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秦恒平 湖(うみ)の本 34 北の時代=最上
徳内 下
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秦恒平 湖(うみ)の本 34
1
目次
序章 〈北〉の時代………………………上巻…5
二章 曙光、天明初年……………………上巻…32
三章 徳内、蝦夷地へ……………………上巻…91
四章 襟裳岬で……………………………上巻…148
五章 アイヌモシリ………………………中巻…175
六章 尾岱沼(オダイトウ)……………中巻…263
七章 徳内、択捉(エトロフ)島へ……中巻…294
八章 天明六年、暗転……………………下巻…381
終章 〈北〉の時代、今なお……………下巻…462
参考文献…………………………………………165
作品の後に………………………………………166
〈表紙〉
装幀 堤いく子
装画 城 景都
印刻 井口哲郎
(いく:或 のたすきが三本)
2
北の時代=最上徳内 下
3
「世界」岩波書店 昭和五十七年十月号?昭和五十九年 二月号連載 原題「最上徳内」
4
五
それにつき、穢多(ゑた)弾左衛門手下(てか)のも
の夥しくこれ有り、諸国(の)手余り荒地等の儀に付(つき)、御用も
これ有り候はば、工夫のうへ御奉公(の)筋も出来(しゆつたい)つかまつるべしと申しをり
候趣、あひ聞こえ候
あひだ、幸ひの儀につき弾左衛門呼び出し、場所は先づ申し聞かせず(に)、手下のもの
(を)引き
移し新開(拓)いたし候存じ寄りこれ有り候哉(や)の段、あひ尋ね候ところ、当時取極(と
りきはめ)支配つかまつり
候武蔵、上野(かうづけ)、安房(あは)、上総(かづさ)、下総(しもふさ)、伊豆、相
模、そのほか下野(しもつけ)、常陸、陸奥、甲斐、駿河の内に罷(まか)り
あり候長吏(ちようり)、非人ども、人別高(にんべつだか)三万三千人余、此の内七千人程
はその場所へ引移し、新開つかまつら
せ申すべく候へども、前々より御用の筋は申すに及ばず、かの者ども仲間(の)掟(おきて)
筋の儀など、その
国々頭分(かしらぶん)のものへ弾左衛門より申し伝へ候儀もこれ有り候あひだ、諸国一統
(へ)改めて此のたび
支配の積り仰せ渡され下(くだ)し置かれ候やうつかまつりたく、左(さ)候へば、右諸国に
罷(まか)りあり候長吏、非人
等、人別高およそ弐拾三万人程これ有るべしや、此の内より新開場(しんかいば)へ引き移ら
せ候人数、およそ積(つもり)六
万三干人程、都合七万人程引き連れ、弾左衛門儀、その地へ罷り越し、勿論、村居住宅、その
ほか入
用ども一切引請け、開発かた農業の儀は差図(さしづ)を請(こ)ひ、右(の)人別は差配い
たし取計らひ申すべく候
由(よし)。
右につき、身分の願ひ筋など申し立て候儀これ有り候ところ、此の儀は町奉行へも懸合ひ、
右
(の)願(ねがひ)筋の内、あひ成るべき儀は取調べ、追て、あひ伺はせ候やうつかまつるべ
く候あひだ、先づ
331(5)
このたび玄六郎かの地(蝦夷)へさし遣(つか)はし候
については、右(の)新開の儀を第一(に)さし含み、
陣屋ならびに居村建方(たてかた)の儀までも勘弁つかまつらせ、もつとも、いよいよ右の通
りあひ成り候につい
ては、三、四ヶ所程も陣屋を建て、定役(ぢやうやく)のもの居附(ゐつき)にて支配つかま
つらず候ひては、なかなか行届
き申すまじく候あひだ、是等の次第ならびに志摩守へ仰せわたさるべき趣(工夫仕(つかまつ
り))、且つ(また)
蝦夷人どもは公儀より御手当これ無く候ひてはあひ成りがたき儀にて、此の御入用も多分あひ
掛り申
すべく候あひだ、右(の)御金に至る方等(ほうどう)(手段)も工夫つかまつり、追て玄六
郎帰府のうへ取調べ
申上げ候やうつかまつるべく候。
もっとも前書の通り、土地開け候へば、自(おのづか)ら諸商人どもも入(い)り込み、人
別(にんべつ)あひ満(も)ち候へば追々異国
の渡り□を(も)取締まらしめ、御威光を以て、西はサンタン(山丹)マンジウ(満洲)、東
は赤人(あかじん)の
本国まで御国に伏属つかまつり候やう取計らひ候はば、全く永久の御取締り出来、ことにかの
地あひ
開け候へば、大造(たいさう)なる御高(おんたか)あひ増し、(僻遠の)奥州(あうし
う)、羽州(うしう)も中国(先進地)同様の国柄にあひ成り申
すべき儀にて。
もちろん新開の儀もあまり手間どり申すまじく、人別だけは是非とも八、九ヶ年の内には成
就つか
まつるべき趣に、玄六郎(へ)申し聞け候あひだ、いよいよ右の趣を以て、同人再見分つかま
つらせ、
追々取調べ申上げ候やうつかまつるべく候哉(や)。
則はち、玄六郎差出し候書簡(の)写し、麁絵図(あらゑづ)あひ添へ、此の段伺ひ奉り
候。以上
午(うま)(天明六年)二月
332(6)
『蝦夷地一件』のこの本文中に、写字の違いが少くも
一ヶ処ある。末尾近く、「人別(にんべつ)丈けは是非とも八、
九ヶ年の内には成就可レ仕」とある「八、九ヶ(一字傍点)」は、「八、九ヶ月(一字傍
点)」が正しい。田沼政権延命の抜き
さしならない挺子(てこ)入れに、八年も九年も手をかけてはいられない。普請役佐藤玄六郎
らの案は、およそ
天明六年中に開拓者の「人別」つまりは顔触れや頭数を揃え移住もなるべく済ませて、新年を
待たず蝦
夷地の土に手も足もおろさせたい、といった気組みでなければこんな「破天荒」な策、建てよ
うがなか
った。また是れ第一のためにも玄六郎は成るだけ早く蝦夷地に帰任し、開拓の候補地えらびも
もとより、
「定役のもの居附」の支配に間に合う、せめて「陣屋」三、四ヶ所も建てておかねばならな
かった。
一方、勘定奉行の松本伊豆守にも、老中田沼をぜひ動かして至急に幕府に実行を迫らねばな
らない重
大な一議があった。蝦夷上地(じようち)、松前志摩守の移封つまりは国替え、支配地替えで
ある。
見込みあっての事業どころか、無理押しを承知の田沼意次だった。松本も意次の気持は分
かっていた。
成らなくてもともとという余裕など、ない。有効な既成事実を積み、人の□を力ずくふさぐよ
り、ない。
田沼は、気心を知り合ってきた同じ老中の一人水野出羽守忠友をさえ蝦夷地一件ではつんぼ桟
敷に置い
ていた。あえて水野まで報告には及ばぬと、松本十郎兵衛に指示がしてあった。将軍家の黙許
はえてあ
る。あとは、何とでもなる、これまでも幾度、幾十度何とか凌(しの)いで来たことか。が、
蝦夷上地が果
たして成ることか。松前志摩守がこの一年、にじり寄るように白河藩主松平定信の膝もとへ人
を送り物
を贈りしていたらしいとは、夙(つと)に田沼らの耳に入っていた。
「……オロシァの動きが、意外と鈍うございましたな」
松本は、ついそれを田沼の前で繰返す。北辺に強大な危険が加われば、今、幕閣にいて火中
の栗を拾
333(7)
う他に誰あろうとも、思えない。志摩守一人の松前藩ご
とき如何様(いかよう)にもよそへ動かすて(一字傍点)は、有るのだ。
田沼はいつも黙って松本が言うのを聞いていた。が、一度だけ、
「いや……」と遮ると、有るか無いか片頬に男前の笑窪を浮かべて言った、「動かないなら、
動かすま
で」
松本は、にンまりと俯いた。日本が「北」へ動き出したと相手国にも察しがつく処まで、山□
鉄五郎
ほかの者を奥へ、ウルップヘも、「カムサストカ」までも強引に遣(や)れよと御老中は示唆
されている……。
「志摩守はアイヌを、赤人との中仕切りに使うて、安心しておるらしいの。赤人とて、今はそ
れでよい
と思っていよう。が、いずれ焦(じ)れて仕掛けて来る。その機会(おり)が早いほどよい。
そして相手(むこう)に押させる」
「長崎を、開いてやりますか」
「サ……それは、どうか……」
「箱館と申す湊がたいそう宜敷いようです。が……オロシァに湊をあげるのは、十分慎重に、
せいぜい
焦らしておく位でよろしいかと存じます。それより、蝦夷地に金銀の鉱山(やま)が望みうす
となりますと、急
きたいのは田畑でございます」
「望みが、あるかナ」
「御老中らしくないことを仰言います。有るの無いのの段では…ない」
「そうだったな。望みも一緒に…つくり出す」
「そう思っております。もっと働き場が欲しいとは、かねがね穢多の弾左衛門より申し出てい
ましたこ
と。まして、身分の筋を解き放つともちかけてやれば……」
334(8)
「動く…か」
「どうかして、と……」
「町奉行所(まちかた)が、どう出るか」
「それは……ですが。穢多非人の全員(すべて)を動かすわけでは…ない、のです」
「いや全部動くのなら、この問題、かえって割切りがつくのだ……。で、このもち掛けは誰
が」
「隠密にと……佐藤玄六郎が、自身申し出まして……」
「弾左衛門とも、会うているのか」
「囲い内へも、一度ならず出向いております、ばず……」
田沼意次は貼りつけたような無表情に戻っていた。松本秀持も□を噤(つぐ)んで、そのま
まがまん強う膝に
置いた手さき一つ、みじろがない──。
松本の差出した「書付」には、後日の写し違い(『蝦夷地一件』の文書は、山城国淀の藩主
で寺社奉行を勤
めた稲葉正■(まさのぶ)の家臣が筆写した、字義どおりの稀覯(きこう)本である。この稲
葉氏の分家に、田沼派のお側御用取次役、房
州館山藩主の稲葉正明があり、田沼意次らの蝦夷地見分や御試交易専断を大方承知していたの
は、将軍家治(いえはる)以上に
この稲葉正明だったと推量されている。)などと関わりない、今一つ事実に反して拵(こし
ら)えあげた報告が、混じ
えてあった。
ゑたがしら
老中田沼や松本伊豆守の真意は、浅草新町囲い内の穢多頭弾左衛門に対し、蝦夷地「新開」
につき
労力となる人数を差出すよう命じたまでに過ぎない。条件その他あたかも交渉が有ったかの
「書付」の
文意だが、公儀が、交渉で事を運ぶ相手と見ていたはずがない。が、弾左衛門にしても「蝦夷
地」と聞
(■:言べん に 甚)
335(9)
いて即座に承知したとは想われない。そこで、「身分の
願筋等申立候儀有レ之候処」の一条がひっかか
る。蝦夷地へ相当の人数をやる代償に、穢多非人身分の解消を願って「申立」てたとある文面
では、弾
左衛門から条件設定(づけ)があったと読むしかない。が、たしかアツケシでだったか、とに
かく後日皆川沖右
衛門の□から間接に徳内氏が確かめたところ、身分解消は、田沼方が当初から交換条件として
出してい
た、いわば釣り出しの“餌”だった──というのだ。
──そんな……
ことが、有っていいのか……。「部屋」に坐りこんで、私は徳内先生(さん)の見解(かんが
え)がぜひ聴きたかった。と言
うのも、それも見様によるにせよ、田沼や松本が右の条件を率先して示した事実(こと)は、
近世身分の解消へ
幕閣の頂点から一歩踏み込んだと、取れば取れそうな側面も見せている。しかし従来幕府の人
別(にんべつ)差別政
策は、元禄から享保の頃へかけて一段と強められこそして来た、が、その解消なり解放なりた
とえ容易
でない他の難題との取引条件としてすら、弾左衛門方とまともに話し合われたとは未曾有の珍
事(みぞう)だった。
それほど田沼意次が窮していた、とも言える。それほど蝦夷地の移住というのが苛酷な(と、
受取ら
れる)指令だったとも言える。
だが徳内氏は、こう言った。
──それしき(四字傍点)に蝦夷地が見られていた、ということです。裏返しに言うとだ
ナ。それほどにしか弾左
衛門や手下(てか)のことをお上は、見ていなかった……
──ちょっと待って……。その案は、だけど徳内さんが、とは言わぬまでも徳内さんの□火
で、山□、
青島、佐藤ら面々で江戸へもちこんだンじゃなかったのですか。
336(10)
──ちがいない……。言いわけのようだが……我々
は、蝦夷地もアイヌもこの眼で見てきた。この脚
で歩き、この躰(からだ)で、いささかアイヌの男女とも触れ合うてきた。そして、まア……
惚れた上であれもこ
れも考え、物を言うたつもりだった。かりにも禽獣の地などと思ってなかったし、手の施しよ
う次第で
は御奉行が曰(いわ)くのとおり、早晩奥羽なみ、さらに「中国同様」に拓ける新開地、広太
な新天地だと信じ
ていたンだよ。
──と、同じ穢多非人のことを言うのでも、先生方は身分解消の“釣り餌”なンぞ垂らしは
しなかっ
た、その気はなかったと、仰言るのですね。
──それどころか佐藤さんとわしが、あの道中ではじめてこの事を話し合うた時は、はっき
り解消の
好機だ、そうあらねばならぬと……
──佐藤玄六郎も、ですか。
──じつは佐藤さんの方が、さきに、それを□にした。あの人の、そうまで言われた内心
は、わしに
はよう知れなンだ、訊ねもせなンだ。が、二人とも、たとえ蝦夷地であれ連中(みな)で渡っ
たらいい、渡って、
あンな……忌まわしいめから脚を抜けばいい、抜かしたい……
──そう思っていた、と。
──そうです。
──で……どうなンですか。可能、と思いましたか。
──なかなか。思えるものかネ。だけど、田沼侯がこの瀬戸際にどっちを採るか、これは賭
けがいが
あると……。それに他に名案は、本当に何一つなかったンだからね。蝦夷地にあくまで期待す
るか。穢
337(11)
多は穢多と、頑固に徳川の祖法を守るか……
──そう、玄六郎が……
──そこまで言われたよ。二人ッきりの、海の上だったからね。傍には、言葉も事情も通じ
ないアイ
ヌの漕ぎてがいただけだ。それでも、さすがわしも佐藤さんのぶち抜くような物言いに、内心
ぎくっと
した。あの人は淡々としたもンだったがね。
──……おどろきました。が、それにしても……
──そう。それにしても結局、この一件は、成らなかったンだ。田沼が潰れたから成らな
かった点で
は、文字どおり十把ひとからげ。「蝦夷地一件は公儀御用にあらず」……で、一切御差止め
だった。だ
が……弾左衛門らのことが成らなかったのは、やっぱり田沼侯や松本さんが、わしらのこの案
に乗って
きたその乗り様で、もうその時すでに、成らぬ話になっていたと思うよ。
──むずかしい……ナ。どういう意味(こと)ですか。
──よく考えてごらんな。あの人ら、釣り餌こそ垂らしたが、なにも約束はしてない。町奉
行へ掛け
合って「可二相成一儀は」なンてぐあいに、予(あらかじ)め身をかわしてる。穢多非人の身
分解消など本気で、と
いって悪ければ、第一義になンか考えていなかった。蝦夷地へとにかく必要なだけ送りこめ
ば、あとは
「定役のもの居附にて支配下レ仕候ては、由々行届申間敷(まうすまじく)候間」と、ぬかり
がない。
──そう……ですか。弾左衛門から願い出て、それを「可二相成一儀」に町奉行に掛け合っ
てやる、と
いうならまだしも、うまい□だけ先に利いておいて、結果は町奉行へこかす肚(はら)……
──だったナ。佐藤さんも、早々にそう感じたらしかった。カシコイことでは、御老中や御
奉行に太
338(12)
刀討ちならんとネ。
──現在(いま)から、徳内先生のあの御時世を眺めれば、かりに田沼が潰れなくたって、
少くとも弾左衛門
との例の交渉だけは残念ながら絶対成立ちッこなかったって気は、僕にもしますよ。
──そうなんだ。事実、弾左衛門こそなんとか佐藤さんも□説いたわけだがね。肝腎の穢多
や非人は
必ずしも頭(かしら)の言うことをきかなかった。ま
た、あの時代の常識じゃあ、蝦夷地にしたってアイヌにした
って、地獄より、地獄の鬼よりこわいくれぇなんだよ、世間一般がそうだったさ。ってこ
たァ、ナンだ
よ、アイヌよりてめえの方がマシって気でいたンですよ。あんただって察しはつくだろ、あの
浅草の溜(たまり)
に近い、あんな囲い内の方が、蝦夷地より何倍もマシだと誰だって思いこんでた、イヤ蝦夷を
見下(みくだ)して
たのさ。
──田沼や松本が考えてた身分の解消なんてのも、本音はそんなトコだったんですか。つま
り蝦夷地
へ行けばお前らより、下ができる……と。
──上の人が下をあやす手ッてぇのは、大概が、それです。下にその下をあてがって、辛抱
しろと言
う。また、それにツイ乗せられる……
──でも……それだけで、手下(てか)の気分ひとつで例の一件(はなし)が潰れたん
じゃァ、なかったでしょ。一番潰
しにかかったのは、やっぱり町奉行所でしたでしょ。
ざい
──町奉行だけじゃない、寺社奉行だってそうだ。町かた在かたの皆が、結局は騒いだと思
うね。御
仕置の何のッて、自分じゃ怖(お)ぞ毛をふるうほどの仕事を横柄に押っつけてきた人らに、
今たちまち、そ
んな蝦夷地なんぞへどんどん出てっちまわれたんじゃ、はりつけ獄門から死んだ馬・牛の皮は
ぎ、葬い
339(13)
に至るまで、今日只今からお手あげになる、イヤほんと
サ。お手あげの本家が、やっぱり……町奉行所
でしたよ。
──穢多や非人がどっと蝦夷地に行っちゃうなんて、考えられないよな……エライ出来事
(はなし)。
──そう、そう。
──生産の基本にいる農民を送りこむのが、ダメだったのとおなじに、所詮これも社会(よ
のなか)の根底に障っ
てくる一大事。とても、成る話ではありませんでしたね。
──それでいて、農民の場合の無理はすぐ分かるくせして、穢多や非人を出すとへこたれる
理由(わけ)は、
せっぱ詰まるまでウヤムヤに、考えたがらない。これ、嘘でないからあんたに話すんだ。佐藤
玄六郎と
いうお人はネ。穢多、非人がいっそ進んで蝦夷地へぜんぶ出はらってしまったらいい。そう
なって、す
こしは世間もものをよく考えりゃァいい……そう言っていたね。
──意外……と言うンでもないですが。しかしソノ玄六郎は、どんな動機からそういう態度
を養った
んでしょうね。なにか経歴上に……有ったのでしょうかね。
──動機が必要かね。人が人を人外(にんがい)に、制外にあつかう……ドダイひどいじゃ
ないか。それを、あま
りだ、むちゃだ、道理に合わぬと思うか思わないか、なんてぇのは、もともと動機がどうのッ
てぇ問題(こと)
じゃないはずだよ。ひどい…と、正当(まつとう)に感じる気さえ有れば、足るこったよ。
──けど、徳内先生のアノ時代には、それこそ至難のわざ……。それに、第一、玄六郎や先
生のそも
そもの着想・発想が、本当に適切だったかどうかも……モンダイ石るなア……
ゆっくり頷きながら、しかし徳内氏はその返事は省略して、黙って私の顔を覗く目をした。
分かる、
340(14)
けれど……でも、徳内氏の言うそれだけで例えば玄六郎
の態度をすっかり分かりきってしまうわけにも、
ちょっと、行きかねる。それに安永天明の昔、それこそ僻遠の蝦夷地へなり出払うしか、あん
な醜い極
みの近世身分政策に背ききるのは、絶対に不可能…だったにせよ、徳内さんらの発想にだって
根は同じ
差別の身ぶりは透けて見えている。生まれ育った土地を棄てよ、穢多だから、非人だから、そ
こを付け
目に勧めている……。イヤな感じを振り払いかねて私がいささかムスっとしているのを見た徳
内氏は、
やや表情を動かして、自分は、あんたにも前にちょっと話したが、いっとき浅草の溜(たま
り)に入れられていた
ことがある、その、非人溜なんてぇのがどんなだったか、想像がつくかぇと訊く。概念だけ
は、ある。
大牢で発病した者を移して、非人に介護させる施設だったと思う。が、想像できますと徳内さ
んを前に
して言える度胸はない。想い及ばない。
──さぞひどい環境だったと思うだろ。ひどかった、たしかに。しかし、面倒をみてくれた
そこの非
人の仕打ちがひどかったんじゃ、ないよ。むしろ命拾いしたくらいだ、よくしてもらったよ。
牢屋うち
で、もう死のうとまでわしに考えさせた、あれは、吟味役人が阿漕(あこぎ)だったからだ
よ。それと同じ牢内の
先(せん)くち、例の名主サマ以下牢内役人のキツイこと。ま、理不尽の限りッてぇ感じだっ
た……
── …………
六
──あんた。アノ、可愛い子に一本とられていたナ……アイヌをもう見たかとか見るつもり
かとか訊
341(15)
いて。……見ません……。見る(二字傍点)ものじゃァ
ないからな。だけど、あの子はちゃんと、あれでアイヌのこ
とをよく考えていたよ。考えて、それで旅に出て来た……。知ってるだけよりか、見ても分
かったほう
がいいさ。が、あんた。ただ見てばっかりで、聞いたふうな□をきかれても、誰も、ちッと
も、救われ
ぁしないよ。
──はい……
ア、と要点(もの)が逸れて行く。それでも思わず赤面したのだろう、徳内氏、その私へ急
いでちいさく手を
横に振ると、サ、もう江戸ィャ違った……とにかくこの辺で一度東京の家へあんた、早く引き
揚げたが
いいよと、珍しくおせっかいなことを□にしながら、指さきて顎をなでていた。一礼、私は
「部屋」を
辞して、そして黙々ともとの「まりも」船室で、ペンや手帖や、テープレコーダーだの酒の瓶
だの散ら
かした荷物を片づけだした。それから、デッキヘ出た。
なぜ──徳内さんは楊子(ヤンジア)のことなど言いだしたのだろう。すてきな人だった。
それに相違ないけれど、
けっこう過ぎるくらいな観光旅行に出てきた当節珍しくもないBGだか、女子学生だかの一人
に過ぎま
い。それとも徳内氏の話も、あのヤンジァよと告げた人の声も容貌(かたち)も、あれはみ
な……絵空事、うつつ
の夢、であったのだろうか。
いつのまにか、海は大小の船でいっぱいに見えた。薄澄んで青い大空をにじませ、七時方向
にだ橙(だいだい)色
の落日が、たしかな火の玉となって燃えている。それを、何人ものまだ若い男女が広い甲板の
上で、離
れ離れに、身動(みじろ)きせず見つめている。黄金(きん)色の雲と雲のあわいを、成田空
港を飛びたつらしい黒い鳥に
にた飛行機が、遁げるようにちいさく青く霞んで行く。
324(16)
東京湾の、もうよほど深くへ進み入っているのか、──
私は指を折る心地で旅の日かすを想い出し、
さてこれからの日々を気疎(けうと)く占(うらな)っていた。ともするとその占いに、楊子
の、白いワタスゲのような、揺
れやまぬエゾカンゾウのようなスズランのような記憶が、指さきのうずくふうに入りまじった
──。
翌る朝の目ざめは、意外に早かった。
「まだ旅をしている気分なのね」
妻にわらわれながら、その午前中にも、留守のあいだのあれこれ溜った用事を片づけてしま
おうとし
た。私のことを大好きな母親ネコが、よろこんで膝へ来る。娘のノコも来る。書庫の工事はも
うコンク
リートを打つ準備がはかどり、狭い敷地に、ものものしく鉄鎖で締めつけた板壁が犇(ひし
め)いている。華奢な
美人の設計士と律義な現場監督とが、二階の書斎から覗けるすぐ間近の足場の上でなにか打合
せに余念
なかった。いち夜、妻にふれた気もちからは、楊子の面影もひとしお淡く澄んで、──遠く
に。
E家に電話して、無事帰ったと御主人に伝えてくださいと奥さんに頼んだ。
「えらい早よ帰ってきゃはったんやね。用、足りましたんですか」
「当座(まア)ね。ええ旅行やったですよ」
中学いらいのC子さん相手だと、まま、こういう物言いにもなる。なれる。
「ア、そうや。なにか……うちの主人、植木か盆栽かの語ヲしてましたかしらん、大きィの
の……」
「あア蝦夷松の……。聞いてるけど……」
「よかった。それねえ。実物が見られるらしいのん……。見やはる……」
343(17)
「……見たいナ。どこへ行きゃいいの」
「ほンなら、くわしいことは主人からか、あたしが聞いといて、また知らせます」
思いがけない話だったが、徳内から遠退かずにすむ誘いなのも気がよくて、ひゅッとへたな
口笛も出
たりした。だが──北海道いらい、フェリー「まりも」いらい、蝦夷地開拓の話題もあのまま
で見送っ
てしまうわけには行かないのだ。
佐藤玄六郎の経歴は皆目知られていない。
同じことは青島俊蔵をのぞく例の普請役すべてに言えた。宗谷に果てたあの庵原(いはら)
弥六にしても、天明
五、六年の蝦夷地での不運な働き以外には、後世に何も伝えるところがなかった。みなひとか
どの男が
揃っていたなかでも、寡黙な佐藤のアイヌびいきといい、制外者への温かな思いといい、徳川
大事とば
かり一途(いちず)には眺められない昏い心象風景も有りげなのを、どうにかしてその胸中に
覗いてみたい気がす
る、が。
徳内氏に、悪を悪と見、愚を愚と思うのに動機(二字
傍点)が要るのかと窘(たしな)められたことも、だが、忘れられなか
った。徳内の時代の人が、穢多(ゑた)よ非人よと、都合よく用事は押しつけておいて、そし
て人とも呼ぶまい
かのように謂(いわ)れなくおとしめ、また近代の日本人(われわれ)が、アイヌや朝鮮人
を、ただそうであるだけで謂れな
く差別してきた弁解無用の悪なり愚なりを自覚するのに、なんで個人的な動機などでいちいち
理由づけ
ねばならぬ必要があろう……。
私は、そうは言え、はじめ徳内が穢多による開拓提案の□火を切ったというはなしに、すこ
し首を傾(かし)
344(18)
げたことも思いだす。佐藤玄六郎や徳内にしても、やっ
ぱり田沼意次(おきつぐ)や勘定奉行松本同様ただ徳川と政
権との御為を第一に思いめぐらしていたのではなかったか。よもやアイヌや穢多非人のために
良かれと、
蝦夷地の開拓を彼らにともども託した、とは思いにくかった。成る成らぬより、その発想に問
題、むし
ろ誤謬(ごびゆう)が有ったのではないか。穢多だから非人だから蝦夷地へ移してはという軽
い蔑視、軽かろうが蔑
視、が有ったのではないか。だが徳内や佐藤玄六郎にその咎(とが)をぜんぶ押しつけるの
は、彼らに対し
あまりに敬意を欠いている。むしろそう取ってしまう私のほうに不自然なこだわりがあって、
それが私
自身の由ない差別感情というものではないのだろうか。
浅草新町の囲い内は一万四千余坪あり、弾左衛門の屋敷はそのうちの二千六百坪もを占めて
いたとい
う。西順蔵氏の編著によれば、彼の権限は広い地域におよぶ配下から家別(いえべつ)役銀や
職場年貢などを徴収し、
配下への裁判権を行使し、自身の居宅を配下には役所と呼ばせていた。そして幕府に命じられ
たさまざ
まの役務を負い、手当を受取って配下に給付していた、という。佐藤玄六郎はそんな弾左衛門
の役所へ
幾度足を運んだことか──。歴史のにがい悪意を身にしみて浴びていた締まった小柄の穢多頭
(がしら)は、いっ
そ柔和な笑顔にまっ暗い歯を見せて、蝦夷地へは、成ろうなら自身率先して移りたいとまで玄
六郎に言
った。だが、成らなかった。二月がすぎ三月がすぎ、四月に入って、結局すべて成らなかっ
た。
田沼老中や勘定奉行松本とのあいだに微妙な齟齬を感じながら、それでも神通丸に交易荷物
を積みこ
ませて品川から送り出したあと、自身佐藤玄六郎が松前へ陸路帰任のため江戸をはなれたの
は、天明六
年(一七八六)のもう四月六日、花の盛りはとうにすぎていた。肩さきを、見るから白い風が
吹いて、
しゃッきりした彼の足どりに、だがどこかに微妙な疲れと諦めとがまといついているようで
あった。
345(19)
岐路と言えよう、いや、そう言うべきだったろう。
誰もがばらばらに歩いていた。
ひとり徳内や田沼意次に限らずそれが十八世紀後半の日本の、すでに世界史的な「北の時
代」への岐
路であった、とも言い直せよう──。
佐藤玄六郎は江戸の内を品川へ浅草へと奔走し、大石逸平は宗谷へ急ぎ樺太へも渡り、青島
俊蔵は松
前藩との交渉や交易の仕事に力を入れ、竿取の徳内はエトロフ島へ、ウルップ島へと心逸(は
や)っていた。老
中田沼と勘定奉行松本は、溜間詰(たまりのまづめ)松平定信の敵意と肉薄に懸命の対抗策を
はかってもいた。そればか
りでない。遠く西洋を望んで蘭医大槻玄沢(げんたく)は長崎に学び、林子平(しへい)は
『三国通覧図説』を刊行して大いに
「海」を説き「北」の備えを説いていた。それぞれに同じ大きな時流に悼さしていた。
誰が唯一の主人公でもなかった、時代が時代を試行錯誤していたのだ、と、思う。
たしかに領土と国防とが表裏した彼らの関心であり行動であったろう、だからと言って、今
さらに、
それを咎めたてる気になれない。一九四五年当時、北海道の半分まで占拠し領有したいと、ド
サクサの
間にソ連はアメリカにかけあい、アメリカもまたソ連にたいして千島のうちどこか一島を自国
に譲れと
もちかけていたことが、今では分かっているのだ。ましてその百四、五十年前に、すでに同じ
状態が日
本の「北」に起きていてそう不思議でない当時の世界列強の動きであってみれば、あまり気の
いいこと
を言っておれなかった事情も斟酌せず、ただ太平楽な批評ばかり加えていても文字どおり高見
の見物で
終ってしまう。
高見の見物も余儀ない場合はある。どう逃げ□上を使っても、歴史を考える作業には大なり
小なり高
346(20)
見の見物ににた、いい気なところが混じりやすい。だか
ら歴史を考える作業では、同時に、現代(いま)を生き
る自分の判断や姿勢をその作業にかぶせて自問自答を重ねるしかない、いや私の場合、極力徳
内氏に問
いただしながら自分自身の答えを探るしか、ない。
で、胸に痛く響いてくるその自問はといえば、やはり、第一にアイヌヘの負いめであって、
「北
方領土」といわれるかなりあいまいな表現に足をとられ、みすみす米ソ戦略の、ないし我が保
守政権の
危険な駆引には巻き込まれたくない。手も貸したくない。そこに住みそこで暮していた人らの
苦々しい
痛みについてはケロリとした顔の領土回復論やその反論ばかり繰返しているうち、いつか悪魔
に、死の
商人に根こそぎ命まで持って行かれてしまいそうだ。
そもそも千島列島の全部が、少くも第一次世界対戦以後に日本が「暴力及貪欲ニ依リ略取シ
タ」地域
では、ない。その主張すべきを主張せずに、サンフランシスコ講和条約で日本政府は謂(い
わ)れなく全千島を
放棄するミスを犯してきた。そしてその後始末をあまり理に合わない「四島」世論とやらで一
層悪くこ
じらせて、せめては先ず歯舞(ハボマイ)諸島と色丹(シコタン)島の返還をという途もとざ
されたまま、いつかその方が、政府
与党の党利党略に叶うようにすらなっている。かつての田沼や松本伊豆らが、「北」が荒れれ
ば政権延
命につながると見ていたのと、いっこう違わない──。
天明六年(一七八六)五月二十日、松前の西海上に明
らかな異国の大船が現われて大きな騒ぎになっ
ていた。四角や三角の見るから広い帆をかかげて、異装の人影も数多く遠くに動いて見えた、
敵意は見
せなかったが船には確かに鉄砲を積んでいたなどと、噂ばかりがふくらんで、それがオロシァ
の船とも
347(21)
そうでないとも誰も判断はつけかねていた。佐藤玄六郎
はその騒ぎのさなかの、二十二日に松前にやっ
と戻ってきて、皆川沖右衛門らに喜び迎えられた。異国の船は、前日は西蝦夷地、スツキの沖
に現われ
て海に出ていたアイヌを手招き、餅のような物や、かおりのつよい酒らしいものを与えたりし
ていた。
佐藤を待っていた異変は、だがそれしきでは済まなかった。ソウヤヘ着いた大石逸平の急報
が、寒気
試みに越冬していた普請役庵原(いはら)弥六らの死を、もう十日も前に告げ来たってきた。
話を聞いて佐藤玄六郎は、目をとじた。長い道中に頬の肉こそそげていたが、沈毅ななかに
熱を帯び
た目の輝きは失っていなかった彼が、その目を思わずとじて耐えた昏い重みは、悲しみは、皆
の胸へも
ずしとこたえて沈んで行った。言葉を喪ったまま、おそらく一座の誰もがかすかに危倶したで
あろう、
蝦夷地探検の今後をぶきみに脅(おびや)かすように、松前藩の出かたが、前年に打って変
わって接伴の者もただ
遠巻きに、ひそと静かだった。藩主などもはや顔も見せない。はるか江戸城中、政権を争う激
しい動き
が、この松前へも息づまる余波を送ってきているらしいと。
とりあえず佐藤は普請役皆川と連名で、江戸へ報告の飛脚をさしたてた。
異国船にさしあたり危険な兆候は見えない。幸い、ソウヤからかつがつ駆け戻ってきた松前
藩足軽の
一人が、途中「スツキ(寿都)」でアイヌの手から押収してきたという品物も、幕府役人らに
は難なく
パンと紅毛人の酒だったと確認できた。間違いない異国の船の出没だ。が、おそらくオロシァ
の船で、
このままカラフト方面に立ち去るらしいとしか、結局分からずじまいに、佐藤らは次から次へ
目前の仕
事に追いたてられて行った。
もうこのころ、彼らは便宜に進んで城をはなれ、松前での拠点を、場所請負人で栖原(すは
ら)屋三郎兵衛とい
348(22)
う商人の蔵屋敷を借りて、そこへ移していた。栖原屋
は、徳内岳父の稲毛屋や江差名主の村上弥惣兵衛
と懇意だった。そのうえ、なにかと都合のいいことに、秋味(あきあじ)株を持ち、ある直領
場所を請け負っていた。
ほかにも枝ケ崎町の塩屋次左衛門のような稲毛屋とゆかりの協力者もいて、普請役、下役以下
の情報集
めや取引の仕事をいろいろに、むろん密かに、よく助けてくれていた。先立つ四月十日、正社
丸に上乗(うわのり)
としてクナシリに向け松前を出帆した普請役見習青島俊蔵の活躍(はたらき)はたいそうなも
のだったとか。だが、
松前藩の方は、協力もしないかわり妨害もせず、ときたま藩の重職が、これは相変わらず見分
役の一同
を自宅に招いて饗応してくれたりした。そんな席には女の姿も必ずのように動いていたらし
い。青島さ
んのつまづいたワナは、もうあの頃から仕掛けられていたと、徳内氏は私に話していたけれ
ど、それは
果たしてどうだったろう──。
──松前では五月が過ぎ、翌六月一日には、交易船の五社丸そして自在丸が、早やクナシリ
島やアツ
ケシの積荷に溢れて、松前湊へ帰ってきた。交易差配には手馴れた皆川沖右衛門が当たり、佐
藤玄六郎
は例の異国船往来の顛末(てんまつ)を報告書にとりまとめかたがた、六月七日には、斃(た
お)れた庵原弥六の後任に下役
里見平蔵を起用し、即日ソウヤヘ出発させていた。
──ソウヤの動きも慌しかった。
四月十八日、大石逸平のはるばる松前からの到着を待っていたのは、庵原以下五名のもう取
り返しの
つかぬ死者に加えて、下役引佐や鈴木ら垂死(すいし)の窮境だった。
いったい「寒気試み」とはいえ、松前藩家来にも十分な経験も用意もなかった上に、幕府役
人に対し
て暗に懲りよと仕向けた、もともと冷淡で手薄な配慮のままの強行だった。しかも請負場所で
の見分後
349(23)
と飛騨屋用人らとの接触をわざと遠ざけて、アイヌの村
(コタン)ともやや離れた奇妙な場所に丸小屋を造らせ、
さなきだに湖北の厳冬に挑んでいたらしい、なぜあの庵原さんが、こうも……と、豪気の大石
逸平も思
わず肝が冷えた異様な成行きだった。
まァ、それにしても、何という濃い海の青、空の青だったろう。見はるかす沖の大空を蔽っ
た鈍雲っっっz(にびぐも)が
巨大に裂けて割れて、満々と藍を溜めたかと想う晴天から、凄いような黄金(きん)の日の光
が、ぎらぎらと波
また波の汐路の果てに霞んだカラフトの影を、見よ、と棒立ちの逸平に示していた。
五月三日に大石は、とりあえず後詰(ごづめ)を、衰えてはいたが同僚の引佐や鈴木に任
せ、アイヌの舟を雇っ
てソウヤを発った。幸い好天に恵まれて、十日、カラフト島のうちシラヌシに無事着岸してい
る。
同じ頃、大石逸平の報告を松前で受けた普請役皆川沖右衛門は直ちに使いをソウヤヘ送って、
「弥六
病中甚辛労」の引佐ら下役二名に、暫時保養のため松前へ帰還せよと言い送った。二人は六月
三日にソ
ウヤを出てどうにか二十日ほど日数をかけて早や日照りの夏の松前へ辿り着いたが、その間に
も大石逸
平は、カラフト西岸をナヨロに達して一度シラヌシヘ戻り、次いでアニワ湾岸を逐一(ちくい
ち)見分しながらシレ
トコにまで至って、六月末にはまた南端のシラヌシに戻った。逸平は行く先々でアイヌを集
め、砂の上
に描かせて及ぶ限り地理を糺(ただ)し地名を訊ね、カラフト島へ及んでいるらしい山丹、満
州、清国、またオ
ロシァの動静を、交易の実情とこもごも、、心して調べつづけていた。
ソウヤやカラフト島などいわゆる西蝦夷地の情況ばかりか、むろん東のクナシリ方面へ向
かっている
普請役山□鉄五郎、青島俊蔵らの消息も、松前に居残った佐藤玄六郎はとりまとめ六月廿八日
付で江戸
の金沢安太郎あてにいちいち箇条を以て報せていた。昨年来引きつづき松前での後詰に任じて
いた普請
350(24)
役皆川沖右衛門も、一時持病の疝癪に悩んでいたのが
「全快」して、佐藤の書面日付と同じ六月廿八日
には、クナシリ島をめざして松前を陸路旅立って行った。
この日の佐藤が江戸へ差し立てた書面は、三通六冊。いずれも、すでに秋半ば八月四日に及
んで金沢
の掌(て)に落ちたが、その内には、いよいよ、「御普請役青島俊蔵」の「竿取徳内」の名を
独り挙げて、
是はエトロフ ウルツフ島の方為二先渡一(さきわた
りのため)、当正月廿日松前出立為レ仕候(つかまつらせ)処、アツケシの蝦夷人フリ
(ウエン)と申侯ものを通詞にいたし召連(めしつれ)、四月十八日エトロフヘ相渡申侯。
の一項が加わっていた。
七
あれが風なら、風とは、闇黒という巨大な筒のなか
へ、魔神が胸に溜めたいっぱいの息を吠えるほど
に吹きこんでいるのだった。徳内は夜ッぴて眠れなかった。きのうの夕方過ぎてやっと起こし
た丸小屋
の、柱もきしみ屋根は鳴り、時おりに戸や窓のすき間を衝いてひゅッとつぶてになって、痛い
ほど凍て
た風のかたまりが喉もとへも顔のうえへも落ちてくる。
侍僕のフリウエンもさっきから目を醒ましていた。徳内は、十勝場所で再び出会って雇っ
た、この十
七か八になるらしい好奇心に溢れたアイヌの少年が、クナシリ島へは初めて来たのだというこ
とを、と
351(25)
うに聞いて知っていた。
「ナニ、考エテル、カ……」と、徳内は片言のアイヌ語で。
「音、する……よ」とフリウエンは瞳をあげ、たどたどしい日本語で。
「オト……海ノ、音、カ……」
フリウエンは、体に巻いたいつもいつも携帯用の茣蓙(ござ)を半ばはねて、上半身を起こ
しながら耳を澄ま
せていたが、やがて独り言のように、
「氷……ガ、来ル」と、アイヌ語でつぶやいた。三月だった。それももう月なかば、いや二十
日にもな
っている。まして東の太平洋側に、それでもまだ流氷はくるのか……。
縄綴じの小舟三つに分れ乗ってアツケシを出てきたのが、三月十日のことだった。乙名イコ
トイには、
やがて到着の予定の山□鉄五郎らと同行してくれるように言ったが、山□とは去年顔を合わし
ていない
気づまりからか、妙に頑張って案内かたがたイコトイも、徳内と一緒にクナシリまで随いてき
た。オト
シルベ(トマリ)では、このところ病みがちにしているという総乙名サンキチや、ウサンくさ
げな飛騨
屋の手の者とも会って徳内は先触れの役を果たし、そのままイコトイに水先を任せて東岸を北
上しなが
ら、トープトではツキノエともちょっと気の張る再会を果たしてきた。イコトイはツキノエの
娘の一人
を妻にして、しかもアツケシでなくこのクナシリ島に置いていた。彼は、この通い妻やその身
ぢかな女
たちを以後の舟旅に伴って、食事やなにかの世話をさせてきた。そういう、妻たちの役向きも
あるらし
いと、徳内もはじめて知った。
ツキノエは徳内らがエトロフ島やウルップ島まで、いやそれより奥の島々までも渡ろうとし
ているこ
352(26)
とに、賛意を示さなかった。イコトイも同じだった。そ
れより、クナシリ島の実情をもっとよく見定め
見極めて、この後の幕府の蝦夷地対策を、さらに堅いものにしていただきたいと、そういった
意味の希
望を、はっきり□にした。徳内は、とかくの返事をする立場にはなかった。それに、彼らの言
い分は一
応納得していながら、心のどこかで、別のこともたしかに考えていた。
──アイヌは、なんとなくエトロフ島を空けて(三字傍点)おきたがっている。言い直せば
エトロフという島ひと
つを日本とオロシァとの間に隔てに置いて、両方が露骨に出合わぬよう、よく言えば衝突しな
いように
と仕向けている。そして、それが双方の中にいてアイヌの幾久しく立ち行ける道──と、思っ
ているら
しい。江戸の幕府に直かにオロシァとは接触されたくない、と、暗に願っているらしい。アイ
ヌも松前
藩も、この点では同じ勘定を付けている……。
セセキを経、フルカマップを経て、大崎の鼻を東へぐるりと廻りこんだこのイショヤの浜
に、クナシ
リ島東海岸でも一の鱒漁場に舟をつけたのが、つい昨日の昼すぎてだった。まだ風はひどくな
かったが、
異様なほど空はまばゆく白けて、へんに頼りがなかった。
海辺をすこし出荷のかげへ引っこんだ窪んだ場所に、徳内ももういやほど見なれてきた草や
木の枝の
丸小屋(カシ)を、当座に三つばかり建てた。アイヌらの手早いのにも驚くが、その簡略なの
にも、さ
すがの徳内も肩をすくめて苦笑いしてしまう。いくらだって、もっと工夫の仕様もあるのに
と、そう思
って□や手を出してみると、どの若いアイヌもみな素直に感心して、あとはその通りを真似る
のだ。い
ろんなことをちゃんと教えれば……と思う。が、良いこと役にたつことばかりが好都合に教え
られるも
のでも、ない。シャモに習ったと言って、ずいぶんいかがわしいことも若い気のいいアイヌら
は覚えこ
353(27)
んでいたりする。
晩になって、切り刻むような寒気がにわかに襲ってきた。火をいくら焚いても肩さきがら体
が凍えて
行く。番屋でわずかな酒を貰ってきても、所詮行きわたらない。イコトイは離れた場所からわ
ざと徳内
に陽気な声をかけてきて、寒かろう、と、ちょっとシャモの旦那の顔色を見るふうをする。塩
水で煮た
だけのにしんと昆布との熱い煮汁の残りを、徳内は乏しい米の飯にぶッかけて、腹に流しこん
だ──。
「チット……静カニ、ナッタ、カ……」
「あぁ……そうみたい、だ」
それから暫く、まどろんだらしい。徳内は死なれたお鳰(にお)の夢をみていた。顔は見せ
ずに向うをむいて、
茶を淹(い)れていた。二筋三筋うしろ襟に髪の毛がほつれているナ……と、遠いものを見る
目で徳内は、妻
の、暖かそうな背筋から、やがて優しい尻に敷かれた足のうらの華奢な感じや、ツブツブと
揃った指の
まるみをボンヤリ眺めていた。おい……と声をかけると、ハイ、と返事がある、のに、こっち
を見ない。
いい茶の香りがプンとたって、お鳰の動作はもうやんでいるのに、振りむかない。徳内はすこ
し焦らっ
て、また、おい……と呼んだ。ハイ……。小声の返事をそう聞いた、と思う、トタンに徳内は
揺り起こ
されていた。……あれ、は……アノ瞬間に聞いたあれはまァ、本当に「音」と呼んでいい音
だったのだ
ろうか……。
カシが覆った地面いちめんにほの白い冷気がひろがり、それがまるで見る見るヒビ割れてい
くみたい
に、小屋中の空気が四方八方に震えている。フリウエンが外へ出ようと徳内を起こしたのだ。
──ガン、
ガランゴン、ゴーン、カリン、キーン、グァラン、ラン……と絶えまなく、しかもゆっくりと
鳴りつづ
354(28)
けている物音の、あんな際にこそ天地を響(とよ)もす
と謂えばいちばんいいのだろうか。だが耳を覆いたいの
ではない。シーンと聞き澄ましていたかった。むしろあまりの静かさに、徳内は五体しびれて
フトよろ
めきながら、フリウエンに手を掴まれて丸小屋の外へ走り出た。アイヌらも浜辺に姿をみせ、
沖のかな
だを凝然(じツ)と見やっている。丑寅の風にあんなに吠えていた海が、見渡すかぎりきらき
らと底光りして、
無慮無数のひしめく氷塊が、ただただガランと揺れ、リン、ロンと鳴り響き響きながら浮きつ
沈みつ視
野を流れつづけていた。
氷の厚いのは徳内の目に、五、六間ないし十間余、いやいや二、三十間もあろうかと見え
た。波の上
に四、五尺浮かんで波の下になお六、七間ばかりといったのが多かった。みな北海からひたす
ら押し流
されてきたに違いなく、それも寒気が緩んだためかとは思う思うこれでこの先、北へ、エトロ
フやウル
ップヘめざしてちいさな舟の旅などできることだろうかと、徳内はまッ白いため息をひとり氷
の海に吐
きすてていた。一日も早く、島の北端のアトイヤ岬へ直行したかった。
アイヌは、だが屈託なかった。身軽に氷から氷へ飛びうつってはホーホーと歓声をあげる。
そしては
るか沖まで地の上でも行くように、あるいは弓矢あるいは手槍や鈎(かぎ)を使って海鹿(あ
しか)・アザラシ等を、短時
間のうちに山ほど捕って浜へ帰ってきた。元気なフリウエンも例外ではなかった。遠くから夢
中で徳内
のほうへ叫んでいた。
雇うなら「フリ」がよいと、出がけに大石逸平に勧められてきた。徳内は、フリウエンのこ
とをどう
やら忘れていたのだ。日本の文字が読みたそうなアイヌ
の子供がいる、あれを試(ため)してみてやろうかナと、
白糠場所へ入るまえの、どの辺であったか休憩のおりに大石は少年を物蔭へ呼んで、徳内と二
人で、し
355(29)
ばらくイロハの手ほどきのようなことをしてみたのだっ
た。覚えは早かった。それに何に注意していた
ものか、逸平と徳内との名前を漢字で書いたのを、そのアイヌの「フリ」はそれぞれ正しく識
別してみ
せもした──。妹を母の姉に預けてきたという、この、双親をとうに喪っていた背の高い少年
は、クナ
シリ・エトロフまでもと誘ってみる徳内のアイヌ語を、「よし……」と、勢いのいいシャモの
言葉で、
大喜びで受けいれた──のだ。
大石さん──は、もうソウヤヘ着いた時分だろうか。それどころかカラフト島へ、すでに渡
りおえた
頃かも知れない…。早くエトロフヘ、と徳内は好敵手をなつかしむ雪焼けのイカつい顔を、海
にむけ、
またもうもうと霧に巻かれた山にむけて、気が逸(はや)るのを抑えかねた。
氷──が去るのに、六日待った。その間に勇猛なアツケシ・アイヌやクナシリ・アイヌは山
に入って
大きな赤熊を射殺し、三匹の子熊まで生捕ってきた。珍しい熊祭も徳内はこのイショヤの浜辺
で、初め
で目(ま)のあたりにしたことだった。そして徳内の一行は、また小舟に分乗して、北の岬の
アトイヤにやっ
とやっと到達した。天明六年(一七八六)三月のもう晦日(みそか)も夕暮れどきのことだっ
た。微塵に爪をたて
て一枚一枚起こしたような、黄金(きん)の波また波を燦く茜色に染めて、クナシリ水道の空
が果てしなく燃え
ていた。
なんという、だが変わりやすい天候だったか。クナシリ島を左辺に、あたかも「人」文字を
成した形
にまぢかに見えていた昨日のエトロフ島が、今日は分厚い雲霧に隔てられて影も形もないばか
りか、ね
っとりと澱んだ霧の底の底で、海は歯ぎしりするようにオホーツクの流氷を、ざわざわ、もみ
鳴らしつ
づけていた。
356(30)
この氷もあと十日で(と、両手を開いてみせて)消え
失せると言う、イコトイの推測を信じるしかない。
そしてその気なら、どんな悪天候であれ徳内の仕事は際限なく、有るのだった。佐藤玄六郎じ
こみの、
彼はもはや、どこでなりと立派に一人前の普請役(ふしんやく)が勤まった。勤勉な測量家
だった。俊敏な発見者でも
あった。筆まめだった。あの佐藤に倣(なら)って徳内は、今度の旅では然るべき運上屋へ辿
りつくごとに、筆
記のための紙や墨汁の調達を怠らないで来た。機会があれば後詰(ごづ)めの佐藤や皆川へも
途中経過の報告を
怠らなかった。
クナシリとエトロフとを渡す海峡は、奥蝦夷千島(ちしま)のなかでも最悪の難所とか。三
方からの潮流が激し
く落ち合って、オホーツクのしぶく波涛が、南の太平洋へと逆落としに流れこむ。松前の藩士
の、一人
としてこの海峡をかって越えたことがないのはもとより、北海の荒天に苛(さいな)まれて暮
らすアイヌたちです
ら、この凄まじい水道ばかりには怖ぞ毛を振るう。その中で、イコトイひとりがこの難所をも
のともし
ない、とも、彼のウタレ(仲間)は誇らしそうに言う。イコトイが一緒でよかったと徳内は胸
を撫でな
がら、そのイコトイの渡海の術を、どうにかして学びたかった。盗みたかった。
日は──容赦なく経って行く。いっそ山□鉄五郎らの到着を待って倶(とも)にエトロフ
ヘ…と、徳内も思わ
ぬではなかった、が、心の内に、先渡りの役目を幸い独りでこの氷海を…と逸る気もちも日ま
しに強ま
っていた。
四月十八日、わずかな日ざしに風の萎えたのを潮時とみた徳内は、とうとう単身で、まだ着
かぬ有司
山□には決死の書置一通を残して、波の高さに出渋るイコトイらを叱りつ励ましつ、友舟三隻
を率いて
やっとエトロフ島の南ベレタルベと呼ばれた岩礁のきわへ、身も心も絞り尽された末に、漕ぎ
つけた。
357(31)
「漕きつける」とはこれを謂うかと、のしかかる宵闇の
重さにほとほと息も詰まって、初めて踏むエト
ロフの凍てついた土のうえへ、徳内は思わず痛い膝をガックリ突いた──。
エトロフは千島で第一に大きな島と聞いて来た。そしてクナシリとは逆に、概して西岸が緩
やかな傾
斜面をなし、東側は巌壁そそり立ってアイヌのコタン(村)も漁産も、寡(すくな)いとか。
翌る朝はやく、徳内
はフリウエンをつれてカシを出ると、とにかく見晴らしの利く高みへ急いだ。あのアトイヤ岬
からクナ
シリ水道越しに眺めていた、雲つく高い山がベレタルベの峰だ。その左の方にもっと遠く霞ん
で北へ突
き出ていた、岬らしい影も徳内の目に残っていた。タンネモイの岬だよ、あの向うはまるで満
月を抱い
たような、奥深い、まン丸いモイ(湾)だよと、イコトイの仲間はもう馴染んだ□を利いて、
なんでも
徳内が尋ねれば教えてくれた。
トド松、ゑぞ松の盛りがまぢかに斜面を埋めて迫っていた。
陸路を行くのは難しそうだ。
もう氷に煩わされることも、そうは有るまい、西海岸を船でと、徳内の決心は早かった。女
は帰して、
また男ばかりの総勢十四人が、とにかく水と舟泊りに恵まれた場所へ移動して行かねばなら
ぬ。
島の南端に、六方を海へ迫ってベレタルベ山は裾をまン丸く開いている、のに沿って西へ北
へ回りこ
んで行った。そして徳内の地図帖には次々にモヨロ、タンネモィ、そしてシラルルなどといっ
た土地の
名が書きこまれた。シャモが来る噂は早くも伝わっていたとみえ、モヨロのコタンでは、アイ
ヌが大勢
浜辺に出迎えて、女、子供までが居並んで膝を折ったり手を合わしたりしたのには、徳内が誰
よりびっ
くりした。挨拶をと思いつつ、とっさにアイヌの言葉の□をついて出ないのが、すこし悔(く
や)しかった。
358(32)
このモヨロで先ず天気に阻まれた。ベレタルベとはさ
して離れていない。徳内がまた、ここで山□や
下役大塚小市郎の追って来るのを、待とうかどうか迷っている、と、フリウエンが丸小屋の外
で呼びた
てた。風の吹き荒む海辺で何か見つけたらしい。七、八十貫目もある、それは三つの大きな古
錨だ
った。これだけの物はアイヌの小舟では使いこなせない。徳内の生まれた翌る年宝暦六年の五
月に、紀
州の堀川屋八右衛門の手船がこのコタンに漂いついた時の遺品であることが、調べてみてすぐ
分かった。
徳内がクナシリ水道を必死に漕ぎ渡ったのと、ほんの二、三日おくれで、東蝦夷地の幕府見
分役本隊
もアトイヤ岬に到着していた。トープト村の乙名ツキノエが先導していたらしい──、そうと
分かって
いたら徳内は迷わず前途を急いでいたのだった。
「山□鉄五郎様が後よりお出でとは承知しておりましたが、私エトロフに渡って以来、この十
日余り悪
天候つづきで至って風順もあしく、近々の内にお渡りなされようとも皆目様子が知れませぬま
ま、アイ
ヌの乙名に尋ねますと、こんな荒い波風では、所詮大勢で舟などお出しになれまいなどと申す
もので
……」
徳内はモヨロでもこう置手紙をして、やがてモイケシ湾の沖を東の長浜へ、シラルルヘ移っ
て行った。
そしてそこで胸を衝かれる噂、というより一大事の情報を、徳内は、忠実な侍僕のフリウエン
に耳打ち
された。このエトロフ島の東端にモシリハという栄えたアイヌ・コタンがある。そこに、フゥ
レシシャ
ム(赤人)が主従三人で、どうも滞在しているらしい……。マサカと思い思い来たのが、現実
になった。
徳内は奮い立った。
イコトイは知っていたのだ。赤人はモシリハの内シャムシャムという所にいて、そこの乙名
はエトロ
359(33)
フ随一のマウテカアイノ、またしてもイコトイの岳父に
当たるという。そればかりかイコトイは三人の
赤人とは去年にも顔を合わしていて、すでに入魂(じっこん)の仲だというのだ。思わず舌打
ちしながらも徳内は断
乎、それも早急にその異国人らに会うと腹を決めていた。ナイボまでの途中イコトイにいろい
ろ問い訊(ただ)
してみると、その者らの名こそよく覚えていなかったが、じつは着のみ着のままにウルップ島
から乱暴
な同朋の手を遁れてきたと言い、いたって気の良い、話好きな連中だと言う。こうなれば早く
逢いたい。
好奇心と緊張とで徳内の顔がいつもより赤いのを、アイヌらは指さして笑い声をあげた。
ナイボに着いたのが五月四日。
乙名ハウシビはいささかオロシァの言葉にも通じ、その弟はオロシァ風にイバヌシカという
名さえも
らって通辞を勤め、オロシァ人の神を信じているという。ハウシビが、フゥレシシャムはシャ
モのニシ
バ(旦那)の到来を今かおそしと楽しみに待っている、などと妙にけしかけるような愛想を言
いつのる、
と、イコトイは傍ですこし具合のわるそうなニヤニヤ笑いをそッぽへ向けていた。同じアイヌ
とはいえ
まとまった一つの「国」を成していないことの、微妙な、そして大事な意味を徳内は漸く意識
しはじめ
ていた。ハウシビは大きな身ぶりで、わざと「ハラショ」などと耳馴れないオロシァの言葉も
使ってみ
せたりした。
八
──結局、五月五日でしたっけ、ナイボを出発されて シャルシャムに着かれたのは。
360(34)
──さよう……年過ぎでした。天気がよくて、あの日
は道中ずいぶんハカどった。
──シャルシャムってのは今……は、ソ連が押さえてるんで、その以前で言いますとシベト
ロ郡シベ
トロ村の内なんですね。西海岸のウンと端ッこだ……
──鮭・鱒・鱈のよくとれる場所でね。真東と南に山が高い……桜かなと想うきれいな花
が、遠くで
紅い雲のようだった。わしの時分はあの一帯、モシリハといってましたが。
──イェね、今、お呼びたてしたのは……どうしても、この辺で、徳内先生の□から直かに
確認を得
とかないと、という一事が有りましてね。
──ソレハまた……
徳内氏は、それなら…と、少々居ずまいを改めそうにしたので、私は慌てて、おラクにと手
で制した。
「部屋」は、いつもに変わらぬ閑(しず)かさだった。「身内」とは、こんな場所を、本来意
味したのではない
か……在ると惟(おも)うと在り、無いかと惟うと無いかのように、おぼろに白い。
今日の徳内氏、いささか健気な感じに藍と黒ずくめの脚絆(きやはん)を巻き手甲(てつこ
う)をつけ、赤糸で威(おど)した陣羽織め
く厳(いか)めしいアツシを着こんでいた。アツシはなにやら獣の皮で分厚に裏が飾ってあっ
た。鬚も生やして
いた。が、おラクにと言われて徳内さんは、目頭で私を待たせたなり、ゆっくりした手つき
で、まるで
蝿が殻を割るようなぐあいに手甲を除き脚絆も取り、上衣も脱ぎ捨てて、目の前で、見るから
こざっぱ
りと淡(うす)色の、縮(ちぢみ)ッほい着流しの素手素足をそのまま胡坐(あぐら)に直る
と、鬚のあと青々と大ぶりの白い団扇が
似合いそうな、いや、そんなものももう手に持った鷹揚な様子で、やおら私の顔色をうかがっ
た。
──じゃ、ぼくも失敬させてもらって……
361(35)
と、私もズボンの両膝をすこし引っぱりぎみに脚を崩し
た。
──チャーラケでもひとつ、始めますか。
徳内氏はそんな軽□を叩く。
──イェイェ。本場じこみの先生には叶いませんから。チャアラゲとも、ふつうはチャラン
ケとも本
には書いてるようですね……議論、談判というふうに訳してあるけど、ナンですか、□合戦…
□喧嘩み
たいなもの……
──切□上でね。なるべく旧い言葉をうまく使い、句を重ね韻を踏んで……
──神事か審判か、根は……そんなとこカナ。負けたらツグナヒ、なンでしょ。
──そこまでしない……のも有ったが。儀式みたいにして。
──ぼくら、半チャラケって言いますよネ、グズグズと中途半端で終るのを……。そうそア
ノ万葉の
昔の「カガヒ」ですか、歌垣……アレなんかチャーラケに繋がりませんかね。
──源平争いし時分にも□合戦があったネ……まァ半チャラケで戦(いくさ)になったわけ
だが。
──ところで先生がこの言葉を、実際に使って書かれてるのは、そう物騒な場面ではなかっ
たですね。
話題のモシリハ、いやその内のシャルシャムでしたか、そこで厚岸(あつけし)から徳内さん
を案内してきた例の遣(や)
り手のイコトイが、総乙名のマウテカアイノと対面の礼をする……
──なかなかヤルものさ、アイヌ同士の政略結婚ッてのも。
──で、マウテカアイノが赤人三人を匿(かく)まってた件は、アトにしてですね。彼のチ
セ(家)で三国懇
親会をやったとか、それがまた一場の儀式であったとか……。しかしその前に、「知略深く」
「名高き
362(36)
大身」と仰言った父御(ててご)が婿殿と対面の酒宴の
さまを、ひとつ……
──亭主のマウテカは上座の右の隅に坐り、婿のイコトイは下座の左の隅に、いた。いつも
こンなじ
ゃァない。この二人久しく逢わなかったから懐し珍しというワケさ、但しわしは、それも別の
ワケがあ
ったと思っているがね。
──でしょうね。久しく逢わないどころか、イコトイは前の年にもここへ来てたでしょうか
らね。
──縁と利害との結びつきを、ヌカリなく日本人に見せておく気もあったろうさ。で、はじ
めは双方
黙々として物を言わない。そのうちマウテカの家来で主だったのが前へ出て婿殿に挨拶するの
だが……
これがチャーラケでね。謡うような声と顔つきとでそれも妙にポン、ポンと跡切(とぎ)れる
のが切□上の感じ
でね。なンだか応酬が続くのだけど、どっちも負けていないテ顔つきでさぁ、第一、平常の物
言いと全
然違うから聞きとれない。コゥ……見守ってるだけで……
── …………
──やがて義理ある親子が両方からにじり寄って……額と額をサ(と、徳内氏はペタンと自
分の広い額を
掌でもんで)牛の角突き合いのよナことをする。それから互いに互いの両耳を、こゥ(と、掌
で)蓋して
サ。そのまンま暫くの間は黙って身を震い震わせて感涙にむせび泣く。
──ホントに……ですか。
──コレ、本当。で、そのうち泣きやむとネ。元の座に退いて双方で一度二度礼をかわし
て、そして
またチャーラケ……何を言いあうのか……その時と場合にふさわしそうな掛合いが暫くつづい
て……ふ
ッと済んでしまう。
363(37)
──半チャラケ……デスな。あとが酒盛り。
──わァっとアイヌらが集った。その中に例の赤人も混じってた、三人です向うは。日本人
は、わし
独り……
──ソコ……ソコなんですワ確認したかったのは。山□鉄五郎、は…一緒じゃァ、なかった
ンですね
── 一人です。
──ヤッパ……そうだったンですね。そこンどこで困ってましたボクは。勘定奉行への報告
だと、山
□も択捉(エトロフ)・得撫(ウルツプ)島まで渡ったという……択捉へは、青島俊蔵も渡っ
ている、と。照井壮助さんの本は、
ですから四月十八日に山□と徳内は択捉島へ渡った、下旬には同じく多数の蝦夷舟に護られ
て、海上か
ら得撫の周辺を、残らず見分したと書かれてるンです。だけど、皆川新作さん、島谷長吉さ
ん、吉田常
吉さん、また森銑三先生のご本でも、この年に択捉・得撫渡島を果たしたのは竿取の徳内ひと
りである、
と……
──報告書を、あんた、読みましたか。たしかにその人らエトロフヘ渡った……と。
──エエと……そう言われると、大石逸平の樺太上陸なンかは日付も確かに、「着岸仕候」
とシッカ
リ書いてますが、山□鉄五郎の方は、「最早疾々(とくとく)ウルツフ島へも相渡候趣(一字
傍点)に付」きと、松前で立ててお
いた予定を、既成事実化している感じですね。推測、してますね。
──そうだろうと、想うよ。
──五月三、四日頃に択捉島へ山□も、「相渡候様子(二字傍点)に相聞(あひきこえ)申
侯」と推量した物言いをしてます。そ
364(38)
の一方、徳内先生の行動は「蝦夷人フリと申侯ものを通
詞にいたし召連(めしつれ)、四月十八日にエトロフヘ相渡
申侯」と、断定的に、具体的に告げている。
──わしが山□さん青島さんと合流したのは、あれァ六月の末……赤人の内の二人を連れて
クナシリ
島に戻った時ですよ。青島さんももうクナシリヘ、北のアトイヤ岬へも追いついていたンだ
が、また皆、
すでに南端のトマリ(オトシルベ)まで下がっていた。で、そこまで行って引き返すと、……
初めての
オロシァ人だもの、誰だってそれあ、びっくりしたさ。そして折返し、わしはもう一度エトロ
フ島へ出
かけて行ったんだ……
──その時はもう、所持なすってたんですね“パスポート”を、一種の。成ろうなら一気に
カムチャ
ツカまで、もっと遠くまでも、入り込む気でいらした……
──まアね……イジュヨが通行手形のようなものを、書いて呉れてたから。
──イジュヨというのが赤人の、頭株の方でしたね。で、先生は遮二無二、得撫(うるつ
ぷ)島へも渡り切られた。
北の岬のヲタンモイまで進んだけど……
──行けなかった、その先へは……季候、食い物……
──その話は、あとで詳しく……。と、とにかく先生が、いわば基地…であるトマリヘ再度
戻られた
のが、七月末か八月の極く初め、でしたか……その間に山□と青島とでミッチリ尋問してたわ
けですね、
ロシア人の二名を。松前の侍もそこに……いたンでしょうか。
──前田勘右衛門という家来と石塚某という医者が随いてきてたんです。が、山□さんが、
もっと前、
アトイヤヘ移動する間際に附添不要ッてんで追ッ返してたし、青島さんも遅れて松前を発つ時
から、い
365(39)
ずれ山□と一緒になるンだしと、通辞も足軽もない全く
の一人でクナシリまで来てるわけ……だもンで、
林右衛門というアイヌ語通辞がいただけです。
──それじゃ……大変……ロシア語はまるで……
──出来ない。幸いイジュヨらに、アイヌの言葉がいくらか通じた。これがエトロフの北の
方、シャ
ルシャムなんかだと、アイヌもオロシァの言葉を聞きかじってますよ……
──あなたの上司は、しかし、なぜ択捉(えとろふ)島へ渡らずじまいだったんでしょう。
後発の青島俊蔵でさえ
五月二十日頃にはアトイヤ岬に到達してましたのに……
──理由は有った、三つほど。一つはクナシリ水道が容易に渡れない。三筋の縄が絡んでグ
イグイ引
き合うみたいに潮の流れが荒い。沸騰したような場所が、ある。二つは、赤人と対抗上、百人
からのア
イヌを連れて渡る気だった。これが、そうは行くもンじゃない。
何より三つめに、アイヌの乙名らの意向が足を引いた。もっとクナシリ島を見て欲しい……
というの
も、サンキチやツキノエらは飛騨屋の苛酷な使役を逃れたい一心ですよ。どうかして山□さん
らを引き
止めたい。先々の島になンぞ日本人に出て行かれて、アイヌにトクは有りゃしなかったから
ね。一つの
アイヌ国でこそないが、乙名たちは島を越え場所を広げて相談会をちゃんと持っていた、あ
の、前の年
にも…。そういう微妙な時代に奥蝦夷の千島も、もう、なってたんです。イヤ奥蝦夷、なれば
こそ…
──シサム(日本人)とフウレシサム(赤人)が、程よく拮抗していて欲しい…
──そゥそ、その勘定を奴さんら、付けてたんだ。
──ト、徳内先生は、単独行動でそのすきを駆け抜いたわけか……
366(40)
徳内氏は、黙然と目を細めている──。
──ヨカッタ……随分ハッキリしました。そイじゃモ一度、択捉島のシャルシャムヘ戻りま
す。
──そうかね……
で──喫茶店の「ばく」からボロ自転車で家に帰って
みると、W大図書館のEさんが、今日は自宅で
私の電話を待っているから、と、妻に言伝ての電話番号を書いたメモを手渡された。
E氏は、私から旅の話など持ちだす暇もなく、案の定盆栽「ゑぞ土産」の近情を報せてくれ
た。ひょ
っとして最上徳内からシーボルトに譲られたかも知れない、(モガミ)と但し書きつきのその
盆栽は、
今、愛蔵者の手を離れて埼玉県大宮市の盆栽村へ「養生」に出されており、その万青苑とやら
に行けば
見せてくれますよという、話。そればかりでない、E氏は、此方の都合で申しわけないが、
「あした、いかがです、ご都合つきませんか……」と、たしかに急なお誘いだ。
とっさに「先約」を楯にお断りを言った。
奥さんには先日の電話で、「そりゃ見たい」とは言ったが、迷ってもいたのだ。かりに徳内
さんその
人の手がかかった樹木であればなおさら、二百年を隔てて「養生」などしている姿を目のあた
りにする
のは、いっそ「部屋」でご当人と逢っている以上に、変にナマナマしい。想っていたより立派
でも貧相
でも変に困る。
E氏には謝って、そしてその晩私は彼を銀座へ、逆に誘い出した。が、これもちょっと微妙
に私を苦
しめるハメになった。幸いにおめあて、寿司の「きよ田」はほどよく客が入っていて、勝手な
会話には
367(41)
好都合だし、むろんネタも酒もいつもながら言うことは
ない。何も彼もよければよいで、どんな旅の報
告よりもヤンジャ(楊子)のことが話したくて叶わない。
しかし話せない。
ヤンジァのことは、もちろん我が家でも話していっこうに差支える話題ではなかった。けれ
ど話し合
ってなかった。ただの「他人」にヤンジァをしたくない。が、「世間」話にしてしまえば、し
たその瞬
間から、そうなる。深い昏い「身内」から、シラけた明るみへタダ吐き出してしまうことにな
る──。
家に帰って数日、今も、私が心から怖れていたのは北海道のどこか旅先から、ヤンジァが、
絵葉書み
たいなものを送って寄越しはせぬかということだった。それはそれで家内中うち眺めて一場の
エピソー
ドとはなろうけれど、私が欲しいのは絵葉書なみの軽やかなエピソードでなくて、どんなに重
くどんな
に昏かろうと摩滅しない「身内しのヤンジァだった。「倶会一處(くえいつしよ)」のヤン
ジァだった。私以外が手を触
れてはならぬヤンジァだった。
そのくせ私は手紙を書こうとしていた、七月五日には伊丹空港に着くという……その前に届
くがいい
か、後(あと)の方がいいだろうか……などと思いつつ。
E氏も心得た人だった。盆栽とお能は似てますね、見るのもいいが、想ってるともっと佳
い、無際限
に佳い、などと言って、ナマジ植木の実物で幻滅するハメになッちゃいけません、第一、なン
だか銘を
趣味的なのに変えちゃってるのです、あれがいけないなどと、機嫌よくひとり力んでいた。
E氏は北方領土についてもなかなか堅い意見を持っていて、とくに「樺太裁判」の問題にも
厳しく触
れたうえ、ちょうど英誌に連載中の在日朝鮮人作家のサハリン紀行、というか帰郷の記がいい
です、一
368(42)
読をと教えてくれた。銀座まで出て寿司をつまんだ、そ
れは予期せぬ余禄だった。
E氏に教わった雑誌が手もとになかったので、翌日、京都の陶芸作家の個展をみるという
「先約」を
果たしかたがた、また銀座へ出たついでに西五番街角の「本」屋に寄った。
Uの個展の場所は私には馴染みの、「本」屋から元へすこし戻って大通りに面した、狭いが
飾り棚に
は金をかけた、いつも生花がたっぷり活けてある陶磁器の店で、よく行く画廊の階下だった。
はえない
清水焼職人のせがれだったUは、高校時分から美術コースで陶芸を専攻し、在学中すでに奈良
三彩写し
の、まるで骨壷みたいな蓋付きの大物で市長賞を貰ったりしていた。が、近年の仕事は小体
(こてい)にまとまり
過ぎたウマみばっかりがいやで、東京での展示にも二、三年がとこ失敬していた。
「オウ……」
そう声がそろう、と、Uは照れて私の片腕を巻くように、ウムを言わせず外へ連れだしてし
まった。
主人公があそこに居ないじゃ、得意客に悪かろうと言っても、もう六日めで大概は済んでまン
にゃと、
Uの物言いは相変わらず、どこか間がのびていて可笑しい。
「きのうヒョンヨン(暁玲)……憶えたはりまッか伊藤の弟。あれがヒョコーンと来てくれま
したんや、
今から京都ィ帰ンにゃ言いよって……」
Uの突然の話題には、一瞬たじろいだ。……研究会でもあったかナと応じながらも、遠い洛
北の私大
で教鞭をとっている、と、聞くだけで久しく逢わずに来た「時」の重さにも、ある変化、いや
変質を感
じないではおれず、あああのヒョンヨンなら逢っていろいろ話したい聞きたいという気持と、
へんに悔
いの絡んだ気のわるさとが、ゆるい渦を、胸の底で巻く。
369(43)
だがUはUで、べつの思い入れからヒョンヨンの噂をし
ているのだ。Uは「伊藤」つまりヒョンヨン
の姉で我々の同級生だった伊藤妙子が、学校時代から気になる存在であった、そして成りそう
で成らず
じまいに、妙子は比較的はやくに大阪の方へ嫁いで行ってしまった。彼女らが、つまり「伊
藤」家のだ
しか末っ子の暁夫、ではない暁玲(ヒョンヨン)まで、四人いた姉弟がじつは「李」姓の朝鮮
人だった
と知らされたのは、妙子の結婚よりまだ二、三年もアトのことだったし、妙子が本来のそれら
しい朝鮮
名を持っていたのかどうかすら知れずじまいだった、すくなくとも私の場合は。
「……どやねン、それで……顔ぐらい見ること、有ンのかいな」と訊いた。
Uは苦笑いしてすぐ首は横に振ったけれど、妙子の消息にいくらか今も通じていそうな顔を
している。
Uに喋ったことこそないが、伊藤妙子とは小学校・中学いらい一緒で、家はuよりずっと近
い上に、
教室でも日本の古典などらくらく読みあげることの出来た彼女に、私は、一時苦しいくらい心
意かれて
いたのだ。そうであるだけに、意地は悪いが、知れるのならUの□からなりと、妙子の近況は
知りたい。
が、Uの□もけっこう重いのだ。女ばかり二人の子が出来てたが、上のを早くに死なせてし
まった。
下が、それでもお前ンとこの「朝日子(あさひこ)サン」より一つほど上やなかったやろか、
などと含んだ物言いを
する。
九
「嫁(い)ったさきも伊藤やがナ。ドナィなっとン にゃ」
370(44)
「へぇ、伊藤妙子のままかアレは。今も……」
「そやンか、悩ましィで……」
Uは、たいして悩ましいという顔でなく、大昔の恋人の姓名にこだわってみせた。
「さきは会社持ちのユライさんやテ。ご時世やないか、景気はエェにゃ。やっぱり在日なん
や。金(キム)いう
たかな。そィで日本国に帰化する、せんて、ヒョンヨンやら娘やらと、えろ、もめとるそう
な」
「キビシイな……。ンで、ナニか。その娘……ヤないお前。お前、知ってたんか全部」
「聞いでた」
「聞く……テ、いつ」
「あの前やよ、結婚しよる……。まえから、おれ、知ってたけどな」
「おれは気ィつかなんだ……こう言うたらなンやけど、エェ家(うち)やったしナ。商売かて
ちゃんとした店出
して……おれンとこらより、よっぽど気楽に暮してるいう……第一物言いが京都弁で。ちょっ
とも違わ
んかったよ……」
「そういうとこ、あんたはウカツっちゅうか……マイ・ライフ主義やから……」
「冷淡なんよ……根が……。で、アンタはそれでも差支えない、思てたんやな…。向うの方が
差支えた
んやろ」
Uは頷いた。そして、急に喋りだした。
「今くらい浮かれとる日本人やと、民族主義なんてのに一番冷淡でっしゃん。金にならへん
し、なんや
田舎くさいし……カナンがな。そやけどナ。安っぽい同情やないで……。朝鮮人の場合は、お
れ、ヒョ
371(45)
ンヨンらが民族主義キツぅ言いよンの、当然や思て支持
すンねん。
頭わるいしウマいことよう言わんで。ただ、彼(アレ)らにあんなに必死にああ言わせてン
のは、わてらでっ
せ秦クン。もとはと言うたら日本人でっせ。土地収用やいうて田畑(でんばた)奪(と)りあ
げたんやからな、その辺から
ぎょうさん朝鮮人の流亡……そやない強制連行がムチャクチャ始まったいうやないか。おまけ
に日本の
敗けで解放やいうた途端に、今度は南北分裂やがな。もし日本の国がそんなやったらと、想
(おも)ただけでも
ゾッとしまンがな。祖国は一つや……民族主義やテ言いよンの無理ないわ」
「…………」
「アレが。伊藤が。おれとの結婚、ペケにしよったんも、おれの将来を値ぶみしたンや、ない
やろ。か
ッちゅうて日本人と一緒になってイヤなめェ見るのカナンというばっかりでも、なかったと思
う。それ
より、モ一遍『日本人』にされてしまうのを『朝鮮人』として拒否したんやないか……それや
と、筋は
通ってるわ」
「きみンとこの家のもンは、どない言うてた」
Uは苦笑した。所帯持って、何して食っていけんにゃとヤラれて往生したという。それほど
Uの場合
は年齢(とし)も若すぎた。聞いていてホロ苦かった。私は今しがた買ってきた雑誌をUの前
へもち出した。そ
のサハリン紀行の連載なら、昨日もヒョンヨンに聞いたとUは話し、
「それはそれとしてや……おれは、やっぱりアレと一緒になってた方がよかったという気ィし
てる……。
未練やけどな。で、なんでペケにされたか考えるわけやが。逆におれがアレに差別されてたよ
ナ気イも
しよるンや。金持ちか貧乏かいうはなしやないよ。確かにあの伊藤の家(うち)は、朝鮮人い
うても例外中の例
372(46)
外みたいにけっこうそうに暮しとったよ。そら、想像つ
かんよなメチャメチャ苦しかった家の歴史の、
あげくアアやったに違いはないけど、あの戦後に、あんたも言わはるように我々よかなんぼも
気楽そう
やった。よう、本で呼んでるたいがいな朝鮮人の場合とは違(ちご)てたンや。ワケは知らん
がソレ忘れるわけ
には、いかん。
が、その上でおれが言いたいのンは、ヒョンヨンも含めて在日朝鮮人の大概が、民族やァ統
一やァ
……ソレ言わはるのはよろしィげと。日本に住んでて、同(おんな)じ日本の中に今もハビ
コっとォるいろんな歴
史的な人間差別には、あの人ら、わりと冷たいンよ。まるで、ソンナンと一緒にして貰(も)
うたらカナイま
へん、次元が違いますてなエゲツない物言い、隣り同士に住んでてもわりに平気でしよる。イ
ヤ……ど
っちもどっちなんや、たしかにソレは……。
しかし、それでエエのやろかな……ほんまに。てンで少数野党の乱立と一緒やんか。誰かサ
ン喜ばし
てるだけでっせ……。その、サハリン書いとォる李恢成の旅行記は、なかなかエェ文章や。そ
やけどお
れが読んだかぎり、熱烈に同朋朝鮮人のことは言うても、彼がそこを故郷と呼ぶよりずっと以
前からサ
ハリン島に住んでたはずの、カラフト・アイヌやら少数原住民への認識は、今ンどこ、まだ、
唯の一行
も書かれてェへん……」
Uの雄弁はどうやら果てしなく、彼に客だからと、店から呼びにきたのは私にもちょっとし
た救いの
神だった。それでも二人で立ちしなに、Uはまだ喋りつづけていた。
「京都へは……」
「今月たぶん。……ヤボ用やけど」
373(47)
そして、子供に恵まれない家庭が、あまりウマくいっ
てないようなことも、Uは言った。
せりふ
……ドナィなっとンにゃ……。Uの科白をつぶやき返しながら、いささかならず疲れて三十
分後には
帰りの地下鉄に乗っていた。今度のUのオブジェの、みな、力強く面白かっただけが心丈夫な
土産だっ
た。雑誌をあけてみる気がしない。妙に手のとどきそうな所に、ヤンジァが、いる──。手紙
でなく本
を送ろう、でも、……、届くのだろうか。
シャルシャムの浜に舟が寄るにつれて、海面にうすあ
かい縞めが浮かんで、目で追うていくと、
幅二十間も有ろうか、水ゆたかな川口が低くひらけて見えた。遠く硫黄焼けのした高山がなが
い尾根の
ひとところを雲に巻かれている。あの麓に湖があって、横斜屈曲、西に向かって海に入ったの
がアレあ
の川だと、もうイコトイも成行に安んじた顔をして、なんでも徳内の問うままに返事する。
冬から初春へかけて川の水はきれいで、飲用にも十分に耐えられるけれど、その余の時期は
鱒・鮭が
遡り、死んで腐敗したのが流れ下るため、飲み水はすべて谷あいに湧いたのを用いる。泉はい
くらも湧
いているけれど、冬季の川の水ほど澄んでいない──。
徳内がモシリハ一帯のアイヌの家数なども尋ねているうち、浜辺へ人影が急に増して、その
中にアイ
ヌとは自ずと異なってみえる一人、二人、三人までもう識別できた。
赤人だ。
徳内が着くと知って喜び出迎えるのだときけば、おろそかな気構えで居れなかった。
ざっと見てオランダ人の風体に近い。徳内はオランダ人に会ったことはないが、狂歌師平秩
(へずつ)東作こと
374(48)
岳父の稲毛屋金右衛門は、亡友平賀源内ゆずりの、ま、
蘭癖で、楯岡からポッと出の婿徳内のために、
その程度の参考になりそうなことは巧みな筆で画いてなりと、教えてくれていた。
大仰に叫んで手にしていた杖を捨て、お辞儀をしぃしぃ近づいてきたのが頭(かしら)分ら
しく、徳内は反射的
に手を出していた。生まれて初めてする握手だった。裏は革張りだろう、表にはラッコの皮で
端縁(へり)をつ
けた汚れぎみの唐木綿の上衣を前で縦に綴じ、黒う光った羅紗の股引(ももひき)をはいて雪
沓(ゆきぐつ)、そして短い総髪(そうはつ)に
毛織の頭巾。
当年三十三歳は分ったが、姓名は聞きとるまでが難儀だった。「シメオン」が名らしい、
が、そのさ
き「ドロヘイイシュ・ソヨフ」とも「イジュ・イシュヨ」とも聞こえる。名前で呼ぶも遠慮さ
れたので、
「イジュヨ」と、分り易く呼ぶが、いいか、と土地のアイヌに尋ねざせ、通じたのかどうか首
肯いたと
見でそれと決めた。自分のことは「トクナイ」で通した。シッカリした相手に思われた。イコ
トイも物
馴れて握手していた。
二十九歳、「ヲホツコイ」の産という「イワン・エレゴーイジュ・サスノスゴイ」は、眉秀
でたたい
へんな長身で、衣服は下が羅紗、上は木綿と見たが、上衣の作りはイジュヨのより単純に頭か
ら被(かぶ)って
着るらしく、首まわりに前結びの赤い裂(きれ)を巻いた感じなど、ちょっと伊達男に見え
る。もう一人イジュ
ヨの侍僕とか、「ネルチェンスコイ」から来た二十八になる「ニケタ」は髪を首筋でいったん
束ね、そ
の余は細う編んで背中へ垂らしていた。股引(ももひき)も短い木綿製で、なによりアイヌ以
上に日本人に肖た顔立
ちなのが、かえって物珍しい。どことなく頓狂に声など出しているが、気配りのすばやい男ら
しい。
すぐ砂浜の乾いた場所にキナ(むしろ)を敷かせて徳内は、アイヌの立ち合う目の前で赤人
三人を沓(くつ)
375(49)
を脱いで坐らせた。フリウエン少年も脇で緊張した面持
ちだ。徳内は、この場に唯一の日本人として、
いささか歯を喰いしばる心地で初のオロシァ人との出会いを完うすべく気を入れた。イジュヨ
らもそれ
を感じとったか、頭巾を脱いで徳内に対し鄭重に黙礼を捧げ、初めて見(まみ)える日本国の
侍に敬意を惜しま
なかった。北夷先生はなむけの脇差がこの時はじめて、誤解ではあったけれど、徳内のために
身分を証
してくれた。
対面は無事済み、イジュヨらは宿舎にいったん帰って行き、徳内はフリウエンらに命じて、
然るべき
辺りに暫時滞在のためのカシ(丸小屋)を用意させた。ウルップ島へ渡り急ぐより、しかとイ
ジュヨら
の動向を確かめるのが最先決、と徳内は思案したのだった。
さし当たって徳内はナイボの乙名ハウシビに、弟イバヌシカがラッコ島(ウルップ島)から
帰り次第、
赤人との通辞を勤めにシャルシャムヘ至急来るよう命じてはおいた。彼の□裏から、イジュヨ
らがなぜ
エトロフヘ来てマウテカアイノに匿まわれているのか、本当の理由を早く察しておきたい。こ
の島のこ
こモシリハのアイヌらは、係わりからして日本人と同等かひょッとしてそれ以上にオロシァ人
に親しん
でいよう。総乙名マウテカの真意も、それがイコトイやツキノエへ波及するのを考え合わせる
と、これ
またおろそかな気構えで掴み損ねてはならないと徳内は緊張した──。
イコトイの若い、いや幼いほどの妻にも徳内は会った。娘ではなく、マウテカの孫に当たる
その少女、
は、ふかふかしたアザラシの毛皮を頭から被るようにし、手首を見せず袖で□もとを覆って、
いと小(ささ)や
かに遠来の夫にもう寄り添って離れない。イコトイはこの可憐なメノコを、今度の旅のあとに
は、アツ
ケシヘ連れて帰りたいと徳内に話していた。それをうなずいて聞く徳内の懐中には、去年、ニ
シベツの
376(50)
ダケカンバが風に鳴る川□の杜(もり)で、ふと相逢う
たシアヌが記念の緬鈴(メンリン)が、うす温かく肌に
触れて潜んでいた。今年、もう一度逢えるだろうか、どこかよそのコタンヘ早や移り住んで
行っただろ
うか……。
──マウテカとイコトイとの、チャーラケ入りの対面が済むとどっと賑やかな酒になり、
歌、踊りに
なった。不調法な徳内にくらべると、赤人はアイヌに負けず劣らず手拍子もはなばなしく、イ
ジュヨと
いわずサスノスコイといわず、興にのって、四方(よも)の闇にも響けと故国の歌を謡いかつ
乱舞する。徳内も
余儀なく、馬子唄のウロ覚えなのを間に合わせにひとっ、声張りあげて謡ってみた。
もう一つと望まれて、また、こんな子供の眠らせ唄を、酒の酔いにもゆるゆると揺すられな
がら、我
にもなく謡って聞かせた。
オワイヤーオワイヤー
オワイヤレーヤーアレー
寝っとねずみに引かれんぞ
起きっと夜鷹にさらわれる
オワイヤーオワイヤー
オワイヤレーヤーアレー
徳内は最上地方に伝えたこの眠らせ唄を幼い昔に聞いた。が、さほども心和む思い出はな
い。
それより江戸へ出て間なし、稲毛屋金右衛門の有難いはからいから佐久間町の煙草商い仁助
方に住込
奉公した夏の、寝苦しかった土間の臥せ寝の折々に、あの出戻り美人のお丹さんが、乳呑児の
泣き寝入
377(51)
りまでを「負う」て飽かず謡っていた、あまい、わびし
い、そのくせ妙におかしみもある「おぶいやれ
ーやーァれー」も、似た唄だった。お丹さんのはさすが詞は江戸のらしく整って、かえって故
郷恋しい
心地にもさせられたもの、……あれから……やがて五年。それが今、夢にも見たことのなかっ
た、目の
前にも後にも燃えるかがり火と天の星屑のほかはアイヌの男女が百人余と、ことさら陽気な三
人のオロ
シア人ばかり。漂流者は措(お)いて、かつて日本人が渡ったことのない奥蝦夷千島の、こん
なエトロフの北
の果てまで、たッた一人で来てしまっている……。
徳内の翌る朝は早かった。フリウエンは、米の飯を炊いて赤人に振舞ってはどうかと、前夜
から主人
に進言していた。あれくらいのご馳走は、ない、と彼は思うらしく、うまいご馳走をするほど
他人と仲
良くなれる工夫はないとも考えているのだ。徳内も手段の是非に及ばず、オロシァの三人と直
談判を急
ぎたい。
飯振舞いにはイコトイも賛成した。そして図に当たった。
それに徳内のものの尋ねかたには、おそらく佐藤や青島ら普請役のとは微妙にちがった、い
ま少しひ
たむきな知識欲のようなものがタドタドしくとも言葉のはしばしに出ていた。少なくともイ
ジュヨのや
はり日本についての熱心に知りたい態度との間に、幾分通じ合うものが生まれたのは、確か
だ。新井白
石先生とローマからはるばる来たという僧侶との、切支丹牢での問答も、こんなであったろう
か……、
三十二になる徳内は同年輩のイジュヨからこの島に忍んでいた真意を、ウカとは甘く見錯(み
あや)まってはなら
ぬと思った。なによりイジュヨが、人柄ばかりか知識においてなみの商人や船乗りとはよほど
勝れて想
われる。逃亡を装った日本探索のさきがけが、この徳内といわば同じ任務、でわざと渡ってき
たか……
378(52)
との疑いが、捨てきれない──それならば……。
徳内は乏しいなかから、シャルシャムに着いた翌五月六、そして七、八日とつづけざま米の
飯を「客
人」のために炊いた。そしてとめどもなく、質問を浴びせた。
徳内はナイボですでに乙名ハウシビから、ウルップ島へいま渡るのは危険と警告されてき
た。フウレ
シシャムはアイヌを頼もしからず思い怒っている。三年前の正月らしい、ウルップ島アッタト
イの浜へ、
帆柱一本の異国船が小麦粉、水などを積んだまま打揚げられた。赤人とみえる死骸があり、構
わずアイ
ヌ大勢で積荷を運び出し、船は焼いた。その報復があるだろう……赤人とアイヌはそんなこと
を長年繰
返しているという。徳内──氏、には判断も想像もよく及ばぬことだった。
その──十年来、ロシア側で、北太平洋方面へ金と人とを精力的に注ぎこんできた「典型的
な冒険商
人」の一人が、ヤクーツクのレーベジェフ・ラーストチキンだった。一七八二(天明二)年に
も彼は装
備と貨物に六千五百ルーブルかけたナジェージダ号をカムチャツカヘ送りだしていたが、これ
が行方知
れずとなり、ハウシビのいうアイヌに焼却される運命を負うたらしい。
で、翌年秋に新造船の聖パーヴェル号をまたオホーツクから出帆させ、無事八四年七月末ウ
ルップ島
へは着いたものの、船長コローミン以下七十人のなかに十人余り新規採用労務者が混じってい
て、激し
い船内不和の火種になった。船はなすところなく北へ去り、そして例のイジュヨらがエトロフ
島へ逃げ
た、と、そう郡山博士の『幕末日露関係史研究』にも書かれてあるが、「このことはロシヤ側
の史料に
は伝わっていない」とも──ある。
イジュヨらをクナシリヘ連れて戻っては、彼らの思惑にむしろハマると察しつつ、徳内は敢
えてそこ
379(53)
へ誘導した。案の定赤人は徳内と倶にウルップヘ帰るの
を、「他国領」へ逃亡の罪で処罰されるからと
拒む。いっそ「アトキス(厚岸)」へ連行して欲しい、日本の仕置を受けたあと、成ろうなら
ヨーロッ
パ廻りに本国へ帰りたい、などと言う。
クナシリのトマリヘ戻れば普請役の誰かは来ていよう、処置はそこで付けてもらって……自
分はまた、
今度こそウルップ島へ。
徳内は、天候が許せば赤人をすぐ連れて行くと乙名たちにも言い渡した。
イジュヨは喜び、但しニケタには「カムサスカ」「オホツカ」の役所と本国宛書状を託し
て、我らの
赦面を願い出に単身北へ帰還させたいと申し出た。「他国領」のエトロフ島から、上司二名が
蝦夷本島
へ潜入に成功したと報じられるであろうことを、徳内はむしろ内心に是とした。エトロフ島は
「自国
領」と、ともあれこの島へ日本国の手の届いている事実を、徳内は、オロシァ国にしかと知ら
せ認めさ
せたかった。そう慮(おもんぱか)った。
五月二十二日──しばらく当地に残りたいイコトイをおいて、徳内らはマウテカが用意の舟
三隻で北
向きに、島の東海岸へ思いきりよく廻りこんで行った。
途中ヒンネベツの瀧──数十丈。
耳をつンざいて雷電の如く巌頭より直下海中に真飛沫
(ましぶき)をあげ、三里、五里と遠退きざま顧みるつど、
瀧は白糸を練って垂らしたように、いつまでも見えていた──。ここからが東蒲、「げに荒
海」の潮鳴
り──が、凄まじい。
380(54)
八章 天明六年、暗転
一
いわば逃亡の密入国者として、赤人(フウレシシャ
ム)のイジュヨとサスノスゴイとを上司普請役の山
□鉄五郎および青島俊蔵に引渡して、再び、先駆けの竿取徳内が、クナシリ島南端のトマリ運
上所を折
返しエトロフ・ウルップ島へ向かったのが、天明六年(一七八六)六月下旬、暖かいと思うこ
との日に
何度かはある時候だった。千島の、真夏だった。
泊りに便宜は乏しいけれど、ゆるやかな潮流に乗れるのを頼みに、徳内らはずっと島の西岸
を北上し
て行った。アツケシの有能な小使(こづかい)シモチをイコトイが付けてくれたお蔭で、クナ
シリ水道も渡り了せた。
かがやく日ざしを浴びた「オホツカ」の海は、サビの利いた青にしずかに燃え、エトロフの緑
なす山々
を抱きかかえて、潮の香いっぱいの空を夏雲が去来する。
途中、クイの木から採れたという見事なエブリコを土地のアイヌに貰った。「鼻緒岩」とで
も謂うか、
アイヌがエトロフワタラと呼んでいる奇妙に紐の捻じれたような岩も見た。ジャナの川口で
は、すばら
381(55)
しい鷲の羽を二枚貰った。エトロフのアイヌで日本人を
見た者はあまり無くて、赤人と、ラッコ島での
交易を経験している者のえらく多いのに、徳内は胸を騒がせていた。アイヌの目が、なにかと
「北」へ
向いている…オロシァ人の方へ……。
イジュヨをクナシリ島に置いてきたのが、気になった。惜しいほどの気もしていた──もっ
と沢山な
ことが、彼の□からは聴けただろう……。身ぶり沢山にわずかなアイヌ語も混ぜての対話では
あった。
が、双方にひたすら尋ねたい、確かめたい事と、意欲とが、あった。
出逢いの五月五日このかた、舟でトマリヘ二人を運んだ二た月たらずを、徳内は、シモチや
フリウエ
ンも言葉の媒(なかだ)ちに立てて、異国の客人を質問ぜめにしてきた。
なにより千島列島の続きぐあいや名前を、イジュヨらがどの程度認識しているか。
正直のところ徳内らには、それさえ把握できない。イジュヨに、だが包み隠す気色はなかっ
た。カム
サスカから数えてこのエトロフが第十九番めの島に相当すること、すでにオロシァ人はその意
味も「テ
エツナッサトイ」(第十九、の意か)などと全部自国ふうに命名も済ましていることを、話し
てくれた。
明らかにオロシァ国は、蝦夷本島を含め千島列島の全てを夙(はや)く仮想領土化してきた
し、その意図を着々
実現すべく、数十年もの間この北海で活動し続けていたのだ。
徳内は、話半分としても事実の圧力にタジタジとした。イジュヨは、むろん日本国がすでに
占有して
いたのでない限りの話ですがと、付け加えるのも忘れない。が、それならそれで、余計に徳内
には身震
いのしそうな衝撃であった。「居坐るのだ」が持論の北夷本多先生の声が、にわかに耳もとで
ビンビン
と鳴った。アイヌは……どう思っている、の…か。
382(56)
だが足踏みして居れない。徳内は、遥かに本多利明や
おやじ稲毛屋金右衛門の日頃の言説を想いうか
べつつ、次々にカムサスカからチョウキチ(チュクチ)国、さらにアレウト諸島、アメリカに
至る国々
はもとより、オホツカを経てオロシァの本国、そのさきイスパーニァ、イターリァ、ホルトガ
リーア、
フランスヤないしインデァヘも達しているという世界の地理のあらましを、イジュヨに対し、
尋ね続け
た。もはや尋問などではない、時ならぬ、懸命の学習だった。
なにを思うてか、イジュヨも終始笑みを浮かべたまま、根気よく答え続けた。徳内が筆を
使って簡略
な地図を画く手もとを覗き見ながら、ちょっとその筆を私に持たせて下さいなどともイジュヨ
は言って、
手を出したりした。
徳内の学習は、徐々に本草(ほんぞう)の方面へ移って行った。平賀源内いらいの丹念な物
産学にともあれ繋がる
徳内にとって、いささか自信あってはじめた質問だったが、せいぜい持ち出してみた漢方の薬
品類、丁
子(ちようじ)や耳松や樟脳や紫檀ないし甘草(かんぞう)や益智や莫大海その他おおかたに
就て、イジュヨは、産も名も効用も、
よく心得ていた。…あれには…舌を巻いた。オランダ人にも、おさおさ負けていない…ので
は、ないか。
イジュヨが所持していた版行の本も見せてもらった。算学や地理の書物らしく、珍らかな記号
や山水
の絵図を見るつど、徳内は煩(はん)をいとわず尋ね、及ぶ限り書きとめようとした。書きな
がら実は何が何や
ら判じもつかずにいたことも多い。それでいい、それほど判じもつかぬ広い広い見知らぬ世界
が彼方に
開けていると知れるだけで、人にも報せてやれるだけで、舌を噛みそうな土地や物の名の一つ
一つが、
容易ならぬ知識なのだ。徳内は、イジュヨらに逢えたのが、単なる功名手柄から離れて、心底
有難かった。
それでいて徳内は、図で示せる類の和算の問題を紙に書き出し、イジュヨに試みたりもした。
これには
383(57)
イジュヨが頭を掻いた。お返しに出された初歩的な幾何
の問題など、徳内にはものの数でなかった。
サスノスコイは、徳内の推測に違わず、測量の学問によく通じていた。緯度の一度が占める
距離に就
ても彼なりの数字を挙げて教えてくれたし、徳内が自分の器具を使って測量してみせると、同
じその器
具の目的にそった改良や手技の問題点など、要領のいい意見で徳内の蒙を啓(ひら)いてもく
れた。
暦にも当然関心の深い徳内のために、サスノスコィは彼ら西洋の暦の利点や特徴を辛抱よく
伝授しな
がら、我々の世界では、今日、ニシパ(貴方)の暦でいう五月十四日からが、ちょうどイユ
ニ、夏の初
月に入るのです、などと言ったが不審は数々残った。オランダ人とオロシァ人との間にも暦の
差がある
のかも知れぬ、と、徳内は想像したりした。西洋の今年は何年というか聞いてみると「一千七
百八十六
年」だとイジュヨらは、徳内がいま習いたての簡潔な形の数字を紙に並べて、そう□をろえ
た。それは
徳内のかねての知識にも合致した。
さて赤人二名がこの島へ渡って、総乙名マウテカアイノに介抱されるに至ったイキサツも聞
き洩らす
わけに行かなかった。が、その弁疏は、その余のいわば学問知識に類する話題に比べると、は
なはだ持
ってまわった、難儀なものだった。
で、端折って言えば、二人ともが、自分らはラッコを輸入する商人だと頑張る。但し成ろう
ならアト
キス(厚岸)まで渡って、マトマェ(松前)の領主との間で交易の交渉もしたい念願は持って
来た、
「をろしゐや」の商人なら誰でもそれは考える、とも。だがそうしなかった、いや出来なかっ
たのは、
我々のそんな意向をアイヌを通して聞いたマトマエの侍たちが、殺してやるとイキリたってい
るとか、
アイヌらがしきりに警告するものだから仲間は大急ぎで北へ引揚げた。三人はあくまで居残る
と言い張
384(58)
ったためにひどい争いにもなった。あげく身一つの有様
で宿舎も船も逐われて、命がけで山へ遁げこむ
ハメに降ちていたのを、この島のチャルピカンテというアイヌの助けでマウテカアイノの許
(もと)へ連れて来
られた、事実その通りで、けっして国境を侵す計画をしていたわけではない……と。
そのくせ「エンド(江戸)」からはるばる検察のため派遣されてくる調査官たちがあると、
去年の内
に承知していた、我々はそれに期待をかけていたのです、「アポン(日本)」の政策は変わる
でしょう
かなどとも、臆せず言う──。
以来一月余徳内は今、懐中に一枚の「手形」を秘めていた。行く先々で示せば、カムサスカ
もオロシ
ァも道中の安全を保証する、そう明言してイジュヨはそれを書いて呉れたと徳内氏は私にも話
していた。
思うに。パスポートに当たるものだろう。が、徳内氏がイジュヨにこの時依頼した手形の趣旨
は、この者
がいわば日露交易の「掛合い」に出向いた使者に相違ない旨の証明だったと聞くと、たとえ方
便にせよ
アンマリ大胆過ぎた話で呆気にとられる。。パスポートふうの書類はイジュヨらも事実所持し
ていたらし
く、長崎から欧州回りで帰国が可能とまで彼らは楽観していた。あるいはそんな申し出をわざ
として徳
内氏はイジュヨらの意図をアブり出そうと試みたのかも知れない。
いずれにせよ徳内さんが「命ほど大事」に隠しておいたというその手形は、失われた。三年
半後、松
前藩へ内通の罪を問われた青島俊蔵禁獄の煽りで、徳内もまた死にまさる苦痛を牢内でなめた
時だ、誰
と知れずじまいだったが、確かに誰かが危急の際にみつけて秘密裡に破棄してくれた。本当は
何がどう
書かれていた書面ともイジュヨを信じるしかない「手形」だったが、筆頭老中の松平定信が直
々に指揮
していたその審判に、もし徳内所持品としてもち出されていたら十分命に係わったに違いな
い。惜しい
385(59)
と、徳内さんは未練を残したらしいが、危い瀬戸際では
あった。
私は、徳内氏が今も思っているほどその「手形」の文面を信じないし、イジュヨらが、交易
交渉の、
少くも下地がために送りこまれた「密偵」かとの推量にむしろ与(くみ)する。が、もっと興
味を持つのは、天
明六年のあの時点で、大それたそんな証明書を、どう使ってみる気でいたか……。で、「部
屋」へ入っ
て徳内氏の出座をまたまた希望した。
──マ、改まって尋ねられると無鉄砲な話なんだが
ネ。功名心をまるで否定はしない……が、ありて
いに言ゃ腹が立っていた。オロシァはもともと寒国さ、寒さに耐えるッて点(こと)じゃ日本
人は敵(かな)わない。現
にカムサスカはおろかウルップ島まで楽々とラッコの猟に来てる。ひきかえ松前藩じゃクナシ
リ一つへ
もろくろく手が届いていない。わしら、カムサスカまでは日本領の千島(ちしま)と教わって
いた。古い時代の本
にもそう書いてあった……オロシァの領土と誰一人考えてたものはいない。のに、十以上もの
島を着々
奪われていたたァ、知らぬ顔とは、松前の了簡(りようけん)が合点できない、当たり前じゃ
ないかネ。でネ。この分
じゃァとても山□、青島といった人らが小人数でウルップまで渡るのは危いと。また……渡る
気でいる
のかもトマリヘ一度戻ってみて、アヤしい気がしていた。いっそわし一人の方が、旅に来たふ
りにして、
無難に往来できるかも知れん……
──まさか、そうも行かんかったでしょう……
──そう……で、交易掛合いという□実なら、なんとか…と。その間に、島から島またカム
サスカま
での北極山地(緯度)を計って、せめて路地図を画いて帰りたい……。何にせよこのまま措
(お)けばエトロ
386(60)
フは必定(ひつじよう)、クナシリ島もオロシァの進出
に任せてしまうことになり、そんな事ではアイヌらが、日本を
一(いち)に考えて暮らす気構えは消えッちまう。そうなっては由々しい大事……
──そうか……先生の場合はどこへ海を渡っても、カムチャツカまでは少く見積っても幕府
御用の内
で……。でも交易掛合いッてのは、チョット……
──物騒…だ、そこまでの御朱印は御老中でも貰ってやしないから。ただ田沼様…ならばと
いう期待
が、わしにもあった。勘定奉行松本さんの意向にしても、あの時分の我々はかなり読めてた
し、安心も
してた。
──なるほど。で…松平定信の溜間詰(たまりのまづめ)が、前年暮に決まってたとは。
──トマリへ、イジュヨらを連れてった時、六月末に青島さんから初めて聞いた。が、それ
が何だく
らいにしか……わしには……
──そりゃネ。その時はまだネ。で、シャルシャムヘ一度戻ってからイコトイを□説かれ
た…ウルッ
プヘ渡るぞと。
──喧嘩腰だった……、アツケシがどう成ってもいいのかと。少々幕府の威をかりてオドし
てしまっ
たよ。なにしろ奴には水先を頼みたいし、時機ものがせない。
──勇気…ですか……
──イヤ勇気だけじゃ出来ない。時の勢いでアトヘは退れなかった……
──得撫(うるつぷ)島には、いきなり西北岸のかなり奥、へ着岸……トゥコタンの辺でし
たね。
──やっぱりモシリヤともいってた所です。若布(わかめ)みたいな、香りも味もいい海苔
(のり)が採れてね。それと
387(61)
ウニ。ラッコが、これを好物にしててね。
──ラッコ島という、名前だけは江戸へも聞こえてた島ですね。日本人で渡ったのは、徳内
先生が文
字どおり最初だった……
徳内氏はただ微笑して、初めて、といったことにさほど価値があるかしらんという顔つき
だった。得
撫島には猟虎(ラッコ)が多く棲息するのは知っていたが、ウルップといって、鱒によく似
た、肉の色
の至って赤い味のいい魚から島の名がついていたとは、この時徳内さんに初めて教えてもらっ
た。
──先生、話がチョットとびますが……イヤ、も少しお話伺ってからがいいかナ。得撫島
は、で、い
かがでした。
──いい港に乏しい島でね。猟のある時節にかぎって舟を出してたアイヌはそれは、よく
知ってまし
た。ラッコは、肉が目あてじゃない、皮。これこそ名産で、長崎に回して唐人が喜んで買って
たのへ、
オロシァが直かに手を出してきたんです。ノビってとこじゃ特に沢山獲れて。オロシァ人はコ
ロシンと
この土地に名もつけ目もつけ、盛んにゃって来てたらしい。アイヌに説きつけて国籍までオロ
シァ国に
入れたがってたし、かと思うと年貢(ねんぐ)として、ラッコの毛皮を何枚という具合に取り
たてたりもしてた、
もっと北の島やカムサスカの方ではネ…。そぅさネ……ウルップ島ってのは、斜めに南から北
東へ、さ
ァ三十里とは無かったね。細長ァい。広いとこで幅が五里くらい……
結局──徳内氏はこの機会に、上陸より、壮行を優先
に考えていたという。
泊りごとにカシ(丸小屋)を作ることもせず舟で寝た。
388(62)
夕過ぎると、初秋の寒気が骨を噛む。
幸いオホーツクの舟旅は平穏だった、潮は一定して西南より東北へ流れている。が、時に海
が吐息を
ついたかと想ううねりに襲われる。まともに冒せば小舟は羽子(はね)をつくようにはね上げ
られてしまう。山
はなお消えぬ雪の五つ六つがそびえて、航海の目標になっていた。北へ行くほど地勢険しく、
ダケカン
バ、ハンノキ、熊笹など覆っていたが大森林は見なかった。
生きたラッコをまぢかに見たのはモシリヤに着いてすぐだった。後足(あとあし)のあるべ
き所に鰭(ひれ)が動き、なる
ほど虎かという顔つきをしていた。呼吸の必要あってか深くは海底に潜っておれない。つねに
沖に群れ
て遊んでおり、空腹になると島ベヘ寄ってウニを食う。器用に□にあてがって上から振り出す
ようにし
て呑み下だしている。
北へ僅かな地続きにタフケワタラという所の山肌の感じが、有望な金山らしく見えた。(こ
れを江戸
へ帰って北東先生に話した時の、先生の目の輝かしようはなかったと、徳内氏は、面白そうに
言う。)
もうよほど北の、アタツトイという所に、赤人の住んだ跡らしい家が五つ六つ残っていた。地
を三尺
ほど掘ってから建てた一種の穴居と徳内は見た。ここには小川が流れ、オシュルコマという異
形(いぎよう)の魚が
よく獲れた。国を隔てると産物は異様、鳥獣の姿まで珍奇に見える。ベウワの岩場数十丈もの
高みには、
くちばしの紅い鳥などが無数に鳴いて群れていた。赤人は今、いない──その確認が徳内には
何よりの
収穫だった。
オタンモイまで行くと島の西北端に立つことになる。イコトイとの、また掛合いが始まっ
た。沖合い
遥か西に当たってマカンルルの島が見えている。北にレプンチリボイ島、ヤンゲチリボイ島も
くっきり
389(63)
見えている。オタンモイの山崎を東へ乗り回した所から
沖のかたにも、ヤンゲモシリ、オタボ、レブン
モシリ、カバルモシリの四島が連なって望めた。徳内が一々に指さして問えばアイヌらは誇ら
しそうに
□々に教えてくれる、が、一押しして渡ろうとはしない。天気が許せばあの向うにまだシモシ
リという
エトロフ島よりも何かと便宜のいい大きな島が見えると、虚空に指で描いてみせながら、イコ
トイ以下、
ガンとして徳内のために船を出そうとはしてくれなかった。押しても引いても通じなかった。
たしかに
海の荒れも凄ましく、ちょっとした岬を廻るにも沖へ掠(さら)おうと波は横薙ぎにまるで奔
(はし)るよう。漕ぎ手は
顔を歪め風を防いでわずかな浜辺へ息せききって逃れた。
七夕…そう、初秋だった。日一日と寒さも寒いうえに食糧の蓄えは底をつき、この先やすや
すと手に
入る見込みも、ない。それでも、一番近いオレムコ島まで舟を回し、そのあとウルップの東海
岸ぞいに
南下するという条件で徳内は、北海への危い出舟を承知させた。(「匹夫の勇で」と徳内さん
は苦笑してい
た。)幸い大事に至らず四隻の舟はしがみっくようにウルップ島へ戻れた。さすがに徳内も息
をついた。
やがてラッコの猟場のチペヤノムイについた。赤人がつけたシャバリンという地名もアイヌら
は憶えて
いた。
ワニナウまで下るとまた赤人が使っていた泊があった。レバギンと呼んでいた。ここでも住
居跡を五、
六点見たものの赤人の影はなかった。イジュヨが、みな引揚げたと言っていたのは、事実らし
い。
シャルシャムで、イジュヨらの宿舎前に立てであったのと同じ木の十字架を、ここでも見
た。オロシ
ァ人らはいっまた戻って来るやも知れぬ……。徳内はわずかな上陸の合間にもフリウエンを連
れ、いち
いち物の名などを尋ねながら島の少しでも奥をみておこうと、疲れを知らぬ足を運んだ。十年
も以前の
390(64)
大津波で打揚げられたというオロシァの大船が、ワニナ
ウの山の谷あいで、残骸を曝していた。
徳内が内心なにを惟(おも)っていようと、同行のアイヌはみな屈託なく、陽気なものだっ
た。若いフリウエ
ンも、アツケシ総乙名のイコトイにしても同じだった。
二
こまめに泊りの浜を求めながら、ウルップ島の沿岸を
結局一周して徳内はおよその絵図を描いた。島
の北東名より東北寄りに海上を約五里ほどゴツゴツした岩島が伸び出るように点在していた。
渡るのを
断念した遠い北の島影も、おぽろに、及ぶかぎり徳内は絵に描いてきた。川はみな細く、湖は
島の中ほ
どに一つしかなくて飲み水にやや事欠いた。土着のアイヌも数少い。名産のラッコはいつまで
獲れるだ
ろう……、イコトイの返事を待つまでもなく乱獲の感じが見えていた。オロシァといい飛騨屋
といい、
利に聡(さと)い商人のすることには容赦がない。そう思いつつ徳内もワニナウやノビではア
イヌのラッコ猟に、
勇んで加わってきた。血が騒ぐほど面白かった。
イジュヨらを普請役の山□、青島らがどう処置したかも気になっていた。乱暴に扱う惧(お
そ)れはない、む
しろ青島俊蔵など夢中で赤人を質問ぜめにしている図が見える。まさか唯々諾々(いいだくだ
く)とアツケシヘは……連
れて行くまい。所詮カムサスカまで行けないのなら、自分もイジュヨらとの、不自由な、だが
剣戟的な
あの対話の時間へ早く戻って行きたい……。
こっちはアツケシヘ連れて帰る気のマウテカアイノの孫娘のことをイコトイに訊いてみる
と、だから、
391(65)
シャルシャムにぜひ立ち寄りたいと言う。徳内も、いつ
また会えるか知れないマウテカには礼も言いた
い。責任あるシャモとしての挨拶ももう一度伝えて行きたい。だが、何をいったい日本の意向
とし
て、不安なく挨拶できるのか。アイヌ側から見て、自分は何をしにエトロフやウルップ島まで
踏み込ん
できたと説明できるか。突拍子もない滑稽を演じてきたのかも知れないのを、徳内は稲妻に目
を射られ
たように痛く感じた。
シャルシャムから、また北へ回りこんで巨大なヒンネベツの瀧を眺めたまま、エトロフ島の
東浦をト
マリヘ一路南下して行ったのは、もう七月なかば過ぎだった。前に増して安楽な旅ではなかっ
た。狂風
怒波、まるで命綱を磯から磯へ結いつけながら細い櫓で小舟を掻き送る。モシリハッケの硫黄
山が濃い
噴煙を曇り空へながながと吹き流していた。トゥシルルに着いて、また大昔日本の漂流船が残
した碇(いかり)の、
八十貫目もありそうなのを見つけた。この辺は海豹(あざらし)、海鹿(いるか)が至って多
かった。トゥシルルより南に下る
につけて海岸の岩は切り立ち、アイヌのコタン(在所)も絶えて見なかった。盛んに硫黄を出
している
噴火山の麓の、アイヌがレブンシリと謂っていた辺りでは、海へ流れこむ川水が湯気をあげて
すさまじ
い黄紅い色をしていた。温泉がいくら湧き出ていても、湯治(とうじ)の効能や愉快をアイヌ
らは知らずにいる。
徳内は案外な気がして、下帯のまま率先して跳びこんでみたが、続く者のないにもまた驚いた
──。
エトロフ島のあれはどの辺りかよほど南へ下っていたはずの、ある日、昼過ぎてにわかに雲
霧が湧き
騒いでたちまち友舟を見失ってしまった。しゃにむに岩小島のあいを掻き急いだけれど見出せ
ない。雲
霧はいよいよ濃く風を巻きあげて急ぐに急げず、日は暮合いに及んではや離れ小舟のただ一隻
とはなっ
たまま、水主(かこ)のアイヌらも乙名イコトイの指図なしにはこの辺りの海に不案内な若者
ぞろいだった。
392(66)
かつがつ剣呑な崖の裾へ漕ぎ寄せてみても、渦巻く海
は奔騰してかえって沖へ沖へと木の葉のように
舟を押し流す。徳内もアイヌもみな顔色(がんしよく)なく途方にくれて霧の底で揺れ悩んで
いた。が、そのうち舟に
占いをする者がいて魚の骨を額(ひたい)に乗せ、なにやら呪文を唱えているようだったが、
つと首が垂れ骨を落
とす。そして思案にふけっていた、のが、やがて行く手に舟泊りのあるべき卦(け)だといわ
れて、一同愁眉
を開いた。気をとり直して漕ぎ進めるうち、果たして海岸の岩と岩のあいに辛うじて縄綴じ舟
が滑りこ
める小浜があった。岩層によじ登り、危い命をみな生きのびてその晩はそこの窟(いわや)に
折り重なって寝た。
思えばアイヌの舟は荒れる海の上ではまったく、心もとないが、取回しは手軽く僅かな場所へ
避難が利い
たのは有難かった。
早速火を焚いた。
湯なり水なり呑みたいものと思っているとフリウエンといま一人が岩の蔭へ姿を消して行
く。間もな
く桶一つに真水を十分汲んで戻ってきた。食い物はなくても無事助かった安堵で苦にならぬ、
とはいえ
追々に空腹は募った。しかしアイヌらはけろりとしてやがてユーカラを語りだすものがいた
り、歌い踊
るようなのもいたりで、その「平気平左衛門」には徳内もほとほと降参したことだった。さだ
めしアイ
ヌは肉食ゆえ腹の保(も)ちがよく、自分らはまず草の実や根や枝葉しか食わぬゆえ早く「解
散消滅」してし
まい、三度の食事を余儀なくされているのかも……と、徳内は合点するよりない始末だった。
翌る早朝に舟山して、幸い友舟とも行く先々で合流できたが、いかにも霧の荒海で難渋した
に違いな
かろうに、誰も、いわば責任者のイコトイですら徳内の方へ案じた顔もしてみせないには、思
わず「フ
ゥーっと息が出た」そうだ、それも聞いて面白かったし、この時になって他の舟に用意の米
を、久々飯
393(67)
に炊いて食べたのが「その美味かったこと……甘露とは
あれか」と、目前に夢を見ているような徳内さ
んの物言いも珍しく、印象に残っている──。
W大学図書館のE氏から、七月には京都で講演なさる
と聞いでたが、いっでしたかネ、むずかしいお
話ですかと尋ねてこられた。つい先刻にも主催者の方から確認の電話があったばかりで、予定
の日は四
日後、午後一時からK大G会館のホールだった。ある学会の依頼で、特別な準備をするにも何
にもこっ
ちは素人なので、日頃感じ考えてきた文化論ふうの話題を整理しておけば足りる。それよりE
氏の□調
はヒマかどうかと打診ぎみなのを察して、一足跡びに訊いた、
「イイ話ですか、京都へその時分いらっしゃる……とか」
そうではなかった。もしもそうなら先日の植木見の一件では好意を無にしていたので、季節
もよし、
二年ぶり鞍馬へ登って、あの時と同じに貴船のひろ屋でも奢りたいが……。
この前、新聞小説のおり担当の記者さんと取材の名目で出かけたのが、やはり夏だった。涼
しくてホ
ントに佳かった。そして秋にはひとり東京から鞍馬の火祭を見に出かけた、いや一人ではな
かった。京
都駅へ降りるとその時から、ワンピースの装いも美しい「冬子」がはんなり身の側を離れな
かった──。
翌日は湖西線に乗り比良の山や湖(うみ)ベヘ向かった。二十一か二か、現(うつつ)ならぬ
娘の「法子(ノコ)」がよく伸びた肢
体をハズませ、嬉しそうに、身内の母と父の腕をつかんで放さなかった──。E氏がもしもし
と呼んで
いた、慌ててハイハイご免と返事した。
E氏の大学に近世史のHさんという六十まえ位な教授がいる。私も名前は知っている。その
人が私の
394(68)
徳内びいきをE氏に聞き、よそながら声援してくれてい
るのも知っていた。
「うちの大学でじゃないンで、残念ですが……Hさんからの耳打ちで。法政大学のフォン・
シーボルト
研究会が二年越しに調べて、確認がとれたそうなんです……オランダのライデンで」
「ホゥ……何の」
「最上徳内が手がけて、シーボルトに遣(や)ったらしい樹木標本が四十六種ですって。北海
道産のが、大半
らしいと……」
「で、Hさんは関係されて…ない……」
「ええ。正式の発表は、今すこし国内のデータを固めて今年中にッて話らしいンですがね。あ
なたが喜
びそうな情報なんで、私からチョット…と」
感謝にたえない。受話器の前で、見えない頭を何度も私は下げずにおれなかった。
さて、そうはいえせめて今一段も内容がなくては、活かしようもない。とっさに今置いた受
話器をも
う一度取りあげ、北海道新聞、東京支社詰めのJ氏に電話を入れてみた。私の「冬子」や「法
子」の物
語はここの新聞にも同時掲載されていたし、二年前、洛北貴船川の清流にまたがって旨い酒を
一緒に酌
み交したのが、このJ氏だった。
今は編集委員だかナンだかえらくなっておられるJ氏は、挨拶もそこそこに要点を聴きとる
と、追っ
て報せますと反応がすばやい。道によってカシコシだなぁと、期待もこめて、それでも十日や
そこらは
かかるだろう、京都から帰る時分には…と思っていた。標本がどんなふうに作ってあるのか、
図書館で
中継ぎのE氏は知らなかった。徳内氏がその種の蒐集に心を用いていたのは、だがご当人の□
から一度
395(69)
ならず聞いていた。
──キッカケは……自発的に、でしたか。平秩東作(おちちうえ)が勧められたとか……と
「部屋」で。
──珍物(ちんぶつ)を蒐めるのは、あの時代の風だったから。だけど……蝦夷地でとなる
とお役目柄、重いもの
は荷になるし……と、徳内氏。
──あの……シーボルトにお遣(や)んなすったアレ……あの蝦夷松だって、そう言や荷に
なりましたでし
ょう、随分。畳一枚の上もあるッて……
──大袈裟だよ……かなりのモンではあったが。但しあれは南部で手に入れたんです、野辺
地の、女
房の里が持っていた。そいつを、文化三年夏に箱館奉行支配調役並(しらべやくなみ)に仰せ
付けられて禄高百俵、役扶持(やくぶち)
も七人扶持に上げて貰った、その祝に何かッてンで義兄(あに)が自慢だったアレを貰ったん
だよ。その六月十
三、四日と野辺地で泊ってまして。そしてまた松前に渡った……つまり九度目…です。シャリ
詰めにな
って津軽勤番兵百人の監督をした。その時に調役にされて、“並”ッてのが除(と)れたンで
すよ。
──そうでしたか。その勢いじゃあ大きくても盆栽の一つッ位、江戸まで運ばせるのは問題
ないわけ
だ…、それよかその時の蝦夷地勤務、これが先生の北地での最後のご奉公になったンですが。
永かった、
この時の滞在は……。文化七年(一八一〇年)十月まで足かけ四年。その間には二度目のカラ
フト渡り
もなさってます…。そして江戸へ戻るとすぐ若年寄水野出羽守の申渡しで御簾中御広敷添番
(ごれんちゆうおひろしきそえばん)に昇進なさ
った。実際には先生の才能を見過ごせなくて、勘定所への出役も相変わらず要請されてらし
た。五十六
歳。……そゥでしたね。
──カラフトは北蝦夷と呼ぶと改称されていたンです、わしが二度めに渡った次の年から。
オロシァ
396(70)
の侵攻が本気で心配されていた時期ですね。わしは、カ
ラフトが島かどうかなんぞ、疑ったこともなか
ったが、とにかくあの時はなるたけ奥地まで調べに行ってくれィというハナシだった。
──そうそ。それがどうもロシアの出かたが剣呑だッてんで、大事をとって、調査に遣るの
はずいぶ
ん下ッ端がよかろうと。松前奉行の急報で、にわかに交替が命じられて、デ、先生に代って奥
地へ出か
けたのが松田伝十郎と、例の間宮林蔵。……お会いになってますね林蔵とも。
徳内さんは、首肯くだけだった。いつか強いて林蔵評を聞こうとした時にも、やっとのこと
──トク、
ナイ……という短かなつぶやきが、聞きとれたに過ぎない。が、それで十分だった。徳川大事
の内舎人
役に、頑なな虫のように終生執(しゆう)したのは、むしろ間宮林蔵の方だった。徳内さん
は、同じ密偵にせよあ
の佐藤玄六郎や青島俊蔵ら普請役の、人を見、国を見る目に潜んでいた暖かなものを身内に享
け入れて
いる、それが嬉しく理解できた──気が、私はしている。
そう……か、「ゑぞ土産(モガミ)」の来歴はそんなことだったか。いやいや別段それで値
うちが下
がるというものではない、文政九年(一八二六)に徳内が石町(こくちよう)のカピタン宿舎
へ運び入れた時には、シ
ーボルトらもさぞ驚いたろう、喜んだろう、などと想像するだけで国際交流の一点景たるを失
わないし、
徳内さんに植木の趣味があった、植物への関心があったと知れるだけでも有難い。
実は気にかかる他のある事を、ムリに胸に抱きこみながら、そんな想像をしたり講演の用意
をしかけ
ている、と、二日めという思いがけない早さで新聞社のJ氏から連絡があった。
「……いえいえ。私がうかがいますから」
お目にかかって話しましょう、お急ぎなら今日にもお宅へと言われて恐縮して、私は、三十
分あとに
397(71)
は西銀座にあるJ氏の東京支局へと、最寄り駅まで自転
車をとばしていた──。
Jさんは、お馴染みの、相変わらぬいい趣味のシャツなどを身につけて、物腰にも、笑顔や
声音にも
新聞の人には概して珍しい、しなやかなエスプリが感じられる。たまに調戯(からか)いぎみ
に□を利いても相手
の表情はおだやかに読んでいて、暖かに人を力づける。この人(かた)には本当に助けても
らったなァと、私は
今さらに気づいていた。
頭をさげて、J氏が直々に取材してきたという、件(くだん)の樹木標本の話に聞き入っ
た。──事は、やはり
公表の段階ではなかったが、経緯はあらまし分かったそうだ。ライデンにあるオランダ国立■
葉(せきよう)館には
世界中から集めた■葉つまり押し葉など、二百万点もの植物標本がある。その中に縦十一セン
チ、横三
十四センチ、高さ九センチの蓋つきの古びた木箱に四十六枚、官製葉書大の板が収まってい
た。
一枚一種ごとにその材には材の葉の写生図やアイヌ名が印されてある。「楓」なら色彩あざや
かに
我々の見なれた紅葉の葉が描かれていて、漢字の和名に「カイデ」と振り、「蝦夷」「トベ
ニ」と右の
肩に毛筆で書き入れてあるという。手際はよし、標本としてもわが国最古のものらしい。
J氏のすばやい取材ぶりには、日欧交渉史の貴重な資料というだけでなく、北海道過去の植
生への強
い手がかりという直感が働いていた。
「北海道の木は、他には……どんな」
「え?と……クルミ、ナナカマド、ナラ、カシワとか……二十六種ネ。エゾマツとトドマツが
欠けてる
なあ…。板の厚さですか。え?と、五ミリ位ですって」と、J氏はイキな眼鏡をかけたりとっ
たりしな
がら手帖を見る。
(■:月 に 昔)
398(72)
「で、最上徳内が…という点は確かそうですか。シーボ
ルトの『日本』には、たしかそう書いてありま
したが……」
「そうですか、書いてますか。字がネ、筆蹟。徳内の自筆に一致するそうですよ」
「それァいいな……文政九年(一八二六)とシーボルトは書いてます。蝦夷地と樺太で徳内が
蒐めた樹
木のコレクションを江戸で贈られたと……。徳内の方は、あの時分にそんな物騒な記録は残
しゃしない
でしょうから」
「有難うございました……ナルホド、こんな研究会があるンですね。イヤ我が社としてはコ
レ、見落と
せませんから」
そんなお堅い挨拶で顔をたててもらったあと、J氏には、近くの店へ出てすこし遅めの午飯
(ひる)までご馳
走になった。北海道へ行って帰ったばかりという話もした。そうなンですか……役に立てるこ
とがある
なら、これからも、遠慮しないで言うて来てくださいよと、励まされた。
また二日──後の、朝早い新幹線で私は京都へ発った。「七月末」というと徳内が天明六年
にウルッ
プ島を一巡し、エトロフ島の東海岸ぞいに、イジュヨらが待っクナシリ島の南端オトシルベ
(トマリ)
へやっと帰り着いた時だ。もっとも仲秋の千島とちがい、夏祭を終えて間もない京都は、炎暑
の盛りだ。
私は、だが、ヤンジァ(楊子)に逢えるだろうか、それのみ心に思いつづけてきた。この月の
初めに著
書の一、二冊を郵送し、次いで、手紙が出してあった。返事はなかった。それでよし。有って
は、なら
ないー。
モ一つ、今日これから話そうとしている話題が、無難にお堅い窯学者(セラミスト)の皆さ
んに伝わるか……それも、
399(73)
気がかりだった。
──G会館のホールでは、学会の昼の休憩を利用して民俗的な記録映画を写していた。それ
との関連
も幸いしてか、そのあと八十分の私の話は、案じたよりしっくり会場へ通っていた。さすがに
いきなり
「蛇」の話題は意表に出ただろう。が、動物としての蛇ではない、「蛇」なる観念への日本
国、また世
界中の反応を問いつつ、信仰や文化や社会の在りようが歴史的に反省できる視点は、ことに我
が日本人
の胸の内には在りはせぬかと、ヒノカグッチの神様など具体例をあげての提言には、けっこう
耳を傾け
てくれた──。
人が、他の人や他の集団をあたかも「蛇」のように蔑み見る場面が、歴史的にあった。今も
ある。何
故だろう。その根を遡って、私は日本の神々のそもそも祭られてきた在りようを思い直してみ
てはと話
した。日本中の古いお宮に祭られた、いや事実は押し籠められてきたご神体の、大方が「蛇
身」か、と
由緒も久しく伝えられている、出雲、三輪、諏訪、鴨、貴船、熊野も松尾も──。その意味
は、何か。
この動物が好きか嫌いかといった次元を遠く超えて、「蛇」が世界史的な一の主人公でもあり
えた意義
を、神話や伝承からももっと率直に問いつめて行けば、「水」「川」「海」という世界に拠
(よ)った人々の
暮しが見えてこよう。「川」を遡れば、「山」また「海」とも変りのない同じ人々の似た暮し
に繋がれ
ていただろう、日本のような狭長(きようきよう)な島国では、ましてそうだ。
しかもこの日本では、往々に海や川や山が人と人との謂(いわ)れない差別の拠点にもされ
てきたのは、何故
か。そして見えない「蛇」の存在が、あたかも民草を宥(なだ)め押える方便かの如くに
「神」という名で恐れ
られ押し籠められている。しかもその神に仕える者たちを、神もろとも、より山奥へ、より海
辺へ、よ
400(74)
り川原へと逐いやろうとしてきた。上古に起源している
多くの宮の在処(ありと)をよく見るがいい。そしてその
不当は今も、吹きだまりに渦巻く社会的矛盾の多くに姿を変えている。
その不当を、好き嫌いを超えて臂えば「蛇」の意義に問い返そうとしないでは、自分だけは
もうその
首木から放たれていると思うばかりでは、日本人は、この先へも久しい人間差別や職業差別の
過誤を持
ち越すことになる──。
三
お車をと言われるのを断って、ひとりG会館を歩いて
出た。非公開の窯業研究学会だから、会場まで
来ても楊子さんは入れてもらい難かろうとは、言ってある。研究発表にはスライドを使う人も
あろう、
まして映画のあとで会場は暗かった。演壇からは前の四、五列しか見えず、いかめしげに学者
ばかりが
並んでいた。
日照りの鴨川べりへ出ると、目は自然北山のほうへ向く。出町(でまち)まで歩げば加茂大
橋の東側に奏家の寺
がある。墓には怖かった祖父しか知った人は眠っていない、が、真東には陽炎の燃える大文字
山。それ
ならばやがてはお盆という殊勝な気も働いた。萩の寺としても近時は人に知られ、寺でも宣伝
にこれ努
めて手を貸せと頼まれたことがある。庫裡(くり)に顔を出していると手間がとれる、墓参り
だけして行こうか。
葉ばかりの青萩の風情も好ましいし、すぐ東の関田(せきでん)町には、二人の子もちの李暁
玲(イ・ヒョンヨン)の
借家があるのも、かねて念頭にあった。手紙を読んだのなら楊子は、川べりをやや下った二条
西の橋詰
401(75)
にある、もう私のホテルのロビーへ来て待ってくれてい
そうにも思える、のに、へんに頑(かたく)なに額に手で
庇(ひさし)をつくったまま、私は、方角ちがいの川上へ歩を運んでいた──。
血の繋がらない祖父の墓石に水をそそいでいる時、四、五メートル先に葉のあおあおと繁っ
た芙蓉の
木叢(こむら)──へ、背の鱗を輝かせて滑り入(い)る小蛇の尾を見た。花筒に立てた樒
(しきみ)が、日の光にツンと薫った。
西園寺公望の邸跡が今はK大学の迎賓館に使われている、その東の、道一つ隔てた英国文化
図書館の
間近にヒョンヨンの家はあった。幾昔もまえな感じのする、細めにあいた格子戸に手をかける
と、畳一
枚ほどの玄関外に朝顔の鉢が二つ、竹の支えに蔓を巻いて三つ四つ細いつぼみをつけていた。
さっき電
話□へ出た人らしい愛くるしい奥さんのまうしろから、折り重なるようにして背のひょろ高い
主人も出
迎えてくれた。足もとの鉢の、竹のつッかえ棒をもう一度見たみたいで、可笑しかった。元気
な子供た
ちの声がしていた。
奥さんではなかった。おくさんは絵画教室の写生旅行で滋賀県の北のほうへ出かけ、子供の
世話と留
守番に姪が来てくれています。「ヤ、ヤンジァです」と、心もちドモるところも昔のまま、の
「あき
坊(ぼ)ン」の□が、そう告げた。
「…………」
「母が、ご本を、喜んでました。あたしが今、読んでまァす」
「……それは……嬉しい」
あのUも役にたってくれる、今日見えるというのも聞いていましたとヒョンヨンは、何もか
も先日銀
座で逢った旧友のUが媒(なかだ)ちしたことと思っているらしく、ついぞ見知らぬ顔のヤン
ジァはにこにこして
402(76)
いた。背が高い。父親に肖たのか伊藤妙子とはちがっ
た、叔父ともちがった、円頭の感じだ。しかも夏
休みながら彼女は、かつて私が通った馬町(うままち)にあるK女子大附属の幼稚園にいま勤
めていた。だから、
「ホラ物言いが、そうでっしゃん。子供相手が抜けよらん」とヒョンヨンは笑い、だから、
「アノ、先生のご本」には入って行きやすい、「ほんまにあった話(こと)ですか」と初(一
字傍点)対面のこのヤンジァは、
きまじめに訊く。
「ほんま」か「うそ」か──という問いには、答えようがない。が、「法子」をこの世にたっ
た二日半
生かして自分は産の床から死んで行った安曇(あど)冬子が、ヤンジァの幼稚園のごく間近に
生まれ、この東山
一帯、鳥追野として古来名高い葬所を、あたかも地の底から統(す)べていたような家筋に
育った娘であった
のは、真実だ。私より二つ下だったこの冬子が、高校から大学の頃へかけて私に、真に「蛇」
の意味す
る古来のタブーを教えてくれた。しかも……作中の「私」はその「蛇」に躓(つまず)いて、
「冬子」を──むな
しく捨てた──のだ。
──それから二時間ほど、扇風機の厄介になりながら三人で話した。中には不当に収監され
ている金
大中氏や徐(ソ)兄弟の救出救援の活動や、最近の韓国事情などの、またわが国内では大村収
容所の相変わら
ずの朝鮮人差別問題などの、私にはまったく耳新しいあれこれも混じる。かと思うと、任那
(みまな)日本府の虚
実をめぐる日韓研究者の応酬の話などもことに面白く、まま私は関心の「蛇」へも話題を誘い
つつ、古
代海民の移動につき、気鋭の考古学者の意見に聴こうと努めた──。
「ヤンジァさん……北海道へ行かれたことは……」と唐突に尋ねる、と、
「……いいえ。行きたいです……が」
403(77)
「この子……来年ソウルの女子大を受験してみたい言い
よるんですよ。今日かッて、女房の留守番もあ
るけど、朝鮮語を僕に、タダで習ぉいう気もありよりますねン」
叔父の激励半分のヒヤカシをヤンジァはわざとツンと聞き流していた。
祗園のほうへ、親たちの家へ、顔を出しに帰るという私をヒョンヨンは百万遍のバス停まで
見送って
出てくれた。お前さん、穏やかになったのウと調戯(からか)ってやると、ナカナカと肩肘
張ってみせてから、誰
が聴いても生粋(きつすい)の京言葉で、両親が死んでもう何年と何年になりますと静かに言
う。そして、あのヤン
ジァの父親というのは、サハリンから戦時中にクナシリ島の飛行機工場へ引っぱられ、脱走し
て北海道
を逃げまわり、最後はアイヌに匿(かくま)われるようにして日高の御料牧場で、炭を焼きな
がら解放の日を迎え
た猛者(もさ)だとも話してくれた。
「その割りにモノが、分かりよらん……」
ヒョンヨンはそう愚痴りながら、だが□つきに暖かな感じも漂っている。一度、守□の姉の
ほうへも
寄ってやって下さい。別れぎわ、さっきのヤンジァの言ったと同じことをヒョンヨンも、私に
言った。
守□市内の伊藤家の電話番号を教えてもらって、再会を約した。
そしてその(二字傍点)番号でかけた私の電話を、待ちかねていたように、もう夕暮の七時
まえには、「牧場
の宿」を倶(とも)にしたあの楊子さんが、根室標別(シベツ)で別れて以来のあの(二字傍
点)ヤンジァが、京橋からの京阪特急で四
条の駅をかけ降りてきた。
なんと、華奢な……
淡い紫の風合いも柔かなふくれ織り、襟のないオーバーブラウスに水玉が浮きあがって、共
布のボー
404(78)
が華やかに優しい。スカートが白、ネクレスもバッグ
も、白い。眼鏡もかけていない──。
「ヤン…ジァ。……まあ、きみは……」
南座まえの雑踏を東へ手を引くように抜けでて行きながら、私はそんな同じ声と言葉を出し
つづけて
いた。紛れもない、さい果ての駅のホームで手を振って振っていたあの(二字傍点)ヤンジァ
だ。が、いま目の前の
ヤンジァはとびきりの都会の女だった、美しすぎる……位の。そして、
「先生……」と、顔を見るなり言うなり、左の腕へ腕をそっと預けて、歩きながらなかなか□
も利かな
かった。
「あんな佳いお手紙、ほんとにありがと、ございましたぁ。母もお礼を申したいと……先生。
チョット
母と、代らしてくださいね」
先刻の電話□で、ヤンジァは耳になじんだ□調で途中そう言いかけて、母親と交替した。
代った声も、
関西ふうの、思ったより若やいだ声音だった。が、あなたはクラスメートだったあの伊藤妙子
さんかと
確かめる気などなかった、いっそ「冬(ふう)ちゃん……」と呼びかけたかった。が、それ
は、「部屋」で徳内
さんを呼ぶよりも何倍か畏(おそ)ろし過ぎる所業だった。……お嬢さんを晩御飯に京都へお
誘いしたいのです、
お許し願えましょうか。東山線の菊屋橋ぎわにある電話ボックスから、受話器の奥へ、遠く遠
くそう呼
びかけた。お願いします、どうぞ…この子を、と──。
目を閉じた。聴いたこと……ある、この声、この言葉……。
「……ヤンジァ。ひとりの旅はあれからどうでした。楽しかった……」
「いいえェ。寂しかったでーす、ほんまですよゥ」と、腕を揺すられた。
405(79)
「おツ。やっと楊子さんらしくなったぞ」
「だめッ。ヤ、ン、ジァ……」
「ア、ご免。ヤ、ン、チァ」
あッと笑う声がそろって、縄手で、四条通りを北へ越えた。寿司の「蛇の目」が赤い大提灯
に灯を入
れている。魚は……何に、
「はも……」
ためらいの無い、佳い声を私は聞いた。歯ぐきにはずむ鱧(はも)の洗いの白身が、氷に透
けたように目に映
った──。
──いずれあんたから……この人に、話してあげるといいサ。ね。…それでいいかねと徳内
サンに言
われて、楊子(ヤンジア)も「はい」と返事していたあれ以来の「北」の事情を、だんだんに
私は話して聞かせた。
掛茶屋ふうに石畳に打ち水して、泉水(せんすい)のまわりへ涼しい葭簀(よしず)張りの小
座敷を幾つもしつらえた、夏の風
情のいい店の内だった。よく冷やした酒も旨く、楊子はのびのびと鯛にもトロにも、青紫蘇の
葉にも笑
顔で箸を動かし、そしてともすると「先生」と私に呼びかけては、叱られた。
「ダッテぇ。どうお呼びしたらいいんですかァ、ほかに……」
「…………」
「母も、先生のお名前存じあげてました。いゃァよかったねェ、北海道行ったカイあったやん
か言うて
ますの」
私は黙した。が、楊子は気らくそうに、うちをお宿にしていただいたらいいのに、などと
言っている。
406(80)
「法子」であれ「楊子」であれ、冬子から産まれて二日
半で死んだという女の子の顔を、私は知らない
のだ。育っていたらこの年恰好かと、目のまえの美しい楊子をただ眺めるばかり──。瀧井と
いう京阪
電車の小駅に近いこと、この秋には再就職の話も出来かけていること、けれども自分は四年制
の大学へ
もう一度三年編入の試験を受けたいと思っていること、韓国へそれまでにぜひ行ってソウル市
内の龍山
区泰院洞にあるというお墓参りもして来たいこと、今の伊藤家の先祖は秀吉侵略の昔の日本人
捕虜だっ
たとか、向うで今だに降倭(こうわ)の裔(すえ)と呼ばれてけっこう差別を受けているらし
いこと、などを、人柄だろう
陰に籠もるふうもなく問わず語りに楊子は話してくれて、それでも金(キム)や李(イ)とい
う姓を伊藤と名乗りかえ
た、名乗りかえねばすまなかった歴史は受け入れられません、と言うのだった。
私はなにも□をはさまなかった。
楊子は笑みを溜めた愛らしい目で、その私をじっと見かえしている。
薩摩苗代川の窯場を訪れたもう何年も前、白薩摩の名手沈寿官と膝をまじえて話し、彼の案
内で草む
す山なかにコレガンサーを祭った宮処(みやと)を尋ねた昔を、私は思いだしていた。九州に
は、故旧忘(ぼう)じがたし
と、今も玄界灘はるかな朝鮮の空を見守る人のそちこちに多いことを、私は、あの時の呑気な
やきもの
取材の旅を通じて、つくづく思い知らされた。大概が、秀吉魔下(きか)の武将に日本へ連行
された工人らの子
孫だった。三百年以上もの時が流れていた。執拗な差別の歴史がもしそんなにも永く続かな
かった
ら……無い、話ではなかったか……。
伊藤博文が総監府の基盤を固めた頃に、日本人の裔と名乗り出て競って日本姓に変えたの
も、かえっ
て日朝の双方から冷罵を受けたのも降倭の裔に多かったと、ものの本で私は読んでいた。
407(81)
だけどヤンジァ、きみは……と出かかる不審の声を呑
みこみ、私はイキな握り寿司に目もくれず、硝
子の盃(はい)にしきりに手を出した。楊子も機嫌よく酌いでくれて、制(と)めなかった。
が、そのうち、すこし歩
きましょ先生……と小声で誘った。
──クナシリ島の出産物には、にしん、数の子、白
子、笹目、鱈(たら)、かすべ、鮫殻、水勢油、煎海鼠(いりこ)、
椎茸、鯨油、鱒、鱒しめ粕、鱒油、鮭など、また軸物(かるもの)には鷲羽、熊胆(くまの
い)、熊皮、水豹の革などがあった。
アイヌの住居は海岸沿いに、川筋を片取りして作り立てていた。飛騨屋の運上所は南端のトマ
リ(オト
シルベ)にあり、番屋は東海岸ではトーフツ、フルカマップなどに、西海岸ではヘトカ、チフ
カルベツ
などに置いてあった。徳内が、イジュヨらを引渡すとまた折返しエトロフ、ウルップ島へ先渡
りに出か
けて行ったあと、赤人の尋問には主として青島俊蔵が当たり、アイヌ通辞の林右衛門が助けた
が難渋を
極めた。主任格の普請役山□鉄五郎の方は、主としてこの島の場所経営の実態をその目で見分
しようと
動きまわっていた。乙名サンキチやツキノエらも陰に陽に、舟、人手、宿、食糧など山□らの
ため、協
力の手かすを惜しまない。だが、
──あれは、アイヌには後で響いたンでしょ、ずいぶん。
──コタえたね。飛騨屋や松前藩の仕返しは、ことにクナシリ島でヒトかったんだ。
──幕府は、庇ってやらなかった。田沼の政権は潰(つい)えてしまったし、当時の普請役
は、青島ひとりが
辛うじて格下げのまま、末の末の端ッこで細い息を繋いでた……。蝦夷地一件は、松平定信を
主役に据
えた新幕閣の手で、きれいサッパリ、御差止めになっちゃってましたもンね。
408(82)
──ヒドイもんでした……。ま、わしも、あのあとは
幾度もあのての様変りに出会(くわ)したけど、あの時
は……世の中、こうガラリ変るッてことが有るのかと、胆が冷えるよりなにより、ガッカリし
た……
徳内氏は「部屋」の壁ぎわへ、めったになくもたれる恰好で腕組みしたまま、今さらに苦笑
いを浮か
べていた。(ヤンジァと、また別れて来て幾日……か。)
第十代将軍の家治が急に病死した日づけは、正しくは知れていない。が、危篤ときいて馳せ
つけた多
年恩顧の老中、田沼主殿頭(とのものかみ)意次の見舞いが病室まぢか御小納戸頭取(おこな
んどとうどり)衆の手で力ずく阻止された天明六年
八月の、二十日がそうだったかと思われている。この年六月から七月へ、利根川の大洪水は江
戸の町中
にまで開府以来の被害をもたらした。新大橋、永代橋は押し流され死者無数といわれた。不評
の田沼は
天変のとがめをすら豪気に引受けていたが、将軍不例はその立場を根こそぎ打ち崩した。せっ
かく彼が
急ぎ配慮の、町の名医たちによる手当てが効(かい)なかったのも、逆に毒害のあらぬ疑惑の
種となった。
意次(おきつぐ)は、はやく西の丸に次代の将軍家として一橋家から世子(せいし)を入
れ、先々へ布石は万全とみていた。
これに対し溜間詰(たまりのまづめ)の松平定信は、幸か不幸か継嗣を欠いていた実家の田安
家へ、相手もあれ同じ御三卿
のその一橋家から養子を迎えるという放れ技を密々に演じて、田沼との事実上の離間にすでに
成功して
いた。ここで、勝負はついていた。
だが、──徳内はそんな江戸の事情を知る由もなかった。七月二十三日、普請役皆川沖右衛
門は下役
大塚小市郎や相良の千太らを指揮下に、交易差配のためアツケシ場所に入っていた。七月末に
はクナシ
リのトマリヘ戻って、徳内が、普請役の山口や青島らと久々に合流していた。同じ頃、下役の
大石逸平
はカラフトでの活躍をすでに終え、ソウヤから御用船の一隻に上乗りして、オホーツク海岸ぞ
いに東蝦
409(83)
夷地をめざしていたし、ソウヤでは普請役格に上げられ
ていた里見平蔵が、下役の引佐新兵衛とともに
交易事業に熱心に従事していた。そして要(かなめ)の普請役佐藤玄六郎は松前城下に後詰
(ごづ)めを勤めて、御試み交
易その他一切を束ねていた。誰ひとり江戸の転変を知る者はまだなかった。いや江戸にあって
も、家治
発病の八月半ばまでは、勘定奉行の松本はもとより当の田沼意次も、持前の落着きを失ってな
どいなか
った。
──青島俊蔵は気をせかせていた。もう一月間イジュヨらを拘禁していたが、何程のことも
聞き出し
かねていた。苦闘のさまは山□の『魯西亜(ロシア)国紀聞』や青島の『赤人問答』になまな
ましいが、どうやら
最初はエトロフ島からハウシビを呼びよせ、ロシア語の通訳にあてたものの要所で意が通らな
くて、短
気な青島には話にもならなかったらしい。見かねてイジュヨの方から、アイヌ語はいくらか分
かると申
し出て、代って林右衛門が通辞を勤めた。それでも容易にラチあかず、青島もイジュヨも、大
方は察し
をつけつけ手さぐりで強いて納得していたというのが本当らしい。
「しかるに召連れたる者の内に最上徳内といふもの、少しく心得し事ありて、さて事弁じかた
よろしき
故、壮者をして親しく応接せしめて其の事情を聞けり。」
青島はそう書いている。それとてイコトイらの舟に守られ、鬚ボゥボゥの徳内がトマリヘ到
着のあと、
数日間の余裕があったに過ぎない。
普請役二人の間では、イジュヨらを江戸へ連れ帰るという発想は皆無だった。切支丹である
とないと
を問わず、政争がらみに極刑に遭わせるおそれは捨てきれぬ。また、そのようなハメに田沼や
勘定奉行
松本を陥れまいという、山口らの立場ではその配慮も要った。国是を楯に北へ追放つ、それが
自明の結
410(84)
論で──そしてその宣告も上司二人は徳内にしてもらお
うと、頭を下げかねない顔だった。
「五日間……いただけませんか」
山□らはイコトイとの合流を幸い、アツケシヘ帰るもう季節的にも限度と考えていた。
「一日でも早く……」
イジュヨらは風むきの変わっているのを感じ、頑なになっていた。もて余している…上司の
事情を察
した徳内は、侍僕のフリウエンを連れて、彼からイジュヨらと寝食を倶にしたいと青島にも、
異国の友
にももちかけた。
当時、十八世紀後葉の日本ひろしといえど、かかる「合宿」を易々と思いつきよく為しえた
人が、我
が徳内氏のほかにいただろうか。
氏の提案に、双方、異存はなかった──。
四
──で、江戸はおろかアツケシヘも連れては行けぬと
いう……。イジュヨら、徳内先生の言うことを、
聞いてくれましたか素直に。
──イェ、手こずりました。が、どう仕様もない話なんで……マ、向うが根負けするまで繰
返して、
事実……根負けしたようなテイでした。逆にいろんな事も訊かれた。
──ホゥ、どんな……
411(85)
私は胡坐の膝をおッ立てて「部屋」のまン中へ身動
(みじろ)いだ。在りとも無しとも「黙」の掛け字が、睡入(ねい)
ったようににじんでいる。今日の客、蝉の羽ほどの涼しい装いで、私にはラクにと勧めてくれ
たまま、
キチンと正坐だ。(暑かったナ京都は……。けど……)
──それが……困っちまってネ。江戸と松前藩との間柄なんか、まアま、分かっていたらし
いんだ、
向うも。京都と江戸とが…ですよ、別の国か、と訊ねられて弱ってしまった。わしに限らない
さ、あの
頃は天皇と将軍となんか、まともに比べて物言う奴はいない……
──京都と、はっきり言うてくるんですか。
──それは……ウザカと、たしか。大坂のことらしいンだが、そこのミカドと言うから……
──なるほど。外交的にはどこへ働きかけたら有効か、マ、分かりにくかったンでしょう
ね、日本の
政治の体制は。そろそろ尊皇という考えかたも出かけてた時代ですが……。それはそうとして
「三国合
宿」は、いかがでした。ハダカの付合い…だったんですか。
私が妙な□を利いたからか、徳内氏も妙な顔をして、しかし一と思案のあと意外にはっき
り、ソンナ
ようなものだったと返辞した。イジュヨらとは衣服も交換して身に着けあってみたし、朝夕の
祈りも、
十字を切るまねまでも徳内氏は見習ってきたらしい。ことに「ボボマテリ」と呼んで、大男の
オロシァ
人が二人して敬虔に毎度祈りを捧げていた相手が、宗門の主なる神以上にその聖母であったこ
とに徳内
さんは、親しみも感じたし、(メダイの彫りも祈祷書の挿絵もよく覚えていて、)心惹かれた
と言う。
──それは……先生、日本人でらっしゃるから。伝統的に我々は父なる神より、優しいマリ
アさんに
惹かれちゃう。それに先生は、母上のことも……心の底に……
412(86)
──イジュヨはいろいろ言うていたけれど…。要はア
レは、父(てて)無し子を産んだ女で……
──と、先生はお考えになった。デいて、人々の信仰は篤いと見られた。……観音様みたい
だと……
──そぅそ……
──生みのお母さんを、先生。ぜんぜんご記憶でない……そうなンですか……。二度めのお
母様のこ
と、は……お好きに、なれなかったのですか。小さくからご一緒で。
──イヤ、向うが、なれなかったんです……
徳内氏は逸れた話題から遁れたそうな、めったにない弱気な表情を見せた。まるでこの自分
の顔を鏡
に見たような気がして、私も、一瞬目を閉じた──。
一度はカラフトヘ送って欲しいとオロシァ側から要求が出て、カラフトは、徳内らが主張す
るように
「日本領」であるかどうか、議論が面倒になった。あげく普請役の山□、青島も渋々要求を容
れたのだ
ったが、話がそう落着いてみると結局イジュヨらは、日本側の顔を立てるという出かたで、ア
イヌの手
を借り早々ウルップ島以北へ千島伝いに退去と肚(はら)を決めた。天明六年(一七八六)の
八月極初、暦のう
えで此年は十月が閏月(うるうづき)とはいえ、千島の海はもう忍びよる秋の冷気に、時に陰
鬱に荒れつづけていた。
二度と逢えまい。普請役も徳内も、それが惜しい。「英雄豪傑、余が如き短才を以て論弁成
りがた
し」と徳内は日記に書いたし、青島俊蔵もイジュヨの「性、世智賢く道理もはやく分」かると
誉めてい
た。長崎勤めを経験している青島だけがオランダ人を見知っていて、ともすると紅毛人と赤人
との些細
な比較に囚われながらも、好奇心マル出しに最後の最期まで矢立てを手に、ものを訊きつづけ
ていた。
囚われ人をあしらう態度などでは微塵もない。立派だ……と徳内は目が放せなかった。
413(87)
別れを惜しんだのはイジュヨらとて同じだった。彼らの
それも性であり情であるか、いい大人が
[女々しい」まで、ことに鬚面「徳内レキケン」のまえでは涙も隠さず、サスノスコイと共々
「掛合
い」のようにかき口説かれて「不調法」な徳内氏は、返す言葉もなく棒立ちで貰い涙にくれた
そうだ。
いい話だナと、その徳内氏を見ながら私も、ほろッとした。
後日、徳内から赤人のことを詳しく聞いた音羽の北夷先生、本多利明は、オロシァ人の最も
志してい
るのはやっぱり「開国開業」だ、植民地の獲得だと直感したらしい、その点から潜行の志士と
してイジ
ュヨらの資質を高く評価し、また警戒もした。それも、徳内の□をもれた「このイジュヨは庶
民にては
あるまじ」との観察に由来していたはずだ。徳内は、久々にまみえた師や幾らかの同門先輩を
まえにこ
う語っていた。
「と申しますのは、第一名乗りが長うございます。身分ある人物の証拠かと……。身に着けて
いたもの
も普段着といったふうではなく、坐りますにも必ず敷物を用います。人品もよほど大きく見
え、また学
問は天文、地理、本草(ほんぞう)など、たいしたものでございました、□はばったい申しよ
うですが。算術は、ま
ずまずと……。総じて私など及びもつきませぬ。人の上に立って、あっぱれ良き大将となるほ
どの器量
人でございました……」
だが、こうも話していた。
「イジュヨらに居坐られまして、実はシャルシャムの乙名も迷惑していたのですが……帰国の
勧めをガ
ンと拒んで居りましたらしく、そのワケが分かりました。ラッコ島などでアイヌがオロシァの
漂流船な
どを略奪していたのは事実で、イジュヨらは、その非道をムスクワの国王に訴えたならどうな
るかと威(おど)
414(88)
していたようでございます。もっともイジュヨらが真実
そう考えていたと申しますより、アイヌがだん
だん赤人を尊び敬ってくるのを見すましましての、強気の威しだったかと……。むしろ、その
事が日本
にとっては将来の大事かと、案じられて……」
──別れに臨んで普請役はイジュヨたちに米五俵とアイヌの送り舟を手当てし、フリウエン
が懇切に
米の炊き方を伝授した。俊蔵は蒲団など冬支度に心を添え、徳内は綿入れを一枚ずつ進呈し
た。イジュ
ヨは、太古に滅びたという巨獣の骨で手ずから作った、自慢の櫛を徳内に呉れ、サスノスコイ
も馴鹿(となかい)
(ヲレニ)の角でできた便利なスプン(徳内氏は、青島に教わって「シッポクさじ」と呼んで
いた。)をしっか
と手渡すと、人目も構わず抱擁した。彼らが、二本の箸をもう達者に使うのを思い出して、徳
内の胸も
熱くなった。
六月三日には、山□、青島以下の幕府見分役は飛騨屋の手船を雇って、交易荷物もろとも一
同クナシ
リ島を離れ、アツケシヘ向かった。イコトイらも小舟を畳んで同船した。
徳内こそ、クナシリを見て回る機会が今度はなかったが、普請役の二人は二ヶ月のあいだに
苫屋の手
の者を督励のかたわら、西海岸から回りまた東蒲へ経廻(へめぐ)って、漁場、泊、アイヌの
在処や地勢、水利、
産物などを丹念に踏査し尽していた。去年のように敢えて吟味詰めには及ばなかったが、飛騨
屋がほし
いまま番小屋を増やし、アイヌを途方もなく追い使ってきた実情も聞き知った。彼らは松前藩
の目もか
すめて軽物(かるもの)を直接上方(かみがた)へ売り捌いてきたらしい、アイヌを北の島々
へ強いて渡らせ、赤人との接触を絶
えずはかっていた。
サンキチやツキノエら乙名は、江戸が、クナシリ、エトロフを本気で守ろうとしているの
か、アイヌ
415(89)
として判断に苦しむと、普請役に迫っていた。アイヌは
ただ平和な交易を望んでいる。飛騨屋の乱暴が
アイヌの暮しをこのうえ破壊するならば、以前にツキノエが率先試みたように、全員で北へ島
づたいに
この島を離れることも、オロシァ国の勧めに従いオロシァ人になることすらも、厭わない
──。そうま
で乙名たちに山□は胸を押され、青島は難詰(なんきつ)されていた。一つ船でアツケシヘ帰
る総乙名イコトイも、
徳内を通辞に車座の対話のなかで、クナシリ、エトロフのアイヌらと共通の利害を、倦(う)
まず訴えつづけ
た。
途中ノッカマプで、秋味(あきあじ)漁にニシベツヘ向かうという苫屋の自在丸に出合わせ
た。沖乗船頭の太兵衛
が仕切り、アツケシから、普請役の皆川沖右衛門に命じられて相良の千太も乗っていた。御用
船の一隻
五社丸は今アツケシで松前へ帰還の準備に忙しく、そっちでは皆川と下役の大塚小市郎とが頑
張ってい
ると聞くと、さすが山□も青島も、久しい僚友の消息に顔を見合わして慶びの色を浮かべた。
西方面は、
大石がカラフト島へ渡っている。
「神通丸はどの辺に……」
青島の問いに千太は、荷を積んでおっつけ松前の湊へ入る時分で、と歯切れがよかった。交
易一途に
大塚を助けてきた彼の大様(おおよう)な人の良さに、淀みない、キビキピした遣り手の感じ
も加わっている。身に
ついた自信だろう、アイヌの地名もずいぶん集めてみたよと、懐しさの余り彼は徳内の方へも
なにくれ
と声をかけてきた。
「徳内。お前もニシベツヘ行ってこないか、千太と」
まさか持前の勘の鋭さで言ったのではあるまいが、青島が急に切り出した。千太にも願って
もないと
416(90)
いう顔をされて、徳内はかえって慌てた。好便に、いつ
願い出ようかと気がせいていた矢先だった。ハ
ァと小声で、頭だけ下げた。
「……皆川さんの具合は、いいようか」と、山□鉄五郎。
持病が出て去年中から松前での後詰めの永かった皆川は、回復を待ちかね、この七月二十三
日からア
ツケシでの交易事務を監督しているという。彼の算用では、御用船にはもう一度ずつ往復させ
て、なる
べく大量に東蝦夷地の産物を松前へ、そして江戸表へも運びこむ気ているらしい、ハテ佐藤様
も同意な
のか、九月の海は大丈夫か……と徳内は案じた。
山□らが間もおかずアツケシヘ船出したあと、徳内らは十日ばかりノッカマプで風待ちをし
た。フリ
ウエンを手伝わせて界隈の測量に精を出した。若いアイヌは、今では徳内が使う言葉もよく聞
きわけ、
好んで平仮名も習い覚えようとしていた。江戸へも随(つ)いて行きたいと言う。米の飯が好
きで、稲を育て
てみたいとも言う。そうかと思えば三十過ぎた徳内に妻のないのが可笑しいと調戯(から
か)って、アイヌになれ、
自分はシャモになるなどと笑いころげたりするのだ。
鬚(レキケン)の徳内主従の噂は、この場所へも伝わっていた。ここには、松前藩が派遣し
ている去年の三右衛門
や巳之助など油断のならぬ通辞たちがいる。荒くれた飛騨屋の手の者もむろん沢山いて、徳内
にすれば、
彼らとの雑談からも知れる限りは知りたい場所経営の裏の裏が、透けて見えていた。食いつめ
者が流れ
ついたも同じ番小屋の番人らは、とかくアイヌの女の目ぼしいのを見つけ、夫がいれば口実を
つけて遠
方の漁場へ強引に雇い出し、その留守にあくどく誘惑するなどの手だてを得々と酒の肴に披露
し合って
いたりする。はては酌をさせたり歌わせたりしている。そしてアイヌに日本の字を教え言葉を
習わせて
417(91)
いる徳内も、逆に彼らに見張られていたのだ。
それにつけて思い出されるのは、シラヌカ場所の支配人だった喜八だ。が、千太の話だと彼は
この春、
先を急ぐ徳内と一夜再会してほどなく、雪の十勝山中へ呑まれるように小柄な姿を隠したとい
うのだ。
但し喜八にはそのような前歴が一度ならず過去にあって、しかもアイヌの女房と、仲に生まれ
ていた男
の子が一人一緒に去って行ったという。
アレで、もとは江戸ッ子の坊さんだったそうなと千太は呆れていたが、侍僕に図星をさされ
るまでも
なく徳内は、ふと喜八の境涯に憧れている自分に思い当たって、心もちシンとした。明日にも
ニシベツ
ヘ行けば、あの年かさなメノコのシアヌはまだ独りで荒瀬の川ッぷち、ダケカンバの枝という
枝が夜ど
おし風に鳴っていた杜(もり)の蔭へ、今も身一つの小屋を掛けて住んでいるだろうか……わ
しを、覚えておる
だろうか……。
メナシクルの女(メノコ)に、だが、徳内さんは再び逢えなかった。ニシベツの川□にアイヌ
の家(チセ)は十六、七軒
もあったが、すこし離れた杜にひとり住んだような、たしか寡婦と聞いたシアヌの行方など知
る者は、
だれも無かった。だが……不思議にいつも温かい、はずんだ玉子ににたあの奇妙な貰い物は、
懐中に潜
んでいた。胸のしたで白い歯を噛んでコらえた女の、熟れたような熱い息も声もこの身が忘れ
てはいな
い。身に纏ったものは古び肌に刺青もしていたが、毛深いという感じでなく、とにかく、呑み
込まれそ
うに抱いた五体がしなやかだった。黒髪も長かった。遠くで海も鳴っていた……。
からだが離れて──からも、あの時、女はわが子を労(いた)わるように、徳内の波立つ胸
のうえを、掌(て)と掌(て)
でいつまでも優しく撫でつづけていた──。
418(92)
鮭漁を監督のあいまにも、小屋があったと想う辺りを
独り捜してみた。が、崩折れて葉つきの木々が
うち伏し、いつか誰かがここで火を焚いたらしい痕(あと)も、もうそれとは容易に見わけが
利かなかった。
もし、女(あれ)とここでまた逢ってなどいたら、わしは……どう成っていたか。杜のはずれ
の崖ッぷちに立
って、徳内は、はるか沖へ奔る白馬(はくば)の群れに目をこらしたまま、あの波濤に跨がっ
て去ったに違いない
北海の女の、シアヌの、見えぬ後姿がひとしお恋しかった。この何年か、わしは、何をして一
心に生き
てきたのか……。生きる甲斐など、有るのか。月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅
人……。
客愁、という二字が影のように揺れて来る。
そんな徳内の思いをかすめて、遠霞んだノツケの埼をまだ沖合いはるかに、和船かと想う白
い帆の影
が、ゆっくりノッカマプの方へ漂い去ろうとしていた。あれが、大石さんの船……なら、ソウ
ヤからは
るばる回って来たか。はッと顔を起こし、徳内は小手をかざした。だが、なぜかサラサラと身
内を崩れ
落ちて行くものの音ばかりが聞こえて、見え隠れに、飛船(ひせん)は海霧に影を消して行っ
た──。
徳内は──漁もあらかた先が見えた時分、番頭の千太に断ってフリウエンと二人で、一度は
通ったこ
とのあるニシベツ川を遡ろう、アツケシまで三日路を五日かけても歩いて行こうと思い立っ
た。しきり
に「供養」という言葉が、徳内の想いの底に枯葉の積むように落ちた。
母に、そして父に、死なれた。お縫も、死んだも同じに苦界に沈んだ。あれは、あのかよわ
さで、は
かない命をまだ保っているだろうか……。幼いものを残してお鳰(にお)にも、小鳥の掌に落
ちるようにして死
なれた。はやく死んだものが可哀想なのか、死なれて生きているわしの方が、よっぽど寂しい
のか。底
知れない暗闇をはらんだまま、広大なこのアイヌモシリも、また早晩死んでアイヌたちの胸に
虚ろな悔
419(93)
いや悲しみだけを残すのか……。
例になく主人がいっこう□を利かないので、フリウエンは所在なかった。彼にも親がなく、一
人の妹
が伯母の家族に養われている。双親とも流行り病いであい次いで死に、コタン(在所)が挙げ
て住みか
を移した。満足に葬ってもやれなかった。アイヌにだって、いろいろ考えにゃならんことが、
有る。こ
の主人は時々それを、いっそ遠慮そうに言う。ポツンと言う。フリウエンは天にも地にも二
人ッきりの
今、主人に、沢山話して欲しかった。だが徳内は黙然と歩きつづけ、黙然と休んで食べた。寝
た。お前
がいてくれて安心だった……と、やっとその□から意外な感謝の言葉がもれたのは、うねる水
路の彼方
にアツケシの輝くトゥ(湖)を彩って、赤い穂を立てた一面の草原の見えてきた時だった。
「トゥ、イラマシュレ……」
思わずつぶやいている主人のアイヌ語を聞きとめて、フリウエンも大声をあげた。
「ウツクシ……ミヅウミ」
──鬚の徳内らは、普請役の皆川沖右衛門と下役大塚らに迎えとられた。皆川は、日焼けし
てすっか
りアイヌ馴れしているのが可笑しいほど、張り切って、話す声も大きい。大塚小市郎も相変わ
らず筆ま
めに絵を描き、交易関係の莫大な記録を余さず書き残していた。小太りに見えた体つきが引
締っていた。
驚いたのは、松前藩の重職に「与吉どの」呼ばわりされて閉口していた控えめな若い衆が、あ
の千太な
どよりまだ達者にアイヌ語で、元気に人を使っている……。徳内は夢でも見ている心地がし
た。
だが、徳内の上司青島俊蔵はすでに八月九日にアツケシを発ち、松前へ向かっていた。カラ
フト島や
ソウヤでの任務をみな終えて、苫(とま)屋の手船で東まわりにノサップ岬も無事越えてきた
という大石逸平も、
420(94)
ニシベツの丘で、心ここになく徳内が眺めていたよりも
実はずっと早く、ノッカマプヘも寄らず八月十
一日にはアツケシ入りを果たし、次の日、はや出航の用意成った御用船五社丸に乗りかえて、
普請役の
山□鉄五郎とともに松前へ向け船出を済ませていた。後に知ったことだが、同じその八月十二
日、神通
丸が松前湊に入り、普請役佐藤がこれを差配していた──という。
徳内が仰天したのは、ソウヤで死んだ庵原(いはら)弥六らの惨状だった。
皆川は、松前ですでに大石からの報知に接していたが、その大石逸平が、先日アツケシ一夜
の逗留の
おり、また詳しくソウヤの一伍一什を語り聞かせて行ったという。
危いとは青島から聞いていた。
佐藤玄六郎も案じていた。
が、まさか……あの庵原様が、寒気に無謀に挑んで亡くなってしまうとは……。徳内はフリ
ウエンも
連れず。ハラサン岬に登ると、捉えどころない悲しみに負けながら、荒い潮鳴りを抱くように
顔を伏せ、
岩島にうずくまっていた。
何のために……誰のために……人は死に、人は、死なれるのか。死なせる、のか……。
徳内は──、このままアツケシに居残り皆川らの仕事を分け持っていいと思っていた。身内
のような
フリウエンもよく懐(なつ)いているし、ここにはシチやシモチや顔なじみのアイヌが多い。
顔を近寄せて、シ
ャルシャムからはるばる連れてきたポンマチ(小妻)を自慢したがるようなイコトイなど、近
在ににら
みを利かした総乙名というより、在所の昔の、陽気なまるで悪友の感じだし、あのシラヌカの
喜八のよ
うな生涯もある、こと……だ。
421(95)
運上屋に間近い山の根に清水が湧き出ていて、そこに
稗(ひえ)の自生しているのを徳内は見つけていた。粟、
稗が自生するくらいなら米や麦も育つ望みがある。ただ、一年二年でいい結果を急いではいけ
ない、ア
イヌと一緒にそれが試みられるのなら……。
普請役の皆川は、だが、徳内になるべく速かな松前帰還をと命じた、松前では、このさき十
全の報告
書づくりこそ大事の御用、と。
あらがう気は、なかった。
久々にきれいさっぱり鬚を落として徳内は、普請役山□や下役大石らを乗せた五社丸が無
事、松前に
帰りついていたという八月二十一日よりなお三、四日おくれて、同行が当然といった顔のフリ
ウエンを
ただ一人の友に、またしても、陸路を西へと旅立って行った。江戸では、すでに第十代将軍家
治が死ん
で、老中田沼ははや末期の別れもゆるされず、力ずく退けられていた。が、知る由もない──
それより
もやがてクスリ場所では、熊次郎通辞とまた逢える……。
徳内の胸の内で、しいて松前へ帰りを急(せ)く思いが、なぜか気弱に萎えてさえ──い
た。
五
佐藤玄六郎は石狩アイヌの地力と伝統的な反松前の気
風を重く見ていた。
平野を貫いて豊かに流れる石狩川がある。遡れば深い山間を縫って東の十勝へも抜けて行け
ると見極
めて、彼は、松前に後詰(ごづ)めのかたわら、暇を見ては小者の新三郎や喜蔵を供に石狩へ
視察の足を運んで
422(96)
いたらしい。だが五社丸で山□、大石らが東から帰った
八月二十一日には、その佐藤も、下役の鈴木清
七らも松前に還っていた。ソウヤの任務を終えた里見平蔵もおっつけ戻るはずだった。が、も
う一人の
下役引佐新兵衛は折返し神通丸に上乗りを望んで、もはや数日前、秋味の鮭漁にとまだ見ぬメ
ナシ(東
蝦夷地)をめざしていた。
空船(からぶね)でもいい、折返し五社丸はもう一度アツケシヘという普請役皆川沖右衛門
の指示をあやぶむ声も、
たしかに有った。だが海と船にくわしい沖右衛門の判断だ、請負の苫屋の側も強気だった。風
順よく、
神通、五社とも東からの船足は日和(ひより)に恵まれて速かったし、もう一度往来する
と……という皮算用には
苫屋ならずとも心意かれた。前の年、いよいよ江戸へ帰り船を出したのも十一月アレで半ばで
した、そ
れまでにもう一と働きをと下役鈴木清七も、アイヌが好む米、麹、酒、煙草その他の品々を積
んでニシ
ベツやシベツまで行って来たいと申し出ている。なるほど閏十月を控えてまだ八月、松前は夏
から秋へ
上天気がつづいてけっこう暑かった。案ずるより……という思いも、ようやく北の暮しに馴れ
た見分衆
の胸には有った。
五社丸のまたの船出は、八月二十七日──の昼過ぎだった、という。
天明六年(一八七六)の、その同じ八月二十七日は、さしもの田沼意次(おきつぐ)が老中
職を免じられ雁間詰(かりのまづめ)に
落とされた日付でもあった。殿中の席次でいえば寺社奉行や大番頭(おおばんがしら)らより
わずか上、譜代の中堅約四十
家で成る詰衆の一人とされたのだ。家治の喪は秘されて、御三家を後楯にすべて松平定信側の
手で「病
将軍」の意向は演出された。田沼は下屋敷に籠もり善後策を講じたが、勝負はついていた。意
次、この
時六十八歳、余命は二年。
423(97)
将軍逝去──は、翌る九月の七日に公にされた。
意次頼みの一橋治済も冷たかった。昨日の盟友の老中水野忠友など、養子に迎えていた意次
の四男忠
徳を早々に離縁してきた。そして閏十月五日、意次は加増分の二万石を削られ、大坂の蔵屋敷
も江戸の
役宅もみな召上げられた。すでに蝦夷地一件の如きは「公儀御用にあらず」と断然否認され、
一切「御
差止(おさしとめ)」の指令は関係者に厳しく達せられていた。田沼股肱(ここう)の勘定奉
行、松本伊豆守秀持も容赦なく罷免
され、禄高を削ったうえ小普請人りの処断に遭っている。職務上に過失あり非役(ひやく)と
いう、今後に救済の
望めない処分だった。御側取次の稲葉正明も逐われる一方、松平定信を老中に推す勢力は日ご
とに増し
ていた。
満都はあげて二十年来の田沼が専断と失政とを責め、罵り、歓呼の声で失脚をわらった。
十一月一日──、かねて一橋家から西の丸へ送りこんでいた世子家斉(いえなり)が、本丸
に入って第十一代将軍
職を襲いだ。意次腐心のこれも遠き慮(おもんぱかり)だったが、勘定は逸れた。
田沼の一党は、だが土壇場で粘っている。翌年六月までも手を尽して定信の老中首座の実現
を妨げて
いる。が、その反動も峻烈を極め、十月意次は相良城もろとも所領のことごとくを剥ぎ取ら
れ、累は遠
く徳内岳父の狂歌師平秩東作こと稲毛屋金右衛門にも及んで「急度叱置(きっとしかりお)」
かれたし、彼を松前探索に送
りこんで蝦夷地見分へ先鞭をつけた放縦無頼の勘定組頭土山宗次郎は、遂に事によせてその年
天明七年
の師走、死刑に処されている──。
江戸の政変を──もし、蝦夷地の普請役で予見できたとしたら、やはり佐藤玄六郎を措いて
なかった。
彼だけが江戸の近況にやや実地に触れていた。また松前から幾度も江戸表の勘定支配金沢安太
郎や用人
424(98)
江藤定之進へ報告を送り、奉行松本の判断や指示を求め
た事項も一、二ではなかった。例えば六月末に
はクナシリやエトロフのアイヌを多く水主(かこ)に雇い入れるにつき、後々アイヌの「気請
(きうけ)にも拘(かか)」わるので
十分な手当てをしたいと、承認を望んでいたし、「赤人持渡の品」につき不正の多いことも
「段々相
分」かり、不将の筋も判明してきたが、その処置をどうするか前便で伺ったのに返事が戴けて
いない、
恐れながら「早々御下知」を下されたいとも、その他松前出入りの諸国商人取締りの件や俵物
買入れの
件でも、御思案が聞きたいともどかしげに書き送っている。だがこの書札(しよさつ)など
も、八月四日にやっと
「到来」と江戸では記録されていた。松前飛脚の妨害を疑っていた佐藤は、わざわざ津軽や仙
台藩の飛
脚を頼むようなことまでしていた。が、返事は容易に松前に届かない──。
山□、大石二人が一緒に松前へ戻ってくれて、佐藤にすれば東西蝦夷地の見分結果を同時に
江戸へ報
告できるのが有難かった。翌八月二十二日に、御普請役の山□、佐藤、皆川、青島の名を連
ね、御用船、
雇船の松前へ「帰着御届」に加えて、今一度鮭の塩引などを引取りのために東蝦夷地へ船を出
す予定と
いう事や、場合によってもう一隻船を雇ってみたい事などを報告していた。この書状では、更
に普請役
や下役の今年中の活躍ぶりが日を追って端的に纏めてあり、エトロフ島、ウルップ島、カラフ
ト島の見
分はもとより、やはり何にも増してイジュヨら赤人との稀有(けう)の接触が、一大事を成し
ていた。ともあれ
青島俊蔵がやがて松前に戻り次第、くわしく「諸事申合」わせて、その後、皆川沖右衛門が、
アツケシ
より帰還するまで交易方その他の残務を青島にすべて任せ、「鉄五郎、玄六郎は片時(ヘん
し)も早く帰府」のう
え「赤人の儀等委細」を申上げたく思い居りますと書いていた。但し竿取り徳内の名も功業も
挙げては
無く、エトロフ、ウルップヘも山□が先渡りし、のちに山□、青島が二人して、エトロフ島の
一人は西、
425(99)
一人は東側を探索したように書かれてあった。
それと知る由なく月かわって九月八日、江戸での指揮に当たっていた金沢安太郎は、「公方
様」の病
死を告げた、「普請(ふしん) 鳴物(なりもの)停止」の急の達示(たつし)を、北地の、
普請役一同に宛てていた。但しまだこの時は、
「帰府に」は及ばない、ただ「諸事物静」にせよと付加えてあった。
同じ頃、青島俊蔵が無事陸路を松前へ帰り着いた。そして普請役連名のさきの報告が江戸の
金沢安太
郎の手に落ちたのが、やっと九月二十二日。金沢は折返し「書状披見」の返事に添え、報告は
その都度
おおむね承知している、が、今は何を措いても山□、佐藤の速かな帰府が望ましい、万事はそ
の上の談
合てとした。松前の三普請役らは、鋭意この二年の見分で得たものに仔細に吟味を加えなが
ら、なにし
ろ徳内の早い松前帰着をと待ちかねていた。
徳内のアツケシを発ったことは、自在丸で追い越して帰った千太が報せていた。彼もまた折
返しアツ
ケシに置いた荷を自在丸に積むと、そのまま江戸へ上乗りして帰るべく、九月一日には一同に
別れを告
げ、雲行きをやや危ぶみながら東へ船を向けていた──。
徳内──は、生憎と風邪で弱っていた熊次郎のために、持ち合わせの薬を煎じてやることが
できた。
喜八さんの行方は知れないが、ナニ気にすることはないと言いながら、履歴の不明なこの通辞
は、徳
内が連れたフリウエンにいたく興味を示して、なにかと物を問いかけていた。江戸へも行って
みたいと
聞いて、かすかにうなづきはしたが、まだ無理だナ、松前役人が決して許すまいと制(と)め
た。それよりお
前、徳内さんを松前へ無事送ったあと、わしの所へ来てみないか、考えていることも有るか
ら、などと
言う。徳内に訊かれて熊次郎は、アイヌ語の字引を作る気になってネ、唆(そそのか)したの
はアンタですよ、後々
426(100)
のことは頼みますよと醒めた声でわずかに白い歯を見せ
た。枕もとへ風呂敷包みを拡げて熊次郎は、も
うその仕事に手を染めていることを二人へ見せながら、
「お前一人が日本人(シヤモ)になったって、仕様がないンだよ」と、若いフリウエンの方
へ、同じこの言葉を何
度も静かに繰返した──。
徳内主従に幸いだったのは、十勝から日高側へ、たとえ四度でも五度通っても馴れたなどと
いうこと
の有るまい命がけの難路を越えきるまで、ウソのように秋晴れがつづいてくれたことだった。
だがシャ
マニの運上屋へ駆けこんだ時は、横なぐりの潮風が射込むように冷たい雨を運んできた。海は
底から持
ち上がり、広い浜にもエンルム岬にも怒涛が逆巻き寄せていた。半日遅れていたら瀬の荒い
シャマニ川
は、とても徒歩(かち)渡れなかったと胸を撫でながら、徳内らは、顔なじみの支配人に二人
で寝られる小屋を
借りたが、寝るどころでなかった。蝦夷地の暮しのあれだけ長かった徳内さんにも、この時の
嵐のすさ
まじさばかりは、言語道断……だったとか。小屋なんぞ瞬時に吹き払われて、這う這うシャモ
もアイヌ
も山辺へ遁れた。
──今の私たちの暦で、九月二十六、七日でしたね……台風にしては遅め……
──遅いね。皆川さんの勘定に、そのことも入っていたらしい……それが、裏目に出たんだ
ネ。相良
の……の自在丸だけが必死で南部へ遁げたんだけど……神通丸も五社丸も救いようのない、破
船。九月
の七日だった……
──当月つまり旧暦九月四日には神通丸がシベツ浜へ着岸し、七日昼過ぎに積み荷が済んで
いたと。
十日付け皆川沖右衛門の「御届書」にはそう書いてます。さして沖合いでの難破じゃなかっ
た。夕方四
427(101)
時頃からカッと猛烈な東北風が来て、危いッてんで通
辞、番人、アイヌも総出で船を守ろうとしたけれ
ど、第一、船へも近寄れない。夜ともなっては「身命相働き候へども」及ばず、船頭や水主
(かこ)たちは有り
たけの碇(いかり)を打ちこんだものの夜十時過ぎて全くの、破船。幸い死人もたいした怪我
人もなく皆が陸へ泳
ぎつけたと言ってます。神通丸には引佐新兵衛と、アツケシからは大塚小市郎も乗りこんでい
たンです
ね……
──後始末を済ませたところで、この二人ともシベツ前崎で、腹…を切った。暁け方だった
そうです、
波打ち際に二人並んで……江戸、じゃないンだよアツケシ、松前の方角へ向いてまるで頭を下
げて……。
五社丸……の方も、似たような苦労をして、こっちはニシベツ沖で大風雨に遭っちまった。
沖右衛門が書き遺しています……。九十貫目より六十貫目の大碇を六つ、一つ一つに綱を二た
筋
ずつつけ、その他有りたけの大綱や碇を海に打ちこんで堪(こら)えようとしましたが、しだ
いに大風、大波立
ちとなり、上乗り以下、竿取り新三郎や支配人、通辞、番人、アイヌら精根の限り働きました
ものの、
言語に絶した海の荒れ。碇六つも大綱も軽々と引き擦るように、およそ海上十町も駆け抜ける
勢いのま
ま岩礁に激しく衝き入り、人力(じんりき)及び難く、八日未明頃ニシベツ浜であたら五社丸
は突き沈んでしまいま
した……と。
──これも幸い一両人が軽い怪我をした程度で済んでいる……のに……
──鈴木清七ばかりか、その、新三郎というのまでが喉を突いて、破船の責めを負うてしま
うンです
ね。新三郎という人のことは、これまであまり伺ってませんね……
──勘定のシッカリした男でネ。佐藤さんがたいへん信頼してた竿取り、と言っても名目
で。測量は
428(102)
出来なかったけれど、交易の場面じゃァ、ソウヤでも松
前でもそれは機敏によく働いたそうです。だか
ら、見込まれて五社丸に乗ってきた……皆川さんも喜んでた……
──皆川が第一報をとにかく発した十日には、まだ彼自身の切腹はなかったですね。沈みま
した荷物
の状態を専一に今も調べています、すべてトクと匡(ただ)した上で「委敷(くわしき)儀」
は追ってしらせますと書いてい
る。その彼も、早晩、腹切っちゃうわけで……ナンとも悲惨になにもかも終りかけてる。で
も…、ああ
いうモノですかね。落度って事は何一つ、無かったと思いますが……まさか、わざと沈めたッ
てことも
なし。
──江戸のこたァ何もまだ知らないからね。蝦夷地の事なんぞ「公儀御用にあらず」で「差
止め」と
分かってりゃ、あの人たちも死ぬほどの責任を感じる必要はなかった。
それだけ……ムダな死を死なせちまったことになる、と言い募りかけ、私は□をつぐんだ。
詮ないこ
とだ……。
御用船の難破が松前表へ伝わり、「驚き入る天災とは申しながら」破船に及んだのはなにと
も「言語
絶して奉二恐入一候」と、山□鉄五郎に宛て、廻船御用達苫屋久兵衛の代理忠兵衛から今後の
下知を望ん
できたのが、九月二十二日。皆川の急報を托された苫屋の手の者が松前まで帰り着いたのだ、
凶報に、
普請役も下役も誰も彼も唇を噛んだ。船も荷物も問題ではない、死ぬな……と同僚へ呼びかけ
る思いは
だれの胸の内も唯一つ、それのみだった。
すでに将軍家の喪(も)が発せられ頼みの老中田沼は罷免と、もしも、この時、彼らが全部
を知っていたら
……。だがそんな足踏みも今は許されず、松前の束(たば)ねをすべて青島俊蔵に任せて、山
□、佐藤両名は万
429(103)
端報告のため十月早々陸路から江戸へと急いだ。カラフ
ト島に貴重な足跡を印してきた、なおその上に
蝦夷地を西から東へ一周してきた大石逸平も、この時普請役二人に従って帰府の途についた。
徳内の戻
るのを、もう待ちきれなかったのだ。
すべては過ぎていった。
わが徳内氏は、山□らが津軽三厩(みんまや)へ渡った四日あとに、久しぶり松前の土を踏
んだ。従者フリウエン
はもう「いろは」の他に少々の漢字すら読み書きができ、遠くから伝わっていたその評判は、
松前藩を
痛く刺戟していた。佐藤らが、逸平とともに徳内も連れて江戸へ、と待っていた一つには、そ
の懸念が
有った。徳内氏はいわば危険人物の最たる一人に挙げられていたのだ。
十月、江戸の松前志摩守家中は「蝦夷地一件の儀此度御差止」めになった旨を公式に勘定奉
行所より
通達された。本所の志摩守屋敷は歓呼の声に渦巻いた。
苫屋久兵衛も同じく達示を承っていた。
音羽の本多利明も鉄砲洲の稲毛屋でもこの事のあるのは、もう覚悟していた。田沼がコケて
は余儀な
いこと、それはそれとしてウルップ島まで先渡りしたと噂の徳内こと、最上楯岡のあの元吉
は、いつ頃
どんな土産を提げて江戸へ舞い戻ってくるか……楽しみ、とはだれ劣らず思い待ちわびてい
た。幕府が
北の破船を知らなかったのは当然で、達示には、「蝦夷地御取調方」は差止めるが「交易の品
は」去年
通りに船に積んで江戸表へ「相廻」せとあった。その上で苫屋には「拝借金」を返納せよとも
あった。
そして十月二十八日付け、江戸の金沢安太郎は、すでに死去の庵原(いはら)弥六の名も含
み見分普請役五人に
対し、公式に松本勘定奉行の罷免を伝え、すべては終ったこと、船壱艘でも弐艘でも荷が出来
しだい江
430(104)
戸へ帰すこと、「其方共併(そのほうどもなら)ビ下役
共」も残務などの差支え無いよう、万般取調べ「相済次第」なるべく
当年中に江戸へ帰参せよと命じていた。が、三日後の晦日(みそか)、松本伊豆に代った奉行
桑原伊予守から老中
水野出羽守忠友のもとへ、とりあえず蝦夷地での遭難が初めて報告された。同じ十月晦日に皆
川沖右衛
門、青島俊蔵へ金沢が送っている指示の文面によれば、山□、佐藤らはこの日にも遠路江戸入
りを果た
していたらしい。
金沢の達示は前便にほぼ変わりなく、但し破船の始終をよく調べ積荷など善後策を講じて
「早々帰
府」すべしとあった。が、宛名の一人の「皆川沖右衛門殿」の姿は、十月を待たずある朝アツ
ケシ運上
屋から影を消すように無く、あとには、大塚小市郎が精励書き溜めたものを含めて、公の御用
に足ると
思しき記録類が整然とすべて積み重ねられていた。
僅かに遅れ、うずく不安をおし鎮め沈めアツケシヘ船を飛ばした里見平蔵が、思わず泣き崩
れた。
沖右衛門の遺骸は二日後の引汐にひかれ、アツケシ湾外の大黒島コンブ浜へ揚がったとい
う。割腹の、
その差料でさらに口中を項(うなじ)へ貫いたままの遺骸だったという。運上屋には引佐新兵
衛や鈴木清七、それ
に竿取り葛飾(かつしか)新三郎の遺品も落ちなく収容されていた。ソウヤの厳寒に果てた普
請役、あの庵原弥六無
念の最期を想ってみずに居れない里見には、まして生きのびて松前へ戻った同僚引佐や鈴木ら
の、思い
がけぬここへ来ての自決があまり痛ましい。
何のため……誰のため……に。
行き届かぬなりに野べの送りを済ませた里見平蔵は、今、朱(あけ)にかがやくアツケシ湾
のタ波に瞳(め)を灼か
れたまま、なにかしら目に見えぬものの前に宥(ゆる)しを乞うて、立ち尽していた。遠い日
高の山なみには、
431(105)
深まる秋の白い雲がみるみる茜に染まって行く──。
六
──もう暫く続けていいでしょうか、徳内先生のこ
と、放ったらかしみたいですけど……
──いいとも……
じィっと、うな垂れたきり耳を傾けていた「部屋」の徳内氏は、むしろ急に驚かされたとい
う顔をあ
げて、即座に首をたてに振ってくれた──。
──でもここで、一つだけやっぱり伺っときたいナ、序(つい)でッちゃナンですが。「午
閨(うまうるう)十月」(天明六
年)に入って、(二十日に提出したようですが)死んだ庵原を除く御普請役四人の連名で、
(皆川が死
んだッて、江戸の山□らはまだ知らないンですからね。)「蝦夷地の儀に付(つき)奉申上候
書付」ッてやつを、
むろん山□と佐藤の仕事ですが、書いている。これを金沢安太郎が翌々日、□上を添えて勝手
方勘定奉
行の桑原伊予守の役宅まで持参しているンです、がネ。むやみと長い文章です。が、ラッコ島
つまりウ
ルップ島方面の赤人関連に断然重きが置いてあって、ほかは、去年以来見分の実績がざッと纏
めてある。
そっちは大方、我々も知っていますよね……
徳内氏、辛抱よく聞いてくれている──。
──すみません、ハナシ端折っちゃいます……と。この中で、やっぱり徳内先生じゃなし
に、ウルッ
プ島へは山□が、エトロフ島へは普請役二人がもっぱら渡ったことにしてある……。マ、これ
で私たち
432(106)
は惑わされて……困る。
──山□さんらが書かれたものは、むろん、わしは見たこともないンだ。だが、その件なら
ば話は通
じてて、あの人らがわしの功名を横奪りしたなんてこッちゃ、全く、ないのです。公儀への報
告には、
それなりに形が出来ている。按配して、表向きを作るものなんだ。お上にすれば奴の徳内がど
うした、
こうしたは決して考えない、但しそれも表向き……
──ア、そうか。それで寛政十年のエトロフ渡島だって、百戦錬磨の徳内さんにかつがつ随
(つ)いてッた
恰好の、近藤重蔵の殊勲甲、ッてな具合に後々には伝わってしまったんだ……
──そういう建前だったから。だけど当時は誰だって、大概な真相は知ってたもンさ。後々
わしがお
取立てになったのも、それですよ。松前藩とわしとが険悪だったことも世間には知れてた、だ
から内通
なんて事も有るわけがないと。牢屋を出られたのも、そのお蔭でネ。
──じゃ、も一つ……。死んだ皆川沖右衛門らの後始末は。アツケシ、キイタップで……。
──里見さんが居残って、キッチリ済ませました、それも皆川様以下の名前が、生きて隈
(くま)なく美しく
仕事の上で残るようにね。死なせたくなかったんだ……あの人らを。
──それで分かります。破船の始末書が伝わってるのですが、実に行き届いててしかも各場
所の支配
人らに出させてる書付の宛名にも、死んだ皆川の名が残ってますのでね。
──里見平蔵というお人は、いよいよ青島さんらと江戸へ帰ろうという段になって……仙台
まで来た
時サ……自分は、帰らないと。浪人する、ッていうんだナ。
── 一件は公儀御用にあらず御差止めと、もう分かってましたからね。
433(107)
──いや、それだからとは、青島さんは考えなかった
らしいよ。わしもだが……。で、…それきりさ。
──それッきりですか、ホントに。…すると大石逸平と同じなンですね。彼はナンでしょ、
閏(うるう)十月
の三日でしたっけ。公式に山□、佐藤両普請役に対し桑原伊予守より、ソノ、公儀御用にあら
ず、つま
りクビッてのを言い渡されたと聞くと、それッきり、プイと行き方知れずになってしまっ
た……と。
──ああ……。稲毛屋の親爺さんチに、一度寄ったには寄ったらしいがね。なにも、ろく
すっぽ□も
利かないで、酒を、すこしだけ飲んでッたそうです。とうとう、それきりで……一度も、顔は
出さなか
った、世間に。
──え。消息は、ご存じだったンですか。
私が、頓狂に声を弾ませたのだろう、徳内氏は思わず微笑んで、
──あんたもご存しさ、『東海参譚』という本を書いた男。上毛人(じようもうびと)で
ね、字(あざな)は叔泰(しゆくたい)、通称万輔。こ
れが新井庄十郎つまり大石逸平の、家(あと)を襲いだンだ。そしてわしが第八回目の渡海の
おり随いてきて著
わしたのが、いま謂う本ですよ。文化二年か、三年だったかナ。
──あァア……、道理で。「最上徳内に傾倒し、その博学振りを到る所で紹介し、巻末に
『最上徳内
伝』を附している」と高倉新一郎さんが、解題に書かれてたワケです……
あっけに取られて、私は、いっそしかめッ面になっていた。
が、そのうち、話の継穂も見失ったをむしろ好便に、急にその東■元▲著『東海参讃』が、
また読み
返してみたくなった。徳内先生には例になく両手をついて感謝の意を表し、私は、思い立った
ままそっ
と「部屋」を辞した。
(■:うかんむり に 心 に 用 ? 用の第一画は はねない)(▲:禾のぎへん に 眞)
434(108)
秋──が来ていた。七月の京都行き以来、もう一度九
月の十日過ぎに行って、帰って、彼岸がもう目
の前だった。菩提寺の性急な電話で、今度は宣伝の原稿といわず、境内の萩祭りに加わって
「萩と古
典」の話でもと頼まれ、断りもならない。まァ日ごろ親不孝の万分の一の償いにと出向いたの
だ。が、
幸い某社で、私の好きな京都市内のどこかをカメラマンをつれて「散歩」し、そのあと祗園下
河原の美
濃幸で午の「弁当」を撮影という、気楽な朝早やからの仕事が重なった。ホテルも用意してく
れた。
彼岸まえの泉涌寺から東福寺へ──、晩秋をあてこんだ背広での散歩は汗まみれになった。
が、高校
生の昔が、ここへ来ればそのままよみがえる。授業をサボっては寝転びにきた。どこへ潜り込
むのにも
拝観料など取られはしなかった。どこへなりと居坐ってしまえば、時間はそこで停まっ
た……。まだ
空虚(うつろ)ではあった、が、きれいに透明な「部屋」はあの頃からもう私のもの(二字傍
点)だったと思う。まぢかい学校
には、同じクラスに伊藤妙子がいた。二学年下に「安曇(あど)冬子」がいた。「冬子」は、
死んでしまった。
「冬子」の子も……。
旧姓も現性も伊藤だというあの妙子の娘は、関田(せきでん)町の叔父の家で私に初対面の
あのあと、金楊子(キ
ム・ヤンジァ)の差出し名で、暑中見舞いに添えた手紙をくれた。李暁玲(イ・ヒョンヨン)
の姪でもあ
る一読者として、節度のある文面の内に、在日韓国人の身で韓国留学を思い立ったものの、不
安を拭い
きれないでいる初々しい心の動きが、巧まずよく書けていた。私にまで助言を望んでいた。徐
兄弟の
『獄中からの手紙』(岩波新書)でもお分かりでっしゃろ、我々の留学にはいつもある程度
の、いや場
合によって相当の危険が伴うのです残念ながらと、ヒョンヨンも他に幾つも例をあげていたの
だ。
435(109)
ヤンジァの手紙にはこうも言ってあった。父が経営す
る会社では祖国からの密航者なども、どうやら
援助という名目で引受けているらしい。日本の労働力を手に入れるよりうんと安い賃金で、父
がもし同
朋をわるく利用しているのなら、「伊藤」の姓なんかより私はもっともっと拘泥(こだわ)り
ます。私たちの戦い
には、遠大な戦いも、こんな身近な苦しい惑いもございます。温和しい文字と言葉遣いとで、
それほど
の事をもヤンジァは私のような者へ書いてみずに居れないらしかった。そして、こうだ。民主
主義を誇
っている日本の政府がなぜ、韓国の、民主主義にでなく独裁者に手を貸すのでしょう……。
撮影も大方済ました午まえ、待合せの喫茶店に電話して、私の(二字傍点)ヤンジァを直接
美濃幸の方へ呼び寄せ
た。後輩ヒョンヨンのあの姪ではない、伊藤妙子が産んだというあの娘ではない、……北海道
で出逢っ
た楊子(ヤンジア)さんが、フレンチスリーブの肩を可愛くすこし落とし、落着いたゴールド
の、レース模様に丹念
に編みあげたニットで現われた。セーターにもギャザの入ったスカートにも、引上げ模様と穴
あき模様
とで編み目に佳い感じの陰影ができている。胸もとがしろく透けた色けも今日はしっとり大人
の感じで、
庭さきへはんなり簾をあげた別間へ、サ、こっちィどーぞと案内してきた仲居が、サテ見るな
り、
「いやァー……おきれいなお嬢さんやこと。へぇッ……」と、坐りこんでしまった。
「ソンナん…ちがいますゥ……」
「ちがわしませんテ。ホンマ……こんなおきれいな方いやはらしません……。ねェ、せんせ」
なるほど。こういう時の返辞ひとつで京の女は男を心見るワケだと思いつつ、私も本気でう
なづいて
いた──。
一夜、明けて日曜日はかわたれ時から鴨川に白い雨脚が立って、鞍馬も比叡山もそぼ濡れな
がら山の
436(110)
端は紫だった。
出町の萩の寺へも、昨日のヤンジァはまた約束の昼過ぎに目立たぬふうに大阪から姿をみせ
た。萩は
盛りをまえにしとど枝垂(しだ)れて、境内を所せましと白うも紅(あこ)うも咲き匂ってい
た。人の寄った本堂で、一
夜豊産の不思議を伝えた『風土記』の萩から、つぎ接(は)ぎ、おい剥ぎ、女の白いはぎ、
皆、繋って艶(えん)にな
まめかしい萩の文学や民俗をあれこれ話している間にも、つい人山の背へ半分顔を隠している
ようなヤ
ンジァに目が行ってしまう。ひたぶるに人を恋ほしみ日の夕ベ萩ひとむらに火を放ちゆく……
と、話半
ばに好きな岡野弘彦の歌がつと□を衝いて出た。夕方には東京へ帰って行くのだった。思わず
涙ぐんで
しまいそうだった。
雨は激しさを増し、ウソのように冷えていた。──加茂大橋で車を拾って、いっそ近くの
ヒョンヨン
のところへ押しかけようかと、言いかけ、危く声を殺した。
雨の庭ッて、閑静で佳いンでしょうねェ。
風情(おり)のいいヤンジァの言葉に惹かれたか、さすが京都の運転手は南禅寺金地院へ
誘ってくれた。たっ
た二た組の客で、長い堂の縁の右と左とにわかれ、雨を聴いた。濃い緑の樹々をへだててザァ
ザァ降る。
雨が寒いか、ほかにワケがあってかヤンジァは、私の肩へからだごと触れては、時おりビク、
ビクと腕
にすがって震えた。震えながら、雨雲の空を姿の見えない鳥がまた鳴く、また鳴いてますと
言ったりし
た。台風が来てるンですって…よ、ともささやいた。
そして──夕方、京都駅の出札で事故のため新幹線は不通と告げられた。急いで同じホテル
で、もう
一泊の部屋を取ってもらった。
437(111)
「ヤンジァ……きみは、どうする……」
ヤンジァは温和しく、足もとに置いた私のスーツケースに自分で手をかけた。
「母かテ、ゆるし…て、くれ……マス」
□をつぐみ、クッと一つ強く首肯(うなづ)いて、ヤンジァは燃える目で突き刺すように私
を見た。
──もう、いちど…頂戴ッ……
ヤンジァの楊子は全身で息をひいて、その夜じゅう
──私の耳へ、ささやいた。耳の底へその喘ぐ声
音がのこって──、台風一過、残暑の東京へ帰ってきた。徳内さんが、ニシベツ、ダケカンバ
の丘でむ
なしく沖行く船を幻に眺めていた、あの頃──だった。
追いかけるように李暁玲のなんで立ち寄ってくれなかったか、萩の寺ほど近所での講演(は
なし)を、あとで知
ったのはこっちも申しわけなかったがという手紙が来た。つづく文面は今すこし差し迫ってい
た。韓日
古代国家の起源を考える学術シンポジウムの予備会議に招待状が来て、まもなく自分は出かけ
る、その
時姪もソウルヘ船めて同行することになり、彼女は好便がもしあれば、ソウルでの勉強に居残
ることに
なるかもしれない、守口の伊藤家は、今大騒ぎをしています……。
いつ発つとは日付けまで書かれてなく、私は折返し「伊藤」楊子様宛て、前途を祝うハガキ
を出した。
無事を祈った。もう一度、お話がしたかった…とも書いた。
(もう、いちど……頂戴……)
438(112)
ポストヘのその足で、喫茶店「ばく」に自転車を停め
た。ハガキが、どの(二字傍点)楊子の手にとどくのか。い
やいや、同じ一人のヤンジァがいたのだと思おう……そう思おう……。
外は日盛りだった。昏い目まいをじっと耐えて汗をふいた。そして、マスターに濃いめの
コーヒーを
熱くしてと頼んで、ゆっくり、「部屋」へ入っていった──。どこの民族の音楽だか耳の底
へ、ひくく
渦巻くように遠い遠い女の声で、雄々しかった戦士たちのウタが流れてきた。
楊子は、まぼろし……で、いい。そうとは思いながら、こみあげて来そうだった。
──山口さんらが四人連名で出したという幕府への報
告書、いつでしたツけ……と、徳内氏。
──閏(うるう)月の十月二十日に金沢安太郎へ。西洋暦の一七八六年で申しまして、十二
月十日。でも、そう
面白いもンじゃありませんね。無理ないです、上の方でも誰も聴こうツて気、ないンですも
ン。それよ
か徳内先生。お給金テものがあったんですか、竿取りツてことで。
──わりに不自由無かった覚えがある……いくらツて具合にゃ記憶はないですが。
──同じ日に。山□と佐藤はそうした諸経費の明細も提出してるンです。五年二月の、つま
り蝦夷地
見分へいよいよ江戸発足ツて時の「請取(うけとり)」が、八百両。これを普請役五人で分け
てますが、均等割りじ
ゃない。山□、庵原、青島が下役各一名を添え百六十両ずつで、佐藤には下役二名の二百両と
してあり
ましたし、皆川には下役がつかなくて、百二十両。旅支度、竿取小者の給金、また道中駄賃、
その他御
月先諸雑用一式に遣(つか)って、これがあの年の十一月までの分だったそうですよ。そして
師走にまた翌六年
の夏までを当てこんだ五百両を請求しています、均等割りに五人の普請役でネ。ご存じなかっ
たでしょ、
439(113)
こんなのは。
──面白いね、そりァわしらには全く分からないハナシさ。それに丸々の給金じゃ……
──ええ。必要経費コミ、でしょネ。ほかに米代と用意金に三百両同じ暮に「受取」って、
その中か
ら勢州米を二百五十俵買ってます、これは役に立ちましたでしょ。
──米、酒、煙草に古着さ。しかし、ナンたって米だったナ、アイヌが一等喜んだのは。
──で、要するに青島俊蔵と徳内さんが松前で残務整理……年内には里見平蔵も戻ってたで
しょうが。
交易関係の清算……ですか。
──それと神通丸、五社丸破船の残骸や積荷、道具類の回収、その明細……
──へ?エ。そんな事をなさってる内に、来たわけだ「御差止」めッ、テ通告が。
──うすうす聞こえてたね、松前の侍が急に尊大になりだしたし……。閏アトの十月、の中
頃だった
かなァ。手伝ってくれてた町人も、へんに縮まッちまってネ。
──結局、松前にいつまでいらした……か。青島は、少くも明くる年二月まではいた。万端
始末がつ
いたッて双方で判をついた書付が、松前藩側から出てますから。……ずっとご一緒で……
──そじゃ、ない。いろいろ有ったから…松前に居にくかった。フリウエンが……
──なるほど。本来ならアイヌの彼は松前領に入れないはず……を、見分隊の雇いッて名目
で通して
た。げと御用にあらずと幕府が下りちゃッちゃあ、言ってわるいけど普請役の一人や二人松前
藩じゃ端
下(はした)も同じ、……こりゃ、フリウェンはあぶないですね。どうなすった…ンです。
──十勝へ、なんとか帰した。かわいそうなことを、しました……
441(115)
──強制、送還……
──そこまで向うも荒だてやしない、が。……熊次郎ンどこへ、マ、便(つて)があって
ね。
──熊次郎ですが、その。……六年後くらいでしたか、とうとう『蝦夷方言藻汐草』を完成
させてま
すよね。先生が後年、白虹斎の号で序文を書かれた刊本も、あります。その上原熊次郎と共著
で、阿部
長三郎っての……あれは、フリウエンなのですか。
徳内氏はすぐには答えなかった。あれほどのフリウエンが、その後蝦夷地の徳内氏身辺に姿
を見せな
いままなのを、幾分は希望的にそこへ結びつけてみたかったのだ、が……阿部なんとかといっ
た日本名
がしっくりしないでいた。案の定、やっと徳内氏は首を横に振った。フリウエンは──誰にと
もなく、
ある時シラヌカ場所からアツケシ場所へ出向いて、毒にあてられ二十歳前に「虫のように」死
んでしま
っていた。思えば「毒」の時代ともいわねばならぬほど、当時アイヌの世界では毒がいろいろ
に利いた。
利かされた。シャクシャインの乱でも、のちのクナシリの騒動でも「毒」が引金になっていた
──。
フリウエンの一事があっただけでも、徳内さんの負い目は、生涯おもかった。定見もなく若
者を近付
けてうれしがっていた……大きな間違いを犯したと徳内さんは顔を伏せる。フリウエンの話に
なると、
えも言われない妙に渋い顔色に切なそうな愛情を浮かべた、その(二字傍点)意味を私は誤解
しかけていた時もある、
が、それがやっと分かった。
──あんたはアイヌになれ、自分はシャモ(日本人)になろうなんて、フリウエンも……ナ
ンセンス
な…意味のない話ですが。でも……これッくらい気もちいい無意味さも、ないですネ。ネ……
氏は、しかし私の愚にもつかない慰めに軽く顔をそむけたなり、この話題からは離れたいか
のように、
441(115)
そのあと、通行の「徳内伝」に出てない──のちのちの 妻子や、野辺地の──話をしてくれた。
七
ほとんど所払いと同然にフリウェンが松前領を十勝
(トカチ)へ逐われたあと、徳内も、上司の青島俊蔵と相談
ずく急速便船をえて松前を離れたのが、天明六年(一七八六)の、もう師走まぢかだったとい
う。
この時季の渡海は最短距離を龍飛(たつぴ)の岬まででも容易でない。が、たまたま南部下
北(しもきた)の佐井湊を経て野
辺地へ帰る船頭の五三郎という者に渡りをつけ、徳内は、御公儀へ急ぎ御届けの名目で持てる
限りの荷
を積みこんだ。南部領よりさき江戸まで継送り駄賃などの手続きも、普請役青島の名で通して
もらった。
これだけの蝦夷地資料に要路の人物が目を通したなら、政局を左右するのがたとえ誰であれ
「北」への
認識に大きな変更はありえまいほど、こまごまと、だが精一杯手に入れた貴重な数字や見分の
詳細が、
その荷づくりには包まれていた。前のお奉行にははばかりもあろう、ともかく佐藤玄六郎殿の
裁量にこ
れは委ねよと、青島も徳内の思いに同じことを□にし、それから、お前にその気があれば下谷
(したや)坂下のお
れの空き家に入って帰りを待つがいい、身近にいればまた今度のような御用があるだろう、
きっとある
よ…。俊蔵は徳内を励ますとも自分に言いきかすともつかぬ言葉を別れぎわまで繰り返した。
徳内の思いは俊蔵のよりよほど冷めていた。二年間の所行を悔みも誇りもならない、ちょっ
とした金
縛りに遭っているような無感動に徳内は陥ったまま、五三郎の船に積荷に紛れた我一人の場所
を得ると、
もう、船出を待たずなにも考えず泥のような眠りの底へまみれていった。
442(116)
箱館を経て、船は幸い事もなく佐井をめざしていた。
さほどの高山も見えない、が、山なみは幾重に
も冬の空を限って、遠い。五三郎は□の重い、しかし振舞いに粗忽なところのない親切な男
だった。田
名部や川内(せんだい)の湊から下北の檜を松前へ運んで、帰りには主に俵物を佐井湊へ積ん
でくる。野辺地のどの
船問屋に雇われている船頭と訊きもしなかったが、徳内が択捉(エトロフ)や得撫(ウルツ
プ)島へ渡ってきたのを承知していて、
自分も一度だけあやうく色丹(シコタン)島まで嵐に飛ばされたことがあると五三郎は言う。
あの時国後(クナシリ)の島影をは
るかに初めて眺めた。あの荒い海をアイヌの小舟でよくラッコ島まで……、たいしたものとい
う意味の
ことを、釘を折ったような南部なまりでほめ、チラと徳内の小柄(こがら)に目をくれる。そ
んな視線にも疲れが
増す気がして、徳内はうなづき返すだけだった。
松前から津軽海峡を真東に、本州下北半島へトンと突きあたった佐井湊へは、西廻り、日本
海廻りに、
遠く大坂、播州、出雲、若狭からも船の出入りが絶えない。恐山(おそれざん)一帯に聞えた
檜の美林がある。野辺
地からはこれも聞えた南部銅や大豆が盛んに大坂方面へ積み出される。佐井は津軽の十三湊に
ならぶ日
本海航路最北の、いや箱館や東蝦夷地へ船をやるにもだいじな中継ぎの泊になっていた。五三
郎の船は
その佐井に、次いで川内(せんだい)湊に泊った。陸奥湾をはさんで野辺地からは北にほぼ真
向かっている川内は、
背後に恐山(おそれざん)を負うて檜や蝦夷松など林業にもまた漁業にも好便の湊だ、五三郎
の船はその川内の淡路
屋という問屋で二人の新たな客を乗せた。商用を済ませて野辺地へ帰る島屋の若い主、安田清
吉とその
手代だった。
幕府御用の侍を乗せてきたと五三郎に聞いて清吉はかすかに顔をしかめた。千島(ちしま)
渡り、恐れ知らずの
「徳内様」と聞いて眉間のかげはこまかに揺れた。津軽南部の一円、いつとなく「最上徳内」
という名
443(117)
は知れている。それも、いい評判ばかりでなく、蝦夷地
で稼いでいる商人にとってはむしろ好ましから
ぬ動き、アイヌにけしかけて蝦夷地の儲けを幕府で独り占めにしようという企てに、ことに熱
心な男と
されていた。そんな者を持ち船に乗せてあと腐れになるのも迷惑…と思いつつ、そこは如才な
い顔で初
対面して、清吉は案に相違した。
年の頃は自分の方がまだ一つ二つは上かも知れない。のに、その僅かな物言いの端々から、
「恐れ知
らず」のただの猪でない分厚い男根りの徳内が、永廻船問屋(えいかいせんどんや)の跡取り
というより、いっそ敦厚(とんこう)な「学
者」で通っている島屋の清吉を魅了した。
徳内は招かれるまま野辺地で島屋方に一泊した。継ぎ送りの荷や馬の手配も清吉らの好意に
まかせた。
が、どの道ゆっくりはしていられない。再会は約してもアテがあるわけでない。そして誰より
も別れを
惜しんだのは若主人の清吉だった。淡路国安田村を二、三代以前に出てきた清吉の祖父か曾祖
父かは、
まず川内(せんだい)を拠点に淡路屋の竈(かまど)をひらき、次いで野辺地に転じて島屋と
なった。安永三年(一七七四)に
は当主清四郎は永廻船問屋を仰せつかりほかに酒造業も営んでいた。南部御用銅の差配にも任
じていた。
もとより諸国の商人が集散する野辺地でも屈指の大きな竃、人使いも多い。それかあらぬか跡
取りの清
吉はこの時、「徳内」の名にも因んで、ひとかどと思う男の「徳」は何かと問い、言下に、
「けしてアハアハなどと、笑わぬこと」と簡明な返辞を聴いた瞬間から、意表に出た物言いも
さりなが
ら、なんとも知れず、その徳内の考えというより、それを□にして気後れしない落着いた態度
に惹かれ
た。
一方徳内はまた、そのような清吉によりも、一夜の接待に、思いなし上方の匂いのする鷹揚
な当主や
444(118)
内儀らの□添えでさりげなく引合わされた、その家の乙
娘に、ふと心を残した。わけは分からない。と
にかく、オヤと思った。名前はふで(二字傍点)、十六になりますと聞かされながらオヤオヤ
と思った。そう思った
時は、もう飾りけのないその娘はうしろ向きに退りかけていた。
翌る日、いよいよ旅立ちの時にもう一度ふで(二字傍点)の顔を見た。向うになんの愛想も
ないのにやはり徳内さ
んは、オヤと感じた。強いて言えば、これまで出逢っただれ一人とも肖ていないのに驚いた、
オヤ……
だったかも知れない。わけは分からない。それなのに、松前このかた半ば身内を流れ去るにま
かせてい
たもの、踏んばる気力のようなものを徳内さんはハッと、我が身にまた引き寄せた。江戸……
そうだ江
戸で青島様の帰りを待つのだ。□もとの緊ったもの怖じしない黒瞳(くろめ)の少女とは関わ
りないそんなことを
とっさに自分に言いきかせていた。
江戸へ向かうのは事に敗れてではない、事をさらに興すためだ。あの下谷坂下の裏店ではお
鳰(にお)と夢心
地に所帯をもった。おさん(二字傍点)が生まれてお鳰に死なれた。何も彼もあそこから肇
まった、そのあそこへ、
けして元の木阿弥ですごすご戻って行くのではない……。徳内さんはこの期(ご)に及んで、
(論評は控えた
いが)正真正銘初めて、あどけなく育っているであろう娘のさん(二字傍点)が恋しいと、身
内の震うほど思ったそ
うだ。わけは、ご当人にも、やっぱりよく分からなかったそうだ。
──イェイェ、よッく事情が分かりました、有難うご
ざいます。なにしろ先生のご結婚なりお子さん
なりに就ては、あいまいな、不自然な記述が多すぎましてね……、ひどいのになると奥さん、
おふで(二字傍点)さ
んが(秀としたのもありますが、)先生と出逢いの以前にあンまり名誉でない子をじつは一人
産んでた、
445(119)
なんて書いてあります。その子がおさん(二字傍点)さ
ん、のちに名を改めおふみ(二字傍点)さんのことだというンですよ。
── …………
──先生ご自身身書き残してらっしゃるおふみ(二字傍点)さんの年齢から推して、天明三
年江戸での生まれは動
かない。仮りにもし明和七年生まれのふでさんが野辺地で……ッてことだと数え歳の十四、今
の数え方
ですと十三歳で出産してたことになる。どこかしこ、飢えて人死にの凄まじかったあの時節
に……です
よ。そればっかりじゃ、ない。鳥屋は父(てて)無し子をかかえ処置に困ってたその清吉の
妹ッてのを、その後
天明八年、大望を発して単身なんとか松前領へは潜入したものの、断乎藩の力に拒まれどう
あっても蝦
夷地へと入れられずに、食うや食わずで野辺地へまた流れてきたという徳内さんの嫁に、押ッ
つけたッ
て……。しかも、これ、お話になりゃしないヘタな作文付きなンですからね。
──ま、厄介な事情が、あれこれあの時節には重なってもいたから……
──そうだったンでしょうね。そもそも川内湊に最初淡路屋をひらいたのちの島尾又之丞に
は、庄内
酒田の方へ移っていった徳兵衛とかいう弟がいて、徳内さん実は徳兵衛の孫なんだ、清吉やふ
で(二字傍点)とは縁
の濃い間柄なんだと……。だから同じ野辺地で絶えかけていた親類筋の或る竈を、二人に嗣が
せたと、
そう…いうことになっているんですね。
──それ位なことはあの時代、どこにでも転がってた作り話ですよ。なにかの折に辻棲が合
やいい…
ンでね。わしが、自力で二度目の蝦夷地渡りをした、そしてスゲなく追ッ払われたあの天明七
年から八
年なんてもなァ、タダで済まない、そりゃあの界隈じゃ鼻ッつまみだったんだからね、わし
は。清吉ッ
あんらにしたって因縁話の一つ二つはこじつけないじァ、いられなかったろ。
446(120)
──でも本当ンとこは、祝言をお挙げなすった天明八
年より二年も前に、ちゃんとした佳い出逢いが
お有ンなすったと、……そういうことですか結局。
──そういうことです。
──イヤ参りました。でも、よく分かりました。なにしろ以来足かけ四十九年、先生がお亡
くなりに
なるまで立派に連れ添われた奥さんでした。ぼくらソレ知ってますだけに、当時島屋の安田
家、のちに
改めて高谷家との世上伝えられてるご縁談には、不自然な因縁話(こじつけ)が見えすいてて
ゾッとしなかった……。
有難ゥございます。スッキリしました。
──たいしたことでは、ないンだがネ……
──ですけどネ。……ま、最上徳内伝のキワどいところを、先生のお話伺ってすんなり駆け
抜けて行
けるんで、僕は、助かったナ……
言葉づかいこそ「部屋」の徳内氏を目のまえにツィ軽らかでも、胸には、ソウルヘ発つキ
ム・ヤンジ
ァ(金楊子)宛てハガキを、急ぎ投函してきた余韻が、じわッと渦巻いていた。
徳内氏は知らン頭をしている。知らなくて当り前だが、その辺のことが妙に私には夢うつつ
で、知ら
ぬは実は私ばかりという気がしないでもない。徳内氏がはじめて野辺地で奥さん、おふで(二
字傍点)さんの顔を見
てオヤと感じたあの、オヤ、は今のこの気分に近かったのかも……と、現(うつつ)とも夢と
もあてどないことを
私は想っていた。が、徳内氏はお構いなしに、
──そりゃそうと例の万輔、ホレ大石逸平の跡をついだ男の本サ、『東海参譚』……あれは
チョイと
読みわずらう、感じ…だったかね。
447(121)
とっさに話の継穂を頭の芯に手まさぐって、
──いえ、そうでもなかったです。ただぼくの持ってます本は、巻末の「最上徳内伝」が割
愛してあ
って……残念……
──ナニあんたの方が、ヨッポドくわしいさ。
──そんな……。カラフト犬が眼中浅黄にして光あり、すこぶるよく舟を牽くとか、アイヌ
が蝦夷と
いう言葉を甚だ賎しめたものとして嫌ったとか、先生のお目利きで五、六丈もの岩から幾百年
の扶桑木
を穿ち採ったとか。その他、そりァいろいろ徳内先生に教えられて旅をしてるンですねえ、あ
の人。例
のイジュヨと出逢われた時、国の名は、ルシアかと訊くとオロシァ、オロシァかと聞けばルシ
ア……な
んて話も、面白かったです。
──「今番人と称する者、多くは亡命、あるいは無頼の凶漢、親族棄逐(きちく)せられて
遠く遁(のが)れ来(きた)れる輩(やから)に
して、東人を指揮するも又直ならず。ここを以て東人も自然と化せられて奸にはしり安し。い
たむべき
事なり」などと、書いていた…ね。
──この時の蝦夷地出役の最上官が、幕府目付の遠山金四郎景晋(かげくに)でしたね。若
いがたいへん秀才だっ
たそうですね。名判官、金四郎景元の父御で。聖堂試験ではみごとな首席をとったとか。
──さよう……
──この遠山が、徳内さんを蝦夷地にかけがえない大知識と認めて引立ててたのは、実は、
何年も前、
日高から十勝へ難処に新道を拓くについてのあのクビ一件このかたで……。本多利明やシーボ
ルトと並
ぶ、彼は最上徳内の最高の理解者、支持者じゃなかったでしょうか。
448(122)
──とにかく、あの方と行を倶(とも)にしたあの時
分が、わしの一生のうちでも、一等晴れがましかったと
思う。……じつに、いろんなことが有ったものさ……
──「北の時代」の一つのピーク、盛りでしたから……。で……その金四郎景晋に随(つ)
いて『東海参
譚』の例の著書なんかがソウヤ行きに加わったのが、文化三年(一八〇六)。勿論、要(かな
め)の先導役で徳内
先生はいらした。寛政十一年(一七九九)に猿留(サルル)山道の工事で重職とはなばなしく
モメての免職以来、
六年ほど北地の事から離れてらしたのを是非にと遠山が抜擢したのが、この、第八回めの蝦夷
地渡りで
……。あわや一切が水の泡かのあの大変だった天明六年(一七八六)からしますと、もウ早
や……二十
年も経ってたンですね。
──わしは、五十一になってたよ。あの六年以来、翌る天明七年、そして寛政元年、三年、
四年、十
年、十一年と蝦夷地の御用が度び重なった。
──東はとうに上地されてたし、この一年後には西蝦夷地も幕府が収公しちゃう。松前家は
転封。こ
の時に「国家安康」で徳川と豊臣がもめたのと同じよな、藩主章広が書いた「降福孔夷」事件
なんての
が、ありましたよね。
──そウそ。江差の、姥神神社に掲げた額だった……
──さすが遠山は、詩経にいう「福ヲ陣スコト孔夷(ハナハダオオイ)ナリ」と穏便に訓ん
だが、事
有れかしと江戸では、「紅夷二福を降ス」つまりオロシァヘの、松前藩の肩入れととった御用
学者が多
く、幕府はそれへ都合よく乗って、西蝦夷上地を敢行したんでしたね。
──いやもう……例の、蝦夷地見分なんぞ「公儀御用にあらず、一件御差止め」だなんて天
明の昔の
449(123)
騒ぎが、ウソみたいな勢いでね……
──ほんと……。イャ今は、だけど、なによりその、「御差止め」さなかの江戸へと急がれ
るところ、
途中でしたね。ま、あの道中にも徳内先生にはいろいろとお有りだったわけで……ことに仙台
じゃ、非
公式ながら藩から重役の二、三が蝦夷地の話を聞きに来たり。アアいうのも気になるといえば
なるけれ
ど、……全部割愛しちゃいましょう、それで、と。江戸へはあの年の、内に……
──と急いだが、間に合わず。ま、七草の粥は、江戸でいただきましたよ。
──それは……どの家で。
──聖堂のすぐ裏手に……
──と、神田明神の鳥居まえ辺り。
──そゥ。そこに、当時は儒者然として平松東蒙……こと、お鳰(にお)の親爺、狂歌師平
秩(へずつ)東作のまた新し
い家が出来てまして、けっこう論語の講釈なんぞをしていた。ひやかしに来たこく懇意な仲間
の宿屋飯
盛(やどやのめしもり)が、あいにくの留守をいいことに壁へ、「聖堂のうしろに儒者の香
(か)のするは孔子のひったへ(一字傍点)づつ東
作」なァんで落書きしてッたのも、その家でした。
──変り身が速いナ……天明六年暮には東作は、もう、六十…
──
一でした。だがなかなか……わしが蝦夷地へ立った時より達者にしてましたよ。それより……驚
いたことに、おさん(二字傍点)を預かってくれてた池之端の松屋、あの内儀の娘でおむつ
(二字傍点)さんというのが、わしの
娘を、妹ッて体(てい)でこの湯島の家に連れて入っててサ。親爺殿の世話なんかしていた
よ。七草粥も、だか
らソノ……。おさん(二字傍点)にゃまるッきり、そッぽ向かれッちまったがね、わしは。
450(124)
──「おもひ寝の夢になりとも南無あみだ、ててをあ
はせて給(た)べと祈らん」と、東作さんが死んだ時
遺族にまじって狂歌を供えている「むつ(二字傍点)女」のこと、ですね。「てて(父)」と
あるからは実の娘……
だ。お嬢ちゃんは、でも、可愛いさかりでしたでしょ……
──まァネ。……おむつ(二字傍点)は、やっぱり松屋のおてつ(二字傍点)さんに親爺さ
んが産ませてた。
──と、先生の先(せん)の奥さんやお銀さんとは、腹ちがいの妹……オヤ……オヤオヤ。
そんなワザとらしい声で私に顔を見られたのが迷惑か、面映ゆいか、徳内さんは奇妙にモジ
モジした。
東作老、論語でも教えぬうまいことを考えていた。前の年には、にわかに放蕩の味を覚えた
総領八右
衛門にほとほと困り抜いていたのも、縁あって町内駿河屋喜右衛門の姪女ふさ(二字傍点)を
嫁に取ったのが良薬、
ピタッと利いた。そこで「天明けまして七のとし、元日のあしたより」稚いおさん(二字傍
点)が懐(なつ)いているのを幸
い、いわくの有る娘おむつ(二字傍点)を蝦夷で殊勲の徳内後添いにと、東作は手ぐすねで楽
しみに待ち構えていた
らしい。
だが──この縁組みは実らなかった。結果は亡祖母の名を貰っている幼いおさん(二字傍
点)をまた置き去りに、
父親徳内の、よそめに出奔としか見えなかった再度、しかも此度(こたび)は単身で、の蝦夷
地渡りにむしろ拍車
をかけた。
八
徳内氏の江戸入りを待つことでは、東蒙こと東作こと 煙草屋の金右衛門以上に、音羽の北夷先生や娘
451(125)
のお亮も首を長くしていた。今は同門の右仲先生永井正
峯も、同郷の算学者会田安明も、待ってくれて
いた。それはいい。が、他にも徳内氏が音をあげたほど知友はもとより、かつて知らぬ医者
だ、本草(ほんぞう)学
者だ、絵師だ、御家人(ごけにん)だと、それぞれに伝てを求めまた突如訪れ寄ってきては、
好奇の目を輝かせて蝦
夷地での見聞について知りたがる。
四年まえ徳内を番医の山田宗後方へ世話してくれた元の水戸藩士、佐久間町で相変わらず足
袋屋をし
ている斎藤宇八郎も来た。旧主であるその図南山田先生にも昌平橋の屋敷へ招かれた。岳父の
ヒキで
賑々しく狂歌師仲間にも囲まれたし、書肆(しよし)との顔繋ぎもこの時から始まった。当人
の与(あずか)り知らぬうち、
徳内氏の「顔」はいやに広くなっていた。
徳内氏の帰府は、むろんそう早うに広く知られていたのではないし、当座の役目柄松前から
運んだ荷
物を、然るべく当局に委(ゆだ)ねたいのが先だった。のに、肝腎の普請役二人がどこに寝起
きして居るものや
ら、奉行所の門を叩いてみても門前払いに等しいあしらいで、押し問答のあげく、荷物は、勘
定支配で
普請役元締の席に居坐っていた金沢安太郎の手に内々押っ付けてきた。致し方なかったことだ
が、たか
だか行李の四つや五つは、坂下の青島留守宅になり放り込んでいてよかったンだと、あとあと
これは徳
内氏の悔いの種になった。金沢の手もとで厄介払いに処分された……と、徳内氏はホゾを噛ん
だのだ、
さもあろう……。
この前年──の、十一月二日に普請役の山□鉄五郎、佐藤玄六郎は荷物始末の届け出に添え
て、連名
で別に一通の伺いを、問題の金沢の手もとへ差出していた。伊豆国の舵手で伝右衛門と申す者
ほか、雇
船(こせん)自在丸に鮭の塩引きなど積み江戸へ戻っていたのが、昨日の一日には水揚げもみ
な済ませました。も
452(126)
し他に御尋ね等のことも無いなら「勝手次第在所へ」帰
しましてよろしいか、と。
金沢は翌三日に奉行桑原伊予守の指示をえ、四日両名を呼んで伝右衛門らは「御用無之(こ
れなく)候間、勝手帰
村」致させよと命じると、序でのように両名にも、「当分」の小普請入りを言い渡した。つま
りお払い
箱と決って、あとは蝦夷地一件、公儀より御尋ねのつど神妙に答えよという冷淡な始末の付け
ようだ。
田沼追放のとばっちりに相違なかった。年あけて江戸へ帰ってきた徳内氏には、ハテ二人の居
場所も、
容易には見つからない道理だった。
徳内氏は、自分に宛行(あてが)われるはずの給金が、牢屋下男なみ年に一両二分一人扶持
(いちにんぶち)だったことを今さら
知らされた、それも支払い済みとされていた。なるほど二年のうちには、それ位(しき)な金
額は自由にさせて
もらってきたのだから不服はない。が、蝦夷地のことは今後どうなるのか、もはや取りつく島
もなく、
公儀は蝦夷地見分の成果を政策に活かそうなど、気ぶりも見せていない。
こひきちよう”モは
田沼意次は木挽町の下屋敷に逼塞し、世間は彼の失脚を、「軽薄ばかりで、御側(おそば)
へつん出て、御用を
きくやら、老中(ろうぢゆ)になるやら、それから聞きねへ、大名役人役替(げ)ぇさせや
す、(中略)なんのかのとて、
さまざま名をつけ、おごって見たれば、天の憎しみ、今こそあらはれ、てんてこ舞ひや
す……」などと、
ちょぼくれちょんがれの節に合わせ、□を極めて罵り喜んでいた。三家三卿より代って老中に
推されて
いた「文武両道左衛門、源の世直(よなおし)」こと白河藩主松平定信の人気と、極端に表裏
した罵倒のされかたで
はあった。が、『解体新書』を刻苦翻訳した杉田玄白まで、田沼の落ち目をわが事のように嬉
しがって
いたのには、
「分かッて……ねぇ人さ」
453(127)
東作など、かすかに□の端を歪めていた。
「人の心は知られずや 真実 心は知られずや……でネ。ごらん。いい悪いは別にすりゃ、濁
る田沼に
ゃ五年辛抱できたものも、澄んだ白河になんザ一年、ッてのが人の世の通り相場だよ、きっ
と。まぁサ
……お前が見てきたとおり、『北』の火種はプスプスけむを吐いてらァね。今年中にだってあ
けぇ火の
手は上がらねぇッてもンでもねぇ。すりャ、お前の時代がまた来るね。きっと来るね」
けしかけるような事を言う一方、狂歌師東作は、おむつ(二字傍点)と新所帯を持っちゃど
うかと、かつて佐久間
町の仁助夫婦が徳内さんに出戻り娘のお丹をくっ付けたがったようなことも、平気で言う。
が、徳内さ
んを江戸へ引留めるはずの、肝腎のおさん(二字傍点)がいっこう父親に懐(なつ)くそぶり
もないし、おむつ(二字傍点)とて、まだ十
四にしかならない白い小餅のような少女だった──。
たきぎ
勢い徳内さん、元の古巣の音羽塾へ顔を出しては庭の隅の薪小屋で夢を結ぶようになってい
た。一つ
には今こそ「北」へと幕府の奮起を促したい利明先生、蝦夷地の話が聞きたくて放してくれな
い。そう
なると徳内氏も、記憶の限りは、自分の手でいろいろと書いてもおきたかった。
書く、といえば、徳内氏の知らないことだが佐藤玄六郎も山□鉄五郎も同じその頃、ものを
書いてい
た。
佐藤の『蝦夷拾遺』五巻は、遠く新井白石が著わしていた『蝦夷誌』を承けつつ、調査官と
しての優
秀さを遺憾なく発揮した、端正に過ぎるくらい要領をえた蝦夷地総括の書になっていた。佐藤
は無量の
懐(おも)いで、これを、宗谷で死んだ庵原(いはら)や厚岸(アツケシ)で死んでいるとも
まだ知る由ない皆川も含め、普請役五人の
共著として脱稿していた。だが一人として受理する者も幕府にはいなかった──。「元」
「享」の二巻
454(128)
には地理大概を、「利」には巧みな挿絵を入れてアイヌ
と産物の記録を、「貞」には蝦夷地の風習・生
活を説いた上で実に都合七百ちかいアイヌ語と日本語との対訳集が添えてあった。「別」巻に
は、大石
逸平が伝えた山丹人の情報に数倍して、竿取徳内の大働きによる「赤人の説」が詳細に盛られ
ていた。
イジュヨらとの交渉はもとよりだった。他にも例えば過去ロシア領への日本漂流民のこと、イ
ルクーツ
クに設けられていた日本語学校のこと、カムチャツカに始まるロシアの久しい千島進出や経略
のこと、
ロシア帝国や宮廷のこと。またロシア文字や記号、アラビア数字、驚ぐべきはロシア正教に係
わる幾種
類もの法具までが、あたう限り丁寧に図示してあった。
佐藤自身は赤人に会うはおろかクナシリ島へも渡っていない。大方は山□鉄五郎を介しての
伝聞のは
ずだが、把握の確かなこと、凄いというほか、ない……。
そして、山口また『魯西亜国(ロシアこく)紀聞』にイジュヨらを尋問した経緯を、苦心の
ほどの知れる筆つきで、
だが淡々として書きこんでいた。
徳内氏は、青島俊蔵の帰りを待ちわびた。なにより日々の暮しにもう差支えていた。白い柔
らかそう
な餅が、いやではない。が、なぜか野辺地で見てきた栗か柿かというあの島屋の娘が徳内さ
ん、気にな
っていた。湯島には居づらい、さりとて音羽の先生の家でも落着けないのだ。徳内氏は決して
そう言い
はしなかったが、察するところ生涯北夷先生の娘さんこそ理想の人、手の届かない人と思いこ
んでいた
らしい、と言うのも(東作が調戯(からか)い半分伝授したのだろうが……)柄になく、
「身が身であらうには(申したやなう)」とか、
「(身の程のなきも慕ぶも)よしなやな」とか、艶(えん)な室町小歌をかすめざま一度二
度、よそごとに□に
455(129)
したのを私は耳にとめているのだ──。
小さな打ちこわし騒ぎが、江戸の町でちらほら噂になっていた。田沼の党が、幕府内で「世
直し大明
神」に今もって抵抗しつづけている。それで世間様が腹を立てて、木挽町の屋敷や松本ら余党
の家に石
が投げられているという。食うにも困ったが、こういう江戸の毎日にも徳内氏は苛立ってき
た。
蝦夷地では、イジュヨらがまだシャルシャムに居坐っているのはほぼ確実だ……逢いたい。
フリウェ
ンにも、イコトイらにも逢いたい。徳内氏は行き方(がた)知れずの大石逸平をどうにか見つ
けて、蝦夷地へ、
と、もちかけたかった。
青島さんならどう言われるか……。
松前に居残った普請役青島と下役里見平蔵の残務整理は、天明七年(一七八七)二月によう
やく悉く
を終えていた。この正月には勘定所より、苫屋が請負うていた蝦夷地四場所を元の飛騨屋へ戻
すよう指
示があった。但し前年に交易しまだ各地の運上所に囲い置いた「産物」即ち塩引鮭六万五千本
余ほか、
魚油、干鱈、かすべ、干鮭、厚子、蝶鮫、干鮫、煎海鼠(いりこ)などは皆松前へ引取って相
応に売り捌くよう、
また「去年ウルツフ島へ渡ってきた赤人二名」は今もってエトロフ島に残留しているらしい
が、今後は
一切松前藩の処置に任せることとなり、いずれ早々に帰国させるのが本筋と心得おくよう、と
も念が入
れであった。イジュヨらとの普請役ら再度の接触を忌避していた藩の意向が反映していた、の
を、江戸
へ着いて間もない徳内氏は、むろん知ろうはずがなかった。
この達示(たつし)に応えて青島は関係者らの細かな届けをとり纏め、二月、「御用船五社
丸神通丸破船に付
(船具船屑浮沈荷物)取上候員数書上帳」「場所出産荷物囲高」など大量の報告書を江戸へ
送った。そし
456(130)
て三月には松前藩に宛て蝦夷地一件一切の「引渡申談
書」を差出し、松前志摩守家来、因縁の浅利幸兵
衛、そして鈴木弥兵衛の受取りを添えたものを江戸へ伝達していた。
青島俊蔵この間の精励はみごとだったが、また松前方との癒着と見られかねない、誘われる
に任せタ
ガが弛んだような逸楽の日々も混じっていたらしい。思い屈すること多々有って、強いて堪え
ての後始
末だったには違いない、が、三年後彼が松前藩へ内応を疑われ北地に身を錯(あやま)ったと
すれば、種はこの時
に播かれていたに相違なかった。そして徳内さんがあの時松前に倶に居残っていたとして、日
々に憤り
さえ含んだ青島の素行をよく鎮められたか、引きずられていたか、ご当人は首をひとつ捻(ひ
ね)って、即座に
は答えられなかった──。
青島俊蔵は徳内氏に後れることほぼ三月で江戸へ帰ってきた。そして下役に下げられたま
ま、なぜか
金沢安太郎の配下に留めおかれることになった。定信は広大な蝦夷地を緩衝地帯にしておけば
オロシァ
と事は起きまい、「北」はそっとしておくのがいいという意見だった。が、やがて老中にもな
る彼の盟
友本多弾正忠籌(ただかず)は蝦夷地重視を考えていた。青島俊蔵が田沼や松本秀持の息のか
かった男と知りつつ、
一人は蝦夷地に通じた者を残されよと進言したのも、陸奥泉藩主のこの本多弾正だったらし
い。徳内氏
は、この時から妻子のない青島に仕えて下谷坂下の家に同居しはじめたが、それも永くは、一
月とはも
たなかった。蝦夷地への執心、いや江戸への失望、いややはり蝦夷地へのあたかも郷愁の如き
ものが日
ましに徳内氏をとらえて離さなくなっていた。
青島は黙って二分金を手渡して呉れた。北夷先生も二分、お亮は一分包んでくれた。東作
は、香典だ
と思いナとわらって三両の金を揃えてくれ、そして、
457(131)
「えれえ……」
その一言だけだった。徳内さんは死なれた妻の父に、はじめて涙を見せたそうだ。だが徳内さ
ん再渡(一字傍点)
の決心を促した、もう二つの理由があった。
ある非番の日、青島は徳内氏に随(つ)いてこいと命
じ、ふらりと懐手で家を出た。なんでも随分歩いて、
内藤新宿よりまだ西の西のまるで田舎まで連れて行かれ、そしてとある小家で思いがけない佐
藤玄六郎
の顔を久々に見た。どこでどう言い合わしてあったか山□鉄五郎もやがて訪れた。
絵に描いたような二人の牢人ぶりにも驚いた。が、ごろた石むき出しの川床をさっぱりと風
が渡って
行くような、それさえ今さら……という拘泥りない顔をしていて、アツケシやメナシで果てた
という皆
川や大塚らのため、変わらぬ□つきで二た言三言ずっもの静かな思い出話を交していた。
こういう顔合せもこの時節でははばかり有りげに見受けたが、その日のどんな話より何より
徳内さん
が胸打たれたのは、佐藤玄六郎が山□に、青島に、一冊ずつ手ずから贈った『蝦夷拾遺』だっ
た。その
出来栄えだった。山□もまだ仮綴じの自著を持参し、青島また、徳内の知らない『紫奥畧談』
と仮題し
た書きかけの小冊子を懐中から出して披露していた。しかも三人とも互いに、そして徳内氏に
も、なお
細々と念押しの質問をなげかけ合って倦まない。
『蝦夷拾遺』か……こう見事に纏まったものがあってよかったと、大事の資料を、むざむざ元
締の金沢
に渡してしまった申しわけなさに今さら縮みながら、徳内氏も息をついている、と、御公儀へ
は当然差
出されたことと思うが……と青島が確かめていた、普請役五人の名を連ね、自身のは末尾に署
名してあ
458(132)
る佐藤玄六郎の労作に、目を落としたまま。
「受取らねえよ」
佐藤の伝法な返事は、いっそ笑い噺を聞いたほど軽い調子で──、だから人を介し水戸へ一
部献じて
おいたと彼は言う。それはいい、義公光圀(みつくに)様の昔からあそこは「北」に気がある
のだ、立原翠軒のよう
なお人もいると、旧知の噂でもするように山□鉄五郎が首肯いていた。北夷先生が徳内聞書を
献じたい
と急いでいるのも今名の出た翠軒で、この彰考館総裁を介して水戸公を動かし、やがて幕府の
目を改め
て「北」へ向けたい算段…と、徳内氏も眺めていた。
「ことの潰(つい)える時は、マ、こんなもの……」
山□はそうも言いつつ、ふと松前城中の桜を思いだし顔に、二年か…とつぶやいた。
──おかしいのでは、ないか……
今にもそう□を切ってあの時のように、皆川沖右衛門が膝を押し出してきそうで、四人とも
思わず武
蔵野の春に目を放ちながら、心しおれた。
「だが……たしかに、おかしいことになっている……」
山□鉄五郎は、もう一度、二年前まえと同じ断定をおだやかに──空(くう)に浮かぱせ
た。応える声も、な
い……。そして。
この日徳内氏ははじめて、三人のまえで蝦夷地へまた行って来たい希望を洩らした。
「渡れまい」と、青島が。
「渡ってしまえれば……」と、佐藤玄六郎が。
459(133)
声が二つ揃って、それだけだった。山□は黙って徳内
氏と目を見合わした。それだけ、だった。揃え
た膝頭を掌で大きく掴んだまま、肚(はら)は、「決めました」と、徳内氏は私に話してくれ
た──。
あまり言いたヵないが……と徳内さんは渋るけれど、もう一つ、決心をつけたのにわけがあ
る。
湯島も音羽もうっとうしい、同じ蝦夷地の話を誰にも彼にももう喋り倦(あ)いた頃から、
徳内氏はほかな
らぬ岳父東作の耳打ちで、千住に近い、だいぶお安い囲場所へ足を向けだしていた。そのう
ち、いつか
馴染みのまるで剃刀(かみそり)のような女に、急にどう見込まれたかキツイ愛想づかしをさ
れ二度と来るなと怒鳴
られざま、しゃにむに懐中へなにかを捩じ込まれた……という。
へんに嵩ばるが、見るなとまたわめく。しまいに泣きじゃくる。
仕方なく外へ出て、暫くして月明りに取り出し、見ると手厚く作った男ものの脚絆(きやは
ん)だった。妙な判じ
ものだと思いながら家に帰って見直したが、脚絆に変わりない。そして四、五日して性懲りな
く出かけ
てみると、女は自身の身の内から引き抜きでもしたか、凄い剃刀を使ってひとり血を流して死
んでいた。
「あんたを藤枝外記にしたかァ、なかったってさァ心中者の片割れにネ。……行っちまいな
よ。なんだ
って、また来やァがったんだよ」
血みどろの後始末をしたという同じ身上のお玉という女が、やりきれないという顔で徳内さ
んをにら
みつけた──。
死んだ女は名をおぬい(二字傍点)といった。「あに」は精出して江戸で男になってくれろ
と、一緒に遁げるのを
拒んだあの故郷(くに)の従妹お縫とは似ても似つかない、とかく噛みついてくる扱いにくい
女だったが、一昨
年だったか四千石かのお旗本を道連れにした遊女と、同じ心もち、同じ根の哀しみに沈んでい
たとは知
460(134)
らなかった。徳内さんは気がつけないでいた。
お前……は、お前の旅に出よと、なにかを見抜いておぬい(二字傍点)は手づくりに、この
別れの脚絆をわしに呉
れたか……。
顔も知らない生みの母を想い従妹の行方を思ううち、ホトホト江戸がいやになった。
徳内さんは、自分が逢いたい者は、みなあのアイヌモシリヘ先に行って、待っていてくれる
ような惑
乱──こ囚われた。
天明七年(一七八七)四月──末、三十三歳になった
最上徳内は第二度の蝦夷地渡りを果そうと、ひ
とり江戸をはなれた。
一言もよけいな口は利かず、上野の松屋で平秩東作は、孫のおさん(二字傍点)、それに後
添い顔のおてつ(二字傍点)改めお
露や娘おむつ(二字傍点)も同座の、サッパリした送別の宴をもってくれた。心もち陰気なお
さん(二字傍点)は、やっぱり、お
むつ(二字傍点)にばかり纏(まと)いついていた。
東作はワザとか、早々に酔いっぶれ、女たちは目をしばたたきながら、旅の支度に、笠や弁
当を用意
してくれていた。
脚絆の緒をしっかり締めた。
江戸では、やがて未曾有の大打ちこわしが始まろうとしていた──。
461(135)
終章 〈北〉の時代、今なお……
一年──が、紙一枚、ヒョィと裏がえす感じに経って
いた。がむしゃらに手も足も動かし、しかし、
通り過ぎてしまえばサテ何をしたともいと不確かな私の「秋から秋へ…」だった。
もっとも私だけが不確かなのではなかった。
内閣の首班が鈴木善幸から中曾根康弘へ替った、が、相変わらずの党内たらい回しだった。
そうする
側も、そうさせる側も、国民の本音も不確かなままの、まるで茶飯事(さはんじ)だった。だ
が、書き次いできた私
の『最上徳内』は昨秋十月号からこの十月号へ、確かに、雑誌にまだ連載されつづけている。
同じ一年
間のうち去年の師走には、独裁政権下に命の危険が心配されていた韓国の元大統領候補が、か
なり不確
かな□実で牢獄からアメリカヘと追い放たれ、そして今年昭和五十八年夏相次いで、同じ雑誌
『世界』
に久々に日本の読者への挨拶を送ってきた。講演録や、インタビュウに答える形で送ってき
た。
……日本もアメリカも、自国は民主主義の旗を声高にかかげながら、なぜ他国の独裁政権を
こうも臆
面なく支持しつづけるのか……。
462(136)
その声にまだ私が耳を傾けている間に、八月、金太中
(キムデジュン)氏とにた境遇から余儀なくアメリカに長く滞在
していた、フィリッピン国の、現大統領の政敵アキノが、久しいマルコス独裁政治へ死を覚悟
のたたか
いを挑もうと故国へ帰りついた空港で、タラップを降りたか降りぬまにもう射殺されていた。
死だけが
確かで、周辺には不確かな謎ばかりまだまだ渦巻いている……。
やりきれない思いをしていると、今度は今月九月早々、韓国の旅客機が、信じられないコー
スでソ連
領空を長時間侵したあげくミサイル攻撃を浴び、サハリンの南海上へ撃墜されてしまう事件が
起きた。
むちゃくちゃだった。民間機を撃ち墜(おと)したソ連は、どんな国防上の理由を並べようと
も人道上のむちゃ
くちゃを犯した、明らかな失錯を犯したという罪は免れない。飛行機には日本人もアメリカ人
も大勢乗
っていた。韓国人はもっと多かった。
それにしても、世界中が信じられないハデな領空侵犯をしでかした韓国は、その事でまず関
係各国に
謝罪して当然なのに、私は、今もってそういうことのキッチリと為されたらしい報道を目にも
耳にもし
ていない。アメリカや日本の政府が、その点で、ソ連を糾弾し制裁するのと同じに韓国政府に
も厳重抗
議したという事実を知らない……いっそアッパレなほど韓国がキンキン声でソ連を非難し、日
本の
「北」が、がぜん意図的にキナ臭くされている日々だけを、不安に送り迎えしている。あげく
徳内氏と
話しこむ。
徳内氏とは、むろん、あれからも幾度となく「部屋」で話しこんできた。小説にしても私
が、これッ
位でどうでしょう…と言えば、ご当人も、
──アア十分(たくさん)です。
463(137)
──ハッハッハ……編集者もタクサンだと言ってます
かも。
最上徳内の人生八十何年を平たく書き綴っても、長々しい話になるばかり。どういう人物
だったのか、
その分ではもう足りたはずと、私はこのところ貧乏ヒマなしの別の原稿書きにも明暮れてい
た。
ヤンジァは、ソウルから、三度ほどみじかい季節の便りをくれた。どんな学校でどんな勉強
を始める
ともはっきりしない。が、あるヤンジァの同胞が友人に語った、「この(韓国)社会において
果してど
れほど多くの人が死んで民主主義が実現されるのだろうか」また「君と私が生命を捧げて民主
主義を実
現しようとする心を持たない限り、(韓国に、そして世界中に)民主主義は決して来ないだろ
う」とい
う言葉を手紙に書きつけ、その同胞が、つい近日、死刑を宣告されていることなども告げて来
ずにはお
れなかったらしい。
韓国の事情ならむしろ日本での方が、遠近法正しく、よく伝わっているでしょうし…などと
あると、
そうかナまさかと思い、私は筆不精を決めこんでいた。ヒョンヨンとも二度ほど逢い、Uとも
逢ったり
手紙を貰ったりしたが、ヤンジァの噂はこぼれ落ちたようにない。そして一人のヤンジァが
去ってしま
うと、あの……もう一人のヤンジャ(楊子)も、ついぞ姿を見せなくなっていた。関西へ仕事
で行った
おりなど例の電話番号をまわすと、きまって昔ながらの李妙珊、でない伊藤妙子がちゃんと出
てきて、
おだやかな京言葉で、書いといやすもン、ときどき見せてもうてますなどと、のんどり喋る。
あき
坊(ぼ)ン、このごろ何やってはンのやろ、なんにもよう知らんのどすえと、呑気に弟の噂も
したりするが娘
のことは話そうとしない。
──いい子だったかな……
464(183)
──あの…尾岱沼(オダイトウ)の子、ですか……。
徳内先生(さん)、ホントはよぅご存じなんでしょ、あの子のこと。
── …………
──呼んだら……この「部屋」へだって、出てくる……。いっぺん呼んでみましょか。
──およしよ……
──えぇ。よしときますがどっちみち、いつか現われます……きっと…。私がノホホンとし
てたもの
なら、必ず文句をつけに出てくる気ですよ、あの子は。
──かわいい顔をして……。あんた、いい娘(こ)…持ったじゃないかね。
徳内氏は、まんざら冗談ばかりとも思われない顔で、それを言った。言ってくれた。赤く
なって私は
慌てて手をふった。
──マ、それより今すこしお聴きしときたいことも、あるし。……天明七年(一七八七)春
からあと
の最上徳内伝なんかも、ざっと……
──必要ないと思うがね。……あの二度めの渡海じあ、案の定(じよう)の松前藩に手痛く
阻まれて。にっちも
さっちも行かないまま、野辺地へ舞い戻ったんです。蝦夷地を叩き出されたんだ。で、野辺地
で嫁をと
った。天明八年でした。が、そんなこたァわし一人のこッて、どッてこっちゃないんでネ。
──算段どおりの、嫁とりでしたしね。
徳内氏は、だが澄ました顔だ。川原慶賀描く、あの、シーボルト『日本』の挿絵の顔だ。
──それよか、そんなふうに話される先生の言葉づかい……ですが。山形のなまり、それで
も有るン
でしょうけど、まず、すっかりの江戸弁……
465(139)
──なに、それだけ江戸の暮しが長かったッてぇこと
です。
──人一倍、語感にすぐれていらした……。ま、その件はいいんです。その野辺地におられ
たッてこ
と……天明七、八年に。これが先生の運命を分けましたね。翌、九年改め寛政元年(一七八
九)の五月、
クナシリ・メナシでシャクシャイン以来のアイヌの大騒動が起きて……和人七十一人が殺され
た、のを、
六月初めには逸早(いちはや)く江戸の青島俊蔵へ先生が報された。幕府は背後にオロシァの
手が伸びてはと、大慌
て。青島を起用して、あくまで隠密に事の経過や松前藩の対応、アイヌの不満、赤人の動きな
どを査察
してこいと……
──そう。途中、野辺地で待つわしを青島さんがまた拾ってくれまして……三度めの渡海に
なった。
クナシリまでまだ渡ったんです。大概わしは青島さんとはあの時、別行動でね。町人姿に身を
変えて飛
騨屋関係を調べる役目の御小人(おこびと)目付、笠原五太夫ッて人の、わしは案内役をして
いました。
──青島とは、離れてらした……
──そう。申し合わせてネ……
──それが先生には、後日幸いしましたね。……で、あげくアイヌは、この騒動では苦しい
決着を余
儀なくされた。
──そうです。ツキノエ、ションゴ、イコトイら力のある乙名(おとな)たちが、松前藩の
武力討伐による惨事
をせめて避けたくて、和人殺しの徒党を、泣く泣くかわいそうにぜんぶ犠牲にしてしまった。
わしが知
っていた若いアイヌも何人も、殺されてました……
──で、決着ついたその年の十月ころには、青島に随いて先生も江戸へ帰ってらっしゃる。
野辺地に
466(140)
奥さんを置いたまま……でしたね。ところが青島俊蔵は
一件落着後、密偵の分を弁(わきま)えず松前藩に内応し
たかと老中松平定信のしつこい疑いを受けて、江戸で翌年牢死を…してしまう。一方トバッチ
リの徳内
さんは逆に死線をこえて、普請役下役にお取立て。それも放免と同時の八月。
──師走には本役に挙げられて、明けて三年正月には早や、四度めの松前渡りだった。
──今度こそ堂々と。同役やお供までも従えて。……その前の十月、晩秋頃でしたッけね、
奥さんの
おふで(二字傍点)さんが単身野辺地から江戸へ出てらした、先生の牢屋入りの噂を心配され
て。その頃のお二人の
お住まいは……神田辺で。先生の『蝦夷草紙』三巻ももう書かれてたし、幕府の「北」政策に
は本腰が
入ってきていた。以後、「北」第一人者として……「最上徳内」は、いッつも最先頭を。
フリウエンが生きていたらと……よく思った。……この四度めにはまたウルップ島まで行きま
し
た。イジュヨらが、この頃までエトロフ島に匿(かく)まわれてたらしいンだが、ほんの僅か
な行き違いで再会
できないでしまった……残念だった……あれは。
──でしょうね。で、次。寛政四年の五度めには、四月から六月へかけて今度はカラフトを
調べられ
た。前年もこの年も、ほとんどの期間、蝦夷地で先生は過ごされてる……
──そのあとは、げと、ちょっと間がおけてます。さん(二字傍点)を引取ったり、うちに
も子が生まれたり死ん
だり……稲毛屋の親爺さんも、メナシの騒ぎ時分には亡くなっていた。神田からあと何度か引
越しもし
たが、寛政八年(一七九六)に、古谷に八十坪ほどの屋敷を拝領していますよ。
──多年の功労……によってですね。翌る九年ぐらいから、「北」の海はロシアやイギリス
の船が出
没して、幕府は無気味で仕様がない。またまた大々的に蝦夷地巡察隊派遣の声が上がって、寛
政十年、
467(141)
今度は先生は、近藤重蔵を輔佐されて六回めの渡島。海
が怖さにクズる村上島之允や長島新左衛門を尻
目に、またエトロフ島まで渡ってらっしゃる。そして七月二十八日でしたッけね、リコップ海
岸に「大
日本恵登呂府」という、……重歳以下十何人かが署名の標柱を樹ててこられた。
──領土宣言、のお積りでしたか。
──左様……すくなくもエトロフ島には、イジュヨのような逃亡者はべつとして、オロシァ
人が文字
通りに暮していた、生活をしていたという形跡はそれ以前に何一つも、無かった。……もっと
も、島の
アイヌが日本に帰属していたか、どうか…アツケシ辺との交通を考えに入れるなら、帰属して
たとも言
えた。が、ハッキリは言いきれなかった。
──クナシリ場所からも外れてたエトロフ島こそ、アイヌのモシリ(天地)だったと。アイ
ヌには、
領土という考えは…無かった……ですか、ほんとに。
──分からん。すくなくも、漁場という意味の海や川に関しではそういう考えが、有ったと
想う。
──ま、ロシア側も、エトロフ島までは歴史的にも日本寄り……と、当時考えてたのは事実
だし、そ
こには徳内先生のお働きが、確実にものを言うています…が……
──また考えようでは、わしが蝦夷地で犯した間違いのなかでも、あんな柱をおッ立ててき
たのが、
一番みッともない、恥ずかしいこととも、言える……
──なにしろ、そこにアイヌが暮してる、暮してた、なんてことあ考えちゃいない、誰も。
都合よく
アイヌらにも日本名を名乗らせといて、証人然としてその柱に署名させてる……
468(142)
── …………
私は徳内氏に、今起きたばかりの大韓航空機によるカムチャツカ、千島、サハリン上空侵
犯、そして
ロシア(ソ連)戦闘機による撃墜事件の、分かっている限りのあらましを話してあげた。徳内
氏は、か
すかに渋面をつくっていた。
──今この、うちの近所にも政府与党が貼り出してますポスター、宣伝(はりがみ)、に
ネ。横顔の感じなんかえ
らく先生に肖たお侍の絵が描いてあるんですよ。クナシリ島の見える尖ンがった岬にシャンと
立ちまし
てね。風に吹かれてはるかな島を見つめてる。手に筆と紙を持ってです……が、ポスターにあ
る墨の文
字がこうですよ、「昔から日本の領土だった」……
──アイヌのこと、抜き(2字に、傍点)にすれば……クナシリ・エトロフ島までは正にそ
の通りだったが。
──抜き(2字に、傍点)、にしていいんですか。
徳内氏が活躍のころ、サハリン(樺太)島はすくなくもロシア領でも日本領でもない、そん
なことの
決められるような状態になかった。アイヌその他少数民族が混在しつつ彼等の天地だった。本
当は千島
もそうだった。北海道でも大半そうだった。私は、最上徳内が今後もとかく領土問題での日本
の尖兵と
して持上げられるであろうことに、賛成でない。徳内氏は、エトロフ島にあんな柱を立ててき
たあと、
心に思い屈するものがあってか、アイヌの為にも……という働き方へ身を寄せて行った。渡海
七回めの
寛政十一年新道工事に、せめて馬一足が通れるようにと念を入れて上司と衝突、クビにされた
のも、そ
うした徳内氏の心底に繋がる振舞いのあげくだった──ばず。……それなのに以来二百年、日
本国は、
ソ連邦は、アイヌの運命をどう惜しんできたか。
469(143)
私はまた脱線して徳内氏に、つい近日、女名前で読者ら
しい東京西池袋の未知の人の送ってくれた、
宮村順一著『皇軍とアイヌ兵』のことを話してあげた。「沖縄戦に消えたアイヌ兵の生涯」と
副題のつ
いた、実話の聞書かと思われますが……と、話すにつれて顔があげられない恥ずかしさに苛
(さいな)まれる──。
「兵」の母は日本人。夫がアイヌだったと結婚後に知った母は、二人の子もろともに夫を罵り
恥じしめ
て捨て去る。自棄と怨念に負けて父は狂死し、むごい差別に、地にはうように幼い兄と妹は生
きながら、
人間(アイヌ)の誇りにめざめて行く。満州へ出稼ぎの体験を経てきた兄は、その間もいろい
ろと彼らを支えてく
れた年上のアイヌ女性と登別(ノボリベツ)で結婚し、しかし、年若い夫はやがて戦場へかり
たてられ、アイヌを虐(しいた)げ
つづけてきたその日本の国を守るために「皇軍」の兵士として沖縄の激戦区へ入って行く、妻
はいとし
子を今、身篭っているというのに。
だが沖縄の島の人は、アイヌの彼に優しかった。沖縄人とアイヌとはビックリするほどよく
似ていた。
太平洋を隔てて遥か登別のアイヌコタンに妻や妹の身を案じながらも、彼は、沖縄で遅々(た
またま)知り合ったあ
る家族との触れあいに、どんなに慰められたことか。以前満州では、「俺は熊襲(くまそ)の
子孫」というアイヌ
以上に毛深い上司だけが彼をよく庇(かば)ってくれた。「熊襲とアイヌは南と北に別れた兄
弟である」という
のがその人の口癖だった。それなら……沖縄とアイヌとも。若きアイヌは「皇軍」の横暴と無
道とが
日々沖縄現地人の暮しに及ぶと見るにつけて、同じ「日本人」と□では強いながら、アイヌ兵
や朝鮮兵
また沖縄人に対する仕打ちのひどさに呆れ戦(おのの)くのだった。
──彼は、満州で出会った「熊本県」の「熊襲の子孫」のことを、それ以上語っていないん
ですが。
だけど同じ「日本人」のなかにも、そんな熊襲といった自覚からアイヌや、沖縄人や、朝鮮人
のことを
470(144)
じっと共感をこめて眺めている者もいた事実に、気は、
ついてたと思いますね。
──そういう共感が、纏まって一つの力になれば……まだしも、いいのだろうが……
──なぜ、……でも、日本人はアア身勝手に弱い者をいじめるのか。……恥ずかしい。
──そうだ、恥ずかしかった……わしも。
──先生ですら。……で、そのアイヌ兵がどうなるか……ですが。上陸するアメリカ軍の猛
攻下、彼
が親しんでいた沖縄人家族と一緒に、一人残らず理不尽を極めて殺されちゃうンです……老い
も若いも
全滅でした、女子供もです。それもわが「皇軍」の手にかかってですよ。
──誰が、しかし……その事を書いている……。
──「皇軍」には、成りきれなかった日本兵もその場にいた……ということでしょうか…。
徳内先生
も、そうでした。
徳内氏は、それには答えないで二人とも黙りこんだ。──「部屋」の外の、遠くから、妻の
声が私に
電話ですようと呼んで──いる。
去年──横浜の関内(かんない)でお願いした文化講
演会を、今年は、札幌と北見にまでお出まし願えんでしょう
か……。S社の電話はその依頼だった。ご存じ劇作家のT先生とご一緒なんですがとも、北海
道は目下
のご連載にもまぁナニなもんですし、とも言われた。ナニかどうかはともかく、徳内氏といつ
いつまで
一緒、というワケにも行かないとは思っていた。十月半ばだそうで思わず尾岱沼(オダイト
ウ)六月の夜寒を想い出し
胴震いがした。が、いいキリだ、それまでで徳内さんにはひとまずお別れを告げよう。引受け
ます……
471(145)
と、電話を切った。
立たせもやらず、また電話(ベル)が鳴った。出るとプツリと切れた。よくあることだ、
が、ちッと舌打ちが
出た。それでいて気が騒ぐ、……誰かに、呼ばれているような。
妻が、今日の手紙の束と、到来の本や雑誌を抱えてきた。手紙には、一昨日ご当人からの電
話で、券
を送った、よかったら見て欲しいと言われている能会の招きもまじっていた。翌る秋分の日の
三時開演
だ。花の夕顔を舞うHさんの三番目もさりながら、なにより、一噌仙幸の笛ほかで喜多実「山
姥(やまむば)」の舞
囃子とは、『徳内』の仕事からまた一段遠のくものの、これは観たい。
翌日は、それで青山へ出かけた。入り□で、能楽堂ではよくお目にかかる歴史画のM画伯に
出会った。
院展へも、どうぞ……。ええ。ぜひ…と挨拶もそこそこ下足(げそく)でとり紛れているうち
Hさんの奥さんに声
をかけられ、もう満員の座席へ案内された。
近頃珍しい居坐りの席で、小座蒲団が敷いてある。開演までを、ふぅッと汗を入れている
と、すこし
離れて、中国へ一緒に行った詩人0氏の小柄な姿もある。おッと笑顔で目礼を交した視線が、
そのまま
軽く向うへ伸びて……、ハタと行き当たった。見たこと、ある……ゾ。
私の方でややうしろ向きに上体を捻っていたから、斜めにも顔はよく見えた。向うでは私よ
り先に気
づいてたらしい、まァという顔をして急いでちいさく頭を振った。真黒い髪を肩先で豊かに切
り揃えて
いるのはあの時のままだ、が、今日は更紗ッぽいワンピース。エキゾチックな……あれ、
は……苫小牧(とまこまい)
から様似(しやまに)まで、日高海岸の汽車旅を一緒にした女子大生じゃないか、いやもう卒
業したはず……たしか
大学は駒沢……。しかしもう──橋掛りへ、どこか病身かと思うほどゆらッと細い、笛の一噌
仙幸が、
472(146)
静かに、静かに歩を運んでいた。
三時間──、その間に十分間の休憩にも起たず、振り向きもしなかった。喜多の宗家の「山
姥」山廻(めぐ)
りに酔ったまま、そのあと狂言でも、能「半蔀(はしとみ)」でも私は昏いめまいの底にい
て、夢まぼろし、蛇体に
死なしめた鳥追野のあの「冬子」の幻を想っていた。想い、こがれていた。η冬は冴えゆく時
雨の雲の
η雪を誘ひて、山廻(めぐり) 廻り廻りて、輪廻(りんね)を離れぬ、妄執(もうしゆう)
の雲の、塵積って、山姥となれる、鬼女が有
様、みるやみるやと、峯に翔(かけ)り、谷に響きて今までここに、あるよと見えしが山又山
に、やまめぐり、
山又やまに、山廻りして、行方も知らず、なりにけり……か。
せめて、ヤンジァきみとは、また。……また行くからね、北海道に。行くからね。逢おう
ね、そう呼
びかけるうち、
ηあさまにもなりぬべし、明けぬ先にと夕顔の宿り……の、又半蔀(はしとみ)の内に入り
てそのまま夢とぞ、な
りにける……と、Hさん演じる源氏物語の愛らしい女幽霊は、まなこの奥へ溶けるように、影
を──消
し、ちいさい私の涙も、ふくれて……消えた。
七、八分後──には、いつとなく連れ立って、表参道の駅の方へあるいていた。
「馬……に、やっぱり、ご縁があったみたいですね」
「え。馬……」
「ま、き、ば、の宿」
「ああ。……でも、として……」
エジプト壁画の相変わらず美少女のような人は、かるく路上に足をとめて、
(η:謡い出し記号? の代り)
473(147)
「だって仰言ってたでしょ、連載なさるッて。……読ん
でますもの『徳内』さん」
頭をかいた。やっぱり目白辺でお姉さんと暮しながら、大学院へ進んだ傍(かたわ)ら付属
高校でアルバイトし
てますと言う。今日のお能もお勉強のうちかと聞くと、歩きながらいえいえと手を振る。長い
中指の碧
い指輪に見覚えがある。
「北海道の旅、で、どぅだった、あなたの方は」
その人は、直接それには答えずに、「えりも2号」で乗り合わせた、あの、戦友や遺族を訪
ねて廻っ
てるとか言ってたおじいさんは、
「あの時、登別でアイヌ遺族とも逢ってきたとこ、だったンですってよ」
「えりもの街で、あの日は泊るんだッて言ってたナ……感じのいい人でした……」
それから娘の就職のことを訊かれ、赤坂にあるS美術館にと返事すると、あそこ時々行くン
です、ヘ
ェえ……いいワと、若い人らしい声が出た。そして、そのまま、地下鉄のところで私からサヨ
ナラを告
げた。
「また、出逢うでしょ…う」
「エエ。また北海道で……三度めの正直……」
ウンと両方で笑い声になって、頭を下げた。
「徳内さんに……ヤンジァ…さんにも、ヨロシク」
もう一度、有難うとうなづいた。名前も尋ねなかった。ガランとした表参道の地下駅へ入っ
て行きな
がら、フト、あの『皇軍とアイヌ兵』を送ってくれたの、さっきの彼女ではなかったか…と
思った。富
474(148)
ナントカ……さんイヤ、差出人の名はすぐ思い出せな かった。
九月二十四日の夕刊──大韓航空社長が合同慰霊祭あ
との遺族との話合いで、今度の領空侵犯を「事
故」と言い、「事故の原因はソ連が電波で大韓機をサハリン上空に誘引した可能性がある」な
どと、お
話にもならぬ「推測」で、はや補償上の責任逃れをしはじめていた。アメリカではあるアメリ
カ人乗客
の未亡人が、燃料節約のための「近道もしくはスパイ行為のため」の侵犯に違いないとし、米
韓両国に
10億ドルの損害補償支払いを求める訴訟を起こしたという。
東京新聞モスクワ特派員は、すべてを「米国の特務機関が計画したスパイ活動」と強調する
プラウダ
八項目の疑問を伝え、この疑問に「ワシントンは結局、いつになったら回答するのか」と、ソ
連側の非
難の根拠を報じていた。八項目すべて、私が、いや世界中がぜひ知りたいと思うことばかり
だった。
1、高性能の航行機器を積み込み、経験豊かな乗員が操縦していた大韓航空機が、米日の航
空管制を
受けながら、なぜ長時間国際航路から五百キロも逸脱したのか。
2、大韓航空機の乗員は地形を確認できるレーダーを持ちながら、なぜカムチャツカ上空で
航路を修
正しなかったのか。
3、大韓航空機はなぜソ連の複数の主要な戦略拠点の上空を飛行したのか。
4、米国は初めからこの領空侵犯を知りながら、なぜ制止せず、ソ連に連絡しなかったの
か。
5、なぜ大韓航空機は米国の偵察衛星のソ連上空通過と同時に侵犯し、なぜ同時に付近で米
国の空海
軍が多数活動していたのか。
475(149)
6、日本外務省の公式声明によると、大韓航空機から
カムチャツカのペトロパブロフスクの南西六百
キロのオホーツク海上空を飛行しているとの事実が送信されているのに、なぜ米国務省は「大
韓
機は無線標識に基づく所在しか伝えなかった」と声明したのか。
7、航行機器の点検を怠り、ソ連側からの警告を無視するなど大韓航空機の一連の「不作
為」をどう
説明できるのか。
8、大韓航空機の乗員の異常な多さとその全員の氏名が未公表なのはなぜか。
疑問は疑問として、ソ連の軍事優先の無道が許されるものでは、決して、ない。が、疑問に
答えず手
前味噌を言い過ぎるから、アメリカ人からさえ米韓両国は「事実公表阻止ともみ消し」を疑わ
れること
になる。まして日本政府が、両国の尻馬に乗ってやたら「北」へ火種を振りまくなど、迷惑至
極なこと
……。
いささか床の間の「黙」一字に恥ずかしいくらい、経過を説明しながら、つい徳内さんにま
で嘆き節
になってしまう。
──あんた…も、……。
──…変わりました…か。
徳内氏は、ゆっくり首肯いた。変わらないのは「北」ですねと、私はムキを変えた。
文化二年(一八〇五)には遠山景晋(かげくに)の抜擢で、徳内氏は六年ぶり八度めの蝦夷
地渡り。そして松前に
越年の翌三年の焦点は、「東」につぐ「西」蝦夷地の収公、幕府直轄だった。
──ちょうどこの間(かん)でしたね、先生が暫く「北」のお役から離れて、『蝦夷草紙後
篇』など仕上げて
476(150)
らした…間に、伊能忠敬の蝦夷地測量が始まる。高田屋
嘉兵衛が、日本の商船では初のエトロフ航路へ
乗り出した。ウルップ島へも嘉兵衛は渡り、幕吏富山元十郎と深山(みやま)宇平太は西暦一
八〇一年(享和元)
六月末、この島のヲカイワタラ丘に「天長地久大日本属島」という標注を樹てて来ています。
その頃の
ウルップ島は、ロシア人との間でけっこう、ごちゃごちゃ…と。
──対応のため蝦夷奉行庁ッてのが出来るね、同じ頃。
──先生は『度量衡説統』六巻三冊を刊行されたり、『論語』研究に手を染めたりもしてら
れる。そ
してお家じゃ次女のおもじ(2字に、傍点)さん……誕生。まだこ長男も。おさん(2字に、
傍点)改めおふみ(2字に、傍点)さんにはもう婿養子を取っ
てらしたのが、この頃でしたか、お婿さんが亡くなられ……
──わしが家(うち)ンなかのこたァ、ま、いいサ……
──ええ。でも…奥さんが江戸へ出てらして、十年……ですよ、次のおもじ(2字に、傍
点)さんが生まれるまでに。
せんせ……よっぽど、お忙しかった。北でなきゃ、西へ南へ普請役の御用……
──それァ…いいンです、まァ。よくなかった、てんでウマくなかったのは、文化元年(一
八〇四)
の九月でしたッけ。日本側の指示どおりわざわざ長崎へ廻り、漂民引渡しかたがた通商交易を
正式に求
めてきた、ロシアの、使節レザノフヘの礼を欠いた応対……で。
──あれには幕府は、大迷惑。よほどウロウロして、半年もレザノフを長崎に待たせたあげ
くに、翌
る春になって手ぶらで追ッ返しちまったんだから。返しといて、そして蝦夷地を固めようてン
で、久し
ぶり、わしにも「北」の御用ができた……
477(151)
──しかしあれでロシアは怒ったンでしょうね。文化
三年、先生が江戸へまた帰られた八月から間な
しに、フボストフ司令のロシア軍艦がカラフトで大暴れして行く。翌年四月にも相次いで二
回、二隻の
船でエトロフ島を攻撃されて、間宮林蔵ら我が守備隊はさんざんな目に遭っています。五月に
も、レブ
ンやリシリ島近くで松前商船がロシアに攻められ、被害を浴びていた。通商拒否へ、イヤがら
せの実力
行使ッて気味でしたが。
──その直後でしたよ、わしが九度めに渡ったのが。その予定だったカラフト奥地探検の役
は、ナン
だか上の都合で松田伝十郎や間宮に交替して、わしはシャリ詰めの津軽勤番兵を監督した
り……、五年
にはちょっとカラフトヘも渡って、クシュンコタンで、会津六百兵の陣営を斡旋監察したりし
てた。
──ちょっと、ま、日本があの辺でロシアより前へ出てたよナ…時期でしたね。しかし日本
兵も、寒
さには負けていた……弱かった。あれはソウヤで、でしたかね病人が続出したのは。
──根本は…食事だって何だって、アイヌに学ぼうッて気がなかったからさ。
──山崎半蔵でしたか書いてましたね。徳内先生は車座の話半ばにも、フイと立って戸外へ
出て行か
れる……。何かと思って、見てると、肌を寛げて、寒さへ向かってじイっと暫く強い息を吐い
て吸って
…そして元の席へなにげない顔で戻ってみえた、何度も見た、なんて。
──体を、馴らさなきあ……蝦夷地の空気に。天人地は気合い…じゃ、ないかね。
──そう、なンでしょうね。……けど、誰にでも先生のマネは出来ゃしなかった……でしょ
う。
──ああ。
──そうそ、ソウヤから松前へ会津藩の船で帰ろうとなさって、大暴風雨で秋田湊まで吹き
飛ばされ、
478(152)
弘前経由で松前へ帰り直されたりもしてますね、あれは
文化五年の秋だ。あれを勘定に入れると蝦夷地
への渡海は、先生……十回になりますよ。
──そんな事も知ってますか。あのあと江差詰めになって年を越しましてね。佳いとこだっ
た……。
結局文化七年(一八一〇)の十月まで、足かけ四年ツてもの蝦夷地に勤務してみて、オロシァ
の侵寇(しんこう)は、
無しと判断できたんです。
──五十六歳、北地の、いよいよあれで御用納め…でしたね。ところでこの間に、最上徳内
として故
郷楯岡に帰られたのが、文化四年三月に、ただの一度ッきり……。十一年のお継母(かあ)
様、すま(2字に、傍点)さんが亡く
なられた時も、公務でお葬式にも出られずじまい。もっとも、島尾のお義兄さんが翌々年に亡
くなった
時も、公務で……。ご家族の方もわざと報されなかったとか……
──製蝋の仕事なんかでね。関東一円、よく巡り歩いてたから…
──いやア……どうも。本当に永いこと、いろいろお話しいただいて。あとは……シーボル
トが来た
頃のお気持など、チョット伺えたら……。と言うと、二年後のいわゆるシーボルト事件に絡ん
で、勢い、
地図の話になるわけですが。……カラフトが、島か半島か。海運、戦略、知的好奇心など、い
ずれにせ
よ日本の外側から「北」の時代……という意味の大半の重みは、この、世界的に当時未解決の
問題が占
めていた。カラフト周辺のアイマイな地理・地図へ世界の視線が集まっていた。但し徳内先生
なんかは、
もともとその辺はほとんど問題にされてなかった……ンでしょ。
──長崎筋の情報、というと、火の元はオランダ……。こっちからの推測を信じこんだ人
ら……林子
平や近藤重蔵さんらは、カラフト半島説でした。
479(153)
──のようでしたね。それだってシーボルトが江戸へ
やって来た文政九年(一八二六)頃には、日本
国内じゃ間宮林蔵らの活躍で、迷いなく、島と……。でも国外へは秘密だったのかナ。西洋で
は、シー
ボルトが先生方から入手した地図を持ち帰るまで、ほぼ半島説が生きていた。通ってました
ね。
──そうですか。
──ええ。そして…今なお、カラフト(サハリン)界隈は東西世界の一緊張点、発火点たる
を免れて
いない。……その、証拠のような不幸な大事件が、今度の大韓航空機撃墜です。
──変わらないンだね「北」は。……可笑しいくらいだ。
──というより、残念ですね。ほんとに問題があるのか。問題があるあると煽っているの
か。判断が
…非常にむずかしいワケです。また……我々の国が、その渦の中で誠実に主体的に立場を守ろ
うとして
いるのかという事も、よく…判らないんです。徳内先生の昔より、ひょっとして、もっともっ
と力の弱
い…というのも、先生がた夢にもご存じなかった「核」の威力と恐怖が背後に、いえ前面に出
てきてる
からですが……アメリカやロシア、今はソ連テいいます……に、そりゃ気を使っている。朝鮮
半島にも
中国にも台湾にも気を使っている。いい方向へ気を使ってるならいいンですけど、大きな対立
の中で、
実はその対立を、キワ立たせるようにキワ立たせるように気を使っている…のかも知れない。
それがボ
クら、気になります。
──わしが、お役に立つッてわけには、行かないナ……
──いえ。今こそぼくら、先生に教わることが多いはずなんですが……。でも、またある意
味じゃ、
今どき徳内先生のお名前やお仕事をぼくらがこう引ッ張りだすこと自体、なにかタ
メにすることのよう
480(154)
に取れなくない。いいタメならいいんですが、どっちへ
どう転ぶやら……あの政府与党の「北方領土の
日」ポスターみたいに、誰が何時どんなふうに自分の都合のいいように使うか、知れやしない
んですか
らね。……ま…歴史だの歴史上の人物ッてのは、えてして、そういった「現代」の手段として
手前味噌
に利用され易い、し易いものなんでしょうがね……
── …………
──さ……ほんとに、お煩わせするの、やめにしましょう。有難うございました。こんなに
永い間お
世話かけるとは正直、ぼくも…思ってなかったんですよ。
──そうかねえ。そう永いッてこともないが……
──ええ。そりあお聞きしたいこと、まだ有ります。が、一つだけ……。どういう、お気持
だったの
ですか。シーボルトとのことは……
──それは、……も一度よく考えてみて、返辞しょうよ。
私は徳内氏の慎重さに賛意を表した。その序でに、W大学のE氏が親切に、『東海参譚』の
付録「最
上徳内伝」をとうとう函館市図書館で捜し当て、写本のコピーを取り寄せてくれていますとい
う話を徳
内氏にした。
──お役に立ちますかねえ……
とは、同じことをE氏にも今日、週明け早々図書館からの電話□で言われていた。
が、手に入った資料をパスする気はない。で──「部屋」の徳内氏とはいったん右、左に別
れてから、
月曜日は七時まで会議がある、そのあとにという約束でE氏に逢いに、高田馬場の喫茶店「ユ
タ」へ出
481(155)
向いた。雨もよいの、肌寒い秋だった。傘は持たず、す
こし着重ねて行った。
図書館の外で見るE氏は気の若いダンディだ。いきなり、W大野球部の秋のリーグ戦の不振
を情ない
情ないと嘆くことから話しはじめて、愛用のパイプを盛んにプカプカやる。ときどきそれが
シュパシュ
パとも鳴る。過労でネと言葉どおりやや痩せ加減だが、声は、張りきっている。
「……会議で出た残りですよ。この頃は、健康管理ッてんでしょうね、甘いものの配られるこ
とがあり
ます」
そんなことを言いながらチョコボールのちいさな紙箱をもち出したりされると、なんとなく
シンミリ
もした──。そして近くの賑かな店へ、ご推賞の鰻を食いに行った。E氏はかぶとや骨(こ
つ)揚げの□あたり
がお気に召し、私は白焼きに箸を出していた。
「徳内伝」──は、罫紙に毛筆で二枚ちょっとの短いもの、ご当人が軽くいなしていた通り、
むしろ伝
説に類していた。その意味では役に立たなかった。が、お蔭でもう何年越し「部屋」へ訪れて
は、じか
に徳内氏と膝を交えてきた身の果報は、嬉しくよく胸に落ちた。わたしも…と、E氏は一度で
も「部
屋」に招いて貰いたかった、ダメでしょうねと、成らない話をしてくれる。(……ヤンジァ。
それはき
みだけ…の。)そうだ。あした、もし雨でも(九州に大きな台風が近いらしい……)ひさしぶ
り、徳内
さんのお墓参りに行ってこようか。私はちいさく、ひとり膝を打った──。
あいにく──だが、翌日は身動きとれずに机に向かっていた。朝からの雨に冷えて、二匹い
る綺麗な
牝猫が母と娘(こ)で、しきりに家に入れてと鳴いてくる。曇天に碧い瞳が、だいぶ大きい。
可愛い。
「……とうとう、大韓航空機のフライト・レコーダーだかナンとかボックスだか、アメリカの
方が、ソ
482(156)
連よりも先に拾うらしいわよ、あなた」
妻が、一緒に一息入れにと、コーヒーをワープロ・デスクヘ連んで来た。だいぶ熱心に両国
で競争し
ていた──が、真相を明らかにする目的でなら七、八百メートルの海の底からでも苦労して拾
い上げて
ほしい。サハリンの西、モネロン島の北西わずかにソ連領海の外らしい。しかし、もし真相を
隠したり
曲げたりするためなら、事も愚かというより、……コワい。
「あなた……北海道。気をつけて行ってらしてよ……」
脈絡……が、有りそうで無いような妻の沈んだ声音に、かえって胸が騒いだ。
一人に戻ってからも、三、四十分気持を宥(なだ)めるようにらくな椅子に全身を沈めて、
我が最上徳内氏の
晩年などを、ぼんやり思いつづけていた。
徳内さんは、天保七年(一八三六)九月五日に、享年八十二歳で浅草で亡くなった。今の暦
なら十月
十四日が祥用命日らしい。シーボルトと、わずかな江戸滞在中に独日蝦対訳のアイヌ語辞典を
編んで以
後、ちょうど十年を生きながらえたわけだ。将軍は家斉、老中には水野忠邦、いわゆる天保改
革の最中
だった。
だが諸国連年の打ちこわし頻発に加えて、この年、奥羽は死者が十万にも及ぶ大飢饉──。
本多利明、
大田南欧、大槻玄沢、高田屋嘉兵衛、松平定信、近藤重蔵らが相次いで夙(と)うに鬼籍に
入っていた。佐藤
玄六郎はどこへ。山□鉄五郎はどこへ。大石逸平はまだ存命か。おお……老いらくの日々をこ
のうえ徳
内さんに問いかけるのは、もう、よそう……。
暫く平穏だった日本の海は、徳内さんの死の翌年頃からまた波立ちはじめ、突如浦賀へ入港
して来た
483(157)
アメリカ船モリソン号が果敢な守備兵の砲撃を受けてい
る。北からロシア、西から今にもイギリスやフ
ランスが迫ってくる。開国へ──近代は激しく呼吸しはじめていたのだ。が、それにして
も……「最上
徳内」という人、わが近代に先がけて何をした人、だったのか。
次の日、手ひどい雨台風が西日本を水浸しにしながら、東へ、北へ、重い足どりを運んでい
た。夜仕
事に負けて、朝、頭が上がらず、年過ぎてもグズっいているうち、いっそ小雨になってきた。
市の図書館へ、借り越しの本四冊を返却かたがたジーパンに雨靴で家を出た。傘うつ雨の音
を縫って、
金木犀の澄んだ香が高音部を奏でる。時雨(しぐ)れの譜というにはまた雨足がはやいナ、
と、傘を傾けると、
喜多の宗家の兄にあたる人の家の前を歩いていた。……
あの「山姥」の実さんはいい舞だったなあ、技をなにもしないで、華やいでさえいた。酔っ
たなあ、
あれには……。
そして、山姥ッて何だろうとまた思った。ものに惹かれるようにうら若い「安曇(あど)冬
子」が想い出され
た。あの人は、山…姫だった。姥にもせず死なせてしまったのだ、私が。山……。日本の、
山。もう何
人の山姫を小説に書いできただろう。
徳内さんから思いが遠ざかるようでいて、そうとも感じなかった。私ひとりの身内では「冬
子」や、
まして「法子」でもヤンジァ(楊子)でもいいが、彼女らは徳内さんにもお気に入りに想われ
る。徳内
さんは見喪った生みの母や従妹の面影に、山姥、山姫の幾久しい命を信じたかったような、お
人……。
きっと、そうだと想う……。
本郷──三丁目では、吹き降りだった。駒込の方へ、耳喧(かしま)しいまで一線に渋滞し
ていたが、車に乗る
484(158)
しかない。
「弥生町で右へ逸れて行きましょ…日医大のわきの道へ。するとまぁッすぐ、お寺の門の前
だ」
そんなことも、私は窮余思い出して運転手に声をかけた。今夜あたり、だいぶ降りますよ、こ
の勢い
じゃ……。そうのようだなァと、窓に叩きつける雨滴(うてき)の白さに目をこらしたまま、
雨嫌いの自分が、今
日は苦にもしていないのに気づいていた。
広く──ない墓地に人影はなかったが、そこかしこ彼岸過きらしい供花(くか)の色々が雨
にゆれゆれ冴えて
いた。大輪の黄菊白菊、小菊、女郎花、竜胆、紅い鶏頭──。どの花立て石にも水澄んで、墓
石も、
木々も草もきれいに濡れている。はなやか──、それがいきなり嬉しかった。先生……、徳内
先生、と
呼びかけたかった。
その先生のお墓の前にもおなじ色々の花が、こんなに美しく…と思うほど咲き満ちていた。
とても、傘をおさめて掌を合わすという降りではない。ま、ゆるして下さい……。
私は、それでも傘のかげで丁寧に腰をかがめた。本当は、坐りこんでユックリしたかった。
三基ある墓碑の、真中のが古い。居士とか大姉とか刻んだ文字もうすれ、石の頭四分の一ほ
どがすぱ
ッと欠け落ちている。その左側に洲濱紋の代々之墓があらたに造ってある。そして右に贈正五
位最上徳
内之墓とした私の背丈ほどの鉄平石は、明治になっての顕彰碑だ。なにが、五位だ……。
裏に、中根淑が撰した文が刻んである。さしたるものではない。字(あざな)ハ子規……
か。と、声に出してゆ
っくり読む間にも、碑の奥から、かき抱くように南天など葉の小やかな植え込みが、それは情
愛深げに
優しく茂っているのを、私は、女の髪に触れる気持でかき上げ上げしていた──。最上家の墓
所の真裏
485(159)
へなにげなく廻り込んでみると、背中合せに「佐藤家」
のお墓があった。おッ、佐藤玄六郎……。むろ
ん叶わぬ、うつつの夢でしかない。
ほんと……いろんな事を徳内さんには、教えてもらったものだ。お付合いの間に、もしぼく
が少しで
も良く変われた所があるならば、それは、先生のお蔭です。そう礼を言い、もう一度傘を傾け
頭をさげ
てから、心満たされて墓前を辞した。つよい雨に風がびゅッ、びゅッと混じるが、寒くは感じ
なかった
──。
どこへも寄らず、またいくつも乗物に乗りついで自分
の町へ帰った。駅へ降りると、ためらいなく喫
茶店「ばく」へ。店、あけててくれよ……。徳内さん、もう「部屋」の外まで来てて、待って
てくれて
やしないか、こんな間柄ッて、なんて嬉しいンだろう。
その時、──フイと私は思いついた。徳内さんという人、私にすれば、だれより望ましい日
本人、ッ
てことじゃなかったのだろうか……。
こんな日にも「ばく」には、いっそノンビリという顔で文庫本に読み耽っている、学生らし
い男の先
客が一人いた。不思議な音楽を流している。訊くと、一言、ヒマラヤの…と、マスターの物言
いは静か
だ。ほゥ、山姥発祥の地だナ。なんだか辛いカレーが食べたくなった。
「コーヒー。濃いのがいいナ。熱くして……」
「…………」
香ばしい薫りの店内から、妻に、近所まで帰って来てるよとだけ電話しておいて、やがてい
つもの、
486(160)
「部屋」の襖に──手をかけた。
あかるい……。そして、なに不思議も、ない。徳内さんはすぐ出てきてくれた。
──墓へ……。今。そりゃ……
礼を言われた。
私は、徳内さんの今日の衣裳や感じ──お幾つ時分のものか、まず問うてみた。返事は四十
八の秋。
命ぜられて武蔵国八王子村に出張り、官材の伐出(きりだ)し御用を勤めた時、ほぼ一年現地
に住んだ。手ぜまな
がら自分でちいさな亭(ちん)も作って、めったになく寛いだ頃の恰好だよと徳内さん、こく
りと一つうなづい
てみせた。
──ぼくも、この暮で満四十八になります。昔ふうの数え歳ですと、年明ければすぐ五十で
すよ。お
恥ずかしい……お粗末な。
──まぁま、そう言うもンじゃない。
かるく宥(なだ)められ窘(たしな)められてから、いよいよ、一つ残しておいた質問に答
えてもらった。
── …………
徳内さんはちょっと間をおいた。が、返事に苦しんでいる風ではない、むしろ、なぜそんな
事をとい
う顔をしていた。
──たとえば間宮林蔵ですと、自分があんなに苦労した仕事を、たとえば天文方の高橋景保
らにみす
みす手渡したくなかった、他人(ひと)の手柄にされたくなかったッて勘定が、いつも働いて
たらしいですね。
で、国防の国是のという意味よりも、先のと同じタチの憤懣が外国人のシーボルトらに対して
も激しく
487(161)
動いて、地図の国外持出しの恐れあり、と林蔵の場合は
当局に密告したのかも知れません……が。
──そういう気持は、ま、とがめられない自然の人情だよ…たぶん。
──でしょうね。けれど先生は林蔵とは全く逆に、地図もなにもかもシーボルトに、貸し、
いや与え
られてます。交換条件があったのですか、公表まで二十五年待てと仰っしゃった以外に……
──ない。一緒にアイヌ語の字引を作った。長い時間を倶にして、沢山話した、……イジュ
ヨの時と
同じサ。それだけでわしは、よかった。
──でも……もう少し、なにか……
──安直な返事だと思われるかも知れん。が……わしがもしシーボルトであっても、あの時
あの地図
やあの標本なんか、いちばん欲しかっただろうさ。私する気じゃない、世界中のためだと、そ
う思うか
ら、遣(や)った。
──それだけ……
──それだけです。
私は徳内さんの眼を、しばらく覗きこんでいた。フーっ、と、息を吐いた。
沈黙が、もうしばらく続いた。そして──私は徳内さんの前へ、いつもして来たように頭を
さげた。
徳内さんからも、静かに会釈があった。……
──……この「部屋」……居心地いいですねえ、いつも。
──うん……
──この「部屋」へ来ると、真実、生きてる心地がするんですよ。
488(162)
──お前さんも、オカシな人ですね。
私はワザと涼しい顔をし、それから暫くはお互いのんきな会話をたのしんだ──。
──
……ア。……先生。今日は、この「部屋」に……ホラ、(武蔵野に、雨が明かっているのかし
らん……)虫の鳴くのが聞こえるじゃないですか…、
──ウン……聞こえるね……
──こんなことは、無かったですね。
──ん……無かったナ。……無かった。
すだく虫の音に二人して耳を澄ました。
──ぼく、……また北海道へ行ってきます、よ。
──行っといで……。よくよく面白いことがあったら、わしも呼んでください。それと
も……また、
お邪魔かな。
徳内先生そんな冗談口を叩いて、めったになく、但し声には出さず、いい笑顔を見せてくれ
た。
──そりゃそうと……墓へ参ってもらったから言うンじゃァないが、今度のあんたの、こ
の……小説
さ。小説の出だしだがね……
──ええ。前漢かもう後漢のころでしたか、趙なにがしの自像墓の……。あれのことです
か。
──あれは、どういうのかネ。
──それぁ先生。ぼくも……、ぼくの……自画……
絶句して、思わずにらむほどに徳内先生の顔を見た。見つめた。すると首肯(うなづ)いて
──静かに頷いて今
489(163)
は別れを告げ顔の徳内さんの面体(めんてい)、みるみ
る一枚の鏡と照る──、あ、と息をひきその鏡の中で……私
は、私に、私自身に、いま出逢っていた。
虫の音は、まだ耳に……。
そして──「部屋」を出た。が、出たと思ったその今閉めた襖が、かけ寄るように背後で、
さッ、と
明き、
──お父さん……
楊子(ヤンジァ)だった。いや法子(ノコ)とも見えて──胸へ跳びついて来た。
──お父さん。……またネ、札幌でね。今度はお母さんも連れて行きますよゥ。
── ……ああ。ホントかい……
──疑いは人間にあり、よ。そゥでしょ。
コノ……と、こづいてやろうとするのを、きァと楊子はまた襖の向うへ遁れて、ちいさく
──だが一
心に手を振って、振って、いた。楊子も、「部屋」も、そのまま影うすれ──私は、夢である
ことを知
っていた。
──完──
490(164)
主な参考文献(順不同)
1 森銑三著作集(中央公論社) 2 皆川新作『最上
徳内』(電通出版部) 3 照井壮助『天明蝦夷
探検始末記』(八重岳書房) 4 吉田常吉『蝦夷草紙』(時事出版社) 5 島谷良吉『最
上徳内』(吉
川弘文館) 6 高倉新一郎『日本庶民生活史料集成』第四巻(三一書房) 7 山形大学博
物館所蔵
『最上徳内関係文書』 8 郡山良光『幕末日露関係史研究』(国書刊行会) 9 真鍋重忠
『日露関係
史』(吉川弘文館) 10 塚谷晃弘『日本思想大系』第四四巻(岩波書店) 11 ドナル
ド・キーン『日
本人の西洋発見』(中央公論社) 12 芳賀徹『平賀源内』(朝日新聞社) 13 井上隆
明訳『赤蝦夷風説
考』(教育社) 14 江上照彦『悪名の論理』(中央公論社) 15 内閣文庫蔵『蝦夷地
一件』 16 シー
ボルト『江戸参府紀行』(平凡社) 17 萌出忠男『正続野辺地雑記』 18 大石慎三郎
『江戸時代』(中
央公論社) 19 ポン・フチ『ユーカラは甦える』(新泉社) 20 北海道庁『千島概
誌』 21 北海道根
室市『北方領土』 22 上地龍典『北方領土』(教育社) 23 『日ソ関係と領土問題ー
ソ連はどう考え
ているかー』(ソ連の店白樺) 24 舟田次郎『千島問題を考える』(たいまつ社) 25
金一勉『朝鮮
人がなぜ「日本名」を名のるか』(三一書房) 26 金賛汀『雨の慟哭』『火の慟哭』『祖
国を知らない世
代』(田畑書店) 27 北海道新聞社『北海道自然ガイド』 28 宇田川洋『アイヌ伝承
と砦(チャシ)』
(北海道出版企画センター) 29 萩中美枝『ユーカラヘの招待』(北海道出版企画セン
ター) 30 富
村順一『皇軍とアイヌ兵』(JCA出版) 31 辻善之助『田沼時代』(岩波書店)
その他数多く援助を受けた著作や情報が有りました。付記して厚く御礼申上げます。なお七
章の半ば
からは、史実的にも微妙な政策に触れており、当時の文献の引用や用法によって、やむをえず
歴史的な
差別語も一部使用せざるを得ませんでした。言うまでもなく史実上の熟語とはいえ、かかる用
語、用法
によって表現されねばならない差別の歴史および現実を、厳しく批判する意図をもってこの小
説は書か
れました。世の一切の人間差別に私はつよく抗議します。 著者
491(165)
作品の後に
この通算第四十五冊『北の時代=最上徳内』下巻をも
ちまして、「秦恒平・湖(うみ)の本」
は、創刊以来、十周年を迎えます。心より御禮申上げます。なお一層のご鞭捷、お願いしま
す。
永井荷風には、いわゆる自然主義を優れて表現してい
た一面が認められる。ドナルド・キーン
氏はそう指摘されている。同感である。そういう荷風の後押しで、またいわゆる自然主義とは
対
極の谷崎潤一郎が、文壇へつよく推し出され、不自然は、無かったのである。
いうまでもない、いま二度繰り返した「いわゆる自然主義」の、中身は、同じではない。荷
風
のよく識り身に享けていたのは、ヨーロッパの自然主義であり、ゾラや、またモーパッサンの
文
学などを視野に入れてよい。しかし谷崎の随わなかったのは、花袋や泡鳴らが主張した日本の
自
然主義であった。看板には看板の便宜がたしかに在る。しかし文学や芸術の場合、便宜は便宜
と
して、反面の迷惑を被(かぶ)るのも、先ずはひとりひとりの表現者たちであろう。わたしの
ような者で
さえ、ときに、それを感じる。「美と倫理」「幻想」「王朝」「伝統」といった標語で、作風
を
くくられる。当たっていないわけではないが、決まり文句にされては嬉しくない。
歴史的な素材にしても、なにも「王朝」にばかり力をいれて来たわけではない。
166
小説だけでいつでも、死と葬祭を書いた『冬祭り』は
神代から現代までを覆っているし、『三
輪山』は雄略記の、『四度の瀧』は常陸国風土記の世界を、『秘色』は「上古」の近江大津京
を、
『みごもりの湖』も恵美押勝の乱を、書いている。たしかに『秋萩帖』は後撰集の時代を、
『加
賀少納言』は紫式部を書いているから「王朝」ものではあるが、『絵巻』は保元の乱前夜の、
『初恋』は梁塵秘抄の、『清経入水』は平家の公達の、『風の奏で』は平家物語最初本の小説
化
であり、いわば、早や「中世」が描かれている。徒然草にこと寄せた『慈子(あつこ)』も、
能や陶磁器や
茶の湯にふれた『孫次郎』や短編集『修羅』や『青井戸』なども、また「中世」のものであ
る。
『於菊』では秋成の怪談を書いたが、長編『親指のマリア』では新井白石とシドッチ神父の対
決
を、そして今回の『北の時代』では明らかに白石の脈をひく最上徳内の北地での活躍を書くこ
と
で、「近世」の意義を問うたのである。「近代」に入っては、正岡子規と浅井忠の『糸瓜と木
魚』や、上村松園の『閨秀』や、村上華岳の『墨牡丹』など、芸術家小説によって明治・大
正・
昭和の命脈に触れてきた。そして今や、わたしのスケジュールに載っている芸術家は「戦後」
の
美空ひばりだといったら、読者は何と思われるだろう。あの大学紛争と造反有理の荒廃を企業
の
内から書いた『亀裂・凍結・迷走』三部作も、「一つの戦後の証言」と批評された作であっ
た。
それのみか、最近の朝日新聞に「何と言っても・白楽天」と書いたように、少年以来の傾倒を
表
現した我が処女作は、兵役拒否の『或る折臂翁』であったことも、言い添えておきたい。
批評やエッセイも含めて、貫く棒の如きものが、これらに、在るかどうか。「わたしの」と
言
える世界が在るのかどうか。それはわたしの言挙げすべきことではない。が、寸足らずの看板
に
167
頼らない大きな批評がしてもらえるようには、なりたい
ものである。
さて御覧になった方もあると思う。もう暫く前のことだが、どこかのテレビで「最上徳内」
が、
思いがけず長時間特集されていた。じつは後半しか見られなかったので批評はしにくいが、感
慨
を覚えた。雑誌「世界」に連載し始めた頃は、「誰なんですか、この人は」とか、「流行(は
や)らん人
を書きますね」とか言われたもので、浅井忠のときも、華岳のときも、また平清経や藤原仲麻
呂
や源資時や大輔を書いたときも、似たようなことを言われた。
もっとも、徳内サンがテレビに取り上げられるのを、手放しに安心して見ているわけではな
い。
少なくともこの間の番組での取り上げ方と、わたしのこの小説とは、いろんな意味で没交渉で
あ
った。北方領土へ先駆けた有能な幕府の官僚としてのみ、徳内像を祭り上げて終わることのな
い
よう、もう一段も二段も「世界」的視野で彼を再評価してほしいと願っている。同じ事は「シ
ド
ッチ」にも言える。
それにしても徳内の生きた我が十八世紀の後半から十九世紀の前半ほど、まさに、百花撩乱
の
百年は、なかった。ことに先の五十年がめざましく、あらゆる領域に人材が登場し、個性豊か
に
時代に先駆けた。近代の始動がみられた。平賀源内、大田南畝、工藤兵助、林子平、本多利
明、
杉田玄白らこの作に登場する者だけではない。山脇東洋、安藤昌益、柄井川柳、山県大弐、賀
茂
真淵、本居宣長、多紀安元、上田秋成、与謝蕪村、鶴屋南北、青木昆陽、鈴木春信、田安宗
武、
吉益東洞、前野良沢、長久保赤水、池大雅、塙保己一、大槻玄沢、手島堵庵、三浦梅園、山東
京
伝、円山応挙、松村月渓、長沢蘆雪、伊藤若沖、曽我蕭白、石井恒右衛門、司馬江漢、高田屋
嘉
168
兵衛、伊能忠敬、志気忠雄、小野蘭山、華岡青州、喜多
川歌麿、葛飾北斎、写楽斎、安藤広重、
鳥居清長、浦上玉堂、十返合一九、宝井馬琴、並木五瓶、良寛、広瀬淡窓、皆川淇園など、思
い
付くままに挙げても目をみはるが、最上徳内はこれらに伍して優に世界を視野にいれ、時代に
抜
きんでていたといっていい。また学識でも知識でもなくて、人間を、アイヌを、愛し得た日本
人
であった。差別の目で人間をみない心をもった稀有の日本人であったと思うのである。
ヒロインのキム・ヤンジァ(伊藤楊子)とは、いい出会いだった。一夜の牧場の宿をともに
し、
標別(シベツ)の駅頭で別れてきた。いい娘(ひと)だった。いまは日本にいないが、確実に
私のなかに実在しつづ
けている。W大学図書館のE氏夫妻にも、ずいぶん、お世話になった。この作品をほとんど即
決
のように企画化して下さった元「世界」編集者の高本邦彦氏、連載を担当の清水克郎氏にも心
か
ら感謝を捧げたい。さらにそれより数年前、いつか「最上徳内」を書きたいのですという酒席
で
のわたしの夢を、本気で大いに励まして下さった元筑摩書房の原田奈翁雄氏の声音や表情
──、
あれが原点だった。原動力になった。むかしは編集者といっしょに、あんなふうに仕事ができ
た。
この三月末、東京工業大学工学部「文学」教授を、六十歳、定年退職した。満たされた、い
い
四年半であった。思い残すなに一つもなく、「無免許運転」ながら十二分に楽しんだ。学生諸
君
にたっぷりと教わった、ありがとう。求められ、あちこちに感想を書いた。もう繰り返さな
い。
このさきのことは、分からない。分かっているのは、書きつづけること、である。湖の本も、
ゆっくり出しつづけたい。やがて創刊十年の桜桃忌がくる。通算五十冊の節目へもまぢかい。
皆
さんとともども、健康でありたいと願っている。
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