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子版 秦恒平・湖の本 創作32
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秦恒平 湖(うみ)の本 32 北の時代
=最上
徳内 上
目次
序章
〈北〉の時代 二章 曙光、天明初年
三章 徳内、蝦夷地へ 四章 襟裳岬で
………上巻
五章
アイヌモシリ 六章 尾岱沼(オダイトウ)
七章 徳内、択捉(エトロフ)島へ ……………中巻
八章
天明六年、暗転 終章 〈北〉の時代、今なお ……下巻
作品の後に
北の時代=最上徳内
「世界」岩波書店 昭和五十七年十月号〜昭和五十九年
二月号連載 原題「最上徳内」
序章 〈北〉の時代
一
むかし、前漢かもう後漢のころだったか、いずれその時分に、趙(ちよう)なにがしという逸人があって、生前に自身の墓を築いた。墓の内には手ずから古聖
賢四人の画像を賓位に画(えが)いて、自分の場処は余白のまま残し、そして折あれば世人を避け墓に潜んで、その時幽明の隔てなく、主客は自在に談笑して倦
(う)むことがなかったという。
超は九十余歳、やがて己(おの)が死の遠からぬを悟ると、主人の座を負うた壁へ彩管を揮(ふる)って、生けるがままの一体の自画像を画(か)いた。そし
てそれなりその墓は封じてしまった。文字にのみ伝えた史上最も夙(はや)い自画像の例として知られるが、幸いこの趙なにがしの自像墓は、何でも掘り返すの
が好きな昨今の中国でも、見つけられていない。地下に二千年、気稟(きひん)の清質最も尊ぶべく、和顔愛語(わげんあいご)の今も絶えないであろうことが
嬉しいと、この話をはじめて聞いて、私は羨ましかった。
が、かく言う私にも幼来、一の、墓ではないが似たような小部屋がある。それもいわば折り畳み自由、いつ何処へなり脳裡に蔵(しま)って持ち運びができ
る。このさい雅(が)な名前を如何様(いかよう)につけてもよいが、端的(ただ)に「部屋」と自分では呼んできた。古人多く死せるあり、理の当然ながら、
この死んだはずの古人が招けば気安く「部屋」を訪れてくれる。様態(なりふり)は客の勝手だが、今日(こんにち)の風儀に、たいがい背かない。つまり気ら
くで、互いに堅い挨拶が要らない。君ぼくでも俺お前でもないけれど、面と対(むか)って何を訊ねても、答えてもらえる。訊かれれば私も応える。趙某が寿蔵
のように、不得手に筆を用いてさながらに人がたを画く必要などない。それに気の多い私のこと、「お客」は聖人君子(えらいひと)と限らない。好きな人を好
きに招(よ)び たい。
但し識らぬ人を呼びようがない。「部屋」へ入(い)り浸(びた)りでもおれない。むろん趙さんみたいに、「またですか」と奥さんに雲隠れの苦情は言われ
ない。私の妻もなんとなく感づいているらしいが、肝腎の「部屋」へ出入りの戸口が妻の眼には見えないのだから、止めだて出来ない。
で、この数年に限っても「部屋」の客、なかなか数寡(すくな)くはなかった。ひところ後白河院(ごしらかわいん)に再々お見え願っていたし、前後して建
礼門院にもお越しいただいた。お二人ともごく話し好きで、生前こそ畏(おそ)れ多けれ、この「部屋」へ「お客」となれば至って自在なもの、遠慮がない。ご
一緒にと願えばお揃いででも見える。
また、繁々と近ごろ顔を合わしている新井白石氏は、藍大島のすっきりした着流しに汚れめのない白足袋で現われ、とみに熱心にキリスト教などを論じて行
く。
氏は、宝永六年冬に、自ら望んでローマ人宣教師シドッチを尋問している、あの折の感想や観察を私が訊きたがり、白石氏もあれに就ては『西洋紀聞』その他
に表むき書かれたのと、また調子(トーン)のちがった認識をその当時から持っておられたらしい。
シドッチの潜入意図について、万々疑念ははさみながら、だが彼を、決死の覚悟でローマからはるばる日本へ駆り立てた信心の根というものを、新井先生は心
中に否定してしまえなかった。
言えば、──際限がない。が、際限ないそのような訪客との歓談や質疑の中で、ことにこの数年、しきりに望んで交際を重ねてきた、今一段ざっくばらんな人
物がある。昔ふうに言うと身丈(みのたけ)「五尺二寸」「イロ白く鼻高く中セイ。」わけは──いろいろある。出逢いも、あった。出逢いから話すのが、順と
いうものだろう。
同姓の誼(よし)みで、かねがね私は歴史上の人物から、秦氏を名のった者ばかりを小事典ふうに書留めてきた。ためにする気ではない。読書の余禄をそんな
ふうに蓄えているだけの話、これがけっこう楽しい。
で、いつ時分だったか、征夷大将軍の坂上田村麻呂と蝦夷とについて調べているうち、名古屋尾張藩の儒者で、『一宵話』という随筆本を書いている秦鼎(は
た・かなえ)なる人物と、識る仲になった。
号滄浪(そうろう)、字(あざな)は士鉉(しげん)。ふつう「エゾ」と訓(よ)まれる蝦夷の二字を、「カイ」と読むのを興味深い持論にしていた人で、そ
れはさて措くとも、この秦さん、生涯名古屋に在りながら広く諸国に名を知られていた。と言うのも、海道を往来の騒客が名古屋に立ち寄るつど、よほど親切に
世話をする。それを徳とする中には、京都の、当時名高い頼山陽よりも秦鼎の文名は高いなどと過褒(かほう)の辞を呈する者もいたくらい評判が良かった。顔
も広かった。交友録をちょっと調べるだけで、当時知名の人物に幾らも出逢う。とりわけ「蝦夷」に絡んで見ていくと、北夷先生本多利明とか、千島探検の近藤
重蔵のような名前も出てくる。 間宮林蔵とも無縁ではなかったらしい。
さらに儲けものの同姓で、秦檍丸という、咄嵯には読めない名前の人物とも、秦鼎の引合わせで識ることができた。「あわきまろ」と訓(よ)むが、「青木
丸」とも書かれている。森銑三(せんぞう)先生のご本などでみると村上島之允(しまのじょう)とも名乗っており、人間ばなれのした健脚と、おそらく測地測
量や図画の技倆とを、はやく楽翁松平定信に認められて天明八年郷里の伊勢から出府(しゆっぷ)。以後、確かなところ寛政十年(一七九八)には、幕府による
蝦夷地巡察隊に加えられて、四月、近藤重蔵にしたがい初めて奥蝦夷(おくえぞ)国後(クナシリ)島に渡った。
島之允は、北地での測量や製地図、著述などのりっぱな仕事もしている。間宮林蔵は、ふつう伊能忠敬の弟子と私など覚えていたが、それ以前、この村上島之
允こと秦檍丸の小者(こもの)につき、蝦夷地体験を見習っていたらしい。常陸(ひたち)生まれ、弱冠二十歳のその林蔵が初めて津軽海峡を渡ったのは、寛政
十一年のこと。〈北〉の時代──、公儀による蝦夷地見分は天明四年(一七八四)の発起このかた、すでに十五年もの春秋を重ねていた。
林蔵は後に、旧師の遺著『蝦夷図説』を丁寧に増補しているが、通称島之允には他にも著述多く、「蝦夷開島郡吏
撰 秦檍麿」と自署のある『蝦夷島奇観』ほか貴重な北地資料を何点も遺してくれた。当時、松前藩士らがまともに人あしらいもしなかったというアイヌに対
し、檍丸は温かな気持を寄せていたらしく、その心がけだからまた抜群の働きも出来たのだろう、或る本に、「寛政中ヨリ松前ヘ御手(おんて)入レラレ、色々
ノ人物御撰(おんえら)ミ罷(まか)り下(くだ)リケルガ、最上徳内(もがみ・とくない)、村上島之允(檍丸)、間宮林蔵、此(この)三人ハ中ニモ格別ノ
人ト見エタリ」と、評判してあるのも読んだ。この時──最上徳内という名前に、私は、恥ずかしい話だが覚えがなかった。
「日本に稀なる大剛者(たいごうもの)の間宮──」と伊能忠敬は歎賞したそうだが、その林蔵さえ、はじめ蝦夷の、ことに食生活には馴染めなくて健康を損
じ、危いめに一度ならず遭っている。「日に六、七十里」を行ったそうな島之允こと秦檍丸も、寛政十年初度の国後(クナシリ)渡島(ととう)では脆くも病い
に負け、じつは択捉(エトロフ)渡海を恐れた仮病(けびょう)かと疑われてもいたが、上司近藤重蔵と行を倶(とも)にせず、先輩らを煩わして薬餌(やく
じ)の世話になっていた。事実、生の魚や昆布を常食し、時に茶漬代りに鯨の油をぶっかけて平然と粗飯(そはん)をかきこむくらいアイヌの暮しになじまね
ば、ことに奥蝦夷(千島、樺太)ではなかなか生きていけないのだったが、先に挙げた三人で一等早く蝦夷地探検に大功を樹て、だれよりも闊達(かったつ)に
アイヌや赤人(アカじん=ロシア人)と暮して終始ビクともしなかったのは、最上徳内ひとりだった。「浪士」島之允を神経性の不眠とでも診察したか、適当に
「甘草瀉心湯(かんぞうしゃしんとう)六七帖」も与えて介抱してやった先輩というのも、この人──幕吏として津軽海峡を渡ることその時すでに六度、多年の
功労により市谷甲良屋敷(牛込柳町)裏に七十八坪の宅地を賜っていた、普請役(ふしんやく)の最上徳内だった。
だが、私はまだそんな何一つとして知らぬまま、「徳内」などと歌舞伎芝居のまるで奴(やっこ)さんみたいな名前を、なにやら可笑しく記憶しただけだっ
た。むろんのこと、徳内がさようにいつ医術を、誰から受けたかも知る由なかった。
ところがその後、さほど深い関心からではなく平田篤胤(あつたね)の『古史徴(こしちょう)開題記』など一、二を手に入れ、序(つい)でに、彼の年譜を
調べているうち、この著名の国学者に、『傷寒論考証』という医学の著書のあるのを知った。『傷寒論』とは後漢に遡るかという紀元前後の古典で、実証を重ん
じ、急性疾患に対し診察と処方の妙を厳しく説いている。これを研究した医者も著述もむろん篤胤以前に幾らもあって、最上徳内また『傷寒論註釈』と題し大部
の著作を遺していた。そればかりか、文政八年(一八二五)六月七日から同十三年十月十四日まで、足かけ六年間に、七十歳すぎた徳内が、ようやく五十代の平
田篤胤をじつに頻々(ひんぴん)と、数字を挙げれば四十四、五回も訪問していたことが分かった。
へえェと声が出た。
今でこそ私は知っている。徳内には、秦檍丸(あわきまろ)どころでない数多い著述がある。もとより『蝦夷草紙(正・続)』などの探検記の名作や、蝦夷語
辞典・地図の類が図抜けているが、算学、暦学、度量衡さらには『論語彝訓(いくん)』二十三巻といった儒学の大著もある。その他実学の書も数々ある、の
に、平田篤胤の国学をとくに反映したような本は見えない。
それなら医術を篤胤に学んだかというと、それも当らない。『傷寒論』なら徳内は自信満々、望まれれば、はやくから人に講釈して聞かすことも出来た。それ
と言うのも彼は三十歳まえに、官医山田図南(となん)の家に僕として仕えながら夙(つと)に医を心がけており、図南といえば『傷寒論集成』の著で朝野
(ちょうや)に大家の名をえていた人だ。
妙なはなしだ──。ともかくの、それが感想だった。私はまだ「最上徳内」を、一面の、おもしろいジグソー・パズルとさえも認識できていなかった。
ところが、おいおいに徳内の方でこっちへ、私の方へ、寄ってくる。
あれは、江戸時代の応挙や大雅ら主だった画家たち十数人に就て、要するに「勉強法」のようなことを、半ば頼まれ仕事で調べていた時だ。たまたま谷文晁の
手記を繰(く)っていて、また、最上徳内の名に行き逢った。寛政九年と思われる某日、支那製であるらしい珍奇な織物の掛幅(かけふく)を、徳内がわざわざ
持参して文晃のために見せているのだった。『過眼録』という手記は、およそ属目(しょくもく)のかぎり和漢の書画類を片端から観て、時に短評を加えている
たいへん筆まめな記録だが、「探検家」徳内からの提供はどうやらその日その一点の一度だけ。呆気ないといえばそれまでだが、意外な交際を垣間みた面白さは
あった。
また、物好きに或る随筆本の頁を古書店の土間でくるくるはぐっているうち、最上徳内が熱海の温泉に漬かりながら湯質を嘗(な)め試みて、良い塩がとれる
と土地の者に産業として勧めた、が、便宜も見込みもなくてそのまま済んだ、といった話を見つけたこともある。他愛ない話だけれど、「さる巧思(こうし)の
人なれば」と、さりげなく本の筆者が徳内のことを評価する口ぶりなのが、妙に嬉しかったのを忘れない。
先の、画家文晁との場合が適例かどうか別にしても、徳内ほどの探検家になると、珍談異聞ばかりでなく、およそ奇観に類する物珍らかな蒐集品に対しても、
博物学的な眼識に同時代人の興味や関心が集ったものらしい。
「松平陸奥守(むつのかみ)家来」で大槻玄沢(げんたく)といえばもう『蘭学階梯』を著(あら)わしていた聞こえた蘭医だが、この人が師と仰いだ杉田玄白
や前野良沢らと伴(つ)れて、寛政六年(一七九四)五月、史上に島之允(しまのじょう)や林蔵のまだ影さえ見えぬ時分に、恒例参府の長崎オランダ商館長い
わゆるカピタンの一行を江戸本石町(ほんこくちょう)の宿舎、長崎屋源左衛門方に訪れて学術上の種々の質疑を試みた。その際に、御普請役(ごふしんやく)
の最上徳内が蝦夷地よりもたらしたという、今は某侯珍蔵の産物をとりどり拝借して、オランダ人に鑑識を請うたと、耳寄りな記録を残している。その珍物には
トナカイの「皮角」も混じっていて、紅毛人はこれはよく見分けたが、他の「皆多くは見及ばざるもの」で嘆声ばかりが洩れたとか。もっとも徳内自身は同席し
ていなかった。
ところが右の寛政六年より三十二年後の、文政九年(一八二六)三月には、七十二翁の最上徳内自身が右の長崎屋へ赴(おもむ)いて、この年のカピタン(長
崎出島商館長)率(ひき)いる一行のうち、とくにドイツ人医師のフランツ・フォン・シーボルトと意気投合し、彼が江戸滞在中一ヶ月余の短時日で、大きく言
えば世界史にのこる価値ある業績を日々に分担し合っていたのだから、私は驚いた。シーボルトの大著『日本』が収める、言いようもなく興味深い我が最上徳内
氏のポートレートは、ご両人がこの出逢いの折に画かれていたのだった。
肖像は、日本人の川原慶賀が画いて、オランダ人二人がいささか加筆したものという。画面の右下に、微笑ましいくらい拙(せつ)に、「最上徳内」と自筆で
署名がしてある。 慶賀は通称登与助。シーボルトが長崎へきて育てた絵師で、洋画の写生法に秀で、シーボルトのために多くの風景や動植物画を画いて研究を
助けているが、いつ生まれいつ死んだかも分かっていない。慶賀は、わざと効果的にしたに違いない、徳内の半身像を格別顔を大きく克明に写して、威儀を正し
た紋服の肩から胸、両腕またひっつめた髷(まげ)などは、ちんまりと温和(おとな)しく画いた。
やや左を向いて、額広く、眉秀で、眼はしっかり瞠(みひら)いて鼻筋直(なお)く高い。うすい唇を一文字に絞り、耳は鼻に劣らず大きい。一見魁偉(かい
い)の面(おも)ざしで、はなはだ剛情にも、律義(りちぎ)にも見える。頬から顎へ賛肉のそげているのも意志的で、七十二翁どころか、五十半ばの精彩が貌
(かお)にみなぎり見える。
徳内のことなど、そういつも念頭にはまだなかったのだ。が、或る日シーボルトの『江戸参府記行』を、東洋文庫の斉藤信氏の訳でたいして身も入れず読み進
みながら、ハタとこんな最上徳内に行き当った。その気もなくジグソー・パズルの大事な部分を、私は、嵌め当てたのだ。
版画(最上徳内像 川原慶賀 原画 原田維夫 版) 略
二
オランダ商館員の江戸参府は、かの国と我が国の、いや西洋と日本とのこもごも疏通(そつう)の好機だった。ましてシーボルトのように、公然、スパイに近
いほどの義務と執心(しゅうしん)とを傾けて学術の情報を蒐めていた人物には、文政九年のカピタン随行が、江戸参りの道中が、何ごとでありえたか彼の当時
の日録があまさず語ってくれるが、とりわけ最上徳内との対面を、シーボルトは、故国の言い慣わしどおりに「特別に白い石」で記入したいほど、すこぶる幸せ
な事件として書き留めた。
一八二六年四月十六日(文政九年太陰暦の三月十日)の日記にこうある。
「本当にこの一六日は特別に白い石でもって記入する日なのである。最上徳内という名の日本人が、二日間にわたってわれわれの仲間を訪れた時に、彼は数学と
それに関係ある他の学問に精通していることを示した。支那、日本およびヨーロッパの数学の種々な問題を詳しく論じた後で、彼は絶対に秘密を厳守するという
約束で、蝦夷の海と樺太島の略図が描いてある二枚の画布をわれわれに貸してくれた。しばらくの間利用できるようにというのである。実に貴重な宝ではあるま
いか。」
シーボルトは、不用意に他人に読まれまいため、右の箇所に限ってわざとラテン語で書いた。徳内からの聞書(ききがき)をこのあとへ何倍もこまごまと記入
しているのだが、それは徳内の北方体験談をシーボルトなりに判断し取捨したもの、書き馴れた母国語で書いていた。
ここに来て、私は、ただ史上散策の一人の行きずりではなく、最上徳内に就てもっと精(くわ)しく知りたい、知らねばおれない、これはたしかに、村上島之
允や間宮林蔵をよほど上越す大事な人物らしいと考えた。他日自分の「部屋」に招じ入れたい、優に後白河院や新井白石級の逸材らしい、と、いささか重ッ苦し
いくらい興奮気味に思い当った。と言うのも、文政十一年、つまり二年後の九月、果然国禁の日本地図を国外に持ち出す罪に問われていわゆるシーボルト事件が
起き、彼は翌年日本国御構(おかま)い、即ち入国禁止を言い渡された。シーボルトとの間に貴重な地図その他を交換していた御書物(おかきもの)奉行の高橋
作左衛門景保(かげやす)が罪に問われ無残に獄死するなど、累(るい)は広く及んで、この後(のち)蘭学、洋学の進歩は大きく永く足踏みしてしまう大凡
(おおよそ)は、私も聞き知っていたからだ。
幸いシーボルト事件に徳内が連座した様子は見えない。
が、彼の貸した自製蝦夷地図などは与えたというのがやはり実状らしく、シーボルトはこの「老友」の立場を慮(おもんぱか)って、二十五年間は出版しない
と約束していた。誓約はきちんと守られ、樺太島その他徳内原図は正確に文政九年から二十五年めの一八五一(嘉永四)年に、シーボルト編『日本陸図および海
図帳』に収まって、出版された。
徳内の地図の原本は北海道、南千島、樺太島そしてマンゴー(アムール河下流)河口を都合五枚に画いて、約三十万分の一の準尺に作図したものだったと、
シーボルトの『日本交通貿易史』は語っているし、これをもとに「最上徳内の原図によるカラフト島およびアムール河口の図」と題して、約二十六万分の一に補
訂されたみごとな大地図三枚が、今も、ベルリンの日本学会に収蔵されているという。
私は、躊躇なくいつも頼むW大学図書館に勤務の友人を煩わして、架蔵の“Atlas von Land und See-karten von
Japanischen Reiche, Dai Nippon, 1851”。シーボルト編『日本陸図および海図帳』を観せてもらいに出かけた。
徳内の樺太図は或る学者の言うように「大陸から解放された厳然たる一島嶼(いちとうしょ)として描かれて」いたが、今日のカラフト全島図にくらべ、北緯
五十度より南が長大に過ぎ、逆に北半分が短躯(たんく)肥大して形もかなりでこぼこしている。もっとも間宮林蔵作になる地図でも、北カラフト、ことに東海
岸から北端へかけて、輪郭はずいぶん実際とはちがっている。が、それにしても両人の作地図は、もうみごとに近代の所産だった。真実感に満ちていた。ことに
苦心の間宮海峡に迫るカラフト側および大陸側を画いた海岸線は、さながら呼吸(いき)をしているかのようだった。
「どうでした。お役に立ちましたか」
本を返してから、礼を述べに二階の事務室にE氏を尋ねると、応接用の席(ボックス)へ誘われながら、そう訊(き)かれた。
「ええ。助かりました。ドイツ語はよく読めないんですけどね」
「でも地図だから……。今度のお仕事は、シーボルト事件ですか。それとも間宮林蔵」
「いやいや。ご両人とも、いろいろ書かれていますし。それに、お人物(ひと)がね……シーボルトといい林蔵といい、ちょっと評価をためらうフシがありま
しょ」
さほど根拠ももたないが、かりに偏見にしても率直なそれが感想だった。事実はどうであったのかシーボルト事件は林蔵の密告から露見したともいうし、その
結果は高橋景保ほどの大才をむざむざ死なせてもしまった。高橋の満洲語の研究など、もっと充実させたいたいそう貴重な仕事だった。が、一方取調べられた
シーボルトにも、あまり野放図に日本人の善意や好学心を貧(むさぼ)っていた気味がある。受けた学恩の大いさや度量を割引く気は少しもないが、それも我が
蘭学者たちの旺盛に西洋事情に学んだ意欲に敬意を払いたく、オランダ国東インド政庁派遣の一ドイツ人学究が、日本滞在中になしとげた役割の、幾分は、明ら
かな侵略意図にも染め出されていた点を私は看過ごす気になれないのだった。
最晩年の最上徳内が、だが、なんでシーボルトにああも近づく気になったろう。なんで生命にも換えがたいほどの地図を与えたのだろう──。
文政九年四月十二日、東京(Tokio)を去るシーボルトらを惜しむ声は多かった。大勢の見送りには八十二歳蘭癖(らんぺき)つまりハイカラさんの薩摩
老侯重豪(しげひで)や、桑名侯、中津侯らの姿も混じっていた。
それでも川崎に泊り小田原にも泊って、四月十五日、山崎の三枚橋の畔(ほとり)までひとり別れを惜しんだ日本人といえば、最上徳内がただ一人有っただけ
だ。シーボルトは長崎までもと誘ったが、老齢を□実に辞退したらしい。この日の日記に徳内のことを、「尊敬する老友」「功労多い立派な老人」と記している
し、江戸滞在中にも「わが老友」「わが数学者」などと、掛け値なく変らぬ親密と親愛をシーボルトは表現しつづけているのだった。
なんでそうも二人は親しんだろう。
「功労」とは、やはり蝦夷や樺太の地図をもたらしたからか──。
私はE氏の問いに、しばし□籠(くちごも)った間にもそれを思い、ふと、今もつぶさに眺めた地図を眼の奥によみがえらせたまま、最上徳内は、林蔵よりよ
ほど早く、いわゆる間宮海峡の存在、当時別々に想われていたサガレンとカラフトとがじつは同じ一つの南北に狭長な、かつ大陸とは独立した一大島であること
を、彼一流の克明な探査でとうから確信していたのだ──と、そんなことを想った。最上徳内に就て、もっともっと識りたい。そう思った。
E氏は先の話題に深入りする気はないらしく、だが、先年に胃の半ばを手術で失ったあとも何としても手放せない、「ほんとに困りますの」と今だに恋女房の
C子さんを嘆かせている、光沢ゆたかな舶来のぱいぷを、幾らか肉の落ちた広い掌にゆっくり持たせながら、つかず離れずの、面白い話を私にして聞かせた。
E氏は、私よりやや年嵩。そして奥さんともども我々は、三人が三人京都市で生まれ育った。C子さんは祗園石段下の中学から高校に進んで私の一年下にお
り、一時期私の叔母のもとへ通って、生け花を習っていた。お二人のなれそめは知らないが、東山界隈からよほど北の大徳寺近くで高校時代までを送ったE氏
は、東京のW大学に進んで、卒業後も木蔦の緑の美しい、ホールの壁画のみごとな付属図書館にもう永く奉職していた。
そのE氏と私は、だが奥さんを介して識り合ったのではない。大学紛争が熾(さか)んだった時分の文学部長をしていた旧知のF教授から、何の原稿(しご
と)の時だったか、いつもならあれこれ学部内の蔵書で調べてもらえるのだったが、その時は学生運動による校舎の封鎖騒ぎなどで動きがとれぬまま親しい後輩
に当るE氏を紹介され、すこし面倒な調べものを、成行きで、つい手伝わせてしまったのだ、以来懇意に願ってきた。が、その機会(おり)に、
「秦さんは京都の、H高校だったでしょう」で、いきなり驚かされ、E氏の夫人が、あの美人だったC子さんと分かって二度びっくりし、おまけに東京での住ま
いも西武池袋線の駅で隣り合っていた。
「なんとまア。……F教授(サン)はこんなこと…知ってたんですかね」
「いえF先生は知らんでしょうが、うちの家内は、あなたのご本を読んでますから」
Eさんはそう言って、あの時も澄ましてプカプカと太いぱいぷを旨そうに鳴らした。私は一度に良い籤をかためて引いたような、なんとも嬉しい気持で、Eさ
んの、まだ病気まえでふくよかだった色白な頬の辺を眺めていたものだ。
それからは、手の届きかねる参考書となると何度もE氏の好意に甘えた。両方から夫婦で新宿へ出て、学生の集まる安上がりなビヤホールで銘々の「京都」を
サカナに、声もかれるまで話しかつ笑い興じたこともある。昔よりちょっとふとったC子さんは、生け花ではないマクラメとかいう手藝の先生もして、あい変わ
らず快活だったし、お互い上の子はもう高校生だった。むろんE氏が京都の昔から、お祖父さん譲りの「植木極道(ごくどう)」に育ってしまった話も何度も聞
いていた──が、かのシーボルトにも、最上徳内にさえも関わるかという、或る盆栽の話題は、初耳だった。
「確証があるンじゃないですよ。わたしの、祖父(じい)さんから聞いただけの話やからね」
東京が永いEさんにも、この程度の京言葉は残っている。私は頷いた。
「今はたしか、静岡辺の分限(ものもち)の手に移ってるんですが。以前は有名な西陣の糸屋が、或るお寺さんから買(こ)うて大事にしてた盆栽ですがね。こ
いつが桁外れでしてね。京畳…一枚はないでしょうが、まァそこそこの、薄いというか浅ァい岩一面にみごとに丈も揃(そろ)って、百二、三十本もの蝦夷松
(えぞまつ)が、こう、ムム…」とE氏は、五本の指をやや開いた掌(て)を伏せ、むっくり、ゆっくり、空(くう)を撫でるふうにさも密生のさまを言葉にな
らず、表わして見せた。
「高さは」
「高くて四十センチちょっと…カナ。よほど親身に世話もしたでしょうが、一本一本の枝ぶりも力強うて。綺麗で。わたしも京都で一回だけ見てますが、なにか
しら眩しい朝日がさあッと射込んだ、そりゃ清々しい森林を覗く気がしましたよ。思わず、ゾクッとする厳しい寒気も一緒にね」
「見てみたいナ。へえェ……。下は苔ですか」
「苔でした。昔のことは知りませんが。二百年は経ってますから。……で、京都時分はこいつが出てくると、どの陳列会でも他は顔負けでして。銘が“蝦夷土
産”ってンですがね。この、名付親がシーボルトやテ、言いよるンですよ」
「ほんとですかァ」
「うそじゃない」
E氏は厳粛な顔で言い切った。
「ところが、いつからかこの銘の頭に“最上”と付いたンが傑作でね。まるで煎茶か玉露でも売るみたいでしょう。これが、段々調べてみると──イエわたしが
じゃないですよ。死んだ祖父(じい)さんらが寄って詮索しよりましたんですが、もともとの“蝦夷土産”という銘の下に、カッコ付きで(最上)と添えた書き
もンが見つかった。……どう思います」
「はァ……」
「ところがね。さらに遡って(最上=さいじょう)と漢字で書くンやない、片かなで(モガミ)とある方が古い、というヤツが出てきたんです」
「まさかァ」
「ほんとに」
E氏に、私をからかう動機はなかった。私はW大学図書館の応接室で身動(みじろ)ぎならないハメになった。卓に、鉄線の白い花が二つ咲いていた。
「しかし、……どこでシーボルトに結びつくんです」
それは──と、自分に確証のないのをまた断ってから、E氏はかいつまんだ話をしてくれた。
それによると件(くだん)の、稀と讃嘆するしかない、おそらく根は山取りのその何世代にも愛育された蝦夷松を、大事に大事に抱きかかえていた京都の或る
お寺に、こんな言い伝えがあった。巨大な寄植(よせう)えは、もと滋賀県下の親しい法類から、御(ご)一新よりやや前の頃、植木の世話も今は成りかねるの
でどうぞ引受けてほしいと頼まれたもの、と。大正、昭和になってもそれはそう言い継がれていて、たしかに戦前までは、E氏のお祖父さんらと懇意のその寺
は、頼むに足るたいした盆栽寺で知られていたらしい。うろ覚えに私も名前は聞いていた。
で、その大本(おおもと)の方の近江の寺というのが、栗東(りっとう)町の川辺(かわづら)にあった今は廃寺の善性寺とか。書付どおりの「ゑぞ土産(モ
ガミ)」は、文政九年四月二十五日、江戸から長崎へ帰る或るオランダ人が植木を見に通詞岩瀬なにがしの案内で訪れた際、望みの品と互いに取換えた事実が、
同寺に記録されていたのだ。
「これだけの木を、それも寒冷の地に産した木を南国長崎へ運んでみても、あたら傷めるだけ。植木に目のない住職がそう言うて頑張ったんですやろかな。この
坊(ぼん)さん、池坊(いけのぼう)の名手やったそうで。…シーボルトも考えたンでしょう」
「で、何と交換したのですか」
「畳二枚ほどの近江一国の絵図とね。有職方(ゆうそくがた)が画かせたとかいう、上出来の禁裡絵図ヤそうですよ」
「そりゃ、両方で得心のいきそうな取引だが……」
「その際にシーボルトの口から、(モガミ)という、銘だか何だかハキとせん話を、寺側は聞いたんでしょう。はっきりせんままに、いつのまにか、(最上=さ
いじょう)の蝦夷土産になった」
「うまい話ですね」
「でしょう。かりにその木(きイ)が、最上山形地方の産にしてもですよ。シーボルトは、でも、どうせ誰かに貰ったんでしょうよ。江戸か。江戸から東海道
を、土山か石部辺までの道中で」
「江戸、だろうな……」
「江戸ですかね。しかし、よくあれだけの物を運びましたよ。草津宿(じゅく)近い近江の国まで」
「最上(もがみ)…徳内の贈物だと……面白いなァ」
「わたしも、そんな気がしてるんですよ」
E氏は満足げだった。私も、あり得た話と聞いた。
長崎出島には名高いシーボルトの植物園があった。彼の最大の任務の一つが日本列島の植生探査だったし、参府の道中に限っても蒐集夥しく、その方面の業績
や観察を認められて、後年ヨーロッパの多くの学会で名誉会員、特別会員に推されている。
──外来者用の入口から図書館を辞すると私は、最寄(もよ)りの国電の駅へ戻るもうバスの中から、持参の『江戸参府紀行』をひろげて、その文政九年「五
月三一日(旧四月二五日)」のところを読んだ。
三
「石部(滋賀県)を朝早くたち、一行に先立って、以前(三月二六日)に述べた薬売りの住んでいる梅木村(広重の版画にも画かれ、街道沿いに和中散などの道
中薬を売る大きな店があった。)に行った。私は、往きに寄ったときにこの地方の珍しい植物を集めて、出島に送ることを宿の主人に頼んでおいたのである。い
ま私は、たくさん集めたものをすでに一ヵ月前に出島へ送ったと聞いて満足し、その目録を受け取った。それから私は、植物学者として知っていたひとりの僧侶
を隣村に訪ね、彼のところで、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデなどの珍しい植物やそのほかたくさんの好ましい花の咲いている美しい庭園をみた。」
うしろの注をみると、「植物学者」とは川辺(かわづら)善性寺の僧で、堀江恵教。生け花池坊での号を、華坊といった人だった。
私は、同じ東洋文庫に、呉秀三博士の『シーボルト先生〈その生涯及び功業〉』全三巻のあるのを知っていた。で、帰途池袋駅からわざわざ書店に寄ったが生
憎と上・中の二冊しか見当らず、さて最上徳内との関わりなら、地元の図書館で借りていた参府紀行で尽きているように思え、買わずに家に帰った。
私は、徳内が何度も「数学者」とシーボルトの手記に呼ばれている事実に、必要以上に興味をもった。何のことはない学校時代に数学は大の苦手だったから
だ。江戸時代に、数学者といえば関孝和の名しか覚えないが、忽ち微分積分といった頭の痛い話になる。まさか躰がもとでの探検家がそうはと、なるべく軽く軽
く考えてみるのだが、シーボルトの記事には重々しい讃辞の響がある。
どんな難問がいったい徳内には解けたのか、それも知りたかったし、また江戸に在りながら、シーボルトが、「私はすでに毎朝、老友最上徳内とエゾ語の編纂
のことで過ごす。」(陽暦四月二一日)「上席番所衆(長崎奉行所配下の役人。カピタンの参府に同行。)から多数の珍しい植物をもらう。私の調査研究に対す
るこの男の好意はたいへんなもので、私はあらゆる自由を得、以前にはかたく禁じられていた学問上のいろいろな事項をも、かなり公然と研究することができ、
そして妨げられることなくわが老友とエゾ語や地理学などの作業を続けることができた」(同二二日)と記している徳内と共同の事業に就ても、どんな内容なの
か、好奇心をもたずにおれなくなった。この種の人物に出逢うときまって捉(つか)まってしまう高揚感に、私は満たされていた。登与助画く肖像が目先にちら
ちらする──。
好便に、市の図書館で呉博士の大著三冊めも見つけた。シーボルトが交際した大勢の日本人に混じって、わが徳内氏のやや詳細な伝の載っていたのを、つづく
間宮林蔵の分と併せてコピーした。まことに折よくまた或る社の人物叢書で、島谷長吉著の『最上徳内』伝記一冊もやがて出版され、すぐ買った。そしてこの本
で、いきなり、徳内が解いたという和算の問題に私は出会った。
大円に三角形が一つ内接している。その三角形にも小円(乙)が一つ内接している。また中(甲)小(丙)の二つの円が、同じ三角形の外(がい)・大(だ
い)円の内に接している。
そして甲乙丙三つの円の直径が、それぞれ甲は四十九寸、乙は二十八寸、丙が十七寸と判っていて、さて外大円の直径は「幾何(いくばく)ぞ。」
(図 割愛)
算題はこのように問うていた。易しそうに思えた。徳内自身は「帰除術」で解いたというのだが、これが如何(いかが)な術か、算盤(そろばん)を使った割
算かとも辞書では引いてみたが結局解法は見当もつかない。伝記の著者も歯が立たなかったようだが、何に拠ったか、正解は「八十五寸」と挙げ、参考に、
(甲径×丙径)×8=乾……(A)
(乙径)の2乗−乾×2=坤……(B)
{(甲径+丙径)×2+乙径}×乾÷坤=外径……(C)
と現代風の算法に直して、「読者、この算式に数値を代置し計算して御覧(ごろう)ぜよ」と興に入っていた。
私にもそれ位は出来る。で、試みたが85はおろか、とんでもない答になる。幾度計算してもいけなかった。仕方なく、数学は現役の高校生にも負けない気の
妻にからかい気味に手渡してみると、原題からは証明できなかったが、右の算式のミス、おそらく誤植はあっさり見つけてくれた。(B)式の−(マイナス)記
号を、そうではなく、値の大の側から小の側をマイナスすべき(〜)記号に替えれば、ピタリ、85が正解になる。
「えらいッ」と褒めあげたが、女房殿も最上徳内が解いている原題に算段はどうしても立たない。取りつく島がない。
「これ、どういうことなの」と妻は呆れ、私も笑いだした。にわか勉強の片端を説いて聞かせた。
最上徳内は、ちょうど三十歳の天明四年(一七八四)三月下旬、算学の師で江戸湯島に住む永井正峯という人と一緒に、算額修業の旅に出ているのだった。
「なァに、算額修業ッて」
「絵馬みたいに、算学の難題を奉納してまわる。そして諸人に正解を募るわけさ。この二人、なンでも一千題用意しててね。長崎まで行く気だった」
「行けなかった…のね」
「いの一番に、芝の愛宕さんに二人で一題ずつ奉納したんだがね。勇んで品川まで繰り出したところで、先生の方が猛烈な腹痛(はらいた)を起こしちゃった」
「で、お流れ」
「そう。下痢。中止」
ほッほッほと妻は笑い、私も可笑しかったが、この時にもし、徳内ならぬ当時はまだ本名元吉(げんきち)が永井某とはるばる長崎までも行っていたら、後年
の「蝦夷通第一」「大胆豪傑」の「最上徳内」は、だぶん、ぜんぶ無い話だっただろう。老中田沼意次(おきつぐ)の下知(げち)による幕府の天明蝦夷地見分
の計画は、他でもないうちつづく諸国飢饉のこの天明四年五月内(うち)から大がかりに緒(しょ)につき、しかも最上楯岡(山形県村山市)の在を出てきた百
姓の伜(せがれ)元吉は、この壮途にきわどく普請役見習(ふしんやくみならい)青島俊蔵の竿取り、つまり測量用具を担ぎ歩く奴(やっこ)同然の名目で未到
の蝦夷、奥蝦夷まで随行の望みが叶ったからだ。
丸や三角の難題にへこたれた翌る日、私は、もとの勤め先から間近い、駒込蓬莱町の金池山(こんちさん)蓮光寺というのを尋ね歩いて、幸先(さいさき)よ
く最上徳内の、苔に乾いた、櫛形の、洲浜(すはま)の紋の浮き出ているお墓に掌(て)を合わしてこれた。明治に追贈の正五位を記念したらしい、漢文の大き
い碑も見てきた。
徳内は、天保七年(一八三六)九月五日(陽暦十月十四日)に死んでいた。最上院殿日誉虹徹居士、享年八十二。同じ界隈に法妙寺、浄心寺、長元寺、十方
寺、高林寺また地蔵寺。折から葬いがあり、黒い着物の人が途中にたむろし、香華(こうげ)のにおいが日盛りに舞っていたが、浄土宗蓮光寺は幸いひっそり
と、真新しい朱の楼門がただピカピカしていた。東京都が史蹟に指定し、「樺太探見先駆者」の最上徳内墓が寺内に在る由、妙に心もとない案内札を出してい
る。墓地は殺風景に明るい一方で、徳内の墓も記念碑も、散らかった中にやや憮然と佇んでいた。なんだか無縁のように見えた。
瞑目し、合掌して、そのままやがて両膝を折って屈(かが)むと、私は、初めて脳裡の「部屋」へ、勲(いさおし)の故人の名を一度呼び、二度静かに呼ん
だ。初対面の機は熟していた。親しい予感に眼をとじ、微笑んで、私は凝(じ)っと「客」のおとずれを待った──。
あれから何年──。むろん小説にしたいと望んだりそれさえ忘れていたり、けれど、徳内さんとの交誼(よしみ)は自然に数重ねて、その間(かん)、関係の
本も次々と読んだ。だが直接の徳内文献は名著『蝦夷草紙』正続二巻を手に入れたくらいで、写本一部、地図一枚手に触れる便宜もなかったし、冥府に在籍の徳
内さんからじかに物を貰うことは、これは有りえない。
で、とうとう去年の冬二月ころだった、私は、学究の生涯を「徳内伝」に投じられた例の人物叢書の著者に宛て、巻末に掲げられてある文献資料などのことで
ぜひ示教を得たいとお願いの手紙を書いた。
折返す早さで返事は来たが、悲しいことに未亡人の細々(こまごま)書かれた葉書だった。ご主人が逝かれて半歳余、仕残しの研究に就ても論文や原稿や参考
書のことも何も知らない、申訳ないとある文面に、私は、急いでお悔みの状を認(したた)め直した。
落胆している──のを、鷹揚(おうよう)に徳内さんは慰めてくれる。
──なンだって、話してやってるでねすか。えン……
「部屋」のお客は山形訛りに、わざとそんな言い方もした。その通りだった。
『幕末日露関係史研究』(郡山良光)、『日露関係史』(真鍋重忠)、『天明蝦夷探検始末記』(照井壮助)、『赤蝦夷風説考』(井上隆明訳)などの労著か
ら、『千島探検実記』『千島博物誌』やアイヌ語資料叢書の類まで私は読み耽り、そのつど徳内さんを煩わして「部屋」で話しこんだ。それでも諦め切れぬまま
もう師走という頃、雑司ヶ谷に住まわれる『最上徳内』著者の未亡人に宛て、遺された書物類をもし訪ねれば見せていただけるかと、また手紙で問い合わせてみ
た。
返事は空しく、あれ以後同様の希望で誰となくいつ知れず皆もち去られ、なにも残らなくなった、済まないと簡単だった。良い小説(もの)がお書きになれる
よう、祈っていますともあった。
──永アいお付合いを頼みますよ、先生……
私は徳内さんに頭をさげた。先生は軽く胸を張り、ひとつ『傷寒論』でも講じようかナと、調子が高くなった。
やがて忘年会のクリスマスのと世間が賑やかになる。私の誕生日も近づいて、満四十六になる。ヤレ困ったわいと鼻の頭を親指の腹ではじきながら、ところ
で、と、面白半分に最上徳内の年譜を当ってみると、西暦きっちり一八○○年、彼かぞえ歳(どし)で四十六の寛政十二年正月には、名著『蝦夷草紙』の後編が
ちゃんと成っていた。
その前年には徳内多年の念願がかなって、幕府は東蝦夷地、差当りシャマニ(様似)以東を上地(じょうち)直轄と決め、大がかりな開発に手をつけた。徳内
は四月、はや第七回めの蝦夷渡海を果たし、五月にはシャマニ−ホロイズミ(幌泉)間、さらにサルル(猿留)まで山道(さんどう)を切り開く難工事に取り組
んでいた。なだれ落ちる日高山脈南端の、襟裳岬に近い至極の難所だった。道路が開かれぬかぎりここは船で沖合いを通り抜けるしかない。
これぞ「永続の御為」と思い、せめては駄荷馬(だにば)の一頭も通れるようにと徳内は「粉骨」して新道(しんどう)を切り開きに懸かった。が、わずか二
十日ほどのうちに、「念を入れたるは宜(よろ)しからぬ」とする総裁松平忠明と真向衝突し、六月八日には「取放(とりはな)され」つまり免職にされてし
まった。
徳内は、泊然とクスリ(釧路)場所まで蝦夷事情探査の旅に発ち、幕吏手不足をよそめに、その年十月半ばにはひとり江戸に帰った。ちなみに、間宮林蔵が、
村上島之允(しまのじょう)こと秦檍丸(はだ・あわきまろ)の従者身分からはじめて普請役雇(やとい)へと公儀に採用されたといわれるのも、この折の人手
不足からだった。
徳内は江戸に帰るとすぐ『北地之仕方書』十二冊を、辞表と併せ若年寄に提出し、此のたび御用地開発に関する総裁信濃守殿の経営には手違い多々あり、改善
あって然るべき条々はと、なに畏(おそ)れげもなく掌(たなごころ)をさすように一々指摘した。普請役(ふしんやく)の身分をたとえ棒に振っても、幕府や
重職に、「国家ノ仁ヲ明カニセズシテ己(おの)ガ威ヲ振フヲ事ト」はさせぬ気概だった。幸い徳内には身分の上の譴(とが)めなく、辞表もやがて差戻され
て、ただ蝦夷地御用からは一時他に転じるということでこの大事は落着した。松平信濃守も追って更迭(こうてつ)された。
高三十俵三人扶持(ぶち)の一徳内にとって、五千石の幕府重職を向うにまわした、この、世間でも評判の確執は、文字通りの大事だった。徳内の生涯に二度
めの大難だった。
大難の一度めはと言うと、これより九年前、寛政二年(一七九〇)に上司青島俊蔵の事に連座、奴(やっこ)徳内の身分で牢に入れられ、ほとほと死ぬ思いを
していた。
大事を、だが、徳内は二度とも、とにかく切り抜けている。初回のそれなど転じて大幸となり、牢を出てまもなく八月普請投下役に一躍挙げられ、十二月本役
に昇進して同月二十九日には供四人を従え、同役ともども蝦夷地巡見の一行にその「頭取(とうどり)」として堂々江戸を発っていた。それがすでに第四度めの
蝦夷渡海だった──。
──四十六かヤレ困ったどころか……と、顎を撫でている師走二十一日、月曜日の午過ぎだった。もう何年も世話になりつづけのW大学のE氏が、また電話を
くれた。
「最上徳内の資料が山形大学の博物館に有るかもしれんと仰言ってたでしょう。ちょっと知り合いに訊いてもらったンですよ。有りました」
「やっぱり……」
「それもすごい量です。ちゃんと目録が出来てましてネ。送って来てくれたの、昨日お宅の方へ転送しときました。せいぜい使ってほしいそうで、便宜は十分は
からってもらえます。そんなこともメモにして、入れときました……」
「有難うございます」
「それよりお電話したのはですね。図書館(うち)へ『紫奥(しおう)畧談』ってのが入ってました。筑紫と蝦夷と……両方に足をかけたことのある役人が書い
てますね。ちょっと人に聞いてみたところ、筆者はアレですよ。あの、青島俊蔵……」
「ホオ……。彼は、天明の蝦夷地一件の以前は、長崎の会所勤めでしたから……」
「でしょう…。見てみますか」
「それはモウ。青島俊蔵じゃア。ぜったい見せて下さい」
「ナラ早いンがいいですね。そしてお要り用ならコピーしましょう。誰か学内のが、あしたにも持って行っちまいそうな様子ですから」
で──頭だけ洗って家を飛び出した。
──小説は……、もう始まっているらしいな。
電車が池袋へ走っている間に、暫くぶりお出まし願った徳内先生は、お定(き)まり着流しの懐手(ふところで)で「部屋」へ入ってくると、挨拶抜き、厳
(いか)つい顔をほころばせて、そう私に呼びかけた。
──ええ。……趙岐の墓ばなしからして、もう小説だったンですよ。
私は頷き、「お客」の顔をにこにこ見た。
二章 曙光、天明初年
一
E氏の好意でW大学で閲覧できた『紫奥畧談(しおうりゃくだん)』は、題簽(だいせん)うるわしい和綴じには違いなかったが、中はペン字の写本で、「H
帝国大学」と刷りこんだ柔らかな上質罫紙を二つ折りに、表紙をそえて綴じてあった。跋(ばつ)と見える辺に明らかに、天明八年戊申(ぼしん)夏五月とあ
り、「賎(せん)たりといへども往(いに)し年頃、筑紫(一字傍点)陸奥(一字傍点)国に在役して星霜を経る事稍(ほぼ)六年なり」と、読める。原本はH
大学の蔵書で「半紙版拾五枚」のものを、昭和十三年六月二十三日に「写之」とやはりペンで奥書(おくがき)して、写した人の署名はない。
「ともあれ、読ませていただきます……」
どうぞ、とE氏は三階外来者用のこぢんまりした明るい閲覧室から起(た)って行き、私は即座に近用のメガネにかけ換えた。
──「長崎表(おもて)異国貿易の儀は」と、書き出してある。すぐに『本朝宝貨通(用)事畧』や『光被録』などという書物の名前が出てくる。前のは、新
井白石が、国用の金銀銅の莫大に海外に流れ出ているのを憂(うれ)えた論著だし、あとの『光被録』は、紛れない青島俊蔵の同趣旨の述作だった。俊蔵は白石
ら先達(せんだつ)の志をつぎ、明和このかた天明三年まで十九年間の内に、ことに日本国の銅がどれほど減ったか国外へ運び去られたか、詳しい数字をあげて
対策を識者に愬(うった)えていた。天明二年(一七八二)の秋より幕吏(ばくり)として長崎に勤務していた彼青島は、また老中田沼意次(おきつぐ)の全盛
期に名をはせた平賀源内の弟子でもあった。
青島がまず清(シン)国との、ついで蝦夷地での、つまり「華夷通商の大略を見聞」云々は履歴上動かぬ事実なので、私は、いっそ長崎会所の運営を説くらし
い『紫奥畧談』の前半、つまり「筑紫」の箇条はおよそ一目十行で読みとばして、やがて「一、松前蝦夷地の儀は」とある辺りへ、目をこらした。
ここだナ……と思う、追々に、西蝦夷地より西北方に「カラフト島是又(これまた)大国の由」但し「少しの潮路」ながら往路は容易でなく、多勢の渡海や粮
米(りょうまい)そのほか調度類の運送は至って不自由なので、「衆議のうへ僕が副役大石逸平といへる者」一人を、地理や人物の「糺(ただし)」として遣
(つか)わした。逸平が西北岸ぞいにカラフトを調べたところ、「山丹(サンタン)といへる国の商人共(ども)来島して」いたことも分かった、などと面白そ
うな本文が続く。
なるほど「僕が副役大石逸平」なら、話は慥(たし)かだった。天明五、六年幕府初度の蝦夷地見分で、大石逸平は青島俊蔵軌起(のりおき)(のちに政教
(まさのり))の「副役」に相違なかったし、「衆議」とあるのも、彼(か)の時の幕府有司即ち山口鉄五郎、佐藤玄六郎、庵原(いはら)弥六、皆川沖右衛門
以上普請役(ふしんやく)、青島俊蔵普請役見習の五人がよりより相談したのだろう。以下要するに、広大未開の蝦夷地を上地(じょうち)開発開業することの
急務また妙策である委細を、稀有(けう)の見聞を実地に遂げてきた者の確信として、青島は当局に上書(じょうしょ)していたのだ、但し差上げた宛名は定か
でなかった。
私は、ふたたびE氏を事務室に煩わして、ぜひコピー一部をと頼んだ。
今朝E氏の電話にあった、山形大学付属博物館が目録も作って保管している「最上徳内史料」というのは、氏の話だと、明治十年、徳内と同じ山形県村山市の
楯岡に生まれた今は故人の皆川新作氏、旧磐城(いわき)高女の校長さんまで勤めあげた篤学の人が、昭和九年、五十七歳の真夏いらい一念発起して郷土の偉人
徳内の研究を始められ、そして昭和三十二年永眠の日まで莫大に積みあげられた貴重な写本や地図の類と、研究ノートや原稿類また参考文献の山から成っている
らしい。
「むこうの、教育学部教官でY君というのが、好青年でしてね。私とは、そうですナ、ぱいぷ仲間とでもいいますか。博物館とは同じ建物にいます。館の方は、
Nさんという気さくなお年寄りと若い女性の事務員が二人きりだそうで……」
だから一度は山形へ行っていらっしゃいよと、Eさんはしきりに勧めてくれた。
帰り途に、必ずしも読みやすくない青島俊蔵上書(じょうしょ)の写本を、もう一度コピーで読んだ。
家に着くと、『最上徳内史料目録』が届いていた。写本、地図など都合二百六十六点を挙げた中には、
「天明8・5筆写 青島俊蔵著」としてある『紫奥畧談』も洩れていない。
「いかが。収穫があって……」
妻に訊(き)かれているのもそこそこ、オーバーをジャンパーに着がえ手帖とペンをポケットに、ペンキの剥げた門扉(もんぴ)へ自転車をカチャカチャ打ち
当て当てひきずり出した。乾いた雪がほこりのように道路を散っていた。すこしも早う徳内さんと逢いたい。手袋をしっかりはめ、七、八分さきの喫茶店「ば
く」へ私は、私の「部屋」を運ぼうと急いだ──。
──たしかに私の「部屋」は、在る。が「私の」と、まるで持ちものかのように前にも言ったのは、やや言い過ぎたかも知れぬ。じつは私も同じその「部屋」
を訪れて、そこで望む人といつも出逢っている。もっとも私が望んで私が招くには違いないので、最上徳内氏も新井白石氏にしてもやはり「お客」ではある。
が、お客の方こそ存外私よりその「部屋」にずっと間近く住む人たちかもしれない
──のだ。たしかに私の訪れて行く先は、いっそ「死者の家」と明らかな表札をあげていいような場処で、私は、案内も乞わず一と間へただ通してもらっている
だけだし、それさえ「幼来」などと言うてならない、近年──それとて十何年来──の話だった。
その「十何年」前に、私はこんな、見た「夢」の話を或る作品の冒頭(あたま)に書いている。
夢であることを知っていた。それどころか、同じこの夢をつづけて何度も見ていた。夢の中では一本筋の山道を上っていた。
道の奥に、門があった。仰々(ぎょうぎょう)しくない木の門は上ってきた坂道のためにだけあるように、鎮まって左右に開かれていた。
門の中へ入ると、植木も何もない一面の青芝の真中に、一棟の、平屋だけれど床の高い家が建っていた。庭芝があんまりまぶしくて、家のかたちが浮きたつ船
のように大きく見えた。
家の内も隈(くま)なく明るかった。日の光は、雲母(きら)びきの白い襖にも床の間にも、鎮まっていた。
家の中に人影を見なかった。気はいは漂うているのに、闖入(ちんにゅう)を訝(いぶか)しみ咎める姿がなかった。
はじめのうちここで眼ざめ、肌にのこるふしぎな暖かさを惜しいと思った。
夢の数を重ねるにつれ襖のすぐ向うで、何人かの人声のするのを聴き馴染むようになっていた。優しい女の声も快活な童子の声も、訳知りらしく落ちついた年
寄りの声もあった。顔を寄せあい、日だまりにいてたのしそうに、しかしいかにも物静かに何か話しているらしい声音を、襖のこちらで聴いた。明るさの底を揺
るがす美しい波立ちが色やさしくさも流れるように、憧れ心地で僕はあたりを見まわした。
堪らず声をかけて襖をあけると、そこは、何変わることのないもう一つの明るい空ろな部屋であった。話し声は一つ向うの襖のかげにすこしも変わらず聴こえ
ていた。かけ寄って襖をひきあけても、声はまた一つ奥から聴こえて人の姿はなかった。
笑いをまじえたたのしそうな声音はいつもすぐそこに聴こえた。あけてもあけても襖の向うは人のいない部屋だった。光が溢れていた。哀しかった。耳の底に
たちまようそれは僕の存在も憧れも寂しみも何一つ関わることのならぬ、あけひろげな、談笑の幻でしかなかった。
夢はいつも虚しく佇(た)ちすくんだまま、醒めた──
が──、いつからか醒めない「夢」を思うまま自在に私は見るようになった。
その代りもう奥の襖を我から不躾(ぶしつけ)にあけたりしない。「部屋」へ入ると、談笑の彼方へただ名前を呼んだ。すると呼ばれた当人が襖をあけて思い
思いの姿を現わし、その時朗らかなまどいの人声は、まるではや心づかいをしたように遠くかき消えている。
どんな人とも、そうして逢った。やがて歴史上に実在の人とは限らなくなり、紫式部とも逢うたが、同様に昵懇(じっこん)の、光君や紫上とも私はこの「部
屋」で何度も何度も歓談したことがある。
「部屋」は──落着いて明るく、黙の一字を床の間に、短い脚(きゃく)の青い香炉が燻(くゆ)っているだけ。青畳に、卓もない。敷物の用もない。すべて相
手しだいで遠慮なく、話題が尽きればさようなら、ご機嫌ようと左右へ互いに、もとの襖から出て行く。約束事とてなにもなく、ただ和敬、そして清寂──。
で──最上徳内氏との面晤(めんご)もその伝で回を重ねてきた。但し談論風発とばかりも行かない。聞き手の追及が時に機微に、例えばアイヌ問題などに触
れて容赦がなくなると、答える徳内氏も身構える。黙然(むッ)と膝つきまぜたなり時刻の移ることもある──。
私の住む町は、町中が武蔵野の広い林に抱かれている。東京都内に近いわりに、空は高い。わが家は町の北寄り埼玉県と隣り合うて、春は一番に梅が咲き桃が
咲く。その桃畑のそばに喫茶店「ばく」の開店したのが、伝記徳内の著者に最初の問合せを出し、未亡人の返事を煩わした、あの、二月時分だったろうか。その
頃からこの店は、私が私の「部屋」へ籠るのに恰好の明浄処だった。
いつも横顔だけ見せ、ごく無□で愛想がない、が、服も履物も身じまいすっきりと背の高い三十青年が、一人でこの店をあけている。そのせいか最初は中年の
女客が連れだって冷やかしに来ていたが、音楽(レコード)は静かに静かに世界中のただ民族音楽ばかりで、主(あるじ)は客と眼も見合わさない。辞易してか
ことに昼間は客が寡(すくな)くなった。それが私には有難くて、四枚五枚の頼まれ原稿(もの)なら、ふと身を入れて何度もここで書いたりした──。
──青島俊蔵……ですかね。徳内先生が、もし生涯の出逢いで、一人だけ、名を挙げられるとしたら。
──ウン、そう……かナ。
──どんな人でしたか。俊蔵という人は。
──とにかく、好男子でした。よく気がついて律義でね。情に篤い人だったが、へんに軽薄がって見せるところもあった。ときどき女なんかとバカ騒ぎのした
くなる性分で……ヨワッたもンさ。
──もっと、聴かしてください。
──あの人と限らない。わたしにしてもそうだが、……筆が、立つわけでもないのに、よくモノを書いた。青島さんなどそれが国益と思うと即座に書く。自身
の見聞から一つ一つ、こうだから、こうだと、議論の寸法は短いけれど熱(ねつ)ッぽかった。あれで、ご当人は、ずいぶんと白石(はくせき)先生の顰(ひ
そ)みに倣(なら)う気でいたし……いたずらに食禄を貧(むさぼ)って国恩を思はざる、禽獣にも等し…と、□ぐせでね。
──似てらっしゃる、ワケですね。
──わしがかね。似たいと、思うたこともある。……が、やはりわしは北夷(ほくい)先生の弟子ですよ。青島さんのあれは、最期まで……平賀源内先生の感
化かなア。決してあの人のは「非常ノ事ヲ好ミ」というンではなかったが。
──でも「行(おこな)ヒ……是レ非常」…そして、「何ゾ非常ニ死スルヤ」……
──だったナ。源内先生のと同じ死にざまだった、結局は。
──徳内先生にしても、その……「非常ノ人」と驚き惜しまれた平賀源内…先生を、たいへん尊敬なさってた。そうじゃありませんか。
──逢ったことはないンだよ、わしは。二十七で江戸に出た、あの二年前に、残念なことに先生は、亡くなっていたから。
──ええ。それでも……
──話は、よく聞いた。せがんででも、源内先生のことを憶えてる人に聞いてまわったもンさ。物産会や『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』ッてホラ……あの
博物事典みたいな本の話。秩父山中での山師の仕事や、火に燃えないという火浣布(かかんふ)を発明の話。長崎へ生涯に二度行った話。ソレ、錦絵の知恵を絵
師の春信につけてやったり、面白い芝居を書いたり。日本に一冊という高価な西洋の本を買っては、旅先へも担(かつ)いで歩いた話とか……
──源内櫛で儲けるとか。絵暦(えごよみ)の面白いのを書くとか。
──あの櫛なんぞ……伽羅(きゃら)で造って、背(みね)に、一分通り銀で覆輪(ふくりん)がかけてあった……
──なんだか艶ダネでもおありのようで……。ところで先生。これは、誰もこれまで言うたことがない。けど、ボク、この頃になって想像してることを一つ、
聞いてくださいナ。
──何です……
──姓名と発します、最上徳内サンのこと。……最上(もがみ)ッて姓の方は、出羽最上のお生まれだし、最上義光(よしあき)なんて、たいした戦国大名が
いたことですから、これはまア、あやかった……で分かりがいい。意味するところも最上乗ですし。問題は、名乗りの徳内、ですよ。で、ボクのアテ推(ずい)
ですけど。平賀源内没後の門人…の心意気かなアと。源内にもあやかって、徳内。
──なぜ、徳内と……
──それがですね。徳川家(さん)……の内舎人(うどねり)。マ、御家人(ごけにん)の気持でひとつ奮発しようッてンで、徳内と。
──…………
──平家の内舎人ですと、平内。藤原氏のだと藤内。源氏は源内……なンでしょ。
──拍手しようかね……
──でしょう。徳川ということを、どうしたってあの時代の人なら考えてしまうンでしょうね。さっきの青島俊蔵がいう、国益だの国恩だのも、徳川の…で
しょう、つまりは。
──ソレばっかりとは思わない、使い分けていたね。……にしても徳川の内舎人(うどねり)で徳内なンぞという名乗り、わし以前にはなかったかも知れん。
綽名(あだな)みたいなもンで。但し、自分で思い付いたンではないが……それじゃ、誰が、この名を付けてくれたと思うね。
──考えられる…のは本多利明、ですが。あの人のつまり代役でしたからね、天明五年、先生の蝦夷地見分への初参加は。徳川という名の日本のため、最上の
家人になれ、と。違うかな。どっちにしたって、あのまぎわの話…でしょ。
──名が付いたのはあの時だが。だが、北夷先生というお人に、そういう洒落気(しゃれけ)はなくてね。これは……貴公。教えると小説(ほん)のお役に立
ちますぜ。フム…… と、徳内さんは下唇を突き出して、
──稲毛屋金右衛門。で、分からんかな……又の名を、平秩東作(へずつ・とうさく)。
──エ。…煙草屋の……
うーンと、目と目のひらいた徳内氏の顔を一瞬にらんで、そして、私は笑み崩れた。
むろん話題(こと)はこの先で解(ほぐ)れて行くのだが――ともあれこの日の別れぎわ、私は最上徳内氏と、「部屋」で、こんな“契約”を交した。
私は、自分の好きに小説『最上徳内』をせっせと書いて行きます。勉強もする。取材旅行もします。が、それはそれ。他人(ひと)は知らぬことながら、こう
も久しい我々の間柄ですもの。どうぞ飛入りに、苦情はもとより、冷やかしでも結構。素直に訂正も、しかし反論もしますので徳内先生からも口をはさんで欲し
い。小説の筋に割込んできて欲しい。
──おもしろいな…… で、決まりがついた。
いずれ……と、左右に襖の外へ別れる、と、喫茶店の「ばく」。冷えて半分ちかく残っていたコーヒーを、私は、もう一杯熱いのに替えてと若いマスターに声
掛けて、いつのまにか店内に三人、二た組の客が入っている、路の向うに小川が見える窓がわで、ほッとあくびを噛み殺した。両肩から、とくに左の頚筋が硬
かった。凝(こ)っていた。それを思いきり反(そ)ってベキベキ鳴らしている、その──視野へ跳びこんできたまるで細密画の日本地図。赤や緑が点々と、奇
妙に生々しい。神経質な線の塊が青っぽく、こうも山だらけかと思う列島が、斜めにくねったぐあいに洒落た縞柄の壁に身を横たえている。
印刷物に違いなかった。鳥瞰図(ちょうかんず)だった。
気を惹かれわざわざ起って見に行くと、こういうのもマスターの趣味であるか、つまり日本全国を格子状に細かく分割して、その一区画(メッシュ)ごとの土
地利用情報と交点の標高とをコンピューターに入れ、自動製図機に描かせたのがこれだという。山また山など高さは約三倍に誇張されているそうで、土地利用
は、市街地が赤、農地は緑、森林を青、その他黒で表わしてあり、国土地理院の地理情報室が製図していた。
「おもしろいな……」と、先刻の徳内先生と同じに、呟いた。
ピエロの三角帽子よりもツンツンとンがった小さな富士山に、にやにやする。関東平野はさすが赤と緑で広いなと思い、そのまま背骨のような奥羽山脈のでこ
ぼこの上をずーいと北へ北へ、津軽の海を渡って北海道まで目を送って行く。
そのうち、笑談でなくこれほど面白いものを、測量や地図作りで身を粉に苦労をしつづけた徳内や島之允や林蔵にも見せてあげたらどう思うかしらンと、しん
みりした。星を使って緯度を測るのからしてあの時代は容易でなかった。測地のため、距離を歩数でかぞえたり、揺れる船から陸地の距離を目測したり、縄をの
ばしたりまた輪をころがしたり──。
二
だがしんみりはしていられない。急いで頭の中を整理してみる、と、こうだった。
平賀源内という、「我は只及ばずながら、日本の益をなさんことを思ふのみ」と言い切ったとてつもない「大山師」が、宝暦、明和、安永の三十年足らずを、
世人に「嗟(ああ) 非常ノ人」と目を瞠(みひら)かれて大車輪に生きた。十八世紀後半の五十年間──の、ちょっと末尾(おしまい)の方が欠ける。気ヲ尚
(とうと)ビ剛傲、しかも人品甚ダヨシと言われた。□癖のように「国益」「国恩」を語ったという青島俊蔵は、その源内の、門弟の一人だった。
青島とごく昵懇(じっこん)の一人に、源内に輪をかけて「日本の益」を願った本多利明がいた。願うだけではなかった。利明の実学は時代に遥かに抽(ぬ
き)んでた思想と方法論をそなえ、その『経世秘策』はすこぶる具体的だった。二十四歳ですでに音羽護国寺まえに塾を開き、関流算学の第五代とわれひとのゆ
るす大家になっていたが、さらに天文、測量、航海術、造船術の必要を説いた。「西洋」の理解は抜群で、小さい大国イギリスを理想とし、また「北夷先生」の
異名(いみょう)で知られるように特にエカテリーナ・ロシアの治世を讃美し、その女帝南侵の野望に先立つ蝦夷地の開発開業を幕府に勧めてやまなかった。人
は、至っていい人だった。篤実だった。
最上徳内はこの利明におくれること十二歳の弟子、いや愛(まな)弟子だった。天明五年(一七八五)初の蝦夷地見分の一行に師に代って飛入りを聴(ゆる)
され、山形楯岡出の百姓元吉(げんきち)がはじめて「最上の徳内」を名乗る。二月勇躍北地へ、津軽海峡を渡ることの第一度。その「最上徳内」の名付親が
──私は驚いた──名だたる狂歌作者の平秩(へずつ)東作と、徳内さんが、自身ではっきりそう言った。
──平秩東作は、本名立松懐之(かねゆき)。号が東蒙(とうもう)。
享保十一年(一七二六)に江戸の西、内藤新宿の追分つまり今の新宿繁華街で、馬宿の子に生まれた。幼名八十郎。人気の狂歌作者だった。「筥枕(はこまく
ら)火縄にくゆる思ひこそ逢はまくほりの猪牙(ちょき)の夕暮」など、処は三谷(さんや)堀、遊客が舟饅頭(ふなまんじゅう)つまり売女を抱き寄せ、片手
で火縄の火に煙草をつけているのを見ているといった図だが、御当人がひょっとしてその客だったかもと、面白い。
ことに狂歌仲間という以上に四方赤良(よものあから)こと南畝(なんぽ)大田直次郎とは、ゆるし合っていた。そのじつ、南畝より東作は二十三歳も年長
だった。
また東作は狂文を作り、滑稽本を著わし、浄瑠璃も書いている。
平賀源内、というより又の名風来山人とは宝暦が明和と改まる以前から大の「熟懇(じっこん)」で、狂を発し人を斬った源内が、牢内に非常の死をとげた後
のことも、東作が「悉皆世話」をした。夙(はや)くに和歌を学び、一時儒者としても立ったし、「年ごろの本意とげて」念仏の丸坊主になると、「黒髪をおろ
し大根のりの道仏のそばや近づきぬらん」などと洒落てみる。浮いたようで、ものはよく見えていた。変り種の野心家だったが人に親しまれた。
尾張国生まれの彼の父は、江戸へ出て苦労のすえ馬宿稲毛屋金石衛門の株を買い、名さえ譲り受けていたが、東作十歳(とお)の年に早死。余儀ないことに息
子は、十四で稲毛屋金右衛門を嗣ぐと、初手(しょて)から煙草渡世を送り、店の看板に、「世の中の人とたばこのよしあしはけむりとなりて後にこそ知れ」と
自作の狂歌を掲(かか)げて、名を売った。
なるほど平賀源内の話(こと)なら、この東作、面白くどこか寂しく、出羽国最上(もがみ)の在をぽっと出の元吉に何から何まで話してやれて、おまけに興
言利口(きょうげんりこう)の江戸ッ子煙草屋だ、たやすく田舎者をけむに巻いたろう、
「それよ最上でとれた若い衆(し)よ。ご贔屓あの世の内舎人(うどねり)源内、生まれ変わりましての徳内ッてのがいいよ。徳川大事最上(もがみ)の徳内
が、渡海トーカイと蝦夷の海を、いちばん、勇ましく渡っといで」くらいの御祝儀は、容易(たやす)いものだったろう。
何より貧農の、何より惣領と生まれ、故郷楯岡で産物の煙草の葉をかもじ切りに細長う長う刻むのがことに上手だったという、近郷谷地(やち)村の煙草商に
もよく勤めたという跡取りのはずの元吉が、父の一周忌(いちねん)を済ませると、もう転がり出るようにえらくトウの立った二十七の年齢(とし)で江戸へ出
られた不思議にも、たしかに煙草で売った稲毛屋の東作が一筋も二筋も絡むなら、これは話の──筋道が立ってくる。徳内氏をにらむくらい「えッ」と絶句し
「うーン」と私が呻(うめ)いたのは、それだった。
じつは私は徳内先生(さん)に、少年の昔の百姓元吉の戸籍しらべなどは、まァ余計だからやめにしましょと、断っていた。
要は最上から江戸へ出た。
運があって蝦夷地へも行った。
動かぬ事実史実のその以前に、例えば甑(こしき)ヶ岳の頂上で侍を志したとかその他いろいろ有るご幼少砌(みぎン)の、いわば神話や伝説はこの際割愛し
ましょうよ、それがいいよ、と諒解(はなし)がついていた。
が、頃は天明の世情不穏とあって、無宿渡世を覚悟ならともかく、頼る縁もなくて江戸に出る、それも「学問」をしにというのは素直に受取りにくい。奉公に
は身許(みもと)引受人が要った。学問といえども束脩(そくしゅう)の礼も要った。たいそうな入門式になると、金額に多少の別はあれ右先生、右奥方、右若
先生、右塾頭、右塾中、右僕(使用人)へなどと一々にえらい物入りだった。ひょっとして駆落ち、夜逃げ、または継母と不仲の逐電(ちくてん)同然だったか
もしれない元吉に、たとえ懐に僅かな金は有ったにせよ無事どこかへ草鞋(わらじ)をぬぐのに、請人(うけにん)というものを誰か頼まぬわけにはいかない。
日本橋本石町(ほんこくちょう)に「誼(よし)み」があったと、後年青島俊蔵の事に連座のさい徳内は吟味役人に答弁しているが、誼みが誰とは、どの本を見
てもさっぱり分からなかった。
それを、例の「部屋」で──徳内さんが、こう耳打ちして胸の閊(つか)えを除(と)ってくれたのだ。
──石町(こくちょう)テのは、本宅でね。お店(たな)のあったのが、日本橋の堀留。鍋町でも刻み煙草屋で叶(かのう)屋というのが大きかったが、あっ
ちは荷箱(にないばこ)で売り歩くンだ。堀留の方は乾(いぬい)九兵衛というそりゃ大した煙草問屋の旦那で。この人をむりやりに頼んだのさ。わしが切子
(きりこ)をして稼いでいた、谷地村の青柳という刻み煙草屋と乾屋とには取引があった。さほどの取引ではなかったンですがネ。ま、転がりこんだわけです。
──青柳というと、お母さんの……。お里方ですか。
──関係はない……煙草は最上村山の辺ではけっこう分(ぶ)のいい産物でね。あの時分から、栽培は盛んだった。どの農家も秋には軒ごと葉莨(はたばこ)
をかけつらねて……。紅花(べにばな)や青苧(あおお)も、そうなンだが。それと、わしらの在所では、空地利用の漆かきも熱心だった。佳い漆がとれたし、
漆の実から蝋もつくった。
──ああ、それですね。……道理で。
──それも、分かったかい。
──ええ。知りたかったことの一つでしたネ、これも。と言うのも徳内先生の幕府役人としての業績は、北地探検に先ず指を折るとして、も一つ有りましたか
らね。蝦夷で功成り名遂げられたあとの十二、三年かけて、主に八王子中心に製蝋と、漆栽培との指導に力こぶを……。名づけて〈関東蝋〉でしたね。地場産業
の育成でも国益を挙げられた。あれは、漆を栽(う)えるのは、…そもそもは先生の自費で……
──そうでした。御用材の調べ役で出張したんだが、その時チトお奉行に願い出ましてね。自前で試みてみたい…と。
──そこですよ。どして徳内先生がこんな漆の蝋のッて思い付かれたか。指導ができたか。こいつが分かンなくて……
身動(みじろ)いで見せると、笑わぬ男で通した徳内氏が、崩れない正坐の両の膝がしらを丹念(ゆっくり)と撫で撫で、にこり、頷いてくれた。
谷地の──煙草商青柳文吉と日本橋の問屋乾九兵衛とに煙草の取引があった。
九兵衛と平秩(へずつ)東作の稲毛屋とにも同様の取引があった。
伊勢清水から乾屋へ入婿の九兵衛は、日本橋界隈で評判のお人柄の、一諾「十両」といわれた堅い商人だった。手代、丁稚(でっち)の躾も行き届いていた。
一方の稲毛屋金右衛門こと、安永八年(一七七九)秋には髪を剃っていた東作は、家督も表むき惣領に譲り、好きな冷酒を「のみては寝くうてはやがて子
(ね)の年のあけなば春もうしになるべし」などと、呑気そうに戯作を出版したり、それに「東都貧工粥腹得心」と署名したり、序を四方赤良(よものあから)
に跋を朱楽菅江(あけらかんこう)に書かせたりして暮していた。
が、根が今は亡い「大山師」の平賀源内とウマが合った男だけに、本業のほか本所に材木問屋を出したり、豆州(ずしゅう)天城山での炭焼廻しを公儀に願い
出たり、なにかと手をひろげては算用ちがいの店仕舞いや失敗(しくじり)も繰返してきた。
が、楯岡の元吉が江戸へ出た春には、市中に人を雇って、煙草の出店のまだ一、二軒は持っていた。中で、神田和泉橋通の佐久間町に仁助という年寄り、と
言っても五十そこそこの夫婦者に預けたとんとん葺(ぶ)きの一軒が、このごろ女房のふとした怪我からごたついていた。
たまたま東作は堀留乾屋の香ばしい切子部屋の戸ぎわで、通い職人にまじって煙草の葉を器用に刻んでいた新顔、あるかなきかのふッとした目配りにも油断な
げな元吉の手さばきに眼をつけ、事情を聞くとすぐ店の主人を口説いて、暫時拝借の体(てい)で佐久間町へあっさり引抜いた。乾屋には、雇人を預かるについ
て伊勢の本家が定めた難しい掟があり、元吉のようなはみ出し者をたやすく店に置かないのを東作は知っていたし、手のない仁助を器用な上に屈強そうなこの男
に手伝わせ、かたがた刻み煙草を振(ふり)売りに神田や本郷界隈を歩かせてみよう魂胆だった。
誰に異存もなかった。
安永十年、ではない、じつは三日まえに天明元年(一七八一)と改元されていたその日が、四月晩春の五日。この四月五日が楯岡の元吉と──江戸との、本当
の出会いになった。
仁助方に寝泊りして間もなく、五月に東作の妻女とせが病で亡くなった。
よくない容子は察していた。前月末、はじめて用事で磯の香のする鉄砲洲(てっぽうず)船松町の家に呼ばれて行った日も、主人東作は浮かぬ顔でくらい台所
の端近くへ寄ってきて、なじみのうすい元吉を強いて上框(あがりかまち)に据えたなり、面白くもなさそうに故郷(くに)の話などをさせた。
妻女はとても床を離れられぬとみえ、十四、五と見える少女が煙草盆などを運んで出た。そうまでしてもらう柄でないのにと、野暮な田舎姿をめったになく恥
じたほど、その、銀という娘は見なれぬ髷も飾りも愛くるしかった。それだけににわかな──と元吉は感じた──母御の不幸が物哀れだった。あまり思い出した
くない楯岡に置いてきた継母や妹たちの仕草や表情を、元吉は、雨の佃島(つくだじま)のかげへと遠のいて行くまるで棚無し小舟かのように、色にじんで小さ
くそして寒々しく身に覚えながら、黒い着物一枚なく、降りしきる五月雨の野辺送りをこまめに裏にいて手伝った。
佃の渡し近く、霊岸島といい鉄砲洲といい炭か材木かを扱っている店の多い場処だった。東作の家も、佐倉刎炭(さくらのはねずみ)の戯(ざ)れ名で狂歌も
つくる同業と、軒を並べていた。雨でさえなければ裏の渚(なぎさ)へ手もとどいて、安房上総(あわかずさ)まで見渡せた。五月雨をあつめてひときわ早い故
郷(くに)の最上川では、今年も三(み)かの瀬や碁点の難所で、新庄へ酒田へと物を積んで下る小鵜飼舟が難渋していることだろう──。
四方赤良(よものあから)こと御徒(おかち)の大田直次郎──南畝(なんぽ)とも、後に蜀山人とも
──を、元吉は通夜の客としてはじめて見た。「高き名のひゞきは四方(よも)にわき出(いで)て赤ら赤らと子供まで知る」と謳(うた)われる評判が、うそ
かのような冴えない冷飯草履(ひやめしぞうり)だったが、折をわきまえた落着いたとりなしは丁寧で、物言いの端々まできちんとしていた。
青山妙有庵の耆山(きざん)和尚が経を誦んだ。
喪主東作は、田安の家臣小島源之助こと唐衣橘洲(からごろもきつじゅう)が麩を仏前に供えてくれれば「涙にむねのふくれぬるかな」と頭をさげ、三井の一
族で主人とは浄瑠璃を合作している紀上太郎(きのあがたろう)が、仏の枕辺を埋めつくすほど花あやめの一色(いっしょく)を運びこめば、「花はづかしの仏
よく見よ」と礼を言う。森羅万象こと奥医師の家に生まれた桂川中良も生真面目に見舞いに来た。勘定組頭篠木六左衛門からも香料が届いていた。
どういう人なのだか……、元吉はこの家(や)の主人の、素性もろくろく知らなかった。
喪主は法然頭のこの年五十六歳。末の、色白の男の子が一番じっとしていなくて、十歳(とお)ほど。そして当年二十歳(はたち)という見るから温和しい嗣
子(あととり)八右衛門、これが誰よりも母に死なれて泣き崩れていた。もとより女子供みな涙にくれた葬式だった。東作も人一倍顔をくしゃくしゃに泣きはら
し、それでも「鳰(にお)てるやうみのおやにも粟津なるこれから崎はなれひとつ松」などと鳰の湖(うみ)にかけた秀逸を客に披露していた。鳰という名の銀
の姉は、小柄な、二十一か二くらいに元吉には見えた。
驚いたことに、愛くるしいと見たお銀には金兵衛というすでに婿があった。子までなして死なせたという、病みがちなお鳰(にお)の方は、どうやら出戻って
いるらしい。江戸の娘はみな美しいと元吉は思った。
楯岡の実家(いえ)では、義理ある母も妹も、幼い弟も総本家の太右衛門や母屋(おもや)の間兵衛(まへえ)のところで年中追い使われていることだろう。
桜桃(さくらんぼ)を手のひらいっぱいに、別れを惜しみに、小松沢観音の釣鐘堂まで忍んで来た従妹お縫のみなりも貧しかった。元吉が顔も覚えない生みの母
方の、お縫は、やがて山形へ奉公にやられるはずの姉娘だった。
こうどこかしことなく貧乏では仕様がないと、苦笑いして一年前に死んで行った父甚兵衛の声音を、元吉は忘れていなかった。煙草屋をしに──江戸へは来な
い。薪を割り酒を煖め、弔客の履物をつぎつぎ揃えながら、通夜の晩も雨の翌る日もそれを思った。忘れるなと、自分を叱る気でいた。
やがて、──仁助夫婦の家へ木場だか八幡だかの裏店(うらだな)から、ひょっこり子付きで現われて、一人娘というのが佐久間町の一つ屋根の下に住んだ。
名はお丹。梅雨あけの、むせかえる暑さの狭い家で、乳呑み子の母親は男の眼をはばかるふうもなく、荷ない箱を背に日中は出歩く元吉のために弁当ごしらえも
洗濯もして、「兄さん」「ちょいと」と屈託がなかった。夜分など楯岡や谷地(やち)の昔から手ばなしたことのない和算の本をひろげていると珍しげに覗きに
来たりする。家中に乳の匂いが甘酸く、仁助の女房もようやく床を離れられるようになってくると、元吉は、蚊ばしらが立つへっついわきの土間へのがれ、茣蓙
を敷いて寝た。
そのうち仁助ら年寄りが二人がかりで元吉を口説きだした。生まれついてか心もち足をひきずって歩く、だが器量よしのまだ若いお丹と添うてやっておくれよ
と、思わぬ怪我で気弱になっていた母親が熱心だった。お松(まあ)と呼んでいる連れ子ともども親子夫婦の固めを承知してくれるなら、志村の在に少々持ち田
のあるのを手離してでもちょっとはマシな煙草の店を持ったがいいだろうよ。お松(まあ)の父親とくされ縁はないンだよ、お丹だってその気でいるからと勧め
にかかられ──ても、元吉はどうにか踏ンばった。そして鉄砲洲の旦那へ、東作のところへ、到頭(とうとう)断りを言いに行った。
「いい縁じゃア、ねぇのかえ」
揶揄(からか)っている顔ではなかった。奉公といえば七八つから小僧勤めではじめるのが、江戸では知れた話。二十七もの百姓あぶれをこの時節に雇う大店
(おおだな)はない。親方もない。仁助といえばもと腕利きの畳職人だったのが、五十すぎて物のはずみで利き腕の筋をのばしてしまった。力仕事がならず馴れ
ぬ煙草売りを隠居仕事にはじめたが、どうして元吉の一人くらい売り込むツテはあれで持った男。もし畳職が覚えたければ、仕込む腕までよもや無くしてもいま
い。
見込まれたと思ってはどうだね。いやかね、と妻を亡くした東作の口ぶりはしんみりしていた。うちは今、左前だからね世話はできないよとも、苦笑いで打明
(ぶっちゃ)けた話もした。
元吉は余儀ない言いわけ――をした。自分はこの先に、望みを持っていると。
「望みとね。はて、何が出来るえ」
坊主頭がうす紅らんでいた。嗤(わら)っているナと元吉は気おくれしたが、子どもの時分から算術が好き、『塵劫記(じんごうき)』は今もよく読み、大概
解けない算題はありませんと大きなことを低声(こごえ)で言った。算盤はと訊かれ、出来ますとこれは声を高めた。
東作は、なんだか面白くもなさそうに元吉の角ばった顔を眺めていた。試みるようなことはついに一言も発しないで、奥からお鳰を呼ぶと、茶をかえてくれと
言いつけた。
「……で、望みとやらの算段は、どう立っているのかえ。仁助を袖にしといて、それでお飯(まンま)がお前食えりゃいいンだが」
元吉の返事が、出来ていた。
佐久間町の二丁目に間口二間半、端近に盆のかわりに硯箱を置いて、望む客には紙に立て膝のまま芽出たそうな絵を描いてやるのを内職にしている足袋屋があ
る。近所の藤堂(とうどう)和泉の上屋敷などへ出入りのその斎藤宇八郎という中年の足袋屋が、水戸藩を浪人してきた変り者で、話が面白いしどうやら絵の偽
作もするらしい。元吉は噂に聞いて、お丹に悩まされそうな夜分はその斎藤へ謹んで講釈を聞きに出かけるようになっていた。宇八郎は鶴磯(かくし)と号して
湯島の聖堂に一時籍があったとか、望めば『左伝』などをもち出して噛んで含めて講じてくれる。
「じゃ、なにかえ。『文公』も、もう過ぎたかえ」
“左伝文公庭訓(ていきん)三月”を利かして東作は皮肉なことを訊いたが、元吉には分からない。
「……え。いえ。それは……」
「なら、いいのさ。ごめんよ話の腰を折って。で、どうしたね」
足袋屋の斎藤宇八郎は元吉を、昌平橋に住む番医三百俵の山田図南(となん)方へ、下男に世話をしてやってもいいと言ってくれる。但しさきざき、今の奉公
先と面倒を生じては困るのでと念を押されている──。
三
はだか同然の胸もとへ風を入れ入れ、すこし前かがみに東作は元吉の話を聞いていた。案外なという顔もしていた。その足袋屋なら岡場所なんぞの行きずり
に、まんざら知らぬ相手ではなかった。
それより図南、山田宗俊という方がモノがでかい。鶴磯の宇八郎に、高名なあの医者とどう繋がる縁があるのか知らないが、自称だか他称だか「儒中の侠」で
えらく名を売っている荻生徂徠(おぎうそらい)嫌いの山本北山、その一の弟子が、図南だ。年は三十三か四、羽振りはすこぶる良い。『傷寒論』を講じてはあ
の若さで当代一の評判だし、診立(みた)ても良い。便宜な後世方(ごせいほう)も厳格な古方にしても、良いところは医術としてきちんと採る。諸事着実な行
き方が、誰いうとなくいつか、折衷派の名で時めいていた。── 「望み」は、ありそうだ。
片時も置かなかった煙管を──むき出しの膝に押っ立てて、それでも東作は幾らか脅(おど)す気味に、
「お前の望みは、すると医者かえ」と、訊いた。元吉は即答を避けた。一度旦那の、旦那らしくもない逞しそうな手もとへ視線を伏せ、すぐ眼をあげて、余儀な
く頷き返した。
「算学の方は、デ、どうするね」
「それも宇八郎殿にご存じ寄りがあるとか。湯島辺にいい師匠(せんせい)がおいでと……」
「湯島。……何というお人だえ」
「永井、正峯様とか」
「それはお前、出羽鶴岡の人だよ。その永井さんなら音羽の門弟だァね。おっとりしたお人さ。だが先立つものは……、鼻紙料くらい溜めたかね」
溜るはずないことを、うっかり東作は訊いてしまった。元吉は、銀の小粒が五つと銭緡(ぜにさし)に通した銭が、六、七十残っているという。
むろん足りはしない。が、東作はとうとう声をあげて笑いだした。手先を横にちいさく振り、仁助の方は案じなくてよい。よしよし。しかし昌平橋の話が決ま
るまで、今の家(うち)で辛抱しなよ……。
それから元吉に訊かれて、先に永井正峯の話で出た「音羽」の本多三郎右衛門、関流のえらい算学者の評判をいろいろして聞かせた。変り者の門人があそこに
はいる。普請役(ふしんやく)の鈴木彦助というのが向う見ずな男だが算学はたいへん出来るとも話し、その彦助の出は「出羽」だっていうぜ、聞かねえかいと
も教えてくれた。
「話はちがうが。……お前、南部津軽の方面はくわしいだろうね」
唐突に訊かれて元吉は窮した。たいがい仙台や庄内の方面なら見知っている。秋田や盛岡へも出かけたことはある、が……。それだけ聞くと東作も、
「そうかい」で、あとは何気なかった。
平秩東作(へずつ・とうさく)からここで津軽南部の名が出た──のは、およそ元吉の及びもつかない内心が、忍びあえず口の端(は)に浮かび出たのだっ
た。元吉がはっきりそうと気づくのに、だが、その後、二年──を要した。
あの年、──天明元年(一七八一)のうちに元吉は佐久間町仁助の家を出て、昌平橋を南に渡るとすぐ南にあった官医山田図南の宅へ下男奉公した。字の読め
る下男は、弟子扱いこそしてもらえなかったが、幸い幾らか書物の借覧はゆるされた。本を書き写すということを、この勤めで覚えた。が、十月(とつき)余
で、三転して下谷(したや)坂下町に三坪の店(たな)を借り、算術指南の看板をあげておいて朝は湯島の永井正峯方で学ぶなどし、昼からは稲毛屋廻しの煙草
と、あかぎれに効くという故郷(くに)でおぼえた手製の膏薬とを根岸、浅草ときに本所の方まで売り歩いた。
留守中に、看板に偽りなしと頼んで自分で手にあわぬ算術の難題などを預けて行く人がある。“算術”は当時人気の稽古事だった。元吉は夜分それにみな
“解”をつけておき、かたわら調合に工夫をこらして明日からの売り薬を製(つく)る。後に知った話だが同じ町内の作兵衛店(だな)に、長崎での任を解かれ
た独り者の普請役見習(ふしんやくみならい)青島俊蔵がいずれ住むことになっていた。
いつしか天明三年、そして四月も早々と──元吉の家に赤ん坊の泣き声が聞こえるようになった。
と思ううち、或る日梅雨の晴れまに人が寄って、ささやかな葬いを出した。つい此のあいだ中、子を腹に抱いた笑顔が痛々しく美しいと裏店(うらだな)で評
判だった産婦が、もともと華奢に過ぎたからだを弱らせ、やっぱり……死んだ。名はお鳰(にお)。二年まえ母のとせの葬いには船松町の父の家へ出戻ってい
た、あの平秩(へずつ)東作のもの静かな長女が、死んだ。元吉との祝言は内輪に去年六月に挙げさせて、東作はそのあと、上方(かみがた)へひとり長い旅に
出かけて行った──。
お鳰が子を産むという消息(たより)を旅中に聞いた東作は、おどろいた。三月に江戸へ帰って、四月に坂下町で生まれた女の児に、さんと、東作は懐しい自
分の亡き母の名を付けてやり、そして呆気なく鳰が天界に翔び去ってしまうと、この祖父は婿にも黙ってさんをどこかへ連れ去った。使いこんだ鋤鍬(すきく
わ)のように痩せた元吉は、顴骨(かんこつ)を尖らせ両眼をぎょろぎょろと光らせてただ黙っていた。のちに、上野の山下に松屋という客店のおかみが、自分
の娘と一緒にさんも育ててくれていると知れた。てつという名のこのおかみは、東作とは久しい深間の女だった。てつの娘のむつは、あの髷と笑窪のよく似合う
東作次女のお銀よりもう二つほど年下の、たぶん異母妹(いもうと)に違いなかった。
間違って出来たと、言えば言える元吉とお鳰との仲だったが、鳰の短命を予期したかのように慈(いつく)しんでいた東作は、それも良しと、やさしく籠で育
ててきた鳥を望むまま元吉の手へ放ってやった。あの身の細さで、子までなしたかと思うと泣けてならなかった。武骨すぎる元吉の、だが途方もなく大きい手を
とって、東作は、狂歌どころでなくむせび泣いた。
元吉はやがてお鳰の四十九日も待たず、熱心に東作が勧めるまま、師の永井正峯の賛成と口添えもえて音羽一丁目の北夷(ほくい)先生、四十二歳の本多三郎
右衛門利明を新たな師と頼んだ。師は、元吉三十歳の乞うにまかせ、庭の隅の薪(たきぎ)部屋を寝起きの巣に与えた。
聞えた狂歌作者の平秩東作が婿にしていたという、妙にぎろりと色白な今度の新弟子が、かくべつ算術にすぐれている話、しばらく教えた永井正峯もじつは及
ぶまいという話などを、本多利明は気のいい永井自身からも聞いていた。伊勢藤堂(とうどう)侯の家臣で利明の高弟村田佐十郎も、元吉といわば同郷の幕府普
請役で算学天狗の鈴木彦助でさえも、それを保証した。
「なにを、学ぶ……」
そう元吉に訊ねる利明に、居丈高なところがない。
この先生、十八歳で北陸を去って江戸に出ると算学さらに天文と剣を学び二十四歳で現在の地に塾を開いたと聞いていたが、元吉の想ってきたよりは、寛厚そ
のもの。塾頭格に坂部広胖があり、塾中の情誼も見るから敦い。関流に抗してのちに最上流算学の祖となり、天地開闢(かいびゃく)以来の名人を自任した鈴木
彦助、改め会田算左衛門安明ほど強情な男も、利明の人物には終生服していたのだ。
病は過食にあるとこの師は米二合を一日の養いに定め、子(ね=零時)に臥(ね)て寅(午前四時)には必ず起き、無病、片時(へんし)の懈怠(けたい)も
ない。そして一女あって名をお亮(りょう)、よそへは天津(てつ)と漢字で名乗る十九の一人娘が、元吉には手習いの師とも下働きの主人ともなった。妻を夙
(はや)く喪っていた利明が自慢の娘で、女ながら小野流の小太刀をよくつかった。
元吉はかねて岳父からの口移しに、師になにを学ぶと訊かれて即座に天文・地理をと答えた。念を押され、重ねて、測地の技術を学びたい、航海の知識がえた
いと表現(いいかた)をかえた。本多利明は平秩(へずつ)東作とちがい、さまざまな質問で高宮(楯岡での本家の姓を借りた)元吉の能力(もちまえ)を試み
た。それから、良かろう…と、ゆっくり頷いてこの僕(しもべ)を、西日に火照(ほて)った薪部屋へ退らせた。
「……音羽のあの男(せんせい)の眼は、とうから北へ向いている。すりゃ、考えるこたァ測地と航海しかないよ。見ておいで。算学指南なんか、今じゃ看板も
裏面けちまってらァね」
お鳰に死なれ、がっくり床に臥したなり好きな冷酒で、胃の腑を洗うほど日ごと酔っぱらっている東作が、元吉が見舞いに行くと寝床へつらそうに腹這いなが
ら、そんな見透かしたような軽口をしきりに叩いた。そして問わず語りに、死んだ平賀源内がまだ生きていたらといった話を、酔いつぶれるまでやめない。
東作に言わせると、源内は、公方(くぼう)様でも禁裡でもない「日本」のための実学を「世界」との相対(あいたい)で考えた筆頭の日本人だったし、
ひょっとして北夷先生が次席に入る。また世間の評判のとことんわるい老中の田沼様が、昔も今も何に苦心しているかといえば、べらぼうな両替屋(かねかし)
の要らない貨幣政策なンだが、絶対必要ッてことほど世間は、山師のなんのと、尻込みをして潰しにかかる──。
「どうしてお前、いくら人気者だってこれからは世の中を斜(はす)に歩く直次郎(南畝)なんかの時代じゃァないよ。そこへ行くとお前はちがう。正直、わし
ともちがう。けど、あの内気なお鳰を惚れこませた何か妙なもンが、図太いもンが、お前さんには有るよ。望みが、有るンだよ。その望みは狂歌や黄表紙では開
けちゃ来ない。だから……じっと、がまんしな。そして時を待つ間にも、ちょっと音羽へ忍んで、北夷先生の学問を、賢く、盗んでおやりよ」
そうも東作老人は、膝を揃えて眼ばかりむいている元吉のことを唆(そそのか)した。 「北の時代だよ。北の時代……」
だがそれ以上のことは、東作もついぞ洩らさなかった。
だから──
だから元吉は驚いた。酒びたりに、傍(はた)の者は病身(いたつき)かとばかり案じていた五十八歳の東作が、突然旅に出ると魂消たことを言って、諾
(き)かない。どこへですと八右衛門(あととり)夫婦も金兵衛お銀らも止めだてに問い訊(ただ)すと、絶景松島を見て来たいなどと澄ましている。あげく、
若い者がそもそも路用からして案じ顔なのを知らぬふりに、秋八月の初め、御細工町(おさいくちょう)の土山様へと一言のこして、そのまま家に居なくなっ
た。
御勘定組頭(くみがしら)で奉行松本伊豆守の腹心、羽振りもいいが悪名もたいそう高くて、もと同僚の大田直次郎など内心は大の嫌いのその「土山様」なる
宗次郎孝之(たかゆき)の宅へ、牛込(うしごめ)の酔月楼へ、一夜明けた七日もしやと稲毛屋の若い当主が伺いに走ると、今ならまだ上野あたりで間に合おう
と言われた。虫がしらせたか途中池の端(はた)で父の好みそうな雑記帳を買い、まんざら知らぬではないワケ有りの松屋へ着くと、泉水(せんすい)に臨み奥
に築山も見えるはでな座敷を開けひろげて、東作は旅支度かいがいしく見送りの大田直次郎、山道高彦(やまじのたかひこ)、臍穴主(へそのあなぬし)など仲
間と、景気よう名残(わかれ)を惜しんでいる最中だった。
直次郎の四方赤良(よものあから)が、
「松屋ときかば今かへり来ん」と思い差しにうまいことを言いかけると、東作も即座に、
「立ち別れ、いな……」で言いさして「いずれいずれ」と照れてただ頭を下げてみせて、酒をはこんできた妾のてつに、息子の酌をさせた。てつが、稲毛屋の跡
取り登場に遠慮していると見ると、山道高彦が、それもこれもお鳰どのに死なれたが悲しうて旅立つ門出(かどで)と、なだめ顔に若い八右衛門にも、それとな
くさんの育て親のためにも、声をかける。
「それに、屈強の連れもある」と、赤良。
なるほど長崎の人という、ひき締った表情で白皙(はくせき)の新井庄十郎と、弘前の商人とかいう年若な二人が同じ旅支度をしていた。
招かれざる客の八右衛門はどぎまぎして、ただ餞別にと、買ってきた袖珍(しゅちん)の帖面を父に手渡すと、病み上がりの父は黙然と眼を表紙に落としてい
た、が、つと筆をとり、太々(ふてぶて)しいくらいいきなり、こう書きつけた。
紙衣(かみこ)きて阿武隈川へはまるとも
亭主のすきは如何(いかが)仙台
結局──東作は仙台松島どころか、果ては蝦夷松前まで苦心して押し渡ると、江差(えさし)の名主で旧知の村上弥惣兵衛の世話になり、当歳の余も滞在して
きた。
帰路は越後の方へ大まわりして、翌る天明四年(一七八四)五月ごく初めに、ようよう江戸へ舞い戻った。ちょうどそれは、一千の算題を嚢中に、長崎までも
と算額修業に勇んで旅に出たはずの永井正峯と高(宮)元吉とが、わずか芝の愛宕社に一題ずつ掲額しただけで空しく品川から引き返したという、あの、とんだ
さわぎの直後だった。
年がいもない平秩東作の蝦夷渡海は、だが、ただ女房や娘との死別に思い屈してではなかった。まして物見遊山ではなかった。同じ物見にしてもそれは産業や
人情を見分する、探偵するというほどの密命を帯びた旅だった。
その証拠に、と、今なら言っていいだろう、蝦夷地開発開業を多大の国益と見込んで勘定奉行松本伊豆守秀持は、「蝦夷地之儀」につき配下の組頭(くみがし
ら)土山宗次郎に先ず周到な意見書を出させると、当局へ、老中田沼意次(たぬまおきつぐ)の手もとへ取次いだ。それが、ともあれ平秩東作が帰府と見分報告
との直後の、天明四年五月十六日の話(こと)だった。
──それと、……証拠は、もう一つあります。
と、ここで徳内先生(さん)の一と声が有った。香の薫りがかすかに「部屋」を満たしていた。
──聴かせて下さい。それと……
──それと、その時の岳父(おやじ)の連れさ。長崎からの、という浪人庄十郎。姓は新井。字(あざな)は子玄とも、玄海とも。誰と思うね。……この男
が、ソレ青島さんの、例の……「僕が副役」の大石逸平、あれに、そのうち化ける。
── …………
──高(こう)元吉改め、最上の徳内という、そのシキさね。
──と…、のちのち伊勢の檍丸(あわきまろ)が村上島之允に…の伝なンですね。
故島谷長吉氏も、森銑三先生の著書でさえも、「浪人」「無縁人」の「大石逸平」に就ては、天明五、六年の奥蝦夷探検で、最上徳内にも勝る大活躍をした人
と以外、「出所も、その後の履歴も更に知ることを得ない」とされている──。
──参ったナ。早く…教えて下さればいいのに。
が、徳内氏は澄まして、私に話の先を促すのだった。
──青島俊蔵は、平賀源内の実学の弟子というだけじゃなかったンですね。勘定奉行松本のために、蝦夷でぜひ手柄が立てたかった、つまり松本にいろいろ借
りのあった人物でしょう。たしか、青島は以前に女の失敗(しくじり)を松本に庇(かば)ってもらってます。その点土山宗次郎と同じ、松本秀持の子分です
よ。ということは、老中田沼意次からも直系(まっすぐ)の人だ。「北」への判断で青島と話の合う本多利明だってそうだし、土山宗次郎と肚(はら)を合わ
せ、密偵然として資金もたっぷり貰って蝦夷へ出かけて行った平秩東作も、むろん同じ田沼の人脈で一と働きしたことになりますね。
──そうだよ。
──東作と同行した長崎浪人の新井庄十郎が、いずれ大石逸平に変身して、お互い長崎勤めが縁の青島に、下役、副役で付くというのも、むろん田沼─松本の
人脈(せん)に繋がる話。そして、徳内先生にしても、一つ穴……の。先生は、御本にも大石逸平のことを「旧友」と書いていらっしゃる。平秩東作の一時は婿
でもいらしたンですからね。むろんこのお舅は、あなたを、蝦夷地で働かせたい気が最初(はな)ッからあった。そうでしょう……
──それは、一度ならず考えてたンだろうな。しかし、あの時分のわしは、まだ、あんたが今言うたほどの人渦も、時世の渦も、かいもく眼に見えてなかっ
た。……だから音羽の塾へと、おやじさんは勧めたンだろう。そう思うよ。
──じゃ、その人渦と時世の渦とやらを、モちっと覗いてみますか。
と、なる──と、さしずめ六年前、安永七年(一七七八)へ話は遡る。元吉の徳内が、まだ故郷(ふるさと)谷地の青柳家に勤めて、煙草の葉なんかを辛抱よ
く刻んでいた頃へ、遡る──。
四
安永七年(一七七八)、出羽楯岡在の百姓元吉は二十四歳。出番に程遠く、のちに、「最上徳内」を演ずるメイク・アップにも、まだ仕懸かっていなかった。
私は、──山形大学博物館が一括保管しているという故皆川新作氏の「最上徳内史料」がどういう内容のものか、あまりな量の多さからも瞥見(べっけん)より
以上に出られまいにせよ、ぜひ見て置きたかった。そしてその序(つい)でというより、むしろより大事に、徳内生まれ故郷の現山形県村山市、国鉄奥羽本線に
「楯岡駅」と地図に出ている場処も、一度自分の足で踏んでおきたかった。
期待を、大きくは持ちすぎまい。ただ山や川のたたずまいと空の色とが見たいと願ってきた。たぶん、山形に宿をとれば村山市へは日帰りで往き来できる。千
メートルを越す甑(こしき)ヶ岳まで登ってみる気は、なかった。徳内氏(さん)も勧めなかった。
──寒いからね……
そう一言東京で注意を受けてきた。それだけで、私はかなり満たされた。
が、東京は三月はじめからの馬鹿陽気。よぎない軽装で三月十七日に山形入りして、翌る朝早く眼をさますと、音もなく鵝毛(がもう)の飛んで散乱するとい
う春雪だった。東も西も分からない。昨日には見上げたこぶこぶと大きな山なみも、見下ろす七日町通の瓦屋根も、白い静寂(しじま)の底に溶けて沈んで、G
ホテルのロビーは、蔵王(ざおう)のスキーを楽しみに来たらしいバスの客で雑踏していた。
郷土博物館は、大学付属図書館の三階を占めて県内の近世地方(じかた)文書であふれていた。気の若い、けれど七十近いかと思うN氏の有難い親切で、幾重
もの木の棚と史料の箱(ボックス)とで犇(ひしめ)いている保管室の隅、明るい窓べに、私は細長い木机が貸してもらえた。それヘダンボールに二十ぱいもあ
る故皆川氏の徳内史料をひろげ、一部は戦災時に水も浴びたという写本や、原稿や、雑誌地図の類と大童(おおわらわ)に格闘(くみあ)った。
『最上徳内研究』の「ノート」だけで、百冊はある。すべて九ポイントか五号大の細字で、気の遠くなりそうな厖大なペンのあとが浸染(しみ)を帯びて、ごく
昔ふうなボケた罫入りの帳面に、一行の余白どころか付箋で継ぎ足し貼り足しして止めどもない。
これァ、とても読み切れそうにない……のを、それでも基本の写本類から順に大事なものは撰(え)り分け、要点ですむものは書き留めるか持参のカセット・
テープに吹きこむかしながら、都合二百六十六点に分類された史料(なか)から、足かけ三日めの金曜日には、E氏に紹介(ひきあわ)された教育学部Y教官の
助勢に甘えて、徳内著・利明訂の『赤蝦夷風説考』はじめ『赤人問答例』『東蝦夷地道中日記』『松前史略』『最上徳内厚岸乱(アツケシのらん)申上(もうし
あげ)』『蝦夷方言藻汐草』等々の、探しても手に入りかねる写本類を主としておよそ七百枚、昼飯抜きで、夕方までコピーしつづけた。貴重な地図は写真に
撮った。
皆川新作氏のかほどの「研究」は、──最上徳内その人に就てもそうだが、──昭和十八年に氏が六十六歳で郷土偉人伝選書を一冊出版されたきり、昭和三十
二年八十歳での他界まで、いや今日まで、ほとんど顧られることがなかった。現に博物館に山と積まれた筆まめな「ノート」や蒐集が、学生の卒業論文一つにも
かつて利用されたようすがない──。
三月二十日。雪が小雨にかわって寒気のゆるんだ山形市から、すいた急行の四人席を一人占めに、黝(あおぐろ)っぽく枯れかじかんだ盆地の底を楯岡へ向か
う途中、私は、肌寒いというより妙にやるせない気分で、峠の向うは仙台──の、その雪にかがやく二口(ふたぐち)峠や面白山(おもしろさん)の山なみにも
背いて、ひとりひっそり私の「部屋」へ徳内氏を呼び出すと、ただ顔を見合っていた。
──ありがたいこった……
訛りのあるそんな声を、ポツンと聞いた。世間にも忘れられた一人の篤学の、それ以上望めないほどの「研究」や奔走の結果が、幸い保管されて、今かすかに
お前の手で光がさした、と、それへ徳内氏は頭をさげているらしかったが、素直に聞いておれないもどかしさが私にはあった。山形市内にもう都合四日、なのに
「郷土の偉人」最上徳内の、影も見かけなかった。七日町通のはずれの、とある古寺の門前に、思いがけない最上算学の祖、会田安明墓所とした丸ッこい黒い石
碑を偶然タクシーの窓から見て過ぎた、それきりだった。
だが、楯岡駅へ下りて先ず、真向(まっこう)に東にふり仰いだ甑(こしき)ヶ岳は、雪の斑(はだら)に風と小雨とをはらんで、ほおと高く曇天にぬきん出
ていた。なァるほど……独坐大雑峯だ、この上ない徳内記念碑だった。麓では本家高宮太右衛門の子孫が、徳内の生家跡と目(もく)されている新町(しんま
ち)四辻の一画を広々と板塀で囲い白壁で占めて、昔ながらの造り酒屋のほかにスナックも営業していた。
血色のいい当主の宏平氏は、私に一つ若い、つぶらな黒瞳(くろめ)のはにかみやさんだった。なにを訊ねても口で答えるより先へ躰が動いて、いきなり私を
自分の車に乗せてしまう。市役所では市長にひきあわせ、次に社会教育課へつれて行き、私が所望の地図や写真がおよそ手に入ると今度は雨の村山市内を、最上
川をああ渡りこう渡り上手な運転でめまぐるしく走りまわって、ここで写真を撮るとよい、あの山は、その祠(ほこら)は、この道はと訥々(とつとつ)となが
ら説明も行届く。その上で、しこしこと風味面白い板そばもご馳走になった。みがきにしんの煮付を添えて、古い農家をそのまま揚り座敷にして客を迎えてい
る、佗びたそば屋だ。鄙(ひな)の匂いがして、見知らぬ草花が無造作に色んな器に抛げ入れてあった。
──ありがたいことです……と、高宮家へもう一度戻り徳内自筆の添触(そえぶれ)や駄賃帖また所用の矢立(やたて)や測量器を見せてもらって──やがて
残り惜しく山形市へ各駅停車で帰って行きながら、私はまた御出座(ごしゅつざ)願った徳内さんにも思わずそう頭をさげ、さて、いよいよ安永七年の昔へ、元
吉(げんきち)出世の話題へさぐりを入れて行った。雪の出羽三山を遠く背に負い、電車は悠然(ゆっくり)と奥羽山脈に沿うて南へ走るらしい──徳内さん
は、とりあえず凝(じ)っと、私の話すのから聞く姿勢で、手を膝にあずけていた。
安永七年には、出羽楯岡生まれの百姓元吉は近在へ出稼ぎのまだ二十四歳。甚兵衛とすま、両親健在で弟妹もあった。人づきあいはあまりよくないが、なにを
頬ばっても幼少から咀嚼力つよく、ことに算術算盤には天性すぐれ、暦もよく覚えた。貧なりに、子守りなどした年ごろから時を惜しんで書物を借り、読んでし
きりに工夫し、とかく田舎では変人に部類されたろうと「友人」の算学者会田安明は書いている。寡黙、短嘔(たんく)、だが頑健で発明。煙草を刻んでも、細
工をしても、蝋を製しても器用に働いて、なみの材料からちょっとでも上等の品を造り出す。陽気な性質(たち)ではなかったが、鈍(なまくら)にのそりと居
坐ってなどおれない、無駄□を叩くひまに躰が先へ先へ勝手に動いて行く。ぶっきらぼうに動きまわる元吉に、そのくせいわゆる勘ちがいの失敗(しくじり)と
いうことがめったに無かった。そこを「狂客」の平秩(へずつ)東作がよく見込んだ。
もっと大事なこともある。
元吉は、世にいう宝五(宝暦五年、一七五五)の大飢饉に生まれた。楯岡でも稲田は青立ちで、金拾両につき僅か十七俵半。餓死者多く、人は草の根を掘り木
の皮を食った。もし長男で元吉がなかったなら、間引かれていたかもしれない。
本家は加賀金沢から移り住み、造り酒屋だった。母屋(おもや)の間兵衛(まへえ)も相応の百姓だった。が、間兵衛の弟甚兵衛つまり元吉の実父は母屋の敷
地に小屋をかけ、継母は煙草の葉取りなどして、貧しく暮していた。生母を知らず、生まれながらに元吉はまず育った家の、また奥州一円の、さらには同時代日
本の経済の不順不調に苦いめを見つづけてきた。
とまれ──先のまだ見えない元吉のことは、今は措(お)こう。
眼が離せないのはそれよりも安永七年戌(いぬ)の歳の平秩東作、五十三歳。過ぐる年越しには借財嵩んでこの東作、姿を江戸から消していた。「かけとりの
暮の払ひを人問はば宿にはいぬの春と答へよ」と茶化した自作がある。が、遁げた先の下総(しもうさ)には、ちゃんと「別業」を構えていた。
やがて本所相生(あいおい)町の材木店をあっさり仕舞うと、佃島(つくだじま)をまぢかに磯の香に波さわぐ鉄砲洲船松町へ引越した。いずれ懐工合からか
と思うと、そうとも限らないらしく森銑三先生の『平秩東作の生涯』を見ても、東作はこの頃から「勘定奉行石谷淡路守清昌や勘定組頭篠木六左衛門淳房(きよ
ふさ)などを歴訪して、蝦夷地の手入れのことについて奔走してゐた」し、蝦夷の江差(えさし)下(し)タ代(だい)、村上弥惣兵衛が江戸へ出てきたのを
「莫逆(ばくぎゃく)の友」と馴染みあっては、平賀源内ともども本草(ほんぞう)つまり博物学の議論にことよせて、松前事情をしきりと聞きこんでいる。そ
してこの「奔走」や親交が、五年後、密命を帯びた東作蝦夷地への旅立ちとなり、『東遊記』とか『歌戯帖』とかの北辺紀行に実を結んだ。そればかりか、翌る
天明四年からの幕府蝦夷地見分の緒(しょ)にも、しかと、これが繋がった。
東作は、天明九年(一七八九)が寛政とそのまま改って早々の、三月八日に六十四歳で洒々落々(しゃしゃらくらく)と死んでいる。辞世に、
──南無阿弥陀ぶつと出でたる法名はこれや最後のへづつ東作
と、ある。当人に頼まれて臨終の枕辺で、朱楽菅江(あけらかんこう)がこの惚(とぼ)けた
□誦(くじゅ)を、笑うに笑えず、やっと書きとめたという、「平秩東作」とは、半ばはそのような、屁のような狂歌作者の名乗り(ペンネーム)だったし、そ
の彼のいわば眼下に、殷賑(いんしん)をきわめて天明狂歌壇が築かれた。壇上に活躍した三大人(さんたいじん)の、菅江および唐衣橘洲(からころもきつ
じゅう)、四方赤良(よものあから)がそれぞれ東作より十四、十七、二十三歳も年若く、そろって田安の臣、幕府御先手与力(おさきてよりき)、また幕府四
番組御徒(おかち)と、武家の身だった。しかも町人東作に心から親しんだ。敬ってさえいた。
思えば東作が曰(いわ)く「北の時代」とは、また「交際」の時代にも当っていたと謂える。町方(まちかた)に力がつき武家は貧しく、世は、才能ある者の
才と才とが意外に行き交(か)う力で動こうとしていた。十八世紀後半の五十年間はことに「交際」めざましく、風来山人(さんじん)こと平賀源内の如きは、
手をひろげた先々に“今様(いまよう)”の花を色よく咲かせた。
源内は、ご町内の絵師鈴木春信に錦絵創作を使嗾(そそのか)した。堀留町の杉田玄白には『ターヘル・アナトミア(=解体新書)』の翻訳を動機づけた。う
るさい司馬江漢や秋田藩武士の小野田直武らに、油絵の骨法を伝授した。平秩東作の仲立ちで大田南畝ら江戸の売れっ子の多彩な開花も大いに刺激した。科学書
を書き戯文を書き浄瑠璃も書いた。そして山に海に里に、諸国物産振興の種を、はっきり意図して播き散らした。交際に士農工商の別を問わなかった。老中田沼
意次(おきつぐ)へも手蔓は伸ばしていた。そのあげく憤激(じれ)と自棄(わざくれ)から狂を発して人に斬りつけ、牢内で「非常ノ死」を遂げてしまった。
世に「田沼時代」とはつまり「交際」の時代、顔つなぎが物をいう時代だった。顔が利き、顔から顔へ金品も才覚も流れ動いた。悪名高い田沼の“賄賂”とい
うのが、実はそういうことだったろう。偏在し死蔵されている金を、梃子(てこ)にかけてでも流通の場へ掘り起こす、その根もとで、「交際」の四通八達はす
でに基本の政策そのものだった。
讃岐高松藩の儒者岡井ケン(山ヘンに、兼)州を介して高松浪人源内と新宿の煙草屋東作(立松東蒙)とは出逢ったらしい。
その東作と狂歌三大人たちとは、中込の加賀屋敷に住んだ和歌の師匠内山椿軒(ちんけん)の同門として出逢っている。ただし東作は、椿軒・内山賀邸にも就
いたけれど、もとは椿軒ともども、坂(ばん)静山という人に就いて歌を学んだ間柄だった。そして森銑三先生の著述に名の見えていた人、東作の妻とせの仏前
に香料を供えていた勘定組頭(くみがしら)のあの篠木淳房が、やはり同じ静山門下で内山椿軒と並び知られた歌の弟子、つまり東作とも同門同好の久しい誼
(よし)みだった。この篠木が勘定奉行の石谷清昌へ東作を導き、東作は一時期石谷の子息左門のいわば家庭教師のように迎えられていたこともある。
勘定奉行や勘定組頭に顔がつなげたのは、儒学や歌才のほかにも東作に相当な才覚、金には困っていたのだから、金でない或る値打物が売りこめたのにちがい
なく、安永七年当時のそれが「蝦夷地」の情報だったことは、ほぼ疑いない。
東作を、世を茶化すただの狂歌作者と思ってはならない。「平秩東作」の名乗りにしても決して屁の縁語どころか、書経(しょきよう)の「堯(ぎょう)典」
に、「堯は羲仲(ぎちゅう)に命じて東作を平秩(へいちつ)せしめ、また和仲(わちゅう)をして西成を平秩せしめた」とある句に因っている。東作とは春に
播き、西成とは秋に収める。かように経世の志がもともと平秩(へずつ)東作にはあって、それを世人は、平賀源内の志気を「大山師」と眺めていたように、東
作の場合もただ「山師よ」と受取っていた。蝦夷地開業こそ文字どおりの「東作」とこの山師狙い目をつけていたのだから、世間の評判もまんざら的を逸れては
いなかった。
なにより世を挙(こぞ)ってここで一と山当てないでは、いくら座をつくり会所を設けて商人から運上金(うんじょうきん)を取立ててみても根が不順不調の
経世済民に、しかと梃子(てこ)は入らない。幕府の行きづまりを身にしみて見越している老中田沼意次が、妙に周到に遠い所から源内と通じ、また東作をも動
かした、それを必要なことと判断していたのは、むろん面白ずくの思い付きなどではなかった。「北の時代」をだれより待望していたのが、この成上がり稀代の
老中、田沼だった──。
「なぜ……、今、そうまで〈蝦夷〉なのかね」
と、安永七年当時は、だが、幕府要路の石谷も、配下の篠木もまだ、東作の弁を、にやにやと聞き流す構えでしかなかった。
「オロシァ(ロシア)が、松前の近くまで来ております」
「それは有るまい。元文(げんぶん)の黒船(元文四年、一七三九、六月)このかた、そんな報せは一度もない」
「いいえ。現にこの六月にはネモロのキイタップという運上場所に、オロシァの船が来てるじゃござンせんか。交易を求めて場所請負(うけおい)の飛騨(ひ
だ)屋の支配人や、松前藩の上乗役(うわのりやく)に話をもちかけた噂は、江戸へも、もう伝わっています。そりゃ松前藩は報せちゃ来ますまいが、むこうに
は、オロシァには、来年クナシリ島へ来れば相応の返事をしてやるとまで言うているのでございますよ。オロシァの船は望みがもてたと、満足して立ち去ってい
る……」
「信じられんな。ためにする噂だ、それは」
「そうは仰言いますが……オロシァは着々と何年も何年も前から動いているンじゃございませんかね。奥蝦夷の島々を、一つ一つ取りこみながら順々に南下して
いる、蝦夷本島にだって手がもう届いてると、松前の連中はとうに承知しておりますよ。日本とオロシァが、この先どうなることか、自分たちのトクも損も、早
いところ勘定をしっかりつけたいンですからね、松前藩は」
「……そうかナ」
「そうでございますとも。ご存じじゃござンせんか。六年前(明和九年)にゃもうハンベンゴロとやらが、日本の北ヘオロシァが迫っていますと、長崎のオラン
ダ人を通じて御公儀に対して警告していた。そいつァ、オロシァといくさをして捕虜になってたのを、カムサストカから敵の船を奪い取って、日本の東の海を逃
げ切ったってェじゃありませんか」
「怪(け)しからぬことだな。そんなことも知っているのか」
「だれだって、知っておりますよ。松前なんか、気にしてますぜ。あすこの連中はオロシァの動きが事実その通りとよく知ってンですから。ただ表むき火の手が
あまり上がっちゃァ藩として厄介なことになる。蝦夷上地(じょうち)、つまりお取上げなんてェ話になるとえらいこッた。ですから、これまでだってよッぽど
大事なことも御注進ッてこたァしない。隠密、隠密ッてンで、他国者もどうかして松前へ寄せつけまいとばかり、コウ…ですよ」と、東作は両腕で胸の前を囲う
ふりをした。
「抜荷(ぬけに)……が有るのか、な」
「むろん、ございましょうな。しかし申上げますが、なンですよ。今では抜荷の詮議じゃコトが小(ち)そうございますよ。一つは、奥蝦夷のクナシリだのエト
ロフだのを御公儀が放っておきなさるのかッてこッてす。すりゃ、アイヌもろとも御領地はオロシァヘ行っちまいますぜ……だって、現にそう成りかけてますも
の。
もう一つァ、マ、松前藩のこたァ申しませんがね。あの広い蝦夷地の、海辺にだけショボショボと草が生えたみたいに人間(しと)が暮しているッてのは、ど
うなンでござンしょうね。あれァ勿体なかございませんか、まるでよく調べてみようともなさらないで」
「それは、だが松前藩が……」
「松前のお人は、……どうかお叱り下さいますな……はばかりながら、何を考えているやら行方が知れませんや。米ァ作らない、だから無高(むたか)の禄高無
しだが、お銭(あし)のこたア勘定高い。それだけじゃない。江戸と、いえ日本とオロシァとだって、時と場合でちゃっかり両天秤にかけて、津軽の海を向うの
先棒かついで、押し渡って来かねねェご藩主でさネ」
「これ。言うな金右衛門。それは、言うてはならん……」
「はい。……しかし」
五
「よせ」
と言われた東作、手を引いてしまったわけではなかった。が、様子を聞いて平賀源内は首をゆっくり横にふった。
やがて松本十郎兵衛という切れ者が勝手方勘定奉行にあげられる形勢だし、いっそそっちの筋から狙ったがいい。金になる話なら幕府は咽喉からだって手が出
るでしょうと源内は言う。ソレソレ「負うた子」が道を教えますよ、あの大田直次郎なら松本の息のかかった勘定組頭の土山宗次郎と、もとの御徒(おかち)仲
間だ、顔つなぎはなんとでも付けますよと、源内は、東作つくる「おほた子を声にてよめばだいた子よ、いづれにしてもなつかしき人」という南畝(直次郎)贔
屓(ひいき)の狂歌を引合いに、この年長者に対し、いつも、それくらいな敬った口の利きようはしていた。
源内や東作らにも、さりとて何を使途(つかいで)に蝦夷地を拓くという思案が、十分立っていたわけではない。ただ使えそうだ、使わぬ手はないと思いこん
でいた。オロシァが来る。松前藩は、心もとない。すぐ打てる手も、あまりない。やはり田沼を動かすしかないと。
源内は二度長崎を訪れていたし、東作も、明和四年まで長崎奉行兼役だった石谷清昌を頼って、一度ならず西国行きは思い立っている。久しく長崎の動静に二
人とも敏感だった。京大坂を中継ぎに、情報源もそれぞれ手放さなかった。ハンベンゴロことハンガリヤ人のベニョウスキーが、一七七一年にたしかにオランダ
東印度会社に対しロシア南下の動きを警告していたし、翌明和九年には長崎カピタンから幕府へ、定例の「阿蘭陀風説書(オランダふうせつがき)」に依り報告
ずみだった。
── ……オロシァの事情(こと)は、それにしてもよく知らなかったよ と、徳内さん。
──それじゃ端折って、チト復習(おさらい)を と、私。
で──ロシアのことと謂うと、元禄八年(一六九五)ごろ町人学者西川如見が著わしていた『華夷通商考』に「ムスコービア」「オロシア」と名ばかり見えて
いたのが、早い。 その後新井白石が『西洋紀聞』を書いたころでも、「モスコービヤ」はヨーロッパの東北方に茫漠とひろがる極寒の国土、「冬時、氷厚きこ
と、丈におよぶ」大きな影のような国原(くにばら)にすぎなかった。最上徳内がエトロフ島へ、さらにウルップ島までも初の日本人としてすでに渡っていた天
明五、六年になって、ようやく海防の急を促す名高い林子平(しへい)の『海国兵談』が書かれ、しかも「北」への認識は「海」へのそれほどはけっして十分で
なかった。いわゆる「憎むべく恐るべき」ムスカウビヤには「徳を布(し)き武威をひろげた」史上最強の女帝エカテリーナがいる、今にも千島は危い、今にも
蝦夷地は危いと子平は無双ロシアの脅威を説いていたが、ロシア側の事情はずいぶん異(ちが)っていた。その頃、たった三人のどうやら脱走服役者以外少くも
南千島にロシア人の影はなく、ロシアの千島および日本に対する関心は、いっそ立ち消えにちかかったのだ。
一六九七(元禄十)年にロシアは、カムチャツカ半島の占領にすでに手をつけていた。
暴風雨で漂着した大坂谷町通りの質屋「万九」こと伝兵衛をたまたま保護すると、はるばるモスクヴァヘ送り、一七〇二(元禄十五)年一月ピョートル一世は
伝兵衛を謁見、すぐシベリア省を通じて日本政情の調査および対日貿易関係の樹立を命じてもいる。伝兵衛はロシア正教への改宗を強いられ、ガヴリーロフと名
も変えられ、望郷の念をおさえてロシア人に日本語を教えつづけたが、晩年のことはなにも知られていない。
その間に一七一一(正徳元)年、一等大尉イワン・コズイレーフスキイは、早くも「カムチャートカ」から数えて千島の第一島シュムシュ、第二島パラムシル
ヘ渡り、ピョートル一世は「マトマイ(松前)とアポン(日本)国」へ航行可能という報告および、一七一三(正徳三)年にはもう「マトマイ島、ハコダテ・エ
ゾまでの全島」図も手にしていた。日本は江戸(エンド)と大坂(ウザカ)の二大国および諸侯の国から成り、「大元首」をいただいて平和であり、繁栄してい
ると、そんなこともコズイレーフスキイは報告していた。
その後ロシア側の千島および日本への関心にも消長があって、積極的な千島征服の動きもなく、はたして無主の列島なのかという点の確認は容易にとれないま
まだった。断片的な情報をひきつづき入手していたものの、一七二四年以来ロシアの関心は、むしろデンマーク人ヴィトゥス・ベーリングらによるシベリアとア
メリカ大陸との地理関係の探検や開発に向かいがちだった。
一七三二(享保十七)年になって、だがアンナ・ヨアノヴナ女帝およびロシアの元老院は、第二次シベリア・太平洋探検隊に対し、友好裡に日本への航路ない
し通商関係を模索かつ樹立するよう命じているし、三六年には七年前の薩摩漂民のうち、かろうじて生き残ったソーザ(宗左衛門か)とゴンザ(権左衛門か)を
教師に、ペテルブルグ学士院に付属の日本語学校も発足させている。
万端の用意を調えた隊長マルチン・シパーンベルクらの探検船三隻は、ようやく六年後の一七三八(元文三)年にオホーツクを出航した。船は途中で別れ別れ
となり、その年の航海では、千島列島を二十六島ないし三十二島と数えただけで終っている。が、翌年に四隻の船を出し、うちシパーンベルクらの三隻は元文四
年五月二十五日に仙台領網地(あじ)島の沖合に達し、沿岸をやや往来して田代島三石崎の沖合およそ八、九丁で投錨(とうびょう)すると、ここで初めて現地
日本人さらには仙台藩との間で歴史的な初の折衝をもった。
仙台領沖での交易そして交歓はロシア側の記録にくわしく、仙台藩から幕府への逐一報告には、両国間に物々交換のあったことなど省かれていた。但し、現地
の漁師や町人はロシア船の乗員と大勢接触しており、ぬかりない取引や観察記録を、また多くの証拠品をも残していた。
シパーンベルクらの船はやがて仙台を北へ引返す途中も、ハボマイ・シコタン諸島やクナシリ島を遠望してこれにロシア名をつけたり、根室のノッカマプに投
錨してアイヌと交易したり、さらに松前へすらも接近していたりしたのだった。
これとは別に、シパーンベルクと別行動に走っていたヴァールトン船長率いる今一隻も、独自に安房国(あわのくに)小湊の沖合二里に投錨して村民らとかな
り和やかに交歓したり、伊豆下田からたぶん紀伊沖までも沿岸を観測したりしていた。
だがこれら「元文の黒船」は幕府や日本人にかくべつのロシア認識をよび起こすことなく、その後三十年、ロシア船も日本近海に姿を現わすことが絶えてな
かった。オランダは、だが、これを対日本貿易の独占を北から侵す動きととらえて、シパーンベルク報告による航海情報の把握もすばやく、意図してロシア脅威
の説を日本側へ広く流しはじめた。一七七一(明和八)年のベニョヴスキー通信にしてもすかさずそれが日本政府への警告だったかのように演出されたし、幕府
およびおおかたの知識人も、実にこの時からようやく「北」の地図にかすかに関心をもちはじめた。
ちょうど同じその明和七、八年ころだった、当時の老中格用人田沼意次(おきつぐ)のひそかな後援で阿蘭陀(おらんだ)翻訳御用の名のもとに、長崎に、平
賀源内が居合わせた。
源内は長崎での精力に満ちた交際や持ち前の勘の鋭さで、もう数年前にオロシァが、千島第一島の「シュムシュ」から順々に数えてわが蝦夷本島を、第二十二
島と確認している話などを聞き知っていた。南千島をおおかた日本領とはいえないものの、第二十島の「クナシル」までは日本人が進出し、松前藩とアイヌとに
は交易のあること、南千島のアイヌも蝦夷本島へ往来して盛んに交易していることを、オロシァは一、二年前から公式に把握しているとも伝え聞いていた。もっ
ともシパーンベルクやヴァールトンが、朝鮮半島ではなく日本本土の東沿岸にまちがいなく到達していたのかどうか、ロシアでは一七四六(延享三)年までその
実否を問う議論がやかましく絶えなかったという──。
ロシアは、一七五〇年代に確実に千島中部に足場をえた。六〇年代になると、確実に千島南部にも拠点をえていた。当時のロシアは、千島に関して郡山良光教
授また真鍋重忠氏らの本によると、「1・逃散人の復帰工作(既成の領土、領民の維持と安定、徴税の確保)、2・南千島の毛人(アイヌ)の服属工作、新領土
の拡張、南千島の併合」そして「3・対日通商への試行」等を司令し、これを受けた悪名高いカザーク百人隊長のチョールヌイらは、一七六八(明和五)年から
翌年へかけ、南千島で唯一猟虎(らつこ)が棲む第十八島ウルップで初めての越冬を体験した。またアイヌの伝聞として「例年数隻の日本の船が厚岸(アツケ
シ)や国後(クナシリ)島に来ている。二、三ヶ月は滞在して、日用品その他食糧を猟虎の皮、鷲の羽また獣脂などと交換して帰る」旨を当局へ報告した。
チョールヌイに続いた商人プロトジャコノフらは、ウルップ島でアイヌのかつてない烈しい反抗に遭い、二十一人の死者と十一人の負傷者を出したりはしたも
のの、一七七二(安永元)年までに、ほぼロシア人自身によるウルップ島占拠は実現していた。行政上も千島を含むカムチャツカはオホーツク管区から離れ、イ
ルクーツク省に直属した。
ロシア側の千島進出には、当初から国の意図に対し商人の欲が微妙に絡まっていた。時に均衡を失して解(ほど)けもしたが、また回復のつど、地図の上へ垂
らした首の輪は南下の度をじりじり進めた。
一七七五(安永四)年、カムチャツカ長官ベームはエカテリーナ女帝の意を体し、全千島の占領も念頭において、およそ「1・日本人と接触した場合はロシア
人との通商を納得するよう折衝すること、2・相互に通商のため来航する場所を指定するよう同意させること、3・日本人がこれに同意した場合は彼等が望むロ
シア商品と彼等がもたらしうる商品について尋ねること」など周到な指示を与えて、シベリア士族イワン・アンチーピンら五十五人をニコライ号で、ウルップ島
に派遣した。一行は蝦夷本島に到着して情報をあつめ、通商樹立を望む女帝の意向を正しく日本側へ伝えることを第一の主な使命とされていた。
ニコライ号は、だが不運にもウルップの海岸で大破した。救援のため商人シャバリーンらがナタリヤ号でウルップにむかい、かくてわが安永七年(一七七八)
ロシア使節ら三十三人は、エトロフ島、クナシリ島を経つつクナシリ島の酋長ツキノエに案内されて、彼らの暦による六月十九日に「アトキス(厚岸=アツケシ
か)」に着岸した。
日本側の史料は「アトキス」をキイタップ(霧多布)場所のノッカマプと見ているが、ともあれ、史上初の日露交渉は此の地で実現した。シャバリーンと会見
したのは松前藩上乗役(うわのりやく)新井田と目付(めつけ)工藤らで、藩主を措いての交渉には応じられないが、明年七月二十日までにクナシリ島で返事を
しようと当座を糊塗したにすぎなかった。シャバリーンはだが満足し、ロシアもこの報知を大歓迎したという。噂は、早くも年内に、江戸の平秩(へずつ)東作
らへ届いていた──。
ここに到達するまで、ロシアは、約八十年間というものを費していた。が、日本側は、江戸幕府は、指一本もまだ「北」へ動かしたことがないのだった。
翌年、松前藩は国是を楯にエトロフ、クナシリヘの来島もふくめ、オロシァの通商申入れをすげなく拒絶した。ロシア側は出鼻をくじかれ、松前は交渉の一切
を黙秘した。すでに、「ハンベンゴロ」の北警論も黙殺していた幕府は、今度も、北辺の噂は噂として、ただ聞き流した──。
―― ……いかがです、徳内先生。これでずいぶん端折った話なンですけれども。
一と息ついて、私は徳内氏の感想を改めて聞きたかった。
──わしも、……うすうす、察しはつけてた……が。
──徳内先生にして、それぐらいだったんですね。少くも漂流した船乗りたちは別にすると、先生が、ロシア人と文字どおり一つ釜の飯を食って交際した、生
活した、最初の日本人でしたよね。天明六年(一七八六)でしたね。
頷いて、徳内氏はいくらかユーウツな顔をした。
──ハンベンゴロと謂(い)ってましたね、例のハンガリヤ人ベニョヴスキー伯爵の……警告。かなりあの話は広く、早くから洩れてましたね。
──松前でも、それで一ッ時は本気で防御策を考えたらしいよ。が、あそこは……まったくダメな藩で。
──林子平の議論は、長崎のカピタン(商館長)、ヘイトから強烈に吹きこまれてたンですね。日本的ロシア嫌いのあれが、いろんな意味でハシリでしょう、
オランダのうまい口車に、しかし実に個性的に乗っかった。長崎通詞の吉雄耕牛も、友人の哲学者三浦梅園だとか、今や有名になった仙台藩医の工藤平助らにベ
ニョヴスキーの話を意図的に流しています。幕府より民間に、だから、先に北警の動きが、かなりイライラした感じで出てくる……
──ところがオロシァを警戒するというよりは、幕府は、お内証の心細いのを、蝦夷の金銀や産物でどう埋められそうか、そっちを本気で考えかけていたんだ
よ。それで、松前が抜荷で儲けているらしいのにも、敏感だったんだ。
──ロシアにすれば、あの時期は、逆にアメリカと日本のちょうどはさみ討ちで。手薄なカムチャツカが危いとヒヤヒヤしていた時ですよ。それにヨーロッパ
や西アジアとの厄介な駆引をかかえてて、とくに松前との交渉をシャバリーンが仕損じて来たあと、日本の「北」辺へは、よほど消極的でした。
──そうだったのか……
六
──ええ。せっかく取ったようなウルップ島からだって、ロシアは天明二年(一七八二)……と言うと、先生が楯岡から江戸へ出られた翌る年……その年に、
一度は総撤退しています。そして、また出かけて行って、なのにまた天明五年には、よくご存じの……脱走したとかいう例のロシア罪人三人以外が、ぜェんぶ、
ウルップから引揚げちゃっています。
──そうだった。……わしがそのイジュヨら三人の赤人あかじん(ロシア人)に逢ったんだ。そうそう。その通りだったンだよ。……と、さて今度は、日本
(こっち)の事情だネ、お前さんが言いたいのは。
──さよう。あなたはいよいよ望みを抱いて、江戸へ。ぼくは、あした東京へ帰ります。それからです……つづきの話は。
先刻(さき)からややせわしく、香のけむりが身のまわりで渦巻いて、「部屋」の遠くを、かすかに──電車の疾走者。漆山、羽前千歳(うぜんちとせ)、北
山形駅──で、その日は、そこまでで徳内さんと別れた。
「部屋」を出る──と、寒さかまた一段ゆるんだか各駅停車の終点、山形駅まえは、雨が白い粒々に見えるほどの大降りだった。その晩は、Gホテル地下の寿司
屋にずっぽり根を据えて、土地の酒をたっぷり呑んだ。雨は翌る夕方、帰りの列車が上野にまぢかい浦和をすぎ赤羽をすぎる時分に、やっと上がった──。
故皆川氏が蒐めていた写本類は、便箋に、罫紙に、原稿用紙にたいがいペンで走り書きして、表紙がつけてあった。手蹟(て)もいろいろだった。
安永十年の内に、松前藩主一族の一人が『松前志』を著わしていた。写本でそれを読むと、「赤人」は身丈(みのたけ)高く、鼻も高く、腕力に秀で、着る物
使う器材道具みな阿蘭陀人(オランダ)と同じく、ことに鉄砲の扱いは巧妙を極めるなどと書いている。オロシァの属領「カムシカトカ」は北緯五十六度を越え
ており、いわゆる「北夷」の北になお強大な「北狄(ほくてき)」オロシァがあり、広大なこと蝦夷千島など遠く及ばないとの認識ももっていたようだ。著者
は、明らかにベニョヴスキーないしオランダ国の、ややタメにする北警論につよく影響されていた。
しかも松前藩に「北」を防ぐ備えも、構えもない。むしろ蝦夷地の漁場、松前でいう「場所」を請負う商人から運上金(うんじょうきん)を確保する一方、行
動半径の長いアイヌを介して抜荷即ちオロシァや韃靼(ダッタン).清(シン)国との密貿易に、うしろめたい利を稼ぎつづける方を、藩の余禄としていた。幕
府も、それは承知。で、「北狄」はさわらぬ神のままできれば棚上げして、それより公儀の名目で、松前藩のその隠し財産(ポケット)へ、横合いから手をねじ
こみたい。
安永が天明とかわっても諸国に不作はつづき、一揆や打毀(うちこわ)しが年々に度重なるにつけて、北警ではない、明らかに北拓ないし開国開業を、経世の
秘策、豊饒策と説く者の声の高まるのは道理だった。
紀州藩足軽の子から側用人も兼ねて未曾有(みぞう)の老中と出世した田沼意次(おきつぐ)は、天災うちつづく「迷惑=明和九」な年を安永の元年(一七七
二)と改めていらい、十数年、才腕も及ばず連年の天候不順と洪水、噴火、また不作、飢睡に応接の遑(いとま)がなかった。およそ万策尽きながら不屈の田沼
は、それでも印旛(いんば)沼、 手賀沼の干拓に手をつけつつ、祈る思いで、漸く聞こえる北拓の声にじっと耳を傾けていた。
田沼意次については、二つの大きな誤解がある。
一つはいわゆる田沼の賄賂で、彼一人に限っていえば、まず無かったも同然の話。
二つめは意次が孤立無援で潰(つい)えたとの観測で、これも明らかな錯覚だった。小男から成上がって、奥向きには摂政、幕閣では太政大臣を兼ねたような
空前絶後の実務肌が、むろん憎む者も多いなかで己が勢力を布置し扶植しない手は、ない。大老井伊直幸や老中松平康福(やすとみ)、さらに島津重豪(しげひ
で)のような蘭癖(らんぺき)つまりハイカラな大名ばかりでなく、中堅の官僚を巧妙に手下(てか)に仕廻して、情報網は、民間にも慎重に敷いていた。
北拓の説は、その民間から二た筋ないし三筋を綯(な)いまぜに巧みに手繰(たぐ)りとられて、意次自身がかねて勘定吟味役から特に奉行に引上げておい
た、松本十郎兵衛秀持の手で、いつしか一本の政策の形に準備されて行った。
──その場合も……
と、徳内さんはこう言っている。
──源内先生やうちのおやじの、〈北の時代〉が来たぞという判断は図抜けて早かったンです。ところが、源内先生のなにしろあの急な死にようサ。で、稲毛
屋のおやじさんはそれからが慎重だった。身近の者にだって蝦夷地の話はめったに吹かなかった。
──徳内先生が下谷(したや)坂下町で先(せん)の奥さんと、……平秩(へずつ)東作の娘さんのことですが……かつがつ膏薬なんか売って暮しを立ててら
した。ちょうどあの時分ですね、天明三年。お舅が、牛込の土山御殿へしげしげ出入りして密議に励んでらしたのは。
──密議だか何だか……とにかく悪い時節だったンです。浅間(山)は焼ける。寒い夏で稲はどこも青立ち。打毀(うちこわ)しの噂が、ああ何度も聞こえて
きた年はなかった。
──で、いよいよ老中田沼を動かしたという……工藤平助の『赤蝦夷風説考』が、率先幕府によるロシアとの交易を説いて、浮上してくる。それと北夷斎本多
利明先生の、属島開業の勧め。これも、本質は北警じゃなかった。北拓、そして開国交易論だったんですね。そのための造船術、そして航海術……
──ひと時代まえなら、首がとぶところです。
──でも先例が無かったわけじゃないんですよ。明和五年ごろ、すでに或る若年寄の一人がはっきり開国の提案をしたこともある。ともあれ、田沼幕閣は工藤
平助らの説に乗りましたね。大飢饉の天明四年……苦しまぎれにね。
──あの前年の、冬十一月に田沼侯は、息子を若年寄に挙げた。……あれが評判わるくてネ。そのうえ殿中で「覚えたか」でサ。旗本の一人に刺し殺され
て……世間が湧いた。
──憶えてらっしゃいますか、先生は。永井正峯と二人で、芝の愛宕社に難問のあの算額をお揚(あ)げになった、あれは、その天明四年、江戸城中でその刃
傷沙汰のあった翌る日でしたよ。
── …………
──そのまた翌る三月二十六日に、若年寄田沼意知(おきとも)は落命してるんです。それでも、おやじの老中意次が奮起して、工藤の『赤蝦夷風説考』に添
えて提出された勘定奉行松本、組頭土山そして平秩東作らがいわば合作の「赤蝦夷之儀に付(つき)申上候書付(かきつけ)」を、つまりいよいよ蝦夷地見分の
画期的な企画書を、目を瞠(みひら)いて読んだ。それが五月十六日。承認したのが二十一日。窮地に立つ老中が、この一件に賭けていた荒い息づかいが聞こえ
るくらいです。
──うん……
──先生。うんじゃないンです。あのきわどい時点、あの世情剣呑(けんのん)で諸国飢饉のさなかに、長崎ですかナンですか、悠長に西海まで算額一千題奉
納の旅っての。アレ……ウソでしょう。
──これは参る……。あれはサ。いろいろとワケもあったが……あれきりのお芝居ですよ。関流の仲間内が寄って筋書を書いた。そんな……第一、長崎まで路
用もない。
──でしょう。だと思ってました。それにお舅は、平秩東作サンにすれば、蝦夷御見分の儀は、そして徳内先生たちどころの参加も、……かねて思案の、読み
筋だったンでしょ。
──まァ、そうでした。蝦夷は、金になるか。物が、在るか。とにかく幕府は、そいつを早く調べようと……
──その前に、一つ質問。…工藤平助は、紀州藩から仙台藩の医者の家へ養子に行った人ですよね。長崎でオランダ人にも付合ったし、弟子筋を通じて、松前
藩をクビになっていた湊源左衛門といううるさい情報屋とも、交際があったそうで……。徳内先生は、この工藤が田沼用人の三浦庄次へ繋がってた話、その線か
ら彼の『赤蝦夷風説考』が表沙汰になって行ったという話は、あの時分からよくご存じでしたか。
──いや。知らなかった。
──赤蝦夷というのは、カムチャツカ方面のロシア勢力ないしロシア人の風貌を謂ってるンですね。赤人(あかじん)と同じだ。要は、(一)北警と、(二)
抜荷防止と、(三)金銀採掘の三点のためにも、公然ロシアとの間に通商の道筋をつけた方がいい。幕府は一挙両得にも三得にもなる、と工藤は言った……
──工藤平助がと言うよりか、あの本の場合は、根まわしの利いた、つまり田沼党の苦心の合作みたいなもンでしたよ。お膳立てはすっかり奉行の松本伊豆守
がしている。松本さんを手伝って、土山、三浦、それに工藤は工藤の筋で、うちのおやじはおやじなりに、みな奔走していた。……青島(俊蔵)さんもいつから
か、長崎から江戸へ帰って来てた。
──で……。そこで北夷先生、本多利明のいよいよ〈北〉論に就でなンですが…… 〈北夷〉と名乗られたのが、まず、いつ時分からの話でしょうか。
──永井さんが天明二年に算学の本を書いた。それには、北夷・本田(ママ)利明訂とあるよ。
──と、工藤平助の『風説考』……あれの下巻がちょうどその時分に書かれてますね……。そうだ。あの年からですよ。まず田沼用人の三浦が、そのあと土山
宗次郎らが、赤蝦夷の話を聞きに何度も工藤のところへ出かけています。そしてとうとう、開国と交易提案を盛りこんだ上巻の合作にまで、奉行の伊豆守以下大
いに頑張ったというわけなンでしょうが。北夷先生は、そんな動きに、敏感でらした……
──そりゃ敏感だったね。それと工藤説なんかの弱点もよく知っておられた。
──弱点…ですか。
──そう。工藤らにない筋道ってものが、先生のお考えにはあったからね。国力が増すには国産も増さねばならぬ。国産にはしかし限度があり、人は殖えつづ
けている。国用(かね)は現に甚しく足りない。足りない国用を満たすには、他国の力、他国の金銀を取りこむしかない。手段は、交易。だが、日本は海国ゆえ
航海する以外に交易の道は立つまい。なら、安全に航海すべく、何より天文・地理の学問が必要だ。その基本としての算数が必要だ。国家を興すの大端(だいた
ん)とはこれだ……と先生は、いつも。
──国力とは人口である、と。端的に言うと…
──マ、そうです。食糧生産に従う者の人口であると。先生なりに、飢餓時代の体験が根にあった。判断があった。国が富んでいないといけない。でないと、
飢える。人が飢えて死ぬなんかは、政治の失敗でこそあれ、天変地異のせいにされては、困る…と。
──それは、徳内先生も生涯そう考えてらしたンでしょ。『飢饉訓』……アノ論説なんか、山形の大学で今度コピーしてきたのを拝見しました。……たしかに
北夷先生のお弟子さん、なンですね。
──本多先生の国富論に、四大急務というのがある。(一)焔硝、つまり爆薬の力で道を拓き川を治め、とにかく民政に利する。強兵ということは全く考えな
い方だった。(二)に、金銀や金を含んだ銅それに鉄、鉛などを、ただ減らさないだけでなく、進んで外国から手に入れる。根本の考え方は新井白石先生から来
ていただろう。青島さんのも同じだった。(三)に船。船は国の宝。運送交易こそ、国民の幸せと先生は信じておられた。
──そして(四)に、属島の開業ですね。ことに蝦夷地。
──その通り。
──でも本多利明の〈北〉開発論が、今のお話のまァ原則、に加えて、ぐんと具体性を帯びてきますのは、結局、徳内先生の奥蝦夷実地の体験談をよゥく聴か
れて以後……のことでしょう。北地の問題について利明先生のまとまったお考えには、およそ徳内先生の見聞や判断が反映している。今のお話の四大急務。あれ
をまとめた利明代表作の『経世秘策』は面白い良い本ですけれど、あれだって寛政十年頃になってからの総括です。最初の見分隊派遣から十四、五年は経ってま
すからね。天明四、五年ごろの北夷斎は、まだまだ、よほどの観念論……
──と言うより、理想を仰言っていた。但しいつも、学問の確かな足場や手続きを忘れない。外国との交易こそ貧から国を救い出せる。そのための数学、天文
測地、航海術。それと世界事情を知ること。先生は、西洋人の優秀な文化は、その信仰によるかとさえ本気に考えておられた。水戸藩との交際で便宜があった
か、国禁の本も読んでよく話して下さった。漢字は、害。シナに学ぷものはもうなにも無い、西洋だ……と構想(かんがえ)がえらく大きいンだナ。それだけ理
屈ッぽくもあったナ。青島さんのはそこまで行かない。北夷先生をいつも批判して、夢みたいなと。……あの二人は通貨(かね)の議論で気が合っていたンです
よ。二人とも、新井白石という大きな人の仕事を頭に置いでたンだ、最後まで。
──本多先生の感化を先生……ずいぶん。
──わしかね。それは受けたね。第一、アイヌは同じ日本人だという、先生のあの信念。……アイヌにすれば日本人(シャモ)の勝手な言い分ですがね……。
次に、オロシァであれ何処とであれ、戦争(いくさ)は割に合わないと本多先生はよく仰言った。ただ、人のいない所を物色して、オロシァより先に早く坐りこ
めと。つまり属島の、開業だね。
──仰言るとおり勝手な言い分ではあったンですね。〈人のいない所〉と言っときながら、アイヌがすでに住む所を〈日本〉だと。坐りこめと。……アイヌの
都合は考えてなかった。
──オロシァや山丹に掠(さら)われるよりは……
──でも、その物色というのからして、難儀な……大仕事でしたね。
──だから、わしに、ぜひ蝦夷地へ渡れと言われた。
──最初(はな)っから……そう、と。……ほんとですか。
──内々のことは天明四年の、あの真中に相談はついていたけれどね。但し公儀には本多先生の名前で随行を願い出ておこう……。で、イザというところで三
郎右衛門病気につき、当座代役に……と。
──むろん狂言は、平秩東作が、みな書き下した……
──そうだ。先生もご承知で尽力して下さった。でなければ、錚々(そうそう)たる塾生が何人もいたなかで、わしみたいな下男奉公同然、しかも音羽塾へ入
れていただいて二年たつやたたずの新参者なンかが割込めた話じゃ、もともと、ないンだよ。
──徳内先生がよほどお出来になった……最適任だった。
──イヤ門前の小僧サ。ただ頑丈ではあったね。探検にむいた躰(からだ)をしてた。貧苦にも馴れていた。
──見抜かれた岳父も、先生も、おえらい……。で……いつのお話でしたか。
──天明四年。師走はじめには、勘定組頭金沢安太郎、組支配普請役で奉行が見込んでた佐藤玄六郎なんてェ人を中心に、見分(けんぶん)隊員の選考も済ん
でいた。その時分にはもう、最上(もがみ)の徳内で、普請役見習青島俊蔵付きの奴(やっこ)サンで、お届けが通っていた。
──最上徳内……出世の、いよいよ「北」の時代の、発端ですね。
──一件がそう定まるまで、密々にすすめる準備万端は、大変だったらしいよ。松前藩との折衝にとくに時間がかかった、九月か十月かまで。と言うのも、内
々のことは分かりかねるが、要は松前藩から表むき幕府に願い出て、蝦夷地見分の一行を迎えも案内もするッてェ筋書なんだから。千島を調べるだけじゃない。
積荷した、八百ないし千石もの船を新造して二隻、他に櫓(ろ)八挺(ちょう)立ての飛船も二艘造って送りこもうという。公儀の名で、じきじきにアイヌと御
試み交易もしてみようという。それでいて松前の面子(めんつ)も勘定に入れる……。これをぜんぶ、あの松本十郎兵衛ッてェ勝手方勘定奉行は、物指でも宛て
た工合にきちッと手配りをした。あんな出来た人は、二度と見たことがないな……
──江戸から船で、という計画だったンですね当初は。結局は、でも陸路から蝦夷へ……。出発が翌る天明五年、予定よりやや遅れて、……二月でしたか。
──わざと分散してね。なみの旅人の恰好をして。ちょっとした隠密さ。普請役ッてのはあれァ密偵みたいなもンでね。わしは大石逸平らと一緒に、二月十五
日に江戸を発った。
すでに二月五日付け、道中の領主大名、仙台伊達侯、弘前津軽侯、盛岡および八戸(はちのえ)の南部侯家来衆あて、蝦夷地見分隊派遣の趣旨を告示し協力を
求める申渡書(もうしわたししょ)も、申達(しんたつ)されていた。
──で……先生ご自身はその間、いったい、どんな気でいらしたンですか。
──わしかね。
声を跡切(とぎ)らせて徳内氏は、「部屋」の真中で居ずまいを正した。慌てて私も坐り直す、と見届けておいて、
──わしは、あきあきしていたよ。
──へ……
──わしは音羽の家に、薪(たきぎ)小屋に、あれ以上永く居たくなかったのさ。……息苦しくて。それより蝦夷地の方が面白そうだった。達者な猿牽(ひ)
きが手綱をとっている。それなら黙っていい猿になってやろう。そして……いい藝をけっこう見せてやれる気は、有った。からだも思う存分動かしたかった。
──と、……お膳立てに、ただ、箸をつけたンだと仰言るのですか。
──そう言ってくれた方が、本人の気分はらくだね。
── …………
三章 徳内、蝦夷地へ
一
「おかしいのでは、ないか……」
だれが、最初に言い出したか。きまじめが時に押しつけやいやみになる人だが、それでも日ごろ気配りのよい、あれは皆川沖右衛門だったろうか。皆川は普請
役(ふしんやく)の一人で、年齢(とし)三十三。最上(もがみ)出身の徳内より二歳の年長だった。
「おかしいと思う」と、腕組みのまま佐藤玄六郎の引き緊めた物言いも、決断的に耳をうつ。玄六郎、同じく三十三。彼が断定の意味するところ、一同察しはつ
いている。
「たしかに、おかしいことになっている」
山口鉄五郎は、反りをうった木剣のような姿勢で、たいがい人のあとから静かな口を利いた。それが一座の話題を、いつも、何となく締めくくる。そういう役
どころに山口はいた。三十八歳。
奴(やつこ)の徳内が端近に控えていると、同じ幕府普請役五人のうち青島俊蔵は、多弁と寡黙が時に極端に交替しながら、だれより実際に即して考えを決め
ていた。それだけ議論が本筋を一時逸れやすいのも仕方ないと自分で言い、松前藩がこうきつく押し出して来るのなら、一時わざと押されてやればいい、そのぶ
ん向うも土俵ぎわに寄って来るのだから、勝機はそこにあるなどと笑みさえ浮かべて言い抜いた。松前藩はいずれ国替えに、蝦夷地は一日も早く幕府の手で開拓
をと、青島俊蔵ひとりが最初(はな)から此度(こたび)の見分の、的を、そう絞っていた。
「しかし、ものに汐時がある。口を利くにも、それは、有るぞ」と、山口は青島をかるく制(と)める。青島も山□も正しい、と、徳内は黙って聴いてきた。
もう一人、いつも黙っているのが、庵原(いはら)弥六だ、徳内と同じ三十一歳。ただこの庵原は、まれに気持のいい声で短く笑うことがあった。それで何を
今思っているのか、はたの者におよそ見当がつく。水練と、ことに調馬の術に長(た)けた人と徳内は聴いていたが、庵原の起ち居や身ごなしには潔(いさぎ
よ)い舞でも見るような或る型がそなわり、箸を持ってただ飯を食うにも、余人にない自然な間のよさが見えた。
──どんな過去をもつ人たちか……
普請役とは名乗れ、三十俵二、三人扶持(ぶち)をいただくいずれもお目見え以下の御家人(ごけにん)で、互いの出自や履歴もよく知らずまた話しもしない
らしい。表むき勘定組頭の支配下にいて平(ひら)同心格の、任務は半ば“隠密”に近い。が、よく諸国を知り人それぞれ藝も技も秘め持って、勘定方の調査・
探訪となると眼はしも鼻も油断なく利いた。田舎大名に押されてただ退る人らではなかった。
徳内は、有司五人のうち佐藤玄六郎と庵原弥六にいささか畏敬の念を覚えていた。黙々と、朝夕に真剣を振って汗も見せない佐藤の筋骨は、美しいまでにひき
緊っていたし、両膝にぴしと手をそろえた庵原の温容は、如何様(いかよう)のお役にも立つ気骨を感じさせた。松前藩の出方がおかしいのなら、おかしいなり
に受けて立とう、道(て)は幾通りもある。強い手も、ある──。庵原の顔へ遠くから眼を当てていると、徳内にもそんな彼の考えが看てとれる気がした。しか
も徳内自身は、いいかげん苛ら立っていた。庵原弥六のように、物静かに自分の考えを胸に畳んで居られなかった。
──幕府蝦夷地見分の一行が、つぎつぎ津軽の海を渡って松前城下に顔を揃えたのは、ようやく天明五年(一七八五)太陰暦の三月半ば、花に先がけて、見は
るかす大千軒岳の胸もとにも残る雪に春霞のたなびき初(そ)める時候だった。蝦夷地とも思われず、松の翠に知府の隅櫓(すみやぐら)・遠見櫓の白壁が映え
て、松前の春景色は温和にやさしい。 が、奥州路の飢饉は想像をこえていた。二本松、福島の辺まではまだよかったが、南部、津軽の惨状すさまじく、だれも
が、幾十度となく路の辺(べ)に屍(かばね)をまたぎ、野ざらしの骨に蹴つまずいて来た。鶏や犬猫はおろか、錆びた脇差や小刀を腹に突き立てたまま人に肉
を喰われた馬の死骸もころがっていた。人肉を喰ったという噂の三人の男が、眼を狼のように光らせて、じいッと徳内らの行くのを道ばたに跼(かが)んで見
送っていたりもした。だれもが本当に息を喘ぐように、津軽外が浜の三厩(みんまや)で日和(ひより)をみて、松前へ渡る舟便を待ちかね待ちかねして蝦夷地
を踏んだのだ。小舟の危さも、龍飛(たっぴ)沖の汐のはやさも思うゆとりなく、ただもう、何かに対し憤る気持を、じっと凍てた石のように胸に抱いて来た。
舟の行くてに目をこらしていると、茜が一瞬に紫色に変わって、波また波を染め、遠い島山を染め出す夕暮れのあやしさにも、その後しみじみと心細い櫓櫂(ろ
かい)の鳴りや海鳥の声にも、心はそこになかった。もうあの時からだった、徳内は我にもない肝癪玉を咽喉もとへ押しあげあげ、それでも人の言うこと為すこ
とを見つめていた。黙って推し測っていた。が、
「……おかしいのじゃ、ないですかッ……」
普請役の五人、下役も五人、以下竿取や小者ら同勢十数人──の、なかで最上の徳内と呼ばれた出羽楯岡生まれのもと元吉は、江戸このかた、心安い大石逸平
の袖を引いて、或る日とうとう憤然(むッ)と突っかかりぎみにそう口にした。つい今しがた皆川沖右衛門が一座を前にして口を切ったより、たいぶ早い時期
だった。
浪人大石逸平こと、蝦夷地へは二度めの新井庄十郎三十四歳は、徳内が何に腹を立てていたか、判っていた。同感だった。が、相槌が打ちにくいくらい、身の
回りに幾人も松前藩士が差しまわされ、御見分の衆の接伴(せっぱん)をあい勤めていた。
それは、上も下もけじめない款待(あしらい)だった。一衣帯水の津軽南部の困窮(くるしみ)ようが、悪い夢であったかと思うほど魚介も豊富、米は白かっ
た。分に過ぎていた。但し山口鉄五郎も「山口殿」なら徳内も「最上殿」にされてしまう。徳内には、まだしも北夷先生身替りの「学者」で通る裏の筋書があっ
たけれど、中には隊員のただ走り使い、荷負(にな)い、すすぎ洗いの用に、二人と限って江戸から付き随ってきた者もいる。そんな端下(はした)までも松前
藩は「与吉どの」「喜蔵どの」とわざと有司に均しなみの扱いをする。いくら辞退しても、どの機会(おり)どの場処へもいっしょに呼び出そうとした。下役の
引佐新兵衛や里見平蔵らは、有難いことですと意外な松前の厚遇(あつかい)に驚きを隠さなかったが、庵原(いはら)弥六は、乾いた笑いの一と声で仲間の神
経を戦(そよ)がせた。奇妙なことになるぞと、山口鉄五郎はにこりともせず佐藤と目を見合わしていた。見かけの武辺だてによらず、調達にも折衝にもとりま
とめ上手の佐藤玄六郎は、だが、当分は松前藩の振舞(とりまわし)をそのまま受けながら、次の出かたを見る気だった。
慇懃に、藩重役の者が率先して見分衆の接遇に勤めている。が、有司も仲間(ちゅうげん)、小者も区別せず、すべてはこれ幕府の意向に敬意を払っている義
理も果たしているという見せつけだった。微禄、お目見え以下に過ぎない“隠密”“密偵”の普請役に、松前藩はそのようにしてきつい侮蔑を隠そうとしない。
三月の内はまだ、そこがよく見えなかった。冷淡に迎えられるぞという覚悟で江戸を発って来たのが、逆手(さかて)にとられた。隊員の一人ずつを藩士の一
人一人がまるで抱きかかえ、寝起きも倶にせまじき世話の焼きようだった。引佐や里見ならずとも面喰らい、安堵し、与吉や喜蔵はたやすく感激した。だが五日
たち十日すぎて山口や佐藤が三度四度催促に出ても、奥蝦夷へ出発のための相談にはなかなか至らなかった。
藩主志摩守松前道広は、この年三十二歳。二百諸侯に抽(ぬき)んでて蝦夷地は特別という覇気に富み、度胸も策もあった。金も費(つか)った。開闢(かい
びゃく)いらい松前領へ初の幕府役人の手入れは、表むき抜荷(ぬけに)の嫌疑をはらしてやろうと親切ずくだが、老中田沼の肚(はら)は蝦夷上地、そして無
高の松前藩には相当の国替えを命じて北辺の利を幕府が一手ににぎる気でいる。その口実をゆるすなよ。いささかの手土産に、試み交易とやらの利はほどよく喰
わせてやってよし、しかし蝦夷地見分などは以てのほか。せいぜい無駄足を踏ませよと家臣に調査の妨害を指示する一方、この藩主は、交易の荷を積んだ幕府じ
たての大船二艘が松前に湊入りするまで、まず気長に遊んでお待ちあれと自身でも一度ならず山口以下を招いて、賑やかに座を持った。但し郊外はおろか城下の
町や港へさえ江戸の「乱破(らっぱ)」「下郎」を自由に出歩かせない。近くの法幢寺(ほうとうぢ)で歴代藩主の墓参りをさせたり、「松前応挙」の名もとっ
ている道広弟の松前波響の邸でのんびり絵を観せたりして、重職の二、三に分配し福山館(だて)の名で知られた城中におしとどめて、その代り酒色の接待にお
ろそかはなかった。青島俊蔵など、わざとのようにはめを外した。何もかもがんじ絡みだった。
「ご案内……」
そう、声ひとつの間近に、いつも藩士が控えていた。剣呑(けんのん)な物言いを敢えてしても座を外してもらわねば、内輪の相談ひとつならない。よくぞ江
戸表であらましの計画は樹ててきたと、頭(かしら)だつ五人は、予測を越えた松前藩の態度(でかた)に身構えを強いられていた。
「動けるのは八月中が限度です。ましてカラフト、千島への海をアイヌの小舟で往き来など、論外ということです。……こっちは桜の咲くのも、おそい……」
大石逸平が障子をあけると、遠い頂に地蔵山の朱い祠(ほこら)が霞んで見えて、この世の外(ほか)という風情に庭面(にわも)の初桜がようやくほの紅
い。
「着いたころは、莟(つぼみ)がまだまだ堅かった…」
そばにいた山口の下役の大塚小市郎も、顧みに太い猪首をのべて呟いた。松前はけっこう暖かい。海は近いのに、どこへ行っても北向きに山しか見えぬ座敷へ
入れられる。山だけ眺めていると本土の景色とそうもちがわず、なにげなく日はどんどん過ぎて行く。
「江戸の船は待っておれない。と言うて、向う見ずに我々がただ歩いて行けば足る御用ではない。欲しいのは……味方だ」
「味方」という青島俊蔵の物言いに、皆の顔色が動いた。むろん意は通じたが、思案に余る──。
「それなら……あのアイヌです。アイヌと話しあうしか蝦夷の、まして奥蝦夷のことが知れるはずがない」
「あのアイヌ」と、大石逸平がいつか胡坐(あぐら)になって口調を強めたのが、つい数日前に藩主志摩守がアイヌ謁見の図を目(ま)のあたりにして来た、あ
の記憶を喚び起こせという気持だった。そうかと徳内はそろえた両の膝をつかんだ。
──雲に菊花の高麗(こうらい)べり青畳を細長う二十枚敷いて、戸障子をはずした外は、じかに縁側で。庭で。数間(すうけん)先に、高塀をかまえ、棟に
は瓦の、萱葺き四脚門の扉(と)が開けてあった。奥の上座に漢画(からえ)の楼閣山水図はともかく、端近に、ぎらぎらと幾段にもむき出しの槍長刀(なぎな
た)を架け、鉄砲も何挺も立て架けてある。そればかりか座敷の下手(しもて)に菰(こも)が二枚縦に敷いてある。殺風景なそんな場所へわざわざ幕府役人を
呼び出し、重職も居並んで藩主じきじきに如才なげな何の酒盛かと山口・佐藤以下渋い気分で控えるうち、フトざわざわと追い風に異様な臭気と高声(たかご
え)が入りまじって、あいた門からすぐ縁側へ、背に荷物をかついで足早につぎつぎアイヌの男たちが姿を見せた。侍数人に厳しく見張られていた。
三、四尺ある、すこし乾いた太い魚が、六、七本で一つの束になっていた。重そうだった。雫が垂れそうに、網にくるんだ貝や雲丹(うに)の大きな袋もあっ
た。首をのばして思わずほうと声の出たのが毛皮だった、ふさふさとしたその幅広いのをゆるく二つ折りにして、三枚、四枚と縁側へ積まれて行く。
髭の長いアイヌが、色々の鉢巻をして七、八人もいたか。見るからに頭(かしら)だつ大男の乙名(おとな=酋長)二人と、頭も上げずむッつりと、腰を落と
して荷を庭先へ担ぎこむ汐焼けした若者とでは、着ている物も、顔つき物腰、頚に巻いた輪飾りもずいぶん異(ちが)って見えた。一人のこらず跣足(はだし)
だった。
若い男たちはやがて侍に門外へ追われ──る、中の一人が立ち去りかねて振向き振向きするのが徳内の目を惹いたが、その姿も消えた──。残った三人が、前
うしろから急(せ)き立てられ縁先で跣足を清めると、雁行して、互いの手と手を前に後につないだ極端な屁っぴり腰で先導の通辞にしたがい、荒菰(あらこ
も)へ上がった。木の皮で分厚く織ったらしい、風変りな角(かく)や渦の柄(がら)の長衣(アツシ)を細紐一本で締めた前の二人は、掌(て)いっぱいに余
る真黒い大きな髭面に耳飾(ニンガネ)をつけて、眉長く、髪も長く左右と後へ垂れていて、なぜかワウワウと息を荒ませ絶えまなしに身を揺する。手脚は毛深
く、眼窩は深く色も澄んで、しかも終始無表情に見えた。が、もう一人──うしろに転(まろ)び伏したままのが、意外に色白い、肥えた女だった。女は男とち
がい、藍染めの和人の衣裳を袖も通さず肩へ投げかけられ、しんじつ慴(おび)え切って、前の乙名に堅く右の手先を掴まれていた。撫で肩の女のからだ半分が
縁先へこぼれ落ちて、閾居(しきい)の上で膝が割れ、まるい踵(かかと)が赤らんで見えるのを、松前の家臣たちは、
「ヨーレ」
「ヨーレ」と、口々に奇妙にもて囃す。それとて儀式の内なのか、打って変って傲然と口もきかない藩主に代りやがて重臣の一人から先頭の総乙名に近づく、
と、こわい顔でアイヌは痿(いざ)り寄って、裃(かみしも)をつけたその侍のふくふくと柔らかな両手を、さも拝みとるように、自分の胸に摺りつけまた摺り
つけて敬いいただくのだった。それからアイヌはその我が手で、今度は、我が髪をなでおろし髭をなでおろしおろし、初めて「アア」「アア」とでも何か二声ほ
ど甲高(かんだか)く叫ぶとズズズと身を退(の)いて行き、しばらくは文字どおり菰座(こもざ)で低く唸り声を発していたが、ふうッと息が洩れて唸りや
む、と、もう表情もどこか和らいで、大きに脚を割り、小山のように菰を踏んで安座してみせた。
「ヨーレ」と、また声がひとしきり上がる。
それからが、酒だった。髭の羆(ひぐま)のようにわさわさ垂れた、六十過ぎか、また四十前後の乙名二名は、即飯糊(そくいのり)でも刷く箆(へら)みた
いな笏(しゃく)をささげ持ってしきりに来臨の神々をまず祈る風情だったが、つと、その木ぎれで鼻の下の髭をすくい上げ、旨そうに朱の大盤(たいばん)へ
腹這って酒を飲みに飲む。
「お前らの祖先のことは、心得ているか」
さきに拝礼の手を乙名にとらせていた重職らしい武士が、物々しく急にアイヌの方へ声をかけた。裃が似合わない痩せた通辞がとりつぎ、するとアイヌは喚く
ように短く、何かの返事をするらしかった。徳内はたしかに「シャモ(和人)」という一語だけは聞きとった。
通辞が、恭々しく頭をさげて答えていた。
「アイヌのことは、すべて和人が知っておられる、と、そう申しております……」
と、その時まで脇見をしていた松前志摩守の不敵な哄笑が一座を蔽った。
「そうだ。お前たちの先祖はイヌだった。よく覚えよ」
藩公の託宣をアイヌに伝える通辞のたどたどしい声音は、一時に涌く「ヨーレ」「ヨーレ」の声々にかき消えて、徳内らの耳には聞こえなかった。
なにもかも──事あやしげだった。そのあやしげななにもかもを松前侯は幕府役人にわざと見せようと、代替りでも年賀でもない不時の目見え(ウイマム)
に、噂に聞くこれがお味方蝦夷なのか岩之助(イワンノシケ)と名のある乙名たちの舟(チブ)を、三十里離れた熊石の村(コタン)から呼び寄せていた。畏
(かしこま)った恰好(なり)といえば紋羽織を一枚用意して来ただけの普請役(ふしんやく)以下に、仕立ておろしの裃を貸し与えても強いて謁見の場に同座
させながら、あとで思えば、端下(はした)の者が洗足(すすぎ)の桶も水も、アイヌのと同じだった。逸平や徳内らも同じに扱われた。そして徳内だけではな
かった。心ここにない江戸の客たちは、一人のこらずあのアイヌの女が、酒盛の間に侍の手で、丸に井菱、雲母(きら)びきに藍色もなまなましい松前家大定紋
の襖の向うへ牽いて連れ去られて行った、胸苦しいような一場を見覚えていた。泣き騒ぐ声もひしと聞いた。
儀式のあとも異様だった。米・糀(こうじ)の俵がアイヌヘ土産に出され、酒の樽、煙草の把(わ)も庭先へ運ばれてくる。と、大の男が片膝起って、髭をし
ごいて奇声をあげた。酔いも早いのだが、わざとアイヌはそうして「カモイ(殿様)」の意を迎えている、とも徳内には窺えた。
「あんなものでも、場合によって凶暴になります」
「うかとお人の近寄れます相手では、ない」
家中の者からそんな耳打ちが、もう大ぴらにされている中で、門外へ土産を運んでアイヌが退って行く。と、物蔭にひそんでいた手下(てか)のアイヌたち
が、わッと近寄って、もはや誰彼となく早速樽の酒の虚実をさも疑う面持で、しきりに樽を揺すり、中の鳴りに耳を添え、やがて指を探り入れては嘗(な)めて
酒の佳し悪しを試ているらしいのを、松前の侍たちはしかめ面に山口鉄五郎や佐藤玄六郎にも、見よとそっちへ顎をさすのだった──。
けもの──かのように松前藩はお味方蝦夷のことをあしらっていた。そのように江戸の役人に敢えて見せつけた、アイヌを味方に出来るのは松前藩の実力だと
言わんばかりに。「凶暴というのは、事実でございますか」
珍しく庵原(いはら)弥六が口をきいて、家老の蠣崎(かきざき)に訊(ただ)した。藩主が割って入って「権左」と呼び、ちょうど庵原と向かいあってい
た、先刻(さっき)アイヌに「先祖」のことを問いかけた重職へ声をかけ、「シャクシャィン」の話をして聴かすがよいと命じた。
シャクシャイン──の、乱。
それは蝦夷地で起きた未曾有(みぞう)の蜂起だった。佐藤権左衛門の同名の曾祖父が手柄で、そのシャクシャインの頚をもし挙げることが出来ていなかった
ら、当時蝦夷(アイヌ)一万ないし一万五千人の熾(さか)んな火の手は、家臣百人に満たなかったという松前藩を蝦夷地にあって潰滅させていたかもしれな
かった、と、そのとおり松前第十三代の当主志摩守が、自身で先ず物語った。
「いらいあの者らに、容赦はないのじゃ。気を挫(くじ)いて挫いて、先祖と同然の犬に仕向けてやる。海の犬じゃ。結句、それで蝦夷地はよく保つ。シャク
シャイン亡びて、広大な松前領、日本国の北辺に不安など何もないわ」
道広はたわいなく、大方のアイヌが自身を海から来た白い犬の古来子孫と信じているらしいのが、
「あれこれ理にかのうて面白い」と二十七貫のからだを揺すり笑いしながら、小癪な江戸の見分衆を、笑わぬ眼で一人一人見渡した。
二
「……シャクシャイン蜂起のこと。承りたい」
庵原(いはら)が重ねて口を利いて、耳の大きな、すこし怒り肩の佐藤権左衛門の方へ水際立った静かな一礼を送った。
──寛文九年(一六六九)六月下旬だったというから、ざっと百二十年という歳月が経っている。もともと東蝦夷地シベチャリ川に沿うた河口部東寄りに砦
(チャシ)を築いていた乙名(おとな)カモクタイン、脇乙名のシャクシャインらのアイヌ勢力と、サル川上流ハエ一帯に勢いをもっていた総乙名オニビシ配下
との仲で、漁猟圏(イオール)をめぐる執拗に久しい争いが続いていた、が、松前藩はこれを十分和解に導く実力もなく、アイヌらのいわゆるメナシクル(東の
人)対シュムクル(西の人)の血腥い戦闘が、記録に見える限りでも慶安元年(一六四八)頃から繰返されてきた。承応二年(一六五三)春には東のカモクタイ
ンが殺され、代って寛文八年(一六六八)四月には、乙名を引継いだ東のシャクシャイン勢が、ハエのオニビシを殺した。
シュムクルは、むろん烈しく報復の戦(いくさ)をメナシクルに挑んだ。シベチャリ川一枚がじつに東と西とのきわどい境をなし、川をへだてて敵ありの言い
慣わしどおり、川口と上流とに睨み合うて、両軍の築く砦(チャシ)はともに堅固をきわめた。総乙名オニビシの遺志を守るハエのシュムクルは、使者を送って
当松前藩へ武器援助を再々請うて来たが、
「もとより、蝦夷仲間の出入りに、一方への荷担は好ましからず……」
と、語る佐藤権左は、さりげない口調で不介入のあらましを端折った。そして木に竹を接(つ)ぐぐあいに、
「ところが、どういう次第ともよう知れませず、形勢が、にわかに一変したのです……」
声も、なかった。藩中では何百回となく話合われた遠い昔の戦(いくさ)語りであろうに、こう耳を傾けている静かさは、よほどよほどの一大事だったのだ。
徳内は、これまでの話(ところ)、なによりメナシクル(東の人)とシュムクル(西の人)という大きな区別がもつらしい、蝦夷地なりの意義を想ってみずにお
れなかった。
権左衛門は、また言葉をついだ。
互いに死闘のさなかにいたメナシクルそしてシュムクルが、或る朝には忽然と同盟していた。そればかりか、東の乙名シャクシャインは、一時、蝦夷全土のア
イヌに盛んな激(げき)を飛ばし、真実の敵(かたき)は、我が「松前の殿」をおいてないと使嗾(けしか)けてやまなかった。当藩へたまたま差し向けたハエ
の使者の一人が、疱瘡で途中斃(たお)れ死んだらしいのを、松前藩が事実「毒害」したかの流言を、賢(さか)しいシャクシャインが、即座に反松前、反和人
へと同志を煽る蹶起の火種に利用したのだ。東は遠く十勝の白糠(シラヌカ)、オンベツ、また日高の幌泉(ホロイズミ)、三石(ミツイシ)、さらにシコツ、
シラオイ、ホロベツで、西は増毛、シュクツシ、余市、フルヒラ、シリフカ、イソヤ、ウタスツで、東西のアイヌが一斉に蜂起し商船を襲い、和人の船頭、水主
(かこ)また鷹待らを追いつめ、見つけ、鏖殺(おうさつ)した。破壊された船は東西で十九艘、死人は出稼ぎの他国者約二百を含んで都合三百人、いや三百
五、六十人には達していたのかもしれない。
「江戸御公儀へも、もとより御報せをしました。そして御公儀じきじきの命を受けて当藩松前八左衛門らが、津軽南部の鉄砲などの応援もえまして、乏しい人数
で、苦戦を重ねながら巧みに離間の策も混じえて、ついに寛文九年十月十三日、佐藤権左衛門らの松前勢六百余人がシベチャリの砦をにらんで、ピボク(今日の
新冠=ニイカップ)に陣を敷くに至ったのです……」
権左はよくよく頭に入った話をしながら、額に汗ばんでいるのも心づかぬふうだった。
「結局……、どのようにしてシャクシャインは負けたのでございますか」と、青島俊蔵が遠慮のない口をはさんだ。
「それは……です。和睦の使者を立てて和睦した。酒宴を張りました。アイヌは、日本の酒には先刻御覧のようにあれで、容易に酔いつぶれます。で、……頚を
かいた」
「ほう。寝頚をかいたのですね、和睦して」
「和睦は、策の内でした……」
佐藤権左衛門がはじめて汗をぬぐうのを横目に、幕府普請役山口鉄五郎は、剣に似た痩身をやや前かがみに藩主松前道広の方を見た。早急に東西蝦夷地へ班を
分けて見分の旅に出たいから、当藩より案内方また通辞、小者までのお人選びを急いで欲しいとの願いを、すかさず、再度、丁重に申入れた。
「何としても、四月半ばには出立致さねばなりませぬ」
「江戸の船が、まだ着かぬではないか」
「船は、恐れながらこちらの湊でまた荷を積みまして、東はアツケシかキイタップまで、西はソウヤまであとを追うて参れば用の済むことでございます」
「……なるほどな。ま、見る通り人寡(ずく)なな家中のこと。人選びには、いま少し時を貰いたいが。すべてそこの蔵人(くらんど)がことに当る。よく相談
して、御役大切に万事を運ぶが肝腎……」
志摩守は毎度と変らぬ返辞で、家老蠣崎にあとを継がせた。白髪、ごく小柄ながら切れ者で聞えた礪崎蔵人は、曲のない扇子をパチリパチリ鳴らしながら、今
も権左が申上げたとおり、松前城下を離れれば蝦夷地は広大な敵地も同然。装備を厳重に槍、具足、鉄砲もとより、平常の衣類にも、ぜひお目見え以上という格
式を保って威風堂々と出向かれるよう、
「その用意も追って当方で致しますつもり」と、女のような柔らかな声で言い添えた。
「いえ、それは……」と、一度は山口は斟酌ご無用にと押し戻しかけたが、その上の抗弁はわざと控えた。いざとなれば、幕府御公儀の威を負うてなににせよ押
して通るという気がある。佐藤玄六郎も皆川沖右衛門も素知らぬ顔で礪崎の言うことは聞き流していた。
この松前(家中)に今も、重(じゅう)追放されて江戸に潜む、もと藩勘定奉行湊源左衛門らと息の通った者はいるはず。
また城下には、平秩(へずつ)東作やかつての新井庄十郎の身柄を無事ひきうけて、沖の番所の入国詮議を通過させてくれた商人もいると、徳内は江戸を発ち
ぎわに舅の話を聞いて来た。
藩をあげ、松前家にすれば、江戸城の内外(うちそと)で田沼侯逐い落しの画策に肩入れしているにも違いなく、蝦夷地でのこの勝負、なにが岐れめにどう転
ぶか知れない。肝腎の要(かなめ)は、やっぱり時か……。
徳内は、そう思い思いしながらも、さきに、家中の者や藩主の口から「けもの」あしらいに吐き出されていた数々の物言いに、嘔吐感を覚えつづけていた、
……そうだった……。
最上――楯岡をすてて江戸へ奔ると決めたあれは前夜、いやその前の夜だった。へだての山の小松沢観音まで、闇に忍んでもはや永の別れを告げに来たような
従妹のお縫は、星かげにもしるく同じ左の眉のわきと耳のうしろとに、消すすべない乾いた傷あとを持っていた。谷口に小屋をかけて、祖父も父も兄も三昧田
(さんまいだ)のほンの一抱えを細々と耕しながら、人死にがあれば墓穴を掘り、預所(あずかっしよ)に呼ばれては科人(とがにん)に叩きをくれ、時に捕縄
(とりなわ)の尻をにぎり、山立ちに混じって凶状もった者の山狩りにも追い使われてきた。近在の悪童にその生活(なりわい)を嘲けられ、あげく石を打たれ
たのがお縫の眉の傷だった。背戸の薮へ隠れて、自身鋏で突いて死のうとしたのが耳のうしろの傷だった。どっちも八つの歳のことだったと、お縫はとうに思い
あきらめて笑ってさえそれを打明けたが、そう言えば隣村に祭があると、お縫より九つ年うえの背の高い兄は、白い旗の竿を立てて、祭礼の先の先の方を黙々と
ひとり宮の森から村はずれへ、また旅所(たびしょ)へ先導の役を受けもった。その日ばかりは縫の兄は、徳内の従弟は、白い着物を着せられひしゃげた黒い烏
帽子(えぼし)を必ずかぶっていたが、その役だけはどの家のどの若い衆も代る者がなく、徳内の在でも、同様の役をする産所(さんじょ)の安吉のそんな姿を
見るつど、「ゲン」代ってやれと、どこからとなく軽口が飛んだものだ。
徳内の元吉(げんきち)は、そうしたお縫の家と自身との事情(わけ)有りに、漸く心づいて行った。自分の出生にまつわるかげ口が、ほろりほろりとよそか
ら耳に入る。絡む不審を手繰(たぐ)って解(ほど)いて徳内は、いつからか、山向うのお縫の伯母でスマというた人が自分の生みの母だったらしいのを、とう
とうこの従妹の袖をとらまえての挙句、渋々教えられたのだ。
足もとから昏い穴へ落ちこんだようだった。頭のうしろでみしみし血が凍った。が、父の甚兵衛がなかなかスマを手離したがらなかったという話、スマが元吉
を置いて去って、転げこむように山形の廓(くるわ)へ身を沈めた話、スマよりずっと年若い、同じ名前のすまという新町青柳の娘をのちに甚兵衛が娶った話、
自分もいずれ伯母と同じ廓へ買われて行くしか、道がないという話など、十四になるお縫が娘ごころにすっかり此の世の運を断念した顔で、うすれ日のように笑
みさえ浮けて口にするのを、元吉は耳をふさぎたい気持で、しかし段々にくわしく聞いた。聞き知った。
江戸へもし二人で遁げたとしても、それは二人して死にに行くだけの話。死ぬのは一人でいい、「あに」は精出して江戸で男になってくれろ。そんなことをま
だ幼さの残ったお縫はたどたどしく言って、手いっぱいに隠し持って来た桜んぼを、片意地そうに釣鐘堂の框(かまち)で身動(じろ)ぎしない従兄の膝の上
へ、夜目にきらきらと盛ってくれた……。あの、和人の女の着物を着せかけられて、先刻のアイヌ女の突き落とされて行く先が、茫々と波立つ昏い夢のように、
海の底かのように眼に映じてくると、今、徳内はたぎる怒りに、息をするのも苦しかった。
──オイちょっと待ッて。……わしは、そんな話一度もした覚えは、ない……が。
じっと「部屋」で耳を澄ましてくれていた徳内氏が、のッと、しなやかな野球のグローブに似た片手をつき出して、私の作の朗読(よみ)を制(と)めた。
──覚え……。お縫さんの話(こと)ですか。お母さまの……も、ですね。
──両方だ。
──否定なさいますか。
──事実では、ないナ。
──仰有(おっし)ゃるとおり、ぼくの仮設(フィクション)です。つくり話です。が、ホラ水戸藩の木村謙次。アノ、ご一緒に近藤重蔵の手の一人としてエ
トロフヘ渡った、名を改め下野源助の『蝦夷日記』には、徳内継母説が証言されてます。ご存じなかったでしょうが源助は、おそらく水戸藩の意向も受けてのこ
とでしょうか異様に徳内先生(さん)の、私的側面(ブライベート)を詮索して歩いでた男ですよ。現に楯岡へも、殆どその目的で足を一度踏み入れている。理
由(わけ)は、よく分かンないのですが。
結局、でも……先生が出府または出奔後は、彦六といわれる幼い弟さんはじめ妹さんたちが、お母様と楯岡に残られた。家も彦六さんが継がれたンでしょう。
お父様が亡くなって一周忌までは先生も在(ざい)の人でしたが、一年過ぎると即座(もう)……でしょ、江戸へ。よくよくの事情があったと想像したい。学問
のため、なンてなァ、ちょっと……ネ。あまりこの辺のことお話しになりませんけどね。
──それは……そゥ、だが。
──それよりも、申上げたいンですよ。我が最上徳内先生といえば、偉大な歴史上の実在の方です、まぎれもなく。何が偉大か。評価はいろいろ可能ですけ
ど、遠慮なく、ぼくの気持ひとつで言いますとネ。ウルップヘ一番乗りした、カラフトヘもずいぶん早く行ったという、探検家の実績もさりながらですよ。根底
は“アイヌ”との付き合い方だった。そいつが随分りっぱだったと思っているンで……。
当時の日本人は、よほどの識者(ひと)だって、譬えていいますと、一尺なら一尺。まァそんな気短かさでアイヌのことを処理(ナントカ)できると考えて
た。そうでしょう。ただお一人徳内先生(さん)だけが、高元吉(こうげんきち)の昔は知りませんけれど、少なくとも松前に一歩を印してそれ以後ッてもの
は、いつも、比較して一間とか一丈とかいう長い目で、なにを俄(にわ)かに強いるということのないアイヌ人との自然な共存を、ひいてはいずれ日本人に同化
して欲しいと……まァそんなことを考えつづけてらした。いや、アイヌとシャモ(日本人)とは根はいっしょとも考えてらした。あの天明寛政なンて時分
にゃァ、これは無類の好判断で……
──オイ、そンなの困るよ。
──困りますか。でも真実だ。最上徳内の名で最後まで記憶に値するのは、ぼくに言わせりゃ、北方領土なんかとの経緯(ゆきがかり)じゃァない。あのシャ
クシャインに就てのこんな言葉が書き遺されてますよ、「此(この)シャクシャィン常に思ふ様、此島は日本の地を離れ、唐山(もろこし=中国)の正朝をも受
(うけ)ず、開闢(かいびゃく)以来定まれる君主もなきに、近き頃松前侯といへる人乱入して、擅(ほしいまま)に威をふるひ、我々が領分を横領するこそ残
念なれ」と。先生が……すっかりこの気持でいつもいつも動いてたたァ言いませんがネ。でも、この気持が、よう分かるお人だった。
──あんた、無茶を……
──ええ。ぼくは無茶人ですから。ですから小説を書くのに、そういう先生の認識をですよ、ただアイヌヘの同情、哀憐というセンチな話でおわらせたくはな
い。史上の大人物たる先生ご自身に、仮設としてアイヌとどこか同質の痛みを、そうですよ、あのイエズスが十字架(クルス)を負うたように身に負うていただ
くことで、問題の所在……近世矛盾というか、現代にも及んでいる矛盾の所在を、はっきりさせときたい、抗議しときたいンです。歴史小説にはその義務が、あ
る。
──事実を違(たが)えても、かね。
──はい。事実なンてものは……。はなしを架構することで、もし歴史の見渡しがより本質の深みに届くなら、そう作者が確信できるなら、よしんば事実から
はみ出てもむしろ真実(リアリティ)を読者にさし出すべきだと……。そして、器の大きい歴史上の人物ほど、現代の作者のそういう意図に真剣に協力してもら
わねばならン責任さえお有りだし、それで、人物の実像が虚化されるッてことには、成りません。
──こむずかしい話になったナ。
──歴史小説に、事実固執を唱えている人は、寡(すくな)かァありません。けれど、ぼくは、そう思わない。歴史的過去は、ともあれ時空の環(わ)をそれ
なりに完結したまま、風船玉みたいに現代へますますふくらんで問題をなげかけて来てる。完結しているのに未解決……の、この問題の解き方こそ思い切って自
在でいいのじゃないか、自然(リアル)であるならば。これは……ご存じないことを言い募るわけですけどね。西洋の画家を譬えに引きますと、セザンヌの静物
画みたいに、ピカソのキュビズムみたいに、また超現実(シュール)のカンディンスキーやダリみたいに、歴史小説だからこそ創り出せるのだし、創り出すべき
だと思うンです。歴史こそ、ほんとうは仮設(フィクション)でありつづける、……自然という必然を産み出しながら…。だから、歴史観が史実に、じゃなく
て、舌足らずですけど、敢えて、歴史観に史実が奉仕すべきだ……と。
──まァま。……それでもいいよ。つまりお前さんの書く世界では、わしァもゥちッと、マシに生き
直せるという……
──マシにじゃなく……ハッキリでしょうよ。
──ハッキリ……か。
──そうです。先生は、松前城中のあのアイヌとはじめて出会われて、いきなり全部を掴んでしまわれたと思うンです。でも“いきなり”にも地下水のように
繋がった動機ッてものがある……とすると、ぼくの小説の筋道を生かすために仮りに架空の運命を負うたにせよ、お縫さんやら生みの母のおすまさんに、一役を
買ってもらいたい。……先生が、最晩年に須磨雄とまたまた改名されるまで、この地下水の水脈は生きていたと、みたいンです。
──わしの須磨が、彦六たちの母と同じ母でも有りうるンじゃ、ないのかね。
──ええ。けれど、それですと、長男で二十七歳の出奔にも、その後永々の故郷(くに)へ無沙汰という行為(こと)にも、説明がよくつきかねる……。先生
が継母であるすまさんに心を解いてハッキリ近づかれたのは、つまり進んで故郷の土をやっと踏まれたのは、五十三歳になられた三月のことですよ。
── ……よし。先のとこへ戻ってくれ。
──はい。……と、どこでしたっけ。
──青島さんが、ソレ……
三
徳内が我に返る──と、時は天明五年四月七日、所は、松前藩の干渉を避けようやく仲間の顔の揃った、それは福山館(だち)の内にある重職下国舎人(しも
くにとねり)の留守宅だった。青島俊蔵が味方が欲しいと言えば、大石逸平があのアイヌこそ味方にと、なお言葉を継いでいた。
「アイヌはあれで毅(つよ)い、道義もわきまえた男たちよと、南部でもどこでも、漁師たちの中には意外なことを言う者もいました。蝦夷を見くびるのは、
シャクシャィンのこともある、まちがいだと思う」
「逸平の言うとおりです。松前藩こそが我らの敵だ。ここで味方にできるのは、アイヌしかない。但しです……通辞が要る」
もはや脇へ逸れまいと俊蔵は、話の的をしっかり絞った。
「通辞は藩であてがう約束です。侍分の案内人もつく。それと、医者……」
「医者ですか。そりゃ一服、盛られかねない……」
「これ……」と話半ばに割込まれた皆川沖右衛門が、思わず自分の下役(したやく)を制したほど、もう四月に入っていらい、松前藩へ、連中の不信は募るばか
りだった。
「いィや申し上げる。通辞とて、きっとこの藩でなにかと言い含めた者のこと。本当の御役に立ちますかどうか」と、下役鈴木清七は低声(こごえ)ながら眼に
角を立てた。
沈んだ気を引き起こして徳内が、すこし離れた処から口をはさんだ。鈴木さんのご心配も道理と思うが、そのような通辞でも役に立てようはある。隊のだれし
もが、心がけて、通辞相手にアイヌの言葉を二つでも三つでも覚えるのが肝腎なこと、そうすれば早く、また自前でアイヌからものが聞き出せます、と。
「そうお前は言うがナ。なにしろあの物言いだよ、見当がつかねェよ」
剽軽(ひょうきん)な引佐新兵衛が、ことさら情ない声で大石逸平に、アイヌの言葉が幾らか分かるかと訊いた。
「アイノイタク イラモシカレ……」
おゥと声があがった。何だ。何と謂うのだと口々に訊くのを、
「徳内に訊いてみなさい」と、逸平は整った顔立ちをちいさく笑み崩す。
「徳内、お前に分かるのか」と、佐藤玄六郎。
「蝦夷言葉知らぬ。たしか、そういう意味です」
「そうなのか。逸平」と横で大塚小市郎が、血の気の多そうな顔で突っかかるくらいに訊くと、大石は鷹揚(おうよう)に頷いて、
「ナンゴロウ……さよう、その通り」
「徳内は、どれほど分かるのか。どうして覚えたのか」
珍しく山口鉄五郎が、可笑しくてならないという顔で息込んで問いかける。と、逸平は横から引き取った。
自分が、徳内の岳父だったあの稲毛屋の手代(てだい)というなりで以前松前に渡った時は、主に沖の番所へどれほどの数、大坂や西国からの船が出入りする
か、他国者の詮議などはどうしているかを調べていたので、アイヌの立入りを厳に禁じているこの城下でアイヌに出会ったことも、言葉を聞いたことも一度もな
かった。が、稲毛屋の平秩(へずつ)東作の方は江差(えさし)まで出向いて長逗留(ながとうりゅう)の間に名主(なぬし)村上がきっと耳打ちしたのだろ
う、なんでも場所勤めをする熊とか鷹とかいう名の通辞に頼んで、沢山なアイヌ語を聞き齧って江戸へ帰った。それも目はしの利く人で、ただ面白ずくに聞き流
してはこない。「お前の、名は何と チチコルレヘ ネコナ」とか、「食えるものか イベアシカイヤ」とか、「それは、そうでない ネワ
ヤヤンヘ」とか役に立ちそうな物言いばかりを三、四十も教えてもらって東作は書き留めた。徳内は今度のはなむけに、それを貰い受けて来ているのを、江戸を
発っていらい、自分もときどき借りて読んだ……。
「徳内。なぜ早く言わぬ」
山口が呆れたような声を出すと、
「物を言うにも、汐時がございますから」と、徳内は親方の俊蔵青島氏に代り、一座の年長者にかるく一矢をむくいた。ほうッと座が笑いに湧き、すぐ静まっ
て、もう躊躇なく東へ、西へ、二班に別れて奥蝦夷まで見分に出発までの、こまかな申合せが順々に確認されて行った。
まず、東蝦夷地へは班長の普請役山口鉄五郎高品(たかただ)が、下役大塚小市郎、竿取に相良(さがら)の千太という気の良い大男と組み、さらに青島俊蔵
軌起(のりおき)および大石逸平、最上の徳内が組んで「双方へ江戸いらいの小者与吉が随うという手筈だった。厚岸(アツケシ)ないし霧多布(キイタップ)
の交易場所に早く寄りついて鉱山や河川を調べ、江戸からの船を待って交易に当り、さらに汐合いに乗じ一気にクナシリ島またはエトロフ島へ、また沢山なラッ
コの寄るウルップ島へまでも渡ること、可能なかぎりもっともっと奥の島々へも渡って、赤人(ロシア人)の動向、千島アイヌらが交易の実情などもよく見きわ
めて帰ることが彼らの大切な役儀だった。人数も多めに配分されていた。
西蝦夷地(正しくは西海岸ぞいに行く北方蝦夷地)では、ソウヤからカラフトヘ渡って、江戸や上方にも出廻っている色彩(いろあや)な蝦夷錦そのほか山
丹・清(シン)国筋の抜荷(ぬけに)の品々が、どう取引され動いているかを突きとめるため、千島同様なるべく遠くまで見届けて帰る使命が課されていた。班
長の普請役庵原(いはら)弥六宣方(のぶまさ)および下役引佐新兵衛らをこの方面の担当者に宛て、他方、連絡ないし指揮、兵站(へいたん)から交易のため
の予備の事務も含め、江戸での予定を一部手直しして普請役佐藤玄六郎行信、同じく皆川沖右衛門秀道および下役里見平蔵・鈴木清七と小者の喜蔵らが松前に一
時居残る。御用船の到着が大きく遅れており、この変改(へんがい)はやむをえなかった。但し佐藤と下役の二人は、船が着いて御試み交易の用向きをすべて調
えたあとは、ソウヤヘ急ぎ庵原たちを追いかけ、皆川一人が松前で万般、要(かなめ)の役に当る ──。
普請役の格を超えて武器を携(たずさ)え持つ気など、だれにもなかった。成ろうなら御医師付添いも辞退したい。いずれも幾らか身についた医術ならもって
いる。が、これは一応の遠慮ていどに止めた方がよいという皆川の判断に従った。
すべては未踏の地、未曾有(みぞう)の体験。身ごしらえにもおろそかは許されず、行くさきざきアイヌヘ挨拶の米・煙草・酒にはじまって、刃物や簡単な蒔
絵の品々や羽織、帛紗(ふくさ)のような引出物まで、むろん一同の粮食にも、相当の用意が要った。
松前藩との一層の折衝は佐藤と皆川が専任し、大石は、上司青島および皆川沖右衛門と当松前に住む出店を持った江州商人日野屋辰治郎、栖原(すはら)屋三
郎兵衛ら協力者との接触をはかる。
隊員の分宿は藩に強硬に掛け合ってすぐとりやめ。
地図・地勢・請負場所の所在、アイヌの居住地なども各員が上下の隔てなく頭に入れる。数乏しくとも徳内持参のアイヌ語もつとめて暗記し、それ以上に大事
な測地の初歩を、皆がよく習い覚えておかねばならない、それも自然、「学者」徳内の教授にまつしかない──。
「改めて、今一つ心得ていて欲しいこと」と、最年長の山口鉄五郎が、皆を近寄せて言い含めた。
「当松前藩には、他藩にない事例が畏れ多くも東照神君いらい永く公に認められてきた。一つは、諸国から当松前の領地に出入りの者は、必ず藩主志摩守殿の許
可をえなくてはならず、まして他国の商人が、アイヌと相対(あいたい)の商売をすることは断然これを禁じていること。
今一つは、どの地と限らず同じく志摩守殿に断りなしに領地内に船を渡し、また交易取引など敢えてした者のあった場合は、きっと厳正に、藩より御公儀に報
告なすべきであること。この二箇条は徳川の御代が相い替るつど確認され誓約されつづけて来た。むろん皆もその辺はよく承知のことだけれども、此度(こた
び)の見分も、根本はこの二条と微妙に関係している……」
「その通り。当藩には他に侵されない蝦夷地総管領(そうかんれい)の権益が与えられている。与えられてはいるが、その一方で、もしそれが侵された場合正し
く報告なすべき重い義務も負うていた。伊豆守様(勘定奉行松本秀持)の付け目が、それ。松前侯の警戒もそれですよ。
当藩が内々に他国との抜荷買いを、率先、または黙秘して来たともしハッキリすれば、蝦夷は上地つまり公儀没収の処分を受けるだろう、松前家は軽くて国替
えか、改易です。安永七年(一七七八)のオロシァとの折衝で、密々にクナシリ島やアツケシの辺を取引場所にし、アイヌの仲立ちで交易に応じてよい意志表示
など、もし松前藩がしていたものなら、鎖国を破る国家の大罪に当る……。アイヌの乙名(おとな)たちとも、オロシァ人とも、どうかして我々を出会わせ…ま
いとする当藩の妨害は、大抵なことでは済まンでしょう」
青島俊蔵がそう□をはさむと、佐藤玄六郎も、我らの任務はただ見分ではない、いっそ戦(いくさ)の先陣のようなもの、要慎を怠るまいと一同を引き締め
た。
山口鉄五郎が、また坦々と話を継いだ。
松前藩は、要するに「青島さんが今言った、報告の義務」を、爾来おろそかにしつづけ、収益の独占のみ慮(おもんぱか)って来たと考えられる。
むろん蝦夷本島もとより、カムチャツカヘ連なる千島全島(おくえぞ)やカラフト南部をさえ名目上の支配地に数え、おしなべてアイヌに対して君臨するとい
う建前ではいた。但し建前どおりでなかったことは、シャクシャインの乱で明らかな話。
このシャクシャイン蜂起以前は松前城下を中心に、東は石崎、箱館辺から西は熊石へ結ぶ渡島(おしま)半島のわずか南端だけを囲いこみ、アイヌを住ませず
入れず、和人専住の地を固く守りながら、それより遠い地域は、東は襟裳岬手前の幌泉辺、北はせいぜい石狩辺までしか藩の影響力を持てずにいた。ましてエト
ロフ、ウルップまで渡った松前の者はなく、正確な地図もつくれず、蝦夷の大半は昏々瞑々のまま、未踏と未開の日本領土として放置も同然だったと見るのが
当っている。
しかも松前藩のアイヌ支配には、なお不易の原則があって、決して農耕の技を教えず、漁撈の暮らしを一筋に強いつづけた一点、その海や川で獲たすべては松
前藩との間でと、取引をつよく制限し独占しつづけた二点、またアイヌに対して日本語の読み書きを決して教えず、許さず、日本語を話すことさえ厳禁してきた
三点は、藩はじまって以来の全科玉条とされた。
「知ってのように農作をしませんから、石高(こくだか)ではかる知行(ちぎょう)、扶持(ふち)ということがこの国には、無い。広い蝦夷地の、手の届く限
りを幾分割かして重臣重職に頒(わ)けあてがい、その給地内に商い場所を設けてアイヌと交易するのを、だから、許可したわけです。藩主はその利益(あが
り)から運上(うんじょう)という名で相当の金品を納めさせる。無高(むだか)ながら七千石の旗本ないし万石格なみの藩大名に待遇されていたわけですが、
実質は十万石の上という人も、実は意外に貧しいと見ている人も、現にあります。
なににせよ、松前藩にすればアイヌをけものなみに頭をきつく圧(おさ)え、アイヌを使いアイヌから絞り取る。あの礪崎蔵人(かぎざきくらんど)の家な
ど、アイヌと交易の米俵を、もともと二斗入りという定(き)まりから、一気にただの八升入りの俵に力ずく減らしたという張本人で、女子供を不足分の質に奪
い取るのも平気だったと、シャクシャインの乱のころ、水戸や津軽が放っていた密偵らは報告しています。
むろんアイヌを絞るだけでなく、機会あるごとに商い場所を拡げ増やすことも考えた。はては山丹やオロシャと内密に交易して、利を貧りたいとも願ってきた
に相違ない。そうなると神君以来の権益は莫大に独占し、交易の不正を報告する義務の方はわざと怠るしかない。事実そうだった形跡はいろいろ見えている。
アイヌは少くも百年来、漁を以て松前藩に奉仕を強いられ、鷹匠や砂金掘りにも入りこまれ、猟は侵される、人足にもかりたてられてきた。シャクシャインの
檄(げき)に、蝦夷地の多くが文字どおり蜂起したにも道理はあったんだ。公儀でもずいぶんとそれは把(つか)んでいたンで……。けれど、アイヌをどう扱お
うが松前藩を咎めることなど、いつの幕閣も一切考えてこなかった……。
シャクシャインに懲りた松前藩は、むろんアイヌを一層迫(せ)めつけたようです。シャクシャインの乱には加わらずに、松前殿は松前殿、我らは石狩の大将
であり松前藩とてとかく言える相手ではないと独立の勢いを誇っていた石狩アイヌも、だんだんにおさえこまれたらしい。と同時に松前藩は商い場所の経営を、
借財の嵩(かさ)んでいる相手商人に、代って請負わせる方向へ余儀なく転じてきた。たとえば飛騨屋久兵衛です。飛騨屋は、貸金の代償(かた)に、安永三年
には東蝦夷地でクナシリ島を含む三場所、翌年には北のソウヤ場所も請負うて苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)をきわめ、藩とえげつなく訴訟を争っても、手に
した権益を譲らなかった。礪崎系の一派や、あの湊なにがしという藩の勘定奉行が重追放になったのも、そのトバッチリでした……」
見分隊の年長者、普請役山口鉄五郎高品(たかただ)は、崩さぬ姿勢のままさすがに深い息をした。徳内はじっと息をつめていた。
なるほど……見分の一行を迎えて目の前で臭い物に蓋をしおおせ、みごと抜荷買いの嫌疑をはらす気の松前藩もきわどい賭けに出たものだが、そこを付け目
に、飛騨屋請負の奥蝦夷四場所を、暫時(ざんじ)肩代りの形でとりあげて、幕府新造の御用船二艘に江戸商人の手下(てか)を乗せ、試み交易と称して蝦夷地
へ商いに送りこむというのも、御老中のしたたかな賭けだ……なにしろ東照宮様の遺制に背き、松前の独壇場(どくせんじょう)を幕府みずからが侵す挙に出た
というのだから。
ところが、なんと……松本伊豆守を通じて、瀬戸ぎわで、交易という名の金儲けへ老中の肚(はら)をくくらせたその思案は、そもそも蝦夷の江差に半年を
送って帰って来たという、狂歌師平秩東作の胸三寸に出ていた。
──そじゃ、ないンだよ……
と、徳内氏の横槍が入った。
──エ。ちがいましたッケ。
──ちがうとは言わない。が、その思いつきはね。おやじさんが江差にいた時分に、名主の村上とも話し合ってきてたらしくて……。松前領にもさまざまな人
間はいたンでね。松前藩のやりかたを快く思ってない奴は、それなりの思惑テものヲいろいろ持っていた。それと稲毛屋はソレ、鉄砲洲にあのころ家を持ってい
ただろうが。
──ええ。
──その鉄砲洲に、蝦夷地への海路にくわしい堺屋市左衛門という、屈強の、もと船頭が住んでいた。稲毛屋は、親分の土山さんとの話合いで蝦夷へ発つ以前
から、この、公儀廻船の御用達(ごようたし)をつとめる苫屋(とまや)久兵衛の身内だった市左と、ごく懇意でね。いろいろと航海や蝦夷松前の話も聞いて聞
かされてという仲だったのサ。デ、いよいよ蝦夷地探検テ一件が動き出すと、すぐこの男と苫屋とへも伊豆守様からお呼び出しがあったそうだ。普請役の佐藤
(玄六郎)さんがその連絡役だった。
──ヘェ……なァるほどね。
──稲毛屋とその堺屋との間でも、御試み交易の話は出ていたのさ。というのも、餅は餅屋だネ。たかだか二十人の一行を乗っけただけでから同然の大きな船
を蝦夷へ運ぶのでは、波の荒さにかえって負けますッて。いっそ江戸から商いの荷をずっしり積んで行って、松前でさばく。その金でまた荷を変えてアツケシや
ソウヤヘ運べば、儲けはもっと大きい……
──照井壮助さんという人が『天明蝦夷探検始末記』に数字をあげていますよ。この本、幕府記録の『蝦夷地一件』に拠ったたいへんな労作でして、いろいろ
教えられているンですが。「江戸から一文二文で仕入れた品物が、蝦夷地に参れば塩鮭五十六本(ママ)にも交易されるという。しかも蝦夷地から江戸に廻せ
ば、五十六本の鮭は一本が何百文かに捌かれる」と……
──デ、幕府に三千両貸して欲しいと苫屋が言い出した。船は必要なだけ苫屋で新しく造ります、商売もぜんぶ苫屋で請負います、利益は御公儀と分ければい
いんじゃァないか、とね。但し、表むきは幕府の仕事で……
──そうかァ。……デ、強引に飛騨屋の場所へ割込んだわけですね。
──そこは御公儀の威勢だ。飛騨屋はあこぎな商売をしていて、叩けばホコリが出る。松前藩相手の訴訟で、幕府に借りもつくっていた。一方、松前の殿(カ
ムイ)にすれば、領内見分の鋒先を、幕府の金儲け仕事で鈍らせられるなら、辛抱のしどころッてもので。……けれど、この話はネ。実はネ。
──は……
──例の、安永七年にオロシァの船が蝦夷へ来た。そして松前とサ、二年越しに交易の交渉をしたッて……あの噂が江戸へ流れて来た時分に、平賀源内先生
が、先ずうちのおやじに知恵をつけた話なンだと……
──まさか……。でも、ありそう……
──ありそうな、話だわナ。
──要するに天明の蝦夷地探検は、それなりに、煮つまった話であった。歴史的にみて、そういうこッてすね。
──今、想えばね。あの時はわしは、ただイライラしてただけだが。
──船の出来がえらく遅れてましたからね。大きいのが自在丸と神通丸。伊勢の大湊で造らせたンでしたね。結局、これが天明五年(一七八五)四月二十九
日、やっと江戸品川を船出した……
──ちょうど同じその日に、やっと我々も、東へ、北へ、松前から未踏の蝦夷地へ向けて、出発したンだよ。
──アア……ぼくも、北海道へ行きたい……ご一緒させてください!
乗り出して、そう大声が出る、と、徳内氏無言の微笑をのせて、ひいやり「部屋」の内に薫(くゆ)る香りが、顔へ来た。
四
「函館から東の根室までは、鉄道で八六九・九q、上野から青森までの七三九・二qより長く、東京から広島までの距離にほぼ等しい。(北海)道内を旅行する
際は、この広大さを十分に頭に入れておく必要があろう」と、旅の事典でまず読んでおいて、これは役に立った。
最上徳内が初度渡海の昔にも、「箱館」は江差とならぶ「繁華」の湊だった。松前は府城の地ゆえに輻湊の所となっているが、湊ではない。少くも、良い湊と
呼ぶに値しない。「湊口の便」に良い点では、むしろ松前から二十六里はなれた「箱館を第一とす。江差これに次ぐ」と、二年早く蝦夷へ渡っていた徳内岳父の
平秩(へずつ)東作が、旅の金主の勘定組頭(くみがしら)土山宗次郎に差出したであろう報告書の、『東遊記』冒頭に、すでにそう書いてある。
但し天明五年(一七八五)四月末の徳内らは、松前を起点に、東蝦夷地へまず福島そして知内(シリウチ)、当別(トーベツ)と泊(とまり)を重ねており、
現在(いま)の函館辺はかすめて通ったにすぎない。松前から根室までと勘定するのなら、まえの数字に、あと百キロや百十キロほど足し算する必要がある。
五月三日、山口鉄五郎以下徳内らの一行は午まえに当別(卜ーベツ)の会所を出て、道筋にない箱館湊よりすこし北、七重浜から奥へ大野村まで進んで、案内
者の言うがまま本陣にまた宿をとった。はや四泊。ここまで、土質がどこも「農耕に適さぬ」とは徳内らの眼に見えなかった、が、たまに有っても家数(やか
ず)は数軒以内、夏の間だけ畑作をほそぼそと、その余の季節は松前へ引揚げているといった場所ばかりだった。が、大野には家五十軒余、二百人足らずの和人
が住み、箱館名主(なぬし)の支配を受けて、小頭(こがしら)も、年寄の役も備わっていた。
次の朝は、霧で歩きにくいと案内者が制(と)めるのを押して、六ツ前(午前五時前)に出発した。斜めの朝日にめざましい緑色した袴腰(はかまごし)岳、
おだやかに噴烟をあげている横津岳などの山塊に押しやられやられ、それもいつしかに降るほどの狭霧(さぎり)に顔をぐっしょりぬらしながら、ブナやトチノ
キやサワグルミの林を足さぐり、手さぐりに徒歩(かち)で進んだ。
深まる霧に、樹々や草木の底ごもって揺れる影は、誘うかと見えて遠く、また近く、濃い灰色のその底に冷え冷えと沈んで、行くてに二枚の鏡のような大沼、
小沼のさざ波が青くさい水の匂いを風に乗せてくる。わずかな霧のはれまに、見ると、まるで青銹(さ)びが吹いたように無数に豆をまいたほどの島、島、島。
徳内はなぜだか、人が、人の世に一人一人生まれてきたそのままの象徴(かたち)のように、水に浮いた小島の群れを寂しく眺めた。
「流れ山といいます。寛永の昔に、ホラあの赤はだかの内浦嶽(駒ヶ岳)、あれが烈しく火を噴いた。その時に、溶岩といわず、土、石といわず流れて点々と丘
になったのが、ああして水に沈んだものですよ。いつからか樹が育って、なかなか見られる島の景色になった……」
松前藩から添えられた、二人いる侍分(さむらいぶん)の案内者のうち、口の軽い若い近藤吉左衛門の方が、こういうことだと物の名前もたくさん識ってい
て、進んで説明の役をしてくれる。湖畔とも岸辺ともいいかねる湿ッけた沼まわりを、葉広の蕗(ふき)や草深い中の泥地へ、踏みいり踏みわけわけて歩一歩行
くうちにも、ホオノキ、カツラ、カエデ、ヤマモミジそれにブナやトチノキなど色々の新緑が、時たま霧のしたから、燃えたつばかり高い日ざしを射かえすのが
見えたりする。
水勢の急な山川をいくつも越えた。赤井川の猿橋も渡った。小川は徒歩(かち)でも渡った。とうから松前領を出て、右も左もいわゆるすでに蝦夷地だった。
日が高くなるにつれて霧がうすれ、雑木の林が二里、三里つづく景色は、まだそれほど南部や津軽のとちがう気がしない。まだアイヌにも出会わない──。
「このさき、森の湊へ着いてからの話ですが。藩の御手船を拝借して、せめてまっすぐ内浦の海をモロラン(室蘭)へ渡してもらうことは、できませんか」
班長山口の意を受けているらしいすこし強(きつ)い口調で、普請役見習の青島俊蔵は、年かさな方の松前藩案内者浅利幸兵衛の一徹な横顔へ声をかけた。
が、返事はにべもなかった。
むろん船でなるべく直線に行ければ、距離はいくらか縮まる。それにしてもモロランヘ海上十里できかず、この季節、今もごらんのあの雲霧(うんむ)による
海難は、なにより怖れねばならない。ひたすら海沿いを歩くか。浜から浜へ、泊(とまり)を求め岬々を縫って沿岸を、アイヌの手を借り漕ぎ渡って行くか。ど
ちらかですと、浅利は言い切った。
旧暦の四月二十九日に見分の一行が、たしかに松前を発足したという記録は、現在残っている。が、陸路か、海路だったか。ともあれ東蝦夷地の首府と目され
ていた厚岸(アツケシ)の辺まで到着するのに、およそ幾日くらい要したか、だれの本を調べてもよく分かっていない。が、幸い──ほかでもない当の徳内氏の
記憶に私は頼ることができる。で、ほぼ踏査の東班と同じ道を、同じ時季に私も一度辿ってみたい、鉄道で、またバスで、というのが念願だった。目論見(もく
ろみ)だった。
天明五年の旧暦四月二十九日が、新暦だと六月にもう入っているだろう。その見当はたいがいついたけれど、正確に六月何日ごろに当たるかが知りたいとなる
と、『三正綜覧』などで、ややこしい和洋暦の対照を調べねばならない。大の月は三十日で、小の月は二十九日というのも現代ではなじまないし、同じ月を繰返
す「閏(うるふ)」にも頭が痛くなる──が、
「それァ、なンでもない。コンピューターの時代ですから……便利な本がもう出来てます」
と、例によってW大学勤めのE氏は私の願いを電話口で聴きとると、とりあえず三十分もせぬうち、電話で、調べの結果を報せて来てくれた。
「ハイ先ほどの……。天明五年はご承知のように一七八五年で。その旧暦四月一日が、新暦だと五月九日に当ってます。今の五月は大の月ですから、五月三十一
日が旧暦の四月二十三日。六日あとの二十九日ですと、ですから新の六月に入って、六日め。六月六日ッちゅう勘定ですな」
「……と、ナンボ北海道でも、桜の季節やないですね」
「それァ過ぎてましょ。……北海道は、六月が佳いと言いますね。梅雨ってェのが無いんだから。…行かれますか」
「行く気になってます。最上徳内は、蝦夷地で自分の人生を決めました。ぼくも……北海道で、自分の運を変えてきたいンです」
「文運……ですね」
「いえ。……命運ですよ」
「…………」
フト絶句して、なにげなくE氏は口調をあらため、電話口で、「それじゃ七夕の時分にでも……」暫くぶり、お土産ばなしを肴に一盞というのはどうですか、
と言い出す。いちまつ、北海道までわざわざ出向いて、それで最上徳内の小説がどうなるとも不安は最初(はな)から消しようがなかった、だから、いっそ、E
氏の誘いにすぐ乗った。よし。行って来るぞ、という気になれた。
「ア、そうそ。最上徳内は何年でしたか、たしか天保七年(一八三六)やなかったですか。死んだのは……」と、E氏がまた話をもどした。
「ええ。旧暦の九月五日。八十二歳でした……」
「我々の女房どもが、するときっちり百年あとに生まれてますなア。昭和十一年(一九三六)でしょ、お宅も」
「そうです……四月五日生まれ。むろん新暦の……」
「はッは。うちのは端午の節句ですよ。げんきなワケだ。……でネ。ついでに徳内出府の天明元年から、その天保七年までの分、和洋暦の対照表を、せんぶコ
ピーしときましたから。うちのヤツに、明日(あした)くらいに届けさせますよ」
「そんな……こっちから頂戴に上がらせますよ」
「まァた……遠慮はソン慮。うちのも、一度奥さんのお顔見に行こ言うとったンですから。それとホラ。例のご本のこともあるし……自転車で。スグなンですか
ら」
「…………」
と、自転車に乗れない妻(かない)のことを思って、受話器をじっと耳に、そのままE氏の好意を受けた──のが、(反射的に眼のまえのカレンダーを見てい
た)五月連休(ゴールデンウイーク)のすぎた十日、月曜日だった。E氏からの情報をさっそく利用すれば、天明五年なら、四月二日に当っている。よかった
ぞ、四月馬鹿(エイプリル・フール)でなくてと、たわいなくにんまりとしたものの、蝦夷地にせよ北海道にせよ旅立ちを急(せ)く気はなかった。どう勘定し
ても六月中旬まで頼まれ原稿(しごと)が混みあい、旅の段取りなどつかなかったし、そのうえ余儀ない必要からも、せまい庭の奥を、間口いっぱい細長う横に
植木も垣も取り潰して、小書斎付き書庫というのを、今、建てかけたばかりだった。連休あけから職人が入って、遣(や)り方(かた)もすみ、鉄筋の基礎を打
ちはじめていた。
ところで当の徳内氏と「部屋」で逢って縷々(るる)訊ねても、あの天明五年のことは初体験で、なにかにつけ不都合に過ごしたらしく、天測測地も怠りがち
に、後日師匠の本多利明や岳父平秩東作のきつい叱言(こごと)を喰ったと言う。事実はそうでもなかったろうが、幕府に残された「一件」史料でも、天明五年
分に就ては、ここぞという細部の記録は大概欠けていて、大まかな経過をほぼ察するしかない。
──とくに前半がひどかった……
──どの辺まで行って、およそソノ……正気がとり戻せたわけですか。
──さてト……。ユウフツ(勇払)もすぎて、ウラカワ(浦河)の辺かナ。
──苫小牧(トマコマイ)なんかは、じゃア通り越してますね、もう。松前からは、どれくらいの日数……
──いやもう……あの年に限っては……。なにしろ案内役と通辞がハラを合わして道草を食うもンで。はかが行かない……ま、それだって、難処の難処のシャ
マニ(様似)からさきエリモ(襟裳)にかかる辺で十七か、八日めでしょう。
──では……徳内先生。ぼくたちの蝦夷地でのデートを、今の暦で六月の…二十三、四日ごろ、浦河ないし様似で、と約束しましょうよ。
──おもしろいね。
──楽しみです……
とは言え、ぜひとも徳内氏と「同行二人」の行脚(あんぎゃ)がしてみたいと想ってはいない。つかず離れずいっそ東京でのわずらいから数日心も解き放っ
て、それでしみじみ目的地まで、せめて国後(クナシり)島の影の見える所まで行ければ満足だった。ああ、遠く来たなと思えればよかった。
もっともこの「遠い」に就ては「どこから遠い」と、自身に、いつも反問せずにすまぬ気があった。私が生まれ育った京都からか。現に暮している東京から
か。旅の案内どおりに、函館や松前から国後島の見えるという根室標津(しべつ)までが遠いのか。そんなことに、なにか意味があるのか──。
随処に主などと生悟(なまざと)りは言わない。それどころでない、遠い近いとはかれるどんな確かな起点に自分は、根を本当に下ろしているというのか。両
親も知らず生まれて他人(ひと)の家で育ち、海山の恩も感謝もそれはそれは大きいが、此の世のことは、しょせん儚(はかな)いと私は観じている。どこが落
着くといってあの空ろな「部屋」ほど私を安らわせる場処はこの世になく、あの清々しい、光の中に浮き立った雲母(きら)ひきの白い襖を幾重にもあけてあけ
て、人影は見えない明るい静かな談笑の渦輪にいつかさりげなく仲間入りの成る日に、はじめて、私は私の“本来の家”へ帰ったということに、なる。
一瞬の好機が、死が、一気にあの清い襖の彼方へ自分を運び去るか知れない。遠いとは言うまい、ただ日数(ひかず)を重ねる旅にはいろんな機会があるだろ
う。
出立(しゅつたつ)を予定した日へだんだんことが煮つまるにつれ、私は、何を本当に願って自分がまだ知らぬ北海道へ行きたいのか、思わず目をつむって考
えこむ時が、回数が、増えていた。最上徳内のことも、そんな時はふとよそに淡々しい一つの影法師となり、ひそと居坐っているだけだった。
六月二十日のおそく──上野発の寝台車に乗った。時刻表を検討しながら十二時まえには寝入ったらしい、あと三十分で盛岡に着きますと車掌がよその客を起
こしている声で、眼が醒めた。四時十六分。ほの明るく、やがて窓外を花巻の駅が駆け去った。線路ぞいに喬木の青か、いや緑が、意外にふんだんに、みずみず
しい。
岩手川□の小駅を通過してすぐ、まン丸い、強烈な黄金(きん)色の旭(あさひ)をはっきり視線で捉えた。
陸奥(おく)の細道を、寂しやかな孤心の道と思ってきたのに、こう花やいだ新緑に瞼をぬらしながら、しかも懐かしげな家から家づたいに速い電車が走ると
は……。
五時半ごろから、小さなトンネルをつづけざまくぐった。そのつど地勢が変わる。眼下を、一瞬岩を噛んで渓流が落ちて行く。この先の寒さを予期して私はズ
ボン下を一枚はきこむことにした。 ──乗換えの八戸(はちのへ)駅へ、時刻表より、心もち遅れて着いた。
周遊券も買っていない。宿は函館のKホテルが予約してあるだけで、ただ、青森ではなく、野辺地港からフェリーで津軽海峡を函館湾の奥、七重浜まで横切っ
て行くというのが、唯一、今度の旅の心づもりだった。最上徳内の生涯に、いずれ野辺地(のへぢ)の湊町は比重がかかった存在となる。人物叢書の一冊に『最
上徳内』を著わした、故島谷良吉氏は徳内の原籍地はこの青森県野辺地だと、私が生まれるより五年も早くに(歴史地理)という雑誌に論文を書いていた。──
楯岡を見て来たように、野辺地にも、私は自分の眼と膚で触れておきたかった。
五
勘がはたらいて、野辺地で、このうえ望めないと思う徳内ゆかりの人や場処を訪れることのできたはなしは、いずれ機会があろうかどうか。とにかく発船が正
午過ぎのフェリーへ、カンビールやカンコーヒーを仕入れて乗りこむまで、幸い早朝からムダに見知らぬ町で時間をもてあますこともなく済んだ。
どんなかと危ぶんだより船室は広々ときれいで、カーペット敷きの大きな枡席が六つ造ってある。徳内さんの「渡海、トーカイ」はこうは行かなかったわけ
だ、客は私などよりずっと若い人ばかり、十人ほど。乗用車やトラックの運転者にはべつの船室があるらしく、のうのうと広い一枡(ひとます)で一人で横にな
れた。
陸奥湾ははじめてだが、津軽海峡の方は太平洋から日本海へ、ナホトカヘ、ソ連船のバイカル号で通り抜けたことがある。三年まえだった、ご同業の二人とソ
連作家同盟の招待を受け、鉄道でハバロフスクまで、そして飛行機でモスクワヘ飛んだ。
飛行機でいきなりモスクワでなくて、横浜から、客船で津軽海峡を通ると聞いてかえってあの時、気が動いた。最上徳内のことが頭にあった。生涯に九度、ど
れほどの海峡を徳内は渡って行ったのか、いくら地図を眺めていても察しがつかない。下北半島といわず津軽も北海道の山なみも、影ほどには船の上からきっと
見渡せるだろう。それに江戸時代の徳内とソ連とが無縁どころでない事情は、「北方領土」と四文字に括(くく)って差し出すまでもない。漂流者をのぞけば、
ロシア人と起居を倶にした最上徳内は史上最初の日本人だし、パスポートを貰ってロシアを経由ヨーロッパヘ渡ろう、世界を一周しようと心中に企らんだ初の日
本人も、この徳内だった。徳内に、「遠い」という甘えなど、終生なかったろう──。
いつかも訊ねてみたことがある。徳内先生にとってロシアは「敵」でしたかと。
──敵…… と珍しく声をはって徳内氏、しんから愕いた顔をしたが、ふッと息を抜いて、
──敵は……あんただよ
──エ……
──いェ日本人だッてこと。日本人にとって敵は、いつも同じ日本人ですよ。ケチな、ねじけた、気の小さい日本人の根性が、いちばんの敵……
徳内氏はそう言いながら、さもユーウツそうだった──。
津軽海峡をかつて訪ソ作家として東から西へ、日本海へと通り抜けた季節は、今の暦の九月初旬だった。あとで人が呆れたほど沢山、我褒(われぼ)めの「イ
イ感じ」に海づらや、雲行きや、日没前の大気の色を船で撮りまくった──あの海峡を、今度は南から北へ突ッ切るのか……。我が身ひとつで見渡すかぎりの波
の上に大きな十字を描く面白さが気に入っていたが、今度も写真を撮ろうとは思っていない。どうせフェリーの航路は、徳内らがいつも緊張して龍飛(たっぴ)
沖を一気に松前へ押し渡った、あんな海上七、八里の至近距離とちがう。相当の汽船でたっぷり五時間かかって、途中どこと言って見ものもない、あたかも広い
広い盆のまんなかを、ただ──漂うのだ。
船が出てはじめての三十分ほど、陸奥湾の日照りをぼうと眺め渡してはいたが、あとはたいがい船室で手脚をのばして寝ていた。仰向きにじっと寝入っている
と、かえって海の広いのが分かる。
夕方四時半すぎて、またふらりと甲板へ出てみた。日かげの右舷は身顫いしそうに寒い。西日まぶしい左舷へまわると、秀でて美しい大千軒岳からまるでお神
(み)渡り、身幅にあまって金色(こんじき)の光の帯が胸もとへ、眼へ、くわッと奔って来る。
孤(ひと)つかもめが波をかすめ、右寄り二時見当の水平線にぷくッと青い脹(は)れのように、たぶん函館山がもち上がって、もう見えた……か、と思うま
に黄金色(きんいろ)をしていた光の束(たば)がさあッといちめんの桃色に、茜に、うす紫に、漫々と空も、海も、風も、船の上も見る見る色を染め変える
──。
夕陽に、目を焼かれたのか。
夢か。
一瞬徳内氏のことなど忘れていた。それは、身内の深いくらやみから、白い繊(ほそ)いやさしい手がのびて胸の一点をきゅっと、しかも美しくあどけなく掴
んでくるような体感だった。大声でこたえたい熱い悦(よろこ)びに満たされ、私は、甲板に膝を折ってしまいそうだった。北海道! それが私に何であるとも
底知れない、力づよい期待に頬を染めて、じっと夕日にうたれていた──。
函館を、翌朝四時四十五分発という札幌行きの特急券が買えていた。乗船まえに、野辺地駅でとっさに買っておいた。七重浜でフェリーを下り、ホテルに着く
とすぐ函館駅へ、根室までの乗車券を買いに出かけた。途中様似(シャマニ)・えりも・広尾の間は国鉄バスが繋いでいる。その分も通しの一枚切符を手に入れ
てしまうと、あとは翌る朝に乗り遅れさえしなければ、苫小牧(トマコマイ)での乗り換えまで文字どおり軌道に乗っている。明日中には、天明五年五月の蝦夷
地を東へ東へ、だぶん磯浜づたいになにもかも珍らかに足を運んで行く徳内氏(さん)たちに、追いつけるだろう……。函館湾に、きらきら灯の入った真白い大
きな船の見おろせるホテル・レストランで、いささか奮発した肉(ステーキ)を赤のワインで貧(むさぼ)りながら、食事のあとは、夜汽車と船との汗を流して
すぐ寝ようと決めた。
夢を見た。
夢の中で濛々と時間がねじれ、渦巻き、また疾走していた。身も心も私は妙に長くなり、へんに堆(うずたか)くなり、なんだか丸くなって、濃い灰色の嵐の
中で顔をしかめた。
女がそこにいて、女の娘も、いた。昏くて、顔はよく見えないのに、その母娘(おやこ)をよく知っていた。女たちは私を心から愛し、しかも心から怨んでい
た。
時の嵐の意地悪さに、気懼(お)じがして危くただ佇む私のぐるりを、なぜか「ハイ」「ハイ」というあかるい掛け声もろとも、母親と娘とはたちまち烈しい
二条の噴水と化して、胸を高く張った白馬(はくば)かのように疾走しながら、闇もたじろぐ水しぶきの繭で囲んだ。凍る寒さの底にいて、しかも私は徐々に全
身を溶かされ、恍惚と女の膚に身の芯を包まれている快感を覚えていた。やがて、鋭く鳴る金属様の鞭の細さが、一閃肉を裂く痛みに変じた時、燐光を放った凄
艶の美貌がなにか言いたげに虚空から私を覗きみて、瞬時に消え失せた。
「この子を、お願い」
女の声が黄色(きん)の針のように闇の彼方へ消えて行く。と、母に置いて行かれたそれは美しい娘が、しとやかに立って私にまっすぐ笑顔を見せたまま、ワ
タスゲの白い穂のように揺れていた。
「おいで」
私は叫んで、たしかにその娘の名を呼んだ。娘はすぐに動こうとはしなかったが、顔はやさしく微笑(わら)っていた。遠い遠い過去に、過(あや)まって女
に産ませた私の娘だとようやく判った時、地を響(とよ)もし時の扉をこじあけて、何とも知れぬ巨大に背のまるい真黒いものが、夢ごと私の息苦しい眠りを呑
みこんだ──。
夜は白んでいた。三時五十分。身内に、とろっと燃えた熱さが残っている……。とび起きて、からだと顔を洗った。歯もごしごし磨いた。自分で書いた小説
を、夢に見たらしい。十何年来、よく有ることだったが、思わず膚がぬれるというほどのこんな夢は、やはり珍しかった。
函館の朝市をのぞくヒマなく、駅の売店で紙箱のミルクを立って呑んで、ホームで弁当を買って、北斗1号の指定席にどすんと腰を落とした。栓のままの十勝
ワインがバッグに入れてある。定刻に発車。数分で、濛々と沿線は霧になった。満員だった。
霧の底に、くらい影絵になって喬(こだか)い木々が生きものに見えていた。視界──五十メートルか。「噴霧」という表現が活きた感じではじめて去来し
た。が、ごく線路ぞいの新緑はどんな絵で見るより、みずみずしい。吹き降りのまるで雨に叩かれたように、白波立つ広い沼を霧の下にうかがい見た。右に、左
におびただしい蓮(はちす)と菅(すげ)との青い幻惑も感じた。無音の遁走曲(フーガ)だった。霧は切れたり、かと見ると立ちこめていた。
五時十四分、山は見えず「駒ヶ岳」の駅の名を認めた。針葉樹の昏い森に沿ううちにもアセビの花が群れ咲いていた。五時二十分、「森」を通過すると海だっ
た。海っぺたを走った。徳内さんが二日かけた道のりを、四十五分とかからずに通り過ぎてしまった。
塩鮭、筋子、鱈子、数の子、昆布、枝豆、みな少しずつの駅売り弁当「北の家族」が、けっこうだった。霧ははれ、ふつうに雨空という曇り方だ。電車はぎり
ぎり海岸を走っていて、時に舳(へさき)をくッと高くあげたほんの小舟が見え、そうかと思うと内浦湾が遥かに見通せた。こびとのコロボックルに就て最初の
報告を日本語で書いたのも、『渡島筆記』の徳内氏だった。彼らがそのかげに隠れすんだという、あれが蕗(ふき)の葉のお化けだナ……。それと、葉うらを白
く返してずいぶん葛(くず)の叢(くさむら)が目立つこと、と思ううち電車は右へ、海よりへ旋回(カーブ)して一つの尖った岬にかかって行ったりする。
長万部(オシャマンベ)へ着いたのが六時十六分頃だった。はじめて酪農の北海道らしい丸い筒形(なり)の尖塔や、分厚い蒲鉾みたいなトタン葺(ぶ)きの
サイロ(貯蔵庫)を見た。……睡くなった。よっぽど「部屋」に入って徳内氏を呼びたかったが、どのみち今日中に追いつき、追いこす面白さを思ってがまんし
た。
普請役の山□鉄五郎以下、医者、通辞、荷持ちなど同勢十七人はオシャマンベからアブタ(虻田)ヘ移動の時に、はじめて、アイヌの漕ぐアイヌの舟(チプ)
を使っている。それまでは領主支配の矢田・大野・市野渡などを経て、はじめて松前藩士北見覚五郎の給所、つまり知行分として藩主から与えられアイヌとの交
易場所を置いたというカヤベに足を踏み入れ、次いで同じく新井田伊織のノタオイ(野田追)場所、青山団右衛門のユーラップ(遊楽部)場所を、ほぼ浜通りに
順に徒歩(かち)で通り過ぎてきた。
もっともカヤベ場所ひとつに、東は、今日(いま)の渡島砂原(さわら)、掛澗(かかりま)、尾白内(おしらない)、森、鷲の木から、西は石倉の辺まで内
浦湾岸の都合十二ヶ所も含まれていて、うち数ヶ所に運上屋(うんじょうや)が設(しつら)えてあった。
けれど徳内がここで目にしたアイヌ人の家屋は、合わせて十軒もあったかどうか。それより和人の住居が六十軒の上もあって、まだ松前領にいる気がした。前
夜の大野本陣泊(ほんじんどまり)からこの日宿を求めた鷲の木まで九里余り。ぶっつけに霧の願掛(がんかけ)峠へさしかかって、これより蝦夷地と言いたげ
に、まるで塞(さい)の神の風情で、アイヌ人が立てた削りかけの御幣(イナオ)の列を見て過ぎる。と、そのさきは山また山路──と思ううち、踝(くるぶ
し)も湿(ぬ)らす草生(くさう)の沼まわりにいつか足をとられとられ、遠路難渋の終日の疲れは、ようよう内浦の浜辺へ抜けて出た時分には、みなが、がっ
くりと感じていた。
さして目を惹く景色もない。太古このかた生(き)のまま、まはだかのただ浦曲(うらわ)だった。寂しいくらい沖は霧にとざされ、波静か。かるく目かくし
でもされたみたいに徳内は、ときどき渚に立ってホウとした気分に陥(お)ちた。海よりは山に、捉えどころがあった。山には形がある。形が見えれば方角も測
れる。駒ヶ岳、中山峰から北西へかけて渡島半島を斜めに遊楽部(ユーラップ)岳の方面へ、峯々がいわば蝦夷地から松前領を守る天嶮の砦(とりで)をなして
いる。但しいたる処で見て来たブナの林など武蔵野や奥羽(おうう)のそれとすこしも変わらない、と、そう会得したのも徳内は早かった。
モリ(森)の湊でアイヌ人の家をはじめて五、六軒見たのが珍しかった。通辞の巳之助や竹助に、アイヌと話したいと青島や大石から再三もちかけてみたが、
何を訊ねても正直に答える相手でなく、時に凶暴に敵意を見せるので、この先の旅の安全のためにもなるべく接触は避けてほしいと案内者は、首を横にふるばか
り。何者が現われたかと、ことにアイヌの子どもが道の先に見え隠れするのも、松前の侍は邪慳に家(チセ)に居れとでも追い払うようすだった。
それでも、まる裸の腰に組緒を幾重にか巻いただけの、明らかに女の児とみえる七、八つの子が、砂に腹這って指でしきりに絵を習っているのを見た。独特の
衣服(アツシ)の文様を、ああやって女の子は幼くから手習いするのです……。そっと若い方の案内者がそう逸平に耳うちしていた。
「あれはアイヌの家」という家は、屋根も壁も四角く蘆で葺いていた。入口には蘆の簾を立てて戸にしているらしかった。アブタやウス(有珠)の辺まで内浦の
アイヌの家はたいがいあのようだが、日高より東へ行くと丸く尖ンがってまただいぶ違いますとも、口のほぐれて来た中年の医者が、それでも浅利には遠慮か呟
くふうに言いかけて来たりもする。霧は「ウーラリ」で村は「コタン」で花は「エブイ」などと徳内は、習い覚えた。
ノタオイ場所でも、同じようなアイヌの家を二十軒ほど見かけた。産物は昆布、鯡(にしん)、樺の皮が少々。山間の平地や川ぞいで、松前から来ている者も
アイヌ人もどうやら畑を耕しているらしいのが、ひそかな驚きだった。徒(かち)渡りしか方途(ほう)のない川がやたら多いのも意外だった。場処によって一
里も二里も上流(ペナケ)へ迂回して渡らねばならなかったが、そうしてでも足どりをおそくしたいのが案内者の算段であるらしいと、山口らはようやく察して
いた。
ユーラップ場所では、入りぎわのヤモキシナイ(山越内)で五月五日に一泊し、内浦湾の一等奥まった湊のオシャマンベで、次の日また一泊した。入海(いり
うみ)に沿い坦々と輪を描いて、起伏のない砂浜を足を痛めながら歩いて来た。むしろ西へ北へ湾曲していたような浜通りだったが、オシャマンベまで来て、
はっきり海岸線が東に向いたのが分かる。そしてぱったりブナが姿を消し、樹々の葉さきの針のような尖りが目についてきた。
徳内の表むきの役目は、「御用」の旗を立てて測量、と言うより本格の測量に後日役立てる観測基準点と、方位や仰角を測る見通しのいい、偶然に左右されな
い目標点とを物色する作業だった。むろん荷物のなかに方位盤と象限儀は欠かせない。長さの測定には間竿(けんざお)、それよりも間縄(けんなわ)が要する
に手っ取り早いが、歩測や目測を生かす訓練もだいじだった。徳内氏(さん)はその心がけをかねて私に、一つは、歩一歩の歩幅を確かに平静に日ごろ歩くこ
と、土地勘をもつこと、一度持った判断を機会あるごとに修正すること、と要約してくれていた。
その点、仕掛けはタクシーのメーターなみに面白いけれど地面を綱で牽いてころがす量程車(りょうていしゃ)などという重い器械は、ごろた石や穴ぼこ道で
は物の用に立たず、最初(はな)から松前へ残してきた。
測量は、少くも或る地点から目標点まで水平距離を測る三角測量と、垂直距離を測る水準測量とが基本になる。が、徳内以外にそんなことのできる者は一行の
うちだれ一人もなく、旅のあいまに、好奇心ゆたかな大石逸平ひとりひまがみつかれば、ムキになって「先生」に就こうとした。恰好の山頂が見え、沖の石が見
え、岬の鼻が見えると、道中であれ宿であれ徳内をひっぱり出した。案内の浅利も「御用」をさえぎるわけに行かない。松前藩がこの二人を、とくに奴(やっ
こ)なみに見てきた最上徳内の働きを無気味に警戒しはじめたのは、まだ一行が、城下を出立(しゅったつ)の以前からだった。
だが、気がかりな江戸からの船のことも、思い出しておこう──苫屋(とまや)久兵衛が請負の交易廻船二隻、神通丸と五社丸が、伊勢大湊を進水し江戸品川
表に着いたのが、ようやく天明五年(一七八五)の四月二十七日、見渡す限り黄金(きん)の鱗となって燦爛と旭に海の染め出される刻限だった。なぜこう竣工
が遅れたか、明日にも東蝦夷地へとめざしていた松前の徳内らが知る由なく、多くの記録にも真相は全然表われていない。
ともあれ勘定奉行松本伊豆守の指揮で、組頭金沢安太郎以下が懸命に立ち働いた。わずか二日間の積入れ分に、米六百俵、酒百二十樽、木綿千二百余反、鍋釜
四百、古着四百七十、油の空樽千などを載せた手際の良さで、これも新造の飛船(ひせん)二隻、艀船(ふせん)も二隻を引連れて品川を船出して行ったのが、
何度も言う四月二十九日の、午まえ。昔の暦でいわゆる入梅に間近い。これが北前(きたまえ)の、つまり日本海航路の船なら、江差(エサシ)松前を「隣り行
き」くらいに易々と通っていたというが、太平洋を行くとなれば、よほど沿岸を縫って慎重に北上しないと、難船はもとより、あっというまに奥千島やアレウト
列島まで運ばれてしまいかねない。
北海道にたしかに梅雨は、ない。そのかわりガス(雲霧)が濃い。
徳内らはオシャマンベから、とにかくアイヌの舟に初めて乗った。イタオマチップと呼ばれた漁の小舟、櫂で漕ぐ丸木舟だ。帆はない。国鉄「礼文」駅に近い
礼文華峠からイコリ岬へかけて、天明のむかし内浦湾の奥でここだけは浜通りに通れない、きつい難所になっていた。現在(いま)なら「静狩」を経て、まぶし
い緑の山あいをところどころ千切れたような霧の漂いを縫っては、また、海沿いに断続するトンネルを抜けて行けばよい、私の特急「北斗1号」は快調に難所を
過ぎた。
「洞爺(トウヤ)」まで、つまり徳内一行が丸木舟を下りたアブタの辺までつづけざまにトンネル。フラッシュのように迫る山の斜面、一徹に鍬(くわ)をおろ
す農夫、そして右に手に触れそうに鈍雲(にびぐも)の海が広がり、霧は遠くへ退(の)いていた。高い山を、一度も見ないできた。窓ガラスに額をつけて線路
ぎわをのぞくと、黄菊が化けたような大きな花が咲き群れ、虎杖(いたどり)だか葛だか裏吹きかえす風に一面に葉を茂らせていたが、遠みに小高い土坡(ど
は)を占めている木々の背は低く、幹も細い。
徳内さんらはやがてウス(有珠)から先、エトモ(絵鞆)、ポロペツ(幌別)へと果てしない浜行きの歩き旅を、じれったくつづけて行ったのだ。「臼(う
す)」の禿山はその頃もひっそりと噴煙を熄(や)めていた。私の電車はやがて「東室蘭」に着くらしく、窓の外が、にわかに都会ふうに騒がしい。
今度こそ本当に睡くなった。夢も見ず私は、眠りに落ちて行った。いつか苫小牧(トマコマイ)で、ゆり起こされたように目が醒めなかったら、乗り越してし
まうところだった。
六
乗換えの苫小牧(トマコマイ)で、様似(シャマニ)行き「えりも2号」の発車まで四十分あまりの待合せ、まだ、朝八時をすこしすぎただけだった。けっこ
う人のあふれた待合室の入りぎわで、かつがつ二つあいている椅子にショルダーバッグと並んで腰をすえた。だいぶ離れてテレビニュースが映っていたが、音も
聞こえない。
この辺での徳内氏天明五年の足どりは、ひとしおゆっくりだったらしい。タルマイ(樽前。今この、苫小牧市のうち)で一泊し、ほとんど距離のない次のユー
フツ(勇払)では泊(とまり)を二た夜重ねている。
西にふかぶかと支笏(シコツ)湖・洞爺(トウヤ)湖を山巓(さんてん)に抱き、東に大雪山系、日高の大山脈がずゥんと地響きしそうに天空を高々ともち上
げている。その間(はざま)にひらけた平野は、北へそのまま石狩湾にまで広々と通っている。「正気」がなかったと口では言いながら、最上徳内氏はこの勇払
に、蝦夷地測量のだいじな基点をすでに据えていた。明治六年(一八七三)、開拓使が新たに測地製地図の作業に入った際の三角測量基点は、この天明五年に徳
内が定めていた場処を踏襲したものといわれ、見に行きたかったが、一つの電車をはずすとよほどあとの予定がずれてしまう。なるべく……今日明日のうちにも
うまく、あの人と、出逢いたい。
いったいあの人、今時分はどの辺を歩いているのかナ……。
そう想って、そしてフト、見ると、俯(うつむ)いていた眼のさき、床すれすれにベージュ色の大きいザックと真白い細いパンタロンが近寄って来て、立ちど
まった。
眼をあげると、袖□をちいさく折返した、赤い、衿のない、軽そうな上着の下が青のブラウス。若い人だ。髪は真黒く、肩さきて切り揃えていた。反射的に私
は自分の荷物を膝にあげて、ふさいでいた椅子をあけた。
襟裳岬にぜひ立って見たい……、そのあとは今日中に帯広へ着き、あしたはとにかく旭川まで、そして稚内(ワッカナイ)までも……という人だ。東京世田谷
にある大学の、音楽理論を勉強している四年生だった。姉さんと二人で都内にアパートを借りているが、友だちと一緒にとウソを言って出て来ました。はじめか
ら一人旅の計画でしたとおしまいの方は可笑しそうに小さく声をはずませる。
電車がスウィッチ・バックすると知らず、海側とは逆の空席に並んだ。前に、八十ちかいという、それでも達者に昔の戦友を訪ね歩いて、今日はえりもの街で
泊るつもりというおじいさんが一緒だった。
よほど遅くはなるけれど、帯広まで今日中に行き着ける。バスも電車の便宜も、ある。この私もそうするものと、上背(うわぜい)があり肩はばもあるエキゾ
チックな女学生は思っていた。
「ぼくは襟裳岬に泊って行きます」
「岬…で、ですの……」
それからその人と前の老人とは同じ種類の弁当を使い、私は空席を起って海を写真に撮り、茫々の野づらを写真に撮った。
苫小牧を発車してから、とくに植生の見かけがまた変わった。溢れんばかりだった樹々の繁茂がなく、草の丈は短くなり、そのかわり内陸部へ広い草野や潅木
林がのび、急に低い丘陵が断続し、さっと鈴を振ったように清流が走る。
広い。広い──。が、緑の色は浅かった。沙流(サル)川が太平洋にそそぐ辺で、はじめて疎林に放牧された斑(ぶち)の牛をたくさん見た。徳内さんらが知
らぬ景色だ、だが幹の太い、枝の太い背の低いこぶこぶした木に、小さな葉が縮かんだように青の色々を海風にさらしているなど、昔と同じか。
霧はすこし。
灰色に、淡いブルーを段々に横へ刷いた、塗りこめた海は、どこが水平線とも見分けつかずはるかな空に溶け合っていた。
砂浜に木屑が打ちあげられ、黒い岩の点々から数段さき、寄せる波の上に舳(へさき)をのけぞらせた小舟が、音もなく座礁しているのも見た。
小林辰之丞給所のサル(沙流)場所、工藤平左衛門給所のニイカップ(新冠)場所、礪崎重郎右衛門および太田伊兵衛両人給所のシブチャリ場所、それに領主
支配のシツナイ(静内)場所── も、まるまる私の電車は素通りした。徳内氏に会わなかった。きれいに忘れていた。
杉村多内給所のミツイシ(三石)場所、小川伊右衛門給所のウラカワ(浦河)場所もたわいなく通り過ぎた。シャクシャインのこともウカと思い出さずじまい
だった。──が、皆川新作氏の「史料」の中に、最上徳内による、読みづらいがこんな書き留めが残されていた。それは覚えていた。
一、ウラカワ場所
ヲニウシ、ウラカワ、シレツ、イワイ、イカンライ、ヲマウシ、ムクチ、ウロコベツ、チノミ、チキシャプ、ポロシュマ、シロイツミ、ポロペツ、ヲマレペ
ツ。家数四拾軒余。人数百八拾人程。乙名(おとな)ヲムシラケ、脇乙名アリカン、小使シキヒシヤン。外(ほか)にポロペツ乙名イサナアイノ、小使チルラ
ン。受負人阿部屋金兵衛、支配人小川善兵衛、外ニ半五郎。産物。昆布壱万四千駄、干鱈、かすべとも弐百束。外に産物なく、交易値段ミツイシ同様(米壱升ニ
付(つき)五束、玄米壱俵弐拾五駄、酒三盃ニ付壱束、木綿壱尋(ひろ)ニ付壱束等)。
ムクチ出立してウロコベツ徒(かち)渡り。チノミは山崎にて、チキシャプは蝦夷家弐軒あり。夏の猟場にて冬春の間は明家(あきや)なり。ポロシュマに河
有り。シロイツミに荷物囲(かこひ)の小屋あり。蝦夷家三軒。是より砂浜伝ひに流木多く渓澗広し。山奥深く相見得(あひみえ)、樹木茂り、ポロペツヘは舟
渡し。水足瀞(きよ)く河闊(ひろ)く小船も通すべき処なれ共(ども)、河口磯多し。潮干には沖より入りがたし。此辺良民あらば野外廃土にもして罷(や)
むべからず。樵人あらば深山良材を出すべし。この河を越えて、山崎に蝦夷家弐参軒あり(略)。
クヲナイ、小河の流れを過ぎ、その次ブスニと云ふ岩崎。潮干には磯辺岩下を通遶す。山を越せば坂至つて急なり。此の崎に高さ拾丈程なる突兀(とつこつ)
たる岩あり。ヲンベツといふ小河あり。レフンベといふ岩島二つ。此の磯の間、昆布海苔多し。方角は屈曲の浜通りにて、巨細は記し難し。巳午(ほぼ南)に掛
かる。それより五六町にてシャマニに至る。五六百石積(づみ)の泊にて、遠浅。レプヌカルベといふ出崎の山、沖より是を目当に船を寄せる。飲水は泉なく、
この蔭の、ジャマニベツの河水を汲む。泊は東風よろしく、干潟には浪あり。
シャマニ(様似)にも運上金六拾五両ほどの運上屋があり、蝦夷アイヌ人との交易は盛んで、この界隈はあの礪崎蔵人家老職の給所とされていた。浦河から様
似へ徳内は歩測「大凡(おほよそ)四里位」と認(したた)めている。
徳内氏の精励と克明とにくらべれば、私は、ただ旅を夢うつつに、マメごころを欠いた一人の中年にすぎなかった。作家ですらなかった。但し老若二人の連れ
とは、様似駅へ着いてすぐ、きれいに別れた。襟裳岬を経由、日高山脈の尾を東の十勝側へ越えて国鉄広尾線に連絡しているバスは、もうエンジンをふかして駅
前に待っていたが、私は乗らなかった。
「国後(クナシリ)が、よくご覧になれますように」
私が立売りのバス車掌に買わされた、日高の牧場育ち、レースの名馬たち色刷りの記念切符を、見送りかたがた窓ごしに呈上すると、にっこり髪を傾けてその
女子学生は、バスの坐席から声をかけ、「きっと……馬にも、ご縁がありますわよ」と、朗かに白い皓い歯を見せた。
様似──の浜は左右に広がる静かな汀(みぎわ)を波にしみじみ打たせていた。空は明るく、長大な日高山脈は尾根を雲に隠して、左、東の方向に青い棒を太
々と横たえ、弓なりの浜のはるかを外洋へ突出していた。はたして襟裳岬なのか、もっと手前なのか分からないが、いかにも海辺の道があそこでガンと塞がれて
いる気はした。
船着場らしいものが見当らない。沖合いは、もう日本列島の東を遠く出はずれて、漫々と涯しない太平洋を霧の奥へ奥へ沈んで行く……。私は堤防まで退く
と、額に日光を感じたまま持参のワインの瓶を景気よくからにした。右、浦河の方に砂嘴(さし)につながれて、小高い、江之島のような、あれがシャマニアイ
ヌとトカチアイヌの攻防で名高い砦址(チャシコツ)──エンルム岬らしい。それなら、あの陸(おか)寄りに括(くび)れた麓には徳内の昔からシャマニ会所
があって、旅案内(ガイドブック)によればその跡地に現在(いま)は様似郷土館が出来ている。
──帯広は、それで、よしにしたのかね……
えッと声をあげた。
──白昼にあらわれるのは、ルール違反ですよ、ご都合主義だと読者(ひと)がシラけます……。
「御用」の旗竿を小脇に、堤防の私のよこへ「部屋」を忽然(こつねん)と出てきた旅装束の徳内さんに、慌てて抗議した。
──ナニ、わしの勝手で出てくるブンには、構うものか。疑ヒハ人間ニアリ、天ニイツハリ無キモノヲ、ですよ。……よく来たね、ここまで。
──はァ。でも……本当の東蝦夷地は、日高のあの山脈から向う側のことを謂うんでしょう。
──そりゃそうなンだ。シャマニ、ホロイヅミまでは松前藩がかなりの力で抑えているからね。アイヌだって、だもンで江戸の我々に対して半信半疑……遠く
から顔色を見ているだけさ。とてもお味方どころか、話しかけても案内の奴が脅して追っ払ってしまって……話にならん。
──デ、今日はお泊りはどちらに。存外……みなさん足が早かった、のか。どうなンですか。
──ゆうべ、あそこのシャマニの会所で泊ったよ。案内人はもう一泊して躰(からだ)を養わないと、ホロイヅミヘは言語道断の大難処だというのさ。しかし
わしが見たかぎり、ホロイヅミ辺で観測できるだろうと。北極出地が……
──アア緯度のことですね。北緯、何度ですか。
──四十二度。渡島(おしま)半島の、あの内浦獄(駒ヶ岳)とちょうど同じ見当になる。なんとしてもわしら、その緯度の一度が距離どれほどか、そいつを
正確に測りたいのさ。悲願みたいなものでね。
──それじゃあ……先生。こんなとこで油売ってちゃ……
──行くよ。で……あんた、襟裳岬に泊るッて。
──はい。……なンでも知ってるンですね。困るナ。
──知ってるンじゃないよ。見てるよ。
──ますます困るナ。
──帯広まで、いっしょに行っちまうのかな、と……
──あの女子学生……あれは。あれは、ちがう……
──するとエンルム岬の、あの、砦址(チャシコツ)を見て来る気だね。なら、わしとは方角がべつだが。
──ええ。せめて会所跡の様似郷土館はやはり覗いて行きませんと。シャマニベツの河が、途中にありますね。
──ああ。オオセグロ(鴎)が河□にさっきも群れていた。会所(あれ)まで、あんたの足だとちょっと掛かるよ。あそこまで戻ると湊らしい風情はあるが。
──百九十七年前の今日も……。川は、昔は舟渡しでしたか。
──そうだった。山の腰にアイヌの家が、五、六軒あった……
──徳内先生東蝦夷地への正念場は、明日(あした)、どうやってぶじに十勝側へ通り抜けるか、ですね。
──そンな、まだまだ十勝どころか。それどころか怪我なしにまずホロイヅミ(えりも町)に着けるか、だよ。
今晩にも、また呼んでおくれと徳内氏は言い捨てると、ふッと二、三歩うしろ姿を見たか……見ぬまに、たしかに立てた「御用」の旗さきと、江戸の利明先生
がはなむけの脇差の、妙に似合わない黒い小尻の辺だけが、私の眼にのこった。
お気をつけてと呟いて、私も──堤防から起って、海鳥が舞うエンルム岬の方へ歩き出した。
いつのまにか、浜通りはかんかん照りだった。
四章 襟裳岬で
一
いちど襟裳岬に、立ってみたかった……。
苫小牧(トマコマイ)での乗換えいらい一緒だった東京の女子学生は、はるばる一人旅の一つの目的(めあて)をそう言い置いて、私より一、二便はやく様似
(シャマニ)駅前から国鉄バスに乗って行った。
北海道の地図など眺めて、太古の石斧(せきふ)に似たあの襟裳岬の尖ンがりに気を惹かれない人はいないだろう。
私もごたぶんに洩れなかった。なぜあんなにと、あとで思って訝(いぶか)しいくらい、襟裳岬でぜひ一泊してみたかった。そのさきは、東海の果ての納沙布
(ノサップ)岬にも立ち、歯舞(ハボマイ)の島影が見たい。根室標津(シベツ)まで行って海上十六キロの彼方に国後(クナシリ)島を眺めたい。それだけで
よかった。天明五年(一七八五)の幕府普請役(ふしんやく)、佐藤玄六郎行信が、単身ではじめて成しえたような蝦夷地を蜿蜒(えんえん)一周といった真似
は、想いもよらぬことだった。
地図を見ていて──とりわけ岬に立ちたいという自分の気持が、だが、分からぬではないのだ。いつからか自分が、海に、誘われているのを感じてきた。海の
底に、帰って行く家があるといった感じだった。それゆえか行水盥(ぎょうずい・たらい)の水さえ時にこわく、時になつかしく見入っていたりする。
あれは大学の四年の、おなじ六月時分だった。ひとり出雲路に旅をして松江の橋ぎわから舟で美保関(みほのせき)へ渡り、翌る日は海ぞいに鳥取砂丘を黙々
と、元へ戻る気など喪って先へ先へ足を傷めながら歩いた時にも、何度と知れず、このままざぶざぶ海へ入って行けたらナと、日本海の砂浜に立ったなり、紺青
(こんじょう)にさわぐ汐の八百会(やおあ)いに魅入られたことが、ある。前夜に美保神社鳥居前の宿から、大学で出逢って間もなかった今の妻に、品部迪子
(ともべみちこ)に、望みを託したはじめての長い手紙をもし書いていなかったなら、真実私は服(まつろ)わぬものたちの神話の海に己(おの)が影を没して
いた──かも知れなかった。
何年かして、似た誘いを安藝(あき)の宮島でも受けた。怖さに胸が鳴るのを抱きしめるように砂浜に跼(かが)んだ、あの、瞬時の幻覚から私は百枚余の小
説を書き起こし、結局その縁で世に出ることができたのだった。
近年にも、ある。
中学に進むまえの夏休み終わりに近く、息子を、建日子(たけひこ)を連れて朝ばやの中禅寺湖ヘボートで出た時、異様な気分に襲われている。湖心まで足踏
み式のボートでどんどん出たあげくだった。ほうとして男体山(なんたいざん)にさす朝日を眺めていたのが、ふと舟ばたの碧潭(へきたん)に眼をうつすと
ぞっと心惹かれて、肩さきが顫えた。幸い建日子がのんきに口を利いてくれて我に返ったが、怖かった。
それが、またその翌る年の秋にも、琵琶湖の西、比良の浜砂にひとり現(うつつ)に小春日を浴び尻をついているうち、満々と湛(たた)えた湖水がにわかに
高まり、沖へ呑まれそうにはっと我が身を乗り出したことがあった。
私の肩をそっとおさえて、暖かかった浜風を負うて元の湖西線の駅へ導いてくれた、あれは──けっして、私ひとりの旅でなかった。あの日、あの直前(ま
え)……、途中下車をいとわず、燃える紅葉(もみじ)の比良に登ってみようと、ほかに人ひとりいない高いリフトに、私たちは、親子三人で乗っていた。
まぼろしの娘が一等先を行き、まぼろしの母親がつづいた。ひとり現身(うつしみ)の私は、殿(しんがり)だった。山は寒かったけれど、夕波千鳥が鳴くの
であろう近江の湖(うみ)はしみじみ静かに見下ろせた。
比良駅に帰ってからも、四時の電車にたっぷり三十分の間があった。赤い彼岸花の咲き残った稲穂の田中道を、ちいさな蜻蛉(あきつ)にまるで先導されて
たった二百メートルも歩くと、白く乾いた砂の渚が、斜めにゆるい弧を描いて日の光をいっぱいに静まりかえっていた。
女二人が思わず深呼吸するのを聴いた。
まんまえに、沖の島──。
南から北へ、琵琶湖はなめらかに光る鋼板(メタル)を敷き広げたように凪いで、足もとを洗う波はぺちょん……ぴちゃ……と、幼児が柔らかな舌をなめるほ
どのかそけさだ。
波打際に一番に坐りこんだ。一番草臥れているように見えたか、女たちはやさしい笑い声をあげて横へならんだ。
浅い浜だった。堤は低く防波石(テトラポッド)も申しわけほどの数で、よほど水辺にまで、夏は水泳場になるらしい設備もふくめ人家が、左右にのびてい
た。松並木ほどの飾りけもないそんな砂浜へ清らかな湖水は満々と寄せていた。
「山の寒さがウソみたいな、のどかさだね」
「大春日和、ね。お母さん」と法子(のりこ)が冗談ともなくへんなことを言うのが頷けた。なんどりと濃まやかな光が湖(うみ)一面を満たしている。冬子
は、ぼうッと遠くへ眼をやっていた、が、やがて『神を助けた話』というのを読んだことがあるかと訊いた。
俵藤太が、三上山七巻半の蜈蚣(むかで)を瀬田の橋から射殺した伝説の前段には、蜈蚣の害に悩んだ湖水の龍蛇(りゅうだ)が、勇者と見こんで彼に蜈蚣退
治を懇請する一件があった。藤太が礼物(れいもつ)に十種の宝を貰ったその一つというのが奇特の「俵」だし、名高い三井寺の釣鐘や竹生島の太刀も一部を寄
進し奉納した品かと伝えられている。
「だから、この広い広い湖(うみ)のどこかに龍宮が隠れているわけさ」
「あなた、それが信じられて」
「信じられるとも。絶対、信じてるさ」
「…………」
三人とも黙って湖水を眺めていた。うっとりとして瞼が、重く思えてくる。
「泳いでみたいね。ネ、法子(のこ)」と沈黙を破った。靴を脱いだ爪先を、なめそうにシタ、シタと波が揺れているのだ。
冬子が起った。法子も起った。あと十分で電車が来る。思いもしないことだった。こんなに優しい琵琶湖がしみじみ眺められたとは──よかった。そう冬子に
言いかけながらもとの田中道へもどって行った。ふりむいて、
「法子(のこ)……」と呼んだ。法子はまだ汀(みぎわ)に佇んで沖のほうを、見ていた。
「あなた、行きましょ」と冬子が誘う。ああと横へならんでまた数歩行ってふりむくと、法子の姿はなく、水隠(みごも)りに渚(なぎさ)から一段(いった
ん)のほどを、一条の美しい水尾(みお)がきらきらと光り、輝いて、波間にほそぼそと消えて行く──のが見えた。
「いい子、でしょう……」
俯いたまま前を歩いている冬子が独り言のように呟いた。
その通りに(あの翌る年のことになるが)夕刊に書いた日の連載小説の挿絵に、画家は、光(ひ)に揺らぐ湖水の渦輪を縫うようにして泳ぎ去る、一尾の蛇の
姿態を、鍛練の線ひとつで美しい上にもしなやかに、優しく──描いていた。
──あの子を、さがしているのだね……
──ええ……
これ以上進んでは危険と戒めた柵に手をかけ、耳を鑽(き)る海風に赤土の崖が瞼しく削(そ)げて行く襟裳岬の突端(はな)に、私は、蕩(とろ)けそうに
明るい日を浴びて佇んでいた。烈しい褶曲と断層とを抱えた日高造山運動の南の果てが、今、眼下に波しぶく太平洋に沈んで行く。礫(つぶて)ににた岩礁が、
大小点々と岬からなお一キロも飛び散って白い泡を噛んでいる──。佇むすぐ横へさも案じ顔に、また徳内氏(さん)がまざまざと、幕府御用の道中着の胸から
上だけ現われ、声をかけてくれたのだ。
ほッと頭をさげたい思いで、──はいともう一度頷き返しながら、私は、あの母娘(おやこ)との想えば久しい仲らいを、身に痛く、また慚(はずか)しくふ
り返らずにおれなかった。
作中の「法子」は、前にはソ連へ、ナホトカ港へ向かうバイカル号のうえで私にまざまざ姿を見せていた。が、十何年か、それより以前に、その時は「和子」
というべつの名前で、はじめて、もっと年幼く現われて安藝の宮島の磯でしたたか私を脅(おど)したのだ。
「お父さん」
えっ、と息をつめ声の方を透かして見たが、珍しい仏桑華(ぶっそうげ)の濃青い葉を織って一条の鉄線が三(み)めぐりに絡み絡み、みごとな真紫の花びら
を顫えさせているばかり。鋭く尖った六つの花びらに包まれ暗い触手のようなおしべの一本一本が僕を誘っていた。と忽ち鉄線花は仏桑華にまつわる一匹の小蛇
となって光る瞳(め)ですくと首をもたげた。紛れもなかった、「お父さん」と呼びかけたのはこの小蛇だ──。
立ち疎む僕の前で、蛇は鮮やかに身をもがくと見るや鬼山和子の姿に変わって行った。
「待ってたわ、お父さん」
「────」
「もう帰さないわ、お父さん」
「ど、どうして、きっ君」
射すくめるふうに離れた所から和子は僕を見つめ、急にあの薄笑いの瞳に変わると手にもった朱い仏桑華の一枝をふと突きつけた。やわらかな五弁の緋の色の
真中から花粉をかすかに光らせた二、三寸もの細長い舌のようなしべが一本ちらちらと伸びて動く。ぺたりと僕は尻をついた。
和子は花の小枝をゆっくりと輪にまわしはじめた。
「和子」の母親は、あの時「冬子」でなく「紀子(のりこ)」という名前で私の夢の世界を占めていた。和子も紀子ももう遠い以前に、刻薄な私に疎まれ、捨て
られ、妻とも娘とも呼ばれることなく死んでいた。死者の身でまぼろしに現れ、白昼の夢のさなか顫えあがらせたのだ。
だが顫えながら私は、本当のところ彼女らがどう責めているのか、十分理解しなかった。それでいてその後私は自分が犯したであろうあやまちの意味を考えつ
づけ、小説を書きつづけ、そしていつからか自在に「部屋」に出入りして、生者より親しく沢山の死者と語らう時空を、胸の奥に、昏く、温かく、抱きこむ習性
を身につけて行った。
──お父さん。あたしたちのような蛇でも、まだ、お嫌い……
十何年前あの子が、「法子」ではなく和子と謂(い)ったあの年幼かった子が、あぜ──宮島の磯にはじめて現われて愛憎こもごも私に襲いかかったか。
あのころ私は医学書の出版社に勤めながら、売れるわけのない小説を書いていた。安藝の宮島に詣ったのも、ちょうど担当編集者として広島市へ新生児学会の
取材に出張していたからだ。広島へは初めてだった。
学会場は原爆記念館にまぢかく、なにがしか主催者側の意向をそれは反映していたのだろう、私も幾らか儀礼的に幾らかは緊張のまま入館して、館内に犇(ひ
しめ)いていたおよそ想像も及ばなかった惨害の資料や、写真や、遺品に顔青ざめた。
が、それだけで済めばさて何ともなく私はまた、自分の勤め仕事へほどよく戻って行けたのだろう。ところが何に催されたのか、だぶん原爆記念館の内か外か
で人が囁いているのに耳を留めて、広島市中の或る場所に、被爆の後遺症に今も呻吟する一群の人々がかたまり住んでいる──と知った。
自分の眼で見たしかめに行ったりは、しなかった。ただ広島の被爆者が、今、その被爆の苦しみのゆえに(言語道断な……まるで蛇をきらうように)一種の差
別待遇(のけものあつかい)を受け、川ぞいに吹きだまりのまるでごみにされて暮していると、ほかでもない原爆記念館で囁かれたのがキツかった。もう未熟児
保育例の報告も新生児障害の研究発表も聞く耳もたず、宮島へ、厳島神社へ渡航の波止場まで、いっさんに、拾ったタクシーに飛んでもらった。他に思いつく場
処も事もなかった。何が何でも私は広島市外へ飛び出たかった。
好機(おり)至る、はや──凄かったあの子は、まぼろしの「和子」は、私の胸もとにすかさず忍び寄っていたらしい。
そして母の「紀子」ともども、こう愬えたかったはずだ。
──あなた方とあたし達とが、どうちがうと言うのですか。
──蛇をきらうように他人(ひと)を蔑(さげす)み嫌って、自分だけは、そんな蛇の仲間ではけっして無いなどと、本当に信じているのですか……。
二
──そんなことが、事実あんたに有ったッてことじゃ、ない…。そうだね。
聴いていた徳内氏(さん)は、凪いだ遠い海の鳴りにかすかに眉を曇らせたまま、横顔を私の方へ傾けた。
──ええ。それに、事実が有った無かったは、小説家には大きな問題(こと)じゃない。そうで有りえたことが問題なンです。小説世界に於てすらぼくが差別
者・加害者で在りえたことが問題です。そういうぼくを、放っておくわけに行かない。ですから徳内先生のことも、小説に書く決心をしたンです。
──それァまた……なンで。
──先生のうしろを歩いていくと、かならずアイヌの問題(こと)に行き当るからですよ。アイヌはエゾに、エゾはエミシにかならず行き当ります。字に書け
ばエゾもエミシも「蝦夷」ですね。蝦夷は化外(けがい)の民で土民で、蝦夷地は蛮地と、日本の歴史には書かれてきた。そうでしょう……蝦夷と日本人とは
根っから別なンだと。だから王化するンだ、蝦夷は日本が征服した日本の中の外国人だと。そうでしょう。
──国史は、たしかにそう書いていた。
──ぼく、無遠慮にうかがうンですが……。徳内先生(さん)には……いわば自分もエゾなンだ、もともと奥羽・関東みなエゾかエミシだったッてお気もち、
お有り…と想う。
──マ、道の奥で生まれ育てば、思わず知らず和人とエゾとのまンなか辺につながる気は、あっただろうね。京都生まれのあんたとは、そこは、ちがうンだ。
──先生はそれを、蝦夷地を東へ東へ脚で歩いて行かれながら、徐々に意識…なさった。
──蝦夷地は、アイヌ人は、自分らとは別といった考え方では、所詮たいした益(こと)になるまい、とはネ。
──それですよ。……
──とにかく、おなじ日本人(にほん)の同士(なか)で、上だ、下だと、別だ、同じだと、永いことやり合って来たものさネ。それをまた都合よく利用する
やつが、いた。
──「蝦夷」という蔑称も、それでしたね。
──いやな名前をいたる処で、ただ差別目的(わけへだてめあて)に沢山考えだしたものだよ。「蝦夷」も公用語だった。
──その公用語で先生は、要は蝦夷地「征服」という幕府の「御用」に、粉骨砕身されたワケだ。徳川の内舎人(うどねり)ッて名乗りの、それが実質だっ
た。そうじゃなかったですか。
徳内先生はそんな返辞などしたくない様子(かお)で、特徴のあるイカッた小鼻をツンと膨らませ、そして口もとをムムと鳴らす──と、ふっと、瞬時の突風
をはらんだ感じに姿を消した。たんぽぽの、花はもう数すくなく、まん丸い白い穂絮(わた)が、うちなびく草野の岬いちめんに揺れ、ところどころ地面を這っ
て咲くヒダカミセバヤや桜草の紫が、目に匂う──。
ここまで、襟裳岬まで来て、容易に私の物語が、日高から東へ、メナシクルの十勝側へ、越えられない…で、いる。様似からえりも町、むかしのホロイヅミ
(幌泉)まで山道(さんどう)苦心の切開きに、さらに幌泉から東海岸のショウヤ(庶野)まで、またサルル(猿留)やビロウ(広尾)まで嶮岨に喘いだ新道
(しんどう)の切開きに徳内氏が率先苦労したことを、いろいろ、つい覚えていて頭から離れないからだろう。それも、徳内氏には気の毒な言い方をしたが、ア
イヌを徴発してするしかない事業ではあった。
潮路といい舟路というように、潮流に乗りまた潮流をかわす駆引がないと、好天気でも漂流する惧(おそ)れはいつもある。海上にも船頭心得の「道」はあ
り、安全な航路はぜひ見つけねばならない。たとえばクナシリからエトロフヘ、往きは荒波に揉まれて神仏を祈り死ぬ思いをしたという航海も、帰りはずっとら
くだったらしい。潮路に順と逆とが有ったのだ。
が、北海道の南岸を、陸地にまぢかに山崎や岬を縫って進むぶんには、まず安全、とも言えない難処があった。襟裳岬だ。太平洋を突き刺すこの鋭い尖ンがり
の沖合を、無事に西の日高側から東の十勝側へまわりこむのは、アイヌが掻送(かきおく)りの小舟ではむろん、相当の大船でも危険をきわめた。
どこかから日高山脈を東へ横切り越えるしかない。で、今なら幌泉郡歌別から追分を経て庶野(しょや)へ、山越えの佳いバス道路が通っている。緑の牧場が
次から次へ美しく、馬や牛がのんびりあそんでいる。牧舎はおもちゃの家を見るようだし、山は静かに、樹々は繁り、湍つ瀬は岩を噛んではやい。
じつは徳内らの昔からここに人が通るだけの旧道はあった、但し幾らか拡張してみても「格別の益に相成候様子に御座無」いほど、もう岬には近い。徳内は、
一気にムクチ(浦河)三石辺から千数百メートルもの十勝岳や楽古岳を押し越え、東海岸へ出られぬかと、アイヌの知恵も借りて考えあぐねていたらしい。先生
である本多利明からも、岳父(しゅうと)である平秩(へずつ)東作からも海陸ともに「道」なくては物も人も、まして心は通わないときつく教えこまれていた
から、ことにシャマニより以東(さき)の「山道切開(きりひら)」きに徳内は、熱心だった。
結局は、だが、ほかに山越えの道は通せなかった。それどころか西の国鉄日高本線から東の広尾線に直接つながる、日高山脈越えの十分な道路など今日も出来
てはいない。歌別から庶野へのバス道路は快適で景色も美しいが、たしかに徳内の嘆いたとおり「格別の益」つまり近道になっていない。それも、遠い近いだけ
のことでなかった。徳内らがエリモ廻りの海の最難処を陸路でかわすには、ちょうどシャマニからおよそ六里、現在(いま)でこそバスの窓から日高耶馬渓など
の豪快な景色が楽しめるくらい、ホロマンベツ(幌満)までの波打際には蜿蜒と絶壁また絶壁がうち続いて、言語道断の隘路(あいろ)をなしていた。
このあたり徳内自身が書留めた筆記は乱文乱筆のさながら見本のようなものだが、皆川新作氏の著述に助けられてかろうじて判読抄記を試みてみる、と――様
似から浜通りを東南に、やがて冬島に至る。徳内は「ブヨシュマ」と書いている。
「岩中に一穴(いっけつ)あり、高さ三、四丈。蝦夷家四、五軒あり。」
それからホロマンベツまで三里ほどは断崖に背を擦って「波打際」を廻るしかなく、「テレケウシ」では、ひと抱えほどの木に雁歯(がんぎ)を刻み岩と岩と
の間へ梯子のように掛けおろして、「砂浜、浪の引く間(あひ)を見合ひ、岩崎を」走り抜けている。「風波はげしき時は通行致しがたく、岩の中段を蟹のごと
く横に伝」い歩き、「一歩も踏みそこなへば、逆巻く浪に浸(しず)」む。見上げれば岩窟累々、見下ろせば緑波周章。数多(あまた)の洞門をくぐり、時に
七、八丈もの瀧にうたれて七彩の虹を拝み、時に渚近く突兀(とっこつ)と海面に秀でた岩島に鴎や千鳥の群れて舞うのを見た。めざましい色に躑躅(つつじ)
が崖に咲き、石楠花(しゃくなげ)もところどころに群れていた。「ハマナス」と人に聞いた花の色が、徳内にはことに優しく想われた。
それでもなお海ぎわのそんな難路も、ホロマンベツヘあと「五、六丁」の、ことに「弍、参百間(けん)の岩間」だけは、なンとしても荒波を避けて山中へ迂
回のほかなかった。誰かが「念仏坂」と呻(うめ)いたくらいこの山坂は急峻をきわめ、根笹や虎杖(いたどり)をただ手探りに、ひたひた登る。途中、十丈余
の崖を蟻が樹を伝うように這い渡る時など「一顧することも能(あた)は」ぬ、目のくらむ凄さだった。小者の一人が危く身を守るため声を放って荷を手放す
と、行李は空(くう)をはずんで巌を缺き花を散らし、木ッ端微塵に絶壁の底へ波に掠われて行った。固唾(かたづ)をのみ、確かめ確かめ足もとの熊笹を分け
て四、五丁、また断崖に尻を擦ってそろそろと降る、と浜通りへ投げ出されて、かつがつホロマンベツへやがて着いた。
シャマニから「六里」と徳内は言うが、それも身一つの難路ではなかった。ずっと後れて寛政期に入ってからの話だけれど最上徳内一人の旅でも、幕府普請役
となれば小者に笈(おい)を背負わせ、弁当、蓑笠の類を持ち運ばせて、他に、場所から場所へ陸路は継ぎ送り、海路は掻き送りにせよ、アイヌ人足(にんそ
く)をいつも十四人ほども使って、四、五貫ずつの行李を担わせていたという。近藤重蔵、長島新左衛門、村上島之允(秦檍丸)らが一団で通ったときは、さし
て重役ともいえない彼ら幕府有司のために、五十余人のアイヌが出役して荷を送り舟を漕いだ。馬が使えないシャマニ以東の道中は一層の負担をアイヌに強い、
時にアイヌは有司の一人一人を背負って荒磯(ありそ)を走り岨路(そわじ)を伝ったともいう。
幸いホロマンベツの先はホロイヅミまで、ずっと岬寄りのアブラコマまでもほぼ浜づたいに行ける。あらい海風にいちめん草野の丘と靡(なび)き伏したよう
なエリモ岬を東へ、アイヌに逐われ非道の金掘りらがたくさん死んだという百人浜からショウヤ(庶野)の方へまわって行くのも、ただ遠まわりなだけで、故障
はすくなかった。
とあれ新しい山道をどうかしてシャマニとホロマンベツの間に通さねばならぬ、と、見分の一行は文字どおり胆に銘じて思い沁みただろう。策を構えた松前藩
案内者が、シャマニで十分な人数のアイヌを雇わなかったから、「御用」の荷はひとしく誰の肩にも喰い入った。
それでも最上徳内はこの日ホロイヅミの南、歌別に近く、丈六の白衣観音さながら、瀧になって山水がいさぎよくごろた石の渚(なぎさ)に落ちているあたり
を北極出地(緯度)四十二度と観測。北緯三十五度半の江戸との距離をおよそ勘案(かんがえ)に入れ、緯度一度を当時日本の道法で二十八里拾弍町と説いてい
たオランダ人の説がはたして「密合」しているか、やや短いのではないか、などとも思案した。
もとより不十分な知識と器械でする「思案」だった。が、のちにロシア人の意見を参考に、晩年には二十九里六町という数値を徳内は、ほぼ自身の説らしく、
シーボルトにも告げている。もっとも正解からはむしろ遠のいていた。伊能忠敬が、十五年おそくの寛政十二年(一八○○)に江戸と津軽の間を慎重に測量し
て、緯度一度に相当する子午線の長さを二十八里強としたのが、今日の測量値と較べても誤差わずか二百メートルという精密さとは、だいぶ距りがあった。
だが「天度を以て地理を推して里数を知る事」の重要さは、あるいは伊能より徳内の方が実学的に大きくとらえていたかも知れない。伊能の観測より十年早
く、徳内は、寛政二年「六月望」と序にある『蝦夷国風俗人情之沙汰』巻の下で、こう書いていた。
──南北へ進退するは緯度にして、その一度の里数天下相等し。東西へ往来するは経度にして、両極高低に依て抜て不同、赤道真下の一度は緯度も経度も相等
し。是より南へ傾き北へ傾き漸々(ぜんぜん)狭く、両極真下に距っては経度絶えて一点となる。この一点より緯度生じて南北へ亙(わた)るなり。(略)──
舶師(船乗り)たる者、この経緯の里程を詳(つまびらか)にせざれば、大洋遠洋を渡つて自在はなし難し。船舶は天下の長器にして国家の盛衰に係る。僅にい
へば、飢饉年に遇ふとも米穀運送滞(とどこお)り無き時は飢あつ(食ヘンに、曷)の憂に逢ふ事なし。これ、舶師の功なり。また船舶の恩なり。いはんや異国
へ渡渉(わたつ)て金、銀、銅及び布帛、器材その外一切の飲食、百薬百穀等の諸土産を得て我国へ入れ、国力を厚くするの大業に至っては、舶師の大能の至る
所にして、則ち天文数象の道に係る。数象の道は国家の盛衰の基本を速に諦悟するの大計策に係る也。因(よつ)て数象の道を明にして天文地理に通暁し、後、
大洋の運送の稼穡(かしょく=利を挙げること)を為すべし。是を未熟にして大洋遠沖を渡渉て難風に逢ふ時は、忽ち迷惑して方位を失ひ漂流し、身命を危くす
るに到るべし。(略)舶師の稼穡は国家に係る稼穡なれば、是より大なる大業は無し。
ほとんど師利明の説に近いが、あながち、口真似とは言えない。利明なら、もっと具体的な策へ話をもって行く。いっそ徳内は実地の体験者として、この時点
ではかなり観念としてでも師説を先取りしていた、ということか。なににもせよ最上の百姓元吉が、在所の楯岡を振りすててちょうど十年でこれを書いていた。
しかも行間に躍るこの意気の毅さ──。徳内がふりかざす測量「御用」の旗竿ほど奇妙に松前藩を狼狽させ畏怖させたものはなかったらしい。
三
それはさて家老蠣崎蔵人(かきざきくらんど)が見こんで付けただけあって、松前藩案内者の浅利幸兵衛に、気の弛んだところはすこしも無かった。注文さ
れ、また質問されると一瞬目を見合わせ、事と次第で「ハテ」と考えこむ。そんな顔をして見せる。あの「ハテ」には迷惑すると山口鉄五郎や青島俊蔵が音
(ね)をあげたほど、一度浅利がそんなふうに考えこんだ話は、十の八、九まで、はぐらかされた。
随行する三人の通辞のうち松前の者で三右衛門、箱館在大野村の巳之助など、はっきり浅利の家来顔をしていて幸兵衛が顎を振らなければ通訳の場にも立とう
としない。渡島(オシマ)アイヌとの混血といわれるいつもおどおどした竹助でさえ、相手が女子供のときは、近寄って来たアイヌの名前や夫の名、親の名など
訊ねさせるとホンテヘレ(小さい娘っこ)、ニセウ(団栗)、トエタマツ(畑仕事する女)といったふうに聞き出してくれるが、「畑仕事」では何を植えてい
る、畑をどこに作る、この辺のアイヌはみな畑をもつかなどと訊くと、どう話を伝えているのやら返事は要領をえない。いささか慳貪(けんどん)に、土地の乙
名(おとな)を呼べ、会いたいと伝えさせると、その竹助の口調にも慴(おび)えるのか女子供は一散に姿を消す始末、しかし浅利らはそんなものという顔つき
だった。酒、煙草、古着などを場所の夷人(えぞ)どもに振舞うかどうか、そのつど案内者の判断に穏便にしたがってもらいたい、従者の方々が考えもなしに勝
手に近づいて強悍な蛮民とのあいだに厄介な争いの起きないようにと、山口らはこうるさく松前藩の注意を受けてきた。
「むかしから蝦夷訳語(えぞ・おさ)といって、通辞の役が奥州には置かれていたそうですがね。根も葉もない話ばかり仲介する。はては世間を乱し騒がす罪に
当てられたのも、いましたよ。九州まで流されたのもネ」
と、大石逸平など諦めた顔をして笑うが、目敏い青島はまた、さすがに見るところを見ていた。松前支配のシュムクル(西の人)は「味方」にしにくい、あの
シャクシャインはメナシクル(東の人)だった。東蝦夷地こそ勝負どころ。松前の「敵」は、ここホロイヅミより先々で見つけるのだ、と。
「それに……言葉のことですが……」
下役の大塚小市郎がそう言い出した。言葉は通じないものと思いつつツイ遠慮ない声を人足のアイヌに掛けるうち、時に聞えている、意味がとれているのかし
て、向うで俯きぎみにニヤニヤしている者も、
「気のせいですか、いる気がします……」
無骨な体格(からだ)に似合わず器用に図画のできる大塚が、突風に持った筆を吹き飛ばされた時、とっさに、波打際で拾いあげたアイヌに「洗ってくれ」と
声をかけると、やや年嵩な男だったが、躊躇なく砂塗(まみ)れの穂先を海水に濯(すす)いで返してきた……。
「もっと可笑しな話もありました、ホラ……」
相良(さがら)の千太が思い出して笑うと、大塚が、もう一度口をきいた。徳内も近くにいて、そのツグナヒ一件ならよく憶えていた。
サルからニイカップヘ向かう途中、小憩の間に通辞の巳之助がすこし離れた仮小屋のかげへ小便に立ったのだ。まさか、わざとではなかったろう、生憎と、そ
の小屋というのが土地のアイヌが板綴じの船を浜へ上げて解きほどき、その板材を寄せて(アイヌは船を干す時によく、そうする。)造ったもので、たしかに船
玉や龍骨は、渚を離れた日当りの草場に干してあった。
色の白い、胸板の厚い、見るから毛深いアイヌの一人が、とっさに巳之助の不調法を見咎め、腹を立てて声高に「ツグナヒ」を求めはじめた。
アイヌは人と道理を言い争って、もし言い負けると、相手に物品を差出す風習を、きまじめに守っていた。平秩東作が『東遊記』に、「償」いの意味かと報告
していたのは、日本の宮廷にもあった一種の賠責(あがい)と釈(と)っていたらしい。ところが松前の和人には、これを逆手に弄んでとかくアイヌを侮りあし
らい、話の種にして楽しむ者が多かった。
この時も通辞の巳之助は先ず、自分が「通辞」だと権柄(けんぺい)に出ている。アイヌは、「通辞」しだいで暮しの便宜を往々左右されていたとみえ、松前
の侍以上に通辞を迷惑がっていた。が、箸の上げ下げにも神を祈って日々の幸(さち)を願っているアイヌが、神聖な船の材を小便で汚されて黙っては退れな
かった。
巳之助は抗弁した。小便ではない、水だと。水であるものか。この眼で前の物を見たからな……とアイヌは頑張ったらしく、ここで巳之助が激昂した。
「見た…な」
紛れない日本語で「見たな」と巳之助は叫んでみせ、アイヌは顔色を変えた。巳之助は矢庭に腰の煙草入れを男に突きつけた。今しがたアイヌが烈しく指さし
ねだっていたその品だ、が、アイヌはひるんで受取らなかった。にやりと周囲(まわり)の者へ笑ってみせて巳之助は、人の隠す所をきさまは見た、このツグナ
ヒただでは済まぬと胸倉をつかむ。あげく着ているアツシの、繍(ぬ)いの色とりも真新しいのを力づく巻きあげて、自分の煙草入れも悠々ともとの腰にもどし
た。
「あの二人、あんなに言い合ってましたがね。巳之助さん、たいがい我々の言葉で怒鳴ってた。それでも話はケッコウ通じてたンだ」と、千太。
山口鉄太郎も頷いていた。
「和人の言葉を、教えぬ、喋らせぬ、書かせぬ。松前は厳しくそう仕向けている。西のアイヌは表むき順(したが)っている顔なのだろう」
「アイヌが強悍で凶暴という話も、ウソでございますね」
と、徳内も岳父に聞いたこんなツグナヒの話を、「また小便ですが」と口籠もりぎみに披露した。
父を喪ったあるアイヌの新墓へ、松前から来た和人が小便をかけた。
「わざと……だったと謂います」
むろんアイヌは怒り、重いツグナヒを要求してやまない。シャモ(和人)は聞き流して、しまいに、これは墓ではない、墓でないものを墓と偽りを言いかける
とは没義道(もぎどう)と、逆にアイヌの男にツグナヒを迫った。墓にちがいない。アイヌは仲間の証言も口々にえたが、シャモは嘲笑い、それならば墓かどう
か土を掘ってその屍を見せよと押して出た。
「そのアイヌは、泣く泣く重いツグナヒを奪(と)られだそうです。それでも、先祖(おや)の墓をあばかせたりしなかった。……いったい、どっちが蛮民なの
ですか」
「だれか。いつか。アイヌのために、そのような非道のつぐないが出来る…ものだろうか」
青島がそう呻いたなり肚(はら)に蔵って言わない思いが、幕府による速かな松前上地そして直轄であることは、見分役の者はみな分かっていた。が、本気
で、幕府はそう動く気でいるのか──。
老中田沼の全盛を疑うことは山口らにせよまして青島俊蔵には思いも寄らなかったが、自分たちが或る途方もない戦場になげこまれている実感だけは日ましに
強かった。西へ、北へ、宗谷(ソウヤ)へ向かって行った庵原(いはら)弥六らもきっと同じ苦労をしているにちがいない……。江戸の御用船は、まだ松前にも
入らない──のか。
「……あせるまい」
山口鉄五郎は鋼(はがね)のような胸板を竪(た)てて、低声(こごえ)ながら力づよく若い同僚たちをいましめた。 (続く)
作品の後に
なにがきっかけに成るか分からない。別原稿の校正往来に、ほんの一言書き添えてみたのへ、即座にといっていいほど編集者が乗ってくれて、小説『最上徳
内』の「世界」(岩波書店)連載は実現した。胸に抱いていた材料に相違なかったが、「書き下ろし」ではなかなか進まなかったろう。「世界」という場が願っ
てもないものだったし、「連載」なればこそ書き継いで行けた。
昭和五四年に『風の奏で(原題・平家擬記(もどき))』を「歴史と文学」に発表し、藝能と遊里への差別感をチェックした。五五年には、中日・東京・北海
道・西日本・神戸新聞ほかの夕刊に『冬祭り』を連載し、葬・墓の民俗を視野に入れた。そしてこの五七年から書き始めた『北の時代=最上徳内』では、アイヌ
(また外国人二世)と日本の問題を掘り起こした。六〇年の私家版『四度の瀧』では風土記世界を足場に、現代へ生きのびた謂れない差別の根に触れている。そ
してその後に新井白石とシドッチとの「一生の奇会」を『親指のマリア』と題し京都新聞に連載した。
もとよりこうした関心は、文壇への処女作となった『清経入水』以前からとぎれなく持ち伝えた主題の一つである。が、とりわけ「ちくま少年図書館」に書き
下ろした『日本史との出会い』や小説『初恋(原題・雲居寺跡(うんごじあと))』を書いたのが強い繋ぎ目になった。背景に平曲や中世歌謡との出会いがあ
り、少年以来の謡曲や茶の湯への親炙(しんしゃ)も働いた。「京都」というただならぬ町との心の葛藤もあった。
小説を、とくに長い小説を書こうとする際に、心をつかうのは「方法」である。『北の時代』では、いかに十八世紀の最上徳内と二十世紀の語り手とに自然な
折り合いをつけるか、「二人旅」をどれほど自然に実現させるか、に工夫した。旅はいつしか「三人旅」へと様をかえて行くが、ありふれた「時代小説」めく面
白ずくは採らぬと決めていた。持ち重りのする作品にしたかった。最上徳内に惚れていた。あえて「部屋」のような生得の設(しつら)えを隠さず表に出し、山
形への取材や北海道への旅も、等身大の事実自体を小説(フィクション)に取り込んだ。むろん効果のほどは、読者にお任せし、判定していただくしかない。今
回も全篇くまなく入念に手を入れ読み易くした。
最初の方に、最上徳内の「算題」が示してある。幾何学の問題とみていいが、自信のある方は試みてほしい。東工人の教室で、点数の足りない学生らを救済す
べく解かせてみたが、四年間に、十人足らずしか解答をだしてこなかった。長い答えだとレポート用紙を七、八枚も使っていた。いちばん短く美しく解いたのは
留学生で、レポート用紙の約半分ほどに式を立て、正解していた。徳内の算額には、もともと「帰除法」つまり算盤の割り算で解けと指定がある、が、それも、
本文中の形式も、無視して下さい。
それにしても忙しい平成七年の夏から秋だった。十月、十一月は文字どおりテンテコ舞いだった。気持ちはやがての(東工大)退官後へと調えられねばなら
ず、しかし、学生諸君との時間も犠牲にしたくない。退き際のいろんな用事も重なり、おかげでこの巻も、大幅に私ゆえに停滞した。印刷・製本の方にたっぷり
迷惑をかけた。中巻、下巻は順調に進むと思う。ま、この際のこと、慌てまい、ゆっくりやろうと思う。
還暦は、平成七年十二月二十一日に、迎えた。大学の任期は八年三月末まで、ちょうど四年半を勤める。六十歳定年の国立大学は(平成八年現在)東工大と東
大だけだと、そんなことも耳学問した。もう一年などといわれても身がもたない。六十まで生きて、ここ四年間がいちばん忙しかったが、二十歳(はたち)の優
秀な青春に思うぞんぶん付き合え、楽しかった。幸せに過ごした。ただし学内の人事や行政とは、学部教授会とも、没交渉で押し徹した。来年度から機構も変わ
るようだし、今後は私のような妙な「教授」は生息し得ない体制が出来たようだ。いわば私は還暦を迎える直前に、まさに滑り込みのご招待で、けっこうなボー
ナスの四年半を貰ったのだった。東工人のキャンパスは広く、四季の花や緑も黄葉もそれは美しかった。学生たちには数え切れぬ程多くを教えてもらった。
退官後、打って変わってまた順調に「作家」がやれるとは考えていない。心がらとはいえ、文壇や出版とは、この十年、徐々に疎遠に過ぎてきた。状態がにわ
かにあらたまるものでなし、ゆっくり、ひとり、気に入ったものを書き溜めながら、来るか来ないか、社会復帰の時機を待とうと思っている。来なければ来ない
で、それも一つの人生であり、悔いはない。書くぶんには妨げがあるわけでなく、妻と二人で生きて行く暮らし向きの心配はしていない。健康でありつづけたい
と願うだけである。
この巻を、平成七年内にお届けできなかった。再校をやっと終えて大歳も間近い。一陽来復、どうぞ良いお年を、そして新年明けましておめでとうと申し上げ
て、さらなるご健勝を心よりお祈り致します。よろしく本年もご鞭撻ご支援下さいますように。