秦恒平・湖(うみ)の本エッセイ 15 谷崎潤一郎を読む
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秦恒平・湖の本エッセイ15
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谷崎潤一郎を読む 目次
夢の浮橋 谷崎潤廊の「源氏物語」体験
蘆 刈 母なればこそ慕う
春 琴 抄 佐助犯人説を覆す
余白に……………………66
私語の刻…………………152
<表紙> 装禎 城景都
印刻 井口哲朗
装幀 堤■子
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夢の浮橋 谷崎潤廊の一源氏物語一体験
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「海」一九七五年九月号
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一
この原稿を書くべく『谷崎潤一郎全集』を読み通すだけで何カ月か経ってしまった。但し原稿のためびたに読んだというより、原稿を口実にのうのうと谷崎の世界に入り浸っただけで、公然の休暇を楽しんだらいミんに均しい。私は谷崎文学の礼讃者でこそあれ、批評家では決してない。かがい束生まれ祇園育ちの私は、花街の紅燈に染められながら何よりも谷崎の『吉野暮』に胸を絞られた少年だった。やがて高校へ進む頃、乏しい小遣いをはたいて創元社版九冊の作品集を宝物のように抱いてむさぼり読んだ嬉しさは、光源氏や浮舟の物語に、心を奪われたという更級日記の筆者さながらであった。上京して、素寒貧の六貫一間に暮した頃の楽しみは、辛うじて二、二冊残しえた谷崎作品をただもう繰返し朗読することであった。そしてやがて講談社版の日本現代文学全集が最初の配本を谷崎集oで始めた時、誰でもない谷崎潤一郎を筆頭とするその全集を買い揃えたい誘惑に勝てなかった。水嵩を増すように狭い部屋に一冊、一冊増えて行く全集、それはあたかも私自身が膨脹し破裂して行く歳月そのものであった。計百八冊の完結を待たず、いつか私は思ってもみなかった小説を書きはじめていた。谷崎潤一郎の死が報ぜられた日、私はたまたま職場の夏休みで京都へ帰っていた。悲しさに顔を伏せ
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ししほうねんぽしょたままだったがタ造ぎて耐え難くなり、生前用意されていた鹿ケ谷法然院の墓所を重苦しい心地で訪ねて行った。誰一人いない夕闇の山墓地の中で、今この人を失って日本文学にはいよいよ物語の生命の細るばかりだと思い思い、立ち去ることができなかった。どうなるのだろうと思った。活字に唇を寄せるだけで美味の滴るような谷崎文学を文学のあたかも傍流の如くに多くの人が遇したのはなぜかと思った。そして一年後、『吉野暮』の作者に捧げて私はひそかに『蝶の皿』という小説を書いていたのである。『吉野暮』は少年以来秋の「谷崎愛」が最もなつかしく結晶する核であった。のちに谷崎自身がこの物語への自愛を語るのを聴いて我が事のように嬉しかったのを忘れない。そして同じ嬉しさを、後年の『夢の浮橋』に就ても味わったのはただの偶然だったろうか。『吉野暮』と『夢の浮橋』とはおよそ三十年を隔て、『少将滋幹の母』をはさんで遥かに美しく照応する、谷崎文学の特に「母恋い」といわれる作品系列中の白眉であることは誰しもの異論なく言い及ぶ所であるが、例の全集を揃え始めるまだ前年の秋、めったになく「谷崎の新作」に惹かれて雑誌というものを買って帰った晩の戦標と陶酔はまさしく『吉野暮』を読んだ少年の昔の惑溺と好一対をなして、さながら「谷崎愛」に極めを打った感じだった。私の『蝶の皿』はより多く、『夢の浮橋』の作者に捧げられるべきものであった。『夢の浮橋』は重要な作品と認められてはいる。が、どう重要なのか徹底的には追究されていず、作品、、の読みも意外に浅く見過ごされて来た。おそらく谷崎自身この作に就てはもうすこしていねいに読んでうらくれないものかという憾みを抱いたままで、読者や批評家に失望したままで、亡くなったのではないかと思えてならない。
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なぜ「夢の浮橋」なのか。それだけのことも殆ど意味深くは読みとられて来なかった。たとえば朝日新聞文芸時評で当時臼井吉見氏が「空虚な独り合点」の作として『夢の浮橋』の「出来栄え」に苛酷な批評をされていたのを私は忘れない。この作を別して谷崎一代の名作とは思わなかったし、臼井氏の批判に頷く点も幾らもあったけれども、「たんねんで周到な用意」として列挙されたみながみな「谷崎式の小道具」とは私は見なかった。まして「かんじんの女体の魅力など、どこにも見当らさぎりない」とは断然思わなかった。それところがこの作品で、谷崎は女体の魅力の中から狭霧に巻かれるよこわうな冷やあっとする伯さを初めて表現してみせたとすら思った。その点では日野啓三氏の、「この作品よりも、より夢幻的な作品は幾つもあるだろう。またこの作品よりさらに荒涼と暗い作品も数多く存在するだろう。だが、この作品のように、妖しく幻想的でかつ荒涼たる冷気の吹き寄せてくるという矛盾する要素を含みっつ、その対立する二つの要素の間の絡みあい溶けあう陰微な緊張関係によって、異様なリアリティーを成立させている作品の例を、私は多く知らない」と書き出される『母なるもの-「夢の浮橋」論』(荒正人編『谷崎潤一郎研究』所収八木書店)に私は同感した。だが日野氏の論も、なぜ「夢の浮橋」なのか、は明さない。「母への思慕」を主題とした作品と規定されてむろん間違いはない。=見人工的・技巧的なにおいをほとんど感じさせない芒洋と自然な姿をみせながら、実は冷徹で細心で大胆な作者の意識的な操作の加えられていることは」日野氏のお説の如く「驚くばかり」なのだが、問題は、その「意識的な操作」が何を秘蔵ないし開腹すべく最も意を用いてなされているかの読〃であり、そこへ行くと氏の『夢の浮橋』論は、いささか谷崎潤一郎という個性
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のあずかり知らないような形而上的に過ぎる意味づけに走るわりに、物語の核心に触れたと見えず、私を十分満足させなかった。谷崎文学の主要なモチーフの一つである「母恋い」は、この作品で「それまでより一歩踏み出しており、窮極へ到達したと見てよい」と、亡き野村尚吾氏は解説されている(『谷崎潤一郎の作品』六興出版)。『母を恋ふる記』からスタートすること四十年、「谷崎はついに自作中で独特のかたちながら」或る「夢想を成就」したと野口武彦氏は評価している(『谷崎潤一郎論』中央公論社)。手近な著書から引いてみた野村氏の「窮極へ到達」と野口氏の「夢想を成就」とは同じく「近親相姦」"「母子相姦」ただすめいを指している。それは谷崎が、『夢の浮橋』では「息子の孔が父の生前にその命を受けて継母の軽子を事実上の妻とする」と自ら書いていることだし、彼の文学に馴染んだものなら、野口氏のように「主題イン七ストは、継母と息子との『不倫な関係』、母子相姦の体裁をとった密通にあるのだろうか」と邊巡するまで、、、インセスト、、、、もなく、明白に、「作者の真正のモチーフは、継母との密通という仮装をまとった母子相姦そのものを描くことにあった」(傍点筆者)と読める。問題はむしろ、それだけなのか、ということだ。繰返し言えば、なぜ「夢の浮橋」なのか、この言葉およびこの作品が谷崎文学の魅惑と秘密をどれだけ秘蔵し開顕しているか、ということだ。私ひとりの出違いと好みから臆面なく書きはじめた小文を、今しばらく私ひとりの「夢の浮橋」観で書きついで行くことを許されたい。手さぐりで象を撫でるようにではあれ、やがて谷崎潤一郎の人と芸術にかすかにも輪郭を浮かび上がらせることができれば、これを措いて本望ということは私にはないも同然なのである。
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二
はべ五十四帖を読み終り侍りていほりきなほと?きず五位の庵に来哺く今日渡りをへたる夢のうきはしえいこの詞書を伴ふ一首は私の母の詠である。但し私には生みの母とま、母とあって、これは生みの母の詠であるらしく想墜れるけれξ、ほんたうのところ罐が差い。その仔細はこれから追ひくつまびら詳かにするであらうが、理由の一つを挙げてみれば、(以下略)
ちぬ一事の浮橋一のこれ誓苗しである。「追ひく詳か一にされるのは、同じ「茅淳一という呼び名の生母と継母が主人公の思慕の中であやしく一つ重ねになって行く事情と経過であって、その事情と経過が即ち「夢の浮橋」なのである。今すこし讐験的にいえば、前の妻と後の妻を架け渡して主人公の父が渡り、生みの母とまま母を架け渡して主人公が渡る、その同じ一つの「橋」を、女体を、父と子が相次おといで渡る、その渡らいが、父と子のさながらの「夢の浮橋」なのである。父は先妻によって主人公(乙くにただナしずいちの訓糺と名店っている)をもうけ、後妻は主人公の弟の武を生む。この、生まれながら鞍馬に近い静市野村せり上う、を経て丹波の山また山奥の芽生の里へもらい子に出される弟武が、実は兄糺の子と見えないような読者では、所詮『夢の浮橋』を読み渡ることができないだろう。
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ぐじゅ谷崎はこの物語に強い自負と愛着をもっていた。初の口授による創作という不如意な事情と自愛も一応無視できないけれど、作の出来栄えにははっきり自信を持っていて、発表当時、迫力不足かと気軽にけちをっけた人に、時をおいてなお忘れず反嬢の口吻を隠さなかったし、それは当の相手を恐縮させるていの厳しい調子であったともいう。あたかも谷崎は、この作に限っての出来栄えをとかく言うことを読者に許さないくらい、気合いをここに籠めていたのである。作の迫力に先立って作者の気迫が、今たくまぐましかに何事かを仕終えたぞという実感と満足とを籠めて、たかだか百校のこの物語の構想と表現の隅々に殆ど威圧的に突出しているのである。谷崎には、この物語の一篇が即ちみずから「渡りをへたる夢のうきはし」そのもの、だったのだ。みひら『誕生』以来『鍵』に至る己が文学生涯に眼を瞠ぎつつ、谷崎は、この物語一篇を書き終えたことを即ち「五十四帖を読み終」えたとも薯えて言っているのである。さもなければ、この物語の導入部は、詞書は、和歌一首は、ここに引き据えられた必然の重みをもたない。この必然は、作自体の必然であり同時に谷崎がここまで辿って来た文学生涯を貫く重々しい必然でもくじゆあった。初の口授によるこの創作にもし成功しなければ、今後書きたくとも小説が書けなくなるという深い恐怖に谷崎は間違いなく捉われていたのだから、というのも彼の右手はもはや筆を運んでみずから書けないほど書痙の苦痛に冒されていたのだから、何としてもこの物語は、「夢の浮橋」を渡り終える、、、ことで源氏物語「五十四帖」を読み終えるのと同じ、或る清算的な意味を担わねば済まなかった。最深のモチーフはむしろここにあって、少くも当時谷崎潤一郎はそうと確信し切っていたからこそ、後日、あまり他に例がないほど率直にこの物語への自愛の言を揮らなかったのだ。だが「五十四帖」を「読み
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終り」また「夢のうきはし」を「渡りをへた」というこの述懐の重さが、谷崎潤一郎その人の述懐としても、かつて一度でも正しく計られただろうか。「夢の浮橋」ということばを先にも示したように解釈すれば、創作『夢の浮橋』は、従来もっぱら語ら、、れて来た「母と子」の物語というだけでなく、多分に「父と子」の物語でもある。先と後二人の妻即ち、、、実と義理二人の母として、しかも夫にも息子にもその二人の妻、母がついに一人とも見えも思えもするうような幻妙な状況を丹念に創りか2早け合ったのは、誰よりその容貌まで「そっくり」な父と子(糺)あらただすていとであった。その事情と経過は誤解の余地もないまでに露わに明らかに紅の手記の体で語り尽されてい、、るが、さらにその上に私の読みどおり、糺の「弟」の武が、実は弟ならぬ紅と義母との間に生まれた「子」でありえたなら、「夢の浮橋」という女体の幻の下を流れたのは三代二重の父と子の血脈であり愛感であったということになる。同じく「母と子」の関わりを作品理解の上で最重視するにしても、この「父と子」の濃厚な関わりをよく踏まえるかどうかで、物語世界へ視線の深く届く度合いはまるで違ったものになるであろう。ちめみごも紅が二度めの母、戸籍上の名は実は「茅淳」でなく「軽子」、の妊りを知るのは、彼十九歳、長年勤めていた乳母のお兼が組子の氏素姓を秘かに明した上で「多分十月下旬」に暇をとった「明くる年の正月」のことであり、出産は「五月」とあるから、受胎は前年八月である。遅れて九月末か十月極初までは推測可能だが、後に述べる諸般の事情から推して私は月病ちての出産、即ち前年八月にすでに紅と義母との密通はあった、ありえたと、この『夢の浮橋』を読むことから、谷崎潤一郎の人と芸術をも読もうというのである。
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断っておくが『夢の浮橋』のどこにも「弟」武が「兄」札の子とは書かれていない。そう読んだ人があったとも全く聴いたことがない。ことに今昔う「私はこの母がどこに生れ、どう云ふ生ひ立ちをした人で、どう云ふきっかけから父のところへ嫁ぐやうになったのか、長い間知らなかった」という辺りから、乳母が去り母の身重が糺にも分る前後の叙述はごくさりげなくて、私の推定の如きは入りこむ隙もせりようなげなばかりか全く否定し去るような記述、母子相姦の事実は明白にみどり児の武が芽生の里へ遣られて以後、いや見ようによってはもっと後日のことと思える記述の方が幾らも眼につくのである。例えば孔は母の妊娠を知った頃の親子の気もちを、「父も母も、今日まで子に対する愛を私一人に集注してゐたので、今度のことでいくらか私に気がねしてゐるのかも知れなかったが、それなら大変な思ひ違びで、壮年間一人息子で育って来た私は、始めて兄弟を持つことが出来るのを、どんなに喜んでみたか知れない」と書き分けているけれど、いかにも率直に義母の妊娠、弟の誕生を歓迎する気分が出ているし、両親の思わくも自然で、疑う余地がない。また「弟」でなく「子」という読みを何より有力に否定するかと思えるのは、母子相姦に至る経過で最初に明記される事件が、疑いもなく武出産より以後に起きている点である。庭深い「合歓亭」に隠れしぱてひっそりと張る乳を空しく搾っている母を、紅は全く「偶然」に見つける。そして強いて誘われて彼は母が搾った乳の二三滴を飲みほし、さらには二十歳の青年の義母に対する行為としてははなはだショッキングな場面を展開する。
「どうえ、昔の味お思ひ出したか。あんた五つになるまで前のお母さんの乳吸うておゐたさうやない
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か」今の母が私に対して自分と先妻とを区別する言葉を遣ひ、「前のお母さん」と云ったのは珍しいことであった。でけ「あんた今でも乳吸うたりお出来るやろか、吸へるのやったら吸はしたげるえ」母は一方の乳房を掴んで、乳首を私の方へ向けた。ため「吸へるかどうや試しとおみ」私は母の膝頭に私の膝頭をぴったり摺り寄せ、襟を掻き分けて乳首を唇のあはひへ挿し入れた。最初ねぷはなかく乳が出て来でく窪かったが、舐ってゐるうちに私の舌の働きは昔の動作を呼び返した。かが私の身の丈は母より四五寸伸びてゐたが、私は身を屈めて懐ろの中へ顔を埋め、湧き出る乳をこんこんと貧ゆ吸った。そして思ばず、「お母ちやん」と、甘ったれた声を出した。母と私とが抱き合ってみた間は半時間ぐらゐだったであらう、「もう今日はこれでえ?やる」りと、母が乳房を私の口から引き離すと、私は母を突き除けるやうにして縁から降り、物も云はずに庭へ逃げた。
とうかい糺の手記はこのあたりひときわ轄晦の妙を尽していて、これではこの以前に湖って紅と義母とに武の
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生まれるような場面を考えることは頭から無茶と思われる。もっと決定的に見えるのは、武誕生が「五月」とあり、月末とみても普通なら受胎は前年八月中旬に遡り、秘かに父死病の重篤化は進行していたにせよ、父が妻を受胎させうる可能性はまだ残っていた点である。が、それに就ては、過去「十一年」やつきご全く気はいもなかった妊娠ではあるし、さらに物語自体の含みとして、「八月子は育つ」という京都のぞくげん俗諺すらたださえ輻晦に満ちた巧繊な物語の中では微妙に読み込まれて不自然でなく、だがそれも必要ばかでないほど八月受胎には他にも有効な反証が幾らも恵まれていて、一度ならず莫迦げた邪推か、無理な深読みかど私も気が筈めたけれども、それでもなおこの読みは動かなかったのである。甘とくになぜかなら作者谷崎の構想上の必然に迫られて、乙訓糺の手記が果そうとしているのは当然にも或る、、、、、、事実を隠蔽することではなく、轄晦と見せかけて逆に実は秘事、秘密を秘かに告知告白する、そのためにこそ手記は書かれているからだ。轄晦の妙は、露わに言い難いことをどうおぼめかして言うかの一点jしまうにもっぱら発揮されているからだ。そして「母子相姦そのもの」の如きは、今季げた合歓亭での母子抱ごう、、合で露わに語り尽されてい、この時にその行為が有ったかどうかは問題ですらないからだ。むしろ、こたぐいあくぎの二人にだけ頒ち合い挑み合える類の新味ありなつかしくもある「悪戯」を楽しんだと読んで的は外さず、密通の体裁をとった母子相姦がその以前に行なわれていたことを、ここの文脈は実はすこしも否定していないのである。そして、行ないそのものを語らないのは、糺の「方法」であり、谷崎の明らかなうつつ「意図」である。そこを現に、露わに、書き語れば『夢の浮橋』という物語は崩れてしまう。この点には後にさらに詳しく触れて行くが、ともあれ谷崎が理解した京都人の最も京都人らしいレトリックはまさしくこの乙訓糺の文体と話法に尽されている。谷崎がこの物語に寄せた強い自負自愛には、
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ろうかほう必ずやかかる踊化法を、口授の不利を巧みに逆用して、間然することなく文学的に定着しえたという満足が混っていたであろう。鹿化法-それは谷崎が何より源氏物語に学び、多くの古典に脈打つ日本語の表現力に学び、そして関西の風土および家庭的談笑の中から敏感に学びとったものであった。机に向きつすいいあってしたという口授の相手が生粋の京都の女性だったことも、この作品の場合匂うような鹿ろな言いまわしにことに幸いしているに違いない。かつて寺田透氏は『谷崎潤一郎の文体』に触れて、「作者の眼には眼前にないものが映って行く」と書かれたが、「デーモンにつかれたかのように」して「眼前にないもの」をも書くこと書けることが日本の物語の伝統ではなかっただろうか。物語の「もの」とは、「もののけ」の「もの」の、身をもがいて外へ露われようとする動き、人と物の動作と表情をことばを動かして露われて来る呼びかけ、暗く深く隠されてある声のやむにやまれぬ噴出だと私は考える。まさしく「デーモン」が語るのである。『座談会大正文学史』の中で、同じ寺田氏に応えて謄本清一郎が、「ほんとうだか嘘だかわからないという逆の見方ができる記述を同じ空間に三つも四つも重ねているでしょう。そういうちがう角度からいくつも描いたものを通して、その奥のほうに真実があるんだよということを、ほのめかしていますね。この技法というものは、谷崎さんの陰窮礼讃をさらに一歩進めたもので、……非常に微妙なものごとの真相、いくつもの表層的なものの見方を二つも三つも通して、その奥に真相を見ようとする手法」だと語っており、伊藤整も、「くり返して読んでいるうちに、おぼろにわかることがそのエッセンス」だと谷崎の文章観を代弁している。前作の『鍵』に就て語られているのだが、私に言わしむれば昭和に入っあまての数々の名作を押し渡って、これぞ『夢の浮橋』の手法と文章とを解説し、剰すところがない。
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昭和九年の『文章証本』で専ら谷崎が説いた「含蓄の一事」とは、深く隠されてある確かな大切なものを、隠されたままに表現するといった、相矛盾する努力を文章の上で繰返し行うことであり、寺田氏らの発言もここから理解すれば、谷崎の文章の内に隠れては露われ、露われんとしては隠されたままの上うえい「もの」の呼びかけが、揺曳する美の印象とともに聴きとれるであろう。では、それならば作者は、いやひと先すは作者ならぬ語り手に聴こう、『夢の浮橋』に乙訓糺は何を秘めながら、かっ語り明そうとするのか。義母の女体を介しての生母との一体化願望、どころかまさしうつつく夢の現の母子相姦そのもの。『夢の浮橋』の論者は誰しもそれを言う、が、それならば谷崎自身がはっきりと語っている。野口氏はそれを「自作の種明かし」と取られているが、京都人のレトリックとその意図的な作品化からすれば、こんなことは物語の中でちゃんと明されていて、決して「隠された真実自体」などというものではなく、少くも今一つその奥まで読まれねぱならないだろうと私は思うのである。先にも言うように、従来、『夢の浮橋』に就ては「母と子」との問題は大層重く論議されて来たし、いかにも当然のことではあるが、他方「父と子」の問題は殆ど無視されて来た。この物語の「父と子」を「母と子」以上に第一義的に重視しようとは私も考えていないが、いかほど母子相姦を重視するとし、、、ても、この物語ではそれが、「父」から「子」への「妻」の譲渡という下敷きがあってこそ意味深いものになっている。しかも、この母子相姦は、生理的に血を頒つことのない義母と亡き生母との「切れ目が分らないやうに」、父も母も糺自身も細心に「夢の浮橋」を架け渡した上で実現する。つまり母に許され、さらに意味深くは母の夫である父にも許された上の二重の母子相姦なのである。二重とはむろん
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義母を犯すことが、生母を犯すというかたちでタブーの突破を実現している、という意味である。この「父と子」「母と子」の相重なった二つの合意は、小説というものの自然な力学からしてもぜひとも或、る結果を要求しているが、それが「父と、子即ち父、と子」という因果であると同時に「母と子の子」という因果でもあらねばならないことは、つまり「子」即ち「武」の誕生を招くことになるのは、およそ自明ではなかろうか。紅が隠しかつ明している「真実」とは、この結果、因果、即ち「武」との関わりではないのか。たしかにこの物語に糺の「子」は明記されていない。父の後妻が生んだ「弟」武は早くに物語世界から山奥の他家へ追いやられたまま父の死にも母の死にも姿を見せず、漸く結末部に至って、父母に死なめとししれ取交って間もない妻をも離縁した孤独の乙訓糺が、ついに五位庵をも人に譲って鹿ケ谷の法然院のほとりに喜や裟芦儀え、「そし黒田村の芽生にみた馨、当人違かく帰りたがらず、里親もこ、,1離したがらないのを強ひて連れ戻して、一緒に暮らすことにした」事情が、いかにも後記然と記されるに過ぎない。だが、それは何故か。
武は来年小学校の一年生になる。私に取って何よりも嬉しいのは、武の顔が母にそっくりなことである。のみならず、母のあの鷹揚な、物にこせっかない性分を、どうやらこの児も受け継いでゐるらしいことである。私は二度と妻を取交る意志はなく、母の形見の武と共にこの先長く暮らして行きたいと考べてみる。
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、、この紅の述懐に「父」への追憶は影もない。本来なら異腹の「弟」と共有し合えるのは、兄にとって、、誰より実の父ではないのか。だが父には全く触れずに糺は「母の形見の武」と言い「この先長く暮らして行きたい」と言うのは、紛れもないこの場合の「父」とは「糺」自身だからではないのか。思慕をこうつつめて「母」が語られるのは、それが自分の夢の「母」であるとともに自分の「子」の現の「母」でもあるからではないのか。何より後記をものするこの筆者の息づかいは、物言いというものは、「妻」の忘れ形見を抱き緊めた、「子」の「父」のもの、ではないのか。暗示的な一例として、「何よりも嬉しいのは、武の顔が母にそっくりなこと」とあるのを、早くに糺自身の顔を「父にそっくり」と書かれていたのと思い較べてみるのもよい。夫に先立たれ行く妻が、孔の義母が、夫の「子」を「夫」かのように見重ねて行く上にも、この「父と子」はすべて「そっくり」てなければならなかったし、他方、この子が父の妻(義母)を我が妻でもあるかのように見重ねて行くのは、「子」が「父」に「そっくり」成り変って行くということであって、大胆に言い変えれば、我が「母」を「妻」にしたい禁断の愛慾に身をまかせることに他ならない。ゆるしかもこの物語では、かかる異様な愛感を、子は父に、母の夫に、聴許されており、のちに「第一に言語道断なのは亡くなった私の父」だと世間の常識に裁断されるほど、義母と子の「不倫な関係」以上にこの「父」の「子」に対する「妻」の譲渡は、あまりに異様過ぎると言える。だからこそ、よけいに「父」の本意が那辺にあるかが鋭く問われねばならないのに、日野氏以外のどの論者も、母子相姦に達うするお膳立てめいた作意とくらいにしか取っていないのは、谷崎にすればいっそ手を拍って読者や批評家の迂潤さを曝っていたのではなかろうか。
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ぢやうみやうあきら「わしはもう長いことはない。これが定命やさかい諦めてみる。あの世へ行ったら、前のお母さんが待ってるやろさかい、久し振で逢べると思ふと嬉しい。それよりわしは、このお母さんが気の毒でほかならぬ。このお里んはまだく先が長いのに、わしがゐんやうになったら、お前より外籟りにするもんは一人もない。ついてはお前、このお母さんを、このお母さん一人だけを、大事にしたげてくれ。お前の顔はわしの顔によう似てると皆がさう云ふ。わしもほんにさうやと思ふ。お前は年を取れば取る程わしに似て来る。お母さんはお前がゐたら、わしがゐるのと同じやうに思ふ。お前はお母さんをさう云ふ風にして上げることを、この世の中でのお前の唯一の生き甲斐にして、外に何の幸福も要らぬ、と云ふ心になってくれんか」
臨終の床に我が子とその義母即ち我が妻を呼んでの病者の遺言がこうであり、何をか言わんやであるしつかが、父のこうした意志が、早くから間接に母や乳母の言動を通して糺の、心に確り届いていた証拠は幾らも挙げることが出来る。では何故か、の私の答は暫く措いて、「武」と「母」とが「そっくり」で当然なわけの方から片づけておこう。とは言えそれもまた亡き「父」の本意を或る一面で明すことになるのだが、「父」が「妻」を「子」に与えるのは、この「子」の生みの「母」を早く死なせたという切ない負い目を「父」が「子」に償っているからでもあり、当然二度めの「妻」は、つまり「子」の新しい「母」は、最初の妻、生みの母と「そっくり」てなければならなかった。但しこれだけでは「母」を「妻」として、の深い理
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由をまだ十分明しえてはいないのだが、ともあれ、二人の「母」の「そっくり」は、実にこの親子三人おもの慎重で細心な演技と協力によって、「お前は二度目のお母さんが来たと思たらいかん。お前を生んだいお'お母さんが今も生きて?、暫くどこぞへ行てたんが帰って来やはったと思たらえ、。わしがこんなこと云はいても、今に自然さう思ふやうになる。前のお母さんと今度のお母さんが一つにつながって、区別あらかじがつかんやうになる」と予め父が子に言い含めたとおり、「私は半年ほどの間に、昔の母を忘れたと云ふ訳ではないが、昔の母と今の母との切れ目が分らないやうになった」と紅も認めるほどあやめも見うつつえぬまで現の夢となり切っていたし、むろん「父はつとめて昔の母の云ったことやしたことを今の母のそれ等と混合させ、私に生母と継母との差異を見失はせるやうに仕向け、今の母にもその心得を云ひ聞かせてゐたのに違びない」のである。かくて糺が、生母と「そっくり」の義母に接して、自身は「そっくり」の「父」へと成り変って行くということは、一方では母の「夫」と成り他方では我が子である弟の「父」と成るべき立場を、必然身うに享けだということである。そして、今度は、義母が夫に先立たれたのと逆に孔が義母に先立たれるのおのであるから、のこされた紅の慰安といえば、「母」と「そっくり」な「武」がさながら己が亡き「母」二人の、つまりは「妻」の幻を、現の夢にいつも眼のあたりに見せてくれることであるのは至極当然であろう。まさに孔と武が物語の終りに至って寄り添うように「親しみ深く」暮さざるをえない必然というものは、僅か一語三態の「そっくり」にみごとに表現されていて、しかもそれのみでなく、母子の一体化願望一相姦と相並んで父子の一体化願望H相姦の雰囲気をも、この『夢の浮橋』は物語の進行とともに濃厚に匂い立たせて行くのである。
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『夢の浮橋』が母子相姦に重ねて隠し絵に描き入れたのは、後記に妖しくたちこめた孔と武との来るべき異様なホモセクシュアルの父子相愛絵図であり、それを必然と予兆する紅と父との「妻」共有という異様な相愛の意図である。父は死んで先の妻と合体し、子は生きて後の母と合体する。それは直ちに幽明相隔てながら「父」と「子」が同じ一つの「そっくり」な女体を蔽うことで即ち彼らの一体化をも実現するのである。この父子一体の願望、愛感の強烈さが、まさしく「父」の「子」に対する「妻」の譲ちぬ渡という「言語道断」を支持する決定的な理由でなければならない。同じ一つの「茅淳」の名を呼び、うわごとにも「ゆめの」「うきはし」と言いつづけて死に至る「父」は、愛すべく美しい女体の橋を愛すべき分身たる子の「糺」と一緒に「渡りをへ」たい愛感を確り抱いていた。遺言の端々にもそれはよく窺える。つまりは、どれだけ「そうではない」ように書いてあっても「そう」なのが、武は糺の「弟」ではなく「子」ということである。それは、武が生まれ落ちてすぐ紅の知らぬ間に遠くへ里子に出されてしまったのを、この兄が、どんなに熱心に、異様なまでに熱心に探し求め、取り戻そうと努めたかを十分読み直してみても分る。さりげなく書かれているように、常識的には五位庵に武がいるよりいない方が、当時の親子、夫婦、兄弟いずれの関わりに於ても好都合だった。まして糺にすれば武がいないことで母を独占できたのである。それなのに、最も熱心に弟の行方を探さずに居れないのが糺であった。あまりの熱心に、ほんの「二三日の間」ではあれ五位庵にのこった「父母と私は気まつい気持で夕餉の膳に向っても互に口が重かった」くらいであった。しづいちそればかりではない。「お父さん、武はどこへ行ったんです」と尋ねる紅に向って、「あの児は静市
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の野村へ県オに遣った。これにはいろんな訳があってなあ、いづれお前にも分って貰へる時があると思ふけど、まあ今のとこ、あんまりひつこう聞かんといとくれ。これはわし一人の考から出たこっちやない、あの児が生れると決った日イから、お母さんとも毎晩々々相談し合うた上のこっちやさかい、わしよりもお母さんの方がさうして欲しい云うてたんや。お前に一言の断りもせんと、さう云ふ処置を取ったんおもは悪かったかも知れんが、お前に話したら却って事がこじれる思たんでな」と言う答は、これが果して「兄」になった長男に「弟」を里子に出した説明をしている「父」の、当り前な説明と読めるだろうか。糺ならずとも、「花然」と聴いて然るべき巧妙とも無気味とも言いようのない轄晦の弁ではなかろうか。糺は、親達が武について左様な処置を取った「理由」を先ず疑う。そしてとりあえずは常識的な解釈いちはやをみずから下しながら、「だがそれならば」と逸早くそれを否定し、あれほど「秘密に、行く先も告げいぷかずに隠してしまったのはどう云ふ訳か」と認らずにいられなかった。が、親達はみどり児を静市野村よりさらに遠い山里へと追いやり、「万が一若旦那さんが聞きにおいでやしても、云うたらいかん」とまで念を入れている。まさしく「わしよりもお母さんの方がさうして欲しい云うてた」のに違いなく、それまでは大方は常識どおり父によって母に自分の「弟」が生まれるものと「喜んでみた」糺も、ここに至って「荘然」たる思いの底から、はじめて母の子が父の子でないと気づいたとして何不思議もない。糺は「出来事の裏にある意味」を疑って、やがて「奇怪と云ってもい?妄想を描」いたと言っている。が、もはや妄想ではない、確信であった。おもんばか「父は自分の死後のことを慮って、母と私との結び着きをより一層密接にさせ、父の残後は私を父同t】と様に思ふやうに母に諭し、母もそれに異存がなかったのではあるまいか」という、さも後日のものらし
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せり上うやい推量も、実は糺はもっと早くから抱いていたのであり、だからこそ「武を芽生へ遣ったことなども、ぞんじ上ううちさう考べると理解出来る」とすらりと呑み込んで、孔は敢て父母存生の間は武を迎えに行くのを断念してしまうのである。こもりfむろん父一人がすべてを画策したのでなく、糺には糺なりの特異な母恋いが隠水の時としてきらめくように現われている。たとえば父が二度めの妻を迎えると孔に打明けた時、「面上に喜悦の色」を浮かべたのは紅の承諾を受けた父でなく継母と相対する糺自身であった、そしてこの糺は、「十三四歳になり一ぎうなって垂きぐ一「毒ちやん、籍に撃して一三その半襟の合はせ目を押し開いて出ない乳を吸ひ」、義母も「喜んで云はれるま?にし、父もそれを許してみた。」だが「十三四歳」になった孔が親から制限されるのは、彼が「夜は一人で寝る」ことだけで、母の乳ねぷを舐りに宵の内の添婆楽し曹慣寧の後といえξ「葦・ぐ一石一た望者磨一言肯定してごうきんいる。当世風に言い直せば「高校生になってからも」と読んで差支えないほどの母子会裳と相愛の事実がはっきり肯定されているのである。はたちでけ合歓亭で二十にもなる青年が三十分も抱き合って義母の乳を吸ったという場面で、「今にや・が出来ぎやうさんて、乳が仰山出るやうになったら糺さんにも吸はしたげるて、云うたことがあったえな」などと母が笑、いまじりに誘うのも、二人の仲に初めて乳の出る乳が吸える事態になったことを新鮮に享有し共有する、あくき語り手の日くどおりの手のこんだ「悪戯」なればこその、甘さや楽しさを漂わせている。「前のお母さん」という義母の言い方にも女の側からの一層の親近を思わず洩らした居直りの印象があるし、それは、、かりでなくこの母は、我が生みの子に代って、義理の子にしてかつ我が子の父である孔に張った乳を吸
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なんごわせているのであり、すでにそれと悟っている紅の甘ったれた「お母ちやん」という哺語も、この双つしんじつ重ねで聴けばいかにもこれは、合意の親泥、衝撃的な「悪戯」そのものとなる。再び「それを拒む勇気はなかった」などという礼の述懐は、巧みに「それ」を「乳を舐る」ことにすりかえて相姦の方は隠しとうかい顔にしてみせた、轄晦以外の何物でもない。周到な語り手は、いや作者は、さらに、武が「生れると決った日イ」即ち妻が妊娠と知った日のもうずっと以前から紅の父が「腎臓結核」という病魔に冒されて、十分に夫たり妻たりえなかったほどの事情を、ちゃんと書いている。即ち父が最初に受診したのは武の生まれる前年の「秋頃」という医師の記憶であり、精密検査の結果すでに「致命的な症状」と分って、「この際特に脚注意中したいのは、夫婦間の交りを慎んでいたドくことですな。今のところ空気伝染の恐れはありません」とも念を押されている。おそらく久しく病勢を自覚していたはずの父はこの時ほぼ完全に事態を察した。が、妻にもまた胎児武にも、幸い全く後日の結核症状は出なかったのだし、また母を「達者な体質」と語る一方で、普通はひだ産婦の状態に用いる「肥立ち」という言葉をことさら「その児は産後の肥立ちもよく」と武に就て書き添えられるのも、新生児の幸い感染を免れた元気な成長を、というより夫婦に性生活の絶えていたことを暗に言うものと取れる。その辺は勿論露わに書かれるはずはなく、「真実のすべてを書きはしない。しつか父のため、母のため、私自身のため、等々を慮って、その一部分を書かずにおく」と紅が確り断っている「その一部分」として昏い空白の虚ろに置き去られた受胎劇は、父の死病進行と不即不離にまず間違いなく八月中、遅くとも月足らず出産を意味する九月末か十月極く初めまでに、おそらく父の意を体し
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うつつた母の誘いかけで果されたのであろう。しかもなお私には、この以前にも、この二人が浅ましくも現とは思いがたい「不倫な関係」で結ばれた機会を、一度は持ったと推量していい強い理由がある。それもこれも、糺のレベルでではないが、紅の父および作者谷崎の真意と作そのものの必然的な構想力からして、妥当で自然な推量である、と私は思っている。が、それはもっと後段に至って説明したい。ここで俄然、乳母が青年紀を下鳴神社糺の森の小道に誘い出し強いて義母の氏素姓を告げた事実と時点が物を言って来る。めいたんせき命旦タにあることを悟った父は、先ず真意を妻に告げて、妻を先ず「不倫」の呪縛から解き放っ。そして幸い妊娠と「決った日イ」から「お母さんとも毎晩々々相談し合うた上」で、乳母に暇を出すとともに、乳母に言い含めて次に糺をも「不倫」の呪縛と生々しい「母子相姦」の、心理的負担から解放してやる。乳母を家から出すのも、至極当然な状況が確認されたからに外ならぬ。糺はこの手記半ばにして、先にも一部引用して置いた、こんな言訳を書いている。
私は仮にこの物語に「夢の浮橋」と云ふ題を与へ、しろうとながら小説を書くやうに書き続けて来たが、上に記して来たところは悉く私の家庭内に起った真実の事柄のみで、虚偽は一つも交へてない。(中略)さう云っても真実にも限度があり、これ以上は書く訳に行かないと云ふ停止線がある。だから私は、決して虚偽は書かないが、真実のすべてを書きはしない。父のため、母のため、私自身のたおもんばかめ、等々を慮って、その一部分を書かずにおくこともあるかも知れない。
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一見率直なこの表白にも乙訓糺轄晦の気味は小憎いほど通っているし、周到に隠された作者谷崎の口じゆあら投の肉声が紙一重の所にまで迫って露われかけている。谷崎は孔の言訳をかりて、あたかもこう言っている、物語の本当に大事な真実を、紅が自身震わに言うはずがない。彼が露わには言わない真実は、すべて乳母の口を借りて召使いや親戚の者や近所の人が流す「噂」.「浮説」として書きこまれているのであり、孔は噂や浮説が「忘れられてしまふ」ことは望んでいるが、結局一度も否定していないでないか、と。父の一周忌に遥々参列した乳母は、かつて義母の素姓を教えたのと同じ仕方で、その「噂」「浮説」、、、、を孔に語って聴かせる。それをそのまま手記に書きこむ糺は、そうすることで、隠したまま「真実」をちゃんと語り明しているのである。
あけすけに云へば、彼等は母と私との間に不倫な関係があると信じてゐるのである。彼等に云はせると、その関係は父が存生中からのことで、父も自分が再起出来ないことを悟ってから、それを大目に見てゐたらしい、いや事に依ると、さうなることを望んでゐたらしい、それどころか、人目を忍んでせがれ丹波の田舎へ里子に遣られた武と云ふ子は誰の子なのか、あれは父の子ではなくて伜の子なのではないか、と、そんな浮説を流す者さへある、と云ぶのである。近頃めったに寄りっいたこともない彼等が、誰からどう云ふ噂を聞いて左様な臆測をするやうになったのか、私には不思議であったが、乳母かいわいの話では、この界隈で案程前か魯奪芸ふ夢してみた、母と私とがξぐ二人言で合歓亭に籠ることなども、この近所では誰知らぬ者もゐない、だから当然さう云ふ噂が伝はらぬ筈はない、
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ひのえうま父が生前に津子との縁談を取り決めたのは、梶川家の丙午の娘でゾもなければ嫁に来てがないことを知ってゐたからである、そして一層怪しからぬことには、不倫な関係を今後も継続させて行くためにせがれは、伜に形式上の嫁を持たせて世間を欺く必要があると考へたのである、堀川の親爺はさう云ふ事情を百も承知の上で娘を嫁に遣るのであり、娘も父の意を膿して嫁がうとするのであるが、それはこの家の資産が目当てゾあることは云ふ迄もない、そこで、第一に言語道断なのは亡くなった私の父、次が母、次が私、次が堀川の父、次がその娘、と云ふ順序になる、と、親戚の人々は考べてみる。ひと「ばんさん、気イおっけやすや、世間の口に点オは立てられんて云ひますけど、人は他人のことになると、えらいこと云ふもんでござりまつせなあ」乳母は語り終ると、ちらりと妙な検眼を使って私を見た。
乳母こそ真先に真実を見抜いている。見抜いておかしくない人物としてこの乳母は父、母、主人公に次いで入念に物語世界に配役されている。早くから幼い紅と義母とが接近せしめられる事情をつぶさにけんぷんきち見聞し窺知しながら敢てよく協力していたのもこの乳母だったし、当人は当時まだ知る由もなかったろうが、いやむしろ知ってさえいたろうが、義母が子の種を宿したような乙訓家の一層母子一体化を進めねばならない今後には、不要ないし邪魔な人物として先ず暇が出されねばならなかったのも、この乳母だった。去るべくして乳母は去った、一つの大事な役目を果して。語り手はさりげなく、「乳母がゐなくなっみおもてから、女中が一人殖えて四人になつた。そして明くる年の正月に、私は母が身重になってゐることを
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知った。彼女が父に嫁いでからちやうど十一年目である」としか書かないが、義母の「大きいお腹」を見るまで妊娠に気づかないでいる糺の、多分父の子と思いこんで喜んでいるらしいうぶな感じも、だが、、父の子ではむしろ不自然な感じも、この辺にはうまく隠されて出ている。表現されている。語るべき「真実」が、語るにふさわしい時を別の時へとずらすことで、隠され、かつ、顕わされる。それが『夢の浮橋』の語り口であり、巧みな轄晦になっている。書く必要がないから書かれなかったのでなく、そこで書いては工合がわるいから書かなかったのである。書かれなかったその事の大事さが、こ'ヒ打ち抜かれてぽっかり穴になったようなその虚ろの奥に昏く籠っているのを、見るものは見よ、という「含蓄」の仕方であり、谷崎は、糺は、父の死病自覚と乳母の退散と母の「大きいお腹」とを、ぴたっなかんづくと時間的に繋ぐだけのことしかしないけれど、就中、乳母の退散が物語る所の意味は実に大きいのだ。紅は乳母に聴いた母の氏素姓に嫌悪感をもつところか深い感銘を受けた。と同時に紅は反射的に直観していたのだ、乳母の打明け話は、生みの母とまま母との切れ目のない同一化を微妙に断つことで、「母と子」一体化をこののち一層自然なものにさせようとする「父」の意向を受けての、最後の、無意識での奉公であろうかと。糺にすれば、あたかも乳母の打明け話は、「父」から「子」へ「妻」を譲渡の意志表示であり、秘かに犯していた母子相姦というタブーの解禁ですらあった。父の明らかな許しであるとともに純の心の中でも秘かに畏れていたタブーが解けたということであった。「十一年」妻を妊らせえぬままやがての死を予知していた父は、すべてを承知の上で妻とも暗黙に心を通わせつつ武の受胎劇を計画し、演出していたのである。それもこれも語り手はちゃんと語り明している。
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もうはや言うまでもない。幾らも眼につくいかにも「そうではない」と言いたげな、武は糺の「子」であるはずはないと言いたげな全ての叙述も、虚、心に読み直してみると、びっくりするほど第一印象を改めている。「そうである」ことを何ら否定していないばかりか、逆に紅と武が「父」と「子」でありえたことをさまざまに微妙に面白く証言していることが読みとれて来る。眼の鱗がほろほろ落ちて、書かない「真実」がちゃんと書かれているのが分って来る。父が臨終の床で、「もう一つお前に聴いて貰ひたい条件がある、それは外でもないが、お母さんがお前のために自分の生んだ児を余所へ預けたやうに、お前ももし子供が生れたら家に置かないことだ」と念を押すのを受けて、紅は梶川の娘津子を嬰ってのちも、「私はどんな場合にも子を儲けない用意をし、一度もそれを怠ったことがなかった」と的確に父の意向を解釈しているのも、もはや彼と母との仲に「子」があってこそであり、呼応して手記最後の部分に、武も「今では事情を理解して」とあるのも大変含みがある。『夢の浮橋』一篇はただ単純に母子相姦の夢想成就だけでなく、それが、三代の「父と子」が暗黙に相、、愛、相姦の一体化を遂げかっ遂げるであろうことと不可分の表裏を成している。むしろ「父と子」の、、、男の、愛感の業念こそが夢にも美しい妻恋いと母恋いの一体化を積極的に達成させているのである。父が紅を愛しんでの異様な「作意」と、静市野村から通うに道なき芽生の里まで二度にわたって武と引き裂かれた紅の或る辛い「断念」と、物語末尾の武を引き取った孔の一種むんむんするような濃厚な「歓喜」とは、思わず手を拍ちたいほど豊かな川となって「夢の浮橋」の底を流れている。夢うっっに交叉する二つの愛慾絵図を二っながらに見当ててはじめて、冒頭の「ほと、きず五位の庵に来帰く今日」と結末の「六月廿七日(恩命日)」とが季節的含意的に照応することも、「渡りをへたる夢のうき
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はし」の感慨が実は乙訓糺その人のものでもあることも、分るのだ。かくて谷崎潤一郎は、この物語の中てついに久しい「母」との一体化願望を創作主題上みごとに果すとともに、幼来秘かに自覚して来たホモセクシュアルの傾向をも、秘かに書き伏せたのである。事実この隠し絵、秘め事の方は、容易に人の眼に届かなかったと言える。それをさえ作の意図に見入れながら、谷崎もまたここで或る「夢の浮橋」を渡ったのである。その満足が深く大きかったのは当然のことであった。
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『夢の浮橋』の「種」は、だが、まだすべて明されたとは言えない。私は、灰めかしたまま打ち措いた幾つかの不審点に触れつつ、さらに『夢の浮橋』を私なりに渡りつづけねばならない。うわごと物語に「夢の浮橋」という言葉が現われるのは、冒頭の歌、父臨終の諸語、および前に引いた糺の、「私は仮にこの物語に『夢の浮橋』と云ふ題を与へ」とある三箇所であり、紅の表題が、先の二つの「夢の浮橋」に拠っていることは間違いない。ちぬぢよえいいず歌は「茅淳女」の詠というが何れの「茅淳」とは定かでなく、この呼び名にも父(ないし谷崎)の意モうさい図は重々しく纏わっている以上、或はこの歌すら父が自身の詠を母に草せしめたかと猜することも可能なほど、「夢の浮橋」なる題も物語もその源泉を「父」に負うているとは、認めざるをえない。外でもない「父」臨終の講話を紅が重視し、物語そのものも重視しているこの事実こそ、本来もっと大事に吟
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味さるべきであったのだ。「夢の浮橋」は言うまでもない歌の詞書が示し孔も指摘しているように、源氏物語五十四帖の最終巻の題であり、人はこの巻を読み終えて即ち源氏物語を読み終えることになる。従って父が諸語に言い、母が詠み、孔が題としたこの言葉なり物語なりが、源氏物語との抜き差しならない縁で使用され成立していることは、今さら言うも気恥ずかしいほどのことである。ところが、そこまでは言いえても、では何故に、どんな縁で、となると諸家の評論にこれ以上の詮索は皆目なされた形跡がない。驚きに耐えないが、だからこそ、武が父の次男でなく、兄の弟でなく、糺自身の子だという点まで、私の知る限り誰一人、眼が届かなかったのである。但し早々と断っておくが、谷崎の『夢の浮橋』は「夢の浮橋」の巻そのものとは殆ど重なり合う所をもっていない。あくまでこれは源氏物語「五十四帖を読み終り侍りて」という点で意味ある表題なのである。さて谷崎潤一郎と源氏物語との縁の濃さ深さは言うまでもない。彼の創作の主要な句点かに紛れもなく源氏物語が生かされている。ましてやこれは『夢の浮橋』と題された物語である、その構想に源氏物語は濃厚に作用しているとみて差支えない。ところが、谷崎の巧繊な構想と語り口に翻弄されてやっとこさ母子相姦にだけ眼が行き、「父と子」の軸には、武が糺の「子」だという血脈には、ついに読み進めなかったがために、諸家は十分自信をもって具体的に源氏物語との重ね絵を見透せなかったようだ。もはや明らかなように、源氏物語の桐壺帝と桐壺、その子の光源氏、そして病没した桐壺のあとを襲う藤壷、その亡き生母にそっくりの藤壺に光源氏が「母」を求めて秘かに通じ、そして生まれた「弟」実は「子」の冷泉帝、という複雑に絡んだ「夫と妻」「母と子」「父と子」の愛感絵図は、そっくり
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『夢の浮橋』に移されている。むろん事はただその程度の単純なものではない。が、せめて第一着ここまでは読まねばこの物語の本歌どりとでもいう意識的な操作の面白さが捉え切れないではないか。私は以下、『夢の浮橋』の源氏物語に対する相即関係を指摘して行く一方、さらに問題を拡大して、谷崎潤一郎の人と芸術にとって源氏物語がいかに本質的な関わりをもちえていたかをよく考えてみたい。、、、、、この二つながら、従来の谷崎論では盲点であったが、とりわけあとの問題、数次に亙る現代語訳の偉業を果した谷崎と源氏物語との質的関わりの方は、嘘かと疑いたいばかりかつて真正面から大事に論究されて来なかった、と私には思えてならないからである。t、て、臨終の諸語にも「ゆめの」「うきはし」と咳いた紅の父が、我が妻を我が子に譲ろうとした決意の底に、それはまた谷崎の作意と構想の内に、源氏物語桐壺帝のことが思い浮かばなかったはずがない。必然、先に挙げた源氏物語三代の父と子および二人の「そっくり」な妻即ち母、の人間関係がそのまま『夢の浮橋』の絵模様になった。私が先に、義母受胎割以前にも密通の体裁を装った孔と義母との母子相姦が一度は先行しえたはずと言い切った訳を今明そう。源氏物語「若紫」の巻には、最初の谷崎源氏では割愛を強いられた有名な冷泉帝受胎劇が書かれていて、その姦かに、「どのやう詳らつたこ差のか、たいそう無理書尾をしてやうくお逢ひになるのでしたが、その間でさへ現とは思べぬ苦しさです。宮(藤壼)も、浅ましかったいヶぞや9、一bを、、、、お思ひ出しになるだけでも、生涯のおん物思ひの種なので、せめてはあれきりで止めにしようと、固く、心におきめになっていらつしやいましたのに、また此のやうになったことが」(『潤一郎訳源氏物語』
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括弧内と傍点は秦)と、まさに書かれなかった真実が灰めかされている。谷崎はこれを十分承知の上、自分の創作に有効な含みとして利用しえた。彼が物語との出違い以来座右に備えて参照した『湖月抄』の傍注にもこのことははっきり言ってあり、冷泉帝受胎以前に、一度は「母」藤壼が「子」光源氏に犯、、されていたとは、今日殆ど定説なのである。乙訓糺の轄晦のためには、武は月足らずの九月末か十月初めの受胎と読める含蓄を残してはいるけれど、それ以上に月病ちての、八月に遡った受胎が母と子の仲に十分ありえたという含みは、藤壼と光源氏の「いつぞやのこと」を踏まえた谷崎ならではの「源氏物語体験」と私は理解するのである。「岩島やここにも一人月の客」ではないが、作者の去来自身がまるで気づかなかった句の妙味を、芭蕉は「月の客」を以て「自称」の句とせよと押し広げたように、たしかに作者と作品とに意識下の隙間がある場合は多い。が、この『夢の浮橋』に限っては、決して私が芭蕉然と谷崎に代って妙味を説き明すのでなく、谷崎自身が作の隅々までも明哲に意図的に把握し構想しながらこれを書き切っているということを、私は讃嘆するのである。むろん、だから作の「出来栄え」が即ち立派ということにはならないけれど、その点も「力作」の名に背かない感銘作だとは広く認められて来たし、何と言っても我が「谷崎愛」を告白するに恰好の、よく出来た問題作たるに恥じない。谷崎は、紅の生母の死を彼六歳の時としているが、桐壺更衣の死は光源氏が三歳の時、田代りの祖母の死が六歳の時なのである。また、孔の父が二度めの妻を迎えるのは紅が尋常二、三年の時期へかけてかたしろじゆだいであり、藤壼女御が桐壺更衣を忘れかねている帝のもとへ形代かのように入内するのも光源氏の八、九歳の頃となっている。おうやうさらに紅は義母のことを「ゆったりとしてこせっかず」「鷹揚な感じ」で「一種の人徳が備はってゐ
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る」などと人の気受けもいいことを言っているのが、藤壷という女人の印象にほぼ重なり合うことは源氏物語の読者ならよく承知のことである。しん匡しんげ「お父ちやんかてお前の十倍も廿倍も泣きたいねやけど、辛抱してんのやぜ、お前がで辛抱しい」と亡母を恋い泣く糺をなだめて悲嘆にくれる父の心情は、桐壺帝と幼い光源氏とのそこまで言い合えないだけ一層切ない妻恋いと真直ぐ照し合っていると言えるし、糺の、「お母ちやんと寝さしてえな」や、義母の「お母ちやんと寝たかったら、何でさうやと早う云うておくれやへなんだんえ。あんた、遠慮しとゐたのか」などには、幼い光源氏が義母藤壺を「子供心にもおなっかしく存じ上げ、いっもお側近くへ行って、馴れくしく喜で撃たいあよと、思っていらつしやる一気持蒔盟呼応している。谷崎は、こういう工合に、かなり丹念に慎重に、そして効果的に自分の作品を平板で安易なものにしない限りに於て、源氏物語との相即性を確保して行く。一方で相即を確保することで、他方で思い切った『夢の浮橋』ならではの独自の展開、趣向、作意をひらめかす。その最も顕著な一点は、谷崎が、あたかも冷泉帝に相当する武に想像以上に重い意味を担わせていることだ、即ち『夢の浮橋』をたんなる源氏物語の敷き写しにせず、しかも源氏物語の深切な理解なしにありえない或る放胆な一面を打ち出していることだ。はっきり言おう。武は、糺にとって「子」であるとともに「妻」にすら準じうる、即ち光源氏の「若紫」、あの母桐壺にも藤壷にも「そっくり」の類稀な理想的な妻にすらやがて準じうる存在として、法然院にちかい新居に「強ひて」連れ戻され、糺と「一緒に暮らすことに」なるのだ。谷崎は、ここで一、、見源氏物語を離れて、いわば父子相姦のホモセクシュアルの状況を将来に暗示することで、物語世界に
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、、「夢の浮橋」を二重に架け渡すのである。武が若紫でもありうることは、里親から奪うように連れて来たこと、「事情」が分ると武も若紫も納得して紅や源氏と親しみ深くなること、年齢がともに幼いこと、好都合に乳母まで再登場することなど、たやすで類比は容易い。そして何より、若紫が藤壷のゆかりでよく面差しも似てつまりは「母」なる人と変らないのと同様、武も「母の形見」らしく顔が「そっくり」であることで、やはり「母」なる人の意味をになすら文脈的には確り担いえている、という酷似も確認されてよい。私は谷崎がペデラステイを最終的に強調したものとは決して考えない。まして武をヘルマフロディテと考えているなどとも言わない。たしかにそれをしも物語に秘めた内懐の奥深さとして大事に構想したには違いないが、「父と、子即ち父、と子」の軸を大事に物語に伏せたのは、桐壺廿藤壼11紫上という余りに明白で濃厚な源氏物語の「母」即ち「妻」に寄り添った「紫のゆかり」構想に全面的に倣いたくない意欲もあったろうし、多分それ以上に『夢の浮橋』では不可欠の、「父」自身が孔に対して「母」を「妻」にせよというタブー解禁を、「妻」の譲渡を、打ち出すためにはこの「父と子」軸の意識的な強化が極めて有効だったのである。その理由は大半を先にすでに書いた。私は、だが、この「父」が「子」に「妻」を譲るという奇怪な一点でも、谷崎が、そして紅の父も、すぐれて源氏物語をよく読んで活かしていたかと推量せざるをえない。私は先に、父と糺との一体化願望が、糺のやがて武に対する一体化願望と同様に、つまり「子」は「父」の意向を現にはまだ悟りえないままに、ともに有りえただろうことに注意した。幽明境を隔てながらの「父」と「子」による「妻」の共有という形でそれが成就達成されるという見込みを、少くも
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「父」は持っていた、後の「妻」を先の「妻」の子に譲渡する隠された真意は、「妻」への濃密な愛執しかに起因する一方、然く「父」の「子」に対するソドミックな愛感にも色濃く根ざしていただろう、とも指摘した。これは谷崎潤一郎その人が幾度か告白している如来「ペデラステイの趣味」に基づく作者独自のモチーフが露頭したものに相違ない。が、私は今一つ、紅の生母を早死させたことに就ての「父」の「子」っぐなに対する償いとして、生母に似た継母を迎え、しかも二人の「母」の境界を巧みに抹消することで「子」の「母」に対する愛を妖しく高揚させたろうことも、「父」の真意として大事に触れて置いた積あいLゆうりである。むしろ、この理由と先に挙げた理由とが相継起しつつ、「父」の「子」に対する愛執と、Lゆうあい「夫」の「妻」に対する熱愛とが区別なきまでに合体したというのが、紅の父が実現した凡ゆる幻想劇と受胎ならびに譲渡劇との、真の動機と読んでよいだろう。、、、そして私は、今季げた父から子への償いというほどの動機こそ、紅の父が源氏物語の桐壺帝に学んだ、、ものとして作者谷崎によって巧みに構想されたと、推量するのである。むろん、もはや私自身の読みで物を言うと取られて致し方はないが、以上暫く旧稿(『桐壺』の巻』ちくま・一九七〇・六)を引合いに出しながら、徐々に谷崎の「源氏物語体験」へと話題を押し拡げて行きたい。「桐壺」の巻がそもそも五十四帖の冒頭に書き据えられたのは、物語が或る程度(例えば一説に巻二十一「少女」の前後まで)進行してから、つまり物語に寄せる作者の意図が作者なりに確かめ得られてからだということが、けや夙くから言われている。「桐壺」は作者の決意と展望の表明された巻であり、これが書かれて初めて光源氏の物語世界にかなめが打たれたのである。
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かなめを打つとは即ち、物語の発端動因を書き、主人公の生涯の指標を明らかにするという二点に尽あげつらされると思うが、在来の「桐壺」論は概ね前者を論うに偏して、具体的に明瞭に書かれている後者を見はなし落し、しかも物語の真の発端についても、決して十分な理解に達していないと思う、さもお噺めく附加的な挿話にでなく、光誕生と母桐壺の死そして藤壼の登場という太い主節に真の発端動因を求めているのは、誰しもの当然であるのだがー。第一のかなめを打つ響は、桐壺更衣の死後に勅使を蓬生の宿(のちの二条院)に迎え、「-人の嫉、、、、、、、み深く、安からぬこと、多くなり添ひ侍るに、よこざまなるやうにて、遂に、かくなり侍りぬれば、か-小てば・ヶらぐなむ、かしこき御心ざしを、思ひ給へ侍る」と、思わず洩らす老母の本音に聴かれる。、、この述懐には、桐壺の死を横死だといい、それは帝の度を超えた寵愛のためで却って恨めしいという、重要な二様の指摘が含まれている。そしてこの老母自身も、もしやと望んだ孫の光の立太子が実現しないのを恨んでやがて他界するのだが、脈絡上これも「よこざま」の死だといわねばならない。源氏祖母の恨みが、ひとり帝の胸には的確に届いていたことは、本文中に随処に十分察しられる。帝の光源氏に対するくまなき慈愛と配慮は、更衣の死を哀しむ場面とともに圧巻であり、帝を物語中長もむこから魅力ある人間像たらしめているが、それは無事の桐壺や老母の横死という事実と、それを横死だと辛くも意識している帝の心の暗い催しとに根ざしている。桐壺寵愛がもともと帝の思慮や世上の因襲を踏みすぐせ越えて働く宿世の催しであり、本文によれば催しのむごい爪痕はよく自覚的に帝の眼に胸に刻まれているのである。やがて源氏が桐壺に代る父帝の愛弟藤壼女御に迫ってのちの冷泉帯出生に及ぶこと、同じく後年源氏
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の王妃女三宮と柏木の間に薫が生まれることを重ね合わせ、ここに物語全体の因果応報を語り、宿世の悲劇を見る人が多いけれど、それだけでは、帝と桐壺の愛と死を以て重々しく物語を語り起こす必然性は薄れてしまう。宿世の悲劇という以上、宿世の実体に、先ず帝を催して桐壺更衣や母を「よこざま」に死なしめた、愛慾の強い業念を見据えねばならない。それこそが物語世界を実現する真の発端動因なBののであって、帝が更衣の死およびその遺児の完満な幸福を己が罪障、己が責務としてどんなに強く自覚していたかは、まことに痛切に明白に語られているのである。そして、谷崎作『夢の浮橋』の発端にも強い同じ動因が働いていた、左様に構想された、とも読み取って強引の諺りを受けはしないだろう。たとえばあの乳母お兼も、もともと桐壺の老母と似た立場の糺生母の侍女だったかとも想い寄れるし、そう想いたいほど彼女一人が率直に物を言っている。そして最後に六十五歳の身でまた京都へ戻って「もう一度」六つ七つの紅の子の「お相手」をする所など、その子が糺生母の血脈をも正しく享けていることを巧みに暗示している。いわゆる「わけ知りの女房」に同じいと、そう読める。谷崎が絶筆『にくまれ口』で珍しく源氏物語に就であれこれ語り遺したのを、大変に暗示的なこととすら私は思っているが、彼はそこですでに霊界にある桐壺帝が、我が「妻」藤壺を犯して「子」までなした我が子の光源氏を責めるどころか、逆に光に「勝手な真似をされた」光の兄君朱雀院の方を「夢に現われて叱ったりされている」ことに、さりげなく不服を洩らしている。だが思うにこの際の藤壺とは、父帝の罪障の念が、幼い光源氏に対して亡き生母桐壺更衣の面影ととこういにえもに与えた、一種の償いなのであり、更衣母娘への鎮魂の犠というに近いのである。世俗的にはともかく、物語に内在する要請と力学に添って読めば、藤壷と源氏の密会は父が「妻」を子に奪われたという
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、、、が如きものではない。むしろ与えたとすら言えるのである。事実、物語後段に至っても亡き父帝がこの一件ゆえに源氏を答めるということは遂になく、却って身辺を守護し、さらには正当に、藤壺所生の冷、、泉帝に対して光源氏こそ兄ならぬ実の父だとの霊告を与えている。父帝は真実をすべて御承知だったのではないかと光源氏が身に汗して思い当る辺りの紫式部の筆つきには、『夢の浮橋』の紅の述懐と軌を一にして、ほぼ明らかに作者の意図として父帝の子光に対する妻藤壼の譲渡が構想されていたことを信じさせる或る勢を持っているのである。斯く始まるべき物語と構想し決断して書かれた「桐壷」の巻であることは、明らかだと私は思う。そして『夢の浮橋』一篇の構想そのものが、私のこの源氏物語観、「桐壺」の巻観を逆に力強く支持している。源氏物語の主節は、母を喪った子の母に似た妻を求める物語である。谷崎潤一郎自身が源氏物語を、「桐壺」の巻を、こう読んでいた、と言い切って果して言い過ぎになるだろうか。谷崎潤一郎は、では、源氏物語のいわば男三代(桐壺帝、光源氏、冷泉帝)と女三代(桐壺、藤壼、葉上)を『夢の浮橋』構想のただたんに下絵として借用したまでだったろうか。それだけのことに過ぎるるないなら、両者の関わりを繧々述べ立ててもさほど意味はない。まして谷崎の「源氏物語体験」などと事新たに言うがものはない。谷崎は『夢の浮橋』冒頭に、「夢のうきはし」を「渡りをへた」と詠み「五十四帖」を「読み終」ったと書いた。それが作中人物にとって意味深い述懐でもあるのはむろん、用意周到な谷崎自身の述懐で、、もあったことは、事実この作で彼の源氏物語読破が完成しているいないは別としても、執筆当時の作者が置かれた状況に推して積極的に肯定していいと思う。
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これを少々方角を変えて言えば、作品『夢の浮橋』に源氏物語が投影されているだけでなく、『夢の浮橋』を書いている谷崎潤一郎の筆先にも、また『夢の浮橋』一つに限らず谷崎潤一郎その人の創作態度や生活環境や、それらを分母的に律する志向や心境にも、独特の「源氏物語体験」が色濃く投影している、という推測になる。さらに言うなら、創作面での谷崎の「源氏物語体験」および実生活面での谷崎のいわば「光源氏体験」を、両面から推測し確認して行くことがたんに可能なだけでなく、とりわけ関西移住後、最晩年の『台所太平記』に至る谷崎潤一郎の人と芸術の理解にたいへん大きく物を言うに違いない、という推測になる。以下、大胆にそこへ歩を進めよう。谷崎自身が例の源氏物語現代語訳という作業との関連以外に、いわゆる源氏物語論らしきものを書いた例は極く乏しい。殆ど無きに等しい。絶筆『にくまれ口』の如きは珍しいものだが、見方を変えれば改った源氏物語論がないことほど小説家谷崎の「源氏物語体験」の深さを想像させるものはないとも言える。第一利は『にくまれ口』に於ける谷崎の光源氏嫌い、「源氏物語の作者は光源氏をこの上もなく最眞にして、理想的の男性に仕立て上げているつもりらしいが、どうも源氏という男にはこういう変に如才のないところのあるのが私には気に喰わない」などというにくまれ口を、そうまともには受取らない。私がこの絶筆をたいへん面白く思うのは、ここで谷崎潤一郎はさながら自分で自分ににくまれ口を叩いている、一種言うに言われない谷崎の含毒と自負と自愛とが交錯し蕩揺している、という印象を持つからである。谷崎が、あの光源氏をしんから嫌うわけもなく、にくまれ口の口つきにも、理由に挙げられているどれこれにも、実は誰よりも谷崎自身の「光源氏体験」の在りようが露われている。嫌うに嫌えない光源氏の姿を、外ならぬ谷崎は自身の内に見当てていた。
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谷崎はむろん最大級この古典大作を敬重していた。だから労苦をいとわず三度び現代語訳の完成に熱中できたのである。あの大事業の発端に就ては、はじめに中央公論社の提案があり谷崎がそれに応じたというほどのことが言われているが、そんななにげない話でなく、少くも谷崎のなみなみでない意欲が尻に敏感な出版人の眼に映っていての提案だった。そして合意の基盤には、谷崎潤一郎のいわば.光源氏体験」というべきものがどっしり根を張っていたのである。訳業依頼はすでに森田捨子およびその妹二人と同居中の昭和九年秋であり、やがて谷崎は二度目の妻不和-夫人と正式に離婚、明くる正月には捨子夫人と祝言を挙げていた。そして訳業着手は十年九月からであり、この年譜上の経緯は注目されずに済まない。なぜなら谷崎の源氏物語現代語訳は、捨子夫人、、、との出違いおよび結婚の意味を自ら確認しようとする谷崎独自の文学的省察であったと言えるからだ。捨子夫人との出違いが谷崎文学にどれほどの絶大な意味をもったかを知る人に、この私の言説は決して突拍子もないとは思われまい。谷崎潤一郎の関西移住は関東大震災のあった大正十二年九月であり、翌十三年に『痴人の愛』が書かれ、昭和二年『饒舌録』を書いて芥川龍之介との名高い論争の最中に、谷崎は初めて当時はまだ摂津家の捨子夫人に紹介されている。三年から四年へかけて『卍』と『蓼喰ふ轟』が成り、最初の妻千代子夫人との離婚は昭和五年の夏で、谷崎はこの秋吉野に旅して名作『吉野暮』の想を完熟{、せている。谷崎文学に対する捨子夫人の影響のあらわれは、谷崎自身が昭和六年の『盲目物語』や『武州公秘話』などに「その兆しが見える」と控えめに告白するより早く、『蓼喰ふ轟』のお久にも、もっと顕著には喪われし「母」なるものへの思慕を地上に実現する予感に満たされた『吉野暮』の感銘に於て、す
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でに新鮮に看取することが出来る。にもかかわらず千代子夫人との離婚の翌春には、谷崎はありありと根津夫人の存在を意識しつつも若い丁末子夫人との第二の結婚へ踏み切った。同年末『佐藤春夫に与へて過去半生を語る書』を発表したのは、谷崎による幼少時代を除いた「過去」の「過去完了」化宣言であって、昭和七年春には、すでに上露わに『椅松庵十音』や『椅松庵随筆』を公にする。引用するまでもない「松」に「椅」るとは、捨子夫人への絶大の礼讃、拝脆の告白だった。必然お遊さんや春琴に結晶する椅松庵の成果が『藍刈』となり翌年の『春琴抄』となって、万端の配慮とともに昭和八年五月には丁末子夫人と事実上離婚し、年末にはみごとな『陰署礼讃』が書かれた。言わずもがなの周知の事実ばかりを今一度書き並べてみたのは、『雪後庵夜話』などに谷崎自身によって繰返し言われた谷崎と捨子夫人およびその妹二人との出違いを、谷崎が一方では文学に、他方では実生活に、どう造形して行ったか、それがつづく源氏物語現代語訳という大事業とどう繋がるのかを考えてみたいからである。大正末年の『痴人の愛』以来『陰窮礼讃』ないし昭和九年の『文章読本』まで、谷崎の文学的成果はしんじつ実に大きい。が、それは関西の風土と文化およびその化身かの如き女人との出違いと親呪によってはじめて収穫しえたという事情は、否めないどころか、真先に谷崎自身が全面的に肯定しているし、我々は彼の肯定がどの程度まで個々の作品との関わりに於て妥当しているかの検討を、逆に強いられていると言ってよい。谷崎潤一郎は、いわゆる私小説作家ではない。『饒舌録』に於ける芥川との論争を持ち出すまでもな
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く、彼はその「構造的美観」に魅せられて源氏物語を高く評価した作家であり、当時平板な「告白小説」の氾濫を排して「作家の一生に一度はさう云ふ作品を書く、と云ふくらゐな程度が当り前である」とも言った作家である。だが、実はまさにこの昭和二年以後の諸作品に於て谷崎は、「構造的美観」の輪奥に隠して、まことに明らさまな実生活上のモチーフやフラグメントを、いやストーリィそのものを表現しつづける。谷崎にあっては私小説と対極的に見える小説ほど濃厚に実生活を反映してしかも出来栄え優秀というこの興味ある成果の意義は、作風上、いや谷崎文学の秘密と魅力を秘めたものとしてももっと追求されてよいのではないか。さて谷崎潤一郎が源氏物語に接したのはかなり若い頃に遡るが、そして王朝趣味を反映した初期作品が幾らか存在するのも事実だが、まだそれらは読書でえたものの理知的な援用に過きず、盛んに議論を加える対象ではあっても、そこへのめりこみ、体験化肉体化しうるほどではなかった。源氏物語にそれせきを望む内的欲求はまだ稀薄だった。だが母関の死を契機にはじまる母恋いを主題にした作品の出現は、、、、谷崎が必然源氏物語とやがて体験的に出違うであろうことを予告する。作品の中で生母を美化することを覚えたとき、彼はいわば事実レベルの母と理想化された「母」とを区別しまた融合する足場を掴む。その時おそらく谷崎は、源氏物語世界および光源氏の境涯に確実にみずから一歩を踏み出していたのである。、だが、関西移住以前の谷崎は、亡き母を「母」なるものに打ち重ねさせてくれる現実の女性をまだ知らなかった。奏上との生活ははじめえても、どうしても「母」なる面影を宿した紫上とは出違えなかった。谷崎の「源氏物語体験」は、全く関西移住なしに実現しなかったのである。結果的には、谷崎はそ
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ういう紫上との濯遁によって「母」なる理想を求めようと上方の地に根を下しに出向いたのである。、、想うに源氏物語に対する谷崎の読みは、あくまで主節尊重の極めてまっとうな、ひねくれのないものであった。谷崎潤一郎には、源氏物語とは畢寛文と母を背に負っての、光源氏と紫上の物語だという予感が早くからあった。自称フェミニストではあるが、桐壺、藤壺、紫上という「紫のゆかり」主軸の女性に対する尊重の度合いは、奏上、夕顔、六条御息所、臨月夜、秋好中宮、空蝉、花散里、明石上等々に対するのとは全く違い、関、心の向け方自体が次元も質も違っていた。おそらく円地文子氏がみごとに指摘されたように、『細雪』の雪子を想わせる玉董だけが数少い例外であろう。紫のゆかり三代の女性に向けた熱烈な愛が、谷崎のいわゆる母恋いと関連するのは言うまでもない。この主題に関連してこそ谷崎は源氏物語世界を凝視しつづける動機を持っていた。「母」の「妻」への変容と融合を生涯の大きな主題に持ちつづけた谷崎が、源氏物語の主節を意識しないわけがなく、その意識の在り様から推して、いかに彼が光源氏に「にくまれ口」を叩こうとも、自身がまた一人の光源氏たろうとする心理体験を持った事実とはすこしも矛盾しない。、野口武彦氏の適切な指摘どおりに、谷崎に(括弧抜きの)生みの母と(括弧つきの)理想の「母」と、の意識的な使い分けがあって、『夢の浮橋』の母子相姦も、「母」を通して母を「妻」とする精神化さ、れ象徴化され夢幻化された母子相姦なのであった。むろん、これが光源氏の桐壺を母とし藤壼を「母」なぞにもったのを擬ることになるとは谷崎も重々承知で、そこで少女「若紫」に対応する幼い男の子「武」を作中へ巧みに導き入れたのが、『夢の浮橋』の谷崎らしい発明であった。作品の中でそういう不思議な、いわば「武」をあたかも冷泉帝(息子)と紫上(妻)との両性具有の
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、愛感の対象かの如く設定する工夫をした谷崎も、昭和初年来の実生活では、母にも「母」にも通い合う、光源氏の「紫上」に相当する妻との出違いのために世にも不思議な努力を重ねていたことは、『雪後庵夜話』などによって今では広くよく知られ、即ちそれが、谷崎没後に『筒松屋の夢』を公にして我々を驚倒させた捨子夫人その人であった。、捨子夫人は「母」なるものの地上的実現として、遠く生みの母への思慕をも完うさせうる理想的な女性として、運命的に谷崎をさし招いたのであり、業上としてよりは先ず禁じられた藤壷として谷崎を剣戟した。彼には捨子夫人との結婚を客観状勢からも不可能と断念した一時期があり、『乱菊物語』(昭和五年)の美女争奪には、千代子夫人との離婚問題以上に、むしろ摂津捨子夫人への反転された秘かな欲望が、動いていたとすらいえる。明らかに喪われた「母」を求める物語になっていて、美女胡蝶は、くず『蓼喰ふ轟』のお久と『吉野暮』の国柄の少女を仲介する意味をよく担いえている。このように、生みの母を美化し、母にも代りうる妻を求めた久しい歩みの中で、谷崎はとりわけ捨子夫人との出違い以後はそのイメージをかりて「妻」同然の「母」なるものの像を多くの魅力的な作中女性として形象化しつづけた。が、実はここに捨子夫人の身に負うた微妙な(敢て言えば)幸と不幸の根も露われたのである。谷崎潤一郎の諸作に、はっきり若紫ないし紫上に相応する「妻」が書かれた例は寡い。『痴人の愛』のナオミは、谷崎がまだ全く捨子夫人を識らぬ時期に光と若紫の関係を巧みにパロディ化した「源氏物語体験」第一作であろうと、私は旧稿『谷崎潤一郎論』(一九七一年書下し)で書いた。が、これには幾らもの限定が必要だろう。母の面影をしみじみと追い求める津村青年が遂に妻に迎えることに成功しそうな『吉野暮』の国柄の
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少女も、みごとな若紫像であり、特にこの作品は『善後塵夜話』に独立して収められた「『義経千本桜』の思ひ出」と併せて読めば、ひとしお谷崎に於ける「母」への思慕の情の根深さに思い当ることが出来る。野口武彦氏が正しく評価しているように、谷崎のこの「思ひ出」は極めて重要な示唆に富んだ一文として繰返し読まるべきだろう。他に堂々たる六条院の女主人紫上らしく書かれた女性は勿論『細雪』の幸子であり、逸することの出来ないのが『台所太平記』の讃子である。これはモデルなどと言うも愚かな捨子夫人その人と見てよい。谷崎は多分この他には彼の紫上を書かない。かりに捨子夫人に拠って書いたものも、殆とが彼の藤壼か、その変型、亜里であった。夫人は、繁夫人たる以前に先すは谷崎の内なる藤壼の原型にみごとに当て嵌る現実の女性として、あたかも谷崎源氏を感動させたのである。そこで今一度我々は「桐壺」の巻へ戻って、源氏物語の作者が光源氏自身にどんな人生を想い描かせたかを考えながら、谷崎のいわば「光源氏体験」へと思い及んでみよう。第二のかなめもまた主人公の述懐の形ではなはだ端的明瞭に記されている。即ち「桐壺」の巻末に、亡き祖母や母の里を「二なう改め造らせ給ふ。もとの木立、山のだ?ずまひ、おもしろき所なるを、池の心広くしなして、めでたく造りの?しる」とあり、すぐ続けて、「か?る所に、思ふやうならむ人をすゑて住まばや」と、切実な響で書かれてある。この述懐を措いて他に物語進展に伴い眼に見え形に現われる源氏私生活の理想として、いったい何が書かれていると言えようか。これこそ作者が選んで源氏に語らせた、率直な、表現および創造上の目標、理想、理念であったことは、桐壺更衣から藤壼女御へ、そして若紫に結ばれるその紫上と光源氏との夫
46婦生活を丁寧に読んで見れば歴然としている。源氏はむろんこの生母の家に、「思ふやうならむ人」即ち「母」なる藤壼を「妻」かの如く一緒に住みたかったが、流石に果せる望みではなかった。それで藤壼に(つまり亡き母にも)似たゆかりの若紫を大事に根移ししたが、これもみな「よこざま」に死んだ母へ祖母へ結ばれて行く宿世の縁と言うべく、、このようにしてもとの母の家で源氏と紫上との愛の生活が成就されて行く過程が、いわば母なる桐壺その人の復活と鎮魂の表現となっている。いかにこの二条院という住まいが重視されているかは、紫上の「御法」の巻での死が、わざわざ六条院を離れてこの二条の故里へ戻ったところで静かに訪れること、またこの邸が光源氏の真の相続人で紫上に愛された匂宮に遺されることなどに、露わにされている。光源氏の物語とはまたこういう母のない子の妻どいの物語なのである。「桐壺」の巻末にこのような重要な表白のあることは、ことばの単純率直なためか殆ど見落されて来た。今、この述懐をただに現世的小家庭的な願望としてでなく、もっと原理的価値的彼岸的な切望と見て、イデアルな哀切の韻致をこの切望の深みに汲み上げつつ、他方に谷崎潤一郎の関西移住の成果となる捨子夫人との出違い以後の文学および実生活の晶化の在りようを想えば、私のいわゆる谷崎の「光源氏体験」なるものも、思い半ばに過ぎるではないか。私はここで一つの大事な観点をここへ持ちこみたい。源氏物語の第一次現代語訳を谷崎が脱稿したのは、昭和十三年秋であり、『細雪』の執筆にかかったのは昭和十七年春以来のことである。が、『細雪』の構想と準備は周到に現代語訳脱稿と相重なる時分からなされていたらしいことは谷崎自身も幾度か回想している。それもあって従来『細雪』と現代語訳
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との質的関わりに就ではさまざまな推測がされて来たが、核心に触れない当推量程度のものが多かった。いったい谷崎はなぜ源氏物語を三度も訳したか。二度めと三度めの違いは、まあ問題外としていい。が、一度めと二度めの違いは重大であって、その重大さは、敬語の使い方や文の長さ短さや口調や雰囲気の違い以上に、何よりも一度めの訳では、あの「藤壷の犯し」事件に絡まる部分を不本意にも割愛せざるをえなかったという一点にかけて計るべきだろう。谷崎の源氏物語に寄せた尊崇と関心の焦点は「構造的美観」や文章の「色気」もさりながら、亡き母の魂を鎮めて、生き写しの義母を求め生き写しの妻を追い求めた光源氏の心情とこそ重なり合っていた。つまりは「藤壺の犯し」事件を欠落した源氏物語では、谷崎の人と芸術はそこに体験的な至福を現成することは全く叶うべくもない、魂のぬけがらに過ぎなかっただろう。と同時に、捨子夫人との出違いと結婚との意味を今まさに源氏物語を読みこむことで体験的に追認しようとする谷崎の念願も意図も、大きく挫折してしまったとみて錯まらないだろう。だが、必ずや他日を期しつつ谷崎はやはり三千枚を遥かに超える訳業に没頭した。そして没頭の中からやがて『細雪』に結晶する作図をえつつあった時、はたして谷崎潤一郎は何を考えていたか。それは欠落した「藤壼」事件、即ち、幻の母と現の義母や妻との或いは秘密に或は公然と一体化しようという、おそらくは父帝にも許された母子相姦11一体化の成就、達成。と同時に亡き母の鎮魂の達成をはかった光源氏に身をよそえた、谷崎自身の現在の生活を書く、ということでなければなるまい。『細雪』は、だからこそ極く慎重に谷崎の実生活に質的に即した仮構世界をそっくり書き上げるかたちで、いわば捨子夫人の意味を谷崎自身が実証するとともに自らの文学的「源氏物語体験」と私人としての「光源氏体
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験」をも明証してみせた作品、と擬宝できる。また、そうあってはじめて谷崎は、「藤壷」事件割愛の根深い無念をやっと晴すことが出来たのである。『細雪』に就ては、私は、さらに或る別の視点ないし観測の機会をも後段に至って持ちたいと願っているが、ともあれ「藤壺」事件は源氏物語と『細雪』を架け渡すほぽ絶対の橋ではあるだろう。ところで、松子夫人が『椅松庵の夢』で有難くも露わにされた谷崎の今や周知の「順帝」「佐助」体験は、「母」恋いの「光源氏体験」とは矛盾しただろうか。むろん否であり、ここに露わに谷崎の辛辣な文学者魂が結集されて来る、と私は思う。彼は外でもない捨子夫人との間を現に相隔て合ってこそ夢にも無限に近づこうという熾烈な願望を持っていた。世の常の「夫」の態度ではなかった。この女性に対して谷崎の本望は、「藤壷」ないし「母」なるものに擬し通すことだった、かりに夫人が理想的な「紫上」たりうるとしても、である。だが、光源氏に果せなかったように、谷崎にも藤壼のままの捨子夫人、お遊さんや春琴のような捨子うつつ夫人は現には久しく有り難いものであった。「結婚式」「入籍」という手続を次々に踏まねば済まなかったこと自体が、谷崎本位の思いからはかなりはみ出たことだったとは、再三彼自身が表明しているが、、、まさに昭和の現実が谷崎に対し捨子夫人の「藤壷」から「紫上」への下降を強いたとも言えるだろう。が、そうは言うものの同棲から挙式へかけての捨子夫人は、『吉野暮』の津村が憧れの「母」を追求めくずてついに出違ったあの国柄の里の少女に等しい、まさしく理想の「妻」紫上であることには違いがなかったのである。と同時に慎ましやかに結婚式を挙げた昭和十年初めには、谷崎はすでに捨子夫人型の藤壼タイプを、戦後の名作『少将滋幹の母』および今問題にしている『夢の浮橋』の義母を例外として、
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ほぼ悉く書き尽していたという事実も注意深く確認される必要がある。谷崎はそのことの自己確認をも一つの秘めた動機として、進んで源氏物語現代語訳という難行に身を挺したのである。それは谷崎潤一郎の文学にとって本質的で象徴的な慈母の懐への「帰郷」であったに違いない。捨子夫人と谷崎作品との投影関係を実際に逐一吟味検証するという作業は、まだ誰もが真正面からは殆ど挑んだことのない大きな課題である。かかる課題が重要性をもつことは、誰しもの場合に徴しても極めて例外的に違いないが、少くも谷崎なぞ潤一郎の場合に限っては不可避の本質的追究になると思う。むろん、単純な擬らえだけが有効なのではない。それどころか逆に極めて辛辣な、あたかも天人近衰を思わせるような、または痛烈無残の引抜きで様が変ったような作中夫人像の変貌をも、容赦なく直視せねばならない。たとえば『癒癩老人日記』の「ばあさん」がそうであるし、『鍵』の郁子もそうであるし、あの『少将滋幹の母』ですらそうであるし、『猫と庄造と二人のをんな』の「女」にもその面影は忍び入っており、すべて十分に自律的な交え学的形象と見倣す一方、他でもない捨子夫人を獲ての谷崎に於てなお、「妻」なるものがどう書かれているかの容赦ない検討は加えられねばならないのである。否むしろもっと率直に言えば、「妻」となった捨子夫人のいわば藤壺から紫上への下降のさまざまな変様変貌にこそ、昭和十年の現代語訳以後の谷崎文学の大きなモチーフはあるのだ。これを別の言葉に直すと、紫上にすら涙で凍った袖に秘かに顔を蔽って終夜眠れないような時があった、ということになろう。谷崎にとって「妻」とは、悪名高かった大正五年の『父となりて』以来、家具なみの高等な「一)一9臼・、、ぽ(女中)」だった。捨子夫人となみの夫婦であることを欲しなかったのは、なお彼の「妻」観が大き
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く変っていなかった証拠とも取れ、『夢の浮橋』の津子に限らず、『春琴抄』の佐助の妻や、極端なことを言えば『藍刈』のお遊さんの妹ですら光源氏の葉上には程遠い屈辱的な女中なみ、谷崎式の「妻」像であった。但しお遊さんの妹に就ては全く別の観点から後に触れる。むろん谷崎が「妻」を全然肯定しなかったわけではなく、あくまでそれは紫のゆかり、即ち「母」に似通った「妻」てなければならなかった。捨子夫人が「妻」としても異例(!)の敬愛を谷崎から捧げられた理由もそこにあって、彼女が実生活上も「母」「妻」双方の使い分けを半ば強いられた事情が、はからずも『夢の浮橋』の義母の表現によく窺われることは、のちに改めて触れるであろう。ともあれ、捨子夫人「妻」の座は、一方で谷崎の内なる「母」によって、他方では彼女自身のいわば数多い女家族によって、とくに「結婚」後は絶えまなく揺すられていたのである。『細雪』が書かれるのは最初の現代語訳完成の直後からであり、もはやここには紫上を脅かす玉髪が『雪子」として描かれている。雪子がこの際の紫上に相当する幸子の最も親しい実妹である事実も、もっと広い視野にこの作品を引き出して吟味する際、なんら幸子の救いにならない。幸子の夫の真之助は雪子の結婚を意識的に拒んでいる存在であり、現実の谷崎潤一郎もまた、必ずしも捨子夫人の妹重子さんの結婚に対して承服してはい奈一た。一石庵夜話一の零、「ちりぐばらくに四散しかろてゐた世にも美しい存在を、出来るだけ一つに纏めて、清太郎氏(松子夫人の前夫根津氏)では処置しきれない困難を背負ひ込んでやった」と明言する彼は、むしろ捨子夫人と結婚することでその二人の美しい妹や、夫人の娘や、彼女らの豊饒で美的な生活をまるごと取り込むことに、「いや、谷崎家を潰して摂津家にしてしまふ」ことに、もっと谷崎流の言い方をすれば「摂津時代の家庭の空気で完全に谷崎
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、、家を征服してしま」われることに、至上の願望成就を実感していた。極言すれば谷崎は、三姉妹をとり包んだ一つの理想的な家庭そのものと結婚したのである。たしかに「かがやく日の宮」でもあった捨子夫人は、同時にきらめく月の光のような幾人もの衛星をも身近にちかしづりばめていた。入れ替り立ち替り博く女中さえ同質の星くずであった。たまかづらあの『細雪』は、源氏物語に即して言えば紫上と玉髪が六条院に同居していたのと似た状況を書いた小説だとも言える。玉髪は光源氏の庇護を受けるいわば仮の娘のような存在であるが、光の好色心から洩れ落ちた存在では決してない。はなはだ微妙に仕組まれた状況の中で二人は触れるような触れないようなありさまのまま、やがて不本意な光をおいてむくつけき髭黒大将に三豊は嫁ぐが、むしろ嫁いで以後に光源氏にみせる玉髪の敬愛の深さはなかなか我々を感動させる。そして『細雪』の雪子と真之助との関係も殆とそれに近く、さらに、これを捨子夫人の妹重子さんと谷崎との関係に置き換えてみることは、げすな覗き趣味と関係なく、はなはだ大事な視点や観測を我々谷崎文学の愛読者に提供してくれる。、、、繰返して言うと谷崎は『細雪』に於て、光源氏の六条院に匹敵する家庭を書いている。むろん六条院の女あるじ紫上に相当する捨子夫人との愛の生活を再現活写するというモチーフは、先に述べた源氏物語現代語訳から『細雪』へという展開上見過ごせない例の「藤壼」事件割愛との見合いからみてもたい、、、へん大事なものだが、同時に、その家庭が光源氏と紫上とが二人きりの二条院、「桐壺」の巻に書かれ、、、、、、たあの母の魂が浮流する愛と鎮魂の二条院ではなく、別の多くの女性にさながら囲績された六条院の如き家庭である点に、言い換えればひたすらなあの「椅松尾」ではない点に、実は谷崎潤一郎の問題があり、また捨子夫人の微妙な位相が露われて来る。
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ここは率直に眺めよう、はっきりと「雪子」のモデルとされている妹重子さんが、事実上「幸子」であった姉捨子夫人と微妙に一体の、光に対するかげのような女性であったことは、『雪後庵夜話』や『三つの場合』に限らず、各方面から窺うにたやすい見かたである。この姉妹こそ相い映じ相い発してかみがた谷崎の「光源氏体験」に光を添えた。これはもう全く讐楡的にではあるが、谷崎は上方の風土に身を沈めて、この光陰一如の姉妹と倶にさながらに結婚したと考えた方があらゆる面で間違いがないと我々は信じていい。その上で私は、『藍刈』のお遊さんとその妹、その夫との関係を想起し、事実はいかにあれ、妹と夫かしづいたわが相接けてお遊さんに博いたのと相似た気味が、捨子夫人を助る谷崎と重子さんとの心情の中にもありえただろうと、これは想像するのである。『陰窮礼讃』の秘められたモチーフに私は敢て谷崎が重子さ、、んというかげの存在に寄せたろう隆男に富んだ優情を汲んでみたこともある。光のかげのような眼に見えない重子さんの存在が、谷崎文学大団円に至るまで意味を喪わないだろう、ということを私は大事に考えたいのである。ともあれそこでは理想の「母」の意味が一義的に顕われ出た二条院なみの「俺松庵し時代というものを、谷崎と松子夫人はやむなく通過して行く。そして結局は谷崎本位に規模を拡げられた谷崎の家庭には、さらに、のちに『癒癩老人日記』の「楓子」かと擬宝しうる若い女性やまた可愛い孫が加わって来る。そしてそういう谷崎にすれば理想的な大家族化の中では、六条院での業上がそうであったように捨子夫人をも否応なく「ばあさん」的存在へと押しゃって行く谷崎流の自前の論理が、蓬しいまでに貫通していたのである。藤壷が、「母」が、紫上という「妻」に成り変って行けば行くほど、光源氏に自身
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を擬しえた谷崎潤一郎は、いわば六条院という豪薯な栄華世界に多くの女人を抱えこんだと同じ営みを必要としたのである。「自分は作品の中に持って来る女性には相当込づかないと書けない」と谷崎は捨子夫人に白状しているが、「誓って羽目を外すことはしないから」という口吻にも、おかしいほど光源氏の言い訳めいたものがあり、紫上が涙ぐんて信じなかったと同様に松子夫人がそれをどう聴かれたかは、知る由もない。ともあれ、谷崎は、妻の妹や、妻の縁につながる嫁や孫娘を、それどころか沢山の女中たちをすら花やかな賑やかしとする豪薯な谷崎源氏のいわば六条院を、後半生かけて一度も手放そうとしなかった。谷崎があの戦時下に『細雪』を書き続けていたことは何としても感銘深いことであるが、それとともに谷崎が捨子夫人以下の大家族をさながら抱擁する体で困苦の疎開生活に耐え、さらに戦後の家庭再建にも身を粉にして当っていた大家長的な、但し大旦那然というより幾分大番頭然とした奮励努力にも感嘆せざるをえない。あの気むずかしい谷崎にして、という感心ではない。彼の率いる大家族が、正しく、は大友家族であることに徹しているのをっくづく感心するのである。その徹底ぶりが、ちょうど谷崎が血縁につながる「谷崎家」の一切を無残なまでに切捨てていた徹底ぶりと表裏をなし、彼後半生の家庭の性格、象徴的な性格も、ここに際立って見えることに感、心するのである。大友家族の家長たることにとっぷりと身を浸すのは、光源氏を典型とする王朝の帝王や大貴族の後宮なぞらなり閨房なりの在り様に(意識の有無にかかわらず)自身を擬えるのと異ならない。その自愛と満足どことが春風胎蕩の陽気、景気をはらみにはらんで、谷崎の場合、光源氏の雲隠れとは趣を大層異にするみごとな大団円の雰囲気を漂わせるのが『台所太平記』であって、この一種比類なき傑作を最後の物語とし
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た谷崎潤一郎後半生の「源氏物語体験」ほど、実生活上の「光源氏体験」と表裏密着していたものはない。古典太平記が含んでいる「太平」のアイロニイはこの谷崎のいわば後宮物語ではいとも素直な「太平」ムードそのものに置き換えられ、つまりはこれが実のところ「台所源氏物語」であることを寛らかに読者に納得させる。むろん『台所太平記』の世界が実際には文字どおりの太平であったのか、谷崎本位の光源氏じみた手前勝手であったかは分らない。少くもこの面白い作品の世界がそのまま源氏物語現代語訳や『猫と庄造と二人のをんな』『細雪』『鍵』『夢の浮橋』『三つの場合』『癒癩老人日記』『雪後庵夜話』などの小説ないし実世界と夢うつつの時を表裏分ち合い合体していることこそ、少くとも谷崎後半生の文学を解く鍵の一つとして重視されるべきだろう。たしかに『台所太平記』を私小説的に読んで信じる限り、谷崎潤一郎の文学面での「源氏物語体験」かしやくこそ呵責ない毒素を含んで辛辣な変化変様の妙を尽すけれど、実生活面での「光源氏体験」は一貫しておおらかで、のどかで、豪華でも優美でもありげに見える。だからこそその谷崎に死なれた捨子夫人には『椅松庵の夢』のようなひたむきな追慕の文章が可能だったに違いない。が、同時にまた夫人の筆が、時として余りに切なく耐えかねたように洩らしている「紫上体験」の辛さ哀しみのようなものをも、我々は見過ごすことはできない。夫人には妊娠と流産の事件があった。理想的な意味で紫上でありたい一女性の当然な願いすら無条件には叶えられず、「母」なる藤壼へと、強いて「妻」は名のみに押し隔てたまま敬愛していたい、或る意味でたいへん酷い「順帝」の光源氏に、付き合わねばならなかった。「夫」以上に、「芸術家」の
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「芸術」を愛さねばならなかった「妻」の立場を、捨子夫人ほど真剣に身に負いつづけた女性は滅多にはあるまい。
せんかんころ渥渡亭に起き伏しする比であったろうか。たのめつる人の手枕かひなくて明けぬる朝の静心なきと、詠んだことがあった。かここうした歌に寄せて卿つようになるとは反対に厳粛な夫婦の形に嵌って行った。俗にいう茶飲み友だちで讐らくなく、精神の面では人並の夫婦以上に触れ合い奈ら---。或は他の女性の場合なら、と本心で浮気をすすめてみたが、割合淡々として聞き流していた。たゾ私が十七歳若いので可哀そうだ。と時に涙を流しながら思い決したように、却って「浮気をしても構わないよ」と云ったが私は「どういう風に男の人に云い寄ってよいのやら勝手が分らない」など?笑いにはぐらかした。思いめぐらせば、こういう話をする時はいつも書斎に限られていたが、この時「少将滋幹の母」の原稿が机上に載せられていた。描くもの?上では、「自分は作品の中に持って来る女性には相当込づかないと書けない方なので、変に思うかも知れないが、誓って節度を守り羽目を外すことはしないから」と、それも一度きりしか云わなかった。老来自ら油を注ぎ、火を点じて掻ぎたて、いるところも感じられたが、私の苦しんだのは、空想の
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世界では実際以上の熱情でその炎は白く妖しく行為の上にも及んでいるべきもの、と想うことで、何としても堪え難かった。夫の止るところを知らぬ架空の殿堂に、負けないで想念を覗き込ませるそういうジェラシーは現実よりも身をさいなむものがあった。(谷崎捨子「薄紅梅」『椅松庵の夢』より)
この述懐に、源氏物語「若菜上」の巻などに見える紫上のただならぬ物思いを打ち重ねて思え。かくしてあの『細雪』も『少将滋幹の母』も『鍵』も『疲癩老人日記』も書かれたのかと、谷崎よりは夫人、、、、の身になって、我から藤壼を演じても見せない以上は十分な紫上とはなり切れないという、まさしく源みひら氏物語の深い作意に魅入られたような特異な「妻」の座に、私は眼を瞠かずにおれない。
夫と永劫の別れを告げる十日程前に、私は禁句を舌端に載せてしまった。それもいそいそと最後に気に入られていた人を連れて行こうとする人の背に……是だけの気力を取り戻したことを喜びながら「長い間心配ばかりした私をおいて」と云いながら顔を掩い寝室のベッドに打ち伏した。いつもは気持よく送り出すのに此の日はどうしたのであろう。(中略)少し冗ぶった顔をチラと見せて振り返りもしないで出かけて行った。それを思うと自責の念に堪えかねる。没後に身についた生活の知恵や諦観で生前の夫を遇していたら、もっと満ち足りた境涯に悠々閑々と書きたい時だけ筆を執らせることが出来たであろうのに。
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ま?ならぬは浮世ばかりでなく、我という人の心ではある。(同前)
夫人のこの悔いの痛さを想ってみることが、辛い。「我といふ人の心はたゾひとりわれより外に知る人はなし」と詠んで『雪後庵夜話』の巻頭に小揺きもしなかった谷崎潤一郎は、捨子夫人のままならぬほしいまう「心」を恋まに常住座右に据え、熟れた木の実を振り出すように揺さぶりっづけっっ、文学としての「源氏物語」および好色の人「光源氏」の二っながらを、廿世紀に生きてっぶさに体験し尽しえたのである。捨子夫人にすれば、結婚後もなお「夫婦であって夫婦でないやうな、互に一種の隔たりを置いた特別な間柄」を強いられるのは少からず閉口だったろう。が、それが叶わないとなると他の女性に接近することも辞さない「夫」もさぞしんどいものであったろう。むろん実際には何ごとが有った有りえたという訳ではないにせよ、絵空事の世界では妹も、嫁も、女中も、友人もが、或る意味で捨子夫人を脅かす存在となった。君臨する光源氏と「煙たい御家来」(捨子姉妹の弁)の「順帝」(谷崎の姉妹に対するせんかんていえいしづ自称)とを谷崎に演じ分けられた夫人は、先に挙げた混渡亭での自作の詠にあるように「静心なき」朝夕を送ることもさぞ多かったであろう、それすら谷崎には創作意欲の刺戟となったことを夫人はひたすら身の幸せと思われたのであろうが、まさに献身の名に背かなかった。たたず先の歌の詠まれた漏濃亭が、もし紅の森近いいわゆる「後の混渡亭」のこととすれば、『夢の浮橋』ひときわの舞台は、この林泉の極致豊かな邸宅を寸分遣わず模していることと思い合わせて、一際感慨深い。冒頭の「五十四帖を読み終り侍りて」の歌にも夫人の詠みぶりが窺える気もするが、この作品には谷
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じゅんさい崎夫妻のこの邸での実生活の断片が想像以上に多くかつ効果的に嵌めこまれていそうに想える。尊菜のむかでつみれことを「ねぬなは」と呼ぶはなしや、邸に百足の出たことや、池の水に「真つ白な摘入のやうな足」をそうづ浸して鯉や鮒と遊ぶ場面や、添水のわきにビールを冷したということや、また義母が一度は「大家の若奥様」として暮したあとで「事情があつて不縁となつた」辺りや、父を看病する母の意外な頑張りようや、例の「ゆったりとしてこせっかず」「鷹揚」で「一種の人徳が備はってゐる」などの性格、雰囲気、みな作の印象が渥渡亭時代の松子夫人が化身したかのような女性によって支配されているし、古い石の羅漢を怖がったり、池にはまりそうなのを危く土橋の上で抱きとめられたり、「お母ちやんと寝さしてえな」と甘えて父親を敬遠したりするのは、捨子夫人のまだ幼かった娘(恵美子)の日常が活かされてはいないか、私はこの作品ではこの少女がかなり深く谷崎の想像力に忍び入っていると想像しているのである。こもりぬいと「隠沼の下より生ふるねぬなはの寝ぬ名は立だし来るな厭ひそ」という壬生息峯の歌が引かれていて、歌意そのものがすでに誘惑的に物語の中で生かされているのに驚くが、これなど谷崎と捨子夫人のまだ密会か同棲の時分にどちらかからこんな歌を引き合いに出した場面がありえたとも十分想像され、それならば瀬見の小川詮索にまぎれこんだ「わたらじな瀬見の小河の浅くとも老の波そふ影もはづかし」といたわいう石川支山の歌にも、若い捨子夫人を助った谷崎が、紅の父になり代ってさながら松子夫人演ずる孔の義母を慰めもし自から哀しみもしたとも取れて来る。すべて今改めてそのようにこの『夢の浮橋』を読み返して行くと、徹頭徹尾捨子夫人をなお藤壺に見立てたい谷崎の「光源氏体験」がかなり強引にここで作品化されていることが、分る。当然ながら文脈上、ここで紫上は、武という幼な子と入れ込みの
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変質と倭小化を強いられている。だが早まってそれで全部を律することはできない。それはあくまで紅に即しての受けとり方なのであなぞらって、いったん紅の父に即して視点を移した時には、「後の妻」を、捨子夫人を、理想的な紫上と擬えいず見る老人ないし谷崎の満足が十二分に露出している。問題は谷崎が糺か、父か、何れに拠点をもつかだが、これははっきり、両方にというよりあるまい。つまりこの物語で谷崎潤一郎は、紅の父と糺とを当然一体化させることで自身もその両者と融合し、それはまた、先に引いた捨子夫人の文章と重ねて読めば、谷崎の老いの無力感の自覚や年若い妻への哀憐ともつながって来る奥深い読みどころとなるであろう。それは『少将滋幹の母』に於ける「母」を求しげもとめる滋幹と、「妻」を奪われた「夫」と、その「人妻」を奪い取った男との三者すべてに事実谷崎が成り変りえたのと同工異曲で、これもやはり谷崎潤一郎の「光源氏体験」に外ならないのである。その意味で私がぜひ一つ『夢の浮橋』中の紅の父、というより義母の夫、に関係して附け加えたいの、、、は、彼が妻に我が子の子をでも欲したということの、作者谷崎に於ける真意、である。あの光源氏は紫上に子を儲けえなかったことを生涯の残念に思っていた。が、谷崎は捨子夫人の妊娠を出産未然に切り捨ててしまった。だが、この『夢の浮橋』で妻を愛しながら死病に陥った哀れな夫を書く谷崎の胸には、己れ亡きあとの(谷崎はこの創作直前に重篤の高血圧症で倒れている)捨子夫人の身の上を思う痛い悔いが抱かれていなかったかを私は想うのである。松子夫人に我が子あらましかばという思いは、谷崎の晩年に至って、日常意識する以上に深く彼の心の底に潜んでいたのではなかろうか、と、『夢の浮橋』が占める谷崎の生涯の一の危機的位相に照しても、私はそれを深く想像するのである。
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旧稿の『谷崎潤一郎論』では谷崎に於ける「伝統性」「物語性」など常套の評語の内側へ分け入って、それらを空疎な決り文句にせずに済むようにと相応に私見を述べたが、源氏物語との関連では僅かに『痴人の愛』にしか触れられず、それは谷崎の「源氏物語体験」の端緒ではあれ、いかにもまだ理知的なパロディの域にとどまっていた。またそれ以降、谷崎潤一郎の人と芸術を夢うつつ両面から深く支持した捨子夫人のリアリティがどれほどの意味をもつかにも、真正面からは触れえなかった。この稿でもすべてはただ言い及ぶという程度を出ていない、殆ど入口に手をかけたばかりだが、ともあれ、この三点を一挙に追尊するに恰好の作品として『夢の浮橋』にはかねて注意は払って来たのである。この物語は谷崎一代の佳作にも数えられてよいと思うが、その前に自分の好きな作という気持が私の場合先行している。好きな作家の好きな作品をとりあげ、自分なりにその人と芸術とを幾分告白的に思い描いて格別差支えない立場に私はいるのであり、それが「本望」という言葉を用いてこの原稿に立ち向った理由である。、、、、、けな私は、妙な言い方だが谷崎潤一郎の文学はいつも谷崎らしく褒められまた財されることに特に恵まれなかったと思う。たとえば思想がないと言うのもそうだが、有るというのもまたそうで、谷崎の関わりかいじゆう知らない厄介な、晦渋な、重っ苦しい批評ばかりを叩きつけられて来週ぎた。むろん批評の一般論としてはそれで差支えないのであり、それが去来の「岩島や」の句に対する芭蕉の読みのような役を有効に
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果すのなら、いよいよ一読者としては有難い。が、私ほど谷崎に身を寄せた感想も平凡なりにまんざら無意味ではあるまい。『夢の浮橋』に就ても、それで一体この作品の佳さはどうなのかと、そう深刻に問い直すことさえこの場合は似つかわしくなく、私が読んだように読めば面白い、と言って事はおよそ足るのである。繰返して言うが、私は批評者でなく谷崎潤一郎の礼讃者である。だが、谷崎文学を礼讃し耽読しうるのと、それらを評価するのとは全く別のことである。私の谷崎礼讃は、とくに前半生に凡作駄作の多い作家でもあることを承知での礼讃なのであり、少々これを言い換えれば、六十年に及ぶ彼の文学生涯が図抜けた幸運というより強運に恵まれて、まさに地響きを立てて歩み通されたことへの羨望と嘆賞を籠めての礼讃であるとともに、彼谷崎潤一郎がさほどの強運幸運にいささかも依り懸る甘えもなく、より以上の頑強を極めた努力と研鎮とを以てその文運をただの一度も手放さず大往生を遂げた、強烈無比の作家魂への礼讃なのである。私の場合、少くもこの二様の礼讃があって次に、はじめて谷崎文学の原質素質に触れた礼讃が意味をもつ。活字に唇を寄せて美味をむさぼることが、私の場合、谷崎の名作傑作と限らず凡作駄作にさえそう出来るのは、一人の文士としてでなく一人の読者としての私生来の素質が、谷崎文学の原質と微妙に呼応し共鳴するからである。その深い理由はまだ私にも十分言い尽せないけれど、極く適切に一例を挙げれば、谷崎文学によって私自身の源氏物語体験が鮮やかに反照されるからであろうか。私が源氏物語に接したのは谷崎文学に対するよりもまだ一年二年早い、新制中学のはじめ頃であった。谷崎の女性より早くに私は源氏物語の女性たちを知り、誰に教えられもせず桐壺帝と光源氏と冷泉帝に、そして桐壺と藤壷と紫上と、そして宇治中君とに、とりわけて関心と愛を感じ、その余の物語は私には
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すべてがお添え物であった。そして、自分の秘かな願望と同じ、いや遥かに徹底した藤壷と紫上とへの熱愛とその文学的表現やパロディ化が、谷崎文学に、さらには谷崎その人の後半生全面に生かされていると知って行った私の驚嘆は大変なものであった。ここでも、礼讃は羨望にたっぷり下塗りされていたと言えよう。かかる告白的谷崎論を敢てする以上もはや蛇足じみるが、私の「谷崎愛」とは多分に彼自身も告白したと同様、光源氏よりは藤壼と紫上へ、つまりは捨子夫人の方へと収敏される体のものであった。はじらうめて『吉野暮』や『藍刈』を読み『細雪』を読んだ頃の私は、京都の祇園町界隈をうつけたように「蘭らうたけた」「蘭だけだ」と眩いて歩くような少年だった。そして今も、それが谷崎潤一郎の人と芸術に関する限り、かかる文学世界と実生活との野放図な混同や重ね合せが、本質的に許されていてむしろ有効なのだという理解を捨て切れない。私小説家の私小説の場合はそうすることで人と芸術の何が肥るわけでもないが、谷崎潤一郎の場合はそれで人の魅力も芸術の魅力もはっきり肥る、と、そう私が思うということは即ち、光源氏を自負し願望し達成した谷崎潤一郎の芸術的意図を確かに信じる、ということなのである。谷崎の「源氏物語体験」のはじめを、私は何度か触れたように大正十三年の『痴人の愛』からと見る。千代子夫人の若く奔放な実妹がおそらく彼に最初に光源氏の或る種の趣味に倣おうという思いを催起し、、、たに違いない。が彼女には、ナオミには、いわゆる「母」へとっなぐ紫のゆかりが欠けていたから、ただのパロディに終ったのである。そこで極めて大胆に言い切れば、私は谷崎潤一郎の文学生涯は『痴人の愛』をみごとな折り目として
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前半生の真上へ後半生が真二つに折り返され重ね合わされていいと考える。そしてまさしく重ね合わされたこの上下二層をあらゆる面で相映相発の上絵と下絵と見定めつつ真に具足円満の芸術世界と透視することが、谷崎理解に不可欠の手続きと見る。決定的な谷崎評価はその後のことだろう。なぜ折り返すのか。『痴人の愛』以前、多少の佳作問題作を含めた全作品を私は、谷崎文学理解の好ひんしつ資料であった、むろん作品が個々独立して享受や品騰に十分耐えることは当然としても、出世作『刺ちな青』にいみじくも描かれた画題に因んでいえばそれらは谷崎文学熟成の好「肥料」であった、と考えている。この肥料や根を離れて開花と結実を云々することは虚しく、この肥料の成分に拘泥して花や実の価値を相対的に限定してしまうのも無理がある。だが結果的には我々は花を愛し実を収めるのである。ここで一言ぜひ触れて置きたいのは、谷崎が生前、過度なまでに全集から前半生の或る種の作品を除外していたことである。その種の作品に対して谷崎はかなり露骨な嫌厭のことばをすら向けているが、だが、現在没後の立派な全集には殆ど洩れなく一切の文業が収容してある。ここに、すでに一つの答が出ている訳だが、谷崎自身のダメ出しの意向は、論を立てる場合に一度は吟味すべきで無視はできないこととも思うのである。少くも作者が断然無視ないし抹殺した作品群によって徒らに刺較的な谷崎論をなすようなことは、私にはできない。私の「折り返し」説の一つの立場がそこにある。と同時に、谷崎したたがみずから示したその種の凡作駄作は、彼自身漫然と閑却することができないどころか、強かに踏みにじり操み殺したいと願うほど、この作家の場合、骨髄からしみ出た、粘っこい独特の分泌物でもあったことにも十分注意したい。谷崎文学に対する殿誉褒曳ほど激しいものはない。とりわけそれが近代文学、現代文学としての資格
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⊥πい…Aいへ+几'りOりを問われる場合に甚しく揺れ動き、後半生の作品が退嬰的と財瓢されて、未熟な前期作品がことごとしく分析されてしまう。近代現代の文学として席を与えるか奪うかに関わらず、議論の種としてどうしてもマゾヒズム、サタニズム、フェティシズム、ソドミズム等々を誇大に語って、結局は谷崎がどれほど「思想」に貢献したかしなかったかが、谷崎らしくない沢山の言葉で決めつけられる。『蓼喰ふ轟』も『春琴抄』も『細雪』も『鍵』も『癒癩老人日記』も、むろん『夢の浮橋』も認めない人もあれば、これらをこそ名作傑作とする人もある。私は、『痴人の愛』以後の、谷崎がまさしく自覚的に「源氏物語体験」と「光源氏体験」の中へ生来のマゾヒズムやサタニズムやフェティシズムやソドミズムなどを潭然と溶融昇華しえた、長者の風のある諸作品にこそ谷崎世界の自足と完結とを見ているけれども、それをしも前半生の諸作品に見られる旺、、、盛な現代芸術志向の文学的試行錯誤を下絵に確り重ねて透かし見ること抜きに、その真の魅力を構造的、には読みとれないものと思っている。谷崎前半生と後半生の文学を切離すかのように別物とみるのも、さりとて一列一様同次元の連続と見るのも、私は賛成でない。讐楡的に言えば、前半と後半が二つに畳み返され、その根底および開花結実とが垂直に呼応する構造的美観として把握されるような視覚でこそ、谷崎文学の魅力と本質がより大きく豊かに捉えられる、と思うのである。処女作時代から最晩年まで、ただ単純な経時的発展の相で谷崎の文学生涯を叙述し評価するという批評の方法が、より適切なのかどうか。その問い直しが、谷崎論再出発の先ず最初のドアである。そして、源氏物語と谷崎文学とを正当に架け渡す日本文学史構築の努力にこそ、積極的な新しい日本の現代文学構想の希望を託するのが、さらに大事な、インターナショナルの課題となるだろう。-完1
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余白に(一九九七年六月二十七日)66あのころ中央公論社には「海」という文芸雑誌があった。創刊されてまだあまり間がなかった。近藤信行編集長が、家まで足を運んで谷崎特集に原稿をと依頼にみえた時は、気合が入った。おかげで「夢の浮橋」論は、副題とともに、面はゆいばかり絶賛を浴びた。異論を唱えられた覚えの全く無かったのも珍しい。谷崎論の一角に「作品論」の復興をとにかくも語いあげ、だが、作品論がそのまま作家論へ地平を広げてゆける視野と深度との獲得をも強く念じていた。その辺は、各種の批評や鑑賞や解説の本でも評価をえてきたと思う。潤一郎夫人の捨子さんも、心から喜んで下さった。そして「藍刈」論を近とも代文学会で口演した日には、夫君の思い出を唄に語って早稲田の会場を超満員にして下さった。思えば筑摩書房の単行本『花と風』に書下ろし「谷崎潤一郎論」(一九七一)を入れたとき、故野村尚吾氏に、過去に類のない新しい谷崎論として親切に推してもらった。あれが嬉しかった。一九六九年、小説で文壇に押し出してもらい、だが谷崎論でわたしは久しい読者としての望みを遂げて来たのかも知れない。『谷崎潤一郎1〈源氏物語〉体験』(一九七六)でも、長い書下しの『神と玩具との間-昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』(一九七七)でも新刊の『作家の批評』(清水書院)その他にも、たくさん「谷崎感想」を書いてきた。すべては少年の日以来の「谷崎愛」に発しており、「愛読者」なればこそ書けるのだと自負できるものを書いてきたと思っている。ときどき谷崎の「研究者」と紹介されることがあるが、決してそんなものではない、それ以上だと思っている。「夢の浮橋」も、「盧刈」「春琴抄」も、まこと比類ない玲瀧とした名作である。「論」を成すに当たっては、原作をまだ読まぬ方のためにも十分面白く、これは原作をぜひ読んでみたいと思っていただけことあるように委曲を尽くしているつもり、ぜひ、私の年甲斐もない「言挙げ」を面白がってご批判ください。
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蘆刈 母なればこそ慕ふ
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「海」一九七六年七月号
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一
迂闇なはなしだった。『夢の浮橋』について書いた時(原題「谷崎の『源氏物語』体験」)に気づいてよかった。昭和三十四年の『夢の浮橋』は昭和七年の『藍刈』を文字どおりに仕上げた作だったのだ。誰もが、私を含めて、『夢の浮橋』は昭和二十四年の『少将滋幹の母』や昭和五年の『吉野暮』などを発展させたいわゆる母子相姦達成に至る一連呼応の作と見ていたし、それは紛れもない真実だが、その際『藍刈』に思いつく人の絶えてなかったというわけだ。だが、何に似ていると言って『夢の浮橋』は、よほどわるく言えばまるで焼き直しか二番煎じかとも見られかねないくらい、さまざまな点で意図的に二十七年前の『藍刈』一篇にこそ重ね合わされていたのだ。だが、本当に誰も今まで気づかなかった。少くもそう書いた人はいなかった。『夢の浮橋』も私が読んだようにそれ以前に読んだ人がなく、あたら未解読の渦中に久しく沈みこんでいた不運の作だったが、『藍刈』に至ってはその比でない。発表以来四十四年間も名作傑作と呼ばれ『夢の浮橋』より遥かによく読まれながら、精妙な谷崎の趣向が読みとれないまま『夢の浮橋』と全く同然の誤解、無理解に曝さ
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れつづけてきたのだ。早々と具体的に言えば、『藍刈』という夢幻能仕立ての作品で、ワキに当り、谷崎その人にもほぼ正確に重ねられている「わたし」の前へ、藍間を分けて姿をあらわし、月光にぬれながら遠いむかしの世にもふしぎな物語をして聴かせる「男」とは、繰返し当人が二度三度自分の母は「お逆様」の「実の妹」の「お静」だと確言し明言するにもかかわらず、それこそうわべのことで、実は彼の父「慎之助」が「お逆様」に産ませた子なのである。ところが、そんな一見無茶なはなしを信ずるはおろか思いっく読者、批評家は絶えて四十四年間に畦の一人も表に立ちあらわれなかったのが問題の一つ。その「男」の語り口に、そして谷崎潤一郎の絶妙な話術と文体にたぶらかされて、真ツ正直に「男」はお静の子とばかり読んできたために、作品の奥行や主題や妙趣がさっぱり正解をはずれていささかむにゃむにゃめいた名作にされ、真正面からの手応えたしかな評価を受けられなかった作者と作品の不運不幸というのが、問題の二っ。作中の女主人公であるお逆様が伯母ではなく生みの、そして憧れの母と読めれば、右の問題は一挙に鮮やかに解けて、一度そう読めば『夢の浮橋』の時にもそうだったようにコロムブスの卵よろしく、もう二度とその「男」がお静の子などと思えもしなくなり、『藍刈』という小説が生き生きと新しい面持に若返って、かつてなく読者を魅了するに違いない。『盧刈』は、わざわざそれを否定する人すらあるにかかわらず、『吉野暮』を直かに受け、それ以上に遥かに大正八年の『母を恋ふる記』の雰囲気をよく受けた、みごとに典型的な谷崎潤一郎の母恋い小説なのだ。
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少年の頃の読書体験にも、自然幾つかの道筋はあった。が、一等太い筋は新制中学時代の晶子訳『源氏物語』と谷崎の『細雪』から開け、高校に入ると、創元社版九冊本の『谷崎潤一郎作品集』が私の宝物になった。とりわけ私は『吉野暮』『少将滋幹の母』の二作を熱愛した。源氏物語を子ども心に私は、母を喪った子が母のような妻を要る物語だと読んでいた。そして私の好きな谷崎の世界には、さながらその手の作品群がひときわ美しく光って見えた。にもかかわらず、私は『藍刈』はそれとは違う、例えば『蓼喰ふ轟』『盲目物語』『春琴抄』などの方に並べておいて差支えない作品と思いこんで疑わず、後日、多くの谷崎論や谷崎作品の鑑賞、解説類を読んでみても、やはり一人として『盧刈』を母恋い小説とはしていなかった。誰も、お逆様が藍間の「男」の母とは考え得なかったのだ。私自身は或いは意識下で気づいていたと思う。と言うのも、はじめ『吉野暮』以上に惹かれた作品だった、のに、追い追いに『藍刈』に私は不満を覚えて向うへ押しやってしまったのだ。理由の第一は、物語っている「男」がお静の子であっては物語の主部がちいさく遠くに感じられるばかりで、聴く「わたし」も語る「男」も御都合主義に仕立てられた、ともにただのワキ役になって一篇の結構が大きくふくらまないばかりか、例えば「わたし」の登場部分などことごとしく冗漫に見えかねないこと。第二は、あいしゆうお静の子であっては、お逆様への異様に久しい愛執が真実味をもたず、生母が妙にないがしろにされるばかりか、谷崎独特の、妻11母、をはさんで父と息子とに生きる濃密な一体感が鋭く結晶してこないこと。つまりは第三に、憧れ心がしんそこまでしみじみ満たされず、物足りないままに読後しきりに苛立ってくること。
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お遊様こそ「男」の母と思ってしまえば、今あげた全ての不満が雲散霧消して一気に月の光の玲瀧と美しく輝くように、『蘆刈』一篇の真価が立ちあらわれることを、この作品を熟知の読者ならおそらく納得されるだろう。が、私は、「お静」の子とある念の入った断言を多くの読者評家ともども覆えせるものとは思えぬまま、一種生煮えの幻想趣味だとして、この期の谷崎作品中とくには重視しないできた。捨子夫人に宛ててお逆様はあなた様と書かれた谷崎の恋文は容易に承認しえても、特に「愛着」のある作だという谷崎の言葉は、捨子夫人ゆえとこそ思え、作の出来栄えとは無縁の私的な愛着なんだろうと深くは顧みなかった。何という迂闇なはなしか。だが、多くの読者、評家はまだ私の言説をやすやすと信じられはしまい。あれほどの作が四十四年かそうそうけてそんな無残な無理解に曝されっぱなしとは、鐸々たる手だれの読み巧者が割拠する文壇、読書界で、ありうることか。お前の方があやしい夢にうなされているのではないかー。ただ†『夢の浮橋』では、「糺」という語り手の父と義母との間に「武」という「弟」が生まれている。弟、弟と繰返し言われている。ところが、作品をていねいに読めば「武」は「糺」と義母との仲に生まれた「糺」の「子」だった。その真相を読み解けば、この隠された秘密を通じて『夢の浮橋』という小説の奥行、意味、面白さが、ただ「弟」とみていた時とはまるで面目一新したのである。谷崎の話術と文体にまどわされて十六年もの間、誰一人正しく読めなかったのは歴とした事実なのだ、『藍刈』にも、輪をかけた事実は、やはりありうる。ちりぱ但し、この証明、かなり難しい。、心証はふんだんに鍍めてあるが確証は書いていない。そもそも書くはずがないのだから、心証を丹念に組立てて立証せねばならず、されば証拠材料は谷崎の文章、「男」
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の語りそのもの、でしかない。一度私が私の言葉に書きかえればもうそこで微妙な谷崎の意図や狙い目吐んをそれて、信悪性が落ち易い。やむをえず、順を厭わず本文を引かねばならないので、読者は疑いの眼を皿にして、面白半分にでも気をつけて谷崎の文章をよく読んでいただきたい。紙数が十分あれば、かつて世に出た有数の谷崎論や解説などの『藍刈』に触れた部分を列挙した上で、、私の「読み」をはじめたいのだが、煩しいので全部省く。全部、だめなのだ。
君なくてあしかりけりと思ふにもいと、難波のうらはすみうき
まだをかもとに住んでゐたじぶんのあるとしの九月のことであった。あまり天気のい、日だったので、ゆふこく、といっても三時すこし過ぎたころからふとおもひたってそこらを歩いて来たくなった。遠はしりをするには時間がおそいし近いところはたいがい知ってしまったしどこぞ…二時間で行ってこられる恰好な散策地でわれもひともちよつと考へつかないやうなわすれられた場所はないものかとしみなせあんしたすゑにいつからかいちど水無瀬の宮へ行ってみようと思ひながらついをりがなくてすごしてゐたことにこ、ろづいた。
これが『藍刈』一篇の発端であり、ほとんど谷崎自身と読むことのゆるされている「わたし」がおもむろに登場するくだりで、能舞台でいえばワキの出に相当する。ここで一とくさり「水無瀬の宮」に就
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て説明やら感慨やらが書かれて、「それにちやうどその日は十五夜にあたってゐたのでかへりに淀川べりの月を見るのも一興である。さうおもひつくとをんなこどもをさそふやうな場所がらでもないからひみちゆきとりでゆくさきも告げずに出かけた」とっづく、いわば道行になる。山崎や天王山や男山八幡や水無瀬の宮居や淀の川面をこめてタ霜が漂い流れ、往時は夢とも現ともなく歩一歩に「わたし」をとり包む。この辺の叙述は思いのほかに量もたっぷりと、時にかすかに睡気すら誘うくらいだが、今は敢て触れないが、もうここに一篇の主題は正確に書きこまれていたのだ。たそがれやがて「いつのまにかあたりに黄昏が迫ってゐるのにこ?ろづいて時計を取り出してみたときはもううどん六時になってゐた。」腹ごしらえに入った鯛餉屋の亭主に淀の中洲へ渡す舟のあるのを教えられて「一びん本正宗の罐を熱燗につけさせたのを手に提げながら」渡船場へと足を運ぶ、と、「なるほど川のむかうすに洲がある。その洲の川下の方の端はつい眼の前で終ってゐるのが分るのであるが、川上の方は溜荘としたうすあかりの果てに没して何処までもつドいてゐるやうに見える。」舞台は調った。ワキは道行かけくがいがいらめざす目的地に辿りついて、今まさに一つの世界が、白燈喧の月光のもと玲瀧と舞台上に示現されるところだから、煩わしがらずに本文を確り読み直しておきたい。
前に挙げた淀川両岸の絵本に出でみる橋本の図を見ると月が男山のうしろの空にか?ってゐてをとこかげきやま峰さしのぼる月かげにあらはれわたるよどの川舟といふ景樹の歌と、新月やいつをむかしの男山きかくといふ其角の句とが添べてある。わたしの乗った船が洲に漕ぎ寄せたとき男山はあたかもその絵にあるやうにまんまるな月を背中にして欝蒼とした木々の繁みがびろうどのやうなつやを含み、まだ何処
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なかぞらやらにタばえの色が残ってゐる中空に暗く濃く黒ずみわたってゐた。わたしは、さあこちらの船へ乗って下さいと洲のもう一方の岸で船頭が招いてゐるのを、いや、いづれあとで乗せて貰ふがしばらく此処で川風に吹かれて行きたいからとさういひ捨てると露にしめった雑草の中を踏みしだきながらひみぎはとりでその洲の剣先の方へ歩いて行って藍の生えてみる汀のあたりにう.つくまった。まことに此処は中流に船を浮かべたのも同じで月下によこたはる両岸のながめをほしいま?にすることが出来るのである。
した「わたし」はここで持参の酒を滑みながら、「人には誰にでも懐古の情があるであらう。が、よはひ五十に近くなるとたゾでも秋のうらがなしさが若いころには想像もしなかった不思議な力で迫ってきて葛の葉の風にそよぐの覧ξへ身にしみぐとこた一るあがあるのをどうに濃りお葺き窪いのに、ましてかういふ晩にかういふ場所にうづくまってゐると人間のいとなみのあとかたもなく消えてしはかまふ果敢なさをあはれみ過ぎ去った花やかな世をあこがれる、心地がつのるのである」などそこばくの物こしをれ思いに耽るうち、「あたまの中に一つ二つ腰折がまとまりかけた」ので、手帳に書きとめようと「最後の雫をしぼってしま含馨川面一は合投げた。と、そのξ近くの募蒙ざわくとゆれるけはひがしたのでそのおとの方を振り向くと、そこに、やはり葦のあひだに、ちやうどわたしの影法師のやうにうづくまってゐる男があった。」シテの登場だ。が、シテにはそれなりに必然の資格がある。ただあいの語り手ならそれは間を勤める狂言師の役どころに過ぎない。こごう「わたし」は「男」と言葉を交し、「男」が持参の酒をすすめられたり『小督』のひとふしに聴き惚れ
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かぷたりしながら心をつけて見ると、「まぶかに被ってゐる鳥打帽子のひさしが顔の上へ蔭をつくってゐるので月あかりでは仔細にたしかめにくいけれどもとしはわたしと同年輩ぐらゐであらう、痩せた、小柄をぐらな体に和服の着流しで道行のやうに仕立てたコートを着でみる。」聴けば、「まいねんわたくしは巨椋の池へ月見にまゐるのでござりますがこよひはからずも此のところを通りまして此の川中の月をみることが出来ましたのは何より」などと「男」は答えるのだった。そして「わたし」が「江口の君」のようおうせきな往昔の遊女を想いながらその幻を和歌にと苦心していた由を語れば、「されば、誰しも人のおもふとたころは似たやうなものでござりますなとその男は感に堪へたやうにいって、いまわたくしもそれと同じやうなことをかんがへてをりました。わたくしもまた此の月を見まして過ぎ去った世のまぼろしをゑがいてゐたのでござ呈喜しみぐ茎ういふのである。一利はただ無策にやたら『薦刈』本文を引いている積りではない。谷崎はここまでの経過で「わたし」と「男しが、互いに互いの「影法師」と見えるような「同年輩」であることをはっきりと意図して書いている。その上で谷崎自身が作中の「わたし」および「男」と殆ど同一人格かのように読んで貰おうと努め、それがすこしも不自然でないよう実にふさわしい舞台づくりと丹念な手順とでその効果をあげて、、、、いる。谷崎は、自分が作中の「わたし」であり「男」でもありうることを通して実は或る私的な述懐をそこに籠めたがっているので、捨子夫人に宛てた恋文(『椅松庵の夢』所収)はその間の事情を幾分明らかにしたものだが、それがなくとも谷崎の熱心な読者ならそれくらいは予感してもよかったのではないか、そうすれば「わたし」の「影法師」のこの「男」こそ、本物の「主人公」だと分って正解に近づけたはずだ。ともあれ難問題の立証に重々関わることゆえ、直かに本文を挙げて物を言うわけで、以下
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「男」は「わたし」を相手に、「過ぎ去った世のまぼろし」を世にもふしぎに物語ってみせ、悉く語りみぎは終るともう、「た茗よく颪が草の萎わたるばかりで汀にいちめんに生えてゐたあし覧えずそのをとこの影もいつのまにか月のひかりに溶け入るやうにきえてしまった」と『藍刈』一篇も終る。さながらの夢幻能仕立てになっている。ところで能一番といえば全曲がむだのない一番の能で、余分なまえがきもあとがきもない。にもかかわらず、『藍刈』本来の物語、本筋は、藍間の「男」が物語る「お逆様」と「お静」の姉妹に対する「男」の父親「慎之助」の奇怪な三角関係がそれだと従来読まれてきた。「わたし」が水無瀬へ足を向けるのが本筋を引き出す舞台装置の如きものなら、「男」が登場して長談議にふけるのも、ただ遠い昔のふしぎな物語を聴かせるためだと読まれてきた。先ず「わたし」が、次に「男」が出てくるのは、つまりは「間接な方法で、その男の言葉の中に諸人物が浮き上るように描かれ」(伊藤整『谷崎潤一郎集』解説)るためだといった理解が殆ど、いやすべてという仕儀になるのだから、そんなことでは「男」を主人公の意味のシテとはとても取れないはめに陥る。主なる「諸人物」は先に挙げた遠い昔の三人ということになる。「男」を主人公、シテとは見得ない場合、今一度言うが『藍刈』は少くも次の二点で読後に不満が残る。第一に、物語の本筋に入るまで余分な手続きをかけ過ぎていないか。第二に、「わたし」と「男」の二人二重の語り手を通して本筋が眼に耳に入るだけ、「間接の方法」も度が過ぎ、「諸人物」の物語が、、美しければ美しいでいささか遠くに見え過ぎはしないか。描かれる夢も鹿ろに過ぎて、聴こえる人声もこごえ頼りなく低声になり過ぎはしないか。だが、これは主観の相違で、現に、これで佳い、これで十分と満
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足して「名作」の二字を冠している人もあるのだから、これ以上は言わない。しかし、そういう従来の読み方では私が根本的に満足しない一点がある。「男」が、もし作中に繰返し二度まで明言されているように、事実お静の生んだ慎之助の子ならば、「五十に近」いこの「男」が生みの母でもない伯母の「お逆様」の面影をたずねて、なぜ「七つか八つ」の年から「まいねん」巨椋池の堤を渡って「二星も三里ものみちを」歩くようなことをするのか。父慎之助がそうしたのはよく分る、が、四十年ちかくも年が経ってまだ、かつての少年が、只の甥がここにさまよい出る必然性が書けていない。少くも小説の読者にごく自然にその行為を肯定されるには、それだけの用意がなければならぬはずではないか。そしてそれが無条件に自然と認められる前提は、唯一点、「男」の「母」が即ち「お逆様」であることを措いてない。そうではなかろうか。ところが藍間の「男」は断然それを否定する。「お静」と「父」との結婚を語って、「左様でござりわたくします、でござりますからおしづは私の母、お遊さんは伯母になるわけでござります」と言い切り、さらに最後にも「左様々々、その母と申しますのはおしづのことでござりましてわたくしはおしづの生んだ子なのでござります」と断言する。そして誰も彼も「男」の言葉をあまりにやすやすと受け入れてきた。誤解を導く答は谷崎に、と、言えるものだろうか。いかに「男」が力んで言おうが、だが谷崎潤一郎は、そして実はこの「男」も、自分がお逆様の生んだ子でなくてはならぬことをちゃんと、はっきりと、但しそう簡単には読み取られないように、巧妙を尽し入念を極めて書き切っている。ただ谷崎は存生中、『藍刈』に就て直かに解説めいたことは言わず、この一代の趣向派作家は黙って人の批評や感想を聴き流しにしていた。『夢の浮橋』に就ても同じたつ
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うらはらおさた。誰もまともには読んでくれないものだという憾みを肚に蔵めたまま、それでも黙って死んで行った。そんなややこしい書き方をした作者の方がいけないと言えぱそれまでだが、そして幾分は私もそう谷崎を責めたい気もするが、たとえば『夢の浮橋』という作品の意図も冒険も、大事の秘密をひた隠しにしながらそつなく顕わすための修辞や文体の創造にあったと思える以上、作者はあまりに鮮やかに目的うかつを果したわけであって、負けは、読み手の迂闇さにこそあるとされて致し方ない。『藍刈』にしても、、、伊藤整が要約したように「間接の方法」で秘話を語っているとまで理解したのなら、それなら秘話の方をもう少し的確に読むが宜しいではないか。「男」がお静の子である場合と、お逆様の子である場合とを一度でも意識して比較すれば、『藍刈』一篇の内的必然は全く前者の解を否認するだろう、少くも問題にならないほど後者の解には劣るだろう。うつつお逆様が「母」だから、その「母」にもはや現には逢い難いのだから、だから「子」は「母」を夢にも久しく慕いつづけるのではないのか。『吉野暮』の「津村」がそうであったし、「少将滋幹」の場合がまさにそれであった。本当に「男」がお静の子ならもうちょっとお静を慕っても宜しかろうに、繰返し生みの「母」と言い張るほどはお静への情愛を深くは表わしていない。ところが、お逆様の生んだ子として「男」の言葉や振舞をみれば、不満はすべて解消、首尾はすべて一貫、もののあわれも母と子を主軸に深まり、深まる。物語の主人公は夢まぼろしの「母」を慕いつづける夢まぼろしの「子」なのであり、かくて『藍刈』は、谷崎潤一郎の、久しく久しい母恋い夢幻能仕立ての一分の隙もない珠玉の物語として結晶するのだ。そうではあるまい、「父」である慎之助とお逆様のふしぎの恋こそ主軸だと人は言うだろう。が、そ
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、、れでは谷崎の作品としてはいかにも生煮えなのだ。作者谷崎と「わたし」とのけじめが作の意図としても十分溶融しているように、また「わたし」と「男」とが互いに「同年輩」のさながら「影法師」であるように、この藍間の「男」がまた互いに「父」と影・形に成り合い、一体化しつつ、「父」の事実上「妻」である自分の「母」を「女」としても慕っているのであって、ちょうど『吉野暮』の「母」と「お加佐」とが、また『夢の浮橋』の「父」と「糺」や孔の生母と義母とがそうであったように、『藍刈』の「父」「子」もまた夢うつつ、その肉体を一つの輪郭に溶かしこんでいる。「子」はさながら自身「父」になったかのような実意と情感を寵めて慎之助のすべてを語る。後シテ慎之助と前シテ「男」とが、「父」と「子」とが、別にあるのでなく、"物語る"という行為の中で二人は相求めて一体に、「父」は「子」に、「子」は「父」に、なり切っている。そして一人のお逆様を恋慕愛欲している。このダブルイメージの趣向は前作『吉野暮』に謡曲『二人静』を踏まえて構造的にたっぷりと面白く生かされていたが、『藍刈』ではその効果がさらに強調されている。何より以下『藍刈』事実上の眼目くだとも核心とも言える条りを、熟読されたい。いかに文体の効果も豊かに、「男」は、そして谷崎潤一郎は、同じ一人のお逆様を父と子が相倶に恋慕愛欲するさまを耽美的に語り、かつ書き切っているか。
きやらかうそれにっいておもひ出しますのは父は伽羅の香とお遊さんが自筆で書いた箱がきのある桐のはこにお遊さんの冬の小袖ひとそろへを入れてたいせつに持ってをりましてあるときわたくしにその箱のなかのしなぐ覧せてくれたことがござり壱た。そのをり小そでのしたにたえで入れてあ呈した友禅の長じゆばんをとり出しましてわたくしの前にさし出しながら此れはお遊さまが肌身につけてゐ
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いまできたものだが此のちりめんの重いことをごらんといひますので持ってみましたらなるほど今出来の品とはちがひその頃のちりめんでござりますからしぼが高く懸が太うござりまして鎖のやうにどっしりとbかた目方かか?るのでござります。どうだ重いかと申しますからほんたうにおもいちりめんだといひました義が夢え奪うにう奪き壱てちりめんとい書のはしなくしてゐるばかりでなくかういふ?うにしぼが高くもりあがつてゐるところがねうちなのだ、このざんぐりしたしぼの上からをんなのからだに触れるときに肌のやはらかさがかへつてかんじられるのだ、縮緬の方も肌のやはらかい人に着てもらふほどしぼが粒だつてきれいに見えるしさはり加減がこ、ちよくなる、お遊さんといふ人は手足がきやしやにうまれついてゐたが此の重いちりめんを着るとひとしほきやしやなことがわかつたといひまして今度は自分がそのじゆばんを両手で持ちあげてみて、あ、あのからだがよく此の目方に堪へられたものだといひながらあだかもその人を抱きか、へてゾもゐるやうに頬をすりよせるのでござりました。
ただ一枚の豪薯な縮緬の締絆をお逆様の女体と見立て、父と子がこもごも抱きあげ頬を寄せては耽美と恋慕のしぐさを繰返すうちにも一人のお逆様を共有し愛着し合っているさまが、凄いまでに語られている。たとえこのと享は「やうく+くらゐ一だ一たにせよ父はその子を「子供とみとめずにはなした」のだし、「男」も「さればそのときはもちろん理解いたしませなんだが言葉どほりに記憶いたしてをりましてふんべつがつますにしたがつてだんくとその意味を解いてまゐつたのでござり手を告白している。それは子が「ふんべつ」するに従って幾度も幾度もかつて父がしたように、あたかもお
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遊様その人を抱きかかえてでもいるように、彼もまた同じ「じゆばん」に幾百度となく「頬をすりよ甘くらせ」たという告白にほかならない。だからこそ藍間の「男」が、父の死後も、「まいねん」ひとり巨椋堤を渡ってお逆様のもとへと、「今夜もこれから出かけるところでござります、いまでも十五夜の晩にその別荘のうらの方へまゐりまして生垣のあひだからのぞいてみますとお遊さんが琴をひいて腰元に舞ひをまはせてゐるのでござります」と言うのが必然の真実味を帯び、彼がただ古物語の語り手としてだけ登場する人物でないということに話が極まるのだ。「男」が「お静」の子では、かかる父と子との物狂おしさが決して必然性をもってこない。『藍刈』一篇の話が話にならない。むろんお逆様の子と具体的に肯定し支持する本文がなければ、私の我侭勝手が過ぎると言われても仕づつ方がない、なにしろお静の子とは繰返しはっきり断言されているのだ。が、約まるところ『盧刈』本文は手をかえ品をかえて「男」はお逆様の子と語りつづけ、裏はらにお静の子とは表現上結局確認がならない心憎い語り口になっている。以下、丁寧に物語の進行に応じてすべて解き明してみせよう。
二
くだ「男」が淀の中洲にあらわれる以前の、まだ「わたし」がながながと述懐している条りは、月光にぬれたふしぎとも美しい夢の舞台を精繊に用意している部分で、文庫本で言えば五十七真中十四夏分を占めるぐらいに長いのだが、これも私のように読めば冗長どころかワキの仕どころにふさわしい不可欠の叙みなせ述となっている。とりわけ水無瀬の堤に上って「川上の方の山のすがた、水のながめ」を見渡しながら、
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「わたしはだいたいかう云ふ景のところであらうとつねから考へてゐたのである」という辺では、主題に応じて巧みに太い伏線が敷いてあるのを認めねばならない。
せうへきそれは峨々たる哨壁があったり岩を噛む奔滞があったりするいはゆる奇勝とか絶景とかの称にあたひする山水ではない。なだらかな丘と、おだやかな流れと、それらのものを一層やんはりぼやけさせてゐるタもやと、つまり、いかにも大和絵にありさうな温雅で平和な眺望なのである。なべて自然の風物といふあ覧る人のこ乞ぐであるからこん奇は顧のねうち裏いやう憲ずる喜あるであらう。けれどもわたしは雄大でも奇抜でもないかう云ふ丸山凡水に対する方がかへつて甘い空想に誘はれていつまでもそこに立ちつくしてゐたいやうな気持にさせられる。かういふけしきは眼をおどろかしたり魂を奪ったりしない代りに人なつツこいほ?ゑみをうかべて旅人を迎へ入れようとする。ちよっと見たゾけではなんでもないが長く立ち止まってゐるとあた、かい慈母のふところに抱かれたやうなやさしい情愛にほだされる。殊にうらさびしいゆふぐれは遠くから手まねきをしてゐるやうなあの川上の薄霜の中へ吸ひ込まれてゆきたくなる。
そしてまさに「あの川上の薄霜の中」に、「巨椋の池」のほとりに、「宮津」という豪家へ再び縁づいて行ったお逆様が住む「田舎源氏の絵にあるやうな」優美な別荘はあった。「慈母のふところ」をなつかしんでもう一度その「やさしい情愛にほだされ」たいと願う「わたし」の想いにまるで惹き寄せられるぐあいに、やがて彼の「影法師」のような「男」は、シテは、登場するのだ。谷崎は、慎重かつ丁
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寧な情況設定のなかに、いま月光世界のもとでまさに語り出されるであろうふしぎな物語が、ふしぎはふしぎながらそれがひたむきな母恋いの物語であることを、すでに巧みに予告している。この予告一つからも、「男」がお逆様を「母」と慕って憧れ出た「子」であり、ひいては彼が「わたし」や谷崎の憧れをうつす化身であったとは、確実かつ明瞭とみて差支えない。「男」は藍間に居坐り酔興の酒ごとのこごううちにもやおら『小督』を謡いだす。男が恋しい女を尋ね求めて琴の音に見あらわしてゆくこの古物語は、たとえ謡曲では勅使が帝の思慕を体して馬をやるものではあれ、父に代ってこのあと巨椋池へお逆様の姿をせめて垣間見に出向こうという「男」の心境に至極ふさわしく、彼にはお逆様が「母」であるくだと同時に恋しい女とも思われていることを、この条りはさりげなく暗示して、谷崎らしい。そしてこもごも二人して話すうち「わたし」は「男」の言い草にふと不審を抱く。
わたくしはまだをさない時分十五夜の晩に毎年父につれられて月下の路を二男も三里もあるかせられたおぼえがあるものでござりますからいまだに十五夜になりますとそのころのことがおもひ出されるのでござります、さういへば父も今あなたさまが仰っしやったやうなことを申してお前には此の秋の夜のかなしいことがわかるまいがいづれは分るときがくるぞとよくそんなふうに申したものでござりますといふ。はて、それはどういふわけなのです、あなたのお父上は十五夜の月がそんなにもお好きだったのですか、さうして又をさないあなたをつれて二塁も三里ものみちをあるかれたといふのは。さあ、はじめてっれて行かれましたときは七つか八つでござりましたからなにもわかりませなんだけろうじれどもわたくしの父は路次のおくの小さな家に住んでをりまして母は二三年まへに死去いたし親子二
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人ぎりでくらしてをりましたのでわたくしをおいて出あるくことが出来なんだのでもござりませう、なんでもわたくしは、坊よ、月見につれて行つてやらうといはれて明るいうちから家を出ましてまだ電車のない時分でござりましたから八軒屋から蒸気船に乗って此の川すぢをさかのぼったことをおぼえてをります、そして伏見で船を上つたのでござりましたがはじめはそこが伏見の町だといふことも知りませなんだ、たゴ父が堤のうへを何処までもあるいていきますのでだまってついてまゐりましたらひろ人?とした池のあるところへ出ました、いまかんがへるとそのとき歩かせられた堤といふのはをぐらづ、み巨椋堤なのでござりまして池は巨椋の池だつたのでござります、
「男」は「五十に近」い「わたし」と「同年輩」なのだし、「なにしろ今から四十何年の昔のことしが語り出されているわけだ。「七つか八つ」よりもまだ「二三年まへ」に「母」は「死去」したとあれば、およそ五歳から男手ひとつに育てられたことが分る。「母」とはむろんお静をさしており、しかも「父」慎之助は妻の死後に忘れ形見のわが子の手をひいて、ほかでもない妻の姉で人妻でもあるお逆様の姿を、生垣に隠れてただ垣間見るために遥々と巨椋堤を「まいねん」渡りつづけたというのだ。
せん†いわたくしも葉と葉のあひだへ顔をあて、のぞいてみましたら芝生や築山のあるたいそうな庭に泉水がいづみどのらんかんた、へてありまして、その水の上へむかしの泉殿のやうなふうに床を高くつくって欄拝をめぐらしたうたげ座敷がつき出てをりまして五六人の男女が宴をひらいてをりました、(略)どうもその琴をひいた女が主人らしうござりましてほかの人たちはそのお相手をしてゐるやうなのでござりました。(略)し
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あいにくかしその人は座敷のいちばん奥の方にすわってをりまして生憎とす?きや萩のいけてあるかげのとこかほろに見がかくれてをりますのでわたくしどもの方からはその人柄が見えにくいのでござりました、父はどうかし著つとよく見ようとしてゐるらしく生垣に沿うてうろくしながら場所をあっちこっち取りかへたりしましたけれどもどうしても生け花が邪魔になるやうな位置にあるのでござります、(略)宴会がすんでその人たちが座敷を引きあげてしまふまで見てをりましてかへりみちには又とぽくと堤の上をあるかせられたのでごぢ手、
そして同じことが「あくる年もそのあくる年も十五夜の晩にはきっと」繰返され、「いつのとしでもだいたい只今お話したやうなふうだった」という。「わたし」は、なぜ「男」の父がそんな物狂おしいした真似をするのかわけが知りたく、「男」も「へうたんの酒をきれいに滑んでしまってから」あらためてこう「語りつぐのであった。」
父がそれをわたくしに話してくれましたのはまいとし十五夜の晩にその堤をあるきながら子供にこんおれなことをいってきかせても分るまいけれどもいまにお前も成人するときがくるのだからよく己のいったことをおぼえてゐてそのときになっておもひ出してみてくれ、己もお前を子供だと思はずに大人にきいてもらふつもりではなしをするとさういってそれをいふときはいつもたいへん真顔になって、どうかすると自分とおなじ年ごろの朋輩を相手にしてゐるやうなもの?いひかたをするのでござりましいうさまた。そんな場合父はあの別荘の女あるじのことを「あのお方」といったり「お逆様」といったりして
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お遊さまのことをわすれずにゐておくれよ、己がかうして毎年おまへをっれてくるのはあのお方の様子をお前におぼえておいてもらひたいからだと涙ぐんだこゑでいふのでござりました。
おとくにただ寸敏い読者なら、こう書き抜かれただけで、あの「少将滋幹」に不幸な父が、また「乙訓糺」にその父が、わが妻即ちわが子の母について諺々語りかっ湖心える哀切かっ濃厚な場面を思い起こさずにいないはずだ。いま『藍刈』のこの場面で「男」をただお逆様の甥とすれば、あまりに父の態度は不可解、というより不自然に過ぎる。わが子を眼の前にさながら「朋輩を相手にしてゐるやうなもの?いひかたをする」のは、程度の差こそあれ滋幹の父も孔の父も同じで、そこにはわが子に対しわが妻を「母」とよりあいしゆうはむしろ、己れと同様に「妻」とも見よ愛せよという無念無限の愛執が色濃く窮をひくのであって、それらの前駆がここにありありと『藍刈』に表現されて在ることを我々は久しく見落してきたのだ。くぜつかかる父の子に対する口説があってはじめて、先に挙げた一枚の「じゆばん」を父と子がこもごも抱いて頬をすり寄せる身顛いを伴うような女体への惑溺の意味も生きてくる。お逆様の豪薯な肌着一枚がさながら父子一体に踏み渡る夢の浮橋に讐えられ、それはまた言うまでもないお逆様の「きやしやな」ざとうりんず女体美そのものを言外に表わしている。あの『盲目物語』のお市の方の玉の肌に首座頭が倫子の肌着一おのの枚をへだてて手を触れた耽美の戦きよりも、もっと直かに露わに官能的にお逆様への情欲がここでは語られている。子は父が妻のからだを恋うようにただ母のふところを恋うているのではない。一歩も二歩も進んで子は父と化し母を妻とも欲望しているのだ。そう読んではじめて『藍刈』は『吉野暮』を受け、『少将滋幹の母』を経て『夢の浮橋』に至る母子相姦の愛欲を深々とはらんだ、官能的かつ大胆率直な
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直接の前駆作品であることがはっきりと確認できる。そう読まずに『藍刈』一篇の本当の魅惑を読み取しれたと言える人は、谷崎潤一郎を証うること、甚しい。だが、それでもなお藍間の「男」がお逆様の子とはまた言い切れぬと頑張る人は、あるやもしれぬ。たしかにまだそうは言い切れぬ。
こモベそのお逆様といふ人はもと大阪の小包部といふ家のむすめでござりましてそれが粥川といふ家へ器量のぞみで貰はれて行きましたのが十七のとしだったさうにござります。ところが四五年しましてから御亭主に死に別れまして二十二三のとしにはもう若後家になってゐたのでござります。
芝居好き、映画好き、推理小説も書いた谷崎潤一郎という作家は、『夢の浮橋』でもそうだったが、自分では何と言おうが、まこと物語の隅々にまで細かな勘定を立てて、ぎりぎりいっぱいの際どい所で右とも左とも読める趣向を精密に凝らしている。お逆様の年齢、男の年恰好、その他さりげなく挙げてある申立ては、決してそれだけでは確たる何かの証拠にはなり切らぬよう巧みに言い紛らわしながら、こづら結局は「男」の母がお逆様と納得のゆくよう全篇の随処に小面憎いばかりに配してある。
ごけわたくしの父がはじめてお遊さんを見ましたときはお遊さんといふ人はさういふ身の上の後家さんだったのでござります。そのとき父が二十八歳でわたくしなどの生れます前、独身時代でござりましてお遊さんが二十三だったと申します。なんでも夏の初めのことで父は妹の夫婦、わたくしの叔父叔母
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にあたります人と道順堀の芝居に行ってをりましたらお遊さんがちやうど父のまうしろの桟敷に来てをりました。お遊さんは十六七ぐらゐのお嬢さんと二人づれで(略)お遊さんの実の妹、小包部の娘だったのでござります。
ここに「実の妹」と断ってあるところを、理由は措くとしてぜひ注目しておきたい。谷崎にとって妻の「実の妹」は、小田原時代にも、関西人になってからも、十分注目に価する存在だった。かくて「父」慎之助は粥川の後家に一と自惚れをする。「自分の妻にすべき人はお遊さんをおいて外にはない」と久しい「えりごのみ」の果ての一度の出違い■じbにすっかり夢中になる。が、粥川の家で、一という男の子までなし、夫と死別後の婚家では信じられぬふさ-くらいに栄耀栄華の毎日を送り迎えてきて、「その代りには一生操を立て通しておくれ」と姑に念を押され、事実「不品行なうはさはきいたこともない」ような人ゆえ、とても慎之助の望みは叶いそうにな-】ういのだった。仲に立った慎之助の妹、「男」の叔母もほとほと困じて、「ではいっそお遊さんの妹をもらったらどうです」と言い出した。「その妹といひますのはお遊さんが芝居へっれてきてをりました『おしづ』といふ娘のこと」で、慎之助にすれば姉と妹は所詮較ぶべくもない。「何よりも不満なのはかほらうお遊さんの見にあるあの『蘭だけだ感じ』がない」、むろん「おしづさんも好きだったのでござります。が、さればといっておしづさんでがまんするといふところまでは容易にけつしんがつか」ない、「それよりもじつは見合ひにかこつけて=遍でも余計おいうさんに会ひたかった」というのが本音だった。
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父の此のおもはくは巧くあたりましてお遊さんは見合ひとか打ち合はせとかのたびごとに出て参りました。一路一文は筆く目的がそこにあったのでござりますか窪るべく蓼引っぱつておくやうにしまして二層三度寛合びをして拳ばかりぐづくにして蓼壱たので一路一ある日のことお遊さんは父にむかって、あなたはお静がおきらひですかと尋ねるのでござりました。父がきらひではありませんといひましたらそれならどうぞ貰ってやって下さいましといってしきりに妹との縁組みをす?めるのでござりましたが叔母に向ってはもっとはっきりと(略)あ、いふ人を弟に持ったら自分も嬉しいといふことを申したさうにござります。父の決心がきまりましたのはまったく此のお遊さ-}しんの言葉がありました?めでござりましてそれから間もなくおしづの輿入れがござりました。
これでみると夏の出違いから当歳をへて、お遊さんが二十四、父が二十九、お静が十七、八での婚礼だったことになる。そこで「男」がもし私の言うようにお遊さんの子であるなら慎之助との間に男女の「ちぎり」がなけわたくしればならぬ、のに、彼が婚礼を挙げたのは妹お静とだった。「でござりますからおしづは私の母、お遊さんは伯母になるわけでござります」と言うのも当り前の話なのである。が、この当り前はいわば戸籍上の話で、さて隠れた事情までは否定していない、と言えなくない。何よりもそこですぐさま「男」自身が、「けれどもそれがさう簡単ではないのでござります」と自分の前言に対し異様な註釈をつけはじめるのだ、「父はお遊さんの言葉をどういふ意味に取りましたのか分りませぬがおしづは婚礼の晩にわたしは姉さんのご?ろを察してこ?へお嫁に来たのです、だからあなた
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に身をまかせては姉さんにすまない、わたしは一生涯うはべだけの妻で結構ですから姉さんを仕合はせにして上げて下さいとさういって泣くのでござりましたLと。世にもふしぎな話がいよいよはじまるわけであり、「姉さんを仕合はせに」とは、文脈からも男に「身をまかせ」る女にして上げたい意味なのははっきりしている。父の妻お静、即ち「男」の母は、あたら処女妻のまま以後入しい歳月を過ごすのだという事実がここに明らかにされている。但し「二人がそんなやくそくまでしてぎりを立て、ゐてくれるとは」お遊さんは後々まで知らなかったという。その後のおしづは、どうかしてわが夫と姉との仲に「もののはずみ」で「ひょんな間違ひでもしでかしますのを祈ってゐるやうにもみえ」るほど、まめまめしくもいたずらっぽくも気を利かして、二人を近づけようと振舞いつづける。例えば後年『夢の浮橋』の最も濃厚な愛欲場面へと直結して行く、こんな語りがある。
あるとき吉野へ花見にまゐりましたせっに晩にやどやへつきましてからお遊さんが乳が張ってきたといっておしづに乳をすはせたことがござりました。そのとき父が見てをりまして上手にすふといって笑ひましたらわたしは姉さんの乳をすふのは馴れてゐます(略)と申しますのでどんなあぢがするとや・こいひましたら嬰児のときのことはおぼえてゐないけれどもいま飲んでみるとふしぎな甘いあぢがします、あんさんも飲んでごらんといってち、くびからした?りおちてゐるのを茶碗で受けてさし出しますから父はちよっとなめてみてなるほどあまいねといつて何げないていに取りっくろってゐましたけれどもお静がなんの意味もなく飲ませたものとばかりには思はれませなんだので自っと頬があからん
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でまゐりまして、その場にゐづらくなりまして口の中が変だくといひながら廊下一立ってい嚢したらお導んはおをろさうにころくわらふのでござ呈した。
何という微妙さよ、もはや実の夫婦へ間一髪というお逆様と慎之助の仲にまでお静は率先して事を運んでいる。かつて小島政二郎氏は『菌刈』のテーマなど「馬鹿馬鹿しくてとても真実とは信じられない」と書いていて、それにはとくに触れはしないが、この作中、姉妹が大阪言葉を話しているのに対し慎之助が東京言葉を話していることにも注意を向けておこう。言うまでもなく慎之助にまで作者谷崎の影は重ねられているし、お逆様とお静の姉妹は、あの『細雪』の蒔岡姉妹の、ことに夫真之助に庇護された妻幸子と義妹雪子とに比定しうる或る現実の投影でもありうることは否定できないのだ。いったい「谷崎の『源氏物語』体験」の反映が直かに作中に文章となって見えるのは『藍刈』が最初であり、お逆様は『源氏物語』を読むにふさわしい人と語られ、その住まいは「田舎源氏の絵にあるやうな」とも語られていて面白いのだが、その意味づけは私の前編を参照願うとしても、一つ、「田舎源氏の絵」とあるのは、谷崎好みのある性格ある限界を示すものとして記憶されていい。ともあれやがて、「おしづはもう打ちあけてもよい時機が来た、夫婦が夫婦でないことがわかったらいちわう姉も一往はふこ?ろえをさとすであらうがいまとなつてはたうわくしながらも妹たちのなさけにほだされてしまふであらうと看てとりまして何かのをりにかほいろをうかゴびながら話をそこへ持って行った」らしい。お逆様は「ひじやうにびっくりしまして私はそんな罪をつくってゐたとは知らなんだ」と、「それか
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らしばらくお遊さんは夫婦といきかよひすることをひかへる様子がみえましたのでござりますが、あんぢ上(略)さうかうするうちに又両方から近づいてしまひましてけつきよくお静のはからつたことが味善うござ行ったのでムりました。(略)それからのちのお遊さんはやはり持ちまへのおうやうな性質をあらはしてなにごとも炊夫婦のしてくれるやうにされてゐる、夫婦のはからひに打ちまかしてこ?ろづくしを知ってか知らずかそのま?に受け入れるやうなぐあひになっていきました。父がおいうさんのことをお遊さまと呼ぶやうになりましたのはその頃からでござりましてLと、事は「おしづのきもいり」ではなはだ順調に進んで行く。三人で旅に出れば「自分はぢみづくりにして女中らしくこしらへたりしまして次の間にねどこをとらせる」ほど、とにかく二人の間柄が「さういふ?う」になるにつけてはおしづがぎまぐにちゑをはたらかせ一たというが、この女主人公に佳実の妹一の璽、谷崎潤一郎にと一でただ想像裡の創作に過ぎなかったろうか。あんぢ上いきさつさて、「味善う」「さういふ?うになりました」とは、経緯からしてお逆様が慎之助とからだで結ばれた意味だとは十二分に明らかなわけで、ここに至ってはっきりお逆様の方がお静よりも子を産める可能性が表立ってくる。くだ「男」はしかしそれさえ念入りに否定してみせる。だが次に引く条りを、谷崎に代ってどうか読者に入、、、念に読んでほしい、と私は願う。これが本当に否定と言えるだろうか。逆に二人の「ちぎり」を否定は、、、しないという念を入れての表白ではないのか。
しかし、わたくし、こ?でおいうさんのためにも父のためにもべんめいいたしておかなければなりま
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せぬのはそこまです?んできてゐながらどちらも最後のものまではゆるさなんだのでござりました。それもまあ、もうさうなつたらさういふことがあつてもなうても同じことだと申せませうしないにいたしましたところがなんのいひわけになりはいたしませぬけれどもわたくしは父の申しますことを信じたいのでござります。
お遊様の人柄と言い、父とお逆様の仲を語る「男」の口ぶりと言い、また次に引く父自身の弁明と言い、それはあの『夢の浮橋』の女主人公なり父と子なりの場合と酷似以上に同じ人物と断言したいほど互いの性格や状況を共有し合っている。文字通りに『夢の浮橋』は『藍刈』の繰返しなのだ。繰返しの中で、『藍刈』では遂げられなかった父と子との幻の情欲が『夢の浮橋』では満たされているのだ。
父がおしづに申しましたのにはいまさらになつてそなたにすむもすまないもないやうなものだがたと"れかみほとけひまくらを並べてねても守るところだけは守ってゐるといふことを己は神佛にかけてちかふ、それがみやうがそなたの本意ではないかも知れないがお遊さまもおれもそこまでそなたを踏みっけにしては冥加のほどがおそろしいからまあ自分たちの気休めのためだといふのでござりまして、いかさまそれもさうだったでござりませうが又まんいちにも子供ができたらばといふしんぱいなぞが手つだってゐたかと思はれるのでござります。けれども貞操といふものはひろくもせまくも取りやうでござりますからそれならといってお遊さんがけがされてをらなんだとは申せないかもしれませぬ。
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そう言って「男」はあの「桐のはこ」に蔵われていたお逆様の「じゆばん」の方へと話題を進める。成熟した男女関係がありえたばかりか、事実あったに相違ないことを、あの濃厚な一種愛欲描写は言い尽してあまりないが、かりに一歩譲ってこの頃にはなお未だしであったにせよ、「気休め」程度の禁欲なら、この後になおお静が望んであと押しすれば、二人を隔てた気休めの低い垣根はたやすく乗り越え、、、えた、そういう三人の関係だとはすでに露骨なまで明らかにされている。慎之助は事実上姉妹とともに結婚し妻にしていたわけで、この絵空事としか思えない状況が、少くも心情的には『細雪』の真之助にも、作者谷崎潤一郎の私生活に於ても実現されていたということを忘れてはならない。その点には私の前編が手強く触れているのでここには繰返さない。しかしお逆様の懐妊はまだこの時点では、事実なかったと私は読んでいる。と言うのも「男」は、そ、、して谷崎は、お逆様懐妊の時点をこれより後段に於て必然性十分にこれと指さすように書いているからだ。が、追い追いにそれは見つけるとして、ここは先ず私も読者とともども「わたし」に倣って「男」に訊ねたい、「なるほど、ではうかゾひますけれどもお遊さんとお父上とのくわんけいが仰っしやるとほりであったとするとあなたは誰の子なのです」と。これに答えて「男」は即座に、「御尤もなおたづねでござります、それを申し上げませぬことには比ナりのはなしの尉がっきませぬからごめいわくでも今しばらくおき、をねがひたうござります」と、物語一篇の「晃」がつくつかぬもまさしく「男」は「誰の子」という一点にあること、隠された秘密が那辺に存して妃カ価な内容のものかを明言しているのだ。こう明らかに事を立てて言うからは、すでに「お静の、子」と断言されていたむしろその裏を聴かせ読ませようという物語の底流を確り触知して、なに不自然
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、、もないばかりか作の要請上、読者はそこへと自身踏みこんでこそ作受一体の読書となるのではないか。
父がお遊さんとさういふ?うなふしぎな恋をつゴけてをりましたのはわりにみじかいとしつきのことでござりましてお遊さんの二十四五さいからほんの三四年のあひだゾったのでござります。そしてた吐じめ吐しかしかお遊さんが二十七のとしに亡くなった夫のわすれがたみの一といふ児が麻疹から肺炎になりまして病死いたしましたので此の子供の死にましたことがお遊さんの身のうへにも引いては父のいつしやうにもひゴいてまゐつたのでござります。
ここが微妙なので丹念に確かめておくが、この時までにお逆様が懐妊し出産した形跡はむろん全くない。が、お逆様とお静積之助との異褒交際が「粥別家の方でしうとめ親類のあひだ揺っくうはさのたね」となり、「うたがひの眼があつまってまゐります」「かげぐちがやかましくなってまゐります」という難しい状況には事実なっていた。そんな「うはさ」のさなかに粥川家の跡を取る一粒種を喪ったとあっては、いくらお逆様とて「をちど」を「批難」されて仕方がない。それも「子供をいつくしむこ?ろがうすらいでゐたわけでもござりますまいけれども日頃からばあやまかせにするくせがついてをりましたので看病のあひまに半日ほどの暇をぬすんでぬけて出ましたらそのあひだにきふに様子がかはりまして肺炎になったのだ」とあっては、粥川に於けるお逆様の立場は急変せざるをえないだろう。ところで、「お遊さんの二十四五さいからほんの三四年」とあるのを律儀に言いかえれば、二十七、八、九歳まで、の含みと取るしかない。するとお逆様は「たしか」に「二十七のとし」に「一」をなく
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して「うたがひ」と「かげぐち」の渦中にはっきり身を置きながら、その後なお少く見つもって一年の余は慎之助と「ふしぎな恋」仲、夫婦同然の関係をつづけえたということになる。さてこそ次の条りを虚心にかつ丹念に読まねばならぬ。
で、子供といふものがあればこそたいせっな人でござりますが子供が死んでしまひましたらちかごろかたがたよくない評判もあるしまだうばざくらといふにさへ若すぎるとしだし男ヒこれはや、こしいことがおこらぬうちに里へかへつてもらった方がといふやうな話になりまして引き取るとか引き取らぬとかいろくと又こみ入ったかけ合ひがござ呈したすゑに善事ずがっか撃うにゑんまんに離籍の件がまとまったのでござりました。
「よくない評判」はお逆様が妹の亭主と深い仲だということだから、「や?こしいことがおこらぬうちに」とはお逆様の懐妊ないしより世俗的には出産騒ぎと相続などの問題が心配されているのだ。「うたがひ」「かげぐち」「よくない評判」にもう妊娠が懸念されていて、「勇ヒ」「や、こしい」という物言いには出産が予測されていると深く読むことも、この文脈なら十分以上に可能だし必然だと私は思う。されば「離籍」とまではなったわけだ。はじめここで私はお逆様の第一子が「一」と名づけられてある点に注目する。この名前の含蓄は、当然に作の要請として「次」をはらんでいる。では「次」はいつはらまれたか。「一」と「次(ないし二)」とは運命的に共存がゆるされていないのだから、コ」の死が「次-二」の出生になる。お逆様が看病の
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合間に「半日ほど」の暇をぬすんでぬけて出たのがまさに「一」に代る「次」の懐妊を絶妙に物語る。お逆様が「暇をぬすんで」「ぬけで出」る先は、前後の説明からお静がかしずく慎之助のもとであるこそじと、これまた自明である。ただの物見遊山などである道理もなく、この辺は措辞の巧妙にも支えられて「半日ほど」の一句が隠微かつ雄弁に物を言ってくる。言葉と言葉とが緊密に利き合い引き立て合って、何という際どいところに巧妙な展開が仕組まれていることか、それにしてもこれほど精繊な仕組みだから却って正しく読み取れなかった、というのでは、やはり作者より読者の方に落度があったと断ずるしかなく、作品も谷崎もそれでは気の毒過ぎる。七、てお逆様の妊娠そして出産は、「当時兄さんがさうぞく」していた彼女の実家に難儀な影響を与え、懸命に「よくない評判」を打ち払いつつ事の成行に応じてお逆様出戻り後の身の振り方に苦慮したらしい兄やお静の動静も、また奥行深い署った筆づかいでよく書かれており、最終的には「一年ほど」たってから「宮津といふ伏見の造り酒屋の主人」にお逆様を再縁させる運びになって行く。この宮津が、あ甘ぐらいけの巨椋池に近い「田舎源氏の絵」にあるような別荘の持主なのだ。ここでもとくに兄たちがお逆様妊娠と出産という事実を決して否定しているのではなく、ただもう「うはさ」「うたがひ」「評判」をのみとうかい打ち消そうと躍起に努めていたらしいところ、そして「男」自体もまた真相をぼやかして轄晦して通そうとするその語り口を読破すべきだろう。
あれほど親たちが可愛がってゐた人のことでござりますし粥別家の仕打ちがあんまりだからといふっらあての気味もござりましてそりやくにはあっかひませなんだけれどもそこは親たちがをりましたと
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きのやうにはまゐりませぬから何かにっけてゑんりよがあったことでござりませう。それに、小包部のいへがきゆうくつでしたらわたしのうちへきていらっしやいとお静がす?めましたけれどもさういふことをいひふらすものがあるあひだは慎んだ方がよいからとそれは兄がとめました。おしづの説では兄は事によるとほんたうのことを知ってゐたのではないかと申すのでござりまして或はさうらしくもおもはれますのはそれから一年ほどたちまして再縁をす?めたのでござりました。
お逆様が二十七歳で「一」を喪ったのは、麻疹という病気から推して多分春だろうから、「こみ入ったかけ合ひがござりましたすゑ」「や、こしいことがおこらぬうちに」離籍されて実家へ戻ったのは早ければ夏のうち、遅くも秋とみていい。「一」の死と同時に懐妊していたとすれば、春の含みで、出産はよほど早くて年内、ほぼ確実にお逆様二十八歳の早い時期となる。再縁のはなしは「それから」の取りようが微妙だがとにかく「一年ほど」して持ち出されたのだから出産には十分の余裕があり、再縁そのものは早くて二十八のうちか、ほぼ確実に二十九歳になってからだろう。従って離籍以前の出産や、「一」の死よりかなり早い懐妊は、人目立つ妊娠期間を勘定に入れると現実性は極めて稀薄だし、他方、再縁後の出産ということも作の必然としてありえない。お逆様の出産可能期はほぼ二十八歳の一年を頂点に、二十七の極末、二十九の極初を含む極めて僅かな間に厳しく限定されるとしても、それでも「=に次ぐ「男」子を産める状況条件は物語の中で十分調っている。万事兄妹の手で多分その子は生まれるとすぐにもお静の子にされる段取まで念入りにできていたはずだ、そしてすべてのいやな「うはさ」を打ち払っての「再縁」先は、お逆様を全くお逆様らしく迎えて何一つ不自由させまいという、願
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ってもない好都合な「宮津」だった。離縁から出産を経るに必要なコ年ほど」がたち、再縁をめぐってのお逆様と慎之助の別れの一と幕はなかなかよくできている。
三
だが、話をそうそそくさとお逆様の千一辺倒に運んでお静を見捨ててしまってはならぬ。そもそもお、、、静が生みの母たる表現上の、心証傍証は皆無に等しいのに、.男」を産める時期的条件だけで言うと、実はお逆様はとてもお静の敵ではないのだ。先ず『藍刈』幕切れの場面、「男」が今からまだ巨椋の池へお逆様を訪ねて行くと言うものだから、「わたしはをかしなことをいふとおもってでも?うお遊さんは八十ぢかいとしよりではないでせうかとたづねたのであるがた茗よく颪が草の葉をわたるばかり一でやがて「をとこの影もいつのまにか月のひかりに溶け入るやうにきえてしまった」とあるのを、ぜひ思い出さねばならぬ。「男」は「五十に近」い.わたし」と「同年輩」だとは何度も確認しておいたし、私の読みに随って物語を信じるなら、まずまちがいなく二十八歳でお逆様は慎之助の「男」子を出産していた。が、果して私のこの推論が、現在「八十ちかい」お逆様に簡単に符合するのだろうか。「八十ちかい」も「五十に近い」も履昧な、含みのある言い方だ。が、人それぞれの語感の差を精一杯勘酌して四十七-九歳および七十七-九歳と拡げた範囲内と取れば異存は出まい。すると、母子であるなしにかかわらずお逆様と「男」との年齢差が最も開くのは七十九歳と四十七歳の場合だし、最も狭い
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のは七十七歳と四十九歳の場合になる。つまりお逆様が産もうがお静が産もうが、「男」はお逆様が二十九歳から三十三歳(「男」は時代的にも、満年齢でなく数え年勘定になるから、この場合単純な引算に一を加えねばならぬ)の間にしか生まれてこられないわけだ。この事実は、「お逆様の子」説にとって由々しい致命傷となり、二十七歳出産はおろか私のお逆様二十八歳出産説も無残に壊滅する。その一方、ほぼ自動的に「男」がお静の子であることは決定的となる。お逆様の二十九歳はその再縁の年であり、これ以前にお静が慎之助の真の妻でなかったのは、これを信じなければ『藍刈』世界が崩壊するとしても、当年二十二、三歳のお静が、もし姉再縁の直後に夫婦の「ちぎり」を結べば、年内にも妊娠出産が或いは可能で、その後二十六、七歳までは無条件にお静にこそ「男」子が産まれてなんらの不都合もない。かくてお静の出産可能期はその二十二、三から二十六、七歳に至る五年間となり、逆にお逆様の方は例の「八十ちかい」を七十七歳に引下げても、現在「五十に近」い男はまず産むに産めない。まして二十七歳時「半日」の懐妊説などは全くふっ飛んでしまう。そればかりではない、薦間の「男」が「わたし」と、「わたし」は作者谷崎潤一郎と、互いに「影法師」ほどの「同年輩」に仕組まれている以上、昭和七年『藍刈』執筆時の谷崎の年齢を無視できないのだが、なんとこの時谷崎は数えて四十七歳の十一月を迎えていた。自然「五十に近」い「わたし」と「同年輩」の「男」は、四十七ないし四十八歳と考えねばなるまい。決して拘泥るのではない。が、『藍刈』本文について、作中の「わたし」が「江口」の君を想いつつおおえのまさひらいうぢ上をみるのじ上くだ大江国衡の『見遊女房』や匡房の『遊女記』を挙げている条りをぜひ今一度虚、心に読もう。
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わたしはいまおぼろげな記憶の底雲ぐつてそれらの文房ところぐをきれぐにおもひうかべながら冴えわたる月のひかりの下を音もなくながれてゆく淋しい水の面をみつめた。人には誰にでも懐古の情があるであらう。が、よはひ五十に近くなるとたゾでも秋のうらがなしさが若いころには想像直系った不思萎力遭ってき看の葉の曇そよぐの覧てさへ身にしみぐとこた一るあがあるのをどうにも振りおとしきれないのに、ましてかういふ晩にかういふ場所にうづくまってゐるけかと人間のいとなみのあとかたもなく消えてしまふ果敢なさをあはれみ過ぎ去った花やかな世をあこがれる心地がつのるのである。
これは『藍刈』のモチーフそのものとすら読めるうえに、関東大震災のあと関西に居坐った谷崎潤一郎のあの驚異の変貌を、あまさず根底から説明する類の大事な表白でもある。さればこそ『影法師」の如く盧間にあらわれた「男」も、「わたし」のそんな「さびしさ」や「あぢきなさ」や「まったく理由のない季節の悲しみ」に応えて、思わぬ古物語を語って聴かせる気になるのだ。つまりは「わたし」の述懐は、当時これと同類の作者による諸随筆に照しても、数えて四十七歳谷崎潤一郎直々の感想と取れるもので、されば「わたし」の「五十に近」いをも、「男」の年齢をも、それ位の数字に置き換えて考えるのがすぐれて自然という結論へ否応なく導かれてしまう。これには非常に当惑する。頭を抱えてしまう。「八十ちかい」お逆様が数え歳で四十七歳の「男」を産めるのは、せいぜい自身三十一、二、三歳の間でなければならぬ。四十八なら三十、一、二歳でなけ
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ればならぬ。遅くも二十九歳で「宮津」へ再縁したお逆様には絶対不可能だ。が、逆にお静なら一点の不都合もない。藍間の「男」はお逆様の産んだ子、『藍刈』はその子が母を恋い慕う物語、という私の読みは、かくて壊滅した。「左様々々」まさに「わたくしはおしづの生んだ子」なのだ。とすれば、年齢面以外にあんなに力強く挙げ得たお逆様の子説支持の心証、傍証は、悉く淀の川瀬のうたかたと帰するのだろうか。否、否。私はもう一枚だけ、強力な切り札を手に持っているー。が、その前にお逆様再縁後のいったいどの時分にお静が懐妊し出産しえたのか、それを「男」がどう物語っているかが気がかりだ。
そんなしだいでお遊さんはまもなく伏見へさいえんいたしましたが宮津の主人と申しますのはなかくよくあそぶ男だった考にござりまして筆く物好きξらった撃ござりましたからぢきに飽きてしまひましてのちにはめったにお遊さんの別荘へよりつかなんだと申すことでござります。
幾ら飽きが早くも、この「ぢきに」に半年一年は見ないとこれはお逆様の女の魅力を作の効果としても損なってしまう。その後それでも、「お遊さんは相変らず田舎源氏の絵にあるやうな世界のなか」に住んでいたし、物語の脈絡を辿ればひょっとしてその頃までも秘かな慎之助との交情がありえたかもしれぬとさえ私は読む。しかし「勇一は詩語蘇いで、「大阪の小骨部の家とわたくしの父の家とはその時分からだんく
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びろくいたしまして前にも申しましたやうに母が亡くなります前後にはわたくしどもはろうじのおくの長屋にすむやうなおちぷれかたをしてをりましたLと意外の末路を物語る。そこで次の一節を、もし自かけ分で句読点を入れるならどこにと考え考え、谷崎が『文章読本』で強調していた日本語独自の縁語、懸ことげしか詞の妙味にも眼をとめて、確と読んでほしい。
父はお遊さんとそんなふうにして別れましてからながいあひだの苦労をおもひまたその人の妹だといふところにいひしれぬあはれをもよほしましておしづとちぎりをむすびましたのでござります。と、さういつてそのをとこはしやべりくたびれたやうに言葉をとぎつて(後略)
眼目は「ながいあひだの苦労」にある。姉妹と出違い以来の「ながいあひだ」か、「別れましてからながいあひだ」の苦労か、句読点を極力打ち惜しんだ独特の文体の小面憎いような効果が実にこの一点に凝縮している、のだ。出違い以来なら、お逆様再縁と即時の「ちぎり一が可能性をもつ。が、お逆様と厨れましてから一「だんくびろく一、こーり嵩じて「ろうじのおくの長屋にすむやうなおちぶれかた」に至る経過を「ながいあひだの苦労」と打ちつづけて顧れば、「ちぎり」は否定しないし、したくもないが、場合により四年五年に及ぶ「苦労」なら前に挙げたお静が出産可能の年限をはみ出してしまうし、お逆様の子とした場合、お静はその子が五つの頃に死んでいるのだから、「ちぎり」も実はなかったということにまでなりかねない。結着はっけにくい。再縁と早々の「ちぎり」では、お静はともあれ慎之助のお逆様に対する愛の深さ
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に少々そぐわない。おそらくは愛も交情裏だつづいたかし窪いうちに、それ簾因三だんくびろく」し「おちぶれ」て行った、お逆様の住む世界とはあまりに懸け離れて行った、それで自然と血をすぐせ分けた妹のお静に愛と憐れみとあまりに宿世の切なさを感じてとうとういつか「ちぎり」を結んだとみるのが、物語哀切の美感にふさわしいのだろう。だが私のお逆様の子説は一向に補強されたと見えない。断然話頭を転じて谷崎潤一郎の言葉を直かに聴こう。私は早くに、谷崎は『藍刈』の種明しなど何もしないで死んだと書いた。うそではない、が、私一人には、それこそ種明しとしか読めない一文を昭和三十八年『雪後庵夜話』の中に遺して置いてくれた。
私はそれ(芥川氏の場合)とは反対で、最初は荘漠とした幻想のかたまりのやうなものが雲の如く脳裡に湧き、何かしらものを書かずにはゐられなくなる。そんな状態のま?原稿用紙に向ふことがしばくである。「藍刈一を書いた時、一中略一やはり葦のあひだに、ちやうどわたしの影法師のやうにうづくまってゐる男があった。のあたりまでは、この先これがどう云ふ風に発展するか、まだ着想がはっきりした形を取ってゐなかった。するうち次第に考が纏まって行って、……さういつてそのをとこはしやべりくたびれたやうに言葉をとぎつて腰のあひだから煙草入れを出したので、いやおもしろいはなしをきかせていたゾいてありがたうぞんじます、のあたりまではすらく蓮んで行ったが、主人公の「私一と、「そのをとこ一と、「お遊さん一との結末を、如何にして収拾すべきかについては、最後まで巧い思案が浮かばず迷惑ってみた。が、
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みぎ一た与よく嵐が草の萎わたるばかりで汀にいちめんに生えてゐたあし寛えずその奮この影もいつのまにか月のひかりに溶け入るやうにきえてしまった。とする思ひつきが突如として閃き、潤一郎全集第十九巻のページ数で四十七八ぺージの長さの物語かご?で急に十行程で器用に終りを告げることが出来た。
最初の、谷崎の創作態度については全くさもあろう。しかしこの一文が全く油断も隙もないものであることも、私は断言したい。わたしみなせ真先に、ここで「主人公」として「私」が挙げてある。水無頼あたりの風光に憧れ渡るこの「わたし」の夢心地が月下に招き寄せた幻の物語であり、語り手の「そのをとこ」であり、「お遊さん」なのだ。この三人を『藍刈』一篇を貫く縦の軸と読めということだ。それなら「わたし」が憧れ「男」が恋慕してやまない「お逆様」とは、所詮自然美と合体したさながらの「慈母」そのものでなければ物語のしほ生命は枯れ凋んでしまう。が、それももう言うまい。い一たい谷崎はこの「た茗よくと一から「きえてしまった一までの結末部にそうも本当に迷惑一たと言えるだろうか。「男」がこうも「月のひかりに溶け入」って退場することは、「わたし」が中州の藍間に身を置いて「江口」の君のことなどをしみじみ想っている時から、そして「影法師」のように「男」が姿を見せた瞬間から、作の首尾、結構、仕立て、趣向として先ず絶対不動の伏線が敷かれていほてつたはずだ。でなければ、この結末に応じて急速導入部分を補綴して夢幻能仕立てに形を整え直したかだ、が、それは夢にもありえまい。あくまで入念に考え考え丹念過ぎるほど丹念に一字一句が順に積み重ね
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られ抜差しならない展開になっている。谷崎はこの一文をわざわざ書き記す或る動機を持っていた。改行もなく谷崎はこう書きつく。
「あの物語をあ?云ふ形で終らせる考を、作者は最初から持ってゐたのではなかったゾらう。どうして終らせたらい?か困ってみて、運よく最後に名案が浮かんで飛びっいたのだらう」と、当時図星を刺したのは久保田万太郎君であった。さう云ふ内情はやはり作家同士でなければ、一般の批評家には看破出来ないであらう。
「一般の批評家」に不満な理由が谷崎にはあった。『藍刈』が正しく母恋いの物語と読めないからだ。だが、私が長広言を振ってみても今や動かし難い数字で以て、母なるお逆様、は全否定されている。だが、どうかもう一度だけ結末部を注意深く読んで欲しい。いったい「男」はどういう状況で月光のもとへ消え去ったか。本文はこうだ。
わたしはをかしなことをいふとおもってでも?うお遊さんは八十ぢかいとしよりではないでせうかとたづねたのであるがた茗よく嵐が草の萎一後略一
、、、「男」は「わたし」の不審に答えずに消えている。答える必要がなかったのか。なぜか。違うのではないか。本当のことを答えてしまえば、「わたくしはおしづの生んだ子なのでござります」という嘘が割
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れてしまうから消えずに済まなかったのではないのか。なぜなら、真実は「お遊さんは八十ぢかいとしより」ではなかったからだ。「八十ちかい」と思ったのはあくまで「わたし」のはじめから終いまで独合点で、堆の一度も「男」はそんなことを喋っていない。ただ自分と「同年輩」の「男」をお静の子と信じて疑わず、その上、お逆様が二十八か二十九歳で再縁してのちに生まれたものとも疑っていない「わたし」が、それなら自分の「五十に近」い年齢を加算してお逆様を「八十ぢかいとしより」と思っても極めて自然なわけで、同時にそれが全然の独合点であることも否定されない。もし「男」が「わたし」の独断を言下に否定したとすればどうなるか。数え歳四十七歳の「男」をお逆様が二十七で懐妊、二十八で産めば現在はちょうど七十四歳になるはずだし、「八十ちかい」を無視していい以上、これで何から何まで全く不都合はない。他方、お静が姉の離籍前のこの年には出産も懐妊もありえない。『藍刈』一篇を通じて、自分が「五十に近」いと言い、お逆様を「八十ちかい」と口にしたのは唯一人作者に当たる「わたし」だけなのだ。藍間の「男」は全然あずかり知っていない。しかも、「男」の年齢を最も自然に数え歳の四十七歳と固めた上で母なるお逆様を不可能にし、生母はお静を保証するのはお「八十ちかい」というこの「わたし」の独断、独合点を措いて他に何一つ有りはしない。これに何の根ちくいち拠や理由もなければ、あとは逐一数え上げた「読み」による有効な心証、傍証の集積によって『藍刈』を『夢の浮橋』に前駆する母恋い小説として正しく確認し、従来の久しい誤解、無理解を抜本的に訂正、正解しえたことはもはや不動と言い切れる。
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私は、『雪後庵夜話』に谷崎が書いたのは、久保田万太郎のしたり顔に便乗して『藍刈』に箔をつけわらながら、その実、まだ分らないのかと「一般の批評家」を曝ったのだと思う。たしかに谷崎が「結末」の「収拾」にちょっと「迷惑」つだろうと私は思う。が、それは「男」の消え方などではありえず、実は、どうすれば重々お静の子としておいた「男」をそれと露わに言わずにお逆様の子に確定できるかを「思案」したのだ。そして絶妙な「八十ちかい」を「わたし」の口から言わせたのだ。これに「男」は答え兼ねて、「月のひかり」に遁れ、遁れたことで彼は恋しい生みの母と優、、、、しい育ての母と父との清らかな間柄を、迂闇な「わたし」に、そして読者に、信じさせることができた。だが作者谷崎潤一郎は、「男」にそんな消え方をあまりに巧みにさせたばかりに生前死後にわたって四みずかあがな十四年も、自作を正確に読まれない不幸と不運とを自ら贈ってしまった。「男」がお逆様の産んだ子でなければ、『藍刈』は奇妙に寂しく物足りなく苛立たしい生煮えの作品ににぴぐもなり終る。歴然とした谷崎母恋いの名作たる面目をどんよりした鈍雲のかげに隠してしまう。そして事実この輝く暗い月に似た美しい作品は、四十四年間もその無理解、誤解という厚い雲のかげであたら魅惑の光を十分放ち切れない不幸を嘆きつづけてきたのである。『藍刈』が二十七年の長きを距てていかに『夢の浮橋』に酷似した作品かはもう言うまい。それよりも『藍刈』では、『夢の浮橋』の前に書かれた『鍵』との関係が新たに読みとられていいだろう。たとえば『鍵』の最末尾、夫を事実上殺した「私」郁子の日記に、娘敏子の許婚者でありながら「私」と深い仲になっていた「木村」の計画として、「今後適当な時期を見て彼(木村)が敏子と結婚した形式を取って、私と三人で此の家に住む、敏子は世間体を繕ぶために、甘んじて母のために犠牲になる、と、云
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ふことになってゐるのであるが。……Lとあるこの人間関係は、あたかも互いに逆三角形のような形に見えながら、「お逆様U私」「お静11敏子」「慎之助H木村」に当て嵌っている。そして、同じこの三角形が『夢の浮橋』では「義母」「津子」「乙訓糺」の関係に現われてくる。それでもなお『鍵』だけがとび抜けて異様だ。不快ですらある。なぜだろうか。それは思うに『鍵』に限って「子」が息子でなく娘だという点に原因している。遠く『母を恋ふる記』以来、『藍刈』『少将滋幹の母』『夢の浮橋』など、母を恋うる子はすべて男子であってはじめてひたむきな思慕がみごとに結晶している。そのうえ、男子なればこそ母への欲望を、父親の妻への欲望と重ね合せて、意図的ないし結果的に父子一体化の願意をも濃密に具象化することができていた。ところが『鍵』はあえて血縁は娘の上に置いた。そしてその婿を、つまりは義理の息子になりそうな「木村」を強引に作中に導き入れ、血を分けない父と息子とで妻即ち義母を共有するという、異様な、しっくりしない父子一体の相を書くことになり、だから不都合にもこの不良息子は義母が夫を殺す片棒を担いたのである。『鍵』に凄味もあり厭味もあるのはおそらくこの一点に懸かっているだろう。ましてこれを執筆の頃、谷崎は妻とともに妻の連れ子である娘と一つ家に暮していたのだから、さすが芸術至上主義の谷崎と錐も『鍵』のあと味は苦々しく、どうかして愛着の深いあの『藍刈』と呼応して今一はら度母恋いの思いを情・欲ともに成就する新作をと願わすには肚が納まらなかったことであろう。昭和三十四年の『夢の浮橋』をいま『藍刈』をこう読み改めてみて思えば、谷崎の意図はみごとに達成されてういて、ただ手を拍つしかない。実に鮮明に照応しかつ前進している。
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それにしても、なぜ題が『蘆刈』なのかという問いが一つ残っている。
君なくてあしかりけりと思ふにもいとゾ難波のうらはすみうき
巻頭のこの一首はまず『大和物語』に見え、それを脚色した謡曲『藍刈』にひきっがれた。「淀舟や、みづのなヤーさ美豆野の原の曙に、影も残りて有明の、山本かすむ水無瀬川、渚の森をよそにみて」というワキ登場のくさか道行の風情が、小説中の「わたし」の登場に重なり合い、また謡曲中の目下左衛門が難波の浦にいて零落し、妻は都に出て出世しているという荒筋も、慎之助ひいては藍間の「男」とお逆様との関係に重なってくる。表題の由来はそれとほぼ言い切れ、それ以上の深い暗合はないであろう。それよりも「わたしキ、し」の述懐に頻りに謡曲『江口』の君に対する共感や慕情がうかがえる点、シテが普賢菩薩と化し月光に紛れて西の空へ消えて行くのと軌を一にする用意周到の布置であって、『藍刈』一篇の夢幻性をすぐれて効果的に引き立てている。そしてこの「月のひかり」をいみじくも生かして「母」への慕情と結びつけた趣向は、遥かに『母を恋ふる記』を受けつつ『少将滋幹の母』の幕切れにも繋って、谷崎独自の内景を美しく反映している。『藍刈』が『鍵』や『夢の浮橋』と違うのは全くこの謡曲構成であって、これは先行する『吉野暮』構成の焦点が謡曲『二人静』の趣向を巧みに利用して、「母」と「お加佐」の輪郭を徐々に相重なるところへ盛り上げていたいわば手法を、さらに堂々と拡充したものと言わねばならぬ。
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まだいっぱい言いたいことがあるが、谷崎が昭和七年十一月八日、当時まだ形だけでも根律家御寮人だった捨子夫人に贈った恋文の一部を最後に挙げて、どうしても一言言い添えたいことがある。
(前略)目下私は先月号よりつゾきの改造の小説「藍刈」といふものを書いてをりますがこれは筋は一ママ)これ●にんさま全くちがひますけれども女主人公の人柄は勿体なうごさりますが御寮人様のやうな御方を頭に入れて書いてゐるのでござります、(略)さしゑは樋口(富麻呂)さんに頼みまして文主人公の顔をそれとなく御寮人さまの御顔にかたどり描いてもらひたいのでござりますが私からはさうはっきりと申しにく?困ってをります(後略)
もし捨子夫人を「お逆様」に当てていたことを本気で重く視るなら、夫人の「実の妹」即ち『細雪』の「雪子」としてのちに登場する森田重子にももっと文学的な注意を向けた方がいい。たとえば『藍刈』のお逆様とお静を描き分けた巧みな谷崎の描写は、『雪後庵夜話』『三つの場合』その他に繰返しとも描かれた捨子重子姉妹の実像のそれと非常に輪郭を倶にしていると私には読めるからだ。「谷崎の『源か」づ氏物語』体験」で書いた通りに繰返せば、「事実はいかにあれ、妹と夫が相接けてお遊さまに博いたのいたわと相似た気味が、捨子夫人を耽る谷崎と重子さんとの心情の中にもありえただろう、(略)光のかげのような眼に見えない重子さんの存在が、谷崎文学大団円に至るまで意味を喪わないだろう、ということを私は大事に考えたい」からだ。1完1
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春琴抄佐助犯人説を覆す
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「新潮」一九八九年一月号
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一
谷沢永一氏が『新潮』五月号(昭和六二年)の「新潮」欄へ書かれた文章を読んだ。谷崎潤一郎作『春琴抄』の読みにかかわるものであり、心を惹かれた。ことに前段、この作を正宗白鳥が批評したなあたかに「聖人出づると錐も、一語を挿むこと能はざるべし」とあるその理解など、ありがたく教えられた。真に聖人であるならば、唖然としてむしろ口をつぐんでしまうような、小説。聖人の出る幕など無い、小説。白鳥はそれだけのことを言い、そういえば小林秀雄でも『春琴抄』に就いては「それだけのこと」というしかない感想を、無愛想に石ころを置くように作品の上に置いたに過ぎない。川端康成の「ただ嘆息するばかりの名作で、言葉がない」にしても同じである。昭和八年の発表当時から、世評は高かったわりに評の詳細にはあまり恵まれていたわけでなく、概して棒を突ツ込んだような賛辞ばかりを受ける一方で、けっこう冷評もされていた。しかし、そんな遠い昔のおさらえをする気は、ない。私がこの稿で触れて行きたい、ぜひ自分の考えも語りたいと思うのは、谷沢氏の文章ではその後段で語られている、いわゆる「佐助犯人説」の是非についてである。
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春琴は盲目の美女であるが、ある時に顔にひどい火傷を負う。春寒に仕える佐助は、主の無残な顔を見るに忍びず、自ら瞳を刺して視力を失う。問題点に限っていえば、『春琴抄』とはそういう筋をもった作品である。作品では、春琴が火傷に及ぶのは佐助ならぬ別の弟子筋の男の恨みを買った挙句かと、ほのめかされている。しかし別の推測もされ、すべて、明確でないと明言されてもいる。むしろ明確でないとしたところに作の意図も態度もあろう。が、それゆえ読者にもそれなりの「読み」のはばを楽しむ余地は与えられている。そして、いつ頃からか、いわゆる「佐助犯人説」が大いに関心をあつめ始め、やや強いていうならば定説化の兆しすら見えている。谷沢氏の今度の文章も、有力なその兆しの一つと今後目されることであろう。私も、「佐助犯人説」を面白いと思ってきた一人である。同時に、面白いからといって、それが作品鑑賞の定説と化するまでには、今一段の検討や吟味の成されること、それも作品本文に即して成されることが、ぜひに必要であるとも感じて来た。事実は、そういう手順がまだ一度も丹念には尽されていないのではないか。作品の「読み」について、「願わしい」ことを大胆に面白く言ってみる資格は、どの読者にも有る。ただ、それが「成立つ」と主張するには、踏むべき順序がある。説として定まって行くには、立証が求められる。その場合、作品の本文から遊離した、ただ「願わしい」ままの面白がりでは困るのである。「佐助犯人説」に魅力を覚えるというのなら、今やもはや、作の意図ならびに本文との緊密な係わりにおいて証明の手続きがとられていい時期であり、むしろ遅きに失しているとすら思われる。
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谷沢氏もあげておられるが、作品『春琴抄』と「佐助犯人説」について最も丁寧に言及している一人は、『鑑賞日本現代文学谷崎潤一郎』(角川書店・昭和五七年)における編者の千葉俊二氏であろう。他方、参考までに「『春琴抄』批評史略」等の地道な労作を積み重ねている永栄啓伸氏の仕事や意見にも、私は、目を惹かれ耳を傾けてきた。さきに言うように、「佐助犯人説」とはっきり銘打って積極的に論証を試みた仕事は、まだ目にしていない。野坂昭和氏が早くにこの説を述べ、多田遊太郎氏もはっきり「佐助」が「犯人」ということを言われ、河野多恵子氏や笠原伸沢氏の所説にもそれより以前ないし同時期にほぼこれに同調した「読み筋」の見えていたことは、知られている。森安理友氏の「春琴抄ーテーマの偽装」も同じ方向を見入れていると読める。千葉氏はこれらを概ね踏まえつつ、『春琴抄』の読みに「佐助犯人説」は有効であるとしてその紹介と補強とに意を用いられている。それはそれで、大切でもあり有難くもあるいい総括になっている。ここでは、もっぱら千葉氏の理解にもたれかかる風にして検討を進めてみたい。
二
お『春琴抄』について上のように書き始めながら、余儀ない刑事にかまけて一年ものあいだ下積みに措いていた。あらたに書き起すのも億劫で、少々方向がずれるにしても、このまま気ままに書き継くことにしたい。谷崎は昭和九年に「春琴抄後語」を書いているが、この手の谷崎の「述懐」型の文章には、慎重に接
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しないとあぶない仕掛けが、まま、見られる。この文章でも、従来手だれの読み手が見落して来たかなり意味深い仕掛けが、一つは有る。「春琴抄後語」と題しながら九割九分がたよそごとを谷崎は書いているのだ。そして最後の最後に、義理でも果すように、こう添える。
私は春琴抄を書く時、いかなる形式を取ったらばほんたうらしい感じを与べることが出来るかの一事が、何よりも頭の中にあつた。そして結果は、作者としては最も横着な、やさしい方法を取ることに帰着した。春琴や佐助の心理が書けてゐないと云ふ批評に対しては、何故に心理を描く必要があるのか、あれで分ってゐるではないかと云ふ反問を呈したい。「春琴抄後語」と題して遂にそのことに触れる暇がなかったけれども、以上の所懐を読んで戴けば、あとは宜しく御賢察に任せる
「所懐」も所懐だが、難儀なのは実は「春琴や佐助の心理が書けてゐないと云ふ批評」と谷崎がわざわざ言い、そして「あれで分ってゐるではないか」と乗気なく居直っているところなのである。当時「佐助の心理が書けていない」という批評は有った、例えば横元利一。しかし「春琴」の心理がふ書けていないと特に問題にした人は表向きは無かったようである。谷崎がそれを「春琴や佐助の」と布えん術したかたちでここに言い及んだのは、口頭で身辺にそんな批評を当の作者に漏らしえた人があったかも知れぬにせよ、むしろ「つい筆がすべったのではなかろうか。」「春琴の心理はこのさい問題外であって、」「生身の春琴などはじめから問題ではないからである」という笠原伸沢氏に代表される読みの線で、まずは断定的に片付けられている。笠原氏は、一方で横光の見解に真向反発して、「佐助の心理
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は冒頭の章から歴々としているではないか。佐助の執着、佐助の欲望が、冒頭から末尾までを一筋さしつらぬいている、というふうにわたしは読むLと立場を明確にされている。『春琴抄』は事実一般にこう読まれて来たのであり、つまりは看板に偽りとはいわぬまでも一筋に「佐助」の物語と受止めて議論も鑑賞もが、ほぼ当初乗成されてきた。谷崎が真実「つい筆がすべった」ようなしくじりをした例を、あまり私は知らない。まして「春琴抄後語」ははっきり批判に対し身構えて書いた文章であり、よそごとを言うようでいてツボははずさぬ反論だとは、容易に読み取れるのである。そしてこういう場合ほど、谷崎は、むしろわざと筆をすべらせる方の作家である。この文章中でも『春琴抄』や『盲目物語』をかるくイナシた近松秋江の批判に対し、いかにさりげないしかし意地のわるいシッペ返しをしているか、「筆がすべった」顔でわざと筆をすべらせ一矢酬いているのが、おかしいほど分る。谷崎はなかなかのポレミークなのである。「心理」も心理だが、そもそも谷崎にとってこの作品の為に、「生身の春琴などはじめから問題ではな」かったと、言ってしまっていいのだろうか。谷崎の「春琴や佐助の心理」とことさら並べ直した真意には、とかく佐助ばかりを言いたがる読者や批評家への不満と冷笑とが籠もっていないかも、私は、あらためて気にかけてみたいのである。谷崎は作品の題を、けっして無造作にはつけなかった。「佐助抄」よりは『春琴抄』の方が、むろん、はでに大きい佳い題である。しかし作意において佐助よりワキで小さい春琴を以て作品に題するほど、谷崎はいいかげんではなかった。佐助にあくまで重きを置くのなら、当時の作者好みの佳い題くらいは、なんでもなく付けえられた。しかもきっぱり『春琴抄』と題して迷わなかったのは、「春琴」に、あえ
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て言えば「春琴の、心理」に作者の作意も共感もあり、しかも「最も横着な、やさしい方法」でそれを描いてみたが、どうだと「春琴抄後語」は読者のまえに明していたのである。どういう意味か。谷崎という作家は、だいじのところほど書かずに表わすという作家であった。つまり、男佐助の、心理と行為とにすべて巧みに蔽い隠されて、いわば美しい衣裳に深く包みこまれた女春琴の愛欲を描き切るという方法で『春琴抄』は書かれているのである。佐助を書けば即ち春琴の「心理」が書けているという「方法」だった。書かずに書く。巧みな語りと叙事のっきまぜのなかで、『春琴抄』が珠のように秘し隠したのは、「佐助犯人」などにくらべれば遥かに凄い「春琴自傷」の一挙であったろうことを私は説こうというのである。
三
そうこうするうち、また時日に隔てられていた。慌しい日々のなかで、しかし、いくらか私は目配りをして、「佐助犯人説」に関する新しい有効な論文が出たかどうかに、気は付けていた。「佐助犯人説」を有効に補強したと思しき文章には依然出会わなかったが、むしろ不賛成ないし否認の思いを語った論文には出会っていた。それも実は谷沢氏の文章に接する以前に、出会っていた。永栄啓伸氏の「春琴抄-佐助犯人説私見1」(『芸術至上主義文芸』12号、昭和六一年十一月)であるが、谷沢氏はこれを見ておられただろうか。実をいえばこれは待望の一文であった。つまり「佐助犯人説」についてだれかが一度整理をしてくれ
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ないかナ、そういうものが出た上で自分の考えを形にしようと。その辺りが一愛読者のきらくに怠けた考えであるのだが、永栄氏の谷崎に関する綿密な仕事はほぼ残りなく見ていたので、ひとしおこの論文は歓迎した。そして読んで、うなずいた。単なる説の整理にとどまらず、氏は、最後に「『春琴抄』は想像力を駆使して、なお様々な解釈が可能であろう。しかし一方的な佐助犯人説には私は反対である」とし、まことに当然ながらさらに加えて「たとえ佐助が行動を起こしたとしても、その背後には春琴の意図がかなり強く反映されていると私は読みたい」と結んでいた。そればかりでは、ない。永栄氏はもっと露わに、今まで人が言わなかったであろう「想像」を述べている。述べていることは、もはや、そのまま氏の自説・新説である。氏は、よく言われる佐助の「失明願望」を認めたうえで、春琴にもまた「災難を待望」する気持ちが兆していて、佐助にとって犯人たる「絶好の機会」とみえたことは、そっくり、また春琴にとっても(,)れは私の表現であるが)「自傷」「自害」の決定的な好機でありえたろうと、千葉氏らの説にゆさぶりをかけている。「想像を遅しくすれば、三月三十一日深夜、春琴は自らの手で湯を浴びようとしたのかもしれない。」「憶説粉々として犯人は不明、というのが語り手の報告であるが、その真相は両人とも熟知しているはずだと私は考えている。」「佐助が犯人ならそれを春琴がまったく感知しえないという事実も不自然に思える」と永栄氏はいい、本文を「よく読むと」例えば佐助は春琴のうめき声で目覚め、一方侵入の賊は佐助の気配で「周章の余り、有り合はせたる(熱湯の)鉄瓶を春琴の頭上に投げ付け」たとあるのなど、明かに時間的な矛盾がみえ、「しかし作者は充分それを心得ているはずである。とすれば、おそらくそこに隠された真実を読みとる作業が(読者には)要求される」と説くのである。
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もとより永栄氏の意図は「佐助犯人説」が証明抜きにのし歩くことへの不承の表明にあるので、けっして「春琴自傷」を主張などしていない。しかしその可能性について、「想像」の範囲ではあれ初めて言及したことは永果論文の特色であり、私は一読して即座に手紙を書いて氏の見解に賛意を送った。そして私自身ははっきり「春琴自傷自害」の読みを考えている、少なくもそれで「佐助犯人説」を相対化する読みを可能にしたいといった意味のことを付加えたように覚えている。その後も私は永栄氏があらたな論を展開されるかと心待ちにしていたが、それはなくて、そして私の作業も遅々として進まないでいるうち、永栄氏は先の「私見」等を編んで最近一書にまとめて出版(有情堂『谷崎潤一郎試論』)された。改めて読み返して、氏の「佐助犯人説」批判はなかなかの力作で看過されていいものでなく、加えて作品『春琴抄』は、いよいよ次なる新しい「読み」をまつ時機・好機であると思えてきた。またそんな時はそんなもので、思わぬことに近代文学館が今年(昭和六三年)夏八月一日の文学教室のなかで、私に『春琴抄』について話すようにと依頼してきた。一年ごし、いやもう何年ごしかの「私の『春琴抄』について」いよいよ本腰を入れるしかなくなって来たのである。そこで改めて千葉氏の「読み」と永栄氏の「読み」との双方に関わりながら、むしろハッキリと「佐、、、、、助犯人説」を否定の目的も兼ねて、以下、私の「春琴自傷説」を語ってみよう。
四
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でつちただの丁稚の佐助とんを「佐助」に仕立てたのは春琴であった。『春琴抄』では、明瞭にすでにして、、、、盲少女の「春琴」こそが佐助とんを思うままの「佐助」に仕立てようとしていた。『痴人の愛』がナオミを思うままの女に仕立て損ねた譲治の物語であったとすれば、『春琴抄』は春琴が佐助を思うままの男に果して仕立て得られたかどうかの物語なのでも、ある。この物語では能動者は春琴なのであり、佐助は終始受身であった。ついに墓の中まで少なくもうわべ「主従」の逆転はなく、そこに、春琴の幸せも佐助の幸せも完うされている。、、、、、、ところが佐助が目を突いたその一事を一方的に浅く読むあまり、つまり突いたというより突かされたのかも知れぬことを考えようとせぬあまりに、多くの論者はことさらに「春琴」から目を逸らしてきた。もずやそもそも「手引き」の役を数ある鴫屋の使用人のなかで、「佐助どんにしてほしい」と定めたのは春琴であり、この決定的な選択なしには佐助はついにただの「佐助どん」で終ったのである。よく佐助の根の深い「失明願望」を語る人があり、それは事実相違なかった事だが、それすらも、暗闇の押入に入って三味線稽古に精を出しながら春琴の盲目に激しく感情移入するよりもっともっと早く、例えば、「わしはお師匠様の(すでに盲少女であった昔の)お顔を見てお気の毒とかお可哀さうとか思ったことは:遍もないぞお師匠様に比べると眼明きの方がみじめだぞお師匠様があの脚気象と御器量で何で人の憐れみを求められよう」と述懐しており、加えて「佐助どんは可哀さうぢやと却ってわしを憐れんで下すった一とすら語一ている。「燃えるやうな崇拝の念を胸の奥底に秘めながらまめくしく仕一てゐたのであらう」佐助、「まだ恋愛といふ自覚はなかった」眼明きの佐助を「失明」の世界へ誘いこもうとしていたのは、はるかに早く春琴の、早熟で独占的な愛欲(といいたいほど)の潜在願望であった。
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「誰よりもおとなしうていらんこと云ヘベんよって」という佐助選択の意思表示に、すでに春琴優越の態度の露出していた点を見落してはなるまい。佐助の行動も心理も、その一っ一っにすべて春琴の要請や願望が猛烈に先行していたことは、そして佐助はいわばその一つ一つを受入れ叶えて行くことで彼自身の性格ないし人格を獲得していたことは、先入観なしに素直に本文を読めば明かなところである。「師弟」という言葉が作品には最初から頻繁にあらわれる。ほとんど「主従」と同義語的に用いられてそったくもいる。一歩譲っでもいわゆる埣啄同機の二人とみえ、一事が万事、「元来さういふ(春琴の)素質があったところへ佐助が努めて意を迎へるやうにした」のがこの二人の奇しき相性というものであった。それとても概していえば春琴の誘導や主導に佐助が「察し」をつけて従うという図式を実に丹念に守っていたのである。佐助の「失明」にも、それが言えるか。もしそれが言えるのなら、すでにして千葉俊二氏らが説く「佐助犯人説」の如きは根拠をうしなうのである。春琴は一生に二度、失明と火傷との被害にあっている。佐助は「お師匠さまの御不運は全く此の二度くぜっの御災難のお蔭ぢや」と言うている。そう語る佐助の口説には「春琴女の不幸を歎くあまり知らず識らのろちゆうしんず他人を傷つけ呪ふやうな傾きがあり」と語り手に批判されてもいるが、佐助の春琴不運に対する衷心の同情や憤怒こそ胸に届いても、その佐助が敬ってやまぬ春琴の顔に湯を浴びせ火傷を負わせる犯行に及ぼうとは察しのつけようもない。作品はつねに綿密に直観され構築された力学や美学に支配されていて、事実佐助も一種のエゴイストヘと他ならぬ春琴により誘導され飼育されていたにせよ、厚顔なウソつきや恥知らずな悪人としては造
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形されていないことも確かなのであって、佐助を、思い付きだか面白ずくだか、無理無体な「犯人」に強引に仕立てての「読み筋」は、作品の根を強いてこぼつ異様不当の言いがかりではなかろうか。愛欲は春琴と佐助の物語の芯であろう。そしてその肉欲の間柄を最初に証して余りあるのは、春琴の妊娠であり出産であった。だが、それすらも春琴の意に佐助が従っての結果であったろうことは、最初の妊娠の時期から明確に言える。春琴の親たちが初めて佐助との「結婚のことを調した」際に春琴は断はか乎として拒絶している。しかも「何ぞ図らんそれより一年を経て春琴の瞳にだゾならぬ様子が見え」た。t・と佐助に春琴を犯して妊娠させる度胸も気も力もなかったのは明白であり、敏い春琴が親の意向に乗じて、「おとなしうていらんこと云ヘベん」佐助を誘惑した事情はありあり目に見える。だれも佐助をその意もずや味で疑わなかったことは、鴫屋の家中で「こいさんはどんな顔をして佐助とんを口説くのだらう」と噂していたことでも知れる。つまり佐助が専ら欲情したのではなく、むしろ春琴から佐助の体を「生理的必要品」めいて飽くなく先ず追求して行ったのであり、いわゆる「恋愛」ではなかったにせよ、なかっただけ余計に春琴を催していた愛欲.肉欲の根は深く早くから発動していたと断言できる。とりわけて佐助の「手引き」を春琴が望み、三味線の「稽古」を春琴から言い出して佐助を「弟子」扱いし初めたのも、すでにして盲少女が愛欲のはや初動であつだろうと見て差支えあるまい。「手引き」も「弟子入り」も佐助さえ望めば叶ったというようなことでは、ない。まして佐助には身分遅いの余儀なさもあり春琴崇拝の一念も強烈にご先立っていたのだから、かりに佐助の欲望を謂うにしてもよほど後れて、いっそ春琴からの手篭め同然あだかに遭うて初めて触発されたと想うしかない。しかもその間にも佐助は何かにつけ「恰も注意深さの程度
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を(初めいろいろと)試されてゐ」た。「片時も佐助に油断する暇」を春琴は与えなかったのだ。語り手は、佐助の、春琴に「同化しようとする熱烈な愛情」を疑いなく肯定している。稽古三味線をひそかに買い求めて物干台や押入で稽古を始めた佐助の気持ちにも、「唯春琴に忠実である余り彼女の好むところのものを己れも好むやうになりそれが昂じた結果」だと語っている。「音曲を以て彼女の愛を得る手段に供しようなどの心すらもなかった」とみているのである。春琴の「好むところ」を、佐助も「好むやうにな」る。春琴の「意を迎へるやうに」佐助から努める。このモチーフは慎重に繰返し物語のなかで語られている。「つまり眼明きでありながら盲目の春琴と同なし苦難を嘗めようとし、盲人の不自由な境涯を出来るだけ体験しようとして時には盲人を羨むかの如くであった彼が後年ほんたうの盲人になったのは実に少年時代からのさういふ心がけが影響してゐるので、思へば偶然でないのである」と語り手は推測している。多くの論者がここをとらえて佐助の「失明願望」の根拠に常に引用されるのはいい、しかし「さういふ心がけ」から佐助が意図して春琴に加害犯行に及んだという「読み」などすぐさま出せるわけが無いのであって、それならばよほど控え目にでも、と佐助の「さういふ心がけ」を春琴自身が受苦の自傷自害を賭してきわどく引出したという推測の方に、ぷ分がある。何故なら、佐助が失明したい願望に十分見合って、いなそれ以上に春琴こそが「老い」を自覚するにつれ佐助の失明を欲望したであろうと読める内証は、本文に、拾えばまこと数多いからである。
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単刀直入に「佐助犯人説」といわれるものへ、では、接近してみよう。野坂昭和氏は昭和五三年八月号『国文学』で『春寒抄』について、「決してこの作品は、佐助の純情物語、被虐的な献身の中に、喜びを見出すといったお話ではない」と書かれた。そのようなお話にも読まれ易かったのは事実なので、この指摘に私は異存がない。しかし「むしろ、男の、まことに得手勝手、エゴイスティックな気持を、あますところなく描きつくす」作品とされたのは果してその通りだろうか。私は説得されなかった。論証が何もなかったからである。だから「春琴に火傷を負わせたのは、佐助であろう」といきなり出られて困った。「(春琴を佐助が)殺してしまうことが、(佐助が春琴を)所有するためにいちばんいい方法かも知れないけれど、この男は、さらに肉欲の満足にふさわしい方法をえらんだ」といわれる、その半分は分る。「眼底に刻みこんだ、春琴の美貌」を盲人が手さぐり舌なめずりの触覚に永遠に籠めて「わがもの」としたい思いの深さは、作者が『盲目物語』の谷崎であればひとしお想像もつく。だがかりに佐助の犯行を認めるにせよ「殺してしまう」という「いちばんいい方法」のそれが二番手の方法というが如きものであるのだろうか。佐助は春琴を「所有」や「肉欲」でのみ眺めていた「まことに得手勝手」な男と、果して「あますところなく描きつく」された作品で『春琴抄』が本当にあるだろうか。そんなふうに読めるだろうか。けっして読めない。そんな面白ずく思い付きの読みで『春琴、、抄』の世界は維持できるものでない。「佐助犯人説」は論証のない感想を語っているに過ぎない。「昭和八年」の谷崎には、何をおいても『春琴抄』は春琴に根のある作品でなければならず、春琴を立てて描く一方法として、ひざまずく佐助を表に描いていたのである。そう描くことが当時捨子「春琴」
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に全身で迫っていた谷崎「佐助」の、強烈な芝居気であり創作の気迫でもあった。傍証は豊富にある。しかも私生活における谷崎がかりに「エゴイスティック」であったかも知れぬにせよ、だから『春琴抄』の「佐助」もそうであったとは言えない。作中人物は作品に応じて読まねばならず、その限りで野坂氏のいわれるような無茶苦茶な「男」佐助は本文の表現に即しては到底論証されがたいであろう。そもそも、そのような殺意すら抱いたような悪意の佐助を、知らぬ顔で受入れうる防禦的なマゾヒズムは、だれより春琴が持ち合せていない。春琴こそ、佐助を「殺して」でも佐助を「所有」したいと考えていただろう、「所有」欲と「肉」欲とで完全に佐助を「わがもの」にしたかっただろう。迫る老いと孤独の地獄苦をひしひしと予測しながらいらだち怯えて決定的な「機会」を待っていたのは、明かに佐助よりも春琴の方であったと読んで自然な物語に『春琴抄』は出来ている。佐助が真実得手勝手で下心のキツい「男」ならば、春琴が老いて醜くなれば、他の女へ走っても済むのだ。さて多田遊太郎氏も昭和五四年の著書『自分掌』のなかで「佐助犯人説」を書かれている。「なぜ佐助がそんな大それたことをやったのか。佐助は暗黒の世界に生きたかった」からだと、ある。失明願望である。氏はそんな佐助の背景に、谷崎が同じ昭和八年に発表した『隆男礼讃』との脈絡を見ておられる。「その根本的なものは、光に対する恐れと嫌悪であり、光から逃れようという衝動である。光の世界から自分を断ち切ってしまい、闇の中で二人で暮らす。そうすれば、お琴は佐助だけのものになるし、お琴は永遠にその美しい姿を佐助の心に刻むことができる。言いかえると、いわゆる高等感覚を切り捨て、触覚という劣等感覚によってのみより高い世界に生きることができるというアイロニーが、ここにはひそんでいる」という具合に。
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多田氏の説は、だが佐助が犯行をあえてするいわば「現場」の真実感(リアリティー)とはいっこう触れ合わない。なにも春琴に対し「犯行」をあえてしなくても「失明」を自身決行すれば足りそうな議論でしかない。論証は何もない。もしも幸か不幸か春琴が顔に火傷をついぞしないで人生を終っていたなら、佐助の「失明願望」なり「光明拒否」はどのようにして満たされたというのか。結局佐助の側からはこの問題に処置はつけられず、づけるとすれば犯行に及ぶしかなかったというわけか。それならそれなりに、根拠のある説得と論証が待たれる。必要である。そもそも多田氏も佐助佐助と佐助の「失明願望」へ話を急がれるばかりに、春琴の「心理」にはいっこう考え及ぼうとされない。春琴と佐助の相対化の手続きがまるでない。繰返して言うが、佐助を己れと同じ闇の世界へ誘い入れたい春琴の潜在願望は、佐助のより根も深く切実に切羽つまっていた。佐助を失明願望へ誘い込んだのも春琴その人であったぐらいは読み取らねば、なにが『春琴抄』読みかど私は思うのだが、どんなものか。そして佐助の失明願望すら春琴の意向を措いては語れぬとなれば、「失明」したいがための「犯行」などとは、やはり、筋ちがいも甚だしい。いったい、犯人などだれかを問わずに事柄だけを順に読めば、先に春琴火傷があり、実に「二箇月以上」も後れてやっと佐助の失明が実現している。佐助の側から火傷と失明とに密接な因果関係を言うには、この「二箇月」はあまりに微妙で、失明を目的の犯行を謂うには、逆に否認材料としか読めない。そこで、では、春琴の側から佐助を失明へ導きたいとして、これには、どんな方法が可能か。小説の美学・力学を無視して無茶をいえば、いきなり「佐助、おまえもどうにかして盲になっておくれ。えい、ならないか」と強要も出来よう。が、佐助が「いやでござります」と逃げてしまえば修復不
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可能な悲惨な事態に陥るのは春写本人なのである。強いてはならない、うまく誘い入れねばならない、それには相当の場面が用意されねばならないが、まさか佐助本人には頼めず、さりとて誰が手伝ってなどくれようか。しかし春琴こそが、佐助の眼をふさいで己れの美貌を男の内面に永遠化したい、そして夫婦二人で至福の「闇」に暮したいと願う、いわ、、、ば絶対の希望者であった。そうであればこそ、決定的な好機を狙い打ちしての文字どおり一期一会の購お上けが、「春琴自身の手で」用意されるしかなかったことも、凡そ、明白である。春琴は矯慢な少女の昔から、常にそうした「用意」で、丁稚の佐助とんを伴侶たる「佐助」へと創り上げて来たのだ。
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では千葉俊二氏はどう「佐助犯人説」を紹介し肯定されているのだろうか。氏もまた佐助の「失明願望」につよく関わって『春琴抄』を読まれている。「つまり佐助がみずから目を突くことの裏には少年の日に芽ばえた失明願望があり、しかも春琴が火傷を負うことと、佐助が目を突く行為とは不可分一体の関係にあったのである。とすれば、春琴に火傷を負わせた犯人は佐助であったと見てほぼ間違いないだろう。少なくともそう読み切ることで、作品に一貫性を与えることができるし、作者が佐助に託した理想実現のための非情なまでに厳しい想念も窺い知ることができる」と千葉氏は説かれるのだ、が、厳密を旨とする学者の説と思い難い、それこそ永栄氏のいわれる甚だ「一方的」な結論で、そんな「一貫性」などは私には簡単に認められない。
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作品において、先ず、春琴の火傷と佐助の失明行為とは「不可分一体の関係」などには、ない。「二箇月」もの長い間隔で両者ははっきり隔てられており、しかも佐助が積極的に失明へひた走った形跡もない。それどころか事故当初乗、春琴から、佐助へ、「見るな」という拒絶や懇願や表明や暗示が何度となくなされている。佐助はとっおいっそのっど愚直に思案を重ね重ね、その挙句、っいにみずから目を突くという行為に到達するのである。佐助をして失明へ誘い入れて行く主体は、事故後においてすら春琴その人なのであり、佐助は明かに誘導を受けて痛々しい失明を敢行したのである。「とすれば、春琴に火傷を負わせた犯人は佐助であったと見」ることなど、本文にも行間にも何らの根拠もない。千葉氏はさきの「不可分一体」について、そんな事実経過の間隔のことなど問題ではないのだと抗議されるでもあろう。氏にすれば春琴と「同じ闇の世界を所有したいという意識が、やがて(佐助の)失明願望へとつながるのだが、佐助の春琴との全き一体化という理想実現のためにはこの失明こそが必須の条件であった」からだ。「が、病気などの不意の事故で失明したのではそれは意味をなさない。春琴が一生に一度の大韓といってよい災禍に遭ったればこそ」佐助の失明行為も実現する、即ち「一体不可分」だといわれる。氏もまた専ら「佐助」のことばかり考えておられる。が、佐助が目を突いた、自分もまた失明したと春琴に報じたときに、「佐助それはほんたうか」と声をのんだ春琴の気持ちはどう読まれたか。春琴はこの瞬時に命がけの或る"賭け"に勝ったのではなかったか。敢えて繰返し言うが、そもそも佐助だけが=体化」を望んでいたのではない。じつに佐助の比でな
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く、春琴の慣熟した女の愛欲は、師匠であり女主人である優位をも十分勘定に入れながら、どのようにして佐助の心と肉とを完全にとらえ切れるかを願望し欲望していたと見るべきであろう。その意味でも「三十七歳」の春琴は、幸い十も若く見えていたにせよ、まことにあやうい瀬戸際にすでに立って、位き上しゆう助の己れに対する去就に無関心ではおれなかった。春琴にすれば絶対に佐助はもはや手放せない、日常生活でも性生活の上でも。そして佐助が己れを見捨てて行くとすれば、老醜のゆえであろうと春琴が思うのも無理はない、もう、まさにアトの無いところへ「うば桜」の春琴は立たされていた筈である。千葉氏の所説ですぐさま納得しかねる「読み」がある。氏が、『春琴抄』一篇の「主眼は、目を突くことそれ自体にあるのではなく、むしろ目を突いた後の佐助を描くところにあった。その意味で『春琴抄』は、佐藤春夫のいうように『佐助抄』であり、『佐助の失明によってはじまるとさへ言へる』のである。その前半部分は要するに佐助失明に至るまでの事の順序の説明にしか過ぎないしとされる点である。さぞかし小説家谷崎潤一郎は心外の思いをしているであろう。これでは、小林秀雄いわく『春琴抄』の多くの人を魅惑する「第一の秘密は、あの作品が完全に実に完全に想像の世界、言葉の世界といふものを築きあげてゐる処にある」との批評を取上げて、「この作品の担う文学的価値を正当に評価した」とする千葉氏自身の「評価」とは著しく撞着し矛盾している。これだけの作品の、「前半部分は要するに佐助失明に至るまでの事の順序の説明にしか過ぎない」のであれば、創作の秘儀の核心に完成された完全な.言葉の世界」即ち表現と語りの精妙趣まる「魅惑」を、、評価した小林秀雄の評価と、千葉氏の評価とでは、芸術的評価に雲泥の差が出てしまう。
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さらに加えて『春琴抄』を「春寒抄」として読む努力を実に安易に放棄し、佐藤の「佐助抄」説に千葉氏は便乗している。原点にかえってもっと素直に本文を読むべきではないのか。少なくとも作品は春琴と佐助とをありあり「共演」させているのであって、そこにもおのずと軽い重いの差はあろうにせよ、作者の作意を無視して佐助の側から「一方的」に裁断した「読み」を組立てるなどは、学者研究者として誠意と責任ある、妥当な『鑑賞』とはとても言えない。私の「読み」でも、この作品の「主眼」は、佐助が「目を突くことそれ自体にあるのではな」かった。しかし以下千葉氏の「読み」とは真向から衝突するが、私が見る所の谷崎全力の「表現」の妙は、佐助がついに目を突くに至るまでの春琴と佐助のまさに「世の仲」を、文字どおり「さしつさされつ」の間、、、、柄を水も漏らさぬ筆致で精妙に描き出し、しかも必然自身で目を突かせてまで佐助を失明させねば済まなかった春琴の「めくら」の不安と「眼明き」への嫉妬とを描き出し、さらには恐らく「自傷什自害」を賭してまで佐助失明の成就を迎えとることが出来た春琴の大きな喜びと、その喜びを自身の大きな喜びと成しえた佐助の喜びとをも併せて隈なく描き尽くすこと、にあったと私は見ている。その上で一読者としては、春琴とその叙述や表現に、佐助を圧倒するほどの魅力を覚えている。春琴の表現が圧倒的であればこそ、佐助の面白さや異様な不思議さもまたみごとに生かされていると読んで、いる。『春琴抄』の世界は春琴の掌そのものであり、佐助は当初からクライマックスに至りさらに没後に至るまで、終始その掌の上で春琴の意向と誘導に応じ、意を迎え、方々遺漏なく勤め上げ演じ通しているのだ。それらは行文に照らして明白で、だれもが内証を豊富に拾い上げられるだろう。むしろ一つ言い添えたいのは佐藤春夫の「読み」である。
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佐藤が谷崎を深く識ること、言うまでもない。しかし谷崎その人への関心の深さがこと『春琴抄』に関しては裏目に出ていた。この作品の場合は、成ろうなら「昭和八年」当時の谷崎の私生活、ことに摂津捨子(後に谷崎夫人)の意味合いをも承知していた方が、よかった。よくはあったが、それを谷崎らは当時慎重に、ことに佐藤家方面へは秘めてもいた。さしもの佐藤も秘められた深い事情には十分通じえなかったし、かりに通じていても佐藤がそれを、より「谷崎」本位に見てしまったであろうとは察しがつく。佐藤の関、心は一貫して谷崎に重く松子には軽い。佐藤もいろいろの伝聞や見分から、つい『春琴抄』に谷崎の当時を投影して読んだであろうし、そうなれば自然「佐助」の動きに心を誘われっづけたであろう。まして佐藤だけが知っていたような、この作品とトマス・ハアディ作の『クリーブ家のバァバラの話』との濃い縁なども、友人として、また同じ作家同士の関心からも興味深くよみがえっていたに相違ないのだから、佐藤が『春琴抄』をついつい「佐助抄」的に読みがちではあっても、これは情状を酌むに値する。しかし千葉氏は違う。作家でも評論家でもない氏は『春琴抄』生成の事情を佐藤春夫よりも今や「谷崎学」者、指導的な研究者として知悉している。それなのに「春琴」の側からも「佐助」を相対化するという当然の検討、「春琴」が作品に占めている主導の重みの測定を、なぜやすやすと怠るのか。千葉氏は言われる、「顔を傷つけられた春琴が、その誇りを失い、気が挫けてしまったにかかわらず二人が正式に結婚せず、あくまで主従関係を守ったのも、もっぱらその理由は佐助側にあった」と。本文のどこにも春琴が「誇りを失」ったとは読めない。「春琴の方は大分気が折れて来た」「佐助はさう云ふ春琴を見るのが悲しかった」とあるだけで、それすら「佐助自身の口から」出て身に引き付け
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た推測であり、春琴自身の意思表示ではない。そもそも春琴に「誇りを失」わせたのでは、佐助の思い以上に『春琴抄』という作品が破産してしまうではないか。谷崎はそんな破綻を安易に見せる仕事はしていない。「されば結婚を欲しなかった理由は春琴よりも佐助の方にあったと思はれる」という物語り手の言葉をも、実は千葉氏らは大きく誤解されているのである。ここで、「もし」「春琴が災禍のため性格を変べてしまった」「としたら」と語り手は慎重に慎重に条件を付け、その上で「さういふ人間はもう春琴ではない」とことわっている。『春琴抄』の語りの特徴の一つは、絶えまなく或る推測や条件を前提にしておいて、それを否定するような肯定するような態度のままにまた次の別の前提や条件を喚び起しては、さらにまた揺れ動いて行くという、京ことばで謂えば「違うのと違うやろか」式の含んだ日本語を駆使するところにある。そう言葉にして言われているのだから全部その通りなのだとも、全部その逆だとも言わせず読ませない段取りのなかで、いつ知れず真相を「表現」して行こうとする。『夢の浮橋』や『藍刈』の場合と全く同じく、谷崎がこの作品で特段に駆使した方法は、寺田透や伊藤整らが指摘した、それなのである。したがって千葉氏が「さういふ人間はもう春琴ではない」とある文句を、佐助や語り手の「一種冷酷なまでの認識」のように思うのは先ず措くとして、それすら語り手の少なくも推測を超えてはいない。佐助の心証が確認されている訳では、ない。だがそれは、そういう方法で語られている以上、読者がよく注意するしかないのであって、問題は、この場合注意深く読んで、なおコ種冷酷なまでの認識Lといった千葉氏の判断が妥当かどうかであろう。氏はこの「認識」とやらを指さして、「佐助が今も見つづける『美貌の春琴』のイメージを破壊しな
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いがためのエゴイズムであった」と断案されるが、果してそうだろうか。逆転させて「一種壮絶なまでの拝脆」とか「最愛の情」とかすら読める体のもの、少なくもその可能性の十分ある表現とは取れないか。佐助の「得手勝手」「エゴイズム」ばかりがここに露出しているとは私には読めない。たしかに「佐助は現実の春琴を以て観念の春琴を喚び起す媒介とした」ではあろう、しかし、それは先にも説くように佐助の「得手勝手」「エゴイズム」からではなかった。正しくそこへと、春琴が、佐{■ζ助を、誘い入れることで春琴自身の永遠の確保を画策していたのだし、聡くもその「意を迎へ」た佐助が、春琴と「対等の関係になることを避けて主従の礼儀を守ったのみならず前よりも一層己れを卑下し奉公の誠を尽して少しでも早く春琴が(火傷の)不幸を忘れ去り昔の自信を取り戻すやうに努め」たとあるのは、佐助の情愛の深切を、少なくも悪意になど出たものでないことをこそ謂え、春琴の面上に危害を加えて平然として情を交すような凶悪な佐助など、どこにも何ら「描き尽されしてはいない。うやうやむしろここで言及され暗示されている大事は、佐助の春琴を待つこと恭しい、それほどまでの拝脆と受容の、いわば佐助マゾヒズムの徹底深化の程であろう。それもまた春琴の久しい仕向けのみごとな効果として描かれているのであり、そう読んでこそ前半部分も後半部分もない、この運然たる蘂術作品を「一貫」した本筋が読み取れるのではないか。改めてここで言うて置きたい。日本語は、古典語の昔から、物・事・人の関係や輪郭や状況を明確に描き出そうという手段としては機能していなかった。余儀なくぽかし・かすめ・むしろ言い足りないまま・言わないままに言い知らせる性質の言語であった。「分る人には分る。が、分らん人にはいくら言
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うても分らん。だから強いて言おうとせんでもいい、察してくれればいい」のであると、例えば春琴などは佐助に対して思い定めていた筈である。そういう場面はいくらも見える。前作の『藍刈』にも随処に見えていた。それどころか「春琴と佐助」の芝居を現実生活の中で現に共演していた当時の根津夫人と作家谷崎との間では、そのような黙約黙契が創作の推力にもなっていた。日本語の性質は基本的に古典語の昔と変ってはいない。それを近代の作家のなかでも誰より谷崎は深く正しく承知していて『文章読本』の一つの柱とも立てていた。それが『春琴抄』創作の時期にひたり重なっていた。谷崎は、事実を隠して真実を表現するという魔法に、外でもない昭和七年作の『盧刈』の頃から興味を募らせていた作家である。魔法の精妙さに、読者は久しく、例えば「お遊さん」を藍間で物語る男が、彼女と「慎之助」との子であり作品そのものがみごとな「母恋い」を成していた真実に気づけなかった。作中に繰返し男自身の言葉として、自分は、慎之助とお遊さんの妹「お静」との仲に生れた子だと言わせであるからである。読者は、当人がそう言うのだからとつい鵜呑みにしてきた。その結果、それならば何故に生みの母で」''uもない伯母、唄に起居した記憶すらないような伯母の「お遊さん」をかくも熱烈に恋い慕い、その伯母と父との恋物語を亡霊同然に水無頼河原にまで何故あらわれて人に語るのか、あまりに不自然ではないけりかと思い至れないで来た。谷崎は、作中の「男」も、この点を合点せずには『藍刈』一篇の「晃がつきことわませぬから」とわざわざ理っているのに、である。だが、谷崎の魔法は現在はもう解かれている。
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隠して言い、言わずに示す。その日本語の性質に根ざした谷崎の魔法は、『藍刈』にきびすをっいで書かれた『春琴抄』では一段と凄い含みで巧まれていると私は見る。『春琴抄』を「春琴抄」の原点に戻って正しく読む、それだけの努力でこの魔法は、だが溶けるのである。春琴を火傷させたのは、作品をていねいに読めば読むほど春琴自身しかいない、引き算しても他に、残らない、のである。それを、はっきりさせよう。千葉氏は『春琴抄』の技法にこと寄せて作者の苦、心や工夫を、佐助が「みずから針で目を突いてまで醜貌に変じた春琴を見まいとし、過去の『美貌の春琴』を心眼にとどめおこうとする佐助の一種ありうべからざる異常の心理を、いかにリアリティーを保持しながら描き切るか」にあったと説かれる。技法のことは措く。「読み」に絞って考えれば、氏は、大きな一点を見落とされている。「見まい」、、、、、としてに相違はないが、それは決して佐助ひとりの意思ではない。それどころか、春琴が佐助を縛る「見るな」の禁忌が実に動機になっているのである。佐助の失明は実に「見るな」の禁忌に「見ない」おおど応じた物語であり、巻末山武山和尚の一句は、挨して夢し返す、挨拶厳しい両者の「禅機を賞ししているのである。少なくとも作者はそう望んでいる。火傷の直後に春寒は苦しい息の下から「わての顔を見んとおいて」と佐助に先ず何よりも禁じ、「顔を隠さう」としている。「誰にもわての顔を見せてはならぬ」とうわことを言うのも、誰でもない佐助
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は見てはならぬ意味であったことは、佐助がどうなぐさめても「気休めは聞きともないそれより顔を見ぬやうにして」と「云ひ募」っているのでも知れる。そればかりか、傷も癒えかけたある日になって春琴は、「佐助お前は此の顔を見たであらうの」と問いつめ、「余人は兎も角お前にだけは此の顔を見られしたくないと「つひぞないことに涙を流し鰯帯の上から頻りに両眼を押し拭」ったという。、、実にこの時であった、というより、漸くこの時になってからであった、佐助が「ようござります、必ずお顔を見ぬやうに致します御安心なさりませと何事か期する所があるやうに云った」のは。火傷後集に「二箇月」を経ていた。ここに「期する所」とは、佐助がみずから手を下して自分の眼を突く、失明の達成を指していた。同時にそれは春琴の願望の達成でもあった。「佐助それはほんたうか」、ふるほかその「短い一語が佐助の耳には喜びに標へてゐるやうに聞えた。」そして「唯感謝の一念より外何物もない春琴の胸の中を自.つと(佐助は)会得することが出来た」「今迄肉体の交渉はありながら師弟のひし差別に隔てられてゐた心と心とが初めて舞と抱き合か一つに流れて行くのを(二人は)感じた」と語り手は、そして作者は語るのである。カこの作者は心憎くもこう語るその間にも、さりげなく、「それにしても春琴が彼に求めたものは斯くカの如きことであった乎過日彼女が涙を流して訴べたのは、私がこんな災難に遭った以上お前も盲目になかそんたく、、、、つて欲しいと云ふ意であった乎そこ迄は何度し難いけれども」と、巧みに語るに落ちた.落とした暗示を挟んで、そしてすぐ「佐助それはほんたうかと云った短い一語が佐助の耳には喜びに標へてゐるやうに聞えた」と続けるのである。
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これだけでも春琴の真意、仕向けの如何なるものであったかが分るが、その上に、春琴は佐助に対し、、、、「よくも決、心してくれました嬉しう思ふぞえ」と出違い以来初めて感謝の言葉をかけ、「ほんたうの心ほか、、、、、、、を打ち明けるなら今の姿を外の人には見られてもお前にだけはみられたうないそれをようこそ察してくれました」とまで言い切っている。これは、当り前の言葉かのようで、その含みは実に大きい。いったい春琴火傷の真相は、ほかならぬ佐助にもむろん春琴にも分っていた。火傷の起きた晩の経過や描写や証言をよく読めばその事はおのずと知れる。この物語で、そもそも春寒の火傷を誰やら「賊」の仕業めかして最初に口にしているのは他ならぬ春琴であり、それも「佐助々々わては浅ましい姿にされたぞわての顔を見んとおいて」という、まことにかすかな「されたぞ」の受け身の物言い一つで、であった。{ぎかき『春琴伝』といわれる多分に佐助の意を体した聞書が、しかし、本文ではこれより先に出されている。はっきり「賊」の仕業であるかに書かれてある。だが語り手は『伝』の記述をあまり信用できないとも言うている。しかも春琴の受難が誰かしら「賊」の悪意によるものであろうことも、手をかえ品をかえて「違うのと違うやろか」式に十分に読者に吹きこもうとしていた。その上で結局はそれら全部をほぼ否定し否認して、一切真相は判然としないのだと投げ出してさえいる。しかし、いかにも「賊」の仕業だろうなと思わせるように、ここまでに語られて来ている。あげく「詳細な当時の事情が漸く判明」したとして、佐助の言を伝えた「側近者」の語り手に対するごもっと証言にしたがい、「火傷」一件がついに語り出される。『藍刈』の男が、「御尤もなおたづねでござりけります、それを申し上げませぬことには此のはなしの亮がつきませぬ」と謂うたのと全く軌を一にしてい
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るのだ、注意深く読まれたい。
ねや春琴が兇漢に襲はれた夜佐助はいつものやうに春琴の閨の次の間に眠つてゐたが物音を聞いて眼を覚ありあけあんどんうめますと有明行燈の灯が消えてゐ真つ暗な中に坤きごゑがする佐助は驚いて跳び起き先づ灯をともしてその行燈を提げたま?屏風の向うに敷いてある春琴の寝床の方へ行つたそしてぼんやりした行燈の灯影が屏風の金地に反射する覚束ない明りの中で部屋の様子を見廻したけれ共何も取り散らした形跡はじ上くちゆうぎやうぐわうんうんなかつた唯春琴の枕元に鉄瓶が捨て?あり、春琴も菖中にあつて静かに仰臥してゐたが何故か吠々とうなうな坤つてゐる佐助は最初春琴が夢に魔されてゐるのだと思ひお師匠さまどうなされましたお師匠さまと枕元へ寄って揺り起さうとした時我知らずあと叫んで両眼を蔽うた佐助々々わては浅ましい姿にされみもだたぞわての顔を見んとおいてと春琴も亦苦しい息の下から云ひ身悶えしつ?夢中で両手を動かし顔をかほ隠さうとする様子に御安心なされませお貞は見は致しませぬ此の通り眼をつぶってをりますと行燈のゆる灯を遠のけるとそれを聞いて気が弛んだものかそのま?人事不省になつた。
気が付かれただろうか、先の「されたぞ」を除けば、ここには異様なほど「賊」のけはいが無い。こしのびい『伝』には有る「何者か雨戸を挟じ開け」「忍入り」「一物をも得ずして逃げ失せぬと覚しく」とか「此の時賊は周章の余り」とかいった騒々しい気配はかき消えたようにこの叙述には無い。それどころか部屋の中は異様に静かで、ただ春琴は坤いてはいるけれど、熱湯の鉄瓶を「賊」に投げつけられたにねしては「取り散らした形跡」もなく、寝床のなかで「静かに」仰向いて臥ていたというのである。
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鉄瓶は春琴の「枕元」に捨てられていたというが、この表現から鉄瓶に手の届く範囲には、むしろ「賊」よりも春琴当人が「静かに」臥ていたのである。外からの「賊」が春琴を傷づけたという建前は、かくて「語り」の「カタリ」であった、魔法であった、と見捨ててよい。上の長い長い一文の中で「、」が打たれているのは、「鉄瓶が捨て、あり、春琴も葺中にあって静かに臥してみたが」という、微妙な暗示にさも「気がつかないか」と言いたげな、ただ一箇所だけなのである。この春琴は、火傷の苦しみに坤いてはいるものの、「賊」に襲われた狼狽や憤怒や抗争とは無縁の或る「覚悟」をすら漂わせて、佐助が馳せつけるのを呼びもせずじっと待っていた。そして「熱湯」の「鉄瓶」のそばに、今や残るのは「春琴」と「佐助」しかいない。「佐助犯人」か「春琴自傷H自害」か。むろん「自害」といってもここでは自殺行為ではない、「加害」「被害」との比較において謂う「自傷」の意味、春琴が自身手を下して顔に湯を浴びた意味である。あんなにも作者がいろいろの可能性を列挙しながら、一切をあいまいに読者の前に投げ出してみせたのは、他でもない、ここのこの真実を「読め」「読めるか」という、谷崎ならではの、挑発にも等しい誘いであり心見でもあったろう。もずやさて春琴の美貌がいわれて久しいのだ、が、彼女の失明は九歳の折でその直後に佐助は鴫屋へ奉公にあが上った。むろん春琴は「四人姉妹」の上から二番めで『細雪』の幸子に、というより根からの松子夫人ていに体よくなぞらえられて、佐助の眼には華やかの限りと見えたであろう。とりわけて春琴ひとりが美貌であったかどうか、「最も器量よしといふ評判が高かったのは、たとひそれが事実だとしても幾分か彼
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女の不具を憐れみ惜しむ感情が手伝ってゐたであらう」、また春琴にしても鏡を見ていたのは幼女の頃をおいて無かったのだから、「美貌」は自負していたにもせよ、その自負自体がむごくいえば幻想に近いものではあった。春琴はそれによく気が付いていた。親に死なれて代替りのした鵬屋の庇護は年々に薄くなり、加えて春琴の気質もわざわいして音曲指南の実入りとて佐助の助けがなくては維持もあやうい。さらには日々の暮しに昔ながら佐助の「手引き」は万事に絶対に欠かせないし、「夫婦生活」も不可欠のものとなっていて、もともと愛欲の濃い春琴には佐助を見失えば、たちまちに孤独地獄に陥ってしまう。だが、それほどの佐助を引付けておく上で「美貌」の魅力に満幅の信をおくには、「老い」の到来の遠からぬを待つにつけ、甚だはかないものと真実嘆かれたであろう。だからこそ必死のいきおいぷんで、「師弟」「主従」の分に春琴はしがみつきもした。上ろこたまたましかも「分けても彼(佐助)が年若い女弟子に親切にしたり稽古してやったりするのを澤ばず偶ζさういふ疑ひがあると嫉妬を露骨に表はさないだけ一層意地の悪い当り方をしたそんな場合に佐助は最も苦しめられた」というではないか。佐助は「眼明き」で春琴は「盲目」であったこの決定的な差を、佐助の方では「意」も迎えて失明願望へと育ててはいたものの、春琴にすれば超えようのない佐助に対する負い目、引け目でしかなかった。「佐助どんは可哀さうぢや」と「眼明き」の佐助に反語を弄した昔、せいがんきざすでに春琴の晴眼佐助に対するいわば愛憎の念は兆していたと読んでいい。佐助が失明を無意識にも願い「盲人」の世界をむしろ羨んだ気持ちと、佐助を失明させて自分と同じ闇の世にぜひ引き込みたかった春琴の切なる願いとの間には、同じ「失明」の一語とはいえ全く逆方向の力が働いていたのである。いま少し「美貌」にこだわって言おう。そして「佐助犯人説」に即して言おう。
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すすんで盲人となり触覚の快楽へ佐助は身を投じたと説かれている。それが「犯行」の動機の一つかのように説かれている。が、大火傷といわれる春琴のその顔の手ざわりは「犯人」佐助の快感を高めたであろうか。無残なケロイドが触美を格別に高め得たのであろうか。そしてそのつど佐助は、「犯行」に及んだ「あの時」の春琴の苦痛を思い出しては闇のなかで快感に身をもんだと千葉氏らは言われるか。かの「武州公」ならぬ彼佐助を、作者谷崎はそれほどに陰険・極悪のサディストとして、「リアリティー」豊かに「描き切」り「語り尽し」て矛盾は露みせていないなどと、本気で読まれているのか。それは顔ではない、佐助が有難がるのは例えば春琴の「足」なのだからと、例の谷崎好みをもち出されるかも知れない。事実『春琴抄』にもそのような場面はちゃんと描き込んである。「足」であるならば「美貌」「美貌」といい、その永遠のイメージを「確保」「保存」するために佐助が失明をあえてしたという説得は、忽ち力失せる。だいいち性生活の際に、当時の家屋や照明なら、まこと容易に得られる闇でもあった。ただ触覚の快楽をいうだけなら、なにも佐助は大事な「お師匠さま」を傷つける必要なく、事実彼がよくするように「目をつぶって」でもある程度は可能、灯火を消して闇間にもろともに沈み入るだけでもかなり可能なのである。すこしく買い言葉めくが、それをすればどう老いようとも「美貌」の記憶を、顔の肌のやさしさにより長く保存し確保も出来ただろう。佐助に「美貌」への強い欲望があったというなら、顔肌を焼く「佐助犯人説」の破綻は余計に目に見えている。「佐助犯人説」には、しかし、春琴にたいする佐助の「報復」という説のあるのも、私は知っている。「報復」と「肉欲」とを一気に解決し満足するための「犯行」「失明」なのだという。果たしてそれで『春琴抄』全篇を通じ、作品の力学・美学が維持できるのか。矛盾しないか。作意にも則り、本文にも
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即して、思い付きでない論証がぜひ望ましい。学者が論証ぬきに印象だけを語っては困る。「佐助犯人説」の今一つの大きな弱点は、春琴の感覚の鋭さについて、都合よく目をつぶっていることである。私は人間の「気配」を感じる能力に関心と感嘆を覚えているが、いわゆる通俗のスリラーやサス。ベンスものは、都合よくこの「気配」を消去することで成立っている例が多い。犯人がそこまで来ているのに、危険が忍びよっているのに、神経質そうな人物がいっこう「気配」を察しない。思わず笑ってしまう。上質の作品では、逆に「気配」のこわさを凄いまでに生かしている。ふしど春琴の感触鋭敏なことは、言うまでもない。その春琴が、火傷はおろか一人伏戸の内に眠っていて、外敵もさりながら、世界中の誰よりも心得ている佐助の気配、足音、匂い、に全く気もっかずいぎたなく寝入っていた乱暴されたとは信じ難い。まして熱湯を注がれてなおそれが佐助の気配か佐助ではなかったかに気の付かない春琴とは考えられない。またそうした春琴であることを知らぬ佐助でもない。公表し断言された干菓俊二氏らの「佐助犯人説」は、どこからどう検討しても存立の基盤をもはや失っている。成立つと錯覚された向きは、即一点、『春琴抄』を自然にさからい無理に「佐助抄」と読みたい視野狭窄に陥ったからである。『春琴抄』は春琴・佐助の物語で、佐助ひとりの物語ではない。
八
…力カー「何故春琴は佐助を待つこと斯くの如くであった乎。」
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ここの「待つ」とは「待遇」の意味が表にあり、その裏に「期待」の意味も汲みとっていいかも知れない。春琴の側から佐助へ思い入れたコ切」をここに一つの設問として、作者谷崎は例外的に短い一カ文で突きつけている。彼が「乎」の字を用いて読者に反問している箇所はみな要注意で、含みが大きい。具体的にはここの箇所では佐助の子を事実妊りかつ産み落していながら、けっして「夫婦」になろうとしなかった春琴の態度について触れているのであるが、従来の『春琴抄』鑑賞ではここでも谷崎の語りにどうもカタられている。ここも大事のところ故に、「斯くの如くであった乎。」の続きを、段落の終りまでやや長いが本文を引いてみる。
但し大阪は今日でも婚礼に家柄や資産や格式などを云々すること東京以上であり元来町人の見識の高キ、÷り一一い土地であるから封建の世の風習は思ひやられる従って旧家の令嬢としての衿持を捨てぬ春琴のやうな娘が代々の家来筋に当る佐助を低く見下したことは想像以上であったであらう。
ちょっとここで中断するが、ここに珍しく「。」が打ってある。一段落に相違ないのであって、これが先の「何故」に先ず応えての回答であることは確かだ。そして諸家はここをせんどとこの一文にとびついて、春琴・佐助「主従」「師弟」の超えがたい社会的・封建的な垣根の険しさを佐助の為に嘆いてこられた。「とすれば佐助を我が夫として迎べるなど全く己れを侮辱することだと考へた」と、多くの『春琴抄』論者も疑いなく考えてしまったようである。だが、それは谷崎の好みからすれば、余りに俗耳に入り易い表向きの回答ではなかったか。よく考えればそんなことならば春琴はついに、佐助になど
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身を任せなかったのではないか。作者は先に続け、あらたに文を起して、さらに一つのことを加えている。
びが又盲目の僻みもあって人に弱味を見せまい馬鹿にされまいとの負げし魂も燃えてゐたであらう。とすれば佐助を我が夫として迎べるなど全く己れを侮辱することだと考へたかも知れぬ宜しく此の辺の事めしたは上ぞ情を察すべきであるつまり目下の人間と肉体の縁を結んだことを恥づる心があり反動的に余所々々ししかかくしたのであらう。然らば春琴の佐助を見ること生理的必要品以上に出でなかったであらう乎多分意識的にはさうであったかと思はれる
ここで大きな段落が切れている。ていねいに、含みも豊かに、まさしく「違うのと違うやろか」と問いながら重点の在処を自在にズラして「推察」「洞察」を求めて来る語りの、妙。感嘆してしまう。結局のところ「封建の世の風習」の如き理由は意味を軽くされて、実は、いま一つの誰より佐助に対する「盲目の僻み」「弱味を見せまい馬鹿にされまいとの負げし魂」にここの焦点は合っていると読まざるを得なくなる。されば語り手は、かなりはっきりと前者否認の目的を匂わせながら、しきりと「かも知力れぬ」「宜しく此の辺の事情を察すべきである」「然らば……出でなかったであらう乎」「多分」「意識的には」「さうであったかと」「思はれる」などと、日に背いて己が影を追うような言辞を駆使するていのである。書いてあることしか読まない・読めない者は体よく化かされる、専門の読み手でも。盲目の春琴は、佐助を全面的にコっ」に受入れる上で決定的な障壁に妨げられていた。が、それを
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「代々の家来筋」といった「封建」的制約のようにしか読めぬとすれば、もはや小説の読み手としてむしろ、専門家たちよ、恥じたがよい。「家来筋」の佐助が「眼明き」である事こそ、主であり師である「盲人」春琴には堪えられない「侮辱」であり不如意・不本意なことであった。「いつも眼明きと同等に待遇されることを欲し差別されるのを嫌った」春琴は、他の誰によりもそれを陰に陽に佐助に対し要求しつづけた。自分の眼が二度と開くことのないのを知ればますます佐助にも「盲目」になって欲しいとしと願う気持ちは、早く早くから兆していた。願いは、年齢三十七、春琴が花にも競うて美しい盛りを過ぎ逝かんとするにつれ、不安や恐怖ともなって日々に大磐石と化してのしかかっていたのである。、、、、、、、春琴は、今や佐助に賭けるしか生き伸びるすべがない。ではどう賭けるか。いつ賭けるか。「早晩春琴に必ず誰かゴ手を下さなければ済まない状態」に来たときに。あたかも「誰かゾ手を下」したかに見せることで。、、そこで佐助の愛はしたたかに心見られねばならぬ。受難の噂は、春琴に危害を加えたいほどの多くの悪意や善意を一気に払うであろう。問題は佐助が、春琴「自傷-自害」の意図に一世一代の「察し」を付けてくれるかどうか、だ。付けてくれなかったなら、春琴は死んだも同然、まさに「自害」同然に終るのである。ここに、本来「春琴抄」である一篇の面目がある。春琴は「見るな」の禁制を、あげて佐助に対するあだかも「禅の公案」と突き付けた。『春琴抄』全篇の「読み」を通してそれを確信する以外の道は、消去法的にも、もう何一つ残ってはいないのである。それにつけて気がかりになるのは、春琴が「自害」の程度、火傷の程度であり、作者はああでもない、こうでもないと確かな所を見定めていない。『伝』は「熱湯の余沫飛び散りて口惜しくも一点火傷の痕
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もとほくへきびかかがんぎよく上うを留めぬ。素より白壁の微暇に過ぎずして昔ながらの花顔玉容依然として変らざりしかど」としている。つまり春琴は「些細なる傷」を気に病んだというのである。ところが語り手はここだけはいやに断定的きたに、「事実は花顔玉容に無残な変化を来したのである」という。だがそれとて佐助弟子の「てる女そのあらかじ他二三の人の話に依ると」なのであり、その話というのが、例えば「賊は予め台所に忍び込んで火をまとも起し湯を沸かした後、その鉄瓶を提げて伏戸に聞入し鉄瓶の口を春琴の頭の上に傾けて真正面に熱湯を注きかけた」などという、ほとんどワザと偽りを広めるか無責任な噂を流すかに過ぎない話に拠っていけんぎ上うるのである。そして当然にも佐助検校は、そんなことには触れていない。彼は『伝』の筆記者に伝えたうめ程度か、ないし例の「坤きごゑ」こそすれ「蓉中にあって静かに仰臥してみた」春琴をしか語っていない。「てる女」にしても「佐助の志を重んじ決して春琴の容貌の秘密を人に語らない」とあるのが本当のところで、佐助先生は春琴さんを「始終業しい器量のお方ぢやと思ひ込んでゐやはりましたので私(てる女)もさう思ふやうにしてをりました」とある。いささかの批評は隠されている。が、事の真相は所詮春琴と佐助だけが知っていたと想像するほかない。春琴の覚悟からすればずいぶん思い切った「自傷什自害」の程度も想像されはする。だからこそ「皮膚が乾き切るまでに二箇月以上を要した」のだろう、が、それとて確かか、どうか。し十"むしろもっと気を付けて読みたいのは、佐助の失明以後に、言わず語らずに二人の口裏が「賊」の所為へと、演技的なまでに揃って来る微妙さである。ことに佐助の「意」の迎えかたは可笑しいくらいで、春寒の言葉とともに以下引用の価値は十分あろう。
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よくも決心してくれました嬉しう思ふぞえ、私は誰の恨みを受けて此のやうな目に遭うたのか知れぬがほんたうの心を打ち明けるなら今の姿を外の人には見られてもお前にだけは見られたうないそれをますようこそ察してくれました。あ、あり難うござり升そのお言葉を伺びました嬉しさは両眼を失うたぐらゐには換へられませぬお師匠様や私を悲嘆に暮れさせ不仕合はせな眼に遭はせようとした奴は何処の何者か存じませぬがお師匠様のお顔を変えて私を困らしてやると云ふなら私はそれを見ないばかりわるだくでござり升私さへ目しひになりましたらお師匠様の御災難は無かったのも同然、折角の悪企みも水のそやつわたくし泡になり定めし其奴は案に相違してゐることでござりませうほんに私は不仕合はせどころか此の上もなく仕合はせでござり升卑怯な奴の裏を掻き鼻をあかしてやったかと思へば胸がすくやうでござり升
これに対し春琴は直ちに、こう佐助を制している。「佐助もう何も云やんな」そして「盲人の師弟相擁して泣いた」と結ばれる。佐助は春琴の「自傷11自害」を察し、その「見るキ】十-な」の誘いを察し、ついに自身失明の挙に出て初めて春琴との間に「一体」の幸せをかちえた。それは春琴の望みそのものであった。春琴が仕掛けてそこへ佐助を誘い入れたのである。それを重々承知で佐助が「賊」のことをながながと語るとき、「賊」とは即ち「俗」世間の謂でもあったに相違ない。そのいへどあた壮絶、「聖人出づると錐も、一語を挿むこと能は」ないのであった。かくて春琴の物言いの静かさよ、「佐助もう何も云やんな」と。言えば分るというものではないのだ、言わなくても分る相手には分るし、いくら言うても分らん相手
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には分らない。春琴のこの思いは作者谷崎のそれに重なるものであったろう。谷崎と捨子夫人との類似の共演、むしろ共犯といいたいほど「芝居気」豊かな共演は、谷崎の作品や随筆や手紙にも、また夫人の文章や談話にも実に色美しく見えている。それを読み込むのが谷崎論の一課題ですらある。
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もう私も言うまい。永栄氏の力作を引くに至らなかったが趣意は汲んだ積もりである。語り手は、谷崎は、最期に読者に問う。がさんかんないげめぐら「佐助が自ら目を突いた話を天能寺の義山和尚が聞いて、転瞬の間に内外を断じ魏を美に回した禅機をし上ゐちかしゆこう賞し達人の所為に庶幾しと云ったと云ぶが読者諸賢は首肯せらる?や否や」と。しゅこう『春琴抄』は、全篇がこれ「読者諸賢は首肯せらる?や否や」の連続なのである。げあんたた佐助は、春琴の提題に、ついに、みごとに解案を呈示した。義山和尚はそれを称えている。しかし語り手は、谷崎は、佐助だけではないと言う。「春琴と佐助と」の二人して果たした禅にいわゆる「挨おおあいともたた拶」、挨しこみ拶しもどす応酬のすさまじいまでの厳しさを、相倶に称えて欲しいのだという気持ちを、しゅこう「と云ったと云ぶが読者諸賢は首肯せらる?や否や」と、更に押し返し問い直し反問を呈したのである。読者諸賢よ、首肯せらる?や否や。(一九八八年七月三十日)
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私語の刻(・頁,余白にLに続けて。)
思いのほか真数を要した。これ程たっぷりと作品論を書かせてもらえたのだ、幸運というしかない。小説『藍刈』には、めくるめく魅惑を覚えた。岩波文庫の星一つ、十五円。まだ中学生だった。「お遊さん」にイカレてしまった。だが、そのうちに同じ本の『吉野暮』の方が好きになった。理由は本文に書いた。なんだか、おかしい…、違うのと違うやろかと、ずっと思っていた。その多年の執着を書いた。捨子夫人もご一緒に、近代文学会で論旨を口演した日、会場は超満員だった。わたしが話し終わると、お元気だった吉田精一先生が、『藍刈』は「これ以外に読みようが無くなったね」と太鼓判を捺して下さったのを、嬉しく覚えている。但し未だに、母か伯母かは、どっちでもいいと言っている人があけりる。このこと抜きに話の「晃」は付かないと言っている「男」や作者の姿勢に、素直に直面できず、ただ異を唱えたいに過ぎまい。文学の「読み」に、そんなことはどうでもいい、どっちでもいいということなど、そう在るものでない。『夢の浮橋』『藍刈』『春琴抄』と読んでみれば、谷崎が物語の芯の「事件」の意味や読みを「どうでもいい」気で書いたわけのないことが、明瞭に納得できるはずだ。『春琴抄』のときは、「春琴自害」という元の表題が刺激的で、荒れ模様の論議が続出した。これも静かに読まれれば分かるように、「佐助犯人説」の論証なき横行は困る、それも「谷崎学」の専門家がろくに論証もせず、『鑑賞』のような影響の大きな入門書でいきなり推奨されては迷惑だと、批判し訂正したい気持ちが何よりの執筆動機だった。干菓君とは彼が学生時分から親しく、気心もよく知れた後押ししてきた友人であっただけに、実は『鑑賞』をみて、まさかと思った。伸び盛りの研究者がかくも簡単に作家.評論家の口車に便乗してもらっては困る、そんな、佐助を「犯人」にして『春琴抄』を読む
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ぐらいなら、はるかに春写本人が自らを傷つけて佐助をも失明に導いたと読む方が、春琴の劣等感や底せ1なしの不安や老い逼る状況によほど適っていると考えた、そして「自傷の応酬」を提唱し論証してみた。千葉君がその後も依然として「佐助犯人説」なのか、撤回したのか、不明なままのように思われる。いずれにせよ、ずいぶん多くの『春琴抄』論が、あれから続出した。その多くも、春琴がどう「火傷」したかは「どうでもいいことだ」という論調のように読めた。谷崎の文学作法からみて、彼が「春琴火傷」をていねいに趣向し、そこから「佐助失明」を導いて、春琴の心理など「あれで分ってゐるではないか」と突っ撮ねていたのは明白なところで、本筋の趣向に応じない「どうでもいい」では、「読み」の放棄としか思われない。例えば夏目漱石作『こ、ろ』で、「先生」はあの時点で何故自殺したのか、何故やっと自殺できたのかと問われて、「どこにも書いてない」「どうでもいいことだ」とニケを打つのと少しも変わりない。小説を読み解く「誘い」がそこに見えているのに、ことさら目を背け、熟さない観念論にただ走られては作者も読者もたまらない。作の本筋によ<添いよく応え、そしてその先へ論点をひろげ深めるというならけっこうだ。初心の読者のほぼ例外なく気にするところを、わざと避けて通って「どうでもいい」とは、いかがなものか。聖人も口をはさめないほどの壮絶な「自傷の応酬」と読めば、「春琴・佐助」の両面から小説の「構造的美観」も分厚くより面白く読めるとするわたしの「読み」を、逐一本文に即して論破してくれた論に、結局、出会えなかった、説得されなかった、のはある意味で残念でならない。春琴の老いの恐れとけり佐助と離れとはない必死の執着、心から春琴の心理を読めば、かなり明白に「売」は付けられてある。湖の本の読者の皆さんに、どうぞ、谷崎のこの三名作の論、ご判読・ご批判をお願いしたい。次回は、京都新聞連載小説『親指のマリア』をお届けします。
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