電子版 秦恒平・湖の本 エッセイ33
電子版としての校正は未了
谷崎潤一郎の文学
目 次
谷崎潤一郎論 ―「藝」の魅惑と本質― …………………
谷崎の妻 ―神と玩具との間に―……………………………
谷崎の歌 ―酷評をはねのけて―……………………………
谷崎潤一郎論の論 ―未開拓の大正時代― ………………
「筑摩叢書」版 後記………………………………………
私語の刻 ………………
湖の本の事………………
篆刻 井口哲郎
(版面下隅に9ポ ) <装幀> 装画 城 景都
装本 堤 ケ子
(中扉1 P3 改丁 三号大 天版面 左右中央 )
谷崎潤一郎論 ―「藝」の魅惑と本質―
(改頁 中扉裏 P4 9ポ 地版面に揃える。)
『花と風』一九七二年九月 筑摩書房 書下し所収
『谷崎潤一郎―<源氏物語>体験―』一九七六年十一月 筑摩書房
『谷崎潤一郎』筑摩叢書 一九八九年一月 筑摩書房
(改丁 P5 本文開始 頭4行アケテ 本文9ポ 46 字ブラサゲ 19行ドリ。 句読点、カッコ等すべて全角使用)
一、谷崎と三島 (大見出し 12 ポ 9ポ3行ドリ中央に 5字サゲ)
谷崎澗一郎は、いわゆる文学全集が企画されると大概の場合二冊ないしそれ以上を占める、量質ともに傑出した、広汎な愛読者をもつ作家と目されている。と
ころが、似た待遇を受け易い夏目漱石、森鴎外、島崎藤村らに較べ評論、研究書、参考文献.が異様なまで少ない。しばしば双璧の如く語られた志賀直哉の揚合
と較べても遥かに少ない。単に数が少ないだけでなく、在来の谷崎潤一郎論は、内容の面でも不安定な、時には褒貶両極に位置する評価に満ちていたし、没後
も、十分な谷崎論は残念ながらまだあらわれていない。(1)
「谷崎潤一郎の藝術の本質が何であるかは難解な問題である」と伊藤整は書いている。六十年にわたって不断に創作活動が続けられ、易々とは一元的鳥瞰的にそ
の特質を眺めさせなかったことも、たしかにある。だが、本格的な、かつ同時代と後進に積極灼な影響を及ぼす谷崎論に乏しかった最大の理由としては、谷崎文
学を本気で見究める意向の如きものが他ならぬ同時代の文壇に稀薄であった事実を挙げるよりない。是非は別として、これには日本の近代文学史自体が内蔵した
幾らもの理由が考えられる筈である。
例えば漱石や直哉の文学を「思想的」と仮りに言おう。しかしよほど大まかに言うならともかく、この一語で決して済むものではない。事実何故に「思想灼」
と言いうるかに関して汗牛充棟ただならぬ究明は微細に為されている、或いはすでに成っていると思われる。それだけの文献が山積している。
谷崎文学に対しては例えばかつて「無思想」という概評が流行した。現在では伊藤整らの反論で一応中和されているが、谷崎文学を論ずる大見出しは他にもま
だ幾つも生き残っている。昭和三、四年の『蓼喰ふ虫』頃を境にそれ以前を「耽美的」「悪魔主義」などで、それ以後『少将滋幹の母』頃までを殊に「伝統的」
「古典的」「物語的」などで特色づけ、さらに谷崎文学の全体を通じて、「通俗的」「常識的」時に「健康的」などという批評が為されてきたことは、殆ど常套
というに近い。
しかし、実際にそれらの批評をよく読んでみると、例えば「伝統(伝統的)」「物語(物語的)」「通俗(常識的)」ということばなどは、果してこれだけ言
えばあとは分るという程度に谷崎作品の内面と論証的に結び合っていただろうかと大いに疑われるのである。細論細説の努力が払われて居らず、漱石や直哉らの
場合なら、論考の出発点になるほどのものが潤一郎の場合にはやっと結論に置かれてそのまま済んでいる。例えば「伝統(伝統的)」という世上慣用のことばが
慣用なるが故に説明抜きにそこに置かれているだけという感が深いのである。
あたかも佐藤春夫が掲げ小林秀雄が賛同し中村光夫.が詳論した体の「無思想」の論に対する伊藤らの反論も、結論としての妥当性こそ証言できても、ではそ
の「思想性」の内容如何となれば漱石、直哉や藤村のそれを論じたものに較べればなお示唆あるいは言及程度に止まるといわねばならたい。(2)
かつて、風巻景次郎は「関西の風土の中で、日本の古文学は(四十歳を越す年廻りに立ち至った)谷崎氏の鋭敏で饒多な主観によって、氏の中に古典として再
発見され、日本文学の唯美の伝統は、氏の創作の上にその正統を輝やかせる事になる。」「氏の作品は、古典に照り合う光輝によって日本の伝統を其処に蘇えら
せるものとなって来る」と書いた。「伝統」の「正統」を語るのに果してこんな大まかなことで済んだのであろうか。
だが、相似たような大まかな論は、殊に『蓼喰ふ虫』以降源氏物語の現代語訳から『細雪』という大業をはさんで『少将滋幹の母』頃までの、即ち良かれあし
かれ今日の谷崎文学像を文壇的にも大衆的にも決定的にした時代の作家と作品に対して却って集中したのである。これは誰かが安易にもち出した「伝統的」とい
うことばの毒に挙って当てられたようなものと見るよりない一種の珍現象なのであって、評家の苦辛はこのことばの内側へ精一杯潜り込むことでなければならな
かったはずである。それを怠った理由は、つまりは「伝統的」などということに本気で重きを置く意向が文壇全体に乏しかったからであろう。
しかし谷崎文学論にとってその「伝統性」をどう読むかはやはり不可避の通過儀礼なのである。その今日性も世界性も「伝統性」の見究めの上で立論されねば
この作家の世界は結局完結的に掴めない。風巻説のように「古文学」とか「古典」とか限局される以上に、谷崎自身のことばで謂えば「古い日本」をどう文学の
決意と方法に活かすかという、より本質的な課題として、六十年の文学的生涯.を背景に、谷崎に於ける「伝統性」は我々の眼前に突き出されているのである。
「伝統」という文字は最近我々の眼にあたかも流行の意匠かの如く映り易い。一言でいえば一種の反動現象程度のことであろうと猜される。伝統を語ることに
よって却って時代の前線を説得的に展開するような傾向は特に見えていないからである。
三島由紀夫自決直前の所謂『檄』なるものには再三日本の「.歴史と伝統」という文宇が使われ、それらへの強い愛情がさも愬えられていた。愛情はそのまま
「真の日本」を夢みる熱情に他ならぬかの如くそこに書かれている。だが実の所私自身は三島の死とことばとを媒ちにしてより大きく谷崎潤一郎の死の方に思い
寄って行った。
三島の死と谷崎の死は、百年の近代日本文学史上、一つの設問として体をなすほどの銘々の重さを持ち、他ならぬ三島と谷崎とであるが故にこの比較は或る課
題性をさえ帯びると言えるのではないか。この二人はともに「古い日本」と謂い「真の日本」と謂い、その「伝統」を重んじた。少なくも、そう語った。しかし
その重んじ方、そればかりか文化と歴史、伝統の正統のありどころの認識に於いて私の眼には甚しく径庭ある二人である。世に谷崎美学と謂い三島美学と謂い、
軽忽に二人を同類の埒内に見るような人も場合もあろうと思われるだけに、私には三島事件のその後の猥雑なほどの経過の中でそのような比較が為されるかどう
か注意していた。幸か不幸か谷崎の死を思い出すような人は殆ど無かったし、しかも案の定、「伝統」論議はやかましくなって、なしくずしに三島事件を昭和元
禄の一風俗現象に風化して行くことばかりが盛んである。
三島の死から谷崎へ思い寄る理由、きっかけが私にはあった。三島由紀夫の辞世二首と伝えられたあとの一首が私をそのように刺激したのである。
散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐
当然のように多くの人.かこの辞世の莫迦らしいほどの平凡、型通りを嗤った。最初の一首もそうだが、殊にこの二首めは歌眼となる「心」「花」「嵐」の三
字が、露骨なほど平板な暗喩にとどまり、巧みな詩句なら遙かに重層的に豊かな幻像を与えうる文字が石ころのように無味乾燥なのである。心境吐露をよほど好
意的に身を寄せて読みとらぬ限り、詩歌としての体を成さない。わざとなのか「散る」ということばを腰折れに二度も使っているが詩語としての美しいしらべは
全く伝わってこない。
「散るこそ花」とはおそらく三烏の真情であろうに、この「花」は、「花」といえば「桜」というほどの約束をさえ想い浮かばせるちからのないただの文字、た
だの記号に終っている。咲く「花」の肉感を削ぎ落としてやせこけた紙の肌をした「花」に終っている。三島の語感は一見はなやかでありそうで、実はここに集
約的に露呈されているように肉体の暖かみを欠いている。この場合必要なのは「花」の文字にすぎなかった。
私は、反射的に、死ぬまで花を、桜を愛した谷崎の好みを想い出さずにおれなかった。谷崎が「古い日本」の「伝統」を語りはじめたのは関西移住の後である
が、あたかも谷崎はそれを古来の「花」の文字に含蓄された豊かな美の映像をさまざまに味い嘗めるかの如くに考え、かつ語った趣がある。それほど「花」が日
本の美の伝統の眼目であるかどうかは自ずと別の題目であろうが、少なくも世阿弥の「花」の論を一つの高い峯とみて、決して看過ごすことの出来ない文化的な
概念の一つであることを失わぬであろう。谷崎文学の「伝統性」を私はやがて谷崎自身の「花」の理解の深さとともに語るつもりである。
(中見出しは、12ポ使用 9ポ1行アキのうしろへ 3行ドリ中央に 9ポ5字サゲ 以下例同じく)
二 昭和八年の『藝談』
昭和八年の三、四月に発表された『藝談』(原題『藝について』)の中で、谷崎は歌人吉井勇の西行法師論に異を唱えている。谷崎がわかというものをどう享
受していたか、また和歌を通じて日本の藝術藝道の特質をどう受けとっていたかが窺われて面白い。
谷崎は、吉井や佐藤春夫らが、西行法師の「思ひ切つた世捨て人の生涯には頭の下るものがあるが、しかし割り合ひに、感心するやうな和歌が少い。」「西行
なんか何処が偉いのか分らぬ」と貶したのに対して、「なるほど、一つ一つの歌を取り上げれば両君の云はれる通りかも知れぬ」「が、これは私の持論なんだ
が、歌人の歌と云ふものは何もさう一つ一つの歌が際立つた秀歌でなくともよい」と、反駁している。さらに谷崎は当の吉井.勇の作歌に就いても同じことが言
えるのだと鉾先を転じて、「それにも拘はらず君の歌が深く私の心を打つのは、」「三十年間も倦まず撓まず諷詠をつづけ、多少の変遷は認められるにしろ大体
に於いて一貫した調子の感興の歌を、繰り返し繰り返し歌つてゐるところにある」と率直に言い切っている。(3)
この「持論」はこれだけではまことに他愛なげであるが、実は谷崎的思考の基本をなす太い根になっていると想われる。「繰り返し繰り返し」という強調の仕方
に注目したい。(4)
「山衣集の中には桜の花を詠じた歌が何十首となくある。咲く花を待ち、散る花を惜しむ心を、繰り返し繰り返し実に根気よく歌つてゐる。(昔の人は)それ程
熱心に花を好み、花に執着したのに違ひない。」「それらのすベてが必ずしも秀歌と云ふのではないが、折に触れて重ね重ね洩らしてゐるところに真実さがあ
る。一首を取り出して巧拙を論ずるのは抑も末だ。様子をかへ、言葉をかへて、同一の境遇に沈潜し、同一の思想をなぞつてゐるところが値打ちなのだ。」
語られているのは花の「歌」に就いてではあるが、谷崎はむろん「歌」に寄せて古い日本の「文学」を、「藝術」を、語っていること.が読むに随ってはっき
り分る。ここでも「繰り返し繰り返し」「重ね重ね」「同一の境遇に沈潜し」「同一の思想をなぞ」る所に今日の常識とは逆に敢て「値打ち」を置いている。
「繰り返し」は常識的にみて陳腐に直結し易い。中村光夫の『谷崎潤一郎論』には『痴人の愛』以後の彼の進路には」谷崎がまさにその表現を完成したという理
由によって、自己の従来生きて来た世界からの脱皮を、「くりかえしを忌む芸術の法則」によって強いられることがあったと言っている部分がある。中村の論が
仕上げられる約二十年以前に当の谷崎が「繰り返し繰り返し」と強調することで自身の「藝術」論を為している。中村はその谷崎論で、この「芸術の法則」上の
食い違いにつよく触れるか、少なくも調整をつけるべきではなかったのだろうか。
谷崎潤一郎の昭和八年前後と謂えば、『饒舌録』に続き、『卍』『蓼喰ふ虫』『乱菊物語』『吉野葛』『盲目物語』『武州公秘話』『蘆刈』などを続々発表
し、さらにこの『藝談』の直後には名作『春琴抄』を世に問うなど、文学的高潮は瞠目すべきものがあった。またそれなりに谷崎文学に対しても「日本的回帰」
などのかなり一定した論評がなされた時期であった。
しかし、昭和二年当時『饒舌録』に拠った芥川龍之介との周知の論争で、頑として「構造的美観」を語り、筋立てや面白さを小説本来の一義的な要諦だと主張
することで自身の創作態度を守らねばならなかつた谷崎の文壇的孤立は、昭和八としになっても、むろん相変らずであった。(5)
谷崎は『藝談』の中で、「私は、かう云ふ風な考へ方が現代の藝術観と根本的に相容れないことを感じ、日一日とその方へ傾いて行く自分と云ふものを、多少
は恐ろしいと思ふ。正直のところ、自分でも此れが動脈硬化の証拠でないと云ふ確信はないのであるが」といささか悲しげな口調で、精一杯当時の「文壇の常
識」に抵抗を続けている。谷崎は明治以来導入された西欧文学理論に一辺倒.の日本近代文学にすでに不満ないし危惧を表明しているのである。それらと相対峙
するべつの藝術観、他ならぬ自分が日一日とその方へ共鳴して行っている藝術観の存在を口にせずd麟に居れなくなっている。(6)
果して「動脈硬化」とみるかどうかはこの以後の谷崎文学を評価する岐れ目であろうが、少くも谷崎自身は先に挙げた実作群によっても「動脈硬化」を単なる謙
辞に使っている。
では谷崎の藝術観はどう展開されるのか。当昨、北原白秋に対する世評が、「あの男は恋愛や夫婦関係や生計の苦労など、なみなみならぬ経験を嘗めてゐるか
ら、それに伴ふ複雑な生活感情が歌はれてゐていい筈だのに、惜しいことにはさういふものが何も出てゐない。」「唯単純な官能を以て物を眺め、詠嘆してゐる
ばかりである」という具合であったのに対して、谷崎は、「それとは逆な考へ方もある」と次のように弁護している。
「実生活でいろいろな苦労をしてゐながら、尚官能の純粋さを失はず、感覚の統一を保つてゐると云ふことは、中々常人の及ぶところでないと云ふ風に見たらば
どうか、」「今日では、現実に打つかって行かないものは真の文学にあらずと云ふ風に思はれがちであるけれども、複雑な現実を離脱して単一な世界に安住する
ことの方が、却つてむづかしい場合もある。」
むろんこれは一般にリアリズム文学や勃興するプロレタリア文学を横眼に見て谷崎自身の立場を自ら弁護する体の発言でもあった。
「今日の文壇の常識では、現実を逃避した文学は卑怯であると云ふことになってゐる。しかしさう云ふ風な考へは西洋文学の影響であって、元来われわれの持つ
文学の職分は、俗世間の労苦を忘れさせることにあった。」「花鳥風月も、閑雲野鶴も、広く考へれば皆現実でないものはなく、殊にわれわれ東洋人はさう云ふ
自然界の現象に親しみを感じ心の故郷を見出すのである。」「(西洋流の文学も東洋流の文学も)二つながら存在して何等差支へないと思ふ」と、谷崎は重ねて
愬える如く語っている。
強力な近代文学理論の前に谷崎のこのような愬えはさながら異端者の哀愬の如く無力であるかもしれない。谷崎には異なる二様の文学藝術観の価値的論証的対
決の姿勢はない。せいぜい、そのどちらの方がむずかしいかという難易の意識で提出されている。谷崎の文学論の孤独も限界もこの一点に懸かっているとさえ言
えるだろう。それにもかかわらず実作者谷崎が、日本文学の性格や方法に就いて『小説神髄』以来抹殺された観のあった明治以前の久しい歴史と伝統とに結び合
わせて考え直そうという姿勢を見せたことは、今でこそ異とするに当らないが、やはり問題が大きいのである。「俗世問の労苦を忘れさせる(文学)」と謂い、
「自然界の現象に親しみ」と謂う時、私は「衆人愛敬」「壽福増長」と語った世阿弥を想い出す。谷崎が「古い日本」の何を想っていたかは説明するまでもなか
ろう。
谷崎はまた「心の故郷」ということを言っている。同じ『藝談』の中の別の所で「心の故郷を見出だす文学」とも言い直されていて、それは「何も彼も此れで
よかつたのだ、世の中のことは苦しみも悲しみも皆面白いと云つたやうな、一種の安心と信仰とを与へてくれる文学である」と強調されている。今生夢幻とでも
謂うべき感懐をにじませて、狂言綺語転じて讃仏乗の縁となるという伝統的な感受性に近い表白である。一見楽天的でさえあるこの表白には、未生以前の魂の原
郷を慕う情感が籠められている。(7)
その上で谷崎の意向は次のような所へ定まって行く。即ち、「現実をまともに視つめ、そこから発足して新しい美を創造して行く文学」と、「美の極致を一定
不変なものとして、いつの時代にも繰り返し繰り返しそこへ戻つて行く文学」とでは、「難易は同様であると云へる。いや、新しいものは目先が変ってゐるだけ
に人を感動せしめることも比較的容易である.が、常に古人の跡を踏んで而も新しい感動を与へることは、一層むづかしい。」
前者の文学を謂わば西欧的今日的な文学と見たてて谷崎は後者の文学を東洋の、日本の伝統的な文学藝術の行き方だと言おうとしている。この際谷崎は殆ど後
者の前者に対する価値的優位などを主張しない。控えめな口調でかかる文学藝術の復権を願うのが昭和八年当時の主張として精一杯であったと言えよう。
改めて言えば、谷崎は積極的に「繰り返し繰り返し」そこへ"同ずる"という仕方で戻って行く一定不変の「美の極致」を求めて語っている。ここに「伝統」
の所在を見究めているのである。果して谷崎は何をどう考えてこのように言いえたのであろうか。「様子をかへ、言葉をかへて、同一の境地に沈潜し、同一の思
想をなぞってゐるところ」に西行ら古人の藝境の値打ちを見、「私は近頃になって感じるのである.が、何も殊更に異を樹てたり、個性を発揮するばかりが藝術
家の能事ではない、古人と自分との相違はほんの僅かでいい、ほんの僅かなところに自分と云ふものが現はれてゐればそれでいい、或ひは又、それが少しも現は
れず、古人の偉きな業蹟の中に全然没入してしまふのも悪くはないと思ふのである。」「人を楽しませるより先に自ら楽しむのが真の藝術であるとしたなら、そ
れでも差支へないではないか。見る方は兎に角、作る方の側になると、一つ所に踏み止まつて繰り返し繰り返し研きをかけると云ふ、そのことに無限の感興を覚
える。音楽家にしても『残月』なら『残月』の曲を心ゆくかぎり何度でも弾く。或ひは一生を費して漸くその曲の秘奥を会得する」などと谷崎は語っている。
これら『藝談』に露わに語られる谷崎の考えはみな、彼の当時の創作態度を表明し弁明すると同時に、遠く李杜の詩の境涯から日本古来の諸藝道の感興にまで
極く自然に言い及んでいて、谷崎が、ちょっと西洋舶来の藝術思想だけでは律し切れない「伝統」を持していたことを十分証言していると言えよう。但しこれら
表明にはみな多少前後を顧ず、殊更に言う、敢て言うといった趣がないではない。異を樹てる、唱える、ことが、昭和八年前後の谷崎の、却って積極的な姿勢に
なっており、実はそれが決して単に行きがかりの浮薄な異説ではないのだという実感が、結局谷崎のその後の文学と実生活とを支え抜いたと言えるのである。
この『藝談』は有名な『陰翳礼讃』とともに谷崎のまとまった藝術論としては最後のものと言ってよく、両篇が発表された昭和八年以後もむろん夥しい随筆こ
そ書かれはしたが、もはや、『藝談』『陰翳礼讃』に説く所を根本から言い改めたものは全く書いていない。むしろ谷崎は「繰り返し繰り返し」両篇の趣意を作
品に随筆に具体的に実現して来たのである。昭和二年の『饒舌録』ないし『藝談』から『細雪』へ、そして絶筆『七十九歳の春』まで、谷崎の境涯は小説も歌も
随筆も、おそらく実生活をも含めて、全く一貫していると言いうるので、まことに『藝談』を中軸とする『饒舌録』『陰翳礼讃』の三篇は、谷崎の人生中途に
あって過去を顧み、自信に裏打ちされて前途を展望しえた文学的方法の核心を語り明したものと考えて間違いない。語り口の平俗平淡なことに惑わされて軽視し
看過するのは谷崎を見錯まることになろう。(8)
三、秘蔵の花
かつて浅見淵は『「細雪」の世界』という評論の中で、『細雪』は谷崎潤一郎の一種の心境小説である」と言い切っている。『藝談』を読み、その後の『春琴
抄』や源氏物語、さらに松子夫人との結婚なども併せ考えると、「端的」なこの評言は或る面で的中していると言ってよい。「心の故郷」をたずね、「繰り返し
繰り返し」戻って行こうと決意した「美の極致」へ、あの生きがたい時代に谷崎が『細雪』を書きつぐことで到達しようと意図したかとは、浅見ならずとも想像
されるからである。そういう心境を例えば中村真一郎や篠田一士のように「逃避」「遊離的」「童話」的というふうに非難ないし批評する眼もあろうけれど、こ
の種の視線は、逆にあのような時代であったればこそ少なくも谷崎個人の内側へは生きて届くべくもない、お答えずみの、ないものねだりであったことも間違い
ない。私が『細雪』を「心境小説」と肯定するのは、かつての『藝談』の考え方が十余年を経ての大作にどう具体的に露わにされているかが比較的検証しやすい
のではないか、という程の.意味と限っておきたい。それがまたこの作品をここにとりあげる理由でもある。
中でも私は『細雪』中、京都平安神宮での花見の場面に着目する。何故なら、この場面が単に場面としても有名なばかりか、さきに挙げた「伝統」「物語」
「通俗」「常識的」などの谷崎評の内へ潜り込む道が、この場面からは一挙に開けていると予想するからである。
この花見の描写を『細雪』中の圧巻という人は多い。必ずしも同意しない人もあろうかと想われる美文的な表現であるが、これに心打たれる人は大なり小なり
「花」の、「桜」の、魅力に酔える人、物狂いの心地に惹き入れられる素質の人と言ってよい。平安神宮の、満開の紅枝垂に今年もめぐり逢った蒔岡姉妹が、
「あゝ、これでよかつた、これで今年も此の花の満開に行き合はせたと思つて、何がなしにほつとすると同時に、来年の春も亦此の花を見られますやうにと」願
い、また「彼女たちは、前の年には何処でどんなことをしたかをよく覚えてゐて、ごくつまらない些細なことでも、その場所へ来ると思ひ出してはその通りにし
た。たとへば栖鳳池の東の茶屋.で茶を飲んだり、楼閣の欄干から緋鯉に麩を投げてやつたり」というくだりなどに、花が人を酔わせる特徴的な味わいがよく写
し出されている。しかも裏には、「花の盛りは廻つて来るけれども、雪子の盛りは今年が最後ではあるまいかと思ひ」、妹の幸せを願う姉の感慨が静かに描き添
えられている。
松子夫人には夫君の死後に、「あのころの生活が『細雪』には、ほとんど出ているのじゃないかと、ときどき思います。」「今『細雪』は、とてもたまらなく
て、読み直せないと思います」という発言があるし、作中の「こいさん」に当る人は『細雪』中いちばん楽しい部分としてやはりこの場面を挙げ、「ほんとうの
ことをちゃんと書いてあるよって……」と言った由を野村尚吾が伝えている。野村はこうも言っている、「平安神宮の紅枝垂は大変先生もお気に人りで、家を移
るたびに必ずこの桜を植えさせていたほどで、作中でも一方ならぬ愛着が示されている。」(9)
谷崎潤一郎には生前すでに京都法然院に逆修塔があって、その頃から寿蔵の傍にはちゃんとこの枝垂桜.か植えられていた。
ともかくもここに書かれた花見が当時の谷崎の「擬古趣味」か「王朝生活への憧れ」か(こりいう評家の言い分は私には仰々しく思われる)は別として、実際
にあったことであり、事実ゆえに、それへ寄せた谷崎の「心境」吐露には真実味が濃いものと素直に受けとりたい。雪、月とならんで、それ以上に花、ことに桜
の花を想いかつ語ることが谷崎には「古い日本」に繋がる自分の心境を象徴的に露わす縁であった。そもそも"細雪"ということばが、主人公の一人雪子の名に
関わる表題である一面、虚空を埋めて散り乱れる桜ばなのイメエジを謂うと見るべきものである。散りに散りながら涯てなく世界を埋め尽す花びらの無限の美し
き持続と思い直してこの作品を顧る時、『細雪』の魅力はさながら眼に見ゆるように掴めるばかりか、実に全谷崎文学を蔽う一種の惰調.が直ちに察せられるの
ではなかろうか。花の散るのは死に絶えるのでなく再び全く新しく咲くことであった。その甦りのふしぎは谷崎にとって日本の美の生命であった。(10)
「滋幹は、黄昏の色が又一段と濃さを増して、水の面さへ見分けにくくなつて来たので、ここらあたりで引き返さうかと思ひながら、なほ何となく心残りが感じ
られるままに、川瀬の石を跳び越え跳び越え、いつか滝の落ち口より上の方へ登つて行つた。もうその辺は構への外であるらしく、泉石のたたずまひも人為的な
庭園の風情はなくて、次第に殺風景な山路になつてゐるのであつたが、ふと向うを見ると、渓川の岸の崖の上に、一本の大きな桜が、周囲にただよふ夕闇を弾き
返すやうにして、爛漫と咲いてゐるのであつた。」「恰もそれは、路より少し高い所に生えてゐるので、その一本だけが、ひとり離れて聳えつつ傘のやうに枝を
ひろげ、その立つてゐる周辺を艶麗なほの明るさで照らしてゐるのであつた。」
例えば『少将滋幹の母』のこういう描写を人によっては谷崎はすこし調子に乗りすぎていると評しているけれど、そのいかにも乗り切った感じ、酔い痴れて行
く感じが、実は「花」というものの魅力のなせる業であると想わせるだけの強い表現になっているのであり、花に逢った人の心が、そこはかとなく物狂おしくな
る様子が滋幹の眼と息づかいの内に、露わになっている。
「『お母さま』と、滋幹はもう一度云つた。彼は地上に脆いて、下から母を見上げ、彼女の膝に靠れかかるやうな姿勢を取つた。白い帽子の奥にある母の顔は、
花を透かして来る月あかりに暈されて、可愛く、小さく、円光を背負つてゐるやうに見えた。」
桜を描く谷崎の筆は、はたしてただ単なる好みにまかせてのものであろうか。『細雪』に戻ってさらにこの「花」に就いて考えてみたい。
それにしても「花」とは陳腐な、と思われるであろう、事実、一方に「花」Lいうことばを、広く佳きものの総称と見ながら、また陳腐なものに.言いくたす
思いも否定は出来ない。「花」を考えるのはその上で敢てするのでなければならない。
狂言『花盗人』や能『鉢木』には文字通り「秘蔵の花」が語られている。珍貴の財宝でなく、季節が来れば自ずと咲く花を「秘蔵」と言い切るには相応の深い
心入れがあろう筈である。また源氏物語「幻」の巻では、紫の上遺愛の樺桜が美しく咲き溢れるのをながめて幼い匂宮が亡き祖母をなつかしむ余りに、「いか
で、久しく散らさじ。木のめぐりに帳を立てて、帷子をあげずば、風も、え吹きよらじ」と、本当にうまいことを思いついたとあどけなく真面目がおに言う。紫
に先立たれて心しおれている源氏も思わず「うち笑まれ給ひぬ」とあるが、老いた源氏にも幼い匂宮にもこの花は、桜は、「秘蔵」されて心の内で或る佳きもの
の意味になり変っている。
また例えば、「折りつればたぶさにけがる立ながら三世の仏に花奉る」という歌、人手が折れば花が穢れる、立木ながらに咲く花を御仏に供えるという心ばえ
にも、花の美しさ清さが、単に眼に見え手に触れ得るもの以上に、深く古人の心に「秘蔵」され咲き匂ったものだということが窺われる。「花」を語るとは極く
自然に、この古人の心に秘蔵された花への愛敬がどう今日に承け継がれたかを考えてみることである。道草を喰うようでもここで谷崎潤一郎の絶筆になった『七
十九歳の春』の最後の一部分を引用せずに居れない。
「数年前に京都から運んで来て、今度又ここの庭へ移し植えた平安神宮の紅枝垂も春を待っていた。先ずこの庭で紅枝垂を囲んで花見の宴を催してから京都へ行
き、それから平安神宮の花を見ることにしていたので、四月十日に高畠夫妻や朝吹三吉氏等夫婦を招いて小宴を張った。
だが生憎にも今年は気候不順で、京都は四月中旬に雪が降り、花が容易に開かない。ぐずぐずしていれば都をどりにも間に合わないと、家族たちは気が気でな
かったが、折角快方に向ったのに、ここで風邪を引いては大変であると、已むを得ず自重して五月になってから出かけた。もう花も散り、をどりも済んでいたけ
れども、それでも三年ぶりに見る都の春である。(中略)花は散っていても、京都はやはり楽しかった。私たち夫婦や義妹は、先ず四条の田中屋へ行って、一昨
年生れた私たちの孫娘、観世家の長女袙のために雛人形を注文した。東京製の雛人形では気に入らないので、京都の店で、今年は間に合わなかったけれども、来
年の春に間に合わせてくれるように頼んで帰ったのであった。」
谷崎はこの新調の雛人形を見ることが出来なかった。来年の京都の春も、桜も、見ることが出来なかった。
この文章に溢れる自然な情緒はもはや擬古、王朝趣味でない。一時期谷崎自身で言っていたような江戸町人が関西の風土に寄せた「エキゾシチズム」などでは
なおさらない。落ちついた味わいに程よく彩られて、この文章はあらゆる面で二十年前の『細雪』の花見の場面と一重ねに出来る。どう入りまじっても互いに侵
し合うものを含んではいない。「花」は谷崎にとってあたかもかの「美の極致」の代名詞かの如くにその最晩年までを飾っていたのである。むろんこうした谷崎
の美の様式と私生活とを、社会に対して責任をもとうとしない、享楽的な境涯であると咎める立場や思想が別にありえよう。しかしそれは、"出来る"とか、"
ある"とか言ってしまえばそれ以上の力を振うことの出来ないものでもあるだろう。(11)
試みに私は幾つか国語辞典の「はな」の項を引いてみて、花に由来することばの何頁にもわたって多彩で華麗なことに改めて驚嘆した。こんな慣用、こんな表現
があったかと、夥しいそれら一字一語に我々の心の隅々まで散り敷いた花の幻のみごとさ、或る意味では陳腐さ、に今さら驚いたのである。
その花の陰翳をよりふさわしく極限にまで文学の世界に露わにして見せたのが『細雪』、殊に平安神宮花見の場面ではなかろうか。しかも谷崎は単に一つの美
しい情景を描写して見せただけではない。「花」に寄せての或る"境涯""決意"の如きものを作中人物に端的に代弁させている。
四、花は桜
「幸子は昔、貞之助と新婚旅行に行つた時に、箱根の旅館で食ひ物の好き嫌ひの話が出、君は魚では何が一番好きかと聞かれたので、『鯛やわ』と答へて貞之助
に可笑しがられたこと.があつた。貞之助が笑つたのは、鯛とはあまり月並過ぎるからであつたが、しかし彼女の説に依ると、形から云つても、味から云つて
も、鯛こそは最も日本的なる魚であり、鯛を好かない日本人は日本人らしくないのであつた。」「同様に彼女は、花では何が一番好きかと問はれれば、躊躇なく
桜と答へるのであつた。」
魚は鯛、花は桜、というこの選択の意味は、かつて谷崎を論ずる際、適切に考慮されたことがあっただろうか。これは表現でも描写でもない、率直な述懐であ
り心境吐露であって、"敢て言う"といった趣さえ感じられるが、谷崎自身はこれを「決してただの言葉の上の『風流がり』ではない」と強調しているのであ
る。
ここは言うまでもなく例の花見の場面を導く部分で、真意は「鯛」よりも遥かに重く花は「桜」にある。花は桜――、この余りに耳馴れた表明の故に、これを
ただ陳腐と言い捨て得るだろうか。
小林秀雄は、「極く当り前な美の形ばかりが意識して丹念に集められ、慎重に忍耐強く構成された作は『細雪』が初めてであろうと思われる。」「『細雪』は
幾十万の読者を有しているそうで、何新聞であったか、これは現代の奇蹟だと評しているのを読んだが、奇蹟であるわけがないと思う。」「現代の思想問題に
も、世相にも触れず、そうかと言って、とくに仕組まれたおもしろさもないこの小説が、多数の読者の心を惹くのは、やはりその鯛や桜のような尋常な魅力なの
である」などと書いている。
また篠田一士は、「大変月並な趣味である。典型的な日本趣味もしくは関西趣味といってもいい。だが、作者がもし本当にそうした典型的な趣味をえがこうと
したのなら、これは明らかに失敗した部分であろう。なぜなら、桜と鯛というのは典型的な趣味の記述としては正確であるかもしれないが、その記述はあまりに
正々堂々としていて、丁度、外国人のエグゾティシズムのように、現代に生きる日本人にはあるひとつの現実感をもって迫ってこない。」「それはぼくたちの経
験の外側にあって、丁度美しい紋様のようにぼくたちの目を楽しませるだけである」と書いている。否定的に聴かれる発言だ.が、典型的な趣味をえがくという
よりは今すこし深く日本というものに錘心を垂れていると私は思うし、篠田個人の「趣味」で応じた意見という感じがある。「経験の外側」にしかないかどうか
はそうあっさりも言えまいし、谷崎にすればこれだけ「正々堂々」と趣意が達している以上、花は桜、魚は鯛と言った意図は十分生きたと思ったであろう。
国文学者の橋本芳一郎は、「大通俗人潤一郎の、反逆やひねくれを捨てた、健康で明るい町人生まれの本性」と言い及んでいるが、薄味な児方である。
要するに谷崎自身が、一度は「月並ー」と感じて笑いながら、なお敢てそのことに価値性と創造性とを認めた、秘蔵の「花」の論理は誰からも積極的には顧ら
れずに過ぎているのである。
過去の谷崎の言説を一方に徴しながら私は『細雪』の人物.か、今また同じ花の盛りに逢う喜びのまま、演戯的なまで去年の振舞を今年も同じに繰り返してみ
た、その「繰り返す」という営みをここで大事に考えてみたい。それは谷崎があたかも「美の極致」かの如く「花」を愛したこと決して無関係でなかろうと想わ
れる。
古来我々の精神的伝統には井伊直弼が茶の道で強調した「一期一会」の覚悟があり、これは謂わば井伊の先縦と考えられる室町末期の茶人武野紹鴎が語った一
期一度ということばと一重ねであるが、それなら滅多にない機会かと受け釈ると大違いになる。一期一会の考えには却って常住不断に「繰り返す」ことが先立っ
ている。たとえ、いつもいつも同じ主と客、同じ席と時刻に同じ設えで一会の茶の湯を催すにしても、その一会がただのかたちの「繰り返し」に終るのでなく、
そこに一生一度というくらいの重い意味で、清新な行届いた心を配るのが大事だと、例えば昔の茶人は考えたし、茶人と限ったことではなかったのである。
「繰り返す」ということを避け難い自然の営みでありはからいであると見据えた人にとっては、「繰り返す」ことの平凡と退屈とを、そのまま、新鮮な創造と価
値を産み出す機縁に深める、活かす、ということが、それこそ避け難い工夫の要所であった。平凡陳腐を拒んで闘う道があろう、産出的創造的な魂には何として
もそれが本道である。しかしその道は「繰り返し」を一切拒否するだけの道ではなかった。ぎゃくに「繰り返し」を自然の真相本意として拒まず、ただその一度
一度を一期の配慮を籠めて新鮮なものと創り上げる道があった。
殊に過去の日本人(東洋人)にあっては、「繰り返し」を拒むという、謂わば絶対不可能なことを可能とみるほどの姿勢、明治以後の文学藝術の歴史があたか
も唯一の公式の如く人々の感受性を「窮屈」にした姿勢、は乏しく、否むしろ「古い日本」の伝統としては「繰り返し」を受け入れながらも陳腐に陥らせまい、
平凡にすまいという創意努力の方が多く払われたのであると、そう谷崎は『藝談』を強い起点として主張しつづけたと私は考える。(12)
一つの例を挙げれば書道に「臨」ということがある。「模」はそのまま一点一画をゆるがせにしないで写すことであり、これも秀れた先人の書に参入するホウホ
ウであり道であったが、「臨」の場合も趣意は同じで、さらに深い。なぜなら「臨」の場合は当人の創意工夫を自然に加えながらこれこそ極致と尊崇する書の風
を一字一字を表現する精神の神髄まで写しとろうとするのである。「模」も「臨」も物真似であり謂わば追随であるが、中国でも日本でもこれを偽りとかわるい
意味の模倣とかと貶める以上にむしろ積極的な値を見出した。今日では実は真似ていても自分の創作と言いたがる人が多いのに、古人は「臨」を恥じないで誇り
さえした。真に勝れたものに涯てしなく近づくという謙虚の内に個性と独創の開花をじっと待ち望んだのである。それは居室の襖に秀れた古人や清閑な山水を描
かせて日常を秘かに律し、願くはそれへ達したいと願ったような心情とも通じ、また東洋の誇る火の藝術、陶磁の気の遠くなるような繰り返し、積み重ねから生
まれ露われる厳しい美の伝統とも繋がるものである。謂わば谷崎潤一郎はこのような「伝統」を打ち捨ててよいのかと言ったまでである。
谷崎はむろんうしろ向きに過去へ退って物を見るようなやわい藝術家ではなかった。その精神の健康で強靱で容赦なく、かつ思想といい鋭い問題提起といい、
いかに時代を先取りしていたかはここに殊さら説明を要しない。「くりかえしを忌む藝術の法則」と言ってしまえば、どうしても説明し切れずに「藝術」の埒外
にはみ出すすぐれた藝術が古い「日本」に幾らも見出せる。「美の極致」へ「繰り返し繰り返し戻って行く文学」というような謂い方でどうしてももち出さずに
済まなかった問題意識こそ、性急に西欧近代文学の方法を根つぎされたまま「古い日本」を弊履の如く忘れ去ろうとした「文壇常識」に対する谷崎潤一郎のアク
ティヴな働きかけであった。谷崎は伝統を語って、荷風や、三島由紀夫よりさらに粘り強く説得的な業績を遺しているのである。吉井に与えたことばを多少言い
換えれば、「六十年間も倦まず撓まず創作をつづけ、多少の変遷は認められるにしろ大体に於いて一貫した調子と感興の作品を、繰り返し繰り返し発表してゐる
ところ」に谷崎潤一郎の大いさと特色とは露わにされている。
伊藤整のすぐれた『解説』を読み通せば伊藤なりに何がどう谷崎に於いて繰り返されたかが各所に適切に書かれている。例えば、「小説家としての谷崎潤一郎
は、その初期の『刺青』『少年』等から、このモチーフ(マゾヒズム的な男女関係)を繰り返して扱って来ていて、その全作品を貫く男女関係の描写の骨骼が、
この心理的な問題にあると見ることもできる。」「誰もが持っていながら、それを認めたがらないある心理上の特色を引き出し、純粋化し、強力化することに
よって、人間の本質的なものの一部分は、把握される。そして才能のある芸術家が多少でも何等かの、心的偏向の芽を持っていれば、それはその作品の中で培養
され、強化されて、具体的なものに結晶せずにはいない。」「この作者におけるマゾヒスティックなモチーフの反復を、私はそういう風に解釈し、かつ解説する
のが妥当であると思う。」「谷崎潤一郎という作家は、このマゾヒズムという男女関係の型を通して、何度も何度も繰り返して執拗に恋愛を描いた。そこに私は
惑溺者でなく、観察者、判断者がおり、しかも常にそれに芸術作品の効果を与えようとする逞しい創造家のいることを感ずる。」「我々の同時代者の中には、多
くのイデオロギイを持った文士がいるが、彼等の中には、この人のように、時にはイデオロギイのように、時にはほとんど信仰とも言うべき強さと持続性をもっ
て自己の信ずる一点から繰り返して人間を描き、しかもそれに芸術的な実質を与えつづけた人はいない」などと、言葉を尽して説いている。
まさしく伊藤整は、谷崎の内なる「繰り返し」に却って積極的な意向を感じとった、そして「繰り返し」を危いものにし易い平凡、月並み、退屈などを見究め
た上でそれらから谷崎が自己の藝術をよく守り抜き円熟させたことを認めようとした、具眼の人であったと私は讃えたい。
さて『細雪』の姉妹たちが平安神宮の神苑で「繰り返す」演戯に近い行為も、それが「花」の、「桜」のなせる業であること、大なり小なり「花」「桜」の魅
力に酔う素質、物狂いの心地に惹き入れられる素質あってのことかと私は書いた。「花の魅力」といい「酔う素質」といい「繰り返し」という、その内面の関わ
りが語られねばならない。(13)
躊躇無く花は「桜」、魚は「鯛」と言い切った、その選択には、桜や鯛.が、日本人の心に生きつづける或る「繰り返し」の象徴の如くでありながら、しかも
一見平凡な好みの底に「一定不変」の美しさ豊かさ、即ち谷崎ふうの「美の極致」のイメエジが生き生き息づいていることが諒解ざれる。花は「桜」、という言
い方は文字どおり正々堂々と通用する。余の花.が花でない訳でなく、それは十分判っていながら花は桜と言い置いて言い尽くせているという自覚はむろん久し
い或る「繰り返し」が可能にしたことであったし、そうも「繰り返し」得たのは桜が、鯛が、真に美しいもの豊かなものとして心に「秘蔵」され育てられて来た
からだと言うよりない。想えば吾々の祖先は巌(磐長媛)の不動不変を退けても、花(木花開耶姫)を「繰り返し」の精妙なるものと選んだのであり、その瞬間
に、人の生命も、美しきものの生命も、繰り返しの一度一度に新しき充実あるべきものと、、ものの生命の在り様を具体的に象徴的に把握したのである。因果の
輪廻とは全く違った断面で、「繰り返し」の真相を理解し、受容し、尊崇して、一定不変の「美の極致」と謂うべきものを「花」と喩えて把握したのである。人
はしかも「木の花」をいつか「桜」と信じて疑わぬようになった。
五、大正十三年の『痴人の愛』と源氏物語
花は「桜」は、ところで、『細雪』ではじめて発見しえた谷崎にとって全く新しい把握であったろうか。実は谷崎はすでに夙くに、似た表現を作中に試みてい
る。謂わばこれは、繰り返しなのである。即ち大正十三年、「感興を以て、熱を以て書き通したい」との予告のもとに書かれた『痴人の愛』に鮮かにそれが見ら
れる。
「男の方は小娘を『ナオミちゃん』と呼び、小娘の方は男を『河合さん』と呼びながら、主従ともつかず、兄妹ともつかず、さればと云つて夫婦とも友達ともつ
かぬ恰好で、互に少し遠慮しいしい語り合つたり、番地を尋ねたり、附近の景色を眺めたり、ところどころの生垣や、邸の庭や、路端などに咲いてゐる花の色香
を振り返つたりして、晩春の長い一日を彼方此方と幸福さうに歩いてゐた此の二人は、定めし不思議な取り合はせだつたに違ひありません。」「花の話で想ひ出
すのは、彼女が大変西洋花を愛してゐて、私などにはよく分らないいろいろな花の名前、――それも面倒な英語の名前を沢山知つてゐたことでした」などと、語
り手と女主人公ナオミの初期の廿い生活を叙しながら、極く何気なくこんなふうにつづく。
「通りすがりの門の中なぞに、たまたま温室があつたりすると、彼女は眼敏くも直ぐ立ち止まつて、
『まあ、結麗な花!』
と、さも嬉しさうに叫んだものです。
『ぢや、ナオミちやんは何の花が一番好きだね』
と、尋ねてみたとき、
『あたし、チューリップが一番好きよ』
と、彼女はさう云つたことがあります。」
谷崎は、この、花は「チューリップ」に一言の註釈も加えていない。それにしても、ここに、約二十年後の『細雪』に見られる花は「桜」の鮮やかな先蹤があ
るのに驚く。むろん人は、時に「チューリップ」になり時に「桜」になる、何れも作品に相応したその場限り、偶然の表現として"繰り返し"を否定するかもし
れない。だが私はそうは思わない。
花は「桜」が容易に首肯できるように「チューリップ」という好みも、或る意味で極めて穏当である。花は紅、柳は緑ふうの大まかな言い方をすれば『細雪』
に桜は似合い、『痴人の愛』にチューリップとは言い得て妙なのである。それよりむしろ私は、二十年をへだててともに作中に愛すべき女主人公を得、ともに作
者の分身の如き男性に、どんな花が好きかと問わせているこのやりとりの上の相似に、谷崎の心の或る不変の下絵を見取りたい。チューリップがいかにも西洋文
化に心酔した初期大正期谷崎の内なる「西洋」の色合いを神妙に表現しているように、『細雪』の桜はいかにも古き佳き日本の神髄かの如くに谷崎によって象徴
化されている。この移行、この変貌の内に谷崎文学の円熟を観察すべきだと私は思うのである。
『痴人の愛』は谷崎の関西移住後最初の名作である。まことに「会心の」名作である。これを過去の谷崎文学の耽美的、悪魔的、西洋心酔的傾向の総決算とみる
ことは十分出来る。所がこの以後の秀れた諸作品の直接の先駆とまで強く言い切る人は意外と少い。その点では昭和二年の『蓼喰ふ虫』に待つ人が多いのであ
る。だが私は、かの源氏物語の影響を『細雪』の上に見て昭和源氏物語かのように異称するのを当らないと思うと同じ重さで、実はこの『痴人の愛』こそ谷崎の
源氏物語に対する最初の極く意識的で痛切な"批評"と考える故に、その後一切の谷崎的成熟は真にこの一作に初まると思うのである。譲治とナオミの関係は、
明らかに意識された光源氏と若紫の関係の戯画的逆説的展開であり、昭和四十年『にくまれ口』に見える谷崎の光源氏に対する「反感」に徴しても、まことに面
白い照応がこの両作には読みとれるのである。
いささか本論を外れるようでもここで谷崎と源氏物語との関わり方に就いて触れて置きたい。源氏物語を両三度にわたって谷崎が現代語訳したことは余りにも
有名だが、一体谷崎が源氏物語と文学的に関わり合ったのは何時頃からであったか。これは同時に昭和八年『藝談』や『陰翳礼讃』に結晶する谷崎の伝統への感
受性がどの時点から具体的に萌し初めたかを問うことになるのである。
誰しもの通る道筋で谷崎も何度か源氏物稽に打つかってははねかえされ、湖月抄を頼りに結局高等学校時代にはじめてこの長い古典的な「写実小説」を原文で
通読したと言っている。関西移住後の評論、随筆に源氏物語が引き合いに出されることはしばしばで、殊にその表現の妙と構成の妙に惹かれたらしく、昭和二年
の『饒舌録』では日本文学として空前絶後の「構造的美観」を備えた名作だとし、先の『にくまれ口』でも、「私はあの物語の中に出てくる源氏という人間は好
きになれないし、源氏の肩ばかり持っている紫式部には反感を抱かざるを得ないが、あの物語を全体として見て、やはりその偉大さを認めない訳にはいかない」
として、最晩年に至ってもなお源氏物語の文章にこそ顧るべき(現に打ち捨てられ忘れ去られている)優秀な働きと美しさがあると推賞しているのである。
谷崎にとっては源氏物語が存在してはじめて関西移住後の数々の作品がありえたし、そうした自信作発表の実践の上で源氏物語口語訳という畢生の大業と取り
組めた。さらにこの大業の成果.が『細雪』となり『少将滋幹の母』ともなった、加えて『夢の浮橋』も、六条院物語のパロティである『台所太平記』も、とい
う諸家ないし私の指摘も、正しいに違いない。
その『細雪』と源氏物語との関係について、谷崎は昭和二十二年『「細雪」回顧』の中でこう言っている。「『細雪』には源氏物語の影響があるのではないか
と云ふことをよく人に聞かれるが、それは作者には判らぬことで第三者の判定に待つより仕方がない。しかし源氏は好きで若いときから読んだものではあるし、
特に長年かかつて現代語訳をやつた後でもあるから、この小説を書きながらも私の頭の中にあつたことだけはたしかである。だから作者として特に源氏を模した
と云ふことはなくても、いろいろの点で影響を受けたと云へないことはないであらう。ただ作者と云ふものはいつも一つところに止まつてゐるものではないか
ら、私にしても僅かながらの移り変りはあるであらう。」
『細雪』に就いてはこの程度のことで、強いて昭和源氏めいて謂うのは言い過ぎだと思う。伊藤整の如く、むしろ竹取物語に擬する説の方がまだ当っていよう。
それなら谷崎には「特に源氏を模した」作品がないかというと、いかにも意外に思われそうだが、間違いなく、大正十二年の『痴人の愛』こそそうだと私は言
いたい。これは『痴人の愛』評価に根から関わる大事であるのでやや詳しく本文を挙げて考えたい。
『痴人の愛』は河合譲治なる実直な勤め人がナオミという天成の美少女を「教育」しようとして却ってナオミの魔性に翻弄される物語である。(14)
一方源氏物語は複雑な成立の過程をもつ物語だが、主筋は光源氏と紫との出逢いから結婚生活、そして紫上の死と光源氏の遁世雲隠に至って終るものである。
源氏もまた幼い紫をたまたま山里に見出して「教育」しようとした。紫はよく源氏の教育に応じて稀に見る理想の女人として万人に愛惜されて死ぬのである。
(15)
だが光源氏が「若紫」の巻ではじめて少女紫を見初めて以来二条院に隠し据えてからの基本的な愛撫の姿勢は、「明け暮れのなぐさめにも、見ばや」であり、
「心のままに、をしへ生ほし立てて見ばや」であり、「女は、心やはらかなるなむよき、など、今より教へ聞え給ふ」であり、「なつけ語らひ聞え給ふ」であ
り、「こよなき、もの思ひの紛らはし」であり、「いとをかしきもてあそび」なのであった。
しかも源氏の本心には、まだあどけない紫の少女を見つめて、「ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草のゆかりを」と歌いかけるが如く、露骨な
情慾がはじめから潜在していた。この歌も、つづく源氏の述懐も、紫のあどけなさと対照的になかなかに生ま生ましくエロティックなものである。(16)
これに対し谷崎は、『にくまれ口』に、自分は「フェミニスト」だからよけいなのだがと断って、要するに光源氏の女性に対する誠意のなさにむかっ腹を立
て、「読んで、いつも厭な気がするのはこの点である」、光源氏も作者も、「気に喰わない」「小癪にさわる」「反感を抱かざるを得ない」などと書いている。
谷崎は相当の藤壷贔屓らしいから、ゆかりの紫に対しても深い好感を寄せていたに相違なく、何より光源氏その人には極く点が辛かった。
私は源氏物語ないし男主人公に対するこういう谷崎の感想は、あの訳述の中で得られたものでなく、若い頃の素朴な第一印象.が終生居坐って変らなかったも
のと感じている。光源氏嫌いの口吻に、いわゆる凹型の、谷崎らしい生来の感受性が生きている。この谷崎が、もし源氏を模して作品を構想するとしたらどうで
あろう。何よりも、美少女を「教育」の美名のもとに肉欲的に舌なめずりして享受しようとする男に対するフェミニストらしい痛烈な攻撃、否定、逆転が表現さ
れるのではなかろうか。『痴人の愛』以前に夙く『刺青』『幇間』『少年』『麟麟』や『冨美子の足』など、魔性の女が男を征服する作品を書きつづけてきた谷
崎だけに、この『痴人の愛』で、秘かに光源氏に苦いめを見せれはどうなるかといった位の着想は自然に咄嗟に動いたのではなかろうか。
譲治の最初の「計画は、兎に角此の児を引き取つて世話をしてやらう。そして望みがありさうなら、大いに教育してやつて、自分の妻に貰ひ受けても差支へな
い」という上わ手に出たものだった。
「正直のところ、私は長年の下宿住居に飽きてゐたので、何とかして、此の殺風景な生活に一点の色彩を添へ、温かみを加へて見たいと思つてゐました。それに
はたとひ小さくとも一軒の家を構へ、部屋を飾るとか、花を植ゑるとか、日あたりのいい、ヱランダに小鳥の籠を吊るすとかして、台所の用事や、拭き掃除をさ
せるために女中の一人も置いたらどうだらう。そしてナオミが来てくれたらば、彼女は女中の役もしてくれ、小鳥の代りにもなつてくれよう。と、大体そんな考
でした。
そのくらゐなら、なぜ相当な所から嫁を迎へて、正式な家庭を作らうとしなかつたのか?――と云ふと、」
「一体私は常識的な人間で、突飛なことは嫌ひな方だし、出来もしなかつたのですけれど、しかし不思議に、結婚に対しては可なり進んだ、ハイカラな意見を持
つてゐました。」
「結婚するならもつと簡単な、自由な形式でしたいものだと考へてゐました。」
「それから思へばナオミのやうな少女を家に引き取つて、徐にその成長を見届けてから、気に入つたらば妻に貰ふと云ふ方法が一番いい。」
「のみならず、一人の少女を友達にして、朝夕彼女の発育のさまを眺めながら、明るく晴れやかに、云はば遊びのやうな気分で、一軒の家に住むと云ふことは、
正式の家庭を作るのとは違つた、又格別な興味があるやうに思へました。つまり私とナオミでたわいのないままごとをする。『世帯を持つ』と云ふやうなシチ面
倒臭い意味でなしに、呑気なシンプル・ライフを送る。――此れが私の望みでした。」
ところが徐々に譲治は成熟して行くナオミの肉体の誘惑に屈し、次第に自ら惑溺的な生活にはまり込む。そして、「今夜始めて西洋風呂を使つて見る。馴れな
いのでナオミはつるつる湯の中で滑つてきやつきやつと笑つた。『大きなベビーさん』と私が云つたら、私の事を『パパさん』と彼女が云つた。……」などと日
記にものした挙句、ついに思い通りの情慾を遂げてしまうのである。まだこの時分は、ナオミの方で「譲治さん、きつとあたしを捨てないでね」と言い、「捨て
るなんて、――そんなことは決してないから安心おしよ」と、男の方が強かった。(17)
だが、安心させたが最後、俄然ナオミは魔性に変貌を遂げて行く。ナオミは完全に譲治の羈束を脱して、逆に譲治を支配し全く蹂躙するようになる。それでもな
お譲治はナオミを「教育」できると思っていた。
「当時私は、それほど彼女の機嫌を買ひ、ありとあらゆる好きな事をさせながら、一方では又、彼女を十分に教育してやり、偉い女、立派な女に仕立てようと云
ふ最初の希望を捨てたことはありませんでした。此の『立派な』とか『偉い』とか云ふ言葉の意味を吟味すると、自分でもハッキリしないのですが、要するに私
らしい極く単純な考で、『何処へ出しても耻かしくない、近代的な、ハイカラ婦人』と云ふやうな、甚だ漠然としたものを頭に置いてゐたのでせう。ナオミを
『偉くすること』と、『人形のやうに珍重すること』と、此の二つが果して両立するものかどうか?――今から思ふと馬鹿げた話ですけれど、彼女の愛に惑溺し
て眼が眩んでゐた私には、そんな見易い道理さへが全く分らなかつたのです。」
この述懐一つにも、谷崎の源氏物語にというより、光源氏および紫式部に対する反撥や批評ははっきり出ている。彼らはまるで両立しないものを身勝手に恰好
よく両立させてしまっていて谷崎は小癪でならなかったのである。そこで『痴人の愛』の譲治は源氏と同じことを目論みながら思い切り手ひどくしっぺい返しを
される。モチーフはともに風変りな夫婦生活、結婚生活そのものであり、『痴人の愛』はやはり源氏物語の主筋を正しく受けてしかも鋭く切り返しているのであ
る。
むろんこの小説と源氏物語とをこれ以上深刻に結んでは言い過ぎになる。だが、この程度でも十分『痴人の愛』の内側に、作者谷崎の内側に、萌していた伝統
的物語的作風への新しく豊かな展開の憑拠は認められるではないか。むろんまだまだ「西洋」への心酔の残滓を濃厚に残している譲治とナオミの二人が、谷崎潤
一郎の内面の発展に導かれて、実は源氏物語の主人公夫婦の批評的パロディを鮮やかに演じていたのである。作のはじめに、「今度は多少の用意も出来てゐるか
ら」と熱意を読者に予告し、その後に、「此の小説は、私の近来会心の作」と自負した谷崎の内部事情には、必ずや構想上源氏物語に挑むほどの意欲が具体的に
秘められていたに相違なく、とすれば我々は『痴人の愛』を谷崎の文学生涯を真に前後に分つ重要な結節であり分岐点であったと、意図および質の両面から正当
に評価せねばならない。『細雪』に花は「桜」の到達があり、『痴人の愛』に花は「チューリップ」の前駆があることは、その間に源氏物語を置いて眺めて、ま
ことに興味ある照応、繰り返し、ではないか。
そこで本論に立ち返ってさらに花は「桜」の意味を追ってみる。
六、物狂いの伝統
花は「桜」と竝べて、譬えば谷崎は魚は「鯛」と言った。語呂合わせを超えた批評がここには生きている。苦々しい記憶に汚れた、人は武士、という言い草を
添えてこそ花は桜が世情を強引に定めていた時代に、谷崎はうわべはさりげなく、しかしただの「風流がり」でないのはむろん、重々しい「古い日本」への判断
を重ねて花は「桜」魚は「鯛」と言ったことは軽く見過ごせない。何故なら、花は桜には、一期一会の、無量百千億の凝縮された繰り返しの生命が籠もってい
て、その重さのまま久しい昔から飽かず、人の、日本人の、心にこの言葉の真実は甦りつづけて来たからである。
誰が例証をことさら求める訳でなく、あたかもより大きく深い美の世界への扉を開く鍵言葉かのように、日本人には、花は桜、だった、それで十分だった。と
言うことは、もはや却って「桜」にさえこだわることはなく、古代には桜よりは梅だったなどと論うことはなく、端的に「花」と一言で扉は開き、またそうなく
ては扉の開かない世界が、誰の思いの底にも予想され覗き込まれていたのである。
日本の庶民が渡来の漢字を覚えて日本人の思いを日本の言葉で書き現わした最古の遺品は、法隆寺五重塔の初層天井の組木に大工たちの一人が落書きした、
「奈尓波都尓佐久夜己」の九字であるが、「なにはづに咲くやこのはな冬ごもりいまは春べとさくやこの花」は、最も有名な上代歌謡の一つで、古今和歌集の序
にも引かれ、また初学者がこぞって習字の手本にこの歌を書き習った。これは意味もないただ偶然のことだろうか。
「咲くやこのはな」は、誰しもの胸に木花開耶姫の伝説を想い浮かばせる。この花を単に「花」と言うも、桜、梅と言うももはや論うに当らず、人銘々の胸に咲
き散りかつ甦るものは、花と一字で指し示せば足りたのである。「句あるべきも花なき国に客となり」とロンドンの客舎に鬱懐を禁じえなかった夏目漱石が、
「花」一字に寄せたものは即ち「日本」と言い替えることが可能なほど万代不易の重みを湛えている。
また、「願はくは花のもとにて春死なむ」という西行法師の有名な末期の祈りは、死後の甦りをそこにと願った当のその世界が、謂わば此の世に於いて彼が久
しく心中に植え培い嘆賞しつづけた桜の花と根をひとしくすることを、夢のように美しく歌い当てている。花の下には、花の下にしかない、つねの世界の論理を
超えた別世界が開ける、自分はそこへ企まれ変ることが出来るという確信を、西行は自身の胸に育てていたことを、「花のもとにて春死なむ」は言い当ててい
る。ことばの最も正しい意味での「物狂い」とは、かかる絵空事の真実にことさら身をゆだねてみることにはじまるであろう。
谷崎の絶筆を想い出し、また『細雪』や『少将滋幹の母』を想い出せば、この作家がいかに「花の魅力」に「酔う素質」をもっていたか、おそらく西行と同じ
甦りの願いをもってさえいたであろうことを、信じさせる。谷崎をそうあらせたのは、「花」の生命の佳き「繰り返し」の意味に、人の心と行為とが微妙に同調
し共鳴することを知っていた、確信していたからである。花は「桜」魚は「鯛」とは、その確信の表明であった。
「花の魅力」が繰り返す生命の象徴的な新しさにあるということは、結局、魅力も生命も新しさも、謂わば永遠なるものとして意味を露わすということであろ
う。花の永遠が、咲き初めることに関わる場合を「その如月の望月のころ」という西行の辞世に見たが、花が散る時にも永遠は露われる。百人一首で我々に親し
い「久方の光のどけき春の日にしづこころなく花のちるらむ」の魅力は、花の枝と草萌えの大地の間をさまざまなかたちに埋めて薄紅の花びらが涯てもなく散り
散らうその紛れもなく美しい空間にあり紋様にあると同時に、散る花びらの微妙な動きに息づく美しい時間の内にある。かかる魅力とともに「花のちるらむ」の
一句は、そのまま『細雪』ということばと文学世界の意味になっているのである。
また、咲くのでも散るのでもなく、花が死に逝くことに永遠を見るのも日本人の最も秀れた視覚の一つであることを我々の「いけ花」の伝統が教えている。い
け花は、死がけがれであり醜であるという畏れに満ちた通念を、晴れのもの、美しいものとして逆転し価値づけることをした認識であった。
いけ花を、あたかも彫塑的造型としか考えない風潮が、いかに凡百の奇矯ないけ花作品を誇示しようと驚きはしない。だが、真のいけ花とは、花を生かす心術
である。人、時、状況、の三者を貫流して死んで生きのびる花の死にざまに、どのような生よりも新鮮に張りつめた生命を感受できなければ、所詮花に鋏を当て
てはならない。繰り返し言うが、「句あるべきも花なき国に客となり」と嘆息した漱石の「花」一字は、実に触目の野の花から窺い難い心中秘蔵の花を併せ謂い
つつ、久しい日本人の心情にかっちり根づいている。人が花を生かすと言うより、ひたすら花への愛が人を生かしていると言えるのであり、この「愛」を「秘
蔵」と言いかえても差支えは少しもないであろう。これもすべて「花の魅力」に他ならない。
こうした「花の魅力」が、『細雪』の人物の行為や選択に強く働きかけたことは疑いない。花を愛するとは、「花の魅力」に酔うということでもある。「繰り
返し」の一度一度を一生一度、一期一会と見極めて新鮮な心と生命の充実を期する判断であり直観であり覚悟である。この覚悟、この心が、.危うい「繰り返
し」を価値ある佳き.「繰り返し」にする。世阿弥は、その機微を譬えば「萬能を一心に綰ぐ」と語っている。(19)
『細雪』の姉妹は桜の下で去年の振舞をつとめて同じように振舞ってみせた、繰り返した。
我々の誰もが、とは言えぬにしても、かなり多くの者が、だが、『細雪』の姉妹と似た真似はしているはずだ。好きな同じ人と、好きな同じ場所へ行き、同じ振
舞をわざと繰り返してみることには、それが食べものでも、話題でも、一言半句の述懐や感想や冗談でも、行為でも、その一度にはその一度にだけ開かれる不可
思議の美の感受が生きる。そこには美のあることが不可思議にも確信できて、その誘惑に抗うことが出来ない。日常の、凡常の時間の推移の真直中で、そういう
瞬間、ふと新鮮な晴れの、美の、時間の開かれたことが我々には感知できるし、それは至福の瞬間と呼ぶに値する。単に偶然に与えられたというにとどまらな
い、或る選びとった一瞬、我から創り上げた一瞬――。
芝居気とも見えるこれらの行為を支える心情の様式は何であるのか。
私は、これを「繰り返し」の催す「物狂い」と思っている。
折口信夫は「神懸りの際の動作を正気で居てもくり返す所から、舞踊は生じてくる」と書いているが、広い意味で『細雪』の蒔岡姉妹に見られる振舞いなど、
人目にも、とりわけ当人たちにすれば、一種舞い踊りにちかく心に映ることの面白さが想像される。ただ、物狂いの如きことばを必ず神事や呪術の世界にまで溯
らせて解釈するのが正しいとは思わない。時代は移り人の心も変貌し解放される。貫流するものが「繰り返し」であることが分ればよいのである。
物狂いは呪術的な構造から解放されて或る特別な美的状態をすすんで選択するちから、その状態へ自ら嵌って行こうとする一極の美的能力となって来た。一つ
の行為を、ことさら繰り返してみせる、それは生命というものの意味とかたちを露わにしてみせるたしかに一種の神憑りであり白己呪縛であった。即ち物狂いと
は早くから絵空事の佳さを構えて見せることなのであった。なぜなら、「繰り返す」と.言っても、言葉通りに行為も何も、繰り返すことは実は不可能なのであ
り、しかもこの不可能を可能にしよう、或いは成就したと思ってみせる気もちは、絵空事を構えると言うに最もふさわしいからである。いかに茶を飲み、いかに
鯉に麩を投げようと去年とは違っている筈なのであるが、それを同じ繰り返しと思い、そう思い入れて楽しむ、理屈抜きにすっとそこへ嵌りこみそう振舞ってし
まう、それが「物狂い」というものであった。
「物狂い」と言えば我々は能を想い出す。能と言えば自然に物真似ということが想い出される。「繰り返し」の意味を物真似に活かして「花」の生命を見極めた
伝統的に最も秀れた思想は、言うまでもなく物狂いの能に長けた観・世父子に帰する。物真似そのことが物狂いであり、繰り返しや重ね合わせに他ならぬことは
殆ど何の説明も要しない。すぐれた物真似の内に「花」を語った世阿弥らは文字どおり「繰り返し」に酔う日本人の心の素質を掴み切ってイデアルな絵空事の真
実世界を露わにしてみせたのである。「花」は戻り行くべき「美の極致」を象徴した。
谷崎潤一郎の伝統は、美の様式面からみれば、紛れなく世阿弥の世界に根をおろし、さらに藤原定家に届くであろう。谷崎の美の感受はより古代的でもより近
世的でもなく、殆ど中世的であることはその趣味や言説を、殊に『陰翳礼讃』を仔細に読めば明らかである。源氏物語をも、谷崎は定家、世阿弥の無形の影響下
に受け入れていたと私は想う。定家流の歌の伝統を尊重した世阿弥らと考え併せると、京都時代の谷崎が水の流れ寄る如く自然に能狂言、京舞などの世界に友人
知己を得ていたことは無意味と思えないのである。
さて、「繰り返す」人があれば、その人の深い内部で敢て繰り返しを選ばせるものがある。そのものは何か。「色々の物まねは作り物なり。これを持つ物は心
なり」と世阿弥は『花鏡』で言っている。萬能を綰ぐこの一心とは無心無風の位を通じて或る奥深く隠された絶対と関わる心、繰り返しや物真似を営む主体に呼
びかけ催し、それへかりたてる或る「もの」、がそれだと考えられる。物凄い、物々しい、物哀れなどと謂う。物まね、物ぐるいという絵空事を構えるとは、こ
れらの「もの」の声にしたがうことであり、この「もの」即ちあたかも幽鬼が語る息づかいが、絵空事を常凡の陳腐や退屈から分つのである。先人がしばしば鬼
の字をあてて「もの」と呼び、夥しい述懐の歌に寄せて「ものぞ悲しき」「ものぞ恋ひしき」と嘆息し、巧みな心打つはなしを聴けば「鬼の語り出づるか」と驚
いたように、彼らは文字通りそれを鬼気かと想像していた。「もの」とは身をもがいて外へ露われようとする動き、人と物の動作を表情をことばを動かして露わ
れて来る呼びかけ、暗く深く隠されてある声のやむにやまれぬ噴出であった。もし谷崎の語りくちを「物語的」と評するなら、その故にまた「伝統性」を結論す
るのなら、およそこのような「もの」の意味を踏んだ上でなくてはなるまい。
七、物語の面白さ
寺田透の『谷崎潤一郎の文体』は適切な好評論であるが、その中で谷崎の『陰翳礼讃』から一「暗い古代の夜の部屋をおもむろに想像にえがき出しながら、そ
の中で金蒔絵の漆器がどういう効果をあげたかについて朗々と、あえて言えば、デーモンにつかれたかのように、語りあげているところ」を抄出している。
「あのピカピカ光る肌のつやも、暗い所に置いてみると、それがともし火の穂のゆらめきを映し、静かな部屋にもをりをり風のおとづれのあることを教へて、そ
ぞろに人を瞑想に誘ひ込む。もしあの陰欝な室内に漆器と云ふものがなかったなら、蝋燭や燈明の醸し出す怪しい光りの夢の世界が、その灯のはためきが打つて
ゐる夜の脈搏が、どんなに魅力を減殺されることであらう。まことにそれは、畳の上に幾すぢもの小川が流れ、池水が湛へられてゐる如く、一つの灯影を此処彼
処に捉へて、細く、かそけく、ちらちらと伝へながら、夜そのものに蒔絵をしたやうな像を織り出す。」
寺田は、「これは幻視家の文章」であって「作者の眼には眼前にないものが映って行く」と評しているが、「眼前にないもの」をも書くこと書けることが物語
の伝統ではなかっただろうか。(20)
私は早くから『陰翳礼讃』の先蹤を、「夜に入りて物のはえなしといふ人、いと口をし。よろづのもののきらかざり、色ふしも、夜のみこそめでたけれ」と断言
した兼好法師の美意識に見ていた。こころみに二人の陰翳礼讃を読み併せると、根本の論旨に於いて兼好と谷崎とは呆れるはど同じことを言っている。谷崎が要
する所徹頭徹尾「ものの映え」に就いて語りな.がら引証している事物は期せずしてみな中世以後に日本人の生活に定着したものであるが、中で古き平安王朝か
ら直接受けとめているものは、すなわちこれが「夜」そのものの息づかいである陰翳の深さであった。兼好と谷崎とを均しく捉えた「ものの映え」は本来「夜」
というものの生命の意味でなかったろうか。
過去の日本人は底知れぬ闇の深みを一方では畏れな.がら、むしろ光明の真昼の世界を恋い想う以上に、より多くぬばたまの夜の暗にひそかに息づき眼を凝ら
し、その中にきららかに、花やかに、かすかにうつろう「ものの映え」を愛したのである。この闇と謂い夜と謂うのも、ただの昼につづく夜であるだけでなく、
むろん現実に対する非現実、眼に見える世界に対して眼に見えない世界、花咲くものの根の世界、即ち「心の故郷」であったであろう。ここに谷崎潤一郎の、
「古い日本」に対する秀れた洞察があった。
余談めくが、源氏物語の主人公は「光」君と呼ばれ、私は久しくこれを重く考えて日輪尊崇、光明思慕は日本人の第一義の志向かと思案してきたが、今では少
くも源氏物語的世界に限って言えば、この光は、単に朝の、昼の、日の光でなく、むしろ「ものの映え」として夜の暗に明滅する極めて古代世界の生活感情に結
びついた光であったらしいことに思い当っている。心理的にも生活面でも光の時間より翳の時間が重く長く、時は夜から夜を数えて移っていたことが物語を読め
ば十分理解できる。(21)
『座談会
大正文学史』の中で寺田が、「ずいぶん唯美的に書かれているはずなのだけれど、どういう世界が書かれていたかということは、目にはっきり見えてこない。た
だ音曲の内容はよく分らないがその節まわしや情感はあくまで印象に残っている、というような具合に、谷崎さんの世界があとに残る」と発言しているのも谷崎
の文章と「ものの映え」との関わりを巧みに指摘している。
また寺田に応えて勝本清一郎が、「ほんとうだか嘘だかわからないという逆の見方ができる記述を同じ空間に三つも四つも重ねているでしょう。そういうちが
う角度からいくつも描いたものを通して、その奥のほうに真実があるんだよということを、ほのめかしていますね。この方法というものは、谷崎さんの.陰翳礼
讃をさらに一歩進めたもので、……非常に微妙なものごとの真相、いくつもの表層的なものの見方を二つも三つも通して、その奥に真相を見ようとする手法」だ
と語り、寺田も、[地はしっかりしていなけりゃならない。やはり谷崎さんというのは、おぼろな向うのたしかなものをつかんでいるんですね」と言っている。
さらに注目すべきは同じ座談会で伊藤整が「谷崎さんはこういうことを言ってますね、自分は小説の定型(文壇常識の意味であろう)に反感を持っている。」
「客観的に全イメージを、小説家.が作り上げることができるなんていうのは、思いすぎだ、むしろ、それは藝の世界の効果を殺す。」「むしろ文章なども正確
に、そうして完全に叙述すべきだと考えることは、つまらんことである。」「文章というものは、必ず全部すみずみまでわかることがいいんではなくて、くり返
して読んでいるうちに、おぼろにわかることがそのエッセンスだという考え方ですね」と谷崎の説を代弁していることだ。勝本は、「日本の文学が(すっかり常
識的に)襟をきちんと合わせる前の(日本古典世界の)影響が、谷崎さんにはなかなか浸み透っているんですね」と要約している。
谷崎は地唄などの詞章の晦渋な魅力を認め、縁語、懸詞、枕詞などの独自の表現能力を積極的に肯定しているが、近代日本文学の窮屈な意向は、一つの語.が
かっきり一つの対象を捉えることを散文の機能として培った。谷崎の反感は深いものであったに違いない。今日の文藝雑誌編集者に谷崎説のままの文章を谷崎な
らぬ我々.が提出すれば手厳しく笑殺されるであろう。
昭和九年の『文章読本』で谷崎はこの本が「始めから終りまで、殆んど含蓄の一事を説いてゐるのだと申してもよいのであります」と言っている。その意味
は、深く隠されてある確かな大切なものを、隠されたままに表現するといった、相矛盾する努力を文章の上で繰り返し行うことであり、寺田らの発言をもここか
ら理解すれば、谷崎の文章の内に隠れては露われ、露われんとしては.隠されたままの「もの」の呼びかけが、揺曳する美の印象とともに聴きとれるであろう。
「桜」の一字に籠めて「花」の体する一切の佳き意味を汲もうとする決意は謂わば谷崎の文学に浸透しているのである。
単なる「風流がり」でないと強調して谷崎は敢て「花は桜」と言い、そのような文学世界を構築した。「花は桜」故に谷崎文学が一見「通俗的」「常識的」と
言われ、また一見「単調」「平凡」「普通」と言われたのは分らぬではないが、分り方に問題があつた。具眼の人はやはりそうは言わずに却ってその「尋常」の
内なる「伝統的」真意と真価を、狭く窮屈な近代文学理念を超えて見据えようと試みていたのである。
かつて吉田精一が谷崎の「西洋より東洋への回帰」を語つて、「ただ様式なり、趣味なりの上で、かれに不得意な面をかくし、もしくは逃げる手法を見つけた
までのこと」とし、さらに、「やんわりとヴェールに包むことを覚えたのである。それはようやく老境に入って、嗜好もあくどさを弱めていったこともあろう。
そういう彼にとって、物語様式は――たんに形式としてのみの意味のみでなく――あるいはもっとも恰好のものだったろう」と書いていたが、この種の解説の薄
手さは谷崎の「物語性」伝統性」と程遠い。これらの評語が正しい内容を得る為には、やはり「花は桜」を鍵として『饒舌録』『藝談』『陰翳礼讃』などのドア
を一つ一つ叮嚀に開いて入らねばならない。あの周到緻密の批評家にして碩学の勝本清一郎をして、漱石、鴎外、藤村、秋声、直哉らを措いて最も尊敬する最高
の現代作家は谷崎潤一郎と言わしめた谷崎文学のすぐれて今日的世界的な価値と特質とは、即ちそこに見出されるであろう。
谷崎に遥かに先立ち、「花」の一語に綾なして絶対を求めて相対を尽す美の論理を説いた世阿弥は、その藝の望みを衆人愛敬、寿福増長と考えていた。これと
関連して谷崎と世阿弥に面白い一致.が見出せるのは、他でもなくその「面白い」ということばである。谷崎は明らかに「面白さ」を尊重した作家であるが、面
白さの意味を特に説明してはいない。ところ.が世阿弥は『風姿花伝』の別紙口伝で次のように言っている。
「この口伝の目的は、花をさとることである。まづ大体、自然の花が咲くのを見て、万事に花とたとえ出したわけを承知するがよい。そもそも自然の花というも
のは、どの植物も四季の変遷につれて咲いて行くもので、それが丁度時節に調和しているから珍らしく感じて人.が喜ぶのだ。申楽も同じ様に見る人の心に珍ら
しい所が、それを面白いと思う心理である。花と、面白いということと、珍らしいということと、この三つは同じ意味あいのものだ。どこに散らずにいつまでも
咲き残る花があろうか。散るからこそまた咲く時節があって珍らしいのだ。」(川瀬一馬訳)
さらに大事の要点は、世阿弥は「花」の珍らしさ面白さを、春には春の、秋には秋の花なればこそと言っている点である。月並みを、繰り返しを、避けずにそ
のままで珍らしさ面白さを産み出そうとしている。春に菊紅葉を、秋に桃桜を、もし見ることが出来てそれを珍らしい面白いと思うような眼や心には、真の花は
映らない。だからこそ春には春の、秋には秋の花を咲かせられるように花の種、即ち能の番数を尽してよく繰り返し稽古をするがよいと世阿弥は言う。推し拡げ
ていえば、春の花は桜だけで、秋の花は紅葉だけで、そればかりを繰り返したにしても当節の花の珍しさ而白さは尽せるということになる。一期の一会と精魂を
傾けるからである。
繰り返しを生かしたこのような伝統が何ら怠惰でなく、類型化と創造放棄の所業でもないとする感覚、要するに"違い"というもの、何かから何かへ新しく作
り出されるその間の"違い”というものを謂わば"間違い”とするような抑制的な価値の感覚ないし体系が、たしかに我が国にはあった。さまざまな"違い"の
露われの奥に不動の同じ一つの真相が見つかる、それを不変の極致とする追求があった。即ち、”間違い”を不断に重ね重ねては誤差を割愛し修正し、そんな作
業の累積の末に、例えば花は「桜」であり魚は「鯛」であるという見極めをつけて行く。「桜」と言い「鯛」と言えばは一つであるのに、そう思い極める人の心
が、桜の、鯛の百千億無際涯の変化を直観する。この直観の前ではことさら外見の新を追い奇を求める必要がなかった。一つのきっかけ、一つのことばから佳き
世界が心奧をめがけて多彩に展開すると、そう信じられる素質を我々日本人は伝統的に心身に秘めつづけてきたのである。世阿弥が極め、谷崎が指摘した日本の
美の伝統的特質がここにある。
"変える""違える"のでなく"同ずる"こと、それも徹底的に"同ずる"ことを求める美と価値の感覚や体系は、西欧的思考の輸入に漸く馴染んだ今日の我々
には徒らに保守的な因循、退避としか感じられないかもしれない。だがそれは余りに窮屈な考え方というものではなかろうか。谷崎はこういう「伝統」を指摘
し、体現したが何ら他を否定も排斥もしなかった。それもあるが、これもある、と言い、両者の価値的な対決は避けて、少くも併存を提言していたのである。こ
こ谷崎の孤独があり秀れた洞察がある。議論で勝とうなどという気はなく、ただ谷崎は日本文学の方法をより豊かなままに成就させようと望んだのである。また
それを生涯かけて実践したのである。
(2行アキ追い込み 見だし10ポ太字 註本文 8ポ )
補 註
1 "死"
そのものまでが谷崎の場合には意味深い行為であったと思いながら、完結されたその巨大な文学的円環を私は眺める。存生中に書かれた多くの(実は数少ないと
いうべきだが)谷崎論が、今改めて吟味し直されるであろう。その際、生前谷崎自身が編んだ全集に於いて殊に初期作品の多くが削除されていたという事実をど
う釈るかは今後の谷崎論の一課題となろう。すでに昭和七年『正宗白鳥氏の批評を読んで』という文章で、谷崎は、「ひところ私も多くの青年と同じく西洋に心
酔した時代もあったが、その時分に書いた作品を今から読み直してみると、ほんたうに日本離れのしたものは一つもない。正直のところ、私はその時代の自分の
作品が一番イヤだ」と述べている。さらに昭和二十三年『「細雪」回顧』の中で、「変ると云へば大正末年私が関西の地に移り住むやうになつてからの私の作品
は明らかにそれ以前のものとは区別されるもので、極端に云へばそれ以前のものは自分の作品として認めたくないものが多い。戯曲はさうでもないが、小説の方
は自分で全集を編むとなれば、これに組み込むことに大いに躊躇せざるを得ないものが少くない。『卍』以後は制作の態度に時々に違ひはあつても、さう根本的
に違ふと云ふやうなことはないし、出来不出来はあつても全然認めたくないと云ふものはない」と自ら強いダメ出しをしている。ちなみに谷崎は、「この時期以
後の作品で自分に愛着が深いのは『蓼喰ふ虫』と『吉野葛』であらう」と言つているが、何にしてもこの後谷崎はこの言葉通り、過度なまでに全集から或る種の
作品を外していた。死後の全集にも入れてはならぬと遺言されたかにも洩れ聴くが、現在没後の立派な全集には一切の作品が収容してある。ここに、すでに一つ
の”答え”が出ている訳だが、少くも谷崎自身のダメ出しの意向は、論を立てる場合つねに無視は出来ない。
2 谷崎の『藝術一家言』(大正九年)は謂わば漱石の『明暗』を酷評するに終始するていの文章であり、その中で漱石を捉えて、「氏は飽く迄も東洋美術の
精神に傾倒する詩人であつて、新しい意味に於ける近代の小説家ではない」と断言している。「詩人」「小説家」が強い意識で使い分けられている所に注意せざ
るをえないし、谷崎の漱石「詩人」説は多くの吟味にさらされねばなるまい。だがそれ以上に、谷崎が紅露二家あるいは鴎外を問題にするのとはやや違った角度
から漱石を絶えず重く意識し、しばしば文中に引き合いに出していた点が私には面白い。漱石の『門』を評する一文は谷崎としては本格的で数少ない作品批評な
のだが、概して漱石に辛い点を浴びせながら谷崎は他でもない漱石に、俳句や漢詩や書画を楽しんだそのような東洋趣味の漱石に、年を追うにつれ自分もその跡
を追って行くが如き奇妙な目標感をもったかと猜される。実際には谷崎は漱石流の趣味はそうもたなかったが、彼自身の小説は東洋的、日本的なものに動いて
行った。はじめは悩んだり迷ったりしながら、だんだん積極的にそこへ進んで行った。それにつれて谷崎の内なる漱石像は或る無視すべからざる輪郭を鮮明に描
き出して行ったらしい。漱石に触れた谷崎の文章を数多く読んで、強くそう感じた。それにしても谷崎の漱石観はやはりやや偏った、主観の濃いものと思わざる
をえない。むしろ、漱石を指さして「小説家」でないと言い放つ谷崎潤一郎の現代小説家としての強烈な自負に瞠目する。実際には漱石こそ真の小説家であり、
谷崎の方はともすれば傍流の、悪くすれば通俗の作家と目する人が多かったし、そんな時代も長かったのであるから。
3
谷崎は自身も歌を時々詠んだ。アララギや明星の歌とは根から違った、お店の大旦那然とした力まない鷹揚至極な歌である。短歌についての谷崎の見識はいささ
か人を煙に巻く所がある。早く昭和四年『岡本にて』という文章の中で、「現代の和歌は猫も杓子も万葉調が流行のやうだが、ことさら万葉の訛りを真似るの
は、素朴なやうであって実は甚だ匠んである気がする。そのくらゐなら技巧を弄した古今や新古今を学ぶ方がまだしも無邪気ではないのか」と放言し、挙句に、
「元来歌は巧拙よりも即吟即興が面白いので、小便をたれるやうに歌をよんだらいいのである。その点で吉井勇君の作歌は頗る我が意を得てゐる。実に自然に、
なだらかに、少しもたくまずに口をついて出る」とも言っている。実際の文学道では藤原定家に発する凄艶な中世美学に多大の影響を受けながら、歌の上で谷崎
は西行や慈円の流儀に肩をもったらしい。
4 すでに昭和二年の『饒舌録』に於いて谷崎は昭和八年当時の『藝談』や『陰翳礼讃』に先駆する感想を多く述べている。殊に西洋に比して東洋の、就中日
本人の淡泊趣味を語り、「思ふに日本人は力み返つて長つたらしい叙景や詠嘆をするのを馬鹿々々しいと感ずるやうになるのではないか。……詰まりそれだけわ
れわれは生活に対して消極的であり、淡泊であり、諦めがいいのであつて、それが国民性なのではないか」としている。二年当時の論の基本的な調子には、先ず
疑問を提出し、自分の実感を心中或る程度すでに容認しつつ、なお時世や外界との調和に悩んだり苦しんだりする所が見える。述懐に迷いのムードが籠められて
いる。しかも「弱々しいところには又弱々しい美しさがある」という控えめな主張が為されている。
そしてやがて『饒舌録』は、上述の如き日本人観に立って端的に日本文学の固有の性格へ触れて行くのである。
「日本文学の持ってゐる優婉、素朴、風雅、繊細の味は到底他の文学の企及し難いものである。だから大いにその面を発達させればいい訳であるが、今も云ふ
やうに本来消極的の藝術であるから、その性質上花々しい進歩や変化は有り得ないと云ふことになる。実際東洋人には何百年何千年の昔から唯一つの美があるの
みであり、歴代の詩人文人はその一つの美を繰り返し繰り返し歌つてゐるに止まる。彼等は永久に李白や杜子美の詩境を理想とし、その伝統以外の美を求めよう
ともしなければ、又求める必要もなかった。彼等は伝統の美の中に酌んでも酌んでも尽きないところの妙味を感じ、それで十分満足してゐた。彼等は新機軸を出
すことよりも、古人の境地に到達することを目的とした。
ところで現代のわれわれはさう云ふ東洋の伝統的の美に対して魅惑を感じないかと云へば……老年になるに従って大概の人は感じるやうになる。……さうして
そこに矛盾と悩みを感じてゐる。」
さらに昭和六年の『恋愛及び色情』となると、「一般に東洋流の教育の方針と云ふものは、西洋流とは反対に、出来るだけ個性を殺すことにあったのではない
か。たとへば文学藝術にしても、われわれの理想とするところは前人未踏の新しき美を独創することにあるのでなく、古への詩聖や歌聖が到り得た境地へ、自分
封も到達することにあった。文藝の極致――美と云ふものは昔から唯一不変であって、歴代の詩人や歌人はその一つものを繰り返して歌ひ、何んとかして頂上を
極めようと努める」と、ぐっと語調が強められて来る。だがなお、「此の、絶えず古へを模範とし、それに復帰しやうとする傾向のあつたことが、東洋人の進歩
開発を妨げた点であるが」という但し書きは残っている。これが昭和八年『藝談』まで来ると殆ど但し書き抜きに、前節の如き意見が前面に真直ぐ出て来る。お
そらく多くの実作品の創作を経て得た自負、確信がこういう推移を谷崎に辿らせたのであろう。
5 谷崎の文壇的孤立は幾重もの違つた状況から成り立っていたと想像される。第一には谷崎自身の個性ないし人嫌いから来る生活態度上の孤立があった。谷
崎自身これを肯定している。そこから幾らもの誤解や非難や敬遠のあったことは十分察せられるが、この孤立は当人に必ずしも不利であるばかりではなかった。
第二に、昭和八年当時にはプロレタリア文学の擡頭があり、谷崎と限らず在来既成作家が窮屈であったことは否定できない。谷崎の評論や実作は時世の動きに対
する存外に強い反撥や抵抗であったことは顧られていい。似たような事情は自然主義文学盛んなデビュー当時にも、その後の白樺派などの心境的私小説の流行に
も、大なり小なり見られ、谷崎はいつも文壇の外か傍かに位置したとはいえる。第三に、昭和はじめより当時にかけて、志賀直哉、佐藤春夫、芥川龍之介ら強力
な作家と谷崎はしばしば並び語られて結局いつも分のわるい評価を受けねばならなかった。宇野浩二とか川端康成とか広津和郎とか、谷崎を目して厳しい批評を
浴びせる後輩作家もいた。『盲目物語』のような書き方なら誰にでも出来るのだといった近松秋江のような人もいた。この第三の孤立ないし低評価の背景には、
谷崎自身が繰り返し否認せねばならなかった初期作品の性格一般がかなり厄いしていたのではなかろうか。
こういう孤立との闘いを谷崎は「藝」に就いて考え直す所へ集約して行った。思えば興味深く至当なことであった。いわゆる名人と称されて然るべき日本の藝
人たちの「名利に淡々たる安住境、一心不乱な精神の意気組みが、『藝』に依って養はれるものとすれば、われわれは、その『藝』と云ふものの不思議な感化力
を、一応吟味してみる必要はないであらうか」との設問から『藝談』ははじまり、そして日本の文化、藝術、文学に就いて谷崎は曾てなく自己を主張するのであ
る。その背景には、「何処か一本気で馬鹿正直なところがある、間が抜けてゐる、十年一日の如く自己の領域に踏み止まってコツコツ技を磨いてゐる、子供のや
うに無邪気である、腕はあっても理屈を並べることは下手で、藝術観などを吹聴はしない、実力主義で慎しみ深い、或る場含には卑屈でさへある、批評に対して
腹が据わってゐて、何を云はれても仰々しく吠え立てない、」このような「藝人」の「藝」を現代作家の眼で見据え、自身もそう努めて創作し得たという気概が
汲みとれるのである。
すでに昭和二年の『饒舌録』に於いて、「誤解をされる恐れはあるが、一と口に云へば今少し昔の藝人肌であれ、名人肌であれとと云ふのだ。藝術に精進する
意気込みは今の作家より昔の名人上手の方が遥かに旺盛であつたであらう」と言っていたが、今は「誤解も恐れず」に谷崎は、明治以後だけの近代日本文学に明
治以前の古く久しい日本という背景のあることを自信を以て語り出しているのである。因みに「藝」を尊重して秀れた論文を書いた人に谷崎の佳き理解者伊藤整
があったことは注目されていい。
6 谷崎の不満や危惧は、主に特徴的に日本語に対する反省と洞察に発していると推定される。谷崎は日本語の美しさや独自の働きに就いて、多くの古典文学
に学びかつ文章を尊重する持ち前から、なみの作家に数倍する関心を払いつづけた。『文章読本』(昭和九年)『現代口語文の欠点について』(昭和四年)など
は言うに及ばず、随処で、日本近代文学が日本語の本来の美を否定的に殺していると注意している。昭和七年『私の見た大阪及び大阪人』の中でも、「ぜんたい
『無言』を美徳と考へる東洋にあっては、言語もその国民性に叶ふやうに出来てゐるのだが、その理想に背くやうに発達させると、少くともその言語に備る美点
は失はれてしまふ」と書いているが、谷崎は、現代散文の努力の中に、実は日本語にはムリな、或いは余りそのように働けば牛を殺してしまいかねないような危
惧を感じていたのである。(新人大江健三郎の日本語を我慢ならないと新聞紙上に書いたことが思い出される。)
谷崎と源氏物語との関係は誰しも無視できないが、昭和二年『饒舌録』で有名な「構造的美観」を語った際、「源氏物語は肉体的力量が露骨に現はれてゐない
けれども、優婉哀切な日本流の情緒が豊富に盛り上げられてゐて、首尾もあり照応もあり、成る程我が国の文学中では最も構造的美観を備へた空前絶後の作品で
あらう」としている。また、昭和十三年『源氏物語の現代語訳について』語った時、源氏物語の文章を、「たつた一つだけいつてみれば、あの原文が持つてゐる
魅力は、何よりも『色気』といふことであると思ふ。実に源氏は不思議に色気のある文章である」と批評している。そしてさらに昭和四十年九月『婦人公論』に
出た最晩年の文章『にくまれ口』の末尾で谷崎は、「思うに『源氏』の文章は最も鴎外先生の性に合わない性質のものだったのであろう。一語一語明確で、無駄
がなく・ピシリピシリと象眼をはめ込むように書いて行く鴎外先生のあの書き方は、全く『源氏』の書き方と反対であったと言える」と書いている。
謂わばこの鴎外流日本の散文の佳さを十分認めながら、鴎外の如く源氏勿語の文章を「悪文」とするような一般の行き方や努力に対して修正ないし抵抗を試み
る内に、谷崎は「古い日本」の真相に迫って行ったのであり、特に伝統的言語表現の自由で闊達な働きを枯死させまいとした。谷崎のこの意図は、残念ながら、
今日でも達せられていないし、むしろ日本語としての文章は、鴎外流の的確な散文からも谷崎風の優麗な文体からも遠く蕪雑に離れて行っている。
7 大正末年すでに谷崎は次のように告白している。即ち、「私は、斯くの如き魅力を持つ支那趣味に対して、故郷の山河を望むやうな不思議なあこがれを感
ずると共に、一種の恐れを抱いて居る。なぜなら、余人は知らないが私の場合には、その魅力は私の藝術上の勇猛心を銷磨させ、創作的熱情を麻痺させるやうな
気がするから。……『新しいものが何だ、創造が何だ、人間の到り得る究極の心境は、結局此の五言絶句に尽きてゐるぢやないか』と、さう云はれて居るやうな
気がする。私はそれが恐ろしいのである」と。そして昭和二年『饒舌録』に、「私がこれを書いたのは五六年前のことだが、この誘惑は今も変りがないばかり
か、却つてだんだん強められ、深められて行く」と言う。『藝談』の論は決して唐突の思つきでなく、深く久しい根に発していることを十分知らねばならない。
その背後には常に『痴人の愛』(大正十三年)以後の実創作の積み上げがあることも同様に。
8 伊藤整はその『解説』の中で、『藝談』を、『陰翳礼讃』とまた違った意味で「重要な長篇随筆である」と評しているが、一般にこの谷崎の文章はそう重
んぜられていないようである。それは原題が『「藝」について』で、何か、文学とはなれた歌舞伎役者のはなしなどからはじまるので、例の谷崎の芝居好きかく
らいに見過ごされたのかもしれない。しかし、実際には、昭和八年の時点で谷崎が殊さらに「藝」を語り「藝人」を語りつつ自己の文学と日本の文化とを語らね
ば居れなかった事情は、谷崎にも、日本文学史上にもゆるがせに出来ない重大な事であった点をよく洞察すべきである。『痴人の愛』以後の諸作品と、『饒舌
録』以後の諸文章とを読み併せ、また当時の谷崎の文壇的孤立の状況を知れば、この『藝談』の内容は実に多くのものを告げていることが分る。
9 昭和二十四年四月の『「細雪」瑣談』で谷崎は、「私は花見が好きで、殊に京都の花は、毎年必ず見てゐる。『細雪』にも花見のくだりがあるが、京都の
花といへば、今は枯れてしまつたが、祇園の円山の桜、平安神宮のあたりの桜が好きである。……時機を逃がして見損つたときは、御室へ行つて、八重桜を見て
楽しむことにしてゐる」と語っている。また別に、狂言の茂山千五郎の為に『花の段』という小舞の歌詞を書き与えているのが内容は全くこの『細雪』の中の平
安神宮花見の場面をもとにしているのであり、作者自身がここの描写を愛していたことが知れる。むしろ私は、描写や表現の背後の体験をより愛していたろうと
想像する。この花見が事実かそれに近いことは、先の文章につづいて、「螢狩も『細雪』に出てくるが、あれも大体あのとほり体験したことを書いたのである」
とあるので知れる。
10 「細雪」ということばのこの解釈は私の恣ままな感受かと思っていたが、谷崎自作の『花の段』という狂言小謡は、私の推察の正しいことを如実に証明
している。
「祇園、清水、嵯峨、あらし山、御室なんどと申せども、都の花は平安神宮大極殿の紅しだれよの 今年も花見に参つたれば、げに咲いたりやな糸ざくら、そよ
吹く風に一ひら二ひら、ひらり、ひらり、ひらり、ひらり、空に知られぬささめ雪、かの三人のおとどいと妍をきそひて候よ
かの三人のおとどいが、池の中なるおばしまに、六つの袂をうちかけ、ぱつと麩を投げて候へば、あれよあれよ、緋鯉真鯉ども、今年も群れて参つたり
げに糸ざくらいとせめて、花見ごろもに花びらを、秘めてをかまし、春の名残にと、姉の幸子が詠みて候」
姉の幸子に、松子夫人の映像を重ねて見るべきである、谷崎の深い満足感とともに。
11 私はここで、谷崎と「花」との内面的な関わりが、例えば『細雪』で唐突に現われたのでないことを指摘して置きたい。少くも谷崎が、「近来会心の
作」と自称し、また明瞭に文学生涯をその以前と以後とに分けて意識したメルクマールである『痴人の愛』(大正十三年)、おそらく「東洋趣味」の魅力に「恐
れ」に近いほどの惹かれ方を意識した最初の頃から、「花」は谷崎の心の内で何かの下絵になっていたことが、ナオミと譲治の会話の中からはっきり読みとれ
る。この点は後来さらに詳しく語るつもりである。
12
この点については、雑誌『春秋』に昭和四十五年十月以後一年にわたり連載した『花』および『風』という拙稿を参照していただければ幸いである。(湖の本
エッセイ)
13 かつて『饒舌録』中谷崎は正宗白鳥に強い一矢を酬いながら、「世の中には物に酔へる性質の人と酔へない性質の人とある。……私の見るところを以て
すれば、正宗氏は酔へない性質の人であり、それを誇りとしてゐるかに思はれる。此の人が劇場へ出入りをして抑々何を求めようとするのか」と書いた。一面で
正宗白鳥の限界に手厳しく触れながら、また谷崎が自らを酔いうる藝術家と自認していたことが分って見過こせない。誤解してはならないが、ここに「酔へる」
「酔へない」とは酒に酔っ払うとか、自己満足で良い気になるとかとは違った、謂わば人間性の本質に関わる分類の尺度の如きものである。
14 『痴人の愛』は、暫く離れているとあたかも三人称の小説かのように想われるのに、実は綿々たる口話体の物語であって、明らかに『卍』に先駆し、
『盲目物語』や『吉野葛』にも先駆している。「私は此れから、あまり世間に類例がないだらうと思はれる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざつく
ばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思ひます」という冒頭の書き出しの口調が一貫して守られ、随処に、「それは何でもしとしとと春雨の降る、生暖
い四月の末の宵だつたでせう」の如くこの口調でなければ生かされないようなおはなしの口調を存分に用いている。必ずしも後年の源氏物語現代語訳の文章と直
かに血脈をひくとは言わないが、谷崎が、久々の「会心の作」を他でもない物語体で成したことには注目してよい。この作以前に谷崎自身にも秘かに感じられて
いた停滞期があったのは、何人もの評家が指摘している。
15 「桐壷」の巻がそもそも源語五十四帖の冒頭に書き据えられたのは、物語がある程度(例えば一説に巻二十一「少女」の前後まで)進行してから、つま
り物語に寄せる作者の意図が作者なりに確かめ得られてからだという事が、夙くからいわれている。「桐壷」は作者の決意と展望の表明された巻であり、これが
書かれて初めて物「語世界にかなめが打たれたのである。
かなめを打つとは即ち、物語の発端動因を書き、主人公の生涯の指標を明らかにするという二点に尽くされると思うが、在来の「桐壷」論は概ね前者を論うの
に偏して、具体的に明瞭に書かれている後者を見落とし、しかも物語の真の発端についても、決して十分な理解に達していないと思う。さもお噺めく附加的な挿
話にでなく、光誕生と母桐壷の死そして藤壷の登場という太い主筋に真の発端動因を求めているのは、誰しもの当然であるのだが――。
第一のかなめを打つ響は、桐壷更衣の死後に勅使を蓬生の宿(のちの二条院)に迎え、「――人々の嫉み深く、安からぬこと、多くなり添ひ侍るに、よこざま
なるやうにて、遂に、かくなり侍りぬれば、かへりては、つらくなむ、かしこき御心ざしを、思ひ給へ侍る」と、思わず洩らす老母の本音に聴かれる。この述懐
には、桐壷の死を「横死」だといい、それは帝の度を超えた寵愛のためで却って恨めしいという、重要な二様の指摘が含まれている。そしてこの老母自身も、も
しやと望んだ孫の光の立太子が実現しないのを恨んでやがて他界するのだが、脈絡上これも「よこざま」の死だといわねばならない。
源氏祖母の恨みが、ひとり帝の胸には的確に届いていた事は、本文中の随処に十分察しられる。帝の光源氏に対するくまなき慈愛と配慮は、更衣の死を哀しむ
場面とともに圧巻であり、帝を物語中最も魅力ある人間像たらしめているが、それは無辜の桐壷や老母の横死という事実と、それを横死だと辛くも意識している
帝の心の暗い催しとに根ざしている。桐壷寵愛がもともと帝の思慮、世上の因襲を踏み越えて働らく宿世的な催しであり、本文によれば催しのむごい爪痕はよく
自覚的に帝の眼に胸に刻まれているのである。
やがて源氏が桐壷に代る父帝の愛妃藤壷女御に迫ってのちの冷泉帝出生に及ぶ事と、同じく後年源氏の正妃女三宮と柏木の間に薫が生まれる事とを重ね合わ
せ、ここに物語全体の因果応報を語り、宿世の悲劇を見る人が多いけれど、それでは、帝と桐壷の愛と死を以て重々しく物語を語り起こす必然性はなくなってし
まう。宿世の悲劇をいう以上、宿世の実体に、先ず帝を催して桐壷更衣や母をよこざまに死なしめた、愛慾の強い業念を捉え見なくてはならない。それこそが物
語世界を実現する真の発端動因なのであって、帝が更衣の死およびその遺児の完満な幸福を己が罪障、己が義務としてどんなに強く自覚していたかは、まことに
痛切に明白に書き示されているのである。
思うにこの際の藤壷女御とは、父帝の罪障の念が、幼い光源氏に対して亡き母の面影とともに与えた、一種のつぐないなのであり、更衣母娘への鎮魂の犠とい
うに近いのである。世俗的にはともかく、物語に内在する要請に添って読めば、藤壷と源氏の密会は父が子に奪われたというが如きものではない。事実、物語後
段で亡き父帝がこの一件ゆえに源氏を咎めるという事は起こらず、却って身辺を守護しさらには正当に、藤壷所生の冷泉帝に源氏こそ実の父だと知らしめてい
る。
斯く始まり始まるべき物語と構想し決断して書かれた「桐壷」の巻である事は、明らかだと私は思う。
さて、物語作者は光源氏自身にどんな人生を想い描かせたであろうか。
第二のかなめもまた主人公の述懐の形で端的に明記されている。即ち「桐壷」の巻末に、亡き祖母や母の里を「二なう改め造らせ給ふ。もとの木立、山のたた
ずまひ、おもしろき所なるを、池の心広くしなして、めでたく造りののしる」とあり、すぐ続けて、「かかる所に、思ふやうならむ人をすゑて住まばや」と、切
実な響で書かれてある。
この述懐を措いて他に物語進展に伴い眼に見え形に表われる源氏の生活・理想として何が書かれていると言えようか。これこそ作者が選んで源氏に語らせた、
率直な、表現および創造上の目標・理想・理念であった事は、桐壷更衣から藤壷女御へ、そして若紫に結ばれるその紫上と源氏との夫婦生活を丁寧に読んで見れ
ば歴然としている。
源氏はむろんこの生母の家に、「思ふやうならむ人」即ち藤壷と一緒に住みたかったが、流石に果せる望みではなかった。それで藤壼に(つまり亡き母にも)
よく肖たゆかりの若紫を大事に根移ししたが、これもみな「よこざま」に死んだ母へ祖母へ結ばれて行く宿世の縁というべく、このようにして母の家で源氏と紫
の愛の生活が成就されて行く過程が、いわば桐壷その人の復活と鎮魂の表現となっている。いかに二条院という住まいが重視されているかは、紫上の死が、わざ
わざ六条院を離れてこの二条の故里へ戻った所で静かに訪れる事、またこの邸が物語の真の相続人匂宮に遺される事などに、露わにされている。
光源氏の物語とはこういう物語なのであり、この単純率直な述懐の底には、当時の女作者の苦い複雑な祈願も聴かれる。むろん今日の核家庭やマイホームと同
日にいうのはためらわれるけれど、通い婚から嫁取り婚への興味ある経過が、貴種の、特に力ある男の側の本質的な願望として表現されている事には注目した
い。願望は具体的で世俗的でさえあるが、達成はみごとにイデアルであった。イデアルな世界像を具体的に把握して物語展開の骨格とも目標ともなし得たその事
が、源氏物語にすぐれたリアリティを約束したのである。「桐壷」の巻末にこのような重要な表白のある事は、ことばの端的なためか、殆ど見落とされてきた。
しかし、この述懐をただに現世的小家庭的な願望としてでなく、もっと理念的価値的彼岸的な切望とみて、イデアルな哀切の韻致をこの切望の深みに汲み得るな
ら、真実もののあはれの世界に迫っているのだと私は考え、この考えは、自分で小説を書く時の一番大切なちからともしている。
16 「女君は男君がおいでにならなかつたりして淋しいやうな夕暮などには、尼君をお慕ひなされてお泣きになることもありますけれども、父宮のことはそ
れほどもお思ひ出しになりませぬ。もともと宮のお側を離れてお暮しになるのが、習ひになつていらつしやいましたので、今はただ此の後の父君に、たいそう睦
じうお纏りになります。お帰りになれば先づお出迎へなされて、なつかしさうに物語をし、お抱かれになつても、少しも嫌がつたり恥かしがつたりなさる風がな
く、さう云ふところは何とも云へず可愛らしいのでした。……ほんたうに罪のないお遊び相手なのです。全く、実の娘でも、もう此のくらゐの年になれば、さう
心やすく振舞つたり、一緒に起き臥ししたりなどは出来にくいものですのに、これは非常に風変りな秘蔵娘であると、思つてゐらつしやるらしいのです。」
(「若紫」谷崎訳)
『痴人の愛』の譲治の述懐やナオミとの他愛ない間柄と較べて読むことが出来よう。
17
『ありがとよ、ナオミちやん。ほんとにありがと、よく分つてゐてくれた。……僕は今こそ正直なことを云ふけれど、お前がこんなに、……こんなにまで僕の理
想にかなつた女になつてくれようとは思はなかつた。僕は運がよかつたんだ。僕は一生お前を可愛がつて上げるよ。……お前ばかりを。……世間によくある夫婦
のやうにお前を決して粗末にはしないよ。ほんとに僕はお前のために生きてゐるんだと思つておくれ。お前の望みは何でもきつと聴いて上げるから、お前ももつ
と学問をして立派な人になつておくれ。……』
『ええ、あたし一生懸命勉強しますわ、そしてほんとに譲治さんの気に入るやうな女になるわ、きつと……』
ナオミの眼には涙が流れてゐましたが、いつか私も泣いてゐました。そして二人はその晩ぢゆう、行くすゑのことを飽かずに語り明かしました。」
この作の焦点は、ナオミ以上に譲治という男の思い切り滑稽な悲喜劇を書くことにあっただろう。そこに谷崎の"批評"が露出しているだろう。
18
「――此の『西洋人の前へ出ても』とか、『西洋人のやうに』とか云ふ言葉を、私はたびたび使つたものです。彼女もそれを喜んだことは勿論で、
『どう? かうやるとあたしの顔は西洋人のやうに見えない?』
などと云ひながら鏡の前でいろいろ表情をやつて見せる」という描写の中に、後年谷崎自身が「日本離れのしない」西洋と言って忌避した前半生の極く皮相な西
洋好みが露わになっている。おそらくもう此の頃は谷崎の中で自己批評的にこれらの描写が熟していたであろう。次の一節も同様である。『痴人の愛』でなお谷
崎がそれ以前と同様の西洋心酔であった訳はないのである。
「若しも私に十分な金があつて、気随気儘な事が出来たら、私は或は西洋に行つて生活をし、西洋の女を妻にしたかも知れませんが、それは境遇が許さなかつ
たので、日本人のうちでは兎に角西洋人くさいナオミを妻としたやうな訳です。」
19 『花と風』を参照願いたい。
20 「慎しみ深いことを美徳としてゐたわれわれの祖先は、喜怒哀楽を露骨に表現することを卑しんだのであつた。それらの感情を表はさうとする場合に
は、彼等はいつも何事かに仮托して隠約の間に此れを述べた。さうしてその方が露骨に云ふよりも一層人を動かすとされ、又実際に動かしもした。」(『饒舌
録』)
21 「人は源氏物語以下昔の小説に現れる婦人の性格がどれもこれも同じやうで、個性が描かれてゐないことを攻撃するけれども、古への男は婦人の個性に
恋したのでもなく、或る特定の女の容貌美、肉体美に惹きつけられたのでもない。彼等に取つては、月が常に同じ月である如く、『女』も永遠に唯一人の『女』
だつたのであらう。彼等は暗い中で、かすかな声を聞き、衣の香を嗅ぎ、髪の毛に触れ、なまめかしい肌ざはりを手さぐりで感じ、而も夜が明ければ何処かへ消
えてしまふところのそれらのものを、女だと思つてゐたであらう。」(『恋愛および色情』昭和六年)
(改丁 中扉 三号大 天版面 左右中央)
谷崎の妻 ―神と玩具との間に―
(改頁 中扉裏 9ポ左右中央 地版面へ)
「海」一九七六年十月号 原題「谷崎潤一郎の昭和九年」筑摩叢書所収
(改丁 本文9ポ 先に倣う。頭4行アケル)
手ぢかに触れた或る全集の年譜を見ると、谷崎潤一郎の昭和九年(一九三四)四十九歳の項は、「三月、根津(旧姓森田)松子と同棲。十月、丁未子夫人と離
婚」の二行で終っている(正確には昭和十年一月離婚)。
野村尚吾の『伝記谷崎潤一郎』(以下『伝記』と略)では同じく、「三月、根津松子と兵庫県武庫郡精道村打出下宮塚十六番地に同棲生活を始む。四月、松子
は根津姓から森田姓に復帰す。十月、丁未子と離婚手続完了。同月、『文章読本』の書下しのため、大阪市天王寺区上本町五丁目の正念寺に滞在」となってい
る。
また昭和九年内の谷崎の文業を『伝記』はこうまとめている。
「東京をおもふ」(「中央公論」一月〜四月号)、「追悼の辞に代へて」(「文芸春秋」四月号、直木三十五追悼)、「春琴抄後語」(「改造」六月号)、
「夏菊」(「大阪毎日・東京日日新聞」八〜九月、二十八回中絶)を発表。
『盲目物語・春琴抄』(新選大衆小説全集第十八巻)を「非凡閣」、『文章読本』を「中央公論社」、新版『春琴抄』を「創元社」より刊行。
要するに『文章読本』の年とでもいうか、世人瞠目の昭和初年代を悠々闊歩してきた谷崎としてはちょっと一服の一年だった。
しかもこの一年の谷崎をよく考えれば、必ずや、なぜ『源氏物語』現代語訳という大業がこのあとへ続かねばならなかったか、さらにはなぜ『細雪』が書かれ
たかという、十分説得的に説明されていない大事なポイントを、より的確に明らかにしうるのである。
むろん、谷崎を語って量的質的にとくに豊饒と言えない昭和九年へ真先に視線をむけ、それでどう谷崎潤一郎の文学生涯を蔽えるのか、そんな大それた目論見
ははじめから無いと断っておいた方がいいに決っている。が、生涯に幾つか創作上の山や峰をもっていた谷崎の、とりわけ大正十二年の関西移住以来昭和八年に
至る昭和初年代が、真に最盛期の名にふさわしい無類の名作傑作秀作群を積み上げて成ったという認識に大方異存はあるまい。とすれば、昭和九年、『文章読
本』をしも勘定に入れてのちょっと一服にはよほど大事な意味が含まれたものと見ていい道理が十分あるわけである。まして昭和十年秋いよいよ「源氏」の訳業
に入って以後は、『猫と庄造と二人のをんな』を十一年春夏二度に分けて「改造」に発表したほか、十七年に熱海で久々『細雪』執筆に取り組むまで文宇通り
「源氏」に明け暮れの歳月が流れたことを想えば、いよいよ昭和九年に或る意味深い一と区切があったと想うのがむしろ極く自然な、順当な結論になる。
私生活に於ても、実は知られている以上に夙くから進んでいた根津夫人松子とのいわばもろ恋がこの年春の同棲で成就する一方、丁未子夫人と事実上の離婚は
前年五月すでに周到な協議による別居で遂げられていた。あたかも谷崎の関西移住は、そして昭和初年の殆ど全部の文業は、根津(森田)松子との出逢いと結婚
に至る豊饒かつ華麗な通過儀礼ないし引出物の体をなしていたのである。事実、谷崎ほど「妻」なるものを内心久しく拒み通してきた世にも難儀な夫が、昭和十
年一月の祝言以来三十年に余る松子夫人との家庭と夫婦生活とを完うしたことは、むろん谷崎自身の老いを無視できぬとはいえ、あの喧伝された最初の千代夫人
をめぐる小田原事件(大10)を知り、細君譲渡事件(昭5)の顛末を知り、さらに私の場合多量の未発表資料を介して蜜月が即ち破鏡にも等しかった丁未子夫
人との新婚事情刻々の推移を承知しているだけに、やはり、昭和九年根津松子との同棲ないし十年の結婚という事実には格別注目せざるをえないのである。
私は一度二度「ちょっと一服」と書いたが、より正しく谷崎潤一郎の昭和九年は意味深い或る折り目であり、折り目というからは同時にもののとじめでありま
たもののはじめである、そんな大事な一年だったと言い直すべきだろう。その折り目の意味深さをこもごも語ることは、少くも谷崎後半生の核心へ有効に錘鉛を
下すほどのことには必ずなるはずであり、そのうえ私はかねがね評価に価する谷崎文学の主要な達成は殆どすべて関西移住後の後半生にと言い切っているので、
いっそう昭和九年という一見見ばえのしない後半生最初の一と区切に先ず眼を向けたい動機は強いのである。
いったい「要に取つて女といふものは神であるか玩具であるかの孰れかであつて、」という『蓼喰ふ蟲』文字通り要になる感慨が谷崎自身のそれとしていつ自
覚されたか、むろん『蓼喰ふ蟲』を書いた昭和三、四年当時と答えるのか無難としても、実はもう久しい実感が至り着いての述懐であり表白であったとみるのが
当然だろう。
少くも大正十三年の『痴人の愛』は譲治にとって「神」でありかつ「玩具」であったナオミを書いている。そして正確に言うならば、譲治にとつて「女」は神
か玩具かのいずれかでしかないという認識は、神でもなく玩具でもない「妻」として一人の美少女を完全に飼育しそこねた失敗、挫折の道程と結果から手痛く自
覚したものであった。つまり『痴人の愛』のテーマは「女」でもあり、しかし「妻」でもあった。そして谷崎という男の眼に「女」と「妻」とは、頑固に倶に天
を戴くことの叶わぬ対立者として久しく映じていた。筋道立てて言い換えれば、「女」が即ち神か玩具かである以上、「神と玩具との間」に「妻」は位置して、
その挟撃に遭って谷崎に於ける「妻」の座も意味も、最初の結婚(大4)このかた丁未子夫人との事実上の離婚(昭8)に至るまで、所詮は定まるすべない宿命
を担っていたのである。
『痴人の愛』のナオミは、一度は谷崎が「妻」にしようと思い定めたことのある「妻(千代)の実妹」がモデルだった。しかもこの作品では現に妻であった千代
夫人の姿は最初か全く消去されてある。この現の妻は「妻」なるがゆえに本来「神」でも「玩具」でもありえず、谷崎にとって「女」と目しえない存在だった。
「妻との折り合ひがうまく行かないのは、彼から見ると、妻がそれら(神、玩具)の孰れにも属してゐないからであった。」『蓼喰ふ蟲』の要が、「美佐子が妻
でなかつたら、或は玩具になし得たであらう」と述懐するのは、谷崎の千代夫人に対するそのままの思いと読める。これと逆に「女」の魅惑を十二分に備えたと
見えた「妻の実妹」は、それゆえにまたいかに「妻」にしようと試みても、所詮はナオミになるしかなかったのである。
私が『痴人の愛』を『源氏物語』のパロディと見て谷崎の「源氏物語」体験、ないし「光源氏」体験の最初と見たのは(「谷崎潤一郎論」本書の巻頭論文)、
むろん光源氏の若紫に対する好色をはらんだ養育意図やその後の夫婦生活と対比して、批評的かつ体験的な谷崎源氏挫折の報告書とも読むからである。少くもナ
オミにあっては「女」と「妻」が一体たりえなかったというのが谷崎の実感であり、しかもその「女」すらよく御し切れなかった、だから小田原事件は起きたと
いう清算書でも『痴人の愛』はあった。
このテーマは『卍』に重なりつつ『蓼喰ふ蟲』に引きつがれ、しかも今度は「女」ならぬ現の「妻」が作の中心に据えられる。『蓼喰ふ蟲』の核心に位置する
のは、「神と玩具との間」なる「妻」であり、その胸には「鬼が栖むか蛇が栖むか」という深い怖れであったことは、下敷きに人形浄瑠璃『心中天網島』が慎重
に布置されていることで十分明らかだろう。
「おさん」という妻と「小春」という愛人の間を彷徨する紙屋治兵衛の位置に感情移入して行く斯波要の憶念、そして谷崎潤一郎の脳裡には何があったか。前年
昭和二年三月一日道頓堀弁天座の初日に、谷崎はこの浄瑠璃を芥川龍之介および佐藤春夫夫妻と一緒に観ているばかりか、まさしく同日夜に根津夫人松子と初対
面していたのである。この運命的な出逢いに対する錯たぬ直感こそが『蓼喰ふ蟲』には宿されていた。谷崎はこの直感を要の岳父の「妾」お久に胚胎せしめて
「妻」美佐子と対置し、しかも、お久の面影に永遠の女と眺めやった舞台の小春を重ねたのである。
同じ『心中天網島』のこの日の舞台を、谷崎が千代夫人とも同座で観ていたことははっきりしている。その辺の実証的な仕事としては千葉俊二に丁寧な調査と
考察とがある(「近代文学 研究と資料」2号)。
ナオミからお久ないし小春への転換は、むろん西洋的と日本的との、また束京横浜と京大阪との違いはあり、文明の質の違いに対する後ればせな認識もあった
ものの、しかし「女」は神か玩具かであるという認識の変更ではなく、より強い確認であった。
『蓼喰ふ蟲』を独創的な文明批評かの如く読む人があるが、関西で育った私などの眼には、何を言うか程度の普通の感想、関西人が東京へ出て行って東京に感じ
るそれと質的に大差のない感想でしかない。それよりも谷崎が、『蓼喰ふ蟲』連載時の小出楢重の挿絵原画を一枚一枚丁寧に調えて、根津夫人松子への最初の贈
物にしていた事実を私は重く見たい。また、根津夫人が初対面のもう次の日には芥川や谷崎をダンスホールに誘い、壁の花の龍之介を尻目に潤一郎は根津夫人と
頬に頬寄せ猛然踊り回った事実、その後岡本の谷崎私邸へ機会あれば根津松子の方からよく出向いたという事実を、婦人の著『倚松庵の夢』も参照の上、やはり
重く見たい。やがて再び起きる千代夫人との離婚問題を一方に置いて想うなら、いかに谷崎や松子夫人がこもごも気を配って『雪後庵夜話』『三つの場合』や
『倚松庵の夢』を書いて事情を明すフリをしていたにせよ、思いのほか二人の「親密」度の進行が古く遠いものであったとは、手持ちの資料にも助けられて確言
できることである。
実は今挙げた『雪後庵夜話』など、何かを明すという反面、周到に何かを守るないし秘し隠すための筆づかいがされていて、心してその機微を読まねば大きな
読み錯りへと誘いこまれる危険をはらんでいる。まさしく谷崎詠に謂う「我といふ人の心はたゞひとりわれより外に知る人はなし」なので、率直な告白述懐と受
取ることはまだしも、これで何もかも語られたと思っては谷崎の思う壷にはまる。秘し隠してわれより外に知る人もないまさにそのことが『雪後庵夜話』全篇に
よって守り抜かれていると見るべきだろう。それどころかこんな述懐歌をことさら前書きしていることで谷崎はまた、本文の外にそのこと在るを平然暗示してい
るのでもある。余談ながら、谷崎潤一郎とはそういう癖を自ら深く楽しむ作家だった。そんなことは本文の何処にも書かれていない、などとよく未熟な学者が放
言していたりするが、源氏物語もののまぎれにも深く思い至っていたこの文豪を、浅はかに見損なっているのである。
『蓼喰ふ蟲』ではお久ないし小春の表現に眼を向けねばならず、早くも根津夫人松子の印象が生きているのは前後の事情から動かしがたいこととして、この小春
ないしお久が一直線に『春琴抄』の春琴に至り着く初の関西「女」性であることも肯うしかない。そして春琴には紛れなくあのナオミに通じ、ナオミを受けた谷
崎の「女」を見る眼がなお生きている。佐助にとってただ「神」であった春琴も、作者谷崎の視線には同時にまた「玩具」でもあったがゆえに比類なく分厚に造
型された「女」性になりえており、譲治に於けるナオミとも相重なる輪郭を備えながら谷崎と根津夫人との一面を十分類推せしめているのだ、事実上の同棲であ
り、女は男の妻同然である点までも。
かくて小春ないしお久と春琴とを同じ「女」の原型と完成と眺めた場合、一見違いの甚しい『痴人の愛』のナオミと『蓼喰ふ蟲』の小春、お久にも、ともに
「妻」たりえぬまま却って現実の「妻」の座を脅かす同じ「女」の立場は見抜いておかねばならない。
それにしても昭和初年の根津夫人に限って言えば、その性格(キャラクター)にただ上品で教養深い上方の御寮人というイメージだけを見るのでなく、例えば
『細雪』の「妻」幸子や『台所太平記』の「妻」讃子だけを見るのでなく、つまりは『心中天網島』の女房おさん(この名が、『台所太平記』の理想的女房讃子
の名に直結していることは正確に見るべきだろう)だけを見るのでなく、むしろ小春、むしろナオミやお遊さんや春琴に、それどころか遠く『刺青』の女にも確
かにつながっている「女」の魅力そのものを当然見通さねばならない。さもないと谷崎のあの度外れた松子神聖視は彼本来の生理的根拠を喪失してしまう。根津
夫人が、例えばナオミとは全く違うからこそ谷崎を惹きつけたと思い過ごしてはならない。むしろ違いは違いとしてなおかつ「女」の本性に於てより強烈で芳醇
なナオミズムをすら体しえていたればこそ、根津夫人は十二分に谷崎潤一郎を関西の風土の中に取り籠めることができたのである。
『蓼喰ふ蟲』に相重なる時期の『卍』にしても、谷崎自身このごろ交際しているのは阪神間の有閑婦人とばかりと語っていたような風俗意識と人気作家的環境を
活用しながら、「女」と「妻」を主題に当時谷崎の眼に見えた限りの根津夫人の魅力を早くも反映させているのだ。「女」松子を意識して小説を書いたのは
「妻」丁未子との蜜月を過ごした昭和六年夏高野山での『盲目物語』や『武州公秘話』が最初と谷崎は書いているけれど、それもそう断っておくのが好都合な事
情あってのことで、千代夫人との離婚以前、早くも根津夫人松子と三月初対面の昭和二年七月には、すでに「心におもふ人ありける頃鞆の津対山館に宿りて」と
詞書(『松廼舎集』未発表)した次のような歌を谷崎は詠んでいる。
いにしへの鞆のとまりの波まくら夜すがら人を夢に見しかな
又その頃
津の国の長柄の橋のなかなかにおもひの川のわたりかねつも
昭和五年夏の離婚へかけて連載されていた『乱菊物語』の、とくに中絶に至る後半部の展開は、谷崎が、大正六年の『母を恋ふる記』以来久しく忘れていた
「母」を想い出すと同時にはじめて「母」の面影を「妻」問いを通じて求めようとしたもので、その中断の理由も、私生活的には離婚騒ぎが気分を乱したにせ
よ、文学的にみれば一にかかって次なる『吉野葛』執筆へのやみがたい意欲をほかならぬ『乱菊物語』の主題がかきたてたからと見るべきなのである。『乱菊物
語』に於ける「母」なる「妻」への切望、を経ずして『吉野葛』の真相に迫ることは決して出来るものではない。
谷崎の『乱菊物語』を経て『吉野葛』に至る昭和五年は、二つの大きな観点をはらんでいる。一つは、所詮神と玩具との間、普通の「妻」でしかありえなかっ
た千代夫人(じつは此の時機の千代には、佐藤ではない別の男との交渉があり、それも『蓼喰ふ蟲』にはきちんと書かれてある。)との離婚を、そっくり、宿縁
のライバル佐藤春夫を文学的に切って落す機会にも変えて、あたかも古く重い重ね着を綺麗さっぱり脱ぎすててしまう一種のダブルプレイを谷崎が鮮やかに達成
したこと。二つには、同じ頃から、願わしい「女」と否認さるべき「妻」との一体両立の可能性が動機的にひときわ真剣に模索されはじめたこと。むろんこの両
方に根津夫人の影響を見落すことができない。
『吉野葛』は『乱菊物語』の妻問いを直かに受けた作である。「妻」が「母」の形代たる限り「妻」もまた「女」たりうることを証した作である。『痴人の愛』
以後の「妻」という主題は、『吉野葛』に至って「母」という遠く根深い主題に連合することで、谷崎本来の「女」文学と矛盾せず真の主題たりうる道を拓きは
じめた。
新婚の佐藤春夫と千代夫人に私邸を明け渡してひとり吉野に籠って書き上げて来た『吉野葛』執筆前後の谷崎には、伝記的にみて注目すべき微妙な足どりが辿
れる。それらはみな脱稿したばかりの六百枚書き下しの近刊(『神と玩具との間=昭和初年の谷崎潤一即と三人の妻たち』湖の本エッセイG)に譲るとし
て、ちょうどこの時点で谷崎が根津夫人ならぬ別の女性との再婚を画策していた事実は、野村の『伝記』にも、谷崎自身の後年の文章にも語られている。但し谷
崎はもと偕楽園に奉公の女性に就てだけ語っているが、野村の方は当然『吉野葛』直後からの古川丁未子に対するプロポーズに就ても大よその経過を明してい
る。昭和六年正月単身上京した谷崎が、二度めの肉迫でとうとう丁未子を口説き落した直後の毛筆英文の手紙が私の手もとにある。日本吾とフランス語を怪しげ
に象嵌しながら手放しでのろけた珍なものだが、それだけに嘘偽りのない谷崎の興奮が伝わって来る。
だが、だからと言って根津夫人のことを谷崎が忘れていたかというと、あらゆる状況から推して全くそうではなかった。むろん事情やむをえず夫人との結婚は
できそうになかったし、それだけに根津夫人との今後の交際にはむしろ世間的にも谷崎自身が独身では工合がわるいくらいの条件の方が先行していた。それに、
のちの『佐藤春夫に与へて過去半生を語る書』が示唆するように、谷崎には性欲上の久しい不如意を穏当に解消する必要もあった。その点で二十五歳の丁未子夫
人という「妻」は、久々に「神」とも「玩具」とも訓練しうる「女」の素質を谷崎に十分期待させたらしい。
丁未子夫人は祝言以前からそうした「訓練」の目的で谷崎家に入り、昭和六年初夏以来の高野籠りの如き、とくに前半の六、七月頃はすこぶる情痴的雰囲気を
進んで谷崎に協力して自ら醸し出すような日々であったことが、当時の資料を通してありありと窺える。その頃好事家にひそかにもてはやされていた一種の催淫
剤をすら谷崎は好奇的に試用しており、しかもそういう一極異様な状況下の谷崎に対し、我々はまたしても二つの点で刮目しなければならなくなる。
一つは、かかる蜜月中にあって、ほかならぬ根津夫人の面影を描いた画像北野恒富による『茶茶』に刺戟されつつ『盲目物語』が書かれたということ。二つに
は踵をつぐようにして、結果的に丁未子夫人の「女」失格の失望を露わに書くことになる『武州公秘話』が、同じ高野山での日々に構想され着手されていたとい
うこと。
丁未子夫人は当初こそつとめて谷崎の意を体し意を迎えて「神」たるべく、せめては「玩具」たるべく奮励しながら、しかも徐々にあくまで文豪谷崎の「妻」
でありたい平凡な望みを表わして谷崎という暴君的マゾヒストを失望落胆させて行くのであり、果然、松子のかげで淡雪のように消え失せるべき、たとえて言え
ば武州公の眼には「女」として失格だった「妻」松雪院になぞらえられて、丁未子夫人の蜜月はそのまま破鏡へと一路変容して行かざるをえなかった。『佐藤春
夫に与へて過去半生を語る書』は、これによって佐藤夫妻を過去完了の彼方に葬る宣言であると同時に、実はもはや丁未子夫人をも過去のものと葬り去ろう反語
的意図が見え隠れする文章と読まれねばならない。
かくて私の手持ち資料では昭和六年十二月半ばに、早くも事情知った特別の人に対し谷崎は「倚松庵主人」を名乗りはじめる。松子御寮人に対する谷崎の「順
市」演戯、文字通りの開幕である。
「倚松庵」三字で分るように、谷崎は根津夫人松子との出逢いこのかた「松」の文字をあだおろそかには用いていない。その谷崎がはっきり松子を意識して書い
たと認めている『武州公秘話』の書き出しでは、武州公夫人に松雪院の名を与えてこと細かにその画像を描写しているのは、先に挙げた恒富画『茶茶』に拠りな
がら松雪院は即ち根津夫人と目したらしい意向を十分推量させる。のに、中段以降、急に武州公が情熱的に憬仰する桔梗の方という、のちのお遊さんや春琴に直
結し古くは『刺青』の女へも遡りうる凄い美女が登揚して来ると、根津夫人神聖視の表現意図もまた桔梗の方の上に移されてしまい、同時に松雪院の方は、一時
は夫武州公の暴君的マゾヒズムに調子を合せながらもその異常さについて行けなくなり、むしろ貞淑な「妻」たらんとして決定的に武州公を失望落胆させてしま
う、即ち高野山暮しでのさながら丁未子夫人の亜型へと変貌変質して行くのである。
むろんそういう実生活感情の反映を谷崎の作品は殆ど何一つ邪魔とは感じさせない。他方それゆえにまた自信を持ち強腕を振るって私生活のエッセンスを旺盛
に吸い上げて行く谷崎昭和初年の諸作には、独特の分厚い面白さが籠っている。
谷崎は当時『武州公秘話』を、「金」の必要あって「通俗」の「読みもの」を書く気で書いたと側近の人に話している。むろん通俗どころでないこれは生涯の
傑作の一つになった作品なのだが、なおそれをしも中断してまで谷崎は次の『蘆刈』を書かずに居れなかった。そういう切迫した心境および状況のもとに谷崎は
昭和七年後半、根津夫人への思慕を白熱させて行く。久しく結婚はおろか恋愛感情すらも押えに押え合っていたもろ恋が、根津家側の家運の傾きにも、また松子
夫人の夫根津清太郎の不行跡にも助けられる恰好で、やがては根津家黙認をうるに至るまでに急速に事態が動いて行ったからで、その間に、漸く我々の視野にも
この恋のかげの協力者として、根津夫人の実妹重子の姿が表面にあらわれて来る。名作『蘆刈』はこの重子の存在を極めて重大な契機として、昭和七年晩秋、玲
瓏の世界を夢うつつに描き出すことになる。
ここで『蘆刈』をめぐって一つ、あまりに自然な、しかもかつて提示されたことの多分一度もなかったろう疑問を書いてみる。
森田重子をモデルに、その幾つもの縁談を雪子というヒロインを通じて書いたのが『細雪』なのは言うまでもない。重子はたしかに縁遠い女性だった、だから
こそ私は想ってみるのだ、いったいその重子と谷崎との間に一度も縁談は生じなかったのだろうか。昭和七年当時まで谷崎と重子とに親交がなく、急にこの頃に
なって『雪後庵夜話』の冒頭に書かれたような、谷崎と姉との臨検に遭うような危い旅にも従者然として健気に随行するようになったというのか。
この、滋賀県下で、臨検の憂き目を見た一泊は、折しも「改造」十一月号に『蘆刈』前半を執筆直後、谷崎が所用東上の途中まで姉妹を伴って出た、秘密の
「遠足」そのものであって、この体験は直かに『蘆刈』後半の、お遊さんおよび慎之助お静夫婦の奇妙な三人旅に実感ゆたかに活用されている。おそらくは単な
る活用でなく、「遠足」そのものが谷崎の意図しての事前の実演だったと、私は同様いろんな他の実例や根拠からもそう推量している。臨検は意図の外だった。
ともあれ『蘆刈』のお遊さんが即ち松子とは有名な谷崎の数重ねた恋文からみて動かぬ以上、慎之助つまりは谷崎の「妻」として描かれたお遊様の妹お静は森
田重子に当ると見ても差支えなく、谷崎の頭に、重子と夫婦になって松子御寮人にかしずくという場面は、『蘆刈』当時と限らず、それ以前からもしばしば想像
されていたのではないかと想わせる。それどころか、作中お遊さんが慎之助に望んだように、根津夫人松子自身また妹重子を谷崎の妻にと願わなかったという確
証は何もない。むしろそう思って十分自然な久しい交際や微妙な事情は、昭和二年以来両家の間に蓄積されていたはずだ。
松子夫人自身、この妹が自分の影のような人柄だったと追憶されている由を人づてに聞いている。
そこでまた私は大胆に推測したい、谷崎は昭和二年三月一日の弁天座観劇の当夜に根津夫人と初対面の感動忘れがたく、同じ興行中にもう一度弁天座へ出向い
たのが『蓼喰ふ蟲』の観劇場面に活かされ、同時に『蘆刈』では慎之助がお遊さんとお静姉妹に初対面の場面として活かされたのではないか、と。事実この機会
に谷崎は根津夫人を弁天座に招待し、夫人も妹を伴い谷崎と同じ芝居を観ていなかったか、と。そして或は事実有ったかもしれぬ重子と谷崎との縁談が結果的に
成らずに終ったのは、それだけ「蘭たけて」「人徳」も「芝居気」もある松子夫人への讚仰が烈しいものであったから、と見るしかない。余人は知らず谷崎の眼
に松子夫人はひたすら完璧な「女」の美徳を備え尽して映じていたのだろう。
この推測は、だが、谷崎が松子夫人と結婚後も義妹重子に対し持ちつづけた稀有なる情愛と、すこしも矛盾するものではない。それどころか心情的に谷崎は
『蘆刈』同様、松子夫人に対し義妹とともどもかしずくくらいの気組だった。つまり心情的に谷崎は松子重子姉妹とともに一つの谷崎家を築いていた、結婚して
いた、とすら極言できるのである。
ともあれ「大衆小説」と銘打った『乱菊物語』を中絶して『吉野葛』が書かれ、「通俗」「読みもの」を自認した『武州公秘話』を中段して『蘆刈』が書かれ
た。『吉野葛』『蘆刈』はともに谷崎のまことやみがたく根津夫人を想う情念の凝って成った美玉であり、或は謡曲「二人静」を踏まえ或は「蘆刈」や「江口」
を踏まえ、とくに『蘆刈』は趣向に富んだ夢幻能仕立てになっている。また、ともに十分前シテ、後シテのダブルイメージ(「母」と少女和佐、慎之助と男)を
利かしてもいる。
だが、従来この二作はとくにその余の共通点を頒ちもつものとは考えられずに来た。例えばお遊さんにしても、春琴或は桔梗の方やお市の方にこそ通い合う拝
跪すべき「女」でこそあれ、『吉野葛』の津村が「母」または母の形代として「妻」に迎えようとする国栖の少女和佐との血脈は全く説かれることがなかった。
なぜなら、一にかかって『蘆刈』の主人公とはお遊さんお静姉妹と慎之助の三人という物語の読みが軽率に固定する一方、語り手の男を物語られた詞通りにお
静と慎之助との仲に生まれた子と信じて誰もが疑わなかったからだ。語り手の男が実は慎之助とお遊さんとの仲に生まれており、男は父に成り変って今もなお生
みの「母」を「妻」さながらに恋い慕っているという、思えば当然すぎるほど当然な物語の設定を、昭和七年このかた四十四年間も誰一人として正しく読みとれ
なかったからだ。
私は先ごろ『お遊さま』(「蘆刈」考)を発表して(湖の本エッセイN『谷崎潤一郎を読む』所収)、『蘆刈』が『吉野葛』を正確に受け、のちに『少将滋幹
の母』を経て『夢の浮橋』で完成される、いわゆる谷崎の母恋い小説、いわゆる母子相愛という谷崎の生理と心理に根ざしたモチーフを自覚的にみごとに実現し
ていた小説、であることをはじめて、本文相応隈なく証明した。以前、やはり『夢の浮橋』が発表以来十六年全く不幸な誤読にさらされつづけていたのを詳細に
正した(湖の本エッセイN『谷崎潤一郎を読む』所収)のに次ぐ仕事だった.が、その『蘆刈』考の中で、私はこの両作が二十七年を隔てながら構想に於て酷似
していること、『夢の浮橋』直前の『鍵』すらも、この線上のパロディとして読み直せるであろう作であることにまで言い及んだのである。
(本書巻頭『谷崎潤一郎論』七「物語の面白さ」で引いている勝本清一郎や伊藤整の発言に特に注目して欲しい。)『座談会
大正文学史』で稀代の読み巧者として畏敬された勝本は言っている、「ほんとうだか嘘だかわからないという逆の見方ができる記述を同じ空間に三つも四つも重
ねているでしょう。そういうちがう角度からいくつも描いたものを通して、その奥のほうに真実があるんだよということを、ほのめかしていますね。この方法と
いうものは、谷崎さんの陰翳礼讃をさらに一歩進めたもので、……非常に微妙なものごとの真相、いくつもの表層的なものの見方を二つも三つも通して、その奥
に真相を見ようとする手法」だと。
また昭和九年の『文章読本』で谷崎は、この本は「始めから終りまで、殆んど含蓄の一事を説いてゐるのだと申してもよいのであります」と言っている。その
意味は、深く隠されてある確かな大切なものを、隠されたままに表現するといった、相矛盾する努力を文章の上で繰り返し行うことであり、寺田透や勝本・伊藤
らの発言をもここから理解すれば、谷崎の文章の内に隠れては露われ、露われんとしては.隠されたままの「もの」の呼びかけが、揺曳する美の印象とともに聴
きとれる。聴き取らねばならないのである。ただ書き「示す」の人ではなかった、谷崎は書かずに「表す」表現者でもあった。
『蘆刈』のお遊さんは、谷崎作品中最も「神」にも「玩具」にも近い「母」なのであった。『蘆刈』は典型的な「母恋い」小説なのであった。その証明はまこと
に難かしく、私は本文を細かに引き八十五枚もの原稿を書かねばならなかったが、この発見、この正解は、谷崎の周到緻密な文体の魔法をあかしたものと言える
だけでなく、昭和初年代谷崎文学の大昂揚期の核心に位置して、「母」の再発見、.が谷崎においてとても重要であった点を明らかにするものであった。『蘆
刈』の正解は、この期の谷崎論と谷崎伝記とを一丸として書き換えうる大きな突破口となったと自負している。
なぜか。
谷崎にとって「妻」は久しく「女」でなかった。つまり神とも玩具ともなり難い愚かしい俗女だった。だが、谷崎は『吉野葛』で予感し、『蘆刈』を書いて確
信に大きく近づいたのである、即ち、「妻」は「母」なるものの形代、権化、象徴としてのみ永遠の理想女人に等しくなりうるものと。
谷崎はこの想念を、一つには『源氏物語』に於ける生母桐壺、相重なる義母藤壺、ゆかりの妻紫上という、みごとに「母」即ち「妻」という理想的な物語の主
軸を読みとることで再構築した。同時に谷崎は、完全な「女」である根津夫人松子との恋を、『蘆刈』の頃から急激かつ実質的に成就して行く中で、理想の
「女」が理想の「妻」たりうる可能性を、、「母」なる鍵で確実に開きうる見通しをもったのである。
かくて谷崎にとって、『蘆刈』とは余の何ものを措いても書かずに済まなかった久しく久しい課題への解決作であり、この作こそ松子夫人との魂の感応の中で
燃え上がった名作だった。問題作だった。谷崎はまさに愛情こめてこの名作を松子夫人に贈ったのである。
谷崎が関西へ移り住んだ真の意義は、『蘆刈』を書くという行為が即ち松子夫人との久しい恋の成就ともなる、そういう表裏一体を果してついに結実した。同
時に、谷崎にとって当分のあいだ頭を離れぬ基本の創作意向もまた、神か玩具である「女」の表現から、「母」なる「妻」或は「妻」なる「母」という母子相愛
(同時に父子相愛)の達成へと動いたのである。動いたと言うより、そういう、「女」としての「母」と「妻」が一体となって谷崎の文学生活および私生活に定
着して行く太い道が拓かれたのである。
谷崎潤一郎の昭和七年とは、丁未子夫人には残酷な事態ながら、まさにそういう一年であった。
そして昭和八年は、あらゆる意味で谷崎の昭和初年代を完成する年となった。
小説『春琴抄』、堂々と余裕ある最後の戯曲『顔世』、極めて率直かつ重要な表白に満ちた『藝談』および文章表現の極致に於て関西移住後に体得した一切の
趣味を結晶させた『陰翳礼讃』と、どの一篇もが小説、戯曲、評論、随筆のすべての畑で谷崎潤一郎の昭和初年代を最終的に完成させ切っている。双六で言え
ば、完全な「上がり」である。
文学生活での「上がり」は、丁未子夫人との事実上の離婚、別居および根津夫人松子との殆ど公然の恋愛状態という私生活での「上がり」ともくっきり照応し
ている。
だが「上.かり」とは即ち眼に見えない「行詰り」でもあった。文学生活には私生活での安着と同じ安着は有りえない。
すべてを松子夫人への供物と自ら極言してまで書いた『蓼喰ふ蟲』以来の諸作品はたしかにみごとに充実していたが、恋が成り、そして昭和九年には同棲とな
り、さらに昭和十年になって谷崎としても祝言、結婚、入籍への成行を拒むどころでなかった以上、「女」松子からえていたと全く同質の刺戟を直ちに「妻」松
子に期待するには、谷崎好みの異様な「芝居気」(『蘆刈』中に大事に繰返される鍵言葉。同時に最も谷崎と松子夫人の関係を解き明すに足る鍵言葉)を発揮し
にくい或る種の日常性が生活そのものに瀰漫してきた。別れた丁未子夫人の生計費を負担するだけでも、谷崎らは四苦八苦しているのだ。
しかし谷崎はこの三度めの結婚をぜひ成功させたかった。と同時に自分の文学の新たな展開に、広い視野と深い動機とを再び発掘し確保しなければならなかっ
た。
谷崎の昭和九年は『文章読本』によって今日までの文学的主張に一つの総括を与える一方、新しい視野と動機とを『夏菊』という長篇執筆を通じて探ろうと試
みて無惨な中絶に陥る一年だった。『夏菊』は根津家の内情に取材した作であり、それ故に当然の故障に阻げられて潰えたが、そこにすでに生煮えながら、のち
の『細雪』のモチーフにもつながって私生活上、一種離見の見を求める谷崎の衝動が働いてはいた。
だがともあれ『夏菊』は失敗し、昭和八年の諸作を超える動機性の強い構想は湧かぬまま昭和九年末には「第二盲目物語」の『聞書抄』を、資料を上手にこな
して書き出した。その連載の間に昭和十年正月ついに丁未子との離婚が成り森田松子は正式に谷崎の「妻」となる。谷崎はいよいよ、「妻」の何ゆえに「妻」で
あって、いかにして理想の「妻」たりうるかを、昭和二年宿命の出逢い以来を感慨深く顧みながら、何としても百尺竿頭なお一歩を進むべく真剣に「妻」の論理
を考え究めるしかない時に立ち至った。
『源氏物語』の現代語訳は、他のいかなる必然偶然の状況や条件を考えに入れても、なおこの理想の「女」森田松子を念願の「妻」にしたことの谷崎なりの意義
づけそのものに、最強最深の動機を見なくてはならない。私のいわゆる「谷崎の『源氏物語』体験」(湖の本エッセイN『谷崎潤一郎を読む』所収「夢の浮
橋」)とは、この現代語訳という大業の必然の動機を、谷崎の文学および私生活の両面から考え抜いた結論であったし、同時に、時局柄「藤壷」の項の削除を無
残に強いられた訳業に対する谷崎の不満、遺憾の念がいかに深かったか、その洞察を抜きに松子夫人を事実上の主人公と見立てた『細雪』が書かれた真の意味を
理解するのは所詮むりということも、示唆しえたものであった。
谷崎潤一郎の昭和九年は、「上がり」のあとの軽い放心と真剣を極めた次への模索とが、「我ひとり」の胸底で人知れず渦巻いていた。『源氏物語』へとひた
すら身を寄せて行く渾身の情熱ともいうべき執拗なまでの意欲は、まちがいなく必要以上の必要あってこの昭和九年当時からひそかにかきたてられていたかと私
は想像する。もはや避けがたい関頭に立って、谷崎は『源氏物語』をただ読み直すのでは足りなかった。自分のものにする、ことがぜひにも必要だった。
そしておそらく、谷崎はあれほど多年を要した二次三次に及ぶ大偉業を実はこよなく楽しみながら、同時に自身日常の「光源氏」体験を悠々と豊かに愛し深め
て行ったに相違ない。『台所太平記』の家庭は即ち、光源氏の六条院に相当し、女主人讃子は理想の紫上であるとともに、あの弁天座の舞台に観た記憶すべき女
房おさんの打って変った幸福な姿であった。松子夫人の昭和九年以後は、藤壷から紫上へ、そして小春からおさんへの道程であった。それゆえにまた、紫上が他
の女人の存在に幾度も涙ぐんだような場面にも、新たな別の小春の出現にも、悩まされなかったとは言えまい。谷崎との三十年はどこかやはり一つの「針の莚」
であり、反語的にはそれゆえにこそ十分充実して幸せだったのであろう。
谷崎は終生二度と「妻」松子を他の「女」に見換えてしまうことはなかった。表立たない幾度もの暗い渕に臨んだに違いなくとも、この「妻」の内なる「女」
は、理想の「母」へと通い合うものゆえに十二分に谷崎潤一郎の愛を享け切ったとすべきであろう。
(改丁 中扉 三号大 天版面 左右中央)
谷崎の歌 ―酷評をはねのけて―
(改頁 中扉裏 9ポ 下版面ツキ 左右中央)
「文芸展望」一九七六年秋号
原題「谷崎潤一郎の和歌」筑摩叢書所収
(改丁 本文9ポ 先にならう。頭3行アケル 見だし数字は 10ポ太字 5字サゲ 以下同じに)
一
「短歌」六月号(昭和五十一年)で、池田弥三郎、馬場あき子両氏が対談している中に、こんな部分が眼についた。
池田 (略)ところが、短歌の場合は短歌のわかる人は小説がわかりますね。逆に、小説の批評家ていうのは意外に、短歌の批評はだめですよ。
馬場 意外どころか、ほとんどだめだと思います。(笑い)私はいつも失望するんですけれども、小説家の歌というのは例外なくだめだし。
池田 これはだめです。『細雪』の谷崎潤一郎の歌、『旅愁』の横光利一の俳句、それから舟橋聖一の小唄。みんなひどい。それから私一番がっかりするのは
ね、たとえば折口信夫の歌をほめてくれる場合に、全く価値基準がないんですよ。(略)ところが意外にね、歌の批評家は、小説の批評をして確かなんです。
馬場 やっぱり歌をやってるものが日本の文学を理解していると言いたくなるんですけれどもね。(略)
筋道を立てて言うと、小説家および小説の批評家は日本文学の理解に於て歌人および短歌批評家より断然劣るということになる。我が田に水を引く風情もこれ
くらいになると風流で面白い。ついでに現代歌人の「歌」もこれくらい面白いともっといい。小説家が歌人のお気に召す歌をつくるより遥かにいい。
歌の「だめ」な小説家の代表に挙げられている谷崎潤一郎の言葉を聴こう。
元来歌は巧拙よりも即吟即興が面白いので、小便をたれるやうに歌をよんだらいいのである。その点で吉井勇君の作歌は頗る我が意を得てゐる。実に自然にな
だらかに、少しもたくまずに口をついて出る。 (『岡本にて』昭和四年七月)
谷崎のこの文章を読んで吉井勇も「我が意を得」たかどうかは措くとして、「歌も俳句もやらない」小説家谷崎が度重なる揮毫の所望を断りかね、「実は高等
学校時代に少々ばかり和歌の真似ごとをしたことがあって、それもあらかた忘れてしまったが、中でおぼえてゐる二つ三つを、いつも繰り返して書いてゐたけれ
ど、それもあんまり曲がないので、仕方なしに即興で三十一文字をならべることにし始めた」時分の、これが体験的「和歌」観である。
岡本の里は住みよしあしや潟海を見つつも年を経にけり
わが宿は菟原住吉蘆屋.がた海のながめを南に見る
夏くれば海のながめは葉がくれてみぬめの浦となりにけるかな
「上掲の三首もそれで、巧い拙いは兎も角も、自分の今住んでゐる土地や生活の感じを歌つてあるところから、即興.か纏りかねる時には大概これを書いて胡麻
化す」と谷崎は『岡本にて』で正直に言い、ほかに九首の近詠を添えている。阪神間「岡本」の「土地や生活」の実況はともかく、谷崎なりにその「感じ」は詠
みえており、一概に拙いとは言えない。
但し、谷崎はこの『岡本にて』でも、あくまで「和歌」の二字を使って「歌」を意識している。現代歌人で「短歌」ならぬ和歌で自作を言う人は多分一人もい
まい。「和歌」を批判し止揚しての近代、現代の「短歌」という認識があるからだ。しかも冒頭の対談に見えるように、歌人によっては「和歌」の伝統でちゃっ
かり身を鎧うことも忘れていない。それならば谷崎の伝統「和歌」観は概ね西行や慈円以前のほぼ正道をちゃんと捉えているではないか。
私は、谷崎潤一郎作の和歌が、「ひどい」か「だめ」かを確かめようとこの文章を書くのではない。遺された谷崎の「創作ノート」は別にしても、今日まだ公
刊されていない唯一の谷崎文藝作品である『家集』二冊を松子夫人格別のおゆるしをえて広く紹介の傍ら、今すこし谷崎に関わる私の思いを語ってみたいのであ
る。
家集の第一冊には『松廼舎集』、第二冊には『初昔
きのふけふ』の題簽がある。ともに和綴じの二十八頁および三十六頁分に歌が満載されている。直ちに正確な歌数は数えられないが、と言うのも見せ消ちの歌、
四通り五通りに詠み直した歌がかなり有り、俳句(乃至歌の上三句)も十句程度混っているからだが、それらも含んでおよそ『松廼舎集』が「明治年代」以降昭
和の敗戦に至る歌百十三首、『初昔
きのふけふ』の方が「昭和十八年」以降晩年の歌まで二百二十六首を収めている。とくに後者は全篇すべて谷崎の自筆で、明らかに書痙で筆が持てなくなっての
ちも、この『家集』ばかりは他人の手を借りず、不自由を極めた書体ながら驚嘆に値する熱心さで、熱心すぎるほどの熱心さで判読に窮するまで繰り返し繰り返
し歌句を調えた跡が歴然と見える。和歌は「小便をたれるやうに」が谷崎の態度としても、決してたれ流しのままでなかったことだけは実によく分る。「真似
事」に出た「道楽」に違いなくとも、「どうせ乗りかけた船だから、暇があつたらもう少し上手になるやうに勉強したいものだと思ふ」という昭和四年当時の気
持を谷崎は生涯失っていなかった。
しかもなお谷崎の歌といえば池田、馬場両氏に限らず「だめ」「ひどい」とやられっ放しで、実妹の林伊勢さんまでが、「谷崎程の文章家が、どうして歌とな
ると、あの程度にしか行かないのか……」という谷崎の作歌に対する「批評とまではいかないが、短い記事」を読んで「ひそかに溜飲を下げた」ことを最近
(「.海」昭和五十年九月号)になって告白している。おそらく三好達治あたりの「酷評」が眼に触れたものか、しかし松子夫人の筆者宛ての手紙に、「谷崎ハ
本職ではなく趣味だけのものだからと気にもかけて居りませんでした」とあるのが当然で、自称「道楽」や「趣味」を指さして「だめ」「ひどい」と「酷評」し
て「溜飲」を下げている専門家の方がよほど可笑しい。
それどころか、事はそんなに簡単ではないだろう。いわば志賀直哉風の文学のものさし一本で谷崎潤一郎の小説世界がとても律しられぬことは、昭和初年来繰
り返し当人も切言している。(本書巻頭『谷崎潤一郎論』参照)それと同様のことが歌にも言えよう、谷崎はいつも「国風」の「和歌」を謂い、かつ詠んでい
る。池田、馬場氏らの暢気なわれ褒めの放談にはその認識がはなから欠け落ちている。
谷崎は『細雪』のような小説や『岡本にて』のような随筆に必要あって自作の歌を挿入しているだけでなく、明治四十四年「朱欒(ザムボア)」十一月号に
『そぞろごと』十二首、大正十一年「中央公論」三月号に『歌四首』、昭和四年「相聞」十一月号に『春、夏、秋』十首、昭和五年「スバル」七月号に『秋、
冬、春』十二首、昭和七年「古東多万」三月号に『倚松庵十首』、昭和二十三年三月には創元社より終戦前後の歌日記『都忘れの記』に七十二首、昭和二十五年
「心」三月号に『新春試筆』五首、昭和三十五年「心」一月号に『千萬子抄』十一首などを公にしている。また未見ながら昭和三十二年七月、棟方志功と共著の
体で『歌々板画巻』を造ってもいる。初期の歌には僅かに重複しているものがある一方、二冊の『家集』には収録されていない歌も二十首ほど含まれているよう
に、必ずしも『家集』が網羅的でないことは、『松廼舎集』の巻頭に置かれた「倚松庵十首」が実は八首しかないばかりか、昭和七年発表の同題十首と正確に相
重なる歌は僅か三首、別に二首がともに第三句目の言葉を改めている点を見てもよく分る。総じて公にされたものに対し『家集』はさながら草稿の用をなしてお
り、配列や詞書にはそれだけに或る原型が保存されている。むろん拾遺歌もこの他にかなり有るに相違ない。
それにしても盛んにその作歌が「酷評」の的にされた昭和四年から七年頃を軸にしての谷崎潤一郎のいわゆる昭和初年代には、当時大多数の人に全く窺い知ら
れない極めて特異な私生活が営まれていて、しかもその経過なり葛藤なりの細部が、旺盛な構想力にみごとに消化されて当時の谷崎作品に複雑微妙に組み込まれ
ていたことは、今にして徐々に解明されつつある。
例えば「古東多万」は、佐藤春夫が新夫人(前谷崎夫人)と相伴って上京後に主宰した雑誌だが、これに載った谷崎の『倚松庵十首』の意味が、当時の識者、
読者にどれだ判読できたか、おそらく佐藤夫妻以外の殆どの人にはおよそ意味不明の述懐としか読めなかったはずだ。
「倚松庵」の「松」の字が、昭和二年三月一日の初対面以来谷崎の心を奪い尽していた当時根津夫人松子の名を引いているとは、『盲目物語』のお市の方や『蘆
刈』のお遊さんがモデルとという以上にこの松子夫人その人を書いていたのだとは、よほどのわけ知り以外に当時は分りようのない秘めごとだったからだ。
『倚松庵十首』を公表した昭和七年三月という時点を確かめてみよう。千代夫人を佐藤春夫にゆだねた谷崎は前年四月に二度めの妻古川丁未子を迎え、五月下旬
にはさながらの蜜月を高野山龍泉院に籠って、先ず『盲目物語』を脱稿し、引続いて『武州公秘話』に着手、晩秋には下山した。ともに根津夫人の面影を大切に
写し取った作品だ。十二月には夙川の根津別荘に仮住まいのあと、年明けて七年二月には阪神間の魚崎町横屋に移り住んだ。しかし、「倚松庵主人」を名乗った
のはこの魚崎の倚松庵へ入る前年師走半ばにすでに歴然とした物証がある。新刷り使用の原稿用箋にすでにこの文字は刷り込まれていたのだ、つまりは丁未子夫
人と再婚の同じ年の内に、もう谷崎の心は「松」に「倚」っていたことがはっきり分る。
だが、当時の誰にそれが分ったか。所詮は分る人にだけ意味を持った『倚松庵十首』だった。事情の通じ合うものにだけ内輪に心境を伝えた、いわば「倚松庵
主人」名乗りの挨拶にも等しい歌だった。分らぬ相手に分らせることはない、分るものには分るはず、というのが歌に限らぬ谷崎の基本の創作態度であり、だか
ら時に『蘆刈』や『夢の浮橋』のような容易に正しく読めない作品を書きながらも、決して自分から種明しはせず、むしろそういう状況を目して、「我といふ人
の心はたゞひとりわれより外に知る人はなし」とうそぶく作家だった。
「古東多万」に出た歌の冒頭三首を敢えて濁点を施しつつ挙げてみる。
うつりきてわれはすむなりすみよしのつゝみのまつのつゆしげきもと
すみよしのつゝみのまつよこゝろあらばうきよのちりをよそにへだてよ
けふよりはまつのこかげをたゞたのむみはしたくさのよもぎなりけり
『松廼舎集』の「倚松庵十首」からも同様に三首を挙げてみる。
津の国の住吉川のきしべなる松こそやどのかざしなりけれ
さだめなき身は住吉の川のべにかはらぬまつの色をたのまん
住よしの堤の松よこゝろあらばうき世のちりをよそにへだてよ
つまり、昭和になって和歌作品として公表された歌は、極めて数寡い例外を除いて悉く.が谷崎流の述懐歌であり、述懐の背景にあるものを谷崎は殆ど人に知
らせようとしないまま提示するのだから、「谷崎程の文章家が、どうして歌となると」と「酷評」が集るのは当時としてはむしろ当然だった。
だが今では事情が変っている。松子夫人との谷崎の恋を重々承知の上で『倚松庵十首』を改めて読めば、「あづまなるふるさとびとにしるべせんみはすみよし
のまつのつゆぞと」といった歌が、そのまま佐藤夫妻に宛てた近況報告ですらあった趣がよく分るし、それなりに谷崎の歌は当時の生活の「感じ」を正確に表わ
していて、巧い拙いよりも何よりも、読者にはすこぶる興味深いのである。少くも谷崎を愛読し谷崎に就て論じるほどの者には恰好の作品であり好資料なのであ
る。
谷崎の歌は殆どが文字どおり述懐歌、機会歌である。谷崎研究にはぜひ必要で貴重な内容を含んでいる。が、それだけでなく、そういう歌も三百首を越え、
「歌」だけで明治から晩年までを一貫して俯瞰できるとなれば、本当にそうも「だめ」な「ひどい」ものかどうか、「小便をたれるやうに」式の谷崎一流の調詠
態度を起点にして見る限り、現代歌人のお気には召さずとも、存外そういう現代短歌の盲点を衝くような、或る独自の短歌性をすら谷崎の歌は保有しているので
はあるまいか、と思わせるのである。
『家集』原本を克朋に筆写しながら、私は何度も唸り、頷き、そして笑った。一言に尽せば面白かった。谷崎に久しい関心をもつ私とそうでない人とで面白さの
度合いが違うとはよく承知の上で、やはり谷崎の歌は谷崎なりに十分面白い歌であり、文豪の余技として鑑賞に耐える歌ですらあると私は判断する。
以下、なるべく未公表歌を主に、先ずは資料的価値に重きを置きながら、問題をはらみ、かつそういう面白い歌を順に紹介する。
心におもふ人ありける頃鞆の津対山館に宿りて
いにしへの鞆のとまりの波まくら夜すがら人を夢に見しかな
又その頃
津の国の長柄の橋のなかなかにおもひの川のわたりかねつも
前の歌は『岡本にて』に第一句を「夏の夜の」として発表されており、「いつぞや大毎の新八景の委員に選ばれて高松から鞆へ渡つた夏」の詠とある。とすれ
ば昭和二年七月、つまり根津夫人松子と三月一日に初対面のその年、ちょうどのちに中絶された小説『顕現』を「婦人公論」に、また有名な『饒舌録』を「改
造」に連載中、そして芥川龍之介自殺直前の歌ということになる。「心におもふ人」という『家集』の詞書は、露わに指さないがごく自然にすでに根津夫人と想
い至って差支えない。遺されてある関係の書簡からも谷崎が語り松子夫人が語っているよりずっと早い時期からの片恋ないし諸恋がはじまっていたと見なければ
ならず、この歌一首がすでに、『顕現』をやめて『卍』へ『蓼喰ふ蟲』へと進んで行った昭和初年の谷崎理解に直かに関わって来るのである。
妻を去りける秋北陸に遊びて
たゞひとりけふぞ越路のあすは川明日をさだめぬ旅の空かな
昭和五年、妻千代を佐藤春夫に譲った谷崎は岡本の自宅を新婚の二人に明け渡して、北陸山代温泉等に孤情を慰めた。さらにその足で東京へ出て、かねて執心
の中華料理店偕楽園女中の一人を妻にと、偕楽園主であり旧友である笹沼源之助を訪ねたものの求婚の一件はさりげなく笹沼の妻に「捌かれ」て空しく関西へ帰
り、すぐ吉野山へ籠って『吉野葛』を書いた。この球根の旅がどこかで『吉野葛』津村の妻問いの思いに関わっていないとは限らない。
魚崎なる根津家の隣に住みける頃
うつり来てとゝせになりぬ難波津の何に引かるゝわれにかあるらん
昭和七年『倚松庵十首』の頃の歌であり、松子夫人著の『倚椅松庵の夢』に、谷崎が根津夫人を垣根一重の自宅に招いてはじめて「お慕い申しております」と
打明けたとある頃の歌だ。大正十二年に関西へ「うつり来て」以来「とゝせになりぬ」という宿世の思いに支えられて、この恋が、実は一朝一夕のものでなかっ
たことを、「何に引かるゝ」という詠嘆が十二分に明している。
そのとしの夏人と情死したりとの噂立ち、夜半に新聞記者の襲撃にあふ
難波江のよしあし草もよしや世にみをながらへてありぬべきかな
ちぎりおきし松の齢の千代かけて木影の露も身こそをしけれ
当時某夫人の手紙に、デマの出所は「もと横浜であかしやのお千代さんといふ有名な夫人がありましていまは銀座にバアを出してゐる人」だったらしく、「バ
アの名前も谷崎がつけてあげたはずです」とある。その詮索は措いても谷崎の「死んでたまるか」という歌は面白い。谷崎はこれを色紙に書いてわざわざ東京の
佐藤家その他へ送りつけている。この頃丁未子夫人との仲は全く冷却し、根津夫人松子との恋愛は加速的に進んでいた。それにしても巧みではないか、現代歌人
の殆どにこんな「藝」はないのを私は知っている。
そのとしの冬
小夜ふけておきいでし妹がまくらべに酒くみてあれば木枯の吹く
この「妹」が丁未子夫人か根津夫人か、いずれとも読めるが、歌の情緒は正反対になる。昭和七年十二月、丁未子夫人と別居直前、修羅揚のあとの沈黙を見据
えた歌かと私は見ている。
娘より送金の催促ありければよみて遣しける
難波江にあしからんとは思へどもいづこの浦もかりぞつくせる
母千代とともに佐藤家にある長女鮎子の生活費は谷崎の方でも負担していたのだが、当時の谷崎ははなはだ手もと不如意で借金と稿料前借とをふだんの事とし
て暮していた。「おあし」を借るにも諸方借り尽したと嘆いているのに、歌い口は妙に楽しそうだ。同じ貧乏でも谷崎流の贅沢をするには不如意だ、不足だ、と
いう貧乏なのだから、余裕はある。
小説蘆刈の巻尾に題す
あしかりかあしからじかは白波のよるよる人をこひ渡るかな
藻塩草かきとゞめけり住の江の岸によるよる夢をつゞりて
『蘆刈』が根津夫人松子への恋の供物であったことは今では明らかになっている。まさに恋の「夢」物語であった。
但しこの恋、母恋いでもあったところに昭和初年の谷崎文学を語る鍵がある。
昭和十二年十一月下旬妹尾夫人急死す、ゆかりの月と云ふ舞を好みて舞ひし人な りければ
面かげの忘られなくに秋の夜はゆかりの月の影の冴ゆれば
妹尾夫人をおもひて
傘さして舞ひけん人をしのべとや昨日もけふも淡雪のふる
妹尾キミ子という当時岡本在住のこの女性は、夫妹尾健太郎とともに、昭和初年の谷崎潤一郎を語る場合、決して看過ごせない役割と立場とを占めていた。
『猫と庄造と二人のをんな』の「猫」とは、或る意味でこの妹尾夫人ないし妹尾夫妻そのものを指すとさえ断言できる位であり、とくに谷崎はこのキミ子夫人が
大のお気に入りだった。『蓼喰ふ蟲』連載の頃から谷崎、妹尾両家には親密な交際があり、とくに『吉野葛』や『武州公秘話』にこの夫妻は重大に関わり合って
いたことはやがて証明される(湖の本エッセイ『神と玩具との間』参照)であろう。
偶作
よき人とよき日を送る今ながらよきこと二つなき世なる哉(家計のまゝならぬを思て) あはれあはれかたみにいかによかりけん十年も早くかゝらましか
ば
昭和十三年六月頃、『源氏物語』の現代語訳に熱中の間の述懐である。この現代語訳の作業が、意味深く松子夫人との結婚生活に関わり合っていた事情が察し
られる。松子夫人との結婚こそ谷崎の「源氏物語」体験の核なのであった。
八月十七日東京に行き玉へる人の歯を病み玉ふときゝて
初秋の身に沁む風よあづまなるわが思ふ人の歯には沁まざれ
随筆『初昔』にもあるように、昭和十三年秋上京中の松子夫人に谷崎が送った歌である。この直後に夫人の妊娠がはっきりする。結局、松子夫人出産の決意を
谷崎が強引に阻んでしまったことも『初昔』に詳しく、『細雪』にも、後年の『夢の浮橋』にも絡み、また松子夫人を子を産まぬ紫上に見立てた谷崎の「源氏物
語」体験の一つの苛酷な痛点とも言える一件であった。
九月九日源氏物語脱稿
名も知れぬ草にはあれど紫のゆかりばかりに花咲きにけり
「紫のゆかり」とは藤壷の縁でいう若紫、紫夫人のことであり、即ち谷崎源氏にとっては松子夫人にほかならない。脱稿の感慨に直ちに「紫のゆかり」を言って
ある意味は、なぜ昭和初年の果てに、松子夫人との結婚直後に、『源氏物語』の訳業が続かねばならなかったかを思い併せても、はなはだ重い。
おくれなば尼にならんといふ人と嵯峨野のむしをきくゆふべかな
昭和十七年以降、終戦までの詠らしい。嵯峨は、かつて松子夫人の案内で神護寺に籠り『春琴抄』を書いた当時を含めて再三遊んだ土地であり、歌の背後には
この夫婦のやや世ばなれた真情と同時に一風ある芝居気も感じとれなくはない。
たゝかひのあと名残なく雲はれてさやけき空をてらす月かげ
たゝかひにやぶれし国の秋なれや野にも山にもなくむしのこゑ
昭和二十年の敗戦を素直に詠嘆している。同じ『松廼舎集』でも、昭和初年代と十年代とでは、時代が下るほど、よりたくまず自然に言葉が口をついて出てい
る風情がある。
この集には、ほかに人に乞われての巧みな即興歌が幾つかあるのを、二、三挙げて置く。
大和の国三輪のそうめん屋池田栄三郎といふ人より歌を求められければ
千早振神のをだまきしのぶとてそうめん晒す三輪の里人
善三郎氏長女富美子嬢の結婚を祝て
いつしかと見し故郷の人の子はよき児になりて嫁ぎけらしも
画廊大塚氏令嬢山吹八重子嬢のために
ゆく春を庭の籬にせきとめて七重に八重に咲ける山吹
また、
己が子を嫁に行かせて人の子を育つる我は老いにけらしも
など、無造作な歌い口ながら感慨は深く、「道楽」「趣味」の域を幾分越え出た実意の深い歌境と見えなくはない。
二
谷崎が和歌を語った文章は寡い。寡くてなに不思議はないが、だから谷崎を語って和歌は要するに「真似事」「道楽」「趣味」に尽きるかとなると、そうは言
えない。それどころか譬喩的に謂えば谷崎潤一郎の文学、その構想、その文体、その文章、その韻致のすべてが、よく比較された志賀直哉の文学を「短歌」的と
すれば、まさに「和歌」的な特色を持っている。
谷崎が詠んだ和歌そのものはなるほど名歌秀歌の域に距離はあろうに相違ないが、例えば谷崎の書く随筆はどうか。小説以上に谷崎の随筆を推称し愛読する読
み手が多いのはよく知られたことであり故なきことと思えないのだが、その魅力は、存外に『岡本にて』で和歌を語った式の、「即吟即興」、実に自然になだら
かに、少しもたくまずに口をついて出ると見える語り口にこそあるのではないか。
昭和八年の『藝談』(「改造」三〜四月号)に就ては拙稿『谷崎潤一郎論』が専ら述べていて(本書巻頭)、それ自体がこの谷崎潤一郎の『家集』に対する包
括的な解説の役をするであろうと私は思うくらいなのだが、その『藝談』に次のような文章のあるのをぜひここに引用したい。
先日、吉井勇君が「新潮」に書いてゐる随筆を読んだら、西行法師の和歌を論じて、西行と云ふ男は二十三歳で出家をし、七十三歳で世を終るまで五十年間を
さすらひの旅で暮らした、その思ひ切つた世捨て人の生涯には頭の下るものがあるが、しかし割り合ひに感心するやうな和歌が少い、と云つてゐるのが眼につい
た。佐藤なども吉井君と同意見で、「山家集」には傑れた歌がない、西行なんか何処が偉いのか分らぬと云つてゐたことがある。なるほど、一つ一つの歌を取り
上げれば両君の云はれる通りかも知れぬ。着想、技巧、云ひ廻し等は、或ひは定家や家隆の方が上だと云へぬこともあるまい。が、これは私の持論なんだが、歌
人の歌と云ふものは何もさう一つ一つの歌が際立つた秀歌でなくともよい。現に吉井勇君の歌なども、私は現代の歌人中此の人を最も歌人らしい歌人として尊敬
してはゐるものの、さう云つては失礼ながら、取り立ててそんなに傑れたと云ふやうなものは少いではないか。それにも拘はらず君の歌が深く私の心を打つの
は、君が二十歳前後から五十近い今日に至るまで、三十年間も倦まず撓まず諷詠をつづけ、多少の変遷は認められるにしろ大体に於いて一貫した調子と感興の歌
を、繰り返し繰り返し歌つてゐるところにある。これは才や人真似では出来ないことだ。(中略) 西行にしても同じことだ。私は勘定したことはないが、山家
集の中には桜の花を詠じた歌が何十首となくある。咲く花を待ち、散る花を惜しむ心を、繰り返し繰り返し実に根気よく歌つてゐる。(中略)
それらのすべてが必ずしも秀歌と云ふのではないが、折に触れて重ね重ね洩らしてゐるところに真実さがある。一首を取り出して巧拙を論ずるのは抑も末だ。
様子をかへ、言葉をかへて、同一の境地に沈潜し、同一の思想をなぞってゐるところが値打ちなのだ。(中略)
近頃の歌人が推称する良寛や愚庵などの人気も、和歌は第二で、恬淡無慾なあの生活が何よりも民衆の心に「頼り」を起させるのであらう。(後略)
論旨の是非は措くとして、ここに谷崎の本音が響くとは確言できる。西行や吉井勇の歌に寄せて、何より谷崎は昭和初年の己が文学に就て弁じているのであ
る。決して自分の「道楽」であり「趣味」である和歌を語っているのではない。それだけにこの谷崎説には揺がない「和歌」への固定観念が凝っていて、昭和四
年の「即吟即興」「小便をたれるやうに」説とも脈絡正しく呼応している。自然、谷崎.が折に触れて重ね重ねつくる和歌の性格も意味も役割も程度も限界も
はっきりしていて、そのどれ一つもを谷崎は決して打ち破り突き崩して新たな歌の境地をめざすなどということは考えない。
むしろ我々は谷崎の、少くもその後半生の小説が、戯曲が、随筆が、そして谷崎一流の私生活の在りようが即ち本質的に「和歌」的なのだということを納得し
た方が遥かに有効で産出的な視点を確保できる。谷崎は二冊めの家集『初昔
きのふけふ』の中に和歌を指してはっきり「国風」と表現しているところがある。昭和三十七年「八月十九日」の述懐歌である。
ふるさとは田舎侍に荒らされて昔の江戸の俤もなし
当用漢字新かな使我は知らず書痙の手もて国風をしるす
前の歌はこの年十二月の毎日新聞へ『京都を想ふ』を寄せた中に、サイデンステッカー氏に贈った色紙歌だとある。その後の歌の「国風」ははじめ「やまと
歌」とあったのを言い直したものである。和歌即ち国風と考え、国風に徹しようと敢て難しい道を辿ったのが後半生の谷崎文学であり谷崎の私生活であって、自
然それは根本「和歌」的と言いうる生涯であった。皮肉な廻り合せで、冒頭の対談から引いた「やっぱり歌をやってるものが日本の文学を理解していると言いた
くなる」ような道を谷崎は小説家として歩み通したのである。馬場氏の言う「歌をやってるもの」とは御当人も含めて明らかに「短歌」をつくっている現代歌人
の意昧だろうから、短歌、和歌の現代に於ける厳格な相違を意識するなら、馬場氏の言うことは「和歌」的な小説家谷崎にこそ嵌れ、逆に現代「短歌」歌人にそ
のまま当て嵌めて正しく良いことなのかどうか、「短歌」のためにも「歌をやってるもの」のためにも一と思案が要ることだろう。
むしろ私はこう言おう。
谷崎潤一郎は和歌をこそ国風と体しながら、しかも歌ならぬ小説、随筆、戯曲を主軸にした散文家としての文学生涯を巨大に構築した、と。谷崎の歌とは、そ
の文学生涯に於ける「汗」のような分泌物、「小便」のような排泄物なのであった、と。
谷崎の歌のそういう持ち味は、だが多くの谷崎論者にも閑却ないし無視されてきた。気付かれず、気付こうとも努められなかった。だから、「酷評」して「溜
飲」を下げる人はいても、谷崎家集の出版はゆかり深い中央公論社ですら今もって実現していないのである。
どこかで谷崎は、いささか光悦流の書を学んだことを語っている。が、その実は町方の、お旦那衆の御家流を汲んだと言えるもので、時に粗放、時に豊麗な達
筆というのが最近一気に数十通の谷崎自筆の書簡を筆写してえた私の実感だ。そして、谷崎の歌はそんな谷崎の書体ともきっちり符節を合しているのだというの
も実感だ。つまりはその歌も書も町人の藝なのである。
谷崎自身が再三認めているように、谷崎文学はつまりは町人文化に胚胎している。その町人文化とは、良い意味でも強かで貪欲な模倣を基本の衝動と推力にし
ており、谷崎の「源氏物語」体験とても模倣衝動による臆面なき追体験なのであり、そのいわゆる藝術至上主義には「かぶき」のけれんに拍手喝采した江戸町人
たちの殆ど体質とも化した「芝居気」がしみこんでいる。
谷崎の歌は、そういう彼の町人性との関わりから見ればいよいよ一人の男主人、一人のお旦那の「道楽」「趣味」に見えかねないし、そうと言い切れもする一
面があって、だからいよいよ軽視されてきたには違いない。
だが、だからこそ逆に、ないし反語的に、谷崎の「歌」は谷崎の「文学」の魅惑の質を解き明す材料とも十分なりうるのではないのか。いかにも谷崎の歌は、
太い骨や分厚い肉を具え艶やかな皮膚と熱い血汐をもった谷崎文学という構築物から分泌排泄される、汗か小便かのようなものだが、その匂いや形から肉体その
ものの生理を復原的に推知し捕捉することは不可能でないに違いない。歌は趣味や道楽ゆえに却って表向きの創作以上にそこには谷崎の素肌も素顔も体臭すらも
窺えるからだ。
すでに子規や晶子から茂吉や白秋の時代を経てさらには昭和三十年代も押しつまってなお、老いの一徹という向きもあるにせよ「和歌」を「国風」と言い張る
谷崎潤一郎の文学風土は、直ちに復古的とか保守的とか言えなくもない。が、敢て言えば、実はそういう「和歌」をこそ谷崎文学構築のための排泄物としている
生理の方を我々は大事に直視しなければならないだろう。和歌を、国風を即ち十分用済みの排出物として体外に分泌し排泄する一方で、谷崎の晩年が真摯に追求
し構築したのがあの前人未到の『鍵』や『瘋癲老人日記』であり『台所太平記』でありえたことを直視しなければならないだろう。その見合いの上で私は、谷崎
に於ける本質的な「和歌」性と、排泄物としての「和歌」そのものとの混同を厳に退けねばならぬと思うのである。
谷崎は但し「小便をたれるやうに」詠んだ自分の歌を、ただ詠み捨てて顧みない人では決してなかった。とくに『初昔
きのふけふ』の歌稿はこのまま定稿として公表していいかと迷うほど丹念に手が加えられ加えられてまだ完成されないままの歌をも多数含んでいる。中には、最
初の発想が直し直されて逆の意味の歌に変ってしまっているものすらあり、直しの過程に谷崎のさながらの息づかいを聴く心地がする。明らかに「勉強」の態度
が窺えるのである。
以下『初昔 きのふけふ』から、やはり資料性に重きを置きつつも私なりに感銘をえた面白い歌を紹介して行きたい。
箱根路は雪や降るらん西山の谷間の里は冷え渡るなり
『細雪』上巻を熱海西山の別荘に籠って書いていた昭和十八年の歌であり、『初昔 きのふけふ』の巻首を占めている。
父母廿七回忌
ちゝの実の父の佛に柞葉の母の菩薩に花たてまつる
偕楽園年会席上の詠であり、こういう一見巧んだ歌が存外自然に谷崎の感懐を表現しえているのは、やはり父母への想いの深さというものだろうが、身につい
た谷崎の芝居気ゆえとも見える。「芝居気」が「はにかみ」を隠すマスクになる、と、大きな役者のように谷崎の身振りまでが派手になって巧いのだ。それも谷
崎文学だ。
十二月、生田薬局に
つのくにの生田の森の幾千代も生くべくこゝの薬召したまへ
こういう色紙を貰った側の悦びようの方が先に胸に来る。
昭和十九年正月御寮人へおくる文に
鶯よとくとく来ませ西山の狭庭の梅ぞ今さかりなる
三月廿九日魚崎にありて(黒瀬嬢庄司夫人に書しておくる)
あり経なば又もかへらん津の国の住吉川の松の木かげに
四月十五日魚崎を立つ(山口光子夫人に色紙を求められければ左の歌二首(ママ)を 書きて送る)
ふるさとの花に心を残しつゝ立つや霞の菟原住吉
廿三日西山の桜花ちる
山里はさくら吹雪に明け暮れて花なき庭も花ぞちりしく
事実上、この時が谷崎潤一郎の久しかった阪神間住居との訣別だった。熱海西山へは一家を挙げての疎開だったが、魚崎の自宅は昭和二十年、岡山県津山市へ
再疎開中の八月六日に空襲で罹災している。
西山へ移った昭和十九年七月には、『細雪』上巻の私家版上梓すら軍当局の忌避に触れた。戦局は日々に険しかった。
わぎもこをいとしと思へばむらぎもの心をつくし金を作るも
故郷は今はいづくぞ若草の妻の籠れる伊豆の山家ぞ
暮し向き不如意のさまが思わず口をついて喞たれているようで、しかもこう歌えるゆとりにはあの生き難い時を生き惑うた覚えのある人を改めて驚かせる強か
さがある。
十月二日平安神宮を訪ふ
くれなゐの雨としだれしその春の糸桜かや夢のあとかや
おとどいが袖うちかけしおばしまに緋鯉真鯉等けふもつどひ来
大極殿の春のエハガキに
春来ともあやなく咲きそ糸桜見し世の人にめぐり逢ふまで
この旅は谷崎の一人旅であったらしく、『細雪』執筆と無縁の感慨でないことむろんである。都合十首をこの時詠んでいる。『細雪』上巻を仕終えた余韻を、
ひとり花の春を想いつつ秋の平安神宮内苑に佇んで聴き入る谷崎の姿が髣髴する。
昭和二十年一月一日
新玉の年のはじめの若水のみづはくむまで生きんとぞおもふ
瑞歯にかけた巧みよりも、どんな時にも、敗戦まぢかなこの絶望的な国運のもとでも、ぜひ生き抜こうと思う谷崎その人に眼を向けたい。
吉井勇氏疎閉
たゞ頼む越路の山の雪とけてかへる都の春のたよりを
そして谷崎家でも、遥か津山市へ戦火を避けての再疎開が不可避となる。
花に来て花に別るゝ西山の柴の庵の旅のひとゝせ
五月魚崎にて
かゝる世にあふこそ憂けれよき時にわが父母はうせ給ひけり
五月津山に移り住む。今こそ谷崎は大女所帯の紛れない大家長だった。この流亡の時に谷崎ははじめて大旦那としての本然の姿を自覚したのである。その姿は
最晩年まで維持されて、『台所太平記』の大団円を迎える。須磨から六条院へ、の風情である。
夏の日のあつきめぐみの畑つ物得まくぞほしき豆も玉菜も(野菜を乞ひにやるとて)
さすらひの群にまじりて鍋釜を負ひ行く妹をいかにとかせん
あさな夕なせとの小川に皿小鉢あらふもをかし浮世と思へば
なつかしき都の春のゆめさめて空につれなき有明の月
山川の瀬におりたてる釣人のこぶらもしろき浪の花咲く
秋来ぬと告ぐる風より故郷のたよりに先づぞおどろかれぬる
すでに国破れても、なお昭和二十年の内に谷崎家は津山を離れることが出来ない。谷崎は十月下旬に上京して『細雪』その他の出版の打合せをし、熱海、阪神
に立寄って十一月中旬に津山へ戻っている。
すさまじとかねても聞きし山国の物みな凍る冬は来にけり
昭和二十一年正月
美作の山のかひなる旅籠屋に春を迎ふる年もありけり
おりたちて馴れぬ厨の水仕事したまふ人にしら雪のふる (重様を)
海の幸山の幸背負ひ妻恋ふとえぞより来ます美作の国へ (明さんに)
「重様」とは妻の実妹渡辺重子であり、『細雪』の雪子に当たる。「明さん」はその夫渡辺明であり、北海道の勤務先からこの津山へ別居中の妻を訪ねて来た事
情はのちの『三つの場合』の内の「明さんの場合」にくわしい。重子は渡辺の妻となってのち戦局の激しさにもわざわいされて、谷崎家の姉のもとに、そして谷
崎自身の歓迎のもとに行を倶にすることが多かった。北海道へとこの妻が夫と同行することに義兄谷崎も姉の松子夫人も賛成でなかった。二人ともがこの「いも
うと」を身近に置きたかった。『細雪』の中で、よく読めば義兄貞之助がいっこう雪子の縁談に熱心そうに見えない背景が、この二首の歌にも透けてみえる。
「重様」「明さん」という表記も、「を」と「に」という助辞一音にも。
しめやかにまどゐしをればさやさやと障子にきゆる薄雪のおと
漸くに雪は晴れたりうなゐらはつらゝを折りてもてあそぶなり
はるけくも北に海ある国に来て南になりぬ雪の山々
三月中旬上洛
国は破れ人はすさみし春ながら都は嵯峨の花盛り哉
昭和二十一年三月、単身谷崎は上洛して新たな住居をさがし、五月には京都市上京区寺町今出川上ルにひとまず仮住居を置いた。
おいぬれば京の旅籠の如才なき客あしらひもうれしかりけり
八月家人老を嘆ず
朝寝髪枕きてめでにしいくとせの手馴れの皃も痩せにけらしな
南禅寺に家を求む
わが庵は花の名所に五六丁もみぢに二丁月はゐながら
さて、昭和二十二年から二十四年の文化勲章をはさんで二十八年頃まで、歌は急に数寡くなり印象的な作も見えない。しかも『初昔
きのふけふ』の半数ちかい歌が、昭和二十九年以降に再び詠まれている。この事実が谷崎の年譜との関連で何か意味をもつかどうか、前後八年にわたる『細雪』
の完成(昭和二十三年)『少将滋幹の母』の発表(二十四年)そしてまたもや『源氏物語』新訳に没頭した昭和二十六〜二十九年までは、戦後の谷崎のそれなり
に巨大な連峰をなしていた。この時期に谷崎潤一郎は名実ともに日本現代文学の至宝として、昭和初年に数々築き上げた文業の意味をまた一段と大成させ確認し
て行ったと見られる。
それにしても、『吉野葛』『蘆刈』などの「母恋い」を踏まえて第一次の『源氏物語』訳に入って行ったことと、『細雪』に次いで『少将滋幹の母』を書かね
ば済まなかった同じ主題上の必然のあとに再度『源氏物語』新訳を実現して行ったのと、この両者の関連およぴ評価が、戦後の谷崎文学を論究する最初で或は最
大の眼目にならねばならないだろう。昭和二十九年の『源氏物語を成し終へて』(「中央公論」十一月号)の感慨と、極くさりげない『妻を語る』(「週刊朝
日」十一月)との接点が私には何とも微妙に物を言う気がしてならない。
三
新訳『源氏物語』の成った昭和二十九年以後の十年が谷崎潤一郎の文字通りの晩年であった。しかも谷崎の晩年は枯淡でも老衰でもない意欲と円熟との絶巓を
形造る。谷崎の歌もまた、そういう晩年の「排泄物」にふさわしい一種強烈な奇臭を放つのである。
廿八年三月清治夫婦の初産を祝して
朝ぼらけたなびく山の白雲は峰のたをりの桜なりけり
根津清太郎と松子夫人の実子清治は、すでに渡辺明の未亡人となっていた重子の養子に迎えられて妻千萬子を娶っていた。「たをり」はその夫婦の仲に生まれ
谷崎が名づけた第一子であり、谷崎の晩年にこの渡辺一家の落す翳はこもごもに煌めき煌めいて無視しがたいものがある。
廿九年六月
ほとゝきす潺湲亭に来鳴くなり源氏の十巻成らんとする頃
渡辺の孫の家に夏来ぬと北白川にほとゝきす鳴く
三十年七月中
茅渟の海の鯛を思はず伊豆の海にとれたる鰹めしませ吾妹
「ほとゝきす」「潺湲亭」「源氏」そして「茅渟」とつづけば、もうはや名作『夢の浮橋』の世界が谷崎の脳裡にもやもやとかげを浮かべている気はいである。
丙申新春(昭和三十一年)
あたらしき年の始めにうつくしき有馬稲子と相見しかなや
渡辺たをりの歌
渡辺のたをりに母の名をとへばちまこといひて文字はいまだし
渡辺のたをりの母の名は千萬子かしこく若く美しき母
渡辺のたをりのばゞは大きばゞちひさきばゞと煙草すふばゞ
渡辺のたをりは舞の扇持ち井上流にお時儀するかな
この一連はとくに見すごしがたい。三人の「ばゞ」とは言うまでもなく『細雪』のあの美しきおとどい三人と見て相違なく、この三人に代って「かしこく若く
美しき」千萬子という女性が老いの谷崎の中で新しい「女」の像を演じはじめるのだ。やがて『瘋癲老人日記』の颯子に相当するこの女人を、谷崎は晩年の精魂
を傾けて脳裡に創作して行く。
しかしまだその前に、谷崎としてはぜひ越えねばならぬ「関」をもっていた。久しく久しい「母」と「妻」の主題に結着をつけねばならなかった。
今絶ゆる母のいのちを見守りて「お関」と父は呼びたまひけり
わきもこの齢をきけばいとほしや母のよはひに君もなりにけり
こゑあけて怺へ性もなく泣きたまふ頑是なき人わがともし妻
秋の夜のむしといふ虫のこゑこゑにちゝの声きこゆ母の声きこゆ
父こひし母恋ひしとや啼く虫のこゑきく秋の夜となりにけり
母恋い、父恋いの『夢の浮橋』(昭和三十四年)はぜひとも書かれねばならず、この作品を書く谷崎の構想には、恋に燃えて松子夫人の理想像を彫り刻んだ昭
和七年「倚松庵」当時の『蘆刈』が下敷にあったことを、久しく人は気づかないで来た。
そして昭和三十五年「心」の一月号には『千萬子抄』十一首が発表される。歌は前年十月の稿であると附記されているから『夢の浮橋』が出た直後の作であ
る。
この一連の歌を抜きにして多分『瘋癲老人日記』の構想は語れまい。すこしく紙数を割いて当時「心」に発表されなかった歌も併せ紹介してみたい。
京都北白川の白川街道も、今では叡山バスなど.が通つて少し騒々しくなつてゐる。だがあの道を東へ折れて白川の流れを渡り、如意ケ嶽の麓の方へ進
むと、まだいくらかは閑静な趣を存してゐる。私の妻の妹渡辺未亡人の家はお花畑に沿うたその道端に建つてゐる。そこには義妹の息子と、息子の嫁の千萬子と
がゐる。私はあの山間の環境が好きなので、ときどき気が向くと遊びに行くことにしてゐたのだ.か、去年の秋から病みついたので、長途の旅に出られない身に
なり、今年はとうとう行くことが出来ずにまつた。それにつけて思ひ出すのは、去年の十月千萬子から手紙が来、若杉慧氏の「野の佛」と云ふ写真集を買ひたい
のだが、値段が張るので躊躇してゐると云つて来たことがあつた。そこで早速購つて送つてやつたことがあつたが、ついでに腰折が二十首ばかり浮かんだので、
それも後から書いてやつた。今その中から十一首ばかりを選び出してみた。
手に触れて石の佛を愛撫する千萬子に秋の風な吹きそね
みちばたの石にきざめる野の佛千萬子がめづる石佛あはれ
おどけたる石の佛の眼、鼻、口、千萬子に問はん誰にかは似る
風化せる石の佛に言問ふと千萬子は立つか秋の野中に
としを経し地蔵菩薩も君恋ふと頸にかけたる紅きよだれ掛け
御殿橋打ちとゞろかし沸つなり北白川の滝の落ち口
御殿橋わたりて行けば白川の川の滝つ瀬どうどうと鳴る
トレアドルパンツの似合ふ渡辺の千萬子の繊き手にあるダリア
わたなべの庭の芝生に向日葵の花々揺れて歩むスラツクス
向日葵の大輪の花一列に誘蛾燈もゆる夜は静かなり
向日葵の花赫奕と八月の千萬子の庭の烈日の下に
この『千萬子抄』(はじめ「石佛抄」を、改題)のかなり長い詞書は、前半と後半のつなぎめでやや唐突に切れた印象があり、その唐突さが却って谷崎の千萬
子という女性に寄せる老いの思いの一途さを感じさせる。『野の佛』を買ってやったあとから「歌」も送り届けたという臆面もなさは、なかなかのものとでも言
うしかない。
だが「心」の歌は十一首ともおおよそ尋常で、第四首、第八首、第九首くらいが老文豪の感覚として新鮮に映る程度である。また千萬子への谷崎自身の感情を
直かに推量させる歌としては、第五首の、「としを経し地蔵菩薩も君恋ふと」の表現が目立つ程度である。
一方、家集『初昔
きのふけふ』の歌稿では「十月五日若杉慧著『野の佛』と云ふ書を千萬子に送りて」と詞書して、たしかに「二十首ばかり」が記載されているものの、公表を
憚ったうち約半数がすでに見せ消ちになっており、他にも一首の歌に仕上がるまで何度も何度も語句を選び選び直したものが幾首もある。
とりあえず、見せ消ちの歌から挙げてみる。
道ばたの石にきざめる野の佛たをりの母が手に触るらんか
われもまた北白川の道ばたに石に彫られて君に触れなん
秋の野の石となるとも美しき人の手ぐさに取られてしがな
道ばたの石と彫られて美しき人の手にだに触れんとこそ思へ
おどけたる石の地蔵となりて君.が行く路のほとりに立たんとこそ思へ
おどけたる石の地蔵は君恋ふと頸にかけたり紅き涎掛け
白川の川瀬のおとが聞え来ぬ千萬子やいかにたをりやいかに
千萬子がり橋を渡れば白川の川の滝つ瀬どうどうと鳴る
まさしく瘋癲老人その人ではないか。これらの歌をしも谷崎が渡辺千萬子に本当に送っていたのなら、かなり話は際どくなる。だがまたこういう際どさとは、
かつて松子夫人とともに熱烈に共演した「順市」演戯とも相通う、谷崎得意の「芝居気」と見てはじめて面白く割り切れる。所詮は『鍵』にせよ『瘋癲老人日
記』にせよ、作家自身がよほど醒めていなければ書き切れない辛辣な文学なのであり、醒めておればこそなおこののちの『台所太平記』の寛らかな大団円に一分
の狂いも見せなかったのだ。『瘋癲老人日記』結末の明快で尋常で冷静な颯子の手記は、ほかでもない谷崎自身の創作になることも忘れてはなるまい。
『家集』には、発表された『千萬子抄』が採っていない歌もかなりある。(括弧の中は、見せ消ち)
秋の野の石の佛をいとほしむ千萬子のこゝろ愛しかりけり(からずや)
北白川御殿の跡(君が住む北白川)の道ばたに(の)野の石佛と化すよしもがな
おどけたる石の地蔵に身をかへて千萬子の門に立つと見し夢(君が門べに立たんかなわれ、立たんとぞ思ふ、立つよしもがな)
うつくしく年若き母いますかし御殿橋のあなた渡辺の家
御殿橋わたれば早も見ゆるかな千萬子がいます(菜の花にほふ、お花畑の)わたなべの家
トレアドルパンツの似合ふ渡辺の千萬子はダリァ摘みに出でたり(年若き妻ダリアを植ゑる、.年若き妻の手にあるダリア、たをりの母の手にあるダリア、
千萬子の繊き手にあるダリア)
わたなべの千萬子の芝生に向日葵の花々ゆらぎ見ゆるスラツクス
私は、ここで谷崎が、千萬子を目して清治の妻と見る以上にたをりの「母」と見る視点により執着しているのをとくに指摘しておきたい。私自身まだ試みては
いないが、『瘋癲老人日記』の颯子はよくよく読み直されていい、ナオミ甦りの、「痴人」谷崎が最後に創造した鮮烈な女人像に相違ない。颯子に直面し『千萬
子抄』を読んでいると、つくづく谷崎潤一郎の『伝記』は完成されていないと思わざるをえない。
香港の花の刺繍をちりばめし沓に踏まるゝ土とならばや
さながら颯子の面影を慕う瘋癲老人「芝居気」たっぷりの息づかいに籠もる本音が、ここにも聴える。
春琴堂女将に
さつま潟渡の津より嫁ぎ来て黒髪あらふいでゆ湯ケ原
『台所太平記』のひとこまである。谷崎の歌はこういう類がひときわ巧い。谷崎の和歌「小便」説に最もしっくり符号しているのがこういう歌なのではないか。
あけがたの妻の寝顔に一抹の憂ひの翳あり何おもふらむ
我といふ人の心はたゞひとりわれより外に知る人はなし
昭和三十八年には『「撫山翁(笹沼源之助)しのぶ草」の巻尾に』と『雪後庵夜話』を書き、後者の巻首に「我といふ人の心は」の一首を据えた。
『雪後庵夜話』の執筆動機に谷崎潤一郎の最晩年を解く、ということはまた、隠す、鍵が秘められてあるというのが私の推測だ。これは、明す文章ではなく、明
しながらより深く何かを守り秘する文章なのではないか。そのことは「一抹の憂ひの翳」ある「妻」の嘆きとよも無縁ではあるまいと思う。
たしかに『台所太平記』の妻讃子は文豪の円熟に寄り添う世にも幸せな老妻に違いない。もとはと言えばこの妻は、おさんという妻の「座」を脅かす紙屋治兵
衛の愛人小春(ないしお久)として昭和三、四年の『蓼喰ふ蟲』にはじめて谷崎文学に登場した。その愛人小春が、三十余年を経てあたかも女房おさんにと逆転
変身した姿が『台所太平記』の讃子だったのだ。十分幸せなこの讃子にも、「妻」讃子であり「女房」おさんの変身なるがゆえに「一抹の憂ひの翳」を持って暮
さねばならない「針の莚」の妻の座を守り抜く長い戦いがあったろうとは、『倚松庵の夢』の幾篇かからも切なく察しられる。
しかもそんな「妻」を傍らに眺めながら谷崎という「夫」は、「われより外に知る人はなし」の「心」を『雪後庵夜話』に籠めている。谷崎論者は、よほど心
してこの一読率直そうな晩年の随筆を本文に密着して読み直す必要があると私は思う。おそらくはネス湖のネッシー以上の怪物がその「心」の底に棲んでいる気
がする。
こんな最晩年の歌がある。
柏木
飼猫の身をうらやみて狂ひけん君の心は知る人ぞ知る
奇怪な含みの感じられる歌ではないか。谷崎は一方で「君」と呼びかけながらその実みずから「柏木」になり変っている。今すこし別の「源氏物語」体験がこ
こには秘められているのか、『初昔 きのふけふ』には猫とともに行動する谷崎の奇妙な歌や句が他にも幾つか含まれている。
沢村訥升丈に
うつし絵の夢の世界をたち出てゝ現身の美に生きたまへ君
谷崎の訥升びいきは『瘋癲老人日記』にも出ていた。映画より舞台に花を咲かせよということか。この訥升が折しも澤村宗十郎を襲名して私がこう書いている
一両日前久々に船乗込したという。新宗十郎、私も好きな役者である。この歌が詠まれた昭和三十八年前後には変りはてた東京の街に怒号する歌が二、三ある。
五月五日猿翁父子に贈る
いさぎよく猿翁我が名を譲りけん美し孫に幸あれとこそ
としを経し猿のおきな太刀そへて我が名を譲る美し孫に
佳い襲名だった。私もあの時、今は猛優の名も高い猿之助初演の「黒塚」を観た。つい先月にも観た。谷崎はあの初演当時まだ存命だったのかと想うとふと胸
が熱くなる。私自身は小説を書きはじめて一年経っていなかった。
癸卯八月二十八日家人還暦
難波生れあし火たく手は煤してあれどけふのこの日に本卦がへりす
少年易老
春の日の草をしとねの夢さめずはや梧の葉に秋の風吹く
谷崎の気息に漸く本物の老いがしのび寄っている。
新々訳源氏物語に題す
むらさきのゆかりばかりにもえいでし花の色香を忘れかねつゝ
むらさきのゆかりの色にもえいでし花のえにしをえやは忘る、
昭和三十九年の詠である。谷崎の文学生涯六十年、とくにその大事な後半生が『源氏物語』を分母にして営まれていた事実に、谷崎論者はもっと深切に眼を向
くべきであろう。そして「紫のゆかり」の松子夫人にも。
だが、同時に同じ視点から見忘れてはならぬ今一人にも眼を背けてはなるまい。
重子夫人を
五十余年正しき道を歩みたまひすがた形を崩し給はず
いつしかに霜を交へし鬢の毛やゆたけき髪はなほも変らず
かつてひつじどし生まれの義妹に谷崎は羊の絵に添えて歌を贈っている。
それにしてもこの第一首、これまた或る異様の声とは響かないか。――五十余年正しき道を歩みたまひすがた形を崩し給はず――とは、こは何事を谷崎は言い
たいのか。ここで咄嗟に想い至るのは『細雪』の雪子であり、光源氏に対する玉鬘豊のことである。
『細雪』の貞之助は義妹雪子の縁遠いことを結句苦にしていない気味さえある。いつまでも傍に置きたいとすら願っている。また光源氏はわが娘を装って引取っ
た玉鬘に終始際どく接近しながら、本意なく髭黒大将の妻に奪い去られてしまう。渡辺明の妻となった谷崎義妹の重子が玉鬘と違うのは、人妻になってののちも
夫とよりは谷崎家とより近く生きたことだろう。谷崎が高血圧に倒れたりした時も重子の献身的な看病ぶりは健気というも愚かなものだったとは、事情に通じた
或る人に(実は松子夫人に)聴いた話である。その「重子夫人」を谷崎は「正しき道を歩みたまひ」と歌い、「すがた形を崩し給はず」と歌う。玉鬘と光源氏と
が男女の愛に結ばれたかどうかは極めて極めて微妙なのである。何とも言い切れないのである。その上で谷崎のこの歌を読めぱ、谷崎はわが玉鬘に等しい「重子
夫人」が「正しき道」を踏んで「すがた形」を崩さなかったと証言しているのだ。
だが、そこが谷崎潤一郎のことである。これまた谷崎ならではの韜晦であるかも知れず、そのことを否定はし切れないのである。谷崎の何より『雪後庵夜話』
という告白の書には、ここの事情が秘され守られてはいないかという臆測、推測、いや邪推を私は禁じえない。ゲスの勘ぐりであるが、「重子夫人」と書いてい
る谷崎最晩年のペンの字は凄絶に顧え歪んでいる。
日本橋を十文字に切る高架線大東京の空の乱脈
木挽町に団十郎菊五郎ありし日の明治よ東京よわが父よ母よ
この歌、上三句「団菊と紅葉露伴ありし日の」の初案から手直している。「木挽町」の三字に谷崎幼年時代の夢がかけめぐる。激昂する気もちがよく分る。そ
してこういう歌だけをもし「ひどい」と酷評しているのなら、冒頭の池田・馬場両氏の気持ちも分かるけれど、親切でも慎重でもないのもまた確かでとうてい
「専門家」の姿勢とはいえまい。
病中吟
妻の手が酸素吸入のゴム管を支へながらもふるへつゝあり
そして『谷崎家集』の最後はいつの歌とも知れずにただ、
蝿(蟻)一匹眼鏡のふちを這ひ廻る机の上の秋の夕ぐれ
を消して、次の一首を録している。
書を読めば眼鏡の上を這ひ廻る蟻のうるさき秋の夕ぐれ
この「秋」――季節どおりの秋か、谷崎の胸懐に人生の秋を想うものあっての虚構の「秋」か、分らない。谷崎潤一郎の終焉は昭和四十年(一九六五)七月三
十日であり、絶筆として[婦人公論」九月号に『にくまれ口』と「中央公論」九月号に『七十九歳の春』とが載った。前者では光源氏と紫式部に谷崎式のにくま
れ口を利き、後者では実感ひとしおの「桜」賛美をしている。谷崎の最後を飾って象徴的な、かつ、ともにすぐれて立派な、ゆるみのない文章であった。
もはや『家集』に就ても谷崎の「和歌」に就てもこれ以上の贅言を用いることは何もない。この「歌」を、現代歌人や詩人が躍起に「酷評」して「溜飲」を下
げる必要のあるものかどうか、ごく正直な小説家の述懐として評価の重点を改めて貰えれば、また、谷崎文学との関連にも着目して貰えれば、満腔「谷崎愛」か
らする紹介の労もむくわれるというもの。
終りに、秘蔵の『家集』を託されて本稿のために機会を与えられた、谷崎松子夫人の御配慮に深い敬意と謝意を表します。
(改丁中扉 三号大 天ツキ 左右中央)
谷崎潤一郎論の論 ―未開拓の大正時代―
(改頁中扉裏 9ポ 下ツキ 左右中央 )
「学鐙」一九八五年二〜四月号
(改丁 本文9ポ 頭4行アキ)
初めに、気になること
作家論の盲点は、誰の場合でも褒貶と好悪とによらず絶対論に陥りがちな事にある。論者にそれだけの思い込みがつよく、なかなか相対化が利かない。譬えて
いえば都合よくトリミングした枠の中でだけ、当の作家や作品を思うままに踊らせたがる。私にも覚えがある。論旨のためにはたしかにその方がピントが合っ
て、くっきりする。そのかわり、とんでもない旨い話をデッチあげてしまう危険も大きい。もっとも谷崎潤一郎の場合は絶対も相対もなく、世の論策自体がもと
もと厚くも多くもない。没後に出た単行本級の研究や論が、今現在(一九八五)実質二十冊になお足りないのではないか。ま、量より質という話になればそれで
もいいのだが、相手が大きい。しかも大きさが掴みにくい。だから個々の作品や生涯の一部を立てて「論」じはしても、堂々と「谷崎潤一郎」の全貌を文学史的
に「評価」し「位置づけ」た仕事というのが、意外なほど無い。座標の設定が十分にもなにも、ほとんど出来ていないのだから仕方がない。例えば泉鏡花におけ
る村松定孝氏のような、森鴎外における長谷川泉氏のような実績豊かな、あの人は谷崎学者だといえるほどの研究者が、過去にも現在も事実上見当らない。これ
は、夏目漱石や島崎藤村とならび、混成の文学全集が出れば必ず二冊分をとる文豪にとって、実に異様で情けないというしかない心外な事実なのだ。
だが、芽はいくつも出ている。この近年の平山城児氏の念入りの追求や千葉俊二氏を中心にした早大グループの仕事、永栄啓伸氏や辰巳都志氏ら篤志の基礎的
な仕事は有難いものだ。だがそれとても例えば川端康成研究が、研究会を有効に組織して大きな実績を活字に積みあげているのなどと比べるとあまりに寂しく、
議論の応酬にも乏しいいわば何もかも成行き任せで、谷崎論の現状(昭和六〇年現在)は今のところ論の「質」より論者「人」の方がもてはやされている。それ
も有力な発言者はおおかた研究者ならぬ作家や批評家。
そういう実状を反映しているのだろう、版は幾度も替えているが『谷崎潤一郎全集』の、いわゆる「全集」としての編集手続きも、惜しむらくは岩波版『漱石
全集』や筑摩版『藤村全集』などの充実にくらべ、本文も索引も文献も年譜も、まだ何歩も何歩も後れをとっている。作家と作品研究の大きな基礎を成すもの
は、十全な「全集」と周辺資料の丁寧な収集以外にない。正しい読み深い読みも適切な伝記研究も、根気と目配りの利いた「全集」と正確な「年譜」の上に立っ
てこそ成って行く。
気運が欲しい。それが少年の昔から谷崎愛を胸にあふれさせて今も変らない、私の、「愛読者」としての期待だ。生誕百年、雰囲気づくりだけではダメで、そ
の「文学」が真に識られねば。
私自身は、今も言うように「読者」の一人に過ぎない。自分で「研究」したり「論策」したりする力も暇もない。が、叶えて欲しい夢はある。順不同にそれを
「課題」のように語っておきたい。
巷に隠れた気鋭の谷崎学者たちよ、願わくは聞く耳あれ。
一、谷崎潤一郎と五人の作家
私は、形ばかりだが漱石文学には小学校五年の初冬に、岩波版全集で出会った。潤一郎には昭和二十四年暮れからの「少将滋幹の母」新聞連載や翌年の一冊本
『細雪』で、藤村には高校へ進んでから筑摩の文学全集最初の配本の「破戒」や「新生」で出会った。
最初の漱石とは、かなり心もとない。むしろ潤一郎にやや遅れ、中学三年はじめに文庫本の『こゝろ』を人に貰って耽読したのが真実出会いだったろう。私は
その後もずっと変りなく最も敬愛する近代作家にこの三人を数えてきた。問われればそう答えた。今でも答える。
あまりにバラバラな、イロイロな、なんだか妙な好みですねとも何度も言われた。たまたま「全集」の二冊常連なのでそれでかと、いささか軽侮のまなざしに
あったこともある。だが根本に文学的共感を据えて言うなら、実にそのバラバラ、イロイロを私は進んで選択したのだし、いつも「全集」に二冊を占めるだけの
魅力実力にも私は素直だった。無節操とは思わない。柄の小さいもの、品下がるもの、与党的文学者に私は共感しない。
紙数も乏しく、今さら読者のまえにこの三人の文学史的意義を解説する労は省きたい。なぜ惹かれたか。この三人はむろん近代の人間主義を共有しているのだ
が、共有の仕方がずいぶん違う。作品の題に即していうと、漱石は人間の「心」を、藤村は人間の「家」を、潤一郎は痴人の「愛」を描き尽したという風にも言
える。あるいは漱石は「文明」を、藤村は「歴史」を、潤一郎は「性」を言い尽したとも言える。さらには、「漱石風」文学、「藤村風」文学、「潤一郎風」文
学という分けかたを仮りにして、これで重なりあう所があまりなく、日本の近代・現代作家の仕事はおよそこの三つの内のどれかに属した恰好で見ることも出来
る。むろんいつの世にも低俗なはみ出しは多いのだが。
私の仕事など棚上げして敢えて言うならば、この三人の文学のどれが好き嫌いというのでなく、その骨格と肉づきと血潮とを徹底的に相対化する作業から新た
な文学史の構築が、創作上、意図されねばならない機だと思う。いつまでも我こそ「漱石風」「藤村風」「潤一郎風」などと小さく拘泥っていないで、この三人
の作風を一丸としたような大文学が出て欲しいし、そうならなければ結局世界文学どころか文学精神自体の小粒化は進む一方になってしまうだろう。(現代に則
しいま一人を挙げるなら、藝術性は低まるが松本清張をわたしは大事に思っている。)
潤一郎に限って言っても、今さら志賀直哉や芥川龍之介との比較では実りに乏しい。文学の格(スケール)がちがうのだ。直哉の文章やリアリズムといって
も、いわば明治も後期以後の言文一致の運動がようやく煮詰まったかたちでの達成であり、冴えても澄んでもいるけれど、またどこか日本語の痩せにも繋がっ
た。芥川の近代も、今から見れば時代の小波に溺れ死んだに同じい、浅い、と言ってわるければかなり私的な自滅だった。
むしろ文学の問題として問いたいのは、潤一郎の六十年の文学生涯を賭しても、彼が藤村の世界とは相渉らなかった意味だ。両者にはほとんど具体的な交渉が
なかった。また潤一郎は、少なくも漱石作品「門」および「明暗」に対し彼なりに克明な批判を浴びせている。当否は措くとも、潤一郎が生涯漱石の書かなかっ
たところだけを意識して書いたのではないかとさえ思われる事を、私は以前に指摘しておいた。この二人こそ、どっちが表か裏かは知らず、私人である「人間」
の表裏両面を文学的に支え合い表現し合った作家だった。但し今の私たちの感覚からは、これに組織人である「人間」の表現が厚みをもって重なって来なければ
ならない。その点「家」と「歴史」を書き抜いた藤村文学は、この問題に示唆を与えつつ、独自の可能性も打ち出していたのではないか。
谷崎文学の本質論のためには、どうあっても漱石、藤村との(清張世界との)徹底した相対化の作業が必要だと思う。日本文学の新たな展望と構築のためにも
必要だと思う。
これと並んで谷崎理解を一層きめこまやかにする興味深い作業は、文学的に微妙に快を分かっている永井荷風、泉鏡花、そして佐藤春夫との入念な相対化だろ
う。単に伝記的に片付けてはならない。
潤一郎には、漱石のような西洋文化への理解を通して為しえた、いわばデッサンのある日本ないし東洋文明への洞察や批評は出来なかった。聡明な人だった
が、知性にその特色があった作家とは思われない。同じように潤一郎は、藤村の深く抱き込んでいた「父」を遡って「歴史」の道理を読むような目は、持ち合わ
さなかった。
一人の作家が他の作家の特徴とする美点を持ち合わさないからといって、なんら尤められる筋はない。逆に潤一郎が天性備えていた文学的美質、早い話が
「女」の凄みを描くすべにおいて漱石も藤村もずっと見劣りがするし、「性」も「老」も潤一郎の主題だ。
だが潤一郎の相対化には、ひとまずは他の作家に出来て素質的・思想的に彼には成しえなかった点を丁寧に見比べて行く作業が必要で、そこにおのずと時代思
潮と相渉る微妙な態度の差までが読めて来よう。
荷風の一瞥の、深く見透して厳しいことと「冷笑」へ退く思い切りの早さとは、批評に富んだ文学と文学者のすぐれた危うさを体現していた。潤一郎の人と文
学には、荷風のそんなあやうい厳しさはない。その代り分厚い粘りでゆるぎなく咲き切った、桜や牡丹の満開ににたたまらない魅力がある。だがそうした印象
も、きっちり作品と人と時代との具体的な表現の検証を経て納得されねばならず、その作業が緻密に為されて来たとは思えない。
泉鏡花は、おそらくは潤一郎が内心最も及ばぬ敵手と舌を巻いた部分の多かった作家だろう。それゆえに逆に鏡花からは及びもつかないような達成を潤一郎と
して心がけたに相違ない。その両者の岐れを、例えば私は「他界」観の差と「性」意識の差とからも、くわしく読み分けて行けそうに思っている。また鏡花を美
的幻想的に特異に見過ぎるのあまり、彼のいわば根の深い「日本の国」への不平と例えば漱石のそれとが、存外近いところに在った点なども、これを「潤一郎」
の問題、ないし限界として逆照射してみる必要があろう。社会を見る目には伝記的根源が係わる。潤一郎の伝記にはまだまだ昏い部分がある。鏡花、漱石ととも
に「母方」にそれがある。
伝記的といえば、佐藤春夫の存在は誰の目にも見えていた。しかし潤一郎との文学的相対化の仕事はさほど丁寧にはされていない。それなくして本当はこの両
者お互いにとって相手が本質的な意味を帯びて来ないはず、「小田原事件」ばかりにいつまでも足を停められる事なく、佐藤の谷崎論を下地にしようとしまい
と、谷崎が唯一愛して捨てた「男」の作家としての相互価値の見極めが必要になる。谷崎は佐藤の文学の何を愛し恐れ、どうそれを克服して捨てたか。そのこと
に「大正」と「昭和」がどう係わっていたか。「大正時代の谷崎潤一郎」こそ当面の、実は一等手薄な未開拓地だと私は、今、考えている。
二、谷崎潤一郎の大正時代
「三代の文豪」などと謂う。谷崎潤一郎は明治、大正、昭和へかけて六十年を書き続けたのだから名実ともに当てはまる。但し昭和四〇年に数え歳八十で亡く
なっている。その生涯は昭和期と明治・大正期とに前後折半され、創作生活という意味では明治・大正期を合せてなお昭和期の半分、明治四三年(一九一〇)か
ら数えて二十年に満たない勘定になる。この事実から「谷崎潤一郎の文学」について何が言えるか言えないか、さえも十分語られていないというのが、谷崎論の
いわば現状である。
昭和期の谷崎文学がめざましい充実をとげたことは、『細雪』や『春琴抄』や『鍵』などの作品を通して広くよく知られている。これとの比較で彼の大正期の
作品を挙げよともし言われ、一般に、一つ『痴人の愛』と答えられれば上出来だろう。それすら昭和期の最初の作品のように思っている人がいても、ある意味で
無理からぬ事と言えるのである。
事ほど左様に、もし不幸に谷崎潤一郎が芥川龍之介と同様、昭和のごく初めに死んででもいようものなら、おそらく『痴人の愛』と明治期の『刺青』の二冊だ
けでわずかに記憶され、相対評価では漱石、藤村に並ぶはおろか、芥川や志賀直哉よりずっと低く見られかねなかった。いや今日でもなお谷崎潤一郎の人と文学
とは、私のひがみかも知れないが、文学史的に芥川や志賀ほども十分に、真正面から、遇されているとは言いかねる。
これには色々の原因も有ろう。相手が大きくてとらえにくい事もある。「性」の深み昏みに目がまい足がすくむという事もある。更に、漱石や鴎外とはまた異
なる視線や態度で、「西洋」との谷崎独自のまさに奇妙な係わり――勉強といっても知識の享受といってもいい――が歴然とあり、これが彼の性癖や嗜好とやや
こしく絡みあってもいて、具体的なその吟味や評価にはなはだ戸惑うという気味も、たしかにある。しかもこの「西洋」体験が彼の大正時代を大きく特徴づけて
いるだけに、ひとしお事が面倒になる。例えば「悪魔主義」(明治四五年二月に「悪魔」を発表)と「小田原事件」(大正一〇年の佐藤春夫との絶交、一五年の
和解に至る、谷崎の、妻および妻の妹との葛藤)が複合した体に彼の「大正時代」は展開するのだが、この双方が表裏して即ち谷崎における異色異様な「西洋」
体験を成していたのだ。
しかも何時どんな動機からどんな方法で谷崎潤一郎が「西洋」を輸入し摂取していたのか、はなはだ実もって委細が掴みにくい。
従来この方面の議論では、例えば漱石や荷風らの「西洋理解」にくらべて谷崎のそれが、浅薄かつ滑稽ですらあると批評され易かった。だが、本当は、比較に
もなにもものさしが違っていた。漱石らが頭ないし理性で正確に理解しようとした「西洋」を、潤一郎は肌ないし感性で虚実とりまぜて享受した。一方が思想や
体制でとらえたものを、谷崎は風俗や流行や品物で受入れた。アメリカの映画作品や広告宣伝についての彼の知識は当時の日本人としては、驚嘆に値するほど、
広く早く詳しかった。これを、まともに漱石らの「理解」と比較してとかく物を言うのは、その方が滑稽な見当ちがいを犯すことになる。
そうは言え、谷崎の「西洋」がいささか偏ったもの、今となっては妙なもの、に見受けられるのも事実致しかたなく、それほど風化し易い「風俗」的な好奇心
に彼が動かされていたからといって、直ちに浅薄呼ばわりはどうかと思われる。それより、その体験から何を有効にのちのちまで獲得しえていたか、表現できた
か、が問題にされねばなるまい。
谷崎潤一郎に、彼なりの「大正時代」があって必然「昭和時代」への飛翔も成熟も可能だったと考えるのは、それを軽視し、ないし否認するよりはるかに自然
な筋道だ。そして誰もそれは承知でいる。が、さて筋や道をしかと通す段になると閉口してきた。閉口のあげく、関東大地震に遭い関西へ移住した、曲折あって
根津夫人松子と恋愛関係になり結婚した、例えばこの二ケ条だけで一切片付けてしまいかねなかった。むろんこれらは特大の外部条件には相違ないが、文学の成
熟を外側からだけで説明し切れるはずがない。
かくては是非谷崎の「大正時代」論議が急務になるのだが、何とも手薄い。どんな特集でもここの所は大概とばしてきた。とばして差支えないのだという暗黙
の了解すらあった。なぜならば、これという作品が明治期・昭和期との比較で「無い」も同然に思われてきたのだから。そんなアホなといきり立って反対も、た
しかに、ちょっとしにくく、だからと言って手をこまねいてはいられない。頬ッかぶりで、もう、やり過ごせない。
さりとて「悪魔主義」と「小田原事件」で谷崎の大正期を説明するのは常套に類する。今すこし地道に各論的手続きが私は必要だと思う。具体的に谷崎がこの
時期、何を創っていたかを、作品から直かに丹念に問うのである。
例えば彼は一幕物を中心に相当量の「戯曲」を書いている。そもそも谷崎は戯曲『誕生』を以て創作者生活を始めた人でもある。大正時代の谷崎潤一郎の如き
は、小説家でもあるが戯曲作家でもあったと言えるほど、『恋を知る頃』『恐怖時代』『愛すればこそ』『お国と五平』など評判作を発表し上演もされている。
しかも昭和期に入るとぷっつり絶え、昭和八年の大作『顔世』がぽつんと一つ出来て、まず事実上の最後の戯曲となった。
谷崎潤一郎にとり戯曲創作が何でありえたか。例えばそれが昭和期の小説の構想なり展開なりにどう伏流水たりえたか、それとも、たいした因果関係はなかっ
たのか。そういう興味ある議論が、まずは委曲を尽して成されねばならないだろう。
次に谷崎のいわゆる「探偵物=ミステリー」作品(小説も戯曲も)が、大正期に集中して見られる。むろん先駆的には明治四四年の『秘密』などから、顕著に
その面の好みは見えているが、特に大正九年の『途上』等を軸にした作品群には日本の推理小説史に先がけた栄誉と影響力とがつとに言われている。この種作品
の背後からポーその他「西洋」の摂取と感化とをどう腑分けできるか、谷崎自身の性癖や嗜好をどう満足させていたのか、更に重要な点として昭和期の創作にこ
の「推理性」が、具体的にどんな筋道でどの作品に大きな効果を挙げているかなどの解明は、どれも未解決の、たいへん大事な課題になる。
更に大正時代の谷崎潤一郎には「映画」という重要問題がある。私の見るところ、これが一等大きな、難問題でもある。
昨今では小説家で映画製作に関係する人など珍しくもないが、大正時代へ遡ってはそうは行かない。谷崎が映画に熱中したのを危険な道楽視、道草視した人
は、佐藤春夫や今東光など彼の身近にもいた。無理からぬ話で当時日本の映画といっても、谷崎自身嘆いていたとおり極めてチャチな子供だましに類していて、
藝術には程遠いしろものだった。俳優にも演技の基礎などなく、風俗的には世間の鼻つまみというに近い存在だった。
「映画」の現代藝術たるすぐれた表現力を、今日疑う人はいない。しかし大正時代半ばにすでにそれを理論的にも確信していた藝術家といえば、谷崎潤一郎のほ
かに誰が日本中に見出せたであろう。大正九年五月には彼自身大正活映の脚本部顧問となり、シナリオ『アマチュア倶楽部』を書いて、妻の妹を葉山三千子なる
女優に仕立てて行った。のちに『痴人の愛』のモデルともいわれた人で、この辺りから「小田原事件」が「映画」体験と併び進行して、「悪魔主義」の人渦を巻
いたのである。
そうは言え谷崎が「映画」と実践的に関係した期間は二年に満たず、かりに『蛇性の淫』や『葛飾砂子』など実作面から「映画」の問題を論じても、実りは期
待できない。重要なのは、彼の「映画」体験がこの時期の小説作品にかなり多くかつ微妙に表現されていて、その中で谷崎の「藝術論」「表現論」がよほど個性
的に表白されている事が、一つ、大きいのである。
例えば「美」の永遠と虚実の問題が、プラトンのイデア論などとの関連で相当ねちっこく追及されてくる。二つには、それらの作品の中で「女」とは何かの主
題が煮詰められ、その際に「映画」体験が、モデルと表現との虚実関係において作者に多くの課題を課したまま、その有効な解答が、実は昭和の作品へ持ち越さ
れたと見える点に私は豊かな意義を認めたいのである。谷崎の「映画」理解を表明したエッセイも小説も何点かあるが、昭和期作品との関係を、「文学」の問題
として論議された事は残念ながら稀で、むしろ映画の実作者たちの方がよほど「映画化」という形で谷崎文学の「映画性」にしぶとく挑んできた。言うもおろ
か、『春琴抄』も『鍵』も『瘋癲老人日記』ももし「映画」体験によるイデア論の谷崎なりの把握がなければ、別の作品になっていただろう。
次に問題にすべきは、谷崎潤一郎の大正時代に「未完成」「中断」作品の多かった事実である。すでに大正元年に『羮』が新聞連載の途中で中絶しているのを
はじめ、多くが、検閲による発禁で、作の行き詰りで、文壇や私生活その他の事情で、また不評や作者のいや気で、放棄されたり破綻をいとわず強いて収束され
たりしている。いったいに彼の大正時代には失敗作が多いが、それなりに『金色の死』『小さな王国』『アヱヱ・マリア』『青塚氏の話』など問題をはらんだ作
品も数多い。そういう事実と「中絶作品」群とに何か因果関係が有るのか無いのかの究明も、優に未解答の一課題たるを失わぬであろう。
谷崎の大正期は、見かたによっては緩慢かつ長期の「スランプ」だった。別の見かたによってはスランプに見えるほどの犠牲を払った、猛然たる「勉強」の時
代でもあった。そのスランプを脱し勉強の成果を挙げ出したのが、即ち谷崎潤一郎の「昭和時代」だった、と、仮りに謂うとすれば、今挙げたような課題の一つ
一つから着実に「大正時代」を把握して行く事を措いて、その「昭和期への飛翔と成熟」など、とても語れない話になる。
三、昭和時代へ、飛翔の条件
「谷崎潤一郎の古典回帰」などという不十分な看板はひとまず外す事から、ここに掲げた問題には取組まねばならない。
「昭和時代」へ、谷崎潤一郎の大きなジャンプがあった事実は疑うまい。すくなくも見た目に、それは有った。それが程度の差か、ないし相当な質的飛躍か、世
界が変ったのか、そうまでは言えないのか。結論を急がず、作品と伝記との両面から検証と吟味を慎重に深める必要がある。その作業の前提に、ここで何を考え
ておけばいいか。
「大正」から「昭和」へ谷崎が飛翔と成熟の条件として、一に、外から「与えられたもの」がある。例えば関東大震災による余儀ない関西移住など、その最たる
ものであった。二に、自力他力は問わず「――ねばならぬこと」が有った。例えば義妹(妻の妹)との関係打開は、いろんな意味でぜひ果さねばならぬ最たるも
のであったろう。更に三に、勉強の意欲などで「鋭意獲得したもの」が有ったはずで、この第三の観点こそ質的に一等大事でありながら、とかく先の二つの例に
目を奪われるか、ことさらにその辺でニゲを打つことで、谷崎潤一郎の「昭和期移行」の議論は腰砕けになり易かった。
もう一度整理してみよう。一に「外からの条件」があり、二に内・外に「要打開の条件」があり、三に「獲得した条件」があった。言い換えれば「状況の変
化」と「行き詰り」と「内的な発条」という事になろうか。もとよりこれらは、切離された別々に三つの事ではありえないし、その複合のさまもつとめて理路を
正して明かになされねばならない。
その委細はともあれ、先ず「状況の変化」として具体的な調査が望ましいのは、作家谷崎潤一郎としての収入と支出が大正から昭和へおよそどう推移していた
か、借金や前借は谷崎処世の常套だが、その程度がおよそどう推移していたか、だ。はなはだ形而下的な関心だが、「タニザキ」の名がほとんど「天才」と同義
語に使われながら、しかも「真に鑑賞上の理会に富んだ批評の殆んど眼に入らなかった」潤一郎の大正時代には、ただもう「豪奢な生活振りや、原稿作製上の苦
心や、文壇処世術の駆引きの旨さ」といった類の文章ばかりが彼の上に投げかけられていたという、柴田勝衛の証言などのウラを取る意味でも必要な手続きに相
違ない。そのあげくに、いわゆる円本ブームなどの成金にどう繋がって行ったかを、例えばあの名作『蓼喰ふ蟲』などの悠々たる成立への前提条件としても、ぜ
ひ押えておきたいわけである。
谷崎潤一郎という作家には、気分としても実生活にも、いろんな意味での「贅沢」が必要であった。その必須の前提が満たされないかジリ貧ででもあったなら
ば、いかに関西へ災難を逃れようともごく一時のことに終ったか知れず、かりにそうでなくても『蓼喰ふ蟲』をあれほどに落着いて書けたかどうか、疑わしい。
しかもこの作品を今見るかたちに仕上げ得たればこそ、結果論ではあるが、谷崎潤一郎の「昭和時代」にひとつの道筋が立ったのだと私は考えている。『痴人の
愛』も『卍』もその意味では潤一郎の昭和期へ、『蓼喰ふ蟲虫』の大切な助走と伴走とを勤めたのだと考えている。
次いでこれも「状況の変化」といえば言えるが、それ以上にまさに「行き詰り」と言う方が当っていたのが、さきにも少し際どいところへ触れた、当時谷崎の
人と文学に対する批評、むしろ不評、であろう。谷崎潤一郎は表向き批評など気にしない顔はしていたものの、事実は相当にコタえていた節が見える。なににせ
よそのホコ先を逃れるだけでは済まない、敢えて乗り越えて行くしかない瀬戸際に、彼は、時代の経過とともに追い込まれていた。
もっとも、それら同時代の批評、不評の内容と適否も、実は現時点から丁寧に検討し修正すべき点の多いことは目に見えている。
「谷崎潤一郎の大正時代」も、もし、当時の批評を鵜呑みにする限り今さらなにをと、再認識の労などサッパリ放棄したくなる位にヒドい事になる。いや、だん
だんヒドくなって行く一方だったのである。
手近な永栄啓伸の労著から「谷崎潤一郎研究史素描」のぺージを開いてその「大正期」を通読してみると、なるほど、永井荷風による「谷崎潤一郎氏の作品」
(「三田文学」明治四四年十一月)こそ、一時に「天才」の名高からしめたほど文字どおり歴史的な絶賛に相違ないのだが、その余は、わずかに本間久雄が最も
早く(大正二年三月)、作品「悪魔」などを評価した他は、大概な批評が厳しい条件つきの賛辞を呈していた段階から、更には控えめな肯定か賛辞つきの実は容
赦ない批判ないし不評ばかりが加えられるようになっていた。そうでもなければ、柴田勝衛が先に語っていたような、やたら「素敵だ! 傑作だ!」という、要
するに掛け声ばかりが「天才タニザキ」を取り巻いていた。
まったく奇妙なことに、処女作品集『刺青』以後、谷崎潤一郎が「一作を成す毎に九鼎の重きを加へ」ていたのも事実なら、どうひいき目に見てもその一作一
作がさほどやいやい言うほどのものでなかったのも、また事実だったわけで、当時の批評、不評には確かにそれなりに妥当な批判が多く盛り込まれていたのだ
と、いかに谷崎愛の私も、認めるしかない。
批判と不評の多くは、しかし、谷崎好みの厚化粧をほどこした「悪魔主義」とやらに集中していた。谷崎精二、秦豊吉、堀江朔、広津和郎、宮島新三郎、津田
光造、そして橋爪健らの論策を永栄は巧みに要約している。が、本間久雄の肯定論をも含めて、「谷崎潤一郎の悪魔主義」なるものがどの程度外側から貼りつけ
たレッテルであったか、どの程度彼の内実に発したものか、「悪魔主義」以上に重要で内発的な意識と表現が谷崎には他に無かったといえるのかなど、今の視座
からすると、論の傾向そのものに疑問も大きい。
十年前くらいから機会ごとに私が指摘も論証もしてきた谷崎潤一郎の「芝居気」は、なにも昭和期ににわかに顕著になったわけでない。とうに気づいていた人
も何人もいたように、「悪魔主義」とやらが谷崎潤一郎の敢えて振りかざした冷めた勘定ずくの旗じるしだった事、むしろ隠れ蓑に使われたほどのご都合のレッ
テルであったらしい事は、今やほぼ疑いようがない。例えば彼の「映画体験」の根の深さなどに、適切に気づいていた批評が皆無にちかい事実からみても、必ず
しも大正期の谷崎批判は鵜呑みにしかねるのである。
それにも拘らず、谷崎自身そうした批評の向きに気を腐らせ、動揺し、苔悩したであろう事もまたいろいろに推測できるのだから、創作者と批評家との関係は
微妙に出来ている。しかも文壇で生息し続けようとする限りは、論評なりその好・不評なりは、無視できない拘束力ともなって利害に絡んでくる。さすが「悪
魔」も、その事に「疲れ」てくる(橋爪健)。
絶交時代の佐藤春夫は、『秋風一夕話』(大正一三年)などで全力を尽してそこを厳しく衝いていた。「珍しい程思想のない藝術家」で、「性格描写心理描写
に於て常に成功せず」愛も悪も「ありふれた型の極度なる誇張」に満ちているばかりで、「自分で自分の正体を知らない」「根本のあやふや」な作家であると追
いつめられ、尽きるところは「内面的に卑怯者であり、外面的には横暴であり、その言訳としては悪人なる一語を持つてゐるだけ」と言い切られるに至っては、
さらに私生活面では有名な「秋刀魚の歌」などで、現在自身の妻千代へ恋人ぶった求愛のメッセージを送り続けられては、そのレトリックも抜群なだけに、さす
谷崎潤一郎もとうてい心おだやかでは居れなかった。
「天才」谷崎潤一郎の大正期晩年は、なにを措いてもこういう文壇環境を打開し、作家としての真の貫禄を回復しなければ、虚名はともあれ、ジリ貧をまぬかれ
ない所へさしかかっていたと観察される。立証も可能である。
かくて谷崎潤一郎のこの点にかけた長期戦略は、当面の敵佐藤春夫との関係打開を手がかりに、世にいう「谷崎・佐藤の妻君譲渡事件」(昭和五年)に至る、
慎重を極めたいわゆる「和解」工作を支えにして樹てられた。また、それしか道は見当らなかった。関西へ移住を余儀なくされた天災がこの戦略に幸いした。関
西での暮し向きを可能にして行った円本等の好況も幸いした。昭和二年には早くも実現していた根津夫人松子との出逢いも大いに幸いした。谷崎潤一郎は大正期
を通じて蓄えた、文壇や読者のまだ予知せぬ力と性向とで、自身の文学の転換を果たす以外に「行き詰り」打開のない事をよく承知していたのである。
幸い谷崎潤一郎には、いかなる不評のなかにも読者の支持が期待できる強みを、すくなくとも一つ持っていた。作品が理屈ぬきに「面白い」のである。それ
は、津田光造のような「人道主義の藝術」を待望しつつ谷崎文学を痛切に批判した批評家にさえ認められていた。「民衆の為めの藝術ではないが民衆に取つて面
白ければ、結局、民衆の為めの藝術である」と肯定させる魅力を失わなかった。「すでに疲れてゐる」悪魔を休ませ、この「面白い」特質に深みを模索して行く
事が多彩に可能ならば……谷崎潤一郎の質的よみがえりは、成る。かくて谷崎は「構造的美観」なる小説観をひっさげ、「筋のない小説」を純粋視する芥川龍之
介との昭和二年早々の論争に、真向「面白さ」を主張して臨んで行った。今や両者の論争の帰趨は見え、谷崎の主張はほとんど常識とすら化している。
だが、それにも拘らず日本の現代小説は相変らず志賀・芥川系リアリズムに支配されたまま、「構造的美観」の豊かな収穫には、いっこう乏しいのはどうした
事か。
それはともあれ、谷崎潤一郎がいかなる「内的な発条」で目をみはる「昭和時代」を弾き出して行ったか、紙数も尽き、もう敢えてそこへは触れない方がこの
先の論議に期待がかかる、と思うよりない。
ただ一つ言い及んでおいていいと思うのは、谷崎潤一郎が自身の「日本語」に、十分に「映画的」イデアリズムないしプラトニズムをもう獲得しえていた、大
事さだ。「母」も「性」も「家族」も、むろん「美」も、それ有って自前になった。
( 3行アケテ 追い込み)
「筑摩叢書」版 後記
さきに『谷崎潤一郎―〈源氏物語〉体験―』(筑摩書房)が成った際の感想は、当時一九七六年初刷に添えた「あとがき」に尽しているが、与えられた機会に
新たな喜びの気持ちを記しておきたい。
その時の「本」は渋味の利いた美しい装丁で、朝日新聞文芸時評から引いて大岡信氏に頂戴した「帯」の推薦文も、まことに有難かった。谷崎潤一郎を語った
自分の本が世に出る・出せるとは、少年来の「谷崎愛」をまさに満たしえて、それはそれは嬉しかった。本望を、あの時ひとつ遂げた思いであった。
あれより五年前の暑い夏、初めて今度巻頭に直した「谷崎潤一郎論」を、発表のあてもなく汗だくで書下していた頃には、認知はおろか活字にすらなり得よう
と想えなかった。だが自分自身を表現する為には、私は、小説を書くだけで足りず、何としても谷崎潤一郎への思いを書かずにおれなかった。私にとってそれは
二つの別の表現ではなく、分ちがたい一つの思いであり深い望みであったから。だから処女評論集『花と風』(筑摩書房・一九七二)に収めて発表できた時は嬉
しかった。故野村尚吾氏に「新しい」谷崎論が世に現れたと推賞され、またその後も機会あるたびに後押しをしていただけたのも、あんな心強いことはなかっ
た。豊富な原資料を入手して『神と玩具との間―昭和初年の谷崎潤一郎―』(六興出版・一九七七)を書下せたのも、果さずに逝かれた野村氏のいわば遺託が
あったのである。
いま一つ、幸いに恵まれた谷崎夫人とのもう久しい御縁も、どんなに有難いことであったか、量り知れぬものがある。夫人が夫君をうしなわれて以後も、いか
に谷崎文学の為に敢闘なされてきたか、私はそれを二十年来心からの敬意をもって眺めつづけて来た。どうか、ますますお元気であられますようにと、日々、願
わずにはおれない。
前著が取持つ縁でか、また、年々に若い学究による様々な谷崎論稿が続々私の手もとへ送られて来る、それを読むのが私の変らぬ喜びであり大きな楽しみに
なっている。芦屋市に美しい記念館が成ったことは聞いているが、それは、まだ見ない。記念館もいいが私の期待はそれより、もっともっと本格的な「谷崎学」
の大成されることにあり、つまりは「谷崎潤一郎の人と文学」がより正当に広く深く、もっともっと読書世界に堅実に浸透することにある。その為にも一段と完
備した「全集」が欲しい。その気運が欲しい。その為にも名実兼ね備えて谷崎学を支えるもっと優秀な研究者が育って欲しいのだが。
このたびその前著を増補改編し、筑摩叢書の一冊に私の『谷崎潤一郎』として加えていただけることになった。言い尽せぬよろこびである。
前著では巻末へ総論的に据えた「谷崎潤一郎論」を巻頭へあげ、巻末に新たに、今後への一見取図風に、「谷崎潤一郎論の論」を置いた。初出は、丸善の雑誌
「学鐙」に一九八五年二月から四月まで、谷崎の生誕百年を見入れつつ、連載したものである。
今一本はまだ湯気が立っている。「新潮」一九八九年正月号に、「春琴自害」の表題で発表したばかりの、ほやほやの作品論である。八八年八月一日、東京の
讀賣ホールで日本近代文学館主催の「夏の文学教室」初日の為に用意した講演原稿でもある。この「読み」の狙いを、ずっと以前から付けていた。定説化の兆し
すら見えていた、いわゆる佐助犯人説なるもの、果して証明されたといえるのか、それを追及しながら、従来人の思い定めなかった新たな結論へ導いてみたかっ
た。「愛読者」から「研究者」へ、期待をこめたちょっぴり刺激的なメッセージのつもりでもあった。活発な議論と検討を期待したい。
終りに、筑摩叢書という名誉な場を授けられた筑摩書房ならびに、お世話になった湯川進一郎氏のご尽力に、心から、感謝を捧げます。
一九八九年元旦 新時代へ希望をこめて 秦 恒平
(題字12ポ5字サゲ 頭1行アケ、題字を3行中央に。本文は8ポ46字、天アキ、頁19行どり。総て全角使用)
私語の刻
二○○五年 元旦。 たくさんな賀状を頂戴しました。
百禄是荷 手にうくるなになけれども日の光 六九郎
あけぼのは春と定めてためらはず 秦恒平
ご平安・ご多祥を祈ります。
歳末、六十九歳になりました。今年は、六十の坂を登りつめます。年頭の感慨とて、特にありません。昨日が今日に。慶びはそれで十分。
ペン電子文藝館は、近代現代の五百五十作をすでに無料公開しています。「反戦反核」「出版編集」に加え「主権在民史料」特別室を新設。埋もれていた秀
作・問題作も次々に掘り起こされています。
秦恒平・湖(うみ)の本は、今年は通算八十五巻まで送り出します。去年は書下し長編『お父さん、繪を描いてください』も出ました。今もゆっくり小説を書
いています。なに急ぐこともなく。
倅・秦建日子は処女作『推理小説』(河出書房)を出版したばかり、新年早々には、作・演出の『月の子供』公演と、連続テレビドラマ『87%―私の5年生
存率』(日本テレビ系)の脚本で働き始めています。
何病息災か知れませんが、われわれ夫婦も、相変り無い翁嫗の手前です。今年も、どうかよろしくお付き合い下さい。
コンピュータという機械を、専用のサイトをもって使い始めてから、ちょうど七年になる。東工大の教授室ではまだ全然手につかなかった。六十定年で教授室を
引き払ってからも学生達と大勢仲良くしているうちに、いつか親切な手を添えてもらって、タダの箱の機械に息が通うようになった。使い替えてもう数機目にな
るが、いま二機繋いである親機の方は、卒業生が組み立ててくれたもの。狭苦しい六畳和室がひとかどの機械室に今なっている。お気に入りの美しい澤口靖子に
取り囲まれている。
機械環境は、大きく「四つ」に分けてある。一つは「作品公開と保存」のパートで、「電子版・湖の本」の既刊八十数巻全て収録され、未刊の創作・エッセ
イ・講演録等々でも満たされている。むろん無料公開。もう一つは、「e-文庫・湖(umi)」という「電子文藝誌」に、すでに二百作ほどの寄稿者の文学作
品がジャンル別に編輯されている。検索自在に著名・有名・無名の人の作品が読める。わたしが「責任編輯」している。この体験が「ペン電子文藝館」企画と運
営にまっすぐ繋がった。さらにもう一つは、平成十年(一九九八)三月下旬から書き始め、毎日欠かさず発信している「日録=私語」のファイル。宛名のない手
紙とも、癇癪の落としどころとも、単なるメモとも謂えるが、遠い遙かな、あるいは足下に深く沈んだ「闇に言い置く」気持ちは、統一したスタイルも順序も持
たない「生活と意見」であり、「随感随想・批評思索の連鎖」である。「闇」の彼方から届く声・声も取り込み、日々とぎれなく更新しているためか想像以上に
広く多く読まれている。この「私語」だけで、本にすれば部厚い五、六十冊に成る。
以上の「三つ」を取りまとめて、わたしのホームページは『作家秦恒平の文学と生活』と、表紙に門札が打ってある。表紙は、城景都氏に戴いた美しい二つの繪
で飾ってある。URLはこの湖の本の奥付にいつも出してあり、だれでも無料で自由に読んでいただける。
「もう一つ」残るパートは、公開しないいわば「作業場」であり、一太郎・ワードその他沢山なアプリケーションを用途に応じて使い分けながら、千を超す原稿
ファイル等が累積され、さらに日々に生産されている。いわば出番待ちの「作品や、必要な情報や史料やメモ」が満載されている。ちょいと秘密めく妖しい写真
なども少々秘匿され、一服の煙草代わりになってもいる。
以上公開のホームページ『文学と生活』と、非公開の『書斎と作品』とが、今、わたしの「電子化・文学環境」である。全量四十MBをとうに超えているが、
日本文字に換算してほぼ二千万字、四百字原稿用紙なら五万枚に相当する。この七年で積んできた「電子メディアでの」わたしのそれが「仕事」量であり、質
は、わたしがとかく言うことではない。
そのかたわら、ここ三期六年の理事生活で、日本ペンクラブにわたしは「電子メディア委員会」「電子文藝館委員会」の二つの新委員会を企画設立し、それぞ
れ軌道にのせてきた。必ずしもわたしは「電子メディア」を優良文化とばかりは考えていない、むしろ甚だ毒性濃厚と観て心に強く警戒しているのであるが、そ
れとても、これだけ真向きに多く深く関わってこそ、より的確に分かってくる事実であった。東工大には道草なみにたった四年半の教授生活であったけれど、生
来機械音痴のわたしにしては、給与以上の大きな賞与をもらったものと、巡り合わせに、我ながらおどろいている。
さて、本巻をお届けすべく、昭和四十五年の我が「略年譜」を上の機械で開いてみる。この前年六月には、思いがけず小説「清経入水」により第五回太宰治賞
を受け、七年の習作時代を脱けだしていた。
昭和四十五年(一九七○) 三十四歳
二月号(新潮)に「畜生塚」を発表。二月九日、保谷市(=西東京市)下保谷二丁目八番地二十八号に転居。同月、(文芸)一頁時評で桶谷秀昭「畜生塚」を
好評。同月末、祖父鶴吉二十五回忌。三月号(展望)に「秘色」を発表。三月、筑摩書房出版部の高橋和夫に書下し長編小説(=のち『罪はわが前に』)を依頼
される。この後、馬場あき子の紹介で喜多流の喜多節世を識る。四月二十九日、京都「男爵」での同志社美学同窓会に「故郷」の題で話す。五月九日、京都へ会
社出張。同二十五日、初の作品集『秘色』(筑摩書房)刊行。六月号(新潮)に「或る『雲隠』考」を発表。
六月九日、初めて谷崎潤一郎夫人の速達巻紙の書状をいただく。新潮社初見国興が『秘色』を夫人に送って呉れていた。七月十四日、(婦人公論)阿部智子
(=作家梅原稜子)と初めて識り「怨念論」渡す。同月、『秘色』増刷。津へ出張。この時、中日新聞社で林伸太郎と識る。八月一日、娘朝日子と富田林のPL
花火藝術祭に招待されたあと、京都で休暇。
同八月十五日、中央公論社版『谷崎潤一郎全集』が完結。翌十六日より「谷崎潤一郎論」の書き下しに着手し、同二十七日、初稿成る。九月、「野宮」(「斎
王譜」改稿二百七十枚、のち『慈子』)成る。但し「長い」と(新潮)に容れられず。同月、(芸術生活)が「新・雨月物語」三回を依頼。同月二十三日、一色
次郎、三浦浩樹、海堂昌之らと吉村昭宅を訪、歓談。十月、(春秋)に「花と風」を連載し始める。この月、父が京都日赤外科に入院。十一月二十二日、喜多能
楽堂で桶谷秀昭、村上一郎夫妻らと初対面。同二十五日、三島由紀夫自決。十二月、「廬山」初稿が成る。
巻頭に収めた「谷崎潤一郎論」は、こういう頃に書下ろされた。真夏、新居四畳半の茶室にこもり、汗だくだく「これが書きたかった」「これこそ書きたかっ
た」と呪文のように唱えながら書いた。無欲だった。さしあたり発表も頭になく、詳細な補註を気を入れ添えて行った。註15の「桐壺」論は、それより以前
「ちくま」に発表していた。
わたしには記念碑的なこの谷崎論は、結局どこへも寄稿せず、「書下ろし」のまま、筑摩からの処女評論集『花と風』に収め、当時谷崎の伝記研究で知られた
野村尚吾さんの称讃と推輓を得た。このご縁が後の書下ろし評伝『神と玩具との間―昭和初年の谷崎潤一郎』(六興出版=湖の本エッセイG)へ繋がったこ
とは、筑摩叢書版『谷崎潤一郎』の「跋」に記すとおりである。評伝の帯には、亡くなった水上勉さんが「秦さんの谷崎愛」ということを書かれ、「谷崎愛」の
三字はその後わたしの看板のようにさえなった。懐かしい嬉しい思い出である。
その、「谷崎愛」としか謂いようのないわが谷崎作品の愛読は、小倉遊亀の挿絵で毎日新聞連載の『少将滋幹の母』に始まった。昭和二十四年、戦後新制中学
のわたしは二年生であった。高校時代、身近な秀才たちはみな「小林秀雄」の合唱であったが、わたしは独り活字に唇を添え、蜜を吸うようにひたすら谷崎文学
に心酔した。あの毎朝に「少将滋幹の母」を待った時機と重なり、与謝野晶子訳の『源氏物語』に出逢って繰り返し耽読していたのも、相乗的にぴたり谷崎文学
の理解に触れ合い、これまた後年馳駆まで出した『谷崎潤一郎―<源氏物語>体験』に結びついた。「本望」と一度ならずわたしは漏らしている
が、偽らぬ実感であり、小説家にも成りたかったが、小説家であることを利して思うまま「谷崎論」が書きたかったのだ、真実そうなのであった。
新潮社初見氏の配慮から、谷崎松子夫人とご縁の出来たことは、ひとしお谷崎愛に真実感を加えた。いまも、わたしの真左の障子窓の上に、六代目菊五郎の演
じた河内山に肖ているとご本人ご自慢であった眼光炯々の谷崎潤一郎の写真が、いっこう奮発しないわたしを毎時にらみ据えているが、その谷崎先生に生前接す
るおりは無かった。一冊目の私家版を、志賀直哉と谷崎と、ほかに中勘助、窪田空穂、三木露風の五人に恭しく呈したときも、谷崎ひとり返辞も無かった、当り
まえであった。昭和四十年、谷崎の亡くなった日、たまたま京都に帰省していたわたしは、ラジオのニュースを聞くやいなやに法然院墓地にはせ参じ、谷崎壽塚
の前で蚊にくわれながら石のように佇んだ。やがて「蝶の皿」を書いて二冊目の私家版に入れたとき、わたしはそれを心から「吉野葛の作者に」捧げたのであ
る。
初見氏が谷崎夫人に送って呉れた筑摩から初の単行本『秘色(ひそく)』には、その「蝶の皿」が受賞作や表題作と共に収めてあった。目も彩な筆跡の、長い
長い巻紙の手紙には、「蝶の皿」にも触れ、嬉しくて舞い上がりそうな文言がそれは優しく続いていた。以来、女文化の粋のような巻紙のお手紙を二十通余も戴
いており、亡くなられる日までありがたいお付き合いが続いた。文学的にも私的にも励まされ励まされ幾つも谷崎論を書ことが出来た。娘の結婚式にも主賓とし
てお出で戴いたのである。
この「湖の本エッセイ」には、第十五巻『谷崎潤一郎を読む』をすでに刊行し、作品「夢の浮橋」「蘆刈」「春琴抄」に、わたしのオリジナルな「読み」を書
いている。いずれも学界・読書界でながく、いまも、話題になり追試の論が多かった。今度のこの第三十三巻『谷崎潤一郎の文学』に収めた論考と、上の三作品
論とが「一冊」に纏まって筑摩叢書『谷崎潤一郎』を成していたが、今はもう手に入らないだろう。幸い同じエッセイの第六〜八巻『神と玩具との間―昭和初年
の谷崎潤一郎と三人の妻たち―』とともに、わたしの谷崎論は大方主なものをもう網羅している。これ以上、谷崎を「論じ」たいとはもう思わない、残された日
々、ゆっくり全集を愛読し直したいだけである。
だが、そのためにも「文豪」の名に恥じない真に完備した「谷崎全集」が、わたしの生きている間に、どうか出来て欲しい。現行のものは、本文の校訂も年譜
も索引も、甚だまだ不十分で見劣りがする。
そのためには、もっともっと本格的で卓越した力ある谷崎学者が世に現れねばなるまい。堂々と研究会を率いる人材がいない。研究と批評が真に盛り上がらず
に「完備した全集」への気運のわき起こる道理がない。かつての永井荷風、かつての勝本清一郎、かつての伊藤整らのような、思わず胸をとどろかすような谷崎
論が、作品の読みにせよ作家論・文化論にせよ、この二十年、極端に謂えば一つも現れてこないのが情けない。その一つの表れというか理由というか、それは、
谷崎文学が「伝統の日本語」で書かれた文学であるという、根本の理解の浅いことに因している。今以て、若い学者達に、「本文のどこにもそんなことは書かれ
ていない」といった論調のあらわれていることがある。谷崎ほど「書かずに表す」ことに長けた人は少なく、無く、夙に勝本、伊藤、また寺田透らは慧眼をもっ
て谷崎文学の大なる特色としてそれを強調していたのである。作者は、だいじなことをみな書いて表すとは限らない。「夢の浮橋」の糺が義理の母との間に子を
なしていたのも、「蘆刈」の慎之助が妻の静でなく妻の姉のお遊さんとの仲に「男」子をなしていたのも、春琴の顔の火傷があらゆる徴証から彼女の自傷と読め
ることも、本文としては何処にも露わに書かれていない。しかし、光源氏が義理の母藤壺とのなかに冷泉帝をなしていた「もののまぎれ」も本文の何処にも明記
されていないが、ちゃんと「読み」解ける。そう読み解いて作品は格別により素晴らしく姿をあらわして来るのである。日本語にはそれが出来ることを、谷崎は
作品でも示し文章読本にも説いて倦まなかった。そういう大事の所を看過して、「そこまで読む必要はないのではないか」などと緩い議論でお茶を濁していて
は、所詮身震いのするような目覚ましい谷崎論の生まれてくる道理がないのである。