電子版 秦恒平・湖の本 創作52




秦 恒平 自筆年譜(一)

 「太宰治賞まで」



 凡 例

 一 この年譜は、出生の昭和十年(一九三五)から医学書院勤務中に太宰治賞を受賞した昭和四十四年(一九六九)の歳末までを「第一部」とし、昭和四十五 年(一九七〇)から医学書院の勤務を退き作家として自立した同四十九年(一九七四)までを「第二部」とし、昭和五十年(一九七五)から同五十四年(一九七 九)までの五年間を「第三部」とし、昭和五十五年(一九八〇)から同五十九年(一九八四)にいたる五年間を「第四部」とし、同六十年(一九八五)から昭和 六十四年即ち平成元年を経て同三年(一九九一)にいたる七年間を「第五部」とし、同四年(一九九二)から同八年(一九九六)にいたる五年間を「第六部」と し、同八年(一九九六)以降新世紀に至る間を「第七部」とする。

 二 第一部では「作家」前史を、第二部ではいわゆる「二足わらじ」時代を、克明に記載した。中国およびソ連への二度の旅を含む第三部と、その後に三種 (新聞、月刊誌、週刊誌)の連載が相次いだ第四部とでは、「作家」生活をつとめて具体的に記載した。第五部では創作と執筆の活動に加え、『秦恒平・湖(う み)の本』の創刊・刊行の日々を記載した。第六部では作家活動・出版活動に加えて、東京工業大学工学部「文学」教授への就任から六十歳定年退官に至る日々 を、第七部では退官後、日本ペンクラブ理事・委員長・館長等としての活動や電子メディア・ホームページ等による創作や執筆活動を中心に記載した。

 三 「作品」の成って行く基盤や経過や背景がすこしでも具体的に見え、見えはじめることが「創作者年譜」の本来と考えて来た。そのためにも執筆事情だけ でなく、公私にわたる生活者としての批評や行動を埋没させてはならないと考え、ときに些事や私事を避けず、適宜取捨し記入した。一の「年譜」試行と考えて いる。取捨も表現も不十分な模索の域を出ていないが、記載した限りは正確を期した。

 四 別に「単行本等・湖の本書誌」および「全著作年表」を詳細に制作し、執筆関連の大概はそれに譲っている。が、おびただしい著書の贈答、書簡の往来、 出版社の会合やまたごく私的な会合、読書、また若い頃に観た映画などは、必要と思うものを例外に、概ね割愛した。なお遺漏が多いと思う。

 五 第四部までは、昭和五十九年(一九八四)八月末日、医学書院を退社満十周年の記念に作製し、限定版豪華本『四度の瀧』(珠心書肆・昭和六十年元旦 刊)の巻末に「単行本書誌」「全著作年表」とともに付録として収録した。
 このたび全面にわたってより正確を期し、第一「作家以前」を「太宰治賞まで」と改訂した。第五部以降は新たに書き下ろして行く。
 なお歳末二十一日生れで、数え歳では「十日で二歳」になった。本年譜では誕生日に至る満年齢で示し、十二月二十一日以後の年内十日間は、箇々の斟酌に委 ねた。        平成二十一年正月 





 自筆年譜(一)  「太宰治賞まで」

 昭和十年(一九三五) 一歳未満

 十二月二十一日、京都市右京区に生れた。恒平(こうへい)は戸籍上の本名、平安京生れを示すと。
 保存されていた原戸籍謄本の記載によれば「父」吉岡恒「母」深田ふく「戸主」は吉岡恒平「出生」昭和拾年拾弐月弐拾壱日「本籍」は京都市右京区西院(さ い)乾町四拾九番地で、「滋賀県神崎郡能登川村大字能登川参百拾壱番地戸主深田太郎母ふく右京区西院乾町四拾九番地ニ於テ出生父相楽郡當尾(とうの)村大 字尻枝小字縄手八拾七番地戸主吉岡誠一郎長男恒届出昭和拾壱年五月弐拾弐日受附父母ノ家ニ入ル事ヲ得サルニ因リ一家創立」とあり、「前戸主」「族称」「前 戸主トノ続柄」欄はみな「空白」の朱印が捺してある。「右謄本ハ戸籍ノ原本ト相違ナキコトヲ認證ス」として昭和拾四年拾月廿参日に「京都市右京区長福本幸 三郎」が、また同趣旨を昭和廿参年参月拾九日に同区長中島定男が認證している。
 父吉岡恒(ひさし)は未婚の学生、明治四十四年(一九一一)二月十一日生れ。彦根高商を経て神戸商科大学に合格したが就学せず。母深田ふくは寡婦、明治 二十八年(一八九五)七月八日生れで、すでに一女(川村千代)三男(深田太郎、同英作、同房三)があった。父は彦根高商在学時に彦根市内の下宿の女主人で あった母に出会った。戸籍謄本によれば、恒平は京都市右京区に生れて父母の籍に入るを得ず、同区西院乾町四十九番地(父母同棲の借家或は助産院)に一家を 立て父方の姓(吉岡)を受けた。同父母の兄に北沢恒彦(昭和九年四月二十二日生まれ・名は父母彦根の出会いを記念したと。京都府立鴨沂高校、同志社大学法 学部卒。作家。京都ベ平連の中核を成すなどの市民活動家。京都市役所を定年退職後、精華大学で教鞭をとる。平成十一年十一月二十二日払暁か、自決。享年六 十五歳)がいた。恒彦の妻は徳子(昭和八年十月生まれ)、恒彦夫妻の長男に作家黒川創(北沢恒・昭和三十六年六月十五日生まれ)長女にエッセイスト北沢街 子(昭和四十四年三月七日生まれ)次男にウイーン在住の北沢猛(昭和四十六年三月二十八日生まれ)が在る。
 父母の出会いと離別の経過は知らない。
 父恒は母ふくと離別後、兵役を経て、昭和十九年一月、国井千代と結婚、二女(芳賀昭子・昭和二十年、伊藤浩子・同二十四年)を儲けた。父の経歴等のこと は殆ど何も知らない。昭和五十八年一月二十五日死去、享年八十七歳。
 母ふくは父恒との離別後、大阪、奈良、滋賀、京都等を転々独居し再婚せず、大阪市に初設の養成学校で資格を得、後に謂う「保健婦」活動に従事し、短歌を つくり、病をえて永い闘病生活にあったようだが、よく知らない。昭和三十六年二月二十二日死去、享年 六十七歳。四人の異父姉兄ももう亡い。

 昭和十一年(一九三六) 一歳未満
 十二月、すでに父は去り、母は、恒彦と恒平とを京都府相楽郡当尾(とうの)村大字尻枝小字縄手第八十七番地(現、木津川市加茂町)の父方祖父吉岡誠一郎 の家にゆだねた。恒彦は吉岡姓のまま京都市左京区吉田の北沢家に預けられ、恒平は一時京都市内の他家を転々としたらしいが、結局当尾の吉岡家で三歳半ばま で育てられたらしい。「癇癪持ち」だったそうだが、祖母えい(父恒の継母)や幼少の叔父(守=後に府立木津高校長など歴任、死去)叔母(小林せつ子、岩田 恵子)らに可愛がられたという。えいに産まれた年長の叔母がなお二人(大賀せい、風早みち)いた。父の同母姉も三人あった。
 吉岡家は曾祖父多十郎にいたるまで、浄瑠璃寺の九体仏等を明治初年排仏棄釈の厄から守った大庄屋で、名産の当尾の柿など殖産にも功あり、祖父誠一郎は姫 路市助役、京都府視学等を勤めたという。父恒は、誠一郎の先妻りょうによる長男で、同母の姉三人(高橋敏、広田嘉智、相良信)があり、母とは五歳前に死別 していた。姉の子に高橋幹雄、廣田雄一(元日銀理事)廣田栄治(元総合研究大学院大学学長)らがある。
 他方、母方祖父阿部周吉は滋賀県甲賀郡水口宿(みなくちじゅく)本陣鵜飼家に生れ、神崎郡能登川村三百十一番地の阿部家に婿入りし県下の銀行、鉄道、紡 績会社等の創業に関与し、晩年は白峰と号して能登川町に隠栖した。
 祖父白峰は詩と書を、祖母なをは絵をよくした。周吉の出自には一種の「伝承」がまじり、水口の鵜飼や脇本陣小島家らには周吉が九州の某大名による落胤と いう口碑が根付いていて、原戸籍からは抹消された形跡がある。水口時代に文人志士巌谷小六(小波の父)に識られ、墨擦りをよく手伝ったともいう。三女(阿 部はつ、田中たか、深田ふく)があった。恒平らの母ふくも晩年白道と号し、歌人前川佐美雄に私淑、死の直前に阿部鏡の筆名で歌文集『わが旅、大和路のう た』(駸々堂書店、昭和三十五年六月)を出版した。平林たい子、佐多稲子、丹羽文雄らに送ったらしく激励の返書が残っている。

 昭和十四年(一九三九) 三歳
 八月、京都市東山区新門前通仲之町二百四十一番地の一、ラヂオ商秦長治郎(明治三十一年三月四日生れ)妻タカ(同三十四年五月三日生れ)を実父母と聞か され、南山城当尾から京都市内の秦家に移った。宏一(ひろかず)と名を変えられていた。此の名を疑わず、それ以前の名の記憶は失せていた。変名は吉岡家秦 家とも、生母ふくによる探索を忌避したためで、秦家に預けられるについては、京都府視学だった祖父吉岡誠一郎の縁からか、当時京都市立有済小学校の教頭 だった北沢六彦が斡旋したらしい。
 秦家には両親のほかに同居の祖父鶴吉(明治二年生れ)叔母ツル(明治三十三年五月六日生れ)がいた。まもなく人に囁かれて「貰ひ子」と知ったが、家庭内 ではそれと知らぬ顔を以後大学に入るまで貫く。
 秦家は鶴吉より一、二代前に滋賀県水口宿から京都へ出たといわれる。新門前通は南に祇園花街と背を合わし、東西に貿易美術商のショウ・ウインドウが多く 並び、恒平のためには「特設・私用」美術館の観があった。ハタラヂオ店は家業として当時はまだ異色だった。
 祖父鶴吉はかつて縄手通(大和大路)古門前下ルで「かき餅」を焼き芝居の南座ほかへ卸していた。「おじいさんは学者やで」と父はよく言った。恒平は祖父 の蔵書(漢籍・史書・古典・事典等)に多くを恵まれた。
 父長治郎は兵役除隊後に錺職(かざりしょく)から転じ、第一回日本ラヂオ技術者検定試験に合格して、業界の草分け的存在だった。恒平幼少の印象では長治 郎は重厚な人に感じられ、人も一目おくかと見受けたが、若い頃はお茶屋の台所などに上がりこんだりする遊び手だったと母は言う。根が職人で商売はへただっ た。
 母タカは京都御所に近い衣棚(ころものたな)の美術商福田家の多くの子女の末妹に生れ、生家零落後に不本意に育って不本意に秦家に嫁し、子に恵まれず恒 平を養子に入れた。上の学校へ行けなかったことと我が子を生めなかったことが、終生心の傷になった。しみじみと「人生…お金やな…」と漏らしたことがあ る。和裁の技に自信があった。自由にできる金のもてた時はすでに遅く、金も自由意思も使い道を知らない「硬い」人になっていた。舅、夫、小姑に気をつか い、恒平を育て、若い頃は健気なほど働いていた。よく吐き気に悩んでいた。父との結婚には父の妹ツルの仲介があったと聞くが詳細は知らない。

 昭和十五年(一九四O) 四歳
 家庭内で叔母ツルがすでに御幸(みゆき)遠州流生け花を教え始めていた。「昭和四年拾月廿七日授与ス」とある免許「皆伝之巻」が家元箱書の箱に遺されて いる。この年か、数人の社中とともに宝塚劇場に連れて行かれた写真が残っている。暗い中で遠くに明るい舞台の進行がこわくて叔母の膝に顔を埋めていた記憶 がある。
  父は浅見啓三を師に観世流謡曲を嗜み、ときに大江能楽堂の地謡に出演したという。家でも興に乗るとよく謡い、「美しいもの」だと恒平に思わせた。

 昭和十六年(一九四一) 五歳
 四月、秦「宏一(ひろかず)」の仮名で東山区馬町(うままち)の私立京都幼稚園に入園、園のバスで往返した。毎月配布のキンダーブックが待ち遠しかっ た。偏食児童で野菜はみな嫌い、読本やお話の好きな子だった。教室で掛け字の絵解きなどあり雨降りの日が好きだった。
 十二月八日、日本はハワイ真珠湾を奇襲、対米英宣戦布告。

 昭和十七年(一九四二) 六歳
 四月、かりに「秦恒平」の名で京都市立有済国民学校一年黄組に入学、初めて「恒平」という名に当面した。担任は吉村玉野女教諭。同じ町内に同学年の男子 が他になく、女子ばかり七人もいた。学校でも女の子に心ひかれた。夏休みまえ、学校から帰ると勉強机があった。夢かと思った。四条縄手目疾(めやみ)地蔵 の習字教室に一時通ったが、続かなかった。父に水泳の武徳会へ連れて行かれたが、水が怖く続かなかった。北沢六彦(むつひこ)の子の章平(のちに式文、京 都大学薬学部卒、慶應大学教授)の自転車を貰い、父と円山公園で稽古したが結局乗らなかった。運動会も行進も護国神社参拝も遠足すらもいやだった。陛下御 真影を奉安殿から送り迎えの大詔奉戴日をはじめ、講堂や運動場で直立不動の式がみな大嫌いだった。整列し、校門へは歩調を取って入る集団の通学もいやだっ た。一年生時代の学校に記憶少なく、すべてぱっとしなかった。校庭の朝会など全校生徒の前でしばしば名指しで叱られた。あんなに先生が叱るのは「贔屓」だ と仲間にからかわれた。密かな「好きやん」は植松弘江という隣席の女生徒だった。一学期二学期の通知簿には「タエズ他見(よそみ)ヲシテヰル。発表力ハ良 好」「算数ノ考ヘ方ガ粗略デアル。筆記モ乱暴デ結果ガヨクナイ」と書かれている。体重は二十キロに満たない。
 祖父鶴吉の蔵書に早く目を向けはじめた。老子、荘子、韓非子、荀子、列子や、春秋左氏伝、唐詩選、白楽天詩集、古文真宝や、古今和歌集講義、湖月抄、神 皇正統記、訓読日本外史、俳諧全集、歌舞伎概説、日本旅行案内、日用百科宝典、通俗書簡文範、明治美文集などがあり、父の謡本もよく揃っていた。また祖父 のものか父長治郎のものか通信教育用の各種教科書があり、「国史」を手垢に塗(まみ)れるほど読んだ。特に源平時代、南北朝時代や神話に興味をもった。 「青葉茂れる桜井の」などの唱歌を多く覚えた。当世の単行小説本などはなく、婦人倶楽部のような雑誌が三、四冊あり耽読した。但し友達の家でみる講談社の 絵本の絵や路上でのぞく紙芝居の絵をひどく怖がった。珍皇寺の六道絵にも震え上がり、死と死後を意識して夜泣きした。絵は描けなかったが見るのは好きで、 興奮した。日用百科宝典の耽読により雑知識に属する多くを得ていた。
 祖父鶴吉は無口で怖い感じの人だった。ほとんど馴染まなかったが、息子長治郎と諍い家出して疏水辺で見付かったことがあった。「恒平を連れて商売に行 く」というのが口癖だったと聞くが、覚えていない。
 家の裏に二た間の離れがあり、薮本家が戦後まで住んでいた。同い年の満子(みつこ)と母親がいた。父親は応召出征中。家の表で満子と撮った写真が遺って いる。便所と流しは別々だったが、裏と裏とで往来自在だった。満子と睦み合って遊んだ時期は短かった。

 昭和十八年(一九四三) 七歳
 濫読、視力を弱め正月休みの頃から二年間ほど眼鏡をかけた。二年生に進級直前、木津山田川に担任吉村玉野先生の自宅を父と訪ね、「古事記」の現代語訳に ちかい『日本の神話』を貰う。春休みには市内の医院で扁桃腺とアデノイドの摘出手術を受けた。通院したこの医院の待合で珍しい本や新しい科学雑誌をむさぼ り読んだ目の前の明るむような記憶がある。三学期通知簿には「修身実践ガ出来ナイデドウシテモ悪ク、図画ハモツトシツカリ」とある。修身という学科が胡散 臭く好かなかった。
 四月、二年生になり、短歌、俳句の作法を叔母ツルに教わって興味を覚えた。小倉百人一首との出会いに繋がった。祖父の蔵書に尾崎雅嘉著『百人一首一夕 話』上下があり逸話を多く覚えた。
 五月頃、叔母ツル(玉月)が主宰の南風会(活け花の会)遠足で洛南長岡へ連れられた折の、俳句「長岡やじやがいも畠てふの舞ふ」が記録されている。初の 作品か。この夏、ツルが添い寝の枕もと敷居際へ小蛇が現われ、蒲団のまま宙を跳んで遁れた。トラウマ(心の傷)になった。行水していても近くへよく蛇が現 われた。ツルは根性の太い実力肌だった。兄に付き、一歳若い嫂タカの頭を力で押さえうる世間智の持主だった。嫁・小姑の葛藤は終生凄まじかった。ツルは独 身を通した。
 遠足の作文が、教室で先生により読まれたりしはじめた。二年生の担任は上野寿美子先生。一、二学期通知簿には「少シ注意散漫ニシテ成績ニ正確サヲ欠ク」 「努力家ナレド注意散漫ナリ」とある。貼りだされた廣い世界地図の小さな日本列島を見て、戦争に勝てるワケがないと友人に言い、職員室前の廊下で男性教師 に張り倒された。家の中で独り遊びし、畳に腹這いよく大千世界を空想した。校庭で強いられる直立不動長続き競争などに気が無かった。身長は百二十センチに 満たなかった。

 昭和十九年(一九四四) 八歳
 三学期通知簿には「勉強ハヨクワカツテイマスガ、作業粗雑デス」と書かれている。成績は体操と修身が良上、他はすべて優。
 四月、三年生になる頃から、ひそかに小説家を志望。武者修行の話を書きだしすぐ断念、容易でないと実感した。婦人雑誌の竹田敏彦、川口松太郎らの連載小 説や菊池寛の単行本『真珠夫人』『恋愛図譜』に接している。「成ると成らぬは眼もとで知れる、今朝の眼もとは成る眼もと」という都々逸と、その漢字よみ 「成と不成と眼本知(がぽんち)、今朝眼本(こんてうがんぽん)、成眼本」とを雑誌で記憶し永く忘れなかった。まだ新聞小説には目を向けていない。読書好 きを父は「極道」と喜ばなかった。病気見舞いに買ってきてくれた唯一の本が『花は桜木人は武士』だった。『ノラクロ』などを例外に、漫画には興味をもたな かった。
 二学期、級長を命じられたが号令が苦手で辞退し、副級長に甘んじた。右向け右、左向け左の区別に自信がなかった。三年生担任は寺本慶二先生、のちに父の 碁敵になりしばしば来訪、徹夜でよく口論していた。寺元先生の教頭昇任に伴い担任は杉原繁先生に代わったが此の先生は覚えていない。
 戦雲くらく迫り、防空壕を床下に掘れども白川砂のさらさらで二尺と掘れなかった。灯火管制で、空襲警報などあると京都の町通りは真如の闇となった。

 昭和二十年(一九四五) 九歳
 三年三学期、「好きやん(好きな女の子=桑山信子)」の兎と、学藝会で亀を共演した。おとぎ話尽くしで即興の台本をつくったのは寺元教頭先生。
 三月、卒業生総代林佐穂の答辞に聞き惚れた。憧れていた。
 卒業式が済むとすぐ、三月下旬、同じ中之町隣組の田村信太郎・小春夫妻の紹介で、両人の故郷である京都府南桑田郡樫田村字杉生(すぎおう 現、大阪府高 槻市)の留守宅へ鶴吉、タカと共に縁故疎開、転入。雪の丹波の山奥の一軒家、どうなるかと茫然とした。崖下に異様な老女おヨッさんが独り暮らしていた。学 童の集団疎開が京都市でも一斉に実施された。有済校児童は遠く丹後の周山(しゅうざん)まで疎開した。つらくて逃げ帰った生徒もいたと聞く。
 四月、樫田国民学校四年生となる。担任は隣村僧侶の小沢光成先生。この四月から家で夜分も電灯が点(とも)せるようになり、ほっとした。五右衛門風呂も 初体験した。村内や学校で間髪入れず「貰ひ子」であるよし噂され、家族に初めて不信感を持った。但し「秦」の姓で(戸籍上は、吉岡)通学を許可してもらう べく、養親が陰の努力をしたのが漏れたか。やがて同じ杉生の街道まぢかい農家長澤市之助方の隠居所を借り、祖父鶴吉、母タカと移転した。叔母ツルは兄当主 の世話を名目に杉生をすぐ引き払っていた。
 京都市松原警察署の嘱託としてラヂオ班長を勤めていた父長治郎は、ときどき京都から老の坂、亀岡を経て自転車ではるばる通って来た。恒平もときに自転車 に乗せられ杉生と京都間を往返した。京都では町通りにも疎開跡にも貧しい畑ができていた。
 学校で教師に挙手の礼を怠りよく殴られた。上級生にもしばしば「魂を入れ」られた。広島、長崎の爆弾には戦(おのの)いた。新聞を持った手が震えた。
 八月十五日の敗戦を杉生で迎え、天皇の放送を長澤家の庭で聴いた。これで京都へ帰れると胸が明るんだ。父の意向で帰京を急がず居座った。進駐軍の噂に不 安と好奇心とをもった。父に連れられたまたま京都へ帰ると、近所の子らは陰陰滅滅の奇妙にものがなしい歌をだれもだれも口ずさんでいて幽魂のようだった。 失った親やきょうだいを痛ましく尋ね歩く歌詞だったと思うが、分からない。「赤いリンゴの歌」はまだ聞かれなかった。
 通学には隣り字(あざ)の田能(たのう)部落まで山ひとつを越えた。教科書の多くの記事を一斉に墨で消した。文語体の唱歌歌詞に多く心惹かれた。歌に概 して関心をもちよく覚えた。秋、騎馬戦で闘ううち相手の上から倒れ込み下敷きになった左肘を複雑骨折、亀岡町へ母と徒歩で治療に通った。蛇で脅され蜂に刺 され漆にかぶれ、「都会者」には学校の居心地もよくなかったが、学業はらくで、けっこう腕白だった。いたずらもした。蝮を踏みかけ、雷に打たれかけた。長 澤家の人たちにはよく親しみ、老人にも、和子、君子、藤次三姉弟にも親切に可愛がられた。村祭りで太鼓打っての八木節を聴き感動した。居合わせた父が突如 「友さんバッカリ!」と歌い手を囃したのにびっくりした。松茸、柿、木の実、ときに兎や猪を食べた。こんなうまいものが世にあるかと思った。味噌も醤油 も、もろみも、農家の自家製を食べた。砂糖はなかった。蛇にしばしば接して恐れた。農山村の日常に否応なく馴染んだ体験は、後年の処女作『或る折臂翁』や 太宰治賞受賞作『清経入水』さらに『猿』シナリオ『懸想猿』や『四度の瀧』などの下地となった。京都を懐かしむ短歌一首、田植えを歌う歌一首がこの年に記 録されている。体操、習字、図画、工作には優が取れなかった。病欠が多かった。

 昭和二十一年(一九四六) 十歳                         
 閏年の二月二十九日、前年秋に先に京都へ帰っていた祖父鶴吉が老衰死(七十八歳)し、死と葬式を体験。いくらかよそごとに眺めていたが、三月一日から 「新円」に平価切替えで父は葬儀支払いに苦慮した。
 母と二人また杉生へ戻り、四月、五年生に進級。父も京都から顔を見せては、狭い土地を借り野菜、芋、果実、稲も育てた。占領軍による農村の刀狩りに遭 い、父不在、母は二振りの日本刀を人に頼み山に隠した。そのままになった。
 初秋か、急性腎炎。母のとっさの判断で村を離れ、京都駅から東山区清水下(きよみづした)、松原通のかかりつけ樋口巌医院へ直接駆けこんだ。絶対安静、 そのまま二階座敷で入院生活。医師秘蔵のペニシリンで助かった。入院中医家架蔵の漱石全集はじめ新潮社版の世界文学全集『モンテクリスト伯』『レ・ミゼラ ブル』などを多数齧り読む。年末までに退院し、そのまま杉生へは戻らず、有済国民学校に復帰した。一学期の成績は樫田国民学校でもらっている。「授業中落 付カズ、教科ニ対スル実践性ニカク。特ニ徳操ニ注意ヲ要ス」と書かれている。二学期は有済校で成績が出ていて体操の他は全優になっている。担任は中西秀夫 先生だった。

 昭和二十二年(一九四七) 十一歳
 五年三学期の成績は初めての全優で、優良賞を受け、総代で卒業生を送る送辞を読んだが、なお「授業中、おちついてべんきやうするやう」と通知簿に書かれ ている。
 四月、六年生に。谷口薫、新田重子、松下圭介、冨松賢三(元京都市西京区長)瀬尾重宏らを識る。外地引揚家庭の子女多く新鮮だった。叔母ツルがすでに裏 千家の茶の湯も家で教えていた。好奇心をもって見習い始めた。読書と学習にも熱が入り、人の顔を見れば何でもいい「本を貸して」と頼みまわっていた。『ア イヴァンホー』『ゼンダ城の虜(とりこ)』など、また佐藤紅緑や吉屋信子らの数多くの少年・少女小説を読んだ。古本屋の立ち読みで佐々木邦のユーモア小説 も愛読した。「祐天吉松」等の古い新聞組みの講談小説もたてつづけに何篇も読んだ。武徳会水泳の帰りに図書館に入りこみ『絵本太閤記』の大冊を借り、夢中 で読んだ。華頂会館で演劇『鐘の鳴る丘』に衝撃を受け泣いた。また京都に根付いた歴史的な人間差別の実態に初めて痛烈な自覚ももった。学区は大きな被差別 区域を擁していた。校内でも具体的な差別例は露骨に観られた。追い追いに気づいた。胸にこたえた。
 思春期、そして夏休み前、心惹かれていた二組の引揚少女新田重子と学校を代表して、松原警察署主催の討論会に出席。発言できず。夏休みに入るとすぐ、新 田は人伝てに三角定規を記念に遺し横浜へ転居して行った。初めて別離を知った。谷口、新田らの他にも桑山信子、志保田純子、奥村依子(やすこ)、林貞子な ど心を惹かれる女生徒がいて、日々新鮮な情感に満ちていた。
 八月、町内の地蔵盆に近所の学生(高城氏・元持氏)の指導で演劇『山すそ』に出演した。各町内での盆踊りにも、路上映写の映画というものにも初めて心を 向けた。
 六年一組担任の中西秀夫先生の示唆や激励で、文章を書き短歌などを書くことに徐々に自覚を強めた。短歌一首をふくむ「思い出の一節」と題した作文が記録 されている。推されて「民主主義」の初代生徒会長になる。六三制が施行され、同じ小学校構内に新制の市立有済中学が同居した。中学生らの軟式野球試合や ホームランを見た。三角ベースなど流行ったが、みな代用のボール・バットだった。将軍塚に遊んで進駐軍兵士にトランプを一式貰った。進駐軍兵士の呉れる缶 詰のソーセージなど夢かと思う旨さだった。食料難だった。インフレもすさまじかった。伊勢への修学旅行に加わらなかった。成績は全優がつづいた。

 昭和二十三年(一九四八) 十二歳
 三月、有済小学校を卒業、総代答辞を読む。この月、養父母と親権をもつ実父母との陰密の交渉裡に養子縁組が成立し吉岡「姓」の問題も知らぬ間に「秦」姓 に解消していた。
 四月、この年から有済新制中学に代り有済、弥栄、粟田三小学校区から成る新発足の、京都市立弥栄新制中学に入学。一年二組、担任小堀八重子先生。田中 勉、清沢由朗や北川成子、内田豊子らを識る。同期の片岡秀公(我當、歌舞伎役者)團彦太郎(元昭和石油副社長)西村明男(元日立デバイス常務)藤江孝夫 (原子力発電研究所常務)桑山嘉三(剣神社宮司)中村敏子(小唄の名手)中村節子、川口光子、西村肇(元千総常務)らを識る。生徒会活動に熱意をもち、叔 母ツルに茶の湯(裏千家)を習い、父の観世流謡曲に興味をもって「鶴亀」「東北」「花筐」など習い、ひとり短歌を多く詠んだ。碁も父に習い始め、後には父 に四目まで置かせた。
 この夏、父の碁敵の一人(市田氏)から一冊本の『一葉全集』を貰った。一葉日記に気をひかれ、一夏、初めて自発的に日記を試み「夏草」と題した。国語担 当釜井春夫先生の感化大。この頃、布鞄には詩、俳句、短歌、作文のための帳面を常に忍ばせていた。やがて短歌の一冊だけ残った。稚拙な中から選んだ稚拙な 歌八首が記録されている。後には帳面をやめ裏白の余り物の製品チラシを畳んで、びっしり書き込んだ。裏白紙は捨てられなかった。
 この真夏、近所へ来ていた歌手美空ひばりをごく間近に見た。終生愛した。父の取引先企業の宣伝ポスターに映画女優原節子の大きな写真があり、日々美貌に 魅了された。盛大に流行の盆踊りにも熱中。この年、校内の演劇コンクールに奥村依子(やすこ)、内田豊子ら主演の劇「山すそ」(磯崎淳作)を自ら演出、全 校優勝した。
 この頃からか、生母ふくが時々身辺に現われ、校門で待ち伏せし贈物を手渡そうとしたりした。手強く避けて顔を合わさなかった。養父母に遠慮もあったが、 「知らん顔(ふり)」の我一人の建前も守りたかった。だが情けなかった、母も、自分も。

 昭和二十四年(一九四九) 十三歳
 一年生では相変わらず体育と図画の成績が振るわなかった。
 四月、二年生に。担任は初め四組給田緑先生、途中組替えがあって二組小堀八重子先生。井上寿夫、横井千恵子らを識る。全校の弁論大会で優勝した。徒競走 も急激に速く走れるようになった。跳躍が得意だった。
 夏休み前、転入して来たらしい一年上級の梶川芳江につよく、かつて類なく心惹かれた。同時に一年下の妹道子にもつよく惹かれた。急速に姉妹に、ことに姉 芳江に親しんだ。肉親や家族とは別次元の、真の「身内」と、「他人」「世間」という区別で人間を認識しはじめていた。この出逢いはまことに奥深かった。
 夏休み、数学の西池季昭先生兄弟に連れられ田中勉、福盛勉ら数名で瀬田川の水泳を楽しむ。また、叔母の社中で小学校時代先輩としても憧れていた林佐穂の 好意で与謝野晶子訳『源氏物語』二冊豪華本を借り繰り返し耽読、強烈な感銘を受ける。母を知らぬ光君が母に肖た母のような人を愛し、またその人に肖た妻を 得て終生愛した「物語」だと読んだ。
 二学期の組替えで、転入の北村洋子(のち浜作女将)を識る。
 秋、毎日新聞が谷崎潤一郎『少将滋幹の母』を小倉遊亀の挿絵で連載し始め、大きな出逢いとなった。初めて読み通した新聞小説であり、こういう小説が書き たいと思った。
 この年から、また眼鏡をかけ始めた。自転車を駆って三条蹴上や知恩院瓜生岩や円山左阿弥の上などから、急坂を疾走して下るのが楽しみだったが、二度、車 と接触した。知恩院一山に殊に親しんだ。
 十二月二十五日、日記『無明抄』を書き始めた。この年から五段階評価に変わり、評価は三十七項目に亘った。凧揚げは下手、羽根突きは得意だった。

 昭和二十五年(一九五〇) 十四歳
 二年三学期、梶川芳江にますます親しみ感化を受け、「姉さん」と慕った。芳江は、発言の過激をたしなめ、「ほんまのことは言うもんやないの。分かる人に は言わんでも分かる。分からん人にはなんぼ言うても分からへんの」と諭した。「中学の女の子がこれほどのことをさらりと言う。京都は奥深い」と後に数学者 森毅を驚嘆させた。遺憾にも芳江の教訓に今なおしばしば背いて臍を噬む。
 三月、梶川芳江の卒業を見送り、総代送辞を読む。芳江の手から春陽堂文庫の漱石作『こころ』と小型ノートに書いた手紙を貰う。芳江は市立紫野高校へ進 学、一時転出か寄留かこの頃から芳江の所在不定不明、しきりに逢いたかった。二三度の文通があった。以後『こころ』を永く繰り返し読み、後年俳優座での脚 色上演や独自の「読み」に繋がった。また芳江の手から借り読みしたスタンダール『赤と黒』など数多い西欧小説の名作へ急接近した。北原白秋詩集、若山牧水 歌集、徳富蘆花の小説なども愛読した。
 三学期の担任所見には小堀先生が、「出席状況、成績ともに難のうちどころありません。学校内外行事のすべてに対しても何時も優秀な出来ばえです。性質も 明るく、各方面に恵まれました。自分をよく反省し常にすくすくと伸びて大きな望みに一路お進みなさい」と書いて下さった。この学年で相変わらず稚拙で取る に足りない短歌四十首ほどから「一人子をかこつ歌」など十四首が記録されている。
 四月、三年進級、西池季昭先生担任。生徒会長に選挙される。小原一馬、田中勝、安藤節子、橋本嘉寿子、横井楽代、松原須美子らを識る。梶川芳江を慕い続 ける。茶道部に入り芳江の二人の妹梶川道子、貞子と親しむ。道子の親友芦田好美を識る。先生に代り手前作法を指導。夏休み、菅大臣神社宮司でもある西池先 生宅に数人で解析を習いに通う。この夏も先生兄弟に連れられ瀬田川の水泳を楽しむ。
 秋、箱根、江の島、東京へ修学旅行。この時から短歌制作に熱が加わる。旅次、日本橋三越で宮本二天の絵を見付け、宮本武蔵だと知り感銘を受けた。旅行か ら帰宅しこんこんと一昼夜眠る。旬日を経ず、十一月十八日、二代目の京都駅全焼。
 図画の橋田二朗先生(後年、創画会会員)を識る。以後久しく公私に啓発を受け、また自在に作中や文中で役割を負ってもらうことになった。仮託も多いが、 「茶の湯で大事なんは『自然』ちゅうことやで」と教えられた。対置される「趣向」に気づいた。
 この年、おさない戯曲一篇を書き、小説「襲撃」も書いた。小説は差別問題に触れていて釜井先生の手で破棄された。乏しい小遣いで『徒然草』やシュトルム の『みづうみ』など、また島崎藤村『春を待ちつつ』など、主に星一つ(十五円)の岩波文庫を買い始めた。谷崎潤一郎の『吉野葛・蘆刈』も大切な一冊で熱愛 した。運動会リレーで、小学校以来どうしても勝てなかった奥谷智彦をアンカーで抜き去り優勝した。嬉しかった。映画『ジヤンヌ・ダルク』に感銘を受け、イ ングリット・バーグマンの佳い写真を北村洋子にもらった。二学期の通知表に、「熱心でよく努力します。成績申し分なし。人格の養成につとめられたし」とあ る。保護者面接で「圭角あり」と母は聞いていた。「真珠よりもダイヤがえぇ」と思った。この年、朝鮮戦争はじまる。

 昭和二十六年(一九五一) 十五歳
 正月、岩波文庫『平家物語』上下をお年玉で買う。山田孝雄の解説による源資時=正仏・生仏説が印象にのこり、『徒然草』とともに後年の創作に「道」をつ けられた。
 三月、弥栄中学卒業、総代答辞を読む。一日の病欠で皆勤を逸した。「君が努力を怠った時、君の進歩は停まるだろう。あらゆる面でよく頑張りました。卒業 後も、つつましい態度で、頑張って下さい」と西池先生餞けの担任所見が通知表に。梶川芳江、道子、貞子三姉妹から卒業祝いに立派なインクスタンドなど貰 う。
 この学年、百三十六首のうち稚拙見るべき無き五十八首が記録されている。
 四月、市立日吉ヶ丘高校普通コース入学。当時全国に類のない美術コースを併設し、市立京都美術大学(現、京都藝術大学)構内の木造校舎に同居していた。 校庭での入学式前に「君に逢う嬉しさに」と「水色のワルツ」が放送で流れたのには驚いた。智積院境内に接し、まぢかに博物館、三十三間堂、妙法院、日吉神 社、熊野神社、豊国神社、後白川法住寺御陵などあり、よい一年だった。短歌、茶の湯、夏は盆踊りに熱中した。友達と相撲も楽しんだ。百メートルを十二秒九 で走り、走り高跳びは百六十センチ跳べた。
 創元社版『谷崎潤一郎作品集』を日々の昼食代を溜めて買い揃え、愛読。小林秀雄で喧(かなび)すしい中、ひとり「谷崎愛」を以て任じた。堀辰雄『風立ち ぬ』や井伏鱒二の作品など、相変らず人に多く借りて読んだ。貸してくれたもの静かな女生徒の行方も知れず名も忘れた(沢守和見?)が、のちの創作の女の一 原型を成したように思う。「窓によりて書(ふみ)読む君がまなざしのふとわれに来てうるみがちなる」と歌集『少年』の冒頭に歌っている。習作であろう「美 しい季節」を書いたと記録されている、が。倉田百三『愛と認識との出発』『出家とその弟子』阿部次郎『三太郎の日記』なども教室で勧められた。
 のち一時「菅原万佐」の筆名を用いるに当たって姓や名の一部を借りた三人の元気な女生徒(菅井チヱ子、原田純江、樋口万佐子)とも親しんだ。
「ポトナム」歌人の上島史朗先生の国語授業に力を付けられた。この頃から短歌制作が日々の大きな部分を占めた。この年、七十六首が記録されている。得意学 科と不得手な学科の落差が激しくなった。
 夏休み、中学時代の給田緑先生に薬師寺、唐招提寺へ連れて戴き歌を作った。古社寺や仏像の魅力を初めて教わった。播磨屋の籠釣瓶など南座顔見世、観世や 金剛の能、文楽にも機会あるつど親しんだ。この頃、生き別れのまま京都市立鴨沂高校二年生だった実兄北沢恒彦は、朝鮮戦争反対から破壊活動防止法反対へ、 火炎瓶闘争を含む学生運動に烈しく身を投じていたという。

 昭和二十七年(一九五二) 十六歳
 三月二十七日、叔母宗陽を介して裏千家許状を「入門小習」から「四箇伝」さらに「和巾(わきん)」「茶箱」まで一度に受ける。
 四月、二年生進級時から泉涌寺東福寺に近い日吉ヶ丘高校新築の校舎へ移転。京都の自然と伝統へ関心を深め、また仏教にも心惹かれ、高校で識った天野悦夫 (遺伝学者・福井大学名誉教授)と洛西嵯峨野をめぐるなど、独りでもつとめて古社寺を訪い、ことに校舎から近い泉涌寺一帯、月輪御陵の界隈をよく歩いた。 まぢかに東福寺一山もあった。この環境はあたかも我が「文学予備校」の観があった。斎藤茂吉『朝の蛍』『万葉秀歌』高神覚昇『般若心経講義』鈴木大拙『禅 と日本文化』などの感化を受けた。
 四月新学年、堀口捨己設計の茶室雲岫席に拠って校内茶道部を発足させたが部員が集まらず、上級生小沢初恵と二人きりの稽古が多かった。作法は、教えた。 日に十五円の昼弁当代を溜め岩波文庫など買い意図して日本古典に親しんだ。同学年の村上正子を識る。村上他と『更級日記』『紫式部日記』などを輪読。校内 新聞に「更級日記の夢」論を発表。角川書店版「昭和文学全集」も横光利一『旅愁(全)』配本第一冊から全巻買いはじめた。本代のため昼飯はほとんど抜いて いた。
 八月半ばより、養父に情事の絡んだトラヴルあり、家内荒れ、収拾に力及ばなかった。人づてに梶川芳江に誘われ、八坂神社樓門のそばで「挫けないで」と激 励された。芳江の二人の妹道子、貞子を心底親しく大切に感じていたが、感情の烈しい道子とは緊張が強かった。道子はそれでも親友芦田好美の導きで日吉ヶ丘 へも時折訪ねてきた。この頃か、道子と、中河與一の小説『天の夕顔』をともに愛読した。
 ひやかしに立ち寄った校内文藝部のために、性的な内容を含む小説「三門」「山の中」を書いて読み上げ、好評だったが原稿は破棄。二年七組学級雑誌「憧 憬」へも飛入りで小説「海辺のファンタジア」更級日記に取材の「竹芝寺縁起(一)」や短歌など寄稿。後者は後に長編『慈子(あつこ)』の中へ生かす。
 十一月十四日、上島史朗先生以下有志と恭仁(くに)京址を文学散歩、歴史風景に参入の体験をえた。上古の世界に関心を深め、歌を作った。この頃から上島 先生ら教員有志の「日吉ヶ丘短歌会」に招かれ生徒ながら独り参加。短歌は毎週上島先生にみせ爪印をつけてもらった。この年、短歌二百六十二首が記録されて いる。卒業までずっと丸坊主で、「坊主」「坊主」と呼ばれた。

 昭和二十八年(一九五三) 十七歳
 後の歌集『少年』の歌の多くをこの年から以降に詠む。一月から二月へかけ、自分の歌が変ったと自覚した。茂吉の歌、達治の詩から「朝日子(あさひこ)」 という古語を覚え、後年、長女の名となった。東福寺、泉涌寺、観音寺、ことに泉涌寺来迎院に心惹かれよく通った。こんなところに「人を置いて通いたい」と 想像し、後の長編小説『慈子(あつこ)』の舞台となった。
 三月一日、裏千家「行の行台子(ぎょうだいす)」の許しを受ける。この月、九州への修学旅行に参加せず、積立金は書籍に替えた。
 四月、三年生に。担任、門前和(かどまえ・やわら)先生。新学期より岡見正雄先生(岩波太平記校訂等で著名な国文学者)に「枕草子」など習う。部員の一 時に増えた茶道部の指導と運営に熱を入れた。吉田貞子、中出千寿子、芦田好美、星野美佐子、古谷和子らを識る。また富永ケ子(いくこ=一水会)、半田紗千 江、鳥羽華子、伊藤絹子ら今も交際久しい人々を識る。また矢倉千恵子と識り、山口裕理子、芦田好美、芦田守美ら仲間に叔母の稽古場を借りて茶の湯を教え る。また美術コース生徒の制作に興味を覚え花輪(富永)明美(一水会会員)らと識る。国立京都博物館へも一人でよく通った。
 家庭の暗雲晴れず、電話は鳴り響き、怒鳴り込まれ、母は荒れ、父が家出したのを追い求め連れ帰れぬこともあった。夏休み、わざわざ訪れた門前先生に夜の 円山公園へ誘われ「不幸なのか」と尋ねられた。首を横に振った。「身内」を他に求め、梶川芳江と二人の妹にそれをつよく感じていた。夏休み中、弥栄中学の 茶室を借り梶川道子、貞子らと茶の湯を楽しんだ。幾つもの短歌が記録されている。夏休みから秋口へ、軽い肺浸潤により体調を崩した。大学受験の用意に遅れ を来した。
 九月早々、新刊の筑摩書房刊、現代日本文学全集8の『島崎藤村集』を買う。「若菜集」「破戒」「新生」「ある女の生涯」「嵐」が収録されていて耽読。こ とに「新生」に夢中だった。藤村との出会いだった。
 この頃から大学時代へかけ、一人で、河原町四条の大映映画館後楽会館地下の後楽小劇場やその他の映画館でも和洋の映画を立ったままでも見るようになっ た。最初に最も感銘を受けたのは黒沢明監督の「生きる」だった。ジェニファ・ジョーンズ主演の「狐」もよく覚えている。映画という藝術の可能性に魅せられ た。映画が好きである。この頃か、四条河原町の電停で沢守和見に出会っているのが、のち『畜生塚』に生きた。
 十月八日、古典愛読の道を開かれた中学時代の恩師釜井春夫先生に死なれた。この月、文化祭協賛の茶道部雲岫会(うんしゅうかい)の第一回茶会を成功さ せ、洛内外の古社寺めぐりにも独り精を出した。しきりに歌を詠んだ。
 十一月二十七日夜、自筆歌集一を初めて編み所々自注。
 十二月二十二日朝、自筆歌集二を編む。この年、二百五十一首が記録されている。歌集『少年』の峰を成す一年であった。
 担任門前和先生の薦めで、年末には校長推薦による同志社大学への進学が決った。この前後に、実祖父吉岡誠一郎の次弟、当時同志社大学英文学教授であった 吉岡義睦(よしむつ)の枚方市の家を養父長治郎に連れられ訪問している。初めて知る人であった。
 
 昭和二十九年(一九五四) 十八歳
 正月、中学時代の給田緑先生を北野紙屋川のお宅に訪う。
 三月、市立日吉ヶ丘高校卒業。この頃初めて、生まれながら「父母の戸籍」に入(い)り得ず「独り」の戸籍を立てていた謄本記事を知った。高校時代を通し て六百三十首の短歌が記録されている。
 四月七日、高校茶道部雲岫会の吉田貞子、富永ケ子(いくこ)ら六人を伴い嵯峨に野懸けの茶を楽しみ遊ぶ。
 四月、同志社大学文学部に入学、文化学科美学藝術学専攻。園頼三教授、金田民夫助教授、中川勝正助手。日本史専攻を考えていたが面接時園先生の一言で美 学に決めた。同じ美学を志していた後の日活女優原(田原)知佐子を識る。二十四日、南禅寺三門脇の天授庵で新入生歓迎会があった。先輩に片山慶次郎(観世 流シテ方)池坊専永(華道家元)郡定也(同志社大名誉教授)筒井康隆(作家)山本通夫(元付属高校長)川田年秀らが、同期に庭園作家三玲の息重森埶氐 (ゲーテ)やのちに中退した田原知佐子(女優原知佐子=故実相寺昭雄夫人)らがいた。小説を思い短歌を卒業しかけていた。この頃、喫茶店という場所に初め て入った。またこの頃、進学前の短期間、父が加入の協同組合を手伝った体験から稚拙な小説(無題)を書き中出千寿子に見せた。
 五月一日、裏千家「真の行台子」の許しを受ける。高校茶道部の吉田貞子と中出千寿子は卒業後叔母の稽古場に来ていた。国民学校の「好きやん」同級生桑山 信子も、また林貞子(景子)も稽古に通ってきた。
 七月、源氏物語宇治十帖に取材した「人間形成の文学」(同志社美学・創刊号)を発表。
 夏、大学の友人二人と若狭美浜の友人宅へ遊んだ。
 十一月一日、裏千家の「引次」を許される。茶の湯には依然熱心で、叔母の代稽古で小遣いを稼いでもいた。稽古場には小学校の先輩後輩らも多く通ってい て、国民学校で憧れた先輩林佐穂、川村良子、後輩西村龍子などがいた。弥栄中学、日吉ヶ丘高校の茶道部へもときどき指導に出向いた。稲波加代子を識る。ま た叔母に代わって出稽古することもあった。中学の梶川道子、岸部美智子、高校の吉田貞子、鳥羽華子、叔母の稽古場の西村龍子ら、ことに教え甲斐ある茶の同 門だった。
  十一月三日、高校の友天野悦夫と洛西に遊ぶ。
 大学入学後は僅かに四十五首の短歌が記録されるのみ。

 昭和三十年(一九五五) 十九歳
 正月早々、村上正子と将軍塚に上る。
 三月一日、裏千家「大圓草」の許しを受ける。この月、咲きそろう桜を「かたみ」と言い置いて、梶川芳江より嫁ぐ日近いことを四条通り路上で告げられた。 家庭の事情とみえ、嫁ぎ先も分からぬまま久しく過ぎた。妹二人とも余儀なく遠のいていた。さみだるる空におもひののこるぞとさだめかなしきひとの手をとる
 四月、二回生に進む。
 五月二十六日より六月十五日まで、虫垂炎手術と予後治療のため泉涌寺下の中島病院に入院。入院中、院長宅で請われて光悦茶籠で茶を点てた。
 夏休み、芦田好美の父上が区長だった下京区役所で只一度のアルバイト。近くに勤めていた中学以来の中村節子と時々顔が合い親しみを感じていた。
 初秋、高台寺鬼瓦席で快気祝いに懸釜。
 十月一日、裏千家「大圓真」「正引次」を許される。大学へは通うだけ、情緒不穏なりに私生活は多彩で充実していた。この頃から、高校茶道部以来の鳥羽華 子と親しみ清閑寺などにともに遊んだ。大学では土居次義教授の障壁画を前にした日本美術史の講義を楽しんだ。
 この年二度、「塔」の学内歌会に飛入り、高安国世らの高点好評を得たが以後参加しなかった。自編の歌集に短歌でなく詩や句も書き込まれ、短歌の数は激減 した。

 昭和三十一年(一九五六) 二十歳
 一月下旬、幼い継妹浩子を伴って上京途次の実父吉岡恒が突然秦家を訪れた。あいまいに顔を合わせた。
 三月一日、裏千家より希望した茶名「宗遠」を受け「準教授」を許された。茶名の「遠」一字は『老子』から自身撰した。
 四月、三回生に。
 五月、専攻科の企画で、南座に六代目中村歌右衛門「娘道成寺」を観る。この頃、美学専攻一期下の保富(ほとみ)迪子(みちこ)と識る。のち、妻となる。
 ちょうどこの頃雑誌「美学」25号巻頭に小林太市郎「春風馬堤曲の解釈」を読んで驚嘆、後年の小説『あやつり春風馬堤曲』の機縁となる。裏千家の雑誌 「淡交」を毎号耽読、小林が連載の『芸術の理解について』にも多大の感化を得、後年の小説『加賀少納言』などを胚胎。またこの頃、高校茶道部の富永ケ子、 星野美佐子、半田紗千江ら、時に新門前へ来訪・来信。また叔母の稽古場で大谷良子を、さらに妹池宮千代子夫妻と識る。この頃から、保富迪子らとカント『判 断力批判』の読書会をもつ。
 夏、熊野伊勢へ、串本、松阪など三泊の独り旅、旅中「新潮」で椎名麟三を識る。
 九月一日、各駅停車で京都から(切符は終着鹿児島県指宿=いぶすき駅まで)汽車の独り旅したが、三十五時間余の苦痛に耐えかね熊本駅下車、水前寺公園前 の銭湯に漬かり、公園にも入らずそのまま急行で京都へとんぼ返りした。途中明石で一泊を試みたが果たさなかった。
 この頃から竹内好(よしみ)らによる「国民文学論」を読み、文学ないし近代日本の文学史を考察した瀬沼茂樹らの二、三の著書を読んだ。だが、より多く映 画によって時代と歴史を教えられた。順不同に京都を離れる頃までに見た日本映画の若干を挙げる。「夜明け前」「日本の悲劇」「稲妻」「縮図」「めし」「源 氏物語」「細雪」「祇園囃子」「足摺岬」「カルメン故郷に帰る」「雨月物語」「近松物語」「羅生門」「地獄門」「夫婦善哉」「山の音」「千羽鶴」「山椒太 夫」「お遊さん」「野菊の墓」などが思い出せる。洋画もよく見た。

 昭和三十二年(一九五七) 二十一歳
 四月、四回生に。この頃より保富迪子と親しみを深める。ヘーゲルの『美学』を読む。
 六月九日、出雲、美保の関、鳥取砂丘などへ独り旅に。美保の関の宿で保富迪子、西村龍子、大谷良子宛てに旅の便りを書く。同二十五日、保富迪子らとの此 の後半年の交友記となる「真如堂記」書き始む。
 七月、請われて保富迪子の下宿先左京区真如町阪根喜代家家族や同窓沢田文子らに茶の湯を教えはじめた。高校茶道部以来の富永ケ子とこの頃往来が多かっ た。
 八月初旬、鳴門観潮と阿波踊りへ父の代理で、旅。同月末、奥日光への独り旅を経て、東京渋谷の兄保富康午(放送作家、詩人)宅に帰省していた保富迪子を 訪ね、沢田文子もともに、止宿。一緒に帰洛。この頃だったか、路上大叔父の同志社大学教授吉岡義睦(英文学)と出会い寿司をご馳走になり、「美の体験」に は西洋古典音楽への関心も大事と訓えられた。この年、茶の湯の遊びも多かった。短歌はただ六首のみ記録されている。
 九月一、二日、叔母の社中大谷良子と妹池宮千代子姉妹と池宮氏に誘われ、伊勢、鳥羽、南志摩半島へドライヴ、浜島で一泊。
 初秋以降、日々に保富迪子と親しみ、黒谷墓地の塔などでしばしばデートし話す。毎金曜日には阪根家で茶の湯の稽古続く。
 九月五日、保富と太閤坦(たいこだいら)に遊ぶ。同二十一日、主任教授園頼三先生を鹿谷(ししがたに)自宅に訪ねる。大学院進学を勧められ、父に伝えて 別段の異議無し。同二十二日、都ホテル可楽庵他で叔母の茶会盛大に二席。手伝う。同二十九日、美学西部会を手伝う。
 十月一日、NHK受験の話が降って湧き、二日願書提出。同九日、阪根家で玄々斎懐紙「翫月」を掛け月の茶会、同十二日、上京、翌日保富迪子の妹琉美子の 案内で御茶ノ水中央大学を仮り見、同十三日、NHK受験、翌日早稲田大学での美学会に寄り晩に離京、この間保富家に二泊、同十六日、迪子と大文字山へ登り 大比叡をふり仰ぐ。初めてキス。親密を増す。同二十一日、一次試験パスの通知をしたのに二次を受けに来ないとNHK電話あり、夜行の立ちづめで東上、翌 日、新橋放送会館で面接、午後検診あれど疲労のためか血尿、薬物を疑われる。保富家泊。同二十七日、保富、沢田文子と北嵯峨に遊び、厭離庵に入れてもらい 縁側で茶を点てる。同二十九日、NHK不合格通知。大学院進学へほぼ意思を固める。
 十一月二日、平安美術展で初めて平家納経を識り感動、のちのちの創作等に関わる。同四日、紅葉の茶会に能面を用いて大谷良子、池宮千代子姉妹を招く。同 七日、弥栄中学茶道部二方会の茶会を指導し盛況。保富迪子との親密深く、同十六日、紅葉の鞍馬山に遊ぶ。この頃、殆ど逢わぬ日がなかった。同二十四日、西 村龍子の「行の行台子」引次に立会う。
 十二月六日、保富迪子と鷹峰光悦寺に遊び、同十二月十日、叔母の茶室で一亭一客の茶を点て、保富迪子と婚約。微塵の迷いもなし。翌日、河原町丸善で迪子 に佳い革手袋を買い贈る。同十三日、二人で池宮家訪。同十八日、同志社栄光館でキャンドルサービスに参加。同十九日、自分の生い立ちや親たちのことで知る 限りを迪子に告げた。この頃より、喫茶店「クール」で話すこと多し。同二十一日、迪子東京の兄の家に発つ。この晩金田民夫教授宅で囲碁。この頃、村上正 子、鳥羽華子に婚約を告げた。同月二十四日、卒業論文「美的事態の認識機制」に茶湯作法に関する副論文を付し、迪子の浄書で提出した。同大晦日、叔母の埋 火の茶に大谷良子を招き、床に正月飾り付け。その後、大谷良子と八坂神社におけら詣で、知恩院除夜の鐘を聴きながら清水寺に参る。月光絶佳。河原町大黒屋 で年越し蕎麦を祝う。

 昭和三十三年(一九五八) 二十二歳
  一月二日、久々に父と碁を囲む。同六日、夕過ぎて迪子帰洛。保富家では婚約に原則肯定・好意的で、迪子の卒業を待ち関西での就職を勧められてきた。後見人 の磻田一郎氏は原則迪子の主体性に任せる一方、秦恒平についても十分調査の意向ありと。同七日、初釜。夜、円山知恩院など迪子と歩く。同八日、父に連れら れ迪子と三人三条河原町で夕食。夜、真如堂へ。同九日、迪子、牧野恒子来訪、テレビで兄保富康午(庚午本名、康午筆名)脚本のバレー観る。午後阪根家初 釜。秦と阪根家とを互いに往来しきり、連日のように逢うが常であった。この日、迪子は沢田文子に婚約を告げた。この頃より、父母と将来に関わる話し合いを 重ねた。この頃より、迪子の「健康」話題になる。同十三日、銀閣に遊ぶ。迪子共働きの意欲有り。同十四日、迪子母命日に秘めた苦悩を告げる。同十六日、清 水から九条山を経て、石山寺へ遊ぶ。同十八日、迪子と将来を語り合う。迪子両親の死と母の病名を告げ自分にも出血性素因のあるやもしれぬことを初めて語 る。就職自立と、京都を離れ医学を頼む思いを即座に強く持つ。日記「此道抄」此の日付で終わる。同二十一日、磻田一郎然るべき人を仲に立ててはと迪子に助 言。池宮千代子の助言も受く。初めて母に婚約をうち明ける。同二十二日、高校以来の同学村上正子に迪子を引き合わせ、黙々と三人で御所を歩く。この頃、年 長の大谷・池宮姉妹再三の助言に多くを享く。同二十三日、日吉ヶ丘美術コース展を二人で観る。この頃、デカルト『省察』読む。家の内沈黙に陥る。同月三十 一日、阪根家に磻田氏訪れて迪子側の意思統一はほぼ成る。この夜も父母と話し合う。父穏やかに、母は感情的に難色。恒平が養子であること、複雑な生い立ち のこと、僅かながら初めて親子の話題となる。婚約と結婚への道難渋の気配日増しに秦家、主に母にあって高まる。阪根家にも迪子後見の立場上緊張あり。
 二月一日、阪根家の最期の稽古。夜、父と話し合う。同二日、迪子とともに磻田一郎氏を大阪に訪ね会食し映画「菩提樹」三人で観る。この頃、二人で僅かず つでも共同の貯金を始めていた。同七日、丸善で迪子にカーディガン買う。同九日、親子三人の話し合いは母が泣き伏して混乱。なるべく両親と迪子とのふれ合 いを計る。この頃、意識して二人で京都各所をしきりに歩く。同十日、迪子加わり秦家で食事、四人で麻雀など。同十二日、迪子上京。同十四日、午後四時半か ら卒論「美的事態の認識機制」試問。園教授の学説「美的事態」を巡って一時間四十分に及ぶ。金田先生は「点」的直観を面白いと評され、園先生は着想の掘り 下げなど論理の進め具合はとても面白くて佳いと思う、少しずつ客観性を持たせて行きなさいと評された。同十五日、重森埶氐に資料室で「学問か女かどっちか にしろ、どっちにしろ頑張れよ」と。この日、満足稲荷裏北野屋で追い出しコンパ。卒論を旧かなで書いた者がいて感心したと金田先生。この頃、ずっと旧かな で書いていた。隠し藝に平手前を空(から)手前で見せる。ニューアサヒ、アサヌマなどで終夜。妹受験の手助けに帰省中の迪子と交信絶やさず。クローチェの 『美学』訳し始める。『カラマゾフの兄弟』読み始める。同十七日夕刻より母、旅に。同二十三日、大谷・池宮家に誘われ叔母社中小畠芳江と五人で奈良法隆寺 方面へドライヴ。この頃から、現在の秦家での同居生活を不自然で無理と断念に傾く。同二十六日、祖父鶴吉十三回忌法事。この頃『臨済録』『歎異抄』読む。 この頃から、「たる源」の子の家庭教師を引き受ける。同二十七日、迪子からセーターの贈り物届く。ハイネの『ドイツ古典哲学の本質』買う。英訳漱石の『こ ころ』読み出す。ドイツ語で『アルトハイデルベルク物語』も。ラ・メトリ『人間機械論』その他、この頃読書旺盛。
 三月五日、建仁寺東陽坊月釜に。この頃、南禅寺看雲会など月釜に定例に参加。同七日、南座で前進座公演観れど感心せず。同八日、中川一正先生を大覚寺畔 に訪ねる。同十五日、四年間の成績証明届く。夕過ぎ、先輩郡定也と会い話す。同十七日夕刻、迪子、琉美子を伴い帰洛。同十九日、叔母の茶室で保富琉美子を 迎え、牧野恒子と迪子相客に、桃の春の茶会。菱岩の料理。同二十日、大学院の願書提出。池宮家の犬二匹を借りて迪子琉美子牧野恒子と御所に憩う。晩、金田 先生宅へ囲碁に。
 三月二十一日、同志社大学卒業式。佳い一日。同二十三日、姉芳江昨秋より病勝ちと妹梶川貞子に朝出逢い聞く。産後の肥立ちよくないと。胸傷む。午後、保 富姉妹と光悦寺から原谷越えに金閣寺に遊ぶ。同二十四日、誘い出され阪根・牧野母娘、磻田、保富姉妹と南座前で会い京極松竹座二回特別席に入って淡島千 景・若尾文子の幕末映画「蛍火」観る。磻田氏に映画に誘われたのは二度目。この前はトラップ一家の「菩提樹」だった。母機嫌悪し。同二十六日、琉美子帰 東、見送る。同二十七日、大学院文学研究科哲学専攻の入学試験。同二十九日、弥栄中学茶道部の後輩岸部美智子の母上来訪、岸部が祇園の舞子になるのを避け 母の嫁いでいた堺市の高校に合格した事への礼に見えた。岸部に相談を受けていた。岸部の母は祇園の名妓であったが決意して結婚し、岸部も祇園で育ち藝もよ かったが廓の風を厭い母のもとへ行きたがっていた。茶の湯もよく習っていた。叔母の稽古場では有済校の後輩で永く馴染んできた西村龍子を最も愛していた。 同三十日、院試の結果を案じながら迪子の部屋でバッハのシャコンヌをハイフェッツで聴く。同三十一日、大学院合格。
 四月、家気まずし。同五日、迪子の誕生日を金閣から衣笠山に遊ぶ。同九日、同志社大学院文学研究科哲学専攻に入学金二万七千五百円を納める。この日、母 は大阪毎日ホールへ。父、叔母、迪子と四人で新門前の家ですき焼き。翌日、母激す。婚約は特に母に容認されず、その後曲折をへて離京を決意し、職を東京に 求め、大学院は内心に断念。
 四月八日から十四日、歌集三を自編。歌との別れを果たした。
 四月十五日、寧静館四十二番教室で大学院文学研究科の入学式。美学から大森正一と二人が入学。成行きとは謂え院進学は秦家にとり奇妙な進路であった。同 十九日より二十八日早朝まで、迪子東京の兄の家に帰省。院の勉強は原書攻め。カント、ウティッツ、ボサンケ、フィードラー、フォシヨン、ヴェルフリン、 ヴォリンガー、パッサルゲ、オーデブレヒト、ヨルダー、クローチェ、アルンハイム、ラウリラ、マンロー、ゼーデルマイアー、リッケルト、リーグル等々。同 二十四日、結婚、離京、就職へ決意を書き置く。同三十日、博士課程にまで進みたいのなら万一の場合学費を出してあげると迪子。未来への心用意をしばしば語 り合う。この日、奨学金申請用の園頼三教授による人物及び研究態度所見をもらう。「卒業論文のテーマ『美的事態』は私の美学講義からえたものであるが、本 人は独自の発想と特殊の方法を駆使して展開を試み試論的な成果をあげた。本人の志向する美学への原理的体系的な考察を成就するには美学の権威ある諸著作の 原典によつて深く研究する必要がある。卒論で示した学的思考能力と熱意が独断に陥らぬ為学問的鍛錬と反省が加へられるならば美学の専門的方面で本格的のも のとなるであらう。私は本人の有能を信じ且つ学問上の方向を同じくする故に指導の責任を感じつつ大なる期待をもつものである。」と。それにもかかわらず 「美学」なる学問に或る頭打ちを自覚していた。
 五月二日、借景の洛北圓通寺に迪子と憩う。比叡も前庭の躑躅皐月も酔うように美しく最良の一日。同三日晩、五年ぶり田中勉来訪歓談。去年夏以前は「過去 完了」の世界と思う。同六日、気まぐれに朝日放送劇団受験を口実に迪子と二人で大阪に遊ぶ。夕過ぎて黒谷に。早くから黒谷墓地は二人の世界であった。同十 三日、京展で花輪明美、松村美沙の絵、中出千寿子姉妹の書など観る。この頃から、阪根家でもやや窮屈な空気あり。同十七日、ジーン・セバーグの映画「悲し みよこんにちは」を観、東福寺に遊び、四条で迪子にヴラウスを買い大原女屋で食べ、一日憩う。同十九日、園教授より特別奨学金が私にでることになったと通 知。同二十日、迪子卒論テーマにカント「判断力批判の構想力」を選ぶ。同二十二日、総選挙で社会党に投票。この日、同志社美学会で大和古寺バス巡礼。法隆 寺、中宮寺など。同二十五日、池宮家茶会に二人招かる。同三十日、倉敷に二人旅し美術館を観て初の一泊。感激あれどなお一線を越えず。神戸三宮下車を経て 帰洛。
 六月三日、母怒って家を出る。動揺せず。同六日、去年の山陰の旅から一年、「もう一度繰り返してみたいほど」の一年と結んで、日記「甃迪(いしみち)」 第二満つ。同十一日、体重十五貫に減る。同十四日、迪子父茂命日。二人で南座東西合同歌舞伎観る。寿海、歌右衛門、中車、勘弥、友右衛門。「鵙屋春琴」の 脚色を不十分と思う。「十種香・狐火」歌の八重垣姫美しく、「伊勢音頭」勘弥印象的。あと「すえひろ」で食事。泉涌寺で蚊に襲わる。同十七日、御所ではじ めて梶川芳江のことを迪子に話す。同二十日、太閤坦(たいこだいら)に遊ぶ。この頃、いつも景勝の位置に一緒に座り込めるビニールシートを用意していた。 同二十二日、迪子初めて「就職してね」と頼む。同二十四日、井澤屋でハンドバッグ買う。
 七月一日、河本教授の教室で、初めて「球を画面に絵画は可能か」につき話し、興味と関心を惹く。同四日、大学生協の人を介し生母ふくの接触を働きかける 手紙受け取り、迪子に読ませ、返却。中学以来の拒絶徹す。母病気、兄恒彦とは交渉があるらしいと。気沈む。語学試験不調。同八日、高雄にともに遊ぶ。同十 一日、南座でともに文楽「鏡獅子」「伊賀越道中双六」「阿古屋」観る。同十四日、迪子を傍らにおいて母と激しく衝突、がんとして迪子と倶にと譲らず。この 頃から、迪子腹痛を訴えること多し。同十五日、奨学金から二万円定期預金に。同十八日、中学時代の三冊を残し、去年六月までの日記すべてを消却処分。同二 十二日、迪子夏帰省。
 八月二日、迪子経由で磻田一郎「積極的に賛成」と手紙。同六日夜、訪れた佐藤勝彦と家を出てそのまま一人東向きに旅立つ。伊豆伊東一碧湖を経て、品川へ 出迎えの迪子と逢う。保富家止宿。同八日、妹琉美子と三人で江ノ島海水浴。同十二日まで滞在し、同日、迪子と西下、途中岐阜で下車一泊、帰洛。当然、新門 前の空気甚だ険悪、「義絶」にも話し及べど動揺せず。迪子もたじろがず。同十六日、吉田山で大文字送り火観る。帰宅して家内紛糾。同十八日、就職の意向を 就職課に伝える。院中途で不利。蔵書を大方処分。見かねて叔母が初めて介入。同十九日、迪子も承知して園先生を京大病院にひとり訪ね就職の希望と事情を話 しほぼ了解された。両親叔母にも告げた。同二十日、保富の兄たちとも慌ただしく折衝や助言があり、NHK受験の便宜も出来、混乱の中でも周囲との相談や衝 突もねばり強く避けず事態を少しずつ前進させた。同二十四日、大阪外大で放送局受験。この頃、疲労困憊。父の家業もかなり手伝う。放送局受験は失敗。同三 十一日、日記「甃迪」第三満つ。この頃に、小説を書きたい内心を迪子に告げていた。「許せ、許せ」と言いつつ槍をふるい敵陣を疾駆する武将の話などをし た。後のシナリオ『懸想猿』や芥川賞候補作『廬山』などに多少実現したか。
 九月一日、父商用で初めて阪根家訪。迪子樋口雅子医院受診。以降、迪子とともに就職活動に入る。院を中退資格のため応募に苦しむ。同十日、二人の貯金通 帳二万円に。この頃、東京の迪子兄よりシェル石油を受験しないかと働きかけあり。同十七日、杭瀬に迪子の親友妊娠中の持田晴美をともに訪問。この頃、学内 推薦パスの先が輻輳し就職課から遠慮を求められる。連日迪子と行をともにせぬ日なし。就職戦線慌ただしく、結果も上がらず、二人して悪戦苦闘す。同二十六 日、雨のあとの夕暮れ知恩院奧に憩う。同二十九日、創元社社長矢部良策来信。
 十月四日、カーク・ダグラスの映画「ヴァイキング」観る。夜行で東上、翌朝、お茶の水で洗面、喫茶店で朝食、中央大学で東京新聞受験後渋谷の保富家に寄 り、夜行で帰洛。同八日、美学高井治茂の誘いで同期の重森埶氐、木村、西村と歓談、同十一日、洛東高校文化祭に遊び山科の秋を楽しむ。就職試験失敗が続 く。同十四日、また十七日、光悦寺に遊ぶ。同十八日、東京の医学書院願書郵送。午前二人で上京、翌十九日、東京新聞二次試験。迪子も就職試験。この時か、 美学の先輩秋田正雄とお茶の水で会い医学書院につき助言受く。午後、荻窪に迪子の田所武治叔父訪問、宵過ぎて迪子と夜行乗車、翌二十日早朝岐阜で下車し長 良河原で放し飼いの牛とまどろむ。この日、一泊。まだ一線を守っていた。同二十三日、コスモス咲き乱れて日吉が丘雲岫会。村上正子に会う。同二十四日、丸 紅勤務の日吉が丘同級生小谷恵美子に頼み、迪子服地買う。知恩院御廟に憩う。同二十六日、弥栄中学茶道部二方会。午後同窓会総会。同二十七日、迪子短歌二 首に、和す。「遠山に日あたりさむき夕しぐれかへりみに迪子を抱かむとおもふ」と。同二十九日、家内執拗に膠着、「独力で就職後他に独立せよ。靴の一足服 の上下ぐらいはしてやろう」と父に言い渡さる。同三十一日、北白川の奧に分け入り山中をさまよい狸谷に出る。
 十一月一日、諸事難渋し困る。同三日、迪子、牧野恒子と川合玉堂遺作展に。館を出て富永ケ子に出逢う。同八日、キム・ノヴァクのヒチコック映画「めま ひ」観る。この頃、疲労困憊し感情にも起伏あれど迪子と逢わぬこと殆どなかった。
 十一月十五日、大阪市内で医学書院受験、先輩石原隆明を識る。同日迪子も大阪で全音楽譜出版受験。田所紀久江叔母激励の来信。同十六日、叔母の美緑会眞 葛ヶ原西行庵で茶会。西村親娘、小畠芳江、大谷良子、小谷恵美子ら主体。同二十一日、鷹ヶ峰に遊ぶ。同二十二日、園教授と迪子と三人で錦林車庫まで帰る。 久々阪根家で食事。同二十三日、善田好日庵法然院茶会に阪根喜代、迪子と。俊成日野切、堆朱(ついしゅ)干菓子盆など。同二十四日、迪子は武治叔父紹介状 を得ての創元社受験を勧める。この頃、迪子の卒論難所に。同二十六日、全山紅葉の狸谷奥山に遊ぶ。同二十七日、皇太子妃に正田美智子内定。この日、医学書 院二次選考来報。同志社美学先輩で医学書院社員秋田正雄に発信。
 十二月一日、「赤と黒」携え夜行で上京、翌二日早朝、お茶の水、本郷、新宿を経て代官山保富家に。十一時、秋田正雄とお茶の水「コロンビア」で会い助言 受ける。二時、医学書院最終面接二十五分間。四時、関西からの二名で再度面接後旅費二千六百円支給さる。保富家で晩食終え妹琉美子に東京駅まで見送られ夜 行で帰洛。翌朝、迪子京都駅に出迎え。同五日、阪根家で迪子のピアノ聴く。迪子早く結婚したいと。同六日、迪子「カント美学」の構想につき研究発表。同七 日、医学書院採用内定。迪子も全音楽譜出版採用予定者に内定。同九日、上京保富家に泊、翌十日、最初の婚約記念日、お茶の水でレントゲン検査後会社で医学 書院社長金原一郎ら役員の面接。金原一郎社長は戸籍謄本を見ながら、「この記載を君は気にしているかも知れない。他社なら分からないがこの社は、私は、気 にしないからね」と言われた。徳とした。同十三日、繰り延べの記念日に迪子と河原町「スエヒロ」のステーキで食事、コンパクト贈る。岡崎神社から黒谷墓地 経て送る。同十五日、医学書院採用決定通知を受ける。大阪に創元社矢部良策社長を訪問面談、東京に行くことを勧めると賛成の助言受ける。迪子も大阪で全音 楽譜の面接を受け、そのあと二人で磻田一郎に会う。同十六日、結婚は早く、当然東京へと大谷良子助言。東京と関西、院と就職。ジレンマ。同二十日、迪子卒 業論文「カント美学の構想」成る。「東京に就職」と決意。
 十二月二十一日、若王子山の校祖新島襄先生の墓前で、保富迪子と二人だけの結婚式。「ふるさととその名恋ひなば山茶花の御墓べ晴れし冬日しぬばな」。こ の日恒平満二十三歳。京都で最期の誕生日の食事を、両親、叔母と食す。同二十四日、迪子卒業論文を清書提出。霊山を経て祇園会館ですまし雑煮で祝う。夜一 人河原町に出て京で最期のクリスマスイブを惜しみ「クリスマスカロル」買う。同二十五日、大津高校で滋賀県教員採用試験を受ける。ひとり義仲寺などに遊 ぶ。同二十七日、迪子東京へ。「あたまからつまさきまで<ボク>であふれそう!」と。同二十九日、京で最期の餅つき。一臼ごとに両親、叔母、 迪子らの幸せを祈りながら一心に餅つく。同三十一日、迪子全音楽譜出版入社内定を阪根家に伝える。「日記五」満つ。
 十二月、(同志社美学)5号に学部卒業論文「美的事態の認識機制―『美しく視える』事の試論―」を発表。

 昭和三十四年(一九五九) 二十三歳
 一月二日、鳥羽華子年始来訪。同三日、東福寺で村上正子と会う。いずれも東京での結婚と就職伝える。同五日、北村洋子が森川武と結婚の通知。同七日、京 で最期の美緑会初釜、大谷良子炭、恒平濃茶、西村龍子蓬莱山、吉田貞子続き薄。この宵、迪子を京都駅に迎える。同十一日、迪子母芳枝命日。「二人のノー ト」始む。この頃、秦家は婚約と就職上京用意とで紛糾の日々だった。大学でも金田教授は上京就職に反対で、園先生ともども院の学業を続け得ないかといろい ろ考えていただいた。だが意思を貫く。この頃、迪子十四貫、遺産相続上の「ややこしい」不安などうったえる。同十六日、雪の嵐峡を二人で徒歩遡行、スリル 満点。この頃、院のレポート輻輳、なお連日逢い続け迪子の教育実習に障る。同二十日、母迪子にきつく当たる、「意志のつよい人」だと。迪子の側につく。同 二十二日、迪子岩波文庫「日本唱歌集」呉れる。同二十三日、新島襄先生命日。光悦寺奥山に遊び、初めて結ばれる。「みゆきふる 冬 ひるさがり/山峡(や まかひ)の ことり な鳴きそ。」同二十五日、両親と街に出冬オーバーと背広とを買って貰う。大江戸で食事。岩波文庫の「童謡集」を迪子に買う。書籍など 整理して行く。同二十七日、また光悦寺へ。同二十八日、園頼三先生「美学体系」最期の講義を受ける。教授のそれとなき送別の話題に胸迫る。
 二月二日、日吉ヶ丘高校を訪ね上島史朗先生に会い、茶道部の稽古も覗いて帰る。同三日、最期の奨学金受け取る。一年間七万二千円。有り難かった。晩、父 母衝突。同六日、医学書院長谷川泉編集長と石原隆明と来信。同八日午後、京都祇園下河原「中里」で医学書院取締役編集長長谷川泉(森鴎外、川端康成らの研 究で著名な国文学研究者)と出社の打ち合わせ。三月始めからの出社を覚悟。同九日、預金三万二千円おろす。同十日、大学院の大森、岩田、太田君ら明徳館地 下で送別激励会。布団袋行李などと慌ただし。迪子と御所の寒梅を観る、涙とまらず。同十一日、迪子卒業論文試問、教職実習も合格、盛京亭(せいきんてい) で祝う。家内寂しい。同十二日、専攻送別会「東洋亭」で。同十四日夜、明星号増結車九時四十七分で迪子就職先のこと、遺産のこと、新居探しなどに上京。同 十五日、迪子天沼の両田所伯父らに相談。翌日、迪子全音楽譜訪問し若狭乗務面談。兄夫婦との遺産分割問題では言左右に取り合われず迪子不快。翌日、迪子地 図をにらんで新居探し思案、翌十八日、雨中新宿区山伏町大進商事訪問、医学書院までの足場も検討、同二月十九日、新宿区河田町にアパートみすず荘を見つけ る。この間に同十五日、恒平は母と街に出、十六日、鳥羽華子餞別届け呉れ、十七日、村上正子も同じく。伯母餞別。この晩、中出千寿子の新築の家で吉田貞 子、小谷恵美子らが送別の茶会を。最後の見送りは皆辞退す。母も優しく。同十八日、堺の岸部美智子来信。同十九日、たる源餞別。母泣く。弥栄母校に別れ。 夜十時前、京都駅発夜行上京、同二十日、品川駅で迪子に会い、市ヶ谷河田町みすず荘を契約、本郷医学書院で秋田正雄、秘書課長野田郁郎に会う。筑土八幡全 音楽譜訪。荻窪の田所宗祐伯父、同武治叔父を訪問、代官山コーポラスの保富家泊。同二十一日、迪子と中央本線経由、上諏訪と大井「ひかり荘」に二泊。帰っ て書籍類売却処分。荷物の搬送、役所の手続き、舟岡(ふなおか)の福田瀧之助伯父や給田先生へ挨拶など過密のスケジュールをこなす。此の時点で、共に上京 し即共に生活を始めるかどうか、問題を倶に煮詰めあう。同二十五日、佐藤勝彦来訪歓談。同二十六日午前一時過ぎ、園教授への最後のレポートを仕上げる。荷 は発送済み。散髪。同二十七日、迪子「二人のノート」に「ガンバロウゼ。」叔母社中小畠芳江に頼まれ河原町「パンドラ」での買い物につき合う。
 二月二十八日、両親、叔母に手をついて不孝を詫び、父長治郎、後輩佐藤勝彦の京都駅見送りを受け、大学を卒業した保富迪子と二人で上京、用意のアパート 新宿区市谷河田町十一番地みすず荘(立石伯・富美子夫妻経営)三号室の六畳一間に入る。この日より、結婚生活に入る。結婚に微塵の迷いも無かった。家賃五 千円、生活用品は卓袱台も小さな箪笥の一つも無かった。隣室の木下あづさ夫妻と識る。
 三月一日、義兄保富庚午に挨拶、伊勢丹で台所用品など用意。同二日、医学書院に仮勤務。生産管理部鶴岡八郎の指導を受ける。課長代理の歌人畔上知時を識 る。部長細井鐐三。狭い窮屈な社屋に幻滅、いつか退社の日あれと願う。同九日、迪子全音楽譜出版事業部初出社。同五日、初部会。同期山本誠に誘われ法政大 学、神楽坂を知る。米払底。同七日、琉美子来訪、晩、新宿に遊ぶ。同八日、西銀座に出コーポラス(保富義兄宅)訪。同九日、迪子全音楽譜出版初出社。同十 日、迪子東京女子医大内科受診、以後不調断続。この頃より、意図して京都の両親に便りを欠かさず。
 三月十四日、人事課長野田郁郎、同期入社山本誠の証人署名を得て新宿区役所に結婚届をし、天沼の田所宗祐伯父宅で保富家側在京親族と会同、披露宴にかえ た。「朝地震(あさなゐ)のしづまり果てて草芳ふくつぬぎ石にひかりとどけり 恒平」「夕すぎて君を待つまの雨なりき灯をにじませて都電せまり来(く)  迪子」。同十九日、短歌一首ずつを以て結婚通知。「二人のノート」満つ。
 三月二十日、京都に発つ。同二十一日、迪子同志社大学卒業式。迪子は阪根家に泊。同二十二日、夜行で帰京。同二十四日、本郷辺で一緒のところを見られ、 既婚を理由に、翌二十五日、迪子給料五千円を支給され採用取り消し全音を失職。同二十六日、電気洗濯機京都より着く。同二十八日、食器棚と洋服カバー買 う。
 四月一日、医学書院に正式入社、三ヶ月は見習いで生産管理部に配属された。給与一万二千円(六月まで八割支給)。取締役編集長に長谷川泉、部長代理に畔 上知時(歌人)同期入社に山本誠、粂川光樹(元明治大学教授)らがいた。主任鶴岡八郎の指導を受けた。労使交渉の激烈な会社で、たちまち組合運動に巻き込 まれ労働歌など覚えた。交渉や闘争は組合員にとって当然と考えていた。組合大会でもよく発言した。担当の仕事は手早く、溜めも遅らせもしなかった。自分の 時間の結果的に失われるのを恐れた。
 四月二日、父中央線経由上京、翌二日、迪子父の東京案内。晩、銀座スエヒロでステーキをご馳走になる。同四日、父帰洛。この頃、迪子とともに東京大学赤 門前でデビュー間もない大江健三郎を見かける。同五日、靴と本棚を買う。同十日、皇太子・正田美智子成婚。同十四日、「ネクタイを前からむすぶ手も慣れず  迪子」同十七日、健康保険組合加入。翌十八日、迪子虫垂炎の疑いで医科歯科大学病院入院手続き、同十九日、迪子入院、義妹琉美子手伝い呉れる。翌二十一 日、上京の給田緑先生を東大三四郎の池などに案内、弥栄先輩の作家山下諭一も加わり歓談。同二十三日、出血性素因を危ぶみ迪子の手術不可と決まりショック を受ける。血小板数六万八千は半分位。社の先輩大場久美子の紹介により東邦医科大森田久男教授に初受診を思案。入院中「交換日誌」あり。同二十七日、中途 半端に迪子退院。その足で直ちに東邦医大内科受診。同二十八日、山本誠ら新人のコンパに迪子も参加、疲労。同二十九日、近所のフジテレビを覗いていて頼ま れ、スター千一夜「菅原謙二」の番組に夫婦で喫茶店の相客の体でエキストラ出演。この頃、京都から携えきた谷崎潤一郎の僅かな作品を朗読、倶に楽しむ。テ レビも新聞も無し。
 五月一日、雨のメーデーに迪子と参加。同三日、同志社美学大森正一来信。「何か身にしみた仕事したい」と日記に。NHKラジオ架空実況放送昭和十二年第 七十国会での寺内陸相弾劾演説に感動。この頃、迪子体調不安、増血剤試験投与。主婦と生活社の労使争議や出版労協の活動方針に関心。同六日、大森正一結婚 祝いに添え新学生証を送り呉れる。同七日、道元禅師語録買う。同十日、給田緑先生見舞い来信。「ヒューペリオン」読む。京都の親たちを案じつつ勉強の気持 ちも芽生える。同十六日、会社の慰安旅行で熱海青木館一泊、不覚に泥酔。この頃、「饗宴」「弁明」「クリトン」などソクラテスを読む。同十九日、当時在京 の大谷良子を夫婦で訪問。母や伯母からの言づての土産受け取る。同二十二日、見習三ヶ月に三月出勤は含まれぬと分かり会社に交渉す。同二十三日、組合初の スト体験となる主婦と生活社支援連帯スト三十分を決議。経済大逼迫なれど暢気(のんき)。茶箱の稽古など。この頃、「詩学」読む。同二十八日、見習期間を 解かれる。この頃、迪子の再就職是非が大きな問題。健康のしっかりした回復を主にする。東大構内、河田町近在、新宿など歩くこと多し。上京以来、ほぼ欠か さず京都へ便りし続ける。同三十一日、浜町グランドで新光紙業と野球試合に出場、迪子同伴。この日、古門前医師林保廣、秦の父母たち元気と来信。日記「無 明抄一」満つ。
 六月一日、「この三ヶ月間はひたぶるに互いの領域を侵しあう闘いであった。まこと愛し合うとは、ともに生きるとは、闘い、鎬(しのぎ)をけずる闘いであ る!」同三日、生産管理部整理第二係に配属、雑誌「臨床検査」「看護教室」二冊の整理制作担当。同六日、二人で新宿に遊び憩う。翌日晩、神楽坂に遊ぶ。同 九日、叔母の友人林希矩江より菓子味噌松風に添えて来信。同十一日、ボーナス闘争で初のスト権確立。持田実夫妻結婚祝い届く。同十三日、叔母社中の小畠芳 江叔母の荷物携え上京、迪子も呼び午後お茶の水で会う。あと、天沼の田所宗佑伯父宅訪。同十八日、初ボーナスは4646円。迪子に自由に使えと1000円 渡して余は貯金。同二十二日、全ラジオ連総会に組合代表で、父、電気扇風機を手土産に上京。翌日、父は総会後熱海泊。同二十四日、父と銀座「ボア」で食事 後渋谷に向かえど父は保富家訪問に同意せず。翌朝、父帰洛。この頃、晶子訳「源氏物語」や「エピクテトース」読む。同二十八日、亀有に先輩鶴岡八郎夫妻を 訪う。
 七月、仕事に倦み始め、心気の張りを求める。同六日、迪子と神保町、駿河台下に遊びロシア人のロシア料理。同九日、取材間のブリジストン美術館で正宗白 鳥を見る。この晩、編集会議に参加、初残業。この頃、毎夜谷崎の短篇や「細雪」などを朗読、二人で楽しむ。同十一日、小畠芳江また上京し叔母からの土産持 参。この日、みすず荘で大家一家、木下夫妻を客に茶会。迪子苦心の冷素麺を振る舞う。同十二日、迪子デッキチェアを新宿で買う。映画「赤い矢」観る。同十 三日、迪子兄夫婦来訪し「安心しました」と。同十六日、鶴岡八郎と「ルオー」で歓談。同十九日、迪子従妹田所明子と三人で食事、あと二人でブリジストン美 術館を楽しむ。この頃、しきりに京を懐かしむ。同二十二日、田所武治叔父より迪子に出版社臨時の仕事話あり、断る。同二十三日、京都より電気剃刀など荷物 とどく。翌日、義妹琉美子来訪、見送って新宿で映画観る。同二十五日午後、迪子の貯金をボーナスがわりに夫婦で潮来(いたこ)へ旅。土浦から霞ヶ浦を舟で 渡って潮来水雲荘ホテル泊。鯉美味。迪子初めて背中を流してくれる。翌朝、激しい地震に迪子を抱いて耐える。水郷を楽しむ。佐原、成田山を経て帰宅。同二 十八日、「同志社美学」依頼原稿に着手。この頃、クローチェ「美学」読む。
 八月二日、義兄庚午の代官山コーポラス訪、帰路迪子に「松川」の鰻を馳走。同三日、東邦医大森田教授迪子妊娠していても今回は見送れと。同七日、母の手 紙「あんたたちの帰って来るころには椿も紅く咲いて……」と。この日、昭和文学全集古本「谷崎潤一郎集一」を新たに買い「少将滋幹の母」読む。翌日、「武 州公秘話」読む。同十日、最高裁松川裁判の第二審原判決破棄差し戻し判決、田中耕太郎上告棄却の少数意見。迪子と話し合う。同十二日、広津和郎「松川裁 判」読み始む。同十四日、迪子コーポラスへ。この頃から、迪子遺産相続につき兄と談合始む。台風で野菜高騰。同十九日、「同志社美学」の論文書き始む。こ の頃、家庭穏和に幸福なれど京都を恋うることも強し。同二十五日、小畠芳江新門前の荷物持参、お茶の水で受け取る。小畠秋東京で結婚と。叔母ツル、再々の 現金援助。迪子遺産分割問題難航必至に悩む。同二十六日、組合新聞に請われ「時にあらず」と早春賦の渓の鶯に寄せて述懐の文を提出。嶺の鶯と誤記。この 日、弥栄茶道部後輩の大野愛子来信。同二十八日、夜行で京都へ、翌二十九日朝六時半、京都駅で京の柔らかい水をつかい洗顔、朝食。バス途中下車、朝露の下 河原、石塀小路、高台寺、京都神社、真葛ヶ原、下河原、八坂神社、乙部、新橋、抜け路地、叔母に声かけ、新門前の家に帰る。大感激。両親叔母も不自然の微 塵もない大歓迎で迪子もさらりと馴染む。月曜欠勤の腹を決める。迪子は阪根家へ、恒平は同志社で学割証明もらい、寧静館へ。帰りの乗車券買い阪根家へ、午 前に辞去。二夫婦浴衣で夕食に出る。同三十日、迪子、沢田文子、古川良子を迎えて「裏」で接待。その後家族総員で比叡山にバス・ドライヴは未曾有の快事。 四明が嶽でバイクの男友達と一緒の牧野恒子と出会う。出町へ降り常林寺墓参。秦家墓前でいわば迪子受け入れの儀式成る。終日歓談。同三十一日、欠勤の電報 打ち、京都駅へ。混雑、迪子に座席取るのが精一杯、小田原まで座れず。帰宅。
 九月一日、老人たちのためにいつかは京都へ帰るべしと思い、また猛然と奮発の気湧く。こんなままでは「自分の持てるものの為に可哀想」と。同三日、「中 央公論」松川事件特集号購う。同六日、キム・ノヴァクの映画「媚薬」観る。同七日、迪子新宿区役所の法律相談で、遺産は兄一存の処分が付いていて妹二人の 権利分分割交渉は時機を失していると聴いてくる。同八日、谷崎作「乱菊物語」面白し。この頃、迪子貧血気味続く。家庭的にはようやく安定。同十一日、直哉 「暗夜行路」久々名作の感銘。同十三日、義妹琉美子と三人で博物館に源氏物語絵巻展。同十五日、沢田文子上京来訪、同十八日、茶箱月点前の茶宴。同十九 日、伊勢丹の帰り都電で女子医大関総婦長事務の東(あづま)嬢に出逢う。同二十日、日曜の早稲田大学まで散歩。同二十二日、迪子兄夫妻と遺産分割につき交 渉開始。同二十四日、迪子兄のコーポラスで談合、大要を兄妹合意。帰途新宿で魅力的なミレーヌ・ドモンジョの映画観る。この頃より、肩凝りを覚え始む。 「点」的世界を考える。迪子の緊張続く。
 十月二日、迪子同期槌橋陽子来訪。同三日、「美的なものの『領域』問題に関して」脱稿。この日、東京女子医大准看護婦戴帽式に参席。この頃、金無く時間 無く交際無い日々に倶に閉塞感あり。同八日、映画「ローマの休日」観る。同九日、東大で美学会総会、園・井島・金田先生らに会う。園教授研究発表「存在感 情としての自然観照と美意識」を聴く。東大構内を園先生のお話を聴きつつ散策。同十日、迪子と再び三度び園教授に逢う。この日、医学書院労組結成五年の祝 賀会に迪子と参加。同十一日、美学会に東大へ。結婚以来社用でなく迪子同行でなく私事単独の初の外出。中川勝正先生と新宿中村屋で歓談。同十六日、美緑会 (みろくかい)吉田貞子、西村龍子ら茶名披露茶会の写真来る。この頃、取材先であった東京女子医大病院関光(せき・てる)総婦長のまぢかにいた一女性(東 サン?)にときめく。同十七日、社の小高光夫、関口征四郎ら四人来訪一泊。疲労困憊。この日、碁盤碁石を買う。同二十日、夢に哭す。労働協約改訂中の学歴 給問題に悩む。同二十三日、西村龍子京松茸を送り呉れる。同二十五日、新宿で互いに買い物し初めて池袋に遊ぶ。同二十七日、担当の「看護教室」部数増。同 二十八日、フジテレビに深く入り込み多くのタレントを間近に見知り楽しむ。咎める者なし、食事もする。同二十九日、すさみ町より小鰺届く。近所の猫ミーが 鰺に惹かれ、この頃より来訪しきり、のちには勘弥、勘九郎なども可愛がった。同三十日、叔母より風炉釜等届く。この頃、裏千家の「淡交」は待ちかねての愛 読誌。「槐記」読む。同三十一日、ヘップバーン、ヘンリー・フォンダの映画「戦争と平和」観る。日記「無明抄二」満つ。動揺多き五ヶ月なりき。
 十一月一日、天沼に迪子の田所武治叔父、宗佑伯父を訪う。従兄豊城らにも会う。同五日、担当の「臨床検査」が「臨床皮膚泌尿器科」に替わる。図版など多 く負担増。この頃、家計は迪子貯金の二千円を加えて月に一万五千五百円、うち五千円が家賃。迪子やりくりに手腕発揮。同七日、隣室木下家に歩君誕生、花に 添えて歌を贈り祝う。同九日、シェル株や和歌山の山林など迪子遺産問題動きだす。そばで疲れる。同十二日、潮来(いたこ)の写真やっと出来。迪子生理不順 に倶に神経使う。同十五日、父上京、琉美子も来訪。銀座スエヒロで四人で夕食。翌日、父と迪子東京タワーへ。晩碁を囲む。同十七日、東大、上野などまわ り、夜行で父帰洛。秦家将来の住地に関し対話、問題を先送る。地震上下動。同十九日、叔母上京、翌日、帝国ホテルで小畠芳江結婚披露宴に参会のため。迪子 ホテルへ送る。華やかな結婚式の話はいささか耳に毒であった。同二十一日、叔母帰洛。京都より電気櫓炬燵(やぐらこたつ)届く。品物で多く助けを受く。こ の頃、仔猫のミー朝昼晩に推参。迪子体調違和。同二十八日、東邦医大で迪子十中八九妊娠と診断され、来週木曜中絶の予定、計りがたき不安。東京女子医大を 振り出しに国立東一、医科歯科大、東邦医大、順天堂大と遍歴、今しっかり対処しなければと力協(あわ)す。森田久男教授に善処方手紙で相談。同三十日、東 邦医大で再度精密検査。結果次第で手術断行と。
 十二月二日、不安の極独りアパートに戻り凝然と待つ。五時過ぎ電話で妊娠反応プラスと。中絶も出産も出血の危険は同じ、子よりも迪子の命が大事と思う。 出産は二年延ばし中絶し治療続行と倶に腹を決め、内科森田教授と明日話を決める予定。この日、「白楽天詩集」を読み内心の不安動揺に耐える。同三日、急遽 東邦医大へ行き主治医森田教授に初対面「産んだ方がいいだろう、安全に産ませて上げる」と頼もしく激励され、思いあまり一考して返事をと。森田教授は血液 学会長、権威であった。女子医大の関光総婦長は中絶に賛成。迪子は八割方中絶に傾き、中絶なら今後妊娠出産は断念というのには難色、疲労し混乱す。同五 日、迪子東邦医大で出産を決意、克ち抜くしか無し。翌日より、はや悪阻あり苦しみ始める。同七日、編集会議以外で初残業、社用アルバイトもして稼ぐことを 考える。
 この月付け、(同志社美学)6号に「美的なものの『領域』問題に関して」を発表。
 十二月十日、婚約二年、ビールで歌唱い乾杯。日毎に、悪阻募る。同十五日、ボーナス三万一千九百四十七円。二千円を京都へ、二万六千円を貯金。同十六 日、協約改訂闘争でスト権確立し残業拒否。この頃、迪子床を離れ得ず。ヤスパース「理性と実存」読む。同二十一日、満二十四歳。しばらくぶり迪子の夕食を 食べる。懐妊は何かを安定もさせた。同二十二日、労使妥結。同二十四日、本郷かねやすで迪子に手袋買う。
  霜の味してその林檎噛む迪子はしきかもうづ朝日子笑みも新  たし
 生まれ来る子の名は「朝日子」と決まっていた。この月、アルバイトで千八百円稼ぐ。同二十七日、休日出勤。同二十八日、担当の仕事すべて無事終え、翌 日、大掃除し医学書院の初年勤務終了。大晦日、フジテレビへ行きテレビでヒットパレードを見、帰ってなべやきうどんとラジオ放送とで平和に越年。この年、 上京後の十ヶ月に百六十六通の来信あり。

 昭和三十五年(一九六〇) 二十四歳
 元旦、「良き日ふたりあしき日も二人あからひく遠朝雲の窓のしづかさ」と。迪子悪阻に悩みながらも七時起床、京風の白味噌雑煮を祝う。恒平、食事の用意 や後かたづけうまくなる。同七日、七草粥祝う。二人きりの正月はもう無いと言い合う。同四日、古雑誌「中央公論」去年十月号を買い谷崎潤一郎作「夢の浮 橋」読み感銘を受く。同九日、久しぶり二人で伊勢丹買い物。同十日、大家の立石富美子、娘恭子、子息直樹に、茶の湯手前の手ほどきを始む。伊勢丹でマタニ ティドレス買う。京都より電気行火(あんか)など届き助かる。同十二日、高井治茂来信同志社美学東京会をと。同十三日、田原知佐子に電話し母上とも話す。 同十六日、定時制高校三年生社員の竹本翔子よりお茶を習いたいと申し込まる。同十七日、新宿茶房「青蛾」で日活女優原知佐子こと同志社美学同期の田原知佐 子と逢い、重森埶氐・孝子(後にテレビ台本作者)夫妻も来る。みすず荘に戻り五人で夜更けまで歓談。同十八日、叔母の美緑会(茶の湯社中)より結婚祝三千 五百円頂戴。同二十日、迪子まず大丈夫と保証さる。同二十四日、午前福盛勉突然来訪。午後大家の子息立石直樹の茶の稽古に竹本翔子初参加。夕過ぎて新宿で 迪子に座椅子買う。同二十五日、迪子の田所宗佑伯父市子伯母来訪。同二十八日、迪子の腹痛宜しからず、動き過ぎかと注意さる。この頃、井上靖、井上友一 郎、永井龍男、織田作之助の諸作読む。靖の話上手に感銘。この頃より、「文学」日々に頭を占める。社内では生き方として異邦人感覚が進む。体重一貫増え十 六貫七百、食欲旺盛。
 二月四日、京都休暇の許可を得切符もとれたが、万一の時は命が無いと医系同僚に喝破され即座に断念。恒平だけは是非行けと迪子。実に気進まず。同六日、 労使間の妥結結果として本給一万三千九百十円となり、手当ともで一万七千円余受領。迪子の自由に出来る小遣いを七百円と決める。恒平はゼロ。同七日、伊勢 丹で腹帯買う。同十日、明日からの単独帰洛不安のまま、日記「無明抄三」満つ。同十一日、独り京都へ。父駅に出迎え、母腹帯の用意。同十二日、同志社で奨 学金辞退届、退学か休学か迷う。黒谷の片手のかけた露座の仏像に迪子の安全を祈る。母と朝日会館でミレーヌ・ドモンジョの映画「上と下」観る。親子三人で 「とり喜」で晩食。同十三日、母にちらし寿司を頼む。容赦ない退屈。帰洛中大勢に再会したが西村龍子一人に心惹かれた。歓迎の美緑会茶会。そのあと、吉田 貞子、中出千寿子と「フランソワ」で歓談。夜、テレビで原知佐子の「ウィークエンド・イン」観る。同十四日、二階私室に祈願こめて親たちの家を辞去、帰 京。東京を自分の街と感じる。同十八日、迪子貧血64%、赤血球299万、鉄剤投与再開。腹膜炎軽快、胎児異常なし。通院時事故に遭いかける。同二十一 日、竹本翔子来訪咄嗟の用意で夕食、疲労。この頃、仕事がヒマなほど製作に慣れる。同二十三日、皇太子妃安産。この晩、強い地震。同二十四日、「球体面に 絵が描けるか」論考書き始む。アルバイトに書籍の索引作り。同二十六日、同僚小高光夫茶の稽古始む。併せて「徒然草」読む。閏二十九日、上京一年、連句な ど。迪子、体調違和。
 三月一日、迪子を牛込保健所に。この頃、仕事がらみに仕事途中時々家に立ち寄る。同二日、ヴィンデルバント「近世哲学史」読み直し始む。同三日、迪子の 通院遠路負担多し。晩、フジテレビで台詞暗記中の好きな女優岩下志麻と廊下で出会う。この頃、出産へ募る不安にも悩む。同五日、映画「アンネの日記」「北 北西に進路をとれ」二人で観る。池宮千代子に姉大谷良子渡米と聞く。立石直樹少年の茶の湯上達。同八日、「生死の安心こそ願わしい」と。夜の梅盛り。同十 一日、迪子ショートヘアに。小高光夫と徒然草第三十一段など読む。同十二日、義妹琉美子来訪新宿に出る。コーポラス(義兄夫婦)から物貰いたくなし。同十 四日、結婚一年新しい背広で出社。同十五日、大谷良子電話で四月七日の渡米を告げ来る。この頃、迪子に胎動しきり。同十九日、下落合の池宮家に大谷良子を 訪う。同二十日、立石直樹茶箱を買い茶箱稽古も始む。茶筅荘(ちゃせんかざり)。竹本翔子の稽古断る。この頃、京都よりポポンS、アリナミンなど薬剤をよ く送って貰う。同二十二日、雑誌課の斎藤、小高、関口、武、細田五人コーヒーセットとケーキ持参で結婚一年を祝いに来訪。この頃、「純粋理性批判」読む。 同二十三日、立石直樹に裏千家許状申請。同二十五日、迪子順天堂医院に行きお茶の水路上で苦痛に吐く。同二十六日、フジテレビで東芝土曜劇場のカメラリ ハーサル覗く。同二十八日、会社の若い同僚たち来訪歓談。深い話題無きを憾(うら)む。同三十日、母一万円送り呉れる。西村龍子初の便り呉れる。この頃、 頭にある「京都」といえば、洛東洛北の風光、祇園、弥栄中学、梶川姉妹、同志社、茶の湯と茶会、夏の夜。
 四月二日、整理ダンスやっと買う。初めて三越裏の船橋屋で天ぷら。迪子体調を案じつつとかく土曜日曜街に出る。同四日、朝日子の記念にと「チェーホフ全 集」購入。明日の迪子誕生日を祝ひて。「ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子の育ちゆく日ぞ」、この日、谷崎作「吉野葛」に新ためて感 動。同五日、チェーホフ作「美人」に感動。同六日、明夕渡米の大谷良子と二度の電話で惜別。同八日、小高光夫の稽古で「随処作主、立処皆眞」を語り合う。 同十一日、槌橋陽子迪子を来訪。小谷恵美子結婚して山下姓にと来信。この頃、チェーホフ愛読。鬱勃として「爆発的な仕事」を願う。迪子の一大事迫るにつれ 死生を強く惟う。同十六日、夕食後に新宿で原知佐子好演の映画「黒い画集」と「珍品堂主人」観る。同十八日、東邦医大で診察中廊下で待ち小説を書きたいと 痛切に想う。この頃、連夜ラジオ「仮名手本忠臣蔵」聴く。みすず荘の花々ことに美し。ベルグソン「時間と自由」読む。同二十三日、安保阻止の組合討議。同 二十五日、「女性自身」記者来社女優原知佐子につき取材さる。この頃、職場への倦怠感・無気力感強まる。同二十七日、園頼三教授来信、翌日、大学院退学手 続をと返書、やむなし、翌二十九日、投函。新宿コマ劇場食堂で晩の食事。同三十日、義妹琉美子来訪しばしば。
 五月一日、第三一回統一メーデー参加。この頃、しきりに「馴染んだ場所に放胆な空想を織り交ぜて心中の幻妖」を書く。同三日、窓の下にアイリス群れ咲 く。新宿末広亭で円遊、枝太郎、可楽、米丸など聴く。夕食後、フジテレビで「スター千一夜」出演の原知佐子と逢い喫茶歓談。猫のミー失踪心傷ます。同四 日、重森埶氐電話で東京移住を通知。同五日、ミー帰らず迪子泣く。晩、近所の溝底から捨てられた仔猫救出。同六日、阪根喜代突如銘菓「雲龍」持参来訪。同 七日、八百四十円昇給、迪子貯金拠出の二千円コミで一万八千円予算となる。給料は一時間十点、一ヶ月一千六百八十点計算で単価を掛ける。単価は最初六百九 十銭。一月から八百三十銭、今度八百八十銭に。家族手当三千円。琉美子遊びに来る。同八日、立石直樹に裏千家「入門・小習」伝達、二千円。伊勢丹で父にネ クタイ買う。迪子落ち着いて美しい。同十日、社内での昼食に初めて丼飯の他にお菜を買う。入社以来十五円の食券で丼飯にみそ汁だけで済まして来た。同十一 日、失踪したミーの夢に泣く。三越百貨店で最近完成の佐藤玄々作「天女像」に驚嘆。この頃、ジョージ・エリオットなどの英語短篇を読む。同十四日、新宿で 独り重森埶氐と逢い話題縦横旧交を温む。小説が「書きたい」のなら「書くべし」と鞭撻された。この日朝、とびきり可愛い仔猫「勘弥」我が家に居着く。出産 後を考えれば同居は成らぬと残念。そしてこの日、編集部転属内示。同十九日、安保条約で国民会議緊急事態宣言。翌二十日、自民党安保単独採決、四時半、職 場放棄安保改訂阻止統一行動としての三十分ストライキ。雨中国会へ抗議デモ十万人。吉田貞子美緑会茶会などで来信。同二十二日、立石直樹薄茶の貴人清次 (きにんきよつぎ)稽古。伊勢丹でワイシャツ、迪子下着など買いフランキー堺の映画。迪子太って好調。同二十五日、胎児やや小さめに尋常、迪子血液も落ち 着き貧血は七十五から八十二%。この日、重森夫妻と上京の高井基次に会う。同二十六日、山本誠と二人編集部へ異動告示。編集特別職優遇の「編集員制度」で 社内紛糾。この日、重森孝子、高井基次迪子を来訪。安保阻止十七万五千人デモに参加。同二十七日、公開団交でボーナス要求を上回る「毒饅頭」の売り上げス ライド二七・四割回答。翌日、議論白熱後に執行部妥結提案承認。同二十九日、伊勢丹でダブル背広注文。成宗に重森夫妻訪問、高井も来る。同三十一日、編集 員制度を会社撤回。迪子元気。日記「無明抄四」満つ。
 六月一日、編集部勤務辞令、従来事務を引継ぐ。同二日、生産部会で挨拶し編集部会に参加。印象はよからず。同期の粂川光樹(後にフェリス女学院教授等) 退社。同三日、「助産婦雑誌」の編集を担当。大阪YTB杉谷プロデューサーと企画折衝に入る。同四日、社長出席の書籍企画会議に初参加。以降数年、担当月 刊誌に多数の記事、埋草、後記等を書いた。先輩に中野久夫(後に評論家)がいた。この頃、編集庶務坂本光枝と識る。午後、ストライキ。日比谷集結安保反対 デモ。同五日、新宿煉瓦亭で食事。同六日、編集取材訪問依頼等に外勤始む。席を温めるヒマなし。同八日、迪子胎位正常、浮腫無し、予定日七月二十一日。六 月十日、高井戸の浴風園カメラ取材。同十一日、初めて「ペリー・メイスン」もの読み始む。この頃、さすがに迪子身重(みおも)。同十三日、両田所家の市子 伯母・紀久江叔母昼間来訪。同十四日、編集委員の賛育会病木下正一院長、築地産院竹内繁喜院長に新任挨拶。東大産婦人科小林隆(ゆたか)教授に初対面。同 十五日、国会デモ。樺美智子デモの渦にあり死去。この日、ボーナス四万二千円弱。迪子に二千円。「谷崎源氏」買う。他は手を付けず。同十六日、編集二課制 の二課に配属、「助産婦雑誌」「看護教室」担当。同十七日、公衆衛生院初取材。晩、生産部細井部長の招きで同期山本誠らと小川町で食事。この十七日、同志 社と母より同趣旨来信大学院の退学か除籍かの決断を迫られる。迪子は除籍でなく退学をと学費二万七千円を留守中に用意。迪子に負わせていいことでなく、翌 十八日、退学と決断し未納分となる学費を別に支払い、園教授にも謝辞を送る。この日、三宅坂国立劇場予定地に三十万人根こそぎ喪章の「岸を倒せ」デモ。痛 切に「小説」を書かねばと思う。同十九日、新宿不二屋で八宝菜と酢豚、外へ出て牛乳飲み、更に寿司を食い帰宅。同二十二日、助産婦雑誌編集会議に初出席。 東大産科官川(ひろかわ)統初対面。この日、本郷元町より黒白の仔猫「半九郎」連れ帰る。同二十五日、東邦医大産科木下佐(たすく)助教授が賛育会木下院 長の甥と分かり迪子へ口添えの私信貰う。園教授来信。同二十六日、新宿に遊び迪子念願の帽子買う。同二十七日、編集部二階へ移転、活動好調。同三十日、大 阪出張所石原隆良上京再会。
 七月一日、小高光夫初めて茶箱稽古。同三日、立石直樹は薄茶稽古を一通り卒業。新宿「田川」のご馳走で迪子に力つける。映画も見る。同四日、池袋で初取 材。この頃、「道元禅師語録」読む。庭に紫陽花、百合満開。同八日、予定の保安入院前に半日休暇雨もよいに新宿で買物し映画見る。荷ごしらえ。同九日、江 幡良子内科医と連絡明朝午前中入院を確認。同十日、迪子東邦医大付属産院にタクシーで入院。義妹琉美子手伝いに。この日より、夫婦に「交換日誌」あり。同 十一日、厚生省に初取材。産院へ。九時前帰宅。ゲーテ「ヘルマンとドロテーア」に感動。この頃、チェーホフも。同十三日、母初の上京。同十五日、仕事順調 で月刊誌三冊担当してもいいと日記に。同十六日、琉美子緊急輸血を快諾、医学書院内にも協力の声多し。YTVとヤクルト関連の型破りで手探りの雑誌企画が 企画会議で社長らに「フレッシュなセンス」と好評好感された。同十九日、初の女性厚生大臣中山マサを追い記者会見で質問。同二十日、迪子「体調をととのえ て1日1日を楽しんで待ちむかえます。」同二十一日、予定日過ぐ。迪子便秘に苦しみつつ一種精悍な感じ。池宮千代子電話の見舞い。この頃、母の食卓にやや 辟易。同二十三日、産院に泊。同二十四日、母数寄屋橋センターや伊勢丹地下、フジテレビの「涼しくてきれい」が気に入る。母と銀座ピルゼンでビール飲む。 同二十六日、内科産科とも万全の体制、「現在、ありとあらゆることがノルマル」なれど待つ身は心身疲労。この頃、母独りで新宿を楽しむ。同二十七日、早朝 迪子陣痛予兆、記録開始。
 七月二十七日午後七時三十三分出産、同四十一分後産、母子無事。体重三三四0グラム、身長五二・五センチ。
 「朝日子」と命名す。
 朝日子のいまさしいでて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風の すずしさ
  迪子迪子ただ嬉しさに迪子とよびて水ふふまする吾は夫(せ)な れば
 母、琉美子、田所武治夫妻、保富庚午兄、来院。母子のそばに夜を守る。同二十八日、田所宗佑夫妻来院。同二十九日、母と本郷、日本橋を経て産院へ。朝日 子を抱いて母満悦。同三十日、初めておそるおそる朝日子抱く。同三十一日、朝日子脱臍。阪根喜代、牧野町子・恒子、磻田一郎、祝信。「交換日誌」終え日記 「無明抄五」満つ。
 八月一日、仕事に戻る。金原元専務、細井鐐三部長ら祝福。長谷川泉編集長自著「近代名作鑑賞」(久松潜一賞)に祝福の詩書き入れ頂戴。二日、真珠金の ネックレス買う。産科木下佐助教授に会い謝辞、同時に「新生児学」企画につき助言求む。同三日、東大産科官川統講師に東大小児科産科協同編集執筆の「新生 児研究」企画を相談「好着想」と賛同さる。小児科高津忠夫産科小林隆両教授監修を考える。此の当時、新生児は産科と小児科とのはざまで全国的に管理も研究 も安定せず、産科は「新産児」小児科は「新生児」と呼び対立していた。学問的にも未熟児保育も不安定で新生児学は緒について間がなかった。研究はバラバラ に進んでいた。同四日、編集部企画研究会に「東京大学産科小児科協同による新生児問題の解明と新生児学推進」の企画、長谷川泉編集長の好評でパス。午後、 東大小児科馬場一雄助教授(後に日本大学病院長・学術会議議員)に初対面し趣旨説明賛同を得て、高津教授室に同道賛同を得る。同五日、朝日子出生届。出産 費用総計十一万七千円、凄い!。同六日、「新生児研究」看護課編集者の医学部門企画初提出という異例なれど問題なく企画会議パス、金原社長に褒められる。 同八日、約一ヶ月を経て迪子朝日子母子無事退院。以降、多忙で日記途切れ始む。朝日子の夜泣きをなだめて抱いて廊下を往来することも。即興の唄など幾つ も。むつき洗濯で迪子の手掌荒れ始む。
 九月、本郷学士会館で高津忠夫、小林隆両教授以下の合同大編集会議を開く。日本医学会分科会としての新生児学会成立へ、事実上の一起点となった。この 頃、カミュ「シジフォスの神話」「ペスト」長谷川泉「近代名作鑑賞」など読む。編集長長谷川の国文学者等としての密度高い努力に対し「傾倒せざるをえな い」と。そして自身にも「燃え立とうとする意欲」自覚。この月より、残業も多く迪子拠出の月額二千円を廃止。卒論副論文「演戯としての茶の湯点前作法の成 立」を印刷したいと思案(実現せず)。
 十月、『谷崎潤一郎集(一)』を第一回配本とする「現代日本文学全集」(講談社版)百八巻を買い始め努めて読んだ。ことに年譜に学んだ。一冊一冊ふえて ゆく間が「作家」への発酵期であった。この間に「新生児研究」執筆依頼を終え、新たに東北大学産婦人科九島勝司教授、安達寿夫講師とも「新生児疾患の診断 と治療」を企画。担当二誌編集も順調。「多忙十倍」残業も月々に激増。この頃、東京女子医大病院関総婦長部下の女性(ヒガシ=東?)肺結核で退職か。家庭 の安定に心甘え「人なつかしさ」と抑えがたい「無頼」の思いに気沈む。またこの頃、生産部先輩前同僚の橋本嘉津子、丸谷ひさが茶の湯稽古に通い来る。しき りに自己内面を模索し焦りも自覚、「和泉式部日記」に強く惹かれ現代語訳など思案。この頃より、京都でなく東京で世界を広げたいと思う。この頃、「助産婦 雑誌」連載で日赤産院助産婦青木康子、村岡八千代を識る。同助産婦学校山本笑子と識る。
 十一月十九日、親娘で初の帰洛歓迎さる。同二十日、眞葛ヶ原岡林院で美緑会正午茶事に迪子と参加。亭主吉田貞子、正客西村龍子。同二十一日、迪子は千里 山に持田晴美訪、恒平は大阪の開業助産婦らの座談会取材、司会は編集委員で京都の産科医大島正雄。夜、迪子と祇園盛京亭の中華料理に青春を懐かしむ。同二 十二日、真如堂の阪根家や同志社を訪。午後、朝日子箸初。夕刻、迪子を訪ねて同志社同期の古川良子、沢田文子、松村美沙来訪、また山下恵美子来訪。夜、両 親に縄手「鳥喜」で食事奢ってのち朝日子西村龍子ら一家に初見参。満喫の京都。それでも思いは東京での「仕事」に在った。この頃までに書籍企画は村上勝 美・馬場一雄・植田穣編集「小児の微症状」など五点の他に単行本担当も十指に及び、月刊誌二誌編集。「著者」である医学者・臨床家・ナースらとの人間関係 広がり深まる。「興味はいつも人にある。」「私はどこか怪物じみている。」
 十二月五日、「もの恋ほし、もの狂ほしとは我が性格の一部ではないか。」この日夕過ぎ、池宮千代子との電話で姉大谷良子アメリカで来春結婚と聞く。同十 日、医学書院改称十周年に関係者・社員二百名熱海富士屋ホテル。泊まらず帰る。翌日、一日遅れの婚約記念日を親娘新宿で祝う。同十二日『助産婦必携』編集 会議。同十九日、「助産婦雑誌」編集委員の木下正一、竹内繁喜先生と忘年会に菊五郎・吉右衛門・猿之助三劇団合同の歌舞伎座。「寺子屋」「文七元結」など 東京での初観劇。後で木下先生に銀座コロンバンでご馳走になる。夏以来、竹内先生(築地産院)とは院長室でしばしば囲碁を競う。同二十一日、満二十五歳、 迪子心づくしの和風料理と一足早いクリスマスケーキで祝う。朝日子体重八キロ三百。同二十二日、「看護教室」忘年会を関光(てる)・高野貴伊先生と新宿 「田川」で。同二十五日、日曜出勤。北多摩郡保谷町の新築社宅に入るかどうか。この頃、迪子も朝日子も体調やや違和。今年の、迪子和歌山県すさみ町周辺遺 産配分は概ね決着。大谷良子婚約を告げるクリスマスカード。同二十九日、仕事おさめ。夜の東京を彷徨。同三十日、独り超満員の伊勢丹へ正月用の買物に。 「私は何かを創りたいのだ。書きたい。輪郭はすでに頭に。掴み出せ。」この日、大谷良子に祝返信。大晦日、迪子正月料理に大童、朝日子も安定。

 昭和三十六年(一九六一) 二十五歳
 一月元旦、五時ラジオの鶏鳴を聴いて起床。雑煮祝う。大学卒業以来の歌稿整理、約四十首、迪子に十首。元日の年賀状は十通に満たず。同二日、「四部」構 想の創作に思いめぐらす。同四日、立石家で初釜。同五日、本郷学士会館で社の年賀交換会。医学書院の唯一の家族参加自由の催し。出産の礼をかね親子で参加 し橋本嘉津子、高橋しずえ(粂川光樹夫人)坂本光枝らに歓迎さる。新宿伊勢丹に回り背広注文、朝日子の便器買い「田川」で食事。フジテレビで休憩。正月休 み果つ。同六日、「やってみることこそ、最大の必要事」と。同八日、結婚の恩人である磻田一郎氏突如来訪、迪子に年玉五千円頂戴。新宿「みすず」でご馳走 になる。同九日、大進商事紹介の牛込柳町アパート気に入らず。この頃、チェーホフ読む。同十日、「自分が賭の状態に入ったことに思い当たる」と。文学によ る退社を遠き必然として自覚。この日より、丹波疎開体験を創作の具体的な構想へ。後の「猿」の線。同十二日、日赤助産婦学校専任教員山本笑子と会い「助産 婦雑誌」モニターに委嘱、この後再々会う。月刊二誌と増える単行本企画や担当で大童。同十三日、『新生児研究』両監修者と出版契約完了。原稿出来へ正念 場。同十五日、保谷町新設社宅に秋田正雄家を家族で訪問、入居迷う。同十七日、馬場一雄起案不定愁訴subcrinical diseaseに着目の「小児の微症状」企画が進行、編集会議。十八日、社の橋本嘉津子、丸谷ひさ、月二度の茶の湯稽古に通いたいと申し出。同二十日、 『助産婦必携』編集会議。同二十二日、隣室の木下家新所沢へ移転。同二十三日、丸谷ひさの恋愛と結婚につき話聴く。同二十五日、馬場一雄、常葉恵子(後に 聖ルカ看護大学長)らと「小児科対症看護学」初編集会議。同二十六日、山本笑子と新宿で飲む。同二十七日、母上京。同二十八日、フジテレビで構成作家であ る義兄保富康午夫妻と会う。女優河内桃子を見る。同二十九日、保富操、琉美子や社の関口征四郎らの手伝いで東京都北多摩郡保谷町山合二二七五番地の新築社 宅の三階2Kに転居。六畳と四畳半。キッチン。浴室物置在り廣し。母は朝日子相手にご機嫌。通勤には一時間十五分。まだ田畑ばかりの武蔵野なり。同三十 日、築地産院で竹内院長との囲碁一勝一敗。同三十一日、女子医大で河田町時代朝の路上でよく出会った「佳人」と出会いがしらに初めて言葉交わす。河田町を 離れて直後ということ興あり。この頃、また短歌制作に興覚える。この日、中村光夫『谷崎潤一郎論』の面白さに熱中。谷崎論に接した最初。
 二月一日、休暇、迪子東邦医大受診異常なし、母と新宿・銀座へ。同三日、母帰洛見送る。この頃、迪子手掌の荒れ酷く泣く。家計も逼迫す。同五日、快晴の 武蔵野田園の趣を独り散策満喫。迪子西武デパートへ、帰り遅れ途中出迎え心配す。留守中にも「構想」具体化を計る。「懸想猿」の線。この頃より、直出・直 退勤を便宜に利用。同七日、保谷で四畳半をつかい初稽古。同八日、編集・生産合同会議。「助産婦雑誌」座談会。この頃、やや痩せる。新宿で飲んで帰ること も。同十日、『小児科対症看護』編集会議。同十日、企画会議で社長と編集者論議。同十二日、久々に戸外でボール遊びし、駅前の銭湯へ。この頃、心労と疲労 濃し。同十四日、迪子にブローチ贈る。「残業しないとやはり暮らせない。」社の内外に日々に輻輳する人間関係を通してもの思うこと多く、「身内」観自然に 深まる。中学時代の梶川芳江の意義深く深く思う。戦時の丹波杉生の疎開生活もしきりと創作意欲を刺激。同十九日、迪子池袋でカーテン調え来る。留守に「杉 生」につき回顧大略を日記に。同二十二日、春闘へ組合大会。重森埶氐来社。この日、生母深田(阿部)ふく死去。同二十三日、部会、組合大会。「どうも、言 い過ぎる。」朝日子女子医大小児科(草川三治助教授)受診。立石家で稽古。大谷良子結婚来報。京都実家より三菱電気冷蔵庫届く、感謝。同二十四日、組合執 行部入りを断る。この日、山本笑子と映画「豚と軍艦」見る、秀作。雨中十一時帰宅。この頃、「編集者」につき考えること多く、為に疲労加わる。同二十七 日、築地産院で竹内院長と烏鷺(うろ)競い二勝一敗。京都より吉田貞子自茶会記届く。
 三月四日、土佐光貞の蛤雛の絵軸で、朝日子初節句を祝う。橋本嘉津子、丸谷ひさの稽古兼ね社宅の内田、斉藤雅永氏も参加。
 三月七日、生母ふく(筆名阿部鏡・歌人)訃報来、享年六十七歳(命日昭和三十六年二月二十二日)。激しい春嵐。数日喪心。「身内」とは何かを切に思い直 す。やがて遺品も届いたが披見に及ばず、天井裏へ上げた。この頃、兄恒彦や異母妹たちとの交際を勧める働きかけが複数の方角から何度かあったが、黙殺す。
 三月十四日、結婚二年。朝日子を中に幸福に。迪子に朝日子を「いとしくいとしく」思う手記在り。西村龍子来信、茶名受けると。堤(富永)ケ子来信。日記 「無明抄六」満つ。同二十日、心身共に疲労、「平凡にいえば、これはスランプ」か。この頃、読めば「平家、徒然草」で、創作へゆっくり潜流するものあり。
 四月、医学雑誌の編集および医学書の企画を担当、以降、企画会議へ企画書提出毎度の常連となる。本の企画と伴う医学者との連携に魅せられた。出版企画が 性に合っていた。同五日、迪子二十五歳、その「幸福が私とともに在る」ようにと。同十三日、京都から親の贈物日立テレビ来る。この頃、春闘。井島勉「美 学」ウティッツ「美学史」読む。株に興味を覚え始める。敬意を表して「男はきらい、女ばか」で良いと思う。人間関係というものに思索しつつ暗中を模索、こ のままではならぬならぬと。
 五月二日、京都、新宮市、大阪、京都へ出張、同八日帰宅。この間に、迪子の手記あり。同十一日、静岡市の看護協会総会を取材、同十四日、帰宅。同十八 日、園頼三先生上京、重森埶氐と銀座「らん月」で歓談。重森と重ねて新宿で話し心和む。同二十一日、社の仕事は性に合っているが、それでも「いったい何を して生きてゆく気なのか」と。社に馴染まず著者らと親しむ。この頃、酒に馴染む。「陰気でおとなしい大酒飲み」を自覚。「環境」の中で自足している自分を 「まちがっている」「じっとしていることはおそろしい」「書きたい」とも自覚。京都で使い慣れていた机を取り寄せよう、と。同二十九日、社内機構改革によ りエディター制度など廃止の動き。同三十日、京都時代の椅子机届く。昭和三十三年六月より「朝日子誕生」を経て三十五年歳暮に至る歌稿を整理、無題の稿本 に作る。
 六月、大阪出張所転勤の噂もあり落ち着かず。同五日、東京女子医大外科織畑秀夫教授を軸に『外科対症看護学』編集会議。同六日、迪子話し合い少なく寂し いと手記。同九日、異動で部内配転決まる。この頃、迪子不順の不安に悩む。同十五日、迪子森田先生らの賛同もあり妊娠中絶手術。同十五日、看板雑誌の「看 護学雑誌」を所沢(しょざわ)綾子の下で後輩乾成夫と担当。同二十日、迪子に虫垂炎再発の気配在り思い切って手術を考慮、暗澹。この頃、ボーナス交渉で連 日スト。またこの頃、日立製作所の千株を所有。園頼三『美の探求』カント『実践理性批判』読む。短歌や茶の湯からほぼ離れ行く。途方に暮れた日々つづく。
 うつつあらぬ何の想ひに耳の底の鳥はここだも鳴きしきるらむ
同二十六日、左眼角膜異物で順天堂病院の手術受ける。同二十九日、あずかり知らぬ事で上司の注意を受ける。不快、京都へ帰ることも含め多くを思う。貯蓄の 大事さにも考え及ぶ。
 七月二日、親子で伊勢丹に買い物し船橋屋でてんぷら。朝日子愛らしく育ち人に可愛がられる。同十三日、迪子移動盲腸炎で東邦大学病院に入院、母上京。同 十四日、内科万全のバックアップで虫垂切除、多年の腹痛も癒えた。同十八日、持田晴美上京し迪子を見舞う。同二十日、母もともに一家飯能「東雲亭」に一泊 憩う。同二十二日、迪子予後良く退院。迪子入院の間「生活は異様に荒涼」とし社と病院と家との往来の中で新宿辺に途中下車すること多し。同二十五日、朝日 子突如として前向きに這い始む。つかまり立ち未だ出来ず左脚不安かと案じる。同二十七日、「保谷武蔵野」で朝日子一歳誕生日を祝う。習作的童話「うまれる 日」を書く。
 朝日子の一年はややひ弱く故障多かった。同二十九日、母帰洛。この頃まで、助産婦山本笑子と繰り返し逢う。
 八月早々、連日連夜の会議会合と朝日子・迪子の体調不和に心身疲労、同五日、寝込む。
 同九日、機構改革案により編集部生産部を解体し合併の出版部となり編集課所属となる。主任群が書籍、他は雑誌担当となったため書籍取材の大方を手放し、 異例として新生児・小児等医学書数点は継続担当。雑誌は企画から発行まで一貫担当となり新ためて業界最高部数の「看護学雑誌」一誌を在来編集委員無しで単 独担当となる。即座に看護界中堅五名の各科看護婦による契約無し報酬無し意欲に愬えた「私」のシャドウ・キャビネットを編成のプラン持つ。都立広尾病院内 科看護婦、有楽流茶人の原萃子(あつこ)と識り協力を求める。同十二日、原萃子と協議、岸田劉生展観る。その後、厚生年金病院整形外科徳永悦子、虎ノ門病 院福島和子、東京逓信病院新井寿美代、日赤産院青木康子、関東労災病院宇都麗子の協力を取り付ける。八月残業料最多八千円。
 九月七日、原萃子(あつこ)、徳永悦子らスタッフとの懇話会をもち直ちに来新年号企画決める。同九日、原萃子と青山「アルトハイデルベルク」で会食、一 部メンバー入れ替えも含め協議。同十日、乳母車買う。朝日子記念というべき「新生児」企画収穫期に入る。この頃、朝日子立ち、積み木を入れた箱車押し歩く と。同十三日、大学以来の親友重森埶氐とお茶の水で二時間半、重森「孤独感」を語りまた重森兄弟の庭園雑誌創刊の話も聴き印刷所を紹介。同十四日、新機構 発足前ながら座談会「人間ドックにおける看護婦の役割」で聖ルカ病院、慈恵会医大病院、虎ノ門病院、都立広尾病院の顔合わせ。この頃、株式暴落続く。各種 新書本を意図して乱読。またこの頃、男の子の母親になっていた日吉ヶ丘高茶道部堤(富永)ケ子(いくこ)と四年ぶりに渋谷で逢う。同二十日払暁、目覚めて 此の数年をしみじみ回顧し揺るがぬ一原点としての姉梶川芳江に想い遡る。この頃、しきりに自省。同二十九日、天現寺辺に原萃子有楽流(うらくりゅう)茶道 稽古場へ。鈍翁懐紙、古備前大筒水指、黒楽など興あり。この頃、真如堂の牧野恒子心臓病治療に東京女子医大榊原教授を紹介すべく奔走したが、牧野母子創価 学会入信、その指示によるか受診を結果的に拒絶。この月、室戸台風。
 十月一日、新宿で迪子に靴を買う。二日、叔母美緑会茶会案内西村龍子より届く。磻田一郎の電話で牧野家の事情知る。株名目損二万円に及ぶ。十月五日、 原、徳永ら第二回スタッフ会議和やかに。会議後の部室で同僚らの「どうせこんな会社の」という自己嘲笑的な会話に嘔吐感を覚え滅入る。不条理な環境の中で 「随処作主」いかなる繰り返しにも「一期一会」でと強く願う。
「母」が欲しいと恋いつつ梶川芳江と京都を想って休暇を手配す。同十日、原萃子と会議後の打ち合わせ。同十四日、特急一等車で家族で京都に発つ。「心を病 んでいる」「相変わらず無明の塵の中を歩いている」が「荘周の胡蝶を夢みるたぐい」と。午後、新門前に着き、叔母の稽古場で西村龍子の茶を喫す。日記「無 明抄七」満つ。同十五日、真如堂阪根家で朝日子嬉々。同十六日、一家で岡崎動物園に遊び新築の京都会館で昼食し写真撮る。迪子と二人で平安神宮後苑のしみ 入る静けさに憩い豊かに游ぐ鯉に感動。帰宅後独り東福寺に村上正子を訪ね十一月一日の結婚を知る。抹茶三服淡々と別れ、茶室の閉まった日吉ヶ丘高校をそぞ ろ歩いて帰宅。晩、縄手「梅の井」で両親饗応。同十七日、同志社大学院で金田民夫教授、大森正一、中村慶治と暫く話す。午後、寺町大神宮例祭の釜に立ち寄 り点前手伝いの美しい西村龍子に心満たされる。夜十一時四十五分、離京。同二十一日、看護研究学会取材、仕事は順調。原萃子に京土産の小袱紗(こぶくさ) 贈る。同二十二日、和服の原萃子と祥雲寺有楽忌茶会に。雨中静寂、濃茶席で正客を勤める。同二十六日、第二課内で違和、悪性腫瘍的存在と誹(そし)らる。 社外著者とは、医師・看護婦とも「ウマ」が合い親密に信頼さる。京都でなく東京で頑張ろうと思う。同二十七日、西村龍子を、間をおいて姉梶川芳江を夢見 る。この日、日赤産院山本笑子に逢い口苦く耳痛き「良薬」を求める。同二十八日朝、社から父に宛て「秦家全部の将来」につき衆知をあつめ未来に備えたい、 帰洛も辞さないと手紙。退社時、経理課坂本光枝と話す。古流生け花の稽古に四谷に通うと。晩、家で続き薄、茶杓荘を稽古。迪子も平点前。同三十日、広尾病 院、日赤産院など訪ねて社内での気重さを宥める。迪子日記に向かうことを厭う。同三十一日、課内から担当雑誌の内容や進行への干渉甚だしくイヤ気さす。意 欲をよそへ向けざるを得ずと思う。
 十一月五日、ディルタイ、島崎藤村、永井荷風、斎藤茂吉読む。何も落ち着きなく、やる気とやらない現実にいらだつ。同十三日、叔母の高弟岩崎宗愛上京銀 座で会う。同十四日、原萃子と渋谷で逢う。同十五日、藤島武二展観る。残業もせず担当誌は問題なくこなす。定日発行を一度として外さず。この頃、義妹琉美 子懊悩あり。同十六日、西村龍子来信、迪子を姉と頼むと。この頃から、日記「無明抄」に並行して大学ノートに日付を欠く「自由な手記」を書き始め、「書 く」創作へと向かう内面を培養促進。同二十一日、「マレにみる凡夫凡父でおわるのか」といらだつ。この頃、社内的に孤立感甚だしく「クサリニクサッテイ ル」のも、本当にしたいことに手が着かないからで、日記の中へ逃避気味。この頃から、強烈に肩凝り始まる。『臨済録』読む。社宅生活にも違和感。かつて受 けた友人吉田貞子の「人がいい」重森埶氐の「お前はスケベー」の批評思い出す。「考えるまでもない、何をするかを決めるべきだ。それが第一。」
 十二月二日、都立広尾病院で口絵写真撮影。同三日、室生犀星『かげろふの日記遺聞』に感動。迪子朝日子このところ健康、同五日、内科看護婦原萃子にかな り痛い肩凝りの注射される。「日記」について回顧。同九日、都立第一高等看護学院学生親睦会を取材、婦長室で原萃子に結婚していると告げる。同十日、婚約 四年。午後、快晴の上野の杜(もり)で西洋美術館の松方コレクション観る。鳩の広場で朝日子歓声あげとことこと独り歩き。西武でネクタイとブローチ買う。 朝日子体重重し。「保谷武蔵野」で食事。同十一日、原萃子雑誌巻末企画「看護手順」編集委員を快諾。同十六日、重森埶氐と新宿「青蛾」で逢い柏木の「花 風」琉球料理で飲む。「新日本文学」関係の詩人らの溜まりとか、長谷川四郎を見かける。文壇風の雰囲気に初めて触れ、感心せず。重森もまた悩みあり新宿で 飲みつづけ深夜車で成宗へ送り届けて帰宅。女房に「惚れすぎてはならぬ」とか、お前は「どうも藝術家とは考えられぬタイプだ」とか埶氐に言われる。この日 か、ボーナス四万八千二百円弱。同十八日、原萃子と家族的につき合うことに迪子も乗り気。同二十日、厚生年金病院看護婦で雑誌モニター徳永悦子と神楽坂、 新宿で話す。同二十一日、満二十六歳。お茶の水で新モニターにと思う千葉大学病院看護婦鈴木泰子と会う。同二十二日、日赤、看護協会、日赤産院など歳末の 挨拶に。この日、第二課「おつた」で忘年会。同二十四日、ケーキでクリスマスイヴ、朝日子存在感を増す。同二十五日、第一回「看護手順内科」六名で初会 合、原萃子不調。同二十六日、興信所の聞き込み近所で在り、迪子は実父方のものと推測、憂鬱。同二十八日、原萃子病篤し。
 
 昭和三十七年(一九六二) 二十六歳
 正月元日から、日記でなく「大学ノート」を広げる。白楽天の詩に取材した小説、「源氏物語」の源典侍に取材した小説などのプランを作りはじめ、習作の手 始めも。同五日、原萃子電話今年の方針をうち合わせ。迪子と天沼の田所伯父を訪う。同七日、迪子と小金井に池宮千代子らの新居訪問。同十日、徳永悦子と新 宿に遊ぶ。この頃、「看護学雑誌」のため精力的に優秀なナースたちと面識を得る。同十三日、上野でフランス美術展観る。同十五日、迪子と重森埶氐・孝子を 訪う。同二十一日、社の鶴岡八郎来訪。同二十二日、都立広尾病院で内科看護婦清水友子と識る。同二十八日、義妹琉美子友人と来訪。前年来、何度めかの源氏 物語に熱中している。築地産院で竹内院長と伯仲の囲碁にも熱心。
 二月三日、京都から沢田文子突如来訪泊。同七日、休暇帰洛。特急券など原萃子の便宜に依頼。翌八日、フランス美術展また観る。同九日、朝母と出て八坂神 社東大谷などで朝日子鳩を怖がりながら遊ぶ。どこへ行っても人気者。迪子と高台寺時雨会。古伊賀水指。文の助茶屋甘酒。夜、「かき春」へ一家で。同十日、 墓参。迪子帽子買う。西村龍子と逢う。連夜、迪子と「ジャワ」「盛京亭」「政」など街歩きを楽しむ。同十一日、帰東。この頃、球面絵画と面の性質など思 索。
 三月一日、迪子体調不安よりようやく遁る。担当医書どれも進行好調。京都で祖父鶴吉十三回忌不参。この頃、徳永悦子に「心から笑ったことがないのね」と 言われ愕く。同十二日、西村龍子雪山より便り。晩に義妹琉美子、相次いで義兄夫妻来訪。この頃、琉美子に心労あり。同十三日、細井常務より内々に関係して いる「給食」の月刊誌製作発行を夜のアルバイトで引き受けてくれぬかと打診される。断る。同十四日、結婚三年、光陰矢の如し。琉美子来訪二泊。同二十日、 阪根喜代の依頼受け孫牧野恒子大同病院で榊原仟(しげる)博士の心臓診断仰ぐ。同二十一日、パレスホテルで磻田一郎主宰阪根・牧野家保富家秦家参加の食 事。同二十三日、徳永悦子と新宿で逢う。徳永洗足へ転居、東邦医大移籍のまま公衆衛生院への入学を祝う。同二十八日、徳永悦子にお茶の水で逢い、また都立 広尾病院二三O病舎個室病棟看護婦室で原萃子、清水友子と逢い、清水と銀座「ボア」で食事後新宿へ。清水に手記有り。同三十日、原萃子と電話で清水友子の ことなど話し合う。
 四月一日、家族で神宮外苑で野球部の試合観る。渋谷へ出、東急文化会館前でたまたま山本笑子と出会い家族を紹介。約束の清水友子参加し神宮内苑に遊ぶ。 朝日子なつく。新宿「いのやま」で食事して別れる。同三日、豪雨の洗足で徳永悦子に逢う。同五日、迪子二十六歳。同七日、重森埶氐と銀座で会い、後、清水 友子と新宿「船橋屋」「青蛾」で歓談。同八日、迪子のピアノ保富家より搬入。この日、叔母の美緑会青蓮院で茶会。同十一日、清水友子と道玄坂、新宿に遊 ぶ。謡曲「梅枝」頭にあり。翌十二日、社に清水友子来信。この頃、迪子不調、最も神経をつかう。この頃、京都より便りなし。同十四日、校正の仕事多く家に 持ち帰る。こういうこと多く眼疲れる。日記「無明抄八」満つ。同十五日、ピアノ調律。琉美子来訪、小高光夫、関口征四郎来訪歓談。同十七日、午後半日春闘 スト。清水友子と逢い恵比寿、渋谷、池袋に至る。院内に問題在るか。同十九日、迪子妊娠かと東邦医大で産科手術。体力と健康の維持を第一に考える。通院に 東邦医大あまりに遠し。「我が家の幸不孝の鍵は迪子の健康」と。往復に井の頭線を試みる。帰路渋谷で原萃子に電話、迪子も初めて話す。同二十日、病院で原 と会い、電話で清水と話す。春闘難航、迪子歯痛。同二十三日、新緑の有栖川公園で発熱の清水友子と逢う。宵闇を迪子朝日子と歯医者に通う。同二十四日、歌 集整理。この頃、死について多く物思う。同二十六日、池宮千代子自宅でのパーティーに電話で誘われ、翌二十七日、全日スト後、清水友子と銀座に出て「セキ ネ」で迪子のパーティ用に純白アンサンブルを見つけ、翌日、迪子と出かけて買う。読売広告社に重森埶氐を訪う。朝日子ご機嫌。両国日大講堂の看護協会総会 に足を延ばし徳永悦子と会い朝日子の発育状態を見せる。骨は大丈夫、筋肉がすこし軟らかいようだと。同二十九日、清水友子保谷来訪歓談。女同士白い服を着 せ合う。迪子によく似合う。
 五月一日、メーデーに家族で参加、赤坂見附で列を離れコーポラスへ。夕刻、清水友子も来て有栖川公園に遊ぶ。同三日、池袋西武で迪子にライトブルーの靴 買う。同四日、関西から東京に戻ってきた日吉ヶ丘茶道部の堤ケ子と渋谷で再会。吉田貞子が雲岫会の卒業生・現役を指導し美術コース卒業生の協力で一切の道 具を制作してもらい、その展観を兼ねた茶会を枳殻亭(きこくてい)でという案内と報告も届く。広尾病院で迪子手荒れの薬貰って帰る。清水友子の手記受け取 る。同七日、小金井の池宮家でガーデンパーティ。片岡(小畠)芳江も娘深雪とともに参加再会。迪子も朝日子も楽しむ。同八日、日赤産院山本笑子近々結婚の 由、逢いたいと。虎ノ門病院看護婦で雑誌モニターの福島慶子も浜松へ転勤、恋愛と結婚につき種々私信。山本、福島ともに逢い祝福。この頃より、清水友子と 頻々と逢う。いかんともし難し。同二十日、新所沢にみすず荘隣室の木下あづさを家族で訪問。同二十一日、「看護手順内科」最終会議。同二十二日、渋谷で映 画「甘い生活」独り観る。同二十三日、複雑な経緯を経て編集一課医学関係へ異動内示、「看護」からの転機となる。大阪転勤免る。清水友子院内で苦境、新宿 「青蛾」で話す。同二十七日、原萃子、清水友子保谷来訪。同二十八日、清水友子と考え方のずれを感じ合う。同二十九日、公衆衛生院で徳永悦子と会う。同三 十日、「看護学雑誌」最終編集会議。
 六月五日、編集一課三係に移る。月刊「臨床婦人科産科」と季刊「精神身体医学」を担当し単行本は従来通り。同六日、迪子夫の情動不穏を悲しむ手記有り。 同八日、井の頭公園に遊ぶ。同九日、築地産院で囲碁一年ぶり。重森埶氐と会う。同十一日、「臨床婦人科産科」初編集会議、医院は日赤中央病院長長谷川敏 雄、東大教授小林隆、医科歯科大教授藤井久四郎。同十二日、「脳と神経」編集会議に参加。この頃も、清水友子と断続逢っているが「一種の動・反動を繰り返 し」「色彩に変化」あり。すさみ町に迪子の両親墓参を計画。同十八日、「精神医学」編集会議に参加。同十九日、映画「オルフェの遺言」観る。同二十二日、 築地産院で竹内繁喜院長と囲碁二勝一敗。ボーナス六万二千円弱手をつけず。同二十三日、編集の二十七名伊東「碧山荘」一泊親睦会、翌早朝、独り伊東を発ち 清水友子と目黒自然公園を歩き、池袋から保谷に至る。同二十六日「精神身体医学」編集会議。同二十七日、久々に広尾病院で原萃子と話す。同二十九日、A6 判小型ノートによる「日記」に苦痛と飽きを感じ始む。
 七月一日、参議院選挙。同七日、原萃子と新宿に遊び、広尾に送る。同九日、『新生児研究』見本出来。この縁で、東大小児科助教授馬場一雄先生には『小児 の微症状』『新生児学叢書』『出生前小児医学』雑誌「小児医学」創刊など数え切れぬほど永く引立てて戴いた。同十二日、東京発大阪で叔母ツルと合流し和歌 山県「白浜館」一泊、翌十三日、朝白浜で海水浴し、叔母と別れすさみ町に迪子両親らの墓参をへて、白浜で叔母と再合流し京都着。朝日子興奮と疲れで発熱。 以降四日間、祇園会最中、京都大学前川内科を訪ねた以外は休暇、大きな回心推進力となる。西村龍子と家族に数度逢い御輿渡御を見送ったり迪子を西村家にの こし朝日子を林家に連れていったり、二度目の妊娠中の森川(北村)洋子夫妻を訪ねたり、叔母の稽古場で阪東恵子らの大圓草(だいえんのそう)引き次ぎの立 ち会いを引き受けたり、菅大臣神社に西池季昭先生夫妻を訪ねたり、同志社の迪子同期松村美沙・沢田文子と談笑したり、芦田好美・佐藤勝彦、田中勉を訪ねた り訪ねられたり、同志社で郡定也・中村慶治に会ったり、真如堂阪根家を訪ねたり、また自室に残した古手紙や反古を見直したり、すべて限りなく懐かしくリフ レッシュ。ことに西村龍子の存在を「京都」の象徴のように新鮮に深く感じ、掛け替えない「根」を「京都」に確認して、同十八日、東京に帰る。この時、大学 初期に書いていた「徹子」(仮題)の手稿持ち帰る。同二十一日、いろんな計画を整理し一本に絞り着手したい、「頼むべきは私自身」と強く自覚。同二十一 日、西村龍子来信。同二十二日、「勉強」開始。同二十五日、西村龍子に祇園会の写真送る。同二十七日、朝日子満二歳、京都より祝電。同二十八日、川崎製鉄 株買い増し。同二十九日、井の頭公園に家族で遊ぶ。
 七月三十日、西村龍子親しく来信。「小舟をひょいと押」されたように、この日、遂に白楽天詩に取材の小説「折臂翁の死」(のち「或る折臂翁」と改稿改 題)を書き出す。「漕ぎ出す」べく「大学ノート=創作ノート」精力的に復活す。四十歳になるまでに一作でも売れればよい、それまでは毎日一字でも必ず書き 次ぐと決意、以後厳格に守る。
 八月一日、夏時間。同三日、夜ベランダで詩「喚ぶ」を書く。同八日、根岸守信『耳袋』上巻入手。同九日、「型破りの自身に興味を持ち過ぎてはいけない」 と迪子。同十一日、ピアノで短歌「笹原の」に節付けし譜を残す。同十二日、詩「山見ざる日は」に譜をのこす。この頃も、山本笑子、徳永悦子、清水友子らと 時折の交際あれど減る。仕事は看護はなれ医学重点へ。竹内繁喜院長との囲碁は一進一退続く。同二十日、小説『折臂翁の死』第一部脱稿。同二十一ないし二十 四日、清水友子と考え方合わず。同二十五日、初の作に手入れし読み聴かせたが迪子「寒む気を催」し途中で寝てしまう。同三十一日、清水友子と訣別す、終始 別事無し。社の仕事楽になり、創作のペース定まり順調に維持。この頃、京都の間宮(村上)正子非常に幸せと便りあり。
 九月二日、家族で新宿、池袋に遊ぶ。同四日、京都から持ち帰りの手稿「徹子」を読み直す。この頃、ワイルド『芸術論』土居次義『京都の障壁画』アリスト テレス『詩学』読む。交際を欠き、この頃、日々静か。同九日、鶴岡八郎夫妻来訪。同十四日、竹内繁喜院長原稿に挟み「黒石に汗滲ませて逝く夏を 御待ちし ています 秦兄 竹内生」と絵葉書。返事に「保谷野は秋のけはひしるく夜ふけてベランダに出ますと 月しろく死ぬべき虫のいのち哉 といった感慨をもちま す」と書いて添えに「秋来れど目にはさやかにならぬ石」とした。この日、映画「硫黄島の砂」観る。同十五日、第二稿を迪子に聴かせ反応まずまず。同十六 日、加藤嘉主演「出家とその弟子」テレビで観る。同十八日、第二稿了。同二十二日、第二部起稿。この頃、姉梶川芳江を深く深く懐かしむ。同二十八日、臀部 アテローム(粉瘤)を女子医大織畑秀夫教授に摘除してもらう。この月、模索と停頓。担当の仕事に余力あれど、大阪転勤前の秋田一雄主任の非公式代行的な立 場にあり、他誌編集会議に出席したり進行状況に目配りしたり落ち着かず。
 十月四日、テレビドラマを「批評的に」見るのが夫婦の娯楽。同五日、臀部抜糸。同六日、一家で銀座、八重洲へ出、上京の給田緑先生と会う。その後義妹琉 美子と会い来泊。この頃、デカルト『方法序説』『省察』読む。同十一日、フランス映画「栄光への序曲」をテレビで観る。同十八日、光田(大谷)良子アメリ カより来信。同十九日、中野「ほととぎす」で「臨床皮膚泌尿器科」編集会議。同二十三日、築地産院でまた白石持つ。同三十一日、主任昇任見送らる、「有能 にして不徳」か。日記「無明抄九」果つ。
 十一月初め、自選歌集「無明」草稿百九十六首を編む(のちの『少年』第一稿)。この頃か、映画「ラインの監視」観る。同七日、中学の音楽教師大賀寛と連 絡取れる。同十一日、組合の依頼で一つの処女作短篇「少女」書く。提出せず。この時から、原稿はすべて迪子が浄書した。この頃、雑誌「シナリオ」に関心持 つ。樋口一葉を愛読。同十七日、小田急の本古流花展で社の坂本光枝(柳光)作品見る。同十九日、吉田宗貞(そうてい)来信。同二十二日、佐藤勝彦上京、翌 日井の頭公園、渋谷道玄坂などに遊ぶ。琉美子を引き合わせたく思えど成らず、翌二十五日、佐藤帰洛。同二十七日、三時間スト、この頃争議を激しく闘う。同 三十日、歳末交渉妥結、ボーナス八万四千五百円弱。
 十二月一日、「折臂翁」の第二部脱稿。同七日、年末帰洛の乗車券確保。この日、原萃子、徳永悦子に社のダイアリー送る。同十日、婚約五年。同十七日、新 宿「玄海」で担当誌忘年会。同二十日、迪子、朝日子先に京都へ送る。
 十二月二十一日、満二十七歳独りの誕生日に迪子祝電。此の後、少なくも十年間、いかなる理由でも一日として小説の文章を書かぬ日はなかった。歳末、「臨 床雑誌の体質改革に関する若干の感想──臨床婦人科産科担当を通じて得た個人的発言」を纏める。迪子、新門前の三人の健康や家屋の状況について来信。同二 十七日、休暇取り帰洛。「ノート一」満つ。同二十八日、常林寺墓参。
朝日子誕生の頃から帰洛の機会をなるべく多くもち、京都をよく歩いた。また梁塵秘抄、西洋紀聞、後撰和歌集、古事記、山家集、讃岐典侍日記、耳袋など古い 岩波文庫の古典や注釈書を、古書店で安くまた高く買い溜めた。源氏物語も、毎日少なくも一巻とかたく決め、再々通読した。創作意欲を刺激されいずれも後に 作品を生んだ。「ものを書く」生活が私的ながら定着しつつあった。

 昭和三十八年(一九六三) 二十七歳
 正月三日、朝日子初稽古。真如堂阪根家年始。同四日、迪子とイングマル・ベルイマンの映画「野いちご」を観たあと木屋町「杢兵衛」で食事。この頃まで、 父と囲碁十三勝三敗。同五日、茶人佐々木三味を京都駅近い不明門(あけず)に訪ね、茶の湯に就て語りあう。手前作法の美を解析した論考を携えていたが共感 されなかった。佐々木は点前は単なる手段といい、主客同座で実現する独自の様式的・舞踊的ないわば参禅演戯とする考え方と対立。この日、西村龍子らと初釜 用意。同七日、叔母の美緑(みろく)会初釜のあと、社中で少女の頃から一等可愛くよく教えた西村龍子にドライブに誘われ、車中婚約を告げられる。婚約と茶 名披露の茶会を手伝ってほしいと頼まれ、祝福し承諾。同八日、離洛。同十一日、六十年安保闘争資料読む。同十二日、西村龍子発信。「気安く便り出来るのも もう長くない」と思う。「繰り返しの美学」書きたいと。同十四日、「祇園会の頃」前編「夕顔棚」(のちに「祇園の子」後半の「あかね」になる)を書く。同 二十三日、社の仕事楽すぎて退屈す。この日、朝日子身長九十二センチ。幸田露伴『将門』『連環記』そして雑誌「シナリオ」に熱中す。この頃、「折臂翁」の 繋ぎに「京都もの」をラフにいろいろ書く。同二十六日、西村龍子来信、「折臂翁の死」第三部書き始む。同二十八日、「こぼれ梅」(のちに『慈子』の導入部 に成って行く。)書き進む。迪子は『耳袋』を活かせと勧める。
 二月一日、同課の後輩中島信也(のちにミステリー等の作家・翻訳家小鷹信光)より雑誌「マンハント」とかへ歌を珍釈のコラム原稿を書かぬかと。一二試み たが無理。同三日、のちに「祇園の子」前半になる「菊子」書き始む。同五日、担当雑誌六月号まで用意でき半日労働で事足る。この頃、「京都へ」書き進む。 同八日、中島信也夫妻を築地産院竹内繁喜院長に紹介し診察依頼。この頃、池袋の喫茶店「コンサートホール」赤門前「子守唄」などで書いたり書き直したりし 午後を過ごす。同九日、「斎王譜のち慈子」の構想動き出す。同十日、「京都へ」八十枚まで進む。同十四日、「京都へ」草稿百六枚脱稿。同二十日、「夕顔 棚」書き足す。迪子の原稿清書有難し。「狩野光信の母」「死後の処置」着想。同二十一日、西村龍子来信、結納と。四月茶会の春らしくめでたい道具立て思 案、返信。同二十七日、西村龍子の茶会は四月十四日真葛ヶ原岡林院(こうりんいん)茶室でと来信。
 三月一日、すでに徒然草に取材した小説を構想していたが、この日、田辺爵『徒然草諸注集成』他二本を買い、即日書き始む。これが推力となり、同五日以降 二十日過ぎまで密かに東京大学国文科研究室の書庫へ通いつめ、中新(なかにい)敬その他の諸文献の書き抜きを熱心に進める。(この時、三木紀人(後年お茶 の水女子大学教授)と出会っていたらしい。)徒然草成立の動機に関心あり、論文としても、並行して小説としても熱中して書き進む。同六日、医学部小児科馬 場一雄助教授に東大図書館閲覧の紹介状頂戴、これは成らず紹介状のこる。同十三日、銀座で重森埶氐と会い小説を書いていると洩らす。同十四日、結婚四年。 この日、「徒然草成立時期に関する内部徴証の摘要」書く。また清書「夕顔棚」「少女」を社の石原隆良に見せる。この頃、「折臂翁の死」に手を入れ大幅に削 ぐ。同二十日、「焦ってみてもしようがない。」築地産院で囲碁二勝一敗。堺の岸部美智子来信。同二十二日、吉祥寺に家族で遊ぶ。この頃より、左肩凝り痛 烈。東大国文科での勉強をほぼ終え、勤務のひまに喫茶店に潜んで書く習慣つく。同二十五日、父浜松を経て突如来訪。この日、西村龍子の茶会案内状と手紙届 く。帰洛切符手配。同二十七日、父帰洛。この頃、新しい「茶会へ」書き進む。同二十九日、健康な大学生になった岸部美智子長文来信。同三十一日、重森埶氐 (ゲーテ)宅訪問。孝子夫人と別居中。
 四月一日、迪子と兄夫妻との微妙にアンビバレントな葛藤の余波に迷惑する。新入の部下向山肇夫を識る。三日、「この頃午後は殆ど社にいない。子守唄で平 均三時間は書いている。」同五日、迪子二十七歳。花を買って帰る。「毎日十枚ずつ」書き進む 同十日、シナリオ研究所入所試験志願手続きする。「ノート 二」満つ。同十一日、家族で京都に発つ。西村龍子と道具調べ。同十二日、会記下書き西村家に届ける。圧巻の平安神宮枝垂桜を迪子と見、南禅寺「奧丹」で湯 豆腐。西村龍子と道具荷造り。久々に古門前の林貞子と逢う。夜、迪子と祇園界隈散歩し妹梶川貞子昨年三月に結婚と聞く。間宮正子の電話もあり。同十三日、 迪子髪を調え、母叔母迪子朝日子と鷹峰光悦寺の互匠会に。春爛漫。「濱作」女将になった森川(北村)洋子と逢う。西村宗三(そうみ)・宗龍母娘明日茶会の 挨拶に来訪。夜、迪子と京極や祇園散歩。堺より岸部美智子の電話もあり。同十四日、夜中に雨明かる。真葛ヶ原高台寺岡林院で西村龍子二十二歳の茶名・婚約 披露の茶会を終始水屋で取り仕切る。社中の福田慶子、社領玲子、また迪子も手伝う。約六十人の来客。小堀宗中筆「花」一字、楽慶入黒茶碗「若松」替え古須 磨、仙叟詩中次、替え淡々斎末広棗、風炉先は西村龍子作。春逝くの思いあり。会果てて迪子と文の助茶屋に憩う。晩、西村龍子挨拶に来る。夜遅く、独り京の 繁華を歩く。同十五日、叔母の稽古日、後藤美智子より鳥羽華子らの消息聞く。西村母娘の謝礼は受けず。雨の鴨川踊り途中で帰る。夜、家族みなでゆっくり話 す。同十六日、早朝西村龍子電話で送ると。ブルーバードで駅へ送られ握手して幸せを祈り京都を離る。朝日子、京都へまた行こう行こうと興奮。数日、余韻あ り。同二十一日、シナリオ研究所受験。同二十四日、京都の父より電気掃除機届く。西村龍子来信、一日でも余裕をつくり京都へ帰って来てと。同二十六日、返 信。同二十七日、作品「茶会へ」百枚に達す、おおかたは勤務時間内に書く。同二十九日、シナリオ研究所合格通知。五月から同四月三十日、アメリカの光田 (大谷)良子に発信。
 五月二日、経理課坂本光枝を誘い三越百貨店の京都互匠会に行く。銀座へ歩き風月堂で休息し帰る。同六日、川鉄、石川島の株を売る。竹内院長に白番奪わ る。同七日、平均二枚のペースで書く。坂本光枝と本郷「ルオー」で昼食。同八日、シナリオというジャンルに興味惹かれる。同十日、築地産院竹内繁喜院長と 歌舞伎座、団子(だんし)の三世猿之助、猿之助の初世猿翁披露公演に。「鎌倉三代記」「黒塚」「河内山」で猿之助奮闘。寿海、歌右衛門、勘三郎、中車、勘 弥、友右衛門、延若、我童、宗十郎、福助、三津五郎、団蔵、訥升、秀太郎、由次郎、家橘などの豪華顔ぶれ。
  色そひし岩手や若き猿之助
 五月十二日、小金井池宮夫妻を家族で訪。同十三日、夜間六時より八時半、十月二十六日まで六ヶ月弱、築地松竹のシナリオ研究所講習に通い始む。時間的に も勤務的にも冒険となる。課題作シナリオ二編の「懸想猿」正編を八月京都で、続編を十月東京で、脱稿。講評の城戸四郎(松竹専務)岸松雄(批評家)に口を 揃え「小説を書け」と勧められた。二作とも評価八十五点。約七十人中最後まで残り二作とも提出したのは二人だったと。この頃、六月人事で主任代理昇格の準 内示すでに有り。小説、講習、主任業務、読書研究、シナリオ課題の全部をやり遂げる覚悟決める。同十五日、「茶会へ」百五十三枚に達し、後の創作の多くの 萌芽を含む。シナリオの一作には大学時代に発想し迪子にも話しかけた材料をと決意。同十九日、家族で池袋三越に。朝日子屋上などで他の子らの中に入って遊 べず、憂慮す。同二十日、ドラマ「ガス」二十枚三十シーン試作提出。同二十三日、歩一歩の日々。この日、菊島隆三の講話聴く。「作家」なる人との最初の対 面か。映画シナリオが自分の目的でなく小説のためにシナリオから何かを得たいと覚悟。同二十四日、出版一課第四係(雑誌)主任代理(主任非在・部下四人、 責任担当月刊雑誌は精神医学、臨床外科、脳と神経、臨床婦人科産科、季刊外科研究の進歩、季刊神経研究の進歩の以上六誌)に就く。光田良子元気に来信。同 二十六日、旧編集一課で夕食後に後楽園「ホリディー・オン・アイスショウ」、 同二十六日、義妹琉美子日本医大病院入院を見舞う。同二十九日、「京都へ」百八十枚に、日々睡魔に襲わる。シナ研は編集会議以外休まず。同三十日、竹内繁 喜院長激励来信。
 六月四日、シナ研宿題ガン告知の短篇「いぼ」をタクシーで事務所に届ける。多忙で喫茶店「子守唄」に籠もれず。この日、部室四階に移転。同十日、迪子サ ンタヤナの「美のセンス(原書)」読み始め、付き合う。同十三日、堤ケ子(いくこ)母子と池袋で二年ぶりに逢う。同十四日、「夕顔棚」を文学界新人賞に応 募。この頃から、坂本光枝と親しむ。主任職の要領ほぼ把握す。同十九日、父突如来訪し、同二十一日、父帰洛。同二十四日、短文二篇書く。何でもいい書き続 けようと。同二十五日、「残花記」(後にシナリオ「懸想猿」に。)の構想成り迪子に語る。ボーナス交渉妥結、給与の二十三割五分プラス五千円。同二十七 日、「茶会へ」百九十枚で難渋す。この日、久々に築地産院で囲碁黒番三勝一敗一持碁。同二十八日、シナリオ「残花記」起稿。この日、シナ研休む。同三十 日、社宅一階岡田家移転を手伝う。
 七月三日、「残花記」を「懸想猿」と改題しコマ割り軌道に乗せる。同九日、西村龍子発信。同十一日、「懸想猿」のファーストシーンに苦労。同十七日、百 十八シーンまで書き進む。同二十一日、課題シナリオ「懸想猿」第一稿成る。同二十三日、夏期休暇に京都に発つ。迪子嫂操京都秦家来訪、同志社美学の高井基 次(治茂)と嫂共同事業とか。同二十四日、祇園会の鷺舞を観る。同二十五日、迪子千里山の旧居へ。京都博物館の静寂裡に豊臣秀次妻妾子女の遺品を観て感 動、豊国神社と方廣寺に寄り国家安康・君臣豊楽の釣鐘に触れる。タクシーより妹梶川道子を実家前に認め下車し祇園石段下「ジャワ」で久々にゆっくり話す。 後刻、南座前で間宮正子に偶然出会う、教職に就いていると。同二十六日、母と家族を連れ、屋形船で「嵐峡館」に渡り食事と入浴。同二十七日、朝日子満三 歳、一家で高雄に遊んだが恒平激しく一過性に発熱し帰宅。同二十八日、木屋町三条の瑞泉寺に畜生塚を識る。この帰郷で他に森川洋子、林貞子とも逢う。京都 で多くの着想や刺激を得、同二十九日、離洛帰東。在京中も「懸想猿」第二稿を進める。
 八月九日、シナリオ「懸想猿」ペラ百九十八枚第二稿成り、同十四日、手直しも終える。同十五日、迪子不調。この頃、雑誌「美学」論文を興深く多く読む。 同十九日、銀座「ファウスト」で重森埶氐と長く話し、その後、シナリオ課題一作め「懸想猿」をシナリオ研究所に提出。提出者約二十五人。同二十一日、処女 作起稿より一年余「折臂翁の死」完成す。迪子体調不和、暗澹。この頃、存在不安重くのしかかる。同二十二日、迪子「子守唄」で坂本光枝に会い生け花稽古の ことを相談す。同二十四日、迪子順天堂で十日連続の治療を言われる。この頃、情緒不穏に悩む。マルクス・アウレリウス『自省録』と『華厳経』併読。同二十 九日、「羽衣の人」(のちに「畜生塚」)発想す。同三十日、伊藤左千夫の短歌に深く打たれる。この日、「羽衣の人」発想。「茶会へ」苦渋の中断。この頃、 『金剛般若経』『般若心経』読む。同三十一日、坂本光枝に本古流伝書四冊借り叔母の御幸遠州流のものと比較興深し。
 九月一日、社宅北窓から間近に見る大樹を振り仰ぎ己が位置を内省す。同三日、「羽衣の人」起稿、次第に「身内」観の表現を文学の主題と考え始む。「絵空 事の真実」ということも心に留む。同四日、新作に雑誌「淡交」記事などを利用。坂本光枝に作品を見せる。同五日、新作に書簡など利用。同十一日、坂本光枝 シナリオも読みたいと。昼休みに東大の三四郎の池など歩く。同十四日、独身寮の梅田徹昭招き歓談。同十七日、無明の哀情這う如く迫る。退社後駿河台上をそ ぞろ歩く。この頃、多く東京大学の構内を歩く。同二十日、課題第二作シナリオ「続・懸想猿」起稿。以後快調に進む。同二十二日、谷崎源氏を読み始む。同二 十五日、日赤中央病院の帰りに根津美術館小堀遠州展に寄る。小井戸忘れ水、花入再来、茶杓虫喰、柏樹子、墨跡多数に感嘆。同二十六日、組合大会をサボり過 ぎると鶴岡八郎に叱らる。源氏物語もののあはれもひとしおに。同二十八日、坂本光枝から迪子を花の稽古に誘いたい、あなたとは遠のいていたいと告白さる。 同三十日、西村龍子松茸の大きな籠を贈り呉れる。
 十月一日、西村龍子来信、結婚式近づくと。同四日、シナリオ「続・懸想猿」脱稿。「ノート三」満つ。同五日、迪子本古流家元に入門。同九日、無明の感深 まる。同十一日、シナリオ研究所に課題作提出。この日の講師は橋本忍。同十二、十三日、早稲田大学で美学会。同十五日、坂本光枝とお茶の水で夕食後小岩駅 まで同車。同十六日、谷崎源氏読了し直ちに原典を読み始む。同十八日、松竹副社長城戸四郎シナリオ「懸想猿」に最高点で戻る。同十九日、風寒き駿河台を歩 く。同二十日、飯能東雲亭で親睦会。同二十一日、第一ホテルで東北大学九島勝司教授面談。同二十五日、シナリオ研究所終了、銀座「ピルゼン」で独り乾杯 す。源氏物語原典「須磨」巻過ぐ。
 十一月五日、「羽衣の人」九十一枚に達す。同十一日、「なにもかもむずかしく。」迪子に憂色あり。「少女」巻に達す。同十五日、朝日子の七五三に尉殿 (じょうどの)神社早朝参拝。同十六日、駒込六義園に遊ぶ。同十七日、迪子不調。同二十三日、家族で国立西洋美術館へ。鶯谷から新宿へまわりベルイマンの 映画「第七の封印」を観「田川」で食事のあと池袋へ車で戻り朝日子に、黒に朱のまじった絣の着物、蜜柑色を主にした細かい柄の羽織買う。同二十七日、朝日 子池袋三越屋上で滑り台より落ち右上腕から肘関節にかけ骨折、直ちに東京大学病院整形外科に入院、整復と絆創膏牽引、迪子付き添う。
 十二月一日、迪子にセーター買う。同二日、朝日子三方牽引。同五日、歳末帰洛の乗車券手配。この頃、起床、通勤、病院に寄ってから出社、退社後病院、十 時帰宅、書いて読んで就寝。同六日、「宿木」巻に達す。同十日、婚約六年、朝日子の入院で寂し。同十二日、朝日子ギプス当て牽引外し入院以来初めてベッド の下におりる。アメリカの光田良子クリスマスカード届く。同十三日、退院。同十六日、「或る調査の試みから」を会社に提出。この日、社長による十二月生ま れ社員の誕生会。同十七日、源氏物語読了。同十九日、迪子朝日子京都に先発。朝日子腹痛で医者にかかる。同二十一日、満二十八歳。同二十三日、夜十一時二 十分「畜生塚」(「羽衣の人」改題)百六十七枚初稿擱筆。作品はその後、何に限らず繰返し改稿を重ねている。例外なく最終稿を定稿とし前稿は作者の意志に より「破棄」とする。この年、約七百枚強を書く。同二十四日、ベルイマンの映画「処女の泉」観る。同二十六日、「今こそ智慧と勇気がほしい」と。同二十七 日、歳末休暇をとり妻子を追い京都に帰る。同二十八日、迪子と墓参、沢田文子を訪い、帰りに映画マリア・カラス主演「エレクトラ」観る。同三十日、社の親 友田村と二人で坂本光枝京都木屋町仏光寺下ル「久之家」に止宿、この日、光悦寺、金閣寺を案内。気重し。同三十一日、「濱作」の前で女将森川洋子と立ち話 する。

 昭和三十九年(一九六四) 二十八歳
 一月元日、初詣でのあと迪子らと神楽岡に美学先輩郡定也夫妻、真如堂に阪根喜代、牧野町子・恒子を訪う。二日、迪子千里山へ。この日、坂本・田村両人を 案内して南座前から建仁寺、六波羅密寺、清閑寺、清水寺、京都神社、真葛ヶ原、円山公園、平安神宮、南禅寺、永観堂、黒谷、真如堂、吉田山、京大、同志 社、御所、河原町、先斗町までを付き合う。同三日、五年ぶりに初釜に出向く鳥羽華子と清水坂を歩く。この晩、迪子同期の沢田文子、綿貫(古川)良子、松村 美沙と歓談。そのあと、迪子激しく腹痛。この日、坂本光枝ら離洛。同五日、吉田貞子の点前で美緑会初釜に迪子と参加し大井龍子と再会。上京時に社に電話し たがいなかったと聴く。松下圭介を訪ねる。同六日、朝離洛。同七日、前日の欠勤届を書いて新年の仕事始まる。同九日、朝日子のギプス外される。同十日、坂 本光枝に縁談あるを池袋で聴く。同十一日、「畜生塚」八十八枚まで削り捨てる。活字にと希望湧く。同十二日、「畜生塚」百十一枚に直す。谷崎潤一郎、夏目 漱石、三島由紀夫を評価す。同十三日、作品の中に実父母の墓標を立てているのかも知れぬと思う。同十五日、テレビの映画「菩提樹」観る。同十九日、テレビ で反戦映画「栄光に死す」観る。反戦・抗戦の映画は努めてでも観る。この日、雑誌「淡交」別冊の古美術鑑定読本を面白く読む。この頃、またしても大阪出張 所転勤の噂有り。同十八日、ブリジストン美術館に入る。同二十七日、「淡交」別冊の光悦また宗旦を読む。同三十日、銀座で重森埶氐と逢う。
 二月九日、此の一年半ほどで人間が「良く変わった」と言う人も有れど、無明深甚の自覚有り。平穏なのは「迪子が聡いから」「迪子を愛しているから」であ る。この頃、迪子と漱石作『こころ』を同時に読む。井上靖の『憂愁平野』佐藤春夫の『掬水譚』に感心せず。同十六日、家族で出赤坂プリンスホテルの展示会 で背広注文し迪子ネクタイ買う。一泊し、朝日子ご機嫌。翌十八日、久々に代官山コーポラス訪う。この頃、ウィリアム・ジェームズ『心理学』を読む。同二十 六日、「迷彩を帯びた日々」と嘆息す。同二十六日、新たな「或る『雲隠』考」起稿す。
 三月一日、六義園に遊ぶ。この頃、漱石『明暗』を終え『道草』に戻る。同九日、喫茶店「子守唄」閉店。この頃、「或る『雲隠』考」に集中。またこの頃 に、姉梶川芳江を夢見る。同十四日、結婚五年、迪子「愛している」と。同じく、迪子「町子(畜生塚ヒロイン)さんよりも」と。多く語りあう。この頃、昼休 みの書き仕事には喫茶店「フランセ」に。漱石作『行人』読む。同十五日、吉祥寺に出る。夕刻より、後輩向山・米田来訪歓談。同十八日、気持ち波立つ。この 頃、阿部能成『三太郎の日記』読む。同二十日、北里研究所に小児神経学会取材。同二十一日、清瀬平林寺に遊ぶ。この日、給田緑先生歌集『むらさき草』頂戴 す。「雲隠」考四十一枚書いてヒロイン登場。「未来はもはや挿話などと言い遁れる術もない脅迫である。私が筆を持ったのは感動のためでなく、この脅迫のた めである」と。金原省吾『東洋美学』読む。同二十七日、「轟然として爆発」するかと。無口に。「守ってやりたいものがある」と。創作の筆はすすむ。
 四月一日、創作と勤務の分岐点尖鋭に露わる。この頃、喫茶店「ボン」で書き読み独白すること多し。同三日、大阪の創元社矢部良策社長に手紙書く。同五 日、迪子二十八歳。平林寺、野火止に家族で一日遊ぶ。同七日、矢部良策宛て「少女」「折臂翁の死」「畜生塚」を送る。この頃、漱石全集を『それから』まで 遡る。「幸せな人間かも知れないが恐ろしく破滅的な人間ともいえる」と。同十一日、後楽園を歩く。同十二日、迪子独り池袋に送り出し、書く。「我慢無く理 屈だけ持っている」「旅に、一人で出たい」とノートに書く。この日、美緑会南禅寺天授庵で茶会。この頃、自分を「いやなやつ」と切に思う。同十三日、「私 でなければ書けない人を書きたい。書くことで私をおさえていたい」と。同十四日、迪子に手紙書く。「いけないいけない。私はきみを籠絡しようとしている」 と、渡さず。同十八日、ブリジストン美術館で児島善三郎遺作展観る。西洋美術館、博物館にも行く。晩、迪子泣き、ともに泣く。同二十日、この頃喫茶店「フ ランセ」を巣にして書く。「安らぎはここにしかない」と。漱石『坑夫』『文鳥』『夢十夜』いずれも面白く、潤一郎『卍』『盲目物語』も。同二十一日、休暇 取り上野で「ミロのヴィーナス」観る。同二十五日、松坂屋で麻田鷹司ら三人展観る。「心、冬の荒野の如し」と。稲毛まで行く。同三十日、「重苦しい血渦が 巻きこむ」と。「雲隠」九十九枚に達す。
 五月一日、メーデーに残留組として出勤、四階に一人。「こういう静かさを久しく知らない。」同四日、「積み重ねた虚飾を一枚一枚ひっぺがして行く心地、 当然」と。この日、迪子と実父母のことなど深夜まで語り合う。同八日、血と身内とを考える。同十一日、書き渋り社でも家でもいらつく。同十二日、「雲隠」 百二十枚まで進み作のヒロインと継母対面に至る。「書けるということは何と心を軽く廣くさせることか。」同十五日、久々築地産院に竹内繁喜院長を訪い愉 快。この日、漱石『我輩は猫である』読了。同十八日、鎌倉に遊ぶ。「木洩れ日に鳩なく宿や鶴ヶ岡」「蛙啼き啼かぬ蛙があはれかな」の句あり、宝物館で人頭 杖、倶生神、閻魔大王に心掴まる。同二十一日、文章の梗概化に要慎す。同二十三日、新宿「随園」で編集一課の解散会、機構大改変で出版は一部五課、二部四 課となる。同二十五日、出版一部一課配属内示、この日、「雲隠」百四十枚に達す。同二十六日、漱石全集の『文学論』除いて読了。この日、映画「ベン・ ハー」観る。同二十九日、主任昇任出版一部医学一課浦田知子課長のもとに配属、他に同僚二人、内科学、基礎医学領域の書籍企画と月刊「公衆衛生」編集発行 を担当す。当時麹町保健所山下章所長と識る。機構改編に全社狂瀾。この頃、平野謙『芸術と実生活』読む。漱石『文学論』も。
 六月一日、向山肇夫と銀座で飲む。同三日、部室移動。同五日、矢部良策より手つかずに原稿返送さる。同六日、全社様変わりし「凪に入った気安さ」と。同 七日、快晴の日曜迪子らを池袋に出し書き続く。「暗いながらも澄んだものに仕上げて行きたい。」同十四日、仕事の負担増えたが健康を慮る気も。「迪子朝日 子を愛している。私は死んではならぬ」と。「雲隠」百六十八枚まで。同十七日、大波小波そして凪の反復。ボーナス十一万円余今昔の感あり。同二十一日、家 族と三鷹での社の野球部試合から新宿に出、「船橋屋」で食事。同二十三日、西村龍子を夢に見る。「雲隠」百七十五枚クライマックス直前まで暫くぶり喫茶店 「ボン」で書く。成り立たぬ愛が在る、「分からないことばかりだ!」同二十六日、のちの「桔梗」を着想、カタルシスを求む。
 七月三日、迪子と、話し合う。同五日、新たに「桔梗または露の中」を書き始む。永遠の少女像として迪子とともに姉梶川芳江や西村龍子への想い強く動く。 同九日、「桔梗」初稿終え迪子の批評に随い手入れ始む。同十二日、発足した新生児研究会に参加。同十四日、漱石『文学論』読了。同十九日、「露の中」三十 一枚脱稿、同二十二日、決定稿。同二十三日、謄写版でシナリオ二本、小説集を私家版にと考えつく。西銀座で独りワイン飲みながら「たしかに、或るべつの段 階・心境に来ている」と自覚。「雲隠」のヤマを乗り越えることは「また現実の壁に精一杯当たること」であるとも。此の一年を危険で背徳的で充実していて、 意義有る一年と感じる。この日、新担当「公衆衛生」に三十九枚のレポート「保健所医師の科学性を診断する」脱稿。この頃、東京国立博物館で書・墨跡の佳さ 満喫また清方、鉄斎、百穂、大観、麦僊、華岳などを観る。仁清茶壺に感嘆す。亀井勝一郎『私の美術遍歴』小林秀雄『モーツアルト』川上徹太郎『私の詩と真 実』植田寿蔵『芸術の論理』などを拾い読む。
 七月二十四日、夏の休暇に夕刻家族で東京発、帰洛。同二十五日、迪子と出て濱作の森川洋子に逢う。叔母の稽古場で草野(吉田)貞子、奥田(中出)千寿子 と逢い河原町四条「海南堂」で歓談。同二十六日、清水寺からの帰り道陶製の良くできた夜叉面を買う。岡崎まで歩き市美術館でピカソ展観て後、同志社先輩郡 定也、荻野と会い同人雑誌「PP」創刊の相談に乗る。企画未熟と感ず。この晩、熱発す。同二十七日、朝日子二歳を八坂神社に詣でて祝い、朝日会館で初の映 画「鉄腕アトム」を観る。夕過ぎて、迪子と散歩し清水坂で「名ばかり丹波」の徳利型花瓶買う。同二十八日、大井龍子の電話を受く。独り東福寺を訪れ本堂で 「方丈」扁額に感銘、龍吟庵、通天橋、普門院、常楽庵へ、そして十万不動へも。感動に満ちた回顧の放心。同二十九日、智積院本堂でこの世ならぬ僧らの声明 (しょうみょう)を聴く。等伯らの「桜楓図襖」に圧倒され山水のみごとな庭にも陶酔し幸福を実感。博物館では知恩院蔵「早来迎図」に魂を奪われる。予楽院 写経、祥啓達磨、倶生神像、唐津の徳利などに印象残す。同三十日、迪子朝日子と斑鳩法隆寺中宮寺に遊ぶ。朝日子母手製の紫水玉の洋服涼しげに愛らし。百済 観音、夢違観音、中宮寺の思惟菩薩すばらしく、百済観音の前から動けず。伽藍もみごとでひとしおの藝術味に堪能す。帰路、丹波橋駅で偶然間宮正子とすれ違 う。同三十一日、迪子と再び智積院に憩い、京極松竹座で映画「ローマ帝国の滅亡」観る。
 八月一日、叔母の稽古場で古門前松井医院姉妹の妹の点前に心惹かれ久々に代稽古。帰東の荷造り始む。同二日、大丸で香蘭社売場の鳥羽華子と逢い僅かに 「政」で話し哀愁を覚ゆ。一家東華菜館で夕食し夜は両親迪子とトランプで遊ぶ。京都は十二分に癒してくれた、他にも木屋町「政」で飲んだし、弥栄会館屋上 ビアホールで迪子と飲んだ。高島屋でズボンも買った。心休まりまた多くが後々に作品に反映した。同三日、朝離洛。同五日、馬場一雄編集『小児の生化学』編 集会議。同七日、シナリオ『懸想猿・続懸想猿』を後記添えて先輩同僚柴田を介しタイプ印刷に渡す。京都を発つ直前に決意し迪子も賛成同意。「球表面絵画 論」を起稿。この日、漱石『文学評論』読み始む。「淡交」別冊日本の書興味津々、書の妙味に惹かれる自分に愕く。同十一日、大きなひとうねり。「自分との 執拗な闘い」と。同十二日、潤一郎『文章読本』に啓発さる。同十三日、担当雑誌埋草に「早来迎」書く。「何かしらいっぱいやりたいことがある。」同十三 日、無理を強く避く。同十四日、無用の私信を東大構内で棄却。この日、徳永悦子から久しぶりに電話。同十六日、大学四年以来繰り返し思索してきた課題の 「球面絵画論」初稿成る。この頃までに世界観としての「絶対二元論」や「演戯論」を抱えていた。同十八日、映画評論家岸松雄から課題シナリオ第二作「続・ 懸想猿」戻り八十五点の好評で前の城戸四郎と口を揃え小説を書けと。同十九日、出版一部懇親会。同二十日、保富操・琉美子来訪、両親からの主なる遺産で あった千里山保富家土地家屋分の懸案であった分割に関し、迪子との意見交換に。土地家屋売却時の明細資料を見たいと迪子の希望を承諾して操帰る。この頃、 この件で迪子腐心奔走。遺産は両親の死亡後に兄庚午の一存で売却されそれにより代官山コーポラスが購入されていた。妹二人への分配は一切無かった。両親の 死後すでに約九年を経ていたが、他にも未清算あり。迪子の心情に共感し此の後も協力を惜しまなかった。この日、「球面絵画論ー絵画性の革命ー」成る。高神 覚昇『般若心経講義』また読み感銘す。「ノート四」満つ。同二十四日、迪子と勝鬨橋の家庭裁判所相談部を訪う。その後、争点の整理や要望書作成に協力す。 同二十五日、青山高樹町に画家岡本太郎を訪い「球面絵画論」に意見を請いたかったが不在。同二十六日、土地家屋売却に関する明細資料を見たいと迪子の希望 に、多忙な放送作家である兄庚午の意向として、義姉操より話し合い拒絶の返答。同二十七日、岡本太郎九月六日以降なら会うと返信あり。迪子遺産の件紛糾必 至、致し方も無し。同二十七日、茗渓会館で田所武治叔父と会い歓談。同二十八日、弁護士小沢金一郎と本郷「白十字」で相談。兄は代官山の家は遺産ではない と話し合い拒絶、それなら相談無く売却した千里山の遺産はと。同二十九日、兄夫婦と同居し庇護を受けている妹琉美子は、家督をついだ長男には許されること と電話で迪子を非難。この日午後、大宮に小沢弁護士を訪う。十分用意した計画行為でもはや迪子の希望は叶うまいが、引き下がらなくていいと。九年前に子供 の手を黙ってねじあげたようなものと。同三十一日、シナリオ「懸想猿」の初校出。長い十日間。迪子の望むことは遂げさせたいと思う。この日、金原一郎著 『まむしのたわこと』を批評す。
 九月一日、迪子疲労で眩暈と吐き気、午後、田所宗佑伯父来訪、仲介の労を取ると。「懸想猿」初校了。同二日、すさみ町の野田芳一争い避けよと来信、迪子 返信。同三日、家族で東急三田アパート八階に磻田一郎を訪問、二泊。迪子慰労し激励さる。鎮静剤か。同五日、野田芳一理解を示す再来信。この日、金原一郎 社長批評への挨拶に事務室へみえる。同六日、天沼に田所宗佑伯父を訪ね、翌七日、来訪、迪子に兄庚午の言い分を容れよと。恒平使唆を疑われ心外。同八日、 夢に西村龍子と甘美に逢う。銀座で新しい万年筆を買う。この日、竹内繁喜築地産院院長来信、中村雀右衛門襲名歌舞伎に招くと。同九日、重陽、京都の親たち を電話で見舞う。多忙の中で京都博物館や鎌倉宝物館での深い驚愕が重なり渦巻き創作心を刺激。この晩から、小説「此の世」起稿。同十日、岡本太郎に「球面 絵画論」送る。この日、鳥羽華子と電話で話す。間宮正子、丹波橋での言葉無きすれ違いなれど出逢ったことが嬉しかったと来信。同十一日、銀座聖書館で同期 卒業の十人余と会合す。同十二日、両親と電話で話す。同十四日、「此の世」モノに催され進行。迪子と朝日子のいる家に深く安らぐ。同十六日、歌舞伎座の四 代目中村雀右衛門襲名を竹内繁喜と嬉しく観る。「堀川波の鼓」「妹背山婦女庭訓」「口上」「絵島生島」「ひと夜」で、壽海、松緑、三津五郎、梅幸、扇雀、 勘弥、勘三郎など。同十七日、築地産院に複製「信貴山縁起絵巻」持参で竹内院長に昨日の礼に行き、囲碁二勝一敗。同十八日、聖書館の同志社倶楽部で少し仕 事し、映画「砂の上の植物群」観て帰社。同十九日、源信『往生要集』買って読み烈しく感動。同二十日、迪子と京都に帰り家業を拡げることに付き話し合う。 三人の老人たちとの未来に配慮せざるを得ぬ時機かと。父に発信。同二十一日、喫茶店「フランセ」で小説「此の世」四十三枚を初稿脱稿。ただ「嗚呼」とひと りごちる日々続く。同二十三日、歌集『少年』を編む。同二十四日、叔母ツルと電話で話しこの十二日、大井龍子出産の由知る。西村母娘に電話で祝意告ぐ。
 十月一日、心身疲労。『歎異抄』を『往生要集』よりなお感動して読む。この頃、夢の中で念仏したり「仏様」と叫んでいたりする。同六日、「ながく重苦し い日々を、何とか抜けた、はっきり思い取り直す時機」と。「良い仕事を重ねて行きたい」と。「仕事」が「書くこと」と同義に成っている。京都へ帰る事もな お思案のうちに置いている。この段階で、売れることより書くこと、そして限られた少数のいい読者が望みだと自覚している。この日、「部落と遊郭のこと、書 きたい」と「京都」との関わりで明確に問題意識化している。同十日、みごとな秋晴れの東京オリンピック開会式、以後テレビの前に釘付けのこと多し。同十一 日、四ヶ月ぶりに「ある『雲隠』考」書き次いで百七十九枚に達す。同十二日、科学図書印刷に歌集「少年」小説「少女」「畜生塚」を入稿し、「此の世」「桔 梗(露の世)」も予定。二十代の自分の「力」を記念したいと活版の私家版へ踏み出す。迪子も賛成。同十三日、「雲隠」はっきり方向決まる。オリンピック各 競技に感動。同十四日、博物館の日本古美術展をつぶさに観て興奮す。同十八日、突然池宮千代子そして光田良子の電話そして来訪歓談、四年半ぶりアメリカか らの里帰り。パーカーの万年筆貰い「古須磨焼茶碗」進呈。
 十月二十一日、菅原万佐の筆名で謄写私家版シナリオ『懸想猿(正・続)』B5判80頁二段組百部出版、非売品。表紙装丁は自分で決め表紙絵の雲中菩薩図 は迪子が描く。嬉しい。同じ日、迪子の遺産問題初めて家庭裁判所の調停に入る。同二十一日、『懸想猿』少々社内で配り知人にも発送。坂本光枝に一人返却さ れ憤慨す。同二十三日、活版分も初稿出。校正に夢中で明け暮れる。同二十九日、久々に村瀬(山本)笑子から電話あり懐かし。三十日、シナリオ都合九十冊ば かり配る。
 十一月七日、「雲隠」百九十九枚まで進む。この日、朝日子幼稚園の入園試験。勤務忙しく、創作等への気も弾む。本の読み方に微妙な気の入れ方の差が出て いる。この頃、「隠水」という題を思案。同十日、日本古美術展観る。同十一日、山下章麹町保健所長に入場券を貰い日生劇場でナタリー・ウッド来日公演の 「ウエストサイドストーリィ」を観る。同十二日、仔猫を一晩泊める。同二十日、馬場一雄、北村和夫監修『症候群辞典』初の編集会議開く。「雲隠」二百六枚 に達す。同二十一日、岩下志麻主演映画「五弁の椿」昏い感動で観る。「不公平」という言葉耳に付く。この頃、山本健吉『詩の自覚の歴史』『小説の再発見』 河上徹太郎『日本のアウトサイダー』を読みふける。同二十三日、アルバムへの写真貼りなど落ち着いた連休。迪子と朝日子に代わる何ものも無いと。同二十六 日、東京大学病院分院で、木下安子総婦長より『懸想猿』出版祝いを五百円頂戴する。同二十八日、モロー展を観る。
 十一月二十九日、菅原万佐の名で私家版『畜生塚・此の世』見本出来る。科学図書印刷製作活版B5判六十四頁八ポイント二段組。「歌集少年」「畜生塚」 「此の世」「桔梗」「あとがき」を収録、感激ひとしお。表紙絵とカットはすべて迪子の手になる。迪子にデディケートし、扉に属目の「鋏おいて長嘆息の黄菊 かな」の句を立てた。十一万六千二百円、製版に九百円。百五十部。歌集部分別冊百部。多く刷っても配る先が無かった。先ず編集長長谷川泉に献じ、次の機会 には四六判にするとよい等懇篤の助言受く。谷崎潤一郎、志賀直哉、窪田空穂、三木露風、中勘助、また中河與一に送った。谷崎をのぞく五氏より受領の挨拶が あった。中河與一は訪ねてくるよう言われたが行かなかった。創作者の私邸を訪問したことは以後も稀な少数例以外に無い。中学高校の先輩ハードボイルド作家 山下諭一に「いい道楽」だと笑われ、妻の友人たち、会社の同僚からも概して不評だったが、東大産婦人科小林隆教授には「こういうことをする人とも識らず、 これまで失礼しました」と教授室から丁寧な電話を受けた。
 十二月六日、窪田空穂、五味保義また日吉ヶ丘上島史朗先生より『畜生塚・此の世』に来信。「雲隠」二百二十枚まで、書き遺る一章に渋滞。この頃、年末労 使交渉烈しく推移、尖鋭に動く。三十二割プラス一万五千円要求に三十割プラス一万円回答。この頃、上島史朗歌集『鈍雲』頂戴す。同十二日、朝日子にオー バーと靴買う。翌十三日、朝日子に幼稚園服買う。連日一通、二通と出版に反応の手紙届く。この日、テレビ反戦のマリア・シェル主演映画「最後の橋」に感動 して三人で泣く、朝日子も。この頃までに、グレアム・グリーンの『愛の終わり』を再読し感動、次いでレマルク『凱旋門』や永井龍男を読む。同十五日、千五 百円上乗せで妥結。同十六日、山下所長に貰った券で迪子に有楽座の映画「マイフェアレディ」を見せ、その間朝日子を連れて麹町保健所や築地産院を訪う。同 十七日、『畜生塚・此の世』に対し園頼三教授の愛情溢るる「酷評」を戴き感謝す。同十八日、家裁調停、先方無届け欠席で流れる。この頃、迪子鼻炎軽快。同 十九日、迪子朝日子初めて新幹線で京都へ先発。一日一枚のペースで長編書き次ぐ。同二十日、午後小金井の池宮千代子邸で結婚渡米の光田(大谷)良子送別 会。また五年は逢えまいと。池宮邸も近日横田基地へ移る。同二十一日、満二十九歳。西武池袋食堂で自祝。刻苦精励あと十枚ほどの勝負と。甚だしく胃部不 穏。同二十二日、向山肇夫と池袋で忘年会、中途でめまいと冷感に辛抱しきれず。帰宅し「雲隠」二百四十六枚、胃痛書いていると忘れ難渋すると烈しい。同二 十三日、この一週間で三十一枚、午後二時半近く本郷三丁目喫茶店「フランセ」で遂に二百五十六枚の初稿「或る『雲隠』考」を二月二十六日起稿以来の脱稿に 漕ぎ着ける。この日、新宿「随園」で課の忘年会。同二十四日、音楽映画「シェルブールの雨傘」に感動。同二十五日、歳末年始の休暇で迪子に迎えられ広壮な 新京都駅に降り立つ。初めて八条口から車で帰る。同二十六日、迪子と河原町十字屋でレコードを二枚買い、菩提寺墓参後真如堂の長屋(牧野)恒子を訪い新婚 を祝う。その足で法然院を訪いメモなど取り狩野光信「槇図屏風」や本堂散華の静けさに触れ、「或る『雲隠』考』二稿に備える。この日、叔母の茶室で松井姉 妹の稽古を観る。同二十七日、河原町今出川喫茶店「クイーン」で荻野恕三郎、郡定也、乾悦治ら先輩と雑誌創刊の話題で会ったが、成る話とは思われず。同二 十九日、高野中学に勤務の間宮正子と会い京都の学校環境等について興味ある話を聴く。この晩、田中勉来訪祇園の「ジャワ」で長く話す。知友の無言の励まし を多く受く。大晦日、朝日子を銭湯に連れて行き、賑わいの八坂神社に詣る。迪子と大歳除夜の鐘撞きを知恩院釣鐘堂で聴く。円山公園上の稲荷社に蝋燭をあげ 八坂神社におけら詣り。此の一年に、原稿用紙三百八十七枚を書く。

 昭和四十年(一九六五) 二十九歳
 正月元旦、おけら詣りして帰宅、就寝。早朝の祝い雑煮に寝不足の迪子ふらふら。朝日子を円山公園や八坂神社の賑わいへ連れて遊ぶ。同二日、北野紅梅町に 給田緑先生を訪う。北野平野社界隈を散策し帰宅。大学の園頼三、金田民夫、中川一正先生と電話で話す。朝日子を連れ縄手西村家に寄り、川西の街歩きして絵 本など買う。晩、迪子と河原町、木屋町、先斗町そぞろ歩きし、「るーちえ」でコーヒー「嶋房」で迪子は鯛の角つくり、恒平は蟹で、酒。申し分なし。森川洋 子から懐かしく電話受く。同三日、父母と秦家の今後に就き縷々語り合えど纏まる話にはならず。母は帰洛を望み父は経済性に危ぶみ叔母は口籠もった。まだ元 気ですべては過渡期に在り。叔母へ年賀の草野貞子らに会う。同四日、独り小雨の祇園膳所裏(ぜぜうら)を歩いて、ノート。晩、同じく初めて近隣の巽町、長 光町辺を歩く。宮川町も探索し、木屋町「政」で甘鯛の糸づくりをポン酢で、ビール。同五日、遅く起き急いで京都博物館に独り走り病草子断簡「眠れぬ女」の 幅や海住山寺の「法華曼陀羅」また宝誌和尚の観音を現じた「顔割れ像」などに感銘。祇園石段下「いづ重」の蒸し寿司を食べて帰宅。家族で話したあと迪子と 出て祇園「濱作」で女将森川洋子と立ち話し、河原町散策し喫茶店「築地」小憩、「銀座堂」でオーストリー製ブローチを買い新橋通りでラーメンを食べて帰 宅。同六日、新幹線で離洛、故障により浜松で乗り換えを強いられ、恒平は立ったまま一時間半遅れて東京着、池袋駅で払い戻し受け夕食して保谷に帰る。心残 りは大井龍子の声を聴かなかったこと。謡曲本を多く持ち帰る。二冊の私家版は「臆せず書ききった」ことが概ね友人では好評で、父と叔母は読んでいたが冷や やかで、母は読んでいなかった。京都へ帰ってくれば書きにくいと感じた。船岡の母の兄福田瀧之助伯父に迪子初対面。友人たちとも三度に亘り会っていた。
 一月八日、この暁、かなりの時間西村龍子を夢見る。次の創作に足踏み故のまた重苦しい情緒不安故の神経性胃痛。「或る『雲隠』考」の手直しにかかる。同 九日、年末来の背面痛が激痛に転じ一時起き上がれず。京都で朝日子相手に片足跳びで繰り返し路上を競走したためか。肩凝りにもその後永く悩んだ。池上線長 原の鵜飼医院受診、若年性亀背かと。同十二日、徒然草によった小説を想えども動かず。この日、鳥羽華子来信。同十三日、受診。同十五日、宗観井伊直弼の 『茶湯一会集』を読み始む。「一期一会」に就いて思索す。同十八日、夜中、作中の女性を夢に見る。武田麟太郎『雪の話』がラジオドラマにならぬかと想う。 長編を思い切って削って行く。背らくになる。同十九日、朝保谷駅階段で転倒足腰を痛める。国文学者長谷川泉編集長「畜生塚」を力量あり質的に高いと評価 し、じっくり手入れをせよと助言。濱作の森川洋子佳い筆跡の来信、度々便りが欲しい一度ゆっくり話したいと。間宮正子も思い詰めた調子で来信。この日、転 勤上京の持田実・晴美を迪子訪う。同二十五日、父方の吉岡睦彦より恒彦・恒平には二人の妹があること、父恒も普通の交際を求めていることなど歩み寄りを求 める電話あり、拒絶。同二十六日、家裁で保富家側また無断欠席。田所武治叔父と茗荷谷茗渓会館で会う。同二十八、九、三十日、迪子朝日子の重い風邪で看病 の休暇、此の機会に泉鏡花『高野聖』『眉かくしの霊』『外科室』や『婦系図』『照葉狂言』など一気に読む。
 二月二日、自分は破滅型かも知れぬと危惧。自分の判断と他者の常識との落差に悩む。家庭しか守れない男かと。奔放豊饒でありたい。同四日、もう一年にも 亘って一本の震える糸の上を歩んでいる。同十日、『教行信証』読み始む。現実と作品とのねじり合いの闘い、ドンキホーテ。同十八日、すべて負の方角をさす うとましき苦闘に終止符打つ。この日、迪子の友持田晴美来訪。同十九日、迪子健保診療所で健康に大過なしと。この日、繁和クンに迪子の編んだセーターを着 せて元日の初詣に行ったという大井龍子の写真と迪子宛の手紙見る。この頃も、書籍の企画また企画で奔命。同二十日、迪子朝日子と銀座へ出、寿司と靴二足。 同二十一日、管理人交代につき社宅会議。同二十三日、迪子の家裁調停。同二十四日、再度社宅会議。同二十八日、渋谷「東光飯店」で持田一家と昼食。この 日、「或る『雲隠』考」二百八十六枚で第二稿成る。この頃、夢中で『浄土三部経』読みふける。
 三月一日、快調、次の仕事を模索しすでに後の「斎王譜」などを具体的に構想。迪子も元気回復。同十日、数日前より創作的に「生々しく妖しく惹かれる」も のがあり「何というふしぎな歪みが自分の中で狂い舞うことか」と。長谷川泉『近代日本文学』読む。「雲隠」五十四枚まで清書第三稿。同十四日、重森埶氐突 然来訪。この日、結婚六年。「何も言うことはない、来年も無事に今日を祝いたい。」同十五日、家裁の調停は難航、握っているのが先方であるからは当然。同 十六日、昔交わした手紙の山が現れ二人で照れる。「だが人間の分別や理性なんて分からないものだ。」前年の今頃と変わりない異様な心的高潮あり。同二十三 日、無明甚深。「厳しい報復に遭っているのかも。」この頃、『法華経』を読む。同三十一日、レオン・ブルム『結婚について』読む。
 四月一日、慶応大学耳鼻科大和田健次郎教授を識る。人事異動で出版二部医学三課鶴岡八郎課長のもと主任として書籍企画取材専任となる。新人景山鏡子と識 り雑誌「公衆衛生」の編輯を引継ぐ。麹町保健所等に挨拶に回る。新入部下佐野周子、緑川良子を識る。同五日、迪子満二十九歳。この日、放射線学会取材。同 八日、朝日子嬉しそうに如意輪寺幼稚園に入園。同九日、父上京。この頃、ひどい忙しさ。同十日、銀座「スエヒロ」で食事。同十二日、父帰洛。この月前半は 新しい仕事新しい同僚新しい気組みで全力尽くす。同十七日、ベトナム乱戦、東西冷戦かつ熱戦、国内政治の混迷腐敗、物価高。時代暗転を体感す。この日、 「或る『雲隠』考」第三稿迪子の浄書成る。二百四十六枚。同十九日、この頃までに、「紅梅」二十枚成る、後に「斎王譜」の巻頭に転用す。迪子は家裁調停に 疲労、早期収束を内心に願う。同二十日、調停非道、兄は結婚時に百五十万円を与えたなどと途方もない事実無根を言い募る。暴言の渦に迪子沈む。同二十四 日、名古屋、関西出張に発つ。この日、名古屋大学小児科鈴木栄助教授と『ウイルス病の臨床』会議。京都に入り、翌二十五日、母と泉涌寺一山をうらうらと歩 く。すでに構想もち、来迎院、観音寺、御陵などを懐かしくつぶさに見回る。同二十六日、神戸大学、大阪大学でそれぞれ企画進行の会談を重ねる。帰路伏見で 観月橋に住まいの間宮正子と逢い、その足で離洛帰東。「美しい限りの新しい物語」を書こうと心決める。同二十七日、東大分院取材後に駒込六義園にまわり 道。同三十日、「斎王譜」仮題「野宮」のちに『慈子(あつこ)』起稿、新しい「夢」を紡ぎ始む。
 五月四日、朝、日比谷公園を新緑にまみれて厚生省取材、新宿からフジテレビに回る。同八日、題「斎王譜」を考える。同九日、野球を観る。この日、隣人星 野幸男の紹介で近所の児童文学者来栖赳夫を訪う。私家版よりも応募をと。職を捨ててでもの気でと。我が道のまま行きたい。同十一日、昼休みに景山鏡子と西 片町界隈を散策。この頃、葛藤する暗い怒りを思い続ける。この頃、執筆に喫茶店「赤門」を多く利用。同十三日、五月晴れの昼休みに本郷台、西片町を歩く。 同十七日、「こういうことが生活の中に繰り返し現れることをもう自分は知っている。」迪子と、重森埶氐に紹介された新弁護士藤本猛を青山に訪問。同十八 日、板橋の日本大学に西川公衆衛生学教授訪問の帰路、池袋小憩。同十九日、名古屋から岐阜市の日本小児科学会取材出張。迪子と朝日子は京都へ直行。同二十 日、名古屋大学で企画会議し、夜、京都に入る。同二十一日、大阪市立大学、大阪大学で企画会議、同二十二日、京都大学、神戸大学で企画進行会議で飛び回 る。同二十三日、嵯峨厭離庵で美緑会正午の茶事に迪子と参加、野宮、落柿舎、二尊院、往生院など散策。大井龍子に逢えず。同二十四日、保谷帰宅。この頃、 各大学研究施設で書籍企画と会合・取材輻輳す。同二十五日、神楽坂に遊ぶ。同二十七日、家裁調停。この頃、伊藤整『小説の方法』を耽読。同二十八日、机を 六畳に移し書き続ける。同二十九日、東武百貨店の「日本画名作百年展」を観る。玉堂「彩雨」五雲「秋なす」遙邨「清水寺」竹喬「冬日」など印象に残す。清 方、松園、春草、観山、御舟そして麦僊にも。
 六月一日、奥沢に沢崎千秋日大婦人科教授宅を訪う。同四日、書籍企画と創作世界に沈潜との交互緊張に耐える。この頃、上島史朗歌集『鈍雲(にびくも)』 に寄せた手紙が歌誌「ポトナム」に「菅原万佐・作家」の名で転載される。同六日、近所を散歩して佳い日曜。「斎王譜」構想も執筆も進む。同九日、突然の憤 怒に夢を破られたりする。「こんな時代に何を怒ればよいのか。」迪子生理不順、「待つだけだ。」同十四日、ありありと西村龍子を夢見る。夢もまた創作と想 う。同十五日、「斎王譜」の構想を新たに組み替え事実上の仕切り直し。同十七日、明らかに日々の力点は創作に。勤務も外見的に順調。迪子の不安解消す。こ の頃、或る奇妙な三角関係の告白を構想として書き留める。この頃、先輩郡定也雑誌「集団PP」企画流産を伝え来る。郡には「折臂翁」が渡してあり激励され ていた。この頃、なお『千夜一夜物語』を読み続く。同二十三日、公衆衛生院に取材し自然植物園に寄る。同二十七日、竹内繁喜院長に券を戴き家族で歌舞伎座 観劇。「菅原伝授手習鑑」の加茂堤と賀の祝「箕輪心中」「らくだ」で鴈治郎出ずっぱり、寿海、歌右衛門、延若、福助、勘弥、宗十郎など。
 七月一日、旧作「京都へ」を解体して新しい「斎王譜」に組み入れる。同十一日、「斎王譜」五章に進む。同十四日、五章を終える。「自分が異常なのか、他 がそうなのか」と勤務の環境に焦れる。同十五日、「小説」でなく「物語」っていることに気づく。『アラビアンナイト』を楽しみながら、この頃、平野謙『新 生論』に圧倒され、本多秋五『白樺派の作家』伊藤整『小説の方法』『発想の形式』荒正人『夏目漱石論』なども。同十七日、第一生命ホールで新生児学会を取 材。「隠水」の題でラヂオ劇を書きたいと思う。夏はいろんなことがしたくなる季節。同二十二日、大雨の朝帰洛の迪子朝日子同伴で後半に夏季休暇を兼ねた関 西出張、汽車旅三時間半は往時に比し嘘の如く速し。大阪大学医学部、医学書院大阪出張所、新大阪ホテルで『脳疾患のレ線診断』等の企画で連続会議会合、翌 二十三日、小雨高槻の大阪医科大学、大阪上六ビルの大阪視力研究所から聖バルナバ病院、桃山市民病院、大阪日赤病院を経て、旭町の大阪市立大学医学部等で 『小児の代謝異常』等の会合、会議、取材を重ね京都に戻る。松湯。迪子と夜出て木屋町「嶋房」で鯛と鱧と豆腐を、新橋「紅ばら」でブランデーを楽しむ。迪 子新しい服とブローチがよく似合う。同二十四日、朝日子らと縄手「たる源」の沢山な盆栽を疏水べりで楽しんだあと祇園会後祭りの鉾巡行を観る。朝日子投げ ちまきを掴んで興奮。鳩居堂ほかを散策、一度家に戻ってから京都府立医科大学で『小児の医原性疾患』の編集会議。この日、叔母の茶室稽古日、思いがけず女 の児と二人連れの片岡(小畠)芳江稽古場に見え再会。迪子と送って出、寺町「田ごと」でお茶漬けを一緒にして別れたあと、四条の井澤屋、奥田連峰堂、おく 信などを覗きながら帰る。この晩は、父と囲碁。同二十五日、四条の「パリー」で散髪。「よろづ屋」の梶川家に懐かしい三姉妹の姿無く、八坂神社参拝、御輿 も拝み二軒茶屋で小憩、井戸水を汲む。此の午後、叔母の生け花「南風会」社中大勢に迪子朝日子と参加、瀬田唐橋前「臨湖庵」の網船で川遊びを楽しむ。阪東 友子を識る。この晩も父と囲碁。同二十六日、朝日子と八坂神社へ。いっしょに鈴綱を揺ってやると小さな掌を合わせて、「みほとけさま…」と。タクシーで泉 涌寺下まで行き徒歩東行、即成院、戒光寺を経て「朝日子」の名を心に決めた観音寺橋から朝日子と渓流を眺め、「斎王譜」のために文字とカメラでスケッチし ながらゆっくり観音寺、墓地から来迎院で喫茶と逍遙の時を過ごし、泉涌寺、泉山御陵へ。「鳥啼く蝉鳴く御陵は夏の空」と。朝日子感激。タクシーで祇園に戻 り旧友團彦太郎ゆかりの「農園」で小憩、朝日子はクリームとフレンチトースト、父は海老マカロニのクリーム煮とコーヒー。良き朝遊びの良き昼食。この晩、 独り歩き回る。縄手から三条へ、木屋町から河原町、「リプトン」で休み京極、弥栄会館、安井、下河原、長楽寺、円山、知恩院三門、平安神宮大鳥居下、疎水 べりを歩いて、また三条大橋まで。同二十七日、朝に三宮から神戸、湊川神社に詣り、神戸大学病院で編集会議を済ませて帰る。鯛の塩焼きと赤御飯で朝日子満 五歳を祝う。同二十八日、迪子と大徳寺へ。黄梅院、昨夢軒、三玄院。カメラ不調でいらつく。三条河原町「飛雲」でたっぷり食べて機嫌直し帰宅。銭湯。夕食 後に叔母もともに一家で「かき春」へ。この頃、すでに父と叔母宜しからず。老人と朝日子を帰して神輿洗いの神輿を井澤屋前で見る。「農園」でゆっくり話し 八坂神社に詣り円山公園で射弓を楽しむ。
 七月二十九日、親子三人で午前中取材かたがた高槻の大阪医科大学病院へ。湖崎医師に朝日子の眼の診断を依頼、異常無し。朝日子に劇場で映画「名犬ラッ シー」などを見せてやりたいと迪子が言い、先に帰し桂駅で独り下車、苔寺、大雅美術館へ。嵐山を経て帰宅。父と囲碁。父が二目から四目置く。晩、独り歩き 木屋町「政」で鱸、とろろ、生雲丹でビール呑む。此の休暇で「京ことば」の妙と重みを意識した。同三十日、午後のラジオで大谷崎の訃報。この日朝、智積院 の書院襖絵を観、本堂に入る。博物館で知恩院蔵「早来迎」に再会。法然上人絵像や古丹波の大壺など。帰りの荷造りを始め、銭湯。みなで夕食のあと、谷崎の 死の重みに堪えず、夕過ぎぬまにと先ず南禅寺から永観堂を経て法然院墓地に走り寿冢(じゅちょう)に凝然、祈念。誰よりも誰よりも谷崎潤一郎と、悲嘆。先 ず作家になり作家として谷崎論を書こうと誓う。円山公園まで戻り弓を射る。「農園」で迪子を待ち、沢田文子も来る。「菊水」で話す。同三十一日、荷物の二 つを送り出す。迪子と朝日子円山公園に出たのを奧のせせらぎの辺で見つけ、迪子は整髪に行く。朝日子と水におりて余念なく遊び八坂神社に詣り帰る。この 日、叔母の稽古日。西村家より土産もらい、礼に行く。迪子に美しい陶の指輪買う。沢田文子に呼ばれ、瓦の資料など観に迪子と下鴨糺の森の沢田家を訪う。帰 宅「うお竹」の寿司が届いていた。夜遅くまで親たちと話し合う。この京の夏では西村龍子だけでなく殆ど誰とも逢わなかった。僅かに森川洋子と縄手四条で出 会っただけ。とことん楽しかった休暇であった。
 八月一日、離洛、保谷に帰る。以降九月七日までかけて在洛の十日間を「ノート六」に記録。同二日、「ノート五」満つ。同三日、板橋日本大学病院に馬場一 雄教授訪問。同五日、この頃より「徒然草」考察に大童。同十二日、兼好法師「自讃」を契機に兼好出家の論を展開す。同十七日、「兼好考と徒然草執筆動機の 考察」を六十枚に纏める。同二十一日、『アラビアンナイト』文庫本の全部を読了す。この頃、勤務はごく楽に推移す。同二十三日、「兼好考」補充して仕上 ぐ。のちに(同志社美学)11、12号に分載した。来年人事で大阪勤務になればむしろ好都合と思うに至る。同二十八日、「京都へ」後半を「祇園の子・菊 子」として独立の一編に直す。前半は「紅梅」「霜」となり「斎王譜」に組み入れる。数日前より、岩波書店の『座談会大正文学史』読み始む、必備の座右書と なる。同三十一日、迪子の遺産分配家裁調停は前進せず不調審判となりそう。
 九月一日、『大正文学史』面白く、産出的に頭が働く。同六日、父から日立のリール式テープレコーダー届く。活用したいと胸轟く。同七日、七月の京の夏休 み日記ようやく成る。長谷川泉『近代日本文学の展望』読了、『大正文学史』には感興及ばず。同八日、久々に東京大学構内を独りそぞろ歩く。同十日、テープ レコーダーに文章を吹き込み欠点等に気づく。粗くなってもいい生気をと思う。同十二日、「斎王譜」主題がよく見えてくる。テープレコーダーで我が耳に文章 の批評させる。同十三日、夜更けて突如枕元のテープレコーダーに即興の話を吹き込んだのが、掌説第一作となる「蛇」であった。この出来が興をそそり次々に 連日三ないし五枚の美しくて不気味な掌説を欠かさず書き進める。同十七日、掌説五話「蛇」「鳩」「鯛」「一閑人」「長者」成る。「或る感動と惑乱」があ る。『座談会明治文学史』北村透谷、森鴎外の章に感銘受く。同十八日、「感傷と感傷を抜けたところがごっちゃになっていて、余所事のような、だがどこかに 安心しいしい大事なものを人の手に渡してちょっと不安がっているような気持ち」と。同十九日、掌説「鏃」「雲」まで書く。同二十一日、掌説「道士」「地 蔵」まで書く。『明治文学史』読了す。迪子家裁審判申立書を用意す。同二十二日、喫茶店「赤門」で掌説「賽」を書き十話、もう少し書き続けることに。久保 天随『唐詩選新釈』読み始む。「無明はどうにも自分の本性らしい。」  同二十五日、掌説「盧生」「電車」「ハモニカ」書く。以来掌説は独自のレパートリーとなり、時期を経て連作を繰り返している。同二十五日、フォーヴ展を観 る。ブラック、ヴラマンク、マルケそしてマチスのデッサン。わびしく心乱れた週末。同二十六日、秋。「畜生塚」で明らかに推移を予見した。同二十七日、 「斎王譜」嵯峨で磬子と出会うまでを書く。同二十八日、審判に琉美子も代理人を立てる。同三十日、朝日子遠足に付き添い読売ランドへ。過保護の気味あり。
 十月一日、築地産院で囲碁二局大勝すれど心地晴れず。『唐詩選』と並行して『老子』読み始む。同三日、「玄牝」という寂静。「身内」について思う。盧生 への不審。『春琴抄』半ば音読す。同七日、「斎王譜」百五十八枚まで書く。同十日、新宿三越で迪子に気に入ったセパレーツ買い船橋屋で天麩羅。一つの山場 へ来て西村龍子のイメージを持つ。同十五日、「重苦しいイヤな毎日」を避け「家族と家にいたい」と「月日の重みに一瞬の崩落」を予感。「心身ともに疲労困 憊」とも。同十七日、朝日子の幼稚園運動会を半日観る、迪子役員で参加。スランプで「全て停頓」す。同十八日、「斎王譜」百六十七枚に達す。「こうなれば 根気」と。「人の気持ちほど浪費的なものはない。燃え尽きればもう次の火種を掌で囲っている。」同十九日、迪子藤本猛弁護士に正式依頼。同二十日、「斎王 譜」百七十七枚に順調に。余燼。「愛は悪ではないが愚の甚だしいもの。」同二十一日、休暇取りぐっすり眠る。同二十三日、家裁に藤本弁護士同行。西武百貨 店の京都大名匠展で「松葉」にしんそば、「鶴屋」観世水で抹茶。同二十四日、肩凝り過激。同二十六日、東邦医科大学で久しぶりに森田久男教授に会う。同二 十七日、駿河台日本大学病院耳鼻科で医師中西靖子を識る。四月以来書籍の成立企画二十本、他課の全部より多し。仕事で後ろ指はささせない気構えなればこそ 創作も可能となる。肩も激しく凝る。家庭がなければ辛抱できない。同二十八日、「嵐は本当に去ってくれたのか。」近松秋江の作は残り、生活はアトもない、 秋江は成功したのだ。同二十九日、日本大学小児科大国真彦助教授に聴く会。ツヴァイク『メリー・スチュアート』読む。「ノート六」満つ。正確に思い出せぬ ことも在り。同三十日、朝日子を連れて三鷹ソフトボール試合に行く。同三十一日、雨、三度び京都名匠会に行く。
 十一月二日、この頃、フラナガンの『「モダンアートの解釈』を原書で読む。同五日、「斎王譜」百九十二枚まで書く。ツヴァイク『マリー・アントワネッ ト』読み始む。同八日、フラナガン、唐詩選、老子、論語を併読し『マリー・アントワネット』に熱中。「書く世界から一見縁遠くあればあるほど政治経済社会 歴史そして科学を侮らない」と。同九日、ソブール『フランス革命』読む。同十一日、「斎王譜」二百四枚十章成る。同十二日、「危ないものだこころというも のは。」同十四日、家族で上野へ。朝日子と遊ぶ間に迪子ルオー遺作展を観る。文化会館で児童合唱発表を聴く。この頃、クラシックをよく聴く。ウィルヘル ム・レーマンのバイオリンでフランクなど。ヤナーチェック、オンドリチェック、リスト、ベートーベンなども。同十五日、また「あの厭な乱暴な波」が来た。 「何が甘やかな期待を喚(よび)起すのか。」「書きつづけようと思う。」同十五日、社屋屋上で夕焼けを眺め、帰心涙ぐむ。同十六日、『リンパ系造影法の臨 床』『骨腫瘍』『成長の生化学』『成長の生理学』『小児の微症状』『産科手術書』『新生児アトラス』『聴こえとことばの障害』取材原稿を相次いで製作に引 継ぐ。年内に『新生児学』『小児の眼科』『エックス線特殊造影法入門』も引継げる予定。同十六日、或る断続した長い葛藤に終止符。同十九日、「斎王譜」第 十二章に入る。「石と利休の茶」思い立って書く。同二十一日、裁判憂鬱なれど迪子のためにも克服したい。同二十五日、保谷の松ノ木囲碁クラブで黒番二局勝 つ。この日、年末争議始まる。磻田一郎来訪、ほどほどで実を取れと迪子に助言あり。同二十七日、家裁相手方欠席で流れる。同二十九日、「斎王譜」二百四十 四枚で十二章成る。同三十日、長編うまく徒然草につながる。書く醍醐味、興奮、不安、緊張びっしり。いわば幸福感なり。この頃より、朝日子麻疹。この頃、 景山鏡子とよく話す。
 十二月三日、田所宗佑・市子伯父伯母来訪、磻田一郎来信、この頃、磻田、田所より迪子への干渉多し。同四日、帰洛の切符手配。同五日、天沼の田所家を訪 ね磻田一郎、田所宗佑に迪子の意向を伝える。同六日、「斎王譜」二百六十四枚で十三章成る。同九日、田所伯父らの仲介に迪子兄庚午全く応ぜず、顔も見せ ず。
 十二月十日、婚約八年。同十一日、発明会館で東北大学産婦人科安達寿夫講師と会談。同十三日、発熱四十度近く、原稿は句読点と夢うつつのヒラカナ二三字 で繋ぐ。同十四日、午前中休む。同十五日、『唐詩選』全五冊読了し『古文眞寶』読み始む。同十六日、『出血性疾患の臨床』編集会議。「斎王譜」二百八十六 枚で十四章成る。同十九日、迪子朝日子京都へ先発。同二十一日、満三十歳。争議妥結、給与の三十二割プラス一万二千円。池袋で二本立て映画観る。同二十二 日、「斎王譜」三百六枚で十五章なる。同二十三日、「ニューホンゴー」で青年部忘年会。堤アヤ子と暫くはなす。同二十四日、静かなクリスマスイヴ。同二十 五日、午前築地産院で竹内繁喜院長と歓談。歳末年始の休暇で課長鶴岡八郎と交渉。同二十六日、帰洛。お向かいの古川家葬儀焼香後、迪子と新京極華嶽山誠心 院墓地に和泉式部「東北」院軒端の梅の名残を探る。映画を観て帰る。「京都の人と暮らし」について考える。会社の余韻引きずり終日憂鬱。同二十七日、午前 に八坂神社に参拝しタクシーで泉涌寺へ。即成院から戒光寺に抜ける細道途中左手に日当たり遠地借景の穏和な空き地が好ましい。玉堂の絵のよう。新善光寺に 寄る。拝跪聖陵の碑から泉涌寺本堂に進み孝明天皇陵の方へ上り、後堀河天皇陵手前から渓谷に沿って奧を探り観音寺へ下って墓地ぞいに来迎院に入る。小一時 間も庭や茶室露地をもとおり歩み書院に上がり喫茶。まさに「斎王譜・慈子(あつこ)」「畜生塚・町子」の世界。東林町界隈をそぞろ歩いて迪子に電話、花見 小路「農園」で小憩帰宅、銭湯へ。祇園「ジャワ」で日記。夜、菩提寺の秦家墓所に関して話し合う。同二十八日、終日の雨に無聊、不調。なぜ書くか。「藝術 的衝動よりも人生的衝動」か。同二十九日、三条京阪前からバスで一路大原へ。三千院庭園、往生極楽院、裏山、蓮成院、遮那院、呂律の小川べり、世和井(せ がい)の清水などを夢うつつに訪い歩く。門前の徳女庵に寄る。「蛍籠とうから夢とけじめなく」と覚えた徳女の句が「どこから」と色紙にあり当惑す。寂光院 はあきらめ寂光院口から帰る。「残り柿の赤さも黒ずんでふっとまた時雨れてやんだ。寒さが加わった。バスが来た。」「慈子」が終始まぢかにいた。夕方、朝 日子を連れ暮色蒼然の知恩院境内から鐘楼の鐘の真如の闇をのぞき込む。あの闇の奧に「み仏さまの国への道」が隠れていると話すと朝日子はすぐ本気にする。 弁天堂に蝋燭をあげ左阿弥の前から円山公園に入り八坂神社に詣って帰る。晩、迪子と木屋町「嶋房」で蟹酢で飲み迪子は鯛。二千二百円。新橋「紅ばら」の コーヒー美味し。夜遅くまでみなで話し合う。同三十日、朝日子を連れて醍醐寺三寶院を初めて訪い庭園の華麗と重厚とに感嘆。廊下の冷えて寒かったこと雀の ようにつま先で跳び歩く。五重塔、大伝法院より奧宸殿の醍醐棚を遠望す。バスで帰り河原町「大黒屋」で熱い蕎麦を食う。小さくても朝日子に佳い場所で良い ものを見せたい。銭湯。晩、母と迪子をつれ雪の街へ。「橘屋」で和菓子、迪子は「ボストン」で靴、そして「大黒屋」でいもかけ蕎麦、母は鰊蕎麦、迪子は天 なんば。河原町で迪子が若い男に絡まれたが捌いて事無し。
 昭和四十年大晦日、朝日子に街で年玉買う。詩仙堂から曼殊院を訪う。西山北山の歳末の眺望を深呼吸し、帰路河原町に寄って、迪子に「丸竹」で南洋仮面風 彫金のペンダント、朝日子にヒロスケ童話『りゅうのなみだ』買う。この日、同僚景山鏡子帰省中の電話用件あり。朝日子水痘発症の気配あり。除夜の鐘を聴き ながら迪子と八坂神社へ初詣。知恩院の大釣鐘を聴きに行く。

 昭和四十一年(一九六六) 三十歳
 正月元旦、知恩院の除夜の鐘撞きを聴き、迪子の望みで知恩院を経て青蓮院鐘楼で釣鐘を撞く。殿舎の廊下冷えに冷ゆ。瓜生岩から白川を渡り菊屋橋畔雑踏の 喫茶店で暖を取ってから帰る。朝八時、一家揃って祝い雑煮。朝日子の水痘本格化、まだ苦痛なく、カルタ羽子突きに興じ午後には着飾って親子で改めて八坂神 社に初詣でし、朝日子は生まれて初めて自分のお年玉から二十円使ってスマートボールを初体験。帰宅して症状顕著、苦痛が始まり可哀想でならず、対応に苦慮 するも慰め励ますより無し。早く床に就く。同二日、朝日子俄然全身に発症、痒さに呻く。大和大路松原寿延寺の洗い地蔵でお地蔵を洗い恵比寿神社にも詣り水 痘平癒を祈願。その足で嵐山電車で嵐山、嵯峨に。くまなく歩き舟便を得て嵐峡館で食事。渡月橋から車で松尾大橋を経て四条河原町に戻る。朝日子の水痘峠に かかり、掻きむしらないよう不寝番して、碁盤を机代わりに日記を書く。深更三時半やっと朝日子寝入る。同三日、朝日子ぱっちり眼を覚まし、だいぶ快方胸を なで下ろす。水痘はむしろ全身に広がるも不快な局部症状を通過し安堵。終日雨、父と囲碁など。父の三子で伯仲す。同四日、朝日子左上瞼の腫れも少し退く。 医者も愕く重さであったが軽快に向かう。銭湯で中学の旧友茶屋「井光」の田中勝に出会う。晩、独り街に出る。同五日、午前一時「斎王譜」を二百字ほど書き 足す。「ノート」は膨大量に達す。真葛ヶ原、清水坂を経て、車で養源院に行き宗達の杉戸絵や「松図襖絵」などを堪能、休暇の掉尾を飾る。新館に移る前の博 物館で多くの曼陀羅図を観る。来迎院の護法神像一体を傑作と観る。帰って午後、迪子と洗い地蔵へ。母も洗いに行ってくれた。高島屋で買い物し、迪子は四時 半渡貫良子と街で会う。父四子で二勝。夜は伯母も共に墓のことなど深夜までこもごも語る。同六日、朝日子なお左瞼など不調。午前中、母、迪子と常林寺墓 参、新墓所を知る。午後、荷造り。医師朝日子の眼に包帯し掻きむしらぬよう用心。二人で不寝番。同七日、九時過ぎ離洛帰東、本郷三丁目で別れ出社し一気に 身辺の整理と段取りをつけ終わる。光田良子の年賀状がよく、池宮千代子もアメリカから。『徒然草の執筆動機について』に長谷川泉の親切な助言受く。同八 日、景山鏡子と日大医学部取材の帰途池袋「タカセ」で食事。音楽を聴く。同十二日、非公式ながら大阪勤務希望を上司にほのめかす。同十三日、勤務も好調、 長編も「最も幸せなムードで」進行。この頃、フラナガンの英書、『和漢朗詠集注』『古文眞寶』読み進む。日課を厳格に維持。同十四日、「人間的」な成長を 求められている。同十四日、発疹あり。
 一月十五日、現実に家族があり絵空事の真実に「慈子」が実在する。同十七日、「斎王譜」三百三十三枚で十六章成る。兼好考は峠を越す。同二十一日、会社 への「人間的」な嫌気強まる。新しい私家版を希望し始む。この日、淡交会東京支部加入の用意。新しい株を少し買う。同二十三日、唯物論に徹したいという組 合幹部の一人と話し失望す。「病気かもしれない。」同二十四日、日本大学小児科広沢元彦医師に依頼され渡して置いた「石と利休の茶」が俳句結社誌「鷹」に 掲載と決まる。同二十五日、かなり乱調子。同二十六日、長編小説終幕の予感。退社願望烈しく募り京都へ帰っていいと思う。ぐんと書き進む。小林正樹監督映 画仲代達也主演「切腹」に感動す。この頃、『梁塵秘抄』を興に乗り読み進む。同二十八日、胃液を吐き病休。高校時代の「竹芝寺縁起」一部を進行中の長編小 説に取り込む。脱稿直前の不安期待焦燥。同三十一日、草野貞子の美緑会南風会脱会を告げる来信に返信。この日、淡交会入会手続き取る。京都へ帰ることの具 体的検討を必要とす。
 二月一日、上野国立博物館で十七世紀絵画展を観る。レンブラント「ヴィーナスとキューピット」ヴァンダイク「貴婦人とその娘の像」ルーベンス「聖なる子 たち」ロイスダール「河岸」など。シャンパーニュの「ある男」など完璧な写真画法に愕く。ミレー「落ち穂拾い」が特別展示。体力気力とも低調。迪子の家裁 事件膠着。田所伯父の調停も甥庚午取り合わず。「逃げる鰻素手でおさえる難しさ」なり。フラナガンの美術史面白し。もう次ぎに書く作品が気になる。チェー ホフ全集を最後の書簡巻から逆に読み始める。同二日、「斎王譜」三百七十六枚で十九章に入る。勤務の方は企画など小休止。同四日、同僚で作家志望の矢野よ り「君の作物が独自で良質な世界をもっていると噂に聞いた、読ませてほしい」と。驚く。迪子ら十七世紀美術展を観て後上野で出逢う。この頃、迪子の例の闘 争も親族介在で煩多。同六日、「飾り多い文章がいやになって来た。簡潔な主文だけでラコニックな文章にしたい。長谷川泉氏が虞美人草をちょっと思わせると 畜生塚を評したのは此の点に関係有ろう」と。同七日、「畜生塚」「桔梗」を矢野激賞。「ほめて貰っても油断しない」が、刺激受ける。今後の創作活動につき 迪子と議論あり。同八日、「斎王譜」三百八十七枚で息苦しく停滞し思案重ねる。迪子藤本弁護士と本訴の打ち合わせ。同九日、「此の作品の出来次第で創作を 主に勤務は従と決断したい。『完』と書いてからの推敲が勝負になる」と。「物語でいい。私の源氏物語を願っている」とも。同十日、同僚田辺の縁者の店「の と」で独り大酒し帰路、日暮里、池袋、石神井公園駅で途中下車、朦朧と帰宅し深夜に起きて書く、「もう一息だ。」フラナガンも読む。
 二月十一日、長編小説『斎王譜』(のちに『慈子(あつこ)』と改題)四百枚で初稿成る。同十二日、俳誌(鷹)巻頭エッセイに「石と利休の茶」を発表、掲 載誌届く。題と本文に誤植各一あり。「斎王譜」の第二稿を開始。同十四日、「畜生塚」を送ってみる。同十七日、後に小説「清経入水」序詞となる掌説「夢」 三枚を書く。同十八日、掌説「鯛」「地蔵」「賽」「盧生」を矢野褒める。同十九日、長編各章のパノラマを書いてみる。破綻は少ない。同二十日、迪子の雛人 形を本格的に段飾りし朝日子大喜び。掌説の着想を八つ書きつける。同二十一日、掌説「菊」書く。のちに「於菊」に活かす。「斎王譜」三章六部に編成す、 「死なれた者」と「身内」の物語となる。雑誌に掌説数編投稿。この時期数次作品を(群像)(PHP)(週間朝日)等に投稿している。賞に応募はしていない が雑誌投稿は短期間だが試みていたのである。同二十四日、掌説「春夜」書く。同二十六日、掌説「火」書く。のちに新聞小説『冬祭り』に活かす。同二十八 日、利休忌。芝の美術倶楽部で初めて東京淡交会に参加し展示の『南方録』立花実山本、二月堂の焼経を眼に見る。「ノート七」満つ。
 三月一日、佐野周子掌説「雲」が面白かったと。同三日、通勤の車中でマルクスとか能のこととか面白い本を読んでいる女性を見かける。同四日、迪子の希望 で大阪勤務を一応申し出る。同五日、名古屋で編集会議後京都で一泊。高島屋でダスターコート買い迪子にディオールのブラウス買う。「ジャワ」縄手「蛇の目 寿司」「農園」で時を過ごす。夜更けまで父と話す。小説を書きたいこと、商売は嗣がないこと、東京で一緒に暮らしたいこと。同六日、夕刻離洛。同八日、截 金(きりがね)をテレビで見る。同九日、のちの「底冷え」の想を持つ。同十二日、朝の電車でまた「あの人」と出会う。大阪勤務はまず無い模様、昇進希望の 申し出と取る中傷があった由、笑止。「俗に屈せず高く己を持して生きて行くのはつくづく難しい。」同十二日、迪子、「畜生塚」の男と「斎王譜」の男は同じ 年の同じ男であるがその間に変貌が見えショックを受けたと重大指摘。大きな批評である。同十三日、朝日子小金井公会堂でヤマハ音楽教室ピアノ発表会。きら きら星、ずいずいずっころがしを弾く。新宿へ出て「イノヤマ」で食事。
 三月十四日、結婚満七年。組合大会中に「斎王譜」十七章前半に「朱雀先生」の極めて重要な述懐七、八枚を追加。同十五日、「あの人」と三度目の出会いで 私家版二冊を池袋駅ホームで手渡す。同十六日、職場にいて「淋しい」と感じる。心の拠点は「斎王譜」をよく直して私家版にという希望のみ。同十七日、「人 も名も知らないその人」とまた車中出逢い「表紙は奥様の……とてもきれい」などいい言葉を聴く。小説は「ことばと思想の美しい表現」と。同十八日、喫茶店 「ガーデン」の暗い中での執筆に眼を痛める。家で休息となるとテレビになる安易さ単調さに苛立つ。同二十日、『斎王譜』第二稿成る。すぐ第三稿に進む。同 二十二日、「あの人」から昼休みにいい感じの電話来る。名も連絡先も聞かず。電話切れて深々と寂し。胸部痛、口内出血、口渇。この頃、自虐の自己批評に明 け暮れる。幼年来好きになった女の子の大勢を順に思い出す。創作意思の一環か。すさみがちなものを抑制しているのか。同二十四日、「斎王譜」削って行く。 チェーホフ『サハリン島・シベリアの旅』に感銘を受く。伊丹十三主演市川昆監督テレビ映画「源氏物語」すこぶる面白し。同二十八日、左腕、腋、前胸部にだ るい痛み。「あの人」の電話を待つ。待つしか道無し。チェーホフ『イワーノフ』『かもめ』『ワーニァ伯父さん』の人間の把握と洞察に驚く。同二十九日、 『ワーニァ伯父さん』は怖いほどの戯曲で『三人姉妹』も偉大な作。チェーホフの毒を感じる。同三十一日、「あの人」と電車で逢う。大手町に勤めていると か。なにも問わず本郷三丁目で別れる。全身に不調。チェーホフ『三人姉妹』『桜の園』『森の主』読了す。
 四月一日、出版二部鶴岡八郎課長の四課主任企画取材担当と決まる。異同なし。緑川良子に代わり矢野が入る。同二日、以前より「斎王譜」中の「矢田登茂 子」の扱いに迷う。同四日、「あの人」の電話受く。同五日、迪子満三十歳、十時半で休暇取り映画「野生のエルザ」を家族で見、西武百貨店でフランス料理を 食べて帰る。同九日、「あの人」と朝の電車で逢い話しながら。土曜は昼までかと聞かれ「今日」もう一度池袋でと約束し、一時過ぎから「シャンゼリゼ」喫茶 室で話す。ある大手銀行の組合専従職員で欧文タイピストと。その余はなにも聞かず確かめず、いい批評を聴く。人を知ることのはかなさと身内の難(かた)さ を念頭に不思議な出逢いを保ちたい意識強し。同十一日、矢野と毎月十日までに短篇を一つずつ書いて見せ合おうと約束す。同十二日、景山鏡子と逢う。同十三 日、新しい小説を着想。互いに別の結婚生活に入ることで展開する「新・畜生塚」をと。のちの「底冷え」や「誘惑」に活かされる。同十四日、掌説「閉塞」書 く。同十六日、迪子の叔母濱みさよ来信、琉美子のこと。同十七日、家族で清瀬平林寺に遊ぶ。朝日子の言うことを短歌に置き直す、「香ぐはしき花の色して若 葉咲く萌え野の原の日の光かな」と。池宮千代子アメリカから便り懐かし。「あの人」に「絵屋牧子」と名付け小説心底に動き出す。同十八日、先輩中野久夫に 小説を「巧い」と言わる。同二十一日、満員電車で「牧子」と出逢う。僅かな会話で人波にもまれ離れる。大手町まで乗り過ごしたが姿見られず。同二十二日、 半日ストの早め解散で社宅に帰る三軒屋バス停で、もう久しく田中道で決まって出会う見慣れた幼子連れの母親を見かける。保育所への往還か、「毎日たいへん ですね」「ええ」と笑顔。心地よし。同二十六日、フラナガンの英書『モダンアート』読了す。同二十八日、迪子濱の叔母からの琉美子に関する葉書読む。同三 十日、「斎王譜」起稿から一年、十九章を三稿浄書中。得体知れぬ奇妙な不安が憂鬱へ誘う。
 五月一日、メーデー。朝日子と参加。正午迪子と渋谷で合流し「ロゴスキー」で食事し東急文化会館などぶらついて帰宅。この日、叔母の美緑会真葛ヶ原岡林 院で茶会。同二日、「牧子」と電車で逢う。「牧子」は寝台で京都に発ち京都一日、奈良二日のあと七日朝早に東京に帰り勤務、その翌日卓球の試合と。作家い いだ・もも夫人の妹と。不便なので勝手に名前を付けましたと言うと笑う。「全て知らせ、なにも知らぬ」男女のアンバランスに興趣を覚える。これは「奇跡」 か。『斎王譜』三稿浄書成る。同四日、矢野と約束の第一作「武蔵野で」十六枚書く。生きる不安と闘う微光の如きものを書きたかった。会社の帰り喫茶店 「ガーデン」の黒木と一緒になり池袋で三十分ほど話す。同五日、アルバムの整理などしてゆっくりした佳い子供の日。同八日、「牧子」の小説を具体的に構 想。この日、「祇園の子」として「京都へ」後半を活かすべくまた手を加える。同九日、「続・畜生塚または天の火」起稿。同十日、逢いそうだと予感の「牧 子」と電車で逢う。旅の話など。疲れて風邪気味とか、六月になったら映画「ドクトル・ジバゴ」見に行こうかと、券が組合で安く買えるからと。小説とのかね あいあり、リアルに交際を深くするのはどうかと思う。イデアルな作品に結実して欲しい。春闘終わらず閉口。矢野と作品を交換す。同十一日、会社の堤アヤ 子、独り旅で小雨の東福寺と三寧坂辺をそぞろ歩いてきたと。懐かしくなる。同十三日、春闘不本意に終わる。迪子体不調を案ず。中学ものの二作「祇園の子= 菊子」まとまり「夕顔棚=あかね」も。「こういうものが十も二十も書ければたいしたもの」と後に永井龍男に励まされた。同十六日、迪子に外の空気を吸って もらうべく、ウーメンズ・カレッジで美濃部亮吉経済学の一年講座に申し込む。この日、「牧子」の話一気に十一枚まで書く。勤務もスポーティに好調。巻頭逓 信病院内科加瀬正夫部長と識る。鹿児島大学小児科寺脇保教授と識る。同十七日、迪子四谷教室の講座に入る。同十九日、「牧子」と逢い話し弾む。地下鉄も一 番前へ同乗。不思議な仲。同十九日、五枚で梗概書く。同二十日、梗概を四十四段に分解し十四節を立てる。重い主題に。仕事があるのは幸福。同二十一日、朝 「牧子」と逢い話して行く。『神の鼻の黒い穴』という作品を義兄が出したという。最前部の地下鉄に乗ったが満員で本郷三丁目で「降りられないわ」と言わ れ、大手町まで乗り越しふしぎな「さよなら」を言って戻る。呼ぶに名がない。「あの人」も名乗らない。腹痛烈しく午後は家で寝て過ごす。「斎王譜」は簡潔 にして行けば行くほど「良くなる」と。同二十二日、雨の日曜を迪子たちはひばりヶ丘自由学園へ持田晴美母子と。腹冷えて痛む。同二十三日、「牧子」と電車 で逢う。「急にするどく美しさを増し、瞳に輝く艶」と。「かすかにお辞儀してしんとそばにに立つ」と。「満員で触れあうのはやむをえないまでも、心ゆるし た親しいかたちが慎み深いなかに優しくみえる」と。「牧子」の物語も少しずつ進行し女の心の動き行くのを見つめている。「いつか第二の出逢いをするのかも 知れませんね」と笑いあう。同二十四日、中野「ほととぎす」で馬場一雄先生を接待す。矢野の作品「位牌」読む。同二十六日、「牧子」と逢う。地下鉄まで一 緒だと十五分長く一緒にいられる。小説にも書いていると告げる。名前だけでも知りたい、が。書かれていると予感しているらしい。
 六月三日、「牧子」と出逢わない。強固な肩凝りに順天堂医院で肩頸胸のレ線撮影。同八日、仕事は好調で二ヶ月に成立企画は十点、だが会社には不快。「牧 子」の物語は四十六枚で三章成れど、「あの人」は五月二十六日以来姿見せず。この頃、掌説「風」書く。この頃、アンドレ・モロワ『英国史』に熱い興奮つづ く。同十日、五十七枚に達した物語は、此の辺りで「牧子」から逸れのちに小説「底冷え」「誘惑」に接触する。同十一日、「雲隠考」の梗概を書く。朝日子の 遠足に初めて迪子がつく。新しい私家版を計画す。同十四日、万葉古歌から「天の火」の題を考える。同十五日、耳鼻科大和田健次郎教授「畜生塚」を好評、あ のままでは惜しいと。同十六日、迪子体調に不和不快、医科歯科大学病院へ。同十七日、「牧子」はもう存在しないと思う。作中の牧子に深い親しみを覚える。 自費出版を筑摩書房に問い合わせたが著名な人の紹介でもなければ考慮しないと電話で。同十九日、父の日に迪子はネクタイ、朝日子はビール一本を「貯金」か ら。同二十一日、夏の一時金。「ガーデン」でウイスキーダブルをサービスしてくれる、それほど連日ここで書いてきた。ここで「斎王譜」を仕上げた。「天の 火」七十七枚で一つの壁を抜くも、気重し。迪子不調、「牧子」無く、出版にメド立たず。この頃、モロワ『アメリカ史』読む。「憎む」という感情もてあま す。日々が極度の不安にある気する。同二十二日、築地産院への途中暁橋の前で聖路加取材帰りの堤アヤ子と出逢う。「あら、戻ろうかしら」と一緒になり喫茶 店で小一時間話す。社内では口を利くこともないのに、外で出逢うとこういうことが今年三度目。これも一つの「名づけられぬ関係」と。地下鉄で別れ、築地産 院へ。今度いつ逢うか知れないのに約束もせず望みもせず。同二十四日、迪子回復し安堵のめまい。子供をもう一人は欲しいと思うのだが。迪子とは相変わらず よく話し合う。家庭は佳い環境。同二十六日、朝日子の幼稚園に父親参観。同二十七日、「天の火」九十一枚。「名付けられぬ関係は保ちうるか」「畜生塚を築 く恋」「軽薄な美と軽薄な人間関係の拒絶」主題。同二十九日、昼の「ガーデン」で、社の大谷は「畜生塚」は美しすぎる、畜生塚を危殆(きたい)に瀕せしむ る外的条件も衝くべきだ、だが感心したと言わざるをえない、と。同三十日、相模書房に自費出版の検討を依頼。この日、京都古門前の叔母の幼なじみ林きくえ 急逝。「雲隠考」を本にしようという時機に、うら哀し。この頃までも、ときどき景山鏡子と話している。
 七月一日、出張で京都に入り、京都ホテルロビーで府立医大増田教授・藤木講師と編集会議順調に。あと両親を呼びご馳走して家に帰る。雨降りつのる中を河 原町から木屋町喫茶店「ソワレ」、祇園「権兵衛」の天麩羅うどん、乙部でおでんに菊正と彷徨。姉梶川芳江をひしと懐かしむ。一人来る京都は寂しい。誰もも うそこにいない。同二日、蛇ヶ谷の窯場を詳細に探訪収穫多し。博物館で鞍馬寺「聖観音像」に逢う。叔母の稽古場で大井龍子の体不調を聞く。阪東恵子の稽古 を見、新しい人に袱紗捌き教える。午後、林きくえ葬儀に焼香、林景子(貞子)に逢う。直後に烈しい夕立。夜、離洛帰東。同四日、作品が大きく二つに割れる 傾き見えて辛し。同四日、近所の男児西武線路上で事故死、朝日子嘆く。同六日、昼、景山鏡子と過ごす。同七日、同志社の後輩木下(丸)愛子電話あり、「牧 子」かと一瞬波立てども。同十日、「天の火」一、二章で四十枚をテープに吹き込み検討。同十二日、相模書房は建築書の書店であった、迂闊。もう一度私家版 をと思う二年に一度ずつぐらい。同十三日、朝日子社宅の庭で転び肘が曲がらず、夕食より前に整骨士に見せる。打ち身で骨に異常なしと一週間のマッサージを 言われる。同十四日、朝日子の腕に腫れがのこり九十度しか曲がらず。腫れは引き気味に見え、マッサージに通う。同十五、六日、仙台市東二番丁電力ビル七階 ホールでの第二回日本新生児学会へ準会員待遇で出張、会頭東北大九嶋勝司教授、企画し出版した『新生児のエックス線診断』『成長の生化学』『成長の生理 学』『小児の微症状』などを出展、安達寿夫講師の好意で総懇親会にも招じられ東大小林隆教授から「新生児の大家です」と冗談を言われる。一人仙台の盛り場 など楽しむ。小雨の松嶋へ走り船で三景の一を眺望。瑞巌寺に寄る。同十七日、島田和正医師と同席で東京に帰る。朝日子の腕の腫れひかず曲がらず、しかも マッサージとはと整骨士への不審から、医科歯科大学病院に走る。左上腕骨骨端骨折判明直ちにギプス、以後一ヶ月に及ぶ。両親配慮の緩みを申し訳なく恥じ悔 いる。京都行きも延期す。同二十日、昼休み、景山鏡子と過ごす。同二十一日、小説書けず困惑。しかも全く新しい構想湧き、すぐ「蝶の皿」に育ち行く。同二 十三日、雪華社が私家版を検討してくれそう。明らかに潤一郎を念頭に「蝶の皿」起稿六枚。同二十五日、興に乗って「蝶の皿」進む。社の小山桂子「畜生塚を 読んで」理解深い手記呉れる。同二十六日、休暇、迪子学校の留守を朝日子と終日過ごす。この日、一日早くギプスの朝日子満六歳を祝う。この先何十年の無事 を心から祈る。この日、「蝶の皿」のヒロインの衣裳を雑誌「ミセス」を参考に各種工夫す。また謡曲の詞章などを点検す。この頃か、朝日子と手帳で文字遊び や尻取りや算数。「あるひのこといっぴきのおおかみがやまごやにあらわれましたそのやまごやにわひとりのこどもとおかあさんとおとおさんのさんにんがいま した『きゃこはい、たすけてちょうだい』そこに、かりゆうどがあらわれました。『このいたずらものめー』どどん。」と六歳の朝日子の字で。同二十七日、 昼、神楽坂辺でサボる。同二十八日、雪華社三十万円で七百枚の私家版は無理と。多すぎた。「蝶の皿」質の良い興奮状態で語り進む。同二十九日、社での出版 企画成立分この四月以来四ヶ月で二十二点、生産高一億に及ぶ。私家版は五百枚限度かと考え直し雪華社は断念。
 八月一日、「蝶の皿」五十七枚に達し、書くももどかしく強い興奮抑え難し。この日、「蝶の皿」「鯛 掌説集」「斎王譜」「祇園の子」で一冊の私家版にと 決意す。同二日、社に出入りの三秀舎秋根一男に託して私家版をと決める。今度はB6判9ポ45字18行5号2分行間ハシラ8ポ奇数頁ノンブル小口で、ほぼ 三百頁。三百部限定だと十八万円で、前回より格段に安くできる。「蝶の皿」を途中ながら迪子も面白いと好評。同三日、編集安部英・馬場一雄両教授の『微症 状』編集会議。昼、景山鏡子と過ごす。同五日、「蝶の皿」八十三枚で初稿成る。半月で一気に仕上げたのは初めて。物語ることに自信もつ。同六日、去年の谷 崎潤一郎の死に法然院へはせ参じたことなど回想し、新ためて「谷崎愛」をつよく自覚す。同八日、「蝶の皿」八十三枚に達す。文章に凝り叙景がながい。趣味 的な記述が多い。時代離れした反社会性。抒情的感傷的主題。総論的に自己批評すればこうなる。谷崎の『蘆刈』を読みかけて頁を伏せる。「潤一郎に惹かれる ことが即ち自分の欠点」かと。自負の表明であったろうか。同九日、迪子婦人科的異常を愁訴す。一家ともこのところ体調違和。同十日、迪子医科歯科大学病院 で白血球増加を診断されるが一方尿路膀胱はきれいで腎機能もよく細菌汚染など何もないと。同十一日、後輩堤アヤ子と「ロダン展」を観て心和む。この頃、後 輩林みえとも話す。ともに新鮮で清潔な印象。同十二日、新しい私家版組上げ初校出。同十五日、朝日子のギプスとれる。「ノート八」満つ。同十六日、夏の休 暇に家族で京都に帰る。「重兵衛」の寿司が待っていた。銭湯。大文字の送り火を花見小路の三幸園屋上から観る。やや傾いた大文字以外は妙法、左大文字、 船、鳥居、みな美しくよく見える。朝日子は感じやすく線路で死んだ友達のために涙ぐむ。東大谷墓地の火も哀れ。八坂神社に参拝し、朝日子の気分転換にス マートボールで遊ばせたり腰提げを買わせたりする。同十七日、迪子ら母と街へ。その間に円山公園平野屋で「いもぼう」を喰う。馬場で馬に乗り弓場で十六 射、的中一。智積院で桜楓襖絵、山水庭園を観てから博物館へ。「伊年」印の草花図屏風、西方寺の観経曼陀羅図。中国の古書画展を観て書にも画にもつよい力 を感じる。三十三間堂では湛慶作中尊阿弥陀仏の立派さに心打たれる。後廊の彫像群のすばらしさにも開眼す。晩、迪子と四条「鍵善」で葛切り、木屋町四条 「ソワレ」でコーヒー。木屋町三条から帰る。父母と興じる。同十八日、朝日子念願の水泳に浜大津から船で真野へ。船は快適、朝日子は浮き袋で浮かび満悦、 恒平水に冷えて一時間余でダウン。残念無念早めに帰る。銭湯。夕方、三人で知恩院白寿庵わきから円山公園へ散歩し、「スター」で氷水を食べて帰る。晩は大 人五人で遅くまで「家」のこと話し合う。同十九日、迪子と宇治平等院鳳凰堂へ。やはり阿弥陀如来像を心より賛嘆仰ぎ見る。「上林」で茶を買い雨の宇治橋上 からタクシーで黄檗山萬福寺へ。門前の普茶料理の風情しみじみ楽しむ。帰って叔母の稽古場で阪東恵子の手前を見る。同二十日、午前、母と三人で法然院へ。 潤一郎の墓参のあと「蝶の皿」の家の前を通る。南禅寺で朝日子と晴天下絶景の三門に上る。「奧丹」で湯豆腐。朝日子の奢りでタクシーに乗り円山公園で乗 馬。午後、古門前に林景子を尋ね母堂霊前に焼香ののち嵩山堂で文具買う。この日も、阪東恵子の茶の稽古を見る。迪子と新橋「紅ばら」で話し込む。同二十一 日、甲子園で平安高校報徳に敗戦、落胆。迪子ら映画に行った留守に建仁寺辺を取材気味に歩く。西村龍子の実家から寿司届く。午後、母と叔母の靴を買いにみ なで河原町、京極へ出、祇園へ戻り「農園」で小憩。同二十二日、荷物を発送後一人高台寺、清水坂を歩き、電話で迪子呼び出し高台寺から円山公園を散歩。朝 日子下痢治まらぬまま午後一番の新幹線で離洛、車中朝日子少し吐く。池袋からタクシーで帰宅。朝日子落ち着く。京都に滞在中、私家版の校正にも熱中、やや 自信もつ。大井龍子の健康と無事に不安ややありと。心配す。両親が京都を離れる可能性は薄い。同二十三日、先日来取材で助けられた林みえに嵩山堂の土産手 渡す。同二十四日、休暇とり迪子医科歯科大学病院で腎造影。同二十六日、迪子腎に異常なし、結核菌もなし。尿路系にかすかに排膿。この日、通勤の車内で魂 を抜かれそうな美人を見かける。同二十八日、迪子小康、朝日子も平常に復す。同二十九日、林みえと『小児の眼科』取材に大手町へ出る。寿司で昼食。同三十 日、私家版『斎王譜』に「跋」書く。一期一会の説、繰返しの論、絵空事の不壊(ふえ)の真実、物語、谷崎潤一郎のこと。
 九月二日、景山鏡子と『母性保健』製作の打ち合わせ。同三日、神戸大学病院第二内科へ出張編集会議。馬場助教授、松岡講師に六甲連山ドライブ、三宮で鉄 板焼きの接待を受け、京都に入る。喫茶店「ジャワ」で梶川道子と話す。同四日、大掃除を手伝い夕方離京、帰宅。この頃、私家版の校正に没頭す。同十日、東 京駅で林みえと逢い京橋の国立近代美術館で「ミロ展」を観る。銀座「スエヒロ」で食事など。同十二日、『斎王譜』再校終える。この頃、連日の如く各種単行 本企画の編集会議をこなす。同十三日、この頃より「牧子」の物語にまた取り組むも難渋す。すでに六十枚三章に達している。「あの人」は帰ってこない。同十 六日、「アンリ・ルソー展」を観る。同十六日、社宅の寺川家父上逝去通夜、そのあと迪子と武蔵野の虫を聴きに出る。同十七日、久保講堂で淡交会。同十九 日、朝日子の遠足雨で流れ、迪子は病院の帰り「ルソー展」を観て来る。同十九日、西村家へ帰っていた龍子と電話で話す。同二十日、大阪出張所岡田所長十月 に帰社と聞く、また大阪人事に迷惑す。この頃、私家版の製本体裁決まる。表紙小口折り、見返しSTカバー鉄色、扉NKクリーム色、組位置正中央、本紙キン マリ180キロ。同二十一日、夕刻に林みえと逢う。同二十六日、「身内」は可能か。「斎王譜」はそれを強く問う。映画「禁じられた情事」「スタンダールの 恋愛論」観る。この頃、会社の不快に耐え難し。同二十八日、「蝶の皿」関連の「淡交」記事筆者邑木千以の了解を取る。この日、『斎王譜』三校了。この日、 後白河天皇への興味と梁塵秘抄への関心を記録。この頃、胸と左腋の鈍痛不安。同三十日、『先天異常』のちに『出生前小児医学』の編集会議。
 十月四日、「臨床婦人科産科」で小林隆・馬場一雄対談。同六日、私家版『斎王譜』本文責任校了。表紙がまだ決まらない。同七日、迪子の健康まずまずの他 良いことなし。平家物語を読み始む。大阪行きは無くなり、その気で将来設計をまた立て直さねばならぬ。医学書院は手段、壁は固いが創作が目的。同十日、迪 子ら新所沢の木下あづさ訪問の留守に「牧子」の物語に打ち込むが、この頃、執拗に歯痛。同十一日、親知らずの処置を受く。『斎王譜』のツカ見本出る。この 日、平家物語読了し灌頂巻に感銘抱く。同十二日、歯痛執拗。背、肩、胸、胃が痛い痛いでは詮方なし。人間関係に行きづまり創作に難渋し五体神経悲鳴。同十 三日、『斎王譜』一部抜き届き興奮抑えがたし。製本固く押すよう。小口もう一寸深く折るよう、紙の斤数確かか確認。同十三日、「ノート梁塵秘抄覚え」詳細 に書き始む。「雲居寺跡」「資時出家」の創作ノートで、後に『梁塵秘抄』『初恋・雲居寺跡』『風の奏で』『日本史との出会い』等の重要資料として生きる。 同十四日、梁塵秘抄の周辺から調べ仕事を精力的に開始する。同十五日、慈恵会医大で小児保健学会取材のあと三鷹市で社内ソフトボール大会。同十六日、小児 保健学会に日曜出勤し『小児医学叢書』の企画始動。同十七日、山崎正和の戯曲『後白河法皇』に満足せず。「牧子」の物語をもう少し明るいところへ動かした いと。同十八日、『斎王譜』刷了、表紙の刷り出しを見に行く。この日、藤原頼長文献を調べる。的を後白河院に絞り始む。同二十日、迪子の描いた表紙が清潔 に上品に仕上がる。この日、讃岐典侍日記とその背後を探り始む。郢曲(えいきょく)周辺からとにかくも平家の時代に肉迫せんものと。またこの日、高校後輩 堤ケ子の横浜からの電話清風の趣あり。またこの日、父来訪。両親叔母とも幸い元気なれど今後を思えば父らのことは最重要課題となる。同二十一日、父を増上 寺、日比谷、銀座、築地等へ案内す。同二十二日、父を家族で新宿「船橋屋」や伊勢丹へ案内。同二十三日、朝、父帰洛。銀座、日比谷公園を散策し霞ヶ関から 帰路につく。父に保谷の生活まんざらでない風が初めて見えた。佳い三日間であった。
 十月二十四日、私家版単行本「菅原万佐」作『斎王譜』(四六判、三百部、星野書店)搬入さる。「蝶の皿」「鯛」「斎王譜」早速隣家の星野書店に届けて、 無断名義使用を謝する。表紙も美しく、嬉しい。後白河院観の深化に意つよく動く。
 十月二十五日、徳永悦子ブエノスアイレスへ留学の来信。同二十六日、馬場一雄、北村和夫教授らと『症候群事典』進行す。この晩、引っ越して行く階下の大 久保勲夫妻を訪ね歓談。同二十七日、人は「斎王譜」読み煩うらしく反省。歳末闘争へ職場会議始まる。景山鏡子と麹町保健所を取材。同三十日、谷崎精二宛て 『斎王譜』送る。二百冊ほどを発送。面白い話を興深く書いて品下がらず奥行きある骨格に仕立てる大切さを今回の出版から学ぶ。同三十一日、お茶の水で留学 するナース徳永悦子と最後のデート。これより前、葉書含め三度四度電話を受けた。無事を祈る。同僚向山肇夫、佐野周子ら感想呉れる。
 十一月一日、堤ケ子「拍手送る」と電話来る。「世に容れられぬ藝術家」を書いて行きたい「そこに自分の勝負所」有るかと記録。同二日、ソニービル七階 「ベルベデーレ」で家族だけの出版記念会。この頃、梁塵秘抄に熱中。会社を安易には捨て得ないことを覚悟する。「後白河」の頃をめざすべく二十五冊すでに 参考本を積み上ぐ。この頃、自分にも迪子にも漠然とした健康の不安退かず、「いつまで生きていなければならぬか」など思う。同四日、久保講堂で淡交会。東 大出版会館で美学東部会。この晩、蝶の皿の邑木千以を桜台に訪い歓談。同五日、出版二部慰安旅行。同六日、迪子の体調か事情不明なれど痛烈な後悔を記録。 同七日、迪子の健康不安にしんから動揺し恐怖す。同八日、誰に宛てたか不明なれど『斎王譜』各編に私注した文面が遺る。『畜生塚・此の世』は百二十部ほ ど、『斎王譜』は二百部余を配布。四十歳までに九年余、一日一枚でも三千五百枚書けると。この頃、唐木順三『無用者の系譜』を意識しつつそれとは少しちが う道を模索す。「源資時」に注目す。この日、泉涌寺来迎院からも招待をかねてご縁を喜ぶ旨の来信。同十日、組合要求を提出。同十一日、梁塵秘抄研究に連日 熱中。本書は音楽書と認識。「斎王譜」は題名でも躓かせているらしい、短篇は好評。藤原定家の伝記読む。同十三日、「資時出家」が脳裡に動く。同十五日、 園頼三教授「蝶の皿」絶賛来信。同十八日、よほどのことで無ければ大阪人事は無くなった。この日、三越百貨店の谷崎潤一郎展を見る。映画「男と女のいる舗 道」見る。歴史小説の「もって行き方」に迷う。この晩、社宅会議。同十九日、全二十章二十篇の評伝体を考える。同二十六日、迪子妊娠かも知れず、それなら ば万端万全に用意し産んでほしいと願う。この日、佐野周子退職の会。
 十二月三日、迪子妊娠でなし。大和田健次郎教授「鯛」の掌説を激賞し希有独特の才能を大切にと激励さる。物語「雲居寺跡」起稿。同五日、中島信也と掌説 集「鯛」について話し合う。同七日、田中勉懇切で好意溢れる来信。同八日、年末一時金妥結、三十五割プラス一万五千円。同九日、「牧子」いづこ。同十日、 婚約九年をすきやきとワインで楽しく過ごす。同十二日、迪子の助言を「雲居寺跡」に取り込む。今年の企画高一億七千万円に達す。会社には何も望まない。同 十四日、遮二無二書き進む。同十九日、社長主催社内十二月誕生会。同二十日、「山の上ホテル」で出版二部忘年会、佐野周子送別会。あと、佐野、緑川良子と 新宿で話す。同二十一日、満三十一歳、鳥とワインで親子三人で祝う。同二十三日、迪子朝日子京都へ先発す。池宮千代子便りあり。同二十四日、新宿「船橋 屋」で食事しモニカ・ビッティの映画二本見る。帰宅洗濯。同二十五日、社宅の大町隆弌転居。「雲居寺跡」一気に六十三枚に達す。この晩、大河ドラマ尾上菊 五郎の「源義経」終わる。一年間よく見た。壇ノ浦など印象にあり教経役の瀧田榮にも。同二十七日、先に提出した歳末報告に編集長は好意的、部課長会では否 定的。いい年して仕事仕事でもあるまいと。他の遊びで付き合えと。編集長長谷川泉の子供のための作品を書くのもいいと言われた意味が何となく分かってく る。同二十八日、京都に帰る。四十分遅れたが迪子京都駅に迎え呉れる。同二十九日、新作の取材に、朝日子と今熊野神社影向(ようごう)の楠を見てから三十 三間堂へ。千一体の観音より朝日子は裏廊の群像に感じ、父にしがみついて歩く。法住寺、養源院、後白河天皇陵を巡拝し、安井へ戻る。高台寺表門から下河原 を歩き青龍寺に寄り、また戻り朝日塚、八坂墓を見る。円山公園、八坂神社辺で雪になる。「農園」で朝日子はフレンチトースト。晩、迪子と河原町へ出、祇園 に戻って「権兵衛」の花巻を食べる。途中、叔母の社中西村美津子、川尻良枝に出会う。同三十日、有済校でかけっこし、バスで高雄に向かったが、朝日子気分 がわるくなり千本中立売で下車、レストランで休みタクシーで帰る。午後、一人知恩院勢至堂上の墓地から尾根道にそして将軍塚に至る。将軍塚が青蓮院により 観光料なしに近づけないのに呆れる。高台寺背後へ菊渓(きくだに)ぞいに山原笹原を強行して下る。東大谷墓地の上へ迷い降りる。霊山観音が美しく見える。 晩、河原町で朝日子にアンデルセン『絵のない絵本』買い、縄手で白足袋買う。同三十一日、朝日子と知恩院の坂をのぼり花園天皇十楽院上陵を拝み尊勝院縁側 で日向ぼっこ。粟田神社から瓢亭無隣庵疏水べりを経て平安神宮神苑に入る。人がいないので朝日子肩車したりおんぶしたり唱ったり大喜び。銭湯。九時過ぎ、 迪子としっとり湿気を含んだ寒気の清水二年坂辺を取材散策し、下河原へ戻って小憩、新年の八坂神社おけら詣りのあと「農園」で休み香取屋で母に財布買って 帰る。

 昭和四十二年(一九六七) 三十一歳
 正月元旦、雨の寝正月。夕方過ぎて母もともに四人で八坂神社に詣る。射弓。同二日、午後、ひとり泉涌寺来迎院で喫茶、夫人安井美枝子に『畜生塚・此の 世』贈り暫時対話。「作品に写し取った現実は絵空事の輝きにはどうしても及ばぬ」と。泉涌寺一山は我が「所有」と。雲龍院奧庭のからりとした借景に新鮮な 感動あり。釣り鐘三つ撞き皇親王墓地など高校時代彷徨の旧地をそぞろ歩く。新善光寺、そして戒光寺の丈六釈迦の偉容を拝す。剣神社を訪れ今熊野からの混雑 の電車を馬町で降り、建仁寺を経て帰る。晩、迪子と出て「と一」で半月を食べ「志津屋」でシュークリム買って帰る。同三日、叔母の茶室であかい着物で澄ま して照れて熱心な朝日子初手前の茶を喫む。午後、四条「菊水」で迪子同期の沢田文子、松村美沙、渡貫良子、阿部陽子と歓談、作品評とりどりに聴く。留守中 朝日子祖母を手こずらせママに詫びる。同四日、母と四人で大徳寺大仙院へ。禅の庭を言葉であくどく解説する案内僧にイヤ気する。朝日子、ちょくちょく少年 に間違えられる。当人も親も心外。高桐院の庭と一基の石灯籠の立派さに感嘆。船岡山から比叡山の眺望に感激したあと母の実家福田瀧之助伯父を訪う。伯母う のに会う。晩、ひとり下木屋町、どんぐり、花見小路など散策、祇園乙部「まつ榮」でおでんで呑む。同五日、午前ひとりバスで上賀茂神社へ初めて、参拝。静 寂高潔。帰って銭湯。晩、田中勉と白川ぞいの喫茶店「装苑」で三時間話す。作品に詳細で適切な批評呉れる。同六日、迪子と初めて博物館新館に。長勢の仏 像、殊に宸筆の書群に心惹かれる。迪子は桃山江戸の装束や特に型紙に興じる。三十三間堂へも。此の帰洛で迪子が恋愛時代よりもっと内も外も美しく感じられ た。午後、常林寺住職見える。ながい読経のあいだ朝日子合掌。荷造りし、晩、迪子と映画を見に出たがいいもの無く河原町・京極でサラサなど買い物して帰 る。同七日、朝日子と円山公園で馬に乗ったあと祇園会館で映画「嵐が丘」「サウンド・オブ・ミュージック」楽しむ。晩、迪子が渡貫良子と逢う間に、紅梅町 に給田緑先生を訪う。同八日、久しぶりの美緑会初釜なれど西村龍子不在、点睛欠く。小堀宗中筆「雪」の軸掛け阪東友子正客。父母とトランプに興じて後、夕 刻離洛、雪で一時間遅れ東京着、食事して十一時ごろ帰宅。取材的には満たされたが人寂しくなった京都であった。東京での老若同居をはかる提案を今度も続け た。
 一月九日、初出社、三時で直接帰宅。同十一日、「雲居寺跡(うんごじあと)」七十三枚に達し現実を過去世へ超える構想の実現に熱中す。長大化をかすかに 恐れる。二三作の同時進行にも気動く。片岡芳江、堤ケ子、古谷和子、木下あづさらに電話で賀状返礼。同十二日、アメリカの光田良子、池宮千代子姉妹に発 信。この日、鴨川に取材して「木陰冬子、八島夏子、忌部春子、花背秋子」のオムニバスを着想。この頃、ようやく私家版『斎王譜』出版から脱却す。不安は消 され力強い反応を得たと総括しうる。むしろ批判によく聴きたい。同十五日、北条義時、泰時の伝記を調べ、志田延義『梁塵秘抄』読む。平家・保元平治物語、 新井白石『読史余論』北畠親房『神皇正統記』慈円『愚管抄』頼山陽『日本外史』や定家、頼長、義時、泰時などを読んできた。「雲居寺跡」の構想は大きい。 詳細な導入の概要を記録。「これは現実を捨てる話である」と。同十六日、綾小路源家に没頭して行く。この頃、日記は創作ノートと化す。この頃、関東逓信病 院加瀬正夫部長を訪うこと多し。同十八日、朝日子階段を逆さに落ち顎で着地。大事に至らず。同十九日、「用意は調ったのだ、書かねばならない」と。「堂々 の大作にしたい」と。同二十一日、迪子眼科へ、引き続き朝日子を歯科へ。恒平はヘルペスに悩む。同二十三日、歳末に申し込んでいた分譲住宅に補欠当選して しまう。父突如の上京。同二十四日、父迪子らを連れ調布市の当選住宅を検分に行く。この日、畠山重忠について読む。同三十一日、今様の世界に沈潜す。
 二月一日、久々に西村龍子と鮮烈に夢に逢う。哀しみに満ちていたが哀しみを被い取る感動あり。この頃、相変わらず会社に不快事あり。同四日、『建礼門院 右京大夫集』を読み感動す。『愚管抄』精読。「雲居寺跡」ひたすら前進あるのみと。同七日、京都出張、大井龍子『斎王譜』を実家に預けていた。「樽源」川 尻家の紹介で東京練馬斎藤家の移転売買紹介を得る。同志社に郡定也を訪い帰路廬山寺、清浄花院などに立ち寄る。京都大学奥田教授室で中学時代の松原須美と 再会す。同八日、関西医科大学松村茂樹教授に『斎王譜』の筆力と格調を賞賛さる。離洛帰宅。同十日、この日より連日掌説書き始む。会社の不快を反映してつ い地獄模様となる。この頃、『宇治拾遺物語』を耽読。同十八日、鹿児島大学寺脇保教授に都市センターで会い『斎王譜』褒められ激励さる。名古屋大学鈴木 栄、順天堂大学北村和夫、札幌医科大学中尾亨教授らにも激励さる。練馬の斎藤家の件は断る。この頃も、断続して景山鏡子と話す機会あり。同二十四日、掌説 連日書いて十五篇成る。「雲居寺跡」に戻る。同二十六日、小雨小金井公会堂で朝日子のヤマハ音楽会、帰途吉祥寺で新入学の机を買う。この日、邑木千以著 『愛蔵弁アリ』を読む。明らかに『斎王譜』前回本を上回って好評を確保。この頃、谷崎潤一郎全集を購入中。魅了されつつ作風の違いを自覚す。掌説の案幾つ も残す。
 三月一日、京都大学出張、同二日、関西医科大学取材、夕過ぎて離洛。同十日、「雲居寺跡」百二十九枚に達す。この頃、迪子朝日子とも健康、もう一人欲し いと思う。同十四日、結婚満八年。同十五日、迪子の弁護士藤本猛を訪う。同十六日、長谷川編集長より管理職課長昇進内示を受く。担当は内科小児科書籍の企 画取材製作と。受諾。同十七日、朝日子如意輪寺幼稚園卒園式。同十八日、正式に課長内示。新宿伊勢丹へ、そして「船橋屋」等で結婚卒園昇進を祝う。練馬斎 藤家より住居購入につき再考を促す連絡あり。同十九日、散歩かたがた富士見台に新築家屋を見たが、不満足。この頃、甚だ多忙。同二十日、父に電話。同二十 一日、父上京し富士見台で二件、東大泉二件、西大泉で一件の家屋を見て回る。さらに保谷の六建建設案内で保谷と田無に各一軒を見た上で田無物件に一万円の 手付けを打つ。同二十二日、課の編成。同二十三日、専門家の助言も二三得て六建建設の物件を父とも熟慮の上、キャンセル。あと保谷の寿司屋で父と安堵の大 食す。同二十四日、製作担当主任に年輩の内田辰之で決まる。父帰洛。同二十五日、名古屋での第十六回日本医学総会対策の会議。労働組合脱会手続きを終え る。ひたすら眠し。同二十七日、課会。同二十八日、課会。この日、景山との断続した交際を絶つ。医学書院で青木康子、山本笑子と出逢い原萃子、清水友子ら と逢わなくなるまでの四年間が第一期看護畑時代、この日までの四年間が第二期医学畑時代であった。明日から第三期に入る。
 四月一日、新体制の課長職第一日、最初の課会。新人菅宮行彦を受け入れる。身辺整理で多くの古い手紙など見出し感慨少なからず。同二日より五日、名古屋 医学会総会に出張、宿は昭和区鶴舞会館。毎朝六時半に起きてよく働いた。二日晩、ひとり映画「ウエストサイドストーリー」見る。三日晩、ひとり鶴舞公園の 夜桜を見てボートに乗る。四日晩、名古屋城の桜を見て栄町の「香楽」で鶏の味噌鍋を喰う。五日晩、ひとり栄町で酒肴と食事を楽しみ、クラブでビール呑む。 咳がひどく終始苦しむ。迪子に真珠のブローチ朝日子にオルゴールを土産に買う。一人歩きの名古屋が楽しかった。この日、午後九時半名古屋発午前一時に辛う じて帰宅。この日、迪子満三十一歳、またこの日、京都の母来訪。同六日、朝日子保谷第一小学校に入学式、母感激して泣く。夜、赤飯と鯛で祝う。同七日、課 会。母は朝日子の送り迎えや草積みや音楽教室で連日楽しむ。同八日、午後飯能の東雲亭に行き天覧山に登り一泊。春爛漫、桜満開、新緑の気配も。おそくまで 皆で楽しむ。同九日、名栗川を見て池袋へ戻り、買い物して母を東京駅に見送る。母満足して帰る。同十日、平常の勤務に戻るも春闘真っ最中。この晩より、向 こう三カ月間エディタースクール受講を命ぜらる。同十四日、医学界総会参加反省会。この日、今年度裏千家淡交会手続き。同十五日、大阪市立大学で『臨床内 分泌学』編集会議に出張し、夜、京都に入り祇園「盛京亭」で夜食。同十六日、短い時間を利して小雨のなか八坂神社、下河原、清水坂逍遙。岡林院のわきに菊 渓(きくだに)を発見し喜ぶ。取材上の思案からまた三年坂にもどり、初期伊万里出土という頸継ぎの小さな瓶を二千四百円に値切り買う。昼過ぎ、離洛。同十 七日、日本大学宮本忍教授と識る。この頃より、編集会議、企画打診の会合、社内連絡会議など輻輳す。春闘は終えず、月曜夜はエディタースクールに出る。同 二十二日、背広の仮縫い。この頃、執拗な背痛あり。同二十三日、日曜の散策で下保谷の保谷硝子工場跡(保谷市下保谷東松ノ木町795)に小学館不動産によ る土地売り出しのあるのを知る。同二十五日、小学館不動産で詳しい説明を聴き心動く。坪七万七千円。この日、順天堂大学北村和夫教授より患者である作家円 地文子に紹介して上げると言われる。優れた医学者たちの多くに常に激励を受く。先生方との厚誼は退社後も多く永く続いた。この頃か、「創作ノート愚管抄 注」を集中して書き進む。「雲居寺跡」を二つの手紙による二つの語り物に意図す。とにかく書き継いで立ち止まっていないのも不安。同二十六日、烈しいスト に遭いステッカーを剥がさせられ、参る。労使の対立が険悪化し管理職内に部下の組合員を憎悪敵視する風際だち始む。経営の「管理」体質に反感隠せず。同二 十七日、後輩中村秀穂より「菅原万佐氏」に手記届く。この頃、心用意に円地文子の小説を読む。どろりと臭う。「雲隠れ考」筋の運びと文章の改訂を考える。 したいこと脳裡に渦巻く。三恵商事下田・内藤両氏と連絡し、保谷硝子跡の土地買おうと思う。また、一大決意で「もう一人」子供をと夫婦ともに願う。同二十 八日、小学館不動産訪問。他方専門家尾崎保に立ち会いを依頼す。同三十日、土地現地検分、間口七間七、奥行五間五、四十二坪三五、百四十平米で北向きを考 慮。この日、『愚管抄』抄録終える。
 五月一日、円地文子『なまみこ物語』読み感銘受く。この頃か、計画としては一月早く迪子妊娠と思われる。最後の月経は三月二十八日。同五日、ユネスコ村 に家族で遊び、狭山湖畔の或る観音に迪子の無事をひとり祈願。迪子は自分が守ると覚悟し、また一つの新たな転機を迎える。同七日、父上京し土地を検分。こ の頃より労使交渉烈化の一途となる。同九日、課長として七万五千円と六千円の給与。この日、三恵商事で商談を纏め、翌十日、父の意見も採り入れ小学館で土 地四十一坪二を購入契約。同十一日、父帰洛。同十四日、新宿小田急で買い物、この日より、迪子にかるい悪阻来始める。同十六日、実測された土地を見て、ブ ロック積みを交渉。この日より、また源氏物語毎日最低一帖ずつ読み始む。同十八日、「雲居寺跡」を読み直し「雲隠れ考」を手直ししシナリオ「懸想猿」を小 説にと。同二十三日、暁近く暫くぶり西村龍子と夢に親しく逢い対話、甘美な惑乱のまま愛を告白している。「夢の世界で龍ちゃんと姉さんとが今もってドラマ ティクに私を揺するのを、拒むことが出来ない。現実の此の二人は隔絶した別世間の没交渉の人だが、心の中では迪子や朝日子とならんで私にとっては稀な身 内」と記録。本格的な迪子の悪阻を最大限家事を代行して助ける。この日、花田清輝『小説平家』買う。春闘収まらず。この頃より、会議、会合のすさまじい連 続。
 六月七日、春闘反省会、慰労会など。同十二日、関西出張、大阪大学、関西医科大学で会議。この日、母と曼殊院を訪う。翌十三日、京都市立医科大学、神戸 大学で会議、帰東。同十四日、管理職会議。連日、会議会合に席温まらず。同二十三日、夏のボーナス交渉はあっさり妥結。同二十四日午後、順天堂大学北村教 授の好意で入院治療中の円地文子と識り、教授室で一時間あまりも谷崎潤一郎の逸話や日常など、興味有るいろんな話を聴く。「なまみこ物語」にもふれ合い、 これから「源氏物語現代語訳」に取り組むとも。大事な一日であり、さらに大事な日の到来が願われた。自宅の電話まで教えて戴いたが、遠慮のあまり煩わせる ことをようしないで終わった。迪子の悪阻依然つづく。この間に源氏物語も読了、若紫から幻にいたる紫のゆかりに強く惹かれる。「雲隠れ考」の手直し進む。 この頃、有り難く『大無量寿経』読む。同二十六日、円地文子宛て『斎王譜』送る。せめて「蝶の皿」「鯛」と「あとがき」だけでも読んで欲しかった。同二十 七日、「無性に書きたい。」同二十八日、原稿用紙「秦用箋」印刷発注。同三十日、田無市の登記所で土地登記終了、迪子の権利留保を考慮し敢えて一部を迪子 名義とす。購入代金には父の幾分の援助とともに銀行借り受け、公的資金借り受けなどを活用した。この頃より、「ノート」記載がまばらになる。
 七月一日、この頃も『肺気腫』『血清酵素』『リウマチ』『肝臓病』『出生前小児医学』など大きな企画を追い続ける。東京大学織田敏次、大阪大学熊原雄一 らと識る。馬場一雄・北村和夫監修『症候群事典』仕上げにもねばり強く関与。同十四日から十七日まで、関西の新生児学会等に出張。この頃、記憶欠く「無 頼」に関わるか。同十八日、馬場一雄、中尾亨、寺脇保、鈴木栄四教授編集の新綜説雑誌「小児医学」創刊の編集会議。同十九日、札幌医科大学中尾亨教授と夕 食。同二十五日、迪子の弁護士藤本猛を訪う。同二十六日、久々に重森埶氐と逢う。この頃、窪田章一郎『藤原定家の研究』読む。同二十七日、朝日子満七歳。 同二十八日、大阪大学中央検査室、名古屋市立大学内科へ出張。京都に一泊して帰宅。同三十一日、雑誌「小児医学」の原稿依頼開始。
 八月三日、池袋「けやき」で四課夕食会。同五日より八日まで、夏一斉休暇。同六日、飯能「東雲亭」に一泊し、翌七日、名栗川で朝日子と水遊び。ボートに も乗る。同九日、日本大学大国真彦助教授夫人逝去、弔問す。この日、西武デパートで茶の湯稽古道具補充。同十二日、社宅独身寮の遠藤恵子、小椋晴美の希望 で土曜日毎に社宅自室で茶の湯稽古始む。同十六日、朝日子プールで転倒、翌十七日、朝日子日本大学駿河台病院で檜垣医師受診。頭部異常なく心電図にやや異 常ありと。同二十八日より、入社試験問題作りに参加。
 九月一日、沖中重雄らと『内科診断学』改訂のため柳橋「柳光亭」で編集会議と藝者数人入れて接待。同五日、名古屋へ日帰り出張す。新幹線の時間待ちに名 古屋駅ビルで入浴す。同六日、下保谷の地所にブロック境界成る。同七日、手紙をいろんな人に多く書く。「ノート九」満つ。この頃までに、磻田一郎逝去、長 尾(牧野)恒子出産。この頃、藤原定家と鎌倉時代史を読み、またカミユ、ツヴァイクを多く読む。同十日、松屋で迪子にマタニティドレス買う。遠藤恵子らの 週一度の茶の湯稽古を楽しむ。この頃、またツヴァイク『マリー・アントワネット」耽読す。同十一日、『小児の神経放射線診断学』編集会議。同十四日、迪子 に小出血、日本大学板橋病院受診、静穏を要す、祈るのみ。同十五日、古事記により男子なら建日子(たけひこ)、女子なら清日子(きよひこ)と名を用意。同 十六日、入社試験の採点に終日。この夜、鮮明に姉梶川芳江を夢に見る。「変わらずなにか支柱であり励ましである」と。同十七日、茶の湯稽古五度め。出産を 控えて今年中続くかどうか。同十八日、「雲隠れ考」が手放せない。同十九日、つい言い過ぎ内田主任を傷つける。記憶を欠く「重苦しい、そう小さくもない心 の荷を投げ出してしまう。」同二十日、キャベツ畑の波に身を投げれば下に別世界有るかと幻想す。天分を疑う。同二十六日、この頃、前生からの或る罰を受け ている気がする。最低の気分。谷崎潤一郎を読み中村光夫『谷崎潤一郎論』を読む。同三十日、茶箱「卯の花」の稽古。「須磨の茶碗」を構想。迪子平穏を維 持。
 十月一日、書く。書ければ幸せ。同三日、のちに「清経入水」序詞や『北の時代』で役割をもった重要な「部屋」の原型を「語り」で記録。同五日、迪子受 診、早産の危険を防ぐべく即入院縫縮術を勧められる。二週間様子看ていたがやむなし、病室空き待機。同七日、母上京。茶の稽古後迪子に下血、緊張のままや すむ。同八日、日本大学に電話、すぐ来るよう言われ午後産院の六人部屋に入院、破水に至らず一安心なれど安静を要す。予定日に二十八週を余す。同十日、破 水の恐れなく迪子退院す。築地産院名取光博医長の助言で縫縮手術避ける。横臥安静の非常生活に入る。少なくも十週二ヶ月は堪えねば成らず。同十二日より十 四日、岡山の小児保健学会に菅宮行彦と出張。備前の壺一つ買い求め、岡山城、旭川、東山公園、後楽園にも。同二十日、母帰洛。以降、朝日子と二人で家事の 何もかもを捌く。朝日子も懸命に協力いじらし。同二十三日、この頃、丹羽文雄『小説作法』読み、感じが違うと困惑。
 十一月三日、朝日子運動会。同十一日、中国大陶磁展を西武百貨店で観る。安南赤絵小壺、青磁宋胡録(すんころく)に眼惹かる。同じく、苛烈なドーミエ石 版画展も観る。ピカソ、ミロ、カルズーらの小品展も観る。同十二日、迪子寝たきりで、母帰洛以来一日も欠かさず朝食つくり五時で退けて買い物し帰って夕食 つくり、後かたづけし翌日の用意。朝日子は洗濯係り。厳格に禁酒。この晩、オボーリンのピアノ曲をテレビで聴き感銘を受く。この頃、加藤周一『芸術論集』 に感銘を受く。ディッケンズ『デビッド・コパフィールド』も読む。同十三日、文章は一字一句ていねいに書いてきたと思う。外国を観たいと思う。同十四日、 「菊境(きくざかい)といわれる村はずれの小川に朝日が照ると狭霧の中から一人の少女が生まれる。人は少女を朝日子と呼ぶ」と。やや鬱か。あと七週間は迪 子と共に堪えねばならぬ。同十五日、何を書いてもいいとは考えられず多くの着想を未然に殺す。同十六日、加藤周一の『芸術論集』読了。竹内好『国民文学 論』以来の面白さであった。同十八日、高尾の鵜飼鳥山で部の親睦会。同二十一日、組合四十割+二万円要求の年末闘争に入る。争議中の読書にこの日プラトン 『パイドロス』を読み始め、『テアイテトス』『ゴルギアス』も買う。同二十四日、外出拒否に対抗すべくロックアウトを会社は考慮、出来はしない。外出拒否 闘争はかつて編集者恒平の提案で始まった。「牧子=あの人」と密かに心中で対話す。同二十六日、発熱し稽古休む。同二十九日、京橋の近代美術館で「ソ連絵 画五十年展」ブリジストン美術館で通常展示を観てくる。佳いものは佳い。
 十二月二日三日、葛谷信貞のカンヅメ原稿執筆に駿河台「駿台荘」を設定。遠藤恵子らの茶箱卯の花手前終了す。同六日、どの作品も難渋し立ち往生してい る。「妻のある男と夫のない女」の物語から「他の男と結婚する女」へ動いているのかも知れぬ。同十日、婚約して満十年。風炉平手前初稽古。寿司と蟹で祝 う。迪子の裁判まだ終わらない。同十三日、都立広尾高等看護学院教務の原萃子(あつこ)と五年ぶりに逢う。一瞬に空白は埋まる。清水友子は結婚して行方知 れず。この頃、デュフィ展、古代イタリア展を観る。同十七日、茶の湯年内の稽古を終わる。遠藤恵子仙台の笹蒲鉾呉れる。同十九日、三十八週過ぎいつ生まれ ても正常産にこぎ着ける。同二十一日、満三十二歳。すき焼きで祝う。同二十三日、この日昼、課員と昼食会。「或る『雲隠』考」百七十七枚で定稿を得る。後 年に改稿改題して「雲隠れの巻」とし、さらに改稿して原題に戻すなど、この作品には再三手を加えている。この日、朝日子と保谷駅でデートし池袋西武で羽子 板、凧その他を買い屋上で飛行機に乗りつきたての餅を食う。またこの日、トルストイ『戦争と平和』ほぼ読了、感嘆の他なし。さらにこの日で、光田良子のプ レゼントの万年筆を使い終える。同二十七日、長尾(牧野)恒子遺児をおいての訃報来、弔電のほか如何ともし難し。同二十八日、日本大学病院通院。この日、 大叔父同志社大学英文学名誉教授吉岡義睦訃報来。同二十九日、今年終業。年末年始の病院事情と出産とを控え極めて緊張の歳末だった。

 
 昭和四十三年(一九六八) 三十二歳
 元旦、払暁ひとり尉殿(じょうどの)神社に迪子無事を祈る。女子なら肇日子(はつひこ)と。
  母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生
 祝い雑煮。改めて朝日子とも参拝す。同二日、朝晩味噌雑煮。同三日、清汁(すまし)雑煮、晩は自前の闇鍋。病院事情が日常化するまで保たせたいと緊張の 三ヶ日、また静かに過ごした三ヶ日。同四日、迪子が仕事を再開。同五日、迪子予定日の通院、八日より入院と決まる。一階の永井家一足先に出産。学士会館の 年賀会に朝日子と参加。この日、母上京、疲れてタクシーで少し吐き入れ歯落とす。遠藤周作「影法師」よむ。「文学」ということばで創作を真剣に考えること ができ、有り難いと思う。一月八日、朝入院手続きして出社、午後出血前兆ありと電話受け午後休暇保谷に帰り万端を用意し、潤一郎全集第十四巻、文学界二月 号、松田権六『漆の話』を用意して病院に。永い永い経過があって午後十時十五分頃、日本大学病院で長男建日子(たけひこ)誕生。三千三百三十グラム。「赤 ちゃんが来た・名前は建日子・男だぞ・ヤマトタケルだ・太陽の子だ」迪子は出血多量で千百cc輸血で凝固能を維持。深夜に帰り母に伝える。朝日子は眠って いた。同九日、五時に目覚め六時前に出て産院へ。迪子明け方にリカバリールームに移り落ち着いていた。事務室で手続きなど。「建日子」の名に事務では「次 女」と間違い、訂正。安堵し出勤。三時で早退し母と朝日子に池袋「けやき」でしゃぶしゃぶ。禁酒を解き大いに祝い産院で建日子に初対面、大感激す。電話で 京都の父も喜ぶ。同十日、建日子血小板不足で小児科特別乳児室に移る。同十一日、建日子入院手続きする。健常やや尿量少なし、対面すやすや寝ていた。同輸 血分の預血返還を求めらる。同十三日、富士預血センターで預血。向山肇夫、持田実・晴美夫妻も献血に協力呉れる。同十四日、朝日子熱発を押して産院に行き すやすやの建日子と対面、帰宅後九度まで発熱深更に至り解熱。同十五日、ナースらへのお礼を買い調える。同十六日、板橋区役所へ届け出。迪子のみ退院、八 日以降執拗に続いた出血も収まり婦人科的な問題無し。建日子は血小板浮遊液投与等でもう数日入院、すやすや寝ている。帰宅途中池袋西武で母にお礼のハンド バッグ買い、「名匠展」で泉仙の鉄鉢を食べて帰る。同十七日、とにかくも一人まず生還の実感。同十八日、建日子の退院延びると迪子少し泣く。同十九日、略 称「KH」の単行本スタイルハードカバー新創刊綜説誌『小児医学』見本を筆頭編集者日本大学馬場一雄教授に届ける。建日子月曜に退院と決まる。同二十二 日、迪子やや情緒不安に陥るのを和らげるため建日子退院、トットトッターで父が迎えに行く。ときどき草笛のような声を発し車中もすやすや寝ている。自分に 似ていると思い一度思わず頬を寄せる。同二十三日、岩波文庫『法華経』を読み始む。
  これやこの建日子の瞳に梅の花
 一月二十四日、馬場一雄先生にお礼。晩、免疫学叢書企画に監修者帝京大学安部英教授らと会議、うち一巻に「後天性免疫不全症候群」いわゆるエイズを含 む。同二十五日、母疲れて吐く。同二十六日、母帰洛の切符用意。祖母との別れで朝日子にやや動揺あるか、いじらし。よく頑張って助けてくれた。これからが 親子四人の試練の時期となる。同二十七日、母疲れて、帰洛、ほんとうによくしてくれた、感謝に堪えない。朝日子祖母が帰るとオイオイ泣く。親孝行は子供た ちが代わってしてくれる。「仏」主題の掌説を考える。「仏」とは自分にとって何か。「書く」方へ気力を向ける。同二十九日、迪子腹痛吐き気、朝日子頭痛、 建日子夜吐く。同三十日、一酸化炭素中毒を疑い近所の山田硝子店主人を頼み日本大学病院に急行、穿刺と血液検査で大過なく暫時休養後に帰宅。迪子も出血の 治療受く。冷汗三斗。同三十一日、終夜面倒をみる。明け方、大勢至、観世音、阿弥陀如来が相次いで輦車に乗って渡るのを夢見る。その直前久しぶりに西村龍 子を夢見ていた気がする。
 二月二日、建日子の存在にじつに深く感動している。大国真彦助教授によれば血小板は正常値、むしろやや白血球多く風邪かも知れぬと。同三日、テレビで川 端康成原作の映画「古都」観る。同四日、役に立たず文藝雑誌を読むのをやめる。同十日、伊藤整『伊藤整氏の生活と意見』秋山虔『源氏物語』読む。同十二 日、「或る折臂翁」読み直しほぼ良しと。今年にも新しい私家版をと思いつく。「牧子の物語」も「雲居寺跡」も頓挫のまま、諦めず。同十五日、「牧子」の物 語に取り組む。同十六日、稀にみる大雪。会社の「国際課」新設を小説にしたい気動く。同十九日、プリンスホテルで「小児医学」創刊記念会。同二十一日、左 肩灼かれるように痛む。この日、のちの「清経入水」に繋がる話の思案に入る。同二十五日、大阪へ引っ越す木下あづさ・歩(あゆむ)母子お別れの来訪。同二 十六日、渋谷で週四回一ヶ月、MTP40時間管理職講習会に出席を命じられる。この日、持田晴美来訪。同二十八日、美術倶楽部覗く。迪子ら受診健常。この 晩、初めて建日子と入浴満悦。同閏二十九日、朝日子『論語』暗誦中。迪子髪直し服装も春。この夜、西村龍子を夢見る。
  三月一日、緑川良子来社。内田辰之主任九州出張所転勤内示。東急文化会館で迪子朝日子にヴラウス買う。コレット『牝猫』読む。同四日、迪子乳腺炎か。同五 日、迪子軽快すれど油断ならず、朝日子濾泡性結膜炎か、心労激甚苦痛に耐えず。講習で疲れて帰って十時、創作細々と糸の如し、「牧子」に翻弄さる。同十二 日、スランプで気力欠き糖尿を心配する。同十四日、結婚満九年。「小児医学」は千部がメドであったが千百十四部出る。学会員数からみて大成功か。「牧子」 に思案重ねる。同十五日、春闘開幕。同十七日、朝日子国分寺でピアノ発表会に建日子との留守番。家の新築に経済的・心理的にメド立たず。この頃、日々の経 過に「人」要素希薄。「牧子」を懐かしむ。同十八日、堤あや子に相談に乗って欲しいと呼び止められ東大図書館地下の食堂で逢う、相談は大したことでなく 「茶の湯」など一時間半ほど楽しく話す。纏まって「茶の湯」観を東京で言葉にした最初か。年に一度ずつぐらい偶然に佳い対話のできる人として記憶する。こ の日、朝日子鼻血多く出、鼓動急迫。家族中の体調不和に初めて恐怖と重圧を覚える。同二十五日、内田主任とマツダビル「天一」で食事。同二十六日、春闘激 化。建日子フケで頭ボコボコ、朝日子案外と不成績。両人とも平気。同二十八日、迪子軽い吐き気。同二十九日、『内科学』下巻辛酸をなめて校了。迪子疲労。
 四月一日、洋書会社新設中止し、闘争ステッカーの無い社屋へ新人を迎える。同三日、新人事で出版一部五課長となる。同五日、迪子満三十二歳。すき焼き、 イチゴとケーキ、朝日子のプレゼントで祝う。この日、人事発表、初課会。この頃、『源義経』『高野聖』『比叡山』『鎌倉時代の交通』など調べる。同九日、 朝日子の作文で「ママ」批評さる。この夜、恒平夢に泣き、起きて泣きやめず。ワケ分からず。同十日、新人指導で「企画会議」について話すも、徒然草へ脱線 す。同十三日、択一を迫られるならいかなる場合も迷わず現家族を取る、と。同十五日、迪子また妊娠か。同十六日、迪子日本大学病院受診。同十九日、「牧 子」進展。同二十四日、二度目の預血。同二十八日、「牧子」に一纏まりつく。
 五月三日、『内科診断学』大島研三教授を「山の上ホテル」に缶詰め。同五日、この頃、鬱に近し。同六日、新しい私家版のため「清経入水」を発想。一気に 関連の平家記事等を書き抜く。同八日、東京大学小児科教授小林登と識る。この日、「鬼または清経入水」起稿。同十四日、四十枚に達す。『増鏡』『新古今 集』『海道記』『東関紀行』『十六夜日記』『健寿御前日記』などを買い揃える。同十八日、蕉雨館で出版一部親睦会。同二十一日、「清経入水」六十四枚に達 す。毎日書くを励行。文壇へのアプローチを全く欠いた作業なればこそ厳しさが必要と自覚。迪子妊娠の不安解消す、授乳の影響か。この頃、管理職給与九万円 +手当六千円「少しらくになった」と。この頃社内で好意的な読者として、向山肇夫、景山鏡子、堤あや子、小山桂子と記録している、「有り難い」と。同二十 二日、関西出張。大阪大学熊原雄一と会合後京都に落ち着く。銀閣、法然院に遊び岡崎の「美濃吉」で鰹、鱸で呑む。晩、両親叔母と今後を話し合う。同二十三 日、早朝広島に向かい駅紹介の宿「たなだ」に入る。公会堂、平和祈念ホール、見眞講堂で小児科学会取材。晩、胡町(えびすちょう)白銀町(しろがねちょ う)辺を夢の如く彷徨す。同二十四日、早朝車で宮島口へ走り厳島に渡る。曽遊の感ある程に想像のままの不思議感覚もつ。宝物館で田中親美模本ながら平家納 経に感動。広島、厳島体験は「清経入水」の仕上げに全て繋がる。夜、再び胡町白銀町界隈徘徊、いかがわしき映画館に入り辟易して出る。販売部田村来ていて 同宿す。同二十五日、原爆記念館等を涙して巡る。ドームに佇み平和を祈念す。街を歩き清盛焼きで飲み駅で飲み大浴場で汗流して広島を去り京都に戻る。酔っ て車中各所に電話していた気がする。同二十六日、母のちらし寿司を楽しみ、博物館でレンブラントのデッサンやエッチング観て感銘受く。仏像もまた佳。河原 町で迪子朝日子に土産買う。この頃より疲労し風邪ぎみか。三時すぎ離洛、宵のうちに帰宅。はっきり風邪。この間、旅先でも「清経入水」書き続く。この頃、 海音寺潮五郎読むも「読み物」に過ぎずと不満。同二十九日、『免疫学叢書』会議。同三十日、会議、会議、会議。風邪漸く快方。同三十一日、「清経入水」導 入部に手入れ。
 六月六日、企画会議に相変わらず企画提出しつづけ、この日も四点すべてパス。同七日、「清経入水」九十三枚に達し、前月来の勤務多忙激越。同十日、「清 経入水」今が一番苦しい、と。同十二日、百枚に達す。同十九日、「あまりの忙しさに声も出ない」と。同二十一日、「鬼」の冒頭にかねて腹案の「夢」を序詞 に置こうと思いつき、「清経入水」へ移行。作の現状を整理す。のちの受賞公表作とは構成がかなり違っている。同二十二日、西村龍子を夢見る。類無い迫力に 驚くのみ。同二十四日、どう進んでいるのか判らぬ。起承転の三部まで来ているか。同二十七日、収束すべき段階。広島から丹波へ飛ぶべし。この頃、満員の上 野博物館で法隆寺壁画の模写再現展に感激す。夢違観音像にも感嘆。森閑とした表慶館の土器にも魂を掴まれる。同二十七日、聴き手が誰であったか、二人ある 「母」についてうち明けていた。同二十八日、もう「清経入水」一気に仕上げる機、と。
 七月二日、午前三時半に目覚め物語のラストと冒頭の導入を書く。話法と時制決まる。同十日、「何という重圧、何という侘びしさ」と。「自分の振る舞いに 自信や根拠をもっているのだろうか」とも。「せめても家族との愛をもっていることに胸をなでおろす」とも。同十一日、朝五時半しきりに鳴く雀を聴きつつ 『正法眼蔵随聞記』読了。安藤部長に退社の意を洩らす。京都へ帰れそうな気になる。同十三日、産経ホールで第四回新生児学会盛大に。翌十四日、朝日子らを 学会場前の逓信博物館に連れて行く。銀座で食べ池袋で買い物。同十五日、要するに物哀しい気分。励ます気で久々に『モンテ・クリスト伯』読み始む。同十 六、七日、朝昼夜とも昏睡したように寝る。作品は足踏み。「変化の少女鬼山和子と、その父だと告発される私」をひよわにならず厳しく対決させたい。想はほ ぼ成っている。同二十一日、建日子と留守番。「なんという可愛さ。この子のおかげでどんなにこの思い病める父は慰められているか計り知れない。」同二十三 日、最後を欠いたまま二稿に入る。仕事を抜け赤阪プリンスホテルのプールで一時間半たっぷり泳いでくる。数字と管理とに傾斜して行く医学書院での命脈を自 ら絶とうと思う。家族だけが会社との鎹(かすがい)。この頃、『枕草子』本腰を入れて読み始む。『モンテ・クリスト伯』には負ける。同二十七日、朝日子満 八歳に成り嬉しい。「表へ出るところは頑なしく見えるものあるが、根はおおどかに柔らいだ気持ちの子で、ものの感じ方も優しい。」「子は宝、そんな言葉で は言い足りぬ。」迪子に二児の母らしき貫禄できる。同二十九日、池袋の喫茶店に潜って作品に取り組む。同三十一日、会社では命をおろしがねでおろしている 感じ。何という不快な不快な毎日か。(ここで「ノート十」途切れ、「ノート十一」始まる。)
 八月三日から六日、会社一斉休暇。ひたすら休む。同七日より、夏休暇に京都へ帰る。車中に背広置き忘れる。駅まで母出迎え。建日子両親叔母を驚喜させ鍾 愛さる。冷素麺。挙げて京都に帰る件では反応複雑、皆で話し合う。若い親子が奧でやすみ両親は中の間に。同八日、早起きし朝日子と知恩院本堂にあがり男段 降りて円山公園、八坂神社参拝、弥栄中学に立ち寄る。ひとり四条「パリー」で散髪。古門前林医院で両親らの健康状態を問い、故林弥男宅で焼香、娘景子(貞 子)の内弟子独り留守応対す。「たる源」川尻家、改築中の「今昔」西村家巡訪。西村凱(ときお)と会う。高島屋で迪子の従弟濱靖夫と出会い三人で貴久屋で 話す。のち大原女屋小憩。午後、迪子らと真如堂阪根家訪、焼香。孫娘が曾孫娘遺して死に、祖母、曾祖母が幼児を抱いている。「死なれた」ものは堪らぬと思 う。黒谷墓地、西翁院、岡崎ボーリングセンターなどに遊ぶ。家で叔母も加わりすき焼き。朝日子と祖母、珍皇寺六波羅蜜寺など六道参りに。背広受け取りに京 都駅西出口荷物到着係へ行き蝋燭状のタワーホテル内を見、市電で清水道下車、六道参りし縄手を通り帰る。同九日、朝六時に表で建日子と祖父母の写真撮る。 午前、嵐山渡月橋へタクシーで。法輪寺に参り、天竜寺前から竹藪に入り大河内山荘に上る。展望台から保津峡谷を眺望。嵯峨野の道、常寂光寺、歌仙祠、時雨 亭跡、草野なかの道、紅葉の馬場、二尊院、厭離庵、清涼寺を訪れ歩いて渡月橋に戻りタクシーで御池通り東上、帰宅。冷素麺。朝日子連れてタクシーで都ホテ ルガーデン・プールに遊ぶ。美濃吉で東山弁当に鱧のおとし、鯉こく、酒。ゆっくり粟田坂、十楽院陵、知恩院坂をへて帰る。迪子ら銭湯の間昼寝。重兵衛寿司 を取る。叔母の茶室で稽古を見る。迪子の友沢田文子来訪、阿部陽子電話来る。晩、迪子と出て「たる源」に寄り京極筋、河原町で「と一」の半月弁当を楽し む。同十日、迪子朝日子映画「ジャングルブック」に。縄手で待ち合わせバスで三人で嵐山・清滝へ行き、清流で水遊びし「河鹿亭」昼食後、清滝川を遡行ハイ キング、句や歌作りながら高雄神護寺まで登る。笛買い、タクシーで一気に帰宅。朝日子花火に興じ、茶室で茶名披露まえの阪東友子続き薄の稽古見る。晩、迪 子と出て少し降られる。菊水で小憩、河原町でパチンコ試み、また降られて帰る。同十一日、五時起き、西村宗三・阪東宗友と法然院内金毛院での美緑会朝茶事 に参加。迪子は渡貫良子訪問。銭湯。朝日子は祖母と。建日子は行水。迪子を四条京阪まで迎えに出、帰途祇園「松湯」前で迪子ダックスフンド犬に膝を噛ま る。皆で、すき焼き。荷造り。朝日子連れて八坂神社に遊び、父にかねて物色のセーター買う。遅くまで大人で話し合う。同十二日、六時起き、朝九時過ぎ離 洛。東京駅「北浜」で中食して保谷に帰る。迪子と京都へ帰ってしまうことを熱心に考えていた。老人はそれも不安であった。母も上京十年を「成功」とみてい た。
 八月二十四日、突如として「新潮」編集部小島喜久江来書、『斎王譜』を見た、採否未定ながら掲載意図あり、百ないし二百枚の別の「作品」が見たいと。驚 愕、歩む足下が波打つ。画期的な思いがけぬ出来事。同二十六日、希望と不安と自信喪失とが渦巻く。迪子以外に話さず。私家版『畜生塚・此の世』を「新潮」 小島宛て送り、「折臂翁」「雲隠れ考」用意のうえ新作脱稿前と返信す。同二十八日、「清経入水」第二稿の力に推され、確実に仕上がると信じる。新作を九月 中にと(新潮)返事来る。同二十九日、「雲隠れ考」を納得して改稿。家族との日々の他は、新潮との新事態以外が紙切れの如く思われる。同三十日、新潮社小 島喜久江に「折臂翁」「雲隠れ考」持参し預ける。初の一大転機。この晩、課の菅井光一大阪出張所赴任壮行会、安藤直文部長参加。この頃か、すさみ町の野田 芳一叔父昨年中の死去を知り迪子仰天す。同三十一日、夏休みの最後を朝日子に楽しませるべく雨を冒して飯能「東雲亭」で一泊。月の間、窓下に古沼、窓を 覆って森。百舌鳴く。廣い家族風呂で四人で遊びさざめく。山菜で酒。初めてロビーでカラーテレビ見る。この時、建日子ソファより落ち額のアセモの寄りをつ ぶす。翌日、早々に帰宅、幸い大事で無し。
 九月二日、大幅に添削し原稿にした「畜生塚」を小島喜久江に送る。同三日、迪子必死で浄書に励み呉れる。同五日、ついに「鬼または清経入水」百七十八枚 を脱稿す。「蝶の皿」以来二年一ヶ月ぶりの作となる。歓喜。同六日、「蝶の皿」は完全無欠と思う。同九日、小島喜久江より受け取った原稿これから読むと通 知。黙々と過ごす。この頃、『とはずがたり』耽読す。同十一日、「清経入水」百四十九枚に手を入れる。部課長親睦会。同十三日、「鬼または清経入水」を (新潮)に送る。同十五日、四月末以来久々に「牧子」に手を戻す。「ノート十」満つ。同十六日、建日子喉のリンパ腺化膿し潰れる。すごい膿どくどく出る。 耳の後ろにも大きく発赤。本人は熱の割に元気。同十七日、建日子日本大学大国真彦助教授の診察を受ける、雨。小島喜久江来信、近日中に読めると。同十八 日、生まれて罪障を積み、人を苦しめ踏みつけてきたと思う。「牧子」にまた取り付く。迪子の裁判は停滞のまま何の連絡もなし。この頃は、喫茶店「バク」を 愛用。この頃も、なお景山鏡子と時々話すか。同二十二日、模様替えし四畳半に移る。同二十五日、昭和二十二年六月特集号「解釈と鑑賞」で源氏物語の美につ いて読み興深し。この日、都の保助看学院教務主任に抜擢の青木康子と久々に逢う。「牧子」に思案を重ねる。同二十六日、「牧子」の作意を吟味検討。この 頃、ジイド『狭き門』読み涙す。姉梶川芳江を想い出す。迪子、大井龍子の噂をする。龍子の夢を見る。同二十七日、叔母と電話のおり大井龍子が稽古場に来た と聞く。龍子弟の西村凱と電話で話す。           
 十月二日、「牧子」の主人公は  「冷静に若い女の心の動きを観察する誘惑者」の話か。のちに作品『誘惑』と成る。同四日、また源氏物語を読み始める。同九日、母上京。同十日、朝日子運動 会。同十二日、母と朝日子連れて国会、国会図書館、銀座など案内。同十三日、東京オリンピック開幕。同十六日、母帰洛。同十七日、人生の危機と感ず。同二 十二日、森鴎外『渋江抽斎』読了す。美味滴る簡古の文章文体が夢に渦巻く。同二十三日、抜歯二本。同二十五日、(新潮)音沙汰無し。理由を十箇条挙げて悩 まし。『源氏物語』や『渋江抽斎』など読みながら返事を待つ。興奮から落胆へ、落差は大きく人生の危機と感じる。同三十一日、あはれ今年の秋もいぬめり。 この日、源氏物語読了す。
 十一月二日、伊東で出版部懇親会。独り早くつき海辺と町を歩き若い夫婦の小料理店で牡蠣酢、蟹酢、金目鯛の鍋、鰺の叩きで酒。宴会でもしっかり飲み、服 も着替えず湯にも漬からず泊まらず、熱海から新幹線で平家物語読みながら帰宅。同四日、島崎藤村『夜明け前』読み始む。潤一郎にはぞっこんの谷崎愛。 『家』『新生』『夜明け前』の藤村には苦しいほどの血縁感覚。「恒平」の名について記録。同六日、「牧子」苦渋の百六十九枚に達す。時制の調整。同七日、 (新潮)依然音沙汰無し。ケリをつけたいが、それ以上に脱却してしまうこと。同十一日、新潮社小島喜久江にハガキで問い合わせる。この頃、勤務に奮励し創 作を閑却。同十七日、広壮奇怪な建物の前を叔母とタクシーで走る夢を見る。姿は現さないが西村(大井)龍子のからんだ夢なのは確かだった。『梁塵秘抄』論 を書いてみたいと思う。同二十日、梅沢記念館で九州の陶磁器観る。同二十一日、中尾亨、寺脇保、鈴木栄三教授を「蕉雨館」で接待。同二十二日、東京大学学 生デモ本郷台にあふれ出るも命がけとは見えず。三越の「たる源」展を観る。同二十四日、(新潮)克服のため新私家版制作を決意す。この頃、岩波版日本史の 「中世」を気を入れて読む。同二十五日、三報社に私家版小説三集を発注入稿。函とも三百部十八万円予算。この十日ほど、本郷三丁目関本桂、静、雅姉妹の 「とっぷ」で毎日家庭的な献立の昼食。描写とテンポとのバランスに苦しむ。同二十六日、神戸一三歯科医により義歯入れる、六万五千円。
 十二月一日 文学全集収録作にも低水準作がけっこうある。それを自信自負のよすがにするわけには行かない。同六日、孤独の霧に濡れそぼつ。同七日、寒い 京都へ。「ジャワ」「大原女屋」「今昔」などへ。夜、両親叔母と「家」のことで沈黙の会議。この夜、寝苦しく怖い西村龍子の夢を見る。この日、年末一時金 交渉妥結。同八日、母タカの姉田村氏訃報。八坂神社、円山公園、吉水弁財天の堂の裏に長い女髪や佳い石塔見る。安養寺に上る。南座顔見世のまねき見る。 「お父さんの京都」という創作はどうかと。母田村家弔問、さすがに落胆。午後「万養軒」で園頼三先生勲三等叙勲祝賀会、祝辞。迪子の友人沢田文子、槌橋陽 子、渡貫良子、安川美沙とお茶を飲む。沢田文子をタクシーで送ったあと一人糺ノ森を歩き、鴨川ぞいに夕方帰る。「盛京亭(せいきんてい)」で独り食事し 帰って「高砂屋」のうどん追加。この夜、新門前の二階で少年青年期の古反故の手紙を多く読み返し大勢に愛されていた実感が強く蘇る。とくに姉梶川芳江のそ の後がぜひ知りたかった。全て注を添えて封ずる。三十数名の名と旧住所を記録す。寝ての夢におびえ「お母さん、お母さん、お母さん」と三声叫んで醒める。 同九日、名代で田村家葬儀に焼香。「梅の井」で食事。諸方へ電話掛けて話す。古川町に安藤節子を訪ね、東梅宮に明智光秀の首塚を拝み、三条小橋東に本田 (芦田)好美を訪う。いずれも結婚して、星野美佐子が静岡に、花輪明美が東京に、矢倉千恵子も東京にいるなどと知る。天野悦夫、浜田美範、乾義次の連絡先 も知る。過去完了と封印した過去の中からも活力を切に得たいと思う。夕方、離洛。同十日、婚約満十一年。同十二日、兄北沢恒彦宛て目的無く初めて会いたい とハガキで伝える。私家版は送り「畜生塚」に共感した手紙など貰っていた。同十六日、本郷三丁目の「トップ」中二階を借りて書く。この以前からよく、関本 三姉妹の好意で午後の休み中、空いた二階席を借り小説を書いた。有り難かった。同十七日、河崎(星野)美佐子来信「文学主婦」の由一驚。池宮千代子のアメ リカからのクリスマスカード届く。同二十日、三島の国立遺伝学研究所に天野悦夫の所在確認。祖父所蔵の明治の美文集二三冊を点検す。同二十一日、満三十三 歳誕生日、迪子は流感に臥し朝日子も建日子も服薬。「牧子」に翻弄されている。同二十三日、恒彦の電話を社で受けたが会わなかった。着実に朝日子成績上が る。同二十九日、会社の仕事は百パーセント予定通りに終わる。この日、三報社から「清経入水」「絵」初校出る。同三十日、頑張って「牧子」書く。同三十一 日、朝日子を連れ池袋と保谷へ買い物に出る。テレビ故障しテレビぬきの年末年始を覚悟しFMステレオ音楽を楽しむ。(新潮)のことと迪子遺産事件を未解決 のまま年を越す。来年は美術と歴史を学びジイドやドストエフスキーを読み、家を建てたいと思う。

 昭和四十四年(一九六九) 三十三歳
 一月元旦、建日子は寝、朝日子起きてきて親子三人で年越し蕎麦祝う。京都黒谷金戒光明寺の鐘ラヂオで聴く。東山の峰々眼に映ず。両親叔母の無事を念じ る。迪子ゆっくり湯を使う。尉殿神社初詣。朝日子に『日本の神話』上下お年玉。同二日、持田晴美と男の子二人来訪、羽根突き、縄跳び、百人一首。建日子興 奮部屋中を一人這い回る。同三日、校正。保谷でのんびりの三ヶ日また佳し。同四日、私家版『清経入水』初校了。この頃、なお『夜明け前』読み継ぐ。同五 日、新年互礼会。同八日、建日子満一歳。カステラと花とで祝う。とにかく可愛くて可愛くて。この日、(新潮)来報、まだ全部は読めていないが、編集長が先 に読み「なかなか面白い、変わったものを書く人」と感想の由。朗報でもないが佳い方の便りか。『夜明け前』読了。同十一日、義妹琉美子次女寛子出産。同十 三日、医学書院が新社屋六階ビルに移転、四階に入る。富士の白雪見ゆ。同十七日、私家版の校正に集中、表題に何を選ぶか。同二十日、(新潮)編集長より明 午後会いたいと連絡有り。同二十一日午後、新潮社を訪れ、(新潮)編集長酒井健次郎と小島喜久江に会い佳い助言を多く受く。「菅原万佐」の筆名でなく本名 で書けとも勧められ、二ヶ月で新作をと「依頼」された。私家版が「斎藤重役から」編集部へ回付されていたとか、送った覚えはなかった。微妙な気分だった。 「作品はどれも面白かった。みな一気に読んだ。冗漫なところ、説明的なところあり、面白いなりにくどく、ねちっこい。刈り込んでさっぱりした感じにならな いか、百枚から百五十枚ほどに。古典をこなす力量教養は驚くべきものだが、そこへ囚われて長くなる。舞台回しにしてはその比重が多い。必然の結びつきであ りたい。導入の模索は佳いとして足を取られないように。絵空事のリアリテイが眼目、本分はそこにあるのでリアリズムに向かわなくてよい。それなりのリアリ テイを。全く独特の世界、独特の人物、独特のフィロソフィーに一貫されていて話の面白さも十分ある、すっきりした仕上がりにして欲しい。文章もわるくな い。ねちっと絡んだ文章はそれで良い。好きな作家が潤一郎と藤村とはぴったりだが直哉も勉強してみては。一人称での物語はそれで構わない。いかにも作り話 では困るけれど絵空事はそれはそれで結構、気にしなくて佳い。若い新しい作家たちのものなど読む気がしないだろうが、それでもいいと思います」と。「二ヶ 月、四五月の間に作品を持参願う」と。同二十二日、国立博物館表慶館を観る。同二十四日、(新日本文学)に「折臂翁の死」を送る。同二十五日、(新潮)酒 井健次郎編集長の懇篤の激励の手紙を貰う。この頃、旧作に手を入れる一方「牧子」の物語を急ぐ。同二十七日、堺健次郎に返信。同三十日、(新潮)小島喜久 江に連絡。
 二月一日、「猿」浄書了。「畜生塚」「清経入水」改修。(新潮)両人に発信。気負い歴然。同二日、「猿」改修。同三日、小島喜久江宛て送稿。同四日、小 島喜久江より「畜生塚」に絞って検討してはどうかと連絡有り。同八日、(新潮)宛て「畜生塚」改修三稿を送る。「小児医学」編集会議。興奮と充実の日々、 この日、発熱す。同十二日、二時(新潮)訪。「畜生塚」回覧中、ただなお新作に取り組むようにと。成功のめどは未だ立たず。同十四日、藤平春男『新古今歌 風の形成』興味津々。同十五日、「牧子」二百枚に達す。同十六日、「牧子」改修案を立てる。同十八日、直し原稿の汚れ放題に途方に暮れる。同二十一日、私 家版秦恒平作『清経入水』刷了。同二十四日、「畜生塚」「斎王譜」「雲隠れ考」「清経入水」とならべてみると、意図して「妻ある男の不倫」を書き続けてい る。「子」まである。此の意味を考えてみる。同二十五日、此の日付で(見本出来は三月九日)私家版『清経入水』(三百部、星野書店)を初めて本名で刊行。 (新潮)停頓で気が挫けぬようにと、頑張る。「清経入水」「掌説集・絵」「或る『雲隠』考」「祇園会の頃」「跋」を収める。「牧子」に集中しつつ欠神状 態。春先の乱気流。同二十六日、京都の家の東隣が更地になりガレージになりそうと、父の話に愕く。
 三月二日、雛かざる。建日子と半日留守。同三日、「牧子」の構成に沈思黙考。同四日、「牧子」作中で名乗る。この日、五年ぶりに雑誌の仕事に転じる旨内 示受く。書籍の企画取材も兼ねる。同五日、「とっぷ」を借りて「牧子」清書しつつ書き進む。二百三十枚から百五十枚以内に成りそうなほど手を掛ける。同七 日、池袋「ばく」で本文の校訂を終え終末部を書く。同八日零時半、三年をかけた「鱗の眼(牧子)」(後年に『誘惑』へ大きく改稿)を脱稿。仕上がり百四十 四枚。この日、私家版『清経入水』出来搬入。製本蕪雑で著しく感興を殺ぐ。同十一日、「清経入水」の(新潮)採用を断念し「鱗の眼」に期待する。同十三 日、次を考える。同十四日、「鱗の眼」を新潮社に持参。結婚満十年を祝う。朝日子シュークリームを呉れる。建日子は「パパ」と何度も何度も握手。十年先の 思うだに苦しい時の重圧に身構える。同十七日、「火襷」を発想し着手。同十八日、縄文式土器や土偶から見直し始む。同二十一日、朝日子ピアノ発表会。同二 十二日、近所の児童文学者来栖良夫訪う。同二十三日、「保谷武蔵野」で食事。同二十四日、菅宮行彦人事異動を頑強拒否。この頃より、私家版について連日大 勢来信、八巻(清水)友子と久しぶりに連絡つく。同二十九日、(新潮)小島喜久江にハガキ書く。同三十日、迪子ら買い物の留守に中山義秀『碑』読む。この 日、叔母の美緑会岡林院で茶名披露の茶会。同三十一日、会社で人事面接始む。この晩、潤一郎読んで徹夜。
  四月一日、配属の新人七尾清、伊藤純子入社。八巻友子、森川洋子電話来る。疲労困憊。同三日、吉地(岩下)良子ほか私家版『清経入水』に盛んに反響届く。 同五日、迪子満三十三歳。この日、小説「秘色(ひそく)」に着手。同七日、酒井健次郎に手紙添え私家版『清経入水』送る。同八日、公衆衛生院林路彰部長よ り万年筆を贈らる。同九日、日本大学第二内科受診。同志社先輩田中睦より菓子贈らる。同十日、小田島梧郎教授金一封下さる。同十一日、酒井健次郎電話で少 なくも「鱗の眼」は良くないと。方途を見失う。「秘色」を無心に書き継いで行こうと思う。同十二日、近所の郵政省勤務建築設計士池田忠彦を訪ね家屋設計を 相談。同十四日、「秘色」十九枚に達す。同十七日、ストで交通麻痺により池袋人世座前へ早朝に社の迎え車つく。同十八日、春闘妥結。(新潮)小島喜久江連 絡有り、「鱗の眼」はよくないと。春闘妥結。設計依頼に京都の父も同意、借金対策に迫られる。同二十日、池田忠彦に設計依頼。同二十一日、人事異動延期さ る。同二十三日、新潮社で酒井健次郎、小島喜久江と話し合う。「門はいつでも開いている、プロの心組みで会心作を仕上げよう」と激励さる。以降、「秘色」 に集中し近江大津京に関心を注ぐ。同二十八日、批評家本多秋五「異風の文章に接し、おどろき、感心しました」と『清経入水』に来信。名作『天の夕顔』の作 家中川與一からも遊びに来るようにと来書。東北大学安達寿夫お祝いに大きなこけし人形一対を下さる。池宮千代子の佳い便りあり、「濱作」の森川洋子は大阪 大学病院に入院し手紙欲しいと言ってくる。旧姓岩下良子「斎王譜」に登場を案じてくる。
 五月三日、朝日子と二人で豊島園に遊ぶ。同四日、「秘色」に掛かり切る。『仏具』『茶碗』『大化改新』『天武天皇』『持統天皇』『額田姫王』『近江路』 それに(藝術新潮)などを参照す。同五日、家族揃って池袋西武に出、朝日子に服と帽子、建日子に服を買う。屋上で象を見る。ルーベンスやファン・アイクの 繪を観る。同七日、朝日子懸命に自転車の稽古、建日子は五六段は階段を手つかずで昇降。迪子このところ元気で有り難い。人事異動行えず七月か。一度近江の 崇福寺へ行きたい。池袋「バク」で「秘色」七十四枚に達す。「ノート十一」満つ。
 五月九日、迪子より電話で、筑摩書房の「太宰治文学賞」最終候補に私家版の中の「清経入水」を加えて強く推したい旨の編集部長土井一正の速達書留が届い ているとデスクに報せあり。こつこつと努力してきてよかった、そういう時機が来ていたのかと思い嬉しかった。太宰治はさほど好きな作家ではなく名を冠した 賞のことも雑誌「展望」のことも全く知らなかった。選者の一人中村光夫の推薦であると電話した筑摩書房役員岡山猛より漏れ聴く。経験も知識もなく「候補 作」の重みが測れなかった。同十日、十時に小川町の筑摩書房を訪い土井一正に選者用等の私家版本八冊と略歴を手渡す。選者に特に強く推す人のあること、発 表は一ヶ月後の「展望」誌上ということ、選者は、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫であること、作品「清経入水」だけを再製本 して選者にまわすこと、「応募」したという事にして欲しいこと、などを聴く。選者の顔ぶれのじつに豪華で優秀なことに興奮を禁じ得なかった。この日、「東 天紅」で出版一部親睦会。筑摩書房編集局長井上達三より、本を頂戴した「それぞれに力の有る御作」という手紙、家に届く。知らない人だが送っていたのだろ うか。同十一日、この非常な幸運は同時に己を打つ鞭でなければならぬと思う。池田忠彦の建築プラン父に送れど、子供部屋は減らせ、廊下部分減らせなどいい 返事でなく再検討となる。この日、深田久弥『あすなろう』加納作次郎『乳の匂ひ』読む。同十二日、「秘色」進行で興奮を静めたいと。同十四日、「五月雨や ひとり静かに人の声」「静か」という言葉が特に好き。同十六日、後輩の乾成夫にまた本を出したそうだが道楽がよく続く、金がかかるでしょうと揶揄される。 この辺が何も知らぬ人の本音か。この晩、池田忠彦の家屋設計二次案届く。九十一枚に達した「秘色」取材の近江行を主眼に、父たちに直接設計案の説明に行こ うと思う。「待つ」のは辛い。同十七日、午後京都に入る。家の資金負担も間取りも含め相談成る。叔母の茶室で近江神宮からの佳人細田滋子と識る。東隣が無 惨な空地となっている。同十八日、京津電車上栄町で下車し歩いて長等神社、観音院から三井寺へ、次いで弘文天皇御陵、新羅善神院に詣る。別所から電車で近 江神宮下車、細田滋子に声をかけてから、近江神宮参拝。目当ての舎利容器も無文銀銭も宝物館には不在だったが小冊子『大津京趾』を入手。田畑道を歩いて滋 賀里に入り、難行して長等山を上下すること二時間余、ついに崇福寺趾を探し当てる。塔心礎は埋められていた。疲労困憊し滋賀里駅近くのパン屋で牛乳二本、 コーラ、パンを口に入れる。靴に釘が立ちまめが出来て堪えかねたが南滋賀下車、大津京址と目される梵釈寺跡を実見のあと、浜大津駅から立ったまま三条京阪 駅へ戻る。収穫豊かであったが疲れて口もきけず。来て、行って、よかった。堅田へは江若鉄道ストのため行けず。晩、「今昔」で西村夫妻、凱(ときお)らに 逢う。財布を貰う。同十九日、五時二十分起床離洛、十一時出勤、集団検診。この頃、岩波文庫『源氏物語』を例の一日一帖以上のペースで読み進む。同二十 日、筑摩書房より連絡無し。同二十二日、弘文陵と新羅善神院を大事に使おうと思う。同二十三日、ここ三日間に四つの編集会議を捌く。創作活動に管理職仲間 の非難や皮肉が強まる。新潮や太宰賞のことは迪子以外に誰も知らない。その太宰賞も連絡無く断念に傾く。同二十四日、古雑誌の「展望」により決定にはもう 三週間ほど間があると知る。同二十五日、新聞短歌欄に、「父よ父よ何を言はむとし給ひし我に宛てたる封筒遺して」という投稿歌見つけ、泣く。同二十六日、 「秘色」百六枚に達す。この頃までに、『日本書紀』欽明紀より持統紀まで読み通す。「頭(こうべ)をたれて故郷をおもふ」故郷とは何なのか。社の先輩管理 職で「近代詩歌」歌人の畔上知時について記録す。同二十八日、背広を注文す。同三十日、(新潮)小島喜久江に筑摩書房のこと手紙で告げる。同三十一日、家 の設計ほぼ終える。
 六月一日、迪子と朝日子とは持田家訪問、「秘色」に取り組む。目白押しに重い事柄が家族にひしひし迫る。同二日、快晴、不安。同三日、曇天小雨、不安。 同四日、「秘色」の壁に当たる。怪異は努めて避けたい。同五日、この頃も、景山鏡子と『母性保健』の仕事で連携多し。同六日、「神経研究の進歩」編集会 議。同七日、筑摩書房土井一正に「畜生塚」「蝶の皿」「鯛」送る。(新潮)小島喜久江来信。同九日、この一週間内には決まると思う。同十日、事無く過ぐ。 「秘色」百三十六枚に達す。この日、出版一部三課で「胃と腸」「呼吸と循環」「臨床皮膚科」「季刊小児医学」等の編集長をと内示さる。小林謙作、七尾清、 伊藤純子、菅宮行彦らが配属らしい。
 六月十一日、第五回太宰治文学賞に作品「清経入水」当選の電報を午後八時半受く。その時、人事調整会議の中間待機中で、デスクに戻り源氏物語で一番長い 「若菜下」巻をこの日のノルマに必死に小声で読み続けていた。是非にもこの日のうちに読み上げねばいけなかった。ひょっとして今にも選考会がもたれている 気がした。五時前に迪子に遅くなりそうだが良くない知らせはないかと確かめ「無いわ」と聴いていた。もう十二日午前二時四十分にやっと安藤部長と同車で社 を出て巣鴨で別れ、十一年の結婚生活で初めての呆れるほど遅い帰宅となった。既に真っ暗な家に入り暗いまま自室に入ろうとしたところで、ついた灯りの下か ら迪子に電報を見せられた。「ダザイショウトウセンアスアサデンワコウチクマテンボウ」と読み、こみあげる嬉しさのうちに一瞬真っ白い部分があった。迪子 と抱きあって喜びつつ急速に冷静になった。一月余の期待はあまりに長いものだった。むしろ呆然とした。入浴。迪子と襖越しに話しながら、やはり寝付けな かった。同十二日、六時起床、日記書く。ここまで支えて好きに創作や出版をさせてくれた迪子に、子供たちにこころから感謝する。
 この日午前、筑摩書房に電話。ぜひ逢いたい、選考経過も伝えたいと言われ、社内人事異動告示もそこそこに、「とっぷ」へ寄り受賞を告げてから筑摩書房に 行き、土井一正、中島岑男「展望」編集長、担当編集者小宮正弘らと打ち合わせ、十六日までに作品に十分手入れをと勧められる。多くの点で感想・意見合致。 その間にもプロフィール写真をたくさん撮られた。十九日三鷹での桜桃忌に参加後ホテル・ニュージャパンで記者会見の予定と聞く。昼食を共にして帰社。役員 長谷川泉に報告し祝福さる。部次長にも伝える。同十三、十四日、十五日、必死に作品に手を入れ大胆に構成をも変更して、すべて一人称の百十七枚にまとめ る。同十六日、新体制座席配置を終えて、午後、筑摩書房に推敲した新「清経入水」を届け納得される。園頼三、郡定也、田中睦、林路彰、安達寿夫らに報せ る。同十七日、受賞当選を(新潮)編集長酒井健次郎に電話で伝える、「しまった!・眼をスッタかぁ」と叫んで大いに祝福さる。やっと喜びが湧く。同十八 日、土井一正に電話、小宮正弘より電話有り、良くなったと手直しに賛同。
 六月十九日、桜桃忌。五時過ぎ起床、太宰治『津軽』後半を読む。九時過ぎ家を出、本郷三丁目「とっぷ」でコーヒー飲み、十一時前筑摩書房着。竹ノ内静雄 社長の祝辞を受け、打ち合わせの後に土井一正、中島岑夫、小宮正弘、森本政彦とホテルニュージャパンへ行く。正午過ぎ、第五回太宰治文学賞の発表会。竹ノ 内社長の挨拶で始まり受賞者として紹介され、李白「静夜思」の詩の「頭(こうべ)をたれて故郷をおもふ」の故郷=魂の原郷にふれ、話す。報道各社記者とカ メラの前に立ち約一時間のインタビューを受ける。島崎藤村、夏目漱石、谷崎潤一郎をとりわけ敬愛すると言う。三時過ぎ、三鷹禅林寺に人垣をわけて太宰治の 墓に花輪を献じ合掌し報告する。桜桃忌会場で真っ先に紹介されて短く話す。吉村昭と識る。また檀一雄、伊馬春部らと識る。迪子と建日子、持田晴美が、桜桃 忌会場外に来ていた。景山鏡子の姿もちらと見た気がする。五時半頃、吉村昭と同車、中島、小宮に送られ禅林寺辞去、帰宅。NHKテレビ等七時のニュース、 毎日新聞、朝日新聞等の夕刊にも報じられ、竹内繁喜、沢田文子、林路彰ら祝電が相次ぐ。各紙のインタビュー申し込みも相次ぐ。「共同通信」四枚の原稿依 頼。筑摩書房は第二作を、(新潮)は七月二十五日までに八十枚ほどの作をと。七月七日「展望」に作品発表され十一日に東京會舘で受賞式と祈念パーティーが ある。中村光夫、唐木順三の選評を見せてもらう。
 六月二十日、六選者、筑摩書房古田晁会長、竹ノ内静雄社長に謝辞送る。祝いの電報電話相次ぐ。午前、毎日新聞、午後、東京新聞のインタビューを受ける。 共同通信に四枚の原稿送る。集中すべきは「秘色」と(新潮)原稿、「もう平静である」と。同二十一日、馬場一雄教授電話で祝辞下さる。長谷川泉編集長に挨 拶、法曹会館で金原元専務に挨拶。竹澤茂樹・由美の結婚式と披露宴に出席し祝辞。奥田千鶴子や日吉ヶ丘五期同期会や北沢六彦ら祝電。毎日新聞「時の人」欄 に紹介さる。同二十三日、金原一郎社長と二人で会議室で歓談。東京新聞「ぷろふいる」で紹介さる。寺脇保教授鹿児島より祝電。新作へ身ひきしまる。(新 潮)に「蝶の皿」をと思う。同二十四日、毎日夕刊に記事有り、(新潮)に弁明、(展望)の連絡で小豆沢の凸版印刷に「清経入水」出張校正。午前三時までか けゲラを二度読む。同二十五日、電話で「清経入水」責任校了とす。(週間新潮)記事依頼。酒井健次郎の「気にしないで」の連絡届く。同二十六日、筑摩書房 土井役員と同窓の女優原知佐子ら受賞式招待客の打ち合わせ。また「編集者には鞠躬如と付き合うように」等々の助言受ける。やはり中村光夫の強い推薦であっ たと聞く。私家版が小林秀雄から中村へ伝えられたらしい。「文章・文学ともに自信をもち着実に精進して良い作品を。成功すると思う、堂々と」と。前東大教 授木本誠一三井厚生病院院長から「清経塚」について問い合わせ来る、返信。祝電と手紙山積し返事に嬉しい悲鳴あぐ。同二十七日、新潮社訪問、小島喜久江不 在なれど酒井健次郎編集長に祝われ、激励される。「蝶の皿」に大満足と。「共同通信」配信の記事掲載紙驚くほど多く届く。同二十八日、新課、新しい席で発 足す。同二十九日、「サンケイ新聞」原稿依頼。「東販新刊ニュース」に「私の近況」インタビュー依頼。祝信等百を越す。同三十日、原知佐子電話で授賞式に 出ると祝ってくれる。学友今原勇来信。
 七月二日、日本読書新聞のインタビュー。堤ケ子(いくこ)の電話で祝わる。同三日、東販「新刊ニュース」インタビューと撮影。同四日、(展望)八月号に 太宰治賞「清経入水」発表の見本誌三十部届く。目次の作者名「秦耕平」で印刷さる。満票を得ていたが選評はそれぞれに鞭撻厳しく襟を正す。同五日。金原社 長、長谷川編集長、受賞式に出席と。同六日、刷り直し(展望)三十部入手。
 七月七日、(展望)八月号に改稿『清経入水』を発表。この頃より、軽い虚脱感に悩む。同十日、梅雨。社内で孤立感深まる。
 七月十一日、第五回太宰治文学賞授賞式と懇親パーテイに迪子同伴で臨む。東京會舘。終生忘じ難い日となる。雨も上がり、大勢が見えた。井伏鱒二、石川 淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫の六選者。円地文子に「佳い所でまた会いましたね」と祝われた。臼井先生は大病後の車椅子での参加で激励下 さる。吉田健一、佐多稲子、井上靖、中村眞一郎、瀬戸内晴美、吉村昭、加賀乙彦、一色次郎、三浦浩之、金達壽(キム・ダルス)、奧野健男、伊馬春部、田辺 茂一、また酒井健次郎、小島喜久江、さらに原知佐子、重森埶氐、今原夫妻、持田夫妻、星野夫妻、田所宗祐伯父など、加えて金原一郎社長、長谷川泉編集長等 々。とても覚えきれるもので無かった。竹ノ内静雄から賞状を受け、友人代表で原知佐子が花束を呉れる。「太宰賞なら三年間は忘れられる事はない。焦らず に」と中村光夫選者代表が懇篤丁寧な選評と紹介のあと、短く謝辞を述べる。六時から八時過ぎまで一世の晴舞台だった。迪子の嬉しそうなのが嬉しかった。二 次会は新宿「風紋」で、中村眞一郎、奧野健男を囲むていに太宰賞関係の作家や柏原兵三らで和やかに乾杯、歓談。十時過ぎて車で送られ帰宅。ともあれ金原社 長、長谷川編集長、また筑摩書房の竹ノ内社長、土井一正役員に謝辞を書いて一日を終える。
 七月十二日、「私家版の論理」を(サンケイ新聞)夕刊に、(週刊新潮)掲示板に記事を発表。原稿料がやがて入り始めた。この日、いったん京都に荷物預け る。両親叔母とも受賞を喜んでくれる。西宮市での新生児学会を取材。夜、祇園会の神輿を八坂神社で拝む。小雨の中、縄手「今昔」のバアで西村凱と呑んでい るところへ大井龍子婚家の電話で「おめでとう」の晴れやかな祝福、久々の懐かしい声に酔う。姉弟の父西村外治らと大いに呑みかつ語る。同夜、龍子を夢に見 る。同十三日、西宮の学会場、研究発表途中の大阪市大、京都府医大、京都大、大阪医大の若手医学部改革派による絶妙の罵声と攪乱とで、平田会長は全評議 員、会員見殺しのまま延々と吊し上げられ続け、惨憺たる有様。この頃、未熟児治療過誤その他で小児科は医学部改革闘争の一尖端を成していた。罵詈雑言は不 快ながら改革すべきものの在ることには共感せざるをえない。帰路、梅田阪急京都線で一少女と逢う。「何という美しい陰翳を表情の底から光らせていた人だろ う。」並んで京都まで行き、大宮で降りる筈の人に頼んで遅い夕食をともにし大原女屋で話し、降り出した雨の中を地下鉄改札まで見送った。それだけだ。「あ の人がひょっとして『斎王譜』の慈子(あつこ)ではなかったか。」惜しむ思いに重い実感がかぶる。夢とけじめなき逢いであった。「今昔」で少し呑んで帰 る。同十四日、体で喜びを故郷に伝える感じ、ただてくてく歩く。泉涌寺へ。戒光寺丈六釈迦を阿弥陀と思いつつ二、三十分跪座拝、ほとんど幻覚を観る。来迎 院で住持と奥さんに会う。日吉ヶ丘高校で上島史朗先生、安田好朗先生に逢う。四時過ぎ、離洛。朝日新聞夕刊が中村光夫の言葉をひいて授賞式記事「異色の新 人作家誕生に期待」と好意的に。同十五日、筑摩書房で副賞三十万円の小切手受領。共同通信、サンケイ新聞からも原稿料受領。九月号「新潮」に「蝶の皿」掲 載を筑摩書房了解、受賞第一作が他社掲載ではとだいぶ絞られる。事情の知れない業界不文律に混乱す。同十六日、正賞オメガ時計のベルトを天賞堂で調整。オ メガは十万円と聞き驚く。夜、課でコンパ。PHP、東京新聞、同志社新報など原稿依頼来る。この日、京都女子大学教授杉本秀太郎「清経入水」作者に熱いフ アンレター呉れる。アメリカの光田良子来信。同十八日、「秘色」に打ち込む。同十九日、ペンを贈ってくれた七尾、伊藤、宮本、土持四君と昼食。同二十一 日、肩凝りと左偏頭痛。東北大安達寿夫より堤焼茶碗贈らる。同二十二日、新潮より原稿督促。新潮社と筑摩書房の板挟みに処置無し。同二十三日、会議四つを 連続し並行して捌く。同二十四日、小島喜久江より「蝶の皿」がどの程度の人に知られているかと確認の電話。同二十五日、「蝶の皿」問題なし、校正刷り届 く。京都新聞「古都との対話」原稿依頼。この日、歌人馬場あき子「清経入水」中の文献につき問い合わせ来信。同二十六日、「蝶の皿」初校済ませ届ける。同 二十七日、朝日子満九歳、午後友達四人を招きささやかなパーティ。猛烈な暑さ。東販「新刊ニュース」写真・記事掲載号届く。同二十八日、新潮社で「蝶の 皿」再校了。筑摩書房土井一正電話で授賞式当日の来会芳名録のこと、「畜生塚」を十月号にということ、単行本へ急ぎたいこと。同二十九日、朝日新聞夕刊 「文芸時評」に中村光夫「野心的な『「清経入水』」の見出しで推賛。
「秦恒平氏の『清経入水』(展望)は戯曲ではなく、太宰治賞を受けた小説ですが、風変りな作風で、今月の小説のなかでも、孤立しています。
 平重盛の息子で、『平家物語』によれば、一門の不幸のさきがけとして、豊前柳ケ浦で入水したとつたえられる清経にたいして興味を抱いた主人公が、この知 られぬ公達の事跡を探索し、彼にまつわる伝説をしらべて行くうちに、彼の「入水」を否定する見解をいだくようになるのを経とし、そこに主人公の丹後に疎開 中の経験や京都における学生生活の記憶などもからませ、歴史と現在の「私」、さらにその生活と夢とを打って一丸としようとする野心がうかがえます。
「『夢のまた夢でございますなあ』と聴いた海底の声々の主が、……平家の人たちのものと悟った僕は、……いまは異端の鬼の群に身を絡められた即ちこの僕が 清経なのだと知った」
という境地まで、読者をひきずって行く筆力は、もとより今のこの作者にはありませんが、自己表現の欲求を、たんなる写実や自伝をこえてここまで拡大、ある いは深化しようとする試みは、現代小説の壁を破る企てとして意味があり、やがてこれを実現する才能と根気を作者に期待したいと思います。」
  前日時評で堤清二、井上靖の告白的自伝と私小説を、この日も大谷藤子、安岡章太郎、大岡昇平のいずれも私小説的写実や告白を前に置いて、最後にそれらとか け離れた「清経入水」の紹介と批評で結んであり、一編の時評構成での扱いとして意味がとても重くなっていることに感激する。「繰り返すが、しかし、これか らだ」と記録。同三十日、芳名録届く。同三十一日、(展望)小宮正弘と会う、「畜生塚」に極めて批判的。この日までに、「京都新聞」で久保田正文、サンケ イ新聞で奧野健男「清経入水」を好評、管見に入る。
 八月一日、夏の休暇で夕刻京都へ発つ。母駅へ出迎え。同二日、朝、朝日子独りで知恩院を散歩してくる。午前、朝日子と都ホテルのプールで泳ぎ軽食して帰 宅。「今昔」でコーヒーと葛餅と。母と五人で高島屋に行き木屋町「と一」で夕食。母は帰して八坂神社、円山公園へ。夜遅く迪子と歩きに出る。同三日、迪子 と建日子は真如堂まえの阪根家訪。朝日子と大徳寺の芳春院、瑞峯院を観て大慈院の泉仙鉄鉢料理。紅梅町に給田緑先生を訪う。北野神社参拝後にタクシーで帰 宅。独りで博物館へ、智積院へも。晩、朝日子連れて三人で街歩きし「ジャワ」で小憩、帰宅。同四日、朝、朝日子とプールで遊び、南禅寺の金地院庭園を楽し んで「順正」の豆腐を食う。迪子と河原町に出て降られ南座の「松葉」で鰊蕎麦賞味。晩はみなで「梅の井」の鰻を喰う。この日、阪東友子ら叔母の茶室で奥伝 稽古。晩に迪子と先斗町をそぞろ歩き「栞」で小憩、「永楽屋」の蕎麦を食べたあと雨瀟々の三条大橋を渡り帰る。休暇三日、たちまち過ぐ。同五日、沢田文子 の見送りで午前離京、暑い保谷に帰る。サンケイ新聞時評で奧野健男の「清経入水」評を読む。この日、太宰賞関係の手紙その他一切整理してしまい込む。「作 家」という虚名に実を添えるには忘れていいことと。前途多難多事としか思われぬ。同六日、筑摩書房の小宮正弘と数時間も話したが疲労しただけ。在来日本の 一般の文学価値観でのみ押し切られる感じ、それでは我が文学は窒息する。絶望的な闘いが始まると実感す。十月号予定の「畜生塚」中止、「秘色(ひそく)」 を九月初ないし十月半ばまでにと言われる。
 八月七日、(新潮)九月号新人賞作家八人特集に『蝶の皿』を発表。作風の孤絶孤立に愕然とし不安募る。他は尽く私小説風身辺小説。巧いも拙いもなく、た だ味気なく、自分なら書きもせず書きたくもない。奇妙な混乱、喚きたい程の。「秘色」の困惑と渋滞は想像以上。この日、(新潮)の原稿料早くも入る。同九 日、EXPO70のタイムカプセルに入れる資料を要請さる。この日、美緑会の九人よりお祝いの商品券貰う。同九日、(展望)中島岑夫来信。同十日、「秘 色」百四十五枚に達す。同十一日、なぜか(新潮)小島喜久江より『斎王譜』送れと連絡来る。土井一正発信。同十二日、(淡交)編集部宛「蝶の皿」と記事参 照断りの手紙送る。同十三日、矢野俊明と話す。同十四日、筑摩書房より「畜生塚」戻る。この日、伊地知鉄雄宛て著作参照利用の願い発信。同十五日、霞町 「ブリガンド」で同志社美学二年下の同期会に呼ばれる、何の意味もなし。同十六日、学士会館で社長と昼食し勤続十年の時計を貰う。この日、西村鏡子と富士 見台駅まで同車。同十七日、迪子の従妹二人来る。日曜、池袋へ出て書き、東京駅大丸へ行って寿司を食い、池袋に戻ってまた書く。この頃、反動でひどく憂 鬱。「秘色」の佳い収束を模索。同十八日、「秘色」の帰属について(展望)に約束しているのはけしからぬと(新潮)小島喜久江憤懣の手紙来る。作品の成る こそ望みなれど掲載がどの誌になるかは二次的なこと、筑摩と新潮の達引(たてひき)に当惑し困惑する。同二十日、「秘色」収束へ吶喊す。この日、馬場あき 子より「ぜひ逢いたい」と電話来る。声の美しい人。同二十一日、中村光夫来信、「拝復、御手紙拝見しました。拙評いくらかでもお力になれば何よりです。私 などが云ふのはおかしいですが批評など氣にせず、自分の進むべき方向に進んでいただきたいと思ひます。右とりあへず。」と。感激す。この日、「秘色」二百 五枚で初稿ついに成る。筑摩書房土井一正取締役明日会いたいと電話来る。同二十一日、小川町で土井一正と昼食、『蝶の皿』評判いいと。自分の領分を大切に し一作一作着実にやって行けば九割七分がた成功する、文学マラソンの最後尾に今着いた意味を考えて、自分の場、位置を前へ、廣く、深く推し進めよと。この 頃、土井一正の親切にしばしば心救われた。同二十四日、愛知がんセンターでの食道胃生検研究会に、小林謙作、七尾清と出張、岐阜「ホテル・ニュー長良館」 に転じ、村上忠良、白壁彦夫ら雑誌「胃と腸」編集委員十数氏を編集会議後、鵜飼い舟で接待懇親。同二十五日、編集委員たちを全て見送った後、岐阜大学で長 谷川編集長、小林、七尾と別れ名古屋で取材済ませ、名古屋シネラマでミュージカル映画「ウエストサイド物語」観て感激して帰路に就く。この日、丹波黒谷の 中村より「黒谷の紙」届く。
 八月二十六日、(東京新聞)夕刊に「物狂いの伝統」発表。同二十八日、馬場あき子より電話。第一ホテルで東北大安達寿夫と会談。東京新聞で佐伯彰一、読 売新聞で篠田一士の文芸時評読む。この日、朝日子持田家で一泊。同二十九日、池袋「オードール」で『式子内親王』著者の歌人馬場あき子と初対面。建礼門院 右京大夫や清経のことなど数時間も歓談。才識多彩。この日、奧野健男はサンケイ新聞文芸時評で「秦恒平の『蝶の皿』は京都を背景に骨董趣味と同性愛的な耽 美趣味に淫し溺れたように描いた作品で泉鏡花的な妖しい魅力がある」と批評。なににしても「鏡花的」孤立は「もうやむをえない」と記録。『清経入水』が 「アカハタ」で「やっつけられていたわよ」と馬場あき子に聞く。同三十一日、「秘色」の収束にAB二稿を作ることを思案。
 九月一日、(展望)小宮に「秘色」AB二稿を渡す。この日、(芸術生活)堀田隆子原稿依頼の電話。同二日、堀田隆子と池袋「オードール」で初対面、原稿 引き受け、来年度連載の相談も受ける。この日、未知の人より桜桃忌会場で話している写真二葉頂戴。また未知の読者城戸元彦は『蝶の皿』について「昔、谷崎 の『蘆刈』を雑誌改造で見て以来の感動」と来信。城戸は此の後も終生支援してくれた。この日、一色次郎の太宰治賞受賞長編を雑誌で読む。同三日、「秘色」 A稿百八十枚で体を成したと実感し成稿、脱稿、感激を味わう。同五日、新潮社宮脇修の電話で『斎王譜』読んだ、非常にオリジナルで面白い、ぜひ会いたい と。晩に池袋「オードール」で会う。京都の宮脇売扇庵の縁者でいろいろと縁の触れあう人だった。関連の全作に目を通していて、「斎王譜」中心に単行本を企 画したいと。夢のようでぼうと聞き流す。この日、社の大隈玲子『蝶の皿』よかったと。同六日、五時過ぎて筑摩書房訪、(展望)中島編集長、小宮正弘と会 談、「秘色」完全否認、一点の美点も拾われず強圧的に酷評に徹し、小宮は「自信持って駄作と言い切れる」とまで。承伏せず、つよい不信感を持つ。小宮はさ きに「畜生塚」も「自信もって否定」した。要するに現(展望)編集部の文学観とは、つまりは現下の日本の文学編集風土とは決定的に適合しないのだと見捨 て、自分の能力・批評力を信じて断念する。中村光夫の目が働いていなかったら、とても世に出られなかった気がする。同八日、『秘色』を宮脇修、大隈玲子に 見てもらう。同九日、宮脇、大隈とも(展望)意見と大差なく否定さる。(展望)編集部に「秘色」を第一作として提出することを断念通知す。自力で平静に 「秘色」に立ち戻ろうと。同十日、下保谷に家屋新築を契約す。万一退社の時に行く先が無いのでは自由でおれないと判断。同十一日、馬場あき子電話で早稲田 大学助教授国文学中世の藤平春男を紹介したいと。同十二日、午前(芸術生活)堀田隆子と掌説による新企画打ち合わせ。堀田、ある新聞記者に聞いたと、中村 光夫が『蝶の皿』激賞の由を伝え呉れる。京都府立医大藤木典生を迎える。この日、京都の阪東友子の電話あり。この頃も、勤務は極めて多忙、へとへと。同十 三日、藤木典生社内で執筆。堀田隆子に「鯛」「繪」手渡す。「消えたかタケル」を脱稿。この日、京都の「濱作」赤坂ニュージャパンに出店と聞く。同十四 日、新居着工「やり方」済ませ近所へ挨拶する。同十五日、「新・秘色」開始。馬場あき子より喜多流の能に招待券届く。同十六日、(芸術生活)新連載企画決 定の内報あり。「秘色」改作の案を練る。同十七日、(芸術生活)に依頼原稿『消えたかタケル』渡す。水道橋能楽堂で「三井寺」観る。「乱」は観られず。 「胃と腸」深夜座談会と編集会議にエーザイに直行。同十八日、筑摩書房土井一正来社、慰撫と激励。同二十三日、「秘色」十章を成す。同二十四日、「消えた かタケル」校了。同二十五日、『名月記』購入す。この頃、無為、疲労。同二十八日、北沢恒彦の電話を受く。索然とした昨今に「一点の潤い」ありとせば何 か、と記録しているが、不明。同二十九日、「心身の疲労は深夜の雪のごとく音もなくもうもうと降り積もる」と。この晩、西武新宿駅改札で馬場あき子、藤平 春男と会い「樽平」で飲み渋谷の「ぶんぶんるうむ」で飲みかつ語る。清潔に穏和に話題縦横し楽し。夜更けて三人でタクシーで帰る。同三十日、「ちとせ」で 安藤直文出版部長外遊壮行会。この日、西村鏡子と富士見台駅まで同車。
 十月一日、「畜生塚その後」を構想。「そういう世界までを創造しなければ此の作は完結しない」と。同二日、富士見台駅近くで西村鏡子と話す。この数日、 絶えざる腹痛。同三日、この頃より、継続して源氏鶏太の娯楽小説を読む。同四日、池袋でか、映画「ナバロンの要塞」観る。同七日、「秘色」通読し見通し立 つ。同九日、筑摩書房の小宮正弘、電話で「或る『「雲隠』考」よいと思うがなお新作を見たいと電話。同十日、「新・秘色」百六十四枚で脱稿、署名。この 日、(PHP)掲載号届く。同十一日、(展望)に「新・秘色」届ける。映画「赤毛」観て帰る。
 十月十二日、(芸術生活)十一月号『消えたかタケル』を発表誌届く。新聞広告も見る。同十四日、(芸術生活)に来年一年連載「華曄(かよう)」決まる。 「消えたかタケル」を発展させ「日本俗情史」書かないかと打診あり。勤務の方は順調。同十六日、建築に百六十五万円借金す。この日、社は新機構を発表。同 十七日、美学会で園頼三、金田民夫、郡定也、大森正一に逢う。同十八日、水上瀧太郎『大阪の宿』を久々に再読す。同十九日、小雨をおして棟上式。年内新居 落成のメド立つ。同二十日、建築第二回支払い。同二十二日、和歌史研究会案内。同二十三日、(同志社時評)に『蘭亭を愛(お)しむ』書く。この日、源氏物 語読了。同二十六日、関口征四郎結婚式に出席。同二十七日、(芸術生活)連載一回の美術に国立東京博物館東洋館の「神王三彩像」撮影。同二十八日、京都府 立医科大学へ取材出張。金閣寺、円通寺などに遊ぶ。同二十九日、神戸大学医学部を取材して帰東。同三十日、新潮社宮脇修より「社として」逢いたいと電話を 受く。筑摩書房土井一正に電話する。同三十一日、土井一正電話で「臼井吉見さんもどうしているかと心配しておられる」と。新作と第一創作集は筑摩書房で と。土井は「産み落とせ」と言うが難産を極めている。
 十一月一日、新潮社延期。新短篇に着手。この頃、集中力も気力も根気も最低の状態。同五日、新潮社出版部宮脇修、初見国興来社。椎名鱗三以来の新潮社書 き下ろしシリーズ好評に加え、新たに新潮社新鋭書き下ろしシリーズを企画した、二十名ほどの一人として最低三百五十枚見当の長編を全力投球で書いて欲し い、雑誌発表の短編集勝負では鮮度が落ちる、との依頼。重い荷だが精魂を傾けたいと承諾。印税十三パーセント、初刷り五千部、時間を制限しない、担当は初 見と。同七日、矢代幸雄『日本美術の特質』読了す、学恩絶大。『延喜式』『かな』など、この頃、水の土に帰するごとく読書量多し。恩師土居次義に海北友松 (かいほう・ゆうしょう)について手紙で問い合わす。連載「華曄」二回目は東京博物館蔵「普賢菩薩像」が許可される。同十日、早稲田大学大隈会館での和歌 史研究会に馬場あき子と二人が招かれて参加。私家集研究の森本元子、和泉式部研究の藤岡忠義、西行研究の糸賀きみ江、定家俊成研究の藤平春男その他大学研 究所の十氏らと清談尽きず。あと藤平、藤岡、馬場と二次会で歓談。定家の藝術を支えた女性たちの発掘と創作を藤平・藤岡に示唆さる。同十二日、初見国興来 社し光悦宗達資料をたくさん貰い、「定家の妻」などということを一時間ほど話し合う。富士見台駅で下車し西村鏡子と話す。この頃、(芸術生活)連載第一回 原稿に苦悶。初対面時の提案が早速容れられての企画で、掌説と美術作品との見開き競演を意図した。同十五日、本郷から新宿まで堤アヤ子とタクシー同車で、 小田急百貨店の「桃山障壁画展」を観る。同十六日、掌説「さかづき」脱稿。『名月記』読み始む。同十七日、(芸術生活)に原稿届ける。(新潮)小島喜久江 の原稿督促あり。この頃、西村鏡子と話すこと多し。同二十一日、博物館絵画室で「矢ノ根五郎額繪」撮影。同二十四日、「秘色」また不十分として戻される、 但し第一作はこれで押すと。同二十五日、死にかかわる手記など重ねて読み、「死なれる」重さをあらためて感じる。同時に身内への愛とともに価値を産み創る ことへの愛を思う。この日、土居次義の返信あり。同二十八日、春秋社の山折哲雄(宗教学者)初めて書を寄す。「『展望』八月号の『清経入水』を拝見いたし てから何度か筆をとろうと考えながら果たしませんでした。あれは、ここ数年来経験することのなかった感銘の深さでわたくしの心にしみた小説でした。民俗的 な事象に対する独自の関心のもたれ方にも共感いたしました。現今文学における想像力が、しばしば根拠のない空・幻想と分かちがたく結び合ったまま零落して いることに、わたくしはいいようのないいらだちとさびしさを覚えているものであります。だからわたくしは、『清経入水』において民衆の智慧を塗りこめる民 俗をロ過した想像力のひとつの形象化に接して、おそらく緊張したのです。/ややあって『新潮』九月号の『蝶の皿』を拝見いたしました。語り口の妙、素材の 新しさにまず感心いたしましたが、反面、この作品が大谷崎の世界の呪縛から、どれだけ自由になっているか、あるいはなろうとしているか、という期待にわた くしの心は動いたようです。いずれにしろ『新潮』九月号の作家特集では、一等に面白かったことだけは確かです。」等々とあり、面談し、雑誌(春秋)への執 筆依頼さる。大いに励まされる。服と靴を買う。同二十九日、山折哲雄に返信。佐渡の「太鼓打ち」田耕(でんこう)より、『消えたかタケル』に関心深くたく さん話したい逢って欲しいと電話来る。この日、迪子と池袋で朝日子に服とオーバーを買う。叔母正月二日に上京したいと。同意。同三十日、新居へ移転にとも なう挨拶入り年賀状の宛名書きを始める。この日、村山修一の大著『藤原定家』読了す。
 十二月一日、(展望)小宮正弘より「雲隠考」を三月号に決めたが、なお「秘色」も見せよと連絡あり。(新潮)小島喜久江より今月十五日締め切りで二月号 に一作なんとかならぬかと電話あり。同三日、手入れした「秘色」を大隈玲子は「とっても佳い、面白い」と。「畜生塚」も原作百五十六枚からついに九十枚に 絞り込む。湯島会館で春秋社の山折哲雄と二時間歓談、原稿依頼とさらに将来の寄稿を望まれる。東北大学で印度哲学を講じていたと聞く。作品へ深切な批評と 讃辞を受く。この日、田耕電話で佐渡まで来ないかと誘う。同四日、「畜生塚」九十二枚で完成。同五日、(新潮)に「畜生塚」届ける。読売新聞より小島政二 郎著の潤一郎伝『聖体拝受』書評を依頼さる。晩、七尾清と芸術生活画廊の「菅隆子個展レセプション」に行く。この頃、年末労使争議熾烈に愚劣。同六日、小 島喜久江『畜生塚』とても佳くなり読者に感銘を与えるだろうと電話呉れる。同七日、『耳袋』に取材の掌説「雪」仕上ぐ。朝日子に少し元気がない。同八日、 『秘色』を筑摩書房へ、掌説「雪」「鏃」を芸術生活社に届ける。書評用の本届く。同九日、十時半で休暇取りユル・ブリンナー主演映画を観、三越で背広を受 け取り食事して帰宅。この日、『アンナ・カレーニナ』読み始む。堪らぬ面白さ巧さ。小説家として独立し、特色と価値を主張し続けることの厳しさを思い、そ うあらねばならぬと覚悟する。同十日、婚約して満十二年。争議中で休めず新しい服と靴で出勤し帰路にブレゼントと花を買って帰る。ワインで祝う。この日、 田中勉来信、カナダより一時帰国。同十一日、『聖体拝受』書評書く。
 十二月十二日、(芸術生活)一月号より連載「華曄」第一回「三彩神王像と掌説さかずき」掲載号届く。『畜生塚』読み直しヒロイン町子が「生きている」と 思う。同十六日、(展望)三月号に『秘色』掲載決定と通知来る。新しい作品へ立ち向かいたい。この日、争議妥結。家屋建築予定より遅れる。同十七日、サン トリー美術館での「長崎ちろり」の撮影に失敗。同十九日、「臨床皮膚科」中野「ほととぎす」で編集委員忘年会。同二十日、午、上野精養軒で社の協力会忘年 会。この日、『畜生塚』校正出。同二十一日、満三十四歳。新潮社へ初校届け池袋で昼食。新年に希望もつ。同二十三日、日本読書新聞より久生十蘭の書評依頼 あり。同二十四日、サントリー美術館で「長崎ガラス」撮影しパレスホテルで(芸術生活)堀田隆子と昼食。同二十五日、(展望)小宮正弘『秘色』印刷所に入 稿すると連絡。同二十六日、新潮社初見国興と神楽坂「田原屋」で懇談。この日、春秋社山折哲雄の電話で原稿締切歳末に切り上がる。同二十七日、小島政二郎 『聖体拝受』書評掲載紙届く。谷崎論への最初の一歩となった。第一ホテルで社の十二月誕生会。この日、「とっぷ」で『問一問』の書額を貰う。何を「問う」 か、だ。同二十八日、(同志社時報)十二月号に『蘭亭を愛しむ』掲載号届く。芸術生活社歳暮届く。この日、総選挙で日本社会党惨敗す。同二十九日、勤務今 年の終業。(同志社時報)原稿料入る。大丸百貨店で建日子のお年玉にミニカー「ジャガー」を買う。この日、多年配本の講談社版『日本文学全集』全百八巻完 結す。この月々配本の全集に激励され教育されてきたことを痛感、この時点での完結に感慨無量。同三十日、(新潮)昭和四十五年二月号掲載の『畜生塚』刷出 し二部到着す。私家版より『清経入水』『蝶の皿』に次いで三作めとして新年早々に公表され、続いて二月には新作『秘色』が世に出る。『久生十蘭全集』第一 巻書評を書く。「今年一年を幸運の年と思うが、また過去の努力の結実とも思う。だからこそ今後も努めねばならぬ」と記録。新潮社の新鋭書き下ろしシリーズ が大目標となる。同三十一日、朝日子と池袋に買い物に。朝日子執心のブーツ見つからず。迪子は髪を調えに行き建日子は寝入り朝日子はラジオを聴いている。 入浴をのこすだけ。家族みな元気、新年には叔母が来る。「問一問」の額を座右に、医学書院保谷社宅最後の年を見送る。新年早々には下保谷二丁目八の二十八 に新居が完成する。
「ご機嫌よう一九六九年!」と記録し、「ノート十二」満つ。

            自筆年譜「太宰治賞まで」 以上