なりが手厳しい褒貶の矢面に立たされる。
堅苦しい会議や研修会をはじめ、忘年会、クラス会、同窓会、親睦会、の類から果ては遠足だの舟遊び
だの魚釣りだのに至るまでの人寄せにしてからが、あとでの話題は、どれほどの人数が集まって何をし

61

た何を食った、だから面白かった詰まらなかった、という所へ落着いて行って、あげくは世話役や幹事
役の腕なり頭なり金づかいなりが上げたり下げたりされる。
すべて人の寄合を左右する心理は景気をよろこび不景気を嫌う思い習いに違いない。経済や財政の方
でいう景気、不景気とはちょっと違うが、それすら本来の言葉づかいからすれぱ、要するに陽気で賑や
かで面白かったか、陰気で淋しくて詰まらなかったか、という意味であり、日本人はとりわけて大昔か
ら景気陽気を悦ぶ庶民感覚の持主であることを忘れるわけに行かない。
言うまでもなく人は所詮一人で生きて行けない。家族だけでもおそらく容易に生きて行けはしない。
利害の感覚が眼に見えず葛藤するのが人ひとりで生まれて来る者同士の宿世であり生態ではあるが、そ
れをしも賢く抑制しながら、せめて人と人が寄り合って一人一人の「我」を「我々」の利にかえ、「彼
ら」からの害を防ぎ合おうとしたのが社会、国家の成り立っ心理的な前提であったし、それは決して日
本人だけのことでない。
この際、一方で「我々」は十数万人も集まったと言い、他方で「彼ら」は数万人しか集まれなかった
と言い合うのは、「我々」と「彼ら」の中に何か争点の如きものが陰に陽に横たわっていると見るのが
正しいだろう。「我々」が集まろうとしたのも、その争点を掲げて「我々」の意のある所をより多く広
い範囲に報せて同志の勢力を糾合しようという意向の表現だろうし、そういう一群を指さして「彼ら」
と呼ぶ側の「我々」も、同じ争点を意識しながら「彼ら」をより少く弱く制限することで「我々」の勢
力を充実させ強固にしようという意向をもつのであろう。
人の集まる場所ではこういう雑多な「我々」の欲望や意向が絡み合う。そしてお互いに「彼ら」の存

62

在を意識しながら「我々」と「彼らしとの対立、葛藤、交渉、抗争を経て複雑な離合集散を繰返す。そ
の繰返しが即ち或る一つの時代というものを実現するのである。政党政治などはその典型といえる。
しかし現代日本人の多くは、どうやらもうそういう活濃な「我々」意識をすら荷の重いものになげ出
すかたちで、本質的な「我」の主体性をも事面倒なお荷物にしかけている。つまりシラケている。今日
ほど種々雑多な寄合が無数になされながら、それら寄合の一つ一つが「現代」の諸状況と鋭く交叉しな
い、切り結ばない、価値ある火花を散らさない日々はかつて寡かった気がする。我々の現代はもはや真
の「一期一会」を不可能なものと見捨てた、人と人との亀裂社会か、という気さえする。だからいっそ
う我々は中世に、茶の湯が茶の湯として生まれ、育ち、成熟した中世に学ばねばならないと思う。
中世、あらゆる階層の日本人は銘々に熱っぽく寄り合い、「我々」の欲求を「彼ら」のそれと必死に
突き合わせ、かき混ぜ合い、価値ある政治的、社会的、文化的な次元にまで自分たちの地位および欲求
そのものを押上げようと必死で闘い抜いた。茶の湯は、そんな闘いの時代の渦中にあって、まさに「寄
合」自体をその心と形、その母胎として成り立った。その点では、連歌や能とならんで茶の湯は中世精
神の純粋な結晶であり、完成品だと言い切れるのである。
何より景気を求めて集散した中世人の魂の飢えに対して、連歌や能や茶の湯は、直ちに先ずその飢え
あいぎよう
を満たす衆人愛敬、寿福増長、信楽成就の「寄合」を基本根本の姿にしている。人が寄り合わずに連歌
も能も茶の湯も、存在しえないような仕組みで誕生し成長している。
なるほどそれらを論じて禅趣味を言うもよし様式美を語るもまたいい、が、それは一つ間違えば茶の
湯にとってただの虚飾にもなりかねず、茶の湯の原質原型がはらんだ入交わりの理想と陽気とを窒息さ

63

せかねない。「一期一会」を「茶の心」と見る眼に、「寄合」の活気と「淡交」の理想を忘れた茶の湯
はただもううさんくさいのである。
人が寄り合うには、先にも言ったが、目的がある。意図や意向が働いている。そして目的に沿うて効
果的な寄り合う場所が探れ求められる。連歌にせよ能にせよ、人をえらび時をえらぷ以上に、どこで一
会一座するかという場所を大事にえらぶ。我々の新年会や編集会議やパーティですらそうである。
人が寄り合う場所「会所」は中世を開く最も基本の鍵である。
寄り合う中世社会が必然要求したのが「会所」であって、寝殿造、武家造、書院造へと住宅様式は移
り変り、会所的性格をもった部分は拡充され洗練され、大事に独立して行った。その経過の中に一方で
は茶座敷、茶屋、茶室といった独特の寄合会所の系譜が生まれたし、他方ではいわゆる茶の問、客間と
いった日常生活に於ける会所重視の慣習が肉体化して行った。
はじ、、、、、、
会所に寄り合う、そこから何かが肇まる、それが「中世」衆社会、衆文化の思考および行動の形式で
あった。むろん茶の湯とはその成果が凝集し精錬された社会的文化要請の粋であり髄であり核である。
茶室はそういう意味で当時「最現代」の鹿鳴館であり会議室であり大学であり道場でありえた。
茶の湯が中世の遊芸であるとは、何より、禅などとの癒合以前かつ以上に、こういう中世人と中世社
、、、、
会の体質素質に根ざした「寄合」「会所」および人と社会が挙って願い求めた景気、陽気との関わりで
こそ十分に認識されねばならない。彼らはそういう中世の中で「一期一会」という「思想」を徐々に見
極め確かめ創り上げて行ったのだ。
その活力に満ちた人間関係の洞察を学ばずに我々は何を茶の湯から学ぶというのか。

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茶の間の茶

「茶の間のみなさん」とよく呼びかけられる。ロッキード事件で日本中がさながら渦巻きはじめた頃と
くにテレビのニュース解説者たちが「茶の間」の「我々」によく呼びかけてきた。
一軒の家にもいろんな機能を期待された部屋や場所がある。中でも建売住宅の広告では現代の生活意
識を反映してか、「L」即ちリヴィングルームの「茶の間」と、「DK」即ち食炊兼帯のダイニング・
キッチンつまり「台所」が特筆される。現代住宅の最重点は「茶の間」と「台所」に尽され、それは玄
関でも客間でもなく、つまり私生活部分が重んじられているのだ。より正確には、そこまでしか庶民の
手が届かないのだと言っていい。
そう言えばテレビはまた、「台所を預かる主婦にショックを与えています」などと市況の皺寄せにつ
いてもよく解説している。なるほど台所はふつう主婦の領分とされている。「台所の主婦」と「茶の間
のみなさん」が一種のマスコミ用語として定着しているというのは、それ相応にやはり「現代」を代弁
する現象に相違ない。むろん目下の関心は「茶の間」の「みなさん」にある。「みなさん」とは、即ち
「我々」老若男女をとり揃えた家族のぜんぷをさしているだろう。「茶の間」は家族が無条件無前提に
寄り合う場所、家庭内の会所、として公認され、それを承知でたとえぱテレビは「茶の間」へさまざま

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な情報や問題をなげこみ、わりこんでくる。
なま
情報や問題がいつも”生”なものとは限らない。大概のものが、すでに或る色をもち匂いをもち”調
理’され味っけされている。無遠慮にとぴこんでくるそんな色、匂い、味に対する批判の能力を茶の間
しつか
の「我々」が確りもっていないと、むざむざ「茶の間」はテレビその他の外からのわりこみによって占
領されてしまう。「茶の間のみなさん」といういかにも親しげで、さりげなく気軽そうな、なにこれは
まだまだたいしたことじゃありませんよといった調子の呼ぴかけそのものに隠された”意図”を、正確
に機敏に見分け嗅ぎ分けないと、「我々」はあっけなく操作された世論の片棒を担がされて、正体不明
の”多数”というお仕着せを押し着せられてしまいかねない。家族的エゴイズムの温床にとかくなりや
、、
すい「茶の間」の体質の脆さが「彼ら」のいわば狙いの的にもなりやすいことを知っていなければなら
ない。
それにしても、家庭内のそういう親密な集合場所が、ことさら「茶の間」と呼ばれているのはなぜか。
なぜ「茶」の間なのか。この茶は「茶」室の茶と同じなのか、違うのか。関係があるのか、ないのか。
日本の住宅で、実は台所や茶の間より、伝統的に大事にされ、おそらく以前は台所や茶の間を切りっ
めても一等大事にされたのは「客間=座敷」だった。「茶の間」が私的にとざされた中、心部とすれば、
「客間=座敷」は一軒の家の中で公的、社交的にひらかれた中枢部だった。玄関と対応するのが座敷で
あり、茶の間と対応するのが勝手元や勝手口だった、ということは、たとえ我が家であれ、玄関n座敷
というのは少くも勝手次第の部分ではなかったわけである。そこでは主人および客人の格のようなもの
が微妙に緊張しつつ身分相応ということを強いていた。つまり座敷?客間は公的な、外向きの「会所」

66
 

であり茶の間は内輪同士の勝手の利く「会所」だった。
私はこれまでに何度か、「茶室」がいわゆる「会所」建築の一つの達成だったことを書いてきた。と
かこい
同時に、それは或る時期の「書院」建築に発して、やがて座敷とも茶室とも、また草庵とも囲居とも呼
ばれたことに就て書いてきた。
もともと「書院」という名の会所にはおのずと公私の重点を分っ建て方があった。客間と居間との綜

合および分化をともに実現しえた点にその美しさと働きとが結晶していた。その公の部分が「座敷=客

間」へ、「茶室」へと流れ、私の部分が「居間」へ「茶の間」へと岐れて行った。しごく大雑把に言っ
ても「茶室」と「茶の間」にはそれくらいの違いはあり、それぞれの「茶」にもそれ相応の違いはある
と見なければならない。それを歴史的に願て比較検討してみるのも面白いと思うが、もっと大事で面白
いのは、現代ないし将来に於ける日本人の「茶」が「茶室」の茶か「茶の間」の茶か、その何れに重き
を置いて文化的、社会的に楽しまれ味わわれ評価されるのか、或いはこの両方を綜合止揚するもっと今
日的な新しい「茶」の誕生と成熟が見込めるのかどうか、を想ってみることだ。
我が家には、家族一人一人の私宅はあるが客間はない。来客があると分っておれば茶の間を片づけて
迎え、その間はみな私室に帰っている。前触れなしの来客にはいささか困るが、訓練がよろしく、何と
か恰好をつけている。家族五人、私室のほかに茶の間があれぱむしろ恵まれているのだろう、客間にと
思って床を置き炉を切った部屋へはいま叔母が入っていて、ちょっと客は通せない。当人もお茶はもっ

ぱらごく簡略に茶の間で鮎て、時にそのお茶を私や妻がもらう。小学三年坊主も高校一年女史もたまに
もらう。

67

今は、かりに余裕があっても客間よりは茶の間を、より先により居心地よく造ろうという時代だ、お
座敷趣味がやや時代おくれにさえなっている。その是非を言う気はないが、この事実、この現実、が日
本人の「茶」意識にどうすでに響き、これからどう響くかを私は思うのである。
いま茶の湯を習っている全ての人が、いわゆる「茶室」の茶を習っている。江戸時代を通じて茶の湯
とは当然茶室内の作法として存在した。
だが、江戸時代や明治大正は知らず、今日ほど激増した、いわゆる茶道人口に見合うどれだけの数の

茶室が世間に実在し、使用に耐えるだろうか。使用が許されるだろうか。茶室は決して遍在せず、すこ

ぶる偏在している。偏在しつつなお維持と保存とのためむやみに使えなくなっている。古社寺に附属の
茶室、茶庭の半分以上は今や鑑賞美術に部類する。
そうなると、百万ないしもっと多くの茶道人口のおそらく何千人に一人も本物の茶室を所有している
わけがない。私にもたまに茶席びらきに招かれる機会があるが、殆とが、客間=座敷に炉を切りました
ので式のもので、それで十分と思うが、それすら甚だ稀と言うしかない。
りだりゆう
しかも今日の茶の湯に「茶室」の茶たることから脱却しようという動きが殆どない。野點ての茶や立
れい
札の茶も昨今の発明とは言えず、今日の茶は、要するに過去の茶礼茶法に頼って百万を超す茶道人口を
養っている。茶の湯を生活芸術の名で呼びながら、時代と生活の変化に即応する創意工夫を伝統の二字
に甘えてまんまと怠っている。伝統の最先頭を前向きに進むのが現代人であるなら、茶の湯の伝統が本
当に物を言うのは現代を有効に刺激しうる姿と形に於てでなけれぱならないはずだ。むろん今日の茶道
人口も年に二度三度の稽古茶会、稽古茶事を経験するではあろうし、それより数多くよその大寄せ茶会

68

にも出向くだろうが、「茶の湯」体験の殆どがいわぱそういう擬似体験であることは、しかも、それが
、、
似せものの擬似体験だとさえ気がつかずにいることは、現代茶の湯の大きな陥し穴と言い切って差支え
ない。「茶室」の茶の、事実上の行詰まりが来ているのである。
「茶室」ないし「客間=座敷」を持たない、持てない、現代人の茶の湯は、どうあってももはや「茶の
間」を無視しては成立たないのではないか。或いは、もっと積極的に「茶の間」を主空間、場、にした
茶の湯が新たに創始されねぱならないのではないか。

「お茶だけでけっこうですので、お構いなく」と妻の方へ声をかける客が多い。よそでは私も同じよう
に言っているのかなと思って聴いている。お茶の一杯は出されても遠慮をしない。お茶も出さない客あ
そし
しらいは、よくよくの冷遇だと客の方で謗っていいほどに思われている。
「お茶でもご一緒にいかが」と誘われる。食べ物となるとおそぱ一杯でも気が張るのに、お茶だとつい
その気になってしまう。
「お茶が入りましたよ」と呼ばれて、親も子もどどっと茶の間に繰りこむ。時にコーヒーやジュースの
こともあるが、それでも「お茶の時間」に違いはなく、クッキー、煎餅、チョコレート、みな「お茶受
け」に相違ないのである。
「茶の間」がいわゆる「茶室」でないように、「お茶だけでけっこう」のお茶も、「二人でお茶を」の
お茶も、普通あの、「わたくしお茶を習っておりますの」のお茶ではない。大概コーヒー、紅茶か、魚

茶か番茶かで、玉露などという扱いの厄介なものですらあっても、めったに茶箪を使って鮎てたお茶で

69

はない。
叔母は、抹茶が喫みたくなると「お茶點てまひょか」と言う。私もそう言っている。してみれば「茶
、、、、、、
室」の茶は點てる茶で、「茶の間」の茶はのむ茶だという言い方もでき、存外これが大事な要点になっ
、、、、、
てくる。抹茶だから、という意味ではない。ただのむのでなく、何らか手順をふんだ點てる行為が所作
として構成され、この構成感を一つの階梯にしながら、茶をのむという日常的なことがある意味で日常
を超え出たことへ昇華される。
従来は、その昇華のためには、日常空間ならぬ一種の非現実空間としての「茶室」の機能が絶対条件
のように言われてきた。本当にそれが絶対条件だとすると、さきにも言うように「茶室」を事実上所有
しえない百何万茶道人口の茶の技は宙に浮いてしまう。それどころか「茶室」の中にだけ茶があり茶の
心があることとなって、鉢木を焚いて暖を取り合ったような佐野が佗ぴ住ま居の炉辺には、茶も、茶の
心もなかったことになってしまう。そんなはずがないことを私は繰返し書いてきたつもりである。
論語よみの論語しらず同様、茶人の茶誇り茶しらずが横行する危険は、一つには「茶室」を絶対条件
と考えがちな体質の中に巣喰っている。そんなことを言っていたら、毎週お茶の稽古に通う大半の人が、
生涯、随処に主となって客を迎える茶の湯の妙機には触れずじまいに、ただの稽古事=真似事で終って
しまう。茶の湯こそは真似事に終らせてならない今を生きる学習ではないか。
言うまでもなく「茶室」での作法が調ったのは、利休を遡ることそう遠くはなかった。殿中點て出し
の茶から茶座敷主客同座の茶に移ってゆく過程を経なければ「茶室」も「手前」(「點前」説は取れない)
も整備されようがない。だからといって「茶室」以前に茶がなかったわけではない。殿中には殿中の、

70

書院には書院の、禅院には禅院の茶はあった。ただ、主客一座の作法として整備されていなかったとい
うだけであるし、茶礼でも茶法でもなく、然るべき会所ももたぬ庶民の暮しにさえ、実は茶は茶として
寄合の場を賑わわせ楽しませていたのである。
日本人が茶に恵まれ、たいそうな茶好きであることは、たとえば「茶」に縁のある言葉や言いまわし
が、多種多様、津々浦々に行き渡りながら独特に方言化していたり、生活習慣や行事の中に大事に組み
こまれている例の豊富なことで十分察しがつく。
栄西禅師が、中国から茶の種子を三粒持ち帰って播いたのが日本の茶のはじめだと、今でも年寄りは
信じている。うちの叔母もそう教えられたと言っている。もっと古い時代に日本でも茶を栽培し、茶を
、、
喫んだ記録がある、が、概ね平安時代の半ば以降、記録可能の範囲では茶の木を育て茶を喫む風が表立
たなかったのは事実だから、茶は栄西以後という常識もむげに否定できない。
しかしこう考えてみていいと思うのだ、海の幸に恵まれているように山の幸にも十二分に恵まれてき
た日本人が、それらとの親密な接触に学んだ独自の生活および文化の体系を築いてきたことは万に一つ
も間違いないとして、さて古来、日用の飲料に、ただ水か湯かで満足するような工夫のない暮し方をし
て来ただろうか、と。酒の生産は予想以上に古い。かりに茶の木そのものが日本の風土に原生しえてい

なかったとしても、酒を醸すほどの技をえていた民族が、茶に準じて煎じるか焙じるか淹すか溶くかの
日用飲料を栄西の頃まで全く知らなかったとはとても信じられない。偶然を頼むとしても、おそらくは
最も簡単な着眼と追試とで済む程度のことではないか。
抹茶とは言わぬにしても、茶ないし茶に類するものを常用した民俗は、想像以上に古くかつ広く試み

71

られていたであろうと私は信じている。そうでなければ日本人のかほどの茶好きが理解できない。人が
くつろいで車座になれる場所をためらいなく今も「茶の間」と呼ぷ、そんな最現代の風俗にも生きてい
る茶は、茶の意味は、「茶室」の茶を遥かに貫いて遠く太古上古の日本人の、ごく庶民的な生活の知恵
にまで根ざしているのではないか。
「お茶一杯ごちそうになったわけじゃなし」などと息巻く人がいる。「お茶一杯」をのみ合うことがお
、、、、
互いの信頼や親愛の黙約、つまり一味同心をあらわすという思い習わしの根強さを想像させるが、逆に
言うと、せっかく出されたお茶ものまずに帰るのは、握手を望んで差し出された手を拒むのと同じこと
にすらなりかねない。こうなると「一味」「同心」という言葉の由来は久しく、かったいへん重い。
人と人、家と家、村と村、町と町、国と国とが、いわば互いに「お茶一杯」をのみ合うことで結ばれ
てきた史実や現証は中世このかた数え切れず、事実上、古代以前へも遡りうるだろう。人と人とが寄り
合う場所で、お茶は一味同心の思いを通わすこの上なく便利で手軽で親しみに富んだものだ。信頼と親
愛とのそれこそが証しになった。
「茶室」が茶室の体をなすのには多くの歳月が必要だった。「茶の湯」が茶の湯の体裁を調えるのにも
多くの歳月が必要だった。茶は中世と簡単に言うが、実はその中世ももう果てよう頃にやっと利休があ
らわれ、茶室が茶室に、茶の湯が茶の湯になった、という事実を忘れてはならない。そして、それだけ
の歳月をかけて茶の湯が茶の湯となり、茶室が茶室となるためには、むずかしい理屈はさておキ、中世
いやそれ以前から日本人の生活に根づいた、茶好き、という素地が熟していなければならなかった。
「茶室」の延長が「茶の間」になったのでなく、逆なのだ。「茶の間」での、茶受けが楽しみのお茶一

72

杯にしみこんでいる匂いあり色ある楽しさ、人と人とが顔を見合わせ、談笑し、そして互いに認め合っ
て行く楽しさの中で「茶の心」が認め合われた所から、「茶室」という精神的な、倫理的な別乾坤が可
能になって行った。そうでなければ我々は「鉢木」の炉辺に一期一会の妙機を感じるわけもない。
一期一会の「会」の文字には、本来人と人との寄り合う陽気や愉快や、また何事かを共に成そうとい
う共感や決意が託されている。そういう共感や決意の原質を日本人が一家屋の部分に繋ぎとめてきたの
が、「茶の間」なのであって、そのもっ意義や機能が言わず語らずに認めっづけられていれぱこそ、今
日も明日もテレビは「茶の間のみなさん」と語りかけてくる。「茶の間」の茶の働きが、今日なお日本
人の暮しに十分な存在理由をもっている証拠である。
ところで「茶室」の茶もまた、現代の倫理や連帯や快適な人間関係に積極的な働きかけをしえている
のかどうか、もしこれを誰が真剣に問い直すべきかとなれぱ、現に茶の湯を愛し、学び、教え、習って
いる人を措いてない。

、、
茶の間の茶が、ただのむ茶である間は茶の湯にならない。茶の湯の茶は、その場が茶室であろうとな
、、、
かろうと、やはり點てる茶だ。そこに主と客との分化と綜合、つまり協力が見られねばならない。主客
同座の協力、とは人間関係に一種の役割が期待されることだから、それは演劇的な場面の実現だという
ことにもなる。
茶の湯が演戯性をはらんで、それにふさわしい場所を望んでいることは紛れもない。「茶室」という
とざされた空間がその用を久しく果してきたことは認めるが、茶道人口を百万の余にも増やしてしまっ

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たツケは支払われねばならない。茶の湯の場を「茶室」に限れば、彼らの殆どが定員過剰で溢れ出すか、
生涯真似事で終るか、いずれにせよ入場券だけを売って会場に入れないのと同じ罪なはなしになる。勢
、、、
い「茶の間」という場に着目しながら、そこで點てる茶を新たに現代の茶の湯として創造する意欲と工
夫の必要な時だろう。
「茶の間のみなさん」という呼びかけには、ともあれそこが寄合の場として生きているという確かな認
識が先立っている。ところが今日の「茶室」にはそういう活気がない。そこは辛うじて趣味生活の場で
しかない。少くも寄合の場としては痛ましいまでに本来の社会性を衰弱させてしまっている。従って演
劇的な緊張も、創造的な雰囲気も、極めて稀薄に形骸化している。
イザナギとイザナミがオノコロ島に降りて、太い柱を銘々に廻りながら「アナニヤシ・エオトメヲ」
「アナニヤシ、エオトコヲ」と唱え合っていろいろの国を産んだという場面が、おそらく日本の演劇の
いちばん古く遠い痕跡であるかもしれない。舞台があり言葉があり、所作および事件がある。
だがアマテラスが天の岩屋に隠れ、岩屋戸の前に神々が集い寄り、アメノウヅメの面白おかしいわざ
おぎに興じ、その賑わいに惹かれてアマテラスも思わず覗き見せずに居れなかった場面には、もっと演
劇的に調った状況と内容とが出揃っている。しかも、観衆というものを欠いた国産みの場合と違って、
ここには演劇的なものの中に観衆がとりこまれ、それがまた興味ある層的構造をもっているのだ。
いうまでもなく、アメノウヅメのわざおぎを直に眺めて楽しむ観衆は、岩屋戸の前にいる沢山な神々
、、
である。ここに演者と観音との役割がもう生じている。しかし役割という言い方がはしなくも状況を説
明してしまったように、この観衆は純然たる観衆ではない。観衆という役割を慎重に丁寧に演じている

74

、、、
演者でもある。なぜなら、彼らはアメノウヅメの演戯に大いに興がって見せることで、その興がりょう
、、、
を真に迫って見せることで、岩屋の中のアマテラスの興味を、関心を、好奇心をそそらねばならない。
アメノウヅメだけの努力では到底達しがたい目的のために、神々という名の観衆は、観衆という名の配
役に熱心に応ずる協力によって主役アメノゥヅメの演戯の魅力を増幅して見せねばならない。
言わぱこの舞台の真の観客は、岩屋戸の隙間から外を眺めて見ずに居れなくなったアマテラスその人
ひとりだと言える。おそらく、アメノウヅメの演戯も岩屋戸の方を向いて演じられただろうし、それを

眺める神々もまた岩屋の方へ神経を集中しながら、観衆役に専念したに違いない。舞台の演戯は、今日
でも、どこでも、そのように演じられている。
面白いことだが、こう考えこう書いて(読んで)いると、岩屋の外、つまり演戯の舞台には照明が感
じられ、それを覗き見している岩屋の中は暗く感じられる。アマテラスは日の女神であって、彼女に岩
こも
屋隠りをされたため外の世界が暗闇になってしまった不如意から、何とかして神々は免れたいと考えた。
その主目的があって、言わば「ひと芝居」を打っているのがこの舞台なのだから、筋を通して考えると
明と暗は逆様のはずなのに、そうは思えない。息を殺して思わず岩屋戸をすこしずらして外を見るアマ
テラスこそ暗闇の中に身をひそめていると思えてしまう。そう思えてしまう我々の実感の中に、すでに
演劇的な場に於ける舞台と観客席との分別が、いわゆる常識となって物を言っている。我々は今日、ど
んな芝居や演劇をも、およそはアマテラス同様、ただ一人自分の胸を抱いて暗闇の客席から、あたかも
覗き見するぐあいに明るい舞台を眺めているのである。
大岩屋劇と、今日我々が普通に演劇と称する興行との大きな違いは、彼にあってはアメノウヅメや神

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神という演裁者とアマテラスという観客とが、そこで演じられた演劇的なものを介して、つまり非現実
ないし虚構を介して、のっぴきならない現実世界での利害を共有し分担していたけれど、我々の場合は
歌舞伎、新劇その他もろもろの場合、そういう「現実」を演者と観衆とが共有も分担もしない、いや出
来ないということだろう。演劇がただ「見世物」になり切っているということだろう。そういう共有や
分担は、おそらく猿楽能がもてはやされた中世にあってすらすでに半ば不可能となり、舞台の芸と桟敷
の眼との分離は、加速度的に進行していた。むしろその共有や分担を茶の湯が「茶室」という世界の中
でかなり演劇的に、そして社会的政治的かつ美的に成し遂げていたことをこそ認めねばならない。
主客共演の一座建立という最もすぐれて本質的な演劇空間こそ、茶の湯の倫理性と芸術性とが日光を
放って融和する場所だった。
そこでは主がシテで客がワキだということもない。その逆でもない。一人一人の深切実意が対等に一
座を支え合っての演劇的緊張であった。そういう意味では茶の湯は、連歌一座のあの同時進行による美
、、
の展開というみごとな偕楽成就の仕組みからも多くを学びながら、一層単純かつ劇的に静化していると
言える。
それでいて、何度も繰返し言うが当時の「茶室」は、一種の鹿鳴館であり、大学であり、会議室であ
り、道場でも娯楽室でもありうる、すぐれて現実的な会所の機能を生き生きと保っていた。それはすぐ
れて「現代」的「中世」的な機能だった。
茶の湯から、そして中世から、現代はまだまだ多くを享けることができる。だからこそ現代は茶の湯
をもっと大胆に新しくする創意を捨ててはならないのだ。

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お茶屋の茶

息子の新学年に組替えがあって、替って早々の隣の席に、初対面、すてきな新しいお友達が坐ったそ
うなという話題、むろん女の子と聴いて私は膝を乗り出す、母親の方は名前は、お家はと矢継ぎ早の質
問にも息子の返事はのんぴりと、電車の線路を渡るでしょ、向うにバス道路があるでしょ、そこへ行く
までの「お茶屋の子だって」「へえ、お茶屋l」私が頓狂な声を出せば妻は慌てて手で制し、お茶屋
って、煎茶番茶のあのお茶を売っているお店のことよ、勘違いしないで下さいよと睨まれた。なるほど
この界隈、狭斜の巷にほど遠い武蔵野の一劃に拓けた、まあどちらかと言えば土臭い田舎町だ。
まちくるわ
たが、そんな私も京都へ帰れば、親の家は祇園町に背を合せた街なかにあり、通った中学は廓のど真
中にあった。「お茶屋」と聴げば葉茶屋よりは廓の家とまだまだ咄嵯に想い浮かぷような少年時代を過
つまづ
してきたのだから、「おうちは」「お茶屋だって」という程度の会話にもふと躓いてしまう。
よそは知らない、祇園町を通ると表の柱に「お茶屋」という鑑札を貼った家が幾らもある。芸妓舞子
が出入りし、客が出入りしていわゆる茶屋遊びをする家だという意味である。青楼とか妓楼とかいった
ゆえん
ものと本質的には変らない花街の花街たる所以のそういう家の子とも、何人も私は学校で机をならべて
いた。「お茶屋の子」といえば、少くも私の学校では誰一人抹茶や煎茶を売る店の子だとは思わない。

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京の町なかに暮す人なら、おそらく誰もがそうは思わない。そういうお店は「お茶屋」と区別してわざ
わざ「葉茶屋」と呼んだ。有名な閨秀画家上村松園女史の生家がその葉茶屋だった。宇治の茶や静岡の
茶を売るのは「お茶屋」ではなかった。
お茶屋では、「茶」よりもむしろ「酒」を売る。「酒」のついでに「色」を売る。花街とは、つまり
酒色を売り買いの遊廓のことだ。しかもその一軒一軒を「花屋」とも「角屋」とも「酒屋」とも呼ばず
に「茶屋」と呼んだとは、ふしぎはふしぎとしても久しい歴史的社会的な事実で、「茶」に就て考えよ
うという者がこれを避けて通っていいわけがない。
花街の近くで育つと、そこで茶屋酒がのみたいといった野望は多少抑制されるらしい。弦歌さんざめ
く時分に子どもは遊廓へ出歩きはしない。余儀なくそこを通るのは登校下校の途中とか、どうしても必
要なお使い走りでとか、時には銭湯へなどの場合に限られていた。つまりは朝早くか、午後か、いずれ
日のあるうちのことで、廓はそんな時刻にはお天とう様にあかあかと照されて幾分佗しい素顔をしてい
た。が、いくら佗しかろうが子ども心に親しめたのはそんな、素顔でつねなりの花街でしかなく、まし
て表から座敷に上がって脂粉の香にむせぴながら酒や肴で、歌や踊りで浮かれたいとは、京都に住んで
いたあいだ一度として思ったことがない。だが、だから茶屋の茶屋らしい稼業に無関心だったかといえ
ぱ決してそうでなく、また土地柄無関心で居れるわけもなかった。
中学には廓育ちの男友達女友達がいっぱいいた。学校そのものがもとは彼ら専用に建てたような華奢
な学校だった。そして祇園には音に名高い甲部乙部の区別が厳然と生きていた。甲でも乙でも子どもは
子ども、とは罷り通らぬ雰囲気が運動場へも教室へももちこまれていた。遊廓とは縁のない近隣から通

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学の私のような生徒ですら、その辺はよく心得ていないと済まなかった。
いみつ
今では両家とも姿を消してしまったが、私が中学時代の甲部富永町に井光というお茶屋があり、乙部
ゆきてい
新橋に雪亭というお茶屋があった。そして息子同士は同じクラスに席を並べてともに成績優秀、小学校
以来の好敵手だった。私は二人ともと仲良くしていたが、その二人は私と以上に互いに仲良しだった。
そんな二人なのに、よく見ていると雪亭は井光にちと頭が上がらぬふしがあった。何かにつけて互角
以上の相手をしながら、いざとなると雪亭の方にいささか泣き所が見えた。かりに私が言っても聴き流
したろうに、井光にぐいと出られると雪亭はそれにだけは妙にへこんだ。甲部に対する乙部という感覚
が、互いに何不自由なく暮していたと思うお茶屋のぽんぽん二人の仲に、言わず語らず、しかし思いの
ほか厳しく生きているらしかった。
私が今でも茶屋酒などのみたくない一番の理由は、ともに好きな井光と雪亭とのそんな”緊張”が幾
らか身にこたえていたからだ。子ども心にも茶屋遊びが時に甲になり乙になる切ない岐れをはらむらし
いことを、友情にも絡んで痛ましく察していたからだ。差障りがあればひらに御免を蒙るが「お茶屋」
に生まれなくてよかったという実感があり、私の場合それは花街の女の、むしろ素顔でつねなりの姿に
対する親近感や親愛感とどこかで表裏をなす実感だった。となれば自然私には雪亭の方に、乙部の女に
ひそかに肩を入れるというところがあった。甲部は芸妓、乙部は娼妓などと幼かった私の耳に吹きこん
だ大人の賢しらを、一抹憎み思う心地も私は少年の頃から黙って持っていたし、今も持っている。
と、まあお茶屋は私にとって、また大概な日本人にも普通はさような意味合いの場所であるのだが、
さて「茶屋」という名前の由来はどうで、茶屋の「茶」は茶室の「茶」や茶の間の「茶」とどれぐらい

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色や匂いや味の違うものか、となるとそう巧くは答えられない。が、答えずに済む問題とも思えない。
「茶屋」が「茶室」の古称だったことはよく知られている。むろん茶事専用の建物という意味だったろ
、、、
うから母屋から独立した庵か付属した軒か包含された斎かの別は一応無視してもいい、いずれにしても
会所を兼ねて茶の湯を楽しむ場所が茶屋だった。神社仏閣にあってよし、公家屋敷にも武家屋敷にもそ
の種の茶屋はあり、庶民の家にすら同じ意味の茶屋はありえた。逆に専ら茶をのませるのが商いの茶屋
や茶店は利休の頃はまだなかった、かと言えば、実はそれがそうも言えないのである。
茶の湯の茶屋と、紅燈脂粉、弦歌と酒色を以て客を迎え客となる茶屋とは、同じ二字ながらえらく違
こと
う。が、違うというのは、最初からたまたま同じ二字が宛てられただけでまるで根を異にした異種異類
なのか、それとも同じ一本の根を分けた同種同類でありながらどこかで大きく様を変え趣を変えたのか。

ただす、、、
天文頃の『奇異雑談』という本にこんなことが書いてある。京都の糺の森はむかし大木多く境内はひ
ろく、その傍は比叡山より京に出る道筋でもあって民家も五、六町は立ち並び人の往来が絶えなかった。
その繁昌した家並の西の端に「きれいにして大なる家あり、ちゃ屋なり云々」と。『奇異雑談』のこの
記事を転載した『嬉遊笑覧』という本は、「この茶屋は今いふ水茶屋なり。天文の頃昔といへるはいつ
の頃か、茶屋といふものも古くありしなり」と註を添えている。へえと驚いた口調である。
「天文」年間は西紀一五三二年から二十四年も続いて一五五五年に弘治と改元された。ちなみに言うと
利休十一歳から三十四歳までに相当し、弘治元年に利休の師の武野紹鴎が死んでいる。千宗易を千利休
にしたあの秀吉が織田信長にはじめて仕えたのは、それからまだ三年もあとの永禄元年(一五五八)の

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ことだった。もし「天文」からみてもっと「むかし」にすでに水茶屋ふうの「茶屋」が京都にあったと
すれば、茶室を意味する「茶屋」より一服一銭の茶を売る「茶屋」の方が多分古そうということになり、
水茶屋、掛茶屋の名を借りて茶室の意味へ転用したという方が正しいのかもしれない。
水茶屋、掛茶屋といえば、社寺の境内または路傍で煎茶、麦湯、桜湯などを売って往来の人を休息さ
せた、いわゆる茶店のことだ。ちょうど今日の喫茶店と同じに考えて差支えない。そんな出店や常店が
「天文」より「むかし」にすでにあったなら、それは諸式相調った珠光、紹鴎、利休流の茶の湯よりは、
りんかんうんきやくげげ
むしろ遥か以前の闘茶や茶かぷきの風儀を受け、さらには淋汗の茶、雲脚の茶、粗相かつ下々の茶の爆
発的流行と脈絡のある、いわば極めて庶民的な茶好きの素質体質に応じた茶遊びの簡略普及の体と言う
方が当っていよう。
茶が日本人の日用飲料の首座を占め行く過程で、一つの生業として茶屋商売が新たに可能になって行
ざいちさんじよ
くには、中世の産業構造や、座・市などの組織、寺社境内で営業のための散所の民も絡んだ特権と奉仕
の関係などが、すべて相応に成熟していなければならなかったろう。第一に往来繁昌という社会的条件
が先行しなければならなかったろう。それに麦湯や桜湯では一軒の店を構えるというに多分至らなかっ
た。やはり「茶」の味が抜群の魅力をもって「茶屋」を可能にしたのだろう。
狩野元信の子、永徳の伯父に秀頼という秀れた画人がいて、有名な『高雄観楓図』という風俗画の傑

作を描いた。これに一服一銭の茶を點てて行楽の人に売る姿が描きこんである。紛れもない「天文」頃
の制作である。
しよくにんづくしうたあわせせんじものうり
『職人尽歌合』では「一服一銭」は「煎物売」と組合わしてあるが、絵を見ると法師が花子に茶盞を

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据え茶筅で茶を點てている。「こ葉の御茶をめし候へ」と詞に書いてある。小葉とは小芽の茶だという
が、一説にはこういう「茶を召そ」の登場がやがて本茶屋掛茶屋となって、遊楽や参詣の地に定着する
のだろうという。むろん前後関係はさもあろう、「天文」の頃にはそうした茶屋掛けの店売りと、そう
した立売りの一服一銭とが並び立ってもいたのだろう。辻売りの煎茶というのもあり、近世には売茶翁
などと風流な呼び名の商いもあらわれてくる。おそらく中世も末の頃の水茶屋、掛茶屋には、のちに酒
色を専ら売る「茶屋」と、本来の一服一銭の商売を引受けたいわゆる「茶店」とに岐れて行く素地体質
があったに違いない。
「水茶屋酒落」ということばがある。水茶屋の女を相手の、へたで、鈍で、冴えない酒落の意味だ。時
ねえこをんな
代が下ると「欠場の姉や、水茶屋の小女」と物の本に書かれる。欠場も水茶屋も遊びや休息の場所であ
る一方、春をひさぐ式に男の相手をする女たちが白い顔を並べる場所とも自然になって行った。もうそ
こから茶屋が、茶よりは酒と色を売りに出すまではほんの一、二歩を歩いて事は足りたのであり、水茶
屋、掛茶屋が、私の言うように、あのばさらを尽した南北朝頃の闘茶会などの至極の庶民版であったな
らぱそれもなに不思議はなかった。ぱさら大名たちが賭け物を山と積み山海の珍味を場に溢れさせて七
十服、百服もの本非の茶をのみ分けたあげくは酒池肉林の歓を尽した風情というものは、遠目にも庶民
一般の眼に耳にのこって灼きついていただろう。及ばずながら茶遊びに事寄せた酒色の歓を自身尽しう
る日の到来を、彼らが願わぬわけもない。それは多分中世人の中世的願望の中でも最も大きなものの一
つだったのだ。

一方、古代以来然るべき宿場や港や川ぞいには遊び女が集まっていたのであり、産業が興り人の往来

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が盛んになり、しかも世が乱れれば乱れるほどに彼女らの存在理由は増して行った。おそらく水茶屋、
掛茶屋が遊び女かそれに近い女たちのなりわいに、すこぶる有効な生活の拠点を提供しえたことを忘れ
てはならない。社寺の境内や境外に、また行楽、保養の地に茶屋がならぴ、やがてそれが遊里花街遊廓
となって行くには、先ずは表向き「茶」が、そして興に乗じて「酒」「肴」が、最後には「色」が売り
物にならねばならなかった。
日本の文化には色濃い「遊ぴ」の側面と熱心な「行い」の側面とがある。今直ちにどちらが優勢とは
言わぬが、「遊ぴ」の文化はことに日本の芸術芸能を特色あるものに仕立てて豊かな産出力を誇ったと
は言い切れる。古代、中世、近世の別なく「遊び」は日本人の最も好むものの一つだった。むろん「遊
び」は舞楽、音曲、物合せ、何にせよ面白くて景気がいいからだ。しかし言葉としての「あそび」とは

そのものずぱりに遊女のことだった。男相手の浮かれ女たちのことであった。
ところで遊女、妓女、女郎の専ら居る所となった茶屋とて、決してはじめから酒色を表に売りに出し
たのではない。茶屋の看板があたまから偽りでなかった証拠に、たとえば「遊女が茶湯」といわれる風
俗が茶屋の商標にも商品にもなりえた時期があった。『東海道名所記』によれば、名うての遊女は銘々
かこい
の紋どころを持ち、揚屋の内に部屋を構えて紋をつけた暖簾をかけ、その内に囲居をしつらえ、押入、
ちいんゆうやろう
水屋、くさりの間なども勝手よく造り立てて「知音がた」に茶湯を出したらしい。遊冶郎たちはみな贅
を凝らした着物にその遊女、太夫の紋をつけ、先すは「会席」に酒盃を飛ばし、次いで茶の湯になり、
からめひ
茶の湯が過ぎれば「染いれしめだし唐縫いろ■」はみな女どもに呉れてやって、自分は白小袖ただ一
つの姿に替るとやおら「色」の世界に夢やうつつの足を踏みこむ、というわけだ。

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但しこの際の茶の湯は茶室の茶の応用だったらしい。水茶屋が茶屋になり、一服一銭のただ口渇をう
るおすだけの粗末な茶に代って茶室の茶法が茶屋入りをした図なのであろうが、それとて行楽の疲れを
湯よりもうすい茶一服に慰めたのとは違う、したたかな茶屋酒の味を醒まそうための色濃い茶屋の茶に
は相違なかった。茶屋の主役は茶ではなく、やはり酒と色とだった。普通の喫茶店が深夜業のスナック
に、そして暖昧宿へと変貌して行きながら、昼間の表看板だけは相変らず喫茶店のまま、とでも譬えて
いい変遷が、一服一銭の本茶屋からいわゆる茶屋への展開だったのだ。

こう極く粗略にながら考え寄ってみれば、「茶」が茶室や茶の間にだけでなく、遊び女の群れた茶屋
にもあった、ひょっとすると茶室や茶の間によりも古くからあったのかも、という事実に眼をひらかね
ばならなくなる。それはむしろ「茶」の可能性の幅広さを証するものと言って差支えない。
前章で私は、「茶」はともかく、「茶」に準じて日本人の日用飲料として悦ばれたものが古来必ず水
や湯のほかにありえて、そこには「お茶おひとつどうぞ」「いただきます」式の「心」が生き、「心」
を表現するための「姿」も調いつっあったに違いない、と書いた。一服一銭の茶點て法師と相対して煎
じ物を売る男の姿も『職人尽歌合』には描かれていたし、貨湯家といわれる湯を売る店は古くからあっ
さゆ
た。むろんただの白湯を売るのではなく、麦湯、桜湯、梅湯、橘皮湯、塩湯などと、味つけ匂いつけを
ほどこし、のちには福茶、雲茶、散茶、淹茶、煮花などの名と物とがさまざま世に容れられた。広義の
「湯」から広義の「茶」への民衆の好みの大きな推移を背景にしつつ、日本人の根強い茶好きの風があ
って、はじめて茶の湯は茶の湯になりえたのだ。

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だが性本来の茶好きは、行儀正しい茶室の茶の湯だけに満足していない。相変らず日常茶の間の茶も
勝手次第にたしなみ、遊び大事に茶屋の茶碗酒をあふりにも通わずに済ませなかった。
「茶室」の茶と「茶屋」の茶には、一見して対照的な特徴がある。茶の湯は、久しく男子主体の主客一
座だった。男の専用倶楽部といった体裁が茶事や茶室にはあった。茶の湯は紳士の教養であり娯楽であ
った。茶屋の茶はそれが煎茶であれ抹茶であれ煮花であれ、茶室の茶の陰画として、亜流として、変種
として「色」をも添えて女たちに万事接待され太平楽でのむ茶だった。茶室が晴れの茶なら、茶の間の

茶は褻の茶、茶屋の茶はまさに男たちには遊びの茶だった。
事実、茶屋には茶を挽くという仕事があり、売れない遊女は茶を挽かねばならなかった。が、茶だけ
つぼね
を売れば用が足りたのではない、局女郎一日の揚銭が銀廿匁、格子、天神、太夫ともなれば三十七匁も
はした
ついたというが、局女郎のまだ下に、散茶、うめ茶といった格の低い端下女郎もいたのである。「茶」
ということばにいささか猥雑の語感を育てるくらいの風俗が、つまりは近世の欄熟につながっていた。
もし中世の茶を「男文化」の達成と呼ぼうなら、近世の茶は、そして現代の茶も、その「女文化」的
変容と言える。但し、近世近代には茶屋女の、現代では花嫁修業中の未婚女性を主としたいわゆる広範
囲の家庭女性の「女文化」だと言える。それが茶の湯にとって大いなる前進なのか、解くに難しい混迷
であり退歩であるのか、それは現代日本文化史をどう書くかの、なかなか興味深い分岐点になる問題で
はなかろうか。それにしても花街表向きの商標も売り物も「茶」だったとは、面白い。奥深い。
佗びさびもいい。和歌清寂もいい。一期一会のそうした茶室の茶の湯をどんなに私自身が好きか、は
かりしれない。が、他方に「茶」というものが、ただ茶室の茶の湯としてばかりでなく、色好みの花街

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にも茶屋稼業として根を下していて、茶の湯はまるでそれと無縁とは言い切れずにいたことを想ってみ
るのは、こわばりがちな茶の湯観を、むしろ有効に刺激する。茶屋遊びが佗びでもさぴでもなかろう、
清寂でもありえまい。しかしお茶一杯を機縁にあとはわあっとさんざめいて、派手に陽気に景気よくと
いう働きがもともと「茶」に備わっていなかった、などと思うのも正しくない。
「酒」ほどではないにせよ、茶受けの出る茶のみ相手の茶ばなしが生真面目一方の清談でも相談でもな
くて、どこかに座談、雑談の気味があったのは、言うまでもない。いわば色気抜きの雰囲気が一方では
「茶」のよさであり、他方では「茶」の物足りなさになっただろう。
賑わいに色気を好む向きからは自然と「茶」にもある種の注文がついた。茶室や茶の間という求道的
かつ家庭的に過ぎる場所から時には解放されたい欲求も生まれたろう。とすれば冗談や時に猥談も可能
な、またきわどい冗談や猥談ゆえに却って女も座におり酒も座にある場所がもっと別に望まれもしただ
ろう。表向きは「茶」を立てた茶屋遊ぴへと男の足が向かうのも、また時の勢いだった。何もただ性欲
処理の場所としてのみ茶屋が立ったのではない。あくまでその方は付け足しという建前が利くところに
茶屋遊びの面白さや楽しさはあったのだ。その「遊び」の里を、花街とも色町ともいった。花や色や、
したがって匂いに満ちた茶屋町の建前上の主役となれた「茶」には、たしかに求道的、男性的な行いの
側面が欠けて見える。好色的、女性的な側面がそこでは強調されて見える。
しかし、一期一会の茶室の茶に或る禁欲的な行いの一面があらわれるのとは、別のある筋道を辿って、
はなごころてんめん
花街遊里の好色的な遊びの茶にも一種の宗教的心情へ抜けて行くのであろう「花心」は纏綿していた。
好色道が即菩提の因ともなるような世界としての茶屋であり茶屋遊びだという、ふしぎな感覚的論理が

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ともすると働いた。謡曲「江口」のような、女色の巷にいやしき女人と身を変えた仏菩薩の説話は古来
決して少くない。「花心」とは一種たゆたい惑う、頼りないがしかし犯し難い美的心情であり、花心へ
の憧憬はいわば本能や欲情の美化であった。そういう心情の美化をゆるす世界として茶屋は近世人の心
を捉え、遊びの文化を育て上げた。少くも「茶」はそうした美的心情と何ら抵触することなく、逆に表
看板にはっきり掲げられさえした。そんな「茶」は誇り高い茶の湯の「茶」と全くの別物、一視同仁は
迷惑至極、とは言わせぬ歴史的な経緯を、茶屋の茶は茶室の茶と共有し合ってきたのである。
遊里での男女の出違いはあまりにかりそめのそれではあるが、かりそめの思いに徹し切った所に卒然
と開かれる人間無常の絶対の状況が出現する。浮わついた状態が忽然とそのまま永遠と化する。好色道
じようとうしようがくどう
のこの真実感が一転して仏菩薩の成等正覚道と化する不思議を、遊里の人は「花」街の心意気と意識
し、「茶」屋という看板に秘めた。
茶屋哲学を振りまわす気もなく資格もない。甲であれ乙であれ、好色道であれ成等正覚道であれ、そ
こで根本に働く人間の欲は色欲であることに変りはなく、どう言いかえ建前を繕ってみても色欲はそれ
以上でも以下でもない。色欲にまみれ遊びに徹し、それほどの場所でも「茶」は茶として生きて働いて、
障りにもならずに人々を悦ばせ助け楽しませてきたのであり、その働きは、茶室や茶の間の場合と本質
的に違わないことだけを私は言いたいのだ。少くとも、我々が茶の湯と呼んで親しみ愛してきた「茶」
ゆぎよう
の根には、求道と禁欲との厳しい中世精神とともに、遊行と好色との陽気な中世精神もまたたっぷり含
せつぜん
まれていて、それが載然と二つに岐れて一方はもっぱら茶室に、他方はただ茶屋に流れこんだわけでは、
よもあるまい、ということをぜひ言いたいのだ。

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茶道具はお道具

しゆうしんおうぎし
「蘭亭殉葬」ということばがある。唐の太宗が執心の蘭亭序、王義之の真蹟を遺言によって己が墓に持
ちな
ち去ったのに因んでいるが、王義之の名筆といい太宗の名品に対するやみがたく深い愛といい、むしろ
称賛にちかく、讃仰にちかい故事となっている。太宗が真蹟を入手するまでの執拗を極めた努力、太宗
うすか
に奪われまいために必死に秘匿した僧弁才の苦心、太宗の厳命を承けて弁才を賺すそうとする高官蕭翼の
たん
策謀は、さながら美を主題とする一箇のドラマとなって「賺蘭亭」という今一つの故事を生んでおり、

私が小説を書く気もちの一等奥底には彼らの執念と葛藤に学ぼうという思いがある。かって「蘭亭を愛
しむ」という文章にその一端を書いたこともある。
その際にも私は引き合いに出したが松永久秀が織田信長に攻められて信貴山落城の際、奪われるが憎
さに秘蔵平蜘蛛の茶釜を庭石に叩き割って自らも火中に憤死したという話は、戦国武将の茶道具酷愛を
物語る挿話として世に知られている。
私はどうもこの久秀の所為を、太宗の蘭亭殉葬と均しなみに思いたくない。自分の言い分は理屈も何
もないことを承知の上で、いささか強引に物を言わせて貰えば、太宗の例では何かしら豊かなものが、
松永久秀の場合は妙に心貧しいものとなり変ってしか思われないのだ。

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名筆や逸品を永く人々の愛から奪い去ってしまう点は、太宗とて久秀と同罪なのである。が、日く言
い難い気味があって太宗の熱愛に私は心意かれ、久秀の酷愛には眉をひそめてしまう。なぜか。私はそ
れが、問題の「蘭亭序」の書と「平蜘蛛」の釜との佳さの違いからくる微妙な岐れだろうと思い、それ
で納得をしている。
むろん蘭亭真蹟は見られない、が、片鱗のうかがえる法帖には何度か出違っているし、王義之と伝え
そうこうてんぽくとうぼ
る書も、双鈎填墨の榻模や臨書ぱかりだけれど、見知っている。古今に冠絶した神妙の名筆であること
を重々納得の上で太宗の熱愛にも頷くことができる。
一方、平蜘蛛の釜も写真ですら見る能わざる道理だが、これは形状くらい想像がつかぬでもない。ま
たその方面の研究書や手引書を調べれば、どれほど伝来久しかろうが、およそ類似か相似かの茶釜は幾
らも伝世の遺品に恵まれている。茶釜という実用の道具でもあるからして、そうは異形の物だったとは
想えない。となると激して言えば、たかが茶釜ではないか、というのが久秀の所行に私が眉をひそめる
理由なのだ。久秀の酷愛を非難するのではない。酷愛の対象が、たかが茶釜ではないか、と思ってしま
うのだ。
茶の湯への愛を語ろうという者が、たかが茶釜とは何事という問題はある。が、ここはあくまで美な
るものとしての金無垢の価値を、太宗の蘭亭と久秀の平蜘蛛とで比較し相対化して物を言うのであるか
ら、暫くは容赦を願いたい。それどころかより手厳しく言えば、たかが茶釜ではないか、という私の評
価は、たかが茶道具ではないか、というところまで行き着くのである。
価値判断は人により、また時と所によって違うものだ。我々はかつて一国一城に値する茶入や茶壷の

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あったらしいことをよく承知している、が、それをどう評価するか、後世の我々と当時の人々とでは想
像以上に違うだろうし、同時代、同世代同士でもまたまちまちの受け取りようだったに相違ない。私は
あてが
と言えば、物によりけりとはいえ、少くも茶入茶壺を一国一城に宛行った、宛行っていい、ということ
自体には一種の怒りを感じる。
一国一城とは即ち民衆および彼らの労働力の代名詞にほかならない。彼らの運命の一切を賭けて一国
一城の存立が可能だったことをよく忘れないならぱ、そこにいかに卓抜な美の君臨がありえたにせよ、
茶入茶壺ごときを民衆の運命と等価ないしそれに優るものとして安易な取引がなされた風潮には、根本
的な疑念と批判をもたずに居れない。そこにもし封建的権威の悪しく病んだ姿を見るならば、いよいよ
私はそういう中世から近世への時代転換に対し暗く重苦しい評価をなげかけずに居れない。
一国一城に代りうるなどということが、さもそれら茶道具の名誉であるかに思うなら、それほど病ん
だ感覚はない。美しきものは、一人でも多くの人々の心を豊かにし、不滅の力づけによって人々をより
誇らしく生かすものである。民衆の魂と価額的に換算され取引されるがごときは、美しく佳きものにと
って本質的な侮辱以外の何ものでもないことを私は思う。
ましてや、たかが茶道具ではないか。道具は道具だ。
私はこの刺激的な言い草を十分心して筆にしているつもりだ。
かつて私はこう書いた。
平蜘蛛の茶釜がどんな物であったか、評判だけでは納得できないのだが、およそ今日に遺された当時
の茶器具をあれこれ著名なコレクションで観たり、また稀々茶会で実際に手を触れてみても、美術品と

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してはみな限界のあるもので、光悦、乾山、のんこうら本格の仕事になるまでは、ただ茶人好みという
ちやいれ
ばかりの茶入、茶杓、花筒、土茶碗など、なるほどそれなりの興趣は感じられても、決して大騒ぎする
ものとは思えない。茶人仲間では何の彼のと謂ってみても大概が”お道具”で、例えば東京博物館にあ
けいば
る■州白磁の盞や、元横河博士の蒐蔵であった宋官窯の輪花青磁針とか、三井家のやはり輪花の青磁馬
こうはん
蝗絆などと、気格、精繊、雅趣において匹敵する独立独歩の美術品は稀と言うよりない、と。

愛しむに値する芸術的な名品を惜しんだのなら久秀のしたこともある意味で首肯されるが冷淡にいえ
ば乱心に過きず、逸話というより汚名に近いのである、とも。
ここで問題になるのが、茶道具は美術品なのか、ということだ。少くも美術品と見て個々に鑑賞され
評価されることが茶道具本来の見られ方便われ方か、ということだ。
茶道具も美術品として、存分に、一点一点、鑑賞されねば済まぬものなら、私は大きく眺めて一般に
いう茶道具の美術性に遺憾の念をもつ。もたずに居れない。いったん美術となれば、美術の真価にハン
ディキャップはつかない。いかなる古今の名作名品と並んでも、これはたかが茶道具ですからと点数の
割引を期待するわけに行かない。となると、我々は日本の美術史上、あまりに優秀な、あまりに気高い
みずさし
多くの文化遺産を誇らしく承け嗣いでいて、それらと押し並べてかりに茶杓や茶碗や水指や花筒でどこ
まで対等の感銘を与えてくれるか、独立独歩の美術品、芸術品として堂々と通用するのだろうか、とい
うのが私の率直な感想なのである。面白い。色も匂いもある。妙味もある。美しくもある。が、感動の
質に於て一部例外は除いて本格の奥行乏しく、小粒で、背丈が低い、というのが私の実感なのである。
むしろそれより、茶道具の一点一点を、たとえ光悦の茶碗ほどにせよ、まるで宗達の絵を眺めたり運

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慶の彫刻を眺めるように鑑賞すべきものか、という根の深い問いかけが私にはある。
むろん私の答えはできている。
茶道具はお道具の分を守り切ることによってのみ良質の茶道具として生き生き働き、さように色も匂
いも生き生き働くことでのみ茶道具の内包する美術性もまた然るべき機会をえて人々の眼に、心に、忘
れ難い感銘をのこすのである、と。その然るべき機会とは、ともあれ、それは茶の湯の席を措いてない
のだ、と。そしてここまで言ってはじめて、私が松永久秀幸蜘蛛割りの一件を一種の愚挙だと見る理由
が、朧に、読者の胸に届いたのではないかと思うのだ。
おも
主茶碗という言い方がある。
菓子に主菓子干菓子があるのとこの茶碗の場合の「主」は、ちょっと意味も重味も違うだろう。それ
に利休時代の会記を読んでいると、一会の茶席に二枚三枚の茶碗を使ったらしい例は珍しいように思う
し、その伝では菓子器を替えて主菓子干菓子と並べた例も、そうそう見かけない。が、それは措く。と
にかく主茶碗という用法も、今日の大寄せ茶会や、また道具自慢の余分なサービス精神が主人側からは
見せたい、客側からは見たいと働く風潮では、先ず欠かせないこととは私も認めるし、それを一会の道
具立ての軸とも柱とも立ててみることがあって、まあ、差支えないと思う。
言いたいのは一席の茶室に使用される諸道具にも、むろん取合せに於て「主」なもの、眼目、があり、
相応の軽重があるということ、と同時に、茶室の中の諸道具のどれ一つもが独立独歩の佳さを主張する
しな
のでなく、主従と軽重との差に応じながら互いが互いを引き立て合って生きる一群連帯の生き物のよう
な存在だということ、だ。もし茶室に入って茶碗なら茶碗、掛け物なら掛け物だけの佳さしか見えない

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いず
なら、客の眼、というよりまさに茶の趣が不十分か、亭主の取合せが不十分か、の何れかだろう。
私はもう幾度も中世の心を陽気、景気そして面白さに於て捉え、その具体的な実現に人は寄り合って
趣向を尽したと書いてきた。能も連歌も寄合に趣向の生きた中世人好みを体現しているが、とりわけ茶
の湯は茶室という独自の会所に達成されたすぐれて倫理的かつ面白い寄合であり趣向だとも書いてきた。
趣向にもいろんな行き方がある。見立てやけれんはその劇的なところに効果があり、本来人と人との出
違いが見られる茶の場一会に劇的性格が濃い以上、その趣向に思いがけない見立てやけれんが生かされ
る例は寡くなかった。
が、概して茶会に於ける劇的な趣向はどうかすると茶の湯の清寂という妙趣を傷っけかねず、よほど
巧みに演出されたけれんも、文字どおりの逸聞逸話逸事として語り合われ、繰返しの一度一度に生かさ
れねばならぬ一期一会の理想、淡交の理想とは隙間を生じ易い。
むしろ茶の湯の趣向では諸道具取合せという行き方に心入れや思入れを生かす方法が探求されがちだ
った。会記というものが世に行われ今も行われているのは、何より取合せという趣向に一会の主催者の
心入れを読もうという意味でなければならない。
取合せとは配合であり、配合の内容はさまざまに工夫されても、要する所、調和的に新奇、新鮮なも
のを対照して面白しとする意向である。あらゆる趣向の中でも最も安定と均衡を尊び、また平凡、陳腐
にも向い易い。よほど鮮烈な工夫がないと、色あり匂いあって花やかだが飽きられ易い方法といえよう。
しかしながら、美術に限らず、文学、ことに詩歌の世界や日用の習慣習俗の中で適切な取合せの妙を欠
くことは、生活の場を灰色の散漫なものにしかねない。中世の本歌とりも連歌付合せも作能も、みな新

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奇な意表に出た前人未踏の取合せの探求と発見の連続だったと言える。まして最も生活的な場面の芸術
的洗練である茶の湯の場に取合せが重用されたのは、理の自然当然であったろう。茶道具が最も正しく
最も美しい生き古生かされ方をするのは、かかる趣向に主客の心入れ思入れがごく自然に触れ合い親し
み合う時を措いてない。
もう一度言おう。茶を喫む、ただそれだけのありふれた行為を、芸術的な、現実を超えた、簡素で濃
厚な別世界に変貌させえた茶の湯には、所詮ただ禅とか隠逸とか言っただけでは説明のっくはずもない、
日常的な振舞いや日用の器物に対する綿密で美的な吟味能力、趣味のちからが働いているのであり、茶
人が積み重ねてきたそうした具体的な趣味判断の一つ一つをもう少し丁寧に理解すれば、茶の湯をいた
えせ
ずらに似而非宗教に押しやらずに済むのだ、と。
茶の湯は、あくまで主人が客を招き、一座して茶を喫み、そして別れて行く一連の経過の全体をいう
のであり、茶碗なら茶碗だけを、墨跡なら墨跡だけを、露地なら露地だけを論じても、茶の湯の魅力は
足し算では答に出せない。いかに名碗、いかに名筆であろうと、生かすも殺すも先すは主人の趣向、客
じか
の思入れであって、茶の湯ほど人間の味が直に支配的な遊芸はない。とともに、主客の心のはずみや和
みに応じて大小種々の道具があたかも空の星のように均衡し調和したまま一分の崩れも歪みもなく、刻
刻にその匂いや色をより美しくも優しくも正しくも働かせねばならない。茶人は、無心の道具に魂を入
れる。形状、色彩、大小、軽重、材質そして伝来や由緒や産、柄、銘などの精緻な配合、取合せが趣向
の眼目になる。幾千変万化もの配合が可能な以上、その中から某月楽日の定刻を限って唯一つの最上乗
の世界を茶庭茶室のくまぐまにまで幻出させる配慮の一切は、それこそ主の客に対する、客の主に対す

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る、愛情や敬意なしに成就が可能とは思えない。そのすべての配慮が、利休流に言えばただ一碗の茶を
點てて喫むというばかりのことに集注される、それが茶の湯の面白さなのだ。
主人と客との間髪を入れる隙もない一座建立の和敬清寂。たしかに多く禅にも学びながら、一瞬散ら
す主客心競べの火花の如きものは、久しいわが趣向の伝統の中でも最も人間同士の精神的な至醇至福を
表わすものだ。だからーそう、だから逆に、茶の道具に我々は、心を捉われてしまってはならない、そ
れでは本末顛倒だ、ということも私は強調したい。たかが茶道具、たかがお道具ではないか、という私
の一読不遜な物言いの真意もここに根差していたのである。一国一城にも値する名品逸品を持たなけれ
ば茶の湯がならぬなら、たかが茶の湯ではないか、やめてしまえぱいい。
はしいまま
むしろ茶人は声価ともに恐にしている既存の名品逸品になど背を向けても、今が今の自分と、自分
が今想いを寄せる心の友、客、とにふさわしい新しい美の演出を心がけた方がいい。自分にふわさしく、
それ故に客にもふさわしい道具を新たに発見し創造した方がいい。
新たな発見、創造とは何か。
、、、、
敬意と愛情を傾けてそれを”使ってみる”という勇気以外の何ものでもない。それは、道具は、使い
使われて生きる。使ってみることなしには無意味な存在だ。茶道具は文字通り断じてただ鑑賞用の美術
品ではなく、茶の湯の席でよく使われてのみよく光るお道具に過ぎない。お道具としての可能性の限界
いっぱいに使われてのみ美しいと人の眼に心に映るお道具に過ぎない。そんなお道具に茶人の方が使わ
れていていいのだろうか。
松永久秀の釜がどんなに佳い茶道具であれ、彼が本当にすぐれた茶人なら、釜だけが大事、或いは釜

95

の方が命より大事、などと思わず、釜のより佳き出違い、いい茶碗やいい水指との出違いを祈って修羅
の猛火の外へ遁れさせてやっただろう。茶道具とは茶人にとってその程度のものであっていいのではな
いか。その気があれば、良い道具は良く”使う”ことで新たに幾らでも劔り出せるのではないか。

有名な松屋会記は天文二年(一五三三)から、津田宗達会記(天王寺屋会記)は同十七年(一五四八)か
らはじまっている。宗達はこの年四十五歳、利休の先輩茶人津田宗及の父に当る。いわば利休より一世
代前から漸く茶会記の記載法が整い、それが茶の湯修行の要訣だという自覚が一般化しで来たのである。
だが、茶会記はいったいどういう目的で創始され、どういう目的や効果で読まれ写本されたのだろう。
当時茶の湯の師匠と弟子という関係が、今日のように束脩と月謝を持参し、手前作法の一々を手とり
足とり教えられ習い憶える、その上で免許状をどっさり買い取る、といったものでなかったことを先ず
知らねばならない。そうではなく、弟子は師匠の茶会にただ参加する、見る、見憶え聴き憶える、こと
を通してのみ大事な心入れ思入れの機微を習い覚えた。茶会遍歴で見習うことが即ち修行だった。
会記は修行の覚書であり学習ノートだったのだ。
では会記を通して生徒は、弟子は、何を習ったか。本来は茶会亭主の、広義の先生の、諸道具取合せ
に生かされた趣向であり配慮である心入れ思入れを学び、見習おうとしたに違いない。しかもこの学習
ちやずき
が、ともすれば本末を逆さまにして、結局会記も、当時の茶数寄が、何としても当日使用の道具への強
い関心とともに深まり進んだと見るべき有力な証拠文献と化する成行を免れえなかった。
誰が、どのようにみごとにどの道具をどう取合せたか、会記がその教科書ないし範例としてよりは、

96

誰がどんな道具を所有して何時どこで使ったか、それを誰と誰が客として実際に証言できるか、その証
拠かのように当時も茶人の関心を惹き、昨今も学者や茶人の注目を受けている。
会記というものをこう変質させた推進力はしかし当時の茶室そのものに潜んでいた。茶室とは何度も
言うが一種の鹿鳴館であり、また美術館でも社交場でもあったのだから、茶菓以上に、酒肴以上に、伝
ちたい
来正しい、珍しい、値の高い茶道具の方が、いわば本当の御馳走になり易かったし、具体的な茶会の印
象をつなぎとめるには当日所用の道具類に、その品目に着目するのが何より便利であったし効果も上が
ったのだ。
だが、心より物に重きを置くこの変質は、茶室に実現されるドラマを、倫理的なものからより美的、
むしろ享楽的なものに移り行かせ、さらにその享楽的な美しさの価値をさらに算用の商品価値に換算さ
せて行くという痛恨無類の頽廃へと導いたのである。茶道具は独自に茶室内をきらめかす星座的な均衡
美を人間の浅ましい欲得づくによって寸断され、一点一点の商品価値や銘柄が尊ばれるところへと逆落
しに堕落し変質して行った。
昨今の流儀および職業茶人がどんなにこの茶道具偏重の害悪に染まっているかは測り知れないものが
ある。しかもそれは家元ないしその筋の指導の程度をこえて、いわば彼ら茶人たちの奇妙な自己暗示に
よって輪をかけている気味すらあるのだ。
先代家元が亡くなって当代家元になると、急にその流儀では、床掛けに当代の書が使われ「ねぱなら
ない」と昨今の茶人は思いこむ。先代の好み物をもし一点使えば、当代のそれはそれ以上使わ「ねぱな
らない」と昨今の茶人は決めてかかる。取合せ上それが最適と分っていても他流の家元の好み物を使っ

97

ては「ならない」と昨今の茶人は自粛してしまう。そうでなければ「世間が通らない」などと言う。む
ろん「世間」とは「わたくしどもお茶の世界」の意味だ。うちの叔母も頑としてそれを口にした。が、
すべて事大主義の自己規制であり立処皆真の主体性は放棄されている。そのような抑制が働いてしまう
社会だという点に茶の湯の世界の脆さも頑固さも古くささもあることを、それどころか、そこにつけ入
って甘い汁を吸う拝物・拝金の奇怪な権威主義が根を張って行くのだということを、もうせめて若い青
年茶人たちは思い知って改めていいであろう。
こういうことを続けているうちに、茶の湯の世界そのものが一大企業化して茶道具界と結託する度合
いは深まって行く。あまりに不毛の癒着がそこに生じると、陳腐で阿呆らしい道具が、あたかも美術品
顔をして高価な商品価値を恐にしはじめ、茶人はあたかも貯金の利息を楽しむ思いで、そんな、よくよ
らち
く見れば埓もない旧弊な道具ばかりを買いこみ貯めこむ。するといよいよ品物の値は上がり、それを助
長する形で権威筋の箱書だの極めだの添書だのといった付加価値が当然かのように幅を利かせはじめる。
この状態を、人それぞれの眼がよく見えるために厳しい美的淘汰が進んで、いよいよ道具の質が上がる
のと比較して想ってみるだけでも、どれくらい弊害の大きいものがが分るではないか。
決して金に恵まれた人たちの趣味の上のことだから構わない、差支えない、とは言えないのだ。なぜ
なら、こういう道具に対する衰弱した無感覚、というより旺盛な慾得感覚によって先ず何よりも現代の
茶の湯は、現代の新しい美を産み創り出す基本の能力を自ら麻痺させて行くのだから。
茶の湯とは新しい美を産み創るすぐれた趣味能力の母胎としてはじめて「文化」の名に恥じないもの
ではなかったか。

98

現代の茶の湯が古い時代の骨董を茶道具として珍重するのは、むろん一つには人の手から手に愛され
てきたその物の命の歴史をいとおしむからではあるが、今一つには、新しい現代美を茶人の眼識と創造
力とでよう産み出せないからだとも言える。
長次郎ものんこうも、光悦も仁清も乾山もその時々に於ですぐれた現代人として現代美を産み、当時
の茶人もその現代美を現代人として享受したのだが、その道理をよしとすれば、我々の現代は我々の現
代美を茶の湯の中に創造することなしにどこに茶の湯の積極的な現代的価値を承認できるだろう。
ところが、どこの茶会へ行っても、稽古場へ行っても、道具の尊重は大いに、いや過度に徹底してい
るが、何を本当に尊重し珍重しているかとみれぱ、要は産、銘、柄、と由緒、伝来と、何がなくとも誰
かのお箱書とあっては悲しくなってしまう。
箱や箱書のどこに本当の価値があるか。
いつの日にかそれ故に幾らか高く売れそうな価値としてそんな付加価値が尊重され過ぎるからこそ、
例えば一枚の茶碗を見て、それがその一会の掛け物や水指や釜や茶入や茶杓や花や菓子とどう映え合っ
ているか、だから佳いか悪いかよりも、その茶碗がどこの窯の何代の誰の作で、いざ買うとなれぱ幾ら
につく、だから凄いとかだから値打ちがないとか、まるで相場師同然の評価とずぱり当てましょう式の
クイズ
知識を競い合うことになる。
そんなところから、どれほど真に佳い道具があらわれ、良く使われ、それで茶会や茶の湯がどう充実
して行くものか、本当に心細い。
やはり私は敢て言いたい、たかが茶道具ではないか、と。

99

作法・無作法

ある東京の大学で、二週にわたり「茶の心」について講義することになった。「日本の中世」という
大きな枠組の一環であるらしく、講義はおこがましいが話したり、できれば話合ってみたい気がして引
き受けたのがあと数日に迫っている。聴き手は二年次生だというからもう高校の気分は抜け切った頃の
若々しい大学生たちで、男女共学である。
大学生相手に高い所から大声で喋ったのは去年(昭和五十年)の東大五月祭で佐伯彰一氏と対談した
のが唯一の経験だが、なかなか対談にもならず、佐伯氏になんとか調子を合せてもらってやっと体面を
繕ったような次第だった。
「次第だった」と書いて、急に、話題を逸らせたくなった。と言うのは「次第」の二字が気になったか
らだ。この場合この二字は「成行」くらいの意味になるだろう。以下、五月祭でも似たことを話し、前
に『暮しの設計』という雑誌にも同じことを書いたのをお断りしておく。但し、匂いも色もないと見え
てこれはこの「淡き交わり」を夢見る読者に、一等ふさわしい話題に違いない。
「手当りしだい」と言ってみることがある。少々血の騒ぐことぱだが意味ははっきりしている。「しだ
いに空は明るんで」「用事が済みしだい」「さようのしだいで今しばらくお待ちを」などと言いもし書

100

きもする時、漢字で書いて「次第」の意味をとり違えることはない。
だが、席も改まった結婚式や表彰式に出向いて、「次第」「式次第」などと掲示があると、「次第」
の二字にふと面喰うような、奇妙になじまない初めて見た文字のような気がする。
小学校のころ、なにか式のたびに講堂の黒板に謹直なチョークの字で「式次第」として君ヶ代斉唱、
校長先生訓辞などと要するに式進行の順番が箇条書されていた。「次第」の意味はたから否応なく分っ
ていた、が、それでもなお平常「第一次」とか「第一軍」と言ったり書いたりしながら、ふと「第」の
意味は忘れて無意識に使っていることが多い。「第」には邸宅の意味があり、また順序の意味もある。
「次第」には、然るべき順を踏んで物事が一つ一つ経過し達成されて行くという語感がある。
だがこんな古めかしい字遣いにそう関心がもてない。たんに「順序」でいい。それより卒業式、結婚
式、葬式にしても、こと改まった式でなくても、物事には何かしら踏むべき順序があって、それに随っ
て行えば成行によけいな故障も起きずに済むという、当然すぎて存外軽く忘れられていそうなことを、
ちょっと思い出してみるのである。
まだ勤めていた頃、私は看護婦対象の雑誌編集を担当しながら、月に一度二度大学大病院から数人の
優秀な看護婦を招いて、巻末附録のため規準的な「看護手順」をこと細かに討議しては、箇条書に纒め
て貰ったことがある。たまに医者にかかるくらいの人には的確に見当もつくまいけれど、看護婦の仕事
が一種高度な技術であり、その技術が適切有効に医師と患者の間で使われねばならない以上、どんな場
面では何に先ず手をつけ、その次にはこうして、次にこれを用意してという作業の順序即ち「手順」と
いうものが、自然に工夫され確認され整備されて、忙しければ忙しいほど彼女たちは「手順」に助けら

101

れて間違いなく看護技術を駆使することができるのである。
そうなるまでには幾世代もの自覚的で勉強家で有能な看護婦たちの苦心や工夫の積重ねが必要だった。
施設、病棟、外来診療室の違いや人間関係の違いに応じて細部の変更や違った手順が生まれるのはむし
ろ当然としても、要は一等適当な作業の順序が、内科や外科でも、また外来や病室でもさまざまな病変、
疾患や事態、場面に応じてこと細かに把握されずには済まなかった。そのためにも「手順」はぜひ必要
だった。
例えば患者が不幸にも死の転帰に至った場合を挙げてみよう。人の死から、少なくも遺骸を納棺する
までに相応の各種処置が必要なのは誰しも想像がつく。担当看護婦は紛れない仕事の一部として死者を、
遺骸を、終始要領よく扱わねばならない。彼女たちはその「手順」や心構えを、学生時代に「死後の処
置」という教目で必ず習ってきている。
私の担当した雑誌附録は、そういう看護手順を及ぶかぎりどの病院、どの病室でも平均して行えるよ
うな不可欠の骨組みに整理し組織しようと狙っていた。事実甲乙ない優秀な病院の優秀な看護婦が五人
六人集まって討議を重ねてみると、彼女らの「手順」は細部ではずいぷん違っていた。が、同じ目的に
しつか
達する太い道筋は確り重なり合っていた。
むろん「手順」は何にでもあることだ。かりに盆踊り一つ楽しむにも定まった「手順」をそつなく憶
えこんでいてこそ、十重二十重の踊りの輪を乱さずに済む。
とくに茶の湯の手前作法など、茶室に運ぴこんだ諸道具を一定の「手順」に従って、採り、扱い、持
ち、使って、茶を點て、客が喫みおわれぱまた片づけて持ち帰るわけであるから、主な稽古は、定めら

102

れた「手順」を「手」が憶えこむまでとすら言えなくない。極く初歩の平手前から奥儀手前まで、あく
つづ
まで作法として約めて言えば、「手順」は複雑に「手技」は難しくなるというに過ぎない。しかも一と
手前十五分で済むものも一時間かかるものも、基本根本の「手順」は全く違わない。太い幹の「手順」
と枝葉の「手順」とを賢く分別できる人には、作法の違いや複雑さは実は大して苦にならない。稽古は
次第を踏んで先へ先へ進んで行くのだし、基本が分っていれば、あとは変化と修飾の部分をただ足し算
して行けばよい。
それにしても茶の湯の作法はまさに「手」が各種の道具に順々に触れながら進むのだから、こんなに
はま
「手順」とか「手続き」という言い方がぴたりと嵌るものはないように私は子どもの時分から思ってい

た。湯を沸かし、茶を點てて、喫む、といった日常的な動作を、こういう「手順」で作法に仕立てる意
図、工夫、営為、に対し、私はまちがいなく或る「文化」的な人間の意志や衝動を感じていた。
だが「文化」という原点にまで掘り下げて考えるなら、我々は個々の「手順」そのものより、それら
「手順」の一つ底に隠れている、或る「自然」に正しく触れるということがより本質的にもっと大事な
のである。
だが、その「自然」がすべて必然のものかどうかは簡単に言い切れない。何しろ「手順」は人が人の
都合で創り出すもので、その都合というものが決して万代不易というわけではないからだ。手順が定ま
っていることが大いに便利な場合が多いのは確かだとして、逆に「手順」が人の自由で新たな創意を制
限することもあるのは否めない。その不自然さ煩わしさを迷惑に思ったことのある人なら、人が創った
「手順」が天与の必然であるはずがないという強い批判や反撥をもったに違いない。例えば茶室に右足

103


で入るか左足で入るかの違いなど、どちらが正しいということでなく、一つの定まりとして流儀が勝手
に決めたまでで、いわば人さまざまというくらいに違って当然のことなのである。しかもやはり人それ
ぞれの流儀に習って「手順」を尊重してこそ面白く、かっ各人各様の共存も可能になる。

「手順」とは多くの場合はなはだ社会的な約束事として、或る限界があって成立つものであるからこそ、
逆に絶えず「手順変更」の柔軟さももつ一方、一応は約束を尊重して「手順」どおりに事を運ぶ気もち
がなくてはならない。その意味ではこの際むしろ「手続き」という言葉の方が、「手順」の意味も含み
ながらより広く深く人間社会に浸透して秩序を維持させている約束事の意味を、誰からもよく諒解され
ている。またそれだけに「手続き」が強いてくる義務感にも人は過敏に反応する。
緻密な「手続き」を守らねばならぬ世の中、少くも守った方が好都合な世の中は、よく行届いた社会、
高文明の社会のように想われる。が、実際には窮屈な煩わしい被管理の被害感も募ることだろう。
いにょう
数え立でれば際限ない「手続き」に我々は日常囲繞されている。抵抗なく「手続き」というものを受
入れて事を運ぷたちの人には便利な約束ことであり、「手続き」の面倒さに苛立っ人には不自由や窮屈
の象徴のように思えるだろう。
「手順」「手続き」を工夫し実践することで便利好都合な調和や秩序をも産み出せる人間が、同じその
「手順」「手続き」によって不便不都合な強制感や束縛感をもっということは、人のさがの至らなさと
言ってしまえもしようが、だから文明というものの恩恵を本当に有難く受けつづけるためには、文明の
進度とか密度とかに対し、絶えず人は批判の眼を向けていなけれぱならないのである。文明とは決して

104

安定した状態でもなく、人間に対して無差別に好意的なものでもない。自分たちの「手」で創り出した
文明との関わりに、人は絶えず程良い調和の姿勢や感覚を持っていなけれぱならないのである。
決まった「手続き」に従わせたい、従いたくないという岐れで、職場の上司と部下、家庭の親と子の
葛藤が生じることも普通に見られる。頑固に強いる側、強引に無視したがる側の両方が「手続き」本来
の意味を忘れ、それを不動の鉄則だからそれを守れ、守りたくない、と争いたがる。
こだわ
上司や親が、「手続き」に拘泥る職場や家庭では殆ど創意、工夫、改良といった雰囲気が生まれなく
て、部下や子どもは苛々する。が、「手続き」をやたら無視して自己主張の方便にする部下や子どもぱ
かりでも困る。現行「手続き」に不満があれば、より適当な新しい「手続き」への創意が先行ないし帯
同しなければならず、そうした改良の具体化や実現までは今の「手続き」に従う一方で、新たな問題提
起や改善の希望、革新への希望を根気よく持ち出す努力が大事なのである。
たとえば看護の「手順」に絶対と言えるものはなかった。五つの施設から五人の看護婦が集まり討論
して、極端な場合王様の「手順」を出し合うことも幾度もあった。にもかかわらず、「手順」は確かに
在る、と言える点が大事であって、その「手順」が幾らでも改良改善の必要と可能性とをもっていると
いう点は、もっともっと大事なことである。「手順」には、原則とか規準とかかなり不動不易総論的な
ものと、細則とか規則とかかなり現場現象に応じて特殊暫定各論的なものとがあるわけだ。
もし「手順」を細則とだけ考えれば、私が何人もの優秀な看護婦に討議して貰ったことは意味をもた
ない。細則は現場の特殊性に応じて、同じ現場の同僚同士が十分吟味し約束し合えばよい。が、そうい
う細かな「手順」を本当に良いものにする為には、本質的な目的に力強く沿ったもっと原則的に大きな

105

「手順」が根拠正しく定まっていなければならない。
茶の湯の「手順」は、原則も細則も、すべて歴史的には一家元の権威が定めてしまっている。門弟は
みだりに改変をゆるされないし、かりにそうしてみても他人に通用を求めることはできない。
ところが、看護の「手順」は、誰か一人の権威者が制定して従わせるというものではない。数え切れ
ないほどの現場で、多種多様の場面や必要に応じて、いやというほどの試行錯誤と体験とが積重ねられ
たあげく何とか物事の輪郭が定まってくる、という工合に「手順」が認識され、整理され、活用されて
きたし、もしその現場に今日最新式の器械が一つ加わっただけでも、昨日までの「手順」が新しい別の
「手順」に変えられてしまうこともあるわけだ。だがそういう条件や前提の変更をさえ乗りこえて、原
則的に確乎とした「手順」を探し求め、その技術的、科学的、能率的、効果的な根拠をあらゆる現場の
現象の多彩な要求にも適切に応えうるほどの確かさで見劣めて行くことが、看護婦にとって何より肝要
な「看護学」というものになる。
看護学が追い求めている「手順」と、茶の湯が作法として定めている「手順」とは、似てもいるが、
大いに違ってもいる。そして暮しの設計に余念ない家庭の主婦もまたこの両面の「手順」に日々随って
心身を働かせている。読者は心中「手順」「手続き」の必要をもはや疑っていないとして、この二様の
「手順」のいったいどちらをより望み、より評価しているだろうか。
権威によって定められ、疑いもなく、疑う必要もなく、そのとおりに行えば間違いのない「手順」に
従うのは気らくで、幾分無責任で、安心なものである。人は自分と、自分は人と、同じことを同じよう
にしている、すべて画一的で均等である、というのはよけいな思い煩いのないことでもある。正しいと

106

間違いとの区別が実に明確な、それは一種の快適感ですらある。
、、
よく考えてみると、だが権威の決定した不動の「手順」というのは実はめったに存在しない。スボー

ツのルールも、法律や規則でさえもそうではあるまい。むしろそれらの「手順」「手続き」を定まりと
して決め、認め、だから守るのも、本当は我々自身であるという自覚をもつことの方が何よりも大事な
のだ。少くも民主社会の市民を以て任ずる限り、それはたしかに腹に納めておきたいことだと私は思う。

さまざまな人が一様の「手順」「手続き」を踏んで暮すには、人間の社会はあまりに巨大だ。という
ことは、例えば看護や家事や茶の湯の「手順」「手続き」と較べて社会の「手順」「手続き」を原則的
にも細則的にもこれで良しと言い切れるほど定め切るのは難事以上の不可能だということになる。便利

好都合な「手順」「手続き」ばかりでもう世の中の定まりはついているなどと、とても言えたものでは
なく、どんなに立派な名前がついて法律と呼ばれ規則と呼ばれようと、まだまだ、というより、いつい
つまでも、それは一方で守るべき「手順」「手続き」であるとともに、他方で改められ変えられるべき
「手順」「手続き」だということになる。そしてその判断は権威がではなく、我々が自分でしなければ
ならない。良い「手順」良い「手続き」を絶えず創り出せる意欲や能力こそ、他の動物にない我々だけ
の「文化」なのだ。
おそらく、太古、人は「手当りしだい」に生きたのだろう。眼は物を見ていても「手」が物を見定め
ていなかったあいだ、人間はどんなに無残に外界に突き当り弾かれ打ち伏せられつづけたことか。それ
でも彼らは夢中に「手さぐり」し「手当りしだい」に物を掴み物を使い物を食べながら、しだいに「手

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順」というものを創り出してきた。「手」が創る順序や秩序の中に「手」の力や技や心が精緻に文明を
構築する秘密が隠されていると知った時の、我々の祖先が味わったろう歓喜と得意がどんなものだった
か、私はそれを遙かに想像しながら自分の「手」をじっと見ている時がある。
「茶の心」という話題からはたいそう逸れたようだが、逸れたぱかりでもあるまい。もう何度も「茶の
心」を繰返し語ってきたのだが、私の目下の急務は、こういう茶の湯に日ごろ親しんでいる読者にでな
く、茶の湯に対して何も知らないか十分は知らずにしかも或る予断ないし偏見すら持っているかも知れ
ぬ現代の若い大学生と一緒に、「茶の心」を考えてみるということだ。自ずから話の立て方や選び方に
工夫というものがないと、そして話し手の胸に誠意がないと、ただ喋った聴いただけでお茶を濁すはめ
になりかねない。
今日の学生は一体「茶の心」に何を期待し希望しているのか、それとも何も望んでいないのか、それ
も教場に入って、話して、話し終っても分るかどうか分らないはなしではある。
それにつけて私が茶の湯好きと知っているいわゆる門外漢から何度も訊かれた中で、最も普通の質問
は、「お茶って、面白いんですか」だったし、これには覚えのある人が多いに違いない。「面白いんで
すか」の「面白い」はこの際そう厳密な用語ではないにしても、かなり便利に核心に手を届かせる言葉
に相違ない。
、、
例えば「ためになりますか」などと訓く人は殆どない。しかも私の見る所も思う所も、茶の湯の場に
実際に身を寄せた人ほど「面白い」より「ためになる」と考えていることが多いのではないか。茶の湯
は、「ためになる」などと殆ど予想もしない人たちの「面白いんですか」と、茶の湯は「面白い」とい

108

、、
う正直な実感をわざわざ「ためになる」と言い換えたがる人たちとのずれの中に、どうやら今度「茶の
心」を大学で語ってくる私なりの課題が秘んでいる気がしている。
「面白いですよ」という返事を私は「ためになりますよ」と言い換えたくない。それが本当だとしても、
やはり「ためになる」ことと「茶の心」という問題意識とを同じ次元に置きたくない。どうも今日の茶
人は茶の湯を「ため」にし過ぎたがるというのが、私のこの原稿を書きながら心に引っかけつづけてき
た疑念だったし、不信だったのだから。
むろん「面白いもんじゃないですよ」とは答えられない。決してそう思ってもいない。茶の湯は「面
白い」と私は思ってきて殆ど不動の思いになっている。しかも「お茶って面白いんですか」という質問
には、実は「面白くない」ことへの予断が秘められていて、言い換えれば「窮屈」「煩雑」「大儀」な
どという不信と敬遠の表情が隠されているのだ。そしてその必ずしも偏見と言い切れない表情が見つめ
指さすのが、茶の湯の作法、「手前」(點前とは書かない)の「形式ばった」難しさである場合が多い。
私が変っているのかもしれないが、手前作法などは茶の湯の中で定まりきった「手順」「手続き」と
納得して覚えこんでしまえぱ、これが一等窮屈でない、煩雑でも大儀でもないものだと思う。それより
も茶人同士の位どりや競い心が素地になったまま、言葉ひとつで「茶の心」が看板や建前になって外へ
前へと押し出されるのに付き合うのがいやだ。いやらしいのだ。そういう人が全科玉条にして「外」の
、、、、
人に対して誇ってみせるのが、例えば「茶室」というとざされた場所、「着物」というとらわれた外見、
、、、、
「正座」というこわぱった姿勢、であり、何よりも「手前」という定められた手順、なのだ。
、、
茶室で、着物姿の正座で、手前をするだけが、本当に本来の「茶の湯」だろうか。

109

こういう問いかけが茶人の胸を一度は揺すらねぱならないはずだ。ひょっとするとこの四つの必要条
件の網目から「茶の心」はまんまと洩れ落ちるのではないか。そしてまんまと「茶の心」を洩れ落とす
ようなものなら、それは決して茶の湯の十分条件などでなく、場合によって決して必要な条件でもない
のかもしれぬではないか。「茶の心」の「心」とは「人の心」である。「人の心」の「人」とはこの際
ひとり自分だけを指すのではなく、相手の存在を認めての「人」である。

いま私は「相手」と言ったが、これは人と人との「手」が会い合い相うという意味であって、主にと
っての客が相手、客にとっての主が相手という以上に、主と客との手が双方から出会って互いの「手」
、、
と「手」の「前」に或る結ばれ合い調和した場所が社会的精神的、つまり人間的に創造される状況をこ
そ、すばらしい「相手」と言うべきだろう。
相手次第でこの調和や均衡や緊張に内在する価値は高くも低くもなる。その価値をすぐれて人間的に
高め合う、高め合おうとする、そこに「人の、心」が働きそこに茶室や着物や正座や手前作法という条件
が加わってその「心」が「茶の心」に、その「人」が「茶人」になるのだろう。「手前」というのはそ
、、
ういう「人」の「心」が互いに生き合う場所の意味でもあるのだ。その場所は従って必ずしも「茶室」
でなけれぱならぬということでもないわけだ。
例えば私は「茶の間の茶」ということを言っている。茶の湯が茶室から出て、茶の間とかぎらず書斎
や勉強部屋や、時には炊事場にさえ場所を移して不時の茶一服を楽しむということは有ってよく、本来
から言うと、無くてならないそれも茶の心と言えよう。
ただそういう際に、無作法に、何の手順もなしに、點てれぱいい、喫めばいいでは茶の湯の実体がな

110

い。茶の間には茶の間の作法、手順を、書斎や勉強部屋や台所にはまたそれなりの作法、手順を物に即
し、場所に即し、人に即して創り出す工夫、気働きというものが大事だということが私の言いたいこと
であって、そういう必要に応じて自然に整理されたむりのない手順と道具とを見つけ出しながら、一方
で新しい美の世界を建立しつつも他方で新しい人間関係の充実と緊張とを確立して行くというのが、茶
の湯の最も茶の湯らしい「文化的」な創造性というものであったことを、よく思い直してみたいのであ
る。
この頃は残念にもその余裕がないが、むかしは何か新しい品物、育った家の商売でいえば新種の電器
製品などを見ると、それを道具に組み入れた手前作法を工夫して親しい人に実演してみせるのが、私の
趣味だった一時期がある。その経験からえたのは、幾らけれんにかかった工夫を凝らそうとしても、結
、、
局は茶を點てるという一連の手順の底にある自然の流れには逆らえないという、一種深い畏敬の念であ
、、、、
った。またそれだけに、茶の湯という趣向の内なる確かな自然に敬意を払いながら、茶の湯の関係者は
大胆に自分の、今日の、思いを表現できる作法上の創意工夫をためらってはならないし、それをいたず
らに否定し排斥してはならないと思う。
茶の湯をすでに定まり切ったものと決して思わない「茶の心」からしか、新しい美は産まれまい。
成ろうなら、こういう「茶の心」を、大学生と話し合って来ようと思っている。

111

平手前の魅力

主客一座して、さて道具がなく作法もない茶の湯は考えられない。道具に就て、また作法に就て、あ
らましの私の思いはすでに語ったものの、まだ物足りない。道具と作法との接点、も妙だが、この二っ
をそれぞれの本来の姿で一つに結び合わせるのは、何か。
言うまでもなく道具を作法に従って「使う」ということである。
茶の湯の作法は、茶道具をどう使うか、の一点に具体化している。使うーとはこれはまた極めて日
常的な言葉だが、よほどの例外を問わぬ限り、道具を使うのが人と動物との大きな違いとされてきた以
上、「使う」という言葉の意味するところは人類誕生の太古に遡るわけだ。
だが、道具を使うというのがどんなことか、それを「手」との絡みで十分認識されているかとなると、
たと
話はとたんに怪しくなる。わが家の夕食どきをかりて譬えぱなしで考えてみたい。
ご飯を食べる、そのためにとりあえず普通は箸と茶碗を使う。茶碗にはすでにご飯がよそってあって、
両方ともまだ食卓の上にある、とする。この状態で箸と茶碗を使うとはどういうことか。わが家は箸箱
を用いず、みな箸を一度一度洗って食事ときには箸立てに立てて出す。
「ーで、箸が使いたけれぱ先ずどうする」と娘に訊く。

112
 

「持つわよ」
「じゃ、持ってごらん」
娘は手を伸ぱしてひょいと自分の箸を箸立てから抜いた。指の形でいうと箸の頭を摘んだ。
「待った。そこで止めて。一それで箸を持ったというのか」
娘はきょとんとし妻は笑い出す。持ってるからお箸は万有引力の法則に逆らって落ちないのよ、と言
いたげな顔をしている。
「違うんだよそれが。きみはいま箸を採っただけで、まだ持てていない。ほら、その指先で箸の頭を摘
んで、それでご飯、食べられるかい。箸が使えてると言えるかい」
「一」
「持つというのは、その道具を持った手で道具本来の用が足せる状態でなくちゃ。それまでは持ったん
じゃなく、手に採っただけだよ。そだろ」
「そう、みたいね」
「じゃ、その箸を正しく持ってごらん」
「つまり、持ち直すのね」
、、
「そうさ、持つとは、採った道具を適当に持ち直して使い易い一番いい形で手にしている状態なんだよ。
一それで、どうするとその摘んだ恰好から、ちゃんと持ち直せるかい」
しつか
「えーと、こうでしょ」と娘は空いた左手を軽く添えて改めて右手に確り箸を持ち直した。
「そこだよ。きみはいま左手をちょいと添えて採った道具を持ち直した。そのちょっと出したり添えた

113

、、
りすることを、採るでも持つでもなく、扱うと言うんだよ。その扱いを抜いては採った箸一つでさえき
ちんと持てない。分るかい」
「ええ。分りました」
、、、、、、
「つまり道具をただ持つだけにでも、手に採る、手で扱う、手に持つという、採る、扱う、持っと三段
階の手数をかけている。手間をかけている。箸の代りに、ほらそこの新聞の例えば相撲の記事を見たい
とする。先ず手に採って、扱って(必要なところを開いて)、その上で然るべく新聞を持って読む。読む即
ち新聞を、使う、わけだろ。大概のものは正しく使うまでに、普通は、採って扱って持たなきゃならな
い。1でも、持っただけでは、まだ使ったことにならないよ。箸を使うってのは」
「ご飯を食べた時に、はじめてお箸は使われたってことね」
「そう。そのためにはご飯をよそった茶碗がなくちゃ箸は使えない。箸がなければ茶碗も使えない。箸
と茶碗が正しく持たれて、その上で二つが行き逢って、ご飯が人の口に入ったとき、二つの道具ははじ

めて本来の用を生かして使われた。かんじんなのは食べる人がいないと道具は使われない。分るだろ。
、、、、、、、にん。
だからさ、採る、扱う、持つはみな手へんの字だけれど、使うは人べんなんだよ道具を使うとは、す
ぐれて次元の高い、人間的行為だってことさ」と、私は話にいささか落ちをつけた。安直に道具を使
う、使う、と言ってはいけない、とくに茶の湯をたしなむ人なら、この辺のけじめには、とうにきちっ
と気がついていなくては、いけないのだ。
茶の手前作法では、採る、扱う、持つ、使うという四段階が驚くほど鮮明かつ整然と認識されている。
そしてその一段階ごとにすぐれて美しい所作化、様式化が成されている。

114

風炉手前の柄杓の扱い方はどうか。例えば裏千家の流儀では水を汲む場合の柄杓は形よく上から確り
、、
と先ず、採る。が、そのまま水を汲める持ち方ではない。持ち直さねばならない。左手を柄杓の下から
添えて採った右手を静かに右へ引き、改めて柄杓の裾から上下に人さし指と親指を割る恰好で美しく確
、、
り持ち直して行く、それが、扱う、ということだ。そして右手が節ちかくをたしかに持ち直し、さらに
人さし指と親指の付け根の部分に、柄杓の柄がくっきりと嵌りこんだことを体感して、はじめて添えた
、、
左手が柄杓をはなれる。手順を踏んで柄杓は正しく持たれた、のである。
稽古場で人の稽古を見ていての実感でいうと、いまの例での最後の一瞬、ホックを嵌めるくらいくっ
きり柄杓の柄を、指の股の嵌る所へ嵌めずに、粗相に添えた左手をはなしてしまう人が多いのだ。
みずさし
見た眼にはちょっと見えにくいそんな手抜きのまま、右手一本で持てたっもりでいざ水指の方へ水を
こう
汲みに柄杓の合(湯水の入る部分)が移動する時、長い柄杓の柄が指の先でしか持てていない不安定さに
みるみるぐらついてくる。眼にもそう見えてくる。柄杓は、指と、今言った親指人さし指の付け根の二
点で安定させて持たないと、軽く長く細いうえに頭の重くなるこの道具は見苦しくぐらつくのだ。柄杓
を確り持つには最後の最後までひたっと手に道具を添わせ、預けねばならない。
日常、水を柄杓で汲むだけにこう手数はかけない。柄をいきなり握りこんで何の差支えもない。その
、、、、
荒けない動作を所作に置きかえて美しい様式を与え作法化したのが、茶の湯の手前ではないだろうか。
手前作法はもろもろの道具を使うまでの、また使い終るまでの、持つ、扱う、採るといった「手」のは
たらきをあやまたず識別し、その一手一手に張りのある映りのいい姿形と間合いとを与える、いわば創
ダンス
造的な一種の舞踊にほかならない。もし茶碗や茶杓の形が一瞬視覚的に消え失せてしまっても、手から

115

手へつづく茶の作法の所作美は決して喪われない。
本当に手前作法が好きで上手な人に、室中無一物の茶室で、さながら道具を使っているかのように、
その実は素手でのお手前をして貰うと、からだと手との動きだけで、その人がどれだけ道具を使う実感
を身につけているか、また手前の所作がどれだけ美しく創られたものがが、よく分る。
逆に、手前作法をからだと手で十分のみこんでいない人に同じことをさせてみると、見苦しいところ
か、文字どおりしどろもどろで、手も足も出ない。実感、体感で道具が使えていないからだ。だが素手
ではさまにならない未熟な人も、道具を使わせれぱなんとかへたはへたなりの手前が出来る。道具の具
体的な機能に手の方が助けられているわけで、つまりは人が道具に使われていると言ってもいい。

なつめた
箸と茶碗の例は、棗と茶杓の関係にも当て嵌る。但し、この際は茶碗が加わる。さらに茶が點つとこ
ろまで広げれば、茶筅が関わり、釜と釜の湯が関わり、柄杓が関わる。さらに釜の蓋や蓋置きや帛紗や
けんすい
茶巾や建水(汚れ水の容器)が関わり、水指やその蓋が関わり、棚なら棚が、長板なら長板が、場合に
よっては杓立てや火箸も関わる。さらに押し広げれば、と果てしがない。茶の湯の手前とは茶道具を客
の前へ運んで、清めて、使って、また清めて持ち帰る所作一連と見ていいが、この一連の所作は、諸道
具が出違い、絡み、入り混ってのふくざっな連動であって、ただ策と茶杓と茶碗との出違いだけを抽出
するのは便宜的なことに過ぎない。
茶杓を採る、扱う、持つ、使うは、その人の手前の桂さ拙さを見る一等の目の付けどころだろう。手
に対して軽く、細く、短くちいさな道具を美しく使いこなすのはなかない難しい。柄杓と違って茶杓は

116

いきなり持って持てなくはない道具なのに、あくまで採って扱って持つ。とくに採り扱いの部分が初心
の人では手ぎわよく行かない。持たれた茶杓の形や姿以上に持った手の方が無恰好になり易いからだ。
茶杓を採って左膝に軽く手を預けたさいの、手と茶杓とからだとの映りの佳い人は、どこの茶会へ行
ってもそう多くはお目にかかれない。まして、その姿勢から左手を棗に出して行く姿、正しい位置に東
を移動させて来て茶杓を握りこんだ右手で策の蓋を採る姿、形、間合い、手映りの快く美しい人にはめ
すく
ったに出違えない。さらにはまた茶杓を持ち直して(扱って)茶を掬い茶碗に入れ、また持ち直して
(扱って)茶碗をかるく打ち、また持ち直して(扱って)渠の蓋をし、また持ち直して(扱って)茶杓
の手は右隣へ、左手は棗を定座へ戻して行く姿、形、間合い、そして茶杓を棗に戻す姿、形、間合い、
これら一連の所作は思いのほかに複雑に道具と道具とが出逢い使われ合っていて、採る、扱う、持っ、
使うの所作も厳密に様式化されている。
はじめて帛紗捌きを習ったのは、小学校六年の時だった。独身の叔母が家にいて御幸遠州流の生け花
と一緒に裏千家の茶の湯を人に教えており、以来十年余、京都をはなれて東京で暮すまでの学生時代を
通じて、私は叔母の稽古場や母校の中学高校の茶室で、かなりの人数に手前作法を教えたり、ささやか
な工夫をしては小人数の客を茶に招いたり招かれたりする時を持った。
良い悪いではない。必要に迫られて、叔母も私も和敬清寂だの佗ぴのさぴのと言わなかった。言えば
町なかの娘さんや活溌一方の女生徒は遁げ腰になる。それを遁がすようではお話にならなかった。講釈
が先行して美味い茶一服點てられない茶博士とは、自然と一線を隔てたくなる場所で私は茶の湯を覚え
楽しんだし、それで良かった。私の一期一会は、ほかでもない一期一碗の意味になった。そしてその一

117

碗を支えるのは手前作法だった。
手前抜きの茶、ただ喫めぱいいという茶は、茶の湯とは呼ばない。動作で點て、動作で喫む茶でなく、
所作で點て、所作で喫む茶てなければ茶の湯とは呼ばない。但しそういう茶の湯にだけ茶の心が働くと
思っては却って心を窒息させてしまう。茶があるから茶の心ではなく、茶がなくとも人交わりに生かせ
るのが茶の心のはずだろう。茶の湯と茶の心との微妙な差は、何度も書いたことだが、茶人の夜郎自大
を戒めるためにも繰返し言わずに居れない。
幼来、稽古場のなかで茶の作法に馴染んだものには、手前作法をそれ相応に尊重し体感した茶の湯論
でないと、どこか上清みの観念論を聴くようで物足りない。茶の湯の核は、どんな理屈を使おうと、飲
み食いの人交わりである。もともとはがさつな日常動作の場を、所作と道具との簡潔かつ緊密で美しい
演戯の場に百八十度転換させたのが茶の湯だ。動作を所作に変えて、人交わりの場を日常の次元から文
しきくう
化の次元へ昇華させた。いわば色の世界を色のまま空に異ならない世界に変えた。その魔法が所作、作
法、手前なのであって、それを軽視、無視したような上滑みの観念論や様式論の如きは、茶の湯の本質
と魅力とに決して届くことのない逸れだまと言わねばならない。
點て出しの茶とお手前でいただく茶と、味が違うわけはない。のに、味が違うのは確かだ。昨今、大
寄せの茶会で次、主客よりあとに席を占めることとなれぱ、殆ど例外なくこの違わないようで味の大違
いな點て出しを喫むために痛い脚を長時間組んでいなければならない。
茶は點て出しの粗相なものを喫ませておいて、最後の最後までさほど見る迄もない平凡なお道具を型
通りに延々お手前の時間と匹敵するほどかけて、連客一同が「拝見」のために送ったり送られたりする

118

ありさまをじりじり待つ風景は、ひょっとすると今日のいわゆるお茶会なるもののあれが最悪の事大主
義かと思われる。もう少々気の利いた「お道具拝見」の工夫くらい出来そうなもので、慣習化され形式
化しているあのような「拝見」は、茶道具の生きた魅力とはまるで別なものですらある。それくらいな
らもっと熱心にお手前そのものを拝見すれぱよろしい。拝見とは参加である。道具は主客一座して手前
さなか
作法の始終を、よりみごとに建立しうるその最中にこそ最も佳く生きる。
手前作法が即ち茶の湯だ、と言い切れば、手前伝授が専門のお茶の先生でも、そううかうか首を縦に
振らないだろう。それならほかに何が有るかと踏みこむと、とたんにむにゃむにゃになる。そこでむに
ゃむにゃになるくらいでは、教えている積りの手前作法の本当の佳さや意味は御当人にも確信がもてて
いないのではないか。
かねて私は、上わすべった生半可な観念論で佗ぴのさぴのと言うくらいなら、お茶の先生はいっそ手
前作法こそ茶の湯ですと言い切れるまで、手前作法をよく考え見究め尊重した方が偽善的でなくていい
と思ってきた。むろん手順、手続きの順序ばかりを尊重するのでなく、手順、手続きを通して主は、客
は、何を今まさに茶席の中で実現させつつあるのかをよく考え、よく初心の人に分らせてほしい。
何年経っても手前のできない人がある。それにも二種類ある。まるで手続きの憶えられない人、そし
て、手続きはよく憶えるのに手前は至って粗相粗略つまり本物の下手な人、だ。
手前は英語の綴りを暗記すれぱいいようなものではない。台子の手前を盆手前同然いと簡単に間違え
ずできる人もある。当人はそれが大の得意で、たしかにお茶の先生とは千変万化の手前手続きを難しい
綴りを憶えこませるように社中に教えていれぱいいのなら、それでもけっこう勤まるだろう。だが、お

119

よそそんなことと天地の差のあるとこころに茶の手前の魅力も意義も実質もあるのはむろんだろう。
憶え上手だが手前は粗相な人とくらべて、沢山の手前手続きはなかなか記憶できないけれど、一心に
らか
熱心に丁重に道具を使って粗相のない人は、遥かに茶の湯に親しいと私は思う。本当の意味の器用とは、

道具に対しても十分な愛しみ心のもてる人だろう。同じ物おぽえでも、手順を憶えるだけの人より、物
の、心を確り手とからだとで覚えこんだ人の方がいい。そういう人には、むしろ積極的に手前作法が茶の
湯ですと言い切ってあげて、却ってよけいな迷いが出なくていい。
、、、、、
室中無一物、徒手空拳の手前、から手前、に関心をもったのは大学へ入って間もなく、宗達と、茶名
を受ける前後だった。ものが「美しく視える」とは人間の認識能力にあってどういう機制を指していう
のかが私の卒業論文の題目だったが、七面倒な主論文に添えて私は副論文に、美学的課題の発掘のため
にと副題した「演戯美としての茶の湯手前作法の成立」を提出した。史的成立ではない。視覚的に美し
、、、、
い作法の成立を考えてみたのだが、その際、「無一物のまま素手で手前の始終を演じる」から手前を、
手前の原型、純粋型、定型と論理的に仮設して、かなり熱心にいろいろと考えてみた。
から手前は、さながら手前をしているように視えねぱならず、また視せねばならぬ。手前の手続きを
、、、、
間違えないだけでは決して美しいから手前は成り立たない。所作のすべてに諸道具を正しく扱っている
実感が、姿形や間合いの全部に行き渡らねぱいけない。
この実感、当人だけの実感では意味がない。客、視る者、の視覚的自然必然の中で実感されねばなら
ず、主、演戯者、は客の視覚によって彼がどれほど手前作法の一切を体験し体感しているかを鋭く見抜
かれてしまう。から手前では所作の意味内容が万事を決める。客の眼を無視して主が勝手にどう振舞っ

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ても痴愚のわざとしか見えない。から手前とはあくまで客の眼に「さながらの手前」なのである。から
手前をみごとに演じられる人は、実の手前手続きも美しい。
美しい手前作法を人体の「演戯」と見立てて他者の視覚からその成立の構造を考え抜いた私の仕事は、
約百枚の原稿のまま大学に眠っているが、むろんその紹介が目下の目的ではない。思い切って話が逸れ
るが、私が文筆に対して金品の報酬を受けた最初は、雑誌『淡交』が募集した学校茶道の在り方を問う
課題に応募した、高校生の時だ。賞金が、五百円出た。
その頃私は、高校と母校の中学の茶道部で、むろん無報酬で同輩後輩に茶の作法を教えていた。私自
身まだ高校生か大学へ入って間なしだった。学校茶道に話題を限らない『手前作法と愛しみごころ』と
題したその短い文章は、稚いながら私の実感を籠め、それが今なおこの本の文章にも色になり匂いにな
って生きている。

「和敬清寂」だ「佗ぴ・さび」だ、だけですましてはいけないと思ふ。使ひ古された言葉は穴のあいた
袋のやうなものだから、常に私たち自身の理解と実感を通して、新しい言葉に生き生きした意味を注ぎ
こまねぱならない。たとへある程度の深さにしか達してゐなくとも、訳がわからないよりずっと良いと
思ふ。私には、茶の湯にも昔とは又ちがった今日的な意義があるといふ気がしてならない。しかし、茶
の湯独特の「美しさ」といふものは、きっといつの時代にも失はれはしないだらう。もっとも私は手前
作法の他には大して知らないけれど、踊りなどとはまた違った所作の美しさをみて、いつも何故だらう
と考へてみる。実用的な動きをきりつめてゆくと、ふしぎな美しさがあらはれる。

121

だが、それは形の美しさだけだらうか。
もっとよく考べると、手前の美しさは「バカにしない」ことに始ってゐる。第一に、人を。次に物、
事を。そして自分を。私は、茶碗や茶杓にもいのちがあって、私に、かう扱ってほしいのですよ、と絶
えず話しかけてくるのを感じる。「扱ひ」の美しさはその道具の深い意志(いのち)を尊重してやる所
に生れるらしい。
だが「バカにしない」といふ丈では、何かしら消極的ではなからうか。私はそこから、「をしむ」気
持へすすむと思ふ。それも、「惜しむ」と言ぶより「愛しむ」と書きたいそんな気持?人に、ものご

とに、そして自分に積極的にはたらきかけてゆく「愛しみごころ」が手前作法の美しさを内から支へる
一番深い精神のいとなみであるぱかりか、茶の湯の意義といふのも、結局かうした、いはぱ私たちの日
常生活のすみずみにまでしみとほってゐなくてはならない人間関係の愛の理想を、茶の湯独特の仕方、
すなはち眼に見え、耳にきこえ、手に触れ、それを動かし用ひるといった感覚的な動作のつながりとし
ての手前作法を中心にして、そこに、理屈ではなく事実として体現する事にあるのだ、と思へてならな
い。この「愛しみごころ」を本当にもてば、和敬も清寂も実現するのだと思ふ。
「愛しむ」とは何かに執着するのだと言はれた事があるが、それはぎこちない仕方の場合で、「愛しみ
ごころ」は最も自然にあらはれるからこそ尊く、その自然にとは何かに、確かに思い当ろうと励むのが
稽古だらう。ほめられたいからの親切が偽善であるやうに、不自然な愛着はいけない。
大切なのは「愛しみごころ」が抽象的にあるのではなくて、いつも何か具体的なかたちの中に自らを
あらはすのだと言ふ事である。「茶道」とは「茶の湯」のモラルだと私は考べてみる。茶道とは茶の湯

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的な仕方での「愛しみごころ」そのものであり、殊に現代ではそれはヒューマニズムなどの理想と一に
なり乍ら、動揺しがちな人々の心に「美しさ」への自覚を通して平和と信頼の念を喚び起すといふ社会
的なはたらきさへする大切な意義を持つし、又持たねぱいけない、と私は思ふ。

ほご
旧かなづかいのこんな拙い反古同然のものに敢て日の目をみせたのは、先に話した、から手前にして
も、ただ姿や形の美しさを検証するのでなく、むしろ遙かに茶道具に対し、客に対し、自分に対する自
然な「愛しみごころ」がどうその姿や形ににじみ出て視覚の実感に耐えられるかを検証するのだという
ことを言いたいからだ。自然な「愛しみごころ」抜きの茶の湯など考えられないと、現代茶の湯に物を
申したいからだ。
手前作法に表現される自然な「愛しみごころ」を大事と思ってこそ私は、あれほど夥しい種類のさま
ざまな手前作法を習うことの意味を、すすんで肯定できる。しかもその肯定の上に立って、本当によく
創られて美しい手前とは、炉、風炉を問わず「平手前」だ、平手前の自然な魅力の底深さは測り知れな
いと、つくづく思う。
どうしても手前手続きの記憶しにくい人でも、平手前だけはぜひ憶えてほしい。盆略手前と炉風炉の
平手前と、そして茶箱手前のほかに立札の作法を憶えてさえおれぱ、その余は事実問題として、ちょっ
と客の前でお手前する機会もない。
だからと言って、道具の生命を「手」に覚えこませる稽古手前のおびただしく種類の多いことを私は
決して否定はしない。第一、それなしにお茶の先生は商売が成り立つまい。

123

お茶の先生

政府機関かなにか、国際観光振興会というのが海外むけに日本紹介の短篇映画をたくさん製作してい
る。その企画の一本に、仮題ながら「お茶と日本人」が取上げられたので、正味十三分半の映画のシノ
プシスを書いてくれないかと人を介して頼まれた。シノプシスというのはシナリオと違って、その前段
階のいわば荒筋、梗概と思っていい。
幸か不幸か、私がそれを書けばすぐさまシナリオが出来て撮影が始まるのではない。およそ十社ばか
りが銘々にシノブシスを書いて振興会の審査を受け、バスした会社が映画製作を請負う仕組みになって
いる。私はその中の一社に頼まれたわけで、審査はまだ先の話だし気らくな下請け仕事でもあったから、
本件からはとうに放免された気で、以下、気らくに書くのである。
まず映画製作の意図を紹介しよう、企画の印刷物には「近年海外で茶を学ぶ人が増えているが、茶道
文化を国際交流の分野として日本の女性等を通して紹介する」と総論され、「外国人には理解し難いと
いわれる茶道を教養として身につけた美しい日本女性等を通して紹介する」「茶事の中の主客の一体感
を表現する」そのために、「当会の海外宣伝に理解を示している裏千家等の協力を求める」とあった。
但しこの「協力」は撮影に当っての種々の便宜供与を求める意味らしく、企画なりシノプシスの審査な

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りに参加し協力してもらうというのではなかった。ここに一つ問題があった。
世界一の広告量を扱うといわれる大会社のこの件の担当者、私にシノプシスを書かせ映画を作ろうと
いう担当者は「茶事」の二字に就て全然知識を欠いていた。ただ漠然と茶の世界があることだけを承知
していた。従って、大寄せであれ小寄せであれただお茶一服の饗応にあずかる昨今普通のお茶会と、懐
石も炭手前も濃茶薄茶もある一会の茶事との区別どころか、そういう茶事が存在することすら知って居
らず、調べてもいなかった。それで「茶事の中の主客の一体感」がどうして「表現」できるのか、だか
らお前を雇うのではないかと言うのだろうが、「外国人には理解し難いといわれる茶道」どころか、日
本の超一流会社の最前線で海外に日本を紹介しようという社員が、そもそも「理解」の外にいた事実は
大きい。
驚いたか。いや私はすこしも彼ないし彼らの「無理解」を驚かない。残念ながら現代の「お茶と日本
人」の関わりはおよそまだまだこの程度と私は承知していたし、承知していなければならない。むろん
そんなことでいいわけはない以上、いよいよもって「わたくしどもお茶の世界では」などと尊大かっ倭
小におさまり返っていてはならないのだ。
「日本中お茶ならでは夜のあけん国みたいに教えられてきたけど、そんなことなかったんやなア」と、
京都で数十年お茶の先生をし淡交会の御用もいろいろ勤めた叔母が、東京の私の家へ移って来て、何に
どう感じたものかしみじみ述懐した。市の福祉館へ行っても、朝早くから夕方まで舞台で踊りつづけて
楽しむ老人は山ほどいるのに、市が先生を招いて茶の湯の稽古に設けられている席は、いつも蓼々たる
ものと叔母は呆れる。

125

が、呆れる方にも思い過ごしはあったのだ。日本人と茶の湯との縁は冷静に眺めてその程度なのだ。
しかも、日常茶飯の茶、番茶、煎茶、コーヒー、紅茶の好まれ方や使われ方は世界に類がないほど親密
で不可欠で、その面から「日本人とお茶」をという企画なら、この映画に一億総出演の資格がある。
私が、京都から東京へ出て来た頃の感想も叔母の述懐と変らなかった。叔母より生活範囲が広く見聞
も豊富だっただけに、いっそう、東京と茶の湯、つまりは現代日本と茶の湯との疎遠で稀薄な関わりよう
に大袈裟に言って眼をむいた。社内にも社外にも、茶の湯の色も匂いもよほどかき分けかき分け手さぐ
たしな
りして進まなければ認めるのが困難だった。それどころか私が多少裏千家の茶の湯を嗜むなどと言えば、
却ってちぐはぐな異邦人じみた話になりそうな雰囲気ぱかりがどこへ行ってもあった。稽古している人
も予想より寡く、稀に有っても、聞くと稽古期間は短く、それすらとうにやめた人ばかりだった。
娘はこの春からお茶の水女子大の附属高校へ入学したが、ここなら必ずあると想ったのもはずれて、

茶道部はなかった。「お茶の湯じゃないもんネ」と娘は笑い、友達の中で稽古しているという人もまだ
たいして見つけ出せていない。
「分際」などという言葉を使っては叱られるかもしれないが、日本の「現代」に占める茶の湯の分際は
およそまだこの程度ということを我々は心得ていていいし、そのために茶の湯の包蔵する或る理想的な
価値の高さが割引されるわけで決しでないことも、誤解なく承知していていいのである。むしろ、茶の
湯は目下の分際を量的に浅く広く門戸を拡げることに熱中するより、せめてはいま、少くも「お茶の先
生」をしている限りの人に、茶の湯の価値いっぱいを日常平常生きてもらう方がどれだけ大事か知れな
い。

126

ところが、今一つ聞き捨てにならぬ言葉を、最近になってさる有力なお茶の先生の口から聞かされた。
「わたしは、お茶を教えて食べさせて貰っている、いわばそれが職業で生きている人間です。だから、
自分のことは茶人とは思っていないのです」
その人は「職業」の意味で「商売」という言葉も使い、「お茶の先生」がいわゆる「茶人」と思われ
ては「迷惑」というくらいに、問わず語りに言い放ったのである。
この先生は、いわゆる「茶人」とは何かを詳しく語らなかった。また、自分の思いや考えが特殊とも
普通とも語らなかったが、「茶人」とは、理想的な茶の湯の境涯を生きる人、でもあるが、言いかえれ
ぱそういう恵まれた境涯を生きられるほど「けっこう」な人、というくらいに幾分の羨望と多分の軽侮
を籠めた口調だった。その口調にはかなりの自嘲も籠もっていた。
これを聞いても私はやはり驚かなかった。ある意味で正直な人だなと思い、やはりそうだったかと思
い、うちの叔母にしてもそうだった、改まってこう居直られては聞き捨てにならないまでも、たしかに
「お茶の先生」といわれる人たちの「世界」が、或る部分こうも露骨に口に出し、或る部分もっとお上
品にその辺は蔽い隠しながら、要するに実はこんな苦々しい思いをもった人たちの大集団であるのかも
しれない傾向や徴候は、いろいろに露頭していると見なくてはならないだろう、とも考えた。こういう
苦々しさが、しかも総じて和敬清寂の、佗びさびの、一期一会の、茶の心のという建前でとかくふんわ
りと蔽い包まれているだけに、よそめには洩れずとも、私程度に内情を知っている者の眼には、やはり
抜き去るべき病根はそんな露わな本音によりも、その建前の方にはびこって見える。

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利休が千与四郎時代に茶の湯を覚えた頃の師弟関係は、束脩や月謝を持参して手取り足取り作法を教
え習うという間柄ではなかったようだ。相伝に当ってそういう例も機会もあったには相違ないが、ふだ
んの師弟関係とは、要は師や先輩の茶会に招かれての、またはその様子を伝え聞いての、見様見真似で
あり耳学問であった。だから「会記」が熱心に書かれ、書き写された。またそういう茶会自体が京や堺
や奈良での町衆同士の緊密な社交の場と重なっていて、交際といえば即ちそれだった。彼らはそうした
交際の中で茶を喫み酒も呑んだろうが、もっとも当座緊急の用件に就ても談合し処理し合った。それが
げいたいか
寄合本来の姿で、茶の湯は中でも茶室という特殊な会所での寄合が芸態化して行ったものだ。
茶の宗匠は存在した。宗匠と仰がれて師弟間に芸なり道具なりの相承関係もむろん生じていた。だか
らと言って、それでもう「茶人」が茶の湯を「職業」にし「商売人」になったというような、極端な居
直りないし自己放棄には決してならなかった。今日でも、そう居直ったり自己放棄する「先生」がそう
そう沢山居るとは思いたくない。
よう
だが、いくら思いたくなくとも、利休の頃と今日とでは茶の湯そのものの在り様ががらりと変貌して、
いや変質している事実は否応なく認めざるをえない。
一体、何度も言うが今日、本物の茶の湯、茶事がどれだけ行なわれているか。そういう形の寄合、社
交、交際が自然に、かつ自発的に成立っている実例が、例えば今年昭和五十一年内の三百六十五日に、
日本中でおよそ何回くらい、何度くらい有りえただろう。大寄せの茶会、そして稽古茶会や稽古茶事を
除いて、純然親しい二人ないし数人の、趣向も心入れも十分社交的な茶の湯、懐石や炭手前はなくても
いい、お茶一服とお菓子だけを楽しみ合うそんな人交わりの茶会が、自発的に、何回、何度、日本中で

128

開かれえただろう。
想像以上に寡かっただろう。まして全茶道人口との比率で言えば、そういうそれこそ本来の茶事茶会
は往年に較べていっそ無きにひとしく、有るのは稽古場での稽古と、各稽古場年一度二度の稽古茶会や
稽古茶事と、(それすら、聴くところ実に数等いのである。)あとは月釜、記念行事ふうの大寄せ茶会と、と
いったことになる。そして茶道人口の殆とが、それら主に「稽古」を指して「茶の湯」そのものと錯覚
しているのが実情に近い。
月謝を払って稽古に行く人はたしかに山ほどいて、その実、本来茶の湯の主人や客にはめったになり
えぬ人が、これまた山ほどいる。それが現代茶道の虚構的体質でありながら、その矛盾を知らない気づ
かない人も、山ほどいる。
こうなると、山ほどいるお茶の「社中」と、稽古をっけるお茶の「先生」と、それだけで「わたくし
どもお茶の世界」とやらは成立っていて、茶の湯そのものはさながら稀少価値的によほど気の有る人、
金も閑も有る人、恵まれた人、つまりは世外の「茶人」だけがひっそり楽しんでいることになる。
そんなはずがない、と私は思う。
心から茶の湯好きで、この道に真実の敬意と熱情を注いでいる人がいることも、僅かながら私は承知
している。だが、自分をけっこうな「茶人」と一緒に見ないでほしい、お茶はただ収入の道なんです、
と正面切って言い切る「お茶の先生」の登場に、困ったことではあるが、やはり私は驚かないのである。
それにつけて読者にも思い出される方があろう、最近、或る有力な男性陶芸家がテレビを通じて女性
の創るやきものを非難し、それを週刊誌が取上げ、次いでは大手の芸術雑誌までが追跡取材した。かく

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言う私も一文を求められ、いささか腹立ちまぎれの戯文を寄せたのだが、伝え聞く限りその男性陶芸家
おとし
の本意は女性陶芸家を貶めることになく、むしろ現代の「茶道」を告発したかったのだという。茶の湯
はむかし紳士の教養だった、のに、今日では女が占領し尽し、その弊害がいわゆる悪しきやきものブー
ムや悪しき茶陶の横行に及んでいる、といったことであるらしい。
茶の湯に限って言えば、一面の真相を見抜くものと言うしかない。同様の批判はこれまでも有ったし
今後も続出すると思わねばなるまい。問題は、その種の批判を柳に風と聴き流して金持喧嘩せず然と、
「わたくしどもお茶の世界」にお高く、極くちっぽけにおさまり返っていていいのか、だ。
答うべき批判にはちゃんと答えればいい。その上で改むべきは改めねばなるまい。形の上で改めらる
べきことが沢山有るとは思わないが、何より、今日の茶の湯を事実上担っている「お茶の先生」方が良
い意味で本物の「茶人」ではなけれぱならぬはずだ。
「お茶の先生」が「茶人」たることを迷惑として商売人としての自覚に徹したならどうなるか。
私はよく知っている積りだが、そういう先生は一生に一度として自発的に自分自身のお釜をかけない。
お手前すらしない。本物の亭主にも客にもならない。そんなことは「遊び」であって、出費にこそなれ
収入にならない。プロは遊んではならないと思い切っている。職業であり商売であるからは収益と結び
つかぬ茶の湯は在りえない。稽古日には茶室も掃除するし炉に火を入れ床に花も置くが、つねの日はお
休みになる。おぞ毛をふるうように茶箪、茶巾の汚れや古びにも寛容である。収入にはすこぷる敏感だ
が、出費は極力抑えようとするのだから、或る意味で全部当り前と言える。
これを読んで仰天される方も多かろう。が、苦笑して頷かれる方はもっと多かろう。昨今「お茶の先

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生」にとって一番の関心は月謝の額であり、盆暮の祝儀であり、稽古茶会や茶事をする際の社中からの
御礼であり、来客に期待するお水屋見舞であり、また免許状申請の数量だということになってはいない
か。本当になってはいないか。なっていなければ本当に幸いだ。
私はいささか現実をどぎつく表現したのかもしれぬ。そう言い切れる「先生」が沢山居られるのなら
つまり相応に「茶人」もいることになるが、私には大なり小なり今指摘した現状を否定し切れない「先
生」、従ってその「先生」方に引きずられている「社中」たちが実に多いのではないかと想われる。そ
れが即ち「お茶の世界」の「繁栄繁昌」の実勢なのではないか、と憂える。
この憂いをどう良く解消するかが、どこかで先の陶芸家の強烈な批判に答えることとも直結して来る
だろう。私が言わずとも必ず外の世界でさんざんに人はこれを言い募る時機に至っている。だが、思う
にこれを言うべき一番の場所は例えば莫大な部数を誇る『淡交』のような茶道誌上だろう。これを言い
合い考え合って、茶の湯の理想をより良く回復する、それが文字通りの「淡き交わり」なので、茶の湯
を金の交わりにしてはなるまい。金の交わりに陥ることを指して「繁栄のままの頽廃」と利休が言って
いたのかもしれぬとすれば、家元以下がどんな椅麗事を並べようが、これこそ現代茶道病根の最たるも
のに数えられてしまわないだろうか。
そんな馬鹿なことがあるかとどうか茶人は怒ってほしい。その怒りの火で、「茶人」たることを自ら
否定して「職業」「商売」としてお茶を教えていると言う「先生」の迷妄を焼き切ってほしい。そのた
めに一等必要なのはすべて家元以下茶の湯教授者が「淡交」の意味を謙虚に思って、誰より利休の孫宗
旦、利休の前轍を避けて権門勢家に遠ざかり佗びに徹したあの乞食宗旦の生涯に厳しく学ぶことだ。

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さてこんな状況の中から、「茶道を教養として身につけた美しい日本女性等を通して」「茶事の中の
主客の一体感を表現する」工夫にどう映画づくりのリアリティを確保するのか、シノプシスを書くに当
って私は慨嘆した。これは先ず虚構の精神に徹するしかない。
それに、厳格に言って、「茶事」となれば炉か風炉か、やはり正午茶事をでも通して表現するしかな
く、そうあってこそ茶の湯の芸術的要素の社交的、儀礼的、精神的要素も紹介できる。

茶の湯、ことに「茶事」は、今日のいわゆる普通の「お茶会」とちがって、飲食と喫茶の作法を中
軸に兼ね備えて、人交わりの倫理を美しく芸態化した伝統久しい一つの大きな生活文化の体系です。
その魅力を分って貰うには、ただ雑多な写真のアトラクティヴな組合せでは散漫な印象で終りかねま
せん。あくまでも特定の主人と客との洗練された演戯的な作法そのものを、つとめて実際一会の「茶
事」(最も普通の正午茶事を選ぶ)の流れからポイントになる場面を適切に選びながら、美しく和やかな
”社交”の姿として写し取るのが効果的でしょう。他方、日本人が日常茶を習い親しんでいるさまざ
まな場面の要領のいい紹介を通して、重ねて「茶」を楽しむ日本女性の魅力を伝えます。

私は依頼されたシノブシスの「はじめに」にこう趣旨を述べ、実際に「場面」を創って行きながら、
「茶事」も「茶会」も茶の湯の「作法」も知らず、點茶と煎茶の区別すらもろくにつかない関係者の手
で、一体どんな「お茶と日本人」が海外に紹介されるのか、寒心に耐えなかった。僅か二百字用紙で十

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枚に制限されたシノプシスでは勢い茶の用語を用いて圧縮するしかなく、だが、そんな関係者にそもそ
も映像的にそんな用語、文字の奥行、背景が読みとれるものかどうか。
率直に言って私は政府行事としてはともあれ、茶の湯の側からすれば、我々はそれを海外になど紹介
するより、もっと着実に花も実もある日本の「茶人」を育てるべきだと思った。心ならずもつい商売人
になってしまいがちな「先生」が茶を教え習わるざをえない現状の中から、ぜひとも「茶人」と「茶の
心」とを救い上ぐべく努力する方が、よほど大事も大事なことではないかと痛感せざるをえなかった。
それにつけて思い出すことがある。池田弥三郎氏の講演録で読んだ話だが、桑原武夫氏の「第二芸術
論」が話題を呼んだ時、俳人高浜虚子は「でも、芸術に扱ってくれてるのか」と言ったとか、池田氏に
はこの虚子が「すもうにならない大物」に思えたらしい。
虚子の件はいい。この際私に興味のあるのはもう一人の大物の反応だった。
池田氏は恩師である歌人釈迢空に「第二芸術論」の感想を求め、「第一、歌詠みというものを減らす
のが短歌のために第一にとるべき道なんだから、いいかげんなのはこれであきらめてくれるといい」と
いうような返事が得られたらしく、池田氏は「本心はどこにあったかわかりません」とされている。
「歌詠みというものを減らすのが短歌のために第一にとるべき道」という迢空の考えは、第二芸術論に
直に触発された意見であるよりも、かねがねの実感がひょいと口を衝いて出たのではないか。釈迢空ほ
どの人物から、ひょいと口を衝いて出た片言隻語というものに私は金無垢の重みを思う。
よくよく煮つめれぱ迢空の感想は、逆の結論で以て「短歌のために」否定される考え方であるのかも
しれない。よし、結果的にそうではあれ口を衝いて出た時点に限って私は釈迢空が、思わずこれを言わ

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ずに居れなかった、そこに至る苦い苦い物思いというものを深く尊敬するのである。
私は俳句が、また短歌も、芸術であることを疑っていない。と同時に桑原武夫氏による第二芸術論の
論法の中に進んで首肯せざるをえないものの多々あることを、当時子ども心に痛快に思い当った覚えが
ある。その頃、私はひとり短歌をつくる生活に熱中していたのだが、桑原説を読んで逆に短歌や俳句の
面白さを教えられたし、歌を詠むという創造の態度に、より厳格な自覚が必要とも教えられた。俳句や
短歌の特質が、またおのずからな限界とも表裏をなしていることは、思えば当然のことで、その当然に
直面しながら特質を深め限界を凝視する態度なしにそれが芸術でありえよう訳はない。桑原氏の指すと
ころ、釈迢空が応じたところ、決してそう遠く隔たらぬ一点を見入れていたに違いない。それを私は、
文芸の、また芸術の、悦ばしい自浄作用とも見たし、今も見るのである。
ところで今、現代の茶の湯にかかる自浄作用が働く余地が残っているか、それこそ全「茶人」の斯道
に寄せる情熱や誠意が進んで答えるべき、不可避の問いではなかろうか。第二芸術論が、一つには俳句
や短歌に対し部外の桑原武夫氏の呈された批判だったという事実が重い。二っにはその道の大物である
虚子、超空のような芸術家が、桑原説を一度は聴いてかつ応えている事実が重い。この二面が有効に関
わり合って表裏一体となることが、少くも芸術の自浄作用ないし新しい進境を可能にする。
一方私は、俳句や短歌と同様に茶の湯も芸術だとは決して思わない。能も連歌も歌舞伎も、舞踊も生
け花も、芸術だし、芸術たりうると思うようには、茶の湯が芸術だと決して思わない。が、すぐれて芸

術的なものだとははっきり思っている。その違いは、一点、茶の湯以外に今挙げたどれもが、現に「作
品」をもっていることだ。

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「作品」抜きの芸術は在りえない。作と受と、その双方を欠いた芸術は在りえない。とすれば茶の湯、
ことに現代の茶の湯にどんな作品が在るか。本物の茶事や茶会が、事実上茶の湯の荷担者たる専念専業
の人たちの中で創作されずに、どうして茶の作品が在りえようか。作品に至る断片的修業即ち稽古で流
儀の門戸はえらく広がって行く一方、自由な精神が創作する作品、即ち本当の本物の茶事や茶会は殆ど
この世に存在しない、そんな芸術は所詮は在りえない。お能の世界で最高の能作品を表現し創造するの
は、家元をはじめとする職分の方々である。舞踊も然り生け花も然りである。その人たちも浮き世の常
、、、
として、どこかで能や舞踊や生け花の技術を教えて門戸を維持している職業人のはずであるが、同時に
、、、
不断に作品を創造しているという意味で芸術家なのである。それに彼らがかりに金の交わりに等しい商
売感覚を持っていようと、幸か不幸か人間の倫理とはややはなれて芸術世界を創造しうる芸術家でもあ
る。人はそれをとかく言わず、作品の出来そのものを尊重する.
、、
しかし茶の湯に作品があるなら倫理的な作品しかありえない。倫理とは人交わりの理想であり、茶の
湯は主客の淡さ交わりを以て絶対の条件とするすこぶる芸術的な遊芸なのだ。茶の湯がもし芸術だとい
うなら、淡交の理想を表現した「作品」を創らねば仕方がない。断じて淡さ交わりが金の交わりになっ
てはなるまい。
この道の専念専業の人、とは即ち家元以下、広義の「先生」なのだから、その「先生」が茶の湯の作
品づくりを顧みず、「稽古」の場以外に「創造」の場を持たず持つ気もないのでは、ここから「芸術」
を願うことも、「倫理」を求めることも、無理というしかない。むろん「芸術院」入りを願うことも。
思うだに、心寒いではないか。

135

茶会のすすめ

ぎようてい
ちょっと、ショックを受けた。最近、京都の或る業躰(家元に近侍してその道の修業をする者、内弟子のこ
と)さんに、この私の連載原稿を指して、「えろ、お茶のわるくち書いたはりまんナ」とやられてしま
った。二の句が継げなかった。「徒労」の二字が矢のように頭をよぎって行った。
せいえいうずうみ
この近年、私は「精衛海を填む」という仮題で長篇小説を書いた。結局は『みごもりの湖』と題を替
えて出版したが、仮題の方は「徒労」を意味する古諺であった。精衛とは小鳥の名で、前世は炎帝の娘
だった。少女は東海に遊んで溺れ、小鳥と化して西山の小石や木片をくわえては海をうずめ尽そうとし
た。うずまるわけもなく、だから「徒労」とされた。山海経に見える話である。
この一年かけて書いた文章が、それも幼来観しんできた雑誌『淡交』に書いた文章が、「お茶のわる
くち」とほかでもない劫を経た業躰の人に言ってのけられた時、一瞬怒りに似た感情が通り過ぎ、すぐ
つづいて徒労感が来た。が、それも意外に速かに消え去って行った。
自分は茶人ではない、お茶を教えて食べている、お茶は飯の種である、と或るお茶の先生に言われた
時、私は驚かなかった。少くもそういう認識がありうる、今日だから特にありうる、と思った。その人
を正直とすら思った。

136

だが、今度こそは驚いた。
その業躰さんは私の言説に久しく反感を抱いていたのかもしれない。機会を見て、すばやく一矢を酬
かいさい
いたつもりだったかもしれない。そしてこれに快哉を叫ぶ読者もあるのだろうか、それもよし、そのよ
おもんぱか
うに彼らは茶道の伝統と現状を肯定し、私もまたかかる茶の湯の今日明日を慮るというわけだ。
精衛の海をうずめん思いには怨みがある。怨みが一層徒労感を増す。しかし私は持って生まれたほど
の茶の湯好きでこそあれ、微塵の悪意も茶の湯に対し抱いたことがない。茶の湯ぬきに今日の私はなか
った、「わるくち」の言えた義理ではないのだ。
唐突だが、以前に書いた『海』という掌篇をお読み願いたい。

男は海辺に坐って遠くをながめていた。
海は明るく、まぷしかった。きらきらとどこまでも波が躍っていた。
男は、さて坐ったままで、考えることももたなかった。
膝の下から小さな貝殻を拾い男は足を洗う波の一かけらをすくいあげた。たらたらと掌に受けてみ
た。
掌の底に刻まれた太い雛に針金のように曲りくねって水がひかった。
男は無造作にシャツで手をふいた。
暫くして、男はまた同じことを繰り返し、そして想った。この一枚の貝殻で海水をすくえぱ、たし
かに海の水はそれだけは減ったのであるか?。

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降ろうが晴れようが、海は大昔から今のままだった。だが今、俺は俺の意志を用いて貝殻一杯の水
を海から奪った。俺は俺だ、俺の意志は単に客観的恒常の条件ではない。海水は確実にそれだけ減ら
されたはずだ?。
男は黙々と、焦るふうもなく貝殻一杯ずつの水をすくっては背後へすてはじめた。
日当りのいい浜砂に霧のように撒かれた僅かな水はたちまち砂に灼かれて失せた。
じぐさ
男は、自信たっぷり同じ仕種を繰り返した。
商人が寄って来た。何をしていなさるー。
海の水を干してやろうと思っていると男は真面目に答えた。商人はからかわれたと思って行ってし
まった。
漁師たちはそんな真似をされては食いあげじゃと笑い戯れた。
学者は、仔細らしく男の愚かな誤りを指摘しようとした。
子どもらは暫く真似をして、直ぐ飽きて顧なかった。
何か思い寄らぬ儲けがあるのかとわざわざ問い合わせて来る実業家があり、世の中への痛烈な批判
である、天晴れ非凡の警世家であると持ち上げる者、極まりなき愚者で怠惰人であると怒る者なども
あった。
新聞は時の人と呼ぴ、雑誌は写真を撮りに来た。
そしてやがてみな呆れて寄りつかなくなった。
男は相変らず黙々と、悠々と、自信たっぷり貝殻の水を浜辺に撒きちらしっづけていた。

138

一年、十年、五十年経ち、男は営々と海辺に坐ったまま海の水を奪っていた。
海はしかし、来る日来る夜、まんまんとうねっていた。
いつか男の横に一人の女が坐って男を真似はじめた。
生ける彫刻の如く、嵐の朝も雪のタも休みなく男と女は物静かな振舞を生真面目に繰り返す二つの
黒い小さな影法師であった。
男の横に一人、女の横にも一人、可愛い子どもが親の真似をはじめるようになった。
子どもは三人、四人と増え、百年、三百年して海辺には渚のかたちに、三十人、五十人、何代もの
千々孫々が仲良く行儀よく一列にならび、やはり黙々とみな自信に潅れて海の水を一度また一度、着
実に貝殻ですくっていた。
海の水はすこしも減ったようには見えなかった。
だが、男も、男の妻も、千々孫々たちも、海の水はいつか自分らの手で奪い尽されるに違いないと
信じて疑わないのだった。

なぜこんな旧作を引き合いに出したのか、私にもうまい説明はつかない。一瞬「徒労」と感じたのも、
精衛の怨みを含んだ徒労より、私の場合、この海辺の男のそれに近い、という気もちでもあったのか、
ちょっとその辺確言できないが、一瞬の徒労感が忽ちに消え去ってしまったのは、私もまた貝殻一杯の
水を大海から奪いつづけることを、徒労とは信じないからだろう。
おそらく明敏な読者は、私が茶の湯を目して「海」になぞらえていないことがお分りのはずだ。私の

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きゆうぜん
文章を即ち「お茶のわるくち」としか読めないような体質にひそむ、旧染の毒汁をこそ、私は貝殻一杯
すく
ずつでも飽かず掬いかつ棄てっづけたかったに過ぎぬ。
幾ら書いても、空しくはないですか、と言ってくれる人もいる。べつにーと私は笑う。「現代」は
、、
「伝統」の最先頭を前進すべきもの、という思いが私にはある。日常生活の普通の動作を、一転、美し
い所作に変えて、茶の作法は茶の湯の眼に見える核となった。その根ははっきり生活の中にあった。生
活といえばつねに現代の、今日のものである以上、時の流れに沿って伝統とは、佳い意味の過去とは、
今日から明日へと前進し沸騰しながらその姿を変えて行かねばならぬものだ。それが現代なのだ。その
ような現代は、絶えず新しい風を吹き起さねばならない。過去にのみ捉われた伝統尊重が却って伝統を
空洞化し形骸化し、倭小化する実例は不幸にも余りに多い。

わくちこく
「芸妓諸道さかんにして涌が如し。是非治国の塵芥也」と晩年の上田秋成は言っている。太平の世のち
りあくたのように芸の売り買いばかりが繁昌していると、秋成一流のずぱりと言い切った批判である。
茶を習う人数さえただ増えれぱいいのではない。そういう人が本当に暮しに、今日明日の暮しに習っ
た茶を生かせているのかが、問題なのだ。
宝暦の頃、大坂に松木なにがしという俳人がいて、一亭一客の茶の湯がらみでめぽしい弟子を呼んで
は、印可を与える体でその実は床の掛物を高価に売付けた話を秋成は書いている。この松木なにがし、
「なんじゃかしさいらしい事」を言いながら、二た言めには弟子が三千人というのがご自慢だったが、
それを午庵という坊さんが、「おかしゃれ。釈迦や孔子の弟子の一人にもあたらぬ弟子じゃ」とやっつ

140

け、松木さん、顔色なかったとも秋成は嗤う。
「三千人」とは大変な数で、今日でいえば『淡交』の購読者くらいにも相当するはずだが、そんな門弟
たちに「しさいらしい事いふて」とはまたさまざまに翻訳の利く言いようだ。「しさいらしい事」を言
うから有象無象が三千人も集まるのには違いない。だからこそ「三千人」が束になっても釈迦や孔子の
弟子の一人にも当らぬ「治国の塵芥」しか養成できないとも、秋成老人は言いたいらしいのである。
これは甚だ耳の痛い話で、とてもただの「わるくち」と聴いて済ませない。
秋成は名高い茶人だった。が、茶を點と煎に分ければ、煎茶人だった。『清風瑣言』という煎茶の道
書を著わしているし、自身が茶器を造ってすらいる。それかあらぬかその説く茶は煎に重く、點に軽い。
から
軽いというより辛く、かつ厳しい。點茶の道には「文雅」がないとか、「其立居も常に異にて、能狂言
を見るよと思ふ也」「市中に礼服つけて茶席をよろこぷは、客主共に小児の業なり」などは秋成びいき
の私にも、不当に手厳しく、それこそ「わるくち」に聴える。
「むかし、一天下こぞりて、茶の湯なる時代ありけり。其世の人は郷党お茶なきには語らず。室お茶に
きりめ
あらざれば入らず。割截お茶にあらざれぱくらはず。道具書附なぎは買はず。すかさぬはお茶と称し、
ぬかれぱお茶がないとそしる。よい女房は書院もの、いけぬ妾はさぴもの、利休ばし、利休下駄、大工、
わらじときすつかげつ
中瀬、八百屋、魚屋も、草鞋解捨るより、花月のふだとりて、すり足のたちふるまひ、是をちゃった世
くせものがたり
の中となむ、こころある人はいひける」とは同じ秋成の『癇癖談』の一節である。秋成はただたんに茶
そし
を謗っているのでなく、当代の学者や医者同様、茶人にもむかしいたような人物がいなくなった、人間
の質が後退した、腐敗した、社会全体がたしかに狂い、常軌を逸して行く、そのことへの不如意感を憎

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悪の声にまで高めているのだ。まさに「今生名利の人は、太平の煩はす也、芸妓諸道さかんにして涌が
如し、是非治国の塵芥也」とはその嘆息だった.
私に點と煎の比較は資格がない。比較したいとも思わない。それに秋成に限らず、古来、茶の「わる
くち」を述べ立てた人はずいぶんと数多いのだ。誰かが一度それを調べて列挙してみると面白い。なぜ
なら、そういう人たちが実は茶嫌いだったというより、むしろ茶は好きだが、茶の作法はおそれいる、
それ以上に何より茶を玩ぶ徒輩の増上慢の気風を嫌う、というのが多いと分るからだ。
つまりは「茶人」の茶人くささが昔から心ある人たちに嫌われて来た。そういう怪しげな茶人が本物
の「茶人」とは別物であることも批判の前提として正しく意識されての「わるくち」が多かった。むし
えせ
ろ十分心して聴くべき「わるくち」の方が実は多かった、それを似而非茶人は余りに聴かなさ過ぎた。
いふみつけ
「内本喜斎と云た茶人は、姉が師じゃあった。天神まつりに弟子が遊船にお山をのせて出たと見付て、
じらいこち
『爾来此方へはおことわり』といはれた」と秋成はこの場合の「茶人」の風をちゃんとほめている。内
本喜斎という人のことを何一つ私は知らない。「お山」とは色茶屋の女のことだが、つまりはこういう
所行のあった者を茶の弟子としては「おことわり」したという話なのだ。
なぜ「おことわり」なのかと、訝しむ人の方が今ではどうやら多いのではないか。お茶の先生の茶屋
ぽんとちよう
遊ぴなら、今日も祇園や先斗町辺で派手な噂をちょいちょい耳にする。「今の宗左は、鴻池善五郎が梶
原平二で、なんやらいふた男が源太で、宗左は千鳥になって、一力で遊んだを見た人がありし。宗可と
いふ
今は云茶坊主、まだ俗の時に、宇治川の先陣の役わりに、千鳥になって、よくけはひ(化粧)した顔に
かき
千鳥と銘を書いて。宗左が印を又右へ頬づらへ書をったで、源太も平治も丸まけじゃあった事を見たぞ

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■。宗左が修行もかくの如し」秋成は内本喜斎の話につづけて書いている。
平二、源太、千鳥、みな「ひらがな盛衰記」中の登場人物であり、千鳥がのちの梅ヶ枝で源太の恋人
とは承知の読者も多かろう。要は大金持と茶人や茶坊主の色男での面白おかしい座敷遊ぴのさまを秋成
は苦々しく人づてに聴き、先の内本喜斎と比較して筆誅している。真の茶人と茶坊主とは千里も距った
ものであるべきなのに、とかく同類になり易いこと、同類になってつい「鴻池の善五郎」輩のお座敷に
侍りがちなこと、申さぱこの通りこの儘でなくとも時代を超えて似たり寄ったりのことが眼に見え耳に
聴えがちなこと、その辺から心有る人の「わるくち」は言いたくもないが出て来る道理で、まして看板
には道徳の、倫理の、修業の、宗教のと建前が大層であればあるほど、それは「わるくち」が悪いか、
言われる方が悪いのか、たとえ悪くはなくとも、なぜそうも言われるのか、一歩も二歩も退いて静かに
物を思ってみることの出来るのが本当に本物の「家元」であり「茶人」ではないのだろうか。
そこで、今一度、茶の湯「寄合」の意味に思いを戻してみよう、寄合とは言うまでもない人と人とが
然るべき会所を定めて集うという社会現象だ。人が寄り合うのは必ずしも人と人がすでに親しいからで
はない。寄り合ううちに和気生じてその雰囲気を頼みに相互に共通の利害が認識されて行く。「我々」
、、
という意識はそこに生まれ、同時によそなる「彼ら」もまた意識される。
茶の湯に於けるこの「我々」は本来この「彼ら」に対して排除的、敵対的な寄合衆であろうか。そう
てい
ではなく、「彼ら」と「我々」との間につねに新しい次元の親和を創造して行く体の寄合であってこそ、
歴史的に茶の湯は、茶人は、価値ある文化や社会の荷担者たりえたのではなかったか。
「我々」は「我々」だけの仲間内であって、「彼らしとは住む世界を異にしており、そんな「彼ら」の

143

言うことは聴かずともよい、まして眼障り耳障りな「わるくち」の類は無視すればよい、といった態度
が「茶の心」をいかに本来遠ざかったものであるかとは、旅の僧をもてなした佐野常世が振舞いを思い
出すまでもない。「彼ら」をもやがて「我々」と同じく招き寄せ、「我々」もまた「彼ら」の中へ進ん
で歩み寄って別乾坤の可能性を倫理的、美的、社会的に尋ね合い探り合うのが茶席という会所の、茶の
湯という寄合の、最も願わしい原則ではなかったか。
「彼ら」の声に耳を傾ける度量は、前もって、つねに「我々」の中で拡充されていなければならない。
「我々」の中に現代の茶の湯に対しつねに思い直し手直しすべき問題が鋭く意識され改善されていなけ
ればならない。つまりは流儀の問題を遥かに超え、現代人一人一人の生き方、生きる態度を我と我が胸
に問い直し問い返すことを怠ってはならない。
しかも私は、少くも現代茶の湯に親しむ人たちにとってよそなる「彼ら」の一人でなく、れっきとし
た「我々」の仲の一人なのだ。だからこそ「わるくち」とも聴かれかねないことを敢て「彼ら」に先立
ち「我々」の問題として持ち出してみたのである。

言い残したことが多いが、言いおおせて何かある、ともいう。
最後に謝意をもこめて、一つ、思い出ぱなしを書き添えたい。
この本(北洋社版・講談社版の両方)の装傾に、版元の編集部は橋田二朗氏の装画を依頼してくれると
言う。橋田氏は創面会に属する京都鳴滝在住の日本画家であるが、また私が中学時代に図画を習った先
生でもある。制作一と筋でこういう仕事はついぞ引受けられたことのない方を厚顔しくお願いしたのに

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は、実は、私一人の、多分先生も忘れて居られる、或る思い出があった。
先生は中学生の私が裏千家の茶の湯を習っているのを知って居られて、或る図画の時間に、実技では
なく美術史的な勉強の最中に、ふと私の方へ、「お茶で、何がいちばん大事や思う。言うてみ、秦」と
質問された。その前後の話題は何一つ記憶にない、が、質問それ自体は話の流れの中で突飛とは感じな
かった。むしろそのようなことが訊かれそうな予感すらあって、私は私なりに物を思っていた。しかし
改めてそう質問された私は、やはりたいした返事が出来なかった。
橋田先生は笑顔で暫く私の返事を待たれ、はかばかしい返答が出そうにないと見極められると、一と
息置いて、ぽんと「自然ー。自然ちゅうことがお茶でもいちぱん大事なことや」と言われた。そして
その先はもう記憶にないのである。
たしな
先生が茶の湯を実際に嗜まれたかどうか私は知らない。それは問題ではない。が、もしあの時に「自
然」の代りに佗ぴ、さび、和歌清寂などという言葉で言われていたら、それは私でも当時知っていた言
葉だけに感銘もなく記憶もせずに終ったろう。だが、おそらく先生の画業における何らかの体得に発し
たに違いない「自然」は、のちのちまで、いや今でも、私が日本と日本人に就て考える際の最も大事な
鍵言葉になっている。
つづ
私は質問された時、いやその前から、茶の湯の面白さや楽しさを漠然と反芻していた。それは約まる
ところ「趣向」の二字へ寄り添った思いだった。それに対して橋田先生がぽんと「自然」の二字を出さ
れた時、私は殆ど即座に何かを会得したと言っていい。
私は近年『趣向と自然』(一九七五.古川書房)という中世(美術)論を書いて出版したが、まちがい

145


なくそういう発想で、つまり日本人の「趣向」好きと「自然」好きとが一つの大きな「自然な趣向」好
きに融合されて行くのだという発想で、日本と日本人とをともかくも理解しようとする姿勢は、あの中
学のころ、或る日の図画の授業中に決ったのである。
「趣向」の同義語に近いものとして、いやな言葉だが、タネ、シヵケ、オチなどが想い出され易い。そ
じようだね
れが上種で、巧い仕掛で、快い落ちなら申し分ないし、一つ間違えば駄酒落、悪ふざけ、趣向倒れにな
る。いずれにせよこういう種も仕掛もある趣向には一種の「けれん味」があるのは趣向本来の性質で、
そのけれん味を自然なものにどう品佳く隠したり和らげたりするかに、物を創る人間の創意と工夫と技
術が注がれてきた。趣向が悪酔いの悪趣味になってはならなかった。佳い趣向はなるべく自然なもので
なければならなかった。
意図して物を創ってたのしみ、創られた物に触れてたのしもうという衝動や願望にはどうしても積極
的に趣向が介在する。そして「趣向」が本当に生きてくるのには趣向自身の性質を矯める形で「自然」
を通り抜けてこねばならない、不自然を克服してこねぱならない、のも確かだ。過去の日本人は、同じ
く面白いなと感じ入りながら、その面白さに「趣向と自然」を高度に融合させ感受していた。日本人の
趣向好きには間違いなくナチュラルな、自然なもの、自然なこと、自然な風を好む傾向が不可分に入り
まじっている。日本人は「自然な趣向」が大好きだったのだ。
もしも橋田先生に「自然」の二字をあの時私の胸の内へ投げ込んで貰わなかったら、私の茶の湯好き
も趣を変えていたと思う。もっと陽気になったかもしれないが、秋成先生に叱られそうな悪趣味へ傾く
危険もはらんだ茶の湯になり、私の言説も、もっと青々しい色と臭気に充満したかもしれない。

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「自然」とは、しかし、むずかしい二字である。こんなに日々に多用しながら、その字義を真に体する
くぜつ
ことかくも難儀な言葉がまたとあるだろうか。私は、私のこの一年かけての口説が私なりに本当に自然
に流露した呼び声であったかどうかを、残念ながら確言できないしまつだ。しかし、それでも「自然」
の大事さを私は確信している。私の物の考え方、感じ方もまた自然に動き、熟し、その色や匂いはそれ
なりにふさわしく移り変って行くことになるのだと思う。そうありたいと思う。
だが、「自然」とは成り行きということではない。自然を守り育てるのは、文化的社会ではつねに人
間の意志と能力とであって、自然まかせではない。文化とは、ことに日本では、人間の意志と能力とが
自然との間に最も佳い緊張を保ちながら自然の中から或る別のものとして産み出した何かだ。そして茶
の湯の如きはかかる文化の中でもひときわ社会的な結晶であり、と言うことは、それに関わる人々のす
ぐれた意志と能力とが絶えず今日を明日へと生きる感覚で以て研磨しっづけてこそ、いよいよみごとに
光る文化だということである。
そのためにも私は勧めたい。何より本当の茶の湯を、自発的に、互いに主となり客となりそこに茶の
だいす
ある佳い茶会を、自覚的に、とりどりに創り出し、楽しもうと。台子の手前も稽古茶は稽古茶なのだ。
稽古や練習を軽んずるのではない。何を目的の稽古か練習かと自身に問い直す必要がある。たとえ略盆
だてしゆなこんりゆう
點であれ時に客有り主と作って點でかつ喫む、主客一座の建立のための稽古であり練習ではないか。
こだb
大勢を催しての茶の湯興行など無用。渋き交わりの「小寄せ」の茶会を、それも既成の茶室に拘泥ら
ず、随処に主となり客となって自然かつ新しい趣向と作法とで寄合の意義を回復するところから、現代
の茶の湯は、真に復興と充実の道をえらぱねばなるまい。ー完ー

147

あとがき

十年ヲ過ギズ、茶ノ本道スタルベシ。スタル時、世間ニテハ却テ、茶ノ湯繁昌ト思フベキ世ー。それが
利休のいわば遺言だった。「悲シキカナ」という嘆声を帯びた予言だった。
わら
なんのなんのと「繁昌」語歌の現代茶道界は利休を嗤う。
その傲慢への、これは直撃の書である。
昭和五十一年を通じて茶道誌「淡交」に十二回連載した。筆者自身たいそう気を入れて書いたし、老若と
男女との差なく、遠く海外からも反響があり、翌年十月、北洋社から単行本として出版した。いらい増刷の
回を十余度も重ねてきたが、事情あってこのたび講談社から装い新たに、さらに広く茶好き(コーヒーでも
番茶でも)の人々にも、改めて茶と日本人と現代との関わりに就て問いかけてみたいと思った。茶の心を話
題に、これは、今日から明日へ現代をどう生きるかを私なりに考えた、秦恒平の「茶の本」である。
一章と二章は、私が茶を中世以降に限って考えていない用意を明らかにし、これを受けて三、四、五章で
「茶の心」のすがたを正した。また六章と七草は、私が茶を茶室の内に限って考えていない態度を定かにし、
これに応じて八章以下で、いわゆる現代茶道を各論的に批判した。六、七の二章は伝統を現代へ架け渡す、

前後相応の橋の役割を果しているはず、願わくは順を追って読んでいただきたい。
と、なくもがなの自註を加えたのも、より多く、より直接に読まれ考えられ、そして批判を受けたいから
である。
昭和五十七年元旦著者

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私語の刻

今日は四月十一日、土曜日。昨年十月一日に工学部「文学」教授の辞令をうけて以来半年、明
けて月曜日から、東京工業大学での授業がはじまる。必用意こそすれ「大学」の内情が、今もっ
て、さっぱり分からない。何か尋ねたくても、何を誰に尋ねていいのかも、ほとんど分からない。
せめて分からないことは尋ねて下さいと誰か何処かが言ってくれそうなものだが、それが、無い。
四日後の十五日に、最初の授業をすべき一講座の「教室」番号が「講義室一覧」のどこを見ても
載っていない。教務に尋ねても苦笑するだけで、人文社会群のセンターで確かめて下さいという。
センターで尋ねても番号がちがっているかも知れませんね、調べてみますといった有り様である。
しかも学年最初の二度分の講義を、学生たちは教室から教室へ、あちこち聞いてまわってサテ気
に入った講座へ受講登録する仕組になっている、らしい。気に入ったもなにも、在るのか無いの
かすら判然としない「教室」へ、教授も学生も、どうやって辿りつくと言うのだろう。
ことほど然様に、なるほど「内部」というのは不可解に面白い。わたしは、右の如き状況を、
べつに憂えても憤慨してもいない。かるく呆れてはいるが、それもこれも頼んでも手にしようも
なかった別世界の見聞であり体験であり、ありのままに受け入れたり困惑したり滑稽に思ったり
肌に感じること自体が、つまり物書きとしては役得なのである。そう納得している。

149

ある教授の示唆によれば「大学の教師は、無免許運転なんです」とか。「勝手次第」でやっち
まえぱ、何とでもなるという意味らしい。高校までの教師とちがって「資格免許」無しでやれる
職分だともとれる。就業規則もマニュアルも手引書も無い。「金の遣い方」「金の稼ぎ方」に関す
る制限と禁止事項ぱっかりで、授業や講義の充実のために手を貸す配慮はあまり無い。無くて不
便だけれども自由でもある。「無免許」とは資格に欠ける意味でなくて、全面的に許容されてい
るのだと解釈し、不自由という自由を無拘束に行使すればいい、らしい。いい事を聞いた。まわ
りには、ポカッといきなり専任教授の席についた人など皆無で、大なり小なり学校体験の有る人
ぱかりなのである。飛び入りのわたしがうろうろしているとは、気も付かないのだろう。気が付
いていても口を出しては失礼と思われているのだろう。ま、成るように成るさと思っているが、
成らないかも知れない。興味津々である。「ご就任、お祝いも申し上げるが、お気の毒様とも申
し上げます」とのご挨拶をよその大学の先生方から、何人も受けた。なるほど、なるほど。
授業が、月水金の三科目。月に十二、三回ずつ、一回九十分の講演を夏冬の休み以外は毎日つ
づけるに等しい。ふつう、九十分の講演依頼に、わたしは、従来約五十枚の原稿量を用意してき
た。その勘定だと、大学の講義分だけで今年は一ヶ月につき六百枚以上見当の知恵を絞ることに
なる。教授会だの委員会だの、学務もある。付き合いもあるだろう、同僚や学生諸君との。
そんなことは、覚悟の前だから、いくら恐怖を覚えようが健康でさえあれば出来る。ただしそ
の余のあれこれでは、相当な不義理をあちこちへ既にいっぱい犯していて、申し訳ない。約束を
破るかと思うと、こわくて予約が出来ない。体力も惜しむし時間も惜しむ。逢いたくても逢えず、

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食べたくても食べに行けず、見たくてもなかなか見に行けない。当分はやむをえない。
真実困惑しているのが、母のことである。母は九十一歳。脚の骨折をかつがつ克服してよちよ
ちでも歩ける。おむつも取れ、便所へ独りで行ける。便秘だけを悩んでいる。但し耳は聞こえな
い。目も片方が鍵穴を覗く程度で、その狭い視野を頼みに筆談で意を伝えている。幸い判読して
くれる。問題は、そういう母を、もう病院は置いてくれない。退院を、この六月までにと宣告さ
れている。いくら母が確りしているといって、家へ戻れぱまた転倒して大事にいたるのは目に見
えている。衰弱していないだけに、じっとしていない。妻の心臓の状態は母の全身状態より不安
定で、疲れている。妻が倒れては万事が行き詰まる。わたしが家にいても大学へ出ても、あまり
変わりはないが、母退院となると妻独りでは負担はたちまち過重になる。病院側は転院ないし施
設入りも勧めてくれるのだが、母は泣いて拒むし、無理もない。そんな次第で、早々に大学は辞
職という事態もあれば有るだろう。頑張れるだけは頑張って、アトは自然の成り行きにまかせた
い。未練はない。最新刊『死なれて・死なせて』(私文堂刊。死の文化叢書15・千五百円)をお
読み下されば、わたしが、どんな山坂を歩んで来たかは分かっていただけると思うし、ここ数年、
角度のつよい曲がり角をなお二度三度と経て行かねぱならないだろうとも思っている。
さて『茶ノ道廃ルベシ』の旧北洋社版は、NHKブックスの『梁塵秘抄』とならんで、十何刷
かまで重ねた一冊であった。講談社へ吸収されてからは、売って貰えなかった。茶道界への配慮
があったとしか思われない。読みたいのにという読者の不満をたくさん受けて来た。もっとも題
に刺戟性があって、キワモノめいて思われたのかも知れないが、読んで下さった方からは、拍手

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をいただいて来た。岡倉天心の名著『茶の本』と一対に持ち上げて下さった方がずいぶん有った。
あれより、いま少し実地に批評的だろうとわたしは思っている。
わたしは裏千家の茶の湯に、少年時代から親しんで来た。大勢に教えもしたし釜も掛けてきた。
わたしの著作の芯のところに、茶の湯体験が居座っていることは、わたしの久しい読者はよく知
っていて下さる。茶の湯は、抱えこんだ世界の容量も大きく広く、実地にも知識としても、こと
に「一期一会」といった思想的なものも、わたしは莫大に茶の湯から享けて来た。自負も情愛も
ひとしおのものがある。そのわたしが、敢えて掲げた表題なのであるから「あとがき」どおりに
どうぞお読み下さい。けっして茶室の茶だけに終わらせない「日本人と茶」への面白いエッセイ
を見出して下さるでしょう。
次回からの長編には、エリツィン大統領の来日にかぶせ、『北の時代?最上徳内』という、い
よいよ日本が「北」へと動いた安永・天明・寛政頃の大きな歴史小説をとも思ったが、北方領土
への議論がこの世紀末、本格的に煮えてくるのはなお一年余は先のことになろうと見て、その前
に旧ソ連時代のモスクワ・レニングラード・トビリシヘの旅に重ねた、新聞小説『冬祭り』にて
いねいに推敲を加え、増頁して、三分冊・各一八○○円でお届けしようと決めた。初版本の帯に、
「至高の愛の物語」「ロシアの黄金の秋から、冬の気配の京都へ。美の極北をめざし、魂のエロス
を宿す」と書かれた物語だが、売り言葉はいかにもあれ、時空を貫く数千年の根の哀しみに、美
しいモノたちが痛切に歴史と現代を告発する。不思議な「旅」へ、心こめてお誘いしたい。
〈追記〉大学の方は、多勢の学生諸君と一緒に、順調にスタートしました。

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