電子版 秦恒平・湖(うみ)の本 創作26
 
 

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秋萩帖 下
 
 

虚像と実像 夕顔 月の定家 
 



 

虚像と実情

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「国語通信」平成三年No.1早春号

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 たまたま只今到着の私信を拝借して、幸便に、話題の足を早めてみよう。
 ごく最近に『加賀少納言』というせいぜい四十枚ほどの短編小説をわたしは復刊した。一九六〇年頃
に知った中国の「■無影」の噺にかぶせて想を得、一九七七年に雑誌「太陽」十一月号の「紫式部」特
集に書いた作品だが、その後ソ連で、日本現代文学短編選にロシア語に翻訳され、収録されている。
 加賀少納言がどのような人物か、最初に説明しておいた方がいい。けっして紫式部の夫であったとか
男性の恋人(と、わざわざ断るのは、式部には同性の恋人のような存在を暗に求める性質があったかも
知れないと推量しているからだが、)であったとかいう人ではない。かと言って、では女と決まってい
るかというと、それさえ断言できない。清少納言は女性の名乗りだが、しかし、少納言はがんらい男性
の官名である。ただ該当する男性が式部の周囲に確認できない。しかし女友達ないし宮仕えの朋輩のう
ちにも「加賀少納言」なる女房は、確認できていない。汗牛充棟ただならぬ源氏物語研究や紫式部研究
である。しかも必ずしも軽い存在でない「加賀少納言」の正体が、今なお「ただ一人」といいたい程、
例外的に把握できていないのである。
 なぜ軽い存在ではないか。
 紫式部には家集一冊がのこされている。ごく晩年の巨編と思われている。ところが集の大尾、まさに

(■:登 に おおざと)

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紫式部ほどの人の一代をしめくくるのであるから「大尾」というにふさわしいのであるが、その大尾を
しめくくる歌一首が、「加賀少納言」の「返ししになっている。ふつうは自身の自信作かないしよっぽ
ど名の知られた格上の人の歌でしめくくるところであるが、そんなことは承知の式部が、なんのことわ
りも無く「加賀少納言」に一切をゆだねているのである。
 ことのついでに、興味深いその最期の最後の歌のやりとりを、ただ挙げておこう。

   小(こ)少将の君の書きたまへりし打解文(うちとけぶみ)の、物の中なるを見付けて加賀少納言のもとに
 暮れぬ間の身をば思はで人の世のあはれを知るぞかつは悲しき
 たれか世にながらへて見む書きとめし跡は消えせぬ形見なれども
   返し                             加賀少納言
 亡き人をしのぶることもいつまでぞ今日のあはれは明日のわが身を

 繰り返して言うが、ここに「小少将の君」がどんな人かは分かっている。藤原道長の妻の姪にあたり、
父にはやく死なれている。当人ももう死んでいる。式部はそれを嘆きつつかつ己(おの)が生涯をもまたここで
「加賀少納言」にあてて嘆いているのである。ところがその相手が、目下の研究では、式部周辺に、不
思議なほど、まるで見当たらないとされている。
 小説家は、こういう人をこそ書いてみたい。いや、それは、ちがう。小説家にも有名な人を選んで書
く人のほうが多い。そのほうが読者受けはいいだろうし、売り込みやすい。だが、わたしは、その道を

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たやすく通ろうとはしてこなかった。研究者や学者の手が届きかねるという人、歴史から見忘れられて
いるような人にこそ手をさしのベてみたかった。加賀少納言を書くことで紫式部や源氏物語がより見え
てくるならぱ、仕事の仕甲斐ではないかというふうに思った。そういう考えで題材に接してきたようで
ある。
 ところで前述の私信は、今度その『加賀少納言』復刊本を謹呈した受領の手紙であったから、礼状の
常で、「加賀少納言の見事なフィクションには頓首の他ございません」も、いくぶん割引かれていい。
「それにしてもソ連の研究者がこれを実像と思い込んで、源氏研究、式部研究の資料として借用しまし
たら、ちよっと如何にも起りそうな事で、怖い気さえいたします」とあるのも、本気でそう思われたと
いうより、作者へのいくぶん御挨拶であると読んでいいだろう。お名前を出すのは控えてただA氏とし
ておくが、A氏は、すぐれた紫式部日記の研究などある、とびきりの専門家である。わたしは深く尊敬
している。
 A氏が、本気で「ソ連の研究者」の粗忽(そこつ)を不安がってなどおられないのは当然である。かの国が日本
の古典研究に熱心なことは想像以上であり、ここはA氏のレトリックであると読みたい。と同時に、万
一にも初学の人にそういう「思い込」みをさせる恐れはあり、それが「怖い気さえ」するという箇所は、
半ばは、あるいは相当に、小説家の「フィクション」に対する日頃の懸念につながっているとも読み取
れる。ひがんで邪推をするのではない。そういう懸念は、研究者・学者のあいだでは一般に、密かに、
ときに声高に、語り合われているのではないか、いやいや、それは小説家のうぬぼれた、勝手な思い込
みであるとしておこう。

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はからずも、A氏は「実像」という立場を示唆された。しかし「フィクション」も否定されてはいな
い。ただ、やや手前味噌をまぜて言わせてもらうなら、巧妙な「フィクション」が「実像」を見失わせ
る「怖」さを、「研究者」の、それも指導的な立場から警戒されている。ましてデタラメの横行はたい
へん困ると、迷惑に感じられているだろう。小説家であるわたしとて、同感である。
 問題は、歴史上の人物なり事件なりを「言葉」で記述ないし表現するさいに、はたして「実像」ない
し「事実」に限界は無いのか、だ。限界は、「加賀少納言」で分かるように、まぎれもなく有る。その
上で限界の範囲を越えずに押し広げてゆく学問と、限界をはみ出て行こうとする文学(通俗読み物は、
この際、問題にしない。)との行き方は、当然ちがってくるのである。
 誤解を避けるために言っておく。加賀少納言の実像はあいにく分からない、が、紫式部の実像は分か
っている、とも、言えないのである。曇りなき実像をかかげた人間は、過去にはむろん現在でもいない。
いないのが道理なのであり、分かっているのは、あくまで、あらましに過ぎない。千年まえの紫式部が
生涯本名なしでいたわけもなく、しかし、それさえ推測の論が一二あるにとどまり、生年も没年さえも、
正確に知れていない。今、京都に「紫式部顕彰会」が発足していてわたしも理事を勤めてはいるが、な
かなか、顕彰すべき式部実像の全貌どころか半はも分かってはいないのであって、だからいまさら偉大
な紫女を顕彰しなくても、源氏物語がますます読まれ、ますます研究されればそれでいいではないか、
それより現代文学勃興の為に力をいたして貰いたいもんだと、発起人の塚本幸一氏をいくらかは本気で
たきつけたが、だめだった。

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 余談はともかく、歴史上の人物の「実像」どころか、その実は現在身辺のだれそれ、いや当のわたし
の「実像」ですら、たとえば、このわたし当人にも分かり切れていない。それを分かろう分かろうと探
索し究明して行くのが学問・研究であるのはその通りで、どれだけの学恩を、われわれ小説家が蒙って
いるかは計り知れない。しかもそんな研究の限界を乗り越え、「実像」以上の像を架空に追い求めるの
も小説家にすれば自然の欲求であり、そういう際に、ふと、学問は肯定しないだろうが、それどころか
「虚像」に過ぎぬと非難・否認しようとするやも知れないが、あえて「虚像」という名の「真実像」を
望みたい、表現したいのですと呟いてしまう。実像を追う詮索に限界は、味気ないばかり厳然と在る、
だから「実像」だけを追う人のその先へ、想像と推理とで踏み込みたいのである。
「虚像」性を否認ないし批判することに急な研究者は、じつは、思ったほど多くない。A氏のように優
れた研究者ほど、かえって「フィクション」の立場に「頓首」もして下さる。むろん「フィクション」
の限界へ警告は伴うけれど、それは当然で、小説家も心得ているつもりである。学問の成果を、ちから
づく捻じまげる気はないのである。
 時々困ることが、それでも、ある。研究がつねに過程を辿っていて、定説や通説すらしばしば書き替
えられる。正しく書き替えられて行くのは歓迎だが、孫引きの安易な積み重ねで、また文献批判の不充
分で、いっこう書き替えられなくて迷惑することも有る。
 それにつけ、よく思い出す、もう十年以上まえのことだが大きな書の展覧会で、秀吉が小田原攻めの
長陣から、上方で留守をしている妻に、通俗にねねさんと謂っておくが、奥さん宛に面白い手紙を書い
ているのを見つけた。退屈したので淀殿をよこして下されまいかといった事がひょうひょうと書いてあ

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る。きわどい事を霞か雲かに包みかくしてねだっている。それはそれとして、長い書状の名乗りは「て
んか」で、これは天下か殿下とよんでいいのだろうが、宛名はねでもねねでもなく、「五さ」となって
いた。解説では、妻とはいえ名指しをはばかり、侍女に「ござ」というのがいたのへ形の上で宛ててあ
ると。
 ところが、これには、幾昔も以前に柳田国男の懇切な反論が書かれていて、結論だけを言うと、「ご
ざ」は、「こうざま」「ごっさま」など、秀吉夫妻が出た尾張方面はもとより全国に例の多い主婦を敬
った呼び掛けで、ときには「ごんしゃん」などと娘を大事に呼ぶ例へも繋がっている。「ご」は女御、
姉御など女人へ敬意の表現であり「さ」も同様である、「ござ」という名の侍女がいたなどというのは、
確認が無い以上は当て推量に過ぎない、と、そう言われてみれば侍女説より、はるかに適切なのである。
 だが柳田説は閑却され、官学の大家による侍女「五さ」説が、守るというより、怠惰に踏襲されつづ
けて今に到っていたのである。こういう事が、「研究」の世界にもまま有って門外漢を惑わせてくれる。
だが、この例などは罪の軽いほうである。
 数年まえに『秋萩帖』という小説を雑誌「墨」に連載した。「秋萩帖」は言うまでもない草仮名(そうがな)の国
宝であり、伝小野道風の筆として尊重されてきたのが、これまた定説を大きく書き直す見本のような小
松茂美氏の研究が発表され、話題になっていた。氏は現在の国宝を中世の写本で伝道風は否定されると
され、しかし、「秋萩帖」の原形をなした草仮名の歌集が道風と矛盾しない時代に在りえたのではない
かと、その原本の断簡を大胆に推定されていた。小松氏の研究は一般に門外漢の興奮を誘うスリルに満
ちているが、論証の手続きは詳細であり、わたしは、いつも教えられてきた。

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 わたしは論証に便乗して行きながら、いわば「秋萩帖」原(一字傍点)歌集がどんな意図でどう発起されどう成っ
ていったかを書いてみたかった、むろん小説として。で、珍しく見切り発車した。伝説豊かな道風がい
るのだし、彼にも実像はあろう、恋もしただろう。調べて行くうち道風は後撰集歌人であり、しかも大
輔(たいふ)といわれる閨秀とのあいだに、なかなかおつに相聞こえの歌まであるではないか。大輔は歌人として
名高い伊勢ほどは行かないが、女では伊勢についで二番めに数多く後撰集に歌をとられている。貴公子
たちとの交際も豪華を極めていて、道風のごときは下ッ端に属していた。それなのに二人の間には、か
なり深い思いが交わされていた。すくなくともそんな時期が二人にはあった。お膳立ては出来ていた。
 大輔(たいふ)の名は、調べれば大鏡にも大和物語にも出ていた。彼女はなんと醍醐天皇の最初の皇太子と深い
縁に結ばれていて、しかも死別していた。この皇太子は、菅原道真怨霊の最初の犠牲者・死者として歴
史に名をとどめ、大輔はそれを哀哭する人として印象的に物語に登場している。大輔は、当時抜群には
なやかな有名人なのであった。恰好のヒロインをえて、わたしはほくほくしていた。
 ところがである。
 ところが簡単に分かっているだろうと思った大輔の、まず戸籍が、分からない。権威ありげな大出版
社のテキストに権威ありげな研究者が注解をつけている、それを見ると当然のように、後撰集の大輔と
古今集に同じ名で歌をとられている大輔とを、同一人とし、嵯峨源氏の弼(たすく)の女(むすめ)としてある。だが、両者
の歌風というものが、たとえば鉄幹と子規ほども、まるでちがっている。それもたとえぱ虚栗(みなしぐり)の芭蕉と
猿蓑の芭蕉のちがい程度と譲っても、今度は、年齢が齟齬(そご)する。古今集の大輔を後撰集の大輔へ直接つ
なぐと、後撰集世界にあって彼女に恋した十代二十代の青年らは、自分の倍ほどの大年増(おおとしま)を相手にして

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いたことになってしまう。第一、なんで藤原氏虎の子の皇太子乳母に源氏の女を選ぶというのか。てい
ねいに調べて行けば分かることで、事実分かっていた人は昭和十年代のはやめに、同一人説などは否認
していた。にもかかわらず怠慢な孫引きの重ねからであろう、後撰集の大輔を古今集の大輔と同じ源弼
の娘か又は孫娘としたまま、大手をふって今日只今もそういう専門書が罷り通っている有り様だった。
 おかげで大輔をさきの皇太子の「乳母(めのと)」としないと年齢の程があわなくなり、事実は「乳母子(めのとご)・乳姉
弟」であったろう高い可能性を捻じ曲げてある注釈も多くて、不自然をまたまた重ねてしまっている。
だが、いっこうに訂正もなされず、結局この大輔が、誰の娘なのか妻なのか母なのか不明のまま、「大
輔」という名乗りの由来すら皆目不明のまま、なのである。
 かりにも後撰集にときめく女人である。歴史上の人物とも、たとえば醍醐の皇太子、たとえば摂政家
の藤原実頼(さねより)や師輔(もろすけ)、たとえば紫式部の祖父や曾祖父たち、たとえば三蹟の小野道風といった人たちとの
親しい関わりは歴然としている。なのに、当人の存在はともあれ姓氏も親きょうだいも、その身分や地
位も、実像部分はうやむやなのである。うやむやなら、まだいい。間違った説明が、古法の踏襲が、無
批判に通用していて書き直されていないのだった。
 わたしの小説は、当然、頓挫しないまでも運転に苦労した。「秋萩帖」や道風はもはやそっちのけに、
わたしは、すでに走っている連載列車の運転席に釘づけのままで、「大輔」の誰であるかを追跡し推理
するはめに陥った。その経過がそのまま小説になって行き、自然、後撰集が成る時代の、つまりは菅原
道真と藤原氏とが葛藤ただならぬ時代の、底ぐらい政変がらみに小説『秋萩帖』を描いて行くことにな
った。四苦八苦、大輔のむしろ適切な「虚像」を求めつつ、真実感を獲得しようとわたしは努めた。厳

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しかった。つらかった。だが、推理はすこぶる面白かったし、しかも、書いている間も研究者の助言や
助力を、求められるだけは求めていた。デタラメにはしなかった。
 本になったとき、京都からわざわざわたしのT先生こと角田文衛氏は電話で、「よう調べましたね」
とねぎらって下さった。氏は、小説家のデタラメを最も厳しくとがめる怖い歴史家の一人である。むろ
んわたしの推定は、推定ないし「フィクション」を出るものでなく、学問・研究とは一線を画している。
学問が及ばないと知って、押して押して分け入った架空の小説世界なのである。大輔の「虚像」にわた
しは、だが、小説家の自負をもっている。だが「実像」であるなどとは言わない。かく、「あるべかり
し」虚像を蓋然的に求めたのである。蓋然の真実感を求めたのである。
 実像と事実とに固執する人は、小説家にも大勢いる。そのほうが何かしら誠実のように思われている。
しかし固執であるかぎり、それは虚妄でもある。「かくありし」事実が書けると信じているのは傲慢で
あり、「かくあるべかりし」真実への接近、あたう限りの接近、こそが表現の誠意である。わたしは、
そう考えている。そこに創作ということばの本来の追求がある。小説(フィクション)は調査ではない、
創作である。表現である。創作し表現された「虚像」を、調査された限りの「実像」よりも真実に遠い
と考えるのは、ちいさな事実主義の衰弱を告白するに過ぎない。
「歴史」の記述自体が往々「虚像」性を帯びる。歴史観ということばが用いられるが、それが「観」で
ある以上は「虚像」的な真実像への接近を意味している。優れた研究者はそこの機微をよく承知のうえ
で「実像」へ的を絞る。想像力を拒絶するのではなく、節度をもって抑制している。実像の影のように
虚像を予感し期待しながら、さらにその影を実像化してゆく苦労をされている。そういう研究者の研究

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にわたしなどは感銘を覚え、敬意を惜しまないのである。

 すこし方角をかえて、「虚像と実像」ということを、もうすこし考えてみたい。
 西行はよく知られた歴史上の人物であり、慕われ親しまれて来た。むろん伝えられた西行像を実像と
感じて(三字傍点)親しんだ。敬った。すぐれた和歌の多くを山家集その他の撰集に依って賛嘆した点はともあれ、
人と逸話との大方は『撰集抄』などの記述を信じていた。だが今日『撰集抄』は仮構の偽書と断じられ、
そのままは信じられない。いわば「虚像」の西行がそこにいる。今では西行の実像度はよほど高められ、
たとえば芭蕉らの知らなかった西行を知ることが出来る。西行を敬愛していた芭蕉は、たくさんな事実
を知らずに、たくさんな今は信じ難い伝承や創作に頼って西行像を心に結んでいた。近代の作家ですら
そうであった。余儀ない、それが歴史的なありようであった。
 では、だから、芭蕉が思い、語り、愛した西行は無意味なもはや捨て去るべき何かであろうか。とん
でもない。
 芭蕉の思ったような西行の漂泊であったとは限らない。風雅とも限らない。しかし芭蕉が「西行の和
歌」といい「宗祗の連歌」「雪舟の絵」「利休の茶」といって、その「貫道するものは一なり」と言い
放つとき、芭蕉の「ことば」に生きた例えば西行の像は、虚像のままに或る歴史を積極的に実現してき
た精神そのものとして生かされている。活躍している。虚の真実によって実の西行以上に充実した感化
を歴史にあきらかに刻印する。人はそれを文化の恵みとして掌に受ける。西行と聴いた瞬間に胸をひた
してくる感銘は、たんに一人の趣味的なものでなく、虚像であっても構わないと承知しながらたっぷり

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とその虚像が抱き込んでいるものから、恵みを受けたいと願う熱さなのである。虚像として大きいから、
それが嬉しくてその大きさに信仰するのである。
 俵屋宗達の実像は、まったく不明といっていい。が、虚像としての宗達から受けている喜びは、伝宗
達のすぐれた絵画からうける審美的感銘もふくめて、さらに深い、さらに大きい満足である。人麻呂、
業平、和泉式部、また雪舟や写楽の場合でもそれに近い。それほどの虚像を自分たちの文化史がもちえ
た真実に意義や誇りをおぼえて満足しているのである。なまじ実像の知れないことを、かえって是とす
る心理さえ人はもっているのである。
 例えばヤマタイ国がどこにあったかという論争に熱心な人も、ヒミコの実像を求めたりは、あまり、
しない。不可能だからというより、虚像のままで良いとする態度のほうが強いのかも知れない。ヤマト
タケルについてでも、そうである。赤穂義士たちに関してでも、そうなのであろう。人間の人間にたい
する本質的な関心は、かならずしも事実という名の実像であるより、それを超えて焦点を結んでいる虚
像の真実をより豊かにしたいという方にある。わたしなどは、それを、信じている。写楽のような実像
不明の近世人に謎解きを挑む人の多いのは事実だが、本気で実像を求めているというより、実像など出
て来そうにない成り行きに、一層、人の好奇心と好感とが集中しているのである。わたしなどは、そう、
見ている。いろいろな虚像が「説」として持ち出されるのが面白いのである。
 実も虚も、われわれは「ことば」でそれを語り「文字」でそれを書く。また聞いたり読んだりする。
目は口ほどにものを言うことのあるのも事実だが、それは、今は言わない。
 言葉や文字で表現する。それ自体がはなはだ「虚」である事情をわれわれは意識している。ましてや

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説明より表現の日本語である。言い尽くし書き尽くせるものでは、ない。むしろ上へも下へも過度にな
りやすく、事態を「実」として正確に伝えるのに、言葉は、人間の言葉は、ことに日本人の言葉は、け
っして十分なものではない。「そうだ」と幸せに断定できることは、森羅万象、ことわざの繁きがうえ
に繁きこの世では、有りそうで少ない。「ちがう」と断定してしまうのも、ちょうど裏返しで必ずしも
当たらない。その辺の機微を、日本語をもっともこなして使い込んできた例えば京都の人は、「違うの
と違うやろか」というふうに言う。暖昧に言うと非難する人が多いが、その非難こそ「違うのと違うや
ろか」と答えたい。もの・こと・人に対してもっともリアルに適切な応対は、「そうだ」「ちがう」と
いう断定のかたちでの肯定や否定ではなく、しんぼうよく肯定も否定もを疑い抜く態度なのである。そ
れでこそ安い事実の向こうの真実像へ接近できるかも知れないのである。
 実像の「実」にとらわれ過ぎていると、その実、たとえば書かれたもの、こと、人だけを信じてしま
うところへ陥りやすい。ところが、書かれたり語られたりしていない事実や真実は、その逆の場合に何
倍するか知れない。そこへ接近する「実」だけでは覚束なく「虚」の道を発見しながら見えない闇へ踏
み込むしかない。その際に想像力、推理力、構想的に世界を生み出してみる産出力がものを言うだろう。
それは学問とはいえないにしても、芸術にはなりうる道である。
 目に見える表は、見えない裏に裏打ちされている。だからこそ表でありうる。裏を否認することは出
来ないのである。
「実」を追求する為にも、同様に、「虚」が否認されていいとは思われない。しかし芸術の「虚」が、
学問・研究の「実」をないがしろにしはじめる時、芸も術も、自己崩壊して低俗に堕ちるのは必然であ

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る。そういうニセモノの多いことが問題なのである。

 それにつけて、紹介に値する一つの考え方をここに引かせて貰おうと思う。高名な、むろん業績ゆた
かな優れた文芸編集者に教わったことで、文壇にはかつて高見順の警告で「時代物(歴史小説)に手を
出すな」としていた時期があり、現在でも考え方としては残っているというのである。考え方の前提に、
一つ、有名な歴史上の人物とか事件について、自分ではよく知っているつもりでも、他人に向かって話
そうとすると、意外に曖昧な知識しか持っていないことを思い知るという事実がある。また一つ、だか
らか、そういう歴史上の人物や事件を書いた作品や文章は、文学としては通俗ないし未熟なものでも、
つい興をひかれて一気に読んでしまう場合が多い。しかも小説でもそうでないものでも、読後感に、ど
れも同じような似た感じが残るということが、ある。
 その編集者、大久保房男氏を、わたしは尊敬している。仕事をともにするには、大先輩過ぎたが、書
かれる文章や話して下さるお話には、いつも心から敬服するものがある。
 で、その大久保氏の理解によれば、歴史小説に手を出すのは、易きにつくことになる、だから手を出
してはいけないというのである。中には、乞食を三日すればやめられなくなるのと同じと言った文士も
昔はいた。そして大久保氏もこの考え方を是とされている。その理由も挙げておられ、必ずしも承服し
ませんとわたしは手紙を差し上げたことがある。二人の間で、それは、なお未解決の話題になっていて
最近も立ち話で笑い合ったりした。因みに臼井吉見は高見の言を「思いつきの浅見」と退けていた。
「歴史上の事件や人物は、現代物のように作家が苦労して創りあげなくても、既に存在していたものを

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料理すればいいだけだから、易きにつくことになる」と、だが、大久保氏は言われる。
 ところが「既に存在」などと到底いえない、影も形も分からない「加賀少納言」に類する人が歴史と
いう海には生息している。おこがましいが、わたしの歴史物で、平家の清経も、近江の東子(あづまこ)も、源資時
も、最上徳内も、また最新刊『親指のマリア』のシドッチ神父にしても、とてもとても深海魚より姿の
かすかな、存在を確かめるのも難儀な人物ばかりで、それを、「虚」の方法と筆とで「苦労して創りあ
げ」るしかなかった。だが、そういう人物だから組みついても行った。「歴史」そのものを創作して行
くのであり、見ようでは「現代物」よりずっと厳しい仕事にもなるのである。「歴史小説」といえども、
大久保氏のいわれるように「西郷隆盛」みたいな有名人ばかり書くわけでなく、「読者には想像がつく
から、作者にとっては極めて楽」どころか、かすかに「虚」なる影を追い求めて無名の、不明の、人や
事件の「歴史的」「人間的」真実を書き起こそうと試みている作家もいるのである。くだらない風俗・
現在(一字傍点)小説などより、「創造力」も意欲もよほど旺盛でないと「歴史小説」のユニークなものは書けない
ように、わたしなどは、思っている。
「歴史小説は、歴史上の人物や事件に対して、作家がこれまでとはちがった新しい解釈を下すところに
意義があるといわれる。作家の新しい解釈はそれはそれなりに面白いが、そんなに重要なことなのだろ
うか」と大久保氏は疑問を呈しておられる。
 解釈の為に小説を書くのでなく、作品が、おのずからその力で、新しい意義を歴史や人に与えること
がある。それが、歴史の書物以上に人に真実の感銘を与えうるについては、すでに紫式部が源氏物語の
物語論で的確に触れている。「作家の新しい解釈より、私は学者の新しい発見の方に意義を感じる」と

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氏は付け加えておいでだが、小説と学問を「解釈」の一事で平面に結んで是非されるのは可笑しい。虚
と実、表現と論証、ともに方法を異にしている、だから一つを文学といい一つを学問というのである。
混同すべきではないし、それについては、十分に語っておいたから、もう言わない。この点ばかりは、
「文学」の守護者のような大久保氏の認識とは思われない。すくなくも「歴史物」としての性格ももつ、
鴎外や露伴や潤一郎の作品を否定し去るに足る説得力がない。近世・近代に、氏の言説に立ちはだかる
作品、決して少なくないとわたしは見ている。我々の学んだ西欧の名作にも歴史物は、あった。
 大久保氏は、不幸にして「どんなにすぐれた時代物(歴史小説)でも、知的満足感は覚えるのだが、
現代物の小説を読んだ時のような文学的感動を味わったことが私にはない」と告白されている。書かれ
た人物に感動はする、しかし「それは文学的感動とはちがうもの」と断言される。「時代物では文学的
感動は与えられない」のを、「昔の文士」は分かっていた。今の「文学愛好家」も感じている、そうい
う人が「随分いるにちがいないと私は信じている」と言われる。どれを読んでも読書後に残る感じがお
んなじだからという一点を大きく、よほど大きく、氏は印象づけられているらしいのである。
「現代」といい「時代(歴史)」といい、しかし、「人間」「人物」「事件」「時代」を大事に書いて、
書き表して行くうえで、そんなにも決定的な別物であるのだろうかと、わたしの様に歴史と現代とをし
ばしば融和させ再構築して書いてきた者からは、なんだか議論が浅すぎる気がする。伝え聞いた話であ
るが正宗白鳥のように、作家は生涯に一度は歴史小説を書いて力量を示すべきであると言ったといわれ
る大家も、ある。
 大切なのは現代物であれ歴史物であれ、小説としての意図を、どう方法的に把握して表現するか、実

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につくか虚をつくるか、そういう態度の差の方がよほど本質的である。それを見定めてこそ、隣接する
学問・研究のみならず各種の表現や造形との望ましい連携も、成り立ちやすくなるのだと思われる。十
把ひとからげに「歴史物」をみな似ているとか同じようなとか、通俗時代読み物と歴史文学との品質の
差を味わい深く噛みわけてきた「文学愛好者」ならば、そうは感じていないことの方をわたしは信じる。
わたしも、また、一人の文学愛好者であるから、自信をもってそう言えるのである。
 それよりは、やはり、「実像」と「虚像」の可能と不可能を謙虚に考え直し直しして、「フィクショ
ン」の魅力を発揮するように文学は努めるべきである。現代か歴史かは、むしろ作家内面の必然が選択、
的確に選択し、批評すべきことであり、それ以上のものでも以下でもない。それより、ただの現在(一字傍点)文学
を現代(一字傍点)文学と錯覚しないことが、より大事であろう。
 ま、何にしても私は、現代であれ歴史であれ、私の小説をただの読みものにしたいと思わない。そん
なものは書きたくない。いつも、その作品を「書いた」ことが何かを「見つけた」「創った」ことにな
るように、書きたい。材料がある場合もその材料に、私らしい切口を付けたいと、いつも願っている。
願い通りにはなかなか行かないにしても、である。
──完──

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     作品の後に

『秋萩帖』を選ぶについて、正直、かなり迷った。この小説が本になった時にも、ある人は「一
人もいない」と言った、「この作品を十分味わえる人は、日本中に一人もいないでしょう」と。
 かつて『風の奏で』を本にした時にも、ある読者は、あまりの「読み難さ」に「本を壁に投げ
つけてやりたかった」と、後に告白してくれた。その読者は、それでも、いつしか有り難い我が
作品の読み手になっていて、『風の奏で』も『北の時代』も『親指のマリア』でも、どんな作品
でも、今はらくらくと楽しんで貰っている。時には作者が教えられる。もともと『風の奏で』で
扱われているのは平家物語であり、平家物語の好きな人は広い世間にいっぱいいるのだから、そ
うそう難渋した人ばかりがいたとも思わない。いちど文体と方法とに慣れてしまうと、「阿片だ
ね、まるで」と、亡き安田武のような畏(こわ)い読み手も『風の奏で』など、殊にお好きだった。
 だが『秋萩帖』は、そうは行くまい。古今でも新古今でもない。後撰和歌集の時代といって、
すぐイメージして貰える人は断然すくない。書聖小野道風といい国宝「秋萩帖」といっても、そ
の書跡に接した人はめったにいまいし、ましてその人と時代となれば「平安朝」のどの辺であっ
たかとうろうろされる心配の方がつよい。「承知の変」も「阿衡(あこう)の論議」も「道真左遷」も、た
とえばヒーローの多い源平合戦や南北朝の動乱などにくらべると、あまりに気遠い。
しかも道風の書よりも道真の怨霊よりも、名さえ朧ろな一女人を歴史の闇間に探索するような

137

小説とあっては、それは小説なんぞでなくて、好事家の論策に過ぎないではないかと決め付けら
れてしまいかねぬ。いよいよ壁に投げつけられる前に、今回ばかりは「ごめんなさい、読みにく
いかも知れません」と先に謝ってしまおうかと、じつは悩んだ。悩みながら、これがまた校正な
どしていて、私自身は意外なほどに、心楽しむものがあるのである。お前はそういうところが変な
んだと言われればそれまでだが、要するに一読者の身になっていえば、こういうのが読みたいと
思っているような作品を書いたのである。むろん出来・不出来はべつのことで、評価は読者に預
けたい。この小説の成るに際して思いのほかの苦労をした事情は、うしろに添えたエッセイ『虚
像と実像』を、どうぞお読みあわせ願いたい。弁明でも居直りでもなくて、このエッセイには、
「歴史」や「人物」や「小説」への、かなり基本的な、わたしの考えが明かされている。
 今回綿密に筆を添え加えて、わが『秋萩帖』も、よほど読者の難渋を和らげ得ていると思う。
「秋萩帖」とは、草仮名で秋萩の和歌二首他が書かれた国宝で、道風の筆とも伝えられてきた。
が、現存のそれは実は後世の写本であって、真実道風の筆に成ったであろういわば原本の「秋萩
帖」がかつて別に実在したであろうと、最近の研究が教えてくれている。ただし学者に言えるの
はそこまでで、それ以上は、つまり「秋萩帖」原本成立のドラマとなれば、小説家の想像力と文
体の力とで語り明かすよりないのである。わたしはそれに挑もうとして、めったに無いことに、
たまたま舞い込んだ「連載」という列車に、フイと飛び乗ってしまった。
 あにはからんや、この列車には線路も駅もなかった。アテにしたヒロインもなかなか顔をこっ
ちへ向けてくれなかった。見切り発車した「連載」号は行方も知らぬ歴史の闇へもやもやと溶け

138

入って、えらいことになりかけた。幸い連載誌が隔月刊であったので、やっと転覆と自爆は免れ、
闇の底を奔走しえたのである。
 率直に認めたほうがいいだろう、この小説ほどわたしの資質に合ったものも少なく、しかしこ
の小説ほど「推理」と「論策」への傾斜の度合いのつよい、ある意味で奇妙な作品も、他には少
ない。余儀ない成行きではあったが、わたしは、「秋萩帖」成立の推理どころか、むしろ一人の
「たいふ」なる貴族の女を「納得」することにずっと力を用いた。ある程度まで納得ができるな
らば、専門家・学者の踏み込めないところで、とにかくも想像力を効果あらしめたことになる。
「たいふ」は、例えばあの「加賀少納言」のような架空の存在やも知れぬ女人でなく、勅撰和歌
集に名と作品とを大きくのこした実在の人なのであって、しかもどんな研究者の前にも今も素姓
を隠しおおせている秘密の人なのである。ならば、小説家にも出番がある。最初から出番を自覚
して飛び込んだのではなかったが、出会い頭とはいえ、そこを乗り切らねば「たいふ」と、心中し
なければ済まぬ危ないハメに、いきなり、わたしは陥ったのである。だが、わたしは、とにかく、
やったぞと思っている。既視感(で・じや・ぶゆ)に揺らぎも添えたが、小野道風にと当初思っていた力点が、作の
必然におされて徐々に藤原実頼へと動いたのが、よかった。
 古筆学博士のK氏はもとより、いつもながら、T先生にもM教授にもお世話になった。必ずし
もこの頑固な生徒は、諸先生のおっしゃる通りにはものを見も考えもせず、勝手を通させていた
だいたが、大きな舵は終始とっていただいたと感謝している。夢にも幻想にも非在の感覚にも、
今回ばかりはフル出動してもらった。なにもかも言ってみれば「おおわらわ」であった。

139

 それでいて、わたしが、不思議にこの小説(と、むろん言いたい。)から、作者への愛情のよ
うなものを感じるというのは、何故だろう。たんに「論策」し「推理」したのではなくて、奇妙
に実感あってこの世界へわたしが感情移入しえているからであろう。たとえ千年を隔てていよう
と、わたしには、そんなことは何でもなく、実頼も道風も敦子も頼子も、だれもかも、優に隣人
として身内として倶にものを感じたり考えたりできるのである。それが読者のだれをも納得させ
る表現になっているかどうか、それは容易く言えることではないが、こんな時代にこう生き難く
生きていて、なお深い孤独に懊乱せずに済んでいるのは、わたしの場合、歴史の「虚像」たちに
いつも手をのべて倶に愛しあえるからであろう。わたしが、出来ることなら、いわゆる時代小説
風の動機不在の読み物など書きたくないと願う、それが一番の内的欲求であると言える。
 だが、悲しいことに、そういう欲求の容れてもらい難いご時世になった。思えば谷崎潤一郎の
『少将滋幹の母』を中学二年生の時に新聞小説として読んで驚き、そして『吉野葛』『蘆刈』や
『春琴抄』を選集で読んで驚嘆した時から、私の歴史小説観は定まって行ったようである。幸田
露伴の『運命』や『連理記』などにもたまらなく心をひかれた。致し方ないといえば、もはや致
し方はないようである。「湖の本」が、いやでも応でも働き出す時機に至りつつあるらしい。
 次回『秋萩帖』下巻も、添えた二つの短編も、楽しんでいただけると思っている。
 東工人は新学年を迎えて、月、水、金の授業の外に、中国人研究生一人と漱石の「文学論」を
読んでいる。一年生と三年生には日替わりの特講(メニュー)を、二年生八百余人とは谷崎を読んでいる。
通常巻の一冊頒価を─五〇〇円」とさせていただきました。おゆるし下さい。

140
 
 

秦恒平 湖(うみ)の本 26 秋萩帖 下・夕顔・月の定家
-----------------------------------------------

秦恒平 湖(うみ)の本 26

1

目次

秋萩帖…………………………………………3
一の帖…………………………………上巻…5
二の帖…………………………………上巻…22
三の帖…………………………………上巻…42
四の帖…………………………………上巻…59
五の帖…………………………………上巻…79
六の帖…………………………………上巻…99
七の帖…………………………………………119
八の帖…………………………………………138
九の帖…………………………………………159
虚像と実像……………………………上巻…119
夕 顔…………………………………………67
月の定家………………………………………95

 作品の後に ………………………………132
 湖(うみ)の本・要約と予告 …………136

〈表紙〉
装画 城 景都
印刻 井口哲郎
装幀 堤いく子

(いく:或 のたすきが三本)

2

秋萩帖 下

3

「墨」昭和六十一年七・八月号?六十二年十一・十二月号連載

4
 

創26秋萩帖下・夕顔・月の定家
----------------

夕顔

67

「中央公論文芸特集」平成四年春季号

68

 お世話になった中学時代からの女先生が亡くなられ、北野の西、紅梅町のご自宅でのお葬式に、行け
ずじまいに秋も冬になり、師走追われ追われ年を越した。紙屋川のほとり、あれで、平野神社の杜(もり)と背
合わせのような、閑静なお宅だった。懇意な画家にたのんで、それとなく、紙屋橋辺から遠見のたたず
まいを絵にしてもらい、なにかの折りに差上げたいと用意していたのも空しくなった。みな、わたしの
怠慢であった。そのくせ、京都へ帰るつどお邪魔した。大学の卒業論文に平野社のことを調べたのも、
天満宮よりも平野の境内がお好きで、よく連れて出てくださったのが機縁であった。
「おまえ…」と、先生は、最期までそうわたしを呼ばれた。ほかのクラスメートにそんなことは無かっ
たのだから、なにかお考えがあったのだろう。「おまえは、幸せものよ」と言われた。おっしゃり様(よう)が
いつもしみじみしていたので、ついぞ反問もしなかった。そんなような気が、そのつど、した。
 先生はお母さまをご存じがなかった。つくられるお歌に、そういうご事情がほのめかされ、形見とか
うかがった小さな珊瑚の印形(いんぎよう)をだいじになさっていた。結婚なさらず、くわしいことは知らないが夫婦
養子を迎えられて、晩年は、若い人の邪魔にならないようにと、お元気にまかせ、出歩いておられた。
 お伴をして、とくにお好きであった広沢の池の辺へ遍照寺山などを見に出かけたことは、さ、どれほど
数重ねたことか。池のまおもてに、双(そう)の掌(て)でそうっと盛りあげたようなあの優しい山は、また、朝原山

69

とも千代原山ともいい、つまり朝原はむかしは「ちようはら」と訓(よ)んだのだとも、女先生に教わった。
朝原氏は秦氏の岐れで、北嵯峨は一帯に秦氏が占めていた。広沢の池もかれらの灌概用水であっただろ
う、大昔から渡来の民には湿潤の地をあたえ開拓整地させたものだとも、「おまえにそんなこと言うの
は、釈迦に説法やけどね」と、先生は、ややまるくなられた背を伸(の)して、はるかに池の面(おも)をわたるさざ
なみのような笑顔をわたしに向けられた。
「広沢やさそはぬ風の跡たえて面影かあらぬ月冴ゆるなり」という古歌を先生は、きまって、□ずさま
れた。よほど愛されていた。「覚えておおき」と言われるまでもなく覚えたが、覚えちがいでなければ
この歌は、あれほど網羅された国歌大観にも見つからない。ご自身の作にしては和歌すぎて、正岡子規、
竹の里人(びと)の流れをくむ先生に似合わなかった。それなのに先生が急に亡くなったと知らせをうけた瞬間
に、わたしはこの歌を聴いた。うっと鳴咽(おえつ)を噛みしめた。
 遍照寺という寺は、いまも池の南にちいさく残っているが、むかしは池の北に在った。広沢流といわ
れた真言密教の大寺(たいじ)として栄え、かたわら、目のまえの観音島へ橋を渡し、月を賞(め)でた。水澄んで満々
と、夏は葦の風情のことに清(すが)やかな明浄処。桜並木もまえに映えて、春にはのどかに池の奥までも霞ま
せるのだが、なんと言っても北嵯峨は、山々も色の千(ち)ぐさに見えわたる秋のけはいに極めが付く。
 先生は何もおっしゃらなかったが、いま在る遍照寺本堂の奥の蔵に、十一面観音の立ちおわす御姿が、
いつ拝しても、わたしは懐かしくてならなかった。むかしは観音島の堂に、皆金色(みなこんじき)にかがやく月光を一
身にあびておられたと寺の書きものに誌してあったが、衣文(えもん)の流麗は藤原彫刻の美点としても、お顔の
豊かに優しいのが言いしれず嬉しいのだ。一木彫りに、右手を垂れ左手は華壼(けこ)を持ったまま、やや遊び

70

足に右の膝をまげ、立たれている。草庵としか言いようのない竹林(ちくりん)につつまれた静かなお寺だが、御影
石(みかげいし)をふせた参道のわきの、丈たかい細い十三重の石塔には往時をしのばせる優雅な大寺(たいじ)の風情が生きの
こっている。
 池は周囲一キロ半ほどか。木橋のかかった観音島までは先生の足元もいたわって、そう再々は行かな
かったけれど、行けばそこにもぽっりと石造の十一面観音が、眉をあげ、千代原山の真翠(まみどり)にそむいて広
い池の心を眺めておられた。月見堂あり釣殿あり、ちかくの大覚寺門跡の観月所であった潜龍亭も池の
畔(ほと)りに建ちならんだという上代の栄華は、もう影も無い。
「寂しいものですね」とわたしは呟き、ふふと先生はわらわれた。一瞬、くらっと来そうなめまいに襲
われ、観音像の腰のあたりに縋(すが)っていた。ちょうど池の水をこえた真向かいに、児(ちご)の社(やしろ)が見えていた。
遍照寺のあるじ寛朝(かんじよう)大僧正に死なれたのを悲しみ、侍童の一人が身を池になげたという。土地の神と祭
られ、いまも九月十三日は祭日(まつりび)になっているとは、やはり今の遍照寺で教えられた。先生とわたしは、
その児(ちご)の話をしたことがない。寺の建ったのが永祚(えいそ)元年、西暦の九八九年。宇多法皇の孫の寛朝が亡く
なったのは長徳四年、九九八年だったといい、その後は急速にさびれた。観音堂の立像観音がさいわい
残されたのさえも奇跡的であった。寛朝の享年は八十四歳だったが、あとを慕った児(ちご)の年齢(とし)は分かって
いない──。
「さ、行きましよか…」と、先生はとかく庁ちどまる癖のわたしを小声で呼ばれた。
 ここまで来れば先生は、大覚寺や釈迦堂はたとえ措いても、すこし足をのばして定家卿(ていかきよう)ゆかりの厭離
庵の、すぐ裏に小高い石垣のうえに軒を伏せた「藤原」という家に、立ち寄られた。よく立ち寄られた。

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孚石(ふせき)と表札に彫んだ画家の家だったが、長居はなさらない。お茶をいっぱい、それくらいでそこを出る。
どういう間柄なのか、ご親戚か、合点はすこしも行かないのだが尋ねなかった。ものを尋ねるのもあま
り尋ねられるのもわたしは好きでなく、そういうところが、先生に、すこし気に入られていたのだろう。
先生のお墓は、孚石氏の家から数分の、竹が鳴る二尊院の裏山にあるはずであった。孚石氏も、近年に
亡くなられた。跡継ぎがまた画家で、女先生の訃(ふ)を告げて来てくれたのが、その二代目画家の奥さんで
あった。電話の声が泣いていた。

 同じその人の電話の声に名を呼ばれて、わたしは、絶句した。明日は正月七草、八日にはもう教授新任
の初体験で、ちかづく大学入試センター試験を監督の、学内の打ち合わせに出席することになっている。
試験は十一、二日。思わぬ国の人事に誘い込まれてめくるめく秋冬が過ぎ、先生のもう百ヶ日のご法事
が、この一月二十五日と聞きながらわたしは手帳の書き込みを、眼鏡をはずして慌てて覗きこんだ。小
説の締切りがある。教授会があり、学部長選挙まである。思わず捻ると電話の向こうの声がわらって、
法事は親戚で内輪に致します、「お忙しおすのん、よう分かってますよって…」気はつかうな、都合の
いいときお墓へと、電話の用件は法事とはべつにあった。
「暮れの、ややこしいときには、どうやろか思いまして…」正月三ヶ日をすませ宅配便の始まるのを待
って、ひとつ、荷物を昨日送っておいたから、受け取るように。
「おもしろい嵯峨面が、また、できましたか」と、ほっとこっちの声も和んだ。いいえ。奥さんの声は
だが神妙に、亡くなられた方のお頼まれ物を、送らしてもらいました…と。息をのんだ。

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 小一時間もせず、予告の、宅急便がとどいた。が、ここは今暫く堪(こら)えて、さしあたり□をついて出た
「嵯峨面」の話からもって回ったほうが、筋道が、いい──。
 紙塑(しそ)という手わざがある。和紙を、貼り重ねてゆく。いまも、雑誌の表紙や大きなホテルのロビーで
ときどき見かける京の嵯峨面など、いたって手粗いが赤や緑の色づかい筆づかいが面白い。念仏狂言に、
釈迦堂辺の農民が用いた厄除(よ)け魔除け、田楽(でんがく)踊りの素朴な面を復元したもので、実の顔より小さめにつ
くって、ごく軽くかわいた手ざわりの、男あり女あり、狐や猿や、鬼の面もある。
久しく絶えていたこの画作りを、藤原孚石氏が手がけた。「嵯峨面」とも氏が名づけ、跡嗣ぎの藤原
君も、絵のほかには、もっぱら嵯峨面を作っている。手すさびほどの楽しんだ仕事。画業のあいに紙や
糊をいろうて、倦(う)めば、また絵にもどる。絵は本格で、亡き父君には俳味の墨で放ち描きの作が多かっ
たが、藤原君は、やや謹んだ花鳥画が得意。筆は謹んでも柄(がら)は優しく、そのお人柄でか赤い実生(みしよう)のたと
え一粒にも絵が情愛で息づいている。彼とは、亡くなられた先生のご縁がたとえ無くても、もともと、
同じ高校の数年後輩になる。さようしからばの挨拶も無用に、京へ帰れば嵯峨へ、嵯峨まで行げば藤原
家に足が向いて、むかしより居座る時間もながくなった。彼は飲めないがこっちは飲む。飲みしろはさ
げて行く、と、肴は、奥さんが見つくろってくれるのである。
 画業も本名の、彼は藤原敏行、一枚札。住の江の岸による波よるさへやと舌を噛みそうなあれは願い
さげにしたいが、同じ朝臣の、秋きぬと目にはさやかに見えねどもの方は名歌ですと、古歌の好みもち
ゃんと合っていた。敏行朝臣の奥さんは紀の有常の娘であり、伊勢物語に名高い筒井筒の、業平の妻と
は、さて姉だか、妹だか、この紀氏の姉妹が美男業平なみに美人であったかどうかは知らない、が、厭

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離庵裏で、公家(くげ)というより野武士づら、いかり肩に髭の濃い敏行君の、こっちの奥さんは、たとえ干支(えと)
の猿面(さるめん)を顔にかぶって現れようとも、掛け値のない京美人。下京(しもぎよう)の、平安時代でいえば五条大路にまぢ
かい町屋そだちで、やはり同じ高校の、夫君と同じ美術コースで図案を専攻してきた。茶道部にも籍を
おいたそうだから、二重三重のご縁。それと言うのも、その茶道部の、かってわたしは部長を勤めてい
た。奥さんの姉になる人がその当時わたしの一つ下の学年にいてこの人も美術コースで服飾を学んでい
た。茶道部員でもあった。
 安江さん、は、藤原君の奥さんの名前ではない、旧姓である。名は、淳子(きよこ)さん。姉は、安江啓子(ひろこ)。里
は堺町(さかいまち)高辻上(あが)ル、夕顔町で、今はどうだか、表札に安江健太郎と以前は出ていた。商店街ではない。住
宅ばかりでもない。喫茶店もあり古道具の店もある。間□せまい畳屋のガラス戸もあいている。路上駐
車も点々と人通りもそこそこ有って、歩いて数分で東へ、交通繁多の河原町(かわらまち)通りへ出る。すぐまた東を
鴨川が流れている。八坂の塔や清水(きよみづ)の甍(いらか)を抱いた東山が、手にとれる近さで見渡せる。
で、知る人は知っている。この安江さん家(ち)の内庭に、名も夕顔(二字傍点)の墓といわれる古い石塔が祀ってあり、
年ごとの九月十五日とか十六日とかには源氏物語のヒロインを、しのぶ思いに、近隣の人は昔から愛し
つづけて来だというのである。
 うわさは啓子(ひろこ)に聞いていた。崩し積みの、宝筐院塔(ほうきよういんどう)とも謂いにくい五輪の缺け塔、の写真も見知って
いた。しかし藤原君の奥さんへ、淳子さんへ、その記憶がすぐには繋がらなかった。奥さんのほうはわ
たしを知っていたが、わたしは藤原君の嫁さんが安江啓子の妹と、そうすぐには気がつかなかった。
 啓子も誘わなかったし、ま、好きで源氏物語は読んでも、夕顔町の夕顔塚、その夕顔忌にまで、わる

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いが酔狂にはなれなかった。
 いっそその近所の、鍛冶屋町の路地(ろうじ)に沈んだ「鉄輪(かなわ)」の井戸、怖い貴船へ丑(うし)の刻(とき)参りの女が、嫉妬に
疲れついに身をなげたという怨みの井戸のほうを、いつぞや、わたしは、わざわざ覗きに出掛けたこと
はある。思いめぐらせばその辺は、「らうたき」夕顔の君をとり殺した生霊(いきりよう)、六条の、御息所(みやすんどころ)の邸とも
遠くはなかった。その井の水をくんで飲ませれば悪縁も切れるとか。切りたいのか切りたくないのかと、
だがが大学生だてらにうす暗い路地の奥で苦笑いしたのを忘れないが、一方安江の家(うち)はここかと、こっ
ちは表札を見でただ通り過ぎただけの、あれから、何年の歳月を経できただろう。いちどは嫁いだ啓子(ひろこ)
がにげるように婚家を出、東京へ就職したわたしを追って来て、いやまさか、しかしそうとしか思いよ
うのない、市谷河田町の女子医大病院の寮に事務員として寄宿した時の、あの、愕きは…。病院裏のア
パート六畳一間に妻と新婚の早や一年あまり、夏には子供がもう生まれる予定の葉桜道で、ばたりと、
わたしは啓子の待ち伏せに出会った。道のうえで、立ち辣んだ。本郷の勤め先へ、朝家を出て、すぐそ
こが都電の乗り場という目のまえだった。
「にげはンの」
「なんでそんなこと…言うのや」
 啓子はふふと笑い、「お勤めなンやる。行きよし。また逢ぉ…な」と舞うような身振りで擦れちがっ
た。どこに住むかと咄嵯に聞いた、こわばった□で。
「なにがしかの、院に」
そしてまた、ふふと笑い、「お産ゃてな」と、かッとこっちを睨んだ啓子(ひろこ)のことは、だが、言うまい。

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「夕顔」の巻をおそろしく利かせた啓子の返事が、とても夕顔のそれとは思われなかった。目前に生霊(いきりよう)
の言葉と想えた。
 安江の家や夕顔忌にたとえ誘われても一度も行かなかったのは、ねじくれて未熟な啓子との恋ゆえと
も限らなかった。ひとつには、安江の夕顔塚、ないし夕顔町というのが、平安京でいうと左京五条四坊
二保五町の地にあたる。ところが光源氏が「五条」辺にすむ乳母の病を見舞う道すがら「夕顔」の女と
邂逅したのは、高辻通りは通りでも、もっと西、西洞院(にしのとういん)西入(い)ル北側、同じ左京五条は五条ながらその二
歩十四町にあたるという異説があって、たとえば京都新聞のS記者が連載していた『能百番を歩く』の
「夕顔」の項には堺町(さかいまち)高辻つまり夕顔町が、しかし『源氏物語を歩く』の「夕顔」の巻では、鴨川どこ
ろかずっと西の堀川へ向いて二歩十四町、だらだら坂の現在永養寺町の名前で示してある。古代学のT
博士のお説であり異をはさみにくいが、さてどっちが、より「むっかしげなる大路のさま」とも、想い
及ばぬ千年の余の隔て。要はどっちでも構わない、構うわけがない、と、わたしはながいあいだ思って
きた。
 それが、そうは行かなくなった。なって来た。

 藤原夫人から宅配を予告の荷は、想像をはるかに超えた嵩ばりようで、畳半畳の半分もあった。風炉
先(ふろさき)屏風かしら、それにしては重いし、炉縁(ろぶち)には細長いし。妻と、そんなことを言い言い厳重な荷造りを
ほどいて、見れば、ずしと重く裂端(きれはし)のほつれた、古色蒼然もいいところの一冊の手鑑(てかがみ)であった。
 どういうこと…これは。

76
 

 題簽(だいせん)には、かなで、『ちくさのつゆ』とあり、胡蝶綴じ。巻頭に、紺紙金字蓮台(こんしきんじれんだい)の金光明経(こんこうみようきよう)が四行
分、「天暦(てんりやく)聖帝御筆」と付箋(ふせん)がある。次に見開きに白詩が二つならんで、あきらかに同じ「後中書王卿
筆(ごちゆうしよおうおんひつ)」で押してある。「涙は羅巾(らきん)を湿ほして夢成らず、夜深(ふ)けて前殿(ぜんでん)歌を按ずる声」もあり、「池は晩(く)れ
て蓮芳謝し、窓は秋にして竹意深し」ともあった。絹か綾か、ともに菱に花の地紋が透けていた。ざっ
とみて三十葉、の最後に「大納言基賢(もとかた)」の付箋がつき、「元禄」と読める年紀の短い跋文。藤原氏らし
き家筋に伝わった手鑑(てかがみ)とみえ、それはそれで際限ない詮索の必要そうな品だが、淳子(きよこ)さんが代筆の添え
状はしごく簡単に、故人がかねて希望していたまま、お預かりの物をお送りしますとだけで、先生ご自
身はなにも書き置いては下さっていない。
「お形見…なのでしようね」と、妻は横でためいきをついている。わたしも暫くぼうとしていた、が、
抱えて書斎に入った。書はよく読めず、趣味もない。謙遜ではない。
 で、丁寧に「拝見」と身構えてみても猫に小判の気恥ずかしさで、それで妻の前もひとり避けて来た
のであったが、ともあれ「天暦聖帝」が村上天皇で「後中書王」はその皇子の具平(ともひら)親王だくらいは、分
かる。すべて端折って、何より私がおうと声を放ったのは、七、八枚め。紙、と思われるが深緑の焦げ
てくすんだ料紙に、紛れもなく、あの「面影かあらぬ月冴ゆるなり」という一首の和歌が、草(そう)がかった
かな(二字傍点)文字で、四行に書いて押してあった。「頼成(よりなり)」は、むろん作者だろうが、聞いたことも見たことも
ない。
 はてと、もう一度、ひとつ前の頁へ目をもどした。やはり広沢の池の歌だが、ま、ありふれた歌題だ
し、読みとりにくくて目だけで見送っていたのだが、作者が「伊祐(これすけ)」とある。歌は、「おほかほのくる

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まもあらて月影に雲かくれ行く広沢の池」と、読めば、読める。読めるけれど、意味がとおらない。ど
さっと重い手鑑を絨毯におろし、わたしはあぐらになった。
「くるまもあらて」は、「車」または「来る間」も「あらで」無くて、と読むのだろうが、「おほかほ
の」が分からない。下句のひっくり返しはちよっと面白く、つまり月が雲に隠れて池も陰った、の意味
らしい。車でも、来る間でも、要するに「おほかほ」を待つ間もなく一面に陰気になったという意味ら
しい。だが「おほかほ」が、かりに「大顔」でも、分からない。写しちがいか書き損じかが有るのだろ
うと、わたしは、見捨てた。

  広沢やさそはぬ風の跡たえて面影かあらぬ月冴ゆるなり   頼成

 女先生のご執心に惹かれ佳(い)い歌と久しく思ってきたけれど、いま、こう拠るベを得て見直してみると、
必ずしも意味がよく分からない。池のこころに誰かしら人の面影をもとめて来たが、見ればこうこうと
秋の月である。そういうことらしい。「跡たえて」とあるから面影の人はこの世に亡いのだろう。

  おほかほのくるまもあらて月影に雲かくれ行く広沢の池   伊祐

 筆跡が帖(ぢよう)のたまたま表と裏とに押され、それで気がつかなかったが二首の和歌には題も詞もなくて、
しかし同じ(と見える)料紙に別筆で書かれていた。対(つい)と読むには雲隠れが先で月冴ゆるが後、齟齬は

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否めない。まるまる無縁にも思われない。少なくも広沢の池の歌はこの二首きり、あともさきも、要す
るにいかにも手鑑のために切り出した、みな断簡であり零墨(れいぼく)であった。
 歌は、調べてみたが、二つとも国歌大観に出ていない。二人とも歌の作者としては全然記載が無い。
しかし「伊祐」には、記憶があった。紫式部の伯父の子に、つまり父為時の兄為頼の子に、たしかに
ごちゆうし上おうともひら
伊祐(これすけ)という人がいる。式部とは従兄妹にあたる。為頼も為時も「後中書王」即ち具不親王の生母と従姉
弟同士で、そのためもあり親王家へ式部の一家は親しく出入りしていた。手鑑には惜しいことに紫式部
の筆も父や伯父の筆跡も押されていないけれど、世に「六条宮」といわれ「千種殿(ちぐさどの)」に住まわれた親王
のその「御筆(おんひつ)」を筆頭にした『ちくさのつゆ』であるからは、ここへ伊祐の名の交じるのは、いっそ有
り得て興味ふかい露の縁(えにし)であった。そもそも京都学の泰斗であるT博士が、「夕顔」の宿の所在を現在
の「夕顔町」よりよほど西、西洞院(にしのとういん)の西北まで押し下げて言われるのも、具平親王との事に関わってい
た。あの夕顔の女が、光源氏に連れだされて、あげく非業(ひごう)に死んだ「そのわたり近きなにがしかの院」
の在り処(ど)を、T博士は、従前の通説にさからい具平親王の邸宅「千種殿」に、つよく比定されていたの
である。千種殿は六条坊門いまの五条通りに面していて、博士のいわれる「夕顔の宿」からだとわずか
数分の距離にある。従来信じられてきた融(とおる)の左大臣旧跡の河原院までは優に一キロ以上離れ、牛車(ぎつしや)を牽
かせても「そのわたり近き(二字傍点)」とは、やや言いにくい。ところが「千種殿」にも池あり木立ちもあり、も
の古りて風情ゆかしいだけでなく、なにより、父や伯父の縁で紫式部自身も親王の「六条宮」を、物語
恰好の舞台装置として年久しく熟知していたとT博士は主張されてきたのである。
 なるほどと思う。が、その一方、そのような説によらなくても、現在「夕顔町」辺から「河原院」跡

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まででも、数分ないし十分とかからない「そのわたり近」さであった。そのうえ河原院は賜姓源氏の融(とおる)
の幽霊がしきりに出る邸として誰知らぬ人は無かったのだし、光源氏の従者である惟光(これみつ)や侍女右近が夕
顔の君を葬った鳥部野へも、すぐ足もとの鴨川をこえ、指呼(しこ)の間(かん)にある。それに対し「千種殿」には、
「夕顔」の巻の書かれた時分はまだ具平親王が暮らしておられた。恐ろしい生霊があらわれなよびた美
女を情けなくとり殺す舞台に、主筋の宮の現在のお邸は使えまいとの反問は、容易に出てもよかった。
いやいや宵ご自身が式部にさよう示唆を与えられたのだと、そういう反駁も、また不可能ではなかった。

 女先生は亡<なる一、二ヶ月まえ、障りがあって暫く入院されていた。その間にわたしは旧作である
が、源氏物語に、と言うより紫式部集に取材した短い小説を、他の作も一緒に復刊する機会があった。
病院へお送りするとすぐ面白く読んだとお手紙が来た。それだけでなかった。やや気の萎えたペンの字
で、お手紙は常より長めに、いつか「夕顔」の巻をおまえなりに書いてくれないか、と、告げられてい
た。実は自分の生母であったお人は、あの夕顔ににた死にようで亡くなられたと聞いている。実のお母
さんを知らず、他家(よそ)で育てられたおまえの、そのお母さんにも、やはりそのような事があったと聞いて
いる。おまえには「夕顔の死」を書かずにおれぬ思いというものが、きっと在る。いまのうちにお願い
しておきますよと、お手紙を手に、正直、わたしは肌寒かった。
 夏になり、降って湧いたような或る、国の大学へ教授に迎えようという誘いがあり、十月はじめには、
生涯を平のただ物書きで来た相手に、もう辞令の伝達があった。女先生は秋ぐちに退院されていてお見
舞いもしたが、人事の報告にはごく静かに「嬉しいこと」と、お祝いを言って下さった。ああも間なし

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に亡くなられるとは夢にも思えなかった。
 ここで源氏物語の「夕顔」の死を、くどくどと再現の必要は、無いとしよう。この女人のことは「帚
木(ははきぎ)」の巻、雨夜(あまよ)の品定めで知られた公達(きんだち)の色めく女談義のなかに、すこしあらわれていた。光源氏には
義兄弟になる藤原氏、頭(とうの)中将、に愛人がいて稚(いとけ)ない子も産(な)していたが、正妻方に脅されでもしたか、物
怖じのあまり行方もかき消えてしまった。男は、そう嘆いていた。その話を源氏は記憶していて、そし
て「五条」の辺で、後日聞けばまちがいないあの頭中将の思いもの、風情もはかない花の「夕顔」と知
り合った。身分は明かさず逢いつづけたが、女も寄り添う出逢いに不思議に心をゆるし、まこと逢えば
逢い知れば知るほど想いじみて「あえかに」「らうたき」人であった。
源氏は本邸の二条院へも迎えたかったが、ある夜あまり女の宿の、あたりいぶせさに、つと思い立ち
「そのわたり近きなにがしかの院」へ、夕顔と、侍女右近をともない、車で出かけた。その院は無人の
荒れ家(や)だった。女君はそこでものに襲われ、施すすべなくはかない露と夜の闇に消えうせてしまうとい
うのが、あらまし「夕顔」の巻であるのだが、それをいったい女先生はわたしに、どう、書いてみせよ
と思われたことか。手鑑(てかがみ)の『ちくさのつゆ』をとり分けて形見に下さったのなら、先生の思いというも
のは必ずこれに託されてあるのだろうし、あるとすれば見たところ頼成(よりなり)の「面影かあらぬ」または伊祐(これすけ)
の「おほかほ」にこだわるしか、わたしに寄る辺(べ)は無いのだった。
 思いついて、わたしは書斎から書庫へ急いだ。いつか平凡社のI君が、せったら負うようにして自社
の、あの全二十八巻を二冊に縮刷したというべらぼうな『大辞典』をお年玉に運んできて呉れた、あれ
になら、出てはいないか。

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 出ていた。もののみごと「オーガオノクルマ」と、望んだ以上の見出しだった、他に「オオカオ」は
一項目も無かった。
「おほがほの車具平(ともひら)親王家に伝はったといふ牛車。親王の愛された雑仕の死後、追慕に堪へない余り
に、車の物見の裏に、親王と雑仕との中にその生んだ愛児を置いて互に見る図を描かされたが…」と記
事がある。するとその雑仕女(ぞうしめ)の名前が「大顔」なのか、変な名前だとすこし興ざめがした。女の名で車
でこんな逸話も有って…なら、そうか…しまった、説話本から調べればよかったんだ。出典に古今著聞
集(ここんちよもんじゆう)の挙げてあるのをみて、自分の鈍さにも鼻じらんだ、手の届くところに在る本ではないか。
まちがいなく巻第十三「哀傷」のうちに、「後中書王具平親王、雑仕を最愛せられたる事」として、
もうすこし詳しい話が載っていた。

 後の中書王、雑仕(ざふし)を最愛せさせ給ひて、土御門(つちみかど)の右大臣をばまうけ給ひけるなり。朝夕これを中に
すゑて愛し給ふ事かぎりなかりけり。月のあかかりける夜、件(くだん)の雑仕を具し給ひて遍照寺へおはしま
したりけるに、かの雑仕、物にとられて失せにけり。中書王なげきかなしみ給ふ事、ことわりにも過
ぎたり。思ひあまりて日来(ひごろ)ありつるままにたがへず……

と、あとは『大辞典」と同じ車の物見に絵を描いたことが記されてある。物見とは窓であり、窓の円板
に、児(ちご)をなかに父親王と母大顔とが向かいあう絵を描いたのか、死んだ女の絵を描いて死なれた父子が
いつも同車してしのび泣いたものか。「寛弘の中殿(ちゆうでん)の御作文(ごさくもん)に参り給ひて、その車を陣に立てられたり

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けるほどに、物見落ちたりけるを、牛飼、(元通りに)立つとてあやまりて、裏を面(おもて)に立ててけり。そ
の後あらためらるる事なくて、おほかほの車とて」評判されたというのだから、ここは女の美しい面影
を大きめに描いたとみた方が情が深い。第一「おほかほ」が「大顔」というもし女の名なら、大きな顔
とは、ふつう褒めては言わない。
「ちがうかい…」と、わたしは窮すると妻に向かってものを言い、妻は首をかしげた。
「大きい顔というのは、ほんとは…佳い顔、美しいおおどかな顔、それとも立派な顔という意味じゃな
くて。大きいは、やはり褒めた物言いだと思うわよ、もともとは」
「でも大きな顔してッて言うぜ」
「それはこうよ、きっと…。美しい、ないし立派な顔…大顔、ではないクセして、看板にいつわりのそ
んな顔をしてみせる人を、咎めているのよ」
「ほぅお…」と、わたしは妻をみて、拍手した。反射的にあの人けない遍照寺の、わたしは、十一面観
音さまのお顔を彷彿とした。
 広沢の池で、月をみながら大顔は「失せ」た。著聞集の校注者は「行方不明」と説明しているが「物
にとられて」は、やはり「死んだ」のだ。小説としては失踪も面白いが、それでは具平親王が気の毒す
ぎる。ともあれ伊祐(これすけ)の「おほかほのくるま(車、来る間)もあらで」の見当はこれでついた。それより
も二人の仲の子を「土御門の右大臣(源師房(もろふさ))」としてある記事を、原典の記事じたいが「おぼつかな
き事なり」と疑っているのが気になる。師房は具平親王の嫡子で源姓を賜り久我侯爵家等の祖となった
人、母は、親王の兄為不親王の御互(おんむすめ)と著聞集も確認しているのだ。

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「またもT先生(さん)に、訊くしかないか」
「奥の手ッていうよりも、なんだか、ふところ手ね」と、妻はきついことを言ってくれた。そしてちょ
っと間をおき、T博士には、「上」だけで「下」巻が出ない出ないと言ってる『日本の女性名』とかい
う新書判の本を、あなた、戴いてたでしょうと言いさし、他の用で起っていった。頭をかいた。

 その妻の──三十二年と半、も以前(むかし)の──初産は無事すんだ。近所の病院寮に住みついた啓子(ひろこ)が、あ
れで拍子抜けがしたほどに、わたしを悩ませなかった。60年安保の闘争で都心はどこも揺れ動いていた。
労組に動員をかけられ、連夜、国会を取巻きに若い同僚たちもわたしも夢中だった。啓子だっていずれ
病院で赤い旗を振り始めるだろうと思った。女子医大ではよく看護婦や職員がストを打っていたのだ。
 わたしの出版社勤めもまるで仕事に膠(にかわ)づけの体(てい)で、残業はもとより、仕事の合間には労使の争議も執
拗に執拗な、なかなかの職場だった。時勢と環境とにびしびし鍛えられ、鍛えられながらいつかわたし
は小説を書くことに望みを抱きはじめていた。妻の妊娠が、なぜか、いつかは作家にと、途方もない夢
をわたしに見させるきっかけになった。啓子(ひろこ)のことなど、たとえどんな邪魔を仕組んできても、それが
何だというくらい、思い切ってしまっていた。
 妻は医師のすすめで、予定日よりすこし早目に入院した。その留守に啓子と二度ほど逢うには逢った
が、幸いにというか、わたしにはコーヒーいっぱい分の自由にできる金もなかった。妻には両親がなく、
わたしには家も学問ももう無かった。みな京都へうっちゃって来た。家賃の残りを、夫婦して日に三百
円ずつもつかえれぱ贅沢なほどの貧しい日々が、かえって、妻との絆を切(せつ)ないものにしていた。啓子に

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割り込める隙間が、もう無くなっていた。
 啓子とのことも、いまどきの若い人のような手はやい性的関係などもともと無く、だが恋とは、どの
ようにも燃えもし燻(くすぶ)りもするものであった。若ければ若いほどお互い生け殺しに融通がなく、転げおち
る焼け石をはだかで抱き留めるほど両方で傷つきあって、なお引きも進みもならなかった。
 ありていに言ってわたしが啓子(ひろこ)を重荷に思い、すると、ますます啓子は激昂した。高校を出てまる二
年ほどというものを、わたしたちは京都中を追いつ追われつ、要するに、しよっちゅう言い争いながら
一緒だった。親も友達も、結局夫婦になって行く二人のように思っていたが、当時仁和寺(にんなぢ)中学の教頭を
勤めておられた女先生だけが、ただ一度啓子に会われ、「おまえには過ぎている」と微妙な釘をさされ
た。啓子が「夕顔の墓」を抱いた安江家の子と、先生はご存じだった。
 その先生が、のちに妻を伴い紅梅町のお宅へ出向いたときには、珍しくほほほ、ほほほと□もとに手
をおいて笑われ、おまえの「想はれ人」が、想像していたとおりのお人でよかった、「おまえは、幸せ
ものよ」と、また声にだして笑われた。啓子が身を投げたように急に嫁いでいった時も、わたしは肩の
荷を軽くしたくらいな気持ちにしか、もう、ならなかった。
 長女があの年七月末に生まれ、その年を早や見送る十二月も押しつまって、啓子(ひろこ)が会社へ電話をよこ
した。京都へ帰ることにしたので、そのまえに一度逢ってほしい。
「おれも、あしたの晩、帰るよ」と、よほどもう気楽に啓子の電話に応対できるようになっていた。歳
末の東海道本線の帰省混雑をみこして、妻と娘とは、京都のわたしの養家へ先発していた。
 啓子の帰るのは、だが、東京の暮らしを断念(二字傍点)したからであった。

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 それはよかった。
 わたしは反射的に本音を漏らし、啓子にももう笑えてしまう諦めがあった。今夜付き合うよと、わた
しは、すこし感傷的な気分で声を励ました。昼過ぎからの雪が雨まじりに変わりかけ、退社まで間(ま)はあ
まり無かった。仕事納めを明日に控えた夕暮れの、雑踏ににた行き交いに、デスクとデスクとがぶつか
り合って音たてていた──。
 神楽坂なかほどの、ちょっとイカした店でカレーライスを啓子(ひろこ)に奢った。啓子はわたしにビールを勧
めたが、熱いコーヒーにしてもらった。雨がまた雪になり、降りに降っていた。啓子は、だが、雨にも
雪にもまったく無縁な乾いた□調で、ぽつりぽつりと京都の、たとえば二人で遠出した峰定寺(ぶじようぢ)や雲ヶ畑
や木津や亀岡などのはなしをした。学校の茶室で、まだ部員があつまって来ない間(うち)にはじめてキスをし
た日のことも、稽古が済んでから一緒に諸道具のかたづけをしていた時に、炉の残り炭で粗相に畳を焦
がしてしまったことも、まるで復習でもするように話しつづけた。そして急に、わたしの子供を見たと
いう話をした。どきっとした。娘を見たということは妻も見たのだ。
「わたしはね…。子供をひとり、京都で死なしてきたんぇ」
 知らなかった。子供は、大事にしよしゃと啓子は微笑み、あんたは、京都へは帰ってこん方がええ思
うわと訳のわからないことを言った。
「ああ帰らないよ」とわたしは、もう東京の物言いになりかけていた。にっと啓子は笑顔になり、すぐ
元のかわいた顔付きにかえって、外へ出ようと言った。
 飯田橋から市ヶ谷までの吹きすさびの土手をわたしの傘ひとつに二人でしがみつき、凍えて歩いた。

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懐のなかまで雪が吹きこんだ。啓子(ひろこ)はほとんど□をきかずに、その代わりにというくらいきつく傘の手
に手を握って、離さなかった。
 いつかも夜おそくに同じ道から河田町まで歩いて帰った。いやに街の灯のはずんできらめく晩い夏だ
った。啓子の汗がすこし匂い、それが、あの日、すこしわたしを浮わつかせた。
 だが…今は飛沫(しぶ)くほどの雪に足もとさえ危なかった。国電沿いのお濠の底も覗けなかった。大年(おおどし)の闇
を人魂のように白いものが嘲笑いながら舞っていた。なんでこんな道行きをするのか。おしまいや。も
う、啓子とはおしまいなんや…と、納得すればするほど自分も啓子もあわれであわれで、だからと言っ
てわたしは、妻子のいないアバートの部屋へ、燃えたような啓子の胸を抱き、温めてやりたい愛したい
とは、思いはしたけれど、誘わなかった──。
 翌日?妻子を追って飛んで京都の正月休みに帰って行ったわたしは、安江啓子が河田町の職員寮で
自殺していたことを、知りもしなかった。年明けてからも、何の連絡も啓子からはなく、しかし、無い
という思いが仮にあったとしてそれは、一番、安堵というに似ていた。京都で、また夕顔忌を家で守っ
ているのだろうと想像していた、いや、それも忘れていた。忘れていたかった。

 淳子(きよこ)さんは姉の啓子(ひろこ)とあまり肖ていない。遠慮ももう無い間なのに、と言うより□にすればかどが立
つと思うのか、わたしに向かって姉のことは、おくびにも出さなかった。啓子の死をわたしは藤原君か
ら、それも祗園の辺で、お互い懇意な画商の奢りで飯を食った席で、あるじの座を外したわずかな合間
に、なにを思ったか、初めてほのめかされた。仰天した…。やまほど聞きたいことはあった。□が利け

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なかった。
「忘れてください…」
 藤原君はかえってわるいことをしたと謝り、しきりに手をちいさく横に振った。
「自殺なの。それ、間違いないの」と、わたしは、その点は確かめたかった。間違いないとしっかり頷
かれ、座布団に坐ったままずうんと沈んだ。京都という町は、これだからイヤだ。そう思った。理屈に
もならないそんな思いの底に、千年の人渦がゆらりゆらり血の色をして巻いた。
「紅梅町の先生さ…。お宅らと、どんな間なの」と、つき立てられたように、しかし、顔を伏せ、はじ
めて尋ねた。
「知りません…。あの人、何も言いまへんでしたか…。言わなんだンなら、それぁ、ぽくにも言うない
うことでっしゃろ。ぼくも、知らんのや。よう…知らんことにしときますわ…」
 京都の人がいちどこう言えば、□を割らせることはできない。わたしは、かすかに震え、だまって敏
行君に盃をもたせて酒をついだ。
「おおきに」とちよっと盃をあげて藤原敏行は優しい目でわたしを見た。

  広沢やさそはぬ風の跡たえて面影かあらぬ月冴ゆるなり   頼成

 従四位下因幡守(じゆうしいのげいなばのかみ)の頼成こそ、紫式部の父為時が引き取って甥伊祐(これすけ)の養子にした、大願の女の遺児であ
った。T博士は「大顔」をやはり呼び名か綽名(あだな)かと推定されていて、と言うことは「大顔」とは、やは

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り妻の見当どおりに美しさなり立派さなりを褒めた名であったろう。雑仕(ぞうし)というとよほど卑しい女に想
われるが、それは当たらない。なかなか内侍(ないし)の命婦(みようぶ)のとは行かないけれど、それでも雑仕とか下仕(しもづかえ)、半
物(はしたもの)、長女(おさめ)はもとより樋洗(ひすまし)や御厠人(みかわやうど)といった女たちにもなお従者がついた。絶世の美女といわれた年若ら
の母常盤(ときわ)御前も雑仕だった。親王が愛されても放埒に過ぎるというほどでない女で「大顔」はあったが、
遺児は庶王の身から源氏にもならず藤原氏の人となった。父親王の没後のことに相違ない。
 T博士は言われる、紫式部は、「大顔」の突如遍照寺の月光にうたれて果てたことを即ち、源氏物語
「夕顔」の死に生かしたと。式部は具平(ともひら)親王とは又従兄妹(またいとこ)の間柄にあり、親王の悲しみや遺児のあわれ
は殊の外に身にしみていた、だから「夕顔」を書いた、書けたと。間然するところないお説であり、そ
れ自体はかの「わたり近きなにがしかの院」を強いて六条宮親王の「千種殿」に宛てなければ成り立た
ないものとも思われぬ。「河原院」跡にかりに宛てても、どうも、その方が状況は自然なようである。
 むしろ問題にすべきは「大顔」の死が、事実何年の出来ごとで、紫式部が「夕顔」の巻を書いたより
も明らかに先であったのか、どうか。
 T博士の書かれたものを調べてみると「具平親王は、其年の九月十五日の宵、寛朝の招きを受け、愛
する妾妻の大顔をつれて遍照寺に渡り、恐らく釣殿で名月を観賞した。ところがそのさ中に大顔は、急
死してしまった。大顔の頓死は、稀有(けう)の椿事(ちんじ)として宮廷社会に知れわたり」とある。乾いた筆つきは厳
格な歴史家らしいといえばその通りだが、なぜに「某年」なのか。博士にも分からないのだろうか。
 古今著聞集以外には関連の記事もないようだが、その記事に「寛朝の招き」らしい形跡はない。事実
「招き」ならば、名月観賞は、寛期大僧正が死ぬ西暦九九八年以前であり、寺の建った九八九年以後で

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ある。ところが牛車(ぎつしや)物見の大顔の絵が裏表にされたと著聞集にいう「寛弘の中段の御作文(ごさくもん)に参り」の時
期を、著聞集校者は、「寛弘二年(一〇〇五)七月七日の中段(清涼殿)での作文会(さくもんえ)(漢詩を作る会)
をさすか。夜通し雨で、会は八日の巳の刻(午前十時)に及んだ」と注している。死の事件のあと、あ
まり間がなければこそ「大顔」の絵を世間に晒(さら)した牛飼の失敗が、そのまま説話化されるほど、評判に
なりえたのだろう。寺の大僧正が招くほどの月見なら、顔ぶれももっと晴れ晴れと出揃い、女が「物に
とられて失せる」隙(ひま)はなかっただろう。
 遍照寺が僧正没後に急に寂れたことは、程ない時期の権中納言定頼による美しいまで凄い証言がのこ
されている。
 源氏物語の執筆開始がいつとは特定できないけれど、具平親王の亡くなった前年、寛弘五年の秋には
少なくも「若紫」の巻は宮廷に知られていた。この巻はまさに「夕顔」の巻のまうしろに当たっている。
そもそも書き出しも、夕顔に死なれての病みやつれを癒すため、源氏は、若紫のひそんでいた「北山」
へと加持(かじ)祈祷を受けに出向いて行くのである。「大願」の死は「夕顔」の死より確かに先だっていて、
しかも、そんなに古い昔のことでは擬(なぞ)えの趣向が利かしにくかったのでは、ないか。親王と大顔とは、
ある夜ひそかに、ほとんど酔狂のあまりにすでに廃城の風情に荒れた寺へと月に浮かされて行ったのだ。
 そして難に遭った。

 大学入試共通一次とはもう言わないが、つまりそんなような試験の監督も、かつがつ立ちん棒でまる
一日相勤めた。当番は正月十二日日曜の第二日めだった。十四日は、はずせぬ約束があり夕方まで外で

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仕事をした。
「行って来たほうが、よくてよ……お墓参りに」と妻の勧めに、わたしは十五日、梅若能の初会(はつかい)に気が
あったのを振り切って、京都へ、突然とび出して行った。新幹線はがらがらに空いていた。
 自分でもぴっくりした、京都駅からの地下鉄をたった一と駅の五条で、わたしはドアを擦りぬけて路
上に出た。高辻の夕顔町へとぼとぼと重い足をはこびながら、しかし躊躇なく、安江享と新しい表札の、
見知った家の戸をあけた。
 むろん名乗ったけれども、応対した四十前後の婦人はもうこういう客に慣れているのか、何も聞かず
に「夕顔の墓」のまえへ導きいれてくれた。夕顔ではない、心優しくわたしたちの前から消えていって
くれた、これは、六条御息所(みやすどころ)のお墓なのだと思いつつ、黙って膝を折った。ごめんよと、言いかけて嚥
みこんだ。そんな簡単なことではなかったし、そんなことは言うべきでもなかった。愛していたか…。
愛していた。それだけの確認を、広沢の池へたどりつく前にぜひ遂げておきたかった。
 二尊院裏の女先生のお墓は、大竹薮をそこかしこ、とうとう見付けられなかった。それなのに藤原君
の家ではお参りをしてきたと言った。夕顔町の夕顔の塚にも頭をさげて来ました…。出てきた淳子(きよこ)さん
に、ことさら顔をまっすぐ向けてそう告げた。くしゃくしゃと、美しい奥さんの顔が美しくゆがんだ。
「おおきに」と、掌で顔をおおい、部屋の外へそっと隠れた。
「冬の十五夜か…。えぇやろな」と、画室から出てきたままの恰好の藤原朝臣(ふじわらのあそん)どのは呟いていた。さも
あろう。わたしは襟元へすり込んでくる北嵯峨の冷えに、黙って堅くなっていた。
「あそこに、児(ちご)の社があるよね。あれのこと、なにか知ってる」

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「知りませんな」と無愛想ではなく藤原君の返事は早かった。何も知らない男だ。淳子(きよこ)さんが気付けに
燗の酒をはこんで来て、ちよっと夫君の顔いろをうかがいながら、いつか紅梅町の先生(二字傍点)に、こんなこと
を聞きましたと教えてくれた。
 ──もともと、遍照寺建立(こんりゆう)にはこの地を占めていた秦氏の協力がぜひ必要だった。寺が成った日にも、
乱声(らんじよう)を発し音楽を奏し、大般若経を供養し、また行道(ぎようどう)した。童舞(わらわまい)がことにめでたくて何人かの公卿(くぎよう)は衣
を脱いで舞童(ぶどう)にかずけたが、秦身高(はたのみだか)という者にも同様の下賜があった。ま、わたしの察しうるかぎりで
表現すれば、そんなような事であった…そうだ。祭するに身高とは、地元秦氏の頭梁で、舞童のなかに
その子弟が交じっていたのだろう。そのひときわ美しい少年が高貴の老僧の抱き寝の侶(とも)に召された。そ
れが寛朝寵愛の稚児であったのだ、人身御供(ひとみごくう)であったのだ。子である醍醐天皇の女御(にようご)となるべき藤原褒
子(ふじわらのほうし)、傾国の美女であった京極御息所(みやすどころ)を入内(じゆだい)まぎわに横からさらったという父宇多法皇の、寛朝僧正はま
さに好色の血を色濃く受けた孫王(そんのう)であって、美童も愛し、またうら若い女の肉にも密かに飽くことがな
かったであろう。
「それでも稚児は、お師匠さんに死なれると、自分も死んだ…。なんてこったろ…」
「それだけゃ無かったテ、亡くなったお方は、言うといやした」
「なんです…。どうしたって言われるんですか」
「お稚児さんのお姉さんいうお人も、そのおえらいお坊さんが、憑(と)り殺しとしまいやしたんや…ッて」
あッと、もの言う淳子(きよこ)さんからわたしは顔をそむけた。そうか…「大顔」も、朝原山(ちようはらやま)と広沢の池をみ
て育った、秦氏の女、だったのか。広沢の秋月をぜひにもと具平(ともひら)親王に願い、夜長の嵯峨へ車をはせ、

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大顔が観音島の堂に姿をあらわしたのは、あわれ身を投げた弟の面影をいたむためであったやも知れな
い。ところが好色の老僧正の亡霊が、わずかな親王の油断をみすまして、大顔の腰に抱きついたのだ、
「寛朝に候、御息所(みやすどころ)を賜はらんと欲す…」と叫びつつ──。

 池の裏付の、広沢山(こうたくさん)遍照寺の小門が、藤原君の前もっての電話で許されて、かすかにわたし一人のた
めに開いていた。余の、なにも望まない、ただあの豊頬優雅(ほうきようゆうが)な十一面観音さまに、縋りついてでもお逢
いしたかった。
 涙が垂れて垂れて…。わたしは、ものの二十分ほどお姿の裾に、膝をついて動けなかった。ゆるされ
るならお腰に抱きつき、呼びかけたかった…。
 門を辞し竹林(ちくりん)を出て、やや西むきにすぐ右へ小道を折れた。学校のグラウンドに沿うて、もう目は千
代原の山のなぞえに動く雲の色を眺めていた。広沢の大地は正月の風にさざめき、山なみに残りの日の
いろが、ほのかに、しかし刻々と瞑(く)れ深まっていた。真冬の空が、あやしいまで茜(あかね)に藍に濃い灰色に、
むらむらと入りまじりやがて一と色に沈みはてて行く。かいつぶり、鷺、くいな、鷭などひときわ水鳥
の数多い池の、もうどこにも姿は隠されて、まむかいの、遍照寺山のやわらかに汀(みぎわ)へなだれ落ちた稜線
も、宵やみに溶けて翳(かげ)ってあまりに悲しかった。
 先生……。もう一度だけ、ご一緒したかったですね。
 児(ちご)の社に、はじめて、しみじみと掌をあわせた。背のほうから、月があがっていた。寒い。寒い。拳
を固め背筋を張り、観音島までの池の沿道を靴の爪先でけずるように黙々と歩んだ。中そらに、一片の

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弦月(げんげつ)がかたちを見せ、橋のまうえで、わたしは水の底をのぞいた。ぼうやりと自身の姿らしき影がうつ
り、そのとき、耳を鑽(き)って山颪(やまおろし)の風がはしった。そして、絶えた。
 面影かあらぬ、月、冴ゆるなり…。
 頼成の歌ごえが大顔の母を、美しい面影の母を、呼ばわって、いた。
 先生…、……。
 みるみる他一面が耀(かが)やき、そして、音なく薄れていった。
──完──

94
創26秋萩帖下・夕顔・月の定家
----------------

月の定家

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第一・二章は「太陽」昭和五十五年十月号初出・平凡社『秦恒平の百人一首』昭和六十二年十月刊

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     しゅんぜい
 

 因幡(いなば)薬師にまた猿楽者(さるごうもの)が人を寄せているらしい。築土(ついじ)のそとを、さもあるじを急(せ)きたて顔に、はねて
啼きとんで啼く小犬の声が、数人の足音にいりまじり、通って行く。高からぬ土塀の崩れがちなのを言
わず、ながく絡んだ蔦もみじの色よさを朗かにほめて通った若い市女(いちめ)らの声音も、おかしく耳に残って
いた。
 よく晴れている。申しわけに綿くずをつまんで引いたほどの雲が、鶉(うずら)鳴く深草の山べをかすめたよう
に飛んで見える。数日まえ、月麿はさかりの紅葉狩に朋輩と高野(たかの)の御生山(みあれやま)へでかけ、矢背(やせ)まで足をのば
してきた。例の言(こと)ずくなに母や妻に話しているのを遠耳に聴いていると、また新たな百首歌(うた)をこころみ
るらしい。
 その月麿を、今朝がたはやく真葛(まくず)ヶ原へ大事の使者にたたせ、入道はじつは復命を、心待ちにしていた。
 京極の邸では、人も多い──。
 前月二十日に内々の奏覧を願いでた多年経営の千載和歌集は、幸い院のご褒美にあずかり、重ねて形

97
 

をととのえ正式に奉呈の運びとなっているが、撰集(せんじゆう)の御沙汰このかた、おびただしい名歌秀歌をつくづ
く撰ぶについては、自身勧請(かんじよう)の玉津島社にちかい、この軒低く月も洩るばかりの小宅(こいえ)を、人に知らせぬ
ほのぐらい隠れ処(ど)にしてきた。町の女にふびんに産ませた娘を青女房のていに身ぢかにおいて、一衣帯
水、比叡から九条稲荷山まで眺望も晴れやかな京極河原の自邸とはうって変わった、夕顔のゆかりも問
いたげな鳥丸(からすま)の町の小路に、今日もこう身をひそめているのは、すこしく思うところもあり、月麿、な
らぬ当年二十六歳の正五位下(しようごいのげ)侍従定家(さだいえ)のためにも、人をまじえぬ歌ものがたりがしてみたいからであっ
た。
 五条入道釈阿(しやくあ)を京極の邸におとずれ、年来の歌友とたのんで、円位上人西行が一巻の自歌合(じかあわせ)に判を請
うてきたのは、七夕にほどない都もまだ暑い盛りの時分だった。以仁(もちひと)王の乱れ以来、源三位(げんざんみ)頼政に縁の
ある西行は都へあえて入ろうとしなかったものの、高野(こうや)や吉野から、伊勢二見ヶ浦から、また此度(こたび)の陸
奥(みちのく)の旅さきからも折にふれて歌のたよりを絶やさぬまめ人であった。先年には定家(さだいえ)もふくめて慈円、寂
蓮、家隆、隆信、公衡(きんひら)ら若い歌詠みをもよおし、伊勢奉納の百首歌を勧進したのもかの西行法師のしわ
ざであった。
 だが、今度当人が久々に持参の一巻は、珍しい自歌合(じかあわせ)で、やはり伊勢内宮へ奉納の願いを籠めていた。
歌への執心(しゆうしん)がやがて神仏の叡慮にもかなうという境涯には、さすがに共感を禁じがたく、仮りに左、山
家客人(やまがのまろうど)、右、野径亭主(のみちのていしゆ)と名を立てての三十六番も、この豪毅なさすらい人にふさわしい佗びた趣向に思
われて、久しく歌合の判詞を書かない釈阿俊成の心もうごいた。家門の前途をかけた勅撰の和歌集がも
はや成ったもおなじ今、当代の歌の道を、彼も我も壮年の昔から、心を寄せあい歩んできた友誼からも、

98

また自愛の念からも、いっそ潔斎の心地新たに、この判だけはたしかに書きたい、末代の為にも書き置
こう、と願われた──。
 定家(さだいえ)には、けさ、その判を東山まで届けにやった。消息知った上人ははや数日来、嵯峨の寺をよそに、
ほど近い円山真葛(まるやままくず)ヶ原の草庵でこの使者を待ちわびていた。
 西行は、若い定家が去年(こぞ)『二見浦百首』を送ると折りかえし、その中の、「見渡せば花ももみぢもな
かりけり浦のとまやのあきのタぐれ」「朝夕のおとはしぐれのならはしにいつふりかはる霰(あられ)なるらむ」
の二首を、とりわけほめて来た。千載集に撰んだ歌では、「おのづからあればある世にながらへて惜し
むと人に見えぬべきかな」と述懐の一首が、かの法師の意にかなっていた。子は謹んで、父入道のまえ
で西行のこの批評について物を言いはしなかったが、俊成(しゆんぜい)は微妙な西行との差を、また、感じないでは
おれなかった。
 定家(さだいえ)の二十歳初学の百首歌以来、もとよりどれも父なる人の風体ににていた。が、「花ももみぢも」
と畳みかけた此度の詠みくち(二字傍点)など、弱冠、やや気概を見せている。それを西行がすかさず好んだのは、
血気二十五歳の定家に、法師みずからの往時を、ふと、なつかしんだか。それとも間接に父入道の歌風
を諷したものか、俊成はそんなこともやがて使者が帰れば、今日こそ語りあわねばならぬと思っていた。
 懇篤な御判(ごはん)を給わり恭(かたじけな)い。比叡山無動寺の慈円殿を煩わせて浄書を願い、『御裳濯河歌合(みのすそがわうたあわせ)』と題し
て内宮(ないくう)に奉納すべく、年内には伊勢へまた参るつもりとの西行法師の書状を持参して、定家が五条烏丸(からすま)
東に父入道の隠居を供一人つれておとずれたのは、その日、午すぎであった。
 わが子の面持(おももち)に、釈阿俊成は案の如くある輝きを感じた。が、あえて自分から□を切らなかった。

99

判をした『御裳濯河歌合』を、はじめて定家に手渡したのは昨晩だ。それも届けてくれよと命じたに
すぎず、拝見致しますともあれは訊(き)かなかった。が、自室で熱心に書き写したであろうこと、明け白む
までもくりかえし読んで吟味したであろうことは、朝ばや例によって挨拶に出た顔を見て、察していた。
「御房(ごほう)は、ほんとうにお喜びでございました」
と、使者は心もち頭(ず)を低うして控えていた。
「旅のはなしなど、聴いてきたか」
「うかがいました」
「……」
「御判には、承服なされていたと見受けました。一度ご自分で黙読のあと、私に、誦(よ)んで聴かせてもら
えぬかと仰っしゃいました。誦みおえますと、こうお聴かせ下されば、自分の拙(つたな)い歌が、また異様(ことよう)に耳
の底でいろいろに響くのが面白うござると、笑っておいででした」
 入道は頷いた。立烏帽子(たてえぼし)で楽坐(らくざ)した狩衣(かりぎぬ)姿の、顕文紗(けんもんさ)の左の肩のうしろに、どこで拾ってきたかちい
さな紅葉を一枚置いたまま、定家は、楝■(おうちだん)の袖括(そでくく)りを床にひいてやや俯きかげんにしている。
 定家(さだいえ)は、西行の歌を声高に吟じてきたのではなかった。秋日和をおしみ簀子(すのこ)に円座(わろうだ)だけ敷いて対座の
まま、ただ、歌も判詞もさっと読みくだしただけであった。それでかえって、定家も、西行生得(しようとく)の歌の
姿が、父や自分のそれとは微妙に異ることを祭してきた。
 西行とてその機微をむろん自得している。承知のうえで定家の肉声、声調を介し、自身とは不可思議
に息づかいの異った俊成流の風体をかえりみ、また目前気鋭の定家の歌風をも占っていたにちがいない。

(■:糸へん に 炎)

100

 小町も貫之も、金葉集の俊頼(としより)も詞花集の顕輔(あきすけ)も、歌の風は、口に出してくりかえしただ誦めばわかる。
歌をただ眼で読むだけではならぬと、入道は久しく子弟に訓(おし)えてきた。
「それで……」と父は話のさきを促した。
 定家は先刻来身のそばに、何か一包みを持参している。
「はい」
 定家はその包みを、むきを直すとそのまま入道のまえへ進めた。父は──手をふれなかった。
 西行法師は、また新たな三十六番の自歌合(じかあわせ)を撰して、すでに『宮河歌合』と名づけ、これに此の度(たび)は、
軽輩侍従にすぎない定家(さだいえ)の判をえて、伊勢の外宮(げくう)に奉納する気であった。
「お受けするがよい」
 俊成入道は言下に定めた。定家の逡巡や遠慮は経歴、官位、年齢を推すまでもなく当然ではあったけ
れど、あの西行があえて定家の判をと望むには、余人の忖度(そんたく)を許さない判断も配慮もあろう、あれほど
な歌詠みの厚意には、厚意以上に神妙で不思議な冥護(みようご)も添うているもの。過去にも、幾度となく西行奇
特のはからいが意外な吉祥を招いたことは、知る人は知っている。
 それにまた、と俊成は語をすすめた。歌合(うたあわせ)の判をするのは、もとより定家にはこれが最初の機会にな
る。その最初に、別して西行自撰の歌の性根(しようね)にしたたか手をふれておく意味はちいさくも軽くもない。
「……私。お訓(おし)えを、願わねぱなりませぬ」
 定家(さだいえ)は、新たな西行自歌合の一巻を父が手に取らないと見て、話題を転じた。
「かの御房(ごぼう)にもお尋ねしてみましたが。御裳濯河(みもすそがわ)歌合、第十八番の御判(ごはん)のことでございます」

101

「む。……して、御房は何と」
「わしは答えまいよと、大声で笑われました」
 俊成入道観阿もまた、にやりと笑った。
  
  十八番
    左
  おほかたの露には何のなるならむ袂(たもと)におくは涙なりけり
    右
  心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋のタぐれ

 俊成は、こう判をしていた。
「鴫たつ沢の」と下句(しものく)にこめた思い入れのはかりがたい衷情も声調も、凡人のとても及ぶところではな
い。が、さて左の歌の、ことに「なにの」という詞(ことば)の使いようは、一読無造作に尋常なようで、そのじ
つ汲めどつきない深切な心の働きがここに生きている。左を「かち」とする、と。
 定家の不審は、左勝(かち)にというより、右負(まけ)の判定を如何(いかが)と思うところに出ていた。自分ならば、せめて
引分けて「持(もち)」にしたい同情を右の歌に寄せていた。いかにも判詞にもあるとおり、「鴫たつ沢の秋の
タぐれ」は無類に面白く、その面白さは、逆に上句(かみのく)のやや露(あら)わな物言いをも和らげつつ一首の全部に及
んではいないか。

102

「鴫(しぎ)たつ、は、鴫の翔(と)びたつ意味でございましょうか」
 定家(さだいえ)は、あまり差障らぬところから父の意をうかがった。
「そうではない。秋霧を沈めて、底昏(そこぐろ)う静まりかえった山ちかい夕暮れを、その寂然(しじま)を、翔びたつ鴫の
羽音がいま破る、と取れば、なるほど歌一首を静から動に転ずる変化の面白さはあろう。が、それしき、
に西行ほどな歌詠みがうち呻(うめ)いたような上(かみ)三句の切迫を要しない。ただの叙景に終わる。鴫という鳥を
ここに拉(とら)え来た来意も、生かされまい」
「鴫は沢に、ただ字のとおり、立つ、彳(たたず)む、のですね」
「西行なら、そうだと思う、余人は知らぬが。鴫(しぎ)の看経(かんきん)という形容(なぞらえ)も、田や沢にあの鳥の凝然(じつ)と立つ姿
をさしているのだし、鴫の羽掻(はねが)きというのも、羽榑(はばた)く音を想うた言葉でなく、羽についた小虫を余念の
う長いくちばしでしごいている姿をいうからは、この歌の鴫は音もなく、沢のなかにただ立っている。
無心の鳥が、さも心深う瞑黙(みようもく)の秋の夕暮れのさなかに、小魚を追うこともやめて無限の時を超え、ただ
彳んでいる。その容子(さま)をかの御房も、あてどない旅路のさなかにただ立ちつくし見つめている。刻々に
世界は色を喪い、音も絶え、眺めていることも忘れはてた御房と、眺められているとも知らぬ鴫とが、
夕方の、清寂の底の底に沈んだように一つに溶け合うている」
「心幽玄に、とは、そうしたさまを仰せられたのですね」
「そうだ」
「姿及び難し、についてもお聴かせ願いとうございます」
「むずかしいことは、言うていない。歌は口遊(くちずさ)めよと、いつもわしはおまえたちに教えている。しぎた

103

つさわの、あきのゆふぐれ……。こう幾度も□にのぼせ言いつづけて、一つの音から音、一つの声から
声へ、一抹(いちまつ)の無理不自然もない、絶妙の、美しいたしかなつづき具合い。調べというもよし。聴こえ(三字傍点)で
もいい。とまれその佳さ、優しさ、明るさ。それを望ましい歌の、姿、とわしは謂う。世に秀歌、名歌
といわれるほどの作は、なにより天来の妙音を、この、姿のうちにそなえている」
「左の歌は」
「勝たせた左歌の下句(しものく)は、到底、秋のタぐれに及ばない。鴫たつ沢の、と言いくだした右の下句は、古
来今往(こんおう)、かほど姿うるわしい類歌は一つもあるまいと、心底わしは舌を巻いた」
「父上の、あの、タされば野べの秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里という御歌も、やわか姿において
劣るとは思えませぬが」
「歌一首としては、さも有ろうよ。しかし下句にかぎっては西行天性の歌ごころに敬意を払いたいのだ。
但しナ。歌は下句だけ、また上句だけがみごとでも、所詮は片羽(かたわ)でな」
「はい。いかにも御房の上句(かみのく)は、露わにものを言い過ぎておいでと……」
「いや、もとの左兵衛尉(さひようえのじよう)佐藤義清(のりきよ)の経歴を知る者としては、あの聖(ひじり)がこう詠(うた)い出(いだ)されねばおかぬ境涯と
いうものを、わしは尊いと思うておる。万葉集このかた、述懐は和歌のはたらきであった。述懐の深切
が人の胸を打った。神仏のみこころをさえ動かした。が、月麿、ここが大事ぞ。ことさら物に寄せて思
いを陳(の)ぶるのも歌ではないか。譬(たと)えを用いて真情を仮りに表わすのも歌ではないか。その巧みの深さや
新しさに、芸道としての歌の道は拓(ひら)かれて来た。
 俊恵(しゆんえ)法師はナ。先刻おまえが□にしたわしのあの深草の歌の、あのなかで、野べの秋風身にしみてと

104

詠んでいる身にしみての一句を、露骨なと難じたものだ。おまえもこの話は知っていよう。それが俊恵
らの今一歩を踏み出しえないで終わった古い捉(とら)われともわしは言い返してきたが、彼のそういう難じ方
こそが、じじつ和歌の道の金科玉条として、むしろ当然とされていた。普通のことであった。身にしみ
てなどと、思いのたけをじかに詠み出すことは、かりにも晴れの歌合や勅撰の和歌の集に入るための歌
の作法ではなかった。いやしいとされた。
 だが、さように心情のやむにやまれぬ流露を殺してのみいては、歌が、歌の心が、塗籠(ぬりごめ)の、出□のな
い暗い穴のなかで干からぴてしまう。死に絶えてしまう。わしは願った。此度(こたび)の千載和歌集では、いわ
ば、身にしみて、までは己れの思いを言い出(いで)たい。そこまで美しく新しい抒情の可能をひろげたい……
歌のうえの今様(二字傍点)を創り出(いで)たいとな」
「……」
「西行の、心なきという右の歌は、じゃが、わしの考えのまだ何歩も先へとび出てしもうておる。あれ
を詠んだのがまだ彼が若年であったから、若気のいたりで……とは言えぬあれが西行生得(しようとく)の風体(ふうてい)なのだ。
詠みくち(二字傍点)なのだ。身にもあはれは知られけり……。こうまっすぐに過ぎた物言いは、しかし、宮廷(おおやけ)に生
きて歌の家として門戸をはる我らとしては、所詮受け容れられない。真情を先途(せんど)として、優艶に、もの
を言いまわすという工夫を欠いているからな」
「心なき身、とは」
「それはかの御房が、年来山精の仏徒である身を、率直に指さしていようよ。だが、もののあわれを弁(わきま)
え知らぬ凡俗よと、己(おの)が身上(みのうえ)を遜(へりくだ)った物言いにもなっていて、それでこの歌が、西行ひとりの心境だ

105

けでなく、ひろく諸人の感興を代弁する懐の深さももつところとなった。この辺の、微妙な詞のはたら
きが、なおさら下句の清寂な景色に深いあわれを添えている。西行という人は、必ず、そこまで見極め
て歌を詠んでくる」
「とすると、父上はこの歌は、やはり内心お認めに……」
「いや。それだからこそ認めてはならない(四字傍点)のだ。これをあさはかに認めては、ひょっとして和歌をまた
も山上憶良や大伴旅人の昔に逆戻りさせてしまいかねない。西行殿ほどの才能だから大過はないが、一
つまちがえば木曾の男が都でのさばったのと同じ、荒くれたざれ歌の世に返してしまう。
 大きな声では言えないが、保元の乱このかた、公家(くげ)から武家へ、時代の移りかわる早さは身のすくむ
ほどであった。古今集このかたの和歌の道をもし安易に踏みはずせば、それは、我らに望ましからぬ世
の移り動きを認めると同じ結果になろうやもしれぬ。ようやく平家が亡んで、また藤原氏の、公家(くげ)の、
政(まつりごと)の安泰を院をはじめ奉り是が非にも願わねばならぬ今、なお鎌倉に源氏の頼朝あり、奥州には義経
がある。都はまだ明日を知らぬ、心もとない暗闇をはらんでいる。それはおまえとて、若い眼でよう見知
っていよう。かかる時機(とき)に、歌は、和歌は、丈高う、姿うるわしくしみじみとした優美さをぜひ守らね
ばならぬ。忝(かたじけな)くも勅撰の和歌の集を撰ぶほどの家に生れたおまえには、心がけてもらわねばならぬ」
「その、仰せの優美さが、この場合右の歌には、ある、とお考えなのでしょうか」
「不承か」
「せめて廿八番などと同じく、佳(よ)き持(もち)、とはなりませぬか」
 廿八番は、左に「嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな」と置き、右に「知らざり

106

き雲居のよそに見し月の影を袂(たもと)に宿すベしとは」と据えて、判者はこの恋の歌に、「左右両首、共に心
深く姿優なり。よき持と申すべし」と理解を見せていた。甲乙なく、すでに千載和歌集に入集とも定ま
っていた。
「十八番の左、露には何のと読んで、思いあわせた歌がいくらも有ろう」と俊成入道が反問した。
「はい。古今集の秋上に、わがために来る秋にしもあらなくに虫の音(ね)きけばまづぞかなしき、と読人知
らずの歌が。また大江千里にも、月見ればちぢにものこそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど、
などとございます」
「いずれも万人の秋を、我ひとり先立って悲しんでいる。秋を思う、それが歌詠みの久しゅう好んでき
た型とされている。西行のこの、袂におくは涙なりけりも、同じ型を踏んでおる。そう見える。
 我が身には、露といえば今は涙でしかない。その涙にうるむ目で見ると、蕭条(しようじよう)の秋、満目(まんもく)の露は庭
面(にわも)に、野辺に、草に木に花におびただしい。このおびただしい露、涙でなくばそも何が化してしとどに
秋を湿(ぬ)らすか。歌の作者はそう問うている。誰に、我に。そして、人に。
 心せよ。我と人とを分別するこの思いには万人の秋を我一人領じ顔の、もののあわれ知った風情も生
きようが、また、とかく歌詠みの、衆庶を尻目に見る傲慢もきざす。
おめおの
 だが、聴くがいいぞ。西行は秋を愛(お)しみ露を愛(め)でるもの哀れの底に、己(おの)が境涯のいかにも深切な体験
と自覚とを沈ませている。あわれ知らぬ世の凡俗を突きはなす世の常の歌人の思い上がりを、そして、
わが身ひとつのため置く露よと胸をはる出すぎを、矯(た)めよう、抑(おさ)えようとしている。それが、おほかた
の露には何の、とわざと問い重ねた『なにの』のはたらきだが、判るか。

107

 露にはなにの(三字傍点)なるならむ……。
 西行は、西行の人生を歩んで来たし、わしとても、またわしの人生を歩んで来た。西行の袂におく露
が涙ならば、むろんわしが袂におく露も涙なのだ。だれしもがみな涙の露をめいめいの袂において、生
きがたいこの動乱の渦の底をがつがつ潜(くぐ)ってきた。その共感が人一倍深切な西行には、我一人の涙など
とはけっして歌えまいよ。なにの、とわざと問うて我と人との、同じ時代を生き合うた喜怒哀楽の在り
処を、西行はもっと広く心やさしく問(と)い返そうとするのだよ……。
せきばくかんわかお
 この共感は、秋の夕暮れ、極まりない寂莫の間に立ちつくす西行と鴫とが頒ち合うていたものより、
探い。味もある。それも、あのように露わな物言いでなく、伝統にひしと身を寄せ、優美な和歌の姿を
よく整えて詠み切っている。心殊に深しとは、わしは、そこを見定めたつもりだ」
「……恐れ入りました」
「後生(こうせい)には、だが月麿よ。この、露にはなにの(三字傍点)が読み切れまいよ。そして風流な西行がただ我が身ひと
つの秋を風流に領じたくらいに興がって、一首の姿に響かせた稀有(けう)の聖(ひじり)の嘆きの深さには、眼が見えぬ
ままでもあろうよ。
 そればかりか……。大かたの露にはなにのなるならむ、というが如き姿の宜(よろ)しさに慊(あきた)りなくなり、西
行法師の歌としては未熟さの残る、心なき身にもあはれは知られけり、など無骨な詠みくちにかえって
人は手を拍つであろうよ。いずれの御代には、また必ずや趣新たな古今集をとの御沙汰が下り、そして
撰者らは他の何を措いてもかような西行の風体を面白しと、先んじて採るにちがいない。
 が、定家(さだいえ)聴け。さして、わしの予測ははずれまいぞ。さような世となれば、必ずや平安四百年の公家

108

の政は、その場処を、□疾(くちど)にむくつけく、あわれ知らぬ武士(もののふ)どもの恣(ほしいまま)に譲り渡すはめに陥るであろう。
源氏は、平家でさえないのだ。鎌倉は、けっして京都でないのだ。そのことを九条の大殿(兼実(かねざね))など
よりも、畏れながら幾山河を踏み渡らせられた後白河の院のほうがよく御承知とみえるのが、わしには
世のため、歌のため、心細う思われてならぬよ……」
「……。どうか重ねて、父上の御歌の道にお寄せあそばす思召(おぼしめし)を、お聴かせ置き願いとう存じます」
「それよ。それも今日おまえを待ったわしの本意なのだ、が、難儀な言い立ては、わしには何もない。
歌の詞(ことば)は優(ゆう)にして艶(えん)であれ、と。そして己(おの)が生きる時代の心で、詞と詞とをひしと貫け、と。保元、平
治、治承、寿永のいくさを、わしは、ただよそにのみ眺めては生きられなかった。が、紅旗征戎(こうきせいじゆう)吾が事
にあらず、世を動かす何一つ力ある手立ても持てはしなかった。あわれ、という言葉が面白さよりは哀
しみにと色変えたこの三十年を顧るなら、時代の、心とはつまり、わしには、不自然な人の生き死にをこ
の目で見るしかなかった、もの哀しい気分に他ならない。
 だが哀れをひたすら哀れと思うに過ぐれば、どうしても西行のように身にも哀れは知られけりなどと
叫び出したくなるものだ。そうならぬ為にも、歌の詞はあくまで優に、艶に、古くてかまわぬ、丈高く、
清らにとわしはつとめた。歌は、なおざりに木の端(はじ)のように道ばたに詠みすててしまうものではない。
晴れの行儀なのだ。どのような歌合やまた物の集にも提出したりまた入集したりの出来る公家(くげ)の歌とは、
縦からも横からも一分(いちぶ)の隙なく立派に詠まれたもの以外であってならぬ。古今集を太い柱として綿々と
公家の世の中が守りつづけたそれが我らの覚悟であり、別して我ら歌の家には断じて動かせぬ金科玉条
なのだ。

109

 あわれの深さを優艶な詞で、姿うるわしく詠めよ。歌えよ。御子左(みこひだり)の家を嗣いで貰うおまえにわしは、
これこそ、しかと言い置くぞ」
「ありがとう存じます。……終生忘(ぼう)じませぬ」
 定家(さだいえ)は両手を床においた。俊成はいささか呆(ほう)け顔にすこし日の翳(かげ)った庭面(にわも)を眺めていた。
 やがて定家は、西行法師の『宮河歌合』の判について、入道の考えを重ねて問うた。
「判を差上げるがよい。かの御房(ごぼう)は我らにはまさしく年来の心友。だが一方、俊恵の徒、また顕輔の輩(やから)
以上に、おそるべき歌道の難敵、晴れの歌合などに生涯膝をまじえようとしなかった頭陀(ずだ)の聖よ。心に
謹んであくまで丁重に、しかし、我らが立場は微塵も譲らぬ存分な判をするがよいぞ」
かっこ
 定家はまた深く頭をさげた。遠くで笛や羯鼓(かつこ)の囃子唄にのって、ときどきどっとうち笑う陽気な人声
のあるのを、父と子は、はじめて心づいた顔で思わず眼を見あわせ、微笑(ほほえ)んだ。
 やや離れてうら若い女の声が、遅い昼餉(ひるげ)の仕度(したく)の調うたことを、穏かに二人に告げていた。
 

     さいぎやう

 忝(かたじけな)いこと、お誦(よ)みあげ下されて。お笑いなされ、三度めですのじゃ。幾度聴き、どなたのお声で聴
いても、嬉しいは同じでな。面白いにも、変わりない。

110

いかがでしたかな。いや歌でない、判のこと……。
 侍従(定家(さだいえ))殿のこの御判(ごはん)、願い入れましてから二年じゃよ、二年で。待ちかねた。いや待ちかねま
した。わしも、こう衰えましたでな。……が、待ち甲斐がありましたぞ。今年は二十八になられたとか
お若い侍従殿が、父三位(さんみ)殿の、ご存じであろう例の『御堂濯河歌合(みもすそがわ)』の御判にいささかも譲らぬ、りっ
ぱな判を書かれた。
 いや、こうあろうと、わしは信じており申したよ、この二年、めざましい勉強ぶりじゃった。
 わしが目にしただけでもかの人は、二年がうちに三箇度の百首歌を詠まれた。それあの、越中の侍従
(家隆)殿とこもごもの『閑居百首』が文治三年の冬のうちの詠作じゃった、わしが『宮河歌合』に判
をと、真葛ヶ原へ入道殿御使者でお迎えした折に頼み入れた、あの冬のな。笑談じゃよ、半分笑談とお
聴き下されや。いや、あの百首が詠まれたあの時から、いまだ奏覧まえの千載和歌集よ、あれがはや過
ぎし昔(一字傍点)の集に、追いやられていた気が致さぬでない。

  咲くと見し花の梢はほのかにてかすみぞにほふタぐれのそら
  まどろむとおもひも果てぬ夢路よりうつつにつづく初雁の声

 こう、強い手で背を押されたように、さようサ、木曾が落ち平家が海に沈み申したよりもはっきりと、
世が移るぞ動くぞという気が、若い公家(くげ)二人のかの百首歌からは感じられましたぞ。
 そしてこの春はまた、無動寺の法印(慈円)殿に和して、つづけて百首を、二度もな。

111

  こもり江の芦の下葉の浮き沈み散りうせぬ世のあぢきなの身や
  ぬぎかふる蝉の羽ごろも袖ぬれて春の名残をしのび音(ね)ぞなく

 いずれも父入道殿を、ひときわ艶(あ)でに、物思い濃まやかに超えられているとはお思いなさらぬか。胸
騒ぎがするほどの美しさじゃ。老いの身も、こう、揺るぎ申した。
 さよう、父の卿の御判はいかにも速かった。かの人にはことに大事の場合でござった、のに、懇切に、
存分に、いつなされたかと思う手速さには舌を巻き申した。有難かった。判詞の一々も、さすが一代の
歌人揮身の物言いで……、過分の悦びに涙をこぼし申した、まことにな。
 だが、侍従殿が此度(こたび)二年かけられたも、また有難い。うち捨てての二年ではよもあるまい、生得歌道
執心の深さ、また身の程を思う譲虚さがかかる歳月をぜひに必要としたもの。判の詞(ことば)に表われた、わし
とすればただ恐れ入るこの丁重さが、よくよく侍従殿の覚悟のうちを見せており申す。鋭うて、優しゅ
うて、半歩も退(の)かぬ判の重さを、初々しく思いつめた血気が支えておる。一言当句の不承を申す隙もな
い厳しい判であることが、また、嬉しゅうて。この通りの、お笑いなされ、またしても嬉し泣きでござ
るよ。
 それ、この九番を御覧あれ。

    左勝

112

  世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせむ
    右
  花さへに世をうき草になりにけり散るを惜しめばさそふ山水

 歌はともに、まずの出来で。それより侍従殿の判の詞よ。
 勝を給わった左の歌をさして、「世の中を思へばなべて」から下句(しものく)の末まで、句ごと、「思ひ入りて、
作者の心深くなやませ」た趣に惹かれた、とはこれどうじゃ。この「なやませる」とサ、この一語が、
かえすがえす面白うござる。判者の理解、作者が感激ことごとくここに籠めた、言いつくした心地が致
す。かような判の詞、わしはかって聴きも読みもしたためしがない。え。ご合点(がてん)か。わしが歌の心にも
姿にも、かの気鋭の判者がひしと身を寄せて給わったればこそ、刹那に操み合うてほっと浮かび出たこ
の、一語──。
 さよう…、かの俊成(しゆんぜい)の卿(きよう)にも、いかにも昏(くら)きに身を沈めつ探みつ、しみじみと詠み出てられる風は、
ある。が、あくまで格を重んじ詞をいたわっての呻吟で。なつかしく美しい歌は出来るが、さて、心凄く
はない。ところが、若い侍従殿の身を揉み心を絞った歌には、奇想を天外に手さぐりして、我から我を
つくづくと「なやませ」た跡がよく見てとれる。そこがそれ今様(二字傍点)よ、達磨歌(だるまうた)ともやがて貶(そし)られるや知れ
申さぬ。が、とまれ骨髄に徹して己れを悩ませ歌を磨きぬく歌詠みは、かの人、一人のみ。
 いや、申されな。承知じゃ。違いますのじゃ、だが心の「なやませ」ようが、わしとはナ。
 勝(かち)歌を御覧あれ。此の世は思えばおしなべて無常迅速、散る花に同じい。それと知りつつ現(うつ)し身の心

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細さをいずくまでも、いつまでも引き擦(ず)って生きねばなり申さぬ、と、まこと「句ごとに思ひ入り」身
を操んでわしはこの左歌下句に、申さば、しがみついた。
 が、お若い侍従殿に、わしのこの覚悟をこの通りに知れとは、望むが無理。かの人が己れを「なやま
せ」るのは、ただひときわ美しゅう、心凄いまで艶(えん)な幻を見たいがためで。「散る花」をあわれとは見て
も「わが身」の行末までは見えておられぬ。見当がちがう。それにしてもじゃ。さしも俊成卿の数ある
歌合の判にも、「作者の心深くなやませる所侍れば」と、人の肝を拉(ひし)ぎまじき詞は見当り申さぬ。
 そも三位入道殿に、「わが身をさてもいづちかもせむ」という下句(しものく)が、聴(ゆる)されえ申したでござろうか。
『御裳濯河歌合』の八番に、

  花にそむ心のいかで残りけむ捨てはててきと思ふわが身に

と申す左歌は、卿が「こともなくて、よし」と勝になされた。千載集にも過分に入れて給わった。笑わ
れな。あれはお目こぼしですのじゃ。かの卿には「うるはしく、たけ高く見ゆ」ることが勅撰集に入る
ほどの和歌には、ことに大事でござった。「心のいかで残りけむ」はいかにも拙(つたな)いと眉をひそめられた
に相違ない。
 それをしも「こともなく」と判に申されたは、所詮はこの歌に盛った花に寄せる気分が、古今集この
かた公家歌(くげうた)の常套にそむかぬと見られたまでで。「花に染む」心根の深さがわが性根の強さとあえて詠
みあげた述懐には、わざと眼をそむけておられるのじゃ。気に入らぬ歌は「歎美の詞にあらず」「うる

114

はしき姿にはあらず」と、一にも二にも俊成卿(しゆんぜいきよう)は詞(ことば)優美に姿うるわしく、心はあわれをむねとなされた。
 侍従殿とて、この庭訓(ていきん)にそむかぬ、まこと得難い御子左(みこひだり)家の跡取りでおいでよ。それこの通り此度(こたび)の
御判(ごはん)にも、わしが歌を「ひとへに風情をさきとして詞をいたはらず」と見切られておる。「花のもとに
て春死なん」などと詠(うと)うてはいかんのじゃ。なら、不承か。いやいや。じゃが、これこそが西行の流儀
でな。

  ゆくへなく月に心のすみすみてはてはいかにかならむとすらむ
  鈴鹿山うき世をよそにふりすてていかになりゆくわが身なるらむ
  いづくにかねぶりねぶりて倒れ臥さむと思ふかなしき道芝の露
  うら?/と死なんずるなと思ひとけば心のやがてさぞと答ふる
  風になびく富士のけぶりの空に消えて行くへも知らぬわが思ひかな
  年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
  おろかなる心のひくにまかせてもさてさはいかにつひの思ひは
  世の中をそむきはてぬと言ひおかむ思ひしるべき人はなくとも

 かような歌は千載集がけっして採らなんだもの。侍従殿もそれは感じておられた。それゆえこの前の
自歌合で、三位殿が、「心なき身にもあはれは」という歌を負(まけ)になされたのを、わしにどう思うかと一
途(いちず)に問いなされたのじゃ。

115

 したが、千載和歌集の撰者に眼が無いのでは、ござらぬよ。公家の歌は、歌合の歌は、勅撰集に入る
ほどの和歌は当然にかくあれとする規範が、厳格なのじゃ。それだけのこと。だからわしが規範の外へ
自在に出て、事により折によりして詠(うた)おうとも、ふだんはそれなりに頷いておられた。だが俊成卿にす
ればそれは然るべき和歌とは申せぬ、恐らく定家(さだいえ)殿にしてもナ。さよう。和歌の御子左家を率いらるる、
お立場がナ、ござるのじゃ。
 が、それも「時代」でな。西行流がよいと言わるるお方がやむごとないきわ(二字傍点)にも、ちと出て見えそう
な世間の風むきじゃ。俊成卿は二年まえかの千載集を撰ばれたお覚悟を今様(いまよう)と呼んで誇られたが、はや、
言うなれば古き風体となりはて申したよ。あの集に採られたわしが歌の十八首なども、先の話の「捨て
はててき」という、あのほかはとんと歌屑で。いや、まことに。
 話が逸れ申したが、侍従殿のお歌とわしの歌とでは、どう心を「なやませて」詠み出でようと、別は
別。かりに俊成・西行と言われても、よもや定家(ていか)・西行とも人は並べて言われまい。言うならそれは歌
も人も、その違いの方をば指さしてのこと。
 ま、わしがことは措くサ。チトその侍従定家公(ていかこう)の明日を占うてみよう、いや座興ではない。戯(ざ)れ言で
もござらぬぞ……。さてかの人は、知れたこと、遠からず巨きな存在にならるるよ、人麿、貫之以来の
な。ゆめ疑いない。
 わしが思うはその先。あのいかにも執(しゆう)した詠みぶり。意表をつく機心、機鋒の行く果てですじゃ。機
とは、からくり。何事もからくり沢山は我も人もとかく倦(う)み易い。歌の聖(ひじり)とまで必ず言われよう侍従殿
の、夢に夢見るような凄艶(せいえん)にあわれ深い歌ほど、風雅の極(きわみ)を行くものはない。それにもかかわらず、そ

116

の執心のはては自身歌に倦(う)み、さて去りもならずに、かえって父入道の卿以上に歌門の名望と格式に重
く縛られて終らるるやも知れ申さぬ。今、この『宮河歌合』に示された西行風情の歌へのかくもご好意
あふるる理解が、あるいは、我ら二人が歌の心を一等近づきえしめた、かけがえのない記念と終るやも
しれませぬのじゃ。
 なぜ申すか…と。お聴きなされ。
 さきのそれ九番の負けた右歌よ。「花さへに世をうき草に…」の、判の詞がこうじゃ。
 右の歌は心の深さが詞によく表われて、そのうえ姿も、事もなくなだらかに面白うて、山水(やまみず)を走る花
びらの風情があでやかに匂うようだ、と。
 これは過分の褒辞で、なかなか負歌の判とも思えませぬ。「わびぬれば身をうき草の根を絶えてさそ
ふ水あらばいなむとぞ思ふ」と小町の本歌も見落とす判者でない。但し左歌の、心なやませたところを、
これ以上の、勝となされた。
 同感じや。
 満足しておる、まことでござる。
 ところで、この負歌についてな。侍従殿は判詞とべつに給わった書状のていで、「散るを惜しめば」
とあるのを、もし「春を惜しめば」と変えては如何(いかが)か、歌の風情を愛(め)ずるあまりの贅言一つ、とわざわ
ざ申しおこされている、さ、それじゃ。
 客人(まろうど)殿、何とお聴きある。

117

  花さへに世をうき草になりにけり
    散るを惜しめばさそふ山水 と西行。
    春を惜しめばさそふ山水と定家(さだいえ)殿。

 咲き匂うた花も、世を憂きものと身を浮き草に、それ、あのように散るが惜しや。と見るまに、それ、
あのように山水が誘うて流れて行くわ、この身もやがて……とは、この歌にこめたわしが思い。花は、
散るもの、その「散る」が惜しいとまっすぐ詠んだ。が、まっすぐに詠まぬが、世の歌詠みでござって
の…。
 侍従殿の思いは、さぞかしこうであろ。浮き草そして誘う山水。それで、花の「散る」はもう言えて
あるではないか。その上に「散る」と重ねては詞も剰(あまり)説明が過ぎる。この際「ち、る」と冷く響かせ
ず「は、る」と暖かに音をふくらませば、「花」「春」と韻も景気もこころよく、ただ眼前の叙景を超
えて広々と歌境が伸び上がって行く、となる。
 さすがですじゃ。「春」の文字がそよと耳に鳴って、歌柄も丈高く思い入れ大らかに、いかにも面白
い。が、聴かれよ、今一つここに歌がござる。

  おほぞらは梅のにほひにかすみつゝくもりもはてぬ春のよの月

 申すまでもない、定家(さだいえ)殿会心の名歌。じゃが、さきの「散る」を「春」にのお返しを申せば、「梅の

118

にほひ」を「花のにほひ」と変えられていかがかな。梅月の趣たちまち桜月夜の朧ろと一変する。そし
て、じつはこの方が常套で。かの人は、その常套を厭うて「花」と朧ろげにせず、「梅」とおそらく矚
目(しよくもく)を直截(ちよくせつ)に示された。歌は格別新しくなった……。
 が、父俊成卿の掌(てのひら)は広大じゃ。ご覧の如く判には書かれぬ根深い思い揺らぎを、消息のていで侍従
殿はわしに一言洩らされずに済まなんだ。「散る」が不安なのじゃ。侍従殿にはそれが軽々しく詞をい
たわらぬ芸の無さと、つい見える。思える。父の子じゃ。が、時代の子でもあって、「春」と朧ろに上
品がるにも、ためらいがある。
 この業(ごう)の深い迷いが、侍従殿の遠い将来にどう芽(め)を萌(ふ)くか。恐らくは晩年新たな(三字傍点)勅撰集を独り孤独に
編まれよう機会になど、西行如き言葉いやしき法師風情の歌は、むげに打ち捨てらるるやも知れ申さぬ。
いや、まことにまことに。
 なに「散る」か「春」か。知れたこと、「散るを惜しめば誘ふ山水」でなくてはなりませぬぞ。山水
の流れの早さに身を軽う押し流す覚悟の「散る」を、歌の聖(ひじり)は承(う)けずとも、ははは、五百年も後には、
知る人ぞ知るでござろうよ。
 とかく老いの甘えのなが咄(ばな)しを、したが、ようお聴き下された。身の涯てを心安くと、葛城(かつらぎ)の山深う
草の庵(いおり)にこう世を捨てたはずが、人のお顔を見れば、かくも執念(しゆうね)く歌談義ですのじゃ、恥ずかしや。
 ここ弘川寺(こうせんじ)におわすみ仏も、さぞ、心きたなしと見らるるであろうが、ご覧あれ、中ぞらに月は照り、
胸中を花は散る。されば身の涯てまでも歌三昧(うたざんまい)の、お笑い下され、所詮これ風来の俗聖(ぞくひじり)でござるよ。ハ
テ、御斎食(おとぎ)など参らそう。

119
 

     さだいへ

 物音を聴いたかと思った。庭面(にわも)を射る一瞬の月明におどろいたのであった。
 襟をあわせ、立って老定家(ていか)は障子をあけてみた。物みな冴えかえり、軒端からそのそこの楓の枝へ張
りかけた蜘蛛の巣が、おびただしい月光に洗われて、露をふくんで銀色のまま動かない。大きな影の小
倉出が夜気の奥でかすかに鳴っていた。定家は障子につかまって耐えるようにただ彳(たたず)み、山の音を聴い
た。だが庭まではおりなかった。
 諸根多殃(たおう)、藤原定家(さだいえ)は虚弱にすぎた体質で七十の坂を半ば越えてきた。もちまえの慎重いや臆病を杖
にしてと自身は思っているのだが、好きな月を草むらに濡れて眺めるより、さみだれやまぬここ数日の
夜寒から身を守るほうへ、いまも、用意がはたらいた。
 障子をしめ床へもどったが、定家はそのまま静座していた。いっとき、月はこの嵯峨の山荘のうえを
音もなく渡るらしく、畳に樹々の影が光る。影にむかって彼はなにかしら話しかけたい衝動に耐えてい
た。
 結論を出そう、もういちど定家は、そう思った。
 彼が日記を書きはじめた治承四年(二八○)二月、五条京極の父の邸で寒月清明とともに深夜庭上

120

の梅花にひとり酔うたことがある。「名月片雲(へんうん)無く、庭の梅盛んに開く。芬芳(ふんぼう)四散し家中入無し。一身
徘徊し夜深く寝所に帰る。燈髣髴(とうほうふつ)として猶寝(なおしん)に付くの心なく、更に南方に出でて梅花を見る」などと日
記に書いた。十九歳、大納言中将を極官とする一羽林家(うりんけ)の子息として、ようやく従五位上に叙せられた
ばかりであった。
 いま彼は七十四歳。三年前には秋に勅授帯剣、ひとり勅を蒙(こうむ)って、やがて新たな勅撰和歌集のための
序文ならびに目録を、後堀河天皇に奏覧した。天皇譲位の事が定まった貞永(じようえい)元年(一二三二)十月二日
当日のことであった。おなじ年の暮には、正二位のままで権(ごん)中納言の職を拝辞した。
 根(こん)をつめて、以来撰歌にあけくれ、左目が腫れあがってながいあいだ苦しんだ。今人(きんじん)の歌のはるかに
古歌に及びがたいのを夜すがら歎いて、撰び出した歌屑をまえに無念に眠られぬ夜々(よよ)もあった。勅撰に
入集を所望の人の日々に頻(しき)って、うるさい訪れにもほとほと難渋した。
 だが子息為家は、よく身をはたらかせ援けてくれた。
 為家舅(しゆうと)の宇都宮入道(蓮生(れんしよう)、藤原頼綱)が、うやうやしく撰歌のさまを見舞いに来たこともあった。
前中納言のことを「黄門様」と呼んでいつも気散(きさん)じな、だが性根の太い小男であった。執権(しつけん)泰時と詠み
かわした「隠れにし人のかたみは月をみよ心のほかにすめる影かは」という彼が一首なども撰(え)り出して
あったのを見せられ、秀でた眉のあたりを紅くしてかん高く咳(いわぶ)いていた。
 定家の襟を思わず正させたのは、あれは翌(あく)る天福元年(一二三三)八月十五日、金吾為家が報じた佐
渡の院(順徳上皇)からの、撰集(せんじゆう)にかかわる遥かなるご意向であった。
 隠岐(おき)の院(後鳥羽法皇)といい佐渡の院といい定家とは陰に葛藤久しい、いわば因縁浅からぬ流竄(るざん)の

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帝(みかど)であった。ではあったが、それにしてもかの新古今和歌集は申すに及ばず、なんと歌の道のためには
執心出精(しゆうしんしゆつせい)の帝がたであらせられたか。承久の乱れこのかた隠岐に佐渡にと鎌倉武士の手で流され給うた
先帝のご悲運は、すぎし幾重(いくえ)の確執(かくしゆう)を思うてもなお年々になつかしく歳々に痛ましくて、まして歌ゆえ
の数々の恩顧を思いおこせば、ひたすら、いまは、定家自身の深い鬱憤と化していた。
 身をかがめはるばる彼を師と敬いつつ、凶刃一閃、鎌倉社頭に若く果てた将軍実朝のこころ優しい歌
なども、おもわず低く□ずさまれた。
 定家が撰集の沙汰をはるかに配流(はいる)の島で聞きおよばれ、近侍の人を介し為家を通じて佐渡の院の仰せ
られたのは、こうであった。此度(こたび)の勅撰和歌集に朕(ちん)が歌をも収めようという意向がもしあるのならば、
斟酌(しんしやく)におよばず思うままを撰び、しかし前以て示し合してもらえればなお嬉しく思うと。
 鎌倉の思惑を思し召すのでしょうかと為家は父に尋ね、定家は首肯(うなづ)かなかった。道の名誉、物の道理
を深く弁えられたお言葉と、顔色を改めて彼は子息の伝言を謹んで聞いた──。
 あの頃からであった、そうだ、撰歌に寧(やす)き日ないさなかにも、しきりに胸の底を充たしてくる別趣の
感懐に定家は囚われ易かった。三十年も以前に死んだ父俊成(しゆんぜい)が思い出されてならなかったのである。佐
渡の院のお気持ちを知った、あれよりやや以前、七月末ごろから定家はまた思いたって父が勅撰の千載
和歌集を書き写しはじめ、八月初めには功を遂げていた。かって知らぬほど心惹かれながら、美しい料
紙にことに静かに心して筆をやった。彼はなつかしい父の声をそこから聴いた、聴こうと祈るように筆
を用いた。
 そして秋十月、彼は突如として出家し、法名を「明静(みようじよう)」と授けられた。摩詞止観(まかしかん)の一句にその名は

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学んでいた。
 定家(さだいえ)出家を隠岐の院の聞こし召され、ことにお驚きの由を、もう年の瀬に人がきて伝えてくれた。今
度の集に院のお歌を多くとるのは、武家がたへはばかり多く定家が迷惑致すであろうともご懸念の由で、
京へ還御(かんぎよ)の日を待ち望むことの、ますます空(むな)しげな鎌倉幕府の気色(けしき)であった。近臣家隆(いえたか)や家長らの奔走
により、それでも遠所の帝がたのご消息だけは遅れ遅れながら聞くことができた。古(いにしえ)のと昨今(いま)のと各
五十人の歌詠みを自在につがえて、都合百人百五十番の時代不同御歌合など、さすがにと定家も手を拍
った雄大に美しいご趣向であった。
 だが、百人の御撰(おんえら)みに、首肯きかねるものも混っていた。撰歌はそれ以上に、難とはいうまいいかに
も後鳥羽の院のお好みが露骨であった。歌かずも多きにすぎ、感傷過多に思えた、が、それとても院の
今在らせられる波風荒き隠岐の畠山を想えば、定家は頷けた。頷きながら、またすぐ頭(かぶり)をちいさく横に
ふった。新古今集の昔からあの院の歌のお好みは、そのようであられたのだ。なにより「事により折に
ふれ」た歌を多く情けありとされ、詩歌(しいか)の、心に美しい形を添える実(じつ)のあるたくみを、十分にはお心得が
なかった。定家は、すぎし昔しみじみと父俊成卿が西行御房(ごぼう)の「心なき身にもあはれ」の歌に託(か)ねて訓(おし)
えられた言葉を、思いだしていた──。
ぎ⊥せい
 そして明けて天福二年の五月、定家は勅撰申付けられてこのかた懇望の御製(ぎよせい)五首を密々に後堀川上皇
より賜わり、同時に既にあらまし成るところの新勅撰和歌集二十巻の草案を、「片時(へんし)に進入すべし、御
一見の後即ち返し下さるべきの由」仰せをお受けした。「未定狼籍といへども、倉卒(そうそつ)に注し」て六月三
日に内々に奉呈。ところが、後堀河上皇はそれからわずか二月(ふたつき)して二十三歳のお若い身空を病に沈まれ、

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にわかに薨(こう)ぜられた。定家は「かたがた存命渡世の許(けい)無き」を悲歎して一夜を明かしたが、うそのよう
に澄んで雲もない翌る朝を迎え、やにわに手もとの勅撰集草本(そうほん)二十巻をことごとく南庭に焼き捨ててし
まった。日記には、「すでに灰儘となす。勅を奉りて未だ巻軸を調へざる以前に、かくの如き事に遭ふ。
更に前蹤(ぜんしよう)無し。冥助(みようじよ)なく機縁なきの条、すでに以て露顕す。徒(いたづ)らに誹誘罵辱を蒙るべし。置きて詮無き
ものなり」と叩きつけるように書いた。書きながら老いの目に涙が滾(こぼ)れて仕方なかった。
 いまにして新勅撰集の御沙汰があるらしいと初めて承知した日にも、定家は、かつてなく危倶したの
である。隠岐や佐渡の院が鎌倉がたのとくに目の敵(かたき)にされておわすことは明かであり、しかも秀でた歌
の集を編む段にはだれより数多く、たとえば隠岐の御方のお歌をとらずに済むわけがなかった。それほ
ど名誉の歌詠みでかの院はあられた、だからとらねばならず、とればかならず鎌倉からもの申してくる
は必定(ひつじよう)であった。むろん迷いなく定家は隠岐の院のも佐渡の院のお歌も草本には数多く撰(え)り入れていた。
先帝薨去(こうきよ)のうえは無用の詮議にまきこまれたくもない、と定家はくすぶる反故(ほうご)の焔をにらみながら、落
胆にまじるかすかな安堵も思い知らずにはいなかったのである。
 十月下旬、だが定家(さだいえ)は主家にも当る前(さきの)関白道家の手から、先ごろ亡き上皇の仰せにより奉った草本を
返却され、重ねて撰集を完結するようにとの思いがけぬ指示を受けた。あらためて定家は重い荷を負う
ことになり、彼は、前関白の意向の背後に新勅撰和歌集の内容をうかがう鎌倉幕府の視線を、すでに察
していた。
 定家はかまわず撰集の功をひとまず遂げて前関白に呈した。ほどなく十一月、彼は前関白の邸に呼ば
のりざねかんりん‡うしや
れ、道家、教実(のりざね)両殿下の目前で「鑒臨用捨(かんりんようしや)」の旨を言い渡されて百首が切棄てられるのに立会わねばな

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らなかった。そればかりか鎌倉がたの歌を更に加えよとも命ぜられた。
「宇治川集とでも名づけましょうか、いっそ」
「もののふの八十(やそ)宇治川」にひっかけた老定家自廟の呻き(うめ)は、ひややかに黙殺された。
 父の功績も加わって、子息為家はこの春早々と従二位に叙された。だがどこが火元か撰集をめぐるい
やな噂も世に流れはじめていた。もともと定家があたかも主と仰いできた九条家も西園寺家も鎌倉の政
権と親しく、定家らの御子左家(みこひだり)とてその恵みに多分に与(あづか)ってきた。嫡子為家の妻に、裕福で聞えた東国
武士の宇都宮頼綱女(むすめ)を迎え手許不如意を補ってきたことも世間には隠れなく、また定家の権威が、武家
将軍実朝らの歌の師範としても揺ぎなくされて来たのは事実であった。非運の帝のすぐれた御製を切棄
て未熟な鎌倉がたの歌をよろこんで拾い集めるのかと、冷評は日ましにまぢかくまで聞えて、面と向い
ざま抗議に訪れる者すら無いではなかった。
 こうなるとは知れていた。定家は息を吐(つ)いて事の過ぎ行くのをただ待った。能書で聞えた世尊奇行能
の清書をおえた今年三月十二日同じ日のうちに、冠絵(かむりえ)の筥(はこ)に納めた新勅撰和歌集は、為家の使で、草本
二十巻を添えてこともなく殿下道家にとどけた。外題(げだい)は道家自筆で書かれていて、彼は事のここに至っ
たのを定家のためにも喜び祝ってくれた。為家も父の久しい苦労を労(いたわ)ってたいへん喜んでくれた。が、
定家は寡黙にやりすごし、むしろ年余ひそかに思いを離れない、或るあらたな企てに、静かに心催され
つづける己れ──を、予感した。
 今──こそ、結論を出さねばならぬ。結論は、今出さねばならぬ。嵯峨山荘の夜の床に寂(せき)として静ま
り座した老定家は、ここ数日の思案にけわしく挑みがかる気概で、もう何度めかのおなじ言葉を、また

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胸に沸きたたせた。
 定家は昨日(きのう)というか、もう一昨日(おととい)というか、の夕方、あからさまを避けて輿(こし)に乗り、蓮生法師の中院
別荘を密々におとずれて、細雨(さいう)に中島の藤の花が盛りに咲くのを為家らと楽しんできた。定家が自分の
山荘へきて滞在しているのは、もう十日も前からのことであったが、為家も京での勤務を縫うてはまめ
に見舞いかだがた、時に妻子もともなって父に日記の種をもたらしてくれる。中院の舅の別荘に泊って
行くこともあり、日帰りに京へ戻って行くこともある。為家の妻の父蓮生(れんじょう)頼綱は、定家が嵯峨小倉の山
荘敷地に懇望(こんもう)して東北の一画を借受け、小さな丘と美しい池を控えた風流な屋敷を建てて間がなかった。
彼は、新築成った家の障子にぜひ色紙形(がた)の染筆をとも、かねて婿を通じて父黄門に願い出ていた。定家
は、だが、嵯峨入りして以来の雨つづきに恐れ、熱心な蓮生入道の招待に表向きまだ応じていない。雨
の小やみに藤の匂うのを見て帰ったあれからも、夜通しの、そそぐような吹き降りであった。だが聞く
にたがわぬ中院別荘の、ことに清々しい障子の色は定家の目に印象ふかく残っていた。
 ひどい雨降りは今日へ持越して、やっと日の入り頃から空はたかく夕焼けた。山荘近隣の勝景は、た
しかに誇るに足りる。だが雨がつづけぱ敷地の南の小川は水かさに響(とよ)み、西の垣根からも北からも山水(やまみず)
が流れこんで、いながらに筏(いかだ)の上の心地がするときもある。為家はあした来ると手紙だけを寄越した。
定家は、いま、外面(とのも)の月明りをまぷたに掩(おお)いとるように、床の上であぐらの目をとした。
 嵯峨へくる五日前、四月七日、定家は前月末からかかっていた仕事の仕あげに、中風(ちゅうぶう)のふるえる手で
二帖の草子を書きおえ、わざわざ、この山荘へ持参していた。
 二帖のといっても、本当は草子にまだ綴じてもいない。懐紙を積んで二つにただ束(たば)ね、それぞれ畳紙(たとう)

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にただ包んで持ってきた。一つの方は、もう自身で納得していた。もう一つのは思案が必ずしも定まら
ない。まだ白いままの紙も何枚もその方には添わっていた。同じ俊頼朝臣の「うかりける」と今一つの
歌とを二枚に書いたまま、一首に撰びかねているのも混じっていた。
 おもえば──三月中頃すぎた頃、定家はふと遠(お)ち近(こ)ちの桃のひらくのにめでて、手すさびに、大作家
持(やかもち)の「春の苑(その)くれなゐにほふ桃の花したてる道にいでたつ乙女」という一首を四行に書いてみた。そし
て亡き父が中納言家持の秀歌ならこれと、俊成三十六人歌合に撰びおかれた三首に、この桃の乙女の歌
の入っていないのも、すぐと思いあわせた。

  まきもくの檜原(ひはら)もいまだ曇らねば小松が原に泡雪ぞ降る
  かささぎのわたせる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける
  神奈備(かむなび)の三室(みむろ)の山の葛(くづ)かづら裏吹き返す秋は来にけり

 実は隠岐の院の時代不同歌合でも、これとおなじ三首が中納言家持の歌として撰ばれてあった。西行
贔屓(びいき)のかの院ほど、また、父俊成の卿の慧眼(けいがん)にまなばれた方もすくなかった。
 定家はあの時すぐに、三つのなかから、好きな「白きをみれば」の一首を、作者の名は入れずに、こ
ころもち丁寧に再度書きあげてみた。そして、これだという気が強くした。
 あの晩は、よく晴れた。夜更けて目がさめ、定家はなにが眠りを妨げたかと床にいて思ううち、昼間
に「かささぎ」の歌一首をああ書いてみたありのすさびが、何故かはしれず自分を興奮させたままなの

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を悟った。高貴の方と、人知れず想いかわして見果てぬ昔の夢と醒めた身内の寂しさに、外面(とのも)の月かげ
が、霜の冴えさながらに身に痛く照り添うた。定家はたまらず床を離れた。そして「暁月朝陽清明」に
至るまで、机に紙を引きひろげては思いうかぶ古今(ここん)の秀歌、というより自分がひとしお好きな歌の一つ
一つを四、五十も書きあげた。思いたちべつの紙には、やはり四、五十人の作者の名ばかりを書きあげ
てもみた。
「百」という数は、そんなすさびの、早くから頭に浮かんでいた。百人秀歌、いや百人一首か──。
だが定家はいきなり百首をとも、いきなり百人をとも急がなかった。どうしてもと思う歌と、人とを、
それぞれに百の半分でもと思いづつ書き出していった。
 隠岐の院はかの御歌合で、左方と右方とに五十人ずつを撰ばれた。定家は、ぜひとも番につがえよう
とは思わない。好きな百首を、しかし一人が一首を、と思った。撰集の功をつんで間がなく、心は萎え
て疲れていた。思うさま好きな歌を好きに好きに撰(え)り出でて、だれよりも自身で楽しんでみたかった。
むろん記念の志(おもい)もあり、後の世に定家が好きな歌はこれぞと真実言い遺したい気も兆していた。隠岐の
院の百人にも三百首にも、いまにして定家は異存のある己れと、はっきり、思い知った。
 桃に遅れて桜が咲き、大風にも落ちずに一条京極の定家の邸が花に匂うていた三月末、此の度(たび)の撰に
与(あずか)った慶びを申しに、めずらしく奈良から素俊(そしゆん)入道が訪れた。このところ定家も心を悩ませていた左大
臣教実(のりざね)が危篤の様態も話題になった、が、それはそれ。それがなにかの拍子に中院の障子に色紙形を求
められ、悪筆ゆえに困(こう)じているという話に変った。あげく掌(たなごころ)をさすふうに、いっそその百人一首を書
いてお遣(つか)わし遊ぽせと十念房素俊はそそのかした。金吾為家も来あわせ、初めて知る父の新たな秀歌撰

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に目を輝かせた。
 左大臣は桜散り梨花(りか)盛んにひらく三月二十七日、二十六歳の若さで落命し、やがて月輪殿(つきのわ)で御仏事が
あった。春景すでに尽き、鐘漏(しようろう)漸く閑(しず)か。定家はその間も百人一首の撰をやめなかった。
 百人百首をすべて八代集から抜(ひ)くと彼は心にきめていた。つとに『八代集秀逸』は編んであったし、
父子二代、撰集(せんじゆう)の御沙汰に与(あずか)った家の面目を、心中に立てて思う気もちも深い。なるほど西行の和歌は
貴い。だが己れは俊成の子、勅撰に与る御子左家の当主である──。
 そうはいえ新古今集とは縁のなかった鎌倉の亡き実朝をぜひ入れたい。そのため結局実朝と、一目を
おく家隆および定家自身の歌とにかぎって今度の新勅撰和歌集から、彼の好むままを採った。嵯峨へく
る前の日には、さらに入道前太政大臣(西園寺公経(きんつね))の「花誘ふ嵐の庭の雪ならで」という一首も加え
た。人数は百余人になってしまったが、だが定家はもっともっと大きな、隠岐の院および佐渡の院の御
製をどう入れるか、あるいは入れないかという懸案を、ずしりと胸に沈めていた。
 結論は出さずに彼は嵯峨へきて、すぐ、未定稿になっていた方の一包みを入念に取捨し、両院のこと
は保留のまま、ひとまず百一人百二首の草稿の奥に締括(しめくく)りの詞(ことば)を添えた。「上古以来歌仙ノ一首思ヒ出
スママニ書キ出ダス。名誉ノ人ノ秀逸ノ詠(えい)ミナ漏ラセドモ、用捨(ようしや)心ニアリ。自他ノ傍難有ルベカラズ」
と。そして定家は三度び四度びこれらを置きかえ加減して、たとえば天智天皇と持統天皇御製を、在原
行平と業平兄弟を、また父俊成と西行法師とをつがえて、もし一枚の障子に二人二百が色紙形として押
された場合の趣向をも按配した。
 だれのどの歌を一番の筆頭にと、この際定家は、いささかも迷わなかったのである。皇統の今日ある

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はひとえに天智天皇の御血筋に肇(はじ)まり、しかも武家の力の前に皇家も公家も昨今の衰微を嘆いている。
うつろな嘆きをただ嘆いてはならぬ。久しい歌の道を美しく豊かに正して世に伝えねばならぬ。だから、
と定家は執着した。父天智・皇女持統の御歌ではじめた百人一首のこころみは、綴じめに隠岐と佐渡両
上皇父子の御製(ぎよせい)をかならず据え参らせてこそ、花も実もある大きな主張として育つのだと。育てねばな
らぬと。

  人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は

 建暦(けんりやく)二年(一二一二)暮のこの御述懐歌には、すでに隠岐の院承久三年(一二二一)の決起をうなが
す憂悶がうずいていた。鎌倉がたが、かかる院の御製をけっして許容はすまいと定家も思う。思いなが
ら彼は肩そびやかして月明の床を離れ、乏しい灯(ともし)の助けで懐紙の一枚に、いま、渾身の筆を揮(ふる)った。

  百敷(ももしき)や古き軒端(のきば)のしのぶにもなほあまりある昔なりけり

 佐渡の院がこのような御歌を遊ばされた建保四年(一二一六)は、はや京と鎌倉の衝突も目睫(もくしよう)の間(かん)に
あった。古代の雅びを身いっぱいに負うて、しかも剛毅に父院の闘志に寄り添われ敢えて一歩を踏みだ
された、お若い帝。定家は「なほ余りある昔」の御製を書きもやらず、むせび泣いていた──。
 宇都宮入道が迷惑がるやも知れぬ。しかし意外に頭をさげてむしろ喜んで受入れる男かも、知れぬ。

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その時は一条院皇后宮の御歌と、国信、長方のをはぶいて百人百首と成せばよく、生憎(あいにく)はばかりを申し
立てれば先の三人の内だれか一人を割愛して、やはり百首に。俊頼朝臣の歌は「うかりける」が、結局
は佳い──か。
 月が替れぱすぐにも中院の招きに応じ、すすんで決着をはかる気に定家は、はや、腹をくくっていた。
そのうえで色紙形(がた)は色紙形として筆を用い、しかし整然と古来の百人、天智天皇より以来、隠岐と佐渡
の両院に及んで各一首を調えた「本」の形も、併(あわ)せ後の世まで、伝えておきたい。
 あす訪れきて金吾が聞けば、なんと言うであろう。亡き父の卿は、また西行御房はなんと見ておわそ
う──。
 老定家(ていか)は御製(ぎよせい)二首を手に、しきりに朝が待たれた。月の夜はまだ皎々と冴えていた。
──完──

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     作品の後に

「秋萩帖」という美しい名前──国宝の名前──に、まず心を惹かれた。この名前でなかったら、
この小説はわたしのなかに兆さなかっただろうと思う。名前が呼ぶ。わたしを呼ぶ。美しい人が
好きなように、美しい名前が好きである。だから、わたしは、あまり自分が好きではない。
 死んだ叔母がわたしに、和歌とは、俳句とはと、文字どおりその形だけを教えてくれた。興奮
というに近い興味を覚えた、遠いむかしの添い寝の晩を忘れない。戦争ははじまっていたが、京
の暮らしはまだ静かであった。戦災を避け疎開をという声も聞こえてはいなかった。俳句らしき
ものを国民学校二年生でつくり、そして四年生で短歌らしきものを呻き出でた時は、もう丹波の
山なかに祖父と母とで疎開していた。生け花を教えていた同居独身の叔母は、兄である父と京都
にのこっていた。叔母の、花道の家元は山科にあった。
 わたしの好みが短歌へとその後も深まって、ことに中学から高校へかけてちいさな峰を成した
のは、出だしこそ、叔母に「三十一(みそひと)文字」の手ほどきをされてであったが、何といっても中学で
「歌よみ」の給田みどり先生に出逢ったことが大きい。次いで高校で「ポトナム」の上島史郎先
生に歌稿をいつも見ていただいたのも、大きい。私の歌集『少年』は、ほとんどを高校時代の歌
で占めて編まれ、これまでに三度本になった。
 給田先生のお宅は北野紅梅町の紙屋川ぞいに、ひっそりと在った。そう書くだけで思い当たる

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方は多いだろう。先生の「影」は、わたしの作品のあちこちに落ちている。『慈子(あつこ)』にも『清経
入水』にも『四度の瀧』にも。むろん先生の実像を侵すようなことはしていないが、わたしの気
持ちはそれぞれに添うていた。その行き着いた果ての一つとなり、この巻におさめた『夕顔』が、
在る。追悼というほどの思いでした創作がこれが初めてかどうか、その辺はわが心によく確かめ
てみるしかないが、この作品は、小説では、いわゆる文芸雑誌に発表した実に久し振りのもので
あった。中央公論社の青田吉正氏に機会をあたえられ、よろこんで給田先生への「さようなら」
を書かせてもらった。八十何歳であられたか、そういうことも、わたしは、聞くということをよ
うせずじまいであった。
 もうむかし、『慈子』の豪華な限定本ができた時、その挿絵を、給田先生とも中学で同僚であ
られた橋田二朗先生にお願いした。その大きな挿絵の一枚に、まぎれもない給田先生のお住まい
を紙屋川ぞいに描かれたのがあって、わたしは、その絵を額装にして差し上げたいと思っていた。
思い思いながら、容易にお顔をみるひまも無かった。一昨年の秋半ばに一時退院されたので、冷
えて行く京の日々にと、心もちはんなりと大きめの、膝かけとも肩かけともつかぬ温かいものを
送ってさしあげ、嬉しそうなしっかりしたお手紙を貰ったのが最期になった。弘文堂から出した
『死なれて・死なせて』の稿を、ちょうど起こそうとしていた頃でもあった。
「泉鏡花はいいけど、田山花袋はやめとおき」と、なんだか満員のバスのなかで、お互い大揺れ
に揺られながらおっしゃった、あれも給田先生であったと、今、突如として思い出した。「鏡花」
とか「花袋」とかという雅号を覚えた、やはり中学のうちの事だったろう。だれにでもあるが、

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わたしも、その頃雅号らしきものにしたたか憧れていたのだろう。
 名前というのは、ほんと、不思議に心をあまく誘う。名実の相い伴う大切さを忘れたわけでは
ないが、しかも「名」の不思議は、「実」のうさんくささより、いつも、わたしには香り高い。
「大輔」といい「大顔」といい、また「円位」といい「明静」といい、もはや名そのものと化し
たような昔びとほど、心して呼べば、かならず来て親しく語りかけてくれる。
 虚仮(こけ)の現実を不動の事実のように思い倣(な)すことでただ油ぎっているような人の世を、わたしは、
好かない。右顧左眄(うこさべん)の追随型の常識を良識としているような人の世も、好かない。あまりに狭苦
しい。生意気など、たとえどこかしことなく嫌われているにしても、もう生意気という年齢はと
うに過ぎて、慾なくトクも無い。ずるずるとよりは、きりっと、生きじまいたい。教授本職、本
業は文士、こけも一心、湖の本。どこまで、やれるか。
 最近、谷崎潤一郎・佐藤春夫の「小田原事件」「妻譲渡事件」にからんだ話題がマスコミを賑
わせ、名作ひしめく「昭和初年の谷崎」理解に一役を買った。この際『神と玩具との間』八百校
を、次回から3分冊で断然復刊したい。水上地氏により、「秦さんは『谷崎愛』と自らいわれる
ほどの敬愛の誠心をこめて、ぼくらがこれまでももやもやと感じとってきた谷崎の三人の妻との
交渉を、未発表書簡その他の資料を得て丹念にさぐり、当時の代表作とのかかわりを作品行間に
追跡して、谷崎の女性遍歴の実像を彫りあてている。ここを通らなくては一語も語れない場所に
立ってその眼識は深く確かである。前人未踏のもう一つの照射がここにある。出色の労苦に敬服
するばかりだ」と推された書き下ろし。このエッセイ、小説より奇に面白いことを保証します。

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