秦 恒平・湖の本エッセイ 2 花と風・隠国・翳の庭
1
目次?美の感覚(1)
花と風……………3
花……………5
風……………45
隠国………………101
怨念論……………103
化身論……………115
長女論……………127
翳の庭……………137
私語の刻…………154
湖の本エッセイ・要約と予告………158
〈表紙〉
装画城景都
印刻井口哲郎
装幀堤いく子
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花と風--日本の永遠について--
3
「春秋」昭和四十五年十月号-四十六年十月号
4
花
一、花と谷崎潤一郎
もうすちかごろたつおおせ
狂言「花盗人」の中に、「秘蔵の花を此様に折ると申は、近来腹の立事で御ざる」と憤慨し、「仰ら
とおりくだしんぼ
るる通、花をあらすと申は何共、心ない事で御座る」と応ずる条りがある。狂言はやがて花を折った新発
ちとが
意と折られた主がたの間で、銘々に花を盗んで各にならぬ古歌、花を折れば管になる古歌をあげて争い、
いまし
最後には、いったん花盛りの立木に縛められた坊主も頓才と花を想う優しさに赦されるのである。証歌
としてあげられている古歌は、
見てのみや人に語らん山桜手ごとに折りて家づとにせん
みよ
折りつれば鼠ξに汚ら立ちながら三世の仏に花奉る
などであり、私は殊に冒頭の「秘蔵の花」ということばに心意かれる。珍貴の財宝でなく、季節が来れ
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はおのずと咲く花、ここでは普通の桜であろうに、それを「秘蔵」と言い切るには、他にも例えば能の
はちのきにおうのみや
「林木」や紫の上遺愛の桜を袖に囲うた幼い匂宮なども想い出されて、相応に深い心入れが読みとられ
ねばすまない。秘蔵といった感じ方で花を愛する例が西欧にもあるのだろうか。
(1)
また花を仏に奉るのに、人の手で折れば汚れてしまう、立木のままに咲いた花を供養しようという歌
にも、花の美しさ浄さが、単に眼に見え手に触れうるもの以上に、深く心中に秘蔵されて咲き匂うもの
だということが窺われる。花を花たらせていたものが何も四季自然の法則ばかりでなく、美しいものの
美しさを久しきにわたって磨き抜いて来た古人の、心の在りようを偲ばせる。納得させる。
(2)
うたおぴただ
それにしても事新しく花を話題にするのは、花を語り、詠い、描いて古来会りに霧しいだけに、陳
腐の思いがされる。だが、顧みて、自然の花をこそは語れ、心事の花、花と日本人との本質的な関わり
へまで思いをひそめての述懐がどれだけありえただろうか。しかも花に由来する熟語の多彩で華麗なこ
と、国語辞典の花の項を見るがよい。讐えば花後は花びらが水に浮かんで流れるさまを筏に見立てて謂
うのであり、讐えば花帰りとは新婦の里帰りを謂うのであり、害えば花ぐわし、花やか、花やぐ、花め
く、花々しいと謂う。こんな謂い方、こんな言葉があったかと霧しいそれら一字一語に、我々の心の底
までみごとに散り敷いた花の幻の美しさを驚かずにおれない。
かげ
散り積み散り積み花が日本人の心に沈めた署の到り着いた一つの境涯を、谷崎潤一郎の例えば『少将
滋幹の母』の終末などに見られようが、より適切に、私は同じ作家の『細雪』をあげたい。平安神宮の
紅枝垂の満開にめぐり逢うた藤岡姉妹が、「あ、、これでよかった、これで今年も此の花の満開に行き
合はせたと思って、何がなしにほっとすると同時に、来年の春も亦此の花を見られますやうにと願」い、
6
また「彼女たちは、前の年には何処でどんなことをしたかをよく覚えてみて、ごくっまらない些細なこ
とでも、その場所へ来ると思ひ出してはその通りにした。たとへば栖鳳池の東の茶屋で茶を飲んだり、
くだ
楼閣の欄干から緋鯉に麩を投げてやったり」という条りなどには、花が人を酔わせるさまが十分写し出
されている。謂わばこんな際の人の振舞いをこそ物狂いと正しく呼ぷべきではなかろうか。しかもこの
めぐ
裏には「花の盛りは廻って来るけれども、雪子の盛りは今年が最後ではあるまいかと思ひ」、妹の幸せ
を願う姉の無量の感慨が人の心の静かな奥行をさも感じとらせるほどみごとに生かされている。
谷崎潤一郎は同じこの作中人物に、何が好きと新婚の夫に訊かれて即座に、花は「桜」魚は「鯛」と
答えさせ、決してただの言葉の上の「風流がり」ではないと書いているけれど、この選択の意味は殆ど
誰からも適切に顧られて来なかった。花を語るのに私は何よりもこの所から入りたい。
『細雪』の人物が花に逢った喜びのまま、演戯的なまでに去年の振舞いを今年も同じに繰返してみる、(3)
ごえ
その「繰返す」ということを大事に考えたい。古来我々の精神の伝統に一期一会という覚悟があり、こ
と
れは謂わば一生一度とでもいうことだろうが、これを滅多にない機会と釈ると大違いになる。一期一会
の考え方には、常住不断に「繰返す」ということが先立っている。たとえ、いつもいつも同じ主と客、
同じ席と時刻に同じしつらえで一会の茶の湯を催すにしても、その一会がただの繰返しに終るのでなく、
そこに一生一度というくらいの重い意味で、清新な行届いた心を配るのが大事だと昔の人は考えたので
ある。(4)「繰返す」ということを一つの避け難い.自然の営みと観た本当に眼の利く人だけが「繰返す」こ
ていかなおすけ
との単調と退屈を、そのまま新鮮な創造と絶対へ深めようとした。定家卿、世阿弥、井伊直弼など、み
な「繰返す」ことを拒まないでしかも常凡な単調を乗り超える道を見極めた人と言えるようである。(5)
7
単調と深玄とは「繰返す」という実に危い一線を挟んで決定的に岐れており、この一線の上に日本人
の心のすがたを捉える機微がある、と私は考える。良くも悪しくも日本人の芸術を理解するには、一見
単調な繰返しの一段底にある一生一度の気韻を手強く汲み出す気構えが大事であろう、さもなければ一
半の現われを見て真の特質にまで見及ばないことになる。
「繰返す」というのは決してそうもつまらぬことではあるまい。『細雪』のさきの秀れた描写は的確に
それを表現しえているし、花なら「桜」魚なら「鯛」と蹟路のない答え方は、桜や鯛が日本人の、心の中
の或る「繰返し」の象徴の如くでありながら、その「則単調な好みの底に不動の美しさ、豊かさのイメージの生きていることを確かに見当てている。
花なら「桜」という好み、選択、決意を諒解することは今では容易であり、余の花が花でない訳でな
く、それは十分割っていながら花は桜と言い置いて言い尽せているという自覚が、実に霧しい「桜」へ
の感傷を我々の心に散り積もらせて来た。殊さら例証をあげるまでもなく、花としてのかけがえのない
我々のイメージが桜であったことは真実であろう。
だが花が日本人の心に初めて咲いた時、花は殊さら桜でなく端的に花は「花」であったという伝説が
あり、それこそ徹底した把握であったことを次に語ろう。
いわながひめこりはな
記、紀いずれもが天孫の降臨直後に二人の乙女に逢われたことを伝えている。姉を磐長矩、妹を木化
さくやひめ
開耶姫と呼んだ。天孫は額て妹を選び、姉は怨み泣いて、かくはかなく散るばかりの花を選んでとこし
かわいしナえいのち
えに易らぬ礎の吾を退けられては、人の生命はこの後、いとはかないものとなるだろうと言い置いた。
ゆえん
この伝説を浅く読めば、或る面では人短命の所以を語るものであり、或る面では天孫の選択の片手落
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ちであるかの如くである。だが我々は、巌の不変と長寿を退けて、花の咲き散りかっ咲く生命を、生き
死にかつ甦る生命を、限りなく繰返し生きてかつ常に新しい生命を選び取った決意の深さを感動ととも
に読まねばならない。それは決して片手落ちの浅はかな選択でなく、まことに叡智の決断であり、日本
人の魂が美のうつろいの中に不動の定着を直観しえた選択であった。花は「花」のまま、繰返Lの象徴
として、天孫が地上で為、した最初の決意で選ばれたのであり、この時、人の生命も、美しきものの生命
奪繰返し.の中の一度一度に新鮮に充実あるべきものと決められたのである。決められたというのが誤
りんね
解を招くなら、古人はこの伝説に拠って生命と時との在り方を具体的に把握したのである。因果の輪廻
とは全く違った断面で「繰返し」の本質を把握したのである。
記、紀の決意が『細雪』の人物の行為や選択に等価的に結ばれていることを疑ってはならない。これ
ら二様の場合に貫通するのは、「繰返し」であり、かっ「繰返し」の中の一度一度を一生一度、一期一
め
会の重みで生かすすぐれた翻断、直観である。またそれ故に花を、桜を、限りもなく美しいと思い愛で
る・いである。しかもこう思う人の心は、同時に或る美的な状況を選び創ってその中で特殊に息づいてい
る。私がさきに蒔岡姉妹の振舞いを物狂いと呼んだのはその意味からであるが、この点をもう少し追求
してみたい。
「繰返す」と言っても、だが言葉通りに行為を「繰返す」ことは実は不可能なのであり、この不可能を
、、
可能にしよう、或いは成就したと思ってみる気もちには「絵空事」を構える強い創造と風圧の姿勢のあ
ることはそう知られていない。いかに茶を飲みいかに麩を投げようとそれは去年とは違っているはずな
のだが、それを同じ繰返しと思い、そう思い入れて楽しもうとする所に自己暗示、自己呪縛が働く。暗
9
あたい
宗や呪縛の度が深いほどその繰返しは風雅風狂の色を帯び、「絵空事」独自の値が添うのである。
ふえもののけ
「絵空事」にも不壊の値を添えるものがあろう、私はそれを繰返しを殊さら営む心に巣食う物怪、鬼的
なものと考える。「絵空事」を構えるとは、このものが語り出すことなのであり、この「物語」る”も
の”とは物狂おしく、物凄く、物々しく、物哀しく、魔物じみた、化物じみた、物のあわれを惹く、そ
れらの”もの”の意味である。この「もの」つまり幽鬼の語る息づかいが「絵空事」を常凡の単調から
決定的に分つのである。いささかの飛躍を怖れずに言い切れば、散文は外界との緊張に於いて人事の輪
郭を決定し、物語は内なる狂念が自然と響き合って物のあわれを惹く。物語はこういう特質と構造をも
つのではないか、しかも花を選び、花は桜と選ぶ心、日本人の胸の中でも最も佳くかσ古い由来と伝統
に息づく心と物語とは結ぱれているのではないか、と私は考える。
成らぬ繰返しを、成ると思い決めて繰返す、重ねる、のはすでに物の狂いで、ここに我から選びとっ
た一つの世界、心の状況、強いて言えば美的な状況が開かれる。この状況が開いて見せるものは現実で
あるよりは象徴、夢の真実である。こういう繰返し、重ね合わせ、の内に価値ある「絵空事」の論理が
潜んでいる。(6)
花は美しい。しかし何故実しいか、その美しさの感受に日本人なりの特殊がありはせぬかと考えた人
は意外に少なかった。「花」は生き死にがつ甦えるもの、繰返すもの、の象徴と私は言ったが、そのま
まの意味で「花」は日本人の美の捉え方、深め方を指し示す象徴であったことを、謂わば物狂いの芸術
である能を語って鮮やかに世阿弥が説き明したのは極まりない古人の恩沢であるけれど、それを受け嗣
いで、直覚的に文学作品の中に意味深く定着させていた人が谷崎潤一郎であったことも、余りに人に正
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しく認められていない、あんなにも伝統的の一語に飾り立てられながら。
ふえあたいいちご
「繰返しを悦ぶ物狂おしい衝迫のまま絵空事の不壊の値を信じて、その繰返しの一度一度に一期の決意
必籠める姿勢、これが本質的に物語る姿勢であり、谷崎潤一郎の文学はこういう特質に於いて真に物語
文学の伝統を受けついでいる。絵空事の面白さ、豊かさ、美しさを、同様の主題と語り口の繰返しに於
いて生涯深めて行ったこの作家の意味は、花は「桜」と言い切ったこの作家の意味は、新しい眼で見直
されて然るべきである。谷崎文学を日本文学のあたかも傍流かの如くに過去今日の多くの人が遇し、遇
して来たことは訂正されねばならない。
花を語って、谷崎潤一郎の文学の一面、殊に花は「桜」とためらわなかった好み、選択、決意の真に
”伝統的”な意味に触れてみた。
稿をついで、私はさらに「花」のこころに迫ってみたい。花は人を酔わしめ、狂わせる。その酔いや
あた
狂いの質を次第に吟味し、ついには世阿弥や岡倉天心の「花」の論にも能う限り触れてみたいと思う。
二、物狂いの伝統
花はなぜ美しいのかという問いかけに、花は生き死にがつ甦えるから、つまり繰返す生命の象徴であ
こた
り、繰返しの一度一度が新鮮だからと私は応えたのである。いましばらく私は咲く花に筆を用いたい。
人の、個体の生命が、文字通りに生き死にかつ甦えるものとは、私はむろん、誰もが確かめられるこ
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とでない。例えば死後に永生を想う立場や、生物を唯物的また機械的に見る立場からは、生命を繰返す
ものと考えることは余りに背理的であろう。だが素直に、我々が親を想い、また子や孫を想う時、あた
ごぴゆう
かも繰返す一つの生命の”かたち”を考えるとしてそれが妄想で誤謬であるかどうか、一概には言いが
たい。そう考えられても構わないのではないかということを、「花」が、教えてはいないだろうか。
我々はおよそ一日も欠かさず、かっ三度三度の食事をする。その回数は生涯にわたって霧しいものと
言えよう。それと較べて、我々が例えば桜の花に逢うことは、謂わば年に一度である。ものごころつい
こりかた
て以来、私が桜の美しさを悦び想うのは、まだ、僅か三十回そこそこでしかない。三十という数は、一
日三度の食事を三百六十五日繰返してその三十年三十五年分に較べれば、まことに数、スるに足りない僅
かな数字であるのに、我々は、私は、花に籠められた摂理の如きもの、永遠の如きものを、もっと年幼
い頃からはっきり感じていた。春夏秋冬もまた同じく、その季節にめぐり逢うことは日々のあれこれの
営みに較べて極めて僅かの回数でしかなかったのに、春には春の、秋には秋の想いを揺ぎないものに感
じ、そのことから、言い知れない多くを学び、教えられていた。
季節の移り変りを例えば我々は気温で知る。しかし、季節にもし息づく生命があるとすれば、その息
づかいを感じるのは、暑い夏、寒い冬として以上に、太陽と夕立ちと、朝顔と蝿の声との夏であり、風
と雪と、山茶花と梅との冬であった。同様に、桜の春であり、菊、紅葉の秋であった。
こう想い直してみれば、桜は、朝顔は、菊は梅は、すでにただその名前の指し示す個々の花以上の、
もの、であった。さらに詮じっめれば、っいにただ、花は桜と言い置いて、それだけで日本の四季を、
あら(7)
生活感情を、美の露われのかたちをさえ言い尽せていると感じられるようになっていたのである。
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と
食事を摂るのも繰返しなら、四季自然がめぐり行き、花が咲き散りまた咲くのも繰返しであるのに、
前者は平凡に日常に埋もれ、後者は、あかず人の心に繰返しの一度一度の尽きぬ悦びと新鮮な甦えり、
(8)
謂わば珍らしさ、面白さを与えるのは何故か。美しいものだけが、繰返されてより一層人の心に生き生
きと全く新しい生命を産み創り出すからではないのか。
四季は、花は、桜は、まことに三十回や五十回の一回一回に、一期一会の、無量百千億の凝縮された
繰返しの生命を籠めていて、その重さのままに人の心に甦えるのである。こども心にも花をめでて、花
うべなあたい
に人生のきざみきざみの色合いを染められることを肯うのは、それだけの値を、花は謂わば存在様式と
して主張しているからである、それが分るからである。花は「桜」魚は「鯛」と言い切った谷崎文学の
魅力は、桜や鯛の、生命としての象徴的な重さを日本文化の深みから精一杯にすくいとった所にあるこ
とを私は前回に話したのだ。だが、その桜に鯛に逢う人は、その時それらの美の意味とどう切り結ぶの
であろうか。
「願はくは花のもとにて春死なむ」と西行法師は歌っている。いま、この歌のいわれを間い、巧拙を語
る気はさらにない。ただ、この”花”と謂い”春”と謂うのはいささかも西行ひとりの紛れやすい個人
的な趣味ではない、それどころか西行は、世界の、それも美しい世界の”ど真中”で死ぬことで最も直
接に心の故郷へ帰れる、帰りたいと信じ、願ったらしいということを手強く指摘したい。
そ
いかに旧暦でも、「そのきさらぎの望月の頃」はまだ花の、桜の、咲き初める頃である。西行は初桜
の、新鮮な、それこそ生まれいずる生命の初々しさを見て死ぬことを想っている。裏返しにして言えば、
そ
西行は人として死んで、咲き初める花桜として甦えることを願っているのである。有り難く、しかも不
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合理な願いであり、妄念と謂うに近い。しかしながら、それさえ花開く桜の木の下にあれば成就する夢
なのであり、夢は、現実以上の絶対のレアリティをもつことを、西行は知っていた。なぜなら、花の下
には、花の下にしかない謂わばつねの世界の論理を超えた別世界が開けるという確信を、西行は西行自
よ
身の胸の中に育てていた。比喩的に謂えば、その確信はこの歌を詠みかつ想い描く西行の胸の中ですで
に一本の花咲く桜の樹であった。樹はその根を深い深い存在の原郷、心の故郷に下していたのである。
谷崎は昭和八年に発表した『芸談』の中で歌人吉井勇らが西行法師に「割り合ひに感心するやうな和
歌が少い」「西行なんか何処が偉いのか分らぬ」と言ったことに対し、なるほど、一つ一つの歌をとり
上げれば言われる通りかもしれないけれど、「これは私の持論なんだが、歌人の歌と云ふものは何もさ
きわ
う一つ一つの歌が際立った秀歌でなくともよい」と駁している。さらに谷崎は当の吉井の歌に就いても
う
同じことが言えると鉾先を転じ、「それにも拘はらず君の歌が深く私の心を打つのは」「三十年間も倦
たゆ
まず撓まず諷詠をつづけ、多少の変遷は認められるにしろ大体に於いて一貫した調子と感興の歌を繰り
返し繰り返し歌ってゐるところにある」と、率直に言い切っている。「三十年間」を六十年間と言い替
え、他にも歌を物語などと置き直せば、これこそほぼ谷崎の文学生涯を言い尽したことぱだと思えるほ
どだが、それはさて措いても、ここに和歌鑑賞の特色ある一見解が露わにされていて興味深い。谷崎は
言う、「山家集の中には桜の花を詠じた歌が何十首となくある。咲く花を待ち、散る花を惜しむ心を、
繰り返し繰り返し実に根気よく歌ってゐる」「それらのすべてが必ずしも秀歌と云ふのではないが、折
に触れて重ね重ね洩らしてゐるところに真実さがある」「様子をかへ、言葉をかへて、同一の境遇に沈
潜し、同一の思想をなぞつてゐるところが値打ちなのだ。」
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和歌は、久しく日本人の美意識を規定する第一芸術の地位を失なわなかったが、谷崎のように、もし
和歌を或る繰返しの内に生きる特別の美の効果として受けとる時、ここに近代文学の意向とは明瞭に立
こと
場を異にする、より日本的な文学の伝統と性格を見なくてはならない。
私はさきに心の故郷ということばを使ったが、すでに谷崎は『芸談』で「心の故郷を見出だす文学」
と言い、それを、「何も彼も此れでよかったのだ、世の中の事は苦しみも悲しみも皆面白いと云ったや
うな、一種の安心と信仰とを与ヘてくれる文学である」と強調している。おそらく谷崎の本意には、も
しんおうこうべた
っと象徴的な、かつ超越的な心奥の幽境、頭をあげて山月を望み、思わず頭を低れて思う故郷、生まれ
故郷というより一段その奥の、生まれる以前の魂の、存在の、原郷を想うような深い思慕の情が籠めら
れていたであろう。
「現実をまともに視つめ、そこから発足して新しい美を創造して行く文学」と、「美の極致を一定不変
なんい
なものとして、いつの時代にも繰り返し繰り返しそこへ戻って行く文学」とでは「難易は同様であると
しか
云へる。いや、」「常に古人の跡を踏んで而も新しい感動を与へることは、一層むつかしい」と、谷崎は
言っているのだが、この二様の文学の、前者が近代の散文精神を指すとすれば、後者は日本古来の、和
歌をも含めた謂わば物語の行き方を主張するものであり、谷崎は、古人の跡を踏んで、新しい感動を与
えるべく「繰り返し繰り返しそこへ戻って行く」「美の極致」という言い方で、自身の文学的意向をも
そこへ振りむけつつ、やがて、花は「桜」と見当てて行ったと言って差支えないであろう。
その桜に逢った悦びのまま平安神宮の庭に繰展げた蒔岡姉妹の振舞いを、私は前に物狂いと言って置
いた。「花のもとにて春死なむ」と願った西行の確信にも、同じこの物狂いがあったと想われる。この、
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物狂いとは何か。
みそぎぐぷ
源氏物語「葵」の巻で、帝が代って新たに賀茂に斎院が入られ、その御瑛の儀に光源氏が特に供奉と
して加わる場面。こういう特別な場合の特別の貴人には臨時の随身が与えられるのが慣わしであり、こ
くろうどりじよう
の時は六位蔵人将監が誇らかに源氏の馬の口をとった。何しろ都大路を光りかがやくばかり美々しく進
み行く源氏のことだから、この六位の晴れがましさも大変なものであった。が、場面が変って「須磨」
の巻へ来ると、源氏は朝廷の答めをおそれて官位を捨て、今愛人たちにも別れ都を西へ落ちる間際に、
父桐壺院の御陵へ参る条りがある。
この時、極く僅かの供の中にかの六位もいて、これも官を奪われ、落莫の源氏に随って都をすてる覚
悟を決めているのだが、一行が千賀茂神社まで来た時、さすがにこの若者は晴れがましかった日の誇ら
しい記憶に惹かれて、思わずわが馬を下り、光源氏の馬の口をとって昂然と歩んで見せるのである。
ホた
私は毎度この物語を読むたびにここへ来てふっと胸を熱くする。六位の気もちば想像するに難くなく、
私はこれをも「繰返しじの催すみごとな物狂いだと思っている。
物狂いというのは、日本人の心情の特性を解く一つの鍵ことばであって、ある特別な美的状態をすす
んで選択するちから、その状態へみずから嵌って行こうとする一種の美的能力なのである。一つの行為
を殊さら繰返して見せるというこの自己呪縛の物狂いの中で、六位は、負の像でではあるがこの場合幸
福という絵空事を、我にも人にも強烈に構えてみせたのである、と私は思うのだ。
さるがく
『風姿正伝』の中で観阿弥は、物狂いの物真似ほど数ある申楽能の中で面白いものはないのだと世阿弥
じく士、
に副え聴かせている。繰返しの意味を物真似という仕種に活かして「花」の生命を見劣めた最も秀れた
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思想は、言うまでもなくこの観・世父子に帰するであろう。物真似が繰返しであり重ね合わせであり、
物真似そのことが物狂いに他ならないことは殆ど説明を必要としない。しかも世阿弥らによれば、物狂
いにこそ彼らが求める「真の花」の意味が殊に深くも哀れにも生キ、かつ露われるのである。物狂いが、
病的な狂気の世界をでなく、物真似の繰返しに酔うて構えた絵空事の世界を、露わにするからである。
例えぱここに緑蔭ゆたかな、大きな樹があり、人が歩いて来てその下に立つとしよう。或る人はただ
大きな樹だ、涼しいとくらいに思うか、それさえ思わずに立ち去るだろう。また或る人は、何かしらこ
の樹蔭に一種特別の雰囲気を感じて、あたかも一つの舞台を踏むような心地になって、思わず身のこな
しや表情までが変って来るという人もあるだろう。樹があり蔭があることをありふれたことと思い全く
異としない人と、そのような場面場面に応じ場所に応じて、謂わば別世界への通路をそこに見出す人と
がある。
この後のタイフの人は、例えば蒔岡姉妹やさきの六位蔵人らと同じに、物狂いの能力を素質として備
えていると言えよう。しかも概して日本人にはこの素質が古来濃厚ではなかったか。何故ならそれは、
たしな
雪月花を愛し、風流、風雅、風圧の風韻、風体を嗜む久しい日本の伝統と決して無縁のことではありえ
ないからである。物狂いの内に「美の極致」へ参ずる道を見出して来た伝統が、例えば花を見る、愛て
るといった日常的な行為を、そのままで謂わば永遠や絶対に、結ぴつけたのである。
その意味が深く顧られてはじめて谷崎のいわゆる「古い日本」が価値的に今日の我々に甦えるのでは
ないだろうか。
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三、ものの映え
花の好まれる理由はいろいろあるにしても、身近にひきっけて効用とでもいうくらいの所から考えて
しんじよう
みると、花は「ものの映え」を惹くということで殊に愛されてきたのである。花やかが花の身上なので
たと
あり、そこから讐えば花嫁といい花火といい、家のまわりに花を植えては花《とさし、などといってみる
のである。
考えてみるとこの時はもう、植物としての花の美しさが他の何かを照し出すという花自体の効用から
転じて、花が「ものの映え」を惹くというより、逆にものの映えのことを端的に「花」と謂い表わす所
までものの感じ方が動いている。花やか、花やぎ、花々と、花めく、花々しいなどということばがその
まま「ものの映え」を指すことになる。
花はこうした筋道から、眼に見えて自然に咲き、散る花と、むしろ眼に映るよりは、心の内に咲き狂
う花やかな美の感情とに分かれてゆく。しかも時代がすすむにつれて花は、兼好法師の如く、「さのみ
目にて見るなものかは」と言われ、眼に見えるだけの自然の花に執着して秘蔵の心の花を知らずにいると、
「ただ物を見んとするなるべし」と、痛罵されてしまうのである。「ものの映え」としての花は、また
「心ばえ」に直かに結ばれ、いよいよ謂わば価値ある美しさの光源かの如くに花は人の心に宿り、咲き、
(9)
匂うことを期待される。このような花の精神化が、貴族・武士・町人・芸能人・任侠人らに働いてそれ
ぞれ特異の精神構造を産みかっ体系化し類型化してゆく上に酵素的役割を果したことは十分寺えられて
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よい。
だが今は再び「ものの映え」に戻って、「さのみ目にて見るものかは」と言われた花の美ないし美の
効果に就いて考えてみたい。
「夜に入りて物のはえなしといふ人、いと口をし。よろづもののきらかざり、色ふしも、夜のみこそ
めでたけれ、昼はことそぎ、およすげたる姿にてもありなむ。夜は、きららかに、花やかなるさうぞ
く、いとよし。人のけしきも、夜のほかげぞよきはよく、ものいひたる声も、くらくて聞きたる、用
意ある、心にくし。にほひも、もののねも、ただ夜ぞひときはめでたき。
さしてことなることなき夜、うち更けてまゐれる人の、きよげなるさましたる、いとよし。若きど
ち、心とどめて見る人は、時をもわかぬものなれば、ことにうちとけぬべき折ふしぞ、け・はれなく、
ひきっくろはまほしき。よき男の日暮れてゆするし、女も夜ふくるほどにすべりつつ鏡とりて、顔な
、どっくろひて出づるこそをかしけれ」
らいさん
この徒然草の第百九十一段は謂わば「ものの映え」を語る兼好法師の陰署礼讃に他ならない。こころ
みに谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読み併せると、根本の論旨に於いて兼好と谷崎とは呆れるほど同じこ
とを言っている。むろん兼好は簡要を把握し、谷崎のは一種の文化論である。床の間を、蒔絵を、金換
金屏風を、能装束を、白い肌、燃ゆる紅、揺らぐ燈火を、要する所徹頭徹尾「ものの映え」に就いて語
りながら、谷崎は一方筆を執る者として、成し得る限りの陰易美を文章そのものの上で追求している。
『陰翳礼讃』が引証している事物は期せずしてみな中世以後に日本人の生活に定着したものである。古
き平安王朝から直接受けとめているものは、すなわちこれが「夜」そのものの息づかいである陰翳の深
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さであった。「ものの映え」は本来「夜」というものの生命の意味でなかっただろうか。
昼と夜との違いがただ光の量であるなら、今日の我々は殆ど不自由なしに必要なだけの光を夜の世界
にもちこんでいるが、かつて夜はただ月、星の光を頼む真の闇の世界であった。人のつくりうる光の如
きは狭い身のまわりを照すのみで、あたかも人ひとりが及ぼしうる配慮の拡りに同じい程度であった。
物も人もみなその光と窮との境めに見え隠れしていたのである。
おそ
しかしふしぎにも日本人は、底知れぬ闇の深みを一方では畏れながら、むしろ光明の真昼の世界を恋
やみ
い想う以上に、より多くぬぱたまの夜の暗にひそかに息づき眼を凝らし、その中にきららかに、花やか
に、かすかにうっろう「ものの映え」を愛したのである。昼のうちこそ質素な地味な物や恰好で構わな
いが、夜には却って花やかなものが似合うのだ、それがふさわしく佳いのだというのは、単に趣味とか
好みとかでなく、「ものの映え」の真相を見劣めた上で、生活者として夜がいかに大事であったか、と
いうことにならないであろうか。
ひかる
いうまでもなく源氏物語の主人公は光と呼ばれた。私は久しくこれを重く考え、日輪尊崇、光明思慕
は日本人の第一義の志向かと思案してきたが、今では、少くも源氏物語的世界に限っていえばこの光は
単に朝の、昼の、日の光でなく、むしろ「ものの映え」として夜の暗に明滅する極めて人間世界の生活
感情に結びついた光であったらしいことに思い当っている。心理的にも生活面でも光の時間より弱の時
間が重く長く、時は夜から夜を数えて移っていたことが物語を読めば十分理解できるはずで、あかあか
と眩しい光の渦はむしろ平安時代には、いや殆とどの時代の日本人にも概して好まれなかったのではな
いかとさえ想像される。例えば、
20
久方の光のどけき春の日にしづこころなく花のちるらむ
という紀反則の歌は百人一首にとられていて名高く、私も好きだが、興味深いことにこの秀歌、反則一
代にも、百人一首すべてにも、いや古今集中でも和歌史上でもかなりの名歌と思しきこの歌が、実は平
きん
安時代を通じて殆ど人気がなかったらしいのである。貫之はこれをその新撰和歌には採っていない。公
とうしゆんぜい
任のさまざまな歌撰びにも洩れているし、俊成の古来風体抄も選抜していない。後鳥羽院になってもこ
れを反則の歌の優なるものとされていないで、ただ一人定家卿だけが二四代集、近代秀歌、詠歌大概、
ことごと
秀歌大体、そして百人一首などの秀歌撰の尽くにこの「久方の」の歌をとりあげているのである。全く
しんしよ
定家の心緒にこそ強く触れ得た、再発見された歌であるという以外にない。
では定家以前になぜこの歌がつよい人気をえなかったか、例えば私は、平安時代人がこの歌を、「春
の日に」と「しづこころなく」との間に「など(何故に)」を補ってよまねぱならぬような理詰めの故に、
静動緩急の対比が余りに機智的なるが故に好まなかったのだとは思わないのである。理詰めといえば貫
之も公任も呆れるほど理詰めで歌っているし、第一、平安期に果した和歌の役割は、日常のさまざまな
場面にちりばめられた機智の結晶としてであったはずだ。
私はこの歌が人気をえなかった第一の、最大の理由を、「久方の光のどけき春の日に」の上三句に溢
れる正々堂々とした眩しいほどの明るさのせいではないかと想っている。花がものの映えを惹くのには、
どうしても適度の陰窮が必要なのであった。明るい限りの光の下で花の咲き溢れるさまは、必ずしも彼
らの美的感受に適合しなかった。石れは眩しい、或いは騒々しい。花と光とはむしろ互いに障るものと
さえ考えられたのではないか。「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり」という歌
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には散る花の、老いてゆく人の、白まさりゆく髪の色の、全体として人生哀愁の感受が働いているが、
この「久方の」の歌になると風さえあるかなきかで、慣熟した春うらうらの景色が眼前に腹一杯にまず
視覚される。「久方の光のどけき」の句は照りもせず曇りもはてぬ花鹿の色合いを想像以上に吹き払っ
て、さんさんと明るい。そこに「花の「ものの映え」としての美しさを白けさせる感じ方が動かなかった
、一α;
カ
では、なぜ定家はあの鋭く透徹した感覚を以てこの歌に高い評価を与えたのであろう。定家ほど「も
のの映え」をみごとに歌った歌人はいない、例えば「梅の花匂ひを移す袖の上に軒もる月のかげぞあら
てんめんげんよう
そふ」など官能と感情の纏藤のうちに幻想と眩耀を感じさせる。大胆に言えば、定家は紀反則の歌を全
く下二句、いや極端に言うと、「花のちるらむ」のこの七音に鑑賞の全重力を投入して、この歌境に秘
められた或る本質的な紋様感覚と時間感覚の交錯に「ものの映え」を見当てたのではなかろうか。「こ
なんきつ
の歌は慌しく散る花が、のどかな春の、心持を乱すのを筈めたものではあるが、さうしたぎこちない難詰
の心はゆるやかに流れゆく『しらべ』の波にかくされてしまって、風なきに舞ふがごとくもかっ散る花
をながめながら……」と吉沢義則の鑑賞にもいうように、花の枝と草萌えの大地の間をさまざまなかた
ちに埋めて薄紅の花びらが涯てもなく散り散らう。それは紛れもなく美しい空間であり紋様であるが、
散る花びらの微妙な動きに息づくのはまた美しい時間である。
花が散る、それはいかにも見馴れた平凡な時空の営みと見えていながら、人はそれに常なき世の哀れ
を知ろうとし、また逆に悠久とも永遠とも謂えるようなものの証しを見た。一つの花びらが花の枝をは
なれる。その瞬間から人はあたかもその花びら一枚が自分の生命かとも想像する。だが、一枚が十校、
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百枚、幾千万枚と散りつづける花びらの群集が、枝をはなれ地に届くまでの死の時間、死の空間を涯て
もなしに美しい紋様のまま埋め尽くす時、人は、実はその時間も空間も終りのない、変りのない、悠久
無窮の或る生けるイメェジであったことをはっと悟るのである。有限のままの無限が生きて息づいてい
、る.ことを悟るのである。定家のすぐれた直観はあやまりなく先ずこの所を見劣めたのであろう。
時間は文化の質を決定し、美のすがたをも決定する。日本人の心に無窮を刻む時間とは、あたかもこ
の散る花ぴぢに埋められた空間の如きものであることを知らねばならない。経過する時間でも、実は深
まる時間でもない。謂わばみごとな一いろの紋様の絶えまなくうつろい流れてしかも変らない空間的な
時間である。装飾性を帯びた時間である。この時間が中世から桃山・江戸・明治以後まで脈打ち日本独
自の装飾美を産んだ。それは「ものの映え」を、「花」を、眼で見ずに、心の内なる深く豊かな陰窮に
包みこんで育てようという、反レアリスムの精神的伝統に他ならなかった。この伝統の自覚と後世への
影響の点で、藤原定家は今日の我々の想像を絶する巨大な存在であったと私は考えている。
ところで、鹿面を春の日をあびて散りつぎ散りやまなかった花吹雪が、そのまま一たび心の内へ映し
かえられると、それはもう枝から土へ落ちる自然の花びらであることをやめて、象徴的な時空を飾る花
やかなもの、心の内なる「ものの映え」となる。桜でも梅でも菊でもなしに、本来の「花」とはこうい
うものだと人の意識に言いかける。ちょうど自然の花が、それ自身は光でないのに夜の暗に光と同じい
効果を与え、陰窮は「ものの映え」によってより微妙な奥行きを加えるように。
繰返して言うが、「ものの映え」としての「花」はそれ自体何ら光ではない。またかりに、光の如き
ものであるとしても決して外側から来て騎を奪うのでなく、陰聲そのものの内から思わず洩れ露われる
23
表情のようなものである。そしてこの陰署とは、むろん、一切の限りある物の世界を「繰返す」ことに
於いて永遠と告げているあの根源的なちからであり、秘したる花の根である。
私が花を「ものの映え」として語ったのは、この感受性が日本人の美の特質と独特に関わっていて、
枯淡に寂ぴれたものとは別に極めて感覚的官能的な美の認識とその装飾的表出に、「ものの映え」を殊
に悦ぶ気もちが働いていると思うからである。そして、難解を以て目される世阿弥の「花」も、やはり
本質的にはこの「ものの映え」として把捉できる理念であろうと思うからである。「ものの映え」の美
学は、或いは芸術美、自然美とは別趣の美、例えば取り合せ、見立てといった生活美を過去の日本から
盛んに掘り起こすかもしれないなどと思うからである。
四、いけ花と永生
花を語って「いけ花」に触れなかったら、たしかに手落ちに違いない。いけ花はむろんそれだけのこ
とを要求するに値する。だが、事新たにいけ花を語るのが奇妙に面映ゆくも気重くもあるのは何故だろ
う。
庭に花を育てる、という好みは決して今も廃っていない。好みにまかせぬ住宅事情があるだけだと言
ってもよい。しかし庭で育てた花に鋏を入れ、部屋にもちこんで花入れにいけるということは、存外、
花を育てるという好みと真直ぐに結びっいていないようである。何かしら、そこの間に、一枚はさまっ
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ている。いけ花は、妙に技術として受けとられやすいし、たしかに技術に違いない。だが、どの種の目
的をもった技術であるのか。
このせんさくは暫く措いて、どうもいけ花がいけ花としてやや大層に、技術的に意識されてからは、
人は野山の花を我が家にいけ花としていけるべく極く自然に持ち帰るということが仕難くなった。野山
の花も庭の花も、そのまま眺めていていいではないか。なるほどこの考え万感じ方が、花のいのちを惜
しむ想いなら優しいのだが、いけ花になどめんどうでということかもしれない。いけ花がいささか仰々
しく技術に成り上がってしまったのかもしれない。
一輪ざしというものが実の花でも、ことぱとしても意外に好まれる。だが実際に一輪さしと称する花
りつか
器に草花一本をさすのは、技術的に、やさしい事ではない。壮麗な立華も難渋だが、茶室の床柱にかけ
しホらき
た伊賀や信楽の一輪ざしに花かず少なく挿す茶花の風趣は、とても初心のよく為しうるものではない。
が、一輪ざしということぱが、つい人にいけ花の技術をなにかしら忘れさせ、技術の背後から花の初々
しいみずみずしい生命の表情ののぞく気がするのであろう。
同様に植木鉢が手軽に愛好されている。鉢の中の花はとにかく生きている。鋏の必要がなく、技術を
さほど気にすることがない。あの鉢は華著な花入れの好もしさには遠いけれど、庭がそのまま部屋の中
へ移動する気安さはある。
き
いけ花は、花のいのちを一度断っことからはじまる。裁ったその花々を技術的に構成する必要がある。
この二つの条件がまつわりついて負担になる。なるべく「いけ花」といった照れくささから離れていた
くなる。たしかに植木鉢は、うまく負担を解消している。
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私は今、極く自然発生的な、クラシックな「いけ花」を語っている。いけ花を語るのがいささか私に
気重いのは、オブジェと限らずいけ花と称する現代の技術は、むしろ彫塑論として語られてよさそうな
気がするが、そして「いけ花」が彫塑的造型的の領分に身を置いて本来わるかろう道理はないのだが、
それが何となく季題ぬきの俳句のような気がして、馴染まないからである。
いけ花で、俳句の季題に当るものを、私は「いのち」或いはいのちのかたちをした「時間」であると
思っている。そのような「いのち」や「時間」を排除しても、いけ花の彫塑的な造型性はのこるのであ
る。だが、それを文字どおり「いけ花」というかどうかは、季題ぬきの俳句を俳句と呼ぶかどうかより
一段と疑わしい。
「彼等は手当り次第に折り取るようなことはしない。一本の枝や小枝といえども、おのが心に描く芸術
的構成に照らして、慎重に選び取るのである。もし彼等が、万が一にも絶対に必要なもの以上を伐り取
るようなことがあれば、彼等は恥じたことであろう」(浅野完訳)と岡倉天心は有名な『茶の本』の中に
書いている。「彼等」とは最も桂き意味での「わが国の茶や花の宗匠たち」であり、また彼等は「つね
に花とともに葉をーもしわずかでも葉があるならーこれに添える。」「彼等の目ざすところは、草木
、、、
のいのちの美の全体をあらわすにあるからだ」とも書きついている。
いけ花のための書物ではないが『茶の本』は、本質に於いて、いけ花に関わる秀れた理解を示し、い
まここにあげた部分だけでもそれは端的に本来の、花のいのちを重視したいけ花の核心に触れていると
言えよう。
、、、いのち
いけ花とは、花を生かす、花に生命を与える意味である。山野に根をおろした自然の花を、ひとたび
26
は載り採って、死なしめて、しかも生かすとはふしぎな言い方であるが、このふしぎに深く篤く身をま
はら
かせてこそいけ花は胎に入るのである。いけ花の生命は一度の死を経て創り出されるイデアルな生命、
いわば幻の生命である。
この生命の時間に対して抵抗を試みないいけ花はつまらない。時間と縁を切るのではない。却って時
間の流れと切り結んで精一杯生命美しく(長くではない)あろうと試みないいけ花は、私にはつまらな
い。
時間が花を餓ガしぼませ、枯れしめ散らしめることは、自然の根を絶たれたいけ花の場合、より迅速
つぽみ
で徹底的である。だが同じこの時間が根を奪われた筈の苔の花をなお咲かせ、佳い匂いを放たせること
も事実である。花に対して好意も悪意ももたない時間の流れに悼さして、花をいける人は苔める花をど
う咲かせ、どう生命終らせるかを考えねばならない。
例えば午後二時に客を招き、そのために花をいけるなら、いげた花が二時すぎた辺で一番の見ごろと
なるよう万事に心を配らないであろうか。この心配りこそ、いけ花そのものではないのか。
時間とのこの取引きこの話合いを抵抗と呼んでも融和とか協力と呼んでもいい、とにかく幻の花の生
命が、僅かなこの時間との緊張の樫に見せる咲きがつ死にゆく曲線の美しさが、いけ花の第一義の美し
さである。いけ花の生命はこの緊張の内に織りなされ、生み創られる。
再度のかつ決定的な死を最も美しい瞬間に秘めて咲く花、そのような花を咲かせるために、天、心の言
うような細心の、敷皮に近い愛が鋏を持った人の心に生じ芽生えねばならない。花に寄せるこの愛はま
た、花をいける人から、いけられた花を見る人へ向かう愛でもある。いけ花とは、花および人に対する
27
細心の配慮の芸術だと何より先ず言うべきなのである。(10)
、
いけ花は本来そのための場所をもちそのための眼を予期する。いつ、だれが見るいけ花であるのか。
俗用に思えて、.これがいけ花本来の約束事である。一輪の季の花も、壮麗の立華も、豪著な会場花でも、
いける人の心、眼、手を規制するのは、だれが、どこで、いっ、その作品、いけ花、を最も美しい花の
いつぴ
生命の露われとして、見るか、見せるか、であろう。花をいける、生かす、人は、その最高温美の時点
をどう予測するか、どう設営するかに愛と配慮を傾けねばならない。
つか
さらに言おう、いけ花は時間の中を漂いつつ死に行く生命の、束の間に凝縮する永遠性の表現、花盛
りの表現である。
自然の花の盛りとは咲き揃い咲き賑うことだが、いけ花のそれは、最も美しく(広義に、象徴的に)
咲き匂うことである。その束の間を生命の曲線の最も桂き頂点としていけ花は生まれ、かっ死ぬ。その
キ、
一瞬を創るのは花をえらび枝を裁り、時と所を正す人の心、眼、手である。その一瞬を効果的に迎える
愛と配慮がなくては花は決して佳く生きかつ死にえないであろう。
世阿弥は言っている。花の佳さとは珍しさである。珍しいとは、しかし季節はずれの花をいうのでは
ない。却って例えば春には桜が秋には紅葉が、絶対的な意味で真に心に珍しい。それは不動の美しさ、
豊かな美しさを感じさせる、と。
強健な意識で、当節の花こそ珍しいと言い切る正統な感受性は、平凡常套と直面しながら、遥かに確
かな美のかたちを見つめている。時間に対する花の素直さを、端的に、価値的に見抜いていて、頭が下
がる。
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もう一度繰返して言うと、「いけ花」はすでに生命を喪った物を生かしてみるという、何よりも生と
死との幻像を構成する仕方に卓越した哲学を内蔵した技術であった。自然科学的な論証を超えたところ
で実現される死生観であり、その美しい表現であった。死がけがれであり醜であるという畏れに満ちた
通念を、晴れのもの、美しいものとして逆転し価値づけることをした認識であった。
地に根をおろしていた花の生命が、裁られてのちも余命として残っているという見方ではない。余命
ではなく、人の心の中の、おそらくはその花の生命の根と根を同じうするであろう生命が、根を絶たれ
た花の中へ新たに生かされるのである。この甦りは見た眼に束の間であっても、そういうことが可能で
あるという実感を通じて、受けつぎ繰返し創られる生命の永遠が信じられることになる。
我々が「花」ということは、その暗示するレアリティとイデアリティを諒解しようとするなら、自然
の花、根のある花を一度は我から死なじめ、そののちに生きる生命としての花を想ってみなければなら
ない。日本的な美の理念、美の象徴として語られるべき「花」ということばは、根ながら咲き匂う花を
経て、自然の根を要せずに、むしろ人の心の内にあってそれとこそ根を同じうして咲き匂う花に転ずる、
その転機の神妙な働らきに即して眼に見、耳に聴かねばならないのだ。
我々は「いけ花」が単なる彫塑的な造型の技術でなく、Wσちを、花の真の生命を,,死といテ名で生
}引α生命を、晴れやかに美u(.或る曜、或る場所.へ導いて咲き開かせる技術であることを知らねばなら
ない。それは、死を彩る生、生を飾る死、の祭祀であり、人の世界を“現実“から、”非現実”へ大きく
ひらドアえびら
展く美しい扉であった。.人はそのような花に、永生を、美しき永生想見たのであ、る。武士が簾に花をさ
ぴと
しかぷとに花をさしたのも、大宮人がひねもす花をかざして遊び、百姓町人が花を探ねて酒をくんだの
29
も、花の中に”非現実”の、”死”の、背後の永遠を見ていたからである。どのような民族もが、死と
死後の安心をさまざまに望み、求めた。日本人は、それを、例えば花をいけるという日常的な行為の内
に直観しえた。ながいながい間の人と自然との芳醇で親愛な接触が産み出したそれはどんな宗教らしい
宗教よりも日本人の心に根を深くおろした信仰の如きものであったのである。
おそらく私の「いけ花」論は、今日のいけ花作家や宗匠たちの同感をえないかもしれない。花をいけ
て日本人は死後の安心をえた、ないしえることが出来たはずだといった言い草を荒唐無稽と思うかもし
れない。だからこそ私は「いけ花」を語るのは気重く面映ゆいのである。しかし「花」を語っでこのよ
うな「いけ花」に思い及ぶことは、やはり私には、測り難い重い意味があると思わずにおれない。
折に触れて私は世阿弥をひき合いに出してきた。世阿弥らの「花」の思想はおそらく日本人の考え究
めた美の理念の最も高度で難解なものの一つであろう。私はかつて世阿弥らの『風姿花伝』その他ほど
「花」を平易に説き明してなるほどと納得させた書物を知らない。それらは殆ど晦渋な異国語で綴られ
た趣があった。が、ともかくその「花」は私がこれまで語りつづけてきた心の内なる花、精神化された
花には違いない。しかしまたそれは実に、自然の花、四季の花をもよく踏まえている。季の花、それも
根のある花から、根絶ちの花、そして心の花、美自体としての花へと世阿弥はその転じ方の微妙な仕組
みを心得切って説いているのである。
すでに私は「繰返し」「物狂い」「ものの映え」そして生を彩る生命としての「いけ花」を語ってきた
が、そのままそれが世阿弥らの「花」の理解になることを企てていたし、それが花の根ごとの理解とな
ることを疑わない。こういう一見迂遠な掘り方をしないでは、あるようでないような、ないようである
30
ような世阿弥の「花」は分らない。おそらく手に掴みとれるものではあるまいが、それ以上に我々ばこ
うして花の匂いを感じとるべきなのだと思う。
五、風
世阿弥の「花」が能の舞台でどう咲きどう匂うか、指さすようにそれを語るのはむずかしい。だが、
観る眼が「花」を感じて悦ぶことは必ずしも無類の練達を要しない。悦びは、時として執勧に持続的で、
波紋の展がるような不思議な感興の余波を伝え、実際の舞台以上に明快な感銘の”かたち”を”納得”
させまた”了解”させる。この納得も了解も、再度同じ能を舞台で観る人に、こんなものじゃなかった
はずと奇妙な失望を与えるほど、力強いことがある。「花」はみな心の花も自然の花でも、この点で同
様の効果、働き、いや生命の論理をもっている。
”納得”とか”了解”が規制的に鑑賞の密度を支配する芸術芸能が日本では殊に多い。経験的に言えば
たとえば庭がそうだ。遠地借景の場合など初めて見て次の機会までの間に、あたかも自身で構想するよ
うにその庭は単純化され補足され修正されっづけて、再度の訪問では容赦ない期待はずれに突き放され
ることがままある。能の舞台もまた、そうだ。実は睡くてうとうとしていたはずなのに謡も唯子も、き
らめき漂う唯一点の能面の表情も眼に耳に残っている。それだけの”納得””了解”がむしろ能楽堂を
出てしまった時点から拡充され、能の受容は執批に展がり深められる。至醇の”能というもの”が、私
31
の中で悪意を超えて結晶する。たとえば「三井寺」たとえば「定家」たとえば「胡蝶」。私が納得し了
解し再創造した心円の能に実際の演能は遥かに及ばないで、単に私の想像を支える或る”引き金4曲な
役割を果すことになる毛しかもこういう鑑賞を邪道と言わせない謂わば記号的な、シムボル的な働きを
もつ芸術芸能がどんなに多くがつ愛されてきたか、殊さら古い日本の奥を覗きこむまでもなく我々は知
っている。
謡曲の詞章を繰返し読み重ねていると、同音阿字の修辞を見出すことはザラである。この事情は特に
謡曲に限ったことでない。だが、近代文学の、新しいことばによる新しい境涯新しい表現のあくなき開
発に生命を賭する僻の考え方からすれば、このようなことは怠惰であり類型化と創造放棄の所業と見え
つ
る。むざむざと安きに即いたことばの遊びに、真剣な美と価値の創造は望めぬと指弾することもできる。
だが果してそういうものなのだろうか。両者は或いは同じ追求の逆の表明かもしれない。
日本では、蓮い”というもの、何かから何がへ新しく作り出されるその間の”違い”というものを
(11)
謂わば”間違い”とするような抑制的な価値の感覚ないし体系があった。さまざまな”違い”の露われ
の奥に永遠不動の同じ一つの真相が見つかる、それを大同不変の極致とする追求があった。即ち、”間
違い”を不断に重ね重ねては誤差を割愛し修正し、そんな作業の累積の末に、たとえば花は「桜」であ
り魚は「鯛」であるという見極めをつけたのではなかったか。能その他の修辞が或る場面になると言い
合せたように似た表現になったのは、”間違い”を避ける最高の追求が達していたからだと強弁しても
いい伝統的な論理がそこには働いていたのだ。記号としてのことばはあくまで記号にすぎず、記号を受
け入れた瞬間から人さまざまの納得と了解の奥に初めて”実像”が産み出されると信じられていたので
32
ある。「桜」といい「鯛」といえば一つであるのに、そう思い極める人の心が、桜の、鯛の、百千億無
際涯の変化を直観する。この直観の前ではことぱが新を追い奇を求める必要がなかった。一っのきっか
け、一つの暗示から真の世界が心奥をめがけて多彩に展開すると、そう信じられる素質を我々日本人は
伝統的に心身に秘めつづけてきたのである。
谷崎潤一郎が昭和八年当時の『芸談』の中で文学の意向を二様に弁別し、ひたすら新味を追奪する西
欧的文学に対し、一定不変の美の極致を信じて繰返しそこへ戻って行く文学を語った時、当否は措いて
も谷崎には殆ど一身に日本の伝統を荷っているという自覚があったであろう。自分の文学的立場を退避
的に弁明するといった次元の低いものではなかったであろう。
どう
”変える”のではなく”同ずる”こと、それも徹底的に”同ずる”ことを求める美と価値の感覚や体系
いたず
は、西欧的思考の輸入に漸く馴染んだ今日の我々には徒らに保守的な因循、退避としか感じられないか
もしれない。だがそれは余りに窮屈な考え方というものではなかろうか。第一我々の日常の行為も判断
も、いまだに多くは期せずしてより安定した何かを信じ、それへ同じて行く方向で為され下されている。
(12)
書道には”臨”といい”模”という心構えがある。はじめからの自我流は書の王道ではなかった。達成
しえた自我の表現も崇敬し臨模した先達の書を多くは逸脱せず、そのことがまた尊いのであった。谷崎
のことばを借るまでもなく、真の美はそんなに多種多様にあるのでなく、求心的にひたすら同じて行き、
以剥め尽uで漸く遍4赴曇違劉川承価個以原像爪信側豊ねでwだ。物真似という言い方からも察せられ
るように、日本では、能も書も絵も彫刻でも、”違う”或るものを求める仕方でよりも、より秀れたも
、、、、
ののイメージにあくことなく近寄り同じようとする努力から深まった。深まるー、それこそ的確に日
33
本的求心の”すがた”であり、”かたち”であった。そう私には思われる。
と、ここまで言葉を尽してあれこれ「花」に就いて語ってきたのだが、語れば語るほど、所詮「花」
の意味が分るために「花」だけを語っていては足りないという気がしてくる。いや足りないというより、
むしろ言い過ぎるということかもしれない。私は自分で気づきうる限りでも危険なぎりぎりの所まで日
本的伝統の一面をただ「花」に寄せて語った。その危険とは、即ち一語にして日く、”陳腐”である。
「花」は陳腐ではないのだということを語りながら、たしかに「花」が花ゆえに陳腐と思われ、また事
しし
実陳腐に陥り易いことを私も否定できない。咲き過ぎた花、朽ちた花の累々として死屍と同じい時、そ
けな
れを我々は”月並み”と財して頬を歪める。だがそれはまことの「花」にとってやはり俗論、俗現象に
しゆう
すぎない。花に執して花を「花」たらせる別の論理をよく捉ええていない。花を「花」たらせるものが
「花」の他にある、それを私は花を咲かせるものでなく、却ってもののみごとに花を吹き散らすもの、
即ち「風」であったと考えるのである。
よしない語呂遊ぴをしているのではない。古人が「風」という文字を熟させでどれだけ多くがつ重要
な精神位相の表現を試みたかを顧みてもらいたい。風雅、風流、風圧、風格、風韻、風体、風景、風趣、
風騒、風致、風俗、風潮、風物、風味、風骨、風塵、そして風情、風習、風土などなど、みな何れも単
に自然現象としての風を超え、風の質あるいは内面を人の心の核心部で捉えた謂わば直観的表現に他な
らない。これらは「風」の字を生かした言葉の一半を紹介したにすぎないが、どの一つをとっても我々
がかつて一度は読むか書くか聴くかしえた馴染み深い、或る”了解”に達した言葉ばかりである。中で
もたとえば風雅は、風流は、風土は、風体は、論じられて立派な書物を遺している。論考に耐える重さ
34
を「花」にも増して認められていたと言えよう。
だが余りにそれは銘々に、ばらばらに考えられ過ぎていた。風雅を語る人は風土や風習という言い方
との根強い親縁には表立って触れることをせず、ただ風雅一筋の論を構えたので、もしも「風」一字に
こんりゆう
着目してそこに共通の概念理念を落想しまた建立できるなどと言えば、いわれのないことばの戯れとし
て見棄てられたでもあろうか。
たしかに「風」字を含んだ成語は霧しく列挙できる。そこに我々の「風」に寄せた伝統的な好尚や趣
味が文句なく感受できる。それならば難渋な個々の風雅論、風流論、風土論に先立って、私は「花」の
場合と同様自分の心を素直にそっと覗きこむような、平明だが適切な仕方で「風」をめぐる内堀外堀を
埋めてみる作業が欠かせないと思う。ただ吹く風であれ、もっと深刻な風であれ、とにかく「風」とは
何ぞと問うてみる手続きが、必要なのである。少くもこの「花」論にとっては、他の何によりも「風」
に眼を向けておくことが差し当って特に必要と思うのである。なぜなら、ともすれば陳腐に陥りやすい
「花」は、「風」を受け入れて過去何百年もの間その新鮮な色と香とかたちを繰返しえたに相違ないか
らである。
誰もが知っている観・世父子の最も基本的な著作は『風姿花伝』という名をもっている。他にも『至
花道』『花鏡』『却来花』などがあり、「花」は世阿弥の念頭をさらぬ一語でありながら、さまざまに
とお
言い替えられても花は「花」一字でまず押し徹しているのに対し、「風」一字は実に独自かっ雑多な世
阿弥的造語の母字となった。『風姿正伝』では風姿をはじめ、風儀、風体、風流、風情などに止まりま
だ特異な用字ではないが、著述の年代が進むにつれて風形、風曲、風見、風根、風待など異様なまで、
35
むげ
「風」字は融通無擬に他字に附着する。あたかも気合いをかけるに似て殆ど何の説明もなく突如、党風、
、、
為風、達風などと使われる。それらはみな『風姿花伝』中に三か所「その風を学ぷ」「その風を継ぐ」
、
「その風を承け」とある「風」一字に発して精神の中枢へ深化拡充したことばであり、同時に極く放恐
な観念の飛沫とも見られるのである。一体何が、また何故に、世阿弥をしてかくも「風」字を駆使させ
たのであろうか。
、、、
「その風」という時、我々は最も自然に風の至る「道」を想う。その風を学ぶ、承く、継ぐとはみな道、
、、
方法として精神位相につながる多様と典型との識別ではなかろうか。世阿弥らのようにもの事を外の形
から見劣めて神妙の真相に至りえた人の場合は、至りえる為のさまざまな風、道をよく究めていたので
ある。
、
だが、「道」は無限にある故に道をなきものと思う「道」もある。「その風を学ぷ」ということばの
奥には、多くの風を無に帰する「風」が感得されていた。「その風」「かの風」と言うべきでなく端的に
ふうどう
「かぜ」があった。この「かぜ」は、風でも道でも、そしてもろもろのものを瞬時に吹き払ったのであ
まっただなか
り、吹き払う働きの真直中で、繰返しを繰返したらせるだけでなく新鮮にし永遠にし、美しくも簡浄な
ものとも為しえたのである。世阿弥の「風」は、そして日本人の愛好した「風」は、一端を道、方法、
典型といった事実に触れながら、無窮の原点ではそのような有限化、陳腐化、相対化をもののみごとに、
清浄に、無へ吹き払ったのである。
「風」はでは能の舞台をどう吹くのか。たとえぱなしめく言い方をすれば、「定家」という能は、後シ
かづら
テの氏子内親王の幽霊がおのが墓を出ては入り、出ては入りして定家卿の葛と化した恋着に身をよじり
36
にようご
ながら遂に崩折れてやむ。「綾鼓」という能は、庭掃きの男に空しい恋の入水自殺を強いた女御が男の
怨みに屈して舞台中央でがっくりと肩を落として顔を伏せて終る。そこで能はともかくも終ったと見え
る。と、その時、内親王のシテは、女御のツレは、静かに起ち、静かに静かに歩いて観客の前を舞台か
ぢうたい
ら去って行く。つづいてワキが起ち、唯子が起ち、地謡も起つ。が、その凛然と間隔を保って去り行く
そうそう
歩みの静かさは今まで観てきた舞台の清寂となお等価的な地平にある。鏑々と鳴る如く観る者の眼に純
白の風が立ち、舞台も観客の心も奇蹟の如く洗われる。一篇の劇は終っているが去り行く姿はいまだ常
人の姿でない。能一番は実は舞台が全く空家と化する一瞬まで真に涯てていない。その不可思議な沈黙
の透明感。あの耳の奥に鳴る鋳々たる風の音が、能の世界と限らぬ日本の「風」であろうと思われる。
無に帰するといえばいかにも荒寒な大陸的な渡来思想の如くだが、むろんそういう影響も受けながらこ
の「風」は、やはり日本人の見出した固有の風であり、生をはらんだ死の影である、と私は言いたい。
あの「風」が咲いた「花」を匂いも残らず吹き払う。「花」は塵ともたまらずして全く新しくやがてま
た甦り咲くのである。咲き匂うのである。
「風」もまた「花」に劣らぬ凝視の対象とせざるをえないではないか。
六、花と三島由紀夫
三島由紀夫氏の死に遭い、六年前の谷崎潤一郎の場合と同じく、私は心中の動顛をよく鎮めることが
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出来ないでいる。しかし、動顛に伴う感動の質はおよそ違っている。文学者の死と限って見る眼には、
谷崎の死は三島の死よりも私には立派な、偉大な完結であったと映る。
まことに多くの人が三島の死をめぐって語った。これからも、まだまだ語り尽されることはあるまい、
その中でも、「天皇」ないし「天皇制」が日本の過去の伝統と歴史にもちえた意味、また同じく将来に
及ぶ意味は、この点で批判的な発言や追及が今なお少ないことを含めて、大きな課題であろう。三島の
のこ
意図も本源に帰ればこの課題を死後に遺すにあったであろう。錯覚なのかもしれないが、三島事件の霧
しい情報の中で「天皇」問題は禁句か禁制かのように表立たなかったが、謂わば生命を賭して「菊」と
「刀」に殉じた三島、それも「菊」あってこその「刀」と考えていたような三島の「天皇陛下万歳」は、
にな
重苦しい意味を荷ったまま我々の耳から消え失せない。だが果して三島的な「菊と刀」.は、讐えば谷崎
いわゆる
的な「桜と鯛」や私の所謂「花と風」以上によく真に日本の伝統と歴史を代弁しえたのであろうか。
古事記が伝える如く、日本建国の規範的心情はたしかに「タケルー建」に違いなかった。この建国は
おうすのみこと
大和朝廷に結集する氏族が各地先住士族を圧殺しつづけることで達成された。象徴的には、皇子小雅命
がクマンタケルをたばかり討ったその瞬間に、ヤマトタケルと変身したと伝えられているように、日本
国土に遍在していた庶民の活力一夕ケルを、奪い吸収し肩代りするという仕方で成し遂げられたのであ
る。古事記の中では、強い、勇しい、雄々しい、厳しい、蠣爽とした、端的な、スカッとした、そんな
意味、嘆賞、期待、自負をもって「建」の文字が使われている。節度と沈毅を蔵し、決してむやみと荒
荒しくはない、騒々しくもない印象をこの文字は久しく私に与えてきた。古代征服者の心情と行動の規
範となる内容が「建」の一字に象徴的に感じられていたからこそ、彼らは祖神の名前にこの文字を男々
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しく冠したのである。
神代の男神たちに「建」の文字が冠されたのは、順序立てれば熊曾建、出雲建、出雲建らの廃立のあ
とと想われる。だが古事記も下巻となり仁徳天皇以後はもうこの文字に真の活気は感じられない。あた
かも色あせた紋章かのように、急速に歴史の表面から「建」の古代的生命感、迫力はかき消え、暗い内
紛の事実が綴りあげられる。
本当にかき消えたのかどうか、だが何にしても「建」の字義通り土に根ざした質実なちからを貧欲に
吸収して一つの大きな偉業(この場合、統一国家。但しあくまで古事記的に)を建設して行く際の原動
力、活力としての心の働きであったことは間違いなく、その意味で現代の我々が見直↓、心の奥の奥に
今一度探り当てていい価値ある心情だということも(好戦侵略の意識と混同しない限り)許される、と
言い切りたい所だが、そしてこうも言い切れば、私は例えば三島由紀夫とすれすれにまで右傾した志向
を表明することになりかねないのだが、実は私は、大和朝廷族が奪い吸収した「建」の古代的活力はか
き消えたというより、より権力的な意図に忽ち変造されて「菊と刀」ないし「菊」のための「刀」と露
骨し変質したこと、その本性は蠣爽とした、スカッとした倭「建」的性格から日本「武」的権道の陰惨
やそたける
に政略的に退化したこと、を認めねばならないと考えている。神武が土雲八十建をたばかり討ち、小雅
命が熊曾建らをあざむき殺したそのような仕方で肩代りした古代的土着的「建」の、心情は、実はその瞬
間から奪った者たちの内側で「菊」と「刀」とに分裂し倭小化していたのである。
見直し、心の奥に探り当てていい「建」などというものはすでにないか、あったとしてもそれは奪っ
た側の体制の中にではなくて、地割に打ち伏ぜられ死け国へも落ちのぴた敗北者らの泣き怨み血塗られ
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た負の心情、「建」を奪われ日本国土に分散し浸透し土着した庶民の日常に、遥かに根づよく埋没した
まま却って生き延びているのかもしれない。彼らはそれなりの屈折の多い心情文化を歌、踊り、土着の
信仰習慣などの中に創り出していたのではないか、例えば世阿弥らの秀れた舞台芸術に完成される以前
の能、鬼と修羅を駆使しえた猿楽能などが、この”負”の心情史上ぬっと露呈した最も典型的な敗者の
文化、敗者なるが故に真に庶民的な文化ではなかったかと私は想像する。
即ち、「建」は勝者、征服者、権力と体制との中で「菊」と「刀」に変質退化し、護符となり体面と
なり建前となったが、敗者、被征服者、庶民の中では実に「花」と昇華し「風」と変貌したという、対
向する理解が成り立ちはしないだろうか。「菊と刀」ぱ伝統と歴史とり”建前”でぱあったが、「花ど
風」ば国民精神と文化の”実質”であったという認識を私は実感としでもつ。例えば世阿弥が認識した
ぢげ
「花」も「風」もその本質は極めて地下の根生いに由来するものでありながら、また「花」は概して奈
良平安の貴族から、「風」は源平鎌倉の武士から効果的に借用したシムボルであったこと、そういうシ
ムポルを謂わば体制の勝者からまんまと手に入れて敗者の美を伝統の主流とさえなしえた所に庶民の歴
かちみ
史的な勝味があったこと、むしろ「菊と刀」の如き建前などは貴族、武士、僧侶に於いてさえ日常的に
はともすると忘れがちな、あくまで”建前”にすぎなかったと見てよい事情が多々あるからである。
建前が建前として意識して強調される時、時代と心理は硬直し、硬直を利用する権力と体制が力と組
織を過信しつつ号令する。だが号令の声はいつも息切れして終っている。
三島由紀夫は、純真な古代的「建」の日本を想いかつ愛していたと言えようか。或は「建」が「菊と
刀」に体制化された日本を強者として肯定していたのか。いや三島はもっとプライベートなモチーフを
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秘していたとも私は疑うが、何れにせよ「桜」や「鯛」の如くまことに国民的な美を凝視した谷崎美学
の円熟を三島に望むなどは、残念かっ当然ながら無いものねだりにすぎない。三島には「建」を奪いさ
られた古代庶民の苦渋は無縁であったし、奪われたと見えた「建」を「花と風」に甦えらせた日本国民
の真の伝統と歴史の根づよさは三島の理解の外にあった。彼は建前を実質と錯誤して文字通り日本歴史
たけはやナさりおり
を見損なったのである。遅速荒男命が天照大神らの手で高夫原を追い立てられたその時からこの男神に
は「建」の冠字が奪いとられているという神代の事実をどう考え、自らの、心情の系譜を勝者敗者どちら
の根へ結ぷかによって日本の原像は変るのである。少くも私は「天皇」とその体制の中でこそ日本が成
熟したとも日本人の美と文化の伝統が成熟したとも考えていない。むしろ端的に日本の美しく桂き風土
が、いかなる貧窮の中でさえ日本人の眼にどう映じっづけたかを真剣に考える方がまだしも当っている
と思う。政治を見、社会を見、経済を見る眼も、「菊と刀」といったいきなりの上澄み思考より、もっ
と土着した下積みの視覚で見なければ誤まるであろう。その点で私には、例えば世阿弥とか光悦宗達光
琳とかの燦くような感覚の奥にこそひょっとすると神代といわれた昔から現代に至るまでの最高の文化
的体現があったかもしれないという、突飛な想像もされるのである。
三島は二百の辞世を遺し、その平凡さが賄されている。中でも「散るをいとふ世にも人にもさきがけ
て散るこそ花と吹く小夜風」という歌には「花」と「風」が詠みこまれていてこの際の関、心を惹かずに
いないのだが、歌そのもののどう救いようもない陳腐さを二重三重に露呈するかたちでしか、即ち既製
の低俗の当てずっぽうでしか、このシムボルは使えていない。効果としては忠臣蔵浅野内巨頭の辞世に
も及ばない。正にこの点に、また、それでもなお「花」といい「風」というのが世に遺すシムポルとし
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て好適と思ったらしい点に、三島由紀夫の日本観、伝統観の粗雑さを見ずにおれない。「花」一字に就
いて三島がその独特の生死と論理に就きかって見劣めも、見劣めようともしなかったこと、ただ浅く通
俗的にしか見ていなかったことは明らかである。三島がもっと「花」を豊かに美しく見っめてくれたら、
どこからも「天皇(菊)」と「自衛隊(刀)」との日本などとは思い切らなかったであろうに。三島は谷
崎潤一郎には極く謙譲であったが、花は「桜」魚は「鯛」の如き直観をついにしんから理解できなかっ
たのではないか、いやできなかったのに相違ないと、全く惜しみても余りあることと思うのである。
この稿を、語りのこした「花」の好色的、女性的側面に就いて、さらにはそこから一種の宗教的心情
とうはく
へ抜けて行くであろう道に就いてあてる積りだった。例えば「東北」という謡曲で「和泉式部の花心」
じようとうしようがくそくはだい
と謡い、同様に「和泉式部は成等正覚を得るぞ有難き」とも謡っているが、式部の好色道が即菩提の因
ともなるような世界をこの曲ではむしろ肯定している。何も「東北」に限らない、「江口」の如き遊女
をとりあげてもまた然り、一般にかかる女色の巷にいやしき女人と身を変えて仏菩薩の説話をみること
は決して少なくない。ただそこに「花、心」の如く一種たゆたい惑う、頼りないがしかし犯し難い美的心
情、本能や欲情の美化があって、それを「花」に寄せて発想する所に固有の「花」の意識が見られるこ
とは否めない。花街といい、花代といい、花揃えといい、花形という、みな関連のある謂い方で、ただ
に女を花と飾っていうばかりでなく、そこに男と女との出違いの場を見てそれを「花」と飾るのである。
遊里での男女の出違いは余りにかりそめのそれではあり、かりそめの思いに徹し切った所に卒然と開か
れる人間無常の絶対の状況が出現する。その絶対を「花」と呼ぶのである。浮わついた状態が忽然とぞ
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のまま永遠と化する不思議を「花」と呼ぶのである。そして好色道の真実はこの「花」を感得しえた瞬
(13)
間に仏菩薩の成等正覚道と化するのである。これもまた決して見過ごし得ない「花」の論理であること
を私は言い置いて「花」の論をひとまず収めよう、と思う。
私は谷崎潤一郎から筆を起こし三島由紀夫の死に最後に遭った。では、私の世阿弥を語りたいという
趣意は雲散したのかというと全くそうでない。
私は最初から『風姿花伝』以下の本文をあげて読み解きをする気はなかった。それには自ずと適当な
別の人と場所があろう。それに私は世阿弥の「花」を語った幾つもの論を見て、一市民的な気安さと親
ラわごと
しみとでその「花」の説を受けとることができなかった。あるものは「花」を実体を欠いた嘆言かのよ
うに投げ出していたし、あるものは到底読めもできなかった。
他でもない、問題は「花」ではないか、花はそこに、かしこにあんなにも咲いて見えるではないか、
あの咲いた花と世阿弥の「花」とが天地も違った別ものである訳はない。何よりもいけないことは、そ
の花の美しさ新しさに鈍感でどう世阿弥の「花」が分ろうか。「花」ほど陳腐視されていることばはな
く、しかも「花」ほど日本人の、市民の、日常に生きているものもそう多くない。そう見劣めて私は世
阿弥の本文を読みながらそれに捉われず、ただ「花」の論理、その生命の論理を抽象してみた。観念的
であることもおそれなかった。
そして最後に言い得る一言は、「花」とは”佳きもの”の意味だというに尽きる。
だが「花」だけで世阿弥の世界は成り立たない。即ち日本人の文化と伝統のシムボルは少くも今一つ
「風」を考えてほぼ充足するであろうとも私は語った。「風」に就いては殆とまだ何も言いえていない。
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稿を新たに「風」の意味を考えてみることは、三島由紀夫の場合とはまた違った視野とともに、愛する
日本の任き文化と伝統と歴史に肉薄する道である。
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風
一、身にしむ
おぎ
試みに新古今集で秋風の歌を読み拾って行くと、大半、というより殆とが、言い合せたように「荻の
葉」を揺がしている。まさしくそれは言い合され約束された取合せなのである。その中で、
白たへの袖のわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞ吹く
藤原定家
という凄い歌に出違う驚きは、やはり大変なものだ。この秀歌は、
秋咲くはいかなる色の風なれば身にしむぱかりあはれなるらん
和泉式部
を本歌に、この歌意に応えて愛の別れの凄艶な衷情を「身にしむ色の秋風」に見当てたものと私は考え
ている。一人称の述懐が、三人称の幻影へと漂い出たこの変妙の面白さは、久しい日本の詩歌の歴史の
中でも最も多く定家の、専門歌人としての自覚と力倆に負うている。
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変妙の面白さは発想の違いを越えてさらに詠みこまれた詩語の微妙な語感、語法の推移にも見られる。
和泉式部は一人の生ま身の女として、吹く秋風に心しおれる以前から具体的な身にしむあわれの中に
いる。実感であり、実感の切なさがかえって吹く風の色を我が胸に問うてみるようなよしないあやかし
や(14)
を誘うことで、我から心を遣るのである。式部の歌から息づかいは洩れているが心象の輪廓は見えない。
「身にしむ」のも歌人の真情であり、吹く「風」も文字通りの秋の風なのだ。静かなため息とともにお
のれの心の奥にものを問いかける歌だ。
定家の歌では、歌人の実の声も表情もあわれも表に出てこない。「秋風」について言えば、式部は実
、、、、、、
感で「秋風が身にしむ」と述懐しているのだが、定家の方は詩情として「秋風は身にしむ」と表現して
いる。眼の前を吹き通う”現象”としてでなく、「秋風」を或る性質や内容を荷ったガ意味”として定
かみ
家は掴んでいる。その意味を「身にしむ色の」と一応直接に言い当てながらも、上三句に幻影に似た冴
てんめん
え冴えしい愛恋を纏懸させることによって「秋風」は詩語としての含蓄を一挙に拡充することになる。
豊かな幻像をその語感に満ち盗れさせてはじめて定家の「秋風」は歌の世界をまこと「身にしむ色」の
まま吹き流れるのである。同じ「色」「身にしむ」ということばの場合も同様である。表現の世界では、
生ま身の人間が生ま生ましい現実の中で洩らすことばや実感をそのまま転用して事足りる訳はない。こ
とばや実感の詩的鍛練が、表現を、ひいてはその世界を豊かにするのだ。
(15)
この例にみるように、定家は詩語を、日本語を、ことばの”意味”を問う仕方で意識の対象に据えた。
一つのことぱに多くの意味を重層的に加える日本人独得の語感は、和歌を述懐や描写の機会誌でなく、
(16)
沈思構想表出の詩と自覚した定家らの時代から格段に増強されたと言わねばならない。例えば定家のこ
46
こにあげた歌を伝統的に感受しえてこそ、
野ざらしを心に風のしむ身哉芭蕉
の一句はありえたのではないか。この僅か十七音のはかり知れぬ重量と緊張。定家の自党を受けとめた
伝統が詩語を、この場合特に「風」一字をここまで鍛えあげたのであり、人々の感受性や語感も詩語の
重みに耐える久しい修練を積み重ねてきたのである。
私は鍛えられたそのようなことばの中から、先ず「花」一字をえらんだのであったが、同様に「風」
一字の”意味”について考えてみたい。
、
「風」は「身にしむ」とはどういうことであるのか。和泉式部と定家卿の歌を架け渡すように、西行法
師にこんな歌がある。
おしなべて物をおもはぬ人にさへ心をつくる秋のはつかぜ
「心をつくる」それがやがて「身にしむ」のである。
風は、秋風は、多分にその涼しさ冷たさを機縁に、うろうろと物を思わぬ人にもふと我が心のうちを
覗きこませる催しとなり、覗けば人はくらい心の淵に思いがけない孤独や不安の影を我から映し見るこ
ふちなみ
とになる。その一瞬に、白い風が妖しいその淵波を横切って吹き抜ける、あたかも死の呼声のように。
たたずゆ
淵を覗いて仔も感覚と、風の奔って逝く感覚との間で孤独や不安の影がゆらゆらと漂い揺れる。それが
「身にしむ」という.防ぎようのない”あわれ”のかたちなのである。
りわ〜二がらし
秋風の”あわれ”が例えば涼しさ冷たさからの意識であれば、やがて野分の荒さや木枯の寒さから人
は、破壊し、散乱し、風靡する城カベの”おそれ”をも意識する。秋から冬への”寒”に極まって行く
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あら
風は、粛然と人の身にしみ心をしおらせ、だが、まさしくその”寒”の内に露わになって来る空と虚と
無の厳しさ、その秀れた境涯としての”意味”にも心づかせる。物を思う、明らめる、悟るという瞬間
とも
が、「風」と倶に、「風」の内に見出されることを、人は「風」に吹かれて、「風」を感じて、はじめて
一摩ぎなちからの或るはからいと知るのである。
むな
人は自分の虚しさ空るさに屈しようとする時、心の真中から風立つものの色に眼を向け、また雲を飛
ばし、樹々を揺り、草野を分け、池水を波立てて行くものの色に眼を向ける。「風」の色と「心」の色
が本来全く変らぬ清い厳しい無色の色であったと心づく。その救われと明らめの自覚が、凡ゆる「嵐」
うべな
字に対する人々の久しい好尚の根源であった。人は「風」に教えられ、それを肯うだけでない。より多
く、より徹底的に、即ちより”寒”に極まるべく一枚一枚身の虚飾を剥ぎ、俗の寵辱をなげうっ。素肌、
せきらら
素裸を「風」に曝して歩み出そうとする。人の生きる道は、寒風に赤裸々を、はだかを曝して行く道、
風圧の道であると知って行く。
芭蕉の自覚は、「野ざらしを心に風のしむ身哉」という一方、「東海道の一筋もしらぬ大風雅に覚束
なし」と言わせた。東海道は一つのたとえに過ぎない。芭蕉はただ「風」の色を見よ、「風」に吹かれ
て生きて行けよと言ったまでである。人の生きの在りょうは野に曝された骨の如く”寒”いと言ったま
でである。だがそれこそ、生まれて死にゆく人の”旅”姿であり”旅”情というものであった。その芭
蕉の辞世はこう伝えられている。
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
旅人芭蕉の心が夢と脱け出て「風」と化している。風雅に身をせめ抜いた詩人がうたいあげた真に
48「風」骨の絶唱であり、この自覚的な詩人はついに「風」そのものになった。心ある読者は私が以前に、
「願はくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月の頃」という西行法師の歌をあげて、西行が萌え
まっただなホそ
出ずる春の真直中で咲き初める「花」の生命と身をかえたのだと言ったことを想い出されるであろう。
いず
西行は「花」に、芭蕉は「風」に、その何れの死んで生きる・甦る想いの美しさにも、言語を絶するも
のがある。
しかし西行、芭蕉ともに人生”旅”の真相に徹しながら「花」に「風」に永遠に帰し得たというのも、
この二つの文字と語感に籠めた民族の、日本人の久しい懸命な感受力なくては叶わなかった。ことばの
鍛練が最高の詩人に豊かな永世をさずけるという最も願わしい二つの実例から、我々は今あらためて乱
れ汚れて行く日本語の簡浄かつ豊醇な”意味””生命”を守らねばならないと思うのである。
ここで西行と芭蕉の時代の差は、自ずから「花」と「風」が日本人の中に”意味”として育って成熟
して行った時代の差であろう。「花」の認識は早く太古にはじまり、文化的に深まったのはやはり平安
朝の時代であった。「花」は古代の”みやび”のシムポルともなりながら、「風」を待ったのである。
「風」の認識は俊成定家の時代にやっとその日本的伝統の第一感を掴んだ。「風」は中世の”あわれ”
を時代の声として響かせた。源平争乱の烈しい渦が捲き起こした「風」の寒さなしには定家の歌もあり
えなかった。なぜなら、定家は現実の世界に吹き荒れたものの象徴的な表現を、例えば平家物語や方丈
記が描いた次のような「風」に、実見していたのである。
うまのこくなかみかと
「同五月十二日午刻ばかり、京中には辻風おぴただしう吹て、大屋多く顛倒す。風は中御門京極より
ひつじさるけたなげし
起て、未申の方へ吹いて行に、棟門平門を吹抜きて、四五町十町吹もて行き、桁長押柱などは虚空に
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ひわだなりかの
散在す。檜皮葺板の類、冬の木の葉の風に乱るが如し。おびただしう鳴どよむ音は、彼地獄の美風な
り共、是には過ぎじとぞ見えし。」(平家物語)
みこさ
では定家は、かかる末世の美風を歌ったのかというとそうではない。源氏物語を尊崇した御子在家の
定家は、かの「野分」の巻を十二分に知っていた。
ひさし
「御鼻風も、風のいだく吹きければ、おしたたみ寄せたるに、見通しあらはなる、廟の御座にる給へ
る人(紫の上)、ものに紛るべくもあらず。気高く、清らに、さと匂ふ心地して、春の曙の霞の間より、
おもしろき樺桜の咲きみだれたるを、(義理の息子の夕霧は)見る、心地す。あぢきなく、見たてまっるわ
あいぎよう
が顔にもうつりくるやうに、愛敬は匂ひちりて、またなく珍しき、人(紫の上)の御さまなり。」(源氏
物語)
「風」を描いて実は「花」をたたえる想いが貴公子の心を、筆者の、心を、酔わせかつしおらせている。
みごとな「花」が「風」の意味を早くも読む人に呼びかけているのも分る。”みやび”を愛する抜き難
かた
い中世人定家の憧れは、また”みやび”のまま生きることの早や難いと知った、時代の子としての”あ
われ”を帯びていた。都の栄華を打ち砕く地獄の美風を見たればこそ、定家は「風」を吹く風と現象的
にながめるより深く、その”意味”を問わずに居れなかった。「風」ということばが、現実の風よりも
大きな課題性を帯びて詩人の詩魂に”表現”を迫ったのである。
あらた
同じ鎌倉の初めに「花」に殉じた西行と、「風」を見据えた定家がいたことを、大きな時代の革まり
と受けとることは容易であり、大事である。「風」一字の展開と充実とははっきり意識されてここから
急速に進み、乱世流離の中世を吹き抜けて芭蕉臨終の夢となる。その夢中の「風」芭蕉の詩魂はなお枯
50
野をかけめぐるのである。”枯野”とは芭蕉の夢に一体何であったろうか、それさえ今日の我々は説明
抜きに感受出来なくなっているのだろうか。
余談めくが、遥かに下って高浜虚子に、「遠山に日の当りたる枯野かな」という評判の句があり、私
は一時期、高校から大学へという年頃に感銘を覚えた。今でもこれを佳句と呼ぶに憚らないが、それに
(17)
もかかわらず、この句の静寂が私は今、なぜか心さびしい。「策動かし秋の風吹く」と額田姫王にうた
われ、「川風寒み千鳥鳴くなり」と王朝歌人にうたわれ、源氏・平家・方丈記を吹き抜け、俊成定家の
歌道を拓き、蒙古を押し払い、そしてあの、一番の能が果てて松羽目の舞台の上を退場するシテととも
に凛然と吹き抜けて行く「風」。虚子の枯野にはこういう「風」が音もなく消え失せたかのようである。
むろん私の願いは虚子の枯野に「風」を感ずる味わいなのである。そして、そうなのかもしれない、
ただ私の未熟さが今はこの句に単なる無風を感じさせて心さびしいだけかもしれない。もし無風ならそ
れは時代と詩の衰弱であり、実は無色の色と化したまま「風」が風であることをさえやめて空となり切
った、そんな枯野の静かさ寂びしさなら、それは深まりであると思うのだが、今の私にはその所がよく
味わい尽せない。
さいご
それよりも私は、風かけめぐる芭蕉最期の夢の枯野から遥かな背景にこんな映像を見る、中世も古代
も原始も超えた神代に、一度は降臨すべく瀧浮橋まで歩を進め天忍穂耳命が下界をながめて、「豊葦
原の水穂国はいたくさやぎてありけり」と咳いて天上へ還ったという、その咳きと視野とにおさめられ
た太古の風の色、国土のすがた。この一人の天つ神の視覚の中に、私は日本人の一番遠い過去の「心」
のたたずまいをさえ見る。何故かなっかしく心の奥の「心」の風のように見当てるのである。
51
二、こころざし
藤原定家が「風」を意識した歌人であったといっても、これには多少の註釈が、家柄との関わりで、
必要になる。
みこさけ
定家が属した御子行家藤原氏は、家祖をかの道長と仰ぎ、その庶子良家にはじまる。中将大納言を極
うりんこうえい
官とする羽林家であり、道長の後高という藤原氏の中でも当時の貴種に属する。とはいえ、御子左の家
とどこお
門は時代とともに徐々に傍流化し、官位も滞りがちで、定家の父俊成に至ってはやっと非参議の三位と
いう心細さであった。定家は早く父の出家に遭い、頼りなげな宮廷生活で昇進遅々、焦燥のまま壮年期
ぢげ
を過ごさねぱならなかった。そのような俊成定家父子にとっては、当時堂上地下にわたって勢力を持し
きゆうとう
ていた六条顕輔系歌風の「詞化集」的旧套を清新艶麗な自己の歌風で吹き払い、伝統和歌の主流と指導
者的地位を手中にすること以外に家門の格上げ、失地回復を望むすべがなかった。
俊成は刻苦精励した。彼は人を遠ざけ、灯もかすかな部屋に籠って桐火桶を抱きながら歌を練ったと
(18)
いわれ、その努力の結晶はまず「千載集」として世にあらわれた。源平争乱のさなかのこの勅撰集のふ
しぎな清らかさと艶やかさとは、新たな中世の開幕を予兆する時代の息吹きを伝えていた。定家は父の
「千載集」に次いで後鳥羽院と拮抗しながら「新古今集」を編輯した。定家は父母同胞の励ましを胸に
歌道精進を志し、その歌は幸い世に認められて着実に名の誉れを獲で行った。俊成、定家、為家、俊成
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むすめしこ
卿女らこの一門によって古代の歌の鳳はあざやかにひきつがれ、爾後、歌学歌門の宗家として中世美意
識に絶大の影響と感化を及ばしたのである。
よ
門流意識、家学意識が定家に専門歌人としての自覚を喚び醒ました。その自覚が機会誌としての日常
うたあわせ
茶飯的語詠を退けさせた。定家にとり歌とは晴れの歌をしか意味せず、それは主に歌合の題詠に応ずる
ものであった。その用意にあらゆる苦心を払った。定家も俊成に劣らず沈思構想表出の創造に心血を注
いたのである。西行や慈円が天成の歌詠みであるに較べ定家は歌っくりだと後鳥羽院は痛撃したが、定
さまつ
家はたじろがなかった。切実な実感さえ失い、しかも表現の苦心ぬきに安易で項末な約束を器用に踏ん
なはんか
だ、古人のよだれを嘗める風の歌詠みなど何ものであろうか。定家は本歌どりの技法を駆使し尽して、
さながら三十一文字に小宇宙を籠める妖艶凄絶の世界を現出した。純白の幻影は清潔でこよなくなまめ
きらめ
かしく、ことばっきのあやしさは独創的な語感に支えられて燦くもののように美しい。何よりも定家の
(19)
歌は時代の要請に深く根ざしていた。
しんおう
むろん定家の門流意識は歌の実作で他を圧すれば足るものではなかった。創造の自覚のもとに、心奥
に凝縮させた詩想を表出表現するのが道に生きる道と志した専門家の自負を抱いて、定家はその道を追
随をゆるさぬ家学に仕立てねばならぬ一門の使命を帯びていた。万葉このかたの歌の流れを作風的に識
別し、批判し、系統づけ、またその作業を妥当化する論拠を打ち出さねばならなかった。その上で伝統
あら
の正統に翼を展げ、時代感覚を先取りした独創美の秀歌名歌を凡ゆる晴れの場所で提出せねばならなか
たんどく
った。その為に、定家は古来の文学文献の収集と書写と耽読にも心神を労さねばならなかった。本歌ど
りという幻妙の技術は定家の食欲な和漢の学習なしにはあれまで到達できぬことで、またその為には一
53
だるま
時達磨歌と貶され、父俊成にさえ分りにくいと冷評されるような旺盛な実験をも重ねねぱならなかった。
あいま
定家の官位はしかし遅々として進まなかった。焦燥は貧窮と相侯って、定家の日記『明月記』全篇を
生ま生ましい述懐で盗れさせる。歌道の名声は高く、しかし主家九条の衰運もあって定家の官位はぶざ
じようきゆう
まで不名誉なくらい足踏みをつづけた。奇妙なアンバランスな状態は承久の乱で後鳥羽院が政界を去り、
代って九条や西国寺家が定家を援護するまでつづいた。つくる歌は凄艶優雅で、夢幻の妖美を湛えてい
たが、一中流貴族としての定家は妻子への愛と官位への執着とで殆ど生涯を通じて物狂おしいまで俗世
間を奔走していたのである。
我々は『明月記』に接して、定家の俗物的部分と、家庭的エゴイズムに近い部分と)天才詩人らしい
ぎんじみは
透徹した清い衿侍を匂わせる部分との混清に眼を瞠らずにおれない。しかもこの潭沌こそ、定家の詩嚢
をみごとにもりもりと膨らませるちからであったことを確かに見るべきである。この揮沌を精神の強い
がいひ
外被として波荒き時世を泳ぎ切るよりないとの見極めは、謂わば或る”根性”であった。なりふり構わ
なかったのも当然で、そんな所は乗り超えていた。例えば昇進の執着も定家個人の我執でなく、子の為、
家の為というほどの身を捨てた強さがあった。定家の歌は反現実的だが繊弱とか退避的とかいえない高
度に結晶したレアリティを蔵している。時代と闘う家門の意識が歌のイデアリティを純粋に、強烈に、
鍛えている点をよく見なければならない。定家を筆頭にこの時代の有能な貴族は大なり小なり意識的に
家学を押し立てて新しい権威を標傍し、文字通り生活を守るよりなかった。それはもう職業というに近
く、かつ僅かに貴族の名誉を繋いたのである。俊成定家はこういう風潮の中の圧倒的な代表選手となり
優勝者となった。他でもなく彼らの種目が歌という最高度の伝統部内にあったため御子左の家は京極、
54
れいぜいくまぴまん
二条、冷泉と分れながら実に庶民感情の隈にも及ぶほど加漫的な中世美意識の源流となった。西行も後
鳥羽院も慈円や良経も定家の敵ではなかった。
何故こうありえたか。実作者としての力禰もあるが、わけても定家が謂わば文学史家の眼をもったこ
と、その眼を霧しい撰集、家集、歌合の歌に、また物語、歌日記などの歌に仔細に注ぐことが出来たか
らである。即ち一方に伝統と様式を「風体」の差に見極め、他方すぐれた詩魂の表現を「秀歌」として
批評的に選ぴえたからである。
定家らの秀歌撰には、それ以前の秀歌撰とはっきり違って、歌そのものの内面から掴み出した方法の
(20)
意識、様式の自覚がある。それが「風体」観であり、「風体」とは在来の”格””式”などの表面的分類
や末梢的な技法論とは根本的に異質累次元のもの、史家の眼と詩魂とが自覚的に融合して捉ええた僅か
きんとう
三十一文字中、無限の表情、様式、の内面的把握なのである。僅かに四条大納言分任の『新撰髄脳』や
くはんせんしよう
『和歌九品』はその先躍と見られながら、なお余りにも単に公任好みにすぎないものといえる。
単に眼前に一つの歌があり、それは秀歌であるとか凡歌であるという限りでは俊成定家を要しない。
しかしその歌の様式を過去に湖って探って行くという手続き、逆にその手続きによって改めて眼前のそ
の歌がかく詠まれるに至った伝統を知るという自覚。これらは俊成の『古来風体抄』がはじめて意識的
にもちえた方法であり、それこそ家学と門流の意識の鋭い萌芽であった。また、作風、歌風の論理的識
(21)
別と体系化の創始であった。この両者が合して私のいわゆる定家の「風」となって来るのである。
この「風」は、歌風、作風、流風、さらに風体、風貌、風采、要するにあんな風、こんな風、どんな
風などという謂い方に繋がる、形姿と方向と方法とを一丸にした、謂わば広義の「意向」「志向」を意
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味するものと考えてよいであろう。意向をもつことは、自我自主の意欲が露表することへ動いて、ここ
に中世文化が古代と一線を画する特徴的な傾向が見られるのである。
はうはい
この「属」は歌の道と限らず、あちらこちらで正に膨群として捲き起こって行った。流儀が免まれ、
くでん
口伝秘伝が殊さら重んぜられ、そして継承された。流、伝、継、承、そして道。家学宗派を眼に見えぬ
謂わば里見本にしながらも、これらはみな「風」の質や内容をなすことばであった。「その風」「かの
風」が学術、芸能から生活技術に至るまであれよあれよというまに組織され固守され浸透する一方でや
がて形骸化し空疎化し陳腐で窮屈なものにもなって行った。わが中世とは、戦乱のさなかで新鮮に生ま
れた「風」が、同じ戦乱のさなかで常凡に固着してやむ、そういう首尾ともに包みこんだ時代ではなか
っただろうか。
しよ
平安来藤原俊成の大らかな『古来風体抄』が、例えば室町初二条良基の『近来風体抄』となると、は
やくも歌の生命感より歌の形体により強く拘泥して「風」情を欠いて来る。それは、単に個性の差、カ
柄の差である以上に時世の変貌、時間の腐蝕性を示すものであり、さらにはまた「風」そのものの不思
議な内部事情に由来する必然とも言えよう。
形姿そして方向、方法、即ち或る選別選択の意向が”道”となり”流れ”となって継承される時、そ
こには虚でなしに実なるもの、具体的な或るもの、自ら他と分たれ限定された定常なるもの、の意味が
主張されているのである。「風」は吹き渡り移り逝く。人の眼がそこに姿を見、方向と方法を見ようと
すれば「風」は具体、実質、即ち意識された有限性、意向の特殊性を露わにする。広義の流儀誕生は、
伝え継ぎ守るという順を踏んだ文字通り流行するものの固定化、一定化、陳腐化をついに露わにする。
56
さながら反対概念と見られる固定と移動とが実は相惹く如く合体し、良くも悪しくも或る”定まった”
”決まった”形に流され、滞って、やむのである。「風」に出て、しかもその「風」はやむのである。
歌でいえば俊成定家の「風」が良基に至って早や、やむのである。ぞり後「に歌が新たな「風」を起こす
のは殆ど明治の正岡子規まで待たねばならない。
歌に代って定家の「風」を継ぎえたのはむしろ世阿弥であった。観阿弥、世阿弥らは能の芸の精進の
為にも雑多な諸芸学問を子弟に禁じたが、唯一つ歌の道だけは例外として奨励した。この意味は、おそ
らく最も卑賎の芸にその身を起こしながら猿楽能が日本古来の美の伝統を正当に継承するという、尊大
なまでの自負を秘している。良基ら貴族がもはや定家以来の糟粕を嘗めていた同じ時期に、世阿弥ら芸
人は、はっきり意識して定家の影響下に身を寄せものを考えていた。「花」を言いかつ「風」を語った
『風姿花伝』以下の世阿弥の著述の中で、分けても「風」一字の多彩な用例に窺われる如く、「風」の
咀嚼は柔軟で奔放であった。その端緒は「その風を学ぶ」「その風を継ぐ」「その風を承け」とある
『鼠姿花伝』の三用例に見るように先ず形姿、方向、方法を”道”と観ずる”意向”であったが、世阿
いちじょう
弥にあっては「風」は”一定”の道を求めながらそこに”不定”の自在と深化を併せ考えている所がい
かにも草創と成熟との大いざと言えるであろう。世阿弥は、定家が歌の上では「風」の定めなさを身に
しみて認めえながら、歌学の上ではあくまで”実”を追う意向に立って家門を確立したに対し、さらに
ふう‘う
「風」の”虚”を理論化して、この”虚”かつ”不定・無常”の「風」でこそ「あの風」「この風」を
横に繋ぎ縦に伝えて朽ち衰えてやむことを防ぎ、真に伝統の血脈となりうることをさまざまに説いた。
「風」は単なる有限でも定常でもない。すでに私は「風」の極まる所”虚”であり”空”であり、それ
57
故に人に物思わせ心しおらせ人間真如、”寒”の自覚に到達する秀れた機縁となることを前に語ってい
る。”虚”にして”不定”の「風」と、”実”にして”一定”の「風」と。この二相は否定のならない
「風」の意味であるが、何故このような相反する二面を生じたかも、実は「風」の中に理由が秘んでい
ると想われる。
世阿弥の「風」は江戸時代に入り、武家の式楽として能がみずからを厳しく枠づけて行くにつれて、
やんだ。或いは衰えた。江戸初期は或る意味で多くの涼風流儀の調い起こった時代だが、それは俊成定
家の時代のあのなりふり構わぬ生活欲求とは程遠いものであった。だがその中で俳譜の正風を求めた芭
(22)
蕉は、定家に対する世阿弥と同様の役まわりを能芸に対する俳諾で以て果した。「風レに内在する論理
のふしぎさは、例えば芭蕉と不易流行の説に於いて興味深くながめ得るであろう。
三、伝統
宮本武蔵の『五輪書』が池水火風生の五大になぞらえた巻立てをしていること、「風」巻には諸流剣
法の精繊な批判をあてていることは面白く、ものの讐えにも流儀、流派に「風」をあてがったのは頷き
易い。
武蔵の「風」の感覚はしかし均しなみに中世以後累々と形骸を曝したもろもろの流風とは較べられな
ナこぷ
い頗る異色に富んだ、具体的な、生まな体験と観照に根ざしている。有名な二刀流の始祖と目される彼
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が「その風」「この風」などと剣の術が型に固定することを実は鋭く排撃している、たとえば剣の構え
に就いて。
素人の我々には剣術といえば要するところ青眼とか、大上段、下段とか、時に柳生干兵衛の如き、眠
狂四郎の如き剣の構え方にこそ一種の感受性、先入生をもっているのだが、武蔵は一言で、「世の中に
り
かまへのあらん事は、敵のなき時の事なるべし」と言って退ける。死生を一瞬に交錯させる幻覚的な時
、、
間の実在感に逝るように生きを極めて勝ち抜く剣士にとっては、不断に襲いかかる敵剣を頭上にしての
剣だけがある。構えという構えを構えない一瞬に敵を倒す機先の理を、若年以来六十余度の必殺の勝負
に勝ち抜いて来た宮本武蔵は確かに見ていた。
「いづれのかまへなりとも、かまゆるとおもはず、きる事なりとおもふべし」
敵を斬りよいように剣は持て。敵を見知らぬ遊芸同然の構え業などは人形振りにすぎない。と、そこ
えとく
まで見極めて、なおその上で日常に構えの修練と会得あれというのが、「斬りよきやうに太刀を持つ心
也」の、「心也」の深重の含みなのだ。その修養や会得が、敵迫り剣先が火花を散らす瞬間、型でも方
法でも分別でもなくなって、「唯人をきりころさん」と思い、「敵のしぬるほど」に剣を振り下ろそう
と迫必死の高揚に転ずる。武蔵は「敵をきるものなりとおもひて太刀をとるべし」、その他の「口に
ていひかこっけ、或は手にてこまかなるわざをし、人目はよきやうにと見する」などは一見恰好良くと
も、みな衰弱した病人が着飾るようなものだと言っているのである。
この際これ以上、『五輪書』に就き問うことはないが、我々は宮本武蔵が剣道の観念論者でも神秘論
者でもないことをこの薄い文庫本と化した一冊にはっきり見てとれる。その感銘は喜悦というに近いだ
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けでなく、かの芭蕉による不易流行の考え方に極く自然に重なり合うものに思える。
こうそく
蕉門の高走向井去来は「基は一」と言って、「不易をしらざれぱ、基立がたく、流行をしらざれぱ風
新にならず」と書くが、一般に「流行」の理解は適切で「不易」に関しては寡黙ないし渋滞するのがこ
の説の難所のようである。
よろし
「流行は蒔くの変にして、きのふ鼠は今日宜からず、今日の風は翌日用ひがたきゆゑ、時流
ひいで
行とは、彗ることをいふなり一去来診一」。また蕉門の別葦、「たまく痔の流行に秀た薯のは、
ただおのれが口質のときに逢ふのみにて、他日流行の場にいたりて一歩もあゆむことあたはず」という
文章もあり、「よく不易を知る人は、往々にしてうつらずと云ふことなし」と比較する。
「一時流行」のものは「他日流行の場」に耐えない、という指摘の厳しさに鞭撻を受けない求道者があ
(23)
ってよいだろうか。芭蕉に先立ち宮本武蔵の剣道兵法にも見る如く、具眼の達者にはここに真の「道」
きゅうぜん
理があった。しかしまた新風が忽ち古風となり、旧染になずんで「一旦流々を起せりといへども、又其
風を長くおのが物として、時々変ずべき道をしらず」と『去来抄』にあるような都郡の宗匠・学匠は余
りに多かった。
注目すべきは武蔵も芭蕉も、また彼らに先行する茶の湯の利休にしても流行の「風」を否定はしない。
へいげい
時世を脾睨する英雄的な個性が新たな「風」を捲き起こすことを当然重んじて、自ら佗が茶を立て二刀
流を興し蕉門正風を掲げた。しかしその「風」が一度ぴ方法、方向、形姿を備えた具体的な或る選択、
判断、意向となって定まれるもの、実なるものとなり賑いもて唯され世の迎える所となる時、すでに謂
わば「風」力は衰弱して老いたる旧風となり行く運命にあることも利休や武蔵や芭蕉は悟っていた。そ
60
れを「風」というものの余儀なき真相であり成行きであると確実に知っていた。
「その風」「この風」は所詮尽きるべき”ちから”の現われて、ちからが失ぜれば、やむ。流行に対し
て不易を語るのはまさに「風」はやむ、とともにまた新しい「風」の興ることの意味、即ち持続し中断
し再現すること、限りなく繰返しうることの、その繰返しの意味や機転を謂うのである。何らか実体を
問い眼に見え耳に聴こえる事実を指すのではない、却って事実が消え失せた時に再生、繰返し、を可能
Lごく
とする天然の仕組み自然のはからいを不易と謂うのだ。至極の道理として繰返しこそ不易と謂われるの
だ。「風」はその論証を秘めているのである。
う
”生命”が限りある個々の寿命に荷われ荷われ生きっづけるという道理は諸け難いものでない。”伝統”
もまた同然で、例えば長いろうそく短いろうそく、太い細い、条い白いさまざまであろうとそこに承け
継ぐ志があれば”火”は繰返し燃えつづける。この無限や永遠は具体的な一つの物が不動不変に存続す
ることと違う。或る”ちから”に芽生えて生きて死に、また甦って生きて行く、端的には繰返す、とい
う仕方が可能にする無限、永遠である。強いて謂えば人の心が”繰返し”に自然の意図や創造の意志を
感ずるからこそ意義を生じるそういう無限や永遠であって、それ以上でもそれ以下でもない「道」理を
我々は”不易”なものと指さすのである。この自然の意図や創造の意志を深く汲みとって、進んで”繰
返し”の一度一度に一期一会の入魂を願うものは、これまた人の心の誠と謂う外はない。武蔵は誠を懸
とつかんおの
けて死生の境を晒城し、芭蕉は誠を懸けて風雅を己が繋がる一筋と見極めた。彼らは紛れなくそう書き、
つな
語り遺した。世阿弥が万能を一心に結ぐと言ったのも同じで、不易とは桂き流行の桂き繰返し、伝統、
を可能にする人天一州の熱き”志”でなければならない。
61
誠と謂い志と謂い容易ならぬ言葉である。「風」との関わりをさらに考えたい。
いましたLか
礼記に、母の死ぬるや号哭哀慟幼児の如き人を見て孔子はこう誠めている。かかる哀しみは佳に哀し
みに相違ないが、長く続けることは難い。然るに儀礼と謂うものは長く守り伝え守り継ぐべきものであ
り、その為には号実にも足踏みにも自ずと節度を備えた仕種が必要である(孔子日、哀則哀矣、而難為
継也。夫礼。為可伝也。為可継也。故哭踊有節)。
「哀」は真情の迸る所だが、真情の表現に或る「風」を生じた時、その一つに号哭などの「礼」があっ
たも
た。「礼」は「伝」え「継」ぐべきものゆえ、人さまざまな「哀」の発露を淘汰して一定の「節」を有
き
たねばならぬ。「哀」は真情であり生のままの”ちから”ゆえ、却って長くは保たれ難い。礼節という
「風」の意味がこれほど簡明に端的に語られている時、もはや孔子の言を解説する必要はあるまい。
たしかに「風」は或る方向へ吹く。しかし実のところ「風」はそれ自身の中で複雑に衝突し分裂し渋
とっかん
滞し吶喊その声その向きその速さは決して均等一様でない。例えば台風の際によく耳にする瞬間風
速の如く、一種の内部矛盾としての放将、超過、激発をはらんでいる。
むか
宮本武蔵は必死に敵に対えば剣は構えるものでなく、斬るものだと言う。どのような剣法剣術であれ
奔流する一刹那には「節」を踏み破らざるをえないので、剣道と限らず「節」即ち形姿、方法、意向を
備えたあらゆる「その風」「かの風」も、実践の機にはそうに相違ない。「節」するとはかかる送出を
”形”の為に制し整える謂であろうが、この放将、超過、激発の内にこそ秘められたもの、予期せず我
が誠、力禰が産み創り出した個性と価値とが窺われ、そのゆえにまたかかる個性や価値は形あるもの、
言いうるもの、伝えられるものとなり難い。伝え継ぐ為には「節」を有して認識に耐えねばならない。
62
真情は分別や節度の下に置かれるのである。
もし今、一の新風が吹くとすれば、人は「その風」の方法、形姿、意向を「節」あり分別と修得に耐
たん
えるものと受けとると同時に、背後に時代と個性の生ま生ましく渦巻く激滞、むしろ節や礼や流儀を押
し流すほどの「風」本来の驚くべき”ちから”を感じる。芭蕉の力価が弟子たちに与えた深いおどろき、
いえど
利休や世阿弥や定家が時の人に与えた強烈な感化、一匹狼と雌も広く尊重された武蔵の実力、それらこ
そ正しく影響と称さるべき「風」の本源の”ちから”なので、しかもこのちからは、ちからなるがゆえ
(餌)
に「節」とあらがい「節」に屈して時を経、人の心に障りつつ衰弱して行く。正しく承け継ぐ志が跡を
襲わねば残るのは「節」を分別する技としての古風なのである。月並必然、陳腐も必然で、.これを一時
流行の.必至と受けとる所から不易の理解がはじまる。伝統は誠の繰返しの中でこそ絶えない。
芭蕉の厳しい言葉として古人のよだれをねぷるなかれとあるのは繰返しを拒否する意味では決してな
い。「その風」と意識され整理され伝え継がれるものには相応の”限り”があり、謂わば”限り”方に
それぞれの「風」の特色がある。骨組みあって肉づけ乏しく、肉づけあって誠の強みは薄れている。分
別継承の仕易さになずまないで、学ぶべきは「その風」を真に捲き起こした内なる熱でありちからであ
る。しかもこの熱やちからは空かっ虚の謂わば吹かざる「風」にあたり、後生はただ誠の志を賭して学
び見出すよりない。
古人が持ち、自分もまた持ちたいと熱願する志が”ちから”となって、一度は絶えた「風」を喚び戻
し起こさせる。その甦り、繰返し、に”伝統”の理も値も読まねばならない。剣が剣を、俳譜が俳譜を、
よさる
匠作が匠作を、歌が歌を、演戯が演戯を喚ぶとは限らない。歌、連歌、俳詣という継承もあり、歌が申
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がく
楽を、申楽が茶の湯を、茶の湯が剣を、剣が匠作を奮い起たせてよく、また実際にそのように伝統は守
り継がれ易かった。”伝統”とは”形”の繰返しであるより当然ながら遥かに”生命”の繰返しである。
たと
”伝統”をもし眼に映るものに讐えれば、網を展げたさまかと想われる。が、この網はあたかも蓑虫の
衣の如く、鳥の巣造りの如く、雑多な方法、雑多な素材が鋭く深い意向に統括されつつ結ばれ繋がれ縄
な
絢われていて、木に竹を継ぐようなことさえみごとに成されている。もし日本人が「風」の文字にすぐ
うべな
れて強い感受性をもつことを肯いうるなら、その一つの理由に、このような継起継承、桂き繰返しの営
みに於いて無限や永遠を確かに見、またそれゆえに天地自然の大なる意向と同ずることの可能と至福を
日本人が古くから十分宿じて来た点を言いうるのではなかろうか。
日本人は、中でもすぐれた個性は、まことに良く「風」を見つめた。「風」の内なる実なる面と虚な
る面とを把えて、実ゆえに一時流行の限界が生まれ、虚ゆえに不易の道理をよく容れうることを見極め
た。また従って道尽き陳腐となることを自然と受け入れつつ月なみを踏み破って古風を新風に吹き返す
志を諸方面で大事に努め守り育てた。凡庸な古人のよだれをねぶる悪しき繰返し、劣れる模倣を排して
真に伝統の「風」を真剣に次の世代、次の個性に吹き送ろうとした創造的個性は、結局正しく尊敬され
てきたのである。日本文化史は、この「風」や「花」に内在する極く日本人らしい感受性の論理を活か
して書かれねばならないだろう。
この稿で私は頻りに「風」が”ちから”であることを言ったが、このことをさらに超越的な威力とし
ても受けとった古人の心を通して、一層考えすすめて行きたい。
64
四、大自在
ほつくうち
発句というものは、「こがねを打のべたるやうにありたし」と去来抄に伝えた芭蕉の言葉を改めて話
の継ぎ穂にしたい。言葉そのものが俳譜を離れてもなかなか面白い。それにしても五七五の三句を「物
二っ三っとりあっめて作る」だけの凡庸な性急をいましめた芭蕉のこの言葉には、逆に「こがねを打の
べたるやう」な発句の実は至難なことが秘めて言われである気がする。芭蕉でさえこのような自讃の句
は多くなく、それどころか真にずんと金無垢のまま打ち延べたような句は、もはやそれ自体が天然の物
う
として動じない存在であり、どんな名句でも、その故に、有情の人、限りある人の心に映し出される詩
のあやしさを超えてしまったという嵯嘆も伴う。「ありたし」とこそ言ってもまことは有り難きもの、
(25)
という程の断念と唄に芭蕉の真意は読まれもするのである。
「こがね」は佳きもの、償い貴きものだ。「打のべ」るとはその佳くて貴いものが最初に用意されてあ
とざ
り、桂き貴さを無垢に跡切れることなく維持し持続させるということになる。点線や鎖線でない謂わば
実線的なこのような”価値”或いは営為の持続は、一体可能なことであろうか。「こがね」を「時間」
と置き替えて、時間が無限かつ完全な実線的持続と思うのは一向構わぬことだ。しかしそんな時間は謂
わば神の時間でこそあれ我々人間の時間ではない。
ほしいまま
讐えば汽車の窓から走り去る外の景色を見る時、我々の視線は恐に、だが実は心ならずも粗雑に揺
れ動くばかりで、決して「打のべたるやうに」は見っづけられない。視線はともすれば一点に絡めとら
65
れ、もがいて振り放てば、視点ははじかれてあらぬ方へ飛びはねてしまう。視点から視点への移動はむ
ろん打ちのべた実線とは似も似つかず、無きに等しい空白である。粗い点線である。
車窓の景色に限らない。まことに眼が見る対象とは、つまりは視点の散開と集中とが総体として編み
上げる網の目に等しい。無数の網の目が霜しい大小の結節をもちながら四通八達の糸を繰り展げる”か
たち”。それこそ人間がその中で生きている人間本来の時間の”かたち”だと言うべきではなかろうか。
糸の部分の単なる経過的な時間と結節に籠められる自覚的な時間とは別々の意味と働きとで一つの世界
を形づくる。「こがねを打のべたるやう」な神の時間は別に厳存するとして、少なくとも我々人間の時
間とは否応なくこのようなものと私には実感されている。ということはこの時間はそのまま人間がその
中で生きている人間本来の空間の”かたち”をもあらわすのだと言わねばならない。網の目の展がりょ
うが要するに人さまざまな時間空間、即ち彼や私の世界に他ならない。
はごろ
強靱な結節を欠いた余沢山に空疎に伸びるばかりの網ならぱやがて綻び失せねばならないから、人は
みひら
眼を瞠いて密度濃い確かな結節を集中的に構築しつづけるような世界を産み出さねばならないが、いか
に「ありたし」と願おうと「こがねを打のべたるやうに」は行かない。我々は神の永遠でない人間の永
遠を生きられるかどうかを考えるべきなのである。
私は前に、紀反則の「久方の光のどけき春の日に」という有名な歌をあげて、枝を離れ地に届くまで
の無数の「花のちる」かたちに、或る悠久無窮のイメージが見られると語った。この”かたち”は決し
て無限持続の像でなく、文字通り断続するもののかたちなのである。子どもの頃に唄った「雪やこんこ、
霧やこんこ」の景色にも或る限りない時の流れを感ずるが、このように我々はむしろいっも時間の豊か
66
さや久しさを空間の美、素地に浮かび立つ図柄の静かな躍動と倶に、実線的にでなく、断続的に描かれ
た絵紋様かの如くに感受している。
ところで普通に、”断続”とはつまり”繰返し”のことである。この繰返すということが、そのまま
で親しくなるといラことでなければならぬというのが、本当に日本的な感覚、感受性なのであろうと私
は考えている。人皇の祖となった天孫が、磐長姫を措いて木花開耶姫を選んだ時、神の永遠でない人の
永遠が花の生命の繰返す新しさに求められたという私の思いは、おそらくもっと沢山の別の例を挙げて
補強されることが可能である。
人間になろうとした神の子が磐長姫の石を避けたことは合点の行かぬことではないのだ。日本人は石
に神霊を感じ畏れて来たし、今でもそう変わってはいない。大昔、石を穿ってその上に柱を立てること
はしなかった。石は傷っけていいものでなかった。今でも我々は西洋人と連って出来るだけ石を自然の
ままの姿、苔まで着けた姿で眺めたいと願う。それは石に対して神的なものを侵そうとせぬ慎みである
ほつたて
し、他方、振立の木の柱をむしろ殊さら土中に朽ちさせるのは、建て替え建て直して行く新しさに、日
本人の美と快と清浄の秘密を見ていたからと言えるのである。
我々が繰返しをネガティヴに陳腐一方に思い過ごす慣わしは、新味追求の名の下にひたすら違うもの
へ、違うことへ変える、変わることを求めたよほど近時の傾向であるのが事実で、古人のよだれをただ
ねぷることと、桂き繰返しとの間には甚しく径庭あることが忘れ去られようとして来た。しかし人間が
「こがねを打のぺたるやう」な、巌のような永遠には生き難く、花の散り雪の舞うさまに似た世界を生
きて行く以上は、繰返しの一度一度に甦る新しさに一期の覚悟を寄せっづけることは、”不易”の約束
67
事なのではないだろうか。
「こがねを打のべたるやう」な神の営みでは佳きもの催い貴きものはすでに太初に用意があり、無垢で
ありかつ不変不動である。しかし人の営みにはそのような保証は何もないという所が大事なのだ。ただ
ひたすら断続し繰返される一度から一度へ、人から人へ、家から家へ、佳さも値いもを新たに添え加え
産みっづけねばならない。”ちから”は初めから限られてある。限りあるちからを集中して、ちからか
らちからへ、波のうねるように志が承け継がれ守られ育てられねばならない。志が絶えれば”ちから”
は失せ、ちからが失せれば佳さも値いも無に帰る。「家、家にあらず、継ぐ(続く)をもって家とす。人、
人にあらず、知るをもって人とす」と世阿弥らは言い置いている。継がるべき”ちから”も、継ごうと
(26)
する”ちから”も保に限りある”ちから”なのだ。だからこそ伝統ということが金の延べがね以上に人
間的な価値をもつと言えるのだ。
たと
この”ちから”の意味に楡えて最も適切なのが「風」ではないかという話になる。我々が知っている
あの「風」をむしろ心に想い描けぱこれを納得するのは容易である。
我々は吹き通う自然の「風」に涼しい、冷たい、寒いという感じをもつ。そよそよと、ぴゅうぴゅう
と、撫でるように、肌刺すようにといった感じ方もしている。「風」一字から来る経験的な快不快は要
するにこれらの入りまじって醸し出す味であり、結局「風」のもつ”ちから”の味なのである。”ちか
ら”なしに「風」は吹かない。風向きも風の及ぶ距離もその効果もみなその”ちから”の量であり質で
ある。私は「愛」が一種の推進力に似たエネルギー以上のものでないと思っているが、「風」も例外で
ない。「こがねを打のべたるやう」な人の愛も信じ難く(ど,)かでエネルギーの補給があるのだ)、風
68
の吹くさまも有りえないと思う。
愛も風も、そのように限られた”ちから”の表現なればこそ、信じ難いような強烈かっ放将なその集
中と激発に人は感動し畏怖するのではないか。瞬間風速に見られる最高度の威力が「風」に限らぬさま
ざまな人間の行為に、創造に、思考にあらわれる。そのエネルギーに推し出されて人は忘我と悦惚と感
動の渦に捲かれるが、やがて推し出されて行った方向の中で我に帰る。「風」の自覚がこの時人に行く
べき道筋を見せ、その他の可能性が切りすてられる、つまり一定のその道へ志を振り向ける。方法や形
なら
姿が自ずと選んだ道を均すようになる。
均された道を後から随いて歩くのは易しい。だが、うかうかとこの道を行けば「古人のよだれをねぷ
たたおの
る」ことで終るのは眼に見えている。瞬間風速の内に満々と湛えられた先人の志や魂の”ちから”に己
(27)
が”ちから”の全てを懸けて触れようとしてこそ道が生き、風が走り、伝統が輝く。
つかひならひ
「所詮手本をならひ候に付て、字形と筆仕と、よくならひ候人は、一致にして相違無く候。あしく習
候人は、文字のすがたを似せんとし候へば、そのすがたは似候へども、筆勢をうつしえず候へば、精
霊なきがごとくに候也。これはいたづら物にて候。」
じゆほく
これは十四世紀中頃に尊円法親王が著した書法入門の『大木抄』の中で、主に筆づかいに就いて教え
る所の一節である。名蹟を手本に字形と筆づかいを本当に佳く習いえた人の筆つきは、手本の、心、姿、
技ともに我が物にして一分も揺がない。ところが良い加減の、心がけで習おうとする人はただ文字の姿ば
かり似せようとするから、似は似ているが肝腎の筆勢まで映し出すことがない。「精霊」が、魂が、籠
でく
らぬ土偶の如きものでしかない。一
69
おうぎし
八木道即ち書道に於いて一流創始の高名を知られる尊円法親王は、一方で古今に冠絶の主義之書法の
和様熟成に最も努めた伝統の書家であり、模や臨は基本の稽古であった。即ち手習いには拠るべき先達
の手本が大事であった。ところで書の「精霊」とは秀れた手本のもつ「筆勢」なのであり、同時にその
「筆勢」のちからに感応する習い手のちからに他ならない。あくまで同ずる、同じて行くのである、し
かしよだれをねぶる反復でなく、真に”ちから”を継ぐに”ちから”を以てしようという継承。尊円は
しばしば「精霊」を語るが、それは継承という感応、映発の中に秘められた生命感であったに違いない。
せんしようたつと
「精霊」を知れば、例えば臨模を稽古の本道として先躍を忠実に踏むことを尚ぶ中国人が、一方で形似
否定の批評性を強くもった事実を、自己矛盾と早合点せずに済むであろう。
さてこそ日本人は「風」がちからに任せて猛威を振うさまを繰返し見て来た。日本は有数の台風禍に
悩む国がらであれば、今でこそ優しい野分ということばにも、想像以上に風に摺伏した古人の思いは籠
められていたはずだ。神風のように畏れと崇めを寄せた謂い方から、自然と「風」は怪異の前兆となり
もののけ
怪異そのものとなって或は天狗、物怪、死霊の崇りに帰されるような沢山の異聞伝説を遺した。謂わば
あら
「風」の神は人の住む至るところに顕わにまた秘かに人と唄に住むかのようであった。その意味では、
「風」は我々の汎神論的な自然崇拝の感受性を最もそれらしく刺激するちからであった訳である。
「風」の神は畏怖を誘う一方、決して忌まれてばかりでなかった。むしろ親しまれ易かったかの如く宗
達や光琳は描き遺して呉れた。この神は確かに或る爽快さをもたらす威力でもあった。「風」の行く処、
破砕と散乱の狼籍から結局は清浄香潔に極まり達するという信仰がある。物が、眼に見え手に触れる悉
くの物が吹き放たれて無くなるというイメージは、「風」の功徳の中でも最良の一つに算えられる。日
70
本人が要するに「風」を好んだのは何よりこの清潔の印象、無と空との印象を好んだのではないか。い
や、より正しくは、あんな風、こんな風と謂った形式や体裁や手順を頻りに欲する素質と、そのような
一切を椅麗に吹き払ってさっぱりしたい素質とが、日本人の、心の内で不可分にしっかり結ばれていたと
言うべきであろう。
しき
「色不具空、空不異色」は「風」一字の内におさめた日本人の自己認識であったかもしれない、いや人
が意識するとせぬとにかかわらず私はそうであったのだと思う。そして「風」自体にはらまれた相矛盾
する性質がこの文字に狂の意を添え人を風圧の旅に歩ませる。それは人が「風」の二側面の一方を選ぷ
むげ
というような単純なことでない。「風」の論理を自覚することで自分も根から解き放つのである。黒磯
の自在になるのである。むろん風癩だけが自在ではない。独坐大雑峯という自覚もまた秀れて「風」に
学びうるおのずからなる大自在でなければならぬ。
五、色不異空
空虚で自在な「風」に、さらに端的に感受し教えられるのは、”清い”ということではなかろうか。
”清い”ということは、おそらく「風」を意識するより遥か古代から日本人の魂の最も深く太い根を洗
う思いであり憧れであった。「風」好みは、”清い”好きの国民的性格が自然の表象を得たものと解さ
れる。浄とか、聖とか、潔とか、純とかは何れも”清い”のあとに来たもので、清さを抜きに日本曲心
71
(28)
象の色合いは語れまい。
うこ
どれほど古人が清さを尚んだか、古人と限らず我々とて同じことだが、その事例をよそに求めて右顧
さへん
左匪することはない。何かしら心あらたまる時、その際の自分の覚悟を見定めてみると、”清い”とい
うことをどれほど大事に思っていたか分る。人を迎える時、人の上を想って行為する時、真に率直に物
を言い事を為そうとする時、その時々に清さは自分の心に秘め隠されていた色かのように思い当る。す
べて佳く行き届いた人の住む場所、振舞い、言葉は”清い”と映る。映る色は純白だけが清いのでなく、
きん
燃える緋や紅も、無垢の黒も緑も黄金色も、みな塵もたまらぬふしぎさを湛えて日本中のどこかしこと
なく”清い”印象は凛としてその世界世界を蔽って来た。その印象は今日我々の美意識をもかなり厳し
く律している。
讐えば印度ふうに清いものを謂えば瑠璃の床の如きものとなる。七宝焼欄、光赫混耀の浄土はそのよ
うに清い世界であったろう。中国ふうに清いものを謂えば玉、ないし玲璃たる磁器の肌の如きものを想
わせる。
日本人の好む清さはやはり「風」の、つまり自然の色がはらんだ淡泊な、心にたまらぬ露のような清
さであった。古事記、万葉集より倉田百三、志賀直哉まで、おしなべて日本人は神の教えも仏の教えを
君瀦清い.”ということに置きかえて、謂わば”自然”なものとして体感しようとした。風流、風雅、み
なこの清さに一点結ばれながら、その結び目をさえさらりと解いて流すような、心すずしい境涯にはた
らくことばである。しかもその清さは、決して頑なに無色透明を強いない。却って多彩に色を受け入れ、
色のあくまで美しく冴えたところを賞美する思いの内に、清い心と清い色との融和を迎えとろうとする。
72
この清さにあえば崇高も優美も、人為も天然も、一つの環となって互いにせめぎ合わない。、心と物と
が同じ清さを汲むことで、流れ合うように一つになる。人の住む場所と外なる山野とがこだわりのない
一っづきになる。一Nはガヨ,奪自然り自在な清さを愛し、そのような自分自身の心をも清らかと感じる。
この謂わば、「風」が清いとは即ち「花」が清いのだとでもいう”清い”の感覚。清くでさえあれば
即ち「花」と「風」とは異ならないのだという認識。これは日本人の論理的な鈍感を示す負の特徴かも
しれない。にもかかわらず我々が一番深くも強くも頼んでいる桂き国民性がこの感覚、この認識に籠め
られていると私には思えてならない。呪術と信仰、征服と権道、渡来の知識などが結局長い歴史を通じ
あか
て日本人の心の底から奪い切れなかった自然との根深いこの同化を「花」や「風」はあざやかに証しし
ている。
ところで「花」と「風」とは仏典に見られる謂わば色と空とに相当するであろうか。譬えれば近いと
くらいは言えるのかもしれない。しかし色即是空、空即是色と言い切る世界へは日本人は素直に入り切
れない、つまり叶わないという受け方をしてきたように思う。色即空では、私が熱心に語って米た”繰
返し”という不易の論理、永遠の論理、伝統の論理が忽ち静止してしまう。一切が”即”の一字に触れ
て石のように凝固してしまう。花をえらんで巌を退けた決意を再び永遠不変の神の論理にみなゆだねて
しまう気がする。
と
「花」と「風」とを仮りに日本人の色と空と釈るにしても、色即是空、空即呈色というような決定をし
ないまま融通させているところに良くもあしくも真に日本人の思いが生きているのではなかろうか。色
は空に異ならず、空は色に異ならず、(色不具空、空不異色)とは言いもし考えもしながら、一段徹底し
73
て色即空、空即色と言い切るところまでは敢えて踏み込まない。色と空を”即”と結ふ代りに日本人は
「風」も清い、「花」も清いと、”清い”という根源の価値を共に下に支えて、清さの内に心と物、人
と自然とを一挙に一撃ぎにしてしまうのである。「花」は「風」に誘われてほころび、「風」は「花」
を散らして甦りの新しさを用意する。互いに厳しく他とせめぎ合うことなく、そもそも「花」と「風」
とが交互に”繰返し”露われて時空の網を永遠に編みっづけるのである。この”清い”とはやはりpure,
holy,clean などでは言い尽せず、むしろ「花」は花のまま、「風」は風のままに人の心の中へ導き入
むげ
れる自在(free)な融通無擬の心象を謂うとすべきであろう。
色即是空まで行ってしまわずに色不興空のところで手を離して、あとは「花」や「風」のおのずから
にゆだねるということ、それをさせる日本人の独得の”清い”ということ、のふしぎな、むしろ奇妙な
(29)
はたらきを一つの儀式に組み立てたものに茶の湯の作法がある。
かげこんりゆう
茶室。それは本来心よい署のみが漂う無一物の世界であり、主客一座建立の時はじめて軸、花、釜、
棚、水指などが飾り付けられ、諸道具が持ち込まれる。一座果てればまた悉く空に帰し、茶室はもとの
無一物のまま静まる。
しよさ
その茶室に客を迎えての主人の所作を見るがよい。主人は茶室で客に一晩の茶を振舞うまでである。
その余のことは何もない。しかしそれだけのことを進める主人の作法をとくと見るがよい。
た
必要な限りの道具が順序よく適切に運び出される。むろん茶を点てるために、だが、同時に客の面前
で一々それらの道具を清めて見せるためだということが実によく分る。美味い茶と菓子を饗するだけな
ら、客の見ぬ別室で用意して運べばすむ道理であり日常のことは誰もがそうしている。しかし茶の湯は
74
あくまで主客同座の接待に尽きる。主人は客の前で炉の炭火をあらため清めることからはじめる。灰の
姿や色も新ため清める。香をたく、水を打つ、軸に露を添え活けた花にも露を置く。みな清めである。
床に墨跡を懸けるのももとより心情めである。
ふくささはちやきんかいし:
茶器を清め、茶杓を清め、茶箪をすすいで茶碗を清める。その図に吊紗を捌き茶巾を使い、懐紙や羽
ほうき
箒を用いる。みな清めゆえの用意である。たぎっ湯にさえ水をついで清める。それらの一切が懸かって
主人がみずから客に茶を一碗呈することのために為されているのである。
手前作法の基本的な順序は、持ち出した道具を先ず清めて見せ、使ったあとまた清めて取りこむ、と
いうことに尽きている。初歩の手前から難儀の奥秘まで、少くともこれだけのことは一貫して変らない
と、私は茶の湯稽古の久しい経験上、確言できるのである。
ところで茶の湯の場合、事実情めねばならない汚れあって客の前へ持ち出される道具は何一っあって
はならない筈、つまり十分清い物をさらに今一度客の眼前で清める、清めて見せているのである。ここ
に意味が秘められている。
カく
もじ吊紗を押し当てて茶杓や盆を実際に拭って見せたとして、見た眼に清いであろうか。却って汚い
のではないか。清いと見えもせず思いもならない。浄められねばならぬのは実の道具でなく、その行為
を中にした主客の眼ないし心なのである。茶の湯は清めて見せる所作の虚実を作法として視覚と心術の
両面から構成しているのだ。この清さの営みにはわるく徹底することを退けて、眼に見えぬ何か独得の
価値を想い憧れるような理念的な、また人間的な願いが籠っている。わるく言えば、汚いものでもその
まま清いものに清めて見せることが我々には出来るのだ。清いと心に想えばもう汚くはないのだ。これ
75
は錯覚とか条件反射とか虚偽の演出と言いすてうることだろうか。何としても久しく培って来た謂わば
我々の”真実”ではないのだろうか。
だが我々は改めてこの”真実”を再評価しなくてはなるまい。かの”真実”はどうして日本人の心に
根づいたのか。
真の純潔無垢清浄を、日本人は「風」によって少くも心円に見劣めて知っている。その尊さ有難さも
よく分っている。さて、知って分っている以上、その尊く有難い境地に近づきつつある状況、近づこう
とする気もち、ともに尊く有難いそれと質的に異ならず、単に十分そこまでは及んでいないだけという
”諒解”が出来ているのである。この”諒解”が受け嗣ぎ受け嗣がれて、理想的な不変の極致と、そこ
へ達する広大な傾斜とが容易にいつも眼に見える気がする。人は人それぞれの持ち分に応じてその傾斜
のどこかに自分を置き理想の極致を窺う。少くもそこに身を置く限り極致への到達は拒まれていない、
それどころかほんのあと一歩だとふだんに思って居れるのである。
とうと
たしかに「風」や「花」を我々は愛し尚んで来た。しかし愛し尚ぶこととその境涯に達することとは
まるで違う。清い好きの人が、必ずしも真に清いわけではない。願望や志向と、達成との間にはむろん
目くるめく距離がある。次元も違う。一つづきとかあと一歩とは決して言えないのである。しかも日本
人はこの距離感を苦もなく消し去る。能力というならこの能力こそが日本人を日本人にした。趣味も性
質もを造りあげてきた。極致を窺う物真似、物狂いの自己呪縛と自己解放とにより現実も非現実も一つ
に蕩揺する。まじるのでもなくまじらぬのでもなく、まさに色不興空、空不異色のまま繰返される。繰
返しの一度一度が永遠となり、しかも次の一度を迎えて先の一度は切り落とされて行く、太鼓の音のよ
76
うに。
切り落とす、それが日本人には清い。清さを想うとき心に映る影は何も何もさらさらと脱きすて脱き
すて過ぎたものに切って落としたいという願望と重なる。しかし、願望は願望であり、実際は古いもの
に重ねて暑苦しくけばけばしく虚飾をまとっていることが多い。こういう日本人が救われるのは殆ど神
仏ゆえでなくて、前にも言ったような”諒解”、はだかになりたいと願っている以上はもうはだか同然
だ、あと一歩だという”安堵”なのである。
この諒解、この安堵を確かめるためには沢山な工夫がされる。讐えば襖絵や床の間の懸け物はどうか。
ぼくせき
高雅な山水、聖賢、故事の絵、秀れた古人の書蹟、高僧の墨跡、絶えずそれを身辺に置き、その中で生
活するのは、自身をその絵や書の境涯になぞらえ置くことであり、その境涯を願う思いを持とうとする
(30)
ことであった。
おおむ
或る程度なぞることは出来たであろう。しかし概ね俗を離れ得た人はなかった。むしろ俗を離れ切る
必要が本当にあるのか、俗に居て碓を願うのが常人の常で、それでもかなり立派なことだという謂わば
”居直り”を正当化して来たのが日本人のさきの”諒解”ではないか。一人の聖賢のうしろに百万の凡
愚がある。この”諒解”は百万の凡夫にこそ滅法よく効く頓服の良薬であった。この良薬が日本人の平
均水準を維持した。程良くまじめで、程よく努めもし、程良く満足して、いっもあと一歩なのだと思い
上がっているしたり顔の日本人。まさしく私をも含めて殆ど全ての過去現在の日本人は自分の私生活の
場ではこれくらいのことを考え、して来たのである。これは”真実”なのである。
この”真実”に最も典型的に身を寄せて生きかつ語った日本人像として私はいつも大半は愛慕、若干
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軽侮の思いでかの徒然草の兼好法師を想い出さずに居れない。兼好ほど何でもよく知り、分っていた人
はめずらしい。しかも兼好ほど、知って分っていることに安住して、好きなまましたり顔に書き散らし
た人もめずらしい。徒然草の全篇を通じて、理想の極致、無一物の悟りへは”あと一歩”と鼻をうごめ
かす兼好法師の憎めない人の良さが横溢している。我々凡夫には面白く読める道理であるが、それにし
てもなお兼好は、この筆のすさびを「あやしうこそものぐるほしけれ」と言わずに居れない。彼はやは
り何かしら分っていた、よく知っていたのである。
六、丸山凡水
いや
「賎しげなるもの。居たるあたりに調度のおほき」と兼好は徒然草七十二段に書いている。「おほくの
、せんざい
たくみの、4をっくしてみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度どもならべおき、前栽の
草木まで、心のままならず作りなせるは、見るめもくるしく、いとわびし」(十段)とも書いている。
”飾り立てるのは賎しい”という判断を大概の日本人なら即座に諒承できる。諒承の背景には、謂わば
(31)、、、、
”無一物”を理想とも極致とも尚ぶ思い慣わしが働いている。その”無一物”へあと一歩という位のら
くらくとした悠々とした気もちがたしかにすでに兼好のことばの内側に出来上がっているのだ。だが真
、、、、
にあと一歩だろうか。両者の境地はまるで似て非なるものと言わねばならない。では兼好は愚鈍の故に
あやま、、、、かた
ただ単に錯ってあと一歩と思っているのか。そうではなく、兼好は(我々にしても)”無一物”の難さ
78
、、、、
嶮しさ厳しさを畏れかつ心得て、そうと承知であと一歩と言いもし思っているのだ。
兼好という人は(我々も)決して自ら自身を無きにして、”無一物”に至ろうとまではしないが、度
を越えて物を持つ、物で飾る賎しさは分っていて厭おうというのである。”無一物”の境涯はその際あ
くまで根本の下敷き下絵となって大事に思われてはいる。だからこそ兼好も「唐土に許由ともいひっる
人」が鳴りひさごの鳴るさえ余計だと打ち棄てて、水を飲むのに掌を使った逸話を、「いかばかり、心の
うち涼しかりけん」と大真面目に書くことが出来るのである。
徒然草にはやたら「(よろづ)」ないし「萬事」「大方」「人皆」「すべて何も皆」という言い方がされ
ている。同時に兼好はしばしば平然と「おろかなり」「おろかなる人(者、事)」と言ってのける。兼好
よそ
の思考形式を露表するもので、その筆っきにはしたり顔にがつ自分自身を他所に置く所が見えるのであ
る。
徒然草はたしかに面白い本である。それでいて、こんなに立派な、すばらしい、胸をどきどきさせる
ことを言える兼好という人はどれほど完成した人物であるのかと嘆賞措く能わすという気もちには結局
させない本なのである。何でもよく分った人だと思いながら要するにみな何時か聴き自分でもそう思い
そう喋った、日本人の思考の最大公約数のようなことに思えるのである。だからこそまた気安く親しめ
て繰返し愛読し少しも飽きない。
私は徒然草の兼好の眼を本質的に、”従者の眼”ないしそれを苦しんでいる眼だと考えている。いか
に警抜であっても何かを讃仰し追随する眼なのである。このような兼好の視覚と思考形式を私は凡俗に
特有のものと思う。”凡俗”とは即ち人一般の謂であり、例えば横町の御隠居像にも太い線で結ばれな
79
がら現代に生きる我々平均的日本人の誰一人をも、都鄙老若男女の別なく例外としない。苦笑いになり
ながら私は兼好こそ我ら”凡俗”の典型とも代表者とも頼み、日本文化とは凡俗の能力が桂き自然と関
わり合って産み出したものと思わずに居れない。
ほしいまま、、、、
恐にあと一歩と思いこみ、しかもその一歩を進むべく努めに努めはしない。努力ぬきに自己保存の
可能だった謂わば島国事情の一端であろうか。所詮は凡愚だからとは口実であり、口実に安んじて納得
し、さらにはあと一歩の状況を妄信し自負するに至るー?何故にそうなのであろうか。
.花Lを想い「風」を想いっづけて来たが私は決して特別な何事かに言い及ぼうとは考えなかった。共
に尋常の自然現象、馴染み深い人の友である。当然ながらこの一年、私は何度も「花?や「風」の文字
を読みかつ聴いた。、花と風のー」といったデパートの客寄せも見たし、アングラ芝居の口上で・「欄
たる花の咲き、繭たる風の舞う」などとも聴いた。『花と風』という本が、内容はともかく・出版され
てい
たのも知っている。「花」や「風」の体験は肌身に触れる態の極く生活的なものに相違ないのである。
いささか冗談にもわたるがあの忠臣蔵への尽ぎぬ喝采の種は、悲運の浅野内巨頭の辞世「風さそふ花よ
りもなほわれはまた春の名残をいかにとやせん」という、無念の怒りを秘めつつどこか優美な青年が永
遠を覗いて洩らすため息の如き切なさに芽生えて生きるように、私には想像がされてならない。
この辞世の「花」や「風」の文字は精神化され象徴化されて、或る意味で符牒や記号に近い使われ方
をしている。読みかつ聴けぱそれだけでその瞬間無量の花の色や風の声を感受させる、不思議の世界へ
のドアやノブの役目を果している。文字がイデアルに働いている。
中国人は微妙な意味の違いに応じて先ず何万何十万字に及ぶ文字を一字一字執鋤に造りっづけた。表
80
あがな
現の的確を文字の創造で先ず購った。その上で霧しい数の一字一字をさらに縦横に熟語化した。西洋語
でもそうだが、彼らは文字を組み合わせでどんなに観念的な表現でも果しながら、だが文字自体をこと
さら精神化する必要はなかった。文字があくまでレアルに働くのである。
日本人には、逆に文字の数、ごとは数を極力惜しみ、なるべく「花」一字「風」一字で用を足してし.
まうような、文字そのものを精神化する感覚がある。中国文化を層々累々たる熟語化の文化とすれば、
日本文化はまさに単語を働かす文化であり一字一語のイデオローグや述懐や境涯をむしろ精神の高尚な
伝統とも特技ともして来たのである。
日本人を、物事を精神化することの得手な民族と言って誤りはないと思うが、その精神化は概して助
数、手数、言葉数を惜しんで謂わば”無一物”に次第に近づくふうに成された。例えば絵でいえば山あ
り海あり川も里もある色彩美しい風景から先す山や海を消し去り、川や里を消し去り、人も去り、そし
て美しい色を去り、鳥獣、花鳥を去り、ついにはただ名もない一木一草一石のみを描いて、みごとに世
(32)
界の大いざと美しさとを打ち出す。言語表現の場合でも事情は変らない。
しかしながら、そう成り行く事情や道筋を見劣めその志をよく承けて、一木一草の大を知り、「花」
「風」の内面の豊かさを感受するのでなければ、単に結果を模倣し追随するのでは、精神化が即、形骸
化に転ずるのも当然至極であろう。事実残念ながら”形骸”が”精神”を装ってしたり顔にあと一歩と
うそぶき安んじている実例ばかりが眼に見えかつ悔まれる。
高度の精神化がそのまま形骸化ともなるこのような日本人に特徴的な素質、謂わば「花」や「風」だ
けで余りに多くを言おうとする文化の素質を、当然ながら私は極めて危く厳しいものに思う。我々は昨
81
日も今日も数多い鍵ことば、「花」や「風」同様日本人の心の奥に永遠を見出そうとする鍵ことばを使
(33)
いあぐねて何度も立ちどまったはずだ。そして明日も、道、旅、色、家、夢、名、品、心などの文字を
相変らず極く特殊な語感で読みかっ使わざるをえない。いやその同じ語感で絶えず新しい明日の鍵こと
ばを見づけよう育てようと現に努めているはずなのである。
だが、何と危うい努力なのであろう。豊かさ美しさ新しさと平凡陳腐とを表裏に抱えた努力であり、
一期一会の覚悟、繰返しの一度一度に魂を注ぎ尽す覚悟だけが物を言う努力である。
この際さらに重大なのは、いかに秀れた志や強いちからがその努力を支えても、現実に眼に見え耳に
聴こえるのは切りっめられた謂わば「花」や「風」または「桜」や「鯛」以上の表現ではないという点
むくろ
だ。かかる表現は人に並々ならぬ受け入れの訓練を強いる。立派に生きるのも空しい骸になるのもまさ
、、、
に使いまた受ける人の心々なのだ。「花」も「風」も繰返しの集積、あくなき似せ物の極まれる表現な
どう
のである。好むと好まざるにかかわらず日本の文化と伝統は或る極致へ似せて似せて限りなく同じて或
る”無一物”的な何がへ極まって行く。しかもその何かの表現といえば花や風の如く道や夢の如く日常
(34)
的なありふれた馴染み切ったものである。
私はこの稿をいよいよ終るため一年前に戻って今一度谷崎潤一郎の文章を引用したい。
「それは峨々たる哨壁があったり岩を噛む奔滞があったりするいはゆる奇勝とか絶景とかの称にあた
ひする山水ではない。なだらかな丘と、おだやかな流れと、それらのものを一層やんはりぼやけさせ
てゐるタもやと、つまり、いかにも大和絵にありさうな温雅で平和な眺望なのである。なべて自然の
風物といふもの覧る人のこころぐであるからこんな所は顧のねうちもないやう態ずる者もあ
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るであらう。けれどもわたしは雄大でも奇抜でもないかういふ丸山凡水に対する方がかへつて甘い空
想に誘はれていつまでもそこに立ちつくしてゐたいやうな気持にさせられるL(藍刈)
「丸山凡水」。これこそ悪魔派、耽美派といわれ見巧奇抜を誇ったこともある谷崎がその堂々たる文学
生涯の重みとともに言い得た真に批評的な自己批評であり、同時に日本文化と日本人に対する本質的な
批評になっている。「丸山凡水」が誘う「空想」という語はやや軽く響くが、これに、「美の極致を一
定不変なものとして、いつの時代にも繰り返しそこへ戻って行く文学」を考え、「常に古人の跡を踏ん
で而も新しい感動を与へる」「心の故郷を見出す文学」を考えた谷崎の思想を重ねて読めば、心奥に拡
がる「故郷」の姿は謂わば名山名水に他ならず、それあってこその丸山凡水のなつかしさを謂うものと
理解できる。
谷崎の如く敢て「丸山凡水」に親しむ眼には、逆に、強く黄金を打ちのべたような犯し難い「名山名
水」即ち神の創造と永遠を思い畏れつっも独自に人の創造と永遠を肯定する光、「凡」ということを人
間的価値的に佳しと肯定する光が宿っている。谷崎文学の謂わば花は「桜」魚は「鯛」がしばしば尋常、
へん
通俗を以であたかも既されだというのは、この「丸山凡水」の「凡」の論理が日本と日本人という否み
難い土壌に根ざした、即ち我ら「凡俗」が精一杯佳く生きるための論理、古来の美の創造と享受の論理
であったし現在も将来もそうであることに思い至らないからである。
今日人は大概「凡」より「非凡」を追う。AよりBに、何か違うものの新しさがあると考える。だが
このような発想や追求が日本の伝統なのではなかった。多くの人が「凡」より「凡」へ、AよりAない
どう
しA'へ繰返し同じながら、しかも新しい感動、心々の一期一会を温習稽古から家常の言行に至るまでの
83
基本的な願いとして来たのである。当節の花こそが珍しく新しく面白かったのである。それは自然に親
しみ、人の分をわきまえた我ら凡俗の温和かつ危険な発想追求であり、尽きる所「花」一字「風」一字
に多くを語らせる文化的素質と一体の願いであった。例えば花鳥風月とか山水とかは単なるイデオロー
グとしての便宜語以上にそこに人が生きる、生きて永遠をうかがう天地であり世界であったし、同時に
また日本人は、秀れた人でもそうでない人でも質的には同じ精神構造によって、心の内へ内へ永遠の像
を掘り下げつつ外へ外へ丸山凡水を積み上げずにはすまなかった。
私は、かかる日本と日本人の文化的素質をただ讃美し全肯定すべく「花」と.「風」を語って来たので
は決してない。むしろその秀れて桂き一面と同時に極めて危い反面を痛切に自分自身の胸の内にも思い
当てながら、ともあれ事実は歴史的にそうであったし、今日とてもそうであることを指摘したいと試み
つづけたのである。
私は心中強く否定しながら、なお自分の指摘や思考が、自然と緊密に結び合った久しい過去の農耕定
住社会に対してのみ妥当するようなものかを自問している。社会と生産の現実はたしかに今急激に動い
て見えるし、人の思いも行ないも動きの渦の中で変容しつつある。迫り来る人類滅亡の足音の速さに先
立って日本と日本人が真に文化的に変質変貌を遂げ私の指摘を全く無駄なものに帰するか、まことそう
あらねばならぬのか。或いは、神の永遠の膝もとに人の歴史が脆さ崩折れる日までは、「花」と「風」に
寄せて想いっづけた日本人の思考の奥に横たわる永遠、特色ある直観と営為の、即ち”繰返し”の中の
一度一度に生まれ深まる独自の永遠がなお我々を佳くもあしくも「花と風の世界」に生き永らえさせる
のか。
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補註
「花」に就いてだけ書くはずの文章が、途中から「風」の章を後半に加えることとなった。「花」と「風」を
通じて、中世的な所に視点が集中したが、それで良いと思っている。谷崎潤一郎文学背後の”伝統’を問うも
のともなったが、それもそれで良いと思っている。出版(昭和四十七年)に際し、以下本文に照応して、より
具体的に筆者の考え方が補足してあり、ぜひ併せ読まれたい。
1花言葉の如き言い慣わしがある以上、西洋にも花を愛することは一般の好尚であろうと想像されるが、花
見、月見、雪見のような行事や、そうした心の催しの乏しいに就いては沢山の人が証言している。日本人で、と
くべつ風流気のある訳でない人が外国で暮して時に花や月をことさら愛で眺めようとするのを、近隣の異国人が
奇異に思うという報告を何度か読んでいる。
中国人は、蓮を、牡丹を、竹を、梅を愛して佳話、逸話を後世に伝えている。だが何れも主君子の風雅であっ
た。日本人の場合は長屋の住人であろうが堂上の公卿であろうがえらぷ所なく、花を見、雪を賞め、月を仰いで
いる。平家物語に、桜町中納言という人は、「つねは吉野山を恋ひ、町(邸内の意)に桜をうゑならべ、其内に
屋を立て、すみたまひしかぱ、来る年の春ごとにみる人桜町とぞ申ける」と言われ、七日で散る花を天照大神に
祈って三七日までの名残を果したなどと書かれている。
2日本人が芸術を真にどう考えて来たかに就いては、一思案必要なのではないかと思うことがある。一方で
美を心中に育てて心を養い、他方外に表現されるものに就いては多くを望まないような、謂わば芸術よりも心術
の尊重が先立つ点が多々古人の言表に見られる。
たのむらちくてんたくうれ
田能村竹田は、「筆を用ひて工みならざるを患べず、精神の到らざるを患ふ」と言い、「精神到る者は、自家立
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脚す」と言っている。画業の大成以前に至醇を望む我が芸術家、心術の伝統はここにも掬まれる。
「士大夫数万巻の書を読める者、筆を下して気象はじめて俗態なし。しからざれば一槽書吏のみ」と宋の黄太史
は語ったそうだが、書道にはこういう考え方、即ち芸術をいう前に心術を考える行き方が特に濃い。日本では書
しよ
道だけでなく他にも及んでいる。是非の問題でなく、それが事実である。中林竹洞という人の『両道金剛杵』に、
お
書画は、「それを愛する人の心だに推し量られて、かたはらいたきことになん」とある。
また杉九兵衛の『舞台目箇条』の中に、たまたま狂言の代役を人に頼まれることがある場合、自分の本復でな
いから粗末に勤めておいても損はないなどと考えるのは甚だ心得ちがいだと言ってある。「万一本役の人より、
すぐかいけい
ひとところなりとも勝れたる仕うちあらば、その身の会稽(名誉、本望の意味か)ならずや。」役者の純粋の喜
びとは、役の重い軽い、本役脇役の別によるのでなく、端役一つでも自分なりに精一杯やりおおせた時に、しみ
じみ湧き上がる満足をいうのだと教えている。この心構えからも、日本の芸術家が外へ表現された形や姿として
ひつきよう
の芸術以上に内に充実した心術を尚んで、芸術は畢童心術の証跡かの如く見倣す所があったと察せられる。
芭蕉は習字に際し、「たださわがしからぬ心遣ひありたし」と土方らに訓えたという。さわがしいとは古人の.
嫌った最も悪しき心がらであった。渡辺黒山も「山静かにして草木生じ、大静かにして思慮出づ」と書いている。
深い叡智が先ずあって、次いで美しき芸術が続いた。日本人は本性芸術至上主義ではなかったであろう。されば
こそ却って、「歌の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむるためにもあらず、ただ、心に思ふこと
をいふよりほかなし」(本居宣長『あしわけをふね』)と言い切れたし、また、「そもそも芸能とは、諸人の心を
やはらげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、加齢延年の法なるべし。究め究めては、諸道ことごとに寿
福延長ならん」(世阿弥『風姿花伝』)とも考えられた。
芸術、芸能決して単なる方便でもなかったが、心を映す鏡であり、心の苗であり、そして狂言椅語と壁も讃仏
86
乗の因となったのである。
3物狂いとは謂わば特殊な体験の「繰返し」であり、繰返し方は、記憶を模倣する。物が患くとよくいうが、
きよ
これは一種特別な物真似であり、記憶が媒介して意識下の下絵を行為でなぞるのである。これが平静な日常の挙
ぞ
指に再現される時は一種の美的な選択行為となり、自身で意識して体験を模倣するようになる。広義の物真似物
狂いである。
そもそも
4「抑、茶湯の交合は、一期一会といひて、たとヘバ幾度おなじ主客交合するとも、今日の会にふたたびか
いささかそまつ
へらさる事を思ヘバ、実二銭一世一度の会化、去る二より、主人八万事二心を配り、聊も麁末なきやう深切実意
わきま
を尽し、客二も北会二叉逢ひかたき事を弁へ、亭主の趣向、何壱つもおろかならぬと感心し、実意を以て交るべ
き也、是を一期一会といふ。」(井伊直弼『茶陽一会集』)また利休の師に当る武男紹鴎の遺文にもコ期一度」
という文字が見える。
5「四時のおじ移るごとく物あらたまる。みなかくのごとし」と芭蕉は弟子に教えた。「あらたまる」こと
こそ不易の理であり、あらたまらねぱ不易もないと、芭蕉は、神の眼でなく人の思いで見知っている。芭蕉は新
しみを永遠の相に於いて見極めていたが、それは「新」を「異」の連続にでなく「同」の繰返しの内に見極めて
いたのだと私は考えている。
6これをいわゆる写生に就いて考えてみたい。「ひたすら写生を好めば、俗になること多し」とは『画法彩
色法』に於ける西川祐信の言であり、この感覚が我々に説明抜きに分る。どのような時代にも病的なほど細密に
物を写した画家がいるが、そういう絵も画家も決して最高の名誉に輝いたことはなかった。真に迫るのは大事だ
が、迫り方に微妙な不思議なものが介在する。田能村竹田の『山中人饒舌』に、「いよいよ詳しくしていよいよ
降り、ますます工みにしてますます俗」とある。
87
「芸といふものは、実と虚との皮膜の間にあるものなり」と近松門左衛門は語ったそうだ。「絵そらごととて、
その像をゑがくにも、また木にきざむにも、正真の形を似するうちに、また大まかなるところあるが、結局、人
の愛する種とはなるなり」とは、或る面で真の理想形にむかう人わざの限りあるさまと、またこれ故に人さまざ
まの工夫や配慮を「芸」と見立てる面白さに触れた言葉である。真をうつす物真似、物似せでありながら、それ
が事実そのままの謂ではない所、世阿弥も近松も同じ所を見ている。坂田藤十郎は、「正真をうつす心がけより
なし」と言ったが、この「うつす」ということばの含みを正しく読まねばならないと思う。芭蕉の「松のことは
松に習へ」とは、松になれということではない。「習へ」ということばの含みをも正しく読まねばならない。
それにつけて私は、片桐石州が茶の湯は総じて慰みごとにすぎないと言い、さらに「みなみな虚なることにて
候、さりながら、その虚を立てて奥に、真実あり」と言ったことを想い出す。「虚を立てて」といい、その「奥
に、真実あり」という虚実の見極めは遠く紫式部の物語論にも見られたもので、古人がいかに芸術に先立つ心術
をより重んじっっも、芸術を決して単なる方便におとしめなかったかを実感することが出来る。
しゆうれん
7調わば多を一に収赦して行く傾向は我々の過去の文物に多々みられる。藤原俊成は、「歌は、ただ一言葉
にいみじくも深くもなるものに侍るなり」と言い、鴨長明は、「一文字もたがひなば、あやしの腰折れになりぬ
べし」と言って、一文字一言葉にかけた重さを指摘している。「一色の道具なりとも、幾度ももてはやして末々
子孫までも伝ふる道もあるべし。一飯をすすむとても、志厚きをよしとす」と『小堀遠州書捨文』には見えてい
る。多くの真心を「一色の道具」や「一飯」に籠める思い慣わしは、そのまま一字一語に万感を託する伝統と軌
を一にしている。むろん私はかかる伝統を無条件に讃美するものではない。
「ひとことぱに多くのことわりをこめ、あらはさずして深き心ざしをつくし、」また、「おろかなるやうにて、た
へなることわりを究むればこそ、心も及ばず詞も足らぬとき、これにて思ひを述べ、わずかに三十一文字がうち
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にあめつちを動かす徳を具し、鬼神をなごむるL点が、「歌のただものをいふにまさる徳」だと鴨長明はその『無
あずか
名抄』に記している。言うまでもなく、日本人にことばの意識をもたせ、その鍛練と開花に与って力のあったの
は歌である。歌は、日本人が思い余って表現する言葉数の足らざるを思う時に、さらにことぱを切りつめて一層
多くを告げんとしたものだと長明は言っているのである。
日本人は必要に応じて新しく言語を増産しない民族、できない民族だった。逆にいよいよ寡黙にことぱを惜し
んだ。たしかに一語一字の含蓄は時代を追って著しく増強された。しかし、その為にはことぱの背景に人相互の
諒解が先立たねばならない。つねに危い諒解のもとに危く意志を通じ合うのは、封鎖的な一部社会に於いてこそ
可能かつ風情に富んだかもしれないが、ことばの機能は中国語や西洋語に較べて、少なくも特殊で変則なものに
なったとせねぱならない。それは、選り抜いた料紙に薄墨でかすれて見えもせねぱ崩れて読めもしない文字で歌
や消息をやりとりした華奪な風情の危うさと通うものである。
以上文字ことばに就いて語ったが、これを日本音楽の質に於いても或る程度認めることが出来る。西洋音楽な
いし楽器と、日本音楽ないし楽器の本質的な違いの中に、概して一音を聴きこみまた唱いこむかどうかというこ
とがある。例えばピアノと鼓とを較べてみるがよい。ピアノは一鍵盤の一音の質を聴くという楽器ではないが、
ま
能の小鼓にせよ大鼓にせよ、また三味線にせよ笛にせよ、一音を深く聴きこむことの内に音と音との間を一の
”表現”として生かすという所がある。鼓は打つだけ、一音を発するだけで、難しい。ビァノとは違うのである。
不確かで偶然的な音しか出せないが、またその故に打ち手の飽くなき追求に底知れず応えることも出来る。
8「花ト面白キト吟シキト、コレ三ツバ回ジ心ナリ。イヅレの花カ教ラデ残ル.ベキ。敵ル故ニョリテ、咲ク
ぞうし
頃アレパ吟シキナリ」と世阿弥は言い、芭蕉の弟子の服部土方は『三冊子』に、「新しみは俳譜の花なり。古き
は花なくて木立もの古りたる心地せらる」と書いた。
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9「詞にて心を詠まむとすると、心のままに詞の匂ひゆくとは、変れるところあるにこそ。」(『為兼卿和歌
抄』)この一節にいう「匂ひ」とは心の花.詞の花であり、「匂びゆく」という動きが意味深い。単に余情という
以上の物の映えが言いとめられ、詩を詩にする微妙な一点を指している。「詠歌の一首中に、飾りたる言は、一
だにもありがたきなり。いはゆるよき言といふは、その歌の心にたよりて、おのづから寄りくるものなり。」
(今川了俊『弁要抄』)
10『池坊専応口伝』は花道書の中では名誉のものであるが、その形而上学がやや安易に仏教的な世界観にな
ぞらえられて発想される所に不満がある。「およそ仏も物部の華厳といふより一実の法華に至るまで、花を以て
縁とせり」というのは首肯けないのではないが、「開悟の益」に重きを置きすぎてはなるまい、また、「ただ小水
こうさんすうてい
尺樹をもって江田数種の勝案をあらはし、暫時頼刻の間に千変万化の佳境を催す。あたかも伯家の妙術ともいひ
つべし」も・いささか薄味に思える。花を生け・花を観る人の、花への愛が・ひいては人への愛が感しら払な℃
11「異様の句を作りて、それを新しと思ふ人は、この道を深く尋ね見されば、遠き境に入りがたくや侍ら
ん。」(上島鬼貴『独言』)異を追って新を求めるのはむしろ安易なのである。「何事も珍らかに、異なることを求
むれば、見苦しくなるものなり。」(中林竹洞『両道金剛杵』)外にあらわれたものに、違った新しみを追うので
なく、たとえ外見は同じでも内に籠められた覚悟の深さに新しみを産み出さねばならない。同じものの内なる新
味の追求こそ道を遠く尋ね辿る為の実の道なのである。
12「ただいささかも冥途に目をかけずして、ひとすじに正路に従ひて、正しきところを習ひ候へば、その筆
じゆはく
に達し候ひぬる後は、かの自在無窮の体も心にまかせて書かれ候なり」とも『大木抄』には書かれてある。尊旧
法親王はこの一節を含む文章に、「邪僻を離れて、まさしき姿を専すべきこと」と題している。
13誰が何時言ったことかも分らないが、「管弦者は、その心まことに好かずとも、好色を習ふべきなり」と
90
読んだ覚えがある。「好色」をわるくとらぬことが大事だが、ここにも「花」の桂き意味は汲まねばなるまい。
14源俊頼の髄脳に、歌の詠みようは幾らもあろうが、「ただもとの心ばえにしたがひて、詠み出だすべきな
り」と、人各々の持ち前を認めている。理想的な歌境をうかがう道は人によりさまざまなもの、という一見当然
な、だがゆるい融通は、人に自信をもたせ同時に我流と独善を許す。歌作や句作、或いは他の一般の芸術や学術
へさえも安易に近づくことを許しやすく、みな、ほどほどにといった甘えに流されやすい。簡単に人は芸術の徒
として自分を認める。しかも努力の方は、安易に流れた分だけ置き去られる。個々の実意だけを立でれば、こう
なり易いのは当然であろう。
15「歌の大事は、詞の用捨にて侍るべし」と定家は『毎月抄』に言う。「案じ返し案じ返、太み細みもなく、
なびらかに聞きにくからぬやうに詠みなすが、きはめて軍事に侍るなり。申さば、すべて詞に、あしきもなくよ
ろしきもあるべからず。ただつづけがらにて、歌詞の勝劣侍るべし。」
父俊成から受けついだ定家の自覚は、在来も謂われた、心の重視の他に詞の意味を見つめる所へ向かって行った。
ことばを見つめる意識は、同時に文字を見つめる眼でもあった。文字とことばの微妙なずれのはじまりを定家は
正しく捉えた最初の一人であろう。そこから機会詩を超える自覚が芽生えたのである。
「心詞の二はただ鳥の左右の翅のごとくなるべきにこそとぞ思ひ給へ侍りける。ただし、、心詞の二をともにかね
たらむはいふに及ばず、心のかけたらむよりは、詞の拙きにこそ侍らめ」と定家は言を継いで、一応心詞の内の
心に重きを寄せるように言いはするが、これは「心姿あひ具することかたくば、まづ心をとるべし」(藤原公任
『新撰髄脳』)などの伝統的所説を踏み、かつ『毎月抄』の宛て先である権勢藤原案良への温和な配慮であって、
定家自身は詞ぬきの心、或いは心だけに寄りかかった歌などを信じていなかった。ことばの生命を切実に思うよ
うになった定家には、実情本位、体験本位の、誰しもがたやすく三十一文字に詠い出す歌が、歌人の経歴を深め
91
るにつれ到底真の詩と思えなくなった。ここから始まる後鳥羽院との終生の抗争は、詩歌の本道を争う極めて本
質的なものとなった。後鳥羽院は定家を、「心あるやうなるをぱ庶幾せず、ただ詞姿の艶にやさしきを本体」と
すると言って批判したが、定家は、ことばと文字による表現ぬきに詩はありえないと考えていた。これは日本最
初の専門歌人としての自覚であり、同時に苦しい闘いのはじめであった。
定家は体験を軽視はしなかった。しかし現実体験にのみ支えられて作品が成り立つという考え方は素朴だが決
して普遍的なものではないのだ。体験道叙からの文学の自立を守ることにかけて定家ほど伝統的偏見に対して頑
強に自説を曲げなかった人はいなかったのである。
定家と同時代の順徳天皇に「一切、芸は学せずして、その能をあらはすことなし。ただ歌ぱかりこそ、させる
ものみぬ人も詠むことにては侍れと、それはなほ始終まこと少なきこと多し」(「八雲脚抄}ということばがあ
る。歌も俳句も余りにたやすく人は手に触れ試みる。短詩形の功徳に違いないが、そのような安易さから生まれ
やすい日常の訓詠を定家は真の詩歌と思いこんではならぬとした。「俳譜をする人、あらましにもいひこなせば、
はや得たり顔に止まるあり、無下に本意なくぞ侍る」と上島鬼貫は『狂言』に書き、「修行の道に限りあらざれ
ぱ、至りて止まる奥もあらじ」としているのに眼がとまる。
16「やまと歌は人の心をたねとして、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人ことわざしげきもの
なれぱ、心に思ぶことを、見るもの聞くものにっけて、いひいだせるなり。花に鳴くうぐひす、水に住むかはず
の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして、あめつちを動かし、目に
見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをやはらげ、猛きもののふの、心をもなぐさむるは、歌なり。」
この有名な『古今和歌集仮名序』は、ただ詩歌論としての名誉以上に、日本人がことぱの働きに対して抱いた
自覚の表現として意味深い。冒頭の一節を私は率直に、和歌は人の心に芽生えて豊かに咲いたことぱの花だと理
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解している。そして、「ことわざしげきもの」を、”事わざ”以上に”言わざ”の意味にとってこそ深い人間洞察
になっているのだと思っている。
歌は日常の言わざに感動と調べの添ったもの、「平話の精繊なるもの」とは香川県樹らの説であり、「平常の言
語より調べあしくては、歌といふの道いづくにかあらむ」と『詠草奥書』に言っている。こういう理解に達する
遥かな源流が古今集序には見られるわけである。と同時に、なお、ことばの日常性に引かれて歌そのものまでが
折に触れての感興の催しを詠むもの、実情本位、体験本位の機会誌、としてのみ意識されている。しかし、こと
ばがただ単にことばとしてのみ働くのでなく、文字と結び合ってさらに重層的に人の心に謂わば複弁の花を咲か
せる時、はじめて素朴な機会詩に対する”批評”が生じる。定家は孤独で頑固な最初の批評家であった。
日本人には伝統的に自然で素直な行き方を尊重する風があった訳だが、この好尚にも当然何か理由があっただ
ろう。「わざとやさぱまむとすること、是非をはなれて、これを好み求むれば、最も見苦し」(順徳天皇『八雲脚
抄L)というような感受性は、私の考えでは、得てして平凡で陳腐になり易い平明なものが、同時にそこから脱
れようと悪くもがいて不自然な技巧から珍奇にも走り流れ易いのを、押しとどめるための心の働きではなかった
かと思う。常態がいつか不自然に走る。その不自然をまた常態に引き戻すという場合に、ただ単純に引き戻すの
では効果も薄く力のある感銘に乏しい。その為に、不自然から自然への回復を、かつての常態よりも今一段も二
段も何かを削ぎ落とした簡明へと強く働かせる。そのようにして日本人は、言葉かずや色かず手かすを能う限り
惜しみっづけねばならない衝迫に身をまかせたのである。それは」”ないし”無一物”への漸近線的接近であ
ったはずだ。
17この句を語って虚子は、「烈日の輝きわたってをる如き人世も好ましくない事はない。が、煩はしい。遠
山の端に日の当ってをる静かな景色、それは私の望む人世である」と書いている。私は虚子の述懐を是非する者
93
でない。ただここには一虚子の心境や好みが語られているが、後に引用する谷崎潤一郎作『蘆刈』冒頭の「凡山
凡水」に対する作中人物の述懐は流石にさらに深く広く日本の歴史と伝統に錘鉛を垂れている。
18芭蕉は句作に当って「われは骨髄より油を出す」と言っている。俊成も定家も心詞映発の絶境を苦、心し稽
古したのである。みな句や歌を人の誠のぎりぎりの所で確かにしようとの努力に他ならなかった。
19定家が機会誌ふうの日常語詠を排したに就いては『後鳥羽院御口伝』にその典型的な逸話が見える。
「すべてかの卿、歌存知の趣、いささかも事により折りによるといふことなし。また、ものに好きたるところ
なきによりて、わが歌なれども自讃歌にあらざるをよしといへぱ、腹立の気色あり。先年に大内の花の盛り、
昔の春のおもかげ思ひ出でられて、忍びてかの木のもとにて男共歌っかうまつりしに、定家左近中将にして詠
じて云ふ、
年を経てみゆきに馴るる花のかげふり行く身をもあはれとや思ふ
左近の次将として、二十年に及びき。述懐の、心もやさしく見えしうへ、ことがらも希代の勝事にてありき。も
っとも自讃すべき歌と見えき。先達どもも必ず歌の善悪にはよろづ、事がらもやさし《おもしろくあるやうな
る歌をば、必ず自讃歌とす。定家がこの歌詠みたりし日、大内より硯の箱のふたに庭の花を取り入れて、中御
門摂政のもとへつかはしたりしに、さそはれぬ人のためにや残りけむ、と返歌せられたりしは、あながちに歌
のいみじきにてはなかりしかども、新古今に申し入れて、このたびの撰集のわが歌には、これ詮なりとて、た
びたび自讃し申されけりと、聞き侍りき。昔よりかくこそ思ひならはしたれ。歌いかにいみじけれども、異様
の振舞ひして詠みたる恋の歌などをば、勅撰うけたまはりたる人のもとへおくることなし。これらの故実知ら
ぬものやはある。されども、左近の桜の詠うけられぬよし、たびたび歌評定の座にても申しき。」
逐語訳も煩しいので大体を謂うと、定家は歌のよしあしをその詠まれた時の事情で判定しようとしなかったこ
94
と、たまさか事により折にふれて口をついて出たような歌は人気があろうと、伝統的な考え方とは逆に、勅撰集
に載せられないという意向を少くも自分の歌の場合には頑なに守ったことが言われているのである。
古人は歌そのものの良否以上にその歌が生まれた場合の風情の優しみを問題にした。歌を或るサインにして特
別の状況に盛られた実情本位の雰囲気の美しさを感じようとした。定家は、そんなことに左右されないで、あく
まで心詞を両翼に沈思し構想して表出した歌を重んじた。いかに定家が強烈かつ孤独な詩人であったかが分る。
と同時に、後鳥羽院を代表とする機会誌ふうの歌詠みでは、鎌倉時代にたくましく芽生えて行った自我の自党と
その芸術的表現には結局耐ええないのである。この文章の中に、院の口調の高さと裏はらに一つの時代の終焉を
よみとることは十分可能なのである。
20宝亀三年勅命に依って藤原浜成が著した『歌経標式』は本朝の最も早い歌論に違いないが、殆ど言うに足
りない。以下、「古き口伝髄脳などにも、難きことどもをぱ手を取りて教ふるぱかり釈したれど、姿に至りては、
確かに見えたることなし」(鴨長明『無明抄』)とある如く、何れも歌の風姿を的確な眼で掴めず、末技の口説に
傾いていた。俊成定家らは、「およそ歌をよく見分けて、善悪を定むることは、ことに大切のことにて候」とい
う方法論的な自覚から自分の芸術を確認し確立して行った。精魂を傾けて伝統の正統に参入する道なのであった。
21『毎月抄』に、「まづ歌は和国の風にて侍るうへに」と定家は語りはじめるのである。私はこの「風」の
文字を見る時、一種不可思議な美しさを覚える。
22「無常の観、なほ亡師の心なり。」(服部土方『二冊子』)亡師とはむろん芭蕉をさす。
23「責めて流行せざれぱ、新しみなし。新しみはつねに責むるが故に一歩自然に進む地よりあらはるる」と
は土方の興味深い発言である。この「責むる」という点に、謂わば一期一会に永遠を見んとする志の、深さもつ
よさも、言い含められている。
95
24「われはただ来着も恐る」と芭蕉は返す返す語っだそうである。先達辛苦のあとも後生にはたやすく分っ
てしまうということがある。と同時に、ここに後生のあやまる怖い陥入もある。分り易いのは形姿であり道であ
り、先達の高遭な魂の苦渋や歓喜だとは言えないのである。
25「一世のうちに秀逸の句三五あらん人は俳者なり。十句に及ばん人は名人なり」と芭蕉は凡兆に告げてい
る。
26世阿弥は猿楽能を演ずるものにとって万能一億の一句があるとして、実に「初心忘るべからず」(「花鏡』)
と訓える。「初心」の意味を世阿弥につくづくと学へば、ここに謂う「風」の”ちから”の意味に他ならぬこと
が分るであろう。
27「物の見えたる光、いまだ、心に消えざるうちにいひとむべし」と芭蕉は訓えている。一体どういう眼と心
とがそれを果しうるか。また果しえなければ結局どのようなことになるか。これは単に俳諧実作の心得だけを語
られたことばではない。ここに生きる眼は伝統を熱誠を以て承けつぐ精魂の炎に他ならないであろう。
28田能村竹田は世上絵画の如きを無益とする者のあるに対して、それは画趣を心得ないだけのことと駁して、
真の画趣は悦惚としたもので、「心静かにして意おのづから清く」ど言っている。この「静かに」とは「さわが
し」を最悪とするに対する一種の理想を謂い、しかも「清」いことが最高の極致として強調されるのである。
「心のかざりたる輩」の「句の心きよかるべからず」とは『ささめごと』にみる心敬の言である。清さが、批評
の太い軸になっていることを知るべきである。
29南境宗啓著と伝える『南方録』には偽書かどの不審もあるが、秀れた茶道書であることに間違いはない。
本書に、定家の「見わたせぱ花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋のタぐれ」をあげて佗が茶の本旨としてある
のは有名である。
96
本文によれば、「その花も紅葉も、つく.つくとながめきたりて見れば、無一物の境界浦のとまやなり」とある。
「無一物」ははじめから人の眼に見えない。花紅葉を「ながめながめてこそ、とまやのさび住居たるところは見
立てたれ」という過程を踏んで来る。来るだけでなくまた戻ることもありうるのである。この境涯は色即是空と
は言い切らない謂わぱなお色不興空に他ならない。花に行き、風に行き、また風から花へ花から風へ移るうこと
が風情とも花心ともゆるされ認められてある。
さらに『南方録』の伝える所利休は、家陰の「花をのみ待っらん人に山里の雲間の草の春を見せぱや」をあげ
て定家の歌と拉べたという。「さてまた、かの無一物のところよりおのづから感の催すやうなる所作が、天然と
はつれはつれにあるは、埋みつくしたる雪の春になりて陽気をむかへ、雲間雲間の処々にいかにも青やかなる草
がほのほのと二葉三葉もえ出たるごとく、力を加べずに真なるところのある道理」を代弁さぜたというのである。
天然自然の真が、”繰返し”という不易の摂理の内に露われる妙所を動的にとらえる眼が感じられる。
一方に決めないままに高まるかたち。佗びも寂びも幽玄も右心も、みな私にはやはり色不興空でこそあれ色即
是空でないと思えるし、それで必ずしも佳いとかいけないとかは言い難い気がするのである。
いなわし石
30二条良基は、「上手に交はるべし」と言い、『兼載雑談』で猪苗代兼純は、「つねにおもしろき歌を、あけ
くれ見れば、いつあがるともなく、わが作はあがるべきとなり」と語る。兼純のこの本には碁の名人重回のこと
ばとして我流が出れぱもはや打つ手は定まりそれ以上は腕ものぴないということを伝えている。より秀れたもの
へ虚心かつ鋭意近づこうとする姿勢を古人は実に重んじ尚んだのである。
31兼好の弁は、土佐光起が、草木を描くに「無用の枝葉あるは賎し」と言ったのに類して一層多く心の問題
に触れているのである。すべて画は、「大方あっさりとかくべし。模様調はざるがよし。添物も三分一ほどかき
たるがよし。詩歌の心をかくとも、みな出すべからず、思ひ入れを含ますべし。白紙も模様の内なれば、心にて
97
ふさぐべし」と光起は『本朝画法大伝』に書く。筆かすを惜しむ思いは、自然心の内に無一物を願う思いに迫り
行くのである。
32「無用の事をせぬと知る心、すなはち能の律法なり」と、世阿弥はその芸道の極致を『却来花』で言い切
っている。単純へ単純へと肉をそぎ骨をけずって行く古人の思いが、ここに端的に露表している。
「家はもらぬほど、食事は飢えぬほどにて足る」とし、小座敷の花はコ色を一枝か二校軽くいけたるがよしL
とする茶の感覚にも、むろん数を惜しむ思いが生きている。古人は心の豊かさを外へは逆に乏しいかたちで出す
のである。
私はかつて高浜虚子の、「彼一語我一語釈深みかも」という句を面白いと思いこんだことがある。おそらく私
は梅花一字の師と謂われる古人の逸話と想い併せ、日常春問に近いこの句を肯定したのであるらしい。しかしま
たこの句は、内藤鳴雪の著名な、「元旦や一系の天子不二の山」の作法に類するいかにも思いっきにっくったい
やみや浅さももっていると思うようになった。そう思うともう以前の興味は雲散してしまう。第三句が良い加減
なものだと思ってしまう。だがそれはさておき、こういう類句が出来るのも、多を切りつめて「一」に極まり深
まることを任し面白しとする趣味が作者にも読者にもあるからだということになる。
梅花一字の師の逸話は知った人が多かろうし、似たはなしは多分他にもあろう。これは先ず中国人の逸話であ
り、日本人の感じ入り方は実はいささか中国人の感じ方と違う所が面白いのである。極く簡単に言えば、或る人
の梅が「昨夜数枝開」と作った一句を別の或る人が「一枝」と直した。それで詩がぴんと生きたので、直した人
を一字の師と人は尊敬したという訳である。純粋に作法上の問題であり、中国人にとって「数枝」より「一枝」
が良かったのはこの詩が早春と題したものだったからである。季節的に沢山咲いては面白くなく事実上符合しな
いというその指摘であった。レアリスムの師であった。
98
日本人がこの逸話に感嘆したのは明らかにイデアリズムの眼で、心で、であった。早春であろうがなかろうが、
詩趣ないし心術の深さの差を「数枚」とコ抜」に見極めるのである。数粒では、賎しく、騒がしいのである。
この判断は殊の他、理屈ぬきに日本人の心を魅する。その事実が大事である。
しかもやはり「一枝」はとどめて無一物とまでは行かない所に或る日本的状況は残る。日本人の為しうる限り
の発想の究極は、切りつめた「一」にあって、「無」の前ではぐっと立ちどまって、ただ「無」を彼方に認め、
あと一歩、と感じるのである。
33例えば我々がしばしば当惑することぱに、「幽玄」がある。鴨長明は『無明抄』に、「まづ名を聞くよりま
どひぬべし」と書いているが偽らぬ実感であろう。「詮はただ詞にあらはれぬ余情、姿に見えぬけいき」と謂い、
「心にも詞にも艶きはまりぬれぱ、これらの徳はおのづから具はる」と謂いかえても、結局さらに「けいき」
「艶」など第二段の難語に出違う。仕方なく長明はさらに日常的な状況や行動に讐えて、「秋の夕暮の空のけし
きは色もなく声もなし。いづくにいかなる故あるべしとも覚えねど、すずろに涙こぼるるがごとし」とか、「よ
き女のうらめしきことあれど、詞にはあらはさず、深くしのびたるけしきを、さよなどほのぽの見つけたるは、
詞をつくして恨み、袖をしぼりて見せむよりも心苦しう、あはれ深かるべきがごとし」などと置き替えてみる。
この調子で言い進むほど「幽玄」も「艶」もいよいよ明哲な概念でなく、ひたすら余情の代名詞と化して行く。
長明の時代にすでにこうであるから後世の者はより正しく造体験し難いのは当然であろう。難儀にも無視でき
ないが、なまじ「幽玄」などと観念的な文字を連ねたのが後代への障りであって、この点「花」とか「風」とか
「道」などは指す所が具象的な為に伝統となり易い。茶の湯や俳譜のイデオローグも難しいが、「幽玄」よりは
まだましである。
こういう傾向は何時頃から見えたのであろうか。
99
ほんぼん
藤原公任の『九品和歌』中、上品上即ち最上乗の歌は、「詞たへにして余りの心さへあるなり」と言ってある。
ことばの余情に就いての最も早い自覚が表明されているもので、長明が、「ひとことばに多くのことわりをこめ、
あらはさずして深き心ざしをっくし」と『無名抄』に書いた頃にはことばに対する感受性が急速に余情尊重へ傾
いていたと言える。公任の頃を一つの分岐点として、それ以前の歌は、和歌の発想に馴れない人にも表現として
は直接平明に感じうる事情がここにある。即ち、公任以前なら辞書があれば理解できるとさえ言えるのである。
古事記は平家物語より遥かに読み易く、万葉集や古今集は新古今集より遥かに読み易い。「言葉の外まであまれ
るやうに(定家)」思いを深くすること、謂わば逆に言うべきことも言い残すことが上古にはなかった。「正述心
ひゆ
緒」「寄物陳思」「譬喩」と、古代の人はさまざまに率直に歌おうとしたが、逆に後代に及ぶほど例えば正徹は、
「言ひ残したる体」を佳しとし、芭蕉は、「いひおほせて何かある」と言った。
たしかに表現はただ言葉の量ではかれるものではない。しかしそれにしても余情といい言い残すという言語感
覚にもしも適切な人相互の諒解や地盤を欠いた時、どんな混乱と不幸が生じるか、我々は実はそのさまざまな悲
喜劇を現に演じてさえいると思われる。
34自偶という平曲家が『西海余滴集』でこんなことを言っている。音楽と限るまいが、自偶は名人と上手を
区別して、「たとへぱ名人は飯なり。味もなく、わきて秀るるとはあらねども、食物の長たり。上手は塩なり。
よき塩煮加ぶれは、諸食の味たり。故に過ぐればあしく、足らねば不足。よきほど、はからひがたきなり。これ
をいはぱ、弥生下旬卯月始めて瓜茄子を得たるがごとし。ま.つは珍しけれど、後はさもなし。」
当節の花こそ真に珍しく面白く、かつ新しいのだという世阿弥らの考えが、ここに一層常識的な口調に替って
言い直されてある感じがする。
?完-
100
隠国(こもりく)
101
怨念論「婦人公論」昭和四十五年九月号
化身論「婦人公論」昭和四十五年十二月号
長女論「婦人公論」昭和四十七年一月号
102
怨念論
もう十五年になるが、出雲大社の大きかったのを私は忘れることができない。早朝の山気渦巻く中に、
だいばんじやくざ
大磐石の如くがつ観々と讐えた本殿の、今にも天地を粉砕して爆発するのではないかと畏れしめた異様
な迫力を、物々しいと思わぬわけにはいかなかった。
現在の大社は有明天皇の時に定められた正殿式に従い高さ八丈(約二十四メートル)だが、昨今の研
究は神社の、また古事記や日本書紀の伝える所をほぼ肯定して、太古には高さ十六丈(一説に三十二丈)、
巨大な木組の階梯を登って漸く拝殿に達したという福山、堀口博士らの復原図を妥当としている。
あの朝、清々しい庭に仔みながら私は収まりのつかない物思いの中にいた。物に狂ったような古代人
の、心が今、自分の胸にも脈打つどい、つあの実感は、むろん幾分の感傷とともに、物理的な時間とは別の
時間を遡って、私に、何かしら犯し難い、今の今の拠り所というべき場所へ立ち還るすべを教えてくれ
た?。
私は今、物思いの中にいたと言った。その前には物々しいとも書いた。”物々しい”も”物思い”も
103
よく使われるが、似たことばで”物凄い”は凄いと同じだろうか。また”物語る”と語るは同じだろう
か。
”物寂しい””物狂おしい””物哀れ””物悲しい”は、みな、寂しい、狂おしい、哀れ、悲しいと同じ
なのだろうか。同じならなぜわざわざ”もの”という語を冠するのか。違うのなら”もの”とは何を意
味するのだろうか。
”もの”を冠したことばは日用語の中にまだまだ沢山ある。しかもふつう”物”の字があてられていな
がら大概の場合それが物質や事件を意味していない。判然とではないにしても却って心とか精神とかの
領分に属する意味が推量されるのである。
つぷやおら
”もの”は記紀、万葉集の時代から心霊とか魂魂とかそのもの、またそれの咳き、うめき、時に叫び声
、、
などを意味した。指さして示せる一定の動かぬ状態なのではない。むしろ”もの”は身をもがいて外へ
あら、、
露われようとする動きを意味した。人の、物の、動作を、表情を、ことばを動かして露われてくるある
不可思議の吐息であり、呼びかけを意味した。即ち、暗く、深く、隠されてある声のやむにやまれぬ噴
出だった。その気息の烈しさは忌むべく、哀れであり、また凄く、悲しく、寂しく、怖ず怖ずとして、
人ならびに生ける物を物狂わしめたのである。
先人がしばしば”鬼”の字をあてて”もの”と呼ぴ、霧しい述懐の歌に寄せて「ものぞ恋しき」「も
もののけ
のぞ悲しき」と嘆息したように、彼らはそれを心に巣食う物怪、デモニッシュな何か、いわば幽鬼の語
る息づかい、文字通りに鬼気”だと想像していた。なにも古人に限ったことではない。二十世紀の我
我もこの”もの”の絶えざる語りがけに内、外から実は日ごと揺すられているので、ただそのことに気
104
づくほど醒めた、眼の光った日常を生きているかどうか、だ。
か
ことに”物語”という言い方を我々は大事にしたい。ことばを仮りて、衝きたてるちからとなって、
あなたに、私に働きかけ呼ぴかけてくる”もの”がたしかにある。それなしには語れないといった、実
際に筆を持った当人にも諒解しがたい強力な”もの”がある。むろんデーモンでも霊感と呼んでもいい
が、物凄く感じたり物狂おしい時にぴたりと肩さきに乗ってきて動こうとしない何かを感じたら、それ
が”もの”のようだ。それは煩わしい、それは重い、それは切ない。しかし容易に払い落とすことの叶
わぬ”もの”のようだ。
ぐじようじん
あなたは倶主神をご存じだろうか。
我々には一人一人に倶主神が附属している、と言われる。この神は、人が生まれてこのかた死に至る
までの言行観念を細大渡らさず書記し、人の死ぬるや閻羅大王の面前で記録した一切を読みあげるとい
う。俗にいう閻魔帳だろうか。
しやく
私が先日京都博物館で見てきた倶主神はニメートルちかい木彫の巨像で、片膝をあげ、笏のような木
ね
札をささげ持って今しも右手の筆が何ごとかを書きとめようと動いていた。眼はつよく虚空を睨めてい
た。非情の眼、しかし酷薄に光る無残の眼ではなく、神てなければ精妙な器械のもつ節度ある眼が睨め
ていた。
し
その時にも感じたが、言ったこと為たことはともかく、、心にある悉くを私の倶主神は、はや、今の今
書きとめてしまったかと思うと、ちょっと堪らない。悔いも顧みもみな我が影法師を追うように、空し
105
く情なく、神の手からは何歩も遅れているのだ。
この筆さきにはレアルもイデアルもあったものではないと、頬を歪める苦々しい降参の思いがあり、
私は博物館の薄明の中で倶主神の視線を追い筆の動く気配に脅えたことを白状しよう。
倶主神が即ち”もの”だとは言わない、が、我々が極く気儘に鬼と呼ぶものの兄弟かいとこか、それ
キー
どころか実は最も本来の、むやみな想像や偏見に飾り立てられない生のままのこれが本当の”鬼”の姿
と役割とを示したものかも知れぬ、とは思うのだ。
小説家としての私は倶主神がものする筆使い、文章に関心をもたずにおれない。その人間の生涯に関
するびっしり隙間なしのレポートは、例えば「この者は」とか「彼は」という文体なのだろうか。それ
とも「私は」という一人称なのだろうか。その際の「私」とは倶主神のことなのか、よくもあしくも生
涯を終えたその人間のことなのか。ことばと観念とは外に露われ内に進んで、ともに意識の領分にある。
、
倶主神の能力はそれさえそのまま直接話法で速記できるだろうけれど、行為や動作の方は倶主神とて描
、
写するのに違いない、その技の冴えが知りたいが、やっと知れる時には堕地獄の直前であるのだから情
ない。
なぜこんな余談めいたことに手間どるかというと、意識の流れにも描写にもそのっどの判断や評価に
も、多分倶主神が用いざるを得まい一人称の「私」が、彼倶主神を指すと全く同レ.ヘルで当の亡者をも
指し示す二重の「私」に相違ないと想像するからだ。つまりこの私、自分の、心身にやっぱり物怪とも
鬼ともいうべき役割で巣食っている、像的にも重なっている”もの”の存在を認めずにおれぬと言いた
いのだ。
106
我々の関心は今や古く親しき友である、”鬼”の話に移らねばならないだろう。
ひそく
ささやかなコマーシャルをお許し願いたい、私は最近『秘色』という作品集を出版した。その巻頭に
きんだち
収めた「清経入水」で、作者は平家の若公達清経が実は鬼であったことを立証(!)した。が、それは
な
さておき人はよく仕事の鬼などという。一念凝って鬼と化るの類で、同じ一念でも嫉み憎しみの鬼は怖
いと言われる。
また単に異郷異国の眼なれぬ人を鬼とも呼ぶ。時代を遡れば遡るほど、風俗の異なる他国人は鬼に見
えただろう。ことに山や海の荒ぶる自然に馴染んだ男たちの風体容貌は鬼じみて見えたに違いなく、昔
おおむ
話に山男あるいは修行者など人里から離れて暮す人を鬼と呼ぶことの見えるのは、概ねそれだ。
今昔、宇治拾遺などから昔話に至る鬼の話を全部抜いてみると、みなたしかに霊異の威力を備えてい
るが、にもかかわらず意外にやすやすと人の世に立ちまじわってもいたことが推量される。怖いは怖い
ながら、どこそこへ行けば鬼が住んでいるぞと人は承知していた。鬼は人の眼にも泣いたり笑ったり、
時には遊びにも加わり家来にさえなる存在だった。角や虎皮の樟を必要としない鬼がいたし、その存在
は昔びとに疑われていない。
らいこう
例えば京都の人にとって丹波丹後は山深い鬼の群集する異郷であったことを頼光主従の大江山鬼退治
すえ、、、
の伝説は伝えているが、そういう鬼の子孫がくぐっらとなって人まじわりをして来るようになったのか
、、、、
も知れない。くぐつの職能は一に祈祷呪術、二に売笑、三に舞戯唱歌をはじめとするわざおぎであった
と言われている。日本の鬼の中には怖しい地獄の鬼や天狗夜叉など幽鬼の類の他に、こういうくぐつの
とじんし
職能から逆に推測できそうな特色ある一味集団が実在していたのではないか。彼らは時の都人士の眼に
107
は十分超人的で怪力不思議を秘めた存在でありえたし、だからこそその鬼をもし使役できだとすれば大
したことであっただろう。力強い鬼、足の速い鬼、身軽な鬼、そして美しく才だけだ女児も。
き
しかしこれらはみな、倶主神のような本来の生のままの鬼から出て、想像や不安に彩られたいわば応
用問題の答案、鬼と人との混血児のようなものだ。本来の、生のままの”鬼”像の直観なくてはあり得
なかったものだ。私は今こそ主題である”怨念”の原籍地、本来の蒐”の母胎、しかも我々、あなた
、、
や私を、それゆえに真にあなたたらしめ私たらしめているある場所へ足を踏み入れてみよう。”陰”と
よてんか
呼ばれ、一切の可能性の源泉である場所へ。”鬼”が”陰”(インではない。むろんオンと訓む)の転記
であることは古来の定説と言ってよいので、私の勝手な語呂遊びではない。語義詮索の筋道は省略する
けれど、虚心にオニがオンに出たことばだと一応承知した上で”陰”を考えるのが順当だ、が。
るるレトリック
さて改って”陰”に就き纏々述べたてることは無用にちかいのである。多彩な修辞法を以てしてよく
明らかになるものでない。駄酒落めくが明らかになるはずのないのが陰だから、ただ端的に暗い所、で
はじめ
いいのだ。ものの元始を可能にした、かたちになる以前の、だからこそそこから生まれそこへ死んで行
く所、すこしきざに言うとイデアのふるさとくらいに諒解しておけばいいのだ。
日々我々はうんざりするほど、よく、自分で自分が分らなくなる。言うことなすこと本当に自分が言
いかつ為したととうてい信じられぬ時がある。そんな時には決まって薄暗い、ぞっとした心地にさせら
れるはずだが、そういう心やからだの中の暗い分らない”もの”を”陰”だと思っても決して間違って
いない。我々は”陰”というはかり知れない不可思議の土壌に根を垂れたちいさな花の如き存在なので
あり、即ち陰に対する陽であることも間違いなく事実である。
108
人も、生きものも、物質もみな陰が形に露われた陽であるが、陰が陰のまま人に、生きものに、物質
に呼びかけ働きかけて来る時、我々はそれを”鬼”という幻像に仮りて怖れ、驚き、摺伏する。鬼の息
づかいが我々に物凄く、物哀しく、物狂おしいのは全く当然なので、”もの”即”鬼”はあたかも”倶
主神”の如く、人に、生けるものに、物質に本来附属している訳である。我々はみな蔭”に生まれて
”陰”に死に、その支配を寸毫も免れることができないから。
おぴやせ
このように蔭”に拠って鬼やものが形に露われあるいは声に露われて陽なる我々を脅かしたり迫め
たり、励ますということが諒解され、順当にそれこそ”陰”の念であると理解されたとしても、この際
に陰と陽との間に張りつめる一種の緊張関係、電流の如きものを認めねばならないだろう。なぜに陰念
おのの
は露われんとするのか、なぜに陰念を運んだ人の心は底知れぬ不安に戦キ、衝かれるような覚醒感に思
わずぞっとしなければならぬのか。
”陰念”とすでに私は書いた。それを”怨念”と書き直すことにもためらいはない。陰念をは{、んで生
ずる陰と陽との緊張交流は当然すぎるほど当然にこの陰念そのものの表裏関係、正と負の関係の内に構
造をもつ。その構造を語ることが怨念論の核、心になるだろう。
ずかりと言い切ってしまえば、陰が陰念を生ずるのは陽に対する怨みであり、陽が陰念に脅える深い
不安は陰に対する怨みになっている。双方の怨みは夫々に本質的超越的なもので、世上の語感とは馴染
まないだろうし、同じく怨みと言っても表と裏、正と負ほどの違いのあることも私は一応指摘したのだ
から、その理由と、併せてなぜ”陰念”が即ち”怨念”であるのかを次に語りついでみたい。
109
なぜ怨んだか怨まれたかを三面記事風に詮索し始めたら際限がないだけでなく、所詮風俗心理のかい
なでに終ってしまうに違いない。第一、人は怨むという働きにも、怨念という凝結にも実はそれほど真
剣に心を揺すられていないかに想われる。怨みが当人の生き甲斐でさえあるように、深い自覚で自分の
存在の根、母胎にまで眼を届かせていることは想像以上に稀なのではないか。
例えば私に絶えず重苦しい問題意識を投げかけて来る”生まれる”ということばがある。平凡なこと
ばである。が、実際に繰返し唇に乗せて”生まれる””生まれた”と発音していると、抜きさしのなら
ない怨念が私を脅かすと言ったら、奇矯を管められるだろうか。だがいったい誰がそう管められるのだ
ろう。
生まれる、生まれた。それは極く自然に生む、生んだと対応する。これを”生ま・れる””生ま・れ
た”と書けばよほど語感の鈍い人でもこのことばが本来の受け身請だと分るだろう。我々は単純に何年
何月どこそこに生まれたと言い、生きる死ぬなどと同じに自立自足したことばと思っているが、我々の
出生は、その為の能動語がないことで知れるように、絶対の受け身である点に真相がある。我々は銘々
の父と母に生ま・れたのであり、父と母、またその父と母も同じく生ま・れた、被造物なので、端的に
真に生んだ能動者が”陰”以外にありえないこと、言うまでもない。
「生きていてよかった」という述懐はしばしば我々を感動させる。この述懐に較べて「生まれてよかっ
、、
た」という実感は私の想像するところ、実際のことば遣いとしても稀だし、それさえよく吟味するとや
はり「生きていてよかった」の意味のことが多いのではないか。むしろ逆に、生ま・れたことへの悔い
やどうにもならなかったという無力感、なげやりな挫折感の方は、感じ方が真剣であればあるほど実に
110
しばしば我々をはっとさせ、ありありと苦くも寂しくも醒めた、心地にさせる。
奮い立って生きることに使命を感じ、使命を達成しようと努めるのは、もう生ま.れた領分の意識で
なく、生きる領分の意志で、こういう充実した人であっても生まれたことをしみじみ思いめぐらす時に
は、それなりにさも鬼の声に嘱かれたように、不安や無力や漠然とした受け身のこだわりを感じるらし
い。むしろこのこだわりの意識が明確であるがゆえに却ってその後の”生きる”道に鋭い自主と自覚が
生じているというべきなのだ。
人はみな生ま・れたことへの根源的な悔いを背負って生きる。悔いの受け方でその後の生き方が変る
みしよう
し、また生まれる前、生まれない以前への根源的な”愛”に捉えられる。生まれる前、未生以前本来の
面目へのこの強い愛は、生ま・れた悔いおよび無力感と表裏一体になって、自分を生んだ”陰”に対す
る本質的な”怨念”となるのである。
生ま・れたものの”怨念”は前に触れたように、逆に、生んだものが生まれたものに対してもつ”怨
念”、無限が有限に対して抱く不満足の怨みと表裏をなしている。
人はしばしば何か或ることを超現実と感じ、非合理と感じ、超越的で異様だと感じている。この感じ
方がそのまま陰には不満であり怒りとなり、敢て陽に催しでそのような陰への背反を管めねばおれない
のである。怨むのである。人の眼には、鬼や”もの”が働くからこそそれが非合理、異様と映るのかも
ちやま
知れない。しかし陰の側からすれば、人が錯ってまたは思い上がって管め立てるその超現実や非合理が
実にそうではなくて真相なのだと告げるべく鬼や”もの”を露わすのだ。露われさせるちからが”陰”
の怨念、いわば生んだものの怨みなので、これと生ま・れたものの怨みとが一体に凝結して陰陽二面が
111
支える根源的なモラルとなるのである。
今これを私は、もう少し”生きる”ことに絡めて語りたい。怨念は、では如何にして生けるものの生
きに深く重く価値的に関わるであろうか。
この際、次のような疑問に応じておくのも必要だろう、即ち、こんな怨念の理解で、誰かさんが誰か
さんを怨んでいますといった、世上極く一般の三面記事的な事柄が説明できるのか。
これには、平静にあなたなり私なりが、怨んでいるという誰かさんの気持に立ち入って、感情移入し
て、その気持を吟味してみるのが早分りだが、大概このような”怨む”はより正確には外へ向いて憎ん
だり嫌ったりやきもちをやいたり怒ったりしているのではないか。むろん”怨む”ということをこれら
じ
の混合した感情というふうに申し合せてしまえば簡単に違いないが、しばらく凝っと自分の胸に当って
よそ
みると、やはりそれと”怨み”とは大分遅った何かだ。嫌い憎む相手は間違いなく自分ではない他所の
誰かさんであるのに、この他者へ攻撃的に向かう強い悪感情とほとんど同時に、同程度かもっと複雑な
強さで自分自身に爪をかけて来る鋭い心の動きがある。ことに性格的に外向きに攻撃的になれず、逆に
屈折し抑圧されて感情が内攻する場合には、ほとんど同義語的にだぷって自分へ切り返して来る心の動
きがある。それは、思わず唇を噛み、歯噛みし、絶望し、うちのめされ、生きる気をなくしそうな、純
粋に自分自身へ、しかも究極的にはかくも此の世に生ま・れたことを痛嘆するような心の動きであり、
これが”怨み””怨む”ということなのだ。
”怨む”とはまさしく抜きさしならない醒めた眼で自分に迫る、それも順序よく言うと、生まれ蕗わさ
みしよう
れたことを通して未生以前へ深まって行く仕方で自分自身の存在性に迫る一種のうめき、もだえ、のだ
112
うちなのだ。人を怨み世を怨むとよく淳わ調子に言うけれど、この怨む当人の心の在りょうは、怨みが
深ければ一層人も世も眼に入らなくなるほど自分を、自分の存在の根を怨んでいるのが本来相なのだ。
”怨む”のは、結局いつも自分が自分を、である。
ところで”怨む”人が、うめき、もだえ、のたうつ時の心は混濁したあいまいなものであるだろうか。
さき
私は逆に、清明な醒めたものであるのがその特徴とさえ考える。想像以上にそういう際の怨みの針尖
、、
は、的確に自分の”生ま・れた”そのことを指している。的を本質的に射ようとしている。その為に、
うめき、もだえ、のたうちの苦痛が酷烈である時も、自己の自覚の鮮かな徹底のおかげで却って救われ
たような、明るんだ所が涯しなく深々と”陰”の内に覗きこめる。
それは怨むことの一種の法悦だと言えよう。怨みの法悦がことばとして可笑しければ、醒めて生きる
ことの法悦と言ってよいし、法悦の結果、仮りに死の恵みを自らに与えることがあっても、即ちそれが
悲惨とは言えないであろう。
こう言ってよいのではないか、怨念は、自覚であると。怨念を介して生ま・れた母胎、”陰”にまで
たしかな眼が届くという意味で、まさにそれは実存的な自覚だと。生まれたことを正当に怨まない自覚
など、ありえないのである。
また、怨念は、愛であると。真の自己愛であり、絶対への回帰の祈願だと。ただ余りにも烈しく抑圧
された愛であり、本来的に受け身の姿勢で探りとらねばならぬ愛だとも。紛れもなく、喪われてしまっ
たものへの、それは渇きの如き愛である。
113
”怨念”が自覚であり愛であると知ってしまうと、多くの別の美質を我々は怨念の内に認めるようにな
る。
怨念は我々の眼から一切の飾りを剥ぐ。怨念はその本性からして一切を露わす。露われたものがよく
醒めた眼にありありと映るから、その時々に怨念こそは物・事の真相や美醜を適切に我々に教えると言
うべきではなかろうか。真相や美醜がその人の生きの自覚を一層よく明澄な所へ押しやるなら、怨念は
高次元の快感の源泉、人間形成の初度門となる。実に、よく怨み得るなら人はその持分に応じてよき哲
人となる。よき美の使徒となる。よき師友となる。実に、それらがみな、可能なはずである。
かくも多くの可能性をはらんだ自覚であるという意味をさらに強調すれば、”怨念”による自覚こそ
は真にパブリックな自覚だと言わねばならないだろう。
生まれたままに死に至る者が多い中で、怨むことに耐え抜いて生きるのは真に生きることだと私は語
りついで来たつもりだ。よく生き抜く意志ともなる”怨念”は、情緒的な域を遥かに抜け出た、強固な
”ちから”の塊の如きものだと私は想っている。
それは、生命を見つめる、あの倶主神の眼の如きものだ。
114
化身論
我々は、自分が人間であることにどれほどの安心と確信をもっているであろうか。たとえば、草木国
しっかい
土悉皆成仏などといった、かならずしも仏教的とぱかりは限らない認識の前で、人間何ものぞという不
けしん
安と悲しみとに揺すられてはいないであろうか。そう、化身は、人間無常の思いに惹かれ、いつも鋭い
きざ
ある兆しとして、突如、人を襲う。人はその鋭さに捌られ、怖れに満ちた感傷のうずきに、あやしく動
揺する。
りんね
輪廻という考え方を受け入れたかっての日本人にとっては、まして人間は六道を経めぐる餓鬼、畜生
とえらぷところのない存在と思わねばならなかった。人間が人間であると思うことにたいした重みはな
かった。人は、いや人だけが、自分が人間であって人間以外の何ものでもないということを、本来信じ
きれなかったのである。いったちまちに人間は畜生と変り餓鬼と変るかもしれなかったし、そのような
”さだめ”は、想うだに悲しく頼りないことであった。
人はあたかも我から望み憧れるごとくでありながら、化身が拒みがたい催しであると我と我が心に知
115
きざ
りつくしてきた。絶えまなしに襲いかかるさまざまな化身の兆しに人は結局傷つき揺すられ、逃れるこ
とはならなかった。化身は人の生きに切ない悲しみと不安とを誘うものだ、そして、この悲しみと不安
に耐えながらたゆとう心のあやしさにすすんで身を寄せるものは、その故に、”現実”より、”非現実”
の確かさを信じ願い愛するようになる。いっさいの値いを、署のうちに求めて、形を信じないようにな
る。なぜならー
だが先を急ぐことはない。なぜならと問いかけたまま、化身の悲しみと不安の内へ沈み入ってみよう。
、、、、、、
そこには可能な化身もあれば叶わぬ化身もあろう。心してさまざまな化身の意味を今日只今我と我が身
内に問わねばならない。
はんにゃしんじや
数ある能面の中でことによく知られた般若、真蛇などの鬼面をまず想い浮べてほしい。鬼の顔はあれ
で、人間のっくりうる表情の一つの極限であるかと想われるが、どのような感情の極致とみてよいであ
ろうか。憎悪、嫉妬、憤怒?、だが、そうと想像しながら鬼面に見入っていると、言うに言われない
ウソを感じる。妬みや憎しみで人は鬼にはなれない、鬼の顔は、あれは悲しみの極まったものでなけれ
ばならない。それでこそ鬼面は怖くとも美しく、美しいゆえに共感と一抹の親愛をさえ惹くのではなか
ろうか。
すぐれた鬼面は、極まった、成りきった境涯のもつ透徹した感動を喚び醒ます。あたかもある思想に
触れるかのごとく感動には陰弱に富んだ魅力が伴い、人は、自分がたやすく鬼ともなりがたい存在であ
ると思い知らされる。悲しみを鬼となるまで見極め、深めるということは言うべくしてむずかしいと感
じているからである。
116
あおいのうえ
能舞台で、立派な演者が鬼面をつけて舞う時、たとえば世阿弥の作になる『奏上』の能にしても、六
みや†んどころおんぞうごんげさいな
条御息所は嫉妬と怨憎の権化でなく、悲しみの極みに我から我を苛む女人を生きている。車争いも、葵
しゆうれん
土産褥上の極まりなき憎悪の念も、女同士の嫉妬を越え、一切が光源氏への叶わぬ愛の哀しさに収歓さ
れていく。主役は姿を見せぬ光源氏であり、悪鬼は六条御息所の心によりも、この女人にとっては、い
わだかま
や葉上にとっても、遥かに生々しく光の男心の底に蝿わ住んで見えたのである。その悲しみと怖れと
が美しい女の顔を鬼面に変える。だが悲しみをたたえた鬼の顔にはすでに一種の神性が漂うことを忘れ
い〜りようしりよう
てはならない。生霊とあらわれ死霊と惑いながら六条御息所が多くの源氏物語読者に愛と魅力とを喚び
醒ますのは、彼女の悲しみが深いからである。
ところで今一枚「なまなり(生成)」と呼ばれる能面をとり出してみたい。
なかだ
鬼の面がどんなに怖くても、到りついた、極まった境涯のゆえに美しくも想われ、強い共感を媒ちに
愛を覚え羨み思うことすらあるのに、この「なまなり」の面の怖さには微塵も救われがない。それは人
が鬼に化するちょうどその兆しのままの、到らない、極まらない、不徹底な、生まぐさく体臭のにおう
ような中途に喘ぐ顔である。何よりの怖ろしさは「なまなり」が必ず鬼にまで極まり成ると分らず、ま
た二度と普通の人に戻れるものかどうかも分らぬ絶望の表情に露われる。身もだえのような、刃物を突
き立てられた肌黒い蛇がからだをくねらせ地を打ってのたうつような、とぐろを巻きときどき生ま白い
胸をはだけるような、そんな堪らない感情の表出なのである。
くす
「なまなり」の顔は人に似ている。肌はあからんだ土色が燃ぶり燃ぶり蒼ざめてゆくようだし、口は気
弱に大きく開かれている。眼は吊り上がってむなしくものを探している。ぎりぎりと絶え間なく揺らぎ、
117
うつ
しかも空ろに据わった眼は怖い。そしてなよやかなままの額髪を分けて醜い二つの角がちいさく伸び出
ふく
て見える。角のさきのぬるりとしたまるさは、膨れ上がった生ま肌のぬくみをのこしている。
さいぎ
もし嫉妬、憎悪、猜疑、羨望、邪淫などの妄念が人を鬼にするのだと思っていた人はこの「なまな
もう
り」の面を見なければならない。いや「なまなり」の意味を思ってみなければならない。このような妄
しゆうすさ
軟に住する時、人は生きながら鬼ともなれない。荒み歪んだ情念が悲しみを見つめる眼を暗くしている
間は、人は人としてもなまなり、鬼としてもなまなりの中途にさまよう。こころみに、「なまなり」と
け
咳き、乱れ毛が頬に歯に絡まる顔を想うがよい、あらゆるけものよりもそれはけものの顔である。化も
のと書けば「なまなり」の意味は明瞭である。
能面と限らずあらゆる仮面(マスク)は歴史的にも最も早くに造型された”不思議”の表現であった。
かたど
その陰には呪術の世界が覗けていた。素朴な転生の願いも働いていた。人面をはじめさまざまに象った
仮面の蔭で人は身を変えた。化身した。仮面の闇に”現実”を奪われ、即座の物狂いに惹かれて人はた
やすくさまざまに、”非現実”の世界に生き変った。だが仮面を化身の願望が産んだものと認めるにし
ても、おそらく「なまなり」のような痛切な批評性をはらんだ面は、自己凝視の表現は、人間が呪術的
というより社会的心理的に、より苦渋に満ちて生きねぱならぬ時代にはじめて作りえたものであろう。
「なまなり」という面は仮面を引き剥いだ人間の素顔を、その堪らないような弱さ危うさ醜さを指さす
ように我々に突きつける。生ま身の人間にゆるされた化身の限界はここまでだと、「なまなり」の顔は
化身の真相を暴露し、しかも「なまなり」以外の顔では生きがたい人間の本性を思い知らせるのである。
118
化身ということが現代にも意味をもつのは一体なぜであろうか。人は化身に今なお何かの望みを賭け
ているのであろうか。
わた
仮面は生ま身の人間が自分の無力を悟った時に生まれた。”不思議”の世界と相渉って同化するため
のいわば通過儀礼にも似た想像力と魔呪の創意であった。この創意が、私には、あたかも人間が光明の
”現実”の世界だけでなく、闇という”非現実”の世界にも生きたいと願ったことかのように想像され
る。仮面をかぶる、それはちょうど開いていた眼をとじてみるようなことではなかっただろうか。
、、、、、
警えばなしめくが、眼をつむるという平凡なこの行為には、化身と言わぬまでも、化身の願望と似た
ところがある。
かたく
毎日を顧て、いま我々の心には不等記号が愉快よりいっそう多く不愉快へ開かれ、頑なに生活の下絵
を絵とっていないであろうか。一、二、三、円1、歩けば我々は歩数を数えている。一段、二段、三
段1、昇れば階段の数を数えている。一人、二人1、道行く人影を意味なく数えている。そして一
日の暮れていくのを二時、三時、四時と、咳き咳き見送っている。現実の日常には数えられるものばか
りが多く、数えても数えても、あまりに虚しくて人はしかとした印象を何ごとからももたなくなってい
る。自分は何をしているのだろうー、そう考えることはあっても答は見当らず、我々はただ自分が無
数の数の一っであることだけを鹿ろに知っている。数の内かー。それは救われたような空々しいよう
な気もちであるー。
もしこんな我々が眼をつむることを覚えたらどうか。眼をっむるとたちまち何一っ数えようがなくな
る。濃い闇の中では凝り固まって確かな手ざわりで自分が自分に生き返るかもしれない。静かな秩序が
119
整然と歩調をととのえて我々の心の内に息づくかもしれない。眼をあいて見る外の世界は狭苦しすぎる
のに、眼をつむってしかと手に触れてくる世界は、親しめる自分のもの、安らかな、限りない自分の世
界に想えてくるかもしれない。やがて、ただのくらやみだったこの世界にもあざやかな輝く光と色彩が
秘かに満ち溢れていて、紛れもないものの像を日ごとかたちづくっていくことが、信じられるようにな
るかもしれない、かりにそれこそ”死”なのかもしれずともー。
こういう”非現実”を想像し、あるいは”現実”以上の価値と可能性を信じ、愛し、望むことがある
のは仮面以来久しい人間の欲求であった。だが、なぜなのか、またその欲求は満たされるのであろうか。
”化身”とはそもそもどういう状態をさしていうことばなのか。
化身は宗教的な範囲だけでいえば神仏が姿を変えてこの世に現われること、または神仏の生まれ変り
のことである。仏は同時に百千万の化仏と身を成して衆生を救うといわれる。だが化身が今日にも意味
をもっとすれば、むろんこういうことからではない。
へんげ
また化身を妖怪変化の意味で言うことも多い。たとえば能楽二百雷中、こういう意味でなら我々は霧
しい化身の実例を見ることができよう。『西行桜』や『遊行柳』では花や木が、『殺生石』では狐が、
けしよう
そして大概の曲に幽霊が化身となって登場する。これらは別に化生とも呼ばれ、つまりはお化けであっ
て、やはり今日的な意味を多くはもたない。
信仰としてなら知らず、今日我々の感覚では神仏の化身やお化けとまともに関わることはない。我々
が問わねばならぬ化身とは何かが別の何かに”変る”こと、いや、何かがではなくて人間が、自分が、
この私が、何か別のものに、人に、場所に、時代に生き変ることをいうのだ。あくまで”自分にとって
120
の”変化なのだ。
仮面のほかにも人はさまざまに化身の技術を磨いてきた、衣裳、化粧、髪型、声音、ことば、そして
おそらく思想や教養も。だが、このような”演戯的”な化身は今日の複雑多岐な社会と、心理に操みくち
ゃにされてしまい、生きるという営みの核心にある不安や悲しみにじかに触れるちからを失っている。
我々は、願うと拒むとにかかわらず、仮面や装いを剥ぎすてた素顔、素肌、素裸な自分のままでの化身
について問いかけずにおれない。
我々はもはや自分の外側からの影響や働きかけで自分が変る、仮面や扮装を用いて変る、ということ
、、、
に切実な実感をもたない。そういう可能な化身には馴れ切ってしまったのだ。今の我々が息を凝らして
見つめ、待ち、戦い、そして屈服している化身とは自分の内側から日々、砂が崩れ木が朽ちるように何
かしら揺れ、惑い、変りつづけること、ではないのか。
、、、、、、
化身にっいてさらに思い切って違った視野をもつために、”現実”に対して眼をっむったさきの讐え
ばなしをもう一度想い出してほしい。そのような生き方は、文字通り”死”であるかもしれないと私は
言った。だが、死であるからといって尻ごみする人ぱかりがいるわけでない。死の世界ほど人、人によ
って自由に造型できる場所はないからである。
西行法師に、よく知られたこんな歌がある、「願はくは花のもとにて春死なむそのき七、らぎの望月の
ころ」。名歌でも秀歌でもないけれど、この歌は少なくとも我々日本人には最も普遍的で分りやすい化
、
身の願望に触れている。どうか花の一字に注目しながら考えてほしい。(『花と風』二、物狂いの伝統の項を
参照して下さい。)
121
そ
西行は人として死んで、咲き初める花桜として甦る、花に身を変える、化身することを願っているの
である。花の下には花の下にしかない、いわばっねの世界の論理を超えた別世界が開けるという確信と
愛とを西行は西行自身の胸の中に育てていた。比倫的にいえば、その確信は胸の中で一本の花咲く桜の
おに
樹であった。樹はその根を深い深い存在の原郷、心の故郷、”陰”の世界に下ろしていたのである。
仮面やそれに類する方便を用いての化身を私はさきに”演戯的”な化身といったが、それなら西行を
はじめ美しき永生を”死”によって願った人たちの化身は、いわば”浪漫的”な化身とでも呼ぶべきで
はなかろうか。どこか遠くの知らない町を歩いてみたいとわれわれは想うことがある。山の彼方の空に
幸いを想うことがある。新しい別の”現実”を喚び求めるのだとも言えようが、やはり”演戯的”な化
、、、、、
身と同じく、いやそれ以上に眼前の”現実”に対して眼をっむるのである。眼をつむってそこに生き変
りの自分を見出し、別の”非現実”の世界と価値との新たに現われるのを信じるのである。
ただ、死後のことは知らず、この”浪漫的”な化身は”演戯的”な化身と違って実は成就することの
叶わぬ願いとしてのみ鋭く心に兆すのであり、このような願望このような化身の兆しをこそわれわれは
つよ
まさしく”非現実”とも”夢、幻”とも呼ばねばならない。だが聴こう、意志剛き美の使徒岡倉天心が
こう呼びかけている、「はかないことを夢もうではないか、そうして事物のうっくしい愚かしさについ
て思いめぐらそうではないか。」
成就することが必要なのではなく、そう信ずること、信じて願うこと、それが最もあざやかな化身の
兆しではないだろうか。
122
仮面的、演戯的な化身も、夢幻的、浪漫的な化身も、”現実”に眼をつむることからはじまる。その
意味では、化身の成る成らぬによらずやはりともに”死”ないし死に通ずる化身である、ということを
あれこれ語ってきた。
では、生ける素顔のままの化身が考えられるか、可能か。それについては私はもうすでに、それ自身
む
仮面として造られながらみずから仮面の性格を拒むかのようにむくっけに人間の素顔の素顔を剥きだし
た「なまなり」のことを語った。何らかのかたちで美的、理念的、理想的な”死”の化身とは対立して、
われわれの、自分の、私の”生ま”の化身を語ろうとすれば、否応なしにもう一度あの「なまなり」へ
戻らねばならない。「なまなり」は、鬼にも、鬼と限らず何ものにもなりきれずに、中途に喘ぐ、生ま
け
ぐさい化ものの顔だ。だが、「なまなり」以前に人間が人間らしい素顔をもっていたと考えるのも自分
を甘やかす妄想かもしれない。
なるほど人は時にそれらしい誇らかな気高い心情を露わすことがある。ことに社会と心理とが今日ほ
ど欄熟し歪み崩れるに至らなかった時代には、人の思うところ為すところは遥かに静かな、安らいだ多
くの瞬間に恵まれたかもしれない。しかし今ではあまりにもそれは束の間の、いわばそんな心情そんな
平静こそ偽りかのようにたちまちに人は妬み、憎み、執着し、疑い、傲り、羨み、怒り、蔑み、惑い、
狂っている。こういう言い方が大袈裟に過ぎるかどうかはむろん人、人によって気ままに受けとるより
けしたた
ないだろうが、この暗い情動にはそれぞれの避け難い表情を伴って瞬間に人を化ものに変える強かな催
しが籠もっている。
おのの
恥じ、怖れ、制止しながら人は免れることのならない理不尽なこの催しに屈し、戦き、化身に化身を
123
重ねてついに何ものにも成りきれない。成りきれぬうめき、催しを拒めない悲しみ、だがそれを押し流
してひしめく生ま生ましい情念の混沌。どんな美しい化身を想いまた語りえても、だが尽きるところは、
この生ま身のまま不本意に朽ち崩れてゆくような化身の脅えに、常なきものの悲しみを思い知らねばな
らないのである。私はこれを先のものと区別して”日常的”な、”人間的”な化身とあえて呼ぼう。
たしかにこれは化身というよりは”変貌”とでもいうべきだろう、あまりの怒りに、あまりの憎らし
さに‘あまりの妬ましさに思わず「顔が変る」時があり、その兆しは程度の差こそあれ、矢つぎ早に、
勝手気ままに、暴虐に人の心に割り込み、揺すり、別ってくる。平静心を失い、人間の顔のままさまざ
け
まに揺れ動く表情の下に化ものを見てしまわずにおれないわれわれが、自分を「なまなり」と思い、そ
れ以外には生きられないと思い知ったその瞬間に、人間は、痛切に仮面の演戯、夢幻の浪漫的世界を精
一杯惹き寄せるのである。
むろん人は生ま身で生きねばならない。どんなに醜く苦しくあろうとも、「なまなり」の自分を拒み
切ることはそうたやすくできることではない。仮面を見出した苦しさ、夢幻を求める切なさは「なまな
り」の自覚と切りはなせはしない。仮面と夢、幻は、「なまなり」という木に咲いた二色の花のような
ものということであろうか。そう割り切って言えば分りやすく、化身ということの意味や脈絡はそれで
も掴めるではあろう。
だが私はこの文章のはじめ、「なまなり」のような日常の苦渋を語るより前に、おそらく人間だけが、
人間の心だけが、自分は人である、人以外の何ものでもないのだと思う安心を本来奪われていると書い
な
だ。人間だけが、実は一瞬にして鬼ともなり、男が女に、女が男に、木に草に、犬猫に、虫や花に化り
124
変るかもしれないという予兆を他でもない自分自身の心の真中に抱きしめているという意味のことを書
いた。自分が、この現在自分は自分だと思っている自分が、何か他のものの化身であり、仮りの姿でな
さいな
いとは信じられないゆえ、化身を想うことは無常に苛まれる人間にとって最も本質的な感傷といえるで
あろうと私は考えていた。混同してはならないことで、このような予兆を悲しむ感傷と、「なまなり」
の自分から逃れがたいという苦しい自覚とは、同じく怒ろうと走り背こうと免れることのならぬもので
ありながら、銘々に違ったものである。今ここで言い及んだ人間無常の不安は、いわぱそれは、非日常
的な”不思議”の領分のことと思わねばならない。
われわれはたしかに”不思議”ということを承知している。不思議に対して分別は力をもたないけれ
ど、不思議の奥を想像することはできる。できると思っている。そこで今一度、仮面的演戯的な化身と、
夢幻的浪漫的化身とをひきあいに出してみると、おそらく仮面的なものの方が人が”不思議”に思い当
って想像力を用いたその表現であっただろうと考えたい。遺し伝えられたたくさんな仮面や、土俗的な
はじ
衣裳、化粧の工夫は、そのそもそもの肇めを想像すればするほど超自然の怪異威力、総じて”不思議”
があずかっていた、人は分別によらず仮面に隠れて”不思議”の内側へ潜り入ろうとしたのだ、と考え
られるのである。
け
これに対して夢幻的な心性は、むしろ人間が人間を、自分自身を、”現実”の場で見劣め、その化も
のじみた「なまなり」の苦渋をあくまで日常的になめっくしたところから生まれ動いたものと考えたい。
自然の怪異がロマンチシズムを産んだのではなく、正しくは人事の積り積った苦渋こそが夢幻を惹いた
と考えてこそ、われわれはそこから多くを教えられるのではないか。
125
ともかくも「なまなり」を見劣めようとするのがレアリスムであり、「なまなり」を厭うて自己変革
をあくまで望む心性はロマンチシズムないしイデアリズムであると一応対比的に考えれば、この対比に
よって浮かびあがる二様の化身、変貌の意味は、仮面的演戯的な化身変貌に比較して、なお今日われわ
れの日々の生き方に強い働きかけをもっと認めざるをえない。しかもこの私自身は、「なまなり」豹変
貌がいわば一つの”状態”であるに対して、浪漫的化身がすぐれて人間的な”能力”であることに少な
からぬ関心と愛を寄せているのである。
126
長女論
自身は次女である或る若い友だちに〈長女〉について訊ねてみた。すると言下に、「長女は豹変する
わよ、こわいわよ」と答えてくれた。豹変とはもともと佳く美しく変る意味だが、この際は、あのしな
あやうあや
やかな獣がじっと隠忍し、瞬時に跳び立っ変貌の危さと妖しさを畏れたものかと想われた。「こわいわ
よ」という実感に頷き、私はよく諒解した。私の〈長女論〉は、このく豹変Vの〈こわさ〉を、長い序
論と、短い提言とともに語って尽きるであろう。
おおむ
それにしても今日のごとく寡産型の社会では、世間の子どもは、今や、概ね長男か長女かで、長女の
〈長〉の実質はいささか軽くなっている。それに私たち男の思いには、豹変するこわさは〈女〉に通有
で、事実姉をこわいという私の友だちとて、なかなか豹変あざやかでこわい人である。ただ妹と較べて
姉は、ことにかっては〈大姫〉と尊称もされた〈長女〉は、そのような〈こわさ〉をたっぷりと心身に
たたひようきよ
湛えているのかもしれないという、ある歴史的伝統的な愚拠をここで考えてみるのである。人はみな銘
しま
銘の胸の内に、その人、人の日常の間尺に合った或る〈長女像〉をすでに蔵い込んでいるに違いない。
127
長短さまざまなそんな間尺にいちいち合わせて風俗時評ふうに話すのでなく、私は〈長女〉を厳粛な観
うえん
念として考えようと思うので、手がかりに、思いきり迂遠に先ず〈山〉の話をしてみたい。思いきり迂
遠であることが、却って〈長女〉についての謂わばタイムトンネルを覗く役をしてくれるのを期待して
いるのである。
昔の人は「川をはさんで敵あり。山をへだてて故人あり」と考えていた。故人とは友くらいの意味で
み
よい。朝夕仰ぎ観るく山Vを或る世界?地域の中心にして心が繋がり縁が繋がる。川より越えるに瞼し
く顔を見合わすには難儀でありながら、磨きあげて小揺ぎもしないような、この「山をへだてて故人あ
り」は我々の思いに近い。おそらくそれが日本の、権道に無縁な民衆の、基本の感情であったろう。
この〈山〉は峨々たる山嶺でなく、旅をすれば車窓に手にとる近さで散開する里の山、国の山を謂う
しん口つ
のである。その山々は、ことに人から人へ、里から里へ、国から国への伝達や親睨のメディアをもたな
かった時代の、朝に感じタに感じる空間的なコミュニケーションの媒介者であった。〈山〉が人々の感
情を産み、思考に形式を与え、生活を方向づけた。そして、あちこちに培われ守られるそのような小世
界の集りとしてこの火山帯の島国日本と、日本人の心や暮しとは成り立って来たのである。それは凡ゆ
る日本的発想の根の深い下絵であった。
虚心に考えれば、故郷の山々は遊ぴやたずきのためにだけ登るのでない、もっと大事な場所であった。
せいざん
人生到る処青山ありという〈青山〉とは、紛れなく、もとは墓ないし他界を謂ったものである。かつて
〈山〉は死なれた者の胸になにより先ず死者の世界=他界であった。日本には神々や祖霊の拠る場所と
して山中他界の根深い信仰があったし、今もある。その山を中心に幾つもの里が、国が、結ばれたのが
128
「山をへだてて故人あり」ということに他ならない。死んだ者と死なれた者とは山と里という地つづき
の他界にいて、しかも交流していた。
たま
風化されて無意味の行事と化したものが多いにせよ、今日でも、魂迎え魂送りの風習は全国的に幾ら
も暮しの中に遺っていて、ことに正月と盆とは生活と季節との大きな区切りになっている。春秋の彼岸
を加えれば日本の四季は、形骸化しつつも、今日なお祖霊との関わりを保っているのだ。むろん彼岸と
いう仏教的な意味づけは後代の附会であり、今では仏事ふうに想われている行事の背景に、もっと古く
からの信仰儀礼は驚くほど多く久しく生きのぴてきている。
み
特に祖霊の威力と加護を信じて古代の人は身近なそのそこの〈山〉こそ他界と打ち観、仰いだのであ
おしさかはつせ
る。三輪山、忍坂山、泊瀬山、二上山など古来の葬地として知られた大和のあのような山々だけがそう
あさま
なのではなかった。伊勢志摩の境に今でも名高い朝農山や紀伊の高野山などの大霊場だけがそうなので
のつぴ
はなかった。人が住み暮す限りの土地土地の山や岡が、銘々に退引きならぬ意味をもって死なれた者?
現世人の感情を深々とその土地に根下ろさせたのである。
もみぢいも
「秋山に黄葉あはれとうらぷれて入りにし妹は待てど来まさぬ」「秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求め
やまぢ
む山道知らずも」などの万葉挽歌には、死なれた者の哀しみが山の鎮まりとしみじみ響き合っている。
こも
彼にはもう死者の姿が眼に見えないのだ。だが、だからこそ彼?死なれた者は、山を死者?隠れるもの
こもりく
の世界〈隠国〉と想ってなつかしむのである。
こもやまぢこも
〈隠れる〉ものとは〈顕われる〉のを待たれているものであろう。山道を尋ね惑う者には、死者“隠れ
、、、、こも、、い、、
るものとは、死なれた隠られたという痛切な受苦を味わわせて逝ってしまったものに他ならない。その
129
受け身の悲苦を何らか癒すために死なれた者は、死者”故人が〈隠国〉より顕われるのを待望する。
〈かくれんぼ〉という遊びで、かくれた者を探すのが鬼という近代の約束には、怖い鬼が里の者を捉え
、、、、、もり
に来るという中世以後の逆転が伝わっているので、本来はかくれているものが鬼“隠“陰で、その鬼を
探れ顕わすのが生ける人死なれた人であった。探し手には資格があり、それこそが家々の女、とりわけ
、
〈長女〉であった。その心とからだが隠国と現世とを通わす道になっていた。女体を山と形容し女人を
、、、ゆえん
山の神と呼ぶ所以は遠く古く、これら民俗的な事実は何としても誰にも否定できないのである。
例えば幼稚園の明るい庭で「かごめかごめ籠の中の鳥は」と唄って遊んだことがある。それが家へ帰
ると「中の中の弘法さん、なんで背が低いな」という唄に変った。遊び方はほとんど違わなかった。と
ころで「弘法さん」は京都以外では大概「小切さん」「小仏さん」で、より古い形では全国的に展がっ
はや
たいわゆる〈地蔵遊ぴ〉になる。単に「中の中の地蔵さん」と唯すものから、さらに福島県郡山辺では、
明治の末頃まで正月の遊びに少女たちが集って、仲間の一人に地蔵の霊をのりっけたということを、例
えば東京教育大の桜井徳太郎教授の最近の論文は伝えている。即ち、相談が決まると一人を選び、手拭
みてぐら
で目を隠し、笹を幣束に持たせる。そして取り巻いた少女たちが「南無地蔵大菩薩、おのり申せば、あ
そばせ給え」と唱えごとを浴びせかける。この唱えを繰り返しているうち真中の少女にがさがさ震えか
き
来て地蔵様がのりうつる。周囲から何でも訊きたいことを訊くと地蔵は一々答えたという。
もはや遊戯とも言っておれないが、なおいっそう祖型を探るとこの地蔵遊びが子女の手を離れ、遊び
は遊びでも〈神遊び〉と謂うに等しい、大人の、それも女たちの宗教的儀礼として伝わったことが多く
の証跡とともに確認できる。ノリテと呼ばれる一人の女が目隠しされ、手に笹を持ち、地蔵堂から持ち
130
つ
出した石地蔵と向い合って中に坐るこの〈地蔵憑け〉の儀礼は、土地の日常生活のためにも有用で意義
の重いものとして伝え継がれ、男たちは女の特異な能力をただ遠巻きに見て、頼るところ大きかった。
しかもこの能力も習俗も限られた一時代一地域の特殊な女たちが占有していたのではないのである。
かごめ遊びから地蔵葱げへ辿った道筋は、だが、さらに遠く遡ることが可能なはずである。地蔵信仰
あまねるふ
が普く流布浸透したと言えるのはたかだか中世以降であるのだから、古代以前の民衆がもっと素朴な信
仰のかたちを日常生活に持ちこんでいなかったはずがない。例えば今、地蔵愚けのノリテが持っ笹など、
りみこと
祖霊や神霊の愚り移るさまを明らかに現世人の目に見せる役をする巫女の採り物の一種であり、この際
は地蔵より採り物の歴史の方が遥かに古いのである。採り物には笹の他に榊をはじめ種々知られ、その
命脈はワカやモリコの持つオシンメイやイタコの持つオシラサマに繋がって生きのぴているし、超モダ
ンな建築の現場にさえ今なお姿を見せるのである。
霜しい民間信仰のうち、系譜を辿り易い僅か一例に触れたに過ぎないが、このような事実を津々浦々
の日本人は今なお大なり小なり、かっ好むと好まぬにかかわらず見もし、知っており、測り知れぬ感化
と影響を日本人としての原質的な感情の奥に刻印されている。日本の男たちがかって女のちからを信じ
畏れ頼んだのは、紛れなくかかる感情の動く時であった。今日の女性がそれを直ぐさま男の横暴や蔑視
と思って顧ないなら、余りに性急な誤解かと思えるのだがー。
よりしろよ
さて隠国より人里に顕われる霊は、まれびと(客人)として憑代に憑って顕われる。想代が円形埴輪
や壷や瓢や玉箱のような中空の物であることもあり、いきなり人、幼児の他は例外なく女体、に乗り愚
おぎしろ
ることも多かった。まれびとには愚代、まれびとを迎える現世人には招代であるかかる女人の伝説的な
131
たまよりひめ
総称が、玉依姫であった。
時世が下り、口寄せ巫女のような特殊な女たちが専ら呪術めく役割を或は宮廷や貴族社会で、或は地
方土俗の中で受けもつまでは、一つの家、氏族、部族、国、地方に銘々それぞれの神や霊と、それを顕
わすタマヨリの女がいた。女は、家や氏族の中で隠国と現世とを、山と里とを、死者と生者とを通わせ
、、、
る大事なパイプの役をした。男は、女を介して祭ごとを営み、そこに顕われる神と祖霊の意向や威力を
、、、
背負って現世の政ごとを司ったのである。
家の中で、氏族の中で、国の中で、女と男との図式的な役割がおよそこのようであったことを、例え
ば柳田国男の『妹の力』は鮮かに人々に示した。その示し方は決して現代の女性に対し野蛮な侮辱を加
えるといったものでなかった。兄に対する妹という謂い方で柳田は男に対する〈女の力〉の原質と根本
けがおとまた
を指し示し、男が女を薇れと非力と賎しさとで駈しめたとばかり思うことの誤解を説いた。女が跨げば
砥石は割れ、釣竿も天秤棒も折れるといった途方もない世上の言い草が、久しい男と女の日本史の中で、
、、
女の女でなければもちえなかった或る精妙なちからへの男の畏れを籠めていることを、柳田は事実とし
て指摘したのであった。
柳田の〈妹〉はあくまで姉の妹ではない。〈妹の力〉とは男に対する女の、ことに〈長女の力〉であ
った。長女?初めての女の子とはその家族にとって、人間の姿で生まれて来る、甦って来る、最初の特
、、、、
別のまれびとに他ならなかった。この娘は家にとって現世と隠国とを結ぴ、充足した隠顕二態の世界の
拡りを最初に可能にする存在として迎えられたのである。
おぎしろより
なにより〈長女〉は、家中で最も新鮮純潔な神威の招代愚代となり得た。家族はこの娘により神と祖
132
みようじよ
霊の冥助と加護とを新たに約束された。〈一姫〉という願いはここに根ざしている。長女が縁遠くなり
易いのも、また一家の浮沈に際して最も花やかにも哀れにもなり易いのも、やはり〈長女〉ゆえのはか
らいというに近かったのである。
これらは、だが、全く過去の賎しい遺風に過ぎないのだろうか。いやどんなに黙殺笑殺しようと、
〈豹変〉の度合いこそ違え、現代女性も日本人ならば大概同じ素質を持ち伝えており、濃淡さまざまの
実例は実は幾らも挙げられる。それよりも、何故に少なくも日本では女だけがかかる存在でありえたの
かという説明が、これまで決して十分になされて来なかった。ただ事実に頼って背後の論理や倫理には
深く触れる所がなかった。私は、なぜ〈長女〉が豹変できるか、その能力(威力)の根を問おうと思う
のである。
もう一度日本の〈山〉を眺めてみよう。木と草と獣とのこの自然に四季がめぐり、花は咲き散りまた
咲く。自然の生命力が、謂わば間断なき繰り返しのかたちで常に新鮮であることを看取るのはいかにも
たやす
容易い。自然の営みでは〈繰り返す〉ということが却って陳腐でない新鮮と、新鮮なるが故の永遠とを
約束する。変貌がないのではないが、その変貌すら繰り返すという不易の理法に深く呑みこまれている。
山や岡という自然を感情の太い基軸にして社会を展開させた日本人の普通の暮しが、日本の自然の巨
大な〈繰り返し〉と無縁でありえたはずがない。事実入しい日本と日本人の文化的素質は、断乎として
いちごいちえ
繰り返しの中の一度一度に永遠の新鮮を直観しようと願う、謂わば一期一会の覚悟を重んずるものであ
、、、
った。AからBへという違いに新しみを見ようとすることを間違いと思って抑制するような、むしろA
とう
からAないしA'へ飽くことなく同じて行くような文化であった。
133
あら
たしかに凡ゆる時にそれぞれの現代があり、どの現代も盛んにAを棄てBを試みたようでありながら、
民衆の生理と生活はちいさなBの群をとり包んで、やっぱりAかA'として呑みこんで来たのである。今
その是否を談議しようとは思わない。ただこの〈繰り返し文化〉のかたちを害えば渦巻型と謂ってよい
みうず
であろうこと、この渦巻は波紋や竜巻の展がり方と違って、まさしく水禍のように内へ内へと抱きこむ
ように深まるもの、と言えば足る。
さて日本の自然の生命力について言ったのだが、生命力とは魂であり自然の霊性に内在するエネルギ
ニもりくこも
?ということになろう。人間にとって、眼に見えぬもの=隠国の隠れるもの=祖霊のちからとは、この
こ、、
日本の山々に籠もれる生命力と根を一つにした、むしろ全く同じものであった。自然の他に神が在るの
でなく、実にしばしば神は山であり樹木であり一枚の木の葉でさえあった。
この隠れる魂に感応するために、男と女と、どちらがより勝れていたかと言えば、明らかに事実の証
すように女であったが、何故なら女の心理にでなくて〈生理〉の根源には、自然の生命力の理法と顕著
に等しい〈繰り返し〉が認められるからである。月経がそれである。噴飯の論でない証拠に現代の優秀
、、、、
な婦人科医師は、この決定的な繰り返しの周期を捉えて精細に女性特有の健康と病理の波動を見劣め、
在来の医学が謂わば男性の医学でしかなかったことを根本から是正しようと真剣に試みつつある。だが
ひようい
何故に女性生理の固有の繰り返しが霊の愚依に適したか。
つ
地蔵憑けのノリテは沢山の女にまわりから嘩される。女たちは嘩しながら輪になって渦を巻く。渦巻
げんうん
く反復繰り返しが眩暈恍惚興奮を導く。興奮は先ず周囲の女たちに生まれ、それがノリテをいっそう烈
しく興奮させた。譬喩的に謂えばこの興奮の渦は深くノリテのからだの奥に沈んで行って隠国に通じ、
134
こもの
この渦の空ろを通って、と言うよりこの渦に同調して、隠れる霊は女体に患って顕われるのである。
この〈顕われる〉ことと女との霊妙な関わりを、かつて柳田国男は、古事記を語った稗田町村のアレ
よりしろあ
という名が謂わば古代の想代の女たちの普通名詞でもあったことを通して鮮かに語っていた。だが〈顕
れ〉の理法として、日本の端々しく新鮮に繰り返す生命のリズムに、女体の生理の繰り返しが感応する
のだとは説かなかった。だが、これを語らずに女の〈豹変〉の〈こわさ〉が何故言えるであろうか。
私がただの昔話をしていると思う人は、女の原始と現代が実はそう遠く距っていないという多くの研
、、、、
究者の声を聴こうとしないのだ。豹変の〈こわさ〉を女の心理で解釈しようとする間違い、女の生理を
もう科学的によく分ってしまったと思いこむ間違いを、時代が下るにつれ誰もが、なにより女が、女に
ついて積み重ねて来た。女の心理の単純に較べて、だが女の生理の我慢ならない程の神秘さは、医学者
こもりく
が長嘆息するくらい妖しくその渦の深みを霊性の隠国に繋いているのである。
さげナ
柳田は『妹の力』や『稗田町村』などみごとな論文の中で女のちからと特質を説いて蔑むというより
男はむしろ畏れたのだとし、その伝統の系譜上に新時代の女性の正当な、むろん時代錯誤でない、復権
の道を示唆し、和やかな愛情を籠めた文章で、他ならぬ新しい女性たちの手がその道をさらに見究め推
し展げてほしいとまで願っていた。
しかし今、女性たちはく女の力Vを顧ずに、むしろ女でなくなろう、なくなろうとしていないだろう
か。女の心理の見せかけの複雑さを過剰に意識し、却って女の生理に潜む精妙な魔呪のちからを自ら蔑
視している。外に解放を唱えながら、女の生理のすぐれた秘蹟を愚痴な心理の厚化粧で幾重にも蔽い、
出来もせぬ男装の愚を競っている。
135
かふう
たしかに日本女性は過去、男の下風に甘んじて来た。だが、いつから何故そうなったか。柳田の示唆
した正当で本質的な〈女の力〉、真に豹変の能力のもたらす〈こわさ〉という感化力を、女が自ら厭い
忘れて新鮮に繰り返す覚悟を喪い、ただ陳腐に平板に無自覚に繰り返しはじめてからだと私は思う。言
うまでもなく繰り返しとは本来陳腐を招くものだ。だからこそ一期一会の覚悟で霧しい繰り返しの一度
一度に永遠と新鮮を感受すべく叡智の人々は努めたのであるが、大自然の繰り返しと違って、努めても
なお人の繰り返しは陳腐に陥り易い。
こもりく、、
隠国の永遠にその渦の空ろを通じるような繰り返しの秘蹟を生理として見棄てた女は、日常の凡庸怠
惰な繰り返しの中で、もはやなにも新鮮に価値的に産出できなくなったのである。稗田町村、小野小町、
すけ、、、、
紫式部、讃岐典侍など真にもの語る女たちの活躍した古代から中世へかけては、男と拮抗して女が〈繰
り返し文化〉の重要な荷い手として絶えず正面にも表われ出たのが、だんだんダメになり、今日では悪
しき陳腐な繰り返しを浅薄な露出趣味と擬似男性化の鼻もちならない心理で飾り立てている。これはも
はや本義通りの豹変でなく、こういう〈こわくない〉女なら、どんなにエラクなろうが最も根本の所で
男が女を畏れることはますますなくなるであろう。これは男には心細いことでもあるのだ。
それでもなお友だちのこわがったような〈豹変する長女〉は世間に幾らも隠れている。長女とは最も
早くその家を訪れ最も長く繰り返しつづけている女の意味であるから、最も精妙な愚依の可能な状態に
こわ
在る。その秀れて今日的な愚依の豹変が畏いほどであるなら、まことに〈長女〉とは一家の神に近く、
有形無形に家族に光明と平安を与えるし、単にぐうたらで一向こわくない女なら、それは一日も早く嫁
入って貰いたいだけの親きょうだいの只の気苦労の種、と謂うに尽きるであろう。
136
翳の庭
137
『坪庭』毎日新聞社昭和五十一年八月所収
138
壷
琵琶湖北端の、かなり深い湖底から時おり古い時代の壷が引き上げられる。湖の成長が壺を使ってい
た人々の暮しを水面下に葬り去ったのか、それとも故意に、何らかの意図を籠めて湖水のなかへ壷を沈
めたものか。
それはその両方であったかもしれない、とすればこの際の関心は後者の場合に傾く。なぜ壷を水に沈
めるのか。その行為に、そして壷に、何かの意味があるのか。
壷は、その物の形も「つぼ」という言葉もはなはだエロチックな感情を喚び起こす。壷が女性の性器
を象徴するあるうつろな物の形だとはたやすく推量が利く。その壷を湖底深くに投げこむ風習がたしか
ごくう
にあったとすれば、多分水神にささげる女体、人身御供の変形であるに相違ない。
よく、やきものの肌触りをエロチックだという人がいる。抱き心地などという人もいる。だが思うに
やきものがエロチックである以上に、やきもので造られた物そのものが殆ど壷か壺状のものであること
が、色情をそそられる根本であり淵源であるとは、誰しも先ず気づかねばならない。やきものの用途は
い
大半が容れ物であり、容れ物とは即ち女性のからだそのものの機能である。壷はその象徴と言いきれる。
139
もくよ
古来、超自然の霊性は物のうつろを目して、そこに憑るとされた。円筒埴輪がそれであり、浦島太郎
によたいよりしろ
の玉手箱がそれである。そして女体は霊にとって最もなつかしく親しい想代であった。玉依姫とは、た
ま“霊が依るところの女たちの総称にほかならず、霊が女たちのからだに愚るとは、女がからだに抱き
しめている一つの壷のうちに想るのでなくて何としよう。女と壷とは一種の霊界を秘めた自然から超自
かたといつく
然に至る通路であった。その壷に象ったやきものを撫でさすって愛しむ男たちは、かかる愛撫の感興を
介して、さながら女体に想る霊性の本質に自身を同化することが可能だった。かくて男は精気に満ちて
いる間は生ま身の女体を求め、精気衰えてのちは往々骨董のやきものを愛玩する。やきもの好きは本来、
男性の、それも老人の好色好尚とみなけれぱならないだろう。
ともあれ壺に対する幾久しい日本人の感覚が、一筋糸を引くように伝え継がれ、そのなかで有名な桐
壺、藤壷、梅壷などという後宮の呼称も生まれてきた。
『源氏物語』をはじめて読む人は、開巻早々の「桐壺」の巻が何を意味した名なのか咄嵯には分からな
、、
いだろう。私は中学時代に「桐壺」の二字に先ず眼を触れ、桐と壺との組合せがたいへん奇異に思えた
印象を忘れていない。
ひかるりきみこうい
「桐壺」とは『源氏物語』主人公の先君を生んだ更衣(皇妃)の名前には相違ない。しかし、正しくは
あだ
それは仇名、呼名に過きず、この妃は「桐壺」と呼ばれる私室に住んでいたのでそう通り名されたまで
である。それは花子とか春子とか親が名づけた名前とはべっの、世にいうまさに源氏名であった。
つぼね
しかし「桐壺」が直ちに私室、部屋、局の名であったというのも正確ではない。建物の名というのも
十分でない。むしろその建物、その部屋に面して多分桐を主な景色に配した庭があって、むしろその庭
140
が本来の「桐壺」であり、自然この桐壺を朝夕に見入れた部屋ないし建物と一対にそう呼ばれ、さらに
はその住人にも及んで桐壺更衣とはなったに相違ない。藤壺には藤が、梅壷には梅が配され、それはそ
れでそこに住む女人の気立てや生い立ち境遇や好みや美しさを間接に言いあらわし得ていたのであろう。
壷とはここでは庭の意味であり、彼女らが占めた私生活の場所の意味であり、彼女らの魅力の質をさえ
暗示していた。ここでもやはり壷は女体の魅惑に相通う意味を響かせる言葉だった。壷を抱いた女人、
てい
桐壺、藤壷1それこそ後宮に住む女人の生きかたを物のみごとに暗示し象徴する体の呼名であった。
新茶の茶壷よなふ、入れての讐、こちや知畠く。
たと
なんと甘美に害え言われた壺であることよ。壷は古代高貴の女人にも、中世、近世の庶民の女にもま
とき
さに肌身はなさず抱きしめられつつ物の入れられる機を待ちかねていたのだ。
局
それにしてもその壷とはどんな脈絡を辿って庭の意味にもなり得たのだろうか。
私はさきに後宮の私室、部屋に兼ねて「局」という文字をも書き加えておいた。「局」という文字は
さまざまに語意と語感を展開させながら、今日も諸方で使われている。結局とか局部局所とか放送局と
つつもたせいず
か、ひどいのは美人局とか。むろん何れもどこかで輪郭を重ねうる一つの語感に支持されており、もと
もと同じ局(つぼね)に出た語感と読んで差支えない。
「局」にはたしかに部屋の意味が強い。とすれば「壺」にもやはり部屋の意味は加わっていたかもしれ
141
ない。が、要するに「局」にも「壷」にも、或るうっろに囲まれ囲われ、区切られ限られた場所、空間
という感じがある。そしてそれは仮名で読んで「つぼ」という発音発声のなかに籠められた微妙な語感
と正確に響き合っている。
せいしようねむ
つぼいなふ、青裳、つぽいなふ、つぼや、寝もせいで、睡かるらふ。
けいちゅう
中世の小歌にこうも言う「っぽい」とは、可愛くて可愛くて堪らなく可愛い、という関中の衷情が夢
ほとばし
中で逝ったことばである。この語感、この身をよじるような語感が「つぼ」に生きている。
「つぽぬ」という動詞がある。○限る、仕切る、・囲む、囲う、という意味をもつ。
「つぼむ」という動詞がある。開き口のあるものの開き口が狭く小さくなる、すぼむ、.つぼまる、とい
う意味をもつ。
「つぼみ」という名詞がある。花のまだ開かないものの意味をもつ。処女の魅力を花なら蕾と形容する
意味ははっきりしている。
そして「局」が「つぽぬ」の名詞だともすぐに分かるだろう。
庭を意味する「壺」、転じて「坪」が、およそこういう「つぼ」の語感を体していることは確かだろ
う。
坪庭がふつう屋敷内の庭、内庭などをさす意味もおよそこの語感を離れてはありえない。それは根本
ホげ
に官能的な窮った語感をたたえた庭だということだ。と言うより、本来、庭というものが家屋という男
、、
性的なイメージに対して女性的な含意を体し、家庭一体のうちに人間生活の基本の姿を見るべきものだ
という理解にもつながって行く、それが「壺」本来の本意なのであろう。
142
庭
庭にもいろいろある。
修学院離宮のような広大な借景の庭も私は観てきた。桂離宮のような巧繊を極めて有機的に構築され
こんちちしやく
た庭も観てきた。醍醐寺三宝焼、天竜寺、南禅寺金地院、曼殊院、詩仙堂、智積院などの庭は相共通す
ごうとう
る高度の完成度で、いつ出向いても私を魅了した。西方寺洪隠山の豪宕、粉河寺の雄大、大徳寺大仰院
の精密な枯山水もすばらしかった。
にもかかわらず私はどこのお寺を訪れ、どこの家庭を訪ねても、いわばそうした表看板のような晴れ
て眺め見つめる造作のみごとな庭園よりも、建物と建物に囲まれ囲われ、渡廊下や塀や壁に限られ区切
くまかげ
られて、ひっそり静かに物の隈を窮らせながらも一石一木一軍に人の思いの行届いた坪庭の風情に、と
りわけ心意かれ眼を向けつづけてきた。
しゆはくさ
欄干と廊下と、そして石一つに竹数株を配しただけの仁和寺で観た坪庭。清らかな白砂の篇目も美し
い中に、円錘形に砂を盛っただけの上賀茂神社で観た坪庭。
そして数えあげれば千差万別の際限もなく小気味よい坪庭の、そのどれ一つにも遠く及ぱないけれど
も、どれ一つにも負けないくらい日々に親しんだちいさな坪庭は私の育ったちいさな家の中にもあって、
違うと言えばあれこれ余りに違い過ぎるが、やはりどんな立派なよその坪庭とも同じ坪庭の姿と意味と
をわが家に相応して備えてはいたのだ。
143
翳
坪庭を眺める庭とは思わない。そうではないか、我々は女体が秘めたあの壷のような神秘なものを眼
で見るものとは思っていない。それは思わず眼を閉じながら肌に熱く感じるものだ。そこは決して明る
過ぎることなく、乾き過きることもなく、鼠さえも静かにちいさく舞いながら渦の底へやがて吸いとら
れて行く、陰翳に富んだ場所だ。
私は京都に生まれ京都の町なかで育った。国民学校(小学校)から大学、大学院まで全部京都だった。
父は観世流の能舞台に地謡で出たような人で、望まれては近所の娘さんに奥の四畳半で謡いを教えてい
たこともある。巧い拙いはよく分からなかったが、向き合って「鉢木」かなんぞを謡っている二人の向
うの障子ごしに、笹の葉が濃い影になって揺れると見るまにぱらぱらと夕立がしたり、大きな花ぴらの
ように雪が縁側へ散って来たりしたのをよく憶えている。
あんまりちいさな庭で、西日しか射さなかった。笹は上へ上へ延びる一方で、眼から下はただの竹竿
さざんか
みたいになりがちだった。畳一枚ほどの、それでも相応に石組みした泉水の向うに貧弱な山茶花が植え
てあったが、これも裾の方ははだかになって、花は焼板塀よりまだ上の方で淋しそうに毎年五っ六つだ
け淡い色に咲いた。冬には泉水に氷が張り、夏は金魚や鯉を溜りに追いこんで、はだかで泉水の水かえ
をするのが楽しみだった。
多分京の坪庭としては最もお粗末なものだったに違いないが、粗末でも賛沢でも、住まいに対しても
144
つ庭の意味や働きは同じだった。季節の先がけ、気分の転換、適度の刺戟、話題の提供、そして我と我
むか
一人に対い合うための場所ー、庭というものへの原体験は、やはり私の場合ちいさなわが家の、ちい
さなわが庭を朝夕に領じているうちに得た、としか言いようがない。
家
人は人と生まれて多くの言葉を習う。が、同時にそれより早く多くの物の色と物の音とを見習い聴き
習う、家の中で。そして家の外で。
しかし家の中でも外でもない庭という場所で覚える物の色や音の不思議な美しさについて、誰もそう
体験的には意識も注意もしてこなかったのではなかろうか。
いえ
京都では戸障子で外と隔てた内部、それも普通は土間から上をさして「お家」と呼んでいる。その分
うち
には庭はお家の外にあるが、かと言って「表」ではない「家」の中にある。冬にはとじられ夏にはあけ
られる戸障子一枚をはさんで、庭は「表」と「お家」の中間にある。そこには風も吹く。雨も雪も降る。
やちゅう
日もさせば星空も見える。朝があり昼があり夕方があり晩がある。便所の位置しだいでは夜中もこの庭
に沿って歩かねばならぬ。
春の、夏の、秋の、冬の、折々の明るさ暗さ、暑さ寒さ、空気の色も匂いも、「表」へ出て外の自然
から直かにでなく、先ずはわが家の庭のうちで見慣え、聴き憶える。京都の暮しでは自然は先ず庭とい
もの
う人工の世界に濾過されて私たちの所有となった。
145
坪
眺めるための、歩きまわるための、時々した広い庭は、いわば門構えや玄関や座敷の一党だ。勝手の
利かない、表向きに開かれた空間だ。それに対して、そこに有るとも無いともふだん気使う必要のない、
勝手口やら台所や居間なみの庭が坪庭だ。門も玄関も座敷もないちいさな家には、表向きに造り構えた
観賞用の庭は用がなく、そのための余裕もない。そして私が好きなのは、お向いにもお隣りにも裏の家
うち
にもまるでちいさな珠を大事に抱きしめたようにして家の中に秘め持っている、庭とは名ばかりの、そ
れでも庭には相違ない、ちいさいだけが共通でほかは玉石混清の極く庶民的な、そういう坪庭だ。思え
ばそれは、庭というものの秀れた原型、模範、典型に対する中途半端で、我流の物真似でしかない。が、
それが本当は京都人の文化の偽りない普通の姿なのだ。「姿」の真似には上手下手があろうが、それで
も庭は庭として彼らの暮しに「、心」となって生きる。それが文化だ。
とくさ
一間半四方の真中に井戸が掘っであって、御影石で組んだ井筒の一隅に木賊ばかり十数本、飲み水に
は使えないが西瓜なら冷やせるという、ただそれだけの坪の内へはだしで下り、堅い黒土を踏みながら
両方から井筒の底へわんわんと互いの名を呼びかけては遊んでいて、そこの母親に危い危いと大慌てで
と
制められたことがある。強い雨が井戸に降りこむ時は、世にも妙なる音楽が井筒の奥から湧き上がると
聴いて堪らなく羨ましい気がしたこともある。それは可愛いお河童の女の子だった。こういう話は女の
子の口から聴いてこそ忘れがたい。
146
男の子と遊ぶ時は「表」で走り回りたかった。二人ではつまらなかった。家の近くでもっまらなかっ
た。
いえ
女の子と遊ぶのは「お家」の方がよかった。二人きりの方がよかった。そしてお互いあまり喋らず、
好き勝手に黙々と遊ぷのがよかった。そんな時にふと明るい方へ眼をやるとちいさな坪庭があり、庭の
ほかにはたいした何もないような家が多かった。そして女の子とは妙なもので、自分が遊びに出かけた
家では真先にそこの庭へ出たがるし、それが自分の家へ友だちを呼んだ時だと庭など見向きもしない。
なるほどそんな少女でさえ自分の「壷」は気にならず、他人の「壷」は気になるということか、私は子
ども心にその家の庭を一瞥しただけで自分の遊び相手が何かしらどんな女の子か分かってしまうような
気さえしたものだ。いま挙げた古井戸一つの庭で遊んだ女の子はとくに幼稚園の頃の私の気に入ってい
て、一緒に深く遠く小さく光っていた井筒の底の水鏡を覗きこみながら、言葉にならない言葉をわんわ
ん呼び交わして遊んでいた時も、言うに言われぬ気恥ずかしさを感じていた。しかも身内にしんしんと
降り積もるなつかしさも感じていた。慌てて母親が制めに来たのが、ただ井戸に落ちては危いからだけ
のことであったか、今想い出しながらふと私はまるで別の疑いももち、すこし頬が熱くなる心地ですら
ある。
よその家の庭、そして、よその家の女の子、そしてその女の子と遊びにその家へ出かけての想い出に
は大概歴遊びをして、それも女の子がとめるのも聴かずに遊びに下りて、結局大人に叱られだというの
が多い。眺める庭ではなかったのにどこの家でもちいさな坪庭を遊び場としてはゆるしてくれなかった。
土足では踏めないような大事にされ方を、どんなみすぼらしい家のみすぼらしい庭でさえされていた。
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庭でわるさをするんなら、もう遊びに来んといて、とも言われた。そんな時、大概私のそばに黙って女
かば
の子が立つか坐るかしていた。女の子というのはこういう時、めったに男の子を庇ってくれないという
けしん
実感を私は持った。坪庭と女の子とをどこか心の奥の方で結び合わせ、互いに互いの化身か精霊のよう
ぷ
に想像する思い習わしはそんな時に私の中に根ざし芽萌いたに違いないのだ。
蝶
蛇の出る庭があった。蛙が出たり、とかげが出たり、みの虫が垂れたり、蜘蛛の巣が張ったり、なか
には夕方になるときっと蝶が舞いこむという庭もあった。蛇や蛙は大の苦が手だったが、蝶のはなしは
ほんま
私がうそやと言い、その女の子は本当えと泣きそうになって、検分のためにはじめて家に入れて貰った
ら、朱々と西日が斜めに楓の葉ごしにさしこむ時分、七色の光の縞目を渡る楽譜のお玉杓子のように、
つはめねき
ひらひらと真黒い蝶が庭の内へこぼれ落ちて来て思わず喰ったことがある。短刀や鐸や目貫をちいさな
くま
飾り窓に並べた、夏でも寒いほど物の隈のくらい家だった。素足で踏む畳が石のように固かった。大き
な柱時計がごうんという音で鳴った。
その子は蝶が来た時、なぜか私のうしろに隠れる感じで黙っていた。ほんとやろとさえ言わなかった。
私がほんまやったなと咳くと暗い所から年寄りがそうっと寄って来て、ほなもうお帰りやすと言った。
おじいさんだったのかおぱあさんだったのかも忘れている。が、黒い蝶はとても美しかった。あの時せ
まい庭が生きもののように見えた。
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この女の子は戦火の厄を避けるべくわざわざ滋賀県下の田舎町に縁故疎開しながら、そこで空襲に遭
って死んだ。短刀などの並んでいた飾り窓も今はなくなって、その家はいま美容院に変わっているが、
京都へ帰って前を通るたびに冷え冷えとした家の奥にまだあの坪庭はあのままあって、夏には黒い蝶が
舞いこむのだろうかと想ったりする。
石
もう一軒、これはちゃんとした茶室まで構えた佳い家の女の子が勉強部屋にしていた眼の前に、なか
なか面白い、というより遊びやすい坪庭があった。
くら
左右を柴垣が仕切って正面は土蔵の白壁半分という三坪ばかりのやや横長だったが、その右端の三分
の一ばかりが畳二枚はあるがっしりした平たい岩で埋められ、岩をひしひしと取り巻いて分厚い杉苔が
せいがいは
打ち寄せる青海波のようだった。そして苔の切れめから左の端へは白い砂利が一面に敷いてあって、他
に一木一草もなかった。
あれはよほどの巨岩を地中深く埋めたに違いない。縁側から素足でぴょんと跳び乗る時の堅固な感触
がぞくぞくするほど嬉しくて、私は何度もぴょんぴょん往復したり岩に突っ立ったり、寝そべったりし
り上くたい
た。また見えない敵船団を叱哩する勢で岩上から緑苔の海へやあやあと拳を突き出し呼ぱわり、そうい
う物狂おしい遊びに私が夢中になっている間じゅう、その女の子はまるで無関心に部屋の中でひとり綾
取りをしたり自分の机で他愛ない絵を描いたりしていた。岩の表面は時に鏡のように日に照り、その照
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り返しがちょうど泉水と同じぐあいに部屋の中をほのぼのと明るくしていた。
庭は女の子にこそよく似合うものだと、その岩と苔と砂の見える勉強部屋で思った。一見剛毅な庭の
ねじ
風情だったが、もしこの部屋の主が男の子だとしたら、やっぱり妙にその男の子がめめしく思えたかも
しれない。白壁があり柴垣があり、そして岩と苔と砂だけの鮮やかな色どりにはすこしのむだもなく、
しかしその剛毅そのものの巨岩の上に素足で立ってみる時、私は一等庭のあるじの女の子のことを強く
意識した。女の子が学校や表や私の家でより美しく品よく見えて、好きやでと声に出して言ってみたい
ほどだった。
褻
突飛なことを言うようだが、もし有るとすれば日本の庭園学は、庭の様式や構成や指図に就いて詳し
いだけでなく、また寝殿や書院や座敷や会所や茶室などいわば晴の場所との関わりに就いて詳しいだけ
け
でなく、居間や勝手元や便所や裏口や、なにより寝室との、いわば嚢の場所と庭との関わりにももっと
注意を払って我々にいろいろのことを教えて欲しいと思う。
庭と寝室と、と言っても、広い晴の庭は情緒を拡散させてふさわしくないであろう。部屋の内からは
庭が見えて、庭の外からは誰も決して部屋の内が覗けない、それこそが坪庭に固有の機能でもあり構造
でもあるだろう。
四季折々の色と音と匂いとをもう手の届くそのそこに親しみ想いながら、男と女とがすぐれて親密に
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共有できる庭。そんな独自の庭が数多い住宅遺構から注意深く数多く見つけ出せるはずだ。桂離宮にも
修学院離宮にも必ず主人公の寝室と目していい棟ないし部屋があり、そこの庭は必ず寝室の情緒に相呼
応する微妙な美意識を反映しているはずだ。坪庭はなによりも根本に於いてそうした情緒を喚起し得る
シムポル
体の積極的な象徴であっただろう。まさにそれは観賞し眺望する庭ではなく、生活感情と膚接した庭だ。
そしてその建物、その家屋に於ける生活感情を左右する基本の情緒とは主人公たる男と女との愛の生活
、、
てなければならない。壷は、坪庭は、自然と人事とが物言わずに交流しつつ、まさに家・庭の家庭たる
ゆえん
所以を象徴するものであった。庭のもつ本質的なエロチシズムに気づかずに少なくとも坪庭を云々する
のは、鈍感に過ぎるのではないかと私は思う。
霊
京の家並みは東京などと較べると流石に独自の姿をしていて、例えば高い所から見下ろすと容易に一
眼でそれが分かる。京の家の美しさを屋根の並びだけで描いた名画は二、三に止まらないが、居流れる
屋根から屋根へのうねった波動を見るだけでも町家の暮しに生きているある統一感や旋律感が見てとれ
る。
大文字の晩には京都の人間はふ?りそんな屋根に出て送り火を眺める。物干を大屋根に上げて造るの
は京都人の久しい習いだった。そして人が死ねば家人は物干に上がって故人の名を呼んだものだ。大屋
根から大文字を眺めるのはただ見えやすいからではない。一種の葬送感覚に根ざした、そこは死者との
151
対話場でもあるからだ。
その送り火の燃える遥かな夜空から眼を転じて、屋根屋根屋根のあちこちに、暗く、深く、ちいさく、
黒い四角な虚ろが底知れず沈んで見える時、そこに家々の庭が、坪が、隠されてあるのだと人は分別す
る。そしてただ分別以上のあるふしぎな感動をさえ覚える。なるほどあれが、あそこが、家々の「壺」
なのかー。壷はちいさく、奥暗く、静かに魅惑を湛えて屋根と屋根に限られ区切られてぽっかり沈め
られている。時に僅かに、樹々や笹や石燈籠の頭がのぞいていたりする。
夜空の遠くに無窮へと飛び去る死者の霊を見送りながら、顧みに見下ろすそんな家々の壷の眺めには、
日々を生ぎである人の此の世の暮しが、ふしぎになっかしく呼ぴかけてくるような安堵が籠っている。
愛
庭の専門家には、何でも彼でも坪庭の範疇に入れたがる人があるらしい。しかし壺の意味から推して
も、それは晴れて眺める広い庭ではあり得ない。また茶庭、即ち露地などは規模に於いて坪庭と同様の
ものも多いが、私は露地・茶庭と坪庭との混同にも賛成しない。寺院の前庭などを坪庭と混同するのに
も同意できない。
いえ
坪庭というのはあくまで「お家」のなかの庭であり、「お家」同然の庭である。その家の女主人を象
いえ
徴する庭である。「お家はん」さながらの庭が坪庭であって、そこ一つをとくと眺めれば「お家はん」
の「お人」までが見えてくるような庭が、本来の坪庭だと私は考えている。つまりは坪庭こそ生活する
152
、、
家、民家、住宅の庭であり、家庭そのものだったし、そう育ち育てて行きたい庭だと思う。
とかく坪庭をさえ禅院をはじめとする等々のものと思いこみがちなのは、王朝貴族たちの私生活の美
意識が寺院に反映し、継承され洗練され、あたかもそれが本家本元のように思い込まれて、また俗人の
私生活に模倣の対象として逆輸入されたという道筋を歴史的に承知すれば、正解も誤解も容易に納得で
きることだと思う。
要は坪庭の「つぼ」の意味を心優しく汲みとることができれば、壷に秘められた愛の水は汲んでも尽
きることなく、将来久しくかずかずの美のイメージを新たに産みつづけることであろう。
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私語の刻
「花と風」の連載を始めたのは「春秋」の昭和四十五年十月号であった。三十五歳に私はまだな
っていなかった。同じ題の単行本は、太宰賞受賞後の処女「評論集」となった。その以前に受賞
ひそくあつこ
作を含む短編集『秘色』と初の書下ろし長編『慈子』とが、やはり筑摩書房から出ていた。私の
感性は、この三価に、もうほぼ全面的に芽をふいていた観がある。むろんそれは観であり感じで
あるに過ぎないが、この巻に一緒におさめた「署の庭」のエロチックな視野や観点をすら、もう
かすかに「花と風」の思惟は抱きこんでいた。私のエッセイは、おそらくそのまま小説世界のデ
ッサンであるが、ことに「花と風」は若い意欲の奔騰にまかせて、面映ゆいぱかりに、ほとんど
歌いあげている。言うまでもなく、この下支えには京都有ちの古典体験や茶の湯体験に加え、熱
しよう
烈な谷崎愛がはたらいていた。誇張した言い方をあえてすれぱ、私は、谷崎潤一郎の頬を世に捧
げたいぱかりに小説を先ず書き、それでエッセイや評論の発表可能な道をつけたかったのである。
本は筑摩書房から出たが、そしてそれには何としても私を世に送りだしてくれた筑摩書房への
感謝がはたらいたのだが、その反面、この連載エッセイを書かせてもらった春秋社には心苦しい
ものが残った。今でもそれは喉に刺さった小骨のように生きている。
以前にも書いたかしれない、私の出世作「清経入水」には記憶に残る三人の読者のすばやい反
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応があった。ひとりは新潮社の宮脇修氏で、この人は、いきなり新鋭書下ろしシリーズの依頼を
うみ
しに訪れてくれた。そして成ったのが『みごもりの湖』であり、この作品なしに私が『湖(うみ)
の本』という発想をえられたとは、我が事ながら思われない。私のもし墓碑にきざむ作品の題を
読者や編集者にゆだねれば、おそらくは「みごもりの湖」の作者として私は、永の眠りに就くこ
とであろう。
いま一人は京都の杉本秀太郎氏であり、その熱いファンレターには、自分が仏訳するなら題は
「ジュ・スイ・キヨツネ」にしたいとさえ書いてあった。このシャイなエッセイストには稀な興
奮(口吻)と思わねばならない。有り難いことであった。
そして最後の一人が当時春秋社の編集長でもあった宗教学者の山折哲雄氏で、この人が熱心に
「花と風」の為に、雑誌「春秋」の紙面を提供してくれた。実をいえば、山折氏が当時の勤務先
まで訪ねてきて機会を与えられなければ、こんな長いエッセイは書く気にもならず仕舞いだった
と思う。しかもこの「花と風」なしに、ことに「風」への踏み込みなしに、その後の私のエッセ
イ世界が在りえたとはとても思えない。氏の私における重みは、先の宮脇氏のそれとともに、言
い尽くせないものがある。深い感謝を、忘れたことが、ない。
長い人生には、まこと、多くの人との嬉しい出会いがあった。今も私の家のいちばん晴れがま
しい場所に、「花嵐」と濃淡に分けて大書した荻原井泉水八十八歳の揮毫が、額にして掛けてあ
る。連載を気に入られ贈っていただいたもので、面識も文通もなかった。また後に自決された村
上一郎氏も連載をいっもみておられ、その時にえた励ましは久しい心の支えに今もなっている。
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そういえば三島由紀夫の自決の日、本郷のバア「とっぷ」の電話を借りて山折氏と話さずにおれ
なかった若い興奮も、昨日のように思いだされる。「花と風」のうち「いけ花と永生」が、これ
も、このエッセイを評価された当時医学書院の上司で国文学者の長谷川某氏により、国語教科書
に採られたことも、忘れられない。
つづく「隠国(こもりく)」玉篇は、すべて「婦人公論」に断続掲載された。書かせてくれた
のは、今はすぐれた作家の梅原綾子さんであり、当時彼女は魅力と才に溢れた編集者阿部智子さ
んであった。「婦人公論」との付き合いは、この玉篇にまず尽きている。あの雑誌がこんなもの
も載せていたかと、驚かれる方も多かろう。「花と風」では露わでなかった私の民俗学的な根の
意向を、阿部さんはまこと鮮やかに掘り起こしてくれた。これも頼まれなけれぱ、そんな、「怨
念」だの「化身」だの「長女」だのと、おどろしげな発想を私は手にも取らずに行き過ぎていた
あてがぷち
かも知れない。みな、みごとな阿部さん宛行い扶持の主題であって、しかも私の読者の多くは、
この表題そのものが、昭和四十九年刊の『みごもりの湖』の構想や思想と、さながらに重なって
いたと思い当たって下さるだろう。阿部さんは、「みごもりの湖」が当時どんなふうに書き次が
れているとも何も知らずに、こんな課題で私の内側へ的確な錘鉛を垂れてきたのである。私は私
で自分の主題へ手さぐりを重ねて、余念なかった。
すぐれた編集者に恵まれることこそ、書き手の幸運である。私などは、その意味では実に幸運
に恵まれて、大事な文壇への登場当時にいい編集者に数多く出会った。彼や彼女らは実に確かに
原稿を読みこんでくれた。そして強い弁慶のようにさんざんに悩ませながら、最後には勝ちを牛
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若丸のために譲ってくれた。それに励まされてまた次の仕事へ全力をそそいだものである。以来、
二十年。多くの編集者が、出版の現場を去って行った。そういえば私も十六年ちかく医学研究書
の編集者であった。「花と風」を書き「隠国」を書いていた頃は、まだ私は仕事熱、心な編集者で
もあったのである。
ゲーテミレー
「易の庭」は、大学の友人重森執■君が書かせてくれた。ゲーテは京都の庭園家であった三崎氏
の子息で、出版企画の仕事を今もしているが、「坪庭」が面白いよともちかけたのを、毎日新聞
社でいい本にした。彼には今もときどき仕事を貰うが、そういう事だけでなく、特筆すべき私は
彼の恩を蒙っている。小説をまだ書き始めない前、私は重森の顔を見ると小説を書きたい書きた
いと言っていた。彼はある時、「で、もう書きだしているのか」といささか管めるような口を利
いた。「まだ…」と口ごもると彼は言下に、「あした、もし、新潮から作品があれば見ぜると言
われたら、どうするの」と、持ち前のやさしい口つきに戻って問い返してきた。大袈裟に言えば、
私は、頓悟した。そして書き出した。「新潮」の編集部から突然来社されたいと速達が来たとき、
私には曲がりなりに作品の句点かがすでに用意出来ていた。重森君もまた私の生みの親の一人な
のである。
さて次回「湖の本」は、その小説「みごもりの湖」であり、分量的にどうしても土中下の三田
にしなければならない。但し下巻には頁のゆとりがあり、なにかしら喜んでいただける趣向で、
新版に特に花を添えたいと思っている。旧本ご所持の方々もどうぞご支援下さい。
なお、年賀状を数多頂戴しながら、父の喪中にて、失礼致しましたことをお許し下さい。
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