口 絵図版「十六」永青文庫蔵品 青木信二撮影
湖の本
エッセイ
22
能の平家物語
はじめに
平家物語は、わたしの、最もはやくに馴染み、もっとも永く親しんできた
古典のひとつである。源氏物語、徒然草、古事記、百人一首も同じように親しんできたと言える。
古典文学として親しんだかどうかはともかく、いま一つ、観世流謡曲の稽古本と
いうものが、少年の昔の我が家にかなりの数揃っていて、二百冊ほどあった。詞章などめったに「読む」ことはなく、ラヂオ屋の父が抜き出してきて時折に謡
(うたい)をさらっているのを「聴く」だけであったが、巻頭の梗概は、残りなく幼くより読み返し返し、いつかあらまし覚えこんでいた。
父は、京観世の大江能楽堂などで、地謡(ぢうたい)の前列真中に座って、大江
又三郎の舞台などに駆り出される程度に稽古を積んでいた。素人の域は超えていたように思う。自慢もせずいつも悠々と謡っていた。
美しいものとして、わたしは幼い日々にすでに謡曲を知っていたのである。敗戦
直後の六年生国語の教科書に狂言「末広がり」が出ていたのを起って読まされたとき、いきなり謡曲で聴き覚えていたふうに声を張って読み始め、教室中をびっ
くりさせた。わたしにすれば、つまりそういうものであると、自然に聴き習っていただけの話だった。中学生ごろには父の、「教(お)セたろか」に乗せられ
て、「鶴亀」「東北(とうぼく)」「花筐(はながたみ)」の父好みの三番を仕込まれ、ま、その辺で腰を折った。叔母の茶室で、飲み食いと女けのある茶の湯
の稽古のほうがわたしにはラクで、楽しくなっていた。
能舞台へも、おかげで、中学高校の頃には馴染んでいた。父は入場券を負担して
いたのだろう、余ると呉れた。「羽衣」のように長々しい舞のあるものでも「美しいな」と思い、心根を洗われる喜びをいつも感じていた。能を見ていて、「清
(きよ)まはる」気分のするのが、一番、いつも嬉しかった。「清い」と「静か」と、それが能の、また日本の美の真髄であると感じていた。それとともに、ま
ちがいなく「死なれ・死なせ」た人たちの不思議な稀有の世界だと感じていた。平家物語に取材した能の多いことを、ごく当たり前に肯(うべな)っていたので
ある。
平家物語の魅力も、また「清く」「静か」なものの、底に流れているところに
在った。
ただ、平家物語に取材したという、その平家物語なるものが、実は一団の星雲に
も似ていて、同じ平家物語を読んだといってみても、まるでちがう記事や本文に出会う場合が多いのである。能の作者たちが、どの本のどの本文、どの異本のど
んな記事に接していたのか、その辺が興味深いし、分かりにくい。しかしそこに能の平家物語の尽きぬ興趣も生まれている。
わたしは、この本では、「平家物語と能」とか「能と平家物語」とか分別しない
で、あえて「能の(「の」に傍点)平家物語」と題しつつ、各種の異本諸本の記事へ余所見(よそみ)を重ねながら、能舞台からは自在に漂游して、意外な、存
外な、案外な平家物語の素顔や横顔や仮面を覗きこんで行こうと思う。それが能を観る上で面白く役立てばいいが、役立たなくてもいい。
「祇王」から「大原御幸(おはらごこう)」まで二十篇、自ずと平家物語の大流れ
は読み取ってある。
平成十年(一九九八)の真夏に、これは書き下ろした。
祇王 ─心に任せぬ此身の習ひ─
新幹線からもよく見える近江富士、琵琶湖東の三上山(御上山=みかみやま)西
の麓に滋賀県野洲(やす)町がある。かつては途方もない天井川でよく溢れた野洲川が流れ、近隣は大量の銅鐸(どうたく)出土地で知られ、古墳や遺跡が群れ
ている。著名な地名辞典の編者であった吉田東伍は、御上祝(みかみのはうり)や安国造(やすのくにのみやつこ)が占めていたこの「安(野洲)」の地が、け
だし近江国でもっとも古く早く開けた人跡であろうかと推(すい)している。なにやら、高天原(たかまがはら)に八百万(やおよろづ)の神々が集うた、古事
記の「安の河原」の名までが思い起こされる。
平家物語の祇王・祇女らは、ある伝承によればこの野洲沿いにあった江辺庄(え
べのしょう)中北の出で、いまも、JR野洲駅にほど近い東海道線の西寄りに、妓王寺がある。野洲川から岐れた妓王井川も流れ、その下流は、ことさらに童子
川と呼ばれている。
平清盛の寵愛をうけていた祇王が、あるとき、何なりと所望(しょもう)せよと
問われて、言下に、用水(かいみづ)に不便な故郷の地に、どうぞ水路をと願い、「神にも通じた」剛の者の瀬尾(せのお)太郎兼康が奉行(ぶぎょう)して
成ったのが、野田浦に至る紆余曲折の水路であり舟路であったという。工事は、だが、甚だ難渋したらしい。そのおり一の童子が現れて万事をよろしく導いたと
いい、流域の土安(てやす)神社に今も祭られている。童子川の名ののこった所以(ゆえん)であり、ま、いい話である。祇王という女人がぐっと身近に寄って
くる。だが、普通の、入手しやすい市販の平家物語には、こんな話は出てこない。
平家物語とは、時代を経てなだれ落ちるように裾野をひろげていった、莫大な
「異本群」のいわば総称なのであり、「読む」ための本も、「語る」ための本も、饒舌なのも、簡要なのも、際限がない。わたしも、以前は、南北朝ごろに整備
された語り本の「覚一本(かくいちぼん)」(岩波文庫)でもっぱら源平の角逐(かくちく)を楽しんでいたが、今はいろんな「本」を手に入れている。数十巻
におよぶ『参考源平盛衰記』も手近に置いてある。百余部もの各種文献を博覧博捜して関連記事を模索し編成したものだが、広く観れば近代の所産の、これもな
お、いわゆる平家物語という巨大な星雲の一環ないし外延なのであり、源平盛衰記は平家物語ではない、わけではないのである。義経記(ぎけいき)や曽我物語
すらその光芒に連なっていて、その区別に境界線を引く事は容易ではない。
ともあれ平家物語は、一時期に、一人ないし数人の手で同時に企画し創作された
類の書物とは、とても考えにくい。あの後白河法皇が在世の頃にすでに兆し初め、その後少なくも鎌倉時代を経て室町時代にも及んで行く永い永い歳月と、あち
こちに渦を成していた「心ある」人々によって、幾重にも仕立てられ、語りつがれ書きつがれていった社会的・歴史的な、ほとんど国民的な産物だというしかな
い。
そうはいえ、或いはそれだからなおさら、平家物語の「最初本」とは、どのよう
な意図で、どんな人ないしどんな人たちが、企画し取材し本文を定めていったのだろうかという、推量や考察や研究がなされねばならなかった。信濃前司行長
(しなののぜんじゆきなが)が書いて、生仏(しょうぶつ)という法師に語らせたという、徒然草の一説などが盛んに論議されてきたのもそれ故であるが、それ
にしても、どうも学者たちの視線と視野とが、異本簇生の方へ方へもっぱら向かうように素人目にも見え、これは面白くないと思えたので、ちと横槍を入れた感
じに、二昔ちかく前の話になるが、「最初本平家物語」そのもの(4字に、傍点)をさながら主人公にするような、『風の奏で』(文藝春秋)という長編小説を
書いたことがある。小説の題が暗示し示唆(しさ)しているように、わたしは、「平家語りの台本」としての物語編纂を大事に感じていた。文学文藝の作物とい
うよりも、時代をこえて吹き流れてきた「藝能」の、いわば奏で・調べを即ち「風」と読みとって、王朝の郢曲(えいきょく)から、平曲や謡曲への連携をさえ
推理して行きたかった。そんな素人考えを「是非」してもらう必要はないが、平家物語に登場する貴賤都鄙の大勢のなかでも、わたしは、いわば藝能の人たちに
いつもつよい関心、ときにはなつかしい共感を懐(い
だ)いてきたことは、先ずここで言うておいた方が
いい。祇王・祇女といい仏御前といい、また静御前や千手(せんじゅ)の前や、男性のなかにもひょっとして有王(ありおう)も与一も、景清ですらも、さらに
は出家して正仏(しょうぶつ)と名乗ったという源資時(みなもとのすけとき)にしても、一つは「歌舞」一つは「語り」と性質は異(こと)にしながら、やは
り切実に「藝風」を吹き起こしていた人たちだったと見るべきだろう。
読み本が先か語りが早かったか、は、必ずしも本質の問題でなく、どういう意図で平家物語が生まれ出ねばならなかったのか、断絶平家という盛者必衰の理を解
くのか、源平闘諍の経緯を戦記として示すのか、それとも鎮魂平家の切々たる追悼であったか、または厭離穢土(おんりえど)・欣求(ごんぐ)浄土の鼓吹(こ
すい)であったか、等々を、「諸本」によって幾重にも読み解いて行くのが親切な態度だろうと思う。「祇王」説話も、清盛悪行のはじめと読むか、念仏往生の
勧めと読むか、必ずしも簡単なことではない。
平清盛が台頭の当時、白拍子(しらびょうし)ないし遊びの女たちが、藝と容色
とで貴紳の召し仕えとして寵愛を得ていたことは、一種の流行、文字通りの「今様(いまよう)」であった。女たちはその「今様歌」を歌い舞い世に広め、しか
しそのような歌の歌詞を蒐集編纂し、歌唱の技にかかわる深切な口伝(くでん)をさえ自身で書き著(あらわ)したのは、一天萬乗の後白河天皇であった。皇子
の頃から、今様を歌うことにかけて天才的な自負をもち、稽古も重ね、いわば家元ほどの自覚を、「大天狗」とも「愚物」ともいわれたこの天皇は胸に深く抱い
ていた。源平の角逐をわが掌のうえで実演させた後白河法皇の一面に、そのような「今様」への執心があったことは、つい忘却されがちであるが、清盛の祇王や
仏御前への横暴な寵愛にも、院の今様好みが感化していた明かな事実は知っていたい。
清盛は、祇王・祇女を最愛し、栄耀をほしいままにさせていたが、藝者の常として敢えて清盛邸に推参した仏御前の、若やかな美しさに心を奪われ、即座に祇
王・祇女を追い放ってしまう。そればかりか時を経て強いて祇王を召し、仏御前を慰めよと歌舞の奉仕までも迫るのだった。祇王は涙をこらえ、知られた今様歌を当座に少しく詞を改めて、神妙に、辛辣
に歌いあげた。清盛も閉口した。
ほとけも昔は凡夫なり われらもつひには仏なり
何れも佛性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
かくてはどんな屈辱がさらに加わるやも知れず、祇王たちは老母とともに
深く嵯峨野に忍んで、ともに厭離穢土、欣求浄土の念仏三昧(ざんまい)に出精(しゅっせい)していた。
その草の庵(いおり)を、いつしかに、そっと尼の姿に身をやつし訪れてきたの
は、自らも平家の栄華に背いて世を厭い離れた、あの仏御前であった。
この説話は、時勢への痛烈な批評味を帯びながらも、来世の救われを願う人々の
耳に、はなはだ良くできた説法であっただろう。極楽往生をひたすら祈る女人たちの、健気(けなげ)にものあわれな物語を、清盛悪行(あくぎょう)の初めに
挿入したことで、大原御幸(ごこう)後の建礼門院往生浄土と、首尾照応のみごとな効果を上げていることも疑えない。
もっとも祇王や仏が、まこと実在の人であったか、これは微妙であり、琵琶法師
たちの久しい唱導の経過中に、脚色ないし創作され、挿入された一句であったかも知れない。
「ギオウ」の名は、本により祇王とも義王とも妓王とも分かれている。ところが滋
賀県野洲(やす)の妓王屋敷にまぢかく、上古から「行(ギオ)の森」があり、行事宮(ぎょうじみや)が、近隣の呪祝(じゅしゅく)に当たっていた。加えて
行の森一帯が「浦(占)谷」と呼ばれてきた。ミカミ山の麓にヤスの河原を控えてウラを行じたこのギオウの故地は、また、ほど近く、今様歌いでも名高い遊び
女(め)たちが群れ棲んだ龍王の鏡山宿(じゅく)とも気息を通わせていたのである。後白河の宮廷社会にしばしば愛顧を得ていた女たちの、ここは一巣窟で
あった。地祇(国つ神)を祭って歌舞に長じた遊部(あそびべ)の末裔であったか、行業(ぎょうごう)不思議の伎女であったか、ともあれ「祇王」は、『梁塵
秘抄』でいうならば、つまり「神歌(かみうた)」の世界を身に負うて、近江国から京の都へしきりに往来していたと見られるのである。
そして仏御前の歌う今様世界は概していわば法文歌(ほうもんうた)であり、しかも仏御前の出は、加賀国シラ山のシラ拍子であった。シラの根は、深く遠く西
海、北九州の海底にある。世に恐ろしい安曇(あづ
み)の磯良(イソラではない、シラと読むべきだろ
う。磯城をシキと読むように。)に発して、日本列島を裏から表から海沿いに北上し、ついにオシラさま信仰にまで至っている。ホトケ・ホトキとは、そんな怖
いシラ神をも祭り、また死者にも供し、乞食行(こつじきぎょう)にも用いた、サラキやヒラカと根の同じい容器、一般に祭事・凶事に備えた容器の呼び名で
あった。例えば大仏(オサラギ)の読みも、それを教えている。
ホトケ御前を、ぜひにも仏如来(ぶつにょらい)に由来するかのようにのみ受け
取っていては、微妙なところで、日本の「藝」「藝能」の性根を見錯まりかねない。白拍子の「シラ」の遠景も、あまり単純に考えていると、じつは平家物語が
懸命に奏でてきた、不思議の「風の奏で」をも聴き損じてしまいかねないのである。
(追い込み 2行アキ 以下すべて同じ)
熊野 ─またもや御意の変るべき─
(見出し3行中央 12ポ 9ポ ゴチ 9ポ5字サゲ 以下すべて同じ。本文は9ポ)
宗盛という人物がいないと、平家物語は厚みを減じてしまう。源頼朝の子に頼家と実朝とがいて、平清盛には重盛と宗盛と知盛とがいる、と仮に見立てれば、父
親の内蔵した魅力は、清盛のほうに分があるというのが、昔からのわたしの身贔屓である。わたしは、少年の頃から根からの平家贔屓であり、平宗盛をすら、な
かなかの存在だと思ってきた。
宗盛に印象をえた最初の出逢いは、戦後の新制中学三年の三学期に、お年玉から
岩波文庫「平家物語」上下二冊を買って読んだあの時に相違なく、とはいえ幼稚園、国民学校の昔から、唱歌や絵本で、源平のスターたちの華麗と哀愁とには、
たっぷり馴染んでいた。「赤勝て、白勝て」の運動会の興奮をすらふくめて、そういうご時世代でもあった。
平家物語の後半に、「八島大臣」と呼ばれて平総帥の地位にいた、従一位宗盛の
印象は、たしかに芳しいものではなかった。だが、それにもかかわらず宗盛登場の各場面は、それぞれに、ちょっとずつ興味深くはあるのだった。やや硬直した
兄重盛の上出来すぎた印象よりいつも妙に阿呆らしく、妙にまた物哀れに生き生きとして、宗盛には現実感があった。よく謂えば、印象がふっくらしていた。軽
くても、薄くはなかった。
源三位頼政の嫡子伊豆守仲綱との間で、名馬をめぐって失笑ものの確執がある。
驕る平家をかさに着て、仲綱秘蔵の「木の下」を強引に召上げた宗盛は、さらに愚かしくも馬の名を「仲綱」と替え、印焼まで打って、ことごとに「仲綱」「仲
綱」と、見よがしに乗り回した。この遺恨がやがて仲綱の父源三位頼政の挙兵に繋がったのだと、平家物語は巧みに動機づけている。その際仲綱は行きがけの駄
賃に、働き者渡辺競の機転で宗盛のべつの愛馬を奪い取り、「昔は煖廷、今は平宗盛入道」とこれも馬に印焼して持主へ追返している。
こういう宗盛は、なんでこうもと、あまりに阿呆くさいのだが、奇妙なおかしみ
もある。愚かしい振舞いが、いつしかにいっそ間抜けた人の良ささえ感じさせていたことに、こっちの歳が行くにつれ思い当たるのだった。誰もの遣りそうな事
を宗盛は遣っていた。
「熊野」の能を観ていると、宗盛にはわがまま勝手な情け知らずと見えた一面が、
ふいと哀れ知ったふうなはからいに転じ、見所をほっとさせる。それとても今にも「御意の変わ」るおそれのある、やはり気まぐれな気ままなのである。本人は
真面目なので、そこにおかしみが出る。かるく救われる。『我輩は猫である』の苦沙彌先生が、後架に入ると必ず「これは平の宗盛なり」と名乗って近所中の失
笑を買っていたおかしみと、奇妙に平仄があっていて、くすっとくる。 よくも悪しくも裸の王様の、それなりにさすがの「風情」が宗盛という人物にはある。
人徳とすらいえる。
世に「八島大臣」といわれながら、まことに厄介で難儀な時機に、宗盛は、平家
落ち目の棟梁となってしまった。風当たりはきつかった。だが、宗盛が本物の情け知らずな阿呆であったとは、わたしは思わないことにしている。父清盛が鳥羽
に幽閉していた後白河法皇を、親孝行な高倉天皇がひそかに見舞いに訪れたいと望めば、またひそかに容認していたのも宗盛だった。一門の都落ちに際し、弟知
盛の勧めとはいえ、畠山、小山田、宇都宮ら、源氏の根拠の東国に妻子をおいた武士たちを、強いて西国に伴うことも斬って捨てることもなく、「有難き御情」
で、故郷へ帰れよと解き放ってやったのも、この宗盛だった。
さらには勇将知盛が嫡子武蔵守知章を一谷の戦で身代わりに死なせ、かつがつ馬
で沖の御座船へ遁れて帰って、一座を前に声涙ともに恥じ入り、泣いて嘆くのを見守りながら、「武蔵守の父の命に替はられけるこそありがたけれ。手も利き心
も剛に、好き大将軍にておはしつる人を。清宗と同年にて、今年は十六な」と、わが子衛門督の方を見て涙ぐむのも、平宗盛だった。一見これは勝手なようでい
て、じつは感じの深いすばらしく好い場面であり、知盛のあわれはもとより、この宗盛の飾り無き情愛はほんものだと言いたい。
この宗盛と清宗親子とが、そのまま、後に壇ノ浦で、父は子を子は父を気づかう
あまりに入水も人に後れ、海面でもともに沈みかねているうち、源氏の兵に無惨に囚われてしまうことになる。父と子とは、この後も互いに偲びあいいたわり合
いつつ、ついに斬られて果てる。こういう父子の在りようを、ことに宗盛の振舞いを、怯懦とも未練とも難じるのは容易いけれど、わたしは、これもこれ、情あ
る優なる宗盛と受け入れてきた。たしかに潔くはない。だが建前よりも本音で、死ぬる間際までそれらしく本性を全うした。
平家苦難の棟梁として、いちばん肝心な場面では颯爽と決断を下したこともあっ
た。
一谷に破れた平家は八島に陣し、都では法皇らが、「内侍所」など三種神器の無
事帰還に最も苦慮していた。安徳天皇と列び立った都の後鳥羽天皇は、三種神器を欠いての異例の即位を余儀なくされていたのである。折しも一谷の敗戦で、三
位中将平重衡が源氏に囚われていた。朝廷は、この重衡自身が八島なる母二位尼に宛てた、命乞いの書状を添え、「院宣」という重々しい出方で、三種の神器と
重衡の命との交換を平家に申し入れた。情にひかれ、母尼が取引に応じてと泣き叫んだのは無理もないが、その際の宗盛の言葉がいい。
「誠に宗盛もさこそは存候へども、さすが世の聞えもいふがひなう候。且は頼朝が
思はん事もはづかしう候へば、左右なう内侍所を返し入奉る事は叶ひ候まじ。其上帝王の世を保たせ給ふ御事は、偏に内侍所の御故也。子の悲しいも、様にこそ
依り候へ」と。
この宗盛と、知章十六歳の戦死に涙ぐみ、同じ十六歳の清宗と生死をあくまで倶
にしようと波間に喘いだ宗盛とには、何の矛盾もない。「子の悲しい(愛しい)も様(時と場合)に依り」という言いぐさも、わたしには素直に頷いて聴ける。
大方が八島方の決断を是とみたであろう、「八島大臣」という尊称も、この宗盛の決断に対して献じられたと思う。
もっとも、またしても阿呆なマネをと思うのは、院宣と重衡書状を携え来た「花
方」という使いの者を、強いて「波方」と改めさせ、あまつさえ額に印焼して追い返したことで、宗盛の愚行というしかない。実否はいかにあれ、そういう宗盛
と見られていたのだ。
能「熊野」の宗盛は、これほどは乱暴ではない。だが、故郷の母が危篤のひたす
らな願いに、どうか一目娘の熊野に逢いたがっていると、はるか東国から使者が来たのを知りつつ、俄かの桜狩りを触れだして伴を強いる宗盛であった。ずいぶ
んな仕打ちだ。
宗盛には、ああそうかと、奇妙に素直になれない或る屈折があったようだ。
実は二位尼の実子でなく、同時に生まれたべつの町の子とすり替えて育てたとい
う怪しい噂まで、平家物語の異本は伝えている。異本が出来るとは、そうした尾鰭が付け加わって行くのでもある。逆に無駄な尾鰭をきれいに省いて行くはたら
きも、実は、ある。ともあれ、あわれを知り風情を知ることで、宗盛は決して没分暁漢ではなかった、ただ、妙なところで臍を曲げるのである。あの仲綱の愛馬
を奪い取ったまでは権門の我儘なのだが、仲綱が馬に添えて、「身に添へるかげ(影、鹿毛)をばいかが放ちやるべき」と、主が恋しければ逃げ帰ってこいよの
和歌一首を詠んで寄越した、それが、宗盛にはぐっときた。「あはれ馬や。馬は誠に好い馬で有けり。されども余りに主が惜みつるが憎きに、やがて主(仲綱)
が名乗を印焼にせよ」とやった。名を重んじた武士の実名を馬の名にしたのである。
故郷の母がどうぞ娘に一目と哀願するのを、宗盛は「そうか、よし」と、すぐに
言わない。言えない性分で、つれなく清水寺の花見に付き添えと強いる。熊野もまた一人の「祇王」一人の「仏御前」に他ならなかった。男と女とのあいだに横
たわる論理は、愛が第一ではなかった、支配であった。だが、愛がまるで無かったとも言い切れない。かつて遠江守だった縁で、若き宗盛が若木の桜の熊野を、
東海道の池田宿から根移ししていたのだ、類まれな美女であった。簡単に帰したくない、宗盛なりに、暇を呉れるにふさわしい場面づくりがしたかったのかも知
れない。かくて清水の山へ花見車は動き出した。
「熊野、松風に米の飯」といわれてきた。微妙に含蓄があり、誉めたとばかりも言
えまい、「米の飯」なみの普通のご馳走という意味にもなる。欠かせないもの、普遍的なもの、それほど人気の佳いもの、というところか。「巨人、大鵬、卵焼
き」ほど単純ではないようだが、「熊野」の舞台は、道行きの所々も、少年時代のわたしには我が庭のように近しい場所だった。景色も遺跡もそのまま今も目に
映る。能「融」の東山は、月光にぬれて豊かな見晴らしだが、「熊野」の道行きは目のあたりに間近い。六波羅地蔵堂、愛宕寺跡、六道の辻、鳥辺山、そして経
書堂がなつかしい。経書堂からものの三十メートルほどの木隠れた細辻に、高校の頃の女友達がいた。だれも、わたし達が親しいと気づいてはいなかった。ひっ
そりと、何度も家をたずねた。母親と二人暮らしで、堀辰雄の本などがあった。わたしが夢中で『風立ちぬ』を畳に腹這って読んでいても、静かな母子は平和に
黙っていた。寂しいどころか、わたしには、くつろいで我に帰れるそれは嬉しい時間であった。
ちょうど、あれに似た時間を、宗盛は熊野とともに過ごしていたのかも知れな
い、会者定離を覚悟していたのはむしろ宗盛ではなかったか。清水の霊験あらたかに、熊野は暴悪の宗盛から解放されたとばかり、この能を観ていては、それこ
そ寂しくはないか。
母親は亡くなったがあの友達はいまもわたしを、いつでも迎えてくれる。
俊寛 ─待てよ待てよといふ聲も─
驕る平家は、世の反感の前に、いつか討つべき標的になって行く。謀反の
意志は潜行して、鹿の谷の俊寛山荘が陰謀最初の舞台になった。後白河院をまきこみ、大納言成親、法勝寺執行俊寛僧都、平判官康頼、西光法師らが集った。与
力には北面の武士達が多く加わっていた。安元三年(1177)初夏の頃だ。
謀反には動機が必要だった。「驕る平家」だけではなかった。公家にも受領にも
寺社勢力にも、なにより己の慾と利害の打算があった。西光法師縁辺の加賀国にも、白山神社がらみに公事を争う熱い火種があった。飛び火して、比叡山延暦寺
と三井の園城寺とにも、祇園社と清水寺とにも対立と葛藤があり、後白河院の近辺でも、新興武家と寺社権勢との紛争が絶えず火の粉を吹き上げていた。院近臣
である平清盛の威勢は、そんな渦中から異様にすさまじく拡大していった。ついに太政大臣にまで昇り、朝廷の人事を恣にし始めた。
だが、高倉天皇とのあいだに、清盛の娘徳子が皇子を懐妊し出産して、清盛と平
家一門に揺るぎない外戚の堅い足場をもたらすには、まだ暫く間があった。鹿の谷陰謀は、平家のまだ絶頂にいたる以前の大騒ぎであった、それは忘れていいこ
とではない。
「陰謀」はやがて「発覚」する。「西光」は斬られ、首謀の「成親」も配所で殺さ
れ、成親の子少将成経、判官康頼、そして俊寛僧都は、鬼界が島に「流罪」となる。孤島の四季が苛酷に、また悲惨に、巡って行く。漸くこの頃に徳子「御産」
の無事が平家一門を挙げて祈り願われ、「赦免状」が鬼界が島に届くのである。能「俊寛」は、ここから幕が開く。
鬼も出ない、幽霊も出ない、女もいない。徹して現在能であり、ツクリの巧みな
こと、真に劇的なこと、三百番の能のなかでも傑出している。白状しておくが、好んで読み、好んで能を観たとは言いにくい。傑出した表現であろうとも、全
然、救いがない。俊寛という頑なな性格が、播いた種を自業自得に取り込んだまでというにしても、哀れが過ぎた。過ぎたるは、何としても優れた感銘や感動を
生まない。後味があまりに重い。
平家物語の前半をしめ、鹿の谷謀議から俊寛の悲惨な死にいたる物語は、「額打論」「清水寺炎上」さらに「御輿振」などを序幕に、「有王」「僧都死去」ま
で、圧倒的な分量になる。よほどの史実に、よほど力のこもった脚色が施されている。平家滅亡の真の序曲が奏でられ、真の原因が深く広くここに探られてい
る。そのぶん異本の異説も活躍する。
簡明簡潔に最もよく纏めた「覚一本」では、鹿の谷謀議を、後白河院も加わって
俊寛の山荘でとしているけれど、院は参加していなかった、山荘は別人のものだった、「瓶子(平氏)」の首をねじ切ったのは、半ば猿楽者のような判官康頼が
独りで演じた狂言だったとした本もある。平家物語は、繰り返して言うが異説や浮説の渦巻いた大星雲のようなもので、手堅い「史実」として鵜呑みにはできな
い。むしろ偉大な「脚色」「創作」であった、永い永い継続や断続のなかで、大勢の喜怒哀楽や批評や祈願に根ざして積み成されてきた所産であったことを、根
の深みで読者は忘れてはならないし、その上でしかも真実真情に手をふれた心優しい「読み」を楽しまねばならないだろう。
赦免状に「なぜ」俊寛一人の名が欠けていたか、能の作者世阿弥は触れていない。平家物語では、清盛の憎しみがひとしお俊寛一人に対して強かったと、もっと
もそうな理由を挙げているが、要は三人の流罪もね二人だけの赦免もね俊寛への容赦ない憎しみも、これが公の処罰処置ではなくて、清盛のいわば「私刑」で
あったことを史実は示している。赦免は、徳子御産の無事を願った清盛一人の沙汰であった。そして俊寛を峻別した無惨が、誕生した新皇子、後の安徳天皇海没
の最期へと、因果の糸を結んで来る。平家物語は、平家滅亡に至る「道理」をいわば一つ一つ拾って行くことで「歴史」をながめ、慈円の「愚管抄」と歴史観の
符節を合わせているが、俊寛の鬼界が島へ置き去りも、大きな一つとして余りに巧みに脚色されている。
脚色は幾重にも輻輳する。成経と康頼とは熊野信仰の霊験を蒙り赦免のよろこびを得たが、謙遜な神頼みを拒絶し一乗法華への帰依をも忘れた俊寛は、自業自得
の置き去りに遭ったと、これこそがと言いたげに、平家物語はぬかりなく神徳佛恩を説いている。
信心のうすい高位の僧。たけだけしく気性のねじけた僧。余りに哀れな物語である
にもかかわらず俊寛の像には、鹿の谷謀議のそもそもから反感を催すものがあった。道を逸れた強情我慢の坊主という感じに、例えば静賢ーー謀議に批判的で
「本」によれば法皇の山荘出御を未然に阻止したとも伝える静賢法印とは、正反対に脚色されている。明らかに平家物語を語ろうとした或る側の脚色者たちに
とって、俊寛は終始好意をもたれていない。
そのような俊寛に「もののあはれ」を添え、懸命に共感や同情を引き
だそうとしていた或る側の語り手たちも、だが、いたのである。「有王」の登場がそれを思わせる。
「足摺」までは、現に康頼のような悲劇の体験者がいて、大筋を証言できた。「沙
石集」ほどの仏教説話集を著しえた人物が、東山の双林寺辺に住まいして、鬼界が島体験を説話的に多くの人々に語るなどは、大いにあり得たと思う。
だが「有王島下り」以降はどうか。なるほど「僧都の稚うよりふびんにして召使
はれける童」があっていいし、それが有王でもよく、彼が俊寛の娘の書状を携えてはるばる鬼界が島に渡り、再会のよろこびの後に主俊寛の最期を見届けて、ま
た都に戻ってことの始終を世に語りひろめた事実があり得ても、いい。延慶本や源平盛衰記は、有王が三人兄弟の末であったとし、長門本は二人兄弟の弟として
「越前国水江庄の住人黒居三郎が子」とまで具体的に語っている。水江庄は俊寛が執行した「法勝寺の寺領」だという。
民俗学の柳田国男は、だが、有王の「アリ」とは、古事記を誦み習った稗田有礼
の「アレ」や鴨神社の「みアレ」祭などとも同じ、神霊の「顕れ」来たる不思議と関わりをもち、また祈祷や呪術判断を業としていたような、「アリマサ」なる
男ら一般の名乗りであると説いて来た。有王の「王」も、神の申し子に等しい神意の伝達者を示していると説いたのである。有王とは、俊寛に仕えた下人なの
か、「アリマサ」の一人か。その双方でありえた実在の者か、全く創作された者なのか。
白状するが、初めて「有王島下り」を岩波文庫で読んだとき、中学生の頭で、
「ほんまやろか。ちがうのとちがうやろか」と、容易にその美談じみた行動が信じにくかった。飛行機で行くのではない。京都から自分の足と舟とを頼みにはる
ばると、あまりにはるばると行く言語道断の旅ではないか。あのような気難しい俊寛に仕えて、これだけの難儀を思い立つということに、凡庸で薄情な私などは
息苦しいまでの驚異を感じたのだ、俊寛の娘が父親を尋ねて行くのならまだしも、と。南海の孤島ではなかったのだから、配所の父「景清」を探し求めた娘と同
列には見られないが、真実感は、平家物語の「有王」より能の「景清娘」に今でも感じる。むろん人により逆の人も多かろう、男と女という無視できない肉体
的・社会的条件もあるのだから。
問題はそんなことでなく、私が言いたいのは、あれほどの平家の栄華と滅亡を体
験した同時代ないしその後の時代に、どれほど多く、柳田国男のいうような「アリマサ」有王が多くの言葉を世の中へ語り伝えていただろうかという、畏怖の思
いだ。平家物語の有王が実在の人であろうとなかろうと、鬼界が島に置き去りにされた俊寛の最期を、多くの人々が忘れてはしまえなかった。それではあまりに
俊寛に酷く、自分たちの騒ぐ胸も収まりがつかなかった。俊寛の鎮魂が、平家の鎮魂につながるのだ、多くの死者達の鎮魂につながるのだと思って語り始めた
「有王」が現にいたように、もっともっといろんな語り手たちが、もっともっと別の物語を始めつつ、実在した。そう思わなければ説明の付かないほど、いわゆ
る平家物語は、あまりに多彩に執拗に時代の哀情を噴出しつづけた。
源平盛衰のあの時代ほど、戦乱に多く人の死んだ時代はかつて無かっ
た。よくよく思えばそれは「死んだ」のではなかった。多くが「死なれて」泣いたのだ。多くが「死なせて」苦しみ悶えたのだ。人は一度しか死なない。だが
「死なれ・死なせ」ることは一生に幾度体験しなければならないか数知れず、まして戦乱や天災に襲われた時代は嘆き苦しみの声に天も曇るのである。鎮魂慰霊
しなければならぬ死者は多く、だが死者達よりも生き残った大勢がなによりも傷つき汚れた己の魂と肉体とを癒さねばならない。平家物語とは、まさにそのため
の、世を挙って鎮魂平家の「悲哀の仕事=モゥンニングワーク」であった。
忘れてはならない、藝能は、アマテラスの死を悲しみ、蘇りを願って八百萬の神々が誠を尽くした天の岩戸前での、あの「モゥンニングワーク」なる神楽から肇
まった、日本では。その伝統を、見事に伝えたているのが「能」ではないか。能「俊寛」では誰も死なない、が、死んで命絶えるよりも残酷な、生きながらの死
が描かれた。だから見所は「死なせた」無惨さに胸を絞られる。平家物語でも「足摺」の置き去りで鹿の谷事件は終幕の筈であった。だが、さらに「有王」の登
場を必然にした、こういうところに平家物語の根のモチーフが、他にも随所に紛れもない「鎮魂」のモチーフが、生きている。
小督 ─恋慕の乱れなるとかや─
「桜町」天皇という方がおられた。次の「桃園」天皇に継いで「後桜町」天
皇もおられた。次が「後桃園」天皇だった。その次の「光格」天皇でまた神武、綏靖なみの厳めしい名に戻った。二百年程前、江戸時代末期のことである、天皇
さんに対する関心が薄く、痕跡だけが記録されているような気がする。だが「桜町」とはなんと優しい名乗りだろう。時代はずいぶん離れているが、平家物語の
「小督」という女人を思い出すつど、いつも反射的に「桜町天皇」という久々の女帝の名乗りを連想し、ついで「桜町中納言」といわれた小督の父藤原成範に思
い至る。そういうヘンな回路がわたしの頭に出来あがっている。
桜を愛し、広い邸うちを桜木で満たしたという、だから桜町。桜より優る花なき
春なればと紀貫之が歌ってこのかたの、絵に描いたような王朝の好みであるが、驕る平家の突風の前に、花はあらけなく散らされがちであった。成範の女小督
は、その、危うくも美しい花であった。手荒い嵐は、他ならぬ平清盛入道相国が吹きかけたのである。
能「小督」は、清盛に宮廷を逐われた小督が嵯峨野に隠れているのを、恋慕やみ
がたい高倉天皇の意をうけた使者仲国が、小督の爪弾く「想夫恋」の琴の音をたよりに捜し当てるという話である。いまも嵐山渡月橋の畔に「琴聴」ゆかりの跡
が人を集めている。
もともと小督は、清盛の女、高倉帝の正妃徳子平氏によって夫高倉天皇に進めら
れた女であった。高倉帝はかねて葵の前という女を愛されていたが、平家を憚り心ならずも遠ざけられた。女は悲しんで落命し、帝もまた悲哀に沈んでおられた
のを、御慰めにもと、徳子中宮に仕えていたひときわ美しい小督が、帝の御側へ送り込まれたのだった。
親孝行であったが女好きも至っての高倉天皇は、小督局をまたもや熱愛され、あ
まりのご寵愛に中宮もいささか白け、徳子の父清盛は大きに臍を曲げたのであった。
小督は帝の愛を受けただけではなかった。もともと藤原隆房の執拗な愛を受けて
いた。だが一度帝の御側に上がったからはと、小督はかたく隆房を拒み続けた。隆房も容易には諦めなかった。隆房の妻は、高倉妃徳子とは母も同じ仲良しの姉
妹であったから、清盛は小督を、可愛い娘ふたりの婿を同時に手玉に取る女だと憎んだ。「いやいや小督があらん限りは世の中好かるまじ。召出して失はん」と
まで言った。小督は漏れ聞いて「我身の事はいかでもありなん、君の御為御心苦し」と覚悟して、「暮方に行方も知ず」失跡し、やがて嵯峨嵐山に身を潜めた。
これもまた清盛悪行「驕る平家」の犠牲であった。平家は物語の前半で、妓王といい熊野といい、また小督といい、可憐な女たちを何人も泣かせていたのであ
る。
高倉天皇はまたしても悲嘆に沈み、ついには病におかされ、位もすべり、若くし
て崩御されてしまう。平家物語では「小督」のことは、亡くなった先帝が、どんなに心優しい御方であったかを物語る逸話の一つとして、こまやかに芝居仕立て
に語られるのである。
高倉天皇は、後白河院と建春門院平滋子との間に生まれた。この女院はよほどすばらしい人であったらしい、藤原定家の姉で建春門院に仕えた建御前の日記を読
むと、衣食住そして女文化は、王朝の盛時を凌ぐほどに見える。清盛の妻二位尼時子と女院とは姉と妹だった。清盛は滋子のあるが故に高倉天皇の外戚に準じて
権勢を占めてきたのである。だが、その建春門院は安元二年秋に惜しまれて亡くなった。すでに清盛は高倉帝に女の徳子を娶れており、皇太子も得ていた。強い
て幼帝にも立てた。高倉上皇は父後白河法皇にもきわめて孝行であり、真実情け深い方だった。相手がいいと、心から愛された。葵の前では辛うじて自制された
が、小督にはそれも利きそうになくて、しかも猛烈な清盛のいやがらせが出た。それでも上皇は恋慕の余りひそかに仲国に命じられたのである、「嵯峨の辺に片
折戸とかやしたる内に在りと」人の囁く、小督を、探し出して参れよ、と。
この先は奇妙に気恥ずかしく、能舞台を再現してみようと思わない。はっきり
言って能「小督」の成行きにはあまり心うたれたことがない。
一つには弾正少弼の「仲国」が、この場面ではすてきに恰好いいのだが、この人
物、世は鎌倉時代になってから、妻と共にあやしげなカルト的言辞を弄して暗躍し、世を乱した罪で処罰を受けている。そのチグハグが響いて、琴聴きの風情は
かなり割引されてしまうのである。
今ひとつに能「小督」は、あんまりいい拍子にトンと一足踏んで舞台を終えてし
まうのが淡白過ぎる。一件はこの後になお幾波瀾もあった。仲国は従者に命じ、小督がその夜のうちにも他へ遁れて尼にでもなられてはならぬと隠れ家を固めさ
せておいて、小督の手紙を携え宮中に帰って事の次第を申し上げる。院は小督が想夫恋を弾じていたと聴くともう辛抱できずに、今夜中に密かに女を伴い帰るよ
う、また仲国を嵯峨へ遣わされた。 清盛の思惑を恐れながら、綸命なればと仲国は小督を御所に伴い入れた。高倉院は喜ばれ、仲らいまことに麗しくい
つしかに女皇子も一人生まれた。範子内親王である。
人の口に戸は立てられず、清盛はそれと知って激怒し、小督をとらえ有無をいわ
せず尼にして追放してしまった。本によれば福原から駆け上り小督の隠れ家に乱入、「長ナル髪ヲ入道手ニカラマキテ、坪ノ中ヘ引出シテ見ラレケレバ、誠ニ君
ノ思召サルルモ理ナリ、天下第一ノ美人ニテアリケルモノヲトテ、ナツカシゲニ思ハレタリ。アマツサヘ耳ニ差寄テ、入道ニ近ヅキタマヘ、今ノ難ヲタスケ奉ラ
ント聞ヘケレバ」などと、きわどく言い寄っている。
歳二十三の小督は、凛として「日月イマダ天ニマシマス。玉體ニ近ヅキ進ラセナガ
ラ、イカデカサル事ハ候ベキ。貞女ハ両夫ニマミエザル事ハ知セ給ヘルカ」と応じない。憤然とした清盛が美女の「髪ヲ切リ尼ニナシ、耳ヲ切リ鼻ヲソギテ追放
ス」とは、すさまじいが、ここまで書いてしまうところが平家物語異本群のまた一つの興味であり、性質なのである。覚一本ならば「主上はかやうの事どもに、
御悩はつかせ給て、遂には御隠れありけるとぞ聞えし」と簡潔だが、「主上此事聞召テ、口惜事ナリ。我萬乗ノ主ト云ナガラ是程ノ事叡慮ニ任セヌ事コソ口惜ケ
レ。丸ガ代ニ始テ王法尽ヌルコソ悲シケレト、御歎アリシヨリシテ、イトド中宮ノ御方ヘモ行幸モナラズ、深ク思召沈マセ給ヒケルガ御病ト成、終ニハカナクナ
ラセ給ヒニケリトゾ承シ」と詞を尽くす。小督は実は名高い信西入道の孫女に当たる。信西の縁辺には平家物語の語り広められるについて、かなりに関わりを
もった人物が何人も居たと説かれている。その語り広めの主なる狙いは、実に「清盛悪行」の唱導であった。小督は逐われ、高倉院は病に伏し再起されなかった
のである。小督の生んだ女子は、小督の旧主建礼門院が養女として育てたといわれている。
高倉天皇陵は京都東山の清閑寺の奥にある。殆ど同じところに兄二条天皇、その子六条天皇陵もある。京都の歴史的風景で、最も清潔に、人跡に荒らされていな
いのは、各所の天皇御陵であろうか。青春時代、私は、思い屈すると、よく独りで御陵にひそんだ。寒々と心が洗われる。葬られている天皇さんに共感して行く
わけではない。最も日本的に簡潔な明浄処であろう、御陵とは。泉涌寺や観音寺にある御陵、粟田坂上の十楽寺陵、また鳴滝辺に散財した御陵や嵯峨山中の御陵
がそれぞれに懐かしい、が、とくべつ好きでよく忍んだのは清閑寺の高倉陵だった。何ということはない、そこは高校の女友達と、世離れた夢を見に忍びこんで
いた、淡いたわいない恋のねぐらでもあった。小督の尼は、この御陵の畔に庵をかけ、終生静かに亡き高倉天皇とともに過ごしたと伝えられる。遺跡も御陵のう
ちにあり、わたしたちは、その間近へひそと身を隠して、時を忘れてあれもこれも話し合い、夕暮れを迎えた。彼女は馬町へ、わたしは清水寺の方へと別れて帰
るのである。全山紅葉の果ては時雨にあう日もあった。小走りに家路を追いながら、
山の辺は夕暮れすぎし時雨かとかへりみがちに人ぞ恋ひしき
などとわたしは口ずさんだ。まさかに自分を高倉院だとは思わないが、時にはあの
変な仲国であったり隆房のようであったりする。そんな錯覚を強いて追い求めるように、小督という平家物語の女人をわたしは愛していた。鬱然と樹木に包まれ
た高倉天皇の奥津城を守って、尼生涯を終に悔いなかった、そういう小督という女人をわたしは忘れられなかった。
その小督のやつれながら凛々しい尼姿を、わたしはちらと見た気がしたことがあ
る。大原の里へ、かつては仕え、かつては愛憎の劇を分かち合わねばならなかった建礼門院徳子を訪れていった小督である。徳子のもとへは、建礼門院右京大夫
も訪れていた。小督のことはわたしの幻想なのであるが、同じ女院のもとには小督と同じ信西の孫女とも娘ともいわれた阿波内侍が、身の回りのお世話をしなが
ら仏に仕えていた。右京大夫も小督も愛する男に死なれて生涯をその追慕と追憶にささげたが、女院徳子平氏ほど無数に死なれ、またその存在故に無数に死なせ
た人はいなかった。しかも自身は西海の波間に死ぬることも出来なかった。小督はかつての国母中宮を赦していただろう、大原までもいたわりに訪ねて行ったに
ちがいないとわたしは想像している。
頼政 ─憂き時しもに近江路や─
鹿の谷陰謀は、与力の面々が、公家、僧、院近臣、北面などの非力な寄合い所帯
では、平氏の武力勢力を凌ぐなど無理な相談だった。しかも頼みの源氏の一角から真っ先に離反者が出、その密告で一気に事は露見した。
保元の乱では保たれた源氏の勢力も、平治の乱では平家の前に一敗地にまみれ
た。源三位頼政の一党だけが、遠慮がちに息をひそめて宮廷社会に生き延びていた。清盛の子平宗盛が、名馬「木の下」を寄越せと強談に及べば、父源頼政の指
示で嫡子仲綱は、愛馬を平家に送り届けねばならなかった。送り添えた「恋しくば来ても見よかし、身に添へるかげをばいかが放ちやるべき」の一首は、仲綱の
愛着を愛馬に囁いた申し訳でこそあれ、宗盛に対しては喧嘩を売ったに等しかった。宗盛は挑発され、ついに頼政・仲綱も起たずには済まなかったのだと、挙兵
の段取りを平家物語はうまく付けている。
この喧嘩、収支決算は難しい。頼政一味は高倉宮以仁王を担いであっけなく挫折
したものの、平家滅亡への飛び火はしたたかに各地に燃えた。宗盛も洒落た返歌ぐらいで捌けばよかったのに、行く果ては「木の下」ならぬ西海の波間に源氏に
囚われ、嫡子清宗とともに斬られた。平家は滅んだ。秀逸とはいえないが、これも一首の和歌徳といえたのか。
仲綱の母は菖蒲の前といい、鳥羽院の寵愛ただならぬ美女であったと諸本が伝えている。若き日の頼政はふとした折りにこの美女を見初め、三年が程も懸想の文
を送りつづけた。だが「一筆一詞ノ返事モ」貰えなかった。よくある話だ。
院はそれと知り、しかとは女の顔も見まいものをと、同じ装束のよく似た女たち
に菖蒲の前も加え、五月五日のはや黄昏時に、「いづれが菖蒲」と頼政が「眼精」の程を試された。当てたなら女は遣ろうというのである。頼政は閉口した。辞
退もしにくく、うかと「ヨソノ袖ヲ引」けば当座の恥では済まない。そこで「カク(一首を)仕」った。
五月雨に沼の石垣水こえて何れがあやめ引きぞわづらふ
「御感ノ余リニ龍眼ヨリ御涙ヲ流サセ給」うて鳥羽院は菖蒲の前を頼政に授
け、夫妻は「志、水魚ノ如クシテ、無二ノ心中」を分かち合い、嫡子仲綱を儲けた、というのである。
源三位頼政という武将は、幾つもの和歌徳説話に美々しく装われた、文武両道を
絵に描いたような最初の存在だった。頼政はともあれ「三位」の公卿に列してはいたが、不遇の歳月が長かった。昇殿を許されたのが「年たけ齢傾いて後」だっ
た。述懐の一首にものを言わせ、和歌の威徳でやっと昇殿した。正四位下で停滞していた時にも、ぜひにと「三位を心にかけ」て、こう詠んだ。
のぼるべき便りなき身は木の下にしいを拾ひて世をわたるかな
仲綱愛馬の名は、父が「しい」から三位に昇った、慶びの名前であったや
も知れない。
平安末から鎌倉時代にかけて、和歌が、宮廷社会の巧みな恋愛社交術から、より
精神的に深く「道」として求められ初め、後拾遺、金葉、詞花、千載和歌集へと水嵩が増すように、精魂こめて和歌の「好き=数寄」を極めようとした歌人たち
を輩出した。それにつれ、もとは神仏との感応として多く伝えられた和歌徳説話が、恋にも、出世にも、時に免罪符としても、どっと世俗世間へ流れ出して多く
の本に競って載り、喜んで読まれるようになった。頼政はその流行のなかで、文武両道の栄誉をすでに「同時代」に確保した第一人者であった。平家物語も多く
の和歌徳逸話に飾られ、武士も優れた歌人であり得たと強く主張しているが、平家ならぬ源氏の頼政ほど、和歌に生涯を物語られている武人はいない。
武士は命がけで生きた。源平闘諍の時代はことに切羽詰まった「命」
を抱え、奔命した。彼らの和歌は修羅の巷に生まれ、だから感銘を与えた。辞世の和歌が重みをもった、読むものに感慨を強いた点で、武士の、例えば頼政の辞
世歌などは、ヤマトタケル最期の歌以来の、典型の地位を得たと言える。頼政は、只の敗者ではなかったのである。
三位入道、渡辺長七唱をめして、「わが頸うて」との給へば、主の生首う
たん事の悲しさ に、「仕ともおぼえ候はず。御自害候はば、その後こそ給はり候はめ」と申しければ、「ま ことにも」とて、西に向ひ
手を合せ、高声に十念唱へ、最期の詞ぞあはれなる。
埋木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける
これを最期の詞にて、太刀の先を腹に突き立てて、うつぶっさまに貫かってぞ失
せら れける。
以来、無数のこういう場面が書きつがれ語りつがれ、浅野内匠頭にも西郷隆盛にも及んだのである。頼政の首は唱が取り、泣く泣く石に括りあわせ、敵方を紛れ
出て、宇治川の深みに沈めたと平家物語は言う。ここにも見聞の者が終始いたに違いなく、いわばこの手の見聞集のように平家物語の取材や編集はなされていっ
た。著作権という考えはなく、たとえ異なるグループでもこれぞと思う材料は踏襲し、盗作も改竄もし、尾鰭をつけていった。または尾鰭を省いて整えていっ
た。
源三位頼政ほど、或る意味で生涯を全うした幸せ者は、平家物語の中でも稀なの
ではないか。辞世の歌はもの悲しい。挙兵したとも言えないうちに事は露見し、肝心の以仁王をさえ守護できず、宇治まで逃走せざるをえなかった。果ては平等
院の芝の上で割腹した。
頼政ははや齢七十五の老木の花だった、だが、最期の一と花は咲かせた、源氏の
棟梁として大きな役は果たした、と誰も思えばこそ、頼政は平家物語の一方の雄として、大きく、「はんなり=花あり」ともて囃されている。最期は、歌を詠ん
でいられる状況ではなかったろう。だが「若うよりあながちに好い(数寄)たる道なれば、最期の時もわすれ給はず」辞世の一首をのこした。割腹の場所は今も
「扇の芝」として平等院にのこり、鳳凰堂を建てた藤原頼通は忘れられても、武人頼政の最期を知らずに帰るような観光客はいない。
頼政を、だが、名将、勇将とは思ってこなかった。一源氏の棟梁として身を全うしてきたが、ひょんなことから「時代」に火を放った。火種はあっけなかったが
「飛び火」が燃えた。文字通り「埋木」の以仁王を使唆し、勇ましい令旨をたくさん書かせ、健脚の伊勢義盛改め行家を以仁王の名で蔵人に任じ諸国へ走らせる
など、政略家としては手順を踏んで大胆だが、彼自身の武略は甘かった。根回しが不十分なまま破綻した。女装してかつがつ以仁王はきわどく自邸を遁れ、おか
げで「信連」のような家来の武勇をわれわれは平家物語で楽しめた。彼が以仁王の置き忘れてきた名笛小枝をぬかりなく見つけて王を喜ばせたなど、読んでいて
も心嬉しい。だが頼政挙兵の成行きは情けなかった。王にはことに気の毒であった。頼政も仲綱らも所詮勝つ気ではなかったのかも知れない。扇の芝にのこした
頼政辞世など、以仁王の「身の成る果」を優に代弁したようなもので、担がれた悲運の王に、頼政は「埋木」の歌で最期に詫びを入れたていると私は読んでき
た。食えない男ゃな、けど、おもしろいナ、と。頼政はもともと食えないヤツであった。安元三年、比叡山延暦寺の暴れ僧たちが「神輿振」して大挙御所に迫
り、例によって強訴に及ぼうとした。御所の門を固めたのは平家、源氏の武士達だが、頼政の備えはいかにも手薄で、僧兵も目をつけ押し寄せてきた。頼政は思
案し、長七唱を使者に立てて、どれより手薄な我等の陣から破ろうなど、山門の名が廃りましょうと申し入れた。僧兵たちは詮議し、豪雲という僧の説得を是と
して頼政の陣を退き、他へ向かったのである。豪雲はこう説いている。
就中にこの頼政卿は、六孫王より以降、源氏嫡々の正統、弓箭をとつていまだその不覚を聞かず、凡武藝にもかぎらず、歌道にもすぐれたり。近衛院御在位の
時、当座の御会ありしに、「深山花」といふ題を出されたりけるを、人々よみわづらひたりしに、この頼政卿、
深山木のそのこづえともみえざりしさくらは花にあらはれにけり
といふ名歌仕て御感にあづかるほどのやさ男に、時に臨んで、いかが情けなう恥辱
をあたふべき。この神輿かきかへし奉れや。
競、唱、信連、豪雲、また猪早太、その他宇治橋の合戦などにも、何人も の魅力的な男たちが活躍して倦ましめないのも、頼政一連の物語の大きな徳になっている。鹿の谷事件ではとかく気分は陰気になり、かろうじて西光法師が清盛 相手に猛然と啖呵をきるあたりは痛快だが、頼政挙兵の、悲劇的ではあるが或るはなやぎと優しさ面白さには遠く及ばない。これも和歌の徳というかのように、 ちりばめられた歌の一つ一つが、よく利いている。
鵺 ─仏法王法の障とならんと─
頼政逸話の中で、白状すると、「鵺」の話は苦手である。「かしらは猿、むくろは狸、尾はくちなは(蛇)、手足は虎の姿」などという怪物とは付き合いたくな
い。なぜ、こんな話が取り上げてあるのかと、舌打ちしたいほどであった。もっとも目に触れやすい「覚一本」だとこの怪物は、鵺の鳴き声に似た鵺とはべつの
怪獣で、此れを退治して頼政は、「獅子王」という剣を褒美にもらっている。「折しも卯月十日余りのことなれば、」左大臣頼長が「時鳥名をも雲井にあぐるか
な」と声をかけると、即座に、「弓はり月のいる(=入る=射る)にまかせて」と、すこぶる即妙の下句を頼政は返上した。
覚一本では、このあと、似た状況のもとで、今度は雨中の鵺を、同じ頼政がまた
みごと射落としている。この時も「五月闇名をあらはせる今宵哉」と貴人の声がかかると、「たそがれ時もすぎぬとおもふに」と下句をつけ、「弓家を取てなら
びなきのみならず、歌道も勝れたりけり」と誰もが感心したというのである。
鵺というのは「トラツグミ」という鳥だといわれている。頼政に退治された怪物
は、だが鵺だけではなかった、怪獣もいた、だがどっちも鵺にされてしまった。「鵺的なヤツ」というとややこしいヤツ、得体知れぬヤツだが、平家物語では、
能「鵺」ほど簡明な話ではなくて、似た話が二つ混線しているのである。覚一本で、「かしらは猿、むくろは狸、尾はくちなは(蛇)、手足は虎の姿」なのは、
「鵺」のように鳴くべつの化け物の方であったが、能ではこれが「鵺」にされている。
なぜ、こんな、気味の悪い「鵺」が、一曲の能に仕立てられたのだろうか。
頼政の武勇。それは賞讃されている。だが弓矢をとって立つ武士は、表道具の弓
矢で化け物を射るなどを、「武勇」とは考えなかった。異本群には、頼政より前に化け物退治を辞退した何人かが居たとしてある。名折れとさえ思う者が少なく
なかった、頼政も、実は気が進まなかった。だから二の矢を用意し、射損じたときは、こんな役を強いた憎い公家を射殺そうと物騒なことも考えていた。そう書
いてある本が現に、ある。まさかと思うが、それぐらい気乗りしない役目であった。
頼政の文武両道を疑いはしないが、平家物語の頼政は、たしかに「武」より「文
=和歌」の方で、より華やかに賞讃されている。鵺退治でも、弓矢藝もさりながら神妙の和歌で名を「雲井に」あげている。
平家の忠盛が祇園社に出没した「化け物」を沈着に捉え、無用の殺生を避けた話
は、いずれ清盛の誕生譚にまで展開するが、これは武勇談であった。その場で和歌は無かった。ただし忠盛もなかなかの歌詠みであった。清盛の和歌は平家物語
にはついぞ出てきた記憶がない。重盛にも少ない。無かったかも知れず、これも面白い。
能「鵺」の脚色には、或る何かを、人に読み取らせたい「背景」が、背後のアヤ
が、隠してあるのだろうかと、長いあいだ私は考えてきた。すこし途方もない話を、ここで、しておこう。じつは「鵺」の話、諸本の異同もかなり激しいのであ
る。
能では、鵺ゆえに夜な夜な「御悩」の主とは、「近衛の院」であり、在位中「仁平のころほひ」の話だとあるが、平家物語では「鵺(怪鳥)退治」は「二条院」
の頃のことと、諸本が、みな声を揃えている。延慶本という代表的な読み本、覚一本という代表的な語り本が、ともに「変化の怪獣退治」の方を、仁平頃、近衛
院の御悩としているのである。近衛天皇とは、鳥羽院と傾国の美女美福門院との間に生まれた皇子であった。二条天皇とは、後白河院の皇子で、美福門院の強い
支持で後白河の後を襲った。そのためか、後白河上皇と二条天皇との父子の仲はぎくしゃくしていた。
この辺り、皇室の人間関係は実にややこしいのだが、あらましを言えば。
白河院という強大な独裁者が院政をしき、子の堀河天皇は病に若くして死に、堀河の子の鳥羽天皇が即位した。世は白河法皇の思うままであった。この白河院
が、少女の頃から愛育した璋子藤原氏を、孫の鳥羽天皇の妻にした。璋子はやがて後の崇徳天皇を生んだが、だれもが、父鳥羽天皇でさえも、この皇子は白河法
皇が璋子に生ませた「をじご」であると疑わなかった。白河院はやがて鳥羽天皇を強引に退位させ、問題の崇徳天皇を即位させた。鳥羽が崇徳を疎み嫌う気持ち
は執拗であったから、白河法皇が死後に自ら院政を執った鳥羽法皇は、たちまち崇徳を退位させて、寵愛の美福門院腹の近衛天皇を即位させた。今度は崇徳院の
恨む番だったが、鳥羽院の力は強大だった。
そのうちに近衛天皇は病に早く死んだ。崇徳院は自分の皇子が即位するものと期
待していたのに、鳥羽院の遺志と美福門院の権勢とで、崇徳の弟の後白河天皇が攫うように即位してしまった。キレてしまった崇徳院は、保元の乱の引き金を我
から引き、後白河天皇側の平清盛や源義朝らの武力の前に完敗した。院は讃岐に流され、讃岐で無念を噛みしめて死んだ。美福門院はもともと後白河の皇子二条
天皇の即位を望んでいた。後白河もやがて譲位したのである。崇徳院の都へ帰還を願う熱望は、二条天皇の在位のさなかに繰り返し繰り返しうち砕かれていた。
崇徳は凄い怨霊と化していた。
能「鵺」の作者は観阿弥清次とも世阿弥元清ともいわれる。誰でもいい、が、怪
鳥に悩まされた天皇を、敢えて鳥羽院と美福門院の皇子の近衛天皇と推して脚色したのは、「鵺(怪鳥)退治」に、(史実の時機は前後はするけれど、)崇徳天
皇の怨霊退散といった趣向を含ませていたのだろうか。
「さてもわれ悪心外道の変化となつて、仏法王法の障とならんと、王城近く遍満し
て」と、能のシテの鵺は、功力の僧の前に「救われ」を願い、頼政に射落とされた次第を切に物語る。
鵺には、「われ悪心外道の変化とな」る以前に、人間の姿があったのである。よ
ほどの恨みがあって外道の身に変化したのだと優に想像できる。では誰への恨みか。前身は何者であったか。鵺はなにも語っていないが、現に「仏法王法の障と
ならん」と脅し、時の天子の「御殿の上に飛び下」りて玉体を悩乱させているのであれば、朝廷への恨みと見られる。さればこそ、いかほど朝廷に願ってもつい
に都へ帰ることを許されず、憤然、讃岐の配所で自身を「魔道」に回向して果てたという崇徳院の瞋恚の言行と、この謡曲の表現とは、暗く悲痛に符節を合して
いると読みとれる。そんな気がする。
ところで、主上の意をうけ、「獅子王」を頼政に授けて「雲井」の歌を読みかけた左大臣頼長は、後に崇徳上皇と組み、保元の乱に負けて死んだ側なのである。
また、近衛院が在世のころには崇徳院はまだ都にいた。都にいて崇徳院は近衛天皇を恨み、幼い近衛を位につけて自分を退けた、ややこしい父親の鳥羽法皇や寵
愛された美福門院のことを、深く憎悪していたことだろう。その心根はさながらに怪獣か怪鳥の「鵺」さながらであったのかも知れない。崇徳院の恨みは、「仁
平のころほひ」なら美福門院と鳥羽法皇とに向けられていたに違いなく、讃岐へ流されてからは、後白河院と二条天皇に向けられて当然であった。能の作者は、
その辺の平家物語のややこしさを逆手にとり、曖昧なままに微妙に暗く、微妙に重い崇徳上皇=讃岐院の怨霊譚らしきものを能舞台に匂わせたのではないか。
この推量に深入りはしないが、頼政には鵺を射落とした褒美に「獅子王」という
御剣を下されている。本によっては、この剣が「鳥羽院」所持の名剣のように特記してあり、「鵺=崇徳怨霊」という推量とも微妙にからんで、ここにも対決が
ほの見えて面白い。
ところが頼政には、さらに意味ありげな、三種神器の宝剣がらみに不思議な逸話
が、平家物語異本に書き込まれている。そしてそれこそが頼政の真実「武勇」を物語っているとも読めるのである。
時は平治の乱もまぢかいある日、殿上に影のように男が立ち、咎められるとかき消えて、そこに一振りの剣が置かれていた。もしや宝剣か、それなら山も岩も切
り崩せようと、権勢を誇った藤原信頼が御坪の石に切りつけると、「七重八重」に無残に歪んだので、剣はその辺に棄て置かれた。そこへ頼政が来た。信頼はか
らかい半分、剣のことは分かるかと尋ね、頼政は弓矢取る身です、分かりますと答える。信頼は棄て置いた剣を女房に取りにやらせた。頼政が剣を静かに手にす
ると剣は目の当たりにまっ直ぐに鞘に納まり、信頼は驚愕した。頼政は剣をじっと見て、実に見事な剣です、きっと朝家の守りとなりましょうと言い切り、「大
神宮ニ五ノ剣アリ、当時内裏ニオハシマス宝剣ハ第二ノ剣、是ハ第三ノ剣也」と、実は昨夜半に、天のお告げがあった、「国ヲ守ラン為ニ皇居ニ一ノ剣ヲ奉ル、
即チ宝剣是也。亡国ノ時ハ此剣又宝剣タルベシ」と言われたと、まことしやかに告げた。信頼は信ぜず、証を求め剣で御坪の石を斬れと命じた。頼政はこともな
く大石を散々に切った。人々はどよめき、信頼は畏れ、剣は大切に温明殿に蔵われた、というのである。
それでもなお頼政の言うことを、信頼も、また主上も、信じにくく思っていた。
だが、元暦二年三月、安徳天皇とともに宝剣が浪の底に沈み果てて後に、かの頼政に見出された剣が、波間から拾われた宝鏡と印璽とともに三種神器と成された
ときには、みな人は、頼政がまこと「タダ者」ではなかったのだと思い当たった、と、いうのである。
時代を経て後にも「頼政程ノ者ナカリケリ。諸道ニ疎ナラズ」文武両道にわたっ
て「威ヲ顕ハサズト云事ナシ。花鳥風月弓箭兵杖、都テコノミト好ム事、名ヲ揚ゲ人ニ勝レタリ。就中弓矢ニ験ヲ顕ハシキ」と褒め上げて、さて平家物語の
「鵺」の話が始まるのである。
三種神器から「剣」が海底に埋没した事件は、平家物語世界の真実一大事であっ
た。埋め合わせに、実にいろんなことが云われたり書かれたり説かれたりしたが、宝剣に代わる宝剣が、頼政武勇の眼鑑に叶って宮中に用意されていたというこ
の逸話は、頼政が、いかに世の人の印象に深切に、大事に、彫まれていたかの、なによりの証拠ではなかろうか。
実盛 ─老い木をそれと御覧ぜよ─
芭蕉の句である。
あなむざんやな冑の下のきりぎりす
去来抄に拠っているが、芭蕉は猿蓑で、初句の「あな」をはぶき捨ててい
る。謡曲「実盛」に、「樋口参りてただ一目見て、あなむざんやな、斉藤別当実盛にて候ひけるぞや」とある。わたしは、そのままの「あなむざんやな」の方
が、調えての改作より好きである。小松市の多太神社で、その「冑」を観てきて、やはり「あな」という実感をもった。
能「実盛」は、他にも例はあろうが、ちょっと意表に出た始まり方をする。登場
の囃子が無く、ワキの遊行上人が従僧を連れて出て、脇座で床几に腰をかける。法談が今から始まるという体である。アイが出て、常座でいきなり話し始める。
加賀の国篠原に住まいする男で、他阿弥上人の法談の座に加わろうと来たのだが、この男、妙なことを言う。上人が、正午ごろになると決まって独り言を言われ
る。何を言われているのか、その聞き役を人に頼まれたので高座近くに出ようと思っている、と。
日中の刻限になると、法談の座に、俗人には見えも聞こえもしないのに、上人の
心眼心耳には、一人の老人が日参してくる。そして二人は問答になる。高徳の人のさも独り言をいうと、人の目に耳に見え聞こえるのは即ち、それであった。上
人は、この篠原の戦に果てた実盛の幽霊と対話していたのだ。
能から離れて実盛を思うとき、彼が平氏でも源氏でもない斉藤、つまり武士の藤
原氏であることをつい忘れている。藤原というと公家のように思うが、俵藤太秀郷のように強豪をもって知られた藤原氏は、奥州藤原氏もそうだが、各地に割拠
していた。あの西行法師も佐藤義清という武勇の士であった。暴れ者の文覚すら舌を巻き、うちひしがれそうな毅さを法師西行に感じていたという。
関東平野は「八平氏」というほど平家の扶植された土地だが、足利、新田、武田
のような源氏もおり、藤原氏もいた。源氏の頼朝が、平氏である北条時政の婿として都の平政権を倒そうと起ったことに象徴されているように、「関東」の武士
団のかかえた事情は、どっちに味方するかだけでも、複雑だった。一族や家族を根拠の関東に置いて、都の平家に使えていた武士たちは、関東で頼朝が起ちまた
木曾で義仲が起つにつれ、いわば立場上微妙に宙吊りにされていたのである。
斎藤実盛にも、源平に挟まれ、似たような事情が無くはなかった。
実盛戦死の後日のことだが、平家が木曾義仲に逐われて都落ちの際、はたと難儀
な判断を迫られたのは、「大番」といういわば公務のために都に来ていた関東武士たちを、西国に強いて引き連れて行くか、いっそ後顧の憂いなく討っておく
か、関東に帰すか、だった。中には、もう以前から厳重に「召籠」めてあった畠山庄司重能、小山田別当有重、宇都宮左衛門尉朝綱ら一騎当千の者らがいた。中
納言知盛はこう意見を具申した。
御運だに尽させ給ひなば、是等百人千人が頸を斬せ給ひたりとも、世を取 らせ給はん事難かるべし。故郷には妻子所従等如何に歎き悲しみ候らん。若し不思議に運命開けて、又都へ立帰らせ給はん時は、有難き御情でこそ候はんずれ。 只理を枉げて、本国へ返し遣さるべうや候らむ。
総帥宗盛は即座に、「此義尤も然るべし」と彼らに「暇」をやる。畠山等
は涙ながら「二十余年の主」の恩義に感謝し西国への同行を誓うが、宗盛大臣は「汝等が魂は皆東国にこそあるらんに、ぬけがらばかり西国へ召具すべき様な
し。急ぎ下れ」と追い放つ。こういう平家が、わたしは好きだった。実盛も、こういう平家が好きで、最後の最期まで平家の武士として節を枉げなかったという
文脈の上で、平家物語でも賛嘆され能でも顕彰されている。
それにしても「実盛」物語には、「あなむざんやな」と一息に嘆じさせて余りあ
るものが、ある。何としても、ある。わたしは苦手なのである。俊寛も景清も無惨であるが、実盛の最期は、無惨でなく無惨でなくと筋を運んであるぶん、樋口
次郎の間髪をいれない「あなむざんやな」に、すべて真実が迸リ出る。樋口次郎はいわば実盛の置かれた平家内での立場に、その武士たる意気地に、一切を代表
して「共感と哀情」とを捧げたのだった。
能「実盛」には、泣かせどころが二つ用意されている。一段と有名な「髪洗い」
と「錦を飾る」話で、簡潔な平家の語り本に取材しているのだろう、盛りだくさんよりも分かりがいい。だが盛りだくさんに話を積み上げた異本も、拾い読むと
面白い。理に落ちて説明するきらいはあるけれど、ほろりともさせる。
実盛には武蔵の国長井に所領があった。妻子は久しくそこに置いていたかも知れない。死に場所は加賀の国江沼郡の、篠原とある。平維盛が木曾義仲に撃ち破ら
れた戦で「老武者」実盛は、身を投げ出すように木曾方の勇士手塚太郎光盛と組み打ち、討ち死にした。この間実盛は軍陣の常に違えて、「存ずる旨ありけれ
ば」終始名乗ろうとしなかった。「木曾殿は御覧じ知るべし、」頸はだいじにお目にかけよと、「独り武者」のままに敵中の鬼となり奮戦したのである。討った
手塚の目には「大将かと見れば続く勢もなし、また侍かと思へば錦の直垂を着」ているし、声はとても都の人とは思われない「坂東声」だった。
義仲は直感で、実盛の頸だと思った。それなら白髪頸と思われるのに、見れば鬢
髪黒く、髭も黒い。呼ばれた樋口次郎は見るなり「あなむざんやな」と呻いた、実盛に相違ないと。老いの花はなやいで討ち死にしようという戦に、老い故によ
き敵と思われないのでは口惜しい。鬢も髭も染めて出陣したいとは実盛のいわば遺言に等しかった、のを、心知った友の樋口はよく覚えていたのだつた。舞台の
感動をなにもかも、拙く話してしまうものではない。「錦の直垂」のことは、どの平家物語にも漏れていないが、実盛の頸と知って、涙ながらに木曾義仲が斉藤
別当との遠く深い縁を語っている本は少ない。「木曾殿は御覧じ知るべし」と実盛が敢えて名乗らなかったのには、胸にしみる理由があった。
実盛が今度の戦を死出の旅と覚悟していたのには、一つには、坂東武者として平
家に仕えた時代の不運を嘆く気持ちもあった。過ぐる富士川の合戦に、水鳥の羽音に驚いて潰走し大敗して都に帰った無念も恥じていた。今一つに、決起した源
氏一方の雄たる木曾義仲にならば、勝ち戦をさせてやりたい密かな存念をも、実盛は身の深くに抱いていたのである。義仲はそうした背後の事情を源平盛衰記で
語っている。
義仲の父「帯刀先生」の名乗りは、東宮護衛隊長に由来するが、その源義賢は、同じ源氏の甥義平に武蔵大倉の館を襲われ、殺されていた。義仲はまだ二歳だっ
た。義平は畠山重能に遺児を捜索しきっと殺せと命じていたが、畠山は稚い義仲を憐れみ、情けある斉藤別当実盛の手に預けた。実盛は七日の間預かったもの
の、周囲は義朝・義平方の源氏ばかりで剣呑を極めた。頼まれて守り切らぬも本意でなく、養い置けば早晩義仲のために危険が迫る。実盛は思案を尽くして、稚
い義仲を木曾の中原兼遠にはるばる送り届けた。兼遠は「請ケトツテ、カヒガヒシウ二十四年養育」したのである。兼遠とは、義仲と最期まで死命を倶にした樋
口兼光や今井兼平の父であった。実盛の白髪頸を眼前に、義仲に今が在るのはみな実盛のはからいによるもので、加えては「七箇日ノ養父」でもあったと、義仲
は「サメザメト泣」いて、「危キ敵ノ中ヲ計ヒ出シケル其ノ志、イカデカ忘ルベキナレバ、此ノ首、ヨク孝養セヨト」義仲は命じ、兵たちも袖を絞って実盛の冥
福を祈ったのである。
同じことを、長門本では、二歳の義仲を「母泣く泣くいだいて、信濃の国に越え
て、木曾の中三兼遠がもとへ行き、いかにもしてこれを育て人になして見せ給へ」と頼ませているが、畠山や斉藤別当が背後で心遣いしていたことと何の矛盾も
ない。また吾妻鏡では、義仲の乳人だった兼遠が、窮余、稚い主君を抱いて自分の生国木曾に連れて遁れたと記録しているけれど、これも実盛らの情けあるはか
らいを否定するものではない。
木曾殿義仲の、最期に至るまで、哀れは哀れとしていつもほの温かにファミリア
な主従の情愛にとり包まれているのは、心嬉しい救いであるが、背後にはこんな事情が隠れていた。実盛が「存ずるところ」を胸中に畳んで木曾の前に老いの身
を擲ったのには、「七箇日ノ養父」として、やがて義仲も、平家ならぬ身内の源氏の手におちて最期の命を散らす修羅の悲しみを、はや、予感していたからかも
知れぬ。
源平盛衰記「実盛」を叙した結末に、面白いことが書いてある。「新豊県老翁ハ八十八、命ヲ惜ミテ臂ヲ折ル。斎藤別当実盛ハ七十三、名ヲ惜ミテ命ヲ捨ツ。猛
キモ賢キモ人ノ心トリドリ也」と。白楽天の長詩「新豊折臂翁」とは、若い昔の無謀に強いられた南征の軍役を、自ら石で臂を折り忌避して長命した老翁であっ
た。卑怯に命を惜しんだ例ではない、失政への強烈な非難の敢為だった。この対比、微妙な批評と言わねばならず、この「折臂翁」が、わたしの処女作の題材に
なった。
経政 ─恥かしや人には見えじものを─
修羅能もいろいろだが、僧の功力に救われて終わるものの多い中で、「経政」の能では、常世の闇に、修羅の鬼のまま、また消え失せて行く凄みがある。平家物
語では経政でなく「経正」が正しい。
「俊成忠度」や「清経」と同じく一場物の修羅能である。概して、シテとワキとに
特別な関係があって、ワキが名前を名乗って出てくる能は、一場物になっている。僧都行慶は仁和寺守覚法親王に仕えた僧であり、修理大夫経盛の子息経正は、
法親王に「八歳のとき、参りはじめ候うて、十三にて元服つかまつり候ひしまで」は、病気の時のほかは、ひしと近侍し寵愛された公達であった。琵琶を天才的
に弾じ、青山と銘された琵琶の名器を預けられていたのを、平家一門の都落ちに際し、いま一声の別れを申したさに仁和寺にまで馳せて行った。琵琶の青山を、
「余りに名残は惜しう候へども、さしもの名物を、田舎の塵に成さん事口惜う候。もし不思議に運命開けて、又都へ立帰る事候はば、其時こそ猶下し預り候は
め」と、泣く泣く返納して行ったのである。
経正は、「甲冑をよろひ、弓矢を帯して、あらぬさまの装ひにまかりなりて候へ
ば、はばかり存じ」て、門前で去ろうとするのを法親王はひきとめて、親しく対面した。別れは、目睫にせまっていた。
「経正その日は、赤地の錦の直垂に、萌黄匂の鎧着て、長覆輪の太刀を帯き、切斑
の矢負ひ、滋藤の弓をわきばさみ、兜を脱いで高紐にかけ、御坪の白洲にかしこまる」と、こういう際のまさに作法どおりが書かれている。
御所の人々も泣いて別れを惜しみ、経正を放さなかった。なかでも経正が幼少の
とき、「小師でおはせし大納言法印行慶は、「余りに名残を惜みて、桂河の端迄打送り、さてもあるべきならねば其れより暇請うて泣々別れ」た。この行慶が、
能「経政」のワキになって出る。見ず知らずの「諸国一見の僧」が通りがかりに幽霊にあい、逗留して功力をもって往生の業をたすけるというのが通例だとすれ
ば、これは異例に、シテとワキとは親しい間柄である。長門本ではなぜか同一人の名が「行尊」になっている。語りの現場現場でなにがしか存命であったり関係
者がいたりして、ちいさな配慮や錯覚がこういう変更を生むのであろうか。このときに行慶=行尊と経正とは、こう歌を詠みかわしたという。
あはれなり老木若木も山桜、おくれ先だち花は残らじ。 行慶。
旅衣よなよな袖をかたしきて、思へば我は遠くゆきなん。 経正
さて、巻て持せられたる赤旗、さと指上げたり。あそこここに控へて待奉 る侍共、「あはや」と て馳集まり、其勢百騎ばかり鞭をあげ、駒を早めて、程なく行幸に逐つき奉る。
あざやかな「語り」である。和歌にも句読点が振ってあり、語って聴かせた平家物語の呼吸が生きている。なんという美しいここの「赤旗」だろうか。送る行慶
にも先途をいそぐ経正にも、もう夢にも不思議の生還は断念されているのが、痛ましく、潔い。
経正は、経盛の嫡男であり、弟に、あの十六歳の花を散らせた敦盛がいた。経盛
父子は、例えば弟教盛の子弟ともくらべて官位官職にあまり恵まれていない。そのことも、こういうところを読んできた頭に、いつも、あった。妙に、ものあわ
れであった。だが騎馬の武者百騎がさっと鞭をあげて駆け去ってゆくなど、目に映る光景は優美で雄壮で、涙ぐましい。公達の中ではむしろおとなしく地味に感
じられる経正なのに、この御室の別れは、ひときわ印象的にわたしは愛読してきた。
能では幽霊の「経政」が琵琶を弾じる。語り本にはそれがない。そんな余裕のあり得ようはずのない都落ちであった。だが読み本には、青海波、萬寿楽など五六
帖を暫く演奏して辞去したという。実際に弾いたというより、弾いて行かせたい読み手や聴き手の願望を斟酌した作為だろう、ここは、きびきびと先へ運んで行
く語り本系の緊張感が、いい。
「青山」という琵琶の名についても、簡潔を旨とした覚一本、長門本などは「夏山
の峰の緑の木の間より、有明の月の出でたるを、撥面に描かれたりけるゆえにこそ」とあっさりしているが、読み本はもっと角度を替えて説明してくれる。もと
は大唐国に伝えられたこの琵琶を、廉承武という名手が手づから弾じ、秘曲を日本人に伝えた時、感に堪えず、青山の緑の梢に天人が天降り舞い遊んだ、それで
「青山」なのだと。いや、そうではなくやはり撥面の絵からついた名であり、もし撥面絵に牧の馬を描けば琵琶に「牧馬」と名がつくようなものだと。ともあれ
「青山」は、「玄上」「獅子丸」という名器とともに、廉承武に秘曲を学んできた我が朝の男が、仁明天皇の御代に、唐からはるばる持ち帰った琵琶であった。
だが「獅子丸」だけは、海路、龍神の惜しむところとなって海没したという。
「経政」の能は、「管弦講にて弔ひ申せ」とあるように、経正追悼会、いや、いっ
そ経正葬儀の体をとっているとみてもいいだろう。「弔ひ申せとの御事にて候程に、役者を集め候」と、ワキ行慶は、最初に宣言する。開式の辞のようなもので
ある。
「役者」とある二字が、この際なにを説明していようと、ことに目を惹く。
「役者」とは何なのか。楽器演奏上の配役であるのか。それでもいい。源氏物語の
音楽の場面でも、丹念に琴はだれ、笛はだれと、配役している。シテといいワキというのも、能役者の役どころに相違ない。相違のないそれらの「役」を、全て
ひっくるめて、遠くはるかに遡れば、天の岩戸前でエロチックに舞い遊んだウヅメの舞いは、あれこそが「役者」の「藝」の初まりに相違なかった筈である。
あれはアマテラスの蘇生を祈る、まさに葬儀であった。幸い日の女神は、ウヅメ
入神の「役」に引きづられるようにして、蘇生したのだった。
だがアメワカヒコの時は、「日八日夜八夜を遊」んだけれど、蘇生しなかった。
「遊ぶ」とは、つまり葬儀に配役して、「河雁をきさり持(うなだれて供物を持つ役)とし、鷺を掃持とし、翠鳥を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女とし、
如此行ひ定めて、日八日夜八夜を葬祭したのだ。使者の霊魂を鎮め慰めようと「役の者」が「遊ぶ」ことこそ、藝能の根源であった。もとより、かぶりもののよ
うな扮装をもしたであろう。
そのような久しい「はうり・いわひ」の伝統を踏んで、「役者」という二字が、
正しくここにも用いられていることは、なにより、岩戸神楽を能の肇と世阿弥や観阿弥が言っているのだから間違いはない。経政をいままさに弔っているところ
へ、経政の幽霊があらわれる。蘇生でこそないが、管弦にことよせた「役者」たちの「藝」が、それを実現し可能にしたのである。能「経政」の舞台は、そのよ
うに読みそのように魅入られて、より一層みごとな効果が味わえるのである。
それにもかかわらず、「経政」作能は、じつに巧みに平家物語「青山之沙汰」に
まなんでいると見える。これは長門本本文に従ってみたいが、聖帝といわれた村上天皇が、「三五夜中の新月すさまじく、涼風颯々たりし夜半」に、清涼殿で琵
琶の玄上を弾じていると、「影のごとくなるもの、御前に参りて、興に乗じ高声に唱歌めでたく」和してきた。帝は琵琶をしばらくさし置いて、「そもそも、な
んぢはいかなる者ぞ。いづくより来たれるぞ」と訊ねた。
影の男は、その昔、日本から訪れた貞敏に、秘曲と琵琶とを授けた「大唐の琵琶
の博士廉承武」ですと名乗り、じつはあの時三曲を授けるところを一曲を惜しんで授けなかった。その罪で「魔道」に沈淪していたが、いま帝の御琵琶の撥音の
あまりに妙なるにひかれて、かくも現れ出ましたと言い、「御前にたてられたる青山を取って、転手をひね」って、帝のためにその秘曲を、残り無く伝授したの
であった。
「そののちは、君も臣もおそれさせ給ひて、この琵琶を」だれも弾奏しないまま、
御室の守覚法親王に伝わっていたのを、「最愛」のあまり、琵琶の名手であった経正にお預けになっていた。西国へ落ち行く間際に経正は、この琵琶青山を返納
のために御室へと馳せ来たのであった。
管弦講に惹かれ、その経政は幽霊となって影のように舞台に現れる。唐の琵琶の
博士廉承武の亡魂と、日本国に名器青山を弾じえた若き名手経正の幽霊とが、凄艶に一つの「影」を分かち合い、重ね合うに等しい「趣向」が生かされているの
だ。
だが、かの廉承武は、村上聖帝の琵琶により魔道を脱却することが出来たという
のに、あわれ経正は、「あら恥かしや、我が姿、はや人々に見えけるぞや。あの燈火を消し給へ」と、魂消ゆるように叫ぶのである。修羅道の猛火に焼かれ苦し
みながら、「恥かしや、人には見えじものを。あの燈火を消さんとて、その身は愚人、夏の虫の、火を消さんと飛び入りて、嵐とともに燈火を、嵐とともに燈火
を吹き消して、くらまぎれより、魄霊は失せにけり、魄霊は失せにけり」という、物凄い幕切れになる。
これほどもの哀れなもの凄い修羅能が、他にあろうか。あるかも知れない。が、
わたしは、藝術家にして武者でもあらねばならなかった経正の、無限の怨みに、肌を焼かれる心地がする。
清経 ─偽なりつるかねことかな─
平家物語を初めて通読したのは中学三年生であったが、その時、奇異に感じ、印象的だった箇所が、少なくも二箇所、いや四箇所あった。同じ記事が、二度ずつ
別の箇所で繰り返されていた。奇異というと、変なとも思われようが、むしろ一種のつよい感銘をうけたのである。
平家の都落ち間際に、平家は当然、三種神器とともに一天萬乗の後白河法皇を安
徳幼帝ともども、西国へ祭り上げて行きたかった。徳子平氏の生んだ安徳天皇はまだほんの幼児でしかない。ぜひ院政をとる後白河をも体よく「取り奉っ」て、
つまり拉致して都を去れば、去って行く先が、そのまま院と天子との皇都となり、刃向かえば逆賊になる。
平家の思惑は戦略として自然で当然であったが、思惑を引き外そうと、平家の身
勝手で拉致などされたくない老練の法皇が、すばやく脱出を考慮したのも自然当然であった。事実法皇はかろうじて夜陰に乗じ都を抜け出して、鞍馬山に忍んで
しまった。
この時に、私の読んだ岩波文庫の覚一本では、源資時という若い公家が、只一人
「御伴」に随ったと書かれてある。
わたしは、この資時という人物について、当時、すこしだけ識るところが有っ
た。わたしの買った文庫本の校注と解説をしていた山田孝雄博士が、この資時、出家して「正佛」といわれた人物こそが、徒然草にいわれている、平家は信濃前
司行長が詞を書いて、法師「生佛」に語らせたとある、その生佛と「同人」であろうと説かれているのを、興深く読んでいたのだ。偶然は重なるものだが、平家
物語の次に、いや先にであったと思うが、私は徒然草の文庫本も買っていて、これはなかなか読み煩ったけれどで、校訂者の西尾実博士が、有名な平家物語の成
立ちに触れてある段で、「生佛」に「綾小路資時、正佛」と脚注されているのもちゃんと記憶していたのである。
残念にも当時中学高校生の私は、まだ後白河撰の梁塵秘抄を知らなかった。資時
が、今様唱いの名人であった後白河院に愛され、歌唱の免許皆伝を享けていたような天才だったとは、まだなにも知らなかったのだ。ただ、此の二人が、ただな
らぬ仲ではあると、平家物語であの場面に出会った最初から直感した。何のことはない、かかる危急の際に法皇に只一人「御伴」をするとは、さぞや資時は緊張
もしていたろうが、幸福感も味わっていただろうなと、ま、中学生の感覚ながらそう感じて、奇異にも印象的にも受け取っていたのだった。しかも鞍馬脱出の記
事は、巻第七「主上都落」半ばにも、巻第八「山門御幸」冒頭にも、詞も同じく、ていねいに繰り返されていて、ひとしお私の感慨をそそった。
後年に、平家物語「最初本」を探索しながら、この源資時や後白河院や建礼門院
徳子らを大事に働かせての、しかも現代もの長編の『風の奏で』を、また中編『雲居寺跡=初恋』をわたしに書かせた動機が、その辺に遠く既に疼いていたの
だった。これらの小説には、実はわが「清経」も、なかなかに働いていた。大事な一人であった。
これらとは異なる『清経入水』という小説が、私を文壇に押し出した太宰治賞受
賞作だったことは、幸い、知る人は広く知ってくれている。この清経入水の記事も、平家物語では二度繰り返されていた。その二度めは、後白河院が、平家滅亡
の後に、はるばる大原の庵室に建礼門院を訪れたとき、女院みずから、六道の苦になぞらえ、西国西海での平家一門の悲しみ苦しみをつくづくと語り出すなか
で、象徴的にすべて「不運不幸の初め」として謂われているのである。まことに清経の入水死にはその趣が色濃くて、数行の僅かな記事でありながら、強烈に印
象づけられている。中学生の私もまた、清経の死に心を奪われてしまい、「なんでやろ、なんで清経は死んでしもたんや」と、不審半分、共感も半分で胸にしっ
かりと抱き込んでしまった。それを吐き出したのが、『清経入水』というこれもまた現代小説に化けて現れたのだった。
平家は一度は福原に入りまもなく九州にまで落ちて行った。北九州には、清盛が
太宰大弐を勤めてこの方の、勢力の扶植がある。宋国との交易で多くを獲得し、文物も財貨も蓄えて平家はぐんぐんと伸びたのだ。だが、時代はいまや動いてい
た。強硬に対抗し、さしもの平家を九州の地から追い立ててしまうほどの、強い、新しい地力が生まれていた。
小松殿の三男、左の中将清経は、本より何事も思入れける人なれば「都を
ば源氏が為に
攻落され、鎮西をば維義が為に追出さる。網にかかれる魚の如し。何くへ行かば
遁るべ
きかは。長らへ果つべき身にもあらず」とて、月の夜心を澄まし舟の屋形に立出
て、横
笛音取朗詠して遊ばれけるが、閑に経読み念仏して、海にぞ沈み給ひける。男女
泣き悲
しめども甲斐ぞなき。
ただこれだけの記事が私の身にしみた。この時九州の地を追われた平家
は、柳ヶ浦に舟を浮かべて寄る辺を求めていた。やがて本州に上り、むしろ勢力を回復して東へ東へと失地を奪い返し、ついには京都をすら望める足場にまで盛
り返して行ったのだが、清経は、その全てに先立って、音も立てずに入水して果てたと謂うのである。一の谷や屋島の合戦よりも、それは、ずっと早い孤独で静
寂な自殺であった。
平家には、忌まわしい、士気を萎えさせる清経入水だったことを語るのが、灌頂
巻のすでに仏門に入っていた建礼門院徳子であった。
寿永の秋の初、木曾義仲とかやに恐れて、一門の人々住馴し都をば雲井の
余所に顧みて、 故郷を焼野の原と打詠め、古は名のみ聞し須磨より明石の浦伝ひ、さすが哀れに覚えて、 昼は漫々たる浪路を分て袖をぬらし、夜は洲崎
の千鳥と共に泣明し、浦々島々由ある所 を見しかども、故郷の事はわすられず。かくて寄る方無りしは、五衰必滅の悲しみとこそおぼえ候ひしか。人間の事
は、愛別離苦、怨憎会苦、共に、吾が身に知られて候ふ。四苦八苦一として残る所候はず。
さても筑前国太宰府と云ふ処にて、維義とかやに九国の内を追出され、山野広し
といへ ども立寄り休むべき処なし。同じ秋の末にもなりしかば、昔は九重の雲の上にて見し月を、今は八重の塩路に詠めつつ、明し暮し候ひし程に、神無月の
比ほひ、清経の中将が、都のうちをば源氏が為に責落され、鎮西をば維義が為に追出さる。網にかかれる魚の如く、何くへ行かば遁るべきかは。存へ果べき身に
もあらずとて、海に沈み候ひしぞ(平家一門にとっては、)心憂き事の始めにて候ひし。
平家の苦境を、気の毒なほど明快に語って余すところがない。
「清経」という能は、けっして身贔屓するのでなく、惹きこまれる名曲で、謡だけ
を繰り返し聴いても面白い。何といっても、「音取り」という小書(演出)でのシテの出は美しい。が、そういうことにここでは触れない。平家物語で清経の入
水には、要するにただこれだけの本文がある、覚一本の場合。だから能のように清経と妻との形見の髪をめぐってのやりとりなど、能作者の創作かと思われそう
だが、これまた異本にはしっかり出ていて、それを読むと、なぜ清経が入水死に至ったか、まことしやかに説明してあったりする。
清経は妻を西国までも伴いたかった。妻も熱望していた。だが縁辺の藤原氏の猛
反対で別れ別れになり、夫は道中より形見の髪を送り、文通は怠らないと約束した。ところが三年、「たより」が無い。むくれた妻が「一首ノ歌ヲ」添えて形見
の「鬢ノ髪」を返してきた。
見ルカラニ心ツクシノカミナレバウサニゾ返ス元ノヤシロニ
能「清経」の、まさに眼目となる和歌一首である。「形見こそなかなか憂
けれこれなくは忘るることもありなんと思ふ」古歌の心を踏んで、「見ているだけで気が滅入ります。心憂さが堪りませんので、宇佐の宮ではありませんが、元
の持ち主に、神ならぬ髪は、お返ししますわ」と嘆いている。その時、清経ら憂色濃き平氏は、豊後国の柳ヶ浦にいた。「左中将是ヲ見給フテハ、サコソ悲シク
覚シケメ」と本の作者には大いに同情されている。この同情が、能では清経から妻への怨み返しになって来る。その応酬により能が冴え返る。
本によっては、この妻は、夫恋しさのあまり、先に「憂い死に」をしてしまい、
使いの者が、遺言の歌のままに、形見の髪を返しに柳ヶ浦なる平家の陣を訪れてきたとある。さてこそ清経は、悲歎にうち負け、跡を慕うように清寂の入水死を
遂げたのだと謂う。源平盛衰記など読み本系統でも似た話をしている。能「清経」は明らかに読み本系によって巧みに創作されていたのである。むろん平家物語
も、誠に巧みに清経の寂しい入水死をもって、「心憂き事の始め」と一門の末路を象徴した。幼いなりにわたしはそこに心惹かれた。
巴 ─薙刀柄長くおつとりのべ─
題は忘れたが木曾義仲と、寵妾たちの確執を扱った映画が、むかし、あっ
た。好ましい作とは観なかったので殆ど忘れているが、巴を京マチ子が演じていて、適役だった。記憶はあやしいのに、頭の中でぴたりのはまり役として、まだ
生きている。華やかな鎧姿の表情まで蘇る。京マチ子は昔も今もひいきの女優である。巴と、確執いや角逐した相手の女のことはさっぱり忘れているが、葵、山
吹、朝日など、の名前が平家物語諸本に少しずつ見えていて、関わりの、こんな思い出がある。
京都市東山区の東大路に安井金比羅宮があり、大路をまたいで鳥居前の広道を
まっすぐ上って行くと、高台寺や、京都神社もとの護国神社などへ突き当たる。突き当たる直前に右へ路を逸れて行くと清水寺の方へ行ける。
この東大路から東向きに、ものの百メートルも行った右側民家、道路から十段ほ
ど石段を上がった玄関先に、朝日御前の墓と称する石塔がある。朝日御前が木曾義仲の愛妾の一人という以上のことをわたしは知らなかった。そういう遺跡の
遺ったことが嬉しかった。
また私の通った小学校、戦争当時は国民学校であったが、校庭の校舎寄り中央
に、大きな椋の樹がそびえ立ち、根方に山吹御前の墓とした石塔が建っていた。山吹は、木曾殿最期の際に、病でか義仲と倶に都を遁れられなかったと書いてい
る、本がある。なんだか先の映画の題が、「巴と山吹」だったような気がしてきた。
平家物語に、木曾義仲の書かれようほど、極端なイメージの分裂は珍しい。八島
大臣の宗盛など、比較的人物像が揺らいでその時々の言動や印象がちがって感じられる方だけれど、そして宗盛のためにはそれが人間味を添えた効果をもち得も
しているのだが、大方は、することなすことほぼニンというものが定まっていて、意外なと特に驚くことは少ない。
ところが義仲にかぎって、木曾に決起の頃の勇猛果敢、武将として最大限の魅力
を発揮していた頃と、都に入って宮廷や公家社会に接して以後の振舞や描写とでは、別人かのように、扱われ方も書かれ方も大差がある。そして一転して、近江
の粟津松原での最期になると、また凛々として哀情痛切、藝術的感動に富んでいることは、平家全編の白眉といえる場面になる。義仲も哀れならば、最期まで義
仲をいたわり庇って壮烈に死んで行く乳兄弟の今井兼平のみごとさは、涙なしにおれない。
人物の幅と魅力となれば、べつの価値観を持ち出すしかないが、「書かれ方」と
いう表現の結晶度においては、全編に無数の人物のあるなかで、木曾義仲は図抜けて傑出している。匹敵するのは義経でも清盛でもなく、私は、後白河院と平知
盛とを挙げたい。これは人それぞれの思い入れでよいことと思う、が、こと義仲に関して一つ言えるのは、清盛や高倉院もしのぐほど「女」が好きで、いささか
ダラシもなかったことか。
昔も今も変わらない、この筋の噂は面白づくに飛び交い、新聞も週刊誌もないけれど、筆まめに書き留めたり囁き合うたりすることは、今以上であったろう。そ
れが説話の集にも編まれ、また多大な平家物語の異本を生む、いわば「話嚢」となった。
さしも朝日将軍義仲も、宇治川の備えを、義経率いる佐々木・梶原らの先駆けに
打ち破られ、はや都は維持しかねると見て、法皇に「最後のいとま」申して落ちようとするのだが、「六条高倉」辺に「見初めたる女房のおはしければ、それへ
うち入り、最後のなごりおしまんとて、とみにも出でもやらざりけり」という按配だった。この女、「おはしければ」の言葉遣いから、たぶん「松殿入道殿下
(関白基房)御娘」であろう、いや「ある宮腹の女房」であろうと、詮索されている。基房の娘で絶世の美女を義仲が強奪した話も先の方に出ていて、都入りし
た「木曾冠者」は、その粗暴の故に都人士に大いに顰蹙されていた。
しかし義仲はたいへんな美男でもあった。義経は醜男の小兵だったそうだが、義
仲は鎧兜をぬいでしまうと別人のような二枚目であったと、多くの本が口を揃えている。もとより剛勇の猛將であり、女は、結局は魅せられてしまった。そうい
う女を義仲も好んだ。
もうそこの河原まで東国の敵勢が「攻め入ッて」いるのに、義仲は女との別れを
惜しんで出てこない。まだ新参だという家来の武士が口を酸くして諌めても、聞かない。
「さ候ば、まづさきだちまいらせて、死出の山でこそ待ちまいらせ候はめ」と、癇
癪を起こした家来はその場で「腹かき切ッて」死んでしまい、「われをすすむる自害にこそ」と、やっと木曾は女のもとを離れた。
いくらか、いらいらする。但し「英雄色を好む」のが常であるなら、或る意味で
は美女たちがぶらさがるのは、勲章だった。義仲は勲章を同時にいくつも遠慮なくぶらさげていたわけで、なかで、最後の最期まで義仲から離れなかったのが
「巴」であった。
さすが好色の木曾義仲も、最期の場に寵愛の女が同伴で、枕をならべて戦死した
とあっては人聞きがわるいと、心を鬼にし、我が菩提を弔うてくれてこそ「倶会一処」「後の世までの伴侶ぞ」と強く云い含め、強いて巴を粟津の戦場から落と
してやる。巴は泣き、だが義仲はゆるさなかった。
さらばと、巴は最後のめざましい一働きをし、鎧を脱ぎ捨てひとり戦場を落ちて
いった。だが巴の魂は決して義仲の身から離れなかったというのが、能「巴」前シテの出になる。
巴は、あの実盛の友中原兼遠の娘であり、今井兼平、樋口兼光らの妹である。義仲とはもともと乳兄妹であり、この一族を抜きに木曾義仲の生涯は語れない。至
福真実の身内であり、一心同体の主従だった。
能にも、「木曾」という能は、木曾最期を描いたものでなく、義仲挙兵を祝って
神の加護をうたいあげた特殊な作であり、かえって「巴」「兼平」の二番が、義仲戦死を、まことみごとに表現している。義仲は兼平を求め、兼平は義仲を求め
て、近江路を敵の勢いからのがれのがれ幸せにも行き会うのであり、平家物語のその辺からは、凛々しい緊張感と清らかな哀情に満たされて、読みながら感動で
息も喘いでくる。その時もまだ美しい巴はひしと愛する義仲に付き随っていたのである。
木曾殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹は痛はり有
て、都に留りぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔誠に勝れたり。ありがたき強弓、精兵、馬の上、歩立ち、打物持ては鬼にも神にも逢はうと云ふ一人当千の兵
也。究竟の荒馬乗り、 悪所落し、軍と云へば、実よき鎧著せ、大太刀強弓持せて、先づ一方の大将には向けられけ り。度々の高名肩を並ぶる者なし。されば
今度も多くの者ども落行き討れける中に、七騎が中 まで、巴は討れざりけり。
巴は、女ながら、一騎当千の強者をすら一時に二人もとりひしいで頸をねじきってしまうような無類の強豪であり、戦の場に出て負けたことなど一度もなかっ
た。兼平は、義仲とただ二人になったときに、自分一人で兵の千人には当たります、気弱になられるなと励ましていたが、巴でも、必ずそう言ったにちがいな
い。
我が国の説話の世界には、女ながらに桁はずれな力持ちがときどき現れる。神の
申し子のような、とんでもなく強い女であるが、この巴は、美貌と強力とを兼ねもった女として、史上第一位の名声と人気を保ってきた。義仲は、女に気の多い
男であったけれど、一番深い心の底では、巴を、我が身と同然に熱愛し親愛していたに、頼んでいたに、違いないとわたしは思う。いつしょに死のうとしなかっ
たのは、薄情であったとか、武士の意気地で見栄をはったとかではあるまい、愛情であったろうと思いたい。
粟津の別離はどのような平家物語異本でも洩れなく読めるが、その後の「巴」を書いているのは、例によって読み本であり、盛衰記などである。義仲と別れるま
での戦で巴は目立つ活躍をしつづけたので、国中に知らぬものはなかった。中には女ごときにと、好色を下心に秘めて、言挙げして巴にわざと組み付いて行った
武者も何人もいた。だが例外なく巴の手に命を落とすか赤恥をかいた。それほどの巴であれば、元の木曾に落ち伸びたにしても、鎌倉の頼朝が見逃しては置かな
い、ついには鎌倉に呼び出された。
一目見合って、もとよりうち解けるうる二人では、ない。頼朝は森五郎に預け
て、斬らせようとしたが、武勇の和田小太郎義盛がつよく願って出て、巴を貰い受けた。見たところわるびれもせず落ち着いて、なかなかの者、あれほどの女に
我が子を産ませたい、頂戴したいと。用心深い頼朝は、親の敵で主の敵である鎌倉の侍に、隙あらば寝首もかこうとするに相違ない、よせよせと諾かないのを、
強って申し受けた。
「即チ妻トタノミテ男子ヲ生ム。朝比奈三郎義秀トハ是ナリケリ。母ガ力ヲ継タリ
ケルニヤ,剛モ力モ双ナシトゾ聞ヘケル。和田合戦ノ時、朝比奈討レテ後、巴ハ泣々越中ニ越エ、石黒ハ親シカリケレバ、ココニシテ出家シテ、巴尼トテ、仏ニ
花香ヲ奉リ、主(義仲)親(兼遠)朝比奈ガ後世弔ヒケルガ、九十一マデ持テ、臨終目出度クシテ終リニケルトゾ。」
巴ほどの女を永く末あらしめよと願う人の多かったことが想われ、何となく私は
嬉しい。
忠度 ─ただ世の常によもあらじ─
「薩摩守タダノリ」と、気の毒な駄洒落のたねにされているが、地味な印象
の底に渋く光る魅力があり、一人の人気者、平家の悪逆をほとんど担わないままに人の心に影像を置くことの出来た、或る意味で幸せな公達であった。
歌を詠むとなると、その場を逃げ出す平家の公達もいた。清盛や重盛の和歌を急
には誰も思い出せまい。知盛でも宗盛でも辞世の和歌はない。南都奈良の寺々を焼き払った重衡にはしみじみとした辞世歌があるけれど、およそ平家の和歌を一
手に引き受けていたかに見えるのが、平忠度であった。薩摩守忠度には「俊成忠度」「忠度」と二つの能があり、一つの能に編集できそうなほど、一連の、即ち
和歌徳の能になっている。いや、和歌道に執心執着の能になっている。
平家では、忠度や清盛の父忠盛が、機転の利いた、文字通り「和する歌」の達者
であった。古代の素養を新興の武家として巧みに身につけ、幾分はその徳を一門の徳に結びつけたのが平忠盛であった。忠度は、すこし違う。和歌の歴史でいう
と、確実に父忠盛の一歩先を歩いており、歌は即興味よりも、真実を尽くして自然と境涯とをいわば写生していたと見受ける。清新な詠みくちで、真剣だった。
和歌の道にしんから出精していた。そういう時代であった。
武将としての忠度は剛強武勇の士であった。最期の力戦はみごとで、死にざまも美しかった。ここでそれを繰り返すのはやめよう。忠度は粋な人でもあった。王
朝の女文化に対する素養も確かで、敬意も払った。諸本の中には、こんな逸話を伝えた本文もある。
宮廷社会に、才色兼備をもってその頃ひときわ評判の女性がいて、忠度との親愛
には濃やかなものがあった。ところが、いい女というと目のない高倉院も、評判にひかれて時折りに訪れておられた。ある秋の夜長に忠度が訪ねて行くと、先客
がある。忠度は院とも知らず、庭面を徘徊して客の帰るのを待ちわびていたが、なかなか腰をあげそうにない。すこしく焦れて、忠度は扇を鳴らしてそれとなく
催促した。
女には忠度とわかり、気の毒には思うものの、院に、ぶしつけに振舞うわけに行
かなかった。また扇の骨をきしませるらしい音がする、院も不審げにされたときに、女は、さりげなく「野もせ」とだけ、呟いた。忠度はそれと聴きとめると、
そのまますっと帰っていったのである。源氏物語の夕顔の巻に、「かしがまし野もせにすだく虫の音よ我だにものを言はでこそ思へ」と出ている歌を、忠度は心
得ていた。忠度の扇を鳴らすのを女は蟲の音に譬えながら、一方歌の下句に情深い忠度への思いも託した。それも忠度はきちんと汲み取ったのである。二人の仲
らいは、また一入深まったと謂う。
こういう忠度が、誰を歌の師としていたのか、本当に俊成卿であったのか。
更くる夜半に門を敲き わが師に託せし言の葉あはれ
いまはの際までもちし箙に 遺せしは花や今宵のうた
わずか四句に能「俊成忠度」や「忠度」の全部が唄われていて感心するが、この美談にひとしい理解に対し、必ずしも賛成ではない人が、わたし自身もそうなの
だが、わたしだけでなく、昔から、いた。いたらしい。平家物語が語り伝えられた時分から、実は少なからずいたのである、能「忠度」の作者、たぶん世阿弥も
その強硬な一人であった。
忠度に取材した能は、「俊成忠度」はもとより、ことに能「忠度」は、源氏の勇
士岡部との最期の決闘を語るための修羅能では、ない。「生前の面目」を賭けた和歌への執心、それによるいわば無念怨念が忠度を幽霊にしているのである。忠
度は俊成の弟子ではなく、歌風からも、俊恵らの歌林苑に筋を引いた歌人であった気が、わたしは、している。
藤原俊成はいずれ勅撰の和歌集、のちの千載和歌集を撰するであろうことは宮廷
社会に知れ渡っていた。だから「門を敲」いて、書き溜めた家集を辛うじて忠度は届け終え、心おきなく都を落ちて一門の悲運に殉じた。
師弟と見るには、この際の俊成の迎え方が硬かった。「青山」を持参の経正を招
じ入れた御室の法親王や行慶らと比較しても分かるし、平家物語の本に依っては、門前に忠度が来たと知って俊成邸は周章狼狽し、俊成は「ワナナキ、ワナナ
キ」門の陰まで出て、門を開けること無く忠度と応対した、余儀なく忠度はだいじな歌巻物を門内に「投入レ」て行ったとまで書いている。少なくも門の内へ俊
成は終始迎え入れなかった。「勅勘」の平家で、無理もない。それを咎めはしない、が、師弟の情があったとは思わないのである。
知られているように俊成は、千載和歌集に忠度の「故郷花」と題する一首を、
「勅勘」朝敵であった平家の身分を憚り、単に「読人しらず」として撰し、採った。
さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな 読人しらず
近江大津京にほどちかい「長等」の地名もよみこんで、温和に懐かしい秀 歌である。そして忠度が最期まで身に帯びていた有名な一首は、唱歌「敦盛と忠度」にも唄われた、
行きくれて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし 平忠度
能ではこの「花や今宵」の歌を「読人しらず」と脚色しているが、岡部に
最期の手柄を授ける段取りからも、これは、頷ける。それは、この際はどっちでもいいのである。
平家物語では、ある本は、千載集に採られたことを、忠度の「亡魂イカニ嬉シク
思ヒケン」と前向きに評価している。
だが覚一本をはじめ幾つもの本は、「読人しらず」とされたことに、「其身朝敵
と成ぬる上は仔細に及ばずと云ながら、恨めしかりし事ども」だと明記し、憚らない。世阿弥もその怨執の念を主題に能を作りき、どれほど和歌の道に「生前の
面目」を賭して忠度が生きたか、その無念を代弁している。能「忠度」のワキは、今は亡き俊成の身近にいた僧だが、忠度の幽霊は、俊成子息の名誉の歌人、藤
原定家がやがて勅撰集を編まれる時には、どうぞ「忠度」の名を顕わして一首なりと採っていただけまいか、お口添えが願わしいと切望すしているのである。岡
部に討たれた修羅の無念に、忠度は迷い出たのではない。勅撰の歌人たる名誉が、「忠度」の「名」に与えられなかったのを、俊成に対しても、恨めしく思って
いる。そこが肝心なのである。そこに世阿弥の批評がある。
ここに「定家」名の見えるところが、興味深い。世阿弥は、能の作者は、平家物
語の或る本に書かれたこんな記事を、確実に踏まえていたに違いないからである。
清盛の子の基盛は早くに死に、遺児に左馬頭行盛がいた。彼は和歌の道を、俊成
の子の定家について出精していた。明かな師と弟子とであった。
都落ちに、もとより平家の一門の行盛も運命を倶にしたが、怱忙の間に行盛は師
の定家に別れを告げ、定家も懇ろに迎えて薄き縁を惜しんだ。行盛は師の手元に、日ごろ心に入れて書きとめた歌百首の巻物と、手紙とを遺し、都を離れて行っ
た。見ると、巻物の端に、自作の和歌一首がそれとなく書き入れてあった。
流れての名だにもとまれ行く水のあはれはかなき身は消えぬとも
若き定家は感動し、心に期するところがあった。父俊成が忠度の和歌を
「読人しらず」として撰した時も、子息定家はそれを「本意ナキ」こと、「忠度朝家ノ重臣トシテ雲客ノ座ニ連ナレリ。名ヲ埋ム事口惜し」いことと思い、自分
はきっとあの「行盛」の名を顕わしてやりたいと、心にまた誓った。それでも定家は三代の御代をやり過ごし、ついに後堀河院の頃、新勅撰和歌集を苦心して編
み、宿願の行盛の歌を「左馬頭平行盛」と明記して入れたのであった。「寿永二年大かたの世しづかならず侍りし比、読置きて侍りける歌を、定家がもとへつか
はすとて、つつみ紙に書附て侍りし」という題詞も、定家が自身で書き添えたのであろう、「亡魂イカニ嬉シト思フラント、アハレナリ」とは、其の通りであ
る。
それにしても、この行盛と定家、忠度と俊成の二つの話は、対照が利きすぎてい
て、意図的な脚色とすら読める。忠度の「無念」を、ぜひに代弁して遣りたくて堪らなかった人たちが事実いたのだろうと想像させる。忠度の幽霊が、俊成縁者
のワキ僧に向かい、定家に頼んで欲しいと懇望するところに、能の意図は、とても面白く、とても哀れに、露出している。世阿弥が、この対照的な平家物語の話
柄に取り付いて能を作ったのは、ほぼ確かではないかと、わたしは考えている。
敦盛 ─跡弔ひてたび給へ─
熊谷直実が、心ならずものしかかり頚を掻かねばならなかったとき、少年敦盛は、どんな顔をして直実の目を見上げていたか。そういう課題が、永らくわたしの
頭にあった。
直実が躊躇したのは何故だろうとも思った。気の毒…。そういうものだろうか。
手柄首をそんな感情で擲てるようには、武士の神経は出来ていない。熊谷は名誉欲も強ければ、恩賞に対する貪欲も人一倍であった。訴訟が思うに任せなくて出
家したのだという俗説すら囁かれた熊谷直実である。
敦盛が、わが子の小次郎と肖ていたか。年齢は同じ十六歳でもいいが、首実検で
人を欺けるほど肖ていたというのでは、いかにも歌舞伎で話が出来すぎている。熊谷直実は関東のむしろ荒武者であった。敦盛を渚から呼び返したときにも「日
本第一の剛の者」と名乗っている。小次郎にしても、荒い気概では父に負けていなかった。一谷での、熊谷平山「一二之懸」「二度之懸」を読めば分かる。どう
にも手柄をあげたい武骨な父子であり、またそれでこそ武士なのであり、「現ニ組タリシ敵ヲ逃シテ、人ニトラレタリトイハレン事、子孫ニ伝ヘテ弓矢ノ名ヲ折
ベシ」と思い返して、直実は敦盛を逃がし放ちはしなかったのだ。陣中で、心澄まして名笛小枝を吹いていた敦盛とは、もともとモノが異っている。その自覚の
上で、さすがに息子小次郎には、敦盛最期は痛わしかったと、ほろりと、告白している。本によれば、「後ハ、軍ハセザリケリ」とも記事が結んである。根から
の武士が、ふっと無常の風に誘われた。それは否定しない。だが、それだけのことであったろうか。
直実は、組み敷いた実感において、一瞬、女を、すこぶる上等の異性…を、感じ
たのではないか。そうわたしは想って来た、それなら、わかる…と。
遂に熊谷は上になりのしかかり、左右の膝で、敦盛の鎧の袖をむずと押さえたと
ある。これぞ手籠である。敦盛は身動きもならなかった、いやいや「少シモ働キ給ハズ」と本文にある。手籠にあいながら動いて逆らおうとは、ちっとも、しな
かったのである。熊谷は腰の「刀」を抜き、「兜の内」をのぞいた。なんと、エロチックな表現。「十五六ノ若上臈、薄化粧ニ金黒也、ニコト笑ミテ見ヘ給フ」
たとは。女か……。熊谷は、胸を轟かした。
穴無慙ヤ。弓矢取身ハ、是程若クウツクシキ上臈ニ、イツコニ刀ヲ立ツベ
キゾト、心弱
ク思ヒケル。
平家物語の敦盛も、能の「敦盛」も、むろん少年である、が、女とみまが
うほどに優しいその公達が、わが頚を斬った当の熊谷蓮生坊により、修羅道の苦患から救うて給われと幽霊で現われる、そこに、この能の奇抜で奇妙な色気があ
る。倒錯の魅力が、あまい風のように匂うのである。稚児にも似た敦盛が、どうかすると、昔愛された今は出家の男によって救われたがっている女に、見えてく
る。女ではない、少年だ敦盛だ、あれは男同士だと思い直して行けば行くほど、それでよけいに、とほうもなく能の舞台がセクシィになる。むろん、いやらしく
も何ともない。美しく「あはれ」なのである。
「十六」という能面が、「敦盛」の専用面のようになっている。同い年の「知章」
にも用いられる。もう一人同い年の公達がいて、宗盛の嫡男清宗がもしシテを演じても「十六」の面をつけただろう。シテがつけるといい面だが、面だけを写真
にしたもので見ると、ふっくらした頬で、妙に栄養が足りていて、「あはれ」味が薄い。あれでは少女とは見えない、年増にも見えないと、これまた永いあいだ
物足りなかった。ちがうのとちがうやろか…と、持って行き場のない気分でいた。
ある年、能の題を小説の題に、いろんな古美術の名品の写真と競り合うように、
現代モノの短編を連載してくれと、茶の湯の雑誌から、凝った注文がきた。頼み込んで一回目だけ、「十六」という題で敦盛を書きたいと言い、むろん題だけが
「敦盛」の、現代小説ではあったのだが、美術の写真には、三井永青文庫所蔵の能面「十六」を撮影してもらった。私も現場で撮影を見せてもらった。
カメラマンは、能面は正面から素直に撮りたいと言ったが、わたしは、角度をつ
けて、能面十六にべつの顔が見えてこないか、ぜひ探ってほしいと注文をつけた。写真家は何度も根気よく試みてくれて、その都度わたしもファインダーを覗か
せてもらううち、総身に電気のような戦慄を覚える「女」の顔に、ついに出会った。凄艶な女の顔だった。少年だけが隠し持っている、それは、うら若い母か姉
かの顔に見えた。これだと思った。熊谷直実は組み敷いた少年の、己れを見上げてくる表情に、この顔を見たのに違いない。理屈を超越し、わたしはそれを信じ
た。
「これを撮って下さい」と、わたしは躊躇なく叫んだ。その写真が連載の一回目を
飾り、わたしは幻想的な短編で、古傷の少年の恋を書いた。写真は、これがあの永青文庫の「十六」かと驚かれた、冴えて、悩ましい、凄いほど美女の横顔だっ
た。連載を終え、単行本になった『修羅』の表紙や函も、その「十六」のカラー写真が飾った。
「あはれ」であった。
一の谷の戦やぶれ 討たれし平家の公達あはれ
暁寒き須磨の嵐に きこえしはこれか青葉の笛
わたしぐらいな六十過ぎた年輩なら、この唱歌を知らないものは少ない。
いまはなぜか「青葉の笛」と題してあるようだが、昔はずばり「敦盛と忠度」だった。歌詞の一番は
敦盛を、二番は忠度を歌っていた。源氏より平家が贔屓だったわたしは、愛唱に愛
唱した。同じように南北朝の時代、「青葉茂れる桜井の」駅の、楠木正成正行父子が訣別の歌も熱唱した。そういう時代であり、そういうタチの少年だった、わ
たしは。敗者に涙した。
平家物語を読むようになったのは、戦後、新制中学をそろそろ卒業という頃だっ
た。能楽堂へ出かけ、主に京観世の舞台で「清経」や「八島」を観たのも、顔見世の南座で市川寿海の盛綱を観たり、人形浄瑠璃の「熊谷陣屋」を聴いたりした
のも、高校一年頃からのことだった。そんな時もあの唱歌の哀調はわたしの中でいつもたゆたっていたし、そうでなくては、能にせよ歌舞伎にせよ、そうそう親
しめる藝能ではなかったかも知れない。
だから平家物語をはじめて文庫本で買って、頭からどんどん読み進んで「敦盛最
期」に来た時、「きこえしはこれか」と唄ったはずの「青葉の笛」などという笛の名が、本文に全然出ていないのに、文学少年、大発見の面持ちを隠すことがで
きなかったのである。
事実「青葉の笛」と書いた本文は無く、大方が父経盛より伝領の名笛の銘は「小
枝」としてある。頼政に担がれた無品の宮以仁王が「御秘蔵ありける」名笛も、「小枝」と呼ばれていた。両者になにの交通もなげであるからは、奇妙というし
かないが、実は「青葉の笛」を世に広く流布した張本は、能の「敦盛」であった。本説正しきを尚ぶ世阿弥ないしは当時の作者であるから、どこかに典拠のある
ことと思いたいが、創作であっても面白い。とにかく小謡にもなっている、こんな詞章に、めざす笛の名は紛れもない。
身の業の。すける心により竹の。小枝蝉折様々に。笛の名は多けれども。
草刈の吹く笛
ならばこれも名は。青葉の笛と思し召せ。
「敦盛」のワキは、熊谷直実出家して蓮生法師で、往年討ち果たした平家公
達の菩提を弔うべく、一の谷に登場したところで、前シテの草刈男の笛を吹くのに出逢う。あまりの優しさに笛の名を問い掛けた、その答が「青葉の笛」であっ
た。この少し前、蓮生は草刈る男の笛を、物珍しく「その身にも応ぜぬ業」に思い、かえって男から「それ勝るをも羨まざれ。劣るをも卑しむなとこそ、承れ。
其の上、樵歌牧笛とて。草刈の笛樵の歌は。歌人の詠にも詠み置かれて、世に聞こえたる笛竹の。不審はなさせ給ひそとよ」と窘められている。笛を吹く草刈男
の、例えば「小枝」「蝉折」のような伝来の品の銘を期待して聞くものはいない。珍しい音色、珍しい形の、見慣れず聴きなれないものだったから、「それは何
の笛か」と尋ねたのだ。他ならぬこの草刈る男こそ、後シテの敦盛その人と思えば、いよいよ義経や熊谷の涙を誘ったという、うら若い「上臈」の鎧の袖に隠さ
れていた笛を、草刈の青葉の笛に重ねては想像しづらい。
「山路に日落ちぬ 耳に満てるものは樵歌牧笛の声。澗戸に鳥帰る 眼に遮るもの
は竹煙松霧の色」とも、朗詠集に謂う。そして明らかに蓮生法師が須磨の浦一の谷の夕まぐれに聴いたのは「草刈笛の声添へて吹くこそ野風」と謡われている、
牧笛の哀調なのであった。草笛、葉笛であった。
通盛 ─討死せんと待つところに─
もし小宰相という愛妾をもたなかったら、一の谷の合戦で討たれた能「通盛」のシテは、平家一門の中で目立つ存在とは謂えなかった。平家物語では、北国に木
曽義仲が起った頃から、追討軍の大将格で名前が何度か見え初めるが、忠度とほぼ同時に源氏に討たれた記事以外にはさしたる問題のない人物であった。恋女房
の小宰相に、妊娠していたこの愛人に、哀切無比、後追いの入水自死をさせた男こそ、通盛、といえば全ては尽くされる。
武将としては、弟の能登守教経が平家では抜群だった。終始豪快に闘いぬいて、
しばしば「高名」を馳せた。「討つべき敵なし」というほどに、都落ちの後も一時平家挽回の立役者になったのが、能登殿だった。のちには、あわや源氏の義経
を追い詰め、手もかけんばかりに派手に活躍して、壮烈に壇ノ浦で戦死した。
通盛もそこそこに力強くはあったようだが、敵を組み敷き首を掻くのに、鞘のま
ま刀を使っているうちに、たばかられた感じに、下から眉間を刺し貫かれて果てたらしい。
通盛は、一門総帥の八島大臣、従二位宗盛の婿であったという、が、この北方は
年端もゆかぬ少女であったため、藤原憲方の娘で小宰相局という女房を西国へ伴っていた。けれど、妻の座にはなく、乗る船も別であった。だが二人は人目を忍
んでしばしば逢う瀬を語らい、この上もないアツアツぶりは、知らぬ人もなかった。
小宰相はかつて宮仕えしていて、「心懸ケヌ人ハナ」いほど、「心ハ情深ク形人
ニ勝レ」ていた。ある春の一日、高貴の人の北野御幸にこの女房の付き添っているのを「通盛ホノ見給ヒテ、宿所ニ帰テ忘レントスレドモ忘ラレズ、」人を介し
て、文と歌とを送った。
吹送る風のたよりに見てしより雲間の月に物思ふかな
うまい歌ではない。小宰相は返事をくれなかった。「三年ガ程、書尽キヌ
水茎ノ数積モレドモ、終ニ返事」は無いままであった。とうどう、死ぬとまで書いて、小宰相が朋輩らと同車の中へ恋文を投げ込んだ。大路に捨てるのも流石に
憚られ、車中に放置もならず、仕方なく「袴ノ腰ニ挟」んだまま建礼門院の御用を務めているうちに、ふと取り紛れ、文を落として気づかなかった。
女院は衣の袂にそっと伏せ隠し、懐中し、御遊の後に、女房達の中でこのような
文を拾ったが誰のものかと聞いた。「我も我も知ら」ないと言う中で、ひとり小宰相局は身の置き所もなげに俯いていた。文には香がたきしめてあり、「手跡モ
ナベテナラズ美シク、筆ノ立チドモメヅラカ」であった。文の端には思いのたけを、
我が恋は細谷川の丸木橋ふみ返されてぬるる袖かな
踏みかへす谷の浮き橋浮き世ぞと思ひしよりもぬるる袖かな
「つれなき御心も今はなかなか嬉しくて」などと「文返し」続けられて「逢
はぬ恋を恨」みがちに、しみじみと恋慕の気持ちが書き連ねてあった。
女院は、一門の通盛が執心している噂はほのかに聞いていたが、細かな経緯は知
らなかった。こういうことであったのかと女院は小宰相に、「アマリニ人ノ心ツヨキモ讐トナル」と諭し、これほど思う男との「一夜ノ契リ、何カサホド苦シカ
ルベキ」と、女院自ら硯を引き寄せて返事を遣った。
ただたのめ細谷川の丸木橋ふみ返しては落つる習ひぞ
こうまで女院の仲立ちがあっては、小宰相も「力及バデ終ニ靡」いた。傍 目もまばゆい仲の好さで、もとより通盛が通いつめた。日ごろを経て、それほどの小宰相から一時通盛は他の女に心をうつし、「カレカレニ成」ったが、小宰相 はこんな歌を通盛に送った。
呉竹の本は逢夜も近かりき末こそ節は遠ざかりけれ
竹は、根元ほど節(よ)から節が短くて、末になると広がるのを、通盛と
の「逢夜」から「逢夜」の長さに巧みに譬え、優しく恨んでいる。「モトヨリ悪シカラザリケル仲ナレバ、通盛」は小宰相のこの歌に愛で、また「互ヒニ志浅カ
ラズシテ年ゴロニモ」なっていた。。
正室在る通盛と小宰相とは、世間には「仮初ノ」仲と見られていたから、「一ツ
御船ニハ住ミ給ハデ別ノ舟ニ宿シ置キ奉リ、三年ノ程波ノ上ニ漂ヒ、時々事ヲ問ヒ給ヘリ。中々情ゾ深カリケル」と平家物語は伝えている。一人の「妾」への記
述に敬語が頻繁に用いられているのは、小宰相には同情や称賛が集っていたのであろう。そして通盛最期の前夜にも、男は女を陣屋に呼び寄せ、尽きぬあわれを
夜をこめて交し合い、ついには弟能登殿に窘められている。ようやく通盛も、「今コソ最後ト知給へ」と覚悟も堅く、小宰相を舟に返し送って、自らは急ぎ「物
具シテ」戦陣に備えたのであった。
一の谷の合戦は、だが、平家散々の負け軍に終わった。弱冠十六の敦盛の「討た
れ」に象徴されるように、まさに「一の谷のいくさ敗れ 討たれし平家の公達あはれ」であった。重衡は捕えられ、大将軍の忠度や通盛や、また若い敦盛や知章
らが次々に討ち取られた。知盛は愛する子を身代わりにかつがつ沖の船に逃げもどり、ふがいなさに号泣した。
通盛が弟能登守と赴いていた戦場は、山の手であった。「此ノ山ノ手ト申スハ一
谷ノ後、鵯越ノ麓ナリ」というから、逆落としに源氏の義経に攻め落とされたのである。あそこに討たれここに討たれ、通盛も、多くいた従者はみな散り散り
に、身一人となって落ち延びて行くのを、源氏の兵も「追懸」けていた。そして運も尽きたか通盛は、「馬ヲ逆マニ倒シテ首ヘ抜ケテゾ」落馬してしまう。後ろ
からは児玉党の七騎が追い、そこでは「近江国佐々木荘ノ住人」源三成綱が落ち合うて、落馬の通盛にむずと組み付いた。
三位通盛は、だが忽ち上になり、佐々木を組み敷いた。佐々木は撥ね返そう返そうとしたが通盛は力勝りの人で、押さえ込んで佐々木に働かせず、刀を抜いて源
三の頚を掻こうとした。ところが「掻ケドモ掻ケドモ」頚が落ちない。見ると鞘のまま斬りつけていた。
この際どいところで佐々木は、この敵が、かつて主筋であった越前三位通盛卿で
あると気づいて、「成綱叶ハジト思ヒケレバ、下ニ臥ナガラ誰ヤラント思奉リ候ヘバ君ニテ渡ラセ給ヒケリ。知リ参ラセテ候ハンニハ、イカデカ近ク参リ寄ルベ
ケン。年ゴロ平家ニ奉公ノ身ナレバ御方ヘコソ参ルベキニテ侍リツルニ、心ナラズ親シム者ドモニスカシ下ラレテ、今戦場ニ馳セ向ケラレタリ。イヅレノ御方モ
オロソカノ御事ハ候ハネドモ、殊ニ見馴レ参ラセテ御懐シク思ヒ奉ル。只今カク組マレ参ラセヌルコトヨ。同ジクハ人手ニ懸カリナンヨリ嬉シクコソ」などと言
い掛けた。宇治川の高綱といい、藤戸の盛綱といい、この成綱もしかり、佐々木一族の口のうまさよ、後には佐々木道誉のようなバサラも現われる。
通盛は、一瞬ためらってしまった、その隙に下の成綱は、兜の隙間へ抜いた刀を
二度まで深く刺し入れた。「刺シテ弱リ給ヒケルヲ、力ヲ入レテ跳ネ返シ、起シモ立テズ、ヤガテ三位ノ頚ヲ取ル。」覚悟の上とはいえ、通盛はあわれここで命
絶えた。
源三もひどい手負いで、通盛の刀を見ると、鞘尻の二寸ほどが砕け、刀の峰が二
寸ほど源三の首を切りつけていた。「源三成綱ハ左手ニテ頚ササヘ、右ノ手ニ首ヲ捧ゲテ陣ニ帰ル。ユユシクゾ見エタリケル」と異本の一つは書き、また別の本
は、佐々木の獲た通盛の頚を、梶原景時が横取りしようとした凄まじい話も書いてある。さまざまな位相で見聞や伝聞が入り混じり、いろんな本を生んでいるの
だが、小宰相のもとへ、通盛最期をこまかに伝えたという通盛家来の一人は、いったい、組打ちの時にどこにいて、どのように主の討たれるのを見届けていたの
かと、小説家は、そういうところに興味を感じてしまう。
ともあれ夫通盛の死を告げられた小宰相は、男の子を身に宿したまま、悲歎の余
りに沖波の底の藻屑と身を投げ果ててしまうのである。わたしが初めて平曲の語りを聴いたのはこの「小宰相」入水の一句であった。今日、平曲の正統を語れる
事実上只一人ともいえる橋本敏江の演奏だったが、震えるほどの感動があった。
ありそうで少ないのが男の跡を慕って女も死ぬということで、逆に男のほうに、
それが有る。平家物語でも小宰相はわたしの記憶する限り唯一の例であり、よほどの感銘を与えたのではないか。信じられないと思った人も、死なせたくないと
願った人も多かったのではないか。小宰相は死ななかった、壇ノ浦から安徳天皇を奉じて山陰の海づたいに逃れた、一行を率いていたのは門脇中納言教盛だった
と伝説が実在している。教盛は通盛や教経の父であり、小宰相には舅に当たっている。
千手 ─目もあてられぬ気色かな─
いい能で、いつ観てもふと涙ぐむ。重衡は平家の公達のなかで、花なら
「牡丹」と譬えられていた。しかも罪深い南都焼討ちを敢えてした張本人であり、国家的な大罪人であった。おごる平家の代表者とまで言う気はないが、南都を
焼き払ったのにも、余儀ない一門の強要があったからというより、また当人が頼朝に弁明していた不慮の成行きなどというより、図に乗って自ら奈良の大寺憎し
と踏み込んだ向意気の強さは、否めまい。そういう重衡であった、跳ね返ったとも出過ぎたとも言わば言えた。そういうし重衡にくらべれば、同じなら能登殿教
経のような、源氏の義経を追いかけ追いつめ、最後は颯爽と自決して果てた敢闘の勇者の方が、誰の思いにもはるかに好ましかったろう。
平家物語はおもしろい。そういう罪業深重の平重衡を、それが「けじめ」で「は
からい」でもあったとばかり、数ある公達のなかでいちはやく源氏の手に捕縛させた。みじめに都へ追い上げ、厳しい恥をみせつけた。だが、さてその後はとい
うと、最期の間際まで、哀切きわまって譬えようもないもの哀れな幾場面を重衡に演じさせて、これぞ平家物語と言わんばかりに情深い物語を優に繰り広げるの
である。
囚われる以前の重衡の書き方と、囚われてからの重衡に対する平家物語の静かに
優しい扱い方には、まるで視線の当て方がちがっている。別人の観がある。おそらく、重衡その人の打って変わりようもさりながら、実際に重衡を観察していた
眼の持ち主も、微妙に、前後交代しているのではないか。驕る平家の重衡を見ていた白い眼と、囚われて後の重衡を見ていた温情の眼とは、別の人ないし別集団
のものであった。考えれば、当たり前のことであった。
平家物語とは、まさにそのような複眼による複雑で微妙な所産であった筈だ。わ
たしは、いつも後段の重衡を叙した筆にも語りにも、何ともいえぬ感謝に似た嬉しいものを覚えて読んだ。なぜこうもと訝しいほど、重衡の、京から鎌倉へ、そ
して最期の奈良南都に至るまでが、いかにも心優しく扱われていて、いわば重衡物語とも纏めて読めるほど結構の宜しさと良質な表現とに満ちている。おそらく
は、影のように付き添うて重衡最期の物語を専ら語り伝えた存在が、愛情深き存在が、前半部とは別に実在したのであろう、例えば重衡没後の、千手の前、伊王
の前のような。わたしは、そう思っている。
能の「千手」も、平家物語の哀調を湛えた心のぬくもりを素直に踏襲し、しみじ
みと美しい鬘能になっている。まるで流謫の光源氏のように罪科深重の重衡がそこにいる。そんなように創ってある。
ところで、である。
能の「千手」は、最後にいたり、「何なかなかの憂き契り。はやきぬぎぬに。引
き離るる袖と袖との露涙」とある。男女に実事ありきという表現である。二人はともに寝たと理解してある。その上で、それゆえに、美貌の千手と後朝の心も露
けく引き放たれた「重衡の有様、目もあてられぬ気色かな、目もあてられぬ気色かな」という異彩を放つトメに入る。勘ぐれば、このような情緒纏綿の生き別れ
の悲しみのほうが、やがて訪れ来るの南都奈良坂での怨みを負うた刑死よりも更に辛かったろうとすることで、重衡のためにも大方の世人のためにも、悲惨の色
合いを峻烈から優情へとそっと転調させた趣をすら、「千手」という能は感じさせてくれる。ありがたい、功徳供養の能である。
だが「能むと違い「平家物語」には、重衡と千手の前とは寝ていない、性的な関
係はついに無かったのだとする、かなり強硬な意思が働いていて、これがまた、重衡に死なれ先立たれた千手や、身辺の者たちの意向を反映しているようで興深
い。面白い。「寝た」といい「寝ぬ」という。どちらも「あはれ」に趣深く、しかもわたしは、平家物語の諸本が多くにじませている、「寝ぬ」説を、殊に捨て
果てるに忍びない。
覚一本を読み返すと、ほんとうに、これは善い整理の行き届いた本だと、台本だ
と感嘆する。と同時に、その簡潔で要領をえた叙事の、もう少し、もう一寸、そこは、ここはと知りたがる聞きたがる向きへ親切過ぎて委細を尽くして行く尾鰭
の面白さというものが他の詳しい本には満載されている。苦笑いしてしまうことも多いが、凡俗の読者としては面白くないなどとは言えない。うんうんと頷いて
読んでしまう。
こと「千手」に関して、そんな平家物語の簡潔派も詳細派も「寝た」「寝ぬ」に
関しては、まずは一致で「寝ぬ」に思いも声も揃えている。能とは違っている。こだわるようだが、まだ心身ともに幼かった昔に初めて読み、また若い盛りに初
めて能「千手」を観て、あの二人は、どやったんゃ、寝た、ちがうのとちがうやろか。寝ん。ほんまかいな。愛好者には申し訳ないが、気になった。気になるだ
けでなく、大事な見どころに思われた。比較になるのは、だが、当時は例の覚一本と、謡曲「千手」の稽古本としか手元に無かった。
重衡は、囚われのまま鎌倉に送られて頼朝に見参した。一通りの応対で重衡も
けっして臆してはいなかった。ただ出家することは許さなかった。いつかは南都の手に引き渡して処断を委ねざるを得ない。頼朝は重衡の身柄を狩野介宗茂に預
け、「相構へてよくよく慰め参らせよ」と命じている。宗茂も情けある武士で、気を配って種々もてなそうとするのだが、千手の前ほどの美女、それも頼朝の意
をうけて湯殿の世話にまで訪れてくる女をも、快くは受け入れる気になれない。
古来湯殿の女は、すなわちそこで性的に奉仕する女でもあったことは、神々しき
民俗としても一の伝統であった。湯巻はそのまま一時の褥ともなったのである。頼朝はそのために寵愛さえしていた千手を送り入れ、「何事でも思召さん御事を
ば、承はて、申せ」報告せよと命じていたのだし、狩野介も言葉を添えていた。実は頼朝は、重衡の望みを聞いて報せよと言っていたのではなかった。男女の仲
にもしなれば正直に申せと、いささか男臭い下がかった興味をもっていたことが、語り本などで分かる。だが、千手の言葉から重衡は率直に出家させて欲しいと
答え、いわば頼朝の覗き趣味をかわしたのだった。むろん、本音だったろう、そんな本音の重衡は、千手がどういう女かと宗茂に聞いているほどの興味こそあ
れ、湯殿でも女には我から肌は触れなかったのである。
今度は、酒と音楽で千手と宗茂は重衡を慰めようとした。これにも重衡は「いと
興なげに」少し杯を傾けるだけであった。行儀のいい覚一本にさえ、これも頼朝のはからいで、彼は重衡の音楽の才を聴き知りたさに立ち聞きの挙に出ていたこ
とを明かしている。他の本ではもっと露骨にそれを面白おかしく言い囃している。
重衡は知るや知らずや容易に興に乗ってこないのを、千手は懸命に手をかえ品を
尽くす。先ず菅公が配所にいた頃の詩句を一両返、しみじみと朗詠したのが巧みな誘導であった。「手越の長者が娘」千手は、さすが「眉目形、心ざま優に」す
ぐれた才媛であった。詩句は菅原道真の自信作で、これを朗詠する人を心にかけて守護したいとまで言い遺していた。重衡は初めて、自分は菅公と同じくこの世
では捨てられた存在、千手に和してその詩句を朗詠しても詮無いこと、もしも「罪障軽みぬべき事」ならば声を添えるのだがと述懐した。千手はすかさず「十悪
といへども引摂す」と西方教主の弘誓本願を朗詠して、さらに「極楽願はん人は、皆弥陀の名号唱ふべし」と繰り返し繰り返し心こめて唄い澄ました。重衡
は静かに盃を傾けて千手の情けに感動を隠さなかった。重衡が宗茂と酌み交わして
いるうちにも千手は琴を持ち出し、重衡が得手の、頼朝がものかげで期待している琵琶をそれとなく薦めた。千手が琴をかき鳴らすと、それは「五常楽」という
曲だが、いまわたしには「後生楽」と聞こえて有りがたいと重衡はあわれをは催し、されば「往生の急」ならんことわ願おうよと遂に琵琶を手にして「皇 」と
いう秘曲の急つまりお仕舞いの方をみごとに演奏した。
夜やうやう更けて、萬づ心の澄むままに重衡は、「あら思はずや、吾妻にも是程
優なる人の有けるよ。何事にても今一声」と所望すれば千手の前また、「一樹の陰に宿り合ひ、同じ流を掬ぶも、皆是前世の契」と云ふ白拍子を、歌いかつ舞っ
た。言うこと為すことソツがない。ただの挨拶とは思われぬ情け深さに重衡は涙ぐんで、「燈暗うしては数行虞氏の涙」と朗詠した。四面楚歌のさなかに皇帝項
羽の虞后に別れるのを悲しんだ詩句であった。そのうちに夜も明けた。「武士ども暇申して罷り出づ。千手の前も帰にけり」とある。
覚一本はおとなしいが、頼朝は千手のためによい仲人を自分はしてやっぞと千手
をからかい、千手は顔を赤くしてほんとうに何事もなかったことをしきりに言う。
二人の会うのは一夜ではなかったから、男も女も情けの前に得堪えかねたであろ
うけれど、ガンとして千手は寝ぬといい、同じく送り込まれた伊王の前という女も、重衡は共寝はしなかったと言い張るのだった。
いずれにしても別れの日は来た。重衡は奈良で無惨に死に果て、千手も伊王もと
もにてを携え、強いて頼朝のゆるしを得て尼になり重衡の菩提を願う日々を過ごしたのである。「寝て」の哀れよりも、ついに「寝なかった」男に殉じた千手ら
の哀れに、惹かれる。
藤戸 ─思へば三途の瀬踏なり─
一の谷と八島とに挟まれ、平家物語のなかでの児島合戦は、引き沈んだ窪みのよ
うにあまり思い出されることがない。一の谷を追われた平家は四国讃岐の屋島に陣を張り、安徳天皇と三種神器を奉じて正統の朝廷であることを誇示していた。
これは京都の後白河院にも、その支持で即位しようとする後鳥羽天皇の周囲でも悩みの種であった。安徳天皇のことはまだしも三種神器は是が非でも奪回しない
では済まない、至上の課題であり難題であった。源氏に対する平氏討つべしの至上命令も、言い換えれば鏡と玉璽と剣とを無事に是非に都へ戻し奉れとのいみで
あった。神器を身に負う事なくして即位した、後鳥羽天皇は史上に例をほとんど見ない天子たらざるを得なかったのである。
そしてこの頃の平家は、あわよくば都を窺いうるかと思われる勢いを徐に蓄えて
いたとも、言えば言えた。ひとつの現れとして平家は西から山陽道をもほぼ制圧しながら、屋島からは瀬戸内海を隔てた対岸備前の国の児島に一根拠を構えて、
西下してくる源氏に対抗していた。さりとても、児島は海上に浮かぶ一つの島にすぎない。源氏は頼朝の弟範頼を大将に藤戸の渡しまで迫っていた。言うまでも
ないが頼朝湯のもう一人の弟義経は屋島の背後を衝こうと嵐をおかして阿波国へめざしていた。
児島へ二千余艘もの船で押し渡っていた左馬頭平行盛らの平家方は、結果から言
うと呆気なく源氏の軍勢に攻め込まれて、あたふたとまた船で屋島に逃げ戻って行った。源氏の大勝利には奇襲が何度もあるが、児島攻めもまた平家にはまさか
と思われた海を馬で渡るという稀有の奇襲であった。佐々木三郎盛綱の大手柄であった。
ことわっておきたい、わたしは、いわゆる「藤戸」のことは好きでない。初めて
文庫本で読んだときも、能の「藤戸」を観たときも、いやな話だと思った。歌舞伎の「青海源氏先陣館」で盛綱を観ても、歌舞伎にはそれなりの趣向があり面白
くも哀れにも出来ているとして、それでも能の、また平家物語覚一本の印象によほど妨げられていた。
盛綱は、あの宇治川の先陣を切った佐々木四郎高綱の兄であり、藤戸の馬の渡し
では高綱のあの手柄を凌ぐほどの絶賛をあびまた重い恩賞にも与ったのであるが、それほどの大功名を授けてくれた藤戸の土地の男を、口封じに無残に斬って捨
てていた。わたしは、そういう盛綱にいつまでも拘った。不快で仕方なかった。
不快に感じたあ人がいたからであろう、能の作者は「藤戸」を作った。能の中で
もなお盛綱は男を殺された怨みを告げてきた女にむかい、一度は事実を否認し、その上で殺したことを認めている。そんな盛綱の追悼をうけて、怨みゆえに悪道
に落ちていた男の幽霊は盛綱をゆるし追悼を謝してまた冥土に沈んで行くのであるが、さほどはわたしの心地は良くは改まらないのである。
武士であるから、源氏の兵たちが、功名手柄に目の色を変えるのは、ま、仕方が
ない。その点、平家の方には、そういう武士がもともと数すくない。名を重んじる点は源平変わりはないとして、源氏には、佐々木も熊谷も梶原も畠山もみな個
人プレーの抜け駆けや駆け引きに精魂を用いている。平家の侍は、もともとの侍の意義である、地にひざまづいて主君の命に信義を尽くす。どっちかどっちとい
う事は言わないけれど、手柄のためなら他を出し抜いてもというのは、あの高綱の「腹帯が緩んでいるぞ」と先駆する梶原をたぶらかしたのなども、あの場合は
まだからっとしていて幾らか笑って見過ごしていたが、盛綱のようにそのために無辜の人を殺めてまで手柄をという、手のこんだ知恵の働かせ方は、わる智恵と
しか言いようがない。平家物語の諸本を調べて行くと、たしかに「手のこんだ」やり方を盛綱はしている。事実、したかどうかは、確かめられないが、そういう
風にいわば表現されてしまう盛綱のいらしさが「批評」「批判」されていたのだと受け取れば、分かる気がする。
児島と藤戸とは指呼の間とは言え間は瀬の早い海原であった。川ならば高綱景時
の宇治川のためしもあるが、海は馬では渡せない。軍船の数でも平家は源氏を圧していたから、こういうところが後に那須与一の例もあり平氏のへんにしどけな
いところだが、図に乗って舟を漕ぎ出して源氏に向かい「ここまでおいで」をやってしまった。源氏は悔しいだけでなく、無為に日々を過ごさねばならなくて二
重にいらいらしていた。だが馬で海は渡れない。
佐々木盛綱はなにがな手立ての無いことがあろうか、平家がああも招くのは「渡
す淵瀬」の在るのを知っていてからかうのではないかと、夜分汀に出てしみじみ思案のあげく「浦人」の一人にふと白鞘巻を遣り、意を迎えて、「ヤ、殿」と語
らい寄ったのである。この呼びかけが憎い。気色がわるい。礼ははずむ、向こうの島に渡す瀬はないか「教ヘ給ヘ」といと懇ろに頭を下げた。
高綱の名誉にかかるところゆえ私も慎重に断っておくと、藤戸の高綱について
は、実は浦人を口封じに殺してしまう筋書きと、殺すことになどちっとも触れていない筋書きとが相半ばしているのである。殺さなかったのなら、後味はわるく
ない。ただの功名譚でありなかなかのものだと思う。世人にはここでも「殺した」「殺さぬ」の相反する立場から盛綱の高名を是非したとみえ、仲間内の武士の
嫉妬心が働いて由無い抽象をう分に任せて腹癒せしたのかも知れない。途方もない競争の社会であったし、人の功を盗んででもという恩賞や名誉心は露骨なほど
の武士たちであった。殺していない方を紹介しよう。
浦人答ヘテ云フ。瀬ハ二ツ候。月頭ニハ東ガ瀬ニナリ候、是ヲバ大根渡ト
申ス。月尻ニ
ハ西ガ瀬ニ成候、是ヲバ藤戸ノ渡ト申ス。当時ハ西コソ瀬ニテ候ヘ。東西ノ瀬ノ
間ハ二
町バカリ、ソノ瀬ノ広サハ二段ハ侍ラン。ソノ内一所ハ深ク候ト云ヒケレバ、佐
々木重
ネテ、浅サ深サヲバイカデカ知ルベキト問ヘバ、浦人、浅キ所ハ浪ノ音高ク侍ル
ト申ス。
サラバ和殿ヲ深ク憑ム也。盛綱ヲ具シテ瀬踏シテ見セ給ヘト懇ロニ語リケレバ、
彼ノ男
裸ニナリ先ニ立チテ佐々木ヲ具シテ渡リケリ。膝ニ立ツ所モアリ、腰ニ立ツ所モ
アリ、
脇ニ立ツ所モアリ。深キ所ト覚ユルハ鬢鬚ヲヌラス。誠ニ中二段バカリゾ深カリ
ケル。
向ノ島ヘハ浅ク候也ト申シテソレヨリ返ル。
佐々木陸ニ上ツテ申シケルハ、ヤ殿、暗サハ闇シ、海ノ中ニテハアリ、明日先陣
ヲ懸ケ
バヤト思フニ、如何シテ只今ノトヲリヲバ知ルベキ。然ルベクハ和殿人にアヤメ
ラレヌ
程ニ澪注ヲ立テ得サセヨトテ、又直垂ヲ一具タビタリケレバ、浦人カカル幸ヒニ
アハズ
ト悦ビテ、小竹ヲ切集メテ、水ノ面ヨリチト引入レテ立テ、帰テカクト申ス。佐
々木悦
ビテ、明ルヲ遅シト待つ。平家是ヲバイカデカ知ルベキナレバ、二十六日辰刻
ニ、平家
ノ陣ヨリ又扇ヲ挙ゲテゾ招イタル。
この記事の通りならば佐々木は先陣を懸けんためと浦人に告げていて、し
かも男の頚を掻き切るような真似はしていない。事実はこうであった可能性が高く、殺したと言い触らしたのはまんまと先陣を目と鼻の前で派手に演じられた
「土肥梶原千葉畠山」の連中であったやも知れない、それは考えられる。しかし、「下臈ハこともなき者ニテ、又人ニモ語ラハレテ案内モヤ教ヘンズラン。我ガ
計コソ知ルラメトテ、カノ男ヲ差殺シ、頚掻切テゾ捨テテケル」とも、「思フヤウ、明日ハココヲ盛綱ガ先陣渡サンズルニ、下臈ノニクサニハ又人ニヤ知ラセン
ズラント思ヒケルカ。ヤ殿、コナタヘヨレトテ、物云ハンズル様ニテ、取テ引寄セ頚カキ切テステテケリ」とも、明記した本も多い。盛綱の家来が主の意を受け
て「六十有余」の夫婦者から教わってきたという本もあるし、土肥の郎党にも佐々木の先陣を察して主に告げていた者もあった。
もっと手のこんだ話もあり、面白い。何としても佐々木は先陣の秘密も知られま
い、それと疑われたくもないと、わざと梶原の目の前で無謀に言挙げしてみせ、いきなりざっと海に馳せ入れてすごすごと引き返す芝居までしている。これを見
た梶原以下の面々は、「山ヲ落シ河ヲ渡スノ例アリトイヘドモ、大海ヲ渡ス、思ヒ寄ラズ思ヒ寄ラズ」と大笑いし、盛綱は「人々を謀リオホセテ」おいて、ひそ
かに我が手の者共に「約束シテ、一度ニ打出テ、カノ浦人を先立テテ渡リケルニ」と、この本では殺した筈の男がちゃんと途中まで間違いのない案内役を勤め、
いいところへ行きつくと、あとは「島ノ方ヘハ浅ク候ト教ヘ捨テテゾ帰リケル」と書いてある。なかなか男もサル者と見てよく、こういうものが軍場にはきっと
いて、取りたてられてひとかどの武士になったりしたのではないか、義経に道案内をう勤めた鷲津だか鷲尾たかもまさにその例であった。
能「藤戸」の作者は「殺した」という立場から舞台を創作している。それも一曲
であったが、わたしは、「殺す」盛綱を好かないことは最初に言った。「殺さなく」ても、なんとなくわたしは弟四郎高綱の先陣ほどは、兄三郎盛綱の功名を喜
ばない。
八島 ─源平互に矢先を揃へ─
屋島と謡本にもある、題だけが「八島」のようで、この文字センスが好ま
しい。実の地名から、創造の世界へのりかえるはからいが利いている。らちもないが、そんなことを思いながらこの能は観てきた。これは平家物語の能としては
珍しい「勝ち修羅」と謂ってよかろうか、九郎義経への賛歌である。哀れよりも勇壮な合戦の幾場面をも彷彿とさせる。
屋島壇ノ浦と続けていうぐらい、平家にとっては滅亡へ一続きの悲壮な負け戦で
あった、義経の働きが目立った。義経の働きはいわゆる政治的ではない、軍事の智謀において本能的に優れていた。屋島の背後を襲って平家をまたしても海の上
へ追い立てたのが、結果的に壇ノ浦の決戦に結びついた。脚が地につかなかった平家は、海戦に長じていた筈なのに戦機に見放された。勝ち運を招いて効果抜群
なところが源義経の横溢の魅力であった。
むろん義経も義仲もわたしは愛した。そのぶん頼朝はうとましく、その政治力の
抜群なところまでうとましいと思った。それは京都生まれ京都育ちの人間の鎌倉幕府に親愛感をもちにくい感情と結びついていた。少年というのは、そういうふ
うにも古典を読むのである。それは大人になっても完全には払拭されないのである。
継信最期、那須与一、錏引、弓流、と、見所に飽かせない屋島合戦であったが、
とりわけて誰にも印象の残るのが扇の的をはるかに射抜いて見せた那須与一の遠矢の冴えであった。なぜか能の「八島」にこの話が出ない。狂言の替間で「那
須」の与一の語りを聴かせてもらえるとこの能は満点のサービスになると思い、自分の小説の『八島』では気ままにそのように書いてみた。わたしの頭の中で
は、以来、能「八島」のアイは「那須」と決めてしまっている。それほど、あれは気分のいい狂言語りの名作である。
それはもう余談というよりないが、余談のままもう少し話したい先がある。その
短編小説『八島』では妙な家庭に出くわす。京都の街なかの、ま、骨董屋で苗字が「平内」という。通りすがりにひょんな間違いから店に入って品物を買うはめ
になり、店の主人と話しているうちに、変なことを聞くのである。あの那須与一に扇を射抜かれたあと、ほめそやす体にまた平家方から武者が出て舟の上で舞い
遊んで見せた、のを、あれも射て落とせと命じられ、与一は容赦なく「しや頸の骨をひやうふつと射て船底へまさかさまに射倒し」た。「あ、射たり」と言う者
もいたし、「情なし」と言う者もいた。骨董屋の「平内」さんはその情けなく殺された武者の子孫だというのである。
京都という街はその程度の内懐の底知れないものはもっていて、あながち、荒唐
無稽には思われないのでわたしは書いたのであるが、これにまた、小説ならぬ現実のおもしろい後日談があった。
殺された武士は平家の名将知盛の乳兄弟であったといわれる伊賀平内左衛門家長
の弟で、十郎兵衛家員であった。どうも平家にはこの手の挑発行動がめだち、それが因となって源氏を勢いづかせてしまうことがまま有った。児島の陣を藤戸の
渡しを馬で駆けられて敗走したのもそれであった。十郎兵衛のは無惨なほどの犬死にであり、「情なし」の声には必ずしも射た与一だけを責めてはいないだろ
う。わたしはこの男にひそかに久しく興味を抱いていた。どういう奴なんや。あんな死に様では後に残った身寄りのものが、どんなに肩身も狭う、泣き嘆いたや
ら。むろんそういう男にも妻子がいたであろう、ああいう男の子孫ほど、えてして、ひっそりと巷の波間に身を沈めたまま、まことほそぼそと世に永らえて幾世
代もを生き続けているのではないか。八百年後にもなお京のような懐深い町なかに、ひょっとして十郎兵衛家員が最期の鎧や薙刀を無念の家の宝に秘蔵しなが
ら、代々子孫の家系が意外な家業と家族とで、めずらかに暮らしていたりはせぬものか、と、まあ、そんな想像から私の小説『八島』は出来たのだった。
ところへ、同じように思った人が小説の読者にいて、その「平内」という家は、
必ずや我が親族に当たると思われるので、どうか仲介の労を願いたいと丁重な舞い込んだからわたしは呆気にとられた。手紙の差し出しが、冗談ではないらし
い、きちんと活字印刷した「伊賀平内左衛門」さんだったから、仰天したのである。娘さんが明石のほうに嫁がれていて、たまたま掲載号を読まれ、すぐ父上に
連絡されたらしい。
で、ご当人のお手紙にいわく、自分はまぎれもない「伊賀平内左衛門家長」直接
の子孫であり、自分たちの現に暮らしているあたりは、かつて陸の孤島といわれた日本海に臨んだ秘境で、かしこくも安徳天皇を奉じて門脇中納言教盛はじめ与
党の多くがこの地にのがれ住み、由緒正しい遺跡は今でもたくさん残っています、ぜひぜひお訪ね下さいと、兵庫県城崎郡の正確な現存の地名が、現住所として
封書の裏に印刷されていた。
氏によれば、「門脇宰相教盛、伊賀平内左衛門家長らの一隊は御座船を護って虎
口を脱し、幼帝安徳を奉じ日本海岸沿いに東進、ひとまず鳥取付近に上陸して戦塵を洗い、態勢を整えて更に東進を続け、但馬の国御崎の海岸にたどり着」い
た。地形的にも、三百メートルの断崖絶壁の下は眺望のひらけた荒海で、「陸からの探索も容易でない」という。嬉しいことに、おっと通盛の戦死のあとを追い
入水死したはずの小宰相局も生きながらえこの地にあって、安徳帝のお世話をしていたとか。寿永の平内左衛門らはその帝を守護してもっと奥地に深く隠れ住
み、昭和平成の平内左衛門氏もまたその香住町畑に住み着かれて年久しいのである。
要は数ある落人なごりの地の一つであるらしいが、眉に唾どころか、こういう事
は、すぐ、心からよろこんで信じたくなるタチのわたしは、勝手な想像で伊賀さんに迷惑をかけたこともけろりと忘れて、さあ行ってみたい行ってみたいは山々
なのだが、なかなか、東京という街は人を釘づけにして動かせてくれぬ。だが、この世間には実にこのような出逢いがまだ遺されているのだった。
屋島の戦は平家にも勝ち味があった。屋島の内裏の背後へまわりこんできた義経
らの先陣は想像以上に小勢であった。だが、火を放って平家を心理的に脅かし、平家は幼い帝や総大将の宗盛らを夥しい軍船に乗せて沖へ退かせ、教経ら強豪が
内裏にこもって、陸と海で源氏を迎えたのである。一気に源氏を囲んで行けば勝敗は平家に利有りと、源氏の大将義経のほうが先に呼んで、館に一時に火をかけ
させ、向かい風に煽られて難なく内裏も焼け落ちてしまった。仕方なく多くの陸の平家も船にのがれ、口合戦や矢合わせがしききりに為されたものの戦機は一時
膠着した。その時だった、美しい女をのせた小舟が、棹の先に皆紅の日輪をくっきりと描いた扇をたてて、源氏に、射よと誘ったのは。
どうしてこんなことをしたのだろうと、一度は誰もがいぶかしみ、戦陣の遊び心
かと思って詮索もしない。覚一本など普通に読める本にはなにも書いてない。
だが諸本のうちには、そういう痒いところへちゃんと手を届かせたものがあり、
あそうかと頷けることも多い。源氏を差し招いた美女が、名は玉虫といい建礼門院に仕えたすばらしい美女であったことも、本によれば後日に那須与一に与えら
れたとも、二人はもとから知己の仲であったなどとも、だんだんに怪しげなことも出てくる。だが、それよりも扇の的のことが問題であり、これは勝敗を占う平
家としては祈願のこもった賭けであったらしい。扇はもともと厳島に奉納された由来正しい宝物の一種であった。それをわざわざ的にしたのは、もし源氏が射損
じたなら平家が勝ち、射落とされれば源氏が勝つと、運勢を見ようとしたのだ。ばかばかしいと感じるのは現代の感覚であり、こういうことは類似の例が戦の前
によくなされる。紅白の鶏を蹴合わせたりして占ったり、言葉合戦をしたり、遠矢を競ったりするのも似た話なのである。言葉合戦などは、アイヌがよくした
チャーラケという口争いとも繋がっているだろう、中途半端に終わるのを半チャラケというのも、そうなのだろうわたしは想っている。平家はまさか射落とせま
いと風波の季節にも頼む気持ちがあったろうが、那須与一の祈願の力が勝った。与一にしても、なにも、只の射藝を披露したのではなく、源平の戦を左右する賭
けに勝ったのであった。玉虫を貰いうけるぐらいは当然であった。
よく読めば分かるが、この手の占いや賭けの競いに、源氏は悉く平家を圧倒して
いたと言える。都落ちして行く公達の誰もが、二度と都には戻れまいと諦念を抱いていた運命のほどが、なにかにつけ露表していたところにも平家物語の哀れが
ある。
義経についていえば能の「八島」では弓流が感動的に取り上げられている。源氏
の大将の名を惜しんで、誇るにたるとはいえない取り落とした弓を、危険を敢えてしても敵に渡さなかったという話だが、小さい頃からそんなには感動しては読
まなかった。八艘飛びというのも義経を装飾する話題だが、わたしは、義経を追いかけまわした平家の教経の方がよほど印象にも残り感銘深かった。『源義経』
という大河ドラマで、一等美しかった頃の菊五郎が義経を、尾形謙が弁慶を演じたときの、教経役はすばらしくカッコよかった。燃え熾る火の柱のようだった。
俳優の顔はよく憶えているのに名前は忘れてしまった。
正尊 ─鞍馬は判官の故山なり─
まずは歌舞伎の二幕物にちかいにぎやかな現世能で、楽しもうと思えばそれなり
に楽しめる。こまやかなものではなく、部外者の新作能かと見ればそのような才気も粗さもあり面白い。
早くに、土佐坊「正俊」と名を覚えていたので、「正尊」の名に、なかなか馴染
めなかった。どっちかが間違い。いやいやどっちも間違っているかも知れない、「昌俊」「性俊」などと書いた本もあるのである。
こんなことは、浩瀚にして奔放な異本の集合体である平家物語では少しも珍しい
ことではない。一人の同人物とおぼしき者が、本によって三人四人分の紛らわしい別の名前、別の表記で現れる。音での聞き違いもあれば、漢字表記のあてずっ
ぽうもすさまじく、自然の成り行きである。又聞きの又聞きを、時間と距離をおいていろんな人たちが話にして行けば、自然そうなる。今日の我々にしても、人
の名を耳に聞いて、正確に漢字に換えられる人はいないと言うほうが正しかろう。また漢字で書かれた氏名が正しく読めないこともままある。「角田」と書く苗
字の、早稲田出の教え子が作家になっているが、「かどた」「つのだ」「すみた」「かくた」のどれで呼ぶか、たとえ読み当ててもそれは、知っているからか、
あてずっぽうでしかない。この点では我々の国には、ひらがなはともかく、正書法も正字法も無いに等しいのが、実情である。「しょうしゅん」と聞いた者が、
正俊とあて、「しょうそん」と聞こえた人は正尊とあてた、のかも知れない。
平家物語と限りはしないが、ことにこの「本」では、いろいろに書かれてあるど
れが本当やら判然とは分からない按配で、聞きこんだ面白い話にさらに潤色が加わったり、過剰に趣向されたりする。巷談とはそんなものである。
そんな頼りないものかと嘆くのも、だが、どんなものか。
こと事実というものに、どこまでの裏づけが可能だろうか。今日のように情報収
集に精度高げなマスコミですら、突き合わせて吟味するとすいぶんマチマチなことを書いたり伝えたりしている。同時代の資料こそ歴史的には一等資料などと、
そんな簡単なことは言ってもらっては困るのであり、何百年もしてやっと真相らしきものが見えてきたということは、現に在る。
それに、事実とは、そんなに価値高いものかどうかという、かなり難儀な本質論
も考慮しなければならない。「かく在りし」と正確に言い難い事のほうが圧倒的に多い以上、むしろ「かく在るべかりし」記述を通して真相を示唆しなければな
らぬとも言える。正史をすら不充分だとして、狂言綺語に類した物語の叙事に重きをあえて置いた紫式部の思想は、けっして今日まで軽んじられたことは無い。
事実事実とそれのみの追求により真実の妙味を取り落としてしまっている味気ない小説もけっこう数在る。平家物語を「事実」として信頼しきれないといって、
その感銘深い表現を拒絶していたなら、大きな損失をわが身に蒙るだけである。昌俊かもしれず正尊かもしれなくても、それを超えた奥や深みへ思いの届いて行
くことを「表現」は命にしている。
土佐房という人物は、魅力も乏しく、肌触りのざらついた面白くもない男で、例
えば鹿谷の事件で捕らえられても清盛を面罵して退かなかった西光法師のようにすかっとしたところがない。「あはれ」という美的要素のしずくも無い男に造形
されていて、際立って弁慶や義経が良く見える仕掛けを担っている。
彼らが出会うのは、もう壇ノ浦で平家が滅亡後になる。義経が悲劇的に兄頼朝の
忌避に遭い追討の手に追われ始めるときに当たっている。それはまた源氏の頼朝の鎌倉幕府が衰弱してもいずれ平氏の北条氏に実権を奪われて行く始まりでも
あった。弟三河守範頼も、また弟伊予守義経も、いわば平家追討の実戦を勝ち進んだ大将であり、頼朝は終始鎌倉にいて二人を督励していたのだが、平家が生み
の藻屑と消えうせるや程も無く兄頼朝は弟二人を受け入れがたい気持ちになり、大功をあげた義経が、平家の頭領宗盛父子を囚われ人として引き連れ、謙虚には
るばる帰参してきても、頑として鎌倉に迎え入れず、腰越からまことにつれなく追い返している。
一つには後白河院ら京都の朝廷の辣腕も働いていて、義経に官位を与え、鎌倉の
方針に事実上背かせてしまうということをしている。父子の仲とも誓い合ったほどの頼朝の弟とはいえ、あえて御家人なみに遇して他の武士団との折り合いをつ
けていた頼朝としては、鎌倉の頭越しの任官は迷惑であり、それを受け入れたのを鎌倉への異心と見るいわれはあったのである。加えて公家とはいえ平家一門に
大きな力をもっていた平時忠の女を娶るというようなこともしたらしく、義経にも甘えがあった。義経への人気も高かった。木曽の義仲のようには無作法でもな
かった。検非違使としてよく都を守護もしていたのである。だが梶原景時をはじめ、手柄を争ってしきりに頼朝に讒言した武将もいた。いたに相違なかった。す
こしくどいが、分かり良く長門本などから要約しておこう。
伊予守義経、源二位頼朝を背く由、ここかしこに囁きあ合へり。兄弟なる
上に父子の契
にて殊にその好み深し。是によつて去年正月に木曽義仲を追討せしより、命を重
んじ身
を捨てて、度々平家を攻落して、今年終に亡し果てぬ。一天四海澄みぬ。勲功類
なく恩
賞深くすべき處に、如何なる仔細にてかかるらんと上下怪しみをなす。
此事は去年八月に院使の宣旨を蒙り、同九月に五位大夫に成りけるを、源二位に
申合は
する事なし。何事も頼朝の計にこそ依るべきに、院の仰せなればとて申合はざる
条、自
由なり。また壇ノ浦の軍敗れて後、女院の御船に参会の条も狼藉也。また平大納
言の娘
に相親しむ事謂われなし。かたがた心得ずと宣ひ打解けまじき者也と思はれける
に、梶
原平三景時が渡辺の船沙汰の時、逆櫓の口論を深く遺恨と思ひければ、折々に讒
言す。
平家は皆亡びぬ。天下は君頼朝の御進退なるべし、但し九郎大夫判官殿ばかりや
世に立
たんと思召し候らん。義経、御心剛に、謀勝れ給へり。一谷落さるる事鬼神の所
為と覚
えき。川尻の大風に船出し給ひし事人の所行と覚えず。敵には向ふとは知りて、
一足も
退かず。誠に大将軍哉と怖しき人にまします。もつとも心得あるべし。一定御敵
とも成
り給ひぬと存ずと申しければ、頼朝も、後いぶせく思ふなりとて、追討の心を挟
み給へ
り。
ここに「自由」の二字は至って興深い。これは勝手気侭、放埓の意味で、
精神の自由などと近代現代が尊重してきた自由とは違っている。狂言などにも用例があり、みなここにいう意味で多用された。この「自由」は何時の時代にも
あった。どんな世間でも見られた。今日の日本もおおかたこの「自由」によって混乱もまた活気も生じている。
これで、だが、「頼朝義経仲違」いの事情は分かる。秩序と自由との齟齬であ
り、そこに付け入る人間心理の「すすどさ」である。梶原景時が遺恨を含んだ「逆櫓」事件とは、屋島の攻めに四国へ押しわたった時が大暴風雨で、義経は風雨
を冒して突進を言い、義経目付け役であった梶原は、せめて後戻りの利くように逆櫓の備えをと言い、烈しい喧嘩になりなって、義経は梶原を置いてけぼりに決
行したのを言う。義経にはたしかに鬼神が憑いていた。
戦が済んで見ると、戦略の段階でなく政略の段階になる。義経はとうてい頼朝の
敵たる政治の素質は持たぬ、安心な善男子でしかなかったのを、頼朝ほどの者が猜疑心を梶原に煽られてしまったというしかない。しかも梶原は自ら義経討手を
引き受けるのは憚りありと、土佐房正俊にお鉢を回したのであった。
腰越から追い返されて都に戻った義経には、まちがいなく兄の手で追討の憂き目
を見るであろうと分かっていた。頼朝も討たねばなるまいと腹をくくっていた。緊迫した関係に世間も目を向けていたし、朝廷も困惑しながら、まぢかな義経と
遠い鎌倉の頼朝とに、等分に目配りし心配りしていた。頼朝が義経に付き添わせ上洛させた十人もの大名衆も、保身のために一人抜け二人抜けてみな鎌倉に帰っ
ていった。そういう都へ、頼朝による討つべしの密命を受け、奈良七大寺詣でに言寄せて土佐房正尊はひそとして乗り込んできたのであった。
もと奈良法師の土佐房にはどこか無頼の、だが小才の利いたところもあった。い
わゆる流布本では見えにくいが、正尊は根が大和国の奈良法師で、東大寺と興福寺との争いに乗じて春日社の神木を伐り捨てるという乱暴が咎められ、土肥実平
に預けられているうちに巧みに土肥を篭絡のあげく、頼朝に仕えようと鎌倉に来ていたのである。名の知れた武将を遣わせば義経はすぐさま用心するに違いない
と、これも梶原の口車に土佐房も乗せられた。あげく義経が牛若の昔から誼み厚い鞍馬に逃げ込んで囚われ、空しく命を落とした。
船弁慶 ─潮を蹴立て悪風を吹きかけ─
歌舞伎座で「船弁慶」を観ていて、となりで妻が泣き出したのにびっくり
した。菊五郎の演じる平知盛の幽霊が、ずうっと黒い装束で蒼隈の顔をしていたのに、団十郎の弁慶に祈り伏せられ、ついに、ただ一度くわっと真っ赤な大口を
あいて、舌を巻く。黒くて蒼い知盛がその一回だけ真っ赤に口をあけた痛烈な悲しみに胸うたれ、可哀想で可哀想でと妻は泣くのだったが、私も同感だった。
「葵上」の御息所でも「道成寺」の清姫でもそうだが、祈り倒されて行くモノはどこか哀れでならない。赤い口をあくのは威嚇ではなく、無念の思いで舌を巻く
のである。演出だといえばつまり旨い演出だが、そんなことは通り越して、知盛の幽霊には壮絶な哀感哀情が横溢する。「船弁慶」は能も歌舞伎でも主役はむろ
ん知盛である。もう一人は弁慶で、英雄義経はすでに著しく矮小化され、弁慶の庇護のもとにある。能では子役が演じる。
土佐房は討ち果たしたが、義経は兄頼朝を怖れ、朝廷に、朝敵にならずにすむ手
立てを懇請する。もとより朝廷は鎌倉の頼朝を憚っているが、現在都に兵を蓄えているのは義経の方で、すげないことはしにくい。院の下問をうけた公卿たち
は、難儀な相手にその場限りの宣旨を与えてすぐ逆の手を打つなどは、何度も過去にしてきたことで、いまは義経の請いを受け入れ、次には頼朝の顔を立てれば
よろしいと、まさに「政治」的なチャランポランを平気で言うのだった。それが公家社会の源平武家をあやつってきた、たしかに常套手段だった。頼朝追討と日
本国の西半分を義経の沙汰に任せるといった院宣を手に、攻め上るかと見えていた鎌倉の軍勢を迎え撃つことなく、義経らは西をめざして落ちて行く。そういう
義経への都人の視線は暖かく、だが判官贔屓が始まれば始まるほど、もう義経には去年まで勢いはしぼんでいる。鬼神も避けたような義経ではもうなかった証拠
に、海に出たとたんに「平家の怨霊」に船は襲い掛かられている。以降、吉野の義経も、安宅の義経も、終始武蔵房弁慶の手厚い庇護なしには道中もならなかっ
た。
能の「船弁慶」は奇妙な前段と後半とに分断されていて、ふつうは関係の無い二
幕物の狂言仕立てに出来ていると見られる。前シテは静御前で、弁慶により義経との同船をすげなく拒まれる。後シテは知盛の幽霊で、弁慶の功力の前に海底に
退散する。しいて理屈をつければ、船上でさような危機の迫った時に、女連れは「何とやらん似合はぬ様」であり、主君義経の闘う気力をそぐ怖れがあると、女
の同船を足手纏いに忌避したといえる。歌舞伎ではそれらしいことを、弁慶が主君にも静にも言い渡している。間を阻んで、静ははっきり弁慶に押し返されてい
る。能の作者は賢しくも、「静」かを拒めば海は「荒れ」ようという因果を探っている。
海は、事実、荒れた。平家の怨霊は凄まじく弁慶らの船に迫り、「あら珍しやい
かに義経」と呼びかけ、ひときわの執念で義経を何としても海に引き入れようと、「薙刀取り直し」「あたりを払ひ、潮を蹴立て、悪風を吹き掛け、眼もくら
み、心も乱れて、前後を忘ずる」ばかりに襲いかかったのが、知盛の亡霊だった。
なぜ、知盛か。それが一つの問題である。
宗盛父子は海には沈まなかった。重盛ははやくに病死している。瀬戸内の波間に
沈み果てた平家の、知盛は事実首領であった。いや、壇ノ浦での決戦の時すでに知盛こそが平家の主将であり全軍の指揮官であった。指揮官の作戦に従い指揮官
の指示にそのまま従っていたなら平家には勝つ機会があったのである。
むしろ優勢であった平家の敗戦と全滅の原因が、少なくも一つあったことでは、
諸本が一致している。阿波民部大夫重能の裏切りであり、これで水軍の勢いが逆になった。また寝返りに際して成良は平家必勝の秘策を、源氏方に通報してしま
い、源氏は一気に平家の芯のところへ攻勢をあつめて撃滅できた。
知盛は、阿波民部大夫の裏切りを予知して斬ろうと図っていた、が、宗盛は首を
縦に振らなかった。大きな失策だったことはやがて知れて、宗盛は大いに悔いたが遅かった。秘策は知盛の、義経に対する並外れた敵愾心に発していて、ほとん
ど私憤にも近い敵意であったけれど、かなりに有効な、成功すれば決定的勝ちに繋がる名案であったのである。
この案を延慶本というじつに個性味豊かな読み本が、この本だけが伝えていて、
荒唐無稽とも思われぬ真実感に満ちている。知盛の奇策は「唐船カラクリ」と称されているが、
早い話、安徳天皇や母后をはじめ宗盛父子や二位の尼らを、御座船の唐船から、い
かにも兵士たちの兵船と見える船に御移しして、御座船には能登殿ら勇士を隠し置こうというのである。何が何でも三種の神器の欲しい義経は、御座船をめがけ
て自身で迫ってくるに違いなく、そのとき多数の兵船をもって義経を取り包むようにすれば、味方の船は数も多く、必ず義経を討ち取れるに違いない、と。
たわいないが、海の上の事であり、海戦は平家のほうが源氏よりも習熟している
事は誰もが認めている。事実、かなり平家に優位に壇ノ浦の海戦は始まったのであった。内心は知盛は「今ハ運命尽キヌレバ、軍ニ勝ツベシトハ」思っていな
かった。天竺震旦日本の別なく、並びなき名将勇士といえども、運命が尽きてしまえば今も昔も力及ばぬことである、ただ名こそは惜しい。その「名」にかけて
も「度々ノ軍ニ九郎一人ニ責メ落サレヌルコソ安カラネ」と思い染みていたのだ。「何ニモシテ九郎一人ヲ取テ海ニ入レヨ」「何ニモシテ九郎冠者ヲ取ッテ海ニ
入レヨ。今ハソレノミゾ思フ事」いうのが、知盛必死の司令であった。執念は凄まじかった。
唐船カラクリシツラヒテ、然ルベキ人々ヲバ唐船ニ乗タル気色シテ、大臣
殿以下宗トノ
人々ハ二百余艘ノ兵船ニ乗テ、唐船ヲ押シカコメテ指シ浮カメテ待ツモノナラ
バ、定メ
テ彼ノ唐船ニゾ大将軍ハ乗リタルラント、九郎進ミ寄ラン所を後ロヨリ押巻キテ
中ニ取
リ籠メテ、ナジカハ九郎一人討タザルベキ。
わたしはこれを読んだとき、お、いけるかも知れないと本気で思い、鳥肌
立った。この時である、知盛は阿波民部大夫の裏切りを察知していて斬ろうと強く主張したのは。宗盛はだが聴かなかった。結果「唐船カラクリ」のことは裏切
り者の口から源氏に伝えられ、平家の船は算を乱して崩れていった。その後の凄惨な成り行きは、ここで拙くまねぶことは避けよう、平家物語をつぶさに読まれ
たい。知盛は「見るべきものはすべて見つ」と、一族のなれの果てを見納めて乳兄弟の伊賀平内左衛門家長と、抱き合って壇ノ浦の水底に沈んで行った。
その知盛の幽霊が、風を巻き波に乗って落ち行く義経主従の船に襲いかかったの
である、それが能「船弁慶」の後シテである。
知盛といい教経といい、義経を追いに追い詰めて海に引き込もうとしたが壇ノ浦
では果たせなかった。この大物浦では何としてもと、勇猛の教経でなく知盛の現われたところに執念の凄さがある。逆にいえば義経一人、九郎一人に亡ぼされた
平家という印象の強化法が平家物語にも、読者たち享受者たちにも共通していた。それが義経の末期の哀れをまた強め得て、ついには「義経記」のような平家物
語の傍流末流物語成立へまで行く。
それにしても能「船弁慶」の前半と後半とのアンバランスは目立つ。手持ちの謡
本でみれば前シテ静の十九頁分に対して、後シテ知盛幽霊は九頁にも満たない。しかも印象は圧倒的に知盛の挑みと屈服とに傾く。能でこそ静の舞姿が美しい
が、歌舞伎では終幕後にまで静の印象は殆ど残らず、弁慶ののさばりだけが異様に印象に残る。静は奇妙に前座めく。なぜこんな作りが必要だったのか、弁慶の
配慮と功力の大いさを表現すれば「船弁慶」は事足りているからか。いやいや、今一度、何故に弁慶はああも靜の乗船を忌避したのか考えて見たくなる。弁慶の
不思議な直感に、どこかで靜という女人と知盛の怨霊とを繋いで危ういとみるものが忍び入っていなかったか。
夫婦で見て妻が泣き出し、わたしもふと引き込まれた歌舞伎の舞台では、菊五郎
が靜と知盛とを前後二役で演じた。能では当たり前だが歌舞伎では必ずしも当たり前ではない。菊五郎だから静も、靜以上に知盛もよかった、泣かされた。そし
て感じるところが有った、この芝居や能の作者には、もともと論理整合的にとは行かなくても、靜と知盛とを根深いところで「同じ側」に眺める視線を秘め持っ
ていたのではないかと。弁慶にすでにそれが在り、静を主君義経と乗船させることに決定的な危険と不安と憂慮を覚えていたのではなかろうかと。これは直ちに
は説明しきれない。しかし手がかりがまるで無いのではない。知盛ら平家の怨霊らは間違いなく今は海底の住人、陸に住む者らへの怨念に生きる海の民である。
平家物語は住吉や厳島を芯に、実は想像を超えて海の神意に深く導かれた物語である点で、あの源氏物語とも臍の緒を繋いでいるのだが、シラ拍子の靜、母の
「磯」は、もともとは海方の藝能に生きていた女たちであった。弁慶の怖れは、謂われなくは有り得ない深い根拠をもっていたとわたしは考えたい。
景清 ─面影を見ぬ盲目ぞ悲しき─
この能を、平家物語の流れで謂えば「八島」の頃に並べても可笑しくはな
い。だが「現在」の景清に力点をおけば、時節ははるかに後れている。景清はかまくらの頼朝をつけ狙って囚われ、日向に流されている。盲目になっている。境
遇は「俊寛」と似ているようでちがう。感銘もちがう。ヒタ面でみせて欲しい能である。
平家物語は、結果的に見ればあの「史記」と似た叙事をそれとなく実現してい
た。厳密な事はともかく、平家の直系を「六代被斬」まで書いて滅亡平家という縦軸を通しながら、これぐらい生き生きと下流の武士たちまでも主人公なみに活
写しえた文藝ないし藝能はそう類がない。平家方にも源氏方にも、なに遠慮も無く見出し付で大勢の武士たちの活躍や生死が語られている。景清もその一人とし
て幾場面もに登場し印象に刻まれてきた。俊寛に好感を持った人はそう多くは無かろうけれど、実盛にしても景清にしても平家方武士を代表して源氏の熊谷や佐
々木と優に匹敵している。人間的にはより魅力的にすら感じている。
もっとも景清はいたって武辺の人であった。実盛のような哀感を湛えて彼がわれ
われに迫るのは、まさに能の「景清」なので、平家物語の景清は一途に武勇の人物でしかない。
何度も何度も景清は「上総悪七兵衛」として陣揃えの侍大将の一人として現われ
る。具体的な記事が出るのは、だが、熊谷直実とのわずかな接触、戦いそうで戦わず仕舞いに退くところが始めてで、次いで屋島の合戦に豪勇ぶりを見せるの
が、名高い三穂屋十郎との兜の錏引きだが、それとても那須与一の扇の的の後産程度にしか語られていない。
平家は那須与一に名を成させ、あまつさえ伊賀十郎兵衛家員までむざと死なせて
しまい、本意なしとばかり、三人の武士が陸に上がり、「楯を衝いて、敵寄せよ」と源氏を招いた。平家はよくよく招くのが好きであった。
判官、「あれ馬強ならん若党ども、馳寄せて蹴散らせ」と宣へば、武蔵国
の住人、三穂
屋四郎、同藤七、同十郎、上野国の住人、丹生の四郎、信濃国の住人、木曽の中
次、五
騎連れて、をめいて駈く。楯の影より、塗箆に、黒ほろ矧いだる大の矢をもて、
真っ先
に進んだる三穂屋の十郎が馬の左の胸懸づくしを、ひやうづばと射て筈の隠る程
ぞ、射
籠うだる。屏風を返すやうに馬はどうと倒るれば、主は馬手の足をこえ弓手の方
へ下り
立つて、やがて太刀をぞ抜いだりける。楯の陰より、大長刀打振て懸りければ、
三穂屋
の十郎、小太刀大長刀に叶はじとや思ひけむ、掻い伏いて迯ければ、やがて続い
て追懸
けたり。長刀で薙がんずるかと見る処に、さはなくして、長刀をば左の脇にかい
挟み、
右の手を差し延べて、三穂屋十郎が甲のしころをつかまむとす。つかまれじとは
しる。
三度つかみはづいて、四度の度むずとつかむ。暫したまつて見えし、鉢附の板よ
りふつ
と引切てぞ迯げたりける。残四騎は馬を惜しうで駈けず、見物してこそ居たりけ
れ。三
穂屋十郎は、御方の馬の陰に逃入て、息続ぎ居たり。敵は追うても来で長刀杖に
つき、
甲のしころを指上げ、大音声を上て、「日頃は音にも聞きつらん。今は目にも見
給へ。
是こそ京童部の喚ぶなる上総悪七兵衛景清よ」と、名乗棄てぞ帰りける。
これで平家方はちょっと気をよくしたとある。独り働きでは格好いいが、
景清が侍大将として参加した勝ち戦は、せいぜい以仁王を追いつめていた時ぐらいで、たいていは平家方の分はわるい。ただ景清は、武運の有る方であったとい
うか、あの壇ノ浦でも、「その中に、越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛は、何としてか逃れたりけん、そこをも又落ちにけり」とあるよう
に、源氏の手に囚われることなく、戦場を落ち延びた。源氏にすれば一騎当千のうるさい猛者ばかりであった、事実、彼らはしぶとく抵抗を続け、とりわき、景
清最後の奮戦の偲ばれるのは、壇ノ浦合戦もとうに過ぎて、平家の残党が容赦なく追討されていた時分に、小松大臣重盛の遺児丹後侍従忠房を奉じて紀伊国湯浅
城で頑強に熊野別党当らの源氏方を悩ませた時であった。
小松殿の御子丹後侍従忠房は八島の軍より落て行方も知らずおはせしが、紀伊国
の住人
湯浅権守宗重を憑んで湯浅の城にぞ籠られける。是を聞いて平家に志思ひける越
中次郎
兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛以下の兵共著き奉る由聞えしか
ば、伊賀
伊勢両国の住人ら、我も我もと馳せ集る。
熊野別当、鎌倉殿より仰せを蒙つて両三月が間、八箇度寄せて責め戦ふ。城の内
の兵共
命を惜まず防ぎければ、毎度に御方は追散され、熊野法師数をつくいて討たれに
けり。
景清の名をさしては語っていないが、頑強な平家の根力の一つで景清がい
たことは分かる。そればかりか、おおかた平家は掃滅されるにかかわらず景清が捕まった確証はない。
頼朝の洞察と指示とで湯浅の城攻めはことなく、平家方すべてが城から姿をくらま
して収まってしまうが、これに懲りたか頼朝は甘言を用いて忠房を自首させ、殺してしまう。さらに徹して残党狩りに力を入れる。だが、上総悪七兵衛景清にか
ぎって、平家物語流布本に、囚えられた形跡は全く無い。能「景清」に謂う日向遠流と定まるような頼朝暗殺事件などは平家物語には見当たらないのである。
これはあらゆる「作者」には有り難い、脚色自由な前提ができている。歌舞伎の
熊谷陣屋に突如として現われる弥陀六実は悪七兵衛景清は、義経の面前から黙契を得て熊谷に討たれた筈の公達敦盛を櫃に負うて立ち去って行く。見えない共通
の敵の頼朝の影を察しながら歌舞伎の舞台を見ている人も多かろう。記憶違いでは恥じ入るが、琴責めで鎌倉の詮議を受ける遊女阿古屋は行方をくらまして久し
い景清の妻ではなかったか。末始終が分からない人物は、魅力が在ればあるほど奥ゆかしさに想像力が鼓舞され刺激される。ペンけいの立ち往生に救われた源義
経が、蝦夷から蒙古に渡ってジンギスカンになったという伝説もそれなら、源為朝が琉球王になったという伝説もその類であり、景清にもそれだけの資格が生ま
れていたのである。能「景清」の娘人丸にせよ傾城阿古屋にせよ、それらしい縁者が生き長らえて景清の物語をいろいろに流布させた役回りを想像して見る余地
はいかようにも否定しきれない。潤色し脚色するに値した他の逸話や事件にもこと欠くことは無かったろう。景清と頼朝とのことなどは、平家物語が語っている
越中次郎兵衛盛嗣の最期が利用されたのではなかろうか。この平家の猛将は、多くの場合悪七兵衛ら一群の侍大将の常に筆頭に位置していたし、その最期もなか
なか物語りに富んでいる。
平家の侍越中次郎兵衛盛嗣は但馬国にまで落ちて行き、気比四郎道弘という在地
の豪の婿におさまっていた。道弘はまさかに越中次郎兵衛とは気づかなかったが、嚢中の錐の譬えもあり、ありあまる威勢の盛嗣は夜になると舅の馬を引き出し
ては馳せまわっていた。馬で海の底を十四五町も潜ってくるようなことまで出来るのは、竜神にもゆるされた豪強の武士としか思われず、ついに鎌倉殿の守護地
頭も怪しんでいるうち、鎌倉でも漏れ聞いてのことか但馬の朝倉高清に捕らえて鎌倉へと命令が届いた。朝倉の婿がさきの気比四郎であったから、両人は驚い
て、だがどうして搦め取ろうかと相談も慎重であった。
湯屋にて搦むべしとて湯に入れて、したたかなる者五六人おろし合はせて
搦めんとする
に、取つけば投倒され、起上れば蹴倒さる。互に身は湿れたり、取りもためず。
されど
も衆力に強力叶はぬ事なれば、二三十人、はと寄て太刀のみね長刀の柄にて打ち
悩まし
て搦捕り、やがて関東へ参らせたりければ、御前に引据させて事の子細を召問は
る。
「いかに汝は同じき平家の侍と云ながら、故親にてあんなるに、何とて死なざりけ
るぞ」
「それはあまりに平家の脆く滅てましましし候間、もしやと狙ひ参らせ候ひつるな
り。太
刀の身の好きをも、征矢の尻の鉄好きをも鎌倉殿の御為とこそ拵へ持て候ひつれ
ども、
是程に運命尽果候ひぬる上は、とかう申すに及び候はず」「志の程はゆゆしかり
けり。
頼朝を憑まば助けて仕はんには如何に」と仰せければ、「勇士二主に仕へず。盛
嗣程の
者に御心許し給ひては必ず御後悔候べし。只御恩には疾疾頸を召され候へ」と申
しけれ
ば、「さらば切れ」とて由井の浜に引出いて切てんげり。ほめぬ者こそなかりけ
れ。
平家物語の気持ちよいのは、誉めるところは敵味方なく誉めてくれるとこ ろで、自ずから聴いたり読んだりした者への価値観教育、つまり啓蒙的な指導性をもちえただろうと思う。何をすれば人は誉め、何をすれば人は嗤うか。それが 分かるということが社会の教育であった。越中次郎兵衛盛嗣のこの潔さも逞しさも、うまく能「景清」に収斂され、いわば虚像の魅力に実像の景清はきれいに潜 り込み、いまなお生き延びてものを教えてくれている。
大原御幸 ─その有様申すにつけて恨めし─
行幸と御幸とがある。天皇の出御、というよりも他出や訪問は行幸であ
り、皇后や親王方だと行啓である。御幸は上皇の場合に用いている。そういうことを知っていれば、この題が、上皇、院の大原行きを意味していると分かる。
大原が、都よりよほど草深く木深き田舎であることを、昔の人は、京に近い人々
は、今日のわれわれより遥かに実感していたから、この題にはそれなりの意義があった。歴史的な事件といえば大げさなようで、じつは幾重にも歴史にかかわる
事件であった。後白河院が、いわば嫁にあたるかつての国母の建礼門院徳子平氏を、わざわざ大原の里へ訪問された。それ自体が史実であった。虚構ではないの
である。
女院は壇ノ浦の波間から源氏の兵士たちにまさに掬い取られ、泣きの涙で都へ連
れ戻されたお人であった。言うまでもなく平清盛の女と生まれ、高倉天皇の女御となり、中宮となり、安徳天皇の生母となって父清盛に外戚の権をもたらした当
の女人であった。目の前で我が子の海底に沈み行くのを空しく見送ってきた母親であった。ありとあらゆる平氏の身内の、討たれ、また入水して果てて行くのを
目の当たりに見てきた人であった。この建礼門院こそ、真実「見るべきほどは見つ」と言うことのできた平家滅亡の生き証人であり、この人ほど多くに「死なれ
た」人は珍しく、また実に、この人ほど多くを「死なせた」存在も少ないのである。
そこから、二つの、少なくも二つの目だった配慮が平家物語に加えられた。建礼
門院の上に加えられた。
一つは、滅亡平家を告げたいわば大尾のまだ外に、いわゆる「潅頂巻」が特別に
立てられ、「大原御幸」の首尾がしみじみと語り終えられるとともに、二つは、史実に背いてまで、まだ若き建礼門院の「死去」が語られることになった。平家
物語には「潅頂巻」を立てた本と立てない本とがあり、読み本だから立てない、語り本だから立てるとも言いきれない。が、概して覚一本など平曲の台本には
「潅頂巻」を立てて「大原御幸」と「女院死去」とを特別視したものが多いとは言えよう。一つには「潅頂巻」とは斯道免許ぐらいな意義を持つ事があり、琵琶
法師らの当道においてもそれほどの意義をもたせて特にこれを立てたという事情が察せられる。今一つには、「潅頂」とは早い話が洗礼にも類した一種の聖儀礼
でもあり、また独特の水死者に対する鎮魂慰霊の営みでもあった。「流れ潅頂」のように河の流れに交わって水死霊をいたわり慰めることは、今日との鴨川でも
しばしば行われていた。安徳天皇をはじめ、平家一族はもとより多くの者の西海に沈んで果てた稀代の戦禍は、いわば日本中の全ての人に重くのしかかり、「悲
哀の仕事=モゥンニングワーク」を迫っていた。「潅頂巻」を物語りの大尾に心をこめて据えることにより、明かに平家物語なる国民的な営為自体を、ただに
「滅亡平家」を語るだけでなく、いわば深甚の「追悼平家」を行じるものに仕立てようとの意思が働いた。「大原御幸」と「女院死去」とはその実現であると考
えられた時に、そこに働いていたであろう後白河法皇の意向は限りも無く大きかったのではないかと、私は、いまも、その考えを捨てきれない。この帝王の胸中
にこそ真っ先に「平家物語最初本」への意思が宿ったのではないかと。「大原御幸」とは意向の実現であり、意図的ないわば場面作りですら有り得なかったろう
かと。
壇ノ浦の後始末で、何が一大事であったか。平家の総大将である宗盛以下の虜囚
を都にもたらすこと、平家が事実上滅亡したこと。それよりも朝廷にとって大事なのは三種の神器の無事奪回であったが、神鏡と玉璽は取り戻せたにもかかわら
ず遂に宝剣は海底に沈んだ。必死の捜索はされたものの海流は激しく速く、要するに神剣喪失の「説明」が必要だった。伝説もできたし、議論もされた。
例えば歴史学者でもあった延暦寺の座主慈円は、武の象徴たる剣の代わりに鎌倉
に武家の幕府が必要となり、京の公家――慈円の場合は彼の出た九条家の摂政道家――による執政と、頼朝に基づく武家の権威とが、相俟って朝家を補弼すべき
歴史の道理が、「神剣喪失」により即ち実現したと説いた。その朝家の天子もまた九条家が外戚の仲恭幼帝であり、鎌倉の将軍と謂うのも九条家から実朝横死後
に送り込んだ頼道を指していたのだから、あまりにも我が田に水を引くものであった。この議論では目睫の危機とせまった承久の乱を回避することは遂に不可能
であった。
壇ノ浦の海底に潜って捜索の上、竜宮に招じられて安徳天皇を抱き込んだ身の毛
もよだつ大蛇は、かの剣はもともと我らが所有であったものを、さまざまに策を用いて遂に奪回したのであって二度とは渡すまじと言い渡されて戻って、これよ
り捜索は断念されたという説話を平家物語のなかに語っている本も実在する。竜宮には清盛をはじめとする平家の一門が本来の家かのごとく竜宮に帰って安居し
ているさまをさえ、その海女は実際に見てきたと後白河院らを前に語っている。
「喪われた理由」からみれば、今や宗盛らの運命など、朝廷にはさまで大事ではな
く、また建礼門院の処置にも源氏は大きくはこだわらなかった。吉田の仮り居で髪をおろし、大原寂光院に隠れ棲み、たしかにここへは法皇も、またかつての女
官たちもたまさか訪れないではなかった。だが、平家物語の流布本がたいてい語っているようには、建久二年に女院は死んではいなかった。ただ平家物語の最終
場面には必然の脚色であった。だが真実は以下に要点を引くこの記事にあった。
建久三年三月十三日に(後白河)法皇隠れさせ給ひぬ。その後主上、代をしろし
めす。お
り居(上皇)にならせ給ひて、承久三年に思召し立つ御事の有りけるか、御謀反
の事顕
れて(承久の変)、院は隠岐国へ流されましまし、宮々は国々に遷され給ひぬ。
雲客卿
相或ひは浮島が草の原にて露の命を消し、或ひは菊河の早き流れに憂き名を流す
など(お側の者から)披露有りければ、女院聞こし召して今更又悲しくぞ思召しける。此の院
は高倉院御子にておはしまししかば、女院には御継子にて安徳天皇の御弟にまし
ましし
かば、よその御事とも思召さず。配流の後は隠岐院とぞ申しける。又は後鳥羽院
とも名
付け奉る。
平家都を落ちて西海の浪に漂ひ、先帝海中に沈み給ふ。百官悉く亡びし事只今の
様に覚
えて、その愁ひ未だやすまらせ給はず。如何なる罪の報ひにて露の命の消えやら
で、又
かかる事を聞し召すらんと、尽きせぬ御歎き打続かせ給ひけるに附けても、朝夕
の行業
怠らせ給はざりけるが、御年六十八と申しし貞応三年春の頃、五色の糸を御手に
ひかへ、
南無西方極楽教主阿弥陀如来、本願誤ち給はずは必ず引摂し給へと祈誓して、高
声に念
仏申させ給ひて引き入らせ給ひければ、紫雲空に靉靆、異香空に薫じつつ音楽雲
に聞ゆ。
光明窓を照して往生の素懐を遂げさせ給ひけるこそ貴けれ。
まこと「見るべき程は見」切って建礼門院徳子は老いの命を果てたのであ
り、平家の一門は多く命脈を裁たれ、源氏は義経も頼朝も、それどころか三代将軍実朝もすでに死んで源氏の将軍は早や跡を絶えていた。三種の神器なしに皇位
に即いて屋島の安徳帝と並び立った後鳥羽天皇も遙かな沖の島に流され果て、天下の成敗はすでに陪臣北条の執権にしっかと握られていた。そこまでを見て死の
うと、後白河よりも先だって若くして死んだことにされようと、もはや建礼門院にはなにごととも思い分くことはなかったであろうが、平家物語を支えた多くの
日本人が、女院の若い命を大原寂光院でみ仏の来迎摂取に委ねよう、委ねたいと思ったのも、一つの大きな追悼の行為であった。
或る本が謂うように「妙音菩薩ノ化身」で女院があったかどうかはともかく、よ
ほど強靱な神経の持ち主でなければ生きながらえにくい永すぎる生涯を建礼門院は生きた。それもあの大原の里に棲み果てたのではなかった。小督局を愛して舅
清盛をやきもきさせた藤原隆房の妻は建礼門院の妹であった。隆房夫婦は寒さの厳しい大原の里から、いつしかに姉の女院を、ちょうど今の平安神宮大鳥居にま
ぢかい邸宅に引き取り世話をしていた。そこが火事で焼けると、また山沿いに南へ、ちょうど現在の高台寺の山に実在した金仙院という別邸とも私寺ともいえる
場所へ移り住まわせた。角田文衛博士の研究によれば、建礼門院のお墓は、あの豊臣秀吉の未亡人おねが入定死したかといわれる現在の高台寺御霊屋をそうは離
れない辺りであったと謂う。
「百二十句本」では、鎌倉の六浦坂で平家正嫡の六代御前が斬られ、「それよりし
てぞ、平家の子孫は絶えにけり」と結ばれる。まさに「断絶平家」の終末だが、第百十九句に据えられた「大原御幸」が「覚一本」などでは「女院御往生」を結
びにした灌頂巻で終えている。覚一本は十二世紀末の「建久二年きさらぎの中旬」といい、延慶本などは十三世紀の「貞応三年春の頃」という。ともに「追悼平
家」の祈念も深い大団円であった。
(完)
(私語の刻 平成十二年十月十三日)
* 南座があいて、前から四列の真中央の席にならんだ。扇雀丈の女番頭さんに、
来月の平成中村座「法界坊」二人分も含めて支払いをし、礼を言い、花形歌舞伎「鏡山縁勇繪=かがみやまゆかりのおとこえ」通し狂言を観る。
中村翫雀、扇雀の兄弟、中村橋之助、市川染五郎、それに吉弥や高麗蔵らがワキ
を固めた、本当に若手花形だけの舞台だが、それが活気をうみ、また台本がばかに面白くて幕間はごく短いというテンポのよさ。もう頭っからの歌舞伎・歌舞伎
なのだが、歌舞伎の根の趣向だけでなく、岩藤の骨寄せや尊像の宙浮きには現代の超魔術テクニックを借用するなど、盛りだくさんにけれんと手管を嫌みになら
ぬ鮮やかさで連発したから、ただもう、引き込まれて面白がっていられた。おおッと手に汗もしたし、蝶の乱舞する演出など、なかなかやるなと感心もした。
常の舞台でなら、年季の入った大幹部の俳優たちに立ち交じって、若い生きのい
い芝居をみせる若手四人が、此処では互いに競い合って一芝居を支え合う活気と協調。気持ちよく、若い芝居が若く元気に盛り上がり、終始いやみなく成功して
いたのは、大いにめでたかった。見栄えもした。「男岩藤」という趣向を掘り起こして存分に新脚色した意欲も利いた。「こんなのも、いいな」と思わせてくれ
た。
橋之助の由縁之丞が、女役、若衆役、本悪まで多彩に元気いっぱいに、なんだか
とても楽しそうに演じ分ける。扇雀も、まずは滅多に見られない、老職の武士役と、絢爛の花魁や世話の女房を演じ分けながら、自害までしてみせるから、ご苦
労であったし、しどころも有った。フアンは喜ぶ。
なにしろ四列目のまん中にこっちはいるので、橋とも扇ともしっかり目があい、
ひょんな初対面の按配なのも、とても面白かった。すくなくも扇雀はわれわれが東京からわざわざ来ていることは知っているのだろう。こっちも一心に見るし、
舞台の上でもうんうんと確認しているような按配。それほど近いところにいたので、よけい面白かった。
座頭格の翫雀も、大名と二枚目とを彼らしく颯爽と演じて父親の鴈治郎に生き写
しなら、扇雀は母親の建設大臣に瓜二つというところ。立ち役にもはまるいい顔立ちをしていて、妻など、そっちの方もすてきねと、痺れていた。染五郎にはま
だヒレがないが、これまた随所に高麗屋の芝居ぶりが出て、父松本幸四郎にそれはよく似ているからおかしかった。そんなことを言えば「歌舞伎さん」(寛子夫
人の婚約の頃の表現)こと橋之助が、また若き日のお父さん芝翫丈にそっくりだ。「若手花形」とは、名実ともに偽り無き看板であった。たいして期待しないで
来た分、大トクをしたほど面白い芝居見物が懐かしい南座で出来、夫婦して、いたく満足。はねて八時過ぎ、きわどいなと思いつつ、すぐ東の「千花」の暖簾を
分けた、灯を落としかけている間際だった。顔を見て、中へ入れてくれた。能 死生の藝能 死生の藝
能の鑑賞
女の能
千秋楽
能の天皇
薪能
能を楽しむ
蝉丸・逆髪
葵上
住吉詣
玉鬘 噂の姫君
清経入水
小宰相
十三世梅若万三郎
友枝昭世 鞘走らない名刀
文学としての謡曲批評 能 死生の藝¥能 死生の藝¥ 広くも狭くも「能」とい
う。静御前が白拍子の舞を鎌倉の八幡宝前で舞ったのも、「能」と書かれてある。また「藝能」ともいう。藝「能」人は、今日ではいわば一種の貴族であるが、
その「能」の字が「タレント」を意味するとして、本来はどんなタレント=技能・職能を謂ったものか、綺麗に忘れ去られている。
能や藝能を、たかだか室町時代や鎌倉・平安末に溯らせて済むわけがなく、人間
の在るところ、藝能は歴史よりも遠く溯った。日本の能や藝能に現に携わった人や集団は、遙かな神代にまで深い根ざしを求めていた。能の神様のような観阿弥
や世阿弥は、傷ついて天の岩戸に隠れた日の神を、此の世に呼び戻そうと、女神ウヅメに面白おかしく舞い遊ばせた八百萬やおよろづの神集いを即ち「神楽かぐ
ら」と名づけ、「能」の肇めと明言しているが、それは、アマテラスという死者の怒りを鎮め慰め、甦り(黄泉よみ帰り)を願って懸命に歓喜咲楽=えらぎあそ
んだ「藝能の起源」を謂うているのであった。幸いに、天照大神は甦った。
国譲りの説得を命じられた天使アメワカヒコが、復命を怠って出雲の地にあえな
く死んだときも、遺族は互いに色んな「役」を負うて「日八日夜八夜ひやかよやよを遊びたりき」と古事記は伝えている。だが甦りは得られなかった。ここでも
死者を呼ばわり鎮め慰める藝能が、そのまま「葬儀」として演じられていた。藝能=遊びの本来に、神=死霊の甦りや鎮め慰めが「大役」として期待されていた
ことを、これらは象徴的に示している。そしていつしか、鎮魂慰霊の「遊び役」を能とした「遊部あそびべ」も出来ていった。藝能人とは、もともとこういう遊
藝の「役人」「役者」であった。各地の鳥居本に遊君・遊女が「お大神」「末社輩」を待ち迎えるようになったいわば遊郭の風儀とすら無縁ではなかったのであ
る。
「能」とは、わが国では、死者を鎮め慰める「タレント」なのであった。能楽三百
番、その大半は死者をシテとし、その「鎮魂慰霊」を深々と表現している。
だが「能」の藝は、それだけに止まらない。死者を鎮め慰める一方で、生者の現
実と将来を、鼓舞し、祝い励ますという「タレント」も、また同じ役人たちの大役であった。能の根源の「翁」は、生きとし生ける者の寿福増長と天下泰平・国
土安穏をもって「今日の御祈〓」としている。「言祝ぎ=寿ぐ」祝言の藝こそが藝能であったのだ、死の世界と表裏したままで。
観世、宝生、金春、金剛、また喜多。こういう「めでたい」名乗りには、じつに
意義深いものが託されていた。死霊を慰める一方で、また生者を懸命に言祝ぎ寿ぐ。能楽に限らず日本の藝能と藝能人は、役者は、そのタレントを途絶えること
なく社会的に期待されて、一つの歴史を、永らく生きてきた。世の人々はその能を見聞きし、笑い楽しみ、また死の世界をも覗き込んで、畏怖の念とともに心身
の「清まはる」のを実感してきたのである。
今日では、能は、ひたすら「美」の鑑賞面から愛好され尊敬されている。謡曲が
美しい、装束が美しい、能面が美しい、舞が美しい、囃子が美しい。舞台が美しい。美の解説には少しも事欠かない、だが能と藝と役との占めてきた遙かな淵源
の覗き込まれることは無くなってしまい、能の表現の負うてきた人間の祈りや怖れや畏かしこみが、おおかた見所けんじよの意識から欠け落ちてばかり行くよう
になっている。死を悼み、生を励ます真意を、能ほど久しく太い根幹とした藝能は、遊藝は、他に無いのだ、世界的にも。それと識って観るのと観ないのとで
は、「能の魅力」は、まるで違ってくることに気づきたい。
死生一如のフィロソフィー。死なれ・死なせて生きる者らの、深い愛と哀情。同
じ「美」も、そこから「思ひ清まはり」汲み取る嬉しさに、「能の魅力」を求めたい。
ムック『NHK日本の藝能』2000年
能 の 鑑 賞¥能 の 鑑 賞¥「オー、ノー」と呟きつつ偉大な睡魔に、優
美な夢をめぐまれる。至福のとき、である。覚めても至福、覚めなくても、至福。能楽堂の見所は至福の寝所でもあり得て、うれしい。ただ願わくは鼾はかきた
くないし、鼾をきくのも願いさげにしたい。
「能」の美しさは、じつに感覚的に具体的なところと、じつに観念的に記号的なと
ころと、みごとに両面をそなえている。最良の「能」というものを、われわれは理想として頭脳に持ち合わせているので、目の前の演能が、ただその理想を記号
でひきだす引き金の役でしかないという気分のときが、事実、ある。すなわち退屈しているのであり、望んで睡魔の到来をそういう時は待つ気になる。理想は夢
うつつの間にもののみごとに成就され、最良の能を夢に見ることが叶う。ただし才能がなければ、つまり「能」の観客として場数や鍛練を経ていなければ、「至
福の退屈境」に「理想の能」を夢見ることなど、それは無理である。だが無理をいつか無理でなくしてくれる凄い能力・魅力も、「能」はもっている。「能」と
は才であり、才長けて「能狂い」が生まれるのである。
観世・宝生・金春・金剛の四座に喜多一流が加わって今日の「能」の在ることな
どは、ただ知識の領分にあり、それをいうなら、もともと世阿弥の前後に各地に猿楽能や田楽能があり、その以前に散楽やまた舞楽・伎楽があり、さらには神楽
もあった。歌舞があり語りの藝があり物真似の藝もあった。軽業雑藝の伝統もあった。しかるべき藝能の入門書によればおよその沿革は知れよう、神代の伝承に
も遡れば、大陸渡来の歴史にも触れねばならない。藝能の伝統は、藝術の歴史よりなお深く遠く、人のからだとこころとに根差しているのである。いや人の暮ら
しにも根差しているのである。
人は、生まれて、死なれ・死なせて、生んで、そして、死んで行く。その全部を
即ち「生きる」というのである。生死は縄をなうごとく、「能」ほど身近に生前と死後との命の描かれた世界は珍しいのである。神といい男・女といい狂といい
鬼といって、「能」に表現される命は、みな、半ばは死に、死にながら生きている。そういう生死を凝視している。それが藝能という「能」の、根源の約束で
あった。藝能は、もともと、死者の霊魂を鎮め慰める一方で、生者の生活を言祝ことほぎ励ます「役」を帯びていた。「役者」という言葉には、死霊に接しなが
ら生者の安穏にも奉仕するという、両面の意義があった。特別の存在であった。その意味でも「能」はただの芝居や演劇ではありえず、神意を体して人事を祝福
するという「役」の藝であった。大地を踏んで鬼神を鎮め、人の世に寿福増長をもたらす、めでたい役人の藝能であった。「能」の不思議を真実思うのであれ
ば、むしろ世阿弥以後よりも世阿弥以前に「能」を荷担した役の者たちの、久しく久しい潜勢の歳月を想像してみるのがいい。その根の哀しみを理解しない
「能」鑑賞など、見て見ざる惰眠に等しい。
「太陽」一九九三年八月号―日本を知る100章の45
女 の 能¥女 の 能¥ 半分しゃべるふうに書くことを、お許しねがってお
きます。
もうだいぶ以前の話になりますが、九州唐津の窯を見に参りました。有名な老名
人が、静かな日をおだやかに浴びながら、玄関わきのような気軽そうな仕事場で、ほどよい大きさの壼の形を造っていました。楽しそうに、低声で鼻唄……。壺
に片手を入れ、もう片手で撫で慈しむように形を造っていました。あぁ……、壼や皿を造るのは、深い浅いはともあれ「容れ物」を造るのは、男の仕事なんだ、
なんてセクシィなんだろうと、時のたつのも忘れて見ていました。女流陶藝展の審査員をつとめたことがありますが、叱られるかも知れませんが女の方の造るや
きもの・いれものには、どことなし同性愛ふうの、それも不思議と強がった作柄が見られまして、なかなか生々しいモノがよく出来て参ります。あの唐津のおじ
いさんが、無念夢想、壺を抱いて鼻唄を歌っていた静かな愛情とは、だいぶ様子がちがいます。男の性愛が「容れ物」づくりの魅力の芯を成している……。やき
ものは、男に似合う藝なのかなと思いました。
見当ちがいの話をしているようで恐縮ですが、お能…となりますと、これは元来
が「女」のものでありました。それも古い古いお話です。平安や鎌倉なんて話ではない、遥か神代に遡る話でありまして、あの、天の岩戸のまえで、女神の一人
のアメノウヅメが、神隠りした日の神アマテラスの、いわば蘇りを願い祈りまして、激しく舞い遊びます。あれが「神楽」の肇めと『風姿花伝ふうしかでん』に
は言われてあります。神楽とはむろん「能」楽らくの一種、「能楽のうがく」の祖型の一つでありましょう。観阿弥も世阿弥も、秦氏を名乗っています。ま、ご
先祖筋の言われる事でありますから、平成の秦さんとしても、信じておく方が無難なのであります。
言うまでもありません、天の岩戸舞いは、お葬いでの、蘇生を祈る魂たま呼ばい
の一場面であり、日本の「遊び」の起源、「遊」ぶという文字使用の最初の例であります。遊び楽しむという行為が、もともと死者を弔い、その鎮魂慰霊と強く
結びついていたことを、古事記の記事は雄弁に証言しています。
もうすこし後の、例の国譲りの辺でも、天つ神々の使者として下界へ交渉に遣わ
されましたアメワカヒコが、返り言を怠って、国つ神々の世界で呆けている。頭にきました天上の神が矢で射殺してしまいます。その死を嘆きまして、天上から
も地上でも大勢の身寄りが集い寄り、そして「日八日ひやか・夜八夜よやよを、遊びたりき」と記しています。ここにも「遊」ぶという文字がしっかり使われま
して、お葬いのさまも具体的に、いろんな「役」まで、書き添えられています。
「歓喜咲楽」の四文字も「えらぎあそぶ」と訓まれていまして、泣き悲しみを演じ
る役、死者の飲食おんじきなどに仕える役のほかに、やはり舞い遊び歌う「役」も配してあります。あのアメノウヅメの演じていた「役」が、ちゃんと踏襲され
ています。
このように、「遊・楽」には死者への奉仕、と同時に、死の世界と生の世界との
間に立って、死の畏れや穢れから、生者の日常を隔てるという、不思議な機能つまり「役」が与えられていたことが察しられます。「祝ふ」という、それが本来
の意味でありましょう。
「祝」うという文字は「はふる」とも訓まれまして、祝の一字で「はふり」さんと
いえば、神葬をいとなんでくれる神職の名乗りでもありました。まさに、死者を「葬る」「ほうむる」という営みと「祝ふ」とは、臍の緒を繋いでいます。また
「いはふ」は、精進潔斎の「斎」の字の訓みでもあります。何故に精進潔斎するか、これまた自然に、死穢しえを「忌む」「忌まう」避ける、そして、慎み、身
も心も清まはるというところへ、意味や意義が連関してゆくわけですね。
「遊び」の藝の根本は、この「祝ふ」「祝ほぐ」ことにありました。ないしは「祝
ひの言葉」「祝ぐ言葉」をもって、生と死の世界を、結びつつ、かつ引き離して、生と死、それぞれの世界を安堵させるということにありました。「祝言」「言
祝ぐ」「言祝ぎ」とはそういう由来久しい意味でありまして、まさにその「役」に当たる「役者」たちに、一方では、死者の鎮魂慰霊を担当してもらいつつ、他
方では、死なれて生きつづける者の立場を、千秋・楽らくと、言祝ぎ祝ってもらうわけです。そういう「役者」たち、「能」ある「役者」たちの家筋が、たとえ
ば「観世」「宝生」「金春」「金剛」「喜多」などというめでたい極みの名乗りをもち、また万蔵・万作といい千作・千五郎といい、唐傘の上で土瓶をまわして
見せる人が二言目には「おめでとうございます」「ありがとうございます」と祝ってくれるのも、みな由来は同じ、日本の藝能の「祝言藝」たる本筋を今に伝え
ているわけです。日本の「めでたい」には、いつも死と生との両面に顔を向けてきた「役」の者たちの「はたらき」が深く関係していたわけです。
能楽の台本であります謡曲は、世界に類のないほど、徹底して「死なれ・死な
せ」た者たちの「死者の霊魂」をシテにした創作です。死と死者とが主題で主役であるという所へ、九割がたのものが歩調を揃えています。鎮魂慰霊の藝能のこ
れ以上はない典型であり、みごとな達成ですが、それもこれも、アマテラスの死をいたむ八百萬やおよろずの神々、わけて女神ウヅメの神楽かぐら舞まいを、起
源にしていると見てよろしいのでしょう、あの観阿弥・世阿弥サンがそう言い残しているのでありますから、そう言いたいようでありますから、信じましょう。
しかし、それならば、中世このかた現代に至る猿楽ないし能楽を、なんで「女」
が主になって演じ継いで来なかったか。これにも、いくらか説話ふうに、理由らしきものを垣間見せてくれる史料があります。これまた「遊び」という言葉と関
わっています。
あのアメノウヅメは後にサルタヒコの大神とご夫婦になり、道祖神かのように信
仰されるのですが、その子孫かのごとくに扱われて猿女さるめ、猿女君さるめのきみといった呪言じゆげんと藝能の女、遊びと伝承の女の系譜がこの世界に生じ
ます。大きくはいわば遊び女め、遊君ゆうくんといわれるものの祖型を成した、遊女でもあり藝妓でもあり、性と藝と呪の各面で死者でもある神にも仕え、また
生ける者をも「祝う」ないし「呪まじなう」存在です。今様いまようの歌謡などの世界で活躍している「あそびめ」へと繋がる存在です。
しかし、実は女だけにいつも可能な、鎮魂慰霊の遊びではなかったのです。「遊
び」には、死者ないし神への奉仕という意味が確かにありましたが、これは、まこと身を〓くほど全身全霊の奉仕でもあった。疲労困憊こんぱいした。たとえば
三輪の大神につかえた現世の女性を表現して、「髪落ち体〓やすかみて」と日本書紀にあるのでも分かります。概して死者の霊魂は、丁重な奉仕を欠けば、すぐ
さま荒ぶる神となって報復しがちであったので、それを鎮め慰める「遊び」は、極限の消耗を強いられる体ていのものでした。
こういう話がある。
上古、語り部などというのと同じに、「遊部あそびべ」という職掌がありまし
た。喪屋もやに入って死者のために遊びに遊び、ひたすら霊魂を鎮め・慰める役割でした。飲食から歌舞から不思議の性的奉仕にいたるまで、精魂を尽くして仕
えます。あるとき、ある帝の霊が、奉仕に丁重ならずといたく荒れました。たまたま遊部に人を欠き、急遽女性の一人がこれに宛てられたものの、その女人で
は、とうてい脅威の死者に相見あいまみえるに、気力体力とも不足していると当局に訴え出まして、男子が、これに代わって奉仕したという記事が残っているの
です。これは、あるいは、男子の神主と女子の巫女みことへ分業化していった事情をやや説話ふうに言い残している記録なのかも知れないのですが、「遊部」と
いう名義に、たいへん深いものが偲ばれます。
それかあらぬか、からだを張って凄いエネルギーを要する演藝・演能の仕事が、
概して、いつしかに男子の専業のようになって行った事情は、確かに歴史的にも認められる。女がよくするには、まことアメノウヅメほどの神がかりめく体力・
気力が、常に必要であったろうと思われるのです、そのことは、今日でも、と言うより、今日であればこそなおさらに言い得るところでしょう。もちろん例外の
実在をけっして否定はいたしません、が、今日、ご婦人の演じられる「能」の藝は、一般に、よく言って優しく、すこし厳しく申せば、うすく・淡く・やや平た
く〓せて見てとれる。いかに、神の来臨・影向ようごうに能を奉納し奉仕するのが、女性の体力・気力にとって過酷なほどのものであるかを、まぎれもなく示し
てくれる結果になっている。
それがまた、私などには、貴い或る歴史の証言であり、確認であるかのように思
われて、しみじみいたします。本来は女のものであったような能を、歴史的にはいつしか男が肩代わりして主に演じてきた……と、そうも眺めますと、そこに必
然も当然も見え、また女の人がそれなりに演じましても、それはそれで死者ないし神々はきっと喜んでいるだろうと思わせるものが、ある。どこかに、ある。女
の人がこれほど強くなって来ている昨今であってみれば、女の能の復権・復活の時代が到来しつつあるのかも知れない。男の能役者たち、心して良い能を見せな
いと危ないんじゃないですか、と、ちと口の滑りましたところで終わります。「能楽ジャーナル」第18号 一九九七年七月一日
千 秋 楽¥千 秋 楽¥ ちょっと用もあって若い歌手のレコードをまとめて
聴く機会があった中に、小柳ルミ子リサイタルの録音盤があり、どうやら何日か続いたステージのそれが最終日であるらしく、やや涙声に「今日でいよいよ千秋
楽」と聴衆に呼びかけている、のを、おっと思いながら聴いた。
言った当人も、言われたたぶん大多数若い若い満場の聴き手たちも、ごく自然に
「千秋楽」を口にしかつ耳にしたにちがいない。またそれほどにこの三文字、二十世紀も残りすくない日本の国の、およそ九割がたの日本人には耳馴れた言葉に
ちがいない。
大相撲の繁昌が、この「千秋楽」を全国津々浦々に定着させている。さて意味は
と詮議だてする者はなく、もののとじめ、おわりに際して「千秋楽」ととなえるらしい風儀に異存を申立てるような人もいない。だから小柳ルミ子ほどイキのい
い歌手が口にして、ファンとの別れを惜しみ再会の機を願って「千秋楽」などと言っても会衆は、なに不思議としないで、合点する。拍手する。
相撲ほど、演歌ほどポピュラーでなくても、例えば一日の番組を「祝言しゆうげ
ん」の謡ではじめるような能の会なら、きっと最後に「千秋楽」の小謡を謡う習慣も、疑いなく生きている。「祝言」も慶ばしく「千秋楽」も有難い、いい謡だ
と私などは聴いている。
それにしても小柳ルミ子はどの辺まで意識して「千秋楽」と言ったろう、ひょっ
として舞台の人や高座の人が使う「ラク」という言葉を彼女らしい律儀さでただ丁寧に言ったつもりかもしれず、そうであったにても「ラク」は「千秋楽」を符
丁的に略して言うのであるから、事情は変らない。むしろ問題は、お能の舞台と相撲の土俵と演歌のステージとに共通して登場して誰にも異とされない「千秋
楽」三文字の幾久しい伝来に関わっており、相撲取りも猿楽や田楽の大夫も歌うたいも例外なく「職人尽絵づくしえ」に登場する「道々の者」であったからは、
この詮索は主題にかなっている。
小さく限れば「千秋楽」は法会ほうえの最後に必ず奏した、盤渉調ばんじきぢよ
うの、舞の手を伴わぬ唐楽の一曲名であり、演劇や相撲など興行の最終日をさすのはその転用ということになる。が、なぜ「千秋楽」か。そこに言葉が秘めた魔
術的な呪力への信仰があればこそ、物のはじめの「祝言」と同然に、物のとじめにまた立ち返る弥栄いやさかを祈願して、千秋万歳の豊楽ぶらくを寿ことほごう
というのに相違ない。
古代すでに千秋万歳法師なるものが、広く濫僧と呼ばれ毛坊主、聖ひじりとも呼
ばれる人々の中に混じっていた。何を職掌としていたかとは、問う方があまり固苦しすぎるくらいに、その時分には散楽さんがく法師も田楽でんがく法師も猿楽
法師も琵琶法師も餌取えとり法師も絵解えとき法師も説経法師も、みな似たり寄ったり巷にあふれ、要は田畑での生産とは根を絶たれ、藝能および信仰を表裏一
体に担い歩いていた、もろともに一類の仲間内であった。しかしとりわけて千秋万歳と名のるからは、主には寿祝の言辞や身振物真似を事とし、或る永遠性とも
また現世利益とも言える冥利を人々に信仰せしめえた呪力を持つ、ないし持つと見られていた者にも、相違ない。
かりに今、相撲、能、演歌と並べて、歴史的には太古、中世、現代という順にな
ろうけれど、これを一括して広く「遊び」と眺めれば、物真似を基本とする、能の俳優わざおぎもまた歌謡も、たぶん相撲の起源も、なお天の岩戸の前にまで溯
ることになる。今日相撲は国技のスポーツと見られて、演藝とはあまりに遠く思われるかしれないが、野見のみの宿禰すくねと当麻たいまの蹴速けはやの相撲勝
負の名高い伝統が暗に指さすところ、相撲を含めた「遊び」即ち日本の藝能の淵源を指さして逸らさない。
野見は土師はじ氏であり土師と当麻とはともに葬送の礼に関わる家であった。古
墳時代、彼らは何より墳墓の用に石材を必要としたが、宿禰と蹴速の決闘は二上山近在、もともと当麻氏の本貫に産する石を争った古伝の変形と見られる。相撲
はいわば彼らが家の藝であり、独り相撲の神事をもち出すまでもなく、霊魂を慰めるそれは俳優わざおぎや歌舞音曲と近縁の藝能であった。「遊部」伝承からみ
ても、藝能の遊びは鎮魂慰霊に誠意を尽すことを根底に、幾久しく言葉の呪力を頼んで物のとじめに「千秋楽」を欠かさなかった、その伝統の一点に「千秋万歳
法師」といった名前も残し置いたのである。宿禰と蹴速の太古以来、小柳ルミ子のリサイタルに至るまで、或る精神、或る祈願は明らかに維持されて来た。
表社会、表文化だけが注目されて来たが、脈々と潜勢伏流して来た裏社会、裏文
化もたしかにある。その、好事家こうずか的でない本格の研究が積極的に必要な機ときにさしかかっていることの、何より雄弁な自己主張を、私は、一群の「職
人尽絵づくしえ」に期待している。「千秋万歳法師」の名は三十二番歌合に見え、「絵解ゑとき」と相対している。
能 の 天 皇¥能 の 天 皇¥ 天皇を中心にした神の国という国体観で、
われわれの森喜朗総理大臣は、厳おごそかに、勇み足を踏んだ。踏んだと、わたしは思うが、思わない人もいるだろう。
能には、神かみ能という殊に嬉しい遺産がある。「清まはる」という深いよろこ
びを、なにより神能=脇能は恵んでくれる。それでわたしは行くのである、能楽堂へ。神さまに触れに行くのである。
神能に限ったことでなく、数ある能の大方が、いわば「神」の影向ようごう・変
化へんげとしての「シテ」を演じている。そういう見方があっていいと思う。シテの大方は幽霊なのだし、たしかに世俗の人よりも、もう神異の側に身を寄せて
いる。そしてふしぎにも、あれだけ諸国一見の僧が出て幽霊たちに仏果を得させているにかかわらず、幽霊が「ホトケ」になった印象は薄くて、みな「カミ」に
立ち返って行く感じがある。みなあの「翁」の袖のかげへ帰って行く。その辺が、能の「根」の問題の大きな一つかと思うが、どんなものか。
能には、神さまがご自身で大勢登場される。住吉も三輪も白髭も高良も杵築も木
守も、武内の神も。また天津太玉神も。それどころか天照大神も、その御祖の二柱神までも登場される。能は「神」で保もっているといって不都合のないほどだ
が、但し、いずれも「天皇」制の神ではない。それどころか、能では、いま名をあげた神々ですら、天皇にゆかりの神さまですら、それまた能の世界を統すべて
いる「翁」神の具体的に変化し顕われたもののように扱っている。イザナギ、イザナミやアマテラスが根源の神だとは、どうも考えていない。或いは考えないフ
リをしている。「翁」が在り、その脇に神々が在る。それで足るとしている。そうでなければ、歴代天皇がもっと神々しく「神」の顔をして登場しそうなものだ
が、だれが眺めても能舞台にそういう畏れ多い天皇さんは出て見えないのである。
隠し藝のように、わたしは、歴代天皇を、第百代の後小松天皇までオチなく数え
上げることが出来る。お風呂の湯の中で数を数えるかわりにとか、最寄り駅までの徒歩が退屈な時とか、今でもわたしは神武・緩靖から後亀山・後小松までを繰
り返し唱えるのだが、後小松天皇より先は、全然頭にない。出てもこない。少年時代の皇室好きも、南北朝統一の第百代まででぴたり興が尽きて、あとは群雄割
拠の戦国大名に関心が移った。(現在は百二十五代平成今上まできちんと暗誦できる。)
観阿弥や世阿弥の能は、この後小松天皇の前後で書かれていたはずだ、が、舞台
の上に「シテ」で姿をみせる在位の天子は、たぶん「絃上」の村上天皇ぐらいで、ま、「鷺」にもという程度ではないか。崇徳も流されの上皇だし、後白河も法
皇である。崇徳も安徳も「中心」を逐われた敗者であり、村上天皇ひとりがさすが〓神を従えた文化的な聖帝ではあるが、森首相のいうような統治の至尊でな
く、いわば優れた藝術家の幽霊なのである。
歴代天皇の総じて謂える大きな特徴は、この文化的で藝術家的な視野の優しさに
あった。またそういうところへ実は権臣勢家の膂力により強引に位置づけられていた。その意味で、森総理の国体観は、意図してか無知でか、あまりに「戦前な
いし明治以降」に偏していて、天皇の歴史的な象徴性をやはり見落としていると謂わねばならないだろう。総理の執務室に「翁」の佳い面を、だれか、贈っては
どうか。
「新・能楽ジャーナル」創刊号 二〇〇〇年
薪 能¥薪 能¥ 昔、つまり学生侍代。絵画でいう「画面」の可能性が気に
なった。例えば「球」の表面を、一〓画面として絵画が成るかどうか。ちいさな鶏卵大の球画面を塗りわけた民俗的な試みなら、無くはない。だが、もっとハイ
テクを駆使した施設的・動的な大球面への絵画表現には、刺激的な隠れた「問題」「課題」が多かろう。だが、残念ながら私の『球面絵画論』は、以来、目立っ
た反応に恵まれないでいる。
同じ頃から、私は、もう一つ「闇」という画面にも強い望みをかけていた。高度
の技術開発が伴えば、人は必ず「闇」を画面に「光」で「繪」を自在に描けるようになるに違いないと、それが、三十年ほど以前からの、まだコンピュータのよ
く知られない以前からの持論であった。この方は、名作絵画にはまだ程遠いなりに、試みが既になされている。但し美学的な検討や追究はまだ十分ではない。
闇と光との拮抗、共存、調和は、元始以来、多様な「美」の母胎であった。たと
えば、さよう……紫式部。彼女はその機微を把握しながら、古代の「闇」を世界に、「光」という主人公を設け、彼の微妙な世界の相続人として、「匂」と
「薫」の二人を立てて競わせた。その構想自体に、光と匂う、闇と薫る、との批評的な縁の把握が生きていた。
春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる
闇に紛れもない花は白梅であり、それは色なく光なくても、芳烈な薫りによって
人をたたずませる。ところが色ゆえに匂う花桜は、射し添う光をうけることで魅力を満開させる。つまり、色に匂う匂宮におうみやは光の正当の血筋なのであ
り、色なき薫君かおるのきみは光源氏との血筋を断たれた不倫の闇の子なのである。事実がそうなので、紫式部の名付けの把握、まこと、説得の力に富んでい
る。
古代の闇は、現代の我々が忘れ果てている底知れなさを湛えていた。闇あっての
光であり、光あっての匂であることを、古代の闇を畏怖した人たちは知っていた。だから光を招さ、たかく掲げようとした。光は、まこと、闇の奥から生まれる
モノであった。
世阿弥の徒ほど、光と闇との相剋と調和を徹して知っていたモノはいない。彼ら
は半身を闇に沈めながら、光に匂う美の表現に命を削った。それが彼ら根の悲しみを抱いたモノたちの、時代と社会への身を以てした批評であった。
薪能の魅惑をいう人は多い。人気は高い。それだけ闇の深さや畏おそろしさや美
しさを、日ごろ忘れている証拠のようなものでもある。かつての能は、刻限がうつれば必然に薪能であった。と同時に、そこに光りかつ匂いたつモノの来臨を、
肌に粟を生じて実感した。光臨や光来の二字は、あだおろそかなモノでない客神(まろうど)の到着を告げ知らせる。薪能の火の光は、たんなる照明では決して
ない。「匂へよ」と、舞台の能はその光により命じられている。匂うてこそ、美しい光は、真実、闇から生まれるのである。
いつ、どこの薪能をみても、同じことを感じるのだから、私のモノの見方や感じ
方は定まっている。モノすごく、モノモノしく、またモノあわれにも、モノさびしくも現れて、人にモノ心づかせ、人をモノ狂いさせて来た、モノ真似という能
の不思議さ。それは、太古米、光と闇との共演そのものであった。闇に描き出す光の絵であった。屋内の間接照明、冷暖房完備の能楽堂に取込まれてしまった現
代の能のいちばん忘れている、そのような闇の絵のモノ凄さや美しさを、かつがつ、思い出させてくれるのが「現代薪能」である。演者も見所も、「光」に、ま
た「闇」に、きびしく問いかけられている、「匂」のある能を創れよと。色よき花に匂なくて、風体も、風姿も、何でありえようかと。
清水市薪能パンフレット 一九八九年十月八日
能を楽しむ¥能を楽しむ¥ 能の舞台をみて、何に心をひかれたか尋ねられる
と、初心の人ほど圧倒的に数多く、「面」「装束」そして「囃子はやし」と答えている。間違っても「仕舞しまい」や「地謡ぢうたい」がよかったなどとは答え
ない。
面・装束は見た目に、囃子は聴く耳に、たしかに快いし美しい。それぞれに珍し
くもあり、存外に古くさくもない。機会に恵まれて能の舞台を初めて見た人ほど印象的であるらしく、何が何やらわけが分らなくても、とにかく一番の能にねむ
けを催さないでいられた、目をみひらいていました、美しかったなどと答える人が、思いのほか多い。
他人事ひとごとを言うのでは、ない。私自身、能の舞台に初見参ういけんざんの
ころがそうであった。
女面は、増ぞうにも泥眼でいがんにも心ふるえたが、まして小面こおもての美貌
にはほとほと思い〓せた。あまり美しい小面ゆえに、シテより早く橋掛かりに登場のツレの女を、これぞ主役と思い込んだこともあり、かなわぬ恋をしてしまっ
て夢にもみたことがある。それどころか思い余って清水焼のよく似せた小面こおもてを部屋に隠し、秘密のキスでいつか唇の紅を悩ましく剥がしていたことも
あった。
般若の面でも、すこぶる美しいものとして眺めた。大飛出おおとびでみたいな異
形いぎようの面も十分に面白く、好きになれた。『顔と首』(小沢書店)などという本を後年に書く種は、播かれていた。
装束のことは少年にはなにも分らない。ただ見馴れるにつれてある程度は形の見
分けも利いたし、役により色や柄の約束のようなものが有るらしいのにも気が付いた。狂言師の衣装など、軽みもおもしろく剽ひようげた文様も趣味豊かに目に
入るようになった。
囃子は、おおかたの例にたがわず大鼓おおつづみのあのカン高い音色に、まッさ
きに、肝を奪われた。笛は、習いたくて習いたくて、叶わぬ夢を何年ものあいだ見とおした。笛への夢は実はさめ切っていないが、いまは小鼓のまるい音色に気
が静まる。古道具の店などで時代の鼓胴を見るつど、欲しいなと思う。
それはそれ、たぶんこれも真実であろうと思うが、囃子が佳いという人の半ば以
上が独特のあの掛け声に惹かれるのではないか。私などいい年齢をして、日に何度か気分を変えたくなると、吸わない煙草のかわりに下腹に力を籠めては、「イ
ヤーッ」とか「ヨッホン・ヨォ」とか「オォ…オォッ…」とかやっていい気分で楽しんでいるが、むろん真似ともいえない勝手次第の遊びではある。だが、功徳
である。
と、まぁそんな次第で、能が一番、文楽(人形浄瑠璃)が次に面白く、歌舞伎は
ビリ、などと少年の昔の私はこっそり日記にも書いていた。高校へ上がって大学にまだ間がある頃のハナシだから、これは、相当のツッパリようである。我なが
ら、思わず眉に唾する心地である。
だが、まるまる無茶な言い分とも思わない。それどころか物指によっては一に
能、二に文楽、三に歌舞伎の順に「好み」の票を投じて、それで是とする文化史的・様式的・趣味的な基盤は、(説明せよとなると長いハナシになるが)調って
いる。初心の高校生に、それがどれだけ実感でありえたかが疑われるだけだ。物指次第でちょうど逆様の順番もつき、高校生ならその方が素直なようにも思われ
そう…と、いうだけだ。
くわしい記憶は、もはや、ない。しかし一つあの当時、生意気は生意気なりに
「俗」で有ると無いとを分別批評の金科玉条と眺め眺め、それぞれの舞台それぞれの演戯にエラク厳しく対していたことは、妙に忘れていない。ウソとマコト、
夢と現、あの世とこの世、神と人。そういった区別を立ててどちらかに身を置かねば済まないような不自由なリアリズムからは、能が最も純粋に解放されている
と私は感じていた。「俗」に対決して、いと遠きもの、趣向は豊かだがごく自然でしかも高貴なものと感じられた。生死の道にしんしんと雪降りつむように、永
遠の時空が能の舞台には息づいていた。しかしそれとて、正解とも誤解とも言い切れないものがある。藝能として歩んで来た道のりが、能の場合続く二つよりよ
ほど長かったから、堆積した時間の質も量も文楽や歌舞伎よりはるかに世離れているのだと言えば済むことかも知れないのだった。だがやはり、それだけでは、
ない。
わが伝統藝能には、古来求められつづけた役目として、一に「祝う」ことと、二
に「清める」ないしそれにより人が「清まはる」ことと、少なくもこの二つの働きは成すべきものとされた。
千秋万歳、寿福増長、皆楽成就。言祝ぎの藝で、例えば能があることは、四座一
流すなわち観世、宝生、金春、金剛、喜多など名のりのめでたさを見るだけで納得されよう。「祝う」藝は今日の諸藝能にも、明らかに衰弱はしているものの認
められる。たとえば「ラク」という言いかたで、よほど元気のいい若い藝人でも「千秋楽」の伝統にかすかに繋がれている。
だが今日、藝を見せてないし見て、「清める」「清まはる」ということを意識で
きることは、さすがに稀になっている。どういうことですかと、藝能人にすら反問されたりする。災厄を「祓はらう」という行為は、形骸化はしていても例えば
初詣でなどで年中行事化しているのだから、全然、過去のことでもない。ただそれにより「清まはる」即ち、けがれが除かれ心身が清浄になるという自覚は、あ
まり無い。あまり無いけれど、それでも能の舞台で佳い「翁」や佳い「高砂」などに惹き込まれるときには、したたか「清まわる」という実感に恵まれる。文字
どおりに有難くなる。ただ神能ばかりでなく「田村」のような修羅能であれ「羽衣」のような鬘能であれ、すべて能には人の思いを無垢にする霊気が内在してい
て、その点が例えば文楽や歌舞伎より魅力…と、言えばはっきり言えるのである。少年時代から私は、だから能はすばらしい、居眠りしている間にも「清まは
る」ことが出来ると思っていた。能の舞台でこそ神的なモノの不思議に出逢えるのを、悦んだ。
その頃、どんな能を私はみていただろう。「高砂」「三輪」「嵐山」「羽衣」
「田村」「清経」「八島」「実盛」「井筒」「半蔀はしとみ」「松風」「野宮ののみや」「三井寺」「花筐はながたみ」「桜川」「隅田川」「紅葉狩」「葵上」
などが次々に、舞台や演者とともに思い出せる。花ゆたかに、少年の思いをなるほどもの寂しくひきつける、そして今でも好きな能ばかりである。「自然居士じ
ねんこじ」や、「善知鳥うとう」「鵜飼」のようなのや、「砧」「千手せんじゆ」「蝉丸」などにも出会っていたろうが記憶にない。それらも今では身にしみて
心に残る好きな能である。しかし一番好きなのは、今言った意味からも「翁」なのは当然である。
ま、思い切って素人は素人らしく能との付合いを語るに落ちて語って来たわけ
で、特別許されないこととも思わない。が、ここで話が尽きても困る。なるほど面・装束も囃子も、能一番を形づくる重要な条件に山々相違ない。しかし、それ
だけで尽されるものでもない。謡い、語り、そして舞う魅力。物真似の魅力、また間あい狂言の魅力。能本来の面白さの魅力が、工夫も十分に、むしろ主として
それらにあったと理解するまでには、やはり大分な月謝を払わねば済まなかった。
能が、歌・舞そして物真似の藝から出発して大成したことを、現代の我々はおお
かた忘れ果てている。ましてそれを面白いと受入れしみじみ堪能するには、ただ知識ばかりでは事足りない。どことなく「時間」の魔術で歴史を超え、古代や中
世の「感性」なり「信仰」なりに行き着かねばならない。必ずしもラクなことではない。例えば先に触れた、能がただ「祝う」藝であるばかりでなく、その根源
に「清め」「清まはる」ための藝質を秘めて来たことなどは、こんな時代であればこそなかなか忘れ果てて意識にも上りにくい。感受しにくい。だが、謡曲の詞
章にも節調にも、またそれに即つかず離れず舞や物真似の技と面白さにも、ただ文学ただ音楽ただ演戯とは言わせない、神と人との契約の重みがかかっていて、
その重みがはたと有難く身にしみないのでは、所詮「清め」ようもなく「清まはる」わけもない。なぜ、そしてなにを、能は舞うのか、また謡うのか。面・装束
の美しさも囃子の心地よさ・小気味よさも、その根の深い不思議の問いへかかわって行くことなくて、生きた体験にはなりにくい。ならない。
能を、現代のセンスで演劇として創ろう演じようという批評や実践は、無意味で
はない。が、能の「舞う」「謡う」根本を逸れてでは大したことは望めない。初心のファンが、おおかた「謡う」「舞う」という根本にかえって心を惹かれず、
退屈と難解の当然の理由にしか挙げようとしない現代能の現実。能が能の本来を、歌舞伎や文楽の場合以上にかなり無残に失っていることの、これは弁解しよう
のない証拠とされて致しかたない。
能は「現代」の「演劇」的変容と成熟とを考えずに済むのかといえば、それは、
そうではない。能の陥りやすい落し穴は、外からも内からもとかく安易にもたれ込みやすい専門知と神聖視なのである。能役者ほど、また能の見巧者をもって任
じている人たちほど、かえって能に対する初心の批評や批判ができない。現代に対応する弾みも用意も乏しい。同時に初心の者はとかく己れの初心に自信なく、
尻馬にのって過大に持上げたがる。だが、能には、ことに現代通行の能にはよほど変なところ、おかしなところも有るのである。その変でおかしなところをさか
しらに強調して、妙に、現代のまた西洋の前衛劇と能との共通性などをばかり振回されても迷惑する。
能の魅力などと、安易の言説をつつしむことから、演者も見所も初心で出直した
い。
森田拾史郎写真集『能』序新人物往来社一九八七年十一月二十日刊
蝉丸・逆髪¥蝉丸・逆髪¥ 蝉丸の能には、ごく私的な興味ではあるが、気にな
るところが一つ二つある。
その一つは、勅命により蝉丸を都のそとへ連れ去って坊主にしてしまう役が、
「藤原清貫」と名乗る人物であること。
清貫という人は、醍醐天皇、つまり「延喜の聖代」に仕えたてまつる臣下という
以上に、時の権勢左大臣藤原時平ときひらの腹心の一人であった。父保則とともに反菅原道真党の有力な旗振りであった。父子二代していろんな機会に、しかも
討って出るように道真の道を狭く狭くする方へ働き、同時代の、だれもがそれを知っていた。あげく、清貫は、清涼殿を襲った道真怨霊といわれる雷に、八つ裂
きに焼き殺されてしまった。と、言うより、彼が爆死すると間髪をいれず「道真怨霊」ということが朝廷で囁かれ、脅える醍醐天皇を尻目に、亡き兄時平の与党
を逼塞させて、弟忠平の勢力が、油が水面をなめるように広がり行く。
「延喜の聖代」というのは、緒しよについた摂関政治をなんとか確保したい下心
で、藤原北家ほつけ、ことに兄時平の蔭にいながら忠平が着々と地下活動をしていた時代である。醍醐の第三、四の御子みこかともいわれる逆髪さかがみ・蝉丸
が、その奇病や不具のゆえに巷に棄てられるというのも、見ようでは源氏崩しであった。藤原氏による賜姓源氏崩しは露骨であった。
もっとも逆髪も蝉丸もただ源氏なみとは見られない。盲めしい、聾みみしい、足
萎え、逆髪、みな不幸な病いゆえに、尋常の人をふかく超えた不思議の力が具わっていた。蝉丸は琵琶の秘曲を博雅三位はくがさんみに伝えたともいわれる、い
わば琵琶法師の祖のような伝説の人であり、才能は盲目という不幸に表裏して想われていた。逆髪も、また、悠久の民俗に下支えられての、坂神か、ないし塞さ
いの神のちからを帯びていたのかも知れない。少なくもそういう不思議を口実に、かえって延喜の聖代はいわば身体障害者の二人を無用の邪魔者にした。律令体
制のなしくずし崩壊過程で弱者の切りすてが用捨なく始まっていた時代への、つまり貴賎都鄙という二重の座標にあって、賎は鄙へ棄てればよいとし始めた時代
への、「蝉丸」という能は、痛烈な批評の意味を負うていた。
この能の作者は、まさしき蝉丸・逆髪らの無念と成熟とを体した、まぎれもない
中世の藝能者であり、名誉の末裔であった。朝日藝能文化サロン84 パンフレット 一九九一年十二月十日
葵 上¥葵 上¥ 解説じみた話は避けたい。と、なると私ごとになる。
与謝野晶子訳の『源氏物語』と出逢ったと同じ頃に、能にも出逢っている。大江
又三郎の舞った「半蔀」や若き日の観世元正が舞った「羽衣」などが、目にある。戦後間なし、私はまだ新制中学の二年生だった。京都の町なかにいた。
父は若い時分、何かあると地謡にかり出されて、地頭ぢがしらに「扇子で尻をつ
つかれる」ような稽古をしていたらしい。その余波で券など手に入ったのだろう、私はよろこんで父の代りに能楽堂へ出かけて行った。父が日ごろ独り謡うの
を、「佳えぇな…」と思って聴いていたし、謡本も好奇心からたいがい「梗概」だけは読んでいたので、とくべつ背伸びというほどでなく、二、三番の能なら楽
しんで見て帰った。面白いとは言えなかったにせよ、たしかに「美しい」とは感じた。この実感、今も利息の大きい私の財産になっている。
ちょうどその頃、現代語訳ながら『源氏物語』を読む機会に恵まれ、『更級日
記』のうら若い女筆者のような惑溺の日々を送った。物語は少年の思いにも十分面白く、しかも美しかった。その本が人からの借り物だったのを、あんなに口惜
しく思ったことはない。
能の台本に、『平家物語』に取材したものの多いことを、私は知っていた。だ
が、例の「半蔀」や、「葵上」など『源氏物語』から採った能もあること、意外に数少ないこと、そしてなぜか「仕方のないこと」といった感想を、私は持って
いた。なぜ「仕方ないこと」なのか、その辺を押して考えもしなかったが、『源氏物語』の美と『平家物語』ないし能の美とが、なにか素性を異ことにして幼い
私には想えていたのだろう。
『源氏』と『平家』の「ものがたり」かたも微妙に異なって感じたし、「平家語
り」と「能の謡い」との近縁ということも子供心に予感はあった。なにより『源氏物語』の自然さと能の趣向とでは、美を狙う原理のようなものがちがう気がし
ていた。
能面の鬼と出逢ったのは、それでも、「葵上」が最初だった。演者が誰だったか
などよく覚えないが、その能を、嫉妬の表現とは見なかった私の気持ちを忘れない。原作では読めてなかったのに、舞台の女に逢った瞬間から、悲しみが極まれ
ば人は鬼にされてしまうと感じた。葵上が鬼なのではなくて、光の男心にこそ鬼が棲むとも、感じた。凄い体験だった。朝日藝能文化サロン28 パンフレット
住 吉 詣¥住 吉 詣¥ 御礼詣りと、よく言ったものである。このごろは物
騒な例もあるけれど、それはこの際忘れよう。光源氏と明石君とが、都から、明石から、住吉に詣でて再会する。ともに深い背後に御礼詣りの意味がこめられて
いて、御礼の筋にも関わりがある。偶然の出会いではなかったのだ、源氏物語世界を律する運命が、ここへまた一つ具現していたのである。
光の生母の桐壼更衣がさる大納言の娘であったこと、その大納言の兄弟にさる大
臣がいて、その大臣の子が明石君の父親の明石入道であること、つまり光の母と明石の父とはいとこの仲であったこと、光と明石はまたいとこの間柄になること
など、とくに『住吉詣』という能を見るには知っていていいことである。そしてこの光や明石の祖父兄弟が、いわゆる藤原氏でなく在原氏なみの多分宮家の血筋
をうけていたこと、遡れば皇家の血筋にあったことも、源氏物語世界の構造や表現の意図からみて、とくに注目されていいのである。
源氏物語が、大きくみて皇・宮家と藤家とうけとのさまざまな競り合いを縦糸に
していることは、光が帝の愛子でありながら、源氏を賜って皇位から逸れた道を強いられたそもそもから、浮舟を争う匂宮と薫君との葛藤に至るまで歴然として
いる。そして現実の平安時代には藤家は皇家を圧倒し、道長らのまさに「望月のかけたることも無」き摂関体制を確立していたのだが、物語世界では逆に光源氏
とその一統が着々と藤原氏に圧倒し、光君は准太上天皇に上り、藤壺や明石や宇治中君ら宮筋の血をうけた光源氏の子孫が、つぎつぎに皇位・皇権を確保(キー
プ)しつつ、この世の極楽のような「六条院物語」や「二条院物語」を達成して行くのである。住吉詣はその華麗にして深切な「序曲」をさながらに奏でてい
る。藤原氏ならぬ光の母や祖父の、明石の父や祖父の、そして皇宮家の、それは久しい悲願が達成されて行く運命そのものへの「御礼詣り」を言わず語らずに実
現していたのである。
紫式部は藤原氏の女であったが、父為時や伯父為頼は、近い血縁で結ばれた例え
ば村上天皇皇子の具平親王の周辺に文化のサロンを得ていて、彼女もそれを誇りとしていた。あの夕顔のモデルが親王の寵愛深かった大顔といわれた美女であっ
たのも、角田文衛氏のいわれる如く事実であろう。紫式部が複数の賜姓源氏を念頭に光君を造型していたのも確実だろう。
「光」源氏物語にこめた作者藤原氏が情念の真相は、まだ深い「闇」に隠されてあ
る。この「闇」に潜んでいるのは、まず、まちがいなく、海の王者〓蛇神であろうことは、物語に占める「住吉社」の大いなる臨在が示唆しており、まさしくこ
の事に繋がって実は源氏物語と平家物語は、共通する「海神」の掌の上に成った世界であることも、いずれ正確に論じられて行くことだろう。
朝日藝能文化サロン95一九九四年十一月二十九日
玉鬘 噂の姫君¥玉鬘 噂の姫君¥『源氏物語』の楽しみかたはいろいろ可能だ
が、巻々の好みや登場人物の好き嫌いを話しあって楽しんだ人は、古来もっとも数多かったと思われる。場面や風情や事件がそれほど変化に富み、また主人公な
みに魅力のある主要男女の豊富なことも、作り物語としては群を抜いている。つまり、楽しみがいがある。鎌倉時代のはじめ頃に出来た『無名草子』などは、そ
ういう批評ないし噂ばなしの楽しみを「本」のかたちにした最初であろう。
「玉鬘」という女性について一と通り知っておくことは、そう難儀ではない。この
物語では「光」源氏が第一の主人公なのはもとよりであるが、その幼くからの親友(亡妻葵上の兄)に「頭とうの中将」(のちに太政大臣にもなる藤原氏)がい
て、その彼が元愛人の「夕顔」に生ませていたのが「玉鬘」である。ところがひょんな経緯から「夕顔」は「光」に愛され、ある晩五条の家から連れ出された先
で、にわかにモノに憑かれ死んで行く。「頭中将」はそうした事は全く知らずに、「夕顔」にも娘にも未練をもっていた。
母を頼りなく見失った稚い「玉鬘」は、理由あって実父を頼ることもならず、そ
のまま乳母たちに連れられ九州へまで流れ、それは美しく成人するのだが、在地の男の威おどしぎみの求婚にあい、からがら都へ逃げのぼって大和の長谷寺に参
籠さんろうのおりから、今は「光」君に仕えるかつての母の侍女に幸運に見付けられる。そして時めく「光」君は「頭中将」に一切秘めたまま「玉鬘」を己おの
が隠し子として引取り、世間へは「にせの親」のまま、内々には美少女相手に微妙にけしからぬプレーを楽しむのだが、やがて実父に全てを明し、「玉鬘」は頭
中将の子で光君の養女として、後宮に出仕する。しかも予想や期待を大きく裏切り、彼女は、にわかに「鬚黒ひげくろ」といわれる男の妻になり、子を沢山生
む。『無名草子』はこの「姫君」のことを、好感が持てて申し分なく、ことに並び立つ二人の大臣を父にしていた重々しさなど高く評価しつつも、つまらない男
とそそくさと結婚したりして「いといぶせく心やまし」い、つまり実に不愉快である上に、あの楚々とした「夕顔」の娘と思えぬ自尊心に溢れて「しっかり」し
ている所は、どんなものかしら、などとやっている。筑紫に下っていたことまで、「余り品下りて」と爪弾きの種にしている。とは言え「玉鬘」のいない物語の
寂しさは想像に余り有り、私など大好きな人である。
朝日藝能文化サロン69 バンフレット 一九九四年十一月二十九日
清 経 入 水¥清 経 入 水¥ 平家物語のなかで、(覚一本かくいちばん
などに限っていえば)平清経に関する記事はわずか八ヶ所にしか出てこない。しかも内六ヶ所はただ名前が出るだけであり、記事らしいのは「太宰府落おち」に
見えるまさしく「清経入水」の数行分に過ぎない。おなじ入水じゆすいのことが字句もほぼ同じにもう一ヶ所、灌頂巻「六道之沙汰」で大原の庵室をおとずれた
後白河院をまえに、建礼門院その人の口から、あれぞ「憂きことのはじめ」であったと語り出されている。西国にあってまだ持ち直す力は十分蓄えながらの「清
経入水」は、平家一門にとって容易ならぬ滅亡への先ぶれであったし、直接には、やがて兄維盛これもりの八島を落ちて高野こうやから熊野へ、そして入水死に
いたる小松大臣重盛の「家」の悲劇を、哀韻豊かに導いている。おそらく甥清経とともに長兄重盛の手もとで一時期を育てられた建礼門院にとっては、まこと
「あなあさましの、あへなさや」と嘆かれたのであろう。
清経の実像は、同じ時代のいろんな文献に散見できるとはいえ、それもちらと遠
目に姿を見かけたかという程度で、建礼門院右京大夫集に、斎院の中将という女に飽きて他の女に見かえているような公達きんだちぶりなど、垣間見る程度とは
いえ、『清経入水』という奇怪に凝った小説で世に出た私としては、はなはだ有難い記事であった。
兄維盛の陣抜けを承知していた私は、実は、それをしも弟清経に倣ったのではな
いか、清経の入水は実はひとり遁走していちはやく平家の陣営を離れ去ったのではないか…と、想像したりした。想像じたいが強あながちなものであったけれ
ど、そもそもの始めに月明のもと舟のへさきに端座した清経と、海面数間のさきに宙に浮かんで大あぐらの鬼との「問答」場面を想い描いていたのを思い出す。
仕上がった作品は、それから思えばよほど別ものに変貌してしまったが、それでも「鬼」のようなモノに導かれて清経が戦列をひとり音もなく離脱して行ったと
いう筋立ては変えなかった。
能の「清経」を見たのは、平家物語を岩波文庫で読んだ中学三年よりやや遅かっ
たが、舞台はしんそこ身にしみた。私は根ッからの平家びいきであったし、ことに「清」いの一字ゆえに清盛の悪行をも大目に見ていたような少年であったか
ら、理屈抜きに「清経」という名前に、もうすでに惚れていた。あああの清経に自分が化なってみたい…と思った。朝日藝能文化サロン51 パンフレット
小 宰 相¥小 宰 相¥ あわれ尽きない物語が平家物語であるなら、あわれ
をとどめたのは平家の公達であり、その周囲にいた女たちであろう。優雅の極みを演じてあわれであったならいいが、修羅のちまたを、それも負け修羅の血と涙
とに染めだされ、浮き沈み、果てて行ったのである。ことに通盛みちもりと小宰相のように、人目にうるわしいアツアツの夫婦であった場合は、ひとしお、あわ
れ深い。はじめて橋本敏江さんの平家語りで、小宰相入水の最期を聴いたときなど、泣いてしまった。十六のわが子知章ともあきらをみすみす身代わりに死な
せ、命助かって御座船ござぶねに戻った父知盛の、思わず泣いてかきくどく武将のあわれも一圧巻であるけれど、それと双璧をなし「真実心」に胸うたれるの
は、通盛と小宰相の男女愛の場面であろう。
ところがこの小宰相が、亡き通盛の父権ごん中納言教盛のりもりらとともに源氏
の手をのがれ、はるか山陰の陸の孤島ともいわれた僻陬へきすうに、安徳天皇を奉じ、余生を完うしていたという伝承がある。日本海の波轟く兵庫県下の香住か
すみ町一円の地であり、その奥地の畑はたの在である。
「伊賀平内左衛門」といえば、平家物語の要所に顔をだす大事の脇役の一人であ
る、が、その子孫で、平成の今日もやはり「伊賀平内左衛門」と名乗る紳士がおられる。壇の浦に沈んだと記された平内左衛門もまた、門脇かどわき中納言を棟
梁に、幼帝を堅く守護してここに逃れ住んだ。そしてその「伊賀平内左衛門」氏らは、まぎれない平家の誇りと伝統とに現に健在で、機会あるたびに香住を、ま
た畑の地を訪ねてくれるよう、お手紙をいただくのである。
もとより伝統的な平家落人おちうどたちの、よくいう後裔なのであろう。そうい
う方々のいわば「平家会」ともいえる広範囲な連絡は現在もよくとられていて、面白いことに会の組織は、往昔おうせきの官位の高い低いで古格に守られてあ
る。そんな名簿も、微笑ましく目にしたことがある。小宰相の嫁かしていた従三位通盛の家は、六波羅本拠の門脇にあった。父は従二位中納言であったから、生
き延びた平家の一門では最も高位高官の方で、だから現在の門脇氏も、やはり重きをなしてお仲間のなかにあることは、じかに文通などもして承知している。山
陰の現地へ行けば、たしかに小宰相がその地で帝と運命をともにして果てた遺跡や伝承が採訪・採取できると、伊賀氏らのお誘いはしきりであるけれど、まだ訪
問の約束を果たせないままでいる。こういう話に私は、白い目をむけたりしない。胸の一点に、あぁよかったとかえって喜び迎えるものを秘している。平家の時
代は何故か懐かしい。
朝日藝能文化サロン100 パンフレット 一九九五年十二月十二日
十三世梅若万三郎¥十三世梅若万三郎¥ 京観世の、端の端のほうにかすかに席
をえていた時期が、わたしの父に、有った。その父から、わたしは謡うたいという美しいもののこの世に在るのを教えられた。耳で教わり、やがて望んで口づた
えに教わった。まだ新制中学生だった。ながくは続かなかった。が、ことに『花筐はながたみ』と『東北とうぼく』とは、謡曲としてよりも文藝として、印象ふ
かくいつまでも心に残った。
近江の湖西、安曇あど川の辺に想をえて、長い『冬祭り』という新聞小説を書い
たときにも、『花筐』の昔が、継体けいてい天皇の大和へと苦心の歩をすすめていた大昔が、影をひいていた。また現存東北院のすぐちかくに、恋をしていた昔
の妻の家があった。和泉式部を話題に、ひっそりと、境内のデートを楽しんだ。京の大学時代は花であった。
そんなふうにして、わたしは、能や謡の世界に、親しむようになった。いまもい
うように父は観世流の人で、大江又三郎らの舞台に地謡を勤めたりしていたから、その口から「梅若万三郎」の名前がいと重々しげに出てきても、そう突飛なこ
とではなかったのだろう。だが、なぜ梅若で、なぜ万三郎なのか、父と直接の縁など必ずしもよく伝わってこなかった。ただ名人だと聞いた。流儀の大きな名前
に、父なりの感嘆や感想があったのかも知れないが、具体的な話は聞かなかった。聞いて分かる年頃でもなかった。ただもう「梅若」「万三郎」といういい響き
に、少年は、ここちよく聞き入った。忘れなかった。
その当時、大江の舞台へ、ときどき観世元正が来ていた。他流では京都のことと
て金剛巌の名をよく耳にした。
あとにもさきにも右の四人の能役者しか名前は覚えずに、高校の頃には、いっぱ
し、能の大ファンのような顔をしていた。父の先生のたしか溝口桂三という名前すら記憶朧ろで、まして万三郎は、名前しか知らぬまま、長い時間がわたしの内
を流れた。流れ去った。
東京へ出て来てからは、ご縁あって、もっぱら喜多の舞台に親しみ、ときどき宝
生流にも足を運んだ。たまたま梅若万紀夫の能を五流能で初めて見なければ、そしてその後の万紀夫のちいさな蹉つまづきに遭わなかったら、わたしは特に梅若
能へは近寄らずじまいだったかも知れない。わたしは一頓挫した万紀夫の才藝が惜しかった。かげながら、復帰の応援をせずにいられなかった。幸い望みはかな
い、またよく彼も盛り返して、時に、目をみはる美しい能を見せてくれる。おかげで、わたしは万紀夫の父十三世梅若万三郎の舞台をも目のあたりにする機会
を、何度も恵まれるようになった。はたしてこの、万三郎が、あのわたしの父の賛嘆していた万三郎と同一人であるやら無いのやら、詮索はせずじまいに、万三
郎の最期の舞台まで繰り返し楽しませてもらえたのは、嬉しいかぎりであった。
わたしは、亡き、万三郎の袴能や直面ひためんの能が、殊に好きであった。面構
えに異色の味があった。万紀夫に、一日もはやく襲名してもらいたい、梅若の舞台がますます美しく冴えて匂いたってほしい。
十三世梅若万三郎三回忌追善能 プログラム
友枝昭世 鞘走らない名刀¥友枝昭世 鞘走らない名刀¥ 私に、いわゆる能評
家のように能をみる備えはない。気もない。その日の能をみに出かけて、いい気持ち、いかにも清まはった気持ちになれれば、それだけでも、いい。そんなのは
こっちの気分や体の調子も大いにかかわることだから、だから、私は、当日の能役者に、なにもかも、いい・わるいを押し付けようと思わない。むろん向こうは
本職なのである。よろしく演じる責任がある。しかし、へたはへたで、どうすることも出来ない。やめてくれればいいのだが、生活がかかった人をどうすること
も出来ない。みなければいい。
それでも能はみたいから、だから予告の番組をみてしまう。この人だったらやめ
とこうとか、都合をつけてでもみに行こうとか。曲の魅力も関係する。どっちかといえば、曲が好きなら、少々役者が物足りなくてもみに行く。うまくしたもの
で、その曲の理想のようなものが頭の中に出来ているから、役者がへただと思えば寝ていても能は楽しめる。けっこういい気分で能楽堂から出てこれる。そうい
う藝能は能だけである。能はおもしろい。
友枝昭世は、みに行こうと気のはずむ能役者である。能を舞っている姿に、近
寄ってちょっと手をふれてみたくなる。演戯にぶあつい弾みがあり、ふれなば消えんのかそけき魅力よりも、生きもののというしかない力ある感触が、昭世の舞
台に、舞台の空気に、いつも見所けんしよをはげますほどの波動を生んでいる。たとえ能では死者や霊異を演じていても、男を演じ女を演じていても、あわれは
あわれで、美しいは美しいで、昭世のシテは実に落ち着いてものを言ってくる。花があり、実も、落ち着いて熟れてきている。だから手をふれてみたくなるのだ
ろう。「昭世の会」旗揚げの「朝長」でも今度の「江口」でも友枝昭世の会は、昭世だから安心してみに行ける。
友枝昭世とあらたまって話したことはないが、たぶん、この役者の地は、部下に
人気のある会社の部長級が、本人にまったくその気はなくても、いつのまにかもっと偉くなって行く、そういう途方もない普通の人なんじゃなかろうか。鞘走ら
ない名刀のような、能には、そういう天才が生きるのである。
第2回友枝昭世の会 パンフレット 一九九六年五月二十五日
文学としての謡曲批評¥文学としての謡曲批評¥ 能評を、ときどき読む。能を
観る、なにか有益な参考になるだろうかと。
だが私のような、怠惰な部外者、ただ好きで気分がよくて観ている見物人には、
そうそうは役に立たない。
それなりの日本語としては理解するけれど、当日の所演を観ていてさえ、能評の
言うところが、あまりに技術的であったり、あまりに観念的・美的であったりで、ピシャリとは分からない。
演者には分かるのだろうなと思う時も、演者にも分からんのじゃないかと思う時
も、ある。極めて特殊な「批評」いや「注文」だなと、文学の作品評などと比べて思ってしまう。
そんなことを思っているうちに、気がついた。
能の台本である謡曲は、当然のように古典文学全集の配本に一、二冊は欠かせな
い常連になっている。私の書架にも何種類かの古典全集が揃い、いずれにも「謡曲集」が入っている。採られた曲も、あまり違っていない。注釈や鑑賞や解説
も、あまり顕著に向きがちがうという風には見えない。
それらを通じて、一つの特色を挙げるなら、古典文学とはいいつつ、「文学」作
品として「謡曲」を取り扱っていない。
あくまで能の台本、演能の実際と関係づけて詳細に解説されるか、ないし作者の
詮議や藝能の歴史が解説されているに過ぎない。謡曲の一作一作が「文学」作品として批評されている実例を、ほとんど国文学の世界で、見たことがない。盲点
のようにこれが大きな空白になっている。わたしが知らないだけかもしれないが。
よく「名曲」だといって能を褒めている。
当日の「演能」のすばらしさを褒めていう場合は、ごく率直な称賛であり問題は
ない。だが、演者のだれそれに関係なく、たとえば『清経』は名曲だとか『砧』は名曲だとかいう場合、名曲という物言いが示すように、あくまで舞台上に表現
された「能」の評価であり、文学作品として「名作」であるやいなやは、これまで、当然のように人の関心から漏れてきた。問うまでもない、どうでもいいこと
のように扱われてきた。そう思う。だからか、「謡曲」を文学表現として一篇ずつ批評しよう、評価し直そうとしてきた人が、まず見当たらない。そう思う。
能のことは、藝能として文化史として、ほぼ隈なく語りまた書かれてきたかも知
れないけれど、じつは、謡曲がどういうふうに古典文学として優れているのか、それとも、その面では不十分なものであるのかなどは、いっこう語られも書かれ
もしてこなかったのである。少なくとも、現存の謡曲を網羅し、そのような評価を尽くそうとは誰も努めてこなかった。
それで構わないのかも知れない、能にかかわる人たちの世界では。
しかし、それだけで謡曲のことは事足れりとするならば、今度は、そんな「謡曲
集」が、どんな古典全集にもけっこう広い場を占めて来る理由が、立たないのではないか。これは「狂言集」にも同じ事が言える。「観世」65巻1号 一九九
八年一月号
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目 次
能の平家物語……………5
はじめに 曲目の解説ではありません。瑚
祇王 心に任せぬ此身の習ひ………… 忠度 ただ世の常によもあらじ…………
熊野 またもや御意の変るべき 敦盛 跡弔ひてたび給へ
俊寛 待てよ待てよといふ聲も 通盛 討死せんと待つところに
小督 恋慕の乱れなるとかや 千手 目もあてられぬ気色かな
頼政 憂き時しもに近江路や 藤戸 思へば三途の瀬踏なり
鵺 仏法王法の障とならんと 八島 源平互に矢先を揃へ
実盛 老い木をそれと御覧ぜよ 正尊 鞍馬は判官の故山なり
経政 恥かしや人には見えじものを… 船弁慶 潮を蹴立て悪風を吹きかけ
清経 偽なりつるかねことかな 景清 面影を見ぬ盲目ぞ悲しき
巴 薙刀柄長におつとりのべ 大原御幸 その有様申すにつけて恨めし…
能 死生の藝 十六篇