電子版・湖の本エッセイ 11
 
 

「歌って、何」  秦 恒平・湖の本エッセイ 11
 
 

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    目次

歌は時代のいのち
(鼎談)山本健吉・渋谷のり子・秦恒平
短歌感想
小説家の歌集二冊
歌への思い
宮柊二にすら
いろはにほへと
秀歌-国語の魅力
朝の蛍
谷崎潤一郎の秀歌
俳句らしきもの
白秋短歌にも
朝日新聞短歌時評
俳句-根の問題三つ
学生に詩心を
これからの詩性と仔情
(鼎談)笠原伸夫・(司会)篠弘・秦恒平
(講演)短歌のことば-掬みて尽きず
(講演)把握と表現-私の短歌体験1……--鵬

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鼎談 歌は時代のいのち 俳人山本健吉 歌手渋谷のり子 作家秦恒平

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「ぱいぷ」昭和五十三年十二月 第21号

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雨を呼ぶブルース
山本 渋谷さんの「雨のブルース」は、雨を呼ぶんだそうですね。
淡谷 最近、周囲の人からいわれて気づいたのですが、私この道に入ってちょうど足かけ五十年になるんです。そう申し上げると、みなさんびっくりなさって「ほう、そんなに長い間歌ってきたんですか」っておっしゃる。でも自分では少しもそう思わないんです。時間に追われながら、仕事をしていて気がついてみたら、そうなっていただけのことですもの。そう……思い出もたくさんありますけれど、自分でも不思議でならないのは、「雨のブルース」です。これを歌うと決まって雨が降ってくる…偶然なんでしょうけれど、あまり度重なるものですから、気味悪くなったりしましてね。
山本 雨を歌った歌謡曲が数多い中で、あのブルースだけが雨を呼ぶというのは、なんとも不思議ですね。
淡谷 あの歌が生まれたのは昭和十三年ですけれど、ちょうどこの年の夏、阪神地方に激しい風水害があって大被害が出ました。私が公演で神戸に行きましたのはそのあとでしたが、歌えば雨が降るということが、すでに知れわたっていたのでしょう。「お願いだから『雨のブルース』だけは歌わないで欲しい」って念を押されましてね(笑い)。
山本 博多で歌われるとよかった(笑い)。
秦  そういえば、この夏はどこも水不足に苦しみましたが、私の住んでいる町の鎮守の社でも珍しい雨乞いの行事がありました。境内に矢倉を組んで、人に歌をうたわせ笛太鼓ではやして雨の降るのを祈ったのですが、想えばこの雨が降らないのと作物に虫がつくのとは、昔から農村の人たちにとって、なによりも切実な問題でした。各地方に雨乞いの歌や踊りがそれぞれに伝えられ、また稲などに虫がつくのを、悪い神のしわざとしてわら人形を燃やしながら村のはずれへ追い立て送り出していく烈しい踊りや歌が残っているのも、

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その名残でしょうね。山本雨乞いの神さまも、各地方にありますね。例みbぐりえば東京の向島にある三曲神社にしても、「夕立や、、、、田を見めぐりの神ならば」という、其角の雨乞いの句が句碑に残っています。

信仰の表現から芸の表現へ

秦雨乞いや稲の虫送りもそうですが、昔の草刈りや鳥追いのような作業唄でもまた恋歌でも、みな必ずといっていいほど定まった目的や聴き手があって、歌うたげわれる場所も決まっていました。宴の席では酒をほめる歌や、肴をほめる歌が一つの儀礼として歌われたものです。時代が下るにつれてんでに酒盛りそのことが楽しまれ、そこではおいおいに即興の新曲やいつしか流行歌などもうたわれだすわけですが、大昔はそうじゃない。収穫や婚姻など宴の機会はたいがい決まっていて、人々はそれを、生涯の大事として企でもし、楽しみにもしていたのです。日本の歌に深い理解のあった柳田国男流の分類に従えば、いまの歌はどれも「鼻6歌」ばかりということになるでしょうか。昔の歌がすべて或る定かな目的をもって歌いつがれていたのに対して、いまのそれはだれのためでもなく、大昔の鼻歌」拝.弁仁と?.摸会?ためのものでもなく無目的なでぎ合いの歌にな一て娯楽に讐れてい手。歌い手と聴き手が大きくわかれ、歌書ぼら芸乞ての葬璽れ、時には歌より歌手の方に関心が集まっている。そういう点に喜琴の大差変化があるといκますね山本昔は祭りの延長として、宴の歌があったわけで、それ亀参博するためのハレの響しての宴でしたから、歌そのものが大事にされていたのです。渋谷いまのように、余興として気嚢にうたうわけにはいかなかったのですね。歌い手にも毒ど寒礎がなければ歌えない。難しいことでしたでしょうねきっと……。山本そう、ハレの場をっとめるのですから蔽い手としては名誉このうえないこ芸したじかも・歌によって並みいる人たち憲動喜ようというのです

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から、だれにもできることじゃありません。秦お能の会にしても最初に祝言の謡をうたい、最後に千秋楽で謡い納めていますが、強調すればこういう習いにこめられた国土安穏、信楽成就の願いは、神代の昔へもさかのぼる芸能の心でした。今でも芸能人は「ラク」といった言い方でじつは千秋楽を願う伝統に結びついているわけで、そうしたこともやはり、心得ていていいと思う。ところでそのようないわば信仰の表現だった歌が、いつからか芸の表現としての歌へ、また文芸としての歌へと変わって行ったわけです。その道筋というか歴史があった以上、そうなった必然性もいろいろに理解されていいわけです。その一方、歌こそはどの時代にも最現代の心の表現です。それだけに昔のままのモノサシをあててただうまいへたで現在を測ってもいけないし、いまのモノサシで古くさいの新しいのと昔を測ってもいけないと思いますね。

やはり"歌は世につれ"山本音といまとをたどっていくと、歌にも日本人の伝統的な性格がにじんでいるようですね。日本人には自分たちがつくり出したもの、生み出したものを永遠の記念碑としていつまでも残そうという気がいたって乏しいんです。ただ、その時その場でパアーッといのちが燃え上り、火花を散らせばそれでいい…その結果は、生まれたものがつぎつぎに消え去っていっても、その瞬間に生きがいを感じればよい、ということになるのですね。歌の歴史もその繰り返しです。淡谷とくに、近頃の歌のはやりすたれのテンポの早いことはどうでしょう。ヒット・メロディーなんていっても、しばらくたつともう忘れられてしまって…流行歌なんだからあたりまえと、いってしまえばそれまでですけれど、その場限りのものでしかありませんものね。山本いまのことですから、レコードは残るでしょうが、これは生の感動を後世に伝えることはできません。歴史をたどってみても後白河院は、あの源平争乱の時代に白拍子たちを集められて、現代の流行歌にあ

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、、たる今様をうたい舞いながら楽しまれた酒税な方でしたが、その歌は語り伝えられていても、曲譜はもう知るすべもありません。しかし、後白河院は、それで満足だとお考えになっていられたに違いないと思います。秦後白河院はその今様を集めた『梁塵秘抄』の撰者ですが、この本の口伝の結びに"こえわざの悲しきことは、わが身かくれぬる後、とどまることのなきなり'と、うめくように書かれています。しかしもし十二世紀の当時にレコードという手段があったとして、それで後世にちゃんと声わざが伝えられたかというと、私はやはりむりな話だろうと思います。その時代の空気や、歌声のひとつひとつにともに感動した人々の思いを、音声として保存することは結局はできないし、できなくてもいいのではないか。歌声はいつも新しく次から次へ湧き上ってくればいい。山本同感です。やはりいつの時代であっても、世の流れの中で生まれ、やがて消えていくのが歌のさだめということになりますね。ただ、歌は消えてはいっても、いろいろな面に影を長く引いていっています。白拍子たちが歌い舞った今様も、後白河院につづく後鳥羽院の残された和歌の中に、やはりその影を落しています。このことは釈週空先生が指摘されていましたが、そういえば後鳥羽院も、今様のお好きな方でした。秦『梁塵秘抄』には、神歌や法文歌がたくさんあって、信仰の色彩がまだまだ非常に強いのですが、室町末期に編まれた『閑吟集』になりますと、人々が自分の心をそのままに吐露した歌が多くなっています。そこにも、やはり時代の流れが読みとれますね。山本院政時代と鎌倉から室町にかけての頃と比べると、まるで変わっています。『閑吟集』の時代には、愛欲の感じを強く出した歌がかなり多くなっていますね。渋谷お話を聞いて思いますのは、おおらかな時代だったのですね、その頃は-。白拍子が宮中に出入りして、歌や舞で天皇さまをお慰めしたことなんて、とてもすばらしいことじゃありませんか。み二乗白拍子や歩き巫女たちは遊女には違いないのでbすが、かならずしも売笑という意味ばかりの遊び女で

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はありません。一処不注、田舎渡らいといいますか、うかhbさすらいながら芸と信仰を担い歩いた遊行文婦でもありました。渡らい、歩きの伝統は実に古いものです。-:」≡L:、ヨヨニ:))日コ蔓丹三ヒ玉bつ句ご一オイ才/E打一ゴ大†,o月ノ芝オ.≡ブ里)o白'ったんですよ。渋谷男装の麗人ですか。それがいつの間にやら変わってしまったのですね。ことに戦前などはひどいものでした。私が学校を出たころは、世の中じゅうがグラッシック音楽でなければ、日も夜も明けない時代でかどしたので、流行歌手などは門つけなみの扱いでした。私がこの道に入ったとき、持たされた鑑札のことをよく覚えていますが、"八等技芸士遊芸稼ぎ人'って、そこには書いてありました。昔の白拍子に比べると、それこそ月とスッポンほどの違いです(笑い)。

"歌はよいもの仕事ができる"

山本ところで、最近こんな話を聞きました。八代亜紀の歌が、東名高速道路などを走るダンプカーの運転手たちの間で、大変に人気があるというんです。走っているときのリズム感とうまく調和するのでしょうかね。秦間拍子が、労働の気分を盛りあげていくのにぴったりだからでしょう。田植え唄や山頂、草刈り唄などのかたちで、その昔歌われていたいわゆる労働歌もそうですね。ざつさ五月田植えに泣く子が欲しや畦に腰かけ乳のまそ
十七がつぼにはまりそこなたもれ苗たもれ編笠のヨー殿など、歌の文句もうたわれるリズムも互いの労働意欲を刺激して、競争、心をあおり能率をあげるのに役立ったものでした。群れには音頭とりがいて、折を見ではうまく音頭をとりながら調子を変え、雰囲気をさらに盛り上げていく。作業唄ほどそれが必要だし、効果ももったでしょうね。

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山本ポピュラー音楽は、本来そういうものであっていいはずです。私はどうも水を打ったような静かな会場で、歌謡曲がうたわれているのを見たりすると、奇妙に思えてしかたがない。歌い手といっしょになって手拍子を打ったり、からだを動かしたり、もっとざわざわしていてもいいのじゃないですか。それに歌い手のほうにも、聴衆を自由な心境に置いて、わあーっと湧かせて欲しい。それがポピュラー音楽の真髄でしょ・り。渋谷私もそうだと思います。クラシック音楽でも聞くみたいに、静まりかえっていたのじゃ、張り合いがなくてしょうがない。第一敗いにくいですよ。そうかといって、あんまりキャーキャーワァワァでも困りますけれど。秦"歌はよいもの仕事ができる、話や悪いもの手が止まる"という歌の文句がありますが、いい得て妙ですね。話声を聴いていると、つい手の動きが止まってしまいますが、仕事によっては歌声のほうはかえって能率があがります。そのことからも、歌の歴史を湖っていくと、もともと日本の歌には広い意味の作業唄以外はなかったのじゃないか、あったとしてやはりそれは自分一人の気分だけを無拘束に外へ出してた鼻歌だったろう、と思われてくるのですが……。淡谷それにまた、喜びにつけ悲しみにつけ、つい口から出てくるのも歌ですものね。山本同時に、それぞれの時代に「今様」としての歌が生きているのですから。そういう歌は何度聞いてもおもしろいし、聞けば聞くほどおもしろい。それがヒット・メロディーの条件だといえるでしょう。秦そうですね。それだけにまた現代にフィットした歌がいつの時代にも求められているのでしょう。草刈り唄や田植え唄などが、時代ごとに少しずつ歌詞を変え、ほどよい新味を添えては長い間大事に歌いつがれてきたのに対して、いまはそうした必要も目標も風情も失われている。そこに歌というものを根本から変えてしまった原因が幾つもひそんでいるわけで、昔の歌とたとえば大正、昭和期に入ってからの歌とを、単純に同じ座標の上で論じるのは無理なのじゃないかと

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いう気もしてきます。山本そこなんですよ。いまの歌だってその時の気分で、アドリブを入れるとか調子をちょっとずらすとかして、即興的にどしどしつくりかえていっていいはずです。これはもっぱら歌い手の才能ひとつに負うことですが、それをもっと復活する必要があります。歌い方がウィットで充たされていて、聴衆の気分を敏感にキャッチできる歌手ならきっとできるはずです。

移り変わりのはげしい時代

秦実は私、この座談会のための予備知識をつけておこうと思い立って、このあいだからかなりの量のレコードを聴いたんです。ところが、明治、大正あたりからの歌をひとつひとつ聴いていっても、いっこうにおもしろくないんですよ。例えば、大正六年にできて一世を風びした「さすらいの唄」など、北原白秋の歌詞はよく知っているんですが、歌を聴いてもどうもピンとこない。おもしろい、と思ったのはうまいへたは別にして、やっぱり最近の歌でした。歌心は、最現代に密着しているんだな、と改めて感じましたね。山本なるほど…おっしゃる通り、聴いていて楽しいのは、なんといっても現代の歌ですよ。渋谷ところが、私には近ごろの歌の歌詞はどうしても覚えられないんです。どこで歌うにしても私の場合、新しい歌を歌わせてもらえないものですから、自分ではすっかり飽きてしまいながらも、「別れ」や「雨」のブルースばかりを歌わされているのですが、それでも新しい歌詞にはなかなかなじめなくて…。山本それはわかります。戦前、流行歌の歌詞を書いていたのは白秋や野口雨情、西条八十などのすぐれた詩人たちでしたから…。しかし、最近の歌の全部がそうだというわけじゃない。でも「津軽海峡冬景色」なんて、いたって覚えやすいじゃないですか。渋谷それでも、私にはだめなんです。どれもこれも、朝、顔を洗ってご飯を食べて会社に出かけるなんていった歌詞ばかりでしょう。とてもとても覚えられたもんじゃありません(笑い)。

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秦確かに歌という言葉の中には、美しい日本語でつづられたもの、といった気持ちが入っていたのでしょうね。もっとも、ある人が、曲の強靱さに比べたら歌詞など吹けば飛ぶようなもので、すぐに忘れられてしまうといっていますが、それは私にもうなづけます。山本メロディーがひとつあれば、歌詞はいくらでもつくり変えて自由に歌えることからも、それはいえましょうね。秦昔の民話からいわゆる流行唄へと大きく日本の歌の成り立ちその屯のが変わってきた節目は、ひとつは日本人が文字の魅力を知り、次に酒盛りの内容を変えて行ったこと、またひとつには三味線が入ってきたとき、つぎはレコードとラジオの時代、そしてテレビが家庭に置かれるようになってからだといえると考えています。とくにテレビ。聴く歌から見る歌へとまるで変わったのですからね。そしてもはやその傾向は否定しようもない。山本そこへもってきて、日本人は外国のものを、どしどし取り入れて日本化してきたでしょう。渋谷さんのブルースもそうですし、黒人霊歌といい、シャンソン、タンゴ、カンツォーネといいみんなそうです。これこそ民族的な才能というものでしょう。淡谷しかも、そのままじゃなくて日本人の気持ちに合うようにじょうずに変えていますものね。ブルースにしても、こちらではひどく深刻なことを歌ったもののように考えられているものですから、私もそれに合わせて歌っているんですが、聞いてみるとあちらではそんなものじゃないそうです。メランコリックな曲ではあるけれど、すすり泣いてみたり、むせぶ心に駆られたりはしないという-(笑い)。同じメロディーでも国によって感じ方が違うというのはおもしろいですね。秦そうして外国から持ち込まれたリズムの中のどれが、ほんとうに日本人のものになっていくかが問題ですね。しばらく時間をかけて見守っていくほかないでしょう。淡谷私もこの歌の世界に住んでいながらこれからどんな歌がはやるのか、そしていまの曲の中のどれが

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残っていくのか、まったく見当がつきません。歌ばかりではなく、どこを見ても、移り変わりの目まぐるしい時代ですねほんとうに……。

この次にくる日本のリズム

山本さて、現代の歌を代表するのは演歌だといった人がいますが、これはどうも当っているような気がします。渋谷でも、同じ演歌でも明治、大正のころとは、随分変わってきています。その時代は.バイオリンの弾き語りで、世の中を諏刺しながらうたったものでしたけれど、いまは歌う内容も違ってきましたし、字までが艶歌だとか怨敵なんて書くように変わって、ついどれがほんとうなんだろうと迷ってしまいます。秦率直にいって私は、演歌は好きじゃありません。しかし大昔の民謡から謡曲や義太夫や浪曲まで長い語りと歌の伝統の先端のひとつに、やはり演歌はこの国で定着した代表的な歌だったなとは認めざるを得ない。そして問題は、この次にくる日本のリズム、日本のメロディーは何か、ですね。私は、昭和牛まれですが、だからということではなくて、いま歌われている歌の中では沢田研二のように、演歌のわくにも、ポピュラーのわくにも、当てはまらない歌に、むしろ伝統をまた一歩前へ押し出す魅力を感じます。山本ひとりの先駆者だといえますね。彼は…。これまで聴いたことのないリズムで、いくら真似しようとしてもとても無理です。それでいて歌い方も身ぶりもごく自然でぎこちなさがない。秦しかも気持ちが噴き上げてくるような感じでしょう。歌詞の音調はかならずしも特殊なリズムを持ってはいないのですが、聴いていると日本人持ち前の息づかいや間拍子のとり方が少しずつまた新しく変わって行こうとしている今日的な動きが、よくわかる。渋谷あのリズムも、アメリカから入ってきたものなんです。エイト・ビートといって一小節が八つのお玉杓子から成り立っているのですが、それがとてもモ

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ダン奮じに言えるんですね山本なるほど.、彼の片手にピストル・倉花束、も、やはり八拍にな一ていますね。

秦八音を使った歌は『梁塵秘抄』の中にもありますし、都々逸もそうですね。五・七ないし四・八といった間拍子は、奈良時代このかたいまの最先端をいく歌までを含めて、基本的には大きく変わっていない。それをさまざまに組み変えては、歌詞とともに新しさを出している。渋谷そう、必然的なものでしょうね。もっとも歌はそうだとして、歌いながらのボディ・アクションのほうはどうですか。いまや幼稚園の子供までがあの真似をしていますが、どうも踊りと呼ぶにしてはそぐわないし、さしあたり体操つき歌謡曲と呼ぶのが適切なようです(笑い)。秦ええ、踊りと歌は本来の仲間で、その兼業型の歌い手・踊り手がいま受けているわけですね。私も初めのうち、あれを見ていていやでしたが、歌と踊りとはもともとこういう形で効果を高めあっていたものだったという理解がだんだん出来るようになりました。無論あれほど極端ではないにしても、遠い時代、歌と踊りが信仰や呪術を担って躍動していたことからすると、まったくボディ・アクションなしの歌はむしろ少なかったのではないかと考えられます。渋谷でも、私などからするとあんなに激しく動き回りながら歌をうたって、よくからだがつづくものだと感、心してしまいます。とてもとてもついてはいけません。ただぼう然と眺めているばかりで…。山本いやいや、まだ現役で歌っていられるのだから、時代の違いをそれほどお感じになるには及びませんよ(笑い)。秦そうですとも、先日谷崎潤一郎先生の奥様にお目にかかりましたら「私、ピンクレディの『UFO』の歌に合わせて踊るんですよ」と、お元気に笑っていらっしゃいました。渋谷さんもそれくらいのお気持ちーでいらっしゃるといい(笑い)。山本私もこの春、吉野に出かけて地元に住んでいる歌人の前登志夫さんといっしょに花を訪ねたのです

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が、その時ポピュラーを歌いなさいといって、歌唱指導をしてきたんです。彼は大変な音痴ですけれど、歌っているうちに、すっかりその気になったようです。きっとそれが、これからの彼の短歌を変えていくことだろうと期待もし、そうなって欲しいとも願っているのですけれどね。秦それについていつも思うのですが、例えば小学生の子供たちに「歌って何」と聞いてちゃんと答えられない子はなく、口をそろえて歌は歌うものと理解しています。ところが、いわゆる文学青年たちに同じことを聞くと、たちまち詩歌などの文芸作品をあげるんです。そうした歌そのものの歴史的な変容、変質が日本の歌の心情をややこしいものにしています。そういう岐れが出てきたのは、『古今集』のころあたりからでしょうか。その『古今集』を指して、歌う歌と詠む歌とがいよいよ別れるための宴だったと曹えた人がありますが、私もそういう感じがします。文字に書かれる詩歌と歌われる歌謡とのより幸せな関係を新たに見つけ出せるとよろしいですね。山本それも、残された課題のひとつといえるでしょう。私は、歌う歌をこれからも日本の文化として、定着させていくには、へたでもいい、節回しがおかしくてもいい、とにかくみんなが愛情をもって歌に触れ合っていくことだと思います。秦いわゆる歌人たちがその才能をただ文字で読めるものとしてでなく、歌える歌のためにも向けてくれるといい。そうした歌がより楽しく日本人ぜんたいに歌い合われるようであって欲しいものです。日本の詩心が、歌える歌から遠退き過きているのは、残念な気が致しますね。

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美空ひばり「大嫌い」の淡谷さんの堅塁に、美空ひばり「大好き」の山本さんと秦とで、汗を流して挑んだ余談・余話の割愛された部分がなつかしい。山本健吉という大批評家の文学理解の根源に、「歌」の鎮まっていたことを、いつも尊く思い出す。秦

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短歌感想

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小説家の歌集二冊

あい次いで歌集二冊を出版できた。嬉しくてならない。小説本を出した時は或る種の辛い緊張もあるのだが、歌集はいい。それも二冊あい次いでというのがいい。二冊とは妙に想われよう、そのうち先に出た一冊は『谷崎潤一郎家集』(湯川書房)なのである。捨子夫人が秘蔵されていた谷崎自筆の草稿を、おゆるしいただいて私が原稿に書きあらため、出版のお世話をさせてもらった。歌日記とも言えるかもしれない、俳句も混っていたりするので、捨子夫人に「家集」とお決め願ったのが、佳い形で本になった。身の幸せを感じる。谷崎潤一郎の歌は必ずしも生前好評に恵まれなかった。作家の歌のあまりうまくない代表格にいつも誇られてきた。一理なくもない。が、うまいへたより、いま少し谷崎文学の理解に役立つ際立った面白さも持ち合せていると私は思ったし、生涯の歌を通して眺めていると、へたとばかりは言えない歌境が眼に見え、私なりに好きで心意かれたのである。上谷崎はあくまで「和歌」に徹している。歌は、詠まれている。だが、現代のいわゆる「短歌」歌人たちに、あなたは歌を「詠む」のか、「作る」のか、「書く」のかど訊ね、回答と作品とを突き合わせてみると、面白いくらいまちまちの本音が聴けそうな気がする。存外本質的な短歌界の課題がその辺にとり残されていそうな気がする。谷崎の家集を出版したかった、

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それが一つの狙いでもある。さてもう一つは、私の『少年』、不議書院版。文字どおり少年自愛の歌かず二百二十、未熟も成熟もない、以来、きれいさっぱり歌は詠みも作りも書きもしていない。が、棺桶にはこの一冊、歌集『少年』だけを入れ、しかも小説家として死にたい。「短歌現代」昭和五十二年八月号1

歌への思ひ

顔があうと歌人たちにきいてみる。あなたは歌を「詠む」のか、「作る」のか、「書くしのか、と。ほぼ例外なく現代の歌人は右のどれかを意図して制作にはげんでいる。それでいて文章には「歌を書く」と表現する同じ人が、会話ではすらすら「歌を詠む」と言うような例が、当然か無意識にか、私にすれば意外に多い。しかも作家や批評家がよく「物書き」と名乗るぐあいに「歌詠み」を自称する歌人には、めったに出会わない。それどころか「歌詠み」呼ばわりすると心もち迷惑そうな心外な顔をされる。正岡子規の「歌よみに与ふる書」からよほど時を経て来たことが、はからずも実感できる。そのじつ右の回答と当人の作品とを突き合わせてみると、面白いくらいまちまちの本音が聴けもする。私自身は一冊の歌集をのこして二十年来歌に別れている。読むだけである。が、少年時代はためらいなく歌を「詠んで」いた。そして別れた。「詠む」という創作に姿勢としてのむりを感じたからだ。だ

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からと言って歌を「作」れも「書」けもしなかった。

あまぎひむがしに月のこりゐて天霧らし丘の上にわれは思惟すてかねつ

あか朱らひく日のくれがたは柿の葉のそよともいはで人恋ひにけり

といった高校二、三年の歌から、

逢はばなほ逢はねばつらき春の夜の桃のはなちる道きはまれり

うたといった青年期の歌まで、まさに歌いたいばかりに私の歌は詠われていた。ひとりメロディーをつくり、ひとり自分の歌を同じ一つの旋律にのせて口ずさむのが好きであったが、聴き知った人はごくすくない。はらまた「短歌」と口にはしていたけれど、肚の中では自分の歌を「和歌」と呼んでいた。私の場合、歌の別れは和歌との別れであった。近代詩歌の苦闘と栄光に照らしてみれば、やはり子規以来の「短歌」は「和歌」とちがう。ちがわね一ずんじづらはなるまい。諦じて味わうでなく、人に詠われたいと願う以上に、字面を読まれたい作品のみが多い。それなら詠むものでなかろう。、心してみごとに作りかつ書くものであろう、という気がする。それでいてその辺の方法的な自覚に、現代歌人が一人一人確かなけじめを付けているとは見えない。まだまだ

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「和歌」の尾をひきずることで、「短歌」という生きもの、妙におかしい顔をしている。

正岡子規は「三たび歌よみに与」えて、「前略。歌よみの如く馬鹿な、のんきなものは、またと.無之候。歌よみのいふ事を聞き候へば和歌程善き者は他に無き由いつでも誇り申し候へども歌よみは歌よりほかうぬぼれこれあり外の者は何も知らぬ故に歌が一番善きやうに自惚候次第に有之候」と書いた。それでも「和歌」は久しく文学芸術の大本であった。その威力は、つづめていえば美しい日本語を育てるに役立ったかという一点ではかられよう、それを肯定するに私はやぶさかでない。むしろ同じ貢献を現代の「短歌」に対しては望むすべない気がする。昨今の短歌は足もとをしか照らさない灯台かのように歌人の愛執にひしと抱かれ、読者がその光を抱いつくきとり慈しむことが容易でない。同人誌も商業誌も短歌欄は読まれることより発表の場としてより濃厚に利用され、強い共感で日本の心情を大きくかき鳴らすような感銘とはよほど疎遠に、往古の村祭りめいて超然と仲間うちで守られ、たのしまれている。子規、晶子、啄木、茂吉、白秋、牧水、沼空を擁しながらこの百年の日本語は、より歴然とむしろ小説家に影響され刺激されてきた。ことにこの戦後、日本人はほとんどただ一首もの国民的な愛諦歌に恵まれない。戦後歌人が茂吉や白秋を越ええないのではない。むしろ言語芸術としての短歌に対し、日本人の敬意や期待が格別に軽くなってしまったからだ。皮肉なことに、短歌人口と活字が増えれば増えるほどいたずらに言の葉は繁茂して、花も実ももう探し出すことが面倒になっている。歌人でさえ「歌が一番善きやうに」思って深切に

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さくしゅ人の歌を読んでいる様子もない。そう思い合う、作と受との広い「感動」の土台が地崩れしているからだ。たとえば私は、くらうつけたっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり河野裕子という歌などに十分共感できるけれど、人に強いることはできない。好きな同じ歌人の、やで君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠るかbでも、それができない。子規病床の「瓶にさす藤の花ぶさみぢかければた?みの上にとゾかざりけり」や啄木窮迫の歌には敢えてできることが、何としても山中智恵子や馬場あき子ほど心親しい人の歌であっても、できない。そうさせない何か拒絶的なものが昨今の短歌にあるとして、現代歌人とは、むしろその何かの完成へ一人一人の孤独な旅を続ける芸の人であるのか、綾の鼓を打つように。三ちいさい子に「歌って、何」ときいて、答えられない子はいない。歌うもの、聴くもの。しかし歌わなくても歌、もっぱら活字で黙読する歌もある。子どもは、きょとんとする。歌謡と和歌。しかし歌には相違なく、根は同じ一つの歌声から出て、いつか文芸としての和歌が自覚

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され太い枝へと岐れたのである、それさえ朗詠され人に歌いかけるような本性を久しく失わなかった。或る意味で近代の短歌は古来和歌のこの「うたう」一点を拒み、詠むよりは作って書く方へ歩み出た。、一つ間違えば「歌」としての自己否定を賭けて文芸たろうとしたのである。「歌」についてすぐれた理解を示した人に、民俗学の柳田国男をぜひ挙げたい。柳田は本来日本の歌にこぴまは必ず特定の目的と聴きてがあったという。田植え、木挽き、鳥追い、糸繰りなどの労働歌も、要求ぎや酒勧めの歌も総じてものの用を意図した「仕事歌」ばかりで、ほかには我一人気楽に独り言めく「鼻唄」があるだけであった。「鼻唄といふのは日本だけの好い名詞で、必ずしも鼻で歌をうたふという意味では無かった。時に入用となも無くあたりに聴く者も無く、高く張り上げて唱へる必要が無い為に、自分一人でその面白さを味はって居るだけで、つまりは思ひ出し笑ひと同様な半分の記憶であった。……文学も通例は亦北部類に属して居たやうである」と柳田は言う。「鼻唄は日本に於いては尚北上にも、進化し又複雑になって行きさうである」とも言う、その線上に中世『閑吟集』以降大概の歌謡や和歌、俳譜や近代詩歌、現代歌謡曲が「用」のない鼻唄をもてはやしてきた。しかも、はや愛諦をさえ動機的にも拒絶しているふうの殊に現代短歌に、鼻唄ほどのめでたさももうかげ淡い。

くわりんしゆ棋櫨酒のけぶるかをりや文芸にほろびしを死ののちに知られむ 塚本邦雄

完熟の自愛を我一人の胸へ苦汁のように注ぎながら、歌わぬ歌人たちは感染力を断念した美しい言葉

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(時として、ただ物珍らかな文字)を声なき三十一音に紡いでいる。

八雲立つ出雲八重垣ご妻籠みに八重垣つくるその八重垣を古事記

柳田国男は、少数の「天才」にゆだねたことが民衆の「歌」には不幸であった、というほどの嘆声を幾度も洩らしている。そうなのかもしれない。私には分からない。


歌はよく読む。月々に雑誌や同人語がとどき、歌集もよくもらう。たいがい一気に読む。そして律義に礼状を書く。結果的には礼状を書くべく読んだ気がすることも多いけれど、思わず自前の間拍子にのせて口ずさみたい何百かに出違う期待で、気を入れて読む。そんなぐあいに上田三四二、岡野弘彦、前登志夫、来嶋靖生氏ら幾人もなつかしい歌人の名が私の胸に住むようになった。河野裕子さんの処女歌集を一気に読んだ日の嬉しさや、斎藤史さんの『ひたくれなゐ』を爪じるしするくらい克明に読んだ手ごたえも、忘れられない。それにしても一冊の歌集にすくなくて四、五百首、多いのは千百を超える。ふ?り何年か十何年かを顧みて編まれてあり、割愛された歌はもっと多いに違いない。そしてそれが本当は多きに過きるのか、まだすくないのか、私には分かりかねる。実感を言えば歌数は多過ぎ、心に残るはずの歌を読み落としかねない。

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活字になる小説が、よほど多過ぎるのは知っている。そして小説一編と歌一首とを軽々に並べて一という数字にもの言わせてみるのも、どうかと思う。しかも、一年間に活字になる短歌をかぞえてみたら-。むろん、それで構わないことだ。ただその歌の山から珠玉を拾うという作業が本当に可能なのか。不可能でないまでも、それだけの努力が本当に短歌という今や我一人の、心やりに対して必要なのだろうかと、時として投げやりなことを思ってしまう。

我といふ人の心はたゴひとりわれより外に知る人はなし谷崎潤一郎

谷崎の和歌を草稿から家集に編むお手伝いをしたことがある。一ページに一首、都合二百五十音。ぜいたくに造ったが大谷崎にふさわしい本ができた。歌が、しみじみと読めた。誰もがそんな真似はできない。しかしその気になれば、また歌集が私用の記録というのではないなら、できることは有る。せめて三百首に厳選すること、共感の土台はより堅固になる。次に全歌集もいいが、それほどの歌人なら別に、多くても生涯せめて五百首をぜひ自選しておくこと、後世はきっとそれを望む。そして何年か十何年かに一度、現代の古今集や百人一首をいい形で撰してほしい。雑誌の年鑑では味けない。国語の本に載るだけがかろうじて愛諦歌候補にイ・、ネートされる、それもいつまでも啄木や茂吉ばかりというのでは、あんまり心もとない。「朝日新聞」朝刊昭和五十三年十二月四、十一、十八、二十五日1

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宮柊二にすら他意はない、たまたま雑誌「短歌」が届き、またたまたま本誌の原稿依頼があった。両手に小説と歌を計量しながらの、改った談義には気が向かない。そう思いながら「短歌」を手にすると、巻頭にたましゆうじたま宮柊二氏の『青竜二匹他』が載っていた。さらりと二度詠み三度めはゆっくり読んだ。宮柊二氏のことは相応に知っている。が、何も知らないことにして歌を読んだ。宮柊二氏だから、という遠慮は何もない。歌でも小説でも、絵や芝居でも、私はそうして読み、そうして観る。

水戸の鋏の施療室いとけなき青亀二匹飼はれをり診療室に壷は置かれて

いやだな、と思った。だが黙って、家の者にも読ませた。日ごろ歌は、読まず作らない三人に。「いくら仔亀でも、〈いとけなきVはどうでしょうか」と、妻。「実際には壷に入れてたか知れないけど、ただ耳に聞き目に見るかぎり、〈壷〉は亀を飼う容れ物と違うわね。覗きこむのかな。〈いとけなき〉〈青竜〉〈二匹〉と形、色、数までちゃんと見えたかしら」と、高校三年娘。「違うでしょ。ちっぽけな、青竜が二匹飼ってある。診療室に壷が置いてある。亀は壷とはべつに、洗面器か何かで飼ってあるのさ」と、小学校五年息子。

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「〈水戸〉って、青竜とかの産地なの。でもなきゃ、この断りは余計ね」と妻。ほり「〈鐵の〉もそうよ、歌の中へ詠みこめなくて外側から説明している。もし詞書がはずれたら、〈鐵〉の〈は〉の字も歌からは分からない。それに、詞書は〈施療室〉で歌には〈診療室〉というのもチグハ'一大、承"'」;、鼻。「ちっぽけな青竜が二匹飼ってある。診療室に壷が置いてある。こうだよ。ぼくなら、こう書く」と、息子-。、、、、、出る幕は、もう、ない。息子が解いたように、亀の不気味に動く質感と、たとえば伊賀のうずくまるのような壷が不思議に生きたような質感との対比を、〈診療室Vという空間に肌にまじまじ感じとれるほどの歌なら、まだいい。が、これはやはり、小さな亀の二匹が壷に飼っであるという歌だろう、無難とも言えない、困った歌のよく有る一例にすぎない。〈いとけなきVの語感の芯は〈け〉であろう。〈気〉の字を、よほど濃まやかに思い入れていい。〈亀〉ほど無表情な相手の、表情なり情なりを敢て抽き出すにふさわしい的確な歌語にはなりえていない。詩化不熟、お粗末と言いたい。か詞書は無くもがな、有ってかえって脆弱い突っ支い棒になり終り、歌の値打ちを逆に下げている。〈施療〉と〈診療〉とも語感は微妙にずれる。詞と歌との、この辺はぬかった胡嬬を指摘されて仕方がない。的確で深切な語感1それが歌人の、詩人の、およそ文芸の庭に立つ者の中でも、特に大事な立場ではなかったか。高校生の娘が指摘した〈壷〉が、そうだ。たしかに〈壷〉と呼べるものもいろいろだから、亀を飼っ

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て差支えない壷も有るだろう。だがそれは現実世界に有るので、詩の世界、歌の世界、言葉の世界に無条件に存在してはいない。そこでは〈壷〉は〈壷〉であり、口のつぼまった、花なら蒼の、目に見耳に聞いて自然に浮かび来る〈壷〉の形を意味している。〈鉢〉でも〈皿〉でもく瓶Vでもない。随って堅国一、毒燕たらに直ちケ.与.れボペ角vを、子.れも瓜と.けたきv亀を.飼つに,ふきわし、い器と.は捉えな.・娘のいうとおりであり、だから息子のように、亀は洗面器か何かで飼い、そしてべつに佳い壷が棚かどこかにしんと置いてある、と、最高級に好意ある異見を述べたくなる。ね息子の異見を容れるには、但しもっと歌の表現を練らねばなるまいが、急には出来ない。歌では出来ないけれど、散文で、小説にしてなら、或いは出来るかも知れない。出来ると思う。それで私は歌と別こだわれた。散文や小説にすればもっとよく出来る芸当を、短歌に拘泥ってむりやり三十一音に言葉を割り振あまった例が、あんまりこの煩多過ぎはせぬか。出来合いの思い剰ってしかも語感の粗放なこと。宮柊二氏には、たまたま、お気の毒ながら「短歌」二月号のその余の歌も、概ね、氏に就でまた「久米正雄」.松岡譲」「尾関老」などに就て何ら知るところない読者には、これが雑誌巻頭を飾る歌芸とは、言葉の芸術とは、とても信じられまい。私にも、信じられない。

久米正雄父を訪ねて若き日に来りしさまを叔父が語りき

私が小説家たるべく久しく歌に学んだのは、語感の深さ。そして昨日今日の短歌に落胆しつづけていレアルイデアルるのが、語感の浅さ。写実も象徴も、その後のことではないですか、と、これが私のお答え。どうすれ

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ばよいか、を反問されでもやはり、語感を深めて、と答えるしかない。語意、気勢、口調の至芸。文芸としての気稟の清覧は、そこに培い育むしかない。
「うた」昭和五十四年四月号1

いろはにほへと一冊の「本」を読んで、その枝葉末節に捉われてはならぬ、片言隻句に拘泥してはならぬ、とは、私自身が幼時から学校の先生に何度となく訓戒されたことで、その正しさを私はむろん信奉している。いや、信じている。が、あまり奉じては来なかった。文章は文で、文は文節で、文節は単語で構築されている。教室で文法を習えば一等先に習うことである。片言隻句に捉われるなかれとは、文章を、「本」を、極端にいえば「単語」の一つ一つに捉われて読むなということだろう。しかし、片言隻句もおろそかにしないのがいい文章というものなら、同じことはいい読書にも言えるかも知れぬ、というのが私の言い訳である。久保田万太郎に、こんな句がある。

竹馬やいろはにほへとちりぢりに

私は講演に行き、聴衆が高校生や大学生であったりすると、時にはさも裕福そうな顔を並べたレディ

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ス.クラブなどであったりすると、睡気さましに壇の上からこの句がどんな句か、訊ねてみる。どれ一つむずかしい言葉は使われていない。それなのに、思いのほかロクな返事がかえって来ない。竹馬で遊んでいた、のが、ちりぢりに家へ帰って行くらしい、とも容易にっかめない。ましてや「いろはにほへ、、と」がまったく分からない。「ちりぢりに」を引き出す懸詞だというくらいが精一杯のご名答で、わずか三句十七音の句にただそれだけの中七音ということはあるまい。ちくば竹馬の友という。子どもたちが、主役には相違なく、また彼らが「ちりぢりに」散って行く、或は散って行った、にも相違ない。運動場や広場でもいいが、母や姉に名を呼ばれて散って行くなら、平凡な路上を想ってみるのが美しく、時刻はしせんタ菌のやがて蒼澄んで行くようなたそがれどきであろう、ただでも長い人影は竹馬に乗っているので一層長く、黒い。そうなれば下町の作家久保田万太郎と知らなくても庶民的な町なみが眼にうかび、万太郎と知ってみれば、東京というより江戸の名残ゆかしい下町風景と、どうしても読みたくなる。東京は下町の夕餉どき、タ菌に路上に影ひく竹馬遊びの子どもたち、それを呼ぶ声、答える声、そして「さよなら」と言いかわして長く濃い影は算を乱すように「ちりぢりに」。灯ともし頃のあたたかな食膳のにぎわいもやがて男髭として来る。が、さて「いろはにほへと」が問題だ。昨今、ものの数勘定には、便利な、数字がある。記号にはアルファベットを使う人も多い。しかし日本ではかつて、というよりも、比較的近代に至るまで右の両方に「いろは」を使っていた。私の息子は小学校六年四組にいる、が、この私が昭和十七年四月に国民学校に入学した時は一年イ組だった。それ

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が卒業の時は小学校六年一組になっていた。「イ組」「口組」といえば、江戸は下町一帯の定火消を想い出す。お芝居の「め組の喧嘩」を想い出す。赤穂四十七士が背中や袖につけていた「いろは」四十七文字を想い出す。あれも火消し装束だったというが、火消しのことはこの際措いて、「いろはにほへと」とは竹馬で遊んでいたのが二人や三人でなく、まして一人ぼっちでなく、何人もいたことを先ず想わせる。それからその子どもの一人一人がべつに太郎でも正男でも健一でも花子でもない、かりに実の名前はそうであってもそんな名前をとくに呼び立てるまでもない、ただ「いろはにほへと」と勘定してそれで用の足りるごく普通の子どもたちであることを、みごとに表現することで、句の深さ広さがしっかり出来てくる。なるほど久保田万太郎の世界が息づいているし、むろん「いろはにほへとちりぢりに」と中旬から下句へ詞の懸かりかたも申し分ない。ちくほおよそこんな読みかたで十分ではあろう、が、もう一段階みこむなら、やはり「竹馬の友」に懸けての、「ちりぢりに」に、子どもの昔をひとり追憶する老いごころとでもいうところを汲みたくなる。すると「色は匂へど」という、中の句がそこはかとない人生の哀感や無常の思いへひしと繋がれて来る。竹馬遊びに、おきゃんな少女もまじっていたかと想像するのもよい、往時ははるかに夢の如く、老境のおとなタ菌ははや心のすみずみから蒼く色腿めはじめている。かっての友は故郷にほとんど跡を絶えて訪う由もない。想像を呼んで、この一句、さながらの人生かのようにずっしり胸の底に立つ。言葉の一っ一つを深く読み透す気持ちなしに、俳句や和歌が十分たのしめよう道理がない。逆に、俳句や和歌を世界的にも珍しいみごとな短詩形の文芸に育てえて来た日本人の語感には、言葉の一つ一つ

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を読みこむ姿勢というものが、たしかに有った、ということだ。「ずいひつ」昭和五十四年六・七月合併号

秀歌-国語の魅力詩歌の鑑賞とは、どういう正しい意味をもつものか、私は知らない。歌はうたうもの、声に出す出さくちずさぬはいずれにしても、私は、好きで記憶した作(鑑)を、くりかえし口遊む(賞)というにすぎない。心に刻んで響きを、調べを、言葉を、文字を記憶した、覚えた、それだけのことが、私の場合、どんな饒舌を弄するより大事なことだ。覚えられずにいたような歌は、忘れ去られたその瞬間から、私にとって歌でも何でもない。かめ瓶にさす藤の花ぶさみじかければた?みの上にとゾかざりけり正岡子規じろ余命一年、病床に身動ぎもならぬ歌人の無比の絶唱である。「みじかければ」と、かえって一音を"ながく"表わしたこの一句に籠もる詩的時間の魔法が、近代短歌の表現力に最高の達成をもたらしている。「か」の音を三処に配し、やや堅い響きを初中後に共鳴させて声調のゆるみを抑制しながらのこの字余りが、凝視の眼光を、ふと詩の世界に永遠にとじこめる誘いになっている。この掬めどっきない短歌美をみすごす人に恥あれ。

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のむこもひ左千夫われ牛飼なれど楽焼のひじり能無許が椀持ちほこる伊藤左手夫

らくどうにゆう「能無計」はふ?り茶人たちが"のんかう"と呼んでいる楽家三代、道人の通称で、落語にも「のんこの茶碗」と珍重がられている。左手夫はこれを二つも愛蔵していたというが、彼自身、なかなか心深い茶の場者の一人であった。けだし左手夫の人と芸術には、昨今の露骨な茶道商売と無縁な、「茶」一字の或る理想的な在りようがかげをひいている。家業は牛乳屋だが、左手夫は「牛飼」を自称していた。fさこの歌、左手夫調といえようか。口遊みにいつも新鮮に耐える圧倒的な内面の旋律をはらんで、躍動する明るい主体の魅力に満ちている。"のんかう"の茶碗は相当高価な稀少価値と作品価値とを併せもち、光悦などの茶碗に匹敵するが、「牛飼」の魂が強靭なまで姿勢正しく、それほどの「能無計」と背丈をそろえ、いささかも背を曲げていない点に、この歌の健剛な明るい旋律が生きている。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ石川啄木

啄木の短歌は例外なく好きだったし、今も好きだ。だから、この一首に啄木短歌を代表させる気はなく、必ずしもこれが一等好きなのでもない。しかも、三行に書いた独自の表現法が、ただ外の見た眼に

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はかりでなく、内なる旋律の美しさと切なさとにおいても、十二分の効果をあげながら胸に食いこんでくる、けっして甘くない鋭い訴反力に瞠目するのである。啄木の短歌と生涯は、子規のそれに劣らず、現代を生きる、ことに若い人々の猛然たる関心を期待してやまぬものと私は思う。短歌はいつの時代にも"現代"国語の魅力を、本質的な表現実として定着してほしい。さて斎藤茂吉の歌となると、とても一首に限ることができない。高校二年のころに古本屋で三十円を支払い、茂吉の自撰歌集『朝の螢』を手にした。昭和二十一年十一月の改造社版で、私が買ったのはその六年後。おそらくこの一冊が、熟読したという点でも第一等の歌集と言える。そして面白いことに、当時良いと思った歌につけた覚えの爪じるしが、今あらためて読み直しても、あまり差がない。それにしても茂吉はあまり「さびし」「あはれ」「かなし」とうたいすぎている。また「しみじみ」「ほのぼの」「しんしん」「あかあか」「ひっそり」「しっか」などとうたいすぎてもいる。だが、その過きたる魅力にとりつかれてしまうだけの、境涯の深み、ということも茂吉短歌は教えてくれる。鑑賞というほどの気衝きを私は茂吉の歌に対し、もちあわせない。ただもう、好きな歌をすこし並べさせてもらおう。

み青山の町蔭の田の水さび田にしみじみとして雨ふりにけり雪のなかに日の落つる見ゆほのぼのと繊悔のこころかなしかれどもなしんしんと雪ふりし夜に汝が指のあな冷だよと言ひて寄りしか

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死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆるかみモりとぎめん鶏ら砂あび居たれひっそりと剃刀研人は過ぎ行きにけりそモいとどふり漉ぐあまつひかりに目の見えぬ黒き蝉を追ひつめにけりほうづたたなづく青山の秀に朝日子の美のひかりはさしそめにけり

もっと挙げたい。際限がない。斎藤茂吉は私にはこういう歌人だった。そう言うしかない。その余は、fさ一つ一つ口遊みのなかで、しかと思い当ってほしいと願うしかない。それが私の鑑賞法だ。

いちごほ心らだわぎもわぎもこれやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹吉野秀雄

歌とはこれをいうのだと思って、最後にこの一首をあげたい。吉野秀雄の『寒蝉集』は開巻の早々から、日本人が万葉集このかたうたいえた挽歌の、絶嶺をなしている。とりわけてこの一首は、感動の極へ私を誘って容易に放たなかった。「うた」としか呼びえない詩美の極北に光り輝いている一首だ。私が歌を読むのが好きという時は、右に挙げた種類の歌に、ほぼ、限るのであって、たいした衝迫もないまま美に媚び奇想を弄んで、珍奇な字づらを追っている一部戦後短歌のようなものでも、雑駁で貧寒な語感のまま、性急に、似て非なる思想らしきものをがさがさと吐き出したものでもない。一字一語にこめた語感を極限まで効果・詩化あらしめ、日本語の恵みに美しい感謝をささげえた歌とは、ほぼ、ここに挙げた類と信じている。

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「短歌」昭和五十五年十一月号1

朝の蛍

斎藤茂吉の歌と出会った昔に帰りたいと思う日が、このごろ、多い。もう一度歌を作りたいと願うのではないが、しみじみと心家しい日々を一心に生きた思い出が、たえがたくなつかしい。中学以来の歌のノートを繰ってみると、それはちょうど昭和二十七年ごろのことで、三田めの冒頭に、「先の二冊と、この冊との根本の相違」は、万葉集とアララギを知るか知らぬかだと要約している。また「茂吉の歌論の影響」ということを、此の年、九月中旬のノートに書きつけている。高校二年生時分に当る。教科書に摘録の歌作をのぞけば、岩波新書『万葉秀歌』の上下が、茂吉に接したやはり一等早い出違いだったにちがいない。だがこの以前に、私はすでに短歌を作りながら、岩波文庫『若山牧水歌集』を愛読していた。新制中学三年生のころで、そういうことの得手なあるクラスメートを煩わして、やや趣あるカヴァを文庫本につけてもらい大事にしていた。この記憶にまちがいはないはずだ。同じころ白秋の詩集『思ひ出』やハイネの詩集にも出違っている。なおその以前ともなると、ごたぶんに洩れない小倉百人一首。たしか『百人一首一夕話』という本を、ことに百人の歌人の逸話部分を小学生時分から愛読していて、今以てたわいない些事までよく覚えている。ちょうど百人一首と牧水の中間、中学二年生の夏休み中に与謝野晶子訳の『源氏物語』を読んだ。有

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難い出違いだった。物語中の和歌とその詠まれようとに感心した。とても面白かった。先君や紫上と同しような和歌を詠もうなどとは思わなかったけれど、歌にも歴史があるという実感から、近代短歌のありようにも、生意気ながら、ある批評の姿勢をもとうとした。そして牧水の歌は、ことに彼の初期の歌はそのような私を刺戟した。刺戟しながら、もっと別の何かを私に求めさせもした。牧水に満足できた期間は二年に満たなかったと思う。茂吉の歌集では、私はいきなり『朝の螢』を手に入れた。昭和二十一年十一月の改造社版(定価二十[)で、その初版本をずっとおくれて、古本屋で三十円出して買った。高校二年の時で、そして満十七歳になって間もない二十八年正月から二月へかけ、茂吉の影響下に「山上墳墓の歌」十音、「東福寺」エバ首、「東山行」二十七音などを作っている。私の歌集『少年』の、この辺が一つの山になっている節分で、ことになつかしく、この歌群中に茂吉の歌にまなんで「朝日子」という美しい語も借用していo。これは、そのまま今、長女の名前になっている。茂吉自身の「巻末の小記」や「後記」によって、『朝の螢』がどういう自選歌集であったかを、我々ほつぶさに知ることが出来る。もとより「赤光」と「あらたま」からしか選ばれていないもので、これ℃茂吉の全容を語るなど決して許されることでない。が、出違いというのは決定的で、私の茂吉好きの心は、『朝の螢』一冊の以外にない。人は知らず、私は「地獄極楽園」の連作におどろいた。共感した。まほだかまうじや赤き池にひとりぼつちの真裸のをんな亡者の泣きゐるところう'りをさな児の積みし小石を打くっし紺いろの鬼見てゐるところ

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白き華しろくかがやき赤き華あがき光を放ちゐるところ私はこんな歌に赤鉛筆で爪じるしをつけた。小学生のはじめごろ、地獄絵を見せられるときまって泣き喚いた私の、写生も写実もない、一つの根を分け持つほどのこれが私の茂吉享受の原点であり、原体験だった。私の『朝の螢』には、初読の際に早くもっけた爪じるしがまざまざと今も残っている。とくに気を入れて読んだ作には丸じるしも添っている。,、蚕の部屋に放ちし螢あかねさす昼なりしかば首すぢあかしつぬさはふ岩間を垂るるいは水のさむざむとして土わけ行くも山川のたぎちのどよみ耳底にかそけくなりて峰を越えっもかねながれ鉄さびし湯の源のさ流に蟹がいくつも死にて居たりしかがまりて見つつかなしもしみじみと水湧き居れば砂うごくかな細みづにながるる砂の片寄りに静まるほどのうれひなりけりみ青山の町蔭の田の水さび田にしみじみとして雨ふりにけりはじめのたった四十頁ほどから右のような歌を十七歳の少年は拾っていた。そして、あかなす赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけりに、最初の二重丸をうっている。「相聞」や「死にたまふ母」の歌はまだこの後につづくのだ。そこまで行けばもっと心魂に徹して痛ましいまで鳴り響く秀歌の多いこと、誰もが知っている。だが右に挙げた程度でも、私が茂吉短歌のどのような一面に惹かれたか、およそ分かってもらえるだろう。「深処の

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生」と言って尽くせてはいるが、ことに右に挙げた歌群からは、"瞬時の永遠"と言ってみたい、茂吉ならではの生の充溢の不思議に、つよくつよく心を捉えられた。そして詩人の生への願望と寂蓼の切ない深みの底に求められつづけた「光」1。そして私は、顧える少年の、心でこんな歌を作っていた。ほにぢひ威Mヒある亦土.道を兼り.り.山り.ぬに光のまぶしさを恋ひやまずけりアドバルンあなはるけかり吾がこころいつしかに泣かむ泣かむとするも『文学鑑賞斎藤茂吉』月報(角川書店)昭和五十六年十月-

谷崎潤一郎の秀歌

今絶ゆる母のいのちを見守りて「お関」と父は呼びたまひけり

子としての万感感嘆のあまり言葉を喪うというほどの短歌が、ざらにあるわけはない。が、谷崎潤一郎のこの一首は、■ひんすばらしい。一言当句のムダなく、一言当句の補足を要しない。しかも真率かっ悠揚せまらぬ気臭の清覧は、措辞のすみずみにゆったりと行きとどいている。だれしも子として母の死にあいたくはない。だが、その母の死をかなしむ父の姿も、子として見るに忍びない。三十二歳の谷崎は、大正六年に五十四歳の母に死なれた。「お関」という死に行く人の名が、

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生者と死者との、この世とあの世との生き別れを、あたかも関の戸を目前に言い表していて、しかも紛れない谷崎潤一郎の母の、それが本名であった。この呼ばわる一声に万感が籠もる。その時、死に行くとわ者は父子の胸に永遠のものとなった。谷崎潤一郎は真に文豪の名に背かない小説家だった。歌は、自分の汗のようなものと当人は軽く言うめ雲竜{犬拙訂琢忙り戻すこしわ凄v茨葡心移〉.こ・聴ほ、九、だし、.死のまぎち・、なく、、晩年へ・和三十一年)の回想の作である。それだけ作者の眼も耳も余裕をもって働いている。

いにしへの靹のとまりの波まくら夜すがら人を夢に見しかな

恋人としてとも「心におもふ人ありける頃靹の津村山館に宿りて」と『家集』には詞書がある。恋の心をうたっている。「又その順一として「津の国の長柄の橋のなかくにおもひの川のわたりかねつも一とい一た歌もある。が、「その頃」とはいつ時分のことかが、気になる。それというのも、この歌で「夜すがら」夢に見た「人」とは、谷崎に名作『盧刈』や『春琴抄』や、また『細雪』を書かせたといってもいい、どうやら捨子夫人のことであるらしく、夫人は夫君哀悼の手記の中で、「昭和七年の夏であったか、旅行先の靭の津から便りがあって、終りに」右にあげた二百の歌(詞句にわずかな異同がある。)が「書かれていた」と回想されている。ところが、谷崎が「靹のふ津」へ旅したと定かなのは昭和二年六月があるのみで、谷崎はこの時、芥川龍之介の計を聞き急ぎ上京

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した。この芥川こそ、谷崎と捨子夫人を同じ二年早春にはじめて引き合わせの役どころを演じていた。当時夫人は、まだ大阪の豪商根津氏の御寮人だった。谷崎文学昭和期における捨子夫人の影響を、数年は早めて見るべきかどうか、これは大事の一首にちがいない。

難波江にあしからんとは思へどもいづこの浦もかりぞつくせる

父としてつかほ谷崎潤一郎はこの歌に、「娘より送金の催促ありければよみて遣しける」と詞書を置いている。古来、難波江は「あし」の生い茂ったことで知られ、『藍刈』という、謡曲もあれば谷崎自身の名作もある。あしなにわえこれを「銭借り」つまり借金にかけた機智が一首の趣向になっている。当時谷崎は難波江に近く住み、一人の娘とは離れて暮らしていた。谷崎の借金は借りツぶり自体が一種の豪放な芸術をなしていた。貧乏ゆえに借りるのでなく、豊麗な、作の十分な滋養として、たっぷり暮らすために借りた。が、さすが藍刈ではないがどこもかしこもおあ、、、しは借り尽くして困ったよという、面白い歌になっている。「あしからん」には「銭借らん」の上に、送金できなくてはそっちの都合も「悪しからんとは思へども」の響きも、ある。「浦」には「裏」口からの含みも感じられる。大正五年に生まれた一人娘を、谷崎はその当時こそさも重荷かのように公言してはいたが、その実は

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終生こまやかな情愛を抱いていた。谷崎の金を作り、借り、乏しきをかこつ歌は幾つか遺っているが、どれもみな悠揚せまらぬ語気の面白さに、手を拍ってしまう。

ちぬわぎも茅淳の海の鯛を思ばず伊豆の海にとれたる鰹めしませ吾妹

夫として「ちぬ」の海と「いっ」の海を対にしているのは、瀬戸内と太平洋、関西と関東、柔と剛との巧まぬ比較をなしている。だが比較というのなら、「鯛」と「鰹」とが幾壬言にもまさっている。き名作『細雪』を読んだ人なら、関西育ちの女主人公が新婚旅行の宿で夫に訊かれて、花なら桜、魚は明石の鯛と答えたことを知っている。谷崎は事実そういう女性を妻として関西に住み、昭和期の、眼をみはる秀作群を次々に創造しえたのだが、作家自身は東京生まれの関東人だった。東男と京女といったぞくげん俗諺も思い出される。だが『細雪』執筆のころから、谷崎は徐々に伊豆の熱海・湯河原の辺まで居を西から東へ移して、昭和四十年に大往生した。明石の鯛ばかりをそう恋いこがれていないで、この鰹もどうぞと「わぎも」つまり夫人に、また夫人の妹や娘たちに勧める谷崎潤一郎。鯛の女、鰹の男。さまざまに豊かなイメージがトントン渓かんで来るのは、下句が四.三・四・三という調子の効果でもある。尋常そうな一首に豊こかな「含蓄」を籠める文豪の日本語に、真の歌を感じるのは私ばかりだろうか。

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「読売新聞夕刊。昭和五十八年五月四、十一、十八、二十四日
俳句らしきものとにかくここ三年、俳句が面白い。作って面白い境涯にはないが、読んで面白い。なかなか、うーんとうなってしまうほどの句には出会えないのが、かえって俳句への敬意をそそられる。時に読みおえた一冊の句集に、はじめからしまいまで「俳句らしき」句ばかりが並んでいて、ついに一句として「俳句」に出会えぬじまいに済む事もある。こういう点は、短歌の場合よりはるかに俳句はごまかしが利かないんだなあ…と、ひとしお面白い。中学の頃、俳句を書きこむためにノートを鞄に入れていた。短歌のためのノートも入っていた。そして短歌用の方は二冊め、三田めと増えて行ったのに、俳句用の方はおおかた白いままいつか影も失せた。いま、その理由のような事が、おぼろに分る。どっちかといえば「俳句らしき」ものを先に覚えたのに、とても「俳句」は手に負えなかった。たとえば、コ葉の花にうづめられたる地蔵かな」というのを、事実属目の句として得ても、いやらしさに唾棄するしかなかった。俗ツほい絵葉書にすぎないのだ。だがそういう具合な「俳句らしき」ものの方がガンと頭に棲みっいていて、ぬくぬくしている。それに子供心にも舌を巻いた。こらアカンと諦めた。

月皓く死ぬべき虫のいのちかな恒平

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初五を短編小説の題に、こんな句を珍しく口遊んだことがある。

雨の日の雨うつくしき秋ざくら恒平

これも小説のなかで使うためにある日の属目を句にしたが、気はずかしい。所詮、私に「俳句」は無理と断念して、それでかえって気楽に、読んで批評して、面白く楽しめるようになった。申しわけないが土手の花見である。それでも、ときどき胸三寸に虫が動く。「らしき」事がしてみたくなる。そう、いっそ本格的に「らしき」事を…と思い立って、かねて久しい思案を実施に楽しみはじめた。

年ごとに年の過ぎゆくすみやかさ寒の水にしづかにひたす硯石ぬるみ風巷の雪をわたる夜ぞをち春の雨障子の遠に河暮れてこぷしわが友は辛夷の花の散るごとくわが宿の春はあけぼの紫の萩若葉ぬすまんと兎しのび寄る

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雲の撃殺生石の上に立つ鳥猫大暑の照りに耳立ててしやうごん夕映に諸仏荘厳されてゐるうまおひ馬追虫の鬚のそよろに来る秋よ磯たたく波やはらかに冬の雨

私はこれらを我が「創作」と信じているが、一歩譲って「批評」だと断っておこう。なぜかなら、これらは皆、牧水、千樫、空穂、晶子、勇、子規、白秋、憲吉、節、利玄らの短歌作品の上旬のままか、すこし私が字句を換えてみたものばかりなのである。そして、ここが肝腎なところだが、これら短歌は下の七七がお話にならぬくらいひどくて、そのままでは大歌人の名が泣く失敗作ばかりでもある。最初の句の、本歌だけ挙げておく。

年ごとに年の過ぎゆくすみやかさ覚えつつ此処に年は迎べつ若山牧水

手控えからさらさら拾ってみたが、私は半ばは「創作」半ば「批評」の楽しみに、こういう物故大歌人の歌集から、お寒い限りの裾七七を切り捨てた「美句」を収拾、すでに千句に及んでいる。俳句とは言うまいあくまで美句または片歌ではあるが、私の「俳句らしき」ものへの未練を美しく満たし、しかも近代短歌が無反省にはらんできた深い病根に、手強く批判の刃を加えているつもりである。厳選二百

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句、本歌と並べてとびきり面白い「美句抄」を、出版してくれる出版社、ないかなあ……。「俳句四季」昭和六十年七月号1

白秋短歌にも

北原白秋こそ「詩人」だと思って来た。『思ひ出』の昔からである、つまり日記を繰れば中学二年生の三学期から…である。子供ごころに兆したそんな感想は、まだ訂正されていないし、それでいい。それに較べて白秋の「短歌」との出会いは何故かもっと遅く、おおかたの近代歌人の仕事をもう見終えた時分に、やっと『桐の花』を読んでいる。大学を出たか出ようとしていたかという頃のこと、私自身の「歌の別れ」も、ほぼ遂げてしまっていた。それでも白秋短歌に十分惹かれた。ただし、彼の魔法のような「詩」を読む感覚で、三十一音の「詩」も読んでいたか……とは、言えそうである。それより、年ごろ、私の「白秋」はといえば、一時期の谷崎潤一郎との交際を通じてその側面を遠望してきた観がある。つい昨日も谷崎の『詩人の別れ』をまた読んで、ともに生誕百年を記念の企画がちらほら目に耳に入る二人だ、この二人の係わりを書けば恰好……とは思うのだが、実は、この機会なればこそ触れておきたい、別の話題がある。「短歌」の話題である。つい最近まで白秋短歌を、必要あって沢山読んだ。そして気がついた。遠慮なくズバリ言おう、千七七の寒い歌が目立つのだ。つまり、(時にすこし表現を変えれば……)上旬だけで言い尽せているいわば片歌の「美句」が、与謝野晶子に負けず劣らず、ずいぶん多いのだ。何故か……を考えるのは、こと

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「コスモス」社中のと限らぬ、現代歌人の総員が避けて通れない宿題ではないかと、私は思う。断っておくが子規・鉄幹から吉野秀雄に至る物故歌人の代表的な歌集三十四冊から、その種の「美句」をおどろくべく多数採集した上での感想であり、当てズッポウは言わない、実例でモノ田しておこう。

もち冬青の葉に雪の降りつむ声すなり(あはれなるかも冬青の青き葉)雪深く黙みゐたれば紅い月(の月いで方となりにけるかな)影さへや蕾は硬き冬の薔薇(ただ三葉四葉の灯映りにして)ゆき春雷の行かそけかる夜なりけり(寒餅の水の雫切らしむ)きぎナ上道のべに雑あらはれ美しき(尾を曳き過ぎる春ふけにけり)春蘭の鉢跳びおりる夜の鼠(そのひと跳びの尾は冴えかへる)春日向ぬくむ手鞠は掌に乗せて(綾は見えずもほの光りさす)聴くものに春はのどけき撃かんな(昼の鼠のそことなきこゑ)雨ふくむ春の月夜の薄雲や(は薔薇いろなせどまだ寒く見ゆ)すずロカ鐸鳴らす路加病院の遅ざくら(春もいましかをはりなるらむ)飛びあがり宙にためらふ雀の子(羽ばたきて見届りその揺るる枝を)たねまき巡礼と野の種蒔人となにごとか(金色の陽に物言へりけり)のあγ、みお上二u野菊に触れば指やや痛し(政見てあればすこし眼いたし){」}-り綜づくり光る賊魚はすずしくて(早や夏近し鉢の藤波)

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●,さき藤波は重りしだるる夜のしじま(世界動乱の気先観むとす)つくりぱなゆく春の劇帆の嘱子身にぞ染む(造花ちる雨の日の暮).ハン菊麺を買ひ紅薔薇の花もらひたり(爽やかなるかも両手に持てば)かはたれのロウテンバッハのけしの花(ほ.のかに過ぎし夏はなつかし)あはれなる廓の裏のかきつばた(タさり覗く目もあるらむか)かさこそと蟹旬ひのぼる竹の縁(すがすがと見つつ昼寝さめゐる)ぐろぽか働葉にしづみて匂ふ夏霞(若かる我は見つつ観ざりき)玉虫の一羽光りて飛びゆける(その空ながめをんな寝そべる)朝鳥の声乱れ来る夏の山(夏山は窓ひきあけてただちすずしき)ポオトきらきら日ざかりは短艇動かず水ゆかず(潟はっぶっぶ空は燦燦)霧ごもり大暑の照りのしづかかな(しづけきは寒かるがごとし蝶ひらら居る)烏猫大暑の照りに耳たてて(蚊を追ふ見れば体かろく跳ぶ)みつ驚きて猫の熟視むる赤トマト(わが投げつけしその赤トマト)ひぐるま向日葵向日葵囚人馬車の隙間より(見えてくるくるかがやきにけれ)わがゆめはおいらん草の香のごとし(雨ふれば濡れ風吹けばちる)

手控えに目を走らせそこそこに書き抜いて、もう紙数がない。むろん異存も異見もあろう事は承知で敢えて挙げてみた。今の私の思いには、作者の実情はとにもかくにも、まずは上旬だけで有難い。上旬

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だけの方が有難い。千七七までは御免を蒙りたい。こんな検証を思い立った最初は白秋短歌からでなく、他ならぬ写生派長塚節の「鳥追虫の髭のそよろうまおひーに来る秋はまなこを閉ちて想ひ見るべし」だった。「鳥追虫の髭のそよろに来る秋よ」で十二分じゃないかと思った。そしてその思いで見直して行くと、有る、有る、子規系といわず鉄幹系といわず今や「神」にひとしい尊敬を受けている物故大歌人たちの作歌に、わるく言えばなげやりで独りよがりな千七七が、というより、上旬だけで有難いというしかない「美句」が、面白過ぎて苦笑いが出るほどガサガサ混じっているのだ。むろん白秋に限らないのだ。が、白秋とて例外ではない。しかも「結社」感覚が麻痩的に拡大している今日、そういう「白秋」にもただ追従していると、なにより今の歌人たちが、自身の歌を自身で批評できなくなる。そのオソレは、明かに現実のものになっている。短歌の「短歌性」は、五句と三十一音のすべてで表現しおおせて欲しい。「コスモス」昭和六十年十一月号

朝日新聞短歌時評

把握と表現「歌壇」という垣の、私は外に住んでいる。外からの発言が、内の人にはひどく耳障りなものらしい。

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いっそ、歌壇、の内部事情は智喜んのでと、最初にことわ一妻心してξおう華い「歌謬評」ではない。私は、率直にただ「短歌」について語ろう。なぜ、「短歌」なのか。しキち幸う虞、間わ望溶。{積極雲ド葦笛て宏い。お轟:藪」書.短歌」へ力抜で超えてきた例えば与謝野晶子のような果敢な近代人に、現代の歌よみは、たやすく負けている。短歌は危機だ滅びると「言う」ことで、体のいい逃げ道を用意しながら、コップの中で心地よけに水をかけ合っている。なにしろ歌はどうでも、歌集にしてしまえばその日から「歌人」である。肩書のヤスィこと、仲間ウゲのいいこと、そしてカッコよく.短歌は滅びるLとプチあげたり::-、まるで鬼の来ぬまの命の洗濯だ。晶子は.短歌は滅びない」と言い切った、「私は短歌の形式でなければ表わせない思いを持っているのだから」と。それは「私が短歌を滅亡させない」というほどの決意でもあったと、『短歌研究』10月号の、第3回「現代短歌評論賞」候補作に挙げられた下村すみよが.女流歌人は解放されたかLに書いている。抄文ながら下村の疑問符のつけかたには、オリジナルな元気さがあふれている。だが、こういう事も、ある。「短歌の形式でなければ表わせない思い」を歌ったはずの晶子に、微妙な判断ではあるが上三句で足りすそた、ないし裾の寒い俳句まがいの作が、実はひときわ多い。

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鳥追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ちて想ひ見るべし

写生の長塚節でもこんな下句を作っている。「来る秋よ」とすれば優に上三句で足りている。「短歌の形式でなければ表わせない」把握と表現を「短歌性」と呼ぶなら、この節の下句なども、批判を急がず底深く問い返す根気をもつべきだ。

和歌と歌謡とたとえば「短歌」という雑誌が有り「和歌」というのは無い。せどうか■や和歌は、長歌や短歌などをふくめての総称であり、長歌や旗頭歌は今日流行らないのだから、つまり短歌だけの雑誌は「短歌」でよろしく、問題はないと言えばそれまでかも知れぬ。しかし、そんな引き算みたいな「短歌」なのか、本当に。人はいざ心も知らずふるさとは花ぞむかしの香ににほひける来ぬ人をまつほの浦のタなぎにやくや藻塩のみもこがれつつ三百年ほど隔てた貫之と定家の歌だが、理屈をつけて短歌だとは言うまい、まぎれもない和歌だとのみ思ってきた。同様に、

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死に近き母に添ひ寝のしんしと遠田のかはづ天に聞ゆる

白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り

斎藤茂吉と斎藤史のこんな歌を、総称もなにも、誰も和歌とはいわない、極め付けの近代短歌・現代短歌としか言わない。多少でもこの道に志ある者の目にも耳にも、和歌と短歌では、えも言われぬ、しかし説明の必要もなく、性根の差が見える。和歌は、根が、和する歌である。だが、必要がないどころか、ぜひにも性根の説明をと頼まれても、これ以上の役は受けかねる。容易わかならぬ、ここぞ大事な岐れ道。適役は馬場あき子だろう、ぜひ美しく道案内してほしい。それはさて、よく見ているとことに現代短歌のなかに、実は伝統的ないわゆる「歌謡」にすこぶる接近して、ときに魅力を、また逸脱の危険をも見せている作の少なくないのに、月々に気がつく。

この桜しろがねの壷に挿さうかな夜寒なにかは月も入れんよ

この高橋幸子の秀作(『花月』)にも、また河野裕子の「ざんざんばらん」な意欲の作にも、「短そ歌」を逸れたむしろ「歌謡」的な魅力質がある事に私は気づいて来た。この徴候を丁寧に再点検しつつ、

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有効に、ライト・バース(軽短歌)をもふくめた短歌の行方に、役立てたがいい。和歌はともあれ、歌謡の味は今も生かせよう。

詩と形式「俳句」と聞いて答えられない人はいない。しかし俳句の「俳」の字と俳優の「俳」の字とはどう繋がせんぎっているのか、繋がってはいないのかと聞けば、十人が九人の余も立ち往生する。その詮議はここではおくが、つまりは、「俳句」も「短歌」も名乗り自体ははや記号化してしまっている事だけを言っておきたい。それならば短歌周辺や俳句周辺に、新しく短「詩」型の魅力あるジャンルがもしや可能として、それに、適宜に名をつけて丁寧に育ててみるのもわるくない。雑誌「短歌周辺」で古来勉が試みつづけていたのは、まさにそのような「詩」の欲求だった。

私は詩の話をしているのにあなたは形式の話をしている

新刊の作品集『天使と花』で、さわやかに恋に身にしむ七十五老の古来は、こうもの静かに、うったえている。短歌が短歌性を置き去りに、その定形を、懸命かつ十分によう満たしえないのなら、自然、周辺にもっと自由な「詩」の呼吸をのぞむ運動が起きるのは必然であろう。俳句の方には歴史的にそれが何度も繰り返し見られた。碧梧桐、放哉、出頭人など。短歌の方ではどうだったろう。

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なににしても定形短詩とでもいえる俳句や短歌の周辺に、いっそ「ぽえむ」とでも名づけてのびのびと新ジャンルを公認してはどんなものか。草壁焔太のかねて提唱している五行詰はむしろ新定形志向だろうが、私は、古来物のようないわば自在庫が、よりみごとに詩の表現を獲得して行くのなら、それはそれで外堀を埋めながら短歌や俳句に対し、厳しい詩性を逆に求める推力になろうかと思う。言うまでもない、定形だから貴いのではない。「詩」であるから有り難い。一部の歌人が誤解するような、これは短歌に唯美主義を求める発言ではけっしてない。尋常であれ無かれ、用いる言葉をよくかし「詩化」する秘術ももたず、まして「定形」もよく満たしえなくてなにが歌人かと、首を傾げるだけの話である。

出版記念会とり立てていい歌で満ちているわけでないのに、しみじみいい歌集に出会うことが、必ずしもまれでない。このほど東京・中野で、はではでしい出版記念会を済ませた長谷えみ子の『風に伝へむ』がそうだったし、対照的に世の片隅からそっと人前へさし出されたような、大阪・野崎の吉田光子による『うしろ影』も、読後の印象の濃い歌集だった。

思びきり生きてみよとぞ聴く哀し春の墓辺のきみは風にて

や†とうすみとんぽ短か夜を風のなごりに訪ひ来しか翅息らへよ灯心蜻蛉長谷えみ子

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夫君に死なれ、つよく生き、五十過ぎて再婚した稀れにみる佳人の、水を打ったような孤心に一冊の†ひとさち歌集が清み切っている。そこにこの歌人が拠り見出した身の幸もある。歌壇の俗になずんだ盛大で空疎な出版記念会がこれほど似合わない歌集もなく、発起人の一人に名を連ねた思いは思いとして、例によって遅参の福島春樹が蛮声の道化を演じはじめては、もう席におれなかった。来客やお仲間衆の祝辞ともっかぬ批評を(私のもふくめて)延々と聞いたが、すべて歌集にも歌人にもしかと届かず、うつろにはね返されていた。ひとり、巻末近い「風のなごり」の歌に心和みましたと表情をやわらげた人がいて、それは一時傷心の長谷が勤めた職場の一上司だった。歌壇を横行する出版へんげ記念会なるもの、真実の歌ごころを寄ってたかってむしばむ虚飾の怪物と、とうに変化してはいないか。誰が得をするのか。

春冷えのゆふべはひとのなつかしく横坐りしどけなう「雪国」をよむ少しばかり今夜は倖せだったわたし仔猫よお前にも分けてあげようひっそりと昼の茶房に画帖ひらきひと来ずセザンヌかなしみとなる吉田光子

妻子ある人への愛を歌いぬいて、どんな悪達者な歌人の言葉遊びより、たどたどしい歌が生きて「うつたえ」ていた。

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自費と版元おびただしい数の歌集が家へ届く。新聞社からも来る。直接送られても来る。私は、私の流儀でではあるが一通り目を通している。ふ書と同じで、歌も巧みなだけでは魅力がない。ただ巧みに歌の数だけをせっせと殖やして、せまい世間で大将になったり、将校になったり、詩の感動とは無縁の序列を競っていては困る。他者(読者)の共感(共生)を彫り起こすには、まず、ひとりの「我」を問いつめる「うったえ」を「歌声」にかえねばならぬ。それを、ぜひに『短歌』でというからは、だれよりまず自分の歌を自分で批評しぬく才能をもって欲しい。他人任せでは困る。ところが繁昌を極めているかに見える歌集出版の、まずは九割の余が数十万円におよぶ作者の自費で成っていて、そして売れない。人の歌集はもらうものという位がこの世界の慣習になっているらしい。慣習は慣習として、本にする前の選歌まで他力本願のが多い。いま歌の世界を牛耳っている一番の「顔」は、膨大な数の歌集出版を個々の歌人の懐でおおかた賄っている版元だろう。歌集量産の、たいした人助けではある。いやいや求められれば手を貸しましょうといった、親切一途の人助けども見えない。なかなか人も歌もよく選んで、いい出版社が出来たな…、と思ううち、欲も深くなるのだろう、義理にもからまれるのだろう、なんでこんなと思うような歌集も「企画」の名においてゾロゾロ作られて行く。出版記念会のロビーは各社格好の一本釣り漁場めくとも耳にしている。

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歌集が出せるのは悪いことと思わない。しかし版元の商売にただ誘われての自費出版では、いかがなものであろうか。そんな安易なギブ・アンド・テイクが「短歌」をそこない、軽薄な出版記念会がさらに輪をかけてはいないか。肇昌こ早一事艀に「茶ノ道廃ルベ一と利休はいましめていた。高くつく歌集量産より、安直な歌の歌われようが気にかかる、短歌大切の読者には。

「選」の責任せん秀歌撰という伝統が和歌時代このかた久しい。よ歌をえらぶ、そして佳く配列することは古来歌集づくりの基本の作法。句集のように歳時記といった季語の枠組みを頼めないだけに、ひとしお歌集は、歌をよくえらび歌をみごとに並べるという「批評」の才能に支えられねばならない。自分の歌を批評しぬく力をと私がしきりに望むのも、その両面を考えている。自分の歌集と限らない。歌の世界とは、とにもかくにも「選」の一字で質と水準とを保ちまた高めるだhのが「約束」の世界だ。雑誌も新聞も、誰かが誰かの歌を「選」んで大概成り立っている。「選」ぶ側には一段の責任があろう。だが、また、朝日歌壇の「選」をみても分かるように、これほどの選者が目を皿にして、しかも、重複して四人が四人えらんでいる歌など絶無にちかい。星の印が二つ出ることすらめずらしい。つまり、それほどのモノで歌はあり、歌をえらぶとはそのようなコトであるわけだ。「選」には、だ

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からこそ選者の全部が透けて見える。ここの理解で、だから大事と踏んばるか、どうせその程度と緩むわかかによって、歌の批評も、批評への信頼も、大きく岐れてしまう。私は門外漢で歌の「選」にはかかわりない男だが、こういう時評を引き受けている以上、自分がどんな歌ならえらぶ)、見本DようなもDぱ是七しておきセ(o幸いこの三年余をかけて『愛と友情の歌』(講談社)をえらび鑑賞と批評の文を添えた。それもこの手の詞華集の例にならわず、ほとんどを近代、それも主に現代の短歌を軸に編成してある。幸か不幸か私の『短歌』一月号での新春鼎談発言が、いささかこの一年中の話題になっていたらしい。そういう「まとめ」が年末の各歌誌に見えている。それだけに、私の短歌観、ひいては詩歌なり文学なりの考えを率直に表した右の一冊を(どう批判されても受けよう)掲げておく。

気票の清賓宮川賞雄の遺歌集『風琴』(短歌新聞社)を読む。会津八一に学んで書にすぐれ、画と陶を深くたしなみ、和光大学で美術史を講じるかたわら、日本中国文化交流協会理事長として、久しい民間外交の真の要に位置していた。たぐいまれな温容に、戦前戦中「コルト(拳銃)のトラ」とうたわれた烈々反体制の闘志が、最後までじつに魅力的に静かに秘められていた。喜寿を目前の惜しい惜しい急死であった。歌集は「あとがき」も添え、死の直前に用意されていた。

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風が鳴る風が鳴るのは渓あいに鬼が棲むらじ桜咲かせつ秋たけし楽海堺に草ふめば空にたちたつまぼろしの寺

とだれ花の吉野を、唐長安の青龍寺を懐かしく歌ったこの二首など、宮川「杜ら」ざんをよく知る誰しものことに愛唱してきたもの。きひんれいろうわずか「二十年間に三百首」の『風琴』は、しかし気稟の清質に満ちて詩情玲瀧、「専門」の「プロ」のととかく言葉を巧み徒党の力を誇りたがる玄人歌人を、顔色なからしめる。私が宮川賞雄を心から敬愛するから、強いて言うのではない。万骨を枯らして一将の功のみ成るようなクサイ歌壇が本来なのではない。まさに歌う一人一人の、気稟の清質最も尊ぶべきところを詩とし師として、「杜ら」さんのように、歌に「人間」を刻印してほしい。いい歌は、たどたどしくとも、そこからしか生まれまい。

幡桃はまさにこの世のものならずやや紅さしてあやしきものを

えんこういう艶に平明な歌を玄人はしたり顔に頬笑みがちなものだが、素人芸の高貴な品位をいまの歌は忘れ過ぎていないか。塚本邦雄らの歌誌『玲瀧』創刊0号をみた。あい寄る誰のどの歌も「人間」不在のおびただしい同工がんろう異曲、「文字」と「語ゐ」を玩弄の、あい変らぬアナクロニズムに陥っている。

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螺鈿より雲母くもりてわがうちのゲバラの額の藍の弾痕玲秋谷まゆみ瀧か、否。

微罪なりや一冊の歌集に短編小説を意図して織りこんだ務部祐子の『微罪』(沖積社)は、読者にどう判決されるか、問題ふくみの意欲作になった。第一歌集『解体』を乗り超えようとした勉強は、もともと語感すぐれ、しなやかな現代の感性に恵まれたこの若い歌人のがんばりで、とにかく一つの定点にたどりついている。だが意欲は意欲として、思いのほかの「問題」も露出した。ブラデイー・レイン三十校ほどか「微罪皿-耕雨の日1」という作品が末尾に載っている。未婚女性のはなはだリリカルな恋のつぶやきだが、ま、まさに処女作らしいからそれは問わない。ただこの文章にところどころ短歌が立つ。その趣はあたかも歌物語風なのだが、困ったことにその歌が小説作品の内側から必然うたい出されたものでなく、この本の歌集部分や前歌集で読んだばかりの作品なのだ。歌が先にあり、文章でその情緒や背景を絵解きしたかと読めてしまうのだ。これは歌のためにも小説のためにも不幸なことで、歌物語に似て実は非なる安易さにシラケてしまう。伊勢物語でも源氏物語でも、歌は地の文から自然必然のつよみで、さながら生え出ている。

素足にて踏み入れられしことなきか海うつくしく襲をととのふ

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なぜ歌人勝部は、小説内面の要求に応じた歌、歌集に発表の歌とはべつの歌をすべて創作しなかったか。せめてその歌を節度よく歌集からは省いておけなかったか。それが、歌集と小説とを有機的に織り成し、一つの「微罪」世界を生む作法であったろうに。務部のいわば「小手投げ」に苦笑しづつ、しかし、短歌をむりやり「小説風に」作っていかねない現代の多くの、しかも若手歌人の「短歌の方法」を垣間見た思いがせぬでもない。みなさん、ひょっとして短歌に文章や長ぜりふを添え、いつも歌意を「補足・説明」したい不満に悩んでいるンじゃ、ないでしょうね。

詩化を遂げよ言葉の「詩化」を求めて私が強い発言をしたのは、角川『短歌』昨年一月号での笠原伸夫、篠弘氏との座談会だった。以来いろいろ話題を提供した座談会だったが、この「詩化」という点に関しては『短歌現代』二月号で水沢通子が「ことばに重層性を」と説いて触れるまで、なんとなく漠然と見過ごされて来た気がしている。水沢は「詩化」の意味を、「言葉に意味の重層性を与えること、あるいは意味の重層性をもつ言葉を選ぶこと」と言い換えている。その意味では象徴性といってもよかろうし、含蓄に富んだ、イメージの喚起力に富んだ言葉の用い方とみてもいいだろう。芸術には美学もあるが独特の力学もある。私が短歌における言葉の「詩化」を言う意図は、言葉の意

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味ないしイメージと音声の響きとが、互いに構築的に「詩」の世界を実現しうる力学的効果と、その表現と、にある。たとえば、いわゆる「動作」と「所作」との本質的な差に敏感な人なら、今日、いかにただ日常の動作とえらぷところのない短歌が多いかに目を見張るだろう。動作とはハダカの意味ないし目国一過ぎない、それと同じにただ言葉をハダカで並べても「短歌性」は満たされない。所作とは意味ないし目的の、力学にかなって、さまざまに美しい表現である。短歌はそうした力学にかなって言葉の「詩化」をくま、、、、なく遂げてほしい。詩語が在るのではない。どんな普通の言葉も用い方で「詩化」できるのである。庭のそとを白き犬ゆけり。ふりむきて、犬を飼はむと妻にはかれる。啄木最期のこの歌は、一字一句「詩化」の魅力と迫力とで、歌人のかなしみが胸を打つ。とほうもない運命の影がたしかに今、作者と読者の前を通り過ぎて行く。覚めやらぬままに聞きゐるちぴ犬を連れ出づるらしき少年のこゑ大西民子角川『短歌』二月号巻頭を飾るこの歌では、だが、どの一字一句も「詩化」されていない。表現以前

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の無感動な動作歌である。こんなのが巻頭に多すぎる。

一首一首目くばりも足らぬのだろうが、ことに触れたいと思うほどの事件も話題もない。そういう時に届けられた玉井清弘『風箏』(歴書館)は、十余年を経ての第二歌集。やや欝に、充実しており音色は澄んで深い。「仲間たちの多くが、また同世代歌人の多くが次々と歌集をまとめていくのを見ながら心が騒がなかったわけではない」と「あとがき」に告白してあるが、耐えにし重みが美しく添って、十分にむくわれている。

も羽たたむさなぎのごときみどり児と沈める夜半の湯の面しずけし

歌人の仕事は点でなく線でみるべしという話を、以前、ある結社誌の時評欄で聞いた。いささかの不審を投稿の体で確かめようとしたが、あっさりボツにされた。一首を軽んじて一冊の成果があろうか。一冊の充実を欠いて一期の満足があがなわれようか。そうはいえ、また、歌の真実は持続の道にこそまひかりを放つものでもある。線は大切、そのためにも点が、より大切。玉井の「十年間」はそう告げている。点より線かと、かりにも私のような立場から発言するなら、まだ分かる。歌の実作者が言えば、聞き苦しい言いわけにしかなるまい。

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「この期間、言葉について考えることが多かった。単なる記号にしかすぎない言葉を組み合わせると、言葉と言葉が不思議なリズムを生みだしてくること、そのリズムが描こうとした対象とからみあって、どのような世界をすくいとることが可能なのかといったこと」を、と玉井は述懐している。だれしもの思いに近い「考え」ではあろう。が、玉井の歌集はこれをただ考えるだけでなく、つとめて実践したあとが著しい。私の「語化を遂げよ」との願いにこたえようとしたとも言え、だが、その意味では一首一首の磨きがまだ淡く、「かなしみ」が、ナマに出る。

ゆうぐれに澄む茄子畑かなしみのしずくとなりて茄子たれており

胸を打てかねて、短歌界の人たちは外からの批評や刺激に対し、反応もしないという意味もふくめて「ひよわい面」を、また率直でないという意味もふくめて「おごった面」をもち過ぎている気がしていた。が、その偏見であったことを今は自覚している。約束の半年が過ぎ、今回で私が担当の短歌時評も終わるが、大勢の読者の反響をえた。有り難いことだった。そうはいえ反応したのは、たとえて言えば「選」を受ける側の人たちだけだった。責任ある「選」に当たる側の人たち、雑誌では巻頭を常に占め現代短歌を実質リードしている気の人たち、その耳の穴をこじあけてでも聞いて欲しいと願って来た人たちへは、声はほとほと届いていないと、やはり今、実感している。

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しめくくるほどの事件もないまま、言い残したいくつかを書く。表現のかたちとして、なぜ、ほかならぬ「短歌」を自分は選ぶのか。そこを根から考えて表現してほしい。余技の歌は多いが余儀ない短歌は乏しい。「うた」とは、結局「うったえ」であるという尋常な認識を私は持している。しかし「うったえ」も、「短歌」であるかぎりは、それなりの「芸」をもってして欲しい。美しい物や事を歌えとは言わぬ。が、美しくは歌ってほしい。ただしこの「美しく」にもほんろうこまざま有り翻弄されてはならぬ。しかも何としても短歌は「詩」なのだ。「表現」でもあるのだ。三宅みのり。目下十二歳、中学一年生の『星のみる夢』(短歌新聞社)が手もとに届いている。祖母り指導で少女が歌を作りはじめたのは六歳、幼稚園の時であったという。

もりのなかきりがすうっとすきとおるきっとあしたも雨になるのよ(六歳)

もしもこれを歳五十の私が

森深く霧澄みやかにひかりゐつかならずあすも雨になるべし

とでも言い換えて、

それが何でありえよう。分からぬ。「朝日新聞」朝刊昭和六十年十月十三・二十七日、十一月十・二十四日、十二月八.二十二日、六十一年一月十九日、二月九・二十三日、三月九・二十三日--

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俳句-根の問題三つ昨年秋からちょうど半年の間、朝日新聞の短歌時評を引き受けていた。それも幸い無事に終えた。俳句時評と筆者交替の隔週担当だから回数は知れている。が、回数のわりに莫大な歌集や歌誌を読まねばならない。新聞社からも個々の歌人からも盛んに本や雑誌が届く、それだけでも小説家にはオオゴトであった。終って今、心底ホッ……としている。ま、そんなことで自然、新聞紙上の「歌壇」だけでなく「俳壇」の方へも目が行く。家の者までがなんとなく関心をもって、いままでさして見向きもしないでいた短歌欄や俳句欄を読もうとするようになった。それは、いい。大いに、いい。さて、いつ出て来るかナ……と私が、心待ちにしていた話題は、日曜日の午どき、思ったより早く家族から持ち出された。一つは、最高に選ばれている各四人の選者でありながら、投稿歌や句に☆印、つまり複数選者による選抜の印がめったに付かないのは、何故でしょう……。佳い作は佳い作、選者個々に得意の作風はあるにしてもそれを超えて佳い作品を批評的に見つけ出すのが、「選」の「力」で「責任しではないのかしら:::。そうまで言わないにしても、さっぱり☆印が無い有様では、声を枯らして「佳い」短歌「佳い」俳句をと望んでみても、何に準拠して「佳い」のやら。ある選者が「佳い」と思って採用している☆印のついてない作品は、他の選者三人の目にはさほど「佳くない」と見られている事になり、短歌や

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俳句のユライ人による「批評」とは、つまりそんな程度の事ですか、それでも宜しいのですか…、。この問題、ここで論じ深めるのは微妙かつ難儀を極めよう、言いおくに止めたい。さて二つめに、家の者が口を揃えて申し立てたのは、選者による「評」のことであった。有り体にいえば、「これなアに…-・」という感じである。批評や感想の必要はおおいに認めるけれど、「ウン、なるほど……さすが」と感心させて欲しいワ……。例えば、大雪に押され続ける雪囲(橿原市)西岡ヨシ子「評」山口響子雪国の家に囲いがしてある。囲いの外の雪は、その雪国いを圧迫する。雪が大雪なので、雪囲いをじりじり圧迫する。黄砂降る海と陸との隔てなく(福岡市)河野放和こうじん「評」加藤轍邨大陸の方で舞いだった黄塵が降りかかってくる現象。海とか陸とかの区別がなく襲いかかってくるところがすさまじい。一気に言いきったところスケールが大きい。(ともに三月二十三日付各一席)いずれも私が尊敬する俳大家ではあるが、おおかた、これでは「説明」に過ぎない。それとも模範的

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な「鑑賞」のお積りか。句の魅力は、わが家の誰しも、こんな伸びたゴムのような文章に支持される必要もなく胸に届いた。それとも、お前たちには届いても、新聞読者のおおかたには「説明」が必要とおっしゃるか。同じ日の短歌欄に、

よろこびも解放もあらぬ朱書されし手帖を受くるわが生れし町に(上野市)李正子

甘うなつ「評」近藤秀美朱書されし手帖-交付された外人登録手帖に、指紋押捺を拒否したものには、「不押捺」と朱書きされているという。第一首。作者は在日韓国人二世。その生まれた町から受けとる手帖に、今もよろこぴも解放の思いもない。重い、せいいっぱいの抗議の歌である。

さすがにこの選者らしく行き届いている。もっともこの場合は歌の方に問題があろう。たまたま「朱書されし手帖」の意味を私は知っていて作品だけでうなずけたが、家の者には、「評」と「鑑賞」に先立ち「説明」を読まないでは、「理解」もできなかった。はて.…:知らなかった家人がいけないか、それとも作者と作品に芸が足りないのか。いやいや、それこそ短詩型表現の根にかかわる問題であろう。まして、俳句においておや。「俳句四季」昭和六十一年六月号1

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学生に詩心を

「古()や蛙とびこむ水の音」の虫食いの箇所に漢字を一字補いなさいと言われたなら、たいがいの人は思案も何も必要なく「池」と入れるだろう。芭蕉の代表向である。つまりは発句・俳句の代表向でもある。おおかたの人が「知識・常識」として知っており、句として味わうまでもなく答えられる。いざ上びでは、「十六夜の長湯の()を覗きけり」とでも変われば、どうか。津崎宗規という作者を知った人も少なかろう、句も「知識・常識」の範囲内とはとても言えまい。それでもぜひ漢字一字を補えとなれば、これはもう、句そのものに入り込んで、沈思し熟考しなければならない。その時、その人は、たんに原作の用字をクイズふうに当てるのではなく、句の表現を、自分の詩心で完成しなければならぬ場に身をおいている。いわば一人の俳人とすら成って思案するしかないのである。勤務している東京工業大学の学生の一人は、これに「兎」といれた。十五夜にあんまり餅をついたので、今宵は長湯でのんびりしているのでしょう、と。湯ぶねに月が映っていたと想うもよし、山の湯に兎が……と想うのも、わるくない。ウゲ狙いにしても、結構。原作には、しかし、べつの漢字が宛ててある。あなたなら、どうする?・勤務校はご承知のように理工系の国立大学であり、この三、四年をわたしは「工学部(文学)教授」として学生諸君にまみえている。毎時間の、ホンの十分ほどをつかって、主に現代短歌をこういう虫食いで出題し、「表現を完成」してもらっている。69俳句や詩で出題する日もある。詩歌の微妙な表現・創作に直に参加してもらいながら、しかも、当日

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ことの授業内容へも関わらせている。こういう体験でもしないと、一生涯に、歌集・句集・詩集の一冊も読まないエリート科学者が出来てしまうかも知れないのを、心底、心配するからである。新刊の『青春短歌大学』(平凡社)は、そんな教室の、爆笑や感嘆の渦のなかから選んだ約百首の虫けたち食い作品と、二十歳の学生諸君による正解.明解.珍解と理解のかずかずを紹介し批評しりり、1詩歌衷L3、、現の、難しいけれど魅力も横溢の秘密に手をふれてみた一冊である。我が青春短歌大学のズバリ「試験問題集」であり、加えて、現代詩歌とくに短歌の作者や愛読者べかなり厳格に突っこんだ「詩的公開質問状」でもある。虫食い作品のずらっと整列した、まず「目次」かうたら、うーんと真剣に捻ってほしい。

生きているだから逃げては卑怯とぞ()()を追わぬも卑怯のひとつ大島史洋

この二つの漢字をただ安易に入れることは出来る。教室ではたちどころに約六〇種もの熟語が飛び出した。しかし、正解を含むそれらの中から、もう一度よく考えて選び直せと突きかえすと、もうそれは、一人一人がいわば心奥の泥を吐くにひとしくなる。しかし吐いてみる価値はあったと思う。あなたなら、どう答えますか。ちなみに津崎さんの句には、原作の「母」が秀れて美しい。「聖教新聞」平成七年三月七日1

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鼎談これからの詩性と抒情歌人篠弘(司会)文藝批評家笠原伸夫作家秦恒平

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「短歌」昭和六十年一月号

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感動の満たされる歌とは

篠きょうは作家の秦恒平さんと、昭和二十年代に作歌活動をされ、現在は中世から近代文学に至る評論活動をしていらっしゃる笠原伸夫さんにおいでいただき、新年号にふさわしい大柄な話をしていきたいと思います。去年十月、ペンクラブの例会で秦さんから「第二芸術論を書きたい気持ちがあるんだ」というお話をされ、僕なりにショックでした。僕個人はここのところ『昨日の絵』という歌集を出したり、追っかけ五十年代の作品をまとめたいと思っています。僕はしばらく作品を怠っていましたが、リアリズムの新しい展開を主張するばかりでなく、自分も率先して作歌していこうという気持ちになっています。ある危機感というのかな、同世代者がいくぶん疲れたり脱落したりしていくことを目撃しまして、現代短歌のあるべき姿をさぐるものとして、これじゃ困るという気持ちもあったからです。ところで、昭和五十二年に『少年』という歌集を出されたことのある秦さんが、いまはどんなふうに短歌を見ていらっしゃるか、ひとつそこから伺いたいんですが。秦場所が場所でしたし、譜諺の気持ちが全くなかったわけでもないが、そういう気分でもいたんです。この三年くらい、記紀歌謡から最現代のまで、すさましごとじい量の詩歌を批評的に読む機会があり、オリジナルの歌を作る難しさなどを感じていたのも影響しています。その中で、現代の大家・中堅といわれる方々の最近の歌も数多く読みながら、幾つかの疑問が湧いて出た。なによりも、いわば一所懸命の表現形式として「短歌」という文学のジャンルを選択してると言えるのか知らん。それにしては短歌でしか言えないンだという「短歌の方法」の自覚のようなものが棚上げになっていないか。十分な"詩化'を遂げない表現で、あたかも日記がわり、メモがわりに近いまた余りに蕪雑

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散漫なないし珍奇なところへ落ちこんだようなのが多過ぎやしないかなという気がしましてね。むしろ新人賞クラスの人や素人の歌の方に、丁寧な様式意欲や真率な思い入れの面白さが感じられるンです……。笠原俗論を言いますと、もしかすると言語芸術全体が第二芸術といえませんか。小説だって。つまり芸術というものの秩序、規範があいまいになっているでしょ。言語芸術の場合は、われわれの内なる秩序で、小説とはこういうものだという感じがありますが、絵画、音楽にまで話を広げてみると、現代くらい秩序、規範が崩壊している時代はないわけです。写真ですらリアリズム信仰みたいなものが崩れかかっているという話も聞きましたから。秦私が言っているのは「短歌」です。月々にたくさん見られるさまざまな歌の一つ一つないし一連が、佳いのか悪いのか。むろん自分のモノサシに当ててですけれど、その具体論にここは絞りたいと思う。平ツたく一般の話へ逸らしたくはない。で、私はわずかな作歌体験をもとにしながら、そして少年来の好みからも、相当自発的にいろいろと読むわけですよ。最近の歌集もたくさん、しかも繰返して読みます。言ってみれば、その際の感銘の問題です。十分に満たされなければ、困ったと思う。物足りなく思う。そこから、いろいろな感想が出てくるわけです。

歌集をまとめる美意識

秦一、二申しますと最近、まだお元気な現役歌人の豪華な全歌集もポツポツと頂戴します。が、亡くなられた『前田透全歌集』のようなもはや御形見は貴重な例外として、現役歌人の「全歌集」という形で問われるものは、いったい何なんでしょうか。いろいろ有りましょうが、それは、ひょっとすると短歌作者の自己批評力の低下と見合っている現象なのかもしれない。それから、本誌のような雑誌の巻頭部分に活字も大きく歌数もひときわ多く発表される知名歌人の歌の、一りけAつ一つ。これは果たして、離見の見といいましょうか、作者のかなり厳しい自己批評に耐えて発表されている

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作品だろうか。そういった疑問も、もっています。その辺を、おいおいと……。篠全歌集のブームのところについて、申し上げますと、ご存じのようにいま、カルチャー歌人といわれる中年、とくに女性が多いんですが、歌人層が急激に増大しており、これは各結社に影響を与えています。したがって、主宰者がかつての古い歌集を新しい歌人層に提供したいというファクターからも出ています。自分の過去の作品の総見直し、総点検、そのこと自体を世に改めて問うといったようなファクターよりも、そうした物理的な要因のほうがむしろあるので、全歌集が相次いで出ることについては、文学的な評価の問題とは切り離して考えていただいたほうがいいんじゃないかな。秦しかし、一つの文学的現象ではあると思うんです。だから、全歌集を出されるクラスの方なら、短歌人ロペの有効な配慮ということからすれば、むしろ、もっと作品を丁寧に選んで提供してもらえれば、一層ありがたいんですよ。たとえば『短歌』ではいろいろ
な有力歌人の特集を組んで、その中には自選(時に他選)百首がおさめてありましょ。私など、あれが嬉しい。選ばれている歌に納得がいく、いかないはともかくとしてね。過ぎこしの全作品から百なら百首を選ぶという重い行為を通して、もう一ぺん自分史が見直されている、そのことから興味深く学べることが多い。もし、カルチャーを文字どおりの文化ととるなら、歌を量的に拡散する形での全歌集の氾濫、とまでは言いませんが、そういう形で一般の人に勉強を強いるより、自選(他選)百首のようなところに目を向けて貰って、けんけんふく上うひんしつそれを拳拳服膚されるか批判品隙されるか、正も負もとりまぜてそこから文学的感動を受ける。その方が、より佳いでしょう。こういう一種事大主義の悪いーあえて言いますが-影響からして、最近の歌集の編成に対する各歌人の美意識なり態度が実にあいまいだと思います。そのために金のかかった装順のわりに「歌集」としてのおもしろさが薄っぺらになり、私的な記録・備忘録ふうずさんに歌数を押し込んである。文字どおり杜撰なんです。

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私のような、ある意味で門外漢からしますと、歌人の美意識はどうなっているんだろうという気がする。笠原その自選百首ですが、私は王城徹さんの「うた」に山崎方代特集で他選百首を註つきで発表したことがあります。そのときに感じたことは、歌集を対象にしてはだめだということです。歌集というのは、いま秦さんがかなりきついことをおっしゃったけれど、一つの編集意識があって、万代氏の歌集は、万代氏が選ぶのはもちろんですが、だいたい岡部桂一郎の編集でできあがっているのです。そうしますと、私は彼の三田の歌集で百首を選ぽうとしても、ちょっとだめなんです。岡部のフィルターを通してしか見えない。しかも、初出と歌集では改訂がありますから。そこで全部ご破算にして、雑誌からじかに、私なりの基準を設けて、初期の「工人」時代から五十音、最晩年、「うた」および総合雑誌とよばれるものから五十首を選びました。そうすると、一種の臨場感覚というか、隣近所にこういう歌が載っていて、今月号はこういう特集で、戦後の紙はザラザラして、その中に山崎万代の歌
が位置していて、そこから五十音とるということは明らかに批評的行為だなと思いましたけどね。篠僕も戦後短歌史を書いたりするときは、評論は玄どJワ作亀も、初出を読み.ます『初出の雑誌で当た一,ていかないと、その時期における作家のリアリティが出ないんです。歌集の選についてですが、歌集は自選でやるのが建て前だと思います。山崎万代さんが岡部さんの意図を借りたのは珍しいケースです。だいたい自選です。ところが、自選は必ずしも的確じゃないんです。評判のよかった歌も含めて自選するのですが、必ずしもうまくいかないんです。身近な理解者が、歌集の編集に参画するということは、そのテーマを明らかにするうえでもいいことでしょうね。秦一読者である私は、歌のおもしろさを十分汲みとらせたい場合には、まず、その歌人に十分自選してほしいと思う。これは量の多さへの対処です。同時に、見方がいくらか違うであろう、少なくとも三人くらいの別の批評家や歌人にも選んで貰えると有難い。そう

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すると、自選他選重なる部分と重ならない部分との差が、歌人によって出てくるでしょう。それもおもしろい読み味になります。他選する人によっては、当の作者とかなり重なるだろうけれど、重なるから必ずしもいいかどうかわからない。そういうものを全部会めて出てきたものを、その人の歌の佳い部分と仮りに見て、そこへ自分自身の読みを付け加えてみたい。批評もし鑑賞もしたい。だから私は、自選だけに拘泥する気はないんです。ただ「歌」という作品を批評する力をそれぞれの立場で作者も享受者も持ってないといけない。垂れ流し、あてがい扶持、両方イヤですね。いまの短歌ジャーナルのあり方では、下手をすると活字に一度なってしまえば、それ以上の批評を受けつけないのじゃないか、という心配がある。そして批評を受けつけずにルーチンワーク(日常行為)ふうに歌が制作されていくと、だんだん歌を作る人に"短歌とは何か"という自覚が磨滅していく恐れがある。すでにその傾向が出ていませんか。というのは、たとえば「短歌」の巻頭のほうに集められる何人かの知名な歌
人の歌を一つ一つ、気を入れて私は月々に読んでいくんだけれど、共感できる歌はまことに少ない。歌材や傾向でものを.一..口うンじゃないですよ。いわば「短歌性」1といった"諸性'の観点からみて・本当ここπよ「歌」だろうかという思いをする歌があるんですよね。篠歌人が自分の雑誌に出詠している姿と、歌集として世に問う場合の厳しさを秦さんはおっしゃろうとしているので、実はそこのところは同感です。つまり垂れ流し風に毎月たくさんの歌を作っていますね。ちょっと多すぎるんじゃないかと思うくらい、多いでしょう。結社誌に発表する姿そのままが総合誌に載るということは、ある厳しさに欠けるといえますね。しかし、一流歌人の歌集は、やはり自分自身の存在感が明確になるようにつくられていますよ。

編年体のつまらなさ

笠原送っていただいた雑誌を見て、全体に浮力がついているというか、結社誌が浮き上がっちゃってい

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る感じがあるんです。これは私が歌をやめた段階から独りでやってきたというようなひがみ根性かもしれないんですが、大結社になると量がありすぎて読むほうもめまいがしちゃう。まあ、きょうは結社論をするわけじゃないので歌集の話に戻しますと、どうでしょうか、かつて一冊の歌集が与えた衝撃力は確実にあった。たとえば斎藤史の『魚歌』、前川佐美雄の『植物祭』、戦後でいえば大野誠夫の『薔薇祭』……。いちばん衝撃を受けたのは佐藤佐太郎の『歩道』で、反写実・反アララギということで凝り固まっていた少年の私の頭上に、あの繊細な都市詠が打ちかかりました。昔、塚本邦雄さんから、なぜ歌をやめたのか聞かれて説明がつかなかったことがあるんですが、いまにして思えば佐藤佐太郎からの衝撃かも知れない。若干こじつけもありますが。そのくらい、一冊の歌集が与えた影響は大きかったわけです。秦佐藤さんの歌集から受けられた感動の中で、無意識かもしれないけれど、歌集の方法とか美を感じられていたのではないですか。ただ歌の一つ一つがいい
からなのか。それとも歌の配列なり編成なりの感化があったのか。どうですか。笠原もちろん一首一首であり、総体としての一冊でしょうね。分けられない。折口信夫は「女流の歌を閉塞するもの」の中で、女歌のふくらみ、自在さ、あるいは拝情をかなり奔放に詠い上げる、そういうものが島木赤彦あたりの厳しさの中でそぎ落とされちゃったんじゃないかと書いていまして、歌集の問題ではそれが一つ気にかかる。もう一つは、斎藤茂吉という大巨人なら許される、編年体で洗いざらい載せてしまうという、あのいき方が歌集を読む楽しさを奪ってしまったということはないでしょうか。篠でも、最近はまた編年体の編集が多いですよ。そして、やたら量が多い。歌集一冊がそれ以前と、大きく豹変するという性格を持ちにくいという問題があるんじゃないですか。秦私は、歌集一冊がテーマに縛られることに賛成じゃないんです。むしろ、テーマを持って、そのテーマで作ろうとした歌集には、ある種の重苦しさと臭み

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かありますね。成功している場合はいいが、成功例を忠いつかない。テーマというのではなくて、自分がそれまでに詠みためてきた歌をどれぐらいセレクトして、とD上うな意識でそれを配列して、これだけの歌集でこれだけのことを伝えたいという短歌感覚が結晶しているかどうか。いちばん困るのは、量的に多すぎるのと、単なる編年体で、どれもこれも惜しくて外せないケチというような私的な感覚で、何もかも押し込んである歌集です。これらは読むに耐えません。笠原それはわかりますが、逆にこういう現象もあるんです。岡部桂一郎の第一歌集『緑の墓』は名著ですが、あまりにも厳選しすぎている。日常の自分の生活感覚みたいな、構えない、ひょっとした一首があり、全体の中からその一首を取り出すとつまらないけれど、歌集の中で響き合う、そんな歌があっていいのに、『緑の墓』は傑作ばかりで余裕がない。だから、これはよしあしなんです。篠新歌人集団の人たちは、戦後の一時期、編年体をとっていないんです。第二芸術論議があって、その
直後から、昭和二十年代の後半までは、少なくとも歌人は編年体ないしはいたずらに量をかせぐような編集はしなかったですね。それを思い起こせということになれば、私もかなりの部分はわかるんだけれど。

かせとしての量の問題

秦短歌受容のキャ。ハシティが読者の側にはあると思うんです。短歌や俳句の場合には、とくに量の問題、、さ(じ"が大きなかせになってくる。そこで作と愛の関係、つまり歌人と読者との出合いが問題になる。短歌の世界がいわゆる未知の読者を余儀なく断念しているのであればいいんですよ。歌人社会だけで一種閉鎖的な、コップの中の嵐を楽しんでいるのなら、それでもいいんだけれど、未知の読者を勘定に入れようとするなら、一歌人に限ってすら量の問題はどこまでもっいて回るのであって、だからこそ全歌集的な方向よりは選集的な方向のほうが、少なくも未知の読者を吸収しやすくなるでしょう。たとえばカルチャーセンターで主婦族

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が勉強するのに便宜上、全歌集が要るなどという発想は、理屈としてもあまり理解できない。むしろそれなら、よく選ばれた自撰集を熟読するほうが、現に、無くはないのだし、はるかにいいじゃないか。私が短歌表現にまず心意かれたのも、百人一首に次いでは茂吉自撰の『朝の蛍』でした。笠原私も歌作りじゃないから奏さんと同感なんだけれど、たとえば福島春樹の歌集が全共闘華やかなりしころ、キャンパスで回し読みされたという伝説があるし、恐らく塚本邦雄、寺山修司の読者層はかなりあると思うんです。茂吉も膨大な読者層を持っているわけです。どのように魅力ある一冊が出現するかが問題でしょう。ともあれ、私は専門家だけを対象にしたい。専門家というのは自立した歌人という程度の意味で、無名の歌人でも自立していれば専門家で、だから専門家というよりは選ばれた一人、選ばれた一冊の歌集を対象にしてものを言いたい。選ばれた一冊がなければしょうがないけれど、ないと決めてかかっては困る。ただ、どうでしょう、明治二十年代に樋口一葉が大量
に歌を作ったけれど結局クズに等しいものであったのに、小説家としては自己をあれだけ表現できた。それから何年か後、晶子自身は後にいやがっていたけれど『みだれ髪』の示したイン。ハクトは強烈だったと思うんです。やはりあれは短歌の時代だった。晶子の時代があった。大正へ入れば『赤光』の時代があったし、白秋再評価の余地だって十分にある。そういう一冊、そういう歌人が今後出てくるかどうか、どうですか。秦近代百年の中で、短歌はどこかで線を引かれてしまって、われわれが歌人として問題なく受け入れている人、たとえば茂吉・白秋・牧水などのいい歌はいくらか記憶していますが、問題はその後です。その後、国民的に記憶されている歌って、あるのだろうか。笠原いや、それはありますよ。たとえば「耳のうくちづけら接吻すれば匂ひだる少女なりしより過ぎし十年」という近藤秀美の歌など口をついて出ます。口をついて出る歌を十首くらいあげよと言われれば、たちどころにあげられます。秦それは私だってあげられる(笑)。どれほど広

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く共有されているかなンで。篠意見はあるにしても、塚本邦雄の歌だってあがってきますよ。「五月祭の汗の青年病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる」。また、岡井隆の「説を替へまた説をかふたのしさにかぎりも知らに冬に入りゆく」など……。

青春の詠唱を汲み上げる

笠原案さんのいらだちはわかりますね。これは短歌だけじゃなくて小説だって似たり寄ったりで、カルチャーセンター的な量の拡大現象は確かに起こっている。錐もみ状に読者にはいってくる拝情の鋭さが、一般的にいって感じられないだけで、そういう歌がないとは思えないんです。秦それが問題なんですよ。たとえば、毎月の『短歌』巻頭に出てくる歌ですが。指導的な方たちの歌が多いんですけど、私らは、そこに載っている短歌がいいか悪いか、いかにも短歌らしくかつ詩的に感動させ
るかどうかということで、見ます。それに応えて貰えなければ、満足していますとはいえないわけです。たとえば福島春樹氏の歌は五十九年五月号に出ているし、篠さんの歌も出ているが、ここ一年に巻頭のほうに出たいろいろな人の歌を見て、たとえその場かぎりでも佳い歌だなと思えた歌は、量に埋もれるもなにも、めったに出会えなかった。私の鑑賞力あるいは批評力の限界の問題もむろんあるが、要するに短歌表現の力がよわい。魔力も魅力も迫力も乏しい。表現や、表現のためのことばが果たしてあれで精練されているのか知らん。精一杯練って出してきた歌なんだろうか。短歌ジャーナリズムも、選んで出しているのだろうか。人は選ばれているかもしれないけれど、恐らく歌は選んでいないだろう。それなら選ばれた人は、自分の歌を本当によく選んでいるのだろうか。単純に読者としてはそれを疑問に思うわけです。そうすると、これは磨きつくした、選びつくしたことばで詠われた芸術的な詩歌であるとは思えないものが多いですね。必要なら例歌をどんどん挙げてもいいです。

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笠原ただ、奏さんは古典に対する造詣が非常に深いので、奏さんの批評基準は和歌といわれる明治二十年ぐらいまでの歌にウエートがあるのではないか。明治四十年代以降、日露戦争以降は宮廷芸術としての和歌の崩壊期だと刈谷本一さんは書いておられる。確かにそうなので、そうするとこれは短歌だけじゃなくて詩でも同じで、現代講はある意味で全く規範を失って漂流状態にあるわけでしょう。もし仮に良質の短歌が現在あるとしても、現代芸術全体が漂流状態にあるなら、秦さんの言われるような純度の高い、香り高いものを短歌の中に求めるのは若干無理じゃないか。秦いや。それは笠原さんのありがたい思い過こして、僕は根が「今様」派でしてね。最近の歌の世界の中でも、いちばん新しい人たちの作の中にむしろ思い入れの深い様式意欲だってありそうに思っています。この場での手近な例ですが、たとえば『短歌』五十九年八月号に、阪森郡代さんの角川短歌賞受賞第一作が出ていますね。私は阪森さんというお人は知りませんが、納得のいく歌があり、新人らしくていねいに自分
の様式を求めている歌を見つけられる。私がいつも不満を持つのは、最現代のいちばんナウい人たちじゃないんです。歌人として容認され公認されている中堅クラスの人や大家たちの歌がむしろ時としてひどいのであって、阪森さんを含めて若い人たちの新しい試みにはわりと許容力があるんです。思いつきで名をあげると、河野裕子、務部祐子、松平盟子といった人たちの歌を認めてきたんです。少なくともこの人たちは"表現"をなげていないし、そういう有望な若い人はいますよ。笠原じゃ、私と同じじゃないですか(笑)。私が『短歌』の連載を求められたとき、編集部からは注文は何もなかったんだけれど、対象を若手に限ったのは、秦さんと同じような思いがあったからですが、ただ、こういうことはあるんです。明治四十年代以降の歌集は最も古い伝統的な詩型でありながら青春の詠唱を汲み上げてきたわけでしょう。啄木、白秋、茂吉……。一冊の歌集がきらびやかな青春の息吹をかって持った。ただし人間は、いつまでも若くない。中年に至り、老

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年に至ったとき、たとえば『桐の花』ではとうてい耐えられないだろう。磨滅した生の感覚のようなものを定型詩三十一文字の中で、もっともっと姑息に、地味こ、し)もどこかに属し眼のようなものをうたう、そんなことがあってもいい。だからといって低次元の作品が氾濫してよいわけではないですが。

燃し銀の歌

秦いまお使いになった"撫し銀■という表現。このことばは便利でして、佐藤佐太郎さんの歌などそれこそ燃し銀のような光を放っていると思うんだけれど、今回の這空賞受賞第一作の中で「寒暑なき花みづ木咲く空の下高物情々の時を惜しまん」という歌がありましょう。これなりに受けとめながらも、「寒暑なき花みづ木咲く空の下」だけでもいいじゃないかと思うわけね。「その下にとどこほる元木木はもつ」といういい表現も、「いまだ花なく葉なき木なれど」と断わることで調子をさげてしまっている。鹿児島寿蔵さんと
おも木偶修さんを憶われたと断りのある「窓そとに山法師の白き花咲きて思はしむる二人の姿いま無し」という歌でも、「窓そとに山法師の白き花咲きて」までで歌の力は尽きている。仮に下句があっても、鹿児島・木偶氏を憶うと注記がなかったら、一般の読者にはわからない。感動も伝わらないでしょう。その種の短歌がわりと平然としてかなり出ているんですよ、一般に。私は佐藤さんの歌は好きなんだけれど、なおかっこれはぜひ短歌でなければならないという表現でなくて、短歌にした表現になっている例です。そのような歌がいまはあまりにも多すぎるんじゃないか。昨今と限らず、近代短歌の歴史そのものにも、実はこれがかなり露出している。たとえば、写生の権化とう土おひも思われてきた長塚節の「鳥追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ちて想ひ見るべし」という歌ですが、なぜ「まなこを閉ちて想ひ見るべし」が必要か。「鳥追虫の髭のそよろに来る秋よ」とでも言えば十分じゃないか。伊藤左手先の「夜ふかく唐辛子煮る静けさやひ■■ど引窓に空の星の飛ぶ見ゆ」も下句は余計ですね。僕の

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このところの感覚では、「夜深く唐辛子煮る静けさや」でけっこう有難い。正岡子規でも、「夕顔の苗売りに来し雨上り植ゑんとぞ思ふ夕顔の苗」の歌も、「夕顔の苗売りに来し雨上り」と言ったまでで、あとは短歌にしたにすぎない。余韻を蛇足に変えてしまっている。もっとも正岡子規は俳句の人でもありますが。吉井勇の「銀のこと冬の大河は月に照るそをながめつつ酒おもふ我」も「そをながめつつ酒おもふ我」はやめてもらったほうが、詩歌としてもずっと洗練された味わいが出てくる。さらに北原白秋や与謝野晶子になれば、その種の歌がいっぱい有る。これは白秋だけど、「飛びあがり宙にためらふ雀の千羽ばたきて見届りその揺るる枝を」という歌。これなんか比較的いいほうなんだけれど、僕のように俳句も短歌も平等に喜んで鑑賞している者の目からすると、「飛びあがり宙にためらふ雀の子」とだけ言ってもらうほうが印象が強い。「おどろきて猫の見つむる赤トマトわが投げつけしその赤トマト」でも、「おどろきて猫の見つむる赤トマト」でとめてもらったほうが、詩的に結晶しているん
じゃないか。笠原案さんのおっしゃることはよくわかるんですが、短歌というものの魅力は五七五七七の最後の七の中に何かがたまっていくことだろうと思うんです。折口信夫の「女流の歌を閉塞するもの」にも、上が全部だめでも最後の七ですべてが収数して凝縮する、とあります。これは「新古今」でもそうでしょう。上と下はほとんど無関係なんだけれど、微妙なバランスをとって一首の歌ができてくるのが新古今美学の一つの世界で、秦さんのように思われる歌は実はつまらない歌なんです。篠歌の本質である、志を述べるとか、今日のことばで言えば自己主張とか、そういう部分が欠落しがちですが、やはり短歌は下句の七七が勝負ですね。秦さんがいまあげられた歌は、いずれも状況の設定のところであって、そのあとの下句における主張が淡い例です。歌は五七で切れて、三句が一種のスプリングボードになって、どう下の句でものが言えるか。これが歌のスタイルであって、きわめて俳句との発想はちがう。

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たまたま五七五の上旬が感覚的にまとまったとしても、それは俳句を意識したものではない。笠原短歌形式は俳句に比べると剰余のものが多すぎるということ、それは確かなんだけれども……。秦いや、私の言っているのはそういうことじゃないんですよ。篠さん、笠原さんが言われるように、いかにも短歌の魅力は下句の七七に結集しなければいけない。ところが、それが一般に弱すぎて、上旬五七五だけで力尽きてしまっている歌が多い。そういう歌ではやはりだめなんですよ。いま私があげたような近代の大家たちの歌もその意味でみな弱い歌というしかない。もちろん他にすばらしい歌はこの人たち、いくらでもありますよ。そして、すばらしい歌は決して五七五だけで済んでいない。五七五だけで済んでしまういわば片歌の多い人と、いくら私が試みても、全然片歌には成らない人がいるんです。成らない人の歌はさすがに短歌としてみごとに完備したものが多い。僕の試みてみた中では、たとえば吉野秀雄の『寒揮集』なんか、ほとんど一首も片歌ないし俳句ふうには取れない。
しかし、北原白秋や与謝野晶子はべらぼうに多い。意外に長塚節や古泉千樫にも多い。一首の短歌というには五七五七七のゆるんだ弱い歌が近代短歌の第一、第二世代に意外に多いということは認めなければいけない。笠原それはそうですよね。

短歌としての熟成

秦それじゃ、昨今の歌が七七のところで短歌独特の熟成をしているかというと、やはり相変らず弱い。三十一音を歌い切る根気がなく、腰折れに多くが中休みをとっている。そして分かりいい歌だなんて自足している。そういえばかつてこんな経験をしました。前登志夫さんに歌集をいただいたので、「とてもいい歌集でした。しかし、どう屯裾のほうの気になる歌があります」とお返事をしたら、即座に「どこが弱いか言ってほしい」と仰言るのですよ、感激しました。すぐまたていねいに返事を書いたんですが、私の感想の当

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否は別にしても、そのようにすばやく反応して下さる人は少ない。その辺のモノグサが現にこうやって槍舞台にあらわれている歌の、ことばは悪いけれど、できの悪さにつながっているんじゃないか。廻り合せで、篠さんにはたいへん気の毒だけれど、『短歌』六月号にお出しになった「百科全書派」という一連の歌でも、詩歌として味わうには不十分なものが多いと思いました。読んでいって、これならばと思う歌が少なくて、一つ一つのことばが気になる。たととひえば「後半の問に応へずありたるはわが苦しみを秤るかに似む」の「後半の」は、詩の表現や描写として熟しているとは思えないし、察しに察しないと状況すらよくわからない。「ありたるは」という第三句も歌として佳くは響いていない。つまり「聴こえ」が、わるうたい。「秤るかに似む」にしても、音楽である歌本来の魅力に欠けているのではないか。こういうのばかりでは、現代短歌として不出来じゃないかなという感じを率直に持つんです。篠そうなると、秦さんの歌に対する美学に、むし
ろ僕は質問しなければならない。現在の歌のテーマないしは試みようとしていることは、秦さんが考えておられる美学的要素とちょっと違うんじゃないか。短歌固有の味わいから離れているかもしれないが、いま僕らのねらっているところは、もっと生ぐさい、いくぶんざらざらとした、都市生活者の哀歓みたいなところに入っているわけです。秦それは賛成ですよ。少しも反対じゃない。律詩歌としての音楽性よりも、いかに現実に食い込もうかと考えている。自分なりの切り口をさがしているんですよ。かなり個別化した地点に踏み出していて、その場合、状況設定となると、一首では代弁できないかもしれないけれど、生きている連続感の中で、この世代のこの層にはわかってもらえるであろうという一つの場の設定を内部にしながら詠っていかざるをえない。笠原ただ、私は歌は一首一行で完結すべきで、連作はあまり認めない。詩劇みたいな、短歌による集団制作、ああいうものも、それなら詩劇を書いたほうが

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いい。連作なら散文詩なり物語性をもった何かを書いたほうがいいんで、短歌はやはり一首一行が勝負だと思うんですがね。ただ、どうでしょう。短歌の世界は全体に挨っぽい感じがするんです。これは結社雑誌を見ても思うし、シンポジウム何々というようなものもそう。若手の歌人たちが集まって、よくいろいろなことをやっているんだけど、僕は前に佐佐木幸綱氏に、ああいうのは趣味に合わないと言ったことがあるんです。もっともっとひとりになって短歌の一首一行三十一文字に執着したらどうか。秦さんの批評に耐えるのはそれだけだと思います。秦私は歌に対して美学的に偏した固定観念なんか持っていない。どんなに唯美的な歌であれ、どんなに述懐的な歌であれ、あるいはどんなに激しい行動的な歌であれ、自立して佳い歌であるなら全く問題はない。要するに、その歌がいいか悪いか。そして、その感動や効果を他者が共有できるか、です。たとえば篠さんが「識らざりし一つひとつが屹立し百科全書派さまよへるいま」と詠われていますが、これを白い紙に一首
書いて、ほかの人に読んでもらったとき、篠さんのおもい感動を十分に頒ちもてるかどうかという問題だと思うんです。この表現では、概ね不可能だろうと私は思う。そのような共有不可能ないし不十分な歌が、たとえば最近の短歌雑誌の巻頭部分には、少々誇張して言えば累々と並んできた。歌から何らか詩的感動を得ようと思っている読者にすれば、そのような歌は歌人の独善だと言わざるをえない。笠原でも、助詞一つに至るまで徹底して、ことばに対する細心の神経を通しているような歌であっても、おもしろくないのはどうですか。わざうた秦そりゃ、巧くても巧いだけの校歌だからでしょうよ。歌が鬼神をも動かすというの、ただ巧いからではないでしょう。で、いろいろと読んでいて、問題はあるけれど、女の人の歌が私には概しておもしろいですね。斎藤史さんの全歌集もていねいに読みました。それも漠とした印象じゃなく、一つ一つのことばを通して歌の表現が"詩化"されているかどうか見ていったけれど、よく"詩化"されていてかつおもしろかっ

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た。だから、とりつかれたような気分にもなりました。例えば山中智恵子さんもそうだった。もちろん女性に限らない。前登志夫さん、上田三四二さん、岡野弘彦さんらの歌にも、すこし若いところでは永田和宏らの歌にも心意かれますから、いちがいに女歌がいいと言うわけにはいかないけれど、根本は、どのような主義主張であろうと、美学や立場であろうと、とりあえず歌は、一字一句までが"詩化'されているかいないかで私は見る。ほかの事情は、その歌人の個人的な説明であり弁解ですよ。提供されているものが短歌として十分成っているかどうかで私は見ます。こういう読者にもこたえる短歌を提供してもらわなければ、そうかそうかと頷いてばかりはいられない。どうも現代の短歌にはせっかちな述懐歌が多い。私小説風土との相関なんでしょうが、ざっぱくな日録・日記歌が多い。あるいはメモ程度の歌が多い。そのようないわば非短歌や私用歌だけではイヤだナ、ということを一読者として言いたいんです。篠それはかなり異論がありますね。個人の問いの

かたちで、歌うべき生活を確認するところから存在感があらわれるのであり、そこに攻撃的なものが出てくるのであって、きれいごとに短歌らしく詩化することこそ、いまは拒否しなければなりません。

文脈のなかでの詩歌

笠原案さんのおっしゃることは、折口信夫が「女流の歌を閉塞するもの」で言ったことのちょうど裏返しで、もっとはっきり言うと島木赤彦が現代短歌の一つの原点になっていて、ああいう、日常詠の中でどこか自分の内部にはリゴリズムがあるんだという意識を持ちながら、しかし一方では垂れ流しの歌をたくさん作っていっているうちに、男の歌人たちは何か詩の魂を失っていったんじゃないかという感じがしますね。篠秦さんのおっしゃることには非常に危険な点があると思います。男たるものは現実と傷つきながら詠んでいるのであって、なにもそう成熟やまとまりをいそぐことはない。歌は文字通り詩で、ことばは綿密に

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練られていて、定型のフォルムをきちんと踏まえて、ものを言うべきではないかという、そこは賛成。ところが、いま歌に求められてきている世界は、いっけん個人力独白にみえながらも、いかに現代にたいする透視能力をもつかということであり、どこまで自己主張できるかということでしょう。目下の散文が放棄してしまった地点まで、自在な独行者として食い込もうとしているのです。つまり散文の世界にもかなり踏み込んでいる部分があるんだと思うんです。僕は通り二通の日常詠や記録詠は作りたくないが、それともっとも隣接したところに現代人の避けてはならない本音や肉声が渦巻いている。いまの都市生活者として生きている感触については、さまざまな人間のぶつかり合いがあり、それを作ろうとしている。詩の世界の中に散文の要素が入っていて、かつての詩語への依存ぶりや、あるいは女歌風のイメージの完成度というものからは外れますよ。秦詩語ということばは誤解を招きやすいので一言挿んでおきますが、詩語ということばがあるとは思わ

ないんです。篠……。、、秦どんなことばでも、その文脈の中で詩語になるかならないかだけの問題です。だから私は"語化'と言う。篠詩語などというものは存在しないのであって、文字どおり、そのとおりですよ。実作者側のポイントは、自分なりの状況をいかにつくるか、それにふさわしい文体は何かということでしょうね。「詩化」よりは「拝情化」と言いたい。笠原土屋文明から近藤秀美に流れていく現代短歌主流の都市生活者詠はくせ者じゃないか。魂の旋律というか韻律というか、そういうものをそぎ落とすことによって成立する世界のような感じがするんです。篠近代の短歌は農村文化をべ-スにした自然発生的な人間的な拝情にウエートがかかっていて、都市生活者の文字どおりの本音、肉声はまだとらえきっていないんです。その中では、文明や秀美は苦闘してきた人たちでしょう。ですから、都市生活者でありながら

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も、その中で異邦人であったり孤立者であったり被害者であったり、そういう側面での個のつぶやき、生きる空しさの作品はかなり出てきた。ところが、本当の意味での都市生活における人間関係の歌、都市生活における愛と死の歌、またそこでリーダーシップをとって生きている人間の苦汁といったような問題については、まだ詠いきれていないんです。そのうえ、今日における中流にたいする共同幻想というものは、とかく都会人の自家中毒をまねくなど、いっそうむずかしい地点に来ています。笠原案さんは上田さんの歌集がいいと言われましたね。私も上田さんの歌集の解説を書いたことがあって、愛唱していますが、あの人は短歌にある種の限定を付している。歌はこれでしかできない、歌の世界はこれなんだという限定。それは全部を短歌に傾注している人間にとってはたまらない。ここは評論であり、ここは小説であり、となるとね。きわめてスタティックな自然詠だ、でいいのかどうか。篠きょう秦さんのお話を聞いていて、ご自身の作

歌体験の延長線上で、歌というものを予定し、限定しているんじゃないかという感じがしている。

固有のものとして限定する是非

秦なぜ歌の方法と自律を歌固有のものとして選択してはいけないのかという問題が一つ。上田さんは、歌として表現できるものは歌で表現し、小説で表現したいものは小説で表現し、評論で表現したいものは評論で表現して、もし、それが最もその表現方法に適したものであるなら、それが最善かと思う。むりやり歌にしてしまう必要はない。篠いや。それは全然違う。使い分けたい人は分ければいいのであって、それが最善というのはおかしい。ジャンルはクロスオーバーしながらも、方法は細分化しているのであって、短歌と俳句を器用に書き分けられることのほうが怪しい。秦ちょっと待ってください。なぜ、正岡子規が、あるときは俳句、あるときは短歌であり、そういう

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"なぜ"のどこがいけないのか。逆説を秘めて反問したい。なぜいまの歌人は、この自分の中にある詩、心というものを歌という形にだけ表現したいのか。それほどの方法的自覚あって歌を発表しているのならたいへんけっこうだが、今の調子ならばときには片歌で発表してもいい半端な歌が目立ちます。あえて俳句とは言いません。とにかく自分は歌人であるからということなのか、無理して五七五七七という形に、自己批評の厳しさもなく作っちゃおうとするから、詩境が不十分に混濁してしまう。ときに片歌で終ってるものもあり、ときに俳句まがいのものあり、ときに散文詩や小説の形の方がふさわしいものもある。そして芭蕉や蕪村だって、茂吉や白秋だってそうして表現し分けていた。なぜそんなにこだわるのか。ここが言いたい所ですが、こだわるならばもっと十全にこだわればいい。もう一つ。篠さんは現代の都市生活の云々とおっしゃるけれど、じゃあ、現代のそういうものの中で、短歌の表現と感動においてですよ、石川啄木をどれだけ乗り越えられてますか。石川啄木はそれなりに都市生

活の中の日本人の原点的な悲哀を詠い上げている。子規と並べて啄木の歌は私は高く評価します。あんなに自在に、あんなに深く都市生活者の哀しみというものを詠い込んで、われわれにいまも深い感動を与えて、その記憶は把握されていて、それはわれわれの文化になっている。しかし、いまの都市生活を詠った大方の短歌は、我々の琴線をゆする内在律を美しく、あるいは烈しく持っているのか。律の感動を忘れてしまって、かなりの上わすべりで散文へ走っても平気だというような鈍感さがあるんじゃないか。短歌表現者としては鈍感にすぎるじゃないか。短歌が散文化して行くことを、そう安直に容認したりしてはいけないのじゃないか。それを容認するから、いま出てきている『短歌』の巻頭歌が、たとえば五十九年五月号の福島春樹さんの歌にしても、あるいは六月号の岡井隆さんの歌にしても、ああいう歌い方がどうこうとは言わない、出来ているものがドーカというに尽きますね。篠いまの発言には、どうもいろいろなことが出すぎちゃって、ちょっと……。上田さんの場合でいうと、

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僕らは上田さんの散文や小説を読むと、意外にオリジンとしての短歌を感じるわけです。奏さんが言われるほど明解に歌と散文が分かれていない。分かれていなくたっていいではないですか。笠原分かれていないね。篠それは秦さんの読み違いでね。むしろ上田さんの歌については、ここまでが歌だととめないでほしいという願望のほうが、いまは強いわけです。逆にその問題があります。子規の話が出たけれど、じゃ、子規では何がいちばんいいか。新体詩はだめでしょ。子規の短歌は同時代者のものと比べてみても決していいと思わない。俳句も必ずしもいいとは思わない。結局、日記風の散文がいちばん鋭い。そういうところをはっきり分けていかないとね、使い分けだということは、あの時代は模索ができる時代で、ジャンルの模索自体が一つの時代認識にたいする挑戦だったからで、いまは違いますよ。奏上田さんへの読みは、そうがなア・…、それは今措くとして。子規の歌は私は好きですね。あの時代の

もの、という限定を超えてね。

読者の立場から

笠原私も評価しますよ。ただ、秦さんは雑誌の巻頭歌で○がつけられないとおっしゃったが、それはかなり厳しい。秦しょうがないでしょう。具体的なことだから。笠原いや。たとえば今月の「群像」や「新潮」を見て、Oのつけられる小説なんてそんなに多くはないですよ。「現代詩手帖」を持ってきても、○のつく詩がどれだけあるか。だから、岡井隆なら岡井隆をある期間読む必要がある。歌集じゃなくていいと思うんです。そして、その中で○のつく歌をさがさなければ、いい読者じゃない。すくなくとも現代短歌とは何か、という総体を問題にする限り、そうですよ。十年などと大げさな単位をいわず、二、三年の単位で読みついて○がつかなかったら、もはや接触点はないんだということです。それでいいと思うんです。

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秦少なくも私は十年来の読者ですよ。これは絵を見たりするときもそうですが、もちろん、その画家が生涯をかけてきた一つの歴史を、知っている場合には知っている。だから、今回の絵は過去のその人のセルフヒストリーの上でこうであるという批評のできる場合もある。できない場合もある。しかし批評というのは、批評される側からしてみると、この人は過去にこういう仕事をしてきたからこれはだめだとか、これはいいのだと言われると、つらい問題がある。それから、批評するひとつの厳しさということからすれば、やはり目の前にある作品が問題だ。だから、そういうものを一つ一つ積み重ねていって評価するのであって、たとえば、この号の岡井隆の歌はあまり賛成しないけれど、岡井隆という人の歌の世界に占めてきた存在価値は十分に認めるという、それとこれとは別の問題です。でなければ、目の前にある作品はいつもそれ自体として批評ができなくなってしまう。正しい批評をするためには、一つは過去を切り離してその作品を見なければいけない。それと同時に、過去も勘酌して、それも

見なければならない。両方使わないといけない。片方を逃げ道に使うというのはまずい。笠原もちろんそのとおりです。篠ただ、たまたま何月号かの作品はとれる歌がなかったということ、これは僕らも、期待している作家、実績のある作家を含めて、よくありますよ。それは秦さんとある意味で同じかもしれない。だからといって、そのことを言挙げにして、現代歌人の詩化を問題にしたりして、全否定はしないな。秦合否定なんかしない。ただ、そのときの、その歌は、という端的なことですよ。篠僕らは同時代の歌人にたいして、いつも期待を持って読みますから、しかし、今月の雑誌ではこの程度かなというのは、秦さん、これは現代にかぎったことではなくて、昔からの雑誌に年中ありますよ。持続しうる作家の中から光るものが出てくる。笠原案さんがいまおっしゃったのは正論なんです。私はよく絵を見に行きますが、独立とか主体展とかの団体展はかなり挨っぽいもので、一人一人の作家の最

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もきめの細かい、いちばんいいものが出ているとは、ちょっと言えない。しかしもちろん、一つの絵の前に立ったとき、享受者はそれと一対一で対決する。それが批評というものです。そうすると、ことしは全部だめだとか、だからといって美術界全体を否定することにはならない。ところが、もう一歩引き下がったと二ろで、その絵をもう一度思い返したとき、私は文学史家というような側面があるのでそう思うのかもしれないけれど、ここにもあった。これもあったという中で見ますね。付け加えれば美術の場合の団体展、短歌の場合の結社は、独立した芸術家にとってはかなり危うい。なれあいというのか、批評を通過しないものが出るという意味で危ういものだとは思いますね。

人間関係のなかでの鑑賞

篠おそらく秦さんは集団とか同世代者とは切れておられるからだが、現代の歌は、ある人間関係の中で、これを理解していく姿勢で鑑賞の場が成り立っている

ということは言えると思います。秦篠さん、それはちょっと酷な、間違った言い方ですよ。篠いや、連続感で見ていくというばかりではなくて、この作者はどういうことを意図しているんだろうということを、ある程度末めながら歌は見ていくものです。いい読者というのは、そういうことでしょう。それができなかった桑原武夫の二の舞をすることはない。秦より佳いものを求めながら読む、それはもちろんそうです。しかし作者が読者や批評家のその好意に甘えちゃ困る。篠和歌史の伝説の中にも、場というか座というかグループというか、広い意味では流派というか、これがあるわけです。それがあって初めて、この短い詩型の中でこの人は何を言おうとしているかということが、たがいにわかるのであって、そこから新風が育ってきた。それをねぐって自分の美学を言ってもはじまらない。この歌には○がつかないというふうな観点で外側

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から批評するとすれば、定型は無残に切れる世界ですし、せっかくのそうした批評も、実作者に突き刺さってこない。秦いや、篠さん、そこは論理の飛躍があると思う。短歌自体はそんな脆いものじゃない。篠いや。啄木には内在律があるけれど現代の、『短歌』何月号かの岡井の歌には内在律がないというような、あなたの言い方からすると、これは誤解されますよ。啄木を一つのイメージにくくって、簡単にほめることはできないし、啄木には啄木の弱点があった。それを乗り超えてきたところも的確に見なければならない。秦いや。篠さんのとり方に問題があると思う。私はこういうふうにして歌を読むことを少なくともここ十年はやっている。そして、結社的なものとも全然無縁ではない。だから、ある程度情報もある。人間関係もある。そういうものを通して見でいって、なおかつ継続的に見でいって、現代の短歌は律と表現の魅力というものを総体に創作上、落としてきているのではな

かろうか。外在律もそうだけれど、とくに内在律の持っている歌の魅力というもの、歌ということばの持っている魅力を少しずつ落として、物言いがナマになってきているのではないだろうか。はしなくも言われたように、散文への接近というか、散文化というものの、安易な冒険に、自己暗示で、酔ってもいるのではないか。それは、この十年来の歌の"流れ"の中で事実として感じます。篠それはいつの時代でもそうで、とくに近代は散文との抗争をつづけています。土屋文明の昭和初期の試みもそうだったし、窪田空穂の『濁れる川』試行錯誤もそうだったし、啄木の晩年にしても同じです。塚本や岡井にしても、歌のグルシドを拡大してきた。意欲的な歌人は絶えず散文の世界のものまで拾い上げながら、いかに定型の中でどこまでものが言えるかを試みた。むしろこの挑戦をあきらめて、詩としての短歌の純粋化、秦さんの言う詩化に埋没してしまったときは、言語遊戯としての詩型になるときでしょうね。秦"詩化"のとり方が間違っています。言葉の芸

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術なのだから語の一つ一つないし総体が"詩化'を遂げることと、どのような実験意欲も矛盾しない。表現を放棄した時こそが言語遊戯なんですよ。篠つまりそれは閉鎖しちゃいけないんです。私小説性にしても、捨てきれない大事なものがある。秦閉鎖なんかしていない。篠でも、秦さんは「歌というものは……」と、ことさら短歌性を言われるから、そう応えざるをえなくなってしまう。

外のジャンルとの格闘

秦違うんだなあ。それは全然違う。篠さんの誤解はきっちり解いておきたい。私は、あるジャンルというものは絶えずほかのジャンルとの操み合い、あるいは外のシャンルベはみ出るような部分での格闘があって、本当にそのジャンルのよさが出てくるものだと思う。だからそういう意味では、外のシャンルベはみ出ていったり、それとストラッグルがあったりすること

は良しと認める。にもかかわらず、短歌という限りには「短歌」たる詩の充足を果たしてほしい。「短歌」元も子もなしでは、つまらない。これは読者の側からの注文です。だから仮に字余りがあろうが、非定型になろうが、三行に書こうが、五行で書こうが、それはかまわない。どんな対象をどんなふうに詠おうが、それもかまわない。しかし、散文でも俳句でもなく、「短歌」を読みましたという喜びを与えてもらいたい。現に篠さんは上田三四二の「小説」を、「短歌」の延長だと批判されているじゃないですか。いちばん必要なのは、短歌のことばに対する感覚、短歌のことばに対する鋭い詩的センスです。そういう詩的センスで一語一語を選び抜いた上で短歌になっているのかどうかということを、やはり最終的に見ざるをえない。笠原しかし、それは短歌に限らないでしょう。評論であろうと研究論文であろうと……。秦もちろん。だからこそ「短歌」の特異な内在律という効果が、方法的にも詩的にももっと自覚して追求されるべきでしょう。

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笠原それはそうだと思うけれど、芸術というものはつねに一つ規範があって、たとえば詩の場合、戦後詩史の一つの体系なり達成があるでしょう。すると、そういうものに対するアンチテーゼを若い詩人たちは出していくという一種の繰り返しがあるわけです。短歌の場合は非常に長い歴史があって、時代が下れば下るほど良質の部分をさがすほうが難しいってことはあリますね。篠きょうは秦さんの話にこだわりすぎているようたけど、そういう話をしたいと思ったんじゃないんでτ。現代文学にたずさわる者の類似する苦悩、均質化からの飛翔や、見出すべき主題への示唆などをお二人からうかがいたかった。しかし、これまでの話のなかじ、歌人自らの多作、ないしは選択の厳しさ、ないしは自分の詩心に対する問題に対する警告というのはわびる。秦いや、警告なんて、そんな-…。篠いや、それはわかる。そういう意味では賛成なんだが、秦さんはそこからかなり飛躍があると思うん

です。自分は中立な読者だと言っているけれど、秦さんの歌のイメージは独自のノスタルジアがあり、悪いけどこの二十年から三十年間の中堅層の運動を見落としていらっしゃるのではないかしら。つまり渦中にいる歌人の持っている問題と、自分としては歌とは本来こうあってほしかったという期待というものとは、秦さん、たやすく架橋しないものですよ。僕らがほかのジャンルにそういうことを言う立場なら言うけれど、やはりそう自分の考えているとおりにはいかない。月々の雑誌の中でこの方向の歌は少なくとも自分にわかるとか、この方向を進めてくれというのならわかるけれど、自分の考える歌とはこういうものだということは、歌自体がこの三十年で他ジャンルとぶつかりながら変質しているわけだから。

短歌の変質の時間

秦いや。歌とはこういうものだということは、きようは一回も言っていないんだよ。

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篠いや。それは言われなくても感じられるから。秦いや。それは防衛的な発言、感じ方じゃないですか。篠秦さんの考えている歌というのは、目下弱まっている短歌的仔情の回復ということで、かなりロマンティック・ポエティのコースですよ。秦違うなあ。全然違う。いま篠さんは私の歌の見方が二十年から三十年遅れていると言われたが、二十年や三十年がいったい何だ。私らはいまだに「万葉集」や「古今集」に十分感動できる。「紫式部集」のような歌集を読んでも十分に感動できるんだから、篠さんの言われる二十年、三十年は、それに拘泥れという意味ならばほとんどノンセンスだと思うんだけれど。篠笠原さんも僕も中世の短歌が専門ですし、秦さんにしてもそうでしょう。そういう歴史感覚でずっと見ていく文学の流れを見ていく問題とは違って、昭和二十八年からのこの三十年間は大きな変革であり、渦中にいるメンバーは一年二年の単位で見ていますよ。秦そりゃあ、そうです。

篠そこを言っているんです、僕は。秦そこを見て、言っているっもりだけどなあ。むろん、この機会だから、敢えても言ってますがね。篠さっき僕らが塚本邦雄の名前を挙げたときに顔をしかめてらしたから。彼の最近の『歌人』『豹変』あたりの歌を見ると、また変わってきているわけです。そういう一歌集の微妙な変化をわれわれは見ているわけです。そこでどう苦しみながら作っているか。そういう微妙な変化について知ってほしいとか認知してほしいとは秦さんには言わない。また、言えないけれど、渦中にいるメン.ハーからすると、今度の歌集は終末観にふれて微妙に変わってきたな、前よりも人生や宗教という問題を色濃く投影させたな、ないしは轄海術でここんところはまだ避けているけれど、次はここへ行くだろうということを、微妙に読み分けているわけです。秦それは見ていますよ。篠そうおっしゃるけれど、僕からすると見ていないと言っていい。もっぱら月々の雑誌の作品のマイナ

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ス面にふれておられる。素プラスを求めてマイナスにぶつかるという不幸を話しているのですよ。そう「我々」意識で垣の内で話されては議論にならない。話はちがうが、私は近藤秀美さんの自選百首(『短歌』五十九年九月号)なんか、とても気持ちよく読んだ。ああいうものを見ると、やはりきちっと選ばれていると思いますよ。私はいろいろな人のいろいろな歌を読んで、新しい歌をかなり受け入れている。篠さんの言われている歌のほうがどちらかというと、笠原さんのことばを借りれば"挨っぽい"、いまやちょっと古くさくなってきているんじゃないかと円心うな。律,挨っぽい'というのをもうちょっと具体的に言ってくれませんか、笠原さん。笠原私の言う意味は、短歌作品そのものよりは、それもありますが、もうすこし単純に歌壇の集まりが多いという程度のことですが。秦それは私の考えているのとちょっと違う。笠原ただ、秦さんのいら立ち、というか……。

秦いや。単にいら立ちじゃないんだなあ。篠僕はそれは"いら立ち"であってもいいと思うんです。歌壇にはマイナス面も多いから、当たっていますよ。

読者の語感をひきだす表現を

秦そうかなあ。そんな物言いでイナされたくないなア。うーん。たとえば篠さんの歌で「たづさへて電話のベルの奏であふ朝の光りのなかにわが立つ」といわれたときの「たづさへて」は、この歌の中では挨っぽいと思う。よくわからない。「たづさへて電話のベルの奏であふ」といわれたときの「たづさへて」ということばは詩語として詩化されているだろうか。笠原詩語ということへの前提をしてもらわないとね。秦しかL、前提がそんなに必要ですか、同じ短歌を語る者として。笠原だけど詩語と言ったとき、それはかなりあい

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まいですよ。秦いや、言葉の一つ一つないし流れが、十分詩化されているかどうか。どうですか。笠原ただね、定型詩の場合、危険性があると思うのは、型があるからどんなものを持ってきてもすべて切り取ることができるという意味では、安易なところがある。秦さんの「詩化されているかどうか」という問いはわかるけれど。秦大事なことじゃないですか。笠原大事かなあ。それは何とも言えない。秦そうか。それじゃ、しょうがないけどね。たとえば篠さんの「みづみづとライトテーブル古代史に入る図版を映しはじめぬ」ですが、「みづみづと」は十分に詩化されていない気がするんです。問題にすべきなのは、一つ一つのことばに対する詩人としての感覚の洗練。これが最前提だと思う。笠原洗練だけじゃないでしょう。ことばをもっと荒々しく、放恋に、自在にということだってある。秦洗練というのは"きゃしゃな"という意味じゃ

なくてね。篠さっきの「たづさへて」はどのように取ったんですか。僕の歌で、たがいの争点をあきらかにしてくださるのは、じつにありがたいけれど……。秦うーん。ここに「?」をつけたように、察しはついても、よく納得できなかった。篠「たづさへて」とは、電話が一つ鳴るんじゃなくて、朝の瞬時に幾つもの電話が鳴り合うことです。秦それがどうもね……。その辺の評価で私の気分が出てくるのかもしれない。篠これから行動をおこそうとする、ある種の人間関係のムードの中で促されてくる、スタートの気持ち。秦僕もそうだろうとは思った。けれども、それを「たづさへて」と表現するのは、的確なのかな。篠すでに伊藤一彦君が、1僕にとってはありがたい評言だが、その歌は非常によくわかると書いてくれているんです。「たづさへて」は巧い表現だと-:-。秦そこらへん、鑑賞の違いでしょうね。篠鑑賞の違いというよりも……、ですから、わた

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しが秦さんにくりかえし述べていることは、鑑賞の違いというところから、話が大きく飛躍して、現代短歌論めいたことになってしまったことです。いまは地方の時代とか、いろいろ言われますね。でも、地方の時代がなくなるからこそ地方の時代といわれているわけで、農村も地方の都市も画一的な都市化が進んでいて、新しい人間社会ができ上がっていて、恐らく歌の世界も変質していくと思うんです。そういう中で、かつての土俗、農村を背景にした人間生活の感性、美意識も、世紀末を迎えながら変わっていくでしょう。僕らはその真っただ中にいる。その中で、電話のベル一つでも、人間の声一つでも、あるいはエレベーターの動き一つでも、あるいは躁うつ症の人間の表情一つでも、外せない。それはきわどいところに挑むわけです。だから、詩語として成功しているか、していないかという問題になると、評者とつくり手の一対一のことで、僕の問題に返ってくるから、そのこと自体には答えきれないけれど、そうした抗いを逃さずに普遍的なものにしたいというねらいを持っている。きわどいところを歩い

ているわけで、かつてのような日常記録詠をやろうとしているわけではない。秦それはわかります。しかし説明ですよ。篠それは僕だけじゃなくて何人かのメンバーがそういう世界に挑んでいるんだけれど、それは逃れきれないですね。若い三十代の女流たちの冒険も、その一つであるかと思う。ただちにそれが詩語として定着したかどうかと奏さんに言われると、危ういところを歩んでいるわけだから、そのことについては答えきれないが、しかし、安全地帯ばかりを歩いていくわけにはいかない。秦詩人ということばの本来は、その国語をより精錬し、より美しくしていく人たちのことをいうんだと思います。そういう意味では、その方向に沿ったことばの鍛練は詩人には、もちろん歌人も、詩人として考えてもらわなきゃ困る。だから、日本人なら日本人の持っている語感の最大公約数に適合しながら、なおかつその最大公約数を広げていくような魔術的な力というものを、詩人は持ってほしい。それを自分の作品の

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中へ打ち込んでほしい。篠それはよくわかりますけれど、いつもそう容易にできるわけではないものです。いまの僕の歌ですが、朝の雰囲気の中で電話は一日の始まり。それを「たづさへて電話のベルの奏であふ」というのは、実体験の中での仔情であり、そこに詩を見出しているんです。秦ただ、「たづさへて」というと、悪しき習慣なんだけれど「携」のような文字を語感的に思い浮かべたりする人があると思うんです。そうすると、「たづさへて」ということばの中に何台もの電話が一時に鳴るというような状況を思い描くまでに、一ぺん漢字の拘束を離れなければいけない。あるいは、離れたうえでそのことばに対する感情移入の能力を持たなきゃいけない、というようなことがある。だから、篠さんの試みは試みとして、しかし歌というものは読者があって成り立つものだというふうに仮に考えれば、読者の持っている語感を説得力豊かに引き出しうる表現をとるということも、実作者はいつも心掛けなきゃいけない。

短歌世界の層構造

笠原生の奥行とか自然主義風の生命感覚みたいなものが文学なり詩歌なりの一側面としてあるのは認めるけれど、もっとふくよかな広がりを持って、もっと生の根源的なリズムが定型詩の中に出てくるべきだし、その萌芽はもうあるんじゃないか。さっき秦さんは、河野裕子などを含めて若い歌人たちの中にそれを認めると言われたのは、そういうことがあるからで、巻頭に出ている歌は大体つまらないと思ったほうがいいですよ。僕はこういうものは読まないことにしているんです(笑)。短歌が第二芸術かどうか-、そんなことはどうでもいい。生のリズムみたいなものを伝えうる形式になるかどうか。なるかもしれないし……。秦篠さんに伺いたいんです。篠さんは短歌の世界の中で最先端を走っておられると思うんだけど、一方、たとえば「短歌現代」の雑詠欄を見ると、本当に素人の歌ですね。こういうふうな歌の世界に支えられて、

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二重か三重かわからないけれど、そういう層構造を成しているのが短歌の世界なのでしょう。しかし、こういう欄で秀作や佳作に選ばれる人たちの歌の水準と比べて、いま最先頭を行く方たちの歌は本当にいい歌なんですか。篠いい歌もあるし、ご指摘のように、その歌人のくせをのこすばかりで、素人のプリミティブな魅力に及ばないものもあることは事実ですね。日本芸能の一般論として、文壇もそうだし歌壇もそうだし、書道や生け花もそうかもしれないが、いまや一種の年功序列風な、型にはまったところにきていますね。つまり年季のかかった人がある時期評価を得て、ようやく表面に出て、いい仕事をすることを期待されながらも、実際はそうなってはいない。かつての新歌人集団の世代が、むしろ熟成を果たしきれないまま、苦しんでいるのが実情でしょうね。笠原相撲なんか昔はプロとアマチュアの差は歴然としていたそうだが、小錦なんていうのが入って来て、関脇ですからねえ。そうすると、伝統的なものも何だ

か危ないという感じがしますよ。(笑)篠奏さんがきょう終始言われている、有名歌人たちが毎月必ずしもいい歌を出していないじゃないかということは、よくわかります。そのことは否定しない。しかし五十代から六十代の男性は、地道に頑張っているのではないでしょうか。この世代が、この二、三十年間に築いてきたものを、もっと内側から見てほしいものですね。これではだめじゃないか、そのことをもって現代の短歌は滅びに向かっているんじゃないかと一言うのは…-。秦私は滅びるとは言いませんよ。篠もし仮にそう思うとしたら、思われるのは自由だし、事実それだけ重みのない歌が雑誌に並んでいることがありうるから。しかしその視点は、僕からすれば不毛なんです。やはり歌集で見てやってほしい。笠原ただね、昭和五十八年度版の『文芸年鑑』に島田修二さんが、現代は人が言うほどではなく、非常に優れた作品が多い時代だ、歌集一つをとってもそうで、最も豊饒の時代だという意味のことを書いておら

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れる。かつてジャーナリストであった彼がそこまで楽天的になりきれる短歌の世界は、若干疑問があったな。、どうですか。

短歌のレベルダウンが続いている

篠あれは年間の概観だから、書くときにやや気張ったかもしれない。この十年間で歌人層はふえたかもしれないが、レベルダウンは続いていますよ。熱っぽい秀作で、これによってひとしきり話題になるといったようなものに出くわさないで来ていることは事実です。昭和三十年代前後に活躍した寺山彦司、塚本邦雄、岡井隆、前登志夫こういう人たちが根強くいい仕事をし続けてきた。寺山は亡くなったけれど。それに田谷鋭と上田三四二。遅れて出た馬場あき子、武川恵一、安永曹子、岡野弘彦、島田修二、河野愛子、こういう人たちがむしろ追いっこうとして、このところいい仕事をしてきている。そのへんはわかりますが、全体にはやはり……、どうでしょうか、現実からの孤立、あ

るいはエネルギーを使い果たしたことによるかもしれないが、レベルダウンが続いていることは覆い隠せないんじゃないでしょうか。これから佐佐木幸綱⊥高野分彦らの世代に張りきってもらわないと……。秦歌の世界ではいま本当に批評は機能しているんでしょうか。過去への批評はわかりますよ。いちばん気になるのは同時代評であり作品評です。これはどの程度機能していますか。笠原作品を丸ごと一首、ていねいに批評するというようなことは、ここ十数年、比較的なされていないんじゃないかと思います。もちろんそれは私の見える範囲内のことですが。大ざっぱな批評が多く、そうでなければ状況論ですね。秦短歌の批評の方法みたいなものがもう少し充実すると、各実作者のお互いの批評も、あるいは実作に対する批評も、もう少し充実するんじゃないだろうか。添削を平気でしたりされたりという現状も原因ですね、批評力の育たない……。笠原現状では、江戸初期にあった「遊女評判記」

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の段階以上ではないかも知れない。それは、篠さんや上田さんや斐川さんはいるけれど、一般的に不毛ですね。しょうがないんじゃないかな。秦しようがないと言っちゃうと、どうでしょう。篠僕は批評と評論と分けているんだけれど、批評について言えば、この数年よくなかったですね。予定されがちな歌集批評であった。仲間ほめ、同世代ほめが目立つ。権威のある人には悪口が言えない。笠原結社の壁というのはないですか。篠ありますよ。作風については俳句以上の結社の壁はなくなったし、人間関係もこの三十年、歌壇は俳壇以上に解いてきた。戦後、歌風や方法としての流派、歌流は消えたが、しかし、グループは存在し、そのグループの中での内輪ぼめはむしろ大きく残ったわけです。その一つの原因は、いまの結社にどんどん新しい人がふえてくるとき、結社を運営している中心メンバーがお互いに否定し合うことのしにくい舞台が設定されているからです。そろそろ時間も残り少なくなったので、このへんで

締めくくりの話に入りましょうか。一九八四年とこの八五年ではだいぶニュアンスが違うと思います。八五年は世紀末の感じですよ。この時代に何を歌人は詠っていくか。現在の文学全体を見てみますと、偽善的な時代から偽悪的な時代に入っています。笠原さんは狂気とか悪魔とか、ネガティヴな要素で人間を照射されて評論活動をなさっていますが、そういう偽悪的なものの見方が、世紀末を迎えながら出てくると思います。そして、短歌にとってはいっそう短歌性を問われるような、不安定な時代を迎えるのではないでしょうか。いまや新歌人集団のメン.ハーがいくたりも亡くなり、いまの四十代、五十代の男の歌人たちはかなりの責任を負って1秦さんの要請じゃないけれど1短歌のあり方という問題について考えなければならなくなると思います。そして、昭和三十年代に自分で種をまいた部分が未熟で終わっている部分があるわけでして、それを皆さん、地道にやっていかなければならないのではないでしょうか。一方、歌壇の注目をあつめる三十代の女性ですか、この人たちが意欲的に体性感覚で

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詠い、生ま身の人間を問いつめるという志向はまだまだ続いていくんじゃないかという感じがするのです。きょうは笠原さんと秦さんから率直なご発言をいただきました。歌人層は増大しているけれどレベルダウンが激しい中で、都市化の社会における人間の生き方、その想像力にとんだ表現をどう模索していくかということに対しては、みなさんにもっと寛大であってほしいという願いを申し上げて、予定していたことの一部分しか話が進みませんでしたが、この座談会を終わります。(昭和59年10月31日東京)

*言を添えて

可能ならば、ここで笠原氏、篠氏にそれぞれ「十年後」の感想を一言ずついただきたいところであったが、一言ではおさまりのつかないことかも知れず、あえて「十年前」のまま再録を許していただいた。よく許して下さった。感謝ももとより、深い敬意を覚える。ここで投げ合われている問題は、今でも小さい問題だとは思われない。解決のついてしまった問題だとも思われない。歌壇では(希には歌壇外でも)ほぼあの一年中、この鼎談をひきあいにモノを言いあう例が多かった。以来十年、幾つかの難儀な論点が現在どういうふうになっているか、新たな「短歌」の展開を私などにも分かり良く誰かが整理してくださると有り難い。断っておきたい、私の「詩化」という物言いは、ジャンル的に短歌を詩へ近付ける意味では全くない。用いられる短歌のことばの一つ一つが、一首の表現において質的に「詩化」をよく遂げているかどうかなのだ。結果としていい短歌を成しえているかどうか、なのだ。

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短歌のことばー掬みて尽きずー

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創刊75年記念大会講演「水■」昭和六十三年十一月号

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「水餐」七十五年のお祝いとうかがって、慶ばしい気持ちで参りました。この先、百年といわず二百にことほも二百年にも満ち溢れ、「掬みて尽きず」お栄えありますよう、まずは言祝ぎを申上げます。さて、とりとめない話題のなかから、くむべきは、どうぞ、おくみ取りを願います。なるべく、ご一緒に考えていただける話題を拾って参りたいもの、さよう…只今「くむべきは、おくみ取りを」と申し上げました。また「水餐」なればこそと演題も「掬みて尽きず」と祝言の気持ちを籠めたわけですが、■くこの表題、あえて「掬」という、むしろ普通には「すくう」「むすぶ」と訓むでありましょう文字を用いて「ぐむ」「くめど」と訓んでみました。「ぐむ」なら「汲む」の方が通りはよかったかも知れません。が、むろん意味は「掬」と「汲」で多少はちがうわけですね。「掬」は、いわば手に有る、両手にとる、身を寄せて物を受けとめるといった意味だそうです。「汲」には、井戸のような深みから水をくみ上げる、引きよせる、吸収するといった意味がある。強いて申せば手で直かに「掬」み、何らかの手段を用いて「汲」むのかも。理屈はいかにもあれ、「水餐」の久しい伝統・成果・覚悟から、まさにおむ†きく一人お一人の手で直かに「掬び」あげるほど、滋味を「掬し」「掬みとっ」て、しかも「尽きず」あれと願うものでございます。何にしても、しかし「掬」であれ「汲」であれ、ともに文字・漢字です。読めば、分る人にはちがいも分ります。けれど、これを耳にだけ「くみて尽きず」と聞いても、「掬」か「汲」か、区別や判断が

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つくものでしょうか。つくフケはない、テンで分らないものなんでしょうか。たしかに、分りにくくはある。しかし全く分らないかというと、それが妙に分ってしまうといえるコトもある。トキもある。「語感」が働いて、たとえばより「掬」の感じかそれとも「汲」の感じか察しの利く場合が、不思議なことですが、むしろ、まま有るとさえ申せるのです。語感といえば、「人」それぞれの語感だけがあるのでは、ない。いわば「人々」に共有される語感もあります。「場所・地域」により通有の語感もあり、「をかし」など「時代」を特徴づけている語感もあります。思いのほか磁場のように痛切に働いて、人や人々をとらえている語感があるものです。分る人とは手もなく分り合え、分らない人とはテンで分り合えない。いま「手もなく」と申しましたが、この「手」にしても、耳で「て」と聞いて、ある時代のある地域のある人々はそれを音楽の手だと了解し、また時・所・人が変れば書蹟の意味の手だと分りあい、また碁将棋や相撲の勝負手だと思いこむ場合もありましょう。あるいは武術の手になり、手勢になり、また人手や働き手の意味にもなる。政治家やワザ師なら手練手管の手を考えましょうし、司直の手のまわるのを懸念する人もありましょう。「て」という一つの音を聞くだけでも、こうです。人により人々により時代や場所や集団により、文字で書き表わさなくてもふしぎに共有の利く語感の磁場に我々は生きています。むろん語感には、鈍感も敏感も付きものではありますけれども。ところで、いつも有難く月々の歌誌を頂戴し拝見しております。そして「水餐」に限らず、皮肉でも奇をてらう意味でもなく、私は、一等うしろの方に印刷されているグループの歌に、も、目を向けるこ

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とが多いのです。何故にと申しますと、まず、編集の方法でいくらか差はありましょうが、概して初心{、の方々、入門して間もない方々の歌が選してあることが多い。自然、歌の生なりの状態が見られます。歌についての観念論も方法論も、ま、あまり未だ出ていない。技巧も十分では、ま、ないんですね。そか、巾久→ラビλ月初心ど熱心とは、がなリハダカで出ていまして、失礼ですが無名作者o体重一や体温がいわば私的なまま「歌」に乗りうつっていまして、それが、いろんな意外な感想や発見を誘い出してくれるんです。そういうことが、まま有るんです。たまたま、今月号の「作品集皿」の冒頭にも、和歌山の島本みすよさんの五音がとられていまして、うちの一首に、かが上枝離れ地に着く迄の数秒をぎらぎらと桜の生命耀ぶという歌がありました。作者のお名前は、私にはただの記号のように、何ひとつも存じあげない方であるわけですが。読みあげてみて、たぶん、よくも悪しくも「きらきら」といった物言いに、うなづく人もあれば首をよこにふる人もありそうな歌とお聞きになったでありましょう。そんなことよりもこの歌一首の表している情景・光景、この感想・認識。それは日本人ならだれしもが共有していそうな体験・経験ではありませんか。だから実によく「分る」つまり十分に「馴染んで」いる。分る・馴染むとは、それは「個」や「私」の歴史を超えて伝統・時代・民衆の思いがここに生きている、「日本」的感性の磁場が成立っているとでも言える一徹表でありましょう。皆さんにぜひいま一度島本さんの歌を見直していただきたい。そしてこの歌からずうツと歴史的時空を超えてどんどんと遡ってみて欲しいわけです、すると、よくよくご存じのこんな歌ペトンと突き当るんじゃないでしょうか。

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久方の光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらむ申すまでもなく百人一首にも名高い、古今集選者の一人の紀反則の名歌ですね。名歌ではあるが、いささか問題をはらんでいた名歌です。と申しますのは平安時代を通じて比較的人気の出なかった名歌なんですね。これをはっきりと何度も秀歌撰に取りあけたのは藤原定家が最初なんです。それなりの理由はあろうと思いますが、そのことは今はおきましょう。私自身の鑑賞は『奏恒平の百人一首』(平凡社)てごらん願えれば幸いです。とにかく花が散っているんです。島本さんの歌と同じようなぐあいに桜の花がいましも光をあびて散りに散っている。表現は、それは、ちがう。ずいぶんちがいます。が、表現はことなっても、かなりよく似た花の、桜の、眺めかた捉えかたはしているんですね。とすれば、十世紀と二十世紀、千年をへだてて二つの歌が目に見えないある「場」を共有していると言えましょう。二つの歌にある「線」が繋がって響き合っている共鳴しているとも言えましょう。千年を流れた桜の時代……。現代の作者は夢にもそんなことは意識されなかったでありましょう、しかし知らず知らずこういう伝統へ結ばれている素直な、無私・無意識の態度なり素養なりが、概してこの「作品集皿」といった場所には、ひょい、ひょいと、出やすい気味がある。貴い素人といいましょうか、限りない無色・無名にちかい「私」の、それはいっそ得がたい特権とすらいえる。同時に、そこに勉強の余地・余白というものも余しているわけです。ともあれこうは申せましょうか。目に見えぬ時空を浸して充満している詩的表現の蓄積というかそのエネルギーに、現代を生きる我々は恵まれている、それを活かしそれに活かされている、と。ならば、恵まれているそれへの共感、批評、ないし活用へと相当の態度というかアクティヴィティをもつのは、

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申さば現代人の一種の責任ですらある、と。島本さんの歌と反則の歌とを、いま言う意味からも比較し鑑賞してみたいところです。「把握と表現」で実にいろんなことが考えられます、が、その一々は皆さんにお預けしていい課題です。とりとめなく話題を別方向へ転じますが、もしこの席においでであれば申しわけないが、もう一首おなじ島本さんの歌で話してみたいことがあります。雪洞に浮き立ちて咲くはなのもと一期一会のひとと行き今ふ歌一首の表現等のことは、あえて申しません。問題にしたいのはここに「一期一会」とあります、その一期一会とは何か。どんな理解がこの回文字に生きているのかを皆さんにも問うてみたいと思うのです。「一期一会」は昨今ではコマーシャルにも使われていますし、再々活字でも目に致します。が、私の見あらわちやのゆいちえしゆうますところどうも真意を逸れて理解されています。井伊直弼の著しました『茶場一会集』の眼目にあたたけのじようおうる言葉でありますが、茶の道ではかの利休の先生の武男紹鴎にすでに「一期一碗」という言葉があります。コ期一会Lも大切な理解ですが、むしろこの一期一碗から一期一会も察した方が早い。一生に一碗しかお茶を立てない茶人はいないわけで、それこそ何百何千となく心こめて茶をたてる、繰返し繰返したてて当然なんです。茶をたてて客に振舞うのは一会の茶の湯のいわば芯でありますからは、一期一会も一期一碗も実は同じなんです。今日ただ今私がこうして一所懸命にお話しをする、皆さんも聞いて下さる。ま、二度とない積りでお互いに誠意を尽そうとするわけですね。ふ?り二度とないこういう機会を一期一会というようなんですが、それは、どんなものでしょうか。一生に事実一度きりのことなら

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一所懸命も成りやすい。しかし、同じ席で同じ顔ぶれで同じ道具なり状況なりで明日も出会い明後日にも出会いして、それでもその繰返しの一度一度にあたかも一生一度というほどの誠意と新鮮な気持ちとを籠められるかどうか。籠められてはじめてコ期一会」という思想は、価値ある創造的な思想として成就すると読むべきではないのでしょうか。日本の四季はみごとに繰返します。それは日本の暮しが享けている天与の前提です。繰返すことなくして生きえないのが日本の四季自然とともに生きてきた日本人の覚悟であってみれば、繰返しが余儀なく陥りがちな退屈や尋常や陳腐とどう闘うかに、どう克服するかに、よく生きる工夫があったはず。コ期一会」は、おびただしい繰返しの一度一度を一生に一度「かのように」「かの如くに」迎え満たせよという思想であったはずです。むかし歌人の吉井勇や小説家の佐藤春夫が、西行法師もその境涯はいいが、感心するような和歌はすくない、っまらないと言いました。それに対して谷崎潤一郎は、「なるほど、一つ一つの歌を取り上げれば両君の云はれる通りかも知れぬ」「が、これは私の持論なんだが、歌人の歌と云ぶものは何もさう一つ一つの歌が際立った秀歌でなくともよい」と反駁し、当の吉井の作歌に対しても同じことが言えるうたゆとして、「それにも拘はらす君の歌が深く私の、心を打つのは、」「三十年間も倦まず携まず調詠をつづけ、多少の変遷は認められるにしろ大体に於いて一貫した調子の感興の歌を、繰り返し繰り返し歌ってゐるところにある」と率直に言い切っているんですね。この「持論」はこれだけではまことにたわいなげではあるのですが、実は谷崎の芸術観の基本をなす太い根になっていると思われます。「繰り返し繰り返し」という強調の仕方にぜひ耳を傾けていただきたい。

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彼はこう語りついでいます。「(西行)山家集の中には桜の花を詠じた歌が何十首となくある。咲く花を待ち、散る花を惜しむ心を、繰り返し繰り返し実に根気よく歌ってゐる。(昔の人は)それ程熱心に花を好み、花に執着したのに違びない。」「それらのすべてが必ずしも秀歌と云ふのではないが、折に触れて重ね重ね洩らしてゐるとそもモころに真実さがある。一首を取り出して巧拙を論ずるのは仰も末だ。様子をかへ、言葉をかへて、同一の境遇に沈潜し、同一の思想をなぞつてゐるところが値打ちなのだ」と。谷崎は一貫して「和歌」という「国風」という認識で通した人で、近代.現代の「短歌」的創造からはやや逸れてはいます。またその意味では「和歌」の魅力に吉井や佐藤よりはよく迫っています。しかし谷崎のこの昭和八年『芸談』での発言は、彼にすれば「歌」によせてもっと大きな広い意味での日本の芸術を語ろうとしていたことは否定できず、いわば最上・最高・最良の理想へと限りなく「繰り返し」接近して行こうというのが東洋の日本の真実であり美学であると言いたかったのです。日本の四季自然とともに生きる限り「繰り返し」ということは否定したくても出来ない。それならばそれなりの、心術を…となってみごと血肉化されました日本の思想が、即ちコ期一会」なのです。一生に一度ツきりどころか、際限ない繰返しをみごとに繰返そうという思想がこの回文字には生きているのです。そしてこの良き日本の「繰返し」のシンボルかの如くに、かの『細雪』のヒロインは、花はと新婚の夫に聞かれて「桜」とこたえ、魚はと聞かれて「鯛」とこたえました。平安神宮の桜を見に出かけた蒔岡姉妹が、いかにていねいに毎年のふるまいを咲きにおう花のかげで繰返していたか、『細雪』のその場面を思い出される方も多いと存じます。

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「掬みて尽きず」と申しました私の真意は、かくて、繰返し「掬み」繰返し「掬み」という一点にあるのでした。「歌」が、かくも何百何千万に及ぶことのプラスの価値は、実に、いま申した意味で「一期一会」を心籠めて「繰返す」にあると申上げたいのです。その「歌」が、すくなくも今日にあって、耳に聴く文芸か目に読む文芸か、これは性急に結論はなりません。どっちにしても「ことば」の芸術ではあるフケですが、存外にこの「ことば」のことが今日の文芸世界で奇妙になおざりになっているような不安を、私などは、いつもいつも抱いております。それはともかく、たまたま数日前でした、京都で公務員勤めをしています兄から、何の必要あってかお甘っ一りみこ分りませんが唐突にこんなことを手紙で尋ねられました。大津皇子がひそかに伊勢神宮に下り、また上白おくのひめみこわがせこり来る時、伊勢におられました姉の大値皇女がつくられました二着のお歌がある。「吾輩子を大和へやるとさよふけてあかとき露にわが立ちぬれし」「二人行げと行き過ぎがたき秋山をいかにか君が独りこゆらむ」という、ま、よくよく知られたお歌であります。これに就いて兄の質問は、一っ、どんな筆記具で書いたのか、二つ、キワドいアブナい歌だと思うのだが、どうして世に流布し知られるようになったのか。素人の私にそんなことを聞くのが無理というものです。「分らない」とすぐ返事はしたのですが、当てずっぽうをいえば、七世紀末のこととて、まだ穂先の長い筆は一般にはどうだったでしょうか。伝えられている聖徳太子の筆跡や木簡の字からみて、雀頭筆くらいがせいいっぱいなんでは…と想像はしますが、それはこの際の問題ではない。いかに流伝・流布したか。たしかにそれが気にはなります。が、家集.歌集など、写本すら七世紀末

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のなんて伝わってないんですから、万事は想像です。想像ではありますが、密かにひとりびとりが歌をなにかに書く、書きとめる、というよりは、いまの大値皇女のお歌にしても、ある種の折をえて歌い出され、一座の人が聴く、という内輪の「場」や「座」が必ずや有ったのでは……。遅くもヤマトタケルの昔から、想像以上にオープンに「我」や「私」の声が「我々」や「私選」の間で共有されていたのでは…。相聞歌でも挽歌でも、ましてや応詔歌などは、かなりの広い「場」がむしろ条件的に必要であったのでは。そして、そういった場や座の伝統が久しくてこそ、のちのちの歌会・歌合や、題詠や、また古くからある和する歌や問答歌なども可能でありかつ可能になって行ったのでは。しかもそれら「我々」の間では、初めに申しましたようなあの語感の磁場が成立ち、他の「彼ら」におけるそれと質的に競合していたのではないのでしょうか。「人麿の場」とか「大作の場」とか、もっと時代をくだれば定子皇后や彰子中宮や大斎院らのサロンのような、ま、そういった「我々」(他方からは「彼ら」)の場や座が星座のように在りえたのではなかったでしょうか。なんら私には証拠の提出できる用意はございません。ございませんが、もし「歌風」ということを大切に一つの指標にものを言うとすれば、前提的にそのような「場」や「座」は無くて叶わないのではないかと思うのです。ただに個人のスタイルという以上以前に、「場」や「仲間」で共有した歌の風、「我」と「我々」とでわかち合いツーカーと分りあえる歌風や語感。そしていつも「彼ら」のそれを意しゆんえあきすけみこひだり識する立場なり距離なりがあったと思う。俊恵らの歌林苑とか顕輔らの六条家とか俊成らの御子行家とか。はなはだ乱暴な推量をお許し願えれば、たとえば中世的概念であります「寄合」(座)や「会所」

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(場)の伝統が、実は上古以来在りえて、いや在って、そしてさまざまの「芸」や「表現」を実は支えて来れたんだと私は思いたいわけであります。そうでなければ歌合・絵合、また『枕草子』にみられるいつほん■}ようような顕著なサロン内での心競べや一品経等の装飾的競合、また説経や平家語りや連歌、能、茶の湯等の寄合芸能の繁盛は成立ちにくかったのではないか。それどころか、かかる「場」「座」「寄合」の伝統的機能を介してこそ、例えば「水餐」例えば「アララギ」といった現代の結社の意義も、功罪は別として、うんと分りよくなるのではないかしらん…などと思っている次第です。むろん現代と過去からの伝統とを、短絡して性急なもの言いに走ることは禁物です。しかもなお現代は、伝統の先頭を前向きに進むしかない。そこに有効な連絡・脈絡・継承の必要なことは言うをまちません。しかし、それとてもあくまで高度に「批評」的な継承が欲しい。たとえば和歌の即興性。百人一首にとられている伊勢大輪や小式部内侍や周防内侍らの歌にみえている即座の唱和にちかい歌のよみぷりは、現代短歌から最も遠くで人を魅了していますが、そういう方面からの短歌表現力の復活や拡大は、はたして「現代」の真の課題たるべきものか。それはもう過去のものであって一向に差支えのない、過去の特技であるのか。また真剣な「歌合」と「判」の何らかのかたちでの今日的復元は、衰え切った短歌批評力の回復の為にも「現代」が本気で試みてみていい「伝統」からの恵みではないのか…等々、それこそいろんな問題・課題がそこで発掘される筈でありましょう。しかし、ま、それは私がとかく申すことでなく、短歌人がご自身のこととしてお考え願いたい。さ、そこで、いささか話題を転じますが、と申しても大きくは転じませんが…。申すまでもなくここに、お一人お一人のいわば分数の分母の如き体にて、「水餐」という結社がある。

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「水餐」の背景にはまた広く尾上条舟先生に連なる磁場があり、より広い背後に近代の歌壇あり文壇あり表現の世界がある。そしていわゆる文学・文芸史といわぬまでも、皆さんに即して申せば大きな「歌史」といえる流れがひろく遠く遡れる。一方い逆に眺めますと.この広い会場に沢山の円卓があって小人数のお仲間がそれぞれ席にり、いていらっしゃる。しかし、それとてもまたお一人お一人はあくまでも一人の「私」であられ、その「私」さえ、追究すれば限りもなく孤心をかかえこんだ「内なる私」であろう筈です。そしてその「限りない内なる私」の孤心を場にしたいわば「私史」なるものが、紛れもなく「歌史」とは別に存在し自覚されている。だからこそお一人お一人が歌をつくっておられるのです。つまり皆さんは、お一人お一人の孤心から、一方で大きな「歌史」に、他方で紛れもない「私史」に触れておられる。すくなくも日本の短詩型文芸を「表現」として眺めるときに、公の、表の、「歌史」だけを見ていてはいけない、そんなことでは「歌」を大きく錯ってしまうのです。短歌はより奥にして内なる「私史」が支える文芸でもあるのです。と同時に、むろんそこには玉も瓦も在って、作品なんですから、甘えてはいけない。一首一首の作品批評と、いま私が申していることとを、自分に都合よく理解されては困ります。作品としては、あくまで一首一首の自律に対する厳しい批判を覚悟すべきであります。つまり「私史」の玉が「歌史」の瓦であるという無数の現実を、どさくさに甘く肯定するわけには行かないのです。しかし「歌史」の瓦である事実が「私史」の玉である真実を無にするということも、実は、けっして無い。そこにも深い感動があり、愛や死のドラマがある。それを「歌史」の名において無視してしまうことは、けっして出来るものでない…という一点にこそ、短歌表現に命を削る大勢の「魂」の、

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「孤、心」の、真実かけがえない根拠がある。私は、ぜひとも、それを皆さんとご一緒に肯定したい。むしろ歌壇をリードしている人々、ずしんずしんと足音高く大通りをカッポなさっている方々の短歌表現に、もしかして「歌史」の玉たらんと気張るあまりに「私史」の真実を巧妙に見切り見捨てた、感動のうすい巧みばかりが見えるとしたならば、その方が和歌・短歌の伝統と現代を結ぶ心の琴線からは大きく逸れ落ちているのだと……、あ、脱線しました、こんなことを「外部から」言うては、ゼッタイにいけないらしいのであります。つまり、そういったこと、「歌史」「私史」の二元が短歌の存立基盤になっているといったことが、事実あるわけです。その双方に玉もあり、瓦もある。どっちにしても玉がいいにきまっていますが、「歌史」の玉になるのと「私史」の玉たることとは、単純な比較を絶しているのであり、性急にお互いを責めあうのはツマラナィと思います。習練の場所も頽落の危険も双方が平等に抱えていることだけを承知しているべきだと思います。なににせよ玉を成すか瓦を積むか、そこに「表現」と「説明」の問題はがぜん大きな意味をあらわすわけでありますが、それこそ皆さんの課題であって、私に与えられた時間はもはやほぼ尽きております。時間の許します限り、そして私の見ます限りごく大切な(と感じている)二、三のことを申し上げておこうと思います。一つは、日本語.古典語の性質を、「ことば」による創作者はどう理解するかという問題です。言葉は物.事.人の関係や輪郭や性質をクリアにする手段だと、つい考えてしまうのが近代・現代の習いのようですが、こと日本語に関するかぎり、事情はむしろ逆かも知れず、物・事・人の関係や輪郭や特性

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をぼかし・かすめ・ほのめかすようにしながら、事実以上の真実や立場を了解しあうための言語というべきでしょう。物語・和歌・俳句。また消息の文や日常の会話など、古典と現代とをとわず、日本人は実に非説明的な暗示的不足語で「表現」してきたし、今もしていると言わざるをえない。京都の人は「ちがう」とはいわない、「ちがのと、ちがうやろか」と言います。人の顔色を慎重にはかりながら結論を向こうさんに先に言わせようとする。だから京都の人は腹が知れないなどと言われるのですが、なんのなんの、日本人が世界へ出て行くと、同じことを言われて来る。京ことばと日本語とに、いわば古典語と現代語とに重なる、覆いがたい日本語としての含んだ物言いがあるのでしょう。そのことを知りも考えもしないでする日本語での「表現」や「鑑賞」や「批評」に問題の生じがちなことは、これは当然でありましょう。日本語では十分な「説明」は無理で、散文を以てしてもいい効果はあげない。まして短歌や俳句では「表現」するしかないんですね。しかしそれが容易でない。容易でない理由の一つに、これが指摘したい問題の二つめですが、どうも「ことば」にもいわば動作と所作とのちがいがあるのに気がっかないからです。「ことば」を「詩化」することが詩歌ではことに大切であるわけですが、それは、たとえていえば説明的事実にしか当らない、いわば動作を、表現されリアηテイた所作の真実感へ鍛練するのと同じです。文芸・文学が、事実の「説明」に足をとられて真実の「表現」を考えなかったなら、まさに「芸」のないはなしです。しかし意外に「説明」の技術にのみこだわっている歌人が多いのかも知れません。日本語の性質に根ざした「詩化」への努力が、もっともっともっと必要でしょう。たとえて申せば、かりに「夕方」でも「黄昏」でもいい、どっちが単語として勝れているなんてことは、ない。それを一首の表現のなかへどう選択し、いかに「詩化」できているかです、

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問題は。「ことば」を、単語のレベルで玩具的にもてあそんではいけないのです。次に、文芸であるからは、ただに「自然」であればいいのでも、ただに「趣向」に満ちていればいいのでもない。その双方の正成が大切ですが、概して、いわば「夕方」的自然派はそれにこだわって世界を大味なものにし、「黄昏」的趣向派はそれにこだわってケレンのいやみを振りまいてしまう。「自然な趣向」「趣向の自然」こそ、すぐれた日本の創造を支えた素質です。方法です。原則です。現代の「批評」は、その上へさらに「把握と表現」の正成を加うべきでありましょう。今ひとつ、相もかわらず上三句で十分という短歌の多さが気になります。もう一度島本みすよさん、ごめんなさい。「作品集皿」のなかの、陽のさして耀ふはなと男るはな陰陽ふかき深山のさくら上三句だけの方が、素朴だが、余情はのこるのではないでしょうか。なんとなんと…歌の問題や課題は、いたるところから「掬みて尽きず」ではありませんか。さればこそ、尽きるところはコ期一首Lコ期一作Lとお互いに覚悟を定めて真剣に「繰返し」たいものであります。

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把握と表現ー私の短歌体験ー

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前田夕暮生誕百十年記念全国大会講演「青天」平成六年五月号収録

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前田夕暮先制の記念の大会にお招きいただき、光栄に存じます。有り難うございます。先ほど、選評をなさっているのを、会場のうしろでうかがっておりました。刷り物も拝見いたしました。ちょっと感想をお許しいただけますならば、「秀作」の三番めにあげられています静岡の真島さんのお作に、私は目をとめました。

はち巻に燐光らす若者をさいごに漁港の献血終はる

真島正義

上手・下手は分かりません、が、私は好きでした。鉢巻に鱗が光って、若者の働く汗と力とがうずまくほどの活気を伝えています。そんな青年がその日の「献血」に、行列の最後へ駆け込んできた。労働の息遣いもおさまるかおさまらぬか、それでも若者は献血に来たのです。彼の静かな意志で、行為で、漁港の献血はその日、ともあれ果てたのです。きちっと果てたのです。献血と漁港との必然の結びつきなど、なにも説明はされていない。それでも、歌は具体的に多くをっよく把握して表現してわれわれに伝えています。「若者」の顔が見えてきます。「献血」の重みも伝わってきます。採られる血が、活きて想われる。そういう歌は、うまい・へたの問題を越え、その「うた」声だけで大事なことを「うったえて」きます。きちっと「うったえて」きます。「うた」に成っているのだと思う。

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私は門外漢のわりには、比較的たくさんな歌集を月々に頂戴します。そしてよく読んでいる方です。ぎ上くせき読みながら、こんなことを思います。数ある歌集ですから、ま、玉も石も混じります。石の方はいま問題にしないまでも、「玉」にも、いわば「歌史の玉」あり「私史の玉」もある…と思うんです。「歌史の玉」のことは、言うまでもない。なかなか、そんなのに月々に出会えるわけも無い。あっても、おおかた「私史の玉」です。それなりに私的な特色、魅力、またそれ故の限界も厳然ともっている歌集です。限界をどう飛び越えると「私史の玉」が「歌史の玉」になりうるか、これは難しい問題です。両者の間にはふしぎに厳しい一線が引かれています。それでいて、なお「私史の玉」も尊いのですね、「歌」の本質的な魅惑と深く関わりあう課題がそこに秘められて在る。そう思います。それはそれとして、今日申し上げてみたいと思う一要点は、「把握と表現」「表現のための把握」ということです。私自身も、一表現者でありますので、いつもこの点に関心をもたずに居れないのです。で、歌史のであれ私史のであれ、ともあれ瓦でなくて玉ともなるほどの歌は、根本の把握がつよく、表現も的確に出来ている。把握がもう一つそこまで行っていないため、表現ももう一つそこまで行っていない歌ないしは歌集というのが、残念なことに少なくない。先ほど来選評を聴き、また入賞作など拝見しながらも、それを思い思いしておりまして、言わずもがなの差出口を致しました。お許しを願います。話題はしかしおのづとその方向へ向かって参ります。今日は秦野市の町民のみなさんも参加されていて、必ずしも歌をよまれる方ばかりではないと伺って参りました。それで、むしろ歌よみでない方の耳にも入りやすいように話してみたいと思います。ご紹介いただきましたように、私はふつう「ハタさん」と呼ばれますが、「秦」という字のよみは古

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くは「ハダ」でありましたようで、日本書紀にも、たしか「波陀」というような訓みが特記されていたと記憶しています。この秦野市も「ハタノシ」ではなく「ハダノシ」と大昔からのよみを正確にうけています。私の祖父も蔵書の奥に、明治はじめのハイカラ趣味もありましたかローマ字ではっきり「HADA一と書'ていましたし、父も私のちいさい頃に、「秦」のよみは昔は「ハダ」であったと教えてくれていました。ま、この話題はつっこみますと歴史的にたいへん奥が深い。ひろがりも広い。秦野の方にはご興味がありましょうけれども、歌の話題からは逸れますので脱線を警戒して切り上げます。じつはもともと私は「秦サン」ではなく、五つ位に奏家に貰われて育った子でございました。その秦の家に養父の妹つまり叔母が嫁がずにおりまして、この叔母からあれで国民学校…と当時は申しましたが、小学校の一年生ごろに初めて和歌と俳句との別について教わりました。百人一首などに興味を持ちはじめた頃、太平洋戦争が始まってまもない昭和十七年の頃でした。戦災の危急を避けましていつか私は京都の街なかから丹波の山奥へ疎開し、そこで敗戦の日を迎えました。それでもすぐには京都へ帰ることができず、山の中の、谷の底の、空のせまい寒村で日々を過ごしておりました。帰りたい。いつも、そう願っていました。その思いが噴火したように、秋、渡り鳥の列が空を流れてゆくのを見上げて望郷の拙い歌をはじめて作りました。短歌制作の思い出せるかぎりそれが最初でした。五年生の三学期からなつかしい元の小学校へ復帰しました。いま思えばいかにも文学青年という感じの担任の男先生でした。作文に、歌一首を添えて提出しましたら、謄写板で刷ってみなに配ってくださり、とても励まされました。京の四条大橋から鴨の川上をながめながら敗戦の町の変りざまを嘆く一首でございました。新制中学へ入りましてからもときどき歌をつくりました。むろん不十分なものばかり

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でした。五、七、五、七、七と音の数を埋めるのが関の山でしたが、修学旅行で箱根、江ノ島などの歌をかなりの製作った記憶があります。なんとなく短歌という表現に心を惹かれていたようです。私はさっきも申しましたように貰いっ子でした。生みの母とも実の父とも一緒に暮らした記憶のまるで無いまま大きくなりました。中学の頃になってその実母が身辺にときどき現れるようになりました。私はその母を避けました。微妙な厭悪の思いがはたらいていました。でありますから、その母が歌を作るような人であるともしその頃に知っていましたなら、私は短歌へそれ以上辺づこうとはしなかったと思われます。幸か不幸か私は生母に関して何一つしらないまま奏家で育っていました。やがてその母も私の身辺から姿を消しまして、高校へ進みますと、ますます私は短歌に心を奪われた少年になって行きみました。高校は京都の九条通りの東の末にございます東福寺と、それよりなお東の山懐にございます御てら寺泉涌寺とのちょうど真ん中の丘の上にありまして、二つのお寺へ、私はよく参りました。ほんとうにふしよく参りまして、そこで夢中で歌をつくりました。しまいには自分の歌のために決まった曲をつくりまして、口ずさむようにさえなりました。なんとなく私には「歌う」から「歌」なのだ、「歌う」とは「うったえる」のだという気持ちが出来ていたのでしょう。私がいつしかに歌から離れましたのは、ひょっとしてそういう認識が裏めに出てわるく働いたのかもしれませんが、ぽっきりと折れたように私が歌から離れましたのは、大学へ入ってからでした。ある日、キャンパスの中で短歌会の貼り紙を見付けました。「塔」という雑誌が出来たか出来る前ごろのことでした。高安国世という方を中、心にした結社でしたが、その関係の短歌会らしく、私は結社とは一切無関係でしたが学内の催しでもあり、出来心というヤツで歌二着を必用意して参加しました。三

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十人もいたでしょうか、提出した歌が作者の名無しで印刷して配られ、みながいいと思うのを投票するんですね。なにもかも初体験でしたが、ところが私の二百がならんで最高点をもらったんです。それはそれで、嬉しいような照れたような気分でしたが、うまく説明できませんが、それが歌との別れの結局きっかけになったという気が、今でも、しています。なにかもっと別の表現をしてみたい思いを、その短歌会に出て逆に強く持ってしまいました。その後はもう急速に歌づくりから遠のいてしまい、小説を書きだすまでにほぼ五年間ほどの空白をもちましたが、それ以前の歌を『少年』という歌集にまとめておきましたのが、後に二、三種の本に成り、前田透先生などからご書評をいただいたりしました。歌はもうつくりませんでしたが、歌から離れ切ったのではなく、よく読みました。関心ももち続けました。小説家になりましてからも、短歌の方とのお付き合いは多く、時にはちょっとした憎まれ口なども利いてまいりました。朝日新聞の短歌時評に部外から担当した私は最初だったと覚えていますが、雑誌での座談会などでもかなり物議をかもすような発言で短歌界をお騒がせしたりしました。ずいぶんヒトいことを言うヤツだとお思いの向きもあちこちにあるようで、申し訳ないことです。ある時、俳句の本を出したいんだがとある編集者にモーションをかけたことがあります。「秦さん、俳句やってたの」と聞かれまして、いやいや俳句の修業はしたことがないけれど、こんなのはどうかなこ一句呈したわけです、「鳥追いの髭のそよろに来る秋よ」と。「どこかで聞いたナ」と言うんですね。てうでしょう、長塚節に、「鳥追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ちて思ひみるべし」という歌がめります。よく知られています。η必要があって私は急ぎの原稿のためにホテルで缶詰を食っていました。一休みのテレビをつけるとあ

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たかしる歌人の短歌教室が、ちょうどこの節の短歌をあげて賞讃し鑑賞している最中だったのです。私はとっさに反応しまして、これはそんなに褒められた歌ではないと思った。「まなこを閉ちて思ひみるべし」は無用なんじゃないかと。「鳥追いの髭のそよろに来る秋よ」とすればもう眼を閉じたりしなくてもよく見えているじゃないのと思いました。こういう無駄をした歌が、思えば多いよなあと苦笑しました。で、後日のことですが、現役の歌人のを触ると物騒なので、亡くなっている大歌人の作品をかたっぱしから調べてみましたら、有るんですね、これが。正岡子規の「夕顔の苗売りに来し雨上り植えむとぞ思ふ夕顔の苗」にしても、下句はいっそ無いほうがいい。伊藤左手先の「夜深く唐辛子煮るしづけさや引き窓に空の星の飛ぶみゆ」にしても、引き窓から見える空に星など飛んでいないほうが、唐辛子を煮る匂いも、静けさも、空の大きさも、かえって見えてくる。与謝野晶子の「清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵あふひとみな美しき」にしても、下句は余分なんですね。なんでここまで押し込んでしまうのかなあと、少なくも私は感じて来たんです。若山牧水にも、「こほろぎや寝物語のをりもをり」で十分なのにと思う歌がある。「こほろぎや寝物語のをりをりに涙もまじるふるさとの家」とある歌、これはこれで理解するのですが一首の歌としては下句の把握は甘い。表現も弱い。故郷の家での歌にしないで、こほろぎに故郷をおもう句にしてしまった方が深いんじゃないか。「こほろぎや寝物語のをりもをり」思いはいっさんに故郷の家へとんで行くもよし、まるで別のドラマを読み取るのもよし。やり出すと際限がないんですね。つまり下句で一首の歌をまんまと損じてしまった例が山ほどある。大歌人にしてそうですから、なみの歌には掃いて捨てたいほど有る。短歌を作る人のいちばん危ない、

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一番陥りやすい表現のかんどころ.難所がここに有る。私はそういう実例をたくさん集めまして、俳句といってわるければ、微笑と苦笑とを掛け合わせた「美句抄」はどうだと編集者を唆したのですが、あまりにも偉大な原作者たちに対して物騒すぎる企画だと、ついに尻込みされてしまいました。ま、それは冗談のように笑いばなしで済んだのですけれど、下句の無いほうがいい歌というのは、やはり困るなあという気持ちは拭い去れません。今も拭い去れません。もう一つ、関連しましてある座談会の席で、徹頭徹尾短歌人に対して希望したことがあります。「歌に用いられてある一つ一つの言葉が、また言葉と言葉との繋ぎが、十分によく詩化されているかどうか、それが問題」で、短歌の愛読者としてはその点を特に気にせざるをえないと。歌史の玉であれ私史の玉であれ、それが詩であるかぎり言葉は、てにをはの一っ一っにいたるまで詩化を遂げていて欲しい。詩化されていない言葉で詩が出来る、詩が生きるなどと、どうかタカをくくらないで欲しい、と。言うまでもありませんが、これは、もともと詩的な言語や語彙があり、それを使用せよというような話ではまったく無い。同じ語彙や物言いでも、ある歌ではみごとに詩化されていて、他のある歌ではまったく詩化されていない、そういうことが厳然として、ある、という事なんですね。井上靖という小説家がある本の扉の裏にこんなことを自筆で書いていました。「夕方とか夕暮という言葉が好きだ。薄暮とか黄昏とかいう言葉は好きではない」と。ま、そういった内容でした。好みといえば、これは井上さんの好みなのでしょう。べつに夕方はよい言葉で薄暮はよくないという意味合いではないのです。彼の詩を読みますと、かなりに薄暮や黄昏型の漢語も多用され、夕方や夕暮で万事済ましているわけじゃ、ないんですね。詩の成り立つ不思議な過程にあって、一っ一つの言葉がどれほど詩

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化を遂げているか、遂げさせるにっいて、好みでいえば自分は夕方.夕暮れのほうに傾き易いと、そういう表白・述懐だったのでしょう。いかに夕方が好きであれ、薄暮でなくてはならないなら薄暮を採るべきですし、本来夕暮れであってほしいのに強いて薄暮・黄昏を好むという、そういう把握や表現であっては、詩はそこから腐ってきます。崩れてくる。絶妙の表現へ、いわばシャッターチャンスをもっていくその内的志向として、どちらがより好きか、なら分る。頭からこれはよい言葉、これは良くない言葉と硬直した好みに陥っては、つよい把握も柔軟な把握もできない。表現もよわまる。そう思います。写真に決定的瞬観といわれるシャッターチャンスが大切なように、詩の、短歌の言葉もそのように生まれ出てほしい。詩化という不思議は、必ずしも歌人の詩人の技巧だけでなく、むしろ天来の恵みなのでありましょうが、だからこそ歌人・詩人の努力がそこへ傾けられねばならない。そう思うのです。入魂などというと古めかしい、が、なんとしても詩の魂を言葉に吹き込まなければなりません。一人の文士として、ときどき身ぶるいしながらわたしはホフマンの小説のある場面を思い出します。前後も脈絡もない。ただ、なんだか水盤に不思議な水が張ってあり、文字や文章を書いた紙を浸すのです。ほとんど残らず字が消えてしまう。いわば真に詩化された魂の入った文字や文章しか残してもらえないんです。こわいですね。紙に字も文章ものこらなければ、「読む」喜びも感動も関わってくる余地がない。こわいですね。妙なことを申しますが、もう昔と言っていいくらいですが、少女時代の娘がお熱の友人がいました。どこがいいのあの少年と尋ねましたら、言下に「魂の色が似ているから」というんですね。うまいことを言いやがると思いました。じつは「魂の色」という表現は私の敬愛し畏怖する文豪谷崎潤一郎の、ま、

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処女作・出世作といっていい『刺青』という短編のなかにも出ているんですが、娘はそんなことは知らないはずです。私もその時はそんなこととも思い出せなかった位ですが、たしかに意味はよく分かりました。創作物をはさんで、そこに作者と享受者とが相対するわけですが、幸せなのは、作品を通じて作と受との魂の色がいかにも似てくると感じられる時です。愛読というのはそういう幸せをさす意味だとも言える。ただ、そこにはやはり作者にも読者にも、ある種の努力というものはなければならない。作者は創作すべき題材をつよく深く把握して的確に美しく表現しなければならない。読者の方でも自己の生きの重みと記憶をしっかり作品の上へなげかけっつ、いい想像力と、身をよせて作品に参加して行くセンスと、辞書をひくことも辞さない熱、心とをもたねばならない。そうすれば自然と繰り返して読むようになり、それは旅の楽しみにも似て繰り返すごとに作品の世界も充実してくる。繰り返して読ませる作品かいい作品、いい作者であるとすれば、そのように繰り返し読んでくれる人がいい読者だということになります。ものの裏と表のようにこの関係は切り離せない。そして魂の色と色とが、ずれていた映像が一重ねにピントがあうように似てくる…のが、それが芸術体験のいちばん嬉しい時です、そう思うのです。じつに当たり前のことを申し上げているのですね、でも、かならずしもこの当たり前が実際には出来なくて、かなり成り行きのままにものは作られている。歌も作られている。詩化されることのない言葉が平凡に、蕪雑に氾濫してしまっています。そこで歌史の玉と私史の玉とが、また玉と瓦とが岐れてきます。繰り返して申しますが、言葉をあるいは状況を、どれほど真壁に把握しようとしてきたか、その

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把握が弱ければ表現もかならず弱くなる、そこに尽きてくるんですね。話題の向きをちょっと変えましょうか。ご紹介いただきましたように、私は平成四年の春から、東京工業大学という理学工学の方では最高級の大学へ工学部〈文学〉教授として就職していますが、お察しのように学生たちは極めて優秀ですけれども、生涯に一冊の詩集歌集も読まずに終わるだろう人が多い。ところが、へんな話ですが私が外国へ行って、かりにハイテクの話題について行けなくてもそう恥はかかない。理工科の人が外国で日本の文化を知らないために恥ずかしい思いをしたという話はよく有る。外国の人がそれを許さないんですね。とくに「詩」にたいする重い評価は、日本にいると信じられないほど高いのですから、私は、メインの授業に添えて、いつも例えば佳い現代短歌を生涯の財産にもして欲しくて学生に読んでもらっています。ほかに井上靖の散文詩もかかさずに全員に一っ二つずつ毎時間読んでもらっています。それをちょっとした工夫で、期末試験のかわりの平常点にしているんです。お手元に配っていただいたそれらの歌は、その一部を抜き書きしてきたものですが、漢字一字分、たまに二字分が虫食いになってあけてあります。二字分でもそれは同じ文字が入るのですが、さ、みなさんは、どれくらい埋めて下さったでしょうか。ななんだクイズかと思ってはいけません、この一字を思案して学生は、そのとき歌人詩人に化る。たった一字の把握と選択とで、いかに作品が微妙に変化深化するか、「詩歌」の表現とはどんなものかを体きざ験してもらいっっ、その歌がどれほど若い魂に彫まれ生きるか、生きて欲しいと、祈るきもちで作品を教室へ選んで行くのです。時間がありませんから皆とは行きませんが、二、三、読んでみましょう。

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たふとむもあはれむも皆人として()思ひすることにあらずやも今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその()おもひ

窪田空穂

二つとも同じ一字。これが「親」思い「子」思いというふうに出てくる。なまじ歌の意味をさぐり、しかもさぐり切れなくてこういうことになります。読む方で把握できないから、表現したつもりでも、さて「親」でも「子」でも短歌にはならない。じつに吹きだしてしまう珍妙な答・漢字が呆れるほど出て、正解が少なかった。ちょっと樗然としました。学生諸君は「片思ひ」という言葉を知らないわけではない。コロンブスの卵で、なーんだという位むろん知っているし使っている。けれど、それは恋愛の言葉だとしか考えていないもんだから、「片」の字を蹟路する。もっと困るのは、恋愛でもないのに「片思ひ」というのは当たらないと言うのもいる。これはもう生きる基本の態度や認識と関わってくるところです。生きとし生きる物、人みなが互いに片思いしあっている存在だという嘆きの深さは、青春であれ熟年わきまであれ老人であれ、それぞれに深く弁えていなくてはならぬ所です。言葉も思いも適切的確とはなかなか行かない、多かれ少かれ過度に流れ、そして互いにその朗鯖を感じている。「たふとむもあはれむことも」とは、そういう人わざ言わざ繁さ人の世渡りの、一切を代表させた表現でしょう、非常に大きくまた調へも深い。「あらずやも」という詠嘆にも詩情が温れ、この辺の字あまりは胸に蓄え思いあまったみじろものを吐露する身動ぎそのもののように効果をあげています。「片思ひ」ってのは、恋愛につかう言葉

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に相違ないけれども、それをまたこのように用いて人間理解の深さを表せる、詩とは、そういう魅力とψすごみとを美しく表現する言葉の魔法かもしれないと、そんなふうにちょっと言い過ぎなほど若い人に、は言ってみます。最初の歌は、それで通じますが、もっと大事なのが次の歌です。「片思ひ」は「する」ものだと人は思いやすい。そして辛いと嘆く。恋の片思いはたいていそうです。しかし片思いは「させる」ものでもある。けれど痛い苦しい辛い悲しい「片思ひ」を他者に「させている」ことに気付く人はすくないのですね。しかし、この「させている」自覚は「している」自覚以上に、けぐく人間への愛を育みます。かなしいかな、しかし気付くのはたいてい遅い。父や母につらい「片思ひ」をさせていた時にはなにも思わないで、死なれて年をへてやっとのことに「われにしまししその片おもひ」の深さが分かる。「今にして知りて悲しむ」けれども「父母」はもう亡いのですね。父母だけにさせている片思いでしょうか、とんでもない。、心なく日々に他者にさまざまに「させている」片思い、つまり不快・不安・怒り・失望・嫉妬.羨望また愛と友情等に思い当たるなら、この歌もまた、ただ「父母」への歌だけではすまない底知れない批評の刃をもっている。しかも篤実にして温かく、言葉の調べている美しさと落ち着きとは、ほんとうに魅力的です。嬉しかったのは、この日の授業のあと提出されたわたしへのメッセージに、「秦さんの授業の他のことは皆もし忘れてしまっても、今日の出題歌の『片思ひ』三字だけは、生涯だいじに忘れません、忘れたくない」と書いたのがありました。嬉しかった。ある意味で若い人たちもまた忙しい。勉強も東工人はたいへんな忙しさですが、ほかにも、恋あり愛

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あり親との葛藤があり未来への希望と不安があり金や健康の、心配もある。なにより孤立.孤独への心身を蝕むほどの恐れを彼等はもっています。

しづかなる悲哀のごときものあれどわれをかかるものの()食となさず石川不二子

これは「(餌)食」とすぐに出て来そうで、そうも行きません。「食」の一字が「じき」とは読めず、いったん「しょく」と先に読んでしまいますと、もう、粗食の美食の大食のと、もっともっと沢山の熟語捜しが「しょく」を頼りに、短歌の意図などそっちのけに始まってしまいます。あればあるもので、ずいぶん熟語がある。「かかるもの」という擬人化された物言いの奥に、いわば魔物のような怪物のような何者かを推察することが出来れば「餌食」は連想として出てくるのですがね。でも、「()食」のところへだけ目も頭ももう行ってますから、一首への見渡しがまるで利かない。他の訓みを考えもしない。これはただ「読み」にだけ言えることでなく、存外敵を「作る」ときにも陥っている一種の偏執なのです。言葉の選択に重きが行きすぎますと、言葉の斡旋が利かなくなる。この歌などは、「悲哀」「餌食」と漢字が二か所でしか用いられていない。作者の趣意がそこに表れてもいます。趣意は何であるのか。共感はそこから探らねばならぬところです。「しづかなる悲哀のごときもの」とは、いわば人々が好んで、すすんで、ついつい抱き込んでしまいやすいある種の人間的な「弱さ」そのものでしょう。憤怒、嫉妬、不安、羨望、落胆、あるいは快感でも欲望でも、これらほど

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心に巣くいやすいものはない。しかもそういう状態に人は妙に屈従し安住し、それと共存していることに安堵すら感じてしまう。つまりは病的な状態へ身も心も誘いいれて、かえってそれを自己表現のよすがにして甘えてしまう。そしていっのまにか、庇を貸したっもりが母屋をそれらの「弱さ」という怪物に食い荒らされてしまう。つまり「しづかなる悲哀のごときもの」に、いつか依存したような日々を送ってしまい、精神も肉体も衰弱し破滅して行く。この歌人はそういうひわひわした生き方を拒絶するのです。拒絶しなければ済まない生き方を強いられていたのかも知れないが、しかし、強い。つよい歌だと思います。同時にこの歌人一人の思いである歌が、たとえばわたしの思いをも代弁しえていることに気付きます。つまり、共感を喚起されているのです。ここまで、ともかく、解説して行きながらどうしてもここは「餌食」だねと言うと、ほぼ全員が納得してくれます。短歌の表現のすごみにも深みにも、気付いてくれます。それは詩に参加したのとほぼ同じ意味ではないでしょうか。

たのほそぼそと心待みに願ふもの地()などありて時にあはれに畦上知時

「地所」「地価」「地盤」「地球」などがたくさん入ってきます。分からなくはない。たしかに僅かな「地所」を「、心待み」に生きるなどは、なかなか「あはれ」を催します。もっとも、数のいちばん多かったのが「地蔵」であったのには苦笑しました。ハイテクの最先端を歩もうという科学の学徒が、ここ

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へなんでお地蔵さんをもってくるか。「侍み」にするという漢字の意味をお頼み申すと取りちがえているんですね。祈願ではない。自負する、心の拠り所にする意味です。ここは「地位」と入って欲しい。ある程度の地位にある人の、もうそれ程度にしか心待みの残されていない淋しい「あはれ」が漂います。この歌人はそういうじぶんをそのようにしっかり見据える気力は残しています。それが歌を過度に感傷的にもせず過度に居直らせてもいない。淡々と、しかも気の濃い作になっています。「地位」とは、さきの歌でいえばどこかしら「しづかなる悲哀のごときもの」に相当する毒でもある。よく歌人はっかんで歌い切っていますから、一首は安定して美しいといえる調べを表しています。たった一首の歌が、みな、一冊の本にも匹敵するたしかな把握を、簡潔に表現している、それも短歌の魅力というものです。むろん「地位」と正解した学生も何人もいました。同じ歌人のもう一つの歌も読んでみてください。

妻の手は軽く握りて門を出づ()の日一日加はらむとす
畦上知時

これは学生の年齢ではらくに答えられない歌です。状況を読み切ることが、まだ出来にくい。だから「旅」とくる。よく読めば変ですね。父の日だの母の日たのも変ですね。サラリーマンを十数年経験して来た者からしますと、じっはそう分かりにくい状況どころか、ありふれた日々の繰り返しです。ここはその繰り返しを見据えて「常の日」となっています。そうなんですね、あまりにも「常の日」がつづく、そしてまたそれを受け入れてささやかな幸福とする人生もある。波欄万丈ばかりの人生がいたると

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ころに有るわけではない。この歌人のこういう歌を出題するときのわたしは、すこしばかり学生諸君に意地悪かも知れません。なにしろ東工人の諸君は、東工人に在ること自体を「地位」とみて自負するところが大きい。そういう人が多い。「地位」や「名誉」に対しててらいなく肯定的です。すこし水をさしている気分でもありますが、人生は一律ではゆかない。なにが待っているか、過酷なほど人によって変わってきます。裏返しにいえば、なにを成し得るか、過酷なほど人によって変わってきます。「妻の手は」とあり「妻の手を」ではない。微妙な斡旋で、味わうべきでしょう。「軽く握りて」へつながって、いっそう「は」が響きます。「軽く」は「常の日」にも「加は」るのにも呼応して、一定の認識へ読者を自然にはこんでいます。「かるく」と表記して欲しかったとわたしは思いますが、どんなものでしょう。

思ぶさま生きしと思ふ父の遺書に()き苦しみといふ語ありにき清水房雄

さりげない位の表現ですね。けれども、抜き差しならない表現にもなっている。学生諸君は「深き」「強き」苦しみを思いがちです。「痛き」というのもありました。でも「遺書」にわざわざ書く「苦しみ」です。深くも強くも痛くもあるのは道理で、道理を道理のまま書いても詩にはならないし、把握にもならない。存外難しいのですね、この一字は。それを承知で考えてもらうことで、わたしは、若い諸君に、父ないし母、さらには親のことを自然と思ってもらうのです。父をどのくらい分かっているか。

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二十歳。もう考えている年齢ですが、考えが深まるところまで行っていない。ここは「長き」苦しみという一見尋常とみえて、それしかないという文字が語化されています。この父にとって「長き」と書いている瞬間の思いはまさに感無量のはずです。しかし子の目にはその無量は見えていなかった。「思うさま生き」ていた勝手そうな気ままそうな「父」への記憶が、この「長き苦しみ」の「語」に接してはげしく揺らぐのです。まだ十分に納得しかねるけれども、でも、ああそうだったのか…と「父」を思うのです。思い直さずに済まないのですね。それは、その父の生きとそうも違わない苦しみ多き日々を子もまたもう生きているということでありましょう。繰り返される苦しみ。長き苦しみ。人生の暗闇と、必死にその底を僅かな光明を求めて生きてゆくしかない、己れ。歌の眼目に「ありにき」という過去形を見落としてはならないでしょう。歌人はもう何度も父の遺書をよみまた思い出しては生きてきたのですね。そして今また、こういう表現で歌わずにおれなかった。子にとっての父、ことに息子にとっての父親というのは、アンヒバレント(愛憎交々)に難しい存在です。

〈()島〉と云ふ島ありて遠ざかることも近づくこともなかりき中山明

人生という海を航海しつつ、子は、父からすっかり遠ざかる事もならず、かと言って近寄ってばかりいては仕方がない。敬一首の虫食いに「父」と入って、はじめて、あ、そうかと合点のできる把握が生まれます。意を寓するだけの歌では感銘は深くはこない。歌なのですから、そこに歌の表現が生きてな

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しんければ単馨諺叢のようなあに言{この歌人のこの警は、ひろい海のゆたかに眺め婆れる詩化が行き届いているとわたしは見ています。

ふといでしをさなのおならちいさくて()へと言えば()ふ真似する吉井千秋

同じ漢字一字です。「笑へ」「笑ふ」と「臭へ」「臭ふ」が圧倒的に数多かった。それでは面白くもない。正解が、それでも何人もいました。「拾へ」と言えば「拾ふ」真似をするんですね。「ちひさくて」と量的な大きさのいわれてあるのと的確に響き合い、また枕草子にもいう「ちひさきもの」の愛らしさ、這いながらものを拾う子の愛らしさが「拾へ」「拾ふ」であってこそ確実に表現できる。また音のやはらかさから「おなら」そのものの愛らしさが感じ取れる。いい音楽になっています、「うた」になっています。さ、いつまでも、この調子でやっていては日が暮れてしまいますので、きりあげましょう。重ねて申し上げますが、私は学生にクイズを挑んでいるわけではありません。詩の表現が、たったの一字で、どんなに表情を変え、その命の重みを変え、湖心える力を増したり減らしたりするかという事実に、自身の感性と語感とが参加して欲しい、解って欲しいと思っています。日本語で表現している人間、詩であれ短歌であれ俳句であれ、また小説でありましょうとも・日本語をもちいて表現に命を削り努力をしている作品ならば、自分の把握の強さを反映させる表現の強さ確かさとして、一字一字、句読点の一つ一つに至るまで気を入れ、選択しています。表現とはそういうものだと思っている。そこをどうか分かって

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欲しいし、分かったなら、そういうすぐれた表現を、詩歌として記憶しまた愛諦して欲しいと話しています。歌は、やはり、愛諦されるほどの、つまり覚えられるほどの歌にいいものがあります。いい歌は覚えられ、口をついて出てきます。また、どことなく一と節「おもしろい」と思うことのできる歌を私などはつい求めます。意味内容のおもしろさでも、句の斡旋なり連絡なり音の響きや調べなりのおもしろさでも、いい。意外性やセンスにおいて一と節おもしろいものが欲しい。破調よし字余り手足らずでも、そこに必然のおもしろさがあればむろん是とします。歓迎さえします。音楽的な快味を、「歌」なればこそ求めますが、しかし必ずしもその快味はただ一首の整いにのみ在るとは思っておりません。むしろ詩化をよく遂げた言葉と言葉との音楽に在る。よい「歌」ほど、ある映発力を詩の効果としてよく挙げています。言葉を通じて喚起映発されるものが、さまざまに、在る。知的にも情感としても意欲としても、在る。むろん美的にも在る。境涯としても在る。それらへの個々の共感から引き出されるなにか良いもの深いもの美しいものが在る。そういう映発力たしかな表現をお願いしたいし、それには、たしかな把握、世界の自然の人間の精神の肉体の適切な佳い把握が、やはり無くては達しえない、表現力なくては達しえないのですね。短歌だけの話ではない、小説家としてわたしも、それを考えざるをえない日々を送り迎えております。そしてそれは、少年時代の短歌体験といつも呼応し、いつもいきいきしたリ.スムを心に保ちえて来たのではないかと感謝しています。短歌から文学へ出会っていったことを、今も、喜び感謝しているという次第です。(終)

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私語の刻

歌集『少年』の巻頭には、この「湖の本」が、創作は第三十一冊を、エッセイは第十一冊を、あわせて四十一、二冊めを同時に刊行できることとなった感謝の気持ちを記した。望外の到達であり、重ねてここにも御礼を申し上げます。昭和六十一年(一九八六)の六月、私には二度めの誕生日ともいえる桜桃忌の日を期して、太宰治賞受賞作『清経入水』(定本・校異付き)から刊行しはじめたのだから、来年は十周年を迎えることになる。われながら信じられない。コケの一念とわらう人もあろう、私自身がそんな思いでいる。小説・創作と並走してエッセイ・シリーズもこう可能になるとは、ただただ読者や友人知己のお蔭である。お名前をあげてお一人お一人に感謝したいところだが、それもならず、ただ頭をたれて居ります。記念の気持ちをこめて、わが創作体験を小説以前にさかのぼる、歌集『少年』を復刊させていただき、あわせてエッセイ篇にはわが「短歌観」を編成してみた。この巻におさめた各篇は、すべてが単行本に未収録のいわば最新刊本となる。自祝の趣向、今回ばかりは、どうか「創作」篇「エッセイ」篇を揃えてお読み下さらば嬉しい。この巻の内容については、それぞれが重ね重ね語って足らわぬなりに言い尽くしているので、とくに触れようと思わない。さすがに『少年』をめぐっては思い出が多いが、それとて、私の小

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説世界と膚接していて、これまた、さまをかえ色をかえて表現されてきたし、まだまだ打ち止めともいかない。はやくに、いわば短歌という表現から足を抜いたわけであるが、そのことについては悔いがない。抜いたのは足であり、短歌に、和歌に、歌謡にこころを洗われてきた体験はありがたいものとして現在も身内に鼓動しているのである。小説家・批評家としてその体験が是と出ているのか非と現れているのか、それは微妙すぎてまだ言いうるものがない。ただ身に抱いているというだけである。『少年』の或る一首についてだけ、ここで付記しておこうと思うことが、ある。「まぐはひ」という表現をしている歌であるが、「目合ひ」の意で、目と目を見合ってというつもりであった。しかし「まぐはひ」は「構ひ」つまり性的に交わる意味があり、むしろ普通にはこう用いられる例が多いようである。ただ単に短歌作品として読むなら、問題の一首、この意味に取って前後のっづきも面白い。知らぬ人の作品ならわたしもきっとそう読んで興ずるだろうし、私のその歌がそのように読まれても実は拒む気はさらさら無い。ただ、これは作者にだけ言いのがれうるところであるが、事実は「百合ひ」であった。言いのがれる為に蛇足を付するのではない。その人への気持ちがいまも私のなかで生ぎているので、事実を確かにしておきたいのである。はたして十九歳であった私が「嬉ひ」の意味をしらずに用いていたか、それは、無かった。したがって目と目を見合っていた私の心情、いや真情に、かすかなそんな情動があったろうことを否認はできない。それも事実であり、しかし久々隅々の嬉しかった出違いは、わが母校中学の門前、四条通り繁華の路上であった。そしてそのまま行き別れたのである。

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作者の書く文章や表現がいつ知れず人を傷つけたり迷惑を及ぼしていたりする例は、世間に少なくない。世間のことどころか、私にもそれは、ある。あった。気も付かずにいろいろあったと思う。余儀ないことと嘆息し、時にかるく居直ってさえいる。それでも胸は痛む。ゆよのつねのならはしごととまぐはひにきみは嫁くべき身をわらひたり「まぐはひ」が表現として適していなかったのか。上乗とは胸を張らない。しかしさきに謂ったほ下延ふる真情があった。「百合ひ」の意義も語意として認められている。詩を感じ、わたしは避けなかった。あらためる気はなかったのである。今回二つ選んで収めた講演録のなかで、兄恒産から、ものを尋ねられた話をしている。昔の詩歌はどんな機縁で流布したのだろう、また大化改新の頃の皇子らはどんな筆記具をつかって居たのか、と。荷の重すぎる質問であった。わたしは、中学の頃は短歌などをそれぞれのノートに書いていたが、歌が出来ればすぐノートに書いたわけではなかった。父は電器屋をしていて、当時のことで粗末な紙だったが、メーカーから届くB5判ていどの裏日の宣伝リーフがいつもたくさん店に残っていた、それを貰い、平良に二段折りにし、一段ごとに、小さい字の二行書きの歌で満たしてしまうと、また短く二つに折畳み、そういうのを幾重にも溜めては学校鞄に入れていた。いつしかに詞や感想なども添え、ノートに清書していった。その両方とも手もとに残っている。なんというヘンな少年であったことか!ところで対談・鼎談・座談会というのも、数えたことはないが、二十年のあいだにずいぶん数重ね経験してきた。じつを言うとあまり得手ではない、が、大原富枝さんとの「極限の恋」を題

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に、対談集を出したこともある。座談の達人は世間に多いが、どうもわたしの話はかたくなる。漫然と話していられない。ときには熱してしまう。この巻に収めえた篠さん司会の「短歌」での新春鼎談も、五十歳、若気の至りともいってられないのに、そうであった。篠さんとも、また笠原さんとも、日頃親しく、いささかも後に残るいやみなど無かったのだが、仕事の好みとしては一人で按配のきく講演の方が、あるいはラジオでの一人語りなどの方が、気楽でよい。なににせよ、しかし、対談も講演もことに今年は毎月のように重なり、月に二度も遠くまで出向いたりしてきた。大学があってたいへんなのだが、頼む方もじつに考えて頼んでくるので、つい引き受けてきた。八月早々にも京都で「美術」の対談が予定されていて、用意は調っていた。ところが八月六日朝、九十四歳の母が吐血緊急入院し、集中治療室に入った。急邊京都行きをとりやめ容態を案じながらわたしは家に待機し、妻が付き添っていた。その妻の留守中、誕生このかた十九年を倶にしてきたかけがえのない愛猫のノコが烈しい発作を頻発し、用意の投薬もかいなく、わたしの腕のなかでかろうじて妻の帰宅を待ち得たあと、聴いたこともないなき声を一つのこし、あっと嘆くまもなく妻の胸に抱かれ、静かに息を引きとった。とたんに凄い雷鳴があった。悲しいかぎりであった。老母は一週間して、幸いに退院できた。大暑の日照りをおかして妻とわたしは病院に見舞いつづけた。日延べした対談のつぎの日程をまだ立てる元気がない。ノコの発病は五月以前に遡るけれど、そして幾度も幾度も危険に見舞われっづけたけれども、揮身の介護をしてきた。いつまでも子猫のようにささやかにスマートだったノコは、そのつど奇跡のように立ち直り立ち

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直り家族をよろこばせ、また泣かせた。もうそれ以上を望むのはかえって酷だと分かっていて、しかし、熟睡しきったように小さく丸くなって寝床に息を絶えているノコを、庭に、母猫のネコしの眠っているそばに、われら親子して埋葬してやるのは辛かった。寂しかった。耳聾い目の見えない、意思の伝えようの途絶えた母は、だが、生きのびてくれた。母はわたしを自分より五つ年上の兄だと思っている。わたしたち夫婦が浅草仲見世でみつけてきた等身大の人形を抱いて溺愛している。落暁の家の末娘に育ち、組で一の成績でありながら家の近所の女学校へあげてもらえなんだのが悲しかった、自分より出来のよくなかった金のある家の友達らが、・毎朝家の前を通学して行くのを隠れて見ているのは死ぬほど悲しかったと、あいろを失った頭のなかでそれだけが繰り返し口をついて出る。しだいに叫ぶように泣くように激して行くのである。戦後五十年、したり顔に今の日本を慢罵する人もいるが、よくなったことも山ほどある。朝まで生テレビで大島渚が、今日只今とくらべて過去にどんなに今より良い時代があったというのか、全否定の言葉をとくとくと吐くのであれば、その前にではどんな昔の時代が良かったといえるのか、先にそれを示せと叫んでいたのは同感だった。今度は共産党へ投票してやったわいと、ひところよく吐いて捨てて母は笑っていたものだ、そういうことが出来ただけでも母もまた戦後を生きて来たわけである。そんな母を肯定しながらわたしは『少年』の歌を作っていたのだ。やがて東工人での最期の半期が始まる。二月まで、心残りなく教室を楽しんで過ごしたい。この後半は月曜日午後と水曜日午前の二講座である。また教室は濫れるのだろうか。

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