電子版 秦恒平・湖の本 創作35
 

スキャン原稿のままで、校正は出来ていない。未校了。
 

秦恒平 湖(うみ)の本 35 あやつり春風馬 堤曲
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秦恒平 湖(うみ)の本 35 創刊十周年記念

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「秦恒平・湖(うみ)の本」創刊十周年を記念して

「湖の本」が十年間も、五十冊ちかくも出し続けられた とは、まだ当分続けられるとは、
正直に申して「夢」かと思います。日本列島津々浦々の、またアメリカからの、有り難い
読者や、支持してくださった大勢の方々のお蔭です。心より御礼申し上げます。
 記念に、「別冊」を出し、読者のなかで、多年文学に研鑽なさっている力ある何人かの
短編やエッセイを頂戴して、広く各界の方々にお贈りし見ていただくことも考えました、
が、そんな編集者役を、ただ生意気がられてもと、どなたにも申し上げませんでした。
 そこで、昭和六十年元旦刊行の五十賀記念、『四度の瀧』に付しました詳細な自筆年譜、
書誌、全作品年表のうちの「自筆年譜」をより適切に書きあらため、その後の分もむろん
完成致しまして、もっとも適当な機会に、「湖の本」をお買い上げ戴いたと記録されてい
る大方の皆様に謹呈致しますことをお約束し、その用意にすでに取り掛かりました。優に
「湖の本」一冊分以上の分量で、言葉どおりに「秦恒平の生涯」と成りましょう。遺漏
のない「書誌」「全作品年表」も前後して一冊にする積もりでおります。どうぞいま暫く
「湖の本」を継続ご愛顧願えれば、幸甚です。
 この記念の巻は書下ろし未発表作をもって自祝したいと思いました。
   平成八年七月二十七日娘の誕生日に     騒壇余人

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あやつり春風馬堤曲

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 昭和五十三年(一九七八)二月十四日?七月十一日  書下ろし 未発表

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 月 日
 知恩院(ちおいん)の男段をゆっくり登ってまいりました。凍(い)てていてあぶなく、一 と足ずつ、膝から膝を手でさ
さえるように足もとばかり見て、登りました。石はだのわずかな窪みに、夜露のままなにの葉 でしょう
か、黒ずんだのが薄(うす)ら氷(い)にとじこめられ、木もれ日に光っているのを見まし た。石段を登っているあい
だ、あとにも先にも人影なく、眉のうえに真冬の空と、背にずしと響く三門のたたずまいとが 道連れで
ございました。法然(ほうねん)お上人さまの、知恩院。むかし、むかしの御忌(ぎよき)。 ちょっと寂しく、ご一緒ならいい
のにという気持ちがかすめました。すぐ忘れました、──忘れ、切れなかったけれど。

  難波女(なにはめ)や京を寒がる御忌詣(きよきま うで)   蕪村

 梁塵秘抄のご放送、六回のうち二度だけ聴きました。 一年間、私たちの学校でもあんなご講義をなさ
ってもよろしかったですね。でもご担当は近代文学でしたし、漱石の『こゝろ』の読みでは、 ようまぁ
あんな……「先生」の自殺後に、「先生の奥さん」は「私」と結婚して、手記や遺書が公表さ れている
頃には「奥さん」のおなかには「私」の胤がもう確実に宿っていただろうなどと……。ほん と、漫談だ

よなんて仰(おつしや)りながら、いろんなお話で先生 は私たちをお上手に誘惑なさいました。NさんやSさんと
ときどき会うと先生のわるくちを言いあうのが楽しみです。Nさんは二条河原町の銀行にお勤 めです。
私もすこし定期預金をしています。この頃は外国のアクションものの愛読者のようです。殺伐 とした、
でも面白いストーリィに私もすこし借りて読んで、心ひかれたりしています。Sさんは植物園 に通勤して
います。春咲きの草花の名を、いろいろ教えてもらいます。ホタルカツラ、ハタザオ、ナルコ ユリなど
と。Sさんは先生の小説も読んでいます。「けしからんヤツやわ」というのが端的な批評で す、フフ…。
 梁塵秘抄のお話で、「尼は斯(か)くこそ候(さぶら)へど 大安寺の一万法師も伯父ぞか し 甥もあり 東大寺にも
修(しゆ)して子も持たり 雨気(あまけ)の候へば 物も着で参りけり」というのが面白う ございました。「おかしい。
が、ふっと笑いの凍りつく一瞬がのこる」と仰ってましたが、分かりました。すぐ、蕪村の、 「虫干(むしぼし)や
甥の僧訪(と)ふ東大寺」という句を思い出しました。エライでしょう。でもこの句、一万法 師の頑張る姪尼(めいあま)
さんとは、関係無いみたいですね。
 さて本題に入りますが、卒業論文?蕪村に決めようかと。句とも絵とも両方とも、まだ漠然 とです
けれども。責任は、先生、あなたにとっていただきます。
 もうすぐ、あれから一年になります。よく思い出します。忘れたフリはしないで。
 これでもうお別れのという授業が終わり、お昼休みでしたわ、講師室へ何人もおしかけて記 念帖や御
本にサインをお願いしましたね。私には、顔を見て「あ、きみか。後輩になるんだナしとなに やらモグ
モグ仰りながら、「たらちねの抓(つま)までありや雛(ひな)のはな 蕪村」と、出てまも なかった脚本の見返しの所
に一行に書いてくださいました。「はな」といくらひらかなでお書きになっても、常平生気に している

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ことですもの、あの時私、よほど機嫌を損じかけていま したし、かんじんのご署名を忘れておいででし
た。そう申し上げると「ホイ」なんて。みなを笑わせておいてから、「ぼく、お雛さま、好き でねえ」
とたぶん私にしか聞こえないくらいの独り言を仰った。「みんな美しいお雛さまになるんだろ ナ」とも
仰り、笑い声がまた湧きました。
 あのあと先生を白川のあの石のお太鼓橋の手前まで、ひとり追いかけました。たいがいの人 がお勤め
にでるか花嫁修行するなかで、私は四年制へ転学する数すくない一人でしたし、それもお寺さ ん経営の
短大から先生ご夫妻がご卒業なさった神学部のある大学の、専攻まで同じ科へ編入ときまった 時でした。
たしかに本物の「後輩」になる実感やら何やらで、名残も惜しいが半分、あとは何となくと、 そう
いうことに、させておいて下さいませ。
 先生があの日きりでおやめになることは、M教授にうかがっていました。京都にいくら元の お家(うち)があ
るにしても、週一日のために東京からわざわざ出講なさるのは大変そうでした。お親しいM先 生に頼ま
れて「断れへなんだんやわ」とお噂しながら、それなのにめったに休講が無いのを、ふつうは そんなの
不人気の種なのに、なんだか皆で同情していました。結局は、でも、一年間だけ、私たちの為 にだけの
「ご苦労さん」でしたわね。
 うしろから声をかけ、その日のうちにも新幹線にとお訊(き)きしました。当分来られまい し、今から詩仙
堂の方を歩いてくる、東京へ帰るのはあしたと仰(おつしや)った、あれはとっさに思い付か れたことではなかっ
たかしらと、今ごろ想像しています。あの時はとびつくように連れて行ってくださいとお願い しました。
一瞬眉間(みけん)にもう見覚えの縦皺をチカチカとお寄せになってから、「いいですよ」 と、そっぽへ吐きすて

るように頷(うなづ)いてくださいました。そして知恩 院(ちおいん)前、白川菊屋橋ぎわのバス停からさりげなく二人でバス
に乗ったのでした。
「与謝蕪村墓」と、かどかどの丸い字を彫った、とくに「与」と「村」の字のおかしなお墓 に、苔の湿
気た山のなかでご一緒にお参りしました。曼殊院(まんしゆいん)の御所めく佳いお庭をなが めての帰り道でしたわ、あ
いにくと詩仙堂があの日にかぎってご門を閉めていて、先生はがっかりなさっていました。道 のうえで、
ぼうっとまぢかな東の山のほうを見て、「志賀越えに」とか「狸谷か……」とか呟き、「いい さ。金福
寺(こんぷくじ)があるさ」とまわれ右して、とっとと先に、いさぎよく流れる水音に添って 坂の途中のせまい四つ辻
を左へ、折れ曲がって行かれました。
 季節には、いちめんの皐月(さつき)がさぞ佳(い)いだろうなと、払日山(ぶつちざん) 金福寺のご門を入ってすぐ、あの、山のな
だれの大刈り込みを見ると想いました。「階前より翠微(すゐび)に入(い)ること二十歩、 一塊(いつくわゐ)の丘あり、すなはちば
せを庵の遺跡也とぞ。もとより閑寂玄隠の地にして、緑苔(りよくたい)やや百年の人跡(じ んせき)をうづむといへども、幽篁(いうくわう)な
ほ一炉の茶煙をふくむがごとし。水行き雲とどまり、樹(き)老い鳥睡(ねむ)りて」まで、 お寺の案内書きに刷った
蕪村自筆の『洛東芭蕉庵再興起』の出だしを読んでくださりながら、突然でしたわ、「あな た、大学で
蕪村をおやんなさい」と先生は仰ったんです。
 先生はさっきから私のことを「きみ」「あなた」「浦島さん」と三種類に呼びわけておいで で、ど
んな感じのときに「あなた」で「きみ」で「浦島さん」なのかと、つまらないことばかり気に していた
矢先でした。お昼にご著書に蕪村の句を書いていただいたというだけ、その余は蕪村のかけら も頭にな
いあの頃でしたから、こころもち、しらけた気分になりました。それでも、あの思わず爪先立 つほど冷

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えた曼殊院お庭先の縁側で、先生はひやかすように「き みは、きちっとした文章が書けるねえ。字も、
よく読めるようだし……、お寺さんはチガウねえ。中身が伴えばもっといいんだがね」と、ず いぶんな
お褒めにあずかっていました。「できるんですか、あたしに」と小さく、すこし拗(す)ねた ような声で顔を
あげました。「できるかも知れない。言うとおりにすれば」と先生はわざと聞こえないくらい 横を向い
て仰ったんです、私も聞こえないふりをしてお返事をしませんでした。
 大刈り込みの奥の、たしかに丘ともいえる小山のうえにささやかに萱葺(かやぶ)きの芭蕉 庵は建っていました。
西の縁に腰かけまた南側へうつり、そのあと竹をあらく結った小窓からくらいお水屋のなかを 覗いたり
しましたね。先生は話してくださいました、芭蕉ゆかりの遺跡と知った蕪村が俳諧仲間を語 らって、こ
の庵を再興したんだよ、ホラあそこの「うき我をさびしがらせよ閑古鳥」と芭蕉の句を碑にし たのも蕪
村なんだよと。蕪村自身も「我も死して碑(ひ)に辺(ほとり)せむ枯尾花」と生前に吟じて いたのを尊重して、遺族や
門弟が、うしろの山なかに蕪村の墓を建てたとも先生はゆっくりとお話しになり、中節(なか ぶし)の竹筒に寒椿と
赤い実の千両とがぞんざいに挿してあるまえで、頭をさげていらっしゃいました。しろい比叡 おろしが
頭のうえの松が枝(え)を吹きぬけて行きました。よほど遠くでのんびり立ち話でもするらし い人声が風にの
ってきて──、「寒いかい」と訊かれました。なんだか勢いこんで頷くと、先生はなだめるよ うに両方
の掌(てのひら)をそっとひろげて微笑(わら)われ、そのお誘いのなかへ私は身をもむよう に肩さきから舞い落ちてしま
ったのでした。

  うつゝなき つまみごゝろの 胡蝶哉

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 たしかに、そう口遊(くちずさ)まれたはずです。お かしな人、つまむのがお好きねと思いました、あのかすかな
私ひとりの可笑(おか)しみに、気持ち、救われていたのかも知れません。蕪村、勉強しても いいなと、夢のよ
うに思いました。それでいて与謝蕪村が絵も描いた人とは忘れておりました。先生もあの日、 絵のお話
はすこしもなさらなかった──。
 私、書けるものならば、蕪村の「夜色楼台雪万家画(やしよくろうだいゆきばんかず)」を 中心に卒業論文が書きたくなりましたの。あ
の墨一色の山なみが、私たちの深い夢をのみこんだ東山かどうかは問いません。点、点、点と かすかに
数えるほどもなく雪に沈んで目にみえないちいさな窓にもれている朱(あけ)の灯(ひ)のい る、いろ。画集の見開き
におおきくひろげて眺めているだけで、涙が目ににじみますの。蕪村はあの灯を、雪を肩に、 戸外から
眺めていた人なのでしょうか。それともあの灯のしたであたたかに寛(くつろ)いでいた人な のでしょうか。いい
え、いいえ。私が知りたいのは蕪村のことなんかじゃない……。
 私はあの日、あれはどこでしたっけ下河原(しもがわら)辺の路上で、東と西にお別れして からさき、蕪村のことは
忘れていました。なるべく思い出すまいとしていたのです。でも、あのあと、先生は遠くから 私にお電
話くださいました、東京へ逢いにおいでと。そして有楽町のI美術館で、偶然ではなかったの ね、私に
蕪村のあの絵などを見せてくださいましたわ。「雪万家画」のまえを動こうとしない私に気を つかって、
そーっと背に手をそえ黙っていて下さるのも嬉しくて、ぽとぽとと涙をこぼしました。あの絵 の灯(ひ)のし
たでご一緒にいたいのにと泣きました。
 あれから文庫本の句集を手はじめに、すこしばかり本や画集を買いました。大学の図書館も よく利用

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しました。七条の博物館へもひとりで通いました。ひと りっきりになれる一番の教室は京都博物館だよ
と先生にお聞きしていました。でも先生には隠していました。すこし依怙地(いこぢ)な気持 ちになっていました。
このお正月にはその依怙地も緩(ゆる)んでいました。「言うとおりにすれば」と仰いました でしょう。「言わ
れるとおりに」致します。蕪村への道をお教えください。
 私たちの大学は、お聞きおよびでしょう、ますますキャンパスも狭苦しくなってきました。 それでも
御存じのN館の教室から見晴らす雪の比叡山は痛いくらいとんがって、光っています。時間が あるとひ
とりぐるぐる御所を歩きます。白砂(はくさ)をふむ音が御門のある長い塀つづきによく似合 うと仰っていたのを
思いたします。吹き降りの綿雲をオーバーの背や肩に積んで、しんから凍(こご)えて歩きま す。目をとじると
遠くに温かな灯の色が明滅します。
「宿賃さぬ燈影(ほかげ)や雪の家つゞき」という蕪村の句が好きです。嫌いです。ひとり ぼっちです。
 おゆるしください。ながばなしが、つい、過ぎました。お元気でいらっしゃることは、先ご ろ、いい
え昨日です、テレビの朝の奥さま番組でみています。朝日子(あさひこ)さんのお名前のこと をお話ししてらした。
娘に伝えるもの──名前。朝日子さん、来年は大学受験ですね。                名もなき者

 月 日
 後悔しています。手紙は、書いても、投函するのではなかった。いくらお仕事場がべつにお 出来にな
ったといっても、もともと手紙でなにが言えるかと仰っていた先生に、あの長手紙を出してし まうなん
て。嫌ってくださいとお願いするようなものでした。こう辛抱が無くてどうするというので しょう。ご

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返事も無いし。ごめんなさい。                           浦島朋子

 月 日
 胸も凍りそう、不安でたまりません。長い手紙をおくりつけたと怒っておいででないように 祈ってい
ます。どなたに祈っているかとお尋ねになったらどうしましょう。いまは先生にむかって祈る しか、私
に神様も仏様もありません。
 ひとりで震えているのが耐えられないので、せめて蕪村の絵のことを書いてみようと思いま す。「雪
万家図」のことです。
 あのふしぎな白っぽさが最初から気になっていて、以前東京で見せてくださいましたときに も、質問
しました。「あれは紙の素地が白いんじゃないよ、薄い墨のうえから一種の白い絵具(先生は 私のため
にわざと顔料(がんりよう)とは仰らなかった)を一刷(ひとは)きしてあるんです。」そし て胡粉(ごふん)という名前を教えてください
ました。或る牡蠣(かき)の貝殻からできる日本の独特の白色顔料であること、この頃になっ て私は覚えました。
「あの絵の全面に胡粉の下塗りがしてあるんだよ、それだけでもこの絵はちょっと異様なん だ、ふつう
の墨絵とは行き方がちがうんだよ」と、わかりっこない私に、仰るともなく呟いてらした。聴 いていま
した。
「ふつうの墨絵じゃあんなことはけっしてしないよ。蕪村がだれに教わったか分かんないんだ けどね、
とにかく、あれで雪がふっくら見える、それだけの工夫がしっかりしてあるんだな」とも。
 この絵は「雪」ですもの。主役は「雪」の魅力ですもの。最初(はな)っから先生はいちば ん大事なことを教

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えてくださいました。胸の芯をほとほとと優しく叩きつ づけるような「雪」の白の深さ。それが見えて
くるだけで、蕪村に、まぢかに出会っているような気がしてきてなりませんの。それにしても 蕪村は胡
粉の白をとっても丁寧に──言葉がへんですけれど──殺して使っていますのね。白い雪をほ とんど灰
色のように殺して、そのために雪はますます深い白を、もの言うように温かく輝かせて──。
 でも「雪」だけが絵の魅力であるわけ、ありませんね。絵の全面がもの言うようであるいち ばんの効
果は「雪」の白かもしれませんが、「山」を描いている線の、自在につよくてやわらかで適切 なことに
びっくりしています。先生は、教室でよく仰っていました、色彩は瞞著(まんちやく)、日本 の絵の真の魅力は線の精
神力にあるのだよと。あんなこと文学の時間になんぼ仰ってもだれもよく聴いてなどいません でしたが、
私は仏様を描いた絵でもすばらしいものほど線の力に心をひかれていたんだわと、とても嬉し く合点が
いっていましたの、ですから蕪村の「夜色楼台雪万家図」にも、まず、それを感じて好きに なったのだ
と思うんです、生意気かな。そしてあの点々とあからんだ──岱赭(たいしや)の──屋内の 灯火。
「これはね、きみ。日本画なんです。いわゆる墨絵だと思っちゃ間違うんだ。蕪村ておっさん はね、一
筋縄じゃゆかないんだよ、一種の盗ッ人なんでね。いろんな技を、当時の常識からすりゃ、邪 道そのも
のというほど平気で利用している。そいつが見えてくると、俄然蕪村の顔まで見えてくる。ひ でぇじい
さんさ」
 先生はそんなふうに仰り、ひょっとして先生はご自分のこと言ってるんだわと、ふっと可笑 しいよう
な、物悲しいような、いやだわという気持ちになりました。何がいやか──「ひでぇじいさ ん」なんて、
いやじゃありませんか。

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 あぁ、もう息苦しくなってきました。これ以上書いて いたら、とんでもないことを言い散らかすかも
しれません。先生からのお便りが無事に届かないかぎり、この、今日書きました分も送りませ ん。ごめ
んなさい。いやな私……謝ることなんか何もしていないのに。               朋子

 月 日
 おはがき、ありがとうございました。
「若竹図」など俳譜ものの草画(そうが)も見るようにと。絵のような絵とは、見えない絵も あるから、とくに蕪
村の絵に親しむのならば、絵についての固定観念を先ず忘れてかかるようにと。ありがとう、 せんせい。
うれしくてなりません。
 とりあえず、お言葉どおり「ダマサレタと思って春風馬堤曲(しゆんぷうばていきよく)を 五回、マル写し」してみました。暗記
してしまいました。お礼に、六回めをここに書いてお目にかけます。

                                       謝蕪邨(しやぶそん)
余一日問耆老於故国。渡澱水過馬堤。偶逢女帰省郷者。先後行数里。相顧語。容姿嬋娟。癡情 可
憐。因製歌曲十八首。代女述意。題目春風馬堤曲。
(余(われ)一日者老(きらう)を故国にとふ。澱水(でんすい)=淀川を渡り馬堤=毛馬堤 (けまづつみ)を過ぐ。たまたま女の郷(ごう)に帰省する
ちぢやう
者に逢ひ、先後して行くこと数里、相か顧みて語る。容姿嬋娟(せんけん)、癡情あはれむべ し。よって歌曲
十八首を製し、女に代って意を述ぶ。題して春風馬堤曲といふ。)

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  春風馬堤曲 十八首

○やぶ入や浪花を出て長柄川       (やぶいり やなにはをいでてながらがは)
○春風や堤長うして家遠し        (はるかぜやつつみ長うして家遠し)
○提ヨリ下(オリ)テ摘芳草 荊与蕀塞路  (堤より下りて芳草(はうさう)を摘む 荊 (けい)と蕀(きよく)と路を塞ぐ)
 荊蕀何妬情 裂裾且傷股        (荊蕀何ぞ妬情(とじやう)なる 裾(くん)を 裂き且つ股(こ)を傷つく)
○渓流石點々 踏石撮香芹        (渓流石鮎々 石を踏み香芹(かうきん)をと る)
 多謝水上石 教儂不沾裾        (多謝す水上の石 われをして裾(もすそ)をぬ らさざらしむ)
〇一軒の茶見世の柳老にけり       (一軒の 茶みせの柳 老いにけり)
○茶見世の老婆子儂(ワレ)を見て慇懃に (茶店の老婆はわれを見て慇懃(いんぎん)に)
 無恙を賀し且儂(ワレ)が春衣を美ム   (恙(つつが)無きを賀し、且つわが春衣(は るぎ)をほむ)
○店中有二客 能解江南語        (店中に二客あり よく江南の語を解して)
 酒銭擲三緡 迎我譲榻去        (酒銭三十をおき 我を迎へ榻(たふ)を譲りて 去(さん)ぬ)
○古駅三両家猫児妻を呼妻来らず     (古駅三両家(さんりようか)、猫 妻呼べど妻 来らず)
○呼雛籬外鶏 籬外草満地        (雛を呼ぷ籬外(りぐわい)の鶏 籬(まがき) の外は草地に満ち)
 雄飛欲越籬 籬高堕三四        (雛は越えて飛ばんとすれど 籬(まがき)は高 く三度四度堕(お)つ)
〇春艸路三叉中に捷径あり我を迎ふ    (春艸(しゆんさう)の路三叉(みちさんさ)  中に捷径(せふけい)あり我を迎ふ)

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○たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に   (たんぽゝ 花咲けり三々五々 五々は黄に)
 三々は白し記得す去年此路よりす    (三々は白し記得す去年も此の路よりすと)
○憐ミとる蒲公茎短して乳を■(アマセリ)(あはれみ採る蒲公(たんぽぽ) 茎短うして乳 をあませり)
○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩  (昔むかし しきりにおもふ慈母の恩)
 慈母の懐袍別に春あり         (慈母の懐袍(くわいはう)べつに春あり)
○春あり成長して浪花にあり       (春あり 成長してなにはにあり)
 梅は白し浪花橋辺財主の家       (梅は白し 浪花橋辺 財主の家)
 春情まなび得たり浪花風流(ブリ)   (春情まなびえたり 浪花ぶり)
○郷を辞し弟に負身三春         (郷を辞し弟(てい)に負(そむ)く 身三春 (みさんしゅん))
 本をわすれ末を取接木の梅       (本(もと)を忘れ末を取る 接(つ)ぎ木の 梅)
○故郷春深し行々て又行々        (故郷は春深し行きゆきて又行きゆく)
 楊柳長堤道漸くくだれり        (楊柳の長堤道漸く下れり)
○矯首はじめて見る故国の家黄昏     (首をあげ初めて見る 故国の家は黄昏(くれ) そめて)
 戸に倚る白髪の人弟を抱き我を     (戸による白髪の人の 弟を抱き我を)
 待春又春               (待つ 春また 春)
○君不見古人太祇が句          (君見ずや古人太祇が句あるを。)
  薮入の寝るやひとりの親の側     (やぶいりの寝るやひとりの親のそば)

(祇:示へん に 氏)

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 いろいろ覚えました。「荊与籟」は「荊と蘇と」と訓 (よ)むのをおぼえました。「老婆子(らうばし)」は老婆と子供
かとはじめ思いました。おばあさんの意味でした。「美ム」も「ほむ」褒めるとははじめ訓め ませんで
した。「榻(たふ)」は床、床几(しようぎ)でしょうか。でも薮入りの少女が「酒銭(しゆ せん)」を置くような店の床を借りて、ひと
休みするものでしょうか、親の家も近いのに。
「古駅三両家」とも一気に読めず、つい「三面、家」と切ってしまい古い宿場に家が二、二 軒、数軒と
いう意味が取りにくくて困りました。
「たんぽゝ花咲(さけ)り」の一首、少女の気持ちがよく伝わります。「蒲公(ほこう)」と 書いて「たんぽぽ」とは、辞
書で覚えました。
「慈母の懐抱(くわいはう)別に春あり」の「別に」が、意味深長のようで、つかめません。 「弟(てい)を抱き我を待つ春
又春」の辺も同じです。胸は打たれるのですけれど、その感じを言い表すことができません。
 心づいたところを書き出せと課題を下さいましたので、申します。蕪村が自分でよみがなを 振ってい
ます四ヶ所のうち、とくに「堤ヨリ下(オリ)テ」は難しい字でもないのですから、念のいれ ようが印象に残り
ました。それにこの馬場曲ではあくまで少女の一人称が建前であるのを忘れて、つい「儂(ワ レ)」を、蕪村の
気持ちで読んでしまい、何度か立ち往生しました。
 それと、そうそう、「裂レ裾」は分かりますが、「傷レ股」は「傷レ脚」の書きちがいでは ないでしょ
うか。
 気づきましたのは、そのくらいです。
 お話ししたと思います。私の育ちました家は門徒系の末寺(まつじ)で法南寺と申します。 大阪淀川区の香具波

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志(かぐわし)神社の近くです。上田秋成が一時住んで いたお宮さんです。うちのお寺よりもからんと明るい境内が
好きでよく立ち寄りました。秋成の勉強をしようかなと、それで、ちょっと思ってみたりもし ましたの。
彼は蕪村とも親しかったそうですね。蕪村の故郷とやら、都島区毛馬橋の辺は、淀川がそこか ら新淀川
に変わる大堰(おおぜき)または長柄橋(ながらばし)のすぐ真東です。秋成は川をへだてた 目の前の、崇禅寺か淡路辺にも住んだ
ことがあると聞いたような。
 春風そよぐながいながい毛馬堤(けまづつみ)の風情は、ちょっともう偲(しの)ぶに偲べ ない大阪市内ですけれども、馬堤
曲をくりかえし読んでいますと、それでも行って歩いてみたくなります、できることなら、ご 一緒に。
いかがですか、蕪村センセイ。センセイは容姿嬋娟(せんけん)の少女と、相顧(あいかえ り)みて話し話しあいながら堤を歩いた
り、ほんとに、なさったのでしょうか。癡情可憐(ちじようかれん)だなんて、……いやな方 ね。安永六年(一七七七)の
作だそうですから、お幾つでしょう。享保元年(一七一六)生まれですから昔ふうに数えて、 六十二歳。
いやな方ね。
キ「…りう
 六十二歳の蕪村に、でも、まだ「耆老」とよべる六十、七十の身内のお年寄りが毛馬村にも しあった
のなら、いったい、だれなのでしょう。
以上、宿題を提出します。癡情可憐の乙女は、今からお風呂に行きます。
(こんな手紙を出して、でも、いいのかナ。)                      朋子

 月 日
 宿題に及第点をくださいまして、嬉しゅうございます。手紙も差し上げていいなんて。信じ られない

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くらいです。
 蕪村の文献など、どれをと教えてくだされぱ捜します。先生よりも、ずっとヒマなんですも の。
 今日、H教授に先生のこと聞かれました。京都の学校へ通って来てらしたの、御存じなんで すね、当
たり前ですわね。先輩ですものね。
「彼、どんなこと喋ってたの」ですって。
 毎回漫談で、きわめて非学問的でしたと答えました。ワイシャツのポッケに親指ひとつひっ かけて嬉
しそうに笑って、「そうだろうな」ですって。「彼の書くもん、読むかい」と間かれましたの で、きり
きりッと首を横に振りますと、そっくり返るくらいになって、もっと嬉しそうに高笑いなさる んですよ。
でもあの先生は、人気ございます。
 次の宿題の出ますの、楽しみにしています。おやすみなさい、先生。           朋子

 月 日
 俳文学大系の『蕪村集』を頂戴しました。嬉しい……。「日本の美術」の蕪村の巻は買っで ございま
す。年譜が、画と俳と両方にくわしくて便利です。つとめて作品をよく読み、よく観よ、と。 そう致し
ます。
「若竹画賛図」は、でも、よく分かりません。

  若竹や はしもとの遊女ありやなし── 蕪村

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 やっぱり「夜色楼台雪万家図」が大好き。胸をしぼる 暗く荒い夜景を目の底に沈めたまま、先生に手
をとっていただき何かしら、何処かしらへ落ち着きたい。その予感があるといえば嘘です。不 安で、さ
みしくて、私──、怖いんです。
 やがて期末の試験です。おくれているドイツ語が、いやだなァ。
 さてとよ……気を取り直しまして。
 あのあと、いいえ、あの前にと言うべきでしょうか、去年のまだ寒かった春のこと。ついで だからと
金福寺の芭蕉庵のつぎに真葛ケ原(まくずがはら)の西行庵へもタクシーで連れて行ってくだ さいました。それから、底
冷えしてふくらはぎの凍えそうな文之助茶屋の端近(はしぢか)で甘酒をいただいていると き、先生は、生真面目な
お顔で仰った。金福寺(こんぷくじ)で受けてきた刷り物をまたご覧になりながら、蕪村の、 「姓は谷□、名は信章(のぶあきら)」
とある「信章」の明記は、他に例が無い、なにに拠(よ)っているのかしらん、山口素堂とま ちがえてやしな
いかと。
 私の見ましたかぎり家柄や両親の名はもとより、当人の通称などもふくめまして、蕪村出自 にかかわ
る一切が不明としたものが、全部でした。「谷□」はありました。天保三年の『続俳家奇人 談』や嘉永
末年の『俳人百家撰』など、両方とも谷□蕪村として出ていました、が、「信章」という堅い 名前は見
ませんでした。
 お目当ての詩仙堂へ入れなかったからと、文之助茶屋のなかの歌仙堂を覗いていらっしゃい ましたね。
ちいさなお堂の軒のうえへ枝を伸ばした紅梅が美しゅうございました。梅が好きか、はい。先 生はまじ

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めくさって「白梅はうめ、紅梅はむめっていうんだよ」 と仰り、ひとつ覚えたわと思いましたのに。

  梅咲きぬ どれがむめやら うめじ(ぢ)ややら

 発音にうるさかった秋成らを蕪村がからかっている句 を、最近見つけました。意地わるね。あのあと(2字に、傍点)
は、もっと意地わるだったわ。でも、いいの。
 浪花にいたころの上田秋成の本に蕪村が序文を書いたですって。びっくりして、なんだか嬉 しくなり
ました。春風馬場曲を念頭に、その秋成と、明治の正岡子規と、昭和の萩原朔太郎と、それに 蕪村自身
が何を言っているか「確認せよ」とのご命令、ヨーソロー。これは昔父が、法南寺の前住職 が、お酒の
あいだに何度でもわめきました。軍艦に乗っていたそうです。当人が「ヨーソロー」の時にか ぎってハ
タ迷惑でした──。
 秋成は、蕪村が天明三年(一七八三)十二月二十四日に六十八歳で亡くなりましたおり、 「かな書(がき)の
詩人西せり東風(こち)吹て」と哀悼しています。馬堤曲にかぎったことではないのでしょ う、が、「是(これ)やかむ
な(仮名)のからうた(漢詩でしょうか)ともいふべくと、時々人にもかたりあひき」と蕪村 の愛(まな)弟子
几董(きとう)に告げていますのは、一つの批評として言いえている気がいたします。まだ蕪 村が三十くらいの頃
に、たいそう親しかった友達のお年寄り、晋我(しんが)という人の亡くなったのを悼(い た)んだ、

  君あしたに去(さん)ぬゆふべのこゝろ千(ちぢ) 々に

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  何ぞはるかなる
 

  君をおもふ(う)て岡のべに行(ゆき)つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき

  蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲 (さい)たる
  見る人ぞなき

  雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞 (きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき

と、まだあとの有る『北寿老仙をいたむ』など、十八世 紀半ば(延享二年)の詩と、とても見えません。
「かな書(がき)の詩」の例は蕪村以前にも有るには有ったのを無視する気味に、秋成が蕪村 一人をまっすぐ指
さしているのは流石(さすが)ですが、もっと面白いのは、秋成が、几董(きとう)にも、妻 の親類筋にあたっているらしい
松村月渓(げつけい)、この人も蕪村の大きなお弟子でしたが、この、後(のち)に呉春(ご しゆん)と名乗る人に対しても、しつこいほ
ど春風馬場曲の一件は事実かと尋ねていることでした。しかも尋ねられた二人とも、はかばか しい返事
をしていないんですね。秋成もずいぶんな野次馬ですのね。
 さて明治の子規。子規の蕪村を持ち上げようは有名すぎるくらいですが、ちょっと策略のよ うな感じ、

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しませんか。蕪村への傾倒はたしかでしょうが、芭蕉の 否認にしても言い過ぎているみたいで。でも、
今は私の問題じゃありません。子規は蕪村の発句は大いに認めていますのに、春風馬堤曲に対 しては、
「惜しいかな、蕪村は之(これ)を一篇の長歌となして新体詩の源を開く能(あた)はざり き」などと書いています。子
規は「新体詩」誕生に時代的に接近しすぎていて、かえって視野を失っていたのかも知れませ んね。そ
れより何より子規が蕪村の画を一つも見たことがなかった事実に、胸が痛むほど愕(おどろ) きました。
 昭和の朔太郎は熱弁をふるっていました。「百数十年も昔に作った蕪村の詩が、明治の新体 詩より遥
かに芸術的に高級で、且つ西欧詩に近くハイカラであったといふことは、日本の文化史上に於 ける一皮
肉」とか、「明治の新体詩より遥かに近代的」とか書いております。
 そんな朔太郎が与謝蕪村を「郷愁の詩人」と呼んでいますのは秋成が「かな書の詩人」と呼 んだ以上
に、たしかに親切な批評と私にも思われます。「与謝」は生母の生国(しようごく)だそうで すし、「蕪村」の方は陶
淵明(とうえんめい)の「帰リナムイザ、田園マサニ蕪(ア)レナントス」からとったといい ますけれども、別の説に、彼の生
い育った「淀南(でいなん)」一帯が蕪菁(ぶせい)つまりお野菜のかぶらの産地であったか らともいわれ、それで朔太郎は馬
堤曲の「モチーフ」を直かに「郷愁」と読み取ったのでしょうか。
「蕪村は、その薮入りの娘に代って、彼の魂の哀切なノスタルジア、亡き母の懐抱(くわいは う)に夢を結んだ、子守
歌の古く悲しい、遠い追憶のオルゴールを聴いて居るのだ。『昔々しきりに思ふ慈母の恩。』 これが実
に詩人蕪村のポエジイに本質してゐる」と朔太郎は言います。蕪村は彼自身の「薮入り」を 歌った、彼
の亡き母への愛は「魂の哀切な追懐」つまりプラトンのいう「霊魂の思慕」にひとしいとこの 大詩人は
理解し、「人生の家郷を慈母の懐抱に求めた蕪村」の一句で、長いエッセイを結んでいまし た。

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 先生。朔太郎は、蕪村が春風馬堤曲で描き出した少女 と、ほんとうに「故国」に帰るさ出逢ったと想
って読んでいたのでしょうか。それとも一篇の歌曲を少女の身に成り変わり創り出したフィク ションと
読んでいたのでしょうか──。
 で、いよいよ蕪村自身ですけれど。
 頂戴した本の「書簡篇」に、安永六年二月二十三日付け伏見に住むだれだか、宛先不明のこ んな手紙
が載っていました。先生はご存知のはずですが、宿題なので、きちんと提出いたします。全部 はとても
目を通していませんが二百五十通にあまる書簡がたいへん面白そうで、「雛の鼻」をぴくぴく させてい
ます。古文書(こもんじよ)学をまえの学校ですこしでも齧(かじ)っておいて、いま、大助 かりですわ。

さてもさむき春にて御座候。いかが御暮被成(おくらし なされ)候や、御ゆかしく奉存候。しかれば春興小冊漸(やうやく)出版ニ
付(つき)、早速御めニかけ申侯。外へも乍御面倒(ごめんだうながら)早々御達被下度(お たつしくだされたく)候。延引(えんにん)ニ及(および)候故、片時(へんしも)はやく御届可被下(おととけくださるべく)
候。
一春風馬堤曲(馬堤ハ毛馬塘也。/則(すなはち)余が故国也。)
余(よ)幼童之時、春日清和の日にハ、必友どちと此堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下ノ船 アリ、堤ニ
ハ往来の客アリ。其(その)中ニハ、田舎娘の浪花ニ奉公して、かしこく浪花の時勢粧に倣 (なら)ひ、髪かたちも
妓家(ぎか)の風情をまなび、傅しげ太夫の、心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥(は じ)いやしむもの有(あり)。さ
れども、流石故園ノ情二不堪(たへず)、偶親里(たまたまおやざと)に帰省するあだ者成 (なる)べし。浪花を出(いで)てより親里迄の道行(みちゆき)に
て、引道具(ひきだうぐ)ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下(くださるべく)候。実ハ愚老 懐旧のやるかたなきよりうめき出(いで)たる

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実情ニて候。

 夜半亭とは蕪村の俳諧の先生早野巴人(はじん)(宋 阿)の称していたのを、没後に歳をへて蕪村がその「第二
世」を名乗ったことは、あの、金福寺でもう教えていただいていました。で、この「道行」 は、文面ど
おりに取りますと、蕪村が「座元」の「狂言」つまりフィクションのように思うしかありませ ん。でも
そのあとすぐ、前言をみな打ち消すふうに、「実ハ」とつづくのが微妙すぎて、少々「うめ き」たくな
ります。
 よく分かりません。「愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出(いで)たる実情」とはたいへ んな述懐のようで、
それでも、事実を歌ったとも、虚構とも、言い切れません。「懐旧」とある「旧」が、幼少へ 遡るのか
近年の記憶をいうのか、決めてしまうことが出来ません。萩原朔太郎も事実を歌ったとは受け 取ってい
ない感じですし、秋成は事実かもしれぬと疑っていますし、わずかでも私の参考にしましたど なたの評
釈や注釈も、「仮に」薮入りの少女に「託して」往時か往年かの見聞などから情景を想像し た、要する
に「人生の家郷を慈母の懐抱に求めた」蕪村の「創作」と読まれているようでした。蕪村の母 のこと、
知りとうございます、与謝へ、ひとりで行って来ようかと、悩ましい気持ちでいます。先生は いいわ、
いいご家族とご一緒で。
 そうそう、今日H教授に階段で声をかけていただきました。「すっかり慣れましたか」で すって。三
年編入のことだと思い畏(かしこ)まって「はい。おかげさまで」とは、ちょっと変な返事で した。レンガ色のセ
ーターの胸に金属製のお魚のペンダント。先生よりもお幾つか上でしょうH教授は。まえの学 校のM先

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生はあんなに堅苦しい方でしたのに。いろいろなんです ね「先生」というモノも。    朋子

 月 日
 前便をポストに入れてすぐ気がっきました。今日はお母さまのご命日でしたのね、十、八回 め。ご冥
福を、朋子、お祈り申し上げます。
 去年、短大の卒業式も終わり(先生はいらっしゃいませんでしたが)、加島に半分、以前の 下宿に半
分と大阪京都をうろうろ往復していました三月末に、先生は雑誌「N」の連載用の取材で、一 晩だけ京
都のお家(うち)にお泊まりになった。馬町(うままち)の方へお電話いただいた時、私はお 二階にいて、先生は階下(した)の、池
坊(いけのぼう)を教えている下宿の奥さんの応対がいやだったとご機嫌がわるかったのを、 覚えていらっしゃいます
か。あの晩、祇園の路地のにぎやかな呑み屋さんで先生は球磨(くま)焼酎をたくさんあが り、私にもたっぷり
お湯で割ったのを勧めてくださいました。
 翌日の奈良から飛鳥への取材に、どんなにご一緒したかったことか。でも先生は春休み中の お嬢さん
をお連れでした。あの晩、酔ったふりして先生をすこしばかりイジメましたね。あのあと甲部 から安井
の金毘羅さんまで手を組んで歩きました。そのあとまた、高台寺(こうだいじ)下を三年版の ほうへ登って行きながら、
先生は今度の旅が十七年前に亡くなっていたという、ご一緒に暮らしたという記憶ものこって いない生
みのお母さまの、初の墓参を「兼ねているのだよ」と話してくださいました。生まれて死なれ て母のこ
とはなにも知らなかった。笑われても仕方がない。今月だよ。今月初めになって急に調べだす 気になっ
たんだ、命日が二月二十二日だったとも、やっと知った──。暗闇にお顔のみえないなかで、 ちょっと

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乾いた笑い声が耳にのこりました。あ、と言いかける先 に先生ははっはと笑いとばして、「そうなんだ
よ、あの」と、──金福寺(こんぷくじ)の蕪村のお墓に頭をさげてきた日がそうだったと仰 (おつしや)った。
 それきりでした。でもあんなに急にお母さまについて知ろうとなさった、それと、あの日の こと(2字に、傍点)とは
どこかで関わっていると唐突に思いました。思いたいのでした。打ち明けていただけて、嬉し くて……。
清水(きよみづ)から清閑寺へ、まっくら闇の山路を手をひいてくださいましたね。手と手が すぐ汗ばみました。
 小松谷の私の下宿へは「寄らないよ!」坂道の途中で来たタクシーを停めてさっと乗ってし まわれた。
「今度は──いつ」とお聞きしますと「今度なんて、無いンだよ」ときつく言いかえされ、棒 立ちに、
走りさる車を私はにらんでいました。
 蕪村には可愛くてしかたない娘さんがいたのですね。十二月にお嫁にやり、あくる年の五月 にはもう
□実をかまえて取り返したとか。春風馬堤曲というのは、ちょうどその間で迎えたお正月に書 かれてい
るのですって。蕪村──勉強するの、やめてしまおうかしら。               朋子

追伸 いつの年かは分からず、維駒(いく)という弟子 の句をたくさん蕪村が批評しているのを読みました。
その厳しいのにびっくりしました。
「さりとて手づつ」「何ンの事やら」「不解(げせず)」「よろしからぬ」くらいで始まっ て、だんだん、
「うそきたなき事也」「貌見世(かほみせ)狂言の出来損ひを見る様化」「悪句悪句」「きた ない様な句じ(ぢ)や」
とモウさんざん。趣向倒れの句は見のがさずに「句曲をもとめんとして却而(かへつて)拙 (つ)たなし」と、ぴしゃ
り。さすが。でも蕪村て、短気なんですね。最後がふるってました。「句々おもしろからず 候。所

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詮ケ様(かやう)の事にては俳諧には成(なり)がたく 候。中々止(や)メに被成(なされ)候ても可然(しかるべく)候。ケ様(かやう)の句を見候へばかんし
やくが起り候てあしく候間、重而(かさねて)御無用ニテ候 夜半」ですって。私こそ、やら れそう──。

 月 日
「雪万家図」に見入っています。お便りがないとき、遠くの、よその、和やかそうに安らいだ お家(うち)を、
そっと影をかくして覗きこむように、横長に三つ折りの図版に目を落とします。いいえ、図版 の必要な
どございません、わが思いをそのまま覗くように、絵は私の胸の底に横たわっています。こん なこと言
えば先生にはいやみに聞こえるのではと恐れています。いやみ…、そのとおりです。さびし い、です。
 こういうのを「山水画」というんでしょう、と、何の気もなしにお尋ねしました、美術館 で。そうだ
ねと一度はうなづかれて、それから、あれはあのビルの地下の喫茶室でお茶を御馳走して下 さったとき
でした、「山水画と、蕪村のあの当時の概念でいうとね、あの夜色楼台図ぐらい型破りな、常 識はずれ
な行き方をしてるヤツは無いんだよ。だから、そういう言い方であの絵を覚えるのはおやめ」 と教えて
くださいました。それだけでした。説明してくださっても私には聴く耳もありませんでしたか ら。でも、
あれは、あのご指摘は一つの宿題のように記憶されて、あれからさき、京都の博物館──好き です、あ
の本館の寒いような静かな人けの無いなかに身をしずめて、古画のまえに一つまた一つと佇み ますのが。
──へ足をむけますつど、型通りな「山水画」ってどんなのと思うんですの。
 一つには、山も水も、大きく広く、遠いは遠い、遥かは遥かにしっかり主役でいますが、人 とか家と
かは、あくまで比例で言ってみるだけですがずいぶん小さい。影がうすい。人や家が存在を主 張すると、

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なんでしょうか、俗気というのでしょうか、陽気でしょ うか、よくもあしくも賑やかになりますものね。
「風景画」になりますもの。それでいて「山水画」がただ山だけ水だけなんて間抜けてしまい ますね、
人か、牛や馬か、鳥か、それに建物でもそうですが、どこかには必要な景色なんですね。
 蕪村のこの絵は、こんなにさびしく、厳しいといってもいいほど(私を…)はねつけていま すのに、
しかもどこか陽気を漂わせています。俗っぽいといえば言えます。それが魅力です。私の好き な如拙(じよせつ)の
「瓢鮎図(ひようねんず)」あれを山水画といっては禅宗の方には叱られそうですが、あれ も、やっぱり、先生の仰るよ
うに山水画としては型をはずれたものなのかなあと今は思っています。主役は絵の真ん中の、 真ん前の、
あの奇妙に人間離れのした、瓢箪をもった人物と、へんにうれしそうにひらひらと水のなかに いる鯰(なまず)さ
んとですもの。漂渺(ひようびよう)として静謐(せいひつ)で奥深い天地ですのに、あえて 俗を、超俗の俗を画題の中央にもって
きて。
 もう、やめます。調子にのって喋るなという先生の不機嫌そうなお顔がみえました、目の奥 のほうに。
でも蕪村は俗人ですよね。俗物ではないと思うけれど、わかりませんよ。あれは、町のなかで しかほ
んとはよう暮らさない人ですよ。都会人です。雪万家……。あれは山の絵であるまえに、雪の 都会の絵
です、いま、そう思い当たりました。そして……先生のこと、批評してしまった気がします。 さよなら。
(ごめんなさい)。                                  朋子

 月 日
 脇道に入るななんて。「夜色楼台雪万家画」は脇道ではございません。「春風馬堤曲」と好 一対です。

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この絵を見ていないと蕪村先生を見失いそうになってし まう。この山なみを眺めながらこのなかのどの
家かしら、この家かしら、先生はお酒をあがっている。そんなふうに想像しますと、懐かしく も憎たら
しくもあります。
 この絵の景色は京都でしょうか。
 私の毎日眺めています、これは東山三十六峰なんでしょうか。そう眺めるのが自然なようで すが、そ
ういう視線をふしぎに拒絶しているものも感じられますの。先生とごいっしょ……いいえこの 項、見せ
消ち。
 私、この絵が現実の東山とどれくらい相応しているかを、ここが平安京南北のまんなかだっ たんだよ
と仰っていた場所の屋上へあがって、ゆびさしながら調べてみました。蕪村はほぼ「ふとん着 てねたる
姿」どおり東山の起伏をおさえています。でも、京都の人ならば、東山を親類のように眺めて 暮らして
いる人ならば、写生のように描き写さなくても、しぜんと山といえば東山に成ってしまうと も。蕪村は、
いまいうその場所からも間近な、三本木の「水楼(すいろう)」つまり色里(いろざと)がご ひいきで、よく宴会をしたり酔いつ
ぶれたりしていたそうですもの、
  雲の端に大津の凧や東山   も、そうですし、
  大文字(だいもじ)や谿間(たにま)のつゝじ燃えんとす   も、「三本樹の水楼」に 登って「叙景に対」した句だと読
みました。

  明(あけ)やすき夜をかくしてや東山

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 これなど、あの夜の、よもすがらの……、これも、見 せ消ち、中絶。東山からなだれ生まれてきたよ
うな鴨東(こうとう)の町が、鴨川にみごとに横一文字に切っておとされるのを、私たちは、 いいえ私はホテルの屋
上で確認できたと思います。思います、のに……、でも、ちがう気がします。ちがうんです、 根本は写
生でも写実でもなくて、そこに凄いほどの何か主張を蕪村はしているという気がしてならない んですの。
そういう絶妙のウソつきなんですわ、蕪村は。実地に則してものを言っているように思わせて おいて、
とんでもない真実や秘密を暗示している人。先生がこの私に「蕪村」をやれと仰った真意も、 その辺に
あるのではないかと。先生って、ほんとに、いやな人。おやすみなさい。          朋子

 月 日
 旅さきからのお手紙。嬉しくて──。ぶじ九州のお仕事がはかどりますように。
 中宿(なかやど)の京都で、この鼻をつまんで。仰言いましたね。
  いざ寝なむ夜も明け方になりにけり、と。
「蕪村ゃないよ」とねむそうにお笑いでした。鐘の音こそしませんでしたが、障子のそとに水 を遣(や)るか
ぼそい音が夜どおし聴こえていましたね。
  宵より寝たるだにも飽かぬ心を や いかにせん。
 京の町なかに、三本木(さんぼんぎ)に、あんなに奥深いお庭を抱いたお宿があるのです ね。木の香の立つ浴室の窓
をほそめに明けますと、咲き盛りの梅が夜露をふくんで、真っ白でしたわ。

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  春の夜や■(よひ)あけぼのゝその中に   蕪村

 蕪村のこと、なにもお話に出ませんでした。だまっ て、たくさんお酒をあがってた先生。すこしお痩
せになったみたいでした。どうぞ、お大事になさいますよう。               朋子

 月 日
 S先生の論文のなかに、仰天ものの発見が──私が仰天したんです、先生は御存じなんです からアタ
マに来てしまいますが──ありました。教えて下さらなかったら、やっぱりよう見つけないで いました。
だめですね。罰として書き写します。

   遊東山詠落花
  金界東風捲綏霞 春光惨淡夕陽斜 雪中障壁花千樹 湖上楼台雪万家

 蕪村の詩ではなくて、彼よりもやや昔、江戸の、芝の 東禅寺というお寺のお住持だった万庵原資の詩
でした。蕪村はこのお坊さんとどこかで触れあっていた、少なくとも万庵原資の詩集を愛読し ていたん
ですね。むろん詩の「東山」が京都の東山でないのもはっきりしていますから、蕪村は題をも らい、い
わば本歌取りのように絵を構想、着想したことになりましょうか。詩の詩情と画の詩情とは、 ほんと、

(■:雨かんむり に 月)心底で釣り合っていたので しょう……。
 絵の実物を数見たわけではありません、画集はちょっと大きめなのも一、二手に入れました が。写真
でものを言ってもいい、言い過きてはいけないと先生は仰る。軽率な予断は慎めと仰る。図に 乗った、
ものに憑かれた物言いはすまいと思っていますが、絵に限っていえば、安永をすぎて天明時代 に入った
蕪村の、署名も「謝寅(しやいん)」ものと呼ばれています画境(私なんかのつかう言葉じゃ ありませんが)は、ほ
んと、異様に凄い(凄いという言葉も安易につかうなと、よく教室で叱られましたが、)し、 もっと端
的には異様に新しいと言いたい気がします。こんな言い方は気になりますが、「よくよくの代 価を支払
ってやっと購(あがな)われたもの」「何人もの生き血がにじんだもの」(解説)のように想 われてなりません。
 で、今はここに、理屈ぬきに好きで面白くて仕方のない、「太祇馬提灯図(たいぎうまでう ちんず)」の写真を開いて眺めてい
ます。蕪村の、すぼめて顔半分隠した傘の向こうで、下駄の花緒は吹っ切れ傘はみごとにお猪 □(ちよこ)にして、
空(くう)を踏んでのめっている炭太祇(たんたいぎ)サン。その、への字の口もとが大好 き。

 師走の廿日あまり、ある人のもとにて太祇とゝもに俳 諧して、四更(しこう)(午前一?三時)ばかりに帰り
ぬ。雨風はげしく夜いたうくらかりければ、裾三のづ(おしり、ですか)までかゝげつゝ、か らうじ
て室町を南に只はしりに走りけるに、風どゝ吹落て小灯(ことぼ)しの火はたと消(け)ぬ。 夜いとゞくらく雨しきり
におどろおどろしく、いかゞすべきなどなきまどひて、
  蕪村云
 かゝる時には馬でうちんと云(いふ)ものこそよけれ。かねて心得有べき事也。

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つかず離れずの匂い付けですもの。
 でも、ものしり蕪村のことですもの、きっと万庵さんの詩句だけではなしに、ほかにもたく さんなイ
メージを盗んで重ねて練りこんでこの「夜色楼台」へ持ち込んでいるにちがいないわ。先生は そんなこ
と、みんな御存じなのよね。ちょっとずつしか教えてくださらない。それを調べてゆけば、 ひょっとし
て蕪村が、どこで、いつごろ、どんな人たちに学んでいたかも、知れてくるのでしょうか。
 でも、私が知りたいのは、先生…あなたですわ。             大胆不敵の  朋子

 月 日
 四条の大丸にお友達が勤めています。その人に、ときどきセーターやブラウスなどを、店員 なみで買
ってもらいます。今日、ほそい銀鼠(ぎんねず)の毛糸で変わり織に上下に仕立てた春着を奮 発しました。三月に三
回生のコンパがありますの、その時に着て行くの。
 ほんと。お手紙にありましたように、安永六年正月の薮入り時分、蕪村が「故国」を訪れた ような形
跡はどこにもございません。また、そううかがって見れば「先後シテ行クコト数里」という表 現は、ど
うあっても大坂からの道行で。京住まい、淀川を伏見辺から舟で下るはずの蕪村がその気な ら、あんな
道行はありえずに、ちょうど毛馬村の前で舟をおりれば済む話ですものね。毛馬に舟付き場の あったの
も確認されています。その舟ですら、安永六年の正月頃は、師走の婚礼騒ぎで蕪村はからだの 具合もわ
るく、京都の家を離れたとは思えません。旧暦とはいえお正月に「たんぽぽ」が咲くとも思わ れません。
それなら虚構かといえば、蕪村が春風馬堤曲をこの正月に創ったと言える証拠だって、じつ は、無い

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のですよね。この正月の作でなければならない理由もな い。安永六年より以前であれば、まあ、いい。
安永五年の師走十三日には、「此節驀地闇(このせつまつしぐら)ニ面ニ取(とり)かかり候 て、一向発句(ほつく)も出不申(まうさず)、殺風景ニくらし申
候」と弟子に手紙を書いていますし、六年春正月の末には、「余寒ニ中(あた)り候て、正月 中旬より以之外(もつてのほか)所
労」「発句も一向無之(これなく)候」とあります。馬堤曲ほどの大作を書きあげた粘りはど こにも見えません。と
なると、また振出しに戻って春風馬堤曲の中みは、情景は、ほんとに有ったのか、なにも無 かったおハ
ナシなのか。ナーンダイ。秋成センセと同じこと、詮索してたりして。アホクサ。
 上田秋成は、何が気がかりであんなに馬堤曲の実否にこだわったのでしょう。几董(きと う)や月渓は何を気に
してああムニャムニャとしかものを言わないのでしょう。お爺さんと少女とが、春うららかの 淀川堤を
ながながと道連れに歩いて、同じ「故国」「故郷」のわが家へ帰って行ったという、それだけ のことで
はありませんか。
 それにしても私の先生は、まあ大層な宿題をいと気軽に言い付けてくださること。ナニナ ニ、何です
って。三百五十通からの書簡全部に目を通し、まず蕪村の家族(同居人)と思われる人物を洩 らさず確
認しなさい──。ヨー、言うよ言うよ。とは、冗談です。やります。もう始めています。
 その次。夜半亭三世の高井几董が書いた蕪村終焉の記をさがして、よく読みなさい。
 三番め。安永二年から六年の間の発句、連句をその時期の書簡と一々照合しながら慎重に読 み返しな
さい──。朋子、卒倒。……やりますからお手紙、絶やさず下さい。短くても封書で。葉書で すと──
お察しのとおり、ですの。
 成績。あまり恥ずかしくない程度に行きそうです。いろんなお寺を観てまわれる日本美術史 とT教授

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の芸術思潮とが好きでした。私の場合は、人より今季も 来年もやはりたくさん単位を取らねばならない
でしょ。レポートの山と、とくに語学がヨワいんです。でも目標を「蕪村」にと決めてしまっ てよかっ
たわ。先生も、よかったでしょう。でしょう。
 センセ イマ ナニ ナサッテルノ。トモコ モゥ ネルノヨ…ビトリ、ヨ。

 午前二時七分。怕(こわ)い夢を見ていました。幾柱 ものお墓が真っ赤な花に埋もれて、はじめ、居流れてみ
えました。立ちすくみ、目をふせて、また見ると、山積みに、見馴染んだ墓地の隅へ手荒に処 分した無
縁さんの石塔婆(せきとうば)でした。だれか横にいて、指さす指の先だけ見せて、「重要 ──」「重要──」と呟く
のです。重要──な何と言いたかったのか、さした指の先の、苔にあおぐろくよごれて頭の缺 けた墓石
には、たしかに「畜男」「畜女」と冠に彫(きざ)んで、俗名が二つ。ふるえて、目がさめま した。

 月 日
 三回生のコンパかと思っていましたら、卒業する方たちの追い出しコンパですって。会場は 先生なら
よくご存知の縄手の梅の井とききました。鰻がそう好きでなく、むろん、それだけではないで しょうけ
れど、私などあのお向かいの威勢のいい炉端焼、でしたかしら長ぁい棒のおしゃもじみたいの で注文の
品をホイホイとお客の目の前へ突き出してくるのなんか、外から見てても面白そうですし賑や かですし、
いいのじゃないのと思うのですが。ちょっとした用事であの前を通りました晩に、私、ものの 三、四十
秒もじつは表に立ってお店を覗いてたんですのよ。おかしな人でしょ、この朋子さんは。

35

 さて、俳諧ものの草画(そうが)が佳(い)いおもし ろいと仰っていた、その言葉の出ている蕪村の手紙を読みました。
安永五年仲秋、几董あてで、「かけ物七枚」「よせ張物(ばりもの)十枚」というのは掛け軸 仕立て、屏風に貼交(はりま)ぜ、
といった意味なのでしょうか。催促されたにしましても大量生産ですし、つまり、そうできる 簡略な絵
と想っています。でも、蕪村の自負もたいしたものでございますこと。

右いづれも尋常の物にては無之(これなく)候、はいか い物之草画、凡(およそ)海内(かいだい)に並ぶ者覚無之(おぼえこれなく)候。下道(げじき)に(安く、
ですね)御ひさぎ(売る、ですね)被下(くだされ)候儀は御用捨可被下(ごようしやくださ るべく)候。他人には申さぬ事に候、貴子(きし)ゆへ内
意かかさず候。
一、かけ物七枚造候、是は御入用次第余り候ばば御返し被下候とも、又大略に御見斗被下(お んみはからひくだされ)御ひさぎ被
下候とも、何分任賢慮度(けんりよにまかせたく)候。
一、(略)

 一応は頼まれて絵を描き、お金に換えている、仲介を 心知った几董(きとう)に任せている、そんな様子が知れ
ます。草画という略画は、自信とはべつに速描きできて便利だったのでしょうか。お得意の発 句(ほつく)も書き
添えるのが半ば約束事とあっては、画俳二道、蕪村の独壇場(どくせんじょう)ですね。
 ほんと、仰って下さったとおりです、草画、おもしろいですわ。ご推奨の「若竹図」は判じ かねます
けれども、「又平図」なんて大好きです。見飽きません。赤い頭巾(ずきん)をてれんとうし ろへ垂れた可愛いま
ん丸顔のよろよろ酔っぱらい又平さんの素足の足元に、とぼけてすっ転がった、からの瓢箪。 チ、チュ、

36

ヒュヒューイと筆先をまるく、軽く、三度につかった感 じが、なるほど「ハイカイ」ってこうかと思わ
ずにおれません。肩いからせ片肌ぬいでしまった羽織だけを黒く塗りつぶしたのが巧くて、そ れで、ほ
かの略筆が生き生きと。「又平に逢ふや御室(おむろ)の花ざかり」という一行が、いいぐあ いに上の方から垂れ
ているんですもの、ほんと、好きだわ。
 俳画を文章で言いかえるなんて真似は、愚の骨頂と、及ばぬペンの先をはなの先でひょこ ひょこさせ
ています。もう、よします。でも、大津絵めくひよひよの牛若を先立てたいかつい弁慶の図も 好きです。
薙刀(なぎなた)の柄(え)に高下駄一足ぷらさげて、これなどもやはり、「雪月花つゐ (い)に三世(さんぜ)のちぎりかな」という、主
従は三世の句があって、思わずくすっと笑ってしまうのでしょうね。
 見るから律儀そうな馬づら(ごめんなさい)のおじさんが、なんだか前に携えた両手の感じ も畏(かしこ)まっ
て、腰に扇子(せんす)をさし、やおらまかり出た「やぶいり図」も大好きです。「■父入 (やぶい)りは中山寺の男かな」
という句が心もちべたづけですけれど、絵は、しっかりと場に定まっています。
 右の上に「蝉啼(なく)や僧正房(そうじやうばう)の浴(ゆあ)み時」がおもしろく、三 行に頭と足とをそろえて書いた「天狗図」は、
「又平図」と好一対の名品と思いました。先生に教わらなかったら、ひょっとして目をとめて しげしげ
も見なかったような絵ばかりですが、魅力を感じますともう目が離せません。よかった出逢え てと、感
謝していますの。
 どれもこれも、蕪村がいつごろの作なのやら、いずれ「夜色楼台雪万家図」や「峨眉頂図」 より以前
の、愛弟子几董に海内無双と自慢していた時分のもののようで。では、こういう「俳諧物の草 画」と、
むろん一脈も二派も通じているのでしょうが、あの、雪万家の沈々、峨眉山月の皓々とは、ど う蕪村の

(■:羊へん に 良)

37

心底で釣り合っていたのでしょう……。
 絵の実物を数見たわけではありません、画集はちょっと大きめなのも一、二手に入れました が。写真
でものを言ってもいい、言い過ぎてはいけないと先生は仰る。軽率な予断は慎めと仰る。図に 乗った、
ものに憑かれた物言いはすまいと思っていますが、絵に限っていえば、安永をすぎて天明時代 に入った
蕪村の、署名も「謝寅(しやいん)」ものと呼ばれています画境(私なんかのつかう言葉じゃ ありませんが)は、ほ
んと、異様に凄い(凄いという言葉も安易につかうなと、よく教室で叱られましたが、)し、 もっと端
的には異様に新しいと言いたい気がします。こんな言い方は気になりますが、「よくよくの代 価を支払
ってやっと購(あがな)われたもの」「何人もの生き血がにじんだもの」(解説)のように想 われてなりません。
で、今はここに、理屈ぬきに好きで面白くて仕方のない、「太祇馬提灯図(たいぎうまでうち んず)」の写真を開いて眺めてい
ます。蕪村の、すぼめて顔半分隠した傘の向こうで、下駄の花結は吹っ切れ傘はみごとにお猪 口(ちよこ)にして、
空(くう)を踏んでのめっている炭太祇(たんたいぎ)サン。その、への字の□もとが大好 き。

 師走の廿日あまり、ある人のもとにて太祇とゝもに俳 諧して、四更(しかう)(午前一?三時)ばかりに帰り
ぬ。雨風はげしく夜いたうくらかりければ、裾三のづ(おしり、ですか)までかゝげつゝ、か らうじ
て室町を南に只はしりに走りけるに、風どゝ吹落て小灯(ことぼ)しの火はたと消(け)ぬ。 夜いとゞくらく雨しきり
におどろおどろしく、いかゞはすべきなどなきまどひて、
  蕪村云
 かゝる時には馬でうちんと云(いふ)ものこそよけれ。かねて心得有べき事也。

38

   太祇云
  何、馬鹿な事云(いふ)な。世の中のことは馬でうちんが能(よい)やら何がよいやら 一ッもしれない。
  太祇が俳諧の妙、すべて理屈にわたらざる事、此(かく)の語のごとし。(略)

 春風馬堤曲の最後を結んだ「寝るや一人の母のそば」 というのは、この太祇先生の句でしたですね。
ここの「太祇云」も、いいわ。下帯の端っこをお尻へ吹き流しに闇夜の雨と風とに閉□しなが ら、この
草画中の草画らしい太祇の顔が、こう深遠な哲学を叫んでいるのですもの。「何、馬鹿な事云 な」です
って。
 ……さっきから、雪、のようです。お彼岸すぎていつまでも寒いわけですわ。お風邪めしま せぬよう
に。この辺で、じょうずに雪の句のひとつも書き添えられると、朋子も風流なのに。

 月 日
 実はにわかに引っ越すことになりましたの。大急ぎ、お知らせ致します。
 いま居ますここのお家(うち)は、うちのお寺とは私のよく知らない因縁がありますらし く、なんですか階下(した)
からいつも睨まれてるみたいなんです。とくに不満はないし、奥さんのお食事もおいしいので すが、大
学へ市電の便利がわるくて。東山線て、やたらに混みますでしょう、電車もなかなか来ないで しょう、
一時間かかって学校へつかない日もございます。
 それは、でも、□実。寮よりあと、高校三年生からずうっとですもの、もう五年め。それで 気分を変

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えたいと母に強(こわ)談判しましたら、左京黒谷の墓 地から遠くない神楽団とかいう辺に、一、二代前に大阪
から移って行った檀家があるとか。ばたばたと決まりまして、明朝に。

  我を厭(いと)ふ隣家寒夜(りんかかんや)に鍋を 鳴ラす  蕪村

 月 日
 母屋(おもや)でお雛さまを仕舞うので見にきてと誘われました。お嬢ちゃんがもうすぐ五 年生ですの、先生と
この建日子(たけひこ)ちゃんと同い歳(どし)です。お母さんがお嫁入りのときにご持参 の、小粒な、上品な雛人形でした。
 でも当のその妙子ちゃんはとくべつ嬉しそうでもないんですの。おばあちゃんとお母さんが 二人して
悦に入っていて、妙子ちゃんの代わりにこの私に仲間入りをさせようという寸法らしく、鶯餅 でお茶を
いただいて大家さん孝行を努めまして、離家(はなれ)へ戻ったところです。八畳と六畳、お 手洗いも完備の別棟
です、よくぞまあと感激するよりもびっくりしています。お家賃は──高くなりましたが母は いい所だ
と安心している様子です。
 この辺、黒谷墓地近くはまだところどころ先夜の雪が残っています。この家は、戸締りさえ しっかり
すれば、離家の庭木戸から横の小路へ出入りできますのが便利です。母家(おもや)は珍しく というかお気の毒と
いいましょうか、寂しそうな三代の女家族です。聞こえてくるのは妙子ちゃんのピアノの音く らいで、
ひっそりしています。吉田山の中と申していい場所です、お庭へいつも小鳥が来ています。

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   垣根の蓬(よもぎ)畠の桃いとゆかしき妹(い も)が
   やどり也けり
  卯花(うのはな)はなど咲(さか)である雛の宿   蕪村

 この句、あの、「たらちねの抓(つま)までありや雛 の鼻」とならべた、佳い草画がございましたとか。見た
いわ。前詞の「いとゆかしき」を「いとなつかしき」と書いた例もあるそうで、安永六年ごろ の句のよ
うです。
 この「妹(いも)」が、先生、すこし気になられませんか。

「卯の花」とあるこの「やどり」ですが、源氏物語の花 散里のすまいを「木高(こだか)き森のやうなる木ども、
木深(こぶか)くおもしろく、山里めき、卯の花咲くべき垣根、ことさらにし渡して、昔思 (おぼ)ゆる……」と「乙女」
の巻にありますとか。花散里というお方はかならずしも美女ではないようで、「抓まであり や」のクチ
であったかもしれませず、その種のそれでもゆかしく懐かしい「妹(いも)」を、京の田舎に 蕪村は持っていた
かと、普通ならそこまでは考えませんけれども、発句(ほつく)にはいっそ珍しいような妙に 実意に富んだこの前
詞の書きぶりから、私は無視できない気がいたしました。そのうえ「雛の鼻」に寄り添うほど に打ち重
ねまして、なんと、

  ゆく春や おもたき琵琶の抱(だき)ごゝろ

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という有名な、けだるく好色の匂いただよう句が蕪村に はございます。天明年間の句として同じ「五車
反古(ほうぐ)」という撰集のために贈られています。
 びっくりしました事が、二つ。一つはこの「五車反古」は蕪村のためにも重い門弟でした春 泥舎召波(しようは)
が十三回忌にあたり、天明三年十二月、子の維駒が父追善のために編んでいたのですね。維駒 という人
は蕪村に句をみせては、カンプなきまで酷評されていたお人。そして二つには、撰集が病床へ とどいて
数日おくれの、師走二十五日未明に、蕪村は六十八で亡くなっているのですね。「抓(つま) までありや雛の
鼻」には「上巳(じようし)」つまり弥生三月の初め、そして「ゆく春」とはその三月の尽き る日、三月末のことで
すから蕪村臨終の句でないのは当然です。それにしても「重たき琵琶の抱きごころ」にほのか に若い女
の体重や体温を感じながら読んでいた私は、読みすぎていたのでしょうか。
 雛の句で、とまどうのが今一つございます。

  箱を出る■(かほ)わすれめや雛二対

 納得のいく解釈に出会えないのです。ですから率直に 我流をとおしますと、それぞれの雛人形を抱い
てお嫁に行ってしまった「娘二人」の顔が忘れられない、と。「二対」とは「二た組」です。 お似合い
の内裏様とお姫様とで一と組なのではなくて、それが二た組みある意味ですもの。「箱を出 る」は、三
月がきて、一年ぶりに箱から出したという意味とは取れません。今がいま取り出した雛の顔を 「わすれ
めや」なんて変ですもの。この「箱」は箱入り娘の箱ではないでしょうか。そうすれば今度 は、わざわ

(■:白 の下に ハ)

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ざ「二対」とありますのが妙にリアルです。事実をうし ろに控えている具体的な数字です。それとも語
呂が「一対」よりもおさまりがいいか。そんな安直な蕪村とは思われません。
 でも蕪村に二人の娘がいて、二人ともお嫁にやったなどという推量は、これこそ皆無です。 実の娘か
どうかはおいても、でも、似たようなことがほぼ同じ春にあったかも知れない、そんな可能 性、ほんと
に皆無なのでしょうか。
 鶯餅の甘さが舌にのこっています。白酒でも甘酒でも、せめて憂いを掃くという玉箒(たま ぼうき)がいただきたい
わ。唐突ですが、おやすみなさいませ。                               朋子拝

 月 日
 大きな宿題がありました、蕪村同居の家族を確認するという。サボっていたのではありませ ん。「雛
二対」に目をとめたのもそのためです。けれども、この辺で与謝蕪村の生涯を年譜的に簡約し て頭に入
れなさいと仰って下さって、思わず一息入れる心地です。いいこ指示です、なーんて言っては 生意気で
すが。
 享保元年、西暦一七一六年に蕪村は生まれています。生地は摂津国東成(ひがしなり)郡毛 馬(けま)村(現大阪市都島区
毛馬町)説が有力ですが、実母の出と想われている丹後国与謝(よさ)郡かとする考え方も無 視できない感じで
す。
 家柄、父母についてはほとんど確証がありません。几董(きとう)は師の終焉の記に、蕪村 の父ないし父の家を
最初毛馬村の「村長」と書いて消し、「郷民」と書いて結局また消しています。幼時を毛馬村 で育った

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とは蕪村自身が春風馬堤曲に関連して人に告げています けれども、それでも、家柄や両親なり故郷なり
につき、軽率な先入観をもつべきでは、どうやら、ない感じです。
 享保十七年、十七歳のころに、かなり唐突に江戸へ出たようです。西鳥(さいちょう)の号 で享保十八年から元文二
年までの五年間、来川(らいせん)という俳人の門下での句作りの暮らしがあったと認められ ています。単身の江戸
出府と当然のように思われていますが、それさえ、また江戸へ走った動機も、分からないまま と考えて
いい研究の現状です。私がもし生意気に申し上げるなら、なぜ「駆け落ち」ふうのものであっ てはなら
ないか。突飛な妄想でしょうか。
 元文二年(一七三七)二十二歳の秋ごろ、夜半亭巴人(宋阿)に入門し、その頃には宰町 と、四年ご
ろには更に宰鳥と号をかえています。西鳥、宰町、宰鳥とたいして意味のない字だけに、「さ いちょ
う」という発音への執着が奇妙ですね。これも、先生、考えてみるべきでしょうか。
 寛保二年(一七四二)、廿七歳のおりに、終生尊敬した師巴人の死にあい、そして、やがて 江戸を離
れ、下総(しもふさ)結城に俳句の友の砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼って、以後ながく 野総(やそう)雁行といわれる時期がつづきます。奥羽(おうう)
へも足をのばし、二十九歳ごろには「蕪村」を名乗り始めたようです。延享二年春に、名高い 「かな書(がき)
の詩」の「北寿老仙をいたむ」──君あしたに去(さん)ぬゆふべのこゝろ千々に、何ぞはる かなる以下の作が
あり、翌年冬十一月には、一時江戸へもどって増上寺裏門の辺に住んだようすです。この確認 のきく江
戸ずまいの時から、その間にも結城方面への往来がありましたかどうかはともかく、四年ほど して──、
 宝暦元年(一七五一)、三十六歳の初冬ごろ京都にのぼり、先生はよくよく御存じのあの知 恩院(ちおいん)下の
袋町(ふくろまち)に、蕪村は、仮の宿りをもとめたように思われます。まえの短大からはす ぐ近くの袋町は、のちに

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浪速(なにわ)から上京した上田秋成も住み、その以前 には蕪村と双壁の池大雅も、円山応挙の弟子の素絢(そけん)らも暮
らしていたところだと覚えています。先生にうかがったのですわ、教室で。
 先生は、先生にむかってモノを尋ねてはいけない、自分で考えよと、私に轡(くつわ)をは められました。当た
り前とも、ちょっと憎らしいとも思いますが、仕方がない。
 で、およそ二十年ちかい東国での蕪村が、何をして、何に頼って暮らしを立てていたのがが 分かりま
せん。画といい俳といい、それで日々の糧は得られたのか。故郷を離れて僅かな期間かりに京 都に立ち
寄っていたにもせよ、江戸へ出た当座は、蕪村はまだ二十歳まえ。庇護の人があったか、お金 をもって
いたか。親たちは承知で子を出したのか、もう死んでいたか。蕪村は若いときに家産を破敗 (ははい)でしたか破
壊でしたか、とにかく潰してしまった男だと誰かが書いていました。放蕩でしょうか。商売の 失敗とい
った推量のしにくい蕪村ですが、茶屋遊びや恋の手習いならしたかも知れません、が、好色一 代の世之
介なみに十七以前に、もう…でしょうか。あげく女の人といっしょに浪速から逃げたのでしょ うか。
 あれもこれも、何も、誰にも、分かっていない有り様です。
 東国では、比較的ということですが、画の方に蕪村の手がかりが残っています。たとえ自学 自習にせ
よ勉強も積んだようです。技術として学ぶ幾段階かが、具体的に、なんとなし想像できます。 蕪村作と
伝わる当時の発句(ほつく)は、多めにみて三十例に満ちません。ただ印象としてですが、結 んだ人づきあいは、
巴人を中心に俳諧の縁につながるものばかりです。絵ごころはひとりでも養えますが、俳諧は 一座の芸
だと。そんなふうに納得しています。そのうえで納得できないことが、どうしても、一つ、あ りますの。
東国で二十年、蕪村はその間に家庭はもたなかったと、妻か妻にあたる女の人が、また生まれ た子供も、

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いなかったとは、いったい誰が確認したというのでしょ う。蕪村を論じまた語ったえらい方々のたった
の一人もそれを問題にもされていません。でも、でも……江戸出府という青春の一大事ともか らんで、
この昏い空洞を覗きこむことなしに、蕪村の根の不思議を語っては間違うのではないでしょう か。いい
え、先生はきっとそれを覗いておいでなのだと思っています──。           朋 子

 月 日
 ご挨拶ぬきに本題に入ります。
 蕪村の後半生には、画と俳とにつながる大きな事跡が、少なくも四つございます。
 宝暦四年(一七五四)、三十九歳の春から足かけ四年、丹後国、与謝(よさ)宮津の方へ 移って蕪村は暮らし
ます。いわゆる丹後遊歴で、これが一つ。絵を幾つも遺しています。
 明和三年(一七六六)、五十一歳の秋から五年五月上旬までの四国讃岐(さぬき)遊歴が、 その二つ。ここでも
絵をよく描き、しかも格別に充実をみせたと評価されています。
 明和七年(一七七〇)三月、先師巴人の名跡(みょうせき)を継いで夜半亭二世を名乗り、 俳諧の世界に存在を明ら
かにした一方で、継承者として若い高井几董(きとう)を側近に迎えました事件が、その三 つ。几董は、存命なら
ば夜半亭を継ぐにふさわしかった友人高井几圭の忘れ形見で、その几董に跡を継いでもらうこ とを夜半
亭再興への強い前提にしたとどの本にも書かれていました。そういう几董の人柄でありました ことを、
覚えていたいと思います。
 次に安永五年(一七七六)蕪村還暦の四月、比叡山の麓、あの一乗寺村の金福寺(こんぷく じ)山内に芭蕉庵を再興

46
 
 

して、いわゆる蕉風とのきづなを明らかにしながら、安 永天明の中興俳諧の機運に中心の役割を占めて
まいりますのが、その四つ、です。言うまでもありませんが、『春風馬堤曲』が世にでるの は、その翌(あく)
る安永六年正月でした。
 先生は授業中にも、よく、歴史の勉強には「前後の見境(みさかい)」が大切だよ、また人 と人との老幼の差も微
妙に大事な見どころだよと教えてくださいましたね。ちなみに高井几董は、蕪村が二十六歳の ころの、
寛保元年生まれでした。また蕪村の絵をふかく学んだ後の呉春(ごしゅん)こと松村月渓は、 蕪村が三十七歳でもう
東国から京都へ上(のぼ)っていた、宝暦二年の生まれです。蕪村より十六、七若い上田秋成 は几董の父江圭に
俳諧を学んで、子の几董ともごく親しく、また月渓に対しては何でしょうか、奥さんにつなが る親類筋
ででもあったか、まるで叔父さん然とした付き合いをしていたようです。
 蕪村の京都での私生活──。手にあまる、これは大問題でございます。一息つかせてくださ いまし。
でも、次の程度ならば普通に言われています。先ず宝暦十年(一七六〇、四十五歳)ごろに 「とも」と
いう人と初めて結婚し、「くの」という愛娘(まなむすめ)が一人いて、安永五年師走に嫁入 らせ、翌年の五月半ばに
は強引に取り返した、と。けれども、先生の「誘導」のおかげと思われますが、その辺はすこ ぶる暖昧
という見方に私は傾いていますの。
 当面の課題に、でも、結びをつけてしまいます。「蕪村」は俳号です。画名は主なもので四 明朝滄(しめいちようそう)か
ら趙居(ちようきよ)の時代、宝暦十年以後の長庚春星(ちようこうしゆんせい)の時代、安 永七年以後の謝寅(しやいん)の時代などを分別できると解説
されています。ただ俳諧ものの草画は、たいがい蕪村か夜半翁ですませてあるように見受けま した。
 ざっと──こんな程度でよろしゅうございますか。

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   弥生三日過ぎ(2字に、傍点)ある人の
   もとにいたりて
  草餅に我苔衣(わがこけごろも)うつれかし   蕪村

 蕪村はまちがいなく「スケベ」です。ご機嫌よろしゅ う。               朋子

 月 日

 思い立って知恩院下、蕪村「ト居(ぼつきよ」の袋町 をのぞいて参りました。以前の学校から、あんなに近いと
は。私も不勉強でした。東山線は言語道断の車、車。祇園石段下から歩道づたいに歩いていて も、騒々
しさに足がもつれそうでした。それが、ポンと一歩あの小袋みたいな辻へ曲がりますと、静か ですのね。
ちょっと居ずまいを正した、袋といっても肩衝茶入(かたつきちやいれ)にぴちっと織った間 道(かんとう)のお仕覆(しふく)みたいで。北側に頼(らい)
山陽の子孫という方のいまもお屋敷があり、袋道の奥はむろん行き止まりに、ひっそりと木の 門で閉ざ
されていました。
 よく見ますと奥の方、頼さんのお向かいに浅いのか深いのか、植木鉢やら三輪車やら出窓の 外へ吊っ
た葭簾(よしず)などののぞき見える路地がありました。蕪村は江戸から久々に上方(かみが た)へもどりますと、やがて三十
七歳の本卦(ほんけ)がえりを自祝し、「苗(なは)しろや植(うゑ)出せ鶴の一歩より」と 気分一新の気がまえでした。都の四季が
よほど嬉しかったか、よく出歩いていたようです。それでも一年もすると「秋もはやその蜩 (ひぐらし)の命かな」

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とその日暮らしに引っ込みがちに袋町へもぐりこんだ様 子、「遅き日や谺(こだま)聞ゆる京の隅」ですかどうで
しょうか、たぶんこの細い枯れ枝みたいな袋の中のまた袋のような路地に侘び住みしたものと 想像され
ます。それにしても袋町は、順ぐりに文人や画家の住んだ──なかなかの史跡なんですね。
 白川ぞいに、先生のお家(うち)のまえも通ってまいりました。よく太ったお父様らしい方 が咳ばらいなさり
ながら急に表に出てみえ、びっくり。足ばやに花見小路のほうへにげましたの。へんな、私 ──。

 月 日
 こんにちは、親愛なる先生サマ。ご指示にこたえまして、レポートを提出します。今度の宿 題は、安
永六年四月八日の花祭りからあと、蕪村が「新花摘(はなつみ)」百三十七句を連日書きつい で行きます、それに就
いて思うところを述べよ、と。
 蕪村はこの仕事で、句のほかに散文も書きついでいますが、初一念(しよいちねん)に事違 (たが)いまして、亡母追善の「夏
行(げぎよう)」としては中絶しています。蕪村が敬愛した蕉門の其角(きかく)にも、「花 摘」という、故人へ供養の同趣旨
の作があって、そのうえでの「新・花摘」は間違いないのですから、生みの母はもう喪(うし な)っていたと確認
できます。この年、蕪村は六十二歳、春風馬堤曲を世にだしてもう四ヶ月経った時節に当たっ ています。
先生のご指示に、この二つの絡み合わないわけが無い。よけいな事を言うなと。はいはい。
 

  潅仏(くわんぶつ)やもとより腹ハかりのやど
  卯月(うづき)八日死ンで生(うま)るゝ子は仏

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  更衣(ころもがへ)身にしら露のはじめ哉
  ころもがえ(ヘ)母なん藤原氏也(うぢなり)けり
  ほとゝきず歌よむ遊女間ゆなる
  耳うとき父入道よほどゝきず

「新化摘」の筆初めの六句です。四月十七日までの十日 間に九十六、七句も進みますが、十八日以後は
書き留めの句帖かのようになり、「若竹や是非もなげなる芦の中」(百三句め。五月極初)の 辺まで停
滞し、そのあともポツポツ書き加えながらとうとう五月十七、八日で、まったく棒を折ってし まいます。
問題は棒折れの理由です。蕪村の「私生活」が否応なく私の目のまえへ立ちふさがって来ると いう実感
に迫られます。
 棒折れの理由の第一には、前年暮れにどんちゃん騒ぎで嫁がせたかと言われます娘を、なに ごとがあ
ってか強引に奪い返すはめに陥った件が考えられます。几董(きとう)に宛て「やゝ暑(し よ)に向」かう時候に、「むす
め病気又々すぐれず候て、此方(こなた)へ夜前(やぜん)引取養生いたさせ候。是等(これ ら)無據(よんどころなき)心労どもニ而(テ)、風雅も取失ひ
候ほどニ候。老心御照察可被下(くださるべく)候」と手紙を書いていますけれど、五月二十 四日にはもっとはっきりと、
「まさな、春作」という二人への名宛てで、こう書いています。二人とも大坂の、蕪村がごく 懇意な俳
人です。

(略)

50

一、むすめ事も、先方爺々(ぢぢ)専(もは)ラ金もふ けの事ニのみニ而(テ)しほらしき志し薄く、愚意ニ齟齬(そご)いたし候事
共多(ことどもおほう)候ゆへ(ゑ)、取返(とりかへし)申侯。もちろんむすめも先方の家 風しのぎかね候や、うつうつと病気づき候故(ゆゑ)、

いやいや金も命ありての事と不便(ふびん)ニ存候而 (ぞんじさふらひて)、やがて取もどし申侯。何角(なにか)と御親節ニ思召被下(おほしbしくだされ)候故、
御しらせ申上候。
(略)

 でも、先生。この蕪村の言い分には、奇妙に納得の行 かないところがございます。「金もふけの事ニ
のみ」「いやいや金も命ありての事」というお金のからんだ事情が、「先方爺々」にあるのか 「むす
め」にか、蕪村自身にあったのか暖昧で、「先方爺々」という呼び方にしましても、「むす め」の夫な
のか舅か、むしろまるで雇い主かなにかみたいな気も致しまして、この「むすめ」は本当に結 婚などし
ていたのかしら、そう思い込んでいるのは後世の私たちだけではないのかしらん、とも考えま す。
そもそも事前に、お見合い、結納、嫁ぐといった気配すら少なくもこまめな書簡群からは読み 取りに
くく、どなたも、それが「むすめ」結婚の当日と決めつけていらっしゃる、例えば、
 

 (略)其節(そのせつ)は愚老ニ三十四五人之客来、 京師無双(けいしぶさう)之箏(さう)之名手、又ハ舞妓(ぶぎ)の類(たぐ)ひ五六人も相交(あひまじり)、美人だ
らけの大酒宴にて鶏明(けいめい)ニ至り、其(その)四五日前後ハ亭主大草臥(おほくたび れ)、只(ただ)泥のごとく相くらし申侯、それ故、早
速御返事も不申上(まうしあげず)、(略)

51

という安永五年十二月十三日付の手紙(宛先不明)にい たしましても、お披露(ひろ)めと取れないでもありま
せんが、それより、遊び上手も過ぎた感じの蕪村自身が「亭主」役を勤めた、ただ仲間内の、 年忘れめ
いた散財であった印象が先立ちます。ね、そうでしょう。ただし十二月二十四日、大坂横堀船 町の延年(えんねん)
宛て、「愚老義も当月むすめを片付(かたづけ)候て甚(はなはだ)いそがしく、発句も無之 (これなく)、無念ニくらし申侯。併(あはせて)良縁有
之(これあり)、宜所(よきところ)へ片付(かたづき)、老心をやすんじ候。来春より身も 軽く相成候故」という手紙を書いておりますのは、
まず後半の文面は、結婚した、と取るしかない文言です。同様に、「愚老も身安く相成候故」 と書いた
霞夫(かふ)という人宛ての、翌春正月晦日(みそか)の手紙もございます。
 それでも、と、私は頑張ってしまうのですが、「良縁有之、宜所へ片付」や「身も軽く」 「身安く相
成」が、必ずしも実の娘の結婚・婚礼を意味してはいない気がしますの。押し込んだ想像をし てしまい
ますが、延年宛て文面の前半など、蕪村は年若な自分のお妾さんをよそへ「片付けしたか、後 半にしま
しても「良縁」と見込んだ奉公先へ好都合に送りだしたような、たとえ実の娘であっても年相 応の青年
に嫁がせたというより、色好みで金まわりのいい「爺々」へ半ば身売りに出したみたいな、そ んなこと
もつい想ってしまうほど、婚礼と見るには無理で不自然で、印象の希薄さが感じられてなりま せん。な
により「併(あはせて)」とありますのは、話が二つを想わせます。予断は慎めと先生は仰い ます。慎みます。
「新花摘」を一念発起の、いきなり「潅仏やもとより腹ハかりのやど」「卯月八日死ンで生 るゝ子は
仏」の二句、怕(こわ)い、ですわ。
 そして「母」は亡く、けれど「耳うとき父入道」独りは、老いて毛馬かどこかに存命であっ たのでし
ようか。春風馬堤曲にいわれている「故国」や「耆老(きろう)」を、ここへ絡めて読んでも いいのでしょうか。

52

 蕪村の俳諧は客観的で、あまり私生活を反映せず、想 像世界を構想し表現する詩人だと国語や文学史
の授業で教えられた記憶がございます。事実、そうでありげに私にも思われます。たしかにそ う思われ
ます一方で、矛盾した感想にもつよくとらわれています。もしかして、「ころもがえ(へ)母 なん藤原氏也(うぢなり)け
り」(母人ハ藤ハラ氏也更衣、とも)のような、あらわに古典の本文を、この場合は『伊勢物 語』を踏
まえたと見せかけた句に、意外の私情が事実がらみに忍ばせてあったりしますのならば、「蕪 村」論の
先行きはよほど難儀、よほど厄介と、不出来で勉強嫌いな生徒はベソをかいています。先生 の、バカ。

 月 日
 無駄□叩かず、蕪村の住所を確認せよと。ゴメンナサイ。京都市内の地理によわくて自信が もてない
のですが、分かる範囲で調べてみました。大目に見てくださいまし。
 蕪村は、京都では画家として先に名を上げていたみたいですね。明和五年(一七六八)には 「四条烏
丸(からすま)東へ入ル町」に住んで門戸を張ったと年譜に記してありました。交叉点の東角 に大きな銀行が向かい
合っている、あの、北か南か、どっちかの辺でしょうか。高倉や東洞院(ひがしのとういん) にいたという弟子の松村月渓
と、ごく近所づきあいのようですね。
 明和七年、夜半亭二世を襲(つ)いだ頃は「室町通綾小路下(さが)ル町」に住んでいま す。味醂漬の古いお店で田
中長というのがあの辺にありますわね、お寺(さと)で頼まれて一度二度わけて貰いに行った ことがあり、町の
感じが分かります。いくら分かると言ってみましても二百年たっているのですもの。すっかり ビル街に
なっていて、田中長だけがずしと根生(ねお)いのままの佳いお店構えでした。

53

「仏光寺通室町東入(い)ル南側ろじ」と書いた手紙も ございます。安永二、三年と推定できます。この時分
から蕪村の暮らしがザワメキますので、目を光らせていますの。さきの田中長のお店から一と 筋まだ南
へ寄りますと弘光寺通ですね、よほど下京(しもぎよう)の町なからしくなりますわね。
 この「ろじ」暮らしが、どうも蕪村の本拠のように想像されます。安永四年の六十歳、天明 二年(死
の前年、六十七歳)の、どっちの年の『平安人物志』にも、画家の部に「仏光寺烏丸西入(か らすまにしいる)町」とあるの
が、さきの「仏光寺通室町東入ル」という自筆の所書きとは実質的に同じ住所を指しているの は、現地
を見るまでもなく市内地図でも確実に分かります。とすると蕪村は少なくも安永天明の大成期 を通じて、
ここの「南側ろじ」の内に住んでいたわけで、そう日当たりのいい場所へは、終生出られな かったか出
る気もなかった人らしいと察しがつきます。
 ところでこの中間に、六十四歳の安永八年二十日づけで、住所を「仏光寺烏丸東入町」と自 分で記し
ている手紙が、ただ一通ですが、はさまります。この「東入町」と前の「西入る町」とでは はっきり場所
がちがいます。この「東入町」は、名高いお薬師さんの因幡(いなば)堂界隈にあたります。 現在は広い烏丸(からすま)の大
通が西入ルと東入ルとを隔てていますので、いっそう別の住まいに思われるのですけれども、 ひょっと
して蕪村の書き間違いか、一時の引っ越し先か、それとも──曰(いわ)くのある「宿り」な のでしょうか。因
幡堂から、東の仏光寺まではちいさな町なかのお寺がいくつもひっそりと町家(まちや)のあ いだに埋もれていて、
ちょっと心のしめやかな日のそぞろ歩きに、似合うところです。そう思われるでしょ、先生 も。
 以上──遅くも讃岐への長旅を終えてからの蕪村は、ほんの歩いて十分以内の円のなかにお さまる、
下京のま真ん中に暮らしていたことが、ほぼ確認できました。

54

 でも、三年ごしの丹後国から京へ帰り、また讃岐国へ 旅立つまで、ほぼ四十代うしろの八、九年を蕪
村が、京都市内のどの辺に住んでいたかは分かりませんでした。「とも女(じよ)」との結婚 と「嬰児」誕生は
この間(かん)のことに違いなく、妻女の身の上など、「田舎」の出としか分かっていません し、妙にもやもや
と、気になりますの。ひょっとして、…ひょっとしてですわよ、蕪村は空也堂(くうやどう) のあったあの界隈にもい
っとき住んではいなかったでしょうか。そして、そこで、遺(のこ)っているあんな有髪(う はつ)で妻帯の鉢叩きの絵や
句をつくった気が、と言うよりもいっそ──いえ、まだ……言うのはよしにします。
 それと宝暦八、九年ごろ、と言いますと上方(かみがた)に帰ってきて間もない早い時期に あたりますけれど、そ
の当時の絵には、例えば、画中の馬は中国画人の南蘋(なんぴん)の手法に擬して描いた、け れど人物は自分流に描
いたと断っていまして有名な「牧馬(ぼくば)図」などですが、あれらには「淀南趙居(でい なんちようきよ)」「馬塘(まとう)趙居」という号を
つかっていますでしょ。淀南も馬塘も、つまり毛馬村即ち「故国」をいっていると読むしかな く、私は、
この一時期には、京都にだけでなく毛馬にも蕪村は住むか、または一根拠としての「宿り」を 確保して
いたような気が致します。これは──私の、自由研究の課題にします。

 月 日
「むすめ」の結婚を、不遜にも疑ってかかりましたこと、お叱りもなく、逆におホメにあずか り、朋子、
恐悦至極にぞんじます。でも、書簡集の都合のいいとこだけチョコチョコ摘まむなよとは、ツ マミたが
り屋さんのお言葉とも思われませんが、痛かった!「弥生三日過ぎ(2字に、傍点)ある人の もとに」とはどこへ行っ
たか、とは先生も鋭い鋭い。「草餅」でなく焼き餅先生とお呼びします。お見合いしました の、よ──。

55

さて、蕪村の手紙から、「家族同居人」を抜き出すよ う、以前から言い付けられていました意味、朧
ろに分かってまいりました、とても割り切れない事実が、中でも安永六年、春風馬堤曲の春か ら新花摘
の頃にかけ、集中しているのですもの。いま、思案投げ首の最中です。
 まえに書きましたかしら。あの几董(きとう)宛て「やゝ暑ニ向ひ候」は、昔の暦から推し まして遅くも五月上
旬のものかと存じます。あの手紙には「むすめ」を「夜前引取養生いたさせ」とございました でしょ。
 多分そのあと、五月十七日に蘆陰(ろいん)主人(大魯(たいろ))に宛てています手紙に は、

 一、(略)ともぷじニ候。きぬもかハらず候。毎度御 尋ね被下(くだされ)、かたじけながり候。余ハ重便。以上

とございます。「とも」は蕪村の妻の名として、かつて 疑われたことの無いらしい名前です。ただ、書
簡三百数十通に限って申せば、「とも」が無条件に妻女の名と読みきれる確証は、一つも無い ように私
には思われますが、それは、今はおきます。その次の「きぬ」とは、いったい蕪村の何に当た る女の人
でしょう。文面は、二人の女性が蕪村と現に一つ家に住んでいると読めます。
 五月二十四日の、例の「先方爺々専ラ金もふけ」の手紙がこの直後に書かれて、「むすめ 事」は「取
返申侯」「取もどし申侯」という仕儀にいたっております。「先方爺々」が何者か、まだ、全 然つかめ
ていません。目は配ってみましたが、どこか料理屋の人ででもあるのかしらと思われる程度し か分かっ
ていません。すみません。
 几董宛ての「夜前引取」がこの一件をさしているのは、ほぼ確か。では「きぬ」というの が、この

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「むすめ」の名なのでしょうか。それですと、でも、間 にはさまる「ともぶじニ候。きぬもかハらず」
の文面と食い違ってきます。「養生」のため「引取」らねばならぬほど「うつうつと病気づ き」「金も
命ありての事」と、お金の苦労だけは無げな暮らしにも見切りを付けるような、親の目には 「不便(ふびん)」な
状態だったと言うのですもの、「きぬもかハらず」の「きぬ」が病気づいた「むすめ」の名前 では、変
ですわ。
 そもそも、どなたも、この「きぬ」を蕪村の一人娘の名前とは認知しておられないのが現状 のようで
す、が、先生はどうなのかしら。この際の蕪村家(け)には、少なくも蕪村夫妻と「きぬ」と 取り返した「む
すめ」との四人がいたのでしょうか。それなら蘆陰は同じ家のなかで、いちばん「その後」の 安否を問
うてあげなくてはならないひ弱い「むすめ」のことは尋ねなかったし、また蕪村も「むすめ」 のことは
忘れた顔で、同居人のなかから妻の「とも」ともう一人の「きぬ」についてだけ消息している ことにな
り、すッごく変ではありませんか。「きぬ」とは、何者であるか。謎でございますぞ。
 ところで、これが一と月たった六月二十七日になりますと、霞夫(かふ)という人死ての手 紙に、別の名がま
た現れます。

酷暑弥(いよいよ)御壮健脚つとめ被成(なされ)候由 めでたく存候。愚老ふゆともに無為(ぶゐ)にくらし居(をり)、御安息可被下(くださるべく)候。
(略)此節はことの外(ほか)取込、中々(略)
内のものもくれぐれ御伝言申上候、(略)

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「とも」を妻とする定説がなければ、ここの「ふゆ」は さも妻かと読めます。ただ、書簡集を通じまし
て「ふゆ」の名前はほかにまったく見えません。「無事」の誤写とも誤記とも文面上受取りに くく、ま
ず女名としか読めません。また他の用例からも、ここの「内のもの」は家内つまり妻女ととる のが自然
ですので、その妻と「ふゆ」とは同じ人かも、別の人かもはっきりしません。妻の名は「と も」だと執
着するなら「ふゆ」は、さきの「むすめ」の名前かも知れず、するとさきの「きぬ」は、妻で も「むす
め」でもない同居の人となります。
 あぁ、ややこしい……けれども通りすぎることは出来ません。「愚老ふゆともに無為(ぶ ゐ)」という挨拶は、
どうみても老父と娘というよりは一対の「夫婦めく」印象です。けれど「ふゆ」を蕪村妻とみ ては今度
は「とも」が宙に浮きます。素直に読めば、蕪村が主(あるじ)の家のうちには、「とも」 「ふゆ」「きぬ」と取
り返した「むすめ」の四人が、一時期に……ああ、ややこしい。ところが、また一通、七月三 日付けで
大魯に宛てたこんな手紙が出てきます。

一、内ノものへ御伝書辱(かたじけなく)候。くのも無 事ニくらし候。しかし土用故歟(ゆゑか)、手のいたみ少々再発のき
ミニ侯。されども軽き事ニ候。御安息被下度(くだされたく)候。(略)

 この「くの」が蕪村溺愛の「一人娘」の名前と、どう も公認されているようです。先生も、そう考え
ておいででしょうか。
 よく調べてみました限り、「くの」「おくの」の名前は、年度不明の六月二十八日付け几董 (きとう)に宛てま

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した一通、安永三年九月二十三日付け大魯に宛てました 一通、そしてここのこの一通と、都合たったの
三通に三度しか現れず、もし疑ってかかりますなら、「くの」がぜひとも蕪村の「むすめ」で なくては
ならぬ手紙の文面ではない。どの一通も、そうではない気が致します。
 七月十二日には、また「きぬ」が蕪村の手紙に登場します。宛て先は几董です。

けしからぬ秋暑(しうしよ)に候。いかが御しのぎ被成 (なされ)候や。打絶倒無音案申(うちたえごぶいんあんじまうす)事に御ざ候。(略)御見舞にも参
申度(まゐりまうしたく)候へども、事多(ことおほう)候故意外之御ぶさた御免可被下(く ださるベく)候。今日寺迄人遣(つかはし)候故、御安否御尋旁如
此(かたがたかくのごとく)に御ざ候。とかく盆中御めにかゝり寛々(ゆるゆる)御物がたり と書留候。以上
七月十二日

(略)きぬも手のいたみ少々さし起り候故、先頃より手 前へ罷越(まかりこし)養生を加へ、野瀬秀作殿御くすり
をたべさせ申侯。少々よろしき方に候故御安息可被下候。
(略)

 手の痛みということで、大魯(たいろ)宛て前便での 「くの」と、几董宛てこの手紙の「きぬ」とは共通してい
ます。けれど、それだけの根拠で「きぬ」とは「くの」のこと、「くの」が離縁や病気のゲン 直しに一
時的に変名をつかっているのだと皆サン説明なさっているのは、どんなものでしょうか。離縁 させての
「取戻」しと、手の痛みで「先頃より手前へ罷越」しとでは、ワケが違うと言えば言えるほど の違いで
すし、ま、そこが几董へと大魯への蕪村の物言いのちがいなのだとも、言えば言えますが。野 瀬という

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京の医者らしい人のことは、私には調べられません。ど なたもそれ以上のことは言われていません。
 たしかに「きぬ」の名も、全書簡中でこの安永六年の五月(大魯宛て)と七月(几董宛て) の二通に
しか現れません。けれども「おくの」にしましても、前にもレポートしましたように安永三年 の大魯宛
て一通をのぞけば、残る二通は「とも」「ふゆ」「きぬ」など登場と同じ時期にかぎられてい ます。そ
れどころか、念のためにそれらの名を日付の順に並べてみますと、「きぬ」が「くの」の変 名・替え名
とは、ちょっと言い切れないことが見て取れます。

1 病気の「むすめ」を「夜前」此方へ「引取」った。 やや向暑の或る日。几董へ。
2 「とも」無事、「きぬ」も変わり無い。五月十七日。大魯へ。
3 「むすめ」を「取返」したと報せた。五月二十四日。正名・春作へ。
4 蕪村と「ふゆ」と「とも(倶)に」無為つまり無事。六月二十七日。霞夫へ。
5 「くのも」無事。「土用」のためか但し軽い手の痛み再発。七月三日。大魯へ。
6 「きぬも(1字に、傍点)」手の痛み少々。先頃より蕪村方へ「罷越(まかりこ)」し 「養生」投薬、軽快している様子。七月
十二日。几董へ。

 1と2と入れ替わる可能性は無くもありませんが、そ うなれば「むすめ」と「きぬ」とが同一人では
ありえなくなりますわね。2の手紙で蕪村と「きぬ」とは明らかに同居していますから、その 後に「取
返」すの「引取」るのという話は成り立ちませんから。

60

 また妻の名をともあれ「とも」と認めますと、その他 の女名は、「きぬ」「ふゆ」「くの」「きぬ」
の順で日を次いで登場します。この流れに素直に乗れば、「きぬ」が「くの」の一時の変名と は、よほ
ど強引に断定せぬかぎり出来ない相談ではないでしょうか。
 上方(かみがた)では、つい近年まで、戦後にさえも、ちょっとした大きなお家(うち)で は替え名という習慣は確かにご
ざいました。お手伝いさんや使用人ともかぎらず、奥さんやお嬢さんでも、本名のほかに、ふ だんは
「はつ」「はる」「うめ」「まつ」などと呼ばれ呼ばせて、手紙にもそう書いていた例は、私 でも身近
に記憶がございます。
 けれども、かりにも一人の呼び名を、こんなに短期間に不規則に、しかも父親(らしき人) が混用す
るというのは変です。まして弟子筋とはいえ他家の人に対しては考えにくいことです。先生 は、どうお
考えになりますか。「くの(本名)=きぬ(替え名)」「とも(本名)=ふゆ(替え名)」が 従前から
付き合いのある誰にでも周知の事実であれば別ですが、それを証拠だてる手紙はまったく見ら れません。
まして「くの」が「きぬ」を一時期名乗っていたとは、とても証明できないのが現状と思われ ます。
 先生……疲れました。なんで、こんな手紙とも言えない手紙を私は書きつづけなくてはいけ ませんの。
いえいえ、ごめんなさい、愚痴でした。もうすこしだけ書きます。
「くの=きぬ」の理由に手紙の5と6とに見えている「手の痛み」をあげること、もちろん、 出来ます。
それだけで同じ人と言いかねるのも、でも、たしかです。体質的に「くの」と「きぬ」とが血 肉を分け
ているかどうか別としましても、時候柄、蕪村の住まいがそういう故障を起こしやすい環境と も言えま
す。現に同様の症状から蕪村自身が中風かもと大慌てしたこともあったと、どこかに書かれて いました。

61

京の夏の路地の奥暮らしは、けっして健康ではありえな かったと想像されますもの。
 それに蕪村は「きぬも手のいたみ少々」と書いています。「くの」に加えて「きぬも」のよ うに読め
ます。しかも手紙の調子に、「きぬ」が、以前から「むすめ」同様に当時蕪村夫妻と同居して いたので
は無さそうなことが、やはり、几董に宛てた「手前へ罷越(まかりこ)」しという表現から読 みとれて来ます。
 蕪村の「一人娘」は「くの」か「きぬ」か「ふゆ」か、それとも「とも」か。内の一つは妻 の名と思
いたいところですが、それさえ断定できない、というのが書簡群を慎重に調べましての、当面 の結論で
すわ。いっそ二人、三人の蕪村娘か日(いわ)く付きの「むすめ」がいたとすら言えそうなや やこしさです。
 先生……。でも、こんな詮索、蕪村の芸術を理解する役に立つのでしょうか。分かりませ ん。
 ──お見合いをしたというのはウソですが、しないかと責められてはいますのよ。その気 は、まった
く無し。むしろ下宿の近くに同じ大学の「法科」さんがいまして、通学の電車で一緒になりま すのが、
ナカナカなの。「春情まなび得た」「癡情可憐(ちじようかれん)」の「接木(つぎき)の 梅」の運命、いかに、いかに。

追伸 安永頃の梅の句で、気にかかりますもの、
  二(ふた)もとの梅の遅速を愛す哉(三年)
  みのむしの古巣に添ふ(う)て梅二輪(五年)
  こちの梅も隣のうめも咲(さき)にけり
 これは、五年師走二十四日、延年宛て「当月むすめを片付(かたづけ)候て」の文面に添え て。また、
  梅遠近南(をちこちみんなみ)すべく北すべく(六年)

62

 これは春風馬堤曲公表の頃の作です。例の「雛二対」 といい、どうにも右に左に両手に花の風情
が匂います。気になります。なられませんか。                   朋子

 月 日
 大魯宛て安永五年の五月十七日便の文面で、蕪村と「きぬ」とが、同居と決めつけてはいけ ないとの、
ご注意。おっしゃいます通り、早合点は禁物でしたわ。浪速(なにわ)にいるお弟子から、師 の蕪村や妻の安否と
あわせて、嫁ぐか奉公に出てたのかも知れませんが、とにかく他所(よそ)へ出ている先生の 娘さんのことでも
ご機嫌をうかがって来た、それに答えて蕪村は、「どもは無事ニ候。きぬもかハらず候」と返 事をして
おく日常ふだんの感覚があっていいわけですものね。──すると、妻かも知れない「とも」は 一応除外
しますと、「むすめ」と「きぬ」とは、なるほど、別人どころか逆に同一人である可能性が強 まります。
娘を、「引取」り「取返」した事実と、「きぬ」が、「先頃より手前へ罷越(まかりこし)養 生」している事実とが、
一連に見られるからです。先生は、それを、おっしゃるのでしょ……。
 でも…、そうぱかりとも言い切れない気もしますの。
 七月十二日の几董への文面だと、蕪村と几董とは「打絶倒無音案申(うちたえごぷいんあん じまう)」すくらい、しばらくは逢ってい
ませんでしょ。ですから、その間に様子の変わった一つとして、「きぬ」が「先頃」から蕪村 のもとに
「罷越」していると伝えている。そうでしょう。
 では、この「罷越」一件と、同じ几董に宛てています遅くも五月中旬より以前に違いない 「此方へ
(むすめを)夜前引取養生いたさせ候」と伝えているのとは、どう説明できるでしょうか。同 じ出来事

63

を二た月もへだてて同じ几董サンに二度も告げている、 それは蕪村センセのボケ症状として説明するこ
とになりましょうか。蕪村の名誉を傷つけるのは気が進みませんわ。ですから、「向暑」のあ る日の
「むすめ」と、秋、旧暦七月十二日の「きぬ」とが同人であるとは、やはり断定はしにくく。 かりに同
一人としますと、この「きぬ」という人はふつう他家に暮らしていて、もともと病弱なために 「引取」
ったり「罷越」したりを不規則に繰り返してきた、そういう脆弱(ひよわ)い女性なのでしょ う、そうとでも推量
するのが穏当かと思われます。
 第一に、最初に「きぬ」を語った文面ですと、専ら金儲け主義の「先方爺々」から「むす め」を憤然
として「取返」すといったきつい物言いにくらべ、よほど□ぶりが違いませんか。少なくとも 喧嘩腰で
はない。第二に、五月十七日には変わりありません、無事ですと言えている「きぬ」を、一週 間とたた
ない二十四日より以前には、もう先方と喧嘩ずくで「取返」すという急な変わりかた。繋ぎが 不自然と
いう印象は拭えませんの。かと申しまして、では「取返」されたのが「ふゆ」「くの」や「と も」であ
るとも、どう手紙を日付順にならべてみましても断定できません、「きぬ」よりは…可能か… と、思え
る程度です。
 で、先生のお顔をしかめさせる覚悟で、すこし、しつこく考えてみます。(ナニ遠慮するこ とはない
よ、それこそセンセイ仕込みなのだ、アハハ…。)
 極端な物言いをいたしますと、およそ安永六年五月半ばから七月半ばの二ケ月間に、六通の 手紙から、
(妻らしい「とも」を除外しましても)蕪村の身近に「五人」の女が指させます。

64

1 夜前引取った「むすめ」
2 きぬ
3 先方爺々から取返した「むすめ」
4 ふゆ
5 くの
私、どうか、しているんでしょうね。でも、笑わないでください。
さて──、
一、1と2とは同人の可能性があり、その場合は3とは別人の印象が濃い。
二、2と3とは別人と、ほぼ言い切れる。
三、2、4、5を無視するかぎり、1と3とが単純に同一人の可能性は十分ある。
四、2と5とが、同一人である心証が強い・濃いとはとても言い切れない。まして本名の5か ら2へ
の一時的な改名ということは信じにくい。
五、4と5とは、文面だけから見るかぎり、1や3の事件と適合する手掛かりが無い。
六、5の「くの」だけを即ち蕪村の「一人」娘の名と決めつけ、1や3の騒動や、遡って嫁入 りの事
実とも固執的に結びつけるには、確定要素があまりに乏しい。
七、2、4、5のうち一人が「むすめ」であっていいが、残る二人にしても「むすめ」であっ て不都
合とは思われず、また、まるで別の続柄(つづきがら)にあたる女性であっても差支えは無 い、以上。
                                         朋 子

65

追伸 きょう、帰りに例の法科さんと電車であい、錦林 車庫まえのピカピカの喫茶店に誘われまし
たが、頭痛がすると言って断りました。
「それはイカンな」
こう書くと酒落みたいでしょ。

 月 日
 追っかけてお手紙を書かずにおれません。蕪村、蕪村で頭がいっぱい、などと言いますと かっこうが
いいのですが、遠くの遠くの先生から気を紛らわせて、いいえご一緒に、いたいのですわ、 きっと……。
 で、蕪村ですが、妻や娘をめぐってのこのアイマイさ。春風馬堤曲が蕪村の名作、ナンなら ば代表作
の一つとしまして、もし伝記を書くなら鍵も鍵の作品と。そう信じるならばこのアイマイさは とてもゆ
るがせに出来ない蕪村論の「難所」と、先生はおっしゃる。生意気ですが、その感じが否応な しに分か
ってきましたの。この辺をホッタラカシにしててはしょうがないよと先生のお手紙、どことな し憂鬱そ
うで、朋子、ちょっとシュンとしていますのよ。家族、同居人といっても固有名詞には限らな いとのご
注意にも、今は、ナンヤネ、オッサン、メンドクサイヤンケ、などとは思いません。
 几董の書いた蕪村終焉記。孫引きになりますけれど、月渓の画集の解説文の中で、臨終の辺 だけ読み
ました。「しら梅の明(あく)る夜(よ)ばかりとなりにけり」という夢みるような美しい辞 世の句が出るまえに、
「心のこりはございませんか」と弟子たちが問いかけますと、

66

(略)いか成宿世(なるすぐせ)の契り浅からざるを や、愚老が本懐足ル事をしれり。されど世づかぬ娘が行末など、
愛執(あいしふ)なきにしもあらねど、なからん後はそこら二三子(にさんし)が情もあるら ん。よしあしやなにはの事も観念
の妨(さまたげ)なるはと、物打(うち)かづきて答(こたへ)なければ、(略)

弟子たちもそれ以上は強いて尋ねなかった、とか。
 これは「妻娘(さいぢやう)の人々をはじめ月渓、梅亭(当時は京都に住んだ、むしろ画の 方の弟子)の輩、旦暮起
臥(あけくれおきふし)を扶(たすけ)て師につかふまつるの志切(せつ)なるも、(天明三 年十二月)二十二日、三日の夜はことに打(うち)うめきて
おは」した際のやりとりです。
 が、ここで私には、(身内でない男性の几董の筆とは申せ、)先ず、「世づかぬ娘」という 物言いが
気になりますの。
 半年でも一度は嫁いだ「むすめ」のことを、安永五年師走から七年も経っていて「世づか ぬ」とは、
どう甘い親でもちょっと問題でしょう。「世づかぬ娘」とは処女っぽい少女のこと。先生の、 教室での
お教えを復唱いたしますならば、「世づく」「世づかぬ」は年齢(とし)ではないよ、男女の 仲を体験したかせ
ぬかだよ、と。蕪村は、じつは、病弱な自分の娘を自分の存命中にはようお嫁に出せないまま ではなか
ったかと、そんな強い疑念が私にはのこっています。安永五年の暮れに縁あって「片付」けた のは、実
の娘ではない「むすめ」か、もう一人べつに歳相応の娘があった、娘は一人ではなかったのだ ──と、
考えてはいけないものでしょうか。

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蕪村の没後、「二三子」の尽力で持参金つきでこの「世 づかぬ娘」はどこかしらへ嫁入ったよし、他
の本で知りました。もっともそんな具合ですと、奇妙にもう春風馬堤曲の世界から遠ざかっ て、ありふ
れた(と言うより、年老いた)父親とうら若い実の娘とのまずまず世の常のお話でしかありま せん。終
焉記を「ぜひ」読めとは、「よしあしやなにはの事も観念の妨(さまたげ)なるはと」呟いて おそらく涙顔をかく
してしまった老蕪村をよく見よ、と先生はおっしゃったのでしょう。そうなのでしょう。
「観念の妨」げとは、熱心な念仏の徒でした蕪村のことですから、浄土観想と西方往生の妨 げ、つまり
安心して阿弥陀さんに極楽へ迎えていただけない、という意味ですね。「むすめ」のことは月 渓や几董
を頼れても、でも、「なにはの事」は覚束ない、不安だとは、これは何のことでしょう。なに やかや、
いろんな事がというのでしょうか。浪速の方のことが、心配なのでもありましょうか。
 奥さんの(もちろん蕪村センセイの)ことも考えねばなりませんね。奥さんの名、ほんとに 「とも」
でいいのですか。確信、もてないでいます。
「とも」という名前は、同じ大魯宛ての手紙に安永五年三月と六年五月の二度だけ見ることが できます。
べつに「妻」「愚妻」が十六回、「賎婦」そして「母子」という言い方が各一回あります。ま た「内の
もの」「家内のもの共」「此方(こち)のもの共」「拙家(せつけ)みなみな」とあるのを合 計しますと十五回です。「も
の共」「みなみな」という複数表現は、蕪村自身が除かれているのですから、妻と娘一人の都 合二人だ
けをさすには大袈裟な感じです。かと言って下女、下男をふくめているとも感じ取り難(に く)うございます。
 そこでにわかに気がかりな事が出来てきます。「とも」「くの」「きぬ」「ふゆ」らの名に 絡みまし
て、他でもない几董ほど事情知った身近な弟子が、終焉記に、草稿では書き入れていながら、 あとでわ

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ざと削除した臨終場面での「妻子両姉」の「両姉」の行 方です。妻娘への敬語としての「両姉」なら、
削ってはむしろいけない筈です。「妻娘」とべつに「両姉」とが最期の枕べにいた筈です。 削ったのは
差し障りがあるからです。この詮索は、でも、しばらくお預けにさせてくださいまし。
 要するに蕪村が奥さんを引き合いに出していますのは、おおかた特別の記事もなくて、差出 人へ「御
伝書(おつたえがき)」で代わりに感謝したり挨拶したりする時ばかりです。いっそ、「田舎 より妻一家ども罷(まかり)登り」
(安永末年ごろの三月十二日、宛先不明)「田舎より愚妻縁類ども罷登り」(天明一年閏(う るう)五月二十七
日、士川(しせん)宛て)の、さも不満気な文面の二通だけが逆に印象に残っております。
 さらに別に、「やどのもの」という表現のが二通あり、妻や娘と取るべきようで、これもま た別の意
味から気がかりな物言いです。考えてみたい気がします。
 臨終まで添いとげた奥さんと蕪村との結婚は、宝暦九年か十年ごろと朧ろにどなたも推量な さってい
ます。蕪村は四十四、五歳。初婚なら(4字に、傍点)たいそうな晩婚で、とても淡泊どころ では済まない蕪村先生にし
ては、はっきり、不自然です。当然それ以前にも深い仲の女性の実在を想像してかかっていい 気がいた
します。蕪村もまた、どこかの先生とおなじく、江戸へは駆け落ちしたとすら思いたいところ です。い
かが、せんせい。
 ま、それも、措きましょうよ。ね、先生。
 で、宝暦十年に結婚し翌年(一七六一)に「むすめ」が生まれたとしますと、諸先生方が 「嫁入っ」
たといわれます安永五年(一七七六)には数えとして、十六。(これがどうも怪しくて、本当 はせいぜ
い十四としか考えられない証拠も挙げられます。)蕪村の亡くなった天明三年(一七八三)に は二十三

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歳。これは嫁ぐに遅めの「世づかぬむすめ」と呼んでふ さわしい年格好です。むしろ十六で結婚してい
たという方が、(昔のことですから珍しく無かったでしょうけれど、)それ以前の「小児」 「むすめ」
の頃のいたいけなく、ひよわい様子からしてやや時期尚早、妙にそぐわないという気がいたし ます。事
実、安永五年師走の婚礼とやらを予期させる事前の徴候が、筆まめな書簡群でみるかぎり皆無 とすら言
い切れます。徴候があったとしますと、安永五年ごろに蕪村の俳画・草画がにわかに数多く出 回って、
これが支度金になって行くいわゆる「嫁入り手(で)」の作であったかと推測されている点だ けです。
 それにしても変な点はあります。わずか十六(よほど年かさに見込んでですが、)の文字ど おりの
「世づかぬむすめ」に対し「先方爺々」とは、どういう縁組みでしょう。「爺々」はお婿さん のお父上
とも想像できなくはありませんが、それなら婿殿は影も形も見せていません。成り行きに、縮 みあがっ
ていたのでしょうか。嫁が気に入らずに難癖つけ、それを舅が代弁していたのでしょうか。蕪 村の愚痴
に、その辺がちらとでも見えていていいはずですが、「金」の話だけです。ほんとうに婚礼な んてあり
えたのでしょうか。
 ひょっとして蕪村のヤツ、うら若い娘をどこかの「爺々」に金銭づくお妾奉公に出したン じゃ、ない
んでしょうね、先生。
 蕪村に取り愚かれた感じのこの頃です。頭、ふらふら。それでいて目が冴え、よく眠れませ ん。夢の
中まで女のいろんな名前が追っ掛けて来ますのよ。そして──うつゝなきつまみご・ろの胡蝶 哉。あぁ、
もう、いや。朋子
   雑誌(美学)25号。ついつい、研究室の書庫ですぐ手に入ると気をゆるしまして、ま だ見でいま

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せん。

 月 日
 例のご心配。今日、東から昇ったお日さまは、エイヤと西の海へ沈めました。とりあえず。 でも……
朋子の五体は、いまにもヒビ割れそう。

 月 日
 おどろきました……。
 K博士の論文「春風馬堤曲の解釈」──
 こんなのが昭和三十一年五月に、ちゃんと出ていたのですね。へぇーっ…。
 先生はご存じで、なのに今まで教えて下さらなかった。でも、恨んでなんかいません。もし 馬堤曲を
五度六度も書き写していました時にすぐこれを読んでいたりしたら、刺激があんまり強すぎ て、ほかの
こと、考えられなくなっていたに違いありません。
 私の、もたもたとした推理や憶測を、お笑いもなさらず、おまえもけっこう大人になって来 たなんて
妙なホメようをして下さいまして、有り難うございます。なんだか、だんだんと先生のお書き になる調
子と似てきていそうな心配をしていますの、これでも。
 先生は私を操(あやつ)っておいでになる。私は先生のお人形さんですの。いいですとも。 いいお人形さんにな
って、みごとに舞ってみせますわ。許せない方ね。

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 さて──春風馬堤曲が、蕪村社中による春興帖「夜半 楽」の眼目かのように人目に触れるようになり
ましたのが、安永六年正月中か、おそくも二月初めでしたのは、これは間違いないように思わ れます。
師走の内ではちょっと無理が過ぎます。
 でも、──だから馬堤曲の書かれたのもこの正月中、などと決めてしまうことは出来ません よね。な
がいこと、仮に暫くの間であっても、とにかく何かの理由で秘め置かれていた作品で、ない、 という証
拠もないわけですし。そうだという証拠もないけど。
 K博士は、春風馬堤曲がほんの「狂言」で、「座元」は蕪村自身であるという、言ってみれ ば軽い冗
談□の方よりも、「実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出(いで)たる実情ニて御座候」 という、あたかも
前言否定の述懐の方を、より大事に、「解釈」なさっていたのだと、私は、論文「春風馬堤曲 の解釈」
を読ませていただきました。
 ただ、蕪村の「実情」というのは、事実、写実、の意味であるよりも、実感豊か、というほ どの含み
ではないかと私は思っていますの。その根拠に、几董(きとう)と、彼に並ぶ江森月居(げつ きよ)との高弟同士「十番左右
吟」に対して宗匠の蕪村みずから判の詞(ことば)を書いています中に、こんなところがござ いました。月居の
「鹿啼(なく)や宵月落(おつ)る山低し」の「山低し」を褒めながら、句は「陳腐」である けれども、「さはいへ、実
情たるをもて勝(かち)とや申べき」と。朦朧の月明ゆえに「嵯峨たる山も低しとは、いひ おゝせたり」とも。
写実的だというよりも詩的にみて実感豊かであると言っているように、私には思われました の。
 K博士は、「実情」を「事実ニ情有リ」の気味にお取りになりながら「解釈」をなさってい ますが、

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それが或いは逆効果となり、やや面白づくにこの貴重な 論文が読まれてしまいはしないかと、ふと恐れ
ます。驚きましたが、手元にある限りですけれど、何冊もの鑑賞や解釈も、大概は近年の出版 ですのに、
昭和三十一年のK博士論文を揃いも揃って参考文献欄からさえ追放ないしは黙殺なさっていま す、それ
が学問の世界の現実のようでございます。それでいて、ありあり意識はされているのが分かり ます。か
なり失礼です、K博士は明らかに先生、あなた、のような小説家とはちがって学界の方ですの に。
 K博士が、どうして春風馬堤曲ほどの詩作が蕪村の深部から「うめき出た」か、よく、そこ を「玩
味」しなければならぬとおっしゃいますのは、当然ですわ。「字句の表面の馬堤曲とは全く別 の」「言
換えれば書かれない馬堤曲の予想外の相がそこに彷彿(ほうふつ)と浮んで来る。」その通り ですわ。
 でも、その程度で終わるのなら、「想像された創作」説をとる方も大なり小なりおっしゃっ ています。
K博士のお説が独特なのは「字句の表面」を突き抜き、朔太郎このかた、どなたも見ようとは しなかっ
た或る情況を、鋭く、びっくりしてしまうほど鋭く抉(えぐ)り出された点です。それにして も、何もかもご存
じてこれを懐に蔵ってらした先生って、いやな方ねえ、ほんとに。
 嬉しゅうございましたのは、「堤ヨリ下(オリ)テ」という蕪村自身の送り仮名、気になっ ていたのでしたが、
K博士も「注意すべきは」この点だと、この一点から一気に「解釈」を定められていることで した。
「明らかに『堤ノ下デ』と読まれたくなかったためで、堤上の道からその下へおりて行く行為 を、蕪村
がいかに重視したかをよく示している。」
 私もそう思いましたの。「堤ヨリ下(オリ)テ」の場面ではじめて姿なき蕪村その人の影 が、春風馬堤曲に見え
隠れに現れだすことに気づきました。いい勘、してたでしょ。

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 けれど、先生。
 私にK博士の以下のような読みなんて、ぜったい出来ませんでした……、と、書くところで すが、先
生、あなたは、もはやそれすら可能な場所へと、この私を巧妙に誘いこんでいらしたのです。 そう、な
のです。私は何回もの原作書き写しを「強いられ」ながら、いつかK博士の「解釈」を肌に感 じていま
したわ…ほんとよ。ほんとに、予感していました。はずかしいことを申すようですが、お風呂 へ行って、
湯気にあたってちょっとした放心気味で湯ぶねにじっとつかっている時とか、からだを夢中で 洗ってい
る時とか……に、私は、もう覚えてしまった馬堤曲の詩句を心ならずも思い浮かべてしまうこ とで、先
生を、あなたを、そのよく撓(しな)うほそい、けれど力づよい指さきの感触を、あふれ出る もののように身に
ふかく甦らせているのでした、体重をしっかりささえる程…に。

 (略)娘は実は一人で家まで帰ったのではない。いつ しか堤の上で彼(蕪村)と道づれになったので
あるが、(略)しかるに娘は事実(堤ヨリ)下りて行ったのであるから、蕪村と二人で下りた ことは
紛れない。(略)

 K博士は「二人」が同郷人であった点を大切に見てお られます。それは二人とも「郷愁」を胸に抱き
ながら、「春風や堤長うして家遠し」の孤心と哀感とにひたっている時なのでした。

 (略)すなわちそのときに二人はたゞ道連れという関 係から下りて、一そう深い仲へ入っていったの

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で、この下りてゆくときの感動は蕪村にとって最も深く 烈しかったにちがいない。その一瞬のいつま
でも消えやらぬ記憶が、彼をしてここにわざわざこの送仮名をつけさせねば止まなかったので ある。
「あ、あすこにあんな草が」といって手を取られ、娘はそれが目的でないことはわかってい て、己(おの)が
身の芳烈な美草を摘ますために彼についていったので、この辺から言語は全く象徴的になって いる。

「荊与蕀塞路」の部分は、剰蘇をわざわざ「与(と)」 の字で分けてあります以上は、K博士とはすこ
し違い、「今の」私ならば、蕪村と少女と双方からの微妙に局所的な接触と抵抗との感覚を言 い表して
あると読みます……。そうすればK博士のように「荊蕀何無情」と異例の字句によって少女一 人の「う
めき」声などと説明せずとも、夜半楽での最初の(初出というのでしょうか)詩句どおり、 「妬情(とじよう)」で、
よく分かります。「妬情」とはナミの解釈にございますような「やきもち」ではなく、男と女 とのやむ
にやまれぬ官能が瞬時に沸騰する双方の「うめき」と取れます。言うにいわれぬ恍惚境という ふうに取
れます。ですから、「何ゾ妬情ナル」なるといった一般の訓(よ)みは、私ならば「何ノ妬情 ゾ」と息をつめ
て詠歎しながら「裂裙且傷股」へと繋げて読みます。もう、「股」は「脚」の誤記かなどとは 申しませ
ん。

 (略)「裙(くん)を裂いて且つ股(こ)を傷けた り」というのは些(いささ)か大胆な表現であるが、蕪村がこの語を敢て冒(おか)
したのにそれを生ぬるく解釈するのは、却って蕪村の本意に背くと思われる。股は実際は脚で あろう
と(荻原)井泉水(せいせんすい)は考えるが、勿論ほんとうの草の荊(いばら)の引掻くも のなら手や脛の方が好(よ)い。そういう

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誤解を防ぐために、蕪村は特にはっきり股と言って、荊 が実は荊でないことを紛れなく示唆している。
繰返して言うように、ひとり家路を急ぐ田舎娘が珍らしくもない草を摘むためわざく堤から下 りて、
きずつ
荊(とげ)でせっかくの晴着を引裂き、手や足でない股まで傷けるというのはすべて全く不可 解であるが、序
の言う如く蕪村と二人連れならば、それらはみな当然有り易く理解し易い道草となる。そうし て傷け
たのが指や脛でなくて、股でなければならぬということも実によく判る。少し強すぎるこの語 が用い
られたについては、まさにそれだけの実事があったことを想わねばならない。そうして、それ は次の
句を見るとき愈々(いよいよ)明かとなる。

 K博士のおっしゃっている通りですわ。どうして皆さ ん、こう読まれないのでしょう。蕪村を誣(し)いる
とでもお思いなのでしょうか。
 薮入りの少女は晴れ着を裂きそんな股に傷つきながら、堤の道にも戻らずに「渓流石點々」 を踏んで
渡っては、芹を摘みはじめます。田舎の親への、それが珍しい手土産になるでなし、そもそも 淀川(長
柄川)のこの辺は、安永の昔とは申せ水量豊富な、もはや河口にも近い大河ですもの、清らか な渓流は
おろか晴れ着の裾をからげて踏んで渡れるような「石點々」のそうそう在りようもないこと は、河を見
知った者には分かります。
 蕪村は、はだしで清い川をわたるのが好きな詩人でしたわ。はやくに、丹後の与謝郡加悦 (かや)という所で
つくりました「夏川を越すうれしさよ手に草履(ざうり)」という、心はずむ佳い句がござい ましたわね。ここの
「石點々」も、まるで、毛馬堤(けまづつみ)を下りていった薮入りの少女が、身の内の深く で、或る変化を体験した

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内心をせつないほど心うれしく、あざやかに先取りして いなかったでしょうか、……ね、先生。
 K博士はこの渓流を、「実際にそこをながれる川ではなくて却(かえ)って女身のそれであ り、そうしてまた
危く美しいその身振の為の虚構の装置」とおっしゃっています。「堤長うして家遠し」のはる かにやる
せない哀愁と、「多謝ス水上ノ石」の溢れる幸福とのあいだに、「まさしく裂裙且傷股の最初 の体験が
あった」のであり、蕪村は自分の姿はけっして現さずに「ただ少女の優しいミミック(身ぶり =朋子)
のみをあらわす」ことで、この詩の「奇異に深い魅惑」を造形しえたのだと、そう、K教授先 生は見て
おられます。そして、朋子の先生。K先生は、こうもおっしゃっているのですわ。

 (略)けだし女の愛欲の姿態や身振ほど世に美しいも のはない。しかしそれをさせる男(四字に、傍点)の姿ほど世に
醜く邪魔なものもない。(傍点、少女)

 月 日
「夜色楼台雪万家図」を巻物とはいわないことに、それなのに随分横に長い、その意味ではさ らに無い
画面をもった作品であることに、先生、この朋子さんは気がついたのであります。縦はたかだ か三十セ
ンチもない、それなのに横は一メートル三十センチ、比例を失しているか、巻物であるか。け れどとて
も巻いておいて繰りひろげながら見る絵じゃありません。一望にする絵だと思います。
 似た大横物──この言い方、ぴったりですね──に、「雪万家図」に負けない写真でしかま だ見
たことはありませんがとっても面白い「峨眉(がび)露頂図」がありますね。

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 こわいような、おかしいような、ギラリとして頑強な 絵ですね。空と山と、刃物の飛んだような鋭い
上弦の月、白い凄い月。まちがった言い方なのは感じますけれど、でも、こんなのを朋子は 「男絵」と
呼んで刺激されたい気がします。「雪万家」のほうはそれにくらべますと優しいとも薄情とも どっちつ
かずに奇妙に泣かせます。そういうところは「女絵」と言いたいです。両方とも類のない傑作 に思われ
て、嬉しくなります。この晩年のといっていい二つの絵にくらべますと、「春風馬堤曲」では 蕪村先生
のヤツ、けっこう遊んでるんじゃないですか。けしからんところが、ありますね、ホントに。
 なにを言おうと書いてたのか、分からなくなりました。もうもう…許さないんだから。いや なんだか
ら。ホントなんだから。涙、出てきちゃった。さよなら、先生。ア、ちがいました。思い出し ました。
 山の絵をみていて「山」のことを考えていたんです。蕪村は、なんでこんな「山」を描いて みたか、
そういうことを蕪村の人と社会にからめて考えないといけないよと、きっと先生なら仰りそう だと気が
付いてきたんですもの。でも、まだ何も思いついていません。分かりません。蕪村は「山の 神」が怖か
ったんですわ、へへ。
 冗談は措きまして、蕪村は「雪万家」や「峨眉露頂」を描いて何かを、あるいは誰かを、そ れへの批
評か批判か尊敬か軽蔑かを暗示したかったりしたでしょうか。そういうふうに絵を読むばかり では、こ
れほどの尊い感じの絵を侮辱してしまう気もします。それでも蕪村の絵も句も、いっでもそう いう「読
み」を誘って、挑戦するように戯れている感じはありますね。そういう俗は、終生蕪村さん、 捨てきれ
てはいなかったかも。ア、生意気言うなと今私をにらみましたね、先生。このごろ、ほんとに 生意気に
なりました、私は。

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 くわばら、くわばら。おやすみなさい。                        朋子

 月 日
 ごめんなさい、先生。先生にむかって、言ってはならない皮肉を言ってしまったようです、 クサッて
います。「あまり露骨に書くな」とおっしゃったのも気にしています。手紙、お仕事場の方へ 出してい
ますが、見つかって物議をかもしているのではございませんか。ゼッタイ、奥様やお嬢さんの お目に触
れませんように。隠してくださいませ。
 私、先生に聴いていただきたいこと、あるのです。厄介なご心配をかけますような事とは違 います、
が、過ぎた昔のごくおソマツなはなしと、現在ただ今のはなしと半々なのです。けれど、で も、それも
いずれの日にか。いまは蕪村で明け暮れの、春情まなび得たる四回生に、進級早々です。
 そうそう、追い出しコンパのことは、とくべつ感想なし。お酒落さんのH教授が、よせばい いのにシ
ャンソンを歌われました。けっこう拍手がありましたが、それだけ。
 お気になさるんですねぇ、先生も。電車の「法科サン」と、その後何もおこりません。先生 はいっこ
う京都にいらっしゃらないし、東京へおいでと電話も下さらないし。六十すぎた蕪村お爺ちゃ まと仲良
しして、朋子は、あたら花の青春を浪費するのを唯一のたのしみと致し居りますのよ。加島の お寺へも
帰りません。母の目が、いささか怖いこの頃でもあるからです。寂しいわ……。
 それにつけて、ようやく元の毛馬堤へ上がったらしい馬堤曲の少女の、

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  一軒の茶見世の柳老(おい)にけり

の「解釈」で、K博士の深切な感情移入(美学の学生ら しいでしょう!)に及ぶ人はございませんね。
高尚そうな理屈をくねくね折り曲げて物言う人はいますけれど。薮入りの若い娘が見なれた柳 を「老に
けり」などというのは、やはり「裂裙傷股」の痛切な体験が招きました特別な視覚にちがいな く、

 (略)すなわちこの娘はいま蕪村と何か恥しいことを して来た。よくないことをしてきた。親に対し
てすまないような、うしろめたいような、ひどくきまりのわるいようなことをしてきたので、 親を恐
れる気持が強くうごいている。親が今そこに来て自分を叱るような気がしている。その恐れ が、娘の
潜在意識の際(きわ)に微(かす)かに老母の姿をちらちらと映し出すので、柳をみたとき、 ふとそれを親と感じて彼
女ははっとした。その微妙な一瞬のこゝろのかげりを、蕪村は娘の顔に見てとって、それをこ の句に
表現したのである。

 薮入りの子を待ちわび、出迎えにきていた老母──。 でも、少女の母親ですもの、そんなに老でもな
いのでしょう。蕪村の気持ちもつい出ているのでしょう。貧しく窶(やつ)れたお母さんの、 一瞬の幻影とK博
士がお読みになったの、分かりますわ。
 ところで、堤に、木立に囲まれて、蕪村の昔から一軒の茶店が出ていたことは、『淀川両岸 一覧』の
毛馬の景にも見えていると誰方(どなた)かの本で教えられました。が、その茶店のお婆さん が、薮入り小娘にな

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んで「慇懃に無恙(ぶえう)を賀」し、裂けて汚れたよ うな「春衣」をほめましょうか。一つには蕪村への遠慮、
二つにはK博士のおっしゃる「二人を見くらべて呆れ」ながら、「いったい何処で何をして来 たのか」
と怪しむ気持ちの裏返しにちがいありません。
 娘ひとりなら、けっして茶見世に立ち寄る必要が、ない。また店にいました二人の先客(ま ちがいな
くワケありげな男女)が、あたかも気を利かして「酒銭」を置き席を明け渡して顔をかくすよ うに立ち
去りましたのも、もう親の家にまぢかなただの薮入り娘とはこの少女のことを見ていない、自 分らと似
た者同士、ワケありの二人づれと合点したからです。K博士は、「即ち娘は親の家へ帰るまで に、どう
しても裙(もすそ)の裂けめをつくろい、土を落し血を拭い、晴着を着直し帯を締めなおし て、とにかく身なりを
整えねばならぬ」と、しつこいくらい事こまかに解説されています。このセンセイもちょっと ばかりヘ
ンな人だわ、そうお思いにはなりませんか、ワタクシの先生は。
 先生は私が申し上げなくてもK博士のお説は重々ご承知なのです。長手紙になどする必要が 無いので
す。でも先生は、そうせよと私に求めていらっしゃる。黙って求めていらっしゃる。先生は楽 しんでい
らっしゃるのです。かまいませんとも。

  雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草ハ地ニ満ツ
  雛ハ飛ンデ籬(まがき)ヲ超エント欲ス 籬(まがき)高ウシテ堕(お)ツルコト三四

 まだ茶店で休みながら庭先を眺めている図でしょう ね。「少女」の観察はたいそうこまやかだとK博

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士も注目なさっています、だから、それなりに含みをよ く読むべきだと。
!がき
 (略)その庭には草はなくて雛がうろついて居り、雛は親■(おやどり)に外から呼ばれて 離を飛越えようとする
けれども、籬が高くて三度も四度も堕ちてしもう。しかし幾度目かについに籬を越えたとき、 蕪村と
その膝の上の娘とは顔見合せてにつと笑ったかも知れない。もちろん■は蕪村、雛は娘とし て、二人
の年頃にもちようど合う。そうなればこそこの四句の情景がいかにも面白いので、若(も)し 娘がひとりな
らば、生まれたときから嫌ほど見慣れたこの家禽(かきん)の有りふれた動作を、一刻も早く 我家へ帰って親に
あいたいやぶ入(いり)娘が、なぜ道草をしてうつとり眺めているのであろうか。もともと■ が男を現すのは
浮世絵にも例の多いことで、たとえば湯上りの女の股や縁で爪切る娘のあらわなそれをのぞき こむ■
は、すべて男と思ってよい。そして少女はすなわち雛ゆえ、この一首の解釈は殆ど疑う余地が ない。
(略)籬はすなわち娘の始めて越えてきた体験の関門で、(略)二人は自分達の体験をそのと き雛や
■の動作に見出したので、後に蕪村は二人の心身の結合の歓喜を、その可憐な雛や■にうつし て象徴
的に表現したのである。

凄いわ!
                                         朋 子

 月 日
 蕪村と娘とは茶店の裏木戸から出たようですね。人目も多少忍んだことでしょうけれど、 「籬外ハ草、

(■:奚へん に 隹)

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地に満テリ」その芳(にお)う春草にまじって、「たん ぽゝ花咲(さけ)り三々五々、五々は黄に三々は白」い中を「小
径(こみち)」は三つ叉(また)に岐(わか)れています、その真ん中のが、娘の家へは近 道、つまり「中に捷径あり我を迎ふ」な
のでしょう。娘は思い出していますわ、去年も、その前の薮入りにも「此路」を帰ったわと。 そして思
わず、

  憐(あはれ)ミとる蒲公(たんぽぽ)茎短(みぢか う)して乳を●(アマセリ)

 茎短かなたんぽぽの乳とは、「もとよりたたゞの乳で はない。茎は草の茎ではない」のだそうです。K
博士はあくまでこれも「少女」の述懐とされてはいますけれど、娘の衝動的な、なにか蕪村を 深く喜ば
せたらしい少女の仕草には、(これからは、私の感想になります、)たいそうに申しますなら ば、瞬時
を永遠に変える時間の秘儀のような何かの力があり、その力に押しだされて、蕪村は、薮入り の田舎娘
の心境を叙する筈の「座元」の役どころを胴忘(どわす)れしてしまいます。そして、

  むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
  慈母の懐抱別に春あり

と呻(うめ)きます。叫びます。もちろん「少女」にも 「むかし」があっていいわけですが、「むかしむかし」と
なりますと、はみ出した「愚老懐旧のやるかたなき」ものが露(あら)わに見えてまいりま す。蕪村は、なにか

(●:さんずい に □に巴)

83

思い屈するところのある蕪村は、いま、身のそばを寄り 添いあるく薮入りの少女の体温に、なつかしい
自分自身の母への慕情を、追憶を、うち重ねてしまっているようです。そしてそれを「慈」 「恩」の二
字に表現せずにはおれなかったようです。
「別に」についても、私はこれで随分と物を思いましたの、ほんとよ。
「別に」の二字は、四季自然の運行を超えた不易(ふえき)の「夢」とも言ってよし「理想」 といってもいい、け
れど、もっと人くさい、いいえもっと動物じみた、母の膚(はだ)の匂いやぬくみにくるまれ た別世界、とこし
えの春が、そこに、「慈母の懐抱」に、「慈母の恩」に、その一切の思い出の中に、在る…と いうので
はないでしょうか。先生は、そう思っておいでではないでしょうか。『春風馬堤曲』から『新 花摘』へ
の必然の「捷径(ちかみち)」を先生はとっくに辿られながら、私にもおいでと、ここまで操 (あやつ)り誘って下さった──
いいえ恨んでなどいません──と、頷けるようになりました。この道は、でも……往きはよい よい帰り
は怖い道ですわ、分かっていますの。
 話を、もとへ戻します──。むろんここは、娘心の故郷にまぢかい故のそこはかとない哀し みや愁い
も代弁しえています。でもそれ以上に「乳をアマセリ」「昔むかし」「別に春あり」は、蕪村 うつつの遥
かな「夢」を私たちにも覗き見させてくれるようです。蕪村はあきらかに夢に遊びえたのをよ ろこんで
います。そう私の思いますべつに証拠とも言えませんが、心証のひとつくらいにはなりましょ うか、こ
んな句をみつけました。

  我(わが)帰る道いく筋ぞ春の艸(くさ)   蕪 村

84

 安永七年のこの自画賛は、几董や大魯ら十分心知った 弟子たちと兵庫和田岬のほうへ遠出の集(つど)いのさ
いに、たまたま「春草」という題を得まして「不堪感慨(かんがいにたへず)、しきりにおも ふ」た末に絵に添えた句だそう
ですが、前年につくった馬堤曲や澱河歌(でんがのうた)(これがまた大変なシロモノですの ね。)への弟子筋の関心に、
いくらかは応じながら、なお忘れやらぬ薮入り娘とのあの記憶にも繋がれていたらしいのは確 かです。
「記憶にも」と、「も」を私は書き落としたくありませんの。
 K博士流に申しますと、この「春の草」がただの春の草では、ありえません、でしょ。先 生、あなた
も、しっかりと摘まれた草ですわ。蕪村はこの句で、やや無頼に居直っている気がしますの。 何故かっ
て、だって彼は帰る家路を、このとき、もう「幾筋」か私生活に抱きかかえているという、こ れは率直
すぎる程の表明ですもの。寄り道していくからな、いいなと、几董や大魯らの、これは、協力 ないし従
犯を暗に強いてすらいるとも申せます。兵庫の旅さきという気安さがさせている戯(ざ)れご ととも言えまし
よう。浪速(なにわ)、長柄(ながら)は京よりもずっとその時近かったのですもの、その距 離の差に救われるように蕪村は
馬堤曲の秘密を問わず語りに「道いく筋ぞ」と吟じましたのなら、蕪村の老境は、まだまだ 「乳をアマ
セリ」だったんだなあと想像されます。
 そして、ここが肝心。
 私は、そんな蕪村が、そうイヤでなくなってきましたの。何としてもあの「夜色楼台雪万家 図」の寒
さと淋しさが、胸に沈みこんで動かないからです。あの絵を描いた、描けた人だものと思い、 その人を、
そのほんとうの孤独を信じるからです。

85

「春あり成長して浪花にあり」以下、「本(もと)をわ すれ末をとる接木(つぎき)の梅」までは、薮入り娘の身の上をな
お歩み歩みのあいだに、聞き上手に好色の老人が戸籍しらべでもしているのでしょう。少女に は一人の
弟(てい)があり、また自分は浪花へ奉公に出て三年めの春を迎えたことが分かります。K博 士は「郷を辞し弟
に負(お)ひて」と訓まれ、他の本ではふつう「弟(てい)に負(そむ)く」と訓まれていま した。弟と離れ別れて、の意味に、
やつれ行く母を弟に預けた心もとない負担の気味、も重ねて読むのがよろしいでしょうか。
 そして「梅は白し」とあります。ここが全曲の眼目のように思われます。ひとたびこの少女 を白梅と
見てしまった蕪村にとりまして、この翌年の書簡の、

  しら梅やいつの頃より垣の外

 また辞世初春の句となりました、

  しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり

は、関連上もとても無視できず、いまはの際(きわ)に も「観念の妨(さまたげ)なるはと、物打(うち)かづきて答」えられなか
ったといいます「よしあしやなにはの事」とやらが、否応なく思い起こされます。
 こうして「薮入の寝るやひとりの親の側」と、知己(ちき)というべき太祇の句でじょうず に一曲の長詩を結
んだまで、父なく、白髪のふえた母と幼い弟との三人だけの少女の境涯が、さびしく叙されて います。

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K博士は、「かように家族のことまで確実に記された処 に、この娘が蕪村の想像の造った仮空の少女で
はなく、実際に実在して彼と関係した女であることがまず明かに示されている」と説いておら れます。

 (略)これが決してたゞの抒情詩ではなく、彼の実際 の痛切な体験の中からうめき出た一種の繊悔録(ざんげろく)
にほかならぬゆえ、それ(家族のこと)を他の諸事実とともに記さねばすまなかったのであ る。言い
換えればそれを説かなければ、全曲を貫く事件と、心理との発展が十分に理解されず、(略) すなわち
この娘に若(も)し父親、あるいはしっかりした兄があったならば、蕪村はかように娘につい てその家まで
行かなかったにちがいない。(略)
 事実、(蕪村と恐らく旧知の)老母はまことに頼りの無い身で、行先ながい娘や弟のため誰 か確か
な後援者を求めていたにちがいないから、娘が蕪村と何をして来たかなどあまり気にせず、村 の古い
名家の息子なり、田舎にしてはとにかく立派な旦那でしかも老熟した蕪村と娘とを、深く喜ん で迎え
た事であろう。娘も蕪村のように名高い人を連れて来たのが些(いささ)か得意で、三人は色 々の昔話など声高
にするうちに、あたりが闇くなり、蕪村は娘を母の懐抱に任せて、その安らかな眠りを祈り つゝ、故
郷の村の小闇い道を歩き出したものと思われる。そして危い財宝の家にでなく、その夜は親の 側に娘
の寝るのを親のように喜んだに違いない。(以下略)

 K博士は、この春風馬堤曲は「安永二年(一七七 三)」の正月に、本当に起きた実事を書いたものと
思われているのですが、そんなことって有り得たのでしょうか。薮入りの少女を、以来蕪村の 身辺に

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「実際に実存して彼と関係」しつづけた「女」として、 探りだせるものでしょうか。
 先生、お願い…。こんなところで私を放り出さないで。       朋子

 月 日
 几董の蕪村終焉日記に、はじめ臨終に侍したとして「妻娘」のほかに「両姉」があげてあ り、それが
後に削除されていました。この「両姉」とは、例えば蕪村の愛した京の遊女小糸と浪花の遊女 うめで、
風聞をはばかって削ったというようなことは、蕪村なればこそあり得る話だよというお手紙 に、びっく
りしています。ことに浪花のうめが春風馬堤曲に見える「接木(つぎき)の梅」の一句を、さ らには辞世の句の
「しら梅」をうけた、あの薮入り少女の廓名(くるわな)ででもあるのでしたら、これはもう よほど小説じみて、先
生ご自身の領分ですわね。「よしあしやなにはの事も観念の妨なるは」という最期の呻(う め)きに、とてもい
い意味の未練の思いがまつわりついているようで、もの哀れに存じます。      浦島朋 子

 月 日
 黒谷一帯が一斉の大掃除でしたのよ。でも、女所帯で箪笥ひとつ動かすことができず、母屋 (おもや)はパス。
私も畳はあげ切れないで、そうはいえ潮時なものですから、お部屋の模様がえをしました。母 屋から、
なんと堂本印象の時鳥の絵を床掛けに拝借できました。

  黒谷の狂女恋せよほとゝぎす   朋子

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 蕪村に、こんな句があるのを見つけました。

  父母のことのみおもふ秋のくれ

 まるで初心の率直そのもので驚いています。五十代前 半の作ですのね、実の気持ちそのもののようで
すけれど、どう父母を「おもふ」ているかが謎の蕪村です。
 蕪村の位置を馬堤曲のなかの「弟」に見て、幼時を追憶の作品かとみる方もありました。作 品の「読
み」って、奥のふかいものですね。
 お手紙、下さい。下さい。                           先生 の

 月 日
 春風馬堤曲のことはしばらく忘れて、書簡をつづけて詮索するようにとの御指示に従いま す。手はじ
めに、蕪村が明らかに我が子について人に報じておりますものを、ほぼ年代にそって抜き読み してみま
す。
 一等古いのは、漢詩人でもあり蕪村のはやくからの俳句の弟子でありました黒柳召波宛て、 明和三年
(一七六六)九月のものです。四国讃岐へなにやら悲壮な気分で旅立ちを前に留守宅を頼む手 紙です。

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 (略)不佞(ふねい)旅行、御察之通(おさつしのと おり)、讃州へむけ発足仕(つかまつり)候、帰期ハしれがたく候。尤(もつとも)留守中只今の通、賎
婦相守罷在(せんぷあひまもりまかりあり)候間、此辺御行過(おんゆきすぎ)之節ハ折々御 訪可被下(くださるべく)候。殊更嬰児(えいじ)も在之(これあり)候故、留守中心細き事に御
座候。(略)秋風漸(やうやく)粛然、離情やるかたなく候。御照察可被(くださるべく)下 候。(略)しばらく田舎漢(いなかもの)ヲ相手ニ
可致(いたすベく)候。おもしろからぬ事二候。(以下略)

「不佞」は自分「賎婦」は妻をいう謙遜のことばでしょ うね。ですから「嬰児」にも、年齢よりは幼稚
と遜(へりくだ)る気味はございましょう。けれども、三、四歳を超えていたのでは不自然な ことばです。最大限
はやめても、宝暦十三年(一七六三)蕪村が四十八歳で有名な「春の海終日(ひねもす)のた りのたり哉」という句を
つくりましたより以後に、この「嬰児」は生まれていた筈です。これを安永五年(一七七六) に嫁いだ
とされています例の「むすめ」と同人と仮定しますと、嫁入りの年、多くもまだ十四歳を超え てもおり
ません。子煩悩で知られる蕪村にすれば、何を、そうまで、十三、四の娘を嫁ぎ急がせる必要 があった
のでしょうか。
 蕪村は「嬰児」のほかに「小児」とも我が子を呼んでいます。明和七年(一七七〇)に召波 がお人形
を呉れましたのを喜び「小児雀躍仕(つかまつり)候」と書いていますし、翌八年には「小 児」の容体を尋ねられ、
やはり感謝して「当分(当座)のいたミに而(て)御座候」と返事しています。「嬰児」から 「小児」への年
の程の移りかたはごく自然です。
 安永三年(一七七四)にはこの子が十一、二歳になります。が、九月二日付の手紙に、到来 物を感謝
して、「しほらしき物、小児甚怡悦(いえつ)、愚老もともによろこび申侯」とございます。 「小児」という物言

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いに、かなり甘い父親の表情が見えます。年は不明です が「小児微恙(ぴえう)」けれどすぐ「快気」と軽症の回
復を几董に報じた一通もございます。蕪村を喜ばせるのにこの「小児」のご機嫌をうかがうの が上策だ
った様子、察しがつきます。先生も、朝日子(あさひこ)さんや建日子(たけひこ)ちゃんの ことをもっと話題にすれば、ニコニ
コなさって下さるのでしょうか。
 同年の九月二十三日には、「娘」が手習いに行くので温かな革足袋をあつらえてほしいと頼 んでいま
す。大魯宛ての長い手紙で、いくつか問題ありげに読まれます。例えば、初めてここに「おく の」とい
う名前が現れます。

 めきめきと寒く相成候。御家内無御障(おさはりな く)、めでたく奉存候。拙家(せつけ)みなみな無為(ぶゐ)くらし候間御安息可被下(くださるべく)
候。(略)愚老とかく風塵に苦しみ、例之通(とほり)句も無(これなく)、無念に御座候。 漸(やうやく)
  水溶て細脛(ほそはぎ)高き案山子(かかし)哉
  枯尾花野守(のもり)が髪(びん)に障りけり
    白髪相憐(あひあはれむ)之意ニ候。
  狐火の燃えつくばかりかれ尾花
    是ハ塩からき様なれども、いたさねバならぬ事ニて候。御鑒察(ごかんさつ)可被下 僕。
   几董会、当座、時雨

  老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな
(略)

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蕪 村

    九月二十三日
   大魯 様
   副啓
   毎々乍御面倒(ごbんだうながら)、又例之革足袋(かはたび)ほしく御座候。娘も手 習(てならひ)ニ参候故、はかせ申度(まうしたく)候。
    拙(せつ)が足ハ少ク侯。
    九もん八分くらいニて能(よく)候。
   おくのが足形(あしがた)は別ニ相下(あひくだし)候間、足袋やへ被仰付可被下(お はせつけられくださるベく)候。御めんだうながら奉頼(たのみたてまつり)候。
   以上

「足はちひさく」でしょうか、「拙」は蕪村自身としか とれませんわね、女の大人でもこんなおおきな
足袋ははきませんもの。
 この手紙などが証拠とされ、「娘」の名は「くの」とされて来たのでしょうか。でも、「拙 家(せつけ)みなみ
な」という物言いにかぶせまして、すこし推量を働かせますなら、「くの」が白髪相憐の妻女 かまたは
同居ですこし年かさな女の名前ととっても通る書き方ですわ。「革足袋」は以前から「例之 (れいの)」で通じる
くらい頼んでいた様子です。自分も家の女どもも、また欲しくなった、そのついでに「手習」 に通いは
じめた幼い娘の為にも初めて注文していると、むりなく読めます。「娘も」の「も」がいかに も追加注
文の感じです。もっとも「足形」も初めて遣(や)るようですから、それが「娘」のもので しょうし、それな

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ら「くの」が「娘」の名でいいわけです。こねまわすよ うですが、でも、そうやって一つ一つ納得して
行かないと、どこで何をまちがうか知れないのですもの。たかだか二百年あまりしか経ってな くても昔
の人のことは、容易に知れるものではないのですね、先生。
 そんなことより、ここで「愚老とかく風塵(ふうぢん)に苦しみ」とあります一節が気にな ります。まさか「風
邪」をひいているわけではないでしょうし、本には「俗用、経済的な遣繰(やりく)り」と注 がついていますけれ
ど、評論家のAさんは、この二字に、「何か、隠された恋愛事件のようなもの」を推量なさっ ていまし
た。手紙は安永三年のものですけれど、あのK博士が「安永二年」から始まっているとされた 「馬提
曲」の少女との「老(おい)の恋」が、ここへ、この書簡の文面や句へ、繋がっているので しょうか──。
 もう休もう、休もうと思いながら、ペンをもつ手がゆるしてくれません。今夜もながい手紙 になって
しまいます、……でも、こうしているだけで先生とごいっしょしている気持ちになれます。こ うしてい
るだけで、先生が忘れられるのなら、もっとラクなのに。
 K博士が、K大学教授の現職のままお亡くなりになりましたのが、昭和三十八年でしたと か。その以
前に先生はK博士にお手紙を書かれていたなんて、おどろきですわ。それも博士の御著書に対 するファ
ンレターでしたって。春風馬堤面はもとより、ほかにも幾つもアイデアがあって、小説にいつ かさせて
欲しいとお許しをもらっておられたなんて、なんて方でしょう、先生は。なにもかも黙ってら したのね、
そして、こんなことを私に唆(そそのか)したりして。いいわ。朋子はお手伝いサンのような ものですもの。それ
で卒論が出来るのですもの。
 で、K博士の亡くなって直後でしたわ、A芸大のS教授が博士を追悼なさりながらの、いわ ば蕪村研

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究の最近の動向を紹介されている文章をさがし当てまし たの。さっきのA氏の蕪村論も高名をえたもの
のようですが、私など、つい、K博士のお説なしに有りえなかったかと思ってしまうほどで、 S教授も、
K博士の蕪村研究をそれはたいそう推賞なさっていました。それなのに、ただ馬堤曲のあの 「解釈」に
だけは、SさんもAさんも、なぜか頑ななまでに従ってはおられず、(私の持っています限り のお二人
の近著では)引用も紹介すらもなさっていない──。不思議です。
 蕪村の「風塵」は目下、ぼんやりと「後人」推測の底を漂っているようですわ。先生のお説 をうかが
いとうございます、どう見ましても、つづく案山子、枯尾花、とくに狐火の句が異様なんです もの。他
方で枯尾花の奥さんと白髪を相憐れみながら、一方で五十九歳蕪村の老骨に妖しい火がっいて います。
「いたさねバならぬ」とは何のことでございましょう。こう句というものは作らねばならぬと の、作句
上の発言。いいえ、蕪村その人の情念のこれは噴出。呻き出でたる肉声なのではないでしょう か。
 そして「老が恋」を当座の吟として几董その他の社中のまえへずばっとさらして見せます蕪 村、不逞(ふてい)
なほどの蕪村が、ここにいます。生意気を申しますが例えば「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分か な」などを
悠然と書いた蕪村とは、まるで別人の素顔をのぞき見る心地です。いわれもなく何故か私に は、これも
俳諧ものの草画の「鉢たたき図」の、あの鉢叩きの顔が蕪村の顔のように見えてまいります の、「木の
端(はし)の坊主の端や鉢たゝき」という句賛といっしょに。
 よれっと頭巾(ずきん)をきた、しわがちに面長な、顎のとがったお爺さんが、前かがみに 瓢箪を叩いて歩く図
──、□はへの字に結んで目は虚空にすわっています。よほどものを思っているらしく顔の八 字の皺や
鬢(ぴん)の白さが目立ちます。ユーモラスというには画面がやや沈鬱です。陰気です。そし て「木のはし」以

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上に、

  ゆふがほのそれハ閥饅歎(どくろか)鉢たゝき

も、気になる賛です。瓢を夕顔の実の白骨と化したもの かとは、それは夕顔瓢箪の表面の意味でござい
ましょ。この句の夕顔は、源氏物語のあの生きすだまに命をさらわれたあのはかない美女のこ とではな
いでしょうか。女を奪わせたその悔いに似た思いが、この老いた鉢叩きの顔を暗くし、歩みを 重くして
いる気がいたします。そういう蕪村を想像してはいけないのでしょうか、先生。       朋子

  追伸私、見落としていました。どこかしら居続けの 料亭から、「おともどのへ 用事」と宛名し
て「廿三日」日付け、「夜半亭」と署名の短い手紙が一通ありました。これで「とも」という 名前
は、書簡中、都合三度あらわれていることになります。編者注にも、蕪村の妻女で夫の没後に 清了
尼とよばれた人とございました。文面からほぼ納得できますので、私も、今後は「とも」を妻 の名
と承認いたします。
走り書き、ごめんなさい、軽い腹痛で──。でももう具合はよほどよくなっています。ご心配 なく。

 月 日
「夕顔のそれはどくろか鉢叩き」に当推量をいたしましたのを、かえってお褒めくださって、 吃驚して

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います。ついでに「鉢叩き」について調べてみるように と。ご意図は不明なれど承知仕(つかまつり)候。あわせ
て大魯宛て手紙に有之(これあり)候「革足袋」が如何なる物かも、調査仕候間、御安息可被 下(くださるべく)候。
 但しせっかく詮索をはじめました「娘」成長の跡も、辿り終えておきとうございます。
 安永四年の暮れに、「娘」が琴を習っている由の手紙があり、「よほど上達いたし候。寒中 も弾(ひき)なら
し耳やかましく候。されど無事にひととなり候をたのしみ申(まうす)事に候」と蕪村は書い ています。翌る五年
正月にも「むすめ」の琴にふれ、「近年は画はかゝせ不申(まうさず)候」とありますので、 手すさびに絵を描くす
べも手ほどきしたことがあったらしいと分かります。教育パパ、蕪村ここにあり。
 何度も申すようにこの年、昔風に数えて「むすめ」はかろうじて十三、四歳になっていま す。「二月
中より左右の腕だるくいた」んで四月に及んでおりますが、真夏の六月になりますと「むすめ も無事ニ
而(て)、琴はけしからず上達申侯。御上京ならば御聞せ申たく候」などと手ばなしの有り様 です。仲秋八月
には「むすめ事も成長いたし候而、琴を出精(しゅつせい)、余ほど上達いたし申侯」とあり ながら、秋風もそろそろ
冷たい九月六日には、また健康「はかばかしく無」いとみえ、二十二日になってやっと「愚老 無為、む
すめ事も此三四日ハ甚こゝろよく、手の自在も大かたニよく成候て、琴のけいこもちとづつは じめ申体(まうすてい)
ニ御座族間、御安意可被下候。再々御尋被下(くだされ)、母子ともニ御深情恭(かたじけ な)がり申侯」となっています。どう
見ましても人妻ともなろう・なれるという「女」のさまとは思えません。
 この後にも、縁談、結納、輿(こし)入れなど、毛すじばかりの気配もありません。のに、 わずか三ヶ月のう
ちに、「良縁在之(これあり)、宜所(よきところ)へ片付(かたづき)、老心をやすんじ 候」と急転直下寒い寒い京の師走の婚礼というのは、
まるで狐か鼠の嫁入りかとあっけにとられます。事実とすれば、よほどの事情が隠されている か、よほ

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ど重大なところを「後人」の私たちが見落としている か、ではないでしょうか。
 そこへもって来て、明けて安永六年になりますと、いまや厄介な春風馬堤曲が公表されま す。つづい
て「新花摘」のいわくありげな着手があり、気の挫(くじ)けた中絶。手紙には女の名前が、 ま、乱れかうとい
ったその中で「むすめ」の「取返」し、それも強引に。唖然とします。いくら唖然でもよろし いのです
けれど、割り切れなさにはいらいらします。
「取返」して以後の書簡では、およそ「むすめ」に関しましては平凡です。
 一通だけ、安永につぐ天明期に入りましての、
 

 御使殊(こと)の外(ほか)またせ申侯。其(その) ゆゑは娘それがしにむかひ過言(くわごん)いたし、扱々(さてさて)にくき者と存候へども、骨肉
の愛情ゆへ(ゑ)異見真最中、それにて(略)

と言い訳しているのが面白うございます。この、京の俳 人らしい如瑟(じよひつ)という人宛ての手紙には、描いた
絵を送りとどけて「謝宝」やら「奈良茶めし」を催促するやら、老蕪村の気短かにいらだって いる感じ
がよく出ていました。「娘」も十九かはたちか、お年ごろでおヒスが出ています感じ。わたく しめも、
ちとどなたかに「過言」してやりましょうぞ。でも「骨肉の愛情」はなし親切に「異見」もし てはくれ
んでありましょう。
 ついでながら蕪村は、「むすめ」と「娘」とをその時に応じて混用しています。「むすめ」 の全部が
「骨肉」の娘とは限らぬ余地も見落としてはならない気がしていますが、どうお思いでしょう か。と同

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時に、ずうっと書簡群でみています限り、例の安永六年 夏から秋のガタガタさえ無視すれば、蕪村の実
の「娘」は、同じ一人の成長の跡を自然に辿っていると素直に読むしかありません。すこしや ぶれかぶ
れにこの事情を言い換えれば、つまり実の娘と同然のいわくある「むすめ」が蕪村身辺にほの 見えると
いう推測が成り立ちます。先生は、たぶん、それを私の□から言わせてみたかったのですわ。
                                           朋子
  追伸
   足弱の宿かる為歟(か)遅桜   蕪村
   涅槃会や嘘を月夜(つくよ)と成に鳧(けり)
  お逢いしとうございます。うそでなく。

 月 日
「老が恋わすれんとすれば」の、安永三年には、──それは春風馬堤曲の公にされた三年前の 年にあた
りますが──ご指摘いただきました通り、気になる句がいくつか現れはじめます。

 *我宿のうぐひす聞(きか)む野に出(いで)て

 理屈っぽく思案しますと、奇妙な句ですわ。蕪村の手 紙二通に「宿の者」「やどのもの」への挨拶を
謝するくだりがございますが、どうも、「内のもの」「家内の者」つまりは妻子とは異(こ と)なる誰かをさし

(鳧:鳥の よつてん のない俗字の方の けり)

98

ているように思われてなりませんの。それでこの「野に 出て」にも、内のものの目を遁(のが)れて外へとびだ
す蕪村の足早な感じを、つい、読みとってしまいますの。そして、早や、ここにあの馬堤曲の 少女の影
を感じてしまうのです。

 *二(ふた)もとの梅に遅速を愛す哉

 この句の隠されました心根にも、蕪村という生身(な まみ)の生活者をある意味で拘束している、内と、外(の
宿)との両手に花の薫りがうかがえはしないでしょうか。妻と、妻ならぬ女と、ないし娘と、 娘同然の
少女と。

 *なの花や月ハ東に日ハ西に

 教科書でも習いました。これも丹後与謝地方の民謡の 一節に、「月は東に昴(すばる)は西に いとし殿御は真
ん中に」とございます。それならば「東」即ち京・妻(娘)と「西」即ち浪花・女との半途に 佇む蕪村
を想ってみざるをえません。

 *落合ふて音なくなれる清水哉
 *帰去来(かへりなんいざ)酒はあしくとそばの花

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 この二番めの句の初句は、のちに「故郷(ふるさと) や」と改められております。そばの女(花)に「酒は」とき
いたら、首を横にふった。もうおやめになったら、毒ですわ。それでおそばだけを食べてい る、という
のでしょうか。分かるわ……。蕪村は毛馬の少女に何度も逢いに行き、そのつどどこかへ連れ 出してい
る気がしますの。ね、…分かるでしょう。

 *梅が香に夕暮早き梺(ふもと)哉
 *門を出れバ我も行人(ゆくひと)秋のくれ
 *門を出て故人に逢(あひ)ぬ秋のくれ

「タ風や水青鷺の脛(はぎ)をうつ」「秋寒し藤太が鏑 (かぶら)ひゞく時」などと、身震いの出そうな秀句にまじって、
どことなし「実情」を秘めた述懐の句がつぎつぎとここへ出て来る感じの安永三年の蕪村の句 稿です。

 *花茨故郷(はないばらこきやう)の路に似たる哉

というのもございます。
 ことのついでに、お手伝いさんのことも調べておきました。
 当面問題の安永六年以前に「下女」「下婢」に就いての消息は見えません。ただし、安永二 年ごろと

100

思われるのですが、そして、それ自体が微妙な推測を誘 うのですけれども、几董あてに手紙を持参させ
ている「少女」が登場します。「此少女御見しり置可被下(おきくださるべく)候。漸(やう やく)一人抱(かかへ)申侯」という一通です。新し
い女中さんの雇い初めかとも思われ、たしかにこういう人がお使いに出たり入ったりの市中の 暮らしで
あったと想像できます。貧乏は毎度のこととはいえ、蕪村の家にすくなくも安永年間は絶えず こういう
女の人がいた様子です。
 もっともこの「少女」の場合の「抱(かか)」えるとは、単刀直入、馬堤曲の少女を蕪村が やっとお妾さんの
体(てい)で洛中か洛外の某所に囲い住まわせたという事かも知れません。「抱」えと「傭 (やと)」いとは妙に違いま
しょうし、とくに助教授格の几董には、かねて顔繋ぎをさせておきたかったとも十分取れる余 地がござ
います。
 明らかな下女や下婢のことを、この「少女」などと呼んでいる例は他にございません。
 ところが、以前にも話題になりました几董(きとう)筆の蕪村終焉日記には、危篤の枕辺に 「妻娘(さいぢやう)」は当然、ま
た弟子月渓や梅亭がいたのも当然としまして、べつに、「両姉」の二字が草稿には書き込まれ ていて、
けれど刊行になった本では削られていた事実がいまではよく知られています。そうでしたね。 几董はよ
ほど慎重に、不用というよりも不都合な事実を消去したとしか思われず、最晩年の蕪村の身辺 に、妻で
も娘でもない二人の女性が侍していたのは確からしゅう推察されます。
 字のとおり「姉」を蕪村六十七歳のお姉さんとは思いにくうございます。妻女は蕪村との死 別後二十
年も生きたことが知られています。よほど年若い奥さんでありました様子ですから、強いてい えば妻の
「姉」でもいいのでしょうけれど、真実感には乏しいと思います。たしかに蕪村の晩年に二通 ほど、

101

「田舎より愚妻縁類ども罷登(まかりのぼり)り、こと のほかもやもや仕候而(しさふらひて)」とか、「田舎より妻一家ども罷登り、お
もしろからぬ長談の相手に時刻うつり候。花鳥(はなとり)の中に妻有(あり)ももの花、御 察可被下(おさつしくださるべく)候」とか、なんですか
肚(はら)に一物(いちもつ)の手紙があって、花と鳥の「両姉」の背景になっているのかも 知れません、けれども……。
 けれどまた、多情仏心の蕪村のことですから、いまわの際(きわ)にとくに枕辺へゆるされ た寵(おも)いものの二人
をさして、一度は几董が「両姉」と書き、やはり憚って削ったとも考えられます。そのほうが 蕪村らし
く、「姉」というのも、なにも肉親の姉にかぎらず、男の人を「君」づけに呼ぶのと同じに女 の人を呼
ぶ一般の文字と思いますと、ここの「両姉」は蕪村の姉でも妻女の姉でもない、わけのある 「女」の人
二人に相違なしと結論します。そのほうが実感がございます。例えば、一人はよく言われます 京の遊女
の小糸なら、もう一人がうめという浪速の遊女、なのかも。そして、その、うめというのは、 「接木(つぎき)の
梅」の、あの春風馬堤曲の「少女」の終(つい)の姿──でしょうか。どうでしょうか。
 まこと八幡(やわた)の薮知れず、薮入りどころか迷宮入りになりそうで、身内の深くで、 とろーりとろーりと
ゆっくり血の渦が巻いています。目をとじるとその真朱な渦巻が昏闇の底から、ゆらゆらと鎌 首をもた
げて来ます。せんせい──。                              朋子

 月 日
 しばらくお手紙が跡絶えています間に、先生にお聴き願おうと存じます。少々、お耳よごし のなまぐ
さい話題ですけれど、ともあれ短大から四年制への編入という身の上の変化なども、そのワケ をご承知
いただけますと、気が、ラクはラクでございますの。

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 私どもの法南寺はまえにも申しました、門徒で、住職 は母と十一、二年前から夫婦同然でございまし
た。この父は、私の二人め、正しくは三人めの父に当たります。実の父は母と同郷の、幸せ薄 いという
か、ヤクザな人でありましたらしく、顔も知りません。育ての父は法南寺の前住職で、私が四 つ五つの
時分、深酒して庫裏(くり)の高い屋根裏(そこに、叔母が引っこんで暮らせる長四畳に一間 の押し入れつきの
部屋が出来ていました。)から梯子段をさかさまに転げ落ちて死にました。この時、私の生母 でもあっ
た戸籍上の叔母も、一緒に落ちて即死でした。酔った勢いで抱き合ったまま踏み外したとも、 争う人声
がしてどっと落ちたとも申します。叔母が生みの母とは、長いあいだ知りませんでした。今の 母とは一
つ違いの姉妹で、たいそうよく似ていました。
 前住職は先妻と離別してどこからか若い母を入れたようでございます。父に子種がなく、よ そで妊っ
たまま転がりこんだ母の妹を同居させ、生まれた私を都合よく父の籍に入れたと申します。そ のためか
実の姉妹ながらややこしい争いが絶えなくなり、とかく評判のよくないお寺で私は育ったわけ ですの。
 傲岸無類のもと海軍の航空士官でした父は、縁側に蹲踞(つくば)わせ沓(くつ)脱ぎ石に 手をつかせたままお百姓ふう
の檀家(だんか)に高飛車に□を利くような人でした。物やお金のお供養も、大きな笊(ざ る)を縁から下へ置いて、入れ
て行け、でした。母が晩になると、物は物、お金はお金に分けて帳面につけていました。
 私にとっていちばん困りますことは、本当に生母と義父とが死んだのか、死んだのが伯母 で、現在の
母はやはり実の母ではないのかという疑いから、自由になれないことです。どちらかというと 私は今の
母にこそ可愛がられて大きくなったという実感がございます。
 もうひとつ、もっと私を脅えさせますのは、本当にあれが事故死だったのかという疑いで す。父は即

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死ではなかったのです。それで私は紫色に脹れた顔をし て太い海老のように背筋を曲げた父が、息を引
き取る晩方まで捻りつづけました恐ろしい声を覚えているのですが、母が何となく冷やかに医 者を呼ぶ
のをためらっていた気配など、想い出しますつど、たまらなく気がふさいでしまいますの。
 母は、その後、本山の御世話で現在の父と再婚しました。本山といえば門徒ですもの当然本 願寺であ
りそうで、違いましたのよ。管轄していましたのは別筋の本山でした。なんでも御存じの先生 は、こん
なことも御存じかしら。中学一年生のころでした。一度母と本山へ参り、母が用事を達してい ますあい
だに墓地を歩いていまして、無縁さんの石塔婆の一つ二つに、戒名とは思われません、 「畜ー」と、あ
んまりも異様な文字を読んでしまったのは、うつつに見た悪夢でした。あの日法南寺へ帰っ て、現在の
父に多少ムキになって尋ねましても、陽気に笑うばかりで、ふと何か言いさし、それきりでし た。母は
黙って遠くを見るような白う乾いた顔をしていました──。
 宗派のちがう浄土宗のあの知恩院さんの短大へ女子高から進みましたのも、父と、とくに母 の意向で
したのよ。多少監視つきのような下宿でも、ひとりで京都に暮らせるのが魅力でした。お寺に は忘れて
しまいたいことの方が多うございましたし、母にしてもそうでないとは想われませんの。さら に四年制
の、しかも基督教系の大学へ転入試験をぜひ受けたい私の望みにも、両親はあっけなく承知し てくれま
した。父が境内にマンションを建てたりして経済はらくになり、いつも窶(やつ)れていた母 も奥様風に変わっ
ていて、いっそ私の再進学を歓迎の様子でさえありました。
 父は、母より七つほど若いのです。母は若く見える人ですが、父のそばではやはり年上の感 じがしま
す。そのことをかなり気にしています。言いなりに父のつてで私の下宿を探してくれるのも、 商売気の

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ある元気な父に娘をわるく可愛がられたくないからとも 受け取れ、そんなことをつい想像している自分
が悲しくなってしまうのですけれど、近年とみにちゃきちゃきと若造りなあの育ての母が、伯 母が、ひ
ょっとして我が産みの親でなくもないと疑いはじめますと、私、凄くなってしまうんです、陰 気でしよ
うがないの。そして実の父のことが無性に知りたくなり、でも母はその話を、当然かも知れな いのです
が、ひどく嫌います。
 ところで──縁談がございますの。相手は、今の父の従兄弟です。いま大津の小学校で四年 生の担任
をしており、歳は三十一で、めっぽう将棋が強いそうです。会ってみないか、付き合って行っ たらどう
かと父は申します。母も賛成ですが、毛頭そんな気にはなれません、大学をでたら、東京で就 職するの
がユメです。
 先生は、想像──なさる方です。想像で好きに私を解体したり改築したりなさいます。その 先手を打
ってこういうことを打ち明けるのが、二人の、いいえ私の、少なくもトクにならないのは承知 しており
ます。
 先生は御自分の自由を最大限度だいじになさるお方です。勝手なお方とも申せます。その自 由の器の
なかへ私を放りこみ、思うまま動き回らせたいお気持ちを、べつにとやかく言おう気はありま せん。そ
れより私も私なりに先生の世界で生きて変身してみたいと願ってまいりました。思えば、蕪村 など、ど
うだってよろしかったのでございます。蕪村は、先生と私とをつなぐ、ただ縁(えにし)の糸 と思っていました。
 それが、そうでは無くなって来た──らしいと、いつごろから私は気づきはじめていたで しょう、ど
うやら、先生の手はいつか私の背を押し、蕪村の方へ方へ押しやり、蕪村との臍の緒か玉の緒 かの結ば

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れを、私に、気づかせようとなさっているのが、分かり かけてまいりました。
 私のこんな打ち明け話が、また先生の想像にべつの火を点じるでしょうことを、もう、むし ろ朋子は
期待さえしています。
 窓の外を猫の影が通り、やがて午前二時です。

  閻王(えんわう)の□や牡丹を吐(はか)んとす    蕪村

 月 日
 雑誌(連歌俳諧研究)53号からのコピーを頂戴し、いま一気にK氏の「蕪村出目考」を読 み終えまし
た。「谷□」を改め「与謝」を名乗ったという蕪村側近の証言は証言として、それが姓氏を示 すもので
あるより、「蕪村」同様、地縁、地名に由来する、いわば雅号の一部であろうとされています のに、共
鳴しました。
「与謝」を謝春星などと、たんに「謝」一字に書く場合がありますように、「谷□」も、几董 (きとう)など「谷
氏」と蕪村のことを記している例がございますね。ただ、蕪村が自身で「谷□氏」や「谷氏」 と自記し
た例は皆無のように思われます。すべて他人が聞き書きふうに申しているばかりなのは、注意 していい
ことかと思われます。が、どっちに致しましても「与謝」の「谷□(または谷)の」蕪村であ る、とい
う名乗りではないかとは、うすうす私も感じておりました。ただ「谷□(谷)」は、「与謝」 ほど明快
な地名ではなく、かと申してあの毛馬村界隈に「谷」や「谷の□」を想わせます小字(こあ ざ)名なり地形なりは

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認められていないそうですから、ただもう割り切れない 心地でおりました。
 Kさんは(どこのお方か、頂戴したコピーだけでは分かりかねましたが、)天王寺村の小字 に「谷
□」の地名がかっては在ったと調べておいでです。「蕪村」という名の直接の由来は、天王寺 村一帯が、
ことに蕪菁(かぶら)の産地だったから、とは金福寺の碑文にもございましたね。
 でも天王寺村と毛馬とを「蕪村」にとって別々の違った場所と取るのはいかがなものでしょ うか。蕪
村翁碑文は、私には、「其生之地(そのうまれしとち)」である毛馬が、当時ひろく天王寺一 帯に属していたことを言ってい
ると読めますの。したがいまして毛馬郷にそれが無いかぎり、Kさんのおっしゃる「谷□」の 小字名と
かも、そうはピンと来ないのです。
 この論文で、どこか痛切に刺戟される箇所があれば報せよという先生の試問に、あえて無謀 にお答え
しますなら、孫引きにはなりますけれど、蕪村研究の大家として名高いE博士、あの金福寺に お墓のあ
りました博士が記しておられます、「丹後地方の伝説によれば、蕪村の母は与謝郡加悦谷算所 村(かやだにさんじよむら)の人
で」という一節、私の目は、それへ吸いついて離れませんでした。
 蕪村生母の生地とほぼ公認されています与謝郡界隈に「谷□」姓は一軒も残っていないと、 (まさか
とは思いますが)誰方かが書いておいででしたが、二百五十年から昔の片田舎で、もともと姓 の詮索は、
それも名家ならともかく、あまり意味がないのではないでしょうか。K氏のおっしゃるように 地名に準
ずる呼び名、通り名を、蕪村が意識して姓氏然と転用していたのではないでしょうか。──で も、「与
謝郡加悦谷算所村」とまで、ほかならぬ丹後の地に根強い□承(ぐしょう)の伝説が生きてい るのは重大です。

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    丹後の加悦(かや)といふ所にて
  夏河を越すうれしさよ手に草履(ざうり)

 これは宝暦四年から七年まで、蕪村が丹後遊歴中の、 今に伝わります総数十句に満たない句作りの中
でも、たいへん印象にのこる佳句と、どなたも評判なさっています。先生も、もちろん、よう 御存じで
す。「前に細川のありて潺湲(せんくわん)と流れけれバ」とも前書された真蹟がございます そうで、地図にも見えま
す野田川は、当時清らかな、加悦(かや)町の辺を流れている、いかにもこの句にふさわしい 川でしたとか。蕪
村がながらく滞在したと申します宮津市内から西南へ約十五キロの、加悦は、もう頼光(らい こう)さんが鬼退治の
大江山にまぢかなその北麓(ほくろく)の町、いわば「谷の□」にあたった、有名な丹後縮緬 (ちりめん)の産地でございました
とか。
「加悦谷」とありますのが、ここでピカリと光ります。いったい蕪村がとくにこの地を訪れた 理由も、
ぜひ、問われねばなりません。「夏河を」の句は、ただ旅行者の風狂とは思われない、なんと なし地(ぢ)に
ついた生活者らしい喜びに満たされているように思いますの。ふと人にも自然にも心をゆるし た寛(くつろ)ぎが
あり、蕪村自身がそれを気持ちよく悦んでいる気味がございます。丹後の「加悦」は、摂津の 「毛馬」
にならぶ、もう一つの蕪村の「故国」「故国」ではなかったのでしょうか。
 でも、先生。
 私が、E博士の蕪村伝の一節に、それも一般には取るにも信ずるにも根拠を欠いた□碑(く ひ)に過ぎぬとさ
れてあります中の、わずかな一節に、目をとめずにおれませんのは、「加悦谷」もそうですけ れど、そ

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れよりももっと、「算所村」という名に驚いたからです わ。
 先生は、前に、私が鉢叩きの句にふれますと、折り返し鉢叩きとは何なのか、勉強するよう にとおっ
しゃった。それは、まあ、分かりました。分かりました、が、あの時に一緒に、森鴎外の「山 椒大夫」
と柳田国男の「山荘太夫考」も読んでみるようにとご指示くださいましたのは、あれは、あの 時はよく
合点が行きませんでした。一度は本も図書館で借りて参りました。でも正直申しまして、安寿 と厨子王
のお話なら存じております。それに柳田国男の文章は苦手でした。結局その方は打っちゃって おいて、
その代わり鉢叩きは、これは私に思う向きもありましたので、熱心に調べようとしたのです、 そうそう、
蕪村が「娘」の手習いに行くのに履かせたがったという、あの、「革足袋」のことも、です わ。
 けれどまだ手応えといえるものも、掴みかねていましたの。実際、「算所村」という三字に 目をふれ
た瞬間に、火花が飛んで絡んで火の玉になったようなぐあいに、一気に「鉢叩き」と「山椒大 夫」と
「加悦谷」とを貫く蕪村の、秘密──に肉薄(にくはく)できる気がいたしました。道がひら けました。
 先生。私は、いま、はっきり思い出しております。一年あまり前、詩仙堂の拝観を断られて 金福(こんぷく)寺の
方へ四つ辻を曲がって行かれながら、うしろの私に、「きみは、京都でずっと育ったの」と尋 ねられま
した。
「いいえ。大阪です」
「ご両親とも、そうなの」
と、その辺まではありふれた話題だったのですが、その種の質問にいささかひるむものがもと もと私に
はございまして、ちょっと□籠もり、気を取り直すふうに、母の里は、京都府の北の方、由良 とかいう

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港町らしいけれど、
「そやけど、よう知りません」
と、お答えしたはずでした。
 先生は、あの時、ふっと歩みをとめられ、私の方を振り向かれましたね。
 それだけ──でした。
 けれどあの瞬間に、先生はもう「蕪村」という網で、目に見えずこの私のことを翅(はね) よわな蝶々のよう
につかまえてしまっていらしたんですわ──。
 地図で見ますと、由良から天の橋立のある宮津へはほんのお隣です。お手紙は暫く措いて も、その大
江山の北の麓まで、「加税(かや)といふところ」まで、そして見も知らない、わが生みの母 の里とやらへも、
私は一度行ってまいるべきでしょうか。                            朋子

   埋火(うづみび)やありとハ見えて母の側(そ ば)  蕪村

  佳い句ではございませんか。この蕪村の幻想はかな しゅうございます。亡き母を五体に感じて声も
なく呻(うめ)き泣く六十二歳。先生が「蕪村」をおっしゃるのも、こんな句があればこそ。 そうではござ
いませんか。

 月 日

110

 ポストに重い手紙を落とします、そしてなぜか怕(こ わ)いように立ち去ります、と、もう次の手紙を書こう
と手が私をもとの机の前へ前へ引きもどしますの。自分の目が据わってしまって、ものでも憑 (つ)いた顔を
していそうな気がいたします。
 前便のつづきになります。
 どうぞ先生、うとましいお顔をなさらないで下さいまし。
 先生はお茶の先生もなさってた方ですから、お茶筌(ちやせん)はよくご存じですし、その 茶筌を、鉢叩きが町々
を売り歩いたともご存じのはずです。ようやく町住みの人が世に増えるにつれ、草履(ぞう り)、草鞋(わらじ)、筵(むしろ)、縄、
畚(もつこ)のような藁細工物、笊(ざる)、籠、箒(ほうき)、などの竹細工物は、鉢叩き など貧しい人々の大事な商いとして、と
くに京都ではよほど大昔から職人仕事になっていたと申します。とくに茶の湯が盛んになりま すと茶筌、
柄杓、寸胴(ずんどう)のつまり竹花入れなどがよく売れましたとか、蕪村その人が安永の頃 のものに書いているの
も見つけました。そうした「実情」豊かな、これは名文ではございませんか。

  行(いく)としのいそぎほど又なくあはれにすさま じきはあらじ。あふさきるさのあはたゞしき中に、日来(ひごろ)
我恋(わがこふ)る弥ひやうへ、甚之丞(ぢんのじよう)も見えおはすれ。けふは例の古ひさ ごたゝきやみて、あらぬものふりかた
げつゝ、ちやッせんちやッせんと声けうとく呼(よび)もて行(いく)ありさま、すべて古き 風俗は都にのみのこりていと有(あり)
がたくて、影見えぬまで目送し侍(はべ)りぬ。

   行年(いくとし)の目ざましぐさや茶筌売  蕪 村

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 俳味はむろんのこと、こういうのを述懐の気味の濃い 文章とでも申すのでしょうか。蟻堂(ぎどう)とかいう人
の「弥兵衛(やひやうゑ)と知れど哀(あはれ)や鉢叩(はちたたき)」と、越人(ゑつじ ん)の「月雪や鉢たゝき名は甚之丞」との二句を上手に取りこみな
がら、「日来我恋(ひごろわがこふ)る」と申し「見えおはする」と言い「いと有りがたく て、影見えぬまで目送し侍り
ぬ」と申し、心もち腰までかがめている蕪村の姿がありありと浮かんでまいります。
 けれど、先生。時久しく、とくに蕪村の世に在りました十八世紀にはこういう茶筌売りたち は、世の
人かずにも数えられずに、人外(にんがい)に侮られ卑しみ思われていた苦々しい史実のこと も、ぜひ考え併せねば
ならないと、私、思いますの。
いふモのみ
  都に鉢たゝきと云(いふ)者有り、其身(そのみ)俗のすがたに衣をちやくして僧にもあ らず、俗にゐてぞくにも非ず。
しかも妻子を持て市中に茶筌をあたへるを業とすとかや。
   去(さり)ながら博亦(ばくち)大は打たず鉢たゝき  蕪村

というのも、当時の鉢叩きをよく説明しえているように 思われます。ひょっとして、……ひよっとして
これは蕪村の自画像かとさえ思って眺めました例の「鉢たたき図」が、そっくり、こうでござ いました
わ、鉢とは申せ「古ひさご」瓢箪を叩いたと申しますのも古来の風俗のようで、およそどの書 物にもそ
のように書かれ描かれています。
 大昔、平安朝のこと、家内に不吉なことが起きますと金鼓(こんく)(金□)というものを 打ち鳴らして五十ヶ
寺、百ヶ寺もを巡拝する、ゲン直しのような習俗が貴族の間に出来ておりましたとか。若公達 (わかきんだち)などはそ

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れを物見遊山のようにも楽しんだそうですって、分かる みたい。これが、でも、やがて家人(けにん)や坊さんを
代参に出す、さらには代参をもっぱら仕事にして引き受けたり、金鼓を賃貸ししたりするよう な俗法師
が、あっちこっちの籠堂(こもりど)などに居着いてしまう、というふうに変わって行ったそ うですわ。ものごとの
歴史って、面白いですわね。
 ところが、これに前後して例の空也(くうや)上人や定盛(じようせい)法師の流れをくむ 念仏聖(ひじり)たちが、身に革衣(かわご)をまとい鹿
杖(かせづえ)をもち、やはり金鼓を打って京都の町を歩きはじめますと、両者は区別のつか ない古代風俗の一群と
なって、すっかり入り混じってしまった。本に、そんなふうに書かれていました。いいえまだ その上に、
今度は鎌倉時代の末になり、一遍上人の流れをくむ踊躍(ゆうやく)念仏の時衆(じしゆう) が加わりますと、もう、どれもこれ
も似たり寄たりのさも異形(いぎよう)の賎民として、人々の目をそば立たせたとか、さぞや と、想像がつきます。
 それでも、いつしかに、空也の遊行(ゆぎよう)念仏を「鉢叩き」と、時衆のは「鉦(か ね)叩き」と、そして金鼓を打っ
てご祈祷やまじないをする人らのことは「唱門師(しよもんじ)(金鼓(こんく)打ち)」と いうふうに、おおよそは区別して呼
ばれるようになりましたとか。それとてあらましのお話で、要するにみな、唱門師仲間とか陰 陽師(おんようじ)仲間
として一様に土御門家(つちみかどけ)の支配を受けたものとしてございました。
 蕪村自画の「定盛法師像賛」には、「抑(そもそも)空也のをどり念仏とて古きひさご打 (うち)ならし和讃声をかしく、
ひょこひょことをどりもて行(いく)ことは、二祖定盛法しよりはじまりける也」とございま す。定盛というお方
は空也上人のお弟子で、もと猟人(かりうど)でしたとか、ちょうど倉田百三の「出家とその 弟子」第一幕に登場し
ます猟師が思い出されます。この本は法南寺の父の書棚にございました。
 蕪村は、このようにして絵も句もあって、なみなみでなくこの「鉢叩き」に熱い気持ちを寄 せていた

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ように見えますの。しかもあの「加悦谷算所村」かとい う蕪村の母の生まれ在所が、まっすぐにこの唱
門師(しよもんじ)にかかわっていたんですのね、先生はそれもご承知で「山椒大夫」や「山 荘太夫考」を読むように
勧めて下さっていた。わが影法師の頭を、踏もうとすれば先へ先へにげて行きますように、先 生という
方が私には掴まえきれません──。
 山椒大夫は、はずかしながら私の母の故里(ふるさと)、丹波国由良の港の長者でございま した。森鴎外の小説に
よりますと、
 
 (略)石浦と云ふ庭に大きい邸を構へて、田畑に米麦を植ゑさせ、山では猟をさせ、海では 漁をさせ、
蚕飼(かひこかひ)をさせ、機織(はたおり)をさせ、金物(かなもの)、陶物(すゑも の)、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山
椒大夫と云ふ分限者(ぶげんしや)がゐて、人なら幾らでも買ふ。

 ただ、この種の長者伝説は他国にも似た例はよくある と申します。今は伝説の中身よりも、「山椒」
「山荘」の音(おん)の方が「算所村」の名にかようところが、問題、大問題、と先生も思っ ていらっしゃる。
私もそんなような気がしています。柳田国男の『考』の本文をすこし引いてみますと、「土佐 国には古
く山荘太夫と称する一階級の人民が住んで居た」とございます。平素は「賤しき渡世」をしな がら、時
に「祈祷」をしたり芝居興行などに際し店出しの商人たちから「芝賃」を取り立てたりしてい ます。
「山荘又は算所と呼ばれた土佐の太夫は、表向きの名を博士(はかせ)と称する一種の祈祷業 者」でありましたと
か、遠州、といいますから静岡県でしょうか愛知県でしたかしら、掛川辺に住んでいわゆる千 秋万歳を

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言祝(ことほ)ぎます芸能にたずさわり、「別名を声聞 身(しようもんじん)(唱門師)とも院内とも散所(さんしよ)とも呼ばれた博士」らと同
じく、いずれも広くは陰陽師(おんようじ)に類していて、諸国に、「此徒(このと)が聚居 (しうきよ)して一村を為(な)した例は多い」と、そ
んなふうに柳田論文にはありました。そして山椒や山荘の、要するに「サンショ」とは、いわ ば、「散
所」「算所」「産所」または「山所」などといろいろに書かれて各地に在り、とくに「産所」 の文字な
どから産の穢(けが)れをつい忌まれて、一村格別の卑賤視が近隣に生じていた例も、無くは なかったと説かれ
ていました。

  此等の材料を綜合して考へると、社会上の地位は地 方によって区々であったが、要するに山荘は自
分(柳田国男)の所謂(いはゆる)ヒジリの一種である。サンショのサンは「占や算」の算 で、算者又は算所と書
くのが銘々の本意に当たって居るかと思ふ。ト占祈祷の表芸の他に、或ひは祝言(しうげん) を唱へ歌舞を奏して
合力(がふりき)を受け、更に真一部の者は遊芸売笑の賤しきに就くをも辞さなかった為に、 其名称も区々になり、
且つ色々の宛字が出来て愈(いよいよ)出自が不明になったものと考へる。

 たとえば由良の長者のお話などを諸方に語りひろめて 歩いたそういう語り芸をもった人々、「ヒジ
リ」や説経語りの通称こそが「山荘太夫」であり、今までも芸人というととかく「太夫」を名 乗ろうと
したのと同じ、と柳田国男は結論しています。
 そんなわけで茶筌売りの鉢叩きは、唱門師ないしは陰陽師に、つまりは「算所」にひろく抱 きこまれ
ていた、古代中世以来、信仰と雑芸(ぞうげい)の徒であったろうという推量がおよそ形を得 てきます。そうと知っ

115
 

たうえで、与謝蕪村母方の出が、そうした「算所村」の 一つへじつは遡(さかのぼ)れるのかも……という、ほか
でもない与謝地方にながく根づいた見当には、思わずどきどきするほどの迫力がございます。
 ところで、「算所」がもし「散所」ででもありますのなら、柳田説とは別に、いわゆる権門 勢家(せいか)の
「本所」に対する「散所」という意味も自然加わるのではないでしょうか。とすると、古代か ら中世へ、
河原の者とか散所の民とか呼ばれ、まことにいわれなく忌み蔑まれた民衆との関わりにも、ま た想い及
ばねばならぬこととなります。山椒大夫とは、そういう「散所」支配の悪代官のような存在で あったか
と説いておいでの歴史家もございました。
 話はかわりますが、蕪村ほどの大家ですが、存外に交際範囲が狭いとの指摘がございます ね。それに
彼は、自分の生まれに就いて、几董ほどの側近にさえ真実を話していましたかどうか。その辺 の暖昧さ
が、「夜半翁終焉記」の草稿に、「おしてるや難波津の辺りちかき村長(むらをさ)の家に生 (お)ひ出(いで)て」とあった「村
長」を消して「郷民」と書き改め、さらに刊本ではそれも消して「おしてるや浪速にちかきあ たりに生(おひ)
だちで」とせねばならなかった隠れた理由であろうと『出自考』の筆者は推測されています。 蕪村の病
中、「妻子両姉をはじめ月渓、梅亭の人々朝夕の起臥(おきふし)を扶(たす)けて介抱のこ るかたなく」とありました草稿
を、定本では「妻娘(さいぢやう)の人々をはじめ」と「両姉」を削り捨てたのにも、同じ見 方をなさっています。
『出自考』のK氏は、蕪村の母はむろん父なる人も、「村長」はおろか「郷民」でさえなく、 「下人(げに)ん
(奉公人)」と考えておいてです。が、たとえ母方と限っても、蕪村がさっき申しましたよう な意味の
「算所」「散所」の「鉢叩き」めく出自であったかも知れないなどとは、ただの一行も書いて はおられ
ません。けれど、でも、それに近似の推測や風聞が、少なくも蕪村母方の在所に近い与謝界隈 で、彼が

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在世中にも没後にもかなり行われていたその証拠が、即 ち「加悦谷算所村」という思いきり具体的な伝
承となって残ったとも申せましょう。
 蕪村の名乗りについてまわります、「谷□」または「谷」とは、河原の者と同じふうに谷の 者また坂
の者とも広く言いならわして来た呼び方を、むしろ蕪村自身が意識し逆用して身にまとった、 ま、いわ
ば覚悟の名乗り──ではなかったのでしょうか。
 名乗りといえば、宝暦六年大分むかしの事ですが──四月六日の日付で、丹後国へ「龍宮三 年之
客遊」中の蕪村から京都の俳諧仲間に出しました手紙に、「野柄(やなふ)」という自称がご ざいます。謙遜(へりくだ)って
いうにしましても、とにかくこれは僧侶のする物言いです。蕪村が四十一歳、宮津の見性寺 (けんしようじ)、無縁寺、
真照寺などの住職たちと盛んに交際していたころの手紙です。それ以前から「釈蕪村」ともも のに書き
付けてきた人で、事実お坊さんであった時期が東国時代にすでにあり、いつか還俗(げんぞ く)の有髪(うはつ)妻帯の俗聖(ぞくひじり)と
成り変わったようです。前に、空也堂の近所に蕪村は住まなかったかと思ってみましたのも、 そこが京
中の鉢叩きの主な居住地だったと、本で読んでいたからです。あたかも「自画像」と人にいわ れた、あ
の、「夕顔のそれは髑髏(どくろ)か」と問いかけ「木の端の坊主のはしや」と嘆いた、「鉢 叩き」の句のある絵
が、私、なっかしくてならないからです。おやすみなさい。                朋子

 月 日
 お手紙を待っている気持ちの余裕がございません。ばかなことを言うとお叱りをうけますの も怕(こわ)く、
とにかく申したいだけ申してしまいます。

117

 明和八年(一七七一)、蕪村に「蓑虫説」という文が ございますね。中に、「加越(かえつ)の際、婦人の俳諧
に名あるもの多し。姿弱く情(ぢやう)の癡(ち)なるは女の句なれば也」とあります。加賀 越前の辺が、「朝顔にっる
べ取られて」の千代女など女流の時めいた土地柄なのはとり立てていま詮索の必要もないこと ですけれ
ど、私は、蕪村が丹後滞在の間に、折りをみて越前から加賀へ実際に足をのばすこともあった かと想像
しています。例えば吉崎、北国の法城としてたいへん名高い真宗門徒の根拠地を訪ねてはいな かったで
しょうか。さらにプライベートな旅にあてもあったのではないでしょうか。なぜこんな想像を するかと
申しますと、以前にも話題になりました「新花摘」の冒頭六句、中でもとくに、

  ころもがえ(へ)母なん藤原氏(うぢ)也けり

を、ぜひ話題にしたいからですの。
 詩人のAさんも、蕪村が「出生の秘密を明かしたと読んで読めなくはない」とか、「どのよ うにでも
想像できる物語的世界であるが、そのまま蕪村の幼年時代の数奇な境遇を考えて考えられなく はない」
とか、あの六句のことを見ておいでです。蕪村の「私小説」を推量する方もおいでです。が、 それ以上
のことはどなたも半歩一歩も踏みこんでおられないのが、あの六句をめぐる実情のようでござ います。
 けれど六句中、「母なん藤原氏」の句だけは、「物語的世界」に取材の句として、一等解釈 しやすい
ものとされております。伊勢物語第九段に、「父はなほ人(びと)にて、母なむ藤原なりけ る」とございますの
を踏んでいる、こういう句法こそ蕪村の独壇場(どくせんじよう)である、ということになっ ています。

118

 武蔵国まで惑い歩いた都の男が、その国で女に「よば ひ」寄りますでしょ、伊勢物語では。その女の
親たちのことを説明して、「父は直人(なほびと)」つまり身分もない普通の男だけれど、 「母」こそは「藤原」氏
で高貴の出と。これほど原拠の指さしやすい句もないというわけです。そして「ころもがえ」 は、いま
でこそそうは季節の行事とも厳密には言いかねますけれど、昔なら、衣紋(えもん)なんぞに 目をとめたりして、
節季ごとに、なにがなし昔ゆかしく亡き世や亡き人をしのぶよすがにしたと想像できます。
 もしこの句が「新花摘」の、しかも問題の開巻六句のそのまんなかに挟まってなどいなけれ ば、これ
くらい蕪村好みのいわば物語句はないわけでしょうが、かりにも生母追善の意をこめながら冒 頭から
「潅仏(くわんぶつ)やもとより腹ハかりの宿」「卯月八日死ンで生るゝ子は仏」「更衣(こ ろもがへ)身にしら露のはじめ哉」と読
みつづけて、あげくの「母なん藤原氏」では、伊勢物語、ハイさようで、とはあっさりやり過 ごせない
ではありませんか。
 では、どう読むのか。どうにも読めずにむにゃむにゃとなって、私の見ましたかぎり、どな たもそれ
こそ絶句なさっています。
 母は、身分のある氏素性高貴の人であったと取ってもらいたい、そういう狙いないし願いの 句に違い
ありません、見たところは。ですから十人が十人、「藤原氏」をそのように読みます。もとよ り、あの
伊勢物語の「母」自身が露骨にその態度です、ですから、そう蕪村の句も解釈されて自然でも あります。
が、──蕪村の趣向には、もっと苦い隠し味がしのばせてあるのではないでしょうか、と、私 は想像し
ますの。
 蕪村は十七、八、おそくも二十歳前後に、突如上方から江戸へ出て行き、三十六歳の、あれ は晩秋か

119

初冬のころ急に、浪速でも与謝でもなくて京都へ帰って きます。なぜ行ったか、いいえむしろ、なぜ行
けたかも分かりません。なぜ帰ったかも分かっていません。そしてそれらの一切はおきまして も、
「母なん藤原氏」の一句にかぎって言いますなら、蕪村という人自身がまさしく「武蔵国まで 惑ひ歩(あり)き
け」る男であったわけです。この事を大事に大事に想いあわせてみることが必要なようです。
 蕪村の母は「加税谷(かやだに)算所村」の人と、だれより地元丹後国の人々が知ってい た、ないしは思っていた
わけですわね、先生。「算所」の唱門師らは京の土御門家(つちみかどけ)の支配を受けます が、これは名高い呪術、陰
陽術の「安倍氏」「晴明(せいめい)の徒」でしょう。はるかに格式高い大貴族の「藤原氏」 につながる道は通って
いそうにありません。
 ところが、加悦(かや)ならぬ「加越の際」へ参りますと、ここに独特の「藤原氏」があっ たようですの。と
言うよりも「藤原氏」の「内舎人(うどねり)」という語源から略しまして、「藤内(とうな い)」と呼びならわされた人たちが
居りました。理由は存じません、が、加賀藩を中心に、日本海ぞいに「藤内」といえば四民の 列を一段
離された呼び名として、歴史の本や事典に出てまいります。念の為に付け加えますが、時代が 降(くだ)っての
内舎人というのは朝廷の宿直(とのい)や雑役につき、行幸の警衛にあたる中務(なかつか さ)省の役人を申すそうです。源氏の
内舎人なら源内、平家のなら平内。でも、なぜ北国のそれが「藤内」と呼ばれるか、どこで藤 原氏と関
わるか、私には分かりません。
 母が「算所」の人と蕪村は承知で、それを「藤内」の意味の「藤原氏」に転じ、みごとに一 句の境涯
を「伊勢物語」へ飛翔させた──。それぐらいな事はした蕪村と思われませんか。おそらくこ れを判じ
えた人は無かった、と、考えるのはむしろ現代の私たちであって、むしろ判じえて納得してい る人ばか

120

りが、当時、与謝蕪村の身辺におのずと集まっていた、 とも申せましょうか。几董や月渓の師を語る□
ぶりに、いろんな点でやや□ごもるところが露わなのは、「母なん藤原氏也けり」の真相が彼 らには判
っていたからだと想っていい気が、今、私はしていますの、とってもとってもしていますの。
 たいへんなことを言い出したものと、先生、少々、おそろしくなって来ました。お手紙を待 ちます。
出来ることならご一緒に丹後へ参りとうございます。                 朋 子

 月 日
 先生はキライ。みんな知ってて、私にひとり喋らせてるンですもの。
「母なん藤原うぢ」を「藤内」へ、「藤内」を藤原氏の内舎人(うどねり)へ結んでみた勘 を、「鋭い」なんてホメ
てくださりながら、元の文字にこだわらずに「トーナイ」をもっと自由に読んでみよッて。ヘ ン、水か
けてやがらァとぶつぶつ言いながら図書館で、なんでもドデカィ辞典を借りてみて「トーナ イ」を引い
てみてビックリ。「トーナイ」とは「十無い」こと、つまり十に満たない意味の「ハチ(土 師)」のこ
と。でも「土師」の読みは「ハシ」やないのと不満顔で今度は「ハチ」を渋々引いてみまし た。その時
はもう勘も働いていました。そうでした。「ハチ(土師)」は「鉢叩き」を暗に謂(い)う言 葉でした。御坊(おんぼう)
(隠坊)も意味していました。噫呼(ああ)。
 蕪村は知っていたんですね、加賀の辺でいう「藤内」が「十無(トーナイ)」の語呂合わせ で、また「十無」が
「鉢叩き」の「ハチ」にかけた言葉遊びであること。これだけのツボをきっちり押さえなが ら、「母な
ん藤原氏(うぢ)」と蕪村はあざやかに伊勢物語世界へ亡き母の出自を持ち上げてみせていた んですね。なんと

121

見事な俳諧師で蕪村はあったんでしょう。なんと強(し たた)かな言葉の魔術師だったことでしょう。先生(大声
で)──私は蕪村をわが故郷の誇りに思いますわ!
 おお朋子よ、冷静に、冷静に。
 一応「土師(ハジ)」の項もしらべてみました、土部とも書き「ハニシ」の略でした、土師 部(べ)といえ
ば、土器製作を業にした部民だったでしょうか。それが「十無(トーナイ)」の「ハチ(土 師)」つま
り鉢叩きとどう関係があるのか、分かりません。御坊とのつながりも私には分かりません。 「焼く」つ
まり「火」の縁でしょうか。
 先生のこと、やっぱりキライです。なんだか、うら悲しくなってきましたわ。       朋子

 月 日
 先生と時間をともにさせていただいた旧跡も、数えれば東に西に、数えきれなくなりまし た、と、言
いたいところなれども残念ながら。でも、忘れがたい第一の旧跡が、あの蕪村らのお墓のある 金福寺で
す。ひとりで、あれから、蕪村を慕うようになりましてからもう何度通ったことでしょう。
 最初にお連れくださいましたときに、私は「芭蕉庵」にはもちろん気をひかれました、で も、庵の裏
の山なかに建っていた「祖翁之碑」は、それなりに見て過ぎただけでした。読むにはうっとお しい、細
かい字がこまごまと刻んであったからでしょう、先生もとくに碑文にはお触れになりませんで した。蕪
村がその碑を「芭蕉翁墓」とも見て、

122

  我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花

と手向(たむ)けていたことだけ仰っていました。「夢 は枯野をかけめぐる」という芭蕉の辞世句を思い出すな
んてことも思いもよりませんでした。ただ尊敬する芭蕉にゆかりの場所を、蕪村も自分の「終 (つひ)の住処(すみか)」
にしたんだわと、それだけの納得でした。
「碑に辺(ほとり)せむ」はちょっと窮屈そうな物言いに私は感じますが、事実あの芭蕉庵の 裏山には、文字どお
り言葉どおりに芭蕉を慕い蕪村を慕う俳人たちのお墓がにょきにょきと生えていて、賑やかも 少々過ぎ
た気がいたします。それでも蕪村の思いの真率をつゆ疑う気など起きません。
 それどころか、芭蕉が在るゆえに「東山」は、ないしは「山」は、ひたすら懐かしい他界、 帰って行
く心の故郷とはなったのではないでしょうか。与謝や宮津や加悦(かや)も、毛馬も浪速も、 また東都や結城も、
さらには讃岐にしましても、蕪村の生涯にはただならない場所ですけれども、結局、蕪村の魂 にやきつ
いて彼を安息へ誘いいれたのは「山」「東山」だったと、あの「夜色楼台雪万家」や「峨眉露 頂」を図
版でひろげて見入っていますと、そう信じないわけには行きませんの。
 先生にお尋ねしたことはありませんが、先生はほんとに東京で最期の日をお迎えになるので しょうか、
それとも、あれほど明け暮れに眺めて大きくなられました「東山」の麓なり目に見えるところ へ、いつ
かは帰っていらっしゃるのでしょうか。
 いたるところ青山(せいざん)ありサ。お得意の言葉が出ることでしょうが、先生もけっこ う本音をお隠しになる
方です。

123

 申し上げておきますが、私は、宮津へ、丹後の由良 へ、日本海へ帰って行く身のようにこのごろ、し
きりに感じています。私は山椒大夫の一族だったのかも、山椒大夫に虐(しいた)げられた者 の裔(すえ)なのかも、知れ
ません。いいえ浦島太郎の裔なのかも。私は「山」よりも「海」に由来の流れ果てて沈みゆく 身の上を
はるかな大昔から約束されている気がしてなりません。
 こんなことを言い出す気はなにももっていなかった。ただ先生とお話ししていたかったんで す。それ
なのに、自分にもあやふやな、妙におそろしいことを□走ってしまい、このごろこんなことが 知らず識
らず多い気がして、思わず目をかたく閉じてしまいます。もう考えられなくなりました。おや すみなさ
い。                                      浦島 朋子

 月 日
 一気に「新花摘」六句の胸中を襲えですって。桶狭間みたいにおっしゃいますこと。よろ しゅうござ
います。夢まぼろしの如くなり。ひとさし舞うて出陣いたしましょうか。先生のご案内は、 「さらに伊
勢をめざせ」ですのね。
 伊勢物語の「むかし男」は武蔵国までさすらい寄った都びとですから、一面、蕪村の江戸出 府になぞ
らえ想ってみることの出来るお話と申せます。
 江戸で、ないしは東国住まいの間に、十七、八から三十六歳まで東国を彷徨(さすら)いま す蕪村に、一、二の
縁談なり色恋の沙汰は有って当然、無くて不自然であると私は断定します。あれほど母を恋う る思いの
蕪村ですもの、女人への渇望は蕪村には若くから根の哀しみでありますばかりか、創造力や想 像力のそ

124

れこそが源ではなかったでしょうか。中年も程すぎての 初婚で、それまでに女も恋も無いなんて、蕪村
だからいっそう信じるわけに行かないのですが、見ましたかぎり、そこのところをどなたも追 及はおろ
か言及すらもろくになさっていないのが、解(げ)せません。蕪村は東国時代に女に出会い、 結婚かそれに近
い間柄の暮らしもしたものと私は強く推測します。子供の一人か二人ほどは出来ていても驚き ません。
 と致しますと、「母なむ藤原なりける」と伊勢にあるような、見識高いいわば姑をも蕪村は 持った可
能性が高く、同時に「新花摘」追善の対象も、ひょっとして「母」は母でも東国で縁が出来、 しかも共
にもう死別していた蕪村の姑も含まれるのではないか、それどころか当時の妻との仲に「死ん で生ま
れ」ていた子も含まれるのではないか、いいえ、さらに加えましてその「子」が「腹を借り」 たその子
の「母」すなわち蕪村の武蔵「妻」すらも追善の対象に加わっていたのではないのか、などと 察しがつ
きます。そう察しをつけてもあながち無理とは思われません。そういう不幸な死別を本意なく 蕪村は重
ねまして後、ついに傷心と彷徨との東国生活を捨てて上洛したのかも知れません。絵もあり句 もある蕪
村の内部環境とはいえ、やはり何よりもこういう理由の方が東国を捨てた蕪村的真実に迫れる 気がいた
します。極端なことを申せば、上方を捨てて東へ奔った際にも、似たような事件が蕪村にあっ たとして
も、私は、驚きません。先生の弟子ですから、先生の青春を知っていますから、なおなお驚き ません。
 蕪村の上洛、宝暦元年、から数えまして「新花摘」による供養の始まりました安永六年は、 ちょうど
二十七回忌を営む年まわりです。そして宝暦四年の丹後下りには、以来三年を経まして、生み の母の故
郷、加えて蕪村自身の故郷に問題の、肉親か身内か、の納骨を果たしたい気もあったのでしょ うか、滞
在数年、与謝の加悦(かや)であるいは七回忌を済ませましてから、また京都へ上った。その 時には蕪村再婚の

125

なにかしらきっかけが与謝の方で出来ていたのではない でしょうか、たしか彼の妻方の者も丹後の者と
書簡に見えていたと記憶しています。それはともあれ、それほども蕪村は、知られざりし、 かってだれ
にも認められざりしその東国の妻や子、もはや失った妻子のことを熱愛していたと、私は、 想ってみと
うございます。
 もう一寸申し上げます。
 この最初の妻は、あるいは東国で出逢った相手なのではなくて、伊勢物語の表現どおり、蕪 村はもと
もと「人の女(むすめ)をぬすみて、武蔵野へ率(ゐ)て行」った青年の「盗人」ではなかっ たでしょうか。気位高い女
の母の強い反対を受けたかもしれませず、それが「藤原氏也けり」に表されたとも申せます。 同じ更衣
の句に、「御手打の夫婦なりしを更衣」というのがございましょう。蕪村の追憶がしのび入っ た句では
ないかとも想像しますの。そしてまた「身にしむや亡き妻の櫛(くし)を閨(ねや)に踏む」 というのもあります。江戸
出府へ、一青年蕪村の、動機以前の前提となる恋愛事件や駆落ちといった背景が考え直されて しかるべ
きです。「父」に死なれて間なく、頼るに余るほどの資産は人の噂にももたぬ蕪村でしたも の。

  潅仏(くわんぷつ)やもとより腹ハかりのやど
  卯月八日死ンで生るゝ子は仏
  更衣身にしら露のはじめ哉
  ころもがえ(へ)母なん藤原氏(うぢ)也けり
  ほとゝきず歌よむ遊女聞ゆなる

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  耳うとき父入道よほとゝきず

降誕会(こうたんえ)、更衣(ころもがえ)、時鳥と二 句ずつが対になっています。すると五句めの「遊女」と六句めの「父入道」
とが意味のうえでの対(つい)と読めて、「母」がつまり「遊女」かのように自然に受け取れ るしかけです。そ
うなると「もとより腹ハかりのやど」という怕(こわ)い冒頭句がますます気になります。
 父にくらべて蕪村生母の身分の低さが従来も取り沙汰はされてきました。おそらく事実だっ たでしょ
うが、事実の「程」といったものは追求されなかったようです。伊勢物語由来の知られざる蕪 村の私的
な経歴が、「新花摘」の最初の六句には意図して加上されてあるのだろうと、でも、私は感じ ています。
「藤原氏也けり」は蕪村その人の生みの「母」に関連させ、幻の妻や子らにも関連させて、て いねいに
読まねばならない鍵であると私は推量します。
「父はなほ人(びと)にて」とある伊勢の本文にも注目が必要です。物語をそのまま読めば、 父は平人(へいにん)で母は高
貴の「藤原」氏です。蕪村はこれを逆手にとり、自分の母がもうすこし逸れた意味での「藤 (1字に、傍点)原氏の内(1字に、傍点)舎
人」であることを暗示しつつ、しかし父は「なほ人」であること、武士ではございませんが農 か、工商
か、いずれ尋常の百姓町人と言っています。フィルムがポジからネガヘ裏返しに、物語がひっ くり返し
に使われています。「蕪村出自考」のK氏説を除いて、これで大体どんな□碑、伝承、推論と もおよそ
符節が合います。「蕪村の生家が上流に属し、父祖代々相当の財産を有した旧家であったこと が、ほぼ
うかがい知られる。幼年時代の蕪村は相当の家柄に生い立ち、幸福で平和な日々を送っていた ようであ
る」と、手近な「日本の美術」蕪村篇の年譜は要約しています。「上流」も「相当」も田舎相 応の程度

127

でいうものとすれば、ま、こんなところだったでしょう か。母は与謝の方から「津の国行き」で出働き
に奉公していた人であったのでしょう、私の母(おば)たちも広い意味でそうでありましたよ うに。淀
南(でいなん)の地、毛馬堤へ上って幼時いつも友と遊んだと、蕪村は人に書き送っていま す。自ら生い立ちを語っ
た例外中の例外として、みな、これをごく大事に利用され、抹消されたはずの「村長」や「郷 民」の家
に蕪村が生まれたという几董の筆も、結局は信用されている様子です。それが先の年譜の説な どの基盤
になっています。
 相当な財産や家柄を肯定したい理由が、私にも、一つはございます。そうでもなければ十 七、八の少
年に江戸へ出て行くこと、その後も多年遍歴の暮らしをつづけるのは、経済的に難かし過ぎた のではと
想うのです。「蕪村は父祖の家産を破敗し、身を酒々落々(しやしやらくらく)の域に置て」 と、同時代の人に非難がましく
批評されてもいた蕪村です。父に勘当されて帰るに家なく東国へという一説もあるらしく、い ずれにし
ても東海道を下るのに幾夜寝て幾度食べねばならないかを抜きにして少年蕪村の行動を説明は できない
と私は考えます。それをしも可能にするのは──、先生、それは、お金をもった女の人との駆 け落ちぐ
らいなものです。
 大胆に想像してみます。蕪村の亡き最初の妻となりました相愛の女性こそが、天王寺村の人 ではなか
ったかと。安永六年を三十三回忌と勘定しますと、延享元年(一七四四)蕪村二十九の年にこ の妻は東
国で亡くなり、追慕の念やみがたくて蕪菁の村人、つまり「蕪村」をこの年に彼は事実初めて 名乗った、
と理解することが出来ます。
 蕪村が父の家を(毛馬村の相当な家と仮定しまして、)結局は嗣いだと私も思っていますけ れど、思

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うも思わないもウソのようにその辺のことは判っていな い蕪村学の実状です。たったの二百年ほどのこ
とで、こうまで何も分からなくなってしまう、そのことに、存外にほっとも致します。実のこ とを分か
ろう分かろうとし過ぎるのは、へんに下卑(げび)た所業のように思われます。蕪村晩年の動 静をどうにらみま
しても、浪花の繁華へは再々下っておりますのに、毛馬村に立ち寄った確証は、春風馬堤曲た だ一つを
除いては、ございません。句づくりの印象からかすかに何度かは推測も可能かという程度で す。馬堤曲
薮入りの少女といい、あの取り返した「むすめ」といい、蕪村の身辺に女の影は実も虚も見え かくれは
幾つもしますが、とらえどころが有るとも無いとも、ほんと、頼りないんですね。
 蕪村は大阪阿弥陀池の商家の出で、母が毛馬村から下婢として雇われていたという□碑(く ひ)もございます
ね。北国(ほつこく)屋古兵衛なる者のお妾の子ともまた言われています。「父はなほ(2字 に、傍点)人(びと)にて」の物語の筋ははずれ
ず、むげに否定もなりません。
 どうやら桶狭間をうかがい見ることもならずに、立往生で今宵もおわります。また夢でうな されそう
です。「もとより腹ハかりのやど──」「死ンで生るゝ子は仏──」おぉ怕(こわ)こわいこ と。 朋子

  追伸もう待ち切れなくなりました。花摘みに、私、 行って来ます、丹後へ。由良へ。先日お送り
くださいました説経語りの『さんせう大夫』一冊を持って、蕪村のお母さまに逢って来ます。

『海から来た蕪村』第一部了
参考文献は完了時に一括して掲げます。

129

     作品のあとに

『あやつり春風馬提曲』は書き下ろし未発表の作品であ るが、必ずしも新作とはいえない。
 扉裏の記載どおり、昭和五十三年七月十二日に筑摩書房の辰巳四郎氏に依頼原稿として渡し た
もの、同じ日に同社が会社更生法の適用を裁判所に申請、経営の危機に陥ったため、やむをえ ず
引き取った。その八月二十五日には、昨今社長就任の挨拶をもらった当時編集部の柏原成光氏 に
請われ、会社存続のために一緒に東京地裁に陳情に出向いたりした。運のわるいといえばわる い
作品で、その後も辰巳氏から何の挨拶もなく今日に至ったが、幸い今回の記念に舞台にあがっ て
もらうことにした。こういう趣向の作品は、いまどき、どこの文芸誌へかりに持って行っても 見
向きもしてくれない。だが、私には、この作品がというのではなくて、こういう書き方が、こ う
いう主題の扱い方が向いている。だが、だいたいどの社の出版部も雑誌でも、歴史上の人物は 歴
史上の人物としてだけ書けと希望される。都合の悪いことに、私には、それではあまり意欲が 湧
かない。時代小説はむかしから好きでなく、それならば鴎外の『渋江抽齋』や露伴の『連環 記』
などのように人や史実を語りたい。潤一郎の『少将滋幹の母』は私がはじめて読んだ新聞小説 で、
次ぎに感銘を深くしたのが『吉野葛』や『春琴抄』だったが、ああいうふうに歴史や歴史の人 物
を語ってみたい書いてみたいと少年時代に思い染(し)みてしまったのが、抜けないらしい。 とはいえ、

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また、ちがった道もこれからは歩いてみようと思ってい る。
 参考文献は、末尾に記したとおりに後日に纏めて挙げる気だが、そもそもこの作品の成立に い
ちばんの原動力となったのは、昭和三十一年五月三十一日刊の『美学』季刊・春第二十五号の 巻
頭を飾っていた小林太市部氏の論文を、学会配本で読んだことだった。当時私は大学三年生に な
ったばかりだった。専攻資料室の椅子に腰掛け、ただ一人、夢中で読んだ。
 以来、小林博士の書かれたものをいろいろ愛読した。めったにしないファンレターまで書い た。
愛読の余禄が後年に『加賀少納言』などになった。「太陽」に載せたこの短編を、自分の論文 の
論旨をぬすんだものかのように言い触らした学者がいて、不愉快な思いをしたことがあるが、 そ
の論文は、孤独な習作時代の私などの手にとうてい触れようがない内輪な刊行物に載っていた よ
うで、しかも何を以てそんな事が言えるのかと見当ちがいに呆れたものだ。雑誌「淡交」に連 載
された小林教授の『芸術の理解のために』中の■無影の逸話の部分を読めば、何にどう触発さ れ
た創作かは瞭然とする。「淡交」は、我が習作時代の最も有り難い愛読書だった。『畜生塚』 も
『蝶の皿』も『青井戸』もそして『加賀少納言』もそこから小さなパン種を得たのだった。
 だが蕪村のことは、ただ小林論文だけで成って来たものではない。要するに私のよく謂う 「違
うのと違うやろか」の思いにいろいろ導かれてきた。江戸へ出て江戸や結城にいた時期の蕪村 の
ことが、あまりに分かっていない。なぜ江戸へ、なぜ江戸から京都へ、その何故かが問い尽く さ
れていないのも気になっていた。私のこの作品には、大きな仮題がついている──『海から来 た
蕪村』と。「あやつり春風馬提曲」はその第一部だとうたってある。構想だけを漏らしておく と、

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第二部は「異説山椒大夫」で浦島朋子を描く客観体の小 説として書かれ、第三部は「浦島太郎入
水」として朋子をあやつっていたと見える先生の遺書になる。発表はまだ当分かかるけれど、
「湖の本」で読んでいただくしかない大筋になろう。
 いま一つ言っておきたい。この作品のヒロインは大学四年生だが、彼女にこれだけ書けるの か
という不安を、内輪に、二度三度聞いた。だが、現に二十歳すぎの人とも文通し、しかも最近 ま
で二十歳(はたち)の学生たちに、僅かの期間に三万枚の上越す文章を書かせてきた体験で言 うのだが、私
もたじたじというほどの若い文章家、ちゃんといるのである。おまえが大学四年のころにも書 け
たかと反問されれば、はっきり言って「この程度なら」と笑うだろう。但しルビは版元でふっ た。
我ながら必ずしも気色のいい一方の作ではないけれども、どうか、こんな埒もない一点でつま づ
いて下さるなとお願いしたい。そんなにたいしたことは書かれていない。それからまた、この 作
品、三月までいた東工人の授業や学生とはまったく無縁のものであることも、言い添えてお く。
 大学を去ってやがて半年、拭い去ったように念頭から失せている。親しかった学生の大勢 と、
いまも往来があり文通がある。それこそが私の得た宝で、他は燃焼し尽くしたと言い切れる。 今
は、夜更しのできる毎日を、読むも書くも、ゆっくり、たっぷり堪能し、満喫している。
 とは言え、巻頭のご挨拶に私は「生涯」という一言葉を書きこんだ。この後書きでは、未来 の作
品にこと寄せて「遺書」とも書いた。そういう心境をゆっくり自分が辿りつつあるのを感じて い
る。死に急ぐ気持ちは毛頭ないけれども、死は一瞬の好機だと書いてきた実感は募っている。 好
機を受け入れたい。だから挫けずにいたい。

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