電子版 秦恒平・湖の本 エッセイ28




猿の遠景・母の松園




  目次 繪とせとら論叢

猿の遠景――伝毛松「猿図」のことから…………………………3
 猿と天皇……………………………………………………………5
 猿と信玄……………………………………………………………15
 猿と清盛……………………………………………………………25
 猿と猿楽……………………………………………………………35
 猿の日本……………………………………………………………43
母の松園………………………………………………………………61
球の面に繪が描けるか………………………………………………95
繪のまえで―「みる」と「わかる」と―(講演)………………113

 私語の刻……………………………………………………………138
 湖の本の事…………………………………………………………142

<表紙>
装画 城 景都
印刻 井口哲郎
装幀 堤  搦q

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猿の遠景−伝毛松「猿図」のことから−

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「NHKセミナー」一九九〇年十一月号―一九九一年二月号 日本放送出版協会
『繪とせとら文化論 猿の遠景』増補 一九九七年五月三十一日 紅書房刊

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猿と天皇

 面白いはなしが、ある。あまり面白いのでこの五、六年、ときどき講演の枕などにこれを受け売りしているのだが、ものにも何度か書いたことがある。
 面白いけれど、このはなしには、次の幕というものがなかった。いくらか推測らしいことはここ数年私も書いていたが、それだけで放り出しておくには、だが、惜しい奥行きを秘めており、もはや旧聞に属する話題なのに、ずうっと気にかけてきた。
 東京国立博物館に、一枚の『猿図』がある。なかなかの優作であり、重要文化財に措定されている。背を丸めてただ猿が坐っている。猿は画面に大きく、一匹である。ことに背景らしいものもない。作者は「伝毛松(もうしよう)」で、狩野探幽の極(きわ)め(鑑定)が付いている。
 毛松は南宋初期の院体画派の人として知られ、花鳥・■(令へんに羽)(れい)毛画、ことに小動物を写す技に優れていた。子に、より有名な有毛益(もうえき)があり父同様の画風・画題で名を成していた。父子の名は、牧谿(もつけい)ら他のすぐれて著名な画人とともに、『君台観左右帳記(くんたいかんそうちようき)』にも記されている。室町時代、将軍家が蒐集していた数多くの舶来美術やその作者たちの名を記録し、座敷飾り等の方式について克明に図誌し、重んじられてきた

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書物である。念のために挙げておくが、徳川宗敬氏本には、梁楷(りようかい)や夏珪(かけい)らの名にちかく毛松・毛益をならべて、父には「花鳥猿鹿四時景、着色」と簡潔にその得手(えて)と画体を注し、子には「毛松子、花鳥小景色々書、着色」とある。他の本では毛益の字(あざな)が晞古(きこ)であったとも知れる。「繪之筆者上中下」とした中で二人とも「上」に位している。
 伝毛松の『猿図』の図版が、わが国でひろく目にふれるようになった最初は、たぷん、昭和二十六年初版の平凡社版「世界美術全集」の第14巻だろう、猿の繪はまだ色(いろ)版の数少ない中の一枚として、大きなカラー図版になっている。当時は京都の曼殊院(まんしゆいん)の所蔵であった。堂谷憲勇氏の解説に拠って、改めて猿に対面してみよう、「よく馴養(じゆんよう)されたらしい老猿のおももちがまず観者の眼をとらえる。身体はうす暗い茶褐色の地塗りのうえに、一すじごとの毛描きを施し、よく見ると金泥(きんでい)の毛描きをさえまじえているのが注意される。眼に金泥を用い、まなじりに肉色を点じているなど密な写実のあとも見のがせぬ。面貌に施された朱色が猿としてはきわめて自然なことながら、このぱあい画面に一層の生色を浮きたたせるというものであろう」とあり、丁寧に観察されている。いわゆる絹本(けんぽん)着色で、縦46センチ弱、横37センチ弱の小幅(しようふく)だが、決して小さいという画面ではない。なにより大事なことは、この『猿図』が、単色図版によってですら一目で「住い繪だなあ」と思わせることである。ちなみに中国人毛松の世にあったのは十二世紀前半、日本はいましも源平相討つときに当たっている。
 さて、ここからが受け売りになる。
 この繪をみて即座に「日本猿ですね」と言う人がいた。動物学者があっざり追認した。大陸に日本猿は棲んでいない。宋の毛松(もうしよう)には描けまい。繪の権威たちは困った。鳩首(きゆうしゆ)協議の結果、毛松の高名を伝え間き、日本猿を宋の国へはるばる送って描いてもらった繪だと「決め」た。依然、博物館では「重要文

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化財 猿図 伝毛松筆 十二世紀 南宋時代」の作品として陳列してあるが、その人は、納得したかどうか。
 「日本猿ですね」と繪を見るなり言った人は、明仁親王、つまり昭和の皇太子さん(今上天皇)である。いわゆるご学友、徳川美術館の徳川義宣氏が雑誌『淡交』(昭和五十九年四月号)に「宋に渡った日本猿」の題で寄稿されている。「淡交」はわたしの少年以未の愛読雑誌で、見落とすどころか、一読その面白さに手を拍った。
 受け売りの手前、いますこし徳川氏の文章に即して紹介しておこう。氏ははじめ、「私の友人にAと云ふ男がゐる。幼稚園から大学までずつと一緒で、今でも親しくつきあつてゐるから、もう四十余年来の旧友である」と皇太子を仮名であげ、Aが生物学に精励してきたことを巧みに読者に伝えている。「そのAが美術史学の某先生から中国繪画の個人講義を受けてゐたとき」に、件(くだん)の『猿図』を見せられ、即座に「日本猿」だと指摘した。「某先生は返答に窮し、宿題として持ち帰つて動物学者に意見を求められたが、答へは同じ、中国には棲息してゐない日本猿。美術史学の権威が寄つて相談」して、あげく、先に言ったような「解釈に統一して、某先生はAへの回答とされた」そうだ。
「……と云ふ説明を貰つたんだけどね。考へられるかね。徳川はどう思ふね」
「う−ん」
といった遣り取りが、あとへ続く。ことわっておくが、徳川氏の文章は、猿図の如何(いかん)に主旨があるというより、いわば美術鑑賞と美術(史)研究とのズレのような所を指摘して、かるく専門家たちを揶揄し刺激する気味に書かれているのである。そして最後に、「因(ちな)みにAとは、(当時の)皇太子殿下である」と結んである。



「猿図」(写真一葉)

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 いま一度、念のために「……と云ふ説明」の内容を確認しておくが、即ち「毛松が猿を描いて巧みであるとの高名が日本にも伝はつてゐたので、日本からモデルの猿を中国に送つて描いてもらつた作品」だと権威たちは解釈を「統一」したのだと徳川氏は、間接にではあるが、証言されている。そして、それきり、この話題はたいした波風もたてずに、おだやかに半ば以上忘れ去られていた。ま、わたし位が末練にしきりに面白がっていたのである。
「考へられるかね」「う−ん」という遣り取りは、おおかたの読者の感想にちかいと思われる。わたしも、「モデルの猿を中国に送つて」という一条を読んでおもわず吹き出したものだ、まさか……と思った。
 だが、まさか……で見送ってしまう気もなかった。美術史の権威たちの「統一された解釈にいったん従うならぱ、では、どんなことが考えられるだろう。
 日本の十二世紀前半はいわゆる白河・鳥羽の院政の時代であり、洛東岡崎の地、いまの平安神官の一帯に豪勢に六勝寺が建ち並んで、天皇よりも天皇の父や祖父である院の上皇・法皇による政治が行われていた時代である。藤原摂関家の勢いも事削(そ)がれて、院の近臣が時めいていた。平家も源氏もまだ概(おおむ)ね地下(ぢげ)の侍にちかい存在で、それでもようやくその軍事力と主従の結束と、蓄えた財力とで、じりじりと公家(くげ)社会に地歩をのばしつつはあった。平清盛が白河法皇の落胤(らくいん)であるやもという、その可能性も否定できぬ噂などに武家台頭の兆しを感じとるのも、あながち牽強付会ではなかった。その清盛が源氏の義朝と並んでしっかり頭をもたげたのが、武家の世の肇まりとも言われた保元の乱であり、西暦一一五六年のそれは源平諍乱の時節の幕開けを告げる大事件であった。
「考へられるかね」「う−ん」には、まさかそんな時期に、一匹の日本猿を「モデル」に捕獲してはる

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ばると南宋の一画家のもとへ船に積んで運びこむものだろうか、いったい誰が、何の為に、どんな輸送の便宜があって、と、いぶかしむ思いも籠もっていただろう。わたしも反射的にそう思った。そう思いながら、しかし、待てよとも思ったのである。この話、いますこし落ち着いて検計すべき問題点が、いくつも絡みついてはいないか。
 もう一度『猿図』を観たい。むずかしい話ではない、つまり、繪には一匹の猿が描かれていて、その余の何ひとつとして草も木も背景も描きだされてはいない事、だけを確認したい。その上で、我々日本人は、こういうふうにただ鳥、ただ獣だけを描いた繪というものを、いつの頃から所有してきたかを思い起こしてみたいのである。
 さしあたって我が十二世紀の頃を顧みれぱ、猿の繪では、有名な『鳥獣人物戯画』の甲巻にいくらも見られる猿たちが思い浮かぶ。擬人的な描写ながら兎や蛙たちとともに溌刺(はつらつ)とした猿が人のしぐざもまじえ、活躍している。いかにも猿というものをよく観た繪であるが、ここには背景である時空間がしっかり描かれ、かつ劇的な内容を備えて一巻の構成を成している。つまりは、繪ごころとして、件(くだん)の『猿図』とは表現の動機というもの、様式というものを異(こと)にしている。
『鳥獣戯画』より先立つ猿の繪では、平安時代と椎定される国宝『十六羅漢像』のうち第十一尊者の図像左わきの松樹とみられる木の股に顔のあかい猿の一匹が、めずらしい作例である。が、これも、猿はなにらかの意味で景物の一つであり、林間に修行する羅漢をめぐる描写は、象徴化されているが一種の山水世界を成している。
 鎌倉時代に入れば各種の繪巻物に猿の姿を見る例がある。『天狗草紙』の延暦寺巻には群れて見え、『法然上人繪伝』のやはり比叡山西塔の僧坊にも、紅葉にはえて顔の赤い尾の短い日本猿の番(つがい)が効果的

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に描かれている。また『石山寺緑起』の第五巻には、厩舎(うまや)に繋かれた尻の赤い尾の短い猿が女子供に呼ばれているし、『長谷雄(はせお)草紙』では車の軛(くびき)に繋がれた猿が、路上、親といっしょの子供にむきあって立って両手を差し出した姿が描かれている。すべて自然なり風俗なりに溶けこみ、それぞれの場を占めた猿たちである。言い換えれぱ伝毛松の『猿図』のように、具体的な物や人や世界からまったく遮断された、ただ猿のみというような描かれ方はしていないのである。
 単独に猿という例は、茨城県行方郡玉造町で出土した埴輪猿がはなはだ優れている。縄文時代晩期とみられる土製猿も弘前市十面沢遣跡から出土している、が、いずれも今問題にしている意味で比較はできない。埴輪猿は、だが、みごとに日本猿の顔をしている。いや、わたしはその方の専門家ではないので確信があるわけでなく、古墳時代に日本猿と別種の猿が日本列島にいたのか、知らない。狒々(ひひ)という猿はアフリカ・アラビアに群生しているというが、日本でも岩見重太郎の狒々退治などと子供の頃に繪本で読んだ。「狒々おやじ」といった罵りの言葉もあるけれど、ま、この際は日本猿の巨大に劫(こう)を経たヤツを言うのかも知れない。
 要は、こういう事を指摘しなければならない、毛松と限らず大陸の画家の筆を否定し、日本国内に『猿図』の筆者を求めるとして、かりに毛松と同時代の日本にこの繪の描けるどんな画人・繪師がいたか。 猿の描ける技術をいうのではない。一匹の猿を背景もなにもなしにただ猿だけで描く「繪ごころ」が、十二世紀前半の日本にありえたかというのである。答えは大きく否に傾かざるをえない。駿馬(しゆんめ)・駿牛を描くということは、遅くも鎌倉時代からは、まま見受ける。繪馬奉納などと通いあう繪ごころで、どんな獣や鳥にも通用はしはしない。むろん時代が下れぱ猿だけを描く森狙仙があり鶏で名をあげた伊藤若

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冲がある。十八世紀後半から十九世紀にかかるはなしで、時代も繪ごころも全く比較にならない。
 技術ということでいえば、十二世紀に、すでに極めて写実の妙技を尽くすことの出来る繪師のいたらしいことが、『古今著聞集』の繪難坊の話から推察できる。繪難坊はあだなであろうが、後白河院の御所にまぢかにいた者で、繪をみれば難癖をつける男であった。つまりは批評家のはしりであり、批評の眼目はいかに写実において欠陥があるかを衝くのである。その衝き方がこと細かに小癪に触るというので、院は繪師にいざさかも繪難坊の非難を溶びまい繪を描かせ、これならばと突き付けると、それでも繪難坊は描写の上を行く難癖をつけて院や繪師をへこませるのであった。
 この話はいかにくそリアリズムの成り難いかをいいつつ、この時代にそれだけの写実ヘの態度や技倆がすすんでいたことを、推測させる。だが、技の有る無いと繪ごころの有る無いとは別のはなしであり、ヌードをヌードとして描きもし受け入れもするのに例えば日本は明治の文明開化をまたねばならなかったように、十二世紀の日本に、ただ猿を、ただ猿一匹のまま克明に写生するという繪ごころは熟していなかったと断定せざるをえない。
 そこで、この問題は次の段階へ必然に動いてくる。
 つまり、なにも、それを毛松と同時代の日本の制作とみなくてもいい、と。毛松の名を『猿図』と無縁に引き離してしまえぱ、そして日本人の作品とみるのならぱ、時代の判定と作者決定の問題はおのずと、べつの課題になる。そこで頼みになるのが、「狩野探幽によつて毛松筆と極められ」たという徳川義宣氏の文章であり、こういう「極め」の事実は、氏の美術館長という立場からも信頼してかかりたい。つまり探幽が活躍した江戸時代初期には確実にこの『猿図』は在ったのである。さらにいえぱ、先の堂谷憲勇氏の『猿図』解説の末尾に挙げられていた、「この幅(ふく)には武田信玄の花押(かおう)のある添状(そえじよう)があり、元

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亀元年(一五七○年)信玄から曼殊院の准三宮覚恕(じゆさんぐうかくじよ)へ進贈したものといわれている」との一節が繪の存在の年限をさらに戦国時代の未期にまで遡らせるのである。
「考へられるかね。徳川はどう思ふね」と当時の皇太子に言われて、「う−ん」と唸った徳川氏は、さらにこんなことを発言していた、「そんな例はほかにないね。素直に考へれぱ室町時代、阿弥派や狩野派、雪舟近辺の作として見る方が妥当だと思ふね」と。
 この徳川氏の発想には、微妙に「伝毛松」という今日の認定や毛松筆とした「探幽の極め」が、また『君台観左右帳記』に毛松の名が猿の文字とともに注されていた事実が、裏返されていると読める。無理でないはなしで、「素直に考へれば」とあるのがいかにも頷ける。氏は明らかに毛松の筆を否認ないし無視して、室町時代の日本の筆者を具体的に予測しようとされる。「美術史学の権威」たちに対し、本来徳川氏の一文が庶幾(しよき)した「鑑賞者」からの反論が、かように提示されていたのである。
 正直のところわたしは徳川説に、冷淡であった。取り合う気があまりしなかった。くわしく考えたわけでなく、直観的に、なお室町時代といえども『猿図』の如きただ猿の繪を、取り合わせも背景もなしに接近して描ききるような繪ごころは、出来ていないという判定が働いた。
 そもそも阿弥派であれ狩野派であれ雪舟近辺であれ、類似の繪が、たとえ他の獣であれ鳥であれ、思い浮かぱなかった。学研版『花鳥画の世界11花鳥画資料集成』に、沢山な画中の小動物の姿が例示してあるけれど、伝毛益の『蜀葵遊猫図(しよつきゆうびようず)』すら然り、伝毛松『猿図』のごときあたかも肖像画のような表現は一点も出ていない。それどころか室町から安土桃山時代の猿の繪といえぱ、あの牧谿描く猿が手本であり、その踏襲である狩野松栄の猿や長谷川等伯の猿などであって、それは伝毛松『猿図』の猿とはまるで別種の、待徴的なまるい童顔、手のながい身軽な樹上の猿猴(えんこう)どもの姿ばかりであった。

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 江戸時代のものは論外としよう。徳川氏の謂う阿弥派の総帥藝阿弥の筆と伝えた、『国華』第一三九号(明治三十四年十二月)所収の『■(けものへんに爰)図』もまたまったくの樹上長臂(ちようひ)の猿で、丸く白抜きした中に小さく目鼻をかためた、例の牧谿(もつけい)の猿である。筆致もすこぶる固く粗く、伝毛松図の精緻を極めた毛描きの妙手とは甚だしく異なっている。むろん真蹟の保証もないが、「阿弥派」の伝承とは見ていいだろう。そしてこの童顔長臂の樹上の猿は、「支那本土及ぴ本朝に見ること難(かた)」いがために、古来これを描く時はしぜん「一種想像的常套的の形体を以てし」たとされている。この種の猿は樹上に常住、「性静而仁慈」なことや「啼(てい)一鳴三声」のよく人の心魂にうったえるところが愛好されてきたという。
 雪舟等楊(とうよう)の筆という『猿猴図』屏風がフェノロサー―ウェルド・コレクションにあるが、これまた例に違わぬ牧谿の有名な白衣観音を挟んだ三幅対の樹上母子の猿に類似というより酷似の、疎略な童顔長臂の猿であり、伝毛松の猿と相通うものの微塵もない表現である。言うまでもない牧谿を絶賛し雪舟の後継者をもって自ら任じた長谷川等伯も、また狩野派の画人らも、問題の『猿図』のような猿の表現は、念頭にもなかったと断ずる以外になさそうなのである。彼らは日本猿を日本猿の特色、赤い顔と赤い尻、短い尾といった特色のままに描いていない(三字傍点)と、ほぼ言い切ることができそうなのである。
 付け加えていえば、伝毛松『猿図』のように小動物を画面に大きく接近して描く風は、宋代■(令へんに羽)(れい)毛画にあっては、むしろ一般の画様であった。有名な徽宗(きそう)の『桃鳩図』もそうだし、伝毛益の猿や猫もそうである。しかもなお毛松と伝える『猿図』のように、桃とも葵とも樹木とも切り離され、猿のみを精彩あたかも最良の肖像画かのように美しく描いた例は稀有というよりも他に容易に挙げる例がない。
「う−ん」と、今度はわたしが唸る番であって、室町時代に件(くだん)の猿と相似の繪画作品を認めることは、

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実は「素直に」も何にも、かえって十二・三世紀の場合よりもっと難儀で可能性が薄いことになってしまった。室町の水墨花鳥は丹念に眺めれぱ、かなり筆触は粗く固くて、この猿に見られるような優柔な毛描きの妙とはやや程遠いとすら一般に断定せざるをえないのである。第一、彼らの描く猿は、そもそも「日本猿」ではないのである。
 では伝毛松の猿は、当時の明仁親王が指摘したとおりの、疑いない「日本猿」であるのか。徳川氏は動物学者も異の立てようのなかった「日本猿」だと書かれている。先の『花鳥画資料集成』でも伝毛松の猿を「ニホンザル」の項目にしっかり記録している。少なくも「日本猿」を疑っている文献は無く、同時に「伝毛松」ヘの反論というより南宋院体画派の■(令へんに羽)(れい)毛画にあって伝存すくない、かつ優秀で貴重な作例であることを懐疑ないし否認した文献も無い。日本人の筆であろうとみる考えは、徳川氏とはちがって「素直に考へれぱ」在りえないかに、美術史学の「権威」たちは推断しているのである。
 いやいや、『猿図』がはらむ猿の問題は、これしきでは済まないのである。


猿と信玄

 この(一九九○年)八月二十四日、わたしは東京国立博物館ヘ、伝毛松『猿図』を見に出かけた。前回の原稿を編集部へ送った三日後のことである。ぎらぎらと照ってひときわ暑い午後であったが、東洋館の地下は三井寺の秘宝展で、それから先ずみて行くうちに汗は気もちよくひいた。

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 どんを写真でみてきたよりも、実物の『猿図』はりっばな藝術品であった。
 何人もの方がこれまでこの「猿」を「肖像画」のようだと言われている。
 だが、わたしは、もうすこし別の観点からこれを、どことなし「本尊画」にちかい、信仰の対象化さえされたような深みがあると眺めてきた。実物をひとめ見てわたしは、ますます、その感を深くした。位があり、静かに深いものがあり、品格に富んで犯しがたい気迫をたたえていた。毛描きは精彩ゆたかに巧緻をきわめながら、うるさく目立つことはなかった。細部の線に騒がしい肥痩のはずみもない。最良の仏画にみられる心を吸いこむような美しい均質の線も要所にもちいられ、もし、これが信仰の場に一の「神格」かのように床の間などに飾られたとせよ、すこしも場ちがいでないという印象をもった。すくなくも、この『猿図』を、たんに一つの小動物画ないし■(令へんに羽)(れい)毛画の作例としてのみ見ていては、より興味深い多くを、見落としてしまうのではないか。そう思った。
『猿図』をみたあと、中園美術室の湊信幸氏と、幸いなことに、かなりの時間話しあうことができた。むろん、ここで研究者である氏の見解をあやまって伝えるような恐れは避けたい。が、「毛松筆」とは証明できないのが事実であるとともに、この繪が日本の画人の作になると見うる余地もまったく無く、やはり中国の、南宋画の、よはど優れた作例であることは様式や技術などから否定できないと思う、とは言われた。
 さらに氏は、どっちかといえば『猿図』は、毛松が活躍した時期よりなお若干時代の若い、南宋でももう十三世紀に近いか入っての作品のように見ていますが…とも、付加えておられた。宋室南遷のむしろ交に近く、なお北院の香気をのこした『猿図』かと眺めていた専門家も従来あった。その方が多かったかも知れをい、いずれにせよ、わたしにそれを是非する力はないのであるから、紹介するにとどめて

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おく。
 要するに専門の「美術史家」は、徳川義宣氏(ないし、かつての皇太子)による、室町期日本の画家の手になった方が「素直」という見解に、依然くみしていないことが、はっきりした。
 では猿が「日本猿」である一件はどうなるのか。徳川氏のいわれる学者たちの「統一見解」とやらが示すように、「毛松」に拘泥しないまでも、やはり大陸画家の高名を慕って日本から日本猿の繪を描いてもらいに船を出していたのだろうか。では、誰が。そして何時。そもそも、そんな物好きが、いや贅沢が、ありえただろうか。
 いやいや結論ヘ、そう早く浅くとびつくことは出未ない。
 第一に『猿図』の猿は、ほんとうに皇太子の指摘どおりに「日本猿」であるのか。これが困ったことに、尻尾がどうしても掴めない。尻尾が描かれていない、つまり画面に見えないのである。
 日本猿の待徴は、顔と尻が赤い以上に尾のたいへん短い点にある。ちょっとでもその尻尾が画面で掴めれば短い長いと判断できるのだが、遺憾なことに尾が見えない。短いからこそ背後に隠れて見えないのだというしか、ない。それで十分と、ま、思われてきたからこの猿は「日本猿」と賛成もされ断定すらされてきた。否定した人はいなかった。ただ、疑えば疑える、大陸にも似た猿がいないわけではないなどと、慎重を日を利く猿学者もいた。
 だが『猿図』の猿と同種ないし類似種とみられる猿の繪を、もはや北・南をとわず宋代作画に見出すことは事実問題として容易でない。きっぱりした比較材料を求めることは殆ど出来ない。
 もともと日本猿の祖型猿が大陸にいたのは間違いないとして、日本列島がまだ大陸の一部であった太古のはなしであり、日本猿が日本列島の位置に棲みついて、すでに四、五十万年が経っている。しかも

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南限を屋久島に、北限を下北半島に、他には琉球諸島にも朝鮮半島にも日本猿は分布していないのである。迂遠な話をして、どう厳密がってみても始まらないのであって、『猿図』の「日本猿」説を否定できる心証も例証も、まったく無いにひとしい。信じてよい、とすべきであろう。
 同時にこれが到底「想像」して描かれた架空の猿でもないことを、確認したい。「日本猿」をよくよく実地に見た目でなけれぱ、これは、描けた繪ではない。
 かくて可能な推測は、中国人である優れた画技筆技の待ち主が、日本猿を、一、中国の地で見て描いたか、二、日本国へ渡って見て描いたか、の、いずれかであろう。武田信玄以前の時代に、日本はもとより琉球・朝鮮・渤海等に、この『猿図』はどの筆技と繪画感覚とをしめす例証は絶無といえるからである。宋――という中国と中国人とを挙げてものを言うしかなく、雪舟ほどの、大陸で学んできた大画家でも、この『猿図』とは触れ合わないからである。
 無謀に、一、と二、と、すぐに取り組むのは荷が重い。
 そこで見当ちがいかも知れないが、「武田信玄」ヘ、まず組みついてみよう。
『猿図』が信玄から京都曼殊院の覚恕(かくじよ)(一五二一〜七四年)に進物(しんもつ)、具体的にいえば覚恕が比叡山延暦寺の座主(ざす)に新任されたお祝いの品として贈られたことは、繪の添状(寄進状)からも信じてよく、事実その後は東京の博物館入りするこの戦後まで、ずっと曼殊院所蔵で経過していた。昭和二十六年刊の「世界美術全集」第14巻(平凡社)にもまだ「曼殊院」と明記され、そして後奈良天皇皇子で准三宮(じゆさんぐう)覚恕親王が曼殊院の法室であった史実は動かない。繪が贈られたのは、即ち覚恕が座主に補されたのは元亀元年(一五七○年)であり、しかも翌年には織田信長の手で延暦寺はすべて焼亡した。覚恕は比叡山で最悪の悲運に遭った座主なのであった。そして武田信玄また、その二年後の天正元年四月、信州駒

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場で五十三歳の無念の死を遂げている。
 戦国大名の最も有力で有名なひとりである武田信玄の手に、少なくも或る時期、間題の『猿図』が所持されていた、それを否認していい埋由はもはや無い。間題は、一、彼の手にどう入ったのか、二、彼が京都の曼殊院覚恕にこれを贈るどんな筋合いがあったか、であろうか。東博の湊さんも、それに就いてはどうもと、思案がないようであった。
 だが、この場合は一にも二にも、わたしは、信玄正室の三条夫人ないしその死去を手がかりと考えたい。NHKの大河ドラマでは紺野美沙子が演じていた、あの、いつもいつまでも故郷京都をふかく思い、夫信玄の上洛を夢見ていた奥方である。この人は右大臣まで歴任した三条公頼(きんより)(藤原氏)の娘であり、『猿図』が覚恕へ贈られたのと全く同年の同月、即ち元亀元年の七月二十八日に病没していたのであって、たんなる偶然の一致とは簡単に見過ごせるわけがないからだ。
 覚恕の座主補任は三月二十三日であった。京と甲斐国との距離からして当然でもあろうが、信玄がたぶん側近に筆をとらせ、祝賀の意を伝えて『猿図』を贈った書状の日付は、明白に「七月十九日」である。三条夫人はもはや衰弱に向かっていて、句日を経ずに亡くなっている。その書状には、だが、「目出度奉存候」の字句についで今後は「田舎(でんじや)相当之御用等」を仰せ付けられますようにという趣旨が契約されている。そして「繪一幅猿」を献じますとしてある。日本中の当時の戦国大名がみな覚恕の「座主拝任」を祝って今後の奉仕を申し出ていたはずはなく、ここへ至る信玄なりの筋道が在っただろうと思いたい。
 この年信玄は正月に西駿河の花沢城を降し、四月から八月にかけては東駿河と伊豆を攻撃に出ていた。優勢にあっての戦とはいえ、必ずしも安穏な日々でなく、実はいま一つの不祥事がさきの「七月十九

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日」付の書状直前に起きていた。三条夫人の腹に生まれて、北条氏政(うじまさ)に嫁ぎながら、戦国大名のあらわな葛藤確執の犠牲になり、心ならずも大帰つまり出戻っていた娘の黄梅院が、六月十七日に病死していたのである。
 もとより夫人も息女も信玄支配の甲斐国に葬られているが、とりわけ三条夫人の思いが深く京都に根ざして終生望郷の念にとらわれていたのは、その薄幸というより不幸という方が当たっていた生涯からもよく推察される。不幸の最たるものは所生(しよしよう)の子のすべてを先立たせていたことにあり、信玄も妻の苦痛は察していた。
 或る意味で当時の戦国大名のつねとして「都」は最大で唯一の目的地であったし、まして累代、文化の素養に富んでいた武田氏としては、上洛は大願中の大願だった。そして「三条夫人」との婚姻が、「都」ヘの太い導きでなかったわけがない。
 夫人の姉は管領(かんれい)細川晴元の妻の一人であり、妹は本願寺顕如光佐の裏方つまり妻女である。信玄は永禄八年にはその顕如上人としっかり誼(よし)みを通じて戦略を固めていたし、三条夫人の没直後にもその事がある。もとより武田氏の大敵織田氏が比叡山や本願寺を目の敵にしたことの、これはきっちり裏返しである。そしてほかでもない『猿図』を貰って覚恕が座主になったばかりの延暦寺一山を、信長は、見たかとばかりに、灰にしていたのである。
 それはそれ、転法輪(てんほうりん)三条家は数ある三条家の主流。清華七家の一つで太政大臣にも進める家柄にあり、この時代のこととて公家は衰徴はしていても、京の雅びをいわば代表する貴族なのも事実であった。信玄正室としての「三条夫人」の存在価値にはたんなる妻以上の利用価値があったわけで、むしろそれほどの家の娘をよく甲斐の弱冠武田晴信(信玄)が妻に得られたものと驚いてもよい。そこには父武田信

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虎と女婿(じよせい)今川義元との親近、そして義元の斡旋があったのである。
 今川家は足利将軍家とごく近い家であり、義元また公方(くぼう)感覚の濃い戦国大名だった。母は従一位権大納言中御門(なかみかど)宣胤というとびきりの文化人の娘であり、いつも鼻さきに「都」があった。足場も閨縁も十分にあり、しかも貧窮の公家はむしろ有力な大名との縁組を望んでいた。武田氏はいわゆる下剋上の輩ではなく、源氏の正統に繋がってかつ文化文物を愛好してきた、守護の家柄だった。信玄の弟逍遙軒の名も知られているように、繪画や文藝に力量をみせた人を何人も擁しており、信玄にさえ、自筆かといわれるごく異色の『渡唐天神画像』のあることは、この際に、忘れることが出来ない。
 曼殊院は格式たかい門跡(もんぜき)寺院である。いま三井寺に秘蔵のいわゆる国宝『黄不動』を平安後期に親密に写した、やはり国宝『不動明王像』があるので知られている。相当の手腕であるが写したのが誰とは分からない。
 ここで指摘しておきたいのは、これはどの筆技にもなお今問題の『猿図』は、精彩において優っている、と同時に、本来は智証大師円珍が夢中に感得して描いたとされる『黄不動』原本が虚空(二字傍点)に立っていた像容を、岩座に起立させている改変の事実である。こういうリアリスチックな配慮や好みこそ、すでに平安末へかけての日本の「繪ごころ」というものであった。繪難坊らによる写実好みはもはや必然であった。それからしても、同じ曼殊院所蔵の『猿図』の描かれ方は、つまり尻の下にも背後にも一切の景物を省ききった描き方は、院政はなやかな十二世紀の日本の繪ごころ(四字傍点)ではいっそ不相応だったことが証明されるのである。
 それよりも信玄と曼殊院を結ぶ糸を確かめつつ、どうして『猿図』が両者の間に介在するようになったかを推埋して行くのが、素直な順序だろう。

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 とりわけて何故に『猿図』が祝意たりえたか。それは、解きやすい。猿は比叡山の神使としてあまりにも有名であり、日吉(ひえ)信仰のシンボルそのものである以上、延暦寺座主を拝任した後奈良天皇の法親王へこれ以上の贈物は、ない。まして、わたしが、指摘しているように『猿図』は、本尊画と呼んで通るはどの格の高い品位をみごとに備えている。礼拝は別としても、床の間に掛けられ尊崇されたとして本当によく似合っているのである。
 わたしの今言う「推理」は、だが、そういう事ではない。
 端的に三条夫人の実家は最高級の貴族であり曼殊院門跡とも延暦寺とも十二分に繋がっていたし、覚恕の父帝後奈良と甲斐武田氏とも三条夫人が輿入れのあとは、しばしば直接間接の交渉があった。甲斐一の宮への宸筆『般若心経』の奉納もあったし、ほかでもない三条大納言家領の役負担が滞っているのを、善処せよといった綸旨ものこっている。勅使の体裁で年々に京から公家が甲斐を訪れてもいた。けっして京郡と甲斐国との間は、信玄の時代、隔絶はしていなかったのである。『猿図』がかりに京都から先ず甲斐へもたらされたとして、それがまた京都へ戻されたのだとしても、道は通っていた。三条夫人の存在はそうした推測にかなりの妥当性を添えるといって、もはやそう強弁ではないであろう。
 武田氏には当時流行の水準を越すはどの北野天神信仰があり三教一致を志向する、いわぱ治世の態度もあった。信玄の筆とさえ推測されている恵林寺の『渡唐天神画像』はすぐれて特異をものであるとともに、信玄らの唐ならぬ宋国文化への禅味の加わった憧れを感じさせる。ところが、曼殊院門跡は実に平安時代このかた北野天満宮の別当職も兼ねていた。その曼殊院の覚恕の手で、信玄は実に天台宗権(ごん)僧正に任じられていたのである。
 もっと具体的な連携があったかも知れない。善光寺を挟んだ関係である。曼殊院には、門主山口圓道

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氏によれぱ、大玄関を入った松の間に信州善光寺如来が奉安されて、京都別院とされている由、その因縁は伏流久しいものであるらしい。信州善光寺とそっくりの善光寺が甲斐にもある。川中鳥で信玄・謙信が激闘を繰り返したときに、被害を畏れた信玄が丁重に甲斐国へ移した名残であり、おそらくは曼殊院門跡ないし覚恕のつよい憂慮が、配慮を願う意志が、働いていたように十分推量できる。
 信玄と曼殊院とに通っていた道については、この程度を語っておいて足りよう。ここで動かぬ事実は、『猿図』はどの繪が、都から甲斐へでなく、甲斐の信玄の手に在って都の曼殊院に伝えられたという事である。では信玄はどういう経路で手に入れ、たとえ祝意を表すとはいえこれはどの宝を、なんで手放したのか。
 こういう推測は、比較的白然ではなかろうか。
『猿図』は三条夫人が輿入れの時に持参していた。その価値を夫人はよく知っており、不幸な娘の死と曼殊院覚恕の慶びとがたまたま重なった際に、どうぞ『猿図』を都へと、ほとんど自身の帰郷ならびに夫上洛成就の祈願さえ籠め、はや死を覚悟の最期の頼みとして信玄に勧めた、と。この推測にもし従えば、『猿図』は、「毛松」か否かはともかく、室町時代の都に、『君台観左右帳記』の記載にふさわしく、公方ないし公家社会に既にもたらされていた逸品だったと言える。
 むろん付随して、三条夫人以来しばしば甲斐を訪れた縁戚公家の誰かの、武田家への献物であったとしてもいい。事情はおよそ変わらない。今川家からの進物であっても、同然であろう。
 ほかにも、しかし道はあった。
 舶来の繪を珍重したのは、禅僧も公方や公家に劣らない。武田信玄は臨済禅を格別尊重した。恵林寺の快川紹喜禅師は「火もまた涼し」と武田氏に殉じて戦火に落命している。しかも禅僧には、宋国を離

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れて日本に来ていた者も都や鎌倉の五山には混じっていたのだから、その手で甲斐へ待ち込まれた事も、極端な場合そうした中の一人が「日本猿」を得意の筆枝で描いてさえいた事も、あながち否定は出未ない。『猿図』については、渡来宋人が日本で日本猿を描いたのだと推定する余地が、たしかに、幾らかは有る。
 そうなると、しかし、当時のわが禅林繪画に、いわば『猿図』と魂の色を通わせた他の実例を求めねば済まなくなる。しかし鎌倉・室町時代を通じて『猿図』と繪ごころを通わせた繪が、猿と限らず全く無いことは、もう繰り返し語ってきた。
 禅僧が、甲斐ヘ『猿図』をもたらしたことは有りえても、これだけの繪をその僧は、結局「都」ヘの舶来品の中から入手していたと思われる。それが例えば鎌倉五山を経由して伝わっても、事情はべつに変わらない。武田は北条と一時会盟していたし、北条へも禅僧は多く接触していたのだから、北条経由で武田へ贈られていても似た筋道ではある。
 しかし他のどれもみな、幾らか「三条夫人」の筋道にくらべると心細い。
 どんな事情があっても、「三条夫人」抜きに、信玄がいきなり覚恕ヘ『猿図』を献呈した場合を想定するのは、これまた妙に真実感に乏しいという気がしてならないが、どうだろうか――。
 思いがけず迂遠に道草を食ったようでいて、先に挙げた二種類、それぞれ一、二、と掲げた疑問に、ただ一つ、を残して結局は、答えてきた。残った疑間が、即ちそのまま『猿図』成立の枠組みになったのである。つまり間題の『猿図』は、或る中国人である優れた画技筆技の持ち主が、日本猿を、どうやら彼の地にいて、しかも実見して、みごとに描いた作品であると結論せざるをえなくなったのである。
 これは『猿図』の遠景を限定しうるどころか、いやましに複雑に拡大する結論である。徳川義宣氏の

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最初の文章の題どおり、「宋に渡った日本猿」という皮肉な難問にぶつかるとともに、またしても、では何故に、誰が、そんな事をという動機や関係者へも、それがいったい何時頃の実行でありえたのかという推定にも、ほとんど手掛かりを欠いたまま立ち帰らねばならないからだ。
 面自いではないか。どこまで遣れるものか、遣ってみようではないか。
 先ず、何で「猿」の繪が……という問いには、たぶん、すぐ答えられる。その答から、次回は思いきった別の展望をえて行こう。

猿と清盛

「猿」の繪がとくべつに欲しい――という場合が、あるだろう。画家の側にある場合も、画家に繪を望む側にある場合も、あるだろう。問題にしてきた伝毛松『猿図』は、たまたまそこに猿がいた、しかし犬がいたら犬を描いてもよかったのだ、といった作画には見えない。よくいう、本腰が入っている。なみたいていな態度でも時間のかけかたでも描けた繪でなく、恪勤(かくごん)極まれり、ぜひとも「猿」であらねばをらぬという慎重な描写であり、表現である。
 それならぱ今は、前皇太子ないし徳川義宣氏の証言のままに、「美術史学の権威」たちが寄り寄リ「統一」したという、即ち、「毛松が猿を描いて巧みであるとの高名が日本にも伝はつてゐたので、日本からモデルの猿を(中国=)宋に送つて描いてもらつた作品」という「解釈」に一応も二応も従って、

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この際ぜひに「猿」をと望んだのは、いわば注文主である「日本」側であったとして、話をすすめるのが順当だろう。
 ちょっとアト戻りをするが、北宋の易元吉(えきげんきつ)に『猴猫図(こうびようず)』という作画が伝えられている。繋がれた猿猴が、赤ちやんを膝に抱く恰好で猫をかかえ、左に、尾をあげたもう一四の猫が猿を返り見ている。古人の扱わなかった題材で名を挙げたくて、「ツヒニ 猿ヲ写ス」ところへ行った猿や小鹿ないし小動物画家であったが、「大陸にも(問題の『猿図』と)似た猿はいないわけではない」という日本の猿学者の弁を、その繪など、いくらか裏書きしている。尾は見えないし手が長いようでもない。面(つら)つきは滑稽味とも獰猛感ともつかない、どちらかといえば類型的に粗く作った描きかたで、戯画化されている。日本猿の頭胴長約60センチといわれるのに比してやや大猿に感じられ、しかもやや記憶で描いたかと疑わせる、筆騒がしい、厳密を欠いた描写でもある。伝毛松画の巧緻には遠く及ばない。
 中国の猿といえば『西遊記』の孫悟空が、無視できない。しかも刊本の挿繪など、しいていえば日本猿に「似た猿」に部類されよう。が、「大猿」ではあり、自在に立ち歩くという一点でも「擬人」猿なのであって、超人という言い方にならえば悟空は超猿として描かれ、この際は問題にしようがない。
 とはいえ「似た猿は(中国に)いないわけでない」とする説のあったことを、もう一度ここに注しておくのは、やはりフェアーであろう。『猿図』が、日本猿に似た種類の中国産の猿の繪であるなら、なにを悩むこともない、一般の舶来画に準じて一切は済むのである。難儀なことに、だが、それがはぼ全否定され、「日本猿」だと指摘した現明仁天皇の判断を、すくなくも美術の権威たちが追認している。一切がそこから始まって、それならば…という問いが残ったわけである。
 それならば、何で「猿」の繪が……。それには答え易いと言っておいた。

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 一応であるが、我が十二世紀中ないし十三世紀の初めまでに『猿図』が舶来したとして、一つには当時ひときわ流行した日吉山王信抑の、「猿」は、まこと重々しいシンボルであった事実が挙げられる。ただの猿ではなかったのである。二つには厩に繋いだ猿が馬を疫病から護るという信仰がここへきて時世の表に濃く現れた。馬匹(ばひつ)尊重の武家台頭期に「猿」の立場が強められ、猿の不思議が意識されるとともに、実用的な効能をまで頼む傾向が煽られて来たわけである。

  御厩(みまや)の隅なる飼ひ猿は 絆(きづな)離れてさぞ遊ぶ 木に登り

とか

  上馬(じようめ)の多かる御館(みたち)かな 武者の館(たち)とぞ覚えたる

とかいった今様(いまよう)(流行歌)の歌詞が、十二世紀半ぱに編まれた『梁塵秘抄』には目立っている。上馬つまり良い馬は貴重であり、その馬を守る猿はハバを利かしていたのである。事実猿を厩に飼う風は日本にかぎらずインドにも中国にもあった。そればかりか古くから農家でも、猿を、豊作と繁殖を祈り祝う獣として、むげには見ない風がひろく行われていたという。猿牽きの既祓(はらい)いの風習は江戸時代に及んで、なお盛んであったといわれる。
 さて今一つの日吉山王権現信仰の原点は、滋賀県の日吉大社にあった。比叡山の山岳信仰に源を発し、古くは「ひえ」で、中世以降に「ひよし」と呼ばれている。本殿が二つあリ、二宮(にのみや)には比叡山の地主神

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であった大山咋神(おおやまくいのかみ)を祭り、大宮には近江大津京のとき大和の三輪から大己貴神(おおなむちのかみ)を伴い迎えて祭っている。余談ながら二宮の世襲社家(しやけ)は樹下(じゆげ)家であり、恐らく猿面冠者の日吉丸こと豊臣秀吉が、志を秘めて「木下」藤吉郎を名乗った背景を成していたに相違ない。ともあれ日吉大社は混沌とした神社群の山王百八社を擁しながら、延暦寺ができるとその護法神・総鎮守となり、運営も経済もすべて延暦寺の支配を受けた。延暦寺尊崇と日吉(ひえ)山王信仰とは分かちがたく表裏して、しかも背後に比叡山という「山」が聳えていたのである。
 山王とは、比叡山にかぎらず、山岳伽藍の地主神をいう。が、より一般にはやはり日吉山王諸神をさし、神仏習合があらわになって行くにつれ天皇制の根とも絡まりをがら天台神道の基本に日吉の神々が立つことになる。信仰のありようは社参巡礼つまりは山巡りの行(ぎよう)であり、導きの山咋(く)い猿がモノを言った。そればかりか、例えば「山」「王」の文字をそれぞれ「竪三に横一本」「横三に竪一本」と見立てて、「三諦即一」といわれる天台の教学に適(かなう)うなどとも言っている。たわいない気もする。
 だが日吉信仰ひいては比叡山信仰が世をおおう勢いにあった、あった時も有った、のは歴史上の事実なので、それは無視できない。「猿」が袈裟をつけた有り様で、大きな顔で世俗をにらみ、また干渉してくる。『鳥獣戯画』にのさばる猿僧正のことごとしい姿はその反映に相連なく、日吉山王を代表する神使そのものとして、歴史的に最も人のまぢかに暮らした猿は、比叡山の日本猿であったと、広瀬鎮氏の著書『猿』も指摘している。
 日吉山王祭は古来四月の申(さる)の日を中心に午(うま)から酉(とり)の日まで四日間行われた。申の日は祭りの絶頂で、室町時代までは勅使参向が例であったというが、ここでは深入りしない。むしろ分かりよく、いささか乱暴ではあるが、要するに日本の山中他界信仰の根に、延暦寺という幹が継がれ、その仏教的権威に加

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えて、延暦寺ならびに日吉神人(ひえじにん)らが一致して築きあげた経済的な基盤の広さ深さ大きさへの尊重が、まずは周辺の皇室や公家社会に行き渡っていたのだと納得するのが早いだろう。織田信長に焼き落とされるまでは、聖にも俗にもあまりに大きい比叡山であった、だから徹底した焼き打ちにも遭ったのである。
 猿か人かというほど、たしかに比叡山には猿がいた。その理由に、「ひえ」の名の素朴な由来をなしたであろう「稗」の野生と多産が考えられるかも知れない。思えぱ稗に由来の「ひえ」の地名は少なくない。「稗田阿礼(ひえたのあれ)」の名も思い出され、しかも彼(彼女とも)のごく近くには憑霊(ひょうれい)の秘儀や呪術を管埋した猿女君(さるめのきみ)の活躍や、また神代の猿出彦伝説が潜んでいたことも思い出される。猿田彦とくれば猿女氏の祖先天鈿女命(あめのうずめのみこと)のあの岩戸「神楽」のことも思い出され、それが「猿楽(さるがく)」ヘ繋がったとは世阿弥らも意識していた。猿楽は「申楽」と書かれていたが、申の日を絶項に祝った日吉山王祭にこそ近江猿楽は奉納されたのであり、猿女らの鎮塊の舞い遊ぴが無縁でありえたとも思えない。近江は古来猿女(さるめ)貢進の一本拠地でもあったのである。
 それはともあれ「日吉」が佳字をあてた名であり、稗がその根にあったろうとは想像し易い。稗は、時には米や麦よりはるかに日本の食生活に接近していたし、猿が稗を好んで食う事実もある。猿はもともと人とほぼ同じものを食ってきた。だからこそ猿と人とは共存という以上にむしろ争って生きてきたのだ、猿必ずしも人に愛されてばかりはいなかった。日本猿は性質も猛々しく賢く、猿蟹合戦とかぎらず一種の悪役ですらあった。時には桃大郎の家来にもなりはしたが、とどのつまり里にも棲んだ猿が山へ追い上げられ、山の王に祭りあげられた。追ったのも祭ったのも猿より毛の三本多い人間であった。
 ところで間題の時代に、ずばりと、『猿図』のようなものを求めた権勢ないし人物を指名するならば、第一に後白河上皇を挙げて、それに協力しえた者として平清盛をあげるのが妥当とわたしは考える。

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 後白河院は、その「寶蔵の御繪」を誇りにしていた人であった。『年中行事繪巻』を自ら企画実現し、いわば「新・源氏物語繪巻」も考慮していた人であった。身辺に、藤原忠通や藤原隆能や藤原隆信のような似繪(にせえ)の名手、鳥羽僧正のような男繪の名手、ざらには繪難坊のような批評家を擁していた人でもあった。今様唄いの家元のような存在である一方で、おそらく相当な繪ごころの持ち主でもあったとみえ、あの華麗をきわめた趣向の『平家納経』を清盛に対して示唆しえたほどの天子であったとすら、わたしは見ている。
 その後白河院が、当時もっとも日吉信仰に篤い人であった。名高い彼の法住寺御所のすぐ近くに今熊野とならんで新日吉神宮を勧請(かんじよう)したのが、永暦元年(一一六○年)十月。これは保元の乱に次いで平治の乱も果てたちょうど翌年のことであった。両度の内乱をへて源氏は逼塞(ひつそく)し、一月には棟梁義朝が殺され、二月には後嗣頼朝が伊豆に流されて、逆に清盛以下の平家は日の出の勢いに官位をあげて行く。平家にあらずんば人にあらぬ時節の到来である。しかも清盛こそ、自身ならぴに弟頼盛と相次いでの大宰大弐(だざいのだいに)の要職を好機に、西国九州と有力寺社を経営計略し、太宰府および博多港を拠点に宋国との貿易にもっとも熱心な男であった。それ自体が平家興隆のおおきな資金源を成したのであり、海路を護る厳島神社へのなみなみでない信仰も、のちに摂津福原へ遷都の敢行にしても、みな宋貿易と平家との関わりなしには考えられない。
 いったい宋と日本との交易には、目に見えておおきな転機があり、それが清盛上昇の頃に当たっていた。十一世紀も末になって、ようやく日本の商船が積極的に海外へ出るようになったとはいえ、渡航先はおおかた高麗(こうらい)に、つまり朝鮮半島に限定されていた。それが航梅技術の進歩にも助けられ、なにより平政権の政治・文化的な高揚もあずかって十二世紀後半に入る頃から、直接南宋の膝元へまで日本船が

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盛んに渡るようになっていた。
 宋の時代は言うまでもなく、北宋の時期と、北狄(ほくてき)に逐われて南遷した南宋の時期とに分かれるが、南宋の樹(た)ったのが白河法皇院政、崇徳(すとく)天皇の大治二年(一一二七年)で、それ以前の宋貿易は日本側がまったく受け身に、専ら宋船と宋商人とが九州まで来て貿易していた。北九州の有力寺社や荘園領主・荘官との私貿易も現実に行われていた。我が高僧たちの聖地巡礼が目的の入宋(につそう)も、ことごとく宋商船を頼んでいた。
 清盛らの息のかかった史料的に確かな日本船の初の渡宋貿易は孝宗即位(一一六二年)の前後からで、ぴったりと先の新日吉勧請の時点に膚接している。高麗経由のいわば宋との間接貿易も、ようやく高麗との間に対馬の商船が抑留されるなど摩擦が生じはじめ、南宋明州(寧波)方面へ直航の道をつける方に、もはや機が熱していたのであろう。
 平家は清盛の父忠盛の頃にすでに、北九州、肥前神崎荘で宋船と貿易していたし、その旨みをよくよく承知していた清盛は、大宰大弍という現地最高官に任じられると例えぱ弟頼盛の場合自身赴住させて現地をかたく掌握し、さらに門司関も掌握して、瀬戸内海航路の安全と整備とに万全を期していた。
 清盛の対宋貿易には宋銭輪入とその流通のようなおまけもあったが、大量の経典や文物の舶来も貴重であった。『猿図』といわずその種の文化財が渡って来ること自体には、もはや何の不思議も疑問もなかったのである。問題は「日本猿」を送ったか、どこへ送ったか、という事に落ち着いてくる。
 徳川氏の「宋に渡った日本猿」を初めて読んだとき、告白するが、学者達の結論にもわたしは失笑した。だれがたかが猿の繪がほしくてわざわざ宋まで船をやるだろう。そう思うと繪の専門家たちが「決め」たハナシがいかにも面白い。いや可笑しい。と、まあだれしもそう考えてしまう。

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わたしもそう思って、笑ってしまったのであり、皇太子と徳川氏との、「考へられるかね。徳川はどう思ふね」「う−ん」にも、たぶんソレがあったのだろう。「素直」でない「解釈」とする批判ないし失笑がもれたことであろう。
 だが待て、思えばまさか有りえそうにもない、猿を中国へ送って繪を描いてもらうなどということも、繪一枚を唯一の目的とかたく考えるからバカバカしいほど大袈裟になる。彼と我とにもっと他にたくさんな商習慣に類する交渉や往来があったなかの、いわば土産とも謝礼ともとれそうな、そういう「猿」一匹「繪」一枚が幸いに往来した程度とならば納得できよう。なにも比叡山の神猿でなくても、北九州にも日本猿の棲息は夥しく、例えば毛松が活躍した江蘇省の昆山は上海と蘇州の中間、博多港から至近距離にあった。宋都杭州の臨安府へもおよそ順路にあった。猿が海を渡っても不自然はなかったのである。
 それよりも、とくに『猿図』の場合、かりに後白河院や平清盛の頃の日本側に、だれがこういうタイプの繪を描けたろうと一度でも気づけば、狭い上にも狭かった日本の画界では、その方が絶望的な詮議に陥ってしまう。
 白河・鳥羽といった院政華やかな時期には、まだ、日本の船は宋までの航路を確保していない。後鳥羽院もまた日吉参詣に熱心であったが、十三世紀へ入れば徐々に時世は公武険悪となり物騒となり、その剣呑さには後白河時代の源平角逐(かくちく)とはちょっと比べようのない重苦しさが標っていた。後白河は源氏と平家とを掌の上でまだ操っていた。後鳥羽は鎌倉武士と対峙して京方の責任者であり、だから敗北のあげく無残な流され王となるしかなかった。
 一方、鎌倉の北条政権にはにわかに宋と交渉し貿易に励む足場が弱かったし、それに「猿の繪」を求

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める動機も趣味も持ち合わせなかっただろう。初度の元寇(げんこう)(一二七四年)も目前。まして時代を降(くだ)れば降るほど『猿図』の画風から宋画じたいが動いて行く。南宋も十二世紀の「伝毛松」ないし近辺と『猿図』の制作を見定めていた狩野探幽以来の眼は、けっして節穴ではなかったのである。
 そうなると……どっちみち確実なことは言えない。言えないことをよくよく承知の上でならぱ、もはや、後白河院と平家とに協調・協力の気息が調っていた時期こそが、南宋まで『猿図』の為に「日本猿」を送りこめた、まず唯一絶好の機会であったかと、結論をさぐる以外にないだろう。
 かぎりなく実情に近いのは、こうでは、ないか。新日吉神宮のみごとに成った最良の御祝儀として、趣向好きの清盛自ら当時蜜月の問柄でもあった上皇様の為に『猿図』を注文したと。たいした事でなかった、配下に命じれば済んだ事だと。
 それよりもたいした苦労であったのは、むしろ舟に乗った「日本猿」様と同行の船乗りたちとであったかも知れぬ。と言うのも猿と船とは、上皇や清盛の思惑は知らず、どうやらちと迷惑な、微妙に差し障りの間柄であったらしいのである。
 唐突に話がとぶが、一五九六年(慶長元年)八月の中ごろ、土佐の浦戸沖に一隻の「黒船」が漂着した。イスパーニアの七百トンもある重装備のサン・フエリーぺ号で、豊富に荷を満載してルソン島からメキシコヘ向かっていたのが、台風にあい船は毀れ、舵も失い、かつがつ退避してきたのであった。それ自体日本が鎖国へむかう重大なきっかけを成したのだが、大量の黄金はもとより、積んでいた荷の珍しざは没収者太閣秀吉を悦ばせ、鸚鵡や金欄椴子などを禁裡に献上したりしている。
 その時のサン・フェリーペ号に、実は生きた猿も積まれていた。生きた麝香鹿(じやこうじか)や鸚鵡も積んでいたのだから、なに不思議もないといえばそれまでだが、猿を伴った航海は縁起がわるいと、少なくも日本の

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船頭や水夫たちは言ってきた。船に猿を乗せて運ぶ仕事は奇妙に我が船乗りたちにいやがられて来たし、近年でも、なおそうらしい。
 所がその一方で、たとえば英語の船舶用語には、モンキー=サルに係わる言葉がやたら多いと広瀬氏の著書『猿』は、教えている。モンキー・ボートやモンキー・ビープといった小舟や商船があったし、モンキー・ガフ、モンキー・レイル、モンキー・ウィール、モンキー・シーム、モンキー・ステイ、モンキー・フィスト、モンキー・フォックスなどの備品や設備や部位名がある。船員の持ち物にもモンキー・ジャケット、モンキー・バッグなどがあり、マドロスたちのペットに猿はすこしも珍しくなくて、むしろ帆船時代の航梅には好んで猿を同乗させてさえいたらしいことが、推量されている。サン・フェリーぺの猿も貿易品ではなく、船員のペットないし航海の安全を期待した、いっそ護り神であったのかも知れない。 
 つまり船と猿とは、どこかで縁起のよしあしは逆転しているにしても、もともと何らかの曰くのある組み合わせであったことが、ともあれ、想像されるのである。
 さらに言えば猿は樹上の生活に長じていながら、他方、水との縁を結んだ姿もすくなからず人目にみせてきた獣であった。日吉の船上祭では「サル装束の七人が船の屋形の上で舞った」そうだし、大津市栗津には神事に用いた「猿人」七つの古面も残っているという。近江山王系の船祭では列島各地で「サル役」の者が船や海の上で古朴な藝をみせる例が多く、広い意味のそれらをも「サル楽(がく)」かと見ていい気がする。つまりもともとは船魂(ふなだま)なみに水上の安全を祝う役の猿または猿真似人がいて、海で溺れたと伝えられている猿田彦伝説の鎮魂儀礼などとも、不思議に結びついていたかと遥かな想像へ我々を誘うのである。

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 すでに読者はお気づきであろう。
 我々の主題は「猿の繪」をもはや抜け出て、「猿」そのものの身に負うてきた「遠景」ヘと誘い出されているのである。想えば、なんと夥しい「サル」のイメージに我々の歴史は囲繞(いによう)されきたことか。サルもの、といえども敢えて今少し、追ってみよう。

猿と猿楽

 生き物としての猿を、犬や猫ほど日常的には見てこなかった。猿が好きであったかと自問してみても、ハキとは答えられない。嫌ういわれは、何も無い。そんな答えしかとっさに思い浮かばない。そしてそれこそが微妙に問題をはらむのである。
 賢い猿が映画などで活躍していても、同じなら犬の場合など素直に感心したり賞賛したリできるのに、猿だと、笑ってしまうか、チト小癪にさわるか。つまり人くさざがかえって鼻についたりする。猿牽きのつかう猿の演戯力には感嘆を禁じえないが、一方あれまでにした人と猿との格闘のすさまじさも自然と想像され、思いなしもの哀れもそそられる。猿の惑星はありえても、犬猫が人を駆使する惑星など思い浮かばないのは、つまり、それあだけ猿とは無意識にいや意識しても闘ってこざるをえをかった人間社会の在りようが、いや歴史といってもいいが、からだで記憶されているという事だろう。
 お猿さんと自然に呼んでいる。遠い親戚の子を見るような気分がある。だから、いやその一方で、妙

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な煙ッたさもある。犬や猫のように愛してはいないし、猿の側から人が愛されているという実感も、たとえば犬猫の場合ほどは結局持てない。どこか恨まれていても仕方ないという気になる。負担がある。
 犬と猿とは桃太郎の家来であった。同じ家来だが、例えばそこに織田信長にとっての秀吉と光秀はどの差を感じてはいないか。仇名こそサルといわれた秀吉だが犬なみに主君に忠実だったし、逆に光秀は、丹波に拠点の山猿らしくスキを見て歯をむいた。背いた。猿には、たとえ歯をむいて人に向かってきても、それにはそれなりの理由があると、人間サマの深層意識に微妙に納得が出来ている。そういうところが、ある。「サル」の遠景には、変なようだが、それがある。神代の昔から猿を、人は、対等ではないが妙に対等に近いと意識して来たのだ。
 高天原(たかまがはら)から天下ってきた天孫の一行を、海に囲まれた山国ヘ、やまと=山処の国へとつつがなく出迎えたのは、猿田彦であった。猿田彦大神とさえ後に尊称されている。この天地の境への出迎えは、また一方で猿田彦と岩戸神楽を舞い遊んだ天鈿女(あめのうずめ)との、出会い、見合い、の場ともなった。以後ご両所は夫婦神とたぐえられ、一対像は道祖神の下繪ともなって、諸地域の境界を守ると伝えられている。塞(さえ・さい)の神の原像である。
 人は、猿の道引き・導きにより、山また山を山巡りの無事がえられると意識した。「猿教え」の温泉や岨道(そわみち)や架け橋の言い伝えは数限りをく、平地に一歩も足をつけることをく山から山へ東西南北、日本の国を猿は経回(へめぐ)ることが出来た。海から入り川を伝い上って山の民となった人々も、猿にまなんでそれをして来た。猿との共生がありえた道理で、しかも猿を捕らえ猿を食い猿を黒焼きにして薬にもして来た。それも人の為には共生でありえた道理で、神使(しんし)・山王の猿信仰は山岳信仰を介し、いつしか山中山麓に定着した。農家にも武家の厩にも、宮廷や公家社会の奥にまでも定着したのである。

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そして天鈿女(あめのうずめ)の末裔である猿女(さるめ)が、あたかも山王神妻(しんさい)かのように憑依(ひようえ)の呪力を備え、人と神との仲立ちを務めつつまつりごとの世界に深く接近していた事、そのいわば藝態として神楽・申楽(さるがく)・猿楽といった伝統が(事実はともかく)架構ないし虚構されてきた事は、まことに興味深い。山、信仰、藝能、猿。それをセットにして、あたかも観客の場から「あっち」側に眺めて「こっち」側とは区別する態度や意識を、人間は、政治や制度は、育ててきたのである。
 猿真似という言葉と物真似という言葉とは、ほとんど同義かのように人の思いにこびりついている。そして物真似のモノとは、もともと神・鬼・霊的なチカラを意味していたのだから、猿もそのテのチカラの側ヘ、つまリモノであるケモノとして、人の側から意識されていたのである。しかも大事なことは、これら神・鬼・霊的なモノは、必ずしも人の尊崇のみを得ていたわけでをく、忌避ないし敬遠され、軽蔑すらされて来た久しい民俗も心得ていないと、誤解を生してしまう。お猿さんもまた然り、あたかもお使いサンに堕ちたモノであった。それを呼んで「お猿さん」とは、オベッカの物言いであったろう。
 オベッカとはたぶん「お別火」であろうとわたしは考えている。火を別に別の食事を奉った神ないしモノヘの、崇拝と敬遠の表裏した物言い。神を敬うにこと寄せた隠微な忌避の感覚。それが、ともあれ日本の信仰と藝能という緊密な表裏一体の文化を構造的に流れた、いわぱ血潮であった。祭られるモノと祭るモノとを一つに「アッチ」側に見る視線と言葉と。それが人が「コッチ」側から奉る「オベッカ」の本来であったのである。
 むずかしい事である。難しいけれども、見遇ごしてしまえない事でもある。生き物の猿が、すこしずつ「猿サマ」の者へと様態を変えてゆく歴史というものが、あった。「猿丸大夫」などといった正体不

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明の歌の上手が、虚像のまま王朝文化の体制内に生きて行く歴史も、あったのである。
 およそ藝能史の教科書などに一度も書かれなかった方面から、その辺の示唆をすこし試みておこう。
 有名な『枕章子』に、積んだ雪山がどれくらいで消えるかを、皇后定子と清少納言とでかなり執拗に争った話が載っている。職(しき)の御曹司(みぞうしというかりにも宮廷社会内での挿話で、民間の一私事ではなかった。
 ただし、雪山の賭けがこの際の関心事ではない。同じ場所へ「猿さま」の女が、めざましくも、登場していたことに注意したいのである。だれかの死か重い病気か、本文のやや寛いだ雰囲気からして、だれぞの何周忌かの法事にでも当たっていた際の出来事と想われる。

 二日ほどたって、縁側で賤しげな者の声が「どうか、あの仏様のお供えを戴かせて」と言えば坊主は、「とんでもない。まだ終わっていないのに」と答えているらしい。何者の言うことかと端近に出てみると、もう年寄りと言えそうな女法師がひどく煤けた着物を着て、まるで猿という恰好でねだっているのだった。

 詳しくは後に触れて行くが、この際強調すれば、清少納言のここに用いている相当量の筆は、描写は、これぞ藝能史上の貴重な証言と読める。示唆に富み、いろんな含みが読み取れる。宮廷ないし後宮にあって、この「猿さま」な「あまなるかたゐ」が、体制内の体液かのように、なんら警護や排除の対象になっていないし、「をかしごと」「そへごと」が場を賑わわせ、「歌」「舞」が藝として望まれていて、結果としてそれに対する給付も、給付を受ける作法も心得ている、猿真似然とはしていても。あたかも「袖乞ひ」や「門(かど)付け」の芸ないし貴人へ推参の藝能に付着した条件は、概(おおむ)ね、優にすでに備わってい

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たのである。
 ここに登場の彼女(彼)らが、「猿さま」「猿の様」と表現されていた意義をどう読み取るべきか。ただケモノの猿に似ているといった表現とは、実は読めない。いま一段と芸能語になった「猿がう」含みの「猿様」「猿の様」ではなかったか。想えぱ「猿」ヘの感覚は、より物真似芸への曲折を経ながら、「猿様」な芸能荷担者への歴史的賤視に重なって行ったのであろう。
 いわゆる祝言藝(しゆうげんげい)としての「サルゴ」と「カグラ」の混同は、いまでも地方によって、混同という以上の重なりをもって土着している。そして「サルゴ」の名は、「猿楽」が「さるがく」であるよりも「さるがう」であったことを確かに思わせるし、「神楽(かぐら)」とも、またわたしなど子供の頃から耳にした、わるさやふざけを含む上方(かみがた)の「てんがう」の意味とも重ねて、いろいろに想像が利く。滑稽物真似に加えて狂言利口もまた祝言の藝に育って行ったろう。
 想像のついでに、いま一つ『平家物語』によく知られた「猿がう」を思い出してみたい。
 鹿(しし)ケ谷の俊寛僧都の邸で、後白河院をまじえた反平家の公家数人が謀反(むほん)の謀議をする。だが院の供をしていた浄憲法印は脅えて水をさした。新大納言(藤原成親(なりちか))が水をさされて顔色をかえ、席をさッと立ったとたん、「御前(おまへ)に候ひける瓶子(へいじ)を、狩衣(かりぎぬ)の袖にかけて」引き倒してしまった。その即座であった、法皇後白河が、鶴の一声。

「あれはいかに」と仰せければ、大納言立ちかヘッて
「平氏たふれ候ひぬ」と申されける。法皇笑壺(ゑつぼ)に入(い)らせおはしまして、
「物ども参つて猿楽(さるがう)つかまつれ」と仰せければ、平判官(へいほうがん)康頼参りて、

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「ああ余りにへいじの多う候に、もて酔うて候」と申す。俊寛僧郡、
「さてそれをいかが仕(つかまつ)らむずる」と申されけれぱ、西光法師、
「頸を取るにはしかし」とて、瓶子(へいじ)の首を取りてぞ入りにける。

 浄憲法印はあまりに露骨な興言利口のありように「つやつや物も申されず」恐れ呆れるばかりであった。
 しかし、こう台本めいて書き出してみればみるはど、「猿がう」とはどんなことであったのかが、まこと、生き生きとよく伝わってくる。
 思い出してほしい。この命がけの謀議さなか、事実俊寛も西光も、成親大納言さえも清盛の怒りの前に落命してしまうのだが、それほど緊迫のさなかあわや謀議腰くだけかと見えた瞬間に、タカが「瓶子」の倒れたそれだけをネタに一場の「猿がう」を要求したこの法皇後白河こそ、十数年以前に丁重に新日吉神宮を京の東山に迎えていた後白河上皇と同一人なのであった。
 何の意味もなげに思われるが、そうではあるまい。後白河院という十二世紀の突出した個性の内側で、「猿」の信仰と「猿」の藝能とが、ともに、なにごとか成す為の、成る為の、おそらく「祈り」に裏打ちされていたのである。ただ「てんがう」に過ぎない「猿がう」ではなくて、間違いなく山王神使のサルの呪力を喚起する祝言藝(しゆうげんげい)がとっさに願われていたのである。
 後白河院は後年、源氏の覇者頼朝の大軍勢を京郡に迎えねばならなくなった時、まっさきに慰問の名目で「宝蔵の御繪」を突き付けたというコワい人である。しかし頼朝も流石であった、「おそれをなし」「一見にも及ばで」返却したといわれる。『古今著聞集』が伝えるこの逸話は、何度繰り返し紹介

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してもなお畏ろしい緊張の対決であった。この時の院は平安王朝の粋をあつめた「寶蔵の御繪」に、鎌倉方の武力支配をとろかす呪力を期待していたに相違なく、ひょっとしてかの伝毛松『猿図』も、あるいは優美な繪巻や冊子繪に混じって祈念深く添えられていたやも知れない。そういうところに院の、最後の古代人としての巻き返しの凄みを覚える。頼朝がこれを畏れ避けたのは腎明であった。
 しかしその一方で、この同じ後白河院が、あたかも最初の中世人かのごとく、猿楽狂言のみごとな一座をも、あざやかに演出していた。今様歌いの天才をもって自任し、家元然として口伝と歌詞集からなる『梁塵秘抄』を自身編纂していた人でもあった。そういう藝道者の院の目には、古代の女文化に食べ酔うた平家の公達(きんだち)ばらはもう眼中になかったろう。
 はなしは変わるが中世人中の中世人であった猿楽者世阿弥は、「猿楽」という表記を避けていたように思われる。「猿」よリ「申」を用いて、しかも「申」を「示」すのが即ち「神」であるとの古伝を掲げた。神楽と申楽とのそんな文字遊びめく一体感覚に、深く恃むところがあった。微妙に「猿」退避の意識が見え、そして事実生きた「猿」は早やおおかた「厩祓(うまやばら)いの猿」に過ぎない、堕ちたモノの地位にいた。その管理者は猿牽きであった。出番は春正月へと年々に限られて行った。しかも猿めく物真似狂言の藝は人にひきつがれ、近世歌舞伎へ根継ぎされて行く。猿若舞い・猿若狂言ないし猿若座といった名乗りにも、それはうかがえる。
 思えば「山王信仰」と「猿がう好み」とに跨がる恰好で、伝毛松『猿図』は、後白河院の時代を証言していたのである。しかも後白河院を抜きに、同じその十二世紀という大転換の時代は、説明が利かない。「大天狗」と頼朝でさえ恐れた強(したた)かな院を、もし繪に描くなら、あの『鳥獣戯画』のあの「猿」がいちばんであったかも知れず、しかもそれまた余裕の「猿がう繪」であっただろう。祈願は祈願、しか

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しどんな剣呑や物騒のさなかにも、自分で自分を「猿がう」の一座へ投げ込んで笑える時代。ひょっとして我々の中世とは、ただ無常、ただ隠逸、ただ禅趣味どころでない、そういう「陽気」をもまんまんと湛えた時代でもあったのである。いや、そういう中世の方がより根強く広く民衆に底支えられていて、あげく「バサラ」も呑み込み「カブキ」も呑み込み、行きつくところ福や富や安楽などの現世利益(げんせりやく)を謳歌し歓迎した「室町ごころ」(故岡見正雄先生の表現)が熟して行ったと思われる。
 ま、この辺でやや見当をかえた話題から、より遥かな「猿の遠景」をうかがい見ておこう。
「厩猿」とか「意馬心猿」とか、猿が馬と対になることがあるが、馬は神の乗り物という認識が古くからあった。繪馬献上はその表現だろうが、その馬に乗る神が蛇であるという言い伝えもある。多分に干支(えと)の順の巳と午がかかわっていそうだが、申(さる)が神であるなら蛇も神であるとの感覚は、大古以来のものである。日本の古大社の御正体(みしようたい)は例えば出雲も諏訪も三輪も住吉も、ほぼ例外なしに水神としての蛇と考えられる。日吉大社の一宮もやはり蛇神である。二宮の大山咋(おおやまくい)も猿であるより山の神は水の神のならいで、蛇なのかも知れない。そして、こういう「ナガ」虫信仰が南方の蛇神「ナーガ」信仰に由来したであろうことは、日本民族の少くも一部南方由来とも重なりあう。
 これを念頭に、例えばアンコール・ワットの回廊に60メートルものインド神話の浮き彫リがあるのを、想い浮かべてみよう。大海に浮かんだ大亀の背の大柱に巻きつく巨大な巨大な蛇神を、大勢の阿修羅たちが右へ左ヘ、まさに綱引き、渾身の力で引き回している図を想い浮かべてみよう。実はこの七頭の大蛇「ヴァースキー」を引く右瑞の端で、しんがリを務め、歯をむき足を踏まえて蛇のはねる尾を片手に押さえつつ大奮闘しているのが、孫悟空の大親玉のような、これまた巨大な尾長の猿「ハヌマーン」なのである。あるいは彼を家来にしているサル国の王弟「スグリーヴァ」なのである。

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 どっちにせよ彼は、左瑞で七頭の蛇体を引きに引く、じつに二十一面の魔王「ラーヴァナ」と、必死に対決している巨大猿なのである(北海道大学教授中野美代子氏による)。
 中国四神のうちの玄武や蓬莱山をあわせ思わせるこの神話は、天の浮橋から矛でかきまぜてオノコロ島を産んだという日本のそれを、桁ちがいに広大無辺にした「乳海攪拌」といわれる創世神話なのだが、つまり、インドの「ハヌマーン」や「スグリーヴァ」或いは王猿「ヴァーリン」でも、その矮小化したような中国の「孫悟空」でも、とてつもない猿の威力が天地を満たしまた活躍していたと言わざるを得ない。粟散(ぞくさん)の辺土日本の猿は、たとえ日吉山王の神使といえども、そのような「遠景」から逆に眺めると、いかにも「ちいさい」のである。伝毛松『猿図』が、「ハヌマーン」の萎縮して堕ちた末裔に見えてくるのがふと寂しいと思うのは、わたしだけであろうか。

猿の日本

「この稿、版元(日本放送出版協会)の事情(連載誌「NHKセミナー」休刊)により中断して終わるのは遣憾であるが、許されよ」と付記して「未完」の筆を擱(お)いたのは、六年ちかく前であった。いま有り難い機会をえて、せめてもう一回と予定していた思いを思い出し出し苦干の重複も敢えて恐れずに書き足してみるが、文章の息遣いをど、いくらか違ってくるだろう。無理に調えるのもどうかと思うので、前四回に強いて調子を合わせようとせず、すこし気ままに首尾したいと思う。

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 一点の日本猿らしき「猿」の繪から、話題がだいぶ遠いところまで走った。手綱をつけていたわけではないが、猿を、もういちど海の向こうから連れ帰って、いま少しちがう角度で「猿の日本」を考え直してみよう。
 かつて「ちくま少年図書館」に、村上義正という著者の、『歩け!とべ!三平』という刺激的に興味深い一冊があった。めったにしない電話を編集者にかけてでも、喝采を送りたかった。猿まわし復活の経過と、それへ至る著者の辛苦とが、暑い陽の恵みを顔いっぱいに浴ぴて、両手を、胸を、大空へひらいた時のあの目のまうような快感をともなって活写されていた。「猿」を、また考えてみずにおれないほど動かされたのである。
 或る友人に聞いたことがある。
 節分のころになると、どこからか七、八人の老若男女が現れ、えも言われぬ鄙びた藝を見せ、唄をうたい、またどことも知れず立ち去って行って、それが時季も人数も藝も唄もいつも同しだった。子ども心にどこから来てどこへ行くのか、また来る時分だなと待ち、いつ居なくなったかと思うくらい寂しく姿を消していた、と、その男はいささか呆然自失の態で話してくれた。彼はその漂泊のまれびとたちを最初に「サルガグ」と言い、一思案して「オカグラ」と言い替えたが、どっちでもいいのだ。
 祭りの日に子どもたちで四、五匹の鬼を逐(お)った。鬼は先を細うささらに割いた青竹を金棒がわりにして、子どもを打った。打たれると縁起がいいと教えられていても、打たれたくなかったよと言う口ぶりが、なつかしそうだった。
 それは、私が話題を誘わなかったら、東京暮らしの長い友人もすっかり忘れていたことだった。なには措いても先ず「サルガク」と言葉が出、「オカグラ」とも出たのを、私はおもしろいと思っている。

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そしてこの「面白い」という批評と感想の言葉が、また「オカグラ」と切り離せない。
 言うまでもない、「あはれ、あな面白」の声々が高天原を響(とよ)もす、あの天之岩戸神楽の神代の場面から、この顔色の白いまでに晴れやかな「面白い」は纏綿(てんめん)として日本人の心根に絡まってきたのだし、世阿弥の『風姿花伝』によれば、「申楽」の能は、即ち「神楽」にほぼ同じに、寿福増長、偕楽成就の文宇通リ「面白くあれ」と祝い寿ぐ芸能だった。その背後には「アマテラス」の岩戸隠れに謂われているように「死」「死者」「死骸」ヘの畏怖があった。
 藝能とは、日本だけにかぎらない、一面は死者を慰め鎮めて死と死骸を身をもって覆い隠し、また一面では生きてある者のうえに寿福延年を言祝(ことほ)ぎ囃し、「おめでとうございます」「千秋萬歳」といかにも人をして「面白く」させる技藝だった。
 但し世阿弥の徒は「申楽」と書いたが、「猿楽」だった。「申」は猿の干支だ。『新猿楽記』という本は十二世紀の早うにはもう公家の手で書かれ読まれていたし、私などが少年期に真っ先に接した「猿楽」の二字は、『平家物語』の、例の鹿(しし)ケ谷謀議の条(くだ)りに現れていた。それも至尊たる後白河法皇が、「ゑつぼに入(い)らせおはしまして」つまり御機嫌の態で、「物ども参て猿楽つかまつれ」とよばわる場面で出会(でくわ)わしていた。
 そもそもこの稿の本題でもあった伝毛松の『猿図』は、日吉信仰になみはずれ熱心だった後白河の意を迎えんものと、平清盛ら平家の宋交易の実力がもたらした献上画ではないか、山王信仰の神像画ともみるべきかと、私ははぼ結論していた。ここにいう後白河が同じあの鹿(しし)ケ谷の法皇であることはむろんで、やっぱり「猿」に、「猿楽」に絡んでくる。
  平家の栄華に憤懣を抱いて討伐の謀議を企てた大納言藤原成親が、事の成り行きに危険を感じている

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浄憲法印に袖をひかれて、はずみで、酒の入った瓶子(へいじ)を倒す。と、間髪いれず法皇「あれはいかに」と、ナゾナゾで謂う「そのココロは」と問いかけた。成親もさすが利口の者で、「平氏(瓶子)たふれ候ひぬ」とやったから法皇は大悦び、御謀叛(ごむほん)の密会たちどころに一場の狂言と化したのが、右の「猿楽つかまつれ」だった。

 平判官つと参り、「ああ、あまりに平氏(瓶子)の多う候ふに、もて酔ひて候」と申す。
 俊寛僧都「さてそれ(倒したへいじ)をぱいかが仕(つかまつ)るべき」と申しければ、
 西光法師「頸をとるに如(し)かず」とて、瓶子のくぴをとつてぞ入りにける。
(浄憲法印はあまりのあさましさにつやつや物も申されず。)

 こう仮りに覚一本の本文を科白(せりふ)とト書きに割って書き写してみると、酒の勢いの、これが即妙の寸劇だったことがよく分かる。当時の「猿楽つかまつる」とはかかる即興の俳優(わざおぎ)を謂うものだった。「猿楽者」といえば、滑稽を身を以て演してみせた者たちであり、かつは一般に人から「あいつ、面白い奴だよ」と言われも言わせもした、或る種「ものまね猿」「猿芝居」なみの人気者を意味していたらしい。ちなみに狂言は「興言」つまり人を面白くさせるハナシであり、「利口」はそういうハナシをしうる弁才者のことだった。「興言利口」は「狂言綺語」そのものであり、むしろ地下(ぢげ)の世界では「興言」が先行していたのである。
 地方によリ「サルゴ」と呼ばれてお神楽の巡遊がある。猿楽者の猿楽が、演劇として昇華しない遠い以前の散楽や雑藝(ぞうげい)、卑俗な歌舞の風流を伴ったお神楽の田舎わたらいが残っているのであるが、一方で

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猿楽は能となり、また猿若の舞いになり囃しになり芝居となって歌舞伎化していった。歌舞伎小屋に猿若座があり舞踊にはいつも伝統の猿若流がある。「猿」を牽いて遊ばせるだけでなく、人がまさに猿に化(な)って藝に励んだ。かぶりものを付けて猿を演じた藝が人気を博した例はまま見られるが、そういう物真似の行着くところはかぶりものを脱して、まさに人が人を、神を、鬼を、死者を、狂者を真似て藝を尽くすようになって行った。鹿(しし)ケ谷の猿楽は、十二世紀半ば、はやそれほどの進化の段階を示して、天子や貴族が自ら演じ楽しんだ事実を物語なりに証言している。
 百五十年はやい『枕草子』の時代には、まだ、そうは行かなかったのだ、あまり人に意識されない「猿」の話題を、私としては言い古してきたことだが、もう一段「遠景」から掘り起こしてみたい。おのづとそれは「日本」の今へも連なってくる。そう、思われるからである。『枕草子』という古典は、なにより伝えられる本文に異同が多く、段の立て方も研究者や本によってまちまちで一般の読者を困惑させるのだが、それは借く。
 岩波の古典『大系』では八七段、新潮社の古典『集成』では九一段に、「雪山の賭(かけ)」といわれる内容の、格別に長い文章がある。回想にせよ何にせよ萩谷朴氏によれば長徳四年未・長保元年初のことというから、西暦九九八ないし九年頃の事件がここには書かれてある。いずれにせよ清少納言がお仕えした皇后定子(=宮)は、西暦一千年ちょうどに二十五歳で亡くなられている。
 雪がたくさん降ったので、職(しき)の御曹司(みぞうし)の庭に雪山を積まれた。その雪山が、いつごろまで消えずに保(も)つかと宮が問われて、少納言ひとりがとび離れて長く保つと主張した。そこで宮と少納言とは賭けを競うような仕儀になり、結果は宮がいささか手を用いられ少納言がかなり口措しい負けを見る。大体がそんな話である。それはそれで、この稀有の主従のやや特異に緊張した一逸話たるを失わない。

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 しかし私の気にかけたのは、逸話の方ではない。
 この段は、「職の御曹司に(宮の)おはしますころ、西の廂(ひさし)に、不断の御読経(みどきよう)あるに、仏など懸けたてまつり、僧どものゐたるこそ、ざらなることなれ」と始まっている。

 二日ほどたって、縁側でいやしげな者の声が、
「どうか、あの仏様のお供えを戴かせて」と言えば、坊主は、
「とんでもない。まだ終わっていないのに」と答えているらしい。
 何者の言うことかと端近に出てみると、もう年寄りと言えそうな女法師がひどく煤けたものを着て、まるで猿という恰好でねだっているのだった。

『大系』原文はここの「まるで猿という恰好」と訳してみた箇所を「さるさまにて」とし、『集成』は「猿様にて」と訓(よ)んでいる。ある本などは、この「老いたる女法師の」のいでたちを一段と説明的に、「いみじくすすけたる狩袴(かりばかま)の、竹と筒とかやのやうにほそく短き、帯よリ下五寸ばかりなる、衣とかやいふべからむ、同じやうにすすけたるを着て、猿のさまにて言ふなりけリ」としてある。

「あの尼、何を言うの」とかたわらを見て言えぱ、声をとりつくろって、
「私も仏のみ弟子でございます、お供えのおさがりを戴きたいと申し上げるのに、このお坊様がたは、物措しみをなさる」と乗り出す。
 へんに調子づき上品ぶっている。こんな手合いはしょんぼりしている方が同情も引くのに、ご大

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層にえらく調子のいい乞食だと思って、
「ほかの物は食べないで、ただ仏様のおさがりだけを食べるのか。えらく殊勝な心掛けだこと」と爪弾いてみせると、こちらの気配を見て取って、
「なんで、ほかの物も食べないで居れましょう。それも無い、とおっしやるのでお供え物を載きます」と言い掛ける。
 くだものやのし餅を容れ物に入れてやったためか、無遠慮にうちとけてしまって、際限もなくしやべる。
 若い女官たちが出て来て、
「夫はいるのか」
「子供は」
「住まいはどこか」など口々に訊けばいちいちおもしろおかしく、冗談も言うので、「歌は歌えるか」
「舞なども出来るか」と尋ねも終えぬうちに、
「夜は誰と寝よか。常陸の介(すけ)と寝ましょ。添い寝した肌のよさよ」
 いやはや、この先がまだまだあった。また、
「男山の峰のもみじ葉、色よい名が立つわサ。浮き名が立つわサ」と、夢中で首を振りまわして歌う。
とんでもない歌ばかりなので皆、笑いだすやらにくいやら、
「お婦り、お帰り」と手を振るのに、

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「このままではかわいそう。藝の褒美に、さて何をやりましょう」と私が言うのを宮はお聞きになって、
「まあ、恥ずかしい真似をさせたもの、聞いてもいられず耳をふさいでいた。そこの巻絹を一つやって、早くお帰し」とおっしやる。
「宮様が下さる。着物が煤けているようだし、これできれいに着るがいい」と言って縁から投げてやると、伏し拝んで、絹を作法どおり肩にうちかけて拝舞(はいぶ)の礼をするではないか。
 真実にくらしくなって皆奥に引っ込んだ。
 が、その後、癖になったかして、いつもわざと姿を見せてうろつく、のを、あの歌からそのまま「常陸の介」とあだ名までがついた。着物もきれいにならず、同じ煤けたのを着ているので、どこへやってしまったかと、皆にくらしがっていた。

 この後に、「常陸の介」と同様「尼姿の乞食でずいぶん品のいい」のがべつに出現したりする。「この方は身のほどを恥じ入る様子があまりかわいそう」で、また「巻絹一反」を下されるのをたまたま「常陸の介」が見とがめ、いたくひがんだりする話が後へ断統するのだが、しかし主筋は「雪山の賭」ヘと転じて行く。
 清少納言が「常陸の介」やもう一人の「尼」法師たちにことさら記述の目的をもっていたとは読めない。まぎれこんだ一場二場の挿話に過ぎなかったろう。だが今日の目からみれぱ「雪山の賭」ごときより、この尼推参の場面の方が貴重な証言、あえてこの際強調すれぱ藝能史上の証言のように私には読める。

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 仏事や忌む事に供え物(の、お下がり)を、「常陸の介」らが当然の権利かのように受取りにきている。後世の「河原巻物」等に主張されている制外者たちの「権利」意識に重なりあう先蹤(せんしよう)が、ここに認められると読んでいいのか。とうてい認められないべつごとなのであろうか。また、ここに登場の「モノモラヒ」ないし「ホカヒビト」めく「尼なる乞食」の社会的・階層的を内実を、この環境・状況のなかで、どうわれわれは読み取ればいいのだろうか。彼女(ときには彼)らは、どういう前提がありえてこの「職(しき)の御曹司」のような場析まで特段のとがめも受けないで参り得るのであろうか。前言をあえて繰り返すが、宮廷ないし後宮にとってこの「尼なるかたゐ」の存在は、警護や排除の対象ですらなく、むしろ体制内的な体液にもにた特殊な機能を果たしていたものか。「をかしごと」「そへごと」が場をにぎわわせ、「歌」「舞」が藝として所望されている。結果としてそれに対しての給付もある。「袖乞い」「門(かど)づけ」の藝ないし貴人へ参上の藝能に付着した条件は、概ね、ここにもはや備わっているのである。
 その上で私は、ここに登場の彼女らが「猿ざま」「猿の様」と表現されていたことの意義にも、立ちどまらずにおれない。みすぼらしい姿への、それは単に生きものの猿に似ているというおとしめの表現に過ぎないのだろうか。猿とはいえいま少し藝能語として「猿がう(猿楽)」の含みをもった「猿様」「猿の様」ではなかろうか。「常睦の介」の登場じたいがもはや藝能者にちかい(等しい)推参なのではなかったろうか。清少納言の記録した「さるさま」を、私は、そう読みたい。
 あえて「猿まわし」「猿牽き」とは言うまい。藝能と「猿」とのかかわりは、遠く猿女(さるめ)の徒をさらに「猿田彦」伝承の神代までも遡ることだろう。サルタヒコは、あの岩戸神楽を演したアメノウズメと夫婦であったと伝えられ、また各地に見られる男女一対の道祖神そのものだとも言われている。口呪(くじゆ)・口

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承と「猿がう」雑藝を事とした猿女は、猿田彦らの子々孫々ともいわれている。
 かくて神楽や語りの猿女以降、「猿」の感覚は、より物真似の演藝寄りに曲折を経ながら、正月法会の修正会(しゆしようえ)や二月の修二会(しゆにえ)に僧が勤めた演藝風の法呪師に代る「猿楽呪師」や「薪(たきぎ)猿楽・薪能」ヘと糸を引いたでもあろう。「猿楽呪師」の出現の時期がいつの頃からか、限られた文献に頼って一例をいえば、藤原道長の、ということは清少納言の全盛よりはほんの少し後れた、万寿二(一○二五)年頃にはすでに道長が建てた法成寺(ほうじようじ)の修正会で、いわゆる「骨無(こちなし)」の体、不作法な、優雅に欠けた、粋でない猿楽藝が現れている。そのような藝が藝として耳目をおどろかせて喝采を浴びれば浴びるほど、いつしかに天子や貴族すらその真似に興ずるほど親しまれもした一方、また何としても「猿」ないし「サル」という言葉の与える印象・語感が、「猿様」な藝能荷担者への賎視へ重なって行っただろう。
 じつはさらに早い段階から、一般に「猿様(さるさま)」な漂泊・制外者は世にあぶれ、「モノモラヒ」「ホカヒビト」との河原乞食ふうの同義化をすすめていただろうとも推測される。かつては律令制度が大きく内部に抱えていながら、その解体化に応じて藝能の人たちは大幅に制度から逐われ欠け落ち、流浪や漂泊を強いられていた事情があったからである。
「サルゴ」と「カグラ」の混同はいまでも地方によって、混同という以上の重なりをもって土着している。「サルゴ」の名は、猿楽が「さるがく」であるよりも元は「さるがう」であったろうことを確かに思わせるし、それは私などが子供の頃からよく耳にした、わるさやふざけを含む上方(かみがた)の「てんがう」の意味とも重ねて、いろいろに想像が利く。その想像に絡めて行けば、この項の最初にあげた鹿(しし)ケ谷酒席の「猿楽つかまつれ」の逸興が、まさに一場の猿楽呪師の流れないし猿楽狂言の巧みな素人真似だったと見えてくる。

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 いま謂う『平家物語』のことは覚一本によって引いたもので、例えば『源平盛衰記』ではもっと説明的な描写があり、しかもそこに法皇は参加していない。したがって上の引用を事実(二字傍点)レベルで云々してみても始まらないのだが、しかも、ことさらに台本めかして改行してみたのを改めて読んで、ここにいわゆる「猿がう」とはどんなことを謂うたものか、まことに生き生きとよく伝えられている。後白河法皇のある一面の魅力をこれほどキッパリ表現した例はすくない。建礼門院のお産の場面で、うろたえる清盛を尻目にありがたい経をしずやかに唱える法皇像とならんで私のことに魅せられる容態であるが、それはともあれ、今日のいわゆる能よりも狂言にちかいかかる「猿楽」の遊びには、ここに場を占めていた至尊や貴縉(きしん)の一人一人をいわば「猿様」の「猿楽者」に振る舞わせてしまう何か…が、働いているのを認めぬわけに行かない。
 が、その何か…とは何か。的確に指摘できないのだが、それもつまり「猿」の一字・一語に引っ掛かって来るような何か…かと想われてならない。
 かりにも天下を転覆しようというはどの危険な謀議(事実こと露われてここにいたほぼ全員が悲惨なめに遭い、死んだり流されたり幽開されたりしたのだが、)さなかの、一瞬に「猿がう」「てんがう」に転じて行けるものを、この人達はしっかり身に備えていた。その心埋的・社会的基盤ないし素質を推測するうえで、もう一度、さきの「常陸の介」登場の場面を『枕草子』で見直しておきたいと思う。うやむやと現代語に変えてはおいたが、ここにこんな物言いがしてある。と触れてはおいたが、

 若き人々出で来て、
「夫(をとこ)やある」

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「子やある」
「いづくにか住む」
 など、口々問ふに、をかし言・そへ言などをすれば、
「歌は謡ふや」
「舞ひなどはするか」
 と問ひもはてぬに、
「夜は誰とか寝む 常陸のすけと寝む 寝たる肌よし」
 これが末、いと多かり

萩谷朴博士は『集成』の注に明瞭にこう記されている。

「をかし言」は滑稽で笑いたくなる言葉即ち興言であり、「そへ言」は諷刺のきいた冗談即ち利口である。こうした即席の興言利口で聴衆を喜ばせるこの女法師は猿楽法師と同じ賎業の芸人と見るべきであるから、さらに猥褻な歌を謡い、所作をする刺笑的な芸質であるばかりでなく、時には自ら春をひさぐようなこともあったのであろう。だからこそ若い女房たちも無遠慮な質問を投げかけ、演技をも要求したのである。

「芸人」とまで謂うに当たるかどうか。藝を見せる人間であるまえに、藝でもしてみるよりない所へ追い込まれている者のように、ここでは、想われる。また、はっきり「猿楽」「猿楽法師」と呼んでいい

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事例がこの十世紀末の「雪山の賭」の頃にすでに世に行われていたかどうか。それとも、まだ「猿楽」「猿がう」の末然・未熟の段階であったのかどうか。私に結論の用意は、ない。ただなんとなく、太古来醸成されていた「猿」ヘの意識が、「散楽」物真似・軽業などの雑藝に類似的に媒介されながら「猿楽」という表現へと、印象上の「かたち」を成しかけていた段階なのかも知れない気がする。また萩谷氏注後段の「だからこそ」の因果関係も、だからこそこの際は分かりにくい。『枕草子』の描写をみていると、むしろ、必ずしも「常陸の介」独りが演じているのではなく、女房たちとのある種の合作状況が見られる。後に後白河法皇が鹿ケ谷の場で勤めたような、いわぱ人長(にんじよう)的な役割を、少納言ないし女房たちも勤めながら「常陸の介」の藝を引き出しているといった気配かうかがえる。そんな気配を双方で可能にしあう「関係」が、奇妙な前提としてこの「場」には成り立っているのである。また、さもなければ売春にも繋がるかという卑しい女と、皇后のお側ちかい官女たちとのかかる「うちとけ」は理解しにくい。深読みをすれば両者は「カミ」ヘの信仰と奉仕という一点で通底している同類とも言えるのだろうし、幾分かはそれが当たっているのであろう。
 ともあれ「職の御曹司」のような場所が、「猿楽(さるがう)」の女(男)とそのような共演関係の自然に結べる場でもあり得た事実の認識なしに、この「場面」を正しくは読み切れない気が、私は、してならないのである。そういう不審が何としても残るのである。
 仕手(シテ)と見手(ミテ)とがまだゆるやかに結ばれていた藝能の場から、くっきり藝能の「専業者」が分離して行くきわどい過渡期的な一場面を、もしや私たちは、ここに見ているのではないだろうか。律令体制の崩壊過程のなかで、ほんの昨日までは仲間でありえた者たちが、一方は女房として体制内に残って、他方はその周辺に「かたゐ」「河原者」として「おさがり」をアテにしなけれぱ済まなく

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なって来ていた時代。そんな時代が必ずや一時期在ったに相違なく、しかし、それをいつと特定はなかなか出来ないにしても、この『枕草子』の一場面はいくらか示唆するところが有りはしないだろうか。
 それと絡め今ひとつやはり気になるのは、「常陸の介」が「御仏供(おんぶく)」に対して言外に被差別ゆえの権利を主張している状況と口ぶりとである。おそらくこれも太古来のかなり厳しい習俗と体制、おそらくは死や死者や死骸にかかわった者らのいわぱ制度に根ざした負の権利意識であるやも知れず、ながく後世に形を変えたり幅を広げたりしつつ継承されたと信じられる。藝能の場と荷担者たちとの問題として、この「場面」など、国文学者だけでない各方面からもっと注意と解析の労を払ってほしい気がしている。
 が、ここは無謀の追求をあえて避け、今一つの「場面」ヘ道を繋ぎながら、もう少し考えてみたい。
 いまさきの引用に「をかしごと」「そへごと」があった。後者にはむしろ「はやしたてる」「かけごえを添える」「にぎやかにヤジる」ような働きもあるのだろうか。
 それはともかく、「をかしごと」にこだわって言えば、「をかし」は当の『枕草子』美学の芯を成している批評語であり、「をかし」の用例の他のほとんどは、萩谷氏の解説にある「滑稽で笑いたくをる」といった内容とはむしろちがっている。美的な趣味判断の最良・最佳なものを表現している。むろん「をかしきを念じて」という表現で、『源氏物語』には滑稽で笑いたくをるのを堪える状態に用いた一例もある。が、微妙なところで源氏に先行していた『枕草子』にはそのての「をかし」が何故か他には無いとすら言えそうなのである。いや『源氏物語』でもおおかた「をかし」は、優美に趣味深い住い場合に多用されている。
 それでも「をかし」は、やはり本来は「可笑・可咲」の意であったのだろうか。おかしいことに例えば小学館『古語大辞典』などには「をかしごと」の項目がそもそも欠け落ちている。

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 で、「場面」を唐突に移動させ、能の『蝉丸』を取り上げてみる。この能は、かつて皇道の盛んに謳われた危うき時代には、演じることも許されなかった。それ自体がかえっていろんな推測や批評をまねく出来ごとであったと思うが、さて借いて、能の『弾丸』のなかで、弟蝉丸と同様延喜(醍醐天皇)の御子と生まれながら、それぞれ身の不具ゆえに巷に捨てられ都童たちにあざけられる姉皇女の逆髪(さかがみ)が、こんなふうに述懐している。元和(げんな)卯月本の本文によって引くが、彼女の髪は「空さまにをひのぼつて」撫でても撫でても天をさす。

 如何にあれなる童部(わらはべ)どもは何をわらふぞ。何我(わが)かみ(髪)のさかさまなるがおかしひとや。実(げに)さかさまなる事はおかしいよな。扨(さて)は我(わが)かみよりも、汝らが身にて我をわらふこそさかさまなれ、面白し面白し是らは皆人間目前の境界也。それ花のたねは地にうづもつてせむりん(千輪)の梢にのぼり、月の影は天にかかつて万水の底に沈む、是らをば皆何(いづ)れをか順と見、逆なりといはむ。われは皇子なれ共(ども)、そじむ(麁塵)にくだり、かみは身上よりおひのぼつてせいぞう(星蔵)をいただく、是皆順道のふたつなりおもしろや。

 ここには明らかに「おかしひとや(おかしいよな)」と「面白し面白し(おもしろや)」とが対抗して現れている。注目したいのはこの「おかし」と「おもしろし」の批評語としての用い方は概ね今日の語感にかなっている、が、平安王朝人の「をかし」「おもしろし」とはむしろ逆さまに見受けられる点である。昨今では「おもしろい」といえぱ褒め言葉に相当し、「おかしい」には滑稽で笑いたくなる気味が濃い。ここは事のついでじみた脱線でもあり手短かに切り上げておくが、こと藝能に関連してい

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えば、「をかし」と「おもしろし」との二語には、荷担者のちがいが階層的にか地域的にか発生的にか、ともかくも非常に遠い昔から有ったのではないかという問題意識を私は捨てかねている。
「おもしろ」派は言うまでもなく天之岩戸舞いの昔から世阿弥の徒へと繋がる。それに対して「をかし」の価値観をもっぱら大切に洗練した人たちもいたのではないか。注目すべきは、その双方が藝能や表現がらみにその価値の内実を歴史的に交叉ないし逆転させて、結果的に今日では「おもしろい」藝能や表現が優位・優勢になっている。そういうことになっている。その顕著な交叉点に、いま謂う「逆髪」による述懐などが位置していないかと私は思うのである。
 ここで能『蝉丸』の詞章にかかわって触れておこうとした三つのことが、ある。事実の詮議は措くとしても逆髪、蝉丸の姉弟ともに「延喜」の皇子だとされている。その一方で能では常套の「延喜の聖代」という謂いかたが一度もされていない。そして蝉丸をちまたへ棄て去る意図の実行者に、藤原氏の、ことに「清貫(きよつら)」の宛ててあること、である。この三つは相互に関連しながら、藝能者の古代から中世へさしかかって行く際の運命を、また何らか藝能者の側からの怒りや痛烈な批評を表していそうに、私には想像される、読み取れる、のである。「是らをば皆何(いづ)れをか順と見、逆なりといはむ」といい、「是皆順逆のふたつなりおもしろや」といい、一曲のこの能のシテである「逆髪」の、いっそ啖呵を切ったと聞える怨念には凄味を覚える。
「延喜の聖代」といえぱ醍醐天皇の治世に当たる。この聖天子の皇子とされている二人が身の不具ゆえに巷に棄てられている物語が『蝉丸』である。蝉丸は盲目の琵琶の名人であり、当道の、琵琶の法師らの、祖と目されたほどの藝能者である。不具と藝能とが彼には結びついていて、しかも父なる「延喜の聖代」に見捨てられ遺棄されている。

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 芸能の歴史にあってこの蝉丸の運命は、天皇の存在を最高位とする律令制度と幾重にもかかわりあって暗示的である。律令の事実上の崩壊のもっとも足を早めてゆくのがこの「延喜」の頃からであったことは歴史が明らかにその跡をとどめている。蝋丸とともに「藝能」の多くの荷担者もまたよるべなくこの時代に巷に棄てられたのであり、その古代の事実を借いて中世の藝能は、藝能者のかなしみについては、語れないと思われる。蝉丸こそがまさに芸能の運命であり、その運命に「皇子」をもって仮託していたところに、また一種の「河原巻物」のそれと通底した彼らの意図も願いもこめられていた。「聖徳太子」や「惟喬(これたか)親王」や「源頼朝」の権威をかりて何らかの権益を守ろうとした人達が、確かに実在していたのである。そう願わせるに至った差別の力もまた実在していたのである。蝉丸や逆髪をあえて「延喜の皇子」とした中世藝能作者の「批評」には、根の痛み、根の怨みが感じられる。
 それとともに蝉丸を(おそらくは逆髪をも)棄てる役に任した「清貫」は、あの管原道真の逐い落としに終始きつい役どころを演じていた実在の藤原氏であり、一の人の藤原時平の副官的な存在である。それだけではなく、道真の怨霊が天神雷神と化して宮中で爆殺した最初の被害者、標的、としても歴史に名を残している人物なのである。『蝉丸』作者がそれを知らずにいたわけがない。とすれば何故ここに「清貫」と名をあげて登場させていたか。中世藝能作者の思いの底には、「延喜の聖代」ヘの批評や反発だけではなく、敗者道真の影をも負うて、律令制度から藝能荷担者を巷ヘ、辺土ヘ、制外へ駆逐した当事者の藤原氏支配への怨念も、また、籠めていたのかも知れないと思わせる。
 蝉丸や逆髪(坂神ないし塞(さい)の神でもあろう。遠くはつまり道祖神のサルタヒコやアメノウヅメの藝能に繋がっているのを示していよう。)の、はや成れの果ての風情でかの「猿さま」の「常陸の介」のよ

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うな尼は、かしこき辺りヘまでもさながら粘着の気味で姿を見せていた。しかし、それもおいおいに遠ざけられながら、なお「猿さま」に、たとえば後白河の時代までも「今様(いまよう)」などの謡い手――五條の尼の乙前(おとまえ)や祇王祇女や仏御前や義経寵愛の静ら――などとして、体制内体液のように藝能ないし遊女(あそび)の役を勤めていたのかも知れない。もとより彼また彼女らがその背に、その背後に、つねに死に、死者の鎮魂慰霊に、死体の清めにまつわる「役」の者、「役者」たる負い目を負うていた事実を忘れることも出来ないのである。
 とにもかくにも「猿」といわれたような人と、「人」と名乗って誇らかに生きた人との、同じ人間同士の久しい葛藤の歴史が、有った、というよりそれを「人」の側の手と思いとでかなり強引に創って来た、と私は思う。天皇制も政治の意向もそこには働いていて、藝能の歴史を古代から中世へ押し流してきた。その押し流す過酷なちからが、また、かえって芸能のあらたな「おもしろさ」を鍛錬して来たようだ。藝能をたんに文学や表現の目からだけは割り切れない。ある種の人を「猿さま」に「鄙(ひな)び」て見る態度や視線が、平安王朝の「宮び」た体制内でぜひ必要とされて行った意味を、慎重に広く深く考えてみなければなるまいと、私は、思うのである。されば、日吉信仰の別尊かのように最初にみた伝毛松『猿図』の遠景に、後白河院や平清盛実在の影も重ねつつ、日吉信仰をもて囃した近江丹波また大和の猿楽人の「猿さま」なる喜怒哀楽をも、よく思い入れ透かし見るべきではなかろうか。
          ――了――

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母の松園

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『美の精華 上村松園展』没後五十年記念 一九九九年八月 朝日新聞社刊

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 大学院を出て就職し、少年の日より念願の飛行機を造る仕事に、いよいよ、情熱を傾けますと、入社の日もきまり報告かたがた遊びに来てくれたK君と、飲みかつ談じて楽しいさなかの話題に、「上村松園の繪が好きです」と飛びだしたのには、びっくりした。
「秦さんが観てきなさいと勧めたんですよ、昔に」
 そうだったのか。唸ってしまった。
「どんな作品が好きかね」と尋ねた。
「娘深雪(みゆき)……」
 手を拍った。もし一点と限られれば、「わたしもあの繪を選ぶよ」と、盃をたかく挙げた。
 学部に入学してきた早々から教授室にあらわれ、「哲学する」とはどういうことかと問いつめて、一汗も二汗もかかせた学生だ。以来何年。久々に仏像を語り、東洋の文明を談じて、ついに松園女史への傾愛(けいあい)を告白した飛行機青年に、無性に嬉しくなったわたしは、ほいほいと画集をいっぱい持ち出し、話に花を咲かせた。気も晴れ晴れと咲かせた。上村三代の松伯美術館開館五年を祝う大阪での宴会に、乾杯の挨拶をして帰って、ついでに春芝居も観て帰って間もない頃であった。雪がちらついて、冷えこんだ晩であった。

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 松園のことは、数え切れないほど何度も書いてきた。小説も書いた。繪は大好きだけれど画家のことはよく識りませんというK君に、樋口一葉を知っているだろうと尋ねた。『たけくらべ』の作者だ、知らない人は少ない。「あの樋口一葉は」とK君の顔を見た。上村松園が華々しく世に出たとき、まだ小説を書いていなかったんだよ。
「まさか」とK君は声を放った。
 よしよし、聴き給えと、古証文をかえりみず、あの日、深夜までわたしは、思いのたけ松園を語って語り飽きなかった。

     一葉より早い門出

  樋口一葉は、明治のうちにうら若くして死んだ。活躍の期間は、厳しく限れば、たったの一・二年であったとすら言える。上村松園は昭和の戦後に、功成り名を遂げ、みごとな仕事を多く遺して死去した。昭和二十四年八月二十七日だった、享年は七十五歳。みごとな数々の繪画作品に加えて、松園は、子孫に松篁(しようこう)・淳之(あつし)というすぐれた画家をも遺したのである。
 世人はかくて「明治」の一葉に対し、当たり前のように「昭和」の松園と謂う。それも謂い得ている。だが…待ち給え、華々しく世に迎えられたのは十六歳の少女松園の方が、あの樋口一葉よりも早かった。明治二十三年の内国勧業博覧会に出品した少女松園の繪が、晴れて表彰され、来日していた英国の皇族コンノート公に買い上げられて、一躍「時の人」と大喝采をえていたとき、三つ年上の一葉女史ならぬ樋口夏子は、同じその勧業博覧会場に一売り子として雇われたいと願書を用意していた。貧に喘ぎつつ、

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小説はまだ書いていなかった。
 松園さんの経歴はそれほどに久しく、久しい。一葉は明治で完結した。松園は一葉以前の明治から昭和二十四年まで生き抜いて、美しく大成した。画家松園には、いわば、それだけの歳月が必要であった。 松園の画風は、いまさら論(あげつら)うのもおかしいぐらい、気稟(きひん)の清質もっとも尊ぶべきものである。京都で生まれ、京都で画家として育ち、生涯美人画を描いた。自身「姉さま遊び」と呼んだごく初期の作品から晩年の名作にいたる全部に、それは、気稟の清質は通底した資質であり、松園の場合ほど、人品と気品とが玉成の美を遂げている例は、古今にもそう多くはない。
 生まれながらに父親を喪っていた人であった。母に愛育され、母の理解と激励とで画家に成った。そして松園その人も、またその母に劣らぬ秀れた母に成って行った。「母」になり「母」であることが、松園藝術の実に秘儀・秘蹟であった。永遠に美しき女を描こうと努めた松園は、「女」の根の悲しみをもよく深く承知しながら、或る「文化」の伝統へ、かたく自身の芸術の根を繋いでいたのである。どんな文化か。それこそは京都の、そして日本の、「女文化」である。
「女文化」とは、ただ女の文化でも女による文化でもない。女の存在を意識せざるをえない文化・女が深い力を持たざるをえない文化の謂いであり、日本の創造の久しい衝動であり推力であった。日本文化史は実に「女文化」の消長の上にあり、日本の近代・現代は松園と一葉の登場を機に、第何期かの「女文化」達成へ、堂々と歩みだしたのである。

 いまや元学生の社会人になろうというK君は、「壮大な話になりましたね」と、初対面いらいの真面目な顔で、元「文学」教授の独り相撲に水を入れた。わたしは、話頭をいま少し、一葉と松園がらみの

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まま転じることにした。
 鏑木清方(かぶらぎきよたか)という、松園女史よりまた二つばかり若い、じつに優れた画家がいた。この人が、明治の閨秀樋口一葉にひとかたならぬ視線を注いでいたことは、真に迫った肖像や名高い『一葉女史の墓』のような作画、さらには小説『にごりえ』のみごとな繪画化その他が雄弁に語っている。一葉を目して好敵手と敬愛してきた泉鏡花が、また清方にとって生涯を彩る小説家であったことも、ことの序でに懐かしく思い出される。清方は鏡花との初対面を記念した『小説家と挿繪画家』のような、また『三遊亭圓朝像』のような優れた肖像画を遺している。清方によせる熱い思いの大方は、だが際限がなく、いまは措(お)く。
 一点、つづく話のいとぐちに取り上げたいのが、惜しくも本繪は焼けて失せた清方『妓女像』対幅(ついふく)の、いまも遺ってある大下繪である。紙を貼り重ね重ねて念入りに描かれた線の命の豊かさ。わずかに小鼓と大鼓とに淡彩がほどこされ、それが、目にしみて墨の線を引き立てている。十分、これで十分です……と思わず感謝の気持ちに満たされる。
 それはそうとして、しかし、清方びいきのフアンの何割かが、ことに小鼓を打つ婦人の容姿、とりわけてその容貌にいくらか意外な発見……とでもいいたい感慨をもたれて来たのではなかろうか。「京美人だなぁ……これは…」とつぶやいて見入っていた人の声音をわたしはよく覚えていて、その時、事実はともあれ、見も知らないその人のつぶやきに、わたし自身の思いを代弁されているのに、すぐ気がついた。勝手な思いで、東京の人には叱られるかも知らぬ。だが、わたしは、あの時の思いをだいじに胸に畳んできた。『妓女像』が他ならぬ「昭和九年」に描かれていた事実も、しだいに私の内にあって意味や輪郭を持ってきたのである。

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 さきに「肖像画」にふれてわたしの好みを明かしておいたように、わたしは、清方をいわゆる美人画家とは考えていない。浮世繪の方角から現れ出た清方を軽くみていそうな人に抗議しておくが、この画家の重量は莫大であり、しかもおのずと別格の扱いでないと計りようのない、途方もない根の深さと昏さとを抱きかかえている。鏡花の文学に似ている。
 それにもかかわらず、わたしが先の『妓女像』下繪を見た瞬時に、京都が生んだ美人画の閨秀上村松園を思い出していたと言っても、深く咎める人はいないだろう。
 あながちに松園を引合いに出したのでは、ない。実のところ鏑木清方が松園に寄せていた敬愛の深さは、一葉女史へのそれと好一対でさえあったし、それは清方その人の松園画に対する、その時々の、いかにも好もしげで深切なもの言いなどに確(しか)と窺(うかが)われるのである。なかでも目立った一つの話柄(わへい)にふれて行こうと思う。
「明治の一葉」に対してあえて「昭和の松園」と謂ってみるのは、それほどの松園が真になお松園たりうるのに、「昭和」九年、十年以降の画業が俄然ものを言うまで、実に実に久しく待たねばならなかった、そこが松園評価の要(かなめ)になってくるからだ。その頃に至ってはっきり松園美人画に飛躍と充実への大きなけじめが見えたのだ、夙(はや)くからわたしは、その要となる繪を、『天保歌妓』という作品に観ていた。いや、わたしはなどとおこがましく言うまい、かの鏑木清方こそ夙にこの作品を重く重く観て、松園追悼の忘れがたい言葉を、こう残している。昭和十一年秋の発表になる名高い松園の「序の舞はまことに一代の名品に違いない。だがその前年に描かれた天保歌妓は、後年の夕暮、晩秋など母を描いてしみじみなつかしい佳境を予兆する、さりげない傑作と言えよう」と。
 清方の推賞と認識は、まことに的確であった。

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 昭和九年二月に松園は母仲子を喪っている。まさに、死なれたのである。しかもその死に供養するかのように松園は久しいスランプから地力で這い上がって、みごとな『母子』を描き『青眉』を描いて画境を転換して行った。松園また綺麗事のただの美人画から脱却の姿勢を、かけがえない「母」というほんものの「美人」の死に刺激され、意識しはじめた。ただ立ち姿を、なにの背景もなくしっとりと清らかに描いてみせた昭和十年の『天保歌妓』は、時代おくれな趣向の画題をふみ越えて成った、まさしく「さりげない傑作」に成っている。清方は発表されて即座に認め、昭和二十四年松園の死を悼んで、繰り返しまた大切に高く再評価した。清方は、前年の自作『妓女像』に松園が食い入る視線をあててみじろぎもしなかったのを、自身見知っていた。『天保歌妓』が松園無言の、清方へ送った親愛と感謝に満ちた一回答であることも分かっていた。
 かつて清方は、松園代表作の一つとしてよく知られた『焔』に対し、おそらく当時としてはもちろん、その後多くの『焔』批評のなかでも稀な、作者本真の「持ち味でない、賛成しない、忘れ去った方がいい」という意味の苦言を直に呈したという。松園その人がむしろ嬉しげに回顧していた、これは、事実なのである。松園画を目して『焔』を拒み『天保歌妓』を受け入れた清方に、わたしは、ただ頭をさげてきた。お見事と思い思いつづけてきた。それは、そのまま清方自身を語ってあまさない「藝術観」になり「女性観」になり「松園論」になっている。清方はほんとうに松園をよく観ていた。松園も清方の繪をそれはよく観ていた。
 わたしにも、だが、一つの不審があった。なぜ「天保」歌妓なのか。不審はやがて晴れた。『天保歌妓』は、ただに清方の『妓女像』とのみ呼応していた繪ではなかった。「天保」の二字は、漠然とただ恣(ほしいま)まな題ではなかったのである。

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 すこし我が田に水を引いて、思い出話をするが、「いいかい」と、わたしは、聴き入ってくれるK君の顔色を窺った。
「聴きたいですね」と、素直な元学生君の返事は率直であった。
「では、わたしも吃驚した一つ面白い話をしよう…。ここに、図版を三つ、並べてみるよ。右端のが『天保歌妓』です、左端の繪と、よく見比べてごらん…」

 左端の繪は、奈良県立美術館に所蔵の、祇園井得(せいとく)作『美人図』である。井得がどんな画家かは、後の話にしたい。
 まず両画のシルエットだが、右手の位置がはっきり違う。その他は、だが、似ているというより頭から足先まで同じである。右足をややひらいて踏みこんだ履物のかたち。柄の有無を別にすれば、結んだ帯のかたち。櫛・笄(こうがい)、髷のかたち。
 けれど繪の印象は、ずいぶん違う。井得の方はやや太めに丸顔の女であり、衣裳も地味に野暮めく。松園の方はすらりと丈高く品よく、衣裳も垢抜けのした明るい色目になっている。ただ、江戸っ子芸者には見えない。描かれたたとえば線一つくらべても、井得がどぎつく説明的なら、松園は柔らかに整理している。が、両方をよく眺めて、無縁・疎遠な別々の仕事と言い切れる人はいまい。
 通称、祇園「せいとく」は、美術史的にはほとんど無視されてきた京都の町繪師で、たぶん宝暦六年(一七五六)に生まれている。文政五年(一八二二)には六十七歳の款記(かんき)のある作品を描き、文政十一年に当たる七十三歳時分の作品もあるというから、長命はまちがいない。文政が天保と改元されるのはわずか二年後の、せいとく(井得、時に井徳とも)七十五歳の師走のことだ。おもに祇園遊里の女たち

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を繪に描いて世を渡っていた、しがないこの繪師にも、「天保」歌妓の作は十分あり得た。
 美術史家の土居次義に『祇園せいとく』というみごとな論文がある。それによれば井得の美人画は、「ほとんど濃厚な着色画であって、一見そのなまなましい現実感に富むきわめて油っこい表現が目立ち、一種特異の印象を与えずにおかない」という。「たんなる美人画ではなく、それぞれがリアリスチックな肖像画的性格を帯び……生きたモデルによって描かれたと思われるものが少なくなく、注意してみていると、……醜女といえるような女をすら描いているのである。しかもその作品のなかには描かれた人物の名さえ画面に記入してあるものも見いだされる」という。大蒐集家であった吉川観方(かんぽう)の著にも、井得にふれ、「需に応じて裃姿(かみしも)の旦那衆や帽子をかむった女隠居の肖像画も作った」という記事が見つかる。
 それどころか我が恩師土居先生によれば、井得一流の徹底したリアリズムは、京の大医柚木太淳が、死刑囚の屍を得て著わした『解体瑣言』に、精密な解剖真写の図を分担し得ているという。
 対象の美醜をとわず、井得が「最善真写」の画人であったこと、およそ疑いないと分かったところで、あらためて、上村松園の『天保歌妓』が祇園井得の『美人図』に学んだ作であるという目前の事実・現実について考えたい。
 ことわっておくが、わたしは井得のこの『美人図』を実物にあたって見知っているのではない。まったく偶然に、『江戸時代図誌』(筑摩書房刊)第一巻の『京都一』篇で見つけた。百十六頁にその第二百六十七図がまぎれなく掲載されていた。思わず「天保歌妓だァ」と咆哮したものだ、昭和五十一年、秋初めの体験であった。
 思わず叫んだには、わけがあった。わたしは昭和四十七年(展望)十二月号に、『閨秀』と題して上

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村松園を主人公の小説を書いた。その際、土居先生のいま謂う論文と松園の随筆集『青眉抄』の一文とを組み合わせ、事もあろうに京ことばでいえば「えずくろしい」祇園井得の肖像画と、清雅端麗な松園の美人画とを、いわば両極端のような二人の画家を、勝手に結びつけて、その接点にかねがね大好きな『天保歌妓』を、文字どおり、仮設していた。むろん奈良県美所蔵の『美人図』は存在することも知らず、しかし、それに類する井得の繪が小説の構想上ぜひに必要だった。しかたなく土居先生の論文に挿入されていた、まるで別の『太夫図』を使った。そうまでして井得との縁を想定してみることが、わたしなりの「松園論」にもなる筈だった。自信があった。だがいくら自信があろうとも小説家の想像だった。勘だった。勘違いであって当たり前なほど、井得と松園では経歴も繪も、一見、違いすぎた。土居先生も一言もそんな示唆はされていなかった。在来の松園研究や作品解説にも、祇園井得の名前などけっして出てくる筋のものではなかった。私の想像は、専門家にすれば放恣な妄想以外のなにものでもなかったらしい。
 それでも、わたしは井得と松園とを繋ぐ「何か」を疑えなかった。一の藝術家小説として、松園への少年来の思慕と敬愛を籠めてものを想い筆をやればやるほど、わたしの此の想像は、松園批評として十分有効に生きると自負しながら『閨秀』を書き終え、芸術的血族たる井得・松園を結ぶ紐帯として、躊躇なく『天保歌妓』をクライマックスの場に置いたのである。
 幸い『閨秀』は、文学的には、朝日新聞文芸時評の全面を投じて故吉田健一の身に余る絶賛をいただいたが、他方、一の画家松園論としては、とくに祇園井得との関連で美術の側からは全然反応がなかった。有るべくもない、あまりに突飛なフィクションどころか、一顧に値しない小説家の無責任なこじつけとして黙殺されたのだ。

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(図版三)
祇園井得『美人図』部分 18世紀末〜19世紀初 奈良県立美術館蔵
上村松園『芸妓』部分 明治43年(1910)頃
上村松園『天保歌妓』部分 昭和10年(1935)

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 ところが、先の井得『美人図』が現れ、紛うかたもない松園『天保歌妓』の前蹤・原画だと判明した。選(え)りに選って、わたしの想像して書いたとおりの経路が判明し証明されたのだ。こういう不思議って有るんだなあと、わたしは藝術の神に感謝を捧げた。
 もともとわたしには、上村松園が、応挙亜流の生気のない源K(げんき)や山口素絢(そけん)ごときの美人画に心酔していた筈がない、という思い込みがあった。しかも彼女が画家修行の同時代に、手近な京都には、美人画はおろか人物画を描いて名のある画人など一人もいなかった以上、自学自習、誰のどのような仕事を目して松園が勉強に励んだかは、たいへん興味のもてるところに違いない。松園は生涯三人の師に仕えているが、鈴木松年、幸野楳嶺、竹内栖鳳ともに松園独特の美人画に対し、手を下して訓導するといったことは、幸か不幸か、なくて終わっている。
 松園が無類の勉強家だったこと、栖鳳門下の錚々たる逸材に伍していささかも遜色なく、しばしば男性をして顔色なからしめたという話は数々知られ、松園自身も否定していない。美人画の先達に恵まれなかった事情はよりいっそう勉強を強いたにちがいなく、古人の業績を参照し、縮図し模写した範囲は広いうえに一層広かったから、仮に松園自身は祇園井得の画風に感心していなくても、一度や二度独特のその肖像画を縮図もし模写もしていて、なに不思議はない。たかだか一点の『天保歌妓』に先行する井得作『美人図』があったとて、なに不思議もないと言い捨てることもできる。
 そこで、もう一つの、三枚並べた「この、真ん中にある松園の別の繪を観てほしいんだ」と、わたしはK君を促した。
 これは京都市立美術館の塩川京子さんが、かつて或る画集で『天保歌妓』を解説した文末に、「明治末期頃に、ほぼ同じポーズの《芸妓》像が描かれている」として紹介していた繪で、昭和四十六年の山

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種美術館での松園特別展にも出ていた。この作品『芸妓』を、井得『美人図』と松園『天保歌妓』との真ん中に、さし込む具合にして、左から右へ、右から左へ、とっくり見つめてほしい。そして、克明に見比べてほしい。
 右手の上げ方が、ちょうど「中間」的な位置を占めているように、この繪一枚を中に置くことで、松園の井得原作に対する勉強なり執心なりは、明歴々。たとえば紋所まで模している。が、けっしてそっくりの模写でなく、文字どおり井得画に対する松園の「共感と批評」の一作になっている。顔が、いや顔だけでなく、なにもかも、もう松園の美女に変わっている。だが『天保歌妓』とくらべれば、全体に鈍い。重い。
 塩川さんも、松園画の背後に井得の原作があったとは、気がついていなかった。ただ松園画の二作だけを比較して、先行した『芸妓』のほうは「野暮ったさが目につく」としていた。同感だ。『芸妓』にかぎっていえば、松園の勉強ぶりはそれとして、いっそ井得の『美人図』の方にわたしは好感をもつ。生彩というものを感じる。
 松園自身、自作の『藝妓』に満足できなかったのだろう。だから二十五年ないし三十年もを経て再度『天保歌妓』を描いた。「前年に《母子》のような名作を発表して、最高潮の坂を正に上らんとする時であり」、前者との差が「歴然」と作品の上に表れていると塩川さんが言うのは当然で、この当然を、二、三十年かけて達成した、そういう勉強家の松園が、わたしは好きだ。この秀作が、たしかに先行する秀作『母子』のモチーフを受けていそうなところが、(鏑木清方が逸早く察していた。)好きだ。わたしが自作の小説『閨秀』で書いたのも、そこの機微であった。
 松園の仕事には、こうしたねばり強さで先人の作をのり越えた、凌駕した実例が、よく調べればきっ

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と幾らも他に在るにちがいない。井得の『美人図』は見るから写生だ。松園の『天保歌妓』は理想を孕んでいる。松園自身のもって生まれた作画の動機へ、意欲へ、しっかり引きつけて描き切っている。そこへ到達していく息の永いがんばりに、上村松園女史の面目があったのだ。

     母の死にめざめて

 おりよく『母子』という繪が話題になったのを接(つ)ぎ穂に、話を「松園」の「人」へも広げて行くが、「いいかね」とK君に言った。
「ええ。どのような人で、なんで画家になったのか識りたいと思っていましたから」
 家内が、徳島からはるばる到来の、大吟醸純米の「芳水」をあたためてきた、肥前野母岬からの海胆(うに)も添えて。
 酌をし、「原稿に書いてきたのと、そのままだがね。ま、お聴きなさい」と、没後五十年の記念展で貰ってきた画集をK君のまえに置いた。
 表紙の繪が話題の『母子』だ。昭和九年の第十五回帝展に出た繪で、画題そのまま唐簾の前に、愛児を抱き上げた母の立ち姿を、横顔を見せて、さりげなく、描いている。
 さりげなく――そう、『天保歌妓』を語った鏑木清方の評語であったこの「さりげなく」という表現が、それ以前の松園画になかった、転機だった。発見だった。
 よく言われることだが、松園は長命してついに『晩秋』や『夕暮』を描いた。あれらが描かれずじまいであったら、彼女は品のいい美人画家ではあれ、近代画史に光彩を放つ一流画家とは容易に呼ばれな

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かったろう、と。
 必ずしも今のわたしはそうは思わない。たしかに『母子』より以前、昭和九年以前の繪は、おおかた美しいは美しいが趣向の勝った、いわばやや造りものじみたところがあった。が、そうはいえ、大正十五年の『待月』は落ち着いて佳い繪である。同年に描かれ、昭和五年に再度完成された、屏風『春秋』左端一隻の娘の座像も、じつに言葉もないほど美しい。とりわけて大正三年作の『娘深雪』をわたしが熱愛するのは、趣向の勝ったいやみが、自然な美しさの前に全くかげを消しているからで、この繪は、事実、松園美人画中、最も美しい作品と言える。優美な容貌と色彩の内に蕩けそうなエロチシズムが匂う点で、のちの『序の舞』の鋭い気稟と対極をなす、まさに触れなば落ちん脆くなつかしい処女美で、画面はしっとりと潤い光っている。おそらく松園に固有の美しく上品な女人に対するこよなき愛と、在来の美人画に潜在した浮世繪っぽいエロチシズムとの優れて危うい接点をこの『娘深雪』は秘めている。 じつのところこの繪を褒め称えることばがうまく出てこない。初対面のとき、わたしの体も心も、深雪と呼ばれる『朝顔日記』ヒロインのあえかなまみに吸い取られ、心臓がかちかちに堅くなって膝の下で震えがやまなかった。はずかしかった。はずかしいという言い方は、なつかしい、と言い替えてもいいのである。松園女史という偉い画家を感じさせない柔美な感触の女の人を、若かったわたしは胸潰れそうに、あの時、愛していたと告白しなければならない。
 さりながら、なお、いわず語らず大成まえの松園画に強く印象づけられていた人ほど、「松園さんねえ。うーん」と、敬意は表しながら、つい嘆息する。僅かな例外をのぞき、狙い定めた趣向に十分な自然さを欠いていたからだ。しかも松園自身は、「繪描き」に自信をもち世間も「繪描き」松園の存在を認めた時分から、かえって、この欠点がわが眼に見えなくなった。見えないままに渋滞し、停滞した

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のである。
 その意味では昭和九年の『母子』になると、目立った趣向がない。あるにしても自然な趣向にうまく落ち着いている。清方ふうの謂いようをすれば、「母を描いてしみじみなつかしい佳境」は、『天保歌妓』に一年先立つこの『母子』一作に、さりげなく、正確に芽生えていた。
 この年、昭和九年二月、松園は母の仲子を八十六歳で喪った。母の死は、松園の生涯にあってこの上ない一大事だった。ただ永訣の悲哀をいうのではない。誤解をおそれずに敢えていえば、松園は、母の死に救われもしたのだった。久しい低迷から目覚めた。その証のように『母子』は描かれ『青眉』が描かれた。山種美術館が編んだ要領のいい年譜は、母仲子と娘松園とのありようをこう表現している。
「中風で七年間半身不随でいたが、頭はしっかりしていて、毎日沢山の新聞に全部目を通していたようである。母は松園にとってかけがえのない存在で、母のそばにさえいれば、他に何がなくとも仕合わせだった。母を家に残して、泊りがけの旅行などはなかなか出来ない気持であった。
 その母と別れた松園は、自分の部屋にその遺影を掲げ、旅行にゆくとき、帰って来たときの挨拶はもちろん、作品を出品する時も、家から運び出す前にまず母の写真にみせるのを常とした。」
 松園随筆集の『青眉抄』は佳い本である。そこには今いう記事がまだしも簡素に過ぎるぐらい、母子の一体感、こまやかな一種相愛の繪模様、で満たされている。
「青眉」とは、若妻が子を産んで母となったしるしに眉を剃る古都の風だ。われもまた青眉の母となる日は、幼来松園その人の久しい憧れだった。『母子』と同年の作『青眉』の母はもとより、『母子』の母も、眉を青く落として描かれている。いまは亡い母仲子の若き日を哀切の慕情をこめて松園が画面に再現したことは疑いようもなく、仲子は、死をもって娘に、本来の表現の動機をまざまざと思い出させ

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たのだ。
 だが、舌足らずに先走って、親愛なるK君をまごつかせてはならなかった。目を、作品『母子』に戻してみよう。

 この繪の「母」が往年の仲子を面影美しく描きとったに相違ないなら、抱かれている「子」の方は、ごく自然に松園自身であっていい。ただし、たくみに此の幼な子、向こう向きにされていて、男児とも女児とも必ずしも定かでない。だが画中の「子」の身につけているのが、松園嗣子の信太郎、今日の上村松篁氏幼時の着物であるとは、松園の写生帳や『青眉抄』の記事から知られている。だから「母」は松園で、「子」は松篁氏とも見ることができる。さらに言えば、昭和九年の松園はちょうど六十歳で、松篁氏には前年に長男の日本画家淳之氏が生まれている。母親は『序の舞』の人である。『母子』は、嫁の松篁夫人と孫の淳之氏とを描いたとみても強(あなが)ち突飛な想像ではないのであり、そういうところに、この繪の秘めた巧みで自然な趣向があり、動機もあった。
 言うまでもない、三組の母と子のどれであってもいい、むしろ一枚の繪に三つを全部重ねたい気持ちが松園にはあったのだろう。曾祖母仲子から曾孫淳之にいたる四代の相寄る思いの淳(あつ)さを、松園は、祈る心地で『母子』一作に表現しており、この世界を支えていたのは、まさに「母」であった。松園には、理想の「女」とは即ち理想の「母」を意味していたのだ。この松園の「思想」と「理想」とを明かさなくては、松園の人も芸術もとても理解できるものではない。
 松園こと上村津禰(つね)は、誕生に先立つこと二ヶ月、すでに父親太兵衛を喪っていた。まったく母仲子一人の奮闘と庇護のもとで、少女津禰は日本画家松園に成れたのである。「母」とは、松園にすれば、父

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にも代わり得た神のごとき意志と慈愛を兼ねそなえた理想だった。青眉は、さも神性のしるしのように、津禰の幼な心に、はやくから灼きついていたのに違いない。
 亡父太兵衛の面ざしを宿して生まれたといわれる松園には、また、どこか母仲子に対して父の代わりを勤めるほどの、男まさりな倒錯もありえたか知れない。仲子のような「母」になりたい、という松園の覚悟にはもともと「父」の存在は欠け落ちており、つまりは「夫」も欠け落ちることになった。知られる如く松篁氏は、公然父を知らぬ子として松園嗣子と生まれた人である。松園をめぐる大人たちの「うわさ」も、なんとなくその辺をさまよっていたのをわたしは思い出す。が、およそそんな詮索ほど、この母子にとってむだな真似はない。
 小説『閨秀』を書いたおりも、わたしは嗣子信太郎誕生の経緯をわざと仮構した。母なる松園の真情は、フィクションでこそいっそうよく表現できると考えた。そうした配慮を解しないゴシップ好きは、わたしが松園懐胎の秘話に通じておらずでたらめを書いたと思ったかも知れないが、「事実」のかなたに「真実味」を表すのが藝術の本道とは、松園自身の繪が示している。松園が夫をもたなかった事実、しかも母となった事実、この両方を彼女が自分の意志で選択し決定して迷わなかった真実が、だいじなのだ。一種聖なる伝説のように、多くの心ある人は、この稀有なる日本画家母子の家庭に余分な喙(くちばし)をはさんで来なかった、その事実はさらにだいじだ。醜聞にしたがう者も無くはなかった、が、松園藝術の気稟の清質は、堅固に此の「母子」家庭を守り抜いた。
 松篁氏の誕生は明治三十五年(一九〇二)松園二十八歳の年だった。翌年、家業の茶舗を廃し、同じ京都市内ながら、居を替えている。その頃の美術雑誌に、「上村松園女史の門生たらんとする者近頃漸く多く、実業の茶商を廃し、画家としての門戸を構へんとすと、同地通信にみゆ」と書かれている。

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 上村家は「ちきりや」という屋号の葉茶屋であった。いわばこの頃までは松園は母仲子の葉茶屋商いに養われての閨秀画家だったのを、嗣子出産のこの段階で、彩管一途に、逆に母を抱え父なき幼な子を抱える職業画家に転じたことになる。母の「子」であった松園が、子の「母」となって、夫を欠いた新居・新家庭を画業の本拠として敢然選択したことになる。むろん松園にさようの選択を逼った、いわば陣痛苦はあった。松園はただ黙してそれを怺(こら)え抜いた人であった。
 三年まえの明治三十二年、松園に『人生の花』という作品があり、翌三十三年には同じ構図の『花ざかり』を描いている。少し長い文章を読んでみたい。

  *
『花ざかり』は私の二十六歳のときの作品で、私の画家のひとつの時期を画した作品と言っていいかも知れません。
 その時代にまだ京都に残っていました花嫁風俗を描いたもので、この繪の着想は、私の祖父が「ちきりや」という呉服商の支配人をしていた関係から、そこの娘さんがお嫁入りするについて、
「つうさんは繪を描くし、器用だし、ひとつ着つけその他の世話をして貰えないか」
と、ちきりやの両親にたのまれましたので、その嫁入り手伝いに出掛けた折り、花こうがい、櫛、かんざし、あげ帽子など、花嫁の姿をスケッチしたのが、あとになって役立ったのでした。
 今ならば美容院で、嫁入りの衣裳の着つけその他万端は整うのですが、当時は親類の者が集まってそれをしたものです。
 私はいろいろと着つけをして貰っている花嫁の、恥ずかしい中に嬉しさをこめて、自分の体をそれ等

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親類の女たちにまかせている姿をみて、全くこれは人生の花ざかりであると感じました。
 そこで、その日の光景を繪絹の上へ移したのですが、華やかな婚礼の式場へのぞもうとする花嫁の恥ずかしい不安な顔と、附添う母親の責任感のつよく現われた緊張の瞬間をとらえたその繪は――明治三十三年の日本美術院展覧会に意外の好評を博し、この画は当時の大家の中にまじって銀牌三席という栄誉を得たのであります。
 正に私の花ざかりとでも言うべき、華やかな結果を生んだのでした。
    (授賞席順)
 金牌 大原の雪 下村観山
 銀牌 雪中放鶴 菱田春草
    木  蘭 横山大観
    花ざかり 上村松園
    秋  風 水野年方
    秋山喚猿 鈴木松年
    秋  草 寺崎広業
    水  禽 川合玉堂
 恩師鈴木松年先生が、自分の上席に入賞した私のために、最大の祝詞を送って下さいましたことを、私は身内が熱くなるほど嬉しく思いました。
『花ざかり』は私の青春の夢をこの繪に托したもので、私にとって終生忘れ得られぬ一作であります。 私の閨秀画家としての地位はこのあたりから不動のものになったとも言えるでしょう。

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                                                      (『青眉抄』より)
  *

「人生の花ざかり」とは、端的に、嫁入り姿をさしている。その晴れ姿を「青春の夢」と想い描いてきた松園が、自身の嫁入りをきっぱり断念し、見果てぬ「夢」を繪に描いて「閨秀画家」たる、まるで別の「花ざかり」を選び取った。
 わたしの眼には松園『花ざかり』の作が、事実上覚悟の、あだかも母子心中の道行のようにも映じたことがある。これを描いて松園が「青春の夢」から敢然目覚めたのは、受賞が自信をつけた以上に、もしも「夢」が実現すれば、それ即ち母仲子との「別離」になるかも知れぬ現実の条件を、強く忌避したからであろうとわたしは想像する。一人いた姉はとうに他家に嫁いでいる今、若い未亡人の母にさえそうだったように、適齢期の津禰が婿をとることも一度ならず話し合われただろう。が、母仲子の内心はともあれ、松園には「母子」家庭に「夫」を迎える気が、ようやく失せていた。ほしいのは「子」であっても、夫ではなかったのだ。
 松園が画界の地位を「不動」にした二十六歳という年齢は、上村仲子が婿養子であった夫太兵衛を喪い、しかも二ヶ月後の四月二十三日にのちの松園女史、津禰を産んだのと、ちょうど同い歳だった。明治八年(一八七五)のことだ。
 そんなにも若かった仲子は、再度の婿取りを、うるさい親類縁者にしきりに勧められながら、「わたしが働けば親子三人はどうにかやってゆける」と断然耳をかさず、身を粉にして四条奈良物町の葉茶屋「ちきりや」を守り抜いた。祖父が勤めた呉服問屋と同じ屋号をもらい受けていた。

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 仲子が再婚していたなら、当人もつくづく回想し感謝しているように、後年の美人画家が、文化勲章佩帯の松園女史が、成長し得ていたかどうか。松園無類の「母恋い」の、ここが一つの原点であったとわたしは考えている。

「文化勲章は、女性初とか聞いた気がしますが」
「その通りだよ。谷崎潤一郎や志賀直哉の叙勲より一年早い、昭和二十三年でした。わたしが新制中学に入った年さ。繪は観ていなかったが、母がしきりに松園さんの噂をしていた。それが、ご縁の始まりだった……」
「ところで。その松園さんが、どうして繪の道へ歩んで行ったのか。年譜の上を滑るだけのことならぼくにも出来ますけれど。松園藝術の質、本質…、その辺も話してくださいませんか、ぜひ」
「それはさ。尽きるところは繪を観る一人一人の思いが定めて行くことだろうがね。ま、わたしがどう考えてきたか、少し話してみようか」と、K君にさらりと誘われたまま、話しつづけた。
  昭和二十四年の逝去から明治八年の誕生へと、松園の生涯を極く大づかみに溯ってきた。では、画家の出発点を何歳頃と見極めるのか、上村松園にかぎって、その辺はよほど慎重に考えた方がいい。
 幼女津禰(つね)は五つぐらいの時分から繪草紙を見たり繪を描いたりが好きで、誰の目にも留まるほど繪ばかり描いていたという。もっとも、後年名を成すほどの画家にはめずらしいことではない。ただ松園の場合、小さい頃から描く繪は、人物と定(き)まっていた。とりわけ立ち働く母親の姿が恰好のモデルになっていた。松園画業の中心主題は幼時にすでに「決定」されていて、その意味からも、彼女のいわゆる「おもちゃ描き」の「姉さま遊び」からが、もう、はや無視できない松園生得の画境をかたち成してい

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たことになる。
 そのころ葉茶屋「ちきりや」は表三間半(約六・三メートル)、あげ店(だな)になっていた。晩にはたたみ、朝になるとおろす。上に渋紙張りの大きな茶櫃を五つ、六つも並べこれが並みの品だった。上茶は棚ものといい、店の奥、たいがい母仲子のすわっている帳場のわきの棚に葉茶壺に入ってたくさん並んでいた。
 だが幼い津禰はそのような店先を写生するのでも、その頃東隣の千代紙屋にいついた仔猫のぶんを描いてみるのでもなかった。津禰は女の姿ばかりを描いた。店に女の客があるとすばやく髷を見る。見覚えて客が帰るとすぐ繪に描き、あとで母に何という髷か教わった。丸髷とつぶし島田が多かった。節季どきや祭り時分は、それも先笄・勝山・蝶々・切天神・結綿・桃割れ・割りしのぶなどと多彩に華やいで、ウンテレガンとか錦祥女とか、猫の耳などというのもあった。「つうさんのおかげで妙なことおぼえるわ」と母は笑っていた。
 津禰は、女の着物や生地や帯の名前もたくさん覚えた。襟にのぞいた下襲(したがさね)へも目を向けた。名前よりいつも色や結び方や、紋様・柄をだいじに覚えた。そろそろと立っていって手ざわりも覚えた。「いややわつうさん、つねなり着てますのに。ああ恥ずかし」と、にぎやかに声をあげて逃げ帰る人もいた。母も笑って失礼を咎めた。
「つうさん、あても描いとおくれやす」
 そんな冗談をいう男の客もいた。津禰は「いやどす」と低声(こごえ)で返事して、女の客が来るまで、飽きずに覚えこんだ髷・女衣裳・女帯や女下駄や櫛・笄をとりまぜては、想像で、好きなように女の立ち姿や、片膝立ててすわった格好を描いた。みな驚嘆した。町内の吉野屋勘兵衛、通称よしかんという繪草紙屋

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の表にもそんな繪が並んでいた。津禰は母にねだって江戸繪や、豊信・歌麿流の美人画類をまねては描き、描いては見比べていた。母が好きで借りている貸本屋の読本には北斎の挿し繪もあった。
 仲子は娘の繪心をいつも「おう、おう」と迎え入れる人だった。とくべつ津禰を将来繪描きにする気であったとも思われない。父の顔も見知らぬ娘がただもう慈しくて、好きに遊ばせていたにちがいない。「姉さま遊び」という松園自身の表現がおもしろい。いま謂う幼女期の繪心をそのまま謂い表すと同時に、松園生涯の画業を貫通する、すぐれてよい意味のそれは「自己批評」だった。豊信や歌麿流の浮世繪に松園がうつつを抜かれなかったことははっきりしている。彼女本来の「姉さま遊び」に徹した効果は、晩年とかぎらず、よくよく趣向の勝った前半生の多くの作画にも、一種高貴な素人芸の品のよさをついに失わせなかった。母に見せたく、母に褒めてほしいが一心の繪を、松園はあくまで「娘」の思い、「あねさま」の気持ちで描きつづけた。そしてそういう「母」でありえた仲子その人に、松園自身も化(な)り変わって行きたいと願った心理が、異様なのか、尋常なのか、わたしは決めかねる。文字どおりの「母子」家庭がそこに在り、松園はその事実を生涯の真実としてつよく肯定した。肯定せざるをえなかった。再婚を諦めた母に、繪心を育ててくれた母の徳がしっかり重なっているのだ、母は愛する娘に、娘は愛する母に、まっすぐに殉じたのだ。
  そんな「姉さま遊び」の間は、まあ、いい。問題はない。大人たちも、つうさんに気軽な愛想を振りまいてくれた。だが繪を本式に習い出すとなると、やはり「女だてらに」と言われた。「道楽な」とも言われた。時代も世間も、繪描き風情にはまだまだ冷ややかだった。母仲子は、自身が楯となって娘津禰に繪を勉強させたのである。

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     玉成の美人画家

 明治二十年(一八八七)、十三歳の上村津禰は京都府画学校に入学。雪舟・狩野派の画風を伝授する北宗の鈴木松年の教室に入った。ただし画風上の選択ではなかった、上村家と松年の家とが懇意な間柄だった。ちなみに東宗は望月玉泉の率いる大和繪諸派、西宗は田村宗立による油繪・水彩などの西洋画、南宗は巨勢(こせ)小石のいわゆる文人画と分かれていた。津禰の進路は、大きくみて誤ってはいなかった。
 画学校の勉強は「一枝もの」といって、梅や椿や木蓮などの花を手本に頼って描くことから始まった。津禰の好きな人物画は、最上の六級になってからしか習えなかった。これには閉口した。
 見かねて松年は津禰を彼の私塾に誘い入れ、手持ちの「参考」や「繪」で彼女に人物画を勉強させた。松年自身は堅剛の筆力で知られた、強いていえば風景画家だったから、じかにこの女弟子の人物画修行に役立ってやれず、それだけに津禰は自発的に古画から学ぶしかなかった。あの祇園井得(せいとく)との出逢いが、どのような機縁によって生じたか、事実は時の闇に隠れているが。
 上村松園はたしかに『花ざかり』一作で画界に存在を示したが、最初に言ったように、夙(はや)くに頭角を現していた。師松年の授けた雅号「松園」で少女津禰が脚光を浴びた登竜門は、明治二十三年、津禰が十六歳のときに華やかに開かれたことは前に話したとおりで、この時、初めて松年塾から師の推薦で東京の内国勧業博覧会に『四季美人図』を出品した。その繪が思いがけない一等褒状をもらった。折しも日本に来ていた英国皇族アーサー・コンノート公が直ちに買い上げ、天才少女の名は賑やかに新聞にももてはやされた。
 あの時分は子どもらしい「気張り」だけで、頭もそう使わなかったと、松園は『四季美人図』の昔を回顧している。幅二尺五寸(約七五センチ)縦五尺(約一五〇センチ)の絹本に四人の女を春夏秋冬にふり宛てて描いた。春には若い娘が梅・椿を生けている姿、夏はすこし年かさの娘が観世水に紅葉を散らした絽の着物で島田を結っている姿、秋には中年増が琵琶を弾き、冬になると年配の女が雪中の繪の軸物をながめている様子を描いた。モデルもない、ただ自分で鏡台に向かい、いろんな格好をしてみては下繪を取った。毎晩遅くまで壁に影をうつして姿かたちの輪郭を工夫した。着想というほどのこともない、ああだこうだと楽しんで描き上げた。
「先生、こないなふうに描こ思うのどすけど、どないどっしゃろ」
「さあて、こうしたらよかろ」
 そんな具合に『四季美人図』は仕上がった。「姉さま遊び」のよくも悪しくも延長だったと言えよう。 ここで、もう一度思い出しておこう、閨秀作家あの樋口一葉の没年は明治二十九年十一月末で享年二十五歳、松園出世の博覧会から、僅か六年で死んでしまっている。実現はしなかったが当時十九の一葉は、松園のもてはやされた博覧会に、売り子に雇われたかった。『かれ尾花一もと』を書いて貧の支えに小説家で立とうと決心したのが、あくる明治二十四年正月のこと、名高い『にごりえ』や『たけくらべ』を書いたのはもう数年あとのこと、だった。ちなみに松園の方は、この二十四年に農商務省の名ざしでさきの『四季美人図』と同じ繪を制作し、翌年のシカゴ万国博覧会でまたも二等賞を獲得している。 それほどにもかかわらず、われわれの印象では、明治の一葉に対し、明治や大正の松園とはどうしても思えない認識がある。どこかに昭和まで生きてこその松園とながめる視線をもっている。言いなおせば、昭和九年、母仲子に死なれて初めて真の「松園」に徹底し得た松園であった。すでに六十歳だった。

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 年齢が松園を成熟させたのではない。母との永訣が奮い立たせた。亡母の死を痛哭する慕情が『母子』に、『青眉』に凝って、松園はふたたび幼女の昔の「姉さま遊び」の無垢に帰った。帰ることができた。このとき松園は、稼業としての「繪描き」であることを本質的にやめてしまったのだと言える。プロの繪描き上村松園は母仲子とともに一度死んでまた生まれ変わった、「真の画家」に甦ったと言える。枕草子や源氏物語いらいの京の女文化、非職業的な素人芸の高貴さを尊ぶ女文化の伝統に、そのようにして松園はもういちど臍の緒をしっかり繋いだのである。
 五つの「おもちゃ描き」や七つの「姉さま遊び」から、『四季美人図』の脚光を経て二十六歳の『花ざかり』の栄誉までを、わたしは上村松園の幸福な成長期と見ている。この成長を経て、松園は画界に地位を得た。職業画家になった。ところがこの先、母仲子との死別までが、わたしのみるところ、松園の渋滞期となっている。かちえた盛名ほどには真骨頂を安定しては出せていない。この時期の代表作は、一つが大正三年四十歳のときの『娘深雪』で、もう一つは大正七年の第十二回文展に出た『焔』だろう。大正四年の『花がたみ』もわるくない。前にあげた『待月』など、さりげなく、とても佳い。そのさりげない佳作を措けば、いずれも浄瑠璃の『朝顔日記』や謡曲の『葵上』『花筐』などに取材した、趣向の濃い繪に相違ない。松園ならではの持ち味とは見えない、内心の演戯がどれも透けて出ている。ことに『焔』『花筐』の嫉妬や狂乱を創り出すにいたる松園の心理的背景には、さすがに人生の危機感が切なく浮かびあがっていて、画境が妖しく揺れ動いている。『焔』の怨念など、本来の松園からすれば克服さるべき、女の哀しい性であったろう。避けた方がいい…、と、鏑木清方の端的な否認には無類の好意の裏打ちがあった。この『焔』が描かれた年の正月、松園は、最初の恩師鈴木松年と死別している。そして京都の画界には、後進村上華岳や土田麦僊らによる国画創作協会のような清新溌剌の新運動が起

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こっていた。
 師松年の死から母仲子の死までは、停滞期だった。たしかに松園美人画の様式は世人の目にも美しく確立されたかに見えていたが、それが一癖ある流儀でありただ美人画であるかぎりは、「松園さんねえ。うーん」といった程度の尊敬しか得られなかった。あの樋口一葉必死の創作の域にはまだ達しない、綺麗事の繪描き稼業で終わるところだった。わたしはあの渋滞・停滞の両方をさして、上村松園の苦しい模索期と呼びかえたい。
 模索は、苦しかった。もはや母仲子の死を以てかえるしかないほど、苦しかった。母の死と一度は生死の境をともにし、松園は模索していた「母」なる理想をやっと掴んで、現世に立ち戻れたのであった。

「秦さんは、とことん『母』にこだわるんですね」と、ここでK君は少し痛ましそうな顔をした。
「うん。ぼくはね。生みの母を知らないんだよ。初めて、松園さんのゴシップめく噂をうちの大人がしてるのを聞いたときにもね。自分のほんとの母親が松園さんだったらいいなと、ワケも分からず憧れたんだ。初めて書いた松園論の題も、『母よ…』だった。恥ずかしいが…、変わってないんだ、考えは」
 K君が黙っていたので、わたしは、そのまま話しつづけた。
 昭和九年の『母子』『青眉』以降を、ためらいなく松園の大成期と呼ぼう。自ら母となりもう祖母ですらあった松園は、肉親の母親に死なれて久々に「母」なる理想と再会した。理想の「母」を描けば自分の美人画は完成するのだと見据えたのだ。「姉さま遊び」の昔に憧れた「母がいちばん好き」のそれは復活だった。それが松園円熟への開眼となった。そして昭和十三年作の『砧』など、能に取材の趣向の作でありながら大きく趣向を踏み越えた、じつに自然に悠揚せまらざる、さりげない名作となった。

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『天保歌妓』も『序の舞』ももう成っていた。
 松園は、事情あって松年のもとを去り、十九歳で幸野楳嶺(こうのばいれい)の門に転じ、翌々年この師に死に別れると、三度び楳嶺門の兄弟子だった竹内栖鳳(せいほう)に師事している。松園の名は松年が授け、棲霞軒(せいかけん)というアトリエの名は栖鳳が授けた。しかし繪画の本道を真っ直ぐ松園のために指さしつづけたのは、けっきょく母の仲子だったとしか言えない。そういう「母の子」で、松園はあった。
 晩年の松園は、自分を天成の藝術家と強く自負していた。だが見誤ってならないのは、自負の気概が当初からあって、それが松園を徐々に芸術家に仕立てていったのではないということ。
 松園は、ままごとの好きな女の子が料理じょうずになるのとそう違わないごく日常的な仕方で幼くから繪を描き、画学校に進んだのも、ほぼその自然な延長だった。松園画業の最晩年までが、その自然な延長だったとすら言えた。もし今日の自分が藝術家としてゆるされるなら、自分はじつは生まれながら藝術家だった、と、晩年の松園がそう思ったのも不自然でない天成自然の画人たる道を彼女は歩みつづけたのであって、松園の自負とは、そういう「顧みて」の自負だった。藝術家松園の一特質が、ここに露表している。
 松園は、いわゆる頭で芸術を肥やした人でない。なにより幼くから自分の「手」を使って、「繪筆」をにぎって、松園自身の表現を借りれば「おもちゃ描き」から始まり単純な「子どもらしい気張りで繪に向かっていった」。生涯自分は「姉さま遊び」をしてきたと彼女は鏑木清方にしんみりと述懐しているが、その「姉さま遊び」に藝術の確かさと輝きを与えたのは、幼少にしてもう女の髪かたちや持ち物や着物について大人も及ばぬ物知りだったような、正確で、執着力のある「眼」だったに違いない。凡百の画学生と違い、繪を芸術という概念や理想で意識する年齢にきたとき、少女松園の繪筆を働かせる

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眼と手ととは、ずっと先へ卓抜に、確実に、伸びていたのである。
 むろん繪筆に関する勉強ぶりは当時から評判だった。例えば「展覧会があるごとに、どんな場合でも矢立てと縮図帳とは忘れずにたずさえていってはたくさんの縮図をしてきたものだ」とか、当時人物画の参考などごく乏しくて、「そのような不自由のなかから、人物画で一派を立てていったわたしの修行は、なみなみのものではありませんでした」とか、「繪というものは最後は筆でかかねばならぬものゆえ、縮図したりスケッチしたりする場合でもつねに筆を使っていると、(鉛筆などを使ってするより)筆の線もそれだけうまくなるわけで」などという彼女自身の回想や意見も、松園なりに揺るぎない実地の強さを印象づける。
 これにくらべ、松園が「藝術」「藝術家」または「美」などを口にすると、一種愛らしいほどの口まねに近いひびきを伝える。
「生きかわり死にかわり何代も何代も藝術家に生まれて来て、今生で研究の出来なかったものをうんと研究する、こんな夢さえもっているのである。ねがわくは美の神の私に齢いを長くまもらせ給わらんことを――」とか、「自分の藝術に身も心も打ちこめる人は幸福である、そのような人にのみ藝術の神は“成功”の二字を贈る」とか、「藝術を以って人を済度する」「よい人間でなければよい藝術は生まれない」「画家の心を培いよい繪をたくさんみて研究をはげめば、それだけ高いまなこがもてるのである」「真、善、美の極地に達した本格的な美人画を描きたい」「藝術の世界は不眠不休死ぬまで精進しつづけても、まだとどかぬはるかなものである」など、これも松園なりにみな実感を語っているのを毫も疑う気はないけれど、この種一連の表白から我々が受け取れるのは、こう語られた言葉じたいの説得力であるよりも、こう語っている藝術家の強い「自負」なのである。自分が歩んできた道、歩むべく努

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めたいっさいを顧みて、それ即ち藝術と藝術家の本来の大道であったと、信じて自足した人だけが明快に語れた、無造作で、疑念なく簡明な「自負」なのである。
 松園にとって「藝術」とか「美」は成人してから覚えた借り物の言葉であり、口まねだったろう。だが、しかもこの言葉の本来意味したものは、すべて、すでに松園の繪筆一本にみな籠もっていたのも真実で、藝術家松園の幸福なまた一つの特質を窺わせずにおかない。「何事も見きわめる――実地に見きわめることが、もっともたいせつなのではなかろうか。まして、藝術上のことにおいては、たんなる想像の上に立脚して、これを創りあげるということは危険であるように思う」「あの(若い頃の)苦しみやたのしみは、いまになって考えてみると、それが苦楽相半ばして一つの塊となって、藝術という溶鉱炉のなかでとけ合い、意図しなかった高い不抜の境地をつくってくれている。わたしはそのなかで花のうてなにすわる思いで――いま安らかに繪三昧(ざんまい)の生活に耽(ふけ)っている」と、晩年の松園は、嬉しげに言い切っているのである。

「繪ザンマイかぁ。三昧というのは…」と、K君はためいきをついた。
「一つのことに心をうちこんで、かつ統一され、落ち着いている。きみも、いつか飛行機づくりでそうなるわけさ」
「だと、いいですね」と、あまり生真面目なのでわたしは恐縮した。
 繪三昧――松園の場合それは「おもちゃ描き」の「姉さま遊び」と矛盾するものでなく、むしろ気稟の清質をいわゆる玄人藝の臭みから守りとおすものであっただろう。少なくも上村松園の場合はそうであったし、それが平安王朝いらい都の女文化が誇り高く秘蔵した姿勢であった。

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 画壇的に松園は「むかしから独りぼっちといった感じ」で歩いてきた人にちがいない。『美人画の誕生』といった歴史的な回顧展をやっても、松園の画風は孤独なまで、独り高い。それとても、松園には生来描くべき対象が目の底に灼きついていて、その生得の画題をつよいモチーフでためらいなく生涯描きつづけたことの、裏返しにひとしい「独りぼっち」だった。その対象、その画題とは、繰り返すまでもなく母仲子の生き生きとした姿だったし、より正しくは仲子に慈しみ育てられた松園自身もふくまれていた。いわば松園は、理想の「自画像」画家でありつづけたいと願った藝術家であったとも言えるのではないか。
 母の死後も松園は自室に母の写真を掲げ、自分も、孫の松篁氏も、旅行に行くとき、帰ってきたときなど、必ず写真の下へ行って挨拶することにしていたことは、前にもふれた。文展に出す繪でもその他の出品画でも、必ず家から運び出すまえに母の写真の前に置き、「お母さん。こんな繪ができました。――どうでしょうか」と、まず母に見せてから外へ出した。
「わたしは一生、わたしの繪を母に見ていただきたいと思っている」という、母仲子没後のこの種の松園の述懐を、けっして型どおりに軽く聞きながすことは許されまい。述懐には、松園が生涯を顧みてなお自分に鞭うつ或る覚悟――母と自分は「同じ」だ、自分は「母」なのだという母子一体の決意――が籠もっている。
 この母と子は、夫に死なれ父に死なれた、そのただ一点「死なれた」という重く切ない負い目に結ばれ、生涯離れ得なかった。松園にとって生きるパターンは徹して「母子」だった。「わたしは母のおかげで、生活の苦労を感じずに繪を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を産んだ母は、わたしの藝術までも産んでくれたのである。それでわたしは母のそばにさえいれば、ほかになにがなくと

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も幸福であった」と松園が言うのは、心底からの本音である。またその制作のうち「母性」を扱ったものの「どれもこれも、母への追慕から描いたものばかり」だと言うのも、さもあろう。
 松園の眼には母の姿、それも「一家の危機にのぞんで、断固として勇気を示した」意志と愛情に溢れた「健気(けなげ)な姿」が宿りつづけていた。と同時に、それはただ母独りの姿でなく、松園自身が母の胸に抱き慈しまれている姿もふくめて、つまり「母子」一体の姿として映っていた。美人画家松園の「美人」とは端的に母仲子であり、風俗とは母仲子の日常生活を透過して投影された風俗だったことを、いたり着いた最高の名作とされる『夕暮』や『晩秋』がじつに清潔に美しく証言している。
 母を愛し、その母のような母に自身も成った松園の、女としての覚悟・決意には、かならずしも尋常のものでない或る「飛躍」があると考える人もあろう。
 たしかにわたしは、その「飛躍」が、尋常の、世の常の、傲慢で怠惰な未婚の母たちが犯した「短絡」と同日に語れるものでないことを、なにより松園の繪からはっきり汲み取っている。また松園の志を嗣いだ松篁氏また淳之氏の制作にも看取っている。
 松園が心を籠めて産んだものはただ美人画ばかりではなかった、と、そう私は言いたい。
「母よ……」とためらわず、呼びたい。

「賛成です」と、我が若き友人のK君は、そっと頭を垂れてくれた。雪はやまない。
「泊まってお行き」と、あけられたK君の古清水の盃に、わたしは、また酒をついだ。                ――完――

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球の面に繪が描けるか

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「同志社美学」第11号 一九六五年三月
「藝術生活」一九七一年十二月号に転載
『顔と首』所収一九七八年十二月 小沢書店刊
『繪とせとら論叢』一九八六年二月 創知社刊

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     球の面に檜は描けないのか

 話を何年も前の記憶からはじめるのは妙だが、まだ大学にいた頃、ある美術史の講義の合間に繪画と彫刻との比較が気軽に話し合われた。骨やすめの時間だから堅苦しい調子ではない。たとえば「繪画は面を場とし、彫刻は塊(マツス)を場にしていると素朴には考えていいだろう」といったぐあいである。きわめて初歩的な、世間話の域を出なかった。その時「塊としての彫刻はほぼ考えうる限りの塊的可能性を作品で埋めきったと思うが、面を場とする繪画は、果たして面的可能性の一切を開拓し尽しただろうか」と、私が疑問符をつけた。問いかけは幸か不幸か黙殺されてしまった。
 彫刻が塊量(マツス)への造形を基本にした空間構成の美術であることに、それほど異論はあるまい。常識的な「塊」の姿は、地球がそうであり石ころや豆粒がそうのように、蔽っている面が量体を中へとり包み、空間に自存する状態である。ミロのヴィナスや百済(くだら)観音も同然、万年筆や銀貨もまた同然である。彫刻はこの「塊」に美的状態を与える。彫刻も物塊の「面」を構成する美術と謂える点もあるが、結果的には、やはり丸彫浮彫にかかわらず、塊量の方をより根本的条件にしていることは確かだ。
 繪画が「面」を場とするのは文字どおり場として借りる意味で、稀な例外(少しずつ増えてきている

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が、)を除けば、面そのものに物理的圧力を加えず変容もさせない。欄間の透彫などが彫刻としては檜画的だが、画面そのものが事実上の空隙となって突き抜けたり破れたりした繪画は、まず、なかろう、余白はのこしても。これが繪画の「面」に対する約束であり、逆に彫刻の方は造形的に構成された面を内から支える「塊」量の方に本質的な約束がある。繪面は一枚の紙に描こうが厚い壁面に描こうが繪画性において何の差違もない。
 どんな彫刻でも字義どおりの「塊」として還元的に理解できるし、現存する形態以外に彫刻としてのこされた「塊」的可能性は考えられない。
 繪画はどうか。「面」という場がなければ、どんな檜も描けない。物の表面という現実の面だけでなく、頭に想い描くとか、常識を超えた実験的な面(たとえば、闇=暗黒)を含めてのことである。
 一般に繪画はすべて物の表面、つまり紙や木や石や壁や金属の表面に描かれており、これらの表面は、まず例外なく平面ないしは平面に準ずる面だと言える。しかし、「面」或いは「表面」は必ずしも平面か平面に準ずるとは限らない。少なくも、平面のほかに曲面と球面とがある。ただの三つだが、性質的にかなり異質の「面」に相違ない。
 繪画は「面」を場とすると言ったが、正しくは「平面」を場とすると言わぬといけないのだろうか。なぜなら繪画の久しい伝統がそれを事実で立証しているようだから。必ずしも平直面だけが場だったのではなく、柱体の面、壺や鉢のような平曲面や攣曲面(半球面)をも画面にしているが、これらを展開図にすると殆どが「平面的」に再投影できる。謂わば二次元平面に三次元の物象を写すという古典的な繪画の約束にほぼ合致しているのである。合致しないのは、ただ一つ完全な「球(表)面」だけである。
「球の面」とは何よりも線に限画されない一即全の面である。立方体が六面ないし多面を以て一体を成

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すのと違って、「無縫の一面」が一球体をとり包む。抽象的、観念的な面のようだが、頭でしか考えられない訳(わけ)でなく、まま実見できる面である。
 私の疑問は、もし、繪画の場が二次元平面以外を本質的に拒否しているのなら仕方がないが、もっと自在に、物の表面ならどんな様態でも受け容れ得るのだとすれば、なぜ、この久しい繪画史上に唯一点の記憶すべき球(表)面繪画(半球ではいけない、球の全表面を使用)をも画家は遺さなかったのかというに在った。
 ただの思いつきではないと、私自身は繪画理論的に重く考えているので言うのだが、繪画が物の表面の中から必然的に平面的、二次元的な面だけを選んで他の面を本質的に拒否しているのだと断定することは、伝統と幾多先達の業績や論考とに最大の敬意を払った上でも、なおかつ僭上の沙汰に思えてくる、少なくも攣曲面や半球面への試みは夥しいのだから。しかも、決して全球面へまでは進まなかった。私は「球の面に繪面は描けないのか」という直哉な疑問をもつに至った。描ける、描けないの技法的な詮索を超えて、この疑問により適切な解答をみつけることで、在来繪画の本質的構造が逆にはっきりと理解できるのかもしれないと考え、さらに、繪画の伝統が無意識に疎外してきたために荒涼たる砂漠として放置された新世界、新画面が、独自の規則性を具えて一挙に眼前に立ち現われるかもしれないと感じたのである。
 何年来、この疑問をずっと放さずにきた。朝夕の往還に、武蔵野の中の巨大なガスタンクの球群を殊に美しく車窓から眺める私は、この疑問への妄執とそこから生まれた球面繪画の発想を払いすてきれないのである。

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 球の面の特殊な性質

 平面と球面との「面」の性質を比較すべく、思いつくまま列挙するが、著しく対蹠的である。
(1) 平面は二次元面、球面は多次元面、と普通に言われている。
(2) 平面それ自体は面背後と無関係だが、球面は面背後に量的に制約される。
(3) 平面は開放的で無限の外延をもち、球面は閉鎖的でそれ自体が有限である。
(4) 平面は空間に間接し平行的に対立するが、球面は空間に直接し包摂囲繞されている。
(5) 平面は限画されても性質は変えないが、球面はそれ自体が一即全で、限画されれば準平面化する。
(6) 平面に直線は引けるが、球面には引けない。
(7) 平面では幾何的図形は描けても、球面では円の他は描けない。
(8) 平面は容光的だが、球面は拒光的である。
(9) 平面は現実空間に類例が多いが、球面はむしろ抽象的、人工的である。

 これらは、いずれも「面」に即した比較だが、人間の眼に対向させてみると違った点が観察できる。この場合の平面は適当な広さに限画された常識的な方形の平面のことを指す。

(10) 平面は全現的(静態を前提)、球面は仮現的(動態を前提)である。

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(11) 平面へは静止的に当面できるが、球面へは行動的に囲繞周廻を要する。
(12) 平面は適当な方法で安置できるが、球面の性格を損なわずに定置することはできない。
(13) 平面には適当な方法で天地左右を措定できるが、球面にはできない。
(14) 平面上ではいわゆる遠近法透視法が原理的に可能だが、球面では不可能である。

 さらに、繪画面に即して考えてみる。

(15) 光に対する面の性質から、平面は賦彩に親和的で、球面は違和的だと考えられる。
(16) 平面ではどんな描線にも無干渉だが、球面では或る種の描線に制限的である。
(17) 平画面は適当な方法で順態を定められるが、球画面は本来的に順態逆態いずれも定めえない。
(18) 平画面では自然物を順態に描写できるが、球面では懐疑的である。
(19) 平画面に対する観照域は前面扇形帯だが、球画面に対しては包摂する全空間と考えねばならない。
(20) 眠が静止している場合、平画面も静止していてよいが(画面静態)、球画面の方は何らかの方法で眼に対して自転(ないし廻転)せねばならない(画面動態)。
(21) 平画面は或る意味で中心または焦点部を企図できるが、球画面にはそれがない。
(22) 平画面は一般に額縁によって延長する同平面から区切られ自律的統一をえるが、球面は額縁に等しい支えをもたぬ。

まだまだ挙げられるだろうが、この程度で大概推量できる。

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 以上の比較にいう球面ないし球は、全く固定されずに空中に浮游する態のものと考えてある。現実にはむりな想定で、バレーボールにせよ野球のボールにせよ地球儀にせよ、何か他の物に触れているか固定されている。たとえば、突きあげられた紙風船の状態で球面を持続させておくことはむりで、地球や天体が謂わばそういう状態なのだが、普通には寸時的に観察できるにすぎない抽象的な理解というほかはない。しかし、考える対象としては十分現実味のある対象だし、今日未来の科学の技術でなら、重力を消去したケースの中へ浮かせ、外から移動的に観照するか、遠隔操縦的(リモートコントロール)に廻転さすかして球面に描かれた繪画を観照できるのではないか。そう突飛な想像とも思えない。
 それにしても、固定された球の面と、固定されない球の面とは、それらを画面とする繪画を仮定するにも、やはり別々に考えた方がよい。
 それともう一つ、球自体の大小からくる技法の難易のことだが、球面の繪画を問題にするとは、球面という無縫の一即全面を一画面として全構成することに興味と課題があるのだから、巨大な球面の限られた局部分に小さな家や人物の風景をぽつんと描いたとて何の意味もないこと、言うまでもない。

固定された坪の面

 1 穹窿面を見上げた場合と球面とを同然には考えられない。およそ球の内側に入って中心部から見る球内面は、眼を焦点として求心的に真向ってくる。球表面の方はむしろ遠心的と謂うべく、視線をはねのけ、すべらせ、惑わせる。この点からも穹窿面の繪画や鉢見込の繪画構成(半球面の繪画構成)に類推して直ちに球表面の繪画の可能性を速断してはならない。

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 それにしても球が固定されれば、地球儀やガスタンクがそうのように、平画面と同じく、少なくも画面として上下順態が定められるので、自然物でも描けるかもしれない。観照域の問題あるいは画面の静・動の問題は、固定の方法による。地球儀的な固定だと眼を定位置に置いて画面の方を動かすことが考えられるが、動かし方は単調で、球画面の性質を活かし均質的に総べてを見るわけにはいかない。全く固定してあれば、否応なく眼の方が移動せねばならず、観照域は囲繞的に球面の外側に設けられることになる。
 球が固定されるとはその一部が他の物に接触することであって、いずれにせよ、球本来の姿を多少とも外側から損なうことになる。球面の繪画を考える場合、厳密には固定された球の面では不完全な論議になるのはやむをえない。だが、先に比較した平面と球面との差違の殆どは、ここでも否定されていない。
 天地上下が定められると言ったが、厳密には、天とは一の極点であり、上下と言っても平面上とちがって一見して比定比量されにくい、或る意味では奥行に似たものを併せ考えた上でないと上とも下とも言い切れない。左右はもとより便宜以上のものではない。
 球とは、あくまで外へ外へと張り出した力の極限の緊張状態である。またあくまで内なる一点へと集中する力の極限の緊張状態である。平面は空間を滑り落としているが球は空間に密包されている。球の面にむかう他の凡ゆるものの方が空間にさえぎられ、はねのけられ、惑い、滑り落ち、かすめ過ぎてしまう。平面は外なる空間を問題にしないで、むしろ面自体の視覚性の中へ空間を産出する。外なる自然を面自体がそっくりとりこんでしまう。ここに、両者の根本的な岐れが存在するのではあるまいか。

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 2 平面に描かれた一箇のリンゴを想像してほしい。見えるのはリンゴの一面で、向こう側は見えない。繪画の宿命である。リアルということを主にごく限定して考えれば、物の見えない側を見える側同様に描くことはできない。必要ならリンゴを描かずに、リンゴを彫刻すればいい。(キューピズム=立体画派は此処へ挑戦しているとも謂える。)
 球ではどうか。球も一の塊であり、リンゴや彫刻されたリンゴとさほど径庭ない形をしている。球の全表面にリンゴは描けないか。もちろん、全表面にでなくては意味をなさない。これは不可能だ。リンゴの形の無色の彫刻にリンゴそのままの色彩を加えて、リンゴの繪だとは言うまい。着色されたリンゴの彫刻であり、賦彩ゆえに問題になる以前に、よりリンゴらしき生命を宿した彫りかどうかが問われるだろう。自然の色彩を加えねば彫刻が完成しないのなら、秀れた多くの彫刻が無色であることは首肯けまい。彫刻無色は彫刻として本質に触れる問題なのである。
 しかし、球は球であり、また描かるべき球の面がここでは重要であって、球体が何かに彫りかえられることは論外となる。その球の全表面をつかって描かれる一の自然物とはその球自身か、地球や月のような天体、或は、バレーボールとか手まりとか、そのものずばり以外にない。
 球の表面にバレーボールそっくりの線条などを描きつけてバレーボールの繪だと揚言できるだろうか、迫真のものであるほど、彫刻的な量感の方を印象づけはしないか。また、地球儀を見て地球の繪だと感覚しているだろうか。凹凸こそないけれど、地球ほど巨大なものから推量して、地球とはおよそこういう「形」をしていると感じているのではないか。繪画的になら地図で足りる。
 こうなってくると、球全面を場として一の自然物を描くことは、言うべくして叶わぬことのようである。不可能でないと譲ってみても、その瞬間に、球面は面背後の質量に一挙にただの表面としての従属

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的役割を預けられ、面としての自律性を消失してしまうのである。

 3 一物でなく雑多な自然物が集合していわゆる自然の風景となるように、球面を画面とすることはできるだろうか。平面では繪画の左側と右側とは明らかに対照的に位置する。左から流れて右へ去った川の流れは、遡って元の場所へは戻らない。球面ではこの位置関係が定まらない。小部分と限って小さな家を描き人物を描くのに、左右の問題はあるまい。しかし、家あり人あり林あり路あり、広い風景を描きすすめてくると、球では、或る家から遠ざかるとは再び近づくということである。真実に近い自然の風景を写すとなれば、球面に描けるのは、地球の顔だけということになる。事実、地球だけが球面に自然の風景を成就している。そのいかなる一部分を描き出したとて、もはや球の表面に描かるべくは展開していない。
 現実に似た風景なら描けるかもしれない。雪舟の山水長巻を起始部と終末部とを輪に巻いてつなげたからといって不自然極まるかどうか、方法次第ではできぬことではなかっただろう。どこからはじまったか、どこで終るか判らぬように風景を一の環状画面にそう不自然でなく描きつなげない訳ではない。
 球画面では、もちろん平画面にない難条件はある。どこの一点をとっても座標的には他の一点と違い、無限に傾いてゆく面であると同時に、一応はその全面を繪画的に活かさねばならないのだから、球面の一部に帯を巻くふうに構図をとっただけではいけない。天辺から底辺の部分に至るまで何らかの繪画的構成にあずかる必要がある。何よりも、このことが球面繪画に自然の風景を表現する際の難儀となる。
 球の天部から泉が湧き小川となって流れ出す。うねりうねって球表面を僅かな傾斜で回旋下向し、流れ拡がりながら地部にたたえた海へ注ぐものと考える。すると、ささやかな流れが大河となるまでの両

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岸を或いは渓谷のさま、里のさま、堤のさまなどに描き分けて画面を変化ある描写で埋めることができるかもしれない。渓や里や堤がまだしもむりなら、模様風の草原と立樹とばかりで埋めることができるかもしれない。
 球では謂わば赤道部が眼の方へ突出し、上下の部分は背後へ退いてゆくかたちだから、上半球は眼馴れ易くとも、下半球には妙に縁の下へひっこんでゆくような視覚の違和感があるにちがいない。球が固定されてあればなおさらであろう。だが、何となくこの想像は球面繪画の可能性を考えさせる。リアルにとはいかずとも、多少の趣向と工夫とをもってすれば、まして大胆な装飾的意匠や省略を考案すれば、或る球面繪画に独自の様式的な画面構成を発揮できるかもしれぬと感じさせる。平面ではないのだから、平画面の原則とは違った原則、様式、技法があっていいし、みつけて差支えないのだ。

 4 今はまだ自然物や風景の描写、表現を主に考えているのだが、ぜひともぶつからねばならぬ技法上の問題がある。遠近法だ。
 球面の繪画が描けるとしても、遠近法はむりなのだ。平画面のように眼と画面とに静止した位置関係が持続しない。遠近の形で奥行きを表現し、遠くの物を小さく描くことが無意味になってしまう。奥行が成立しない。それが球面なのだ。日本の装飾的な風景画が、描いた対象の背後を一面に金色で遮蔽して強いて前面に平板に定着させたあのような効果が、球画面の風景には期せずして必然となるのである。
 東洋画の遠近法は上を遠く下を近くみる約束をもっていたのだから、西洋画の遠近法はむりでも上下で遠近は出せるといいたいが、面全体が無限数の点から成り、その点自体は他のいかなる点とも異なる位相をもつという平面とは全く別趣の特殊性からして、上に対する下、下に対する上などと到底単純に

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関係づけられず、やはり遠近法は成立しないと思う。球面に独自の遠近法が別に開拓されえないとはいえないが。
 また、形に影の添う如くにという、この陰翳(かげ)さえも本来の意味で描けるとは断定できない。光を物が遮ると物の後に影ができる。これが奥行となるが、球面上では、或る位置からは物に当たる光とその影とが奥行として見分けられても、すこし眼か画面かが動いて全く違った方向から見れば、光と影とが物の形に対して矛盾するか無意味になるかする。歪形とか角度とかはこの動きの中で矛盾と不自然とを無数につくり出すのではないか。焦点を本来欠いているのだから画面は方向をもってはならず、物も光も角度をもってはならない。そういう特殊な空間として「球面」を把握しなくてはならない。
 煎じつめれば、色彩の効果が効果として持続しないような性質が球面という拒光的、或は選光的な面では考慮されねばならない。色彩はたとえば色面構成的に利用できるが、それとて、色彩本来の効果を表せる眼との相対関係は大体定まっている。画面が動いて色彩が眼の焦点部から著しく外(そ)れれば、色彩効果は減殺されて映るよりない。色彩にだけ頼って描くことは色彩にとって負担であり、球面繪画の場合は、色彩が第一義的な手段かどうかをむしろ疑うべきと思う。

 5 それでもなお、特色ある球面繪画に独自の様式化を試み、眼の方も平面繪画の亜流としてでなく、球面の性質を了解した上で虚心に対うなら、或る程度まで自然物や風景に近い画面をさえ構想し描写できるのではないかと私は考えたい。平面繪画に馴れた眼からはあまりに異様異色かもしれないが。
 例えば描かれる一切の自然物を真上から写すと、多くが解決できるかも。結論を急ぐことはない。球面繪画を考えるのに重要な本質的な条件はまだ残っている。観照域と画面動態との関連である。

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 球面繪画の場合、球が固定されてはいても、眼が画面を頼って移動するか、眼に対って画面の方が動くかは不可欠の観照条件である。当然ここで「動き方」が問題になる。恣意的でもいいが、或る効果をねらって意図的に眼の方向と画面の推移とを連動させたい場合があるはずだ。この点に平面繪画とは根本から区別される、球面繪画の大特色がある。繪巻物の効果をもっと断続感なしに一の画面の中へ定着することが創作の重要な実体となる。画面構成の意味が平面繪画の揚合と全く異質別次元なのである。
 球面繪画に独自の様式を発見することが大切な課題であろう。次に画面構成を技法的に開拓することがさらに大切な課題となる。この課題は革命的な意味をもつ。なぜなら、画面動態を意図的に創作意志や技法にとり入れるとは、繪画という静的藝術を時空間的に運動する場へ強力に捲きこむことに他ならず、明らかに画面の革新、繪画の革新と呼んで差支えない繪画史上の事件になるのだから。もはやここでは、繪画が「映画に接近」するという実感さえ湧くではないか。球面繪画に独自の様式を発見することは、この画面動態の意図的構成ということと絡まって、さらに困難な興味ある課題となる。
 平面繪画の場合、画面は静・順態を約束され、天地左右の別あり、普通眼に映る外界と似た空間の性質を表現できる。遠近法、線、色彩は自然描写の三利器であった。球面繪画がどれほど平面繪画と隔絶した特色をもたねばならぬかはこれだけで了解できよう。静・順態は約束されず、天地左右は定まらず、遠近法は拒み、色彩を二義化し、線さえ自由に思うままには引けない。真上からの把捉以外にリアルな自然描写は不可能としても言いすぎではあるまい。

 6 リアルな自然描写がむりだから、繪画は描けぬとは言えない。可能性はまだある。
 地球儀を地球の模型と考えず、単に球面に描いた模様だと見てはどうか。巧拙と感銘を度外視すれば、

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あれはとにかく色彩と線とで球面を蔽い尽した繪画的作物と呼ぶことができる。単純な一軸回転とはいえ画面も動かせる。色面分割にすぎぬにせよ、色面に形状があり、形と色とが結びつきつつ他の色面との間に構成上の律動感や緊密感が生まれれば、表現意図をもっと別様に生かせる可能性は十分あるわけだ。
 ただ、色彩効果は減殺(げんさい)され易いので複雑な混合色や暗色系の色は蔭の部分へまわると弱い。十分計算されていないと色彩に裏切られることになる。むしろ各色面の「形」自体の構成の方に効果が予想される。
 つまりは、色彩よりも線による画面構成の方がはるかに球画面に適した動感を破らせるのではないかと予想される。線の効果は色彩ほど蔭の部分でも変質はしない。球面繪画の手段としては「線」ないし「曲線」だけが第一義的に残ると断定しても差支えないと思う。線こそは、球面繪画に独自の様式を規定する画面動態と結びついて、創作をより美しく動的に充実させる働きをもつはずである。
 平面繪画の場合、色彩は線と対等に扱われ、また色彩への研究ゆえに進歩した歴史的段階もたしかにあるが、原初的には線であり、線をたすけて色彩が繪画感覚の大きな拠点となったのであろうと推定される。球面繪画の場合はさらに線の性質を強調するかのように、画面動態が創作の意図や技法を規定してくるわけだ。これを便宜的に「球面繪画の動態性」と特色づけておく。
 この動態性も、固定された球だと、固定の方法にもよるが、そう自在には動かないし、全く動かないこともある。眼の方が動くにしても、これも不十分でしかないとは容易に判断がつく。地球儀みたいな動き方ではそう興味ある画面動態を意図するわけにはゆかぬ。 実際に、球を固定せず自在に動かすことができるものかどうか、この場合はできると仮定して考えす

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すめる方が徹底して球面繪画の特色がつかめると思う。

  固定されない球の面

 球が特別の仕掛で宙に浮かせればよし、それ以外に固定されない状態として考え易いのは、ボールを掌に受けているような場合だ。この場合、天地左右は全くない。自然描写には条件が極端にわるい。しかし、それもリアルな描写、写実、写生の場合に限ることであり、抽象、超現実、観念の世界を独自の様式で模様風、装飾風な意匠で表現できないとは断定し切れない。観念の世界ではあるが、ルーペンスの失楽園に似た堕地獄叫喚の図なら少々画面が顛倒しようと却って迫力が増すだろう。但しルーペンス的表現でではない。エジプト繪面のように平板な抽象的な表現で、レリーフに似た印象を与えるのだろう。或はシヤガールのような幻想の画面には球面は刺激的効果的なのではないか。たとえば深い色で変化する緑一面に、ただよう幻想人間とか魚群などなら描けそうに思う。これらはリアルな、自然物に近い題材を考えての話である。
 さらに超現実的な線と色彩とだけの、カンディンスキー調の画面構成なら、平画面とは違った遥かに豊饒な可能性を球画面ははらんでいると思える。線と形の美しい交響音を色彩がより純粋に効果的に授けられれば、もはやさほど平画面に比べて不自由な画面ではあるまい。問題はその観照方法であり、それを予測した創作上の計算である。球画面では「描き方」以前に、画面の性質が1描かれ方」を主張し、
描かれ方を満足させつつ、「見られ方」を十分に考量計算して描かねばならない。近代繪画の著しい思量的性格は、球面を場とするに至って造かに密度高く必然的に要請されるのである。この繪画を置くべ

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き場所の問題にしても、繪画の機能と関連して複雑な条件と性質が浮かびあがってくる。 掌に支えられて、球面のあちこちとりとめなく自由に見られて差支えない画面を構成することは難事であろう。ギヤマンの切子模様や唐草模様のように規則的な図柄で全面が蔽われてしまうと律動感は失われ、繪画としての魅力は少なくなる。律動感を生み出すのは画面の変化・強調・方向などである。この画面を散漫に悉(ほしいまま)にあちこちされて、なお思うままに画家の意図が伝えられようか。意図に即して見られることが、表現された作品の本来の望みであろう。仮現的で経時的にしか全体が眼に入らぬ球画面なればこそ、球自転の軌跡を意図的・操作的に創作の中へとりこんで描きすすめ、また軌跡どおりに眼が画面動態を観照してくれることを画家は期待せねばならない。
 球面繪画の動態性とその経時的展開はまさしく映画との親縁を意味している。繪画は画期的な新しい画面を得て、繪画性に革命を迎えたに等しい。
 巨大な真空のガラス張りの部屋があり無重力化された部屋の中心部に球面檜画が浮かんでいる。その一部に光が当てられ、眼はその部分を見ている。部屋の外でボタンを押すと計算どおりの速さと動き方とで球は自転しはじめ、観照者はみごとな線と色彩とが交響楽的美をさまざまに展開させるのを見る。遠隔操縦のハンドルもあって観照者の思うままにも画面を動かせる。リアルな描写には程遠いにせよ、モダンアートに馴れた人ならこの球面繪画に独自の面白さが理解できないはずはない。

  新しい画面への夢

 どうだろうか。

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 珍奇な繪画づくりに奔走する冒険者たちよ、かくも新しい画面があり、繪画性の革命が考えられるのに、何故に平ったい画面にばかり執着して飽きぬのだ。諸君の眼は球面に対してはただ盲目にすぎない。眼を生命とする画家として恥ずかしくないか。不可能というのか。あの美しい巨大なガスタンクに烈しい意欲を覚えたことのない鈍な眼を私はわらう。
 画面が違うとは繪画にとって大変な違いである。一が正統、他は亜流というのでなく、平面球面ともに本来、繪画の場なのだ。ただ、自然を描くことから始まった繪画が平画面を開拓し、ついにそれだけの歴史を展開して今一つの豊饒な半面を月の裏面の如く未知の荒地のままとり残してしまった(月の裏面さえ、もはや未知ではなくなった)。だからと言って球画面を認めず活かさずにすむことではない。あれほども繪画創作上の工夫が深められながら、なぜ新しい画面の発見を心がけ得なかったかが、ふしぎである。繪画の面白さは新しい画面に創造することでより深まるだろう。
 球面繪画の可能不可能は実践の中で確証されることだ。作例、提唱、議論のいずれに関しても、寡聞にして私は知らない。
 私のこの球面繪画論を追試される篤志の画家を待望したいのである。
          ――了――

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繪の前で―「みる」と「わかる」と― (講演)

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「近代日本画の精華」展・特別講演 一九八五年秋 於・旧山種美術館
『繪とせとら文化論 猿の遠景』一九九七年五月三十一日 紅書房刊

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 会場の個々の繪について、解説めくことは申し上げません。しかし、「繪」ないし「造型作品」と向かいあう「根本」のところを、遠慮がちに、少しお話ししてみたい。理論的にというよりも、いっそ私の感想を、率直に申し上げてみたいと思います。
 どういう感想か。どういう問題なのか。
 落語に『抜け雀』という、亡くなった志ん生師匠なんぞの旨(うま)かった咄(はなし)があります。小田原の宿場で宿引きをしていた、気のいい小宿の主(あるじ)が、見るからにこきたない若い男を引き止めます。のっけから、内金に百両も預けようかなどと言う男です、が、発つとき払いで結構でございますと、宿の客にしてしまいます。朝に昼に晩に、酒を一升ずつ飲んではごろごろ寝ている客を、おかみの方が気にします。せめて五両でも内金をと亭主にもらいにやりますと、案の定この客、一文ももっていない。仕事をきいてみると繪師だと言う。大工ででもあるなら家の傷みを直させることも出来るけれど、「繪なんか、みたって、わからないし」と亭主は困ってしまいます。この亭主の言いぐさを、お耳にとめていただきましょう。
 それでも自信に溢れた若い繪師は、これも宿賃の代わりに旅の経師(きようじ)屋に造らせてあったまっさらの衝立(ついたて)に目をとめまして、亭主のイヤがるのも構わず、手練の墨の筆を走らせます、と、そこに五羽の雀が

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生まれ出る。けれども亭主は申します、「何が描いてあんのか、わからない繪ですな」と。雀だと聞いてやっと頷き、「そういや雀だな、わかりましたよ」とも。で、この雀五羽を宿代のカタにおき、繪師は江戸へ向かうのですが、この雀たち、毎朝、朝日を浴びますと、チュンチュンと元気に鳴いて衝立から抜け出し飛んで遊ぶんですね。「抜け雀」の題のついている所以(ゆえん)でありますが、じつに生き生きとしている。
 ま、咄は、私の口から聴かれるんじゃつまりませんから、みんな端折りますけれども、ここで、宿の亭主が「繪をみてもわからない」と言い、また「何が描いてあるのか、わからない繪だ」と言う、そして「雀か、あぁわかった」とも言っている。ま、これくらい世間でもよく聞く言いぐさは無いんでして、繪を「みる」と「わかる」とが、たいてい対(つい)になりまして、途方もなく厄介な関所になっている。これは、ひとつ、ぜひ、考えてみなけぁならんと、そう久しく考えて参りました。いったい、どういうことなんだ、繪を「みる」と繪が「わかる」とは、と。どうにも気になって叶わんなと。
 ま、こういう難儀にアブナイ話題には、専門家は、ふつうお触りになりません。かと言って、放っておいていい問題でもないことは、こんなに大勢お集まり下さったことからも察しがつきます。手に余るかも知れません、が、みなさんの方でもご経験で補い補い、お聴きください。ひとりの自由な小説家の言説を、半分は冷やかすぐらいにお楽しみいただくということで、私も、気楽に、でも真剣に、お話ししてみようと思っています。
 で、早速ですが、私のワープロをつかって、「みる」という漢字を求めますと、たちどころに、19文字を教えてくれます。「見」「相」「看」「省」「眄」「胥」「視」「診」「督」「察」「監」「覩」「瞰」「覧」「瞿」「瞻」「観」「矚」「鑑」と、これで19字です。中国人の漢字によってものを「み

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る」こと、かくも精密なのに一驚しますが、日本人は、こういう見分けを、少なくも「ことば」と「文字」とのレベルでは持ちえなかった。ただ一言の「みる」で、ぜんぶを兼ねていた。兼ねられたというのも、ある意味でスゴイことではないかと思いますけれども。
 次に「わかる」というのも、私の器械にきいてみますと、これは「分」「判」「解」の3字なんですね。この3文字ぐらいなら、ごく日常的に読んだり書いたりしています、意味のうえで使いわけていますかどうかは別にして。
 で、字を挙げました限り、視覚的な「みる」と、知覚的な「わかる」とに、特に文字からする意味的な重なりは無さそうなんですね。むしろ英語でいえば、端的に「I see」で「みる」「わかる」の双方を兼ねています。しかし、それとても、19もある漢字の「みる」にも、ただ視覚的とは謂いきれない「心の目で見る」印象の「省」や「察」の文字も含まれている。つまりは、「みる」「わかる」という日本語(和語)は別々だけれど、遠回しに重なってくる意味合いも在るらしいぞと、その程度の見当はつけておいてよろしかろうかと思います。
 字義の詮索などはしばらく措(お)くと致しますが、繪を「見る」と「分る」と、――ま、便宜に漢字は宛てましたが、人により漢字も感じも変わってくるでありましょう――これは、たいへんに難儀な問題でございます。私自身がぜひ聞きたい、教えてほしいぐらいです。小説を「読む」と「分る」と。音楽を「聴く」と「分る」と。こう並べてみますと、このての問題の難儀さにぶち当たって来なかった人は少ないでしょう。そして恰好の解説を聞いた覚えも、あまり、無い。ま、ご一緒に考えていくしかない、これは芸術の前に立つ者のひとしく抱え込んだ大昔からの難題なんだと申せましょう。
 藝術の前に立つと申しました、が、それも理解が小さいのかも知れません。なぜなら、例えば人を

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「知る」と「分る」と、また己を「識る」と「分る」と、の場合にも似た難儀さが、実は、ついてまわります。これら二つの項目は、イコールつまり等記号(=)で結んでしまっていいのかどうか。いや、それは、ちょっと…という、なにか異なった大事な意味合いのものに、ま、思われる。だが、どう異なるのか。こんな自問自答が、いつも繪や小説や音楽や、また他人や、自分を、見よう・分ろうとする際には生じて来る。かなり苦々しく、じれったく生じて来ます。ごく一般に、こんな風になっています。 繪を「見て」きた。よく「分ら」なかった。
 本を「読ん」だ。よく「分ら」なかった。
 または、
 あの(男の、女の)人なら、「知って」いる。けれど、よく「分ら」ない人だ、と。
 人も、我も、しばしばこんな感想をもち、述懐し、なにか無力感や劣等感にとらわれるほど、嘆息している。
 しかし、よく聞き、よく考えてみますと、同じ「わかる」「わからない」とは口にしながら、微妙に「分り」かた「分らな」さにも、層がある、差がある、ものなんですね。繪の場合でごく簡単に申しましても、およそ、こんな具合にちょっとずつ違うんですね。
 繪を「みた」
 だが、良い繪なのか、そうでないのか、価値の程が「わから」ない。
 だが、何が描いてあるのかが「わから」ない。
 だが、何が言いたいのか、作の動機や主題や意図が「わから」ない。
 そしてこういう場合、とかく「わかる」という判断を、まるで「わかる」コツでもありげに、技術的

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な能力に帰してしまう傾向が出てまいります。分析的にも総合的にも、そこに「技、コツ、知識、見どころ」と謂いましょうか、繪の「よい・わるい」の判断など飛び越えまして、むしろ「何が」とか「技巧・巧拙」とかの方へ、自然と考えることが偏っていきます。そうでなければ、単に「好き・嫌い」ないし「ウマが合う・合わぬ」というレベルへ、急いで、スイッチしてしまいがちです。
 言いかえれば、こうです。「わかる」という中身を、「頭」ないし知識・情報・学習・技巧の問題にする――主知的――か、「ハート」ないし感情・感性・好悪の問題にする――主情的――か。どっちにせよ、なんとか相手を早くねじ伏せて安心してしまおうという「わかり」方のようです。
 しかし最終的に大事なことは、その繪なら繪が、「よい繪か」「さほどでない繪か」と「自分にわかる」ことでありましょう。さらには、「どうよいのか」「どうよくないのか」を「自分がわかる」ことでしょう。「自分」が、そこで、切り札になる。と謂うことは、「わかる」こと自体も甚だ確定しない、主観的な、実に頼りない到達、をしか意味しないんですね。百人が百人、同じ「わかり方」などという、そんな客観的なものは無い…、これは確かなことです。何故なら「自分にわかる」「自分がわかる」とはいえ、世の中で、なにが不確定要素かと謂って「自分」ほど不確実ないつも動いている存在も無いのですから。それでもなお、人は、ついついそんな「自分」を棚にあげてでも、何かしら「わかり」たがる存在なんですね。「わから」ないと不安でしょうが無いんですね。
「わかる」という言葉に引き摺られますと、繪の場合、なかなか純粋に鑑賞・批評・賞味の方向へ行けなくて、つい、題材や技巧や作者や時代の、理解とか、知解とか、解釈の方向へ走りやすくなる。その方がラクでもあるんです。つまり「眼」よりも、まず「頭」を頼るわけです。しかも、それが当然なようにも賢いようにも思い込みやすくなるんです。「わかる」というのは、よほどエライこと、大事なこ

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とのような気がするんですね。
 では、「わかる」意味のさっき挙げました三つの漢字――分、解、判――を、とにかく、調べてみようじゃありませんか。
 「分」は、分別する分断するという言葉がありますように、語源では「肉を分かつ」「骨を分かつ」「区分にしたがう」意味です。分割し、分化し、名分を立て、職分を分かち、身分を分け、本分や分限をまもる、また随分と分にも随う。「分る」とは、今日通用の、つまり理解する・承知するといった意味より以前に、むしろ「分れる」「分ける」のが本来の意味なんです。
 唐物(からもの)茶碗と国茶碗とに、例えば、分ける。分れる。国茶碗のなかに例えば楽茶碗がある。同じ楽茶碗だけれども、これは長次郎、これはノンコウ、これは慶入(けいにゆう)、これは当代というふうに「分れ」る。「分けて」みる。また楽焼から加賀の大樋焼が「分れ」る。ま、そんな按配です。国茶碗は、楽焼以外にも、もっと歴史の古い丹波、備前、伊賀、信楽(しがらき)とか、瀬戸、薩摩、萩などというふうに、いろいろに「分れ」ています。同じ楽の何代目でありましても、この作は若造りとか晩年だとかに「見分け」る。そういった「区分」が経験でおよそ「分る」ようになるわけであり、かくて「分る」が、知識として理解し承知する意味になってくる。どこの窯のもの、どこの土を用いたもの、酸化焔で焼いたか還元焔で焼いたかなども「分る」ようになってくる。それもこれも、みな、根本に「分ける」「分れる」ことの認定が働いている。まさに「分別」なんです。およそ頭(マインド)の働きであります。
 次に「解」は、刀をつかって牛角を解く。包丁が牛を解くように、獣屍を捌く。解釈とはもともとこんな意味です。転じて、理解し、分解し、見解も出てきます。解剖もする。「繪」という生き物を解剖し、分解し、解釈するなど、美術史学者たちのむしろ常套であります。線一本の比較、色の比較などか

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ら、様式・作風を分解的に解決して行きます。数を積んで、基準作品と参考作品とがていねいに分別されますと、それを参考にいつか作者決定も推定も可能になってきます。
 それでもですね、その繪なら繪の、ほんとうの「よい・よくない」「どうよい・どうよくない」が「わかる」ことと、そんな「分」も「解」も、必ずしも直結してはいません。分別や解釈ではとても届かない不思議に微妙で神妙な魅力が、やはり藝術には在ると思っていた方が無難です。謙虚です。そのとおりなんです。
 「判」も、判断と書くぐらいで、刀で牛を両断・二分するという、もともとの意味があります。「判こ」と謂いますね、あれも、二分しておいたのを合わせる原義です。そして契約や婚姻の証拠にする。合符、割印、印判などとも謂う。審判、判決、判例、そして判断もする、あれかこれかと、分けたり合わせたり、そのうちに何か「わかる」わけです。
 ざっと以上のような按配でして、「分」も「解」も「判」も、バッサリ「わける」「わかれる」ところから「わかる」に至り着く文字であり、意義なわけでして、すると、その意味で「わかる」とは、あたかも「知る」の同義語か、とすら読めなくもない。知りたいことが知れたなら、それが「わかる」ということではないかと期待し、何が知りたいかを知るのが、「わかる」早道なんだと、つい考えがち、考えたくなりがちです。
 それもいいでしょう。では、何が「知りたい」のか、それを考えてみましょう。
 まず「知識」に属する面から申しますと、制作年代、制作年齢、時代背景や画壇事情、作者の出自・性格・私生活・家庭など、そうでしょう。題材や主題や動機もぜひ知りたい。また同時代の作者や作品、先行した作者や作品、また属した地域やグループや師弟関係なども、知れるなら知りたい。そればかり

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か、作者・作品の運・不運、受けた栄誉や批評や人気も知りたい。作者に独自の技法・工夫・傾向といったものも、有るならば知りたい。付随して生じた作者や作品に関する伝説・噂・評判にも興味がわきます。作品によっては、例えば儀軌のような規範如何(いかん)も知ってみたいものです。
 こういろんなことを「知っ」て初めて「わかる」のだとなりますと、「わかる」のもこれは容易ではない。調査や学習が、かなりの質と量とでついてまわります。だれにでも出来ることか、ちょっと心配です。
 それはさて措き、次に「好き・嫌い」「感性」といった面で「分」「解」「判」が関わる相手をみておきましょうか。順不同に、ちょっとゴチャゴチャしますけれども…。
 画面の選択――絹・紙・木・石・壁・襖・屏風・巻き物・陶磁器・柱・天井など――がまず問題です。色彩や線による表現のスタイルも当然ながら問題にします。画面からうけるムードや題材からくる作風も気にします。デフォルメの適・不適をはじめ、抽象と具象、レアルとイデアル、画面の湿度と乾度、描かれた物・事・人に対する好悪(こうお)も問題です。その環境、その形態・姿態、その大小・広狭も問題です。作品の大きさ、額縁の適・不適、表具・表装、なども無視できない要素になります。画中に混在した文字・識字などにも無関心ではおれません。いわゆる唐突感や違和感も、逆に実にしっくりした親和感も、大切な「わかる」「わかれ」になります。極端なことを言いますと、繪を見ているその人の機嫌のよしあしすら、バカにはならないものです。
 そうはいえ、今、列挙したような事柄をたとえ全部「知った」からとて、必ずしも繪が「わかった」わけじゃ、ない。少なくも「よい繪」かどうかの決め手になんか、なり切れない、なって来ないンじゃ、ないでしょうか。妥協してその辺で「わかった」気になってみるだけか、不満が残って「どうも、まだ、

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わからない。わかった気がしない」と首を横に振るしかないのではないかナ、と思うのです。大事なところは先送りされた感じなんですね、ただの「知識」ただの「好き・嫌い」を問題にしていますだけでは。あれもこれも、みな大事ではありながら、しかも核心に触れた気がしない。妙につまらないことで足踏みしている感じが残る。いくらあれこれと「知って」はみても、「わかった」わけでないことが「わかる」わけです。「知る」と「わかる」とは、イコールでは結べない。
 角度をすこし変えて、考えて参りましょう。
 いったい、どう考えてみましても、例えば、同じ対象を同時に数人が描いた場合を考えても、客観的視覚とか客観的表現とかが在るはずもない。形も色も、いつも表現者の生理と気稟(きひん)とに応じて、まちまちに把握されます。まさに「己(おの)が血汐」を以て独特に描くわけです。感覚と、とくに気稟とは、全体を比較しようが部分を比較しようが、関係なくいつも一貫しているものです、優れた表現者であればあるほど、そうなんです。
 それにもかかわらず、個人は、より大きな群に属しています。個人のスタイルは、目に見え、また目に見えずに、より広いスタイルに包まれています。流派の、国の、民族のスタイルが在って、しかも相互に浸透しあっています。異なる時代は異なるスタイルを生み、その時代の特性とて、民族の特性にさらに大きく包まれています。美術史家の研究は、こういう差別点と共通点とからなるべく具体的に出発しています。
 では出発して、どこへ到達するのか。差別点をより詳しく「わかる」ことへか。共通点をより質的に「わかる」ことへか。そこが問題なんです。
 如拙と永徳と光琳と応挙と鉄斎と松園とが出て、彼等の天才が、どの点で個々にどう異なっているか

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を示すのも大事なことです。しかし今、この際の問題として、私たちがより大事に知りたい・わかりたいのは、彼等が、まるで異なった道をとり異なった時代に生きながらも、如何にして同じ一つの成果、即ち、人の胸をうつ偉大な優秀な作品を生み出すに至ったのか、その創造の秘密に近づきたいということでありましょう。
 そこで、やや話頭を転じまして、いったい我々は、どんなふうに、どんな気持ちで、例えば繪画の名作・傑作、ないしは好きで堪らない作品の前で感動してきたのか、これを体験的に思い出してみようではありませんか。これまた思い出すまま、出逢いの実感を羅列してみますので、みなさんも、補ってご想像いただきたい。
 あたかも、強烈な瞬間風速に薙ぎ倒されたような感じをもったことがあります。知恩院所蔵の『早来迎(はやらいごう)』をみたときが、そうでした。息づまる、背筋がそよぐ、ぞくっとする、顫える、痺れる、肌寒くなる、などもしばしば感じます。私は、いい書に出逢いますと顫えます、膝の下から。顫えるのが先で、あぁいいんだこれは…と、後から納得することもある程です。巧さに驚く、色の美しさ、線のみごとさ、画面から湧き出すような輝きに、立ちすくむこともあります。脱力する、目から鱗が落ちた気がする、棒立ちになる、固まってしまう、声・言葉を失う、時のたつのを忘れる、他のものが消え失せたように見えも聞こえもしなくなる、我を忘れる、夢心地になる…、こういったことも何度も体験しています。そうかと思うと、思わず声を放っていることがあります。大声で人をその繪の前へ呼びたくなったりもします。笑ってしまうこともある。花が咲くように微笑を禁じがたいこともあれば、こわくなって、逃げ出したくなるという経験もあります。やたらそわそわと、わけ分らないことをブツブツ呟いていたりもします。足踏みしたり、ぽかんと口をあいていることもある。かと思うと、何かしらを身内から奪わ

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れた感じの時もあり、逆に、何かしらを身内深く与えられ付け加えられたと感じ、熱くなっている時もあります。
 こういう嬉しい思いや畏ろしいほどの思いをさせてくれました作品の、繪画だけ、ほんの何例かを挙げておくのも、みなさんのご納得に資するやも知れません。これまた順不同に思い出すまま挙げますが、さよう――源氏物語繪巻、地獄草子、智積院の桜楓図屏風、法隆寺の阿弥陀浄土変、当麻曼荼羅、正倉院の麻布菩薩、薬師寺の吉祥天、黄不動、青不動、法華寺や高野山の来迎図、仏涅槃図、慈恩大師図、切手になりました普賢菩薩図、信貴山縁起繪巻、伴大納言繪詞、平家納経、扇面法華経、伝毛松猿図、多くの蒔繪・衣裳、源頼朝像、明恵上人樹上座禅図、信海の不動明王図、幾つもの山越阿弥陀図、早来迎図、北野天神縁起繪巻、平治物語繪詞、駿牛図、白描の繪巻、一遍聖繪、随身庭騎繪、可翁の竹雀図、如拙の瓢鮎図、蛇足の山水図、雪舟の天橋立図・四季山水図・秋冬山水図、聚光院の永徳花鳥襖繪、等伯の松林図、柳橋図、狩野秀頼の遊楽図、山楽の白丁喧嘩図、光悦宗達の書画巻、宗達の風神雷神図・蓮池水禽図・松図襖繪、宮本二天の枯木鳴鵙(めいげき)図、久隅守景の納涼図、光琳の紅白梅図・燕子花図、応挙の雪松図・藤図、渡辺崋山の鷹見泉石像、蕪村の雪万家図、写楽・歌麿・北斎・広重などの趣向豊かな浮世繪などを挙げておきましょうか。出逢いは、むろん、もっともっとありました。幸せなことであり、そしてそのつど、先に申しましたような感動にふるえたり、しびれたりして来たわけです。
 時代も作者も作風も題材もちがう。しかも感動という一点では、みな深く感動させてもらっている。 繪に感動するとは、何ごとなのでしょう。そのとき私は何かが「わかって」感動したというのでしょうか。大きにそうであったのかも知れません。が、そうは言いながら、今も申しましたような感動の体験・経験に、さっきから通ってきましたあんなさまざまな「分別」「判断」「解釈」「知識」「情報」

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「予見」といったものは、実は、そうは、あんまり関与していなかった、関わってはいなかった、という気もしているのです。そんな手順や手続きを踏んでの感動なんかじゃ、むしろ、なかった。突如として、矢のように、光のように、快い温度のように、瞬時に浸透してきたという実感があるのです。強烈無比の受け身のこころよさ、宗教でいう法悦にちかい、恩寵にちかい、啓示を受けたのにちかい実感があるのですね。
 またまた余談じみますが、私が繪をみますとき、こんな区別を、思わず知らずに立てていることがあります。
 先ず、「繪に成っていない繪」これはもう拙劣なんで、よほどの例外も実は在るには在るのですけれども、ま、ふつう問題にならない。
 次に、「繪につくり上げた繪」意図や技巧の先行した繪ですね。無理やりにやっつけています。眼や手よりも、頭が先に立っていたり…。これが、しかし、圧倒的に多い。
 更に、「繪に成っている繪」です。ま、作風の差違を超えて、どこかへ確かに到達している繪ですね。これは数少ない。では、それでもう良いのか。満足なのか。私はまだ満足しないんです。
 「繪に成っていて、且つ、プラス・アルファの何か在る繪」を、いつも繪の前に立って私は求めているんです。想像もつかぬ瞬間風速のガーンと吹いて来る繪です。この「プラス・アルファの何か」としか言えない、言いえない価値高さによって、一瞬に、または徐々にでも、薙ぎ倒され、征服され、自分が深いところまで見露(あら)わされて行く感動を私は得てきたと思う、これからもぜひ得たいと思う、わけです。そう在ることが嬉しくて幸せなんです。
 繪を「みている」自分が、実は逆に繪に「みられてしまう」といった、逆転の体験があります。感

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動・感銘という体験は、そのように、巧くは言葉に仕切れない性質の精神の激しい揺れなのであり、また和みなのであり、さらに深まりなのですね。しかもなお、どんな感動も、やっぱり、「みる」という一点を通過して来ない限り、けっして実現しない。「みる」とは何ごとであるのかまだ「わから」ないけれども、それでもともかく「みる」から、感動する。同様に「聴く」から、感動する。「読む」から、感動する。時には単に「みえた」だけ、「聞こえた」だけでも感動します。
 しかし「みず」「聴かず」「読まず」に、美術や音楽や文学に感動する・感動できるということは、ありません。何も「知らず」「わからず」予断もなく先入見もなくても人は感動できますけれど、しかし繪なら繪の場合、「みる」こと抜きでは、どう感動したくてもできない、これは真実だと思われます。思われますから、なおさら、「みる」なら「みる」ことを、根源の体験としてよく考え直してみる必要が、ある。話の筋道は自然とそういうことになります。
 繪を「みる」と、簡単に言います。しかし、こう筋道を辿ってくれば来るほど、「みる」がそもそも簡単なことでは、ない。不動の絶対などといえた働きでも、ない。「みる」体験じたい、根から揺れていて、変わって行き、成長もし退化もし、凡化もし非凡化もし、知性化もし感性化もして行くもののようであります。
 繪を、純粋に「みる」無垢に「みる」、何らの先入主も予備知識も身構えもなしに繪を「みる」ということが、そもそも、必ずしも前提として約束されているわけでは、ない。事実問題として、そんなことは、ほぼ不可能なんですね。
 東京にも京都にも限りません、一般に都市・大都市では、繪を「みる」機会にかなり広範囲に恵まれています。またそれだけに事前の情報、例えば報道・宣伝やポスター・繪葉書などで、前もって、何ら

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か繪について「知らされ」てしまうことも多くなります。
 なにしろ図版と複製との時代です、現代は。世界中の秀作、傑作、名品、神品、逸品の多数が図版化され、いっそ「回避しがたい」予備知識として現代市民は「強いられ」ています。大公募展や小画廊個展や知名度のまだ低い現代・現在の画家・作品は別としましても、故人でかつ有名な画家や古典的な名画の場合ですと、今や洋の東西をとわず美術全集やポスターや図録で見知っている例が多い。関連の伝記や文献、芸術家小説なども多い。あまりに多い。そして結果として、複製図版や本などで先に「知った」画家や作品の本物を、美術館や美術展へ、画廊へあたかも「確認」しに行く、外国へまでも「確認」しに出かけて行く、といった一種の逆立ち現象が起きてしまっています。「みる」感動の前に、先に、知識や情報として「用意された関心」が、何となし先行しがちです。
 それでなくても、想像以上に我々は、繪を「観念的」にみようと身構えています。繪なる実作品を「みる」より前に、イメージという名の先入見で「不定な可能性」をさまざまに、暗々に、想像したり妄想したり要求したりしています。「みる」前からその繪やその画家への己(おの)が「立場」や「態度」を定めようとすら、気が動いています。むろん不正確で不安定で不定形な身構えなんですが、しかし情報や知識でウズウズしていがちです。
 そして、いよいよ、繪を実際に「みる」んですね。「み」て、そして特定し、限定しつつ、現実に繪を自分の前へ対象化します。充実化もします。大なり小なり、また深くも浅くも、先行していた不正確なイメージ=予断に対し、修正を加えて行きます。修正じたい一種創作的な行為となり、つまりは鑑賞行為となって精練され吟味される。言い換えれば、繰り返し「みる」という、内容の濃い体験を繪の前で重ねるわけです。繪が良いも良くないも、鑑賞を深めるには、鋭く深く丁寧に繰り返しよく画面を

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「みる」以外に道はない。その結果、つまり深く良く丁寧に繰り返し「みた」結果、あいまいだった予断より、遥かに良くて優れて忘れ難い作品が、霧が霽れるように確認されることもあり、逆に、飽きられ見忘れ見捨てられてしまう駄作も確認されて行きます。
 先にも挙げましたが私は、崋山作の『鷹見泉石像』が高校の頃から好きでした。しかし本物をみたわけでなく教科書の図版かなにかで見知っていただけでした、図版はただの墨版でしたが、とても凛としていて心惹く作品でした。そして東京へ出て来て、上野の博物館で初めて本物に出逢ったのです。ぎょっとしました。なんと、人物の衣裳は浅い空色をしていました。全体に淡くはあるが彩色の繪だったのです。不意打ちに遭った気分でしばらく棒立ちでした。ながい時間をかけて、じっと向き合っていました。予断をまず静かに洗い流してしまいたかった。それから作品じたいに自分の「眼」をむけて「みなおし」たかったのです。納得できました。これで良かった、あぁよかったと思いました。嬉しかった。霧が霽れたのです。繪が、本来の姿で私の前に在り私をみてくれていました。
 繪は、作品は、それぞれに「所伝」とでも言える「着物」を着込んでいます。そうした着物のような衣裳のような「外被」に依拠しながら、作品を、繪を「みて」いるということが、たいへん多い。時には所伝を鵜のみするあまり、「みる」前からもう感嘆していたり、感嘆しなくちゃと身構えてしまってるなんてことすら、あります。感嘆の声を上げよう、上げたいばっかりに「み」に行くんです。前評判の高い美術展などだと、つい、そうなる。『モナリザ』や『ミロのヴィーナス』の来た時などもそうでした。つまり眼で「みよう」としないというか、じぶんの眼で「みて」いないというか、むしろ先入主にひきずられ、「みる」前から「観念して」しまっているんです。名画なら名画の前で、久しい間に培われてきた解釈や批評を介して、それらをただ頼って、つまり他人の眼で「みて」いるということは、

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けっして珍しくないどころか、むしろそうでもなければ、繪は「みて」も「わかりっこない」ものだと、観念してしまっているんです。
 真に「みる」純粋無垢に自分自身の眼をもって「みる」なんてことは、当然のようで、実に実に難しくめったにない体験なんです。繪の上に、作品の上に、錆がふいたように他人の言葉がこびりついている。「みる」とは、そんな錆を、よく拭い取って「みる」ことなんでしょうが、実にこれが難しい。「みる」なんてことは、まったく単純な只の感覚の行使のようですが、それすら、観念・概念・先入主、つまり他人の賞賛や批判や解釈で錆びがちに出来ているんですね。
 しかしまた、錆びるも錆びないも、もともと、そんな先入主がまったく無しに「みる」単に純粋に感覚的に「みる」裸で「みる」などということが、実地に、実際に、出来るものなのかどうか、これまた容易には信じられないのが本来なんじゃないか。もうすこし、そこのところを、粘りづよく考えてみましょう。
 第一、美術作品を「みる」眼というのが、ほんとうに感覚的なんでしょうか。「みる」行為は、なるほど感覚的な単に行為であるでしょう、が、その「みる」を実現する「眼」が果たして単なる感覚器官かというと、そうであると同時に、それ以上に、人間的・人格的な意欲そのもの、とも言わねばなりません。大事なのは、そういう意味で「みる」を支えている「眼」「自分の眼」なのではないか。単に純粋な感覚なんて、現実には、在るようで無い、在りえない、こととも言える。そう思います。
 もしも繪画を、「単なる感覚的視覚の表現行為」に徹したものとみるならば、究極、ただ「線と色と」だけのいわゆる「純粋繪画」に極まってしまう。繪の歴史は、そこへ極まり着く歴史かのようにも、現に、見えないでもない。しかし必ずしもそうとも言い切れません。繪画から受ける感動についての反

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省が進んで来ています。抽象とかシュール・リアリズムの面白さの確認と同時に、久しい美術史の再検討を経つつ、繪画表現が体してきた具象的意味についての再認識も進んで来ているのです。
 さらに翻って思えば、近代・現代のいわゆる「純粋繪画」も、けっして単なる純粋視覚だけの産物なんかではない。それどころか歴史的・論理的に導かれた極めて「知的な構成物」なんですね、ピカソも、ブラックも、モンドリアンも、カンディンスキーにしましても。
 言葉で、純粋な感性の感覚のと簡単に謂えましても、そう言った瞬間からその感性にも感覚にも「知的斡旋」が生じています。思想や思索や観念が介入して来ています。それを拒絶はできませんし、できない以上は、その介入してきた思弁性・思想性・観念性を、感性が、感覚が、優位に活用し導入する構築や表現の効果へ、造型優位にうまく確かに引き入れるということが、何としても大切な「課題」となってまいります。これに負ければ、ただ、頭でっかちになってしまいます。
 で、ここで、存外にというより、非常にとハッキリ申しますが「盲点」になっているかも知れない、大事なことを一つ、指摘しておきたい。
 持論でもあるのです、が、私は、「読書」とふつう謂えるのは再読以降、二度め以降を謂うのだと。時間を隔ててであれ、少なくも二度以上「読む」のが「読書」なのであって、一度の「読み」で事の足るような、済むような作品はただの通過駅であり、それでは、ま、ヒマ潰しでしかないと。ヒマ潰しもけっこう、そういう簡単な読み物の在るのをけっして否認するものではありません。が、二度も三度も読み返さずにおれない、読み返させずにいない作品にわたしは出逢いたいし、作者として書きたい、と願っています。
 この感覚は、未知の土地への旅に譬えられます。一度訪れて、それだけで深い感動がないとはけっし

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て言いませんが、二度行き三度訪ねてますます魅力の増す、感銘も深まる旅がある。旅先がある。再訪、歴訪して深まる感激は、ちょうど『源氏物語』や『カラマゾフの兄弟』や『嵐が丘』などを繰り返し読んで覚える嬉しさに似ています。けっして単なる機械的な反復繰り返しではない、まさに、一期一会の繰り返しです。一度しか読まずに済ました本や作品しか知らない人は、ある意味で、たいへんな浪費を知らない間に重ねてきた、お気の毒な方だとすら思います、「感動」とても、育てるもの、深められるものなんですから。
 ま、同じことを言いたいわけですが、「繪をみる」のも、そうなんですね。「繪をみる」なんて一度きりの行為で十分と、つい思ってしまう。しかし錯覚ですね、それは。そう思いますよ。一度みて、二度みて、繰り返しみて、そして「みる」自分と一緒に育って行くものなんです、繪も。逆から言いますと、繰り返し繪を「みて」いるうちに育って行く自分や、感動というものが、あります。あり得ると人は昔から考えてきた。だから、すぐれた良い繪で身辺を飾り、その感化を得たいと考えて来た。書や画には、そういう働きがかなり期待されていたことは、実例に溢れています。
 さて、こうなるとですね、ちょっとこれまでの話をひっくり返すように聞こえるかも知れませんが、――とにかく言ってしまいますが――、いわゆる繪画鑑賞の「純粋さ」ということを縦(よ)し謂うと致しましても、必ずしも、美術史的批評や解釈の予備知識なしに、つまり知的先入主なしに、そんなものは一切無しに、ただもう自分の「眼」だけ「視覚」だけを頼んでひたすら「みる」のが「真実の鑑賞」だとは、限らない、ということになります。「無知識」で「みる」のが「純粋」で「良い」「みかた」などとは、必ずしも言えない。それどころか、「適切な知識」なしには、実際にはしばしば不十分にしか「みる」ことができないという点で、「読書」や「旅」と、「繪画鑑賞」とは実はよく似ているんです

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ね。
 読書に辞書は必要です、旅に地図があった方がいいように。繪の鑑賞にもそういった類の準備というか蓄えは、あって自然なんでありまして、無くてもいいのだとは、どこか不自然な頑固さになりましょう。
 ただここで大事なことは、「知識」が「感性」を引き摺って連れて歩くのではなく、育て深めた「感性」の豊かさに、「知識」があとからついて来る、貢献する、裏打ちをするということです。逆ではないのです。その意味でもやはり「みる」「自分の眼で、よくみる」「繰返し、みる」ことが、先、ことの初め、であるべきなのです。
 さて寄り道になりますやら、道順になるか、分かりませんけれども、ここで、「みる」行為を示すたくさんな漢字のなかでも、とくに代表的に多用されているものの意味を、まさぐってだけおきましょうか。
 何といっても「見る」でしょうね。この漢字には、跪いて「みる」意味、がある。「まみえる」と謂いますね、謁見や降伏の儀礼に臨む際の、その双方を、同時に想いうかべたいような語感がこの漢字には預けられています。「見る・見られる」の相対関係。相手にむかって霊的な、ときには肉的な交渉をもつ意味合いが、「見る」には含まれていると言われます。「あひ見てののちの心にくらぶれば」という百人一首のあの「あひ見て」など、まさに霊でも逢い、肉でも逢って、そして確かめ合った「愛の視覚」の表現です。「ながらへばまたこの頃やしのばれん憂しと見し世ぞいまは恋ひしき」の「見し世」も、もともと「世」は、世間や社会を意味する以前に「男女の深い仲」をいう意味でしたから、この「見し」にも、やはり霊的・肉的な交渉に結ばれ合っていた意味が添います。女を「見る」そして男に

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「見られる」のは、「見あらわす」つまり露見する、つまり残りなき関わりになることです。「見る」ことで「霊(本質)」が「見(あら)われ」る、そして征服と服従との関係のような、少なくも深く切り離せないほどの関係が、そこに現出する。「現に見て在る」「見在」が、即ち「現在」の関わりとなるわけです。「見る」という漢字には、そういう心的な構造関係が秘められていたんですね。
 次に「相(み)る」をみてみましょう、「あひ見ての」の「あひ」は愛でも逢ひでもありつつ、またこの「相ひ」でもありました。こういう含蓄の深さというか、他方では語彙の少なさによる「意味の相乗り」こそは日本語の大きな特徴なんですが、この「相」という漢字にはもともと「魂振り」ふうに、その生命の本質に迫って祝い頌(ほ)める意義が預けられてきました。相互に「みあう」ことで、交霊が可能になる。内在する本質の外にあらわれ出る、それが「みえ」て来る。そういう、やはり心的な相互性のつよい働きを示す文字です。そこから「相談」も可能になる、「宰相」といった政治の力も動きだす。「人相」「手相」「墓相」を「相(み)る」といったことにも意味が生じてくる。それもこれも、根本は「相見(あいまみ)える」わけです。
 では「視る」はどうか。「示す」扁はいわば「祭りの卓」を意味しています。「視る」には、神の降臨に立ち会うといった原意が預けられていました。心的という以上に神的な場面に生きた「みる」働きです。「幻視」「透視」などという。人間の「みる」感覚にことさら「視覚」という字をあててきた語感にも、なかなか遠い由来を感じてしまいますね。
 鑑賞の「鑑る」は、水盤の水に顔をうつして「みる」意味にはじまっています。「鏡鑑」という熟語が端的にそれを示しています。
 もう一つ、よく用いますが「観る」は、どうでしょうか。これには鳥の高くとびながら「みる」意義

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が古いのですね。鳥占いによる農耕儀礼に根差した「みる」なのでしょうが、分りよく謂えば、高くから「観望」する。転じて高楼や山頂から「観る」んです、「観望」しえた範囲を、対象を、呪的に支配するんです。それが「国見」でしょう。「高き屋にのぼりてみれば」の太古の天皇の歌にもその意義が含まれていましたし、「観察」にも「観光」にすらもこの原意は浸透していたはずです。

 さ、こう「みて」参りますと、どうも日本のと限ることなく漢字感覚の「みる」には、霊魂に根ざし神呪(しんじゆ)に添い寄った「人間と対象との力関係」が意味深くこめられて在る感じが掴めてきます。
 いま問題の「繪」を「みる」にしても、こうなると、「繪」と「魂」とが「相い見る」「相い見(まみ)える」つまり肝胆照らしあう関わりかと、察しをつけるしかなくなる。およそ人間の精神が、感性の豊饒を介して創造・創作した「作品」「造型」と相い見(まみ)える時の、また神自身の作品とも謂いうる「人」と「人」とが相い見(まみ)える時の、一つの根源的な「在りよう」、本質的な結ばれ・出逢いの「かたち」を示唆してやまないわけであります。「みる」とは、そういう創造的な大きな行為であるわけです。
 「分る」も「解る」も「判る」も、どちらかというと「肉=形=量」の問題のようですが、
 「見る」も「観る」も「視る」も「相る」も、どちらかというと「心=魂=質」の在りようを示しています。そしてそこに心的・霊的な「眼」が働いてくる。
 同じく「心」と謂いましても、むろんのこと、言葉である程度明晰に言い表せる心もあり、とうてい言い表せない心もあります。つまり言葉を拒む心、言葉では現れてこない、表し難い心があるものです。しかも、それぞれの心の表現にそれぞれの論理があり、論理の帰結としての表現も、時代により民族により個人の才能により、大いに異なって表れもし、また紛れもなく似通って表れてもきます。その種々相を、的確に、適切にとらえて、例えば「読む」例えば「みる」ということが言われるのでなければな

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らない。
 ましてこの日本の社会でありますと、例えば小説の場合にも、必ずしも全部なにもかも書き表したりしない、繪画の場合でも、必ずしもなにもかも描き表したりはしないという風儀が出来ています。小説や詩歌ならば書かずに表す=言う、繪画なら描かずに表す=みせる、という創作の態度や志向がある。よく知られています。余情、余白、余韻ないし含蓄とか暗示とかいった言葉で解説されています。「秘したる花」などとも謂います。
 もう一遍、さっきに告白しましたあんなような、作品・名作に感動しました際の在りようを思い返してみて下さいませんか。
 瞬時瞬発的にせよ漸(ぜん)々徐々にせよ、要するに「みる」私と作品との、二つの異なる魂と魂とが、「眼」というレンズを介して、相寄り、色と輪郭とを、ちょうどピントを重ね同じていくように一体化していく、そういう「感動」であったと思い起こすことができます。魂の色と色とが相寄り、似ていき、一つに成る。そういう感じなんですね。そして当然だろうと思いますが、これは人間関係とも根本において似ています。ウマが合う、ソリが合う。どこかで錯覚にも似ていますけれども、たいへん貴重な錯覚、愛そのもの、でもある。その貴重な錯覚を愛の名において分かち合える間柄を、譬えば「身内」と呼びましょうか、作品に、繪に、感動するというのは、「みる」人と作品とが「身内の間柄」に成った・成れた、ということなんじゃありませんか、譬えて謂うならば。
 ですから、或いは、しかしと謂うべきか、必ずしも客観性は、無い。成長しながら普遍化し共有化していけるタチの体験、つまりそれこそ好みを同じくし趣味を倶(とも)にするということでしょう。趣味体験とは、主観的には普遍性を主張しうる「不思議色をしたよろこび」なのですから。そして、この「人と作

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と」が一つに生きあい、また「人と人と」が同じよろこびを共有し倶(とも)にしていく過程で、知識や判断や批評の力がまこと猛烈に発揮されてくる。発揮されなければならない。それが関所かのように立ち塞がるとは申しません、しかし、体験に付き添うようにして、ややうしろから、深切に伴走して来るのだとは申し上げておきましょう。
 結論になりますかどうか、要するに「わかる」にとらわれ過ぎず、徹して「みる」を繰返して深切に「みる」ところからしか、いい体験は成らない、大事なのは自分の眼をしっかり作品に向けて「みて」からモノは、コトも、はじまるのだとということです。「みて」「わかれ」ば結構、「みて」必ずしも「わからなく」ても、実はいいのです。「わからなく」ても感動することがあり、感動を重ねていると、不思議と「わかって」くる。それが優れた藝術の生命力というものです。そのためにも一度や二度で「わからない」からと投げ出さず、「繰り返し」繪の前に立ってみる、文学や音楽の前にも身をおいてみる辛抱を、育てたいものです。
 ご静聴を、ありがとうございました。
           ――完――

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    私語の刻

「繪とせとら論叢」の初冊とした。論とはいうが、「猿の遠景」も「母の松園」も読んで楽しんでいただけよう。ことに「猿の遠景」では嬉しくも、かなしくも、中村真一郎さんのことが思い起こされる。この本を紅書房から出版したどれほど後日になるか、文壇の或る会でふっと顔が合ったとき、中村さんは顔を近づけるようにして、「猿の遠景は、佳い作品だったねえ、みごとでした。ああいう風に書きたいなあ、あれ好きだったなあ」と、繰り返された。嬉しかった。
 ところが、あれで旬日も経ぬうち、中村真一郎の訃報に接したのである。仰天した。死なれたのである。胸ひしがれて、かなしかった。
 中村さんは、わたしが太宰治賞を貰った当日の二次会を仕切って下さった大先輩作家であり、受賞作「清経入水」を、「ぼくはああいうのが好きなんだよ」と励まして下さった。
 もう一度褒めて貰ったことがある。源氏物語「桐壺」の冒頭を、なにかの場所で今日の京言葉にシンラツに翻訳しておいたのが、お気に召したようであった。源氏物語の理解にある種の切り口を示したものと思って下さったのであろうか。
 わたしは、ひたすら気の小さい遠慮から、先輩作家や先生方ともあまりお話ししたことがない。作品を見て戴ければいいと、だいたい、常に遠慮して、一緒にいても黙って話を聴いてきた。中国へ井上靖夫妻や清岡卓行さん辻邦生さんらと旅をしたときも当然のようにいつも耳と眼だけを

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開けていた。すこし話した万がいいよと大岡信さんに耳打ちされた程であった。
 中村さんとも、最初と最期だけで、何度もお顔は見ていながら頭を下げるぐらいで済んでしまった。不思議な深いご縁に「終始」したと、懐かしく、惜しまれる。「猿の遠景」は、もともと自愛・自負のエッセイであったのが、御蔭で忘れがたい仕事になった。
 上村松園とは、子供の頃からのお馴染みであり、松園を書いた小説「閏秀」はこれも今は亡き吉田健一氏が朝日の文芸時評でまるまる一回分の全面を用いて賞賛して戴いた思い出の作、或る意味でこの世界にしっかり着地したと見られた記念作だが、そうした松園思慕と批評を朝日新聞社の厚意で十分の枚数をつかって纏めた観想が、この「母の松園」になった。話しに来た東工大卒業生の一人に話すという、ウソではない趣向を用いて、堅苦しくならぬよう意を用いた。
 球表面に「繪」は描けるかとは、極く若くからの実学的な課題として持ち越してきた提議であり、挑発であり、美学藝術学の学生時代の悪文習性が抜けていない、就職間もない昔の懸命の議論だが、誰にでもこれは追試的に是非の出来る、繪画論として根底にふれた問題・課題であると今も考えている。未開拓の繪画の場として、まだ「球の全表面」と「闇」が残されていると大学の頃に考えていた。今や「闇」はもう画面としてハイテクの領分で可能になっているし、花火のような試みは昔からある。しかし絵画が「面」を表現の場にするといっても、平面と準平面だけが使い尽くされていて、「球の全表面」が一つのタブローに成り得た例も、成そうとした試みも世界中に無いのであるが、それで良いのかというのが、私の挑発なのである。
「みる」と「わかる」という、誰しもが「繪」を前にしてぶつかる二つの関所についても、山種美術館での講演で、私なりの見当をつけてみた。これも何方(どなた)でも自身の問題として是非して戴け

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るフツーの難問題である。面白がってお考え戴きたい。
 繪の原稿は、極力図版が入らなくても分かるように文章を書こうと努めているものの、今回の「猿図」もまた松園の「天保歌妓」も、やはり欲しかった。別刷りするのは費用的に限界なので、本紙と共紙の粗雑な製版を余儀なくされたことを、お許し願いたい。伝毛松「猿図」は国立東京博物館で展示の機会がかならず有る。図版とは比べようなく佳いものです。

 日本ペンクラブで四期めの理事を務めよということになり、強く希望したとおり「電子メディア委員会」は期待の山田健太新委員長に譲り渡して、わたしは「ペン電子文藝館」館長として更なる充実に専念することとなった。言い出しッペの責任がある、もう少し頑張ってもみたかった。いちはやく井上ひさし新会長から、三好徹前副会長からも、内示があった。新委員に多めに加わってもらい、より良い運営と充実を私自身が楽しみにしている。前会長梅原猛氏の新作戯曲「王様と恐竜」が勢い猛に読まれ歓迎されている。井上新会長の小説「あしたの朝の蝉」もしみじみとした秀作であり、文藝家協会理事長黒井千次氏からも「ネネネが来る」という作風豊かな佳編が寄せられている。島崎藤村初代会長は小説「嵐」に加え、若菜集以下の詩集から愛詞詩選を掲載し、冒頭に有名な『藤村詩集』序も掲げて、初代会長青春の雄志に今一度耳を傾けた。

  遂に新しき詩歌の時は来りぬ。
  そはうつくしき曙のごとくなりき。うらわかき想像は長き眠りより覚めて、民俗の言葉を飾れり。

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  詩歌は静かなるところにて思ひ起したる感動なりとかや。げにわが歌ぞおぞき苦闘の告白なる。
  誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。
  思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に励まされて、われも身と心とを救ひしなり。                      (抄出)
 現会員が力を尽くし、黙阿弥以降、紅露逍鴎、漱石・一葉より鏡花、秋聲、谷崎、また吉川英治や、太宰治、梶井基次郎等に到る多く先達の力作に伍して、どういう自負の作を「ペン電子文藝館」上にながく刻印し愛読されて行くか、これは「現代」というものが、「歴史」に残して行く紛れもない足跡であり、また責務であるのかも知れない。現在掲載、三百人。
 文藝作品を発信しているサイトは、他にも幾つかある。が、その中で、「ペン電子文藝館」は「日本ペンクラブ」という日本を代表し、国際ペンにも繋がる文筆団体の、会員・物故会員らの作品を主に掲載・発信し、文学・文藝の「意思と実質」を示している。そこに大なる特色があり、藤村以下、白鳥・直哉・川端ら歴代会長がすべて作品を掲示し、現役・物故の作家作品もその多くが意図して「招待」され選定・掲示されているというような例は、他に皆無な筈である。先にも謂う、最新刊の中から表題作を著者自身の強い意向で出稿された梅原猛氏の「王様と恐竜」など、他の類似サイトに出るわけがない。こういう鮮明な特色と強みとを、今後もつよく打ち出し、益々読者に喜んでもらえるようにして行きたい。

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東工大「作家」教授の幸福  湖の本エッセイ 27
2003年3月14日 第1版発行○c
URL http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/
定価1900円
送料 100円
著者 秦 恒平(はたこうへい)
発行者 秦 宏一(はたひろかず)
〒202-0004 保谷市下保谷2-8-28
発行所「湖(うみ)の本」版元
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印2つ:「湖之本」木山蕃 刻、 「秦」大西羽岳 刻

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  詩歌は静かなるところにて思ひ起したる感動なりとかや。げにわが歌ぞおぞき苦闘の告白なる。
  誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。
  思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に励まされて、われも身と心とを救ひしなり。                      (抄出)
 現会員が力を尽くし、黙阿弥以降、紅露逍鴎、漱石・一葉より鏡花、秋聲、谷崎、また吉川英治や、太宰治、梶井基次郎等に到る多く先達の力作に伍して、どういう自負の作を「ペン電子文藝館」上にながく刻印し愛読されて行くか、これは「現代」というものが、「歴史」に残して行く紛れもない足跡であり、また責務であるのかも知れない。現在掲載、三百人。
 文藝作品を発信しているサイトは、他にも幾つかある。が、その中で、「ペン電子文藝館」は「日本ペンクラブ」という日本を代表し、国際ペンにも繋がる文筆団体の、会員・物故会員らの作品を主に掲載・発信し、文学・文藝の「意思と実質」を示している。そこに大なる特色があり、藤村以下、白鳥・直哉・川端ら歴代会長がすべて作品を掲示し、現役・物故の作家作品もその多くが意図して「招待」され選定・掲示されているというような例は、他に皆無な筈である。先にも謂う、最新刊の中から表題作を著者自身の強い意向で出稿された梅原猛氏の「王様と恐竜」など、他の類似サイトに出るわけがない。こういう鮮明な特色と強みとを、今後もつよく打ち出し、益々読者に喜んでもらえるようにして行きたい。

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『秦恒平・湖(うみ)の本』創作・エッセイ創刊17年「75」巻分一覧
*創作シリーズ (付・各巻跋跋「作品の後に」)
1 清経入水(太宰治賞受賞・定本)(付・創刊の弁・校異)
   第3刷 2000円 1986/6/19創刊
2 こヽろ(夏目漱石原作・書下し戯曲)第2刷 2000円
3 秘色(ひそく)・三輪山(第2刷) 2000円
4 糸瓜と木魚(第2刷) 2000円
5 蝶の皿・青井戸・隠沼(こもりぬ) 1300円
6 廬山・華厳・マウドガリヤーヤナの旅 1300円
7 墨牡丹(上) 1300円
8 墨牡丹(下・百枚追加完結) 1300円
9 慈子(上)(付・野呂芳男『慈子』を読む) 1300円
10 慈子(あつこ)(下)・月皓く・底冷え 1300円
11 畜生塚・初恋 1300円
12 閨秀・繪巻(付・吉田健一『閨秀』を読む) 1300円
13 春蚓秋蛇(鯛・於菊・孫次郎・露の世) 1300円
14 みごもりの湖(上) 1300円
15 みごもりの湖(中) 1300円
16 みごもりの湖(下)・此の世・少女(処女作) 1300円
17 加賀少納言・或る雲隠れ考・源氏物語の本筋 1300円
18 風の奏で−平家擬記−(上) 1300円
19 風の奏で−寂光平家−(下) 1300円
20 隠水の・祇園の子・余霞楼・松と豆本 1300円
21 四度の瀧・鷺 1300円
22 冬祭り(上 増頁) 1800円
23 冬祭り(中 増頁) 1800円
24 冬集り(下 増頁) 1800円
25 秋萩帖(上) 1500円
26 秋萩帖(下)・夕顔・月の定家・虚像と実像 1500円
27 誘惑(付・羽生清インタビュー) 1500円
28 罪はわが前に(上)(付・笠原伸夫『秦恒平の美の原質』)
29 罪はわか前に(中)(付・林富士馬対談『事実と小説』)
30 罪はわが前に(下)・或る折臂翁(処女作)各1500円
31 少年(歌集)・母と「少年」と 1500円
32 北の時代=最上徳内(上 増頁) 1900円
33 北の時代=最上徳内(中 増頁) 1900円
34 北の時代=最上徳内(下 増頁) 1900円
35 あやつり春風馬堤曲(書下ろし) 1900円
36 修羅・七曜 (通算第50巻記念 挿繪) 1900円
37 親指のマリア(上)  1900円
38 親指のマリア(中)  1900円
39 親指のマリア(下 口繪カラー)  1900円
40 迷走三部作(上)  1900円
41 迷走三部作(下)  1900円
42 丹波・姑・蛇(客愁一の一)  1900円
43 もらひ子(客愁一の二)  1900円
44 早春(客愁一の三) 1900円 2000/8/31刊
45 無明・ディアコニス=寒いテラス(創刊15年記念〕
46 懸想猿(正・続 書下しシナリオ)(通算70巻記念)
47 なよたけのかぐやひめ他 1900円
    創刊16年記念   2002/6/19刊
*エッセイシリーズ(付・各巻跋「私語の刻」)
1 蘇我殿幻想・消えたかタケル(付・エッセイ創刊の弁)
    1300円 1989/8/31創刊
2 花と風・隠国(こもりく)・翳の庭 1900円
3 手さぐり日本−「手」の思索− 1900円
4 茶ノ道廃ルベシ 1900円
5 京言葉と女文化・京のわる口 1900円
6 神と玩具との間(上)−昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻
7 神と玩具との間(中) 1900円
8 神と玩具との間(下)・谷崎感想11篇 1900円
9 洛東巷談−京とあした(上) 1900円
10 洛東巷談−京とあした(下)・京都私情 1900円
11 歌って、何!(歌集『少年』と同時刊行 1900円)
12 中世の美術と美学(上)(女文化の終焉・上)1900円
13 中世の美術と美学(中)(女文化の終焉下・趣向と自然上〕
14 中世の美術と美学(下)(趣向と自然―下−・光悦と宗達)
15 谷崎潤一郎を読む−夢の浮橋・蘆刈・春琴抄 1900円
16 死なれて・死なせて 1900円
17 漱石「心」の問題 1900円
18 中世と中世人(一)―中世文化の源流 1900円
19 中世と中世人(二)−日本史との出会い 1900円
20 死から死へ (倍大)1900円
21 日本語にっぽん事情 1900円 (通算第65巻記念)
22 能の平家物語・能16篇 1900円 (口繪カラー)
23 青春短歌大学(上) 1900円 2001/9/20刊
24 おもしろや焼物・やきもの九州を論ず 1900円
25 私の私・知識人の言葉と責任他 1900円
26 春は、あけぼの・桐壺と中君他 1900円
27 東工大「作家」教授の幸福 1900円
28 猿の遠景・母の松園他 1900円 2003/6/19刊

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猿の遠景・母の松園他  湖の本エッセイ 28
2003年6月19日 第1版発行○c
URL http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/
定価1900円
送料 100円
著者 秦 恒平(はたこうへい)
発行者 秦 宏一(はたひろかず)
〒202-0004 西東京市下保谷2-8-28
発行所「湖(うみ)の本」版元
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印刷・製本 凸版印刷株式会社 落丁本・乱丁本はお取替いたします。

印2つ:「湖之本」木山蕃 刻、 「秦」大西羽岳 刻

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秦恒平の市販エッセイ
『花と風』評論集 * 筑摩書房 昭和47・9
『女文化の終焉―十二世紀美術論―』長編評論 * 美術出版社 昭和48・5
『手さぐり日本―「手」の思案―』長編評論 * 玉川大学出版部 昭和50・3
『趣向と自然―中世美術論―』長編評論 * 古川書房 昭和50・3
『日本やきもの紀行』紀行 * 平凡社 昭和51・3
『優る花なき』随筆集 ダイヤモンド社 昭和51・12
『神と玩具との間―昭和初期の谷崎潤一郎―』長編評論 * 六興出版 昭和52・4
『梁塵秘抄』(NHKブックス) 日本放送出版協会 昭和53・5
『中世と中世人』評論集 * 平凡社 昭和51・3
『顔と首』評論集 小沢書店 昭和53・12
『牛は牛づれ』随筆集 小沢書店 昭和54・3
『日本史との出会い』(ちくま少年図書館)* 筑摩書房 昭和54・8
『京あすあさって』随筆集 * 北洋社→講談社 昭和54・12
『極限の恋』対談集 出帆新社 昭和55・9
『古典愛読』(中公新書) 中央公論社 昭和56・10
『茶ノ道廃ルベシ』長編評論 * 講談社 昭和57・1
『面白い話』随筆集 法蔵館 昭和57・6
『閑吟集』(NHKブックス) 日本放送出版協会 昭和57・11
『春は、あけぼの』評論集 創知社 昭和59・1
『からだ言葉の本』評論と辞典 筑摩書房 昭和59・3
『洛東巷談・京とあした』長編評論 * 朝日新聞社 昭和60・2
『愛と友情の歌』詞華鑑賞 講談社 昭和60・9
『京と、はんなり』随筆集 創知社 昭和60・9
『繪とせとら論叢』評論集 創知社 昭和61・2
『京のわる口』随筆集 * 平凡社 昭和61・9
『秦恒平の百人一首』私判と小説 平凡社 昭和62・11
『茶も、ありげに』随筆集 淡交社 昭和63・10
『谷崎潤一郎』筑摩叢書 * 筑摩書房 平成1・1
『京都感覚』評論集 筑摩書房 平成1・2
『一文字日本史』長編評論 平凡社 平成1・6            
『美の回廊』評論集 紅書房 平成2・12
『死なれて・死なせて』(死の文化叢書)* 弘文堂 平成4・3
『名作の戯れ―「春琴抄」「こころ」の真実―』評論集 * 三省堂 平成5・4 
『日本語にっぽん事情』随筆集 * 創知社 6・7
『青春短歌大学』講義録 * 平凡社 7・3
『京都、上げたり下げたり』随筆集 新刊 清流出版 7・5
『作家の批評』評論集 新刊 清水書院 9・2
『猿の遠景』美術評論集 新刊 紅書房 9・5
『東工大「作家」教授の幸福』随筆集 平凡社 9・7
『能の平家物語』長編評論 * 朝日ソノラマ 11・11
『元気に老い、自然に死ぬ』山折哲雄氏と対談 春秋社 13・10
『からだ言葉・こころ言葉』評論構成(近刊) 三省堂14・10
*印は、「湖の本エッセイ」として再刊されています。

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