歌集 少年 秦 恒平
昭和三十九年 (1964) 九月二十三日 初編
菊ある道 (昭和廿六・七年 十五・六歳)
窓によりて書(ふみ)読む君がまなざしのふとわれに来てうるみがちなる
国ふたつへだててゆきし人をおもひ西へながるる雲に眼をやる
まんまろき月みるごとに愛(は)しけやし去年(こぞ)の秋よりきみに逢はなくに
朧夜の月に祈るもきみ病むと人のつてにてききし窓べに
山頂はかぜすずやかに吹きにけり幼児と町の広きをかたる
さみどりはやはらかきもの路深く垂れし小枝をしばし愛(かな)しむ
うつくしきまみづの池の辺(へ)にたちてうつらふ雲とひとりむかひぬ
みづの面(も)をかすめてとべる蜻蛉(あきつ)あり雲をうかべし山かひの池
朝地震(あさなゐ)のかろき怖れに窓に咲く海棠の紅ほのかにゆらぐ
刈りすてし浅茅(あさぢ)の原に霜冷えて境内へ道はただひとすじに
樫の葉のしげみまばらにうすら日はひとすぢの道に吾がかげつくる
歩みこしこの道になにの惟(おも)ひあらむかりそめに人を恋ひゐたりけり
山なみのちかくみゆると朝寒き石段をわれは上(のぼ)りつめたり
歩みあゆみ惟ひしことも忘れゐて菊ある道にひとを送りぬ
山上墳墓 (昭和廿八年 十七歳)
遠天(をんてん)のもやひかなしも丘の上は雪ほろほろとふりつぎにけり
あかあかと霜枯草(しもかれぐさ)の山を揺りたふれし塚に雪のこりゐぬ
埴土(はにつち)をまろめしままの古塚のまんぢゆうはあはれ雪消えぬかも
勲功(いさをし)もいまははかなくさびしらに雪ちりかかるつはものの墓
炎口(えんく)のごと日はかくろひて山そはの灌木はたと鎮まれるとき
勲功(いさをし)のその墓碑銘のうすれうすれ遠嶺(とほね)はあかき雲かがよひぬ
日のくれの山ふところの二つ三つ塚をめぐりてゐし生命(いのち)はも
しかすがに寂びしきものを夕やけのそらに向かひて山下(お)りにけり
山かひの路ほそみつつ木の暗(くれ)を化性(けしゃう)はほほと名を呼びかはす
うす雪を肩にはらはずくれがたの師走の街にすてばちに立つ
三門にかたゐの男尺八を吹きゐたりけり年暮るる頃
東福寺 (昭和廿八年 十七歳)
笹原のゆるがふこゑのしづまりて木(こ)もれ日ひくく渓(たに)にとどけり
散りかかる雪八角の堂をめぐり愛染明王(あいぜんみやうわう)わが恋ひてをり
古池もありにけむもの蕉翁の句碑さむざむとゆき降りかかる
苔のいろに雪きえてゆくたまゆらのいのちさぶしゑ燃えつきむもの
雪のまじるつむじすべなみ普門院の庭に一葉が舞ふくるほしさ
日だまりの常楽庵に犬をよべばためらひてややに鳴くがうれしも
はりひくき通天橋(つうてんけう)の歩一歩(あゆみあゆみ)こころはややも人恋ひにけり
たづねこしこの静寂にみだらなるおもひの果てを涙ぐむわれは
日あたりの遠き校舎のかがやきを泣かまほしかり遁(のが)れ来つるに
冷えわたるわが脚もとの道はよごれ毘盧宝殿(ひるほうでん)のしづまり高し
内陣は日かげあかるしみほとけに心無?礙(しんむけいげ)の祈願かなしも
右ひだりに禅座ありけり此の日ごろ我にも一の公案はあり
青竹のもつるる音の耳をさらぬこの石みちをひたに歩める
瞬間(ときのま)のわがうつし身と覚えたり青空へちさき蟲しみてゆく
拝跪聖陵 (昭和廿八年 十七歳)
ひむがしに月のこりゐて天霧(あまぎ)らし丘の上にわれは思惟すてかねつ
朝まだき道はぬれつつあしもとの触感のままに歩むたまゆら
木のうれの日はうすれつつぬれぬれに楊貴妃観音の寂びしさ憶(おも)ふ
道ひくくかたむくときに遠き尾根をよぎらむとする鳶の群みゆ
ぬればみて砂利道は堂につづきたりわが前に松のかげのたしかさ
をりをりに木立さわげる泉山(せんざん)に菊の御紋の圧迫に耐へず
御手洗(みたらひ)はこほりのままにかたはらの松葉がややにふるふしづけさ
ひえびえと石みちは弥陀にかよひたりここに来て吾は生(しやう)をおもはず
笹はらに露散りはてず朝日子のななめにと.どく渓に来にけり
渓ぞひは麦あをみっつ鳥居橋の日だまりに春のせせらぎを聴く
水ふたつ寄りあふところあかあかと脳心をよぎる何ものもなし
新しき卒塔婆(そとうば)がありて陽のなかにつひの生命(いのち)を寂びしみにけり
汚れたる何ものもなき山はらの切株を前に渇きてゐたり
羊歯(しだ)しげる観音寺陵にまよひきて不遜のおもひつひに矯(た)めがたし
岩はだに蔦生(お)ふところ青竹の葉のちひささを愛(を)しみゐにけり
はるかなる起重機(クレーン)の動きのゆるやかさをしじまにありておだやかに見つ
目にしみる光うれしも歩みつかれ「拝跪聖陵」の碑によりにけり.
光かげ (昭和廿八年 十七歳)
なにに怯え街燈まれに夜のみちを走つてゐるぞわれは病めるに
ぬめりある赤土道(はにぢ)を来つつ山つぬに光(ひ)のまぶしさを恋ひやまずけり
アドバルンあなはるけかり吾がこころいつしかに泣かむ泣かむとするも
黄の色に陽はかたむきて電車道の果て山なみは瞑(く)れてゆくかも
つねになき懐(おも)ひなどあるにほろほろと斜陽は街に消えのこりたり
鉄(かね)のいろに街の灯かなし電車道のしづかさを我は耐えてゐにけり
別れこし人を愛(は)しきと遠山の夕やけ雲の目にしみにけり
舗装路はとほくひかりてタやみになべて生命(いのち)のかげうつくしき
ほろびゆく日のひかりかもあかあかと人の子は街をゆきかひにけり
山の際(ま)はひととき朱し人を恋ふる我のこころをいとほしみけり
そむきゆく背にかげ朱したまゆらのわが哀歓を追はむともせず
遁れ来て哀しみは我にきはまると埴丘(はにをか)に陽はしみとほりけり
夢あしき眼ざめのままに臥(こや)りゐて朝のひかりに身を退(の)きにけり
閉(た)てし部屋に朝寝(あさい)してをり針のごと日はするどくて枕にとどく
うつつなきはなにの夢ぞも床のうへに日に透きて我の手は汚れをり
生々しき悔恨のこころ我にありてみじろぎもならぬ仰臥(ぎやうぐわ)の姿勢
散らかれる書物の幻影とくらき部屋のしひたげごころ我にかなしも
誰まつと乱れごころに黄の蝶の陽なかに舞ふをみつめてゐたり
偽りて死にゐる蟲のつきつめた虚偽が螢光灯にしらじらしい
生きんとてかくて死にゐる蟲をみつつ殺さないから早くうごけと念じ
擬死ほども尊きてだて我はもたぬ昨日今日もそれゆゑの虚飾
灯の下にいつはり死ねる小蟲ほども生きやうとしたか少くも俺は
うすれゆくかげろふを目に追ふてをればうつつなきかも吾が傷心は
つもりつもるよからぬ想ひ宵よりの雨にまぎるることなくて更けぬ
馬鹿ものと言はれたことはないなどと小やみなき雨の深夜に呆(はう)けてゐたり
まじまじとみつめられて気づきたり今わらひゐしもいつはりの表情
夕雲 (昭和廿八年 十七歳)
朱(あか)らひく日のくれがたは柿の葉のそよともいはで人恋ひにけり
わぎもこが髪に綰(た)くるとうばたまの黒きリボンを手にまけるかも
なにに舞ふ蝶ともしらず立つ秋をめぐくや君がそでかへすらむ
ひそり葉の柿の下かげよのつねのこころもしぬに人恋へるかも
いしのうへを蟻の群れては吾がごとくもの思へかも友求(ま)ぎかねて
君の目はなにを寂ぶしゑ面(おも)なみに笑みてもあれば髪のみだるる
窓によればもの恋ほしきにむらさきの帛紗(ふくさ)のきみが茶を點(た)てにけり
りんどうを愛(は)しきときみが立てにける花は床のへに咲きにけらずや
わくら葉のかげひく路に面(おも)がくり去(い)ななといふに涙ぐましも
柿の葉の秀(ほ)の上(へ)にあけの夕雲の愛(うつく)しきかもきみとわかれては
またも逢はなとちぎりしままに一人病みてむらさきもどき花咲きにけり
目に触るるなべてはあかしあかあかとこころのうちに揺れてうごくもの
踏みしむる土のかたさの歩一歩(あゆみあゆみ)この遙けさがくるしかりけり
うす月の窓にうごかぬ黄の蝶の幾日(いくひ)か生きむいのちひそめて
草づたひ吾がゆくみちは真日(まひ)あかく蜻蛉(あきつ)のかげの消えてゆくところ
のぼり路(ぢ)は落葉にほそり蹴あてたる小石をふとも愛(を)しみゐにけり
秋の日は丈高うしてコスモスの咲きゐたるかな丘の上の校庭(には)に
ひむがしの窓を斜めの日射し朱く我に恋慕の心つのりく
しのびよる翳ともなしに日のいろや吾が眼に染みて暝れむとすらむ
言に出でていはねばけふも柿の木の下にもとほり恋ひやまぬかも
弥勒 (昭和廿八年 十七歳)
ひた道に暗(く)れてゆく夜を死にたまふ師のおもかげはしづかなりけり (釜井春夫先生追悼七首)
訃(ふ)にあひてほとほといそぐ道ゆえに夜の明滅をにくみゐにけり
みあかりのほろびの色のとろとろと死ににき人はものも言はさぬ
衣笠の山まゆくらく雨を吹きて水たまりに伽(とぎ)の灯がとどくなり
衣笠の山ぎはくらしひえびえと更けゆく秋に死にたまひけり
いますだく虫の音もなしくちなしにみあかり揺れぬ語らひてよと
ともしくもよき死をきみは死ねりとふ遠天(をんてん)になにのどよみゐるらむ
木(こ)もれ日は上葉(うはば)にすきてくれ秋のもみづる苑(には)に暝れむとすなり
枯れ色の木の葉にうづみ夕ぐるる苑にたてれば人の恋ほしき
かげり陽は軒に消ゆるかほろほろと樫の梢をとり鳴きたちぬ
死ぬるときを夢とわすれて黄金色(きんいろ)の蝶舞ひゐたり御陵(みはか)めぐりに
落葉はく音ききてよりしづかなるおもひとなりて甃(いし)ふみゆけり
絵筆とる児らにもの問へば甃のうへに松の葉落つる妙心寺みち
下しめり落葉のみちを仁和寺へ踏めばほろほろ山どりの鳴く
あをによきならびが丘に人なくに木の葉がくれにあけび多(さは)生(な)る
願自在の弥勒のおん瞳(め)のびやかに吾れにとどけば涙ぐましも
山茶花に染みし懐紙(くわいし)に椎の実をひろへぱ暮るる東福寺僧堂
かくもはかなく生きてよきことあらじ友は黙つて書(ふみ)よみやめず
木の間もる冬日のかげにくずれゆく霜のいのちに耐へてゐにけり
歩みきて耐へられなくに霜の朝の木がくれの実はぬれてゐにけり
吹きゆけば霜のこぼるる笹はらの道ひとすぢに惑ひゐにけり
木もれ日のとどかぬままにものに恋ふるわが影は道にこほりしならむ
松の葉の鋭きままに日の中に息衝(いきづ)きて我は佇ちゐたりけり
ポンカンの実の青々と冬空にとまりてゐたる寂びしさにをり
日ざかりに赤土道(はにぢ)はあれてただひとり来(こ)しとおもへば泣かまほしかり
ものいはぬ修道女とあへばえぞしらぬ苦しさにつと行き過ぎきたり
あらくさ (昭和廿九年 十八歳)
水かれし渓ぞひの笹は霜にあれて通天橋(つうてん)の朝のそこ冷えにをり
水あさき瀬の音ながら通天の梁をやもりのうごく佗びしさ
この橋のくらきになれて霜の朝をわれは妄らにもの恋ひてをり
手にとどく葉をちぎりては渓ふかくすててゐる我としればかなしも
たにかぜの吹きぬけてゆくたまゆらの雪のしづくのしとどに耐へず
南天をこぼして白き猫のなく川のほとりに師を訪へばよし
湯の音にもだしてをれぱ夕かげは花にまとへり紙屋川ぞひ
埋み火のをりをりはぜてたぎつ湯に師はふと席を立たれたりしか
木もれ日のうすきに耐へてこの道に鳩はしづかに羽ばたきにけり
胸まろき鳩の一羽におそれゐて道ひとすぢに暝(く)れそめにけり
山鳩のわれをおそれぬなげきにて小枝ふれあふ音なべて聴く
桐の芽のいくつか伸びて陽だまりにこのあらくさのいのちは愛(かな)し
ひらきたる掌(て)にまばゆくて春の光(ひ)の胸にとどくと知れぱ身を退(ひ)く
ひそめたるまばゆきものを人は識らずわが歩みゆく街に灯ともる
山ごしに散らふさくらをいしの上に踏めばさびしき常寂光寺
山吹の一重ひそかに二尊院は日照雨(そばへ)のままに春たけにけり
道の上の青葉かへるでさみどりに天(あま)そそぐ光(ひ)を恋ひやまずけり
青竹のもつれてふるき石塚のたまゆらに散る山ざくらかな
みづの音をふと聴きすぎてしまらくのしづけさのうちに祇王寺をとふ
わくら葉の朱(あけ)にこぼれて木もれ日にうつつともなし山の音きく
生き死にのおもひせつなく山かげの蝶を追ひつつ日なかに出でぬ
経筒に咲ける木槿(むくげ)の露ながら汲まばや夏の日は茶室(へや)におちて
石づたひぬれしままなる夏くさの露地にかげひくたまゆらに恋ひて
うすれゆく翳ならなくに夕づきのほのかに松をはなれけるかな
道の果てはほろびあかるき山なみのタベいのちのかげはしづめむ
なべていまはほろびの色に燃えもたてな夕雲にしも吾はなげかむ
すずかけのもみづるまでに秋くれて衣笠ちかき金閣寺みち
手にうけしわくら葉ながらお茶の井にかがまりをれば秋逝かむかな
おほけなき心おごりの秋やいかにわが追憶(おもひで)の丘は翳(かげ)ろふ
歌の中山 (昭和三十・三十一年 十九・二十歳)
生命ある朱(あけ)の実ひとつゆびさきをこぼれて尾根の道天に至る
たちざまにけふのさむさと床に咲く水仙にふと手をのべゐたり
咲きそろふさくらのころを若き日のかたみときみは言ひたまひける
さみだるる空におもひののこるぞとさだめかなしきひとの手をとる
よのつねのならはしごととまぐあひにきみは嫁(ゆ)くべき身をわらひたり
日ざかりの石だたみみち春さればわがかげあかし花ひらく道
手術後のおぞきひと夜も露ながら白あざみ咲く病室(へや)と知りをり
創癒ゆとひとり知らるる朝あけの樋(とひ)のしづくの光かなしく
ハイネなく百三も読まずなが病みにこころとらへしサザエさんの漫画
踏みすぎし落葉ばかりをあはれにて歌の中山タぐれにけり
ふみまがふ石原塚にみちはてて木もれ日に佇つ人もありけり
向(むか)つ峯(を)にからすとぶぞと指すからに夕まぐれより人を恋ひをり
夕月のかたぶきはててあかあかと遠やまなみに燃えしむるもの
菊畑に夕かげぬれてしかすがに清閑寺道をきみとのぼりぬ
山のべは夕ぐれすぎし時雨かとかへりみがちに人ぞ恋しき
手の窪にたまらぬほども木もれ日のぬくもりと知ればよろこびに似て
ぐわっぐわっと何の鳥啼くわれも哭くいさり火の果てに海の音する
迪子 (昭和三十二・三年 二十一・二歳)
.
そのそこに海ねこ群れてわがために鳴くかと思へば佇ちつくしゐて
磯の香になれて夜寒の出雲路に岩千鳥しもなきゐたらずや
砂山はそれかあらぬか朝かげにわがかりそめの足跡(あと)もきえゆく
ふるさととその名恋ひなば山茶花のみ墓べはれし冬日しぬばな (新島襄先生墓前にて)
あまぎらふ夕さみどりの木(こ)がくれに恋ふればめぐし迪子わがいのち
瀬の音もさみだれがちとなりぬれば恋ひつつせまる吾が想ひかも
遠山に日あたりさむき夕しぐれかへりみに迪子を抱かむとおもふ
さしかける傘ちひさくて時雨るるや前かがみなるきみにぞ寄らむ (迪子詠)
華燭 (昭和三十四・五年 二十三・四歳)
朝地震(あさなゐ)のしづまりはてて草芳ふくつぬぎ石に光とどけり
夕すぎて君を待つまの雨なりき灯をにじませて都電せまり来 (迪子詠)
もろむきに雪吹く峡(かひ)の峰は暝れて岩間にしぶく保津なりしかも
朝つゆにくづれもやらでうす紅のけしはゆらりと咲きにけらしな
あさつゆにさゆるぎいでしものなれぱあへかに淡しけしのくれなゐ
真昼間ははなの匂ひも眼に倦(う)みて白くちなしは咲きすぎにける
そのそこに花はかげりて夕雲のうつくしき日はかなしかりけり
にじみあふかげとかげとの路に暝れて夕月に咲くあじさゐの花
日あらたに地にいろづきて落ち柿の熟れつつにほふ雨のあしたは
ものみなのいのちかなしも夕まけて家路に匂ふ花に祈れば
黒き蝉のちさきがなきて杉落葉をしみじみ焚けばかなしからずや
父となり母とならむの朝はれて地(つち)にくまなき黄金(きん)のいちやう葉 (迪子妊娠す)
霜の味してそのリンゴ噛む迪子愛(は)しきかもうづ朝日子笑みもあたらし
良き日二人あしき日ふたり朱らひく遠朝雲の窓のしづかさ
ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子が育ちゆく日ぞ
「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風のすずしさ
(七月二十七日朝日子誕生二首)
迪子迪子ただうれしさに迪子とよびて水ふふまする吾は夫(せ)なれば
そのそこに光添ふるや朝日子のはしくも白き菊咲けるかも
あはとみる雪消(ゆきげ)の朝のしらぎくの葉は立ち枯れて咲きしづまれり
保谷野 (昭和三十六〜八年 二十五〜七歳)
朝霧らふくぬぎが原にかぜ冴えて凍り氷(こごりひ)ぬらす冬日なりけり
あさぎらしくぬぎが原はこごり氷(ひ)の路さへそこにきはまりにけり
霜どけのこひぢの路のほそぼそと野に入りて白き鳥かけるなり
そこに来て仔犬はわれに鳴きゐたりまたも生きむのいのちせつなく
笹原はやがて斜めに路はてて陽だまり草の野にたてるかも
浅茅生(あさぢふ)の小野べのくぬぎ葉は枯れて冬木(こ)もれ日にたじろぐ吾は
歩みあゆみ葉枯れの杜(もり)に人を恋ふるわが足もとの土はぬれたり
訃はそこに野ずゑは風の吹きあれて母はいづくに魂(たま)まよふらむ (生母訃報二首)
風の音にあくがれゆかむ夜の更けの保谷野(ほやの)に母のわれを喚(よ)ぶかと
タぐれて麦田にさす日しづかなり古街道をゆく人もなし
あかあかと野ずゑの杜(もり)にしづみゆく遠き太陽が身にしむ夕べ
野ざらしに骨うづもれて魂(たま)きはる大空のなかに吾が身もゆかむ
迪子あはれ野のはて空のはてしらず萌えいづる春になりゐたらずや
あはれあはれ山べに野べにみづのうへに旅にふりゆく花の匂ひに
うつつあらぬ何の想ひに耳の底の鳥はここだも鳴きしきるらむ
朝ぎりのまばゆく冴えて日ざしある野の道に憶(おも)ひひとり病めるかも
底ごもる何の惟(おも)ひに野の霜のかがやきにゐてもの恋ふるらむ
枯れ草のなかに仔猫の白々と寒くはなきかこゑためてなく
さわさわと林のおくに雪ふりてあはれや人のなににあらがふ
逢はばなほ逢はねばつらき春の夜の桃のはなちる道きはまれり
雨のあとのすこしぬれたる枯芝にすずめらゐたり仔犬もよばむ
黄金色(きんいろ)の秋のひかりはあはれなり三四郎の池に波たつ夕べ
芋の葉に雨うつ音のしじにして佇ちゐてきけけば涙ぐましも
枝がちに天(そら)さす木(こ)ぬれ風冴えて光ながらに散らふわくら葉
葉さやぎはきくさへかなし散りながらむなしく待ちし人恋ひしさに
跋
十数年来の歌作から二百十首を選んだ。「少年」と題したのは過半が文字どおり少年時代に詠(うた)われているからだ。京都市立日吉ケ丘高校から同志社大学へ進んだのが昭和二十九年の春である。三十四年、東京へ出て新宿河田町のみすず荘に新居を営み、三十六年早春に北多摩郡に移った。その間、どんな結社流派にも属したことなく、歌の上の師も仲間もなかった。七、八歳の私に歌を教えたのは叔母秦つる(茶名宗陽・華名・玉月)である。小学校時代の中西利夫先生、中学時代の故釜井春夫先生、高校時代の上島史朗先生に作品をみてもらった。
小学校は三条大橋東畔に、中学校は祇園花街に、高校は泉涌寺、東福寺の傍(ほとり)にあった。いずれも私の少年時代を強烈に色染めずにいなかった異色の環境である。歌ばかりでなく、私自身を開く鍵がここにある。歌と茶の湯とに終始した青春前期だった。
今の私はもう歌をはなれたと言っていい。それだけに、少年時代の感傷がのこし伝えた何か透明でいて寂びしいリズムには心洗われることがある。それぞれに私を偽ることなかった歌を一つ一つ拾いながら、こういう少年であったのかと、ふと眼を閉じる。 (昭和三十九年九月二十三日)
*
(前略) 突如小説を書きはじめたのが昭和三十七年七月三十日。紛れない、歌集「少年」はそれ以前へとわが文学経験を遡らせるささやかな証しである。よくもあしくも、「少年」の思いを抱いたまま私は小説を書きつづけて来た、と言わねばならない。
昭和三十九年秋に私家版の一部として編集し、四十九年秋には湯川書房より限定二百五十部を刊行した二百二十首のこの歌集が、不識書院主人の手で今重ねて梓に上されるのは、面映ゆくも、また嬉しくもある。
昭和五十二年 春分の日に 恒平
*
「湖の本版」と呼ぶことになるだろう、定本とはまだ言わないが、『少年』が、また元気に姿勢を正して立ってくれたのが、嬉しい。歌の数を、組みの余白にも助けられ、数首ふやした。「不識書院版」の。パンフレットにいただいた故上田三四二氏と竹西寛子氏のあたたかい文章も、ご好意に甘え、再度頂戴した。改めて不識書院の中静勇氏に心から感謝を捧げたい。氏の手で入念に装本された新書版函入りの『少年』は、まことに愛すべき仕上がりであった。二百二十六首、よくもあしくも少年感傷の所産でしかないが、初心はここに在り、否むわけにいかない。中学の亡き給田みどり先生、釜井春夫先生、またポトナムにご健在の高校の上島史朗先生に、さらには妻をはじめ、わが詩心を養ってくれた多くの愛する人たちにも、重ねて深い感謝と愛とをこめて贈りたい。 (平成七年七月娘朝日子の誕生日に)
初原に触れる 『少年』十五首
上田三四二
このナイーヴで清潔な作品集にむかうのに、無駄口を惜しんで直ちに作品に就いて見たいと思う。私は十五首を選んでみた。
朝地震(あさなゐ)のかろき怖れに窓に咲く海棠の紅ほのかにゆらぐ (菊ある道)
山なみのちかくみゆると朝寒き石段をわれは上りつめたり
十五、六歳の作にしてはおどろくほど巧みだが、巧みというだけでは説明のつかない微妙なものがある。初々しいのである。
「菊ある道」の一連は、「窓によりて書(ふみ)よむ君がまなざしのふとわれに来てうるみがちなる」という一首をもってはじまっている。恋の思いが歌のことばの初めであることほど、短歌にとって自然なことはない。秦氏の短歌が、少年初心の恋の歌からはじまっているのを私は大変羨ましいと思い、相聞そのものではないが、それを背景とするこころの顫えと憧れをつたえるような引用歌の、すでにこういう出来上った形を成しているのに注目する。
笹はらに露散りはてず朝日子のななめにとどく渓に来にけり (拝跪聖陵)
渓ぞひは麦あをみっつ鳥居橋の日だまりに春のせせらぎを聴く
この「拝跪聖陵」は秦氏の小説のもつ或る妖しい気分をいちはやく伝えている点で興味をひく。作品としてはむしろ、「ひえびえと石みちは弥陀にかよひたりここに来て吾は生(しやう)をおもはず」「水ふたつ寄りあふところあかあかと脳心をよぎる何ものもなし」などの方が作者をよく出していると言うべきであるが、好みによって写実的なものを採ってみた。
一連はこの世の外へさまよい出ようとする作者の憧れを歌にしている。写実的といっても、うたわれている場所はすでに日常性を超えていて、その気分の反映はやはりこの二首にも感じられるのである。
黄の色に陽はかたむきて電車道の果て山なみは暝れてゆくかも (光かげ)
ほろびゆく日のひかりかもあかあかと人の子は街をゆきかひにけり
閉(た)てし部屋に朝寝(あさい)してをり針のごと日はするどくて枕にとどく
はかなさと亡びを言う声はこの歌集のなかから幾つも響いてくるが、一巻を読み終えて思うのは、これはいのちの歌の集だということだ。十七歳の少年が一方では性に目覚め、一方では世の無常の自覚にみちびかれながら、動揺のうちに、生きるとは何かを問うようになっている。そして生きようとしている。
わぎもこが髪に綰(た)くるとうばたまの黒きリボンを手にまけるかも (夕雲)
窓によればもの恋ほしきにむらさきの帛紗のきみが茶を點てにけり
柿の葉の秀(ほ)の上(へ)にあけの夕雲の愛(うつく)しきかもきみとわかれては
草づたひ吾がゆくみちは真日(まひ)あかく蜻蛉(あきつ)のかげの消えてゆくところ
この「夕雲」は秀歌ぞろいで、十七歳という年齢を考え合わせると驚ろかされる。いままでの歌も大体においてそうであるが、この四首などはことに、まだ十代にある作者の年齢を考慮することなしに味わうことが出来る。
四首とも言葉が順直で、苦渋なく言葉をやって、口疾(くちど)にも浮華にもなっていない。語から語、句から句への移りゆきが次の発語をうながすように滑らかでありながら、一語一語がきれいに粒立っているのである。
作歌に際しての歌の功徳ともいうべきものは、万葉集でも斎藤茂吉でも、そのほか誰であってもいいが、これら先行者たちの拓いた語法や語感を比較的容易に学ぶことが出来るという点にある。けれども、技法上の学びはそれにこころを与えることをしなければ、形骸に終ってしまう。この年、昭和二十八年、作者の作歌への熱意は最高の亢まりを見せつつ、この「夕雲」のあたりに一つの頂点を形造っている感があり、「わぎもこ」と呼ぶような女性を対象に、歌は押えようとしても押え切れない感情を充分な抑制をもって歌い、瑞々しさに格調を与え得ているのである。
三首目の「きみとわかれては」は夕べの別れであって別れてしまうのではもちろんない。「柿の葉」というのも親しみがある。「ひそり葉の下記の下かげよのつねのこころもしぬに人恋へるかも」「目に触るるなべてはあかしあかあかとこころのうちに揺れてうごくもの」、この二首もよい歌である。
落葉はく音さきてよりしづかなるおもひとなりて甃(いし)ふみゆけり (弥勒)
歩みきて耐へられなくに霜の朝の木がくれの実はぬれてゐにけり
心情と外景とが危うい均衡を保ちながら互いに浸透し合っている。この一連のはじめに挽歌が七首あって、それとの関係は直接にはないようであるが、沈潜した気分の一首目も、悲哀と思われる強い感情を湛えた二首目も、どこかいのちを見つめているような咏嘆の語気が感じられる。根本は主情的なのを、甃を踏むとか、木がくれの実の濡れている嘱目とか、そういった事物性によせて歌っている。短歌の咏嘆の典型的な方法といえよう。これも十七歳のときの作である。
山ごしに散らふさくらをいしの上に踏めばさびしき常寂光寺 (あらくさ)
道の上の青葉かへるでさみどりに天(あま)そそぐ光(ひ)を恋ひやまずけり
前者は「常寂光寺」というさびしく美しい寺の名がぴたりと納まっている。実際の寺もここに詠まれているとおりの雅趣のある寺である。後者は軽快にたたみ込んで、景も語の運びも爽快である。ともに明るさと浄福感が出ている。
以上で十五首であるが、この一連の中からもう一首、
すずかけのもみづるまでに秋くれて衣笠ちかき金閣寺みち
を挙げておきたい。しっとりとした、風格のある歌で、この一連が十八歳の少年の作であることはやはり驚ろくべきことだと言わねばならない。
二十歳以後の作にも注意したものが三首ばかりあるが、『少年』の主力の、いままで見て来た未青年時代のもののうちにあることは動かない。
周知のとおり、秦氏はその後歌をはなれて小説の道に進んだ。私はそれを短歌のために惜しむ気持があるが、またこうも思う。短歌は氏の創作の中でより広い表現の場を見出したのだ、と。秦氏の小説に見られる豊かな抒情性と親密な文体は、この『少年』における作歌歴と無関係ではあり得ない。すくなくとも、年少にして短歌におもむいてこれだけの作品を成した心の向きと無関係ではあり得ない。『少年』をよむたのしみは、一つにはこの作家秦恒平の初原に触れるたのしみでもある。
(文藝評論家・歌人 昭和五十二年不識書院版『少年』パンフレット)
根の哀しみ 竹西寛子
こういう文章がある。
「すべての物には、手近な手もとで、手が届き、手で取れ、手に足り、手で使え、手で持てるものと、逆に、手が届かず、また、手に余るものとの違いしかない」「人は、努力してすこしでも遠くに手を伸ばし、すこしでも広く手をまわして、少しでも多く大きく重く、自分の世界を『手中』におさめつづけながら生涯を終るのだ。」
人間や世界についての解釈は、それこそ人さまざまであるが、私は、右のような解釈に惹かれる性質の人間である。このような解釈とは、この場合、このような微視と巨視の統合、または、具体と抽象についての認識と言い換えてもよい。
女学校に入って間もない頃、波多野精一の「西洋哲学史要」を知り、満足に読めたはずもないその本でいちばん感動したのは、今の自分でいうと、哲学の歴史は世界解釈の歴史だということ、つまり、ある解釈がある解釈に超えられてゆく歴史だということであった。
今となってみれば、改まってこう書くのも気がひける、当り前のことなのに、手近なところで不動の解釈らしきものを大真面目に求めて青くなっていた頃の私には、事件にもあたいすることだった。一つの解釈はつねに相対的なものでしかない。だからこそと新たな解釈を試みる叡智の健気さに見出す意味の変化は、それ以後の私自身の変化でもある。
この世界解釈の素材については、文学は、たとえどのように些細な素材であろうと拒否してならないのはいうまでもないが、同時に、特定の解釈を直接に訴えてはならないのも前提のうちだと私は思っている。
たまたまこうして文学に関わり乍ら生きるようになったが、そうなって解釈のほうと縁が切れたかというとそうではなく、性急な解釈を恐れるようになって、いっそう解釈に惹かれる羽目になった。小説と評論の往還からのがれられないのも多分そのためであろう。読者としても、人様のそうした仕事にいきおい関心をもつことになる。観念的な思考があって、しかもそれが厚くつつまれ、深く埋められている作品をいいと思う。
ところで、冒頭に引用した文章は、さらに次のようにつづいている。
「そういう努力を空しい卑しい恥ずかしいとする考え方があるのを私は知っている。しかしその咎は、『手』に帰せられるものではなく、むしろ心が負うべきものであることも知っている。それどころかこの『手』の努力こそ人間の歴史が最も価値高い一つとして追求しつづけてきた『自由』を創っていることに感謝しなければなるまい。自分の『手』を思うままに使えることが『自由』の意味だということは、人の自由を奪う時、真先に『手』から縛ることで納得が行く。」
さきほどからの引用文は、ここに及んでより強い喚起力を伴いながらその主旨を開いてゆく。はじめてこの文に接した時、その咎は、手ではなく「むしろ心が負うべきもの」というくだりまできて、私はいい文章を知ったと思ったが、今もその覚えに変りはない。
この文章の書き手である秦恒平氏が、稀に見る博識の作家であり、精力的な活動の中にも、ことに、日本古来の諸藝術、諸藝道についての造詣を生かしてユニークな作家であるのはつとに知られる通り、今更言葉を添えるまでもないことだ。一読者としての私は、氏の作品世界の多彩と奥行きの深さに幾度か感嘆を誘われている。
作品の多彩は言うまでもなく感受性の反映である。奥行きは、それに加えて、人間及び世界解釈への、氏の貪欲な意志とも無縁ではあるまい。その意志を、作品の奥行きの深さとしては感じても、少なくとも、観念的には感じないのは、その意志の根にあるのが氏の哀しみとでもよぶべきものであって、氏が依然として解釈以上にその哀しみを重用しているためであろうと思う。その証しの一つを、私はさきの、咎は手に帰せられるものではなく、心が負うべきものの一節にみる。
日本人が、日本人の歴史とともに歩むというのは、ある意味では選択の余地のない事実のようにも思われる。さき頃、「閑吟集」を読み返していた時にも、そんなことをあれこれ思った。
たとえば性についての室町庶民の表現は、王朝貴族のそれとは明らかに異る開放的なものだ。けれども、ひとたび王朝を通り過ぎた時代の表現は、二度と万葉の解放にかえることができない。どうしても違う。となると、否応なしに歴史とともに歩まされている人間の現実を認めざるを得ない。
しかし又、こうも考える。
否応なしにとは言いながら、やはり限られた目を持つ者だけに、耳を持つ者だけに生きる過去もあるのではないか。秦氏の作品の中に生きている日本人は、よくそのことを考えさせてくれる。私などの、よう見なかった、あるいは、そこまではとても付き合えなかった故人の心を、聞くことのできなかったそれを氏は過去のものとしてではなく、抽出し、蘇生させてくれる。
その生彩は、現代に望みを絶たれた目と耳ではなく、今の世に、いかに充実して生きるかに情熱的な目であり耳であるからこそ可能なのだという事情をも、併せて納得させるものである。すすんで故旧を食べながら生産しつづけるのは決して易しくはないが、秦氏はそういう人のひとりだとも私は思っている。
(作家 昭和五十二年不識書院版『少年』パンフレット)
母と『少年』と 秦 恒平
なにがきっかけであったのか、中学一年時分から、私の通学鞄には余分に四冊のノートがいつも入っていた。詩と短歌と俳句と散文を随時に書きこむためだ。概ね励行していた。しかし三年生時分には一冊に減って、短歌だけが残っていた。そういう少年であった。
昭和二十六年に高校に入り二十七年、新校舎に移った。近くに泉涌寺、東福寺があった。下京一帯が見渡せる高い丘の上に校舎は建っていた。広い空がいつも明るかった。
短歌と茶の湯――高校の三年間はそれだった。寺々をよく訪ね歩いた。受験勉強はしなかった。かけがえのない三年間だという、今想えばちょっと気味のわるい覚悟があの当時の私にはあって、むしろ教室の外で、自分ひとりの眼や耳や手や脚でおぼえられるものの方に熱心であった。授業より「京都」を尊重していた。
茶の湯へは叔母が道案内をしてくれた。が、短歌はひとり歩きで、時おり国語の先生に見てもらうだけであった。幸い、歌集『鈍雲』などの歌人である上島史朗先生(「ポトナム」同人)に現代国語を習い、また国文学者である岡見正雄先生(もと関西大学教授)に『枕草子』などを習っていた。同好の先生がた数人で歌会をもたれていたのにも何度か誘っていただいた。が、結局はどの結社や集団とも没交渉で済んだし、短歌をつくる友だちとも出逢わなかった。
ひとり歩きといえば、私の場合は、小説もそうであって、昭和三十七年夏から書きだしたが、それ以前にも以後にも、同人誌とか同人仲間とかのつきあいは一度も経験がない。師といえる人に教えを乞うたということもない。小説もそうなら短歌もそうで、学んだのは古人から、先達から、古典から、というしかない。
私の短歌は小学校四年と六年生の時分に各一首残っているのが古く、中学時代にも数は多いが、のちに歌集にした『少年』(不識書院、一九七七)では高校へ入って以後の作品に限定し、その採った歌数も極度に寡くした。歌数を絞るというのは、歌集を自撰する人の当然の態度だと私は思っている。月々に何冊も届く寄贈歌集のうち、よく撰んでいないために、あたら印象をぬるいものにしてしまっているのが多いのは、惜しいと、よく思う。
むろん私の『少年』は、いくら撰んでも心稚い未熟なものに過ぎなかった、明らかに奇妙な、間違ってさえいる用語や語法も含んでいる。が、それなりに昭和三十九年の私家版第一集『畜生塚・此の世』の中に小説四篇と併せ、巻頭に収録して以来、豪華限定本、普及本と、都合三度も本になってかなり読まれるようになっているのは、まさに少年期の思い出のためにも、私の文学経歴の一つの証しのためにも、望外のよろこびとなっている。
歌集の小見出しは、高校時代に限っていうと「菊ある道」「山上墳墓」「東福寺」「拝跪聖陵」「光かげ」「夕雲」「弥勒」「あらくさ」とつづいている。都合百四十首たらずとなっており、あと八十首たらずが、大学時代そして小説以前(二字に、傍点)の作として付け加わっている。私の歌が初々しいのか古めかしいのか、は分からないが、まちがいなくやはり私の小説の根になっている。竹西寛子さんに「根の哀しみ」と評された、まさしくそれ(二字に、傍点)が『少年』を一面に蔽っている。余儀ないことと、嘆息するのほかはない。
此の路やかのみちなりし草笛を吹きて仔犬とたはむれし路
これは私の作でなく、滋賀県能登川町の繖(きぬがさ)山麓に建っている阿部鏡(きょう)の歌碑である。昭和二十八年ごろ、私の高校三年生時分、阿部鏡が漂泊の大和路から久々に郷里へ辿り着いたおりの歌を長女の千代が、遺された歌文集『わが旅
大和路のうた』から撰び、昭和三十七年に心こめて碑にした。
阿部鏡(深田ふく)が、生別し死別していた私の生母であったと、正確に知ったのは、わずか三年前(一九七六)のことだ。前川佐美雄氏に私淑した歌詠みなどと、知る由もなかった。実業の名家阿部氏に生れ、寡婦になってのち不思議の恋に身を焼いて四十一歳で私を生み(昭和十年十二月二十一日)、愛人と離され子も奪われて独居四十四歳、日本で初の保健婦養成学校に入学し、奈良県下や京都の施設で恵まれない老人や子供の健康を劬りつづけてのち、病苦けわしく三年間臥して昭和三十六年に六十七歳で死んでいた。歌集は末期の頑張りで出版にこぎつけたもの、だがごく最近まで、私はそういう母の歩んだ道をすこしも知らなかった。知ろうという気がなかった。
あの頃私はこんな歌を詠みつづけていた。
歩みこしこの道になにの惟ひあらむかりそめに人を恋ひみたりけり (十六歳)
山かひの路ほそみつつ木の暗(くれ)を化生はほほと名を呼びかはす (十七歳)
絵筆とる児らにもの問へば甃(いし)のうへに松の葉落つる妙心寺みち
かくもはかなく生きてよきことあらじ友は黙って書(ふみ)よみやめず
木もれ日のうすきに耐へてこの道に鳩はしづかに羽ばたきにけり (十八歳)
胸まろき鳩の一羽に畏れゐて道ひとすぢに暝れそめにけり
『昭和萬葉集』(講談社刊)にこんな歌を寄せていることを、母は泉下でなんと惟っているだろう。
その母なる阿部鏡の作歌を今すこし挙げさせていただく。
玩具店のかど足ばやに行きすぎぬ慈(いつく)しむもの我に無ければ
穂がけ路(ぢ)を提灯三つもつれ来ぬ明くるを待てぬ病人あるらし
吾子(あこ)に語るごとくもの言ふ此の頃のたぬしきわれは犬の飯盛る
生も死もさだめにありと悟りたる如くに説きしわれにしあるを
奥山は暮れて子鹿の啼くならむ大和の国へ雲流れゆく
十字架に流したまひし血しぶきの一滴をあびて生きたかりしに
(昭和五十四年十月『昭和萬葉集』巻十 月報8)