電子版 秦恒平・湖の本 エッセイ26
「春は、あけぼの ・ 桐壺更衣と宇治中君」
校正未了
目 次
平安女文化の素質
春は、あけぼの
わたしの枕草子 参考・第一段
春は、あけぼの (放送)
一つな落としそ
いはでおもふぞ
桐壺更衣と宇治中君
野分─死なれ・死なせた源氏物語
桐壺と中君─源氏物語の美しい命脈 (講演)
源氏物語への旅
平安女文化の素質
『御所の四季』一九八五年十月京都書院刊 所収
平安時代を代表する人物は…といった質問に答えるなど、もともと無理な話なのだが、押して答えよと迫られて、もし数人あげてもいいのだったら、誰でも安んじて紫式部や清少納言の名を口にするだろう。この二人の名など、ほんとうは一等先に思い浮かべているのだが、いきなり女の名が先というのでは、へんに見識がないようで遠慮をしていたのだ。
この、見識がないようでという所を別の言葉で言い直すと、『源氏物語』や『枕草子』で代表される「文化」的な方面を、「政治」や「社会・経済」的な方面より先立ててはマズかろう…という遠慮の気味でもあっただろう。で、ウーンと考えこんでとにかく桓武天皇、藤原道長、白河法皇などの名を思い出す人は思い出すのだろうが、さて今となっては、も一つピンと来ないというのが、お互い、実感である。
今となっては……という所は微妙で、どうしても政治的な重みは時代を経て軽く遠く疎いものになって行く。そもそも今挙げた、三人で政治らしい事を熱心に勤めたのは、結局は桓武天皇だけであり、それに、この人がなくて「平安時代」など存在しなかったという意味でも忘れるわけには行くまい。もし私なら、藤原良房・基経父子と菅原道真とをさらに挙げておきたい気がする。先の二人は律令の基本を根から揺るがす摂政関白政治を時代に導き入れ、「藤原」時代を現出してしまった。道真は遣唐使廃止をつよく進言して、いわば「和風」時代を決定づけた。同じく平安時代とはいいつつも、実は、良房・基経や道真以前は、唐に学んだ律令体制による曲りなりにも天皇親政の、いわ「平安王政」だったし、以後は、それと区別する意味でのいわゆる「平安王朝」であった。内実は「藤原・和風」時代であった。
ふつう平安時代というと、この「藤原・和風時代」を人はイメージしている。だから紫式部や清少納言の名をためらいなく思い出す。その限りでは正解とすべきだろう。だから、また、私が「藤原・和風時代」は「女文化」の時代だったというと、それは「女」が主導の文化時代だったように早合点もされかねない。
幸か不幸か女性一般が男性をおさえて時代をリードできた歴史は、日本には実在していない。アマテラスが女神か男神かも神話の昔から異説があり、卑弥乎の昔も女帝の昔でも、けっしてアマゾンの時代ではなかった。日本の十
- 十二世紀の貴族文化を文化をたとえ「女文化」とは規定できても、それは「女」という性の実質的優位をなんら意味していない。皮肉にいえばそういう時代を「男」が導き認め楽しんだという意味で、やはり「男」の掌の上で花咲いた文化であり社会であるという事になる。紫式部や清少納言も、そういう花花のなかの大輪の名花であったに過ぎない。
この時代に「伊勢物語」「うつほ物語」「落窪物語」から「源氏物語」を経て「夜の寝覚」「浜松中納言物語」「狭衣物語」「住吉物語」「とりかへばや物語」「松浦宮物語」などが綺羅星のようにならんで、そのヒロインたちの悉くが男主人公のまさしくレイプ=強姦により女にされていることを、無惨ではあるが、とくと心得ておくと分かりが早いであろう。
「藤原・和風時代」のそういう女文化の真実最初の代表者は、むしろ男の紀貫之であったろう。まず彼は『古今和歌集』の代表撰者であったが、この女歌と見られていた「和歌」の道を公然と力強く押し開いたことで、日本の以後の美意識と創作の方向は、ほぼ決定された。これなくて紫式部や清少納言の才能は開花しえなかったであろう。また貫之はみずからを女の身になぞらえ、女の文字即ちひらがなを駆使して『土佐日記』を書いた。ちいさな類例を措けば、ひらがなを以てして人が自身の内面を把握し表現するといった試みは、貫之の天才と批評精神をまってはじめて可能になり、その後に続く女日記や女物語の続出に豊かに広い道を開くことになったと言える。言い切れるだろう。
それだけではなかった。貫之は、ひらがなで『土佐日記』を書き、また『古今和歌集』の「序」を書いたように、みごとな「かな文字」の書き手であった。その技量が小野道風や藤原行成へ流れて行った。思えばあの美しい「かな文字」の線の流れに籠められた時空の「間」が、和歌や女日記や女物語の、また日ごと夜ごとの恋文や消息の韻律や文体に、また日常の物言いにどれだけ深刻な感化を与えていたことか。さらに平安絵画や彫刻の優美な造形にどれほどかな文字の曲線美が豊かな感化を及ぼしていたことか。
いわば「女」に傾き「女」に身を寄せ「女」のもて遊びとして「男」が創意したもの、「和歌」「日記」「物語」みな歴史的に眺めれば、そうなのであった。模範、手本だけを与えてあとは「女」の才能にまかせ、そして「男」が楽しんだと言っても、事実、言い過ぎでは無い。あえて附言して置くが紀貫之は、どこかしらであの『竹取物語』の登場とも気脈を繋いでいたかも知れないのである。取材の力に優れた紫式部が、「絵合」の巻に紀貫之の筆になる『竹取物語』の絵巻を登場させたいわば典拠の存在が気に掛かるからである。
それはさて措くも、たしかに、歌合せ、絵合せ、香合せのような遊びも、家具調度も、絵巻や持経など婚礼道具も、衣裳も、恋文や巻物に用いる紙も、武具ですらも、仏像仏画の像容や様式すらも、「女」の好み、「女」の目、「女」の付合いのなかで洗練の度を加えて行った。「女」は社会的に明らかな差別を受けていたにかかわらず、そういう「女」をことさらもてはやす感じに、「藤原・和風時代」の「男」たちは「女文化」に政治や経済を貢いだのである。そういう男たちの露骨な姿は、清少納言の『枕草子』に、数え切れぬほどいきいきと描きだされている。清少納言自身は、厳しく言えば、そういう男どもの目からは使い捨ての女の一人に過ぎなかったのである。彼女のあわれな末路を面倒みてやった一人の男の名も、記録されてなどいない。
幸か不幸か、平安の「女文化」とは男の掌の上で女の一切が開花した文化の意味である。陰に陽に女の性シンボルヘ、男がはっきり支配的に狙いを定めていた文化である。そう理解して平安時代四百年の推移を眺めてみると、社会的にも文化的にも実に多くがはっきり目に見えてくる。同時に、今もなお日本が「女文化」の時代を引摺っているのが見えてくる。「千年一日、最敬礼で男が笑う女文化」なのであり、それが「京都」の文化の根の素質なのだ。
春は、あけぼの
わたしの枕草子 参考・第一段「NHKカセット枕草子」一九八五年九月十五日刊
春は、あけぼの 放送書下し 「NHKラジオ」一九七九年八月 後に、創知社刊
一つな落としそ 「NHKカセット枕草子」一九八五年九月十五日発売
いはでおもふぞ 「現代語訳日本の古典・枕草子」月報一九八○年二月学研刊
わたしの枕草子
『枕草子』は創意と発見の書である。今どきの分かりいい言葉を使えば、オリジナルである。たとえば名高い『徒然草』をまず読んで大いに感心して、そのあと『枕草子』を読んでみて、おやおやと思う。あれあれと思う。兼好の思索と構想もまたオリジナルに優れたものだが、なお多くをこの平安時代の『枕草子』に負うている。少なくも取材という形で学んである。
「春は、あけぼの」という巻頭の提唱は、古今に冠絶したこの随筆文学を象徴する、古来極め付けとされている。『万葉集』にも『古今集』にさえも、「春は、あけぼの」という美意識は表現されていない。昔の日本が、何かにつけお手本にした中国にも、「春は、あけぼの」という把握と表現は無かったそうである。なるほど、無くてもいい詰まらないものなら、それは無くて当然、無い方がいい。しかし、『枕草子』がはじめて「春は、あけぼの」と打ち出したその時から、この提唱はいわばすべて日本人の心にすぐれて美しく深く落着き、誰一人これにケチを付けた者はいなかったのである。ありがたいとは、文字どおり、こういう事をこそ言うのではなかろうか。
『源氏物語』と並び称されてきた『枕草子』であるが、同じく古典中の古典として尊重されていながら、ともに大部のものではあり、必ずしも名ほどには広く読まれてきたとは思われない。『枕草子』を、通して読みあげたような人は、ことに一般の読者には極めて稀というしかなく、またそれだけに「こういうもの」とただ通念に頼んでイメージしている人が、数限りなく多い。ところがその「通念」なるものが学者の間でさえ容易に定まらず、喧嘩沙汰にちかいまでゴタゴタをつづけているの.が、『枕草子』学であるらしい。
まず本文が容易に定まらない。次に成立の現場が容易に再現できない。およそ大別して三、四種類ほどの差のある内容を含んでいる。学者は、「類想的」とか「随想的」とか「回想的」とかいろんな呼びかたで分類はしてみせるのだが、何故に、そんな一読して表現の異なる内容が順序なく入り混じることになったかといった事の説明は、いっこう出来ていない。しかし我々読者は、そういう事も知りたい。もし定かに知ることが今ぶん不可能であるなら、それならば自分で、あたう限りの想像を加えて読む自由も読者は持っている。そういう事になる。読書に、たとえ礼節は要しても拘束や羈絆があっていい道理はないのだから。
私が、NHKラジオの古典講読に『枕草子』をと勧められた時、反射的に上のような事を思った。古典の研究者ではないが、幼来の熱心な愛読者ではある。繰り返し読むなかから自分なりの疑問やそれに対する回答もえて来ている。一人の「作家」として語る以上、率直に思いどおり、かつ誠実にその愛読体験を通して話してみたい。そう考えそう用意して、昭和五十四年(一九七九)七月二十六日から八月三日までに九時間全部の録音を終え、八月五日の日曜日から日曜日ごとに九回の放送が始まった。同じ頃、私は学習研究社版『日本の古典』シリーズで『枕草子』の現代語訳をほぼ仕上げ或る程度の自信も持っていたので、放送にもそれを多分に利用したのは、むろんである。
私の『枕草子』観は、今度新たに添えた巻末の「解説」を参照願いたい。
昭和六十年(一九八五)七月二十七日 娘朝日子の誕生日に 秦 恒平
参考 枕草子 第一段
〈三巻本〉
春は、あけぼの。
やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、
紫だちたる雲の、細くたなびきたる。
夏は、夜。
月のころは、さらなり。
闇もなほ。
螢のおほく飛びちがひたる、
また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。
雨など降るも、をかし。
秋は、夕ぐれ。
夕日のさして、山のはいと近うなりたるに、
烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ、三つなど、飛びいそぐさへ、あはれなり。
まいて、雁などの列ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。
日入りはてて、
風のおと、虫の音など、はたいふべきにあらず。
冬は、つとめて。
雪の降りたるは、いふべきにもあらず。
霜のいと白きも。
また、さらでもいと寒きに、
火などいそぎおこして、炭もてわたるも、いとつきづきし。
昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、
火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。
〈能因本〜三条西家旧蔵本〉
春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
夏はよる。月の比はさらなり、やみも猶ほたるとびちがひたる。雨などのふるさへをかし。
秋は夕暮。夕日花やかにさして山ぎはいとちかくなりたるに、からすのねどころへ行くとて、みつよつふたつなど、とびゆくさへあはれなり。まして雁などのつらねたるが、いとちひさくみゆる、いとをかし。日いりはてて、風の音、虫の音など。
冬はつとめて。雪のふりたるはいふべきにもあらず。霜などのいとしろく、又さらでもいとさむきに、火などいそぎおこして、すみもてわたるも、いとつきつきし。ひるになりて、ぬるくゆるびもて行けば、すびつ、火をけの火も、しろきはいがちになりぬるはわろし。
〈前田家本〉
はるはあけぼの。そらはいたくかすみたるに、やうやうしろくなりゆくやまぎはの、すこしづつあかみて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
夏はよる。月のころはさらなり、やみもほたるのほそくとびちがひたる。またただひとつふたつなどほのかにうちひかりてゆくもをかし。あめなどのふるさへをかし。
秋はゆふぐれ。ゆふひのきはやかにさして山のはいとちかくなりたるに、からすのねにゆくとて、三つ四つ二つ三つなど、とびゆくさへあはれなり。ましてかりなどのつらねたるが、いとちひさくみゆる、をかし。日のいりはてて、かぜのおと、むしのねなど、はたいふべきにあらずめでたし。
冬はつとめて。雪のふりたるはいふべきならず。しもなどのいとしろく、またさらでもいとさむきに、ひなどいそぎおこし、すみなどもてわたるも、つきつきし。ひるになりて、やうやうぬるくゆるびもてゆけば、いきもきえ、すびつ、ひをけも、しろきはいがちにきえなりぬるはわろし。
〈堺本〉
春はあけぼのの空は、いたくかすみたるに、やうやう白くなり行く山のはの、すこしづつあかみて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたるもいとをかし。
夏はよる。月の比はさらなり、ねやもなほ螢おほく飛びちがひたる。又、ただひとつふたつなどほのかにうちひかりて行くもいとをかし。雨ののどやかにふりそへたるさへこそをかしけれ。
秋は夕暮。ゆふ日のきはやかにさして山のはちかくなりたるに、烏のねにゆく三つ四つふたつみつなど、飛び行くもあはれなり。まして雁のおほく飛びつれたる、いとちひさくみゆるは、いとをかし。日入りはててのち、風のおと、虫の声などは、いふべきにもあらずめでたし。
冬はつとめて。雪の降りたるにはさらにもいはず。霜のいと白きも、又さらねどいとさむきに、火などいそぎおこして、すみもてありきなどするみるも、いとつきづきし。ひるになり、ぬれのやうやうぬるくゆるいもていにて、雪も消え、すびつ、火をけの火も、しろきはいがちになりぬればわろし。
春は、あけぼの
一
枕草子といえば、古典のなかの古典。書かれた時代もほぼ同じころの源氏物語とならんで、名前だけは知らぬという人がない。
それと同じに、源氏物語の紫式部とならんで枕草子の清少納言という、つまり作者の名前も知らぬ人はないくらい、あまりにも有名です。
富士山を知らぬ日本人は、いない。名高い、日本のシンボルのような山です。ところがその富士山に登った人が、どれくらい有るでしょう。これは少い──けっして多くはない。
源氏物語も枕草子も富士山の名高さに勝るとも劣らないけれど、ほんとうに読んでいる方は少いですね。せいぜい学校時代にごく一部分を習った方が、それさえ、そう多くないはずです。
源氏物語ですと、まだ、谷崎潤一郎をはじめ何人かのすぐれた文学者によるよく出来た現代語訳が行われていますので、そのほうで読んだ方が、かなりの人数いらっしゃるでしょう。しかし、枕草子となりますと、従来、現代語訳がまるで無かったというのではありませんが、与謝野晶子の、谷崎の、源氏物語といった上出来の現代語訳はまず無いも同然でしたから、いきおい原文を、註釈つきの、かなり専門的なにおいのする本で読まねばならなかった。ところが、なかなかこれが難儀なわけですね。よくよく意欲と辛抱のないかぎりその種の本を頼って、しかも面白く古典を読む、読みとおす、というのは容易でない。
いったい古典にかぎらず、本、書物に「読み方」という規則はありません。ことに古典は人類の、民族の、すぐれた遺産、共有財産であって学者研究者の占有物ではありません。その読みにしても一少年、一主婦、一サラリーマンがかならずしも大学者の研究や鑑賞を補えないわけではないのです。
一等大切なのは、古典と一読者との深切な対面です。対話です。かならずしも一般化されない体験です。私的な体験であってもいいのです。体験が、どう深切か真実かを重く見るべきです。むろん誤解、曲解は避けたい。しかしただ知識水準の正解より、血肉となって喰いこむような体験深度での誤解、曲解の方が、時には当の読者個人を鼓舞し激励し充実させる場合もまま有ることを、高飛車に否認してはならないでしょう。むろん誤解、曲解は避けたい。そのための勉強は、努力は、古典と顔を合わせる者の支払うべき敬意というものでしょう。私が言うのは、古典のまえで萎縮し逡巡し退却しないこと。そのためにも初心の誤解、曲解ないし幼稚や未熟を怖れたり卑下したりし過ぎないでということです。
なぜ、こんな乱暴そうなことを言いますかというと、私どもの読みますのが〃言葉〃〃文章〃であり、説明するまでもなく、伝達手段としてけっして万全なものでない。その代りに、或いはそれ故に、一語一字一句がいやおうなく相当の含蓄、余情をもち易く、またそれをもたせるように努めてもきたのが、日本語の特質と言えましょう。漢字その他外来語を利用した熟語をもし別にすれば、純然たる日本の言葉は語数としても想像以上に少い。しぜん一言一句に多くの意味を重奏させながら、使いわけるということを致します。たんに「はな」と書いて、花・鼻・端などのどの意味をとるか、場合により微妙になります。とり違いも生じますし、どれをとっても朧ろに意味が通じたり重なったり、独り合点して、あとで混乱することもありましょう。
古典の原文は、例えば枕草子の場合などほとんど平かなで書かれていますから、右のような混乱は起きやすく、解釈が生じて、意見や学説が岐れもする。学者同士でさえ見解がまちまちで定説が出にくい。それもこれも"言葉〃"文章〃のなせるわざであり、そこに一般読者の思い切った発言を容れる余地も、大いにある。
知識の豊富な宗教学者が、必ずしも深い信心に支えられ神、仏と共にいるとは限りませんね。しかし一文不通の人がじかに神、仏の恩寵を蒙り不思議に疏通しているという例はむしろ多いのです。古典への対い方にもこれと似た事情が有るのだと、そう我々は思ってみてはどうでしょうか。そうして知識の乏しいことを思い悩まず、精一杯に自分なりの力と誠意とで、古典の扉を勇気をもって先ず押し開いてみることです。
私も、学者研究者ではありません。むろん学問研究の成果に敬意を払い、学びとるのを躊躇ったことはない。しかし一人の小説家にすぎません。その事実に、今、とくべつ立ち辣んでもおりません。
それどころか、小説家、いわゆる文士、でありますことが、この際「枕草子を読む」うえで、存外プラスになる点も無くはないと思っています。
小説家は、日々に文章を書いて暮しています。しぜん文章を書く、綴る、際のそれこそ句読点一つ、てにをはの一つ一つ、声に出して読みました場合の音から音へのつづきぐあいにまで、いわば書き手の心理、生理のようなものは、他人の文章を読みながらでもかなり察しをつけることが出来ます。そんなていどの己惚れは小説家、作家なら誰しも持ちあわせております。そのていどの自信がまるでないのでは、文筆家は自分の書いた文章すら自己批評できなくなってしまう。
枕草子は、おいおいに申しますが、なかなか一筋縄でくくれない、或る面ではたいそう厄介な古典の一つです。だから面白さもひとしおとも言えるので、ことに書き手である清少納言の微妙な筆の運びの背後に、彼方に、彼女のとばかり限定できない重層した心理や、場面や、趣味判断を受けとめ、時に多人数の肉声を聴きとめながら、こまやかに読まねばならない作品なのです。
その点、多少なりと私の、想像力を用いて文章を書いてきた日ごろの経験が役に立たないでもない、と思っているところです。
今一つ、幸い、私は枕草子をこの数年来、かなり熱心に読みかえす機会をもちました。そして、この容易ならぬ古典作品を、私なりに現代語に置き換えてみるという試みに、時問と精カをかけてきました。この"体験〃をはずみに、先学の豊かな学恩を蒙るのはむろん、またそこに、誰に遠慮もない一小説家、一作家としての思い切った読みを加えて枕草子の世界へ踏み入ってみよう、今なら、それが出来るという気がしています。
さて──あなたは、もうはや身構えておいででしょう。枕草子なら、ともあれくじ取らず──「春は、あけぼの」の段から読みはじめるだろう、と。
その積もりではいますが、その前に、どうしてもあなたにご承知いただきたいことがある。幾つか、あります。それを順序立ててあらまし申上げるのが、本文の理解のため、また、どのような本文を読むかという撰択のためにも、なおざりにできない手続きです。
昔から、或る一対のものを較べまして、どっちが優れているか、劣っているか、或いは、どっちが好きか、嫌いか、といった競いを致します。概して日本人は、これが好きのようです。春と秋、お茶とお酒、源氏と平家、はては犬と猫、馬と牛、木と竹などと例題に事欠かない。その伝では、源氏物語と枕草子というのも昔からの好一対なのですね、冗談でなくて。
源氏物語は、光源氏を主人公と立て、理想的な女人や貴公子を数多くとりそろえた長大な物語です。まずは架空の物語です。
枕草子は、いわゆる随筆といわれ、後代の方丈記や徒然草に先立つ傑作とされています。
こう物語と随筆とを並べながら、たちまち一本の物指で優劣を較べたり好き嫌いを競ってみても、たいして有効な議論になりにくいのではないか。
しかし、案外それが為されてきた。今でも、さほどむちゃな話としてでなく、学者でも読者でも両者の比較を試みつづけています。それだけの何かをこの二つの古典が、互いに突っぱりあい、持ちあっているらしいとは認めなければなりません。
一つには作者とされる紫式部と清少納言との比較にも、なっているのですね。ことに紫式部が、彼女の日記、紫式部旦記のなかで清少納言の名前をあげて(よく知られた話ですが)、ずいぶん辛辣にやっつけている。紫式部ほどの才女が清少納言ほどの才女を痛撃していますだけに、人は思わず固唾をのみます。そして二人を、自分の眼で、心のなかでつい比較してみたくなる。それには、片端なりと、二つの古典に関する予備知識も必要なわけですが、さすがに、知識なり情報なりをなにかの本や話から入手するのは、今日ではたやすいことです。本当は源氏物語も枕草子も一度として通読していない人でも、なんとなく紫式部と清少納言を比較したついでに、作品の方まで品評できたような気がしてしまう。大概は先入主、偏見、受売りで終りますし、突っこまれると綻びるていどの比較です。
たとえば紫式部と清少納言ではどっちが年上で年下か、それとも同年輩かといったことさえ気がつかないでいるものです。同じ一条天皇の皇后定子と中宮彰子とにそれぞれお仕えした二人だからといった不十分な情報から、いわば同じ職場で、働いている部署だけが違うていどの、つまり同期の女子社員同士くらいに思いこんでしまう。
私は、これが「源氏物語を読む」機会でもあるなら、こんなことを一等先に話したりはしないでしょう。しかし枕草子の世界は、こういう些末そうな詮索から丹念に解きほぐして眺めないと、遠近法正しく見渡せないような生まな人間関係、人と人との奇妙な力関係にタテヨコに支えられていて、しかも架空の物語と違い、大方それは現にその時、その時に実際有った関係なのです。誰は誰より年が上、官位が上、家柄が上といった事実をとても莫迦にしておれない世界なのです。しかもそういう世界の住人として清少納言は同じ立場の紫式部から痛撃を浴びていたのです。
紫式部が生まれたのは西暦九七〇年、九七三年、九七八年という有力な三つの異説があります。
清少納言のほうにも、西暦九六四年、九六六年、九七〇年、九七一年に生まれたと、これも有力な四つの異説があります。
清少納言がもし九七一年に生まれ、紫式部が九七〇年に生まれていた場合は、紫式部が一つ年上、そして同じ九七〇年生まれの同年ということもありうる話です。しかし最も離れた場合は九六四年の清少納言に対しまして紫式部は十四歳も若い九七八年生まれというのもあります。
清少納言は康保三年(九六六)、父清原元輔五十九歳の時の生まれ、という説が有力のようで、概して清少納言の方が、どうも紫式部より四歳から十二歳ほどは年長であったらしい。
正確な比較が事実上不可能なのですが、この、年齢を較べるということも、想像以上に大事な手続きでして、これを怠っているため存外な思い違いに気づかずにいることが、とくに歴史にふれる場合には多い。しかも日本人は、昨今とちがい、久しく年長者に対して若い者はある威圧感を覚えて当然という、独特の人間関係、力関係を守って来ました。そしてこの力関係が崩れる際にも、微妙に年齢差がものを.言ったことでしょう。その好例として、余談になりますが、豊臣秀吉と千利休との仲が考えられる。あれほどの生きるか死ぬかの対決があった二人ですから、さぞ年齢的にも拮抗し合った、どちらかというと権力にまさる秀吉の方が年嵩に感じられがちなのですが、利休は秀吉の主君織田信長より十二歳、秀吉よりは十四歳も、徳川家康よりは二十歳もの年長でした。秀吉が信長にはじめて仕えた、例の草履取りの頃は、利休はもう彼なりの茶の湯を磨きあげており、信長が本能寺に討たれ、秀吉がやっと山崎で明智光秀を討った頃には、もう利休の茶の湯は完成の域にまで深まっていたのでした。
このキャリアの差は、やはり二人の仲を結果として緊張させるに余りあったのですが、清少納言と紫式部との場合にも、大なり小なり似た事情がありました。
清少納.言がはじめて定子中宮のいわばサロンへ宮仕えに出たのは、正暦四年(九九三)の閏十月時分と考えられています。そして定子皇后の亡くなるのがちょうど西暦一〇〇〇年の十二月十五日、年わずか二十五歳になるならずでした。清少納言がもし九六六年生まれならば、この時数えどし三十五歳で、皇后より十歳の年長です。しかも定子皇后あっての清少納言でしたから、彼女の宮中での活躍は、およそこの時を最後と見るしかない。
ところで、紫式部が御堂関白藤原道長の娘であった一条天皇の中宮彰子のもとに出仕しはじめたのは、寛弘三年(一〇〇六)十二月二十九日のことでした。そして、源氏物語の名高い「若紫」の巻などが宮中にまわし読みされて評判を取ったらしいのが寛弘五年(一〇〇八)の冬時分のことですから、そのことをも記事の一部にし、また清少納言や和泉式部を批判している紫式部日記の成立は、それよりまだ後ということになります。
明らかに、紫式部と清少納言の宮仕えの時期、枕草子が評判になっていた時期と源氏物語がそうであった時期とは、十年とは違わないけれど、そのていどははっきりすれ違っていたのです。紫式部日記は往年の花形であった清少納言が、不幸にもすでに落魄していたらしいことも、塩辛い筆つきで書きとめているくらいです。
譬えていうと、たしかに同じ一条天皇の「後宮」という会社には就職したけれど、紫式部という後輩が入社した時には、清少納言という先輩はもう退社していて、但し、その過去の名声が枕草子という著述(業績)となってまだ残っていた、というわけです。しかも清少納言の所属していたのはいわば定子部屋で、紫式部の身を置いた彰子部屋とは業務成績を競いあう立場にあり、その熾烈な対抗意識は定子部屋がとうに撤廃されてからも残っていて、一の働き手であった、すでに身を退いている清少納言に対し、時めく彰子部屋の実力者紫式部は、さながら屍馬に鞭打つほどの敵愾心を隠さなかったと、そう言うことも出来る。
一つには、枕草子のなかで清少納言が、紫式部の亡くなった夫の藤原宣孝について、ほんのちょっと、やや面白ずくの話題にしております。その筆つき、口つきが紫式部の気に入らなかった、ということも手伝っているかとは、考えられます。
いったい平安女流文学の担い手たちは、ほぼ例外なく宮仕えの人たちでした。あの小倉百人一首には、僧侶とならんで、何人もの女人が登場しますなかで、女帝や皇女はともかく、その余の人は、「歎きつつ独り寝る夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」という歌の作者、蜻蛉日記の著者でもある右大将道綱の母、摂政藤原兼家の妻の一人、を除いてみな何らか官仕えに出勤していた人ばかりです。
ということは、彼女たちは勤め先である公家社会で、さまざまな形で男たちと接触し、その接触の際にきらめく個性や、才能や、また美貌でもって名を挙げたと言える人たちでもあった。そこに男対女という人間関係のドラマがあったわけです。
しかし、男対女のドラマに先立って、こういう社会では、また余儀ないことに女と女、女同士のさまざまなドラマがくりひろげられざるをえなかった。
必ずしも葛藤ばかりではありません。協力、調和、友情、そしてお互いの切瑳琢鷹もありえました。むろん激越な女の闘いも喧嘩も反目もありえました。才能に恵まれ一藝にも二藝にも秀で、しかも男に人気があって、容貌も銘々に自負があれば、それはひとしお烈しさのまさる闘いぶりとなり、嫉妬し中傷し誹誇しあうなまぐさい間柄にもとかくなりやすかった。
清少納言と紫式部とは、先にも申しましたように、時期的にも、勤めた場所も、スレ違っていた間柄ですから、友情とも反目とも本来は無縁なはずの二人でした。清少納言の側に限って言うなら、紫式部の噂、その活躍と名声とを、後年には当然聞き知ってはいたでしょうが、宮仕え時分は、まず念頭にも眼中にも影ひとつとどめないような相手であったでしょう。
紫式部にしても、清少納言と面と向った覚えは、たぶん、ない。ないけれども、彼女のいろんな評判に飾られた影のようなものはまだ色濃く宮廷にのこっていたでしょうし、まして枕草子がつい源氏物語と並び称されもすると、それも中宮(彰子)側と皇后(定子)側との評価や比較にまで及びかねないのですから、紫式部は清少納言のその影に対し、なにかしら物申さずにおれない、余人にははかり知れない昂りもひそかには持っていたか知れないのです。
妙な言い方をしますと、これほどの二人ですら、こうなるのは、そうならせる社会で公家社会や貴族社会があったから、です。本来、比較にならない二人、比較にならない二つの文学を比較してしまう、そして、それに興趣をおぼえて楽しむ傾向や素質を、当時の公家、貴族や周辺の女たちがもっていたということです。
彼らだけのこととも言えません。大なり小なり同様の傾向や素質を、われわれ現代の日本人もやっぱり、たっぷり頒けもって、それを好んでいるのも事実なのです。そしてこの「好み」を、春か秋か・月か花かと転べ競べあういわば「合わせ好み」をだいじに腑分けして行きますと、もっともっとていねいな「日本の心の理解」に近づけるかもしれない。ただ貴族、ただ武士、ただ庶民と限定できないほどそれは、古来、日本人の好んだ問題提起の一つの基本型だからです。
ま、それは今は措きましょう。
このように、宮仕えの女たちは、闘いの場に置かれることで、そこで闘い抜く能力によって男たちからの、その社会からの、評価を受けました。人と人との闘いだから、武器をもたぬ闘いだから、年齢の差、経歴の差は、だいじにそして微妙に複雑に物を言います。それを一言で、「位」と呼んでみましょう。
「位取り」という言葉を思い出しましょう。位.が高いといっても官位とばかりは限らない。品位も気位も家柄も学問見識も腕力も親の七光も年齢も「位取り」を微妙にさせます。日本語の「位」という一字一語ほど、奥行も間口もある複雑な鍵言葉はそうザラにはない。政治も経済も人間関係もこの「位」一字でぜんぶ説明されかねない精神風土に日本人は生きています。
たとえば年はとっていても宮仕えの新参者は「今参り」なとと呼ばれてちいさくなっていました。しかし、この、年のいった新参者に、古参の者にはないとくべつの或る才能があると、一気に力関係が逆転しないでもない。才能のゆえに幅を利かす、位を張ることが出来るわけですね。清少納言がそうでした。紫式部もそうでした。二人とも、宮仕えに出たのは相当の年、三十ちかく、ないし三十すぎからの「今参り」でした。二人とも結婚生活や出産を体験していた大人でした。この新参者たちは、はじめこそ先輩のかげに身をちぢめていましたが、その期間は短かかったようです。それも家柄のせいではなかった。彼女らの身に備わった、まさに天才が、大きくものを言ったのです。
さて今一つ指摘しておく必要が、ここに出て来ました。平安時代の貴族社会は、いわば家柄社会へと成熟して行った社会です。ことに十世紀から十一世紀へかけて、その、成熟の速度がはやまっていた。この事実が宮仕えする女たちの人間関係、力関係に影響しないわけがない。
彼女らにはそもそも名前がない。伝わらない。清少納言も呼び名、紫式部も呼び名です。清、は清原という彼女を生んだ家の、今でいう苗字です。彼女は清原元輔の娘、清原深養父の曾孫かといわれます。この三人がそろって例の百人一首に名を連ねるという、身分は高くないが、和歌や文学の恵まれた家筋に生まれています。紫、はこれは源氏物語の「紫上」という理想の女人を創造した大作家へのいわぱ敬称です。その以前は、また正式にはたぶんずうっと藤式部であったでしょう。藤は藤原です。彼女の属した藤原は、藤原兼家や道隆、道長ら主流藤原と同じ北家の筋ですが、主流ならぬ支流の、すこしも威勢のよくないむしろ貧しい藤原でした。父は藤原為時という、和歌より漢詩にすぐれた、やはり学藝畑の中級貴族でした。
彼女らの身分、家柄は、ともに、その少納言、式部という呼び名(召名)が表わしています。宮仕えの女たちは、ふつう出仕当時身依りの男の官位官職を借りて、名のる習わしです。男たちの身分社会、家柄社会の力関係を、女たちもいやおうなく反映して生きる。
歴史事典などの付録部分によく「官位相当」という一覧表が付いています。官職名と、位階の高い低いとが、どう釣合うかが分かります。
最高の官職、太政大巨なら、正一位または従一位に相当しています。
少納言は、従五位下、つまり殿上人と呼ばれるのにまずは最低の、正一位からかぞえて第十四等の位階に相当します。紫式部の式部という名は、父親の為時が式部省の大丞だったから、ともいわれますから、かりにそうとすると、正六位下、少納言よりまだ二階級も低い位になります。
二階級とはいいますが、貴族社会で五位と六位との問にはまことに太い線が引かれて、極端にいうと、雲泥の差にもなります。
もっとも藤原為時は娘の紫式部が出仕してほどなく、正五位下に相当する蔵人左少弁にまで昇りますので、まあ、家柄、身分は清少納言も紫式部も追っつ縋っつ、どっちもそう高くない。が、低すぎもしない。
そんなわけで、あだおろそかに平安女性の名のりを、ただ記号か固有名詞ふうには読んでおれない。身内の女を、宮仕えのはじめになるべく誇らかな名前で出してやるのは、これは身内の男の甲斐性というものでした。
以上、こうまで手数をかけて、なぜ二人を見くらべながら、年齢、経歴、家柄、名のりなどについて話して来たかといいますと、枕草子くらい右の事情を直かに反映した古典はすくなく、清少納言くらいこうした事情をぴりぴり意識していた人もすくないからなのです。
また、大なり小なりこれを気にかけずに済んだ宮仕えの女など、一人もいなかったのが、つまり平安時代、十、十一世紀の貴族社会でしたし、そうした暮しと美意識とを露骨に、と言ってわるければ典型的に写し取っているのが枕草子だと思われるからです。この何でもないような、そのじつは当時の人が四六時中意識せざるをえなかったことを、本文を読む前に一つの空気、雰囲気としてはっきり承知しているかいないかは、枕草子というこの古典に接する姿勢として、一等だいじな岐れめになる。そう思います。
さあ、それではお待ちかねの「春は、あけぼの」へ進みましょう。但し今あなたが、もし活字本の「枕草子」を用意されているとして、いったいどんな本を実際にお持ちか、これがたいへん気になる。こういう点が気がかりになるのも、古典の、一つの難儀なところなんですね。
試みに、それでは枕草子巻頭の「春は」とはじまる部分と、次の「夏は」とはじまる箇処に限って、私の揃えている本で先ず読んでいただきましょう。なんと四種類もの違った本文を私はここに取り揃えているのです。
最初に、能因本と呼ばれる系統の本文を読んでください。
春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
夏はよる。月の比はさらなり、やみも猶ほたるとびちがひたる。雨などの降るさへをかし。
次に、三巻本と呼ばれる系統の本文を読んでいただきます。「春は」の方はほとんど違いがありませんけれど、「夏は」の方の字句が若干増えています。
春はあけぼの。やうやうしろく成り行く山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
夏はよる。月の比はさら也、やみも猶ほたるの多く飛びちがひたる。又、ただ一つ二つなどほのかにうちひかりて行くもをかし。雨など降るもをかし。
次に、前田家本と呼ばれる系統の本文になると、まただいぶ違います。
はるはあけぼの。そらはいたくかすみたるに、やうやうしろくなりゆくやまぎはの、すこしづつあかみて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
夏はよる。月のころはさらなり。やみもほたるのほそくとびちがひたる。またただひとつふたつなどほのかにうちひかりてゆくもをかし。あめなどのふるさへをかし。
すこし説明的に、そのかわり分かりよくなっている、とでも言えましょうか。
これが、最後の、堺本と呼ばれる系統の本文になりますと、もっと変化しています。
春はあけぼのの空は、いたくかすみたるに、やうやう白くなり行く山のはの、すこしづつあかみて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたるもいとをかし。
夏はよる。月の比はさらなり、ねやもなほ蛍おほく飛びちがひたる。又、ただひとつふたつなどほのかにうちひかりて行くもいとをかし。雨ののどやかにふりそへたるさへこそをかしけれ。
いかがですか。あなたがお持ちの本は、この四種類中どの系統の本文におよそ相当しているでしょうか。
ともあれ枕草子の名で、大別してじつに右の四類もの本文が世上に伝えられている。そして申上げたいのはその差異が、「春は、あけぼの」の段ばかりでなく、無視できないまで全篇にわたってそれぞれに大きいことです。当然にも、清少納言の手になる本文が、この四類のどれに一等近かったかというきわめて肝要な問題がここに生じてきます。同じく枕草子とは呼びながら、こんなにも内容のちがう本文があるからには、どれが原文なのか、原文へ最短距離に近いのかという吟味を経ないわけには行きません。
残念なことに清少納言自筆の原稿、草子、本は、片端も遺っていません。どれもみな後世の人の写本、手から手へ写し伝えた本文ばかりです。写し違いもむろん生じますし、写す人の気働きや勝手や好みで、うっかり、また、わざと本文を変えたり添削したりしないものでもない。そんな実例がまま見られるのも古典の受難なのですね。
一般に古典の場合、自筆本が伝来していない以上、転写の系統によって本文に異同が生じて、その結果として鑑賞や研究以前にどの写本のどの本文が原文、原典に忠実か、近いかを先ず決めてかからねばならぬという不可避の作業がついてまわる。誰しも作者もともとの文章で、そうでなくてもそれに近い文章で読みたいのは当然ですからね。
で、枕草子の場合も、研究の結果やっと、今あげた四系統の本文に整理されたうえで、あとの方で読んでいただいた堺本、前田家本は、すくなくもはじめの能因本、三巻本にくらべ後世の人の手が加わり過ぎている本、ということに学界の考えもほぼ定まって来ているのです。
そして、能因本か、三巻本か(この名前の由緒来歴は、話をながく、ややこしくするので致しません。固有名詞ふうにご記憶願います)のどっちがより良い本文であるか、今日でも研究者同士で火花の散りそうな(いささかみにくく聞き苦しいくらいな)議論が戦わされているのです。
ここでは、実際問題として私がどっち寄りの本文で読むのか、あなたにしても、もし原典をひろげながらこの本を読んでいただくというのなら、いっそうこの点は大切な事前の手続きになります。なにしろ読んで行く本文がまるで違っていては大なり小なり困りますからね。
つまらないことと思われますか。いいえ、こういうところ.が、古典をだいじに読むかどうかのほんとうの岐れめなのです。古典の典という字は、つまりは本文の正しい、より良い本、本当の本、という意味ですからね。本題に、本論に、本文になかなか入って行かないから、と言って、どうか油を売っているかのように謗らないでください。
思い出してみましょう。この、本題、本論、本文といった「本」は、書物、ブックの意味だけではない。ものの中央に、中心に、中軸に太く、高く、深く、大きく居坐った物、事、ないしその場処が「本」です。日本の本もこの意味の本。本当の本物、本質、本格、本然を意味する本です。そうした本の本を備えている書物を「本」と人は呼んで来たし、古典とは、そういう本の本、本当の本物の「本」のことです。本をたっぷり秘蔵し、しかも久しい時間に磨き抜かれた本、それが古典です。私はそう思っています。
その古典中の古典の一冊である枕草子の本文に、どれを見定めるか。けっして、おろそかに考えて済むことでない。
あれもこれも等分に斟酌してという方法も穏当公正であるかと思います。そういう性質の本も可能でしょう。しかしこの本は、ご一緒にではあれ主に私がどう読むかという本でもある。私は一読者として、そして一小説家として自分の判断をここで下しておかねばなりません。
私は、はっきり選びます。能因本ではない、三巻本をとります。無責任にではなく、たくさんの学説をとにかく読み較べて、その方が妥当と信じての撰択です。その経緯や理由をいちいち書き記す必要も、此処では、ないと思っています。ただ次のような点だけはどうかご記憶願いたい。
たまたま第一段のさきほど読んだ部分に限っては、じつは能因本の方が簡潔なのです。三巻本の「夏は」というところ、「やみも猶ほたるの多く飛びちがひたる」の、「の多く」という一句が三巻本にはあって、能因本にはない。能因本は、「やみも猶ほたるとびちがひたる」となっていて、短い。とくに次の、「又、ただ一つ二つなど、ほのかにうちひかりて行くもをかし」という一文が三巻本にはあって、能因本にはない。追加でしょうか。削除でしょうか。それが解明されれば少くもこの両者、本文として出来た前後関係が分かる。
この、「又、ただ一つ二つ」という部分は前田家本、堺本の両方に存在しています。ですから、この部分を"追加〃と見るなら、三巻本が能因本になかった本文をあとから書き加え、前田、堺の両本は三巻本に追随したかと言えます。
しかし、最初三巻本にあったこの部分を、あとから能因本が独自の判断で削った。しかし前田、堺本は能因本の判断には随わず、より古い三巻本の本文を踏襲しながら、さらに言葉を書き加え、書き添えたということも、言えます。
つまり、こんな限られた一部分だけで断定的なことは言えぬという話になる。
そこで枕草子の全篇を入念に較べた研究の結果からみますと、じつは、三巻本にくらべて能因本は、巻頭部分の比較とは逆に本文追加の箇処も量も多めなこと.がはっきりしています。言葉を微妙に言い添えている。削いでもいます。したがって、どちらかというと、能因本の方が仕上がりの文章もまるく、分かりよく、説明的になって、いかにも描写が行届いている印象をもち易い。一宇一句を現代語に翻訳してゆく場合など、正直のところ能因本の筆使いに乗って行く方が作業しやすい感じなのです。
三巻本の文章は言い足りないところが多い。また能因本よりくどく言い淀んだところも見え、いずれかと言えば語句のつづき工合にムリが多い。文の脈絡が平気で途中で逸れて行ったりしていて、逐語的に現代語に翻訳するのに奇妙に骨が折れるばかりか、馬鹿正直な訳をするととても読むに耐えない悪文になりかねません。三巻本には、手におえない悪文、といっては清少納言に失礼ながら、不完全、不十分な尻切れとんぼの文章がわりに有るのです。これは、一字一句にしみじみ付きあって、実地に現代語訳を試みた者には、いやほど身にこたえて分かっている事実です。少くも三巻本に限っていうなら、枕草子を一概に名文集と思いこまれては、訳者は閉口するしかない。
それでも私は断言いたします。三巻本の文章には魅力があると。生き生きと、冴え冴えと、誰かしら息づかいや声音が文章のなかから聴えてきます。極端に言うと、それは整った「文章」であるより小気味いい「肉声」に近い突出感、迫力を備えているのですね。
三巻本と能因本のちがいは微妙というしかない。短い一段を、参考に見較べてみましょう。
慶び奏するこそ、をかしけれ。うしろをまかせて、御前の方に向かひて立てるを。拝し、舞踏し、さわぐよ。 (三巻本)
よろこび奏するこそをかしけれ。うしろをまかせて、笏取りて、御前の方に向ひて立てるを。拝し舞踏し、さわぐよ。 (能因本)
用字、送仮名、句読点のちがいをこの際は無視してください。すると能因本に見える「笏取りて」の一句だけが、ちがう。「笏」は束帯、つまり公家が公式の衣裳を着ている際はきまりとして手にもつ物ですね、それ以上の説明は省きます。
官位のすすんだ慶びを謹んで申上げている人ほど、颯爽と、心に迫るものがあろうか、下襲の裾を長くひいて玉座に真向って立つ姿というものは──。敬礼をし、左に、右に、はでに袖を翻えして、舞い立つばかり喜びを身いっぱいに表わして──。
まアこんなふうに三巻本本文の趣旨を汲みますと、能因本なら「下襲の裾を長くひいて笏をもち、玉座に真向って」と読めばいい。その方がより説明的ですね。しかし枕草子と同時代人(せまい限られた宮廷社会内のことですが)なら「笏取りて」の一句は尋常な、無くもがなの説明だったかもしれません。
微妙なもう一例を挙げてみます。
月のいと明きに、川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などの割れたるように、水の散りたるこそ、をかしけれ。 (三巻本)
月のいと明かき夜、川をわたれば、牛の歩むままに、水晶などのわれたるやうに、水の散りたるこそをかしけれ。 (能因本)
ちがいは「いと明きに」と「いと明かき夜」だけ、「に」と「夜」の一字の差でしかありません。
月のそれは明るい夜、車で川を渡ると、牛の歩むにつれて、水晶を割ったように水玉の散ったのが、すばらしかったわ。
こうも読みますと、当然に能因本の本文を現代語訳したことになりますが、じつは三巻本の方を私は一度こう訳した覚えがあるのです。しかしそれでは「夜」と限定しない「明きに」の「に」が十分読みとれていない。「月があまり明るいので」とも「月のそれは明るい時刻に(思わず誘い出されて)車で川を渡ると」とも十分取れる。そう取った方が「に」が活きてくる。分かりは能因本が早いけれども、含蓄は三巻本にある。また語勢としても「明きに」の方を私なら取ります。「明かき夜」を「よ」「よる」いずれに読んでも、文としてのつづき工合は「明きに」に劣ります。
能因本の方にどうも文章意識がつよい。むろん微妙に相対的な話ではあるのですが、だから、削ってもいい部分と思うと、「又、ただ一つ二つなどほのかにうち光りて行くもをかし」といった蛍のようすなどを削るのです。しかし、総じてはむしろ逆に、状況をより分かりやす<説明し限定するための言葉を、能因本の方が相当量付け加えている。
分かりよく言って、能因本の「文章」と三巻本の「肉声」といった比較の利くところが、この両者にあります。そうなると今後は、枕草子本来の理解としてどっちの方が、より多くもとの枕草子に近いか.が判断されねばならぬことになる。そうではありませんか。
この見極めは「枕草子」を語る際、いわば本質論ともなりましょう。私は、私なりの一つの見解をもたざるをえないわけです。
今一つ──三巻本の方がより当初の草稿に近く(だから不十分も目立ち)、能因本の方が、その草稿に手を入れたいわば仕上り原稿、と言えるのではないか。そういった一種折合いをつける考え方も有ることは申し添えておきましょう。能因本をだいじに考える学者に多い見解なのですが、この説はやはり三巻本がもとの姿に近いことを認めていますし、他方、手直し、手入れが本当に清少納言自身の手でされたと判明しているならば、これだと作者自身の仕事ですから、私も能因本をとります。
余談にわたり恐縮ですが私に『慈子(あつこ)』(湖の本HI)という長篇小説があります。最も多く愛されてきた作品の一つといえますが、この例で言うと、草稿、原稿、私家版、市販本、豪華限定本、また市販本そして文庫本さらに「湖(うみ)の本」という順序で生長してきています。もし後の人にそのどれで『慈子』という小説を読まれるかとなれば、最後の「湖の本」版本文に拠って欲しいものです。すこしでも作者として納得できるように私自身で手を加えてあるからです。
しかし清少納言自身が、ではなく、場合によって百年、二百年あとの他人が、三巻本系統の本文に後世の合理的解釈を加えて、文章を調えて行った、というものなら、これはどう通りがよく文章も無難になってはいても、枕草子の原形からは遠退いている。能因本には、どうもその恐れ.が強いと私は考えました。あなたのお持ちの本も、たいがいは、三巻本系統のどれかの本ではなかろうかと推量しています。学界の大勢も出版傾向もおよそはそう動いていそうに遠望できるからです。但し、同じ三巻本系統の本文であっても、一字一句ともなると存外ぱらぱらと異同があります。先ほどの例文の表記からもお分かりのように、用字、送り仮名、句読点など本文により、また学者の判断や好みによってさまざまなのです。(そもそも私の引用文も、パソコンの制約により「オドリ」を「やうやう」と表記していることも此処で断っておかねばなりません。)それに、むろんどうしても能因本を参照して、適切に推量せざるをえない意味不通の文章もないではない。
私とて、タメ息がつけてきます。こんな前置きは感興をそぎます。
しかし早まっては結局ソンをします。
もし源氏物語を読むのであったら、私は、作者紫式部のことにはそうこだわらず、それより物語の筋、運びに乗ってとんとんと読み進んだでしょう。ところが枕草子はノン・フィクションの、いわゆる随筆です。それだけに清少納言の生きた現実、場処、環境、人間関係.が大きくここにはとりこまれ、それそのものが枕草子の内容と言えます。
その辺の事情をあたまから無視または軽視すると、とんでもない誤解に陥る。たとえば枕草子は一種の詩集である、その本文は各段がみごとな散文詩であるといった贔屓のひき倒しに近い賛辞が呈される。これなど枕草子が全篇、名文の集成だと思いこんだ誤解と一対をなす錯覚にすぎないのですが、私はそう考えるものですが、じつはこの誤解や錯覚が従来の枕草子評価の定説に近いんですね。そしてじつは読まざる読者が、それを聞きかじりの知識として受け売りしてしまう。
間違わないでください。私は枕草子の詩的センスは心からすばらしいと思っています。名文だなアと感嘆する文章もむろん夥しく多いことは重々認めているのです。しかし、私は、清少納言が詩を、名文を"書く〃気でいたかどうかという根の部分へ眼を注ぎたい。すると、違うナ、というのが私の実感なのです。
これは、枕草子の成立ち論と関わる問題です。大問題です。私は思うのです。考えるのです。枕草子の背後に、生きて働いている魅力は、「会話」の、「対話」の、「ドラマ」のそれではないかと。
思い切った一つの推測を試みてみましょう。
「春は、あけぼの」の段の、この「春は」の部分だけで試みますが、私は、ここに、一つの呼びかけ、問いかけと、それに応じて答えている幾つもの声々を聴きとめるのです。問う人は、当然、皇后定子その人です。一条天皇の後宮にあってひときわ気高く奥床しいサロンの主人公、主宰者です。(定子は中宮から皇后になった人です。紫式部の仕えた中宮彰子との対比上、差支えないかぎり皇后と呼ぶことにします。)そして答えるのは、その皇后定子に仕えた数多い女房たちのなかでも、とりわけ才藝や感覚や世智に富んだ、選ばれた何人かです。
さて今日は、四季それぞれに一等美しくも快い特長を、端的に、言葉を選んで挙げてごらん──とでも皇后が出題された。そう想像してみてください。
それでは──用意はいいか。
黙礼は共感の表現です。少納言、そなたの用意もいいか。書記役の少納言の髪がはらりと前へ動いて、では先ず──と皇后定子が口を切られます。思い思いに、遠慮は無用。そしてそうです、こんなぐあいに、
春は──
「あけぼの」
「しずかに、ものの見えわたるころ」
「とくに山ぎわ」
「ほっと明からんで」
「山はらは紫立って」
「雲も」
「ほっそりたなびいて──。佳いわねえ」
むろん、ただこれくらいでは、なかったことでしょう。百花斉放、そして順不同、口々にもっともっといろんな春の風情が賛美され叙景されたにちがいない。しかし大勢は、そして最後には皇后定子の選択も揺ぎなく、「春は、あけぼの」と定まったのでしょう。その余は類い稀な名書記役、清少納言の腕前に任された──。
春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは、すこし明かりて、紫立ちたる、雲の、ほそくたなびきたる。
そして出題と応答とはまた次の、「夏は」「秋は」「冬は」と移って、その場に、想うだにとりどりに美しい四季の情景が美しい言葉で虚空に描き出されたことでしょう。
そうなのです。
枕草子は、少くもそもそもは、こういう情景や状況から直かに生まれ、成立っていた。それは定子皇后主宰のサロンに於ける、いわば、すぐれて趣味豊かな知的討議なのでした。このすぐれて美的かつ日常的ないわば学習行為をみごとに書記し、整理し、筆録したのがもともとの枕草子の発想、必要、であって、清少納言はその衝に当っていた、のちに謂う「執筆」の役にちかい、それが専ら彼女の特技を生かした職分であった、というわけです。これが愛読の末に至りついた私の理解であり、推定です。
「春は、あけぼの」以下の一節は、読んで美しく、想像してもじつにすばらしい。清少納言の息づかいと古代の日本語に脈打つ旋律とが息をぴたっと合わしている。たしかに、さながらの詩と読めそうに、よく書き取られています。
けれど、よくよく感受性を働かせて読めば、これがひとり少納言の独創ではなく、何人かの才媛が思わず心を競いあう発言や花やかななかに緊張したその場の雰囲気を、「執筆」役の書記者もそこに居あわせて、よく心得ながらの筆の運び、贅を削ぎ足らざるを補い整えてのよく総括された叙述、だと受取れます。行間からはんなりと重畳して女たちの声、肉声が聴えてきます。その肉声に賢い耳を澄ませ、むろん自分もその中に加わり、そしてよく記憶している清少納言のぬかりない目配りも想いうかびます。いいえ定子皇后の聡明な美貌までが心に浮かびます。
でも、どうかあなたは今しばらく判断を保留なさってください。ここは枕草子理解の根本に触れるところです。「春は、あけぼの」の段へ読みすすみながら、今すこし入念に私のこの見解を敷衍してみましょう。
二
春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎはすこし明りて紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
この名高い一節に「枕草子」の魅力は尽くされているという人は多い。いかにも私もその思いを深くいたします。
さて右に挙げてみた「春は、あけぼの」の一節は、以下句読点を極力惜しんで、というより全部省いて表記してみました。試みに『枕草子』と題した市販の諸本をご覧になれば、じつに註釈者、校訂者によってばらばらに、思い思いに句読点が打ってある実例に出会われることでしょう。その一端は前章に例示したとおりです。むろんそれに応じて解釈なり訳読なりが揺れ動きます。とくに平安時代の古典には、そういう厄介な読みの揺れがつきまとうの.が常です。
句読点に限りません。本文そのものが、かかる名高い巻頭「春は、あけぼの」の一節ですら何種類にも分かれ、そもそも同文とは思えないくらい、異なっていることはすでに申しました。したがってどういう由来、系統の本文を採用するかが肝要な前提になるわけですが、私は、代表的な三巻本と能因本の一長、一短を見ながら、結局古態に近いものとして三巻本の本文を採るとも申しました。またその選択を支持する私なりの理由として、三巻本は多少読みづらく、書きっ放しの箇所も多いけれど、そもそも枕草子の原型は、文学作品の文章である以前に基本的に会話文・書記文と受取っているという、かなり思い切った理解を呈示したのでした。
書記文とは熟さない言い方ですが、よく会議の席で書記役の人がいて各発言を摘録して行きます、あれに近い。少くもあれを下地にして散文に書き直された文章、という含みをもたせたいわけです。当然にも文章の背後に何人もの発言、その声、肉声、の交錯や応酬をも聴きとろうとする理解です。
枕草子の文章を詩的という以上に、詩そのもののように考えてきた人は、いささかこの本の成立ちに疎い人だと思うのですね。清少納言はそんな文学作品を書く気でこれを、少くも名辞羅列の類想類聚的な章段を書いてはいない。また枕草子全篇を少納言ひとりの創作かのように、その魅力の全部が彼女の個性や感受性にのみ負うているように読んでもなるまいと、私は考えています。
枕草子とは、清少納言が敬愛をこめて仕えた定子皇后の有形無形の指導と示唆とで形造られて行った、一後宮の成員が挙げて文化と自然に対するすぐれた感覚(センス)の集成だったのではないか。それも「枕ごと」という(のちのち言い及びます)形にしてみせた、趣向の産物ではなかったか。
じつは清少納言その人の日記や述懐に類する部分でさえ、ほぼ一つとしてそうした定子皇后のすぐれて大きな掌の外へは、はみ出ていないのです。早々と断定的に言いすぎるきらいもありましょうが、清少納言の気稟と才能とは、皇后の意図を集約しまた増幅しながら、的確に、清明に感覚の精髄(エッセンス)を汲みつくし、散文化しえているところに、有る。時には悪文を敢てしながらけっして駄文に陥ることなく、感覚の神妙はあまさず書きとどめている、その、すばやい執筆の.冴えに、有る。私は、そう見ています。そしてその筆の冴えが、より三巻本の文体に光って見えると読み、それで敢て能因本を退けるのです。
書記文らしい文体を、では、どのように読むか。それが問題です。そもそも清少納.言の手で書記されるような話柄、話題が実際にとりあげられる状況とは、どういうものだったか。前章の末尾に近く、すこし大胆に想像を加味して言い及んでおきましたね。私は、「春は、あけぼの」と成るまでを、いわば「春は」という"問〃と、「あけぼの」という"答〃があっての清少納言の"書記"
"まとめ" つまり執筆と推量し、理解したのでした。
ごく普通に、一条天皇の御代には相前後ないし時を同じくして、三つの有力な女文化の集団、サロン、が有ったとされています。順不同にいえば、一つが大斎院と呼ばれた選子内親王のサロンで、和歌の贈答を中心に、すぐれて優雅な文藝的雰囲気を特長にしていました。今一つは一条天皇の中宮彰子が率い、父道長が精一杯後見を惜しまず、言わずと知れた紫式部を中心とする源氏物語づくりで後世に評価されたサロンです。紫式部日記によれば、優雅で気の利いた男たちの楽しませかたでは、大斎院のサロンに一目置いたらしい。
そしてもう一つが、皇后定子のサロンなのはむろんで、道長および彰子中宮のサロンが賑わう時分には或る政変の渦に巻かれて、定子の兄伊周さらに亡父の関白道隆の勢威はほぼ地におちていました。
清少納言はその栄華と凋落とを時期的にまたいだ約十年をこの定子皇后のサロンに身を置き、皇后への以心伝心のみごとな奉仕の結果として枕草子を世に遺したということになります。枕草子はいわば定子のサロンが他に誇ることのできた特長を、さながらに体していた、表現しえていた、産物なのですね。
ではそのそもそもの特長とは何だったでしょうか。機智と感覚にすぐれて秀抜な日常の挙措、言動、応対に、女文化の気稟の清質を十分発揮できるよう、そうした躾の質の佳さで、参集する宮廷の男たちを感じ入らせてその敬愛を自然当然に受けるちから、とでも言いましょうか。身についた文化の魅力と言いましょうか。定子皇后の気品と教養がよくよく本物の深さを備えていた証拠として"文化〃が"暮し〃に溶けこむことこそ大切という、高度の貴族的認識がこのサロンには生きていました。
むろんそのためにもそのような日常は、実績として、また規範として、また備要としても適宜に記録され、構成員誰しもがいつでも参照できるといった用意が必要だったでしょう。さらにはふだんに内輪の話し合いを通して、よりよく深められ、よりよく選択され洗練されつづけていることも必要だったでしょう。
センスに恵まれた幾人もの女房が、折にふれて定子の御前に集い、四季自然の風光を戸外の風のそよぎや光の動きに微妙に肌に感じながら、さまざまないわば皇后"提出題〃に対し答えつづけていた情景を、私たちは想像してみたいものです。「山」なら、「虫」なら、「花」なら、「物語」なら。おのずと歌や物語の「枕ごと」を蒐集するかのようでありながら、他方、人に指をさされまいふだんの躾につながる会話術への、それはまことに周到な用意でした。交際術への丹念な訓練でした。その用意、その訓練の積み上げ──それが彼女らの文化、まさに「女文化」でした。
ここが、だいじな場面です。繰返すのをお許し願います。正暦(九九O─九九五)、長徳(九九五─九九九)、にわたる某年某月の某日、その日もまた皇后坐所のまぢかにお気に入りの女房が何人も参仕し、清少納言もまじって、定子の今日の"出題"を心待ちにしていた──そういう情景を想像してほしいのです。
それは勉強でもあり遊戯でもあり、それ以上に誇り高い楽しみでした。出題にみごとに応じることが、さながら文化を、私のいわゆる「女文化」を、みずから創り出すことを彼女らは無意識にもよく承知していました。定子のサロンは、そういう雰囲気で以て秀れた公卿たちの熱い尊敬をかちえていたのですから。
今日は、四季それぞれに、一等美しくもこころよい時刻を、刻限を、ごく端的に、ことばをえらんで挙げてごらんなさい──とでも皇后は仰言ったにちがいない。
それでは──。
春は──
「あけぼの」と、一人がすぱッと口を切ります。すると、
「しずかに、ものの見え渡るころ」と、受ける者がある──。
「とくに山ぎわ──」と誰かが一歩を踏みこみます。そして次々に、
「ほっと明からんで」
「山はらは紫立って」
「雲も」
「ほっそりたなびいて──佳いわねえ」
共感の嘆息がおのずと一座を美しくも幸せな空気で満たします。皇后と、書記役清少納言の視線が光を放って交叉する一瞬があり、──次へ、今度は「夏は」と問いかけの声が響きます。
前章でも申しましたが、むろん一度で右のようなぐあいにまとまったとは考えられません。一種のブレーン・ストーミングです、口々にもっともっと多彩な春の風情が賛美され、叙景され、その中から主に"時刻〃を枠組にして厳しい選択、陶汰がなされた末に、結局は一座の誰もが、とくに皇后定子がすぐれて象徴的に「春は、あけぼの」に極めをつける。と、その線で清少納言が簡潔に文章にとりまとめたのでありましょう。
春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこし明りて、紫立ちたる、雲の、ほそく、たなびきたる。
みごとなものです、が、このみごとさ、清少納言ひとりのみごとさではない。清少納言にこうも書き表わさせた、定子と女房たちの息の合った、のびのびと遠慮のない会話、対話のみごとさ、優しさ、美しさが分厚い下地に、リアルな背景に、なっている。
枕草子には、こういう理解をもって接しませんと、とてもその面白さが十分受取れそうにない、ただ名辞の羅列としか見えない段、類想類聚的なといわれる段がいっぱい有るのです。これまでそういう各段は、本当のところどう受取りどう読めばいいのか、よくつかめないまま、あいまいな評釈や煩わしい語釈ばかりがなされて来た。
ところが、それらを定子皇后の「……は」「……のものは」という「出題」に対し、女房たちが簡潔に、打てば響いて答える声、肉声と聴きとりますと、一見味気なかった名辞の羅列が、たちまち生き生きした応答となり、さまざまに奥ゆかしい情景を甦えらせてくれます。
試みに岩波文庫『枕草子』の第二五〇段を書き抜いてみましょう。
降るものは 雪。霰。霙はにくけれど、白き雪のまじりて降る、をかし。
これを私は、右の理解に則して「降るものは、(と仰せに)」という気味に、皇后定子の出題と読むのです。すると続く名辞は、間髪を容れない答えになる。
「降るものは」と仰せに、
「雪」と誰かが答えます。と、
「霰──」とまた誰かが言います。
「霙は気に入らないけれど、白い雪のまじって降る感じは、おもしろいわ」
答え方の短い人がある。長い人がある。上手に註釈もつけ感想もつけ加え、時には議論にも及ぶ人もある。そしてその一つ一つが仲間同士の批評の対象になり、優劣が比較され、最後に、皇后が選択され、結論めいたものが出る。出ない時もある。
いずれにしても、文章へのとりまとめ役は清少納言であったのです。こう分かち書きしてみてもよかったわけですね、
降るものは。
雪。
霰。
霙は憎けれど、しろき雪のまじりて降る、をかし。
これが、彼女たちの、或いは定子の、或いは清少納言のえらんだ、空から降ってくるもので感覚的におもしろく、美しく、心にしみるもの──であったわけです。
二た組に分かれて競い合う競技などではなかったと思います。むしろかように学習ともいえる機会は、ひっそりと、心知った同士での秘密会議めいた検討会、合評会ででもあったはず、これを私は、一種、きらめく感覚を競い合った響宴(シンポジウム)──歌合せや絵合せならぬセンス合せだったと想う。言いかえれば即ち、「枕」合せ──。
「枕」合せとは、妙な言いようですね。しかし、それならそもそも「枕草子」というこの題にも疑問をもたねばならない。
事実、枕草子が源氏物語と竝んで、ふしぎに日本人に親しまれる古典の題目であるのには、この「枕」という、ごく日常的に馴染んだ単語がいくらか役割を果たしてきたはずです。私もまた枕の代りにもすればいい草子、本、というくらいに謙遜った書名なのだろうかと、思ったこともありました。本を何冊か積んで枕にすることは、白状しますと、今も、仕事の合間につい有ることでして。ですから、枕草子の「枕」と寝む時の「枕」とは、まんざら無関係でもないでしょう、が。「枕合せ」という時には、寝む時の「枕」でなく、ちょっと熟しませんがつまり言葉としての「枕」──事実「枕ごと」という言葉がある、それを考えねばなりません。
「枕」は、さすが人が頭をあずけて安んじて寝るものゆえ、かなり含蓄に富んでいろいろの意味に転用され熟語化される言葉ですが、「まくらごと」にも漢字をあてて「枕事」と書けば日常茶飯事、ないし話の種を意味するし、「枕言」と書けば、常々に口にする言葉、口ぐせに言う言葉、ないし何かの際に引合いに出し根拠としてよりかかる言葉を意味します。何かというと「神さまだけがご存じさ」と片付けてみたり、「此処だけの話だがね」と声をひそめたり、「捨てる神あれば拾う神もあるというぜ」と引合いに出すのは、つまり枕言が利用されていることになる。
これとは別に「枕言葉」ともいいますが、これにも学校で習います「久方の(光)」「ちはやぶる(神)」「あしびきの(山)」など、特定の言葉を引き出しますためのいわゆる冠辞のほかに、寝物語のことも、またたんに前置きの言葉をも意味します。
「枕合せ」とはつまり「枕事」「枕言」「枕言葉」のいずれの語感をも重ね持ちながらの言葉合せでもある。
そこで、もう一度「降るものは」をとりあげましょう。三巻本系統の本で、私が一等良いと考えて使っておりますのは新潮日本古典集成『枕草子』です.が、それだと第二三二段に当ります。
この、段の分け方も、岩波文庫ですと同じ系統の本なのに、さっきも申しましたように第二五〇段になっている。本文の異同と同様これまた校注している学者の見解で、まことにバラバラなのです。手近な或る学者の三巻本では第二三九段になっています。また成る能因本では第二二六段です。同様につづく「雪は」の段まで含めて第二三五段にしたものもある。第二四〇段という本もある。手当り次第に市販の諸本を手にしてこの為体です。ご存じの「徒然草」も各段に後世の学者が区分していまナが、それは現在二四三段に分かち、どの本でも共通しています。「枕草子」研究がまだ不十分なのだといえばそれまでですが、学者同士の協調もまるでできていない。
そんなわけで私が第何段と申上げてもあまり意味がない。仕方なく、新潮社本をもとに、ともあれ岩波文庫本の段数も二五〇段というふうにとり添えて申します。
まったく煩わしい。たしかに同じ三巻本系統でもまた一類二類三類と微妙に本文の違う異本がたくさん伝わっていることは分かります。が、せめて同系統の本では、段の分け方くらい学者間で申合わせてもらえないか「徒然草」のように、と、一読者として注文をつけておきます。
さて第二三二段(岩波文庫第二五〇段)を今一度私はこう訳してみます。
降るものは(と、仰せに)
雪。
霰。
霙は気に入らないけれど、白い雪のまじって降る感じが、おもしろい。
降るものとしてはふつう「雨」が先ず考えられますが、雨は採っていない。霙には雨の感じがまじりますので、それで「憎けれど」と半分否定しています。しかし雨気ばかりでなく雪のまじって白く見えるのも霙なんですね。で、その雪の感じを引き寄せて「をかし」おもしろいとも評価する。やはり「雪」が何かにつけて風情よく、佳いと感じているわけです、降るものの中では。
しかし次のようなことも読みとってみたいものです。「ふる」と読んでも聞いても当然のように降雨、降雪の降という漢字をあて、「降るもの」をまず考えますが、物事が古くなる、古くさくなる、また、年をとる、老いる意味の「古る」ということも、清少納言の昔なら人は考えずにいなかったでしょう。
すると彼女たちの思いには、あの小野小町の、「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」という秀歌など.がきっと甦ったことでしょう。「世にふるながめ」には、降る長雨と、ぼうやりたゞ年をとって古びて行く自分という、二つの意味が重ねられています。「花の色」とは咲いた花の色香であり、また女としての若い身空をも謂っています。
つまり、雨が降る、我が身が古りゆく、という連想の型がつくられてしまっていたのですね。だから「雨」は気重くて、挙げたくないのです。そこまできちんと押えているところが、彼女らにすれば教養であり、素養であり、つまりモノが分かっているということであるのです。
そして、自然の勢い、話題は「降るもの」の中でも特に好ましいとされた「雪」へ集中します。岩波文庫ですと第二五一段、古典集成本では第二三三段へ移ります。
雪は、檜皮葺、いとめでたし。すこし消えがたになりたるほど。まだいと多うも降らぬが、瓦の目毎に入りて、黒う丸に見えたる、いとをかし。
時雨・霰は、板屋。
霜も、板屋、庭。
文庫本では改行もなく、ただつづけて組んであります。おそらく原文でもそうだったでしょう。
清少納言はこんなふうにまとめた、と、すこし語を補って私は訳してみました。
雪は(と、仰せに)
檜皮葺の屋根に降ったのが、とてもいい。
(その場合)すこし消えがたになったころがいい。
まだそうたくさんも降らない雪が、瓦の目かどに吹き溜って、黒う丸く見えたのが、とてもおも しろい。
時雨、霰は、板葺きに。
霜も板葺きに。
そして庭に。
板葺きとは板そのものを葺いて、石などでただ押えた質素な屋根ですね。
ところでこの一段、同じ一つのことだけをつづけて言ってはいない。雪は檜皮葺きに降った風情がいい、と言い、次にはあの黒い瓦のかどかどに翳のようになって雪がちいさく丸く吹き溜っているのがいいとも言っている。こういう、趣旨の違ういわば発言が一つの文中に何の説明もなく居竝んでいるのは、そのうしろに、「雪は」ないし「降るものとしての雪の面白さは」と出題し、質問した人へ、幾通りもの答えが集中しているからと理解して、すらりと納得できる話ではないでしょうか。
また、はなやかな、優美な、奥ゆかしい後宮の一室で、このように出題が試みられ、美しくも才もある女たちが思い思いに洗練された感覚を、適切な表現にかえて口にしあい、批評しあっている情景、自身それに参加しながら、その応答を的確に記録し、整理して要領をえた文章におきかえて行く清少納言の執筆者としての大きな存在──そんな経緯を想像しながら、かように読んでこそ、平安王朝女文化の奥へまで、今日の我々も踏み入って行けるのではないでしょうか。
ところがそこまで踏みこんで想像し推察しないできたため、ただ清少納言ひとりの才能にすべてを負うたこれを一の文藝作品とのみ、久しく誤解して来たのではなかったでしょうか。
文藝にはなるほど違いないが、枕草子の、ことにこの「──は」「──の物は」といった、いわゆる類想的章段では、後世の連句、連歌に先立つような、一座あっての清少納言の文藝文才が生きていることを忘れてはいけないでしょう。名書記役と私が言うのはその意味なのです。
さて──雪は音なく降るもの。それが檜皮や瓦に、しっとり吸われて降り積む風情を佳いと見ている。まだ嵩が降らぬうちの瓦の目かどに白う溜った雪を、「黒う丸く」と見る心持のこまかさ、たしかさ。「白う」と眺めては「目かど」のかげが映し出せずに平凡になりますね。瓦の黒さをさながら吸いとっている雪の透明な柔らかさが、美しく生きて表現されています。
そして、時雨、霰がほんの暫くのあいだ、ぱらぱらっと板葺きの屋根を打つ音が佳い。長くては騒がしくていやなんですね。だから、長雨でなく、時雨と言っている。
霜の白さは、黒い瓦や黒ずんだ檜皮屋根でより、堅くかつさつぱりした板の上で光る方が佳いと見えているのも面白いですね。そして、庭の霜は庭木や庭土の色を引き立てる、と言う。
霜は置くもので、降るものではない。だからこの段と先の「降るものは」の段とは、分けたほうがいいという古典集成本の校註者萩谷朴氏の見解に私は賛成なのです。
ところで、ここの、
時雨・霰は、板屋。
霜も、板屋、庭。
などというあたり、書きっ放しの感じですね。「霜も、板屋、庭」など、とくに。
それででしょうか、能因本はここの「庭」一宇を落ちつかないものにして削除しています。さらに、前段の「降るものは」からひっくるめて、文章も次のように変えてしまっています。
降るものは雪。にくけれど、みぞれの降るに、.霰、雪の真白にてまじりたるをかし。
檜皮葺、いとめでたし。すこし消えがたになるほど。
おほくは降らぬ.が、瓦の目ごとに入りて、黒うまろに見えたる、いとをかし。
時雨、霰は板屋。霜も板屋。
まるく、うまく、「降るものは」と「雪は」の両方を折衷しています。手を入れた感じに、全体に説明的な文章になっている。三巻本の方が、さっぱりしていますがかなり書きっ放しで、どこか荒っぽく、よく言って簡潔、わるく言えば舌足らずなのと、いい対照と申せます。
しかし、どっちが枕単子本来の雰囲気に近いか、清少納言本来の筆づかいに近いかとなると、確証こそありませんけれど、三巻本の方に私はきりっと光る気稟の清質を感じとっています。悪文めいてはいても、悪文即ち駄文と言い切れない筆の冴えを、そこに私は感じとっています。
と同時に、たったこの一段をとっても、そこに清少納言ひとりの感覚を超えた何人もの女房たちの精一杯の肉声が響いている、そういう文章に三巻本の本文はなっているなと私は読みます。しかもこの読みの真の要に位置し統合している主宰者は、言うまでもない定子皇后その人でなくて誰でありえたでしょう。
一条天皇のこの皇后は、清少納言によれば、完壁の教養と人格を備えた、すぐれて理想的な女人でした。しかも貞元二年(九七七)の生まれですから、清少納言より十以上も年は若い。これも、しっかり頭に入れておく必要があります。清少納言ほどの才能が、それほど若い定子に全人格的に敬意を払い感嘆しているのですから、話半分にしてもたいした女性でした。
一条天皇の御代は、寛和二年(九八六)から寛弘八年(一〇一一)まで続きます。
ところが前にも言うように、定子皇后はちょうど西暦一〇〇〇年の暮に亡くなっている。つまり皇后定子と中宮彰子とが一条の後宮に並び立っていたのは、長保二年(一〇〇〇)のたった十ケ月間でした。それさえ定子方は昔日のはなやかさを失い、よほど寂しい空気にうち沈んでいました。そのあげく二十五歳で皇女を出産のあと定子は亡くなった。二十五歳というこの若さは銘記すべきものです。
かくて定子サロンの絶頂と彰子サロンの栄華とは、したがってまた清少納言と紫式部の活躍とは、時期的にちょうどスレ違っていました。これには時のめまぐるしい政権交替の渦巻が関係し
ています。枕草子の上にもそれは深刻に反映しているのですが、そのあたり今は措いて。試みに、或る本の、或る方の、「奉は、あけぼの」の現代語訳を読んでみましょう。
春は、あけぼの。だんだんあたりも白んでゆき、山の稜線をきわ立たせてほんのり明るくなった空に、紫がかった雲の細くたなびいた風情。
これでは、どうも──というしかない。これでもいいのか、悪いのか。いったい何が何だというのか。要するに感心しようのない文章です。が、逐語的に現代語訳すれば、誰の手にかかってもこうなるしかない。むろん私がするにしても、同じです。つまり「春は、あけぼの」も、「夏は、夜」も、「秋は、夕ぐれ」も、「冬は、つとめて(翌る朝早く)」も、じつは現代語訳という作業を厳しく拒否していると言っていい。人は、これをぜひとも原文でくりかえし音読し、黙読し、また音読して、独特の発見に富んだ自然観照のすばらしさに、直接に、参加するしかない。その代りに、私は、かって言われたことのない発想で、この「春は、あけぼの」等の背後に、前にも言った後宮女文化の誇らかな肉声を聴きとろうとしたのです。
改めて第一段をよく読んでみましょう。声に出して、ゆっくり、それも極力文節に句切って音読してみて下さい。なぜかと言うと、これも難儀なことに、古典の原本写本に便利に句読点がついていることは、むしろ寡いんですね。お持ちの本にかりにきちんと句読点がついていても、それはその本の編者、校訂者の見識や解釈で便宜につけてあると見ねばならぬ。自然、人が変れば句読点にも違いが生じます。その違いは、意味の違いにさえなってあらわれる。句点や読点の打ちどころひとつで散文の意味や文脈がこまかに揺れる。
それならいっそ、句切れるだけこまかに句切って、読み、その一句一句に、例の"出題"に対し"返答"している、一人一人、一つ一つの声を聴きとろうかというわけです。
春は あけぼの やうやう 白く なりゆく 山ぎは すこし 明りて 紫だちたる 雲の ほそくたなびきたる
夏は 夜 月の ころは さらなり 闇も なほ 蛍の 多く 飛び ちがひたる また ただ 一つ 二つなど ほのかに うち光りて 行くも をかし 雨など 降るも をかし
秋は 夕ぐれ 夕日の さして 山の端 いと 近う なりたるに 烏の 寝どころへ 行くとて 三つ 四つ 二つ 三つなど とび 急ぐさへ あはれなり まいて 雁などの つらねたるが いと 小さく 見ゆるは いと をかし 日 入り 果てて 風の音 虫の音など はた 言ふべきに あらず
冬は 早朝 雪の 降りたるは 言ふべきにも あらず 霜の いと 白きも また さらでも いと 寒きに 火など 急ぎ おこして 炭 持て わたるも いと つきづきし 昼になりて ぬるく ゆるびもていけば 火桶の 火も 白き 灰がちに なりて わろし
今度はいっさい句切らずの、もと通りに、それを自分なりの呼吸で読んでみましょう。
春はあけぼのやうやう白くなりゆく山ぎはすこし明りて紫だちたる雲のほそくたなびきたる
とくべつ難解な表現ではない。意味も、あなたが今ざっと印象をもたれた、想像された、たぶんそのままでいいのだと思う。夏、秋、冬とも、厄介なことばは一つもない。一つ二つは有ったにしても、そう躓くことはない。むしろ自身の想像力を信じて分かったという気でいていいのです。そして何度も読む、読み返す、それがこの第一段のためには最上乗の鑑賞方法であると私は申します。
「春」は、どの時刻が一番趣深いかしらね、これが出題。そしていつか、誰からか「あけぼの」と答が出た、この、すばらしさ。
私たちはもういろいろ物を知っていますから、今、とくにこれをどうとも思いません。そうか。なるほど。けれども春という季節で、その一日で、一等みごとな瞬間をすかっと「あけぼの」と言ってみせたのは枕草子が最初で、その後この撰択の与えた感化は決定的でした。この発見はじつに枕草子の独創であって、万葉集にも古今集にも、漢詩にもなかったと云われています。はじめて春の曙の美しさ、趣の佳さにここで見極めがついた。定子皇后はさてこそ、これを最も佳しと定められ、清少納言も枕草子巻頭を飾るにふさわしい第一声と見て、すばらしい文藝の冴えを見せました。
春は、あけぼの
それは定子サロンならではの趣味の佳さとして貴族社会に喧伝されることになったのですね。
どうかこの「春は、あけぼの」の一節を重ねて句読点抜きで読み、あなたの判断で、どこへ句切れをつけるべきか、試みてごらんになるといい。変化も可能です。そして句読点のないのが結局ふさわしいのかなアとお思いになったのではないか。それほど言葉と言葉とのつづきぐあいに微妙に前後重なり流れる快適な調子があります。幾らでも句切れて、しかしまるで句切らない方がいい、そこに──清少納言なりの名調子が生きている。夏、秋、冬、みな同じことが言えます。
「夏は」「夜──」という端的な撰択に、月のある時分がひときわ佳い、と誰かの声が強調します。と、また、いいえ闇ですともっと佳いわ、と別の声が押しかえす。「闇もなほ」の「なほ」を具体化するように、蛍がいっぱいの時なんか佳いわね、それも、無数に光の筋を描いていたりするとね、と、次から次へ。ところが、これに対しても、いいえ、ただ一つ二つくらいが「ほのかに」光ってすっと闇に消え入って行くのもすばらしいことよという、味な感想が加わります。そして一転、夏の夜を雨の降りつづく風情も大好き──と、聞けば、さもと頷ける、面白い展開。
これらを全部少納言ひとりの感覚に帰してしまっては、かえって無責任そうな雑駁な思いつきの羅列と見えかねない。ここは何人もが銘々にこれだけのことを、いやこの何倍ものことを言い合ったうえ清少納言の筆の力でこう整理されたというのであってこそ、その一つ一つが生き生きと、こまやかで、美しくなる。それぞれに佳いなという気になれる。
言うまでもなくここの「雨」は、「夏は、夜」と冒頭ぴしりと定められた中の雨でして、季節ぬきに一般に夜の雨をさしているのではない。
そして「秋は──夕ぐれ」とつづくのですね。言葉数は四季のうち一番多いけれど、難しくはない。むしろやさしい言葉で言われていること、を、脳裡によく追体験し翫味したいものです。
たとえば夕日がさして、「山の端いと近うなりたるに」──これは、映える夕日が山の端にぐっと接近したというだけでなく、夕日のさすにつれて山の端も山はらの色濃さもふだんより眼近に迫って見える現象を的確に捉えているのですね。じつに、よくものを見ている。「あはれなり」とあるのも、へんにひねくらず、「ほんと、佳いのよねえぇ」と口々に感嘆した声をすばやく、簡潔にとらえたものと読みたい。
「まいて」は、「ましてや」です。「はた」というのも「むろん」「まして」「これはもう」といった強調ですね。
この秋の一節は一直線に話題が運ばれながらも、からすの近さと雁の遠さが、山の端と高い秋空との対比を引き立てて絵画的に巧みに言われています。そのうえ「夕ぐれ」から「日入り果てて」と、つるべおとしに早い時間の推移もうまく持ち出している。秋の季節感に漂う澄んで静かな、いい意味の寂しさを「風の音」「虫の音」など音色で深めてもいる。心憎い観察、そして巧みな筆づかいですね。
「冬は、つとめて」
前夜からみて翌る朝早く、そういう刻限を「つとめて」と謂っています。春の曙に対して、冬は早朝、それも寝て起きての翌る朝早い刻限が佳いという。いやが上に寒い時刻です。凛烈の寒気がそのまま美しいと感受されている。夏の夜、秋の夕暮の対比以上に、この春と冬、刻限としては前後そう違いのない朝明けの時点を捉えながらのみごとな対照に、思わず息をのみます。
この一段、春をはじめに冬でとじめた、というのではありません。当然にも冬のあとへまた春が来る。「冬は、つとめて」と読みつつもまた更に「春は、あけぼの」へ立ち返って行く予感と期待とを抱いていたい。すると冬の朝の寒さの魅力がひときわ冴えます。清少納言の言葉が生きて来ます。「霜のいと白きも、また、さらでも」どっちにしても「いと寒」いのが冬の朝早なわけですね。そこへ火、炭と、白さに対する赤さ、黒さ、熱さ、温かさを人の身動きに乗せてきびきび筆を執り表現して行く。
「いと、つきづきし」とは、季節にも状況にも至極ふさわしい、似合っているというのです。それも「昼になりて」すこし暖かになるにつれて「火桶の火も」白い灰になりやがて崩れてゆく、その「ぬるさ」「ゆるさ」は感心しないという。颯爽としている。
何度読んでも一つとして余分な口をはさめない、みごとな感覚の冴え、筆の冴え。枕草子の魅力はこの第一段にたしかに尽くされています。
古典を現代語に置きかえる、ことに詩歌やこの枕草子ふうの文章を現代語訳することに、私は、主義主張としても本当は冷淡なのです。反対ですらある。原文を何度もくりかえし声に出して読む。すると分かってくる。それが決して不可能でないと幼来承知しているからです。「春は、あけぼの」「秋は、夕ぐれ」とどうか口遊んで、音読して、下さい。読書百遍、意は自ら通じるものと訓えた古人の言葉を、私は信じています。
追記 枕草子には随想的また回想的といわれる多くの章段が別に含まれていますが、類聚類想的な章段こそ、定子皇后の意志に根ざした本来の執筆と考え、あえて「春は、あけぼの」を独立させました。いずれ拡げて、『枕草子を読む』予定ですが。本稿はラジオ放送をもとに書きおろしました。著者
一つな落としそ
「解説」とはいえ、専門家.がよくやる国文学史ふうの紹介や位置づけは、敢えて避けたい。作者について、作品について、例えば私が信頼してここにも用いている新潮日本古典集成『枕草子』には、萩谷朴氏の詳細な「解説」が付いている。必要なら、そういうものに即いて見てほしい。
私は、ここでは、一読者でもある自分がどう『枕草子』を受け入れて来たか、話題を絞りかつ補足的に語って、.こ参考に供したい。
一
確実に言えること、まだ不確実なこと=推量の利くこと、確証の不可能なこと=推量も利かぬこと。およそ歴史的な事象のすべてが、こういう三つの部分をだきこんでいる。古典と称される文学作品も例外ではない。『枕草子』の場合は、ことに確実に言えることがすくなくて、かなり大事な点で確証の不可能な、推量も利かぬことが多い。
『枕草子』については、ほぼ十・十一世紀の交に、一条天皇の後宮定子藤原氏とその女房清少納言が深く関係して成った、いわゆる随筆風の文集である……と、およそこの程度しか確実には言えない。
まず伝世の本文が大きく分けて四系統ほどある、その中でも、ことに三巻本系統と能因本系統の本文のどちらがより原本に近いかの議論なども、サッパリ決着はついていない。他の二つは、明らかに、より後年のものらしい。極端にいえば、四系統の本文それぞれは、まるで別の作品かのように相当程度ことなっていて、どの本文で読むかが無視しがたい選択になる。私自身は熟考の結果、三巻本をよく校訂されたと思われる、前記、萩谷朴氏の「新潮日本古典集成」本に主に拠った。
清少納言が『枕草子』の著者ないし作者であるとは、今では疑問をさしはさむ人は無い。しかし「著者」「作者」なる二字の示している意味が、『枕草子』の場合は微妙なものがあり、その辺りから『枕草子』観に或いは大きな岐れが生じて来よう。例えばこれを「編者」の二字に置き換えたならどうか、大きな違いになる。むろん清少納言が『枕草子』の純然「編者」だとは所詮言い切れず、ごく私的な清少納言自身の記事も相当量含んでいるのは確かなことではある。が、そういう内容も含めてこれが清少納言の「編著」というべきものだったかも知れぬ余地も、歴然と目に見えている。もし言われているように、類想的、随想的、回想的と三種に『枕草子』の内容を大別した場合、最初の部分、即ち「……のものは」「……は」という問いかけ、ないし呈示、ではじまる段々には、ことに、素直に読めば読むほどすべて清少納言一人の独自の感性・観察というより、より広い、より多くの、目や耳や感性がさぐり当ててきた多彩な観察と肉声の魅力、また多彩ゆえの多方面へのバラつきがあると読みたい、また読める、気味がある。
おそらく、『枕草子』の従来の読者がある意味で、と言うのも表記上の単調さの故に一等「読み」に閉口したか知れない、いわゆる名辞列挙ふうの段々にこそ、実は『枕草子』本来の意図なり成立への動機なりがあったのではないか……との、推量が利く。私は、それを、大事に思うのである。
人にあなづらるるもの。
築土の崩れ。
あまり心善しと、人に知られぬる人。 (第二十四段)
集は、
古万葉。
古今。 (第六十五段)
類想的な、「もの」型章段、「は」型章段はおよそ半々、都合(数えかたにもよるが)百五十五段ばかり、ある。全体の約半分の段数に相当し、相当な分量だと言わねばならぬ。そして残りの内、約百段ほどが随想・感想的な章段に当たる。
慶び奏するこそ、をかしけれ。うしろをまかせて、御前の方に向かひて立てるを。拝し、舞踏し、さわぐよ。 (第八段)
月のいと明きに、川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などの割れたるやうに、水の散りたるこそ、をかしけれ。 (第二百十五段)
必ずしも前の類想的章段との間に質的に一線は画せない。「想」の上で互いに融通している。と言うより、概して「は型」「もの型」の発想に自然に混入していた感想が、定着し成長して行くと、そのまま随想的な章段に自立して行く気味気脈がある。そして、更にその随想なり感想なりが、自身の体験に絡んで、より批評的に人事や生活や事件に及び、当座ないしは回想的に記録されて行くと、即ち日記的ともいわれる章段へ展開すると見られる。例の「簾をかかげて看る」式の段々であるが、日々の感想や随想のより日録的な変容発展とみれば、たしかに理解しやすい。理解に、無理や不自然がない。
『枕草子』は段階を踏んで趣致を深めて行った、だからそれなりにかなり期間をかけて成った所産と思うしかない。しかもなお日記日録風の段々にしても、必ずしも言われているようには、往時を回想した書きぶりばかりではない。たしかにその日その日のいわゆる日記でない記事が多い。明らかに西暦一〇〇〇年に二十五歳という若さで逝去された定子皇后への熱い思いが下にあって回想されている記事は多いだろう。その意味でも、いかに清少納言自身のいわば自負や自賛の文章とて、皇后のサロンという「場」なしに在りうべくもなかったという自覚に貫かれている。
どういう点にそれがうかがえるか、まず、考えてみたい。
回想的な章段ではことに、書かれている十世紀の「内容」と書かれたであろう十一世紀という「執筆時点」とに、無残なまで歴史的な裂け目があり、裂け目を覗きこむ「著者」の目には、強い意地.が光っている。裂け目などまったく無いかのように筆を遣る意地である。栄華の絶頂から、天人の五衰もかくやと失意の底に堕ちた皇后定子のいたましい体験と死は拭ったように影もとどめず、いかにも理想的な麗しい姿や声、言葉だけが出入りの公家や仕える女房たちの宮廷生活とともに、生き生きと、晴れやかに優しく描かれている。あたかも現在進行形で書かれている。すべて苛酷な政変等の経過をつぶさに承知の上で、しかもそのように快活そうに書かれている回想であり描写なのだという事を、やはり、我々はよく知っていた方がいい。そこに、「著者」ならではの「批評」が生きている。
言うまでもない、皇后定子は中関白藤原道隆の女であっ.た。のちに「この世をば我が世とぞ思」った道長は、道隆の弟だった。道隆の死後、道長は道隆の子の伊周や隆家を追い落として政権を握り、女の彰子を一条天皇の中宮に納れて皇后定子を追い落とした。簡単に書けばおよそこのような「政変」があった時期に清少納言は定子に仕え、愛し愛され、その不運な死を見送った。先にもいうように西暦一〇〇〇年(長保二年)の暮れの死であった。
では『枕草子』はすべてがその以後、つまり十一世紀に入って以後の執筆であったか。もし、そうであるならば『枕草子』は清少納言一人を純然「著者」として持っていいのである。
だが、いろいろな理由からすべてが十一世紀に入っての執筆などとは考えられず、かりに随想的章段はしばらく措くとも、すくなくも「は型」「もの型」の類想的章段は、おおかた皇后存命中の所産でなくてはならぬ内証が、多々、ある。『枕草子』成立の動機が、そこに、ある。
二
第九十七段に、ふつう回想的章段と目されているこんな記事がある。
中納言隆家が姉中宮(当時)のもとへ来て、すばらしい扇の骨を手に入れたので佳い紙を求めて張らせ、進呈したいと言う。どんな骨かしらと中宮が問われても、弟は、ただもう、すばらしいんです、見たこともないみごとさですと言うばかり。その場に居合わせた清少納言が、思わず、それじゃそれはきっと海月の骨なんでしょうよと口を挟んだ。海月に、骨はない。見たこともない道理であり、隆家は手を打って、
「これは、隆家が言にしてむ」
と、よろこんだという。この発言が、意味深い。それについてもすぐ触れるとして、その前に、もう一つ無視できない文章の続くことに言い及んでおきたい。
かやうの事こそは、かたはらいたき事のうちに入れつべけれど、「一つな落しそ」といへば、いかがはせむ。
上に語ったような(「扇の骨」を「海月の骨」に謂い換えたような)事こそ、こう言えば(こう書けば)、いっそ「かたはらいたきもの……は」の内に、「にがにがしい自慢ばなし」としてなり挙げねば済まぬ類いなのだが、しかしこんな話題も「一つとして抜かさぬように」というご希望があっては、仕方がない……と、そう、この「筆者」は書いているのである。
これを読んで察しのつくことが、一つは、ある。書いている清少納言が「執筆者」には相違ないものの、書く内容に関して、必ずしも「著者」たる絶対の自由意志を行使していない事である。読者ないし他者の制約を受けるか希望を容れるかしているのである。
参考までに第九十一段に「かたはらいたきもの」が挙げてあるのを見よう、何項目かある最後に、こういう一例を「筆者」は記録している。
「殊によし」ともおぼえぬ我が歌を人に語りて、人の褒めなどしたる由いふも、かたはらいたし。
さしたる作ともみえぬ自作の「和歌」を他人に聞かせては、これを、どこの誰それが褒めたなどととかくうるさく言いたがる手合いは、男でも女でも「かたはらいたい」と言っている。そしてここの「我が歌」を、「我が事」とか「我が上」とかに置き直せば、さきの「海月の骨」一件を叙する清少納言の筆つきが、まさに絵に描いたほど「かたはらいた」い感じ……なのである。
と言うことは、つまり第九十七段を書いている「筆者」の意識にもたぶん「読者」の意識にも、ここですでに第九十一段ふうの「もの型」ないし「は型」類想の事例が、少なくとも『枕草子』の原型を成す目前の材料として、すでに意識され取材されていたらしい事情が想像されるのである。つまりこういう著述が、一種の取材物または編集物としていわば関係者の間では互いに承知されていて、「恰好の話題」なら少々のキズに目をつむっても、一つも「洩らすな」「落とすな」と「筆者」は、要望または命令されていたらしい事が、また、明らかに看てとれるのである。
では、その記録ないし叙述を「一つ」とて大切にし、書き「落とすな」とされている事柄とは、いったい何であったか。
文脈からして「これは、隆家が言にしてむ」つまり隆家が自分で言ったことにし、他人に誇りたいという「その事」こそそうであろう。要は、隆家が「さらにまだ見ぬ、骨のさまなり」と言ったのを、それなら「海月の(骨)ななり」と澄ました顔して清少納言が中宮に申し上げたという「その言葉」が、それに相当する……だろう。
だが前後の話から推して、「その言葉」といったのでは意味も筋も通るまい。「その物言い」または「その受け応え」と読んでこそ、意味も筋も、よく通る。中宮や隆家が思わず笑って清少納言を褒めたのは、いわば隆家のおおげさな「見たこともない(扇の)骨」との売り言葉を、ほとんど直訳にひとしい物言いでしかも軽妙にからかって見せ、当座の笑いを明るく誘い出した「気の利いた」受け応えが、いたく受けているのである。隆家のごときは、世にめずらしく有り難い「(扇の)骨」を、自身の発明として「海月の骨」のようだとよそで吹聴してまわる権利まで、嬉々として求めている。
「一つも落とすな」という中身が実にこういう物言いや受け応えの類いであるとすると、それにどんな意義や価値があったのか、そして、いったい誰が「一つな落しそ」と意志表示していたのかが、問われねばならぬ順番になる。必然、そう、なる。
ここで断っておきたい、この段の地の文に、過去形の用言は一つも用いられていない。今日あった事を今日書いた……と読んですこしも差し支えない筆づかいになっている。なぜ断るかというと、本当に今日あった事を今日書いた場合と、はるかな後日後年に回想しているのだとした場合とでは、「一つな落しそ」の発言主体が大きく変わるからである。後者だと単純に当時十一世紀の「読者」の要望と読める。前者だとすると、もうすこし内輪な、当時十世紀の「仲間ないし協同作業者」との申し合わせのように受け取れる。前者の場合、具体的には、主宰者中宮定子をも含む所属サロンの女房たちの表情や肉声が、ありあり目に耳によみがえってくる。
ここで念のために問題の第九十七段の本文を、萩谷本にしたがい、通して挙げてみる。一部、話者が分かりいいように括弧に入れておくので、どうか虚心に、この一段.が、とうに中宮も逝去されて年を経ての「回想」と読めるのか、ほぼ現在時点での「日録ふう」の執筆と読めるのか、考えてみて欲しい。
中納言(隆家)まゐりたまひて、(中宮に)御扇たてまつらせたまふに、
「隆家こそ、いみじき骨は得てはべれ。それを張らせて、進らせむとするに、おぼろけの紙は、得張るまじければ、もとめはべるなり」
と申したまふ。
(中宮)「いかやうにかある」
と、問ひきこえさせたまへば、
(隆家)「すべて、いみじうはべり。『さらにまだ見ぬ、骨のさまなり』となむ、人々申す。まことに、かばかりのは見えざりつ」
と、言高くのたまへば、
(清少納言)「さては、扇のにはあらで、海月のな(ん)なり」
と(二人に)きこゆれば、
(隆家)「これは、隆家が言にしてむ」
とて、笑ひたまふ。
かやうの事こそは、かたはらいたき事のうちに入れつぺけれど、「一つな落しそ」といへば、いかがはせむ。
新潮社刊の萩谷本では、この「一つな落しそ」に、(人が)と、特定を避けて話者につき傍註がしてある。巻末の解説で読むかぎり氏は、この「人が」を、ほぼ十一世紀の「読者が」の意味に読んでいるのだが、果たして、どうか。少なくもそう簡単に決めてしまっては、この興味深い一段の価値を下げてしまいはしないだろうか。
上の本文を素直に読む人が、これを、一議に及ばず後年の「回想」であると言い切れるわけがない。文字どおり今日あった事を今日書いた「日録」風とまずは受け取り、その後に果たしてそうかと、腰を据え考え直してみることも出来る……といった所が、自然当然の読みではないだろうか。なぜ考え直せるか……とならば、筆者ないし著者というものは、「そういう風に」書こうと思えば何年後にでも「そう」書けるからである。六十歳の作家が十代の体験を現在かのように表現し創作することは、十分に可能なのは云うまでもあるまい。
第九十七段は、果たして「そういう風に」書かれた文章だろうか。
私は、この問いに今、確実な答えは出せない。当面、出す必要もないと考えている。なぜなら、執筆意図は「今が今」か「昔の今」か、どっちにせよ「今」を見込まれて文章表現が成り立っている以上、「これは、隆家が言にしてむ」という発言と「一つな落しそ」という要望との位置している時点は、時も同じ「今」なる次元で繋がれていると読むしかないからだ。つまり隆家のは「昔」の発言で、「一つも落とさないように」の方はかけ離れた「今」の言葉と聞くなどは、「今」にしぼった執筆の原則を弁えない勝手読みになってしまうからである。二つの発言は同じ次元で連帯しているのである。
例えば、「とて、笑ひたまふ」までが「とて、笑ひたまひき」とでも過去形で語られ、その後に、「今」の書き添えの体で「かやうの事こそは」とでも「ことわり」がしてあるなら別だが、そうは書かれていない。「いかがはせむ」という「ことわり」かたは、「昔」のことを「今」の人にことわっているのではなく、「今」のことを「今」の人にことわっているという形と意図とを正確に守っている。もう一度言おう、「隆家が言に」と「一つな落しそ」とは、同じ「時点」を執筆心理や態度に支えられて、つまり方法に支えられて、共有している。「一つな落しそ」と「筆者」清少納言に対し望みかつ命じているのは、けっして「後世の読者」でなく、同じ読者でも中宮ご在世時のごく身近で内輪な「初原の読者」であったろうと、十分妥当に推量が利く。その推量に立って、次には、隆家の言葉とその内輪の声とが関連し意味する所を問い直さねばならないのである。私が確認したいのははっきりとその事であり、それが問題の呈示として自然に納得できるなら、この段の実際の執筆時期がいつかは押し超えて、その詮議に自在に進み入れる。そして、それこそが『枕草子』理解の眼目になって来る。そう思う。
三
では、さて、気.が利いて、面白い受け応えや物言いを「一つとして落とすな」とはどういう意味か。
素直に聞いて、そして状況から察して、そういう応答や物言いの実例・事例を収拾し編集しているらしい……といった事になるだろう。事実『枕草子』にはそういう例.がかなり多く、回想的章段といわれる大部分がそれと言ってもいい位だ。「香炉峯の雪」も「草の庵」も「鳥のそら音」も「此の君」も、みなそうだ。
ないしはこの第九十七段の場合なども、例えば「かたはらいたき……もの型」類想の具体的な一例として、筆者の自慢ばなしというより先に、中納言隆家その人の、「殊によしともおぼえぬ我が『持ち物』を人に語りて、人の褒めなどしたる由いふ」例が批評され採集されている……と読んでいいのかも知れない。
それにしても、そんな受け応えの例など拾い集めてどんな意味があるのか。その疑問に対し、ここで『枕草子』の「枕」という言葉を詮議してみたい。
『枕草子』のなかで「枕」に関連してものを言っているのは「跋文」だが、一読、話がちと面白過ぎる気味はある。しかし、だからと言って右から左へ全否定もならぬ、これはこれで大切な証言に相違なく、私には読めている。
書かれている要点は、こうだ。佳い紙が沢山に贈られて来た。天皇方ではその紙に『史記』を書かれるそうだが、わが中宮方としては何を書こうかという段になって、清少納言は、即座に「まくらにこそは、はべらめ」と提案したという。それは佳い、それならばお前に取らせようと、その料紙は中宮から彼女に託された……というのである。
「しき=史記」に対して「まくら」につき、こういう説がある。「しき」は「鞍褥」、「まくら」は「馬鞍」で、縁の言葉であると。
これを清少納言の機知頓智とかりに読むにせよ、「馬鞍」は「鞍褥=しき」より「上」に置くものゆえ天皇方に対し礼を欠くことになる、だからこの解釈は穏当でないと言う学者もある。しかしである、「しき」の正体が『史記』と分かっている以上、もし縁を読み対を読むのに馬具のそれで話が済む道理もない。たとえ馬具に絡めたのが気が利き面白くはあれ、なおその上に、向うが『史記』ならこっちは『枕』と言ったその意味が誰に対しても十分面白く通るのでなければならぬ。十分通ったからこそ、定子はその紙を清少納言に与えるか預けるかしたのである。
「歌枕」ということが盛んに言われ出した、それも『枕草子』の時代とほぼ重なっていた。和歌に詠みこまれた名所を「歌枕」という少なくもそれと同等に、そういう名所を書き集めた本、書物、をも「歌枕」といった。
「枕言葉」というおおかた和歌に関連して用いられる言葉は、今も中学生くらいが教室で習っている。では「枕ごと(事・言)」はどうか。あまり耳なれないが、日常茶飯の話題・話柄、ないし常々に用い馴れた常套の言葉・物言い・受け応え、さらには引用などの際に根拠として用いうる言葉を謂う。清少納言が「枕」と口にした時には、実にこういう「枕ごと」を集めた本にしてはどうかと提案していたのであり、それでこそ、天皇方の趣向が中国正史の『史記』を写す料紙にというのに対し、中宮方では女らしくごく日常の「枕ごと」にと、みごと好対照を成しえたし、『枕草子』成立への、動機としても成果からしても、間然するところない説明がここに、ある。「山は」「市は」「原は」「海は」など歌枕系統の「は型」類想、「むつかしげなるもの」「たのもしげなきもの」「心にくきもの」など枕ごと系統の「もの型」類想など、まさに「枕」収集のおそらく初原の計画そのままを、内容・形式両面で体現しているのであろう。「一つな落しそ」とは、適例ならば一つも落とすことなく拾い集めておきましょうという意志表示なのであり、まして「海月の骨なんでございましょうよ、それは」といった即妙は、たとえたまたま「筆者」の自慢ばなしに類するいやみはいやみとしても、なお、記録に値すると見たのである。
なぜ、しかし、そんなものを収集する必要があったか。
後宮は、「女」の世界である。直接に政治に係わることはないが、「男」を迎え入れ楽しませうる魅力なり能力なりにより、間接に政権の行方に連動しても行かねば済まない世界ではある。そういう小世界が宮廷社会には鼎立していた。そして私のいわゆる「女文化」の魅力や能力を熾烈に競いあっていた。具体的には、定子皇后なら皇后が主宰している女房総員が挙げて持たねばならぬ、集団としての「文化的個性」が、いつも男の興味と賛嘆の思いを惹くべく、念入りに用意され日々に洗練されていなければならなかった。それが後宮の後宮たる要件であり、その魅力能力に男たちが寄りつかねばただ恥では済まない、集団としての死活に繋がった。
その頃、後宮ではないが大斎院選子内親王のサロンが、もっぱら和歌を巧みに読みかわすセンスの佳さで貴紳の人気を集めていた。これに対し中宮定子のサロンでは、女房たちの躾けの佳さが看板であったらしい。躾けの佳さとは、何か。行儀の佳さもあったろう、衣裳や化粧の佳さもあったろう。しかし何よりも、清少納言その人に典型的に見られたような、水準の高い物言いや受け応えの、気が利いて洒落た面白さ・賢さ・優しさが公家たちにはことに大評判であった。日常生活がそのまま美であり機知であり配慮である、そのような女の性質にふさわしい濃やかな感性を、定子率いる女房たちは挙げて「ことば」に託して表現した。表現できるよう躾けられていた。
一朝一夕にしかし躾けは成らない。日々の用意と洗練とを怠るわけに行かない。なにらかの「事」が、その「用意と洗練」のために成されていたとして、考えられるのは内輪でその気で話しあうというふだんの学習、および話しあいのなかから得た創見や発見の「記録」「書記」である。佳い受け応え・佳い物言いのための討議を経たいわばマニュアルづくりである。少なくも初原初発の狭本『枕草子』は、まさにかかるマニュアルとしての「枕ごと」集成として、所属集団の誇りをかけて企画し実現されたものではなかったか。むろん「執筆編集者」は清少納言であったろう、が、「企画監修者」は定子であった。『枕草子』はおそらくそういうものとして初動したに違いない。が、定子の不運が結果的にわるく響いて十分に仕上げて撰上される以前、すでに一清少納言の私有に帰するような、彼女にすれば悲しい時勢の成り行きを見たものであろう。
私独自のこの推量を、たとえば『枕草子』各段の雑然とした編集ぶりから否定したくなる人は多いかも知れない。しかし、同じそのことが私の推量を支持するとも言えなくはない。清少納言を「書記者」に類想的章段を主とした、いわゆる随筆というより記録・筆録といいたい原『枕草子』は、ひとまずすでにマニュアル化を遂げていて、それへ定子皇后没後の「著者」清少納言の書き加えが増すにつれ、幾度幾種にも内容や配列の異なる「冊子」が出来かつ流布しながら、順序もない止めどもない異本増殖を結果したことが、十分に考えられるからである。
それにもかかわらず、あらゆる異本の序段は、あの「春は、あけぼの」であった。春という季節の、一等佳い刻限はいつ時分であろう……。定子の問いかけに対し、「あけぼの」という古今に絶した答えを返して中宮をよろこばせたのは、おそらくは清少納言その人であったに相違ない。それとても、だが、我々はその背後に、すぐれた「女文化」それ自体の豊かな基盤がすでに用意されていた事実を忘れてはならない。『枕草子』を、ひとり清少納言の才能や個性にのみ引きつけて過大に思うのは、彼女のためにも、ひいきの引き倒しであることを知っていたい。
いはでおもふぞ
『枕草子』を訳してみないかと持ちかけられた時は、おどろいた。そもそもどの本文を採用するか、三巻本か、能因本か、前田家本か、堺本か、よほど肚を決めてかからねば済まない。有名な、巻頭の「春は、あけぼの」の第一段からして、右の四系統の本文はみな異っている。
段の分けかたにしても首段と跋文のほかは、手近な『枕草子』諸刊本、極端にいえば一つとして同じのが無いほどばらばらで、どの本に拠って訳せばよいのか、しごく難儀な判断になる。それでも私は引き受けた。
『枕草子』はもともと好きな古典だし、萩谷朴教授の周到な註釈(新潮社版)とも出会っていた。
それに、自分なりの理解を訳文に反映させてみたい気もあった。
定子皇后はわずか二十五歳で亡くなっている。西暦、ちょうど一〇〇〇年の暮れに当る。
清少納言の方は、諸説勘案してなお十歳の余も年長であったろう、はじめて宮仕えに出たのが九九三年の冬と考えられるから、九九五年四月の関白道隆死、五月道長内覧という、いわば定子方に目立って衰運が訪れるまで、せいぜい一年半しか主君の絶頂期を見知っていないことになる。その栄枯盛衰の落差は思いのほか大きく、『枕草子』の、ことに回想的章段には寂しい翳が漂っている。
『枕草子』を読んで清少納言の個性に惹かれる(或いは反撥を覚える)のは当然として、高校時代にはじめて教室で習ってこのかた、清少納言より、いつも定子中宮(皇后)寄りにこれを思い入れて読む習慣、性癖を私はもちつづけてきた。定子の掌の内から出る気のない清少納言、という建前を意識してきた。清少納言の晩年がよほど不遇かつ悲惨なものだったらしいことは十分察しられる。関白道隆、その子伊周、その女定子らへの熱い讃嘆、切ない追悼とちょうどそれは釣合ってもいた。
定子との関わりは、余人の忖度をゆるさぬみごとな緊張を保っていたに相違ないとして、積んだ雪山がいつ溶け失せるかを争い合った逸話にも見られる、かなり際どい線にまで二人の間柄がよじれて行くこともあった。それは、見落せないことだ。笑談にせよ一条天皇の限にも、「これまで(中宮)御寵愛の女房らしく見て来たが、この様子ではあやしいものと思うぞ」と映じたくらい、この賭けの場合の定子の突っ張りは烈しかった。たんに清少納言に「勝たせまいとお思いになったのであろう」程度を超える、或るむごさをすらはらんだ対抗ぶりだった。
それにもかかわらず、この段(萩谷本第八十二段)などをむしろ例外に、中宮定子と女房清少納言との間柄はまことうるわしく、稀有の感動でりっぱに装われている。
名高い「香炉峰の雪」(第二百八十段)「草の庵」(第七十七段)「此の君」(第百三十段)などの逸話を介して、私には清少納言の活躍ぶりより、それをいつも悦んで眺め、頷き、愛している定子の存在の大きさが感動的だった。すぐれた女房たち(とりわけ清少納言を、と言い切ってむろん構わない)を身の傍へ寄せては女の素養を説ききかせたり、機会ごとにそれを試み(心見)ている定子の、いわば〃躾け"のよさに惹かれてきた。
その挙句といおうか結果といおうか、『枕草子』を清少納言の手になる著述と私は認めながら、その成立を命じ、促し、進めた直接の指導者、主宰者はそもそも定子中宮であり、そのことを『枕草子』本文からあやまりなく読みとろうと努める読みかたへ、いつか自分の姿勢や視線を定めてもきたのだった。
私は「女文化」、その本質や実体、ということをもう長く、大事に考えつづけてきた。平安朝貴族社会の中で、男そして女の関わり様をそのまま「文化」と推定し、鍛錬しようという態度を最も自覚的に日常生活の中で持ちつづけた人物として、私は、紫式部や清少納言以上にこの定子中宮といううら若い貴女を想ってきた。もし『枕草子』という著述が定子のサロンを母胎に誕生していなかったら、私のいわゆる「女文化」という理解は定まりようがなかった。その『枕草子』の存在の大いさに根ざすことなく、ひとり清少納言の個性と才能によってこうも結実したなどと、私は夢にも思いたくなかった。
清少納言は、定子皇后のサロンにおけるいわば「枕合せ」の卓抜な書記者として才能を発揮しながら、狭本『枕草子』を、広本『枕草子』へ充実かつ変容させて行った人と私は推察している。ことに類想的章段からは、定子指導下における女房たちの感性、素養、判断を反映した多くの"肉声"が生き生き聴こえるし、そう聴きとめて、格段に『枕草子』が面白く読めてくる。そう思う。
引き受けた訳の文体には、きびきびと男まさりな清少納言の筆致を再現すべく、しかも音律に流露感の添うようにと、心がけ、意訳はもとより、逐語的直訳の愚もつとめて避けた。
「此の君」の逸話の末に、どの女房のことにしても、「殿上人がほめていた」と「お聞きになるのを、そう評判される人の分までおよろこびになる、そんなお人柄」と清少納言は中宮のことを捉えている。そう承知の上で彼女は活躍し、定子も「何もかも合点」の上でいつも「頷かれ」「にっこり」「お笑いになる」。
清少納言が仲間のなかで苦境に立ち、中宮としても表立って庇ってやれぬ折の消息にも、ただ一と言「いはで思ふぞ」と書いてやれば、楽しめない里住みの日々を鬱々と過ごしている清少納言は、「悲しかったのもみな慰められ、嬉しくて嬉しくて」と述懐せずに居れない。
清少納言には言いたいだけ、したいだけを言わせておいて、中宮定子は「いはで思ふ」という、より大きな愛情と信頼を示しつづけた。『枕草子』の魅力は、すべてこの一句にかかっていたと言える。まして道隆政権から弟の道長政権へと渦巻く政変を背景にありあり感じとる時、「いはで思ふ」とは万感寵もる生きかただった。王朝女文化の、或いはそれこそ熱く切ない芯であったと言えるのかもしれない。
桐壺更衣と宇治中君
野分─死なれ死なせた源氏物語 二○○二年春書下し
桐壺と中君 講演『源氏物語の女性たち』第一回 中日新聞社
源氏物語への旅 「The Gold」一九八六年一三月
野分─死なれ・死なせた源氏物語
『源氏物語』五十四帖のなかに「野分」の巻があり、いま、ふと、とても懐かしい。七十に手のとどく歳になっても記憶にある、京都の小学校に通っていた時分、台風の後というか、まッ最中ではなく雨もあがった後など、妙に心の開放される爽やかな、賑やかな、しかも寂しやかに荒れてふしぎな感銘を受けたものだ。人は秩序よりも混乱のさなかに何かしら希望の予感をもつのであろう。
「野分」の巻は、この「嵐」の風情も予感も、いかにも、よく書いている。ちょうど嵐のまッ最中に、光源氏の息子の夕霧が、まだ少年といっていい青年だが、父光の君を六条院に見舞って、そのとき、初めて、彼は義理の母にあたる紫の上を見かける。当時は、親子の間柄といえど、女はめったに顔を見せなかったし、まして光源氏が掌中の珠のように理想的な妻として大事にしていた紫の上であるから、我が子といえども決して顔など見せない、声も聞かせはしなかった。それほど箱入りの奥方であったが、嵐のおかげで簾や几帳のあれた隙間から、野分のさまに心惹かれていたか、やや端近に出ていた紫の上を夕霧は見てしまう。季節こそ違え、咲き盛りの樺桜のような、みごとな紅梅のようなと紫の上は褒められる美女であり、匂い立つ麗しい美しいその姿に、夕霧君は震えあがってしまう。
「見て逢はぬ恋」という。夕霧の父光は「見て逢ふ恋」を藤壷中宮という義理の母宮との間で遂げ、後に冷泉院といわれる天子を産ませている。その底ぐらい物語を念頭に「野分」の場面を見ると、夕霧が、いかに美しい義母紫の上に心惹かれたかがよくわかる。夕霧はなかなか律儀な息子で、几帳面で、まじめ青年であるが、魂がとろけたように茫然として、しかし見ているところを見られては気の毒と思い、怖いものから飛び退くように去って行く。しかし彼の心に一度刻まれた紫の上の優艶な姿というものは、後々までも非常に大事な深い秘密にされ、生きていたのである。
おそらくはそれと似た気持ちを、あの『竹取物語』で「かぐや姫」を見た「帝」が見せている。はじめて竹取の翁の屋敷へ強引に出かけていき、力ずくで姫を連れていこうとする、と、光は影とうすれて姫の姿も失せてしまう。その神秘に畏れて帝は一度は恋ごころを断念し、乞い願うようにして姿を見せてくれと姫に頼んでいる。また、かぐや姫は姿をあらわす。恋は断念し、帝はすごすごと宮廷へ帰っていくが、あの変幻のときの何とも手の届かない恋の悲しさ切なさ。それと似た気持ちを、おそらく「野分」の巻の夕霧はあまりにも美しい義理の母に感じたであろうと、わたしは思っている。
ところが紫の上は、後に、夫光君の此の世の極楽である六条院のすまいから、これは意味深いことだが、わざわざ二条院というゆかりの家、新婚の頃の家に帰り、「御法」の巻で、光源氏にみとられ先に亡くなってしまう。夫の光の悲しむのはもうむろんだが、義理の息子の夕霧の悲嘆もたいへん印象的に物語には書かれていて、「さもありなむ」と思わせるみごとな筆づかい。
人にとって「死なれる」という取り返しのつかない絶対状況の、猛烈な絶望と悲しみが、なまじ夫である光源氏よりも、義理の息子、そしてたった一度しか見なかった、見られなかった義理の母の死を悲しむ夕霧の描写によって、逆に読者に大きな感銘を与えている。それが、ふと、いま、とても懐かしい。
桐壺と中君─源氏物語の美しい命脈
なぜこんな題を、こんな選び方をしたのだろう。いずれかといえば、この二人とも、たとえば紫上や、六条御息所や、明石上や、玉鬘や、浮舟といった人にくらべると、ただ地味なというだけでなく、さほど重要とも思われない女人ではないのか…と、そうお考えの方が多いかも知れません。
私は、そうは考えておりません。それどころか、遠く遠く隔たったような二人──源氏物語五十四帖の、最初と、最期といってよい位置を占めているのですから──あまり縁もなげに想像されるこの二人を、あたかも一対にして「源氏の女たち連続講演会」の幕開きに臨もうというには、それなりの理由をもっているつもりです。
一つには、この二人を対に眺め考えることで、『源氏物語』の大筋を、太い線でしっかり引くことができます。物語が長大であればありますほど、輻湊しておればおりますほど、「大筋・主筋」を的確につかんでいるかどうかは、大事な「読み」の勘どころとなります。「桐壺更衣と宇治中君」とは、まさに、この勘どころを占めて揺るぎない女性なんです。
今一つに、女を見る・描く視線や評価において、じつはこの二人が共通して占める美点がある。源氏物語に登場する多くの他の女性を、いわば「批評的に鑑賞」します場合に、この二人の美点が、不思議なほど、原点とも到達点とも謂える典型的な内実を帯びているんですね。そういうことをよく踏まえて源氏物語の女性たちと付き合っていくのが、読書としても有効である・あった、と、ま、体験的に、私は考えているわけです。
「本筋」「主筋」ということで、冒頭、まず手短かに申し上げておきましょう、キイになる言葉だけでも頭に入れておいていただきたい。
源氏物語の数多い女性のなかで、物語世界に最初に登場するのは、言うまでもなく源氏の生母「桐壺更衣」であり、また、光源氏の物語世界を、夫とともに順当に相続しまして、大きな大きな物語を、あたかも締めくくる役どころにいるのが「宇治中君」です。中君は今上天皇の第三皇子「匂宮」──光君と紫上とが最も愛した孫「匂宮」──の、本妻です。いずれは日嗣の御子とさえ約束された男子を、すでに生んでいます。
この「桐壺」から「中君」に至る太い物語の線をしっかり辿って行きますと、そこに、「二条院物語」とでもいうべき、源氏物語のなかの「また一つ大きな物語世界」が出現し、これがもう一つの大きな「六条院物語」と列び立ちまして、いわば壮大な源氏物語の相寄る「主筋」を成して行きます。
前者の二条院物語は、いわば「母」の筋、後者の六条院物語は「子」の筋とも、また前者は「愛」の筋、後者は「天子=天皇へ」の筋とも謂えましょう。
昔からよく謂われます「紫のゆかり」の筋は、「二条院」という「女=母=妻」の館を主要な場に、深い或る念願・祈願を秘めながら展開し達成されて行きます。
二条院はもともと光君が生まれた家、母桐壺の実家なのです。そしてこの二条院で中君もまた母となっています。「桐壺」と「中君」とを倶に「読み」こむということは、まこと『源氏物語』の「より内なる本筋」を貫通し且つ把握することになるのです。私が、特に、この愛すべく美しい二人の聡明な女人を、同時にここへ誘いだし、またお話ししてみたいと思います所以も、そこにあります。
いま一つ、この連続講演の皮切り役としましても、ぜひ、触れておかねばならないのが、私は、「ことば」のことだと考えております。京生まれの京育ちであります私に、或る意味でふさわしい役目が与えられていると思うのです。
私は小説を書き、批評を書き、またエッセイを書いて生活しております。「ことば」が、わが生命線をなしていると申し上げていい。もとよりその「ことば」とは「日本語」であり、私の場合、かなり根も深く「京ことば=京都の言葉」だということになります。
私は京都をはなれ、東京で生活をしてもう随分になります。東京には、全国からたくさんな人が出て来て暮らしています。たしか荻生徂徠でしたかが喝破しておりましたように、昔から江戸は、そして現在の東京も全くそうでありますが、いわば「旅宿の境涯」つまりは「旅先の暮らし」同然の感覚で生活している者が多い。根の思いは、みな、故郷に置いてある…と、そう荻生徂徠は見抜いていたんですね。
そうかも知れない。そうではないのかも知れません。が、東京に永く暮らして私の感じてきましたのは、京都という「土地」に対しては根強い人気がある。しかし京都の「人間」に対しては、なんだか腹が読めない、言っている意味の白い黒いがハッキリしない、と…、だいたい、そんなふうに思っている人の多いこと……、これは、いわゆる「京ことば」は分かりにくいという批評、ないし非難になっているんですね。しかも国会での、あの大臣や官僚らの答弁にイライラするのと、よく似ている点にも、ご注意いただきたい。大臣もお役人も、べつに京都の人ではないんですが、物言いが、どこか、似ている。
こういう大臣・官僚また企業や大学の上の方の人たちが外国へ出かけまして、外交や商談や対話をしてくると、おかしなことに、日本列島のなかで「京ことば」の「京都人」が言われるのと、ちょうど同じ按配に──なんだか腹が読めない、言っている意味の白い黒いがハッキリしない、と…、だいたい、そんなふうにヤラれて帰って来ることが多い。なにも「日本語」でやりあって来たわけじゃ、ない。それなのに、その…発想や、判断や、態度に、それらの基盤に、「日本語の日本人」が、イヤでも露出してくるという事でしょう、それは。世界の目に、京都人と日本人の区別なんか、有りません。なんだか腹が読めない、言っている意味の白い黒いがハッキリしない日本語「で」、話したり、考えたり、引いたり押したりして来る日本人がいて、ま…イライラするらしい。
割り切った物言いを致しますと、どうも、「日本語」には、そういうふうに思われがちな素質が、本来、在るんだと。その素質を、「京ことば」は、特に色濃く、歴史的にもながく持ってきたのだと。そういう事じゃないでしょうか。少なくも古今和歌集このかた、むろん源氏物語や枕草子もふくめまして、「古典語」というものの実在を認めると致しますと、その多くが、ま、京都を「場」に、生まれ、育ち、磨かれてきたと申し上げても、少しも言い過ぎではない。
言葉は、暮らしの現場を流れ走る血潮も同然のものですから、久しい間に「京ことば」と「古典語」と、ひいては「日本語」との間に、或る抜き差しならない相互浸透の関係がガッチリ結ばれていたと考えましても、これまた、かなり自然の成り行きであったろうと想像されます。この認識は、じつに、大事な、例えば日本文藝を研究する上での欠かせない手続きだと思うのですが、意外にこれがなおざりにされてきた。その為に、なにかしら明治以前と明治以後とに、「日本語」の表現は、べつものに生まれ変わったんだという程の、錯覚──あえて錯覚と申しますが──錯覚が固まってしまった。そして錯覚に気付いて、日本語「で」表現する妙味を、遥かな古典と、その表現にも学ぼうと実践したタイプの作家たち──泉鏡花とか谷崎潤一郎とか川端康成のような人たち──を、いささかならず、ワキへ置いておく感じの、近代・現代の文学史が出来てきたと、私は見ております。
大江健三郎のデビューして間もない頃に、彼のこういう日本語は、「どうにも我慢がならない」と、珍しくも谷崎潤一郎が言葉激しく批判したのは有名なことですが、日本語で読むより、翻訳された外国語で読むほうが実にシャンとしてよく分かる「あいまい批判」の大江さんの文学が、今や、世界に、日本を代表してよく伝わっている。谷崎も川端も世界語に翻訳されていますが、それを凌駕する勢いがある。しっかり、ある。その結果としてノーベル賞が贈られた。まことに象徴的な事件でありました。
日本語は──京ことばは特にそうですが──物ごとを明確に伝達できる言語というよりも、むしろ明確には説明しないまま、真意や本意をほのめかす言語だと申せましょう。もともと「ことば」とは、大なり小なりそういうもので、谷崎も言っていますが、饅頭のうまさを明確に「日本語」で説明するのは、まず無理な相談です。説明できなければこそ、表現せざるをえない。そこに文藝の「藝」が生じて、和歌・歌謡も、物語・芝居も、謡曲や俳諧も生れ育ちました。日常会話にも自然とその「藝」は浸透したでしょう。「朧ろにものを言う」「朧化法」という表現は、「言いおほせて何かある」とする日本語の素質が洗練され行く上で、大きな大きな感化を及ぼしたはずです。そして、この「朧化法」の最も藝術的に優れた達成こそ、いま話題の『源氏物語』だと広く言われてまいりました。
と、言うことは──源氏物語の登場人物の物言いも、物語の語りそのものも、疑いなく「朧にものを言う」「朧化法」を現に実演しているものと見て、万に一つの間違いも無いでありましょう。
なぜ、しかし「朧ろにものを言う」のでしょう。その方が「まるく」おさまるから。なにもハッキリ言う必要はないんだ、と。言わなくても、分かる人は分かる。分からない人は、いくら言っても分からない。そういう言語観が根づいて来た。一見言語への不信感とも受け取れるんですね、「言ったって仕方がない」「口は重宝」「言うのは簡単」「言葉にならない」「言ってるだけさ」「無論」「勿論」「問答無用」「沈黙は金」と……。
何かを正確に、明確に伝えるのに、言葉が、必ずしも万全の手段ではないと知り尽くして、言葉と付き合っているわけですね。ですから「うそも方便」になる。「じょうずに、うそを、つかはる」というのが、京都では、必ずしも「わる口」でない、むしろ、褒めてさえいる。「じょうずに、うそを言う」のは、「なんでもハッキリ言う」のより、よほど高等な口の利きようとさえ、されています。うそがうそと判断できないのでは、ない。言う方でも聞く方でも、うそはうそと承知の上で調子を合わせ、「まるく」おさまり合って行く。源氏物語の人物たちは、まさに、こういう物言いの達人たちです。
例えば浮舟という美女をはさんで、猛烈な鞘当てをする匂宮と薫君とが、浮舟失踪後にかわす会話。また浮舟の消息を知った明石中宮──匂宮の母──が、戸籍上の弟に当たる薫君にむかって、それともなく、相手の顔を赤くさせないようにように、仄めかし伝えてやる物言いや、まるで、よそごとを聞くか言うかのように、さりげなく、それに相槌を打っている薫君の物言いなど。感嘆もしますけれど、ウズウズもイライラもする。絵に描いたような「京の物言い」であり「日本語」の表現でして、それが、素質として現代へも紛れなく伝えられています。ハッキリ言うくらいなら、ウソにして上手に言う。ものごとを明確にするために言葉が在るわけではない…というわけです。説明の手段としてよりも、人間関係がうまく作動すればいいという、「ことば」観なんですね。
しかし人間の関係は、ただ「まるく」おさまれば済むといった簡単なものでは、ない。もっと闘争に近い。「位」を張りあい取りあい、少なくも人より下めに立たずに済むように生きて行かねばと、とくに、律令の「位」社会に生きた源氏物語や枕草子の世界の人らは必死でした。その際の武器はといえば、けっして刀でも弓でも、ない。「ことば」です。日々の「位取り」を「ことば」で達成して行く。その為にも、じつは、ハッキリものを言い過ぎるのはたいへん危険なんです。さぐり、まさぐり、朧ろに仄めかしながら、出るか退くか、いつも微妙な判断を強いられます。そして知らず知らずに相手を、他者を、凌いでいたいわけです。源氏物語の語り口も、人の物言いも、これを、実践して実践して実践しぬいています。
ここで、「桐壺」の巻、書きだしのところを、岩波文庫の原文で、読んでみます。
いづれの御時にか。女御・更衣、あまたさぶらひ給ひけるなかに、いと、やむごとな き際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり。
はじめより、「われは」と、思ひあがり給へる御かたがた、めざましき者に、おとしめ 嫉み給ふ。おなじ程、それより下臈の更衣たちは、まして、安からず。朝夕の宮仕へに つけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけむ、いと、あつしくなり ゆき、物心細げに里がちなるを、いよいよ、「あかずあはれなるもの」に、思ほして、 人の謗りをも、え憚らせ給はず、世の例にもなりぬべき、御もてなしなり。
これを今度は、谷崎潤一郎の、有名な現代語の決定訳で聴いていただきます。
何という帝の御代のことでしたか、女御や更衣が大勢伺候していました中に、たいして 重い身分では無くて、誰よりも時めいている方がありました。最初から自分こそはと思 い上っていたおん方々は、心外なことに思って蔑んだり、嫉んだりします。その人と同 じくらいの身分、またはそれより低い地位の更衣たちは、まして気が気ではありません。 そんなことから、朝夕の宮仕えにつけても、朋輩方の感情を一途に害したり、恨みを買 ったりしましたのが積り積ったせいでしょうか、ひどく病身になって行って、何となく 心細そうに、ともすると里へ退って暮すようになりましたが、帝はいよいよたまらなく いとしいものに思し召して、人の非難をもお構いにならず、世の語り草にもなりそうな 扱いをなされます。
源氏物語は言うまでもなく「語り・語る」建前で書かれています。つまり語り手がいる。そう思ってこの谷崎訳を聞いていますと、やや客観中立といった冷静な口調です。腹に一物の人間が喋っているようには思われず、なんだか冷たい機械の声を聞いているような気になる。
で…、今度は、私が、かりに今日の京の物言いに直してみますので、お聴きください。
どなたさんのご時世やったンやろか。女御さんャ更衣さんの、たんと、お仕へしとゐや したいふなかで。えろ、まぶしいほどなお家の出ェやないのンに、人一倍なご寵愛、受 けとゐやすお人が、をしたんや。
御所さんへ、お上がりやすまへから、「あてこそ」と思て、なにかにお高ゥ出てはった お人らは、気にさはる無礼な女やて、わるゥも言ははる、嫉まはります、のやわ。同し ほどなお家柄のお人とか、もつと下々の出ェの更衣さんらは、まして笑てなんか見てら れへん。朝に晩にてお側近うィ上がらはりますのンを、見せつけはるにつけて、お仲間 に、憎い妬ましいて思はせつづけはつた。その恨みを、いつぱい身に負うたンが積もり 積もつたンやろかいなァ、なんャ病ひが重りぎみになつてしまははつて。もの心細さう ォに、つひ、お里ィ下がりがちにしてはるのンを、ますます、「片時かて離れてとない 人や」なンやて、きつう、お思ひこみにおなりやすばつかりで。はたの者がどないに悪 言はうも、お気になさるいふことかッて、よォ、おしやさらへん。まァ、のちのちの語 りぐさにも成りかねへんよな、お大事に、なさり様、どすのンや。
源氏物語の本文がイコール京言葉だなどと言う気もなし、現在の京言葉でも、市内の地域によってかなり調子は違うんです。そんなことはみな承知で、ほぼ逐字的にこう訳してみますと、いかにも、宮廷や周辺に巣くう「わる御達」つまり情報通の女たちの物言いが、耳立って来ないでしょうか。原文の端々・隈々が畳み込んでいた、語り手(たち)の、なんとも微妙に「イヤぁ味な」位取りのキツさが聞こえてきます。読み取れてきます。
例えば「桐壺更衣」に対し、この語り手が、ひどく、敬意の出し惜しみをしていますことが、「ありけり」「恨みを負ふつもりにやありけむ」「あつしくなりゆき」「里がちなるを」等の、突き放した乾いた物言いに察しられます。けっして「おはす」とも「御宮仕へ」とも「負ひ給ふ」とも語ってはいないんですね。その辺の、女同士らしい、陰に籠もり気味に意地を張りあった感じは、こうして京言葉で読み込んでみた方が、谷崎さんふうの取り澄ました現代語訳よりも、ずっとこまやかに把握しやすいんじゃないか。どうでしょうか。
もう一度ここで、「ものがたり」という意味を考え直しておくことは、無意味ではないでしょう。漢字で書けば「物=物質」の語り、せいぜい広げて「物事=物や事」に関わる語りのようですが、「モノすごい」「モノモノしい」「モノ哀れ」「モノ淋しい」「モノ忌み」「化けモノ」などという言葉から推しまして、この「モノ」が、物質的なものであるより、心的・霊的なものらしいことは優に察しられます。「モノの部=物部」という古代氏族の名も、また「大モノ主の神=大物主神」という神様の名も、むしろ心的で霊的な威力・能力と関係した、モノ畏ろしげな名前であったらしいことが察しられます。なにかしら、やむにやまれず、暗い背後から、根の深みから、語り出されてくる、そういう語りを、おそらくは根源のところで「ものがたり」と思ってきた久しい歴史があり、そして「語り部」のような職能・職掌が、活躍もしたのでありましょう。
ま、紫式部の時代は、そういう根深くも遥かな時代からすれば、うんと開化していましたから、そうも陰に籠った解釈ばかりは無用でしょう、が、それにしても、源氏物語を読んでいますと、明らかに高貴の内幕によくよく通じた、それも複数の、「影」のような人物たちの「語り」であることが、分かります。
「影」たちは、高貴の内幕にいて、自身はけっして口を挟んだり干渉したりできる立場にいない。けれども、と言いますか、だからと言いますか、黙って、時には頬でだけ笑って、つまり頬笑んで、そして凝ぃッと、何ごとも見たり、聞いたりして、黙って胸に畳んできた。それを機をえて、内緒の話として、お互い似た立場の差し障りの無さを確認しあった上で、堰を切ったように「語って」いるのが、こういう「上つ方」に関わる物語の、ひとつの「枠組み」なんですね。源氏物語のようなお話を、光源氏や紫上が自身で語っているなんてことは有り得ないんでして、必ずや間近に仕えていた情報通、つまり「わる御達」、時には似た立場の「男」たちも混じりまして、次から次へ、お互いに知っている内緒ばなしを伝え合い、また興じ合っている。時々、ぽろりと「草子地」と申しますが、地声のようなものが現れる。そこが、ちょうど作者による地の文の露出のようにも読めて、なんだか、じつに生々しいリアリティーが伝わって来たり致します。
いわば従者たちの「眼」や「耳」や「口」が活躍して、「源氏物語」というものは実現している。そういう建て前、つくり、なんだと考えていいのであります。
そのての人物は、さりげなく、生き生きと、大勢、じつは物語に登場しています。光君の側近には「惟光」のような訳知りや、「中将」「中務」などという女房がいます。紫上には「少納言」、桐壺院には「靭負命婦」、藤壺には「王命婦」「夜居の僧」、明石上には「宣旨の娘」、夕顔や玉鬘には「右近」、柏木には「弁の尼」、女三宮には「小侍従」などと、際どいところまでよくよく見知ったのが付いていまして、枚挙にいとまもない。いわば作者紫式部がこういう人物たちを、インタビューし取材すれば成り立つ作品なんだとさえ申せます。こういう人達が自身を「影」に成して、いろんな秘密の話を物語ってくれていると想像すれば、源氏物語、甚だ分かりがいいわけです。そして、彼女らや彼らが物語る物言いは、いきおい、断定的ではありえません。仄めかしに終始します。信じてもいい、信じなくてもいいんですよ、という口つきになります。
こういう「影」たちの立場は、いつも微妙でした。露骨には振る舞えなかった。表立った場所であればある程、いつも自分を押さえまた殺して、じっとものを見たり聞いたりして来たでしょう。黙って批判もしていた、冷笑もしていた、羨望も嫉妬もして来たでしょう。そういう人物たちの言葉が、無条件に優しくて親切なものであるわけがない。辛辣です。底意地もわるいでしょう。しかし下品にはなれない。独特の含んだ物言い、持って回った物言いになります。私の訳してみた京言葉の源氏物語を、ちょっと思い直してみて下さい。
「いづれの御時にか」というのが、源氏物語の有名な語り出しですが、これは、そのまま京言葉の基本になったとすら言えます。なぜなら、これは「どなたさんのご時世やつたンやろか」と人に質問をしているわけでは、ない。質問の形をかりて、そのあとへ、「あては=わたしは、知りまへんえ」と、いわば言い逃れが付け加わっているんですね。「いづれの」「御時にか」と疑問の語を二つ重ねてみせ、自分はこの話ぜんたいに責任はとらない、あんたさんは信じても信じなくても宜しいが、こっちも責任は取らないという姿勢を打ち出している。これが、京言葉の基本であり、じつは日本語「で」発想し、態度を決める、大方の日本人の、基本の姿勢・処世のように思われるのです、ちょっと、キツいかな。
ずいぶん長い「枕」をふるものだ、源氏物語なんだぞ、枕草子の話じゃないんだぞと、お叱りを受けそうです。
しかし、無駄話をしているわけではない。言葉と物言いとについて基本の理解をもつのは、事が「物語」であればこそ、肝心かなめの手続きというもの。敢えて長々と申し上げたのも、そもそも「桐壺」を語る私の役目の一つだと思うからです。
で、いよいよ本題に入りますが、まず「桐壺」の巻、源氏物語の首巻そのものから話題をくつろげて行きましょう。
言うまでもなく「桐壺帝=のちに、院」がおられ「桐壺更衣」がいての「桐壺」の巻ですが、もともと、この帝の寵愛あつい更衣の居場所が、後宮の「桐壺」なんですね。一人の更衣=やや下級の妃が、この際桐壺の女主人なので桐壺の更衣と呼ばれ、その更衣を愛するあまりに本意なく死なせた帝なので、桐壺の帝ないし院とお呼びするようになっている。そして別の一対のいわばご夫婦をさして、同じく「桐壺」というふうに「ひとつもの」に呼んだ呼び名は、源氏物語五十四帖で、他に一例もありません。それだけでも「桐壺」の帝と更衣とは一対に、よほど「重大な意義」を作者によって用意されたものと見ることができます。
それは何か。それを「読む」ことから、源氏物語は、真に始まる、のです。
ことは「桐壺」の巻だけの問題ではない。物語全編の「本筋」をつよく示唆するものがある。また単に、ひとり桐壺更衣の人柄を問うにとどまらない、物語を貫く「運命劇」の具現と予言とを、読み取ることにも繋がります。
『無名草子』という、最初の源氏物語評論の本は、こう書いています、「巻々の中に、いづれか、すぐれて心にしみてめでたく覚ゆる、と言へば、桐壺にすぎたる巻やは侍るべき」と。
では、この巻から、何が「読み取られる」べきなのでしょう。大きく言って、二つ、あります。
先ず1 光源氏が、一度は失ったかに見えた,天子ないし天皇の位を「超えるほど」のものと成って行く物語の本筋が、ここに用意されています。それにも二つ,筋がある。
一つは藤壺=紫上=宇治中君を通じて、皇胤=宮筋が、天子の位=王権を回復して行く筋で、いわば「二条院物語のA」を形成して行きます。
今一つは桐壺=明石の一族が、如実に天皇の位=皇権を達成して行く筋で、「六条院物語」を形成して行きます。
次に2 不本意に母を喪った光君が、母に肖た理想の妻と添い遂げる本筋も、この首巻できっちり用意されています。いわば「二条院物語のB」が形成されて行く動因も発端も、この「桐壺」の巻に明記されてある。それについて、ざっと申し上げておきますので、お聞きを願います。
さきにも読みましたように、桐壺帝の度外れて底知れない愛欲が、桐壺更衣をして、あたかも「よこざまに」に死なせ、幼い光君から母親を奪いとることになるのが、源氏物語世界の発端であり、動因です。「初めに、父帝の(世のそしりを受けるほどの)愛欲ありき」なのです。だからこそ後に、この子が、この父の愛妃である義母の「藤壺」を犯して「冷泉の帝」を生ませてしまう。藤壺は桐壺更衣に生き写しであったために、更衣の死後に、帝に強く望まれ迎えられた皇妃でした。光君は藤壺に母を感じつつ、男としても恋したのであり、父帝は、母親を死なせた償いに、運命の埋め合わせに、事実上妻の藤壺を子の光君に与えた、というに等しい成り行きを示しています。
母桐壺更衣の里は、前にも申しましたが、都の二条にありました。更衣も、その老母もそこで亡くなりました。光君は、成人してすでに正妻葵上を得ましてからも、我一人の落ち着いた本宅として、この、亡き「母」方の里を立派に調え、そして、このような重大な、意味深長な述懐をしています、「『かかる所に、思ふやうならむ人をすゑて住まばや』とのみ、嘆かしう思しわたる」と。
彼の頭には、この当時、藤壺のことしかありません。亡き母のこの懐かしい家に、「思ふやうならむ人=藤壺をすゑて」一緒に住みたい、と。「二条院」とは光君にとって、そういう「母」なる邸であったのです。「桐」や「藤」の、紫に咲き匂う、花のような「母」の面影に、占められた根源の家屋敷であったわけです。それにしても藤壺は、現実に父帝の中宮でした、妻でした。決して光君の妻とはなり得ない女人でした。
そこでこの二条院へ、光君は、藤壺がかなわぬならばと、藤壺の姪にあたる「若紫」を、あたかも奪うように隠し据えまして、こよなき「紫のゆかり」として愛します。後の正妻「紫上」であり、理想的な妻としてあまりにも有名なので、なにも申し上げません、が、この紫上は、亡くなります直前には、この世の極楽かのような光君の六条院から出まして、望んで、懐かしい二条院に立ち帰ります。そして、わたくしの死んだあとには、きっとここへお住みなさいよ、あの庭の紅梅と樺桜の木とを、この「はは」だと思い、大事になさって下さいねと、さも遺言のようにして、まだ幼かった孫の「匂宮」に「二条院」を譲るのです。生母桐壺更衣がそこで死に、義母藤壺とこそここで一緒に住みたいと光君が願い、その願いをさも実現したかのように最愛の妻紫上とここに久しく住んで、その死を見送った邸、それが「二条院」なのです。その二条院をば、光君の死後も我が住まいとした「匂宮」こそは、真実、光君と紫上との「愛」の相続者なのでした。
匂宮は、「紫上」のことを「はは」と呼んでいたようです、事実は「ばば」に相当していましたが。この紫上ほど完備した人徳の持ち主にも、残念ながら欠けていたのが、「子」でした。「子」を産まなかった。だれにもだれにも、それは無念なことであったのです。匂宮は、紫上が心して愛育した光君の娘「明石女御=中宮」の生んだ皇子の一人でした。
桐壺更衣は光君を産むと育てるひまなく早く死に、藤壺は罪の子冷泉帝を生んで尼になり、紫は出家もならず子ももてずに亡くなりました。そういう「二条院」の女主人たちの思いを、幸せに「成就」すべく登場する女人、それが、すなわち表題の「宇治中君」でした。彼女の聡明に美しいとりなしは、匂宮の愛を深く得て、玉の男の子を、この「二条院」にみごともたらしたのです。匂宮は次の皇太子にとも目されています。更にその次の皇太子には、この中君の生んだ若宮がなる可能性はたいへん高いと、物語のなかでも、すでに噂されています。まさに「紫のゆかり」が多年の思いを遂げてゆく「二条院物語」と、私の申す意味も、かくて、大きな「筋が通った」わけです。
この大筋に、常に企図され、願望されてきたのは、言うまでもない「天子」の位です。「二条院」も「六条院」も、この「皇位」なる尊位を芯に形成されていた世界なのですが、まず「六条院」の筋から見て参ります。
「光源氏=光君」という人物は、そもそもの初めに、皇位から絶対的に遠ざけられた存在として、運命づけられています。「源氏」という、臣下の地位に、父帝の配慮で、おろされています。光源氏の物語は、皇位に関するかぎり「喪失からの出発」の物語なんですね。皇位は、一の皇子の朱雀帝へ渡され、その代わり、と言ってもいいと思いますが、光君には、半ばは神かと思われるほどの、美貌と才知とが授けられています。現世の天皇たりえないその代わりに、「真の王」にもふさわしい力量が与えられ、尊敬される。まさに「光る君」なのであり、「輝く日の宮」と称えられた藤壺との間に、のちの天子、冷泉帝を儲けるにふさわしい、理想化の設定が成されています。この冷泉帝誕生のおり、「おなじ光にてさし出で給へれば」と言われていますのも、桐壺帝を同じ父とする兄と弟なのだからと謂うようでいて、じつは、実の父親が「光君」であることを示唆しています。また「月日の光の空に通ひたるやう」によく似ているとありますのも、同様です。また生母藤壺が「玉の、光輝きて、たぐひなき御覚え」と、真相をご存じであれ、また無かれ、桐壺帝のご寵愛はまことに深かったとしてありますのも、意味、まことに深長と読めます。
さように「桐壺」とは、ものの初めに、揺るぎない礎のように据えられた巻の名であり、また女人の名であったわけですね。そして「光」や「日・月」に飾られまして、光源氏の物語は、着実に、半神半人ふうの「真の王」にふさわしい栄華と権勢の実現へ、つまりはこの世の極楽にもひとしい「六条院世界」の完成へと向かって行くことになります。
一人の源氏から、「六条院」という上皇に准じた地位へ光君は上ります、時の帝は実子冷泉天皇であり、次代の帝の妃には実の娘が上って、次々の皇太子たるべき男宮が、もう二人も三人も生まれているのですから、いかに「六条院物語」がめでたい成り行きを得ているかは、言うまでもありません。
とはいえ「六条院」の栄華と全盛も、たやすく成ったものではありませんでした。「須磨」「明石」の流謫といった試練が、光源氏にもありました。が、それさえも「本筋」を成就すべく運命が仕組んで導いたものかのように、光君は、生母桐壺の従兄弟にあたります「明石入道」の娘を愛し、のちに明石女御=中宮となり、匂宮たちの母親となる娘を儲けています。
でも、何と言っても、権勢を競う世界のことです。確執は、皇胤・宮筋と藤原氏との、陰に陽に、激しい闘争のかたちで随所に表れています。葵上と六条御息所との「車争い」もそうなら、「須磨」への流されも、「絵合」はじめ後宮の優美な競いも、匂宮と薫君とが中君や浮舟を争うのも、みな象徴的な皇家・藤家の確執の例であります。全編にそれが見られ、それを乗り越え乗り越えして、光源氏と子孫とが、満開に花ひらく物語であったのだということを、忘れるわけには行かない。何故かそれは、作者紫式部の生きた、現実の藤原摂関時代とは、ちょうど逆様のありさまが語られ、書かれているのでした。
ついでながら、「いづれの御時にか」とありますけれども、源氏物語の時代設定は、いろんな本文・内証から致しまして、宇多法皇につづく、醍醐帝を桐壺帝に、そして朱雀天皇の御代についで、現実には村上天皇・天暦の聖代を、物語では、光君と藤壺の子の冷泉帝の御代に宛てたかに、巧妙に設らえてあります。「物語」というのは、過去に、さも実際に有ったことかのように語るのが、一つの約束事になっています。その約束をうけて読者ないし聞き手は、いろいろ想像をはたらかせる楽しみや面白みを共有するわけですね。
さて今すこし本筋の女主人公というべき「紫上」から「宇治中君」へと繋がる線について、納得しておきましょう。
紫上は式部卿宮の娘であり、中君は宇治八宮の娘です。ともに皇胤=宮筋の女人たちです。そして繰返し申しましたが、紫上が愛育致しました明石中宮の皇子の匂宮と、中君とは、夫婦になりまして男子を、ほかでもない紫上の里屋敷の「二条院」で儲け育てております。前にも申しましたが、その男宮は、いずれ皇太子にも天子の位にもつく可能性を、すでに噂されています。藤原氏ならぬ、皇胤=宮筋の、皇位への接近が、またも濃厚にここで成就の兆しを見せている。紫上に子の無かった無念も、代わって宇治中君がはらしています。謂うなれば、皇位をめぐる「桐壺=明石」の系譜と「紫上=宇治中君」の系譜の、二系統に「共通した願望」が、ここでハッキリ充足されて行くという、物語の太い本筋がかくて確立されるという、ことになるわけです。
「桐壺更衣」の父親は「按察使大納言」でした、が、娘に高い望みを託しつつ、早くに亡くなりました。娘は「光君」を生みます、が、時に利あらず「源氏」に降ろされてしまう。他方、按察使大納言の兄弟に、「大臣」にまで成った人がいました、が、その子は不遇のまま、明石に隠れ住み「明石入道」と呼ばれて、一人娘の「明石」に、これまた高い望みを託していました。この「明石」と「光君」とが出逢いを遂げまして、後に中宮=皇后ともなる娘を儲けますのが、まさしく匂宮の母親に当るのでありますから、「六条院物語」も「二条院物語」も、文字どおり「桐壺更衣」を起点に始まり、中君の生んだ「男若宮」によって大きな「環」が結ばれている…と、そう謂うことになる。この全体を「紫のゆかりの物語」と呼んでいい…、いやそう呼ぶのが最も妥当ということになります。
「桐壺」の桐…この花は、五、六月ごろ、大形の淡い紅紫色の円錐花序をもち、甘い匂いを放って、五裂した釣鐘形の花を咲かせます。「藤壺」の藤の花はまさに紫色に美しく咲く。この二人の、あたかも「母」なる思いを体しまして、「若紫=紫上」は「光君」の生涯を彩るすばらしい妻になります。「宇治中君」は、それほどの「紫のゆかり」に見守られた、まさに「幸ひ人」として、「おいらかに」に、「二条院」の女あるじと成りきっています。源氏物語、女系の正統が、はっきりここに見えています。
ここで断っておく必要が、ありそうです。と言うのは、源氏物語の正統は、宇治十帖の「薫大将」によって受け継がれたのだと読んで来た人が、少なくないからです。
物語の「筋」を追って眺めますと、「夢の浮橋」最期の述懐を胸のうちにつぶやく薫君こそ、確かに主役めいて思われるのですが、物語の主役であることと、光源氏世界の相続ということとは、全く意味がちがいます。
薫は光の跡取りではないと、断定すらできそうな手掛かりが、一つあります。それは「薫る」「匂ふ」という二人の貴公子たちの呼び名です。一人は光君の表向きの次男ですが、じつはその薫君は、光の実子ではない。光の妻の女三宮と、左大臣系の藤原氏柏木との間に生まれた、罪の子=不倫の子なんです。女三宮は、光君=六条院の正妻でありながら、柏木と密通してしまいます。この女三宮の祖母の弘徽殿皇后は、光君には宿敵である右大臣系の藤原氏の出でした。
一方匂宮は繰り返し申しますように、光君の、はっきり血統を得た孫宮であります。その関係が巧みに薫、匂という呼び名に託され説明されているんですね、お聞き下さい。
「色」は「光」なしには見えません。そして匂いはもともと、紅や紫の色に出て、目にうったえる香気です。光と匂いとは、切っても切れない縁のものなのですね。
ところが薫るものは、もともと光を必要とせず、直接嗅覚にうったえます。「春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる」という古今集の和歌が、よくそれを教えてくれます。薫君は闇に咲く白梅の花のように、光をまたず、色にも出ずに、香りを伝えうる存在なのでした。光君と薫君とは直接の血縁を持たず、匂宮の方は、まさに「紫のゆかり」豊かに「光」添うて、色めく色好みの相続者なのでありました。
いよいよ「桐壺更衣」を、一人の女人として見て参りましょう。
この女人こそ、六条・二条両院の物語の、根源的位置に在る。物語は光源氏「誕生」と事実上表裏して、この、桐壺更衣の「死」からも、始まって行きます。遺児光君が「源氏」を賜り、皇位を断念せざるをえないという、大きないわば「挫折」も、母の、また祖母の「よこざま」な死=横死によって「うしろみ」を喪失してしまった皇子の「非運」と直結していました。
その光君が、母恋いの気持ちもあって、「輝く日の宮」と美しさをたたえられた藤壺に接近し、ひそかに罪を犯し、なお飽き足らずに、藤壺の姪の若紫をさらって、亡き母桐壺の里の、二条院の内懐にかくまい育てます。そしてついには理想的な妻にする。いわば母に死なれて、母に似た妻をえて添い遂げるという光源氏の物語は、まさに桐壺更衣の死に始まっています。その「桐壺の死」と「皇位排除」との、二つの挫折から、いかにして回復へと動いて行くか、源氏物語とは、それを語ってゆくそういう物語でもあるのです。
謂うなれば源氏物語の根底に、故按察使大納言家(桐壺更衣の生家)と故大臣家(明石上の生家)という、もともとは兄弟であった、しかも、おそらくは非藤原氏であった家系の、「天子の外戚(げさく・がいせき)」願望というものが、先ず、強烈に在った。あの桐壺帝の度外れた愛欲も、おそらくこの願望の強烈さと深く呼応する衝動であったんじゃないか。
しかし、それは、今謂う、ふたつの「死」と「排除」という挫折によって、先ずは不可能と化した。拒絶された。少なくも、いったん断念に追い込まれた。だがその無念を、執拗な物語根源の要請によって、乗り越え乗り越え、逆転し、宿願を達成して行くわけです。まさに宿執を遂げて行く源氏物語であり、そこに、常に、「母」なる者らの系譜として、「紫のゆかり」が、断乎、ものを言っている。
こういうことを、じつは効果的に、効果的すぎるぐらいに、物語は「予言」という形で、聞き手=読者のまえへ、差し出してくれています。大長編小説の興味を維持し、かつ盛り上げて行く巧妙な工夫として、この「予言」がなかなかに功を奏してるんですね、「予言」は、三度されています。
先ず「桐壺」の巻で、あたかも臣下の子弟かのように装って、それとなしに高麗国の相人に、光少年を見せるわけです。相人は、躊躇なく、光君の将来を、こう予言したのです。
「国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。おほやけのかためとなりて天下を輔くるかたにて見れば、またその相、違ふべし」と。
天皇には成らなかった、けれど准太上天皇、上皇なみの「六条院」ということに成って行った光君の運命を、きっちり言い当てているわけです。
次の予言は「若紫」の巻に出てきます。光君との、罪深き成り行きに悩む、桐壺帝の妃藤壺が、たまりかねて或る夢を見た、その夢解きを、ひそかに人に依頼します。ところが、有ろうことか、光源氏が将来「天子の父」となることを夢は告げていて、けれども「その中に違ひめありて、慎ませたまふべきことなむはべる」と、光源氏の行く手に大事、おそらくは須磨・明石への流されといった事件が起きるでありましょうと、予言をしているのですね。夢を解かせているのは藤壺です。ここで「天子の父となる」というのは、畏れ多くも義理の子の源氏との間に、のちのち天皇になる男子を産むという、戦慄すべきこと・事実そうなったこと、を言われているのは明かです。
そして「澪標」の巻では、また、宿曜が「勘へ申」したこととして、こんな予言がなされています。光源氏からは、「御子三人、帝、后、かならず並びて生まれたまふべし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべし」と。この予言は、明石上に生まれる光源氏の娘が、将来、確実に中宮の地位に上がるであろうことを言うのが、主なる目的なのですが、一方「帝」には、藤壺に生ませた冷泉帝が、そして「太政大臣」には亡き正妻葵上の遺児夕霧が、確かに成って行くわけですから、まことみごとに、みごと過ぎるほどに「六条院物語」の本筋がここに予言されている。挫折の無念は、必ず晴らされるという期待をわれわれにしっかり持たせておいて、物語は、幾重もの山や谷を越えて行くわけです。
この予言一つを見ましても、あの「薫」という貴公子、光源氏の戸籍上の次男が、光の正統からは排除されている事実は明かです。薫君は源氏でなく、藤原氏なんです。それに対して匂宮は、明石皇后の愛児であり紫上のこよない養育を受けていた。その匂宮の妻となり、男子の母ともなったのが「宇治中君」だという意義深さには、まこと言い尽くせぬほどのものがあり、そこに「二条院物語」なる「母の物語・女の物語」の、必然の帰結が認められます。
「中君」は、筋書きの自然からすれば、「薫君」の妻に成ってしかるべき人でありながら、そうはならなかった。ならなかった運命の重さに、よく注意すべきでありましょう。
さて、女人「桐壺更衣」の人柄については、本文に多くの言及がありますが、それも、「なつかしう、らうたげなりし人」という、帝をはじめ大勢の人の追憶に、ほぼ言い尽くされていると思われます。玉上琢弥という、岩波文庫『源氏物語』でみごとな本文を校訂し提供した学者に、こんな述懐があります。
「わが桐壺は、やさしい心のだきしめたい感じのする人であった。愛することのできる人、日本人であった。その人は、太液の芙蓉や未央の柳にたとえられない。いな、ありとあらゆる鳥のねにも、あれを思わすものはない。作者はからえの限界を指摘し、日本人には日本人の美のあることを強調する。日本式文化の独立を主張するのである。」
どうやら「桐壺」こそは、物語世界に登場した「真に日本の女」であるといった意味をこめて、日本の文化や女人の理想像が、彼女の表現において達成されていると、賛美されている。
すこし丁寧に、本文によって、「桐壺更衣」を見直してみましょうか。
「いとやむごとなき際にはあらぬ」という表現により、時の権門勢家の出でもなく、まぢかに皇室に縁の濃い娘でもないと、紹介されています。「父の大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへ人の、由ある」志は見られても、何といっても母一人の女の身、「とりたてて、はかばかしき後見しなければ、事ある時は、より所なく心細げなり」と。
それにもかかわらず、「すぐれてときめき給ふ」と、帝の寵愛の篤さも、女の人柄の魅力も簡潔に示唆されています。ただ、帝の、度はずれた寵愛の故に、「朝夕の宮仕へにつけても」「人の心をのみ動かし、恨みを負」い、その結果、「物心細げに、里がち」にならざるをえなかった事情もちゃんと語られています。
そもそも桐壺は、入内した「はじめより、おしなべての上宮仕へし給ふべき際にはあらざりき」と、けっして日常のお世話を事とするような軽々しい身分の女ではなかったことが、断言されている。けれど帝の寵愛は、女人桐壺の評判を、低めかねないほど、辺り憚らぬものでした。女の方では、「いとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせ給ふあまりに、」「事のふしぶしには、まづ、まう上らせ給ひ、」「ある時には、大殿ごもり過ぐし、」「あながちに、お前さらず、もてなさせ給ふ程に、おのづから、軽き方にも見えしを」と、帝の度外れたもてなし故に、事実に反して、桐壺更衣が、軽々しげに見られかねなかったと、本文は、きちんと証言しているのです。宮廷における更衣不評判の原因は、みな帝にこそあれ、桐壺その人は、全くまともな淑やかな女性であったのです。
「心細げ」と何度も言われていますように、さぞ心苦しい後宮の生活でありながら、それでも、「桐壺」という人は、帝の「かたじけなき御心ばへの、類なきを頼みにて、まじらひたまふ」と、帝の愛をご信頼申し上げていたんですね、終始。
「かしこき御蔭をば、たのみ聞えながら、」「わが身は、か弱く、物はかなき有様にて、なかなかなる物思ひをぞし給ふ」とありますし、「事にふれて、数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひ侘び」たそんな桐壺更衣の様子は、それまた、帝の眼に、「いとあはれ」と映る、女の魅力でありました。たしかに、総じては「なつかしう、らうたげなりし人」といわれる性質のよさが認められますし、後に「宇治中君」の置かれた事情や、彼女が、夫「匂宮」の愛を信じ、頼みにして生きた日々と、遥かに照応しています。
そして匂宮も、中君が男子を出生後は、ことに大事に「妻」たる体面を考慮したように、「桐壺帝」も、「桐壺更衣」に「御子生まれ給ひて後」は、更衣の待遇を「いと心ことにおもほし掟て」るように変わるのですね、それも手後れでしたが…。
しかし、桐壺しかり、中君においてしかり、「母」で在り得たことが、この二人の女人の、夫との関わりを重々しくするのに、たいへん物を言った事情には、よくよく注目し、大事に認めなければなりません。
さて、一見ひよわに優しいだけと思われる、こういう「桐壺」から生まれ出た「光君」のめでたさといったら、無かった。そのことがまた、外見は弱々しげな桐壺という女人の、母親の、内的容量の大きいことを、逆に証言しています。生まれたばかりの光の素晴らしさは、普通の人が褒めそやすのはもとよりとして、「物の心知り給ふ人は、かかる人も、世に出でおはするものなりけりと、あさましき迄、目を驚かし給ふ」というのですから、生んだ「母」も並みの人じゃ、ない。後宮の針の筵と病弱とに耐え兼ね、里へ下がる際にも、情にまかせて、母親が子供を同伴するようなことをしては、噂にも軽々しく、だれより若宮の将来に「あるまじき恥もこそ」と、心遣いを怠らない母親です。連れて行きたいのは山々でも、あえて内裏に「御子をば、とどめたてまつりて、忍びてぞ」里下がりする桐壺更衣です。「忍びてぞ」という物言いには、ひっそりとというばかりでなく、愛する幼な子との、もし生き別れに耐えても、という強い意味が含まれていましょう。その様は、「いと匂ひやかに、うつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれと物を思ひしみながら、」しかも、帝を煩わせることなど、「言に出でてもきこえやらず、あるかなきかに、消え入りつつ、物し給ふ」のですが、こういうところに、思慮も配慮も愛情もゆたかな、聡明な女の「あはれ」を、にじませています。
帝がなにかと言い寄られても、「御いらへも、え聞え給はず、まみなども、いとたゆげにて、いとど、なよなよと、我かの気色にて臥し」ている状態では、ふつうなら病気療養なり慰安休息なりを勧めるるところでしょう。しかし帝は、かえって手放すに忍びなくて、更衣の退出をなかなか「許させ給はず、」遂に切羽つまるに至るのですが、こういうところに、帝と更衣と、二人が同じ「桐壺」と呼ばれる夫婦としての、運命の、避け難さが、はっきり出ていまして、その運命の申し子としての「光君」の、異様なまでに素晴らしい「誕生の必然」が、下支えられているわけなんですね。
後宮を最期に立ち去るときの更衣の歌は、こうです、…「かぎりとて別るる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり」と…。帝と別れ、愛子とも別れてゆくわけですが、その道を「行かまほし=行きたい・行きます」というようでいて、本音は、「生かまほし=生きていたい」と聞えてくる、悲痛な述懐です。そしてこの歌ひとつを残して、その「夜中、うち過ぐるほどになむ、絶え果て給ひぬる」とあり、桐壺更衣は、死んでしまうのです。「女御とだに言はせずなりぬるが、あかず、口惜し」と、帝は悲嘆にくれ、「三位の位おくり給ふよし」の勅使が、桐壺の里、後に二条院と呼ばれる邸へ遣わされますが、「これにつけても、にくみ給ふ人々、多かり」とあるのは、主に弘徽殿方とその背後の藤原氏であろうことが、後々の展開から察しられます。
しかし、亡くなった「桐壺更衣」に対する、没後の再評価は、かえって落ち着いたものになりました。「物思ひ知り給ふ」程の人であればあるほど、「さま、かたち、などの、めでたかりしこと、」つまり目に見えた美しさももとよりですが、「心ばせの、なだらかに、めやすく、憎みがたかりしことなど、今ぞ、思し出づる」ようになる。そして、生前やや軽々しげに見えたのも、それは帝の「さまあしき御もてなしの故にこそ、すげなう嫉」まれたのであって、桐壺更衣の「人がらの、あはれに情ありし御心を、上の女房なども、恋ひ、しのびあへり」と、文字どおり「なくてぞ人の恋しかりける」とは「かかる折りにやと見えたり」と、古歌まで引いて、ここに、草子地が露われて来たり致します。
「心ばせ」だけでは、ない。音楽などの「御遊びなどせさせ給ひしに、心ことなる物の音をかき鳴らし、はかなく聞え出でつる言の葉も、人よりは殊なりし、けはひ、かたちの、面影につと添ひて、」帝の哀しみは、増すばかり。そして、母の死後、二条の祖母の方へ引き取られていた若宮への愛情もあり、帝は再々、娘の更衣に死なれた母北の方を、勅使をもって見舞われます。
ここで、この、光君のお祖母さんが、聞き漏らせぬことを、泣いて、かきくどいています。
「身にあまる迄の御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥をかくしつつ、まじらひ給ふめるを、人の嫉み深く、安からぬこと多くなり添ひ侍るに、よこざまなるやうにて、遂に、かくなり侍りぬれば、かへりては、つらくなむ、かしこき御心ざしを、思ひ給へ侍る。これも、わりなき心の闇」と。
こういうことです。帝のご寵愛は有り難かったが、度が過ぎて、無用に人の恨みを負ってしまって、あたかも横ざまの死=横死を遂げるようにして,娘は亡くなりました。ご寵愛が、かえってつらい結果になりました、と。この「横様の死=横死」とある過激な物言いに、「桐壺」の巻の、また源氏物語全編の、モチーフが露出しています。おさえることのどうしても出来なかった「桐壺帝」の根源の愛欲が、物語世界を先ず突き動かしていたと言うより他にない、完全な「動機づけ」がここに一つ現れているのです。
それはおそらくは、桐壺の家系に内在した「外戚願望」の強烈さと交錯し、相呼応していたのでありましょうが、帝は、北の方の愁嘆に対し、こう己れを顧みて、頷いています。
「わが御心ながら、あながちに、人目驚くばかり(更衣のことが)思されしも、『長かるまじきなりけり』と、今は、辛かりける、人の契りになむ。『世に、いささかも人の心をまげたることはあらじ』と思ふを、ただこの人の故にて、あまた、さるまじき人の恨みを負ひし、果て果ては、かう、うち捨てられて心納めむ方なきに、いとど人悪う、かたくなになり果つるも、前の世、ゆかしうなむ」と。
宿業、宿執、必然の愛欲、人為を超えた業執を自覚した、痛切な嘆きでありまして、これあればこそ、父帝は、子の光君に対して、母を死の手に奪わせた「贖罪の思い」を無意識にも持たれたのでありましょう、さてこそ後の、我が子による「事のまぎれ」「藤壺の犯し」をすら、帝は、結果的に看過されたのです。
「なつかしう、らうたげなりしをおぼし出づるに、花・鳥の、色にも音にも、よそふべき方ぞなき」と、帝は、深く故人となった更衣を哀悼され、かの楊貴妃の美貌を、絵にしたものを御覧になっても、「匂ひなし」と目を背けられたのです。玉上博士の、「桐壺更衣は、日本の女の理想」という評価も、ここに発したものでしょう。
我のつよい人では、ない。しかし、芯の弱い人でも、けっしてない。惚れ惚れするほど愛らしい魅力があり、もの静かに優しいとりなしで、苦痛にも耐えに耐えつつ、帝の愛、また子への慈愛といった大事なものへの信頼を守り抜いています、死ぬその日まで。ただなよなよと、頼りない女ではなかったのです。むしろ、心づかいの行き届いた、知的にも聡明な女人であったと十分読み取れる。
大事なのは、そういう現世の女としての魅力を超えて、光君という、半ばは神のような超人的な子を生んだ、あたかも聖母マリアにも似たその役割に、源氏物語の全容とかかわる不思議も、間違いなく読み取る必要のある、そういう女人であるということです。ただ人物論をすれば足るといった女性では、ないんですね、「桐壺更衣」という母親は。
そのような「桐壺更衣」の意義の重さを、源氏物語の最後の最期で、もう一度しっかりと確認させてくれるのが、いよいよ、「宇治中君」です。
一見縁の遠そうな二人でありながら、どう、繋がった二人であるかは、もう、何度も申しました。その「宇治中君」を、本文の表現に寄り添いながら、確かめて行きましょう。
光君が雲隠れてのちの、まとまった「次世代物語」が、世に言う「宇治十帖」ですね。ヒロインが三人いまして、三人とも「宇治八宮」の娘です。正腹の姉と妹とが「大君」と「中君」で、異腹の妹が「浮舟」です。そしてその三人に「薫君」「匂宮」がからみます。
繰返しますが薫は、光源氏即ち六条院の表向き次男ですが、じつは藤原氏の柏木と院の妻女三宮との仲に生まれた不倫の子です。しかし世間はこれを知らない。わずかに光源氏の長男の夕霧などが察しています。一方の匂は、まさに光君の孫です。表向き叔父と甥ながら、薫と匂とは年もさほど違わず、兄弟同然の遊び仲間で、なにかにつけ好敵手でもあります。
薫が、先ず宇治八宮に心惹かれて宇治へ通います。そこで大君と中君とに引き合わされ、彼は姉の大君を深く愛します。父八宮も薫の人柄を深く頼みに、娘二人の後ろ見を心から依頼して、出家をしてしまう。そして亡くなります。
「八宮」という方についても、はっきり知っていた方がいい。この人は桐壺院の八番目の皇子で、二番目の皇子であった光君の、腹違いですが裾の方の弟に当たります。そして一時期、藤壺の生んだ皇太子に代えて、皇位に推そうとする右大臣系藤原氏の策謀に担がれたということがあり、冷泉天皇と光君との時代には、ま、逼塞を余儀なくされて、早くに宇治に隠遁してしまいました。宇治十帖のヒロインたちは、いわば光君の血筋には、一時的とはいえ敵対関係にあった人の娘たちなんですね。
しかし八宮は、そういう過去はすっかり払拭していましたから、六条院の子の薫君をも、胸をひらいて受け入れ、信頼し、愛していました。
八宮が亡くなると、父宮のゆるしも得ていた薫は、大君に求婚します。しかし禁欲的に思い入れの深い大君は、薫の愛に心を揺らしながらも、つよく拒んで、いっそ愛らしい妹の中君を、薫に勧めます。あわやといった場面もあるのですが、それでも薫は、大君への愛に操をたてて、妹には手を触れなかった。それのみか、色好みの匂宮を宇治へ誘い込み、進んで中君と結ばしめます。そうでもすれば、大君も自分を受け入れると踏んだ浅はかな行為でしたが、大君は、愛しい妹と匂宮との成り行きを懸念し不安に心を破られて、死んでしまいます。薫は、宇治の姉妹を、一度に手元から奪い去られたのでした。しかも中君を押し付けた匂宮は、姫等の父八宮も生前見通していたように、「いと好き給へる皇子」でした。なかなか宇治にまで気軽には通って来れない高貴の皇子でもありました。
薫は、今となって、中君を匂宮に譲ったのを後悔するのですが、中君その人は、一度び結ばれた夫匂宮を、心頼みに慕う気持ちを失うことなく、今更に言い寄る薫を、気の毒には思いつつ受け入れることはなかった。とは言え、亡き父宮が、中君の夢に立って嘆くほど、匂と中君との結婚は、危うい、頼りない出発であったのです。事実無残に終わっていても、嘆くのは中君と、取り持った薫君くらいで、だれも関心を払わなかったでしょう。
こういうことが、「中君」という女人への、懸念ないしは批評として言われています、「故郷離るる中君」と。中君は、結局は宇治を離れ、都の二条院=夫匂宮の本宅に引き取られます。結婚した女は、自分の本拠へこそ夫を通わせていた時代でした。本拠=故郷(自宅)を離れて女の身がさすらうのは、宮中に入るのはともかく、一般には軽々しくも不幸不運の証明のように言われたものでした。もっとも源氏物語では、その例が、いくらも見えています。若紫=紫上にして、そうでした。明石上にしても、そうでした。それどころか本当は夫の家に倶に住んだ女の方が、じつは幸せであったとも言えるような、ある境界の時期・時代に、この物語自体の意識がさしかかっていたように思われます。
宇治を離れ、都に移り、出産し、本妻として待遇されて、結果は、宇治中君にとって悪くなかった。むしろ「幸ひ人」という評判も、おいおいに現れて来たのです。匂宮は、この妻を、けっして宇治に置き去りに、見捨ててはしまわなかったのです。
「宇治中君」の運命は、「総角」の巻と「宿木」の巻との間で、顕著に変化します。
だれもが中君の上に案じた女の不幸は、その後、「浮舟」という美しい異母妹が登場しまして、すっかり身代わりに不幸を引き受けたような展開になります。恋敵の薫君にして、なお、匂宮と中君との結婚が、思うさまに満たされて在るのを、認めざるをえなかった。中君は不幸に陥らずに、かえって幸福になって行った。これは、源氏物語の大構想に沿って、「中君」が担う「意義」をつよめる方向へ「作意」が働いていたことを感じさせる、重要な事実です。
その決定的な証明に、「中君」の男子出産が、ある。
現在の東宮がいずれ即位すれば、弟の匂宮が次の東宮になり、いつかは「中君腹の若宮」も皇太子に、天子に、成るであろうと、物語は、すでに噂以上の段階にまで到達しています。「紫のゆかり」人たちの挙げて待ち望んだ願いが、冷泉院の場合以上に、まさに晴れ晴れと実現するというわけです。「六条院物語」の凱歌はもとよりとして、根深い因縁と経過とを経て来た「二条院物語」の大団円も、また、まぢかに窺い見られるわけです。「中君」の上に託された、遥かな「桐壺更衣」の、また「紫上」の、むろん「光源氏」その人の期待に、この女人は、りっぱに応えたという結末が、もう、そのそこに見えている。少なくも匂宮に寄り添って現に「母」となっている事実は、あまりにも『源氏物語』全篇にとって、意義深いと言わざるを得ない。
それにつけて、「匂宮」評価というものが、少し新ためられていいのではないか。宇治十帖での人気は、従来、当然のように「薫君」の方が高いでしょう。生い立ちにまつわる根の哀しみも、そこから来る落ち着いた人柄も、大君や中君への一貫した誠意や愛情も、「浮舟」を匂宮に奪われて以後のなかなかの頑張りにしても、小説の主人公には薫君こそ相応しいと言えましょう、それには何の異存もない。
これに対して「匂宮」は文字どおり色好みの貴公子です。中君との出会い以後、かなり宇治姉妹や薫君をやきもきさせ、大君は心痛のあまり死んでしまうのですから、読者としても、いくらなんでも匂宮はけしからんという気にさせられます。
さらに理不尽に、宇治姉妹への愛の身代わりとして、中君につよく勧められて薫大将が愛した美少女「浮舟」を、強引に匂宮は横からさらいます。女も、いっそこの宮にと、心を惹かれています。どうも匂宮の役どころは、薫君に対して、呵責ない敵役です。が、それとて、源氏物語の大きな「筋」に乗った、ある種の必然なんですね。皇家と藤家との、これもひとつの顕著な競合なのです。
では匂宮の、妻中君に対する夫としての態度はどうであったか。これが、丁寧に見ていますと、総じて、意外にまとも、「まめ」真面目なんです。将来皇太子や天子の位についたなら、きっと中君のことを、「人より、高きさまにこそ、なさめ」という匂宮の気持ちに、嘘はないようなんです。伯父の夕霧から望まれている縁談にもしきりに躊躇します。その理由にも、中君に対し、「まことに辛き目は、いかでか見せむ」との配慮がある。
前にも申しましたが、今上天皇の愛子匂宮と、宇治八宮の遺児中君とでは、当時の宮廷社会の力学からしまして、今日の読者が感じる、何倍もの格の違いがあったのは事実で、見ようによっては、「中君」程度の女性ならいわば側妻の一人として、ま、上臈=上等の女房なみ、また召人なみに待遇したとしても、少なくも世間は不思議に感じない。現に、匂宮の母である明石中宮もそういう見方で、そのように迎えてはと暗に勧めてさえいたのです。
が、匂宮は、結果として、そんなふうに軽くは中君を待遇せず、動かぬ本妻として、嫡男の生母として、格高く大切に執り成しています。姉の大君は妹の夫となった匂宮が信頼できず、恨むようにして死にますが、妹の中君は、夫を頼みに、愛を信じるしかないという決意を貫き、そして母親に成る。こういうところが、あの「桐壺更衣」と、芯のところでたいへん似ています。しかも中君は、桐壺更衣のように、死の哀しみへ、崩折れて去って行くこともない。
中君が宇治の故郷を離れ、二条院に迎えられるのは「早蕨」の巻でですが、そのころ、夫の匂宮はたとえ内裏に行っても、「夜とまることは、し給はず、」新婚時代をともあれ無事に妻のそばで維持しています。
しかし、こういう現実も有った。匂宮ほどの人に、中君程度の出のお妃がただ一人では、なんとしても宮廷社会でのバランスがとれないんです。故六条院の跡取の夕霧太政大臣は、匂宮には伯父さんです。その夕霧の娘の六の君との縁組は、事実上、避けて通れないこの社会での、ま、黙約ですらあったものですから、匂宮は、その辺の成り行きもよく考慮して、必ずしも中君と毎夜を倶にすることはあえてせず、六の君との結婚後は、半々になるようにと、適当に中君を、「かねてより、ならはし聞え給ふ」ような「夜がれ」浮気もしていたのですね。今日のモラルでとやかく言ってみても始まらず、中君も承知で、さりげなく夫を頼みにする姿勢を崩さない、そういう夫婦生活ではあったんですね。
ある人が、こんなことを言っています。宇治中君は、夫匂宮の、好色ゆえに不幸なのではなかったんだ、匂宮の、地位の高貴さゆえに、つらい思いをせざるを得なかったのだと。そうなんです、その通りでした。
源氏物語の女性のなかで、女として、人として、その表現の推移において「内面の成長」の描かれたのは、「紫上」「明石上」とならんで、この「宇治中君」を挙げることが出来ます。この三人とも、「故郷を離れ」て、光君や匂宮という夫と、運命をともにする人生を選択した女たちです。そこが共通しています。また優れた内実をもっています。
なにより、宇治中君には、「思ひ直す心」というものが認められる。どんな際も、表面は平気に、平然と「つくろひ」「もの思ふべきさまも、し給へらず」「心のうちに思ひなぐさめ給ふ」とか、「さりとも、いと、かくてはやまじと、思ひ直す心ぞ、常に添ひ給ひける」などと語られています。これは大きな特徴です。作者紫式部その人の性格の反映かも知れませんし、これが、桐壺、紫上、明石ら、物語の本筋にとって特に重要で主要な女性に、やはり共通して見えている優れた美徳でしょう。生霊にもならず、死霊にもなりはしなかった。
また中君は、「おいらか」で「らうたげ」だと、物語のなかで何度も批評されています。
「おいらか」は、ま、のんびりとも、おおらかとでも、取れるのですが、この言葉には、あの紫上が「おいらか」とされる際の、或る種の聡明な態度に相当するものと、「女三宮」がそう批評された際の、「至らない未熟さ」の意味と、両面があります。むろん「中君」の「おいらか」は、明かに「紫上」のと同じで、肯定され、褒められています。中君には、加えて、意志的・処世的に「おいらか」を「演じ」得て、その結果として夫の目にも「らうたげ」愛らしいと映る、そういう賢さ、聡さがありました。匂宮との間には、何度もの危機がありましたし、宇治へ帰りたいと、密かに薫君に頼むような、薫君の求愛を受けてしまおうかとあわや惑いかねないような、危うい時も、有ったことは有った。しかし、それを、まさに「おいらかに」「らうたげに」彼女はすべて克服してあやまちせず、結句、妊娠という女の充実・成果に恵まれたのです。「運命を活かした女」と、そう言い切れる、知的にも情的にも、優れた力・性質の持ち主でした。だからこそ薫君は、中君を匂宮に譲ったことを、心から後悔して、いつまでも中君を慕います。それがまた中君の女の魅力を倍加して、夫の匂宮を、おかしいほどのやきもち焼きにし、これがまた、中君もちまえの愛しい魅力として、その人柄に、加算されるのです。
ところで宇治十帖の中でも、「早蕨」の巻は、「二条院物語」の結着へ明るい雰囲気をもたらす、展開に富んだ巻です。一方「浮舟」も登場して来まして、彼女にすれば、ここが悲劇の幕開きでも、ある。姉の「中君」が身に負うた、もの悲しいものを、ここからは異母妹の「浮舟」が、あたかも肩代わりし、「中君」の方には、一転「幸ひ人」と人に噂もされて行くイメージが、初めて添うてきます。
そもそも源氏物語の中で、「幸ひ人」と評判されている女性は、四人います。「明石上」と、その母の「明石尼上」が、そうです。
明石で、明石入道と一緒に暮していた母と娘が、いいえ誕生間もない孫娘もが、光源氏により都へ引き取られまして、女の子は、おいおいに明石女御から中宮へ、国母へ、と登って行くのですから、これは「幸ひ」と呼んで当然でしょう。この「明石(入道)」の家系が「桐壺更衣」の家系と、ごく近い親族であったことは、以前に申し上げたとおりで、とても大事なことです。
さて、もう一人の「幸ひ人」は、むろん、光君の正妻「紫上」です。この人は式部卿宮の娘であり「藤壺中宮」の姪でもありましたから、「明石上」のような中どころの身分ではない。しかし幼くに、母を失っていた。「若紫」の少女時代に、まるで掠われるように、侍女と二人、光源氏の二条院に、いわば隠匿されています。そういう「故郷離れ」を強いられた不幸は不幸ながら、もちまえの聡明さで、まことに理想的な光君の妻として、生涯を輝いた。この人が「幸ひ人」といわれる意味には、光源氏との一体感の深さ強さへの、賞賛の気持ちも含まれています。
そしてこの紫上が、「はは」とも呼ばれつつ、最期の時まで愛し、二条院を相続せしめた「匂宮」の、その愛妻の「中君」も、また、「幸ひ人」と人に言われている。紫上も中君も、同じく「宮筋」の人であります。ひとつ間違えば「召人」として軽く遇されたかも知れない、危うい身の上であった点でも、「紫上」と「宇治中宮」は似ています。しかも二人とも、夫の愛をふかく享けまして、「正しき妻」として重く待遇されました。違うのは、「紫上」が、ついに実子を出産できなかったのに比べ、「中君」は、母として、因縁の「二条院」に、男の子をもたらしている事です。「桐壺」や「紫上」の願いを、遂に「宇治中君」が、この邸に、もたらしたのです。
むろん、紫、明石、中君ともども、「幸ひ人」には、「意外な幸せ」ゆえに、また、苦しみや悲しみも背負うという一面が、避け難いんですね。この源氏物語を物語る者たちの意識に、彼女らの「幸ひ」を、「意外な」と見る気持ちが有る。そしてそんな風に見られている以上、とうていこの社会で、のほほんと「幸せ」でばかりは居られない。さまざまな苦労を、苦痛を、三人とも体験しています。
それでも、今は「中君」に限って申しますなら、「(匂)宮の上(=中君)こそ、いとめでたき御幸ひなれ」と、はっきり言われています。「若君生まれたまひて後は、こよなくぞ、おはしますなる」と、いかに、「男子」を宮家にもたらしたことの、大きく、重いかが、言われています。そして日々に「御心のどかに、かしこう、もてなしておはしますにこそは、あめれ」と噂されるほど、中君は、すくなくも表面、「おいらかに」「らうたげに」「宮の上」としての貫禄をしめして、動揺しない。黙って座っていても、夫の匂宮に、立太子の、また即位の望みは見えて来ています。「若宮」にすら、それが見えて来ています。まさしく、「意外な幸ひ」に中君は恵まれつつあるわけで、その落ち着きには、丁度この頃の匂宮の母親、「六条院物語」を宇治十帖の世界で、立派に完成させつつある光源氏の娘の「明石中宮」の貫禄を、あたかも、後追っているかにさえ、読み取れて来るほどです。
さよう、桐壺更衣に始まって明石中宮に至りつく「六条院物語」と、同じく桐壺更衣に始まって宇治中君により願望成就の「二条院物語」と、この「二つの大筋」を、しっかり掴んでいれば、『源氏物語』は、限りなく大きく面白く読める、少なくも読んで甚だしく脱線するということは、ない。
注目すべきは、ともに二つの大筋が、「女の運命」と共に「皇位」と深く関わり、そこに喜怒哀楽が集約されるかのごとき観を呈していることです。外戚たらんと奔命した人達の、幾代もをかけての、厳しい競合社会。桐壺も明石も中君もそういう社会に身をおいて、しかも女の幸と不幸とを、したたかに嘗めています。ただ、紫上も含めまして総じて彼女たちは、夫の誠を頼み、また信じ、そして大きくは、致命的には背かれることのなかった「幸ひ人」たちでありました。よかれあしかれ、そういう「女」たちでありました。
しかし、この人たちから「現代」は何を学び、受けとるべきかとなると、正直、私は、明言を敢えて避けたい気持ちです。現代の美智子皇后さん、雅子皇太子妃の、ご心中を、うかがってみたいものだと思っています。
申せることは、私は「宇治中君」が好き、とっても好きなタイプだということです、「紫上」や「明石上」とならんで。そして「桐壺更衣」も含めまして、彼女らこそ、『源氏物語』の本筋・本当の女主人公であったという、紛れもないその意義について、物語の組み立てに即してお話を致しました。
ご静聴、有り難うございました。
──中日新聞社主催 連続講演『源氏物語の女性たち』第一回──
源氏物語への旅
北山・小野の里
源氏物語に限っていわば旅寝の名どころをさぐってみても、有名な須磨明石の流されや住吉・石山・長谷などの詣で、それに宇治十帖の舞台になる宇治や小野の里など京の郊外が見られる程度で、おおかたは十世紀後半と目される平安京の内や間近な郊外を人はしげしげ往来している。物忌みや方違えを除けば人といってもかなりは男たちで、女は物詣でか、いま謂う葵祭つまり賀茂社の祭見くらいにしか家を出ない。
例外的に、九州での田舎びた求婚騒動が、美しい「玉鬘」をめぐってすこし書かれている、が、筋を追うだけで土地は描けていない。無理もない、作者は九州は知らないのだから。それでもあえて書いたのは、紫式部のことに仲よかった幼な友だちが、親の赴任に伴われた先の九州ではかなくなった、その鎮魂の思いもあったからだ。華麗な仮構(フィクション)に相違ない源氏物語には、それだけに意外に色濃く作者の実人生や人との出逢いが匂わせてあり、細部の真実感(リアリティ)を深めている。
それにしても「源氏物語の旅」というなら、まさしく「京都」こそその目的地であっていい。
都大路を順におっても、一条には薄命の「柏木」未亡人である「落葉の宮」の邸があり、まめ人の名を負うた故人の親友「夕霧」が、さま変りに宮を恋いこがれてもの狂おしいまで通いつめるし、二条には、「光源氏」生みの母「桐壷の更衣」の故居二条院がある。こここそはこの長大な因果物語がハツシと打ちこんだ原点ともいうべく、光が、終生最愛の妻の「紫の上」を迎え、またその死を見送った邸であるばかりか、紫の上に譲られて光正系の孫「匂宮」がここに住みつき、紫の上再来ともいえる愛妻「宇治の中君」に生い先めでたい男の子を生ませている。この子は将来皇太子となり天子の位につくことも期待できるというのだから、因果の糸はいかにも太い。
三条へ移れば、父帝には寵愛深い中宮、光君には秘密の子を生ませた理想女人の「藤壷」の里邸があり、また光君最初の妻「葵の上」藤原氏の育った家があり、葵から生まれた夕霧が幼な恋を実らせて妻の「雲居の雁」と仲よく暮していた。五条へ行くと、光源氏の乳母の家があり、その病気見舞いにおとずれた夕暮れどきに、はからずも美女「夕顔」と逢い、愛しあう。だがその夕顔は、六条ちかい河原院(角田文衛博士の有力な異説もある。もう少し西に当たる具平親王旧邸こそ、と。しかも縁戚的にも式部の父や伯父が親侍したこの具平親王の愛人に「大顔」という名の美しい人があり、物語の「夕顔」とそっくりの最期を迎えたことは、当時宮廷社会に知らぬ者のない実話であった。)へ光君が連れ出した闇のまぎれに、露を散らすようにはかない命を生霊に奪い去られている。生霊は、後に葵の上の命をも産褥から奪いとった高貴の女人、「六条御息所」の現身から悲しくももぬけて来たのだった。光源氏は、さまざまに鎮魂の思いも秘めて、この六条御息所の遺児を秘密のわが子「冷泉帝」の「秋好む中宮」として養い、かつ奉り、結果的に政権の基盤を巨大なものに仕上げている。
そののち光源氏は、同じ六条の地に、ひろびろと四町をしめて四季の趣もゆたかに美しい六条院を経営し、紫の上はじめ「明石の上」「花散る里」「末摘む花」など大勢の女の愛と悲しみとを一身にうけてここに住む。だが、鴨の河原はるかに、東山には清水寺のいらかや八坂の塔を抱きこんで、やがて雲隠れゆく死出の山路の鳥辺野がひろがっていたし、遠く目を転じた西山には、まだいとけない愛娘「女三の宮」を因縁ふかき弟六条院(光君)晩年の妻として委ね、ひたすら後世の安心を願う先帝「朱雀院」の、うらみ深い出家姿も隠れていた。
そういえば、「明石の中宮」として後年に光りかがやく娘を生んでまだ間もない、聡明な「明石の上」が、ひっそりと明石から京へ上ってまず住みつき、たまさかの光君を待ち迎えた家も、西の嵐山にまぢかい保津の流れのしみじみ聞えるところに在った。
平安京は左京・右京を擁して規模きわめて壮大であったが、右(西)京はやがて荒れ衰えて左(東)京へ都市化が進み、ついには鴨川を越えて東山三十六の峰々にせまる勢いをみせたが、源氏物語世界ではまだそれほどでなく、しかも京洛の地内を中川、堀川、紙屋川、京極川など、北から、幾筋もの細流がそうそうと、せんせんと、南へ西へ流れおちていた。そのような風情に加えて、都ながらに野は七野、木立の影もそこかしこひとしお濃まやかであったさまが、それはそれはみごとな筆で物語には描きつくされている。京の町育ちの私など、そうした描写のはしばしにさながら平安京の風光を呼吸する思いはするのだが、さりとて現在の市内に形としてのこった「平安時代」なんぞは、無いも同然なのだから、よほどの紙数を費してこまかに本文を引きながら四季と恋との折々の風情をくわしく案内するのでなければ、さて、それと目ざして訪ねて行けるような「旅」さきは紹介しにくい。ただ「春は、あけぼの」「秋は、ゆふぐれ」の山なみの色と姿ばかりは、そうそうは往時に変るまいと想いたい。
ところで、その山なみのなかでもひとしお奥ゆかしく昔しのばれるのは、東山、西山に優って北山、それも比叡山の西麓、物語にはしばしば小野の里などとして登場する辺りであろうか。
比叡山は、朝廷や貴族社会とひときわ縁の濃い延暦寺を鬱然と擁している。山上にも山麓にも名僧知識が大勢暮していたのだから、世の常をいとい離れて、清々しい、すこし寂しい空気が漂い流れていた。わけて老と病と死に逼られた者たちには、後世の安心を得る頼りは自然多くてつい慕い寄りもしただろう。おもえば往生浄土を願う気持が、ひとしお兆していた時代でもあった。
源氏物語では、だが北山の名は、まずは朝露の日ざしに散るほどの清々しさであらわれる。光源氏が義母藤壷への秘密の恋をなぐさめる、あたかも形代かのように藤壷の姪にあたる、美しいかぎりの少女「紫」とここで初めて出逢う。作者が「紫式部」と称えられた、名高い「若紫」の巻でのはなしである。
しつこい熱の病いを大徳の僧のちからで癒そうと「北山」の「なにがし寺といふ所」へ出向いたのは華やかな春三月の末だった。「つづら折り」といった表現から鞍馬山寺のあたりかと想像されていきた、が、もっと都に近い岩倉辺という説で見直されている。ともあれその出向いた先からまぢかに、深い山なかの目の下のほうに清らかな庵室が見えて、そこは都でも尊ばれるある僧都の住む家だった。たまたまそこへ僧都の妹尼が母を失った孫娘すなわち若紫をともない訪れていたのである。垣間見た源氏はひとめで宿世の愛を覚え、以後、経緯あってこの生いさき愛でたい十にも満たぬ少女を二条院の内に深く隠まい、理想の妻に育てあげる。
我々は源氏物語を端的に、幼くして母を失った光君が、母(生みの桐壷、義理ある藤壷)
によく肖た最愛の妻(紫の上)をえて幸せな生涯を遂げた物語、と、理解しても決して誤解ではないのである。鞍馬といい岩倉といい、北山の春はおおどかに静かで、深山のけしきはなやぐ紅葉の秋よりむしろ落着いていて、意表にでてさすがにうまい時季をえらぶものだと感心する。夕映えの刻限など、出町柳へ戻って行く郊外電車の車窓には、京都の北側に山隠れてもう一つこんな故京もあったかと、なつかしい思いを誘われる小盆地がまだ残っていて、つまりは沿線の西から東の山べヘかけて一帯を小野の里と想ってみるのも、ちょうど佳いのではないか。「北山」も「小野」も、いわば漠然と広いのであるから。
その「小野」の里が印象的に叙されているのは、前にすこし触れた「夕霧」の巻である。この巻の時分は父光源氏は太上天皇に準じられて六条院に栄華を極めており、子の夕霧は、友の未亡人落葉の宮が病いの母に付添い小野の里へ療養に出ている先へ、見舞いと称しつつ隠し切れぬ恋をうったえに、人も見あやぶむほどしげしげ足を運んでいる。おそらくは現在の修学院離宮あたりであろうと目されている。紙数に限りがありあえて現代語訳はしないが、静かに音読してみてほしい。
「日入りかたになりゆくに、空のけしきもあはれに霧りわたりて、山の蔭は小暗きここちするに、ひぐらし鳴きしきりて、垣ほに生ふる撫子の、うちなびける色もをかしう見ゆ。前の前栽の花どもは、心にまかせて乱れあひたるに、水の音いと涼しげにて、山おろし心すごく、松の響き木深く聞こえわたされなどして、不断経読む時かはりて、鐘うち鳴らすに、……」
昨今なら、むしろ修学院よりやや南の山すそにひそやかな、竹の御所の曼殊院などをそのままの家居に想像しながら味わうのが、実感に添う。大比叡をまぢかに背後に負うて、西へ北へ南へ開けた高みからの眺望は四季にすばらしい。そしてこの夕霧と落葉の宮との、お互いまじめなだけにいささかピントのずれたもの優しい恋の結末は、なかなかの風情に富んで面白いのだが、ことこまかに紹介できないのは惜しい。
「小野」の里は今いちど極めて大切に、宇治十帖、物語も大団円に近い「手習」「夢の浮橋」の巻に、宇治川へ入水死したはずの美女「浮舟」が救い出され隠まわれている住まいとして、こと濃まやかに描かれている。宇治から二十四、五キロか。比叡山の西、坂本の高野川ぞい、同じく小野とはいえ先の落葉の宮の宿りよりはだいぶ北に入って、おそらく長谷出辺りかと推定されている。
ここからだと本文の描写どおりに、黒谷をへて横高山の鞍部を東へ、横川の根本中堂へ至極の山道が美しくまた心細く通じている。匂宮と薫大将とにともに愛されて身を中空にみずから死をえらんだ果ての浮舟が、奇しくも横川の高僧に救われ妹尼に亡きわが娘のよみがえったかと愛されている。
噂を聞いた薫大将はひそかに手紙を届けて来るのだが、浮舟はこたえず、しみじみと北山小野の里は暮れてゆく。
須磨・明石
源氏物語には、特徴的な「枠組」がいくつか設けてある。その一つが、三つの大きな予言だ。
最初の予言は巻頭の「桐壷」の巻に出る。まだいとけないほどの主人公の皇子「光君」を相して、高麗の相人が、この少年は天子の位にも上りそうでいて、そうとも言い切れないし、人臣を極めて国の柱石となるかといえば、それだけでも終らない、はて…と首をひねる。この予言は、光君が源氏に降り、しかものちに太上天皇に准ぜられて「六条院」と呼ばれるに至る経過に的確に触れている。
二つめの予言は「若紫」の巻で、光源氏が、「影も覚えぬ」生みの母の「桐壷の更衣」にたいそうよく肖ている義理の母、現在の父帝の女御の「藤壷」に迫って、のちの「冷泉帝」を懐妊させてしまったらしいと、夢をよく解く者が光君に告げている。この秘密を知って、のちに冷泉帝は父源氏を准太上天皇にあげ、子たる礼を尽すのである。
三つめの予言は「澪標」の巻に見えている。これよりずっと以前に光君のえていた予言として、彼は「三人」の子に恵まれ、男の一人は天子(冷泉帝)の位に上り、女の一人は中宮に上り、一番劣ったものも太政大臣(夕霧)になるであろうと語られている。この予言はさまざまの面で大きく物を言ってくるのだが、一つには、ときめく光源氏が思わぬ罪をえて須磨へ、明石へ、流されの憂き目をみることの、必然性を巧みに説明してもいる。なぜかと言うと、光君は、この明石の里で、因縁も深い一人の女と出逢い女の子を生ませるのだが、その子がのちに「明石の中宮」となり、予言は満たされる。ただ受身に流されたのではなかった、須磨へ移り住み明石へ漂い流されたにも、そう在るべき約束があったのだと、物語の組立ての上の確かさをその予言は賢く補強しえているのである。
むろんこの流されには、直接間接の原因というものが在った。光源氏が、兄「朱雀帝」の後宮に入る女人と知りつつ、「右大臣」藤原氏の娘「朧月夜」を犯したのが直接の原因とすれば、その右大臣藤原氏と対立していた「左大臣」藤原氏の娘「葵の上」を光君が妻にしていたことなどは間接の原因だろう。対立する両藤原氏の政争に光君が巻き込まれたのだとも読めるからである。
しかし、もっと徹底的に本文を読めば、物語における真の対立は光君が属する皇家と藤原氏との間にこそすでに深刻だったさまが、よく読み取れる。また、そこを読み取らないで源氏物語の面白さはつかみ切れないのである。
明石中宮を生む「明石の上」との明石での出逢いは、藤原氏に責め殺された(「横ざまなる死」とある)光生みの母の桐壷の更衣一族の強烈な復讐を意味していたし、その後の藤原氏に対する源氏の圧倒的な優勢を保証さえしたのである。桐壷の更衣と明石の中宮とは一、二代を遡れば、ごく親しい血族関係にあった。中宮の祖父明石入道は桐壺と従兄妹の間柄であった。かくて光の母桐壺の果せなかった夢を、光の娘明石が、みごと実現したことになっている。
あらましかくの如くとあっては、古来、源氏物語といえば「須磨」の巻、「明石」の巻と喧伝されて来たにも納得が行くというもの。但しこの巻が印象にあるのは、一つには俗に「須磨がえり」と言われて、この辺りまで来て源氏読みの挫折してしまい易い事にもいわれがある。華やかだった貴公子光源氏の人生に、にわかに暗い影がさし初めるのがこの「須磨」の巻だから、辛抱のない人ほどイヤ気がさすとも言える。明石の里ではまたもや色好みの文藝らしい花やぎがよみがえって来るが、須磨の浦のわび住まいには、当然に色気は乏しい。しかし、それだけに作者の筆が力を籠めて文藝描写の才能をより美しく発揮しているのも、また「須磨」の巻だ。
「おはすべき所は、行平の中納言の、藻塩たれつつわびける家居、近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれに、すごげなる山なかなり。垣のさまよりはじめて、珍らかに見給ふ。茅屋ども、葦ふける廊めく屋など、をかしう、しつらひなしたり。」
「須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、『関吹き越ゆる』と言ひけむ浦波、よるよるは、げに、いと近う聞えて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。」
都の栄華を遠くへだたる、こういう所へ光源氏は流されてきた。そこには昔流された在原行平の故事もイメージに重ねられ、また今日の我々なら謡曲「松風」の松風村雨伝説までもうち重ねて読み込むことができる。それに比べれば、現実に今日の須磨の浦など、もはや往時を偲ばせるものとては、かすむ淡路の島影と渚うつ波の音くらいしかない。
源氏の須磨の暮しはわびしかった。都恋しい思いは時にたえがたいものがあった。そして年を越えて弥生上巳といえばいわゆる三月の節句、その年はちょうど月の朔日にあたっていた。久しい日本の風習にしたがい光君は海べへ出て、みそぎに身を清まわろうとする、と、にわかに凄い波風が立ち、あやうく八重の潮合いにさらわれそうに天候が荒れた。光はかろうじて亡き父帝の告げに導かれ、折しも「明石入道」がさし招くままに、なお西の、明石の里へかつがつ移り住む。この辺りはもう「明石」の巻に入っている。
「海のおもては、衾を張りたらむやうに光り満ちて、神、鳴りひらめく。おちかかる心地して……」と春雷のすさまじかったさまが「須磨」の巻の最後の方に描かれている。
目を明石へ移すまえに、ちょっとここで蕪村の有名な「春の海終日のたりのたりかな」を思い出しておこう。この句、「須磨の浦にて」という但し書きがついている。日本中で、一年のうちに何度か、海は「のたりのたり」「ひねもす」先祖波をうつといわれる。そう信じられている。そして三月上巳は、ことに大事なその一日とされている。人は海に出てその日の波に大切に身を清める。蕪村ほど古典の通が、「須磨」の海をしかも「終日のたりのたり」と眺めたとあれば、この久しい民俗とともに光源氏「須磨」の巻のみそぎの荒れをも、併せ胸におもい描いたのは必定だ。それでこそ、この句、いかにも蕪村の藝になる。ひとしお面白く読める。「のたりのたり」であるはずの日に海が大きく荒れたことが、そのまま光君の運命を変えて行き、予言は一つ一つ満たされて行くのだから興深いし、源氏物語の世界がいかに内懐を広く蔵しているかも知れる。
それにしても私なら、源氏物語のためにも、いま現実の須磨の浦へなど出向いてみようとは考えない。実際に事実須磨まで行って来たから、つくづくとよけいにそう思う。
一の谷のいくさやぶれ
うたれし平家の公達あはれ
あかつき寒き須磨のあらしに
きこえしはこれか青葉の笛
思わずこんな小学唱歌を思い出してしまった。源氏ならぬ、これは、平家物語敦盛の討たれの名場面につながる。が、ここは光源氏を語る場所、先を明石へ急ごう。
関西へ帰って、というのも私は京生まれ京育ちの、今は久しい東京暮しの作家だからそう言うのだが、大阪方面への国電のホームに立っていると、よく「明石行き」というのが来る。あれを見る瞬間、いつもからだの中のなにか機械が急にカタ、コト、とせわしなく調整するような物のきしむような音を立てる。現代の明石と、源氏物語で身にしみついている明石との、とっさのせめぎ合いが起きているのにちがいない。
明石にはもと播磨守で今は在地の豪家になっている明石入道が妻の尼とともにただ一人の娘を大切に育てていた。この入道の親は大臣まで勤めた名門だったが、光君の生母桐壷はその大臣からは姪にあたっていた。
志たかく入道は、わが娘をぜひにも高貴の人にめあわせたいと願いつづけ、かなわぬ時はむしろ海の神に娘をささげるほどの気でいた。光源氏が須磨へ落ちて来た噂は彼をはげまし、嵐にことよせて迎えの舟を明石から送ったのである。
源氏は誘いのままについにのちに明石の上とよばれる娘を愛し、懐妊させる。その頃には京の事情も動き、源氏はゆるされて、「紫の上」をはじめ多くの妻や愛人たちが待ちわびている都へ帰って行く。
明石の別れは寂しくも涙にくれた、だが一面また将来に望みも豊かな、ふしぎに心波立つものであった。たった三人の子の、それもただ一人の女の子が今は明石の上の腹には宿されているのだ。やがて女は母尼とともに都へ上り、父入道の大願は歩一歩と果されて行くだろう。即ち明石の上の生んだ娘がさらに天子の子をなして、その子が位につく日が来るのである。それは、まさに光源氏が果せなかったものの成就であり、母桐壼の更衣や明石大臣家が果せなかった夢の実現になる。世に幸福な人の代表者のように、のちにはサイの目ひとつ祈り出すのにも「明石の尼上」「明石の尼上」と手をもんだのは、都へも宮中へも娘や孫娘に付添った明石入道の妻の晴れがましい胸の内を想像すれぱ、察しもつこう。
源氏が明石の女へ通い初める辺りを、余韻おもしろく、あえて原文で引いておく。女は岡べの家にいる。
「……つくれるさま、木深く、いたく所まさりて、見所ある住まひなり。海のつらは、いかめしうおもしろく、これは、心細く住みたるさま、『ここにゐて、思ひ残す事はあらじとすらむ』と思ひやらるるに、ものあはれなり。三昧堂ちかく、鐘の声、松風に響きあひて、物悲しう、岩に生ひたる松の根ざしも、心ぱへあるさまなり。前栽どもに、虫の声をつくしたり。ここかしこの有様、御覧ず。女住ませたるかたは、心殊に磨きて、月入れたる槙の戸口、けしきばかり押しあけたり。うちやすらひ、なにかとのたまふにも、(女は)『かうまでは、見えたてまつらじ』とふかう思ふに、ものなげかしうて……」
などとある。明石の上には紫式部の聡明と願望とが虚実を兼ねて重ねられている。
宇治の里
もう昔…といっても戦後のはなしだが、ある新聞社が日本列島の名山名川を読者の人気投票で上位十まで選んでいた、その時の「川の部」の断然一位が宇治川だったのには、まず驚き、そして納得した。高校を出るか出ぬかの時分だった、というより私が初めて源氏物語を岩波文庫の原文で読みとおした頃の、なかなか心にくい企画でもあった。
最初驚いたには、理由が二つある。京生まれの京育ち、宇治川はあんまり身近でつい笑えてしまったのである。日ごろ間近に見なれていた人が、ある日ふいに偉い人であったと和ってとまどう、あんな心地がしたのが、一つ。同時に、たかが新聞の読者が(と思ったのだから正直に言うが)、よう見とるもンゃと感じ入ったのが、その二つ。ほんまに宇治川は佳ぇ川ゃと今でも思うが、まして宇治十帖を読み終えたような時だったから、身にしみて宇治川の一位が納得できたし、心嬉しかった。
ふつう宇治川で思い出される古典というと、むしろ名馬生食・摺墨先陣争いの平家物語の方かも知れない。そればかりではない勇壮無比、源平の橋合戦があり、歌にすぐれた源三位頼政が平等院の庭に最期を遂げた哀れも、平家物語きわめつけの名場面になっている。
「小倉百人一首」には権中納言定頼の「あさぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木」もあれば、喜撰法師の「わが庵は都のたつみしかぞ住むよをうじ山と人はいふなり」というのもある。万葉集にも宇治の歌は多いが、柿本人麻呂による「もののふの八十宇治川の網代木にいざよふ波の行方知らずも」が、やはり図抜けている。
源氏物語は「桐壷」から「藤裏業」までを第一部、「若菜」上から「幻」までを第二部とみて、次ぎに題のみ有って本文を欠いた「雲隠」の巻が来る。光源氏の退隠と死とが暗示されており、第三部は光君の子孫、ことに「薫る大将」と「匂う兵部卿」とが主人公となって物語はかなり様がわりに展開して行く。その主要な舞台が、宇治である。断っておくが、この頃にはまだあの宇治平等院の鳳團堂は出来ていない。
宇治には、なき桐壷帝の「八の宮」つまり光源氏の弟にあたる親王が、ひっそりと世に背いて住んでいた。光君が須磨に流されていた頃、光の政敵にかつがれ、当時皇太子であったのちの冷泉帝(実は藤壺女御と光君との罪の子)を追い落す策謀に利用された宮であったため、その後を不遇に暮さねばならなくなり、北の方にも早く死なれて忘れがたみの「大君]「中君]といわれる二人の女宮を大切に、しかし心細く宇治の里で育てていた。仏の教えに心を入れて出家の志深い人だったが、娘の身の上を案じて思うにまかせぬまま、老いは加わるばかり。
この八の宮の高徳の噂にひかれて宇治へしばしば教えを請いに出かけていたのが、光源氏の表向き次男(実は光正妻「女三宮」と藤原氏「柏木」との間に生まれていた罪の子)である「薫」であった。薫と八の宮との接近は、光源氏をはさんで微妙なもののあるのを、読みおとさないことだ。
薫には宇治の八の宮を訪ねる行為が幾重にも重要な意味をもつ。もともと薫が世を「うし=憂し・宇治」山へ心ひかれたのは、自分の出生の秘密をおぼろに察して、隠遁の暮しにあこがれ初めていたからだが、八の宮を訪れ寄るうちに、この家に身をよせていた「弁」という、わけ知りの老女の口から、健在の母、女三の宮となき父柏木との苦しい恋の秘密をまぎれもなく告げ知らされてしまう。その一方で、薫は八の宮の信頼をえて二人の女君たちの後見をそれとなく依頼されるようにもなり、姉の大君をひたすら愛してしまう。
八の宮の家は、京都からは木幡山を経て、むしろ現在の平等院の向う岸にちかい辺りにあったかと想像されている。木幡には道長を始め藤原氏の大きな大きな墓地がいまも残っている。そういう土地を、わずかな供で都からはるばる通って行く道中の難儀は、想像にあまるものがあった。「橋姫」から「夢の浮橋」までいわゆる宇治十帖には、随所に、その露けくも草深く木深い心細いさまが、印象的な筆で活写されてある。いまは途中に巨椋池なく、かわりに黄檗山万福寺がある。門前には感じのいい精進料理の風雅な料亭がある。
八の宮は、やがて死ぬ。薫は、宮の遺託があったとして大君への愛を、求婚へと進めるのだが、大君は、父宮の本意は不幸な結婚などを戒めていたのだとして、かたくなに諾けない。むしろ妹の中君を妻にと薫につよく勧める。姉妹をともに妻にしていいほどの己れと、薫が事実意識していたことは注目されるが、大君への熱愛を表現すべく、彼は、親友で、甥にも当る匂宮をひそかに宇治へ伴い、自分より先に中君との「世」の仲を遂げさせてしまう。しかし今上の帝と「明石の中宮」との類いない愛子である匂宮の辺鄙な宇治通いは容易でなく、夜離れの日々が重なると、妹は嘆き、姉はうらむようにして薫を拒みとおしたまま、はかない命を終る。薫はかくて八の宮に死なれ恋い慕う大君にも死なれて、一度は空しいながらも一夜をともにした仲の中君をさえ、ついには匂宮の二条院へ連れ去られてしまう。この邸は光源氏の生みの母「桐壷」以来の因縁深い根拠地であり、光終生の妻「紫の上」もここで少女から女となり、また六条院からわざわざここへ戻って死んで行った。匂宮は、この邸を「はは」とも呼び慕っていた祖母紫の上から直接譲られていたのである。
このことはあまりにも重要な事実というべきで、この此処へ、匂宮が宇治の中君を妻として迎えて子を生在せたのは、まさに桐壷と紫の上との望みを、みごと成就させたほどの象徴的な意義をもっている。匂宮の第一子とあれば、その子はのちに東宮にも天子の位にも達しうるのであるから。
薫は、失意の底にあって、いまは人妻の中君にまつわりつくのだが、中君はそんな彼に、よそで育った異腹の妹の「浮舟」が、なき姉の大君に生きうつしだと告げる。源氏物語最後のヒロインが、かくて登場する。薫は案の定、浮舟をなき人の忘れがたみのように深く愛し、宇治の八の宮故居に隠れ住まわせるのだが……。
浮舟を、妻の中君のもとであらわに見知っていた色好みの匂宮が、宇治にと知ってひそかに浮舟に通い初め、惑溺の愛欲に二人は行方も知らず流されることになる。ある時は宮は女を小舟にみずからかき抱いて乗せ、宇治川を向う岸の隠れ家へはこんで、夢ともうつつともなく終日過ごすこともあった。だが薫がそれを知る日は、はや、来た。
宇治の橋は名にしおう急流にしばしぱ流された。ただし物語の頃に、宇治の橋が架かっていたのかいないのか、叙述がない。それにしても匂宮が浮舟のために描いて与えたという、あら波の川背を一葉の舟にひしと抱き合うてわたる男女の絵は、あてどない二人の恋を押し流した宇治川の「あはれ」をしのばせるに足る。
二人の貴公子に愛された板ばさみに負けて、浮舟は、身をいたずらに宇治川に沈めようと思いしみ、そしてある日、彼女の姿は人々のまえから姿を消してしまう。薫も匂宮も、こもごも身を絞るばかりに嘆いたが、浮舟の行方は知れず屍骸も見つからなかった。
急ぎ足に「橋姫」から「蜻蛉」の巻まで、宇治十帖の内八帖を紹介した。つづく「手習」と大尾「夢の浮橋」の巻とは、先述の「北山・小野の里」の項へ譲る。北山から北山へ、京の市内をのぞけば、源氏物語の舞台は大きな円環を成してもいる。
それはともあれ宇治の八の宮や女君二人を慕って薫らが通ったのは、いまは道元禅師を開山の興聖寺がある辺りだったろうか。山みずの、音も清々しくて琴坂ときく参道を寺中ふかく歩み入る風情は、いつ出かけても身も心もしみじみ洗ってくれる。そして、浮舟がものにさらわれたまま、川べに繁る木叢から「北山の僧都」らの手に救いとられたのも、やや下流、今もひそやかに木蔭に多く恵まれた恵心院のある辺りであったようだ。名高い横川の恵心僧都こそは、美女浮舟を平静に導いて物語のはてをとじめている北山の僧都のモデルか…とも、古来推量されている。
さらに今ひとつ、八の宮がいとしい女君二人に心をのこしつつも最期の地として入山を遂げた山寺とは、興聖寺や恵心院からは真北へ朝日山を大きく越えた、奈良時代末の創建と伝えて杉木立ちも奥深い明星山の中腹に、森閑としずまる三室戸寺ではなかったか。
架空の物語の舞台を現実の地名や建築に擬してみたいのは、読者心理として自然なものだろう。が、それも過ぎれば、白けたはなしになりかねぬ。こういう読みものの場合、私がいつも願うのはこれだけで満足してしまわないで、古典に、この場合ならば源氏物語に、じかに触れてほしい…という事。ただしこの物語、たとえ現代語訳であれ、なみなみの気向けでは読み切れない。なにしろ長い。長いにもかかわらず、じつは源氏物語ほど面白く創られた小説、けっして世界中にも数あるわけではない。現代の我々の暮しなどとは、あまりにもかけ離れた絵空事かのように、読む前からかたくなに誤解し腰を引いているから読めなくなりがちなだけで、本当は、「人間」を、こうまで生き生きと深く観て、現代の男にも女にも、まざまざと多くを問いかけて来る物語は、世界文学にもそうは多くない。
「古典の旅」とは、その古典に書かれているらしい場所をただ訪れてみる、そして何かを分ったような気になる……それしきの事では、あるまい。そんなことでは、かえって罪深い。だからこの稿を書くに当たって、源氏物語に、なるべく興味をひかれて読みたくなるようにと、あらまし紹介しようとした。興味をもって読み出せば、なにほどの長さでもないのだ。私は、少なくももう二十度ちかくは読んでいる、が、いまもって、ふーン、ふーン……と、初めて読むような発見や感動をいつも新たにしつづけている。真実の古典とは、そういう「旅」をこそ楽しむものに相違ない。自身の「所有」として、幾重にも慾深く「読んで」ほしい。
京の根性 京の智慧
「京都新聞」特集・京の智(ちえ)巻頭言 二○○一年
子どもの頃、「あんたに褒めてもろても嬉しゅうはございまへん」と、腹立たしげに憮然としている大人を初めて見て、人を褒めるのにも、相手により事柄により「斟酌」が必要らしいと、深く愕いた覚えがある。「人の善をも(ウカとは)いふべからず。いはむや、その悪をや。このこころ、もつとも神妙」と昔の本に書かれている。智慧である。
「口の利きよも知らんやっちゃ」とやられるようなことこそ、京都で穏便に暮らすには、最も危険な、言われてはならない、常平生の心がけであった。京の智慧は、王朝の昔から今日もなお、慎重な、慎重すぎるほどの「口の利きよ」を以て、「よう出来たお人」の美徳の方に数えている。
「ほんまのことは言わんでもええの。言わんでも、分かる人には分かるのん。分からん人には、なんぼ言うても分からへんのえ」と、新制中学の頃、一年上の人から諄々と叱られた。十五になるならずの、この女子生徒の言葉を「是」と分かる人でないと、なかなか京都では暮らして行けない。いちはなだって、声高に「正論」を吐きたがる「斟酌」に欠けた人間は、京都のものでも京都から出て行かねばならない、例えば、私のように。
京都の人は「ちがう」と言わない。智慧のある人ほど「ちがうのと、ちがうやろか」と、それさえ言葉よりも、かすかな顔色や態度で見せる。「おうち、どう思わはる」と、先に先に向こうサンの考えや思いを誘い出して、それでも「そやなあ」「そやろか」と自分の言葉はせいぜい呑み込んでしまう。危うくなると「ほな、また」とか「よろしゅうに」と帰って行く。じつは意見もあり考えも決まっていて、外へは極力出さずじまいにしたいのだ、深い智慧だ。
この「口の利きよ」の基本の智慧は、いわゆる永田町の論理に濃厚に引き継がれている。裏返せば、京都とは、好むと好まざるに関わらず久しく久しい「政治的な」都市であった。うかと口を利いてはならず、優れて役立つアイマイ語を磨きに磨き上げ、日本を引っ張ってきた。
京都は、衣食住その他、歴史的には原料原産の都市ではない。優れて加工と洗練の都市として、内外文化の中継点であり、「京風」という高度の趣味趣向の発信地だった。オリジナルの智慧はいつの時代にも「京ことば」だったし、正しくは「口の利きよ」「ものは言いよう」であった。京のお人よ、この基本の智慧を、卑下するどころか、もっともっと新世紀の利器として磨いた方がいい。