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目次
聖母の章〈ヨワン・〉……………………………上巻 5
潜入の章〈勘解由・〉……………………………上巻 67
審問の章〈ヨワン・〉……………………………中巻
福音の章〈勘解由・〉……………………………中巻
洗礼の章〈ヨワン・〉……………………………下巻
殉教の章〈勘解由・〉……………………………下巻
作品の後に………………………………………137
要約と予約………………………………………142
〈表紙〉
装幀 堤いく子
装画 城 景都
印刻 井口哲郎
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親指のマリア 上
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「京都新聞」朝刊 一九八九年三月一日ー十二月三十一日 連載
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聖母の章〈ヨワン・〉
一
声…を聞いた。が、聴きとれなかった。聴きとろうと気をあつめた、それで目が覚めた、そういうこ
とらしい。くらやみの底を揺られたまま、ながいあいだ豪雨のような音を聞きづめだった。荒波とも迅(はや)
い風とも、どッと募って人の罵りわらうとも、聞けた。追い払われたようにそれが遠のいていた、それ
も気づかずにいたらしい。
寒い。いや…あたたかい。
瞼をすりあわし細い目をあくと、きれいに磨いた黄金(きん)色の日ざしが、まるくなって臥(ね)ていた肩ごしす
ぐ目のまえの板壁へ、太い、明るい十字を生んでいた。声が思わずもれた。小鳥が近くで鳴いていた。
窮屈な長い旅の途中、どこででも見た雀だ。故郷のと変らぬ雀だ。
髪の毛も、頬も、濡れたほど冷たい。
が、なんというこれは、ぜいたくな佳(い)い目ざめだろう。日光のなかへ、甘えて頭からもぐりこむふう
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に壁の十字に感謝の唇をおしあて、目をとした。
頭のうしろが、ほの暖かい。そして──投げだした重い荷物かのように下半身をやっとひきずり、片
手を床に、もう片掌(て)は痛む腰にあてがって、ゆっくり、声のした方へ彼は身を起した。
手ずれした粗い格子の外に、日本の女が一人立っている。左手に長い竿を立てて、いる。正午をすぎ
たと見える日ざしは、女の頭上、今しがたその竹竿で押しあげたにちがいない四角い天窓から、牢内に
射込まれている──。
あまりに小がらな、年のほどもしかと見えない女だった。男のつよい視線をうけたまま、白い佳(い)い紙
で造った一輪の花ににて、女はちいさな顔をごつい牢格子の外にのぞかせたまま、動かない。
彼は起とうとして、あっけなく膝から崩れた。目のはしに思わず女の白い手が十字の木組みにつかま
るのを見た。が、次の瞬間足ばやに女は去ろうとしていた。竿の倒れる乾いた音がした。
声がしたのは──あの女だったろうか。彼は惑った。胸の底へ波立つものが来て、去らない。
「……」
胸に手をおいて故国の言葉で、彼は、幼な児の母を呼ぶ声を声にしていた。風が吹きこみ、日が一度
かげってまたすぐ明るくなった。
どれだけのあいだ寝ていたのか。二日か。もっとか。詮索は後刻(あと)にして人の来ぬまに、彼は真新しい
茣蓙をさけ、冷えた板敷にひざまづくと、淡々(あわあわ)と影うしないっっある壁のうえの十字架に感謝の祈りを
ささげた。ここは日本の、江戸だ。将軍が住むという江戸だ。念願の大事にいよいよ臨む機会を、こう
心地よい日の光と目ざめにそえて与え給うた主(しゆ)のみ心は、称(たた)えられてあれ──。
遠くと近くとで、意外なほどおっとり物を言いかわす人声がしていた。顔をあげ、彼は聞き耳をたて
た。さっきの女だろうか──。また胸が波立ってきた。主(しゆ)よ、望みを与えてくださるのですねと、胸の
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内へ問うていた。
人が来る。重そうに戸がしまる。二人。いや三人か。荒い足音ではない。物のふれあう音にも脅迫の
響きはない。
なにを話しているのか……。目を覚ましてくれたか、ヤレヤレとでも、意外な、笑いさえ含んだ声音
だった。
長い脚を二つに折って、身分の低い日本人がいつもしているように、彼は膝を前にそろえて坐ろうと
してみたが、うまくできなかった。数えるのも苦々しい長い日かずを重ねて、長崎から、窮屈な駕籠で
江戸まで運ばれてきた。背も、尻も、ふくらはぎも泥でこねた棒になって、ぐたりと折れそうだ。つい
た膝がしらが錐(きり)をもむように痛い。
いっそ起きて待とう。精いっぱいの誠意を顔とからだで表わそうと、彼は幼児めく禿(かぶろ)の髪をゆさゆさ
揺って、まっすぐ起った。木綿の白い肌着に、濃い茶色、袖細な紬(つむぎ)の綿入れを着重ねた膝から下むきだ
しの長い脚が、湿気に負けた赤い斑点をいくつも見せて、痩せていた。
牢の外へ立ったのは、思ったとおり大勢でなく男が二人と、そして、さっきの女──。勝手が、ちが
う。江戸へ差遣(さしつか)わしの総勢は長崎奉行所配下、検使両人以下、下役が四人通詞(つうじ)三人をふくめ都合二十六
人のものものしさと聞いていたが。
「オゥ。……高(たけ)え。八尺…ありそうだぜぇ」
歩みざま一人の男の、照れたほど気さくにつぶやくのが、うつつに聴くここで最初の日本語になった。
揚屋(あがりや)に造った牢内は男が立った土間より、やや高い。
「頭髪(あたま)は黒いが。マ、鼻の高ぇこと」とも、おなじ男は武士らしくない呆れ声を平気でだす。この男だ
けが形ばかり腰にごく短い刀を一本さして、見なれた、それでしごかれると身に喰いいって痛い棒を手
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に立てていた。背は低い。が、囚人を観察する目配りはもの馴れていた。髷(まげ)の形も、衣服も、履物も他
の二人とちがい、四十前後、相応の責任はもったふうの侍だ。
それより、侍のうしろに控えた二人が気になった。夫婦というのも場所柄異様だった。女の顔など、
ただ見るさえこの一年めったになかったが、そとの二人は肖(に)ているといえば言えたが、兄か、妹か…。
ことに温和に、腰をかがめ気味に牢内を見入れている素足に草履の男などいくらか髪も白う、それを無
造作に頭のまうえで束(たば)ねたなり、まるで寝いったように静かだ。六十…にはなっているのか…。十一年
まえ、ナポリの旅先で五十九で病死した父にくらべると、身嵩(みがさ)は半分とあるまいが、日本人らしくない
色白な、年齢(とし)のほどより老人らしい顔をしている。そして、女──。
彼は、つとめて女のことは見まいとしていたが、すると一層女の視線がまっすぐ来て顔から離れない。
女にしても侍ほどは若くなかった。片手に、提げ手と桟蓋(さんぶた)とがついた深めの木箱をさげ、やや頑(かたく)ななほ
ど光る瞳(め)をみはって彼を見つめていた。
こういう瞳(め)の日本人にマニラの王立病院やセミナリヨでも出会ったけれど、屋久島に上がってからは
知らない。
彼は、可愛い盛りの十一歳の誕生日に、急に脚気の発作で主のみもとへ召された弟のことを思いだし
た。だれもが褒めるまッ黒い瞳(め)のヴァリニャーニが、やはりあんなふうに目をみひらいてまっすぐに物
を見た。利かん気な□もきいた。正直な子だった──。主よ、みもとで弟をおいつくしみ下さい……。
弟は美しい彫刻細工で飾ったカレット(馬車)で走るのが好きだった。馬につけた何ともいえないあ
の独特な鈴の音、そして蹄(ひづめ)の音。きしる車輪の堅く澄んだ音。聖ミカエルと龍との戦いを描(か)いたのに乗
って、青々と空冴えた夕暮れどき、香り豊かにオリーブや龍舌蘭の美しい景色を背に負うて、母と三人
で「サンタ.マリア」を歌いながら家へ帰っていった日、はしゃいだあまりにヴァリニャーニときたら
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羽の帽子を、白いリボンを額につけている馬にかぶせるのだといって諾(き)かなかった…おお懐しいパレル
モ…。
──ぎごちない初対面の沈黙は、だが、ながくは続かなかった。髪とおなじ黒い髭づらに皓(しろ)い歯なみ
をあらわし、笑顔で彼は腕をひろげた。適当な日本語はでなかったが、応(こた)える声が、それも女の声が、
またしても意外な、まちがいないローマの言葉で短い挨拶をかえしてきた。聖職者のあいだでだけ交さ
れる、それは簡単な相槌のようなものだった。
息をのんだ。彼だけではなかった。あらわに顔色を動かして武士も女を顧みた。
だが動じたふうもなく女が、わきの、夫か兄かに囁きかけると、老人は司直より前へでて落着いて牢
の引き戸に手をかけた。頑丈な牢格子のほんの一部分、この囚人なら長身を二つ折りにするしかない潜(くぐ)
りが、かるく金具をきしませ難なくあいた。彼はえたい知れない不安に襲われた。
会釈して老人がさきに牢内に入った。そして敵意のないしぐさで、あわてて彼から求めた手を両掌に
つつんで押しもどすぐあいに、壁ぎわに無骨に造りつけた低い木の寝床へ、異国の大男をもとどおり腰
かけさせた。
老人の手はきゃしゃに萎(しな)びていた。だが□のなかでなにかフンフンつぶやくらしい声音にも、軽々し
い響きはない。彼はふと畏れにちかい敬愛を、このかすかに男の匂いの残った老人に感じはじめていた。
声高に、謝意を伝えようと老人の手を放しかねているうちに、侍が履物のまま腰をかがめ、牢内にあ
がった。
女も侍のあとから大きな容れ物を框(かまち)のきわに注意ふかく置き、ぬいだ藁草履を土間にきちんとそろえ
て、やや離れて膝をつく。礼拝でも…と、彼は寝床をはなれかけた。と、老人も女のそばまで退き、同
様に跼(かが)んだ。起っているのは土足の武士だけだった。
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「……」と、武士が女をうながした。
事の初めの、ともあれ儀式めくなにか言い渡しをこの責任ある司直は演じわずらって、まずは囚人に
飢えをしのがせようと考えたらしい。
ためらいのない身ごなしで女は用意の箱の蓋を、わざと寝床のうえに仰向けると、膳の代りにそれへ
手ぎわよく食べものを出して並べた。焼きぐあいはともかくとして、焦げめの香ったパンがあった。茶
はうっすらまだ湯気をたてて、木の椀に七分目もあった。一目で彼は見当がついた、小麦の団子を醤油
とわずかな油味で、小魚や大根、葱に煮合せたすいとんの鉢も、見るから熱そうだ。二枚の小皿に焼塩
と、たぶん酢が、少々添えてある。
彼は感謝の十字をきりながら、目で、女の手を求めた。女は悪びれずそれをゆるし、彼は接吻した。
居心地わるげに侍が目をそむけた。老人がしゃがれた声のそれもイターリア語で、片言のこごえで、食
事をするよう勧めた。女もひざまづいて同じ言葉をかけてくれた。誰なのだ…ろう、この二人は。こん
な日本人が江戸には何人もいるのか。
「カタジケノ…ゴザリマス」
奪い去られた胸の十字架をむなしくさぐり、掌を握りあわしたまま習い覚えた日本の言葉をせいぜい
混ぜて、彼は今日が、この国の暦で何年の何月何日になるか、年とっている二人の方へたずねた。
宝永六年十一月三日の午(ひる)過ぎだった。ローマの暦では、では、一七〇九年の今日にも十二月に、入っ
たかどうか。だが、それも今からは忘れてしまおう。日本でのことだけを思って生きようと彼は気をひ
きしめた。そして一昨日(おととい)の夕刻この、日本風にいうと切支丹邪宗門の、もっぱらイルマン(修道士)や
バテレン(神父)を押し込めようと厳重に高台を囲った牢獄へはこばれるまぎわ、半ば昏睡しかけたま
ま地面にまろび伏して、念願の江戸の土を踏むことのできた感謝の祈りを、主とマリアのみ前に捧げた
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のを思いだした。
「アレハ、ドコ…デシタ。ココ…デシタカ」
□中に痛むくらい渇きを感じながら彼はどもった──。
──彼をのせた囚人駕籠は、十一月一日の午前七時に品川を発(た)って、途中難渋しながら江戸市中へ午
まえに入ったという。そのあと御城の西を遠く高田馬場、姿見橋まで北へ迂回して、結局関口から小
日向(こひなた)台へさびしい用水沿いを急ぎ、もと丹下阪、俗に切支丹坂下の獄門橋に辿(たど)りついたのが、午後四時
過ぎていた。
「ゴクモン…橋」
「幽霊橋ともいうが…」と、今となって相応の武士とみえる侍は、聞く耳に意味不明の、だが毒のない
□をきいた。
かすかに水の走る音、というより匂いを、あのとき…感じた。幅のない短い板橋だった。駕籠をおろ
されたのは手前で、道の正面の急な坂、疲労の身には目くるめく石段のうえの門構えに、切支丹禁制見
せしめの札の打ってあるのを検使の一人が指さしたらしい。が、見える段でなかった。ただもう路上に
倒れ伏し、海老より醜く脚をちぢめた目のまえ、橋づめに、霜にやけたわずかな冬草が、青い、と思っ
たのがやっとだった。若い通詞の加福喜七郎に、耳もとへ、着いたぞ、着いたのだぞと叫ばれ抱き起こ
された。
坂道は石段の根かたを右へ右へ木立の奥へと折れて隠れて、道の向うは高い石垣だったと思う。石垣
の上にさらに厳(いか)めしく塀が立ち、塀の内も幾重にもうっそうと樹木におおわれていた。そのように見え
た。あのとき──なぜだか、ミゲル船長らといよいよ聖トゥリニダード号から上陸用のシッフォ(短
艇)へ一歩一歩降りていった時の、屋久島沖の墨のようだった海の黝(あおぐろ)さを想いだし、思わず身を反(そ)った。
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そしてむなしく背後を顧みた。夕雲の江戸の空が薄澄んでしみじみ青く、あかく、だがあまりにそれは
遠くに見えた。
彼は、下役(したやく)や加福の手が一斉にひき起すまで、はるかなその夕茜の方へ体をなげうち、凍(い)て冷えた土
の道に接吻をくり返し返しなにを祈るともなく、夢さえあのとき見ていた。夢に、ローマをたって七年、
朝夕に思慕と感謝をささげてきた懐しいあのアネス・ドルチ描く「悲しみの聖マリア」御画像へ顔をよ
せ、やさしい頬に光るふたつぶの珠の涙をすすっていた──。
あのまま気を失っていたのか。
彼は牢番たちにきいた。
武士が一言、そうだと頷いた。迎えの役人も何人か出ていたが、ここにいる老人やまして女の姿はあ
のとき無かった。
長崎──から差副(さしそ)えの大通詞に今村源左衛門、稽古通詞に品川と加福の二人が、駕籠脇についた。こ
の三人だけが彼とかつがつ言葉の通じる相手だった。
去年、宝永五年十一月九日に薩摩藩の手から、国禁を侵して潜入のローマ僧として長崎奉行所に厳重
に引渡されて以来、また今年この九月二十五日に長崎を出立(しゆつたつ)以来の千辛万苦も、思えば我ひとりの受難
ではなかった。幕府じきじきの吟味につき、難儀なこの邪宗門の徒を無事江戸まで送り届けねば相済ま
ぬ役向きなど、ことに今村のような名うての子煩悩(こぼんのう)には迷惑至極だったはず。諸事おおまかな今村はじ
め、西洋事情に好奇心を隠さない勉強家の品川兵次郎、気配り細かにしかも油断なく尋問の向きをああ
も変えこうも変えて攻めてくる、若い読書家の加福喜七郎。誰にもまして今この三人とのまぢかい別離
が彼には心細かった。
大通詞の今村源左衛門らは十一月一日、獄門橋の上で失神した囚人を、坂上へ運んで裏門から山屋敷
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(切支丹牢)内に入れると、吟味所で型どおり身のまわりを改め、ローマからの所持品すべて、目録を
そえて宗門切支丹奉行所の与力(よりき)に伝達していた。
どこへ、さてこの二十貫の上もありそうな大男を収容するか、議論もあった。当所の役人は、長途を
駕籠に押し込められてきた者のこと、暫時は、切支丹屋敷内にたまたま生き残りの小者二人が住むのと
いっしょの棟に入れ、看護を申付けたいと言い、むしろ長崎方の検使のほうが、大罪人の切支丹伴天連(バテレン)
をそれでは、手落ちをとがめられても後日迷惑と、牢詰(づめ)を言いはるありさまだった。
江戸の空気は、ちがう……。
今村らも、糸の切れたような拍子ぬけを味わっていた。
──あれこれの思いに、今囚人は一度に胸を満たされ、話の途中からうつけたような奇妙な無表情に
陥っていた。
「どうぞ、パーテレ。召上がって下さいまし」
そう、女がまた勧めた。彼はわざと聞きながす顔で、立って、目の前の武士に一礼し、句ぎり句ぎり
遅ればせに姓名を名乗るとすぐ、検使以下今村ら長崎からの人たちがみな休養がとれているか、また会
えるかときまじめに尋ねた。相手もものを思いだしたという顔で、はじめて□調を改め、懐中していた
書付けで確かめてから、重ねて──「ヨワン・バッティスタ・シロウテ」と申す者に、相違ないなと尋
ねかえした。
「サヨデス。ジョヴァンニ……バッティスタ、シドッチ…デ、ゴザリマス」
彼はもう一度正確に、イターリァ語どおりに自分の名を言い直し、長身をかがめた。シチーリア人。
西暦一六六八年にシチーリァ島のパレルモに生れ、ローマで学び、年齢(とし)は四十一歳であること。ロー
マ・カトリックの「修道院長(Abbate)」の資格をもった教皇特派の宣教師であること。はるばる日
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本へと船出して早や六年、いや七年にもなること、などを時に指折り数えてみせながら、武士のほうへ
話しかけた。
聞き手は、背の高い彼に見下ろされるのに閉□していた。むろん事の次第もほとんど通じない。つの
る疲労に囚人がいつ倒れるかも知れず、役人は話をさえぎって身ぶりで彼に腰をかけよと命じた。そし
てすこし早□で役人は自分の身分と、横田伊次郎という姓名とを告げて当切支丹屋敷の警固に任じてい
る頭(かしら)立つ者の一人であること、役儀によって厳しく監視すること、よく心得おくようにと、ともかくも
言い渡した。十分聴き取れないなりに謹んで彼が会釈をかえすと、横田も表情をやわらげた。
やわらいだ顔のまま横田伊次郎は、囚人の尋ねていた事にやっと察しがついたかして、通じるともど
うとも頓着なしに喋りだした。長崎奉行所配下の者なら、ここから遠くない先手(さきて)組屋敷に宿所をあてが
われて残らず休息しているから、大事はない。囚人が何事もなく目ざめたところで、通詞三名ともども、
種々談合のために与力(よりき)方も今後再々これへ訪れてくるであろうなどと、□つきは噛んでふくめるていに。
…親切な人だ。
横田の□もとを見つめて、頷き頷き彼は笑顔を絶やさなかった。
横田は、老人を「長助」と呼んで指さした。
「チョースケ…サン…」
老人は目礼した。
「はる(2字に、傍点)、と申します」
女は紹介を待たずに名乗って、床に三本の指をついた。
「ハルサン……」
横田は長助とはる(2字に、傍点)が夫婦同然の者であり、以後囚人の世話をすることを説明ぬきに申し伝えた。
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「カタジケノ、ゴザリマス」
彼は腹からそう言った。この日本語が好きだった。
間をおかず彼は顔をあからめ、牢内に設備のないのも目で確かめて、かすかなしぐさで尿意を訴えた。
長助が先にたち、横田の背後をまわって、意外に強い力で彼を支えながら囲いの外へ導いた。彼は胸
を騒がせた。そんな待遇は、過去一年、長崎でのいかなる体験からも予期できなかった。
牢舎は横に長い、おそろしく堅固そうな木造だった。たぶん南むきに分厚い格子で土間から隔て、そ
して牢内は堅い板壁で三室に仕切ってある。
彼は自分の牢がその西の端にあたるのを見てとった。その目に牢はさながら木の檻と映ったが、獄舎
の全体は、この横長な三部屋の檻をそっくり収納する体の建物にできているらしい。簡素なものだ、こ
れが牢獄か。彼はかすかな興味も抱き、反射的にバゲーリァにあるグラヴィーナ家の別荘を思いだして
いた。その地下二階には、館の主が趣味で造らせたという牢獄が、半分見せ物のように来客の好奇心を
誘っていた。
遠い縁につながるその館へ、子供の時分に一度、聖職についてからも余儀なく一度彼は訪れていたが、
バロック様式の豪華きわまる大広間には、ドームの大天井一面にびっしりと無数の鏡が張ってあり、二
度とも深い吐き気に襲われた。鏡はそれでも見あげなければすむ。牢獄だって見たくもなかった。しか
し吐き気は館へ足を踏みこむまでにすでに催していた。
パレルモから東へ、オレンジやレモンの溢れかえる木々に囲まれたバゲーリアの町には、イスパーニ
アの王に封じられた封建土地貴族の浪費的で奇妙な別荘が多かった。
なかでもグラヴィーナ家のは奇怪さの度が過ぎていた。館をとり巻くながい石造りの塀の上に、なに
を数奇(すき)好んでか、わッと□の大きな、目のとび出した身の毛よだつ蛇のような亀のような怪物や、手足
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が何本もの女や顔のねじくれた男たちが、風に曝されおびただしい行列をつくっていた。
広い庭にも、おなじ化け物たちはぶきみに笑い声を響かせ溢れていた。そして人の話では、地下深く
に築いた地獄の檻にも、怪物たちがいっそ陽気にゆらぐ灯(ともし)にひしめいて収監され、拷問されているのだ
そうだ。
館の主人たちは、だが素知らぬ顔をして尋常に、優雅に上の階で暮していたのだ、主に捧げる祈りも
むしろ熱烈だった。だがうそ寒い冷笑と虚無に隠された苛酷な鞭の響きもきこえた。
シチーリァのバロックは、あれは病んでいたのか。ローマのは…どうなのか。少なくとも簡素なもの
ではなかった。彼は──我にかえった。高いところから牢屋敷に日ざしが落ちて、木造の木目がふと美
しくさえあった。よろっと足を前へ運んだ。
土間廊下が檻の三室を大きくめぐっていて、かねての心配りか小便箱と、蓋つきの持ち運びもきく木
の便器が、彼の牢からはかげになった西の隅に仰向けてあった。どこかしことなく掃き清めてあった。
しろい空気だけが冬の匂いをさせていた。長崎網場の獄では言い尽せないほど、なにもかも悪臭にまみ
れていたのに。
手桶の水でいきなり手を、ついでに顔もざぶざぶ洗った。水は冷えきっていたが身内に深い安堵が湧
いていた。
薩摩──に止め置かれていた一と月たらずは、思えば、まだよかった。島津侯は、着がえの衣服も用
意してくれ、めずらかな彼の話を一つでも二つでも聞きとろうとした。彼も幾度か主のみ教えを説こう
とさえ試みた。空しかったが希望がもてた。
だが、長崎へ移されてからは、うしろめたげなオランダ人がいつも物蔭にひそひそしていて、どうに
も、いけなかった。取調べにもうしろ手に縄をうたれた。ただ有難いことに一度没収された荷物を、江
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戸へたつ日まで不浄の物扱いに、袋ごと牢内にさし戻したままでいてくれた──。
──用をたした彼を、長助は温和しくしかし出□の方はふさぐ風情で、土間にたたずんで待っていた。
日ざしが遠のいたか、天窓ごしに寒気が棒のように吹きこんできた。だが今は渇きと空腹とに、彼は、
食べ物の匂いへ堪(たま)らず惹かれた。はずかしい…。だが長崎以来申し出のままのメニュ(定食)であるこ
とにも、ほッとしていた。彼は静かに十字をきり食前の祈りを主に捧げた。
二
西暦一七〇三年新春、それは日本の元禄十六年に遡る話になるが、ローマ教皇クレメンス十一世の特
命を受けた大司教シャルル・トーマ・ド・トゥルノンが、清(シン)都北京へやがて船出しようとしていた。
トゥルノンは、インドや清国で、当時カトリック各派の修道士たちの間に収拾つかぬまで判断も態度
も岐れ岐れていたいわゆる典礼問題に関し、表むき事情聴取、じつは教皇の容赦ない指令をつたえて、
遵守を信者たちに迫らねばならなかった。
たとえば清の場合、教会や信者は中国思想とまぎらわしい「敬天」の額を今後けっして掲げてはなら
ぬこと、たんに空を意味するに過ぎぬ「天」やまた「上帝」の語をもちいてキリスト教の神を説いては
ならぬこと、春分秋分や月の一日十五日に孔子を祭るふうの広義の先祖祭など、主催はむろん参加もし
てはならぬことを、はっきり言いわたす。
禁教の姿勢をやっと解いていた清の朝廷は、そんなローマ・カトリックの方針にかならす反発するだ
ろう。独自の努力で清の民情や慣行になじんだ布教をと心がけてきた名高いマテオ・リッチ(利瑪竇(りまとう))
以来のイエズス会系信者たちも、態度に窮するだろう──。
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大司教トゥルノンの出航。ほかでもない、それは、彼ジヨヴァンニ.シドッチ自身が念願の日本をめ
ざす、遥かな旅立ちの日とも定められていた。その日を彼は待ちわびた。
彼と同年にイターリアのトリノに生れたトゥルノンは、フランス貴族の血をうけ現教皇の寵にも恵ま
れて、異教の神々や異国の習俗を「悪魔」「野蛮」とためらわず言い捨ててしまえる人物だった。但し
トゥルノンだけがそうなのでなく、カトリック教会全部のむしろそれが痼疾となっていた。もっと健康
な「御大切(ごたいせつ)(愛)」が本来のカトリックにはある──と信じつつ、一助庄司祭の波シドッチは、謙虚に、
熱心に、布教聖省あてトゥルノンとの同船を願い出てきた。そして教皇の裁可をとうとう得ることがで
きた。
彼がめざす国は、最初から、日本だった。
「暴君」秀吉の禁教と弾圧とから百二十年ちかく経ち、この六十年余ただ一人のヨーロッパ人宣教師も
入国しおおせたことが無い──。その切支丹殲滅の日本国へ新たな布教を願って、彼は機会を、もう三
年待ってきた。待ちかねながら辞書や書物で、イエズス会士らの厖大な報告書などで日本について、独
り学び続けてきた。
彼ははやくに姉と弟を、四年まえには父も喪(うしな)っていたが、故国シチーリアに老祖父と母エレオノーラ
が健在だった。彼が暮す同じローマでは、兄のピリッポスも平和な家庭を築いていた。信心深いこの兄
は教会に協力しながら、みごとに美しいメダイを造ることで知られた彫刻家で、兄嫁は画家の娘だった。
兄と弟は、この娘の母アネス・ドルチを自分たちの母かのように頼んで、十四と十一の時にシチーリァ
からローマヘ、勉学のため送られて来た。
アネス・ドルチは、彼ら兄弟の母エレオノーラのとくべつ親しい友人だった。故郷のパレルモでもロ
ーマヘ来てからも、「アネスはね」「エレオノーラはね」とその時だけは娘時代の物言いにかえって、
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兄弟はよくお互いの名前を聞かされたものだ。あのしとやかに美しい母の、思わず手を拍(う)つような耳新
しい元気な少女の昔も、彼らは「アネスおばさん」の□からたくさん聞いた。パレルモから苦情の手紙
で、「□どめされてしまったじゃないの」とアネスに指を立てられるまで、幼かった兄も弟も、母への
便りのたびに優しいからかいの言葉などきっと添えたものだ。
もう一人シドッチ家からはアンナという妹娘が、ナポリの、母方の親戚に嫁いでいた。シチーリアに
いくらかの領地をもっていた彼らの父ジョヴァンニ・パオロ・シドッチは、このアンナが二度めの出産
に初めて男の子を無事儲けたのを慶(よろこ)び、妻を伴い、チレニア海を押し渡って孫の顔を見にでかけたまま、
まるで奇跡のような、だが遺された者には諦めのつかない瞬時の死を迎えた。両親に逢うなつかしさで
ローマからの旅路を急いでいた兄も彼も、かろうじて葬儀のミサに間にあったものの、いとし子として
父の最期の祝福を受けることはできず、遺骸を故郷まで運ぶ由もなかった。
アンナは泣いて母や兄に別れを惜しんだが、悲しみをこらえたエレオノーラは帰国を急いだ。パレル
モでは舅が、息子夫婦そろっての帰りを待っている。こんなことになって……お祖父様に申し訳がない
と、母は声を忍んで娘の胸に顔を埋めた。アンナの夫まで泣いていた。今はない祖父ジョヴァンニに名
づけられた生れたてのヨアキムだけが、元気いっぱいの声をあげていた。
教区の許しをえた若い司祭は、兄と妹らをナポリに置いて、父の遺髪を抱き母をいたわりながら、十
年ぶり故郷に、祖父の館に帰った。
痩せてはいたが背すじを相変らずシャンと伸ばして、祖父のピリッポスは、十五世紀の作という、凭
れの高い彫りの美しい椅子に腰かけていた。その前へ嫁と孫はひざまずいて、また悲しみを新たにした。
かすかに天を仰いで老人は涙を見せなかった。思いがけない孫の顔が見られたと彼の額に手を添え、エ
レオノーラに礼さえ言った。孫のシドッチは三十歳、ローマを流れるテベレ川の西にトラステベレとい
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われる地区の、助任司祭を勤めていた。
パレルモに永くは滞在しておれなかった。母も、神父の勤めをおろそかにせぬよう、かえって彼の帰
任を励ました。
短い間ではあったが、彼は祖父と母の両方から亡き父の思い出話をいろいろ聴いた。その死をのぞい
て波欄のすくない、しかしこの時代に珍しい思いに邪(よこし)まのない一小領主の生涯が、父親と妻との優しい
言葉に彩られて、死なれた彼の心にせつなく残る幾枚ものなつかしい絵になった。
子の父として子の彼を思い、期待し、励ますような絵も何枚もあった。彼はとめどなく流れる涙を隠
さず、だが朝に昼に晩に、心底嬉しく祖父や母が父について話すのをむさぼり聴いた。心の糧に、そん
なにたくさんな父の肖像画を彼は胸に蔵(しま)ってローマヘ帰る気だった。
一、祖父からは、清廉と温和(を教えられた)。
二、父に関して伝え聞いたところと私の記憶からは、つつましさと雄々しさ。
三、母からは、神を畏れること、および惜しみなく与えること。悪事を心に思うさえ控えること。ま
た金持の暮しとは遠くかけはなれた簡素な生活をすること。
マルクス・アウレリウスの本がそう書き起している名高い三条を、彼は改めて胸に刻んだ。
『自省録』というその本を、父と母は彼がローマの学校へ入学の年に、愛の言葉と署名を添え贈ってく
れた。自分と同じ「ジョヴァンニ」という名を彼に選んでくれた男らしい父は、本の扉に「お前の勇気
と知慧とを誇りに思う」と書いて少年の前途を励ましていた。「喜ぶ人と共によろこび、泣く人と共に
泣きなさい。」母はそうロマ書からの一句で彼を祝福した──。
明日はローマヘ帰るという日、それは十七世紀の最期に当る年だった、母は晩の祈りのあと彼の身の
そばへ来て、彼がうながすまで息をつめて黙っていた。沈黙ははじめ甘美に思われ、そのうち急におそ
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ろしい圧迫(もの)に変じていた。彼は声をふるわせ、救いを求めるぐらいに二度つづけて、面変(おもがわ)りがしたよう
な母に呼びかけた。
あの時、母は信じられないほどの重い□で彼に話した。
「亡くなったお前のお父さんはね」と、ほとんど眼をとじたなり母は言葉をついで、「あれほど朗らか
に、さっぱりした方でしたから……。人が、思わず喜んだり笑ったりできる話しかたもよく、心得てらし
て、この館から、お前たちが次々に主のみ心のままに世間に迎えられ行ってしまってからも、わたくし
のことを、けっして寂しがらせたり泣かせたりはなさらなかった。わかるでしょう、そういうお父さん
が……」
「ええ。わかりますともお母さん」
彼は母の手を握り、椅子のほうへ支えて行った。黒い服を着て、まだ黒い髪のうえへ黒いレースの紗
をかけた母のさしぐんだような横顔は、目もとは深い隈(くま)になり、頬に一滴二滴の涙が光っていた。
「そのお父さんがね。一度だけ。一度だけですよ。お前のことでこんなことをわたくしに仰言った。…
あの子は…、あのジョヴァンニは、いつかローマで、パッパ(教皇)にまで出世するのだろうかって」
「…………」
「わたくしは黙って、ご返事をしないでいましたの。なにとはなしお父さんの声に冗談の響きを感じた
からよ。パッパになれるかなんて、冗談で話題にしていいことでは、ありませんでしょう。…するとね
…お父さんは今度は、それは本気で。とっても真剣な、畏(おそ)ろしいくらいな眼をなさってね。……聴いて
いますかジョヴアンニ…」
「聴いていますよお母さん」
「お父さんは、こう、わたくしにお訊きになったのですよ。あの子は、十字架が負えるだろうか……」
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「…………」
「わたくしは…お前に代って即座に答えました。きっと…負いますと」
「お母さん……」
「そしたらね。お父さんが何と仰言ったか。……その時は…わしも行って、きっと一緒に背負ってやろ
うと」
そこまで聴いて彼は堪らず部屋をとび出して行った。それからまた部屋にもどると、母は先刻とおな
じ顔色で、おなじ椅子のうえで、彼が見たことのない立派な十字架を美しい額にあてて一心に祈りつづ
けていた。
母はやがて、その十字架がナポリのマストリリ侯爵家に生れたあのマルセロ・マストリリ神父の遺品
ですよと、かすれるほどの低声(こごえ)で彼に手渡した。ためらい、ためらうようにして手渡した。
母はナポリの裕福な貿易商のダンテス家に生れていた。
母方の祖父はとうに死んでいて、彼も兄ピリッポスも顔を見た記憶すらない人だったが、この祖父が、
マストリリ侯爵家のマストリリ少年とは一の遊び仲間だった。妻もマストリリ家にちかい家筋から娶(めと)っ
ていた。遺された肖像画を観ても、瞳の濃い優しい鼻をした祖母だった。ナポリで指折りの美しい人だ
ったらしいが、その結婚にもマルセロ・フランシスコ・マストリリは友情を惜しまなかった。いつかイ
エズス会の修道士として高徳がヨーロッパ中に聞えはじめてからも、ダンテス家の幼い息子たちは「マ
ルセロ小父さん」を、自分らだけの先生か友だちかのように敬愛していたという。
母がくれたその十字架は木で造られ、頭部が鐶(かん)のついた堅いガラス質の蓋になって、聖母子を彫(きざ)んだ
極小のメダイと、マストリリその人の遺髪とがかすかに封じ籠めてあった。角(かど)々は華奢に黄金冠(きんかん)で堅め、
紐で胸に吊すことができた。神父はこの十字架をはるばるリスボン港から人に託し、可愛い女の子が生
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れた名づけの親の祝意をこめて、「エレオノーラ」の名とともに、贈ってきたのだった。その日海は凪
いで、遠くカプリ島までが碧い宝玉のように輝いてみえたという。一六三五年六月のことだった。
この年この月にマストリリは、同じ三十四人のイエズス会修道士とリスボン港を出航、インドのゴア
をへてポルトガル領のマカオについたが、鎖国政策に阻まれてめざす日本へ渡航の便がない。マニラに
転じてイスパーニァの交易船を頼みにしたが事情は変らず、便船を求めても現地の人の強硬、というよ
りも恐怖心あらわな拒絶にあうばかりで、結局マストリリを一人残して同志はみなマカオヘ立去ったと
いう。
日本国へ大挙潜入の熱意から、遠くヨーロッパをあとにしてきた修道士たちには、余儀ない動機があ
った。一六三三年(寛永十年)十月十八日、長崎の西坂刑場で日本人を含むイエズス会やドミニコ会の
神父・修道士ら七人が穴吊りの刑にあい、一人をのぞく他の全員がこの想像を絶した拷問に、中には三
日、ルカス・デル・エスピリット・サント神父などは頑強よく九日間も耐えて、すべて凄まじい殉教を
遂げた。
ただ一人の例外があった。穴に吊されて五時間で「転んだ」という、当時イエズス会日本管区の代理
管区長クリストファン・フェレイラだった。日本での活躍すでに二十三年ものフェレイラは、この棄教
後、司直に日本人妻を強いられ名も沢野忠庵と名のって、仮借(かしやく)ない切支丹目明しに転じるしかない苦境
に立った。悪名高い「踏絵」の策を当局に献じたのもフェレイラかといわれ、この成り行きを遠く伝え
聞いたヨーロッパのイエズス会士らは、傷心と恥辱のあまり我が血と肉で背教者の罪をあがなおうと、
競って日本へ派遣されんことを志願した。
日本開教の「御開山(ごかいさん)」といわれ、一五五二年シナの上川(サンシャン)島で逝去していた聖フランシ
スコ・ザビエルの偉業を慕って、フランシスコという洗礼名をも心から愛していたマストリリは、一六
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三七年マニラ総督をついに説きふせてイスパーニァ船の援助を得、寛永十四年九月十九日、小舟で薩摩
の海岸にようやく漂いつくと徐々に九州の東海岸を北へすすみ、マニラから同行した一日本人信者とと
もに、日向(ひゆうが)の櫛ノ津ではじめて日本国の土を踏んだ──。
その──マストリリ神父の遺愛の十字架を、母エレオノーラは息子の手にゆだねるとたちまち、棒立
ちの彼の足もとに崩れるように身をなげうって、福音書のなかの女たちが主イエズスにしたように息子
の足に接吻した。彼の顔は蒼くなり紅くなり、だが、黙って母の敬虔な祈りの姿勢に耐えていた──。
彼はローマに戻ると、やがて教皇庁に対し一通の上申書に依って、日本国ヘメッショナリウス(宣教
師)として派遣されたい旨を熱望した。
むろん布教聖省は容易に許可を与えなかった。が、当時の教皇インノケンティウス十二世らは、これ
が十分考慮にあたいする志願とは認めていた。
日本政府の猛烈な禁教により、教皇庁が把握(つか)んでいた人数でも、かの国の殉教者は五千人をこえ、事
実はその五十倍が想像されていた。七十年にもちかく、外国人宣教師の往(ゆ)いて生還しえた者はただ一人
もないといわれた。
それほどの弾圧を誘い出した理由についても、だが、ローマなりの反省はあった。ザビエル師このか
た予想以上にすみやかに教線が拡大したというものの、おいおいに各派修道会士たちの公認非公認の商
行為は、交易の利をむさぼるポルトガル・イスパーニア商人や日本の大名・豪商らの思惑とからんで、
ともすると目にあまり、信仰の弛(ゆる)みや歪みにもつながった。
しかも十六世紀末へかけて、異国の風儀を「野蛮」とながめ、神社や寺やその祭行事をことごとに侮
って妨害し破壊にもおよぶ振舞いが、ようやく各地名処で日本人の反感を買っていた。切支丹こそ野蛮
ではないか。既存の知識人階級はそう攻撃し、天下布武、つまり天意をうけ天に代ってあたかも天子と
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して武力で国の統一支配を願う豊臣秀吉や、また徳川家康らにすれば、切支丹の説く至上絶対神の教え
は封建支配の論理に背いて、はっきり邪魔ものとなっていた。信仰の名に隠されたカトリック諸国の侵
略意図をさえ彼らは疑い警戒し始めていた徴候についても、たとえば炯眼(けいがん)の巡察使ヴァリニャーノらの
種々的を射た報告や反省意見として、つとにローマヘもよく伝えられていた。マルティン・ルーテルら
の教えに与(くみ)してカトリックに背いた「紅毛」オランダ人やイギリス人が放つ、巧みな「南蛮」批判を、
ことに江戸の政権は意識して切支丹弾圧への弾みに利用した。
十七世紀に入って江戸の政府は反復段階的にキリスト教を排除の政策を強め、交易の利を制限してま
で「西洋」とその信仰との及ぼす感化や干渉を、嫌った。イギリスもイスパーニァも日本から退去を余
儀なくされ、とうとう三代将軍徳川家光の寛永十六年、一六三九年、にはポルトガル船の日本来航も禁
止した。国交は対島(つしま)を介してわずかに朝鮮とだけを残し、長崎出島に、ごくちいさな窓をオランダ船や
唐船との通商の為に開けておくという、歴史の歯車を逆回しにする閉鎖政策が確立された。
彼ジョヴァンニ・シドッチは伝(つ)てを得て、その大殉教当時の、イエズス会本部へ年々に宛てられてい
た克明な日本年報を、むさぼり読んできた。一人の切支丹も生かしておかぬ意思を、徳川幕府はあらゆ
る機会に、あらゆる極刑で内外に示してやまなかった。修道会士の報告は年を追うて酸鼻をきわめ、そ
してブツリと跡を絶っていた。
すでに六、いや七十年ちかくもカトリックは「日本」を断念せざるをえなかった。だが清(シン)は国禁を緩
め、シャムにも同様の兆しが報じられていた。あるいは日本にもという期待は、久々に教皇庁の内部で
も語り合われだしていた。
ローマ教皇インノケンティウス十二世は、敬愛する老フェルラリィ枢機卿からかねて有為の才と名と
を洩れ聞いていた、パレルモ生れのまだ若い助任司祭の勇気ある志願に、注意を払わずにおれなかった。
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「蛮勇」とわらう声に理はあった。理は十分あったけれど、蛮勇を敢えてしてもと、「日本」を諦めて
いない教皇庁の態度を明しておくことにこのパッパ(教皇)は意義を認めていた。シドッチ司祭の挺身
には、時宜にかなう「御大切(ごたいせつ)(愛)」が表われている──。布教聖省は彼の希望に対し一応の許可を、
そのように伝えた。一七〇〇年秋のことだった。年明けて、ローマ教皇はクレメンス十一世に代った。
渡航の機会は、だが、なかなか訪れなかった。
彼は教区の仕事の合間ごとに教皇庁の資料部にこもって、日本関係の書物や報告書を書き写すことか
ら始めた。一五九一年にアマクサという処で作られた、ラテン・ポルトガル・日本語対訳の辞書は不可
欠の参考書だった。彼は日本人らしい身ぶりや表情までも書物や報告文にたよって、想像の力ひとつで
独り練習した。
むろんそんな日々がただ坦々と続いたわけでない。迷いもあったし、えたい知れぬ怯えで眠れぬ夜も
あった。
マストリリ神父殉教の壮烈は、誰がどう伝えたか、悪魔と化した無残なフェレイラの耳蔽わせる風聞
と対照的に、長崎出島や琉球やまたマカオからの情報を介して、詳細に日本の外へも漏れ聞えていた。
神父の日本上陸から発見捕縛までは、あっけなく早かったという。櫛ノ洋から長崎へ差送りの兵二百が、
一ヶ月をかけて見せしめの道中を師に強いたという。
マストリリは、聖ザビエルが日本人に初めて伝えたキリストの福音を、江戸の将軍はもとより「でき
るならすべての日本人に」説いてキリスト教徒にしたい、自分は主イエズス・キリストとすべての殉教
者たちの「使徒」として日本を訪れたのだと、司直に告げてはばからなかった。
奉行がまる二日水責め梯子責めを試みてのち、三日め、なお屈しないマストリリを刑場で全裸にして、
焔のめらめら燃えた赤熱の鏝(こて)で陰部を灼(や)くと、神父はこのけがらわしい拷問がいかに恥かしい仕業かを、
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気力の限りを尽して並みいる日本人のために説いた。身ぶりひとつで必死に説いた。奉行は赤面してま
た水責めに転じたが、殉教の喜びをむしろ願っているマストリリは、息絶え絶えの最期の息をふり絞っ
て、日本人の耳に不屈の信仰を説きつづけた。
寛永十四年(一六三七)十月十四日、駄馬の背に縛られたマストリリは、□に幾千の釘の立った板を
噛まされ、市中を引きまわされて刑場に入った。あのフェレイラが五時間で「転んだ」という穴吊りが
すでに宣告されていた。
穴吊りの刑とは、足首だけ出して腋の下まで囚人を綱で巻き締め、汚物を溜めた穴へ逆さに吊して頚
まわりで蓋をするのだった。だがマストリリはまる四日の間、十月十七日の三時まで吊されて死ななか
った。
次の日、長崎では祭礼があった。刑吏が穴の蓋を払うと神父は元気をうしなわぬ声音で自分をどうす
る気かと問い、首を斬るという答えに、信じられないような佳い笑顔を返したという。
やがて、二度までも、刑吏の振りおろす刀は刃を損じた。マルセロ・マストリリが唱え続ける主のみ
名と聖フランシスコ・ザビエルの名に怯えて、持った刀を思わず取り落した男をふりむくと神父は、頷
き頷き主の赦しを願ってやり、義務をはやく果たすように乱れぬ声音ですすめた、という。
遺体は刻まれ、焼かれ、川に捨てられた──。
──母と相擁してきたあの日から「マルセロ小父さん」の十字架を胸に、彼は来る日来る夜、死んだ
父が父自身の胸にも問うたような、「あの子に十字架が負えるだろうか」という言葉のおそろしい重み
に耐えた。五体を貫く槍の穂先や、舌長に燃えさかる炎や、虚空を染める血しぶきを彼は幻覚しながら、
幾度となく自分の呻き声で目を覚ました。
それならパッパ(教皇)になるがいい……。夢に、父は磊落(らいらく)な笑い声でそんな恨めしい言葉を吐く。
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十字架を必死に額に捧げ持ったまま息子は、亡き父が宗教者に、キリストの使徒に対し、本当は何を望
んでいたのかやっと分ってきた。なんと畏ろしいことを…。絶句しづつ彼は、カトリック内部の、教権
の行方を占ってただ煩雑なばかりの果てない□舌(くぜつ)の日々を、疎ましいと思った。顔をあかくして思った。
父ジョヴァンニは亡くなるだいぶ以前から、あるキリスト者の消息をよく気にしていたという。おな
じパレルモの生れで、シドッチ家とは何代もまえに少なからぬ縁で結ばれていた名門キアラ家の、ジュ
ゼッペ神父のことだった。
マルセロ・マストリリのあとマルセロを追って、やはりフェレイラの罪を血ですすごうと凄惨な殉教
を遂げていたルビノ神父らは、かねて日本潜入の第二陣をマカオに用意していた。ジュゼッペ神父はそ
の一人として、ルビノらの最期を伝え聞くまでもなく日本へ渡っていた。しかもジュゼッペ・キアラら
十人が、その後刑死したとも教えを棄てたとも消息は伝わらず、その不気味さは後に続く者の足をすく
ませ気を萎(な)えさせた。
だが──父は、何故にジュゼッペ・キアラを気にかけたか。父の祖母が神父と従兄妹だったというた
だ身よりに繋がる関心だったのか。何にせよ彼が日本の土を踏めば、キアラ以来のシチーリァ人宣教師
となることだけは確実だった。
三
彼は、幼来むしろ何事にも慎重に処して、ほぼ人よりいつも半歩後れて行く性質(たち)だった。そしてそれ
が彼の視野を、視線の奥行を、人よりほんのすこしでも広く深くし、人は彼の判断や意見を頷きがちに
受取った。
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スコラ派のすぐれた神学者で、もとローマ神学校の篤実な校長だったフェルラリィ枢機卿なども、教
え子の彼を、血気に逸ることのない静かな思慮深い青年と、はやくから眺め愛していた。見当はずれで
はなかった。
末はローマ教会の司祭・司教にと願う我が子へのはなむけに、ことさらマルクス.アウレリウスの本
を選んだシドッチ家の両親の方が、見ようでは変っていた。かりにも二世紀のこのローマ皇帝在位期に
は、キリスト教はあまねく帝国領土内で迫害を受けていたはず。
だが、父も母も日々に敬虔で偽りない信仰とはべつに、「ローマ人」アウレリウスの説く、「すべて
生命を有するものの義務はその創られた目的を果すにある。しかるに人間は理性的に創られた。ゆえに
人間はその自然に従って、すなわち理性に従って生きれば、自分が創られた目的を果すことができる。
そのためには絶対に自立自由でなくてはならない」といったキリスト教を逸れた規範も、すすんでシド
ッチ家の日常に受け入れていた。敬愛していた。息子たちもそのように躾けられた。天にいます主の意
志(みちから)と愛と、人間の自由とは、かすかな異端のにおいをすら漂わせたまま、彼、ジョヴァンニ・バッティ
スタ・シドッチの決意に、かなり自然に、堅く結ばれていたらしい。
「フランシスコ・ザビエルにも匹敵する偉業を遂げよ」と、クレメンス十一世は教皇庁の一室に招いて
彼の壮途に主のみ恵みとこ加護を願い、正式にローマの希望を伝宣する「メッシヨナリウス(宣教
師)」に任じて、教皇みずからの信頼と祝福の接吻を与えた。必要あらば教皇代理教区長の重職を宛行(あてが)
おうとも予告した。
「ヤバンニ(日本)」という極東の一島国の名は、まだまだ人に不気味な戦慄を強いた。彼は、往きあ
う誰もから、教区でも教会でも、なかば疑いのまなざしで顔を見られることに馴れた。
それでもトラステベレの人たちは挙(こぞ)ってこの助任司祭様を家に招き、快活に振舞い軽□をたたき、一
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と言も「ヤパンニ」などとは喋らずに自家製のワインで、胡椒味の利いたパン料理を食べさせたりした。
パンチェッタ(豚肉の塩漬で、一種のベーコン)が彼の好物と知っていて、赤唐辛子のピリピリするト
マトソースでたっぷり和(あ)えたのを、スパゲティに山のようにかけて、二人分も三人分も食えと言って諾(き)
かなかったりした。
彼は、にわかに忙しかった。
ほんとうに彼は忙しかった。
三年の勉強も今となっては頼りなかったし、教区の仕事も後任に引継がねばならぬ。ローマを抱いて
流れる黄金(きん)色のテベレ川や、壮麗な眺めのジャニコロの丘や、ひるむ思いを励ましてくれる輝かしい教
会建築や偉大な絵や彫刻も、できればよく心に刻みつけて発(た)ちたかった。そして誰より母に、祖父に、
もう一度逢って行きたかった。
だが母は前以て手紙で、逢いに帰るに及ばないこと、主のご意志のままにお祖父様も自分も、きっと
天国のお父様も、お前の決心を誇りに思っていることを告げしらせ、心安く船出せよと書き送ってきた。
妹アンナはナポリから独りローマまで、兄に別れを告げに来た。どこか亡き父の面(おも)ざしを承(う)けた妹は、
なにも言わず兄の頚にしがみついて離れなかった。
彼は、稚い甥のヨアキムを将来どう育てるつもりかと、微笑んで妹にきいた。妹は、答えられなかっ
た。この優しい兄は何と返事をしても賛成して頷いてくれる人だ。だが兄さんのような人にと妹はなぜ
か□にできなかった。
彼はよくよく考えて、甥のため、両親から貰った大切なあの『自省録』を遺すことにした。
「人生はみのり豊かな穂のように刈り入れられ、あるものは残り、あるものは倒れる。」
彼はその本から、そんなエウリピデスの詩句を引いてうしろの見返しに自分の名を添えて書き、ほん
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の少し感傷的だった。
兄夫婦や兄嫁の母が、声を絞るようにして旅立ちの前を我が家でと勧めたのもきかず、一度顔を出し
たきり、彼は、いよいよという前夜も聖カタリナ教会の片づいた自室を出なかった。聖職者なら誰もが
持ってどこへでも赴任して行く革の鞄には、ミサのための聖具のほかに、兄がたくさん造ってくれたメ
ダイや十字架も入れた。聖書や辞書や教義書のほかに、大事に故フェルラリィ枢機卿から譲られたジシ
ピリナ(苦行帯(くぎようたい))も入れ忘れなかった。各地でローマ教皇庁特派の宣教師として十分な便宜が与えられ
る為の、布教聖省発行の証書もむろん忘れなかった。
告白もした。
聖体もいただいた。
それでも彼はその晩八時すこし前になってから、緊張とも不安とも言い知れない気疲れを癒すために、
ひとり、この七年半を馴染んだトラステベレの教区を、──壁は虫喰い柱は削られ、千年もの昔から民
家がひしめいてきた裏町を──歩きに出た。狭い汚い路地に入ると、昼間なら高くに紐を渡し竿をつき
出して洗濯物がにぎやかにはためいている。今は洩れる灯もとぼしく、足音がしんみりと辻々の遠くま
で響いた。
トラステベレの人たちは気前がいい。陽気で、威勢もいい。自分らこそ生粋(きつすい)のローマ市民と誰もそれ
が自慢で、よく食べてよく歌う。最初彼はこの地区の人が、男も女も、子どもまでがあまり気さくなの
と声の大きいのとで、思い出しても滑稽なほど面喰った。子沢山なのにも面喰った。
食べ物は広いローマのどこより旨い。
テベレ川に沿うて暮すたくましくどこか寂しそうな川男たちや、頭に大きな荷物を置いて独特の拍子
で悠々と人通りをよぎって行く老婆などの姿も、この地域のすっかり馴染みの光景だった。──が、今
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は一月、気温も一等低い。まれに行きかう人も足早に何となくうつむきがちだった。彼は、無性に誰か
に声をかけてもらいたかった。
ソンニーノ広場を抜け、テベレ川をユダヤ人街の方へ渡って行った。街はいちだんと暗く物の影が幾
重にも畳み込まれて、それでも遠い空に銀色した半月がまるで吊された玩具(おもちや)のようにぴかぴか光ってい
た。
彼はいつか涙ぐんて歩いていた。胸の十字架、「マルセロ小父さん」の十字架を両手に捧げながら、
ともすれば鳴咽(おえつ)の外へもれるのに耐えていた。だが、どうかしたかと尋ねてくれる誰一人とも出会うこ
とはなかった。
疲れきって教会にもどった。、心の平安は、主のみ前にひざまずき祈ることでしかえられない。この大
事な時に、彼は自分の信仰の、めまうように底深くからかすかに揺れているのを思い、恥じ戦(おのの)いていた。
聖カタリナ教会の建物は、ローマでも老朽建築物の一つに数えられていた。どこかしことなく角(かど)々が
まるくなって、大きな窓の色硝子なども歯が抜けたように割れたり欠けたりしていた。天井にも壁にも
子どもたちのらくがきに似た浸蝕(しみ)ができていた。扉にしてもしっかり締まらないところが何箇所もあっ
た。
前任地のトスカーナでは、出来たての、何から何までゴチック風に真新しく伸び上がったような教会
だった。日曜に限らず教会を訪れては陽気な笑い声をあげ、司祭に、晩飯の献立を自慢に罪のない軽□
をたたいて帰るといった信者は、一人もいなかった。絵に描いたような敬虔な人ばかりだった。遥か眼
下にくすんだリグリア海をのぞんで、秋から冬へ、とくに冷えこむ山寄りの田舎だ。教区の仕事もそう
繁雑でなかった。
彼はそんなルッカの教会にいた数年間に、好きな算術、数学、論理学、物理学などを、それにヨーロ
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ッパの歴史もずいぶん復習することができた。トマス・ア・ケンピスの『キリストにならひて』とエラ
スムスの本とを、なぜか聖書同様に手もとから離さなかったのも、あの頃だった。
だが、転任した新たなトラステベレ地区に馴染むのに、ながい時間はかからなかった。
シチーリア生れの、ときに自制の要るほど熱い血が、結局彼にこのローマの下町、陽気で気さくなト
ラステベレを居心地よくさせた。よく出来たボタンとボタン孔のようなものだと納得した。
教会の見かけは、たしかに、ひどい。壁も窓もいつ崩れ落ちるかなどと不届きな冗談で、教区の信者
同士あけすけに評判しあっている。だがそんな聖カタリナ教会にも、ルネサンス以前からの優美に装飾
された柱廊や、ローマの歴史が久しく置き忘れたような緑陰の池や、聖堂を聖母の生涯で彩った十五玄
義のみごとなフレスコの大壁面などがあった。なつかしい、佳い雰囲気を湛えていた。
ことに信者や子どもたちが機会ごとに歌ってくれる聖歌のすばらしさは彼自身の誇りでさえあった。
「主を慕はん」「ひざまづきて我等は誓ふ、みもとに参らんと」など子どもたちの声が清らかに礼拝堂
に満ちるとき、誰もがこの教会こそ天国だと思いたくなった。
パウロス主任司祭の温かな人柄が、この教会と教区とを満たしていたと言える。五十をすぎたドミテ
ィア助祭以下、助祭と副助祭が都合四人、神学と哲学の学生も都合三人属していた。彼が助任司祭に昇
任の叙階式も、パウロス司祭の主宰でこの聖カタリナ教会で行われた。お祝いを言いにきた信者で教会
は溢れた。思い出は、次から次へ限りなかった──。
底冷えしてくらい柱廊を、足もとの崩れに気を配りつつ彼は礼拝堂の大扉(おおど)の方へ急いでいた。あらぬ
胸騒ぎをしずめたいと、そう思えば思うほど二つの脚が絡みそうな気がした。みじめに悲しかった。彼
は恥かしかった。主よ、お叱りください……。しきりに胸に額に十字をきった。馴れたその手順すらぎ
ごちなかった。
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ほとんど出会いがしらに、礼拝堂にいたらしい助祭のドミティアと顔を合わした。ドミティアは心も
ち顔を伏せ、近寄ってきて彼を抱擁した。ドミティアは泣いてさえいた。そして彼にひざまずいて服の
裾に顔を埋めた。
パウロス司祭と二人して、今まで彼のために一心に祈ってくれていたという人を、やっと彼は抱き起
こしながら涙は乾いていた。感動が、静かな勇気に変って全身を流れはじめるのが、はっきり分った。
彼が教会を留守にして間もなく兄嫁のマリアが一人で彼を訪れて、さっきまで一緒に礼拝堂で祈って
られたが、お会いになったかとドミティァにきかれた。くらがりの中で一瞬頬が熱くなったのを、篤実
なこの助祭に見られまいと彼は額を伏せて、会っていません…と、つぷやいた。
胸騒ぎ…は、これだったのか。思い当りながら彼は籠るはずで足をはこんだ礼拝堂の前からそそくさ
と立ち去るうしろめたさも振りきり、ドミティアの勧めるまま自室のある庭の東側の建物へ、我知らず
小走りになった。
義姉(あね)マリアの姿はもう部屋になかったが、気はいはのこっていた。。パウロス司祭らと祈り、また彼の
部屋へ一人で来て兄嫁がなにを祈り思っていたか…、あまい惑乱のなかでほぼ察しがついた。だからこ
そ彼は出発前を、彼女の家へ泊りには行けなかった。
ドミティアのことづてからも、マリアが夫と自分の母との使いで来たことは分っていた。部屋の扉を
押し、義姉を感じた。ああ…マリアがそこにいる…一瞬立ちすくんだ。
だが彼を待っていたのは義姉(あね)マリアではなかった。頬に涙を光らせた「悲しみの聖母マリア」だった。
絵像だった。マリアの母──フィレンッェで名をあげローマに迎えられた人気の聖画家カルロ・ドルチ
の愛娘(あいじょう)アネス・ドルチが、父の画風を享け自分の美しい一人娘に象(かたど)って描いた「悲しみのマリア」だ、
竪(た)てて二十六、七センチメートルの聖母像が、懸けた布覆いをはねあげ、紫檀(したん)の額(がく)におさめて机に置い
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てあった。包んできたらしい赤裏の、白い織物の袋はそばにきちんと畳まれ、額(がく)には硝子が入っていた。
彼は部屋を飛び出した。馬車は教会をでて間がない。そう門番にきくと少年のように近道を走った。
マリアが、中州越えにテベレ川をガンピテッラ広場の方へ渡って帰るのは知っていた。馬車が通れる道
は橋まで一と筋しかない。是非を忘れて彼は近道をひた走った。
月はかげっていたがどんな裏道も心得ていた。せわしく反響する自分の靴音にいっそ励まされて橋ま
で来たとき、一台の馬車がもう中州にさしかかっていた。馬車は彼の追いつくのを待ってでもいそうに、
重い轍(わだち)の音をゆっくり川面(かわも)に響かせ、風はしきりに寒かった。
「マリア、待ってください……」と、そう一と声がどうしても出なかった。ただ間近まで追ってきた、
慕ってきた、そうとだけ彼女に知らせたかった。あらい息づかいに耳をとめたように、馬車は人通りの
絶えた橋の上でぴたりと停まった。
「マリア……義姉(ねえ)さん……」
声は吹きとばされた。馬車のうしろの窓に、あまりに小さな四角な窓に、マリアは白い額を押しあて、
伏し目に、「ジョヴァンニ……ジョヴァンニ……」とつぷやいて、駆けよる義弟(おとうと)をみつめていた。
馬車の外と内で、どれだけのあいだ二人は息をひそめて互いに見上げ、見下ろしていただろう。言葉
ひとつを交わしあえば、もう堪ええまいと二人とも承知だった。彼のために必死に祈り、胸とどろかせ
て彼の帰りを待ち、しかも遁(のが)れるように車上の人となったマリアの気持ちを、彼は、夢中で駆けづめの
間にも察していた。
彼はすばやく左手の薬指から指輪を抜くと、接吻して、高くマリアの方へ差上げた。
指輪は四日まえ、教皇クレメンス十一世が手ずから彼の指にはめてくれた、IHS(Iesus
Hominum
Salvator =人類を救ひ給ふイエズス)の印形(いんぎよう)だった。
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窓硝子がちいさく開かれ、さし伸べる彼の指へきれいな女の指さきが触れて、優しく彼の贈物を受取
った。あやうく、彼はマリアの手を握ろうとした。それどころかマリアその人を掴みおろし、そのまま
抱いてテベレの川波に身を投げたいくらいだった。だがマリアはその前にそっと手をひき、なにかしら、
つぶやいた。
「……」と、彼はよく聴こうと焦った。
「……天国で…」
それだけをマリアは言ったらしかった。彼は鞭打たれたように、橋の上で身を縮めた。硬くなった。
馬車は進むことを命じられた、速脚で。マリアの横顔が絵のように小さな窓から動かなかった。彼はも
う追わなかった。もう、追ってはならなかった──。
聖母──の絵が成るまでの日々を、彼は覚えていた。彼は……あの時も羨ましかった、夫と夫の義母(はは)
が、マリアをモデルに大理石を彫りまた銅板に油絵具で描いている容子を、横で、じっと眺めたまま。
マリアと彼とは同い歳だった。居候の兄のうしろを居候の弟が、無邪気に駆ける。と、元気なマリア
も少々元気過ぎる勢いでいつも一緒に追って来たものだ。
マリアには父親がなかった。
祖父のカルロ・ドルチも、マリアが結婚するまでは生きられなかったけれど、享年八十一の長命だっ
た。七人いたカルロの娘のうち、四者めのアネスだけが父親と同じ画家になった。磨き抜いたような艶
塗りのみごとさ、絵の仕上げの純潔な美しさは、名高い聖母画家のサッフェラートと双壁の父カルロを
さえ、凌ぐといわれた。
彼は──細い灯にしみじみ照して、今夜(こよい)を彼ひとりの為に提供された部屋で、義姉(あね)マリアが届けてき
た聖母の絵に見入った。
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さながらマリアの横顔がそこにあった。そう見えた。だが、内紫の色に御子を十字架に喪(うしな)う限りない
悲しみを、そして表に無原罪の無垢を意味する濃い藍色の被布(ひふ)で、髪も、肩も、両腕も蔽いつくしたそ
の人の頭上には、かすかに黄金(きん)色した光の暈(かさ)が山の端の明らむように、静かに静かににじんでいた。
意志の正しさをうしなわない美しい鼻すじ、伏せたまなざしを悲しみの淵に鎮めたかげった眼窩(がんか)、匂
うような頬の線、そしてほのかに紅を湛(たた)え声を忍んだふたつの唇、その愛らしい小ささ。
それは、アネスの「マリア」画像は、父カルロ・ドルチが亡き妻によく背た娘の一人を描いたという、
ローマのボルゲーゼ美術館にある『悲しみの聖母』と瓜二つかに見えて、また紛れない別の思いを、強
いていえばボルゲーゼのあれよりもっともっと寂しく、視線昏く、伏せた顔の角度も深い、それ故にあ
の絵よりもっと堪らないまるで極限の恋を、神の子イェズスヘの叶わぬ恋の悲しみをすら、優美に、ど
こか憂鬱そうにも描き表わしていた。
灯火(ともし)を近づけ、彼は胸を鳴らして聖母の御目に、御目をこぼれた珠の小粒のような二た滴(しづく)の御涙、海
より広く深い御悲しみの涙に唇をよせよう──として、とどまった。被覆(もの)に隠れて組まれた両の御手の、
わずかに左親指の、爪ひとつ分だけが、ふくらんだ藍色の外へちいさく美しく露われていたからだ。ほ
うと紅い優しい爪の色艶が、かたちの佳い唇のごく自然な紅(あか)に匂いあって、聖母マリアの無垢の愛を、
無限の愛を表現していた。
「親指のマリア」と呼ばれる独特のこの描き方は、画家の父カルロが、レオナルド・ダ・ビンチの『モ
ナ・リザ』に学んだともいう、知られた発明だった。人の世に、聖母がイエズス・キリストの母として
生きた喜びとイエズスに死なれた悲しみとを、カルロは、わずか指一本の爪さきを描くだけで格別親し
み深く表しながら、マリアの、さも純潔な全身の美を見る人の胸にしみ透らせ、加えて画面の下半分に
確かな均衡も与えていた。
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娘アネスは、この絵では、あえて父の工夫にそのまま学んでいた。
彼は、──つい今しがた馬車の内から外から、かすかに触れ合うてきた義姉(あね)の指のしなやかに細かっ
たのを想い、思わず我が指に唇をおし当てた──。
彼はやがて、今この、弱々しく涙もろく欲望を鎮(しず)めかねている自分を苛(さいな)むために、かずかずの聖句や
訓戒を思い起しつつ、旅の荷物の一等上に用意していた苦行帯で自身の肉を痛めつづけた。が、彼は容
易に赦(ゆる)されなかった。と言うより、なぜ赦しを乞わねばすまないのかを、判じかねていた。
彼は組木の床(ゆか)に膝を折って、聖母にじっと見入った。天上の愛に包まれて涙さしぐむマリアのふくよ
かな唇に、品の佳い指の形に、そして微茫の金色(こんじき)をなつかしくも無際涯の永遠(とわ)へにじませているミムス
(輪光)の明るみに、視線をそそいだ。
おおサンタ・マリア。あなた様をお慕いするように、あの義姉(あね)、兄ピリッポスの妻であるマリアを想
ってローマで最期のこの一夜(ひとよ)を過ごすのを、どうか…お許し下さい。そして起ち上がって彼はぐるぐる
部屋中を歩きまわった。
もう一度、パウロス司祭にお願いして、告白しようか…。
だが、結局、彼を故なき痛苦の淵から引き揚げてくれたのは、今は彼自身の信念となりつつある、こ
んな、アウレリウスの言葉だった。
──遠からず君は何者でもなくなり、いずこにもいなくなることを考えよ。また君の現在見る人々も、
現在生きている人々も同様である。すべては生来変化し、変形し、消滅すべく出来ている。それは他の
ものがつぎつぎに生れ来るためである。
また、こんな自覚だった。
──万物は互いにからみ合い、その結びつきは神聖である。ほとんど一つとして互いに無関係なもの
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はない。あらゆるものは共に配置され、全体として一つの秩序ある宇宙を形成しているのである。万物
によって成立する一つの宇宙があり、万物の中に存在する一人の神があり、一つの物質、一つの法律、
叡智を有するあらゆる動物に共通な(一つの)理性がある。真理もまた一つなのである。
教会が知れば異端の懲罰を受けるにちがいなく、彼とても神こそ、その全部である一つを全能の御意
志で創り出で給うたのだと信じていた。だがアウレリウスに似た認識を、尊敬するフェルラリィ枢機卿
がもっていたのも彼は覚えていた。何度か二人だけの席にかぎって枢機卿が、十五世紀カトリック教会
の枢機卿で教皇代理も勤めたことのあるニコラウス・クザーヌスの名を□にしたのを、忘れていない。
クザーヌスのことに愛読した書物にアウレリウスの『自省録』のあった事実を教えて下さったのも、フ
ェルラリィ校長先生だ。
人は──とクザーヌスは説いていた、自分の知識を絶対のものと思いこむ時とかく他人の立場が理解
できず、独善に陥る。そして平気で他人の振舞いを責めたて断罪し、聖戦という勝手な名分で他人への
酷薄な攻撃に出る。真のカトリック教徒は、だが、キリストの愛にならって、他の宗教の人々を宗教上
の立場がちがうという理由で迫害も侮辱もしてはならない。異なる習慣や伝統に生きている民族や国家
を寛容にキリストの愛へ誘わねばならない、と。
ローマ教会にしたがう誰もがカトリックのため異端者・異教徒を殺戮し剿滅(そうめつ)することを神への奉仕と
考えていたような時代に、クザーヌスはひとりそう説いていた。「戦争とはこれほど不幸なことか」と
いうつぶやきを、五十八歳最期の反省として戦陣に死んだマルクス・アウレリウス・異教のローマ皇帝
の人間愛と、「健康なカトリック」を心から望んだクザーヌスの御主(おんしゆ)への愛とは、彼シドッチの思いの
底で、いつとなく豊かに一つに重ねられていた。
おおマリア…それなら、あなたを想うわたしの愛は…。夜は更け、彼は「悲しみのマリア」に身を投
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げて祈った。
「めてだし聖寵(せいちよう)充ち満てるマリア…天主のおん母マリア、罪びとなるわれらの為に、今も臨終の時も祈
り給へ…」
四
ジェノヴァ港をイターリアの小形船で船出し、ジブラルタルを経て、大西洋上のカナリア島で彼はフ
ランス・インド会社の持ち船に乗りかえた。一七〇三年二月九日だった。
アフリカ南端を回航、インドのポンジシェリィに着いたのが十一月六日。ここでマラバールほか各地
を巡回して、教皇が命じた典礼上の問題処理につとめ、かたわらふとした縁で日本の晒布(さらし)を手に入れ、
法衣の料にするなどして、翌る年七月下旬にはフィリッピンのルソン島をめざした。
ベンガル湾で四度も時化(しけ)にあった。マラッカ海峡をがつがつ抜けでる時分から、ポルトガルの軍艦に
三昼夜も追いかけられた。乏しい飲み水とすさまじい暑さで死んだような毎日がつづき、船酔いのトゥ
ルノン枢機卿にかわって彼が船員たちのためにいつもミサをあげ、告白も聞いた。東洋の港々にくわし
い船員たちは、彼には良い教師だった。日本語のすこし話せるシナ人も中にいて、熱心なカトりック信
徒だったりした。だが彼らは□をそろえて、日本へ忍びこむなど絶対にやめよやめよとも言い忘れなか
った。
土砂降りのマニラヘ、九月に着いた。気味わるく凪(な)いだ波の上に青い棒を横たえたようなパラワン島
が見えた時は、彼とても、甲板で跳びはねて歓声をあげた。
マニラでは大歓迎をうけた。イスパーニア・ドミニコ修道会の有名な聖ロザリオ管区本部があって、
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イスパーニアによる清(シン)国布教はこの管区に属していた。総督はローマ教皇の特使に敬意を表し、乗船に
対する関税を免除した。
トゥルノン枢機卿は翌年三月まで滞在し、四月二日にマカオに渡って、北京には十二月半ばに着いた
らしい。マニラにひとり残って清でない日本国へとめざす彼シドッチは、トゥルノンの足どりを人の噂
にほそぼそと聞いた。日本へ発(た)つ機会はいっこう訪れそうになかった。
枢機卿の一行と別れてからは、むろん彼もすぐにも日本へ出発したかった。なんと言おうと便宜はあ
るもののように想って来た。だが総督が第一に許さなかった。当地には、切支丹ゆえに故国を逐(お)われて
きた者やその子孫が、日本人町をなして群れ住んでいた。禁教そして大迫害の酸鼻を極めて凄まじい日
本の事情はことによく知られていて、もとより日本むけ貿易航路も久しく跡絶えていた。復活の見通し
も絶無だった。
耐えて、待つしかない──。そう思った。誰もが誰もがそう言った。希望を捨てていないのは、結局、
彼ひとりだった。
マニラは十二月から二月までがやや涼しかった。四月五月が暑く、五月下旬から十月上旬までが雨季
だった。暑いほかは住みよい土地だった。大椰子(やし)の並木も海上の落日も美しかった。
マニラ市内を流れる。パッシグ川は、あのローマのテベレ川を思い出させた。マレイ族が主な現地人で、
移住のシナ人と統治国であるイスパーニア人とが半ばしていた。山地や一部の海岸には原始民族も住む
らしかったが、めったに出会わなかった。イスパーニァのアラゴン家に久しく支配されてきたシチーリ
ァ島育ちの彼に言葉の不自由はなく、総督府や教会・修道会の人たちとはおよそイスパ ーニァ語か特別
なときはラテン語でも意思が通じた。現地人には、にわか覚えにピリピノ語も習った。
七門を備えたマニラの都城は、一六一七年に新興国オランダの攻撃を退けて以来、まずは安穏な歳月
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を経てきたらしい。わずかに回教徒が残っただけで、カトリックは現地でも多くの改宗者をえていた。
彼は管区大司教の指令下に入って、マニラ王立病院内に宿舎を与えられていた。ここでマルコス神父
を助けて日々病む者、死にゆく者を看とり、世話をし、慰めて身も心も多忙だった。日本渡航の初志を
たすけてくれる日本人に出会おうと、寸暇を求め、町の内外へ出歩きもした。
日本人は城壁市外のメイ・ラカン・ディヤン、つまりイスパーニァの貴族や富豪がきそって別邸を置
いているマラカニヤン地区にほぼ接して、パッシグ川沿いに身を寄せあっていた。一瞥、城内の中国人
街より活気がなかった。汚くはないが、貧しくて淋しい印象はぬぐえなかった。信仰を貫いてきた毅(つよ)さ
がそっくり顔つきの暗さに、日々の生きの重苦しさにすり替ってしまった顔が、陰気に、あっちにひと
塊まり、こっちにひと塊まりしている。朝夕の祈りにもまた告白にも怠りはないのに、信仰のよろこび
を忘れている──。
ちょうど百年まえ、一六〇五年頃の日本全国に七十五万人ほどの切支丹信者がいたと、イエズス会の
日本副管区長はローマの本部へ報告していた。
当時日本中に居住していたイエズス会士だけでも百二十余人にのぼり、二つのコレジヨ(学院)、二
つのレイトラール(学院長館)、一つのセミナリョ(神学校)、二十三ものレジデンシア(司祭館)に
配置されていたそうだし、その一、二年後もなお切支丹宗団は、「公方(くぼう)(徳川家康)の賢明で巧みな統
治」によって日本中が享受していたのと同じ「平和と安寧」を享(う)けていると報告されていた。
あちこちにむろん難儀や迫害が無いわけではなかった。が、暴君豊臣「太閤」の政治的遺産を力ずく
の権謀術数で奪い去った徳川「公方」の、いわば束の間の見て見ぬふりに、日本のキリスト教は末期(まつご)の
まえの息をついていたのだった。そして、すぐ後へ来た、同じ「公方」政権による全ヨーロッパを震え
上がらせた禁教と、弾圧。信仰を守ってあてどなく国外へのがれた人やその子や孫たちが、いま──彼
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の目のまえで、暗い硬い表情(かお)を寂しげに背けていた。
彼はこつこつと日本人たちを尋ねてまわった。一緒に祈った。彼らの「オラショ(祈り)」にはいく
らか首を傾(かし)げる言葉や場面がないではなかったが、だがカトリックの教えをかなり正確に学んでいた。
彼はたどたどしい言葉をあやつっては話しかけ、笑いを誘い、及ぶかぎり慰めの手をさしのべた。さし
のべながら、江戸の政府の切支丹禁制が想像以上に苛酷なことや、通貨や経済の事情や、「将軍」家を
頂点に士農工商の差別があり、「天皇(みかど)」と公家(くげ)の一団が都に住んでいて政治の実力は無いことなどを覚
えた。
正月や盆の迎えかたも知りたかった。衣食住の細かな好みや習慣も、都市と農村の人情のちがいなど
も、聞き出しておきたかった。できれば日本歴史のあらましや国民的な英雄・天才の名も知りたかった。
十願って一つも満たされなかった。もどかしかった。彼が十語りかけても一つしか伝わらないだけで
なく、十の思いの一つを答えるのにも、それが「日本」のこととなると、日本人や元日本人の顔は冷え
きってしまう。
彼が「日本」をめざしているのは知れ渡っていた。行けはしませんと言われた。行けば殺されると首
を横にふられた。自殺と同じこと、主のみこころに背きますと非難する人もいた。日本へ案内を申し出
てくれる者など一人も現れなかった。
それでも日本へ行くと堅く心に決めているこの、背の高い、髪の黒い、妙な日本語で根気よく質問を
繰返すローマ人宣教師の顔を見ていると、どの日本人も、ことにとびきりの老人や帰るに帰れない漂着
の漁師たちは望郷の念にさいなまれ、はては気のよげなこの「パーテレ」が懐しくて羨ましくてならな
い様子だった。
理解力に富んだ、賢い日本人にも何人も会った。いろいろの細工仕事に巧みな者、初歩的な算術ので
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きる者、漢字がすこし書けるくらいな者ならいくらもいた。が、芸術家も学者もいないことが分った。
よく知られたジュスト(高山右近)やドン・アゴスチイノ(小西行長)らのみよりがいないか尋ねたが、
いるともいないとも知れなかった。
彼はそんな中から、誰でもいい誰か力ある日本人の協力で、日本人町に信仰のよろこびを回復したか
った。マニラで、ルソン島で、フィリッピン諸島で所詮生きて行くしかないなら、日本人であったこと
を忘れよとは言えぬまでも、日々の希望の泉となる信仰は、生き生きした愛に満たされた信仰でなけれ
ばならぬ。家庭を営み子女を教育し、生活の土台を幾世代にもわたってこの土地この国で固めてほしい。
ちいさな誇りと大きな絶望とから頑なな、どこか勝手なはからいに陥りかねないでいる日本人信者たち
に、彼は使徒信条のそもそもから、もう一度説き直そう…という気になった。
──我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。
──我はその独り子、我らの主(しゆ)、イエズス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(をとめ)マリ
アより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にく
だり、三日目に死人(しびと)のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり。かしこ
より来りて生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。
──我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生
命を信ず。アーメン──
なにより信仰が深いよろこびと安心とを伴って、日々に□をついて自然に溢れ出るようにと彼はいろ
いろに説いた。大勢を一度に相手にせず、伝宣力のある大人やしっかりした若者をまず視野に入れた、
その周囲に、聖書と聖伝を包みこむささやかな教会の輪が生れるようにと。
七十一のやえ(2字に、傍点)という女が、そのような一人になった。洗礼を受けた名がマリアだった。十歳(とお)の時に、
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切支丹虐殺の手をのがれて祖父、両親らと堺の町はずれを、一路、大きくもない船で太平洋へ漕ぎ出し
たという大坂天満(てんま)生れの薬種(やくしゆ)商の孫娘だった。信仰は堅く、行儀も正しく、からだは衰えていたが気力
は毅(つよ)く、品があった。死んだ親たちも存命中はよく躾けて、故国の知識や言葉もあたうかぎり授けてい
た。切支丹のほこりも人一倍もたせていた。
マリアやえ(2字に、傍点)は新顔の神父を最初からまっすぐ見た。すこし耳は遠くなりかけていたが、尋ねればはき
はき分ることは何でも答えてくれた。マニラで、二十二のときにイスパーニァ人と結婚し三人の子をや
え(2字に、傍点)は産んでいた。夫と、男の子二人に熱病で一時に死なれてから、女手で一人の娘を育て、眼鑑(めがね)にかな
った日本人の若者に嫁がせた。婿は、やえ(2字に、傍点)たちをマニラまで運んだ船頭の一人が、ここの日本人町で気
散じなある後家と結婚して儲けた一人息子だった。ジョセフ松吉といった。松吉夫婦にももう恋人のい
そうな年の、瞳の濃い髪のきれいな娘が一人あった。
やえ(2字に、傍点)に次いで目がけた相手は、その松吉の娘ひろ(2字に、傍点)のどうやら恋人であるらしい、浅黒い、痩せた青年
の伝次だった。やり場のない不満を一足ごとに地面を蹴って歩いて堪(こら)えているような伝次は、ローマか
らきた新参の彼を「司祭様」と呼ぶよりも、自分に、西洋の教育を授けることの出来そうないわば教師
資格者とでも認めたか、それでも用心深く近づいてきた。マニラの日本人は、シナ人よりもずっと冷た
く統治者にあつかわれていた。
日本人としての記憶を捨てていいとさえ考え始めているこの飢えた魂に、彼は、多忙を極めていた神
父は、期待した。やえ(2字に、傍点)が教会なら、伝次には学校になって欲しかった。
日本人町は、聖アウグストゥス教会の助任司祭ドミニクに受持たれていた。ドミニクを手伝う立場に
彼はいたが、いつかドミニクの方が彼を助けてくれた。
王立病院のマルコス神父がすぐれた医術の持主であるように、ドミニク師もむかしマドリードで医学
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を学び、風土病研究への志願を抱いてこの東洋の島国へ派遣されてきたという。そして日本人町で、こ
のドミニクにもドミニクなりの計画があった。まだ形をなさない教会や学校の種をがんばってイターリ
ア人司祭が蒔きつつあるよりも、もっと実際面からドミニクは、日本人の、ことに女たちに良い看護婦
の素質を見ていた。
町はずれに、女の児が一人あるすみ(2字に、傍点)という名の四十すぎた寡婦がいたのを、ドミニクは、床を離れら
れない数人の患者のいわば巡回奉仕役に指導して当らせ、すみ(2字に、傍点)が任に耐えうると判断すると患者もろと
も病院に受入れて、夜勤の看護をさせた。
すみ(2字に、傍点)は信者ではない。が、落着いた親切な女だった。小柄なわりに腕ぢからがつよく、西洋人患者の
面倒も不自由な言葉にまさる機転で、包帯交換や排便の手助けなどそつなく敏捷にこなしてくれた。
自分に出来るくらいな仕事は、他の日本人にも可能だとすみ(2字に、傍点)は申出ていた。たしかにすみ(2字に、傍点)一人の能力
というより、概して日本人は男女の別なく辛抱も物覚えもいいようですよと、ドミニクも認めていた。
一概には言えない。が、二十人もすみ(2字に、傍点)のような女が教育できたら、手薄なマニラ市外の南地区にも、こ
のところ人□の集結しているリンガエン湾のサンカルロス方面にも、診療所が増やせるとドミニクは言
い、日本をめざすローマの宣教師も熱心に頷いた。
「すみ(2字に、傍点)という女(ひと)は、どういう……」
「日本人としての素性ですか。わかりません。本人も知らないようです」
マニラの日本人たちに必要なのは、彼らの日々新たな記憶を、「いや、歴史かな」と、いつもシャツ
一枚の胸に手製の木の十字架をさげたドミニクは片目をつむって、それを、彼らが彼ら自身の未来へ意
義づけて行くことですよ、「容易じゃないが……」と話した。容易でない…と、やはり思われた。だか
ら、その為にもぜひ福音を……。
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こっそりラテン語で、ちょっと皮肉な詩句など書き溜めているドミニクが、彼は好きだった。同じ医
師同士で、マルコスともドミニクは話(うま)が合うらしかった。マルコスはたいした聖書学者だった。内々に
エラスムスや、ことにマルティン・ルーテルのような「異端」の説にも関心を抱いていた。さらにマル
コスは、ダンテによる高い評価を引合いにだすくらい、シチーリァ派の甘い方言詩の伝統にも興味を持
っていた。あなたはと聞かれ、彼は赤面した。
主とマリアとを愛することでは、だが、ドミニクもマルコスも「美しい」といいたいほど敬虔だった。
そしておいおいに病院や教会で三人の顔があうつど、話題は、このマニラにぜひセミナリヨ(神学校)
を…と、なってきた。
良き司牧を、それも原住民や移住者のなかから教育するのが、将来にわたって当地のキリスト教のた
め急務という認識で、三人は頷いてきた。ついにはマニラ大司教のディエゴ・カマチョを説いて王立金
庫からの出資を、そして総督がこの件に援助してくれるよう、神学校として適当な建物が現に総督府の
すぐうしろに在るのをぜひ払下げて貰えるように、大司教にもお□添えをと三人で顔をそろえて願い出
た。
ドミニクも彼も、日本人の信者が、神と子と聖霊と三位(さんみ)一体の容易でない教義をよくのみこんでいる
ことに、内心驚いていた。だが、聖母マリアを「めでたし」と思慕する彼ら日本人子孫の情の篤さには、
もっと驚かされていた。切支丹迫害にたけり狂うてきた日本政府が、いまもオランダに限って交易船を
長崎出島に受入れているのは、交易の利のためには踏絵もいとわぬオランダ人の無恥と食欲とにだまさ
れているからだろう。が、存外日本人がルーテルやカルヴィンの徒の唱えてきた「異端の教え」に、魅
力を覚えていないからかも知れない。彼(か)の徒が、マリアを「神の母」とは認めないから…かも知れない。
ドミニクの観察は当っていただろう。しかしマルコス神父などはすこし角度をかえた日本人観を□に
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し、聞きようではカトリックヘの批判ともときに聞えた。
死後の生を願うのは当然だが、それが現世に対するただ軽蔑や絶望からのものであっても神は嘉(よみ)され
るのであろうか。名高い神秘家のトマスがいうように、この世を軽んずることによって天国に向かうこ
と、それが「最高の知恵である」と、我々はほんとうに人々を導いていいのだろうか。それがキリスト
に真に倣う意味であろうか。時代と環境もわざわいしたにちがいないが、殉教こそ至高至聖の信仰と日
本人は導かれてきたためか、キリスト教を死ぬ宗教のように思い、生きる力になしえていない。そんな
ことをおよそ持論に、聖職者は魂の医者であり、医者は死なせてはならぬ、生かさねばならぬ…そうで
しょうと、マルコスは片目をとじて微笑した。
信仰を型にはめてはならない、日本人がそれほどマリアを愛しているのなら、自分はその日本人以上
にマリアについて深く物を思うことが大事だ。事実マニラの日本人は、マリアを讃えるロザリオの祈り
ならば、洗礼はおろかミサにも与(あず)からない者でも□ずさむことができた。また事実アネス・ドルチが描
いた悲しみの聖母の御絵像は、やえ(2字に、傍点)を芯に据えた名ばかりの小教会に、衝撃という以上の感動をよんだ。
だが…なぜだろう……。
伝次やひろ(2字に、傍点)と、なお二、三人の少年少女のために、彼はドミニクの知恵も借りて、ラテン語やイスパ
ーニア語の詩や旅行記を読んで聞かせることから始めた。賛美歌やいい民謡を□うつしに覚えさせてみ
た。ローマの歴史を物語ってやり、簡単な算術や物理も教えた。聖書については、伝次らが望むまで辛
抱づよく□にしなかったが、機(とき)は思いのほか早くに来た。ドグマ(教義)もカノン(教会法)も、彼は
熱心にあたう限り教えた。ただ残念なことに、彼からすれば日本語の学習にもと願ったあては、外れが
ちだった。生徒たちにしても、先生の怪しげな日本語を一つ一つ解釈してかかるより、たどたどしくて
も耳に馴染んだ宗主国(そうしゆこく)の言葉をつかって正確に教えてもらう方を歓迎したからだ。
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塵労といえばいえる日々だった。なまやさしくは万事がはかどらない。それなのに彼は、時たま
ではあっても自分がここで、マニラで、十分満たされて暮している気がした。マニラで終るかも知れぬ
一生、それも一生、という気にともすればはまりかけた。告白や総告白のつど彼は前もって激しく自身
をジシピリナ(苦行帯)で鞭打ち、日本へ行くのだと心に誓った。
日本人の喫(の)む茶の味も覚えた。米の飯や粥も食べた。椀や杓子や鍋釜までも目にとめては一つ一つ触
れてみた。思想や観念をまったく□にしない日本人だが、些細な持物、日用の道具、秘蔵してきたらし
い日本の衣類など、ただ見るだけでなまじな知識のはるかに及ばない具体的な共感や違和感が、いつも
彼の心を動かした。だが中でもやはり聖具が気になった。親や祖父母がかつがつ身に守り伝えた品であ
ろう、異国の匂いも意匠の端々にのこって、なかなかの傑作もある。
あお黒い銅の肌にIHSの三字を黄金(きん)で、また図柄おもしろく釘や釘貫(くぎぬき)や槌や、かれんな竹の葉や花
なども黄金で鋳出(いだ)した美しい十字架を見た。木や玉や石の、いささかも稚拙なところなく信心に磨き抜
かれたいろんなロザリオ(数珠)も見た。
メダイはほとんどの物が、少なくも表か裏か片面に半身の聖母像や聖母子像を刻んでいた。文字もき
よらかに謬(あや)まりなく刻まれていて、短いのは「神のめぐみの母」「けがれなきマリア」などとあり、長
いのは「無原罪の聖母よ、われらのために祈りたまへ、われみもとに行かん」とか、「勝利の聖母、わ
れらのために祈りたまへ。罪人のよりどころ、われらのために祈りたまへ。キリスト信者のたすけ、わ
れらのために祈りたまへ」とか、中には彼の読めない、そして日本人にも的確に意味のとれない漢字の
一句二句を刻んだのもあった。
「まるで…」と、彼は声をのんだ。
「まるで…。どうなんですか」とドミニクは苦笑しながら訊いてきた。
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まるでマリア教──と、そう言えばそれはローマ・カトリックを大方の新教徒(プロテスタント)が
□を揃えて批判する言葉だった。日本人は独特の融通の才で、奇妙にキリスト教の表現を混乱させるの
ですよとドミニクは肩をすくめてみせ、それでもいいと言う。
たとえば当地の日本人信者は今も求めて南シナで造られているという白磁の仏像を手に入れ、聖母観
音、マリア観音と見たてている。聖母子像に見まがう子抱き観音を崇めている。だがシナ人はそれが昔
から安産祈願の要するに仏教の観音菩薩像で、キリスト教となんの関係もないことを知っていた。
ドミニクは最初のうち不満で、そんな異教の偶像を拝んではならぬと躍起になった。が、日本人とて
観音の像とは知りつつ、あえてマリアや聖母子に見立てて迫害から信仰を守ってきた。親から子へ孫へ
守り嗣いできたのだった。
「方便と彼らは言うんですが。いくらかの方便は、使うしかない。いや使ってでも…と言うべきなんで
しょうね」
そしドミニクは自分のメダイと交換したという、或る日本人信者が故国からもたらした異様なロザリ
オを二つ、彼に見せた。ロザリオ(数珠)とはとても見えなかった。
「ロザリオ残欠、とでもいいますか」
ドミニクにそう言われても、彼の目には擦れてボロめいてやたらコブコブと気持ちのわるい紙の紐、
幾つもまがまがしい堅い結び玉をもった麻の紐、としか映らなかった。十字架も付いていなかった。が、
言うに言い尽せぬ迫害のもと、こんな結び玉の一つ一つを表むき異教の神を拝む数珠に仕立てて、実は
ロザリオの代りの紐に縒(よ)り、結び玉から結び玉へと指さきに繰って数えては百回も百五十回も聖母の御
名を唱え、その愛を祈りつづけた人々の実在したことは疑いなかった。真実だった。
「方便なんかじゃありませんよ、これは」
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語るドミニクの目に涙があった。
「いいお話を聴きました。忘れかけていたことを、はっきり、また思い出すことが出来た…。ドミニク
……わたしは、日本へ行きます」
「…行けるでしょうか」
「行こうという決心が大事なんだ。わたしはそれを喪(うしな)いかけていた、恥かしい…」
「しかしマニラは、あなたを必要としていますよ」
「分ります。しかし…日本は、日本の信者はもっと必要としています」
ドミニクは大きく目をあいていた。縦にも横にも頭を振るとは見えなかった。ドミニクの目を覗きこ
み、そして力づよく頷き返したのは彼、ジョヴァンニ・バッティスタ.シドッチ自身だった。
五
一七〇五年十月十一日付、イスパーニア(スペイン)国王フェリペ五世に宛ててマニラ大司教ディエ
ゴ・カマチョが送った書簡は、「助任司祭・宣教師・かつ僧院長(アバーテ)の資格を持てるシドッ
チ」の日本へ渡ろうという「大志」が、日本国の極度の厳戒ゆえに今もって「ほとんど不可能」だと言
い及んでいた。
それとともに、この「志操高潔、かつ大なる熱心に燃えた」一人の司牧の稀な人材であることを大司
教は認め、彼がマニラ市と周辺地区にとって不可欠な存在になっているとして、当地に永く滞在して布
教に当ってくれることが望ましく、それだからこそ彼やドミニクらが奔走している分けてもセミナリヨ
(神学校)の建設に、国王の格別のご支援をいただきたいと大司教は書簡で懇願していた。
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セミナリヨ実現のあかつきには、十年たたぬうち、フィリッピン諸島の宗教的・世俗的保護のために
働く司牧の数はふえて、「陛下が、もはや修道士を召して派遣あそばす必要もなくなりましょう」「こ
れは全くアバーテ・ジョヴァンニ・シドッチの雄大な意向」に発した企画でございますとも強調してい
た。
大司教らの期待や評価を受けとめるにつけて、彼は、だがローマ教皇の特使として日本へ渡らねばな
らぬ決意と姿勢とを新たにした。出航にはフィリッピン総督の許可が必要だった。日本むけ航路が久し
く跡絶えている以上は、艤装(ぎそう)と渡航に要する一切も総督の援助にまつしかなかった。その前提にも彼の
当地での教会活動が相応に成績を上げていなければならず、だがあくまで日本へという熱意も根気よく
表現しつづけねばならない。
マカオに渡って、そこからシナの船で日本へ潜入することも計画した。事実春の汐どきに便船をえて
シナヘ移動を試みかけもした。しかしローマの宣教師を禁制厳しい日本へ運ぶほどの無謀を、利に敏い
シナ人が金輪際受入れるわけがないと、顔色もかえて制する友人たちの助言で、思いとどまった。清(シン)国
のキリスト教事情にも血なまぐさい混乱が生じて、あのトゥルノン枢機卿の生命にも別条が…と、物騒
な噂はマニラまで届いていたし、そんな渦に巻きこまれて不馴れな異国で進退の自由をうしなう恐れは
やはり避けたかった。
もっと具体的な問題もあった。つまり、日本の、どこを目あてに漂い寄ろうというのか。日本の良い
地図を彼は持たなかったし、マニラの元日本人たちに求めて得られるわけもない。ただしフィリッピン
から台湾・琉球へは交易航路がある。無事、至近の距離で日本国に接岸が可能な先は、かつてイエズス
会の日本年報が「下(シモ)」と呼んで、切支丹宗門の殷賑(いんしん)を極めたという九州や西南の諸島だとかり
に考えても、では、誰がその水先案内を勤めるか。どこへ漂い寄るにせよ適当する日本人の同船を頼ん
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で、せめて潜入地点に無残な見当違いは避けたい、避けねばならない。
総督ドミンゴ・ルシェヘルリは、生来が意気に感じて事を起すふうの人物ではなかった。歳五十六。
無病息災で子女に恵まれず、いささか日々退屈しながら本国へ帰還の夢など見捨てて、むしろ往昔のよ
うな盛んな日本との交易になお望みを繋いでいた。教皇派遣の宣教師が危険を冒して日本へ渡りたいと
いう、その便宜をはかって、もしも結果が良ければ総督として一と働きも二た働きもまだまだ可能な先
行きは期待できないか……。
そんなふうに誰も思い思いに汐ときを測っている、その間に特に艤装された船の名が、イスパーニァ
風に「サンティシマ・トゥリニダード(至聖なる三位一体)号」といって、二本マスト、一五〇トンほ
どの軍用哨戒船だった。提督ドン・ミゲル・エロリアゴが、自身船長として乗込んでくれるという。が、
日本近海の地理には疎(うと)い男だった。
幸いというか、たまたま数年前に四国土佐の漁民がかつがつ三人生き残ってルソン島に漂い着いてい
たなかで、壮年の喜蔵という者が、薩南種子島(たねがしま)辺の漁場に通じていることが知れた。聖ザビエルが日本
へ最初の一歩を印したゆかりの島だ、幸先(さいさき)よしとよろこんだが、喜蔵は頑固に同船を拒んだ。帰国した
い気は海山(うみやま)あって、なおそれ以上に公儀お仕置きの出国者に対して残酷なことを、漁師たちは、深い深
い諦めとともに承知していた。
一緒に上陸できないなら、その後琉球のどの島へ下りてもまたマニラヘもどってもよし、気が変れば
故国の土を彼に付添って踏むのも差支えない。ただ、相違ない種子島まで水先案内をどうか頼むと言い
きかしても喜蔵は動かず、結句、二度ほどその漁場へ喜蔵と行ったことのある甥の勘吉が、後日も船て
水夫(かこ)の仕事が与えられるとの□約束に惹かれ、同船してくれることになった。
一七〇八年八月、夜来の強い雨がすこし小降りになった廿三日の朝、何も何もマニラでのことは振り
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きって、彼シドッチは聖トゥリニダード号の船出に一身を預けた。海を知った者たちはこの季節の風波
の荒れをおそれたが、このうえ、ためらってはおれない。
周囲の者が仰山に興奮して騒ぐさまを面白いみもののように眺めているのに、自身バツのわるい思い
をしながら、しかしこのままマニラに居坐っていたら、夕焼けの赤さに魅入られ日が暮れても家に帰り
そびれて動けない子どもと同じに、一生マニラの住人で終えてしまいそうな、しかも内心それも良いと
肯(うべな)って、わざと負けて行きそうなおそろしさがある。たとえ海で事故に遭おうと…それでも、と、誰よ
りも彼は自分自身を繰返し説き伏せたのだ。
月余に及ぶ聖トゥリニダード号の航海は、途中、風波の難を避ける数度の短い碇泊(ていはく)を重ねて、そのつ
ど燃料の薪(たきぎ)や水それに食糧も補給しながら、想像よりおだやかに台湾の東海域をゆっくりなめて北へ、
弓なりに青い点から点へ続く琉球諸島をほぼいつも右方角にかすかに望みつつ、黒潮に乗って北東へ進
んだ。マストは二本、帆もさして大きい船ではないが、脚は軽い。乗員もすくない。
西暦一七〇八年。勘吉によれば改元さえなければ日本の行政暦・陰暦では宝永四年秋八月をすぎた頃
かという。トゥリニダード号の暦では十月のもう九日、火曜日。船は北緯三十度に近づいている。嵐に
遭うこと、すでに三度。幸いこの数日は黄金(きん)色に凪ぎ、船は、早朝の日ざしに鱗のようにきらめく海風
に送られ、ようやく東へ方向をかえながらやがて滑りこむように大小の島かげへ割って入った。
前方に、頭を鋭く削いだかなり高い峯と、ずっと低うおぼろに遠霞んだ丸っこい峯とが海上をへだて
て前後に並んで見える、のを、勘吉は間違いない日本の島だと言った。前途(ゆくて)を指さし、淡い三角のあの
小さな山が覚えのある□之島の前岳であるなら、もはやあの先へ潮なりに船路を進めれば種子島は遠く
ない──。
うわずって□疾(くちど)にものを言う若い漁師の声音は、風に散って聞き取りにくかったがトゥリニダード号
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は緊張した。日本の着物をズボンにはきかえて、むきだしの肩など粉をふくくらい潮灼けした屈強な勘
吉の、だが見るから昏い狼狽の顔には、捕われたらの恐れが底ごもって、もう眼が据わっていた。が、
誰もわらう気になれない。
さぞ懐しい故国の匂いを勘吉はかいでいるだろう。それなら上陸するか、無事故郷(くに)へ帰り着けるか。
たとえ時化(しけ)にあって漂流した舟子(ふなこ)といえども、いったん国外へ出たものは帰国を認めない。忍んでもど
れば隠れ切支丹とみなして断罪するという。勘吉が今や主役を演じ、船をあげて送り届けねばならぬ当
のローマの「聖者」のことは、皆が、そっと遠巻きに構いつけないようにしていた。
出航以来とりたてて何か、たとえば日記を書く手紙を書くということも、「聖者」の彼はしなかった。
ただ司祭の勤めは果した。ミサも授け、請われれば告白も聴いた。なかには逆に、大丈夫ですかいと前
途を気づかってくれる声も聞いた。日本へ行くのなどやめよと、堪りかねたように声を荒らげる船員も
いた。ただ殺すんじゃねえ。なぶり殺しにするんですぜ、あの悪党どもは…。死にてえんですかい。
「死にたくなんかないよ。でも主(しゆ)は、日本に良い種をお蒔きになったし、確かにたくさんな良い実がな
った。育つ土があるんですよ。それなら育てる者が行かなくては。主は、わたしに行けとおっしゃる」
「やれやれ。たいへんなことを、おっしゃる」
首をふって海の男たちは苦笑した。あげく「聖者」と、彼のことをかげで呼ぶらしい。あざ笑うので
はなかった。出航後しばらく続いた露骨なからかい気味も、すっかり影をひそめていた。
海鳥が翅をうつのも澄んで聞えそうに、頭上の空が高い。あきあきするほど、荒れても凪いでも日々
の海の表情は見てきたのだ。四囲八方遥かにしみじみと沸き起こる水蒸気の幕(とばり)を、島も、船も、波を盛
った丸い大きな盆の縁(ふち)かに彼は眺めていた。広いような狭いような視野に入ってくる碧(みどり)や青の島影を、
三つ四つ五つと数えながら、そんな景色がとくに何を意味するともなしに、一種けだるいまだ夢のつづ
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き、いや夢を今見はじめるような気が彼はしていた。
近づくにつれ照った真碧と淡い灰青の色と、なにかしら赤い点々とを妙に露骨に塗りわけたふうの一
番手近な島へ、白い飾り環(わ)になって、波が鋭く奔り寄る。美しい…と、思う。それでいて美しいという
受け方を場ちがいにも思うのだ。渦巻く劇的な予感に身をもみ込むように聖トゥリニダード号は、波を
割って進む舷側(ふなばた)の響にも、昨日と変わるぎごちない姿勢をとっている。
なんと昏いこの憂鬱だろう。たちまちにこの船をこう突ッぱった昏い顔に変えた、これは、何の力か。
神のご意志か。朝霧の彼方で狂暴に目を光らせているだろう日本政府の恫喝(どうかつ)か。
彼は自室にこもって、いま一度、携(たずさ)え持つべき荷物を点検した。
長さ、三分の二カンナよりやや長いめ、一メートル半ちかく、そして幅は半カンナ、一メートル余の
革鞄の底に、両手で、拝むように彼は「親指の聖母」の額(がく)を、蔽い布をかけてまっ先に収めた。次にミ
サ典書、聖務日祷、日本語の小辞典、ミサに必要な、ただし重い聖石壇は除外して、すべての聖祭具や
聖油入りの小箱、それに聖書はもとより、数種の信心書を入れた。亡きマストリリ神父が遺愛の十字架
や兄がくれたメダイの僅かな残り、そして一対のジシピリナ、悪念を自身で戒める苦行用の棘(とげ)の立った
鞭や、堅い衣類、着古した下着も数枚、それから幾らかのパン、少々のチーズも入れた。マニラで調達
したかなりの金貨に加えて、シナ人から日本の通貨──も、少々手に入れてあった。白い日本製の晒布(さらし)
も役に立てたかった。
彼は先刻来、何の関係もない、春には花と新緑に、初冬には深い霧に包まれるシチーリァ島の、その
島都パレルモや、近くのモンレアーレやセジェスタのことばかり思い出していた。ドリナクリア──深
く膝を曲げた春と夏と冬の太い三本の足で、地中海の大空を天翔(あまが)けるヘリオス(太陽神)の島、あぁ…
シチーリア。コンカ・ドーロ…。
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「黄金の窪地」コンカ・ドーロはオレンジとレモンの宝庫だ。むせるほど濃い緑の木々におおわれて海
からゆるやかに平原を盛りあげ、南は、天が置き忘れたようなすさまじい岩山に豪快に閉ざされている。
パレルモはそんな緑平野に浮かんだ文字どおりのパノルモス(すべてが港)として紀元前はるかにフェ
ニキア人の手でひらかれ、さらに永くローマやビザンツ帝国の支配と文明とを受けいれ、そして九世紀
前葉には、コーランと剣を手にしたアラブ人により回教国シチーリアの首都とされた。コルドバにもカ
イロにも負けない国際都市にこの良港は育ち、アラブの高度の文明・文化はあげてシチーリァ島を豊か
に耕した。
アラブ人は、後にシチーリアに上陸して王国を築いたノルマン人とならんで、賢明で寛容な支配者だ
ったといえる。だが十三世紀以降のイスパーニアによる異端審問と収奪の支配は苛烈だった。根がラテ
ン系のシドッチ家は、だが比較的どの時代にも温和に、敬虔(けいけん)なマヨーレス(上層階級)の末席を生きて
きた。
モンレアーレの丘の上のドゥオーモ(司教区の大聖堂)から、その高い鐘楼から、彼は、緑なすコン
カ・ドーロに落ちた明るい灰色のあざのようなパレルモ市を眺めるのが好きだった。
また彼の家が数代占めてきた、小麦のよく実るセジェスタの小さな領地も好きだった。小麦はみじか
い秋の終りの頃に雨を待って種をまき、夏までにとり入れた。アーティチョークの畑も広々と、いい収
穫をあげた。祖父はここにお気に入りの別荘をもっていた。
セジェスタヘは速い馬を何度も継いで行った。ギリシア風神殿の堂々と輝く列柱遺跡を彩っていた、
日の光。明るい影。六、七歳だった彼は、目もまばゆいウマゴヤシの青野原へ出て、はじめて作男のラ
グーザに騎馬の手ほどきを受けた。至るところに葡萄や柑橘類の栽培地があり、そして白く乾いた石灰
岩が露出していた。
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トラーパニの港も見に行ったし、そこの海辺から一気に海抜七、八百メートルもの、堅い灰色の城壁
に囲まれたエリチェの町へ登ったこともある。一等高く古い神殿跡に数世紀まえのノルマン風の城が残
っていて、もう足の爪先に鋭く切って落したような大断崖のはるか底から、見渡すかぎりの小麦畑、葡
萄畑。その黄金(きん)色といい緑色といい、また突き抜いたような大空の青さといい……。
(彼は、我に返るのを恐れ激しく首をふった。ただ耳の底に帆を鳴らす海風の音を聞いていた──。)
トラーパニの港では、ナスやイワシのパスタに飽くとクロマグロの料理を食べた。魚のあらを玉葱、
セロリ、トマト、ケーパーと煮込んだソースのなかで、大きな切り身がこってりと柔らかかった。セコ
ンド・ピアット(二皿目)に仔牛のカツレツがまたご馳走だった……。
そうだった…母は(と、彼は思い出していた)仔山羊とジャガイモの煮込み料理が好きで、上手だっ
た。父と兄はオリーブ油の香ばしい網焼きしたカジキマグロが、妹は色々に美しく果物の形につくった
菓子が好きだった。降誕祭と復活祭には、アーティチョークを叩いて、塩をふりこみ炭火で焼いたのを
必ず食べた……。
おぉ神よ、この未熟な魂をお許しください。彼は膝を甲板に激しく折って、拳で額を打った。
「主イエズスよ、あなたが仰言りお約束になりましたとおり、そのとおりに必ず成りますように。また、
私がそれをお受けするにふさわしい者となれますように。私はあなたのみ手から十字架を授かりました。
授けられたのです。だから私は担(にな)います。死に至るまで担ってまいります、私にお命じ下さったとおり
に。十字架は天国への導き手です、もう仕事は始まっています。主よ、み心にしたがいます」
彼は潮の気に身をひきしめ、立ち上がった。するとふとマニラの日本人たちが思い出され、そして突
然、湯というものに漬かってみたくなった。
いやいや──もうこの船にそんな余分な水も、燃料も、残り少ないのは知っている。塩漬や燻製の魚
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肉類と、ビールや葡萄酒こそまだ有るらしいが、生野菜などとうに底をついていた。この船にとって彼
を上陸させたあとの急務は、水や野菜の補給だ。二つが同時にぶじに出来ればなによりだが…。油然(ゆうぜん)と、
彼は、船長ドン・エロリアゴ以下乗員にかけている苦労の莫大なことを想い、心苦しさと感謝とで胸を
熱くした。あの「親指のマリア」の頬に光らせた涙が、きっと広い広い海の塩よりからいことも悟った。
天国で…と、つぶやいて駆け去った白いちいさなあの面影の方へ、せつなく彼は目をつむった。
彼は、マニラの貧しい人々へ少々の施しや、今度の出航まで総督との交渉に終始便宜をはからってく
れた民政局のジョヴァンニ・コルヴォ氏や個人的によく世話になったパラチナ礼拝堂のフランシスク・
マルナス神父らに、ちょっとした信心の品々を形見に贈る気になった。簡単な手紙を添えた。
種子島が近い。天気も崩れかけている。
そう告げながらエロリアゴ船長が、「もう一度……」やはり行くかと、念を押しにきた。椅子から起
ってつよく首肯(うなず)き返し、彼は、つと船長の手袋のように厚い掌(て)を求めて両手を伸ばした。
「神様のご加護がありますよ」
そう言ったのは帽子もかぶっていない船長の方だった。右の眉の外へ、若い日に決闘で受けたという
古傷をのこしていた。鉄の帆柱のように背が高く、まっ皓い歯並びをしていた。そして最後の祝福を静
かに彼から受けた。
「金は足りていますか」と船長は訊いた。一瞬笑いかけ、こらえた。
「えぇ」と返事し彼は片目をつむってみせた。
翌る、十月十日。
「タネガシマ」の叫び声をきいて船首へ出た。目もくらんで見上げる青黒い一塊(いつかい)の山巓(さんてん)が、どう眺めて
も海抜千メートル以上六つ七つとひしめいたまま、墨を溶き流した雲行を頑固に、たしなめ顔に、遮(さえぎ)っ
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て見えた。
「ほんとうに、あれが種子島か。あの、左の奥に、もっと小さな島影が見える。あれは……」
勘吉は遠くで小さい方のが屋久島だろうと答えていた。が、自信が有る無いどころか、この若者は前
夜来眠りもならず動顛していた。
船長は海図をにらみ、勘吉のいう種子島が屋久島で、西北のは別の小島かも知れぬと首を傾げ、雲行
も気になる飲み水も欲しいが、あんな凄まじい山岳島へうかと近寄っていいものかと、つぶやきつぶや
き大きい四角帆は巻かせ、風上へ切り上がって船尾の縦帆を操りながら船を進めた。
ずんぐり丸みのついた船体の、船首にも船尾にも張り出し楼がある。いわゆる「キャラック」──コ
ロンブスが大西洋を渡ったというサンタ・マリア号と同じ型の船だそうだが、つまり、それほどにどこ
かしこ古びていた。が、艤装のさい新しく船首に立てた金色の巨きな十字架だけは立派で、航海の目的
を燦然と示していた。
落着かない勘吉を彼はひとり自室へ連れて入り、いよいよ共に上陸するかどうか、確かめた。
すがるように勘吉は神父の目を見返したなり、唇の端を痙攣(ふる)わせた。怯える若者を彼は床にひざまず
かせ、十字架を額にそえてそっと頭から抱いてやった。「神よこの日のために力を与へ給へ」と静かに
祈りの歌を唱ってやった。
やがて彼は勘吉に向かい、かねて打合せどおり、とにかく自分の髪を、日本の武士が月代(さかやき)を入れてい
るように、切るなり剃るなりしてくれと言いつけた。
鮫鞘(さめざや)の脇差が一振。鍔(つば)は金縁の鉄に櫛形の透かし。それに木綿仕立て、染(そめ)はあさぎ柄(がら)は碁盤縞で紋が
茶色の菱四っ目という、日本の着物。いずれもマニラで用意してきた。所詮は日本人に見つかるのが目
的ではあり、どう装っても日本人らしくすらなれるはずはない。が、たとえ少しでも南蛮紅毛と怖れ奇(あや)
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しまれるのを和らげられるなら、何によらず試みる気で彼はいた。
勘吉は逆だった。イスパーニア人を装っていた。この船に日本の者の隠れ潜むなどと、夢にも日本が
たの役人には知られたくない、金輪際知られてはならなかった。
正午ちかく、ゆっくり帆を追い風にまかせた聖トゥリニダード号は、島から数キロまで寄って行った。
…と、漂う一枚の柳の葉ににた小舟で、明らかに日本人が六、七人肌をおろし、天気をあやぶむよう
に気ぜわしげに漁をするのを発見した。向うも逸早(いちはや)く見つけたか蓆(むしろ)ほどの帆をあげ、にわかな逃げ支度
のさまが、船長らの遠眼鏡に手をとるように見えた。
とりあえず飲料水と食糧を補給したい。一方様子もよく見定めてかかるのが穏当と、そう彼も考え船
長もとっさにシッフォ(端艇)をおろして、変装した勘吉と、他に短銃を隠しもった八人の水夫とを乗
りこませた。折から荒い風を帆にはらんで、艇は、島へとうち返す大波にさらわれ行くように、船長の
「漕げ」の声ももう届かず、波間を浮きつ沈みつ遠ざかって行った。
狼狽した漁船は帆もかけ煩わう慌てかたで、かつがつ西寄りに北へ北へ鬱蒼と奥暗い島をめがけて漕
ぎ去ろうとするのを、今はこっちも一斉に擢をつかって、呼ばわり呼ばわり競漕のていに眺められた。
トゥリニダード号では固唾(かたず)をのみ、また声をあげ、その間にも変る風向きについ押し戻されて、大方帆
を畳んでいた本船はむしろ遠退(とおの)きぎみに東へ流されつづけていた。
「やった…」
「つかまえた…か」
だが二艘の小舟は距離を縮めてまるで伴走しながら、端艇からは勘吉が舳(みよし)に身を乗り出して叫びつづ
ける、向うでも頭(かしら)だつ二、三の漁師たちがはずした鉢巻をぐるぐる振りまわして怒鳴り返している、ら
しい。
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「射ってしまえ」と乱暴な□をきくのもいたが、舷側にすがりマストによじ登って、誰もそんな雑言(ぞうごん)を
聞いてもいない。
あの様子では交渉は不調とだれの目にも映るうち、寄っていたものがふッと力なく離れ離れに、出し
た艇は本船へと力いっぱい漕ぎ戻ってくる、漁師たちの舟は妙によろよろと、逃げまわるまるで舟喰い
虫のように遠退いていた。くそッと誰かが唾を吐き、小さく横なぐりに小雨まじりの風がきて聖トゥリ
ニダード号は淡い日かげに入った。
伍長のカミロは簡単に復命した。要る物は「ナガサキ」で貰えと言われてきた。どう仕様もなかった、
という愛矯のある目を伍長は瞬(またた)いて、目のまえに、着物を着流しの異様なサムライ姿で突ッ立った「聖
者」へも、太い親指をチラと横に振ってみせた。
怖いめを見たのは日本の漁師たちだったろう。からだは逃げ腰に、声をからし手を振りまわしての慌
てようといったらなかったと、緊張もとけ水夫らが□々に言いあうなかで、勘吉一人は唇もまっ白に血
の気も失せ、歯をがちがち鳴らして船長にまるで食ってかかるのだった。
かろうじて皆が勘吉の言うことを理解したかぎりでは、日本の皇帝は今なお切支丹に対して残虐をき
わめ、この舟もはや発見され監視されている、自分が日本人であることもすぐ見破られ、全員が危険な
状態にすでに陥っている。一刻も早く退避すべきで、自分はもうもう日本の土をけっして踏む気はない
と言い募るばかりだった。
「飲み水がほしいと、しっかり頼んでみたかね」
わめく勘吉の肩をつかんで船長がまた訊いた。さっきから同じことを何度も質問し、勘吉はそのつど
細い目をひきつらして船長の顔をにらむのだが、なにを訊かれているのか分らないらしい。
カミロが割って入った。
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手ぶりで水が飲みたいと繰返し相手の舟に伝えたが、そのつど両手も首も横にふられたという。
勘吉もやっと気を取り直し、用があるなら長崎へ行け、こんな場所から日本国へ入ることはどの異国
人にも許されてはいない、帰れ帰れと突っぱねられたと言う。その上に長崎ではきっといい目を見るだ
ろうとしたたか威(おど)された、わらわれたとも言い言い、何ごとを想像するのか冷たい汗がしぶくぐらい思
わず舵輪につかまり、身を震わせた。
船長に目くばせして彼は勘吉を、また自室まで連れもどった。そして暫くして彼ひとり、船長のとこ
ろへ重大な情報を伝えに出むいた。
勘吉は彼に白状していた、自分を日本人と向うの漁師がいきなり見破ったわけではない。自分から自
分は日本人とそう伝えて、早い話がローマ人のバテレンが不法に一人潜入しようとしている、そいつを
引渡す見返りに自分を故郷(くに)へ帰してくれよと、取引を持ちかけた…と。
「そんな…勘定を、いつ、つけてましたか。案外な男ですな」
一徹な眉間に怒りをみせる船長に、彼は、勘吉にすれば無理からぬこと、この件、二人だけのことに
ぜひ願うと念をおした。ドン・エロリアゴは誓って内密にすると約束してくれた。
「しかし勘吉も血迷っています。あんな漁師どもを、まるで総督か裁判官のように思って掛合ったんで
すね」
「その通りですよ。帰りたい一心でね……。それはそれとして、私の存在(こと)ですが、……すぐ知れ渡るで
しょうね」
船長は一瞬顎に指さきを触れ、目は空をみて、すぐ三策を示した。池島をめざすか、敢えて上陸する
か、断念か。
「天候が、ごらんのように心配です。危険はどこも同じこと。それよりこの船をせめて安全な琉球の方
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へ戻すためにも、私をあの島に今すぐ、はやく上陸させてほしい」
「独りで…ですか…」
単独でと彼はつよく頷き、船長は「それは感心しない」と首をふった。武器と金貨とで、ただ一人で
もいい日本人漁師をどうにか懐柔して、島伝いに九州本島に辿りつく方途を根気よく見つけようと。
「いけません。かりにも武器を携(たずさ)えた兵が上陸したと判っては、あとの動きようがない」
船長はそれでもよく考えてみたいと言い、とにかく今日はいけないと即時の上陸を拒絶した。
島から遠ざかってしまわない程度に聖トゥリニダード号はだんだんに東へ流されながら距離を保ち、
彼は、泣き寝入りに「神父様」のベッドで疲れ果てていた勘吉のそばへもどった。
□のなかで、なにも案じることはない案じることはないと、彼は誰にともなく言い聞かせた。そして
造りつけの小机に向かい彼はローマ教皇やマニラの教会に宛てて、いよいよこの期(ご)に及んだことを告げ
る手紙を何通も認(したた)めた。どの手紙も「一七〇八年十月十日、種子島(Tanecoxima)。今夜、主の愛を抱
いて上陸します」と結んだ。大勢のいろんな顔が、明滅する火の玉のように目の底を奔っては、遠退い
て行った。
夜の八時を告げる八点鐘もとうに鳴り、また一から三十分毎に鐘の音は一つずつ数を増していた。彼
はきちょうめんにマルコス神父や助祭のドミニクや、やえ(2字に、傍点)や伝次らにも手紙を書きつづけ、そのうち勘
吉が目を覚ますと、ワインやパンを少々運んでもらって、その後も、いつもの聖務日祷の時刻まではペ
ンを持つ手をやすめなかった。
祖父や母に宛てて、兄や妹に、マリアに宛てては今さら書き置くことはしなかった。だがいっとき両
掌をかたく握ったうえへ顔を伏せ、心ゆくまで懐旧と惜別の涙を流した。鳴咽(おえつ)が船室を漏れるかも知れ
ぬと思いつつ、彼は、今この時に誰より千万言を書いて書き尽したい相手に別れの一言をも告げようと
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せぬ、いっそ頑(かたく)なな自身の額をこつこつと双の拳で叩いていた。
午後十一時四十五分。すべての荷を確認し終ると彼は船長のところへ行き、翌朝までにきっと上陸し
たいと強硬に主張した。エロリアゴらは松明(たいまつ)を焚いて見張るらしい遠い暗闇を指さして、呆れ、警(いまし)め、
決行に反対したが、「聖者」は星一つ見えず垂れこめた夜空の闇を逆に指さして、あの捻っている風が
今にもどう狂暴に歯をむきだすか知れない、ためらっている時でないと諾(き)かなかった。たしかに先刻乗
船の揺れは度を増していた。
嵐は、まちがい──。
船長エロリアゴがついに頷くのを見届けると、彼は、日本の侍姿のまま船の上で最後の告白を聴いた。
大半の船員がつぎつぎに来て、神のみ前に告白をし主の宥(ゆる)しを乞うた。
やがて皆の顔がそろった。
彼は、聖母が苦しみの広義の第四、「主が十字架を担われたこと」を黙想し、聖母のお取り次ぎによ
って苦難を甘んじて受ける恵みを乞い願いましょうと、ロザリオの祈り一連を唱えはじめた。乗員の多
くが倣った。
さらに短い説教のあと、彼自身が教会に対し十分な奉仕もせず司祭としても多々至らぬところがあっ
たと許しを乞うた。
また久しい恩人たち、ことに此処までも自分を送り届けてくれた乗員に感謝して、主が一同を祝福し
て下さるようにと祈った。
彼は、黒人や奴隷さえふくめた全員の足に接吻したいとも希望した。さすがに尻ごみしたが、「聖者
シドッチ」へそれが此の期(ご)の慰め励ましになるならばと、一同は彼の思うに任せた。ひれ伏す異形(いぎよう)の神
父を見て涙にむせび、□もきけない。そしていつ誰からとなく主とマリアを称(たた)える歌声が、聖トゥリニ
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ダード号のうえを優しく流れはじめた。その間も、はるかな闇の底を、鬼火のようにいくつも松明(たいまつ)の燃
えて揺れ動くのが見られ、船は、海岸沿いを相変らず東へ東へと流されていた。
十月十一日、午前四時四十五分頃。武器を持った八人と伍長カルロ・ベリオらが端艇(シツフオ)の準備を終え、
船長エロリアゴは神父の船室へその機(とき)の来たことを告げた。彼は感謝の声をあげて外に出た。ひざまず
き、さらには甲板に額(ぬか)ずき長いあいだ祈りをこめ、さらに長身の胸を高く反って腕をひろげ、声朗らか
に、「IN VIAM PACIS(平安の内に行かん)」次いで「BNEDICTUS
DOMINUS DEUSISRAEL
(イスラエルの神なる主(しゆ)、祝せられたまへ)」と叫んで、厳かに静かに掌(て)を合わせた。
「司祭様」
船長ドン・エロリアゴは鄭重にそう呼んで、彼が、まるで此の世の最高のたのしみを今味わうため出
かけるという風であるのを、心から称(たた)えた。そして部下一同に代り、彼のうえに神のご加護をと祈って、
力づよく抱擁した。
下(おろ)された艇の後部に彼は腰かけ、船長が自身で舵を取った。海づらは途方もなく冷え冷えと暗く、突
風にもまれて小舟は波間に消え入りそうだった。船長は落着いて声励まし、彼も声を張って次々に美し
い詩篇の句を海の闇へ放った。真黒にそびえ立つ鳥山はだが頑固な絶壁のように静まりかえり、海沿い
を揺れていた松明の火も今は果てていた。
彼は、ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチは、眼下の波涛に、かすかに光っては消えるものの影
を一心に求めていた。いつか、夢見るようにマリアの、親指のマリアの頬を伝う涙を、その愛を、想い
つづけていた。
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潜入の章 〈勘解由1〉
一
宝永六年(一七〇九)霜月の二日、大樹家宣(たいじゆいえのぶ)が江戸城西の丸より本丸へ根を移すに伴って、西の丸若
年寄の支配を受けていた彼は、新たに本丸中ノ□に下(さがり)部屋を与えられた。出入りも蓮池御門よりと定(き)ま
った。
同三日には、先住(せんじゆう)の小普請(こぶしん)奉行竹田丹波守(たんばのかみ)より部屋ならびに鍵など、正式に引渡されていた。
昨日はご多用を顧ず朝ばやに参りましたのに、お話がうかがえ、有難う存じました。天気よく、上
様(うえさま)御本丸入り初度(しよど)の寛永寺御成りも無事にすみ、まことに悦ばしい限りでございます。
手蹟(て)は、はやい。
十一月二十四日、長い手紙をぜひ間部(まなべ)越前守のもとへ彼は届けておきたかった。切支丹奉行横田、柳
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沢両人へは先刻に連絡がとれていた。
さて昨朝(さくちよう)お目にかかって申上げましたとおり、昼より通詞(つうじ)たちを呼び寄せ、夜半すぎまで話しあい、
去年十一月長崎へ彼(か)の者到着して以来の様子、また応答の態度や言語など、あれこれ篤(とく)と聴き取りま
した。
三人の通詞らは、去年十一月より此の件を担当今日(こんにち)に及んでおり、どうか無事決着をと願うらしい
様子、もっともに存じます。少しも早う長崎へ帰国のお聴(ゆる)しがいただけるようにして遣(や)りたいもので
ございます。と申しますのも、今度の事件はこの六十余年もの間、絶えて無かったこととて長崎奉行
所の面々も、大切の上の大切と慎重にはからわれたらしく、大勢の通詞から、オランダ大通詞今村源
左衛門のほか二人の稽古通詞も添え念入りに人選され、万事を三人に申付けられたように思われます。
それ以来彼らは、日々意の通じない異国人の間近でなにかと事を問い面倒もみて、長崎を発ってこ
のかたも同じ苦労を重ねて海陸の道中無事に江戸へ着き、どうかして遺漏なく御用を果たしたい念願
であるかに見受けます。一年余、昼夜苦労のほどが察しられます。それにつけ三人の殊勝な心がけと
いい、不如意の異国語を習い覚えた苦心といい、なかなか言い尽せぬものがございます。
この上は少しも早く決着をつけてやり、ご決裁の暁は切支丹奉行の方からでもお褒めの言葉などか
けていただき、帰国して後々も何かと長崎表で名誉の思い致されますよう計らってやりたく、私から
もお願い申し上げます。
書字は苦にならぬが、いかにも字が拙(まず)い…と首をふる。己が手蹟(しゅせき)に鼻白みながら、彼はなお、筆をつ
いだ。
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一、右のような状況ではあり、私、精出して、大方の事情は、この私に何とか分るようでありますな
らば、判断を付けてみようと存じ居ります。これに就き昨日は夜半までも、改めて通詞よりこもご
も話を聞き、また問い質(ただ)しました。独り学びで行き届かぬ点もございますが、またまた明日彼(か)の者
に会おうと思い、奉行の面々へもお立会いを願い出てございます。
一、明日は、彼の故国ローマ周辺の国々に就いて、昔より今に至る歴史を篤(とく)と問い訊してみます。こ
れを知りませんと、申さば国柄も知れず、それでは彼の話に、当方なりの判断が下しにくいと思う
からです。
一、江戸までも出頭をお命じになったからは、彼が何故我が国を訪れたか、その真意、ぜひ聴かねば
相済まぬ御用の筋と存じます。
この点は通詞らもまた聴き取れていないと申しております。これこそ上様第一に御尋ねの要(かなめ)でご
ざいます以上、なにより御大切の事と考えております。多分こういう理由(こと)であろうかなどと、推量
して済ますわけには参りますまい。もっとも此の点では、彼も十分用心していましょうから、なか
なか大問答となる場面かと思われます。先日来私なりの用意また問い試みも、有効にその難所をし
のぐための備えでございました。やがて肝腎の問答も出来ようかと思っておりますので、明日に引
きつづいて二十七日か、二十九日かにその日を定めようと思案しております。彼が潜入の真意さえ
明らかになれば、およそ尋問も済んだと同然でございますから、その当日はぜひ切支丹奉行の面々
も出席して、私が問答の始終をよくお聴き合せ願うよう心用意しておりますが、如何でしょうか。
一、彼の男が携(たずさ)えておりました道具類。調書で見たのとは、存外異なる品々のようでございます。こ
の道具は何用にと、一々詮議したかどうか通詞に尋ねましたところ、頭から異教の法具と鵜呑みに、
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しげしげ見ることもせず、むろん何をどう使うかもくわしくは承知していないと申します。これら
の品々に就いても十分尋問すべきであろうと考えております。が、それには及びませんでしょうか。
もし尋ねて然るべしとなります時は、これまた大問答、なかなか頭を悩ますことでございましょう。
どう致してよろしいものでしょう。
この道具類にまじって調書に法衣としてあります物は、我が国のいわゆる浴衣です。それもよく
見ますと日本の物、奈良の半晒(はんざらし)で作ってございます。この奈良半晒の浴衣は一件道具中から見つけ、
奉行の方々にも見せてございます。通詞に昨夜念を入れていろいろ訊(ただ)してみましたが、そんな晒な
どは、オランダヘも唐船を介して以外渡るはずのない品目であると申します。どう眺めても古くは
ない晒なのです。これも最近通用の我が国の小粒の金貨を彼が携えおりましたと同様、理解に苦し
む所持品でございます。
ルソンにもローマにも、日本人は大勢居住しています由彼はしきりに申しており、この点は、明
日、確かなところを聴き出すつもりです。
以上僭越ながら尋問の要点として右のように考えておりますが、私一存の取調べでは彼を恐れ入ら
せえますかどうか。先ずご内意を承っておき、明後日朝十時すぎにはお城に参って、改めてさらにお
考えなど是非うかがいとう存じます。本当は今日参ってご相談すべきなのですが、また明日の備えに、
あれこれ勉強もし用意も十分致しておき度(と)うございます。書面で失礼いたします。
ご容赦を願い上げます。以上。
十一月二十四日
「越前守様」と宛名をして封じ、裏に「新井勘解由(かげゆ)」と認(したた)めた。
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家来の文九郎に言いつけて、間部詮房(まなべあきふさ)の屋敷へ小者(こもの)に書状を届けさせると、彼は、文机(ふづくえ)の前を起って
東の障子をあけた。
去年隣家が火を出したあと、申合せて屋敷境の塀に沿わせ、常緑の喬(こだか)い樹を植えた。庭面がしっとり
翳をもつようになって、鳥の来鳴くことも増えた気がする。行潦(にわたずみ)めいて、邸内を湧き水が西から来て南
へ流れ去って行く、そのひとところに八、九本並んで寒椿が真紅(まつか)に花びらを散らしているのを、一枚一
枚苔から石へ、浅い流れへと踏んで遊ぶふうに、先刻から、細い尾を立てた碧いような黒いような小鳥
が来てしきりに囀(さえず)っていた。が、もう、いない。
よく晴れている。
風もない。が、きつい足袋をはいたように甲高な足を締めつけて、今朝から冷えに冷えこむ。中坂の
世継稲荷へ今日も人が寄るか、遠くで晴れやかに鈴をふる音がする。
彼は、ふッと息を殺すほどに高く胸をそり、両拳を腰の横にごつごつとあてがった。そしてその恰好
のまま、末の娘がまた遊び相手にしているらしい、知行地の在から近頃雇ったやす(2字に、傍点)の、十二か三という
歳に似あわぬ利発な澄んだ一と声二た声を、彼は、珍しそうに聴いた。あれに較べると自分の伜の百助
は、同じ十二歳でまして士分の家に生れながら、物言いが、もう一つはきとしない。
百助はまだいい。娘盛りの十七になる、百助姉のます(2字に、傍点)の気弱に温和(おとな)しすぎるのもまだいいとして、上
様へお目見えを無事済ませた二十(はたち)前の総領大亮(だいすけ)が、よく言えば温厚、それも親の目にも度を越して映る
のでは、気遣(きづか)いな……。
自分と同じに短気で癇癪もちも困る、「鬼よ」などと誹(そし)られぬ方が、まあ…いい。あれで二人とも、
この父でなく祖父心斎(しんさい)殿ほど沈毅の士に育とうなら、それならばひとかどのお役に立とうものを。
彼は──物ごころついた頃にはもう白髪(まっしろ)だった亡父を思い出していた。背は低かった。だが、どこか
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しこ骨太にたくましく、居ずまい実に正しい人であった。静かな視線が、いざ目をみひらくと大きく光
った。……。幾分索然と彼は家内(やぬち)を顧るふうに、む、と唇(くち)を曲げた。
縁伝いに厠(かわや)へ歩を運びながら、先刻来心の揺れている自分自身を叱るように、胸をたかく張ってみる。
八ツ(午後二時)過ぎ──また、鳥が来て囀っていた。
──武士に似せ、月代(さかやき)を剃り刀をさしてわが国土に潜入していたという異国人の話を、越前守間部詮
房(まなべあきふさ)と座談のおり初めて聞いたのは、去年宝永五年(一七〇八)十月の五日であった。
あれは正午頃、お城に上がり、例により主君、当時まだ将軍家世嗣(せいし)として西の丸にいた家宣(いえのぶ)公の御小
座敷(おこざしき)で、三年越しの『資治通鑑綱目(しじつがんこうもく)続篇』を丁寧に講じたあと、詮房の側衆(そばしゆう)詰所に招じ入れられた。こ
とにウマが合うというのか、御用繁多の間にもこの越前守は目立って端正な顔色を和らげて、彼となら、
膝をまじえ談笑に時の移るのを厭わぬ人であった。
あの日も詮房は、掃き清めた椿灰の手焙(てあぶ)りを彼には勧めて、麗しいほどの正座のまま、先ず、前年の
大荒れと同じ処から富士山が火を噴いたが、今はおさまっている…というような話を始めた。
黙って聞いていると、次に、去る八月廿八日に薩摩の沖、種子島近い海上を帆をあげた大船一艘が、
西から東へゆっくり通過した、そして翌日また現れ、結局西の海へ去って行ったと、薩摩守より長崎奉
行所へ九月十三日付で届け出があったことを聞かしてくれた。
「オランダ船では、なかったのですね」
「そうではなかったと見える。と言うのは、船が去ってのち、種子島に近い屋久島の南の浜へ、奇妙な
者が一人夜中(やちゆう)に這い上がっていた。島の百姓が見つけている……」
「捕えた…のですか」
「島の内に留め置いて、島津家へもまだ引渡していない。が、薩摩は、とりあえず長崎へ報せてきたと
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いう。きっと吟味すると、奉行から申し送ってきたそうなが」
「若い男でしょうか」
「年は四十ほど。七反命もある大天狗だそうだ。髪黒く眼窪んで、日に焼けているが肌は白い。鼻は高
い。月代(さかやき)して、二尺三四寸の誰だとか銘のある刀をさし、木綿の袷(あわせ)を着ていた、それが日本の仕立てだ
といいます。その辺の辻棲がまだ合わない」
「言葉は…」
「通じない」
「…通じませぬか。…所持していたのは刀だけですか」
「くわしくは、未だ。黒い革だか木綿だか、大きな袋を一つ持っていたと、島の役人は届け出ているそ
うだが」
とっさに、その者を江戸表へ召し寄せられては…と、彼は、提案しかけて言葉半ばにのみこんだ。詮
房はおかしそうに目で笑って、会うてみたいかと訊いた。
「はい」
言(こと)少なに、しかしあの時はっきり彼は首肯(うなず)き、詮房の眼をみて珍しく朗らかに笑った。
もとより当時そのようなことが、たとえ詮房ほどの利(き)け者にも可能である道理がなかった。
彼らが主君の従二位権(ごん)大納言徳川綱豊、名を改めて家宣は、先に宝永元年(一七〇四)一甲府城主か
ら江戸城西の丸にはいり、五代将軍綱吉(つなよし)の世嗣(せいし)と迎えられていた。迎えられてはいたが、もともと実子
のない現将軍には渋々の後継ぎで、四年経てなお家宣の立場は微妙であった。しかも先年来、諸国に天
災あいつぎ経済は窮し、綱吉妄執の生類(しょうるい)憐みの令はあまねく不評を買っていた。ひそかに世直しを待つ
声もあった。西の丸は、さようの次第で、息を潜めていたのである。ところが年明けて宝永六年正月の
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十日、その綱吉が薨(こう)じ、家宣は徳川将軍家の六代を襲(つ)いだ。
それにしてもよくも一年の余、あの男は長崎での審問に、転ばず、死なずにいてくれた…。
厠(かわや)を出て、彼は、さえずる鳥の尾をあげて物をついばむ姿を眺めるともなく、そのことを、また思っ
てみずにおれなかった。
──太閤以来、数次の禁制(きんぜい)を経て、三代家光公の時にもっとも切支丹の宗門(しゆうもん)に対し容赦がなかった。
棄教者は助け、いわゆる転ばぬ者だけを誅(ちゆう)していたのも、いつしか例外なく「杖をつかせよ」と命じた。
転ぶには及ばぬ、一人も生かさぬという厳しい極みで、刑死の切支丹は慶長元年(一五九六)このかた
前後およそ二、三十万人に達し、ことに礫(たく)された者ほど、歓喜のまなざしを高く「ハライソ(天国)」
にあげて、殉教の誉れに満たされ、死んで行ったという。この逆効果には、世の心情を、いっそ嘆賞の
思いで刺激してやまぬものがあった。当局はそれを畏れ、井上筑後守が宗門改役(あらためやく)の切支丹奉行に就任
以後、今一段仮借(かしやく)ない方策に転じた。
「殉教」の喜びや名誉を邪宗の徒輩に与えてはならぬ。ならば、感化力のつよいバテレン(神父)やイ
ルマン(修道者)はなおさら、死なせるよりも断乎「転ば」せ背教の烙印を負わせておいて、あげく小
日向の牢屋に厳重収監せよ──、と、そう方針が変ってからの最後の棄教者というのが、岡本三右衛門
こと耶蘇(イエズス)会士のヨゼフ(ジュゼッペ)・キアラであった。このバテレンの名は、今度遠来
のローマ僧が自身尋問されるに先立って、長崎でも江戸でも、まず司直に安否を問いかけていたという。
けだしかの男もキアラも、ともに「南蛮シヽリヤの内ハレルモーの者」だからであろうが…と、彼は、
新井勘解由(かげゆ)は、察していた。
寛永二十年(一六四三)にそのキアラらが、伝馬町(てんまちよう)の牢で木馬(きんま)責めにあい転ばされて以来、外国人宣
教師の渡来潜入はふっつと跡を絶っていた。その筈であった。
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キアラこと三右衛門がその後四十二年間を、公儀が強(し)いて添わせた日本人妻とともに切支丹牢で命な
がらえたのは、彼も承知している。三右衛門がいくらか書き遺した切支丹宗門に関する書付(かきつけ)も、「ヨワ
ン・バッティスタ・シロウテ」の江戸表での尋問を将軍直々(じきじき)に仰せ付けられた時に、特に願い出て借り
てすでに読んだ。長崎からの調書より先に読んでいた。
──あれは、殺したい男ではない。今、はっきり彼が考えているのは、それ一つだった。
一昨日(おととい)にまだ一度会っただけ、言語も甚だ不十分にしか通じなかった。だが、あれ程の…と言いきる
には早いが、あのような男を活かす御政道が無くてはならぬ。活かす道とは、彼にすれば、ただ殺さぬ
道というのではなかった。
彼は、貞享二年(一六八五)の初秋八十四歳で死んで小石川無量院に葬られたという、岡本三右衛門
ことキアラなみに、あのヨワンをただ長生きさせたくはない。棄教を勧めるのは良いにしても、日本人
の、それも罪に辱(はずか)しめられ刑死した侍の姓名を名乗らせ、かりにも僧侶に強いて、死んだその侍の後家
だか家人だかを獄中にめあわすなどという見せしめは、どう□実を構えても、あさましい。
キアラ禁獄の余生について、聴事(ちようじ)の場所ではじめて同席の与力(よりき)に聞かされたヨワンが、あッと拳で額
を打ってうめいた、あの苔むす岩ほど瞬時に黝(くろ)ずんだ顔色を、彼は一昨日来忘れることができずにいた。
「パードレ…」と呼ぶ低い声をあの瞬間聞いた。自身にも加えられるか知れぬ恥辱を恐れてヨワンがう
めいたのでない、先達(せんだつ)の痛苦を歎(なげ)いたものと、彼は理解した。痛ましかった。
キアラを転ばせた決め手は、背筋が切れ上がって刃渡りに似た木馬(きんま)に跨らせたらしい。穴吊りや火焙
りとちがい加わる苦痛のみ大きく、死なせはしない。
木馬(きんま)責めは奉行井上清兵衛が得意の折檻(せつかん)で、キアラと同時に九州で捕えられた神父ペドロ・マルケス
以下総勢が、江戸に送りこまれて早や数日のうちに、一人残らずこの責め道具のまえに転んだ。ひとた
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まりも無かったという。
それでもイルマン(修道者)のアロンゾ・アロヨのように、その後女色を強いられても諾(き)かず、食を
減じて死を迎えた者もいた。また寿庵(ジユアン)と呼ばれた広東(カントン)生れの男も、貞享三年(一六八六)頃思い新たに
再度「立ち上が」り、とうとう地下の詰牢(つめろう)に移されてからも七年間デウスの信仰を守って、骨と皮で元
禄十一年(一六九八)まで生き抜いたという。
ヨゼフ・キアラはそんな中で晩年は破格に優遇された。切支丹宣教の内情・方法などを何通か書付に
して差出してもいた。だが、よくよく読めばそれも、どこか、切支丹の教えの邪教ではない内意を、微
妙に、ヨゼフ・キアラは筆にしつづけていた…のかも知れぬ。此度(こたび)の特にローマ僧吟味役を仰せ付けら
れた彼は、ふと、それを思っていた。
「……悪いことを、先に聞かせてしもうた」
彼の胸にも湧いた同じことを脇の奉行の一人がつい、あの時、つぶやいた。白州に設けた腰掛で身動(みじろ)
ぎもせず顔を伏せる大男のヨワンに視線を集めたまま、一昨日初度の尋問は、事の初めから暫時一座が
声を喪(うしな)った。
「ソノ……オカモトサン…、ドイウナマエカ…デスカ」
これほども聞き易くなかったが、涙の顔を動かし、袖細の紬(つむぎ)を着たヨワンは、動揺を押し殺した低声(こごえ)
で訊いた。ややうしろにやはり腰かけていた与力の侍が、今すこしはきはき言うようとっさに声をかけ
たが、通詞が仲立ちするまでもなく誰も聞き取っていた。そして□が利けなかった。奉行の一人柳沢八
郎左衛門が、ちらと吟味役の彼へ視線を送ってきた。
「聞かぬ方がよいぞ、過ぎたことだ…」と、彼は吟味の座にでて初めて直接ヨワンに声をかけた。ヨワ
ンは、だが、はげしく首をふった。
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彼があらかじめ調べ読んできた奉行所の記録には、こうあった。
「右のキアラを岡本三右衛門と呼んだのは、当時御徒(おかち)の侍に如何(いかが)なお咎めからか仕置(しおき)された岡本三右衛
門という者があり、御上意によりその姓名また刀脇差などキアラヘ下げ置かれ、妻帯も命じられ、召使
いに夫婦者の長助とはる(2字に、傍点)まで付けられたもの。女は伊豆三崎の生れ。御仕置を受けた岡本の妻女」と。
キアラは生前、毎年銀一貫目捨人扶持(ふち)をさえ与えられた。仏門の戒名もついて無量院の墓地に葬られ
たあとも、後家はなお小日向の牢屋敷に止め置かれて八人扶持、同様長助に三人、はる(2字に、傍点)にも二人扶持が
支給され続けた。
但しコワンに今それを聞かせて、どうなる訳もない。
二人の宗門奉行をさしおき、吟味の座に正面を占めていた彼は、峠(かみしも)姿の膝に手をそえたなり、異国
の僧のやつれ窪んだ眼窩(がんか)を黙然(もくねん)と覗きかえした。ヨワンの方も青ざめていささか睨む気味に彼を見てい
た。「キリシト」とやらを真似て、クルス(十字架)の上で死にたいばかりに、このヨワンは、はるば
る日本まで来たのか。それとも何かしら生き抜く分別を携えて来たのか。彼は聞き及んだ切支丹最期の
さまざまを、法華や一向(いつこう)の信徒にもある、わるく依沽地(いこじ)なものと想像しないでもなかった。
そんな彼の問いかけを読みとったように、ローマ僧は握った手で頬の涙をざっと拭うと、落着いた手
つきで額と胸の上とを数ヶ処おさえ、毅(つよ)い姿勢で腰掛に坐り直した。
言葉も通わぬこの男と、どんな対話が可能か……。
去年の八月廿九日、屋久島恋泊(こいどまり)村に忍んで上陸していた侍姿のこの異国人を最初に取調べた島役人に、
コワンは「絵図のようなものを一枚」描いていちいち指さし、「ろうま、なんばん、ろくそん、かすて
いら、きりしたん」などと片言で告げていた。ことに「ろうま」と指さしては自身にも指を立てて繰返
し、また「日本ゑど、ながさき」とも口にしていたと報告されている。この者は首に三、四寸ほどの金
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属製のなにかを吊っており、「その図」と、「文字とも呪文とも知れませぬ物を一枚当人が書いた」の
とが有るらしい。が、なにぶん「遠海」でのこと、事情が分り次第追って報せる、と、九月十三日に次
ぐ廿七日付の薩摩の第二報が長崎奉行の永井讃岐守、別所播磨守宛て送られていた。島の百姓や漁師の
□書きや覚えも添えられていた。しかし、やがて十月、江戸城西の丸で間部(まなべ)の部屋へ招じ入れられて初
めて彼が異国人潜入の話を聞いた時は、まだ、ヨワンの名もローマ人ということも知れていなかった。
師走六日になって、将軍家宣の風邪の見舞いに出仕すると間近に呼ばれ、熱の下(お)りない主君の側でま
た詮房の□から、例の異国人のことを大分くわしく聞いた。長崎からは前便を追って十一月十二日付(づけ)そ
の後の取調べで知りえた点を、幕府へ逐条報告して来ており、ローマ国から布教を目的に訪れた「切支
丹宗門の出家」に相違ないと、もう名前も、知れていた。
このローマ人は、「阿蘭陀(オランダ)人をことに嫌って」会おうとせず、またなにぶん健康もかなり損じている
上にいっこう通詞の者とも意思が通じかねる。それで「急には委細を」聴き取れずにいるが、通詞も
種々工夫し、オランダ人ともよく相談しているから、追々に「委曲」を尽せると思う。長崎からは、そ
うも言い寄越していた。一年前のことだ。
「シナや高砂(タイワン)の船乗りに訊いてもらちがあかぬらしいのです」と側用人(そばようにん)の間部は、主君の
学問の師である彼に場所柄敬意を払った物言いで、この件で、もし申上げることがあればご遠慮なくと、
穏やかに勧めてくれた。
二
今年、宝永六年(一七〇九)十一月霜月の九日、彼は本丸御座(ぎよざ)の間(ま)三の間に呼びだされ、側用人間部(まなべ)
78
越前守詮房(あきふさ)から、正式に長崎ならびに異国人御用を言い渡された。将軍家宣(いえのぶ)直々(じきじき)の意向であった。
長崎からの「ローマ僧」は道中つつがなく今月朔日(ついたち)に小日向台(こひなただい)の切支丹牢屋敷に入っていた。
会うてみたいかと問われて「はい」と答えた、あれは去年──十月初めであった。あの時はそんな異
国の僧侶と会い、話が聞けようとは思われなかった。それで、つい笑えてしまった。それが、やがて師
走になって、風邪──今おもえば前将軍家はじめたくさんな人の寿命を縮めたいやな麻疹(はしか)に悩んで
いる主君を西の丸に見舞ったおり、越前守同座で、また「伝道士」処置が話しあわれた。彼も率直に考
えたままを話した。
長崎奉行所からはあの前月、十一月十二日付で囚人が健康を損じている、邪宗門の者には相違ないと
また報告が届いていたが、相変らず言語不通に困っており、それでも月末には十数条の「□書(くちがき)」つまり
異人供述書や所持品のこまかな目録がまとまっていたらしい。が、師走初めにはまだ本丸老中の手元へ
も届いていなかった。
西の丸で去年師走に入ってもっぱら話題にされたのは、なにぶんにも通じないという「言葉」のこと
であった。オランダ人を仲に立ててというと、ひどく囚人が嫌う。それを押して奉行所は出島のカピタ
ンらにも物蔭で聞き取らせたが、ローマ僧の喋る、半分も理解できなかったと報じてきていた。
「たとえばどのような事でございましょう」と、彼は間部詮房のほうへ尋ねた。
「たとえばその男は、紙におおまかにいくつか大きな丸を描いて、世界の絵図のつもりらしく、指をさ
してローマ、ナンバン、ロクソン、カステイラ、キリシタンなどと話すらしいのです。とくにローマと
言うときは、何度も自身を指さしてみせる。オランダ人も、ローマが天主教化の主(あるじ)の住む国とは知って
います。清(シン)国の船頭らもキリシタンが邪教の呼び名とは分ります。だが、両方ともロクソンやカスティ
ラは分らぬ知らぬと首を傾(かし)げる……」
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「それは…、ロクソンは、ルソンのことではないでしょうか。それなら茶坊主が葉茶を蓄えるといって
は、珍重しています例の呂宋真壷(ルソンまつぼ)というのがございます。ルソンなら女子供でも耳馴れた名前、長崎の
者に察しがつかぬとは……話がおかしい。ましてカステイラはローマやイターリアに間近い国の名と聞
いております。昔、その国で作り出した菓子が、わが国でも、なかなか好まれたはずです、今もござい
ます。長崎でカステイラを知らない…とは。わけ有りげでございますな」
家宣も詮房も頷いていた。
「言葉とは、西洋の者同士でもそれほど通じないものだろうか」
家宣は病気で不自然に赤らんでいる思案顔を、脇息(きようそく)にもたれない正しい姿勢で、彼に向けた。彼を学
問の師と迎え、ものを訊くときは、いつもそのように家宣は弟子としての礼を忘れない。
「さ、それはいかがなものでしょうか。……すべて言語には古語があり現在の語がございます。古代今
代(きんだい)の語がそれぞれまた、東西南北中央つごう五方の方言を生じております。方言は、またそれぞれに雅(が)
な言葉と俗な言葉を抱えます。さらには商人には商人の、僧侶には僧侶の物言いがございましょう。こ
の道理は日本に限ったこととは思われません。
それにもかかわらず南蛮紅毛の者は世界中の言葉によく通じています。昔わが国へ切支丹の教えを持
ち込みました時にも、日本の言葉をそれは早く覚えて、信徒をふやしたと聞いております。その理由な
ど深く考える必要がございましょうが、ともかく西洋にも日本語の知識が皆無なはずはなく、はるばる
教えを説こうと志して参りました今度の者も、それなりに日本の言葉は学んで来ておるに相違ございま
せん。
が、言語は今申すようにさまざま。彼(か)の者がいつの、どこの、どんな者の用いた日本語を習って来ま
したか、いずれ長崎の者の耳には疎(うと)い百年も二百年もの昔言葉か、ルソンの漂流者に聞いた漁師や水夫(かこ)
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のなまりのキツい言葉かと察しられます。ルソンに多いという、上方(かみがた)者の言葉かも……。しかし、それ
ならそれで、結局はどうかして話の通じる道は見つかる道理でございましょう。
オランダ人がローマ人の言葉を知らぬといい、ローマ人がオランダ人を嫌うらしいと申します。むし
ろ切支丹の南蛮と商人の紅毛との、その双方確執に何が隠されておりますか。そこを絵解きするのが西
洋の事情を察する要点と、わたくしは、今しがた、ふと思いついたところでございます……」
彼はあの時、事実そう思った。
なぜ、今のオランダ(以前にはイギリスも)が、それより以前日本と盛んに交易していたポルトガル
やイスパーニアから、入れ替ったか。
オランダは切支丹でなく切支丹禁制に触れないのでと承知してきたが、それが怪しい。オランダもロ
ーマ人とその実同じ神を信じており、ただ法華と念仏とが仲がわるいように宗旨の上で確執があるだけ
ではないのか。それでオランダは交易の利に徹して表むき切支丹でないふりを日本ではしている…とも
いう、それがどうも真実らしい。その証拠にオランダ船は長崎港に入る直前、宗門の道具類を船底に隠
すか海に捨てるとみえ、海辺によく流れ寄るという噂もある。
「ま。それを言うては、長崎が、諸事立ち行かぬことになる……」
詮房は軽く笑って話を切りあげにかかった。が、家宣の方から、
「その、長崎のことだが」と、眉をひそめた。
「いえ。それはまた、いずれのお話と致しましょう」と、間部詮房は、主君の容体を先に考えた──。
喜多流能役者の子から甲府の綱豊(のちに家宣)のまず小姓(こしよう)に引立てられ、衆に秀でた才覚と篤実と
で今は上州高崎五万石の大名に身を起しているこの御用人(そぱようにん)は、あの時、さりげない目遣(めづか)いで彼に退出し
てよい刻限であると知らせた。
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あれから年明けて──十日に五代将軍綱吉が薨じ、次の日夕方には前年十月二十日このかたという針
のような奇妙な雨が久しぶりに降って、宵にやんだ。次の日の夕方にも降りだし追々に雨音しげく、翌(あく)
る暁方(あけがた)になってやんだ。急遽将軍家を襲(つ)ぐ主君のため、当面御政道の急三ヶ条ほか相次ぎ雨夜を冒(おか)して
彼は意見書を、詮房の手もとへ、提出していた。長崎西坂の牢に禁獄中のローマ僧についても、従前の
法にまかせた粗相な死罪が行われませぬようにと、心して筆を用いた。
初改革(あらた)まり、前代に鋳造をはじめ品質粗悪のため諸式高を煽(あお)っていた、十文相当の大銭が、先ず廃(や)め
られた。前将軍葬儀の二日前には、衆諸が悩みの、久しい生類憐みの令も解かれた。彼の献策は次々容
れられ、二月早々、幕府財政の打開策をめぐり勘定奉行荻原重秀の貨幣政策と真向対決の場にまで、彼
は、身を乗りだすことになっていた。
幕閣にあっても、彼は、もはや一儒者でなかった。将軍家のただ侍講とは見做(みな)すことができず、見識
は林大学頭(だいがくのかみ)を凌(しの)ぎ、大樹側近には鬼の新井勘解由(かげゆ)ありと恐れられた。しかも家宣と彼とが願い詮房が推
し進めたい政治とは、すなわち、仁政であった。その実現に必要な「礼楽」を、つまり制度文物を、よ
り正しく調えることであった。
家宣が綱豊の前名で世嗣として西の丸入りした当日にも、また病気で欠勤のまま綱吉の死を聞いた当
夜にも、彼は「民の父母(ぶも)であられますよう」と、書状をはせて主君に説いた。愬(うつた)えた。進講と建言とは、
彼が新将軍にささげる無垢の献身であった。家宣も実によく聴いた。
なかでも緊急の要は貨幣の価値と信用との回復であった。巷には粗悪な金貨や銅銭が不評を買い、物
価は高く武士の暮しはひときわ苦しかった。そして金、銀、銅の莫大な長崎から国外への、流出。幾ら
かの誤差ありとせよ、彼自身の調べでは、過去六十年間に長崎から都合金八百二十万両もが海外へ持ち
出されていた──。「その、長崎のことだが」と、麻疹の熱を憂えながら家宣がものを問いたそうだっ
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たのは、それもこれも、結局、金銀また銅の不足と貨幣品位の劣化とをどうするかが、頭から離れなか
ったのであろう。
金貨銀貨の品位を慶長の昔の純度に返したいと彼は考えていた。人こぞって金は、銀は、ひいては貨
幣とは貴いものと信のおける世の中でなくてはならぬ。それが将軍家宣と彼との理想であった。ただし、
成算には遠い信条でもあった。
今年、宝永六年の四月以降、彼は詮房を介して何度も長崎交易への対策を請われた。交易の高を、ま
ず制限するしかない。どう調べてみてもオランダより清国との方が、交易の量も、問題も、多い。清に
は年に三十艘、銀高にして六千貫目、オランダには二艘で三千貫目に抑え、それを越えないようにした
いのだが、実施は容易でなかった。
清や朝鮮や琉球との、むろんオランダとの国交にも、従来の考え方や今後実際の応対・待遇などで奢
りに過ぎぬよう、また侮りを受けぬよう、手直しの必要な沢山な問題点にも彼は気づいていた。日一日、
頭の中に新政策を崩しては積みまた積み、政治の日程に着々のせて行くことを思いながら、彼は、日本
の「外」に広大な世界がある。その明るいとも昏いとも捉えどころのない影の、遠くひろがり広がるさ
まを想うようになっていた。そしてそのつど、前将軍の大喪やまた大赦の実施の煽りから、長崎に未決
のままのローマ人のことを、ちら、ちらと思い出した。
彼(あ)の者を江戸へ呼んで吟味をなされてはどうかと、長崎表の事に添え、そんな彼一人の願いらしきも
のをはじめて間部越前に内々差出してみたのは、この晩春、四月二十八日であった。
「おもしろい」
それが、その日のうちに城中で聞いた、詮房の返事であった。
五月一日、将軍宣下(せんげ)の儀式を、彼は特にゆるされて見た。重ねての大赦があり、長崎奉行所は「ヨワ
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ン・シドゥティ」の処置について江戸の指令を求めてきたらしいが、彼は与(あずか)り知らなかった。進講も休
みなく、建議と、それに伴う著述の数も今年は格別多かった。神祖法意解、大赦考、本朝軍器考、本朝
宝貨通用事略、また京都将軍宣下(せんげ)次第とか十■香(じつしゆこう)の銘考とか。さらに朝鮮聘使(へいし)之事者とか。
そして七月六日には新たに二百石加増、扶持(ふち)を知行(ちぎよう)に改められて彼は都合五百石の領地持ちとなった。
知行村は武蔵国比企郡奈良梨村、越畑村と、同埼玉郡野牛村の内の三所であった。
やがて、あれは八月五日であった、八ツ過(午後三時頃)に御城に入るとすぐ、越前守の手から、例
により曳斗縮(のしちぢみ)で梶色と花色との御帷子(おかたびら)二領を頂戴した。
「で、それはそうと……」と、詮房が顔を見る。話有りげであった。そういう時は、黙って待つ。二人
に遠慮してか他の側衆は遠のき気味にいた。
詮房はなにげないふうに、御小座敷のほうで聞える謡が、「井筒」らしい、お優しいなどとつぶやい
た。それからふっと彼をうながすと、浅い苔や白砂(はくさ)に亭々と影を横たえた老松(ろうしよう)と、衰えぬ枝ぶりの梅の
古木(こぼく)とをさながら翁媼(おうおん)然と配した広い中庭の入側(いりがわ)、畳廊下を、ゆっくり南座敷の方へ誘って行く。
右に、うち続いて柾目(まさめ)美しい縦羽目の杉板。それへ、四季の柳で知られた醍醐寺三宝院の書院画に倣
って向うを張った、という一面の笹が雪を見ばえに、季を追うてそよぐように描いてある。いささか舞
台の橋懸りに立つ気もしながら、彼は黙然と詮房の後についた。
「いや粗忽な立ち話はご無礼ですまないのですが……ま、密事御内意ということで、お許し願う」
詮房は穏やかな声音をそのままに、立ちどまりもしなかった。
「御内意」はとりまぜて軽重(けいちょう)有ったが、なかに、長崎のローマ人僧侶を江戸に呼びよせた場合に、相当
の吟味が行届くかどうか、勘解由(かげゆ)が、つまり彼が自身任に当れるかどうかという一条もあった。御国
法・御禁制を盾に、新幕閣の邪宗門対処を遠見にうかがおうという空気も、公儀儒官の林家(りんけ)筋などには
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ちらついている。
詮房はなにも案じていない風(ふう)つきで、分りきった彼の返事をただ軽く促すという顔であった。将軍家
御側用人の詮房にすれば当面の些事(さじ)に類した問題であり、むしろこのところずいぶんお役に立ち、こと
に懇意な今は相談相手として万般欠かせないこの勘解由(かげゆ)こと新井君美(きんみ)に対し、その測り知れない知的好
奇心に対して、稀有(けう)の機会をいっそ提供してやりたい気でいた。
「長崎へは、そのように追而書(おつてがき)でなりと伝えておく」
間部越前は最初にそれだけ言うと、目にかすかに笑みを光らせ、一度二度額いた。
むろん「密事」の眼目は関連して長崎表の、なにより銅が払底(ふつてい)の対策であった。清(シン)との交易には主に
我が国からは銅貨で支払ってきたが、この四十五年間に実に十一億一千四百五十万斤(きん)ちかい銅が支出さ
れている。早くから長崎の者にかぎって、少々の私貿易ということも許され暮しに織りこまれてきた、
のに、支払おう銅が今では足りない。無い。
「簡単に議論してすむ御用むきでないのは、先々も申上げた通りです。無際限に、ただ外国の品を買う
ばかりでもいけなかったはずです。根は、金銀を悪く悪く吹替えつづけた近江守殿(勘定奉行荻原重
秀)の積年の無策にあるのです。長崎でも心痛のことでしょう、さぞ奉行所、会所でも思案を重ねてお
いでと思います」
「その通り。いろいろに報告も具申もある…が」
「差支えのない限り…ということですが、先の異国人の件ともども、それらの関係文書も拝借できまし
ょうか」
「よろしいとも。必ず、はからいます」と、間部詮房(まなべあきふさ)。
そしていずれ日程に上ってくる朝鮮聘使(へいし)の時の事なども、原則を二、三話しあった。越前守詮房は、
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自分ら側衆はみな不学無術の者ばかり、頼りはあなただけです、「よろしく頼む」という、もう決り文
句を、わざとらしくなく上手にまた□にした。
去る八月十一日の御急報は拝見しました。
異国人を江戸へ遣(や)りますにつき、阿蘭陀(オランダ)通詞を三人ほども添えてはと申上げた件、二人でとの御意
向も承りました。もちろん二人では他に差支えるという事もありませんが、ただし今度の道中は昼夜
に付添って交替し、寝ずの番にも当らせる必要があります。もし長途の間に万一一人に事故あれば、
残る一人で昼夜を通すというわけに行きません。稽古通詞の内に、以来よほど囚人の言語も馴れ覚え
た者がおりますので、やはり通詞の人数は大通詞一人に稽古通詞二人で江戸へ遣りたいと、担当の者
からも申出ています。その件は井上河内守殿とも折合いが付いています。取りあえず。
九月六日 長崎
駒木根肥後
佐久間安芸
永井讃岐守殿
別所播磨守殿
追而(おって)申上げます。異国人は当月廿五日を以て長崎を出発させます。この事は宗門奉行衆に書状で
報告しましたが、その他の詳細は、在府の貴方(長崎奉行)からも御伝達願います。以上。
そんな、現住の長崎奉行連名の書面が、彼の手へも回覧されたのは、いよいよローマ人が長崎を出立
したという日の、一日二日あとであった。
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江戸へと聞いた囚人がたいそう悦んでいるという話も、口頭で、重職の井上河内と城中で顔があった
際に聞いた。その井上から彼は、もと切支丹牢の住人で岡本三右衛門といった転び伴天連(バテレン)の、『筆記』
と呼んでいる書き物が奉行所にある、切支丹奉行横田、柳沢両人には耳打ちをしておいたから、読んで
おかれるといいと助言された。
手に入れてみるとたしかに岡本の『筆記』は、一読の値打ちがあった。ついでに読んだ不干(ふかん)ハビアン
なる転び切支丹の『破堤宇子(はデウス)』はともかく、そのハビアンを相手どっての儒者道春、即ち神君家康公に
信任せられた林羅山の『排耶蘇』などは、ごく不出来であった。
羅山林道春は当時の碩学ではあった。が、地球の丸いことをさえ未だ心得ておらず、耶蘇会士との問
答で円形の地球図を見せられても「その惑ひ、あに悲しからずや」とあざ笑い、地球に「南北あり東西
なし」「東極これ西、西極これ東。ここを以て地の円なるを知る」とする棄教前の不干斎ハビアンに対
し、「すでにこれ南北あらば、何ぞ東西なからんや」とし、ただただ「咲(わら)ふべし」と言い放つのみであ
った。
明(ミン)国の鍾始声(シヨウシセイ)が書いた『闢邪集(ヘきじやしゆう)』も、切支丹宗門を破(は)する論説として、いささか啓発されながら読ん
ではみた。しかし、ことさらな力こぶが入っていて、説得されなかった。
それらに比べて「伴天連(バテレン)」三右衛門こと「南蛮シヽりアノ内ハレルモーの者」が書き置いた筆記は、
片言めいて分りづらいなりに、声音静かに、こまごまと、かつ記述も詳しかった。
日本へは伝道を目的に、耶蘇会はじめ四派が渡って来ていたという。「出家之位」には「世界ニ御一
人(ごいちにん)」の「パッパ(教皇)」以下順々に挙げ、「パアテレ(司祭)」「イルマン(修道者)」もあり、
「パアテレ」を頼みに、信者が日頃の科(とが)の軽重を懺悔することを「コヒサン」というとも、それは宗門
にとって、はなはだ大事の秘蹟とも、してあった。
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またパアテレやイルマンらが修めねばならぬ学問としては、「レトリカ(修辞学)」「ロジカ(論理
学)」「マタマチカ(数学)」など各科があって、例えば「マタマチカ」とは「天文ノ学文」としてあ
った。彼は、思わず天を仰ぎ見た。
「デウス」が定めたという「御掟」が、十則あった。
第一 御一体ノ「デウス」ヲ万事ニ御恵(すぐれ)テ御大切ニ存ジ敬ヒ尊ミ奉ル事
第二 「デウス」ノ尊キ御名ニ掛(かけ)テ空(むなし)キ誓ヒスベカラズ候事
第三 (天主や諸聖人の)御祝日ヲ守ルベキ事
第四 父母二孝行スベシ
第五 人ヲコロスベカラズ
第六 他犯(たほん)スベカラズ
第七 偸盗(ちゆうとう)スベカラズ
第八 人ヲ讒言(ざんげん)スベカラズ
第九 他(ひと)ノ妻ヲ恋スベカラズ
第十 他ノ者ヲ猥(みだり)に望ムベカラズ
そして右十ヶ条は、要は次の二ヶ条に約(づつ)めうるとしてあった。
一ニハ、御一体ノ「デウス」ヲ、万事ニコエテ御大切二奉存(ぞんじたてまつる)事。
二ニハ、我身ノゴトクニ他人ヲ思フ事是ナリ。
彼はその時思っていた、尊敬してやまぬ宋の張横渠(チョウオウキョ)が、名高い『西銘』の中で「民胞物与」(民ハワ
ガ同胞、物ハワガ朋友)と語っていたのを。ただ儒に説く愛は、主君に、肉親に、世人に、しかるべく
等差というものを与える。「我身ノゴトクニ」全ての「他人ヲ思フ」ような普遍の愛に馴染んでいない。
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「隣は何をする人ぞ……」と、彼はふッと思いがけぬ言葉をまた呑みこんで、かすかに首を振った。
興味と、また技癢(ぎよう)とを覚えたのは、三右衛門の修めてきた「品々(しなじな)の学文(がくもん)」が、二十ほどあげてある箇
条であった。
まず読書の学とあるのは分る。次に「惣別ノ学文二当ルラテンノ学」が、殊に大事とみえた。ラテン
語をよく覚えると「諸学、ケイコ仕易(しやす)ク侯」と三右衛門は書いている。だが南蛮人でも十二、三年習わ
ないと習熟しないという。漢文を読み漢文で書くのが日本では学問とされている、そのようなものか。
そうとも限らない。
自分の場合、漢字は用いているが中華の言葉としては話せないし読み下せない。まして異国のそんな
難儀な言葉を自在に話すために、「ガラマチカ(Garammatica)」だの「ウマニダテ(Humanidate)」
「レトリカ(Rhetorica)」だのを、とくべつ習わないでも済んでいる。
「レトリカ」の説明に、「此(この)学仕(し)候ヘバ理非ヲ能(よ)ク弁(わきま)へ、弁舌モ達シ、能キ談義者ニ成(なり)申侯」という一
節があったが、宗門の説法上達を願って学ぶものか。さりとて町人や職人の耳にもたやすくその言葉が
入るのか。ラテン語とはオランダ人やイターリア人にとって、「ラテン」という一異国の国語なのか、
しかし…と、彼には、なかなか想像もしかねた。
「ヒロソヒヤ(Philosophia)」は万物の理を明らめ知恵を磨く学としてある。「ラウヂカ(Logica)」は
問答の学、「テオロジァ(Theologia)」は「デウス」についての学、いずれも四年かけて学ぶという。
これは何年かけるものか、「カススコンシュヱンチヤ(Casus
Conscienciae)」を三右衛門は、「後生ニ
対シ、トガヲ糾(ただ)ス学ニテ御座候」としているのだが、以下の説明文には失笑した。
たとえば金一両の利息に銀一匁を取ると貸主が言う。それは過分ゆえ七分か八分にせよと諭(さと)してやる、
そんな学問だという。また盗みにたとえると日本で銀一匁も盗めば罪は重い。南蛮では銀二匁盗んでも
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軽い。それと謂うのも、日本だと銀一匁で一日暮すのに南蛮では一日暮すのに銀が三匁要る。当然日本
の一匁を盗むのは重く、後生(ごしよう)にも障る。そんなふうに説明されていて、パッパとパアテレとに限らずこ
ういう学問を卒(お)えた出家だけが、人の犯す「心」の罪の重いと軽いとを、よく諭し、裁くのだという。
別に国法により公事(くじ)の沙汰を裁判するには「レイカノネス(Leicanones)」というのがあげてあり、
更に、医道の学、外科の学、算勘の学、天文の学、星の学、易の学、歌学、どうやら航海達者といった
学、他に「世界ノ図ヲ書ク学」も「面相ヲ見テ其者ノ性ヲ知ル学」もあった。が、三右衛門は、「レイ
カノネス」以下は自分は学問していないと末尾に書き加えていた。
筆法の学というのもあった。手蹟、つまり習字書法をやはり西洋の者でも学ぶのであろうかと彼は想
った。
むかし……、もう秋過ぎる頃であった、「日中に行書・草書の字三千、夜分には一千字を書いて見せ
よ」と、可愛がって下さった土屋の殿(利直。上総久留里(かずさくるり)二万石、従(じゆう)五位下(いのげ)民部少輔(みんぷのしよう))のお言付けで、
大奮発したことがある。綴りを正しく覚える、それは必要にしても、その上に字を上手に書くという、
あんなことが、あんなくねった文字の西洋人にも必要なのだろうか。用いる字数も漢字を千も万も覚え
るのとは格別寡(すくな)くてすむらしく、いろいろ思えば、シナや日本の方が必ずしもすぐれているとばかりは
一言えない……。
手習いの、日課を終えぬうちに日暮れに追われた。夜は夜で眠気に襲われた。桶の水を一度浴び二度
浴びてやっと日に四千字を書いたものだ、九歳であった。
──あのローマ人が、九つほどの歳の時にはどんな学問を習っていただろう、それも審問のさいには
訊ねたい。誰が教え、どのような者の子弟がもっぱら西洋では学問をするのか。あの見るから手の大き
なハレルモー生れの男は、切支丹の「パアテレ」になりローマの王の使節にもなる今日まで、どれほど
90
の西洋の学芸を我がものにしてきたか。三右衛門が列挙したほどの科目は、みな習い覚えているのであ
ろうか。
彼はつと、坐ったまま手を書院の裾に積んだ書き物の山に触れた。そして自身筆写した『岡本三右衛
門筆記』の分厚い中から、栞(しおり)をはさんだ場所を開けて、また読んだ。
「天ニマシマス我等ガ御(おん)親、御(おん)名タツトマレ給へ。御(おん)代キタリ絵へ。天ニ於テ思召侭(おぼしめすまま)ナル如ク、地二於
テモアラセ絵へ。我等ガ日々ノ御養ナヒヲ、今日我等ニアタヘ給へ。我等人ニユルシ申ス如ク、我等ガ
科(とが)ヲユルシタマヘ。」
何時(いつ)であっても「存ジ出(いで)シ次第ニ」これを誦(とな)え申し「候へ」と、転んだはずの三右衛門が、何らため
らいの無い語気を残している。これはこれで、教主に祷(いの)る詞として彼は頷けた。陀羅尼なんぞより、言
うことははっきりしている。が、次の、「──サンタマリアへ対シ読ミ申侯」とある誦(とな)え言(ごと)が、彼は、
気になった。この前はなんとも感じていなかった。それなのに一昨日改(あらため)屋敷に入ったその場から、あ
れ(2字に、傍点)を見てしまったあの時から、胸騒ぎがするほど、気に懸ってならない──ので、あった。
三
この「オラッショ」は「サンタマリア」に捧げる詞だと岡本三右衛門は書いていた。いや正しくは三
右衛門がそう語ったのを、誰かが「筆記」していたのかも知れぬが。
「ガラサ」ミチミチ給フ「マリア」ニ御礼(おんいや)ヲナシ奉ツル、御主(おんしゆ)ハ御身ト共ニマシマス、女人ノ中ニ於
テワキテ御果報、又御胎内ノ御身ニテマシマス「デウス」ノ御母「サンタマリア」、今シ我等ガサイ
91
ゴニモ我等悪人ノ為ニ頼ミタマヘ。
分り…にくい…。
「ガラサ」がまず、彼には分らない。「オラッショ」とは祈祷のための祭文(さいもん)のようなものか、「サン
タ」は南無と念じるのに近かろう。そして臨終の安心を「マリア」から、「デウス」なり「御主」にな
り、よくとりなして呉れと願うのであるらしい。しかしデウスと母マリアと御主との関係が、筆記の他
の箇所を何度併せ読んでみても、よく掴めない。
諸善の源、万事に意のままの御尊体ゆえ、未来永劫のことも目のあたり今にお見通しという「テウ
ス」が、つまり天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ふうの天主・創造主、三右衛門が三つの「ペルソウナ」と挙げたなかの
「御親」なのであるらしい。
ところがこの筆記より「千六百五十八年」まえ、「ジュテア」というはるか西の国の「ナザレテ」の
町に、「一生不犯(ふぼん)ノ女人スグレタル御善徳」のマリアが暮していて、その胎(はら)に神通(じんづう)の「御奇徳ヲ以テ」
未通女(おとめ)のまま妊(みごも)ったという「ゼズウス」なる「ヒイリヨ(御子)」も、また「デウス」と呼ばれている
のは、間違っていないのか。ありえぬ処女懐胎をありうべく働きかけたと見える「イヒトリサン」もし
くは「ズヒリッサント」というものが、ある。精気とか精霊めく不思議をなして、やはり「デウス」と
呼ばれているが、それも、それで正しいのか……。
察するところ三右衛門の筆は、しきりに「父と子」が一体であり、加えて神妙の「霊」の働きがまた
「父と子」に一つに融(と)け合うている、という趣旨を表わそうとするらしい。三つの「ペルソウナ」とは、
主である父神と御子(みこ)神と、そのいわば神霊とがつまり三位(さんみ)一体で在る、そういう不思議を説く教義なの
であろう…か、と、その辺りまでは繰返し読みふけって、彼にも、なんとなしに推理できた。
92
それでも、まだ分らない。
「サンタマリア」とは、「ゼズウス」を産むため「デウス」にただ胎(はら)を貸した人間の女なのか。釈尊を
産んだ麻耶夫人のような人か。それとも巫女(みこ)のような女であるのか。違うのか。あるいは神の妻として
神にならび立ち、あまねく信徒に礼拝される、いわば天照女神(あまてらすめがみ)にも等しい大母神(おおみおやがみ)なのであるか──。
己(おの)が想像にたじろぎつつ、──「ガラサ」充ち満ちたまふ「マリア」とは、男の精気を、「イヒトリ
サン」を、身いっぱい浴びた女体の歓喜や恍惚のようなことを謂うかと、彼は直感した。思案した。
岡本三右衛門こと転び伴天連のキアラによれば、「ゼズウス」は三十三歳の時「ジュテア」の国「ゼ
ルサレン」という都の町はずれ、「カルワリョ」の丘で「クルス」つまり十字架に掛けられた。「サン
タマリア」はその後も六十三歳まで生きて、生涯に、五つの「至極ノヨロコビ」と五つの「至極ノカナ
シミ」と五つの「至極ノタノシミ」とを重ね、現身(うつしみ)のまま天に召された。三五、十五の「至極」とやら
を記念して、宗門をあげて唱(とな)えよと教えた祭文(さいもん)か和讃かのようなものが、即ちこの、「ガラサ」充ち満
ちという「オラッショ」なのであろう……。
切支丹は、日本へ上陸してしばらくは「デウス」を大日如来にたとえていた。が、仏教とのまぎれを
警戒しはじめてからは、かえって日本の神や仏と「デウス」との相違点を強く主張する方針に替えたら
しい。八百万(やおよろず)の神々も無量数の仏たちも、所詮は人間が劫(こう)を経て成ったに過ぎない。しかし「デウス」
は万物の創造神として唯一絶対の存在である、と。
だが三右衛門の筆記を読むかぎり、「デウス」はなにやら威圧的であるのに反し、「ゼズウス」はな
にやら頼りなく、おのずと頭の下がる姿かたちとは、彼には目に見えてこなかった。
サンタマりアこの女だけが『筆記』のなかでも、喜び、悲しみ、楽しむことを知っていそうに想
われる。流す涙をもっている。だからか、切支丹信徒らはこの女人に甘えて、世にあまねく不思議にひ
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ろげた母の腕(かいな)の如きもの…を感じている……、彼は、そこに、好奇心、いや愕きを覚えていた。あれ(2字に、傍点)を
観て、そう、あれ(2字に、傍点)を観て彼はマリアが春の海の寄せては返すように、自分を、暖かい、だがいつか息づ
まる心地にさせているのを自覚していた──。
長崎の奉行所は、異国人が所持していた「大袋」の内容を一々絵入りで江戸へ申し送っていた。実物
より先に、彼もそれに目を通していた。あれ(2字に、傍点)のことは一等初めに、こう説明がしてあった。
「一、四角なビイドロの鏡のような物、壱つ。異国人に尋ねましたところサンタマリアと申しておりま
す。宗門の本尊であるかに申しております。」
実物は、襞(ひだ)の深い大きな頭巾、というよりも厚い被布(ひふ)で、背へ、両腕へ、上半身の全部へ横顔のほか
剰(あま)さず蔽い籠めて、女が、やや伏目に絵に描かれていた。絵は硝子入り、木の額縁に納まっていて、額(がく)
回り竪(たて)一尺、横八寸五分とも注記してあった。面長に、墨の線だけで描かれていた。細い眼が上がりぎ
みに、鼻は中高、まぶたを動かしてものを言うかのように、だが、ごく粗相に細い筆が走らせてあった。
絵ごころのある彼は、難なく「サンタマリア」とやらの顔を描き写して行きながら、よく見ると、組
んだ両手の、どうやら左のほんの指さき一つが着物の上へのぞいているのにも気がついた。異な心持ち
がした。
ヨワンの所持品は存外数多く報告されていて、添えた絵だけでは理解の及ばぬ品がいくつもあった。
マリアの次に「一、唐(から)かねで拵(こしら)えました人形、壱つ。これは袋共。異国人に尋ねましたところ、人形
はエソキリステと申して宗門の本尊です」とある絵など、裸の男が両手をひろげ、しかも仰向きざまま
るで宙に横たわっていた。頭には粟殻のような何かを冠っており、報告書はイバラの冠を被(き)せられた体(てい)
と説明していたが、腰へ布をぐるりと巻いただけの裸形(らぎよう)は、肘(ひじ)も、膝も、骨ばって見苦しい。
両足首が一本のかね(2字に、傍点)の上に釘づけにされ、高くあげた右手首も今一本のかね(2字に、傍点)に釘づけされていた。左
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腕はひょろりとかね(2字に、傍点)が外れて垂れていた。たぶん十字架(クルス)なのであろうが、堅(たて)木と横木が左右
に取り離れ、絵の描きようもあるが「宗門の本尊」とはあんまり片腹痛く、彼はただ必要のため、どれ
も無感動に描き写しただけであった。わずかに、「一、苧縄(おなわ)で拵(こしら)え金物(かなもの)がはめてある物、壱つ。異国人
に尋ねましたところ、デシビリイナと申すものです。悪念が起きた時、この縄で身を打ち痛めると申し
ております」と書き添えてある絵に、目が留まった。
五本の苧縄を手もとで一と握りに束ね、一本ごとに「所々結び目をつくり、また花びらのように角(かど)立
った鉄片がはめ」てあった。花よりは星に、星よりは尖った歯車に見えた。主君から日課と定められた
昼に三千字また晩に千字の習字も、なかなか書けるものではなくて、少年の日、竹箆(たけべら)が喰い入るほど股(もも)
や膝を打って打って睡魔を払い、果ては凍てつく夜空の下で水を浴びた思い出に、彼の心は、すこし萎(しお)
れた。父上も、…母上も、ご健在であった。美しい母上であった…。
彼が──一件書類を写して上の巻下の巻と綴じわけ、それに「長崎注進邏馬人事(ローマびとのこと)宝永五年」と表題
もつけた段階では、いやそれ以前、『三右衛門筆記』で切支丹の信仰がおよそ如何(いかが)なものかを窺った段
階では、あれ(2字に、傍点)を、まだ観てはいなかった。知らなかった。
──一昨日の午(ひる)すこし前、彼は飯田町の屋敷から二人の供をつれてじかに切支丹牢へ出むくと、すぐ、
尋問に先だって宗門改方(あらためかた)、切支丹奉行の横田備中守、柳沢八郎右衛門と人払いした一と間に入って、
例の「大袋」に詰っていたというローマ僧の所持品に、いちいち目を通した。彼が、すでに報告や□述
書を克明に写して持参しているのには、両奉行とも驚いていた。
そして、いきなり、あれ(2字に、傍点)と出逢った。いきなりであった。あれ(2字に、傍点)は、泣いて顔をそむけていた。
かろうじて、溜めた息を胸の底から彼は、気取られぬように、ゆっくり吐きだした。
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あんな…。見たことも、ない…。しかし一座の者は一と目で看て取った。横田がひとり声をもらすの
を聞きながら、反射的に彼は目をそらしていた。それは、…女一人を描いたその絵は、涯ないくらい海
を一気に呑みほしたかと思う、畏ろしい、内なる深みを湛えていた。底光りのしたくらやみを覗き、う
ら若い横顔をふっくらと伏せて。
「泣いていますね。この…女」
「さよう。涙のようです」と横田由松が無遠慮に指をふれるのを、自分でもおどろいたほど、彼はとっ
さに制した。
南蛮人がよく弄ぶ「カルタ」という紙に、気の強そうな女の頬のこけた顔が描いてある。一度ならず
自分は見たことがあるが、そういうのとこれは、ちがう顔ですと柳沢備後が□を入れた。二人には悲し
みのマリアの絵も、異様なただ一点の証拠品と眺められている様子であった。
前月の九日──であったと思う…、彼は、清(シン)の康煕(こうき)帝を経てきたという蘭亭帖を将軍家より拝領して
いた。千三百年も昔から、正羲之(おうぎし)の名筆を幾種にも伝え伝えてきた内の一帖であった。わけあって薜紹
彭(ヘキシヨウホウ)という男が原石から「流、湍、帯、左、右」の五文字をわざと欠き取ってしまった碑帖で、正倉院に
奈良朝伝来の同じ帖が、在れば有るか、どうか、という無類の品であった。彼は感激した。涙がでた。
とは言え、あの感激はいわば保証つきであった。だが今このサンタマリアとやらの絵から突きつけら
れた動揺は、けっして露わしなど、他人に露わしなど、してはならぬ。
絵の女、年のころもしかと思い及ばない。伏せた眉のしたから目もとへは濃(こま)やかにかげって見え、愁
いふかく涙ひかる横顔は、被布(かづき)のしたの額から鼻も、頬も、月光にぬれたように照っていた。「天狗」
と、長崎ではこれを見て怯(おび)えたらしい隆い鼻のみねは、まっすぐ伸び、ほの紅らんだ唇がつつましくと
じていた。
96
被衣(かづき)は目にしみる青い藍色をしていた。裏地だか下に重ねているのか、それが白かったか淡い赤であ
ったかはよく覚えない。ただ袖ぐちに──こうも細い、こうも華奢な形の爪をした指があろうかと思う、
何指かは知れない指さきが、ちいさく横にのぞいていた。
あのとき彼はやや邪樫に額(がく)の絵を片手でわきへ送った。観ていたのは短い時間であったと思う。見た
めより手に重く──とっさに、何故わざわざこれを日本へと疑った。見渡したところ「びいどろ」を被(き)
せ裂(きれ)も掛けたこの絵が一等嵩ばって、重くもあって、さらに緞子(どんす)の袋に入れてあった。
はたの見る目は知らず、あの、女は……美しかった。美しいから、愕いた、胸が騒いだという事実を、
彼は否定する気になれない。あの女には、あれで「宗門の本尊」といえる、なにか根拠が、儀軌のよう
なものが描きこまれているのか。
「サンタマリア」の次にみた、真裸の「エソキリステ」の人形には、いっこう心動かなかった。そのこ
とを今、もう一度考えていた。三右衛門が名は「ゼズウス」と語っていた、これが、父なる神の御子
「ヒイリヨ」なのか。マリアはみすぼらしいこんな裸の男を神の精をうけて産んだ、だから礼拝される
というのか。その子がむなしく礫(はりつけ)に遭うた悲しみに、ひたすら耐えたからか。
案をめぐらしている暇は、あの時、無かった。むしろ彼は時を惜しむ顔で次から次へ調べを進めた。
尖った「花」を幾つもつけた鋭い鞭が、事実幾度も使われてきたらしい手触りを、一瞬眼をとじて確か
めた以外は。
奉行も彼も今さらに驚いたのは、囚人が、潜入者が、寛永銭を七、八十も紐にさしていたのはともか
く、他に相当量の金を板や丸や小粒で所持し、中に「呂宋(ルソン)で求めた」という明らかな日本国通用の小粒、
それも新金を含んでいたこと。それと、白い布でこしらえた宗門の法衣の料が、紛れもないまだ古びぬ
奈良晒(ならさらし)で、朱い証印をさえ裏をめぐって見つけたことであった。
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奉行と申し合せて彼は、やがて長崎より派遣の通詞たちをその場へ呼び入れた。大通詞に昇進したば
かりの今村源左衛門および稽古通詞の品川、加福三人。
去る五年九月十三日以来この九月六日までに長崎奉行所より通報の仔細、また異国人□書(くちがき)に事実と相
違するところは無いかと、まず奉行の一人が確かめた。その後に、将軍家侍講の新井勘解由(かげゆ)殿が、此度(こたび)
の審問を、御下命により担当される旨、正式に通詞に対しても告げられた。型通りの挨拶がすぐすんだ。
「江戸へと、当人が望んだといいますが」と、彼はおだやかに□をきった。今村が答えた。
「その通りです。江戸で、上様にお目通りを願いたい。畏れながらご改宗もお勧めするやに申しており
ます」
「屋久島へは、本当に一人だけで上陸したのですか。他の浦島へ回った者はないか…」
「今日までに、その種の形跡は全くございません」
「ルソンに永くいたとか」
「そう申します。日本の漁師たちや、追放者の子孫が多人数で暮しているそうです」
ヨワンの健康状態を彼は尋ねた。
江戸へきて二十日余り、物にすがれば独り歩きに差支えないほど足腰の力は回復したし、給仕に人を
得て、食も自然にすすんでいるように見ていますがと返事があった。
「ところで…」と今村は言葉をついで、ヨワンは国外から所持した品々を、せめて書物など手もとに置
きたいと願いでていますが、これは拒絶しましたと、言う。牢の壁に十字に紙をきって飯粒で貼ったの
を拝んでいるのは、挑戦的な様子もないので一応黙認してあるが、「いかがなものでしょう」と今村は
頭をさげた。手の者には当面御徒士(おかち)を三名補充してあり、従来どおり田丸惣兵衛を筆頭与力に、監督に
当らせる。監視に手ぬかりは無いはずと、奉行も言葉をそえた。
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「どうでしたか。あなた方に説法をしかけるということは、ありませんか」
通詞は一様に否認した。
「で、言葉は。もうよほど通じるのですね」
これには、思わず今村以下は苦笑いした。
「そうとも申し上げかねます。実は」と大通詞は率直にまた頭を下げた。
「いやいや気にすることはない。無理を承知でしていることです。向うの言葉が仔細に解(げ)せなくても、
仕方がない。過去百年の切支丹御制禁は動かせない御定法(ごじようほう)でした。長崎通詞とて、南蛮の言葉をすすん
で広く学ぶのは許されていなかったこと。不勉強がとがめられる筋合いでなく、是非は、べつに考えて
然るべき機(とき)がある。有る、はずです。……但し当座の御用には察しがつく限りよく彼の言うことを察し、
我々にすこしの遠慮もなく、思うまま聴きとったままを、十分伝えてほしい。日本(こつち)の言葉も少しは話す
ということだ、我々もよく察して知恵を絞りましょう。同じ人間同士が話すことです。あなた方はオラ
ンダ語が分る。オランダとローマは、同じ西洋にあると聞いている。通じあう部分も、きっと有るでし
ょう…」
用意の中食(ちゆうじき)を一同手早にしたため終えると、いくらか年過ぎた刻限、定めの場所に彼らは囚人を呼び
出させ、その間にも問わず語りに奉行の横田がこんな話をしていた。
総じて此の場処は、大猷(だいゆう)院様(三代将軍家光)の時に井上筑後守下屋敷を切支丹山屋敷と改めたもの
で、惣構えに堀を折廻して、都合二百三十間。幅一間深さ一間一尺のこの堀の内北寄りに、さらに厳(いか)め
しく土手と石垣で囲って、牢敷地が設けてあります。やや離れて南西寄りに、筑後守家来の井上右馬允(うまのじよう)
がもと住んだという今この屋敷が、そのまま役宅として残っていた。ご覧のように庭は荒れていたのを、
応急に、木や草など伐(き)り払わせておいた──。
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獄門橋を渡って表門を入り、西むきに両脇を枳殻(からたち)の生垣でけわしく固めた坂路を上りつめると、この
役宅の門に突き当る。これを通らずに切支丹牢へ出入りは成らぬ造りに出来ているらしい。
奉行柳沢の話では、それにしても宏大なこの牢構えを一歩も出もならず、とくに罪咎のなかった夫婦
者が捨て扶持をいただいて住んでいるという。最後の囚人寿庵とやらが死んでもう十二、三年は経って
いる。日用の品は下役の者が差入れているのであろう、それも一生、かれも役儀と思うものの、むごい
感じも彼は抱いた。黙って聞いていた。
そのうち今村源左衛門が、あらかじめ申し上げておく□つきで奉行の方へ、こんなことを告げた。ロ
ーマ僧ヨワンは早くから、「シチーリア」とやらの切支丹伴天連で「ジュゼッペ・キアラ」と名乗った
僧の消息を、ひどく知りたがっている。長崎での記録を調べてもよもや存命とは思えないが、今日も囚
人は、まずそれから□をきるに相違なく思われますと。
「それは、ヨゼフ岡本三右衛門のことですね」
奉行も失念していたことを、彼が代って今村に返辞をした。今村は江戸でのことはなにも知らない。
もしそれならば、貞享二年(一六八五)までは生きていました。日本人の妻は十年後れて、元禄八年に
死んでいる。
そうだ、そうでしたと頷いて宗門改(あらため)柳沢がくわしく思い出した。仔細ないこと、聞けば教えてやり
ましょうと二人の改役(あらためやく)は□を揃え、彼にも異存はない。どうかして異国人には心易く□を開かせたい。
聴事の席は冬の日ざかりに南面して設(しつら)えてあった。板縁と、その外へ簀子(すのこ)が低く張り出ていた。三十
坪ばかりのお白州を急拵えにまた造ったらしい、幕一枚引くでなく、見渡しに、山里のていで庭の奥に
萱ぶきの茶屋がみえる。軒越す柿の木に埋もれて見える。黝ずんだ木守りの柿の実三つ四つを狙ってゆ
っくり一羽二羽と烏が寄っては飛びたち、その向うへ木(こ)ぐらい森がつづいて見える。
100
紅葉したまるで森のなかの風情が、寂しいがおもしろい。奉行は東に縁側に寄って並び、彼自身の為
にはやや奥の正面に座が設けてあった。会釈してその座につくと大通詞は板縁の上の東にひざまずき、
西側に稽古通詞二人もひざまずいて待った。囚人は歩きかねてか粗末な輿(こし)で運ばれ、やがて白州へ脇の
潜戸(くぐりど)から左右に抱えられて入ってきた。
丈高い……。それが印象の最初であった。
有司が場に定まっていると見て、その丈高い男は介添えをかるく押しのけ気味に一度佇立(ちょりつ)し、遠くか
ら礼を送った。
奉行が声をかけ、まず銘々に名乗りをして、以下、横田備中守から囚人の名を訊ねた。「ヨワン」な
いし「ヨワンニ」そして「シローテ」などとやっと聴きとると、ついで□書(くちがき)の中から、一つ、日本へ潜
入をいつ思いたったか、一つ、日本人に手引きをする者がいたか、一つ、国禁を承知で本土を侵したの
か、一つ、日本人に宗門の話をしたか、の四点を訊(ただ)した。
ヨワンは質問を理解するといちいち立って礼をした。そしてなんとか日本語で答えようと通詞を手で
制しまた助けを求め、四苦八苦しながら、それでも例えば日本人に宗門の話をしたかという問いに対し、
信仰に関わる話は屋久島でも薩摩でも何度も試みた、しかし通じなかったと片方の肩をあげた。苦笑し
てみせるほど要領をえて話した。
ヨワンが総身から絞りだすように苦労して話すのを、正面で彼はじっと眺めていた。「言葉」では通
じないものが、あるいは、「物言い」で分り合えるのかも…知れぬ。彼は手控えの筆を時に自身でもつ
かいながら、ヨワンから目が離せなかった。名は、彼の耳には「ヨワン・バッティスタ・シロゥテ」と
聞き取れたが、「ヨワン」とも「ギョァン」とも、あるいは「ヨヤン」とも聞えた。
はたして、ごく僅かな応答の跡切(とぎ)れにそのヨワンは、「ジュゼッペ・キアラ」という者の消息を教え
101
てほしいと、たどたどしい日本語で、だが立って鄭重な辞儀を二度重ねて奥にいる彼の方へ懇願した。
そして──「三右衛門」一件で、囚人ははげしく心を破られた。呻(うめ)いた。彼は泣くヨワンに幾分の共
感も覚え、じっと容子(ようす)を見ていた。いま言葉を用いれば、それは、なにかしら非礼を詫びるふうの表現
をとるしかない。現にそんな気に先刻来自分はなっている……。さて、黙っているよりこのさい良い言
葉はなかった。
やがて彼は「ヨワン……」と呼びかけた。故国に残してきた、ことに母親の無事をさぞ願っているで
あろう、年齢(とし)はと尋ねた。
「元気デ、イマスナラバ……」
うち萎(しお)れていた表情をかすかに和らげ、ヨワンは母の歳を指折るようにして答えた。頷き返して、ふ
っと思いもよらずにいた事を、彼は、ヨワンにまた尋ねた。お前がこの国へ持参した品々のなかに、
「息子を喪って」と彼は、はっきり言った── 涙を流す女の絵があった。あの絵は、お前の母の面
影を写してきたのかと。
通詞の伝える言葉を一心に聴いていたヨワンは、蒼白い顔に一瞬まぶしい笑みを溢れさせた。童形(どうぎよう)の
髪をはげしく揺すり、頷きまた頷くうち涙がぽたぽたと黒い髭へ散った。
「さんたまりあハ、カケガエガナイ母ゴザイマス。ソレカラ……ソレカラ、まりあハ、…姉ゴザイマス」
「姉、とは」
「……妻、ゴザイマス」
ヨワンがなにを言外にこめたか彼は探りかねていた。思案のうえ、彼は、若い加福喜七郎に命じ、し
ろい指をみせていたあのサンタマリアの絵を、その場へ運びださせた。ヨワンも彼もたがいに目を逸ら
そうとしなかった。
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彼の手が加福の運んだ絵を膝もとへ立てて示すと、ヨワンははや床几を滑りおりて膝をつき、白い長
い指をひらめかせて「十字」の印を結んだ。そして手を胸にくんで早□に「オラショ」をくちずさみ、
しかし瞬時も惜しんで愁いに沈むマリァヘ、はげしいほど視線を注ぐ──。
「これは、お前の、母(1字に、傍点)なのであろうな」
念を押すように彼はもう一度繰返した。ヨワンがどう答えるのか聞きたかった。髭づらの痩せた男は
絵像に魅入られて、答えない。
通詞が重ねて「母なのか」と問うた。
ヨワンは表情を変えず、また「十字」を結んだ。それから両の手をいっぱい左右にひろげて、言葉は
なく正面の彼へ鄭重な礼を一つ返した。マリアは、此処にいる誰しもの母でありますと、さもヨワンが
そう答えたように彼は感じた。かすかな動揺が、黄金(きん)の針を刺したように身内を走った。
「では、この絵を、こう置く。よく見て、母…に誓って、偽りなく何事も話すようにされよ」
「カタジケノゴザリマス」
ヨワンの大きい声は、一瞬、杜(もり)にこだました。
そこで奉行の一人が通詞に訊かせた。もはや江戸も冬に向かう。肌着一枚に袖細なそれしきの着物で
は寒かろう。奉行所で与えようとしたものを、なぜ着ないのか。
ヨワンは頷いてすぐ答えた。宗門の戒めに、異教の者の施しは受けぬという掟があります。ただし重
い任務をおびた私が、食を絶って命を失うことはできません、が、それだけでも十分なご恩にあずかっ
ています。このうえに過分の衣服を頂戴することは辞退したい。薩摩侯が下されたこの着物で寒さは防
げます。ご心配はご無用です──。
一度は和みかけた聴事の場に、またうすら寒いかげが流れた。思い屈した横田備中は、その余の進行
103
をみな任せたい素振りで彼の方をみた──。
彼はヨワンを手招いて簀子のきわへ進ませ、自分も出て自身持参した幕府所蔵の万国図を広げて見せ
た。唐土(もろこし)では名高い利山人(耶蘇会士マテオ・リッチ)が原図を製して、漢字で書入れがしてある。
ヨワンは簀子の端へもたれこむ姿勢で暫く見入っていたが、ゆっくり首を横にふった。
「ヨイデナイ、ゴザイマス」
そうかも知れぬ。持ちだした彼にも、あやぶむ思いが端(はな)からあった。が、この場に世界地図は、どう
あっても欲しい。すると柳沢八郎左衛門が□をはさんだ、たしか宗門改方にはすこし別様のもっと大き
な万国図があったと思う。それを持参しましょう、詳細な話は次回からにと、そう執成(とりな)されて異存はな
かったが、ぜひ聞いておきたいこともあった。せめてヨワンを日本にもたらしたイターリアやローマの
こと、シチーリアのこと、およそは知っておきたかった。
「イターリア」は「エウロパ」の南方、地中海に位置している。ローマはその都で、教皇が住んでいる。
都城をめぐらすこと十八里ほどにすぎないけれど、市民は七十万人。ことに工作の技に秀でて、よろず
器物や道具を巧みに造る。教皇は専一「デウス」の教権を把握し、兵は各地に諸侯がいて指揮している。
地中海には「コラアリウムルウブリイ」が生えている──。聞く者はこの植物、それもなかなかの大木
そうな長い名前に、見当もつかなかった。
シ ツ
次の「シチーリア」も聞きづらかった。とっさの工夫で彼は「 イ イリア」というぐあいに表記はし
ス チ
たものの、七度も八度も聞き直して書き留めた。そういう際はヨワンも大きく□をあけ、唇で形をつく
りまた皓い歯並びを露わして、根気よく繰返す。そしてこっちが巧く言えると手を拍(う)ち、会釈した。
──シチーリアはエウロパのごく南、地中海にある大きな島の一つで、ひときわ目だつ山岳が二つあ
る。一つはいつも火を噴き、もう一つも噴煙をあげて昼夜絶えない。自分の生れた「パライルモ」(パ
104
レルモ)の街はチレニア海に臨んで北岸にある。上古からすぐれて豊かな歴史と景観に恵まれ人情も敦(あつ)
い……。ローマの教えに服しているが、「キリーキス」(ギリシア)の感化も古くから強い。
ヨワンはさらに何ことか、先の岡本こと伴天連ヨゼフ(ジュゼッペ)に就きものを言いかけたが、つ
と□をつぐんだ。かすかに無念そうないらだちが額をよぎり、そして衝動的に腰掛けをまた滑り下りる
と、サンタマリアの絵像にひざまずいて祷(いの)りの言葉を短くとなえた。
案じたほど対話が成りかねるわけでなく、彼は、おいおい、内心の期待に背かぬ人物と現に向かい合
うていることが実感できた。無頼に罪を犯した男を、特赦を代償にローマ教皇らが危険な日本へ、侵略
の瀬踏みに寄越したなどと言っている長崎出島のカピタンらの推測を、彼はもともとまともには受取っ
てこなかった。
ただしコワンがつかう日本語は、京都周辺また西国の方言がむやみと錯綜する。それをローマ人の真
似ようのない抑揚で、思案して、早□に、またもどかしく話すのだから、それとは聴きとりながら自信
がもてない。土地の名か人の名か、物か物ではないのか。首をかしげ身ぶり手ぶり往返(おうへん)して互いに互い
の物言いを、やっと察して行く。いつか居合せた誰もが夢中で身を乗りだしている。
ヨワン・シローテの態度は、疲労に屈する色もなく終始むしろ堅苦しいほど、律義であった。姿勢も
崩さず、これという問いに対し返答に対しては、幾度でも立って礼を繰返して丁寧に、答えもし問い返
しもし続けた。
四
翌る日、長崎通詞の三人に彼は自宅へ寄ってもらった。まずは京の緑茶でもてなそうとする妻にも、
105
彼はかねてそのうえの出入りを禁じておいた。酒で客をねぎらうことを思わないではなかったが、首を
横にふった。
長崎勤めの通詞にもいろいろある。が、今度のお役にあてられた三人は、学問も人柄もそれぞれ図抜
けた者と彼は聞いていた。「ヨワン」のことがある。しかしこの機会に「長崎」の話も彼は聞いておき
たい、やはり酒は控えよう。妻にそう指図した時も、彼には未見の書物を開くまえの、それにちかい期
待があった。
彼は、人を介して求めた中江藤樹先生の詩句を我から床に掛けて、客の到来を待った。甲戊の冬、舟
中に月を見て感有りと題した詩句は、
念慮に 一毫(ごう)も 差(たが)へば
酬応は 千里を 訛(あや)まる
人心は 宜しく 静を主とすべし
明月の 波には 沈む事なければ
と彼を諭(さと)していた。甲戊といえば元禄七年、可愛かった娘の清(きよ)が六つで死んだ年、生れかわって吉(きち)を恵
まれた年であった。本所の借宅から湯島天神下に移った年、甲府侯に仕えて初めて大学を講じた、あの
翌年でもあった──。
客を迎えて──、おのずと前日の「ヨワン」の上へ話題は落ちていった。
大通詞の今村源左衛門は、さすがに大役の疲れを頬の辺の痩せににじませていた。昨日にも気づいて
いたが、今村ほか二名とも物腰の柔かさに、武士とも学者とも、医者などともちがう如才ない感じがあ
る。他の役人たちとは、見ているものが異(ちが)うといったところがある。今村は長崎からの道中、もう小田
原も過ぎたところでつい痛めた左足首が、まだ癒りきりませぬと持前らしい明るさでこぼした。そして、
106
その□でこんなことも言った。三十一、二歳か、美しい声をしている。
「わたくしが足を挫(くじ)いたと聞きますと、ヨワンのすぐに申しでましたことが、自分は歩こうと。代りに
自分の乗物を使うがいいと、こうでございますよ。まじめで申しますのか、皮肉でございますか」
一座が笑ってしまった。乗ってみた覚えこそないが、罪ある者を護送の駕籠でどれほどらくができる
ものか、当のヨワンが身にしみて知っていてそれを言いだしたというのが、人がわるいとも良いとも判
じがつきませぬ……。
苦笑いして源左衛門は、それでも、そういう申しようにも、どこか「気の優しい」ところがあのロー
マ人にはございます、それは確かのようでと、ふと□をつぐんだ。
「ああ今村さん。遠慮をなさらんで……。思ったとおりのお話が聞きたいのですから」
忌揮なくなにごとも話してくれますよう。彼は客である長崎通詞の三人に、重ねて遠慮無用にと念を
押した。
「恐れながら……私は」と、二十八、九か若い加福喜七郎が、上座にいる先輩から今一段身を退(ひ)くほど
に居ずまいを正して、そして彼の方へ両手をついた。
「ああ、いや…」
そんな気づかいは無用にと彼は制した。
加福らにすれぱ、この家(や)の主(あるじ)が上様の信任ひとしお篤いことを聞いている。幕閣を動かすことさえ出
来る人、城中で一の智者とも遠くから大きく眺めてきた。誰よりこわい判官の前ヘヨワンは引き出され
ることになったと、江戸への道中も、寄ると通詞同士が、また護送の役人仲間内でもつい低い声でその
評判をしながら来た。
長崎では取調べのつど囚人には手縄を打っていたし、手荒に扱う役人も、面白ずく繰返して同じこと
107
ばかり言葉いやしく訊く役人もいた。双方へいちいち仲に立ちながら、ヨワンという人物になじむにつ
れて、大通詞の今村らは、そういう奉行所与力(よりき)の処置が苦々しくて、時に庇いもし、さりげない一言二
言で囚人を慰撫したりする。
今村を上司に、今村よりも一段年嵩な稽古通詞の品川兵次郎と若い加福とは、おのずと、仕事を分担
してきた。品川は主に外国事情を聴き、加福はヨワン自身の動機を知ろうとする。しかもそれでも意欲
の加福は、微妙に信仰の話題とは逸れて逸れて、それでいてローマや地中海の大きな歴史からヨーロッ
パ世界が成立ってきた…道理、のようなところをこつこつ聞き出したかった。
加福は、ずんぐりと丸いからだっきをしている。訛りもある。しかし律義に頭をさげ気味に、いかに
も率直に、彼に、将軍家侍講の新井勘解由(かげゆ)にむかって、こう言った。
「ともあれ…ヨワンの□から、ヨワンが一等申上げたい、申上げようとはるばる心にかけてきた、その
事をまっすぐに、思いどおりに話させてみとうございます。私どもの力で皮を剥(む)き実を喰うまでは出来
ましょう。が、……お願いでございますどうか種までも、お力で割ってお見せください…見とうござい
ます」
「種…ですか。彼(あ)の者の…。切支丹の教えも、あなたは聞いて、みたいと」
「いいえ。教えとも何とも……。ただ、ヨワンが何を信じて、何に励まされて、何を目的で日本の国ま
で参りえましたものか。それが知りとう存じます」
「分る…。私も同じ考えでいますよ。それを、なるべく素直な落着いた気持ちでヨワンに話させたい。
無理強いしてたかぶった話やウソの話をさせても、それでは役に……、さよう何の御役にも立ちません
からね」
ヨワンに会ってみて、一層、彼もそれを思っていた。
108
「そう伺って……なにやら安堵致しました。有難いことでございます」
主の述懐に感に耐えた若い加福の、そんな物言いも容子も、その場に係わりない者がいたら妙に芝居
じみて映ったであろう。ちいさく頷きながら彼はすこし可笑(おか)しく、しかし、ふと心をゆるしあう空気が、
まだ初対面にちかい彼と彼より若い通詞三人との仲を、そよと動いた。
ヨワンは、言いたいことをまだ言っていない。が、それを言わせそれを聞いては国法に触れ、お役の
落度になりかねなかったことを言外に、いちばん若い通詞が、「それがたとえ大問答でございまして
も」と、彼を唆(そその)かしているのであった。「大問答」という実感は、痛い飛礫(つぶて)のように彼の胸板にもずン
と突き当る。ヨワンは何をどう話すのか。あのマリアという女のことを大事に話すのであろうか──。
「ところで」と、彼は話題をもう一人の通詞品川の方へ振り向けた。三人の中では年嵩な、それだけ悠
然(ゆつくり)した容子で人の話を聞いている。家柄はひくいが物はいちばん知っている。異国語も図抜けて達者と
聞いていた。その品川兵次郎に彼は、オランダ語の読み書きはどういうふうに勉強しているのかと訊い
た。品川は意外そうなうす赤い顔をして□ごもった。
「いえ新井様。長崎の通詞は、オランダ人と話す稽古は致しますが。ご承知のとおり、読んだり書いた
りは……ご禁制…」
大通詞の職掌からも今村が代って返答をする。それは分っている。表むきの定めはきっとそうではあ
ろうが、それで済むものと思えない。そのように、饅頭の皮だけを食って餡は食わぬというぐあいに、
言葉を、文字から切離せるものではなかろうが──。彼は頬笑んでいた。
「元禄…ともまだ申しませぬ、二十何年か昔のことで…。型破りな通詞が長崎に一人居りました。西洋
人と同じ衣服や履物を仕立てて。住まいもオランダ屋敷に真似ていましたような…。長崎ではオランダ
乞食と笑われ者の小男でございましたが、その本木と申します男が、オランダ人でレムメリンという者
109
の著(あら)わした解剖書を翻訳したのが、どこかに残っております。むろん版にはなっていませんが、たいし
た漢文の序を、私も一度見た覚えがございます。新井様ですから、申上げます」
そう言う品川兵次郎の□調はさりげなかった。聴く彼もただ頷いた。この者たちが技癢(ぎよう)を覚えて、た
とえオランダ語をオランダの文字で読みまた書いたとして、それをぜひ取締まらねば済まないような、
今もそういう時節か、どうか。それどころか自分も、その『和蘭全躯(オランダぜんく)内外分合図』とやらを見てみたい。
せめてオランダ人が用いる文字の、種類や数だけなりと覚えたいと、彼は内心に思っていた。
「なにとぞ……。内々は、御公儀へお願いに出たいのでございます。異国語を、その…公然と勉強がし
たい…。その気運は早うから、もう…」
「お執成(とりな)し、なにとぞお願い申上げます」と、今村そして品川の声が、異字の禁のせめて緩められるよ
う願って穏やかに揃うと、加福喜七郎もごつごつした身のこなしで、末座にいて手を畳についていた。
それから三人の通詞たちは、□々に、昨日牢屋敷での吟味をひとまず切上げるまぎわになって、判官
役の彼、この家(や)の主(あるじ)がヨワンを訓戒した、そのすこぶる時宜(じぎ)を得ていたことを、褒めた。
──初度の聴事としては、昨日はたしかに、先に望みがもてた。存外な好結果であった。綱渡りほど
も息の抜けない時間であったけれど、いささか意の通じあう瞬間に恵まれ恵まれて、その積重ねの上へ
おぼろに物事の輪郭が見えてきている。彼は日本語で、ヨワンはたぶんイターリア語かイスパーニアの
言葉で、通詞たちはオランダ語で懸命に斡旋した。時に汗をはじき時に相好も崩れた。思わず身分の上
下も国籍の別もなく顔を見合わせて頷きあう、──そんな場面をかりにも裁きの場に誰が予想できてい
たことか。
しかし、もう今日は審問をひとまず終えようというきわに、改まってヨワン・シローテが、また、た
どたどしくこんな熱弁を、あのとき、ふるった。
110
自分が日本へ来たのは、主(しゆ)の福音(ふくいん)をこの国に伝え、どうかして日本と日本人とのうえに平安あらせた
いと願ったからである。その願いも果さず、かえってこの国の、あなた方はもとより大勢な方のお世話
にのみあずかっているのは、本意なくかっ申しわけないことである。江戸へ着いてから、もはや冬に入
り雪も降り出す寒さのなかで、ここに一座のお侍衆はじめ何人も警固の方が、日となく夜となく自分を
守って下さるご苦労は、見るに忍びない。それももし自分が逃亡を企てようかとのお心遣いであるなら、
こ無用です。万里の風波(ふうは)を凌(しの)いで日本国へ漂い着いたのも、どうかこのお国の人々に迎えられ、ローマ
教皇より与えられた使命を達したい一念あってで、念願叶い、こう江戸へ来られた嬉しさ。万一にも逃
げだしてどこへ行く・行けるあても、気も、ない。さりとて下知(げち)をうけて警固に当るお人にすれば、さ
て手も抜きかねるのが道理と思います。
せめて、昼間は如何様にでも厳重にされたがよい。しかし夜分は、重い手跏足跏(てかせあしかせ)で獄中に自分を繋が
れてなりと、幾夜ごと下々(しもじも)のお侍衆が安穏にやすまれるように、どうか通詞の方々からお上(かみ)へお□添え
が願いたい──。
ヨワンはそのような趣旨の陳情をするらしく、一句切りのつど神妙に辞儀を繰返す。仲にたつ今村ら
もいくらか頷き気味に、上座でじっと聴く彼や、奉行二人の方へ執成すようにそれを伝えた。
奉行らはむっと黙していたが、ヨワンの申し出に心は動くふうであった。神妙の申し様、とツイ言い
そうになるが、自分を「守っていて下さるご苦労」など、食えない言い草でもある。しかし偽善を策す
顔付きとも見えなかった。第一これだけの気持ちを、かろうじて居合わす全部の日本人に推量させるま
でが、通詞ともどもヨワンも、それはそれは大童(おおわらわ)の大骨折りを敢えてしたのである。
それなのに上座の彼、新井勘解由(かげゆ)の□をついて出たのは、彼自身思いがけなかった激しい叱責の
言葉であった。あのとき彼は面色(めんしよく)を励まして、呆然とするヨワンに対し虚言を弄する不届者(ふとどきもの)よと決めつ
111
け、申入れを突ツぱねた。
ヨワンも立って色をなして反問した。彼は反問されて、心に鬱陶しく屈するもの、自己嫌悪の心憂さ、
をかすかに抱いたなり冷淡にこう答えた。
年暮れ天寒く、牢屋敷に勤務してお前を守りづめの者が気の毒であると、五心誠意それをお前は言う
というのか。その者らは上司の指図を負うて大事に勤め、上司も公儀の指示に従うて、遠来のお前の身
に事無かれと配慮をしている。着物があまりに薄うては寒かろうと案じるのもそれ故、綿入れを与えよ
うと声をかけたのも、それ故のこと。もしお前の今の言葉どおりであるなら、むしろお前の健康を案じ
るその声を、まず素直に聴いたがよいのではないか。
お前がお前の信ずる法のままに、異教徒の布施はうけないなどと言いとおすなら、そのお前が、我々
日本人が日本国の法のままに、どうお前の身を守ろうと縛ろうと気に病むことはないはず。お前の法に
お前が拘泥(こだわ)るのなら、したり顔した今の申し出は□さきの偽りというべく、今の申し様がもし真率の情
であるならば、法を盾に親切を退ける先の□実また、根もない偽りごとと聞こえる──。
「まァあの男の恐れ入りようは……。溜飲をさげる心地とは、アレでございました」
感じるたちとみえそこは若い者の元気さで、通詞加福は唇をちいさく舌でなめて上気した顔に敬意を
見せ、口数も増えていた。大なり小なり他の二人も同じであった。
応対しつつ彼は苦笑いもならなかった。ヨワンと二人して皆をたぶらかしてしまったような、かすか
な彼のうしろめたさには、誰も気がついていない。いやあれは自分がヨワンの術中にあえて陥(お)ちたのだ
とも思い、そんな、「術」などという言葉を思い浮かべている吾が心根の浅瀬にも彼はつまずきながら、
あの時ヨワンが低頭して、当局の厚意をうけたいと思う、ただし絹物はもったいない、どうか木綿の着
物をと感謝を表した得体知れない頬笑みも、想い起さずにおれなかった。
112
気をとり直し──彼は、話題を今後の方針へと転じた。その為にも二、三の不審につき、通詞たちの
考えをぜひ問うておきたい。
ヨワンは、いろんな形の相当量の金(きん)を持ちこんでいた。一つは字を書くに用いる墨、あれに似た百匁
に近い棒状の金で、片面が木目のような中へ、判読しかねる極印(ごくいん)が二ヶ所打ってあった。ヨワンはこれ
をルソンで得たという。また板がねのような、大小合せて百八十一枚もの質のいい金も持っていた。同
様に、小さい丸い金の粒を百六十ほど持っていた。そればかりか純度の低い、出回ってまだ間もない日
本の小粒金を十八、やはりルソンで手に入れてきたという。ほかに寛永日本銭や康煕(こうき)唐銭など、すべて
みな一つの袋にヨワンは入れて、無造作に所持していた。
金の量の多さ重さを、彼は、ヨワンに昨日も問うた。返事はそっけなかった。これしきの金ならなん
の苦労もなく手に入ると。手紙ひとつで今でもマニラから十分な量を取寄せることができますとヨワン
は答え、顔色も動かさなかった。異国の金は、手にとるまでもなく我が国で新鋳(しんちゆう)の金貨と比べ、いずれ
も金無垢のように重かった。この品位の差が、金銀を天地の骨とも貴(たつと)んできた彼には、こたえた。
もう久しく長崎港は、日本の金銀が莫大に海外へ持ち去られていった唯一の、しかも締まりのない出
□のはず。外国事情に通じている通詞らが、それを日ごろ内々にどう思って眺めているのか。御先代か
ら勘定奉行に荻原近江守が就任以来の金貨の品位が目にあまつて悪くなったに就いても、彼は、ぜひこ
の際一同の本心を承知しておきたかった。
彼の質問は、しかし、明らかに御政道にわたるものであった。加えて、長崎では役人たちの私貿易も
いささかは黙認ないし看過されていないとはいえず、今村らはひとしく□ごもるよりなかった。しかし
聞く気の主(あるじ)は、おし黙ったなり客の返事を待った──。
ヨワンが日本の貨幣の質をどう思っているか、それは尋ねてみたことが、ない。向うから言いだしも
113
しなかった。その点はご返答をしかねますが、仰せのことに関係して、私一存に思うところが幾らかは
ございます…と、やがて品川兵次郎がそう□をきって、行儀正しく彼の顔色をうかがった。よろこんで
聴く姿勢を見せると、品川は、対馬(つしま)における朝鮮国との交易は精(くわ)しくは知らないと断りながら、大人し
い声で、臆せずにこんなことを話した。
目下わが長崎での交易は、オランダと清(シン)国との別なく、他国の品物を買って自国の品物を売るという
のではなくて、異国のもたらした品物を、ほとんど日本の金銀また銅建てで、要するに「買う」一方で
あると言える。
「これが、まず理に合わない話です……」
次に、金銀の流出も困るが、ことに日本側に技術の至らぬ点があって、相当量の金を含んでいる銅を
そのまま、廉(やす)く大量に、主に清国へ持って行かれている。これで日本は莫大な損をしている。
「清国の商人らは、持ち帰った銅から金分を絞りとって大儲けをしています。そんな話を、聞いていま
す……」と、品川兵次郎。
「それでいて、銅建ての取引が出来ませぬと、長崎には暮しに困る者が、数多いのでございます、今で
は…」と今村も言葉をそえた。そして、慣例として長崎会所に限っていささかの私貿易が黙許され、そ
れで暮しを支える者のある事実も、正直に彼に伝えた。
兵次郎は言葉をついだ。
「オランダとは、交易にかぎって申せば現状より伸びる拡がるというフシは、もう見えませぬ。私ども
に対し大言壮語するわりには、本国の事情は安穏でないらしく噂されております。ヨワンが、あの人と
なりや僧侶がらという点から致しまして、不似合いなほどオランダを敵視しますというか見下すふうな
態度にでて、オランダ人がそれに対して妙に顔をしかめているばかりなのは、私どもに知れない西洋人
114
同士の、久しい、なにか確執が根にあると……」
「それは、信仰のちがい…から、でしょうか」と加福が品川に訊いた。訊かれて品川がやや□ごもる、
と、加福喜七郎があとを次いだ。
「たしかに天主教、耶蘇教、切支丹などと名前は物の本をみてもいろいろに書いでございます。が、重
いご禁制で、正直のところなにをどう説いていて、どこがどう異なるのやら、私どもはすこしも存じま
せぬ。ヨワンのことを糾明するにも、オランダの肚(はら)をつかむにも、そのところを、私はあのローマ僧に
十分話させてみとうございます」
加福は、自分らには所詮許されていない質問を、他でもない「新井様」からヨワン・シローテに対し
ぜひ試みてほしいと、よほど露骨な希望を重ね重ね□にしているのであった。さすがに今村がたしなめ
顔に居ずまいを直し、主人はしかし上座にいて、無表情に、話題の行方を、見るような見ぬような顔を
していた。
「私は……」と、品川は重い口をまた開いた。「やはり、私は、信仰の点もさりながら、西洋はこれま
での数百年を、金銀をめぐって、金銀の量を争い合うて動いてきたし、これからも……という気がして
なりませぬ」
「……」と彼は品川の顔を見直した。そして手でちょっと制しておいて、改めて家人に茶を運ばせた。
髪の濃い、目もとすずしい妻女が、すこし多めの茶湯(ちやとう)に、拝領の、御紋の入った紅白の落雁(らくがん)を懐紙(かいし)に一
人分ずつのせて、盆で運びだした。客は思わずゆるめた膝を正した。
「うかがいましょう。今のお話…」と彼は催促した。
「はい……」
家人が退ると催促されて品川兵次郎がまた話しはじめた。
115
「私は、オランダ人とどうにか話すことが出来るようになりまして、あの者らが常々□にしております
西洋事情にも、いささか聞き耳を立てて参りました。が、その話と、例えばバタビア、マラッカ、イン
ドヘも渡ってきたような清国の商人などから聞く噂とでは、よほど中身のちがうことが多うございます。
じつは私は、育ちました家の事情で、むしろ朝鮮や唐土(とうど)の言葉を早うに習い覚える便宜がございました
…が…、それで長崎へ参ります船乗りのなかでも、ルソンはもとよりインドや南海の島々を渡り歩いて
きたような者と見ますと、なるべく近づきを求めて、遠い異国のことを一つ二つと聞き出してみるのが
……マ、趣味のような。よろしゅうございますか。このようなことをお話し致しましても…」
「ぜひ聴きたいことです。遠慮せずお話しなさい」と、彼はちょっと早□に、眼で眼をみて、毅(つよ)そうな
顎をぐっと引いた。
「オランダは世界の強国で、海戦では並ぶ者がないと自分たちでは申します。ヨワンも、さように申し
ております。ところが、そのオランダはイギリス──オランダ人はエンゲラントと謂うておりますが
──と何度もじつは戦(いくさ)をしており、これがよく申しましても一進一退。どうやら世界の海は、今では、
イギリスの方が優勢におさえ、これにフランスが精いっぱい対抗している、さしものオランダも漸々(ぜんぜん)退
潮の気味だと。そういうことを、私の懇意な、シャム生れでチンという名のシナ人などはよく申してお
ります」
「………」
十分頭のなかで整理のついている話らしく、品川の□調はごく穏やかなものであった。日本と交易し
たヨーロッパの国というと、主にはポルトガル、イスパーニアそしてオランダで、この順に世界の最強
国は入れ替ってきたらしい。今そのオランダがイギリスに頭を押えられようとしていて、それで「かと
存じますが…、」長崎のオランダ人の□から、イギリスの話がめったに出ない。しかし清国の貿易商人
116
たちは、今ではイギリスとの有効な接触を求めているし話題にもしている。そして──と、品川は言葉
をついだ。
「このような、たかだか百五十年、百年のうちにこう世界の勢力が交替致しますのも、信仰からか財貨(もの)
ゆえかと尋ねてみます、と、少なくも百年も前から、財貨(もの)の方がどうやら物を言いはじめ、また財貨(もの)よ
りも金銀(かね)が強くなって来た。そのような筋道へどうも国と国の関係も動かされて来ている…と、万事に
ソツのないシナ人たちは、見抜いています様子…」
「この国でも、そんな気配ではあるが、金(かね)の切れめが縁の切れめとやら…」と主人は客を笑わせておい
て、いや話の腰を折って相済まないと、品川の、話の先を促した。
「…ポルトガルとイスパーニアは、共通してあのヨワンと同じ信仰を、それは大切にしている国柄と申
します。切支丹御禁制の以前に彼らのもたらしました布教の勢いを思い起せば、これは、なんとなく分
る話でございます。
が、他方面いの仕方という点からみますと、ポルトガルという国は、東洋の珍らかな品物を、本国へ
持ち帰るだけの商法にほぼ終ってしまいましたようで。逆にイスパーニアはと申しますと、本国から、
支配する遠国の領土なり交易の成立っている国などへむけまして、人、及び商品をどんどん送り出しま
す。売り込みます。そして交易でえた豊富な金銀をもっぱら自国に取込んでゆきましたので、この財貨(もの)
と金銀(かね)との力の差で、ポルトガルはだいぶ後れをとった。彼らの覇権…と申しますか、世界へ繰りだす
力の上下に、それが大きくあずかった……まアそのように、私などは耳にして居(お)るのでございます」
火鉢の灰が、こそと落ちた。一座に声がなく、床の間の藤樹先生の詩の下で、唐銅(からかね)の筒に咲き残りの
菊が白かった
意外なところへ話題が向いている。誰もが当座ヨワン取調べのためということを、忘れてしまってい
117
た。長崎の通詞は□さがないなどと言われながら、さて話を聴くと、奉行らの遠く及ばない勉強家が、
こつこつと、こんなふうに自分の情報源を養っている。
誰かがちいさく咳(しわぶ)いた。我にかえって主(あるじ)は、彼は、身動(みじろ)ぎもせず品川兵次郎の方へ、聴いています、
さ…と、さらに目で促した。
品川によれば──イスパーニアは金より銀を主に通貨として重宝する国らしい。メキシコとペルーを
「属地」に凶暴に取込んだイスパーニァは、そこから信じがたいほど大量の銀をえた。日本からも莫大
にえている。ところが、そのため却って本国で銀の価格が低落してしまい財政の根が弛むことになった。
もともと商業の盛んなオランダは、その隙をついてイスパーニア領の一部を占め、独立した。
「九州ほどもない、ごく小さな国だと申します。それにこのオランダ人は、ポルトガルやイスパーニア
とちがい……さようでございます、あまり、聖母マリアというようなことは、申さぬようでございま
す」と、品川は低く笑いもした。聴き入っていた彼は、ちょっと胸を押し返された気がして、ウムと頷
いてみせた。
「で、オランダは、イスパーニアとイギリスとの互いに海賊まがいの海戦を尻目に、一気に商いの力を
のばして、東洋や南洋に進出、雄飛したのだと申します。
オランダは、本国はごく小そうございますけれど、東インドのセイロンに商会を設け、やがてバタビ
アに移し、想像を絶した儲け仕事をしていますようで。……長崎も、いわば出店の一つと聞き及びます。
オランダもイスパーニアも、約(つづ)まるところ同じ神を拝むらしゅうございますが、どうもオランダやイギ
リス、つまり紅毛(こうもう)と我々が呼んでおります連中は、ローマのパッパ(教皇)とは切れておりまして、ヨ
ワンのあのようなサンタ・マリアの絵を拝むという風儀ではない。寺院なども強いて建てない。それよ
りオランダなどは、本気かどうか、信仰を広めるよりは金銀を稼ぐという徹し方で、まアその辺の経緯(いきさつ)
118
でヨワンも気を立てているのでは…と思われます。つまり日本からは有利に金銀を持ち帰る、そして金
銀の力を巧みに操りまして、自国繁昌の土台に財貨(もの)よりは貨幣(かね)という考え方を固めて行く。すべては金
銀…いえ貨幣の価値しだいで動く仕組み、そういう世の中へ変りつつある。変えた方が都合のいい連中
が金銀を掴んで、その力で、政治(まつりごと)まで左右できる地歩を大がかりに固めている…らしい。日本ではまだ
一握りの町人だけが考えていることを、向うは国が、王侯が、本気で考えているらしゅうございます。
そんなことがどうも、優に想像されますのでございます……」と、品川は一と息いれた。
「日本から絞り取ってゆく金銀が、そういうヨーロッパの変化に、一と役を…買っている……」
「はい。一と役も二た役も買っているらしいと……」
「……で。そのオランダが、今度はなぜ落ち目になるのです」と彼は尋ねた。
「オランダ本国は、金銀はそのようにして蓄えていましても、もともと狭う限られた国土ゆえ、その土
地から、なににつけ原材料を産することが少のうございます。で、例えば毛織物などを美しく仕上げる
技には世界一卓越していながら、材料はわざわざイギリスから買い求めますとか。ところがそのイギリ
スが、オランダなみの優れた技を手にいれて凌いで参りますと、なにも商売仇のオランダに原料を売っ
てやることはない。自前で毛織物など極上等に製しまして、自前で高価に売れば国力は増し、オランダ
の勢いを殺(そ)ぐことさえできます。オランダ立国の基は交易にあるため、逆にその商品を買うはめになり、
一度は手に入れた豊富な金銀が、イギリスの方へまた流れ出て行く。こうなりますと戦(いくさ)でございます。
事実もう三度両国は戦って、イギリスの分が良い、と、そう清国商人のチンらは□をそろえて申します。
つまりイギリスは、自国の商品を売って正味の利をとる国に育った。オランダの方は他国の商品を仲
立ちして、ちょうど手数料を稼ぐような国に落ちぶれてきた。その差がものを言うているそうで、恐る
べきはイギリスと…」
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「恐るべきはイギリス……。オランダ人が言うのですか」
「いえ、オランダ人はそんなことは、けっして。清国の者ならば、まず、誰もがそう申します」
「面白い。イヤこれほど面白い話を聴いたことが、ない。あなたは……それを、なにか書物に書いてい
ますか」
「いいえ書きません。世界は変って行く…と思います。今書いたものが、十年後はものの役に立たぬ…
でしょう」
品川の□ぶりにかすかに皮肉なものが混じるのも、それに反論したい思いの湧くのも彼は覚えながら、
さからわなかった。さからえば自然品川兵次郎の人生観を問うことに終るであろう。それなりにそれも
奥深い一通詞の内心に触れうるであろうが、彼は人それぞれよと思うてみるだけで、深く追わなかった。
「もう一つ尋ねたいが……あのヨワンを日本へ寄越した、イターリアだかローマだか…という国ですが。
どういう国ですか」
彼は品川に顔をむけ、品川は自分ばかり話していていいのかという顔をした。今村も加福も首肯いた。
「イターリアのことは、しかとは分りかねております。が、漠然と私の察しておりますところ、また片
端を噂にのみ聞いておりますところ、一つのイターリアという国が独立していると申すより、ローマの
パッパ──恐れ多い謂(い)い方ではございますが法王とでも──これの治めます領土と、依然イスパーニア
が支配します領土と、他にいろんな大名諸侯の支配地とが、ずいぶん入り混じっているように想像され
ます。ヨワンの生れ故郷のシチーリア島は、南イターリアと併せて、今もイスパーニアの息のかかった
ナポリ王国とやらに属しているらしいのですが。イスパーニアは、オランダ、イギリスを相手に面倒な
王位継承の戦を悪戦苦闘の最中らしゅうございまして。なんでも、その辺ははきとしない形勢かと…。
ヨーロッパは、なにかにつけ地図も系図も、ややこしい限りのように思われます」
120
「それに…しても。よく、あなたもそこまで調べられた。感服の他ないが、……シナ人というのは、そ
うも西洋のことをよく知っていますか」
「はい、知る気で知りたいと願えば、マニラで、マカオで、バタビアで、マラッカで。さらにインドヘ
も彼らはかなり自在に出むいているのですから。……私は、シナの商人はルソンを越えて、北アメリカ
やメキシコヘもじかに船を送っているとさえ、聞いております」
信じられないという顔をすると、品川は首を横にふって、日本の船でも倭冠(わこう)だの八幡船(ばはんせん)だのという前
例もあり、アメリカとまでは言わないが、かつては御朱印船が、はるか南海の島々までおし渡っていま
したと微笑で答えた。
「なるほど……。世界のことは、つまり、知る気で知りたいと願うか。知らぬままでいるか。それで違
うのだナ」と、言葉尻は自分に言い聞かすように彼はつぶやいた。ヨワンを、ただ一人のヨワンとして
取調べるだけでは済まぬ話なのであった。
「ヨワンは、本当に切支丹の伝道…だけが目的で、日本へ渡って来たと思いますか」
この主人の質問が、どこに重きを置くのかちょっと掴みかねて、今村も品川も返答を控えた。それで
彼は、改めて考え考えながら、こう言葉をついだ。
「いま品川さんの話を聴くうちに思ったのだが、ヨーロッパは切支丹信仰の力で栄える方向でなく、金
銀の力、商人の意欲で栄える方向にある気が、ふッとしたのです。切支丹がローマ側と反ローマ側とに、
例えばイスパーニアとオランダとに分裂していると、まァ品川さんはそう言われる。その戦も結局金銀
の力で勝敗をつけていると言われる。神信心と商いとが両立しないなどと、わたしは言わない。思いも
しない。が、金銀の慾や力が露骨にものを言うところに、純粋な信心の長続きしそうな道理も、認めが
たい。と…すると、ローマは、ないしヨワンは、そんな世界の大勢に逆らって、とんでもないたわけた
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夢をこの日本にまで見にきたというのか。もっと……別の理由があるのか」
「別の…と申しますと」と、今村が。
「ヨワンの生れ故郷はどうだか。しかしイスパーニアには切支丹を先手(さきて)によその国を侵す恐れが、いつ
も有ったと聞きます。ヨワンがあんなに沢山な品質のいい金(きん)を所持してきたのは、元禄このかた、金貨
に銀を混ぜ銀貨に銅を混ぜして評判の悪い日本の貨幣政策を、よく知っていて、しょせん日本には金が
不足していると見える、豊富で良質の金の力を用いれば日本の国は取れる。民心は揺れる…と。その偵
察に来た…ということは、ないか……」
さ、それは──と、これには皆□ごもって、目と目を見合わせるばかり。そう言ってみた彼にしても、
そんな疑いが心に兆してまた遠退いて行くあとから、ヨワン・シローテのいやしからぬ眼の輝き、それ
とあの涙さしぐんで俯いたマリアの横顔が、一切の俗論を一身に負うて償(つぐな)うように、静かに眼裏(まなうら)に近づ
いてくるのを、彼は、払い退(の)けられないでいた──。
「ヨワンは……神の使いと申して居ります。神か金か、何が心の奥を占めているのか…私も聞きとうご
ざいます」
大通詞の今村はなぜともなく堪りかねたという風情で頭を低くたれた。昨日聴事の場処へ、あのよう
にマリアの絵を加わらせて、本当によかったのか。自分としたことが児戯に類する真似であったか。彼
の惑いは昏いめまいになって、一座に、渦巻く濃い霧のような沈黙を誘った。
五
長崎の通詞三人と懇談した日、彼はおそく閨に忍んで妻に接し、そのあと夢を見た。
122
彼はよく夢を見た。見ないで寝たという夜がなかった。目ざめて、見た夢を覚えていると、時に日録
にことさら記しておくこともあった。奇異の文字や文句があざやかに得られた時は、たとえば「福寿海
無量」だの、「笛ふくやとへほにはろいいろは哉」だの、「厭三界」だのと書きつけた。笛は、彼が
ことに自愛の伎倆で、「堪ヘズ玉管ヲ吹キタレバ、散ジテ雲ヲ度(わた)ルノ声ト作(な)リヌ」といった詩句を得た
こともあったし、そうしたことが歳月を隔ててのちにも、なにがしか当時の心事や日常を一人ひそかに
探るよすがとなった。かりに他見(たけん)をはばかることも、それとなく夢に託しておくことができた。
雲中の龍などはことに記録した。黄龍、蒼龍、時に、「大赤龍を雲浪の間ニ見ル」などとも書いた。
「夢龍」の記事は宝永年になって始まり、彼自身いささかの感慨に耽(ふけ)るほど回数をました。
宝永二年(一七〇五)の──五月二日と記憶も明らかな──あの朝、「東方に黒気まどかにたちて南
へうつり行(ゆく)、屋上雷一声、西方に金色の龍北へゆく、小龍四五あとより従ひ行(ゆく)を夢(ゆめみ)ル」と彼は日記に書
いた。本当に夢に見たような、それでいてそういう夢をただ見てみたいと願いながら、晩方の夢うつつ
を漠々と漂い流されていた気もしていた。
あの年、彼は四十九歳、もう四年前のことになる。そうであった、あの宝永二年の二月四日に、前月
来患(わずら)いついていた娘のやす(2字に、傍点)がにわかに痙撃(ひきつ)けるように苦しんで三歳(みつつ)で死んだ。更に二年前の六月四日に、
「五つ時(晩八時頃)お養寿(やす)出生」と日記に書いたその子の、今はことりと小さな頭を落した最期を、
「今夕八つ時(四時前)養寿女死す」と、その日は、凍てた硯の墨を溶いて記さねばならなかった。
ところが同じ宝永二年二月のうちに、彼は、西の丸側衆の間部詮房(まなべあきふさ)支配下に入れられ、寄合(よりあい)格となっ
て私室を西の河内に与えられた。三月には将軍綱吉が右大臣に、彼の仕える家宣も権(ごん)大納言に昇任とい
う、悲喜交々(こもごも)の春であった。
そして晩秋九月末になると今度はあの、むら(2字に、傍点)が、辛うじて男児を産んだ。外神田旅篭(はたご)町、明神裏の葉
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桜の崖と呼ばれた崖っぷちに、むら(2字に、傍点)は祖父と住んでいた。だが、わずか一年余りして、翌る宝永三年師
走の寒さに、消えいる雪のようにむら(2字に、傍点)は死んだ。生れた男児の方は、二た月と寿命が保てなかった。
おむら(2字に、傍点)が死んでしまった師走「廿日」は、珍しい小春日和であった。
あの日の日記に、彼は、今日お城へ上(あが)った、今年の御講義は今日までで終えた、『資治通鑑(しじつがん)綱目』を
五代漢の乾祐元年まで講じたことになる、と書いた。明日は上様(将軍綱吉)が西の丸へお成りと聞い
ている。ご主君(家宣)は今日脚講義のあと大神宮御神宝図その他をお観せ下された、その御箱の銘な
どの御用を承って帰宅した。今年中の進講は都合七十一席に及んだ、とも彼は書き連ね…て、そのあと
へ改行して小さく、「今日おむら死去」と書き入れた。思わず呻(うめ)き声の漏れる、のを、おさえて起(た)って
前年の「委他日暦(いいにちれき)」をもちだすと、彼は、書くのをはばかってきたもはや亡い三蔵(さんぞう)出生の記事を、宝永
二年九月の、廿日と廿三日との間へ、「おむら産ス」と小さく筆で補い入れた。筆の穂が戦(そよ)いだ──。
ゆうべ、妻に接したすぐあと、昔のままのむら(2字に、傍点)を烈しく夢見たことで彼は心揺すられていた。かって
無いことであった。夢で、死んだむら(2字に、傍点)が、わざと彼に顔をそむけて黙りこんでしまうのに、何度も困惑
したのを思いだす。しかたなく無骨にただ手をこまねいていたそういう折々の気持ちが、奇妙なことに、
あの、泣いたマリアの絵を初めて観たとっさの驚き──当惑が半分のふしぎな満足──にどこか似てい
たのを、彼は、けさ朝早に妻のよこで目ざめて以来、思い出し出ししていた。
金色の龍が子龍を従えて天翔(あまかけ)る夢をみた四年まえ、宝永二年五月のあの日は、前夜からむら(2字に、傍点)の家を宿
にしていた。夢の話をしてやるとむらは何故か顔をあかくした。そんなことも、あとで彼は思いだした。
お城へ上り、一夜あけてまたむら(2字に、傍点)の家へ行った。我ながら心得ぬ振舞いに思えた。むらは彼の子を妊っ
ていることを告げた。
驚樗したが面(かお)に出さなかった。そしてむら(2字に、傍点)と触れて、そのまま床をひとり移したあと、また龍を夢に
124
見た。そればかりか暁方になって、まざまざと、「あさねがミ甲斐ある春を待(まち)得つゝ」という句を夢中
に得た。それが自分の本心なのか、むら(2字に、傍点)に対する劬(いたわ)りなのか解(げ)せぬ気持ちであったが、その日の日記に
書き記すことは忘れなかった。
その後数日間彼は持病に苦しみ、やや平常にもどりかけてまた暁に「信」の字を、そのさきには彷彿
として「證」の字を夢に見た。「證」の方は朧ろに過ぎたが、強いてそれと想いきめ、五日ぶりの日記
に、その事一つを書きつけた。
笛ふくや とへほにはろいいろは哉
そう夜半に夢見たのは、さらに四日後のことであった。夢の内にしきりに笛の音を追うてさまよい疲
れた。むら(2字に、傍点)が母方につながると聞いた縁を、人知れず、重く感じた。感じながらちいさなむら(2字に、傍点)を胸に抱
きすくめてやる時、とかく身近にもう亡い母の面影を彼は宙に捜していることがあった。
彼は──明暦三年(一六五七)二月、江戸柳原の土屋利直の仮寓で生れていた。振袖火事といわれた
まれな大火の余儘がいたるところで燼(くすぶ)っていた。土屋侯に、このさなかに生れたこの子は「火の子であ
る」と笑われた。
土屋の臣であった父の新井正済(まさなり)はすでに五十七歳。その人物に幼来傾倒して彼は成人したが、父の出
自も経歴もはき(2字に、傍点)としなかった。武勇の血筋とは信じられたが、人手に育って出奔浪々の歳月は久しく、
久留里(くるり)藩主の土屋家に初めて仕えたという父三十一歳以前のことは、確かめえずじまいであった。父が
妻を、彼の母千代を迎えたのも四十をはるか過ぎてからと聞いたが、それも不審の一つであった。
彼を生んだ時、母坂井氏は四十二歳になっていた。じつは坂井氏というのさえ、信じられぬふしがあ
った。五歳の姉が存命で、べつに義兄正信という人が南部の相馬忠胤に仕えていた。なぜ義兄なのか、
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どこへ誰とどう繋がるのかも、永いあいだ彼は知らなかった。
母は、彼にとってもこよないお人であったが、どのような人のお子であったのか、母方の祖父母につ
いて折にふれ幾度か母に尋ねても、しかと答えてもらえなかった。「知らすべきでないと思えばこそ教
えない」とまで言われた。母はその上で、高貴な人が劣り腹に宿られたためしは昔も今もよくあること、
母方の親について知らないのを恥に思うではないと、熱心な子の質問をかるく遮(さえぎ)るばかりであった。
「劣り腹」の話なんぞとはまるで別の事情の伏在するらしい…のを彼は察したが、それまでであった。
その先は分らなかった。
父方の身寄りは絶えて、一人の親族とも彼は会ったことがない。懇意な浅草の報恩寺内高徳寺の以前
の住持了也が、まだ小僧の昔、先住了哉を尋ねて「新井簡斎」という人が寺へ訪れた、お父上にお知ら
せに行ったなどとかすかに記憶していた。彼の父はその、「従兄弟」とかいった人に会いに出かけ、終
日寺で話がはずんだが、そういうことが毎年あったのか、何年ほど続いたか、簡斎と名乗る人がどこか
ら尋ねてきたかなどは了也も覚えていない。昔の人は、どうしてこんなふうであったのかと、その話を
耳にした日も、彼はあまりのあてど無さに、思わず苦笑したものだ。
新井氏の祖父母、父方の祖父母が二人とも常陸国下妻庄で亡くなったという亡父正済の話は、信じて、
彼は受入れていた。だが母方の、奥州二本松に根づいていたかという推測には、なにやら昏い惑いがあ
った。
亡母は字がたいそう上手であった。和歌も詠み、古歌や古物語について幼い娘に話して聴かすことも
よくした。いつ覚えたか夫の見向かない碁や将棋をやはり娘に手ほどきして、興じていたのも忘れない。
母は、しかし、彼もそれを覚えたい仲間に入りたいと願っても、微笑んで許さなかった。古い小さな木
画に、くすんだ色の袋に蔵った美しい琴爪が入っていたのも、彼は知っている。針仕事も母は器用で、
126
「織ったり縫ったりこそ女のつとめ」と□癖のように話していた。
その母に、長い期間に強いてきれぎれに聞いた話を、あとあと取り繕って筋を通してみると、ほぼこ
うであった。──奥州二本松の丹羽宰相良重という人に娘が二人あり、姉はあの赤穂の浅野内巨頭、切
腹した長矩(ながのり)、の祖父長直に嫁いだ。妹は伊勢松坂の古田大膳太夫に嫁いだが、未亡人となって二本松に
かげゆ
帰り、尼御前の長生院と人に呼ばれていた。彼・新井勘解由の母坂井氏は、この姉妹のうち播州赤穂へ
嫁いだ人の小上臈(こじようろう)として浅野家に付き随ったのだが、のちにわけあって二本松に帰り、さきの長生焼の
もとにいた。それを父の新井正済が妻に迎えた──というのである。
この母にはたしか「兄」がいて、達筆の手紙を二、三よこしていたのを見覚えていた。名乗りは「坂
三」と二字だけであった。坂(1字に、傍点)井三(1字に、傍点)郎右衛門、または三左衛門といった名前を想像したが、その「坂井」
すら、彼が母にあまり熱心に聞くので、「新井」になぞらえて「坂井」と□車に軽く乗せたか…とも、
なにとなし想われた。「バンサン」と昔カナ書きのも一通あった。書状の書きようが、武家のらしく思
えないのが気になっていた。。
父が「縁あって」仕えた土屋侯利直は、上総(かずさの)国に二万石を占める領主であった。
しかし縁とはどんな縁であったのか。記憶のかぎりでも、「わしが陸奥の国を去って、山陽道の方へ
行こうと箱根山にさしかかった時に」などと父に聞いた覚えが、たしかにあった。かと思うと播磨国の
知り人について話されたこともあり、かりにも母の里の陸奥二本松は、義兄新井正信のいた相馬領岩代(いわしろ)
ともごく近い──。
父は土屋に仕えて、まだ母をめとらぬ先に「親友」郡司氏の三男一弥という子を養子とし、正信と名
づけていた。
「親友」は常陸国の郡司のすえとか聞いた、が、もともと上野国(こうずけのくに)の出と思われる祖父新井勘解由が妻の
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染屋氏とともに、常陸国下妻庄で生涯を終えたということと、この常陸郡司氏との縁は、どこかで繋が
っていたのかどうか。
ところがある年、主家土屋の二男式部が、望まれて陸奥の相馬家を相続し、十六になっていた正信を
そのまま召し連れていった。父は妻を迎えていたが、彼のまだ生れぬ前のことである。義に篤い弥一右
衛門正信は、のちに新井家が土屋の禄をはなれ窮乏していた時期にも、義父母の老後を養うだけのもの
は欠かさず送ってきた。仕送りは、実子である彼勘解由(かげゆ)、当時の呼名は伝蔵、がのちに大老の堀田正俊
に仕えるまで、義理がたく途絶えなかった。この義兄は二人の子に元の郡司ならぬ軍治氏を名乗らせて
いたが、自身は終生新井氏のまま、一度だけ彼がはるばる二本松を訪ねて行った時は、なつかしそうに
歓待してくれた。
とにかく父正済は「ものは言わぬに越したことはない」という沈毅の人で、自然、尋ねたいと思うこ
とも言いだしかねているうちに亡くなった。父祖の伝のほとんど詳(つまび)らかでないのが彼は□惜しかった。
父と母とに縁が有った──それだけが確実で、その縁にしても父三十一歳の仕官から、四十をかなり過
ぎるまで母とは結ばれていない。姉が三人もいたとはいえ、彼自身は父が五十七歳の時の、母も四十二
になってからの子であった。父に母を引合わせたのはやはり主家土屋の縁らしかった。しかし母がどの
ような人のお子か、今もって彼は知らないのであった。
土屋家譜代に神戸という武士がいた。三人の子息のうち長男は家を嗣ぎ、二男三郎左衛門は陸奥の三
春城主の家老となり、この人の妻が新井正済の妻千代の、姉に当るという。そして神戸の三男十兵衛は
もとより長兄とともに土屋家に仕えた。この十兵衛が兄嫁の妹を新井氏に仲立ちしたのだ…と、彼は、
それとなし耳に入れてはきた。しかし確かめるすべもないまま新井氏は浪人し、神戸十兵衛も思いがけ
ぬ運命で土屋家を去っていた。
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父の沈黙も母の沈黙も重かった。まして母の「聴くな」の禁忌は彼をおどろかせた。「人の親として、
わが子に包み隠すことがありましょうか。知らせるべきでないと思えばこそ、言わない、聞かぬがよい。
母の父母のことを知らないからといって、恥に思う必要はない」とあの優しい母がにべもなかった。そ
れでもと押せば、時ににこやかに、なにかと話してはくれたが、及びもつかぬはかなし事ばかりであっ
た。途方にくれた。
延宝五年(一六七七)二月末、実の親同然に愛してくれた主君利直が死に、死後の内紛に彼は本意な
く連座して土屋家を追われた。浅草報恩寺にすでに隠居し、母ともども髪をおろしていた父新井心斎へ
の扶持まで奪われた。そればかりか前途ある二十一歳の彼は、旧主家の許可がなくては他家に仕官のか
なわない、いわゆる「主家御構ひ」という報復を受け、困窮の極に妹まて(2字に、傍点)と死別し、翌年には母にも死
なれた。
彼は浪人となって以後も、両親と報恩寺内に同居していなかった。
父も母も、わずかな蓄えをすべて彼に、伜(せがれ)の伝蔵に与えて市中の人となるよう勧め、自分たちは義子
正信の仕送りを感謝して受けていた。
僕(しもべ)一人も伴いかねる頼りない独り立ちではあった。いっそ身軽に彼は桐陰(とういん)の名で俳諧なども楽しんだ。
夢に句を得て日記に書きつけたことも再々。住居もろくに定まらず、旧知を頼って転々としながら、詩
を作り、手習いし、書物が読めるならば、噂一つで見知らぬ家の門も臆せず潜った。師について経史を
学ぶ懐中の余裕がなかった。
彼は、母がそんなに急に弱っていると気づいていなかった。見たところ八十近い父の健康の方が気が
かりであったが、可愛らしい陽気さを終生喪わなかった母は、はなやかに山の端(は)を染めて沈む夕日その
まま、刻一刻静まりながら、かりそめの一と声二た声を父にかけては、言(こと)少なな老いた夫をかえって励
129
ましていた。
いよいよ梅雨の入りを思わせる或る日、彼が浅草田原町まで破れ傘を傾けて両親の見舞いにたちよる
と、とめるのもきかず床の上に上半身をおこした母は、不運に定めかねている我が子の住まいのことを
心配してくれた。彼は勘当された常磐(ときわ)橋の土屋藩邸に、かつての朋輩を頼んでここ半年余も忍んでいた
のだが、そんな物騒な真似も余儀なくてのことであった。
母は、思いあまった目で彼の顔をうち守っていたが、とうとう、一枚の紙片を手渡した。墨の色こそ
うすけれ、乱れぬ筆で、外神田旅篭町または湯島横町の町人で、湯島聖堂にも出入りの表具師喜三郎と
いう者の名が書いてある。
母はいぶかしむ伜に、この人を尋ねておいでなさい、新井伝蔵とお前さまの名を名のれば悪くははか
らわぬでしょうと、言いおえて失礼しますよとまた力よわく横になった。白い絹を晒(さら)したように、寝床
に仰臥(あおむ)いた母の顔は、ふたかわの目尻に美しいしわをもっていたが、どんな反問もゆるさない表情には、
はッとする力があった。柿色の袖なし羽織に手をとおして、父は黙然と膝を崩さず妻の近くにいた。剃
った頭の鉢にうすく白髪がたって、庭の堀越しに、まぶしいほどよその柿若葉が雨に揺れていた。
彼は父や母が身をよせた寺を辞すると、その足で上野の御徒町(おかちまち)をぬけ、湯島の男坂を上って神田明神
うらの葉桜の崖へなにも考えずに歩いた。
その日彼が両親を見舞ったのは、彼にすれば小さからぬ一事件の事後報告をしておくためであった。
しかし彼は結局親に告げずにすませた。世話する人があってある裕(ゆた)かな町方から養子にと望まれ、彼は
それを断ったのである。
父が倅の判断に反対しないのは分っている。父からは、最も困難な道を行けと、いつも教えられてき
た。言葉にすればあるいは烈しすぎるかしれぬ教訓も、目で、振舞いで、そして気息の毅さで左右(そう)なく
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日常(つね)に突き出されると、彼は、ああ、父も自分も男で、武士だと感じてきた。そういう実感を彼は快く
思いつつ育った。
表具屋──には違いなかったが、小さな看板も貼り紙一枚もない喜三郎の家を見つけるのにすこし手
間どった。
明神社の裏門は東に幾重にも重ねた高い石段下にある。鳥居を望んで石段を上ってゆく右手に段々に
家がならび、そのまま鳥居を潜って境内に入るとすぐ右へ、桜を植えこんだ深い屋上に掛茶屋がならぶ。
板葺きの表へ葭簀(よしず)をたてた女の声のする茶屋だ、崖の下は梅の湯島におとらぬ花の名所で知られた。
そんな並び茶屋の裏桟敷を見あげるぐあいに高い崖の中腹に、裏参道の石段からそれてちょうど細帯
をしめた体(てい)に花見客が奥の稲荷脇までそぞろ歩ける小道が隠れていた。隠れるなどといえば喜三郎の家
は、石段に沿うたなかほど、小禰宜(こねぎ)か祝(はうり)かいずれ社家(しやけ)のひとつと見えるいつも表をしめた建物の横を、
その崖なかの小道へまわりこむ蔭のところに、まさしく隠れていた。
木隠れに張りだした茶屋の裏が上にみえ、やや左よりには大鳥居の頭がのぞいていた。しかし家のま
えは道一筋の眼下がいちめんの桜樹の海。時節がくれば花に酔いますと喜三郎は高声に笑い、しかし、
その余のときはあまり静かさに、むしろ雨をまち風をまつくらいですよとも、総じて気散(きさん)じな物言いで
あった。
ごらんの手狭ながら、いつまでなりとお好きにこの家をお使いなさい。近所から飯炊きのばあさんが
一人来てくれますが、ほかはあそこにいる子が一人ですと目でつげられて──、もとより広いはずのな
い家の、崖の根方へそれでもやや奥まった物蔭から、くすんだ色の着物を着せられきちんと坐ってこっ
ちを見ている、七、八つの、髪の下がり端(は)が美しい女の子を、物珍しく、さっきから彼は気がついてい
た。ひっそりと咲いたような□もとが愛らしい。それが、おむら(2字に、傍点)であった。
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狐につままれるとはこれであった。しかし喜三郎は、なにも答えてくれなかった──。
「可愛らしくなりましたか」と、翌る日に常磐橋から引越しかたがたもう一度浅草へ報告にまわった時、
母は安堵した様子でむら(2字に、傍点)のことを尋ねた。はいと彼が頷くと、
「身の者と思って、いとしんでやって下されよ」と、もう聞き取れないほどの低声(こごえ)で、うすい夜具の襟
に半分顔を隠して、母は細い涙を流した。
母はその晩方に逝(い)った。老父の鳴咽(おえつ)を、彼は生れて初めて寸時耳に聴いた。稲妻におくれて遠い雷が
むし暑い雨を呼んだ。「おお逝かれたか」というさりげない住持(じゆうじ)の声を物越しに耳にしながら、母の一
生が、なんだか寂しすぎたもののように想われた。
「母上」
胸にあわした母の冷えた手を両方から握りしめて、顔を伏せた。蒲団の湿気にまじってさも梨の白い
花ににた香を感じた。骨立った小さな小さな母の手がもう枯れ枝をもむようであった。
父は──首を横にふって、彼とのその後の同居を肯(がえ)んじなかった。
喜三郎の歳は五十九だそうで、物指をあてたような長身を機敏に動かして、人当りよく、よく働いた。
表具という手わざははた(2字に、傍点)で見ていてもなかなか面白く、手伝いたいほどに思っていても喜三郎は取りあ
う風も屈託もなく、一人できびきび仕事をつづけた。暮しの端々に上方で修行してきたらしい風儀かう
かがえて、こんな引っこんだ場所で商いがあるかと思うのが、顧客(とくい)にも恵まれて存外によそから次々仕
事をもって帰る。彼は、むら(2字に、傍点)と一緒に体のいい喜三郎の留守番をつとめた。
おむら(2字に、傍点)は余念なく独りで遊び、ときどき遠巻きに彼が勉強の姿を眺めていたが、呼んでやれば嬉しそ
うに来てそばに坐った。喜三郎の話そうとしないことを、頑是ない少女の□から聞きだす気にならない。
聞き出せるとも思われなかった。むら(2字に、傍点)が喜三郎の孫で、今はいない喜三郎の妻があの母と文通があった
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母の兄「坂三」の娘、彼には年上の従姉にでも当る人ではなかったか…と、そんな勝手な見当だけを一
人でつけて、彼は、分らないことだらけなこの崖ッぷちの小家に暮す自身の立場を、ひとり納得させて
いた。
翌延宝七年秋、旧主土屋頼直、利直の子、が幕府にとがめられ改易されたことから、彼の「御構ひ」
という酷(むご)い拘束もひとりでに解かれ、そして幸い三年後の天和二年(一六八二)春三月には大老堀田正
峻に召抱えられた。しかし朗報も束の間の六月九日、父心斎新井正済(まさなり)は八十二歳で卒去した。亡母が語
らなかったことを、この父もまたなに一つ言い遺さずに、最期にくわっと彼の眼をふかく覗いて、そし
て吹き消えたように逝った。姉も妹もすべて死に、天涯に一人の肉親ももう彼は持たなかった、「身の
者と思って」と母がささやいた、明神下の稚(いとけな)いおむら(2字に、傍点)を、それと信じる以外には。
彼はしかし大手角(かど)の堀田氏邸内に移り住んだ。仕官の条件であった。むら(2字に、傍点)は十一になっていた。喜三
郎は彼の出世を喜んでくれ、幸い目と鼻のさきです、お勤めの息を抜きにいつなりとと、かたわらのむ
ら(2字に、傍点)の頭に手をおいて、
「寂しがっております」と、乾いた声でさらりと笑った。
次の年また秋八月の末に、思いもよらぬ主君の大老堀田が、江戸城本丸の御用部屋の近くで一族の稲
葉岩見守(いわみのかみ)正休に刺されて死んだ。正休もすぐ討たれた。堀田正俊は、将軍家綱の世に専権をふるった酒
井忠清を押えて、上野(こうずけ)館林の城主であった徳川綱吉を五代将軍へ押し挙げた、利け者の老中であった。
時の大老酒井は、家綱没後の新将軍に、京都から、有柄川宮(ありすがわのみや)幸仁親王を迎えようと提議していたのであ
る。
その堀田正俊が刺されたについては、大老就任後の専横を正休が僧んだとも、おなじ理由から将軍綱
吉が暗に命じて討たせたのであるとも評判され、概して正俊に分のわるい結末であった。嗣子正仲は古
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河から翌貞享二年には山形へ、さらに翌元禄元年福島へと移されて所領を減じ、妻朝倉氏をめとって新
主に従っていた彼新井伝蔵は、またも食うがやっとの有様であった。しかし彼はこの間に敦厚(とんこう)の師木下
順庵先生と出あい、ほとんどその客分の地位を一門に占めていた。元禄二年(一六八九)八月にはもう
二人めの娘清が生れた。彼は三十三歳になっていた。
彼の今日あるは、一に将軍家宣公の御恩であり、それにも劣らず順庵先生の御恩であった。しかし堀
田家に奉公の頃を思い起してきっと胸にうかぶのは、瑞賢河村十右衛門の名であった。この人が推さな
かったら、素寒貧の彼に大老家へ仕官の道のつく道理がなかった。
伊勢国の一百姓が、江戸へ出て大きく身を起したという、十右衛門は、ただそれだけの一成功者では
なかった。「火の子」の彼がちょうど生れた明暦大火の時、この十右衛門はすでに四十歳であったが、
その後の十数年で「天下にならびなき」分限者(ぶげんじや)になっていた。緻密で大胆な才覚を活かして次々に事業
を起した。成功させた。なにより当時の幕命を受け、江戸をでて東回りと西回りの日本列島を周回する
大航路をみごと安全に開拓したのも、この河村瑞賢であった。諸国の産物は江戸へ上方へと大きく動い
た。
素浪人の新井伝蔵を三千両をつけて孫娘の婿に迎えたいと、そんな瑞賢がいつ見込んでいたのか、彼
の方にまったく覚えはなかった。訊ねもしなかった。ただ一議に及ばず断った。それもその後の縁にな
った。瑞賢は彼を堀田家につよく推し、彼は瑞賢の業績を世に伝えて『奥州海運記』と『畿内治河記』
の二冊を著(あらわ)してやった。
大老堀田が若年寄稲葉に刺された真相も、彼は瑞賢から聴いていた。淀川改修工事を起すについて視
察に出むいた稲葉の意見も見積りも、別途に調査していた瑞賢のものとははなはだ見劣りがした。正俊
は瑞賢の策を推し、面目をかけた正休の策をむげに退けた。翌日大老は殿中に死んだと。
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元禄二年秋、彼は妻子を江戸の新小田原町に置いたまま、禄高の多くを削がれた非運の主君堀田正仲
にしたがい国替えの福島に赴くと、一日(いちじつ)、暇(いとま)を請うて義兄新井正信を岩代中村に尋ねて行った。義兄(あに)は
もう孫をもっていた。二人の子も相馬領では、名が聞えていた。
久しい義兄正信の厚志を、彼は亡き両親に代って感謝した。そして挨拶もすみ、また家族との寛いだ
時間もすごしたあと、改めて義兄弟二人の席にかえると、彼は、新井の親たちのその親のことなど、ど
うかお教え下さいと懇願した。子として後生にも正しく伝えたい──。
「いやいや、わしとても何もよく知りませんぞ」
肩幅の広い想ったよりずっと濶達(かつたつ)な正信は、大きな声と両手でまず彼を制した。他意のない声音であ
った。
「バンサンと書いてよこす兄が、母にはございましたか」
「バンサン……」
「坂、三と…」
正信はまじまじと彼を見ていたが、やがて息を吐いた。
「知りません。しかし、今…初めて、ある推量もわしはしてみた。……分らぬ。そなたに言わぬ方が良
い気がする…」
お話し下さいと彼は頭を低(た)れた。聴きたかった。
「関ヶ原の戦があった。その頂生れられた兄者(あにじや)があられた。そのようには、聞いた覚えがあるが、坂井
氏とは……」
「母は神君(しんくん)の隠れられた年、同じ月に生れています」
「それは聞いた、だから十六、七も歳が離れていると。事情は知らない、が、今、初めて知った、その、
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バンサン。はたして例えば坂(1字に、傍点)井三(1字に、傍点)右衛門などを約(つづ)めたか……、そなた、聞かぬ方が良いのではないか」
「いいえ」
「……なら言おう。思いつきだ。言わぬ方が良いと思うがな。わしはこの相馬で宗門方(しゅうもんがた)に少々係わって
きた。古い記録も引っくり返したことがある。…バンサンとは、切支丹が名乗った宗門の名かも知れな
いのだよ。例えばバンサン孫蔵とかペイトロ太左衛門などが、相馬でも捕えられていた。が、ただし言
いがかりのようなものだ。忘れてほしい」
「……。母は、やはり陸奥の人でしたか」
「さよう。もともとは上方に根のあるお人かと、耳にしたような自分で察したような記憶も、ある。昔
から存外に京大坂の人が陸奥へ下(くだ)っていたのは、そなたも知っておろう……」
知らぬが仏というぞと、義兄にちと窘(たしな)められ、福島に帰った。我ながら不思議に義兄の「言いがか
り」に驚かなかった。仙台に福島に山形に、高岡(弘前)や秋田に切支丹の教勢の極めて熾(さか)んであった
とは噂に聞いた。仙台の支倉(はせくら)某が遥かなローマ国へ使者に立ったということも。しかしあの母は、父と
ともに念仏門のお人、それは真実(まこと)であった…と、思う。
あの喜三郎も或いは「バンサン」のくちかと疑った。しかも疑いながら彼はかつて知らぬ不思議な懐
しさも、遠い江戸の、神田明神裏の葉桜の崖ッぷちに隠れ住む、喜三郎とおむら(2字に、傍点)のうえに感じていた。
「身の者」という母の言葉が今さらに遺言となって、今は妻子も養いかねている彼の寒々とした胸の洞(うろ)
を、ゆらゆらと満たした。また禄でもない禄から離れて、江戸へ…と、浪人しよう…と、あの時──彼
は思った。
──以下中巻──
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作品の後に
東京へ出てきて就職し結婚し、質素を絵に描いたような暮らしをしていた頃は、テレビどころか新聞
もながいあいだ取れなかった。葱二筋、卵一個といった日々の買い物で、便所もないアパート六畳一間
の家賃を支払ったあとは、五千円ほどしか給料の残りがなかった。一階東南の角部屋に、それでも窓に
カーテンをかけた日の気の晴れやかであったこと、忘れない。貧しいなど、現在ほども気にかけていな
かった。豊かでなんかあるワケがない、学生生活をおえてきたばかりで、妻は両親をうしなっていたし、
わたしも育ての親の仕送りなど露ほども望みはしなかった。自立して暮らす気だった、気概や希望をも
ち幸せだった。心配は妻の健康だけであった。
ああいう時節をいわば門出にもてたことを、痩せ我慢でなく、心からよかったと思う。何十年かの未
来のあることを無意識に頼むことができた。若さだった。
新井白石は、優れた『折焚く柴の記』をのこした碩学で政治家であり、そして読む人にもよるだろう
が、私は、この白石自伝のごく早くに見える、主君の命をうけて睡魔をこらえながら昼に三千字、夜に
千字を書き徹したという幼少の頑張りなどに、とくに心をひかれたわけではなかった。それより浪々素
寒貧の青春に、さる富豪から莫大な結納金つきで婿にと望まれたのを即座に断った話を、いいなと思っ
た覚えがある。後に徳川綱豊(六代将軍家宣)に仕え、相携えて一心に仁政をこころがけた努力など、
なかなか成果はあげ得なかったとはいえ、清々しいものがあった。この白石の情熱と人格との底から日
本の近代は立ち上がって来たという理解を、どうしても私は捨てられないでいる。新井白石と八代将軍
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吉宗とはまさしく生さぬ仲のように見られているけれど、しかも底深く流れ合うて「近代への意志」を
共有していたとも私は信じて疑わない。
白石の近代性を思想や学芸の面で支えたのは、宋学が秘めた合理の魅力であったろう、が、別して忘
れ難いのは、白石自身「一生の奇会」と心に刻んだ、ローマ僧シドッチとの出会いである。そのいわば
公儀の報告書は漢文で書かれて流布し、いま一段私の思いに彩られた収穫は、和文の『西洋紀聞』とし
て、表向き門外不出の本に書かれた。だが事実は、シドッチ審問録ともいうべき当時稀有の世界情報録
は、読まるべき人には大切に読まれ、また内々には広く読まれて来た形跡が著しいのである。
新婚後の文字どおり赤貧時代をまだ脱しきれないでいた頃の、それでも私の楽しみのひとつは、タダ
同然の古くて傷んだやや背のたかい旧版の岩波文庫、それも日本の古典や歴史の著を古本屋で捜すこと
だった。背は破れ、手垢と時代とでくろずんだ本ばかりを買っておいて、いつか読むぞと思っていた。
そんな中に『西洋紀聞』があり、また例えば『梁塵秘抄』などがあった。
『西洋紀聞』は決して読みいい本ではなかった。だが、これが、いわばアルファベットぐらいしか知ら
ぬ白石と、オランダ語しか通じない長崎通詞たちと、オランダ語はできず日本語もかろうじて不十分に
片言しか話せないシドッチとの、苦心惨澹の対話の中から収穫された出色の世界地理書であることを思
うと、鳥肌立った。ちょっと想像すればわかる、なみたいていのことでなく、こんな不可能を可能にし
たのは、当事者たちのとほうもない誠意と知性だと尊敬したい。すばらしい。素直すぎるとわらう人も
あるかも知れない。そんなことは、どうでもいい。白石もえらかったが、シドッチという忘れてしまわ
れがちな、今なお列聖されていない優れた聖職者の人間の魅力も莫大であり、私は『西洋紀聞』を一読
このかた、二人が「一生の奇会」を通じて我が「近代の開幕」を、いつか、ぜひ書きたい書くぞと心に
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誓っていた。
京都新聞社から朝刊に連載小説の依頼があった当初は、私に、たとえば池大雅など京の画家に取材し
た小説をという目論見であったらしい、が、我が儘をきいてもらってこの『親指のマリア』を書かせて
もらった。その数年前に雑誌「世界」に連載した『北の時代?最上徳内』の、いわば根源をさぐりたい
気持ちだった。徳内やその師本多利明らを支えていた近代的意欲は、明らかに新井白石の優れた知性と
人格とに根差していたと私は見ているのである。
それにしても「切支丹牢内」での四度の審問が、白石とシドッチとのまみえた「奇会」の場だった。
挿絵を担当の池田良副氏(遥邨画伯の孫)のご苦労はたいへんなものだったが、さわやかな、いい線の
絵がたくさん生まれた。あらためて感謝申し上げる。また熱心に支持してもらった当時京都新聞記者の
杉田薄明氏にも、重ねて、心からお礼を申し上げる。美しい単行本にして下さった筑摩書房の中川美智
子さんにも感謝している。
一つのよりどころとなった『西洋紀聞』の「読み」について触れておきたい。たしかに白石は四度び
小日向の牢屋に出向いている。おおかたは幕府宗門方の有司も参席していたが、じつは一度だけ、白石
と通詞とだけで午前から夕刻までもっとも長時間かけて対話していたのである、ところが肝心のその日
の対座・対話を、白石は『西洋紀聞』からすぽっと書き漏らしている、いや書いていない、のである。
小説家である私の好奇心と想像力とは、それと知った瞬間からここへ沸騰してやまなくなった。それが、
『親指のマリア』を書いた強烈な一動機であった。
いま一つは、シドッチの所持品に、後期ルネサンスの画風につながる「悲しみのマリア」のたいへん
美しい額絵の含まれていた史実で、東京国立博物館で初めてその「親指のマリア」を観た感銘にも私は
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つよく背を押された。ああ、書かずに済まないなと思った。書きたいと思った。
だがさて、普通の書き方ではいやだった。時代小説のような面白づくは考えもしなかった。結果は、
「彼」という同じ人称を用い、白石とシドッチとを交互に書いて二人の共感や親愛や敬意を一筋に盛り
上げて行こうと決めた。二人を交互に対等の重みで描き分けるというのは、言うは易く、じつは新井白
石にも実像を半ばくらやみに隠した不思議な部分があり、屋久島潜入以前のシドッチに至っては、数編
の書簡や文献に埋もれたかすかな記事しか手に入らぬありさまだった。
ま、だから、書いて書きがいがあった。休日のない朝刊小説を緊密に統御し、混乱させずに書き切る
のは力仕事であったけれど、つとめて「清明」に「淡々」と書こうという当初の願いをほぼ完うしたの
ではないかと思う。こういう小説があっていいではないか、私はこういうのが読みたいんだと思う小説
に仕立てたのであり、その意味でも我が儘をつくした作品だとも言える。そういうものを読んで戴くの
だから、ただ感謝のほかは無い。幸い、私の小説としてはむしろ読み煩うことの少ない、うんと読みい
いものではないかと思い思い、校正をした。どうぞ三巻を通して「お静かに」お読み下さいますよう。
びっくりするほど激しい魂のドラマに出会っていただけると思います。
お気付きのように、今回の小説本文は一頁に二行増しの二十行どりで、やっと三巻に収まるメドが立
ちました。頁数が増えると一気に一冊の郵便代が七十円も跳ね上がります。窮屈な組みになりましたが、
大きく実質増です、お許し下さい。前回より、郵送費の一部をご支援願えれば助かりますと情けないこ
とを書き添えたのへ、大勢の方からご厚意を頂戴しました、御礼を申し上げます。
雑誌「サライ」や「日経夕刊プロムナード」などの連載はみな歳末で終え、当分書斎に籠ります。
歳末へ、また新年へ、皆様のご平安を祈ります。
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