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目次
聖母の章〈ヨワン・〉……………………………上巻 5
潜入の章〈勘解由・〉……………………………上巻 67
審問の章〈ヨワン・〉……………………………中巻 137
福音の章〈勘解由・〉……………………………中巻 207
洗礼の章〈ヨワン・〉……………………………下巻 281
殉教の章〈勘解由・〉……………………………下巻 370
参考文献…………………………………………下巻 444
作品の後に………………………………………169
〈表紙〉
装幀 堤いく子
装画 城 景都
印刻 井口哲郎
親指のマリア 下
3
「京都新聞」朝刊 一九八九年三月一日ー十二月三十一日 連載
4
親指のマリアの絵
シドッチ・新井勘解由の絵
4と281(5)頁 の間
洗礼の章 〈ヨワン・〉
一
「ヨワン様。パードレ…」
はる(2字に、傍点)の、低くおさえた声が足音にはこばれ走ってきた。手に物をもって走るらしい、はる(2字に、傍点)には珍しい
と、彼は寝床の長助の目を見返したまま、肩をひとつすくめた。
「将軍様が、お亡くなりになりました……」
「…………」
挨拶のかえしように、ふと、男二人は窮した。はる(2字に、傍点)も、途方もないその感じが分ってみると、持った
ものを足元におき、思わずククと笑えた。人が死んだ話を笑うのは──と、はる(2字に、傍点)の前へ彼は指をたてて
小さくふったが、かえって笑わせてしまった。腹を病んだ長助まで、熱っぽかった目や額に笑みを浮か
べていた。
やれやれ……。いつの話ですか。
281(5)
そんなふうに声を漏らせるほど、彼は、もうよほど日本人にちかい物言いに習熟していた。
「一昨日(おととい)ですって。五十一歳……。今日は、番屋は、空き家になりますわ。なんだか……ばたばた…」
時おり、江戸の町に火事がある。
ことに今年は二月に、この山屋敷からは離れていたが、二度も、引きつづき大火事があった。火の手
は雪の舞う夜空を夜どおし染めて、半鐘の音がけたたましかった。
あのあと、なぜだか、はる(2字に、傍点)が先ず風邪をひき、すぐ彼にうつし、最後に長助がいちばん長く四月中頃
まで癒らなかった。が──、要するに風邪と火事と、それに牢役人の出入りくらいしか、「外」の事は
ここの暮しには響いてこない。
いや…今一つ。去年「従五位下(じゆうごいのげ)筑後守」になったという、これも役人に聞いただけの噂だが、新井勘
解由(かげゆ)の「ハクセキ先生」一人が、稀に、あまりに稀に、しかし不思議に道をつけて山屋敷を訪れたこと
が、三度…か、多くも五度はなかったと思うが、たしかに有った──。
新井先生が…悲しまれている。彼は、それを□にした。はる(2字に、傍点)や長助もふッと沈黙した。以来──、終
生囚禁の宣告以来、もう三年ちかい。跪いて、彼は、ついに会うことを聴(ゆる)さなかった徳川家宣(いえのぶ)という
「日本国王」である将軍のために、主の慈悲を祈った。二人も項垂(うなだ)れて、彼にならった。
江戸──へ、この山屋敷へ、はじめて入ったのが宝永六年(一七〇九)十一月たしか、一日だった。
西の空はかすかに茜の色を刷いて、確実に冬が来ていた。
厳しい審問を予期した。拷問は必至と思いつつ、長崎からの、死にまさる長旅に苦しんだ。だが成り
行きは意外なものだった。結末はもっと意外、じつに心外なものだった。物も金も与える。召使の者も
与える。伴天連(バテレン)であったことは忘れ、終生ここに生きよ。そう宣告された。
屈辱に負けた。死にたくて、容易に立ち直れなかった。
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宝永は八年四月に正徳と改元されて、今日は、すでに正徳二年(一七一二)の十月半ば──。
彼は、一昨日死んだという徳川六代将軍家宣の治世が何年つづいて、どのような政治で、その政府が
なにに苦心して来たかなど、もとより知るよし無かった。会いたくて、会えずじまいに死なれた「日本
国王」──それに尽きた。
もし、──宝永六年暮れに宗門改役(あらためやく)の二人から宣告された──あれが裁判であり、裁判に相当した
判決が出たというのであれば、彼は、判決の理由が聞きたかった。これは有罪なのか。終身禁固という
処刑なのか。だが柳沢も横田も、そのまま席を立ったのである。通詞も一切答えなかった。白い顔を凍
りつかせ、長助もはる(2字に、傍点)もむろんそれについて□のきける者らではなかった。新井勘解由さえ、それには、
後々も□を噤(つぐ)んだきりだった。格別の慈悲をもって、茗荷谷(みようがだに)山屋敷に、永世囚禁を申し付ける。それだ
け──だった、彼はたしかに動顛した。暴れはしなかった。総身が震えてやまなかった。食も通らなか
った。視野は白濁して揺れつづけ、舌はもつれた。祈りたかった。祈る言葉を喪っていた。ものの十日
も彼は、日本語はおろか言葉そのものを喪っていたそうだ。よかった……と、後には、主が彼の言葉を
封じて下さったことに感謝した。
さながらに大時化(しけ)の海の荒れに傷められ、彼はあれから悪夢のとめどない去来に脅えた。ことに故国
の島に、今ものこるグラヴィーナ家の地獄の檻(おり)には泣き叫んだ。
彼は主(しゆ)なる神や聖母やエンジェルとともに地下の牢に投げ込まれていた。内も外も犇(ひし)めく化け物の燃
える息の喘(あえ)ぎに波うっていた。真夏の空よりもまばゆい中で、囚われの神の顔は青錆びて苦痛と不安と
に歪んでいた。よごれた金髪の聖母は放心して涙をとめどなく流していた。天使は背の羽をもがれ折ら
れ、ばたばたと地を掃いていた。彼は母の胸に頬をおしあて、片目でこわごわ地獄の有り様を見ていた。
亀や蛇が這っていた。毒々しい嘴するどい鳥が爪をむきだしに互いに蹴合っていた。父も母も見るなと
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言いたげに彼を庇った。彼は逆らった。大声で泣いた。天使たちも泣いた。泣き疲れた。
一瞬──彼は、ふと一人ぼっちの気がした。神も聖母も天使も、おびただしい化け物たちも、ものが
逸れてゆくように彼から顔を背けていた。なぜなのと泣き叫んだが、そのあと──は、思い出すのも怖
い。一斉に、彼は振り向かれたのである。化け物という化け物の顔が表情のない暗い穴に見えた。そし
て父の顔、母の顔、天使たちの顔、顔だけが、虚ろにみひらいた骸骨に変っていた──。
それでも、彼は立ち直った。信仰は堅くなりさえした。長助が、はる(2字に、傍点)が、つききりで居てくれた。悲
しみのマリアの絵も、おぉ主よ…、失われてはいなかった。
通詞たちは、明けて正月十九日早朝に江戸をたち、はるばる長崎へ帰っていった。そのまた十五日に
も、彼は食事を拒んでいた。このままでは死んでしまうと人の憂える声も聞いた。
宣告は去年おしつまっての二十九日に、聴事場へ連れだされて一方的に、簡単に、言い渡された。彼
は怒号した。なんの甲斐もなかった。通詞は、以来交代して彼のそばに詰めていたらしいが、肝腎のと
ころで物の言えない三人にどう突き当ってみても、これも甲斐がなかった。食を拒みはじめると、朦朧
と、もはや死ぬ死ぬとばかり夢に脅えつつ願っていた。死ねはしなかった。
「宗門」にかかわる品や国禁の品は、没収やむをえない。だが、辞書や持参の衣類などは所持を許すと
通詞は伝えてきた。横文字の書物は大小十一冊、他にも書いたものや版のものは三十種に及んだが、辞
書以外に二冊とかぎって没収を免れた。夢うつつに彼は聖書を望んだが諾(き)かれなかった。十三世紀イタ
ーリァの神学者ボナヴェントゥーラが書いた『キリストの生涯に関する黙想録』とダンテの『神曲』を、
文学作品とことわって残してもらった。そういう事はみな、若い加福喜七郎がよくしてくれた。
加福は、こうも言った。毎年の宛行(あてが)いに彼に金二拾五両三分、銀三匁ずつを幕府の名において下され
る。召使男女にも扶持米(ふちまい)が加えられる。長崎では思いも及ばなかったことで、何が何だか、分らない。
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だがありがたいと、この自分ですら思う。そう、すねていては申し訳ないぞ…と。
誰に申し訳ないのか。彼は加福を詰問しかけ…て、押しとどまった。久しぶりにやわらかい沈黙がき
た。加福は、別れの日のやがては来ることを、彼に告げた。
「あの…絵……」と加福は、板壁にかけたアネス・ドルチのマリアを目で示し、「あれも、新井様のお
はからい…。分るな。けっして拝む(2字に、傍点)でないぞ…」分ったな、いいか…と加福は彼の肩を、手に力をのせ
て掴んだ。だが視線は、マリアを離れなかった。
品川兵次郎も、何度も来た。あまり話しかけもしない。一緒にいるのをまるで気の衰えた彼の為には
薬かのように、淡々と板の間に坐っていた。あとから大通詞の今村が顔をだすと、すこしそれでも上(かみ)を
譲るようにして、一緒にいた。
「こうなると名残惜しいが、ま、致し方ない。わたしたちとしては、お前を殺さずにすんだのは……勝
手なようだが後味はいいのだ。よかった…」と、今村源右衛門。
「いつ出発ですか」
「さ…。御届けの用が、今一、二。しかし長くはない」
長崎から彼を送ってきた者も、通詞三人を残して、すでに同勢は旧冬のうちに江戸を離れていた。数
日のうちに長崎につく時分だと耳に聞きながら、彼は嗚咽(おえつ)を噛み殺した。
「よくして戴きました、ありがたいことで、忘れません。それにしても……福音を説き知らせる御許し
が出ぬまま、命だけは死なせぬようにと助けて下さっても、さして、お礼を申し上げる気に、なれませ
ん…」と、彼は首をふった。
「その、お前の気持ち、もう一度、しかとお上へ申し上げておこう。我々も二度とない御用をさせても
らった。すでに公からのお暇も下り、付添大儀と御褒美銀まで三人ながら頂戴したのも、いわばお前の
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御蔭……たくさんの事を、ほんとに、よく話してくれたな…」
源右衛門は、いくらか彼をいたわる□ぶりですこし声をふるわせた。そして、そんな昂りを静めるよ
うに今村は小声で、
「ところで、つかぬ事をきくが……」
彼は、頷いた。
「イエズスは厩(うまや)で生れたと言ったな…。日本では千百か二百年前に、いまでも国中で尊敬されている聖
徳太子というお方にも、似た言い伝えがある。お名前も厩戸皇子と申し上げていたが。……どう思う」
彼は質問が真面目なものと見極めるように、暫く、という程もなく大通詞の見慣れた丸顔をながめた。
「…こういう事は、言えます。卓越した偉人の、ことに誕生伝説には、しばしば普通でない…異様な、
風変りな、それも貧しい卑しい危うい、信じられない状況が絡んでいます。…お国でも、そうではない
ですか」
「なるほど。日輪が懐にとびこんだとか。火の中で生れたとか」と、品川が□を挟んだ。
「も一つ聞く。関係があるかどうか…気になっていた。あれ…だ」と、今村は、やはり指ざすのは憚る
ふうに彼のマリアを目で示した。そして言葉をついだ。
「…その場に居合せたことは、残念ながらないが、奈良というこの国の古い都に二月堂という寺があっ
て、寒いさなかにお水取りといわれる行事がある。火祭りのようなものだが、その行事のうち、坊主が
やたら大勢の人の名前を読みあげる……。それはいいが、途中だか最後だか、必ず呼ばれるちょっと妙
なのが、ある…」
彼は、だんだんに、現(うつ)つ心へひき戻されていた──。
「青衣の女人……。そう呼ぶ。ほかはみな尋常な名前なのに、必ず、一人だけ、青衣の女人。そう読み
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あげる」
今村は、言いつつまさしく青衣を額にまで被(かつ)ぎ着た、悲しみの女人マリアを見つめていた。青衣には、
意味があるのかと今村は聴きたげだった。マリアの青には天の真実とか清純の意味がある……。濃やか
な沈黙の数瞬が過ぎた。
「千数百年も前にはげしい議論の末、マリアを神の母とは認めたくない一派が、キリスト教から岐れま
した。その派の教えが唐といわれた頃のシナに伝わり、教会もたくさん出来ていたと聞いていますが」
「それは景教だ」と、言下に品川兵次郎が指摘した。
「景教なら奈良時代に奈良に入っていた…と思う。根づきはしなかったが」
今村は、思いがけない関心の一端をこの期(ご)にのぞかせた。
「厩戸…、青衣の女人…。ヨワンは、どう思う」
「事実と人が伝えるものには、物の事実、事の事実のほかに、心の、心理や心情の、事実もあります。
心の事実は確証しにくいけれど、羽が生えたように早く伝わる、遠くへ伝わる…と思いませんか。そし
てよく似た伝説を、伝わったさきざきに残します」
うむ…という声がもれた。今村は黙って彼に手をさしのべた。握手が、かわされた──。
「わたしも、それじゃ、一つ尋ねよう…」
いつも人のあとへあとへ物を言う品川だった。頷いて、彼は、久しぶりに微笑んだ。
「あれ…です」と、兵次郎も悲しみのマリアヘ視線を送った、「前にも訊ねたが、あの…指。子指かな。
あの指先だけを着衣から出しているのは、なにか…意味が……」
はッとした。何指…。彼は返事よりさきに尋ね返していた。手指に見えるが。品川は淡泊に答えた。
「仰言るとおりだ…。青いマントから、ああして出せる指は、左の手指しか…えぇ、ないです、ね…」
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「親指をああ出せば、衣服のしたで、拳の形が、あんなにはならない…のでは」と、品川。
「そうかな。親指で着物をこう…押えている…」と、今村が拳の形をつくって見せ、はてと、小首を傾(かし)
げた。
「爪の形と細長いあの感じは、子指でしょう、でも…」
「けれども品川さん。あの絵は、ローマでもフィレンツェでも、はっきり、親指のマリアといわれて…」
と、彼は言い澱(よど)み、思わず、うむと力ある声を発した。品川に感謝し、今度は、彼から握手を求めた。
品川が、照れた。
正直のところ彼にはカルロ・ドルチの発明になるという「親指のマリア」様式の意味が掴めていなか
った。アネスおばさんにも解説を求めたことがなく、画面上の情緒ないし構図の均衡といった程度を思
ってきた。「親指の」といわれているので、親指を、手指とながめ直す視線をもともと持たなかった。
品川に、あたりまえに「手指」と言われて、突如教えられたのである。
「カタジケノ、ゴザリマス。品川サン」
彼はよろよろと立ちかけて、寝床に崩れ落ちた。だが彼の声は弾んだ。
「親指とみても子指とみても、両方いいのですよ。手指ならばこの手指は、母に抱かれたみ子を描き表
しているのです。悲しみのマリア図ではみ子は十字架にかけられ、ピエタといわれる図なら、み子は母
の膝に死んで横たわっています。しかし母の思いに子は子指となり、なおも胸の真上で、真中で、こう
抱かれている……、つまり聖母子図…」
「では、なぜ親指の…と」と咳(せき)きこんで今村が訊いた。
「涙を流したこのマリアの視線は、ななめに、ご自身の左膝へ落ちています…、ね…」と彼は、目頭で、
今村に絵を三人のまえへ壁からはこばせた。たしかに、長い美しい鼻の線に沿うてマリアの視線は、画
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面から沈んでみえない右の膝へと落ちていた。
「キリスト教を信じる者ならば、みな、この視線の届くところに、あたかも十字架からおろされた主の
み子の、傷つき血を流された肉体を感じます。そして母マリアの悲しみに自分の悲しみをも重ねます。
と、同時に、母はみ子を悲しむその同じ視線と涙とで、われわれ無数の人間の運命をも悲しみ、また慈(いつく)
しんで下さっている…と感じるものです……」
今村も品川も黙っていた。
「お分りになりませんか。この画家が、もし親指を描いているとすれば、母の愛とともに、父なる神の
愛もまた同時に、こうして…、子に…、人の子のすべてにまぢかに在る(2字に、傍点)ことを、表現してみせたのです」
「…………」
「親指も子指も、父も子も…、ひとつなのですよ、そうだったのですよ。おぉ…アヴェ・ステラ・マリ
ス…」
彼は目が燃えそうに感じつつ、上半身を起してひしと絵を胸に抱き、静かに、静かに……元の詞(ことば)で、
歌った。
ごきげんよう海の星(アヴェ・ステラ・マリス)!
神のやさしい御母
清い乙女、マリアよ
天に開かれたただ一つの門よ!
今村が彼に両手を差し出していた。顔色が変っていた。彼は、抱いた額の絵を突き出すいきおいで、
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今村の為に手渡した。じッ…と、源右衛門は見入っていた。それほど長い時間ではなかった、それから
起っていって今村は元の壁へ、丁重に母なるマリアの絵をかけた──。
品川が懐から分厚い紙の束をとり出した。役に立っと思う。ここだけの話だが、このたびのお取り調
べの途中から、習い覚えたオランダ語と、お前のつかう言葉とを、分るかぎり辞書風に、対(つい)に書き留め
てきた。それが何語なのか分らない、たぶん三つほど入り混じっているのだと思うが…。これは、その
使い残した紙だから、好きに使ってくれ。
結局──、あのままの別れに──、なった。
あとで聞けば、大通詞今村源右衛門、ならびに稽古通詞品川兵次郎、同加福喜七郎三名は、宝永七年
正月十九日朝五時に江戸を去って行った。山屋敷は、めっきり寂しくなった。だが、寂しいなかに、ふ
しぎに気のはずむ明るさを彼は覚えていた。春が近いからか…。まだ…春は名のみ。
「パードレ…」
呼ぶはる(2字に、傍点)の声に我に返った。長助もそこにいた。
そして──二年と十ヶ月──。彼は踏絵の試(ため)しを最初に拒絶した。二度めも三度めも拒絶した。待遇
に変化はなかった。
枡の形に北と南にふたつある牢の棟の、ちょうど間(あい)の通路、その東寄り西寄りの辻に、ひとつずつ井
戸がある。井戸の背後の土手ぎわには、東にも西にも溜め水の用意がある。役人は、長崎の通詞が引き
払ってまもなく、西側の、番所に近い方の井戸と溜め水を取りこむ恰好で、東西に形ばかりの板塀を建
て渡し、広い牢の囲いを南北に二分した。囚人を禁固の「奥」と、番所のほかは無人の手前とに分けた
のであり、通いには、半間(はんげん)の木戸が西の井戸のわきに明いた。はる(2字に、傍点)と長助だけがそれを通って、番所の
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役人から日々の食料その他を支給された。
彼は、牢の格子からも、鞘土間からも、牢屋からも気ままに出歩くことを黙認されていた。新たに囲
われた板塀をさえこの世の果てと承知していればよく、原則は──年に一度の踏絵の試しを与力立会い
で受けるため、番所前へ呼び出されるだけが、「外」の気はいにふれる機会だった。
教えを説いてはならぬ──。助命の前提であると、それは彼のみでなく、長助とはる(2字に、傍点)にも同心の横田
伊次郎から改めて申し渡されていた。同じ趣旨の禁制は、この切支丹屋敷に前任の囚人が生きながらえ
ていた昔にも、繰り返し長助らは念を押されてきたのである。
けれども、ずいぶんお上のなさりようが変りました。はる(2字に、傍点)は、□の重い長助を顧みるようにして、そ
れを言わずにおれない。召使と一つ棟に暮してもよし、今の場所に設(しつら)えをして暮すのも勝手。彼は、そ
うまで「奥」では、解き放たれていた。望みの物は番所へ申し出よ、下される金額の範囲で調えてとら
せると、彼は言われていた。
はる(2字に、傍点)は、言う、…なにより昔には、あんな隔ての長堀が無かったと。
井上筑後守家来の足軽が、南の枡で、ふだん何人かは寝起きしていた。その悪意や軽蔑を含んだ目や
耳が、日がな一日囚人を拘束していた。「転んだ」苦痛と負担からなんとか抜け出たいパードレやイル
マンには、鬼の獄中といりまじりの地獄にひとしかった。後味わるい事件も繰り返され、悲鳴ももれた。
血も流された──。
彼の日常は、ようやくそうした昔語りを聞くことから、聞いて胸に幾重にも畳むことから、ゆっくり
始まった。なにを急ぐことも、急ぐ必要も、いや急ぐすべも、無かった。長助がいて、はる(2字に、傍点)がいる。徹
して三人──。嬉しい…こと。三人きりのこの世に生き、神に愛され、聖母に守られ、……むしろ急ぎ
すぎてはいけないと、彼は、ひとりこの静かすぎる世界で辛い運命を閉じていった死者たちの上に、主
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のお慈(いつく)しみを祈った。
長助の□数は、山屋敷の様子が一変して以後も、ほぼ変りなかった、自分から□をきって話しこむな
どは、ついに一度もない。
年齢も覚えないと言うのを、脇ではる(2字に、傍点)が、五十一歳のはず…と告げた。思っていたより十も若く、胸
をつかれた。すると…、と、はる(2字に、傍点)の顔を見てしまった。はる(2字に、傍点)が、初めて彼の目にはじらいの色をみせた。
二人が兄と妹であることも、はる(2字に、傍点)は、長助の顔色をちらと窺いつつ彼には小声で告げた。
「夫婦と聞きました……」
彼は、すこし心外なほどの□ぶりになった。有司に頼んで「夫婦」にしてもらった、さもなければ、
はる(2字に、傍点)の身が獄中の好色の餌になりかねない。それほど屋敷内が荒れもようの時期も過去にはあったと、
それは長助のなるほど兄らしい物言いに、彼は教えられた。それ以上は、ふたりも、まだ軽々しくは言
わなかった。彼も強いて聞かねばならぬ事とは考えなかった。
結局彼は、最初に入った揚屋(あがりや)づくりに設(しつら)えた牢から、よそへ移らなかった。
上がり框(かまち)に沿い、寒さよけに明り障子ができた。奥の壁ぎわに長六畳に畳を高く敷かせ、日のある内
は日本人と同じに蒲団は裾へたたんで、あいた所を椅子につかった。新井勘解由や通詞らと、水入らず
に終日談論をした日の、脚のたかい卓をもらってそこへ据えた。腰ほどの、はだかの二段棚を板壁へ押
して、下に衣類をおき、上の段にたった二冊の書籍と辞書、それにあの硯等をのせた。枕もとの壁へは
マリアの絵を懸けた。火鉢に火の世話もはる(2字に、傍点)がしてくれ、乏しいながら灯火も調えられた。
察したように、長助らが暮しているあの妙にちぐはぐな建物は、彼の今や新居である棟の、ま裏にあ
った。ふたりはその建物のことを、案の定、何ども名付けあぐねていた。その西に井戸がひとつあり、
そこそこの空き地の西寄りに、長助によれば「三間に二間半」の、高い位置に小窓が一つ頑丈に閉ざさ
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れた、白壁の、ずしッと手厚い蔵──拷問蔵──が建っていた。
「聞いてもいいですか…。どうも理解できないのですよ。世話をしてたのが誰でも、どうしてその人が
死んでからも、あなた方…、ここを出してもらえなかったか」
やはり、気にかかるところから彼も聞き出したかった。
「ヨゼフ様が亡くなりますと、ひきつづき奥様にお仕えするように言い渡されましたの。…こう言われ
ました、よく覚えています。この屋敷から出たい一心に、主(しゆう)を殺せばなどと考えてはならぬ。転んだと
はいえ邪宗の伴天連(バテレン)どもに長く仕えた身。しょせん出られぬと諦めて、心得ちがいするなよ…と」
「同じような…人…、もしかして、ほかにも……」と彼は尋ねた。はる(2字に、傍点)が、つと…俯いた。
時移り人変りという事だろう、今でも、塀の奥へ牢役人が割り込んでくるのは、年に何度という程度
であったが、昔は、不断に獄卒・番卒が監視し干渉した。当然といえばそれが当然で、仕切りの板塀一
枚に一切肩代りさせている今の現状(ありさま)は、長助らにはかえって異様で落ちつけなかった。やがて春も逝く
という時分まで落ちつけなかった。
かつてそんな番卒の一人に「奥州岩代生れ」の、八兵衛という、二十歳(はたち)まえの若者がいた。はる(2字に、傍点)たち
の話を聞いていると、マニラで出会った、あの、痩せて遣り場のない不満を隠そうとしなかった伝次に
似ていた。もう伝次は…瞳の濃い美しい少女のひろ(2字に、傍点)と、結婚しただろう…か。
八兵衛のことは、だが、そんな希望のかけらもない、ひどい話だった。番卒として見回りの日々を重
ねるうち、八兵衛はいつか「パードレ」の感化をうけて洗礼を授かり、しかも漏らしてはならぬ「外」
の話を持ちこんでいたと同僚に見ぬかれて、延宝七年(十六七九)七月十二日に、生きながら穴に逆さ
に埋められ、伊豆石という重い石で伏せられた。
「どこで…ですか」
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顔をひきつらせて彼は聞き、はる(2字に、傍点)は、黙って隔ての塀の外を指さした。石の根かたには、冬も草がは
え、引いても絶えなかったのに、ある歳からは一筋の雑草もはえなくなった、小鳥も石の上へは来てと
まらなくなった、という。彼は胴ぶるいしながら、立てつづけに十字をきり、顔を青くした。
「その頃、何人ほど。パードレが残っていましたか」
それは……と、はる(2字に、傍点)は、思案顔を兄にむけた。その、目にみえないほど微笑をさえうかべた顔は、わ
ずか二た月のうちに、見違えるほどはんなりと、物言いにも張りがある。
「あの前年に南甫(なんぽ)さんが亡くなった……」と、長助が。
「どういう方でしたか」
「八十ちかい、日本の…長崎に近い茂木(もぎ)という所のお生れでした。七人扶持(ぶち)を戴いて、和市という、捕
まる前は巾着切りだったという男がお世話をしていましたが、この和市が、八兵衛さんを陥れたのです
……。南甫さんは病気で死んだんじゃない。(転びから)立ち上がったので、つまり戻り切支丹として、
毒を盛られたのですよ」
「パードレ・キアラと同時にここへ送られた人ですか」
「すこし遅れて…と聞きましたが。よく知りません」
「和市という人は、それで……」
「うわべは柔らかい、根はすすどい男でした。わたくしたちも、…泣かされましたわ」と、はる(2字に、傍点)は眉を
ひそめた。
「八兵衛さんを殺してから、踏絵の御像をみなの前で踏みにじって、山屋敷を出てゆきました。ご褒美
も…貰ってね」と、長助の頬にもうすく血がのぼっていた。
結局──切支丹牢に残ったのは、ジュゼッペ・キアラ師の岡本三右衛門夫妻と、寿庵そして二官(ニカン)とい
294(18)
う二人のイルマンだった。
キアラ師の終始補佐役をしてきた二官ドナドは、シナの安南(アンナン)生れ、父親は日本の人とか。しおれた白
い花のような人だった。日本人の妻を与えられ、生れた女の子は外へ連れ去られたが、のちに嫁いで、
二宮の孫女(そんじよ)を儲けてさえいた。キアラ師こと三右衛門の墓参のついでに、伝通院内の無量院墓地でひそ
かに娘や孫の顔をみて帰ったころには、二官の妻はもう死んでいた。
「二官さんが、じつはこの屋敷でいちばんおしまいに亡くなりました。五十五年もの間ここで…。けれ
ど何があっても、おしまい頃は、どこ吹く風で。最期まで独りッきりで、わたくしたちも眼中にないご
様子でしたわ…。十年前になりましょう……元禄十三年(一七〇〇)に、ふつうに病気をなさって……
七十八歳でした。感じは、いっそ…お寺のお坊様のようでした」
彼は、はる(2字に、傍点)の顔を見かえした。特別の感情がはる(2字に、傍点)を動かしていたわけでは、ない。キアラ師が死に、
その日本人妻が死に、山屋敷にはとうとう長助、はる(2字に、傍点)の他に、二官と、もう一人寿庵という広東(カントン)生れの
やはりキアラ師に仕えたイルマンだけが残った。だが、二官と寿庵との末期が、あまりに違っていた
──と、はる(2字に、傍点)は、それを言うのだった。
寿庵は、五つばかり二官より年上で、二官より三年先に八十で死んだという。尋常な死ではなかった。
拷問蔵の地下の詰め牢に寿庵は、七十一という年齢(とし)から、なんと九年間生きて、ほとんど骸骨になって
から日の目に曝された。澄んだ秋の空がほのかに茜さす夕暮れどきだった。土そのものに半ば帰りなが
ら寿庵は、あの時──、言葉も喪(うしな)って寄りすがった長助とはる(2字に、傍点)とを認め、かすかに十字をきって、声な
く祝福を授けたそうだ。
寿庵は、大柄な「ヨゼフ様」に遜色のない大男だったが、長助らには分らない、おそらく天文の知識
や天測の技術を修めていた気の細かな学者でもあったらしい。キアラ師が亡くなってからは、寿庵もと
295(19)
きどき宗門改(あらため)の奉行に呼びだされ、その方の質疑に応じていた。待遇にも事欠くところはなく、仏寺の
墓地に、変りはてた戒名をそえられ眠っている師キアラの墓参すら、晩年の寿庵と二官とは許されてい
たのである。
ところが古来稀の年七十に達した寿庵が、突如、「立ち上った」由を、みずから当局に届けでた。そ
して有司の面前で肌を脱いで「りしかりな(苦行鞭)」を激しく用い、また激しく祈りの声をあげつづ
けた。慌てた奉行所は「立ち上がり」は認めず、寿庵が手製の「ちりちよ(苦行帯)」「こんたす(数
珠)」など不届きの品を所持していたのを罪して、日の目もみえぬ地下の詰牢へ投げこんだ──。
召使のある扶持つきの囚人と薄給の役人とで雑居の日常が、忌ま忌ましい空気を渦巻かせたのは、い
っそ当然だったろう。盗難事件の騒ぎがもつれて、凄まじい血の流れたこともあった。
盗みを働いたのは遊びの金がほしさの同心の一人で、それを五十九人もいた山屋敷住人の全員が、
「入れ札」つまり投票をくり返しながら割りだしていった。奉行が指揮をとった。
ところが事のついでのように、当時岡本三右衛門ことヨゼフ・キアラ師の世話をしていた角内(かくない)という
男の、首にかけた守り袋から聖像を彫(きざ)んだメダイがみつかり、盗みどころではない騒ぎになった。
厳重な吟味の手は、角内が故郷の親類縁者にも及んだ。あげく、そのメダイは以前山屋敷に勤めた男
が、屋敷内で拾いながら、暇がでて去るとき、後難をおそれて捨てていったと判った。届け出を怠り邪
宗門の品を所持したことが罪されて、角内と以前の召使とは拷問蔵のよこの土壇場(どたんば)で、みせしめに、並
んで首を前の穴へ斬って落された。延宝四年(一六七六)秋半ば頃、もう三十五、六年も遠い以前の話
なのであった──。
たくさんな話を聞いた気はしているが、彼の思い違いだった。もともと「外」の世間を見知ってくる
暇もなかったうえに、長助たちの歳月は、ことにキアラ師夫妻が亡くなって以来、空ッぽの袋のように
296(20)
しぼんでいた。ごそごそと中で音がしていた。それでも、聞いたり聞かせたりできるのがうれしいので
す。長助さんと二人だけでは、夫婦らしく一つの蒲団にねているようなもので、何をしても見ても、い
つも一緒なんですもの……と、はる(2字に、傍点)などは、娘のように目をうるませる。召使われている主人にすら、
聞くとか尋ねるということが、長助らには許可されていなかった。キアラ神父も、死ぬまで、長助にも
はる(2字に、傍点)にも特別な□は利かなかった。利けば双方の迷惑になった。
「いったい、幾つの年齢(とし)で、連れてこられたのですか」
聞きたい他のことが、まだ有った。キアラ師のこと、その妻にされたという人のこと。寿庵のこと。
だがやっぱり彼は、「世界」をこの後も共にわかち持たねばならない目前の友らのことが知りたかった。
「やがて、あの三本ある大きな桜の樹に花が咲きますと、……四十五年になります…」と、長い塀で仕
切られて、彼が「奥」の伴天連と呼ばれる身になった、あの初春の時季に既に、重い□で長助が指折り
数えるのを…茫然と聞いた。
「わたくしは数え歳四つでございました」と、はる(2字に、傍点)が。
「どうしたって謂うんです。わたくしの年齢(とし)より、永い…。何が有ったのですか」
ほとんど憤然と、あの時、叫んだのを彼は忘れない。
二
「ディエゴ・デ・サン・フランチェスコの報告書」のあることを、彼は、マニラで知っていた。フラン
シスコ修道会の日本副管区長だったディエゴが、一六二三年師走(元和(げんな)九年十一月)の惨虐きわまる江
戸の大殉教や、その翌年に九州大村で火焙りにされたルイス・ソテロの殉教にかかわる詳細を報じた文
297(21)
書だった。
ソテロは、江戸を基盤にまことに精力的に活躍した宣教師で、仙台伊達の家臣支倉(はせくら)常長をヨーロッパ
ヘ送り込んでもいた。
ソテロの最期も凄まじいものだったが、処刑にいたる経緯の複雑なこと、処刑された人数の一時に五
十余人を数えたこと、処刑が江戸の繁華に群衆をあつめて酸鼻を極めたこと、すべてが、ディエゴの筆
で世界に報知され、日本での伝道は文字どおり萎えたのである。
しかもなお、波ジョヴァンニ(ヨワン)・シドッチが母に贈られて胸に抱いてきた十字架の持主の、
あの、マルセロ・マストリリ神父も、さらに後れてペドロ・マルケス神父やジュゼッペ・キアラ神父ら
も、熱血の御大切・愛に満たされて、日本の土を踏み続けていた。その余にも日本に潜伏し、各地に福
音をのべ続けた外国人宣教師たちは、数少なくなかったのであり、それぞれの殉教も、海外へ、わずか
ながら漏れ聞えていた。
切支丹屋敷に「転ばせ」ておいて殺さず生かさず、いわば飼い殺しにあったキアラ神父ら以外に、著
名な宣教師でついに行方(ゆくかた)も知れず日本のどこかで跡絶えたのは、ひとりディエゴ・デ・サン・フランチ
ェスコ師だけであった──かも知れない。
それが、かすかにであるが、今、彼と起き臥しをともにする兄妹、ことに足長助の幼い記憶に忘れが
たい影を落して──いそう、なのだ。
体を固くして彼は、聴いた──。
武蔵国──北足立郡のある村に、万歳寺という、近年に建立(こんりゆう)の寺があり、寺の親戚から後家の女が尼
になって寺入りしていた。五十半ば、消え入りそうにものを言う人だった。寺を建てた村名主で、かつ
て安房(あわ)の代官をつとめた熊沢某の娘だったが、婚家に、母一人子一人のこったその女の子に幸い婿をと
298(22)
って、男の子も生れた。いいしおに、ふじ(2字に、傍点)というその寡婦は髪を落し、熊沢の父が遺してくれた万歳寺
にひっそりと移り住んで、なにごとも無い日々が過ぎていた。二年して、ふじ(2字に、傍点)は孫にも恵まれた。
ところが、ある年、いまは孫二人の母親が、ふじ(2字に、傍点)の娘が、ひとり万歳寺の母尼を訪れて、おもわず長
居をしたとみえたのが、奥の座敷を血の海に、母尼と娘と、もう一人、誰の目にもえたい知れぬ年とっ
た男とが、同じ刃物の傷で命絶えていたのである。刃物は、娘の両手に掴まれたままその細い喉を貫い
ていた──という。老尼と老人とは、狙いすましたように、胸の急所をひと突きにされ、頭と頭をよせ
て八の字に絶息していた。かねて尼の私室に長逗留の客のありげなことは、噂になっていた。男らしい
と、姿は見ぬまでも邪推する者もいた。それが、いつ知れずもっと物騒なことに成ってきた──。
尼は、近在の者の忘れもしない、かつては熱心な切支丹だった。ルシーナと霊名ももらい、元和(げんな)の昔
にあわや十字架にかけられて夫や夫の実母とともに火焙りにあう筈だった。だが父熊沢三左衛門(三郎
右衛門とも)は、足利学校の校長を勤めた懇意な禅珠和尚に泣訴(きゅうそ)して、娘の助命に奔走してもらい、危
ういまぎわにかつがつ独りの命が救い出された。夫のレオ竹屋権七(ごんしち)二十一歳は元和九年十一月十三日に、
権七実母のマリア竹屋は十二月に入って、ともに無残に公儀の手にかかり火の中で絶命した。
十八になっていたルシーナふじ(2字に、傍点)は、禅珠和尚の責任下にふじ(2字に、傍点)の祖母に預けられ、三左衛門は万歳寺を
建てて自身がまず慎んだ。頭を丸め、念仏に明け暮れた。ふじ(2字に、傍点)は門外に出ない歳月を家の奥、□やかま
しい祖母のそばで送り迎えてきたが、その祖母にも父にもばたばたと死なれた時に、いっそ再婚をと勧
める人があり、縁あって二十八で再び嫁いだ。
久々に人まえに姿をみせたふじ(2字に、傍点)の初々しい美貌にはみなが驚いたというが、幸せな夫婦生活には恵ま
れなかった。娘ひとりをふじ(2字に、傍点)に生ませて、踏んでも蹴っても死にそうになかった働き盛りの夫は、筏で
江戸へおくる手筈の材木の崩れに頭を割られ、むごい死に方をしてしまったのである。
299(23)
「庵主(あんじゅ)様」のふじ(2字に、傍点)が切り髪の頭から慕いよるようにして、一緒に死んでいた相手は、剥げた頭の鉢に輪
飾りのように銀髪をのこした南蛮人だった。瞳(め)は碧いが白濁していた。視力は失われていただろう、衰
え果てていて年齢(とし)は分らないが、百といわれても驚かないと検視の役人は言った。ふじ(2字に、傍点)が、かつて顔み
しりの潜伏伴天連(バテレン)を大胆にも隠しおおせてきたのは確実で、一人娘のふゆ(2字に、傍点)が、婿や幼い子らに螺(るい)の及ぶ
のをおそれ、「殺害」の体の心中をはかったことは、覚悟の遺書がせつせつとお上のご慈悲を願ってい
て、すべて明らかだった。
熊沢家のふじ(2字に、傍点)の弟である当主は切腹を命じられ、家族は非人頭(ひにんがしら)にお預けとなった。婿の「材木仲買手
代」長兵衛は、女房ふゆ(2字に、傍点)が大罪人の切支丹である母を殺し、また潜伏伴天連「大五(デイゴ)」を殺し
たのは罪に似て罪にはあらず、しかし事のここに至るまで訴人等の処置を欠いたのは不届き至極である
とし、それをしも「慈悲」というのか、二人の幼児ともども、江戸小石川の切支丹屋敷に囚人として監
禁した──と、かつての「二人の幼児」は言少なに言うのである、が──。「大五」こと「デイゴ」が、
真実、往年のディエゴ・サン・フランチェスコだったか、どうか。
長兵衛親子は、いまで謂う「奥」の枡の東津、そのいちばん北寄りに入れられた。
となりに「南甫(なんぽ)さん」、右前の北牟には東寄りから順に「ト意(ぼくい)さん」「四郎右衛門さん」そして「三
右衛門様ことヨゼフ様」が入っていた。西牢にも南牢にも人が入っていたが、よく覚えていない。ひと
り「寿庵さんしが南牢の西の端におられたのは、長生きをなさった方ゆえ懐しく覚えています。そうそ
う奥の枡にも筑後守様足軽が、三四人は混じっておいででした、もっとも囚人の数が減るにつれ足軽衆
も減ってゆきました…と、はる(2字に、傍点)は言う。
「女で、監禁されていた人も、いたのですか」
江戸には、一般の罪人のための大牢(おおろう)が、下町にある。ほんとうなら長兵衛親子もそっちへ入れられる
300(24)
ところを、大牢混雑のため、事情も勘案して切支丹牢へ回されたのであるが、大牢混雑を理由に女の囚
人が茗荷谷(みようがだに)へ送られてきて、北の、揚屋(あがりや)牢と隣接の女牢へ入った例は、再々あったどころでなく、ここ
に収容された「転び」」切支丹の日本人妻といえば、そんな機会に女囚を放免──世間でいう刑余者、
の体(てい)にし、給金もだして直らせたのがほとんどだった。
「ジュゼッペ神父の……も」と、彼は途方にくれた声で尋ねた。そうかも知れないが、そうでなかった
かも知れない。
「岡本ヨゼフ様」には、長助やはる(2字に、傍点)がもの心つくどころか、父親長兵衛と一緒にこの山屋敷に入った時、
もう「奥様」がいたのである。
ジュゼッペ・キアラ神父は、四十三、四の歳から四十年間ここに暮したらしいが、「奥様」はまだよ
ほど若い人で、しかもまちがいなく「お武家様」の内方(うちかた)であったという。とびきり美しいという女人で
はなかったが、穏やかに□を利き、いつも濡れた目の、ふしぎに魅力のある人だったらしく察しられた。
「そういう方が、どうしてここへ……」
そう聞くしかない順序だが、長助は六つで、はる(2字に、傍点)は四つで山屋敷入りをしたのである。親より歳のい
った異形(いぎよう)の囚人の事情など知るわけなく、そういう事を詮索しないのも彼らなりの知恵ではあった。だ
が、それにもかかわらず結局長助とはる(2字に、傍点)とが、「三右衛門様」付の召使として牢にさきざきまで居残る
ことになったのも、ふたりが「奥様」に可愛がられたからであった。
「奥様」の日本名を二人はまったく記憶していない。この人もまた夫にあたる人から、ひそかに「マリ
ア」と呼ばれていた。ヨゼフとマリア……。神父はその人を愛していたのだ…と、彼は察した。そのマ
リアは、はる(2字に、傍点)たちが入ってくる以前に二人も神父の子を産み、嬰児は御定法(ごじようほう)により生れるとすぐ牢外へ
連れ去られていた。行く末を知った者は、誰一人なかった。そしてマリアも神父も、長助らのことを、
301(25)
じっとうち眺めて愛してくれていた──らしい。
切支丹屋敷での芝村の長兵衛こそは、混じりものだった。切支丹がどんなものかさえ知らなかった男
で、黙々と働き、汗と力仕事で稼いだ金を、女房子供のために上手につかっていた。近在の褒め者だっ
た。万蔵寺の庵主様もよい婿を貰われて安心だといわれていた。その安心が、だが、長兵衛には不運の
極みだった。
山屋敷に子供二人と押し込まれてからの長兵衛は、ご赦免の日をむなしく待ちほうけるだけの、脱け
殻だった。子供を育てる気概もうせ、涙脆く獄卒の袖をひくばかり。屋敷内に畑をつくれ、野菜や花を
育てよ。そんな役人のはからいでやや持ち直したが、陰気に沈んだ気性は元へもどらなかった。
二人の子供はもっと詰まらなかった。はる(2字に、傍点)など、芝村の家も景色も拭いとられたように記憶にない。
母の顔も祖母の顔もよく思いだせない。ごつい格子、冷えた鞘土間。鍵こそゆるめてもらっていたが、
牢屋のほかに家というものを見たことがなく、ここが地獄同然とさえ、思いくらべて悲しむすべを知ら
なかった。むろん、それなりに牢屋にも花の季節はめぐってきた。惚れ惚れするほど豪華に桜の大樹は
きまって花を咲かせたし、紅葉にいろづく頃の小日向(こひなた)台の木々のたたずまいは、いたって静かななかに、
はなやいで見える。空は、はる(2字に、傍点)の目には十分広かったし、「外」など無いも同じのはる(2字に、傍点)にはとくに狭苦
しい世界でもなかった。ただ、やたら大人ばかりがいて、幽霊のように黙りこくっているか、顔をそむ
けがちなのが、不満だった。
わずか二つの年嵩ながら長助は、よぶんな、思い出という悲しみを妹に授けようとしなかった。父は、
ささくれ立っていた。その荒んだ悲しみを子として耐え忍びながら、長助は風にそよぐ細い木の一本の
ように、牢暮しに根を張っていった。父にも妹にも、わずかな木蔭を自分がつくってやらねばと、少年
は、それをいつもいつも思っていたのである。
302(26)
「お父さんは、……で、どうなさいましたか」と、彼は、やっぱりそこまで聞いた。
長兵衛は最期まで、自分は切支丹でない(2字に、傍点)という一事に赦免の成る日を賭けていた。お上の理不尽は、
たしかにその一事に凝っていた。凝ったものをほぐすなどは、だが、お上のとうに忘れ果てていた事で
もあった。長兵衛はついに独り自力で、地獄を脱(のが)れ出ようとした。長助とはる(2字に、傍点)とが、その日も子供らし
く目ざめたある朝、父親は変りはてた姿で番所まえの地面に蓆(むしろ)に巻かれて、投げたされていた。どう葬
られたか、それすら幼い二人には知らされなかった。
子は、親がらくになったらしいとだけ察して、知らぬ顔をしつづけた。鬼の獄卒もさすがに顔をそむ
けていた。二人は、九つになった長助と七つのはる(2字に、傍点)とは、そのまま岡本三右衛門の妻に養われることに
なった。神様も、不思議なことをなされる……。それが、たった一度はる(2字に、傍点)が聞いた「マリア様」の、わ
が子を奪われていた母の、愚痴だった。
「けれど…あなたがたもそんな年齢(とし)なら。…牢から出しても、差支えはなかったでしょうに」
五十の坂にさしかかった二人は、ちいさく頬をゆがめて首をふった。二人を迎えてくれるどんな
「外」がありえたでしょう???。それより「マリア奥様」に手習いや、簡単な料理や裁縫を教えられ、
世間の仕組みや時世の有り様(よう)なども、たとえ狭いうえに狭いながら、有り余る時間にくりかえし聞くこ
とのできた嬉しさ……。声をつまらせ、はる(2字に、傍点)は両掌を合わせていた。
北から南へ弓なりにのびた広い(2字に、傍点)国──日本。その弓なりの西南に京の都があり、帝がおられる。東の
江戸で徳川幕府と将軍家が日本国中を治めている。大小のお大名衆が国々を分けもって民百姓を治め、
武士は刀をいつも二本腰にさして仕事はもたず、百姓は田畑で米や野菜をつくり、職人は品物を作り、
商人はそれを売る。売り買いで人の世は暮しをたて、値打ちの異なるいろんな「かね」が、仲立ちをし
ている。「かね」持ちと「かね」の無い者とが世間に犇(ひし)めいて暮している。
303(27)
「奥様」は、あらましそういう事も、幼い二人に教えて下さった。いつもここで威張ったり乱暴したり
するお役人様は、それならば、一等偉い人たちかとはる(2字に、傍点)が尋ねた。「外」の世間ではいちばん気の毒な、
下積みの人らですよと「奥様」の片頬にひやりと白い笑みが消えた。数を習った。かなの文字を習った。
山とか川とか花とか月とかいう漢字も覚えた。字を書くすべは、ことに二人ともよく覚えた。
「パードレは…、そういう時は、どうされていましたか」
「けっして、ご一緒はしませんでした、奥様以外には。きっとお考えがあってと思います……お声もか
けられませんでした」
「気難しい…。そういうことですか」
「いいえ。わたくしなどからは、雲のように大きなお方でしたが、雲のように、なんともいえず柔らか
いお方でした。黙って、はい……目で、いつも笑いかけて下さっていましたから…」
「本など、読んでおられましたか」
「本など。…奥様のためにも一冊も有りませんでした。手習いをしたいと、やっと頼んで、絵の入った
やさしい往来物…とかが届きましたときの嬉しかったことは。…忘れません」と、はる(2字に、傍点)は彼のために、
娘のように小走りにかけて、手ずれで端縁(へり)の裂(き)れた絵本を取ってきた。
手紙を遣る貰うということは、山屋敷では厳しく禁じられていた。長助らは、そういうことを人はす
るとすら知らなかった。まして往来物といった、さまざまな手紙の遣り取りの体(てい)で、言葉や文字や適切
な物言いを覚え、雪月花の遊びから諸国の産物や名所旧跡の知識などを与えられる本、まして絵入りの
本には、興奮した。「奥様」でも、その本に書かれている全部が分るわけでないことが、幼い者たちを
驚嘆させた。とりわけて、女のはる(2字に、傍点)が、整った日本語を武家育ちの人に習いまた躾けられていたことは、
いろいろな意味ではる(2字に、傍点)のその後を守ったかも知れない。
304(28)
「いちばん知りたいことは……。それで…ここにいた人たちは、…どうでしたか、その…信仰のことだ
が。転んだという……。みな、転んでいましたか気持ちまでも」
「立ちあがった人も、いました。みな、むごい亡くなりようでした……」
「けれど、ジュゼッペ神父も二官さんも長生きをして、平穏に…。そうなんでしょう」
長助は俯いていたが、はる(2字に、傍点)は、大きく頷いた。
角内(かくない)らの斬首事件のあと、長助とはる(2字に、傍点)とは、もう十七と十五になっていた。三右衛門づきの召使をあ
らたに山屋敷に入れるよりも、久しい馴染みの長助らを三右衛門夫婦に従わせればよいと、関係者は穏
便にそう考えた。もともと罪を犯して収容された二人ではない。哀れといえば誰より哀れな者らであり、
よく躾けられ、用心が過ぎると思われるくらい間違いない歳月を送ってきた。あぶないといえば、はる(2字に、傍点)
が女らしくなり、獄卒の目をひいていた。
もはや牢には──南甫と、寿庵と、二官。それに三右衛門夫妻。二官にも妻があったが、再々医者を
牢内に通わせていたほど、病弱だった。むしろ二官の女房のためにもはる(2字に、傍点)の手が必要だった。この時も
「マリア奥様」が□を利いて下さり、長助とはる(2字に、傍点)とは囚人として育った身の上から、いくらかお上のお
扶持(ふち)がいただける正式の召使になり、しばらくして、「夫婦」の体(てい)にもしてもらった…そうだ。「南甫
さんには、しかし、和市とかいう人が…まだ、付き添っていたんでしょう」と、彼は、反問した。はる(2字に、傍点)
の表情に、微妙に揺れるかげがみえ、彼は──ふと、察しがついた。ならば……何故その…。言いかけ
て堪(こら)えた。
はる(2字に、傍点)は兄と年齢(とし)もそこそこの番卒八兵衛が、南甫さんの牢へしばしば見回りに来るのを、好もしく、
いつか姿を待つほどになっていた。長助とはる(2字に、傍点)とは相変らず南甫の隣に寝起きしていたのだ。だが、
「三右衛門様の奥様」は八兵衛に近づくことをはる(2字に、傍点)に、きつく禁じた。さすがに恨めしかった。兄も、
305(29)
□では言わずにいつも露わに邪魔をした。和市は、しらぬ顔でなにもかも見ていた。そして──南甫は
突如食べて血を吐き、八兵衛は重い石に伏せられ殺された。
「立ちあがる、つまり元の切支丹にたちかえるという決心を見せないかぎり、若い八兵衛さんの信心は
固まらないと南甫さんは思われた。……そうかも知れない…ですね」
彼は、ぽつりぽつりの話しあいの間に、そういうことも思いついて長助らに話した。
「そのとおりでした。南甫さんは、立ちあがることを、ほかでもない八兵衛さんに告げて、八兵衛さん
の□からお上へお届けになったのですよ」と、はる(2字に、傍点)が。
「どうして、はる(2字に、傍点)さんが、それ…を」と彼は、幾分、きッとなって問い返した。
南甫は和市にも八兵衛にも読めない漢字だけの文章の書ける人物だったという。さもあろう。長崎茂
木の古い禅寺に南甫は中年まで住持していたが、海外へでたい意欲から切支丹にちかづき、交易船を頼
んで密出国のはては、マカオからインドやバタビアなどへ転々とするうちに本物の切支丹になり、たぶ
ん──ペドロ・マルケスらの一行を手引きして日本へ潜入し、一行とおなじ拷問をうけて転んだあげく
の牢住まいだったらしい。
南甫は、立ちあがりを表明する決定的な証拠に『西信秘訣』と題した千十一字の文章を提出し、その
末に、一葉の墨画を描いていたことが、当時山屋敷守衛にあたった与力大西良樹の記録に幸いのこされ
ている。それは見るから妙な絵で、戯れてとも思われないが、手の無いはずの達磨(だるま)が片掌をひろげて力
んでいる、その掌に十字架がたち、十字架上には一目(いちもく)南甫とわかる老人が□をあけ、絶叫していた。虚
空に、大字で「IHS(Iesus Hominum Salvator=人類を救ひ給ふイエズス)」の三文字が浮かんで
いたというのである。
おそらく八兵衛は字は読めなくても絵は観たのであり、絵解きもされたに違いなかった。はる(2字に、傍点)は、そ
306(30)
の様子を覗いてみていたといい、髪へ清い水をはらはらとふり掛けているさまも、妙な事をするものと
思いつつ胸がどきどきした。清い水は自分が南甫さんに頼まれてはこんだ水、けれど長助にもそれは告
げないでおいたと、今さらに告白しながらはる(2字に、傍点)は泣いた。
二日とせぬ間に南甫はあっけなく「病死」し、食事を運んでいた和市は、次は二官夫婦のいる南の枡
へ動いた。切支丹がみな死ねば、ここを出られる。どうかね、一緒に…と囁かれていたことも、はる(2字に、傍点)は、
胸にたたんでだれにも言わなかった。出るなら兄も、…そして八兵衛さんと、と、すこしせつなく想っ
ていた。
八兵衛が南甫を密告の和市を拷問蔵のかげで折濫した夕暮れのことは、長助もうすうす覚えていた。
はる(2字に、傍点)が泣きさけび、だが「奥様」ははるの手を握って放さなかった。長助は黙々と鞘土間に舞いこむ冬
のほこりを箒で掃いていた。「ヨゼフ様」も黙然と、穂を糸で締めた筆をつかいつづけていた。
八兵衛が虐殺された日の山屋敷は吐く息もなまぐさく澱んだ。囚人はすでに長助とはる(2字に、傍点)を含めても、
七人。内二人は三右衛門と二官との妻だった。他には和市がもはや只一人の召使だった。狂った牢役人
らは全員を立たせた目の前で、番卒八兵衛のついの栖(すみか)となる墓穴を和市に命じて掘らせた。
和市はすでに放免の約束をえていたらしく、むしろ嬉々として鍬(くわ)をふるった。はかが行かぬとみると
長助も手伝わせられた。胸ほどある、一抱えの伊豆石は穴のすぐ脇に立っていた。地の下には、大昔に、
囚われてすぐ立ちあがった道巴(どうは)という伴天連が埋められている。獄卒の一人が笑ってそう話していたの
も、ぱる(2字に、傍点)は、「奥様」の腕のなかで泣きじゃくりながら、耳にとめていた。
やがて、二官の妻が消え去るように死んで行った。
「その方は、なんという名前で呼ばれていましたか」
二人とも彼の問いには答えられなかった。
307(31)
「あなた(3字に、傍点)と聞えなくも有りません、けれど…も、アナ、アナに聞えて可笑しくてかげで笑ったことも有
りますの。はる(2字に、傍点)というような、この国の名前では聞いたことが、ございません……」
長助も頷いていた。それは「アンナ」でしょう。彼は言いきった。
はる(2字に、傍点)は、誘う水にひかれたように、「アンナ」とか「マリア」とかいう名前を、本名があるうえにな
ぜ付けるのでしょうと尋ねた。かしこい女(ひと)だ……。彼ははる(2字に、傍点)を、すばやく見て感じた。洗礼名、洗礼、
そして──
聖家族──。そんな所から彼はすこしずつ当り障りなく、なるべく人の世のこととして話して聞かせ
ることを、始めた。イエズスの母は「マリア」で父が…、「神様です」と、はる(2字に、傍点)はちいさな娘のように
話を横から取った。
知らぬ顔で彼は、父は「ヨセフ」と教えた。マリアの母がアンナ、父は「ヨアキム」とも教えた。そ
れから、ながいながいマタイ福音書の冒頭の、「アブラハムの子であるダビデの子、イエズス・キリス
トの系図」をラテン語訳のまま、唄うようにえんえんと四十代ほど□遊(くちずさ)んでみせて、目を丸くしている
二人へ、ちッと目を一つとじてみせた。
「……えぇと、そして。そして……マタンはヤコブの父、ヤコブはマリアの夫ヨセフの父であった。こ
のマリアからキリストといわれるイエズスがお生れになった。ああ、長い…よく、覚えているなぁ」
「ヨワン様。分りません」と、全く珍しく、長助が□を挟んだ。おう、と彼は恐れをなして見せ、長助
をさえ笑わせた。不審はこうだった、「イエズス様を産まれたのはマリア様。産ませなさったのは、神
様。孕まれたマリア様のお腹のお子が自分の胤でないと知りつつヨセフ様は、ご夫婦になられたと……、
ま、壁に耳つけて、それ位は存じております。なら…なんで養いの父方の系図など……」
人の子イエズスの系図をいうなら、産みの母マリアの側こそ大事なのではと、それは驚くにあたらな
308(32)
い誰しもの疑問といえば言えた。だがまた、ひょっとして正しく答えた者のいないかも知れない難問の
一つでもあった。しかも共観福音書といわれるマタイ・マルコ・ルカ伝を通じての聖書冒頭に、これが
在る。そればかりか、新約聖書には、母マリアの素性はまるで無視されている。
「エライコト…キカレテシモタ、デス」
彼は蚊にくわれた長いふくらはぎを、ぎゅッと抓って顔を歪めた。もう、そんな季節になっていた。
暑い晩は戸外へでて、三人は飽きることなく一緒にいた。話しあうことが即ち勤行(ごんぎよう)であるかのように、
牢番がかりにも割り込んでくる心配のない日暮れてからの時間を、彼は、長助やはる(2字に、傍点)も、それぞれの思
いで楽しんでいた、とも言えた。
最初の年は西瓜を植えていた。大きくは生(な)らなかったが、井戸は深く水はつめたく、赤い実はよく冷
えて歯にしみた。イターリア人に似あわずヨワンが、煮た茄子の色をきもちが悪いと、食べてくれない
のが、はるの、ただ一つの嘆きだった──。
「長助さんと似たことを思った人は、西洋にも、いましてね。マリアの側の系図を考えだしたり、み子
イエズスを抱いた聖母をまんなかに、マリアの、女の親類一同が勢揃いしたような絵が、盛んに描かれ
たりしましたよ…。
けれども、すこし耳にはさんだ限りでは、日本も神代には女神、母である神様が最高の地位をしめて
おられたそうです。その日本も、今では男の世の中、父親の権威が母親の存在を圧倒しています。西洋
も、同じ道を辿っていたのですよ。女神信仰の国々も、世の仕組みが男中心になるにつれ、誰が産んだ
かでなく、誰の子か、誰の胤かが、つまり父の血筋が大事にいわれるようになりましたからね。
ところが、もともとイエズスを生んだ国は、当初から珍しく父中心の信仰、父を主(しゆ)と仰ぎ神様と拝む
国でした。ヨセフはただの無関係な養い親のようでいて、断乎として父なる神様の代理(2字に、傍点)でしたから、そ
309(33)
のご先祖が、神様のいちばん愛され信用された、アブラハムに繋がっていたという事実を、聖書の最初
に朗々とうたいあげるのは、欠かせない手続きだったのでしょうよ……」
彼はアブラハムの家族たちが辿った運命を、むしろ、ちいさなことも省かず、聖書が伝えてきたとお
り、「物語」かのように、自分より年嵩な二人にていねいに話してきかせ始めた。
長助もはる(2字に、傍点)も、数十年の牢獄の暮しは暮しとして、それでもいつ知れず、いろいろに耕されて種まく
人の現れる日を待ち望む魂を抱いていた。もしこの幸(さち)うすい二人をこう守り養い育ててきたのが、「転
び伴天連」たちの無言の総力であったのなら、それを、万能で全書の神が見落しておいでの筈があろう
か。そして……
そして…、この、人の世を落ちこぼれた仔羊──長助とはる(2字に、傍点)──たちを、望みに満たされて天国へ導
くように。神は、それを生涯の使命として、シチーリア生れの司祭・宣教師である、このジョヴァン
ニ・バッティスタ・シドッチに、お授けになった…。彼は、しかと己れに確認した。そのために生きよ
うと確認した。
彼は、かえって用心深くなった。
そこつに動いてはならぬ。二人を、はなから信徒のように見て動いてはならぬ。お互いに囚人らしく
従者らしく、壁に耳のおそれは必要のうえに必要と心がけねばならぬ。そして二人を誘導するのでなく、
満ちあふれて来るものを正しく待たねばならぬ。聞かれもせぬうちに話し過ぎないで、向うから聞きた
くなるよう、向うのまだ話し足りない話をさきに話させた方がいい。
岡本三右衛門こと──ジュゼッペ・キアラ神父の死は、讐えばいつからか続いた無言の行の、その跡
切れのない継続かのように、来た。劇的な変化もなかった。臥(ふ)せりがちなとみるまに医者が二度三度訪
れた。石尾道的──肩のいかった、丸い顔の小男だが、見立てはいいとか。そのつど渋い顔で道的は役
310(34)
人に耳打ちして帰るだけで、手当てをしたかどうかも、遠巻きの長助らには知れなかった。
与力(よりき)が供をつれて直々(じきじき)現れ、師が書きためた全部を、そそくさと持ち去った。当局が命じて書かせて
いたのも、神父がひそかに書いていたのも、残らず攫(さら)っていった。だが神父もマリア夫人も目もくれな
かった。「奥様」はじっと夫の床のそばで掌(て)をあわせていた。はる(2字に、傍点)たちにも目顔で同じようにさせ、笑
みをうかべて神父も仰臥のまま髭の濃い顎のうえで両掌をあわせてみせた。だれも、ひとことも祈りの
言葉は□にしない。牢番らは居ずまいわるく、やっぱりそそくさと土間を出ていった。
師が、キリスト教の教義を、ただ要路(そのすじ)の望むにまかせて解説していたか。破戒の神父として教義誹謗(ひぼう)
を敢えてしていたのか。知るよしもない。神父ののこした文字といえば、妻の硯箱を借り、内側へひそ
かに書きつけていた、聖書の詞句だけだ。
破戒──。いったんは主の教えを捨てた。踏絵も踏んだ。妻をえて、子までなしている。厳(いか)めしい名
を石に刻まれ仏寺の墓に埋葬されているのも、確からしい。立ちあがった寿庵や南甫は分りいいが、三
右衛門キアラや二官ドナドの生涯がいかにも寡黙に暖昧なのを、もやもやと、ながいこと彼は、我が責
任かのように悩んだ。
神父としてミサを受けも授けもできなかった。告解することはおろか、だれの告白も聞いてはやれな
かったろう。終油も施してやれなかったろう。南甫は少年八兵衛に真清水で洗礼したというが、三右衛
門は妻「マリア」に、二官は妻「アンナ」に洗礼していただろうか。分らない──。
三
岡本三右衛門と妻マリアの墓参がしたい。従者長助、はる(2字に、傍点)両人もぜひ伴いたい。彼は、宝永七年(一
311(35)
七一〇)のうちに、正しくは冬十一月に、初めてそう申請した。はる(2字に、傍点)が番所へ申しでて、取り次ぎを頼
んだ。
いっこう返事がなかった。
そのうちに、ふらりと横田伊次郎が番所まで彼を呼びだした。ちょうど一年まえ、北の枡の北牢のな
かで、はじめて□をきいた江戸の侍が横田だった。
だいたいが多彩に姓の多い国──という思いが彼にあった。こんなに一人一人別の姓を名乗るのか。
面白いと思って、いっか通詞の加福喜七郎に感想を言うと、姓と氏と苗字(みょうじ)とはちがう。お前のいうの
は苗字である。この国には源氏平氏藤原氏などと大きな氏族名があり、それが盛んに分岐しておびただ
しい苗字を生んでいるのだと、あやしい理解だが、そんなふうな事を言われた。
江戸へ来て、すぐ同心の横田に会い、つづいて奉行の横田由松という格別地位の高い武士に会った。
誼(よし)みは覚えるが、親類でも何でもないと聞いて妙な気がしたが、なぜあんな気がしたか、今になれば可
笑しい。
横田伊次郎は、そんな顔の彼が、いい機嫌でいると見たらしく、表情をやわらげてなにか不足のもの
はないか、尋ねた。彼は墓参のことを、片言で直接懇願した。
「そのことだが……。むろん、お上に申し上げてある。しかし、これというご沙汰がない。とても一存
で計らってやれる事ではないのだ…」
それはそうだろうと彼は思い、黙っていた。
横田は、じつは「新井勘解由(かげゆ)様」が、ちょうど大きな御用で江戸をお留守にされている、お帰りがい
つか我々には分らない、分ったにせよ言うわけにいかない。墓参許すとも成らぬともご返事がない理由
も、我々がかってに推測していい話でない。分ったか……と、間のびがするほどゆっくり喋った。坐っ
312(36)
た横田は、例の松一樹の細長い絵を床の間に背負っていた。彼の方は土間に立っていた。その松の絵は、
りっぱな画家の作品か、どういう気分の絵なのか、あなたはそういう絵が好きか、自分の家にも似た絵
が飾ってあるのかなどと、尋ねてみたかったが堪(こら)えた。
「着物が似合っているぞ。もう一寸ほど裾をおろすと良い。一枚分暖かくなる」と同心は御用繁多とも
みえない□を利いた。だが三右衛門の墓所について、遠いのか、市街にあるか山にあるかと尋ねても答
えなかった。
「ヨワンは、なにが好きか。いやいや余計なことは言うなよ、神や仏や親兄弟の話は抜きだ。楽しみに
してきたこと……、たとえば字を書くとか書物を読むとか。日本の文字を覚えて、日本の言葉で、なに
か書いてみてはどうか…」
風の向きに、ふと、彼は緊張した。
「まわりくどい話はよそう。閑(ひま)にあかしてと言うては気の毒だが、つまり…本を書く。宗門に関わる本
ではない。世の為、人の為に役立つものがよい。西洋の事情が、この国の者にも分るように日本の文字
と言葉とで書かれれば、貴重な本になる…」
「それには言葉の不自由が、まだ大きすぎます」
「おいおいのことで、よい。必要なら筆や紙の用意もしよう。長助とはる(2字に、傍点)と。あの二人との間を遠慮な
く話しいいようにと、あんな塀で仕切ったのも、一つには早く日本の言葉を覚えてほしかったから……。
あの者らは、あれで岡本の妻女からいろんな耳学問もしているからな」
「横田さんのお考えですか」と彼は踏み込んだ。
「誰の考えという話でも…ない。お前にその気があるかどうかが肝腎なんで…」と横田は動じない。
「西洋の知識をお望みならば、うろ覚えの誤りは避けねばなりませんが。わたくしが苦労して運びまし
313(37)
た書籍を、またお国ですでにお収めになっている西洋の書籍を、読ませてくださいますか。翻訳するだ
けでも、きっとお役に立つものが、ある……」
「聞いておく。だが、どういう本がある」
「……たとえば、一年十二月をつうじて暦のうえに行事を配置した、暮しの案内書のような本がありま
す。わたくしの荷物のなかでは、小型で分厚い、革の表紙の本です。西洋人の一年と習慣が分ります」
「歳時記のようなものだな」と、横田は納得したが、彼に「歳時記」は分らなかった。聖節や聖人祝日
の定めを含めた『ミサ典書』がもし手に入れば、日々の心構えに拠り所ができる。
「世界中にどれほどの国があるか。それぞれ、どのような国であるか。そういった事を、手始めにざっ
と書き出してみてはどうかな」
世間話なみのさりげない誘いだが、たぶん上司の意を伝えているのだ。それくらいな協力はしていい
と、彼も思った。『DE IMITATIONE CHRISTI(キリストにならひて)』が手に入ればいいがと、
かつての愛読書を思いつつ、一方でエラスムスの『痴愚神礼讃』のような本も荷物に忍ばせていたのを、
彼は、一瞬たまらないヨーロッパ恋しさとともに思い出していた。
命を1 生き永らえた、たしかにその反動が地震の余波のようにくりかえし彼を襲った。長崎のオラ
ンダ船を介して故国へ消息したいという望みは、手もなく拒否された。
「あぁパードレ……話して聞かして下さいまし。お心にかかっている何(なん)でも彼(か)でも、お話しなさいまし。
お気持ちが軽くなりましょうに……」
今度のお正月は、餅を貰って雑煮を祝いましょう…。そんなことも、はる(2字に、傍点)は言った。
はる(2字に、傍点)は花が好きだった。花というものの桜のほかにもいっぱい有ると初めて知ったとき、無性に花が
見たかったし咲かせたかった。父長兵衛が茄子を育て大根を育てて、茄子には茄子の、大根には大根の
314(38)
花が咲くと知った日の嬉しさを忘れません…と、はる(2字に、傍点)は彼に告げるのだった。
マリア岡本はこの山屋敷に梅の木を植えたいと願いでたことがある。しかし牢役人は鉢植えの梅を運
んできた。一年二年は花をつけたが、そのさきは土におろして水をやるほどの世話しかできなかった。
二度と梅は咲かなかった。かわりに幹の細い山茶花の株が持ちこまれ、これが季節のめぐるつど、よく
咲いてよく散った。
お国では、どんな花が咲きますの…。はる(2字に、傍点)は、なんでも知りたいし聞きたい。
シチーリアの南の地方では、一月の末に燃えるようなブーゲンヴィリァが咲いて、まるで家々に巻き
ついている。石崖の裂けめという裂けめから紫の花糸をのばしホルトソウの房が垂れる。
彼は多くの都会に季節ごとに人をよせる花市のにぎわいを話して聞かせた。ローマの、ヴェローナの、
フィレンツェの、ピサに近いペッシアの。なかでも苦笑まじりに懐しいのは、ナポリのあの騒々しいキ
アイの花売り場──。いたるところの階段に、家々の前に、角(かど)に、おびただしい花で溢れた花籠がぶち
まいたように置かれて、うっかり踏み込んだものなら、花の押し売りにとことん追い回されてしまう。
彼はローマの街でみる石竹(せきちく)の風情が気に入っていた。それと、シチーリアのアグリジェントを訪れて
観た、ギリシア神殿の遺跡に波打ちせまって満開だった巴旦杏(はたんきよう)の花。あれは三月だったか。そうそうギ
リシア神殿の在るところにはケイビランがよく咲いていた。バラも咲いていた。
あやうく彼は聞き手のいるのも一瞬忘れた。ああ……マリア、義姉(ねえ)さん…。禁断の木の実をもぐほど
の惑乱に陥りかけて、彼は、おおと我と我が額をぴしゃり、打ったりした──。
はる(2字に、傍点)は──山茶花を折り、彼の「マリア」の前を飾った。黄色い水仙の濃い香りがほの白い木の花を
ひきたてた。長助は、それが趣味のように黙々とよく箒をつかった。見ているとときどきその箒をさか
さに、柄で、地面になにか書いている。はる(2字に、傍点)にも見せずにすぐ掃き消している。
315(39)
そして江戸の正月がきた。
日本の冬はがまんがならぬほど冷えると、百年以上も昔に、寒さに耐える頑健な使徒を派遣せよとロ
ーマヘ助言していた大先達の言葉に、いまさらに頷いた。むろん火も湯も灯火も彼らは乏しいなりに禁
じられていない。彼はゆるやかな日課にしたがいつつ、日の半分を長助らとすごし、あとの半分を黙想
と祈祷との時間にあてて暮した。
彼はダンテの「地獄」篇を、イターリア語を忘れまいと手元に残してきた。日本へも持参した、暗誦
もできたのだ。
三篇のうちの「漁火」篇「天国」篇をあえて断念した理由は、自身はっきりしない。文学的にすぐれ
てしるから、ではなかった。それよりはいっそ、地獄の門をくぐり暗い地下へと戦(おのの)きつつも、放縦(ほうしよう)のゆ
えに罪された者たちの哀しみの地獄を過ぎゆき、また邪悪のゆえに一層厳しく罪され、痛苦の極みにの
たうつ者たちの諸地獄を過ぎゆく高潔の詩人ダンテと、同じく師でも異教徒でもある古代の人ヴィルヂ
リオとの、底知れぬ憂愁の旅そのものに、彼は心をとらわれてきた。
かならずしも他国のだれにでも容易(たやす)く理解されないイターリアが──都市の繁栄と腐敗と暗闇が、ま
た生々しくも記憶された多くの人の実名が、さらにはその人々の犯した罪悪の数々が──「地獄」篇に
は含まれていた。カトリックの司教や教皇すらが、汚辱に塗(まみ)れて混じっていた。もっとも手厳しく批評
されたイターリアの歴史が書かれ、さらにはヨーロッパの歴史が壮大に書かれていたのである。
詩人を迎えて泣き嘆き訴える地獄の罪びとたちが、それぞれに明かす俗世の昔の名乗りや行状や風貌
には、だが、それはそれとして、今や隣人に似たある懐しみも彼は覚えていた。
驚いたことに、長助もはる(2字に、傍点)も、地獄というものへかけらほどの想像も持ちあわせぬ人間であった。地
獄という考えかたを、二人を育てた者たちは実に慎重にとり除いていたのだ。彼はダンテを語ることを、
316(40)
その幸せな友人たちのために、きわどく避けた。
故国の言葉で、だが、彼は「地獄」篇を朗読した。詩と真実との美しい響きに牢の灯(ともし)は瞬(またた)きゆれた。
ことにラヴェンナの領主グイド・ヴェッキオ・ダ・ポレンタの娘フランチェスカと、義弟パウロ・マラ
テスタとの悲恋をうたった、第五歌の調べは、はる(2字に、傍点)の好奇心をかきたてた。
「話してくださいまし。お一人で涙を流したり……、いけませんわ」
彼はあかい顔をした。
──フランチェスカはリミニの領主マラテスタの息子の一人ヂァンチオットと政略結婚を強いられた。
ヂァンチオットは勇敢かつ有能の武士だったが、まことに醜い男だった。フランチェスカはマドンナと
讃えられ、気位も高かったから、周囲の者の策で婚約にあたってはヂァンチオットの弟。パウロを見させ、
夫たるべき人はあの人とフランチェスカは信じこまされた。パウロは礼儀をわきまえた美男子であり、
女の愛はよろこびに燃えあがった。
欺隔の婚約は、不幸にも──初夜があけて新枕をはなれるその時まで、花嫁に気づかれなかったので
ある。あざむかれたフランチェスカを、いっとき狂乱の鞭が襲った。しかも女の。パウロヘの愛は忍びや
かに炎をあげて、烈しい恋におちた二人は、召使の密告により、ついにヂァンチオットに殺された。女
にはヂァンチオットとの間に九つになる娘があり、男には妻との仲に二人の息子があった──。
地獄の底で──、フランチェスカの霊が泣いていた。パウロの霊も泣いていた。哀れさに詩人ダンテ
は失神してしまった。詩人はこうフランチェスカの霊に尋ねたのだ──、
「されど告げよフランチェスカよ、うれしき吐息の絶えぬころ、何ゆゑにまた如何様(いかさま)に、そはいまだ秘
めし胸の思ひを恋とぞ知れる」
女の霊は答えた。二人はある日、なにげなくも寄り添って異国の恋の物語を読んでいた。円卓騎士ラ
317(41)
ンスロットと王妃グゥィネヴィァの愛を、いましも騎士ガレオットが仲立ちする、甘美な、かっ危険な
場面だった。だがほかに人なく、読む二人には「またおそるること、無かりき……」
読みすすむうち二人はくりかえし互いに見つめ合わずにおれず、顔色は失せ、ついにあるくだりへき
て恋を秘めた同士は我を忘れた。愛にふるえて微笑む王妃に、ランスロットが甘いくちづけをした。パ
ウロも、こらえかねてフランチェスカに接吻した。ガレオットにより結ばれた前代の恋人たちが、その
まま兄嫁と義弟のためにガレオット役を演じ、「かの日我等またその先を得(え)読まざりき……」と。
はる(2字に、傍点)は、叫んだ。
「どうして、それが罪なのでしょう」
「神は、人の妻、人の夫を奪うなと固く禁じられました」
彼はつめたい汗を感じながら、強い声をはる(2字に、傍点)へ投げかえした。
「でも…、マリア様も、人の妻ではありませんか。そのマリア様を、あなた様は恋い慕っていらっしゃ
います」
はる(2字に、傍点)は、白い指をおそれげなく“悲しみのマリア”へ向けて彼を見た。
「……」
声を一瞬奪われ、彼ははる(2字に、傍点)を睨んだ。睨みながら、はる(2字に、傍点)が何を察したかと戦(おのの)いた。はる(2字に、傍点)は、だが、主
を愛する多くのキリスト教の信徒が、主であるみ子を愛するように聖母マリアをお慕いしていることを、
はる(2字に、傍点)なりに言い表しただけ、……そうかも知れなかった。なのに、息を呑んだ。
彼は司祭になる気で学んだ。むろん志望より前に信仰があった。空気を吸わねば生きられない。信仰
はシドッチ家では空気と同じだった。それほど自然なものだから、ときどきは不自然もわざと受けいれ
た…かも知れない。どれほど息をとめていられるか。子供の頃、兄やともだちと、そんな遊びをした。
318(42)
それに似た気持ちで教会が禁じる本も読んだ。わざと性の挑発を受けようと、服装をかえ女のいる場所
へもでかけた、埒は越えなかったが。
アネス・ドルチの娘マリアが兄と婚約した日、甘酸っぱい涙を隠れて流した。ささやかに婚礼があっ
た日、彼はやっとの思いで兄と花嫁に「おめでとう」を言った。花嫁のかわりに兄が「ありがとう」と
握手を求めた。細工仕事できたえた力づよい手だった。この手がマリアを抱くのかと彼は青い顔をした。
ふらふらと街へ彷徨(さまよ)って出た。
空気が大事とほんとうに自覚するのは、命の危ういときでしかない。
彼は信仰に救われ、その晩自滅を免れた。だが、たしかに誰と知らぬ街の女の一人に「ばか」と罵ら
れたのも忘れない。「なんでマリアばっかりが大事なのさ」と彼は酔い潰れたまま怒鳴られた。
彼はその夜の耽溺(たんでき)を、だが、司祭に告白しなかった。幾重にも胸に畳んであらわさなかった。あわや
女に触れようとしたのを恥じてではない。マリアにすら告げない愛を、□にしたくなかった。主は、ご
存知だ……。
「なんでマリア様を、そんなに……」
はる(2字に、傍点)は追及し、そばには長助も蹲(うずくま)っていた。切らせた囲炉裏に火があかく、自在の釜がたえまなく鳴
っていた。風のない夜の真冬の冷えが、鞘土間を、なめるように這っていた。
カトリックの聖職者かどうかを確かめる、三つの尋ね方がある。ローマの教皇に任じられた者か。子
供はあるか。マリアを愛しているか。
教皇に従わない宗教改革者は、妻帯をいとわない。子供もつくる。けれどマリアは□にしない。賛美
歌でもマリアを歌おうとはしない。聖書とキりストとだけを尊敬し信仰し、カトリックが夥しくも讃え
また祭ってきた「聖人」という存在を、完全に否定している。だがカトリックは、神の御恩、処女聖マ
319(43)
リアを、最大の「聖人」として愛し崇めてきた──。
「どうしてですの」と、もはや、はる(2字に、傍点)の□癖で。
「それは、まず第一に、聖人マリアが神キリストの真の母として父なる神の愛・御大切(ごたいせつ)に満たされ、ど
のような聖人や天使にも優る地位を天国に与えられたからです。
次に、それほどの偉大な聖マリアですからね。人間が犯す避けがたい罪・原罪というものを、聖マリ
アは生れながらに免れていた。無原罪の聖母と、ローマ教会は認めてきたのです。だから、そのような
無原罪の聖母は、原罪の結果である死の腐敗もなしに、心も体もそのままに天国に上げられたと……」
「信じていらっしゃる…のですか。ほんとうに…」
「……ええ。そしてまた、十字架にかけられた主イエズス・キリストが弟子ヨハネに、ほら、あの絵の
…悲しみのマリアをご覧になって、これはあなたの母ですと仰言った時から、マリアは全世界の人の、
心の母になったのです…」
「信じて…いらっしゃるのですか、ほんとうに」と、はる(2字に、傍点)は肩を落し、泣きそうに聞いた。
「ええ。……信じています」
「みんな…あとの人が、考えて考えてそんなように定(き)められたこと、信じようと定(き)められたこと……違
いますか」
「そのとおりです。不都合でしょうか。ものを信じるというのは、もともとそういう事ですよ」
はる(2字に、傍点)の背後から長助が訊いた──
「お母様であることは承知しております。が、奥様とお呼びしてもいいのでしょうかな」
「イエズス様にご兄弟は。いらしたのでしょう」と、打ち重ねて、はる(2字に、傍点)も。
「神の妻」という言い方は、むしろ彼などは異教のもののように感じてきた。神は神である。だが妻は
320(44)
必要ないが子は必要だったといえば、また惑わせる。マリアはヨセフの妻だった、イエズスには弟たち
があった、と聖書にはある。マリアも世のつねの妻とおなじに夫と肉のまじわりをし、イエズスの弟た
ちを出産していた──。
「パードレは、なぜご夫婦にはなれないのでしょう。奥様のあるパードレを、神様はお許しにならない
のですか」
「たしかに、神父が結婚してはならぬと、神が命じられたことはない。ただ古くからカトリックの習慣
で、結婚していると司祭に叙階されない。ただし体の欲望にとくに悩まされるたち(2字に、傍点)の人ならば、いっそ、
きちんと結婚した方がいいと考えた人もいます。もともと信仰や宗教の問題とは逸れた、……結婚した
から破戒したと直ちに言えることか、…どうだか……。時代が変れば、妻を娶(めと)った。パッパさえ…現れる
かも、知れない」
「ヨゼフ様を、神様は、奥様を…マリア様をもたれたからと…、お見捨てになるでしょうか」
「マリアさんを、愛していらしたか、どうか。それだと…思いますよ。こういう事ですよ…つまり悪事
はいけない。でも困った人や事情を前に、善行すら快く中止したり、より良い別のなにかと取り替えね
ばならない場合が、あるものだと。愛がなければ、外に見える行いはなんの益にもならない。愛のため
になされることは、たとえ小さな、また卑しいことでも実りは大きい。人が、どんなに大きな仕事をす
るかではなく、どれほど大きな愛からそれをするか。したか。神は、なによりそれをお考えになるので
す……」
「愛……。何でしょう、……難しい」
「そう、難しい。しばしば愛と見えながら、じつは、肉の、からだの、欲望に負けて従っている…」
「パードレ……あなた様でも…ですかッ」
321(45)
長助が突如呻きそして返事も待たず、はじめて見るまなじりを血のように染めて、くわッとその場に
伏した。
「これ(2字に、傍点)を…わたくしは、これを」と、長助は妹の方を波うつ肩のさきで指し示し、「どんなにか、女と
して抱いてやりたい……いや抱きたいと思いましたことか。からだを疼(うず)かせ、炭火のように燃えながら、
はる(2字に、傍点)が、いとしゅうございました」
「まぁ……」
はる(2字に、傍点)も、兄にとびつくように体をつきあてて叫んでいた。同じでした、同じ思いで自分もいた、あな
ただけではなかったのに……と声を放って、長助のうすい背中を、いとおしむように、白い掌でぱんぱ
んと打った。
ながいこと、兄と妹は「夫婦」のように同衾(どうきん)していたという。妹の身をまもる□実は□実として、そ
れは恥ずかしいような甘い思いのひめごとに似ていた。聞きながら彼は耳を覆いたかったが、ふたりは、
それをやっと聴(ゆる)された繊悔かのように、彼になればこそうち明けていた。兄は妹の肌にふれていた。乳
房も揉んでいた、項(うなじ)に唇(くち)もそえていた。どこかしこ女のからだの和やかにこうもまるいかと思い知りな
がら、妹の指を、男へ──も誘ったことがある。
それだけか……とは、問えなかった。二人も言わなかった。兄妹でなかったら…どうなっていたか、
やはり兄妹でよかった、生木を裂かれずにすみました……。思わずふたりが、それを言った。
「お願いでございます、パードレ……」と、長助は彼へ両手をついて、床に顔をうずめた。
「どうぞ……はる(2字に、傍点)を、これ(2字に、傍点)を…、ほんとうの女にしてやって下さいまし。お願いでございますッ」
彼は、一瞬総身が灰になって崩れるような恐怖を味わった。途方にくれてマリアの絵を眺めた。窘(たしな)め
たり怒ったり反発したりが、まるでできない。せわしく鼻息だけが荒くなって、彼は二つの拳をわけも
322(46)
なくぐりぐりと角突きあわせた。突然床へよろめいて行き、うっぷせに倒れこんだ。えッえッと彼は泣
きじゃくっていた。
──我にかえった。長助もはる(2字に、傍点)も、去っていた。夢だったのか。彼は涙でよごれた顔を袖でぬぐい、
いまさらに胸を鳴らした。
神よ。どのような苦難も、あなたの御名により私にとって、愛すべく望ましいものになりますよう。
み心のままになりますように。……静かに祈りっつづけた。夢のなかで母に逢っていたのを、彼は思い出
していた。
……おいでください、ああマリアよ。柔和でやさしいおん母よ、苦しみのさ中にいるわたくしの魂を
訪れに、おいでください。安らぎを与えることのできるのは、ただあなたおひとりです。なぜなら、あ
なただけが、心の悩みをやわらげることがおできだからです。おいでくださって、倒れているあなたの
しもべに、お手をさしのべてください。ああマリア、選ばれた神のおん母よ……
なにかが変った。
だが、ふしぎに、気まずくはなかった。それどころか彼と二人の従者の共同生活に、たしかに蜜のよ
うな一と雫が落ちた。
長助の身ごなしに毅(つよ)いものが表現されてきた。ながいこと、主人である彼とは一と呼吸おいた、一歩
も二歩もさがった所から接してきた長助が、なるべく彼と一緒にいたがった。彼との暮しをすすんで受
け入れ、話せば答えた。ものも尋ねた。なにより、自分の考えを彼に聴いてもらうのをよろこんだ。
彼は歓迎した。そして友人の常にならい「ヨワン」と呼ぶように頼んだが、それは諾(き)かれなかった。
はる(2字に、傍点)は、まったく二人の男のかいがいしい召使になって、少年のように働いた。それを眺めながら彼
は易しい賛美歌のいくつかを□遊(くちずさ)んだ。はる(2字に、傍点)は、耳で覚えすぐ歌えるようになった。この兄も妹も、日
323(47)
本の歌をただのひとつも歌えなかったのである。
ゆふひはしづみぬ ひかりのみかみよ
われらにやどりて かがやきたまひね
あしたのほめうた ゆうべのいのりを
みまへにきよめて うけさせたまひね
ちちみこみたまの せいなるみかみに
とこよにわたりて みさかえあれかし
それは、ちょうど彼がヨーロッパを去って長い船の旅をはじめた頃、フランス人の船員の一人が最近
おぼえたといい、しきりに甲板で歌っていた。船のうえで聴くその清楚な調べは、ことに落日にむかう
時刻のしずかな波の音に、美しく奏でられた──。
彼はいっとき詩人になってイターリア語に歌詞をかえた。そして声をひくく揃え、いまや切支丹屋敷
の三人の「きょうだい」は、目と目を見あって朝に夕に、コリント後書によったらしいこの、おそらく
プロテスタントの賛美歌を愛唱した。
ある昼さがり、つよい風に吹かれて小一時間も粒のような雪が軒下に溜った。はたりとやんだ時に、
隔ての木戸のそとで鉄の鈴が鳴った。長助が慌てない足どりでそっちへ出むいた。
「何でしょう…。今日は。…二月の、十七日ですわ」
324(48)
そうは言いながら、そんな呼びだしも日常茶飯事で、はる(2字に、傍点)も彼も、差し入れがなにか有るのだろうと
思っていた。
岡本三右衛門の無量院墓参を許す──、但しヨワン一人。長助は、そう言われて戻ってきた。
「それはいけない…。三人いっしょでないと……わたしも行かない」
彼はむきになった。だが長助は首を横にふった。聡(さと)い兄が聞き分けのない弟を窘(たしな)める感じだった、彼
も苦笑した。
「にわかに…。どうしたのでしょう」と、案じ顔にはる(2字に、傍点)は男二人を等分に見た。顔かたちも髪の色も、
図体も、まるでちがうのに、考えるともなくなにか考えている様子が一つのものを分けたみたいに、一
緒だ。くすくすと、はる(2字に、傍点)が笑う──。
「いつですか、それで……」
肝腎な質問だった。
「あさって。…十九日です、夕方に」
厳しく警護されてとして、墓は遠くはなさそうだし、江戸の町が歩けるのだろうか。
急に胸がひろびろとした。とまりかけていたものが、くるくるくると回転しだした。それでいて、な
にを自分が考えていたのか、彼は戸惑った。
「お墓参りは、西洋でも大事になさいますの」
「はい…。それは…けれど、魂は神に召され、墓には死体がある……土に帰る……」
「だれの魂も、みな召されるのでは、無い…のでしょう」と、はる(2字に、傍点)は納得せず、それならなぜ「ヨゼフ
様」のお墓へと問いつめ、彼を絶句させた。
墓のまえで、ばたりと「岡本三右衛門」に出会うか「パードレ・キアラ」に出会うか、それが知りた
325(49)
い。彼はそう言いのがれた。半分は本気だった。
寺──。
それも初体験になる。が、長助らは寺も知らない。母や祖母の事件が寺で起きたにかかわらず、寺、
寺院について、往来物で覚えた程度しか知らない。西洋にも寺があるかと聞かれて、わッと、山ほども
彼には話して聞かせたいことがある。ローマのサン・ピエトロ大聖堂キリスト教の総本山。その入
り□の、つやつやに磨いた石の床に、それはそれは大きな鍵の絵が填(う)め込んであります。御参りの人は
その上を歩いて大聖堂に入って行くのですよ。教皇の紋章も鍵なのです。カトリックではね、天国への
門を開く「鍵の権利」を、教皇が握っている。
言いつつ、以前なら思いもしなかった或る、奇妙な感じを彼は覚えた。鍵は、……だれもが、持って
いるのではないか。使うか使わないか、それだけの事ではないのか。
懐しいトラステベレの教会を、壁画や回廊や泉のことを、子供たちが捧げるすばらしい賛美歌のこと
を──、彼ははる(2字に、傍点)と長助に、言葉のかぎりを費やして話した。それからまた、パレルモの、ノルマン王
宮に造られたパラティーナ礼拝堂──。ほの暗い内陣へ踏みこむと壁一面に金色に底光る、夢のような
モザイク。なんと見事な……。
モザイクは見慣れたものだが、パラティーナ礼拝堂のはローマのどの教会のにも劣らない。ことに右
の、キリストの生涯を描いた壁画は一見して前時代のもの、遠近法的な整いは欠いた展開ながら、どの
場面もどの場面も、人も物も事柄も生き生きと動いてみえて、はあッ…と言ったきり息することも忘れ
させてしまう。正面の祭壇に、手をあげて大きく祝福をあたえるキリストのお姿も、わきにペテロ、パ
ウロの二使徒をしたがえて、モザイクの魅力をきわ立たせて……、あぁ……もう一度でいい、見たい…。
だがあのシチーリア統治の根拠となった、ノルマン人がアラブの要塞跡に建設したノルマン王宮──
326(50)
その中に、南イターリアとシチーリア島を併せた両シチーリア王国国王ルッジェーロ二世の手で建てら
れた礼拝堂に入って、最初に肝を奪われる…のは、息づき輝くモザイク壁画ではなかった。また壁とい
わず床といわず華やかなうえに華やかに微妙に飾った、幾何学模様の装飾モザイクの美しさでも、なか
った。いきなり天井へ目が行ってしまうのだ。
底知れずみひらかれた天の瞳を彩るように、巨大な木材に、八角の星の模様が二列。星はほの暗い高
みで刻み深く彫りこまれ、材を填(うず)めて赤あり黄色あり緑もあり、極彩色の植物らしい模様が綺羅星のよ
うに描かれていた──。
長助もはる(2字に、傍点)も溜め息をつき、話す彼も額にいつか汗していた。
──天井が壁とつながるところは、小さなアーチが技巧を凝らして華麗に組み合わされ、もはや均衡
もなにもない、めまいがしそうに無数の深い窪みを虚空に美しく刻みつけていた。それは天使が築いた
精繊な蜂の巣のようで、見あげる目の芯を射抜いて耳の奥へ、その巣のなかから、えも言われぬ天使の
羽と蜂の羽との、華やかに優しい合奏がきこえてくる気がした。
彼はパラティーナ礼拝堂を好んで訪れるたびに、ふしぎにシチーリアヘの、パレルモの街への誇らし
い愛を覚えたものだ。ビザンツ文化の、アラブの文化の、そしてそれらを違和感なく統御してしみじみ
と深いものを湛えているラテンの精神の、底知れない統一の美しさがあそこには生きていた。地中海の
文明の、パラティーナ礼拝堂こそは真の髄ではなかったか……。目をとじ、彼は沈黙のくらやみに、し
ばし心憩わせた。その彼を、長助のやや虚ろな声が現実へ引きもどした。
「学問も仕事も、所帯を持つことも出来ない。美しい異国も見られない。そんな一生を、ここで、こう、
わたしらに与えなさったのも、…主(しゆ)の、お気持ちなのですか……」
「主は仰言っています。わが子よ、誘惑にもあわず、ままならぬ思いも覚えない、そんなたやすい安心
327(51)
をお前が求めるのを望まないと。やがて滅びる生のわずかな快楽ゆえに魂の死を招いている者より、お
前たちの方が天国に近い…」
四
江戸の街を歩けるか…などという期待(あて)は外れた。
ひさしぶりに目隠しの駕籠に脚を折ってつめられ、いやほど囚人である思いを新たにした。刻限はも
う夕過ぎて、細い月が光っていたが空は濃い藍を流したように深く傾き、ひとしお暗い穴に落とされた
心地に、駕籠の揺れが不気味だった。
めざす寺──無量院へは、だが案外にはやく着いた。駕篭舁(か)きの足音がやや騒いで、木の橋を渡った
気がした。かすかにせせらぐ水の音を聞いた…と、思った。ずしと、尻の下が定まり、前のめりに彼は
どきどきした。
藁を編んだ鼻緒の履物にも、よほど、慣れていた。彼は野蛮な乗物をおろされ、ほうほうと声をあげ、
胸を膨らませた。しのび笑う声がした。与力同心のほかに六、七人、あるいは棒をかかえ、あるいは灯
をかかげた番卒が背後を囲んで、月明かりの正面、垣を左右に、小高い木戸が黒々と松林に抱かれ半ば
開いていた。寺男も数人、灯を用意して出迎えていた。
街というより、広大に静寂な別世界のようだった。たしかに、たいした川幅でも橋でもないが、境内
を内と外に仕切って川が流れているらしく、橋の向うに道路が横たわり、道の向うに同じような大寺院
の境内らしいまッ暗闇が静まりかえっていた。
一帯に高層の建築物の影もない。影くろぐろと、藁屋や瓦家ふうのちいさな家(や)影が森に林にひくく見
328(52)
え隠れして、乏しい暮しの灯の色を、宵やみに濡らしていた。
「コノテラ…。ナニノテラ。ドイウテラデス、カ…」
同心の横田伊次郎は、この無量院が、将軍家とはとくに縁の濃い大きな無量山伝通院、正しくは寿経
寺、の別院で、伝通院の裏手に来ている、道の向うは禅寺の祥雲寺、こっちは浄土宗──と、分っても
分らなくても構わぬという調子でゆっくり立ち話をした。広大な敷地を占めているのは分るが、本院も
別院もない、どこに寺の本体があるのかしらんと、彼は走る風の行方を闇のなかへ追う目付きをした。
闇に目が馴れ、丈高い木戸をくぐると、左の木立の奥に一、二宇の軒低い伽藍がくろぐろと、闇の底
に蹲(うずくま)っていた。木立はその一郭をおおきな長方形に囲っているらしい、しかも一と隅にちいさな鳥居の
神社も組みいれてある。横田は本堂はもっと奥だと言った。岡本三右衛門の墓ももっと奥だと言った。
「冷えてきた。その恰好で寒くはないか…」
足袋に馴染まない彼は素足の小指が凍てて痛い。
敷石の道の正面にも斜め右の方にも、軒深い瓦屋根の、堂のような住まいのような建物が見えた。
役人たちは右の方へは見むきもせずに、彼を正面の本堂のまえへ導いた。本堂は木の階段を高い広縁
へのぼったところで板戸をたて、まんなかに僅かに白い紙の格子戸が二枚、しめてある。奥で、灯火が
かすかに揺れている。階段の下、広場の中央に姿のいい大きな石燈篭が、夜空へ宝珠をさしあげている
辺りに彼は立ち、仏寺(ぶつぢ)というものが、ふと、えたい知れぬおそろしい世界を秘していそうに、こきざみ
に身を震わせた。
あそこを見るがいい……。そんなふうに先導してきた横田伊次郎が、黙って、指さした。
左手の闇の奥が、土坡(どは)でもあるか盛りあがってまッくらな手前に木々が繁っていた。白く消え残
りの雪が光り、そんな木叢(こむら)へ引きこまれそうな辺りに、捨てた棒のように細いものが二本、突っ立って
329(53)
いるのが透かし見えた。彼はおもわず番卒たちを置き去りに、暗闇へ駆けた。
「よいよい、好きにさせてやれ……」と、横田らの声が慌てたふうもなかった。一度乱れた足音もすぐ
おさまった。
「入専浄真信士霊位」と石の中央に、そして右に「貞享二乙丑年」左に「七月二十五日」と彫(きざ)んだ文字
も、彼には読めない。自然石かと思えるほど石の表はむっくり膨らんで、脇も背もこぶこぶしていた。
台石にはちょっとした装飾の彫りがあるようだが、提灯の火を近づけてもよく見えない。夜目にも香り
たつ水仙の花が手桶に束にしてさしこんであり、それは、花立て石へ彼の手で手向けるようにと、寺で
用意したもののようだった。
いつのほどか、僧が二人あらわれて、すこし離れたところで経をひくく誦(ず)していた。
「コレ……ガ、?…デスカ」
叫びそうに聞いた。与力に鷹揚に頷かれ、彼はそのまま地に身を投じた。一瞬の祈りの言葉を喪って
いる自分に呆れながら、駆けよって墓に唇をつけた。そして、凍った石を抱きかかえ、故国の言葉で彼
は呻(うめ)いた。
主よ…あなたの仰言ることを信じます。あなたが我々の為になされるお心づかいは、我々が自身の為
にできるどんな心づかいより、ずっと大きいものです。主よ、もし我々の意図が正しいものであれば、
み心のままに、どのようにでも我々をご処置ください。
あなたが我々についてなさいます事は、みな、善でないということが有りません。もしあなたが、
我々を暗黒へ落とそうとなさるのなら、それで結構です。もしあなたが、我々を光の中に置こうとなさ
るのなら、それもまた結構です。慰めてくださっても、苦悩にあわせようとお思いになりましても、た
だみ心のままにお受けしましょう……み、心のままに、感謝とともに…。
330(54)
「コッチ…ハ」と、彼は三右衛門の墓にならんだ石を指さして、たずねだ。妻女の墓かと聞いたつもり
だが、二官ドナドの墓かもしれず、それも違うのかも知れなかった。見ればただの石筍(せきじゆん)のようでもあり、
だれも答えない。僧の二人も黙っていた。
本堂へ上げられた。
広い板敷にぽっんぽつんと、畳が、向きあって敷いてある。奥深く黄金(きん)の色をぎらぎらと揺らし、装
飾の幕のような金具のようなものが、意外に高くない天井の闇から幾重にも垂れていた。灯明は数も十
分多いのに、それでかえって闇は堂の隅々(くまぐま)にあまりに濃い。正面の、奥の奥の高い厨子(ずし)の奥に立った仏
の姿が、あたりの金の瞬きとは不似合いに古色(こしよく)にくすんで見えた。ゴーンと金属の鉢を僧のひとりが坐
ったまま叩いた。二人が低く祈りの声を揃えはじめた。
見回すと、役人は一人も堂の上にあがっていない。肝(はら)をきめ、彼は板の間にすこし曲げて脚をだし、
畳に尻をおいた。落ちついて眺めれば、装飾のふんだんな金色(こんじき)はともかく、祭壇も堂の装飾もたいした
むだなく、簡潔にいい匂いがたちこめていた。頭こそわざわざ下げないが、とくに居ずまいのわるい不
快な違和感は覚えなかった。すこし睡いほどだった。
やがて僧が座をすべって立ち去ろうとしていた。彼は慌てて起って頭をさげた。入れ代りに脇の方か
ら武士らしい二人の人影がきて、板をかるく踏む足音がした。おもわず彼は声をあげた。新井勘解由(かげゆ)だ
った。もう一人は宗門改役の横田備中守だった。
「うむ…」
起ったまま、すばやく彼は上から下まで見られた。達者でなによりに思う。不自由はないか。そんな
言葉がかけられた。とっさの事で、彼は十字をきり、早□に祝福の言葉を授けた。床几が運ばれた。
日本の寺院ははじめて見るのであろうと横田が尋ねた。想像していたよりも平静で簡素な印象で、火
331(55)
と金色が美しい。思ったまま早速に答えた。ステンドグラスの日に映えるさまなど脳裏にあったが、□
にはしないでおいた。
「ローマの寺も、ずいぶん大きいのであろうな」
横田が、また聞く。彼は頷くだけにした。七つも八つもドゥオーモ(大聖堂)の遠望や近景が目の底
で遠雷をきくように交錯した。そして理由もなく彼は、サン・ピエトロ大聖堂の前の、天をつくオベリ
スクを思い出していた。モノリス(単体石)としては三百数十トンに及ぶ最大最高のあの石の柱を、か
つてエジプトから運んで据えた元の場所から、現在の位置まで移動するにあたっては、縄一筋、滑車の
一つ一つ、人力馬力のおびただしい参加の、どのような力の集中と配分と持続とにいたるまでも、ぎり
ぎりの推論や計算を尽して、成功をみたのであった──。
ヴァティカン・オベリスクの移動は、ちょうど百年以前のいわば「科学的事件」だった。
彼は、精密で大規模な移動の企画者ドミニコ・フォンタナの偉業を描いた銅板面を、永いあいだ愛蔵
していた。五百案を越す移動案から優勝して採用されたフォンタナの案も、一瞬に糸で釣鐘を吊り上げ
るほどきわどい離れわざであり、均衡を一つ失えば惨事は必定だった。危機は長い日時を要した作業中
にも何度か突発し、みな間一髪ですり抜けていた。観衆は声一つ発しても「死刑」を予告されていた、
それでも万という人が固唾をのんで取り巻いた。
「縄に、水を!」
死刑にあたる罪を忘れたジェノヴァの一水兵の一と声が、最大の危機をすくった。巨大な石の荷重(かじゅう)に、
麻縄の一筋が巻揚機に巻き瘤をつくってしまい、摩擦熱で煙をふきあげた瞬間の、決死の叫びだった。
水兵ブレスカ・ディ・ボルディゲーラは、死刑どころか褒美として末代まで、聖週間の枝の主日に、サ
ン・ピエトロ広場でパーム(棕櫚)の枝を売る特権を、教皇シスト五世から与えられた──。
332(56)
手真似の入った彼の熱弁が、新井と横田とを楽しませた。いわば二人にすれば、ことに新井勘解由の
静かに光る目の色から察すれば、このオベリスク移動譚は、そのままヨーロッパの物理・力学の高い水
準を自然に物語るものと受け取られていた。日本の高官たちは、事この種に及べば幼児のように敬意も、
感嘆の声も惜しまない。
「…いや、聞かぬでもないと思うが。いまの、そういった事でもよいのだ。何でもよいのだ。子供に語
って聞かせるほどの物言いで差支えない…、せいぜい書いてみせて貰いたいが。どうかな…」
まだ、新井勘解由の方はほとんど□を利いていない。横田備中は、追っていくらか書物を山屋敷へ戻
すことも思っているとまで言い添えた。考えてみましょう。彼は勘解由の目をみて頷いた。
「母御も、達者か」と、勘解由の目が和んでいた。
「カタジケノ、ゴザリマス…」と、頭をひくく垂れて彼は「マリア」への好意を謝した。それから、遅
ればせに三右衛門ことキアラ神父の墓参を許された礼を言った。
「岡本三右衛門という呼び方はとにかくと致しまして。あの方の妻とされ、終生付き添われましたご婦
人のこと、お教え願えましょうか……」
「罪により死を賜った者の内方(うちかた)と…。それ以上は言えない。じつを申せば、わしもよく知らぬ」と、横
田の言い方に不自然は感じられなかった。勘解由は黙っていた。オランダかシナの船を介して、消息を
故国の身寄りに託することをお許し願いたいという申し出は、やはり横田の□から即座に拒絶された。
「知識ある人々の、お話を聞く機会…は、望めませんか」
信仰上の論争などを今さら希望はしない。だが人間なり自然なりをめぐり、東と西との認識をたがい
につき合わし分りあって行く契機が、国是を侵さないかぎりでも、いくらも見つかるだろう。彼が不自
由な文字を連ねて小冊子を積み重ねるよりも、もっと即効が期待できるのではないか──。
333(57)
彼は、端然として揺らぎを見せない江戸の高官の姿勢にいささか呆れながら、この国の学制──大学
や神学校や技術専門学校の制度なり普及なりに、つよい関心の動くのを覚えていた。
日本の私学の伝統はほぼ九百年前に遡る。新井勘解由は穏やかな□調で言ってのけた。さよう……大
寺院に付属したものと、大氏族ないし学問を家職とした氏族に付属したものが、あった。もっとも、あ
った…と過去の事として言わねばならぬほど、制度化され維持されたとは残念ながら言いにくい。しか
し、歴史を点綴(てんてつ)して、いくつかの学校、例えば足利学校とか金沢文庫とかいったものが盛んに学生(がくしよう)を集
めたのは事実だし、大寺院には、限られた範囲ではあるが学問らしきものを伝世の意欲はのこってきた。
「お国としての施設は」
「国が学問の範囲や動向に干渉した例は、じつは……無い、も同然で。学問は、公よりは私の意欲と才
能とに多くを頼んで来たのです。むしろ、国が国力としての学問に目を向けるのは、…良いことか悪い
ことかは別として、これからだとわたしは見ています。それにも関わらず、まだまだ日本の学問を豊か
にするもせぬも、公を引きずって行くほどの私の力が、…藩学の類もわたしは、ちいさな公の大きな私
の力と見ているのだが……、そんな、大小の私による好奇心や探究心が、主力になる。ならざるを得な
い…でしょうな…」
「文学や詩歌は、わたくしには知識が無さすぎるのですが、新井さんは、どういう学問がこれからは大
事と…」
「実学です」
「ジツガク……」と、彼は声を高くした。横田もやや目を光らせて新井白石を横から見ていた。
「数理の学、土木の学、観念や幻想を排した天文と気象の学、航海と造船と作図の学、外交の儀礼と約
定(やくじよう)の学、なによりも経済の学……」
334(58)
低音の歌をうたうように、勘解由は、まったく澱みなく羅列した。いつもそればかり考えている者の
ためらいのなさが、深い淵を覗くように、なんとももの静かだった。黙って聞き流すしかなかった。勘
解由もそのうえを語ろうとはしない。
新井勘解由のように考えている者が、江戸に、日本に、大勢すでに生れているのか。勘解由ひとりが
先走っているのか。くるくると早回りする時計を、一瞬彼は幻覚した。
西洋が日本について考えねばならない事は、ただ魂の問題だけでない。この民族は魂よりも目下は技
術に飢え渇いている。飢えが癒され渇きが癒されたとき、それが、いつか……、そして敵か友かは分ら
ないが、西洋は日本を、いろいろの意味で、また新たに「黄金の国ジパング」と恐れも憧れもしなけれ
ばならなくなる…かも…知れない。
勘解由の□調に昂りのないことを、彼は、おそろしく感じていた。だから、もっと話しあいたいし、
もっと他の日本人とも話しあってみたいが……。ま、望みは望み。聞いておこう…。横田由松は、話題
をそこで抑えた。
「せっかく出会ったのも、縁……。ひとつ、今の気持ちが聞きたいが。生きるのと死ぬのと、どっちが
難しいか」
「それは神様の問題です。難しくても易しくても、み心のままに生きて死にますから」
「み心という…神の意志は、たしかに聞えて来るのか」
「聞えないのも、み心のままに。聞えるのも、み心のままに……」と彼は微笑んだ。
「無心を安心に。そういう意味か。任せて、計らわない(2字に、傍点)のだな」と、新井勘解由は無表情に。
「お任せして、しかも努力します」
「何に……」と、ちいさく笑われた気が、した。
335(59)
踏みとどまり、彼は沈黙した。九十九匹の羊を安全な場所へ置いて、どこどこまでも彷徨(さまよ)う一匹の羊
を救いだすため、良い羊飼は努力するのです。そう言いたかったが、どれほど危険な告白になるかは、
相手が新井勘解由だ、明白だった。しかも──もし、今、相手が新井一人なら彼はそれを躊躇(ためら)わずに告
げていた。いや……告げなくても、彼の沈黙を、新井勘解由はたぶんもう読んでいるだろう…。
「神が、来世の救いが、そんなに大切であろうかな……。無心に徹することが出来れば生きられる。死
ねる…。余分な事を習わずとも済むはず。生死など、大きな大きなものに任せておけばいい」
「み心のままにと、そういう意味で申し上げています」
「それならば死後の生は、架空の議論になるが」
「それならば、生前の死や生も、架空です」
「どういう意味か」
「わたくしどもは今は生きていて、やがては死ぬと思いこんでいますが。考えようでは、今が死後の生
かも、生前の死後かも知れないではありませんか。わたくしが申すのは、架空だからつまらないのでは
なく、架空であろうと無かろうと、やっぱり創造主のみ心のままにお任せしたことだという意味で…」
「無心に生きれば済むはなしだが…」
「あなたには、お出来になる……そういう事です…」
新井は、思いがけず顔に朱を刷いた。
「無心になれない魂を安心させて救うのが、神の愛なのです……」
「どうあっても地獄といい、天国といいたいわけか」
「死後の生を宗教が大事に思いますのは、なにも、賞罰を与える為ではありません。もっと大きな要請
として、人間と生れたはかない存在が、本当に生きる喜びをもって生きて行ける為でもありましょう。
336(60)
死んでしまえば、絶対の消去、暗黒の消滅、なにもかもかき消えて無い……。それでは頑張って生き
る事に、人は深い愛や望みがもてなくなる。生きようと励む気持ちを、根の部分で本質的に蝕まれてし
まいます。神は、それをご存じなのです…」
「すると、ああいうものは……」
彼の背後を勘解由が指さした。ふりむくと遠い壁のせまい窪みにいつ運ばれたか燭の炎が揺れて、朱
の色の目にしむ、細い掛け絵がみえた。彼は起って行った。観た──。凄まじい光景が、繊鋭な線と単
純な色とであまりにも悲しく残酷に描かれていた。地獄を、こう表現するのか……。
元の席へはやばやと彼は戻って、黙っていた。あんな地獄も在ると信じるか。勘解由が追及した。
「信じます」
「ほう…」
勘解由が今度は黙った。横田備中はさっきから黙っていた──。
その日、別れぎわ、勘解由は彼の挨拶を穏やかに受けながら、
「ナンだぜ…ヨワン。無理しちゃあ、いけねえよ」と低い声をかけた。
勘解由がどこへ、何用で江戸を離れていたか。むろん言いも聞きもしないが、一年余、白髪がかなり
混じり、しかも旅の疲れか以前より痩せが目だった。それなのに新井勘解由の起ち居には、かくべつ豊
かな意気が感じとれた。横田備中守との、自ずからな位の差も出ていた。枢要の任務を帯びているらし
い……、この会見もまさかに偶然の出会いではないのだろう…。
また窮屈な道中をおぞましい乗物に揺られ、彼は、何を新井が「無理」と考えているのか、戸惑って
いた。
「バンショ(蕃書)」という言葉が、何度か横田由松の□を漏れていた。強いて察すれば新井の意向に
337(61)
は、適当の時機をにらみ、江戸の政府に蒐集ないし没収されてきた西洋語の書物を、彼に整理させたい、
そんな政策がらみの判断があるのだろう。
囚われていても彼は、岡本三右衛門らのように「転ぶ」ことを強いられてはいない。「宗門の儀」つ
まり布教等の行為に及んではならぬ。それが助命の条件にはされたが、黙っていた。黙否、黙諾。自分
の知ったことではない。だが思いもしなかった…罠、かも知れぬ黒い影を、彼はふッと今、初めて見た
気が、したのも確かだった。
長助やはる(2字に、傍点)に洗礼を授けることは、もう時々裡に予定されていて、いつ…という選択だけが残ってい
た。それも極くたやすい選択だが、たやすく仕向けたのはじつは江戸の政府だったと思うと、彼は、顔
をしかめた。ローマの使節を断罪はしない。だが禁じた「宗門の儀」つまり宣教行為が発覚すれば、今
度は容赦ない。死刑か。拷問で転ばせておいて、利用するか。そのとき長助とはる(2字に、傍点)とは、どんなむごい
めに遭うだろう。からだでも労(いたわ)る物言いで、新井勘解由は、そのことを示唆してくれたのか…も、知れ
ない。
彼は懸念を、友である二人に告げなかった。そして、こう思い直していた。自分が主を心から愛して、
いついつまでも主に仕えようと思っている以上、どのような不安や苦痛も進んで受けねばならない。当
然の務めである堪え忍ぶこと死ぬことへの十分な心構えがあれば、安らぎは見出せる。ただ、長助たち
にそれを不用意に求めて、気持ちを乱さないように、したい……。
そして──事もなく、日々が、また積まれていった。
無量院墓参のことは、していい話はみな報告したし、長助らは「外」でのことはむやみに聞こうとし
ない。人の噂も、しない。わずかに接触のある牢役人や番卒についても、こそとも、話題にならない。
彼はその事を、たとえば横田伊次郎のような人物に「宣教師」として近づく努力を欠いてきた事を、ひ
338(62)
そかに主のみ前に詫びていた。
ところが同心横田の方は、すこし迷惑なほどずかずかと彼の身辺へ接近してきた。
まず「書物(かきもの)部屋」を奥の、長助らと同じ棟に、人手を入れて作った。やっと椅子らしい椅子に彼はあ
りついた。机も由緒のありげな、あきらかに舶来のよく使いこまれた物が運びこまれた。以前、新井勘
解由や長崎通詞らと終日懇談した同じ場所だ。簡素だが、ていねいな技術のみえる仕切りの美しい書棚
が入り、本を平積みに置く日本の習慣にも彼は利点を認めた。
辞書類が最初に届いた。
思いがけず高度な日本語研究が、百年以上もまえに、宣教師たちの手で進められていた。辞典文典の
編纂も、たんに布教上の手段というのを遥かに越え、早くから成されていた。イエズス会士らの研究は
組織的で、しかも翻訳も掛け値なく豊富で、彼は感動した。漢字辞書『落葉集』が一五九八年にもう長
崎で出来ていた、これは彼を喜ばせた。ポルトガル語との対訳辞書やロドリゲス著の『日本文典』はと
もかくとして、一五九四年の『拉丁(ラテン)文典』や翌年刊行の『拉葡日対訳辞書』は即座に役にたった。
ポルトガルの旅行者フェルナン・ピントの『周遊記』をみると、一五五六年、火縄銃が伝わって十二、
三年めに、すでに三十万挺の鉄砲が日本で造られていたとあって、彼は捻った。
ペドロ・ゴメスのラテン語本『天球論』に手が触れたのにも、感動した。イエズス会のコレジオ(神
学院)が教科書に用いた本であり、プトレマイオスの天文学体系と、アリストテレスに学んだ四大元素
説による地球物理学とを軸に、もとより彼にはあまりに古典的なものであったが、表紙もなかば朽ちた
黴(かび)くさい頁を繰っているうちにも、なつかしい図版がつぎつぎに目に飛びこんできた。
医学書は、数がすくなく、だが十七世紀早々のハーヴェィによる『心臓及び血液の運動』がぽつんと
孤独そうに他の本に混じって見つかったのには、驚いた。おそらく、まだこの国でこれが読める者も、
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読めてもその形態生理学が理解できる医師も、一人としてあるまいと思われた。
彼が持ちこんだ本はろくに戻らなかったのに、二種類の『羅馬教会暦』が手に入った。幸いユリウス
太陽暦でなくグレゴリオ新太陽暦が採用されており、しかも教会暦をそのまま日本の言葉に対訳した本
も、陽暦の日付を陰暦に組み替えた本もあった。日曜その他祝祭日がおよそ把握でき、これほどの幸運
は予測もしなかった。
だが、誰がどんな澄ました顔をしながらこんな本をはるばる日本まで持ちこんだかと、呆れる本も、
彼の机に積まれた。
例えば、題は『議論』と堅苦しいが、辛辣な筆を武器にゆすりたかりを専らにしたと悪名とどろくピ
エトロ.アレティーノが、ローマの堕落を容赦なく抉(えぐ)ってめっぽう面白い本が、麗々しく混じっていた。
俗ラテン語で書かれたシチーリア派の詩集の甘い貴婦人讃歌や、サケッティの『三百話』や、思わずほ
おと声のでた人文主義の先駆者ロレンツォ・ヴァラの『快楽について』『ラテン語の典雅について』な
どの中に混じっていた。
船員や商人が持ちこんだとは思われない、相当な教育を受けた聖職者の手に馴染んだ本に相違ないが、
イエズス会、フランシスコ会、ドミ二コ会などという各修道会士のなかにも、やはりいろんな人物が混
じっていたということか。彼は、奇妙に嬉しがりながら、こん気持ちになるのも堕落の兆しかと、かる
く頬をつねって十字をきった。
アレティーノの本は、十六のわが少女(むすめ)の身の幸(さち)を、人妻に、修道女に、あるいは娼婦にと途惑う怪(け)し
からぬ母親の混乱と打算と批評とに托して占いつつ、時代およびローマの運命を、まるで汚いものを摘
まみあげるようにして、嗤(わら)っていた。ところが反吐(へど)がでて当然のそれら猥雑な言説の芯のところに、不
思議に聴くべき人間理解が息づいていた、いやいや以前の自分なら決して聞き分けはしなかったろう…。
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サケッティの愉快なくらい不快な冗談も、悔(くや)しいくらい一気に彼は読んだ、主(しゆ)との対話もいささかな
いがしろにして。たとえば画家ジォットーの□をかりて、聖母の許婚者ヨセフをこの『三百話』の著者
は、こんな笑い物にしていた。
──誰かが、イエズスの父たるべきヨセフは、いっでもどこででも、なんでああ鬱陶しい顔をしてい
るのかなと、首を傾げた。すると絵描きのジォットー(著者のサケッティもだろう)が、けろりとして
言った。自分の嫁さんになろうッて女の腹がだんだん大きくなるのにさ、そいつの親父が誰とも知れな
いんだぜ、憂鬱だろうじゃないか。
ところがそのジォットーが受胎告知を描いたフレスコの絵の、それはそれは美しかったことも、彼は、
身にしみて懐しく記憶していた。
信仰とカトリックの教会とが、微妙に微妙に岐れようとして行く時代があり、その勢いを育(はぐく)んだのは、
ほかでもない故国イターリアであり、イターリアがうたいあげた誇らしいルネッサンスの力だった。
人文主義者ヴァラは、率直かつ優美なラテン語で、肉も自然もまた神の生みしもの、肉の愛、感覚の
美もまた讃えられてあれ、本然にこそ立ち帰れ、神の前にあくまで人間であれと唱えていた。エラスム
スはそのヴァラに深く学び、スコラの流れにいながらフェルラリィ枢機卿はひそかにエラスムスを呼吸
して、その気息を、愛弟子の彼シドッチにそれとなくしばしば吹き込んでいた。ローマを離れ、ヨーロ
ッパを離れて、遠く来れば来るほど、彼は、それに気づいてきたのである。
だが、一方で彼自身は、根の感覚を、哲人皇帝マルクス・アウレリウスに養われ、さらに神秘的・黙
示的なキリスト者トマス・ア・ケンピスやボナヴェントゥーラのような人にも、多く享けていた。こと
に先の二人がおりにふれて漏らし続けていた、「すでに死につつある人間として肉をさげすめ」とか、
「君は死体をかついでいる小さな魂にすぎない」とか、「何年も後に死のうと明日死のうと大した問題
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でないと考えなさい」とか、あるいは、「イエズス以外に何かもっと優れたものを探す必要はない」と
か、「身の救い以外は何も考えるに及ばない、ただ神のことだけに意を用いなさい」とか、「十字架は
いつも用意されていて、あらゆるところでお前を待ち受けている」とかいった声に、絶えず呼びかけら
れていた。
彼は、だが、渦を巻いて統制を拒否しているものも、自分の内に自覚していた。「キリストの全生涯
は、十字架と殉教だった」ことを己が理想として保ちながら、そして神の国に死後の永世を生きたいと
願いながら、またどこかで、古代の賢者が、「要するに人生は短い。(だから)つねに近道を行け。近
道とは自然に従う道だ。死後は、無だ」と呟く声にも心をひかれている──。
気持ちは別だろうが、日本の現今(いま)の賢者も「死後は無」と言いきり、死後の生を語るのは無理だと彼
に迫った。その含む意味が、なぜか分る。分るけれども、もしそれを言えば、賢者はともあれ大勢の世
間は、悟りも無心も容易に得られない大勢の人間は、どう安心して死んで行けよう……。
マニラでの日々が、なにがなし、思い出された。あの頃も彼は望まれていた。マニラの為、そこに居
てそこで生きるよう望まれた。ふり払うに忍びない仕事が、布教活動のほかにも数えきれぬほど有った。
これも一生かなあと意義も意気も感じた。日本へ──。大変な難事と分ればなおさら、フィリッピンに
居て何故いけないのかと、遠い日本がいっそう遠く霞んだ。だがそんな時が、一種の失神のような状態
にあることも、彼はきれぎれに自覚していた。そして自分と戦った……と、思う。
あの頃と今と…似ている……。
読書にかまけ、彼は、二人の仔羊を視野の外に忘れかけていた。慣れぬ筆で、一冊一冊の題や著者や
出版された都市や年度や、さらには内容の概略を、書式もととのえて書きあげてゆく作業が、彼に日本
のかな文字や、いくらかの漢字を、また文章語を、いっそう意欲的に覚えさせた。
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二度、たしかあれ以来二度ほど、新井勘解由(かげゆ)がきて彼をかつての聴事場まで呼びだした。奉行の同道
はなく、かわりに同心横田伊次郎が二度とも同座した。将軍家へ進める書物を勘解由はこれまでも、お
びただしい数、書き著わしてきたというが、彼を審問してえた世界地理の新知見を、漢文で、いま纏(まと)め
ようとしていた。
「サイラン、イゲン(采覧異言)……」
理解できない題だった、聞きなおす気もなかった。だが勘解由は不審の箇所を根気よく質問し確認し
訂正してゆく。その用に勘解由は山屋敷を訪れるのであり、立会う同心は二人の会話が「宗門の儀」に
触れぬことの証人役を勤めていた。
西洋では国王や領主も(たぶん信仰上の制約があってと思うが、)一夫一妻の婚姻制をまもり、しば
しば世継ぎの子にこと欠いて、それが原因で国が乱れるとか…。
新井はそんなことも、□にした。
否定しようか、黙って頷いて済ませようかと、彼はちょっと迷った。鋭いご指摘と、簡潔に褒めた。
新井勘解由の立場は主従の絆(きずな)を幾重にも崩すまいと、息苦しい武家封建社会の維持を「理想」にしてい
る。何度も話しあい、分っている。この国は、おそらくは気質的にもなにより地位や利権の世襲にこだ
わり続けるのであり、一夫多妻をさえその□実にしたがっている──それだけの事だ。
新井はまた、ラテン語の将来について彼に問うた。西洋の文明は、世界語として「ラテン語」を考え
ながら、広い海を四方へ漕ぎ出しているのか…。
「それは、よしあしは別として、もはやあり得ないでしょう。ラテン語を学ばなければ…という、もし
もお国のご方針なら、将来にわたってハッキリご無用と申し上げます」
「すると、各国語が割拠(かつきよ)して強弱を争う時代ですか…。どの国語が強くなるか……」と、新井は巧みに
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彼を誘った。
新井は、なぜかオランダ人を経て伝わる西洋の「風説」に、あまり信を措(お)かぬらしかった。あながち
ローマ人である彼の意を迎えてそのふりをするとも、思われない。なるべく偏りのない情報により臨機
応変の自在を政府は得ていたいが、情報は言葉で入ってくることが多く、それならば果して「オランダ
語」や「ポルトガル語」に頼るのが、いつまでも得策かどうか──。新井白石は、そう□にしていた。
できれば共通語としてラテン語が働いていてくれると、都合がいい。新井はそんなことを考えていた。
正徳二年二月から三月へかけての、春めくある日だった。新井勘解由は、想像もしなかった長崎の大
通詞、今村源右衛門を「通詞役」に伴い、山屋敷を訪れてきた。何年に一度か、オランダ商館長の一行
が江戸へ出てくるとは聞いていた。今村の職掌柄といえばそれまでだが、彼は、新井の思いやりの利い
た配慮をこころから喜んだ。源右衛門も喜んでいた。すくなからず恰幅がよくなり、かえって人のいい
愛矯を漂わせていた。
どうやら勘解由は、オランダのカピタンに、著述にかかわる沢山な質問をもちかけ、それを、さらに
山屋敷の彼との間で調整するのを、表むきの用にしていた。
だが一つには、彼に最新の西洋政治事情イギリスが「南海会社」を設立した、とか──を耳打ち
してやりながら、いわば彼の勘に頼って、なにか掴もうともしていた。いや、それは思い上がりかも知
れない、が、それでもなお勘解由は、その謂う所の「実学」を裏打ちするに足る国(1字に、傍点)と言葉(2字に、傍点)とを暗に手探
りしているらしいのは、ほぼ確実だった。
新井はこの一、二年前にしきりにフランスで流行ったという小唄の詞(ことば)を、カピタンの一行の誰かから
聞いてきた。
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じいさまはほらふき ご子息は大のとんま
孫は根ッから臆病者 おお大出来のご一統
こんな王家にちょろりやられたフランス人
おお笑止 お気の毒 見習えばイギリスを
おお笑止 これだけ言ったら 分りそうな
ルイ王家の足元が、ゆるんだ歯の根のように腐っている。それをオランダが言うのは分るが、イギリ
スを見習えとある所を、船頭役を引受けて日本の舵をとる気の新井は、「大事に」思っていた。新井は
すでに、小唄の意味するところが前世紀イギリスでの二度の政治「革命」であり、その背後を支えて行
くであろう産業「革命」でもあるらしい事を、うすうす察している□ぶりだった。
手伝ってほしい──。つまり新井は、「実学」を日本に興すきっかけの一つに彼自身がなって、彼の
内なる「西洋」を「日本」の土に移植してくれよと願っていた──。
意外なほど今村はその対話に入って来なかった。それほど新井との地位が隔たってもいた。だが、そ
ればかりではない表情が、まだ若いといえる通詞の顔に浮かんでいた。
新井勘解由(かげゆ)にあの日──今村源右衛門を連れてきてもらって、彼は、まこと危うい道をすり抜けられ
た。まこと、のちのちも、彼はそれを深く主のみ前に感謝した。
あの通詞の瞳(め)は告げていた、お前は、そんな「実学」の移植をしに海をこえて来たのか…と。懐(なつか)しそ
うに終始笑顔を彼にむけてくれながら、しかもたえまなく、それを目で問い返していた。
新井の思惑には、むしろ日本にフランス型の政府を守って、イギリス型の議会主義や革命を避けたい
気持ちが感じられる。その保守的な忠誠心が、「実学」の効用だけを求めている。
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だが…彼にすれば、フランス王家ほど、カトリックであれプロテスタントであれ、どうだっていい態
度を政策として適当に使い分けてきた手合いは無かった。すこしでも領土を広く、すこしでも金貨を多
く。花のパリほど世界中で臭い汚い街はなく、しかも、どれほど多くの神の子らが、淫蕩の香にまみれ
た王や王妃や貴族や愛人たちの、その足元で虫けらのように虐殺されてきたか──。
あの日、訪問者がもう帰って行くとき、手水(ちようず)をつかうために新井勘解由が座をはずした。山屋敷の役
人が案内にたった僅かな隙に、つと今村は彼の前へ近寄ってきた。他に人の目のないのを、本能のよう
に彼も確かめていた。源右衛門は彼の目へ、まっすぐ囁いた。
「母御様はお達者か」
彼が頷くと、すばやく今村源右衛門は身を屈(かが)めて、自分の頭に彼の手を置いてくださいと、また囁い
た。彼はそうした、二本の指をまず自身の唇(くち)に湿(しめ)しておいて。
春がゆき夏がゆき、また紅葉する季節が来つつあった。書物(かきもの)部屋へ運ばれた西洋の本の多くが、棚の
うえで薄く挨をかぶっていた。幸い紛れこんでいた一六一一年ミラノ版の、四福音書だけで一冊にした
ラテン語『簡約聖書』が、いまは彼らの宝もの。他の本は持ち去られても構わない。
彼は、福音四書を拙(つたな)い日本語に翻訳する仕事を自身に課しかけ、思いとどまっていた。時間は、そん
なには、残っていない。それに見つかれば焚書(ふんしよ)の厄にあうだけだ。『み教への本』といった、日本人の
ためのカトリック教授法の本を書いておく思案も、瞬時に撤回した。ただ世に遺したいと思ってするそ
ういう仕事の為に、むざむざ長助とはる(2字に、傍点)を待たせるのか…、最期を待たせてよいのか。
二人は待っている。「時」の至るのを、待っている。
長助は二度ばかり、いつぞやと、おなじ事(1字に、傍点)を彼へ言った。懇願した。彼は答えなかった。はる(2字に、傍点)はその
二度のうち一度、そばで兄が彼に言うている事を、顔を伏せて聴いていた。当人はなにも言わなかった
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し、長助も妹がそこにいるという顔も見せなかった。
彼は──考えて、いた。
五
新井勘解由(かげゆ)の好意に酬(むく)いるため、持ちこまれた書物のなるべく便利な目録は作った。
他に、彼の知るかぎり各国の字母を対照にならべて、文字のちがいもあるが、同じ文字でも国により
発音のちがうことを一覧表に作ってみた。勘解由の関心に触れているのを、彼は手ごたえで感じていた。
そして人の名前を例にあげ、ほとんど同じ文字の同じ綴りでも、ヴィンツェンチィオがヴィンセントに
なったりヴァンサンになったりする、漢字に書けば坂三にもなると、いつぞや勘解由の質問にも、遠回
しに返事をした。
ジォルジュ、ジョージ、ゲオルクも同じ名前、リカルド、リチャード、リヒアルトも、ジョヴァンニ、
ジョン、ヨワンそしてヨハネも、カタリナ、カトリーヌ、キャサリン、カテリーナも同じ名前で国によ
り読みが変わっているだけですと、なるべく多く実例と綴りを挙げながら、暗に、ヨーロッパの一つに
育ってきた根を指し示そうとした。
だが、もう、いい…。六代将軍家宣の死を聞いて、彼は肚(はら)をきめた。跡継ぎは、まだ三、四歳。大き
な庇護者に死なれた寵臣の運命がどのようなものかを、知らない彼ではなかった。無事に、静かに去っ
て行けるか…どうか、新井勘解由は。
彼は、せめて福音書のどれか一つを、ていねいに二人の友に読んで聴かせたい……。きちんと洗礼を
授ける為の、それが条件。それは、いい。だが、四つあるどの福音書をえらぶかに彼はしばらく思案し
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た。マルコか、ヨハネか。マタイとルカとは分量が負担だった、読み聴かすだけで足りない、不自由な
言葉の置き換えをしながら、噛んで砕いて福音を味わい、そして信じてもらわねばならない。
マルコによる福音書は、たぶんキリストの死後最もはやく編まれ、キリストの言動を最も簡古な文体
で証言している。そう思われる。共観福音書といわれるマルコ、マタイ、ルカの三福音書の、芯に相当
している。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあ
った。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものは
なかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そし
て、やみはこれに勝たなかった。
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名を洗礼者ヨハネと言った。この人は
あかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光で
はなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。」
このような厳(おごそ)かな言葉ではじまる「ヨハネ」福音書は、そのまま、「ヨワン様」と長助やはる(2字に、傍点)に呼ば
れている彼、「ジョヴァンニ」シドッチである彼の立場を説明しえていた。彼の洗礼名は、バッティス
タ(洗礼者)だった。
もっと大事なのは、ヨハネの福音書は、聖母マリアの意義をいちばん深く彫(きざ)んだ聖書でもあった。だ
から彼は、その「一冊」に、選んだ。
書記者ヨハネはその福音書で、じつは一度も「マリア」と呼んでいない。いつも「イエズスの母」と
だけ記し、マルコ、マタイ、ルカら、いわゆる共観福音書記者とは態度を異(こと)にしている。マグダラのマ
リア、クロパのマリア、ラザロとマルタの妹べタニアのマリア──。たしかにイエズスの母でないマリ
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アが何人も聖書には現れ、それほど「マりア」は一般に、あまりに、女の名前でありすぎた。「イエズ
スの母」なら、これは、この世にただ一人の呼び方にちがいない。
ヨハネによる福音書に、「イエズスの母」マリアの現れるのは、たった二つの場面でしかない。マタ
イ伝は五度、ルカ伝には十二度も「マリア」の名前が出てくるのに。
だが四福音書を通じて、母マリアがみ子イエズス・キリストと明らかに言葉をかわす場面は、たった
の三箇所しかなくて、その内の二つがヨハネ伝に含まれている。
彼は──異状はないかを問われる一日の最期の鉄鉢(てつれい)が、隔ての木戸で鳴ってしまってから、夜ごと、
長助とはる(2字に、傍点)とを自室へ呼んだ。彼「ヨワン」の母の肖像だからと、新井勘解由がはからってくれた「悲
しみのマリア」の絵が、そこには、ある。二人の□数はなぜか少なくなっていたが、二人とも、親指か
もしれず手指ともみえる美しい指を示した聖母には、いつも息をのんでいる。彼は知っている。
長助が箒をさかさに地面にあらっぽく何か描いていたのが、そのマリアを影絵に見立てて、手早い独
りの祈りを捧げていたらしいとは、彼も最近察していた。筆を、強(た)って預けてみると、紙に、おやおや
と思うほど達者に彼や妹の顔かたちを遊び描きすることも、このごろ長助は、笑みをもらしながら、し
て見せる──。
──書記者ヨハネはイエズスの幼年時代を語らない。
いきなり洗礼者ヨハネに、ヨルダンの向うのベタニアで、こう叫ばせる。「わたしは水で洗礼を授け
るが、わたしより先に在り、わたしのあとから来られる方は、聖霊によってバプテスマ(洗礼)を授け
られる」と。そしてある日、洗礼を授かろうと人に混じってイエズスの近づいてくるのを認め、声高に
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とも。ヨハネの目の前で聖霊はイエズスを満たした。
イエズスは洗礼者をはなれ、「世」と「時」との成就へと歩みだした。シモン・ペテロとその兄弟ア
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ンデレも師のヨハネをはなれ、イエズスの最初の同伴者となった。足は北へ、ガリラヤヘ向っていた。
こうしてヨハネ福音書は──イエズスのキリスト(救世主)としての公生涯の始まりから、語りだす。
長助もはる(2字に、傍点)も、よい聞き手だった──。
ガリラヤのカナに婚礼があって、イエズスの母がそこにいた。イエズスも弟子たちも、その婚礼に招
かれた。ヨハネ福音書第二章が始まり、聞き手は、長助もはる(2字に、傍点)も、思い思いの姿勢から顔をあ
げて、師であり主(あるじ)でもある洗礼者「ヨワン様」の語りつく目を見つめていた。
──葡萄酒が無くなったので、母は、み子イエズスに告げた、「葡萄酒がなくなってしまいました」
と──。
結婚そして、婚礼。司祭の彼自身は結婚こそしていないが、結婚式にも祝宴にも数えきれないほど立
会ってきた。そのつど聖餐の式があり、キリストの肉であるパンと血である葡萄酒とを、つまり聖体を、
信徒一同で戴いてきた。カナでの婚礼の日に、だが、イエズスは、もう真実「キリスト」だったろうか
──。彼は、そこの所を、聴く二人をイエズスの公生涯へと導き入れる、門と見立てていたのである。
「カナの場面では、分りますか…。むしろ人々の暮しに根から馴染んだ、婚礼に欠かせない飲み物とし
て葡萄酒が求められている。求めるお客が多くて、用意しただけでは足りなくなったんですね。だから
イエズスの母はみ子に言われました、葡萄酒がなくなりましたと。
ここで考えましょう。母は婚礼の台所を預っていた責任者だったでしょうか。そんなことは一つも言
われていない。とすると、客の一人としてみなの前で、そんなふうに我が子に声を掛けたのでしょうか。
たぶんそうでしょう、するとイエズスの母はお節介やきとしてここへ初登場したのかな…。そうとも見
えますね、そしてイエズスはみなの前でそんな事を言われてイヤだったと……。つぎの彼の返事を聞く
と、たしかにそうも取れます」
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イエズスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時
は、まだ来ていません」と──。はる(2字に、傍点)が、はあッと溜め息をついた、彼はすぐ聞き咎めた。はる(2字に、傍点)は、イ
エズス様のなんと情(じよう)のこわい……、お母様がおかわいそう、と答えた。
「あの聖母様の絵をごらんなさい。あの方がイエズスの母でだけあれば、あの絵をここへは置いておけ
なかった。だけどあの絵の女人はこの私ヨワンの母親だからと、□実をつくって下さった方があった…。
だから、ここに在る。事実あの女人は、わたしにも、そしてあなた方にも、母であるのです。
ここでのイエズスは、それを証ししようと、婦人よ…と、わざと距離をおかれた。マリア様はイエズ
スの母に相違ないが、またあらゆる神の子たる人類の母ともなられる事、つまりみ子および人と係わる
意味を…先ず、予告されたのです」
「わたしの時は、まだ来ていません…とは」と、はる(2字に、傍点)は。
「キリストとしての公生涯は始まったばかりです。まだ、栄光の最初のしるし、奇跡は、示されていな
い…」と、彼。
「そうか…。マリア様は最初の奇跡を今ここで現すようにと。だから葡萄酒が無いと、み子様に…。み
なご存じのうえで……仰言った、勧められたわけですね」
「そのとおりでした。母と子とは、神の栄光を地に現すために、ここで心をあわせてキリストとしての
生涯へ、一歩を踏み出された……。長助さん、あなたは正しく分っている。大事なところが分ってい
る」と、彼は認めた。イエズスに「時」は来ていないと言わせておいて、この母は、たじろぎも躊躇(ためら)い
もなく僕(しもべ)たちに向かい、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と言っ
ている。
──そこには、ユダヤ人(びと)のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六
351(75)
つ置いてあった。イエズスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、僕(しもべ)らは□のと
ころまでいっぱいに入れた。そこで僕らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行
きなさい。」僕(しもべ)らは持って行った。料理がしらは、葡萄酒になった水をなめてみたが、それがどこから
きたのかを知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで、言った、「どんな人
でも、初めによい葡萄酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなた
はよい葡萄酒を今までとっておかれました」と、聖書はそう語る。
そんな不思議なこと…ほんとうに出来たのでしょうか。はる(2字に、傍点)は、つまずいた、案の定。出来たのでし
ょうか……。
もし信じにくいなら、こう考えてもいい。千七百年以上もの久しい歳月のうちに、キリストとしての
最初のこのしるし、奇跡、を信じた人が無数にいた。無数の信仰のつみ重なる力と声とに励まされ支え
られ、わたし自身も信じて、そして今ここにいる。あなたと一緒に、いる……。彼はそう言うとはる(2字に、傍点)の
手を、ちいさな二つの手を…そっと自分の掌(て)に包んでやった。一緒に生き、一緒に召されましょう、あ
の方々のみもとへ……。彼は長助の手も共にはる(2字に、傍点)に重ねながら、「その時」のまぢかい事を、はじめて
□にした。
「一緒に考えてみましょう。料理がしらの言う、今まで出されなかった佳い葡萄酒…とは何でしょう。
世と人とを救うため、神につかわされた神のひとり子イエズス・キリストそのものの譬えではないのか
な。時はまだ来ないと言ったイエズス自身の即座のみ業(わざ)で、また母マリアの勧めで、初めて、キリスト
の愛に満たされた新しい時が来た……と、そうヨハネは証(あか)ししているのです。
ね…、となると佳い葡萄酒を今(1字に、傍点)出したと料理がしらに思われた花婿とは、神様の譬えでしょうか。そ
れならこの婚礼の花嫁とは、じつはイエズスの母といわれている婦人だったと…そうも謂える。瓶(かめ)の水
352(76)
を葡萄酒にかえた奇跡は、み業(わざ)は、みしるしは、父と母とみ子イエズスが心を協(あわ)せての、そう…、時の、
肇(はじ)まりだったのですよ。すると……、信じて、言われるまま瓶に水をいっぱい入れた僕(しもべ)たちとは、イエ
ズスを信仰し、神を父と、マリアを母と愛して、心底から受け容れた人たち、使徒や信徒、を譬えたの
か…ナ」
「ヨワンさま、わたくしたちは、あなた様の僕(しもべ)です」と、はる(2字に、傍点)は声音を熱くした。
「いいえ、あなたがたも、わたしと同じ…主イエズス・キリストの僕です」
彼はつとめて冷静に話した。──ヨハネによる福音書は第二十一章まであり、カナでの婚礼の話はイ
エズスが初登場して第二章の早々に記されている。それを彼は二人に注意させた。そうしておいて、い
きなりキリストが、「されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所」で十字架につけられる第十九
章の中ほどの場面へ、あえて話題を移した。主が、人の子として公生涯を地上に生きたいわば最初の場
面から、いきなり最期の場面へ話題を飛ばした。
本文そのものは改めてまた一緒に読んで行く。それより先に彼はイエズスの母・マリアのことを三人
でよく納得しておきたい。イエズスの母がこの福音書のなかでみ子の言葉を直接聴く二度めが、すでに
主が十字架につけられてしまったゴルゴタの、ここの場面だった。
──さて、イエズスの十字架のそばには、イエズスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリアと、マグ
ダラのマリアとが、(深い悲しみに包まれながら)たたずんでいた。
イエズスは、その母と愛弟子(まなでし)とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、
ごらんなさい。これはあなたの子です。」
それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です。」そのとき以来、この弟子
はイエズスの母を自分の家に引きとった──。
353(77)
「だれなのでしょう。そのお幸せな愛弟子とは…」
思ったとおりを、はる(2字に、傍点)が、また叫んだ。
「わたし(3字に、傍点)です……」と、彼は、「ヨワン」は、長助の方をみて、にっこりした。長助もにっこりした。
「事実としては、この愛弟子は、主(しゆ)の十二人の最初の使徒のなかでも、主にとくに可愛がられたと伝え
られている、ヨハネという人だったのです」
「この本を書いた方ですのね、すると…」
「そうも思われてはいるが、ほんとうは同じ名前の別のヨハネでした。けれど、それは大事な問題では
ないのですよ、だから…わたし(3字に、傍点)です、と言ってみた。冗談を言ったのでは、ない。わたしの名前が、ヨ
ハネ・ヨワン・ジョヴァンニだから言うのでも、ない。長助さんでもはる(2字に、傍点)さんでも、わたし(3字に、傍点)です…と言
うて構わないのです、主を愛し母マリアを愛し信じている人ならば誰でも……」
事実ヨハネ福音書は「愛弟子」の名を記さない。婦人と呼びかけ、ただ愛弟子と記すだけで、それで
却って、「イエズスの母・マリア」が、主に愛された人のすべて(3字に、傍点)に「母」なのであり、母として「引き
とられ」る真実を証ししている。
「ほら、あの聖母様の絵がわたし達に、在るように……」と、彼は言いおさめた。
その夜──ついぞ、このところ見なかった亡き父の夢を彼はみた。母は最初のうち姿がなかった。父
はなぜだか揉みあげから頬から、輪のようにまッ黒い顎ひげを生やしていた。白い二つの耳が目につい
た。最期の晩餐のような場所にみえ、彼は大声で、真ん中に席をしめている父に、どうなさったのです
かと叫んだ。
「お前は知らないのか。パルタンナ・モンデーロの今日と明日(あした)は。パッシオーネだよ、今年はわたしがキ
リストの役に当っている。名誉なことだがな…」と言ってから、父は「だかな…」と彼を見た。彼は畏(かしこ)
354(78)
まっていた。「だが、わたしは天にいて地上の者ではない。だから、お前に十字架を負ってもらいたい
が、どうかね」
彼は血の気がすこし引く気がした。シチーリア島では、毎春、復活祭に先だつ聖週間のうちに、パッ
シオーネつまりキリスト受難劇が盛んに行われるが、ことにパレルモ近郊パルタンナ・モンテーロのそ
れは、そこにも狭いながらシドッチ家の領地があったから、彼も、何度も何度も母や召使らに連れられ
幼い目に劇を見ていた。荊(いばら)の冠をつけ、赤い長い着物をきて、重い大きい木の十字架を肩にしたキリス
ト役が街中を引き回される。あの方が主イエズス様、いちばん尊いお方と分っていても、息を喘がせ鞭
を振られ縄で引かれて行く姿は、おそろしいものだった。
「それともパッパ(教皇)になりたいかね」
「いいえお父さん。十字架を負います」
父は黙って彼の顔を見つめ、そして、手招きした。晩餐の座にいたみなが彼を見守り、彼は父の前へ
食卓を隔てて立ち、頭をさげた。父は彼の髪に掌をやさしく置いた。
「ジョヴァンニ…。この婦人がお前の母だよ」
横に葡萄酒の瓶(かめ)をもって母がいた。悲しみをすでに予感して、母の瞳が海のように潤んでいた。
「あなたは…マリア……」
そのとき、すでに彼は血にまみれた裸のからだを、十字架からおろされていた。かぶさるようにマリ
アの顔がみえていた。槍を立てまッ赤な飾りの兜をきた兵士が立ち、ころだ石の山原に大きな黒い墓穴
も□をあいていた。
「すんだわ…」と母が囁き、だが、彼は力ない声で甘えるように言った。
「マリア…、これから始まるのです……」
355(79)
静かに──さめた夢のあと、彼は、親指のマリアの前へじっと頭をたれていた。それから、祈った。
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いで
はなく、みこころの成るようにしてください……」
何時頃か分らなかった。灯(ともし)は近くにあった。寒さはゆるみ、うっとりと、物音もしない。彼は起きあ
がり着物を着て、長助やはる(2字に、傍点)のいる棟へと牢を出た。
つき抜いたような星空だった。彼は、アネス小母さんの描いた聖母の絵を抱いたまま、しばらくふり
仰いでいた。胸の奥まで夜気に染まってくる。つと彼はマリアもろとも地に跪いた。詩篇の句がはげし
く彼をとらえた。
──主よ、わたしの祈りを聞き、願いの声に耳を傾けてください。あなたは正しく誠実なかた。わた
しの祈りに…こたえてください。
──あなたに向って手を伸ばし、かわいた土地のように、わたしは、あなたを慕う。主よ、急いで…
こたえてください。わたしの…いのちは衰え、あなたが顔を隠されるなら、死の国に下る者になり果て
ます。
──あなたに信頼する者の上に、朝ごとに…あなたのいつくしみを現してください。心をこめて…あ
なたを仰ぐ者の上に、行くべき道を示してください。
──主よ、はむかう力から助けてください。あなたのもとに…わたしはのがれる。あなたは…わたし
の神、み旨を行うことを教えてください。あなたのいつくしみによって、正しい道に導いてください。
──主よ、あなたのために…わたしのいのちを新たにし、恵みによって苦悩から救ってください。わ
たしは…あなたのしもべ。あなたの恵みで悪を滅ぼし、しいたげる者を退けてください……。
起ち上がって、彼は、ゆっくりと彼の家族のもとへ歩をはこんだ。
356(80)
長助も、はる(2字に、傍点)も──、二人とも彼の小声を、待っていたかのように目を覚ました。抱いてきた「親指
のマリア」を彼は書物(かきもの)部屋へはこび入れて、身じまいをしてきた長助とはる(2字に、傍点)とを、自分のまぢかい場所
に坐らせた。
ちょっとの間、沈黙の時に場をゆだね──、そして。
「びっくりしないで下さい。聴いて下さい。決心をしました……」と、彼は、ゆっくり十字をきり、
「アァメン」と唱えた。二人がひそやかに和した。
二人は、じっと彼を見てつぎの言葉を待っていた。
「はる(2字に、傍点)さん…」
「はい…」
「わたくしの、妻になってくださいませんか」
彼は一気にそれを言いきった。まッ…と、はるが声をのんだ。まっかになった。すこし兄ににじり寄
っていた。
長助が、呻(うめ)くように、低い声をしぼって彼のまえへ両手をがくッと突いた。
「ありがとう……ございます…」と、長助が言ったか彼が言ったのか。彼自身は──胸いっぱいに湛え
た息で、まんまるく体がふくらむ気持ちだった。彼もまっかに頬を燃やしていた。言ってしまった狼狽
と、また安堵とでおろおろしていた──。はる(2字に、傍点)は、そんな彼へ、白い泪(なみだ)にぬれた手をそっと、与えた。
この獄中で、結婚──。
いつ、そんなことを思い立ったろう。
あぁ…むしろ、そんな詮索に煩わされるのは、よそうと思った。愛があれば…。愛は、あるか…。あ
る……
357(81)
主が、もし、あの短い生涯に妻をえておられたなら、すばらしいことだったと、ある高位の聖職者が
ちらと彼にもらした真意を、ながい間くみとれなかった。聞き違いかもしれず、冗談かもしれず、いた
ずらな撹乱だったのかも知れない。忘れるにも値しないことのようであり、だが、まるきり忘れてしま
えなかったのも嘘でなかった。
おそらく聖職者の堕落といわれた過去現在にあって、だれもが金を溜め、領地をもち、地位を得、権
勢をふるえたわけではない。それにもかかわらず通俗には、性欲にからんでカトリックの僧も尼僧も道
を逸れてきた。道とはいうが、なぜそれが正しい道か定められてはいず、定められていれば必ず正しい
のかどうかも分らぬまま、罪の思いに乱れ乱れ子を産みすてた例がたしかに、海山(うみやま)あつた。だから宗教
改革者の多くは、牧師でも妻帯して家庭を営み、子をなし、よく育てる暮しへ入って行った。
やがて来る十二月八日は、童貞聖マリア無原罪の御孕(やど)りを祝う、十五世紀以来ローマ教会暦の祝日に
あたっている。日本の暦とでは、ずれはあるが、こだわるまい。
はる(2字に、傍点)さんが事実子を孕(やど)すかどうか分らないが、二十五日には主の降誕祭がやってくる。ベツレヘムの
厩(うまや)にまけないこの日本の切支丹牢のなかで、せめて新妻が孕(はら)み、初穂の子が生れる喜びを心に祈りなが
ら、その期間を新婚の日々と祝いたい……。
そしてその跡の一年間を、きょうだい・夫婦ともに聖書を読み信仰をかたくし、この世の四季をよろ
こび迎えてから、来年の……クリスマスには、心をあわせ、心の底から切支丹として生きてきたことを
公儀に告げて、その裁きを甘んじて受けたい…と思う。父である神も、み子である主キリストも、また
聖母マリアも、きっとそれだけの日々をわたしたちに許して下さると、信じているのです……。
聴く二人が、おもわず掌(て)を胸に組んでいた。恐れたようすはなかった。それどころか一年向うへ予定
した事…を、今にも成就したいと言いだしそうな二人かも知れなかった。
358(82)
「ばうちずも(洗礼)は、いつ、お授けくださいます…」
長助は、そんな古いポルトガルの言葉もすらりと□にした。今すぐに…。はる(2字に、傍点)は、心も燃えるのかし
て、白い花びらのような細おもてを輝かせて、望んだ。いちまつ、あまえるような女の声だった。彼は
あかくなり、頷いた。
「清い水を…」
「はい」と、はる(2字に、傍点)は、もう起っていた。はる(2字に、傍点)が暁(あけ)ちかい戸外へ出るのを見送り、彼は新しい兄に声なく
頭をたれた。
「いけません。頭をさげたりなすっては」
「よかったのでしょうか…これで…」
「はい。生きてきた甲斐が…、…はる(2字に、傍点)も。わたくしも。それよりも。あなたさまに、難儀な、お心に無
いことをおさせするのでは……それが、案じられて」
「いいえ。真実の気持ちを長助さん…あなたが、引き出して下さった。気持ちが絢麗なものになりまし
た。
神様は言われた。私は道である、道がなければ人は行けないと。行けないはずの所まで、わたしたち
が歩いて来れたのは、神様のお導きあればこそでしょう。その神様が言われています、長助さん…。も
し私と共に栄(は)えある国に上りたいなら、私と共に十字架を担いなさい、と。なぜなら、ただ十字架に仕
えるものだけが、祝福と、真の光と、の道を見分けられるのだから、と。
誤解しないで聴いて下さい。あなたがたにとって、わたしは十字架です。わたしにとって長助さん、
あなたも、はる(2字に、傍点)さんも、十字架です。共に担うから共に永遠(とこしえ)に生きるのです、主のみ足のまぢかに」
「わたくしは、もう疲れています。それだけ身もかるくなっています…が、はる(2字に、傍点)は女です。望みのよう
359(83)
なものを、いくらか残しているかも知れません。それが、かえって心配といえば心配ですが…」
「そうかも知れません。この一年の月日が、あの人のかえって重荷にならないか……どうか…」
男ふたりは、黙った──。はる(2字に、傍点)が戻っていた。涙をいっぱいに目にためて、黙って首をよこにふって
いた。起って行き、彼ははる(2字に、傍点)を胸に抱きとってやった。
それから彼は白い紙でつくって、十字架を壁に押した。下に、「指」を抱くマリアの絵を置いた。ま
だ木の香ののこった手桶に、澄んだ井の水が冴えていた。二人の友に、彼は跪くように求めた。自分も
跪いた。
「心を尽し魂を尽し精神を尽してあなたの神なる主を愛せよ。これが最も重要な第一の掟であると、主
はおしえられました。
そして第二もこれに似ている、自分を愛するように互いに愛しなさいと、おしえられました。余のこ
とは、すべて措いて、この二つを重ねて心に誓いましょう。
今、わたしは、司祭に与えられた権能で、あなたがたに洗礼を授けるのだとは思いません。あなたが
たに出逢った喜び、あなたがたを愛する喜びに満たされて、神と子と聖霊と、そして母マリアにも見守
られて、洗礼者の役をつとめます。主よ、おゆるし下さい……」
起って手に清水をむすび、長助にそそいで「ヨセフよ。幸(さち)ありますように。アーメン」と彼が唱えた。
長幼も和してかすかに微笑んだ。次いで歩みよると「花嫁マリアよ、とこしえに愛を」と、洗礼ととも
に静かに接吻した。
師走八日は、早朝からの大雪になった。おやみなく降った。午前中に柱の根石が吹き降りの雪に隠さ
れた。木という木が白い巨人になった。井戸水までうすい氷を張った。屋根の雪をおろすために、牢役
360(84)
人が数人乗て、梯子をかけたが、だれかが怒鳴ったように、こんな広い牢屋がなぜ必要なのか…。
「長助。あがれ」
手が足りなかった。長幼が梯子をのぼって行く下で、彼もあがりたいと大声をあげた。子供が親にせ
がむような物言いに、やや頭(かしら)だつ番卒のひとりが苦笑ぎみに、「よし、あがれ」と声をかけた。
「およしなさいまし」と、はる(2字に、傍点)は危ながった。だれかが□真似をして、ひやかした。たしかに日本の雪
は苦手だ、すぐに凍てて滑る。
「ダィジョブ、ダジョウブ…」
すこしでもべつの景色を見たかった。牢舎はがっしりと軒は高い。棟も高い。彼は御意(ぎよい)のかわらぬう
ちにと、藁草履をひとつだめにする覚悟で梯子にとりついた。
梯子ッて、こんなにいいものか…。
勾配はゆるいが、屋根へ乗り移るのはやはり怖い。下りる時が怖い…。展望はそれで限られてしまっ
たが、だがいきなり顧みた遠くに、煙った灰色の影になり大きな城郭が見えた。意外──といえば意外
な、胸の芯が一瞬に凍りついた、痛いほど。梯子をつかむ指から力が抜け、彼は顔を伏せるようにして
梯子にしがみついた。江戸城…。
なんという暗い敵意を抱いているのだ、わたしは……。肩をちぢめて、彼ははっきり自身をむしろ責
めた。けれど見るべきでないものを見た動悸は、すぐには静まらなかった──。
それでも視線はくるくる動かした。雪に沈んで江戸の町はとらえきれず、大きな弧を描いた水路のよ
うな堤のようなものに沿って、到るところに豊かな木々の影が察知できただけだ。だが、寒さも冷たさ
も忘れていた。はたはたと着物の裾が足を叩く。どどどッと屋根からおろす雲塊を頭上にあびて、彼は
ひえぇッと頓狂な声をあげ笑いまで誘った。
361(85)
おぉ、天にまします父なる神様、また聖母様。この涯なく白い雪の豊かなお恵みに飾られまして、
今夜(こよい)…わたくしはみ子の一人に加わりましたマリアはる(2字に、傍点)を妻といたします。み心のままにわたくしたち
が成りますように、アーメン。彼は梯子の途中で高く天を仰いで、祈った。
午後から、細い雨になり、すぐやんだ。雲があらあらしく動いてから明るくなった。日のある間、三
人は、めいめいに過ごした。彼は自室でロザリオの祈りを飽くことなく続けた。長助は、土間を丹念に
掃ききよめ、その間にも今宵の花婿に頼まれた祝福の祈りの言葉を暗記していた。
はる(2字に、傍点)は──。
はる(2字に、傍点)は「マリア奥様」の形見の衣裳から一番身にあう一枚をとりだし、慎重に手入れをしていた。五
十一という年齢はすこし気はずかしいが、若い女とひき較べて卑下するということは、ない。幸い、な
い。パードレは大きいし、はるは肩にもとどかない。それよりも、このまえ、思いがけない。パードレの
告白と嬉しい洗礼に授かったあとで、しばらく跡絶えていた女のしるしが、また戻っていた。
彼は自分で木戸へ出むき、こういう際は自分の名をだして願いでよと言われていたように、横田伊次
郎を頼むていに少しばかりの酒を差し入れてほしいと番卒へ申しでた。大雪のあとの冷えこみが、晴れ
て、夕星(ゆうずつ)のひかる頃からひとしお厳しい。
酒は手に入れた。パンの方は、山屋敷ではふるくからパンらしいものの焼ける伝統がある。三三九度
の杯ごとも真似の程度にしあった兄と妹だが、今宵は聖体を戴くささやかな儀式で、結婚の誓いを固め
たい、兄のヨセフ長助に司式を頼もうと、心用意は銘々怠らなかった。
夕すぎた刻限からしきりに屋根の雪がしずくした。おだえない音は、豊かに満ちたりたもの(2字に、傍点)の、命の
息を刻んだ。
時は来ていた。
362(86)
牢の部屋をあえて選び、十字架とマリアの絵とが、おのずからな祭壇をなした。祭壇に近く、向き合
って彼とはる(二字傍点)が立ち、長助は祭壇へ真むかいに密度の濃い菱形をつくった。絵の前に、黄金(きん)色の二つの
橙(だいだい)が青い葉の小枝をつけて飾られ、ちいさな台に白い布を敷いて彼がかろうじて手元においた聖杯と、
赤黒くやけたパンとが並んだ。杯にはすこし濁った日本の酒がとろりと静まっていた。
──天にましますわれらの父よ……
花婿になる彼が、静かに発唱した。三人の声が、ひくく穏やかに主祷文を、「アーメン」と読みおさ
めた。つぎに天使祝詞は花嫁のマリアはる(二字傍点)が唱えた。
──めてだし、聖寵充ち満てるマリア、主おん身とともにまします。おん身は女のうちにて祝せられ、
ご胎内のおん子イエズスも祝せられ給ふ。天主のおん母型マリア、罪びとなるわれらのために、今も臨
終の時も祈り給へ。アーメン。…、
そして栄唱は、婚儀をすべる身内の長(おさ)のヨセフ長助が、おだやかな声を感動させて、ゆっくり唱えた。
願はくは、父と子と聖霊とに栄えあらんことを。始めにありしごとく、今もいつも世々にいたる
まで……「アーメン……」と、声がそろった。それまでだった。
長助は歩みより、パンをちぎり酒にひたし、まず食した。つぎに跪いた二人に手と手をとらせておき、
彼の□に、また妹の□に聖体を戴かせた。兄は夫婦の手に手をおいて一言「永久(とわ)に」と唱え、二人も和
した。接吻した。
「よかった……」
長助が、はじめて聴く涙声になり、あッというまに、おうおうと泣いた。泣きつづけた。
「兄さま……」
はる(二字傍点)が兄にしがみついて泣いた。彼も二人を抱きしめて泣いた。マリアの絵も泣いていた。壁の紙の
363(87)
十字架だけがすべてを見ていた。無原罪の御孕(おんやど)りの祝祭が、雪しずくの夜をこめて、音もなく帳(とばり)を
垂れようとしていた。
それから──クリスマスまで、毎夜、マリアは彼の部屋を訪れたのである──。
クリスマスには賛美歌を歌い、そして彼はマタイによる福音書全二十八章を、第二章から読んで聴か
せ始めた。
──イエズスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士
たちがエルサレムに着いて言った、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。
わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました。」ヘロデ王はこのことを聞いて
不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった──。
彼の導きはいきなり核心に触れていった。現実の王よりもすぐれた王、魂の世界を治める王があり、
自分たちはその王に愛されてやがてみもとに迎えられるのであり、なんの「不安」も、ないと。
大切な大切な新しい一年が、こうして始まった。始まってしまった──。
次の年四月、年少の将軍が正式に立ったとほのかに聞えてきた。ふっつりと新井勘解由は影も見せな
いが、山屋敷同心の横田伊次郎は相変らず気のいい、だが唐突な訪問で彼らを慌てさせた。岡本三右衛
門の墓参りがしたければ、はからってやってもいい。そんなことも横田は言いだし、なんでもいい、著
述をと彼に勧めた。
自分の代りに長助とはる(二字傍点)とに墓参を許してくださいませんか。彼がそう申し出たのも、一度二度でな
かった。だが許可は出なかった。米の値があがって江戸の暮し、らくでないと、聞きもせぬことをのん
びりぼやき、西洋でも米をつくるか、米はどんな竃(かまど)でどう炊くかなどと尋ねついでに、横田は思い出し
たように、御扶持(おふち)を頂戴して長助らが暮しに困らないのは、わるくない身上(しんしよう)だぜと笑った。さもそれで、
364(88)
墓参りは帳消しにと言わんばかりだった。
新井筑後守が屋敷地を増されて、その喜びの直後から病に臥し、もう二た月ちかいと耳打ちしてくれ
たのも、同じ横田だった。彼らはその晩新井のために聖母に祈った。彼らはもう六月に入ると、マタイ
伝の次に、ルカによる福音書を読み進んでいた。
──聖書こそ力、聖書こそ光。
彼も、彼の身内二人も、それを疑うことはできなかった。
夏に入って、どんな事情でか、塀の外へ相当の人数らしい囚人が送りこまれてきた。□汚く言いあう
声がなにを言うとはさだかでないが、番卒たちの顔からだに険しく角(かど)だつものが感じられた。隔ての塀
がもし無かったら──と、安堵は□に出さないが、なにがなし言いようのない賛沢を許されているよう
で、彼らは、ひとしおひっそりと暮した。
しばらく前から、三人とも、つとめて静かに、目を見合うようにして過ごす日々へ入りかけていた。
長助がまず、相談はなしに、それとなし食を細めはじめた。枯れてゆく木目の美しい木のように、長
助の几帳面なきれい好きに変りはない。が、用のないときは彼らのまぢかへ来て、マリアの絵の前でた
だじっとしていた。ときには、うたたねしていた。
長助は、詳しい事情をよく知ってではないにせよ、自分の祖母が一度はお上の慈悲にすがって棄教し、
十字架上の夫や姑たちに背いたことをかすかに意識していた。その祖母が、後年には異国の老い衰えた
パードレを匿(かくま)い、それを、今度は母が手にかけたらしいことも、うっとうしい負担に感じていた。祈る
言葉は、いつも、「主よ、おゆるしください」とはじまるのを、彼は、義兄長助のために悲しいと思っ
た。
夜分になると福音書を、三人で読んだ。
365(89)
ルカ伝のまえにまだマタイ福音書を読んでいたとき、彼の二人の弟子たちヨセフ長助とマリアは
る(二字傍点)──が、もっとも感動したのは、こういう点だった。
イエズスが、神の子として世に現れるために、またダビデの家系に名を連ねるために、大きな二つの
承諾、深い信仰からの承諾が必要だった。一つは、マリアが、神と聖霊とにより処女の身でみ子を孕(やど)し
たと天使に告げ知らされた際に、「み心のままに成りますよう」と受け入れていた。今一つは、神に愛
されたアブラハムの子孫、ダビデの子孫のヨセフが、すでに身籠もった処女マリアを、神の望まれるま
まに妻として受け入れていた。キリスト教の成る、二つのこの承諾はかけがえのない信仰の証しだった。
彼は二人を徐々に導いていた、人形同士の愛にまさって主を愛そうと。人間同士の慰めにかえて神の
み心に適(かな)うことを選ぼうと。無垢なこどものように、その「時」を迎えよう、と。言いつつ彼は、ひそ
かに秘密の洗礼を授けた長崎通詞の一人を、いとおしく思い起していた。
山屋敷は、いつかまた静寂の日々にもどっていた。番卒たちも黙々と彼らのために日々の差し入れを
繰返した。横田が呼びだす木戸の鉄鈴もめっきり数が減っていた。
ルカによる福音書がしるすマリアの像は、豊かにそしてつつましやかだった。しかもマリアは、イエ
ズスの生れるずっと以前から主の愛のすべてを「心にとどめ」て、イエズスの死後にも、世の人々に伝
えていた──。
夏はひときわ暑く、市中の、ものの饐(す)えた臭いが流れてきたのも、長助らには、永の歳月に何度とな
かった、よろしくない徴候だった。
案の定、はる(二字傍点)は秋のあいだ中をわけの分らない熱の病で臥しつづけた。医者を頼む気はないとはる(二字傍点)は
拒んだ。医者がこの山屋敷に入るということは、近いうちに死人が出て行くというのと一つ事でありげ
に、はる(二字傍点)も長助も推量してきた。
366(90)
「思いのこすことは、なにもないわ。いちばん先に行かせて下さるでしょう……あなた…」
マリアのはる(二字傍点)は、そんな物言いで二人の「夫」にあまえた。そしてまた読みのこしているマルコ福音
書の、残り頁をそれとなく目で数えて、彼に、はやく読んで下さいと頼んだ。
この福音書では、大勢の人々が、主キリストが「ナザレのヨセフの子」であり、「マリアの胎(はら)に生れ
た子」である故に、躓(つまず)いていた。神の子とはとても信じられなかった。イエズスに敵意を抱く者らは、
ことさらその点を人々に指摘した、なにが神の子か…。ヨセフとマリアとの子に過ぎないと。親族はも
とより、だいじな弟子ですら「この方はいったい誰だろう」と戸惑った。
「どうして信仰がないのか」
主は、それだけを言われた。
彼は妻はる(二字傍点)の額に手をおき、義兄長助の手にも手をおき、もう一度ルカやマタイ伝で読んだ主の言葉
を思い出させた。
──あなたたちが見ているものを見る目は、幸いである。あなたがたに言っておく。多くの予言者や
王たちも、あなたがたの見ているものを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いている
ことを聞こうとしたが、聞けなかった。信じなさい、それで救われる。
福音の書記者マルコは、「人の子」イエズスの受難を十二分に記しつつ、まこと彼が「神の子」であ
ったと、心ある多くに納得された場面を、たんたんと語りついでいた。適切で美しい多くの譬えばなし。
そして十字架と復活と。
さらにマリアが、まこと「聖母マリア」になりえたのは、肉の繋がりや血の繋がりの故にではなくて、
彼女の、み子への、主への信仰が無垢に深いものであったればこそと、説きあかしていた。──はる(二字傍点)は、
熱の顔をかがやかせて、よく聴いた。嬉しそうに聴いた。
367(91)
とうとう、その時が来た。イエズスはゴルゴタの丘のうえで十字架につけられていた。
──昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イエズスは大声で、
「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになっ
たのですか」という意味だった。イエズスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿
の幕が上から下まで真二つに裂けた。
はる(二字傍点)も、長助も、「お見捨てになったのでしょうか」という不安の問いを、ついに彼に向けなかった。
じっと、息をつめて彼の□もとを見ていた。彼は続きを読んだ。
──イエズスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て、言った、
「まことに、この人は神の子であった」──。
しずかな溜め息がもれた。雁が渡って行くらしい。月明かりに虫がすだいて空の鳥に和していた。は
る(二字傍点)は月が見たいとせがんだ。男たちははる(二字傍点)を抱いてやった。
「クリスマスまでは、生きてられそうにないわ」と、はる(二字傍点)は厳しい寒さに肩をちぢめながら、あます一
ヶ月余の重さを推し量るようだった。声なく、男たちは銘々に十字をきり、主のお恵みを、日々におさ
なく美しくなる「妻」のために願った。
はる(二字傍点)が寝入っているあいだに、彼は、「兄さん」と呼んで長助を鞘土間の方へ誘った。
「お気持ちは固いと信じていますが。……どうでしょう、繰り上げませんか」
「そうしましょう。八日の祝日…までは、もたせてやりたいが…」
「ちいさくなって……。食べようとしないから。でも、何としても夫婦での一年間…もたせてやりまし
ょう。キリスト教徒として晴れて名乗りでてから天国へ見送ってやりましょう」
「これも、……十字架、でしょうか」
368(92)
「そうですとも…」と、彼は手を引っ張ってはる(二字傍点)の枕べへもどった。はるは、そっと目ざめていた。彼
は祈った。
「主イエズスよ。あなたが仰言りお約束になったとおり、そのとおりに必ず成りますように。私たちは
あなたの手から十字架を受け取りました。私たちはそれを死に至るまで担って行きましょう、お命じに
なったとおりに。十字架こそは天国へのみちしるべ。私たちの仕事は始まり、捨て去る気持ちはありま
せん。
さあ、きょうだい達…。一緒にやりおおせよう、主も聖母も、私たちを見ていて下さる。恐れず、み
な勇ましく闘って、死ぬ覚悟をきめましょう。十字架を捨てて逃げるという咎(とが)で、私たちの栄光を汚し
てはなりません……」
聖処女マリアの無原罪の御孕(やど)りを祝う日、彼とマリアはる(二字傍点)との結婚一周年の日は、もう夜分までは保
てなかった。朝の祈りを三人でかろうじて済ませると、すぐに、長助は木戸へ走った。妻と夫は、「天
国で」と言い交わした。
横田伊次郎があたふたとかけつけた。
彼は、はる(二字傍点)と長助の手をとったまま、十字架と悲しみのマリアの前で、二人に洗礼を授けたこと、こ
の高貴な婦人は、神の愛(いと)し子としていま天に召されることを、穏やかに告げ知らせた。
そして棒立ちの牢役人に背き、ヨセフ長助が先に、そして洗礼者の夫が愛妻に、暫し別れのくちづけ
をした。
マリアはる(二字傍点)は、ほのかに笑み、こと切れた──。
369(93)
殉教の章 〈勘解由・〉
一
正徳四年(一七一四)二月二十八日、隔年の礼を守って江戸参府の長崎「阿蘭陀(オランダ)人」一行が今日、浅
草書龍寺へ入ったという。
彼はお城へ上がって間部詮房(まなべあきふさ)と密談した。
「不穏(ふおん)です。…ほかに言いようが、ない」
間部はもの言いにかすかな諦念(ていねん)をにおわせた。
「十分…気配りはなさっていましたのに…。やっぱり、奥の方から、崩れて来ましたナ」
「さよう…。種は、蒔けば生えるが。そのあとが…」
大奥から表向きへ、干渉がある。度が過ぎてくる。
古来の悪弊といえばそれぽでだが、将軍家が大樹のごとくに威勢豊かであれば、少々の風に枝葉も騒
ぎはしない。しかし将軍家継(いえつぐ)が左右も覚束(おぼつか)ない四つ五つでは、御側に、将軍の父とも慕われる冷静で忠
370(94)
節な間部詮房があろうとも、また前代いらい信任厚い本多忠良やさらに彼新井勘解由があろうとも、ど
うしても、それより生みの母の左京局(さきようのつぼね)あらため月光院や、前将軍の正室天英院らの取る舵で、しばしば
風向きまでも変ってしまう。老中がたもあえて、奥からの突風を、防ごうとはしないのである。
ときには白州の裁きにまで、「嘆願」の体(てい)の妨害がはいる。奥で力ある女中らの縁故の者が、とかく
目にあまる甘い汁を吸うている。放埒にもなる。そこを狙い、猟官の武家や出入りの商人職人らも賄賂(わいろ)
をつかう。女中の宿下がりや寺社代参の際が好機とされてきたらしい。
「どこがと言えない、ただ…気がかりな女でした」
「絵島ですね…覚えています。身元など、随分お調べになっていました。無茶な女とは、むしろ見えな
んだが…」
「これという咎(とが)も、なかったのです。どっちかといえば、奥を預けて、安心できる方の女でした……」
「よほど響く…のでしょうか」
彼は、老中職とは一味ちがう側用人という間部詮房の微妙な立場を気づかった。
間部に響くことは、彼にも響く。
成り上がりながら間部越前守は高崎城主であり大名であるが、彼など従五位下筑後守にしても禄千石
の、職掌は若年寄支配下の一儒者にすぎない。その成り上がりと一儒者とで、しかし、前代の政治は、
ひたと取り仕切られてきた。将軍家宣(いえのぶ)健在のうちは表れずにすんでいた幕閣や大名らの久しい鬱屈が、
幼将軍の今のうちにこそ、できれば大奥も巻きこみ、間部詮房と新井勘解由との存在を、徐々に徐々に
排したい方向へと動いている──。
意外に、だが、詮房はさらりと乾いた目をしていた。頷くとも首を横にふるとも、先への読みは見せ
ない。ここにも天爵の人物がいる……。ふと頼もしかった。
371(95)
「絵島の詮議は、我々の手を届かせないところで、おそらく、徹底してやる気でしょう。おかげで、例
のヨワンの一件は棚上げにされている。しかし、いつ火がつくかも知れません」
間部詮房は彼へ、すこし膝をよせてきた。
「ナニ…幸か不幸か」と詮房はその物言いを楽しむような□ぶりで、「…たいした事と、思われていな
い。切支丹屋敷に伴天連(バテレン)のいたことさえ、大概の者は、覚えてもいませんよ。婢女(おんな)はすでに死んでいる
というし、男二人も、殺せばすむ。殺さなくてもすむ……かも」
彼は、うかとは答えなかった。
「で、ヨワンは、いくらかものの用に、立ちましたか」
「立てます気で立たせましたなら、ずいぶん、役に立つ者と思います」
「微妙なお言葉ですな。しかし、どっちみち、今が現在(いま)ではもう、仕様が無いと…。そうじゃありませ
んか」
「仰せのとおりです。方角によっては大した知識ですが、それ以上に切支丹そのものですから……」
「どうなんです、死んだ五十友と…は。身罷もっていたやもと……噂だけかも知れないが。ヨワンです
か…。もう一人は、実の、兄なのでしょう」
彼は、ただ、聞く顔でいた。間部(まなべ)がそのような噂に本気で嘴(くちばし)を入れているのでないのは、分っている。
彼も長助とはる(二字傍点)との表むき「夫婦」の事情は、与力や同心を通じ、いくらか知っている。ヨワン自身で
いろんなことを□走っているにしても、建前は建前で通しておけばよろしい。
「ともかく、すぐ、生き残った二人は引き離しました。先年の、文昭院(故家宣)様御直々…という吟
味の経緯(いきさつ)がありますからね。好んで手は誰もだして来ません。あなたでないと…とは、わざとわたしは
言わなかったが、他の者では、あの囚人の言葉は通じまいとも、釘を、刺しておきました。
372(96)
ま、幸い春に長崎からカピタンが来る。通詞もついて来る。お仕置きの手筈はその際にと、言うてい
るうちに、あの、絵島らのイヤな一件……。老中が総出の騒ぎで…」
間部詮房はいつもより□数おおく、気も軽げな□つきだが、内心はどうか。今日の午後にはオランダ
の一行はもう浅草の宿館(やど)に入っているのだから、密談には相応の目的があるはずなのに、詮房、なかな
か切り出さない。
「で…、ヨワンとは、以来……」
言いさして、詮房は苦笑した。昨冬、ヨワンらが「宗門の儀」で自首して出たという知らせは、逸(いち)早
く彼のもとへも届いたが、とてつもなく寒かったあの日、ヨワンとの接触を以降慎(つつし)むよう彼に言って寄
越したのも間部であった。
あの午後彼からも間部へ急いで密々に申し出たのは、ただ一点だった。即ち拘禁もさることながら、
むしろこの際にこそ、ヨワンの国外追放を、お考えあるべき事──。
「通詞は、何人参っていましょう…」
彼ははじめて自分からものを聞いた。
四人。そのなかに品川兵次郎の名のあるらしいことに、彼はかるく息をついた。人間がさらりとして
いて、ものをよく見ていた。向うから来た相手をただ見るのは、やさしい。必要なからだを働かせてこ
っちから、見に行く・聴きに行くぐらいでなくては話にならないが、品川には、年配のわりにそういう
毅い意欲が感じられた。
「宗門改の方では、いかがな考えでしょう……わたくしに任せましょうか」
「正直、そこがまだ分らない。信篤(のぶあつ)(林大学頭(だいがくのかみ))あたりが言いがかりはつけましょう…が、いまは絵島
の方の成行きに人の目も思惑も集まっている。伴天連(バテレン)の一人二人、見殺しにするところですが、さてオ
373(97)
ランダ人のお目通りも恒例ですから…。通詞の使えるいまが、ともあれ吟味の機会……、ま、由松(よしまつ)(横
田備中守)は、実をいうと辞易しています。できたら新井さんに任せたがっている」
「おそれ多いことですが、わたくしとしては、文昭院様のご裁断に対し、今さら人があれこれ言わぬよ
うご処置ありたいと願います。死ぬ覚悟で自首したのは知れたことで。だから殺すか、だから追い放つ
か……」
「追い放つなど、成らぬ話です。幕閣は、国内事情のよそへ漏れるのを、ひどくいやがる…。それに奴
は、御先代様のご慈悲に背き、国禁を犯したのですからね」
間部越前の言葉に、彼も頷くしかない。
「わたしとしては、あなたがあの拘禁処置を、上策でないと言われた…、あれに希望をもっています。
責任問題が出ればわたしは、あれを、言いはりますよ。ナニ…居直ってもいいのです。異国の使節をむ
やみに殺す理由がなかったから、軟禁しておいた。こういう仕儀に立ち至ることも予測していた。むし
ろそう誘っておいて、なったら、なった際に処断するというのが、幕閣の結論だったと言ってやります。
そのようなことも言うていたのですよ、事実…」
「…………」
「それにしても、だが。もう一度……どうしますか。どうしたいですか、あのヨワン・なんとやらを。
オランダ人は三月十日ぐらいまで、江戸に逗留しています。そっちとも会われますでしょうな」
「それは、ぜひとも。尋ねたい事がございます」
「采覧異言が、もう出来ていたのでは…。早く評判になってほしいし、評判になる本だ……と思うが」
と、間部は恰幅(かつぷく)もよろしく、篤学の人を労(いたわ)るように□を利いた。
「あの男と…会いましょう。お許しが出れば、ですが。品川という通詞に同席してほしいと思います。
374(98)
ヨワンは、だが…なにも言いますまい。ま、一生の奇会(5字に、傍点)でした…、それなりに締め括りがっけば、それ
も天爵……」
「天爵……。どういう事ですか」と間部詮房は尋ねた。
「孟子が説いているのです。高位高官は人爵、仁義忠信は天爵と。そして、古人のえらいところは、天
爵を修めてその結果人爵がおのずと之(これ)に従ったのに、今人(きんじん)は、はなから人爵を得たくて天爵を表むき修
め、官位を得てしまえば天爵を棄てて顧みない……」
「なるほど…」
「ローマに生きれば、あの男も人爵に恵まれた程の人物でしょう……。選んだ道は狂気の沙汰ですが、
卑しからぬ狂気ではあったようです」
「ふむ…。仁義忠信ですか」
「彼は、愛というでしょう。ところが聖人の教えもまた、士の天職は人を愛する…即ち仁の一事と説い
ています」
「東海の涯(はて)まで、つまりたった二人に教えを説きにヨワンは来たのですか」
「二人が一人でも、来たでしょう…」
じろりと間部は彼を見て、すぐ、視線を遊ばせた。それから、今度の事件では山屋敷の誰も、べつだ
んのお咎めを受けていないと教えてくれた。彼も様子は知っていた。同心の横田伊次郎に義弟余三(よぞう)を、
連絡の役かのようにして、近づけておいたのである。」
横田の機転で、目の前でたしかにいま死んだ女の始末よりも、この同心は、心知った二、三の手下(てか)をつ
かい、囚人に預けた書物書類の一切を、番所といわず一気に役所へ引きあげていた。むろん「異人の女」
の絵もヨワン自身に元のように包ませ、逸早く没収しておいた。
375(99)
覚悟をしていたか、ヨワンはすこしも抗わず、むしろ、にわかに年老いた下僕の方が食い入るほど主
人の手にある「サンタ・マリア」に名残り尽きぬふうであったとか。
「カタジケナイ…ウレシカタデスト…」
ヨワンは絵を横田に渡しながら、独り言めいて、そう、それとない──彼、新井勘解由(かげゆ)への──感謝
を呟いていた。両眼に涙はいっぱい溜めていた。けれど、絵の女との別れを泣いているのか、はる(2字に、傍点)が死
んだ目前の悲しみか、どこかうつけた程の放心に、ふしぎに安堵とも見える芯の澄んだ落ちつきがあっ
たとも。
幸い、自首の事態が番卒らには呑みこめていなかった。横田がめったにない固い表情で物を運べと命
じれば、女がとうとう死んだ穢れを避けるのだと思うらしく、たしかに囚人も、むろん長助 も、役人が
なにを持ち去ろうが死者のまぢかをただ守り、石になって両掌を合せていた。
書物(かきもの)部屋もヨワンの居室も、横田の目に「物騒な」ものは紙も筆も一物(いちもつ)ものこさず運び出した。運び
終わって横田はひとり、はる(2字に、傍点)の死を確認の為に医者を伴って現れ、簡単に太った医者の首肯(うなず)くのを受け
て、長助に、屋敷内(うち)に場所をえらんで「早く」埋葬しておけと言いつけた。
かなり手荒く扱われて長助が、久しい囚人の侍僕の身分から初めて罪囚として禁猟の措置をうけたの
は、翌日昼すぎていた。長助らは、いっそ待ちもうけた事のように素直に処置に服した。
「ヨワン様……」
「兄さん…」
それだけが分かちあった最後の言葉であり、ヨワンが長助を兄と呼びかけたのを居合わせた番卒たち
は聞き咎めていた。あやつらは、とかく互いに「兄弟」と呼ぶのさと横田は気にかけなかった。
長助らは朝まだき明けきらぬうちに、はる(2字に、傍点)の埋葬を終えていた。はる(2字に、傍点)がことに好んだ桜の大樹にまぢ
376(100)
かい土手下の、あの八兵衛石からも遠くない場所を永眠の墓地にえらんで、誰の立会いもないヨワンと
長助とだけの冴え冴えと寒い葬儀であったらしい。面倒が省けたわ。そんなふうに横田伊次郎はた
かが女の病人が一人死んだ後始末をずるずる引きずれるものかと、ことさら苦虫をかみつぶしていた。
よくやってくれた……。余三(よぞう)からそういう経過(こと)も小耳にはさみ、彼は、横田もそれなりにヨワン.シ
ローテを追いこんだ負いめを、……いやあの囚人の人柄に好意を、感じていたらしいのを察した。
天爵……。しきりに彼はこの二字に感慨をもった。
「仏氏(ぶつし)の説に、一体分身という事を聞くが、たとえば、余と勘解由(かげゆ)とがそれだ」
それは、亡くなられた御先代家宣公が、はばかりなく公言された言葉であった。
制度よりも人を重んじる聖人の思想に、前将軍は、単なる敬意ではなく自身それを躬行(きゅうこう)せずにいない
気迫を、最後の最期まで失わなかった。
端的には、大学頭(だいがくのかみ)信篤が林家(りんけ)の地位と体面に執(しゆう)するのを暗に家宣は嫌った。我命の厚薄は天にあり、
用いられれば行い、捨てられれば蔵すのみと、懸命の建議や封事に骨身を削って「仁」の政(まつりごと)に奔走す
る彼を、新井白石を、将軍家宣は心底師と仰ぎ、身の程にくらべて遥かに優遇、重用した。
むろん前将軍在世のうちに「一体分身」を誹(そし)る声など、少なくも表立ちはしなかった。ただ「蒼顔鐵
の如」き彼を「鬼」とおそれる者は、江戸城中に、少なくなかった。
そうであったればこそ、彼が今望むところは、浅はかな言動で前将軍の知遇にそむき、主君の明を曇
らせることの無い、退隠であった。けれど幼い御当代もお護りせねば…。
正徳二年(一七一二)九月、夏以来病みがちに薬石(やくせき)の効(かい)が見られない主君から、いま思えば御形見わ
けの『二十一史』を頂戴した。それが二十五日であったが、一日隔てて二十七日にもひそかに召され、
377(101)
間部詮房(まなべあきふさ)を通して、あまりに重大な御継嗣につき脚下問があった。思い出すだに彼は泣けた。
家宣は死の床にあるのを承知で、いたって平静にものを言った。
「始めがあれば、終りがある。世にない後(あと)のことを配慮しておくのも、平生の務めと思ってきたが、こ
う病み臥してはまして考えずに済むことでない。さし迫れば事をあやまる恐れもある。
問題は二つあると思うが、そなたの考えも聞いて決めたい。
天下のことは私すべきでは、ない。跡継ぎが無くはないが、幼いものを立てて世を騒がしくした例(ためし)も
多い。そこで余の跡は尾張の吉通(よしみち)に譲ってはどうか、これが一つ。ないしは幼い者に継がせておき、尾
張殿を西の丸に入れて政治を任せるか、これが二つ……」
彼は即座に答えた。
「ご立派なご配慮ではございますが、共に必ずしも適切とは存じませぬ。御跡継ぎが二、三に分れた際
の党派の争いが世を騒がせました例は、不幸にも、過去に繰返されて参りました。上様の御世継ぎに鍋
松君(ぎみ)があるうえに尾張様の名があがれば、心無く、二た手に動きだす者もできて参りましょう、これが
一つ。また、幼君、必ずしも非でないのは、八つで御家を継がれた東照神君(しんくん)の例を申しあげる迄もない
こと。輔弼(ほひつ)の御三家をはじめ御一門の方々、譜代の御家来がかくお揃いのうえは、若君が御代を継がれ
まして何のご懸念がありましょうか」
「幼い者に万一のことがあれば」
「その為に神君は、御三家をお立てになりました」
病将軍は首肯(うなず)き、早く床を離れ、取越し苦労をしたものと、皆で笑いたいがと詮房に言われるのを漏
れ聞き、彼は泣きに泣いた。お仕えするのも今日限りかと、泣きながら覚悟した──。
家宣の気力はしかし、尽きなかった。同じ九月はじめに身を捨てた彼勘解由の激しい弾劾(だんがい)をいれて、
378(102)
とかく貨幣の粗悪化へ私心を挟むことの多かった勘定奉行荻原重秀をついに罷免したのも、それより以
前、荻原らの不正を監視すべく勘定吟味役を新設したのも、将軍の思いが、どれほど貨幣政策に重かっ
たかを示していた。
十月、家宣は病をおして銅と変りない銀貨を鋳(ちゆう)するのを停(とど)めさせた。新盤制への対策を問う草案を彼
に求め、それを十月十一日には下布するよう、九日中に老中に命じてもいた。ところがその九日夜から
容体が革(あらた)まって、そのまま十四日に六代将軍家宣は逝去した。最後の最期に彼は枕べに召され、将軍は、
ただ目をみひらいて彼をじっと見た。桜田館(やかた)以来、二十余年のそれが永別であった。
正徳二年二十日に葬送、衣冠束帯して彼も供奉(ぐぶ)の人数に加わった。彼が推挙し幕府の儒者となってい
た同門の室鳩巣(むろきゆうそう)に無事の退隠を勧められたが、叶わぬ仕儀であった。
茗荷谷(みようがだに)の山屋敷にヨワンのいることも、彼は、まるで忘れ果てていた。
彼が思うことは一つ。年久しく亡きご主君に仕えて、自分に下さった優遇は比較を絶したものであっ
た、だからこそ君の御政道によかれと心に思えば一度として申し上げなかった事などない。□上で申し
上げ、建議・建策・封事の体(てい)で申し上げ、同じことを三度も繰返し申し上げてさすがに苦いお顔も見た
ものの、それでも申し上げたことをお心に掛けられなかった事は、一度もなかったのである。
その上様が亡くなられた。我が衷心(ちゆうしん)に出ずる建白や対策もこれからは誰が聞いて下さるか……。
しかし家宣公が亡くなる間際まで越前殿や自分に仰せであった事案は、お志の成るよう務めよという
ご遺言でもあった。拠(なげう)って身を退くという道はゆるされていない。しかし気は重かった。とかくの噂も
聞えて来ぬではなかった、たとえば将軍逝去直前に金貨、銀貨のことについて広く世間の意見を問えと
老中に御指示されていたのが、十月二十三日に実施されると、はや、これは、新井勘解由の一存に出た
ことと誹(そし)るものも多かった。
379(103)
経緯を知る重職もいることと捨てておいたが、十一月二日の御埋葬が済んで、さて、跡を襲われた御
当代は御父君の喪に服されない、七歳未満の幼君に服喪の例も必要も無い、神事なども滞(とどこお)りなく行うな
どと触れ出された。老中もこれに従うという。彼は■(まなじり)を決し、間部詮房を介して例によって林信篤の説
のいわれないことを散々に追及した。
心一つに前将軍が望み彼も願ったのは、「聖人の制によりて、天下の父子君臣を定」めたい、その心
根はまさしく「仁政」にあった。末梢の議論に足をとられ、上様みずからが御父君の喪に服されなくて、
どこに天下の儀礼の根本が立ちましょうかという彼の意見は、結局通った。しかし大御台所や御生母を
も動かさねばならなかった辺に、もはや、詮房にも彼にも険しい道のさきは、見え初(そ)めていた。
ひきつづいて、「正徳」の元号は改めねばならぬと、また信篤の発言が幕閣を動かしかけた。「正」
の字を用いた年号は不吉であり、ご先代様の御不幸も正徳と改元されたからで、逝去を機に改めた方が
いいなどという。間部越前は老中の意向をうけたか、彼に意見を問うてきた。
彼はただちに二点から信篤の弁を退けた。
年号ないしその文字により吉凶等を議論すれば、歴史を知れば知るほど用いる文字も元号も無くなっ
てしまう。孟子も「歳を罪せず」とされ、天下の治乱、人命の長短は天運や人事によるので、文字に吉
と不吉とを言い募るなどは精神の衰弱を自白しているに等しい。
さらに日本の元号こそはいまや唯一天皇の権限に属しており、しかも改元には、相(あい)当る理由がほぼ古
来定まっている。武家棟梁の死が、即、改元の理由とされた例(ためし)は無い──。
「天将旌旗霊気合」(てんしようせいきうんきがつす)といった詩句を暁の夢に見るなどのことが続き、彼は疲れつつ緊張から解き放たれ
なかった。増上寺の家宣廟(びよう)へは再三参詣した。廟の前でひとり放心してくるのが、むしろ思い和みの時
であった。十二月に入り幼君家継(いえつぐ)の御代始めの儀には狩衣(かりぎぬ)で、長男伝蔵明卿(あきのり)は長上下(ながかみしも)で参賀した。やが
380(104)
て正二位権大納言に任じられた家継の、着袴(ちやつこ)、元服、さらには将軍宣下(せんげ)など当座晴れの御用にも彼は
再々召されて、そのつどご褒美金や拝領品にあずかった。そして、「垂楊復(また)垂柳 春色遠相連」などと
詩句を夢みていた頃、小日向(こひなた)茗荷谷の切支丹屋敷にもひそかに春を待って結ばれた、夢のような新婚の
夫婦が生れていた。想いも寄らず──彼は、ヨワンらのことは忘れ果てていたのである。
「文昭院殿」という前将軍の廟号も、御廟の釣鐘の銘文もみな彼の案が採られた。
間部越前守も政事むきに関わり、精励これつとめて、ほとんど私宅に休養することがなかった。文昭
院様のご遺命に従うとする詮房の裁量には私心をはさんだ所がなく、幼将軍の初政はほぼ前代のままに
滑り出そうとしていた。それも、しかし、うわべでの事であり、例えば旗本の窮乏に起因する公務の停
滞などについて、一応は彼の意見にもとづいて旗本の希望や意見を吸いあげることは実施されたものの、
「筑後守の意見も」と老中に請われて提出した三冊におよぶ事こまやかな、節倹等を広く求めた建議書
は、すべて、実行困難で現状に背くものとしてさし戻されてきた。
自分の意見のもはや行われ難(がた)いのは、覚悟していた。そうはいえご先代が最もお心にかけられ、金貨
銀貨の製法を極力品質高い昔にかえして、悪貨の過剰な流通による物価高騰に歯止めをと願っておられ
た一事は、見過ごしにはできない。なまじいに捨ておけば、手を付けようとして果たさぬうちに亡くな
られただけに、ひいては文昭院様の御失政かのように評判されても、困る。
彼は詳細な「改質議」三冊を間部越前守を通じてさし上げた。老中らも腰はあげたものの、事の重さ
に進んで手をつける者がなかった。彼は詮房を動かして、ようやく十月はじめに、老中秋元但馬守喬知(たかとも)、
大目付中川淡路守、勘定奉行水野因幡守、目付衆大久保甚右衛門、さらに勘定吟味役の杉岡弥太郎、萩
原源左衛門らが専らその事に当れるよう手を尽した。民間の知恵ある者の意見も聴いた。
元禄に改鋳されていた金貨は当量が銀ででき、誰も「いまの二百両はむかしの百両」と値打ちの低さ
381(105)
を知りぬいていた。物価は騰貴し、しかも貨幣の需要は増すばかりだが、金銀産出にも限度があり、さ
らに長崎からは毎年大量に国外へ流れ去っている。銀貨にしても名ばかりで、実のところ、自然銅が含
んでいる銀分にすら及ばないほどの悪貨がまかり通っていた。
銀座の四人が流罪にされ、一人は追放されていた。
陣容は整ったが、しかし改貨の努力、必ずしも成功はみなかった。建議こそ容れられ、彼も彼なりに
奔走したものの当事者の地位になく、遠目に、ややもすると歪みがちに事の本末が失われてゆくのを、
辛(から)く思い知るばかりであった。それどころか彼との提携が、幼将軍の無二の御用人である間部詮房の、
幕閣に対する折衝の自在を損じかねない有様であった。それほど二人の活躍にここ数年の江戸城は支え
られ、反面、臍(ほぞ)を噛んできた者がすくなくなかった。
この年、あれは閏(うるう)五月早々、御先代の思召のままに屋敷地が増され、合せて八百坪となったが、その
頃から彼は疲労に押され、「廿七日今日より病気断」りを届け出て、表むき、床につきがちのほぼ二
た月を送り迎えた。
彼は、しかし、臥してばかりはいなかった。「改貨議」三冊の建議を間部へ送ったかたわら、西洋地
理の最新知識を、山とつんだ手控えをたよりに、孜々(しし)と書き綴っていた。容易な業でなかった。文字数
すくなく発音の多彩に訛(なま)った西洋の名辞を、字数多く音訓(よみ)のあきらかな漢字に移すのを彼は得策とはし
たが、それとてポルトガルは「波爾杜瓦爾」となりイターリアは「意太里亜」となりエウロパは「欧邏
巴」となって、芯が疲れた。片仮名を宛てて読みをみちびくしかなかった。
全五巻の巻一「欧邏巴」にあげた「目録」は二十五項。片仮名にかえていえば、イタアリア、ローマ
ン、セルマアニア、デイスマルカ、フランデボルゴ、ボロニア、ホタラニア、リトニア、スウエイツア、
ノルウエーヂア、モスコビア、サクソウニア、シシーリア、イスパニア、ポルトガル、アンダルシア、
382(106)
ガラナアタ、カステイラ、ナバラ、フランス、ヲーランド、アンゲルア、スコッテア、イペリニア、ク
ルウンランデアに及んでいた。彼は、西洋の言葉はついにローマ(ラテン)語とイターリア語とオラン
ダ語とが普及しているだけで、他に付随的にポルトガル語などがあるものと理解していた。
「エウロパ」の巻は、オランダ語では「エロツパ」と発音するとし、「南はアフリカに接し、北はヲセ
ヤヌス、セツプテンテリヨ、テリスに至る。東はアジアと接し、西はマレ、アツトランテイフムに至
る」と書き起している。もとより古今未曾有の地誌であり、巻二に「利未亜(リビア)」をあげてトル
カ、カアプトホエスペイ、マダガスカ一名サンロレン島を紹介していたし、巻三は「亜細亜」三十項、
巻四は「南亜墨利加(ソイデアメリカ)」を十一項、巻五には「北亜墨利加(ノオルトアメリカ)」を
十三項にわたって、彼が可能とした限りの知識知見を、例の大世界地図を座右に参照しながら、事こま
かに書き出していたのである。
多くをヨワンに得ていた。オランダ人にも助けられた。
わが国を「粟散(ぞくさん)の辺土」などと謂いこそすれ、「神州」のなんのと尊大な一面も日本人はもっている。
それでいて辺土ならぬ大陸も、シナとインド程度しか頭に入っていなかった。ポルトガルやイスパーニ
アやオランダ、イギリスなどの西洋諸国を知って、やっと二百年余り。
いま日本はわずかに長崎出島にオランダ船と中国の船とを迎えて交易しているが、正式に国交は樹っ
ていない。国交は朝鮮とだけ開かれ、琉球に対してはむしろ臣礼を求めていた。日本の船はほぼ一隻た
りとも他国の港をめざそうとしていない。
彼が「目録」にあげたほどの諸国の存在を、──知る、在ると知る、納得する。納得の上に日本の未
来を想い描くことが必要──、少なくも必要な時が必ず来る。望ましいかどうかの判断はむずかしいが、
その時が、きっと来てしまう。
383(107)
日本の歴史と、世界の地誌。
正確に、深く広く今こそ学びかつ知っておかねばならないのは、その二つだと彼は思う。その一つの
世界地誌を詳しく伝える『采覧異言』が、未曾有の知識を、日本の政道と学問の両方へ提供する著述に
なるのは確実であった。永く広く読まれ、読者の思いに芽生えた力は、必ず、やがて新しい時代を招き
寄せずにすむまい。
彼は、しかし、疲れていた。家のなかでも、なるべく家族とはなれてひとり寝ては起き、仕事をして
また寝ていた。思い屈すると、世を憚りながら文昭院様の墓前に佇んできた。思いがけない事が、そん
な際に彼を驚かせたりもしたのである。
六月、彼は表むき病気で出仕(しゅっし)を怠っていたので、わざとご命日を避けて増上寺の御廟に参ったが、た
またま紀州公吉宗の墓参とさしあってしまった。もとより先は御三家、遠慮してしばらく脇で控えてい
たが、場所柄、ご機嫌をうかがう気もなかった。ところが告げる者がいたか、先方から声がかかった。
城中では、よほどの際に黙礼をおくりあう程度の間ながら、彼とても名だたる新井白石であってみれば、
対面を断る理由もない。まず墓参はすませて寺内の一室で吉宗へ目通りをした。
柄の、大きい……。そう、いまさらに彼は上座の人を見た。越前丹生(にう)のわずか三万石の藩主から一挙
に紀伊五十五万五千石の大名に出世したのが、宝永二年、この人の二十二歳の時であった。先君甲府侯
綱豊(家宣)にとって苦い存在でありつづけた紀州綱教(つなのり)が急に死に、その弟頼職(よりもと)もすぐ死んで、にわか
な末弟頼方(吉宗)の登場だったのはありあり記憶にあるが、今は颯爽と三十歳、倹約一途に藩の財政
をおおきく建て直してきた声価は、高い。
頼方はもともと五代将軍綱吉に拾い上げられた人であり、吉宗と名を改めてからも、家宣公の時代に
は目立っては表に立とうとしない人であった。遠慮していた。郊外にしきりに狩り暮らしている噂など
384(108)
は、彼もよく聞いた。
「お引き止めして、心苦しく思います。しかし、また、このような機会でなくては、なかなか御意(ぎよい)を得
にくい」
倍ほど年かさな彼を、吉宗は、敬ったもの言いで迎えた。暇はとらせない、只一つだけを後学のため
に聴きたい、ぜひ聴きたいと言う。彼は恐れ入り、そして緊張した。
「あなたの倹約を説かれたご意見は、わたしも読んだ。経済のありようを憂いつつ、武士の存立の基本
をよく見抜かれていた。わたしは、敬服しました。幕閣の諸卿(しよけい)があれをよく受け容れうるや否やは、ま
た、わたしなどの計り知れぬ微妙なところだが……、少なくもわたしは、あれを読んだ。読んで、しば
しば頷いた。それは、ご承知ありたい。
で、不躾に問うが。百年後、いや二百年後…、あなたは何をこの国の為に遺(のこ)すべしと思っておられる
か。二つとは問いません。一つ…、一つだけ、聴いておきたい」
彼は、吉宗の巌に似た肩はばを見返すように、静かに顔をあげた。
「このような際に、このようなお言葉を戴きますのも、冥加と申すもの。失礼を顧みず、一つと仰せゆ
え、一つだけをお答え申し上げます。世界を識る眼(まなこ)。百年といわず、五十年後の日本に、もしこの眼が
開かれていなければ…」
「どうなるか」
「やがて異国の支配を受けましょう」
「…………」
「その眼を瞠(みひら)くために、せめて西洋の言葉を才能ある者に学ばせたい、明日といわず今日からでも…と
申し上げます」
385(109)
「切支丹は」
「恐れるほどのものでは、ございません」
「まことか…」
「西洋の世界で、すでに切支丹の神は衰弱し、代って人間の力が世の中を動かしています。学問と技術。
そして意欲あるいは貪欲。神秘を開く鍵より、価値を計る秤の方を重んじながら繁栄を追い求める西洋
では、切支丹の神など、よほど影を薄くしていると私は見ております」
「だが、今もって日本まで伴天連(バテレン)が忍びこむではないか」
「その伴天連とも話しました。彼自身の胸の内にすら、ローマの教えへの、何と申しましょうか…断念
のようなものが感じられます。その断念に背を押されて日本にまで来たというのが、…真実かも知れま
せぬ」
「オランダは何と…」
「オランダ人も、学問のある者、例えば医術や薬や機械に詳しい者ほど、暗に、神ではなく人間が大事
と申します」
吉宗はじっと聴いていた。その余は問わなかった。
七月下旬に入り、やっと「病気快気」で出仕した。三日後大久保加賀守が死去した。ものが右へ向こ
うが左へ転ぼうがお構いのない、協力という事のすこしも期待できない老中であった。しかし老中筆頭
の土屋政直のようには、林大学頭の意見を楯に、公然、間部(まなべ)や彼に反抗して来もしなかった。
去年には、御三家と老中との間に大老格の井伊掃部頭(かもんのかみ)を挟みながら、まだまだ万事は間部越前守の了
簡(りょうけん)に任され、「摂政」の観さえあったのに、わずかの間に室鳩巣(むろきゆうそう)らの目にも例えば彼新井氏の申し上げ
る事など、「一条も老中同心これ無き」ありさまらしいと映っていた。あれほどの間部殿ですら、「何
386(110)
共(なんとも成さるべき様これなき様子」が事々に露(あらわ)になっていた。
大久保忠増(ただます)が死んだ翌日、「尾州(吉通(よしみち))殿御逝去」の報に江戸城は不気味に揺れた。酒が過ぎてよ
く血を吐いたにせよ、二十五の若さ、万一の際は天下をこの人にと前将軍の言い遺されていた、御三家
筆頭の尾張の大守(たいしゅ)であった。その日食したという饅頭に、もしや毒が…と、囁かぬまでも邪推にゆがむ
顔色が、俯きがちに城中を右往し、左往した。
吉通には三歳の嫡子と二十二になる弟継友(つぐとも)とがあった。加えて藩の重職がこぞって嫌う藩主の生母、
本寿院お福の方もあった。この母がどれほど悪(あ)しい婦人かは知るよしない。が、吉通はいつも母を庇っ
ていた。本寿院の恣(ほしいま)まを制するのには、いっそ吉通のいない事が早道でなかったとは言えず、しか
し将軍御側の間部詮房にしても、間部や本多や彼新井氏をはやく政局から遠ざけたい人々にも、尾張殿
死去のもたらす重みは、さような御家騒動の域を、もっと深刻に越えていた。
翌日の「惣出仕(そうしゆつし)」に、動揺を静める狙いは早や、有った。ひきつづき「御代替(おだいかわり)の誓詞」を彼らは求め
られた。
大奥に、前に増して大御台所と御生母との確執がはげしく、うかと□をはさめないが、うかうかして
いると途轍(とてつ)もない大事に及びそうですと、詮房らしからぬ憂色を顔にうかべ小声で告げられると、彼に
も、それが幼将軍家継のあとを睨んだ反対勢力の画策の意味だと分る。紀伊の吉宗を世嗣として西の丸
へ送りこみ、幼将軍を棚にあげて紀州政権を。そして月光院と間部、新井の徒を放逐しようとは、
はるかな京都から太閤近衛基煕(もとひろ)が娘である大御台所天英院の背後へ繰り出してくる計略の糸であった。
老中の多くがすでに絡めとられ、彼ですら、過去に浅くはなかった近衛公との交際のあいだに、仄めか
すように家継ないし間部と切れよと求められた事は、一再ではなかった。
無事に文昭院様の一周忌をしたい。用意万端は、これは、必然「格別の子細」ある間部や彼らの務め
387(111)
とされていた。それまでは直ちに不穏な動きもない代わりに、必要な施策──倹約のこと、改貨のこと
等──も動かない。
十月三日から十二日間、家宣公一周忌法会はつづいて、彼は三日と七日とに束帯を着して増上寺に参
詣した。十四日の霊屋(たまや)の経供養にもまた束帯して、特別に老中・若年寄・御側衆のうしろへ、間部隠岐
守詮之(あきゆき)、同淡路守詮衡(あきひら)、村上市正(いちのかみ)とともに加えられた。
かつても、さまざまな行事のつどよく主君のお声がかりで、背後の間近い場所から間部詮房とともに
拝見を許された。おなじ趣旨で、はるばる京都へ主上の元服や即位式を見学にやっていただいた。
だが今度の伺候(しこう)は、名誉かもしれないが甚だしい虚脱感にも屈した。将軍への進講という任もしぜん
解かれて、出仕も怠りがちに、正徳三年は不如意に過ぎて行こうとしていた。
山屋敷であのヨワンが侍僕らを切支丹にした、洗礼したという報知に驚いたのは事実だが、いまさら
何を…という思いも、切り返すように湧いた。長助やはる(2字に、傍点)に言葉をかけたことはない。顔を見たかどう
かも確かでなかった。ヨワンのそばに置くという、それだけの関心からと言うては嘘にもなる、や
はり岡本三右衛門夫婦への関心から、長助らのことも余三(よぞう)や同心横田を煩わせ少しは調べをつけておい
た。「夫婦」ではなく、兄と妹であるとも知っている。
ヨワンが洗礼したかどうかは自首へのきっかけで、自首したのは死なせてくれという愬(うつた)えにほかなら
ぬ。女はもう死んでいる。死なれたのが辛いより、むしろ羨ましくて男らは自首したはず、そもそもデ
ウスやイエズスやサンタ・マリアの救われに、あの兄妹が祈願をこめて来なかった道理(わけ)がない。罪なく
いとけない者が数十年、切支丹の申し子かのように、機会はあっても解放してやらなかったのだ──。
下僕は死なせ、ヨワンは国外追放に──出来ればしてやりたいと、彼は、気持ちだけは間部に伝えた。
成る話とは思えなかった。亡き御主君の名でなされた処断に、疵(きず)をつけてはならない。
388(112)
不思議に、ヨワンらの断罪を性急に言いつのる声が、出てこなかった。江戸市中に切支丹騒ぎは多年
皆無であったし、罪人は自首したので、脱走したのではなかった。困るほどのことは何もない。困るな
らそれは新井勘解由(かげゆ)であり背後の間部詮房である。しばらく困らせておけと大方が鳴りをひそめている
様子は、彼にも察しがついていた。
師走十四日の御命日に、彼はまた増上寺へ参った。
押しつまった廿八日にも御城の帰りに、増上寺の文昭院殿御廟へ参詣した。供は文九郎であった。
「寒いであろう」と彼は、老僕を労(いたわ)った。七十ちかく、こういう厳しい季節の供には休ませたいのだが、
これという節目には強(た)って供をしたがる。
「金棒でございますからな」と、そこは久しい、あまりに久しい主従、彼を「鬼」にして強がる。労(いたわ)ら
れているのは主(あるじ)であった。
正徳四年(一七一四)元日、例の如くに出仕した。年始御礼も滞りなく、城中はいつもの春であった。
七草の御礼にも出仕した。城中での老中への参賀も例年に変りなかった。秋元喬知(たかとも)などは声をかけて、
ずいぶん堅固にお過ごしをど労(ねぎら)ってくれた。間部詮房のいる方へまわって、頼んでおいた長崎奉行所か
らの「帳面」などを手渡してもらった。
彼の思いでは、長崎交易を現在のままずるずる放っておいたなら、どんなに通貨に手を加えても笊(ざる)に
水をそそぐのと変りがない。殊に交易銅の霧しい不足と、海上への出買いや抜け荷・抜け買いが深刻な
問題になっていた。
前年来の改貨の策も停滞している。倹約の提案も棚上げにされている。しかも数字と実勢に則して、
対外国との日本の利害を政策として起せる者の、幕閣に誰一人もいない現状は、老中たちが自身承知し
ていた。だれより間部越前が、長崎のことは放置できないのを承知していた。詮房は彼を頼みにし、彼
389(113)
は拠るべき資料が欲しかった。公式の資料はかねて間部を頼んで、足りている。しかし彼は長崎からの
現状報告が知りたかった。これも義弟余三(よぞう)の私信を介して、それとなく、あの長崎通詞のなかでいちば
ん若かった加福喜七郎に協力を得ていた。
加福は、要点と実例とをこもごも掴んで、見た所のごつごつと気の逸(はや)った感じとは打ってかわった、
戯文めく達者な筆に隠して「市舶」「互市(ごし)」の実情の困難であることを、よく、伝えてくれた。
交易が進行しないと長崎にきた船が帰るに帰れない。この近年シナ船の受入れは八十隻と限りがあり、
余計にきても積戻しといって取引はさせないのが、定め。限度内の船数(ふなかず)であれ支払い価額にも制限があ
り、自然残り荷物ができて、その取引も許されない。しかし先方も日本の商人も垣潜(かいくぐ)って無法の商いに
走る。シナの船の目にあまるばかりか、最近はオランダ船までが帰国とみせかけ、海上や近くの島や港
で密売買を始め、長崎奉行所もたまりかねて、江戸の強力な対策を早鐘(はやがね)を打つばかりに求めていた。
彼は、幕府に身を置いてする自分の仕事の、たぶん長崎問題が仕上げになると今は思っていた。商人
と役人とが結託して代物替(しろものがえ)の、運上(うんじよう)のと、野放図に一時の奢侈(しやし)品や珍品の輸入に、国の金銀銅を海の外
へ垂れ流しにしている。試(ため)しに長崎からの資料を足がかりに、慶長このかた百七年に海外へ出た金銀の
概算と、同じ時期に国内で鋳(い)た金貨銀貨の高を比較してみれば、すでに金は四分の一が、銀は四分の三
もが失われていた。銅のごときはすでに現在の交易に足りず、国内一年の使用量にすら不足していた。
間部越前守は彼に会釈した。一応長崎奉行にも建策は命じてあるが役に立つはずがない。いつでも出
せる草案を、頼みますよと。彼も、その気であった。ところへ──
そんなところヘ──ヨワンが「立ち上が」った。
ヨワンが必ずしも信仰の問題だけで日本へ来たとは、最初から彼は考えなかった。いつまでも気にか
かったのはその所持した金貨の品位の、みごとなことであった。同時にヨワンの入手していた我が貨幣
390(114)
の比較して悪質なことであった。立国の基本である金貨銀貨の、その品質の貧しいのを確かめにもし潜
入してきたのなら、由々しい危険が海外から迫っている。
良貨で悪貨を制して国威を樹てたい理想が彼にはあり、刺し違えてもという覚悟でついに追い落とし
た前勘定奉行荻原重秀との、その一点で対決があった。一度悪貨が出まわればどんなに良貨に戻すのが
難儀か、前将軍家宣と間部(まなべ)や彼との難渋苦渋はそれに尽きた──。対策を試みるつど、利権にしがみつ
いた商人や背後の要職は改革の不利を悪宣伝して、なし崩しに事をこわしにかかる──。
ヨワンがそんな彼らの苦心など知らぬ顔に、たった二人の弟子をつくって、十字架に死ぬ気と自首し
てきたのは、やっぱりそうか…と思いづつ、彼にはいくらか意外な、腹立たしい位な出来事であった。
弟子ならもっと出来る弟子、算学でも天測でも西洋の歴史でも言語でもいい、ヨワンが学んできたこ
と、教えられること、それぞれに弟子をと探れば、人材の無いはずがない。彼は「西(せい)学校」というほど
の施設を幕府のもとに持つも良しとまで、考えていたのに。
べつの事件が、しかし、突発した。ヨワンのことなど今は、些事であった。皮肉にも彼はそのお蔭で、
いくらか息をついた。
一月十二日、──木挽(こびき)町の山村長太夫座では、人気の美男役者生島新五郎が舞台を勤めていた。客は
七分の入りであったが、そんな桟敷にどっと花を添えたのが、文昭院様の御廟へ、将軍御生母の代参を
すませてきた大奥年寄、絵島らの一行であった。
御生母月光院づきの年寄である、出入り商人の下へ置かないとりもちで、むろん新五郎も女形の源五
郎も幕間(まくあい)には恭しく挨拶にでたし、盃も舞った。年寄とは名のみ、三十の花あでやかな絵島をまえに、
絵島生島と一対に囃したてた者もいたに違いない。女心がふと浮いた心地にもし酔うたにせよ、それは
それであった。何事でもなかった。
391(115)
しかし、そのあげくに大奥と表を隔てる御錠□(ごじようぐち)の、暮れ六ツ(午後六時)の太鼓に遅れては迷惑が大
きい。絵島らはその門限をかつがっ通過した。なおその先に長局(ながつぼね)へ上がる七ツ□があり、暮れ近い七ツ
下がり(午後四時)には、ともあれ締め出しの戸を立ててしまう約束事になっている。絵島、宮路らの
大勢が、ここで立ち往生した。
奇貨おくべし、機を逃さず月光院の勢いを殺(そ)ぎたい大御台所や、また法心院、蓮浄院らに仕える女中
たちは、こぞって年寄絵島の「程を弁(わきま)えぬ」不謹慎に非を鳴らした。
大奥女中らの「役者」に狂っていた事例は、絵島らに限ったことでなく、調べればむしろ絵島など、
「程を弁え」ていた部類であった。
事に当った目付稲生(いのう)次郎左衛門らは、大囲いに、江戸の芝居者(もの)をまず締めあげ、動かぬ□書(くちがき)を取って
いた。こと発端の山村座で、まず座付の狂言作者中村清五郎が二月九日に、生島新五郎が十七日に、牢
に入れられた。さらに山村座にならぶ江戸葺屋(ふきや)町の市村竹之丞座、木挽(こびき)町の守田勘弥座、境町の中村勘
三郎座からもつぎつぎに十数人も処罰される者が出た。
すでに年寄絵島は、朋輩宮路といっしょに、二月二日中に上野寛永寺で、「親戚の家に召し預け」の
重謹慎を言い渡されていた。まだその頃は、主人月光院の嘆願も効き、それ以上の厳しい制裁は免れる
かと見るものが多かった。しかし間部越前はほぼ正確に先を見ていた。
「芝居者」の処罰者をそう出しておいて、次に、目付の稲生らは、大奥女中へと見せつつ、その実、容
赦もなく年寄絵島ひとりへと、一切「腐敗」の責任を押しかぶせて行った。的は、背後の月光院、将軍
御生母、の威光をうすめ権勢をそぐことに、絞り抜かれていた。絵島も、また、稲生の糾明をとても逃
れられない数々の過去の経緯を、もはや、しっかりと当局の手に掴まれているらしかった。
「どれほどの人数を、奉行所は捕えているのですか」
392(116)
彼は、胸にひっかかる懸念という程のものでないのに、へんに気掛かりなもの──を伏せたまま、
間部詮房に尋ねた。噂に、出入り商人など、千人を越すほども引き立てたと聞いた。
「死罪に及ぶほどのも含め、重罪に当る者が、少なくも四十人以上とか。……絵島の兄の白井平左衛門、
これは大坂の番役をしくじってきた御家人(ごけにん)ですよ。絵島のとりなしで小普請(こぷしん)入りですんだのです、わた
しもちょっと動いてやりました。そして弟の豊島平八郎。こやつも絵島の□利きで二百五十石の豊島へ
養子に入れたという、難儀な男でね。また、手前の娘を絵島の養女に差し出していた水戸家徒頭(かちがしら)の奥山
喜内と…、ま…どれも褒められた所行(しょぎょう)のこれっぽちも無かった連中ですが…。無事では済むまい…」
「絵島は、しかし、心得ておりましょう。うかつに□を利けば月光院様に、ひいては御側殿のお働きに
対しても影をさしてしまうと」
「絵島は、なにも言わずに死ぬ気でしょう、もはや…」
越前の声音に、存外な潤いの添うたのを、彼は、ふと聞いた。
「で…、いつごろには……」
「絵島の決まりですか。さ…すべて…三月早々にも。絵島は、……狙い討ちでしたな」
ハハと、間部はめったにない腕を組んで、低く笑った。
二
正徳四年(一七一四)三月四日、午前に御城に上がり、午後浅草まで出むいて、宿館である善能寺で、
江戸参府のオランダ人に会った。一昨年にも彼はここへ息子伝蔵を連れてきて、長崎から随行していた
医師の診察を求めた。それどころか彼自身も幼い日に「ウニカフル」という西洋舶来の薬をえて、難儀
393(117)
な病気から立ち直ることができたと聞かされていた。
医療の技術においてほど、東と西との、考え方や仕方の違いをはっきりさせたものは、あるまい。根
本にからだ、身体に対する考え方、見方、の差があると思う。
そんなことを彼は、あの春、浅草からもどって珍しく家族と寛ぎながら、伝蔵や居合わせた義弟の余
三(よぞう)を相手に話した。
「西洋人は獣の肉を食うからでしょうか、あまり、死体を怖いとも汚いとも言わぬと…聞きましたが」
と、伝蔵が尋ねた。
「飢謹、悪疫、戦乱、それに死別…。みな想像をこえて過酷であり露骨であり、生きた者と死んだ者と
が同じ此の世にしばしば同居してきた。むろん、規模はちがうがそれはこの国にもあったし、今も無い
わけではない。
ところが日本人は死に無常を思い、死者にカミやホトケを重ね、そして死体は穢らわしいと恐れる。
しかし、わたしはローマ人にも、オランダ人にも、聞いた。ほんとうに病気を治すことを学問として大
事に考えるのなら、その病気で死んだ者の死体から、直かに死の理由、病気の原因を手探りするという
態度が必要だと。そんなことを日本の、いやシナでさえ、誰がまじめに考えだろう」
「医者同士が心の臓に毛が生えているかどうかで、掴みあいの喧嘩をしたという話が、笑い話にありま
すね。墓場の男がおれは知っていると□を挟むと、医者は青くなって喧嘩をやめたというのです」
余三が笑った。
「それさ。」心の臓の、胃の腑の、目の玉の、腸が煮えるのと、いろんなことは言うが、どんな形とどん
な働きとで、どこに在り、どこへ繋がっているか…。そういう事が、きちんと目(ま)のあたりに確かめられ
ないまま、匙加減で薬をのませるばかり。傷寒論もたいした本ではあるよ。しかし医者がサ。いま余三
394(118)
が言うように屍体にびくついて、及び腰に目を背けている按配じゃあ、てんで、いけねぇよな」
そんなふうに伝法に□をききだすと、彼は、昔の市井の男にかえって若い顔つきになる。
そして余三に、面白い医者の卵はいないのか、小塚ッ原へ日参してでも墓守に習って、膀分けを手前(てめえ)
で、してみれぁいいに…と唆(そそのか)した。
朝鮮聘使(へいし)の来朝のときには、門前市(いち)をなすといわれる程に、大勢が会いに行く。わりとたやすく会え
る便宜もあるうえに漢字で筆談の利く妙味があり、所により人により朝鮮の言葉に通じたものすら、い
ないではない。一衣帯水の、さすがに隣国であり、だから対抗意識も互いに濃い。
オランダとなると、必ずしもその辺が対等というのでもない。うっかり西洋の言葉に通じていたりし
ても危い詮議に遭(あ)いかねない。自然と交易商人らが接触を求めることはあっても、好奇心を満たす目的
でオランダ人に会いに行けるものは少なかった。学問の名を借りてすら、はっきり、禁じられていた。
長崎通詞のほかに公然とオランダ語を習い覚えた者の、この国に一人もいないのが建前とされてきた。
オランダ人も、あえて幕府のその掟に異をとなえて来なかった。日本が、世界を、なるべく恐れて避
けていてくれることを、暗にオランダは自国の利益のために望んでいた。オロシアの北からの脅威、清(シン)
国の敵意、他のヨーロッパ諸国の侵略意図などを、ことさらに「風説書(ふうせつがき)」の体にして幕府に提出し、自
前に、探索や外交の手を日本人の方から出して欲しくはなかったのだろう。
ヨワン・シローテの突如の屋久島潜入は、だから、オランダを思ったよりも驚かせ、また刺激してい
た。何をしに来たか。ローマは何を考えているのか。
ところが、なにより差し障りない焔し穴へ、ローマの宣教師は我から飛び込んでくれた。オランダ人
は、ヨワンが禁教の制に触れたのを「無頼者」の陥りやすい「自暴自棄」の結果と評論した。
「物指に刻んだ目盛りが、ちがうのです」
395(119)
久々に彼の前へ一礼して、そして通訳がひと段落のときに、品川兵次郎は、随行通詞の分(ぶん)からややは
み出た批評をした。オランダ人とヨワン・シローテとの価値観の差に触れたのだ。
「それより、物指その物が別なのでしょう」と彼は訂正し、いかにもと品川もかるく会釈した。
「ヨワンと、また話してみませんか」
「お役に立ちますなら、なんなりと」
「いや、手助け願えれば安心です。あの男が、頑なになっているとは思わないのです。しかし裁くとい
えばお好きにと、結果をただ受けとる態度に出るでしょう。それなら我々の出る幕ではない」
「長助は、どういう……」
「与力が担当して、□書(くちがき)は取っています。いささかも反抗しない。自分がかたく望んで洗礼を受けた。
ヨワンが入牢(じゆろう)以前から、妹はる(2字に、傍点)との共々の望みであり、ヨワンに強いられたのではないと。あながち庇
って言う様子はなく、…はる(2字に、傍点)の死んでいるのがむしろ長助には強みになっている」
「拷問したのでしょうか」と品川は彼を見た。
「拷問など、させはせぬ」
ずかツと彼は言いきった。
「よろしゅうございました。それは」と、品川。
「長崎は問題が多い。抜け荷は禁止したが。さて…その程度ですむ事態ではない。が、ま…、それはそ
れ…。この際に品川さんから教えてもらえる西洋の話はないかな」
「手探りの、ごくあやしげな話で恐縮ですが。この近年のヨーロッパの変化は、例の赤穂(あこお)の遺臣が一と
騒動を起しました、ちょうどあの頃から始まったイスパーニアの国の王位継承の戦(いくさ)が、十三年にしてや
っと去年にほぼ決着致しました由。なんと申しましても、これが大事件でございましょう」
396(120)
「…聴きたいな」
「表面的に、このところ西洋ではでに動いてきたのは、なかでもフランスのように思われました。フラ
ンスとは、日本はあまり直(には)縁がこれまでございません。しかし西洋の覇者であろうとする魂胆の露
骨な点では、島国のイギリスより地の理も得ていまして、とかく戦を諸国に仕掛けて国土を攻め取ろう
としてきた様子です」
彼の頭には、とにかくも西洋の粗い地図は描けていた。フランスには、『采覧異言』で「ガアリヤ」
又は「払郎祭(フランス)」の見出しをつけた。産物や地理には触れていたが、「けだし亦、大国」であると想定し
ただけで、さほどとも思っていなかった。ルイという強い国王の君臨する国とすら記述してはいない。
品川は話をつづけた。
「オランダも、フランスには昔、戦で負けています。オランダは強い国でしたから、それを破ったフラ
ンスは、まさしく覇者でした。ところがオランダと手を組んでイギリスが歯向かって行き、あげく、フ
ランスはあたかもヨーロッパ諸国の全部を敵にまわして戦う羽目にも陥っていました。それが、十数年
も前の状態でした……」
「イギリスに注意が必要と、以前にもあなたに聴いた。そのイギリスに対抗するのがフランスと…。そ
う思っていいのですな」
「西洋本土でと限らず、世界中の出先でも海の上でも、この両国は烈しく競いあっていると、そのよう
に…海を稼ぎの場に往来している連中は□を揃えています」
「で…、それがイスパーニアの王位とどう…」
「ルイ王の覇権の手は、イスパーニアの広い領土を掴みにかかりました。うまいことに向うの国王が跡
取りの無いままに亡くなると、すばやく……血筋のうえで理屈は通っていたのですが…、フランスのル
397(121)
イ王の孫に当る者がイスパーニアの王に即位してしまったのです」
「併合…の、卦(け)が出たわけか…」
「さようでございます。で…均衡を崩すなど、諸国が連合して戦を挑んだ…」
「ヨワンも、そのような話をして聞かせてくれた…、そう言えば。あの男は、ちょうど、その、イスパ
ーニア王位継承戦争の始まった時分に、ローマを旅立って来たわけです。で…それが、終りましたか」
と、彼は話の先を待つ。
「どっちが勝ったとも負けたともなく、要するに、フランスとイスパーニアとは合併せぬ、というのが
条件で、王の即位を列強も認めたという……、そういう戦争でした」と、品川兵次郎は息をいれた。
「大事な…という、意味とは」
「一つだけ、はっきり申し上げられます。ヨーロッパが永い……ちょっと応仁文明の大乱に似ていまし
たが、永い戦をしている間に、オロシアが北に大国としての体制を整えて、ヨーロッパの全部をうえか
らじっと睨むほどになったことです」
「つまり……どういう…事かな」
「オロシアはすでに清(シン)国に交易を求める談判もはじめています。本当かどうか……オロシアには、他で
もない日本の言葉を学ばせるための学習所も出来るとか、もう、出来ているとか申します」
「北(1字に、傍点)、ですね」
「はい。オロシアが日本へ近寄るとすれば、北からしか考えられません」
「西(1字に、傍点)にだけ目を向けていて足る時代は過ぎて行きますと、文昭院様のご在世のおり、わたしは申し上げ
ていた。北の時代(4字に、傍点)は、もう始まっているわけだ……」
彼は息をのんでいた。蝦夷地。白皚々(はくがいがい)の無辺の荒野──。日本人はどれだけを把握しているのか。品
398(122)
川のつくねんと控えているのも暫く忘れたように、彼は、おやみない時の足音に思いを集めていた──。
三月五日から七日まで、間部(まなベ)越前守の扱いで、長崎支配下の通詞品川兵次郎が伴天連(バテレン)ヨワン.シロー
テを尋問の介添えに、臨時に派出されることが決った。宗門改役(あらためやく)を兼ねて大目付横田備中守が同座し、
尋問には、新井筑後守が当るようにとも定められた。但し処決は、宗門改役の報告にもとづき老中方に
おいて判断する、と。「あなたには言うまいとも思ったが、…言うておきましょう、やはり。処置はも
う決っています…も、同然…」
間部詮房は動じない顔つきで、彼に耳うちした。
「なるほど。伺いましょう…」と、彼。
「殺さない、が、死なせる」と間部越前。
「毒、でしょうか」
「いや。土牢に入れるそうだ」
「長助は」
「さて…」
「わたくしには、すると、形をつけよと言われる…」
「由松(よしまつ)(横田備中守)は、適当に中座するはずです」
宗門改と同座の間が公の吟味であり、目付役が中座のあとは沙汰の限りでない。
「間違いなく最後の機会です」活用なさるがよいと、間部詮房に生真面目にものを言われて、彼は、盟
友の配慮に頭をさげた──。
三月五日──。
彼は、久々に、切支丹屋敷の外囲いに設けられた聴事場に出座し、高い所からヨワン.シローテを見
399(123)
た。案外にこざっぱりとはしていたが、禁猟された者のすさまじい感じは拭えない。
「長幼・はる(2字に、傍点)両名を、切支丹の信徒になるよう手引したというが、その通りか」と彼は、□をきった。
「その通りです。洗礼を授け、兄にはヨセフ、妹にはマリアと名づけました」
「兄とは…下僕(げぼく)長幼のことか」
「はい」
「女とは夫婦であると役所の記録にはあるが」
「それが真実でないことは、お調べがついていると聞きました」
「女は、自然に死んだのか」
「やすらかに天に召されました。肺を、患っていたと思われます」
「肺……。心の臓ではないのだな」
「心臓は血管とともに血液が全身を循環するための臓器でございますが、…肺は、主には呼吸と関係し
ながら、血液を清くもしている臓器で……、マリアはる(2字に、傍点)は…」
「いや、もうよい。不憫(ふびん)な者であったが……苦しまなかったのは、よかった。で、死ぬまぎわ…に、安
心を得させるために、信心へ誘ったと。そうだな」
「いいえ。一昨年の十二月になるならずの、そのころに三人が心一つに申し合わせまして、洗礼を…」
「一年の間、公儀を欺いていたわけだ。…それを、なぜ申し出る気になったか」
「マリアの最期をみとどけたい、静かに死なせてやりたいと……。ヨセフもわたくしも、心からマリア
を愛していましたので」
「死に急いでいるわけだな、いまは」
「とんでもない。キリスト教徒として生きられる限り生きたいと思っています。お認めいただけますか」
400(124)
「認めることは出来ない」
「今までは暗黙に認めておられた…」
「認めたことは、ない。宗門の儀は禁じると申し渡されたであろうに」
「一方的に申されました。知らぬとは言いません。けれど強いられさえも、あの時はしなかった。踏絵
も、わたくしは拒んでいます。でも、お咎めは受けていません」
思う壺にはまっていたのだ。彼は、──□を噤(つぐ)んだ。
「そうはいえ…、お国がわたくしの伝道を禁じてこられた事を、忘れていたわけではない。それを知り
ながら、身近な友の二人を神への愛に導いて、試練の日につよく耐えられるよう教えたことは事実です。
お仕置きがございますならば、お受けいたします」とヨワンは両手を前へあげた。
「長助は、からい目をみるが。不憫(ふびん)に思わないのか」
「不憫…。かわいそうに思えと仰言いますか。この牢獄に罪もなく囚われて、何年いえ何十年を彼が、
彼らが…過ごしてきたか、ご存じのはずです。だから先刻も、はる(2字に、傍点)のことを不憫なと仰言った…違いま
すか。……長助さんは自然に培われた信仰にはっきり気づいた。不憫どころか、彼ほど今幸せに満たさ
れた人がいるでしょうか…」
ヨワンは力をこめ、一語一語を突き出した。
大目付の横田備中守が、ここで、一枚の書付けをだして彼に見せた。老中秋元但馬守の名で出されて
いた「申渡(もうしわたし)之覚(おぼえ)」であった。当然そういう文書がでている筈で、しかも彼は初見であった。息を整え
るために彼はヨワンをまえにして、「正徳四年三月朔(一)日(ついたち)」付け、「小日向山屋敷に罷在(まかりあり)候異国人
ヨハンヘ可申渡(もうしわたすべき)旨」を書き記した一紙(いつし)を、ざっと一読した。
401(125)
異国人ヨハン事
お前が七年前にこの国へ渡って来た時、本来なら即座に御国法にしたがい断罪して然るべきであっ
た。しかし本国の師であり上司である者の使命を奉じて来たというので、格別の御恩により、一命を
助けおかれたのである。
その折り、お前の申し条によれば、本国の師はお前に命じて、どのように指示されまた仕置きをさ
れようと万事江戸の御所様の仰せに従い、その上で、切支丹の教えが、いわゆる不忠不義を人々に勧
めお上の御支配に背き奉るが如き教法ではないことをくわしく申し開き、公儀の御許可を頂戴して、
教義をこの国にひろめたい真意をよくよく伝えよとの話であった。そこで、お前は最初から江戸へ参
りたいと希望していた。そして望むまま江戸へも移され、食物衣類等まで御大恩をうけて、お前もそ
のつど有難くも思い感謝申し上げて来たのではなかったか。
ところが、今度、ひそかに望む者のあるにまかせ、天主の教えを説いて弟子にしたという事は、御
国法に背いたのは勿論、本国の師の万事に御所様の仰せに従うべしと指示した教えにも背き、お上の
御高恩を無にしたという事は、不忠不義も極まり、罪は重ね重ね許しがたい。
これまでは本国の使命を受けた者として処遇したが、今や、お前の意志により重罪を敢えてしたの
であるから、処罰は免れない。大罪を裁く掟にしたがい、厳に禁獄する。
彼は黙然と、書付けを宗門改(あらため)を兼ねた大目付(おおめつけ)にもどした。
「品川」と、横田備中守は通詞に呼びかけた。品川は畏まって向き直った。横田は、読みあげるままに、
順次罪囚に対し通訳して聞かせるように命じた。
「ご判決でございましょうか」
402(126)
「そう思っていいものである」
品川はかすかに彼の方をみた。彼はかるく首肯(うなず)いた。ヨワンの陳述は尽されている。どう問答を重ね
ても双方の肚(はら)は決っていて、横田由松がここへ□を挟んで事を決しようとしたのはいっそ親切な処置で
さえあった。ヨワンは姿勢を正したまま聞き終えた。
「どうだ……」と大目付が声をかけた。
「分りました」とヨワンは普通の声で、直接大目付へ返事した。
新井殿から、なお幾らかものを問われるであろうが、神妙にお返事を致せ。横田備中はそれだけを言
いおいて、とくに改まって断りもなく、ていねいな会釈をひとつで大様(おおよう)に座をはずした。
あざやかなものだ……。彼は苦笑を危うくおさえた。幕府にとって今、ヨワン・シローテの問題のご
ときは、ざっとこの程度であり、瞬時に消えて失せるちいさな赤い火の粉にすぎなかった。
「さて…ヨワン」
「はい」
「もう会うまい…」
「……」
「おまえにも最後の機会。わたしにも、おまえと話す最後の機会になった。永い時間は許されまい、い
ま暫く……気持ちをらくに。なにか望みでもあれば言うてみるがいい」
ヨワンの顔に朱が走った。すこし膝がよろけたが起ち、長助をこの場所へお呼びになり、長助なりの
気持ちも直接お聞き下さいますように。そう願って出た。彼は与力(よりき)を呼び、長助の容体を確かめた。
「食が細いため、いくらか以前より弱っていますが、大事ないと思います」
「ここへは……。不都合か」
403(127)
「新井様の仰せのままにと御奉行は言いおいて行かれましたので…」
よしよしと彼は頷いて、ヨワンの方へは、穏やかにものを言うようにと念を押した。
やがて番卒に脇を抱えられて長助が、初めて聴事場に姿を見せた。髪も髭もそそけ、水からあげた枯
れ木のように黒ずんでいた。思わずヨワンが聞き取れない言葉でさけびざま駆け寄ろうとして、躓いた。
「あぁヨワン様、なりませぬ。そのままに……なにも仰言いますな…」
意外に毅(つよ)い声音で、長助は遠くにひそと腰から砕けた。
ほう…。このような男であったか。彼は、見た目はぼろぼろに衰えながら、胸の底の一点だけは清々
しく洗いあげて、ほうッと芯から明るんだ感じの長助の目に心ひかれた。魂にも色がある。その色が似
ているからか、容貌も体格もまるで別でいてヨワンと長助に通いあうもの、優しい感じ、があった。
耶蘇の教えに親しんで、わずかな期間──といえるかどうか。とにかく予期にたがい、長助の方が落
ちついていた。ヨワンとの図らざる再会にも動顛しない。逆にヨワンをなだめ、自分は大丈夫…心配し
ないでと、無用の慰めや励ましをヨワンの□もとで封じてしまうほどだった。
彼は長助をもっと近くへ呼びよせ、ものを尋ねた。
おそれながら…。長助は、しかし、わるびれた様子ではなかった。その□からは、おそれげなく、ま
ずヨワンヘの感謝の言葉がこぼれ出た。お会いできて、よかった……嬉しかった…。それだけでも、今
は久しいお上へのお怨みの気持ちが、醒めた夢のように失せていますと長助は、微笑さえうかべた。
「マリアさまにお目にかかりましたことも、ひとしお、有難うございました」
「……」と、彼は膝を動かした。
ヨワンが□をはさみ、亡くなった岡本三右衛門の妻女を長助ら兄妹が、「マリア奥様」と慕ってつか
えていた由を告げた。はじめて彼は聞いた。同心の横田伊次郎も、三右衛門の妻が「マリア」であった
404(128)
とは知らなかったが、日本の女としての呼び名も皆目記憶になかった。記憶も欠けていた。
「すると、その時分からもうお前や女…はる(2字に、傍点)…は、教えを受けていたのか」
「いいえ、けっして。わたくしどもも願い出たことはございませんし、ヨゼフ様も奥様も、ほかの何方(どなた)
でも、むしろそれはお避けになりました。幼い者であろうと、どんなむごい目を見るかを、だれもがご
存じてした」
「しかし多年のうちには、教えを授けたり受けたりした者が、いた…他に、何人も……」
「むごい事でした。わたくしたちは、幸い、まだちいそうございました。魔の手から、庇ってくださる
お気持ちの方がつようございました」
「……」
「一度として□ずからみ教えを授かったことはなくとも、可愛がってくださるお気持ちを通じて、たく
さんな事を思い知りましてございます。聴く耳と、見る目とを授かっていたのを、わたくしも妹もどん
なにありがたく思いましたことか……」
「その耳と目を、ヨワンには、まともに向けた…」
「土牢から出された寿庵さんは、最期の息の下で、待て…と言い遺されました。だから、…お待ちして
いました……」
「一年間、お上を欺いていた罪はゆるされない。しかもその間もお上の御恩を黙って戴いていたが、恥
じいる気持ちはないのか」
彼は長幼をなお追及した。長幼は動じなかった。
「罪のない者を、何十年ものあいだ閉じ込めておかれたのですから」
「ならば、何故、自首して出たか」
405(129)
「一つには妹の命のございますうちに、主のみ弟子として名乗って出させたく。また、妹の命果てまし
たうえは、なにをもはや懸念することもございません。それならば、主のみ弟子として晴れて名乗り出
て、お咎めがあれば受けようと思いました」
「ヨワンがそう教えたか」
「ヨワン様をお勧めしてでも、そうする気で、この一年を過ごして参りました」
「……悔いるところは、無いと…」
長助は顔をあげた。疲労のにじんだ皮膚に包まれて光る瞳が、むしろ春の空へやすやすと向けられる
のを、彼は、新井筑後は、見た。
「言い残すことは、ないか。いま…何を思うているか」
長助はよろめきながらヨワンの方へ向いて、しかし、ものは言わず自分の指で、白州におおまかな絵
のごときものを描いてみせた。砂を指の腹で掃くかわいた音が一同の耳をうち、長助は砂に手をついて
大きな息をついた。ヨワンの方へ、まぎれもない、あの「サンタ・マリア」悲しむ母の顔かたちが浮か
び立ち、堪りかねヨワンは身を絵になげて別れのくちづけをしたまま嗚咽(おえつ)した。長助も這いより主人の
背に顔を伏せていたが、やがて膝をつき、砂の絵像の裾へ呻(うめ)くように唇(くち)をおしあてていた。「マリア」
とも「はる(2字に、傍点)」と呼ぶとも、かすかに長助の声は砂をかきむしるように大地に吸われていった。
彼は、ヨワンと長助がものも言わず抱きあうのも、じっと見ていた。彼が制しないので、与力同心ら
も通詞も石のように動かなかった。
「天国で……」
そう小声で確かめあう二人を、静かに彼は分けさせた。
「マリアに祈りましょう…」
406(130)
ヨワンの叫ぶのを長助はもう振り返ることもしないで、聴事場を運び出されて行った。砂の上のマリ
アが影をすこしずつ崩し、つよい風が過ぎ去ったあとのように、残ったみなが皆、思わずかたく掌(て)をに
ぎって黙っていた。
ヨワンを手水(ちようず)に立たせておいて、彼は品川兵次郎にヨーロッパの最近の様子など、分る範囲で話して
やるように言いつけた。
「今村や加福のことも、話してやって宜しいでしょうか」
「むろん」と、彼は頷いた。ふっと寂しい気がした──。
品川と──話し終え、ヨワンは深く頭をさげた。
「シャーローム…品川さん……」
む…と、品川兵次郎は息をつめた、が、すぐに「しゃあろーむ。パーテレ・ヨワン、」と会釈した。
「今村さん、加福さん。みな…幸せに」
「伝えよう、必ず」
品川はためらいの無い足どりでヨワンに近づいて、男らしい手を向うの肩に、トンと置いた。はるば
ると、よく…と品川は言いさしてヨワンを抱き起し、彼のすぐ前まで連れてきた。縁側へ腰掛けてよい
と指図して、彼は、与力に運ばせた例の大世界地図をそこへ広げてみせた。が、彼は、もはやヨワンを
これ以上煩わせて問答をこころみる気を失っていた。この広い広い世界をはさんで相い逢うた奇縁を、
「一生の奇会」を、互いにただ確かめ合っておきたかった。
「さて…ヨワン。最後に、もう願うことは何かないか」
「カタジケノ、ゴザリマス。アリマセン」
「なにも無い…と言うのか」
407(131)
ヨワンははっきり首肯いた。彼は、では、言いおくことはないかと尋ねた。
「来て、よかった。幸せでした……」
そう言ってヨワンは左手の指を二本、股にかけて、ローマとシチーリア島の上に置くと、目で、彼に
も促した。彼は一本の指を江戸へ立てて、期せずして二人は明(あ)いた手と手で最期の握手を交わしていた。
「無理をするなよ」
「はい…」
別れの時が来ていた。と、ヨワンがひょこんと頭をさげ、やはり一つものを尋ねたい、いいかと言う。
「白い石、ハクセキ…。新井先生のその名乗りには、深い意義があるのでしょうか」
彼は一瞬たじろいだ。
「同じ名乗りの人がシナに二、三いたのは知っている。それを慕ったというのでは、ない。字づらに惹
かれたというか、……なんとなく気に入って付けたのです」
「西洋に、嬉しいことがあった日の日記は、白い石で書くという言葉があると聞いています。佳いお名
前です…」
「それは、嬉しいことを聴いた。では…別れようか…」
ヨワンは起立し、しなやかに指を舞わして十字をきると、彼の方へゆっくりと合掌した──。頷いて
彼も起った。日ざしが、やわらいで、そして薄れた──。
同じ頃──幕府評定所で、大奥年寄絵島に対して「その罪重々」ながら「御慈悲を以て一命をお助け
おかれ、永く遠流(おんる)」という重い言い渡しがされていた。絵島は覚悟を定めて、無垢の白小袖を二つ重ね、
生島新五郎がすでに流されていたあの八丈島産の絹紬(けんちゅう)のかいどりを羽織っていた。数珠や経ももちなが
ら、絵島は白州へおろされ後ろ手に縛られた。
408(132)
月光院の嘆願は絵島のために切(せつ)なるものがあった。もとより昵懇(じつこん)久しい間部詮房(まなべあきふさ)も、迷惑な、月光院
とのあらぬ醜関係を陰にこもって言い囃す声に屈せず、手を尽した。
十二日──、それは月光院が前年十一月に従三位に叙せられ、その位記持参の勅使を、ようやく用意
万端のすえに迎えて、祝賀の式の執り行われた次の日、であった。かつがつ絵島は罪一等を減じられ、
信濃の山奥、伊那の高遠の内藤駿河守領地に永の預けと定められた。精いっぱいの酌量であった──。
「絵島は、あれでよく凌(しの)いだのですよ、町奉行らに責め抜かれながら。庇ってやるというばかりでは、
ないのです。見せしめにしても、あれ一人が島流しに遭うのでは、逆に片手落ちを咎める世間の声が、
御政道にケチをつけます」と、間部はかすかに額を曇らせていた。
「あれほど一般に裁判に時間がかかり迷惑するものの多いさなか、千も千五百もの者を一と月そこそこ
で詮議してのあげくの、大奥からは絵島殿が一人…断罪ですから。よくよく狙い定めた焔し穴でした」
「目付の稲生(いのう)(次郎左衛門)の、嵌め手に落ちたのだ。町奉行の坪内能登が後ろにいたのです。ふつう
なら、なにかあれば幕閣はまっさきに新井さんの意見を求め、新井さんの手でかたづいた難事件は幾つ
も幾つもあった。今度は…、一度として、声もかけてこない……」
さすがに間部には、疑獄としかいいようのないこの事件が忌ま忌ましいのであった。月光院の威光を
かげらせ、間部を引きずり落としにかかることで、幼将軍家継の時代を縮めたい。そのために絵島を一
人、江戸城大奥から蹴散らした。深川の越中島をでる流人(るにん)船は、絵島を歓待した芝居者や番頭や、また
絵島の遠い近い縁者らであふれ、それぞれ伊豆の御蔵島、大島、三宅島などへ突き落とされた。
間部の調べでは、小塚原で打ち首死罪という、五百石どりの御家人にしては異様にむごい罰を受けて
いた白井平右衛門、絵島の兄などは、せいぜい譴責(けんせき)の程度が相当な、すくなくとも絵島の一件とはほと
んど関係ないままに、殺されていた。
409(133)
「絵島の不行跡を諌(いさ)めなかった、あまつさえ傾城町(けいせいまち)へ同行していた…というのでしょう」
「それが。前も言うたように白井は大坂勤番でしくじり、江戸でながく謹慎していましてね。やっと昨
年の十月から出仕(しゅつし)を許されたばかり。芝居も、一度白井の家の女子供が絵島の見物について行っている
だけで、当人は、それすら知らなんだ始末です。吉原へも入りびたっていたのでなく、朋輩とのつきあ
い程度。大いに慎んでいた方ですよ。それを…ですから、ね」
詮房が撫然とするのも道理で、絵島の甥というだけで、九歳の少年まで「追放の罪科」に当てられて
いた。まこと遮二無二の処罰が、月光院影法師の大奥年寄絵島をめがけた。
「それはそうと…。山屋敷の同心…。横田とかいいましたな。あれはあそこへ置かぬ方が無難と思う、
わたしも」
間部(まなべ)越前は、もう絵島の話題にはうんざりした顔で話題をかえた。横田伊次郎のことは当人の希望も
聞いて、彼から間部に頼んでもおいた。よしなにと彼は黙礼した。ヨワンや長助がこの数日にどう扱わ
れることになったか、間部も触れず彼も尋ねなかった。
「あなたのことです、いずれ、地理が主たる内容の『采覧(さいらん)異言』とはちがった、べつの本も、考えてお
いでと思うが…」
間部越前は当然の顔をして確かめた。彼は率直に肯定した。ヨワンに得たものは貴重で、彼一人が私
していいものでない。『西洋紀聞』──。題も、そんなのを考えています、と。
「それはそれ…、たいへん結構な、大事な本になる。…但し、新井さん。ヨワンとは本の二冊三冊にも
なるほどいろいろ話されたと思うが、その…何というか、何もかも書いて仕舞われるのは、どうかな…
と思うのです」
「同感です。ことに切支丹にかかわる話は……」
410(134)
「さよう。その部分は慎重に……むしろ、はっきり批判し非難さえする調子に仕上げてほしい。その部
分は、…ま、あなたも同意見に相違ないと思うが、現在この国の為に、毒にこそなれ、役には立ちませ
んからね」と、彼は間部に慎重に釘をさされた。
その晩、長崎へ帰任のまぎわの挨拶にと、品川兵次郎が訪ねてきた。立ったまま辞そうとするのを引
きとめ、上へあげた。
品川は土産を持参していた。一つははやくに品川らの目にも届いていた白石著述『琉球事略』の、国
王歴数その他すこしく遺漏の目立つところを改修していただく為にと、品川なりに付箋を付したものを
届けてくれた。
「気になっていました、これはこれは…カタジケノ、ゴザリマス」
彼はよほど嬉しさに、ヨワンを□真似の謝意を表しておいて、くすくすと笑った。きっとご好意を形
あるものにして世に遺しましょうと、すぐにお固いことも約束した。ははと品川も笑い、押しつけるよ
うな挨拶は避けた。
「もう一つ……ご無礼を顧みないで持参いたしました」
「ほほう…」と、彼は若い声を発し、そして下唇をちょっと突き出した。機嫌のいい時の、あまりお城
では見せない癖がでた。
かなりの嵩(かさ)があった。品川は、根が闊達だからか大きい字でどしどし書く。土産は、長崎交易の品物
を、中国と外国西洋の別に、まことに端的かつ詳細に書きあげた一冊であった。彼は目をみはって暫く
は客の前も忘れていたが、それでも不審の文字や訓(よ)みがあると即座に質(ただ)す。そして手近な筆をいきなり
傍の余白へ走らせていた。手間暇を惜しまぬそんな主人に、品川も旧知己のように返事していた。
中国の冒頭に「北京省」があり、ここからは商人は渡ってきますが、商船つまり交易船は来ていませ
411(135)
んというふうに書いてあり、すぐに「土宜」つまり産物が列挙してある。真珠、水晶、瑠璃、丹錫、紙、
瓷器、画眉石、玄精石、紫斑石、小間物道具、書籍、人参、蟾酬、蔓荊子、紫艸、薬種色色、牡丹、葡
萄、榛実、栗綿製、銀魚。それぞれに産地が下に書いてあるが、
「つまり、こうですね。この、下に順天府とか水平府とかある。これは北京省内のいわゆる八府州の名
で、つまりその地方の産だと…」
「そうでございます。府州を記しませんものは、あまねく産するという意味にお取りください」
遼東および、南京、山西、山東、河南、陜西、浙江、江西、湖広、四川、福建、広東、広西、雲南、
貴州省等、明(ミン)朝の制でいう十五省から、こうもと思う莫大な品数を日本は莫大な量買い入れてきた。な
んでこんな物を買うかと、呆れるような物も多い。
「薬だけは欲しいが……」と彼は思わず呻(うめ)いた。日本からはただもう金銀銅が出て行くのである。
「明(ミン)国を、太閤が欲しがった気持ちが分るといえば分るが。しかし買う一方。商人は国内で儲けをとる
かもしれないが、国全体は貧しくなる一方だ」
「外国へ売れる何を、この国が持っているか、これから持てるか…でしょうか」
「それですよ。しかし日本のこの島国にそう珍しいもの大事な物の新たに出る望みはない。在る物とい
えば、むしろこれ迄は金と銀とだった。しかしそれは、物、品物というには、あまりに大事な国の宝、
国土の骨ですからね」
「西洋の技術を買い、それ以上の技術にして逆に売る。そういう時代がこないことには……。さ、三百
年かかりましょうか」
「三百年。……遠いな、そんなにかかりますか」
「この国では、しかし、いちばん人数の多い民草が、自在に力を伸ばしにくうございますから。イギリ
412(136)
スではもう、王の力も民しだいとなり、フランスも、王家は坂をすべるように人気をうしなっていると
見られます」
「……物騒だな。三百年もすると、日本もそうなり、そうならねば栄えない、か。品川さんは、そう言
いたい…」
「技術を技術として学んだり鍛えたりできる者は、結局は農や工・商、つまり国民ですから。その頭を
むやみと押さえているかぎり、万事、時間はかかると。そうでは、ございませんか」
「……」
「外国と事を構えねばならない時が、過去にもございましたが、これからは過去の比ではなかろうと案
じられます。上手に戦(いくさ)ができれば、技術の取りこみは加速しますけれども、ひとつ時期と相手をまちが
えば……」と、品川兵次郎。
「戦の相手か。…相手次第でするものだからな、戦は。その相手を、間違うのも間違わないのも、しょ
せんは、人です。上に立ち、事に当る人物です。その人をあやまれば、国は滅びてしまう」
「でございます故、その、事に当る人数の、人数をだす範囲の、多勢でまた広いのが大事だと…。それ
を百年かけて確かめてきましたのが、つまりは議会を興し衆議に事を託そうとするイギリスをはじめ、
西洋の大きな流れ、お言葉を拝借すれば、大勢(たいせい)…でございましょうか」
「ヨワンなどは……。ヨワンを、品川さん。あんたはどうご覧になっている」
「いい男です。しかし奇妙な気にさせる男でも……。あれだけ心得ていて、また、私などには全くもつ
て解(げ)せないことを、熱くなって抱きかかえているのですから」
「切支丹の……。あれは、いけませんか」
「いけません。私は、ま、無神論者であるのかも知れません。つまり、あまりああいう方面は考えませ
413(137)
ん。人間に出来ることは何か、どこまで出来るだろうか…と。これを思います」
「なるほどな。わたしなども、その方です」
「それでいて、しかし、新井様…。ヨワンの顔をみていますと。今度のあの…長助のような日本の男の
全身にみなぎった、ある…力、に触れますと。……正直の話が、すこしばかりひるむ所もございます」
「……」
「彼を、九州とかぎらず、市井に放ちまして好きに語らせれば、やはり……たいへんな力で輪を作りま
しょうな。好むと好まざるとにかかわりなく、ヨワンのあの人柄が、言葉の力が、人をとらえます」
「なぜだろう。わたしも、そう思っているのだが…」
「力の為の力でなしに、人の為に用いる力を備えていますから」
「……」
言う言葉を、彼は、しばらくの間うしなっていた。気を取り直したとき、もう、ヨワンのことに
触れる気が失せていた。
「戦、という事をあなたは言われた、外国との。そういう事を本気で思った日本人は、過去には数すく
ないが、世界の手が力ずく、こんな極東までも欲得ずく混(こ)んできたからには、避けられないと見ておく
しか、ない???。小競(こぜ)りあいで済めばいいが。それならば凌げようが」
「海が、国土を防いでいる間に…。その間に、用意が大事でございましょう」
「まさかに、空を飛んでは来ないのだから」と、彼は冗談を言い、しかし、いや…分らないと自分の声
を吹き消すように呟いた。品川も黙っていた。笑いもしなかった。
その晩──品川が辞するさいに彼はいささか心づくしの餞別に添えて、苦心して書いた、筑後守源朝
臣岩美(あそんきんみ)自著である『殊号事略』上下の写しを贈った。正徳元年、朝鮮来聴のとき、特命を奉じてもっぱ
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らその事に任じ、旧儀を改正すること数条に及んだなかでも、ことに力を尽して将軍家の下問にこたえ
て撰述し進呈した一書であった。
正直のところ、しかし、愛着の書を長崎の一稽古通詞に贈りながら、著者として彼は、論旨の自負と
ともに、或る得体知れぬ、かすかな気後れの如きものにも囚われないでは、なかった。日本の天皇と国
王との別を質(ただ)し、国書往来の書式を古今にわたって糾(ただ)し、使節往来にともなう互いの呼びよう呼ばれよ
うを正していた。が、外交とは言い条、いわば位取りの話ではないか。いや、しかし……。
彼の胸に、いつかたっぷりと高く波うつ世界の「海」が居坐っていた。「三百年」と言いきった一通
詞の予言の時空も影を置いていた──。
正徳四年三月──二十六日、内藤駿河守の屋敷を、裏門から一挺の駕籠が出ていった。駕籠の扉は施
錠され、前後を給人二人、侍二人、下女二人、そして足軽八人の一行は、声もなく甲州街道をはるか信
濃の高遠へ歩み去っていた。大奥年寄の絵島が、成れる身の果でであった。
彼もまた、絵島が江戸をついに追い放たれたことを噂に聞いた。
彼にすれば絵島が問題ではなかった。
大奥とかぎらず、あの賢君家宣に対してさえ、彼は、能や、歌の舞のという遊びが過ぎていると、繰
返し苦言を呈してきた。その為には『進呈之案』『楽対』さらには『俳優考』のような考証まで将軍家
に呈した。将軍も音をあげ、好きなこととて已(や)めはしないまでも、かなり慎んだ。
但し絵島が芝居者に狂って躓(つまず)いたのは論外だが、裁きの公正という点からすれば、幕閣の挙げてした
ことは「仁」に背いて甚だしい、政略そのものであった。政略の矛先がどこへ向いているかを身に痛く
感じるだけに、彼は黙してきた。何としても幼将軍の無事な成長をまたねばならぬ。間部越前守詮房の
意向がそれにあり、むろん将軍生母の月光院殿もそれのみ祈っていた。
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だが利に敏い月光院も切れ者の絵島をうしない、老中と結んだ大御台所天英院の盛り返す勢いに影を
消していた。なにより将軍の、幼いだけでなく脆弱(ひよわ)いのが危うかった。
いつ知れず、「文昭院殿の御遺命」なるものが城中に囁かれはじめていた。紀州吉宗に天下を後見さ
せよというのである。そのあり得ないことは、家宣臨終の最後の最期まで近侍していた間部詮房が知っ
ていた。家宣の遺志を、命じられて書きあげてすらいた彼、新井筑後守君美(きんみ)が知っていた。
しかしながら、もう、誰も二人には構っていなかった。
三
正徳四年──四月以降、十月迄、彼の日記「委蛇日暦(いいにちれき)」は月に二度ないし四度の登城を、「出仕」と
ただ二字に記すばかりで過ぎた。七月と九月とは只一度ずつの出仕であった。
四月七日には将軍の御前で羽二重(はぶたえ)三疋を拝領した。五月廿四日には時服の料に、単物(ひとえもの)と帷子(かたびら)とを拝領
した。六月十八日は老中方および間部(まなべ)越前守へ土用を見舞い、同じく本多忠良および若年寄たちをも見
舞った。この日は御前で、御紋付の熨斗縮(のしちぢみ)二反を拝領した。八月六日には袴地および肩衣(かたぎぬ)二具を拝領し
た。五月と七月の御命日には増上寺の家宣御廟に参詣した。七月の御仏参(ごぶつさん)には長上下(ながかみしも)を着用した。
そして十月──三日から、文昭院殿三周忌の御法事が増上寺で執り行われ始めたのである。彼は当局
の定めた順次にしたがい、四日に参詣した。ただもう涙が流れた。
もとより日記の記載は簡略でも、暇にまかせて暮していたのでは、ない。寺社奉行方にかかわる裁き
に相変らず彼の判断が相次いで求められ、応えていた。
ことに京都醍醐寺内の、院家(別院)報恩院、理性(りしよう)院、無量寺院に対する三宝院門主の、二月以来の
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訴えなどは、江戸の威信にかけても危うい裁きは禁物の難儀であった。間部越前をとおして処理を問わ
れた彼は、条理を正し、召喚を拒む院家側の無理筋を散々に追及した。
院家は朝廷との近縁をふりかざし、徳川家を後ろ楯の門主を挑発しつつ、その権威を「路上の挨拶」
ひとつですら凌(しの)ごうとしていた。京都所司代を通じての、江戸へ下向せよという指示にもとかく従おう
としない。しかし彼は、巧みに呼び寄せ、そして過去の経緯を堅固に積みあげながら質問攻めに絶句へ
追いこみ、結局は三院家側が謝罪状をだし、将軍家の沙汰があって八月には落着した。事は、醍醐一山
の内輪もめに似て、しかし一つ処置をあやまれば、無用の火種を不満のくすぶる京都に、公家衆や寺社
方に、蓄えてしまうことになる。
「いや面倒なことを……。よくして下された、かたじけない」
因縁の旧主家筋でもある反間部方の老中土屋政道も、八月六日に彼が出仕して判決の草案を提出する
と、後ほどわざわざに挨拶に出てきた。
「相手が相手で。疲れましたな」と、間部も苦笑ぎみに、こういう事は「きっちりした事の沿革を知っ
ていないと話になりません。しかし誰もそういう調べ仕事ができないからな」と小刻みに首を横にふる。
「まだまだ…金銀の改めのことがございます。なによりも長崎の交易のことは、よほどしっかりした策
を現地に授けませんと、大事も大事……九州から国土が腐りはじめます」
そんなことを間部と話しあっていた、さなかに、老中の秋元但馬守が、思いのほかの六十六歳で死ん
でしまった。かろうじて幕閣のなかで、間部へもまっすぐ物を言う数少ない理解者の一人であった。あ
とは頼りは久世(くぜ)大和守重之ぐらいしか残っていない、この人は、新井白石の経綸(けいりん)の才を公然と推して憚
らぬ一人であった。ことに彼が提出した、長崎における「市舶議」や「市舶新例」の草案を、小手をう
ってまっ先に支持したのもこの久世であった。
417(141)
久世らを喜ばせた彼による長崎交易の改革案の要点は、一つには、つまり日本の金・銀・銅の年産額
と海外へ持ち出されるその額とをよく比較勘定のうえで、長崎で交易に充(あ)てていい年額をきちんと定め、
流出過剰を厳格に抑えること。二つには来航する交易船の数と積み荷の内容ないし量をもあらかじめ定
め、そのかわり、その限度内でもたらされた積み荷は残らず買い取って、密売買に流れないようにする
こと。三つには御目付を派遣して監督を強め、京・大坂なみに長崎の存在を重視すること。
そして四つには、以上の我が国の法度(はつと)を遵守すると誓った者にのみ信牌(しんばい)、つまり通商免許状を与えて
向後の長崎入りを許可し、背けばただちに長崎を追放すること。その結果として、なかには払底(ふつてい)して値
を上げる商品もでる道理であったが、彼は、必要度ということを主張し、いたずらに奢侈品のために金
銀銅の失われる恐れを説いた。火のように説いてやまなかった──。
明珠掌(て)に在り、仲秋の月明かりに誘われて、夜半に庭に下りてもみた。月も雪も花も──、心に無か
ったのではない。しかも、彼は人事にあけくれて十年余を過ごしてきた。子弟の教育ももっぱら人を頼
み、長男伝蔵(大亮(だいすけ))も次男平蔵(百助)も父のまえではただ畏(かしこ)まっていた。幼い娘らも父にまつわり
ついて甘えるということを、ついぞ覚えなかった。
彼は、かつてない、妻に、やがての致仕(ちし)つまり退職願いの意思のあることを、あらかじめ告げた。
妻はおもわず顔をあからめた。そのようないわば男の秘めごとを夫が□にした、それに虚をつかれた
のである。
「お宜しいように、なさいませ」
そう言うであろうように、妻はそう言った。彼は頷き、そのことに就いてはそれ以上言わなかった。
文昭院様の三周忌がくる。思い残すことが無いではないが、ことに幼将軍の安泰は危ぶまれるが、一儒
者の力およばぬことが日に月に目に見えてきたからは、汐どきに相違ない。無残なことになってから、
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あのような者を文昭院様は重くお用いなされたのか…など言われては申し訳がたたないからな。妻には
そこまで告げておいた、それで尽きていた。
「それはそうと。喜三郎さんの加減は、どうか。長命にこっちも慣れて…つい見舞いもしなかったが」
「はい。その事で、ぜひご相談を…と、思っていましたの」
相談…と、彼は聞き返した。家人に相談したことも、自然相談されたこともあまり覚えがない。もっ
とも神田明神の崖下の小家で、みすみすいとけない者を死なせ、母親のむら(2字に、傍点)も死なせたことは、喜三郎
らとのいわば奇縁奇遇とも絡めて、妻には話してあった。
むら(2字に、傍点)は妻より四つ年若かった。勧める者がいてもけっして嫁くとは言わず、喜三郎の老いが、最後ま
で家を出ぬ言い訳につかわれた。「伝蔵様のお子」を産みたかったのに、二度も流して、もう諦めきっ
た頃にとうとう男子を産んだのであるが、結局命をちぢめる結果になった。三十四になっていたが、や
つれながら死の間際にはもっと若く、幼くすら見えていた、そこまでは妻には言わなかったが。
話を聴いて、妻はあの時しばらく黙っていたが、残った喜三郎との今後をどうする気かと、尋ね
るような尋ねないような□を利いた。表具の腕はたしかなようだ。そんな、返事にならない返事をして
から、分っているのは死んだ母上がご存じの男だというだけで、しかし……それだけで十分だと思って
いる。ほかに母上の縁者というほどの人を一人も知らないと、事実その通りであったから彼はその通り
に言った。
「それで、今は。どこか別の家にでも移られましたか」
「いや」
喜三郎は住み慣れた葉桜の崖を、よう見捨てなかったのである。
以来──妻は、おりにふれ喜三郎との縁を、もの静かに家の者らにもあまり目立たないよう、繋いで
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きてくれた。むら(2字に、傍点)が死んだ宝永三年に、すでに喜三郎は八十六、七歳にもなっていた。耳も目も達者な、
気さくな翁であった。
あれまでも、あれからでさえも、喜三郎の上方で鍛えられてきたらしい手職は、しかし、ずいぶん役
に立った。主君から下された本も御預かり本も、彼は、再々喜三郎の手を借り装幀を改めてきた。修繕
も頼んだ。額装も注文した。一時期どころかかなり永く、元禄七年の桜田屋敷以後たぶん宝永六年頃ま
で、彼は御書物御用も勤めていた。勘解由にはとにかく本に触らせてやりたいと先君も心得ておられた。
そして彼は本を大事にし、いい保存に心を用いた。喜三郎の技と知恵をだから重宝したのである。
喜三郎の仕事ぶりは律義で、それでいて例えば用いる紙の色や意匠ひとつにも──南蛮めく粋な趣向
で、ときどき桜田の昔の甲府侯をさえ驚かせた。どういう者かと問われてろくな返事ができず、あとで
間部詮房に、死んでしまったむら(2字に、傍点)や三蔵の事をうまく聞きだされるはめに陥った。間部は、しかし、彼
の秘めごとを、一度も彼を前にして話の種にしたことがなかった。
「……話してくれ。なにか面倒をかけているのかな…」
彼は妻の「相談」を催促した。
一昨年、一ツ橋外の小川町に敷地六百三十三坪の屋敷を拝領の折りに、彼は義弟余三(よぞう)を働かせて遠慮
する九十すぎた喜三郎を、屋敷内に引きとっていた。ながらく人を雇って世話をさせてきたが、喜三郎
もさすがに足と目から衰え、崖ふちにおくのが気づかわれた。浪人の昔にいたく世話になった、という
程の理由で、介護に耐える女もあらたに付けてある。
「面倒ぐらいは、よろしいのです…。出来もせぬこと……或る人に、逢いたいと言うのです」
誰にと問い返すのも忘れ妻の顔を見ていた。妻はまたあかくなり、俯いた。
「身寄りがいたのか…。そんなことも、よく知らない…」
420(144)
「いいえ身寄りではないのです。喜三郎さんは、ほら…山屋敷の。西洋から来た…人に逢いたいと言う
のですわ」
はッと部屋の外ざまが窺われた。
「死んだと言うのだ」と、自分でも思わぬことを□走り、
「いや、わたしが言おう。それは…冗談(たわこと)だ。人に言うなよ…」
妻は心得ていた。
喜三郎の亡くなった妻か娘が、むら(2字に、傍点)の母親が、あるいは自分の従姉なのかもしれぬ。従姉の父と彼の
母とが兄妹であったのかも知れぬ。母の兄が、すくなくもその一人が、「坂三」時には「バンサン」と
書いて妹のもとへ稀に手紙を寄せていたことを彼は知っていた。すべて推測にすぎず、なぜか母があん
なにも話したがらなかった事を、一度聞きそびれてしまうと、もう喜三郎に対してもえたい知れない遠
慮が働き、なにも尋ねられなかった。尋ねないほうがいいとさえ、思い切ってきた。
彼は伯父にあたるかも知れない人の、母がだいじに身の側に遺していた手紙を、妻も知らない手紙を、
何度となくひそかに見ていた。誰にも見せてはこなかった。
しかし僅か三、四通のそれらは、隠すに及ばないすべて数行の、尋常な、あまりに尋常な、暑いから、
寒いから大事にせよ、こっちは何の不都合もなく達者である、安心せよ、といった機嫌伺いばかりであ
った。いろいろ他にもあったなかの、そういう類ばかり選んでもし母が残しておいたのなら、それも、
不思議に訝(いぶか)しい。署名は坂三か片仮名論みだけで、宛名はない。母にあてたとも必ずしも確証はなく、
信じるしかなかった。
昔岩代の中村に義兄を訪ねた日、「バンサン」は切支丹の名乗りかも知れないぞと言われた。忘れな
さいとただ一度の兄らしい物言いで彼を戒めた。今は亡いあの義兄正信は、あんな推測を身内にも絶対
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漏らしはしなかっただろう。
思えばあの日であった…「白石」という名が決まったのは。
「ハクセキ、白い石」と名乗っているのは何故かと最後の最期にヨワンに突如尋ねられ、彼は、それを
問われると答えるいつもの返事をした。しかし訪ねたのがヨワン・シローテであっただけに、彼はあの
一瞬の動揺をまだかすかに胸に抱いていた。
義兄正信は、義父新井氏や義母坂井氏について多くを語らなかった。ことに母に関しては、坂井氏で
あるとすら言いきれず、気の毒だがなにも知らぬと、ほんとうに気の毒そうな顔をした──。
「だが、小耳にはさんだ…とも言えないほどの話だが。母上のご先祖はもとは白石(しろいし)……分るかな…、仙
台の支配地の白石に根を下ろしておられたらしい。それは、勘のようなものだが、ほぼ確かな事…に、
わたしには思われる…」
裏づけのない、所詮裏づけようもない話であったが、聴いた彼には忘れられなかった。
仙台は一時切支丹の布教を、むしろ迎えいれていた。伊達政宗の家族にも信徒がいたといわれ、しか
し、一転禁教の制が過酷に実施されると、奥といわれた東北一円の切支丹はこぞって剿滅(そうめつ)され殲滅(せんめつ)され
た。白石でも夥しい切支丹の虐殺があった。彼になにらか所縁(ゆかり)のありげな二本松、相馬、三春、岩代、
また山形も福島も、みな例外ではなかった。
思えば掴みどころのない、むしろその母方の地縁が、彼の一家の過去を多く成り立たせてきた──と
も、みえた。兄がひろげた簡単な絵地図でながめれば、およそ指呼(しこ)の間(かん)にそれらは固まっていた。そし
て父新井正済(まさなり)は、むしろその地縁へ抱きこまれていったよそ人か、に、想われた。
「なににせよ。詮索しなさるなよ」と義兄は念をおした。彼も頷いた。白石(しろいし)という土地で何があったに
しても、百年か、それより昔のことになる……。あのとき勤務地にもどるとすぐ、すでに僧籍にあった
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義兄、かつての新井正信にあて、「芳艸池塘他日夢、夜牀風雨此時情、登楼相望浮雲隔、空寄感心対月
明」と結んだ長詩を贈り、「白石」と初めて署名して、母の一族を思い出の記念としたのであった。佳
い雅号ができたと兄は返事をくれた──。
新井白石。そう名乗ることにしたと、またまた浪人して江戸へ帰り、久しぶりに喜三郎たちの家
を訪れたさいに、わざと、字に書いてみせた。喜三郎はほうと言っただけで、何故だとか、どんな意味
だとか、人のきまって聞く事も、案の定、なにひとつ問わなかった。
むら(2字に、傍点)は、はたちに成っていた。六年まえに、新しい主君堀田正仲に従い山形へ赴くべく喜三郎たちの
顔を見にいったときは、まだ泣きべそをかいて、ろくに別れの挨拶もできない少女であったのが、顔た
ちまで不思議にかわり、□かずの少ないのは元のままであったが、手をついて静かに迎える作法など、
みずみずしい美しさが匂うようであった。
「浅草に家を借りましたが…。家塾をひらくつもりです。それでというわけもないが、近いうち、隅田
川にちかい本所に移ろうと……。ちょくちょく、また、遊びにきてもいいですか」
喜三郎にいうと、その喜三郎にひょいと振り向かれ、むら(2字に、傍点)が、離れたところで嬉しそうに俯いた──。
なにもかも、遠くなった──。当然であり、しかも理不尽な事のようにも思われた。
二、三日彼は、かくべつ妻の頼みにもかかわらず、喜三郎を見舞わなかった。供もつれず、ふら
りと身軽に家を明けたりした。旦那様が、なんとなくお閑(ひま)そうになさっていると、家の者は言わず語ら
ず感じていた。ただそれが良いのか良くないのかは判じがつかない。
三日すぎたもう夕刻、余三(よぞう)がなにげない顔つきで風呂敷包みを一つ提げてきた。余三がときくと彼は
立って迎え、そのまま先になり書物(かきもの)部屋へ義弟を誘いいれた。
「案じたほどもなく……。兄上が仰言れば、まだ、大概のことはできますな」
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まんざら世辞でもない□つきで、大目付横田備中守が彼から依頼の書状をみると、即座に、切支丹屋
敷をあずかる与力の主な者に手紙を書いてくれたことを報告した。
「明日のうちには、ご返却いたしますと……。それもお言葉のとおりに申してございます」
「かたじけない。それで、いいのだ…。どうだ。見るか」
「…いえ。遠慮しておきます。どうせ御用がおありのはず。お済ませになって下さい」
「なにたいして調べる気はないのサ。一つには□実をつけて絵の見られるのも、ま、今のうちと思うか
ら…」
本音であった。できれば彼は義弟の器用な筆と日本の顔料(がんりょう)とで、慎重に西洋の画法を盗んでおかせた
かった。人がなんと言おうと思おうと、ヨワンが所持した「女の顔」の絵は漢画にも日本の絵にもつい
ぞ見たことのない趣味があり、おおかたそれは隈(くま)取りというか、光る部分と陰る部分との色の塗りかた
に、理由がありそうであった。
「いい女ですね」と余三は控え目に、しかし、強いて見せられてそれをまず□にした。彼は苦笑した。
「よほど油ッけのある顔料ですね。紙でもない。絹でもない……」
「銅(あか)の、板のような物に描いてあると思うが」
「これで、うまい絵師の仕事なんでしょうか」
「うまくないかえ。おまえの目でみると…」
「いい女ですが…、うっとうしい顔ですぜ」
「泣いているから」
「なんで泣き顔なんぞ描きますかね、サンタ・マルヤだっていうんでしょう。神々しく描いたつもりで
しょうね」
424(148)
余三に、興を覚えて筆へとびつく調子がなかった。彼はもう一度苦笑して退ってもらった。なにを持
ちこんだとも、家人にたいして□固めすることは忘れなかった。
次の朝、喜三郎の様子を確かめ、茶湯(ちやとう)など運ばせておいてから、彼は、ゆうべの風呂敷包みを、自身
で喜三郎の寝ている次の間まで持ちこんだ。二人にしてくれるよう、言いつけるまでもなく妻は、つき
添いの女を連れて去った。
構わないと制しても床を滑ってでようとする喜三郎を、彼はとにかく床の上へ抱いてもどした。こわ
い紙をもつ手ざわりであった。九十をいくつも過ぎている喜三郎が、子供のように笑って、彼の手をゆ
っくりと撫でた。
気の毒だが、山屋敷の囚人に会うことは、もはや(3字に、傍点)できないと彼は先手をうった。分っています。喜三
郎はまだ黒い瞳(め)を瞬きもせず彼をみて、ふんふんと二つばかり頷いた。わたしに話しておきたい話があ
るのでは…と、彼は聞いたが、無いと、単簡とした返事であった、すこし意外な思いを彼はしていた。
「ヨワン……。ヨワン・シローテというイターリア人でしたが」と、過去のことのような□を彼は利い
て、日本語もだいぶ覚えていたのだがと□をにごした。だが目のまえの老人に、なぜ西洋人に会いたが
る、なぜそんな事をいうか…と、たったそれだけが問い返せなかった。問わぬがいいのだと自身に言い
きかせてばかりいた。
立派なお人であったろうかと、すこし聞きにくい声で喜三郎は尋ねた。それは…と、彼はうけあった。
「伝蔵様のお手にかかって御上天になられましたか」
絶句したが、ま、そんなような事であったと答えた。
喜三郎の和んだ表情(かお)に変りのないのを見とどけ、ヨワンは、ヨワンを世話した二人の僕婢に洗礼を授
けてお筈めを受けた。禁じであったことを敢えてしたのであるから、当人たちにも不足はないであろう
425(149)
と、世間話のようにさりげなく彼は告げた。喜三郎は暫時沈黙していたが、すこしずつ顔を伏せて行き
ぶつぶつと呟いた。ゆらゆらと指のさきが空をさぐるのは、ひょっとして十字をきるかと、見ぬふりを
して彼は耳澄ませていた。
「あの、ルシーナの、孫たちが天へあげられましたとは。ありがたいこっちゃ、ございませんか」
喜三郎は独り言を聞かすように、わきをみて言った。彼は「ルシーナ」という名前は知らなかったが、
「大五(デイゴ)」という盲目銀髪の潜伏伴天連(バテレン)と手をとるようにして実の娘に刺し殺された尼のこと
は、調べていた。その尼なら元和(げんな)の昔、夫をすて姑をすて同門の大勢を見すてて棄教し、礫(はりつけ)の刑を間一
髪に免れたという、長助やはる(2字に、傍点)の祖母であった。
「デイゴ・フランチェスコのことを、知っていましたか」
「万蔵寺へ……。身寄りに頼まれて手引きしました」
「身寄り…とは……」
「……ご存じのない者で…。ディエゴ様に奥州行きを言いつけられたぺ?ル(神父)を、江戸から道案
内いたしましたとか。江戸が危くて奥州へ、その…大勢のナニが、流れこんでいた頃でした。郡山、福
島、二本松、白石(しろいし)から仙台…。道々に、いろんな事がございました…でしょう」
「で…、バンサンという名の誰かを、知っていましたか」
「存じません」
喜三郎の返事は否やもないほど、簡明に、言えない…と響いた。
「わたしの母とあんたとは、どんなご縁であったかと…」
しかし疲れた笑みをかげらせ、返事はなかった。断念して、彼は次の間の戸のわきへ立てかけた、
「悲しみのマリア」の絵を運びこみ、老人に、よく見えるように、自分の膝にたてた。
426(150)
喜三郎は白い翁(おきな)のように顔を皺いっぱいにした。堪(こら)えているのか。喪った言葉をすべて瞳(め)にあつめて
老人は、うっすらと□をあいていた。掌をかるく結んで一つの親指を顔の前に竪(た)て、そっと血のけのな
い唇を添えている。絵の女が衣裳の下から出している指──親指か子指か──に向かい、そんな仕種(しぐさ)で
喜三郎は礼拝をしたつもりであろう…か。
「逢いたいといわれた異国の男が、はるばる江戸まで渡したものです。珍しいものをなにか…喜三郎さ
んにと、思案してね」
「むら(2字に、傍点)に、いい土産ばなしがしてやれます」
彼はかすかに笑い、絵をまた袋に納め風呂敷に包み隠した。喜三郎は、もう一度自身の親指に唇をつ
け、そしてその手で彼の手を求めた。握ってやると、すこしゆらゆらして、もう寝入りそうな声で、
「りっぱな男になられた」と囁いた。
「あなたのお蔭だ。……河村瑞賢に繋ぎを付けてくれていたのも、喜三郎さんであったと想っている。
あの縁がなければ堀田侯に仕官などできるわけがなかった」
「いいえ、人の縁はそんな簡単なことでは、ない。まわり回って妙なところで絡んでいます。詮索して
みても始まりません……」
「そうだな。これは教えられました」
ふふふと喜三郎は笑ったようであり、がくりと会釈して休ませて戴きますと、横になった。
「卑怯に世を渡ってきました。どこへどう詫びる手立てもなかった……。最期に…願ってもないお方に
逢わせて下さった。さ…もう、お出でください」と、老人の顔色があおく腿(さ)めていた。頷いて彼は蒲団
の裾を、親にかしずくように静かに叩いてやり、マリアの絵を抱いて部屋を出た。「羊」は、一匹では
なかったナ…。いましも土牢に沈められているヨワンに、そう聴かせる術(すべ)のないのを、彼はけだるく自
427(151)
覚した。
──なにも聴けなかった。妻にはそれだけを告げた。
岡本三右衛門という元の武士の素性も、罪をえた経緯(いきさつ)もいろいろ調べてみたが、吹き消えた砂の足音
のようにとうとう掴めなかった。「マリア」と密かに呼ばれ、牢のなかでは長助らに慕われていた元武
士の妻のことも、どう調べても、彼や余三(よぞう)では手がかりが得られなかった──。
余三(よぞう)を使いに「サンタ・マリア」の絵を返却に遣(や)った。その余三が戻って彼に告げ知らせたのは、あ
の侍僕長助の燃えつきた死であった。文昭院様の三周忌法要がまだ最中の十月七日明け方であったとい
うから、ちょうど絵を喜三郎に見せてやっていた刻限に、長助はもう死んでいた。あれもさぞ見た
かったであろうと、彼は、黒ずんだ枯れ木のようでいながら、明るい瞳(め)にもの怖じのなかった男の、お
だやかな顔を思い出していた。
「よく、しかし、土牢…がどんな按配だか分りませんが、生きていたものです」と、余三は指折り数え
る顔をした。山屋敷の聴事場に呼び、ヨワンとの別れをさせてからでも半年以上になる。死のうと急い
だなら、もっと早くに衰え死んでいたであろう……。
「で、いま一人は…。生き永らえている……の、だナ」
「死んではいないようでした。二人とも、与えただけは食して、時には水のように静かに、時には鉄の
ように熱く、目に見えない壁のようなものの前で、一心不乱…」
「ほう……」
「牢番らにも、異様に張りつめた牢の様子がからだに響いて……。遠巻きに、用のない限り放置してい
たようです」
「だれが、そういうことを…」
428(152)
「横田さん…ほれ、例の火消屋敷写カベ割り込んだあの人が。山屋敷を出るまえに、太田というちょっ
と気の利いた下役にうまく、繋いでおいてくれたものですから。太田は独りものでして。たまに遊ばせ
てやったり……」
「如才がないな。しかし、ま、そのお蔭で助けられる。土牢というのは…。機会があったのだから、見
ておけばよかった」
「なんでも、いちばん奥の牢の鞘土間から、重い揚げ蓋をあげますと、地面のしたへ石段が下りていま
す…。狭い五、六間の通路が建物の西の並びの、蔵……むかしは拷問蔵といったそうですが、その蔵の
下へ通じていまして。長助は、太田の□ぶりですとその蔵の中で、血を吐く勢いで叫びながら、枯れた
紅葉の細い枝みたいな足で立って。壁に爪をたてましてね…。両手をあげて、なんだか……のびあがっ
て死んでいたそうです」
「拷問に遭っていたのでは」
「いえ。それは、役人も考えていなかったようです。長助らが叫ぶのは、奴らの神に祈っているのだと、
連中は承知で、放っておきましたから」
「ヨワンは」
「ですから伴天連(バテレン)も、長助の声がすると答えて叫ぶ。伴天連の声が聞えると長助も…。伴天連の方は蔵
の地下の、井戸…の跡じゃあないでしょうか…深い穴に投げこんで、上から鉄の格子で伏せてあるそう
です。そこから叫ぶ…と、どうにか長助の耳に届くのですが、長助のは…声が細くて」
余三(よぞう)の話は陰惨で、そのくせ一抹水しぶきが白くとぶような感じも混じっていて。彼は、ふと、目を
とじた。余三は話しつづけた。
「掘りひろげた穴の奥に、湧き水が壁をうがって流れ、また流れ出していましてね、太田の話ですと…。
429(153)
手洗いも糞小便を流すのも、上下兼帯、それでやっています。臭くはないそうで。しかし、それぁ冷え
る…」
聴きながら、彼は、どのくらい離れてどのくらい届くものか知れないが、衰えゆく声をふり絞ってヨ
ワンと長助とが、朝も昼も晩も、夜中(やちゅう)でも、互いに励まし一年ちかくを生きのびた月日の、その意味を
思っていた。
夫婦をよそおっていた、兄長助と、妹はる(2字に、傍点)と。
主従をよそおってはいたが、夫と妻とであったらしいヨワンと、はる(2字に、傍点)と。
そして師弟であり兄でも弟でもある情愛ゆえに、…いやそう言うては彼らは不満であろう、主である
神への信仰と愛とに結ばれあい…、苛酷な牢の暮しを、せめて半日でも相手より永く忍んでその生と死
とを励まそうと務めていた…、そうに違いない長助と、ヨワン・シローテと。
「まず…音(ね)をあげますな、私ならば」と、余三は冗談でないという顔をした。
似た気分は彼にもある。
死んだ方がマシではないか。自ら死ぬる勝手をさえ許さずにいて、極限のさなかでも自分を愛せよと
人に強いる神が、人に愛ある神なのか本当に。彼は、なにも生みださない情熱は精神の浪費と思いつつ、
久しく世に処してきた。動けば出会い、出会えば事が生じ、生じた事は必ず人のため世のために価値を
成さねばならぬと。それでいて、そんなふうに思いやすい自身の思いが、へんに偏ったものでありげに、
今にして負担に感じられてならぬ…、心の隅で。
卑怯に生きてきましたと喜三郎は話した。それなりの謙辞かと聞き流したが、ほんとは何を「卑怯」
の二字に籠めていたのか。「ルシーナ」とかいった万蔵寺の老尼長助やはる(2字に、傍点)の祖母の心にも、同じ
二字を胸の底から消したい一念がひそんでいて、伴天連「デイゴ」を必死で抱きかかえてしまったのか。
430(154)
彼は──独りになってからも、長助の死から自由ではなかった。心外なほどであった。どうでもいい
筈のことであった。それなのに、彼は、喉へふたつの袋を無理に嚥(の)みこんだような息苦しさを覚えてい
た。徳川、江戸城、幕府、政道、儒教、武家、四民。そんなものが一つの袋に入って、学問や歴史の紐
で結わえてあった。詩人といわれ、すこしは自慢なその詩ですら、その大きな重い袋の飾りであった。
それで、その袋だけが丈夫で、いい筈であった。
だがヨワンは全くべつの袋を彼の□へねじこんだ。彼らのいう神しか入っていない袋。なのに、ひど
く、重い……。
正徳四年(一七一四)十月十四日。先代将軍の三周忌法会を締めくくる経供養が御霊屋であった。明(あけ)
七ツ時すぎに彼は束帯して増上寺へ参仕した。なにか、さわさわと頻りに風が動いた。骨を噛んでくる
寂しみに彼はほとほと負けていた。ながながと経を聴きながら彼は来し方を思わずにおれず、それも、
ただ思い出に耽(ふけ)るといった感傷とはほど遠いものであった。
彼はある日の父を、先刻来思い出していた。父のそばに懐しい母も在った。静かな静かな日であった
が、すこし雪の降った朝ではなかったか。彼は早く起きて自身で親たちのための湯を沸かしたりしてい
た。かすかに目がさめられてか、雪らしいとでも言い合われるのか、母の声がして父の声もかそけく漏
れ聞えた。いいな……。彼は、聞きとれない両親のなにかしら和んで雪の夜明けを話しておられる
「今」を、しみじみ嬉しいと思った。
やがて父と母とは彼が用意の湯で、雪を眺めながらささやかな毎朝のたのしみに茶を飲まれていた。
その似あって静かに並んだ肩から背への美しさに、彼は見入っていた。なぜともない、手を畳において
眺めていたい後ろ姿であった。二人とも、もう、なにも□を利きあうふうでなく、彼の父も母も、おも
431(155)
えば昼間のうちはほとんどこれという事も喋らず、それは静かな、平常の夫婦であった。
幼いながらにあの時彼は悠久を感じていた。あの静謐には、美も倫理も覚悟の深さも意気の毅(つよ)さすら
も秘められていた。「日本」は、好むと好まぬにかかわらずこういう父母(ぶも)の国で、在りたい……、子も
こういう父母にまた成ろうと務めたいもの…。そこまで思ったか思わなかったかは覚えないが、親に愛
されていた事を、ほんとうに愛されていた事を、彼はたった今、亡き文昭院殿の御法事のまっ只中に愕
然として思いあたり、ぶわッと泣けた。泣けた──。
十五日にも出仕して、御法要の無事調い終えた安堵を、さすがにしみじみと幼い将軍や御生母へ申し
あげた。間部詮房(まなべあきふさ)の頬の、いくらかこけて見えたのに胸打たれた。
「辞職させて戴きたい。多病の身で三年、こたびの御忌(こき)までは相勤めました。多年、なにごとも事前に
御側殿には申しあげ処して参りました。今度は出しぬけにというのも失礼であり、まずお願いに上がり
ました」
詮房は、しかし、承知しなかった。
「御先代の御遺託をお忘れか。昨日も奥であなたのお噂が出て、筑後守が元気で頼もしい、文昭院様の
御生前にあれほど名前をお□にされた人はいない、その筑後守がああして元気に在るのが嬉しいことで
すと。致仕(ちし)など…、それでは我々の過ちになり、世間も承知しない。なりませぬ」
彼も引き下がらなかった。
「辞意は、御先代御臨終の際にも御側殿には申しあげたことです。それを今日に及びましたのは、一に
は金銀改鋳のこと。御遺志のそれに重かったのは、ともに苦労させて戴いたので御側殿はご存じです。
その目処(めど)も、この五月に、ともあれ立ちました。長崎のことも、長崎へお前が行けと仰せであったほど、
ご心配の一件でございました。わたくしが長崎へ参ればかえって動揺が深まりますのでと、対策を種々
432(156)
さしあげました。最近にもきっちりしたものを提出したのは、ご承知のとおりです。あれに基づいた御
政道が通れば、長崎のことも凌(しの)ぎがつくと存じおります」
「その余にも莫大に難儀難事をかかえた幕府であるとは、しかし、よくお分りのはずです」
「失礼ながら。わたくしは亡き上様があっての身と弁(わきま)えておりました。理想を申せば御政道にそれは在
ってはならぬことですが、寵辱ともに封建の世のひとつの限度に支えられている事実は、まこと余儀な
いこと。退いて蔵す。退蔵の二字、むげにすべきではございません」
間部は思わず顔をおおって、しばらく黙っていた。掌の下に紅潮したものがしずかに褪(さ)めて行った。
やがて冷静に詮房は話しかけた。
「こういう事はなりませんか…。絶対辞職と言い張られても事が大きくなる。天下の大事には御下問に
応じ、相変りなくお知恵を、お力を、拝借できるのだと」
「ありがたい思召(おぼしめし)です。なんで、さようの際に力を惜しみましょう。お役に立てれば何なりと…」と、
彼もそう言うしかなく、それは本心であった。
「ただし今は御法会後の、勅使、院使、門跡方のご接待の最中です。御沙汰はその後に願うとしましょ
うか」
詮房にも、彼を引きとめきれない、ふッつと糸の切れたような断念がもう動いていた。なにを思った
か詮房は、それから、こんな述懐を聞かせた。
永いといえば永いご奉公をしてきた。その永い間に自分は自分に言いきかせながら仕事をしていた。
「それは……こうです」
他人が、「お前なりに」よくやったと言うて下さるのは構わない。有り難い。しかし自分で自分の仕
事を、「わたしなりに」という物言いで、片付けまい。耳ざわりこそよけれ、言い訳めく。甘えた響き
433(157)
がある。たいした事もせずに「わたしなりに」「我なりに」と言うていると、他人の批判や苦言や親切
が聞えなくなり見えなくなる。イヤ、見よう、聞こうと、しなくなる。「わたしなりに」やっているの
だ、放っておいてくれと目も耳も塞ぐようになる。
しかしそんな手前味噌の仕事は、しょせんは甘えています。むしろ他人から「お前なりに」と言って
もらう方が、当っていようがいまいが、けっこうである。
そうは言え…、と、詮房は、ゆっくりと、世間の話でもする口調で言葉を次いでいた──。
そうは言え、この永きにわたり「わたしなりに」と、何度心中に言いどおしたか知れません。卑怯未
練と思いつつ、ただ□には出さぬことで自身を鞭打ちつづけて来たが、ま…お察し下さい……。
「新井さん。あなたとも、永いが、わたしは見てきた。あなたこそ、ついぞ……どんな苦境にも、我な
りにとは逃げ□上をうたれない方でした」
今度は彼の顔に血が走った。彼は言った。もうどれ程の昔かと思い出せませんが…と。
彼は、ある日の父と対座の間に、なにがきっかけと覚えないが、高潮して「わたしの道を行く気で
す」と言いきった。即座に父は、「そんな道が在るのか」といっそ小声で反問した。
反問──。
そうでは無かった。そんな道がすでに在るのではない。その道が見つかるか見つからないのか、とに
かく探して歩くことから謙虚に学びはじめよと言われたのである。彼はとっさにそう覚悟したのである。
「なんと、怖い…。しかし、お父上の仰せのとおりです」
「わたしなりに、わたしの道を。…しかし…この私もまた、何度そう呟いては、甘く己れを慰めてきた
か知れません。じつはこの間じゅう、さよう…例の山屋敷で、あの長助と申す者がとうとう死んだと小
耳にはさみまして以来、奇妙にその…亡き父の、昔申しました事ばかりが思い起こされまして……」
434(158)
間部越前守は、沈黙に堪えて彼に応えていた。やがて、思いがけない話を聞かせてくれた。
「例の岡本三右衛門…。異人ではなしに、本人のことですが。御徒(おかち)足軽の斬首された者の名前と、それ
くらいな話はご存じであったでしょう。記録にはそやつの大小(刀)まで転んだ伴天連に与えて、同じ
名を名乗らせたとしてある。しかし三右衛門はそんな軽輩の名前ではなかったそうですよ。よく考えれ
ば軽輩の大小なんぞ、話が妙でしょう」
「いかにも……」
「異人が山屋敷に入ったのが正保三年(一六四六)頃ですが、いきなり三右衛門ではなかった。むしろ
女をあてがった方が先です。女は、伊豆三島代官の伊奈なにがしの内方(うちかた)の姪であったといいますが、こ
れには切支丹の詮議が関わっていた。詮議の責任を負うていた代官が、なんでも詮議の途中で自ら信徒
の一人になったもので、悶着した。関わった者もずいぶん殺されたり流されたりした中で、例の女は江
戸の山屋敷に送りこまれ、ま、ああなった」
「いつごろでしょう、それが」と彼は尋ねた。
いつと聞かれ、「ハテ…」と詮房は思案して、うんと頷き、「慶安の初め頃でしょう。そして、それ
を汐にホラ…目明かし忠庵。踏絵を工夫した例の転び伴天連の…。ああいう役に立てたいと、キアラで
したか…その転んだ異人に岡本三右衛門を名乗らせたと。つまり手なづける気であった…。ですが新井
さん。そこに、またアヤが一つある」
間部は、淡々としているが話は上手であった。
「岡本三右衛門は、お察しのように岡本大八とは、子の孫のというほど直(じか)にではないが、とにかく血縁
のある武士でした。大八は長崎から駿府へもどって厳しい裁きをうけ、たしか安倍川原で火刑に遭って
います。切支丹大名の有馬は陥れたが、根は自分も切支丹で。死を覚悟ののちは並々堅く信仰して、ふ
435(159)
かく懺悔していたと言います。この大八の出身がさきの豆州三島で。時代は隔たるが三島で切支丹の摘
発がすすんでいた時に、代官伊奈兵蔵をまんまと巻き添えにしたのが、岡本三右衛門……」
「ほう…」と、彼はいささかうつけた声を発した。
「それだけでは、ない。伊奈の内方の姪、つまり山屋敷で強いて転び伴天連の妻とされた女は、その、
三島の三右衛門とは許し合った許嫁(いいなずけ)でした。寡婦ではなかった」
「まさか…」
「そう思うでしょう、わたしもまさかと思うが、調べた限り否む理由も出てこない。切支丹は、容易に
自死はしないからな、一つには見せしめのつもりでしたでしょう…」
「ですが、結果……」
「さよう。見せしめにならず、異人と女とは添い遂げた。女を抱かせれば辱められると思い、辱められ
たと思う…か。なかなか人間の思いは、そう割り切れてはいない…」
「ヨワンも、最後にははる(2字に、傍点)という女を、はっきりと妻にしていたと…やはり、思われます。互いに、そ
れが自然で仁に適(かな)うと肚(はら)をきめていたのでしょう…な。ヨワンも長助も、はる(2字に、傍点)のことを、マリアと呼ん
でいました」と、彼が。
「女が身に備えたふしぎなものに、男は慰められたのでしょう。マリア観音ですか……」と苦笑ぎみに
間部は。
「三右衛門も妻にはマリアと名付けて、はる(2字に、傍点)や長助は死ぬまで、マリア奥様と慕っていたと…聞きまし
た」
「随喜といいましょう、なんというか、無心に受け容れる嬉しさですか。ま、そういう気持ちへ人が一
度導かれてしまうと、当人らは知らず、政などという舵を握る者は、舟に底荷をしたたか積みこんだの
436(160)
と似た苦労をする……」
「まことに…」
「ヨワンは強い。まだ生きている」
「わたしなりにと彼こそは言いません。私の道でない道を通って江戸まで迷子の羊を追ってきた男…。
惜しい…が」
「惜しいから、なお、生かして置けない」
間部越前の、しかし、□調は以前より穏やかであった。
「それはそうと…。一度伺っておこうと思っていました」
「何でしょう」と間部(まなべ)はすずしい目で彼を見た。
ずいぶん昔の話になるが、いまの月光院が間部を介し、彼に、女にも読める聖人の道を説いた本がほ
しい、選んでくれるようにと頼んできた。間部越前もなにやら勧め顔に一度二度、よろしくと□を利い
ていた。
「御用繁多のおりとはいえ、御側殿のお頼みと承知で怠ったのは、あの一度……。ご迷惑をかけたので
は……」
あ、はッはッと、初めて聞く間部の大笑いであった。彼は苦笑した。あれは艶書のようなもので…。
誰の。絵島。お人がわるい。なんの、あれは新井さんが目当てで、わたしは馬を射よの類でしたよ、左
京殿もダシにされていたかも知れません。間部は謹厳無比という顔をして見せ、彼をまた苦笑させた。
「翁問答をやさしく書き直して…などと思っていましたが…」
「中江藤樹ですか。いま…信州高遠まで届けてやれるものならば、、心して読みましょうものを……」と
間部は、したしたと拍子をとり掌(て)で火鉢の胴を打っていた──。
437(161)
数日──を、彼は、致仕(ちし)の願いの容れられるのを、待って過ごした。喜三郎の容体に変がみえると、
妻が耳打ちしたとき、反射的に彼は「卑怯」という二字を、心の闇に言い置いた。そんないやな言葉は
ないのに、喜三郎や間部越前に聞いたこの言葉の響きに彼は囚われていた。奇妙に懐しいのであった。
「むら(2字に、傍点)に、なにか……お言伝(ことづて)は」と、はたに人のいないのを感じたか、喜三郎は彼へ手さぐりでものを
言った。彼は窮した。達者に生きよと…ナ、あの世で。彼はヨワン・シローテが通詞の品川とかわして
いた、「しあろうむ」という、もの柔らかな挨拶を思い出していた。
十月二十一日の午前、その、ヨワン・シローテの四十七歳の最期を告げてきた大目付横田備中の簡単
な書状を、彼は受けとった。長助が先に死に、以来、コワンは食を細くしていたらしい。しあろうむ、
しあろうむ……。彼は横田の書状をていねいに封におさめる間も、中有(ちゆうう)の闇を浮遊するらしいローマの
使節へ挨拶を送っていた。山屋敷の太田なにがしから余三(よぞう)のもとへは、まだ、なにも通知がなかった。
死なせてしまった…か。けだるい諦めがあった。
二十二日、早い時刻に間部越前守の使いが、「お出でを願いたい」と告げてきた。出むくとすぐ切り
だされた。
致仕の願いを老中方へまず伝えた。辞意は固いが、慰留はした。御先代のあれほど御信任なされた人
材であり、さらに慰留すべきかどうか、ご一同のご意向も伺いたいと言うと、御側殿が引き留めてなお
辞意固いとあれば、手に余る。しかし上様のお為でない。いま一度御側殿からぜひ慰留されたい、と。
どうでしょう、お考え下さるか──。
間部(まなべ)の話に彼は顔を伏せていた。ご思案は一両日で。宜しいでしょう。念をおされ、彼は承諾した。
「異人が。とうとう…」と間部は話題を替え、頷く彼へ、「代わりが。また、来るでしょうか」
「一人や二人では来ますまい。まして坊主は、もう…。しかし…いつか、国をあげて迫って参りましょ
438(162)
う。切支丹がどうのといった詮議ではとッてもケリのつかない、国と国との自在な……は□実で、欲の
深い談判を、力ずく押しつけてくる国が、二つや三つは続きましょう」
「あなたにそう言われると、今にもそう成るような気がしますが。何年ほどの余裕がありますか」
「…百と、五十年…すれば、もう、国を鎖(とざ)したままでおれますか、どうか」
「それまでは長生きできない…流石のあなたも」と、詮房は揶揄した。それから真顔にかえって、『西
洋紀聞』は慎重に、しかしいつ何が問題になりかけても先手の打てるよう、早くお書きなさいと勧めた。
何が何の先手で、どうなると何の後手にまわるのか、間部はしかし、こそとも付け加えてはくれなかっ
た。
さて「上様のお為でない」と言われて帰って、彼は、やりきれなかった。これほど巧んだ言われよう
はない。慰留に応じるとも応じないともつかぬ、幕閣の求めにしたがい今後も微力を致す所存という返
事を、心知った間部詮房を介してさしだした。二十三日の午前であった。
夕刻まえ、喜三郎が離れで音もたてず、死んだ。余三(よぞう)がはからい、遺骸は脇の戸口を人知れず運び出
されて、浅草の、彼がゆかりの寺へ移した。妻をさきにやり、あとから文九郎の供で彼も通夜に報恩寺
内の高徳寺へいそいだ。
元の新井伝蔵が夫婦で訪れていると聞きつけ、先住の老了也が近くの隠居から挨拶にきた。仏を見て、
はて…と、念仏より先にしばらく死顔を見守っている。
「ご存じか」と、彼は胸を鳴らした。まだ小僧の昔、ときどき亡き新井の父をおとない、この寺へ父を
呼び、終日、閑話をかわして行く「簡斎」とかいった「従兄弟」のあったのを、覚えていてくれたお人
である。
了也は、しかし、首を横にふった──。
439(163)
彼は、喜三郎の死んだすぐに、妻にそっと手渡され懐中した紙包みを、その時、さあらぬ体(てい)に思い出
した。
その妻はいったん家に帰して彼は、父も母もここで亡くなったこの高徳寺に、喜三郎の遺骸を護り一
夜を過ごすと決めた。ひとつには余三から、構わなければ、さきに火消屋敷の与力へ転出させておいた
横田伊次郎を連れてくるがと、耳打ちされていた。喜三郎の柩(ひつぎ)のそばで、思いがけないヨワンや長助ら
の死とも真向かう機会になる……。
思えば、大勢を死なせて来た…。彼は、……遥か信州伊那の高遠へ沈んで果てた絵島のことも思い出
していた。
伊次郎を連れ出した余三(よぞう)が寺をあけたわずかの間に、彼は懐中の紙包みをだした。はばかるように寺
の者も座を外していた。手ざわりでは物らしかった。
一枚の、この頃流行るという歌かるたの取り札に、「もみちのにしき神のまにまに」と女手でやわら
かに書き、地の紙には巧緻をきわめて金銀の砂子を蒔いてあるのだが、それもこれもよほど歳月の息を
吸うて古びていた。角もかすかに朽ちていた。喜三郎の手わざが成した百人一首一具の残りでは、ない。
はなからこの一枚だけが造られていた。「神」と漢字で書いた肩にかけて、燻した銀のいり混じりに彼
の目に、十字架のほのかな影が立ってみえた。それよりも、だが、胸を騒がせたのは手蹟であった。亡
き母の筆跡に酷似していた。
彼は瞬時迷ったが、すぐ意を決して札一枚を遺骸のすでに合掌しているそのあわいへ包みこんでやっ
た。死者の親指がちいさく、しかしすくと立ち彼はそれへ自分の指を触れてみた。
ヨワン……。
この国へ、よう来てくれた。後の人にもそう思わせる時が、さだめし、有ろうよ……。あのマリアの
440(164)
絵に慰められる者も有ろう…よ。
横田伊次郎もまた、思いがけない品を持参した。古いばかり、漆もおかぬ内木地の、からの硯箱であ
った。「新井さんに」と、まだはる(2字に、傍点)の遺骸も目のまえに、ヨワンはそれを駆けつけた山屋敷同心の横田
へさりげなく頼んでいた、ただし自分が天に召されたあとでと。
「ご迷惑があってはと迷いました。しかし」と、横田はいちいち指さし「このとおり何もない、ただあ
の男も一時使っていたというから(2字に、傍点)の硯箱でございますし。妙な念が残りましてもと、一存で預かってお
きました」などと言う。
なるほどただ(2字に、傍点)の箱だと頷きながら、彼は、指さされた箱の内の立ち上がり四面の文字をじっと眺めた。
向う左右の三面はまったく文字とも見えない。が、手前一面だけに筆太に「えり、えり、れま、さばく
たに」とひらかなが読めた。
む、と…彼は唇を噛み、そして、かたじけない…と呟いた。伊次郎にとも死んだヨワンにともつかぬ
自分の声を内心に聴きとめたまま、彼は硯の内に貼りついた言葉や文字が自分に読めないことを辛いと
感じた。この感じを、理解の届かない闇の底へしかと言い置くためにも、『西洋紀聞』の稿は、すぐに
も起したい。それこそあのヨワンとの「一生の奇会」を後世に甲斐あるものと成す、道──成しうる、
道。そう、彼は思った。
「最期は……どんな風にして」死にましたかと聞いても、その場に誰が居合わせたわけでは、ない。
「二十一日夕方まで、井戸牢(と、伊次郎は言った)で、歌っていたそうでございます。ま、祈ってい
たと申すべきでしょうが、歌と、番卒には聞えます」
「衰えていたでしょうな」
「大きな男でしたが。初めて会ったときはそれだけで驚きました。それが板のように薄くなって。声が
441(165)
かすれ、坐りもならずに倒れふしたまま、……しかも最期の日の夜分からはもう、山屋敷に響くほど…。
マリアぁ…マリアぁ…と叫び続けてこと切れたそうでございます」
語る横田も聴く彼も、涙こそ見せなかったが、かたく拳を握って息もしなかった。
「屋敷内に、たぶんはる(2字に、傍点)のすぐ側へ、長助にも挟まれて墓を造ったと、太田という者の内緒話でござい
ました」
「かたじけない…」と、彼はヨワンに会いたがっていた喜三郎の分も、頭をたれた。
「えり、えり、れま、さばくたに(わが神、わが神、我を見捨て給ふや)」と書いてある硯箱を、彼は、
わずかの人目を盗み、柩に膝を折った遺骸の膝下へ忍ばせた。喜三郎こそ、いちばん相応(ふさわ)しい者の手へ
それを返してやれるであろう…。しあろうむ。彼は一つ覚えの挨拶を遠い者らへ、親指をみせたマリア
の絵へも、□のなかで呟いた──。
翌朝、妻はささやかな用意を整え、身一つを駕籠で浅草へ運んできた。間部越前からの消息一通も彼
の手へ同時に届いた。
葬送は妻と義弟にまかせて、彼は家に戻った。間部詮房は、彼の、「今後も微力を致す所存」に対し
謝意を告げ、そのうえで、なお申したい儀がある、羽二十六日の朝にご登城ありますようと認(したた)めていた。
正徳四年(一七一四)十月廿六日、出仕。将軍の御前で、白羽二重三疋、大紋色羽二重三反を、筑後
守新井君美(きんみ)は拝領した。
「勘解由(かげゆ)」と、年おさない将軍家継(いえつぐ)は、御先代にどこか通う声音で昔からの彼の名を呼んだ。彼は平伏
した。
「勘解由。身をいたわり、相変りなく勤めてくれよ」
「恐れいります」
442(166)
儀式はそれで済んだ。表むき勤めの方の事は、「なり次第に」つまりは体とよく相談をしながら、
「いか様にも取続き、只今迄のごとく御奉公」されるのが望ましい。それが老中一同の協議の結果であ
った。詮房から、まず、伝えられた。
土屋政直は、老いこむ年ではないと彼を決めつけた。五十八歳──。彼はただ「はい」と応じた。事
は、「なり合い」が良い。そうも筆頭格の土屋は言い添え、他の老中五人とも、□々に久しい労をねぎ
らい「心長く保養」をなどと声をかけ合った。将軍家御側用人の間部越前守詮房だけは姿勢を正して、
黙然と、ただそこに居た。
喜三郎の新墓に、今ごろ香華(こうげ)にそえて紅葉の錦を手向(たむ)けているであろう、久しい連れ添いの妻みち(2字に、傍点)の
眉目(まみえ)のあたりを、うつつに、ふと彼は想い浮かべていた。
親指の、母…マリア…。
夜来の冷えが、やや緩んでいた。
一年余──正徳六年五月、八代将軍徳川吉宗は間部詮房、新井白石らを罷免したが、さらに四年半後、
享保五年(一七二〇)十二月にはキリスト教以外の西洋書の輸入を、解禁した。新井君美著『西洋紀
聞』二冊は、すでに極秘に吉宗の手へ献じられていた──。
──完──
443(167)
主な参考文献と学恩にあずかった方々
1 新井白石全集 2 新井白石日記 3 西洋紀聞(平凡社・教育社) 4 新井白石集(中央公論
社・筑摩書房) 5 宮崎道生氏の多くの白石研究論文 6 世界の歴史・日本の歴史(中央公論社)
7 各種の聖書・賛美歌集・祈薦書・ミサ典書・教義書等 8 松田毅一氏による『イエズス会日本報
告集』他の南蛮資料 9 キリシタン書・排耶書(岩波思想大系) 10 江口正一氏の南蛮美術研究
11 西村貞・内山喜一・千沢禎治氏らのキリシタンの美術研究 12 松本富士男氏のキリスト教美術研
究 13 キリストにならいて・マリアにならいて(トマス・ア・ケンピス) 14 オラシオ・ボホルヘ、
石井美樹子、植田重雄、G・モースト、安田貞治氏らのすぐれたマリア・聖母研究 15 野呂芳男氏の
キリスト教研究をはじめとする多くの聖書・イエス・教会史研究や入門書 16 外山幹夫、山脇悌二郎
氏らの長崎研究 17 奈良本辰也、西山松之助、大石慎三郎氏らによる江戸時代研究 18 村井益男、
藤野保氏らによる江戸幕府研究 19 杉浦昭典、茂在寅男、中村庸夫氏らの帆船・航海研究 20 井上
洋治氏をはじめとする多くのキリスト教啓蒙書 21 山田野理夫、谷真介氏らをはじめとする数多くの
キリシタン殉教関係書 22 三輪福松、竹山博英氏らのイタリア・シチリア紀行その他多くの案内書
23 自省録(M・アウレリウス、神谷美恵子氏訳) 24 源了園氏をはじめとする多くの近世日本思想
研究 25 岩生成一氏らの鎖国研究 26 三田村鳶魚氏をはじめとする江戸風俗研究 27 多くのルネ
サンス美術書 28 シドッチにかかわる極く僅かな文献 29 鈴木大拙氏の著作等。(順不同)
数え漏らしたなお多くの本や人のあろうことを付記して感謝申上げる。この『親指のマリア』は、先に
最上徳内を書いた『北の時代』と、大きな一対になるよう願っていた。(一九九〇年秋) 秦恒平
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作品の後に
「この作品が新聞小説だったとは信じられません」と、何人もの方からお便りをいただいた。これはも
う幾重にも取れる感想、ないし批評・批判だと、身を縮めている。九州大学名誉教授の今井源衛さんか
ら、今日お葉書を頂戴した。「息苦しく重い主題を、正面からひたむきに御追求のこと、ふかい感動を
覚えます。白石の立派さなどもはじめて御教えに与りました」などとあり、私信の公開はまことに恐縮
ではあるが、(今井先生、お許し下さい。)作者冥利とはこのことと、どんな苦労も忘れてしまう。同様
の、なかみはさまざまのお便りを数え切れないほど、刊行のつど、日本列島の津々浦々から頂戴する。
作者から読者へ、商品としてでなく作品として、お一人お一人に毎度私信をそえ、心をこめてお届けし
ているこの出版ならではの嬉しいお付き合いである。通算五十四冊、もう十二年もの永い歳月を、ひし
とお付き合いいただいた方が大勢おられる。身の不肖不徳は重々承知し恥じ入っているけれども、けっ
してわたしは孤ではなかった。
□絵の色写真は、筑摩書房の好意で、単行本のカバー・フィルムが拝借できた。また新聞連載当時の
挿絵から(もっと入れたかったが、余儀なく)二葉だけ選んで、池田良則画伯から拝借できた。この図
版刷一丁は、心ばかり、読者のみなさんへのお礼である。この頁数、この行組、とてものことではない
けれど、そんなことより、作品一篇にそれらしい花を添えてお送りできた喜びのほうがうんと大きい。
東京国立博物館に、折よく「親指のマリア」が展示されていたのも、福田敦江さん(故恆存先生夫人)
にお知らせいただき、間に合った。シドッチがもたらし白石が見つめた「悲しみのマリア」の涙に、ま
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た、見入ってきた。踏絵の数々も展示されていた。
ことわって置くが、わたしはクリスチャンではない。仏徒とも、とても言えない。しかしキリストや
釈迦にただ知的に関わろうとしているのでは、ない。しいて表現すれば神にも仏にも祈ることのできる
性質(たち)であった、子供のころから。そのことを不徹底と卑下するのでなく、そのほうが信において自在で
あり、ありがたいと思っている。一人の作者からいえば、仏を書いているときは人から仏教徒なのです
ねと、神を書いているときはクリスチャンなんですねと、そう思われるほどに書ければありがたいので
ある。こういう態度は、だが、ときとして、なるほどなと思う非難を浴びないではない。
あるカソリックの人と対談しているときに、突如としてその人から「わたしたちカソリックの立場で
は」という物言いをされたことがある。とっさに、あなたは「立場」で信仰なさるのですかと反問して
しまったが、同じことは例えば「わたしたち浄土宗の立場では」「真宗では」などと聞かされる。ごも
っともに感じながら、わが「信」のありようが、そのような教団や宗派の「立場」からかなり自在に解
き放たれてあるのを、ひそかに感謝したりする。当然のように、だから、わたしの書いたローマン・カ
ソリックの司祭であるシドッチが、その「立場」を守れていないのではと批評ないし非難を受けること
がある。だが、まさにそこに「作」の一つの動機は在った。切支丹牢という極限状況に、二人の不運な
従者とともに終生禁獄を強いられた「彼」に、どんな「立場」が本質的であったか。カソリックか。プ
ロテスタントか。違うのではないか。「信」と「愛」とに極まっていたのではないか。
カソリック司祭とプロテスタント牧師との「立場」の差を知りたければ、その人が妻帯しているか、
マリアを容認しているか、少なくもこの二つでハッキリすると、その道の人の書かれたものの本で読ん
だことがある。なるほどと思う一方で、索然とした思いももった。この下巻は、そういう点でまことに
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微妙な岐路を指し示してしまったと思う。如才ない作者なら避けたにちがいない道をわたしは「彼」ら
とともに歩み進んでしまったと思う。作者が、シドッチを誣(し)いているかどうか、同じ意味で新井白石を
も誣いているかどうか、ご批判に委ねたい。
今は亡き桑原武夫の新井白石評価にわたしは共鳴していた。この作品で必ずしも桑原評価にのみ同調
したわけではないが、一票は投じている。しかし、根深くこの作品の新井白石像を支えた基調は、白石
の知る由ない北原白秋の、こんな短歌三首であったことを白状しておこう。
あなかそか父と母とは目のさめて何か宣(の)らせり雪の夜明けを
あなかそか父と母とは朝の雪ながめてぞおはす茶を湧かしつつ
あなかそか父と母とは一言のかそけきことも昼は宣(の)らさね
白石の敬愛する父母を偲ぶ場面に、この短歌を利用したわたしの思いを読者はよく納得して下さるだ
ろうか。白石とこの白秋短歌とを、あたかも一と重ねにし得そうなところに、我が身を「清まはらせ」
る根源の赦しをわたしは願っていた。「父」また「母」なる理想を、わたしは白石とともに、おそらく
はシドッチもともに、こういう境涯に求めつつこの小説を書いていた。わたしの小説は、かくも結局は
わが私的動機を露わにしてしまうのである、ここでは、聖なる「母マリア」にも寄せて。
さて、この数年間というもの、いずれの死に支度にと、一つは「子供たちと親」のことを、次いでは
「子供であった親」のことを、ものの二千枚ちかく書いてきた。気の衰えた六部の足はいつしか故郷へ
向かうと誰かの句にあったが、必ずしも気の衰えてではなく、それでも我が足元に培っておこうと見直
す思いはなまやさしくない。時間が足りるかしらんと本気で案じている。次回の『死なれて死なせて』
は思えばそれら一連の嚆矢をなす作品であった。新ためてこの問題作を心してお届けしたい。
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