電子版 秦恒平・湖(うみ)の本 エッセイ 1 『蘇我殿幻想 ・ 消えたかタケル』
 
 

    湖の本エッセイ 

  第 1 巻 蘇我殿幻想 ・ 消えたかタケル
 
 
 

*  エッセイシリーズ「叢刊の弁」のスキャン原稿で、まだ校正が出来ていません。校正未了。
 



 

         エッセイ叢刊の弁
 

 「私にどれほどの力があろうとも思えないが、望んでくださる読者のある限り、その作品が本がなくて読めない…という事だけは、著者の責任で、無くしたい。」そう書いて、ちょうど三年前に、小説・戯曲シリーズの『秦恒平・湖(うみ)の本』を刊行しはじめた。その「刊行の弁」に私は、こうも書いていた。
 「読者は作家にとって、貴重な命の滴である。その一滴一滴が、しかも、たちまちに大きな湖を成すことを信じて作家は創作している。作家と作品とは、そのような母なる『うみ』に育まれ生まれ出る」と。
 この三年、言うまでもないが、私は孤独ではなかった。刊行の作業は予想を超えて厳しいが、どれだけ多くのご支持に支えられて来たことか。それは、無謀とさえ見られた『湖の本』がすでに三年・十二冊を送り出し、幸いに今後の継続を可能にしているばかりか、あらたに『湖の本エッセイ』の刊行もごく自然の流れで、読者に待たれるようになった事実が証ししている。感謝にたえない。と同時に、このような、いわば悪戦苦闘に内在し潜勢している「批評」的意味を、すくなからぬ方々が察していて

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くださるのだと思いたい。けっして「湖」が広くなったとは、言わぬ。しかし、深くなっている。「念々死去」(井口哲郎さん印刻・裏表紙)は、即ち「念々新生」と。よい繰返しの一度一度を、一期(いちご)を賭して繰返したい。
 これからは、「小説」のシリーズに「エッセイ」のシリーズが伴走することになる。年一、二冊が限度であろうし部数も「小説」よりは半減すると見ている。だからこそむしろ真数を増し、頒価も今後の維持が可能な額に改め、むろん装丁も一新することになる。但しこの創刊第一冊に限り、当面の混乱を避け、従来と同じ分量と価額とで、「小説」シリーズの前冊読者に洩れなくお届けする。雑誌(ミセス)に連載の、ほぼ小説に同じい長篇紀行『蘇我殿幻想』を第一冊に選んだのも、それ故である。
 私のエッセイは、小説と両翼を成している。それも読者は、よくご存じであった。既刊の数多いエッセイ集を、長篇以外は、すべて傾向に応じ「感覚」的に再編集して、まとまり良く、読んで楽しいものに造りたい。それでも「エッセイ」の増刷は、まずは、望み難い。初刷本が、たぶん最後本となろう。

  平成元年 桜桃忌に                      秦 恒平

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秦恒平・湖の本エッセイ 1
 
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   目次
蘇我殿幻想………………………………5
 上総の蘇我殿…………………………7
 近江の蘇我殿…………………………15
 崇福寺趾………………………………23
 飛鳥の蘇我殿…………………………29
 藤白坂の死……………………………35
 山田寺二つ……………………………43
 もう一人の蘇我殿……………………51
 ぬすまれた皇太子妃…………………57
 竹芝寺趾………………………………63
 氷川の勇者……………………………71
 秘密の般若寺…………………………81
 不安の京………………………………89
消えたかタケル…………………………97

  私語の刻……………………………108
  湖の本エッセイ・要約と予告……114

     〈表紙〉  装画 城景都
          印刻 井口哲郎
          装禎 堤いく子

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蘇我殿幻想

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「ミセス」昭和五十二年一月号ー十二月号

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上総の蘇我殿

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 何年前になるだろう、『秘色(ひそく)』という本を出版して一年ばかり経った頃に、或る読者のおおよそ次のような手紙を貰った。
 ――自分の郷里は千葉県君津市の小櫃(おびつ)という所だが、そこの小学校の山続きに白山神社があって、社殿のうしろが荒れた大きな前方後円墳になっており、近在の者は天智天皇が亡くなってすぐ起きた壬申(じんしん)の乱(六七二)に、近江山前(やまざき)で敗死したはずの弘文天皇御陵と信じている。関連の口碑(くひ)伝説も土着している。とくにこの古墳のそばを小さな川が流れ、自分らは幼時その橋を渡って通学したのだが、川の名は御腹(おはら)川といい、深夜水は血となって烈しく逆流する、また上流に深い洞穴があり御陵に通じている、などとよく聴かされた。私文帝が、この穴の入口へ追いつめられ切腹した怨みの血汐で川の水が朱(あけ)に染まるのだという。むろん自分で見たことはないが、小学生の頃は血の伝説に怯(おび)え白昼息をひそめてかけ抜けるのが常だった。御腹川は深い竹薮におおわれ瞼しい崖にせばめられていかにも暗く山辺を流れていたのを今もありあり想い浮かべることができる。大友皇子(おおとものみこ)(弘文帝)や十市皇女(とおちのひめみこ)(帝紀)を『秘色』の中でああも書かれたあなたには、きっと興味がおありかと思い一筆認(したた)めた次第、と、ここで手紙が終っていたならすぐ忘れたに違いない。
 が、件(くだん)の手紙は少々その先があって、そこへ私は引っかかった。そのまま書き写すと、

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 「ところで先日、朝日新聞の記事の断片に、『むかし弘文天皇につかえた蘇我殿が、流離の地上総(かずさ)での天皇をおなぐさめするため、近在千人の早乙女(さおとめ)を集めて田植をさせた……』という譚(はなし)が載っており、にわかに興味の湧くのを覚えました。が、それはさておき、また弘文天皇云々は別にしても、在所にまつわる上古の血の匂いには深い畏(おそ)れを惹くものがあります」
という。
 この読者は夙(はや)くに小櫃を離れていて、弘文伝承に就いても、私の小説を読む以前から関心を寄せていたというのではないらしい。およそこの程度の来書なら普通は打ち捨てておくのだが、気になったのは流竄(りゆうざん)(流刑)か潜狩(せんしゆ)(潜幸)か、ともあれ吉野に遁れていた叔父大海人皇子(おおしあまのみこ)(天武(てんむ)帝)の蹶起(けつき)に脆(もろ)くも敗れ去った弘文廃帝を慰めるべく、その側近に「蘇我殿」が奉仕していたと、それも失礼ながらただ地元の証言でなく、つい「先日」の朝日新聞紙上に記事になって出たとか、弘文天皇だけではさも頼りない話が、シテにせよワキにせよれっきとした「蘇我殿」まで舞台に現れるなら、ちょっとわけが違う。さすがにというのも照れるが、近江朝葛藤の底に、夢のように美しい一つの考古学出土品を沈めて上古と現代を幻想的に結んだ小説を世に問うたばかりの私は、咄嵯にこの「蘇我殿」が誰であるかの目星は、つけることができた。
 そうか。そうだったのか。そうならこの語り草も捨てたものでない。
 かねてもう一作と思っていた小説が、これで書けそうだと奮い立ったがさてすぐに筆も執れず、それからこれへ先約の仕事を片づけ片づけするうち瞬(またた)くまに数年経った。例の手紙一本はいつも手近に置いたまま、ただ事の実否(じつぷ)を調べておくだけのことにも今日(こんにち)まで手が廻らなかった。

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 近江から上総へはなかなかの遠さだ、滋賀県と千葉県。まして壬申の乱は今を去る千三百年昔の事変だ。が、房総半島必ずしも大和人(やまとびと)にとって僻陬(へきすう)ではなかった。黒潮に乗った文物交流の物証や遺跡は、千葉県下一円にすこぶる多い。
 地図を広げて問題の小櫃はすぐ見つかった、とも言わぬが、幸いと小櫃川が木更津市北郊で東京湾に注いでいる。これを国鉄久留里(くるり)線と絡みながら湖って行くと、まさしく「おびつ」駅とあるすぐ近くで北東の山間から流れ下ってこの小値川に合するのが御腹川とまでは、はっきり見当てることができる。木更津から、拍子抜けがするくらい簡単に行ける。
 房総の山々は至って温和で、小櫃の上流も久留里から上総亀山の辺まで、日当りのいい山里が次々にのどかにひらけていた。ちょっと飛鳥から吉野五条辺に似通い、ただの田舎と想えなかった。が、そう穏やかとばかりではなく、小櫃を訪れた秋の一日、折からセイタカアワダチソウの青々しい黄色に追われて尾花やコスモスの叢(くさむら)は至る処で潰走(かいそう)し殲滅(せんめつ)されていた。天武方の兵もかかる勢で弘文天皇に無念の御腹を召させたかと心凄く想像しながら、まず小櫃行政センターを訪ねて来意を告げる、と、やすやすと、あれからこれへ弘文陵の語り伝えをあらまし聴かせてもらえた。
 なるほど此処には白山神社が現存し、斎(いつ)き祀(まつ)るかのように境内の末社、天神社のほぼ背後にまぎれない前方後円墳があるという。これを、畏(かしこ)くも人皇(じんのう)第三十九代弘文天皇の山陵かとする推量は君津郡誌も夙(はや)く誌(しる) しており、「全長四十三間、周囲約百三十間、高さは前方部で三間五尺余、後刃部で五問」に及ぶ。そもそも小櫃は御櫃の謂(いい)で、弘文天皇の遺骸を納め、御城山の頂に奉葬したとか、したがって大字(おおあざ) 俵田字館之内(あざたてのうち)の件(くだん)の山陵はゆかりの蘇我氏が天皇遺愛の鏡、刀、玉の類を儀墓(ぎぼ)の体(てい)に埋葬したものであ

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ろうと古文献などは筆を揃えているらしい。
 この一帯、たしかに弘文天皇の御一統に属する人物の古墳、言伝がやたら多い。王谷、君山、壬申山などの地名にまじって使者穴だの御厩(おうまや)ヶ谷だのと、貫一お宮の松式のものが混じるのはむりないが、ここでも膝を乗り出したのは、この近在、旧暦の五月七日を「蘇我どん」と称し、この日は午前田植に出ても午後は農事を休んで祭ごとに宛てる、それでも必ず天候がひどく荒れる、という話。旧小櫃村大字山本には、蘇我野と呼んで「蘇我殿古墳」も遺っているとか、そのうち、白山神社の麓に山守(やまもり)然と数十年住みつキ、生涯かけて弘文御陵の公認を得たいと願う篤信好学の中村翰護翁も資料片手にはせつけて熱弁をふるう。半信半疑で来た取材の旅はにわかに活気を帯びた。
 めざすはともあれ館之内の前方後円墳だ、行ってみた。
 うねる御腹川を黝(あおぐろ)く右辺にめぐらせて樹木鬱蒼、全局二百数十メートルに及ぶたいした古墳だった。そのどてっ腹に白山神社、もとの田原神社、があり、持統天皇の二年(六八八)に勅旨を受けた古社だというのが意味ありげで、光孝天皇即位の元慶八年(八八四)にも従五位下の待遇を受けた由、三代実緑に見えている。位置は古墳前方と後円のくびれに密着し、古式に則(のつと)りこの辺に横穴式の羨道(えんどう)の口があったらしいが、ただ出土品その他に徴しても七世紀末の墳墓というより、中村老が『弘文天皇御陵考』(一九四四)に著(あらわ)しているように、もう一世紀半は遡る国造(くにのみやつこ)ないし在地豪族級の古墳とみた方がいい。
 となると、弘文御陵は全然でたらめなのか。前方後円は尊貴の墳墓という通念もあるが、中村老の説ではこの神社からちょうど前方後円墳を跨(また)ぎこした向うに、もう一つ「高さ、約二間、直径、約五間」の円墳のあるのが、まぎれない弘文天皇小櫃山陵と称すべきものという。相応の出土品にも恵まれてい

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て、中村家で海獣葡萄鏡や祝部(いわいべ)土器のほか銀象嵌(ぞうがん)の認められる古刀の柄(え)か鐔(つば)かの断片なども仔細ありげに見せてもらった。ぽろぼろの刀剣破片と較べて直径十二、三センチの鏡にほとんど磨滅の跡がない。妖しくも美しいは美しいがそう古い物に見えない。
  円墳には、たしかに底暗い竪穴(たてあな)が通路然としてぶきみに地の底にひらけ、これが、現に御腹川にむけて口をあけた幾つかの洞穴とかつて奥深く連絡していた可能性は否定できない。この辺り縞蛇、山かがし、時に蝮(まむし)も棲むと聴けばそのような洞(うろ)の内を覗きながら、黝(あおぐろ)く幾重(いくえ)にも木陰を畳んで千年の謎を秘めた山陵の草むぐらを、そうは易々と歩きまわるさえ気味わるかった。
 それにしても古記に、末社「天神社」の背後にとあるのはどうか。もしここにも後代菅原道真の怨霊がかげを重ねて、あるいは持統二年以来のいわば御霊(ごりよう)社としてこの神社や古墳が畏(おそ)れられて来たのだとすれば、地の下に深く震動をつづける弘文天皇とやらの執心(しゆうしん)と、菅(かん)大臣殿のまがまがしい讐(あだ)ごころとは、どんな折合いをっけているというのだろう。まして天神の道真に、明神のあの平将門までが結託していたら――。
 凄い山腹だ、太い注連(しめ)縄をわたした大鳥居から石段の上の楼門まで、左右の樹林はしきりに青くさく、底知れず水銹(みさ)び草と落葉とを浮かべた古沼には木(こ)もれ日がうすら寒かった。将門や道真の名に導かれて、私は奈良県五条市の名刹(めいさつ)栄山寺の境域に、もの凄う鬼火も舞わんばかりだった御霊神社のたたずまいを想い出していた。五条には御霊社が多かった、井上皇后そして他戸(おさべ)皇太子にまじって菅原道真のそれも有った、が、なんとどこもみなこの、小櫃の田原神社とそっくりだったことか。楼門の左右に、衣冠を着(ちやく)し、銘々に沓(くつ)をはいて片脚を床につけた半脚の武将像が、闖入(ちんにゆう)を咎め顔に両

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膝に拳を固めていた。破損著(いちじる)しく、むかって右の一体など、両眼の部分だけ横長の矩形状にぽっかり刳(く)り抜かれている、のが、もしや蘇我殿か――うつろに昏(くら)く巨大な隻(せき)眼を瞠(みひら)くようで、怖かった。
 破風(はふ)の彫刻など奇妙に優しく、手のこんだ造りの美しい佳(い)い拝殿が、楼門からまだ大分高い所に建っていた。あちこち、大樹の根かたに祠(ほこら)ほどの摂社、末社も屋形の箱を置いたように鎮座していた。
 もう一度、こわごわ円墳を覗きに行き、冷気が膝を這いのぽるあらぬ感触に身顫いして、離れた――。 御腹川ぞいに、御陵の奥へ奥へと竹薮つづきの山塊を打ち重ね重ね、小櫃台、吉野、久留里大谷に至
っている。田原御所、壬申山、蘇我殿古墳、皇御所台、御腹川、白王山(皇の分字で、白鳳にも通じると中村老人はいう。)など奇妙に幻想を惹く地名とともに弘文天皇の伝説は、えらく具体的な行跡と纒綿(てんめん)して地苔のように近隣にくまなく土着している。考古学的に弘文御陵を立証できるかどうかは私の関心をすこし逸(そ)れていたものの、この地に弘文潜狩の可能性を信じたい気は、そぞろ歩くにつれ高まった。予想を超えて、伝承は小櫃川流域から北へ一と山越した養老渓谷や、往時の上総国府の所在地と目される市原市のかなりな範囲にまで拡がっていた。正史には夫帝に背いてのち飛鳥(あすか)の京で不審の頓死を記録されている十市皇女(とおちのひめみこ)も当然のように天帝とともにこの地に姿を見せて祠(まつ)られているし、同じ弘文妃耳面刀自(みみものとじ)やその父藤原鎌足らの口碑(くひ) も多く、さらに「蘇我殿」に至っては弘文天皇の影をしも蔽わんばかりで、伝説の主人公は、弘文よりむしろ「蘇我殿」の観すらあった。
 蘇我どんの田植日は、不意に天武方の討手が襲った日というが、もし崇(たた)りとすれば、血汐に染んで逆流するという御腹川の無念と、蘇我どんの荒天(こうてん)とは、同じ弘文方の怨執(おんしゆう)が凝って人々の記憶に重く沈んだものか。

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「蘇我殿」何者ぞ。そもそもかかる上総の山間部に、弘文天皇と重臣「蘇我殿」とのあたかも上総王朝の存在を結びつける、どんな歴史的根拠があってのこれは言い伝えか。
 川面を朱(あけ)に、帝(みかど)に御腹を召させたのは、誰なのか。

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近江の蘇我殿

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 「三輪山をしかも隠すか雲だにもこゝろあらなも隠さふべしや」(額田姫王(ぬかたのおおきみ))の一首を国魂(くにたま)の鎮(しず)め歌に大和国(やまとのくに)にのこして、称制(天皇空位の折、天皇に準じて政治を行う)の皇太子中大兄皇子(なかのおおえのみこ)らの朝廷が、さざなみ志賀の近江大津京へと都を遷(うつ)したのは西暦六六七年、いわゆる天智の六年三月だった。「是の時に、天下(あめのした)の百姓(おほみたから)、都遷(うつ)すことを願はずして、諷(そ)へ諫(あざむ)く者多し。童謡(わざうた)また多し。日日夜夜(ひるよる)、失火(みづながれ)の処多し」と日本書記はいう。童児の口を借り政(まつりごと)を批判したのが「童謡」だったろうか、そして斉明天皇の没後まる六年半を経た大津京第二年の正月、中大兄は大化改新(六四五)以来実に二十二年半の、久しかった皇太子から、登臨(とうりん)即位した。
 のちに諡(おくりな)して天智天皇と呼んだこの皇太子が、母帝の死後なぜに異例の六年余も称制したか、なぜ都を遷したか、そうせねばならなかったのか。
 遠く物部(もののべ)氏と蘇我氏が仏教との出会いを論(あげつら)い争って蘇我が勝ち残り、その飛鳥王朝とも準(なずら)えいうべき蘇我主流も、大化の政変で蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)の父子ともに崩落した。
 中大兄皇子や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らいわば文明開化の新主流には、大和の風土になじんだ保守的な旧氏族との葛藤を強引に抜け出る必要があった。またそのための慎重な配慮も怠ることは出来なかった。百済(くだら)救援に兵を出しながら、天智の二年(六六三)白村江(はくすきのえ)で唐と新羅(しらぎ)の水軍に大敗して来たあとだけに、いっそう

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皇太子らは隠忍しかつ適切な防衛の策をも講じなければならなかった。
 だが、そのような表向きゆるがせにならない理由と表裏して、中大兄は久しく或るどうにもならない 禁じられた恋の重荷も負っていたのである。智略縦横の皇太子も、ほかならぬ同母妹、しかも亡き叔父 孝徳天皇の皇后であった間人皇女(はしひとりひあみこ)との道ならぬ道に踏み迷ったまま即位するなどは、やはり、許されなかった。誰より側近の鎌足がそれを制して来た。この当時の政情に詳しい読者なら、まだ孝徳天皇が難波(なにわ)京に在ったころの間人皇后をめぐる叔父と甥とのやり切れない鞘当てや、肌寒い悲劇的な結末を想い起こされるに違いない。が、今はこの際の主人公が、千葉県下小櫃の山里にまで身を潜めながら不意の敵襲に無念の御腹を召した弘文廃帝、および「上総(かずさ)の蘇我殿」であることを思い出しておいて、暫くは話頭を近江大津京の方へ転じたい。
 天智の四年二月、兄との宿世(すくせ)の恋に悩んだ間人太后が崩じ、六年三月、(この時すぐ「位(みくらい)に即(つ)きたまふ」とする「或本(あるふみ)」をも日本書紀は伝えるが、)その葬送の礼を悉(ことごと)く尽してのちに皇太子は近江遷都(せんと)を敢行、やがて登極。そして新たに皇太弟とされたのが、天皇同母弟の大海人皇子(おおしあまのみこ)だった。
 だが近江の宮廷では、徐々にこの人望篤く力量も豊かな皇太弟から天皇の愛子(あいし)大友皇子の方へ政治上の力点が動いて行った。皇子は名実備わった漢詩人としても当代の花形だった。ただし皇太弟の母は斉明天皇、大友皇子の母はたんに伊賀采女宅子(いがのうねめのやかこ)。母系の血筋を尊重したこの時代の風として大友皇子の即位は絶望に近い。それだけに天皇の愛と信頼は実の弟よりも我が子へと年ごとにかえって加わり、近江の開化を楽しむ進歩派は英明の大友に、大和の故京を懐しむ旧勢力は寛厚の皇太弟大海人にと漸く互いに気色(けしき)ばむ。天皇の健康は眼に見えて衰え行き、しかも八年(六六九)十月には両派を懸命に調停して

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来た大織冠(たいしよつかん)、内大臣の藤原(中臣)鎌足も五十六歳で先立って死んだ――。
 今、近江大津京が琵琶湖の西岸に沿ったどの辺に宮廷を構えていたのか、十分な確認ができないまま になっている。桓武天皇(天智の曾孫)の時、往時を偲(しの)び故地を目して近江京追慕の大寺(たいぢ)が建てられたという場所ももはや確証できず、浜大津の北方、京阪(けいはん)電車の南滋賀駅近くに南滋賀町廃寺跡の保存されているのが、一応その梵釈寺(ぼんしやくぢ)跡かのように見られてはいる、が、まぢかに湖色がひたひたと光ってくるほどのこの小高い場所は、三方を民家やお寺にひっそり囲まれ草原(くさはら)に点々と礎石の露表した小公園になっていて、人影なく、往古の盛況を想いやるよすがも、ない。湖上遙かに異形(いぎよう)を霞ませた近江富士、三上山の影ばかりが大津故京半日の散策中どこを歩いていても夢うつつ眼間(まなかい)に忍び寄っては、過ぎし昔びとのただならぬ愛欲と修羅のさまをいろいろに想い起こさせた。
 そうだった、あの弘文天皇はここで、この大津京で晴れて皇位に登った。その以前は、史上初の太政 大臣として病床の父帝を輔弼(ほひつ)していた。それがあの、房総の山なかに怨執(おんしゆう)に塗(まみ)れ今も血を匂わせて空(うつ)ろにのぞいた地下道の暗闇に葬られているかも知れぬとは――。何かに背を押されたように、およそ七年ぶりにひとり滋賀の里を訪れ来た私は、なぜかとぼとぼと湖(うみ)べ山べを彷徨(さすら)い歩きながら、時のまの切ない夢を見ては醒め、醒めてはまた見つづけた。
 三井寺辺を、いや宇佐山を背に緑深い森に囲まれて天智天皇を祠った近江神宮を振り出しに、心にく く用意された道案内の矢印にそって北へ程近い、まずこの南滋賀町廃寺趾に立寄った。窪みに落葉を浮 かべて残る柱の礎(いしずえ)。近江神宮のうす暗かった資料館にここで出土した珍しい花文方形の軒瓦があったこと、なるほど蓮の花であろう、のに、それがぶきみに毒もっさそりの姿にも見えたこと、を、胸騒ぎか

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のように思い出していると、なにげない木守りの一つ柿の実までが晩秋の陽ざしにしみじみ寂しい。草 蕪(あ)れの廃寺趾に隣り合うて正興寺境内との堺に、いわれは知らずうず高い巨岩が壇上に、さも斎(いつ)き祀(まつ)られていた。御堂のまっ白い障子はしんと閉じられたまま、近江神宮からこちら私は誰一人ともまだ出会わなかった。
 山寄りに、福王子社裏の古墳を覗きに行った。巨岩を地下に組み敷いた叢(くさむら)の底に、空ろな墓室をただ覗くだけでよかった。
 福王子社は、なぜか紀貫之を祠っている。しかも上総の伝説に、福王とは弘文天皇皇子と謂い、旧君 津郡昭和町に墓も社もあるのをもう私は見知っていた。それがどう有って紀貫之なのか、さらには小川 一筋を隔てた裏山に大伴黒主を祠った大伴神社がある。黒主は弘文天皇の子で壬申の乱後に三井寺を建 てた与多王の孫に当たる。してみると「大伴」は「大友」の忌み名を隠しているのか知れず、貫之も黒 主も、由緒を聴けば生前この地に「幽閉」されたというのも気味がわるい。二人ながら名高い歌人、と すると、あの、罪を得て刑死したかと怖い噂の柿本人麿も歌の聖(ひじり)と仰がれて来たのが、ふと、思い合わされる。近江の路傍には石仏が多い。福王子社裏には木暗い荒地にむき出しの上古の墓室を護って、なぜか七体大小の布袋(ほてい)像が寸分違わぬ顔でぷきみに嗤(わら)っていた――。
 弘文天皇(大友皇子)には何人かの皇子があった。与多王のほかに日本書紀や懐風藻には葛野(かどの)王の名も見え、いずれも壬申の乱後を辛うじて生きのびている。必ずしも天武天皇(大海人皇子)は大友皇子の血筋を絶つ必要を認めていなかったことになる。
 なぜだろう。日当たり静かな畦(あぜ)づたいに北へ北へ、崇福寺趾(すうふくぢし)へと心もち俯(うつむ)きかげんに歩を運んでは時

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折り湖上はるかな三上(みかみ)山を望みながら、なぜだろう、とつい思った。呟いた。
 天智の十年(六七一)正月、天皇は大友皇子をついに太政大臣(おおきまつりごとのおおまえつきみ)とし、五人の重臣を大臣、御史大夫等に任じて皇子および近江京への忠誠を固く誓わせた。同時に近江令(りよう)を施行して冠位法度(はつと)も正した。が、皇太弟はおよそその事に与(あずか)らなかったという。この夏漏剋(ろうこく)(水時計)を新台に置いてはじめて時間(とき)を広く知らしめた。鐘鼓(しようこ)を打ったのである。そして九月、天皇は病んだ。十月、兄天智は皇太弟をわざわ さ病床に招いて譲位をほのめかし、恐懼(きようく)のあまり大海人は固辞して洪業(皇権)は大后にゆだね、大友王に諸政を奉宣なさせ給えと言いも終えず即座に沙門(ほうし)となり、吉野への退隠を願うと忽々(そうそう)にわずかな舎人(とねり)に守られて近江京をあとにした、と正史は語っている。
 それだけではない。
 時に左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)らが大海人皇子を宇治まで送ったと日本書紀は謂(い)う。
  左大臣といえば、即位目前の大友皇子を措いて最高位の重臣である。近江朝は礼を尽して去り行く皇 太弟を見送った、と言えるのかも知れぬ。
 だが、病床に召すべく皇太弟のもとへ使(つかい)した男は、天皇の仰せに対し「有意(こころしら)ひて」返事をせよと秘かに助言し、大海人は「?(ここ)に、隠せる謀(はかりごと)有らむことを疑ひて慎」んだという。うっかり返事をすれぱたちどころに殺されたかも知れなかった。とすれば、吉野へ遁れ行く大海人を見送った蘇我赤兄らが何事
 
もなく宇治から大津京へ帰って来たのを見て、病める天皇や日嗣ぎの皇子(みこ)(大友)は果たしてその労を素直に嘉(よみ)することができたろうか。書紀に謂う、「虎に翼を着けて放てり」との嘆息は、誰よりもこの二人の口を衝いて漏れたに相違ない。

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 ふしぎにも壬申の乱後、近江方の重臣は右大臣中臣金(なかとみのかね)も大納言蘇我果安(そがのはたやす)も斬(ざん)に遭(あ)っているのに、最高責任者たる左大臣蘇我赤兄はただ流す罪に当てられて、死刑を免れている。
 斬るなら真先に斬っていい赤兄が、少くも斬られていない以上斬らない理由が大海人皇子(天武天皇に、あったはずだ。
 それは何か。
 あの上総の「蘇我殿」とは、この近江の「蘇我殿」のことか。

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崇福寺跡

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 弘文潜狩の伝承とともに今もその名が旧小櫃村近在で語られている上総の「蘇我殿」とは、紛れない 近江朝の重臣蘇我赤兄(そがのあかえ)と名指されていて、ほかならぬこの赤兄がみずから築いた弘文天皇前方後円墳なのだと、土地の人は信じきっている。そこまで私は足を向けなかったけれど、近くの山の頂上には蘇我赤兄その人を葬ったとかいう小円墳「高さ約二間、直径四間位」の「蘇我殿古墳」も実在する。
 そう言えば弘文天皇の王妃だった十市皇女(とおちのひめみこ)を祠る安産祈願の高森神社すら、小櫃から遠からぬ辺りにちゃんと実在しているのだ、夙(はや)く大海人皇子(おおしあまのみこ)が額田姫王(ぬかたのおおきみ)(のちの中大兄皇子の寵妃)に産ませたこの皇女も、伝説によれば、夫帝とともにはるぱる近江を遁(のが)れて上総の山里に流離の足跡(そくせき)を残し、日嗣ぎの皇子(みこ)を身に宿したまま不意の敵襲にいたましい最期を遂げたという。この話は、皇女が壬申の乱後もひとり飛鳥京に命ながらえながら某日忽然卒去したとある不可解な正史の記述などより、幾倍かものの哀れにも実感にも富んで想われる。
 が、「蘇我殿」の方は、違う。
 もし上総の蘇我殿伝承が伝える如くかの左大臣蘇我赤兄ならば、彼は決して弘文天皇と運命をともに してはいない。無念の帝のもし追い腹を切っていたら、その赤兄が自身で葬送の御陵を築ける道理もな い。それのみか、もしこの「蘇我殿」が弘文天皇に近侍してあくまで忠誠を貫いていたら、必ずや弘文

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を斃(たお)した刃は赤兄の上にも振り下されねば辻棲が合わない。のに、はっきりと蘇我赤兄は、飛鳥に即位して天武天皇と諡(おくりな)された政敵大海人皇子の朝廷に帰参し、娘の大■娘(おおぬのいらつめ)(■:辺はくさかんむりに豕のしんにゅうのばし旁は生)は改めて天武夫人に立てられてもいるのだ。
 斬らるべき赤兄が斬られずに流されたのを、不思議と私は書いた。相応の理由がなくて叶わぬと書い た。しかも配流(はいる)の地はまさしく上総国に違いなかった。
 柳田国男の「流され王」とか「蘇我殿の田植」によれば、上総は蘇我氏の「故地」だとある。「故地」の釈(と)りようは幅が広いが、およそ勢力範囲と理解しておいてよい。房総半島は夙(はや)く大和豪族の欲望が、競い合うように及んだ地域だった。大伴氏が最も古く進出し、物部氏が次ぎ、後に蘇我高麗(こま)や馬子に交替して行ったのも大和の政情を反映している。そんな「蘇我殿」伝説に伍して、小櫃に近い木更津市内の矢那の里が、あの大化改新に蘇我主流を亡ぼした中臣鎌足誕生の地と根強く語り継がれ、鎌足村大字高倉には高蔵寺があって鎌子(鎌足)出生の際白狐の鎌を持ち来たった奇瑞を伝宣、大鏡などのいう鎌足常陸(ひたち)生誕の説を排斥していることも、ひとまず記憶に値いするではあろう。
 それにしてもその蘇我氏の「故地」へ実力者蘇我赤兄を流す、などということが有っていいのか。そ の上赤兄を股肱(ここう)と頼む弘文廃帝をももろともにそんな上総国へ追いやって、天武天皇に危険は、「虎に翼を着けて放」つ懼(おそ)れは、なかったのか。そもそも弘文天皇が壬申の歳(とし)に近江国長等出前(ながらやまざき)の地で敗死したという日本書紀を、我々はどう読めぱいいのか。
 滋賀県大津市の別所、こんもり青い長寺山の麓、新羅明神と隣り合って、ささやかながら間違いなく 閑静かつ清明に私文天皇の御陵は実在する。寂光のこの長等山前(やまざき)か鬱蒼のあの小櫃館(たて)之内かと、想い較

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 べるだに心すさまじい。しかし、この長等の地をト(ぼく)して御陵と定めたのは近代、人里歴代に弘文天皇を数えることが勅語されて以後の明治十年六月のことで、実に千年の余も後世に出来た空墓(からはか)に過きず、情熱一途、白山神社の傍(かたわ)らに久しく移り住んで、今も中村翰護翁が儀墓公認を求めて奔走中の弘文小櫃山陵とは、いわば相前後して官許を得べく、つまりは長寺山前の方が競い勝っただけという間柄にある。
 事実、近江での弘文敗死の事情はどのような文献に徴しても至って暖昧で、よくよく物を思えば、か
りに天皇が身を以て東国に遁れ去るのは不可能だったとしても、むしろ大海人皇子は弘文を捉えながら、殺さなかった確率の方が高い。その妃が自分の愛娘(あいじょう)だからといった甘い配慮ではあるまい、逆に、弘文天皇を先帝かつ実兄の天智天皇「愛子」なるがゆえに自分は敢て殺さない、という寛大の処置が、飛鳥京に新たな律令制を志向する天武(大海人)の初政として、乱後の人心を懐柔する十分な政治的判断たりえたのだろう。
 我々が知る限りの大海人(おおしあま)は、中大兄(天智)と対照的に、かってほとんど人を殺さぬ人物だった。陰惨な事件にうしろ暗く動いて政敵を斃(たお)すような、そういうかげ(二字傍点)の主役をこの皇子は演じていない。少くも人にそれを見咎められていない。大化以来いつも中大兄の忠実な協力者として行動を倶(とも)にしながら、寛厚の人として広く保守と革新の両方の人望を得ていた。もし兄天智からこの弟天武へと順当に譲位されていたなら、近江大津京は今少し長命でもありえたろうし、いわゆる白鳳文化の行方ももっと輪郭の濃いものになったに違いない。
 だが、寛仁大度の大海人皇子といえども、壬申の乱の咎(とが)に近江方重臣だけを斬り、弘文天皇はそのまま飛鳥朝の周辺に生き長らえさせるわけには行かない。殺さないのなら、流すということになる。流す

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先はいろいろあったろう。が、それとて、後顧の憂い無きを慮(おもんぱか)るのが当然で、前(さき)の左大臣赤兄つまりは「近江の蘇我殿」にさながら供奉(ぐぶ)を命じてその「故地」へ流すとは、いよいよ訝(いぶか)しい以上に、奇妙な処置と言うよりない――。
 大津京の古を想いつつ近江神宮から滋賀里(しがさと)へ、のどかな湖を眺めうららかな山を眺めて足まかせの独り歩きに、これほど陽ざし優しく夢を惹く道のりは、大和の方にも昨今そう見当たらない。山は重畳(ちょうじょう)し湖は凪ぎ、田畑はあかるい。しかもなぜか「近江令」などと、今は名前だけが知られた天智と弘文との丈高い政治の志がふと慕わしくなって来ると、歩み歩みとかく私は「蘇我殿」の影を、うしろ暗くぶきみなものに想像しがちだった。両眼を大きな矩形にぽっかり刳(く)り抜かれ、小櫃山陵へ私の推参を拒んでいたあの白山神社楼門の武将の、頑(かたく)なな昏い表情が冷いやり眼に甦って来る、と、首を振り振りつとめて私は、同じこの「農道」を通って夢心地に崇福寺趾(すうふくぢし)を尋ね歩いた七年前を思い起こそうとした。
 滋賀里の坂道を家並を分けて真直ぐ西の山中に入って行くと、木深い山腹の一面に横穴を穿(うが)って土中に石を組んだ百穴古墳群が展がる。もの凄いとはあれだったが、その一つ一つの洞(うろ)に身をすくませ息をのんで蹲(うずくま)ってみるような物狂いから私はよう遁れることができなかった。山は喚(おら)び、死霊は呟き、私の眼は時の暗闇へ呆然と瞠(みひら)かれていた。
 天智勅願、の栄華の伽藍を誇りながらその近江朝を護りきれず、やがて礎(いしずえ)あらわに幻と消えた崇福寺趾は、渓(たに)ふかく、三尾(みお)に岐(わか)れた長尾山の峯々に森閑と静まり返って、燃える紅葉を吹く風は、心なし寒い。かつて大塔心礎(しんそ)の横穴から国宝の金、銀、銅、瑠璃四重の舎利容器をはじめ、もろもろの埋蔵品が奇跡的に発見された。その目くるめく美しさに惹かれた私は幻想の『秘色(ひそく)』一篇の案を胸に、もはや

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幻の崇福寺金堂や塔を尋ね尋ねて、あののどかな田中道をひたすら歩んで来たものだった、天智、弘文、天武そして持統女帝と額田姫王、十市皇女との烈しく昏い愛憎も、霧を帯びた蓮の葉のような一枚の秘 色(そく)(青磁)の盞(さかずき)の前に、はかない一場の夢であったが――。
 七年経って、同じ道のりの明るさも静かさも、ふっくらと両の掌(て)にくるんだように昔のままだった。
 想えば近江大津京の夢がまだ色濃く立ちこめているのはもう此処崇福寺趾だけと言うしかない。山風 は眼に白く渓水(たにみづ)は耳の底に遠く、鳴る。近江の蘇我殿もここを訪れたことは度々(どど)あったに違いない、いや、私は、もし壬申の昔この近江で弘文最期という場面があったなら、あの父想いの皇子は必ず一度はこの大寺(たいぢ)に籠って近江創業の志を偲ぴ、時局急変の非運を嘆いたに違いない、と想った。彼は重臣たちを信じて来た。とりわけ左大臣赤兄を信じて来た、亡き父帝と同じように。権謀の鎌足、術数の赤兄とつねづね亡き帝は頼りにされていたではないか。
 だが、何として赤兄は、吉野へ遁れ行く大海人皇子をあの時宇治まで見送りながら、途中、岩間の山
中ででも討ち果たしてはくれなかったのか。帝も、自分も、その積りでそこばくの兵をも随わせたとい
うのに。あの日病床の天智は、見送って戻った赤兄の何事もなげな復命を横を向いたまま聴き終ると、
また例のように重臣を召し、「愛子」への忠誠を重ね重ね誓わせた――。
 清寂な崇福寺跡の木隠れに身をひそめるように小一時間も坐りこんでいたが、訪れる人影は全くなか
った。
 今は、何を措(お)いても蘇我赤兄の前歴を遡り辿ってみよう。
 ひとり黝(あおぐろ)い山かげへ眼を瞠(みひら)き、私は、頻りにそれを思いつづけた。

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飛鳥の蘇我殿

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 上総から近江へ、そして、「蘇我殿」の行状を追い求めてさらに大和の飛鳥(あすか)の里へ赴(おもむ)こう。
 蘇我赤兄がわが日本史に初めて登場するのは、斉明天皇の四年(六五八)十一月のこと、この時、女帝ならびに皇太子中大兄(なかのおおえ)皇子らは百官を率(ひき)いて、前月十月十五日以来紀温湯(きのいでゆ)に出向いており、赤兄は留守官(とどまりまもるつかさ)として飛鳥に残っていた。当時の宮殿は後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)といわれ、雷丘(いかずちのおか)のわずか東北に当たる小高い丘にあり、そして赤兄の家はなおやや北へ西へと寄った田畑の中、橿原(かしわら)市南浦の日向(につこう)寺辺にあった。留守官という定まった官職があったのではない、やや長きに亘(わた)る行幸(みゆき)のつど有力官人を随時に任命する例であったから、赤兄は朝廷の十分な信任をえていた、とすべきだろう。
 蘇我赤兄は壬申の乱(六七二)直後に配流(はいる)の時、「年五十」と史料にある。逆算して斉明四年は三十六歳、蘇我氏の一翼をなして重職に耐え信頼に応えうる、安定した年恰好だ。因(ちな)みにその生まれ年は推古天皇の三十一年(六二三)ともこの際に憶えておきたい、聖徳太子が前年二月に斑鳩宮(いかるがのみや)に没し、蘇我馬子は三年前の五月に死んでいる。以来、大化改新に至るまで馬子の子蝦夷(えみし)と孫入鹿(いるか)の手に強権が握られていたこと、言うまでもない。蘇我赤兄がこの蝦夷の甥、入鹿とはいとこ同士だったと知って置くのもむだではない。
 飛鳥は狭い都だった。三方を山や丘に囲われて、展望を北へ、奈良盆地へと開いたふつうの農村地区

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だ。飛鳥京の歴史は、いわば狭さに耐りかねて、南の奥まった場所からせめては大和三山の辺まで、三 輪山がまざまざと見渡せるあたりまで、少しずつ宮殿の位置を移動させたそれ(二字傍点)として語ることもできる。斉明天皇が以前に皇極天皇であった頃の、大化改新の本舞台となった頃の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)と、重柞後の後飛鳥(のちのあすか)岡本宮とを見較べてもそれが分る。国見に絶好とされた甘樫丘(あまかしのおか)や雷丘(いかずちのおか)からみて、ちょうどその南と
北とに振分けられてある。
 斉明四年の政局は右大臣が久しく空席、左大臣巨勢徳陀古(こせりとくたこ)も前年に没して空席、ひとり内臣(うちのおみ)として中臣(なかとみの)鎌足があり、皇太子中大兄とともにほぼ女帝に代る実権を握っていた。大化のクーデター以来十三年、決して政情は安定していない、かかる時期に、赤兄を留守官に遥々牟婁湯(むろのゆ)(和歌山県白浜町湯崎温泉)まで出かけえたというのは、とくべつ中大兄や鎌足が赤兄を信頼していた事情を雄弁に物語る。のちに鎌足没後の近江朝を支え、紛れもない左大臣、近江の蘇我殿となって天智天皇(中大兄)とその愛子弘文天皇(大友)の股肱(ここう)たりえた、まこと説得力に富む登場ぶりと言える。
 しかも何としても一点の不審を書き留めておく必要があるのは、それほどの「蘇我赤兄臣(そがのあかえのおみ) 」の、正真正銘、正史にも余の文献にもこの時が、初登場だった、こと。
 その日十一月三日、赤兄は先帝幸徳天皇の遺子有間皇子(ありまのみこ)を丁重に誘って、田身嶺(たむのみね)(現在の多武峰(とうのみね))に出来て間もない両槻宮(ふたつきのみや)(天宮(あまのみや))へと登っていった。岡本から東の奥山、有名な石舞台からは北東に見透かす標高五百メートル余の尾根とあれば、真冬の飛鳥は一望眼下にある。斉明天皇重祚まもなく怪火をあびて焼け落ちた板蓋宮跡(あと)が見える。川原寺や飛鳥寺の甍(いらか)に冬日が照っている。甘樫丘の彼方には折角の造営もむなしく早々と見捨てられた小墾田宮(おはりだのみや)の跡も見え畝傍(うねび)山も見える。

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 ただでも有間皇子の胸の内は寒い。赤兄の心を測りかねてただ眼を飛鳥野に放つだけだ。香具山の南 麓から岡本宮の東の山辺まで石材を舟で運ばせた渠(みぞ)が、半ば凍りとして鈍い光の棒のように遠くに見えている。あの渠を一時は百二百もの舟が往来した、その以前には渠を掘るために多くの民百姓が野にかり出されていた。人は呼んで、女帝狂心渠(たぶれごころのみぞ)と謗(そし)った。謗らずに居れなかった。
 と、蘇我赤兄は急に真顔をつくって有間皇子に真向かった。伴(とも)の者は遠慮がちに思い思いに遠くいたし山風も鳴っていた。すこし顔を近寄せて皇子は赤兄の言葉を聴いた。低いが、分厚に響く声だった。「天皇(すめらみこと)の治(し)らす政事(まつりごと)、三(み)つの失(あやまち)有り。大きに倉庫(くら)を起(た)てて、民財(おほみたからのたから)を積み聚(あつ)むること、一つ。長(とほ)く渠水(みぞ)を穿(ほ)りて、公粮(ひとのくちひもの)を損(おと)し費すこと、二つ。舟に石を載(つ)みて、運び積みて丘にすること、三つ」と、日本書記は赤兄の囁きを直接話法でこう記している。
 先帝の没後、皇太子中大兄はさまざまに渦巻く瞼しい政情の中で自ら即位を避けなければならなかっ た。となれば切札はさきの皇極天皇、即ち皇太子生母を再び皇位に推すしかない。さもないと、先帝に は少壮有為の有間皇子があり、その母は名族阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の女(むすめ)小足媛(おたらしひめ)で、天皇たる条件は調っている。
大化改新以後、根深く伏流する反改新派がこの有間皇子に期待することは、十分ありえた。かくて重祚 の斉明天皇は、文字どおりまたも担ぎ出された。
 窮した有間皇子は、風狂をよそおって政権から身を遠退(の)け、狂疾を癒(いや)すと称しては幾度も牟婁温湯(むろのいでゆ)に遊ぴ、現に天皇、皇太子以下が同じその温泉に出かけているのも、彼が湯よし景色もよしと熱心に行幸を勧めておいたからだ。
 有間皇子には、父孝徳天皇が任免然(しか)り、布令然り、間人(はしひと)皇后を相争うに於ても然り、衆目の見るとこ

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ろ中大兄皇太子に終始圧迫されていた、という屈辱と憤懣があった。しかも今や十九歳、皇位を窺いう る存在としてひしひし身の危険に迫られていた。
 他方、皇太子と鎌足の強力な執権のかげに老い行く斉明女帝の胸にも、眼に見えぬ鬱屈の霧は立ちこ
めていた。わが弟幸徳とわが子中大兄らとの確執にも久しく心を痛めていた女帝は、重祚してほどなく、次々に大土木工事をおこして憂さをまぎらわした。先すは「深山広谷」を擬した瓦葺きの小墾田宮(おはりだのみや)を心がけて果せず、板蓋宮(いたぶきのみや)も災厄にあって飛鳥川原宮に遷(うつ)ったあと、大規模に後飛鳥岡本宮を造営した。さらに田身(たむのみね)嶺には両槻宮(ふたつきのみや)を、吉野に吉野宮を、それにおよそ何月とも知れぬ長い渠(みぞ)を掘り、夥しい舟で石を運んで宮の東の山に垣をかさねてみたりした。飛鳥の里に狂心と怨念が渦巻き、民百姓の費えははかり知れなかった。
 留守官蘇我赤兄はここの所を有間皇子の耳に囁いたのだ。彼にはよほどの弁才があったに違いない。 慎重な有間皇子も思いがけなく赤兄の「己(おのれ)に善(うるは)しきことを知りて、欣然(よろこ)びて報答(こた)へて日はく、」自分も早や十九歳、兵をおこすに足る機(とき)が来たのだな、と。
 二日後、皇子は蘇我赤兄の家を訪ね、「稜(たかどの)に登りて」二度(ふたた)び謀叛のことを計った。塩屋連?魚(しおやのむらじこのしろ)が同席し、加担者たりうる人物として守君大石(もりのきみおおいわ)、坂合部連薬(さかいべのむらじくすり)の名も挙がった。
 「楼(たかどの)」といい、また田身嶺といい、天下を覆(くつがえ)すほどの決意はものの高みに身を置いてこそ出来ると見た赤兄の誘いは心理的にも適切だった。しかも謀叛は早くも同じ「楼」の同じその時になぜか取り止めになった。書紀は、皇子が倚(よ)った脇息(おしまずき)の脚が折れたのを不祥と見て断念したといい、ほかにも諸説があるが、有間皇子が、先ず宮室を焼き五百の兵で牟婁津(むろのつ)を攻める一方、水軍に淡路への退路を断たせれぱ必

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ず勝つと語ったはなしは十九の青年らしい気概を感じさせるし、成功の可能性も秘めていた。
 皇子はさぞ落胆しただろう、身の危険すら早や予知したでもあろう、その場から生駒の東麓市経(いちぶ)の家へ帰ってしまった。
 果してこの夜半、赤兄は物部村井連鮪(もののべのえのいのむらじしび)に有間皇子を市経(いちぶ)の家に囲んで軟禁させたまま、早馬を立てて皇子謀叛を牟婁温湯(むろのいでゆ)なる斉明天皇のもとへ伝えた――。
 飛鳥を訪れる人は多い。野づらに雪消えやらぬ寒い寒い二月極初に、黙々と石舞台を振り出しに古の 宮どころを歩いて来た日も、敷石と芝生に柱間(はしらま)正しく溝も復元した板蓋宮や飛鳥寺近い入鹿の首塚などに、地図や案内書を手にした同好の人影は幾つもあった。寂しい甘樫丘の頂に仔んでひとり雪が舞う飛鳥野を眺めあかぬ若い女性にも、「畏ろしくは、ありませんか」と私は声をかけて来た。  だが、近鉄生駒線の一分(いちぶ)駅からわずか東の小高い山に、無量寺や称名寺からすぐ裏山の膚(はだ)赤い一本の枯れ松の根方に、有間皇子のささやかな重ね餅ほどの石の墓が、おそらくは墓の跡が、あることを誰も知らない。御所藪(ごしよやぶ)、三角(みかど)、皇子山といった地名を遺して、一本の喬(こだか)い木を目じるしに、ここが赤兄の手に襲われたあの有間皇子市経(いちぶ)の家の跡、という場所を辛うじて尋ね当てた夕暮れにも、飛鳥と同じ風花はちらちら舞って、時に強い風に流されて灰色の空に消えて行った。

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藤白坂の死

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 むかしの人は距離の遠い近いということをどう感じていたか、例えば熊野詣(もうで)など、紀南の本宮(ほんぐう)や那智まで足弱な公家(くげ)があれだけの遠さを京都からひたすら歩いて行ったと思うと、それが二度や三度でないのだから、出無精の私などはただ呆れてしまう。熊野詣はまだしも信心がらみと納得できるが、大和の飛鳥から白浜の湯崎まで斉明女帝や中大兄皇太子がはるばるたかが湯治(とうじ)に出向くとなると、車はなく、馬も数寡(すくな)かったに違いない時代に、途方もないという気がしてならない。
 飛鳥を旅立ち五条、橋本を経て紀ノ川ぞいに先すは和歌浦に出る。さらに藤白坂を越えて蜿蜒と海辺 を南下する。優に百五十キロは下るまい、大阪天王寺から国鉄急行で三時間弱かかるのとほぼ同じ距離 を何日かけて歩いたものか、道中の安全、留守中の安全はどうだったのか。事実、有間皇子謀叛のこと はその間に起きた。但しこれは二十世紀人の私が気短かなだけで、存外むかしの人は遠ければ遠いほど 無上の行楽と考えたのだろう。
 だが、蘇我赤兄にたぱかられて生駒市経(いちぶ)の里から湯崎まで警固きびしく護送された有間皇子の旅路は、不安、疲労、後悔のじつに重苦しい遥かな道のりだった。
 皇子の叛意は疑えない。潜んでいたものがつい顕われた。それだけに当人にも弁解が利くとは思えな かったろう。もはや皇太子中大兄が自分を赦(ゆる)すわけがない。有間皇子はこの期(ご)に及んで蘇我赤兄が、あ

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の楼(たかどの)の謀議以来一度として姿を現わさず、一度としてその名すら耳にしていないのに思い当たる。
 赤兄もまた捉えられたのか、それとも――。
 
 蘇我赤兄は事件の全経過を通じてついに一度も飛鳥を動かなかった。市経の皇子は物部朴井連鮪(えのいのむらじしび)を遣(つか)わして捉えた。天皇や皇太子のもとへは駅使(はいま)をもって急を報じた。そして有間皇子はじめ守君大石(もりのきみおおいわ)、坂合部連薬(さかいべのむらじくすり)、塩屋?魚(しおやのむらじこのしろ)らを遠路紀温湯(きのいでゆ)まで送って行ったのも赤兄自身であろうわけがない、彼は飛鳥に留守官(とどまりまもるつかさ)なのだから。
 有間皇子が道中相応の礼を以て遇されたかどうか分かっていない。市経から白浜湯崎までほぼ徒歩を
強いられたろうし、身柄は何らかの拘束を受けていたに違いない。しかも行路の安閑は断乎許されず、 早馬なみの強行軍だったろう。多くも二日のうちに牟婁(むろ)の湯まで拉致されて行った。ただ一人の従者新田部米麻呂(にいたべのこめまろ)と糾問の場での対応を策する余裕もなく、皇子は半ば赤兄を疑い、かつ案じながら絶望と屈辱の重荷を抱いて百五十キロを歩きつづけた。
 牟婁の崎の湯は雄々しく浪荒い温湯(いでゆ)の岩浜だ、風波は海礁を真潮(ましお)のしぶきに真白に染めた勢いで耳を鑽(き)って鳴る。雲垂れ鳥は落ち、汀(みぎわ)の砂を巻いて湯立つけむりも騒然、しかも瞬時に吹き払われる。
 事は半途に挫折したとはいえ、だが、謀叛かという危急の際に天皇や皇太子にいっこう帰京を急いだ ふしもなく、逆に謀叛人たちをはるばる行楽先へ送るなどということが尋常な処置だったろうか。道中 の警固も十分を期しかねたろう、物騒な事態も重ねて起きかねなかったろう、かかる異常をあたかも尋 常の処置かのように赤兄も思い皇太子らも思ったのなら、その心理に、標的を有間皇子に絞った両者合
意の陰謀、と謂う以上のもっと陰険なサディズムを私は想像したくなる。

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  家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

 有名な有間皇子のこの歌は、今日の和歌山県南部(みなべ)町岩代にまでかつがつ辿り着いて、皇子自ら路傍の松が枝を引き結んださいのものとされている。たんなる述懐以上に古代の風習や信仰を背景に偲ばせる歌だが、とくに今一首の、

  いはしろの浜松が枝(え)を引き結び真幸(まさき)くあらばまた還り見む

には、松の枝を結んで長寿を念じた民俗に直かに関わりつつ、しかも有間皇子の怖れと望みが美しいま でよく表現されている。皇子ははや山一つの彼方に近づいた湯崎白浜をまさに死地と思い定めていたか らこそ、「真幸くあらぱまた還り見む」と結んだ松に願いを籠めずに居れなかった。
 今、岩代の小高い海岸に、有間皇子「結び松」の歌を刻んで、頭をまるめましたというふうな碑が、 わずかなしかし勢いある若松のひと松むらに囲まれ海風に傾いて建っている。北を顧み南を望んで、辛 うじて椎の葉に盛った干(か)れ飯(いい)を噛んだであろう皇子の苦しい息づかいが聴えそうな、文字どおり路傍暫時の休憩点だった。見晴しよく弓なりにうねって前後へ伸びる道のりに潮風はふっ切れたように狂い舞い、冷淡なまでに海づらはきらきらとただ眩しい。
 岩代のこの結び松に哀しみ咽(むせ)んだ人は多く、万葉集も幾つかの歌を記録している中に、長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)

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の「いはしろの野中に立てる結び松こころも解けずいにしへ思ほゆ」と嘆じた「情毛不解(こころもとけず)」の一句は、ことに私自身の思いに近い。
 有間皇子は、蘇我赤兄が裏切ったこと、それどころか今度の讒計(ざんけい)が万事赤兄の演出だったことをもう知っていたし、それならそれが赤兄ひとりの胸三寸に出た詐(さ)術とは所詮信じえなかった。皇太子みずから「何の故か謀反(みかどかたぶけ)むとする」と糾問するのに答えて、有間皇子はただ頑強に「天と赤兄と知らむ。吾(おのれ)全(もは)ら解(し)らず」と言い張った名高い対決の場面には、湯崎の荒磯(ありそ)打っ波音がおどろしく響いて時に二人の言い争う声をかき消したに違いない。
 隣り合って白良浜(しららはま)と言われる湯崎白浜の浜砂は文字どおりに白く、こまかい。行幸(みゆき)の名も残るこの温泉地の、一年中で一番静かな人出少い折に私は来たらしい、人けもない崎の湯の傍らの有間皇子涙の滝とか呼ばれた石屋の枯れ滝を見上げながら、結局ここで皇子を殺さずにまた元来た道へと一度は帰りの旅に立たせた、中大兄の胸の内がしきりに推し測られた。「天と赤兄と知らむ」の叫びが皇太子を迷わせたのか。同行して来た百官の眼を揮ったのか。それとも、ほかに――。
 ともあれ有間皇子らは休む間もなくまた北向きに元の道を辿って飛鳥へ護送されることになった。皇
子は岩代の結び松を幸いにまた還り見たのである、一纏(る)の望みを前途に抱いて遠い遠い道のりを連れ戻されて行く皇子は、何より蘇我赤兄の誘いに乗った自身の迂闊さをひとり嗤(わら)っていただろう。
 あんなに佯(いつわ)りの狂者をよそおったほど慎重だった有間皇子が、なぜ赤兄の危い囁きにふと誘われてしまったものか、人はいつかそれなりの理由を探り当てねばならない。が、今は湯崎白浜から岩代の結び松へ、そして梅林の風情味しい南部(みなべ)の駅からまたも急行列車に乗って私は、皇子らの重い足どりを一挙

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に、と謂っても一時間半はかかって海南まで先取りせねばならぬ。
 海南駅から南へ徒歩で十数分。紀伊一の鳥居の藤白神社は熊野詣の宿所で名高い藤白王子の跡でもあ る。そしてこの鳥居前からうしろゆるやかな藤白坂へかかって二、三分の山路に、おびただしい石仏や 無縁の墓に侍(かしず)かれた有間皇子、最期の地がある。生き死にのせめぎ合う不安にたえかねて路傍の松が枝を結んだ願いはかなく、時に斉明四年十一月十一日、天皇と中大兄皇子は「丹比小沢連国襲(たぢひのをさわのむらじくにそ)を遣(つか)はして、
有間皇子を藤白坂に絞(くび)らしむ。是の日に、塩屋連?魚(しほやのむらじこのしろ)、舎人(とねり)新田部連米麻呂を藤白坂に斬る。塩屋連?魚、誅(ころ)されむとして言はく、願はくは右の手をして国の宝器(たからもの)作らしめよといふ」と日本書紀は伝える。
?魚最期の愬(うつた)えの意味する所は今日では不詳とされている。釈迢空に「ゆくりなく 塩屋連?魚と言ふ名聯想(うか)びてゆふべに到る」というふしぎな歌のあるのが思い出される。
 日当たりの藤白坂を木の間づたいに下りながら有間皇子にはたしかに一抹の安堵感が有ったかも知れ ない、すでに道半ばを過ぎて遥か北を望めぱかすかに金剛生駒(いこま)の山なみが霞んで見えた。のに、皇太子の命(めい)を受け湯崎から一行を急ぎ追って来た国襲(くにそ)の手で、あっけなく皇子はこの坂の途中で絞殺された。
 「藤白のみ坂を越ゆと白栲(しらたへ)のわが衣手はぬれにけるかも」と後の人は皇子の最期をいたんだが、想えばこの長の旅路こそ犯罪人引きまわしのはじめとも謂えようか、かかる残忍な殺し方には何よりも往還のまこと無意味な遠さ長さが加わってしたたかに物を言っている。
 背後(うしろ) を蜜柑畑に囲まれた皇子墓所には椿が咲き、太い幹の椎の木も立っていた。静かだった。静か過ぎた。ちまちまと小さい石塚に背いてやがて私は身を退くようにひとり藤白坂を登っては北を顧み、また登っては南の山坂を仰ぎ見ながら涙が流れて仕方なかった。寂しかった。史上の人物の死に実感溢れ

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て涙を流したのは私にも初めての経験だった。
 古代がそのまま息づく藤白坂の木(こ)もれ日にまぎれて、そのそこの道かげから罪を負うた人の長の旅路にやつれた、だが誇り高い顔が見えそうな――、そしてその間にも、千葉の小櫃か、滋賀の長等(ながら)か、いずれにしてもあの大友皇子(おおとものみこ)の最期をも私は想い合せながら、眼の底の、どこかむっっりと不機嫌そうな蘇我赤兄の昏い横顔に視線を当てつづけていた。

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山田寺二つ

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 蘇我赤兄(あかえ)は名高い蘇我馬子の孫だった。父は倉麻呂で、異母兄に倉山田石川麻呂がある。この石川麻呂は、蘇我蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)の打倒をはかった中大兄皇子や中臣鎌子の策謀に加わり、皇極天皇の面前で入鹿を斬り殺すのに大事な一役を買った。その功績でか大化改新の際、右大臣に挙げられた。倉(一字傍点)麻呂、倉(一字傍点)山田石川麻呂の一党が豪族蘇我氏の財政面を担当して力あったのを、中大兄皇子や鎌子は巧みに利用したのである。
 右大臣は要職だ、が、実権は皇太子および内臣(うちのおみ)の鎌足(鎌子)にあり、改新政治の中で石川麻呂は虚(むな)しい敬意をもって遇されたにすぎない。そればかりか、敦厚(とんこう)ともいうべきこの右大臣は、みずからもまたやがて同じ蘇我氏の一族にたばかられて、皮肉な運命というには悲惨に過ぎる最期を遂げねぱならなかった。ここにもう一人の「蘇我殿」、石川麻呂にとってもう一人の異母弟が登場する。その名は蘇我臣(そがのおみ)日向(ひむか)。時に大化五年(六四九)三月二十四日。
 この年二月、政府は新たに十九階の冠位を定め、また「八省百官」の制定を宣告した。三月十七日に は左大臣阿倍内麻呂が死んだ。老齢でもあった。かくて右大臣蘇我石川麻呂は時の政府筆頭の地位に立 ち、しかも娘の乳娘(ちのいらつめ)は幸徳天皇の妃に、造媛(みやつこひめ)(遠智娘(おちのいらつめ))はすでに皇太子の妃であった。この竝ぶ者なき今は蘇我一族の長者倉山田大臣(くらやまだのおおおみ)を、人もあれ異母弟の日向が、事もあれ皇太子の中大兄に讒言(ざんげん)した。

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「僕(やつかれ)が異母兄(ことはらのいろね)麻呂、皇太子(ひつぎのみこ)の海浜(うみへた)に遊びませるを伺ひて、害(そこな)はむとす。反(そむ)きまつらむこと、其れ久しからじ。」書紀の表現を借りると日向は「譖(しこ)ぢて白(まう)さく」とある。いかにも囁きかつ唆(そそのか)す感じで、愉快でない。
 だが中大兄の反応は、「皇太子、信(う)けたまふ」と至極簡単だった。むろん賢明なればこそ信用したのであって、つまりトクかソンかの判断が的確だったに過ぎない。改新政治の推進に、もはや左大臣は死に右大臣の利用価値も尽きていた。ここで石川麻呂を粛清しておけば、一つには皇太子と内臣(うちのおみ)の独裁を強める効果があり、二つには大蘇我氏の勢力を分散させながら吸収する効果がある。「信(う)けたまふ」どころではない。日向の讒言自体が中大兄と鎌足の演出だった。鎌足が日向に先ず「譖(しこ)ぢ」たのであり、日向が皇太子の耳もとへ口を寄せて行った時、聴き手は何が囁かれるかを先刻承知していた。蘇我日向はただ演技者だった。のちに、有間皇子を田身嶺(たむのみね)に誘って囁いた同じ石川麻呂の異母弟蘇我赤兄の役割と、絵に描いたようにその輪郭を倶(とも)にしていた。
 皇太子に対する石川麻呂の害意とやらはさっそく幸徳天皇の耳に届く。皇太子の要求で天皇は石川麻 呂の「所(もと)」へ人をやって「反(そむ)くことの虚実(いつはりまこと)」を問わせた。が、非礼は承知で石川麻呂は直々に「天皇之所(みもと)に陳(まう)さむ」と返答を拒んでいる。使者三人がみな皇太子の意を迎える者だったからだ。皇太子に頭の上がらない幸徳天皇、鎌足のかげに置かれた石川麻呂。二人には相憐む気もちのあったことがよく窺える。幸徳の遺児有間皇子が湯崎の荒磯に「天と赤兄と知らむ」と絶叫したのと較べれば、大化の右大臣には、まだ天皇の庇護を頼む気もちがあった。  だが、当時、難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)に君臨した幸徳天皇の尊厳とても、想像以上に無みされていた。右大臣

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の勅使に答えぬ無礼を皇太子らがつよく咎めれば、この天皇は鸚鵡がえしに再度の使者を送らねばなら ず、石川麻呂の返事が変らないとなれば、「天皇(すめらみこと)、乃ち軍(いくさ)を輿して、大臣(おほおみ)の宅(いへ)を囲(かく)ま」ねばならなかった。「大臣(おほおみ)、乃ち二(ふたり)の子、法師と赤猪(あかい)更(また)の名は秦(はだ)。とを将(ゐ)て、茅淳道(ちぬのみち)より、逃げて倭国(やまとのくに)の境に向(ゆ)く。」簡潔な表現だが、心騒ぐ、不安な跫音(あしおと)が聴えてくる。
 難波宮は今の大阪市東区、大坂城やや南方の一帯を占めていた。当時難波から大和飛鳥へはこの道一 筋しかないまでに竹内峠をよく越えた。竹内街道は二上山をまぢかに、河内と大和を、今一つには河内 の飛鳥(近つ飛鳥)と大和の飛鳥(遠つ飛鳥)を結ぶ大事ないわぱ官道第一号だった。「倭国の境」は今も竹内峠の頂上に歴史の跫(あし)音をひっそり埋めている。
 春うらら松の梢に桜匂う四月はじめ、私は大和側の当麻寺(たいまでら)から菜の花の美しい当麻町竹内の里を横切り、およそ二時間半ほどかけて峠越えに河内側の太子町山田の里までそぞろ歩いてみた。足もとさえ相応に用意があれば、さして急坂でなく道のりもそう苦にならない。
 鶯が鳴き、桜は満開で、快い風がたえず吹いていた。ところどころ路傍に池がある。よほど件近くま でよく耕してあるということだが、灌厩用の人工池が山の風情にしっくりなじんでいた。ハイキングに は当麻寺裏からの岩屋峠を越えてみるのも途中石窟寺があって面白いだろう、同じように竹内街道に合 流して太子町へ入る。
「川をへだてて敵、山をへだてて故人」という言葉どおりに、河内と大和とはまさに山一つの親(ちか)しさだとよく分かる。とりわけ竹内峠のすぐわきに見えるらくだのこぷの名高い二上山は、大和と河内とでやや表情を変えながらともになっかしく朝には朝の、タには夕の美しさで見上げられる。山中、みごとな

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十三層石の古塔があり哀れに名高い大津皇子の御陵もある。難波京を遁げのびて来た石川麻呂の眼にも
二上山の姿は何かしら人と生まれてまた帰り行くべき「故郷」そのもののように映じていたに違いない。「茅淳(ちぬの)道より」とあるのは、今の羽曳(はびき)野市古市の近くを北流する石川を渡って山田の里へ急いだという意味だ。書紀に謂う「倭国の境」とはまさしく倉山田石川麻呂には本拠地、竹内峠の河内側の麓、つまり太子町の、近つ飛鳥の山田の里を指していたわけだ。
 蘇我氏の祖先としてむしろ伝説的にと謂うべく史上に名をあらわすのは、石川宿禰(元字は示辺)(いしかわのすくね)という人物だった。太子町の西を行くやや大きな石川の流れと無縁でなく、しかも竹内峠に発した河内の飛鳥川がこの石川に合流し、近鉄上太子(かみのたいし)駅辺にはまちがいない飛鳥の地名がある。「アスカ」「ソガ」は同根の呼称とする有力な説もあり、大和の飛鳥も蘇我氏も、この河内の飛鳥および蘇我氏が竹内峠越えに名実ともに移動して行ったもの、瓦屋根に白壁の家並が美しいその名も太子町に、推古天皇、聖徳太子、小野妹子らの陵墓があるのは、いわばそこが彼らのふるさとだからだ。そればかりか峠路を下りきってすぐ右手の岡の上には孝徳天皇の御陵もあり、他ならぬ蘇我倉山田石川麻呂の墓も仏陀寺(ぶつたいぢ)という、ここ山田の里の古寺にある。
 寺の小路(こうじ) とでもいいたい通に面してその「史跡仏陀寺古墳」を抱えた寺は、ささやかな門をあけていた。小路の奥は深い坂になって、石垣の上を白い土塀が伸びていた。農家の庭ほどの境内では、幼な児ひとり余念なく草萌えの地面に跼(かが)みこんで遊んでいた。
 それにしても――
 あれほど美しい墓を多くは知らない。大きな大きな椿の根方に、苔の緑も豊かにむっくりと巨大な亀

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の背のような堂々たる石棺が露表(ろひよう)し、点々と紅い花に彩られていた。思わず言葉を喪ってただ納得したくなる、なるほど毅然と果てた山田の大臣(おおおみ)にふさわしい奥津城(おくつき)の風情だった。しかもこの仏陀寺現住職の姓が、「秦」さんだったとは。
 難波から石川麻呂が身をもって遁れた時、父に従った二人の子のうち赤狩のまたの名は「秦(はだ)」と、日本書紀は伝える。また彼ら一族が悉く自決したあと、事に連坐して戮(ころ)された何人もの中に「秦吾寺(はだのあてら)」の名が見えている。そして仏陀寺住職の表札にもわざわざ「はだ」とルビが入れであった。すべては偶然であろうが、仏陀寺の門に「秦」さんの姓を見つけた時、私自身の家に帰って来たような気がした。石川麻呂最期の地はやはりここだ、ここであった方がいい。私は、そんな願いほどのものをさえ身内に感じた。が――。
 石川麻呂が「逃げて倭国の境に向」かった時、「大臣の長子(えこ)の興志(こごし)、是より先に倭(やまと)に在りて、山田の家に在るを謂(い)ふ。其の寺を営造(つく)る」と日本書紀はいう。そして結局この「寺」で妻子ら八人とともに「自ら経(わな)きて死」んだ。これが奈良県桜井市山田の山田寺跡をさすのか、大阪府下太子町山田の今謂う仏陀(ぶつたい)寺のことか。遠つ飛鳥の山田寺跡に人影なく菜の花畑に桜吹雪、そして大化の右大臣ここに斃(たお)ると学者は言う、が。近つ飛鳥の山田の里仏陀寺古墳を飾る紅い椿、そして大化の右大臣ここにねむると寺では言う、が。書紀はこの辺の読み(二字傍点)がとくにややこしく、記事自体に眼に見えぬ幾つもの空白がある。しかも奇妙に渦巻いている。定説は桜井の山田寺を挙げているけれど、書紀の記事がどうあれ、大和の山田では難波からちょっと遠すぎる。飛鳥小墾田宮(おはりだのみや)を焼いての抵抗も一度は考えられたろうけれど、結局死を覚悟した石川麻呂のその後の言動自体が、大和の飛鳥よりもともと蘇我発祥の河内の飛鳥にこそ最期

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の地を求めていたことを、なにがなし想わせる。
 それにしても同じ日の朝とタとに二つの山田の里に佇みくらべた私の思いに、要は、石川麻呂はたば かり殺された、という実感だけが強く残った。そこまで時の右大臣を追いこんだもう一人の「蘇我殿」 日向(ひむか)の、なおその後の振舞にぜひ眼を向けねばなるまい。読者は、ともすればそこにあの近江の蘇我殿左大臣赤兄、即ち日向と同じ石川麻呂の異母弟、の表情を欠いた顔が濃い影となってあらわれ出て来るのを、きっとぶきみに思われるだろう。
 仏陀寺からまぢかに幸徳天皇御陵をふり仰いたあの日、だが、生きがたい時を生ききれなかった天子 とその股肱(ここう)の怨執(おんしゆう)を包んで、太子町の春色はいかにも静かだった。

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もう一人の蘇我殿

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 大化の右大臣、蘇我石川麻呂の「長子(えこ)」興志(こごし)は、難波京の追手を「逆(むか)へ拒(ふせ)」いで一矢(いつし)を報いる気だったらしい、が、父は許さなかった。興志はその夜、大化五年三月二十四日のうちにも竹内越えに小墾田宮(おはりだのみや)を焼き、飛鳥での朝廷側根拠を奪う一方、一族こぞって桜井の山田寺に拠(よ)ろうと士卒を集めていた。石川麻呂はそれにも頷かなかった。
 異母弟蘇我日向(ひむか)が皇太子の耳に右大臣の害意を囁いたのがこの二十四日の出来事だ。そして叛意の虚実を確かめようと天皇は少くも二度使者を石川麻呂のもとへ遣(つかわ)し、その後にやむなく兵を送っているし、石川麻呂もやむなく二人の子を連れ「倭国(やまとのくに)の境」へ遁れている。急を知って途中まで出迎えた興志の思惑と違って、石川麻呂に大和の飛鳥に籠って一と勝負をはかるような気がまるでなかったことは、次に引く彼の覚悟を知れば、容易に納得できる。
 即ち翌二十五日、大臣は戦意に逸(はや)る「長子(えこ)」に対し、「お前は命が惜しいか」と訊ね、興志は即座に「愛(を)しくもあらず」と答えている。それを聞いた石川麻呂は、やおら河内大和それぞれの山田の里からはせ参じていた僧侶ほか、都合数十人の身内にむかって一場の所信演説を試みた。
「夫(そ)れ人の臣(やつこらま)たる者、安(いづくに)ぞ君に逆(さか)ふることを構へむ。何(いづくに)ぞ父(かぞ)に孝(したが)ふことを失はむ。凡(おほよ)そ、此の伽藍(てら)は、元より自身(みづから)の故(ため)に造れるに非(あら)ず。天皇(ずめらみこと)の奉為(おほみため)に誓ひて作れるなり。今、我、身刺(むざし)に譖(しこ)ぢられて、横(よこしま)に誅(ころ)

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されむことを恐る。聊(いささか)に望(ねが)はくは、黄泉(よもつくに)にも尚忠(なほいさを)しきことを懐(いだ)きて退(まか)らむ。寺に来つる所以(ゆえ)は、終(をはり)の時
を易(やす)からしめむとなり。」
 石川麻呂の覚悟は定まった。故なく殺されるのは口惜しいが、それも詮ないとあらば、せめて天皇へ の忠誠心を見失うことなく立派に黄泉路(よみじ)へ旅立ちたい。わが菩提(ぼだい)の寺をめざしてかく辛うじて通れ来たのも、最期を心安く迎えたかったからだ――。石川麻呂は言い終って「仏殿」の戸を開き、御仏をふり仰ぎ伏し拝んで「願はくは我、生生世世(よよ)に、君主(きみ)を怨みじ」と心美しく誓いを立てると即座に「自ら(みづか)経(わな)きて死(みう)せぬ。妻子(めこ)の死ぬるに殉(したが)ふ者八(やたり)。」
 経(わな)くとは紐で首をくくるのである。従容(しようよう)かつ無残、潔(いさぎよ)いがいささか歯がゆいくらい呆気(あつけ)なくもある。出来すぎてもいる。ともあれ本気でこうも死ぬ覚悟だったなら、わざわざ竹内峠を大和へ越える必要はなく、いよいよ石川麻呂最期の地は太子町仏陀寺(ぶつたいじ)界隈(かいわい)と私は想いたい。この間にも皇太子の意を受けた官兵は山田へ迫っていた。「将軍(いくさのきみ)」には「蘇我日向臣(ひむかのおみ)」の名もあった。
 ここで記憶しておきたいことが一つ、石川麻呂最期の言葉に、「今、我、身刺(むざし)に譖(しこ)ぢられて」とある「身刺(むざし)」とは、話題の蘇我殿「日向」その人の「更(また)の名」つまり別名だと、書紀の本文にもそう明記されている。
 日向ら追手の兵は右大臣らの自決を太子町の真西、南河内郡美原町の黒山辺で知った。
「蘇我の大臣、既に三(みたり)の男(をのこ)・一人(ひとり)の女(むすめ)と、倶に自ら経(わな)きて死(みう)せぬ。」
 それならぱと将軍の一人大伴狛連(おおとものこまのむらじ)ら主力は難波京へ帰って行くのだが、日向は前進して「大臣(おはおみ)の伴党(ともがら)」を捉えては「伽(くびかし)を着(は)け反縛(しりへでにしば)」り、さらに寺を囲んで物部二田造塩(もののべのふたつたのみやつこしお)という者に今は屍(しかばね)となって

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いる右大臣の「頭(くび)」をわざわざ斬らせている。
「是(ここ)に、二田塩(ふたつたのしほ)、仍(すなは)ち大刀(たち)を抜きて、其の宍(しし)を刺し挙げて、叱咤(たけ)び、啼叫(さけ)びて、始(いま)し斬りつ。」
 連坐して戮(ころ)された者は秦吾寺(はだのあてら)ら十四人、絞(くび)られた者九人、流された者は十五人。
 ところで、石川麻呂の所信に「君」「君主(きみ)」といった表現があり「天皇」を意味していたのを忘れてはならぬ。石川麻呂の「忠(イサヲシ)」は朝廷、というより明白に天皇、この際は孝徳天皇にささげられていたと釈(と)るしかない。むろん事後に悉く「山田大臣の資財(たからもの)を収(おさ)」めるのも天皇であってよかった。のに、この「資財」を調べてみると、「好(よ)き書(ふみ)の上には、皇太子(ひつぎのみこ)の書(ふみ)と題(しる)す。重宝(おもきたから)の上には、皇太子の物と題(しる)」してあった、とあるのはどんなものか。すべていかにも話がうますぎて、没収した物がみすみす「天皇」の手をこばれ落ちて行く。これを知った「皇太子」は亡き右大臣の心の「貞(ただ)しく浄(いさぎよ)きことを知りて、追ひて悔い恥(は)づることを生(な)して、哀(かなし)び歎(なげ)くこと休(や)み難(がた)」かったと日本書紀は謂(い)う。
 そもそも石川麻呂がえりぬきの宝物を、日頃から「天皇」ならぬ「皇太子」に献上する気だったと本 当に言えるのかどうか。この際もはっきりと“もう一人の蘇我殿”日向の怪しげな手がまわっていたと 想うべきではないのか。石川麻呂亡きあとの蘇我氏は、必然この異母弟にゆだねられ、日向はその初手 の処分を誰より「皇太子」への追従(ついしよう)の体(てい)で仕終えたのだ、その後の事の成行がそれを証(あかし)している。皇太子は石川麻呂の貞浄を知って後悔した哀歓したというが、だから没官(もつかん)の資財を受けなかったのでもないし、故人ならびに事に坐して死んだ者の名誉を回復してやってもいない。それどころか書紀の記事は、即ち日向を「筑紫大宰帥(つくしのおほみこともちのかみ)に拝(め)す」という重い人事に直かに続く。
 大宰帥は「遠の朝廷(みかど)」大宰府の長官であり、至極の重職である。時の人はこの人事を「隠流(しのびなが)しか」と

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囁き合った。囁きの意味は、普通、異母兄を故なく讒訴した日向を、陽に栄転させ陰に遠く九州へ追い
やったものと解釈されている。が、これも不自然すぎる。皇太子が衷心(ちゆうしん)から右大臣を罪なく死なせたのを嘆き憤るのなら、「譖(しこ)ぢ」た日向こそが新たに罪されてよく、陽に栄転させるなどは筋違いも甚しい。また、追放したいならもっと当り前な手段が他に幾らもあった。
 私は率直に、皇太子はやはり石川麻呂粛清の功に酬いて日向を大宰帥に挙げたと見ている。むしろ、 陽に遠ざけてみせた、のであり、それでも異母兄右大臣のかげにあった一日向にはたいした出世なのだ。しかも必ずしも赴任したとは限らないのである。それでこそ、殺された石川麻呂の娘で皇太子の妃でも ある蘇我造媛(みやつこひめ)は父の最期を怨み哀しみ、「遂に心を傷(やぶ)るに因(よ)りて、死ぬるに致(いた)」ったと続く書紀の記事の、辛い重さが十分生きて来る。さすがの皇太子も愛妃の死には胸痛めたらしい。

  山川に鴛鴦(をし)二つ居て偶(たぐひ)よく偶(たぐ)へる妹(いも)を誰(たれ)が率(ゐ)にけむ

  本毎(もとごと)に花は咲けども何とかも愛(うつく)し妹(いも)がまた咲き出来(でこ)ぬ

 だが、蘇我日向は何ら新たな罰を受けずじまいだった。中大兄皇子と蘇我日向と、二人にはいったい
何の関わりが有って、かほどに日向は皇太子の為に働き、かほどに皇太子は日向に酬いているのか。
 父の屍に手を下した二田塩(ふたつたのしお)を、ひいては日向(ひむか)を憎んで哀しみに命ちぢめた皇太子妃造媛。その産める娘がのちの持統天皇だ、この果敢な女帝が母の怨みを後日どうはらしたか、私の筆がそこに及ぶまで、

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道はまだ長い。
 思えばあの蘇我赤兄がまんまと学徳の遺児有間皇子をたぱかった時、赤兄には皇太子と組む、或いは皇太子に奉仕する、どんな前提条件や人間関係があったか。なにしろ史上「赤兄」の初登場とあって、過去のことは何一つも分らなかった。近江の蘇我殿へ、左大臣赤兄へと登りつめて行くあの謀計自体がその出発点ではありえても、出発点での二人のただならぬ関係の如きはいっこう判然としなかった。
 だが、もう一人の蘇我殿日向の場合は、これほどむごい異母兄石川麻呂への仕打ちのかげに、今一段 時を遡(さかのぼ)って皇太子中大兄との、ただならぬ奇怪な因縁が窺える。ただし「日向」の名に於てではない。石川麻呂の最期の言葉に見えた「身刺(むざし)」の名で、異母兄を残酷に屠(ほおむ)ったこのもう一人の蘇我殿は、はや大化改新以前、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で入鹿(いるか)謀殺を中大兄と鎌子とが企てた頃、すでにして訝(いぶか)しくもあまりに奇妙な役割を担って、皇太子身辺にその影をちらり(三字傍点)と見せていた。

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ぬすまれた皇太子妃

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 大化改新の意義など今はすべて措(お)こう。
 要は改新以前に大きな賭けのクーデターがあり、皇室の権威を強大にしのいだ蘇我蝦夷(えみし)と入鹿(いるか)の政権が、中大兄皇子と中臣鎌子らの知謀に無残に突き崩された。その結果、皇極女帝の弟の軽皇子(かるのみこ)が即位して孝徳天皇といわれ、中大兄はひきつづき皇太子として事実上改新政治に君臨した。大化元年(六四五)六月のことだ。そして十二月、都は大和の飛鳥から難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)に遷(うつ)った。
 むろん大化のクーデタが中大兄と鎌子二人の力で成ったのではない。稲目(いなめ)、馬子以来の蘇我氏の地力は皇室勢力にとってほとんど強大な異国の脅威にひとしかった。
たすけし
「大きなる事を謀るには、輔(たすけ)有るに如(し)かず。」
 この蘇我をその内側から突き崩し、かつは実勢をそっくり奪うには、効果的に内応する人物が必要だ。中大兄と鎌子はかくて蘇我の分家筋で蝦夷、入鹿に牛耳られていた倉山田石川麻呂に、正確にはその経
済力に、狙いをつけた。
 鎌子は皇太子に、「請ふ、蘇我倉山田麻呂の長女(えひめ)を納(めしい)て妃(ひめ)として、婚姻(むこしうと)の眤(むつび)を成さむ。然(しかう)して後に陳(の)べ説きて、与(とも)に事を計らむと欲(おも)ふ。功(いたはり)を成す路、?(これ)より近きは莫(な)し」と、いわゆる政略結婚を勧めた。そして皇太子の一任を取りつけると、鎌子は仲人役として「即ち自(みづか)ら往きて媒(なかだ)ち要(かた)め訖(をは)りぬ。」

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 ここにわざわざ「長女(えひめ)」とあるからは、石川麻呂に少くも二人以上の娘がいたことがわかる。鎌子と皇太子は、かねてこの「長女」に対し噂にも何らかの関心を持っていたかもしれぬ。或いは石川麻呂の方で夙(はや)くに鎌子と意を通じ、父ないし娘の中大兄妃たるべき意向すらすでに定まっていたのかもしれぬ。
 ところがこの「長女」が、約束の夜になって同じ蘇我の「族(やから)に偸()ぬすまれしてしまった。日本書紀皇極天皇の三年正月の条にそう記してある。石川麻呂身内の誰かがこの婚儀を悦ばず、強いて皇太子弟となるはずの処女をぬすみ去ったというのである。暴力でか合意の駆落ちなのか、ともかく「長女」当人が失踪したのだから、皇太子の舅たる石川麻呂が「憂(うれ)へ惶(かしこま)り、仰ぎ臥(ふ)して所為(せむすべ)知らず」であったのは無理もない。
 この時、まだ「少女(おとひめ)」と呼ばれている別の娘がおろおろする父親に怪しんでわけを訊き、進んで身替りを申し出た。「まだ、手おくれでもございませんでしょう」という次第で、「そうか、そうしてくれるか」と、結局、この妹が中大兄の妃になった。造媛(みやつこひめ)(遠智娘(おちのいらつめ)、茅淳娘(ちぬのいらつめ))であり、のちの持統天皇(天武天皇の皇后)の生母に当たる。よほど父親思いであったとみえ、石川麻呂の非業の死を嘆き死(じ)ににあとを追って若く死んだことは前に書いた。すべて父の死の原因が彼女には叔父、父には異母弟の蘇我日向(ひむか)の讒言にあったことも書いた。「今、我、身刺(むざし)に譖(しこ)ぢられて、横(よこしま)に誅(ころ)されむ」と大化の右大臣石川麻呂が悲痛に叫んだその「身刺」が、「日向」の「更(また)の名」だとも私はその際に明かしておいた。
 そしてあれから五年を遡る大化前夜の飛鳥の京で、皇太子と石川麻呂の手からまんまと妃(きさい)がねの「長女」をぬすみ去った「族(やから)」の名もまた、「身狭(むさ)」であったことを日本書紀は明言しているのである。「身狭」は確かな文献に「武蔵(むさし)」ともあり、かの蘇我日向またの名「身刺(むざし)」と同一人だということは確

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認できている。「胸刺」「牟邪志」と表記した例もあり、これらがみな、東国の武蔵(むさし)という国の名に共通しているのをぜひ記憶したいし、大和時代に同じ人物や地名を昔通でいろいろに記した例は幾らもあった。
 ところでここに奇妙なのは、敵に対して苛酷なまで容赦なかった中大兄皇子が、妃たる女を初夜直前にぬすまれるという不面目の怨みを蘇我日向に報いていないどころか、石川麻呂粛清に際しての、両者なみなみならぬ親近と信頼の間柄が今さら思い出されるという事実。この所を藤原氏の「家伝」は伝えている、むろん中大兄は「武蔵」を殺そうとしたのだが、鎌子がこれを制したと。なぜ鎌子は苦心のお膳立てをふいにしたような日向の助命をわざわざ皇太子に願ったか。
 疑問点をもっと並べ立ててみよう。
 ぬすんだ日向が遅くも五年後には中大兄側近に復帰しているなら、ぬすまれた「長女」のその後はどうだったのか。日向の妻として子まで儲けていたものか、或いは石川麻呂の手に取り戻されていたか。日向らはいったいどこへどう遁げのぴていたのだろうか。
 また皇太子と石川麻呂の「少女(おとひめ)」との婚儀はどこでどうとり行なわれたのか、婿取りか嫁入りか。盛大にか、極く内密にか。この疑問は日向が「長女(えひめ)」をぬすみえた具体的な状況とも関わって来る。
 さらにはこの一件が、蘇我日向がかねて「長女」と愛し合っていたからといった類の、彼一存の行動
だったか、それとも誰かの意を受けての謀略的な行動だったのか。
 私は、これらの疑問を胸にもう何度飛鳥を歩いたことか。
 推古天皇の三十四年(六二六)に生まれた中大兄は、この時皇極天皇の三年正月、数えて十九歳だった。

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大化のクーデターを遡ることなお一年半。いかに周到に事が企(たくら)まれていたかがわかる。婚姻当時の同志も、鎌子、石川麻呂のほかは佐伯子麻呂と葛城網田(かつらざのあみた)とただ二人。謀議は概(おおむ)ね飛鳥から山一つ二つ西へ越えた葛城の里で隠密に進められていた。
 「中大兄」はいわば仇だ名、本来は「葛城皇子(かつらぎのみこ)」と呼ばれていた。つまり葛城の地は乳母ないし哺育の任に当たった腹心の本貫であり、皇太子の私邸もまたそこにあった。同時にそこは、もはや久しい中大兄と同母妹間人皇女(はしひとのひめみこ)(軽皇子・孝徳天皇の妃)との禁じられた恋を培った宿命の隠れ里でもあった。同志の一人葛城網田とは、皇太子と乳(ち)兄弟のような仲の人物と見ていい。
 
 葛城皇子の標的は石川麻呂当人だった、「長女(えひめ)」ではなかった。新たな婚儀は同母妹との恋をより重苦しくする。もし日向を催(もよお)してうまく女を奪わせれば、石川麻呂に高価な貸しをつくって結婚は避けうる、という一石二鳥を皇太子が狙わなかった段ではない、むしろ「少女(おとひめ)」の出現が実は思わざる誤算だった。蘇我日向は、異母兄石川麻呂より先に葛城皇子や鎌子との共謀者だったのである。
 いま葛城の里を終日歩いて、もはや大化前夜の謀議の匂いすら残っていない。葛城と鴨族との太古に遡る原日本的な古郷(こきょう)の山辺道を、南の、風の森あたりから金剛葛城の蒼古たる雄姿に見守られながら北へ北へ彷徨(さすら)い歩く放心には、時間(一字傍点)の間(一字傍点)を抜き去った無窮の時(一字傍点)の濃い原質に浸り切ったような寂しさがし
ひとことぬしのび寄る。血腥(ちなまぐさ)い抗争の舞台装置は今はすっかり取り払われて、一言主(ひとことぬし)の神代の素朴な顔がこの里のどこを歩いていても気軽に覗き見える。
 金剛の山霧と葛城の田畑が描く水墨の山水。その一点に上古の気配を鎮めた高鴨神社。青垣山こもれる美(うる)わしの大和を、葛城山頂より望んでもみた。香具山、耳成(みみなし)山、遥かに三輪山。草茫々の大斜面にタ

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霞むうす茜(あかね)の雲たなびき、顧る金剛の雄峯は大磐石(だいばんじやく)の濃い翳(かげ)と化して天際に鋭い輪郭を描いていた――。
 だが、放心しては居れない時だ。葛城皇子はいくたびここに来て政権の行方を思いやったことか。
 蘇我日向はもともと中臣鎌子と近く、また中大兄よりは軽皇子(かるのみこ)寄りの人物だった。鎌子と日向はその出自に於て、東国に於ける親密な地縁に結ばれ合っていた。
 身狭(むさ)(日向)にぬすまれたとある石川麻呂の「長女」が、一年半後の大化建元の直後には孝徳天皇(軽皇子)の妃乳娘(ちのいらつめ)として公表される事実に眼を瞠(みひら)こう。鎌子は、乳娘が軽皇子意中の人と承知で中大兄との政略結婚を画策し、しかも中大兄と共謀して日向を介し乳娘を軽皇子の手にゆだねた。その結果、表むき日向は軽皇子方、中大兄には敵対者の体(てい)で飛鳥京を逃亡しなければならなかった。この時彼は軽皇子の娘で有間皇子異母姉の忍坂女王(おしさかのおおきみ)を東国へ伴っている。高貴の姫を抱いて飛鳥を遮れ行く日向(武蔵)の足どりは奈良般若(はんにや)寺の辺、京都郊外の日向(ひむかい)神社辺、さらに近江路へとかなりたしかに辿れるのである。
 大化改新を控えて、日向(武蔵)には新政府東国経営の按察使(あぜち)的密命が早や中大兄皇子や鎌子から託されていた。
 正史に明らかな改新政治の第一着に、東国への適切な国司派遣を可能にしたかげの功績は、女をさら
って逃げた体で大和をあとにした蘇我日向の、ぬかりない下工作にあった。
 日向はまず鎌子の旧族を現在の鎌足村に尋ね、これを率(ひき)いて望陀の国造(くにのみやつこ)たる馬来田(まくた)豪族らと提携しつつ小櫃川を湖って田原の里に一根拠を設け、その上で、とくに大和政権の力が出遅れていた武蔵国を睨みつつ、房総半島一円に治政と慰撫の効果を挙げていたのである。

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竹芝寺趾

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 上総から近江へ飛鳥へ、そして赤兄からもう一人の日向(身刺(むざし))へと辿って来た「蘇我殿」の物語に、この辺で思いきった新しい話題を投じてみよう。
 東京山手線の田町駅から真西へそう遠からぬ辺りに、小高く茂った岡が見える。とはいえ幾つものビルにへだてられやすやすとも窺い知れないのだが、その岡の上に済海寺(さいかいじ)というお寺があり、往時はまぢかに海が迫っていた。いまはビルまたビルの波に東京湾もほど遠いが、この界隈、かつては聖坂(ひじりざか)に面して大寺(たいぢ)がたち並んだとは江戸名所図会(ずえ)にも絵入りで見えている。とりわけ済海寺からの海の眺めは抜群、「房総の群山眼下にありて、雅趣すくなからず。朝夕に漂ふ釣舟は沖に小さく、暮れて数点の漁火、波を焼くかと疑は」れる佳景で、このいわゆる伊皿子台(いさらごだい)は別名「月の岬」とも呼ばれていた。むろん海は直下に迫って、済海寺の庭には沖より目当ての燈籠も置かれていた。
 この済海寺の南隣がいまは亀塚公園になっていて、ここに明らかに上古の円墳と見える小山大の奮然たる古塚が遺っている。私が訪れた日は塚下の広場で幼い子らが余念なく遊ぴ、塚の上ではいい大人が木のベンチに仮眠をむさぼっていたが、伝説だと、むかしここに一軒の家あり、家には一の酒壷(しゆこ)があって「そのもとに一つの霊亀」が栖(す)みついていたという。ところが或る風雨の一夜を経て酒壷と亀は「一堆(いつたい)の石」と化した。太田道灌がこの亀塚に「斥候(ものみ)」を置いて危急に備えたのはよほど眺望に益していた

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からであろう。
 かっての亀塚山(きちようざん)、現周光山済海寺にはさらに今一つの伝説があって、これもむかし、この寺は竹柴(一字傍点)寺と呼ばれ、この地より都へ火焚屋(ひたきや)の衛士(えじ)に上がった酒つくりの男が、突如帝(みかど)の姫をかき抱き、瀬田の橋を切り落し、七日七夜のうちに東国へのがれて住みついた旧地だという。くわしくは更級日記のごくはじめの方に竹芝(一字傍点)寺縁起ふうにたいへん印象的に書かれている。この一帯を芝と呼ぴ、また芝浦とか竹芝桟橋の名があるのもこの竹芝伝説に由来するのだろうか。
 更級日記は、菅原孝標(たかすえ)の娘が十三になる年、父が任国上総より都へ帰任の道中を順次回想するところから書きはじめられている。寛仁四年(一〇二〇)九月三日、多分今日の千葉県市原市郊外の台地を門出して、十八日には漸く下総と武蔵の境を流れる太井(ふとい)川(江戸川)上流の松里、おそらくは松戸の矢切(やぎり)の渡(わたし)の近く、に泊り、「夜ひと夜、舟にてかつがつ物などわた」したという。翌朝には「舟に車かきすゑて渡して、あなたの岸に車引立て」て、上総(かずさ)やまた下総(しもふさ)の国府から見送りに来た人々もみな、ここから帰って行った。「幼心地にもあはれ」だった。
 ともあれ雨に降られたこともあって、市原から松戸を経て武蔵の国に入るまで、一行はのべ十七日間をかけている。荷も多く、女子供づれの当時の旅の難渋が思いやられるのだが、このあと彼女らはほどなく竹芝寺の跡へさしかかる。

  今は、武蔵の国になりぬ。ことにをかしき処も見えず、浜も砂子(いさご)白くなどもなく、細泥(こひぢ)のやうにて、紫草生(むらさきお)ふと聞く野も、蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓持(もつ)たる未見えぬまで、高く生ひ茂りて、中

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を分け行くに、竹芝といふ寺あり。

「いかなる処ぞ」と土地の者に訊ねると、以下に竹芝寺の縁起を面白く語って聴かせた。

 これはいにしへ竹芝といふさかなり。国の人のありけるを、(京都の内裏にある)火焚(た)き屋の火焚(た)く衛士(えじ)に(遥々)さし奉りたりけるに、(御殿の)御前の庭を掃くとて(掃きながら)、「などや苦しきめを見るらむ、我が国(ふるさと)に七っ三っ作りすゑたる酒壷に、さし渡したる直柄(ひたえ)の柄杓(ひさご)の、南風吹けば北に靡(なび)き、北風吹けば南に靡き、西吹けぱ東に靡き、東吹けぱ西に靡くを見で(見ないで)、かくてあるよ」と、独り言(ご)ち呟きけるを、その時、帝(みかど)の御女(おんむすめ)いみじう侍(かしづ)かれ給ふ(たいそう大事にされていらっしゃる方が)、只ひとり御簾(みす)の際(きは)に立ち出で給ひて、柱に椅りかかりて御覧ずるに、このをのこのかく独り言(ご)つを、いとあはれに、いかなる柄杓の、いかに靡くならむと、いみじう床しく(面白そうだ、見たい、と)思(おぼ)されければ、御簾をおし挙げて、「あのをのこ、こち寄れ」と召しければ、畏りて勾欄のつらに(近くまで)参りたりければ、「云ひつる事いま一返り我に云ひて聞かせよ」と仰せられければ、酒壷の事を今一返り申しければ、「我率(ゐ)て行きて見せよ。然(さ)云ふやうあり(そう言うだけの深いわけが、お前とわたしの宿世(すくせ)の縁ともなっているのだからね)」と仰せられければ、畏(かしこ)く恐ろしと思ひけれど、さるべきにやありけむ(そうするしかないほどの強い催しに惹かれたのでしょう)、負か奉りて下るに、論無く
人造ひて来(く)らむと思ひて、その夜、せたの橋のもとに、此の宮をすゑ奉りて、せたの橋を、(橋桁のあいだ)一間(ひとま)ばかり毀(こぼ)ちて、それを跳び越えて、此の宮をかき負か奉りて、七日七夜(なぬかななよ)といふに、武蔵の

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国に行き着きにけり。
 帝、后(きさき)、皇女(みこ)失せ給ひぬとおぼしまどひ、求め給ふに、武蔵の国の衛士のをのこなむ、いと香ばしき物を首にひき懸けて飛ぶやうに逃げけると申し出でて、此のをのこを尋ぬるに無かりけり。論無くもとの国にこそ行くらめと、公(おほやけ)より使下りて追ふに、せたの橋毀(こぼた)れてえ行きやらず、三月(みつき)といふに武蔵の国に行き着きて、此のをのこを尋ぬるに、この皇女(みこ)公使(おほやけづかひ)を召して、「我さるべきにやありけむ、このをのこの家ゆかしくて、率(ゐ)て行けと云ひしかば率(ゐ)て来たり。いみじく此処ありよく覚ゆ(居心地がいい)。此のをのこ罪し料ぜられば(刑罰に処せられたなら)、我はいかであれと(わたくしにはどう成れと仰有(おつしや)るのでしょうか)。これも先の世に此の国に跡を垂るべき(仮の姿を現わして人に崇められるという)宿世(すくせ)(さだめ)こそありけめ。早帰りて公に此の由を奏せよ」と仰せられければ、いはむかたなくて(言葉の返しようもなくて)、(都へ帰り)上(のぼ)りて、帝に、「かくなむありつる」と奏しければ、いふ甲斐なし(どう仕様もない)。そのをのこを罪しても、今は此の宮をとり返し都に返し奉るべきにもあらず、竹芝のをのこに、生けらむ世の限り、武蔵の国を預けとらせて、公事(おおやけごと)もなさせじ。ただ宮にその国を預け奉らせ給ふよしの宣旨(せむじ)下りにければ、この家を内裏(だいり)の如く造りて、住ませ奉りける家を、宮など失せ給ひにけれぱ、寺になしたるを、竹芝寺と云ふなり。その宮の産み給へる子供は、やがて武蔵といふ姓(ざう)を得てなむありける。
 それより後、火焚き屋に女はゐるなり。

帝は姫を奪った「竹芝のをのこ」に、結局、「生けらむ世の限り、武蔵の国を預けとらせ」て、姫と

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彼の仲に生まれた子は「やがて武蔵といふ姓を得」た。竹芝寺とは彼らが「内裏」同然に造り住んだ家のあと、そしてそれが今日の済海寺に当たると伝えられて来た理由は、だが、全くわからない。しかも今日の更級日記研究書はほぼ洩れなく済海寺を竹芝寺趾とする伝承を取り上げているのは、いかにも不審というほかない。
 いったい、寛仁四年(一〇二〇)当時、千葉から北上した日記作者ら一行が、わざわざ川上の松里(松戸辺)まで湖って江戸川を渡ったのは、下流がさながらの海だったからだ。とても荷も人もたやすくは渡せなかったからだ。およそ今日の千葉東京間の海岸線なるものが想像以上に深く海に剔(えぐ)られていた。
 その上に第一、江戸川を渡れば次には隅田川があった。これが時季によって現荒川とほぼ合流する体の無類の大河であって、川口という地名が埼玉県にあるように、よほど上流へ行かないと彼らには、とても女子供づれには、荷も人も渡し辛かったはずだ。(往古と現在では、川の名や流れに異同がある。)  第二は松戸から田町までの距りを、ただ蘆荻の「中を分け行くに」程度で叙し去るには、当時の海岸線を無視してせいぜいまっすぐ私自身が実地に辿ってみても、遠過ぎて、真実感に著しく欠ける。
 第三に、孝標ら一行のこの後へつづく足どりのうち、確実なのはなんと足柄山でしかなく、とすれば彼らは松里の矢切の渡(わたし)辺からいっそ武蔵国府のあった今日の府中市へ北むきに大きく迂回し、そこから東海道へ向かったのかもしれず、国府に申告自体が受領帰任の公務のうちに数えられていたやもしれない。それならさながら海辺だった田町の済海寺に竹芝寺趾を擬してみるが如き、問題にもならない。
それのみでない。
 更級日記の作者は竹芝寺伝説を聞書の直後に、なお「野山、蘆荻の中を分くるより外(ほか)の事なくて」や

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がて「あすだ川」の渡(わたし)に着いたと書いている。
「在五中将(在原業平)の『いざこと問はむ』と詠(よ)みけるわたりなり」とある以上、隅田川であることは疑いない。但し孝標の娘は、この川を「武蔵と相模との中」を流れると書くのだが、それだと多摩川になってしまう。更級日記都上りの道中記にはこの種の記憶違いが多く、しかし、記述の具体性と「あすだ」の古名から推して、ここは隅田川を渡ったと見るべきだ。
 さてそうなれぱ竹芝寺は、江戸川(太井川)ないし隅田川(荒川)のちょうど途中に位置せねばならない。先に「蘆荻のみ高く生ひて」とあり、後に「蘆荻の中を分くるより外なくて」という情景の一致および日足(ひあし)のまだ短い感じからして、竹芝寺はむしろ江戸川を対岸へ渡ってさほどもない、今日の柴又辺を軸に、北は亀有、足立、南は亀沢、亀戸辺までを含んだ範囲内に、はっきり言うと旧武蔵国足立郡内にあった、とすべきではないか。蘆荻そよぐ矢切の波に立って下総国府台(こうのだい)を望み見よ、広い川面を渡る風に瞑目(めいもく)し耳を傾けると、孝標父娘らをのせた小舟の波を切る静かな水音が聞える。
 が、なぜ足立郡にと言うか。手がかりに、こんな素朴な問いを発してみてはどんなものか。
 もし竹芝寺伝説に史実といえる何かがありえたとして、それは問題の寛仁四年(一〇二〇)をどれほど遡った時代のことと推量すればよいか。
 伝説伝承は時の間を生き伸びつつ自然に老いて行く。老いは、それを語り伝えるその時々の言葉づか
いに直かにあらわれる。更級日記の叙述を通して右の伝説がすでに何十年何百年を老いて来たか想像す
ることは、その道の専門家には或いは十分可能なのだろう。
 私なりに一つの結論を言えば、この年からおよそ二百五十年遡る神護景雲元年(七六七)に「武蔵とい

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ふ姓」をえた男が突如正史に登場する。彼はまず「武蔵宿禰(むさしのすくね)」の姓をえ、旬日を経ずにまたも「外(げ)従五位下武蔵宿禰不破麻呂を武蔵国造(くにのみやつこ)となす」旨の宣旨(せんじ)を得ており、続日本紀(しよくにほんぎ)は、この「不破麻呂」をさして「武蔵国足立郡の人」と明記しているのである。
 不破麻呂の家系は武蔵一の宮の氷川神社を祭祀し、足立郡司を兼ねていた。先祖に氷川麻呂という人物もいた。苗字は丈部(はせつかべ)または「オオトモベ」で、しかも他ならぬかの蘇我日向(ひむか)のひそかな東国下向を親しく迎え取って、大化新政府武蔵国経営の下工作に相携(あいたずさ)えて協力していたのが、この氷川麻呂だった。
 それのみでない。
 武蔵国造に任ぜられたさきの不破麻呂のかげには、竹芝寺伝説中、帝の姫に相い当たる気味の一女人
が隠れ見えていて、これまた系譜を辿れば、かの上総の蘇我殿即ち赤兄と無縁ではなかったのである。

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氷川の勇者

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 更級日記が伝えた竹芝寺伝説に、史実を探って歴史をものの二百五十年も遡って行くと、一躍、「武蔵宿禰(むさしのすくね) 」の新姓を賜わり「国造(くにのみやつこ)」に任じられた、武蔵足立郡の人で外従五位下(げじゆごいのげ)の不破麻呂(ふわまろ)なる人物と出会う。
 続日本記(しよくにほんぎ)によれば不破麻呂はさらに称徳女帝最晩年の神護景雲(じんごけいうん)三年(七六九)八月・地方豪族の外位(げい)コースから晴れて中央貴族のみが占有した内位(ないい)に転じ「従五位の上」を授けられている。外位で従下(じゆげ)の五位から内位でしかも従上(じゆじよう)の五位とは、比較のしようもない次元の高い栄進であり、異様というしかない。
 ところが、この二十年近くあと、桓武(かんむ)天皇の延暦(えんりやく)六年(七八七)四月に至って、同じ武蔵足立郡の采女(うねめ)で、掌侍(ないしのじよう)兼典掃(かもんのすけ)従四位下の「武蔵宿禰家刀自(いえとじ)」なる女が死んだという記事が、続日本記に見えて来る。そしてこの家刀自は、武蔵一の宮の氷川神社の社家、西角弁家の系図によると、さきの不破麻呂の娘となっている。「掌侍」で「典掃」を兼ねたとは宮廷女官としてかなりの重職を意味するものの、従下(じゆげ)の四位は親の不破麻呂と較べてこれまた一采女には破格に過ぎ、かくては父不破麻呂の栄達自体、娘家刀自が得ていた恩寵の余禄ではなかったかと、勘ぐれなくもない。
 例えば益田勝美氏は、「ひょっとしたら、それこそ、ひょっとしたらであるが、かの女はあの(竹芝
寺伝説中の)皇女で、武蔵にいてそういう郡司層にふさわしい、しかも最高の位や職を受けていたのでは

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なかろうか」と推定されている。が、先の西角井家系図に見える、不破麻呂嫡子で武蔵国造と註されている弟総(おとふさ)にこのおそらく美女であった家刀自を配する体の「竹芝寺伝説」が、実は更級日記の作者により巧みに”創作”されたのではないか。菅原孝標(たかすえ)の娘には“創作”の動機があった、不破麻呂の家系に就てもよく承知していた、と思われる根拠もある。
 一例に、平城から長岡へ、また平安京へと都遷(うつ)りにあけくれた不破麻呂や家刀自の頃から四代五代あとに、武蔵武芝(むさしのたけしば)なる実在の足立郡司が、東国に活躍し、あの平将門の蹶起(けつき)には決定的な撥条(ばね)の役を果していたという史実に、注目したい。

然(しか)る間(あひだ)に、去る承平八年(九三八)巻二月中を以て、武蔵権守興世王(ノごんのかみおきよノわう)・介源経基(すけノつねもと)、足立(ノ)郡司判官代(はんがんだい)武蔵武芝と、共に各々不治の由を争ふ。聞くが如くんば、国司は無道を宗(むね)となし、郡司は正理を力となす。その由何とならば、縦(たと)へば郡司武芝、年来公務に格■(かくごん)(■:りっしんべんに菫)(精励)して、誉(ほまれ)ありて謗(そしり)なし。筍(いやし) くも武芝、治(ち)郡の名、頗(すこぶ)る国内に聴え、撫育の方(策)、普(あまね)く民家に在り。代々の国事、郡中の欠負(けつぷ)を求めず、往々の刺史(しし)(国司)、更に違期(ゐき)の■責(けんせき)(■:言べんに遣)なし。而るに件(くだん)の権(ノ)守、正任の未だ到らざるの間に、推(お)して入部(にゆうぶ)(介入)を擬す、てへり(と云へり)。武芝案内(あない)を検するに、この国承前の例として、正任以前、 輙(たやす)く入部するの色(しき)(職。職権の対象)にあらず、てへり。国司偏(ひと)へに郡司の無礼(むらい)を称して、恣(ほしいまま)に兵杖(ひやうぢよう)を発し、押して入部す。武芝は公事(くじ)を恐るるが為に、暫く山野に匿(かく)る。案の如く武芝の所々(しよしよ)の舎宅・縁辺の民家に襲ひ来りて、底を掃ひて捜し取り、遣(のこ)る所の舎宅は、検討して棄て去りぬ。(中略)武芝はすでに郡司の職を帯(たい)すと雖(いへど)も、もとより公損の聆(きこ)えなく、虜掠(りよりやく)せらるる所の私物を、返し請ふべき

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の由、しばしば覧挙(らんこ)せしむ。而(しか)るに曾(かつ)て弁じ糺(ただ)すの政(まつりごと)なく、頻りに合戦の構へを致す。
時に将門急に此の由を聞き、従類に告げて云(いは)く、かの武芝等は、我が近親の中にあらず。又かの守(かみ)・介(すけ)は、我が兄弟(けいてい)の胤(いん)にあらず。然れども、彼此(ひし)の乱を鎮めんがために、武蔵国に向ひ相(あ)はんと欲す、てへり。

 土着の武芝は、都から来た受領(ずりよう)の横暴に頑強に抵抗、将門また支援して立ったのを守(かみ)・介(すけ)らが都へ訴え出たのが、いわば”将門謀叛”へと拡大されてゆく発火点だった。むろん周知のように将門の一統は滅ぴ、武芝の家もまた衰亡することになるが、西角井家系図では、武芝のあとに男子なく女子二人を竝記して、その一人に明白に「菅原氏」と注してある。これもすこぶる要注意の一例になる。
 というのも、将門の乱を詳しく紹介する余裕はないが、彼がいわば皇位を窺■(穴かんむりに愉の旁)(きゆ)したのは、八幡神の霊告を、夢に菅原道真の亡魂が取り次いだからだといわれている。道真は世上すでに怨霊として畏れられていたし、のちに将門の霊も同様に畏れ祀られた。小櫃白山神社の天神社を問うまでもなく東国一円、“明神”の将門信仰と“天神”の道真信仰とは、どこか親密に重なり合うものを今ももっており、しかもかの武蔵武芝の娘の一人は、八幡霊告を敢て画策し伝宣したであろう亡き菅公祭祀の「菅原氏」へ、事実、嫁(か)していた。また、道真遺児の一部が都を素通りに、九州から東国の常陸へ流亡していたのも確
認の利く史実だ。
 言うまでもなく更級日記の作者孝標娘の「菅原氏」は道真直系の子孫であり、家職には京都北野天神
社を管領して菅公(かんこう)亡霊を慰めることが含まれていた位だから、将門滅亡して数十年を経たばかりの頃の

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上総国司の菅原孝標らと同族、「菅原氏」と縁を結んだ武芝遺児たちとの間に、将門伝承をも介して何らかの脈絡と交渉がなかったとは、逆にむしろ考えられないことなのである。
 いっそ、太井川(江戸川)を渡って武蔵国足立郡に入れば、孝標娘ら菅原氏の一行は、先すは、それが「竹芝寺」かどうかは別としても、郡内に数多くあったと『将門記』にいう武蔵武芝ゆかりの故居ないし“舎宅”の一つを小憩(しようけい)の場にめざしたと、私は進んで推定もしたい。
 たとえば亀戸天神の祭神は言わすと知れた菅原道真ではないか、道真、将門そして武芝と孝標父娘をつなぐ面白い結びめの、此処がその一つであっても差支えない。しかも竹芝寺伝説にはなぜか酒瓶=亀が絡む。亀戸天神の境内に鎮座の石の大亀にも、いつかこの辺の謎解きを願わねばなるまい、が。
 更級日記自体が実際に執筆されたのは、以来数十年を経ての後日だった。孝標の娘はこの間に有力な物語作家として手だれの才筆を幾つもの作品に発揮していたのだから、記憶も怪しくなっていた少女の昔の道中記に、ふしぎなまでありありと印象鮮明な「竹芝寺伝説」を“創作”するくらい軽いはなしだ
った。むろん発想の種子は、かつての足立の武芝ゆかりの荘に暫く憩った折、耳敏く聴き覚えてもいた。あの将門の馳使(はせづかい)の一人に丈部(はせつかべ)の姓の者がいたこと、それが桓武朝の昔に武蔵武芝の祖となるべき不破麻呂のたぶん本姓であったことも、孝標娘はよく承知していたに違いない。 それにしても、なぜ“創作”を、という点に触れねばならぬ。
 十一世紀の菅原氏は、先祖道真執政の栄誉とは程遠くはなはだ微禄していたうえ、”怨霊道真”という、貴族社会ことに藤原氏の忌避も辛い負担になっていた。
 しかし、なぜ道真がそもそも怨霊と化さねばならなかったか――。

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 孝標娘は、一族の歴史に深く思い致しつつ、桓武天皇即位の直後に、氏の長老たちが「土師(はじ)氏」から「菅原氏」へと官に改氏姓をひたすら願い出た背景に着眼していた。
 なぜ「土師」がいやで、その一族が或いは大江氏に、また秋篠氏に、さらに菅原氏に改氏姓を請願し、なぜ即位早々の桓武もたやすく聴許(ゆる)したのか。それは天皇自身が、土師氏の血を享けていたからだ。が、累代の土師氏は主に対新羅外交に活躍、また半島伝宣の秀れた新知識を誇る家柄だったではないか。
 ここで角力(すもう)の発祥かのように訓えられた野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速力技(たいまのけはやりきぎ)の伝説を思い起こしてみたい。垂仁(すいにん)天皇の七年七月、当麻邑(たぎまのむら)に勇悍(ゆうかん)の士蹶速があり「能く角を毀(か)き鉤(かぎ)を申(の)ぶ」る怪力で、つねに人に語って四方(よも)に力比(なら)ぶる者あらば「死生(しにいくこと)を期(いは) ず」争わんと。帝は群臣にはかり、群臣は奉答して出雲国の野見宿禰を召し、各々足を挙げて相蹶(ふ)み、角力をとらせた。時に宿禰は蹶速の脇骨(かたはらほね)を踏み折(さ)き、またその腰を踏み折(くじ)いて殺したので、蹶速の「地(ところ)を奪(と)りて、悉(ふつ)に野見宿禰に賜」わった。宿禰は留まって朝廷に仕えたという、が、そもそも斯様(かよう)の話が何故に正史に筆録されたのだろうか。
 野見宿禰は播磨風土記に土師弩美宿禰(はじのぬみのすくね)につくるようにもともと土師氏であり、土師氏の東遷後の本貫はよく知られた河内国土師の里をはじめ北大和より南山城に勢いを増していた。一方の当麻氏は、言うまでもない二上山の東麓、当麻寺のあるあの当麻の里を本管に、現に当麻蹶速の墓と伝える豪宕(ごうとう)な五輪塔が当麻寺参道の右の田中に祀られている。当麻の腰折田という言い伝えにも野見宿禰に負けた無念は籠っている、が、実はこの当麻氏の管理下にあった二上山の界隈は稀に見る長石を産し、それは大和平野に散在する古墳の用材をあらかたまかなって足りたといわれる。
 二上山がいわば巨大な墳墓でありえたことは大津皇子の陵地としても広く知られた事実だが、他方土

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師の里近在に世界的な大古墳が蝟集(いしゆう)するのを知らぬ人もない。そして古墳、墳墓となれば石を■(金へんに先先の下に貝)(き)り石を運び石を積む技術が必要なのはもとよりのこと、当麻氏も土師氏もじつにこの葬送の事に従って良質の石材を確保すべき職掌を久しく分担して来たのであり、垂仁天皇の七年に至ってそれさえもはや両氏相闘わねば済まぬまでになっていたということを、野見と蹶速との格闘の伝説はあざやかに示唆している。
 角力の結果として土師は当麻の「地(ところ)」を奪い、石を得た。両家は、古来専ら人の葬送を儀する家職を伝襲していた。そして大古墳時代を通じて土師氏はいわば余儀なく渡来の高級土木技術ないし技術者を駆使し監督することを介し、自然、最も先進的な知識、学芸また朝鮮中国の言語に熟達せざるをえなかった。
 しかも何としても上古以来、葬礼専管の家、という看板に陰気に呪縛され、また墓制のことに長(た)けた帰化人たちとの親縁関係からも、故なく或る“被差別”の受苦を負いつづけて来たのも土師氏だった。改氏姓は、桓武即位の好機を待って素早く願い出られ聴き届けられたのであり、土師氏と帰化人との血をともに享(う)けていたことは、ただならぬ政情のもとに辛うじて即位できた桓武天皇にとっても、軽からぬ負担だったことは十分記憶されてよい。
 しかも菅原道真に至ってなおも“被差別”の重荷ははね返せず、藤原氏の前に孤独な失脚を強いられ
た。
 この氏族隠密(おんみつ)の怨執(おんしゆう)を、更級日記の作者は根の哀しみとして忘れかねたまま、新たに大きな歴史物語構想のあたかもシンボリックな序章の趣で「竹芝寺伝説」を、さりげなく、鮮やかに“創作”していた。彼女は一気に光仁の譲位から桓武の即位までを、平城、長岡、平安への遷都の劇を、家刀自や不破麻呂

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の一族と関わり合う土師氏のロマンとして筆をやりたかった、と、私はそう想う。たしかにその史実的な背後には、想像を超えて美しく暗い流れが走っている。
 更級日記の作者は、しかし武蔵武芝の家系を遡って自身の菅原氏と二百五十年前にさまざまに交叉さ せることは着想できたとして、なおその百数十年前に、火焚屋(ひたきや)の衛士(えじ)とは言えぬまでも、白面の蘇我氏の庶子身刺(むざし)(日向(ひむか))が、皇太子の妃たるべき異母兄の娘を婚姻当夜にぬすんで東国に走った史実までも、頭に置いていたかどうか――。
 私は、知っていたと思う。考えに入れていたと思う。少くも日向ならぬもう一人の蘇我殿赤兄(あかえ)が、世人から時に直かに「武蔵の大臣」と仇名されていたことなど、学間の家に育ち文学にも志篤い孝標(たかすえ)の娘はよく承知だった。
 多分、そればかりではない。
 将門の頃のあの武蔵武芝の家系を桓武の頃の不破麻呂よりまだ三代も遡った、氷川麻呂なる「足立郡
司」が、先には日向(身刺)を迎えとり、後には流刑の「武蔵の大臣」赤兄をもまた迎えとっていた東国の実力者だった事実を知れば、かの「竹芝寺伝説」中の「武蔵」なり「竹芝」なりの姓名には、まことめくるめく歴史時間と史実との、巧妙で分厚な重ね絵が透かし見えるのに驚かずに居れない。文字どおり“創作”の骨格までが、ありあり眼に見えて来る。
 かくては「蘇我殿」の物語に、俄かに大化の昔の武蔵足立郡司「氷川麻呂」が果した役割が話の筋と
しても大事になって来る。が、ここはそう言い及ぶにとどめ、ただ、今日にも大宮の名が高い一の宮氷
川神社の司祭を累代兼ねて来た「足立郡司」とは、事実上武蔵一国の統領格だったとも、大事に附託し

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て置きたい。
 かくて仰山に大迂回した話題をもとの「蘇我殿」行状記へ舞い戻って、例の日向(ひむか)だが、彼には皇太子
 
の許婚者(いいなづけ)を奪い、異母兄の右大臣石川麻呂を「■(言べんに旡旡の下に日)(しこ)ぢ」た以外に、今一つ眼を惹く事績がある。
『法王帝説』によれば、この「無邪志臣(むざしのおみ)」とも書かれた「身刺(むざし)」の日向(ひむか)は、孝徳天皇の白雉(はくち)五年(六五
 
四)十月、「天皇不予(ふよ)(病臥)のため、般若寺を起し」ている。しかも同月、天皇はひとり難波宮(なにわのみや)に見捨てられたままいわば悶死、姉の皇極先帝も甥の中大兄皇太子も、あまつさえ皇妃にして姪でもあった間人皇女(はしひとのひめみこ)すらも遠く飛鳥京に居坐ったまま、今上(きんじよう)の死の床を誰一人見舞うということがなかった。幾度もいうように叔父と甥、天皇と皇太子との、表には政見を異(こと)にし、裏には間人皇女を奪いあう久しい確執があり、結果は叔父天皇の無残な敗死に等しかった。
 そのような孝徳天皇の重態と、蘇我日向が般若寺を起したのとは、むろん“平癒祈顔”の一点で交叉すると見るのが自然に違いない。この天皇のために石川麻呂の「長女(えひめ)」を敢て偸(ぬす)み、代りに皇女を一人貰い受けて東国へ遁げたような日向なら、これは自然という以上に当然の真情と思わねばなるまい。
 般若寺は、奈良東大寺の真北に当たって境内に壮麗な十三重の石塔ののこる古寺。かつては般若寺千坊の殷賑(いんしん)を誇った官大寺でもあったが、今は古びた楼門に囲まれた経蔵、石塔、笠塔婆だけがぽっんと立って、思いきったそんな寂びれ方が、逆に大和古寺としての風情をふかめている。
 が、それはさておいても、かの「長女(えひめ)」略奪の今一段根深い因縁は、むしろ孝徳天皇よりも、中臣鎌子=中大兄皇子という枢軸にこそ結ばれていたではないか。因縁の糸はさらに、東国経営の先見を秘めた隠密工作もさりながら、より露骨には大化改新後の石川麻呂粛清の一件にまで、見え隠れに繋がって

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いたではないか。それらを順に想い起せば、般若寺に拠(よ)っての日向が懇篤の“平癒祈顔”とやらも、そのまま我々を素直には肯かせない、裏、が覗けて来る。

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秘密の般若寺

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 般若寺十三重石塔は建長五年(一二五三)に宋人石工の手で建った。総高十二メートル余、層々と打ち重ねた石の美しさが揺ぎなく、奈良坂の巨塔として往還の遠い目じるしにもされて来た。第一重がどっしり高い。塔身に釈迦、阿弥陀、薬師、弥勒が線で彫ってある。頬のあたりにやや肉付もしてある。各重わずかに軒を反らせて伸び上がる漸減率も的確、古色と造型美とがこれくらい堂々と釣合った大石塔はそう例がない。
 が、鎌倉期のこの石塔は本題と、当然直かには関わらない。気になるのは、むしろこの石塔が立っている場所だ。いわば境内のど真中に五層の壇を築(つ)いて、そのまた中央にそそり立つ。本堂の真前、その間(かん)さしたる距離もない。
 日本の多重石塔が、こういう晴れ立たしい場所に威風あたりを払って築かれている例を知らない。往時ここに三重か五重のいわゆる塔が立ち、回禄に従い今度は堅固な石塔を、再建したかとも見える。が、それにしては基壇が諸建築を圧するほど逼(せま)りすぎている。
 それはさておいて、蘇我日向が孝徳天皇、当時まだ軽皇子(かるのみこ)の娘を貰い受けて東国へ走ったとは、前に書いた。日向は二十すぎ、不逞な面構えの青年であり、だぶん初婚。三、四年に及ぶ東国暮しの間(かん)、彼
 
は一男一女を儲けながら、妻をかの地で喪った。妻の遺志により男子は丈部氷川麻呂(はせつかべのひかわまろ)の哺育するにまか

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せて、東国に残し、都へ連れ戻った常陸娘(ひたちのいらつめ)は、長じて天智天皇に娶(め)され山辺皇女(やまべのひめみこ)を産む。この皇女が、のち持統女帝の手腕に窮した夫大津皇子の死を嘆いて被髪徒跣(ひはつとせん)して殉じ、見る人みな嘆いた話は皇子の姉大来皇女(おおくのひめみこ)の哀切な挽歌とともによく知られている。

   現身(うつそみ)の人なるわれや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と吾が見む

 この推量には異論が出るはずだ、常陸娘は、天智天皇の七年二月の記事(日本書紀)により、「蘇我赤兄」の娘でなければならないと。もし私のいう通りなら、二人の蘇我殿「日向」と「赤兄」が、同じ一
人の「蘇我」氏でなければならぬこととなる。
 はっきりさせたい。事実、私の考えは、両者、「日向」と「赤兄」が全く同一人というにある。
 今一度想い起して欲しい。
「身刺(むざし)」と書かれていた蘇我日向が姿をあらわす最初は皇極天皇三年(六四四)正月で、最後は孝徳天皇の白雉五年(六五四)十月、般若寺を起した時。その以前はむろん、以後にも全く身刺(ないし身狭(むさ)や無邪志(むざし)や武蔵(むさし))なる蘇我日向(そがのひむか)はどこにも姿をあらわさない。異母兄石川麻呂の粛清に高価な一役を買ったあと、ともあれ「大宰帥(だざいのそつ) 」という地方官では最高の地位を得ていた人物なのに、死亡の事実すら確かめえない。
 一方、蘇我赤兄が姿をあらわす最初は斎明天皇四年(六五八)の十一月、亡き孝徳天皇の遺児有間皇子(ありまのみこ)を詐術を以て陥れた時であり、それ以前に赤兄という名の蘇我氏は一人も登場しない。『扶桑略記』という本には、赤兄は天智十年(六七一)正月に右大臣から左大臣に進み、時に、四十九としてある。また

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『中臣氏本系帳』には斎明天皇の時(六五五〜六六一)すでに左大臣だったとしてある。
 紛れないそれぞれ時の重臣重職だった者が、日向は西紀六五四年以後、赤兄は六五八年以前に片影(へんえい)も見せない、のを、むしろ素直に両者同一人の徴(しるし)とみれば、前後の撞着もなくすべては明瞭に眼に見える。日向、赤兄とも石川麻呂の同じ「異母弟」だった。日向がして来たことと赤兄がして来たこととは、例えぱ石川麻呂を「■(言べんに旡旡の下に日)(しこ)ぢ」た手口といい、有間皇子を陥れた手口といい、強烈なまで一つの気質に結ばれていて、わざわざ兄と弟と二人が別々の行為などというより、同じ一人の文字どおりうしろ暗い生きざまだったと見るのが、ごく自然であるだろう。 また、日向が皇太子の妃たるべき姪を偸(ぬす)む体(てい)で東国に走ったのと、赤兄が大友廃帝に従う体で上総潜狩に同行したのと、その実は一方に中大兄皇子、他方に大海人皇子が介在して一種の裏切り含みの陰謀が関わっていたのとを、考え合せてみるがいい。
 こうも日向と赤兄の動かない同一人という心証を抱いて今一度般若寺一件に戻ってみると、日向が、孝徳天皇の平癒をひとり祈願したとはちょっと思いにくい。わずか四年後には日向ならぬ赤兄が孝徳の遺児有間皇子をたぱかり殺していることとも、正しく連絡させて考えてみねばならぬ。
 そもそも難波に天皇をひとり残して先帝、皇妃、皇太子をはじめ百官みな飛鳥へ還っていたのは、要
は皇太子中大兄の力に天皇の余の誰もが逆らえなかったということだ。大坂城の真東に、現代(いま)、篤学の情熱に見出され守られて往古の輪■(喚の旁)(りんかん)を髣髴させる難波宮趾。その日盛りのなか私はひとり大極殿上に佇み、孝徳天皇の孤独を想って来た。天皇の孤独な死は憤死であり、いわば敗死でもあった。そのさなか、誰が天皇の病気平癒を祈ってひとり新たな寺を興せるものか、まして大化前夜から中大兄や鎌子の政権

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構想に終始うしろ暗く膚接(ふせつ)していた日向が。
 だが日向はまた孝徳天皇の婿でもあった。中大兄さえ許せば、今上の孫に当たる常陸娘ともども病気平癒を祈るのに一等ふさわしい人物ではあった。
 だが般若寺とは、その実、病床の孝徳天皇呪殺の秘法を行じていた寺だ、現在石塔の立つのが渡来の魔呪行法のため壇を築(つ)いたその場所。難波京の真東、飛鳥京の真北、二等辺三角形の要に位置してかかる秘密の般若寺を起した日向の真意を、よく汲みえたのは誰か。いったい当時は、太古来土着の呪術と、主に半島帰化人を介し新知識に付随して流れ込んだ真言秘密とも言えない奇怪な方術との習合が、一気に進んだ時代である。中大兄皇子は終生これに神経質な関心を寄せ、皇族の一部女性にその修習を命じたのが、のち、奈良朝を通じて宮廷内に特異な雰囲気と弊害を生んだ。
 般若寺で日向と組んで呪詛の事に任じたのははやくから天智妃の一人だった鏡王女(かがみのおおきみ)と新羅僧の道忍だった。鏡王やその妹の額田姫王には神秘に触れ易い巫子(みこ)の血が通い、とくに額田姫王が大海人皇子との仲に産んだ十市皇女(とおちのひめみこ)は、卓越した呪力の持主だった。読者の多くは、この十市が、悲運の夫帝弘文天皇(大友皇子)を近江東から上総へと、じつは逐(お)い落したかげの力だったのかもしれぬことを、私の小説『秘色(ひそく)』ですでに承知されているだろう。
 一方問題の般若寺が、山背(やましろ)や近江へ、ないし東国北陸へもほぽ一直線に伸びて行ける絶好点にあることを思い知る必要もある。大和の旧勢力の結集をかわすべくやがて近江東への遷都を敢行する皇子にとって、そういう政治的判断を含んだ般若寺創建であり、日向差遣(さけん)であったのなら、日向には一方で今上呪殺、他方では近江経略へのやはり下工作も早や命じられていたかしれず、本当にその通りであったの

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なら、そして日向と赤兄が同一人物なら、日向の赤兄がいずれ近江の蘇我殿として、天智天皇の篤い信任を得たのは当然、ということになる。
 だが、もう先を急がねばならぬ。
 すでに察しの早い読者には想像がついているだろうが、幼名「むさし」の母は東国、それも武蔵(牟邪志)国から大蘇我氏へ送られて来た豪族、多分氷川麻呂一族の采女(うねめ)だった。身刺(むざし)は武蔵の音通に過ぎまい、それが日向と変ったのは九州日向との関係でなく、東国へ差遣するに就ての中大兄か鎌子かが餞けの酒落た改名であり、私は日向が本名で、赤兄は風貌からする一種の通称か仏名かであると共に、日向時代のうしろめたさを振り払うべく、それを後半生の本名に受け入れたものと想像している。
 むろん役目柄からも、日向が初度東国潜入に伴う事績なり足跡が表面化することは有ってはならぬことだった。が、赤兄が弘文廃帝とともに上総へ遁れた、ないし流された経路を、例えば琵琶湖岸の別所 から勢多川伝いに宇治、淀を経て難波に着き、ここから海上を熊野や伊勢の海ごえに尾張矢作(やはぎ)川へ入り、次いで伊豆下田から相模国のそれも一時はかなり内陸深くまで潜狩ののちに再び海路・上総国着浜(つばま)(富津(ふつつ)市津浜)に上陸したという、極めて具体的な説として君津市小櫃の中村翰護氏は自信をもって唱えている。
 たしかに東海道に、広く弘文潜狩を伝える口碑(くひ)や遺跡が散在するのは事実であり、例えば神奈川県伊勢原市内の、今も叢(くさむら)に鹿や猪(しし)がふだんに姿を見せるというもと高部屋村日向地区には、石雲寺という古くは華厳宗(現在禅宗)の古刹があり、「真崇明覚大法皇」と刻んだ弘文天皇位牌を恭しく奉持しているし、ほど近い日向川、御所の入(いり)橋の清流を渡ってすぐ右、丹沢山塊を目前に望む畑ぞいに丈なす草む

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ぐらの小路を百メートルも山ふところへ分け入ると、一見円墳ふうの木ぐらい丘の頂に、自然木を天蓋
に、なかなか美しい五層の石塔が、古色蒼然、色濃い影と化して左右各二基の扈(こ)従に似たちいさな五輪塔にさながら守護される体に鎮まり返っていて、雰囲気は上乗、間違いのない弘文天皇の「御陵」とすら、口碑(くひ)は近在に久しく定まって動かない。
 名高いここの日向薬師は「ひなた」と訓んでそれに相違はあるまいが、「樵夫善内(きこりぜんない)」とやらに護られたという弘文天皇には、近侍の「蘇我」殿もたしかにいたと伝説が物語るうえは、赤兄の「ひむか」も、必ず日に影の添うように相伴っていたことは間違いない。

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不安の京

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 飛鳥で術数を用い、近江で権柄(けんぺい)を執(と)り、そして東国上総へ流されながら蘇我赤兄(あかえ)(日向(ひむか)また身刺(むざし))は、君津市小櫃の近在にあまねく非業(ひごう)に斃(たお)れた弘文天皇伝説を残し置いて、天武天皇の飛鳥浄清原(あすかのきよみはら)の京へ無事な姿で舞い戻って行った。年は五十を出たばかりだった。
 赤兄が天武の御代にいかなる重職をえたとも正史は誌(しる)さない。が、天武二年(六七三)二月、赤兄の娘穂積皇子(ほづみのみこ)ら一男二女の母の大■(草かんむりに豕に生)娘(おおぬのいらつめ)が帝の夫人に挙げられたことが知られる。むろん近江の昔に娶(め)されていたのであって、それも、当時の皇太弟大海人皇子(おおしあまのみこ)(天武)が吉野落ちのぎりぎりに左大臣赤兄と交わした弘文追い落としの密約に、有効に関わったに相違ない。
 面(おも)立たしい要職に就かず、また赤兄ほどの大物がいかなる記録や文献にも歿年をさだかにしていないのは、だがさすがに晩年の不遇を想わせて余りある。私には、天武が赤兄を好んだはずがない、という実感がある。第一、天武とともに影の形に添うようにその苦境を倶にして来た皇后■(櫨の旁に鳥)野皇女(うののひめみこ)のち持統天皇)の眼が黒いうちに、赤兄が明るい日の目をみられるわけがない。
 ■(櫨の旁に鳥)野の母は赤兄(身刺)が婚礼の当夜に偸(ぬす)み去った石川麻呂長女(えひめ)の身替りに中大兄皇子(天智天皇)に娶(め)された遠智娘(おちのいらつめ)(造媛(みやつこひめ))だった。赤兄(日向)のたばかりに憤死した大化の右大臣の次女(おとひめ)だった。遠智娘は、父の死に痛ましくもみずからの心をやぶって酷薄な夫を怨み死にに死んでいる。その遠智娘が生んだ男

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まさりの娘持統女帝は、母の怨みを抱いて父に背き、叔父であり夫である大海人皇子と、死なばもろともという生き方をしてきた人だ。しかも赤兄や赤兄の子女に対し、決して温情を以てすることのないこの皇后が、いずれ堂々と帝位に即(つ)いて都を藤原京へ遷(うつ)して行く。
 私は想う。赤兄は秘かに浄御原(きよみはら)か藤原かで殺されなかったとも限らない、と。赤兄の子常陸娘(ひたちのいらつめ)が天智天皇との仲に産んだ山辺皇女(やまべのひめみこ)、そしてその夫大津皇子は持統天皇に強引に殺されている。大■(草かんむりに豕に生)娘(おおぬのいらつめ)の 子穂積皇子は、恐懼(きょうく)して持統女帝の時代は政情を遠く憚り、むしろ恋の浮き名に流れ漂っていた。高市皇子(たけちのみこ)の妃但馬皇女(たじまのひめみこ)との恋は万葉集に名高い。

  人ごとをしげみ言痛(こちた)みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る 但馬皇女

 この歌には、但馬皇女が高市皇子の宮に在った時、ひそかに穂積皇子に接し、事すでに露われてのちに作った歌である旨の詞(ことば)がついている。また次の歌には、但馬皇女の薨(こう)じてのち穂積皇子が冬日に雪の降りやまぬ中で御墓をはるかに望み、悲傷流涕(りゆうてい)して作った歌である旨の詞がついている。

  ふる雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)の猪養(ゐかひ)の岡の寒からまくに 穂積皇子

 ところで、この穂積皇子を、艶女(たおやめ)の名も高く奈良の都に浮名を流した酒人女王(さけひとのおおきみ)の祖父とした記録がある。同様に、酒人女王の祖母が山辺皇女とした記録もある。山辺は大津皇子の死に殉じ、従兄の穂積皇

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子と通じていた形跡など全くない以上、銘々の息子と娘との仲に生まれたのが酒人女王ということになろう。事実、父は大津と山辺の間に生まれた宗我王(そがのみこ)で、母は穂積皇子の娘三輪女王(みわのおおきみ)である。かくて蘇我赤兄の二人の娘の血が、孝徳、天智、天武三帝の血筋ももろとも一人の酒人女王に紛れなく流れ込んだ。この酒人女王という名を記憶願いたい。その父方、母方の曾祖母がともに蘇我赤兄の、母を異(こと)にする二人の娘であったとも、ぜひ記憶願いたい。そして事の序でに、いま暫く系図調べを続けてみたい。
 奈良朝の皇統はむろん天武天皇と持統天皇夫妻の直系が主流になった。これに天智天皇の血脈と天武天皇の支脈が絡んだが、あくまで天武、文武、聖武の嫡流を太い軸に、そのあとを聖武天皇と光明皇后の皇女孝謙(称徳)天皇がしめくくった。根からの女帝に子のある道理がない。仕方なく天武支流の淳仁天皇が実現したものの、事を構えて直系孝謙上皇が再度即位して称徳天皇となった。異様な成行にふさわしく僧道鏡がこの帝に絡みついた。藤原氏はその状態を嫌った。すべてが、よく知られた史実である。
 称徳天皇が逝き道鏡法王が追放された時、次の皇位に即(つ)きうる有資格者は、一つは天武の庶流、今一つは天智の皇胤だった。どちらが頭を擡(もた)げるにも藤原氏の力添えが必要だった。藤原氏の有力者は或る理由から、もう老人と言っていい白壁王(しらかべおう)を、光仁天皇として強引に即位させた。光仁の長子山部親王の雄偉な人材に期待していた、と言われているのを私は信じたい。
 白壁王は施基皇子(しきのみこ)の子、天智天皇の孫に当たる。弘文廃帝以来隠忍を重ねて来た天智系久々の即位だった。時代は変ろうとしていた。
 むろん時代の変るのを悦ばぬ者もいた。その筆頭が当の白壁王妃の井上内親王(いのえのないしんのう)だった。異母姉の称徳
天皇亡きあと、唯一のれきとした聖武天皇の皇女だったのだから、自身の即位をさえ期待していた。藤

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原氏はその辺を巧みに利用する体で、この毛並みのいい井上内親王の夫になっていた白壁王を皇位へ押
し上げた。藤原氏ならずとも女帝に飽きていた。懲りてもいた。
 
 井上内親王は、白壁王の妃となる以前に境部王(さかいべおう)との仲に他戸親王(おさべしんのう)を儲けていた。一方、白壁王の方は帰化系の高野乙継(たかののおとつぐ)と土師真妹(はじのまいも)との娘、高野新笠(たかののにいがさ)を夙(つと)に愛していた。その長子が山部親王(のち桓武天皇)次子が早良親王(さわらしんのう)(のち崇道(すどう)天皇とおくり名された)だった。
 さて井上内親王の前夫境部王というのはあの穂積皇子の子で、前に名の出た酒人女王の母三輪女王とは姉弟になる(この姉弟は、妖僧玄■(日へんに方)の事に坐して一時東国に流されていた)。しかもこの境部王は、のち、姪の酒人女王との仲に「まさご」としか分らない遊女(あそびめ)めいた一人の女子を儲け、ややこしいことに、さらに同じ酒人女王が、白壁王、即位して光仁天皇、との仲に酒人内親王を産んでいる。
 酒人内親王は系図によって高野新笠の子或いは井上皇后の子ともなっているが、それは違う。但し高野新笠のもとで育ち、のち異母兄の桓武天皇の皇后となって朝原内親王を産んだには相違ない、それで、同母兄妹に禁忌の恋があったという説が生まれた。事実は異母兄妹だが心情としては禁じられた恋に近かった。妹を愛した山部親王の思いには、自身をあの英邁(えいまい)な曾祖父天智天皇に擬(なぞ)らえ思う心理がいつも
 
強く働いていた。祖父施基皇子(しきのみこ)の母はふつう越道君伊羅部売(こしじのきみのいらつめ)とされているが、甚だ暖昧で、中大兄皇子(天智)が妹の間人皇女(はしひとのひめみこ)(幸徳妃)に産ませたという刺激的な伝説もあり、皇女の死は施基(しき)出産ゆえとも同じ伝説は名ざしで臆測している。
 壬申の乱から桓武即位まで百十年、少々の煩雑も約(つづ)まるところ、桓武天皇と酒人皇后との結合は、実に往時の盟友天智天皇と蘇我赤兄との双方の血がめぐり合ったに他ならぬことさえ分ればよい。天武と

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持統の胤(すえ)の井上皇后は、結果として前の夫境部王と後の夫白壁王(光仁帝)の両方を、つまりは赤兄の胤(すえ)の酒人女王に奪われたことになる。赤兄が、天武か持統かに、浄御原京か藤原京かで、殺されたであろうことの報復がなされたことになる。
 井上皇后が、わが子他戸(おさべ)親王を一度は皇太子にしながら即位させえないまま、奇蹟のように出部親王の立太子そして即位が実現して行った厳酷な史実も、またいわば天智系からする天武系への厳しい報復、ということになる。井上皇后と他戸皇太子とが藤原氏および山部親王の入念で陰険な謀略のもと、大和の現五条市に幽閉され殺害されるまでの経過は、むごたらしくも真昏な事情で塗り潰され、底知れぬ怨念だけがぎらぎらと五条の地に陰火を吐きつづけた。
 さて、今一つの種も明そう。酒人女王が叔父境部王との仲に産んでいた姫王(おおきみ)が、のち秘かに桓武天皇に愛され、そして儲けた娘が、あの、武蔵宿禰家刀自だった。酒人内親王の同母のたぶん妹に当たる母の姫王の名は「まさご」とだけで正しくは分らない。が、やがて桓武天皇から丈部不破麻呂(はせつかべのふわまろ)に譲られて、丈部改め武蔵の系図上では、家刀自の弟の弟総(おとふさ)が産まれる。氷川麻呂以来ながらく不遇だったあの丈部氏が一躍、武蔵宿禰(むさしのすくね)の姓をえて国造(くにのみやつこ)になり中央貴族にも成り上がって行く因縁はこうまで淫靡に濃いのであって、将門記の武蔵武芝の活躍や更級日記のあの竹芝寺の伝説は、まさしくここに史実的背景を負うていた。
 飛鳥から近江へ、天智は怨まれ赤兄も怨まれた。赤兄はいったん上総へ流されてなお怨みを雪(すす)げなかった。
 だが、再び飛鳥から平城(なら)へ、今度は逆に天智の子孫が怨み、赤兄の子孫が怨んでいた。

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 そして光仁と桓武の即位、井上(いのえ)と他戸(おさべ)の暗殺とが表裏の体をなして、またも怨む者と怨まれる者とが交替した。怨みの深さと執拗さに追われて都は平城から長岡へ、また平安京へと遷って行った。
 平城京大膳職(だいぜんしき)の井戸の中から、両眼と胸に深々と木釘を打った呪術の男人形が掘り出されている。釘の下には墨で名が書いであったのが今はもう全く読めない。人にその文字を読まれれば呪いは失せるというのだから、この呪殺の怨念はもはや永久に解けることがない。
 その怨念に追われ追われ造られた、平安の京、とは何というもの(二字傍点)に脅えた不安な名であったことか、深い深い不安をはらんでしかも千年を生きた、平安京。
 だが怨霊の手は二十世紀も末の近年、なおその平安京を護る大将軍坂上田村麻呂ゆかりの清水寺の一部を焼き、次いで桓武を祭神の平安神宮本殿を焼き、遷都の昔に遡る平安京火の守りの城南宮をも焼き落した。床下からは、謎の死体も出た。
 更級日記の著者が願って果さなかった、長い長い怨み語りを、赤兄の昔から平安神宮炎上まで、さて、私はいよいよ、小説として書き起こして行かねばならないが――。
 桓武の股肱田村麻呂を祠って秋風(しゅうふう)舞う東山の将軍塚に、一年の史跡幻想の旅の果てを憩うた私は、鈍く光る鴨の川瀬に眼を凝らすうち、やがて黙然(もくねん)と井上皇后、早良親王はじめ八座の御霊、怨霊を手厚く鎮めた、平安京の、いわば不安なお詫び神社、上御霊(かみごりよう)神社へと、重い頭をさげに出向かずに居れなかった。
 冬に向かう日の京の西山を染めた淡いタ茜が、あの小櫃の御腹川を流れる血の色に、ふと想えた。
 ――完――

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消えたかタケル

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「芸術生活」昭和四十四年十一月号

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 人情は世態を映すものと謂われます。一つの時代にはそれにふさわしい人情というものがありましょう。時代から時代へ人情の変遷を辿りながら、そこから何か日本的な情の特色を掴み出せというのが、僕に寄せられた編集部の注文であるようです。
 人情はいつもそのままその時代の価値ある、産出的な心情だとは言えません。逆に俗情そのものである場合が多い筈です。多いというよりも、時代の人情とはむしろ一般に俗情というに近い感じで同時代人には受けとられているのではないでしょうか。昭和元禄の人情にしても我ながらワイ雑な俗情一辺倒に思えてしまうのですが、本当の価値判断はそうも性急に決めてしまえないものです。
 俗情の変遷を辿る仕事は、高貴な美意識や心情の系譜を辿る仕事と表裏をなす、一層むずかしい大仕事です。「日本俗情史」は書かれざる貴重な論題の一つでしょう。
 それにしても、あまりに包括的な常識論の蒸し返しでは読者も迷惑、僕もつまりません。いっそ編集部の大風呂敷の期待を尻目に、ただ大昔の事を、僕は考えてみたい。日本の情が外来の思想信仰にまだ強く侵されないで比較的生(き)のままであった、『古事記』の時代に、眼を据えてしまいたい。幸いそれで「日本俗情史」の第一頁が書ければ、おそらく注文通り、日本の情を顧る太い道筋は開けるでしょう。
『古事記』は上中下三巻に分れています。上巻は神代を、中巻は神武東征から応神天皇の死まで、下巻

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は仁徳天皇から推古天皇の死までを含み、謂わば『古事記』の出来た頃(八世紀初)からみた太古、上古、近古という時代区分のようです(ただし時代と謂っても人の心の奥へ拡って行く時間で、物理的歴史的な太古でも上古でもないのですが)。
 その『古事記』を読みながら、いつも気にかけていた事が一つあり、とうとう僕は享和三年版の『訂
正古訓古事記』を使って調べてみました。上中下の各巻に、”建”の文字がそれぞれ何度使われている
ものか。
 理由はさて措(お)いて、調べた結果、上巻に二十回、中巻に八十回、下巻に十回で、ほぼ厳格に勘定しました。中巻では有名な倭建命と建内宿禰が活躍するので割引く必要があるにしても、なお上下巻に較べて“建”の文字が断然沢山使われています。
 では“建”の文字がどう使われているか。
 簡単明瞭です。この文字はほぼ例外なく男神の、男子の、またはそのような国々の名前に、一種の美称として冠してあります。例えば、建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)、建速(たけはや)須佐之男命(みこと)であり、土佐の国を建依別(たけよりわけ)、肥の国を建日向(たけひむか)と謂う如くです。
 文章の中に使われている例も極く僅かですが、あります。
 神武天皇の兄五瀬(いつせの)命は那賀須泥毘古(ながすねびこ)の矢に当って死ぬ時、“男建(おたけび)”しています。また倭建命がまだ小碓命(おうすのみこと)と呼ばれた頃、父帝がこの皇子の“建く荒き情(みこころ)”を迷惑に思われた事、その小碓命が熊曾(くまそ)兄弟を刺し殺す間際に彼らから、この西国には自分らを措いて“建く強(こわ)き”者はいないのに、大和の国には我ら二人を合せた以上に“建き男”がいると嘆かれた事がありますが、他には見当らないようです。

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“建”の文字に飾られた神・人の言動を読みとり、また僅かながら見られる文中の用例から見ても、強い、勇ましい、雄々しい、厳しい、颯爽とした、端的な、スカッとした、そんな意味の嘆賞、期待、自負をもって“建”の文字が使われている事は否定できません。節度と沈毅を蔵し、決してむやみと荒々しくはない、騒々しくもない印象をこの文字は長いこと僕に与えつづけました。またそれだけの頻度でこの文字は全篇に意味深くことば少なに散在しているのです。これは何かしら神々の、また神々を親しみ愛していた古代人の一種の心情および行動の規範となる内容が、“建”の一字に象徴的に感じとられていたからではないでしょうか。
 ここで急に私事にわたって恐縮ですが、後の論旨と関わって来る筈の、やや他愛ない感想を挿ませてもらいます。
 この正月(昭和四十四年)、八つになる娘に妻が与えたお年玉は、二冊の本の『日本の神話』(松谷みよ子著)でした。大変な気に入りょうて三ヶ日すまぬうちにもう上巻は読んでしまう位でしたが、妻までが娘と奪いあう程の熱心さ。「昔の本の挿絵はこんなに美しくなかった」「あの頃の神武天皇のお顔は、あれは明治天皇に似せたのではなかったかしら」と、幼時の想い出は絵になっていた情景の方からより生き生きと甦って来ます。今度の絵本では、破天荒に躍動する青年や少女のからだが大胆に美しく、健康に描いてあり、それが特に佳い(瀬川康男・絵)。
 神話は否応なしに奈良、大和の風物を心に喚(よ)び醒ましました。だが、ふしぎな位、僕らは神話的な大和を忘れていました。京都有ちの僕らは、京都以前のものは全部ひっくるめて奈良、という思い慣わしをもっていますが、その奈良は要するに、「古き仏たち」の世界と化していました。

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 けれど僕は妻に言いました。「奈良へ行き、あの温和な風光の中で見た寺々のたたずまいには、異国風なすこし物珍らかな、ふと物に混じって光る何かとでも言いたい印象があったじゃないか。それに比べて、京都のお寺は根生いの主(あるじ)さ、すっかり馴染んでいる。寺院のいらかを、主と客と位に感じ分けさせる、其処にも京都と奈良の味のちがいがあるんだな」
 初めて法隆寺を訪れた昔、菜種の畑に咲いた一輪の朝顔くらいの印象を僕はもちました。中へ入って美しい仏像を涙脆いまでつくづく見上げる時この印象はもっと的確にものを言いました。千年の融和で辺りにふさわぬ伽藍のすがたではなかったけれど、この寺がはじめて古代大和の庶民の眼にどう映ったかを想像しました。
 誰もが安んじて「奈良には古き仏たち」と今は思いこんでいます。仏たちの前にこの国に住み、古代民族の精神支柱を太々しく建てた神々の事は忘れがちです。仏が外来の客分であり、余りにつつましく席を譲った主(あるじ)のあった事は、不用意に忘れがちです。
 久々に子供の心で神話を読み直し、あの暗い大戦時代を経て今もくっきり自分の中に残っていたものが、古代の美しさ、この神々こそ本当に親しみ易い美しさの泉であり、美しい日本の生きた証(あか)しだという審美上の一つの物尺(ものさし)だった事を知りました。この物尺は、京都という風土にかけられた浄土の幻の美しさ、禅の沈黙の深さ、密教の妖しさをはかる物尺と一緒に、僕の心の中で並び合っていました。
 それ所か、“美しい日本”ということはで余りにも仏教の影響を強く、殆どそれだけを語ろうとする傾向が僕には息苦しくなっています。娘を朝日子(あさひこ)、息子を建日子(たけひこ)と名づけた僕らは、とうから知らず知らず神話的な美しさの方へ心を寄せていたらしい。神話的な美しさとは、生命感に溢れた健康な活力と

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いうに尽きます。その本質は日本の風土に即応して極めて人間的で親しみに満ち、まさしく朝日の光の生命感、勇者の端的な、心中に熱くたけった活力を備えています。僕も妻も、日本の神々を信仰拝脆の対象などと、雫ほども思わないし、娘にも息子にも、国学神道右翼的な、またかっての衰弱した日本浪曼派ふうな神がかりはどう錯(あやま)っても拒否してもらいたい。しかも美しい日本の美しさの物尺を神話的な世界からひき出す事が、今日でこそ殊に大切なのではないかと僕は思っています。
 ここで僕はもう一度“建”の心情の『古事記』的意味に立ち返り、いま話した単純率直な感想を覆(くつが)えしてしまいそうな別の考え、違った着想を話したくなりました。
 僕は『古事記』の中巻に伝説と文学ないし詩歌が自然に入り混じった、文化の曙、黎明期という位の意味で魅力を感じて来ました。“建”の颯爽感が他の巻より濃いのもこの印象を支えていたでしょう。『古事記』中巻とはではどんな巻でしょうか。端的に謂って大和朝廷のちからが各地の先住土族を圧倒し征服して行く過程を一方的に謳いあげたものです。力強い割り切れたリズム感で諸事が運ばれています。  それと“建”の心情とは、ではどう関わっているか。これは日本が統一国家に成長して行く上で見過ごし難い象徴的な観点なのです。
 小碓命が倭建命へ一瞬に変貌する事の意味を先ず考えてみましょう。“建”はもともと決して神々を飾るだけのものではなかった、むしろ全く別のものだった事が分ります。
 小碓命は父景行天皇の命令で九州に下り、熊曾建(たける)を討たねばなりませんでした。“建”はこの際熊曾という原始土族の生命感と活力を喚び起こす誇らかな呼び名、咒文でさえあったのです。クマソタケル。

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西国に我らより強いものはいないという自負の凝縮した、謂わば雄叫びとも聴かれます。
 所が小碓命は童女に扮して熊曾建の酒宴に紛れ入り、首領兄弟を酒の酔いに乗じてたぱかり討ちました。実に有名な伝説ですが、この時熊曾は、小碓命の勇武に感嘆してせめても今後は我らの誇りの“建”の名を名乗ってほしいと、皇子に倭建命の名を献じて殺されます。この瞬間に、もとは地生(お)いの土族の生活と信条の中に活躍していた“建”の心情の本質的な意味と働きが、小碓命の内側へ転化し再生されて新しい倭建命が誕生する。それは他種族のエネルギーを大和朝廷が奪った、吸収した、肩代りした事を象徴的に暗示しています。
“建”の心情を奪い尽された熊曾たちは屈服廃亡して暗い被征服感を抱きながら、雲散または土着して、庶民化します。
 時代を遡って神武東征に眼を向けてみましょう。
 那賀須泥毘古に阻まれ兄君の命を奪われながら神武勢は熊野より再び上陸して、天(あま)つ神の助力を借り着々と先住土族を圧倒して進みます。宇陀という所では兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)と出遭い、兄は偽って帰順し神武らを一室に招き入れ隠し穽(あな)で串刺しに殺そうと謀りますが弟に密告され、逆にその室に素手で追い入れられて仕掛けた穽(おとしあな)に自分が打ち貫かれて無残に死んでしまいます。
「ええしやこしや」「ああしやこしや」と囃して神武らはこの勝利を愉快に歌っています。
 そして次に忍坂(おさか)という所で、今度は尾の生えた土蜘蛛族の八十(やそ)建らを強烈にだまし討ちに斬り殺すのです。
 「故爾(かれここ)に天神(あまつかみ)の御子(みこ)の命(みこと)以(も)ちて、八十建に饗(みあえ)を賜ひき。是(ここ)に八十建に宛てて八十膳夫(やそかしわで)を設(ま)けて、人毎に

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刀■(にんべんに几の中が一に巾)(たちは)けて、其の膳夫等に、歌を聞かば、一時共(もろとも)に斬れと誨日(おし)へたまひき。故(かれ)其の土雲を打たむとすることを明かせる歌日(うた)、

忍坂の 大室屋(むろや)に ひとさはに きいりをり ひとさはに いりをりとも みつみつし 久米のこが頭椎(くぶつつい) 石椎(いしつつい)もち うちてしやまむ みつみつし 久米のこらが 頭椎 石椎もち いまうたば 善らし

如此(かく)歌ひて、刀(たち)を抜きて、一時(もろとも)に打ち殺しつ」と、『古事記』は旺(さか)んな勝利を謳います。素手の八十建らは隠し持った神武勢の剣の下に、酒食の最中に尽(ことごとく)く死に絶えます。
 こうして神武天皇らは土蜘蛛の屍(かばね)から、“建”を奪い、価値ある建国の規範的心情となし得たのです。
 何を僕は言いたいか。
 繰り返しますが『古事記』中巻は大和朝廷の他種族征服の過程を中心に書かれています。征服と屈服の心情的な微妙な岐れめに、“建”の放棄、崩壊と、奪取、自覚とが表裏をなすそんな劇的転換のあった事を僕は認め、言いたいのです。語呂遊びでなく、心情としての“建”の本質が『古事記』中巻の、つまり大和朝廷草創の根本の要請であり、目標であり、旗印であった事を認めて、そこにこの時代の勝利者側の誇らしい規範的な心情の姿を見取っていいと思うのです。
 神代の神々に“建”の文字が冠されたのは、順序から言えば熊曾建、土雲建、出雲建らの廃亡のあとだと思います。“建”の心情が大和朝廷に根を下したあとで、安んじて祖神の勇武を“建”の文字で飾ったのでしょう。下巻になるともう真の活気が感じられず、あたかも遠い祖先の勇敢豪毅の記憶を止める紋章の如くに“建”の文字が人名を飾るだけで、それも稀となります。あまりに急速に“建”の古代

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的生命感、迫力が失せて行くのですが、『古事記』下巻の冒頭を占める仁徳天皇の時代にはすでに私(ひそ)かに仏像が伝わっていたかとの推測は、この点で、まことに暗示的な重要な意味をもっていると考えたい。
「奈良には古き仏たち」の時代が始まる頃から“建”の心情の系譜はかき消えたかのようです。
 本当にかき消えたかどうか。何にしても“建”が字義通り土に根ざした質実なちからを貪欲に吸収して一つの大きな偉業(この場合統一国家)を建設して行く際の原動力、活力としての心の働きであった事は間違いないでしょう。またその意味で現代の僕たちがしっかり見直し、心の奥の奥に今一度探り当てていい価値ある心情だと言う事も、好戦侵略の意識と見誤らない限り、許されましょう。
 と、ここまで“建”に就いて話しながら、僕が最後に、本当に、問題にしたいのはその征服者たちの体質の内側で消えた“建”の事でなく、それよりも“建”を奪い取られた側の、被征服者たちの、熊曾や土蜘蛛や出雲族らの心情が、一体どうこの日本国土に分散し浸透し土着したか、その方が遥かに大問題だと思うのです。
 『古事記』の神代から荒男(すさのお)とも書かれる建速須住之男命を呼び出しましょう。“荒”の文字は概して異族蛮族邪教の徒の騒然たる悪しき心情を言い表わしており、この男神は言うまでもなく大和朝廷の祖神である天照大神に敗れて、死の国へ追放された巨神です。高夫原で罪を犯して以後の呼び名にはすでに“建”の冠字が奪われているのも意味深く思えます。
 火遠命(ほおりのみこと)(山幸彦)に敗れた火照命(ほでりのみこと)(海幸彦)の子孫が敗北の屈辱を建人舞(はやとまい)に刻印して、末長く朝廷に事あるごとに参内して水に溺れて救いを乞うような仕種(しぐさ)の舞いを舞いつづけた事は歴史上の事実なのです。
 勝利者が奪い吸収した古代的で素朴な“建”の心情は、だが比較的やすやすと外来の仏たちの彩なす

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幻によって影を薄められます。けれど、地表に打ち伏せられ死の国へも落ちのびた敗北者らの泣き怨み血塗られた負の心情は・遥かに根づよく庶民の日常に埋没して却って生き伸びてはいないでしようか。またそれなりの屈折の多い心情文化を創りはしなかったでしょうか、歌、踊り、土着の信仰などの中に。この系譜を丹念に辿れば、今日の日本的ゴーゴーダンスのワイ雑感にまで行き着くかも知れず、「日本 俗情史」の源流は、何にせよ“建”を喪った負の、心情にまで遡ってみるべきです。
 もう十分な吟味の尽せぬまま、僕は世阿弥らの秀れた舞台芸術に完成される以前の能、鬼と修羅を駆 使し得た猿楽能などが、この負の心情史上ぬっと露表した最も典型的な敗北の文化ではなかったかと想 い、その血脈を、遥か神代にも遡って想像するのです。

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     私語の刻

「蘇我殿幻想」としてではなかった。雑誌「ミセス」に連載の折の原題は「史跡幻想」であった。 二年後、筑摩書房で本にする際に私の思いで改題した。より的を絞ったのであり、若干の手入れもした。連載の際も本にするに際しても、島尾伸三氏の写真が入って好評だった。今度も可能ならば入れたかったが、結局割愛した。むろん、本文理解に不都合を来たすといったことは、ない。
 この仕事のなかで、一等遠く遡る着想の根は、更級日記にあらわれる竹芝寺への関心であろう。高校のたしか二年のとき、岩波文庫でこの王朝日記をはじめて読み、学内の新聞に「更級日記の夢」といった一文を寄せた記憶がある。とくに「夢」の記事の特徴的に数多い日記なのでそういう表題を得たのだろう、何をどう書いたか、生憎と新聞が手もとに残っていない。しかし、そのものズバリの「竹芝寺縁起(一)」という小説らしきものを、他の学級の雑誌「憧僚」に載せたのが残っていて、後に長篇『慈子』の後半へ生かした。(二)も書き出していたはずだが、棒折れした。
 余談にわたるが、小説を書きたいと試みた最初は、まだ丹波に戦時疎開する以前であったから、おそくも国民学校三年生までであった。ありありと記憶にある、それは、講談本まがいの、誰だかが武者修行に旅立つ場面であった。しかし何かの紙の裏へきちんと「筋を引いて」書き出した

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にもかかわらず、三行と進みえなかったのである。
 新制中学になってから、あきらかに小説を一本書いた。「襲撃」だか「襲来」だか。放課後の校庭が、近隣の荒くれに襲われて教師も生徒も校舎内に立て籠るという、半ばは体験的なものであった。国語の男先生に提出したが、黙って首を横に振られ没収の憂き目をみた。ひょっとして、 出来ばえは及ばずとも鏡花の『蛇くひ』に相当する手のものであったろうにと、今もときどき思う。だからこそ、また、先生は私に「書くな」と禁じられたのであろう。私の背負ってきた京都は、ただの観光京都では、ない、のである。
 高校へ入ってからは、もっぱら短歌を作っていた。中学時代の短歌は、国語の給田みどり先生に、高校では国語の上島史郎先生に、ずっと作品を見ていただいた。両先生は、今もこの「湖の本」を毎回お買上げ下さっている。他にも、実に十指にあまる恩師のご助勢に、この仕事は支えられている。恐縮の一方で、身の幸せを噛みしめている。
 ところで高校に、文芸部が出来ていたのを、私は気づかなかった。よしよしそれならばと「山門」という小説を書いて出かけて、車座のなかで読み上げた記憶がある。数人の部員がうんともすんとも言ってくれなかった記憶もあるが、確かでない。確かなのは、それきり出て行かなかったこと。山門とは知恩院三門のことで、その巨大な夜の闇にまみれてセクシィに手荒い青春を書いたのが沈黙を強いたらしい。作品は捨ててしまった。
 で、話題を元の「竹芝寺縁起」にもどすが――、その竹芝寺が現在のどの地域に在りえたものか、大学を出て東京で出版社勤めを始めてからも私は、編集や取材仕事のひまをぬすんでは久し

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い疑問を実地に追掛けた。追掛けながら、ますます不審を募らせていた。
 いったい拠るに足る、どんな伝承がこの根には在ったのか。菅原孝標女の頃からどれほどの時間を遡っての竹芝寺草創で、ありうるのか。ま、しかし、それは本文を読んで行って下されば、本文自体、幻想という以上に実地の旅を重ねながらの「謎解き」なのであるから、あまり余計なお喋りは避けておこうと思う。
 旅は時に一人で寂しく、時に島尾カメラマンと当時は編集担当者いまは作家として活躍の田名部昭(田辺兵昭)氏とが同行して、愉快に、一年続いた。心嬉しい、いい一年だった。一度だけ、竹内峠を越えて、河内の太子町に椿の美しい石川麻呂ゆかりの仏陀寺(ぶつたいじ)を訪れたときなど、まだ小学生だった建日子(たけひこ)を連れて、父子で二人旅もした。当麻寺の境内に結いまわした土俵で、うららかに陽を浴びて相撲をとったりしたのが懐しい。足をのばして滋賀県の能登川町に、初めて、私と母を同じの長姉川村千代を訪ね、門口で車を待たせたままほんの三、四分の立ち話で別れても来た。母譲りにか、短歌を作る姉だった。町内にはこの姉が建てた我々の生母の歌碑が出来ていた。姉とは、それだけが今生の別れになった。そのあと『みごもりの湖』舞台の五個荘町の石馬寺へも立ち寄り、米原駅から深夜のこだま号で東京へ帰った。客は、車両に我々二人しかいなかった。二人とも興奮で眠れなかった。
 昭和五十二年のことだから、もう一と昔を過ぎて、この本の発行名義人である建日子も、これが刊行の時分には、大卒就職の「内定」だか「確定」だかへ漕ぎ付けているかも知れない。いい「旅」立ちをして欲しい。

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 それはさておき、長篇『みごもりの湖』を書き下ろしていた時期が、ちょうどこの『蘇我殿幻想』の発端をなす手紙を一読者(常住郷太郎氏)から貰い、それを気にかけ気にかけ、しかも追究を放置せざるをえなかった時期に重なっている。だが手紙にもある『秘色』や、また『みごもりの湖』を書くべく、大化を遡る昔からこつこつと古い本を漁り続けていたことが、結果的に小説ではないが『蘇我殿幻想』への、けっこうな予習になっていた。
 仕事というのは、妙なめぐり合せに恵まれて、それがただの偶然と思われない成行きを辿って行くものである。その方が仕上りも毅いのである。レールを敷いてその上を平均速度で走って目的地に到達するといった仕事は、つまらない。人には何もしていないように見え、気らくに遊んでいるようにみえ、その実は死んだ方がましだと思うほどクタクタになっている時に、仕事は実りかけていたり、熟しかけていたり、動きかけていたりする。そこを果敢に跳びついて掴む気力、精神力、集中力。それが弱くなれば、つまり書けなくなるのだろうと想像している。もやもやと頭のなかにいつもいつも、だから、網を張って待ち受けている。その「網を張って」と謂う辛抱のいる「待ち」の表白が、つまり私の場合はエッセイになる。
 私は、道草の多い人間である。それならば道草を摘むそれ自体を丁寧にすれば、いい。私のエッセイは、ある人からはよけいな道草だと思われている。もっと小説を書いた方がいいと忠告してくれた人も、いる。そうかも知れない。そうでないかも知れない。エッセイは小説への助走であり伴走であると思い決めているのである。
 だから私のエッセイを、作者の楽屋ぱなしであるかに事実・事実と受取られない方がいい。エ

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ッセィが、そっくりフィクションとなりそのまま小説世界を創ってしまう。創れるように、用意してエッセイの文章は書いている。たとえ評論しながらでも、それが小説表現へ動き出そうものなら、惜しげなく論証など投げ出し小説へ走らせる気で書いている。あつかましく「小説家」を名乗っている、これが本当の理由であろうか。
「消えたかタケル」は、太宰治賞受賞後の事実上の処女エッセイであることだけを記しておく。
 さて「湖の本エッセイ」の第二冊刊行がいつになるかは、まだ、決まらない。維持の問題もあり、小説を主に、ときどきエッセイを挟むかたちで当分は行きたい。だが、エッセイをどんな風に編集し刊行するのかは決めている。今回のような長篇は独立させるが、短編は、「秦恒平の古典感覚」「美術感覚」「文芸感覚」「京都感覚」「言語感覚」「歴史感覚」「人間感覚」「美の感覚」といった具合に再編集し、それぞれが巻を重ねて多彩に続刊して行けるよう願っている。私の絵は淡塗りに色を重ね、広くはなくとも深い「湖」の景色をと願っている。景色には、おのずと統一された遠近法がはたらいている。その景色をたんに教養の所産であるかに眺めたい人は、顧て自身はどこに立っているのかを見直して欲しい。
 この「私語の刻(とき)」も、今回のように作品に触れた話がいつも必要とは限らず、むしろ、ある程度の順序を保ちながら、タイトルにふさわしい思い切った文壇と出版への「私語」などを、綴り続けてみようかな…とも思っている。
 なお、残念だがこの「エッセイ」シリーズの増刷に期待はもち難い。いずれも初刷本が最後本とみて、この際、ぜひ継続してご購読下さい。

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