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秦恒平 湖(うみ)の本 33 北の時代=最上徳内 中
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秦恒平 湖(うみ)の本 33
1
目次
序章 〈北〉の時代………………………上巻…5
二章 曙光、天明初年……………………上巻…32
三章 徳内、蝦夷地へ……………………上巻…91
四章 襟裳岬で……………………………上巻…148
五章 アイヌモシリ………………………………175
六章 尾岱沼(オダイトウ)……………………263
七章 徳内、択捉(エトロフ)島へ……………294
八章 天明六年、暗転……………………………下巻
終章 〈北〉の時代、今なお〈北〉の時代……下巻
作品の後に ……………………………………169
〈表紙〉
装幀 堤いく子
装画 城 景都
印刻 井口哲郎
(いく:或 のたすきが三本)
2
北の時代=最上徳内 中
3
「世界」岩波書店 昭和五十七年十月号?昭和五十九年二月号連載 原題「最上徳内」
4
(承前)
バス通りからどすんと低く、真向(まっこう)の山腹に襟裳神社の白っぽい鳥居とあかい屋根を見上げ──ている
旅館を、私はこの日の泊りと決めた。誰を祠ると知れず、神社は砦址(チャシコツ)めいて堆(うずたか)く青空へ盛り上げた草
山の中ほどにまばらに墓地を抱いたまま、潮風に吹きさらされていた。マンモス象の歯の化石が、この
岬近くで掘り出されたこともあると、宿の主人に聞いた。
海鳴りだけの、さびしい部屋だった。テレビもない。手紙を書くのに枕スタンドもない。たそがれの
波止場へ下駄を借りて降りてみたが、這いよる夕霧に、波は高く砕けて碇泊している十艘ほどの船を
荒々しく揺する。狂ったようにかもめが鳴く。襟裳の岬をわずか東へまわりこんだだけで太平洋がこう
騒ぐかと空恐ろしく、酒屋で、吟醸の「北の誉」を瓶で買って宿へ遁げこんだ。あすは釧路(くしろ)で、せめて
マシなホテルをと遠い電話をかけ終えるととっぷり窓の外は昏く、灯台の火が虚空を奔(はし)る。心細いのは
徳内先生(さん)だけじゃないですよと呟きながら、晩飯よりさきに、しみじみ湯につかりたかった。なぜか、
今夜は徳内氏を呼んで話す気がしない……。
夢も見ず、寝入った。
いや暁(あ)けがたのごく短い夢うつつに、ほのかに徳内さんらしい遠い人影が、薄墨に黄金(きん)の粉をまいた
ような奇妙なくらがりの中で、しなやかに優しい背なかをこっちへ向けたたしかに一人の少女と、とめ
どなく囁きかわしているのを見かけた。なぜか私はひどく肚(はら)を立てて、叫んで蒲団をはねた。冷気がか
たい紙で巻きこむように胸へ肩へ襲いかかる。もう港を出て行くのか、ポンポンとくぐもって鳴る蒸気
船の音が、ほの白いガラス窓の外で遠退いていた。
167(5)
寝酒が□に残っている、のを、エイと寝床を起って洗面所へ漱(すす)ぎに出た。お縫に別れお鳰(にお)に死なれ、
一人娘のさん(二字傍点)を顔も覚えずに人手に預けたなり、徳内さんは、男一匹の一生をどう惟(おも)いながらこんな北
の海ッペたを「御用」の旗を立てて歩いていたのか。本多利明音羽の塾の薪(たきぎ)小屋で、あの徳内さん、そ
の実は師匠の娘に、小太刀の斬れ味もさわやかなお亮(りよう)さんに、身の程のなきも慕うもよしない気持で息
をつまらせていたのではなかったか。意地のわるいそんな想像をしながら歯刷子(はぶらし)を使ううち、ひどく空
腹なのに私は気づいた──。
早立ちの時間のせいで、一度様似(シヤマニ)行きに乗って西海岸のえりも(幌泉)へ戻り、庶野(しよや)行きに乗りかえ
て追分(おいわけ)越えにまた東海岸へ出たのが、九時前。
後年のことはともあれ天明五年の徳内氏らは岬の端をまわって浜なりにらくにショウヤ(庶野)へ着
いている。が、この先ビロウ(広尾)まで、現在は三十一キロに及ぶ名だたる“黄金道路”が走ってい
る、それさえとかく風水害に寸断されてしまう潮騒(しおざい)すさまじい断崖また岩礁の連続に、昔の人は、ただ
声をのんで立ち疎んだ。怒濤は、無数の白馬(はくば)と化し荒海を蹴立てて絶壁に砕け散っている──。
この海ぞいに、黄金を敷きつめたに等しい高価な難工事を重ねて架け渡した高速道路(ハイウエイ)は、それだけ雄
大な景勝に恵まれて、道東(どうとう)に一、二を競う今は観光コースになっているという。なるほど……。庶野の
港で、広尾行き乗継ぎの時間待ちに思い立って私は「部屋」に入ると、ご機嫌がわるくもない徳内氏に、
いっそ一緒にその“黄金道路”とやらを、バスで走ってみませんかと都合のいい約束違反を誘ってみた。
──お誘いに、乗ってみるか。
──わるい趣向じゃ、ないでしょう……
168(6)
で、いったん「部屋」を出た。ぱらぱらと雨もよい、港のちいさな燈台が眼鏡ににじむ。大和の畝傍(うねび)
に似た真緑の山が背後にまぢかく、バスは庶野発の、九時十三分。
燧道(すいどう)つまりトンネルも時には抜けた。が、大方は七、八十ないし百メートルもの山壁から直接、磯浜
に建てた夥しい数の柱列ヘコンクリートの屋根を葺(ふ)き下ろして、その下を蜿蜒と車が走る。名も覆道(ふくどう)。
また覇道またまた覆道の息もつかせない蛇行の連続、それが“黄金道路”というものの構造だった。鬼
歯のように黝(あおぐろ)い岩礁の次から次へすさまじいこと、内浦湾や日高海岸の霧隠れて遠くまで凪いでいた
のとは、別の世界だった。
バスはすいていて徳内氏に気を遣わせることは、何もない。けろりと、いつもよりよく話してくれる。
──この辺の磯で、アザラシをよく見たネ。ショウヤには、アイヌの家が二軒あった。話にもなンに
もならなかったのは、その先だよ。ヲシランベツ(音調津)まで、まるで蟹だった、高い岩の腰の辺を
コウ…横伝い……
──尖リタル所二手ヲカケ、或ハ岩ノ割目二足ノ指ヲハサミ横二行ク。石塊(いしくれ)崩レタル一円石浜ツヅキ
ノ所ハ、アタカモ庭ノ飛石ヲ行クニオナジ。丸キ石二飛付ケバ足下スベリ、尖リタル石二飛付ケバ足痛
メ草鞋(わらじ)ノ切ルル事至ツテ早シ……。そう、先生は書いておられます。
──それしき、まだ良い方だった。サルル(猿留)からビロウの間が六里、これがもう……。海辺が
いけないと、どうあっても崖か山を越すンだが。これが危い。危いだけでなく、物が運べない。死ぬほ
どの怪我人さえ出る。
──近藤重蔵が寛政十年(一七九八)、エトロフから帰りにこの途中の、僅かばかりの距離(あいだ)でしたが
169(7)
アイヌ人六十八人を使って、雨中二日間で山道を拓いた、と……。下野原助(木村謙次)が『東蝦新道
記(とうかしんどうき)』ですか、記念にとその時の様子を書いたものが、額になって遺っていますよ。あれは……
──ビタタヌンケからルシベツまで、一里ほどの間だ。形ばかりの山なか道だった。その分も含めて
あの翌る年に新道を切開こうとしたンだが、結局馬が通ったのは、わしの手がけたシャマニからホロィ
ヅミヘの山道だけだったよ。
──ところがその、馬が通れたおかげで先生は、無用の念を入れたとお役をクビになった。そうでし
たね。
──道路の大事さ、その道にとにかく馬を通す大事さを、功名心はあるが仕事はお座なりで済ます気
のご重職は、理解(わか)ってなかった。馬のかわりに、ロクな賃米すら手当てしないで、むちゃくちゃにアイ
ヌを人足に徴発する気なンだ。仮りにその気でなくても、幕府直轄で人の往来が増せばますますそうな
った。当時トカチ場所というのはエリモの西べりから東はシラヌカまでも、それァめっぽう広かった。
それだけこの場所仕立ての雇い人足が遠路を長期間酷使され、そのうえに、ご覧よ、この命知らずの難
処がある。
──寛政十年の末に、あれは近藤重蔵の意向でしたっけネ、先生はひとり大急ぎで江戸へ帰って行か
れた。あの時ァ幕閣へずいぷんと建議なさっている中で、一等先生が熱をこめられたのが、その十勝場
所のアイヌ人にどうか仁慈の救済策を、と。それと、様似・広尾の間に効果的な新道の建設をどうして
も……と。
──そうだった。
170(8)
──東蝦夷地を松前藩から召上げの決定が、その結果として翌る春早々に、先ず出ましたね。すでに
大規模な「蝦夷地御用」の組織が出来ていて、むろん先生もその一員……。今も話題の、新道の切開き。
──それが、裏目でね。わしは取り放ちに遭うわ、結局どこもたいした道は出来ずじまいで。……あ
の年のアイヌ御救いのこ趣旨など、わしが申上げたこともそりゃよく聴かれてて、涙のこぼれそうなよ
ろしい建前だったのよ。のに、誰かしらン功を急いだンだな。アイヌの一ッち厭がる月代(さかやき)を剃れの、熊
祭りは固く禁ずるの、そうかと思うと日本語を覚えさせよ、アイヌの言葉を幕府役人の方から使っては
ならん、人足に対し定めの報酬以上に役人が自前で米や酒を恵むこともならん……と、とにかくあっち
にもこっちにも性急な御禁制ばかりさ。せっかく幕府直轄をよろこんだアイヌも、松前藩の支配よりわ
るいと外方(そつぽ)を向いちまった。
──幕府直轄ッたって結局は儲けたい一念の商人と結託してるンで。アイヌも海辺ので足りないから
川上の、山の奥に住んでるアイヌだって、使えるかぎりの男は強制的に徴発する習慣が出来てった。そ
うでしたね。海も陸も難処をかかえたところほど、それがひどかった……
──家族の働き手が引っぱられる。貢米は上前(うわまえ)を場所役人がはねるから、自分ひとりの飢えもしのげ
なくて、とくにトカチ場所のアイヌはべらぼうに人数が減ったンだよ。
──蛮地を征服…という気が、やはり。……容赦ってことがなにかにつけ、日本人に無かったですね。
侵略しときながら、勇しい進出だと思ってる。
──それだよ。まだ……十五、六年前(ぜん)、天明の昔の山口さんや青島さんらにはアイヌと合作という気
が有った。なにしろ「味方」に付けて松前藩と闘う気だったから。
171(9)
──いい人たち、だった……と。
──と言うのかな。それは、どうだか……それより、たいへんな大任を帯びていることの意義を、佐
藤玄六郎、山□鉄五郎という人らは、それなりによく知っていた。だから、仕事に徹して、きちんとや
り抜く気があったよ。
──そう言えば先生、あの。松前藩がひどく厭がったという、日本語を先生が教えられた、問題の、
アイヌ青年。フリウエン……。彼とはこの十勝場所での出逢いじゃなかったですか。ぼくたちにも、忘
れられない人物ですが。
──そうだったナ。天明五年(一七八五)……たしかにそうだったが、あの時は、まだ行きずりでね。
一度別れて……翌年に、また。
──彼の話は、改めて沢山聞かせて下さい。……アレ。あれは先生……瀧ですね。すげェ……
フロント・ガラスを見上げるように、バスの行方(ゆくて)を私は指さした。大小三十条ほど、苔むす岩塊に水
しぶいて七彩の虹もみごとな玉簾(たますだれ)だ。
──フンベの瀧だね。難処にはきまってこういう瀧があった。こうして眺めるぶんには美しいンたが
ね。しかし、ここまで来ると……もうビロウだよ。なにか見て行く気かね。
私は、十勝港が見たい、それとシーサイド・パークに海洋館がある、そこの『東蝦新道記』やいろん
な参考品も観て行きますと返事した。
──先生方は、広尾の先も白糠、釧路まであくまでも海岸をいらしたンでしょ。ぼくの方は国鉄広尾
線で帯広まわり。「幸福」駅や「愛国」駅があって人気の、十勝平野を眺めて行きます。そして今晩は、
172(10)
釧路で泊ります。
──いっそアツケシ(厚岸)まで頑張った方がいいと思うがね。
──そう…ですか。そうか、江戸の御用船も厚岸へ着くンでしたね。
──そう。……それか、キイタップ(霧多布)か。
──先生に、今お訊ねするのがいいかどうか。江戸の事情。それに宗谷班や松前に残っていた佐藤玄
六郎らの事情は、ここいら辺で難行苦行の時分は、どの程度分かってらしたか。
──分かるものかね。ぷっつり切れていた。ふしぎに、それが心細いとも考えてないンだ。逆に、や
れるだけやる気で、青島さんなど気張っていたナ。
──広尾から釧路までの浜通りは、潟湖(ラグーン)が…多いと。
──蝦夷地の海岸には全体に多いんだ。山□鉄五郎という人が、そういうことは実に克明に書き留め
ていたンだが……。ナサケない話(こツ)た……
──天明蝦夷地探検の、そういう貴重な書き留めが、田沼意次(おきつぐ)の老中失脚と政変とで、一切合財隠滅
しちゃうンですね。
──書いたものだけじァない。人も、だよ。
徳内氏の呟きは泥のように重く耳に沈んだ。山□鉄五郎、大石逸平また佐藤玄六郎にしても、どこで、
どういう徳内出世の後日を眺めていたものか、その後の生涯にまるで影もあらわさなかったのだ。
──あんた。あしたはもうノサップ岬まで行っちゃうンだろうが、なんぼ海がいいッても、飛びこむ
のはいかンよ。あそこは、水も冷たい……
173(11)
徳内さんは終点広尾のまぢかまでバスの隣座席にいて、最後に、そんな冗談ともつかない警告を残し、
身軽に姿を消した。
「十勝神社ァ」と車掌の声に、私は咄嵯に尻を浮かした。舗道へ私一人バスを下りると、左手に木昏い
緑の、公園とも境内ともみえる奥まった広場が、足もとの草も濡ればんで□をあけていた。森の遠くで
しきりに鶯が鳴いている。ああ、おとといの晩からコーヒーをのまないナ、喫茶店がないかナと視線を
車道の向かい側へ走らせている、と、寒々しい広い四つ角の斜め向うを、ふと影になりまた容(かたち)も見えて
「御用」の旗が揺れて行く。山□、青島ら幕府有司以下十七、八人もの一隊が、吹きさらしの日高颪(おろし)に
透きとおったように果てしない前途をめざして黙々と遠退いて行く気がした。
あの中に、重い行李の一つを担いでアイヌ少年のフリウェンも混じっていたのか……。
私はなぜか淋しくて泣けて来そうだった。
この夕方──釧路駅の電話で予約のホテルをキャンセルして、十九時三十一分発、厚岸(アツケシ)へ二十時三十
二分に着く各駅停車に、私は半分眼をとじたまま、また、錆びついたような重い腰を据えた。「北の
誉」の四合瓶が、もう二た□と残ってはいなかった。
174(12)
五章 アイヌモシリ
一
御用船二艘は「一躰(いつてい)に出来形宜(できかたよっzろ)しく、不丈夫なる儀も御座無く、」神通丸、五社丸と命名され十分の
荷を積んで品川湊を無事出帆、と、そう認(し)たためてある勘定奉行松本伊豆守書面の報告を、丹念にいま読み
終えた老中田沼意次(おきつぐ)は、側御用の奥部屋でひとり両の膝を両の手に、かたく掴んでいた。天明五年(一
七八五)五月二日──。
廻船二艘は、敷の長さ四丈五尺四寸、幅五尺八寸、肩(けん)は二丈四尺六寸、深さ七尺六寸で、「此積高(つみだか)八
百五十石余」と報告には、ある。いい出来であるらしい。用途に応じて樫、楠、檜、槻(つき)、杉等の良材を
用いた。特に敷(船底)は厚さ一尺の杉板で造らせ、帆柱は八丈六尺という杉の丸太に檜の角材と鉄輪(かなわ)
とで強度を増したと、いつもながら十郎兵衛の報告はくわしい。帆は二枚。鉄碇(かないかり)は五十貫ないし八十貫
のを各一艘に八箇。ぬかりなく足の速い、小廻りの利く八挺櫓立て脇船や、荷の積み降ろし往来に便利
なやはり八挺櫓の艀船(はしけ)も、それぞれ「おや船」に添えて一艘ずつ用意がしてある。──成る賭けか。成
175(13)
らぬ賭けか。「成るように成る」と独りごちてはみる、が、田沼が掴んだ膝は、袴の下でかるく痣をも
っていた。
船手(ふなで)は廻船一艘につき船頭ほか十六人が乗組む。法度(はつと)の如く、奉行は「船中定書」「船荷送り状」
「船中日誌」等を用意して船頭に授け、松前で、見分(けんぶん)の普請役(ふしんやく)がこれを「改め」てから船も荷も受取る
よう、手筈を調えていた。
蝦夷地交易用の品は、松前でもべつに買入れる段取だ。
一、煙草 凡そ 四千三百八十斤程
一、糀(こうじ) 凡そ 二百六十六俵程
一、小間物類
そうした物の代金〆(シメ)て凡そ二百二、三十両は、御用船上乗(うわのり)の役を引受けている鉄砲洲(ず)の堺屋市左衛門
が預かって行く。その金額は、先に御用金を請負の苫(とま)屋に貸し出した総額三千両から、造船、積荷など
一切の経費を差引いたおよそ残高に相当していた。
田沼意次は今年二月、長崎俵物(たわらもの)の取扱いを俵物会所一手に改め、停滞しがちな対清(シン)国交易に梃子(てこ)を
入れてみたばかりだ。その俵物二品、干鮑(ほしあわび)、煎海鼠(いりこ)や、昆布など諸色(しよしき)海産物はおおかた蝦夷地で確保
するしかない。連年の不作は奥羽にとどまらず、苦しい限りの公儀勝手元で救恤(きゆうじゆつ)をはかることももう
度が重なっている。せめて今度の試み交易が、今後俵物の仕入れを質の面でも量の面でも、また運輸の
面でも改良の方向へ揖(かじ)をとってくれぬものか。田沼は、性本来の燃える気力と、天にも見放されたかと
思う凍えるような不安との間断ない応接にめっきり面(おも)痩せながら、今朝も早々と顔を見せにきた白河藩
176(14)
主松平定信の、幕閣に地位を望んでやまない慇懃な挨拶ぶりを思い出していた──。
御用船が松前湊に着いたのは、五月二十日ごろだったという。待ちかねていた松前に居残りの普請役(ふしんやく)、
佐藤玄六郎と皆川沖右衛門が、下役里見平蔵、鈴木清七らに指揮しながら気ぜわしい作業の日々が続い
た。
不馴れもある。松前藩にそれとない引き延ばしの策がある。交易請負(うけおい)の苫屋が、べつに雇船(こせん)一艘を差
し添えて北のソウヤ(宗谷)へ一艘、しかし東蝦夷へはぜひ二艘送らねば十分な荷嵩(にがさ)にならないと、土
壇場で出した商売気にもよほど煽られた。割りこんだ芦屋と、公儀に憚って場所をあけた飛騨屋との裏
の駆引も絡んだらしい。あれやこれや始末はとにかくつけて神通丸それに芦屋の雇船自在丸が東のキイ
タップ(霧多布)へ、また五社丸には佐藤と下役里見が上乗役となりソウヤヘ、ともども出帆したのが、
やっと六月上旬だった。松前には皆川と下役鈴木が予定どおり居残った。
佐藤と皆川が連名の、両蝦夷地へ見分後いよいよ出立(しゅったつ)と報告した飛脚便が、江戸の勘定奉行役宅に
届いたのが五月二十九日、西暦だと一七八五年の七月五日に当っていた。西蝦夷を行く普請役庵原(いはら)弥六、
下役引佐新兵衛らはこの頃、侍分(さむらいぶん)の案内者柴田文蔵を先立てようやくイシカリ(石狩)を経て、前途
ショカンベツ(暑寒別)の山塊を内陸部へ深く迂回しながら、ルルモッペ(留萌)へ向かっていた。ソウ
ヤヘはなお十日ほどの旅程をのこしていた。一方、東の蝦夷(メナシクル)との試み交易に向かう山□鉄五郎らは、ク
スリ(釧路)にほど近いシラヌカ(白糠)場所の運上屋(うんじようや)に、この日の泊りを求めていた。
シラヌカは飛内亀右衛門の給所だが、場所の経営は大和屋惣次郎が請負い、惣次郎も現地を用人の喜
八に支配させていた。アイヌ語のできる喜八は、だが、この場所勤めへ替って間がないとみえ、前任の
177(15)
長石衛門とかいう通辞の顔の見えないのが、松前藩案内者や通辞らには案外だったらしい。
喜八は表情にちょっとした侠気(おとこぎ)が表われていて、気象もさっぱりとハキハキした□つきだった。この
場所の運上金は、総じて六拾五両ていどと、訊かれれば返辞は早いし、案内者も俄かに□をふさぐわけ
に行かない。
「アイヌ……。それなら今にも顔を出しますよ。江戸のお役人に会えるのかと、待っている□ぶりでし
たからね」と、喜八はなぜか表情を崩しながら、乙名(おとな)はヨタカチャラといいます、おかしな男ですと笑
った。伜(せがれ)の名がサンブツ、小使(こづかい)がシカンクル。
「あれが、そうです……」
喜八がそう指をさすかささぬうちに、そのシカンクルと、一行の通辞三右衛門との仲にけたたましく
悶着が起きていた。
江戸者には、わけが分からない。が、筋骨逞しく、彫りの深い眼窩(がんか)に青いほどの瞳(め)を光らせた髭のア
イヌが突然喚いて、泣いて、小男の三石衛門をこづいているのだ。双方に善意があったなどとは見えな
かった。通辞の方から、いっそ愛想らしい一と声を先にかけたくらいだ。それだけに徳内らは仲裁に割
って入る気も起きず、ぽかんとして喧嘩を眺めていた。だが酋長コタカや跡取りのサンブツはそうでな
い。明らかにシカンクルに加勢して荒い声を三右衛門の方へ放ち、露骨に、憎体(にくてい)に、指をさすばかりだ
った。
「制(と)めないのか」
浅利幸兵衛が不機嫌に喜八に対し顎をふった。
178(16)
「なアに。制めても止まりゃ致しませんよ。あの通辞が失敗(しくじ)ったンですから。贖(つぐな)いをとるまでアイヌは
諾(き)かンでしょう」
「なにを失敗ったのだ」
こういう時はきまって大石逸平が□を出す。
「いえネ。小使のシカンクルは、つい四月(よつき)ほど前に妹を亡くしたンで。それを、あの人は確かめないで
よけいな口を利いたらしいですよ。女とは以前に顔見知りかなンかで、バカの一つや二つ言うて□説い
た相手だったンでしょうかね」
浅利は、アケスケな喜八の物言いに苦虫を噛みつぶしながら、だが、事情は察したらしい。が、大石
らには呑みこめない。
「怨み骨髄という様子でもなかったがネ。何がアア、あのアイヌを怒らせたのか……。どう思う、徳
内」
「岳父(おやじ)に、これは江戸で聞いてきた話ですが。その時はちょっと信じられなかったが……」と徳内は首
を傾(かし)げたまま、喋った。「アイヌに人の安否を問う挨拶は、いきなり名指しというのは、大の禁物なン
だというンですよ。必ず、お前の方で何か変わった話(こと)はあれからなかったかねと、うるさいくらい何度
でも訊く。すると、親父も存命、阿母(おふくろ)も存命、伯父叔母も存命、兄弟妻子も達者ッてェぐあいに返事を
してくれる。死んだ者のことは、ただ、居らぬと言うンです。それは、黙って聞き流さないといかンの
です。……岳父の、例の冗談かと思ってましたが」
あまり笑わない山□も、徳内の話ににやりとなった。が、黙って頷いていた。喜八が、あとを継いだ。
179(17)
「そうなンで……。死んだと知らずに名指しで尋ねたりしますと、アレです。顔色が変わる。今が今、
目の前でそいつに死なれたみたいにああやって泣き喚きます。それからきっと□喧嘩を言いかけて、贖
いを取る……」
喜八が見たとおり、ますます過激に若いアイヌは剣幕を募らせ、にやにや照れて笑っていた三右衛門
も会所の土間をじりじり隅へ押しこまれ、顔をひき攣(つ)らせている。
同僚の巳之助が見かねて駆け寄りざま、罵声も高くうしろからシカンクルの横びんたを拳でなぐった。
長い髪からのぞいた耳の先をあッとおさえて振向いたアイヌは、だが巳之助には反抗の様子も見せない、
そして振向いてまた三右衛門の方へ喚く。突っかかる。のを、三右衛門も退りながら跳びつくようにし
て相手の顔を拳で打った。手で手を払ったのか、ふくらんだアツシの片袖が一瞬ゆらりと宙に舞い──
次の瞬間、殺気のようなものが土間いっぱいに黝(あおぐろ)く戦(そよ)いだ。
誰かが奔った。
誰かが起った。
奔ったのは青島俊蔵だった。起ったのは大塚小市郎だった。体当りの音がして土間の壁へ鉢合せに横
転したのはアイヌの小使でなく、二人の和人通辞だった。離れて見ていた混血の竹助が、へたへたと膝
から落ちた──。
「喜八さん。この人には、何を贖いにするのかね」
座敷から足袋はだしで奔った青島が、平然と、そう場所の支配人に声をかけた。明るく乾いた、いい
声だと徳内は思った。
180(18)
「きっと、イムシツドイがしたいンです。……酒ですね」
そう聞いた山□鉄五郎がすかさず、喜八の通訳で、三右衛門の贖いは責任者の自分が代ってしようと
シカンクルに伝えさせた。そして「将軍家より下される」と重い□上も添え、相良(さがら)の千太に命じて手早
に多分の土産物をアイヌの頭領たちに頒け与えた。むろん酒も振舞わせた。すばやい処置に浅利は約束
がちがうと抗議したが、山□は取合わなかった。
公議御試みの蝦夷交易とはいえ、多年経営の松前藩の面子(かお)を立てて、現地では、従前に変わらず土産
も松前の殿(カムイ)から下されるものとアイヌに承知させて頂きたい──それが、もはや商人気風の藩重職の
□からくどいほど念を押されていた「約束」だった。
「そのこと確かに耳にはしました。が、それは江戸表と掛合われて決まること。我々は直参(じきさん)の家人(けにん)、徳
川の指示に従うばかりで、お手前がたの指図は受けません。それとも、陪臣の分際(けじめ)も判(わ)かず、将軍家お
声がかりの品々を志摩守殿の私物に貴殿はなさるお覚悟か」
浅利は摺伏するしかなかった。俯いている浅利を山□は尻目に見て、機会を遁さず通辞の三人を土間
に引据え、これまでの勤め方不埒(ふらち)であると叱咤した。アイヌの面前で蹴倒さまじき凄まじい山□鉄五郎
の怒声に、三右衛門も巳之助も蒼白になった。
「えらいこツた……」
喜八が、横にいた徳内にはよく聞える声で呟いた。今にも人だかりがするだろう。お祭り騒ぎになる
やも知れない。松前の侍(ニシバ)が畏ったり、侍以上にうるさいと恐れる和人の通辞が、人前で打擲(ちようちやく)される
なんてえハナシは、広い蝦夷地で未曾有(みぞう)の珍、イヤ快事だもの。もう早や、東の蝦夷(メナシクル)の全部へ噂の狼烽(のろし)
181(19)
となって飛び散ってるこッてしょうと、およそ喜八は興奮ということを知らぬ顔で、ただ先刻(さつき)より幾ら
かシャカシャカした□つきで徳内の質問に答えたのだった。
松前このかた合言葉だった「味方」へ、瞬間のきっかけを手に、山□は怒り、青島は奔った。青島が
奔らないなら自分がと仁王立ちした大塚にしても、それは前以っての申合せがあってしたこと、出来た
ことではなかった。
「勝機はある」と、青島はいつも言っていた。
侍には、ああいう機敏さがあるのか……。今さら拠つほどの地位も名誉もあの人らは身に覚えなく、
隙あればばっと余分の衣を剥ぎはだかで奔る。起つ。あの辺が普請役の無気味な、無頼なとすら言える、
持前……なのか。喜八が言うとおりたちまち運上屋の庭先へ溢れた二、三十人のアイヌの方へ、いつも
と変わらぬ草鞋(わらじ)ばきでゆっくり歩み寄って行く山□らを、徳内は呆れたように見送っていた。そして急
に、今の場面で自分がただ傍観者だったことに、かッと頬が燃えるほど塊(は)じしめられた。
「異例(うちこわし)ですぜ、これは」
喜八は、ぐっと顎を引いて、自身に納得させるように独り□を利いた。
松前の「殿」が下される「御土産」に対し、くさぐさの「礼物(れいもつ)」をアイヌからも出す。それが蝦夷交
易の基本形(やくモく)だ。昔はオムシヤといっていちいち儀式が伴った。が、今はちがう。場所請負の商人が漁場
も猟場もあらかたおさえて、アイヌ人を使役して成績をあげている。あげたがっている。物と物との交
換で成立つ交易とはいえ、もともと一方的なものだった。取引に持ち出した古着一枚、酒一盃であって
も、名目は「御土産」だった。だから文句はつけさせない。そして相当の「礼物」を出させる。米一俵
182(20)
は日本中どこへ行っても四斗入り。それを一俵わずか八升と、五分の一にも目減りさせて、その一俵分
で干鮭五束をアイヌは「礼」にとられている。一束は二十本、つまり百六もの鮭で八升の米をアイヌ人
はやっと手にしている。鰊(にしん)だと実に千二百尾、鱒だと三十本以上、椎茸だと六百。それさえも「アイヌ
勘定」とやら、計数にうといアイヌを論弁と力ずくでますますごまかす、むろん商人側が──。
喜八が言う「異例」とは、ましてや「将軍家の下され物」でありながら、儀式も作法もないいわば無
礼講に場が崩れて、「礼物」の献上もまだないうちに江戸のお侍とアイヌがこう戸外へわやわや出てし
まっている、それが一つ。だが、和人はとにかくも、もともと儀式ばったアイヌが、乙名もその息子も
居合わせながら、浮かれてまるでオムシヤを失念(わす)れているのは、これこそ「椿事」だとしまいにはあは
あは喜八は笑いながら、これで無事支配人が勤まるのかと呆れている徳内の方へ、小さくペロリと舌さ
え出してみせた。
シラヌカ場所は、いったいに海より山の幸(さち)を頼む山住みのアイヌの珍しく多い所。それが近年鹿の猟
などめっきり減っている。喜八はけろりとそんな問わず語りもする。そばを徳内が離れないから話すの
で、相手をえらんで□を利くというのでもないらしい。が、このお祭り騒ぎだと、今日あたり惚れ惚れ
する鹿の角や皮にお目にかかれそうだと眼を細めている。
「さっき、贖いは酒で、と。なンとか言いましたね。何ですかあれは」
「ああイムシツドイ……。マ、今に始まるでしょう。ちょっとキツイですよ。血を見るからね」
「血……」
「アア、血を流すまでやるンです」
183(21)
「果たし合い……まさか」
「そうじゃない。死なれた者は、死んだ者が恋しい。例のご愁傷って……あの気持が身内にァ誰ンだっ
てあるでしょう。それを三右衛門さんはあの小使のシカンクルに思い出させッちまった。ヤツは悲しい
気分は忘れたかったわけですよ……で、イムシツドイというのはネ。ウカリ(槌撃ち)とまた違って刃
物の背(みね)で、お互い死人の親類や誼(よし)みが寄って、額を打ち合う。メッカ(刀背(みね))撃ちと謂ってますが、血
が吹くまでやめン」
「弔い撃ち、ですね。お祓(はら)い……みたいなもの」
「そうそ。いつまでも死人を想うて泣いてちゃあ毎日に差支える。そういう弱虫な、よくない気分を血
で洗い流す。……そのあと、わッと酒になる」
「物入り……ですね、すると」
「だからツグナヒを取りたがる」
「…………」
「徳内さん……でしたナ」
「はい」
喜八は徳内の生まれを訊ね、自分はこれで、お江戸に近い千住(せんじゆ)の在で生まれたのが、因果で、こんな
処にいますよとさらさら打明けてから、しばらく徳内の人相を見る目をして、
「徳内さん。鬚が、似合うね」
そうポツリと言った。なにがなし胸の内を徳内は覗かれた気がした。あの騒ぎの起きる前から、徳内
184(22)
は、酋長コタカチャラの鬚のあまり美事なのを讃嘆する気持で、遠目に眺めていたのだった。
「喜八さん。アイヌのことを……、あんたは……」
「アイヌはバカじゃないよ。だが、愚(ぐ)ですよ。いや愚直というのかね。それは当りまえなんだ、物をよ
く知らないンだから。但し……これも和人(シヤモ)の物指ではかつてのハナシでね。我々の知らんことも、アイ
ヌは仰山(ぎようさん)に知っている。だけどネ、徳内さん。ここがカンジンなとこサ、和人(シヤモ)はこんなことも知らん
のか愚直だたア、アイヌはけっして我々に言いっこないね、ホント。愚直といわれる位だと、和人(シヤモ)もえ
らいもンなンたがね」
徳内は、返辞に窮した。ただ、喜八が好きに喋っているうちは喜八の弁を黙ってもっと聞いていたか
った。
「徳内さん。アイヌはイヌなンかじゃないよ。けものじゃないよ。だけど……アイヌも人間だ、和人(われわれ)と
同じ人間だなアんてお高く思いこむのも、マチ ガイじゃないのかね」
「…………」
「アイヌは、神さんと一緒に暮している。カムイ……ね。だけどね。日本人は同じ人間かも知らんけど、
ちがうよ。日本人は、金と一緒に暮している」
ふツと笑いが冷えた。
縮かンだ棒のようになった徳内の肩さきをシラヌ力場所支配人の喜八はポンと叩いて、□笛でも吹き
そうに賑やかな会所の外へ出て行った。江戸の役人にも見物させて、メッカ撃ちが、今にも始まるらし
かった。
185(23)
二
山□、青島は機敏に方針を更(か)えた。今さら先を急ぐまい。アツケシ(厚岸)へ、急げばキイタップ
(霧多布)へも三、四日。交易荷物を積んだ御用船はおそらく着いていまい。船にくわしい皆川沖右衛
門の推測だと、どう希望的に事が運んでも、江戸で予定どおりの船がこの松前湊を発(た)てるのと、「あん
た方」がアツケシ、キイタップに着くのとが「まア、同じ時分」との話だった。振り回されていた案内
者浅利らに対し、やっと先(せん)を取ったことだ、番所や運上屋があるシラヌカ(白糠)で、クスリ(釧路)
で、コンブイ(昆布森)で、ゼンホチ(善鳳趾)で十分泊(とまり)を重ね、アイヌと接触して見分の内容を肥やす
にしくはない。
山□は改めて、気候地勢風土のこと及び松前以来の日録は自分が、運上交易の実勢や問題点ないし和
人とアイヌ人との関係は青島俊蔵が、奥蝦夷、千島方面といわゆる東の蝦夷(メナシクル)との交渉や往来一般は大石
逸平が、諸般の図画、および各場所での土産振舞等の出納(すいとう)は大塚小市郎が、産物、土地その他およそ物
の名の蒐集を相良(さがら)の千太が、そして測量ならびにアイヌとの交際、観察、会話等を最上の徳内がそれぞ
れ分担し勉強しようと、一議にも及ばず申付けた。シラヌカまでは万事あまりに不如意だった。等閑(なおざり)に
した気はないが、銘々の好奇心や関心に委(ゆだ)ねていたには相違なく、山□鉄五郎は手綱を咄嵯に絞った、
「見分」の二字にすばやい鞭を撻(い)れた、のだ。
「我に返った…か」
186(24)
感想家の大石逸平は「友人」徳内を笑顔で顧みた。徳内も頷いた。ただ「観察」するのではない、
「発見」するのだと徳内は山□の指示をひとり読みかえた。喜八の言をひそかに徳として、徳内はこの
日から鬚を生やすと心に決めた。
日本人は金と暮しているが、アイヌは神(カムイ)と暮しているという、思いも寄らなかった喜八の批評を徳内
は容易(たやす)くは人との会話にのぼせなかった。あれを聴いた瞬時の、深沈と鳴り響くような感銘が、ただご
とに雲散霧消してしまうのを徳内は畏れた。安直に、アイヌ人と日本人とは同じなどと思う傲慢を、徳
内は、我から捨てはじめた。
人を見、神を拝するには、双手(そうしゆ)を出(いだ)し、五指の頭(とう)を摩すること数反(へん)にして、後(のち)高くあげ、漸く下し
て己(おの)が鬚(ひげ)を撫(ぶ)し、終(つひ)に供(こう)(腕組み)して安坐す。頓首稽■(けいさう)(額(ぬか)づく)等の礼なし。女子は更に礼容なし。
正坐せず、斜に両足を横たへ坐す。
若(もし)遠方より来り訪(おとな)ひ或は旅行暮夜雨雪(ぼやうせつ)の時、人の家に投(宿泊)ぜむとするに、其人(そのひと)の宅の前にい
たり、深雪面泥(しんせつうでい)の中といへども安坐して敢て声を揚(あぐ)る等のことなし。主人しらざれば終夜といへども
動かざる、礼なり。しかるに畜狗必(かならず)出て吠え主人怪み見るに及(および)て、旧識なればいふに及ばず、もし
昏夜(こんや)風雪等によりて宿を乞(こふ)人なりとも、まづ某所に対坐一礼し、安を問で後(のち)引て室にいり、いかに辛
苦患劇の間といへども礼儀苟(いやしく)もこれが為に略すことなし。
しかるに語次もし主客の間、其父母家族の既に死したるを知らずして某(なにがし)恙(つつが)なしやと問へば、乍(さながら)
潸然(さんぜん)として涙を出し、勃然として憤怒(ふんぬ)し、某(なにがし)前に物故す、汝何ぞ殊更に今名を呼(よん)で我をして悲哀を
187(25)
おこさしむるやといひて、卒(つひ)に贖(つぐなひ)をとらざればやまず。もし死したるを知りて誤で犯(おかし)たるはいふに
及ばず。此(この)死者の名を犯(おかす)をイカバユルシカといふ。(略)
此贖といふこと、他に刑なきによりて起(おこり)たる事なり。小盗の類は長(おとな)が家に縛することあり。一人一
人との事は仲だちあれば贖を出し、やまざれば打(うち)シュト(槌、棍棒。各種あり)といふものにてあやま
ちに服したる方の腰の所を敲(たたき)、血を見てやむ。これをウカルといふ。又、シャラカムヰといふは互に
怨(あだ)あるとき約を定で棒をとりて撃(うち)あふなり。
徳内氏の『渡島筆記』は、「発見」に富んだアイヌ「観察」の、みごとな要約になっている。匹敵す
るものは後代(のち)の松浦武四郎の著述がわずかに有るのみで、それさえ比較すれば徳内氏の『筆記』には、
独特の落着いた体験が醇々として浴み入っている。
其(その)言語、和語と尤(もつとも)相近し。相通ずるものあり。其通ずるものは果して我が古語にして、亦我に訛り
て彼に存するがごときあり。もとより更に異なるものあり。唯話言のみならず風俗またよく吾(わが)古事を
伝へ、我却(われかえつ)て失(わすれ)て異(い)なりとするがごときも粗鮮(あらあらすくな)からず。
日本紀神代巻に祈祷を「ノミ」と訓じている。アイヌ語もやはり祈祷を「ノミ」と謂うている。また
アイヌ人なら誰でもどこでもすることだが、柳で、削り掛(かけ)をこしらえ、御幣(ぬさ)のように作ったものを神前
に捧げる。これをアイヌ語で聞くと「ヌサ」と謂っている。さらにまたアイヌ人は神のことを「カム
188(26)
イ」というのは、神居の転音だろうか。そのほか崎(ミサキ)、泊(トマリ)、拝(オンカミ)、髪(モトドリ)、女子(メノコ)などのアイヌ語はやはり日本の
古語のままかと想われる。何を見でもわが太古の風俗がアイヌの人の暮しには遺っているように思えて
ならない──。このようにも徳内氏は別の本で書いていた。
アイヌ婦人の貞淑を説くことは、徳内氏に限らず、当時の誰もが□を極めてそれへ言い及んでいる、
のだが私は、誰のどれを読んでも妙に気になって仕方がない。
女貞(てい)にして妬嬉(とき)せず。男却て妬心多し。渠(かれ)に与(くみ)して論ずれば、妬といへども実は風(紀)をみだるこ
とを重く患(うれふ)るごとし。凡(およそ)人倫、唯君臣といふものなくて夫婦の情実過(すぎ)て篤し。……女子のうたふ歌
あり。その意を訳すれば隆準(鼻すじ通って高い)にして多鬚(たしゆ)なる夫にしたがひ、炉辺に帯を解(とい)て終身
せしめむ(生涯ラクをさせてあげたい)とのことなり。夷俗、家居無事なれば(日常安楽の際は)帯を結
ばず。役(使役)によりて出(いづ)るには帯なきことあたはざる故なり。隆準、長髪はみな彼が美貌とする
所なり。これ其(その)夫に仕ふるの情見るべし。女子貞固の心天性に発して習風となる。夫、役に行(ゆけ)ば後に
随て弁具(諸門を弁ずる道具類)を提(ささげ)、或は時に代りて負担(労役)をたすく。
──いえネ。こう読みはじめますとね徳内先生(さん)。やめられなくなる、面白くて。でも、これじゃ小説
らしくないンで弱るのですが……。ここンとこの先生の文章の、この先が一つ気になりますね。こうお
書きになってる……「唯、和人挑むものあれば従はざることなし。これ他なし(他でもない。ですか
……)。鍼(はり)、糸、布帛を得るにあるのみ。」べつのところで、こうも仰言ってます。「総て女子たるも
189(27)
の、いか成(なる)時とても、針糸身を離すことなし。針糸咸(みな)和人と交易して得るところなり。故に珍重比すべ
き物なし」……針糸の大事さもさることながら、この、和人とアイヌの女との関わりは……売春、いや
強制売淫じゃないのかしらね。それとも、これも「交易」のおつもりですか。
── …………
──微妙……だなア。微妙なンて言ってられない、大変なコレ、問題なンじゃないですか。
──ああ。難儀な、大変な問題だった……あんたの言うとおりだよ。ヤレヤレ……話がそこへ来たか。
気の重い、身の縮まる話題(こと)さネ……
「部屋」のまン中で、めったになく徳内さん、脚を崩してしまって、気の毒なくらいここへ来て肩をす
くめていた。
──ごめんなさいよ。シンドイ話題(こと)でしょうがね。蝦夷地で和人との間に起きたアイヌの大騒動とい
いますと、一六六九年の例のシャクシャインの乱が一つ。これには女が引金という様子は、まア…無い。
むしろアイヌ部族同士の争いにこそ、よく女(メノコ)を奪(と)りあう争いがあったようだが、松前藩とアイヌとは、
まだまだ地力も拮抗してましたからね、少くも東の蝦夷(メナシクル)との場合は。ところが、このあと起きた寛政元
年(一七八九)のクナシリ・メナシの大騒動……この時は和人もアイヌも互いにずいぶん殺(や)られました
ね。そしてその原因に、無視できない比重で、女のことが絡んでいた。飛騨屋久兵衛の手先どもがアイ
ヌの女を犯すという、それも日常茶飯事(てあたりしだい)に犯すという非道い状態(はなし)から猛烈に爆発してますよね……
──そうだ……そのとおりだった。
──「北海道」名付親の、松浦武四郎……明治政府の開拓使判官の栄職を惜しげなく拠った人物。あ
190(28)
っちで…お識りあいですか。
──よく識っている。話も合う…。あんたの噂(はなし)も聞かしてあるよ。
──ソレは…嬉しいですね。その松浦武四郎が、『近世蝦夷人物誌』ほかにずいぶん書いている日本
人の非道といえば、なによりアイヌの女を辱めて、彼らの暮しを破壊していた点ですよ。あくどい性的
侵掠(しんりやく)を飛騨屋の息のかかった通辞や番人どもは謳歌していた。
──先生も、針や糸で……アイヌの女を釣りましたか。
── …………
──無礼な□をきいて、ごめんなさい。けれどこの点は、日本人がいわゆる蝦夷地をどう思いどう捉
えていたか、意識認識をさぐるポイントですから……。侵略というヤツは、土地や物の征服だけで終り
やしない。いつも、どこででも、女の虐待(からだ)に結びつく。女を恣(ほしいま)まに征服できるのが本物の勝利だと、
下ッ淵だけじゃなく、大将までが考える。蝦夷地でしたことを、日本人は今度の戦争まえまでは朝鮮で
やった。戦争まえどころか、今だって物見遊山の気分で、ナミの男どもが近い異国へさんざめきながら
女を抱きに群れて行ってます。
──それほどじゃなかったぜ……蝦夷地では。
──分かってます。が、そりゃ量の問題で、質は同じだった。先生がアイヌ人に率先してひどいこと
なさったなんて、ぼく、考えてないですよ。ただ、先生ほどの方ですら、アイヌ婦人に遠慮というか、
申しわけというか、なにかしら埋合せをつけてるみたいに本の上では褒めちぎってられるのが……
191(29)
──皮肉を言うンじゃないよ。わしも男だ。ながい蝦夷住みの間には何度かたしかに挑んだサ。辛抱
がならん時が、あるからね。それだって、なるべく商売女か、独りものと分かった女だよ。力ずくとい
うのなンか、一度もない……
──商売女が、いましたか。
──爪はじきされて、そういうことをしてる女は、いた。
──それだって先生の岳父(おしゆうと)がこう書いてらした。「婦人他人に肌を見する事なし。わきて乳をあらは
すをいたりて恥かしき事に思へり。稚(いとけな)き子を肌におひ、まへにまはして乳をふくまするに、人の乳を
見する事なし。川など渡る時に裳をからげて脛(はぎ)を他人にみせたるとて、妻を去り(離縁)たる蝦夷(えぞ)あり。
かかる風なれば、他夫に淫する婦人は一人もなし。日本人に交(まじはり)たる者は甚だいやしむ。たまたまかかる
事あれども、一生よび向ふるものもなく、恥かしめを請(うけ)て終る」と。日本人にムリに「挑まれ」た女の
可哀想ななれの果てが、そういう商売女だった。……そうでしょう。
──……そうだと思う。もっとも「他夫に淫する婦人は一人もなし」じゃア……無かったよ。
──ああ……イシマを遣るとか、遣らぬとか。
──そうそ。女の肌着(モール)は、木綿のまるで袋でネ、裾から頭をさし入れて着る。赤児に乳をやるのも、
裾から懐へ引っぱりあげる。その下はあんたが今言った下緒(イシマ)だけでね。木の皮で幅三分か四分に編んだ
紐だもの、越中揮には大分足りないやネ。だからモールを脱ぎ着する恰好がヒドイんで、亭主といえど
も見たもンならモー贖(つぐな)いだよ。……イシマは、二、三歳の女の児でも許嫁(いいなづけ)の約束があると、結んだまま
解かない。
192(30)
──貞操帯ですか。
──どうだか……そういう意味かも知れないナ。男が人妻と通じるッてこた、アイヌにもむろんあっ
た。その際女が心を許してそうなる時は、イシマを解いて男に遣る。男も欲しがる。これが後日に悶着
が起きた時の証拠になるンだな。イシマを貰ってる男だと贖いで和解ができる。イシマを貰ってない女
は、心から姦夫に随ったンじゃないというわけで、少くも表むき夫婦仲にヒビが入らずに済む。女を逐
い出したりしないンだよ。
──アーややこしい。げと、えらく割切れてるとも言えますね。
──男が贖いを出す、と、その和解は日本人には信じられンくらい、本物の和解でね。あとくされが、
あまり無い。
──ウタガヒは日本人(シヤモ)にあり……
──アイヌにイツハリ無きものを、か。そこが神さんと一緒に暮しているという意味でもあった。
──針や糸も、交易じゃない、売春じゃない、贖いだと……
── …………
──その贖いも出さなかったンでしょうね、クナシリ・メナシの騒ぎの時分は。
──ああ……そうだったね。
徳内氏はすこし血の気のひいた額の辺をそっぽへそむけたそうに、いかにもキツい感じに、横顔を傾(かし)
げて呟いた。
徳内氏をこれ以上咎める資格も私にはなく、だからと言って「いいですよ、まア」と、いいかげんに
193(31)
免責にして終らせるわけにも、やはり、行かない。駄々ッ子のように脚をなげ出してムスッと俯いたま
まの徳内氏に、仕方なく、一旦別れを告げてそっと「部屋」をあとにするよりなかった。
「部屋」を出た私は、どこの旅館でも似たような、一番下に分厚いマットを敷きこんだ、気恥ずかしい
ほどはではでしい夜具にもぐりこんで、コピーにしてきた『渡島筆記』を読み直していた。昭和五十七
年六月、二十四日──厚岸大橋に間近いK旅館での晩(おそ)い食事と入浴を済ませ、寝酒もおいて、むしろ睡
魔の訪れを心待ちにしていた。
だが、本意なく徳内氏を糾弾したみたいで私は、ちょっと寝入りにくい気分でもあった。徳内氏のエ
ライところへ、私は□直しを求める気分でコピーに眼を送りつづけて行った。
ユウカラといへるものこそ最旧(もつともふるく)、尤巧(もつともたくみ)にして、其(それ)国風ともいふべきもののごとし。そのさまた
だ物語にして、かたるにふしをつけたり。正(まさ)しく我が幸若(かうわか)の類(たぐひ)なり。これを聞ても聞わくべきにあら
ず。(略)此(この)うたひものに限りて平日いふ所と殊(こと)なる言葉多しとぞ。おもふに極て古辞雅語を専(もはら)に用(もちゐ)
ることゝ見えたり。同心に上原熊次郎といふもの、松前に生れて幼より番人と成てゑぞにて人と成し
ほどの者なるうへ、通弁の事に心を用ること篤かりし故に、渠(かれ)のみよく聞わかち、己(おのれ)又よくこれを
かたる。ききし所の一段落を戯(たはむれ)に訳せしむ。
こう書いて徳内氏は、金田一京助よりも誰よりも早く、日本語によるユーカラ紹介にあざやかな先鞭
をつけていた。
194(32)
比等(ユーカラは)、寄語狂論(狂言椅語のつもりか)をまたずといへども、元よりなき事を作らず。今
の事を作らず。彼が性質意気任侠を好み、亦文章掌状を形容すること頗(すこぶる)巧なること一奇成(なる)べし。故
に繁(はん)を厭はずして(上にユーカラ紹介のため)しるす。……これをかたるもの必ず橿臥(たふれふ)し、手にて心
(臓)を撃て、呪にて呻吟するごとく、嘔■(おえつ)するごとく、しら声にて、僧の経文を誦(ず)するよりは緩に
して、猿楽の謡をうたふよりは急なり。聴者おりおり声を発し、叱(しつ)するごとく、咳するごとく、これ
を助く。又イクハシ(へら状の棒)などを執(とり)て席を撃(うち)、拍子をとり、其感激の所にいたりては同音に
叱し叫んで誉む。……其勇気噴発の所を聞ては覚えず声を発し負(まけ)まじきぞよよく戦へよ。既に讎(あだ)を刺
し、怨を報(むくゆ)るにいたりては、よくせしぞ、けなげなり、あらうれし、いさぎよしなどといひ詈(ののし)り、又
難を経、身をくるしめ志をくだく、恥を忍ぶにあひては、女子輩嘘唏流涕(きよきりうてい)悲哀禁ぜず、俯して面(かほ)をあ
ぐることあたはず。亦シャッコロベといふものあり、是ユウカラの蛮風にして、ユウカラに比すれば
やはらかなる物なり。唯男女好色恋憐(れんびん)の情ばかりをつゞりたるまでにて、戦闘義勇等の事なし。これ
も臥してかたる。
徳内氏に聞いたところ、アイヌが語るユーカラをしみじみ耳にしたのは翌る天明六年のことだったら
しい。
が、そのような「国風」の現に在るということは、シラヌカの次の泊のクスリ場所で偶然出逢った、
右の記事にも名の出ていた通辞熊次郎からはじめて教えられた──。
(■:□へん に 歳)
195(33)
三
シラヌカにはいなかった長右衛門という支配人が、次のクスリ場所で見分の一行を待っていた。短い
胴体の上につるッと細う亀のように首がのび出ていて、律義とも刻薄とも知れない、ずるいとも気が利
かないともとれる□つきの男だった。訊けば訊いただけ答えるが、訊かなければ、なにも喋らない。
徳内はシラヌカの支配人喜八に、長右衛門と乙名コタカチャラの仲に生じた経緯(いきさつ)を聞いてきたので、
気むずかしい長右衛門の顔を見ると可笑しくてつい頬が弛(ゆる)んだ。
──シラヌカでは、初めてアイヌの大きい家(ポロチセ)に入れてもらった。上座にある窓(ロルンプヤラ)は北向きだった。女の
窓(メノンプヤラ)も高い窓(リクンプヤラ)も、太陽が通って入るチュブクシアウンプヤラもあった。倉(プー)も見せてもらった。魚を入れる
倉(チエツプー)、穀物を入れる倉(アマムプー)、何でも入れるウサァンペ・オマプーも覗いた。地面から三尺か四尺も高くして、
ねずみがえしには牛蒡(ごぼう)の実をたばねて、それぞれの足の上にしばりつけてあった。床や壁は割木でつく
り、屋根は組み木の上に樺皮(タツ)をあてがって上に土がのせてあった。草が生え黄色いきれいな花が咲いて
いた。
大きい家で、江戸の待(ニシバ)もアイヌの男女も車座を組んで(青島がぜひそうしようと乙名を説いた)酒宴
を楽しんだ。酒も煙草も出納役大塚小市郎の指図で、十分提供されていた。そんな法外な真似は、案内
者の責任問題になると、浅利幸兵衛も生真面目な近藤吉左衛門も躍起で制(と)めにかかったが、支配人喜八
が「将軍様御家来」の意向を神妙そうに通訳すると、鬚のりっぱな乙名コタカチャラが、だれより喜ん
196(34)
だ。
前任の支配人長右衛門の話題(うわさ)が出たのがその時で、異様に烈しかったメッカ撃ちはもとより、ア
イヌとの酒の面白かったもさりながら、宴たけなわのあと、雑魚寝ほどの休息のうちに喜八に聞いた長
右衛門と「コタカ」との一件は、思わず徳内をいろいろに頷かせた。
どう見渡しても、礼式の多いのはアイヌ一般の風習らしく、「礼譲」きわめて厚い印象は徳内も、も
っていた。かりそめにもアイヌ人は粗略に振舞っていない。酔いがまわれば酒席のだんだんに崩れやす
げに見えるのも、それとて和合を願う心遣いかして、濫妨狼籍に至らない。諷(うた)いもする舞いもして賑や
かにはなるが、行儀乱れて収拾がつかない、といったふうではない。
面白いのは、酒席に器物を沢山に出すのがアイヌ人の趣味とみえて、「日本の製の石器、耳盥、湯桶(ゆとう)、
柄酌(えじやく)、盃台の類」の、金蒔絵したのをことに尊んでいるのだが、見ているとその全部が酒器として珍重
され、愛用されていた。
さて、──シラヌカ「漁業場所」の支配人を永らく勤めていた長右衛門、姓は留川、を或る日乙名の
「コタカ」が訪ねて来て、近年は松前からいっこうに珍しい佳い器物が来んではないかと叱言を述べた
という。長右衛門も、思うに昨今たいした物をコタカに遣(や)っていない。ここで乙名の機嫌を損じるのも
どうかと彼はいつにない気を利かして、松前なる場所請負の大和屋(惣次郎)へ、ついでを頼んでコタ
カの望みを伝えさせた。惣次郎も思案のうえ、金鍍金(きんめつき)の金物(かなもの)を仰山に打ったきらきらしい挟(はさみ)箱をあつら
えて、シラヌカ場所へはるばる送り届けた。珍しくもない、衣類などを入れ、、蓋の上から閂(かんぬき)差しに
荷い棒を渡して従者に担がせ道中する、そんな挟箱の内側は布地が痛まぬよう、虫もつかぬよう「金光
197(35)
紙(きんがみ)」が張り回してある。見ためは内も外も金ピカに光り輝いていたから、長右衛門に呼ばれ運上屋へか
けつけたコタカが目を円くした。
「誠に天地闢(ひら)けてより斯くの診器良品はよもあるまじと思ひ、勇み進んで交易せり。此(この)代り物には干魚
類、品々莫大の価を出し、其(その)挟箱を請取(うけとり)たり。能く見て、得たり賢しと、我家に持帰りけり。」
──喜八に聞いたとおりを、徳内はのちに『蝦夷草紙』にそう書いた。
コタカは、見れば見るほど金色燦然のその挟箱が気に入った。アイヌモシリ(人間(アイヌ)の世界(くに))にこれま
で和人(シヤモ)の器物の渡ったこと数え切れないが、かほどの逸品は見も聞きもしない。
「珍器珍宝」を求めえた嬉しさが嵩じて、コタカは、近国の乙名たちにぜひとも見せたいと俄然思い立
った。急ぎ馳走の濁酒を醸(かも)し、そして近郷近村の乙名や長夷(ちようい)をあまた招待して盛大に披露目の酒宴を張
った。むろん挟箱に「十分(たつぷり)」酒を盛り、大きい家での宴席に得意満面まんなかへ据えた。一同もこれを
視て、「古今比類なき珍器」と感嘆し、賞讃してやまない。コタカは絵に描いたように鼻高々だった。
「コタカチャラという男は、あの鬚ですからね。アツシもみごとなら、ホラ額に巻いた鉢巻にしたって
押し出しの堂々とした酋長ですよ。だけど、根は無邪気というか……子供みたいなヤツだ。その内と外
とのチグハグがあっしらには、時々笑いころげたくなるおかしさなンですがね。アイヌ同士じゃァあれ
で神々しいような……人気というのかな。人徳がある……」
喜八はそんな相の手を自分で入れながら、まるで徳内らの反応を試(み)てでもいそうなわざと細い眼にな
って、うっすら笑みを眉根に浮かべるのだった──。
さて酒宴も終(はて)近く、さしも■(した)み酒の挟箱も底をつく、と、耐らばこそ、内張りの余光紙はみなべろべ
(■:さんずい に 胥)
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ろに剥がれ、胸に腹に箱の底にへばりついている。着飾った主の酋長はもとより、来客の乙名や頭(かしら)立つ
アイヌの面々はていたらくに肝を潰し、興醒めするやら気分を害するやら、気のいいコタカが面目潰れ
て嚇怒したのは道理だった。一途に「通辞シャモ」長石衛門の「謀略」だと、罵り、叫んで、風を巻い
て運上屋にかけ込んだ。
長右衛門は、コタカの剣幕に辞易した。けっして紛(まが)い物でも贋物でもない、もともとこれは衣類を蔵(しま)
う箱で酒など盛る器ではなく、そんな大騒ぎになるはずのない心入れの土産だった。それを説明しなか
ったのは、だが重々悪かったと、仕方なく相当の贖いで支配人は始末をつけた。彼がクスリの領主場所
へ勤めを替えたのは、必ずしもこの一件が崇ったのではないが、不調法の長右衛門に恥をかかされたと
思いこんだ乙名とのおかしな仲は、十分修復が利かなかったらしい。
「……にしても、和人が呉れてアイヌが使う容れ物ッてば、みな酒盛り道具になるンで。鍋釜なら知ら
ず、尋常(なみ)の用に容れ物ッてナ使ってねくらいなこッた、連中の暮しをちッた覗いていた者ならまァ承知
でさ。それを、臭(くせ)ェのなんのって、覗けア損くらいに和人(シヤモ)の旦那ア思ってござるンだから、不調法にも
なりまさアね」
喜八は、よそごとのように話をかるく巻き舌に締括りながら、江戸ツ子をまる出しに、コタカチャラ
はあれで、来年は三十になる、「可愛(かえ)エや」と、にったり微笑った──ものだ。
そんなことも知らぬ顔に、仏頂面の長右衛門が江戸役人の前をそそくさと引取って行く。と、
「……熊次郎」
199(37)
眼で探すように普請役(ふしんやく)の山□が揚(あが)り座敷の奥から呼んでいた。大石逸平も、最上の徳内も「お」とい
う顔をそっちへ向けた。山□の呼んでいる用事は分かっている。クスリ場所からアツケシまで同道して
くれるよう熊次郎というその通辞に頼むのだ。場合によっては押ッかぶせても案内を強いる気だ。
アツケシは東蝦夷地の首府に相当する。それがその通りなら、アツケシの乙名(おとな)はメナシクルの首長に
ひとしい。総乙名イコトイの名で早くから咽喉もとへ呑みこんできたその統領イコトイを名指しで、松
前藩の者は、ひねくれている、嘘つきだ、「好譎無類」と山□らに警告してやまなかった。できれば無
難にイコトイの顔など見ず、アツケシを素通りしてキイタップヘ先を進まれるがよい。クナシリヘ、船
はキイタップからしか出ない、とも。
青島に耳うちされ、シラヌカの喜八に徳内がそっと訊ねたところ、必ずしもイコトイについて案内者
の言を喜八も否定しなかった。が、彼は言葉をついで、それも、注釈は一切抜きにして、クスリ場所に
いる通辞で熊次郎という者を、ぜひイコトイとの会見に仲立ちさせなさるよう、知恵をつけてくれた。
徳内はすぐそれを山□や青島に伝えた。
総乙名イコトイを避けてクナシリ、エトロフヘ素通りして行けるわけのものでなく、他方、幕府と松
前藩とが拮抗して東蝦夷地での利害を競っているようにイコトイの眼に映るのも、山□らにすれば避け
たかった。松前の事前の通報が、「見分」に不協力を密命して東蝦夷地の各場所をすでに馳せめぐった
らしいとは、いまいましいまでかねて幕府有司も勘づいていた。イコトイは「味方」に、つくのか。熊
次郎という通辞にどんな力があるのか──。
だが徳内は、喜八の助言に執拗(しつこ)くは理由(わけ)を訊かなかった。同様に山□や青島も徳内の判断を軽くは見
200(38)
なかった。いつからか、何事にも下役の大塚や大石が加わる場所へは徳内も呼ばれていた。「徳内」と
呼ぴすてにされ「山□様」と敬いながら、さて上も下もない結束ができていた。
──先刻に挨拶はすんでいた熊次郎が、また、ゆっくり山□、青島の所へ寄って行く。とくべつ腰を
かがめてもいない。五十前か。まるっこい鼻の頭が温和しそうだ。が、視線は揺れていない。熊鷹だナ
と大石逸平が呟いた。履物や身装(みなり)はまァ通辞と思うしかない程度だが、丈は高い。
ああいう通辞は、この道中見てこなかった……。
まして、場所ごとにアイヌ人を使役していた番人らの手荒にねじけた印象と熊次郎とは、違っていた。
あの男……独りで、見当もつかないことを考えふけっている。髪の剃り跡も青々と、ひょっとして、ア
イヌ人の血を享けているかと、松前いらい同道の竹助と見較べるくらい徳内らが眺めてみても、熊次郎
はやっぱり普通の日本人に見え、えらく日本人ばなれがしているようにも見えた。徳内は、西蝦夷地の
ソウヤ場所へ、言寡(ことずく)なに互いに一礼して別れた普請役の、あの庵原(いはら)弥六の物腰などを、ふッと想い出し
ていた。
熊次郎は、山□の依頼に応じたらしい。逸平や徳内は上司に眼まぜに呼ばれて、改めてこの中肉中背
の通辞と名を名のり合った。慇懃もなく、胸を張る感じもない。
運上屋の内部(なか)は、交易場所によって規模こそちがえ、大凡(おおよそ)の表向きは支配人が占める上座敷と、乙名
たちや通辞が一段ひくく坐る広い張り出しの間と土間とで、戸仕切りもなく開け放ってある。内々の場
所は座敷の奥にある。普請役ならびに下役、それと侍分の浅利、近藤が夜分は奥に寝て、徳内らはどこ
で泊っても表戸へ、それも江戸は江戸、松前は松前でおのずと人も席も分かれがちに集うのが常だし、
201(39)
人足のアイヌ人たちは今の季節なら、戸外のいたる処で、くるくる巻いて身の傍(かたわ)らを離したことのない
莚(むしろ)などを被(き)て平気で寝起きしていた。死ねばあの莚にくるんでもらって土の下で寝ると徳内は聞かされ
た時、はじめて、人が、生きて暮してそして死んで行くという一繋(ひとつな)がりのことに、アイヌ人が常住不断
の用意を払っているのを知って、妙に、畏(おそろ)しいほどの気がしたものだ。
熊次郎は山□らと車座になってからも、いささかも場違いな感じを持つふうでなかった。クスリ場所
には、四人の通辞の他に番人が諸方の番小屋に十五、六人いて、ここなど比較的マシな連中が寄った場
所のうちだけれど、いったい東蝦夷地に勤める番人は大概が対岸陸奥(むつ)の南部者、それも渡世人ふうの食
いつめ者が目立つという話、とかく類が友を呼んで、とくに飛騨屋がわざとのようにそんな男たちを番
人に雇って、クナシリ島(じま)やメナシ(目梨)の交易場所で、好き放題にアイヌの頭をおさえさせている、
などという話を、さらりとした□調でもう始めていた。
……この広い蝦夷地(アイヌモシリ)には、実際あなた方の見てこられた以上に数多く、一攫千金が本音で流れ着いた
ッきりという不如意な日本人(シヤモ)がいます。遠く能登の珠洲(すず)、岩見の益田辺からも、また土佐の実崎(さんざき)だの紀
州勝浦の辺からも来て居坐っていますよ。シラヌカ場所のあの喜八さんのような江戸者もそのクチだけ
れど、あの人はあれでもと本願寺の坊さんなンで。……とうに俗人に還ってあんな仕事はしているが、
一ッ処に一年半といたタメシがない。そんなことも言う。
クスリ場所からの運上は、干鮭千三百束、昆布八千駄、干鱈三百束、鷲羽六羽分、熊胆(くまのい)二つ、熊皮二
枚がきまりですが、ご領主の要求は年々に増えてアイヌ人もほとほと音をあげています。
そうは言いながら熊次郎本人の表情は、あいかわらず温和しくて。
202(40)
ああそうだ……とくに、この界隈の土地の名は妙なのが多いのです。しかし大概それらしく地勢や景
色が名前に織りこんであるから、心得ていると道中なにかと便宜でもあり面白い。例えば問題の「アッ
ケシ」は、アツシを織る原材料のおひょう楡(にれ)。その木の皮を「剥ぐ場処」の意味ですし、アツケシ半島
の突ッ端(ぱな)に「パラサン」という岬がある。獣を捕る平(ひら)おとしの罠の意味もあるし、岬の遠目がその罠に
似て見えて、海の魔神も近寄らない、また近寄ってくれるなという名付けらしいです。
また「チクシコイ」といって、同じ半島の太平洋側に、小さな漁村とも通路ともいえる所があります。
チクシは人が通るという意味だし、コイは波。つまり大きな波と波との間を人が駆け抜けて通れるよう
な低まった場処のことを謂うている。その近くの「ピリカウタ」は綺麗な佳い砂浜で、小島や大黒島を
沖に望んだ眺めが、佳い……。
熊次郎の□調は物柔らかだったが、訊くほどに問うほどにさもさも正確に、跡切れなく話しかけてく
れる。沈着な山□も直情の青島も、むろん鬚の徳内、気がるの千太も相槌うつのも忘れたように、聞き
惚れた。
「千太。これァ、土地や物の名前も名前だが、元の意味をよう聞いて書いといて欲しいな」と、大塚小
市郎。
「いい字引が出来るぞ」と青島。
「それァ熊次郎さん、あんたの仕事ですぜ」
徳内も本気でそれを□にしている。と、
「キイタップってのも珍しいや。どんな意味ですかい」
203(41)
千太がさっそく訊ねたのは、朗かな笑いを呼んだ。
「キ・タッ・プ。茅を刈る処、です」
ほうと満足そうな声が渦巻く。いつしか徳内は、熊次郎の横顔をただもう見つめていた──。
その熊次郎の案内で、いよいよアツケシ場所に着いたのが二日後のことだった。
シリバ崎の出鼻を辰巳(南東)に、大黒島や小島をほぼ真東に見下ろしたあと、眼を北にあげると遥
かメナシの山脈(やまなみ)が雲海に頭をあらわしていた。段々に山坂を下るうちにも、半島にまるく抱きこまれた
奥のアツケシ沼(トウ)も、その外の広いアツケシ湾(モイ)やパラサン岬の波静かな船掛りも、あの蔭に運上屋がある
という緑なすなつかしやかな山崎も、みな見渡せた。
湾の西、ゼンホチ(善鳳趾)の泊から海上二里ほどを舟で渡った。浜伝いにも行けはするがずいぶん
遠まわりになる。
「何日めだ……」
「今日は、何日だ」
舟の上で、往きかう声がふツと潮くさい風にちぎれて飛ぶ。あざらしが游(およ)いでいる。足の赤い小鳥が、
波間の岩に巣喰っている。鼻にかかってキューキューと鳴いているのは、鴎のオオセグロだ。六月四日
──。指折り数えて三十五日もかけて松前からはるばる来た。そう思い至ると銘々にしばらく声を呑む
……。だが、通辞の熊次郎は「山□様」の舟に同船していて、一同の感傷にも頓着なく、こんな進言を
した。青島俊蔵も聴いていた。
めあての酋長イコトイは、だぶん今時分はアツケシ場所にいないと思う。キイタップか、ひょっとし
204(42)
て、もはや今年ももうラッコ島(ウルップ)ヘオロシァとの交易に出向いていそうな時期に当っている。
「飛騨屋の、それは……差金(さしがね)か」
青島にすかさず訊かれて、熊次郎はそうとも見えるし、そうでないとも言えますと微妙な答え方をし
た。山□鉄五郎に目頭で制されて俊蔵は黙った。
「で……いっそお勧めしたいのは、二人でも三人ででもイコトイの後を追って、ここは一気に、季節の
いいうちに、クナシリ島までせめて先渡りをなさるお人があってよろしいのでは、ないか…、と」
さすが山□鉄五郎も一瞬思案しかねた顔で青空を仰いだ。が、くッと眉根を寄せ、すこし血走ッた眼
と力づよい声で、
「青島さん」と、振りむいた。はィと頷いて青島も即座に、
「逸平。……それと徳内を、遣りましょう」
「通辞は……」
熊次郎は、だが事もなげに付け足した、
「通辞など、いない方がいいのです」
四
──結局……でも、実現はしなかった…ンですね。
──クナシリ島へ、逸平(大石)と先に行けという……あれ、かネ。
205(43)
──ええ。
徳内氏はさっぱりした顔で、すぐアアと頷いた。ほかのことを考えている容子(ふう)だった。
「部屋」のうちがいつもよりほうッと底白い。膝下へ雲を敷いたような気分(ぐあい)だ。が、外光の洩れて入る
この「部屋」では、ない。灯火の設(しつら)えもない。客の背後に無地の襖があり、私のうしろにも同じ襖があ
る。雲母(きら)びきに見えるが、時に眼球にくすぐったいほどそれがほうッと輝いたり、そうかと思うと水の
底のように翳っていたりする。
花の好きな私は床の間に花がほしいと思う時も、ある。「黙」の掛宇を今すこし愛想のいい字か絵に
掛けかえたい時もある。
だが、「部屋」へのお客で、一人としてそんな希望を述べた人はいなかった。秘色(ひそく)の香炉の、そこは
かとなく薫(くゆ)るだけがいつもの定(き)まりで、たとえば最上徳内氏が、私の呼びかけに応じて気さくに襖を入
ってくる時も、それより奥がむろん在るには有っても、様子などなに一つ覚えず、しんと明るい清い
印象(かんじ)だけが残っていた。
そして私にすればあたりまえのことだが、但しこのところの徳内氏ほど頻繁ではないが、相変らず同
じこの「部屋」で例の新井白石氏にもの問う機会も重ねていたし、またべつに余儀ない成行からこの頃
は、生前お目にかかれなかった谷崎潤一郎先生のお名前を恐る恐る、何度となくお呼び立てしてもいる。
大谷崎がどんな顔で、どんな恰好で、どんな物言いで「部屋」を訪れ、この私が両膝を揃えてどれく
らい緊張しながら『小さな王国』だの『夢の浮橋』だのを話題に時を移すかは、現世でお目にかかる機
会のある未亡人(おくさん)にも今ぶん内緒の、我ひとりのとびきりの賛沢ではあるが、さて谷崎先生母方の祖父に
206(44)
当る久右衛門というお人は、晩年、「キリスト教のニコライ派」に改宗し、奥の離れにマリア像を祠っ
ておられたという。幼かった時分の谷崎先生は、
──赤ん坊の基督(キリスト)を抱いたマリアの姿を見ると、朝夕祖母たちが拝んでみる仏壇の前に立つのとは違
ふ森厳さに打たれて、深い慈悲と憐愍(れんびん)の籠(こも)ったその眼差(まなざし)を、云(い)ひ知れぬ敬虔(けいけん)な気持で視詰めながらいつ
までも傍を去ることが出来なかった。私には、西洋の国の女神の前に掌(たなごころ)を合はす祖父の心持がぼんや
りと理解出来て、何となく薄気味が悪くもあった半面に、自分もいつか祖父のやうになるのではないか
と云ふ風にも感じた……
と、『幼年時代』に書かれていたとおり、きちんとした東京弁で、呼吸(いき)の長い話しかたをなさる。
──泉鏡花先生が、あの……仏子(ぶつし)を胸に抱いた麻郁夫人像を、いつも身辺に祠っていらした……とか。
ご存じでいらっしゃいましたか。
──その話は、よく聞いていました。
──聖母子ふうで……。隠れ切支丹が、よく似た像容のマリア観音を大切に祈った気分、あれとも繋
がっていたでしょうか。金沢とカソリックとの関係など、よく存じませんが。やはり幼少時に、鏡花先
生は外国人との接触、それも年上の外国女性へのプラトニックな思慕(ラブ)を、お持ちだったそうですから。
早く亡くなったお母様にたぐえて見るお思いは……
──それはお有りだったでしょう。あたしにも、築地明石町の「サンマー」という学校で、ちょっと
似た経験があった。……麻耶、マリア…母…と、子だね。鏡花先生が、お母様(ツかさん)のお亡くなンなすったあ
と、麻耶夫人でなく、いきなり西洋の聖母子像とお逢いなすってたら、どうでしたかネ。
207(45)
そんな谷崎先生との対話に重ねて、新井白石氏の□から同じ「部屋」で幾度も聞いている、密入国の
ローマ宣教師が所持していた悲しみのマリア図、美しい親指のマリア図との出逢いに心を乱されたとい
う、当時としては稀有な白石の感受性を思い合わせてみたりするのは、これはもうザラに無い不思議な
悦びで──。母方の出自に不審を抱きつづけた白石先生の経綸と、終生女(一字傍点)としての母(一字傍点)を文学の主題に据
えた谷崎先生とに、聖(サンタ)マリアがそれぞれ生きていたと想う勝手な“発見”は、私の胸を鳴らした。
そればかりか同じ「部屋」で最上徳内氏からもこんなことを聞いている。異教に触れているという理
由で幕府に秘匿されていたはずの『西洋紀聞』を、新井白石がシドッチ尋問の始末を報告したその内容
を、徳内氏は師の本多利明を通じ、本多は懇意の水戸藩に伝手(つて)をえて、かなり詳しく承知していた、と。
しかもこの師弟には一概に“邪宗門”といった嫌忌の念はなかった。徳内氏にすれば、シドッチ神父の
ことを知ったより早い時期に、エトロフやクナシリ島で五十日の余も起き臥しを倶(とも)にしたようなロシア
人の三人が、親しくロシア正教の神や聖人を拝み、とりわけ聖母マリアの小像(メダイ)に事あるたびに額(ぬか)をつき
唇(くち)を添えては、真剣に、悲しそうに、主なる神へとりなしを願っている姿を目のあたりにしていた。
──徳内先生(さん)は、例のシドッチというローマ僧の人物を、白石の評価どおり高く買ってらした。です
からお知合いのどなたか若い人に、暗に、西洋人の徳義や礼節のすぐれているのにもよく学ぶべきだと、
訓読するようなお手紙を先生は書いていらっしゃる…。
──え。そんなのも、見つけたのかい。
──この旅の最初に。野辺地へ寄って…ゆかりの…色々な方に会いましたでしょう。あの時、市の歴
史資料館で若い学芸員が保存資料をコピーして、帰りがけに手渡して呉れました。
208(46)
──いろいろに、こう……尻から焙り出される気分だな。それにしてもあんたも、なかなか忙しいお
人だ。
──みンなですよ。行儀のわるいハナシですけどね。職業としてモノを書いている連中の頭の中は、
仕方なしに七色も八色もの蜘蛛の巣みたいです。
──つまり、浮気なンだナ。
徳内氏にキツイことをこう嘯(うそぶ)かれては、とっさに話題を元へ、天明五年(一七八五)六月四日の東蝦
夷地、さし当り──アツケシ場所へ戻すにしくはない。そうだった。シラヌカ(白糠)場所の支配人喜
八の助言で、見分後山□鉄五郎らはクスリ(釧路)場所通辞の熊次郎を案内人に雇い、その熊次郎は、
ゼンホチ(善鳳趾)からアツケシ湾(モイ)を渡る舟の上で、幕府役人である山□と青島とに向かい、せめて二
人でいい、すぐクナシリ島へ先発させた方がいいと勧めたのだ。
大石逸平と……徳内を遣りましょうという青島俊蔵の声に、山□も頷いた──。
大きな判断だった。が、熊次郎が勧めたとおりには実行できなかった。それが在来の記録に大きな空
白を産む結果になった。
「東(蝦夷地)に向った鉄五郎と俊蔵は八月に入ってクナシリ島ヲトシルベトマリについた。」(皆川新
作)「決死の徳内と逸平はアイヌたちを説得して蝦夷舟に分乗し、(略)根室海峡を突破してクナシリ
島南端オトシルベに渡り着いた。時に天明五年八月半過であった。」(高谷長吉)「一行はようやく八
月の初め頃クナシリに渡ったらしいのである。前にも述べたとおり記録(天明六年の二月、佐藤玄六郎か
ら松本伊豆守に呈上された報告書)には八月中とあるだけである。」(照井壮助)「徳内は、山□、青島と
209(47)
東蝦夷地に向ひ、釧路、厚岸、霧多布を経、八月中には海を越えて国後島までに到つたが、既に時期を
失して、風波のために前進することを得ず、同島に数日滞留の上で引返した。そして厚岸に下役大石逸
平一人を残し、他は皆松前に帰って越年した。」(森銑三)
徳内ら初度の国後(クナシリ)渡島を「八月」中と見る点で、近代の代表的な著作は一定していた。使われている
史料は内閣文庫蔵の秘密文書『蝦夷地一件』、佐藤玄六郎著『蝦夷拾遺』、それに徳内著『蝦夷草紙』
ほかが考えられる、と言うより、拠るべき確かな文献は他には無い。
右のうちの異色は高谷長吉著『最上徳内』で、この年国後島に渡ったのを逸平と徳内との二人に限り、
他は「不帰の不安が北海の山なす波浪とともに心底を動揺させ」て、有司同輩は一様に「つくづく怖じ
けづき、その果ては帰還をあせり、遂に根室の滞留数日にして松前へ引返した」と書く。逡巡の理由も、
「時期はすでに七月頃であったが故に、奥島からの帰路の日程を考えると何か不帰の不安が」と、前文
に繋がっているが、「七月頃」と「八月半過」とに間の抜けるのが気になる。
だが、もっと気になることが別にあった。東班の一行は六月初めに厚岸(アツケシ)場所に着いていながら、なぜ
「八月中」ないし「八月半過」まで国後渡島が果せなかったか。照井壮助氏は『蝦夷地一件』にもっぱ
ら拠(よ)りながら、著書の末に年表を附して、交易船の神通丸、自在丸が「東蝦夷地各地の試み交易の事に
当た」っていた時期を「七月」中とし、「八月中」には両船とも「クナシリに至る。山□、青島クナシ
リに上陸して島内見分、乙名サンキチ、脇乙名ツキノエと会う。徳内も一緒か」と推量している。荷を
積んだ船が着かぬ限り、交易の試みようがない。すると少くとも六月いっぱい、一と月もの間、山□や
青島は船の到着を待って、アツケシ界隈をただ「見分」していたのか。季節の制約が当初から問題にな
210(48)
っていた奥島渡りであるだけに、むざむざ気温、天候など条件の悪くなる「八月中」までクナシリ渡島
を延引していたとは考えにくい。
──妨害、ですね。飛騨屋……でしたか。
──さよう。正確に言うと、松前藩があこぎな飛騨屋の手□を我々に知られたくなかった。抜荷の品
だって、見付けられたくはない……
──ア、そう…か。喜八や熊次郎は、それにアツケシ乙名のイコトイにしても、逆に見分(けんぶん)の幕府役人
にそれを早く見せたい、実状を知って欲しい。そうだったンですね。
徳内氏は微笑っていた。そして、飛騨屋支配ということの意味をよく知っていないと、当時、少くも
東のアイヌ(メナシクル)が抱えていた矛盾が解けないよと付け足した。
松前藩に独特の、場所請負という商人まかせの蝦夷地経営は、藩財政が行詰まるにつれ交易運上金で
は賄いきれず、借金を重ねて、その抵当(かた)に新たな場所を定めては権益を長い年限許可するしかない方向(ところ)
へ深刻に陥ちこんでいた。ところが漁業のこの場所請負に限っては、飛騨屋久兵衛など実はずっと出遅
れて来たほうだった。
久兵衛は、屋号のとおり飛騨国から江戸へ出、ある材木商の下請けでもっぱら南部桧を伐りおろして
いたが、そのうち広大な蝦夷地に目をつけ、元禄十五年(一七〇二)には、蝦夷松の伐採権を獲得する
ことに成功した。木目美しいこの材木を飛騨屋は大量に江戸、大坂に送って卓や障子の桟に細工し、こ
れが大当たりをとった。松前藩は盛んに飛騨屋の金を借りた。三代目久兵衛の時節には負債は五千四百
両にものぼって、藩に返済の力がないと見ると、抜目なく飛騨屋は新たに漁場に手を出した。安永三年
211(49)
(一七七四)には向こう二十年の契約で、アツケシ、キイタップ、クナシリ三場所を「請負」い、翌年
さらに二千八百両の藩債を代償に十五年間、ソウヤ場所も「請負」った。いずれも千島アイヌを、また
カラフトアイヌを介して、オロシアないし山丹や清国から抜荷買いの見こめる足場だった。藩権力の拘
束からも一等速い、奥蝦夷の要地ばかりだった。
産物も豊富だった。例えばアツケシの場合、皮革(かわ)だけ見ても猟虎(ラツコ)あり海豹(アザラシ)あり鹿も熊もあり、また鷲
の羽が二十羽分はあり、熊胆(くまのい)、エブリコ、魚油、椎茸、みごとなアツシの類、むろん魚類も入れて、船
積み三千石分ほどあった。近年は昆布も大量に「採拾(と)」れていた。徳内は端的に「出精(しゆつしよう)次第、まこと
に所産多き所」と見込み、かりにも幕府直轄の暁には「最初草創の要地」になろうと、海つづきながら
巻貝の懐のように奥深いアツケシ沼(トウ)や、同様にシリバ岬とパラサン岬とで外洋の荒波から安全に守られ
ているアツケシ湾(モイ)の広々とした展望(みわたし)に、最初(はな)から、もう吸いこまれたように胸の内の膨らむ思いを抱い
ていた。
アツケシなど東のアイヌは「耐強」を以て知られ、松前藩も手も焼いてきた。だが飛騨屋はものとも
せず、大船と、新式の刺網(さしあみ)、曳網(ひきあみ)による大量漁法でメナシクルの獲物を、あれよと見るまに根こそぎさ
らえた。勝負にならなかった。
アイヌほど謙虚に自然の生命を尊ぶ人間らしい人間はいない。魚や獣の交尾期や産卵期や妊娠期には、
互いに漁(すなど)り狩りくらすことも自制する。汚水や汚物で仕方なく大地をけがすにも畏れ慎んで、する。必
要あって木を伐れば、必ず若い小枝で挿木(さしき)や接木(つぎき)の心配りを忘れない。食用の草の根を掘れば、必ずあ
との土壌にいたわりを忘れない。アイヌは神(カムイ)と暮しているとシラヌカの喜八が徳内に訓えたのは、そう
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いうことでもあった。
飛騨屋の商法は、と言えばそんな情容赦は微塵もなかった。アイヌは収穫を奪われ、食い上げを怖れ
嚇(おどか)されて飛騨屋に雇われた。番屋の番人は恣(ほしいま)まにアイヌを監督し酷使した。面白ずく量目を減らされ
ていく米、煙草、酒、古着等の給付とは逆に、アイヌが持ちこむ獲物の方は、「はじめ(三字傍点)、一つ、二つ」
と数え「九つ、十、おわり(三字傍点)」などといういわゆるアイヌ勘定を強いられた。ことにクナシリ場所で飛騨
屋の手先は目に余るひどいことをしている、非道が過ぎると、熊次郎らは露わには言わないが、山□ら
幕府有司のクナシリ渡りをどうか早くと望んでいた。
──酋長のイコトイは……。イコトイには、皆さん、逢ったのでしょう。
私は「部屋」のなかでイラ立って訊いた。徳内氏は、だが返辞のかわりに首を振った。横に振った。
がっかりしてしまい、私は□を利きたくもなかった。
──ま……それよりも。あんた、自分の旅を先へ急いだがいいよ。ホレ時間が……
そう言われて私も慌てた。「部屋」に入る前から時間は無いぞと、自分に言い聞かせていたのだ。
──ア、これだけは言っとこうかね。
起ちかける私に、徳内氏(さん)は真顔のまま言葉をついだ。
──アツケシ乙名のイコトイは、クナシリ島の脇乙名ツキノエアイノの婿に当たっていたのさ。クナ
シリの総乙名は当時サンキチアイノだったが、ほんとの豪傑はツキノエアイノだった。セツハヤとイコ
リカヤニという、いい息子ももっていた。もう一人いたナ。ノッカマプ(根室の近く)に、ションゴア
イノという大物の乙名がいた。イコトイとは、あの年わしはとうとう逢えずじまいだったが、他の乙名
213(51)
たちとは、やがて逢ったンだよ。
──どこで……ですか。お一人で……
──ノッカマプで。逸平と。
──じゃ、やっぱり……
──そうです。キイタップヘ追っかけたが、イコトイはいなかった。で、アイヌの舟を頼んで海から
追いかけた……
五
──ぼくも……
と言いすがるのを聞きもあえず、徳内氏(さん)はものの引くように向うの襖へかき消えた。一瞬、焦点を喪っ
た目に鈍(にび)雲のひろがると見えたのは、大河となって流れる厚岸(アツケシ)湾早朝の静かな眺望(ながめ)だった。対岸は青い
棒を横たえたように門静(モンシヅ)から尾幌(オホロ)辺へかけて長く遠く、幾千の小船が、舳(みよし)をみな右へ、湖の方へ向けて
ゆっくり遡る。
私は、この時、国泰寺の裏山に登っていた。寛政三年に最上徳内の建てた神明宮(しんめいぐう)跡が、「史跡」にな
っている。その標(しるし)の木のそばに「龍王殿」の扁額を掲げた古祠も木々に埋もれている。私はだいぶ前か
ら縁側に腰かけ、ゆうべ宿で貰いおきの二合瓶から、直かに地酒を呑んでいた。寒かったのだ。
この朝一番鶏(どり)で眼醒めると四時に支払いを済ませて私は宿を出ていた。外湾と内湖を隔てる赤い
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鉄のアーチの厚岸大橋を、冴えかえる風に煽られて本町の奔渡(ポント)へ渡って行きながら、左対岸に舟、舟、
舟が灯をともしたまま犇(ひしめ)き眠っているのを見た。こんもりと青い、姿の佳(い)い岬山の裾に、すぐ水ぎわま
で数百の漁家が密集している、あの中に今、一軒のアイヌの家もない……と、宿で聞いてきた。
朱い鳥居の小さな祠(ほこら)が遠い漣(さざなみ)の上に浮かび、朝の潮(うしお)は堪らなくひたひたと静かだ。浅そうだが、見渡
すかぎり湖水は冥(くら)い緑色をして、想像して来たよりこの内海(うちうみ)、懐がずっと深い。左に潮の匂いを嗅ぎ、
右に厚岸湾の潮の香を吸いこみ、私は凍えながら橋を渡りきってしまうのが惜しまれた。
橋を渡ると、そこが、往時、東のアイヌの首府と謳われたアツケシの船掛り。今は港町だが、表通り
は小料理屋の呑み屋が軒をつらねて、濃い息が籠もったようにまだ眼醒めの気はいもなかった。足もと
へからッ風に絡まれながら道なりに奥の山へ突き当たると、豪快なパラサン岬の緑に抱きこまれて、景
運山国泰鑑寺はあった。クナシリ島、エトロフ島に至る広大な東蝦夷地を慰撫し支配すべく文化二年
(一八〇五)に幕府が建てており、十町四方の境内には、それより十数年前に最上徳内の建てたという
神明宮の祠がすでにあった。が、まさか、そんな痕跡も遺っていまいと私は諦めていた。せめて国泰寺
に詣り、また同じ場所に厚岸神社のあるのも拝んで行きたい。そう思って厚岸を旅の一つの目的地に数
えてきた──。
だが、前夜にたてた予定だともう時間(あと)がない。根室へ、急行「ノサップ1号」が厚岸駅を出るのは七
時十三分。六時をもう廻って、駅への道順も距離もさだかでない。からになった酒瓶を、厚岸神社拝殿
の前の屑篭にこそりと落とし、私もまた一片の紙屑然としてつむじ風に手を舞い足を舞い、新聞配達や
ジョギングの少年を横目に吹きッさらしの町通りをあたふたとまた大橋へ、そしてやたら道に烏の降り
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ている市街地を、駅へと急いだ。
──全席自由席の電車は二輌仕立てで、厚岸湖の奥、マコモの浅緑(さみどり)に鶴や小鳥の群れている湿原(しつげん)を清
い水しぶきを立てるように東へ駆け抜けて行く。茶内(チヤナイ)へかけてずっとオンコの林や、シロエゾマツに時
おりねじくれたダケカンバもまじって、枝が窓に触れそうに木昏(こぐら)い森が続く。針葉樹の繊細な感じの美
しさに、瞬間、草野の傾斜(なだれ)が遥か垣間見えたりする。
窓ガラスに顔を寄せたままだった。
クナシリハボマイ
浜中からは霧が舞った。ぶじ国後島が、歯舞の小島が見られるだろうか……。やがて海かと想う草原
の大きな起伏が右に広がった。地平線がまン丸だった。が、すぐ霧。そして牛の群れた牧場。また霧に
包まれ、小さい駅が視野に消え、濛々と針葉樹の森が聖者のように静まり返る──。
眼に潤む緑の草原も、よく見ると盆を置いたように悠容と波打っていて、窪みを埋めて小川が流れ潅
木や小喬木がみっしり茂っている。野を占めてハルニレの巨木の、豪快に枝を張り盛大に葉を繁らせた
姿は、惚れ惚れする美しさだ。何の木だか、青い綿くずのようなのを、頭からボロボロにかぶって風に
揺れていたりする。陥ちこんだような嶮しい峡谷が根釧(こんせん)原野に深々とくさびを打っている。厚岸を出て
一時間半、およそ人影を見ない。
「広いなア。……ホント広い」
どこかから急に電車が左へ、北へ進路を変え、そして落石(おちいし)岬かナと想う断崖を瞬時に遠く眺めたなり、
八時三十五分に落石駅を通過した。昆布森、西和田、花咲──チクチクと海岸線を縫いながら真緑(まみどり)の草
野(くさの)を、もう数分で根室とアナウンスのあった電車は、紗のような淡い雲霧(ガス)を被(き)て、ごく無表情に走りつ
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づける。ふと見ると茶色い馬の親子が仲良く、私の顎をのせた窓わくのすぐ目の下を駆けている。
定刻着の終点根室駅は、小雨のなかにあった。駅前から納沙布(ノサップ)岬へバスが出る。バス停のわきで、片
道四十五分と教えているまるでマンガの略地図に、択捉(エトロフ)・国後(クナシリ)島より、歯舞(ハボマイ)の島々よりも大きく、鋏の
太い花咲ガニや、昆布や、觜(くちばし)の赤いエトピリカが絵に描かれてあるのが面白かったが、それよりもや
はり、納沙布岬と先の島々とを隔て顔の海峡に、ただ説明もなしに細い朱の点線がハッキリ波打ってい
るのへ逸早く眼が行く。その看板の下の隅には謹格に黒い太字で、「北方領土返還運動に参加しよう」
と横一行に書き添えてあった。
岬へは、ぬうっと長い長い草野の一本道だった。右には終始海と漁村と大小の島々。そして左に手入
らずの間断ない草千里。雨はやみ、どんな勤め先か、ゴルフ場でもあるらしくてバスは勤め客で満員だ
った。ハボマイという停留所を過ぎた。ゴヨウマイというのもあった。あれ、あれと中年の女客(つれ)が指を
さし合っている沖の遠くに、白っぽい船首を寒々とあげ、かなりな大きさの船が座礁していた。昨日か
一昨日(おととい)の遭難(こと)らしい。下り坂になるにつれて、根室半島は草の穂の吹きちぎれそうに風立っているらし
い。日本国の東の、もうさいはて──納沙布岬が、バスを降りると路のまっすぐ奥に見えた。切って落
としたその先は湧きかえる雲霧(ガス)のオホーツク海だ、冷たい雨粒が頬や額を横なぐりに襲いかかる。とて
も、とても、歯舞諸島など見えそうにはなかった。
霧も風も、だが気まぐれだった。サファリコートの襟を立ててガムシャラに岬の突端へ出てみると、
急に幕を引いたように水平線が遠くなって鴎が晴れ間の青空へ舞い上がる。右の岬に白い灯台が。左の
岬にもなにか異様にごつい、茶色いアーチが海へ眼圧をむいたように建っていた。草の断崖の真下で、
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半身(はんみ)を海に漬けて流れ寄る昆布を引くらしい女の人を見つけた。海を背に、たった一人の俯いた黒い背
中、頭の白い手拭いがひどく寂しい。私は双眼鏡で沖合いをぐるぐる探したが、かすかに、貝殻島の無
人灯台らしいホンの燐寸(マツチ)棒ほどしかないかすかな縦(たて)線が、見えた、か……と思うばかりだった。
さっきから気になっていた。耳を鑽(き)って朔北(さくほく)の風が吹きかう岬の曇り空へ、ひたすら哀しく愬える調
子(ふう)に、休みなく男の声、女の声で演歌が流れている。演歌ではなかった。北方領土の復帰を願って、望
郷の歌が唱われつづけているのだった。岬に近く、歌声は「望郷の家」「北方館」と二つ並んだモダン
そうな建物の、どちらかから聞えていた。オホーツク海へ開いた頑丈なゲートと見えた建造物も、北方
領土四島を四つのブロックに造り表現してそれを連ねて大きな架け橋に返還をひたすら祈る門(ゲート)、いつか
ここから異国に力ずくで奪われた故島へと還って行きたい、希望の門を意味していた。
ああ、ここへ来たか。とうとう、ここへ来たかという、凍えそうな思いに私は捉われた。
「望郷の家」は円型ドーム型、屋内に回旋斜路をもった、明快な鉄筋の二階建て。胸にまつわりつく音
楽(うた)はこの建物から拡声器(マイク)で流していた。二階の望遠鏡からやはりかすかに、貝殻島の燈台らしいものが
見えた、が、おおかたは海とも霧ともつかぬ灰色をまさぐって、レンズは空しく宙を漂うばかりだった。
「北方館」は四角いやはり二階建てで、蝦夷地全図などが階段を上って行く壁面に掲げられ、二階に、
歴史的な資料はじめ現代の国際条約や共同宣言の写しなどの展示がしてある。
「わが国固有の領土である歯舞(ハボマイ)群島、色丹(シコタン)島、国後(クナシリ)島、択捉(エトロフ)島のいわゆる北方円島はいまだにソ連に不
法占領されたまま返還をみておりません。……納沙布岬(根室市)で目の前に北方領土を眺めながら、
各種展示資料などをご覧願って北方領土問題について認識を深めていただく」といった、設置の趣旨を
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私は黙々と読んだ。
かりに──日本国の領土として千島列島を主張するなら、その境界はエトロフでもウルップでもない、
表むきカムチャツカの南限に及ぶべきだと最上徳内は考えていた。はなはだ漠然としたものであれ古代
このかた日本の知識人は蝦夷ヶ島の東北に、さらに奥の千島のあることをまるで知らなかったのではな
い。そして根拠もなく、それが日本の内でないとは考えてこなかった。松前藩の見解、江戸の幕府の諒
解も、もし、こと改って物を問われれば千島は松前支配の範囲内にある(二字傍点)と答えた。ハキとした外国の領
地とは思えなかったからだ。現実には、しかし、松前藩の力はエトロフ島までも届いていなかった。寛
政の改革を率いた老中松平定信など、今の根室の辺ですら日本国の領土と思いにくい旨の本音を洩らし
ていた。アイヌの天地(モシリ)と知っていた。但しそれは鳥けだものの棲むのと同じに感じていた、それだけだ。
寛政十年(一七九八)十月、幕吏の近藤重蔵は徳内に先導させてはじめてエトロフ島に渡り、功名心
にもかられてリコップの岩門月(いわま)に近く「大日本恵登呂府」の標柱を樹てて帰った。蝦夷地御用扱いの重蔵、
普請役徳内、それに従者下野原助(木村謙次)以下、十余名のアイヌが孝助だの弟助だのの日本名前で
一つの標本に名を刻んだ。「大日本領(いちじ)」としなかったのは、あたかも領界を狭くここに限るのをことさ
ら避けたのだろうと、高谷長吉氏は、この判断ないし助言を徳内に帰して著書にそう書いている。徳内
氏、必ずしも私にむかって高谷説を否定はしないが、多くは語ってくれない。
──アイマイなンですね……
私が不満な顔をしても、徳内氏は眼の奥をキラッと光らせるだけだった。
──寛政十年ともなっては、エトロフがロシアの南下を遮る、事実上もう北限……という判断が、近
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藤重蔵らに有った。ちがいますか。
──オロシァの領土(もの)か日本のかという二者択一を急ぐなら、当然日本の、と言って動くしかない……
放っておくわけに行かなかった。
──しかしウルップには、手がもう届かなかった。それに……千島をはっきり日本人の領土(もの)と、徳内
先生には信じかねる内心(もの)が、お有りでした…、そうでしょう。先生はあの標柱を樹てたより七年も前、
クナシリ・メナシ騒動の後始末に関わっておいででした。アイヌが、なンで飛騨屋が抱えの和人を一気
に七十何人も襲って殺したか、よツくご承知ですよ、ワケは。……蝦夷は、征服すべきもの。征服さる
べきもの。……その思いこみだけが、北海道や千島を日本の領土と勝手に決めて動けた根拠、その実は
根拠の薄弱な根拠でしたね。……明治時代の北海道開拓使は、いみじくも「没収」と□にしていた。
──たしかにアイヌは、一度だってアイヌモシリが和人(シヤモ)の「国」になったと承知したことはない。そ
も……大昔から「国」という考えはアイヌには、なかったでしょう。
──そこが付け目でしたね。で、没収した……
徳内氏は私の短兵急な議論に抗う表情は見せなかった。が、シンとそこで黙りこまれる──と、例え
ば、あの時もし幕府が蝦夷千島に手を出さずじまいでいたら、返還を要求している北方四島の如き公然
ロシア領に早くに加わっていただろう、北海道すら東半分くらいはどうなっていたか、と内々に反問さ
れている気は、した。そしてそれに答える自信はなかった。それでもよかったのですなどとは、どうし
ても言えない。
ソ連と日本との公式の主張や論争を詳細に知ってはいない。北方領土の表題を掲げた参考書は、日本
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側の本も、『ソ連はどう考えているか』といった本も、努めて読んではみたが、理屈抜きに昭和二十年
の敗戦時点でソ連が北方四島をすかさず侵した遣(や)りくちは愉快でなかった。「不法占領」の四字を正し
く論証する力は私にはないと思うが、不当(二字傍点)という印象ははっきり持っている。
同じように、沖縄を、戦略的に事実おさえて放さないアメリカ軍も愉快でない。が、それらを比較し
てどうこうと言える人(わたし)でなし、ただ誰が手を拍(う)ち誰が顔をしかめようとも、北方四島にごり押しに居坐
っておいてあとで理屈をつけたソ連の手□は、きたないと私は思う。島々を追われた原住民のなさけな
い喪失感を、素直に共有できない日本人ではいたくない。択捉も国後も、ソ連の領土では決してなかっ
た(四字傍点)。ソ連に権利はなかった(四字傍点)。そう思う。今の状態は不当(二字傍点)だと思う。
そう思う一方で、そのソ連とまったく同じ不当なことをアイヌモシリにした日本だった、日本人だっ
たことを、都合よく忘れてはしまえない。琉球にも、朝鮮にも、台湾にも、日本はまったく同じように
そうしてきた。そしてアイヌは日本人と同じだ、日本人になりなさい、琉球人は日本人と同じだ、日本
人になりなさい、朝鮮人ももとは日本人と同じだった、日本人になりなさいという手□を使った。日本
風の姓をもち名を名のることを恩に着せて強いた。そうしておいてその「同じ日本人」に、日本人は何
を(二字傍点)しただろう。父祖の地を没収した。ソ連が北方四島を現に侵しているようにだ。
それなら私は何をしに……納沙布(ノサツプ)岬まで歯舞の島を見に来たか。根室標津(シベツ)まで、何をしに国後島を見
に行くのか。こんなやり切れなさを、身にこたえて実感したいからか。
吹き降りの寒い糠雨になっていた。それでも岬にまぢかく若い人のたかっているのは、白い木の柵に
囲まれ、遠眼に古い石碑が建っているからだ。なぜか根方を、緑、赤、黄、青にかきわけた、まるで風
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船のつぶれたようなはではでしい布でくるんであった。根室市が指定した「寛政の乱和人殉難墓碑」
であるらしいその方へ、私は帽子で雨を避けながらもう一度戻って行った。
碑の表には「横死七十一人之墓」と刻んである。裏か脇に何とか彫ってあるかナと思い、とたんに、
ア、そうだったのか、これがあの『魔神の海』の底から漁船に拾いあげられた、あれ(二字傍点)だったのか……私
はそれを思い出し、今さら人垣のうしろで棒立ちになった。
この墓碑は──大正元年(一九一二)の冬、つい今しがたも沖に破船の影が傾いていたゴヨウマイの、
あのうねりの波の海底から引きあげられた。あらましを言うと、「寛政元年、この地の凶悪な蝦夷ども
党を組み事を起こし、突如として侍、商人を襲へり。害に遭(あ)ひしもの七十一人。ここに、その霊を弔ひ
碑を建つ」旨が漢字ばかり五十数字で簡潔に裏に刻んであった。
碑の出来たのは文化九年(一八一二)というから「この地」に建つ以前、魔神の棲むと恐れられたこ
の北海に沈んでからきっちり百年後に、漁師の網にかかっている。
寛政元年(一七八九)の蝦夷騒動といえば、クナシリ、メナシのアイヌが起(た)って松前の侍や飛騨屋の
手下(てか)を襲った歴史的な大事変。じつは、これを機に最上徳内と青島俊蔵の運命は明暗に大きく描き分け
られることともなった。
墓石は、いずれ「横死」者を出したクナシリ島かメナシ(目梨郡)の地に建てようと、船で運ぶ途中
で船もろとも底の藻屑と沈んだのに違いない、そして奇蹟のように拾い上げられてからは、ゴヨウマイ
の漁村に久しく漁師たちの手で保存されていた。根室市がそれを十余年前にこの納沙布岬に移したとい
う。
222(60)
それにしても、望郷の願い届けと北の四島返還をソ連へ愬えるその納沙布岬に、怒れるアイヌに殺さ
れた和人を悼(いた)む墓碑が据えてあるのは、私のような旅人にもよほど奇異に眺められた。ここに立ってソ
連を怨むのはまアいい。が、そのついでに「蝦夷ども」の蛮行をも爪はじきぎみに見よがしの墓まで立
てておくのは、根室市当局もいささか無神経に過ぎはせぬか。
──ちがいますか……
念のため、急速「部屋」に入って徳内氏(さん)を呼んだ。
ところが入ってきた先生は、坐りこむ気なしに、起ったなり身をかがめて私の肩をポンポンと軽く二
つ打つとそのまま出て行ってしまった。あっけにとられ機嫌も損じて私は元の墓碑(ところ)で突ッ立っていたが、
気をとり直してもう一度雨も小休(おや)みの岬の突端(はな)へ、ゆっくり歩み寄ってみた。
霧がのいて、淡い黄に、日ざしが近まの海づらを映していた。見渡すかぎり島も、船も、翔ぶ鳥の影
もなく、波の音も耳にとどかない。風も凪いで、空も海もこの私も一つにとろりと溶けた、睡いような
静かさだ。魔神の海がこう濛々と行方知れず広大なのが、意外とも、それらしいとも思いつつ私は全身
の冷えにじりじり竦(すく)んだ。
この海が、一面オホーツクの流氷に埋まる季節(とき)にまた来たい。徳内も、アイヌも、北方領土もなしに
また来たい。彼女は、様似(シヤマニ)まで電車で一緒だった世田谷のあの女子大生は、納沙布のすさまじい流氷を、
以前に友達と旅行して実際に見たと言っていた。……あの娘(こ)、どの辺を今時分は歩いているやら。そし
て突如、びっくりするほど露わな情念と想像とに襲われた。私はとび退るように岬を離れながら、頬を
かっと熱くして「魔神の海」「魔神の海」と呪文のように唱え、ついで「ノッカマプ」「ノッカマプ」
223(61)
と呟きつづけた。
六
もう十何年前、と言えばあの「ヒロシマ」体験を根に、私が或る賞を受けてはじめて公に小説を活字
にした年だ、その秋に少年少女むけの創作として『魔神の海』という本がK社から出た。私は表題に惹
かれて小学校三年生の娘に、朝日子(あさひこ)に、翌(あく)る正月のお年玉に添えてその前川康男という人の書いた本を
買って与えた。表紙の絵から、アイヌに取材したと一と目で分かる、本造りのいい本だった。もっとも
目次だけパラパラみて、二、三ヶ処に「シサム」とあるのが日本人の意味とも私は知らず、なにかしら
事多い物語であればそれでよしという気だった。
ところがそれはクナシリ、メナシの騒動を書いた話だった。今しがた割りきれない気持で向き合って
きたあの「横死」の墓碑が、ふしぎに漁師の網にかかった実話から書き出してあった。面白かったかい
と無責任に訊くと朝日子は幼い笑顔を急にぐっと引き緊めて、スゴイお話よオと返事したのをしっかり
覚えている。ヘェと思って面白半分手を出して、読んで、大袈裟に言うと顔色が変った。
まだ、最上徳内氏に私は出逢いもしていなかった。とすると、子どもむけに気力十分に書かれたあの
人間(アイヌ)の物語をあの時読んだ経験(こと)が、よほど胸の内でものを言いつづけて私を此処までこう誘い出してく
れた──に、ちがいない。
寛政元年の事変は、蹶起したアイヌの若い指導者たち三十七人が、ノッカマプで処刑されて鎮まった。
224(62)
クナシリ島の脇乙名ツキノエは、『魔神の海』主人公の、凛々しいわが子セツハヤを松前藩の手に引き
渡さねばならなかった。渡さなかったら──アィヌが、どうなるかごの酋長に察しはついていた、だか
ら悲しみをこらえて渡した。他の若者にも説いて教えて死に赴(おもむ)かせた。だが、記録に現われた処刑者は、
三十七人──の他にも、ツキノエの惧(おそ)れた犠牲者は、その後言い尽せないシサムの報復と弾圧とで、ク
ナシリ、メナシの大地(モシリ)を黒く血に染めた──という。
私は、バスの停留所へ戻って行きながら、重くて叶わない何かをずるずる引き擦って歩いている気分
だった。なにもかももう御免を蒙りたい。勝手にしてもらいたい。そして突如(あツ)この重いものは海だ、海
が俺を呼んでいる、と思った。思うや否や双つの耳たぶがつままれ、ねじを捲かれたようにきりきりッ
と私は岬へ、海へ、向き直──った時、誰かの「ノッカマプ……」と言っている声が聞こえた。
爪先を突き破りそうに踏み留まると、振りむいて、私は声の方へ一途(いちず)に海から遁(に)げた。どうやら今し
がた停留所に入ったバスの客がぜんぶ降りて、やがて根室駅までまだ折り返すらしい。そのバスの運転
手が、白手袋を一つまた一つぬぎながら最後に外へ出て来たのをつかまえて、乗って来た客の一人だろ
う、ジーンズの上へ、フードの付いた黄色いヤッケをふうわり華著に着た女の子が、ここから「ノッカ
マプ」岬の方をまわるバスは出ないかと訊ねていた。
「有りません。車は通りよるけれど。良(え)ェ路やないけ……街(根室市)ィ戻ってからタクシー雇うて行
くか……」
アーンと、あどけないくらいな失望の声をあげて、少女は背中へはねた黄色いフードを揺らした。こ
の納沙布岬でタクシーは……とも言いかけ、がっかりして□を噤(つぐ)む。
225(63)
「タクシーは無いやろなァ。あんなとこ……何にも見るもン無いですよ」
「何にも、ほんとに無いンですか」と私は割りこんだ。少女は思わずわきへ一歩退(の)き、かるく咎めるよ
うな表情(かお)をしたのだろう、たっぷりある柔らかそうな髪を繊(しろ)い指さきですばやく八の字に分けた。少女
は細い銀ぶちの眼鏡をかけていた。
「そうやな。灯台と……国後(クナシリ)から移って来たという漁師をしよる家(うち)が一軒。二軒やったかな。草の上に
あかいハマナスとあおいサルオガセの花と……瑠璃色した波と、吹きさらしの…痛いような潮風だけ
……」
運転手は気がいいのか、訳き手が二人になったからかバスガイドの言いそうな描写まじりの返辞をく
れた。
「アーン。がっかりですウ」
眼鏡の少女は、レンズのせいかもしれない、大きめの艶々した黒瞳(くろめ)を無邪気に宙へなげあげた。「ノ
ッカマプ」へ行けそうにないので落胆しているのか、そこへ行っても何にも無いと聞いたためか、たぶ
ん両方らしいが、なンでまた、この娘(こ)がノッカマプ行きを思って来たのか、もし今からこのバスに乗る
気なら一緒に乗って、その辺を私は訊ねてみたくなっていた。と言うのも私の方は、もうあっさりとそ
ンな辺部なところへ無理に行く気など失くして、それよりも今日の泊(とまり)をどこに求めたがよいか、また根
室駅かどこかで教えてもらうことを考えていた。大人の一人旅はそれほど小心に先を急ぐものと、私は
幾らか佗びしく、しかし慥(たし)かに気づいていた。
少女は運転手に丁寧な礼を言い、私も慌ててモゴモゴ言ううちもう二人は次の行動に移っていた。運
226(64)
転手は手袋をポケットにねじこみながら道の向かいの駄菓子や飲みものを売る店へ寄って行き、少女は
足もとの自分の荷物を提げて望郷の歌がやるせない岬の方へ、さァ何もかも見ようというふうな若々し
い後姿で遠退いていた──。
十時二十分には根室へ折り返すというそのバスに、私は独りで乗った。十二時半まで岬の景色を堪能
する気で来たのだが、風は寒いし雨も来るし、小休(おや)みないレコードの唄声がべたべたと肌にまつわる感
じも閉□だった。なにより、霧がとざした大海原の畏しい凪ぎの静まりに、私は気負けがしていた。
バリバリ音のする容れものの、白砂糖を練って塗りつけたようなパンと、紙製のパックの牛乳とを売
店で買ってから、坐席で発車を待つ間にも私は徳内氏(さん)を呼び出して、ノッカマプヘは行かない言いわけ
をはじめた。
根室へ帰るバスは根室半島の太平洋ぞい、南側の海岸を走る。ノッカマプ岬は逆に納沙布岬から根室
へ、半島の北海岸ぞいに近年やっと通じたような村道(そんどう)のすこし根室寄りにあって、天明の蝦夷地探検の
時代は、ここがキイタップ場所の内でも千島との往来に要(かなめ)となる漁港だった。安永七年に、ロシア船が
国交と交易を求めて松前藩の侍と折衝したのもこのノッカマプだったと謂われる。それがまるで死に絶
えたように寂びれ、代って西のネモロ(根室)が繁昌するようになった何よりの理由は、やはり寛政蝦
夷の乱にあった。クナシリやメナシのアイヌが此処で松前藩の手で酷(むご)たらしい見せしめの処刑をされた。
中には、どさくさにノッカマプに住んだアイヌは根絶やしにされたと見る人も、いる。「この地」にア
イヌ戦士の慰霊碑をと考えた人たちも、いる。歴史の創傷(きず)はかさぶたで塞がれたが、下には、まだ血膿(ちうみ)
が乾いていないのだ。
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──岬の丘が、海へも陸(おか)へも身構えの利いた、たいした砦(チヤシ)に出来ていてね。その辺から北ヘシレトコ
岬までが本当のメナシ(東)だよ。古くからオホーツク海の外敵を防いで、とりわけ砦(チャシ)の多いところだ
った。
──蝦夷本島のアイヌと千島のアイヌとにも、戦(いくさ)が……
──昔は、よくあったそうだナ。人種が違うとまでわしは考えなかったが、微妙に物言いなンかはね。
それと、千島アイヌには明らかに良きにつけ悪しきにつけオロシァと交わってきた、一種乳酪(ちち)くさい、
妙に遠くへ開かれた融通の利いた感じがあったね。わしだって、そいつに惹かれたし。逆に言うとね。
キイタップやアツケシのアイヌというか、場所のね……感じが。匂いが。日高や十勝のと何となくちが
うワケのようなものまで、分からせた……
──つまり厚岸中心の勢いが択捉(エトロフ)、得撫(ウルツプ)までとりこんでたというより、千島の、つまりロシア風の感
じや物が、逆に北の方から厚岸辺まで、触手をすでにのばしていたと……
──そうハッキリも言えないが……それくらいの範囲で、海を越えて東の世界というのかね、一つの
メナシクルが固まりかけていた……固まらせてしまうように働く刺戟(なにか)が、飛騨屋のやりかただの、オロ
シァの南下の勢いだのには有ったと思う。
──アイヌ同士、喧嘩なんかしてられる時じゃないと。
──それを…、乙名だナ、ツキノエだのションゴァイノだのあの連中がさすがに考えていた。幕府が、
何を考えてわざわざ人を寄越したか……などとネ。
──ア、それで……
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と、私は力いっぱい自分の両掌を握った。通辞の熊次郎に知恵を授かって先行した大石逸平と徳内氏を、
メナシクルの頭(かしら)株は、ノッカマプでむしろ待ち構えていたのだ。ところが、逸平らがキイタップから
わざわざ波の荒いノッシャム沖、ゴヨウマイ海峡を迂回しノッカマプにやっと船を寄せた時には、なン
ということか、陸路を馬で来た近藤吉左衛門が通辞の三右衛門と巳之助を連れてもう先着していた。
彼らは駐在の松前藩上乗役(うわのりやく)松井某や飛騨屋の場所支配人堀越安次郎や番人らと共謀(はか)って、見付かって
はならぬ抜荷の品などを洞穴や土中に隠匿(かく)したり、商い向きのことで遠慮のない告げ□をもし幕吏に対
ししようものなら、後日に刺し殺すとも毒を嚥ますとも我らが勝手などと、場所の乙名のションゴアイ
ノ以下をきつく警(いまし)めていた。三右衛門らはその種の辣腕を見込まれ当初(はな)からメナシヘ派遣されてきたや
くざな男たちだった。
幸い、クスリの通辞熊次郎が懇(ねんご)ろに言いふくめて逸平らを預けた、キイタップ番所の小使タサニセが、
逸早く事情を徳内に告げた。告げたとはいえ、わずかに操(あやつ)ることのできる日本語の片言と、それを徳内
が眼に物言わせながら不馴れなアイヌ語で受け取っては身ぶり手まぜに確かめ合うもの。早合点や錯覚
もあったろう。が、要は見分後案内の責任者が、浅利幸兵衛が同行せずに危いクナシリ島へ貴公らを渡
すわけに行かないと、二人をぜひ足どめすべく馬を駆って追い越してきたらしい。体よく逸平らは監視
されて、乙名のションゴアイノの顔も見られない始末だった。
徳内はひそかに船路を真北へ、ケラムイ崎へ取りつく気でクナシリ渡島を敢えてしたい気が逸ってい
た。
だが大石逸平は、後難のみすみすアイヌヘ及ぶのを避けたい、むしろアツケシに早く状況を報せて山
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□さん、青島さんにもすぐ来てもらおう、ここが瀬戸際だと言い、タサニセも逸平に賛成した。それと
言うのもキイタップでイコトイに会えなかった時から、通辞の熊次郎はアツケシへ急ぎ戻り山□らに同
じことを勧める手筈ではあるし、加えてここ数日のうちにクナシリの総乙名サンキチと脇乙名ツキノエ
が相連れて、このノッカマプへションゴアイノを訪れてくるのも、この地で、江戸の侍(トノ)とのオムシヤを
考えているからだ……と。
──オムシヤ……ね。「ハナハダ次第前後アリ」と書いておられる…対面式でしたね。
──まアそうだね。筋書はたぶんツキノエが書いていたと思うよ、幕府の「トノ」を乙名が連合して
恭しく迎える。そうやってナンというか……
──示威行為、……松前や飛騨屋を牽制しようという……
──気分は、直訴か…な。
──見てくれと…実情を……
──そうだ。
なるほどと頷いたきり暫く言う言葉もなかった。
──で、今日はあんた、この先の旅はどうするのかね。
シベッ
──いずれにしても電車かバスで厚床(アツトコ)まで戻ります。日は永いし、標津(シベツ)線で標津(シベツ)町へ行ってから、旅
館を探すンです。そうそ、先生初度の国後渡島は……すると、ノッカマプから船で。
──いや、やっぱりシベツからです。潮のぐあいもいいし……とにかく何やかやあったンだが、その
うちに荷を積んで、御用船も来てしまったからね。
230(68)
ああそうですかとまた頷いて、その辺で徳内先生にはお引取りを願った。あとの旅行の段取りがまだ
立ってなかった。
それにしても、アツケシ酋長のイコトイだけれど……なぜ、そのオムシヤとかに加わらずに愛想もな
く独りラッコ島(ウルップ島)へ行っちまったのかしらん、しまったナ訳けばよかった、と、後(あと)の祭に
苦笑いをパンもミルクも一緒くたに、走るバスの中で私は嚥み下した。
結局、電車との連絡がわるく、十二時過ぎて根室の駅前から厚床行きのバスに乗った。それでも国鉄
厚床駅へ着いてから、一時間以上待ち時間があった。待合のベンチには屈強な若者が二人づれで、二人
ともシャカシャカと音の洩れるウォークマンで音楽を聴きながら、ぷすりとも□は利かず文庫本を読み
耽っていた。もう一人向じバスで来た別の青年は、完全装備の登山家のような、赤い色の目だつ大荷物
を背負(しよ)ったなり、駅前を、喰い物の店を探すらしくウロついていた。
「部屋」籠(ご)もりも妙に今さら気ぶっせいで、私は駅の外廻りから線路を越えて、広い広い草野の原ッぷ
ちに佇んだ。草は私の腰を埋める深さで、踏みこんでみると想ったよりごぼごぽとした湿泥に足をとら
れる。しゃがんで草の穂先に視線を据えれば、草千里の遥かな彼方に地平線が薄澄んで青い。風に香る
青草にまじって、黄金(きん)色のカンゾウの花が揺れ、小紫のあやめも真白い玉のタンポポの絮(わた)も揺れている。
中年の強(こわ)ばった上半身を、精いっぱいのけぞって仰ぐ大空には、濃まやかな霞に似て白く照った雲がた
ちこめている。
路へ戻ってゆっくり場所をずらして行くと、野なかの直(す)ぐな直ぐな一本道が、穏やかな起伏のまま
地平線の向うへ吸いこまれていた。時計を見て、よし、三十分間歩いて行こうと決めた。そして三十分
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で戻ってくれば、次の電車に乗り遅れはしない。一本道は、百メートルも先で左右に規則正しく翼をひ
ろげたような針葉樹の林を貫通している。右の林のすぐ手前に、数十メートルもの高い立派なハルニレ
が噴きあげるように真翠(まみどり)の枝葉を繁らせている。林の門(ゲート)を向うへ抜けると、もう牧舎の一軒、サイロの
一棟も眼にない広野の、おや、あそこに、あそこにもと、賢人の集いかのようにシンとして白黒の斑(ぶち)の
牛たちが、車座になったり、思い思いに額を寄せたり背き合ったり草を喰(は)んだりしている。
よかったぜェ……。こういう大きな景色のまン中に一度立ちたいと幾度乗物の窓から眺めたか。その
とおりの何とまァ気の清々する野ッ原じゃないか。
さすがに叫びも喚(おら)びもできないが私は満足して、今にもスキップを踏みかねなかった。針金で蜿蜒と
囲ってあるからは、これこそが牧場なのだ。そう思ってみると獣類の糞もたしかにころりころりと道路
からわずかの奥に、草の根もとに見えたりする。そうかと思うと、深々と草が埋めたまるで塹壕(ざんごう)のよう
に、水路が野の遥かまで横切っていたりもする。
十メートルほどのしっかりした木橋を渡った。欄干はない。木一つの厚みで、端縁(へり)が造ってある。川
を越えて暫く──して、また時計を見、橋まで引返して端縁(へり)に腰かけて両脚をたれた。澄みきった清水
の底から夥しく青い水草の茎が伸び上がって、水面に粉を吹いたように真白い小さな花をいっぱい咲か
せながら、川下へ下へひとしく傾いている。川岸はもこもこと色ンな草や潅木に縁(ふち)どりされながら、く
ねくねと、橋より上も、下も、五メートルほどのところで淀んで折れ曲っていた。
ノッカマプヘなんぞ、行かなくてよかった。もうけものだったぞこの一時間は……と、私は道の真正
面に四角く門のあいたような林へ二本の腕をひろげた。林の右に厚床(アツトコ)の町なみが見える。左の方には、
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林と林の切れめに図抜けて高い、頭頂(あたま)のまるいサイロが銀色に光っている。鷹揚(おうよう)に私は右を見渡し左を
見渡し、また振りむき振りむきしながら駅の方へ一本道を戻って行った。
三時十九分発の中標津(なかしべつ)行きが待っていた。ウォークマンの二人連れも、登山青年ももうどこかへ乗り
こんだようだ。空いていた。三時十四分に釧路へ帰って行く電車が根室の方から着いて、乗り換え客が
パラパラとこっちへ移ってくる。それでも向かい合いの四人席が一人占めのままで済むみたい、──と
思うのが半分、今日の宿の心配がまた半分の気でいる、と、真隣りの枡(ます)へ、
「ハーイ。ヨイショト……」
そんな小(ち)いちゃい掛声で、横長なナウい荷物を坐席に置くなり、斜(はす)向かい、窓側の隅へこそッとまる
で嵌(は)まりこんだ客──と眼、いや眼鏡と眼鏡が向きあって、
「おッ」
「アラぁ……」
──ノッカマプヘバスの便がないと分かって、納沙布岬で「アーン」と可愛らしく嘆いていた少女が、
黄色いウインド・ブレーカーは脱いで、白い、胸のところに黒猫の愛くるしい繍(ぬ)いとりのあるブラウス
姿で、さっそく、大判の旅の雑誌(ガイドブック)を広げかけて──いた。
七
「あなたも……」
233(71)
「あたし……も、根室標津(シベツ)まで行きまぁス」
はんなりと柔らかい、明るい声音だ。関西、大阪、京都か──のアクセントなのも心安くて、反
射的に、今日の宿、もう決めてますかと訊いた。
「はい……」
心もち息を呑まれてみれば、なるほど一人旅の少女に不躾な質問ではあった。だが私も困っていた。
根室標津まで乗車券を買った厚床(アツトコ)駅の窓□で、出札の駅員に、向うで適当な宿が見つかりますかと、で
きれば助言が欲しくて、首を低くねじ曲げるようにして訊いたのだ。だが返事は案外なものだった。あ
そこはいろいろ商人の寄る町で、商人の定宿なら幾らかあるにしても、さァ…、どうですかなどと言う。
「そんなわけで。心配で……」
「ホントでェすかァ。旅館……ありますでしょォ。ユースホステルみたいのも」
「あなたは……」
「民宿です」
そんな呼び名は聞いているが、利用したことがなく、若者専用という気がする。
「ごらんに、なりますかァ」
そう言って少女はひろげかけていた大判の旅案内(ガイドブック)を、この辺……と頁も開いて通路ごしに機嫌よく手
渡してくれた。正直、助かった。同時に、自分が泊る宿の名を言うより、親切に本ごと預けて勝手(すき)にえ
らばせるのは、この際かしこい、適切(スマート)な出かただナと思った。見直す気分になった。
物言い、いかにも旅を満喫中。天真欄漫ふうな語尾をはねた可愛らしさが、わざとでない生地の人柄
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であるらしいが、それで少女という印象を最初からもっていたものの、十代とも思えない。さりとて様
似(シヤマニ)で別れた女子大生──四年生──と想い較べても年かさに見えない、が、年齢(とし)より若い感じの顔立ち、
からだつきなのだと思った。短大を出て一年……イヤこの春卒業した人かナと、一年間だけ通って願い
さげにした或る短大非常勤のむかしを想い出したりした。
標津町にちゃんと旅館も民宿もあった。私は急いで二、三の名前と電話番号だけ自分の手帖に書きと
った。中標津駅で西から来る電車に乗りかえになる。その間に駅の電話で予約してもよく、終点へ着い
てからでも夏至(げし)のことだ、日暮れまでに十分、間がある。手をのばして本を返した。
「ありましたでしょう……」
ええと礼を言い、あなた関西の方ですねとまた訊いた。
「大阪からです。分かりますかァ」とこだわりのない笑顔へ自分(こっち)は京都有ちだと打ち明け、そう言えば
納沙布岬のあのバスの運転手がけっこう関西託りでしたねとも笑いあって、そして、
「ノッカマプヘは。行って来られました……」
「はい。行きました」
意外な返事にも驚いたが、それより、その件に就ては問答無用ですといった、今までのその人からは
信じられない切□上に、興醒めがした。
話の継穂はないし、また、呑気に喋ってられない当座の関心も、べつに有った。
天明──五年度の御試(おこころみ)交易の実情は、詳細の経過は分からぬまま、御用船神通丸が東蝦夷地から秋
味(鮭)と魚油を積み帰り、江戸で売払って千三百両をえたこと、五社丸が西蝦夷地ソウヤからもろも
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ろ交易品を積み来たって松前で売却のうえ、沖ノ□諸役つまり手数料のほかに、東西場所のいわゆる運
上金など差引いて、なお七百余両をえていたことが勘定奉行から報告されていた。これは、下ッ端だっ
た徳内氏には覚えのない話だった。
その、表むきは奴(やつこ)さん、の最上徳内もむろん交易の実務に関わってはいた、たとえばニシベツ川での
秋味漁など印象的だったとみえ、『蝦夷草紙』に特筆している。厚床から私の乗りかえた電車が、今に
もその西別川を北側へ渡ろうというのだ。数秒か、せいぜい十秒余で越えて行くにちがいない、せめて
川面(かわも)の眺めだけでも印象にとどめたい、と、私は乗る早々から窓の外が気になっていた。
厚床から根室標津間に、東流して風蓮湖や根室湾、野付(ノツケ)水道へそそぐ川が大小六本も青い細い筋で地
図の上に見てとれる。流域が広大な根釧(こんせん)台地──というより、今は北欧式大農法をとり入れた主酪農業
地帯・パイロットファームとして入植の進んでいる西別川は、標津線別海駅のすぐ先を、国道沿いに根
室湾へ開口して、沿岸開拓酪農地の中軸をなしているらしい。その川口から湾を平ツたく真東へ渡って
やや南に沈めば、根室湾へ着く。北寄りにとりつけばノッカマプの灯台へ着く。いかにも北海の鮭が盛
大に湖りそうな地勢だ、徳内は「漁猟の事」と題し感興をこめて凡(およ)そこう書きのこしていた。
天明丙午年(一七八六)蝦夷国見分御用につき、江戸本町の苫(とま)屋久兵衛が用意の神通丸を、沖乗りの
太兵衛という者が船頭となり幕命によって松前にはこんだ。現地では幕府普請役の下知を受け、改め
てはるばる東蝦夷地のニシベツという大きな川のあるところまで海を渡って来た。この太兵衛は東蝦
夷地の海路や難処にくわしく、船を操ることでは鍛練の者だったが、さらに松前藩の意向で松前唐津
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内町の次郎兵衛という先導役も同じ船に乗組んでいた。次郎兵衛は多年蝦夷地商売をしており、鮭の
塩引も手馴れた男なので、同船して、八月中旬ニシベツヘ向かった。
ニシベツでは、毎年秋の彼岸ともなると、川上へ鮭がおびただしく遡る。自分(徳内)はこの鮭を
採(と)るのをその際の主な御役に宛てられていたので、アイヌや和人に指示して網を曳かせた。
この年八月十七日、昼の七ツ時(四時)に曳いた網には、鮭三十尾あまりがかかった。また翌十八
日の朝六ツ時(六時)に曳いた網にはずいぶん沢山がかかった。その内よくない鮭ははずし、いいの
だけを選んで九十七束もあった。一束とは二十尾をいうから、千九百四十尾にもなる。わるいのはは
ずすとは、ばかに大きいのや逆に小さすぎる鮭はとりのけ、中位ので揃えるのを良しとする意味であ
る。みな合わせると約二千五百尾ほどはあった。大船一艘に積む数はおよそ五万尾以上というのを古
今松前家は掟にしている。かかる大層な数も五、七日の内に採ってしまうのだが、これは蝦夷地へ日
本船が入りこんで以来変りない実績というから、猟産は沢山の、これも証拠となろう。
ともあれ、たちまち八百石積みの船荷は満載されて神通丸は出帆した。自分は猟場やニシベツ沿岸
の様態を取調べかたがた、山を三日踏越しに歩いてアツケシ(厚岸)へ通り抜けた。この途中の山間
の小さな川にも鮭が登りつめて沢山なこと、川面に満ち溢れていた。実に目を驚かす壮観だったが、
珍しくもないと、アイヌは笑っていた。
すさまじい漁だ。表むき苫屋の請負仕事とはいえ、いくら鬚(ひげ)はのばしても徳川の内舎人(うどねり)徳内らも、要
は飛騨屋なみにただ大量に鮭をとりにとったわけだ。
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──それよりも……
と私は、もはや強引に、徳内氏を呼ぶと「部屋」の外へ、標津(シベツ)駅の電車の内へ誘い出した。幸い車輌は
十分に空いている。通路向かいの人も、四人分の坐席を一人じめに、ことッと小柄なからだを嵌めこん
だぐあいにして熱心に旅案内(ほん)を調べ、手帖に字を書いている。
窓辺へ向きあった徳内氏の鬚は、まだ、ロシア人の「イシュヨ」が後に「徳内レキケン、徳内レキケ
ン」と“鬚人(ひげじん)”呼ばわりしたほど伸びていないが、どう手に入れたか角(かく)や渦巻模様の着古しのアツシの
上へ白い毛皮の袖なしを重ね着して、足もとを見ると、鹿革らしいアイヌ沓(くつ)をなにげなく履いている。
髻(もとどり)さえ解いているのだ、私は、オ……と声を呑みそんな徳内さんを反り身で眺めたが、向こうはケロ
ッとして外の景色に眼を光らせている。何を想っているのかしらんと興味もあるが、やはり、それより
も……と、一度嚥みこんだ問いを改めて問いかけるしかなかった。
──それよりソノ……御試み交易というヤツですけど。内容は、天明五年と六年とでは違ってたらし
いンですね。吉田常吉という人の調査(せつ)ですと、幕府は、五年には飛騨屋支配の東の場所、アツケシ・キ
イタップ・クナシリ、それと西のソウヤ場所の産出物から「半(なかば)を買上げ、苫屋久兵衛をして取扱わせた
が、翌六年には交易試験のため、飛騨屋に命じて、厚岸、霧多布、国後三場所の交易を全く休止させ、
芦屋にこれを代行させた」と。つまり東蝦夷地での出方を、前年より強めたと。そうだったンですか。
──その辺は駆引だよ。飛騨屋との……。わしら下の者は頼りなかったが、吟味与力の山□さん佐藤
さんらは凄むのも上手(うま)かった。松前藩が逃げをうつと、飛騨屋側の痛い腹をさぐる。飛騨屋が隠れると、
藩が脛にもった傷へ容赦なく噛みついていった……
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──経済密偵の底力ですか。例えば……
──烈しかったのは浅利幸兵衛への締めつけだったね。安永の昔にオロシァの使者と密々に交渉して
いた松前藩家臣三人の、あの男は一人だったのさ。そいつを焙り出した。異国との正式の交渉なんぞ、
国是を侵す大罪だもの、表むきは幕府は知らない話だ。むろん報告もされてない。ところが、浅利のこ
とをアッケシやノッカマプのアイヌは覚えていたよ。いろいろと……。で、浅利を、縄こそ打たなかっ
たが吟味して、じりじり御普請役たちが攻めた。
──切腹されたら困ったでしょう……
──犬死だよ、証拠はそろっていたもの。大石逸平という人が、アイヌの言葉もろくに出来なかった
のによく働いたンだ……そのはずさ。逸平さんは、長崎勤めの時分は抜荷詮議の腕利きだったそうだ。
青島さんに聞いた。
──な?んとねェ。物は…?出ましたか。
──いっぱい。
──没収……
──飛騨屋が隠していた物は、すべて没収した。アイヌのは、だいぶ強制的に買いあげた。……それ
が、その先どこへどう蔵いこまれたか…は、知らんがね。
──なるほど。……で、話は徳内先生ニシベツでの秋咲漁なンですが。人によってあれも天明五年の
ことと……
──これは間違いなく、六年。ただ船が神通丸だったか。ひょっとして苫屋手船の自在丸だったかも
239(77)
しれません。
──そうですか。なら、翌年(らいねん)の話は今は考えない……と。でも、その、川だけ見とかないと。
──湿地にはハンノキが今でも多いね。わしは、遠目にやさしいあの木が好きだった。この界隈の木
は、葉が、針のようなのと広いのと、混じるンだナ。海べりへ行くと、フトイとかムジナスゲとか。鳥
も……
──よく覚えてますね。アカエゾマツやトドマツが……ホラ、山の側にはずいぶん多い。
──広い空だねェ。ちっとも変わっちゃいない。今時分はこの辺、やたら鳥が多いンです。大きなシ
マフクロウにも歩いててよく嚇された。ヒバリ、ノビタキ、アオジ、ヨシキリ、シギなんか……脚の赤
いシギが草の中によくかたまっていた。
──見ていて。変わったなァと思うのは、川。川岸の感じ…だね。幅がうんと狭くなってます。
──ア……これは。べつ(二字傍点)、かい(二字傍点)駅ですね。すると、ここを出てすぐニシベツ川ですよ。
顔を二つ窓ガラスに添えて待ち構えている──と、背後(うしろ)で「すみませェん」と声がした。黄色いウイ
ンド・ブレーカーをまた着こんだ眼鏡の人が、起って、表情(かお)であやまりながら腕時計が停まったらしく
時刻を訊いている。私は大急ぎで、「えーと、三時五十……二」と、言ううち脚もとの音がゴオッと膨
らんで、あ、あ、と思うまなしに川一本をもう電車は渡っていた。咄嵯に、用意のフィルムレバーを二
度まわし三度シャッターを切ったが、てらっと磨いた刺身包丁ほどの川面へ、橋のすぐ下手で左側から
240(78)
小川が流れこみ、あざやかに青い夏草に蔽われて、その辺でくの字に川が折れ曲っていたこと、渡りき
ると畑とも見えぬ畝づくりに、ショボショボと畑菜の緑色の侘びしかったことしか、印象になかった。
「あ、すみませェン……」
なにか大事な邪魔をしたかと気づいたらしく、徳内氏と私は、通路まで出て立ち疎んでいる女性を、
ポカンと見返していたが、すぐ手をふってこっちで恐縮して、
「何でもないです、いえネちょっとさっきの川が見たかっただけ。見ましたからいいンです」と、いや
に優しい声になった。
「時間でしたね。えーと……三時五十……もゥ三分。ハイちょうど、です」
「すみませェん。なンで停まったのかなア」
「時間が速く経ったのですよ」
「は……」
「冗談ですよ。動きましたか」
「はい」
「捲きましたか」
「はァい」とその人は皓い歯ならびを見せて笑い出した。徳内氏の鬚面など気にしない顔で、改めて自
分の空席のこっちの端に腰かけて、私に、私用の旅をしているのかと訊く。
見ると徳内さんは、へんに照れて細くした眼で、折しも沿線の牧場の、奥深うへ微笑ましく縦に散開
したような白黒の斑(ぶち)の牛の群を眺めている。野の遠く、白樺の幹の白さが一面の青草に映えた、見るか
241(79)
ら気分のいい林や森が縦に横にのびている。線路わきに杭をうえて、バラ線など張ってあるのがいっそ
目障りな、平和(のどか)さだ。昔にはなかった景色なンだろうなと、一瞬私も見入っている、と徳内さんに低声
で膝をこづかれた。
──可愛らしい娘(こ)じゃないか。また、モノを言っているぜ……
──えッ……
と、わけもなくこづき返して、私も照れた気分だった。
「牛、ばかりですね」
どっちつかずに頓珍漢な返事を私はして、それから娘さんに訊かれてたことを思い出し、ほんとに可
愛らしいかどうか……通路の方へすこし膝を送って、顔を見た。ぶあッと窓の間近へ深い木陰がかぶさ
った様子で、ふり向くと徳内さんの姿が、──無い。
たしかに……意外に、眼鏡ごしだけれど感じいい顔だちらしい。名のりこそしないが私は、国後島の
遠望を旅の終点(めあて)にして東京から来た物書きだと正直に返事した。最上徳内という江戸時代実在の人物に
就いても、要点を手短かに話した。
「そんな人がァ。……知りませんでした」と、反応はどこでも、だれでも同じだ。間宮林蔵の名前なら、
知っている。
その人は大阪で或る会社勤めをしていたのを退社して、退職金を使って、両親を説得して、初の一人
旅を周到に計画して「来たンです」と言う。青森から函館へ入り、小樽、札幌、襟裳岬、霧多布といっ
たところをもうこの人は経て来た。そして旅はまだ、先が長いという。
242(80)
「大阪へ帰ると。すると、結婚(おめでた)……」
「ぜェんぜん。そんなこと全然ないの……ただの旅行なンですゥ」
どっちでもいいことだ。詮索無用と思った。暫くして、また訊かれた、宿、おきめになりましたか
……。なンとかなりますと私はその気で返辞した。
「あたしは、オダイトウヘ行きます」
「オダイ……」
「牧場があって、馬に乗せてもらえる宿なンですって」
ヘェと、気が動いたが尾岱沼という三字がその時は頭に浮かばなかった。いずれ標津(シベツ)町の内だろうと
思いつつ、
「馬……ねェ。馬。面白そうだけど、部屋あるかしらね、まだ」
「あるのとちがいますか」
「あるかなァ。……どうかなァ」
「電話番号、分かりますよ」
「そうお。乗換えの中標津で、そィじゃそこを、電話で先に聞いてみようかナ」
その人は手帖に控えた番号を教えてくれた。「牧場の宿」というウソみたいな宿の名前だ、おや(二字傍点)と思
った。何が、おやだか……馬。そうか。馬の「ご縁」か。
私は顔をあげてその人の方を見たが、走りつづける電車の、相変わらず窓の外は広い牛牧場ばかりで、
その人は、白い横顔に大きめの眼鏡を傾げるくらい、じっとそんな北海道の景色を見送っていた。
243(81)
八
蝦夷地の馬は「駿足」で、南部や仙台のより勝れている。巌石の上を行くにも蹄鉄が要らない。性質
も温和しい。四、五疋なら馬方は自分も先頭に乗って、その鞍に段々に綱でつないで牽いても馬が蹴合
ったり道を逸れたりする心配がないし、険阻にも躓(つまづ)かない。たとえ旅次であれ荷を卸(おろ)したあとは野放し
にしてある。蝦夷地の蓬(よもぎ)がいたって馬には滋養になるというから、良い馬飼いさえいれば名馬が育つ国
柄にちがいない──と、徳内の岳父平秩(へずつ)東作は『東遊記』に書いていた。馬にくらべて牛の方は、東作
が渡島の頃にようやく牧(か)われはじめたらしい。
ずいぶん「存在(ぞんざい)」な飼いようをしているけれども、「馬の剛強なる事日本の馬に比類なし。轡(くつわ)を用ひ
ず。沓(くつ)をかけず。山坂の岩石、磯辺、河原等を厭ばず遣(つか)へども少(すこし)もひるむ事なし」とは、最上徳内も実
際に処して明言している。徳内と大石逸平が、通辞の熊次郎に勧められ、アイヌの舟でキイタップ(霧
多市)からノッシヤム(納沙布)沖を迂回しているうちに、松前藩(がた)の手の者が先回りにノッカマプヘ着
いていたのも、むろん陸路を馬で駆(や)ったのだった。但し、東作の謂(い)う「駿足」とはむしろ「健脚」の意
味らしい。キィタップから空しく戻った熊次郎の助言で、アツケシに居残っていた普請後山□鉄五郎と
青島俊蔵が、暫時もおかず小使シモチの先導でノッカマプヘ走れたのも、「剛強」な馬が調達できたか
らだ、それが六月八日のことだった。むろん案内者浅利幸兵衛も、おさおさ監視を怠らぬ気持で幕府有
司と同道した。が、実は半ば縲絏(るいせつ)の身として山口らの手で、ノッカマプヘ引致(いんち)されたというのが当たっ
244(82)
ていた──。
交易船神通丸と自在丸は、前後して六月十一日中にアツケシ湾に入った。松前湊から一度南部の大間
崎西浦に寄り、じりじりしながら、永い永い日和(ひより)待ち風待ちのあと、一路エリモ沖を経て、ちょうど現
いかり
在の釧路・東京間のフェリー航路に乗るかたちで、それでも途中シラヌカ場所にもクスリ場所にも碇を
おろしてから、ようやくアツケシに辿り着いたのだ。順風なら昼夜六日七日で足りたが、時に倍も三倍
も天候が船をとめる。
アツケシに留守居を引受けていた下役大塚小市郎は、湊へ船が二艘入ったと見ると、即決で芦屋仕立
ての自在丸は相良の千太および苫屋の手代に預け、自身はすぐ神通丸に乗り組みアツケシを離れた。ノ
ッカマプヘ早く、そしてクナシリ島へこそ交易の積み荷を早く運びたいのが、クスリ場所このかた見分
隊の計算だった。交易の名目に加えて、狙いはぜひとも奥蝦夷の千島見分。飛騨屋支配の実情を確かめ
ながらオロシァ国との接点をぜひ探りたい。
──アツケシ場所に着いて数日というもの、大石逸平と徳内を果敢に先発させたあとの山□と青島に
は、アイヌが眼中になかった。その余裕がなかった。二人は、大塚も含めてもう来年へ、交易拡大、再
度見分の懸案を探りはじめていたし、それには、松前藩と飛騨屋へ切り返す切り□を具体的にさがさね
ば済まない。
青島が言うのは、この広大な蝦夷地を、実地に誰が、どれほどの人数で拓(ひら)くのか、早くその方策を江
戸へ建言したいということだった。方策は、立てかねていた。山口が考えていたのは、商人どもが利を
折半するような手緩い交易でなく、せめて一年、飛騨屋の権益をまるまる幕府で肩代りできる道だった。
245(83)
その道を通辞の熊次郎が示唆してくれていた。山□らには「迷惑」な案内者浅利幸兵衛のことを「よく
知った者がいます。此処(アツケシ)の脇乙名だが、イコトイが相談役のような格で重宝している年寄りですよ」と、
なにげない座談のついでに熊次郎は山□らの前へ、そのシチというアイヌの老人をそっと手招くように
して連れて来た。
型通りの挨拶は先(せん)に済ました仲だ。シチの髪は白かった。そのくせアイヌ独特の体臭を着馴れたアツ
シに籠もらせて、がっしりと歩く。歩幅も声も大きい。赤人が、「ラッコ島」(得撫(ウルツプ)島)やエトロフ島の
乙名らを鉄砲で殺したり、逆にラッコ島やマカンルル島に住みついた赤人を、エトロフのアイヌが押し
寄せて殺したりした昔のことをシチは覚えていた。明和七、八年(一七七〇、七一)頃の事件らしかった。
煙草が大の好物らしい。白い米の飯もうまいと言う。深い眼窩の奥に油断ない光を溜めながら、シチは
如才なく東方(メナシ)のアイヌは和人(シヤモ)が好きだなどと言ったりした。
そのあげく、シチは途方もない(と山□らは聞いた)話をしてくれた。話は安永八年(一七七九)に
遡る。前年の約をふんで、日本国との通商に大いに望みを持って再度東蝦夷地へ来航したオロシァ国の
使者たちを、ほかならぬアツケシ場所の、この運上屋からも遠からぬチクシコイという処へ迎えて、案
に相違の交易拒絶を冷たく申し渡した松前家臣三人、の筆頭が、浅利幸兵衛だったとシチは言うのだ。
そしてアッケシアイヌにことに不評の上乗り役松井茂兵衛と、もう一人新井田大八という侍も会見の場
に同席していたこと、本当ならクナシリ島でその折衝はある約束だったが、松前側の到着が遅いといっ
て赤人がアツケシまで乗りこんできたことも、シチはよく記憶していた。
浅利らは、だが、表むき通商を拒否しながら、内々に今後もクナシリアイヌを仲介にぜひ交易のでき
246(84)
る余地だけは、双方、□頭でちゃんと残していたという。クナシリ島乙名ツキノエとアツケシ乙名のイ
コトイとに縁戚関係があるのを、うまく利用すれば抜荷買いの道はつけられると、言うまでもない飛騨
屋がはじいた巧妙な算盤珠(そろばんだま)に、松前藩も乗ったのだ、それくらいはシチが仮りにそう言わなくても、山
□や青島は一閃の眼まぜであらましを悟った。
「うむ……」
「これ……ですナ」
頷く山□に青島俊蔵は、灯に近づいて翅を焼かれた虫の死骸を一つ、二つつまみあげた。山□鉄五郎
は高く胸をそり、大塚小市郎などは思わず熊次郎の方へ会釈していた──。
熊次郎は、ひとまずシラヌカヘ帰りたいと望んだ。礼の金はさほど欲しくない。それよりも、有れば
使い良い筆と墨とを荷の中から頒けてほしいと言われて、大塚は、悦んでこの老通辞を荷物の方へ案内
した。だが熊次郎はその場を去りしなにも、もう一度山□らに助言した。もはや蝦夷地の通辞に多くを
頼らず、不自由な身振り手真似を敢えてしても、早くアイヌの言葉を覚える気になるべきです、アイヌ
の信用もそれで強まる、と──。
見分役の山□らと松前家臣の浅利とは、互いに相手を監視する気持を裏に秘めたまま、急速アツケシ
をあとにノッカマプヘ急いだのだった。山□は後事を下役の大塚に委ね、相良の千太と小者与吉らも残
して行った。そして──数日後、あとを追って大塚が、休む間なく神通丸を船出させたと同じ日に、ノ
ッカマプの岬の砦(チヤシ)では、山□鉄五郎、青島俊蔵およびわざわざクナシリ島から渡って来たサンキチ、ツ
キノエら乙名たちとのオムシヤがものものしく興行された。
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砦は海に向かって、豪快な段丘の上にコの字形に開いていた。五尺ばかりの壕(ごう)で囲われ、内外に土盛
りがしてある。徳内らはあれが砦(チャ)シだ、砦址(チヤシコツ)らしい、というのを道中幾度となく遠目に眺めて来たけれ
ど内部(なか)を見る機会はなかった。松前藩の侍には踏み込ませたくないらしいと、やがて察しがついた。
下役大石逸平の耳うちで、普請役の青島は、キイタップから連れて来てくれたタサニセを介して、オ
ムシヤの場処をできれば砦のなかでと、アイヌ側に提案した。案の定、単簡な不承の返辞があり、今一
度押して、和人側は幕府見分役として出張した普請役以下四名に限る、松前藩の侍、飛騨屋の手代は一
人も加えないと伝えさせると、暫時の後に好都合である旨がはっきりした。
浅利や近藤吉左衛門が顔色を動かすより早く、山□鉄五郎はその方らに不審を訊したいことが多々あ
る、後刻吟味するので控えよ、不服なら縄を打つと言い渡した。
危険な挑発だった。が、位取りの微妙なことは、それより無いと思い切ってつよく出るとふしぎに相
手が臆して退る、そこをモ一つ押せば事は大概定まってしまう。ああいうのは一種の酩酊みたいなもの
よと徳内はのちのちも述懐したほど、それは果敢な先制だった。一つには飛騨屋雇いの場所支配人らに、
松前藩との危い心中を敢えてする信義などなく、大方は脛に古傷を隠しもった通辞や番屋の番人も、
「お上」の役人には気を呑まれた。せいぜい手前で手に入れていた物騒そうな禁制品を、無難に一時ア
イヌに預けて糾明をのがれようとする程度の動きしか、よう見せなかった。
オムシヤの通辞役にはタサニセと、アッケシから山□らに随った小使シモチの二人が当たり、徳内も
仲介の役を買って出た。身ぶり手真似は、仮りにも武士は気が臆して手も足も出ないと苦笑する上司の
気持を、逸早があっさり代弁(せつめい)した。
248(86)
外には一面に海松(みる)を、内には珠を銜(ふく)んだ龍を金蒔絵した八寸の朱盆に、根来塗二升は入る大きな片□
が用意されて、それは後刻布袋(ほてい)の彫物の付いた煙草入も添えて当地ノッカマプの乙名、ションゴヘの土
産にあてられた。クナシリ島乙名のサンキチには、柄(つか)にも鞘にも青貝などで装飾がしてある陣太刀を授
け、ツキノエには、色佳い下緒(さげお)のついた鮫鞘の脇差を、納戸地(なんどじ)に金銀で鶴丸を繍(ぬ)い出した帛紗(ふくさ)に巻いて
手渡した。タサニセやシモチには、一面花盛りの梅樹を白う染め抜いた緋の福神などが披露されると、
アイヌの座は羨望の声にどよめいた。酒は、清酒が用意された。
オムシヤの次第は、あの松前城中で徳内らが傍観したウイマムと大差なかった。ただノッカマプでは、
両者の間に妙な上下の差別(けじめ)を山□らが付けなかった。付けようもなく、付けまいと抑える配慮が万事に
先立っていた。真向に海へ開かれた夏草のしとねと、幸い晴れた日の光と涼しい海風とを浴びながら、
見分役と乙名らは二列に向き合ってただ安坐したにすぎない。砦の内では数十人のアイヌが「興行」の
さまを遠巻きに、ときどき奇声もあげながら見ていた。鴎が遠く游(およ)ぐように宙をすべって来て、ふと視
界から沈む。やがて崖下からまたものに引かれるぐあいに、突如斜めに中空へ舞い上がる。上がりなが
ら存外な愛らしい声で、睡たそうに日差しに囀(さえず)りの尾をひく。はるかなクナシリ島ケラムイ崎はおろか、
アイヌ舟一点の影もない。ただ標渺(ひようびよう)と雲とも霧ともつかぬ海づらばかりが、濃い銀色に視線を占めて
きらりきらりと輝いていた。
山□以下が、真実アイヌの乙名と正面を向き合って公式に出逢ったのは、これが松前いらい最初だっ
た。しかもここで応対をしくじると、あと動きようがなくなるという会い方だった。が、同じ思いはサ
ンキチらも抱いているらしかった。彼らはアツシの上に日本のはでな女衣(おんなぎぬ)の類をしどけなく単衣(ひとえ)に着
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重ね、はじめは肌を震わせ謙遜の体に背をまるめ、「歩行礼譲厚く」慎重に跪坐の姿勢を一様に崩さな
かったし、山□から声をかけるまで一音も発することなく恭く合掌していた。が、こういう時は青島俊
蔵だった、つかつかと起って行って順に乙名の両掌に両手を組んでは解(ほど)いて、大きに、よし、よしなど
と声をかけ、肩さきを鷹揚に叩いて面倒な挨拶の手間はぜんぷ省いてしまった。もっとも青島流がすぐ
通じたわけでなく、乙名たちはあくまで彼らの流儀を守ったそうだ、いちいち青島の手をとって胸へ引
きつけ摺りつけ、再拝し、三拝したその自分の手で自分の鬚(ひげ)を正し髯(ひげ)を撫でおろしてから、感極まった
ように「吁嗟(ああ)、吁嗟」と声をあげる。それから明瞭な声で、「ヤイコユレシカレ」と、はじめて物を言
うのだ。徳内はそれが「あらありがた、かたじけなや」という意味であることを、タサニセに確かめて、
上司に伝えた。
松前でもそうだったが、ことに此の地の乙名らがこのあとの容儀の、立派に居直っていささかも譲ら
ない堂々とした貫禄に、山□も青島も舌を巻いた。
サンキチは半白の髪に鬚に温容を埋め、終始大きく安坐していた。胸をはったその恰好が、まるで御
神木然として静かだと徳内は眺めた。この乙名は、今後の交渉は信頼するツキノエたちに委ねていた。
またそれほどツキノエとションゴにも壮年の長者らしい落着きがあって、□を衝いて出る日本語さえ三、
四に止まらず、時にはまっすぐ山□や青島へ鋭い指をさしながら物を言い掛けるほどの威(くらい)があった。一
座は自然と密々の談合という体に車座に膝を寄せ合うて行き、群集していたアイヌらは長老の手の一振
りと一声とで殆ど砦から姿を消した。潮騒の鳴りがにわかに高く崩れまた崩れて、いつか、大石逸平は
と見ると懐中していた帖面をひろげ、矢立ての筆にせっせと墨をふくませていた──。
250(88)
アツケシ乙名のイコトイ不在は、会見の場にやはり一抹の空虚を生んでいた。彼らはウルップ島に渡
って豊富なラッコを猟(と)るのが好きで、得意だった。他のなににも増して効率のいい取引になるのだ、シ
サム(日本人)以上にフウレシサム(赤人)がラッコの毛革に目がなかった。その欲望を満たすためにも
フウレシサムは、ラッコ島(得撫島)までは強引に手を打って大挙来往する。あの島では従来も赤人と
接触することは多かったと、クナシリ乙名のツキノエが話してくれた。
「今年はどうか……」
逸平が声を掛けた。ツキノエは、対話のつど人物を見定めるように、間を置いて、返すべき言葉を手
探りしている。
「……去年(まえ)ハ、イタ」
かすかに山□が眉を曇らせたのを、徳内は見遣さなかった。サンキチとツキノエは翌日にも島に帰る
と聞いている。徳内は、自分を一緒に連れて行ってくれぬかと頼みこんだ。そして逸平の顔色をうかが
った。身分柄を過ぎた差出□だが、熊次郎のあの助言が死んでいるわけでもない。
「逸平……」
青島俊蔵に呼びかけられるまでもなく、逸平は字を書きやめて顔をあげていた。
「もちろんです。すぐにでも発ちます」
「そうです。すぐ発ちます」と、徳内も。
ツキノエが、すぐには連れて行けぬと断った。断乎とした物言いだった。海沿いにノツケの先、シベ
ツのチャシまで移動して待って欲しい。そこへ迎えの舟を出そう、そうするのが海上も安全で速いと言
251(89)
われてみると、無理も通しにくい。
「その代りに……」と、山□鉄五郎はツキノエに、ウルップ島まで来ているという赤人の今年の動静を、
前もって探ってほしいがと依頼した。ツキノエは承諾した。
「エトロフヘも、来ているのだろうか」
逸平の独り言に、ノッカマプのションゴアイヌが、自分らはつい先日までエトロフ島にいたけれど赤
人は見なかったと返事をくれた。ションゴはもっぱらオロシァの品物を、時にウルップよりずっと北方
千島にまで島づたいに渡って、ノッカマプヘ持ち帰っていた。いつからかそれも飛騨屋や松前藩に強い
られてしているらしく、革靴や革製の筒袖や、脇差・ヒ首(あいくち)様のものなどが多いという。大石逸平はなに
げなく、火薬や短筒(たんづつ)はどうかなどと訊くと、ふっと返事がなかった。大石も深追いは避けた。
クナシリ勢が引揚げて行くと、追いすがるように東から凄まじい疾風(はやて)が、海づらを這う黒雲の群を追
って来た。そして五日、六日のあいだ魔神が棲むというアイヌの海は、憤怒(ふんぬ)を底からぶちまけたような
狂いようだった。
気がつくと岬の村(コタン)にアイヌの影はかき消えていた。
運上屋などは呆気なく潰れ、山□以下這う這うの体(てい)で西へ西ヘネモロもこえ、フウレン湖の東の端か
ら手近な森林へ濡れねずみで洞穴を求めて遁げこんだ。
九
252(90)
納沙布岬を東の尖端に、ひょろりと細長う頚をもたげたような根室半島の、その根ッこへ力まかせに
鈍い刃物で切りつけた、が、頚は落ちなくて深い切□にいっしか水が張った、まるで川、とも見え
る汽水湖がオンネトウ(温根沼)だ。川□(プト)は五、六丁で海へ開け、芦荻(ろてき)鬱蒼、引き潮ともなれば沖へ七、
八丁ほど砂洲(さす)ができる。アサリ、ホッキ、ツブ貝などがうるさいほど泡を吹く。南へ西へ湖(うみ)越しにアカ
エゾマツや白樺の森が、見るから大軍勢のように畏(おそ)ろしい静かさで左右にひろがっていた。
徳内はさしもの雨風も鎮まるのを待ちかねて、寒気に歯を食いしばりながら、一人測量具を手に避難
場所をぬけ出て、湖岸を森の方へ逍遥(さすら)った。森は深沈として木下(こした)闇に水が光る湿原を忍ばせていた。と
ころどころ水芭蕉が咲き葭(よし)の茂りもおびただしい。そして遠見には思いもよらなかったいろんな鳥が羽
搏(はばた)いていた。だが、人ッ子ひとりの影もない。
見分隊が当面する課題は、徳内の見る眼にも錯綜していた。が、どうやら、御用船の顔を見るまでは
浅利幸兵衛を人質に、松前藩交易の在りようを見究めるのが肝要と、普請役たちは考えたらしい。下役
大石逸平の意見もむろん同じだった。それと言うのも嵐に紛れ、浅利は、若い同僚の近藤吉左衛門に小
者を二人つけて、急病という言訳も用意して独断でアツケシヘ帰していた。むろん藩の対応を急がせる
ためだが、浅利自身姿を隠す気ならそれも可能だったろう。だが浅利はここで必死に支えて、逆にとこ
とん江戸役人を監視する気とみえる。ともあれ……と、常から心もち蒼い顔を桜色にして、青島俊蔵は、
自分の考えをこう五箇条にまとめて一同に示した。
一つ、浅利幸兵衛から眼を逸らさず、案内者の義務を最後まで守らせること。
二つ、我らが見分は、国是に関わる御公儀の吟味に他ならぬ旨を、誰に対しても重々言い含めて協力
253(91)
させること。
三っ、浅利といわずアイヌといわず、吟味のつど□書(くちがき)をとり、必ず証人として医師吉地(きちじ)儀斎および通
辞竹助の書判(かきはん)を取ること。
四つ、異国渡りの品がアイヌの手から得られても、証拠として効力がない。極力、会所元すなわち運
上屋、勤番所、通行屋、蔵などから発見し没収すべきこと。
五つ、アイヌに後難の及ばぬこと。
「六っ、遅くとも五日以内に結果を挙ぐべきこと……」と、大石逸平がすかさず一条を加えた。聞き入
っていた山□鉄五郎の左手が、我知らずであろう、音もなく脇差を引き寄せていた──。
だが、徳内一人は、まるで別の希望を上司のまえに披露した。どうか自分は同じその五日の間にオン
ネトウを渡り、フウレントウ(風蓮湖)の奥を西から北へ、地勢観察かたがた迂回してみたい。陸路を
知っていないと意外な後れをとることは、先日もアツケシから近藤たちに先を越されて苦い目を見たば
かりです……。
「一人でか」と、さすが青島も眉をひそめた。
「いいえ、途中フウレン川とやらを北側へ渡るまでは、アツケシに帰るホラ、あの小使(こづかい)が……シモチが、
だれか若いアイヌを案内に付けてくれます。で、その次の大きな川に出会ったなら、海まで川沿いに下
る。その川□がニシベツだといいますから。大石さんは船でそこへ渡って来ていただきたい。……お待
ちしております」
「一人でか……」と、また訊かれて徳内は、もう返事をしなかった。
254(92)
結局──わが最上徳内氏(さん)は独りオンネトウの川□で一行と別れ、全然の別行動に出た。
──どんな気持でした……
──嬉しかったネ。
で、私はあとを訊く気が失せてしまった。もっとも中標津(ナカシベツ)駅で乗換えたさき、終点まで駅は二つしか
ないことが頭にあった。民宿「牧場の宿」の部屋はもう確保できていた。
小使──シモチは、若い二人のアイヌにアツケシから山□らが駆けつけた空き馬を四足牽かせていた。
馬銜(はみ)も鞍も形ばかりだが、湿地に馴れて巧く歩く。
わら
シモチとは日本語がわずかに通じた。が、徳内は嗤(わら)われても精いっぱいウロ隠えのアイヌ語で、ひっ
きりなしに若いアイヌに向かっても声をかけた。同じ人間のつかう言葉のこと、徳内はせめて意の通じ
合う規則のようなものを早く見つけたかった。例えばコンカニ(黄金)サケ(酒)クスリ(薬)ヒト
(人)メ(女)カファ(皮)など、共通語がかなりの数ある。「行く」がアイヌ語で「エク」となってい
る類(たぐい)の、一部の音さえ換えれば疏通する語を拾うのも、そう難儀でなかったと徳内は言っている。また、
物の名前なら指をさしてすぐ習える。いわゆる動詞は身ぶり手真似が利くけれど、黄色い、暗い、正し
い、面(おも)立たしいといった形容語はなかなか通じなかった、とも言っている。
アイヌが日本人にごく近いという印象をもちながら、しみじみ身近にアイヌと入り混じってみて、目
に見えず、我と彼とを無意味にへだてているもののことを、徳内氏は肌寒く折にふれ実感したそうだ。
255(93)
例えばアイヌは信じている、熊も鷲もふくろうも、カムイは、みな人里を離れ本来の家で平常(ふだん)は暮して
いると。人の前に姿を見せる時は、銘々に熊や鷲やふくろうの皮を被(き)て現われるのだと。水潜(みかず)く草原を
行き、どんより光る黒土の湿地を行き、また川瀬を凌(しの)ぎ左辺を辿りながら、徳内氏にはふっと身近にい
るアイヌの一人一人が、熊の皮、鷲の皮を被(かぶ)って現われるまえの姿かと、想われてならなかった。
自分にもあるが、アイヌにはもっと強烈な体臭があると徳内氏は話してくれた。湯水をめったに使わ
ない連中だけれど、女など、たまに湯できれいにからだを洗った直後がいちばんにおうンだ。汚れてい
るからにおうワケじゃァないンだよ、と。そして汚れと映るものも、それは、鳥や獣や草や木が、つま
り自然(カムイ)が、ごく自然に身に帯びた、本来不潔でも何でもない土や樹液や体液のにおいと思えば頷ける。
それを苦にして洗い流し暮す和人(シャモ)がいて、苦にするすべも知らず生まれながら自然に暮らす人間(アイヌ)がいる。
それだけサ違いは……と徳内氏は悟ったのだ。
要するに徳内さんは、アイヌに一人まじってだいぶ緊張したそうだ。よく伸びた鬚だけを何となく頼
みにする気分で、結局この私が、バスで根室から厚床(アットコ)へ行き厚床駅から標津(シベツ)線に乗りこんだと同じコー
スを、ちょうど別海駅まではアイヌの馬で順調に旅をした。アツケシヘ帰るシモチらとは途中アツトコ
で別れ、約束どおりコトンという名の青年アイヌが、フウレン川の対岸まで浅瀬をはかって無事渡して
くれた。
だが二、三の理由で、この徳内氏の貴重な単独行の顛末(てんまつ)を話すのはお預けにしたい気が、私には、あ
る。ちょっと話題に出た体臭、要はアイヌの人類学的な特徴でもあるあの強い腋臭(わきが)のはなしも実は理由
の一つなのだけれど、その辺、今すこし徳内先生(さん)に泥を吐かせたい、いや喋ってほしい節々が残ってい
256(94)
て──、ま、他に気のせく事情(わけ)もあるしして、失礼ながら主人公(三字傍点)のことは無事ニシベツで合流した大石
逸平ともども、一渡しに右にネモロ、左にトコタン・シュンベツを望んで海上三里を、オホーツクの潮(うしお)
が築いた長大な砂噛(さし)のノツケ(野付半島)へと遠ざかる舟上の人として、ここは、見送っておこう。
ただ、聞書き者の責任上からも一言添えたい。というのは最上徳内氏は、少なくともこの時点でアイ
ヌの実情を、心根こそ尊いけれど「居喰い」に近いと判断し、その将来を殆ど絶望視していたことだ。
氏は、約(づつ)まるところ、春に播き秋に収める、文字どおりに東作(二字傍点)西成の子、いや婿──殿であった。
さて言うまでもない天然の美術、今や二十五キロに及ぶ日本一長い砂嘴半島に幾重にも抱かれた静か
な■内、が、つまり尾岱沼(オダイトウ)(オンネニクル)だった。
オダイトウ──
そこで今夜泊ります、と、その人に最初聞いた時、「尾岱沼」の三文字に私は直結(イメージ)できなかった。も
ともと、終点と心得てきた標津からはだいぶ海ぎわを南へ戻ったような尾岱沼など、予定の旅行線上に
一度として思い寄らなかった場処だった。だから根室標津駅に着くとすぐ、バスの時刻も心もとなく、
すぐ私はその人をタクシーへ誘ってしまったのだ。その人は楽しそうだった。「はアい」という返事や
相槌がいかにも華奢な身ごなしに似合って軽やかだった。だが走り出して、延々とタクシーが海ぞいに
南へ走りつづけ、むろんメーターもチャカチャカ嵩んで私はやっと、オダイトウの何であったかに思い
至った。気がついた。思わず唸った。タクシー代は惜しまないが、かんじんの国後島からは遠のいて行
くのではないか。だが、肚(はら)はすぐ決まった。私もまた心軽く、このアクシデントを楽しもうとしていた。
(■:さんずい に 門 の中に 月 澗の正字)
257(95)
「あのう……お訊きしていいですか」
左まぢかにひろがる漣(さざなみ)の海の色を眼を細めて見ていた私は、はいはいとその人の方へ顔をもどした。
すると──その人は、意外なことに物書きである私の名前をまさしく□にして、違いありませんかと訊
くのだ。タネは他愛なく、私の肩提鞄(ショルダー)の外側には、以前、中国へ、またソ連へ招いてもらったときに必
要あって造ったローマ字の名刺が差し込んだままになっている。それが、いつとなくその人の眼にふれ
ていた。ただ漢字でないばかりに、興味津々(そンな声音だった)確かめてみたくなったのらしい。
その通りですと返事した。
「いッやあ……。そンならあたし、知ってますウ……いやア……」
どうしましょ、と軽く座席に身を浮かしてその人は色白の両掌をポンと鳴らした。
もっとも、覚悟はできていた。
案の定その人も、私のものなど全然読んだことはなかったのだ。唯一度、表紙の美しさに買おうかと
暫く迷い、買わずじまいに過ごしたという小説本があり、題を訊ねるとそれが徳内さんのいわゆる「あ
の子」の登場する作品、ロシアの旅から『冬祭り』の京都へ舞台をうつして行く、此の世のものでない
主人公(ヒロイン)たち──法子や名子──の物語だった。
その人は前夜は、白いワタスゲが満開の霧多布(キリタツプ)に泊ったとか。美男で有名な、そして私も人柄が好き
で懇意に著書を献じたり舞台を観たりする中のさる新劇俳優が、たぶん珈琲クリームかなにかのコマー
シャル写真の仕事で霧多布に来合わせていたのを、幸い自分のカメラヘ並んで一緒におさまってもらっ
てきたンです。ホント、この旅行は初めからツイてますウ……と、無邪気に声がはずむ。人気役者(スター)と対(つい)
258(96)
ではかえって気が滅入ると苦笑いになって、この旅のこれから先は、あなた、まだ長いのですかとまた
訊いた。指折り数えて、とにかく大阪の自宅へ帰るのが七月五日の予定です、あと十日いえ十一日あり
ます……。
「それア……完壁な北海道一周ですね」
「はい。あたし……北海道のこと、ぐるッと、あたしの足で捲いてあげよ思てますの……」
捲く──と、まんざら冗談とも聞こえない□ぶりに私はぎょツとした。かねて捲く、回る、廻らすと
いった営為(しぐさ)に私は少年時代から畏(こわ)い呪力を感じてきた。例えば朝鮮や日本の各地に、謎の神籠石(こうごいし)が深山(みやま)
の鉢を捲きとっている不思議にせよ、三上山七巻半の蜈蚣(むかで)伝説にせよ、安珍が隠れた釣鐘を蛇体の清姫
が捲いたり、心願こめて神殿のまわりをお百度踏んだりするのもみな畏(こわ)いことと思ってきた。畏さの奥
に、やはり蛇という、人類太古の信仰にひそんだ秘霊を幻に視ることが多かった。蛇ほど畏いものはな
かった。
私は、その人の「捲いてあげよ思てますの」と、ふっと語尾をさげた急に物静かな□調にいたく心惹
かれながら、だが、その話題からは遠退いていたい慴(おび)えにも勝てなかった──。
民宿、というのに泊ったことがないンですよ。私は唐突をかまわず急角度に話題を移した。いささか
その人の若さに対して媚びている自覚も持ち、顔が火照ったが、向うの応対ははれやかで尋常だった。
その人のしみじみ温かい声音を聞いていると、年齢(とし)を考えて照れている自分が、自身疎(うと)ましかった。
車が、国道の上で急に停まった。道路のすぐ右ぎわにトーテムポールというより大雑把な方角指示標
のような宿の看板が出ていて、がらんとした空地の奥に、出来のわるい積木の家みたいなのがポツンと
259(97)
建っている。うヘッと出かかる声を嚥んで、着ぎましたネと澄んで囀(さえず)っているようなその人の声のうし
ろから、民宿「牧場の宿」の表戸を入った。私は、半ば後悔していた。
履物を脱ぎっ放しのせまい三和土(たたき)の眼の前に、死んで生まれた胎児(はらご)を剥製にしたという仔馬が、ひょ
っこと四ツ脚で起って尾をあげ、ぐるい眼をぽっかりうるませていた。私たちはまず宿の主人に、部屋
を倶(とも)にするような連れではないことから断らねばならなかったし、それなら今連名で書いた宿帖、とい
うよりも伝票のような署名用紙も一人一枚ずつに、書き直してもらった方が清算上都合がいいと言われ
た。その通りにした。そしてその時になってまだ私は、その人が大阪市か府かの、どこに住む誰さんと
も覗きこむ気になっていなかった。住所氏名ほど敢(あ)えないものはない。知るより知らない方がいい。私
は、何より「住所氏名」をそういうものの一つと数えてきた。
左右に双つ並んだ板扉(いたど)の間に、ベニヤ板の壁一重を奥ヘズンと通したそれぞれ四畳半が、二人に銘々
にあてがわれた。部屋というより四角い空き函だった。夜具を積んだ半間(はんげん)の押入に襖もない。細い木の
ハンガーが二、三本奥のガラス窓の上にひッ掛けてあって、あとは小さい紙屑籠だけ、小卓(こづくえ)さえもない。
窓の外はすぐ潅木の林で、視野のはずれに厩舎(きゆうしや)らしいものの赤い屋根が、うるむ緑に染まって見えた。
宿主を兼ねている牧場の主人公は、仙台地方から入植して来たという五十まえの独身者で、もう一人、
面白い偶然というしかないが、はるばる大阪市内からこの季節に住みこみアルバイトで出て来ていた、
十八、九の元気のいい少女が泊り客の面倒をあれこれみてくれる。新婚の客がいる。独り北海道を闊歩(かっぽ)
する体(てい)の素朴そうな学生がいる。旧知のように声を掛け合っている。廊下の板壁には一面に若い客たち
の書き散らして行った色々の紙切れが貼ってあり、四、五枚読むと飽きてしまう、まァ回じ調子の落書(らくがき)
260(98)
ばかりだった。
その人は、私を、肌寒い汐風が吹き舞う戸外に誘い、宿の少女をもう自己紹介どおりの何とかちゃア
んという名で呼び立てると、持った小型カメラヘ私と一緒の写真を、自分で距離もはかって、あ、と眼
鏡もはずして「はい」「お願い、もう一枚」と二枚撮らせた。ああ嬉しいと飾り気なしに声がはずむ。
吹きつける風にぱッと黒髪の乱れるのを、繊(しろ)い手先で咄嵯におさえるその人の姿勢(ポーズ)は生き生きしていて、
私はレンズに向かいそれでも幾らか照れる気分がなかなか抑えきれないでいた。
国道244号の向う側に七、八十メートルの草原(くさはら)が、今は殆ど汽水湖と呼んでいい尾岱沼(オダイトウ)の朱(あか)らひく海づ
らへ流れ入っていた。タ霞んで遠く野付(ノツケ)半島が、幾筋か、淡い青い縞目のように風の底に冷えている。
私は女たちから離れ、道路を渡って草原へ下りてみた。湿気が深く、私の靴ではほんの小□までしか踏
みこめないまま、名も知らぬ淡桃色(ピンク)や緋色の小さな草花を真上から観下ろす角度でカメラにおさめた。
見渡す海は、刻々、濃い黒と煌(きら)めく銀色とを揉み合わしたような、ああと息をのむ美しい縞目いや皺
に変じて行く。おお寒む…と首をすくめ、まァいい、まァいいと他愛(らち)もなく呟きながら宿の方へ舞いも
どった。ささやかに過ぎた宿の建物の背後、右も左も奥へ奥へ広々と茂った潅木の森が、根釧(こんせん)台地の名
にそむかず遠くむっくりとたそがれの空へ盛り上がっている。まぢかな林の真青な下草には、たそがれ
の風に煽られエゾカンゾウの花の黄色が、無数に燃える火のはなやぎかと、一瞬、また一瞬私は眼をこ
らして見た。灯の入った食堂の方で若々しい笑い声がはじけていた。
夕食(ゆうげ)の石狩鍋には、この牧場でしぼりたての牛乳を潤沢に出汁(だし)に使わせるのが嬉しく、その人と私の
と、二人分で一卓がぬかりなく用意してあった。量もたっぷりと下茄(したゆ)でした鮭、黒いこんにゃく、焼豆
261(99)
腐、輪切り大根、人参、三つ葉。むろん出汁(だし)昆布も幅広く、薬味は酒落たもみじおろしに残月(あさつき)の小□切
りをそえて、けっこうなかぼす(三字傍点)まで付いていた。さぞいいお嫁さんになりそうに、その人は、今どきの
若い人らしくなく心得た手順から、出のいいガス台の上で、たちまち食べごろにグツグツ煮え立った石
狩鍋の蓋をとって、湯気をいっぱい顔まで立ててくれた。
「ウーン、最高……」と、期せずして声が揃い笑顔で頷く。但し酒類(アルコール)は出そうにない。ザンネンと、
また気が合った。卓(テーブル)と卓の間でもみな元気な声を交わし合う。
そんな中でもその人のはんなりとよく透った、大阪託りはあるけれど品の佳い物言いと笑顔とは気も
ちよかった。引き立っていた。湯気に曇る眼鏡をとうからはずしていたその人の顔立ちは、はじめて見
る感じに、それは優しい──美しい。
尾岱汚(オダイトウ)名物の北海シマェビが笊(ざる)いっぱいにサービスされたが、とても食べきれない。食後の満腹をか
かえ、私は独りもう一度海を見に出たが、あまりの寒さに、六月なのに、身の危険すら覚えてからがら
遁げ帰った。宿主もみんな一緒くたに、団欒の部屋では頑丈な新ストーブがぼんぼんと燃えていた。
『最上徳内』を書くためわざわざ国後島を見に来た東京の小説家だと、その人が一座に披露(ばら)した。誰も、
徳内という名も知らない。ちょっと気はずかしくて、その徳内さんなら、ちょうど今ごろはアイヌが操
る舟に乗って、野付水道をもう国後島へ漕ぎ渡ろうとしている時分ですよと、冗談めかして私が言うと、
その人は、愛らしいお尻をギンガム・チェックの座蒲団から浮かして、二重のガラス窓ごしに、ツト昏
い海の方をのび上がるように覗いてみたりするのだった。
262(100)
六章 尾岱沼(オダイトウ)で
一
「あらら。徳内さんが、舟に乗ってますよォ……」
望遠鏡を覗いたままその人が、揚子(ようこ)さんが、呟いた。交代して、そのままの角度で標津(シベツ)沖茫々の海づ
らをさぐってみると、なるほど黒っぽい小さな船影が揺れるレンズの円内に捕捉できた。肉眼だと、国
後(クナシリ)島は雲霧のかなた、淡い上に淡い頼りない濃淡を見せて、あれがトマリ山かと想うもかすかな三角の
山容を朧ろの灰色に浮かべていた。望遠鏡もたいした頼りにはならない。
「とても、写真なンかで見てたのと、ちがうわねェ」と、さほど国後に気のない(はずの)揚子さんで
も、嘆いていた。
ま、いいや。まるで見えないというンじゃない。
私は何遍も同じ愚痴を□の端に、自分で自分にここまで来た申訳を言った。揚子さんの「あらら」に
は、そういう私をいささか慰めたい、諧謔の気味もあったに違いない。えッ、何かが見えるのかという
263(101)
顔で、また据えつけの望遠鏡の方へ足早に来る客などもあった。
「いよいよ逸平と徳内、クナシりの土を踏むンだナ……」
「あの舟で、ご一緒にいらっしゃりたいンでしょう」
「行きたいね」
「往き来だけでも、できるようにしたいですね」
「その機(とき)が来たら、一緒に行きますか、楊子さん」
「エエよろこんで。よろこんでご一緒しまァす」
たわいない会話を、私たちは顔を見合わせてしていたのではない。展望のガラス窓にまぢかく立って、
小柄な楊子さんは国後の海を凝(じ)っと見つめている。私もまうしろで同じ海を、船を、遠い島影を、一つ
の視線に頒ちもっ心地で肩に手を添え、やわらかに膨らんでいる楊子さんの髪のすぐ上へ顔を寄せたま
ま□を利いていた。標津の駅前、昨日に見つけておいた北方領土館の二階。見学客がほかに八、九人い
た。
フロアでは、ナイフの刃のような知床(シレトコ)半島を上に、根室半島を下に、くわアと大□をあいた感じの根
室海峡に細長い国後島がもう呑み込まれかけている。択捉(エトロフ)島も、吸い込む息に引っぱられている。そん
な俯瞰のきく模型のあちこちに地名など書いた赤や白や青の小旗が立ててあり、目当てのボタンを押す
と豆ランプが点滅する。
千五百石積(づみ)、高田屋嘉兵衛の持船辰悦(しんえつ)丸の二十分の一模型の、そのまたパネル写真を私は写真に撮っ
ておいた。横帆を張って帆柱が一本、そして船首に斜めに三角帆。むしろ船尾をもちあげた恰好のまる
264(102)
っこい木造船だ。開拓の資料を積み、寛政十二年(一八○○)に近藤重蔵らが便乗してクナシリ・エト
ロフヘ初航海したというが、この年には、最上徳内は、幕府重職と□論のはて蝦夷御用を免職になって
いた。同年七月二十八日の日付でこの近藤重蔵が藤原守重(もりしげ)とも名乗って描いた、珍な蝦夷千島地図も館
内にあった。
重蔵といえば、かつて間宮林蔵とならぶ千島探検の大立者(おおだてもの)のように私も教室や本で習ったが、そして
この人は、蜀山人大田南畝(なんぽ)、それと、肌に桜吹雪の名判官遠山の金さんの先考(ちちおや)遠山景晋(かげくに)とならんで当時
湯島聖堂の大試験に最優秀で合格したほどの俊英にちがいなかったが、人徳には乏しかったとみえ蝦夷
経営の現場は早々に逐われ、庇う人もなく、みすみす息子がしでかしたつまらない事件に捲き添えくっ
て近江国大溝藩にお預けとなり家名は断絶、孤愁を抱いて空しく五十九歳で死んだ。任を帯びて蝦夷地
へ渡ったのは寛政十年が最初で、その時重蔵が最も頼りにしたのが渡海六度めになる最上徳内だった。
部下の信頼をえないばかりかまま険悪になる重蔵と従者の間に入って、徳内は、斡旋と調停にあけくれ
た。むろん北地の地理地勢もとより近隣諸国との接触等に就ても、重蔵は徳内の観測や判断に遠く及ば
なかった。徳内さんは私に、めったに重蔵評を洩らしたことがない。が、一言に尽すと、
──若い……
それきりだった。寛政十年に重蔵は二十八歳。徳内は四十四歳。だが、「若い」の意味はけだし深長
だっただろう。
その徳内は、「若い」というところのいっこう無い人物だったが、そのことが自身に或る限界(さわり)をなし
ていたとも徳内はのちのちの生涯をかけて悟って行った。あげく江戸日本橋の石町(こくちよう)で、長崎屋の一室で、
265(103)
自分の孫ほど若いシーボルトの需(もと)めに応じ「蝦夷ヶ嶋言語」を辞典に編もうと連日熱くなっていた、あ
の七十過ぎた徳内の一途さを、感性質かなドイツ人医師が、繰返し「若い……」と舌を巻いたことなど、
この老人は知らなかった。むろんシーボルトの洩らした「若い」には、懸け値ない讃嘆と褒美の念(おも)いが
満ちていた──。
だが差当って──そう、差当ってニシベツの川口で大石逸平と合流した最上徳内の胸中は、二つ、い
や三つの問題に引き裂かれていた。一つは誰にも察しのつく目前未踏のクナシリ島へ、辰悦丸はおろか
筵(むしろ)一枚を帆にたかだか六、七人のアイヌが漕ぐ縄綴舟(なわとじぶね)で、危険を冒して波涛を分けて行く、そのことに
違いない。
これに較べると、残る二つは微妙なものだった。互いに表と裏ほどべつのそれは顔つきをしていた。
一つは公を慮(おもんぱか)る思案で、もう一つは──女のことだった。むろん表があり裏があり、どちらの一つを欠
いても自然な紙一枚にさえなりえない理屈からは、二面(ふたつ)で一枚(ひとつ)というところがあった。公的な難題は、
ノッカマプからかけつけた大石逸平がもたらした。女のことは、その逸平を待っていた間に、ニシベツ
で起きていた。徳内はたしかに一人旅の果てに思いがけぬアイヌメノコとの邂逅を果たしていたのであ
る。そして二昼夜も経ずすぐに別れてきた。徳内の懐中には女が呉れた、掌に籠めていると奇妙に少し
あたたかい、鶉(うずら)の玉子様(よう)の珠がおさまっていた。
この珠、じっと握っていると、ふしぎに掌に響いて内で動いて鳴っている感じがする。物の名は知れ
なかった。女も知らなかった。が、どう使うかは、使って教えてくれた。女の、四年前に死んだという
266(104)
夫がカラフトから人と争うようにして持ち帰った品だとか、早い話が女体に深く含ませて房事に著しい
快感をあがなう、淫具だった。女は息も絶え絶えに容易に天上した。
だが、ここへ来て最上徳内がそのような体験をえた話は、作者(わたし)もいささか取捨に窮している。これだ
け親しく「部屋」で逢って話している間柄でも、徳内氏が身を以て隠しているであろう襞々(ひだひだ)の細かさ昏
さは、まだ、はかり知れない。
幸いにも徳内は、女の体温がまだ籠もっているような淫具を、人に見せびらかすたちの男ではなかっ
た。大石逸平にしても、一別来のノッカマプやネモロの事情を縷々(るる)徳内に報せてやる以上に頭の重くな
る課題を、上司青島たちから授けられていた。
「お前なら、どう考える……」
逸平ほど徳内に声をかけ、なにかと意見を徴した男は他にいなかった。時になぶられているかとむッ
としたこともあるほど、彼は徳内に、「お前なら……」とよく質(たず)ねた。が、今度の質問には容易に答え
えなかった。ニシベツを舟で出てノツケへ海を渡る間も、二人は、無事クナシリに着くより以上に重ッ
苦しく、同じその一件──誰が、どれほどの人数で、蝦夷地を拓けばよいか、を考えこんでいた。
これが今さらな話題でないことは、まえにも触れた。が、何の知恵も思案もなかったところへ、青島
がともあれ一策を案じ出したというのだ。それは徳内も初耳だ、が、聞いてみるとうまくない。なに青
島さんだって、苦笑いさと逸平も問題にしていなかった。
およそ蝦夷地は広い広いというが、どれほど広いか。山□鉄五郎はざっと一千万町歩はあろうかと自
問自答した。一割に耕作が可能とみて、しかも百万町歩。これを日本国との比較で平均半作と見積って
267(105)
も四百五、六十万石の収穫が皮算用で見こめる。それは、まア良い。百万町歩の農作を誰が分担するか。
諸国の百姓を動かすことは幕藩体制の基盤をくつがえすことになる。
青島俊蔵は、自信はないまま無宿、浮浪、刑余の者をかき集めてこの地へ送りこんだ場合、労働力に
なるだろうか、と言ってはみたものの、人数にして少くも数万人。どう集めるか、統率が利くのか、収
穫が見込めるか、治安が守れるか、アイヌの不安と反撥が大きいなど、たちどころに幾つも、決定的な
難点ばかりが指摘された。
話はまた振出しに戻る──。山□や青島にして、蝦夷地に農作物の収穫がないまま仮りに上地、幕府
直轄ということになった場合の効率が、さほどでないとは、もう時々に意見一致が進んでいた。第一、
異国の侵寇(しんこう)に対し十分の備えをするにも、結局は人数と、その人数を支える糧食の確保とが必要で、漁
業や林業だけでは、土地に愛着して領土を夷狄(いてき)から守るという自覚も即応力も生じにくい。
──屯田兵(とんでんへい)という発想でしたか。
──北辺防備を真剣に考えるなら、しかも開拓を併せて重く視るなら、耕す侍(三字傍点)がたしかに都合がいい。
でないと、文字どおり無頼(ぶらい)になる。
──なるほど。……人間、大地に、土に頼った生き方でないと、国を故郷(くに)と思わない……
──そうたァ言いませんがネ。なにせ、世間じゃ鬼が棲むくらいの気でいた蝦夷地へ、新規に人を遣
るッて話だわさ。何万なンてエ頭数は、そりゃ揃わない。
──で、出た……例の話が。でも、青島俊蔵のはたんに瀬踏みだったンでしょう、第二案をやんわり
誘導(ひきだ)してみせる……
268(106)
──そうでもなかったンだナ。青島さんの説は、例の無宿浮浪、刑余者を囲いこみ送りこむ、アレ止
まりだった。
──すると、あの……浅草の弾左衛門に交渉(わたり)をつけるという凄い案は、どこから……
徳内氏の顔色が心もち蒼く見えた。なにぶん、事が大きい。私もこの詮索にだけは慎重でありたかっ
たし、ことに午前(あさ)三時五十分に厚岸の旅館で寝床をはね起きて来た、長かった一日の疲れが背骨へ、綿
飴を捲いたみたいに絡まっている。厚岸湖、国泰寺、神明跡そして根室、納沙布岬、厚床の草原、標津
線での再会から、思わぬ尾岱沼(オダイトウ)の「牧場の宿」まで、ものに惹かれてきたような一途(いちず)の道程だった。
私は、丁寧に頭をさげて「部屋」を出た。徳内氏(さん)のよく光る眼がこの時なぜか優しく、しかも初対面の
昔のまま落着いた和服の着流しに、白足袋で、鬚も生やしていないのが、瞬時、くッとこみ上げるほど
懐しかった。不思議な気分だった。
徳内氏と逢っている「部屋」では、寒いの汗ばむのということは絶えてないのだが、一度そこを出て、
民宿の、空箱同然の一室へ、そのかわりやたら夜具を重ねて勝手に敷いた寝床へと戻ってみると、俯(うつぶ)せ
に枕へのせた顎の下から胸もとまで石のように冷えている。うすい板壁一重の隣りで、その人ももう湯
冷めを避けて床に就いたのだろうか、さかさかと時折り物に触れていた音も静まり返って、私の耳には、
先刻浴室から戻ったらしいカチッと扉(ドア)に錠をおろす音が、確かなものに残っていた。
……裏山は牧場です。馬に乗れるのです。兎が走りまわっています。花もいっぱい。海は眼の前。欠
但し寒い。玄関わきの一部屋で薪暖炉(まきだんろ)をボンボン燃している。夕方浜辺くへ一人で出てみたが、悪寒(おかん)
269(107)
に襲われ歯を食いしばって暖炉へにげ帰りました。あれは危険だね。もっとも摂氏二、三度か。だか
らもう少し厚着をすれば大丈夫。明朝、尾岱沼の船遊覧で国後島も見えるというトドワラヘ行ってみ
るかどうか思案中。何にしてもあしたも四時起きで、馬に乗ってみるのさ。そして午後三時頃には釧
路へ戻って、東京までフェリーで帰る乗船手続をします。釧路で、もう一泊。民宿とは……ま、アト
ホームとは言えるのだろうね。残念なことに、酒がないのだァ。寒いからもう寝ます。九時十五分。
走り書きに妻に手紙を書き終えて、もう一度、重たいくらいな冷えこみに固く肩をすくめて、手洗い
に立った──。
暖炉を囲んだ、若々しい宵のうちの雑談にもそれなりの興味はあったが、やはり土地の人らしい、宿
の主人と懇意な漁師が座に混じってしてくれた話が、耳に残る。ここの裏山──夜ともなれば、どこへ
どこまで続くか昏々と行方知れない野のような森のような、惻々と膚に迫ってくるまッ暗闇の方──を
指さすふうに──、かっては馬を襲ってその屍を熊が肩にかついで去った類の、今も川に鮭が盗れる類
の、時に迷いこんで下りてこられない者を捜索に出るといった類の、巧まぬ仕方噺(しかたばなし)が面白かった。それ
と例の笊(ざる)に山盛って、手から手へまわされた、あかい北海シマエビ。ちょっと見には熟れた桜桃がいっ
ぱいかと想う美しさ旨さに、つい手が出た。
それにしても時おり、手近な鏡に自分(わたし)がうつる。酒っ気のぬけた、このところまた耳の下から顎へ肉
のついた、細い眼のふとった顔へかぶって、函館いらい洗わない、ことに前髪の辺にイヤに白いものが
ちらついて見える。
その人は、──厚床駅で乗り合わして尾岱沼まで一緒に来たその人は、私のとなりで、小さい座蒲団
270(108)
に小さく行儀よく脚を揃えて坐ったなり、疲れも知らぬ笑顔でなかなかの相槌上手。気おくれもせず、
むろん出しゃばらないでいて時に元気に□をはさんでいる。歯が皓い。ぬすみ見る耳のうしろから頬へ
の線が、絹糸を張ったように華奢に白い。
だが──さて順ぐりに浴室を使うとなると、建物をかぎの手に廊下の奥へひっそり折れて行きながら、
がちがち歯の鳴る寒さ。もうすぐ七月なんだぜとボヤいてみても、これでは、とにかく自室に床をとっ
てもぐりこむしか算段がなかった。
ちょっとした気合いのようなことで、ついその人のすぐ先に私が風呂場へ入った。思ったよりきちん
と清潔に出来ていた。天井も高く、湯舟も深い。二度外国へ行った時もそうだった、こうしてただ一人
湯に浸っている時ほど、旅の静かさや楽しさやまた寂びしみにふれる佳い機会(おり)はない。ただ──これが、
民宿では普通のことなのかすでに相客の誰々が使ったあと湯(三字傍点)にみな浸かっていた。私が出たあと、その
人がまた浸かることになる。久しく銭湯を忘れているが、それともまた違う。湯気の籠もりきらない、
かわいた物音が壁に天井に無遠慮にはねかえる。その意味ではちっと広すぎるのかもしれない浴室にい
ながら、さすがに奇妙ななまめかしい思いもされて、しんしんと牧場の宿を蔽う深い静寂(しじま)に、私は笑止
に息をつめてさえいた──。
二
──翌朝も四時に早起きした。躰の方で馴れたらしい。洗面所の窓ガラスをそっとあけると、林の根
271(109)
方を白い霧が生きもののように這っていた。ぶるるる、ヒーンと案外な近さで馬がしきりに嘶(いば)える。と
っ、とっ、と、と駆け足もする。
表へまわると、平土間に靴が何足もぬぎ捨ててある。前かがみに、死んで母馬の胎(はら)からとり出された
剥製の仔馬が、そんな履物を、あどけない目で覗きこんでいる。よしよしと、硬い手ざわりの毛なみを
たてがみから背なかへそっと撫でおろしてやりながら、すぐわきのカウンターへも目がむく、と、きの
う書いたなりの宿泊伝票がそのまま無造作に置いてあった。ガラス窓ごしにカウンターの向う側が薪暖
炉の団欒室兼帳場になっているが、粗末なカーテンが下りていた。
近寄ってみると、到着の当初なにげなく私とその人とで連名で書いた分も捨てられていない。難なく
その人の鷹揚に整った筆蹟と、ともあれ姓名とを私は見覚えた。住所欄には大阪市でなく、隣接の小さ
な市の名前が書いてある。京都三条まで通じた私鉄の駅の名として、私にも馴染みがあった。
ホホッ……守口市の伊藤楊(よう)子さんか。
で──早起き一番、の約束どおり馬に乗せてもらったが、これが腹の張った妊(はら)み駒で。じつはドサン
コがどんなのかも知らないのだが、背の低い、毛の茶色い、躯体(くたい)のわりに脚の細い牝馬(ひんば)が一疋だけ、針
金を結いまわした囲いの柵外へ、まァ、馬場かと見れば馬場でもあるらしい国道沿いの林へ牽き出され
ていて。嘶(いば)えたり駆けたりしていたのは、番(つが)いだろうか、柵の内で牡馬(おすうま)がしきりに気づかうらしい。こ
ちらは真黒い大きな馬づらの、鼻すじ一本が細長う白くて、背と胸も白くて、腹部から脚へかけてまた
真黒い。牝(めす)とは較べものにならず背も高く、たいした勢いでときどき眼をむいて前脚を空(くう)に足掻いてみ
せる。
272(110)
赤い毛糸編みのマフラーを頭から無粋(ぶいき)に頬かむりの、早起きの牧場主はゴムの長靴履き。さわぐ牡馬
にかまわず妊婦(二字傍点)の毛艶をと見こう見して櫛(ブラシ)を使いながら、にこりと、
「早いですね……」
「お早う。……妊んでまずネ。そのシトに乗るンですかア」
「ああ。平気ですよ」
一面の新緑を彩って、したたる朝露のなかで、エゾカンゾウの黄金(きん)色が、馬場から牧場へ、目路(めじ)をさ
えぎって高まって行く奥の丘陵(うねり)へと無数に咲き競うのが、姫百合(メノコ)の風情だ。よく探すとスズランも黒
百合も見っかりますよと、鞍を据えながら宿の主人は言い、そして文字どおり一番乗りを勧めてくれた
が、なンとも気のひけるそんな仔を抱いた馬に乗るよりは、目の前の針金をくぐって牧場の奥(なか)を思いの
まま歩きまわってみたいものだった。
「お早う」
「お早うございまァす」
「お早うサン」
□々に、睡い眼をこするようにして若い人も起き出してくる。と、もう順番に主に□を取ってもらっ
て、斟酌ないにぎやかな乗馬姿が、とことこと百メートルほどの馬場を一周してくる。やがては新婚の
花婿など、自分(われ)一人の手綱さばきで、揚々と背筋を伸ばして花嫁のカメラにおさまっている。おなじみ
のジーンズに黄色いフードを背へはねた楊子さんも、これがお目当てでえらんだ「牧場の宿」のこと、
颯爽と馬上の人となる、と、たれより華奢なからだつきが、小柄な馬にちょうど似合う。眼鏡をかけた
273(111)
頬の辺が今朝はふっくら見えている。こっちを見てとカメラ片手に声をかけると、
「はい」
しかし両手はしっかりと手綱をとっていた。噺(いば)嘶(いば)えることも忘れ柵を隔てて、牡馬が黙々と、揚子さん
らの行くわきを歩いたりとっとこと駆け出したりする。
国道ごしに、朝明けの尾岱沼(オダイトウ)は白灰をまいたようなあかるい霧(ガス)だった。天気しだいでは、野付(ノツケ)半島の
向こうに国後(クナシリ)島の南端ケラムイ崎が見えるのだが──。
かねて摘んでおいた白い花のスズラン一本ずつを、馬牧(か)いの主人は女客たちに謹呈(サービス)した。俯きがちに
終始無表情な牝馬に乗るなどもいつか飽いて、朝食まえを思い思いにみな牧場へ囲いの針金を潜って行
く。要は囲いに沿うてさえいれば迷わないンで。さァさ。と宿の主に両手で下から煽られ、楊子さんと
私もみなの後について、馬場の先のほうから潅木と草地のなかへ、心はずんで身を滑らせた。
微妙に間隔の感覚といったものが働くのだろうか。新婚の夫婦はむろん二人で、学生はなンとなく学
生同士で、つかず離れず順繰りに針金を潜ったり越えたりしながら、漠然と初めのうち同方角へ自然に
踏みつけ径(みち)を辿って行くのだが、いつとはなく径に岐れがあると右へ、左へ、気さくに声などかけ合い
つつ木蔭へ、草むらの蔭へと行く手が変わる。楊子さんと私とはきのう宿へ一緒に着いた時から、どう
ということもなし組(ぺア)に見られ、べつに否定もせずにいたから、今またごく当りまえに二人は二人で先に
立ち後になりしながら、やがて同宿の仲間(ひと)たちとは、木の間に影を見かけたり話し声を遠くに聞いてた
りするうち、すっかり離れ離れになっていた。それほどこの牧場というのが、なみの平な牧草地ではな
く、踏み入ってみると意外に複雑な起伏を縦横に畳みこんだ、潅木と喬木とよく茂った草むらとで奥へ
274(112)
奥へ、際限なく左へも右へも拡がっていた。
足もとはかなり湿(しる)かった。
「こう寒いから……マサカ、長いのは出ないだろうナ……」
「蛇ですか。蛇おきらいですかァ」
「字を、見るのもネ」
「あたしはツヨいんですよ蛇には。それじゃ……と。出ないように言いましょネ」
「えッ……」と、声をのむのに目もくれず、楊子さんは無造作に足もとの草むらから小石を拾うと、ポ
イとソフトボールなげに数メートルさき、まるで盆の窪になっている小潅木と紫に咲いたノハナショウ
ブのまン中へほうりなげてみせる。こそッと小石は花のかげに沈み、
「ハイ。もう安心してくださっていいですよオ」
「アリガタイ……」と、こっちも芝居気で会釈を返した。ナニ摂氏の六度七度で出るもンか……。私は
楊子さんの振舞いをユーモラスに優しいと思った。いつか楊子さんは眼鏡をはずしていた。
夜が明けはなれたばかりの、今は朝飯まえ、というのも茂みの底を歩いて行く私たちを安心させてい
た。エゾムラサキツツジ、ハマナス、エゾスカシユリ、時に千島ザクラなど花は色々に咲き群れ、小鳥
の囀(さえず)りもここかしこ、ヒタキ、ヨシキリ、アオバトなどおやみなく、見上げる空には、朝の雲が刷いた
ように明るく霞んではいても、十分広々と頭上は青やいで見えている。どこといって、鬱蒼と視野を遮
るほど森や林ばかりがつづくのでもなかった。足もとにしばしば馬の深い足跡と一緒に馬糞が転がって
いるのは、電車の窓から眺めたああいう開けた牧草地と様子は変わるけれどこれも一種の放牧場にちが
275(113)
いなく、針金を渡した粗っぽい柵の囲いにしても、遠くなりまた近づきして、ほぼどこかの方角で視野
に入っていた。
身軽な楊子さんは、後になり先になり、まことに屈託というものがない。
必要ならいっだって手を貸す気ではいたが、わざとさし出すことは一度もしなかった。むき出しの地
面も無くはない。が、大方は時に背丈も隠すほどの多彩な草むらに蔽われ、余儀なく踏み込む、と、足
をとられそうな下はじくじく黒い湿泥(ぬかるみ)のことも多い。楊子さんはそのつどきゃッとかひゃァとか、わァ
かなンわァとか可愛い声を何度もあけ、私にしても負けないくらい大騒ぎしながらだったけれど、幸い
転ぶような滑り落ちるような場面はなかった。それより楊子さんは、さっき貰ってきたスズランの上に
も黒百合が見たいなァ、黒百合サン黒百合サンなどと探している。そして立ちどまっては、翔び立っ鳥
の行方をすばやく指さしたり。そうかと思うと、今度はきっとあの御本買います、どンなお話かしらん
とか、小説家一般の仕事ぶりに就ても次々旺盛に話題を求めては私に喋らせたがった。天にも地にも二
人きりの山のなかだ。私も勿体ぶらず何でも喋った。あの「名子」と「法子」母娘の物語も、あらまし
話し終って、突然、
「楊子さん」と、はじめて名前を呼んだ。
「えッ……」
棒立ちの楊子さんからわざと顔をそむけて、ふつうの声でこう言った。
「あなた……が、法子(ノリコ)だね」
すると、楊子さんもふつうの声で返辞をした。
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「ご想像に、おまかせします……」
そして顔を見合わせ、二人ともはじけたように笑った。
「どうして、あたしの名前、お分かりなンですかア」
改めて眼を瞠(みは)っている。タネは例によって呆気ない。
「アーン。……びっくりしましたァ」
楊子さんは、タッタッと小さな坂をかけ下り、美しいエゾカンゾウの花叢(はなむら)に愛くるしいお尻の辺まで
埋もれたなり、平たい鉢の底のような窪地から顔だけふりむいて、まぶしそうに笑み崩れた。
「眼鏡、なくて、見えてるの」
「見えてますよウ」
つねはコンタクドレンズを使っているが、旅行中はわざと眼鏡で……と微妙なことをあっさり言う。
日ごろ私が、その品のいい顔立ちゆえ好きな或る映画女優とよく似ていて、あれより一段と清潔な表情
を楊子さんは、惜しみなく、呼ばれなくても何度も、呼べばきっと私の方へ、まっすぐむけてくれる。
微塵の不安なかげも感じとらせない。それでもなぜか私は気遣っていた。楊子さんの経歴や、近未来に
就て、積極的に聞き出そうなどとはしなかった。
三十分、以上ももう彷徨(さまよ)っていた。相客たちの影も声もとうに消え失せて、二人は、どこまで踏みこ
んだとも知れない、丘陵地のよほど奥らしい場処まで来てしまっていた。ふとした楡(にれ)や樺(かば)の林の切れめ
ヘ出ると、今度はケヤマハンノキの茂み(ブツシュ)がグラウンドほどもある浅い斜面をなして、波のように低くま
た高くうねっては遠く風にざわめく白樺の森へ、つづいていたりする。
277(115)
帰りましょうよとは、一度も楊子さんの□から出なかった。かえって私の方で、さァて……どっちへ
帰ってけばいいンかなァと呟く。だが、だいじょうぶですわョと楊子さんは慌てない。私のすぐ横を、
疲れたふうもなくあっち、そっち、この方角などと、互いに思いつくまま路でない路を、右し、左し、
青くさい深い叢や茂みを踏み分けかき分けて行く。おもしろい子だなァ、何歳(いくつ)だろう……。
で、楊子さん若いなァ、と一歩二歩先へ出ながら声をかけると、お嬢さんがいらっしゃるのでしょう
と逆に訊かれた。朝日子のことも昨日今日のうちには話していたか知れない、大学四年生ですよという
と、自分(あたし)は、チョット上ですという返辞だ。
「二十……三。それじゃ」
「そのへん、でェす。しっかり大人なんですよ」
いやいやお若いと笑い、私はあの「法子」の年齢(とし)を寿命があれば……と、指折ってみた。そして、眉
をひそめた──。
八時には済ませる約束の朝食までに時間の余裕はまだあるし、この魅力ある緑の魔方陣のさなかを、
これくらい天真欄漫ふうな美少女と、二人きりで今さまようているという満足感には、ふと目のまうほ
ど蠱惑的(こわ<)なものがたしかに混じっていた。危険な熊に遭うとも、二度と尾岱沼に沿ったあの国道へ戻れ
ないともまったく考えていなかった。この悦ばしい現状を私は堪能して帰りたかったし、楊子さんにし
てもそうらしく想えた。
「こわい……ですか」
「イイ(二字傍点)えェ」
278(116)
語尾の(ふつうだと私のそう好まない)軽快にはずんだ楊子さんの物言いに、わざとらしさは全然ない。
「オトウサンと、一緒ですもン」
そんなことさえ嬉々として□にする。「法子」を演じている気だ、それともホントに……と顔を覗く、
と、にこッと微笑って返す──。
ときどき、二人で凝(じ)っと佇んだ。山風に乗って遠く人界から物音の届いてくるのを聞きとめようとす
るのだ。
「あっち……かナ」
「もうちょっと。……あそこに、大きなハルニレが見えます、あの方角みたいですわ」
自動車が、アスファルトの道を疾走するような音が、たしかにしていた。
「ぼくたち、これで何遍か囲いを出たり入ったりしちゃってましたかね」
「ええ。ツイ、径(みち)が見えたり景色が佳かったりして……。夢中でお喋りもしてたし」
「それにしても良いサン歩(三字傍点)になったもンだ、五六歩あったかナ」
楊子さんはヘタな駄酒落にもころころ笑ってくれた。
「でも、すてきでした。ぜったい、あたし忘れません。光栄やわァこんなふうにご一緒できて……」
「そりゃ……父(てて)親に言う挨拶やないな。まア、とにかく脱出をはかりますか」
「そンなン……だいじょうぶやテ。あたしは、いくらカッテ歩いてたいでェす。こンなに……どっち眺
めてたかて、綺麗なンやし」
そんなふうに大阪言葉も混じって楊子さんに言われると、なにか私は、娘に劬(いたわ)られている気がしてな
279(117)
らなかった。「冬(ふう)ちゃん」これはきみの、あの娘(こ)なのかい。ほんとかい……。すると楊子さんは、急に
話題を「徳内さん」へふりかえて、天明五年(一七八五)の奥蝦夷、千島探検の成行きを先取りしたい
様子(ふり)を熱心に見せた。
「ああ、あそこに。日だまりに乾いた木が倒れてる。すこし、お休みなさい」
楊子さんは、ためらわず近寄ってそのトドに似た枯れた木に腰かけ、私にも席をあけた──。
「……成行きッたって、大概なこときゃ分かんないンですよ。最上徳内と大石逸平とが、結局は国後島
ヘ、先渡りする(二字傍点)はした(二字傍点)んだナ。約束どおり、今謂うあの根室標津(シベツ)町まで迎えが来てくれていた。その頃、
国後島トープト村の酋長ツキノエは、山□鉄五郎の依頼に律義に応えましてね、択捉(エトロフ)島以北の赤人(フウレシサム)つ
まりロシア人の出没の様子を、島伝いに北へ、探索に出かけてくれていた。
国後島のアイヌの村(コタン)としては、最南端にオトシルベ、後には泊(トマリ)の名で知られているのが一等大きくて。
乙名つまり酋長が、サンキチアイノです、国後島の最長老だった。が、後に不幸な死に方をしましてね、
アイヌ蹶起(けつき)の引金になった人です。この、南西から北東へ斜めに百二十キロ余りもの細長い島は、概し
て地勢高峻といいますかね。中で南半分で目立って高い山が、順に北へ、トマリ山、ラウス山、ポンベ
ツ山と三つ並ぶ。山の呼び名は時代によってだいぶ違いますけれど。ツキノエアイノがいたトープトは、
そのトマリ山とラウス山のまン中、大きなトープト湖を背負って島の東岸にあった。同じ東岸で、ポン
ベツ山の南麓にもう一つ、フルカマップという村(コタン)もあった。アイヌが住むといっても、合計してせいぜ
い千人もいたのかナ。それでも南千島では北海道に近いし、気候も比較的おだやかで、栄えてた方です
ね。
280(118)
だけど徳内さんらは、なにしろ素手に近い渡島ですよ。オトシルベで後日には歓迎もされたろうけれ
ど、早い話が敵にひとしい飛騨(ひだ)屋の連中に迂闊(うかつ)に近づけない。で、この辺が逸平と徳内と気象の面白い
ところでね。何が何でもせめてクナシリ一島を東岸から西岸から、お互い競争ずくで北上して北端のア
トイヤ岬を極めようじゃないか。好便に恵まれたらエトロフ島へ先渡りも辞さない……と。大石逸平っ
て男は、よほど徳内を煽るのが好きで上手だったらしい。競争心を刺戟しておいて、お前ならやれる、
と、やるンですわ。徳内は五尺二寸、今の時世じゃ小男ですがね。豪気な男(モン)です。人を挑発はしないが、
この時だって、逸平が黙ってれば、この上司を置き去りに全く同じ行動に出かねないンだな。……退屈
かナ、楊子さん」
「いいえェ」
「……けれど逸平の面白ずくの提案は現地の反対に遭って、あっさりと潰(つい)えたンだからおかしいね。と
言うのもクナシリ島は、さっき、アイヌの主な在所(コクン)がみな東岸にあったと言うンで分かるように、東の
太平洋側は、ことにフルカマップ川やオンネベツ川の開口部は広い平原に抱かれて、全体に砂浜つづき
が長い。しかしオホーツク海側の西岸はほとんど嶮しい山勢で、直接海に断崖を突っこんでいるらしい。
国後島の東岸と西岸は、食用の海藻にせよ棲んでる鳥獣魚類や、植生にしても、ちょっとべつの島かと
思うほど、ちがうという。東岸には北から寒流が流れ下り、西岸には宗谷や知床岬を回流して来た対馬
からの暖流の余波(なごり)がゆるく北上している。オトシルベつまり泊(トマリ)の村(コタン)としても、両方へ人を分けて逸平らの
に舟を出してやる余裕もなし、なにせ言葉の通じない同士なンだから、和人は和人で協力し、知恵を尽
して欲しい。と、まァ、サンキチアイノに逸平らは道理で一本を、とられたわけです……」
281(119)
「結局、……どっち側へまわったのかしら」
「サ、それはもう徳内さんに直かに訊ねましょうや……」
冗談とも思っていない笑顔で、素直にはいと楊子さんが頷く。と、その向う隣へ、影に影を塗り重ね
て行くぐあいにアイヌ姿で、鬚の徳内さんが静かに腰をかけていた──。
三
私は、だが、念を入れてここでぜひ言っておく。物語に都合よかれと、私は、在りもしなかったまる
で架空の幻覚を書いているのでは、決してない。在ったまま話している。そして真実というものの不思
議さに、ただ驚いている。徳内氏が話し出す──と、楊子さんも生真面目に、明るい瞳(め)を心もち伏せぎ
みに凝っと聴き入っていた。旧知かのように初対面の挨拶すら省略していた。私は、昨日の標津(シベツ)線の電
車での二人を思い出してみた。あの時、徳内氏は楊子さんのことを可愛いとか何とか言っていだけれど、
楊子さんの方は鬚の徳内氏に気がついていない、それが当然、と私は思っていた……のに。
そればかりでない。いつ知れず「部屋」入りして徳内氏の名を私が呼んだのでもあったか、奇妙に今
の居場処が「牧場の宿」の牧場うちであるような、けれど、時として三人ともいつもの私のいわゆる
「部屋」にいて、気のおけない同士しんみり話しこんでいる気もしていたのだ。だが、なぜ、楊子さん
が、……「部屋」に。
ま、詮索は措(お)く気でいる。遠い以前の、たとえば畏(おそろ)しかった宮島の「(鬼山)和子」に肖(に)た、中学生
282(120)
くらいな楊子さんのまだ稚な顔を、ふと見覚えていたような錯覚すら或いは私は持ったかもしれないの
だが、それもみな問題にはせずにおこう。
短い時間に、徳内氏は実によく話してくれた。私は氏の少年の頃を「寡黙、短躯、だが頑健で発明」
と書いておいた。が、江戸へ出て相変らず「寡黙」で済むほど悠然とは暮せなかった。人に説く、説い
で志を建つ。意外に思われるかもしれないが、徳内氏のそれが生涯世に処した態度だった。他に武器(もの)も
持たなかった。
後年にも、しばしば徳内氏は幕府の要路に説いて、蝦夷経営に策を献じたし、また自身の判断や行動
を懸命に弁じて窮地を切抜けた場合も少くなかった。「異国船渡来に付(つき)愚案申上條書付(かきつけ)」だの「唐太(カラフト)島
白主(シラヌシ)と申所より西方見分仕候処左之通御座候」だの「蝦夷地之義無遠慮相認(あひしたため)奉申上候書付」だのの類
が幾らも残っており、重職の反応をきっと観察して、「御□気様子覚書」といったものの記録も怠らな
かった。出羽の託りは抜けず能弁のわけはなかったが、語法や語感に人並を超えていたとは、通辞の熊
次郎が見込んだとおりに、日本語と質(たち)のちがったアイヌ語を、実際に応じて着々とモノにした呑みこみ
の良さからも、改めて頷ける。鈍いのかと見えて、根がすこぶる器用で発明だった。眼が見えていた。
慇懃に楊子さんにむかい徳内氏がこの時した内容(はなし)は、あらまし三つに分かれた。先ずクナシリ島での
こと。次に幕府普請役庵原(いはら)弥六ら西蝦夷地班のカラフト踏査とソウヤでの越冬、および松前からソウヤ
ヘ追及した同じく普請役の佐藤玄六郎が、その後に蝦夷地(北海道)一周を果たしたこと。今一つ、松
前へ帰った東蝦夷地班が松前城下に居直って断然越年の間に、佐藤玄六郎が満載の交易船で江戸に戻り、
283(121)
勘定奉行松本十郎兵衛と大がかりな蝦夷地開拓継続の策を練ったこと。
意外に自分自身のクナシリ島探検を徳内氏は端折って話した。いくらか面映ゆそうに氏は、天明五年、
同島へ初めて幕府役人が渡ったという実績を措いてほかに、とくべつ見分の功といえるようなものはあ
の時には、なかったのだと言う。
大石逸平と最上徳内が、夕闇に紛れわざとオトシルベ(泊(とまり))を避けてモシリケシ、かって日本領の時
分の善平古丹の辺に上陸してサンキチアイノに迎えられたのは、飛騨屋支配人や松前藩の侍にまだ来島
を悟られたくないからだった。だから楊子さんの、「結局、どっち側から」国後島を予備探検したかと
の質問に対しては、アイヌの在所(コタン)、和人からいえば漁業請負の場所がほとんど無い西岸沿いに、という
のが徳内氏の返辞だった。大石と徳内はアイヌに助けられ舟であたかもトマリ山を海上から捲くぐあい
に北上し、ハッチヤス崎もこえると、ゆるやかな海流に乗ってついにニキショロ湖畔の村、シブチャリ
にまで達したという。何日だろうと逸平が呟くと、徳内が七月九日ですと教えている──。
シブチャリからもっと先へとなって、同行のアイヌが首を横に振った。彼らの常法どおり頭を寄せ合
うて地面に木片で地図を描かせてみる、と、はるか北のルルイ岬まで山また山がますます海に迫って、
舟泊りもない。しかもルルイ岳は三倍、チャチャ岳などはあのノツケ水道に秀でた影を映していた、南
端トマリ山の四倍近くある嶮しさで、黒潮に乗って北へ北へ進むうちにも西からの突風にもし遭ったり
すれば、脆(もろ)い縄綴舟などそそり立つ断崖の前にひとたまりもない──。
徳内は、だが、だからこそ実地を知っておきたい、岩から岩を伝って、たとえ一人ででもと頑張った。
結局「こけ(二字傍点)の一念」を容れた体(てい)で大石逸平がひとり海上の道を離れ、比較的年嵩なアイヌ一人を道先に、
284(122)
島を東側へ横断して行った。彼はそのままフルカマップ沼(トウ)の南から太平洋岸に出ると、およそ京都から
彦根・米原、東京なら小田原・熱海辺までの距離を歩き通して、北端のアトイヤ岬までそう無理なく到
達した。徳内らも、相当の危険は冒したけれど、逸平より半日遅れの五日めにはアトィヤ岬の西の浜に
舟を漕ぎつけた。岬に立つと、風の来そうな海騒(うみざい)の、遠い東の水平線上に、エトロフ島の南端と覚しい
尖がって光る高峰が、淡い青の色をして望まれた。波はしきりに高まっていた。
アトイヤ岬よりルルイ岬のほうが少し北極出地、つまり緯度が高いと徳内は正確に観測していた。珍
らかな体験は西海岸でも東海岸でも多かった。だが、その後エトロフ渡島は断念して、クナシリ島の東
沿海を一気にオトシルベの東岸へ逸平らと帰った行程も含め、すべて翌天明六年の見分こそが肝腎の要(かなめ)、
体験談(はなし)はとりまとめてその時にと、徳内氏はみな端折るのだった。八月、山□鉄五郎らが神通丸でオト
シルベにいよいよ乗り入れて以後の、幕府御試み交易の容易でなかった実際さえも、あっさり割愛して
しまった。
「北洋の秋は一日ごとに深まってたちまち冬にはいる」と照井壮助氏の著書にも印象的な表現があった。
鉄五郎や青島俊蔵の一行はなにより、迫る寒気に多くを断念したのだと言える。その点で、松前藩が見
分の停頓に冬将軍頼むに足ると当初から勘定を付けていたのは、成功した。ホゾを噛み、かたく「来
春」を期して山□と青島は、「下役ども通詞らまで一行を挙げて本島のシベツに、」さらに九月半ばす
ぎてアツケシに引揚げたが、ツキノエもイコトイもまだ北島から何らの情報ももたらさず、かえって神
通丸と自在丸とがおおかた現地業務を終えた体で入津(にゅうしん)していた。
有司らは意を決した。戻らぬ下役大石逸平と徳内とには当座アツケシに残留を指示し、ツキノエらの
285(123)
報知をなんとか聴きえたうえで、便船を頼み松前に戻れと書き置き、他は、北廻りにかねて合流の予定
の佐藤玄六郎到着を待たず、二艘の交易船に便乗して、とまれ明年へ、態勢をすべて堅固に建て直そう
と振り出しの松前湊をめざした。十月の初めだった。
話はつづく。
──さて西蝦夷地……実は北蝦夷だが。松前藩の異国対策としては、東のクナシリ方面よりも西のカ
ラフト向きに重きをおいていたわけさ。それだからか、持分も予定よりふやして、二人。差添えの足軽
には鉄砲や鑓(やり)もかつがせた。で、普請役の佐藤(玄六郎)さんが、下役鈴木清七をつれ御用船五社丸で、
ソウヤヘ先着していた庵原(弥六)さんらを追った。西側(むこう)でも、その辺の日数など甚だアイマイなんだ
がね、ま、東側(こちら)と似たり寄たりだったろう。予定だと、佐藤さんはソウヤに詰めて、庵原さんらがカラ
フトに渡る約束だった。そしてそのあと、寒気試みもかねて庵原さんらはソウヤで冬を越す。佐藤さん
は単身シレトコ岬を経て、シベツか、アツケシかで我々と合流する……
──およそ、予定どおり……
──とも、言えたが。大きな犠牲も出た。
── …………
庵原(いはら)]弥六は下役引佐新兵衛、鈴木清七らを伴って、七月中旬には二艘の「蝦夷舟」を雇い、「台命に
よる見分」を楯に松前側の妨害をはねつけ、敢然と千里の波涛を踏んでカラフトヘ渡った。かえってこ
の頃は、当然のことに皆がカラフトは島であると思いこんでいた。但し松前家がすでに三年がかりで家
臣にカラフト島を経廻らせたなどと吹聴していたのは、事実でなかった。麗々しく公儀に差出した地図
286(124)
類とても、揣摩(しま)臆測によるすべて捏造(ねつぞう)だった。
ともあれ庵原弥六はノトロ岬を西にまわった日本海側、シラヌシ(白主)へと漕ぎ着けた。ここに松
前藩出先の会所があった。以後、弥六らは例の縄綴舟に粮米を積み、海岸づたいに壮行すること十日、
約六十里でダラントマリ(本斗と真岡の中間点)に達し、粮米つきてシラヌシに帰った。次に岬の東へ出
てアニワ湾ぞいに大きく弧を描くことおよそ七日、順調に、かつての中知床岬に至った。シラヌシとは
対蹠的な、オホーツク海側のカラフト最南端に当たっていた。ソウヤヘは、八月中に無事帰り着いた。
逸早や徳内はその話を、松前の上司に先んじて佐藤玄六郎の□から聞いた。佐藤はソウヤ着以来もっ
ぱら交易を担当していたが、庵原らがカラフトを引揚げて来たので、八月二十日先ず交易荷物を積んだ
五社丸を松前へ向け出帆させ、次いで八月二十三日、ソウヤでの体験越冬を決意の庵原、引佐、鈴木ら
と互いに励ましつつ、単独(ひとり)未踏の東蝦夷地へ出発した。むろんオホーツク沿岸を海路アイヌの漕ぐ舟で
進む旅ではあったが、幸い剣呑なこともなく、時に舟を畳んで陸行も試みた。簡単な測量もした。シレ
トコ岬を回る時分には九月も下旬。叩けば鳴りそうな寒気の彼方にながく横たわるクナシリ島を望む
「地の果て(シレトコ)」は、とうに厳しい冬を迎えていた。この海がやがて悉く流氷にとざされると聞くと、あの
ソウヤでの庵原たちの「越冬」が、はたして持ちこたえられるものかどうか……剛毅な佐藤玄六郎も、
約束のシベツヘ途中を急(せ)くうち、それが気にかかってならなかったと、徳内らに、つくづく告げている
──。
十月初め、だが、山□鉄五郎以下の人数はもうシベツを引払っていた。入れ代りにクナシリの乙名ツ
キノエが、山□らに千島赤人の動向を報せたいとシベツまで海を渡って来ていた。来ているらしいと佐
287(125)
藤らにも察しがついた。が、シベツに駐在の松前家臣は無勢の佐藤に対してにべもなかった。幕府有司
に逢って復命を望むツキノエに、それは宜しくない、強いて「出るにおいては鑓(やり)を以て突殺候」と嚇し
ていたことも後に知られているが、クナシリ場所の飛騨屋にせよシベツの松前方にせよ、公儀の見分御
役とて、しょせん今年限りと高をくくっていたらしい。
佐藤玄六郎はソウヤ以来の従者アイヌ、シモシエとの長い道中、「アイヌは頭がいい、頭がいい」と
のちのち□癖になったほど、互いの語彙を興に乗って交換し親しみ合っていた。その別れがたいほどの
シモシエらであったが、玄六郎は早く彼らを本拠地へ帰してやり、自分はアツケシヘ急いで同僚と合流
したい、そうすべきだと考えた。が、なにしろ不案内。余儀なくシモシエと計ってシベツのアイヌに協
力を求め、メナシ岳へ猟に出るという二人の若者の手引で、辛うじて抑留状態だったシベツ場所を脱出
した。思えば、事故をよそおい強引に毒殺など計られていて不思議でなかったほど、いかにも険悪な和
人たちの佐藤への応対だったという。
佐藤玄六郎はかつがつ十月八日、アツケシ場所に残留していた大石逸平と徳内に劬(いたわ)り迎えられた。幸
い追いすがるように乙名イコトイが北千島から帰ってきた。イコトイは咄嗟に玄六郎らの宿所にとびこ
み、ツキノエがネモロヘまわって江戸の侍(トノ)に会いたがっている、急いで走れと伝えかつ勧めた。躊躇な
く逸平が起った。遅れじと起った徳内には、佐藤様と残って今後を策すよう、ウムを言わせない。
──いい顔ぶれが揃ったもンですねェ……
思わず私は声をあげてしまった。話している徳内氏の顔色がいっもよりほうと照って見える。事情に
は疎いながら、楊子さんもちんまりジーンズの膝がしらを揃え、両掌を腰かけの木に支えた恰好で微笑(ほほえ)
288(126)
みながら聴き入っていた。
この佐藤らアツケシでの邂逅は互いに感慨深く、また、さまざまなことが有った。が、それは、
──いずれあんたから……この人に、話してあげるといいサ。ね。……それでいいかね。
そんなふうに楊子さんのほうを徳内さんは鬚づらで覗く。そして、かすかに躊躇(ためら)いもみせながら、だ
がよく澄んだ楊子さんの、
はい……という返事と笑顔に満足したらしく、話を、一気に松前へ江戸へと運んで行った──、が、
この辺の話いずれ徳内先生に念をおされるまでもなくきっちりと、やがての機会(のち)にもう一度顧るつもり
だ。ただ一つ、この時聴いた徳内氏の話から、とりあえず記して置きたい点(こと)がある。それは、松前に顔
を揃えた山□鉄五郎、皆川沖右衛門、青島俊蔵、それに佐藤玄六郎らが、もう考えに考えて頭も禿げよ
うかというほどの窮余の策を携えて、代表格の佐藤が江戸へ、勘定奉行の松本のもとへ持ち帰ったのが、
是非は如何にもあれ、弾左衛門手下(てか)の穢多(ゑた)、非人の身分を蝦夷地へ解き放って北辺の防備と開拓とを計
れ──という案、であったことだ。
牧場の杜(もり)の木洩れ日に、ふと徳内氏が姿を隠したのか、それとも、楊子さんともども「部屋」を辞し
て来たのか──、十分とせぬうち、私たちは民宿より北へ二百メートルほどの場処から、思わずあはは
と笑い出しながら溝ッぽい小さな斜面を這い上がって、ぴょん、ぴょんとアスファルトの歩道へ、低い
隔ての垣を跳び越した。視線を高く顧て、今さらに広く涯て知れず高まって行く丘陵(うねり)の波の、緑また緑
に二人は息をのんだ。
289(127)
帰って行く国道沿い。すぐ眼の下に木を低く横に渡しただけの柵ぎわへ寄って来て、むせる緑地と白
樺林を背に芦毛の母馬に庇われながら、鹿毛(かげ)の額に抜いたように白い丸のある、見るからまだ足弱な仔
馬が余念なく草を喰(は)んでいた。すこし枯れた熊笹が柵の外に生えている。見るとすこし離れた場処でも、
何疋も草場に□を垂れている。
楊子さんが感に堪えた面持で凝(じ)っと足を停める、と、その視線を盗み撮るように私はまうしろから和
やかな馬たちの光景(ほう)へ自分のカメラを向けた。シャッターの音に振向き、揚子さんはにっこりして私に
右手をさし出した。
「朝のお散歩に!記念です……」
「……忘れないよ」
そして楊子さんのやわらかな掌(て)に掌(て)をふれ、その時チクリと膚に爪のさきを感じた。あ、と出かかる
声をのみこんで、私は、しなやかに折れた女の五本の指に、今一方のあいた自分の掌も重ねた。楊子さ
んの瞳が、そのそこの、尾岱沼(オダイトウ)の湖(うみ)の水さながら、きらきらと濡れて、膨らんで、ゆっくり──笑み崩
れていった。
小一時間あとには「牧場の宿」ももう引払って、楊子さんと私は、尾岱沼の広がる漣(さざなみ)を遊覧船の甲板(デツキ)
から眺めていた。野付半島を洗うオホーツクの潮(うしお)に、悉く立ち枯れている異形(いぎよう)のトドワラを観に渡るの
だ。ひょっとして今朝はケラムイ崎までも見通せるかしれないよと、宿の主人が二人を波止場まで見送
ってくれた。同宿していた新婚さんも、マイ・カーで追って来て、同じ船に乗った。
砂嘴(さし)が囲んだ、いつか潟湖(ラグーン)となる運命の尾岱沼は、どこもかも極く浅い。風物詩の北海シマエビをと
290(128)
るウタセ舟が、三角の小さな帆を沢山あげていた。アザラシが波がしらに首一つ出して悠々と船になら
んで游(およ)いでもいた。さすがに風は痛いほど冷えたが、幸い日盛りにも恵まれ、トドワラでは真澄の青空
を顫わせて揚げ雲雀(ひばり)の小さな黒い点が、高く高く耳にしみるほど囀りつづけていた。干潟を渡した木の
架け橋に佇み、二人で飽くことなく天上の歌を聴いた。だが、クナシリ島はとうとう見えなかった。二
十五キロに及んで、まるで捲いた髭(ひげ)のような細長い長い砂嘴(さし)は、内湖と外海を弓なりに腹一つの浅さで
遮りつつ、波に霞んでいた。
また元の波止場へ戻って、待合所で、電話で標津へのタクシーを呼んでもらった。
別れが近づいていた。標茶(シベチヤ)経由釧路(クシロ)行きの電車は、十二時三十二分標津発を外すと、あとが無い。楊
子さんはぜひ私を見送ったあと、自分はバスで知床(シレトコ)へ向かうと決めている。
無口になっていた。そうかと思うと爆(はじ)けたみたいに両方でものを言った。とびきり旨い早昼飯(びる)を食べ
て、根室このかた禁断の酒を汲みかわしてお別れにしようという提案が、容れられた。
「あらら、徳内さんが、舟に乗ってますよ」と呼んでいる楊子さんのまうしろで、根室標津(シベツ)駅前の北方
領土館の二階で、私は、この人と別れたくなかった。それでも……乗車券を買い、ほんとうに巧いぐあ
いに駅より左の方へわずか町並を逸れかかった辺に、私たちは、表構えの堅い、佳い割烹料理の家を見
つけた。幸い、小ぢんまりと土間の椅子席も脇にできていて、靴を脱ぐこともなく、私は連れの許しを
えて思うままの、主に魚料理を数種と、酒とをあつらえた。
肴はたしかに旨かった。でも何を食うとも覚えず、ただ楊子さんを相手(まえ)に地酒の「北の勝」に酔った。
楊子さんも、うすく頬を染めている。そして頻りに右手で左の髪を浅くかきあげる。オヤ色っぽい……
291(129)
と、見る。と瞬時かきあげた豊かな髪のかげに、三日月なりに一センチとない、細い創(きず)──。ソレは…
と問うひまなく、逆に、きまじめに訊かれた、「徳内さんに」ああしてお逢いになっていたい、一番の
動機は何なのですか……。
私は、顔をあげて返事をした、「徳内さん」は人を差別しない人(六字傍点)だと思うから……。
楊子さんは、暫時、じっと私の眼の奥を覗くようにしていた。が、すぐまた、大阪京都へ近いうち見
えるご予定がおありですかと訊いた。やがて、京都で講演の約束が一つあった。時と処とを確かめ、楊
子さんは落着いて自分の手帖に書き留めていた。
「手紙を…、上げます。きっと上げます」
妙にぶっきらぼうに私は突然そう言った。
「うれしい……。お手紙を下さったら、あたし……、優しい気持で暮らせそうな気がします」
「…………」
そして、とうとう私は盃を伏せた。旅を終えて、飛行機で大阪に帰るのが七月五日の予定と、また楊
子さんから確認した。このさき無事でと、何度めかの同じ言葉を私は繰返さずにおれなかった。
楊子さんは改札□を入って、ホームで見送ってくれた。
「ぜひお見送りさしてくださあい。お見送りしたいンですッ」
そう言ってから、線路一つ向うへ渡って行く私に楊子さんは、二つ折りの紙片をそっと持たせた。見
ようとすると、
「あとで……」と、手でおさえた。
292(130)
「ありがとう。……楽しかったですよ」
「あたしもです。寂しいです、もゥお別れゃなンて……」
そして発車まで楊子さんはホームに佇んだまま、私が見える窓へ微笑んだ眼を放さなかった。いよい
よ動き出すと、ただ声もなくちぎれそうに手を振った。振った。振っていた。
──伊藤という苗字は、お忘れになって下さい。そして「ヤンジァ(揚子)」と、私の名をおぼえて
いて下さいますように──。
達者な走り書きを、咄嗟に掌(て)のなかに私は読んだ。
あいた窓に顔を出して、線路ごしに、強く頷き返す……と、とうに眼鏡をとった晴れやかな楊子(ヤンジア)の笑
顔が、大きく大きく手を振りつづけていた。
293(131)
七草 徳内、択捉(エトロフ)島へ
一
釧路市でもう一泊した翌る午すぎ、私は、釧路港発のフェリーに乗船した。太平洋沿岸を東京へ、一
直線とはいえおよそ三十二時間──は、ずいぶん不経済な気もした(もっとも費用は飛行機よりだいぶ
安い。)が、それも考えようで、客の寡(すくな)い広い船室に陣どって一週間の旅の後始末──日記をまとめる、
吹き込んだテープを書き起こす、入手したコピーやパンフの類を整理する、など──を船内でぜんぶ済
ましてしまえるなら、帰宅のあとがどんなにラクだか知れなかった。なにより、こちらは比較にならぬ
速い汽船の旅にせよ、天明五年(一七八五)の十一月半ばには佐藤玄六郎も、急遽逸(はや)る心を鎮め、交易
荷物を満載した御用船神通丸に便乗して、海路を江戸へ急いでいた。それが、頭にあった。
幕府へ報告を急いだこの時の佐藤の任務は重かった。翌六年へ蝦夷地見分を延期し強化することも含
めて、早く、勘定奉行のもとで次の手を打たねばならない──。
だが、そんなことが私の頭にあったのも、尾岱沼(オダイトウ)の、「牧場の宿」へあの人(三字傍点)と着いた時分までの話だ。
294(132)
ヤンジァ(楊子)──の走り書きが、胸のポケットで燃えていた。標津(シベツ)で別れ、ひとり釧路へ来て駅
前のビジネスホテルに宿はとったが、むやみに物狂おしかった。
なぜ楊子から離れて来たか。なぜこんな固いベッドで独り寝ようというのか。
それでも日のあるうちは、釧路の町はずれに御供(おそなえ)山といわれている、草むした雄大なアイヌの砦祉(チヤシコツ)を
遠巻きに見に出かけたり、家族にあれこれ土産を調え、はてはシャクシャインかツキノエかと想う立派
な木彫りのアイヌの首を執心のあげく買ったりした。そのようにして楊子を忘れようとした。が、夕闇
が肩へまつわり落ちてくる時分からがいけなかった。酒を呑むしか、私はこういう時の遁げ場を知らな
い。徳内氏を呼ぶなど考えもしない。行けるなら、今すぐ知床(シレトコ)へ美しい楊子を追いたかった。我から望
んだ泥酔さえ十分手にいらずに、私は、ホテルの窓ごしに、駅ビルの屋上を朦朧と揺れ動く電光ニュー
スの帯(ベルト)をしきりに憎んだ。「北の時代」という暗合の四文字が、酔いににじんだ視野を、不逞なほどそ
の時ゆっくりゆっくり滑り去って行った──。
北の時代…。
伊藤楊子。……伊藤という苗字は、お忘れになって下さい。……お忘れになって下さい。
そう……だったか。たぶんこの想像に間違いあるまいと、私は身震いした。初代の韓国統監だった伊
藤博文の残したキズ痕が、三代四代を経て、あの人の身内に疼くのだ。楊子の祖父いや曾祖父ぐらいな
人が、一九〇六(明治三十九)年統韓府設置の頃の朝鮮人官吏であったのだろう。立身出世と高い俸禄
に望みをかけたかも知れず、あやかって「伊藤」の日本姓を進んで名のる者の多かった一時期があった
とは、笑い話のようにさえ日本の国へも言い弘められていた。
295(133)
伊藤博文の肖像が日本の紙幣を飾るのと逆に、韓国では、ハルビン駅頭に伊藤を殺害した安重根こそ
英雄ですと、いつぞや私に息巻いた京都の友人がいる。彼は私より七、八つ後輩だが、小学校から高校
まで尋常に日本式の伊藤暁夫という姓名をもち、彼が朝鮮人などと私は呑気に意識もしていなかった。
好成績で京都大学に合格後は、考古学を勉強するという報せにいかにも世ばなれた興味は感じたが、そ
れまでの話だった。それが一年ほどして突如、李暁玲(イヒヨンヨン)という難しい名前で年賀状、というより宣言を寄
越したから、私は度胆を抜かれた。
突如と感じたのは、だが勝手すぎた。よほどの決意だったにちがいない。だが、私はその時分小説も
まだ書き出さず、やたらせかせかと出版社勤めに励んでいた。どうでもよろしィが……などと、暁坊(あきぼ)ン
の達者な墨の文字を眺めながら返事に窮する思いだった。
楊子(ヤンジア)……ひょっとして、あなたも──自分が国籍上の朝鮮、韓国人と最近まで知らなかったのでしょ
う。いつ知ったか。どう感じたか。とにかく「伊藤」という姓を疎(うと)むほど父祖の国の永かった屈辱の時
代について、あなたは知ってしまった。そして「ヤンジァ」を、えらぶ気になった。そウ……なんだね。
私自身の苗字が、活字でも、貰う手紙でも、よく間違われる。字が「奏」さん「泰」さん、時に
「奉」さんなどと奇妙に書かれてしまうのはまだ可笑しいが、時たま、未知の読者からの電話や、手紙
のはてに、
「それにしても日本のことが、よくお分かりになりますね」と挨拶があったりする。うツと絶句する。
なるほど……早呑み込みをしているらしい、のだ。無理もない。中国へ作家仲間と訪れた時も、お里帰
りですねと親愛をこめて向うの人に笑談を言われた。■小平はまだ地に潜んでいた昔だが、魯迅夫人の
(■:登 に おおざと)
296(134)
許広平の名は何度も聞いた。私の素姓など大威張りの中国姓だし、恒平もりっぱに中国名でありうる。
「チン・ハンピン」で十分通用する。いずれ私の姓や名前から、中国人か朝鮮人かと間違って想像する
読者は、従来も、今も、幾らもあるのだろう。
「そンなこと、私は、いっこう平気なンですがね。国際的に融通も利くことですしね」
人が「思いこみ」を「思い直す」大事さといった話題で講演の時、私はそうも会場を軽く笑わせてお
いて、私の場合、恒(一字傍点)という名の父が平(一字傍点)安京生まれの私につけた名前ですし、字面でいえば時平、忠平、
良平、兼平などと摂政や太政大臣も、いっぱいいます。恒平(つねひら)という関白だっていたんですよ。「ハタ」
は奏河勝このかた日本人の苗字ではいちばん同族の多いといわれる「大姓」の一つです、島津も桜田も
井手も秦氏なんですと大風呂敷を拡げてみることが何度かあった。それなりに自分の姓名が用を足して
くれたし、たしかに、罪のない笑い声を私はどの会場でも聞いた。だが、それとて身を震わして私の話
を悪い冗談、「思いやり」のない話と憎んだ舌打ちや白い眼がありえたのを、ただ私が気づかなかった
だけとすると、罪がないところで済まない。かくて私は、他にももっと気がつかずに、いろいろ人を傷
つけてきたにちがいない。
朝鮮の時代──と、呼んでいい時期が、明治以降の日本の風土には蔽いがたく象嵌されている。それ
どころか、おそくも秀吉の出兵以来、朝鮮という種子は日本の土に噛み砕かれ、苦い根を張りつづけた。
征韓論、日韓併合、そして創氏改名。
もし日本人が、あの敗戦で占領軍にトム・ブラウン、イワン・イワノフなどと異様に創氏改名を強い
られていたら、平和憲法が外国の押しつけかどうかどころの屈辱ではなかったろう。自身にはまさか起
297(135)
こりえまいと信じている無茶を、だが日本人は朝鮮で、台湾で、そしてアイヌにも強いてきた。タコ部
屋の労働力として、慰安婦として、炭鉱や戦地へ強制連行した男女には、まともな配慮とは言えない青
葉一郎、青葉二郎……青葉十郎とか、健康良子、健康花子とか、番号札なみの呼び名をつけていたのだ、
私は、おおかた書いた本からそれを知り、あまりの酷さに呆れ、憤り、同じ日本人として恥ずかしかっ
た。それでいて私は、中国人、朝鮮人にもたまたま通用する自分の姓名を話のタネに人を笑わせてきた。
日本で暮す朝鮮人がどんなふうに本名を伏せて日本式の通名を用い、またそのことに自身傷ついていた
か、李暁玲(イヒヨンヨン)の時と変りなく呑気に、私は「どうでもよろしィが……」などと思ってきたのだった。
──寝苦しかったまま朝ばやに、宿のサービスのサウナで汗を絞った。旧釧路川を狭霧が這うヌサマ
イ橋まで歩いて、四季を象(かたど)ったポーズの大きな青銅(ブロンズ)の裸婦像(ヌード)を一つ一つ欄干の高くに見上げてから、タ
クシーで米町公園に登った。朝寒に肩をすくめ、釧路湾の南埠頭に賑う船の出入りを眺めた。日ざしは
鈍いが霧の晴れまに、およそ二百度の弧を描いてたぶん雌阿寒(メアカン)岳とか雄阿寒(オアカン)岳とかが見えているのだろ
う。かすかに輝いて幾重にももっと遥かにもっと長く西へ、北へ、東へ連る山また山なみも見渡せた。
雄阿寒岳から東へ北へ、あの連峯の海へ突き出た尖端(さき)が、きのう楊子(ヤンジア)が向かった知床岬だとは、展望台
に備えてある便利な方向盤が教えてくれている。楊子は今時分まだ「地の果て」、二泊の予定と言って
いた「シレトコ」の宿で朝寝をむさぼっているのだろうか、明日には斜里(シャリ)へ、網走(アパシリ)へすずしい眼をみは
って精一杯あかるい旅をつづけて行くのだろう……だけど、楊子はなぜ、あんな秘密を抱いて広い北海
道の一周なンぞを思い立ったのか。
なにもなにも推量に過ぎないのだった。確かなのは「ヤンジァ(楊子)」と名乗った人の意志だけだ
298(136)
った。「伊藤」にかわる本姓が、李(イ)か崔(チエ)か姜(カン)が金(キム)かも、知らない。
駅前、北大通りの角の書店で『北海道自然ガイド』『ユーカラヘの招待』『アイヌ伝承と砦(チャシ)』『アイ
ヌ語会話字典』などを買いこんだ。ついでにその辺で船中の酒と肴も買って、バスで、両港の釧路ター
ミナルにむかった。近海郵船フェリーの案内を見ると、釧路を午(ひる)の十二時半に発った船が襟裳岬沖を南
下するまでにたっぷり四時間、岩手の■(とど)ヶ埼沖を通過するのは、日変わりの翌る六月二十八日、零時半
時分であるらしい。
雲霧(ガス)がたちこめて、十勝沖からは盛大に荒れはじめた、が、船が沈むなどと思えもしない。ちぎると
ポタポタ油の滴り落ちる燻製鯡(にしん)を私は獅噛みながら、船体の上下するにあわせてウイスキーを生(き)のまま
咽喉へ通しては、独り占めの枡床に腹這ってテープを起こし、また見たまま思いつくままテープに言葉
を吹きこんだ。毛布も枕も、使い放題に何人分でも使えるほど我々の船室はから空きだった。酒に酔っ
ても船に酔っても、どちらでもいい、そうなったら寝たいだけ大の字になって寝た。和洋とも一等の
房(キヤビン)もどこかに有るらしい、よく調べずに私はエコノミークラスの大部屋にいるのだったが、四角な枡
一つが十二畳半の座敷より一まわりは広いのだ。終日サービスの浴場にもめったに客は入っていないの
を幸い、仕事と妄想とに倦むと何度でも浴槽に裸を漬けに出かけた。
うっかりデッキに出ようなら、まともに突風と波飛沫(しぶき)で顔からシャツの下までべとべとになる。売店
はひやかしても、遊戯室でゲームする気はない。帰るンだなァ。やっぱり家へ帰るのか。そうか……。
刻々に楊子の旅路から遠退いているということが、奇態に不思議だった。そのあげく楊子のくれた走り
書きの紙一枚を、私はためらわず二つ折りに、舞台の上の仕草じみてゆっくり二つにまず裂き、四つに、
299(137)
八つに、大袈裟にちぎるとぬるぬる濡れた舷側(デッキ)の鉄柱に手一っでっかまり、雨まじりの疾風(はやて)へ紙吹雪の
掌を思いきり開いた──。
午後六時から、二度めの食事にレストランヘ一番乗りした。十分な食欲がありながら、だが、あまり
な船の大揺れに、コップに二杯めのビールがふッと宙に浮いて、□もとへ運ぶフォークが、あ……と停
まった途端に、ぬるま湯へ漬けて我が胃の腑がじわじわ絞られるような心地わるさに襲われた。ためら
わずに船室へ戻って酔いどめの錠剤を二粒□に入れ、じっと右を下に二枚の毛布にくるまった。吐き気
はすぐ鎮まり、都合よく睡気が襲ってくると、私は、「楊子」「楊子」と□の中で二度三度呼びながら、
揺れつづく闇の底へ底へ身を励ますように滑り落ちて行った。
楊子(ヤンジア)も徳内氏も、その余の夢らしい夢も見ず、ただ細い幾条もの鞭が、硬い薄い板を叩きつけるよう
な物音ばかりを聞いた。強い西風が窓を打つのだと朧ろに知っていた。それでいて物音は遠い取返しの
つかない喪失感を、寝入っている私の、心の闇に彫(え)り込むように、果てしなく物寂しく鳴りつづけた。闇
の底に、やがて人間の首一つが、生えたように真黒に、物言わず光っていた。唇を蔽って深々と鬚をた
れていた。嘴(くちばし)鋭い鷲が翼をひろげた恰好(てい)に額に鉢巻をしていた。眉は庇(ひさし)のように突き出し、断崖のよ
うに顴骨(かんこつ)は張っていた。鼻の頭だけがほの白う光(て)っていた。
あなたは誰かと訊くと「人間だ」という返辞が虚空に響いた。
釧路市の民芸店で惚れこんで買ってきた、木彫の大きなアイヌ酋長のこれは首だナと、意識の半分で
は承知しながら、私は、闇に生えた黒光りの首がクナシリ島ツキノエでもアツケシ場所のイコトイでも
なしに、やがて最上徳内らしい毅い表情を動かすのではないかと期待したが、その底知れず窪んだ眼窩
300(138)
は暗い涙で溢れたかのように、いつまでたっても静かなままだった。あァあ……こんな夢は見たくなか
ったよなァと、誰にともない厭味を私は呟いて、まるで転げ落ちたように眼が醒めた。
窓ぎわに五つ並んだ広い枡と、その脇に丁字の通路との殺風景なりに明るく出来た船室だ。入□に近
いテレビの下で終始一つの毛布に仲良くくるまったアヴェックと、一つおいた次の枡に六十年配の、奥
さんの方が嵩高くて陽気な老夫婦と、一人旅の私と、飽きもせずトランプ遊びをひそひそつづけている
四人組の、みな背の高そうな青年たちとで船室全部を占めていた。私は眼を醒まし、十時前という時刻
を腕時計で確かめると上半身を起こしてみた。船酔いは跡方なく、トランプの四人ももう半分が寝てい
た。テレビも消えて、他に起きている客はない。
私はまた通路の丁字を横丁へ入って、奥の浴場へ出かけた。ここを先途(せんど)と船は揺れていた。ぐうッと、
波に持ちあげられると、そのまま上の方でいやいやでもするように捻じれて、左右にまるで身を揉むふ
うだ。飛行機なら青くなるのに、大きな船が沈む気など全然しない。四度めの入浴が四度とも独占(ひとり)なの
に気をよくして、私はのうのうと手脚を仰むけに平たく伸ばしたなり、「牧場の宿」の、四角く、床に
がっしり据えてあった木の湯舟のことなどを想い出した。
また片脚をはねたぐあいに傾き、湯が揺れて浴槽を叩く。遠くで空罐でも落ちて転がる音がした。十
八世紀の前葉に、板倉源次郎という金座の役人が書いた『北海随筆』に「アツケシより江戸へは船が便
利とは言い伝えているが、さて海上の里数は遠近のほど聢(しか)とは極め難い。なにしろ常々往反する船路で
はないのだから」とあった。そのあと、「ことに東海(太平洋)は湊から湊が遠い上に雲も霧も濃く、
朝暮(あけくれ)に方処を見喪い、その上東南風が荒くなるとまるで津波のような切れめもない大波に襲われること、
301(139)
海中の変とでも怖れ呼ぶしかない。また黒潮というのが、ある。太洋へ乗り出して運悪く風が弛(ゆる)むと、
もう此の潮に乗せられ東の海へ海へまるで引落とされてしまう。奥州と江戸とを往来の材木船が行方知
れずになること年々に今も数えきれない。まことに天地の水は東流すというとおりで、西海(日本海)
では陸へ向かっての東流だからいいが、東海では大洋へ涯しなく東流するのだから、自然と陸地を遠の
きがちになるのが船頭泣かせなのだ。」「西風が雲霧を吹き払う秋に航海するのがいい、東南の風もな
く、自然大波も来ない」などと書いていた。それを思い出した。
いやいや、いっそこの感じ……は、「船底に触るる潮は鼓々として胸に徹し、雷鳴のごとく船全く震
動す」と、例の津軽三厩(みんまや)から松前に至る途中の「龍飛(たつぴ)の瀬」を書いた、『東海参譚』の筆つきに近いの
かな。
いや、同じ「龍飛・中の汐、白髪」の「三流」に就てなら、やはり板倉源次郎が夏季の「潮おこり」
を叙した表現が面白かった……「巳の刻(午前十時)より未(ひつじ)の刻(午後二時)ばかりにやむ。其ありさま
海底より潮湧出で、四方より大波もみ合はするゆゑ、遠くこれを望めば綿絮(わた)をちらしたるごとくにて、
海面一、二段も高く見ゆるなり。此時に乗懸りたる船は難儀に及ぶ」と。津軽海峡と太平洋とではむろ
ん様子が違う。今は源次郎のいう東南の荒い風に、九千トンのフェリーが操みくちゃになっているのに
違いなかった。が、まア「破舟」には及ぶまいと、私は相変らず湯のなかで至って呑気だった。
そう言えば「大隅国分(おほすみのくにぶん)の内、浜之市(はまのいち)船、奥蝦夷ゑとろふ漂着の記」というのが、『日本庶民生活史料
集成』第四巻の巻頭に出ていて、漂流した船頭水主(かこ)たちには悪いが、事の顛末がたいそう面白かったの
も、また思い出した。正徳元年(一七二)十月、藩米六百五十七石と京都御用の庭石を十余りも積み
302(140)
大隅国浜之市を出帆した次郎左衛門船の十五人(内一人、行方不明)が、十一月難風に遭って漂流しばし
め、翌る年四月択捉(エトロフ)島に漂着。アイヌととかく折衝ののち厚岸(アツケシ)へ送られ、松前藩の手厚いはからいで無
事江戸薩摩藩邸に帰還できた一件記録だった。石も米も荷打(海へ投棄)したが、飯米は十分残してい
たのが幸いしたものの、太平洋の途方もない怖さは、「もはや斗方(はからひかた)もなく……ゆられ流れ候」「雨風に
なり一寸先も見えず流れ申侯」「帆柱の根折れ、しかればもはや頼(たのみ)も無レ之事に罷成(まかりなり)候」「梶二つにさ
け申侯」「命の限りと存(ぞんず)る程の事数十度」「板類は残らず薪にいたし」「日の出ると入るとを見申(みまうす)迄に
て候」といった字句ににじみ出ていた。
二
船室に戻った。通路の一部を除いて消燈されていた。からだはホカホカしていたが湯冷(ざ)めするのもつ
まらないので、睡入(ねい)る気もなく毛布を胸の上までひきあげて、仰向(あおむ)きのまま先の、沖船頭最右衛門以下
の「ゑとろふ漂着」のあらましをぼんやり想い起こしていた。
沖船頭以下十五人が「正徳二年壬辰(みづのえたつ)四月三日の頃」にようやく、一里ばかりの沖から眼にしたのは
あまり高くもない平たい「島」で、人けなく、海浜から奥の岡まで「ただ白砂に」雪が降りつもってい
た。やがて漁船一艘と接触したが、言葉は通じない。それでも仙台か、南部か松前かと問うているらし
いのは分かった。湊を意味するらしい「とまり」という言葉で西の方を指さしても教えられた。舳(みよし)とも
艫(とも)ともつかず「鯨のひげ」で合わせ目を綴じた、日本のとは全然「作り」のちがう船に乗っていた男た
303(141)
ちは、色黒く、背高く、眼すさまじく、両眉生え続き、鼻高く、髭生え、総身に二、三寸もの毛が生え、
髪は四方に揺りかぶり、うしろは昔通りに毛を切り揃え、身には鳥の皮、狐の皮を着ていた。
船乗りたちは、とても日本の内という気がしないまま、指さされた方角へ湊を求めてかつがつ船をや
った。わずかな片湊を見つけたが人家は見えず、ともあれ船を留めると先刻の見なれぬ漁船が来て、手
真似で「伝馬船」を使って上陸せよと言うのだった。
船頭長右衛門五十一歳、揖取(かじとり)の三五郎四十一歳ら少々の者が先ず陸に上がったが、役人躰(てい)の者もいず
番所もなく、やがて小家が三つばかりある場処へ来たが、汐屋じみて柱も立てず、出ぎわから直かに葺(ふ)
き上げて草や柴で蔽って屋根にしていた。煙(けむ)出し一つあけ、戸口も一つで、なかば五畳敷くらいだった。
待ち構えていたものか男二十人ほどかたまって、中に日本の煙管(きせる)を持った者が、「たばこ、たばこ」と
喚くので、さては日本の内かと思い当たったそう──だ。刀まで二腰あって、船頭は抜身を首にあてが
われ、耳もとで振りまわされ、「とかく殺され可レ申事に候、仕上は死(しに)候迚(とて)も一所に相果(あひはて)候得は本望の
儀と申居」りつつ、その晩はやっと船へ戻され、船頭親子とも舟底に抱き合うて寝たそう──だ。
択捉(エトロフ)島に漂着したのは大隅浜之市の船が最初でなく、乏しい記録ながらなお五十年も前、万治三年
(一六六〇)師走に伊勢国鳥羽港を出帆した松坂の七郎兵衛の船員十四人と上乗役(うわのりやく)一人が、翌年七月択
捉島まで漂い、そして国後(クナシリ)島を経て陸伝いに生還した例が一等早かった。漂着ではなく、目的をもって
渡島した最初の日本人が最上徳内だったことは今さら言うまでもないのだが、まだその前の宝暦六年
(一七五六)にも、紀州の船が択捉島のモヨロに漂着したという記録がある。徳内の生まれたこれは翌
る年に当たっているし、正徳の長右衛門らの例は徳内が渡島したより七十四年も以前の択捉上陸だった。
304(142)
殺されこそはせずに済んだが、大隅の男たちは生きた空はなかったらしい。「所の者共百三、四十人
本船に取乗」って来るとたちまち打擲(ちようちやく)され、身ぐるみ下帯までも剥がれ、二百石余りの米や用心銀の
拾貫目も奪われ、船は打破られ、金ものははぎ取られ、艀舟(はしけ)は焼き払われ、そうして乗員全部が島へ拉
致(らち)された。為すすべがなかった。そのうち二十六、七になる、船頭と同名の長右衛門が一人行方知れず
になって仲間たちを嘆かせた、但し「所の者」が殺したとは思えなかった。やがて山を越え西の海辺へ
連れて行かれて「明屋(あきや)」をあてがわれたが、それも半々に人数を引き分けられたりした。アイヌの家が
十四、五軒あったそうだが、何の島の何処とも定かでなかった。
そのまま数十日を経たうちには、銘々が「ゑびす」の生活を見馴れ見真似て暮すよりない。衣類はす
べて剥がれた代りに皮を着せられたのが存外に肌触りもよく、結句暖かで助かった。島の男女とも、大
鳥の皮、狐、らっこ、あしか、熊の皮などを裏をなめすこともなしに、袖細に仕立てて着ていた。どこ
ろが食物は与えてくれない。魚を煮ている家を見すまし入りこんでは「乞食(こつじき)いたし候」「乞得(こひえ)候て」食
べた煮魚が、ことのほか風味がよかったそうだ。
「居馴染(ゐなじみ)候ては、互に若き者ども寄合候てざれ狂ひをも仕候様になり申侯」とあった。アイヌが「しる
し、しるし」と何度も物問うように言うのが、名前を訊くらしいと合点して、「我等は何左衛門、かれ
は何兵衛」と教えるとその後は銘々にその名を呼んだという。
十七歳、十九歳という水主(がこ)もいたが、大方は二、三十代のこと、命に別条がないと分かると土地の女
が眼に立って仕方がなかった。女は髪を四方へゆりかぶり、後ろは首筋どおりで切り揃え、額は眉の辺
で揃えていた。あしかの皮を着物にし、肌をちらとも見せないのは、毛深いのがはずかしいからだろう
305(143)
と誰かが言った。手脚にも毛長く、眉も切れめなく生えつづき、鼻の下にひげが生えつづき、耳にかね
の輪を通して提げ、歯白く、唇に入墨をしていた。手首から手先、指までも段々に入墨していた。見て
いると男は漁猟のほかに仕事なく、安楽そうにしている。薪をとり水を汲むなどの全部の働きは女がし
ていた。
農事らしいことはせず、自然に牛蒡(ごぼう)など生えていても土地の者は食う気がない。ただ沢山な百合根を
掘って他の食物にまぜていた。松、桜のほかに見なれぬ草木や大木おびただしく、犬も多いが、猫や牛
馬は見なかった。奪いとられた穴あき銭は女たちが首にかけ、金銀は、松前から来る米や着物と換える
という。抵抗さえしなかったら、はじめにああ打擲されなかったナと皆で言い合った。米の飯が、「ゑ
びす」の大の好物らしいのが妙に可笑しかった。
男女ともに、わけて前を厳重に隠すのも可笑しかった。女は山に隠れて出産し、授乳にも決して胸乳
を露わさない。木の皮を裂いて糸にして、筬(おさ)で機(はた)を織っていた。男たちは少くも二人、多いのは四、五
人の女房をもっている。「殊の外■乱(やうらん)」と、和人の若い衆は眼をむいていた。
常の食物はみな魚類で、何を食べるにも「鱶(ふか)の油」をかけて、肴は手づかみだったという。飯は椀に
入れ撥(ばち)に似た匕(かい)で掬っていた。煮たきは囲炉裡でしていた。
所の気候は三日はざめに霞んで霧が深く、五月八日まで雪が降った。
掟も高札(こうさつ)もない。医者も坊主もいない。文字もないので、船頭が書いて見せてやると拝まれた。いっ
たい、人に逢う時は手を合わせた。そう言えば船で出逢った最初からそうだったと思い当って、「礼
儀」は正しいと見直した。坐りょうは胡坐(あぐら)だった。はじめは人も喰うかと怖れ思ったが、それどころか
306(144)
近親の死をじつに痛ましく嘆くのには感じ入った。
わずかの内にも互いに言葉を通じ合わせ、まま「日本言葉」も使っているらしいのに気づくようにな
った。衣類は「きもの」といい、日本人を「とくい」と呼び、女は「めのこ」、老人または頭立ち重立
った人物を、「おつてな」とか「おつかいほう」と呼んでいた。そう呼んでみると「おう」と返辞をし
た。剥ぎ取った日本人の衣類はそういう「位のよき者」らが着ていた。
松前へどうか送り帰してくれないかと頼むと、至極同意が早かった。いつ頃かと重ねて仕方噺で訊ね
ると、「おつてなしは月の形を丸くと半月とに囲炉裡の灰に描いて何月幾日頃と知らせ、また島の形を
描いて、手のはらを口でふうと吹いて見せたりした。風が欲しいのだなと、そこは船乗りのことで合点
も早かった。
六月のいつ時分だったか、十四人を乗せて「ふな尻」つまり国後(クナシリ)島に渡ってくれた。千里の渡(わたし)と見た。
次いで十二里ほどの渡を「後(のち)さふ」つまり納沙布(ノサツプ)岬へとり着いた。七月二日に松前よりの船着場である
「あつけし」に着船した。「奥夷」の「ゑびす共」が松前との交易のため雲集していた。長右衛門らは
択捉(エトロフ)・厚岸間を、日和(ひより)をみては櫓で漕ぐ舟で、十八日かけて渡ったらしい。厚岸には人家多く、食を求
めても量多く、第一には「詞もよほど能く通じやすく候」と、はっきり証言していたのが忘れられない。
今となって、だが、もっと胸にこたえるのは、小根占(こねうら)町の水主で利兵衛という四十歳と武左衛門とい
う三十七歳とが、アイヌの名前が覚えにくい、かりにも日本国の「御支配」と成らば呼びやすく覚えや
すいように「何助」「何蔵」と「お国」の名に替えたが便宜だと言い出すと、揖取三五郎が、それは便
宜という以上の「御恩」になろうと言葉を添えたのでみな「同心」した、という一条だった。
307(145))
寛政十年七月、最上徳内が近藤重蔵と図(はか)って樹てた「大日本恵登呂府」の標柱には、両名に「従者下
野源助」を加えて、ほかに「孝助」「弟助」「唐助」「阿部助」「只助」といった名前が十二も列記し
てあったのが、日本人の小者かとばかり思っていたら、たぶん「善助」「金平」の二人を除くほかは、
全部雇い人足のアイヌの呼名だった。
かつて、徳内氏にアイヌの日本通名に就て感想を問うたことがない。徳内氏もやはり「御恩」と思っ
てなどいたろうか。私はなんだか心もとなくなって、船室で、毛布を顔まで引きあげざま、ウーンと鈍
く唸(うな)ってしまった。
大隅の者──らは、八月二十三日に松前藩から派遣の「あつけしの奉行今井半太夫」の手厚い介抱を
うけ、同年二十九日松前船に乗り移ると、まず「南西をさし一順風に昼夜五日」で奥州の大畑という所
しゆつせA
へ着けた。一昼夜を日和(ひより)待ちしていったん津軽の「みむまや」へ着け、九月二十日出船、その日のう
ちに汐の引きの早い「七里の切戸」を大事に渡して、目的の松前城下に着船。町奉行高橋浅右衛門以下
の念の入った事情聴取に応じたあと、便船をえてまた対岸の津軽領へ、その後は陸路をともかく江戸へ、
と正式に道中切手に代る「書付」も下付されたのが、九月二十八日だった。
辰(正徳二年)十月十一日に松前をたつ便船二艘に分乗し、翌朝「青盛」に渡るまでには松前領と蝦
夷地ないし「ゑぞ」について、一同、相当の見聞をえた由が記録されているが、松前藩のことでいえば、
かんじ
諸事に□が固くまた□留めもしばしばされたこと、物産すこぶる豊富な印象をもったことに尽きるし、
概して東蝦夷地は広大な難所つづきとの証言に尽きていた。それでも「道を作り候ばば右の難所も中々
箱根より心安く通り候様にも」なるはず、元気な者は陸つづきに歩行(かち)で山道を越えて行くそうだとも、
308(146)
徳内より七十年以上も前に話し、結局アイヌについては、「惣じて人の心もすなほに御座候」と要約し
ていた。これは、印象的だった。
漂民の耳目にも、松前の取沙汰にも赤人(ロシア人)の影はさしていない。彼らの船が嵐に帆柱を折
られ楫(かじ)を裂かれて、黒潮の力で択捉(エトロフ)島まで流れ寄って行ったという正徳元年(一七一一)には、ロシア
の一等大尉イワン・コズレーフスキイが漸(や)ッとカムチャツカから数えて千島の第一島シュムシュ、第二
島パラムシルに渡っていた。ピョートル一世は、わずかに「マトマイとアポン国」へ航行可能との報告
を受けていたにすぎない。ところが山□鉄五郎ら幕府の蝦夷地見分後がはじめて国後(クナシリ)島に渡った天明五
年(一七八五)には、ラッコ島(得撫(ウルップ)島)へはしばしば、日本により近い隣りの択捉島へすらも、もはや
赤人(フーレシサム)は渡って来つつあると聞かされた。
山□鉄五郎、青島俊蔵らは赤人事情を探索に遣(や)った酋長ツキノエの復命を待たず、厚岸に下役大石逸
平と竿取徳内を置いて松前へ引揚げていたが、ソウヤからシレトコ岬を経て来た普請役佐藤玄六郎は、
厚岸乙名(おとなの)イコトイがもたらした新情報に応じて、すぐ逸平を、ノッカマプに移動して江戸役人を待っ
ているというツキノエのもとへ走らせた。逸平は同行を逸(はや)る奴(やつこ)サンの徳内をおさえて、佐藤さんをすこ
しも早く無事に松前へお送りせよと命じた。
「通辞は……要りませんか」
「要らないよ。熊次郎が言ったとおりだ、なまじ有るより無いほうが、双方で熱心にものを考えるさ」
「そう思う」と、佐藤玄六郎の一言が、イヤにはっきりしていた。
「それに」と、大石は佐藤の顔を見て言った。
309(147)
「それに…ここのあの乙名(おとな)からは、まだ聞き出していただくことが、ある、と思います」
「左様、……」
「徳内が、その時はお役に立ちましょう。この男……よくやりました」
徳内は、逸平の思いがけないとりなしに佐藤の前で首をすくめた。玄六郎は黙って頷いていた。
イコトイがあてがった屈強のアイヌ二人を案内に、駆け出すように大石逸平が出かけると、松前へ船
の便を待つまを惜しんで、佐藤玄六郎は当アツケシ場所の大概につき自身の眼と脚とで精力的に新たに
調べはじめた。随(つ)いて歩いて、徳内は御普請役なる人の調査が、どんなに要領を得てまた辛辣なものか
を実地に学んだ。記憶力は、頼っていると逆に衰えてしまう。要所で要点を書留めておけばこそ、物覚
えは強くも正しくもなる。□でそういちいち教えはしないが、たしかに玄六郎の私の荷物は、大方がそ
のような「覚(おぼえ)」の帖面などであるらしく、肌身を放さない矢立ての筆一本の長さや太さにすら、体験の
にじんだ工夫がいろいろ見受けられた。
佐藤は□数は多くない。生来の無□というのでなく、徳内の見たところ、この人は眼でものを訊くの
が巧かった。巧いというより毅(つよ)いのかも知れない。相手は、言葉で訊かれない前に、もう説明したり返
事したりし始めていた。徳内自身もずいぶん多くを佐藤に告げた。松前から道中のこと、難所のこと、
案内者や通辞や、彼らとの間で起きた沢山な悶着に就てもあらましを話し、自分なりに考えたり困った
りしたことも、いつとなく遠慮もなく話してしまっていた。佐藤と、そうして話すのが心嬉しく、胸の
内がずんずん軽くなった。そう仕向けるのも普請役もちまえの話術というものなのか……。
松前より厚岸へ、道法およそ何里何丁あったか。当番所の出荷物が、品目と高にして何千何百石目位
310(148)
か。運上屋の他に飛騨屋の手の者や、藩の上乗役が使っている旅館、番屋、蔵が幾棟あるか。その規模
や場処は分かっているのか。御用船、通行船、図合船(ずあいぶね)などが何艘ぐらいあるか。アイヌの家数と、男女
の人数は掴めているか。飛騨屋の支配人、通辞、帳役、番人等の内訳は調べたか。地勢は、地名は、陸
路は、海路は、風向きは、衣食は、特産はと、際限がないようでいて、どの一つを欠いても見分の御役
は勤まらないのに徳内は驚き呆れた。
山□鉄五郎が手分けをして調べさせたことを、佐藤玄六郎は及ぶ限り自分一人ででもしてのける。こ
のようにして御普請役は諸国へ派遣され、風体も、商人や百姓や時に毛坊主じみてさえ装いながら、克
明に御用の筋を調べ上げていってその結果を勘定奉行まで届け出るらしい、要求があれば建策もするら
しかった。徳内は、「腕次第」の働きの実例を、山口や佐藤の御役に立ちようからはっきり学び知った。
佐藤丈六郎は相変らず朝夕に真剣を振ってアイヌらに眼をみはらせていたが、「侍」の道が剣だけにあ
る時世でないことも、身を以て丈六郎は教えていた。
あれほど松前の者がうるさがっていた当場所の乙名、「奸譎(かんきつ)無類」のイコトイが、佐藤を信頼して、
と言うより惚れこんで再々話しに来た。そんな時徳内が、二人の間をつとめて斡旋しながら、イコトイ
の話を片仮名のアイヌ語と日本語で何とか対訳しようと、一心に試みたのが、翌る年二月、勘定奉行松
本の手をへて老中田沼候へ長々差出した佐藤玄六郎報告書の一部分に挿入された。
「一つ、私(玄六郎)此度、西蝦夷地より東蝦夷地へ経廻(へめぐ)って、その道中の各所で、かの赤人に関する
風聞なり松前の致し方を聞き集めて参りました。おおかたは前条に申上げましたが、なかでもノッカマ
プの酋長でシヨンコという名の蝦夷は、年により赤人はエトロフ島までも渡って来て居ると申します。
311(149)
これに就て、アツケシの酋長イコトイが、私の止宿しておりました小屋を夜分に密に尋ねて参りまして、
左の様なことを聞かせてくれました。」
ざっと佐藤がこう前書きをしたあと、「左の通申聞候(まうしきけさふらふ)」以下が徳内苦心の訳に拠る。日本語は片
仮名のわきに朱書してあるのだが、『蝦夷地一件』より便宜に少々書き写した体(てい)に言うと、
タンツクオロハ「当秋より」エントカムイニシバ「江戸御役人」フウレイシヤムコト「赤人の事」
ウナラアンチキ「尋有レ之(タヅネコレアリ)候ヘドモ」マトマエニシバ「松前役人」ウンジャウタシイシヤム「運上屋
のもの」イタクムエホツバ「申付置候は」エンドフニシバニ「江戸の衆に」フウレイシイシヤムコト
「赤人の事」イテキィタク「申すまじく」イタクヲツタ「申侯においては」リクツツエハツチリ「首
を伐り殺し」ベンサイシヨモアルキ「(交易の)船をも不二差遣一(サシツカハサジ)と申し」シノイラシンカイニ「至(イタツ)て
叱り候故」タネバクシヨモイタク「今迄不二申聞一」……(略)
体裁、内容とも前代未聞の報告書ではなかろうか、対訳のこの文章はもっと長いが、以下分かりょく
日本語の意味だけとって読むと、「赤人は毎年ウルップ島まで来ています。美しい絹や錦の類、美しい
さらさや木綿の類、薬種その他数々を持ちこんで商っています。去年などは年越えにこの夏までも滞留
していました。私(イコトイ)はこの夏ウルップ島へ出向いて赤人と出会い、錦類を米ととり替え持ち
帰ったところですが、前以て、今年は江戸の見分衆に見られては宜敷くない、その種の商いは無用にせ
よと運上屋へ呼ばれて、飛騨屋支配人や通辞、松前藩の侍らに□々に言い付けられていたものですから、
312(150)
家に隠してあるのです、私の母が持っていますが、錦は、至って美しゅうございます」といったことに
なる──。
三
夜前の大シケにより、金華山沖で石巻市ほかのマグロ漁船二艘が遭難したと、無表情な中年のアナウ
ンサーが、朝のテレビニュースを読んでいた。信じにくいくらい、大風一過、よく磨いた鏡のような静
かな海原だ。東京へ私をはこぶ釧路から直行便のフェリー「まりも」は、ちょうど宮城県南部、いわき
市に近い塩屋崎沖を通過している時刻だった。
枕もとを見ると、半醒半酔の間にも、私は、燻製の鯡(にしん)や鱈(たら)や小粒のチョコレートを肴にどうやら瓶の
蓋でウィスキーを何度か呑んでいたらしい。そのくせ眼が醒めた今、はっきりと食欲がある。牛乳出汁(だし)
のあの「牧場の宿」の珍らかな石狩鍋の鮭を、楊子(ヤンジア)はうまく煮てくれた……。標津(シベツ)の店では、紅身(あかみ)の鱒
をあっさりした油ッ気で、食べやすく焼いて出してくれた。白身のさしみもたっぷり出た。楊子はかな
り熱燗の酒を上手に右手の盃に酌(つ)いだ。酌ぎ返すと、すなおに受けて唇(くち)をつける。出逢いを出逢いとし
で悦び、別れも別れとして手を振って振って味い尽くす、そんな一途(ひたすら)なところが楊子にはあった──。
最北の宗谷(ソウヤ)岬や稚内(ワツカナイ)市どころか、利尻(リジリ)島、礼文(レブン)島へも渡ると言っていた。阿寒湖畔などには観光客
相手のアイヌ族の村があると聞いているが、
「見ません……」
313(151)
と、楊子の物言いはきっぱりしていた。大阪へは、たしか七月五日に帰る、と……みンな夢、ではなか
ったのか。「ヤンジァ」でも「よう子さん」でもない、やっぱりあれはいたずらなあの「法子(ノコ)」が、ま
た仮の姿で父親(おやじ)の私をまどわした積りか知れない、それでも、私は……嬉しいが──。
展望の利いた晴れやかな船の食堂の朝は、ゆうべと打って変わって客の顔が多かった。二杯めの珈琲
にたっぷりミルクを垂らしながら、あの時「牧場の宿」の伝票で咄嗟に憶えた、楊子の、大阪府守□市
での住所を手帖に書き留めておこう、と思いついた。そう思うと、今までそうしなかったのが大変な手
落ちだった気がして、今にも忘れてしまったなら終いじゃないか、たしかに覚えているのかと狼狽も半
分爪はじきして自分を咎めた。咎めながら、儚(はかな)いと思った。住所姓名はおろかあの人がそもそも、濃い
ため息のような私の根の喪失感が空に描いた、影かも知れない……のに。急に徳内氏(さん)に逢いたくなった。
広い甲板の一階上に高い甲板があった。煙突(というのが正しいのか、どうか)は白と赤との太い横縞
だった。黄色や青のベンチが真中に並べてあり、欄干(てすり)のきわに、海へ向いて赤や緑の茶色の椅子が固定
してあった。舐(な)めたように海は凪いで、深い青空を、広大な帯になって綿雲が真白う斜めに飛んでいた。
右手に高山が細く細く雲をまとって横たわり、伸びている。こうも陸地を遠く離れて航海はするもの
か。玄六郎らの神通丸はどの辺に潮路を求めたか、それにしても毎度思うことだが、波間を分けて進み
動きつつ方角を、島や山を、どこのどれと見定めるのはほんとうに並大抵の経験でできることではない。
天候も風向きもお構いなしの現代の汽船に乗っていても、現実に陸地がなまじ見えてはいて遠く遠くつ
い見え隠れするなど、やはり気もちのいいものでない。
松前から厚岸へ、厚岸からノッカマプや国後島へ、書いたものを読んでいて、つい惑わされるのは懸
314(152)
かる日数のべらぼうな点(こと)だった。日和待ち、風待ちに、航海以上の日数を否も応もなしに取られていた
こと、ひいては湊々、泊(とまり)々でのじりじりする待ち焦りだの、逆にそれが楽しみだの、のことが、単調(せっかち)に、
すぐ往ってすぐ帰れると思っている、思いこんでいる現代人には一等理解が届きかねた。昔の航海は、
所詮、間が抜けざるをえなかった──のだ。
ほとほと寝飽きていても、結局、船室に五体をのばして物を思うのが、やはり便宜だった。
自席の壁ぎわへ不用の箱枕を四っ積んで背凭(せもた)れにし、なげ出した脚に毛布をかけてから眼を閉じる、
と、なにかの掌に乗せて運ばれるぐあいに、通いなれた「部屋」へ、私の歩みは速い。
──相済みません。いつも勝手な時にお呼び立てして。
──ナニ……
と、徳内氏(さん)は平常心で。
──逸平さんの報告は……
──松前で聞きました。佐藤さんは入れ違いに上府…、江戸へ、神通丸で発(た)たれてた。但しツキノエ
と逸平さんとの会見は、赤人の動静に就てだけで、なく。それよりも……
じきそ
──それよりも讒訴(ざんそ)。……直訴でしたか松前藩や、飛騨屋の行状の。
──そうなンだ。厚岸のイコトイと、その辺もツキノエは肚(はら)を合わしていた。赤人南下の件なら、イ
コトイが佐藤さんやわしに話したのと違いはない。逸平さんも、必ずしも赤人のことがめあてでノッカ
マプヘ走ったわけじゃなかったンだよ、あとで聞くと。
315(153)
──イコトイらは、佐藤玄六郎や徳内先生に頼みこんでますね、どうか「たばこ等作り度(たく)候間、種子(たね)
を渡し、作様(つくりやう)ををしへ」ていただきたいと。米が、松前藩の御法度(ごはっと)なら、せめて、たばこ…ですか。
──御公儀に左様願い出てみよう、折角尽力しようとそれには返事をしたわけさ。拝まれたね。何度
も。そしてネ、今後年々に江戸の船を廻してくれるなら、アイヌの一統は挙げて歓び精も出して、もゥ
何だって、申付けしだいに産物を差出しますつもりと、それァ何遍も言う……
──寛政元年のアイヌ蹶起のあと、事実上乱を自力でおし鎮めた酋長らが、十二人でしたか松前へ行
きますネ揃って。その折に絵描きの蠣崎波響(かきざきはきよう)が「御味方蝦夷」だといって十二人のなかなか力の入った
肖像画を描いた。あの中に、イコトイの凄い絵がありましょう。矢をつがえた半月を下向きにひきしぼ
り、一筋は□に銜(くわ)え、二筋は背負い、弓手(ゆんで)にもう二筋の矢を掴みこんで。眼はランランと獲物を射すく
めて。あんな……でしたか、まるで大きな山のような。
──なにしろ、六尺はある大男だった。が、細心で。アツケシはだいぶ松前に近いぶん、クナシリ島
のツキノエなンかより万事に算盤珠をはじく音が高かった。本気で百年先のことを案じているのかと思
うと、三十と三十一の違いにもこだわったりする。彼奴(あやつ)のお蔭で、わしはずいぶんいろんな身動きを助
けられたがネ、肚(はら)は、見抜けなかった。天明のあの時だって、要するに松前よりは江戸と親しく組んだ
方が……
──トクだと……
──いやトクはトクでいいのさ。ソンをするよりは。アイヌは大概ソンばかり強いられていたンだか
ら。ただイコトイの場合、アイヌやアツケシのための利か、当人だけの利か……分かりにくい。
316(154)
──例の肖像画でいうと矢を、二の矢も三の矢も、幾筋も握っている、わけですね。
──まア、そンなぐあいだった。もっとも我々にしても同じだったがね。トクを探して、血眼だった。
──翌る年二月に佐藤玄六郎が、公儀、というより老中田沼意次(おきつぐ)にほぼ直々に詳しい報告書を出した、
それが現在(いま)も遺ってましてね。要点は、一つ、蝦夷地の交易や赤人、山丹人らに就て従来松前藩ないし
飛騨屋らが幕府に報告または答弁してきたことには、事実に反したところが多く、国是にもとる大事も
まま見受けられるといった、きつい攻撃。これは、暗に蝦夷上地、つまり幕府の直轄を勧めています。
また一つは、オロシァとの交易はさほどトクにならないと言ってます。それより蝦夷地を幕府の手で
開拓するのが国益に叶うと。やはり、的は無能無策の松前藩に絞っている。
次に一つ、西蝦夷地、つまり北方のソウヤからカラフト島へも渡ってみた、東はクナシリまで渡った、
けれど松前藩の執拗な妨害もあり、季節的にも十分な見分が不可能となった以上、断然、もう一年見分
を延長し続行する気でいますと、見分隊が現地を動かない。あまつさえ一部はソウヤで寒気試みのため
越冬という強硬策を、既成事実化しています。必ず江戸の承認がとれるという情勢判断をしており、事
実、勘定奉行松本秀持が当然その気でいたわけですね。で、事のついでにアイヌとの交易を、飛騨屋と
苫(とま)屋とで折半でなく、次年度はソウヤ以下四場所の飛騨屋の権益を完全に排除し、一手に苫屋に請負わ
せるべきだという、……ま、それだけ飛騨屋の弱みもつかんだ献策をしています。当然この点も松本、
佐藤の間で既成事実化がはかられていた。……そうナンでしょうね。)
──エトロフはともあれ、ウルップ島には確かにオロシァの勢力が南下していること。蝦夷地開拓の
基(もと)となる耕地面積や収穫の見込み、産物、また現地人であるアイヌの性情なり生活なりに就ても、佐藤
317(155)
さんはちゃんと報告をしたと思うね。のちに庵原(いはら)(弥六)さんも含む五普請役で『蝦夷拾遺』という、
もはや政変で誰も受け手のない幻の報告書が纏まった、ほぼその要点を、佐藤さんは勘定奉行にこまか
く伝えていたはずです。わざわざそのために、皆川(沖右衛門)さんが江戸へ帰る予定だったのを、急
遽佐藤さんが交替した。皆川さんは、終始松前額にとどまっていたお人だからね。
──松前で、何を……
──箱館、江差という松前以上の湊のことを、皆川さんはあれで我々の留守中、克明に調べてくれて
いた。のちに箱館奉行が出来るための手続き上の地固めというか、叩き台は、本当(じつ)はあの人が造ってい
た。
──のに、それも……田沼落としの政変で、活かせなかったンですね。
──……ま、そうだ。
──厚岸から松前まで、佐藤玄六郎とは……船で。
──いい船の便が無くてね。イコトイに頼んでも、アイヌのあの筵(むしろ)旗一枚が帆の押舟じゃァね。で、
ぎりぎり陸地に沿うてクスリ(釧路)まで行って、佐藤さんも通辞の熊次郎に会って礼を言った。シラ
ヌカの支配人には、今すこしマシな船で、それだってビクビクものだったが、エリモ岬沖を渡って、シ
ャマニの運上屋まで送ってもらうことが出来た。……だけど、あんた。そんなこた、みンな済んだこッ
て、どゥてこた無いハナシさ。大事ななァ……
──そうでしたね。一等大事な……そう、一等……は、とうとう根負け、寄切られた恰好で、老中田
沼が白河藩主松平定信を溜問詰(たまりのまづめ)に挙げたこと……
318(156)
──と、思うね。あとあとの成行きでみてね。
──成行きしだいで将軍にもなれる家柄でしたネ定信は。名望もあった。お父さんが八代吉宗の第二
子、万葉ぶりの歌人としても知られた田安宗武。尾張、紀伊、水戸の御三家につぐ三卿の家柄では、一
橋(ひとつばし)、清水に超えた随一の……。なのに、表向き将軍家の意向で奥州白河の松平(久松)定邦の養子に、
定信は出されちゃった。可能性十分だった田安家の跡すら取れず、むろん将軍就位なンかは絶望、とい
う所の、ただの小藩主におい遣られちゃった。
──田沼侯の差金(さしがね)と、あの白河様は一途(いちず)に思いこまれた。ムリもないが……
──それだけアレですね、正面切って幕閣登用を願い出られちゃァ、田沼も、ムゲには退けにくかっ
た……腹の中じゃ意次(おきつぐ)を憎んで憎んで刺し違えてもいいとまで思いつめながら、清廉(せいれん)が売物の定信が、
まるで賄(まいな)い日参の膝詰談判でかちとった溜間詰。……閣老ではないが、幕政の内側にいて器量しだいで
参与もできる、影響力を行使できるッて場所ですからね。
──御三家、井伊家、ほかに高松侯ら親藩の内の御大家があそこには、揃うンです。老中待遇という
か……むしろ、老中になると溜間にも席があてがわれるといった地位(とこ)だから。
──よくよく考え抜いた上の妥協人事だったのでしょうが。これで結局、田沼負け。失脚のお膳立て
を、意次は、自分で用意しましたね。
──何もかも政策の方は手づまりで。はだに田沼侯ほどの人がいないから、悪評という悪評は一身に
浴びていた。袋叩きにして蹴殺しても飽き足りないくらいに定信公はじめ名門、譜代の大名衆は、成上
がり能吏の田沼侯を憎んでいた。その上に……世間が、もうもう不可(いけな)かったンだよ、田沼の政治にやみ
319(157)
くもに音をあげていた。
──定信の人事が天明五年(一七八五)の、十二月一日ですか。ま、この結果がどう出るか、これに
はもう少々の時日が残された。その残された僅かな間(うち)に、もう一つ、大事な画策が田沼一党の手でなさ
れて行った。……これは必死、だったンでしょうね。
──いや、……成算が持てたかどうか。ともかく……
──ともかく、やろうという……。そいつが大問題(おおごと)……
──浅草の弾左衛門に働きかけて、彼の手下(てか)の穢多(ゑた)や非人(ひにん)を、蝦夷地へ送りこもうという……
──単刀直入……誰の発案でした。
──わしだ。……少くも、□火を切った。
──……いつ。……成るはなしと思われたのですか。
──それァ……ガンポンチ、たァ行かなかったサ。
徳内氏、思わぬところで可笑しなことを□走った。思わず見たが、可笑しくもなげな顔つきだ。当面
の話題がむずかし過ぎる、のを、かわすともなく時を稼ぐらしい、と、流石にそんな顔色がよめるほど
は久しい付合いだった。脇へ逸れるのを承知で、だから、反問した。
──何です、その「ガンポンチぃ」というのは。
──成ると成らぬは、眼もとで知れる。けさの眼もたァ、成る眼もと……サ。
──そいつはどいつだ、ですか。ひとつ、囃(はや)しますか。
──まァま。のちのちのホラ、都々逸は。ご案内だろうが。名古屋かどこかが発祥の、文政時分には
320(158)
じまったのというが、まちッと早く東作(おやじ)なンぞも、ああいうなァよく□遊(ずさ)みにしてましてね。わしなン
ぞ得手でなし気もなかったが。一つ覚えが、ソレサ今の。成ると成らぬは眼もとで知れる、……と。
──誰の作なンです。
──知らん。が、そいつを、成(セイ)と不成(フセイ)と眼本知(ガンポンチ)、今朝服本式眼本(コンテフガンポンセイガンボン)、とやったのが、風来山人……
──源内、ですか。まさかァ・…原作があんまり都々逸すぎやしませんか。君と寝ようか、四千石と
ろか、でしたっけ。ウロ覚えだけど。なンの四千石、君(ぬし)と寝よ。大身(たいしん)のお旗本が今戸辺の遊女と心中し
て改易欠所の、あれを囃したンでしょうが、まさかあれだって、□調は、天明五年の十月、心中当時の
□ずさみなンかでは……ないンでしょ。
──どうかな。わしは、その時がちょうど佐藤さんと、松前へとりあえず帰りを急いでた途中でね。
よく知らなかったが、相手の遊女というのが、例の、……方の……
──ありえましたね。それに、心中に失敗していたら、どうせ御法度で、抱(かか)え非人の手下(てか)に廻された
わけです。
──褒めた話ではなかったが。あれくらい、また……胸にしみた事件(こと)もあの時代、無かった。分別じ
ゃあれこれ嗤(わらい)い合ったもンだがネ。相手の女が、可哀想にとびきり美い女だったそうだ。だからツてこ
とじゃないが、女に惚れるならそれツくらいな覚悟、当り前だと思ったネ。
徳内氏に、暗い顔のままじろりと私は眼を覗かれ、埒もなくあかくなりながら、あ、そうか、別れた
従妹のお縫さんのことを徳内(せんせ)い、想うて言うているのだなと分かった。
──その「君(ぬし)と寝よ」でサ。四千石の藤枝外記(げき)ってお旗本が心中したという、ちょうどその時分に、
321(159)
わしらは、道中で、この広い蝦夷地を誰が拓(ひら)くかッて例の難題のことを、またしても思いあぐねていた。
モロラン(室蘭)のさきを、噴火湾ごしにモリの湊へ一気に船でと決めた、たしか、その船の上だった
よ。佐藤さんが、ソウヤからシベツヘ案内に立てた伴(とも)のアイヌのことを頻りに良く言うわけさ。そのう
ち、何かしらンの、はずみ、だったンだ……
──□火を切ったのですね。穢多非人の桎梏(しつこく)を、この蝦夷地で解放できないかと……
そうにでもしない限り……見込みが、ないと。一方、アイヌが……いやアイヌを……穢多…なみ
にしては…
──ならないと。……見込みというのは、蝦夷地開拓の……ではなく。穢多が穢多という不当な軛(くびき)か
ら、脱け出られない、という意味……
──とにかく勘定奉行の松本秀持は、老中田沼にその、破天荒の策をはっきり文書で申し出ています
ね……天明六年、の二月六日付で。同日、佐藤玄六郎による、『蝦夷地の儀、是迄見分仕候趣申上候書
付』というのも提出されてます。両方とも、何箇条にもわたる長文です。
──むずかしい。……正しかったか……
徳内氏は上体も折れんばかり腕をぎゅッと組み、凄いほど青ざめて見えた。
四
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極月(ごくげつ)を迎えた天明五年(一七八五)のその朔日(ついたち)に、老中田沼主殿頭意次(とのものかみおきつぐ)は、奥州白河藩の藩主松平定
信を、江戸城溜間詰(たまりのまづめ)にとうとう挙げた。なンとしてでも、擡(もた)げる頭は抑えつけてやって行ける思いが、
意地が、六十七歳の意次にまだ残っていた。
将軍家治の支持は身に篤い。名門田安家の定信を奥州の小藩に養子として遠退け、家治を襲ぐものと
しては一橋治済(はるずみ)の子豊千代(のち家斉(いえなり))を迎え取ったのも、意次の「心願」だった。御側衆はもとより、
大老井伊直幸(なおひで)ほか閣老の大方は彼の頤使(いし)に甘んじていた。大奥を牛耳る老女大崎らも日ごろ手当てのい
い田沼の、少くも敵ではなかった。蘭癖の外様(とざま)ながら、島津重豪(しげひで)ほどの大大名も熱心な田沼党だ。老中
職をめざす越中守定信の執念もきっと挫(くじ)いてみせよう、表むき、それほど自信の溜間詰人事だった。
越中定信は、早くから「盗賊同前の主殿頭(とのものかみ)」に憎しみは深かった。しかもその田沼を、乏しいなかか
ら日々に金品をたずさえ邸へ見舞って来た。「誠に多欲の越中守」とあしらわれても、徹して追従(ついしよう)した。
ひたすら幕閣へ手がかりを求めた、執心執着の策略(てだて)だった。
その一方で定信は数多い「信友」を身辺に語らい寄せていた。本多恵籌(ただかず)(陸奥泉)、本多忠可(ただよし)(播磨山
崎)、戸田正氏(美濃大垣)、奥平昌男(まさとき)(豊前中津)、堀田正穀(まさよし)(近江宮川)、松平信亨(のぶつら)(出羽上ノ山)、さ
らには松平信道(伊勢亀山)、松平信明(のぶあきら)(三河吉田)、加納久周(ひさちか)(伊勢八田)、牧野忠精(ただきよ)(越後長岡)、牧
野宣成(のぶしげ)(丹後田辺)、松平定奉(さだとも)(伊予今治)、有馬誉純(しげすみ)(越前丸岡)、松平忠告(ただつぐ)(摂津尼崎)ら譜代数万石
の、文字どおり小大名たちは、活躍の場を望んで翕然(きゆうぜん)として俊英定信の支持に集った。幕閣を成すべ
きは親藩と譜代という積年正統の自負が、氏素姓も知れぬ用人田沼の久しい執柄(しっぺい)を憎悪すること、「誠
に敵(かたき)とも何とも」表現の仕様もない烈しさだった。陰に籠もった三家・三卿の反感も、その背後(うしろ)には有
323(161)
った。
「田沼意次の生涯」を書いた江上昭彦著の『悪名の論理』では、老境の田沼がさらに老中職を退く気配
なく、世評もいっこうに意に介した様子(ふう)がなく「かえって心を励まして、至難な局面に立ちむかう」土
性骨の太さについて「なんとも驚きいった強靭な性格」としてある。が、意次とてもとてつもない賭け
に、出てはいた。蝦夷地見分の報告を待ちかねて「広太な処女地を開拓」すべく、江上氏の表現を借用
すれば、「破天荒な計画」に願いを寄せていたのである。
巳歳(みのとし)十二月三日、松平定信の溜間詰発令から二日後のことになる。勝手方勘定奉行の松本伊豆守秀持
は(委細は田沼と密々に膝づめで。但し、型どおりに別に)「蝦夷地為二見分一差遣(さしつかはし)候御普請役共より申越
候趣等申上候書付」を、茶坊主の手を経て老中に呈出した。「申越候趣」とは、ソウヤで越冬中の庵原(いはら)
弥六をのぞく山□鉄五郎以下四人の普請役が、松前城下に鳩首協議して調えてきた報告と、それを御用
船神通丸ともども江戸へ携(たずさ)え帰って来た佐藤玄六郎口頭の報告と、両方の「趣」に違いなく、呈出され
た「書付」は摘要というにも当たらぬくらい簡略だった。「御直(おんぢきぢき)委細□上」の方に「破天荒な計画」
などは秘めたのは、この師走三日以降、翌る六年午歳(うまのとし)の二月まで、もっぱら佐藤玄六郎隠密々の奔走
により、難儀な或る根まわしが必要だったから──だ。
時候に阻まれ東西蝦夷地とも見分が不十分に終ったので、「猶又来春」へ見分を続行したいという山
□らの一致した意向を、勘定奉行の松本は好便に受容れた。失態ともとれる「蝦夷地一体の交易方等取
調の儀は、来年に至(いたり)、彼処へ再渡仕(つかまつり)候上ならでは難二相分一旨(あひわかりがたきむね)」を、この度び江戸へ戻りました御普
請役の一人が申し出ておりますので、といった松本の「書付」には、むしろ、してやったりの意気が感
324(162)
じとれる。
秋咲(鮭)、魚油などを積んだ神通丸および自在丸が、上乗(うわのり)の佐藤玄六郎ともども品川表へ「入津」
したのは、請負方の苫屋の届書に拠っても、十二月二日にちがいなかった。余の一切を措(お)いて翌る三日
早々に松本が田沼と面談しているのは、書面の報告など後刻でよいと、待ったなしの催促がかかったか
らだ。積荷や船の扱いは苫屋や配下の金沢安太郎に預け、奉行松本は、役宅に待機させていた佐藤とと
もかくも夜を徹してこまごまと今後を策した。そして夜明けを待って大手外(そと)の田沼邸を訪れている。
報告の要点は、(一)見分は不十分ゆえ、明年も続行したい、(二)長崎へ送る俵物の買付は成功している、
(三)苫屋が代行の御試交易も順調だったが、明年は飛騨屋との折半をやめ、苫屋の一手引受けとすれば利
益はさらに大きくなる、(四)飛騨屋を退けるに足る不届きの条々は明白である、(五)松前藩の蝦夷地不取締
りは眼に余り、「蝦夷人気請(きうけ)も不レ宜(よろしからず)」加えて公儀へ従来の報告や証言に多くの虚偽が見られる、一方、
(六)赤人による緊急の危害はなく、また長崎をさしおき蝦夷地に開港して通商をはかるほどの利点も現状
見当たらない、それより、(七)百万町歩もの「新田畑開発」が可能な、また五百八十万石を越す収穫の見
込める蝦夷地を幕府の直轄とし、開拓を急ぐに若(し)くはない、といったところで、オロシァ南下の不安が
うすらいでいる半面、彼と交易の利益を当座の用に見込めそうにないのが、金詰まりの意次(おきつぐ)の□を苦笑
いで歪めた。
佐藤の話だと東蝦夷地のアツケシ、キイタップ、クナシリ島は「赤人の通路口」に当たり、西蝦夷地
ソウヤは「唐(カラ)フト島への渡口」に当たっているが、いずれの地点も全蝦夷地の「凡半(およそはん)」途(と)に位置して
いて、先々へなお「広太(こうだい)」な地域がつづくという。松前志摩守は奥地へ家来を派遣したことがない。地
325(163)
理を調べようともしていない。あまつさえ右の国境ともいえる重要な四場所を、「請負の町人に任せ」
て顧ない。畏れながら領知の法を放棄して来たにひとしく、いずれ外国の干渉に対しても不用心の極み
でございますと、挙(こぞ)って普請役らは松前藩の無策を指揮していた。彼らは来春の再度見分を当然の仕儀
として松前に居坐り、それも今年とはちがい様子も「大概相知」れたことだから、志摩守家来に案内さ
せるなど「入用(いりよう)も相掛り、無益の儀」と言い切って、その由も含めどうか松前藩へ談判していただきた
いとまで願い出ていた。
松前藩へは、見分と交易を翌天明六年にも継続する旨、前年中に「差急(さしいそぎ)」勘定奉行より通達された
が、その翌る正月廿一日に普請役の山□鉄五郎、青島俊蔵が連名で江戸の勘定組頭金沢安太郎に宛てた
報せでは、藩は、通辞のほか附添役人と医師各一人を何としても同行させたいと頑張っている。
もし、さきざき御用弁に障ることなどあれば、途中で松前へ追い返すが承知かと押戻すのですが、
「委細承知」と藩重職はひたすら頭(ず)を低くして、なにぶん主人志摩守の公儀に対する勤め向きにこれは
拘(かか)わることと申します。致し方なく此の度は侍分の米田勘右衛門と医師石塚文清を連れ、「当(正月)
廿六日頃」とり急ぎ東蝦夷地へむけ、陸路、山□と下役大塚小市郎とで出立の予定です。青島は「俵物
方一件残御用」があり、暫く松前に残留します──。
この組頭金沢あて松前から飛脚を差立てたちょうど前日正月二十日に青島俊蔵の竿取徳内は、あとへ
続く山□ら一行の先触(さきぶれ)として単独(ひとり)雪の松前城下を発ち、アツケシをめざしていた。そして江戸詰の松前
志摩守家来より金沢安太郎の手へ、先の飛脚便の届いたのが三月一日のこと、これに前後して徳内もア
ツケシ場所に到着すると、休むまなく、総乙名イコトイらアイヌの援助でクナシリ島へ先渡りの船を押
326(164)
し出した。徳内は怜悧なアイヌのフリウエン少年を十勝場所で、下僕としてすでに雇っていた──。
三月七日に山□鉄五郎らもアツケシに着いた。そして翌八日の巳之刻(午前十時)には、こちらは江
戸の御用船神通丸が荷物を積み終え、再度の御試交易のため品川の湊を出帆していた。沖船頭の太兵衛
以下水主(かこ)、炊(かしぎ)とも拾六人が乗り組んだ。普請役の関□平左衛門の名で入念な船中定書(さだめがき)、荷物送状など
が発行された。
松前ではこの五日後の三月十二日に、普請役雇の大石逸平が此度は方角を変え、今年のカラフト島先
渡りの大役を負うて単独ソウヤヘ出発した。ソウヤでは庵原(いはら)弥六、下役引佐新兵衛、同鈴木清七その他
松前藩士柴田文蔵、同下役工藤忠左衛門らが寒気試みのため越冬中のはずだった。が、彼らは二月に入
ってみな予想外の脹(は)れる病に罹(かか)りはじめ、アイヌを頼んで危急を松前に告げていた。その間にも病状は
募って、三月二日には松前藩足軽の一人が先ず死亡し、次いで七日に通辞長右衛門が死亡し、十五日に
至り幕府普請役の庵原弥六自身が、幕吏として初のカラフト渡島を果たした不朽の名と倶(とも)に惜しい死を
遂げていた。なおも二十一日に工藤が、二十八日には柴田文蔵も、死んだ。極度の栄養失調死だった。
ソウヤの窮境を、漸く三月末に知った幕府方皆川沖右衛門と青島俊蔵は松前藩に救急策を求め、とり
あえず藩は足軽の代人に田村某をソウヤヘ向かわせた。庵原ら五人が死んでいるとも、下役の引佐や鈴
木が瀕死(あぶない)とも誰もまだ松前では、知らなかった。まして三月中にクナシリ島へ渡って、さらにエトロフ
をめざしていた最上徳内や、その徳内に庵原らの寒気試みが気にかかると洩らしていた江戸の佐藤玄六
郎は、そんなソウヤの惨状などを知る由もなかった。
佐藤玄六郎は、──容易に、江戸を離れられなかった。佐藤がようやく青森の宿から津軽の飛脚便に
327(165)
託して、松前へ帰任すべくここで日和(ひより)待ちをしていると江戸表へ報せた日付が、稀覯(きこう)の『蝦夷地一件』
によって同年のもはや五月七日のことだったと分かる。翌五月八日には沖船頭太兵衛らの御用船神通丸
が、品川いらい二ヶ月めに松前湊に着船したとも分かる。その時分には千島へ先渡りの最上徳内氏は縦
横の働きぶりで、もう、未曾有のエトロフ渡島に成功し、シャルシャムでオロシァ人三人との小説より
も奇な出逢いを果たしていた、ためらわずその徳内氏の活躍をどんどん書けばいいようなものだが、
──だが、どうあっても此処で、この歴史的な岐路にさしかかって、江戸での佐藤玄六郎のことが省け
ない。後廻しにも出来ない。
とのものかみ
ともかくも天明六年二月六日に、口上を添えて松本伊豆守から直接田沼主殿頭に差上げ、重ねて十六
日には「書面伺(うかがひ)の通化レ仕旨被二仰渡一奉レ畏候(とほりつかまつるべきむねおほせわたされかしこまりたてまつりさふらふ)」との「承付(うけたまはりつき)」を付けて正式に提出しなお
した書面、即ち「蝦夷地の儀に付申上候書付」(『蝦夷地一件』二の八)に見える、かの「破天荒」の策
を、今は、文字通りに想い起こすしかない。
(前略)さてこの蝦夷本島でございますが、周延(めぐり)およそ七百里ほど。カラフトはこの本島にも劣らぬ
大きな島かと想われます。クナシリ島は周延およそ百五拾里、エトロフ島は周延およそ三首里、ウル
ツフ島は周延およそ百五拾里ほどでございますとか。まことに広太な土地でございます、のに、アイ
ヌはと申せばごく僅かが住居致しますばかりで、一体にがらん洞の有様。さきにソウヤより御普請役
庵原(いはら)弥六がカラフトヘ渡りました折も、結局飯米(はんまい)の輸送に差支えて中途で空しく帰ったと申しますの
も、一つには人手不足のためでありましたとか。何にせよ人間の数が足らずまた糧食も乏しくては、
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万事御取締りにも事欠きます道理。先すは蝦夷本島を新たな田畑にぜひ開発を急きとう存じます。
地味の様子、水利の有無、およその見積り反別(たんべつ)などに就いては、玄六郎にくわしく訊ねましたとこ
ろ、地味は至って宜敷く、最初の作付(さくつけ)では生育がむしろよすぎる位かと案じられますほどとか。用水
も、火山より流れ出ます大河や支流は数多く、勿論どの川も自然の流路をもっていて、堤防等の工事
に新規に人力を要することなく、再々水不足に悩む恐れもございません、きっと、良い田が出来ると
信じて居ります。アイヌもなかなか農作物を好みます由。但し従来の農作はと申せば、(松前)志摩
守の方でことにアイヌに厳しく禁じて参りましたらしく、畢寛(つまりは)、請負の商人どもと志摩守勝手向きと
で勘定ずく、農業はかえって漁猟ほかの商いに障るという理由(つごう)からかと想われます。もしアイヌに農
具を与え、種子物(たねもの)を渡し作り方も教えましたなら、現在のアイヌの労力でさえ、早速によほどの田畑
を新たに開いてみせると申し出て居る者もございますとか。その分も念頭に、ざっと開拓可能の広さ
を見積ってみたと、左のように普請俊一同より申立て居ります。
蝦夷本島の周延およそ七首里ほどの内
一、平均(なら)して、約、長さ百五拾里、横五拾里と換算数します、但し壱里は三拾六丁と勘定します。
と、
この面積、千百六拾六万四千町歩。
その十分の一
即ち百拾六万六千四百町歩が、新田畑開発の可能な分と見積ります。(一反に五斗の収穫と見
て、高約五百八拾三万弍千石が見込めます。本国では一反一石の収穫と見るのが普通でしょう
329(167)
が、敢えてその半作と見た右の数字でございます。)
その余の九分通りは、山、川、湖沼、磯辺など所詮開発は成らぬものと、除外。
さて以上の報告を受けまして、今さらに、また思案を重ねてみたわけでございます。と申しますの
も、こう広太な土地を、とてもアイヌの手だけで右の勘定どおりには早速開拓できようとは、思えま
せぬ──。
そこで一息入れる、というより胸に澱んで溜ったものを、私は、思わずふうと吐き出した。
窓の外は相も変わらぬすこし碧(あお)っぽい太平洋の波の上だが、陸の影もあまり遠くなく霞んで見えてい
た。あの、大和の二上山みたいなこぶこぶしたあれが、筑波山やないのかしらんと、いっこう根拠(あて)のな
い推量をするような、しないような軽い放心状態に身をまかせている──と、眼の奥にきれいに燃えた
火のかたちが小さく浮かび、また、すうッと遠退く。なぜか「蘇民将来」の四文字が、つづけざま飛ん
で来た四つの礫(つぶて)のように、字劃もくっきり想い出されたりする。楊子(ヤンジア)と……また、逢うだろうか…。毛
布をはねて見まわすと、がらんとして、船室には私独り残っていた。銚子もとうに過ぎて、野島崎沖へ
我らがフェリー「まりも」は大きくやや西にむいて進むらしく、速度がすこし緩んでいる気がする。
足踏み……か。いくら足踏みしてみたって、史実は変えようがない。ただ史実の意味するところが、
私自身、その間際にも十分掴めないでいる、それが私をためらわせた。怖かった。──松本伊豆守の
「書付」は、そのあと、こう続いている──、原文を訓み下しに咀嚼するのがまだしもか……と、また
仰向けにじっと眼を瞑(つむ)った。 ──以下下巻──
330(168)
作品の後に
小説ほど「旅」に似た創作はない。読むのもそうだが、書くのもそうである。実際に旅したこ
とを書いたり読んだりが似ているというのでは、ない。書くという行為、読むという行為が、さ
ながら「旅」に似ていると思う。説明の必要があるだろうか。
けだし「旅」にも、いろんな旅があろう。かりそめの旅、行きずりの訪れ、また周到な用意と
時日とをかけた旅行。読書にもそれがある。小説を書いて創るのにも、それがあると思う。旅に
は再訪・歴訪があり、長逗留もあれば暫く住み着いて暮らすほどの例もある。そういったことを
長編や短編小説の創作にあてがって想うことは、そう突飛な比喩ではあるまいし、読書にからめ
ていえば、やはり繰り返し訪れ読むような・読ませるような作品に出会いたいと思うことだろう。
私にもその癖があって、ある種の魚の周游するに似て、馴染んで忘れ得ない作品を周期的に繰り
返し読んできた。『源氏物語』もそうなら、『ゲド戦記』もそうだし、トルストイや唐詩選も、
漱石や鏡花も、そうなのである。
この数年、私は、気晴らしに翻訳のスパイものやミステリーの類を少なくとも二百冊ぐらい読
んできたが、どんなに気晴らしにはなっても深い喜びを得たとは言えない。読むとたちどころに
忘れてしまう。だが、たまたま古本屋で手にした例えばヘッセの『車輪の下』などを懐かしく読
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み返しはじめると、もう何ともいえず優れた文学にまた逢えた嬉しさに胸の底まで満たされ励ま
される。オースティンの『高慢と偏見』でも鴎外の『阿部一族』でもそうだった。みな何度めか
の読書であるのに、しみじみとする。そういう作品は、もう、一行から次ぎの一行へが、すばら
しい「旅」そのもののように私を魅する。そして、そういう小説が書きたいなと思う。願う。文
体と文章そのもののうねりに乗って、乗せられて、それが嬉しい楽しい面白いという作品に出会
ってみたいし、書きたい。
東工人の教室で、「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」という鈴木六林男氏のいわば世界最短の
戦争文学をとりあげ、無理を承知で、最初の「遺」の文字を虫食いに隠し、漢字一字を埋めよと
試みたことがある。戦争を知らぬ世代に「遺品」の入る望みは薄かった、が、それでも若い戦死
者の境涯を推察しえた正解者は、何人かいた。そういう学生は『阿部一族』を読むか、中身を知
っていた。だが案の定読んでいない、『阿部一族』を全く知らない学生が大方であった。そんな
彼らがどう答えるか、実は、それを私は知りたかった。いちばん多かった、圧倒的に多かったの
が「気品あり」であった。鴎外原作だからとアテて読んだ者もいたが、たいがいは「岩波文庫だ
から」と理由づけをしていた。岩波文庫の装丁や選書の姿勢に、東工人の学生のかくも大勢が
「気品」を見てとり、または感じとろうとしていたのが、印象深かった。首肯けるものがあった。
そして「品」とはいったい何なのであろうかと、古くして深い問題へ、その後何時間もかけて学
生諸君といっしょに踏み込んでみた。文学の問題でもあり、人間の問題でもあったからだ。
「気稟(きひん)の清質最も尊ぶべし」と芭蕉は有名な旅の文に書き付けている。及ばずながら座右の銘と
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し、わが価値観を統(す)べしめている。「気稟の清質」を欠いた文学も芸術も、また人も、私は好ま
ない。「気稟の清質」がもしあるなら、どんなに無頼で、どんなに世の掟に背いていようが、荒
くれていようが、逆よりも、私は「最も尊むへ」く惟(おも)うのである。
この『北の時代=最上徳内』は、こういう歴史の世界にうとい、興味のない人には、とっつき
にくいかも知れない。歴史ものは好きだといいつつ読み物=時代物に馴れている人には、かなり
骨っぽいだろう。そういう人ほど、先を急がないで、よく干した堅い干魚を焼いて噛むような気
で、ゆっくりと一行から次ぎの一行へと長い「旅」を味わう気で読んでみて欲しい。むかし、今
は亡い安田武という読み巧者が、「秦さんの文体はアヘンなんだよ、いちど嵌まってしまうと、
抜けられないんだ。ただそこへ行くまではシンドカッタ」とよく慰め励ましてくれたが、文体だ
けでなく、作品の発想や展開にも読者にシンドイめをさせる「病気」が抜けない。お付き合い下
さる方々には頭を下げるよりない。
それにしても思うのだが、この「最上徳内」氏が身をもってした「歴史」は、けっして遠い過
去完了の抜け殻なんかではなく、現在なお血をにじませ、我々に、我々の今からの二十一世紀に
重い大事な「問題」を突きつけている。その意味では徳内サンは優に一人の現代人なのである。
急がず焦らずその人の味わいに触れていただきたいと願っている。
さて、四年半になる東京工業大学「工学部(文学)教授」の日々は無事終わった。この巻をお
届けの頃は、最期の成績も提出し、教授室の掃除をしながら弥生尽の定年退官を清々しく心待ち
にしているだろう。念々死去すなわち念々新生。わが旅は、ゆっくり続いて行くだろう。
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