電子版 秦恒平・湖(うみ)の本 創作25
 
 
 
 
 

秦恒平 湖(うみ)の本 25 秋萩帖 上
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秦恒平 湖(うみ)の本 25

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目次

秋萩帖…………………………………………3
一の帖…………………………………………5
二の帖…………………………………………22
三の帖…………………………………………42
四の帖…………………………………………59
五の帖…………………………………………79
六の帖…………………………………………99
七の帖…………………………………………下巻
八の帖…………………………………………下巻
九の帖…………………………………………下巻
虚像と実像……………………………………119
夕 顔…………………………………………下巻
月の定家………………………………………下巻

 作品の後に ………………………………137
 湖(うみ)の本・既刊と予告 …………142

〈表紙〉
装画 城 景都
印刻 井口哲郎
装幀 堤いく子

(いく:或 のたすきが三本)

2

秋萩帖 上

3

「墨」昭和六十一年七・八月号?六十二年十一・十二月号連載

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     一 の 帖
 

 西の空が荒れていた。
 敦賀(つるが)を南へ、やがて列車は琵琶湖に添うのであろう、かさ高い黒雲をふちどって金色の夕あかりも、
目路(めじ)の遠くにある。窓ガラスを額でこづくぐらいに外の景色に瞳(め)をこらすうち、わけもなく胸が騒いだ。
幸田(こうだ)は、藍を刷いたような夕闇に目をつむった。
 金沢──駅では、ときならぬまるで土砂降りだった。白山(しらやま)のけぶる山なみを遠白く視野の背後に振り
きる頃にはやんでいたが、冷たい灰をまいたように肌寒さは加わった。それでも霜月仲の七日は日曜で
まためでたい日でもあるかして、福井でも武生(たけふ)でも婚礼の宴のさんざめきをそのまま身にまとってきた
ような主役や脇役たちが、それぞれの顔つきと声音で、しかも一様にすこし疲れた身振りで乗ってきた。
湖北の長浜では満員だった。車内は棚に荷物があふれ、乗換えの米原(まいばら)駅が近いとアナウンスを聞いた時
分には座席で汗ばんでいた。
 米原上(のぼ)り新幹線ホームにも列が出来ていた。隣のグリーン車に、同じ金沢で同じ仕事をしてきた年配

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の女作家が、若い連れと一緒だった。土産の紙袋まで主催者のマーク入りで同じなのがすこし照れくさ
く、それでというのではないが金沢からは座席も離れていなかったのに、両方で目礼ほどのことで済ま
せてきた。幸田はまた腕時計を見、身動(じろ)いだ。
 金沢の食べ物はうまい。物も豊かだ。
 その恵まれた風土と風情をいかして、商工会議所や土地の新聞社が派手にフェスティバルを企画した。
三十人の講師を招いて市内に三十ヶ所の名のある料亭・旗亭を会場に数十人ずつの参加者を募る。そし
て一斉に美食と清談の一夕(いつせき)をこもごも楽しみながら、金沢の「食」の文化を見直そう、他県へもひろく
宣伝してもらおう…と、ま、そんな集いを主なイヴェントに、初日には佐度の大太鼓という鳴り物いり
の公開講演会があり、二日めの朝にはパネル・ディスカッションもあった。幸田は、だが、両方とも途
中で出た。二度とも本多町の市立中村記念美術館で、所蔵の手鑑(てかがみ)、和歌や詩や経文などのいわば古筆(こひつ)の
アルバムに押してある綾地歌切(あやじうたぎれ)の一枚に見入ってきた。
 およそ十世紀前半から末へと限った、つまり小野小町にはおくれ清少納言や紫式部の頃をもはや限度
にした平安朝の一時期に、当時舶来の絹地・綾地に書を書いて冊子(そうし)や巻物に造る風があった。贈答の用、
調度手本といわれたものに相当したのであろう、よほど豪奢なないし華奢(きやしや)な好みというべく、遺品はお
おかた白楽天をはじめ唐詩を行草(ぎようそう)で揮毫(きごう)してあるが、まれに和歌のものもある。絹や綾地にじかに書い
たのもあれば、蝶や花の絵でまぶしく装飾されたうえへ書いたものもある。が、褪色(たいしよく)も傷(いた)みもはげしい。
完好の品など皆無、みないわば寸断された「切(きれ)」の形で絹地切・綾地切と呼ばれ、たった三十余点が幸
い現代(いま)に伝わっている。金沢での仕事へ渡りに舟と幸田が出向いたのは、そのうちの一葉(いちよう)、珍しい和歌

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一首を草仮名(そうがな)で書いた綾地切の一葉に心を惹かれてであった。
 手鑑(てかがみ)には「伝(藤原)佐理(さり)」の筆(ひつ)としてあるが、この綾地歌切、同じ三蹟でもひときわ名高い小野道
風(おののとうふう)の真筆である可能性の方が、かなり高い。それも名だたる国宝の現在『秋萩帖』に、あたかもと
って代わる真実『秋萩帖』原本の、本来(もと)の姿が奇跡的に一部遺された断簡(もの)であるやも、知れない。
 ──裾を巻いて風が走った。ホームを青い闇夜が流れている。置いた荷物を爪さきて軽く蹴りながら、
幸田は敦子との今度…を、思っていた。今度はいつ上京して来るのか、このまえ逢ったとき敦子は、幸
田が今待っている同じ列車でここ滋賀県の米原(まいばら)駅から乗り合わすのもいいわと、半分ほど本気だった。
ごめんだねと、あの時、煮ものに箸を出しながら幸田も半分ほど本気で断ると、敦子は、ふッと空(あ)いた
片手をのばして、五十男の鼻の頭をつまんだ。
「たちちねの抓(つま)までありや」と幸田に顔を見られ、敦子はかえす掌(て)で「雛の鼻」を隠しながら、クック
ッとわらう。
「綾地切、よう見てきて…くださいね」
 京で名代(なだい)の筆屋を仕切る「副社長」の顔にもどって、敦子は、あの晩も池袋駅前で幸田をタクシーか
らおろした。
 十七時五十六分──、米原発上(のぼ)りの「ひかり」はグリーン車にもほとんど空席がなかった。だが、う
しろから通路側なかほど、ひとりぶん隣の席があいている、自分のぶんがあいている…のは、乗りこむ
前から見つけていた。隣は…。濃い髪をやや上げ気味に、二の腕を腕木に預けた、はんなり紅い、ペイ
ズリィ……。

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 会釈してかさ高な荷物を白いスーツケースの横へあげると、窓側に腰をおろした。汗のにおいが自分
ですこし気になった。が、発車のあとも、しばらく幸田は、右に山がせまった宵闇の外を見ていた。闇
にほの浮かんで、新書判の本をまた読みつづける隣客の顔が、うつむき加減に、年わかい。
 やがて幸田も、重いのを覚悟で持参の、本を出してひろげた。あさってには或る新聞社の主催、有楽
町のホールで源氏物語の公開対談だが、せめて、ひとふしある話題を二つ三つ持って出かけたかった。
対談の女性の相手からは、きっと「和歌」の話が出るだろう。それならば、同じ和歌でも物語の「引き
歌」の方を読む面白さを話そう…か。源氏物語には、古歌の一部が、かすめとるようにして地の文や会
話や手紙のなかにたくさん填(うず)めてある。それが巧みに連想や情緒を誘い出す。詳しく付いた本の頭注(とうちゆう)か
ら幸田はこれぞと思うのにくるくる鉛筆で丸印をしながら、次第にその作業に惹き込まれた。
えににおう
 たとえば、薫大将に愛され宇治の里に隠し据えられた美しい浮舟は、避けがたい縁の糸に結ばれて匂
兵部卿(ひようぶきよう)の宮(みや)の手荒い熱い愛にも身をこがし、なか空に漂うようにこの宮さんに歌をのこして姿を消して
しまう。

  かきくらし晴れせぬ峰のあま雲に
    浮きて世をふる身ともなさばや
   まじりなば

 ひそかに伝えられたこの浮舟のいわば遺言を、匂宮は「よよ」と泣いてただ眺めた。大将さんと宮さ

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んと、どっちにとも定めきれず憂き世をすごしてまいりました私の身の上を、かきくらし晴れまないあ
の峰の雨雲に、変えてしまいとうございます…。歌一首はそう愬(うつた)えているのだが、これに、「まじりな
ば」と意味ありげの五音がひとしお情を添える。

  白雲の晴れぬ雲居にまじりなば(五字傍点)
    いづれかそれと君は尋ねむ

 浮舟は、自身の嘆きにこんな古歌の一句を引いて、重ねたのだった。死者は焼かれて空の煙となる。
雲になる。そうなってしまえば、あれほど愛してくださった宮さんとて、どうしてこのわたくしをお捜
しになれましょう…と。
 和歌を約八百首もふくんだ源氏物語は、加えて、こういう引き歌を六百七十余も地の文や会話のなか
にちりばめていて、それがかえって難(あだ)になり今では読者を遠ざけていると、そうも言えようが、だが、
ここをもう一つ踏みこめば物語世界に魅力のしみじみ深まる──のも幸田の思いでは間違いがない。
 源氏物語で一の女人は、とは、かならずしも容易な問いでない。光(ひかる)が最愛の紫上(むらさきのうえ)をあげるか、それ
には。
とも先帝の中宮(ちゆうぐう)、光には秘密(わけ)ありの義母なる藤壺の宮、若紫には叔母にあたる女人、をあげるかその
「三条の宮」の藤壺が、「薄雲」の巻で静かに死んでしまった次の春、傷心の光源氏は咲きほこる桜を
ながめて、ひとりごとに「今年ばかりは…」と、うちひそむ。

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  深草の野辺の桜し心あらば  
    今年ばかり(五字傍点)は墨染(すみぞめ)に咲け

 深草野は古来葬送の地、関白藤原基経を野辺の送りにいたんだ古今集哀傷のこの名歌がおもわず光
君(ひかるのきみ)の胸をぬらしたのであり、当時の読者も、いかにも…と、この引き歌の妙には涙誘われたに相違ない。
 幸田は、つと本をとじ、目もとじた。
 ──藤壺の女院は里邸の「三条の宮」で亡くなっていた。物語に特筆されているように藤壼は藤原氏
の女ではなく、皇女つまり内親王から入内(じゆだい)して桐壺帝の中宮になっていた。が、これが現実には平安朝、
四百年を通じて稀なことで、紫式部のころそれに当てはまる実在の后(きさき)は、まちがいなく「三条の宮」と
呼ぶよりない邸に住んでいた、冷泉(れいぜい)天皇の皇后昌子内親王がたった一人あっただけで、ほかには無い。
源氏物語の藤壺中宮がただちに昌子内親王をモデルにしたとは言われぬまでも、作者も意識し読者も意
識するしかなかった現実の「三条の宮」とは、朱雀天皇の愛しい一粒種であったこの后をおいてなかっ
た。それのみでない。「今年ばかりは」の引き歌に即(つ)いていえば昌子内親王は、父帝(みかど)の側からも母熙子(ひかるこ)
女王(によおう)の側からも、本歌(もとうた)で死をいたまれている関白太政大臣藤原基経の曾孫に当っている。引き歌が、ち
ゃんとものを言うているのである。
 さらに、それのみでない。藤壼の「三条の宮」に擬されたと思われる太后昌子内親王が住まいの「三
条の宮」とは、「名にしおはば逢坂山のさねかづら」の歌で知られた「三条右大臣」定方(さだかた)が領じていた
宏壮な大西殿のその一画にほかならぬとは、幸田が懇意に願っている京都のT先生の調査で知られてい

(熙:元字は 臣 で 左に ノ がつく)

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た。定方は、源氏物語作者からはまちがいない曾祖父の一人に当っている。そして重ねて電話でT先生
に教わってみれば、昌子内親王の山陵は寺門(ぢもん)派岩倉の大雲寺に営まれていたが、このお寺が、同じ紫式
部母方の曾祖父の一人に当る、中納言藤原文範(ふみのり)の手で建立(こんりゆう)されていた。
「大雲寺テ……先生。ホナあれやないですか…最近、国宝の釣鐘が盗まれたとか、だれぞどこかに匿し
てたとか、新聞で大騒ぎをしてたアノお寺…」
「そうです」
 あのときは、電話で絶句した──。
 ──持った本もとじ目もとじたまま、幸田はねむくなった。列車がかすかに横揺れする。調べ仕事も
切りあげ、本もしまった。
 隣の人も読書をやめていた。
 豊橋駅は過ぎたか、浜松はまだか…。幸田は眼鏡を膝におろし、両掌で顔を二度三度ごしごし上下し
た。
 ──紫式部の頃とはとても言うまい、もう数十年は早く基経のあと昌子皇后まで…の間に、そう…そ
の間に…、「秋萩帖」原本(二字傍点)は出来ていた。誰かしらが企画し、誰かしらが歌をえらんで、貴重な綾地を
料に「能書ノ絶妙、羲之(ぎし)ノ再生」と名高い小野道風に書かせた。いま国宝に指定されている『秋萩帖』
は実は後代の写本というにとどまる…であろう、と、これも幸田が大の敬愛のK博士、国立東京博物館
の美術課長、に教えられてあまり間もないのだった。

11

 ────

「コーヒーを……」と、隣の人の声がした。低声(こごえ)だった。幸田はとっさにそれを快く感じた。
「お一つですか…」
「…」
「あ、ぼくもね」
 そして売り子が行ってしまう…と、幸田の方から□がほぐれた。存外に気さくな隣客で、横並びに顔
を見合うこともその必要もなく、しかも京都の実家(さと)から東京の暮しへ何日めかに帰って行く人とあれば、
話の継ぎようは、ある。自分も京生まれの京育ち、もっとも東京へ出て二十六年も過ぎちゃいましたよ
と笑い、相手は三十、五とは行っていまいと幸田はちらりと横から見たりした。あどけないほど笑窪が
浮かんで失せた。
「京都は…市内ですか」
「はい」
 こういう時のあまり訊ね上手で幸田はなかった。どっちかというと無防備に聞かれて答えてしまう方
だが、それで、ものの順序から「金沢」の話になり、何用で…となると、主催者には申しわけないが、
豪勢にご馳走になってきましたとばかりは話しづらかった。
「佳い美術館がありまして。…ご存知でしょうか、中村という大きな造り酒屋の主人が、一代であつめ
た古美術を、住んでた家(うち)もろとも、金沢市にそっくり寄附したんですね」

12

「………」
「そこに、観たいものがありまして」
「九谷とか…」
「やきものじゃなく…。書いたもの、…書です」
「書……」
「…書を、…なさるんですね」
 その人ははじめて顕著にからだを動かし、幸田の推測をこばんだ。匂うようにわかい手応えを幸田は
覚え、あれ…という気持ちだった。
「わたくし…存じあげています。…」
 ヘッと、のけぞった。
「昨夜(ゆうべ)ですもの。…テレビに出ていらっしゃいましたでしよ」
「…見たんですか」
「あれは、京都で…の録画でございましょう。子どもさんが、ぎょうさん出てはって、若もの言葉の特
集で」
「参ったな…。よく分りましたね」
「お洋服も…いっしよでしたし…」
 頭を掻くしかなかった。
「ご本を…さっきまで、調べてなさいましたから…。ごめんなさい覗いたりして。…でも、…。源氏物

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語の出だしのところを、テレビで、京ことばに訳してお読みになりましたでしょう。…家中で、びっく
りしてしまいましたの。よう分る、おもしろい言うて」
 大阪の若い落語家(はなしか)を司会者に起用したヤング番組は、五十男の幸田には全然似合わない仕事だった。
ただ場所が京都で、京ことばや古典にも触れてという企画からヒョンな成行きになった。
 幸田自身は金沢で昨夜(ゆうべ)、二次会にまわった東の廓(くるわ)のなんとかいうお茶屋で、居間へ降りて放映のテレ
ビを見てきた。「どなたさんのご時世やったンやろか。女御さんヤ更衣さんガ、たんとお仕へしとゐや
したいふなかで。えろ、まぶしいほどナお家(うち)の出工やないのンに、人いちばいナご寵愛受けとゐやすお
人が、おしたんや」などと本邦初演の「京ことば源氏」は、ともかく読めてはいたが、うつむきかげん
の大写しはわが目にも太りかえって、ふくらんだ頬ツぺたが眼鏡の裾から濫れていた。
「まアま…書のはなしにしましよう…。よくご覧に…。それともお書きになる…」
「いいえ書くなんて…。父のそばで、わりに子供のころから、古い軸物など見ておりましたものですか
ら…」
「書展などへ…それじゃ、よく…」
「いえそれは、。いまどきの書をどうこう申す気はありませんし、古いのが読めるとか分るとかじゃご
ざいませんけれど。好き…で、博物館なんかへ参りますの。ぽつんと…一人で。書という…、なンて申
しますの、営み、と、書いてある中身とが、やっぱり昔のものですと、佳(よ)う、つろくしていますでしょ
う」
「なるほど…」と、懐しい京ことばを聞いた。「つろく」とは釣合う…くらいの意味か。

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「あらいや…。相槌なんかお打ちになって…。で、先生は、中村美術館へは何を…」
「先生、じゃありませんが…、伝佐理(さり)の綾地切を」
それには応えがなかった。
 話が通じていないのだろう、しかしその先へもっと話題を及ぼすのが、いくらか幸田は億劫(おつくう)だった。
そのまま、間(ま)をおいた。ところが、間を埋めるように、また話が出た。
「佐理(さり)って人が、同じ頃に二人いたんですのね」
「そうでしたッけ…。小野宮(おののみや)の実頼(さねより)、あの摂政太政大臣の、孫でしたよね三蹟の佐理は。敦敏の子で…。
敦敏は早くに死んでいますね、
たしか…」
「それが、も一人佐理(さり)がいたみ
たいですわ、…あひみての、の
ちの心にくらぶればッて。あの
権中納言敦忠の子ども、にも…
佐理、やはりスケマサと呼ばれ
た人がいたんですの」
「へえ…。と、…そっちは左大
臣時平(ときひら)の孫ナわけ…」
「はい、そうなります。ほら…

天皇家・藤原家略系図

     ┌─時平────敦忠──佐理 
     │
藤原基経─┼─忠平──┬─実頼──敦敏──佐理
     │     │
     │     └─師輔──安子
     │           ?  ┌─円融天皇    
     |           ?―─┤
     │           ?  └─冷泉天皇
     │     ┌───村上天皇    ?
     │     │     ?     ?
     │     │     ?    昌子内親王
     |     |     ?
     └─穏子  |     ?―― 一の皇子
       ?   │     ?
       ?―──┤     祐姫
       ?   │
宇多天皇──醍醐天皇 ├───朱雀天皇───昌子内親王 
           │
           └───保明親王(先坊)
 

15

狂帝冷泉(れいぜい)、と謂いますわね…」
「冷泉天皇…。右大臣師輔(もろすけ)の娘の生んだ人でしたね。その師輔の娘に後宮(こうきゆう)の争いで敗けた、大納言でし
たか…藤原元方や、元方の娘の祐姫が、恨み死にに死んで崇って、気を狂わせたといわれている天皇さ
ん」
「祐姫が生んだ村上天皇の第一皇子も、死んでいますわ」
「そして、死んだ連中がこぞって第二皇子の冷泉天皇に崇った…と。ま、狂ったッたってそうひどいも
ンじゃなかったけど。父親の村上天皇へ手紙の返事に…あ、こりゃ……。そぅそ…一日中蹴鞠(けまり)の鞠を蹴
っては梁(はり)の上にのせようと、目つきが変るほどやめなかったり…」
 父天皇へ手紙の返事に男根(いちもつ)の絵を描いたりと、うっかり言いかけた。ペイズリィーの人は、構わず、
さりげなく、
「とか…。大声で歌を歌われて…その声が、侍たちの詰所にまで聞えたとか…。そういう天皇さんのご
様子を毎日見知っていたさッきの敦忠の子の佐理(すけまさ)が、突然に出家して人を驚かしたとか……たしか、そ
んなようなことが…」
「こりゃ敵(かな)わない、詳しいナ。…佐理(さり)の書が、お好きなんですか」
「男のかたは、佐理が…お好きなんでしょう」
「疾風枯れ葉を巻くような…『離洛帖』とか」
「すばらしいですわ…。でも、女の目にはやっぱり道風(みちかぜ)が馴染みいいんですの」
「みちかぜ…ですか。今めかしうをかしげに、目も輝くまで…にですね」

16

 その人はそう幸田が紫式部の□真似をしたのを、笑窪もろともはんなり頷いて、濃い草色したスエー
ドのハンドバッグから、ちいさなハンカチをとり出して掌(て)に包んでいた。
「失礼ですが…あなたは、どういう方ですか。ただの奥さんなんですか…」
「ただの奥さんですわ。…」
「いや失礼しました。そう…京都だったら…」
「京都だったら…どうかしまして…」
「京都だったら…、お寺さんなんかに、あなたのようによく物を知っている奥さんが…いるんじゃない
かなあ…と」
「ま…。ありがとうございます。よくお分り…さすがに…。お寺さんですのよ」
「道理で。…で、そりゃ昔のこと…。それとも、現在(いま)ですか」
「いま…」
「ほ…。ご住職ですかご主人は」と、幸田はそれにしては若い人をぬすみ見た。
「いえ、それは義父(ちち)が…」
 幸田は、また話題から退却しようと思った。だが、またしても囁かれた。
「中村(美術館)の綾地切は、夏…の歌やなかったかしら」
「よく…ご存じ…その通りです。草仮名(そうがな)で四行…。上の方がだいぶ傷(いた)んでいましたが」
「夏衣…たちきる(四字傍点)ものを逢坂の…関の清水の寒くもあるかな。紀の、貫之でしたわね」
「そう。夏は夏でも…断つ恋(三字傍点)の歌とも、むしろ読めましたが」

17

難都許呂毛堂地幾留
囗囗遠安布散可能勢

(写真省略)

18

囗能之美都乃佐無
久囗安留閑奈

 博物館のK博士らはこうあちこち蟲喰いの綾地切の文字を読んで、「古今和歌六帖」歳時部の夏のと
ころにみえる、紀貫之が「衣がへ」の歌に相当する、とされていた。ところで幸田も調べたところ、同
じ古今六帖で貫之はもう一首、「春だにもありし心を夏衣いかに薄さのけふ増るらむ」という更衣(ころもがえ)の歌
を詠(よ)んでいた。このもう一首の、恋人の薄さまさる心を、恨み…かつなげく心持ちも加味しつつ金沢の
綾地切の歌を読めば、「逢ふ」坂の関に行きなやみ、本意なく恋を「たちきる」心寒さを慨嘆したもの
か…とは、察しが付けやすい。
「そう仰言(おつし)やれば、あの中村のとちょうど連れのがございましたわね、やっぱり綾地の歌切で」
「連れ…」
「綾の裂(きれ)地も同じ、色の褪(さ)めた感じや傷みぐあいも、そっくり同じ…で」
「筆跡も同じの…。それが、ほんとに有るんだそうですね。飯島春敬さんが、早くに見つけてらしたと
か…わたしは小さな写真でしか見てませんけれど。あれも夏の歌だ。…あなたは、ごらんになったンで
すか」
「いいえ」と即座に返事があった。

奈川幾奴登飛東之囗

19

都計奴和可也登耳
也末保登々幾数者也囗
那囗奈牟

 K博士らの研究グルーブはこれを、延喜十三年(九一三)三月三日に催された歴史上に名高い亭子(ていじ)院
(宇多法皇)の歌合にみえる一首に宛てて、

  夏来ぬと人しも告げぬわが宿に
    山ほととぎすはやも鳴くな(ママ)り

と読み、作者名は不明ながら、筆跡はまぎれない金沢の中村記念美術館の綾地切と、同筆、と断定して
いた。
「…実物はわたくしも…カラー写真で、見せてもらったんですの」
「ほう…。ご主人は、そっちの方面で…」
 幸田がK博士の名前を□にすると、その人は、…存じあげています、と、かすかに髪が前へ揺れた。
いい匂いがした。
「詳しいワケだ。じゃ、このところの『秋萩帖』問題もちゃん…と…」
「ちゃんとでは、ございませんわ…」

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 幸田がまだ言おうとする、それをとくに拒むふうでもなくて、その人はすこし声を浮かせて言った。
「秋萩帖のことを、お作品になさいますの…でしょう。小説に…」

 ──

 揺り起こされるように幸田は目が覚めた。うすら寒く、車中、隣は空席に。新横浜駅でもこの「ひか
り」は客をおろしたとみえ、いま気の抜けた車体の揺れと一緒に、発車ベルが鳴りやんだらしい。
 泡を喰ったように幸田は額を窓にこすりつけた。ペイズリィーの人はホームのどこにも見当らず、胸
に手を置いた指さきへ、遠い稲妻のようにしびれ(三字傍点)が来ていた。

21
 

     二 の 帖
 

 その方面ではよそびとの幸田が「『秋萩帖』原本の出現」を知ったのは、ごく遅まきのことであった。
東京国立博物館の研究雑誌「紀要」20号にK博士の長い論文が載っていたのが、前年も三月のこと。
もっともそれより以前、博士の若い同僚が著(あらわ)していた『秋萩帖論考』という本も幸田はたまたま見知っ
ていて、要するに『秋萩帖』の筆者は、伝来どおり、いわゆる第一紙は「野跡(やせき)」即ち小野道風(おののとうふう)の手にな
る原本の断簡(端切れ)で、第二紙以下は「権跡(ごんせき)」即ち権大納言藤原行成の手跡(て)にちかい臨書(手本どお
りの写本)であると、してあった。幸田は首をひねり、くわしく読む気が起きなかった。
 とにかくもあの『秋萩帖』、ことに道風の筆かとされている第一紙が、なにかしら、幸田には物足り
ない。筆に勢いがないというか、勢いに抑揚が乏しいというか。草仮名(そうがな)という、「かな」とはいえ漢字
の表情の色濃い書風にも、門外漢は馴染みにくかった。

安幾破起乃之多者以囗   秋萩の下葉い(ろ)

22

都久以末余理処悲     づく今よりぞひ
東理安留悲東乃      とりある人の
以禰可転仁数流      寝(いね)がてにする

奈幾和多留閑里能囗    鳴きわたる雁の(な)
美当世於知都羅      みだや落ちつら
武毛熊毛布也登乃     むもの思(も)ふ宿の
者幾能有部能都由     萩のうへの露

 歌は、古今集の秋の歌の上巻にほぼこの通り、「題知らず」「読人知らず」として並んでいる。それ
ばよい。しかし筆が道風かなぁ…痩せているなと思い、それが幸田の初手(しよて)からの本音だった。だが道風
「原本」は十二分に首肯(しゆこう)でき、行成(こうぜい)「臨書」ももっとも妥当な見方だと、K博士の同僚は結論していた。
 皮肉にも、だがその人のその「論考」は、その結論故に道風による『秋萩帖』原本(二字傍点)などありえそうに
ない事も証明していた。論者はある歴史学者の説を容れて、『秋萩帖』原本(二字傍点)の成立を古今集の成る以前、
しかも菅原道真による新撰万葉集よりも以後、つまり寛平六年(八九四)から延喜五年(九〇五)まで
の内とも認めていたのである。では、小野道風の誕生が寛平六年である事実はどうなるのか。最大譲っ
ても道風は初めて醍醐天皇に仕えた数え歳十二でこの『秋萩帖』を書いたことになるが、「十二分に首
肯できる」だろうか。

23

 ひょっとして、幸田はそんな不満をいつかK博士に告げていたかも知れない。とにかくK博士の今度
の研究発表は、幸田の不審によく応えていた。
 このK博士は、出版社のパーティーなどで顔があうと、きまって、「こんど一席用意しますよ、ぜひ、
ご一緒に飲みましょうや」と言い言い、豪快に握手を求める人であった。みごとな筆の手紙にも、「な
かなか多忙ですが、それでも一夕の酒ぐらいは飲めます。まだこ連絡しましよう」などときまって書き
添えてある。もう七年も八年も、幸田は□約束の酒ばかりを振舞われて来た。だが博士は、酒などより
もっと幸田には有難い贈りものを、きっとそういう出会いや手紙のあと、届けてくれる人であった。新
刊の著書や、論文の抜刷だ。それの方が有難く、その本や論文のきまって面白いのが幸田には楽しみだ
った。ことに今度の「紀要」の抜刷は、どんな思い入れで送って貰ったか知らないが、格別だった。幸
田は六十頁に及ぶ論文を一気に読んだ。

『秋萩帖』一巻は、東京国立博物館が保管する以前には有栖川宮家(ありすがわのみやけ)から高松宮家へ伝えられ、かな、そ
れも草仮名という稀有(けう)の「野跡(やせき)」として珍重されていた。有栖川は江戸時代の中葉に霊元天皇のあとに
立った宮家であり、この「野跡」はべつの「権跡(ごんせき)」一巻と一つ箱に納まって霊元天皇の握翫(あくがん)であった事
実は動かない。甲盛りに優美につくられた箱の蓋表には宸筆(しんぴつ)で、相違ない内容が「和歌四十八百」「一
巻廿枚」など具体的に極(きわ)めてあり、しかし霊元天皇にいたる所伝は判然としない。久しい皇家の所蔵と
想いおくしかない。
 この想像には、幸い一つ拠りどころがあった。『秋萩帖』は秋萩の歌にはじまる秋二首を書いたいわ

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ゆる「第一紙」に、冬および雑(ぞう)の歌が四
十六首、ならびに王羲之(おうぎし)の消息を手習い
に書き写した長い「第二紙以下」を継い
で成っているのだが、第二紙以下の部分
も、第一紙とは異質の料紙二十校足らず
を次々に同じく継ぎ足して巻物にしてあ
る。この第二紙以下の紙継ぎの部分、た
だし、和歌からみて紙背、紙の裏側に、
漏れなく堂々と花押(かおう)の捺(お)してあるのが、
鎌倉時代も末、持明院統(じみよういんとう)の伏見天皇ご自
身のそれであること、これが、確認され
ていた。『秋萩帖』は、というよりこの
「野跡(やせき)」は、伏見天皇が格別愛着された
遺品とみていい──。そう、幸田は、ま
ずK博士の論文に教えられた。
 もっとも、伏見天皇が第一・二紙をと
もに道風筆つまり「野跡」と鑑定されて
いた証拠は、ない。なにより第一紙と第

(写真省略)

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二紙の紙背(しはい)継ぎ目にだけ(二字傍点)、花押が無い。第一紙は伏見天皇より以後、霊元天皇の頃までにだれかの手で
第二紙の前へあとから継ぎ足され、その上で表紙、見返しをつけ、軸木に巻いて現在の『秋萩帖』の体
裁をとったものであるらしい。
 第一紙と第二紙以下とには、目に見えて「紙」に差があった。わずかながら第一紙は第二紙より縦寸
法が長く、天地不揃いにもなっていた。また第一紙の裏は白い、のに、第二紙以下第十九紙の末尾まで
裏打ちの紙を剥がしてみると、紙背にそれは見事な楷書の漢文の書かれてあるのが、さきの花押ともど
も、文化財保護法に基づく修理で明らかになった。内題は『淮南鴻烈兵略間詁(えなんこうれつへいりやくかんこ)第廿』の高氏(こうし)注とまぎ
れもない。後漢(ごかん)(一?三世紀)の高誘(こうゆう)が「淮南子(えなんじ)」を注釈した著名な廿一巻本の巻第廿に当っている。
K博士は、用紙、書風ともにこれがはやくわが国にもたらされ九世紀末の記録にも所在明らかな舶載文
書(はくさいもんじよ)の一とみて、唐時代の写本に相違ないと定めていた。
 中国の古史に名高い「淮南子」の、しかも唐時代のすこぶる勤格な写本とあれば、本来はこっちが国
宝格の表向きで、いわゆる『秋萩帖』の方が紙背文書(しはいもんじよ)のはず。それが逆の格好で伝来したというのは、
やはり伏見天皇の花押(かおう)が利き、また道風らの筆跡で自在の草仮名や王羲之の手習いという珍らかさがい
たく利いたのだろう、幸田にもそれは納得できた。
 だが、こうなると、裏白で寸法も大きめの第一紙が問題になる。
 伏見天皇のほぼ与(あずか)り知らぬ後世に、だれかの手で、第二紙の前へ継がれ、近代に入ってはその継ぎ足
しの歌二百こそ道風の真筆とされるようになった、と、そういう経緯(はなし)になる。書の或る大家ははやくに
第一紙だけを道風の四十歳頃の「真蹟」と鑑定し、名高い国文学者も第二紙以下を「所伝」どおり行成(こうぜい)

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の筆かと見ていた。「秋萩」の歌二首が道風の真跡と認められる証拠はなにも無いとし、第二紙以下な
ど道風はおろか行成からも百年以上も時代が下がったごく平安末の書き写しとした説も、だが、あった。
幸田の思いも、その辺に近かった。
 K博士に、どんな順序でまったく新たな論証の道がついたか。この人ほど日本中の古筆を大量に調べ
あげた研究者はいないそうだから、はずみで、ある日ある時に、ふと、「もしや、もしかしたら」に恵
まれてもそう不思議はなく、つまり実力なのだろうと、幸田は日ごろから半ぱあきれてもきたのだ。
『秋萩帖』への「もしや、もしかしたら」は博士が、金沢の、中村記念美術館手鑑(てかがみ)の歌切(うたぎれ)を調べている
うちに、まさに矢のように来た(二字傍点)らしい。「難都許呂毛堂地幾留(夏衣たちきる)」の一行にはじまる綾
地断簡は淡(うす)茶に色変りしてもとの色もさだかでない萌黄(もえぎ)、あるいは緑色だったかも知れない裂(きれ)地の
まんなか辺りに大柄の花模様が織り出され、草(そう)の手の大ぶりな仮名が墨枯れがちにやすやすと書かれて
いる。古様(こよう)と見えて、だが、男とも女ともっかずよほどこなれた優美な草仮名だ、ただし幸田も観てき
たとおりに、美術館では「伝(藤原)佐理筆」としてある。久しい伝来の間に綾の組織が崩れ、糸の傷
みも目にあまって文字のいくつかを余儀なく失っているが、渇筆(かつぴつ)の墨痕(ぼつこん)はなお艶(えん)にどこか濡れて見える。
 K博士は、たちまちに今一葉の「伝佐理筆」綾地歌切を思いだしたという。飯島春敬氏所蔵の『三蹟
手かゝみ』に押されていた、あの「奈川幾奴登飛東之(夏来ぬと人し)」ではじまる歌一首の手跡(て)も裂
地も、まったくの「連れ」ではなかったか──。即刻調べて、疑いもなく、二つの綾地切は同筆の一つ
なぎになった。
 K博士には現代に遺された絹地切・綾地切を網羅した精力旺んな研究があり、平安末に及ぶ一、二の

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例外をのぞけば、大小の断簡三十余枚のことごとくが十世紀半ばに限定される遺品と断定していた。っ
まりその当時に特徴的ないわば流行りなのであった。まして平(ひら)がな以前の草仮名で書いた二葉の歌切は、
仮名文字の変遷史からみても綾地という異色の材料からみても、十世紀半ばをゆめ下ることのない書蹟
であった。
 そこでK氏に「もしや、もしかしたら」の勘が働いた。この博士には彼自身で言う「家来」たちがい

(写真省略)

28

る。すぐ家来の一人が博士宅に呼ばれ…て、とある「作業」が始まった。
 K博士は家来の目のまえへ件(くだん)の綾地歌切二葉の写真をならベておき、その一字一字に該当する字母を、
うむを言わさず今度は『秋萩帖』のコピー第二紙以下の和歌から切り出させた。作業は思ったより早く
はかどり、やがて、それぞれ綾地切のよこに『秋萩帖』から集字された字母をならべて、字配りもその
まま夏の歌二首分があっけなく揃った。ただ揃ったのではない。綾地歌切の字に瓜二つの『秋萩帖』の

(書省略)

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字が、こともなげに横にならんだ。「『秋萩帖』原本(二字傍点)の出現」だ。Kさんもお弟子さんも、しばし目を
剥(む)いた。
 幸田はこの作業の結論を論文抜刷におさめたいわば証拠写真で、確認した。手を拍(う)った。拍つ以外の
手が、なかったのである。
「論証」の必要に応じ、次にK博士は、『秋萩帖』の第二紙以下を伏見天皇の臨書であると鑑定した。
唐から渡った「淮南子(えなんじ)」ほどの国の宝へ、紙の裏とはいえ平然と手習いのできる人物が多かろうと思え
ず、紙背の花押(かおう)も、道風や王羲之をみずから書き写した天皇のなみなみでない自負と愛着の故にとKさ
んは見た。これくらい習字熱心だった天皇の、歴代例がないのは知られている。K博士の新説は意表に
出てしかも無理のない、なるほどそれとしか見えない正しい結論と納得が行った。国宝『秋萩帖』の大
部分、第二紙以下が、かくて平安時代から鎌倉末期の遺品へ、時代が下げられることともなった。
 第一紙についても、K博士は西暦九六六年に死んでいる「伝道風」の直筆(じきひつ)説をしりぞけていた。十一
・二世紀より遡れない、宋から舶載と思われる特異な用紙に書かれてあるというのだ。『淮南鴻烈兵略
間詁』はいわゆる染紙(そめがみ)、刷毛(はけ)であとから着色加工した紙、に書かれているが、この『秋萩帖』第一紙は
繊維の様子から麻紙(まし)とみられ、しかも藍の漉(すき)染紙だった。藍の染料のなかに紙の繊維を撹(か)きまぜ漉き上
げた紙だ。「平安・鎌倉・室町・江戸と各時代を展望してみても、これと同種の紙に書いた遺品は、な
に一つ残っていない」と博士は言い切り、第一紙は、論証の行きつくところ平安末期の忠実な臨書で、
原本は別にあったとみた。幸田は、頷いてこの推測にも拍手を送り、しかし、ここまでがKさんの領分、
このあとは…物書きの出番だと思った。『秋萩帖』の問題はK博士の「論証」でもうみんな了った…と

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は、言えないのだった。
 Kさんは、現行の『秋萩帖』の、第一紙及び第二紙以下とも、「同じ或る一つの原本」を忠実に臨書
した遺品と説いている。おそらくは江戸時代の霊元天皇の頃に、二つは一つの巻物に、巻頭一紙とそれ
以下とに紙継ぎされて、以来昭和の戦後まで宮家に伝世したものと説いている。金沢市の中村美術館お
よび現在は東京杉並区のある書道文庫に所蔵された「連れ」の綾地歌切こそ、いわば原本『秋萩帖』の
幸とも不幸とも僅かに遺された、たった二葉の断簡に相違ない──と。
 そう説かれたものの、K説「原本」の断簡が遺した歌は、夏の二首だけ。K説「写本」の第一紙には
秋の二首だけ。そして第二紙以下には、冬の二十八首と雑の十八首とが写されてある。K博士の検証で、
字母は形影ひとしく瓜二つなのは確かになったが、季と内容とは重なってこない。K説を了承するには、
少なくも「夏」「秋」「冬」「雑」の部立てを備えた原本、いっそ「四季と雑」の歌を、ないし「恋」
の歌をさえ完備した幻の「歌集」原本が、想定されねばならない。
 佳い本であれば、まして道風ほど古今に絶した人の筆なら、類ない手本として機会(おり)を得ては書き写さ
れる。K説にしたがえば、道風の没後二百年頃、よほどの能筆でこれを麻の藍漉染紙(あいすきせんし)に臨書した者がい
た。その彼だか彼女だかが手にした原本(二字傍点)には、少なくとも「夏」「秋」「冬」「雑」の歌が残っていた
らしい。しかし、この時の写本は時世の波に文字どおり切り刻まれ、たった「秋萩」の歌二首の断簡=
現存『秋萩帖』第一紙、となって世に遺った。
 さらに百五、六十年後れて伏見天皇もまた、道風筆の原本(二字傍点)から、こともあろうに舶来「淮南子(えなんじ)」の紙
背を利用して堂々と書き写してみせた。出来栄えに愛(め)で、後鑿(こうかん)に備えて自身の花押を紙の継ぎ目に捺す

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ことも散えてした。これ以前に原本の「冬」と「雑」以外はもう散逸していたのか、それとも写本の他
の部分がその後に紛失したのかどうかは、分らない。
 古筆(こひつ)の優なるものが時代を下るにつれ珍重され、名もない写経の一行をすら大切に保存し鑑賞し、つ
いには冊子本や巻物から部分を切り出して所有する風は鎌倉時代にすでに現れていた。竹生島宝厳寺(ちくぶしまほうごんじ)に
伝わる空海請来(しようらい)の古本(こほん)を、十行分切り出して鎌倉の公家(くげ)将軍頼経に献上したのが記録された古筆切断の
最古例だというが、応仁の乱で火に煽られ遺品が払底(ふつてい)するにつれてこの風は輪をかけ、権門勢家(けんもんせいか)の手鏡
収集と床の間に掛物(かけもの)を欠かせない茶の湯の趣味とが、いっそう拍車をかけた。石山切(いしやまぎれ)、高野切(こうやぎれ)、本阿弥
切(ほんあみぎれ)などと、古筆は文字どおり断簡として切り刻まれ、華奢(きやしや)に綾地を用いたまぎれない野跡(やせき)の『秋萩帖』
原本(二字傍点)も、同じ運命を辿ってたった二葉の歌切となり、今日に遺ったと、古筆学博士のKさんの説では、
そうなる。
『秋萩帖』に原本があったことは、分った。野跡であることも認めよう。だが…、と幸田は考える、だ
れが、どんな目的からその「原本」を思い立ったのだろう。どんな機会に製作され、だれの手に最初に
納まったのだろう。だれが、どんな基準で歌をどのくらい選んだろう、まさかそれも小野道風の仕事で
はなかっただろう……だが、手がかりは、彼だ。道風だ。
 幸田は通風を調べてみたくなった。
 おりも佳し、『綾地歌切』を観て来よう。食祭「フートピア金沢」の日が、そこに迫っていた。

「で、どうでしたの金沢は。また胸が痛んでやしないかッて、心配したわ……」

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テラスヘ出て、隠れ蓑の青い葉かげのネコの墓を指でつくろうほどにきれいに掃いてやりながら、妻
は、心配というわりには、はんなり□を利いた。ネコの子(二字傍点)のノコがそばにチンと行儀よく、頭のうえへ
懸崖(けんがい)に菊の花が垂れている。ほそながい書庫の屋上へ土があげてあるのだ、春には雪柳が群れ、この間
まで紅い萩が咲いていたのに、もう葉枯れはじめて、根かたを武蔵野の小鳥がかさこそと走る。
 狭心症のかるい症状(ショック)が徐々に増していた。この年齢(とし)だもの、生きている証拠のようなもンさ…などと
幸田は医者へも怠りがちに、酒量も食べる方も気ままにしてきた。母ネコも、最期の頃はだいぶ太り過
ぎだったもンな。うちで生まれて八歳になる、それにしては仔猫のように華奢に姿の佳(い)い黒と白の「ノ
コ」を、幸田は、妻へ返事のかわりに、猫撫で声で呼んだ。
 留守中の手紙をいろいろに処分しながら、幸田は、頭がいくつかの音色でこうるさく鳴っているよう
な気分にけさから悩んでいた。旅から帰るといつもこうだ…と、分っていても鬱陶しい。新幹線の車中
で…。やはり…夢だったか。いやな夢ではなかった…が、覚めての後味に、しいて付ければ説明のつき
そうな、しかし変に小癩に障る割切れない感じがのこっていた。紅いペイズリィーが目の底で不揃いの
渦を巻いていた。
 このところああも読んでは調べては思案してきた『秋萩帖』であってみれば、どんな夢だって見てし
まう。問題はKさんが結論を出したあの「あと」だ、幻の「歌集」原本(二字傍点)が、何の必要あって、いつ、出
来たか。だれが関わっていたのか。
 幸田はふと思いついた。あれは…あの「夏」を歌った連れの綾地切は、いゃ現行『秋萩帖』のそもそ
も第一紙『秋萩』の歌二首も、いうならぱ、歌合の趣向一番にそれぞれ当ってはいなかったか…と。

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    左
  夏来ぬと人しも告げぬわが宿に
    山ほととぎすはやも鳴かなむ
    右
  夏衣たちきる物を逢坂の
    関の清水の寒くもあるか

    左
  秋萩のした葉いろづくいまよりぞ
    ひとりある人の寝(い)ねがてにする
    右
  鳴きわたるかりの涙や落ちつらむ
    物思ふ宿の萩のうへの露

 第二紙以下の四十六首にも言えることか、その気で当ってみたわけでなく幸田は執着しないようにと
反射的に自分を押えたが、物の端になり、この思いつきは書き留めておきたいほどだった。宮道(みやぢ)敦子と
の話題ができた、よしよし…と、幸田は手紙や雑誌の束を抱えこんで書斎へ隠れた。

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あしたは有楽町のホールで約束の公開対談だが、ともあれ、今は「小野道風(おののとうふ)氏」にわが書斎へご光来
願おう…。
「道風」の能書としてぬきん出た評判は、存生(ぞんしよう)の頃にすでに寡(すくな)くなかった。まして没後には説話化も加
わって面白い噺(はなし)に事欠かない。三筆の筆頭弘法大師の額(がく)の字におおけなくケチをつけた罰(ばち)で中風を病ん
だなどというのも、ある。そういえば道風肖像と伝えられるのが片膝立てで筆を持った、よだれの垂れ
そうなひどい面相だが、あれは「如泥人(じよでいじん)」と、つまりぐうたら者といわれた三蹟の佐理(さり)の像だともいう
から気にかけまい。冥土にあって北野天神の右筆(ゆうひつ)のように道風が追い使われていた話も、行成卿の夢に
あらわれて懇(ねんご)ろに書法を教えたといった話も、あった。
 書の天才は疑いない、だから書から離れた道風も眺めたいと思うのだが、そうなると一つは系図調べ
になり、いま一つは、妙にそぐわないけれども勅撰歌人でもあった彼の歌を読む位しかなさそうだ。歌
は後撰和歌集に四首採られている。四首も、と言いたいくらいで、まず、「秋」上の巻に「題知らず」
「小野道風朝臣(おののみちかぜあそん)」として、こう見えた。

  ほには出(いで)ぬいかにかせまし花薄(はなすすき)
    身を秋風に捨てやはててむ

「穂に出る=秀に出る」つまり、人目に立つほど事や思いが露わになってしまったという意味だろう。

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「穂」の縁語で「花薄(はなすすき)」が出て、それは花やかにまたうら寂しい恋、しかも相手の「秋?飽き」風に、
はやそよいでいるような恋の表象(ひようしよう)でありげに読める。どうしよう…そんな秋風に吹かせて、いっそこ
の「身は捨てはててしまおうか…」と悩んでいる。幸田はすこしく道風(とうふう)さんに同情した。
 もう一首は「恋」四の巻に出ていた。

    うづまさわたりに大輔(たいふ)が侍(はべ)り
    けるに遣(つか)はしける小野道風朝臣
  限りなく思ひ入日のともにのみ
    西の山べを眺めやるかな

「思い入(い)る(入り)日」とよむのであろう。だが、「ともにのみ」が歌を分りにくいものにしている。
「ただもう諸共に」「一緒に」と取れるが、時はともかく、今いる所は倶(とも)にはしていない。恋人の「大
輔」は平安京の西、太秦(うづまさ)の里にいて「道風朝臣(みちかぜあそん)」はそこへ歌を送っている。いましも西の山べをさして
日が入ろうか、隠れようかとしている。朝臣は、そんな「山べ」に隠れ入ろうとしている女へこの歌を
詠みかけたのだろうか、はっきり失恋の歌ともいえないけれど、さきの「身を秋風に捨て」ようかと悩
んでいた歌に風情は似ている。道風は「大輔(たいふ)」という名の女に思いを寄せていたのだ。そしてもう二首、
少なくとももう一首は当の「大輔」その人と詠みかわしていて、道風の歌は、それだけしかない。
 ところが「大輔」の歌は、あった。後撰集に十六首もの歌が採られてあり、いろんな男と華やかに遣(や)

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り取りしていて、どの男も「遺風朝臣」より、たいぶ羽振りがいい。
 さきの道風「恋」の歌のすぐうしろの方に、こんな歌が載っている。
 
    道風(みちかぜ)忍びてまうで来けるに親ききつけて
    せいしければっかはしける     大輔(たいふ)
  いと斯(かく)てやみぬるよりは稲妻の
    光のまにも君を見てしが

 男の親が女のもとへ忍んで行くのを制したのか、女の親が男を通わすと知って禁止したのか。やはり
女の親が…だろう、歌も、なかなか道風のためには情があってワルくないと幸田は読んだ。「闇」「稲
妻」「光」など縁語の用い方も的確で、こうも悲しい成行きのまま二人の恋が「終ってしまう=やみぬ
る」位なら、闇を裂く「稲妻」ほどはかない光の間にも「妻」の思いであなたを見たいものです…と愬
えている。失恋どころか、周囲の事情はともかくとして、道風は、大輔の心を得ていると読める。
 これに比べればすぐ後にある朝忠朝臣という人とのやりとりなど、冷やかなもの。この朝忠、大輔を
訪ねて行ったが居なくて逢えずに空しく帰った翌る朝、「徒(いたづ)らに立ちかへりにし白波のなごりに袖のひ
る時もなし」という涙ツぽい歌を送っていた。それへ、「何にかは袖の濡るらむ白波のなごりありげも
見えぬ心を」と「かへし」を送った大輔は、袖ぬれるはずもない男の浅い心を、あっさりかわしている
のだ。あれれ…まるで、あの五十婆の源典侍(げんのないしのすけ)とはたちの光源氏との応酬(やりとり)やないか……。

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「朝忠朝臣」とは三条右大臣の五男、百人一首に「あふことの絶えてしなくはなかなかに」の歌を伝え
ている。たいそうな肥満漢で、瓜と水漬けの飯だけに制限されると、それをしも医師(くすし)の呆れるほど仰山
に早食いしたとか。古今集が成って五年の後、延喜十年(九一〇)に生まれ康保三年(九六六)に道風
朝臣と同年のうちにこの中納言朝忠は死んだ。道風の方は正四位下内蔵頭(しようしいのげくらのかみ)の七十三歳、たいぶ朝忠より
年上だが官位はずっと低かった。
 さて「大輔(たいふ)」とは宮仕えの名乗りで、身近に「なになに大輪」の官職にある、ないしあった男がいた
のだろう。たとえば「忘らるる身をば思はず」と歌った右近は右近少将藤原季縄の女(むすめ)として醍醐天皇の
皇后穏子(やすこ)に仕えていた。大輔は八省の次官で、中務省(なかつかさ)だけが正五位上、他省では正五位下相当の官名で
あり、この官位軽くも低くもない。
 後撰集歌人の大輔は、女では伊勢についで多数の歌を採られており、「おほいまうち君=大臣」「左
大臣」「右大臣」をはじめ藤原敦忠(九〇六ー九四三)、藤原敦敏(九一一ー九四七)や藤原玄上(はるかみ)の女(むすめ)
や小弐(しように)のめのと(乳母)らと歌を詠み交している。男との歌はおおかたが言い寄られたりかわしたりの
歌である。生没年は不明ながら「延喜(九〇一ー九二三)の頃を中心にした後宮女官」であったろう、
父は嵯峨天皇の孫で但馬守(たじまのかみ)源弼(たすく)であると、手近にある、どの本も□を揃えていた。
 嵯峨源氏の系図をみてみると、なるほど嵯峨天皇の皇子で源氏を賜った一人に弘(ひろむ)がいたし、その子が
弼(たすく)で孫に忠(ほどこす)と女子とがいた。女子には「歌人」「大輔」と注がつき、「古今作者」とも明記してあっ
た。しかし「後撰作者」とはなかった。
 古今和歌集「雑体」の巻を見ると、たしかに大輔の歌一首が出ている。一首だけである。

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  なげきこる山とし高くなりぬれば
    頬杖(つらづゑ)のみぞまづつかれける

「なげきこる山」は、嘆き(一字傍点)という木(一字傍点)を樵(こ)る山でもあり、嘆き溜め息の「き」が凝り固まって山のように
なる意味もある。そんな「山」に登ろうとなるとまっさきに「頬杖(つらづゑ)」がつかれる…という。才走った言
葉遊びとも見え、もの憂げな恋愛体験に裏打ちされても読める。古今集を説く本はむろん作者「大輔」
を源弼の女(むすめ)と定めている。『勅撰作者部類』といった古くからの本にもそうある。古今集の「大輔」と
後撰集の「大輪」とは、手近に調べた限り、同じ源弼の女とみて間違いないように国文学者も歴史学者
も書いていた。
 幸田は、だが信じなかった。古今と後撰の「大輔」の歌風に、やや離れたものがある。それに、へん
な物言いだが、歌の柔かみがちがう。それに、年齢(とし)が違うだろう。
 延喜五年に撰進されている古今集に、すでに恋の溜め息に「頬杖」がつかれるような歌を採られた後
宮女官が、十三や四の少女だったとは思われない。そんな年の女と、延喜六年(敦忠)や十年(朝忠)
や十一年(敦敏)にやっと生まれている公達(きんだち)が恋めく歌をかわすだろうか、二十や二十五は女の方が年
かさになる。源氏物語に知られた色百婆の源典侍(げんてんじ)ならともかく……。
 別人や…ないのか…。
 幸田はためらわず歴史物語の大鏡にも手を伸ばした。錯(あや)まりない史実と頼るには心もとない、が、こ

39

の時代の貴族社会を大鏡ぬきには語れなかった。
「上」巻、目星をつけた六十代醍醐天皇、六十一代朱雀天皇の記事にこれというものは見当らなかった
が、つづく村上天皇の記事に至って、掌(たたごころ)をさすように「大輔の君」が顔を出した。その顔には涙さえ
流れていた。
 朱雀天皇は六十二代村上天皇の同母兄で、醍醐天皇の第十一の皇子(みこ)にあたる。延長元年(延喜二十三
年、西暦九二三年)七月に生まれ、同じ月のうちに母である太政大臣藤原基経の女(むすめ)穏子は醍醐の皇后と
して立った。世に太后(おおきさき)といわれた人である。
 醍醐天皇とこの大后との仲には、寛明(ゆたあきら)(朱雀)、成明(なりあきら)(村上)と皇子の即位がうち続くより以前に、
保明(やすあきら)親王という皇太子がすでにあった。が、延喜二十三年三月、二十一歳の若さで先立たれていた。
 大鏡は、伝えていた。不幸に早世したこの保明親王の「御乳母子(おんめのとご)に、大輔(たいふ)の君といひける女房」がい
て、そして女御穏子が新たに皇子を産み同月のうちに正式に醍醐朝の皇后に立とうというめでたいさな
か、皆がみな言忌(ことい)みしているのを構わず、乳姉弟の仲でもあった亡き皇太子の「御こと」を、次のよう
な歌に「詠みて出(いだ)しける」と。

  わびぬればいまはとものを思へども
    心に似ぬはなみだなりけり

 亡くなられました宮さんのことを思いますと、つらくて悲しくて、もうもう諦めたと思い思いながら、

40

涙が溢れてしまいますの…。
 そればかりか…、これより先「五月のこと」であった、「先坊」つまり亡き保明皇太子四十九日の御
法事が果てて「山寺」を人々が立ち去るまぎわにも、大輔の君はこんな歌をお詠みになられました「よ
まれたりけれ…」と、大鏡は語っていた。

  いまはとてみ山を出づる郭公(ほととぎす)
    いづれの里になかむとすらむ

 ほととぎすが「鳴く」のと、慕わしい人に死なれた大輔の「泣く」のとが、兼ね歌われている。「郭
公」がしばしば死者に擬されることを思えば、醍醐天皇当初の皇太子、世も人も挙(こぞ)ってその死を惜しん
だ保明親王と大輔とは、よほど契り深い仲であったらしい。「山寺」とはどこのことか、しかし、えら
いことになった…ぞ。
 書斎のくらやみに道風を呼び出すつもりが、だれの娘の何氏とも知れない宮びた女人が横顔をちらツ
と見せた。しかも…その顔に影を重ねた文献彦太子(ぶんけんげんたいし)の保明(やすあきら)親王といえば、歴史上、かの菅原道真の怨霊
がとり殺した第一番めといわれる犠牲者ではないか。幸田は弾(はじ)かれたように机を離れ、
「迪子(みちこ)…」
と、どこにいるのか知れない妻を呼んだ。

41
 
 

     三 の 帖

 つつがなく対談を済ませ、お相手のHさんとも挨拶をして別れた。ホールでは、次なる番組で、新劇
女優が源氏物語「薄雲」の巻を節をつけて朗読していた。
 幸田は忍び入(い)った最後尾の席からまたロビーへ出て、時計をみた。家を出がけ、実父の姉がゆうべ急
に入院して死んだと電話があった。五時半から杉並の自宅で通夜…の用意は念のためしてきたから、対
談でかわいた喉にビールくらいの時間の余裕はある。
 広いテラスからロビーが見下ろせた。黒いソファが、暖かみのあるフロアの色目にむしろ華やいで、
空(あ)いていた。出来て間もないピカピカのホールだった、有楽町のままんなかのこの建物へ出不精の幸田
は今日初めて入った。
 その広い十何階かのホール・ロビーへ、幸田康之(やすゆき)は心もち肘をはってテラスから降りて行った。
「先生…」
 うしろで声がして、階段の上へふり向いた。足もとも壁も天井もむっくり柔らかにべ?ジュ色──を

42

背景に、知らない、しかし目のぱっちり美しい顔…が二っ、幸田に微笑んでいた。母(おや)と娘(こ)…。顔はしか
と見覚えない、が、母らしい人の洋服は覚えていた。紅いペイズリイー、それに黄金(きん)色の二重のネクレ
ス…。幸田は、眼の玉がヒリヒリ乾上がる感じで、立ちすくんだ。なんという、美しい娘(こ)…なのに、手
すりに手をそえ、左の足首が片輪に萎(な)えて傾(かし)いでいる……。
「あなたは…」
「おととい、ご一緒させていただきました。シキブと申します…お蔭で今日…入場の整理券が手に入り
ましたので」
「お嬢さん…」と幸田は訊かずにおれなかった。
 微笑んだ少女をうしろに、ゆっくり並んで階段を降り、そして名乗られた。「マサコ」という名の高
校二年生は娘ではなく、その人の姪ででもあるらしい、ジーンズに、ゆったり黄色いトレーナーが黒髪
に映えて…幸田は目を凝らした。
「…横浜で…でしたよね…」
「式部頼子」はおかしそうにただ笑った。失礼しましてと挨拶もあったが、失礼の意味がすぐ掴めず…、
幸田は、さしあたり間近に人のいないソファヘその人らをいざなうしか思いつかなかった。
「今日は、…わざわざ聞きにきて下さったの…」と、幸田は顧みて少女に声をかけた。
「はい。源氏物語を読んだばかりでしたので…」
「それはエライ…原文ですか」
「いいえ、谷崎潤一郎の現代語訳です」

43

「それだって、エライものだ。…わざわざ…」
「いいぇ、昨日からおばさまのところへ来ていました」
 式部頼子は、学校へ近いところからしばしば「この人」を家に預かるのですと、控えめに□を添え…
て、さてめざすソファに場が定まるとさっそく、紙袋に入れてきた大きめの写真をさし出した。少女は
やや離れて、温和しかった。
「お役に立ちますなら、どうぞお持ちくださいますように…」
「これは…」と幸田は息をのんだ。
 春敬記念書道文庫が所蔵という「伝藤原佐理」の綾地歌切「奈川幾奴登〈夏来ぬと〉」以下の、よく
撮れている原寸大の原色写真だった。茶褐色に焼けた綾地の断簡ではあるが、中央の左の端に、金沢で
観てきたのと同じ花菱形の文様らしきものが見てとれる。かなり墨枯れがちに筆意の断続しているのは
K博士の論文に指摘のとおりで、しかしこの綾地切は中村記念美術館のにくらべ、下一字分ほど断ち落
としたように寸も字数も足りなかった。
「なるほど金沢(むこう)のとは、連れのようですね。傷みは、この写真の方がひどい…」
「わたくし、歌の訓みで、ちょっと気になることがございます…」
「ほう……」
「これは、亭子院(ていじのいん)歌合の、初夏五番、十首のうちの一つでございましょ…」
「歌合のあったのは、たしか延喜十三年です。西暦でいうと九一三年。ほかの集には採られていないン
じゃなかったかナこの歌は。…この綾地切以外にはね」

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「ええ。で…。その歌の訓みですけれど…」
 K博士の論文では、「夏来ぬと人しも告げぬわが宿に山ほととぎすはやも鳴くなり(三字傍点)」とたしか訓まれ
ていた。
「えぇ先生。でもここのところ…」と、頼子はマニキュアのきれいな指で、四行の歌の四行めを指して
みせた、「那か奈牟でございましよう」
「それは…ぼくも気がついていました。この歌合には、甲と乙と二系統の本が伝わってるんですね。乙
本じゃ、うろ覚えだが、夏きぬと、人もつげこぬわがやどに、山ほととぎすはやもなかなむとなってい
る…」
「すると…」と、低いテーブルの向うから幸田の隣へ場所をわざわざ移ってきて、そして写真の二ヶ所
を指さし、「飛東芝も都計奴(人しも告げぬ)…者也も那か奈牟(はやも鳴かなむ)…ですとその…甲
本と乙本とがまた混同していることになりますわね」
「…なにか間違ってる気がしますね。それともこの歌切が、別系統のたとえば丙本だったりして…ね」
「それですの…この写真だとまるで潰れていますけれど、ここの一行めの飛東芝も(人しも)と訓んで
ある部分は、飛東裳(人も)か飛東毛とは訓めませんかしら。それから次の都計奴(告げぬ)の計と奴
との間があき過ぎてやしません…。都計こ奴と一字入っているのとちがうでしょうか」
「さあ…困りましたね…」と幸田は真実困って視線を宙に浮かべた。少女の髪がかすかに傾(かし)いだ。
「甲本と乙本とでは、どちらかが確かな本文を伝えているとか…そんなことは…」
「本文の純粋さでは、甲本が勝ると言うてる研究者はいます。しかし昔の岩波文庫は、最も信頼できる

45

古本(こほん)に拠ったというて、告げこぬと那が奈牟の方、乙本を挙げてます…L
「…那か奈牟ですわね、やっぱりこの写真やと」
 K博士も「那か奈牟」と綾地切の字は訓みながら、しかし歌一首を平がな混じりに書きおろす時には、
甲本どおり「鳴くなり」と訓も矛盾を論文の中で示していた。
「あなたがた…。その…」と、伯母の通夜のことを、幸田は、□ごもった。
「ぁ、わたくしたちでしたら、もうお邪魔しませんわ、ごめんなさい」
 頼子は詫びながらすばやく目顔で少女に指図した。少女はまだ真新しい新書判の一冊を出して、著者
の署名を求めた。幸田は受取って扉裏に自分の名を書き、思案して「倩■、○■」と書いた。
「マサコさん…。どんな字を書かれますか」
「ム…の下にこう…ハネます。苗字(みようじ)はヌイ、縫うと殿…と書きます」と、少女はきれいな指をしなわせ
て空に書いてみせた。うなづいて「縫殿光子様」と上へ書き加えた。光子は一瞬目をみひらき、笑みを
たたえて幸田を見た。
「どう訓みますのでしょう…意味は…」と横から頼子が聞いた。
「意味は…その…美しい笑顔ですよ。巧笑倩(せん)たり、美目○(はん)たり…」
「…いいこと…」
と受取って、式部頼子は本を閉じた右掌を、戯れに、…打(ぶ)つ、と言うよりほとんど無意味に招き猫のよ
うにひろげた。声をあげて允子(まさこ)が笑った。
「この人は今夜もわたくしのところへ泊らせますの。わたくしは東京ですのよ。…」

(■:盻 の つくり)(○:目へん に 分)

46

 そして頼子が幸田に告げた光子の学校は、彼の娘が六、七年まえに卒業した女子高だった。
「なんだ後輩か」
 自分の後輩のように幸田は頓狂に叫んで、笑われた。
「たしかお寺さん……そういえば都内だと…。どちらの方ですか、失礼…またお目にかかりたいしね」
「沼袋ツでご存じでしょうか」
「知ってますよ。…バスだと江古田二丁目の辺…でしょ」
「よくご存じ……」
「池袋線で歯医者に通ってます。カンベ歯科…」
「神戸先生…なら、あそこの前の坂をまっすぐ…」
「ヘッ。つき当った……あのお寺ですか。常行寺……」
 頼子も「倩■(センタリ)、○■(ハンタリ)」で首肯(うなづ)くと見えた。門を潜ったことこそない。が、その寺なら歯医者がよいに
必ず見て通る。門の内外(うちと)に今年も秋半ばまで紅白の萩の群れて咲いていた、しかし細い坂道の上にこぢ
んまりと人影なくて境内の奥まであかるい、閑静なお寺だった。ソファを一緒に立ちながら、伯母の不
幸で、あいにくと帰りが反対方向になるのを幸田は本気で残念がったが、頼子の方はひたすら適切に挨
拶を返すばかりだった。

 ──荻窪行きの地下鉄に独り乗るとたちまち幸田は、もう癖のような耐え切れない睡けに負けた。別
れぎわ、ぜひまたと両方で□にしつつ約束にはならずじまいだったのも、それが当り前といえ、幸田を

(■:盻 の つくり)(○:目へん に 分)

47

疲れさせていた。おまけに頼子には不意をつく妙な質問をまた一つかけられ、返事できなかった。
「つかぬことをうかがいますが、コダイノキミという人がいましたわね…」
「三十六歌仙の…小大君。はい」
「どういう名乗りなんでございますか…」
 三条院の女蔵人(によくろうど)で左近と呼ばれた歌と琵琶の上手のことだけれど、なぜ「小大君」だか、だれかと重
なるのを避けた呼び名にせよ、その重なるだれかをわざと暗示した名でもあるのだろう。わけは知らな
い。小大君がどうかしましたかとすら幸田は尋ねそびれ…て、人の渦にまぎれ右、左に式部頼子らとは
別れてきた。
 ──小大君(こだいのきみ)…ね。
 うろ覚えにも忘れずにいる小大君の歌が、一つあった。栄華物語に出ていた。

  あるは亡くなきはかず添ふ世の中に
    あはれ何時まで在らんとすらん

 正暦五年(九九四)ごろ、「世の中の哀れにはかなき事を、摂津守為頼朝臣と云ふ人」が詠(よ)んだのに
小大君が返しをした歌であった。為頼の元の歌も、実(じつ)があって佳かった。

  世の中にあらましかばと思ふ人

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    なきが多くもなりにけるかな

 為頼といえば紫式部の父方の伯父に当っている。それも承知で、あの式部頼子という人は、先刻ホー
ル舞台の上での「源氏物語」の対談に絡めて「小大君」を持ち出したのだろうか。それぐらいな話題は
持ち合わしている主婦の昨今はけっして寡(すくな)くないのを、幸田もいろんな読書会や著者を囲む会に呼ばれ
ていて、知っていた。針でつつくような質問ぜめに遭うことも、まま有った。允子ちやんは、退屈しな
かったのかなあ…。
 紫式部の父為時には、長兄為頼と次兄為長があった。為頼の方は若いころ小大君と恋仲でもあったら

しい。太政大臣実頼(さねより)を取り巻く大中臣能宣(おおなかとみよしのぶ)、平兼盛、清原元輔、源重之、平時文、慶滋保胤(かもやすたね)、源順(したがう)ら
歌人たちの間に身を置く一方、藤原北家(ほつけ)の嫡流公任卿(きんとうきよう)や村上天皇の皇子具平(ともひら)親王らとも緊密に為頼は交
わっていた。この兄弟たちの母は三条右大臣定方の第十一女であり、父は応和元年(九六一)に死んで
いる藤原雅正(まさただ)であった。その雅正が、「大輔(たいふ)」と読みかわした歌も後撰集に出ていたのを、幸田は今、
まざまざと思い出した。

    雅正が夜衣(とのゐもの)を取り違へて
    大輔がもとに持て来たりければ  大輔
  古里の奈良の都の初めより
    馴れにけりとも見ゆる衣か

49

    返し                 雅正
  古りぬとて思ひもすてじ唐衣(からごろも)
    よそへてあやな恨みもぞする

 はて…どういう歌なのか。幸田は、しまったと思った。あの人が、式部頼子が、「大輔」のことを知
っていたか訊くべきだった。糸でくけるような、また…刺すような引くような、胸に痛みが。幸田はく
ッと歯を噛み両の掌(て)で痛みを覆った。
 不祝儀の席へ向っている自分を幸田は忘れてはいなかった。が、二年前に実父の葬式でただ一度顔を
見ただけの八十近い伯母の死を、「世の中にあらましかばと」と、為頼の歌ほどには正直のところ受取
りにくい。父の場合ですら死に顔を見たのが、記憶の限りで、三度めの対面だった。父の死ですら悲し
いより、強いて謂えば…くやしかった。実の父とも、生みの母とも、そうしか思えない縁(えにし)のうすい血を
ペッと吐きだす感じに、幸田はほんとうの親たちと死に別れてきたのだ。死に目にも会わなかった。
 なのに小大君(こだいのきみ)の「なきはかず添ふ世の中」という一句は、覚えていた。それどころか伯母がゆうべに
死んだと今朝開いたその時から、歌は、耳の底を、せせらぎのように流れつづけていた…。
 そうか、「大輔…の君」と「小大(輔)の君」かも。はッと紙をもむように心の臓がまた痛み、
まどろんでいた幸田は、額に汗したまま地下鉄のなかで目を覚ました。……
 ビールが過ぎた…か…。
 ビールくさい息をふぅと吐いて周囲(あたり)を見まわし、幸田はあきれた。

50

 こぢんまりと有楽町駅前のビヤホール「レバンテ」の奥で、帆立貝を肴にジョッキの「大」と「小」
をほとんど一気にあふって来た…のは確かだ、だが…ここは、どこなんだ。おれの地下鉄はどこを走っ
て……いる。縫殿(ぬい)允子のすこし目を細めて匂うように微笑む顔が、忌々(いまいま)しくひきずる片脚にからまって
目の底を、たゆたい…失せた。
 幸田は身のわきを慌てて探った。
 綾地歌切の大きな写真を、芯紙も添えて入れた紙袋、が、無い。講演用のネクタイを力まかせに引き
抜いて、幸田は、胸の隠しの真ッ黒いのととり替えた。なにもかも、ごうごうと鳴って、異様に電車が
空いていた。

 伯母の葬も事はてた日──、幸田は黒い服のまま足をすこしかえして、西武新宿線関町の最勝寺斎場
から、沼袋の「常行幸」を見に行った。高田馬場よりに郊外電車で三、四駅戻ってから、線路沿いにそ
して町なかを、十分足らず歩いた。もう夕暮れて、西へ斜面を盛りあげた町筋は底冷えがしてうす暗い。
幸田は目をあげて秋あかねの高い空を見た。
 左へつと折れると、鉛筆を斜めに立てかけたような坂の小路だった。家の七、八軒を登ると、四つ角
の左手前にひっそりと歯科医院が開業している。ものを書き始めた頃から半年一年間隔てがかり付けて
きた。医師(せんせい)は作家幸田には読者でもあり、娘同士も女子高校が一緒だった。通い馴れてきた、その間に
も幸田の殊に気に入っていたのが、医院を出て、坂道をやや見上げるように登って行くま正面に、様子
の佳い寺の門が迎えている情景だった。はたして「常行幸」といったか、門外に大字(だいじ)で南無阿弥陀仏と

51

刻した石の立ったのと萩や芙蓉の花盛りとだけはしきりに見覚えてきたが、一人の人影をさえ見た記憶
が、ない。
 寺へ行きどまりの坂ではなかった。門前に道のあるのが目に入らないだけで、右へまた寺があり民家
があり、だらだら坂をすこし下れば幸田には最寄りの西武池袋線江古田駅へ戻って行くバス通りに近い。
 門の上が夕焼けていた。
 案に相違しやはり記憶どおりの「常行寺」だった。くすんだ表札には上にちいさく「萩の寺」とあっ
たが萩はみな枯れて、甃(しきいし)に熾(さか)んに紅葉が散っていた。
 甃(いし)道の奥でやや右に隠れて等身以上の石地蔵が、一樹の大楓(かえで)と南天などの植え込みに囲まれて幸田を
迎えた。たそがれに首の赤い前垂れが目立っ。庭先は枯れ色の萩の株にあふれて、地蔵より右の奥へ刷
り硝子の桟戸をたてた本堂が並び、また鈎(かぎ)の手に庫裏(くり)への入り□が見えていた。表札に「住職」とちい
さく、何十年もかかっていたもののように下の字はくすんで「縫殿為順(ぬいいじゆん)」と、そう読むだけに痛いほど
目をこらした。
 幸田はほとほと思考を停止したまま楓の脇を抜け、小高い奥の墓地へ入ってみた。三、四百坪の存外
広い墓標はここも萩そしてすすきや灌木に点綴(てんてつ)され、天を仰いで、さながら壇を成している。西の稜線
に沿うて低い崖の下が、思いもよらぬ、墓地と同じほどの横に長い古沼にもなっている。沼の向うへ常
行寺のらしい奥の住まいが廊下を伸(の)して、障子越しに電灯が一等奥の部屋を夕暮れに浮き立たせていた。
 …人、影か。女か。
 濃い匂いのように既視感(デ・ジヤ・ヴユ)が幸田をとらえた。

52

「また、来ている…」
 あるじは、客に聞かすともなく池の向うの夕闇に手をかざして、つぶやいた。人形が、さ…と動いて
紅葉のおくへ失せた。客の目にもそう見えた。女は顔を隠した。
「だれですか」
 あるじは苦笑いしてある男の名前を□にした。
「ほオ…」
 客はすこしく表情を動かし、しかしそのままあるじの顔を眺めていた。

 たちすくむ幸田の脳裏を切ッ製いて、瞬時の稲妻が、うつつない時の間の夢まぼろしをうつしたか。
噂されていたのは…だれ…か。
 ──流てて身を隠すように幸田はあとしざりざま、常行寺の墓地をもとの甃道(いしみち)へ出た。地蔵のまえで、
夕星(ゆうづつ)を負うてどこからかいまごろ帰ってきたジャンパーにランドセル姿の少女が、庫裏の方へ折れて行
く。おかっぱの髪ふさふさと、夜目にも白い運動靴…なのに、脚をすこし引きずっていた。
「こんばんわ…」
 我になく幸田は声をかけた。少女はおうむ返しに「こんばんわ」と言い捨てて、振向かなかった。肩
を落とし、幸田はひとり取り残された。
 バスに乗り電車に乗り一時間としない間に我が家にいた。乗物のなかでも、黒い服を着疲れた幸田は、

53

我にもない自分をうっそりと座席に預けて来た。玄関外で、清めの塩をそれでも忘れず踏んだ。用事の
電話が三本かかっていますと妻に立ったまま告げられ、そうかい、どこから…などとハキハキ応じなが
ら、幸田は、ひよっとしてあの大輔(たいふ)、どこかでどうかしていっそ「紫式部」の先祖筋にゆかりの人であ
ったのかもと、思いはじめたりしていた。
 逢えるさ、またきっと…。    
 応援を頼むように宮道(みやじ)敦子からの連絡を待つ気が、しきりに動いていた。

 和泉式部の娘に「小式部の内侍」がいた。「大江山いくのの道の遠ければ」という歌で知られている。
また、仁明天皇の後宮に「小野の町」と呼ばれた人があり、その妹だか株分だかに正六位小野吉子がい
て、だから「小町」と呼ばれ、やはり後宮の一員ではなかったか…と言われている。「花の色はうつり
にけりな…」の歌でよく知られている。
この伝で、後撰和歌集の女歌人「大輔」の妹か娘かに、やはり勅撰の後拾遺和歌集巻頭に名をはせて
「小大(輔)の君」と愛称されたような、べつに三十六歌仙の一人と限らない人、がいた…という読み
はどうか。幸田は地下鉄で夢さめてから、ずっとそれを想っていた。いや…それを想っていたのであん
な夢を見たのだろうと気が付きかけていた。「常行寺」にしてもそうだ。寺内のたたずまいに、いつも
心を惹かれて来たのだ。
 大輔(たいふ)と、藤原雅正(まさただ)──紫式部の祖父──とで歌いかわしていたあの歌の状況が、しかし、幸田にはし
かと掴めていなかった。「雅正が夜衣(とのゐもの)を」とは、「雅正の夜衣を」の意味だろう。それを取り違えて誰

54

ぞ使いの者が大輔のもとへ届けてきたものだから、大輔は皮肉の利いた間い合せの歌を遣(や)った、雅正も
委細構わず物馴れ顔に歌を返してきた…という所らしい。
 ところがそうばかりも考えておれない。この歌のやりとり、朝忠集には、大輔と藤原朝忠とのものと
して載っていると教えられた。
 N社の『朝忠集』が、舞い込むように幸田の手に入ったのは、杉並の伯母の野辺送りをして来た、そ
して常行寺の墓地の奥で夢のような一瞬を身に帯びて帰った、あの、次の次の午後一番だった。
 小包の書籍は仕事がら頻々と届く。その時もべつべつに四冊が来た。幸田は甲乙なしに即座にバリバ
リ包みを破って本をむき出しにしながら、お…と、そのうちの一つにほくほくした。確かめる前からそ
の細長い装丁のシリーズが、首巻に及ぶ「日本名跡叢刊」の一冊、つまり「書」の本と分かっていた。
何冊かは買いもとめて身近に置いていた。
『朝忠集』と題を読んでおやおやと包みを調べ直したが、版元の寄贈ともなく、解説の筆者がくれたよ
うでもない。手紙もない。しかしシリーズの監修はあのK博士だし、感謝だけして幸田は気にしなかっ
た。いま一等欲しかった本の一冊だった。
 その小堀本といわれる『朝忠集』は、たぶん十二世紀頃の写本ではあったが、一紙一行とて切り出し
た形跡のない、平安時代の書冊としては稀有の完本だった。素紙に、針で彫ったように鋭い小粒の字が
所により十字以上も連綿とつづけ書きしてあって、和歌七十二首。それは、よい。
 驚いたのは巻頭から「たいふのきみ」が出てきて、「あさただ」と歌をやりとりしている。その歌と
いうのが後撰和歌集で調べると朝忠ならぬ敦忠と詠みかわした歌になっていた。幸田は、大輔に関係し

55

ていた公達では太ッちょの土御門(つちみかど)中納言朝忠より、左大臣時平の御曹司(おんぞうし)、優に才芸ゆたかな人気者だっ
た本院中納言敦忠のことをとかく気にかけてきた。歌も詞も好んで記憶していた。
 大輔の「曹司」つまり宮中での部屋、職掌上の部屋へ、敦忠に行くはずの手紙が間違って届けられた。
道を知らぬでもないでしょうに、「あしびきの山ふみ(踏み・文)まどふ人もありけり」と歌を添えて
返してやると、敦忠からも、そんな「ゆき(雪.行き)絶えた」ようなよその女へ通う道になど「ふみ
まどふ」わけがあるものですか、それは、あなたへ届けた恋ぶみですよ…と、とぼけた返歌があった。
そのやりとりした歌が、いま朝忠集の冒頭にならんで目の前にある…。「あさただの、衛門(えもん)の督(かみ)中納言
におはしける時」の歌だとある。それだと応和三年(九六三)より以後のことで、事実なら二人ともい
いジイサン、バアサンなのだ、だが、「あさたゞ」と「あつたゞ」とでは、いかにも紛らわしい…。
 同様、「とのゐもの」が間違って届いたその「萎えた」夜衣(よぎ)に大輔が歌を結びつけて返してやった先
は、雅正ではなくて朝忠であったと『朝忠集』には載せてある。「まさたゞ」と「あさたゞ」では、こ
れもいかにも紛らわしい。
 さきの敦忠の歌でいえば、他にもある。後撰集のなかで敦忠から大輔に宛て、「言ひ」だし難くてつ
いつい池の「▲(いひ)」つまり底樋のように私の恋は、水籠(みごも)り身隠(みごも)りながらむなしい月日を重ねたよ…と詠み
送った、それが、この『朝忠集』では朝忠の歌として大輔に宛ててある。「▲」というのは、池の堤に
穴をあけて水を引く樋□のこと、だが、朝忠にとも敦忠にとも、これに大輔がどう返歌をしたかは何も
分っていない。
 どうなっとんね…。

(▲:木へん に 威)

56
 
 

 またもゆらりと大輔の影をとらえ損ね、ふわり押し戻されて幸田は興奮した。奇妙にセクシィな興奮
でさえあった。
 幸田は、忘れかけていた視点へ急いで戻ろうと思った。恋をしたり歌をかわしたりするのは、この時
代の貴族には日常茶飯事。それよりも、大輔(たいふ)が歴史に、すくなくとも歴史物語に名を残したのは醍醐の
皇太子保明親王との親密なかかわりが有っての事であり、皇太子二十一歳の死が菅原道真の怨霊の故と
されたのなら、その道真を失脚させたが故に怨霊に崇られた左大臣時平(ときひら)の一統と、また、奇貸(お)居くべし
とばかり着々と政権を固めた弟藤原忠平の一統との間で、大輔の占めていた位置関係に、距離に、こそ
注目が必要なのではないか。
 保明親王がもっとも有力な日継(ひつぎ)の皇子(みこ)として生まれたのが延喜三年(九〇三)のこと、しかも同年二
月に菅原道真は九州太宰府で死んでいた。朝野(ちようや)をとわず怨霊の噂などまだまったく出ていなかったのだ、
それよりこの際、新皇子のために乳母(めのと)の主任格を選んで添わせた人がいったい誰であったか。こういう
時、こういう筋の人事には却って父帝醍醐も母女御穏子(にようごやすこ)も□をはさむ余地はなかったろう。
 穏子の父基経は夙(はや)くになく、藤原氏一の人は時めく兄左大臣の時平(ときひら)であった。醍醐天皇の父宇多上皇
も健在で発言力も大きかったが、おそらく時平の息のかかった乳母選任であったに違いない。
 弟の忠平(ただひら)にそんな力は、まだ、無かった。
 ところで大鏡裏書は、またそれに従って多くの現代の学者たちも、大輔を即ち保明「乳母(めのと)」とし、大
鏡本文の「乳母子(めのとご)」とある記事の方が誤りであると否定してきた。なるほど、大輔がこの時に選ばれた
「乳母」その人であったのなら、彼女はすでに人妻であり人の子の母であらねばならぬ事になり、年齢

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も、二十五前後にはなっていたと見るよりない。もしそうであったなら、確かに、古今集歌人の大輔、
源弼の女、にもふさわしい年齢(とし)恰好と見えるのだが。
 ところが藤原時平は六年後の延喜九年(九〇九)四月に、三十九歳の若さで死んで行く。
 しかも後撰和歌集の大輔にはこの時平とかかわりをもつた歌など一首もなくて、大輔が親しく交際し
ていたのは後の「左大臣」実頼(さねより)にせよ「右大臣」師輔(もろすけ)にせよ、また敦忠や朝忠にせよ、さらに雅正や実
頼の子の敦敏にせよ、すべて時平や忠平からは一世代ないし二世代も若い公達(きんだち)ばかりだった。大輔は、
やはり、保明「乳母」ではなく乳母の娘か幼い妹、つまり大鏡が本文に書いているとおり「乳母子(めのとご)」な
のであり、時平が死んだ頃にはやっと十にも満たない幼女であったのだと、幸田は推量せずにおれなか
った。
 第一、藤原氏には虎の子の皇太子乳母に、なんで微妙に政敵でもある源氏の女を選ぶものか…。
 では時平は、いったい、どういう家から、だれを、大切な保明(やすあきら)親王の「乳母(めのと)」に選んだか。
藤原氏からか、そうではないのか。
「乳母子」大輔の、その母か姉か叔母かは、「乳母」その人は、どこの誰…で、あったのか。

58
 

    四 の 帖
 

 師走に入って幸田はしばらく風邪で寝込んだ。癒りがけに今度はなにの疲れだか、歯が痛み出した。
いいしおに沼袋の歯医者へ通えば常行寺もまた覗ける…と、そう思うものの、そのたやすさにかえって
幸田は負け惜しみのようなものを覚えた。寺には「縫殿(ぬい)」と表札が出ていた。「式部」ではなかった。
 ま、いい…と幸田はつぶやく。何がいいと定まった思いはなく、歯の痛い時をえらんで歯医者通いは
気が乗らないだけだ、いずれ疲れがとれれば歯痛(はいた)はおさまると、たかをくくった。くくりながら、筆屋
の副社長の、敦子の、間遠な連絡を心待ちにしていた。あんなに綾地切(あやぢぎれ)を見てくるといい、土産話が早
く聞きたいなどと言うておいて…。
 その宮道(みやぢ)敦子の実家(さと)も、京都の、「萩の寺」で知られていた。まさか…それは、幸田が円山(まるやま)公園にま
ぢかに育った少年の昔から、数えきれず門のまえを通っていた、真葛ヶ原の、あの「最法寺」のことで
はないンでしょうねと彼は念を押した。敦子は照った髪をかたむけてほほえみ、五十ちかい幸田があの
時はあかくなった。まだ二年とはたつまい、あの年あの月のペンクラブ例会が、もう水割りのコップが

59

行交うようににぎやかな席に改まっていた。だが、あかくなったのはアルコールのせいではなかった。
「…と…、入ったらすぐ池がありますね。こんなに…ぶあつい石橋を渡した…」
 息を引き、それから…せき込むように掌(て)と掌を上下(うえした)にしながら、紹介されたばかりの人に言った。敦
子はその晩の会には、編集者でありエッセイストでもあるS社の佐々のただ「同伴者」としてたまたま
参加していたのだが、佐々女史もやはり京都出身という、それだけの縁で幸田のそばへ「友だち」を連
れてきたのだった。
「はぃ…。みじかい橋ですけれど」
 幸田は、思わず敦子の目をのぞいた──。
「それを渡ってからが一面の萩で…。奥に……お堂、途中左へ花のなかを折れて…なんて謂うんですか
庫裏(くり)かな、玄関かな、切子格子の硝子戸があった。…あったでしょう…」
 敦子はわらって聴いていた。水玉の浮き出た黒いニットスーツの、ジャケットには細い金(きん)でトリミン
グしてあるのが、上品だ。幸田の声がいつになく高いのに佐々和美も、近くの顔見知りのメンバーも、
何ごとかとおかしそうに眺めていた。
「…なら、ぼくは、あなたンちの池で、虫捕りの網でこれッくらいな鯉をすくってるのを、見っかった
ことがあります」
 今度は敦子が顔をあからめて、ちいさく手を横に振った。幸田はあのペンの会の時、二十センチくら
いに指と指をひろげて、そうしてぺこんと頭を下げたのだ。みなが笑った。
 幸田にくどく問われて敦子は、鯉一件の相棒だった「ご近所」石塀小路(いしべこうじ)の「おがわ」の息子を、覚え

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ていますと、仕方なく頷いた。頭の鉢のひろがった、髪の毛の異様に茶色い大柄な少年だった。よく出
来て、早稲田を出たあと京都へ帰って裏千家に勤め、いまは「お文庫」の番頭役に居座り、時には幸田
の調べものを、
「手伝(てツと)うてくれたりしています、助かるんですよ」
などと聞いている敦子の面ざしが、ほこりっぽい文士や編集者らの懇親会には不似合いに、優しく見え
た。柔かい刷毛(はけ)で慈しむように拭(ぬぐ)いとった風合(ふうあ)い、ろうたけて匂いやかな肌の感じは、まぎれない、上
等の、京おんなの顔だった。御幸町(ごこまち)二条の老舗「筆屋」をひとりで切回している「副社長」やで…ほん
まかぃな。気散じな佐々がよその人渦にさらわれて行ったのをしおに、幸田は、敦子をあいた椅子の方
へ誘った。幸田の、およそどんな物を書いての世渡りとも、あの晩、宮道敦子はいくらか知ってくれて
いた。
「…どうして…」
と、幸田は敦子を座らせるとすぐ囁きかけた。共犯…を、とがめる□調ではなかったが、敦子は素直に、
しかし、言葉すくなにすぐきちんと謝った。
「でも先生…。やっぱり小説家(ウソツキ)でいらっしゃる…。なぜですの、でも」
 そう反間されて幸田にうまい返事はなかった。「萩の寺」と聞くなり最法寺と□にしたのは彼だった、
だれに通じようもない当て推量、いや、冗談であった。だがそのあと、とっさにあんなふうに二人の初
対面を大むかしの架空の場面から組立てた(そういう言葉で幸田は感じた)のが、なぜだか。なぜ、敦
子も、それとなく調子を合わせてくれたのか。

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 真葛ヶ原に最法寺はたしかにある、が、そして昔は萩の名所で知られていたが、幸田が少年時代には
すでに荒れた二脚門と塀とをのこすだけの、境内は汀(みぎわ)まで水草(みくさ)に埋もれた池と赤土との廃寺になってい
て、だから子どもの恰好の遊び場になり、季節にはさすがに残りの萩のあわれに花を咲かせる風情も見
覚えていたのだった。
「萩の寺なら…京都ですから…。きっと何ヶ寺もある」と、幸田は。
 敦子も頷いたが、実家であるという「萩の寺」の名前は、もう教えてくれなかった。
 いつかは、聞けるだろう…。最法寺白萩の庭で、遠い日にほの見た、秋の香りのようなまぼろしの人
影を敦子の両輪にうち重ね重ねたまま、幸田は、二人してふと描いたたった今の「秘密」を忘れまいと
思った。
 あらためて聞けば宮道敦子は大学の後輩でもあった。幸田がなげだしてきた修士の称号ももち、専攻
は日本史だが、幸田の美学とは同じ文化学科に属していた。
「ぼくは、院は一年で音をあげましてね、」
「で、駆け落ちなさった…ンでしょう」
「え。えらいことバレてるんだナ、いかんなァ」
 妻の学部卒業を一年待った体(てい)で京都をとび出してきたのは、その通りだった。隠してきたわけではな
いが話題をかえた。そして敦子の卒業論文で扱ったのが、「雲林院の史実と虚構」だったとその席で聞
いたのである。幸田は声をあげ、敦子がまたあかくなった。
 門外から垣間見るていどの幸田にしかとは言えなかったが、紫野雲林院の境内(にわ)は、文学と歴史とが咲

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き匂う夜桜の色も濃まやかに交媒されて、あやしく説話化されて行った舞台だ。伊勢物語の主人公も、
源氏物語の縉紳(しんしん)貴女や作者紫式部も雲林院との縁は切っても切れない。古今和歌集の昔から、いや僧正
遍照や業平(なりひら)ら六歌仙の昔からそこにはいわば「雲林院派」とでも呼びたい連中が集(つど)っていた。集ったと
いうのが言い過ぎなら、関わり合っていた。風流の舞台とも見え、政治的な不満がくすぷる劣敗者たち
の鬱散の場のようにもうかがえ、それでいて、それだからこそ、花はこの境内にすこぶる美しく咲いた。
その世の人に夜桜の夢ににた魅惑をおしえたのは、他ならぬこの寺の木精(こだま)であったと、謡曲「雲林院」
は今に凄艶に伝えている。
 あの晩──、敦子の連れが、編集者にエッセイストを兼ねた女史が「ごめんごめん」の声一つのこし
てよその文士一団に、銀座か新宿か別席へ抜かれてしまったのを願ってもない幸便に、幸田は宮道(みやぢ)敦子
を会場からさほど遠くない、築地の「小網」という路地のおくの割烹の小店へ連れて行った。思ったと
おりに敦子はなかなか酒上手だったし、話ははずんで、それもおおかた世離れた平安京の昔が話題だっ
た。思えば敦子の方でそのように仕向けていた。幸田の方から敦子が商いの筆や墨や紙のはなしへ誘っ
ても、それもいつのまにかまた三筆・三蹟といった話題(こと)になり、敦子はためらいなく、道風の書が好き
ですと笑顔だった。そして、お魚も好きでお酒も…と言いかけて、つと畏(かしこま)ると幸田に盃を持たせ、
「にしざ、ひ、も、お…」
と笑みを含んで、手つきよく酒をついでくれた。
「…有難う…」
 幸田ばぐッと呑みほし、ためらいのない声を張って、「きづかさ、やよせさ…」と敦子の目のまえへ

63

盃をさし返した。ちいさな会釈があった──。
 あれ以来、くりかえし逢ってきた。京都でも逢った。緑燃える真夏の嵯峨の奥で逢った。すさまじい
嵐の一夜を、水かさます宇治の川宿で鳴る瀬の音に身を揺られながら明かしたこともあった。「想ひざ
しに、させよや、さかづき」という小歌が、二人を、時をおかず深い闇へ誘った。幸田がもっとも好み
の話柄(わへい)、古典や書や美術や京都──などに敦子は遺憾ない興味も知識も備えていた。かと思えば現内閣
に対しても京都の市政についても、意外にきつい反体制の意見を幸田には隠さなかった。そして…四十
まえの、光(て)り映えたすばらしいからだを惜しみなく与えた。夫や家族のこともくわしい商売の話題も絶
えて二人の仲に上(のぼ)らず、敦子が東京で泊るマンションの電話番号だけを、幸田は聞いていた。だがそこ
へ行って逢うだけは、どちらが拒むということもなく、しないで来たが。
 二人の間で初めて『秋萩帖』のはなしの出たのが、幸田は、例のK博士の論文を読んでのあとと思い
こんでいた。敦子は、ちがうわあの晩に…と笑った。最初のあの機会(おり)にすでに一度二度話題になりかけ
ていた。だがそのつど幸田からわきへわきへ逸れたという。敦子は、K博士が博物館の「紀要」に出し
て間のなかった例の論文にも、商売柄なのか、当時もう気がついていたのだ。
「あなたには負けるよ……」
 幸田は敦子に逢うつどそれを□にした。にこにこと、そういうとき敦子は余計なことを言わなかった。
 その敦子と、だが、後撰集の大輔について話したことはまだ無かった。大輔の素姓(すじよう)なんかすぐ知れる
と幸田にすれば思いこんでいた。嵯峨源氏の弼(たすく)の女(むすめ)に相違ない古今集の大輔に、はじめのうち足をとら
れていた。そしてそのまま伝佐理(でんさり)、実は道風(とうふう)筆であるとK博士の説く「難都許呂毛(なつころも)」の歌一首を草仮名

64

に書いた綾地歌切を観に金沢へ
出かけて以来、敦子と逢えてい
ない。もし上京してくれば必ず
幸田には分る留守番電話のメッ
セージが、ちょっとした挨拶の
言葉ひとつに仕組んであった。
幸田からもごく短い一言で逢え
るか逢えないかが伝えられ、と
もあれ出違う場所と時刻とは二
人で申し合わせがしてあった。
 すこし間があいたが…、怪我
でもしていないといい…。
 お互い、病気をして仲絶える
ことを恐れてきた。幸田に狭心
症の発作が起きたのも、敦子と
逢いはじめて以後の出来事だっ
た。青ざめて、あのとき、敦子
の方がふるえやまなかった──。
 

      (51)       ┌在原行平    藤原時平
    ┌─平城──阿保親王─┤         ?――敦忠
    │          └在原業平─棟梁──女
    │                    ?――滋幹
    │                   藤原国経
    │              ┌基経 
    │      ┌長良─────┤
    │      │       └高子  
    │ 藤原冬嗣─┼良房──女   ?    (57)
    │      │    ?   ?――──陽成
            │        └女   ?――清和(56) 
 桓武─┤       ?   ?
    |       ?―─文徳(55)
    │ (52)    ?
    ├─嵯峨───仁明(54)   藤原基経・女       
    │       ?             ?  ┌─保明親王  
    |       ?  (58) (59)  ?  │
    |       ?――光孝――宇多   ?――┼─朱雀(61)       
    |       女       ?   ?  │       
    |               ?――醍醐  └─村上(62)               
    |               ?           
    │           藤原高藤・女
    │ (53)
    └─淳和──恒貞親王
 

65

「大輔(たいふ)」のせめて…手がかりでもこっちが掴むまで、敦子は、これは隠れんぼの気だナ。幸田はそんな
勝手なことを想像しながら、また、思案の世界へ紛れ込もう込もうとした。

 左大臣藤原時平は、どういう筋から虎の子保明(やすあきら)親王の「乳母(めのと)」を選んだか。藤原氏からか。そうでは
ないのか。大鏡にいう「乳母子(めのとご)」大輔のその母や姉か叔母は、どこの誰であったのか。
 立太子の確実に見込める皇子の乳母にだれを宛てるかは、ほとんど「政治」そのもの。身近に過ぎて
もならない、しかしウカと政敵に近い筋へ渡すわけにはなお行かぬ。時平自身の妻妾に繋がる筋からい
わば「乳母=めのと(妻(め)の妹(と))」を選ぶのが、比較的考えやすくも無難でもある。乳母の地位はけっし
て軽く見ていいものでなく、さりとて乳母は乳母に過ぎない…となると、まず在原(ありはら)氏が想い浮かんでく
る。大輔は、在原氏なのかも知れぬ…。
 本院の北の方といわれた時平の妻が美女できこえた在原氏であり、のちの中納言教忠はその子だ。北
の方には、敦忠がちいさい頃に回らぬ舌で「おほっぶね」と呼んでそれがそのまま通り名になっていた
妹がいた。ほかにも姉妹はいたらしく、そのうちの一人が保明親王の「乳母」にあげられていい条件は、
有るといえば十分有る。
 しかし問題も、有る。
なりひらゆきひらへいぜい
 時平妻の父は在原棟梁(むねやな)でその父があの業平、伯父が行平である。両在原氏の父が平城天皇の皇子阿保
親王で、この親王はかって嵯峨上皇の命旦夕(めいたんせき)に迫るにつれて、皇位継承のうえで微妙にあやうい位置に
立たされた。当時の皇太子は淳和(じゆんな)上皇の皇子恒真親王だったが、その近従に相違のない「春宮坊帯刀(とうぐうぼうのたちはき)」

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の伴健岑(とものこわみね)なる男が、案の定筋ちがいの阿保親王を語らって、皇太子とともに東国に奔(はし)り兵を頼み、天下
制裁の覇権を求めて事をおこそうと持ちかけて来た。
 身の危険に親王は怯(おび)えて執柄(しつぺい)の皇太后嘉智子橘氏にこのことを密告した。
奇貨居(お)くべし、陰謀に長(た)けた中納言藤原良房は画策してなにやらあいまいの裡(うち)に恒貞皇太子を廃せし
め、代って自分の妹順子が産んでいた道康親王を東宮(とうぐう)に立てることに成功した。仁明天皇の皇子、のち
の文徳(もんとく)天皇である。一連のこれがいわゆる「承和の変」であり、良房は文徳に女(むすめ)の明子(あきらけいこ)を配してのち
の清和天皇を生ませた。やがて大政を摂行した。藤原北家(ほつけ)の女の産んだ皇子がつぎつぎ即位して行く先
鞭はかくてつけられ、阿保親王は心ならずもただ藤原氏に利した成行きに心を破られて、やがて──火
の消えるように死んで行った。伊勢物語の「昔男」在原業平は、父親王をかく終らせた宮廷社会で華や
かに生き白い眼でも見て、生涯を風流と文雅とに果てたといえる人物だった。
 左大臣藤原時平はかの権謀術数良房摂政の孫、時平の妻はその業平の孫娘にあたっていた。それも大
鏡などの伝えるところ、尋常の妻ではなかった。老叔父の大納言藤原国経が掌(て)の珠と握って愛(いと)しんでい
たうら若い北の方を、権勢並びない甥時平が酒席に乗じて奪い去り、腹に抱いていた敦忠をそのままわ
が子として産ませたという妻であった。
 それのみで、ない。時平父の関白基経は、うかがい知れぬ歴史の暗部で一人の高貴の女人をはげしく
在原業平と争い合うたとみられることを、作家幸田康之は宮道(みやぢ)敦子におしえられていた。彼女の解説に
よれば「雲林院」は、基経無道の秘密をあたかも夜桜のように昏(くら)く、あえなく、匂わせてきた舞台でも
あった。

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「お能の『雲林院』というの…を、ご存じでしょう」と、敦子は尋ねた。
「もちろん。夢に誘われ、ワキの男が花の雲林院を訪れる。と、老人があらわれて伊勢物語の秘事が授
かるから今宵はこの桜の下で寝(やす)みなさいと教える…アレでしょう」
η花の下臥し仮り寝の夢 に業平があらわれ、世に知られた二条の后(藤原高子(たかいこ))との恋の闇路をしみ
じみと語り聞かせてから、はんなり夜桜に映えて舞いおさめ、また花かげへかき消える。
「そうなのね…桜の花に一面まぶされたような、それも夜なのね。それはそうとして…芦屋の里の公光(きんみつ)、
ワキの男、が前シテの老人に、あの場面で、あなたはいったい誰ですかテ間くでしょう…」
「聞くね。前シテは、後シテになると業平に化けて出る老人やから、なンとか返事をしていたナ…昔男
となど知らぬ…だッけ」
「その様(さま)年の古びやう。昔男と、など知らぬ…」
「さては業平にてましますか…だ。能の常套ゃないの。…なんでそんなこと聞くの」
「常套でしょうけど、でも『雲林院』ではちょっと変よ…気ィついてません…」
 敦子は幸田に、もう、それくらいな□は利いた。幸田は返答に窮した。
「だって…。さては業平にてましますかと分光に言われて、老人はあの時に、はっきり…『いや』て否
定してますやないの。観世の謡本(うたいぼん)でも、わざと、『いや』とその続きとの間をあけて書いてありますし、
いぃーや?ァと、耳に残ってしっかり謡わせてます…」
 敦子はその「いや」を謡ってさえみせた。老人は、業平かと訊かれてすくなくも肯定せずに、ηわが
名を何と夕映えの、花をし思ふ心ゆゑ木隠(こがく)れの月に現れぬ、誠に昔を恋衣一枝(こひごろもひとえ)の蔭に寝て、わが有様を

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見給ばば、その時不審を晴らさんと、夕ベの空の一霞(ひとかすみ)おもほえずこそなりにけれと姿を隠すのだ、が。
「それでも、後シテはやっぱり、業平だったよ」
「えぇ。そうなの。ただし…よ」
「ただし…」
「ただし現行の『雲林院』では…よ」
「………」
「世阿弥の伝えた、現在(いま)の『雲林院』よりも、まだ古い本がありますの。それだと、黒頭をふり乱して
現れる後シテは、藤原の『基経が魄霊』なのよ」
 声を呑んだ。
「だって…彼は二条の后の、実の兄でしょうが…」
「そうなの。ところがその古い曲ですと、ツレの役で二条の后の高子も登場して、兄基経との道ならぬ
愛欲秘事を、こもごも語っちゃうわけ…」
「ほんとぅ…。信じられないなぁ…」
「ごめんなさい、そこはわたくしのちょっとした誇張なの…語られた形の上ではやっぱり業平が高子(たかいこ)を
奪って逃げているの。伊勢物語にあるように芥川を渡って。そしてそれを兄の基経らが追って……」
「伊勢物語じゃ、女は、さいごに鬼に食われる…」
「ええ。でも、古曲の『雲林院』では、鬼は出ません…。と言うよか鬼というのがつまり基経なの。秘
事を明かす体(てい)にして実は基経が業平の手から妹を取返したのだと、世阿弥の伝える曲でははっきり語っ

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ているんです」
伊勢物語では、業平に擬されている「昔男」が夜の闇にまぎれて女と逃げる。雨降り雷(かみ)はためき、男
は女を「あばらなる蔵」の奥に匿(かく)して戸を守るうち、おそろしや、

 鬼、はや一□に食ひてけり。「あなや」と言ひけれども雷(かみ)鳴るさわぎに、え聞かざりけり。
 やうやう夜もあけゆくに、見れば、率(ゐ)てこし女もなし、足摺りをして泣けども、かひなし。

「だけど…その女というのは二条の后で、兄の基経や国経が参内(さんだい)の途中、女の泣き声を聞きつけ、業平
の連れ出したという妹を奪い返した、それを『鬼』の所行と謂うてみたまで…と、伊勢物語はちゃんと
説明していたんじゃない。…ま、種明かしじみるから、後の人が面白ずく書き加えた気味もあるが」
「そうなのね。その限りゃと、世阿弥の自筆本というのンも、種明かし付きの伊勢物語をそのとおり曲
にしたんで、ナニ不思議もない…とは言えはしますの。…でもね…」
 宮道敦子のその話は、ともあれ面妖であった。だが幸田は惹き込まれた。話も不思議にこわいが、そ
れを「語る」敦子の表情(かお)が冴えていた。
 幸い古作(こさく)の「雲林院」は、日本古典文学大系におさめた『謡曲集』の上巻で読める。幸田も早速に現
行の稽古本とくらべ読みしてみたが、古曲では例の、ηいや が後シテに活きていて、なるほど業平な
らぬη形は悪鬼身は基経 が、実妹である清和の后高子(たかいこ)とともに茫然と現れる。自業自得の「鬼」と基
経が化して女をひと□に食ったという──それは妹を男として犯したことの表白というよりない表現が、

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定まっている。美男業平への嫉妬がさせた「鬼ひと□」の妄執(もうしゆう)だろうか凄いはなしだが、η業平か と
聞かれてηいや と否定しながらやっぱり業平が後シテで出てくる現行の「雲林院」よりも、はるかに
基経が「鬼」となってうめき出て来る古曲の方が、迫力が有った。
 だれが、いつ、どんな思惑あって曲想をアイマイにねじ曲げてしまったか。
「天皇家への遠慮が働いたろうか。陽成天皇のお母さんだし、入内以前の恋愛沙汰とはいえ、高子(たかいこ)は清
和天皇の皇后になる人だもんね、九つも年上で……」
「ことが、実の兄と妹との近親相姦を指していますしね。でも、ただ天皇家への配慮でしょうか…。こ
の二条の后の高子という人の一生が、貴族社会の華でもありつつ、また…くらいのよね」
「くらいのか明るかったのか、華とはいえ、どうも敗け側の華で、あげく…五十半ばにもなって誰だか
坊主とまた密通しちゃうんだ。それで、皇太后の位をはずされちまうでしょう」
「おかげでこの系統の皇室まで跡絶(とだ)えてしもて……どこか、ケチのついた生涯いう感じしますわね。そ
の、…そもそもが」
「従来思われて来たような、業平との情熱の恋ゆえでは、実はなくて、兄基経との、けもの道…」
「妹よりも、兄基経の執着が異様に強かったのね…まるで鬼のように…」
 それほど異様の事がひめやかに世に語り出され、くぐもったそんな声音のぞっと身に染(し)む舞台で「雲
林院」はあった…との敦子の示唆に、以来、幸田は「いかれ」てしまった。
 そんな話ばかりを、この一年半、してきたわけではなかった。が、そんな話が自在に楽しめる相手は
幸田のまわりに数少かった。ことに幸田にありがたいのは、敦子が、そういう話題をけっして彼の職業

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意識へ押ッ付けて来るような蒼蝿(うるさ)い真似はしないことだった。だから楽しめた。心から寛げた──。

 幸田は想った。──在原業平の恋人を奪った藤原基経のその長男が、つまり時平が、また在原氏であ
る美しい人妻を、ほかでもない父と一緒にむかし、業平を「足摺りをして泣」かせたという叔父国経の
掌から強引にむしり去って、男子を産ませた。生まれた敦忠は、ともあれあの保明親王と「乳母子(めのとご)」の
仲の大輔(たいふ)と歌など詠みかわしていた…。しかも敦忠が馴染んだ叔母の「おほつぶね」というのがもと陽
成院の後宮にいて、噂高い色好みの平仲(へいじゆう)とも浮き名をはせたやはり在原棟梁(むねやな)の女(むすめ)、つまり業平の孫娘、
であった。なにやら、この「おほつぶね」こそ有力な保明親王の「乳母」かと想われる……。
 そうなら敦忠と「乳母子」大輔とは従姉弟同士に当る…が、それも…ありえなくはない。
 だが…そうはいえ、保明親王は延喜三年に生まれて乳母を必要としていたのに、時平が叔父の手から
美しい在原氏を奪ったのは、延喜五年か、むしろ敦忠の生まれ年である六年正月の出来事であった。保
明のため「妻(め)の妹(と)」を乳母(めのと)に、というには、やや時機おくれではないのか。
 ここまで来れば例の、念を入れるにしかずと幸田は平安古代学のT博士を頼みに、京都の自宅へ電話
で質問をかけた。が、T先生、思案らしく、すぐに返事をくれない。
「…ンで…こんどは、どんな小説に出してくれはりますにゃ」
 ゆかたがけの丸坊主、堂々の体躯をとまり木に半跏思惟仏よろしく、祗園町(まち)の路地なかの暖簾をわけ
てご機嫌といった博士と、いつ知れず盃をかわす機会を重ねるうち、建礼門院に関する先生の論文を道
しるべのようにして、もう以前に、「平家物語」最初歩をめぐる長い小説を書いたことがあるのだ。T

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先生(さん)の論文は読んでいたが、お人と会うたことのまだ無い時分で、酒の席のことはフィクションだった。
むろん丸坊主とも堂々の体躯ともご本人を見もせずに書いた。書き終えてから本を送り、その後たまた
ま京都のペンクラブ会場で初対面を遂げて、両方で笑い合った。丸坊主、堂々の体躯に相違なかったの
だ、以来幸田の、「先生」だった。
「秋萩帖」ですと幸田は答えた。
 返事がないので「小野道風」ですと言いかえた。それから「後撰集の大輔」の素姓が知れなくて困っ
ているのですと、すこし情けない声で「在原氏」である可能性を問いかけてみた。
「えらいことに気がつかれましたね。……」
 博士は電話□でそう言いさしたまま、まだしばらく思案の体であったが、やがて、保明親王の後宮に
「在原マサ子」がいたのは確かなんです…と、ほとんど独り言であった。
 幸田があっけにとられていると、T博士は電話の向うからうって変った張りのある声で、勧修寺(かじゆうじ)いう
お寺はご存じでっしゃろなと聞かれた。高校の頃一度「氷室(ひむろ)の池」に咲く睡蓮がみたくてひとり拝観に
出かけ、なにかの具合であいにく観せて貰えなくて、小町の住居跡とも道風ゆかりともいう小野の随心
院を訪れてから、醍醐寺の方へまわったことがある。
「そうですか…。ンなら、も一遍行かはるとよろしいな、睡蓮テいうと夏が佳(え)ぇけども…」
「評判どおり…ですか」
「蓮の花はソーラきれいです。きれいやけど…そのきれいな蓮の台(うてな)で、蛙が蛇に食われよりますのゃ、
よぅけ…」

73

幸田の蛇嫌いを知っていて、T先生は威(おど)した。
「威すのゃない。ほんまですがナ。ぁ…蛙が逃げとるナ思て見てると、後を、シャシャっと葉から葉へ
蛇がえらい早いこと追いかけとる。よう見るとそれが一つや二つやない、あの広いお池のあっちの葉ぁ
でも蛇が蛙、こっちの葉ぁでも蛇が蛙を追いかけよりますのゃ…カンカン照りの下で…」
 辟易して電話を幸田が切りかけるとT先生(さん)はまぁま…と引き伸ばして、囁くぐらいに、あの蓮池を、
御所へ氷を献上の「氷室池」と等でいうているのは、間違いでっせと注意してくれた。そして、やおら
向うからこう告げた。
「醍醐天皇の、母方をしらべてみゃはったら…」
「やっぱり……」と、幸田は声を引いた。
みこやすあきら
 醍醐天皇の生母である胤子(たねこ)藤原氏の筋から孫皇子の保明親王のために乳母を出すというのは、さきの
在原氏よりも、もっと穏当だろう。
 この高藤(たかふじ)流藤原氏ならば、錯雑として数ある藤原一族のなかでももっとも温和に、政治よりは文学や
伝承をたっとんでいて時平(ときひら)も気がおけない。しかも高藤の女(むすめ)胤子と一番近い兄右大臣定方には、あつら
えたように女子が多い。
 たとえば紫式部の曾祖父堤中納言兼輔(かねすけ)も、祖父の雅正(まさただ)も、ともに定方の女(むすめ)を妻に迎えているくらい、
いや雅正の弟庶正(ちかただ)の妻もそうだったというくらいで、両家の仲は、ただならぬものがある。
 醍醐天皇の後宮にもぬかりなく一人送り込んでいた、その女御(にようご)の名が「仁善子(にさこ)」で、後に忠平(ただひら)の長男、

74

関白太政大臣藤原実頼(さねより)の室に入ったと或る系図には明記されてある。
 ところが、わざと幸田の行く手をあやかすように、もう一人の「仁善子(にさこ)」がいて、ややこしいことに
○すめきさ寺
左大臣時平の女であり問題の保明親王の后であり、父保明の死後に皇太子に立ちながらあっさりと「天
神」に崇り殺されたという幼い慶頼王(よしよりおう)の、生みの母でもあった。実頼の室になった「仁善子」は、この
時平女の方だという人もいて、実頼が伯父時平の婿だったことは、どうも事実であるらしい。またそれ
が「天神」がらみに彼の子孫に
不運をもたらしたかとは、どこ
か言いえていた。
 しかしながらT博士が暗示さ
れた醍醐の「母方」とは、なる
ほど勧修寺家を興した定方から
高藤へと遡るのも母方に相違な
い、が、それよりその勧修寺建
立を醍醐天皇のために最初に願
った生母胤子へ、祖母列子(つらねこ)へ、
さらに曾祖母へと遡る「宮道(みやぢ)」
の筋のいわれていたのを、いま
や幸田が聞きのがすはずはなか

           清和
           ?
           ?―――陽成
           ?
          ┌高子(二条后)
          │
          │    ┌時平──仁善子
     藤原長良─┤    │     ?
          └基経─―┼忠平   ?――慶頼王
               │     ?
               └穏子 ┌保明親王
                ?  │
           宇多   ?――┼朱雀
 大宅氏       ?    ?  |
  ?        ?――――醍醐 └村上
  ?―――列子   ?    ?
宮道弥益  ?   ┌胤子   ?
      ?―――┤     ?
      ?   └定方───女
    藤原高藤
               
75

った。
 この宇治郡大領といわれるいわば土豪筋の官道弥益(みやぢのいやます)や、その妻列子(つらねこ)大宅(おおやけ)氏の系譜に幸田が心惹かれて
きたのは、必ずしも「大輔(たいふ)」を詮索しはじめた最近のことではなかった。
み上うじ
 では「宮道」という苗字(みようじ)の敦子と出逢ってなければ思いつくことでなかったか、と言えば、それもそ
うばかりとは言えなかった。源氏物語の背後の闇をどう読むか。「紫式部」実像についてあれやこれや
想えば、いや応なく「宮道」という氏族の上古このかたの不思議へ突ッかかるしかない。だから敦子を
幸田は放さなかった、放せなかった、のだ。
 今は昔──の話であるが、藤原冬嗣という大臣(おとど)の六男だか七男だかに内舎人長門(うどねりよぢかど)があり、長門には高
藤(たかふじ)という、関白基経の従弟に当る眉目(みめ)うるわしい男の子があった。父も子も鷹の遊びが好きだった。
 この高藤が十五、六歳の秋九月ごろ家人(けにん)数人をつれて山科で鷹狩に日を暮らすうち、夕方、破天荒の
「雷電霹靂」に襲われ、みな散り散りになってしまった。
 高藤は馬飼の一人と、からがら西の山べに檜垣(ひがき)をめぐらし唐風の門構えをした屋敷へ馳(は)せ入(い)った。日
暮れをいといながら寝殿(しんでん)の板敷に腰かけて雨風はしのいでいたものの、漸く「心細ク怖シク」すくんで
いると奥から年四十ほどの主(あるじ)が出てきて、やがて闖入者(ちんにゆうしや)が北家(ほつけ)藤原氏の貴公子と知れると家の内に招じ
上げ、濡れた狩衣指貫(かりぎぬさしぬき)を乾かすなどかいがいしく世話をやいた。
 見ると檜網代(ひあじろ)の天井である。竹網代の屏風が立ててある。高麗端(こうらいべり)の畳三四帖を敷いたところで高藤が
疲れて横になっていると、薄色の衣(きぬ)一重ねにひた紅(くれない)の袴をつけた年十三四くらいな少女が、扇で顔をな
かばさし隠しながら食べものを運んできてくれた。

76

 恥ずかしそうに横向きに離れているので、「此寄(こちよれ)」と言いつけるといざり寄る。
 額つき髪のかかりあまり美しいとあきれているうち、少女は髪ふさやかに生い先めでたい後手(うしろで)をみせ
て下がって行った。そしてまた食べものを運んでくると、高藤の前をすこしいざり退(の)いて、大人しく侍(はべ)
っている。空腹に耐えていた高藤は、ともあれ「下衆(げす)ノ許(もと)也トテモ何(いか)ガハセム」とみな食った。酒も、
すすめられて飲んだ。
 夜も更けそのまま臥したが、さて先刻の少女の面ざしがつととらえて離れない。「独リ寝タルガ怖(おそろ)シ
キニ、有リツル(先刻の)人ココニ来テ有レ」と言うと少女が来た。こっちへおいでと引寄せて抱いて
寝た。いよいよ近まさりがして、可愛い。「有様モ極(いた)ク気高キ様ナレバ、奇異(あさまし)ク思(おぼ)ヘテ、契リ明シテ」
夜があけた。少年は佩(は)いていた太刀を形見に置いて、心浅く親たちが他の男に添えと命じてもけっして
諾(き)くでないぞ…などと綿々と言い置いて、そしてこの家を立ち去った──。
 以来六年高藤は余儀ない理由にも阻まれ、父にも死なれて、少女を山科に訪れることが出来なかった。
だが忘れる日とて、なかった。
 ついに六年過ぎた「二月(きさらぎ)ノ中ノ十日ノ程」に、以前の馬飼を案内にようやく都から馬を馳せることが
出来た。
「有(あり)シ人ハ有(ある)カ」と問えば「侯(さぶろ)フ」と家の者が言う。喜んで「寄リテ見レハ、見シ時ヨリモ長(おとな)ビ増リ
テ」微妙(わでた)いさまをし、しかも側に五六歳ばかりの「艶(えもいは)ヌ厳気(いつくしげ)ナル」女の児がいて、高藤の目にもそれは
よく自分に肖ているではないか。「然(さ)ハ此(か)ク深キ契モ有ケリ」と高藤は宿願かなって美しい母娘を都に
伴い、妻とし子として幸せに暮したという──。高藤の子孫の紫式部が、源氏物語に子こそなけれ光君

77

が若紫を、また匂宮が懐妊の宇治中君を迎えとった、ないしそれ以上に、女児明石姫もろとも明石上を
都へ源氏が迎え入れた、これは、想像と創作との原形であっただろう。
 さて、この女の児胤子が、後に宇多天皇に娶(め)されて醍醐天皇を生んだ。天皇がたの息炎を願って生家
の地に勧修寺も建てた。胤子の実弟の三条右大臣定方は、だから醍醐天皇とは極めて身近な叔父と甥の
間柄になる。
 この叔父定方の家から、醍醐の最初の皇太子保明親王に乳母をさし出すなどは、これ以上ない自然…
なことと幸田は想像した。確信にちかくそう想像した。その途端、烈しく電話が彼を呼んだ。

78
 
 
 

     五 の 帖
 

 タクシーを待つ間に、にわかに波のさわぐような雪の吹き降りだった。削り鰹みたいと、並んだ列の
うしろの方でだれか女の声が、淡く巻いた雪のひらひらをうまいこと謂(い)っている。雪の師走の、こう押
しつまってから京都へ来るとは思いがけなかった。おぉ寒む…首がすくむ。濡れたタイヤをチチと鳴ら
して個人タクシーがドアをあける、荷物をなげこむ、その瞬時の街風(つむじ)を襟首に巻いて肩に膝に大きな雪
片(せつぺん)を積んだまま、幸田は胴震いして車中の人になった。
「どうなッてんの、これ。関ヶ原でも彦根でも今日は降ってなかったのに…」
 運転手はぬかりなく前へ出ながら、ヘへと笑った。穏やかな□つきでどこへと聞かれ、とつさに「え
ぇと、…」と幸田はつッかえ、「とにかく河原町(かわらまち)を通って…」
 新聞社とは、二時までに二条大橋ぞいのホテルヘ入る、あとの段取りは顔が合ってからという約束。
元日の付録読みものに、だれでもけっこう京都の女性を幸田から名ざしで、「新春はんなり、京のわる
□」を「おめでたく」対談して欲しいと急な電話だった、いやそうではなかった。電話はあの時、一度

79

鳴ってするどく切れたのだ。絞ったように空気が濃くなった。
「なァに今の…」と妻も顔を出した。黙って顔を見上げていた、するとまた鳴った。今度は続けて鳴っ
た。新聞社と分って安心して妻は出て行った。
「何で…わたしが…」と、依頼の筋にびっくり。
 四半世紀の余も京都から外へ出て、外から幸田は京都をみてきた、それが、いっそ人選の矢をたてた
理由ですと向うは言った。
 ほんとうにお相手は、だれでもいいのか。
 念を押してから幸田は、「筆屋の副社長」を知ってますかと電話のさきへ尋ねた。
 事はとんとんと運んだ。新聞社の都合で幸田が京都まで出かけて行くときまったが、お互いに「初対
面」という事で話は通じていた。むちゃなことをと思いつつ、実の初対面であれだけ架空の会話を人な
かで共犯共演してくれた敦子だった、素知らぬ顔で、また逢ってみたい。
「せっかくだから…出逢いの舞台は、先方(むこう)さんに演出してもらってよ」
「そうですね。…その手もありますね」と新聞社に乗り気になられても、それも奇妙に落着かずに、任
せますと受話器を置いた。約束のできた十三日は、一週間後の、金曜日だった。
 その一週間足らずの間に、「大輔(たいふ)」のことで出不精の幸田がたて続けに外出した。ある大学の文学部
図書館に便宜があった。読める限り読んでそして問合せの、手紙で間に合わぬと思えば、電話をかけて
もその人の論文や本のことなど訊ねたりした。京都のT博士とお対(つい)で知り合った埼玉のM教授もいた。
西行所縁(ゆかり)のこの著名な研究者とも、小説世界(フィクション)では、何度か京の酒を楽しく酌みかわしてきた。二人して

80

日野の一言寺ちかくへ、ふるい琵琶の曲を聞きに出かけたこともある。現実(リアル)には本を送れば礼状の、手
紙を出せば返事の来る律義で親切な、間違いない幸田には嬉しい「先生」の一人であった。
「うーン、大輔の在原氏説というのは、もし在っても従えませんね、そりゃ。もっとも皇太子の乳母(めのと)と
いうのは三人いますから、在原方子(まさこ)がその一人で構わないんです」
「三人…」
「そうですよ。在原方子はおそらく在原元方の縁の者でしょう。この元方という男は、美しい北の方を
甥の時平左大臣にさらわれた、例の老大納言国経の猶子(ゆうし)、つまり名義上の子ですから…」
「すると…その元方あたりが北の方一件では、ひょっとしてですよ。老いぼれた国経を売って本院の左
大臣時平にアクドい知恵をつけていたなんてこと、なかったでしょうか。少将滋幹(しげもと)の母、つまり中納言
敦忠の母にもなる国経北の方は、在原元方の妹なんでしょう」
「元方が時平に知恵をつけて掠わせた…ね。ウガッてますね。ま、ノーコメントとします。しかしキワ
ドイところを、あなた、突いて来ますなァいつも…」
「お忙しいのに、済みません。済みません序でにナンですが、…三人も乳母がいたというさっきのお話。
在原方子がその内の一人としますと…」
「も一人が藤原朝臣キョイ子かな、精神の精の字。それと良参朝臣ヤブ子、養う父と書きます。この二
人が保明(やすあきら)皇太子の乳母であったのは、確かですよ」
「と、キョイ子藤原氏というのが、大輔(たいふ)の…」
「そぅ大輔の母、つまり『御乳母(おんめのと)の命婦(みようぶ)』といわれてた人で、あったのかも…ね」

81

 幸田も、「乳母(めのと)の命婦(みようぶ)」のことは醍醐天皇の『延喜御集(えんぎごしゆう)』という本で確認していた。遠い電話でよく
耳に届かなかったが、たしかT博士との時にも同じ「乳母の命婦」のことを言われた気がする。醍醐天
皇の御集には、皇太子の「御乳母の命婦のむすめ、たいふの君とてさふらひける」とあって、さらに男
女の別は知れずに大輔は「御子(みこ)ありける人なりければ」とさえ書き添えられていた。延長元年(九二三)
の五月、保明皇太子の俄かな死の門出を嘆いた「いまはとてみ山を出づるほとゝぎすいかなる宿に鳴か
むとすらむ」という、後撰集や大鏡にも、大和物語にもみえている大輔の歌の、それは、ながい詞書の
一部なのでもあった。
「但し藤原朝臣精子がそこで謂う『御乳母の命婦』で事実あるにせよですよ、仮りに。それでも、その
女の素姓は、やっぱり確認できないんですよ」
「でも藤原氏…」
「はい、それは藤原氏のようです」
「先生…その精子キョイ子ですが、後撰集のうしろの方に、命婦清い子、清子という女房が一首賀の歌
を採られていましたよね…。精と清いは、字も音も似てますし…」
「うーン…」とM教授は電話口で、また、うなった、「状況が…。どんな歌か…」
「朱雀院が殿上で、お母さんの大后穏子(やすこ)だかと碁を楽しまれる時のように思いましたよ。碁筒(ごけ)の蓋だか
に『君が代の尽きん限りは打ち試みよ』と祝って…」
「大輔もそやったし、乳母の命婦も保明皇太子に死なれてからは大后方の女房になって、いゃ戻って…
テも不思議やない」

82

「ただ先生、どの筋の藤原氏なのか、ですが、勧修寺(かじゆうじ)定方女(むすめ)の一人かナ、とも考えてみたんですが、こ
れは…いけませんね」
「定方ね…。勧修寺流へ持って行って下さるのは、我が意を得たという気持ちがします…。さ 、定方だ
が…どうでしょう。おもしろくなりました…ね」
 それよか一度ホントに会いましようと、まだ会ったことの無い同士の笑い声も漏れ、電話は切れた。
 おもしろい…か。
 そうは言われても、頼みの勧修寺定方の女(むすめ)説には幸田自身が落胆していた。どう割引いても貞観十五
年(八七三)生まれの定方の年齢(とし)は、保明親王に乳母の必要な延喜三年(九〇三)に、乳の出る娘をも
つには、若過ぎた。
 幸田は思い出した。M教授も電話□でいわれた。「大輔(たいふ)」の名の由来する八省の「輔(すけ)」たりし近親縁
者を探らねばならない、しかし該当者は発見されていない、と。
 でも…なぜ「輔(すけ)」でないと、いけない。待てよ…。
 文献的にもっとも古い由来をもっとみえる『延喜御集』にはみな「たいふ」とあり、『朝忠集』の巻
首にも「たいふ」と書かれ、第五音には漢字で「又、大夫に」と宛ててあった。巻尾の歌もこうあった。

    大夫がもとよりあけぼのにいでゝ
  もろともにをるとは無しにうちとけて
    見えやしぬらんあさがほの花

83

「曙」に女のもとを立ち出でて帰るとは安からぬ景色であり、閨中、「折る」「折れぬ」くらいなせめ
ぎは有ったにせよ、お互い寝くたれの露けき朝顔を見合って別れて来たとは、めでたい。幸田は、宮道(みやぢ)
敦子のまッ黒い朝寝髪が岩うつ波ににて枕をこぼれたさまを目に想った。「たいふ」をめぐってはこの
『朝忠集』むげには見過ごせない。それにしても──。
上たいふ
 八省の輔(すけ)だけが「たいふ」ではなかった、訓(よ)むときに限って「だいぶ」と濁って大輔と区別する「大
夫」があった。いま問題の女房(ひと)の召し名を明白に「大夫」と書いた本もちゃんと行われていた。手もと
の『朝忠集』などついに一ヶ所も「大輔」とは書いていないのだ。それなのにいつか「大輔」にされた
のは、古今集歌人の「大輔」にひきずられたかも知れないし、古代の手書きの緩怠とも寛大ともつかぬ
風に塗(まみ)れたやも知れず、それ以上に後世の学究が安易に思いこみを重ねて来たとも言えよう。
 バカな。皇太子の乳母子(めのとご)やないか…なんで「春宮大夫(とうぐうのだいぶ)」に気イつかなんだ、俺は。
 幸田はおもいきり自分の膝を打った。
 公卿補任(くぎようぶにん)によれば醍醐天皇の延喜四年(九〇四)、保明親王の立太子にともない、即ち三月十日に、
従三位(じゆさんみ)右大臣の源光が皇太子傅(ふ)を兼ねた。仁明天皇の第三息子から源氏に降(くだ)った人、ここは名誉職であ
り、本務は春宮坊(とうぐうぼう)の『大夫(だいぶ)』が執る。従四位下(じゆうしいのげ)相当の官で八省の「輔(すけ)」つまり次官よりは重い。この時
新任の春宮大夫──が、泉大将、これまでちらとも頭をかすめないで来た勧修寺家の藤原定国だった。
定方同母の兄ではないか…。
つらねこみやぢ
 定国は延喜四年には年齢(とし)三十八。母は醍醐天皇生母を産んだ、あの高藤が思い妻の列子(つらねこ)宮道(みやぢ)氏山科の

84
                国経
                ?
            ┌元方 ?―――滋幹
            │   ?
   在原業平――棟梁―┴――北の方
                ?
                ?―――敦忠
                ?
               ┌時平──仁善子
               │     ?  ┌熈子女王
         藤原基経─―┼忠平   ?――┤
               │     ?  └慶頼王
               └穏子 ┌保明親王
                ?  │
           宇多   ?――┼朱雀
           ?    ?  |
 大宅氏       ?――――醍醐 └村上
  ?        ?    ?
  ?―――列子  ┌胤子  ┌女(仁善子・能子)
宮道弥益  ?   │    │
      ?―――┼定方──┴朝忠
      ?   │    
     ┌高藤  └定国       保明親王
     │    (藤原精子又ハ清子) ?―――みこ
     │     乳母命婦─────たいふ
藤原良門─┤
     │    ┌兼茂──兵衛命婦
     └利基──┤ 
          └兼輔──雅正──為時──紫式部

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里の女に相違なく、従三位(じゆさんみ)大納言右大将(うだいしよう)で陸奥出羽の按察使(あぜち)も定国は兼ねていた。のち右大臣にまでな
る弟定方はその頃はまだ一介の近江介(おうみのすけ)、位は正五(しようご)の下(げ)に過ぎなかった。
 定国には実の姉胤子の、孫なのであった、新春宮の保明親王は。その春宮坊(とうぐうぼう)の長官、つまり「だいぶ
(大夫)」に定国は就任していたのだ。まことに自然な人事といえよう。
 任にあった期間は延喜四年二月から、六年七月二日にあたら年齢(とし)四十の若い死を迎えたまで。
 その間に定国の縁に繋がりしかも「御乳母子(おんめのとご)」といわれるような稚(いとけ)ない少女が、わずかに歳下の皇太
子と筒井筒に丈を競いあうほど仲良かったとして、その子が誇らかに「だいぶ」(濁点をいとう習いか
ら、書けば「たいふ」)と父定国の官名を名乗っていても、これまた微笑ましいくらい自然に想われる。
 ほかの乳母二人の束(たば)ね役にも春宮大夫のかりに妻妾の一人が筆頭の乳母に任じられて、なに不思議は
ない。大納言大将の妻が「命婦(みようぶ)」とはやや重みに欠けた名乗りだけれど、定国の子をなす以前からその
名で女御穏子に宮仕えしていたのが、縁あって定国の男ぶりになびいたのならば順当、四位五位の者の
女(むすめ)なら「命婦キョイ子」で十分だった。
 だが、藤原朝臣精子もしくは清子とは、どのような親に生まれて、いつ、泉大将定国妻妾の一人に加
わっていたか。
 なぜ定国のことを、世に、「泉大将」と謂うのだろうか──。

 京都へ明日は立つという日の夕刻から、幸田は妻といっしょに予約してあった白金台のホテルヘ、す
こし早いクリスマス・ピアノ・リサイタルを聴きに出かけた。ピアニストははでに名の知れた人ではな

86

いが、若くからヨーロッパ各地をさすらうようにして民謡を採集し、そのモチーフで沢山なオリジナル
のピアノ曲を書いている。幸田より一つ二つ年かさなその人のことを懇意な京都のファンに紹介され、
それにしようと夫婦して決めた。
 幸田が満五十の誕生日を旬日の内に控え、夫婦二人のある記念の日も二日前に見送っていた。兼帯の
祝意を、そういう珍しいリサイタルとそのままホテルに一泊でと一決をみて、しかも翌朝チェツク・ア
ウトした足で幸田ひとりは京都での新春用の対談へと、繋ぎもついた。京のホテルが東京に店を出して
まだピカピカという噂にも、好奇心は動いていた。
 簡素なディナーの最後に福引があって、幸田の妻は数百人の客のなかで、アウガルチンのティーカッ
プにソーサーも添えた二客分、第一等のくじをまっ先に引き当てた。
「まあ……」と、幸田などの目にはうら若い髪の長い司会者は感嘆の声をしばるように、「マリア・テ
レジアでございますよ、奥様…すばらしいわ…。十八世紀初頭、ハプスブルグ家の保護のもとに開かれ
ましたウィーン窯──。その伝統を受継ぎましたアウガルチンのお店はウィーンの目抜き通り、王宮に
もほど近く美術館とブティックを兼ねたような、それはゆったりした表構えだそうでございます。わた
くしは残念なことにまだ見たことはございませんが…」と笑わせて、「このシックな渋いオリーブ色の
花柄シリーズ『マリア・テレジア』こそは、ウィーンそしてハプスブルク家を象徴するテーマカラー。
アウガルチンを代表する逸品でございます、今夜ただお一人にとご用意致しましたお品が、こういきな
り……奇跡みたい…」
 拍手のなかで妻は当惑して顔を伏せていた。幸田は二十八年まえ、妻にプロポーズした。学生だった

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むかしより妻は華奢に年をとって、こういう晴れがましさに子供のように照れるのを、まわりと一緒に
笑って見ていた。
「あれは佳いものだぜ、ほんと」
「ほんとよ、だからワルいわ…嬉しいけど」
「複雑な心境ッてところか」と二の腕をかるくつついた。妻のツーピースが晴れ晴れ朱いぺイズリィー
であった。
「これ…。池袋で…ほら、十月に買ったの」
「十六日…。佳いねそれ」
 迪子はうなづいた。その日付けは、二十八年まえ二人ではじめて京の大文字山に登った日だった。持
参の魔法瓶を登り坂にぶつけて割ってしまい、飲みものなしにサンドイッチを食べながら、大文字の北
裏の、あたたかな秋日和の草の斜面にもたれて大きな大きな比叡山をまおもてに眺めた。山一面に紅葉(こうよう)
は兆していたがそれもほのかに、空も雲もますみに高くてまぶしくて、二人ははじめてのキスを目を閉
じたままかわした──。
 我にもなく幸田はグラスにあましていた赤いワインをがぶりと□に含んだ。
 同じホールのどこかへ同じペイズリィーの式部頼子が、あの少女を連れて来ていはしなかろうか。二
人してこっちにもう気がついていはしないか。幸田はそんな心惑いを、含んだ酒の味といっしょに飲み
こんだ。
 リサイタルは楽しめた。尋常に黒い服で小太りのピアニストは、ちょっと韓国人ににたまる顔の、ど

88

こといって冴えた感じのない髪ももじゃもじゃと半白の男だったが、音楽はとびきり上等だった。耳に
なじんだモーツァルトやショパンのそれらとはかけ離れ、しかし土や草木や牛、羊などの匂いの濃い、
そして人声さえ低くしかしゆたかに聞えそうなヨーロッバの田舎に根ざしたクリスマス音楽は、みじか
いのもやや長いのも、言えば堪らない「味」であった。
 見まわすと目をとじて聴き入っている人が多かった。
 幸田も妻も、中で異色の、カスピ海の西南にちいさな港のある村の「もの憂いほど明るい晩春の結婚
式で」取材できたという、いわば「地主神」を称(たた)えた誓いの歌には胸をしぼられた。メロディーとリズ
ムが自在に交替して(幸田には、そんなふうに表現するよりほかの理解はなかったが)、ときどきボン
・ボンと重い音を刻む──。
「庭に出てみないか」
 当選の品物も貰って会が果てたあと、十二階に佳い部屋の取れている幸田らは、留守番をしながら男
子高の期末試験に備えている建日子(たけひこ)に電話をしてやる位しか用はなかった。「寒かなくて」と迪子に尻
ごみされて、その時に幸田はふと思い付いたのだ、
「そいじゃ君はロビーで、紅茶でも飲んでてよ。あの真正面らしいからね庭は。きっと両方から見える
よ、その感じを知りたいんだ…」
「いいわよ」
 こういう酔興を役立てては夫の創作(しごと)が成立ってきたことを、妻は笑って心得ていた。
酔興ばかりではなかった。夕刻四時まえ、ホテル玄関へ足を踏み入れた時から、真正面に一段沈んだ

89

ひろいロビーの奥へ、どーんと大きな硝子越しに欝蒼と樹々の繁みが向うの崖を小高く蔽っているのに、
幸田は目をとめていた。見たような景色だが、はて…と先刻は胸にしまったまま今妻を、「庭に」と誘
って、思い出した。沼袋の常行寺墓地の奥にくらい一枚の沼が沈んでいた。沼の向うに人のけはいがあ
り、廊下越しに部屋に灯が入っていた…。
 ロビーに妻を送りこんでおいて幸田は、ボーイに聞いたとおり地下一階の脇のドアから外へでた。深
い山なかの風情とみえていたが、存外間近にコンクリートの塀がめぐっていて、樹木のすきまに隣接し
たビルの影も、わずかに虧(か)けてこうこうと月の面影も、見え隠れした。
 渓にでも紛れ入ったように足もとが昏い。目のまえの石段をそろそろ登って行く、と、左へ右へ岨(そわ)を
巻いて手さぐりに木下道(こした)がのびている。やがて闇をえぐった崖の上から真正面やや見下ろしに意外に遠
くひろびろと、シャンデリアきらめく喫茶室やロビーが素通しに見えた。月も頭のまうえに見えた。あ
かい服の妻が腰かけてこっちを見ていた、幸田は手を振った。しかし迪子には彼が見つからぬらしく視
線を浮かばせている。しまいにお茶を飲みはじめ、ふかふかとソファに身をまかせたりしている。鈴を
鳴らして客を呼び出すボーイの看板が、ゆっくりと遠く遠くを横切(よぎ)るのも見えた。
 心細くなって幸田はすくんでいた。足もとを覗くと、かなり深い場所にとろりと光って細長い沼が地
下食堂のそとに横たわって見えた。妻はちらちらこっちをうかがうらしいが、照明が戸外の闇に溢れて
映るのだろう、幸田の姿を捜しあぐねていた。あとじさりに彼はもとの道へ戻りかけた、まうしろまで
人の影が来て立つとも気がつかずに。
「失礼…」

90

とっさに身をよけて擦れちがった。女の佳い匂いがくらやみにはッとにじみ、ここにも一人思いのほ
かの月の客を、胸を鳴らして幸田は振返った。女も…振向いた、顔だけがほうと白かった。顔ではなか
った、木の間を漏れて闇に浮かんだ電柱の青白い灯(ひ)のたまを、幸田は息をつめてただ見ていた。まぼろ
しに、一面の萩がほろほろと咲いてこぼれて、雪のように。
 お母さん…と、幸田は声をのんで。

 ──妻のそばへ戻っても幸田はそのことを黙っていた。黙って熱いコーヒーを啜った。高い天井のあ
りとあらゆる照明がめずらかな景色を窓の外の闇に生み出していた。
「なにも見えないでしょ」と、妻は幸田をくどくは刺激しなかった。おうむ返しに応えながら夫はいつ
も来る胸の痛みをかすかに悩んでいた。いつ見きとてか恋しかるらむ……。たしかに覚えたあの匂い、
初めてではなかった。ならば…きっと、また出逢おう。
 ──ホテルの一夜は暖かかった。
 夜があけても迪子はすやすや寝入っていた。幸田はもう一度ひとりで、新聞を読みに一階ロビーに降
りてみた。無性に、熱いコーヒーが欲しくもあった。縞目に朝日を浴びた外の眺めはこともなげに青々
と、崖の向うは、どう見ても深い山なかとしか見えなかった。ここからあっちを見る。あそこからこっ
ちを見下ろす。間には…沼か、泉か。幸田は地下へ降りてまた崖の正面へのぼってみた。自然の沼をそ
のままホテルの庭園に活かした手ぎわはなかなかのものと見え、そして──噂に影をみつけたような、
既視感(デ・ジヤ・ヴユ)…、「また、来ている…」という声を耳の遠く遠くに、聞いた、と、思った。

91

 ──迪子は、ゆうべアーケードで幸田に買わせた手ざわりの静かな黄鬱金(きうこん)の鎖で、ペィズリィーの腰
をはなやかに結んで、満足して、目黒駅から夫と逆の池袋の方へ帰って行った。
かろうじて十一時まえに「ひかり」に乗込んだ幸田は、発車を待たずに腕組みして睡魔に誘いをかけ
た。いつごろからか、からだを使ったあと小半日は睡む気が残って、そのくせ寝入れない。ゆうべ白萩
のまぼろしに、とっさに胸をついた「いつ見きとてか」という歌を目をつむり繰返し繰返し幸田は□遊(ずさ)
んでみた。

  みかの原わきて流るる泉川
    いつ見きとてか恋しかるらむ  兼輔

 山城国の南の端、瓶(みか)の原の故京を東から北へゆたかに巻いて遠く淀川にそそぐ木津川、むかしの名を
「加茂川」ないし「泉川」、にまぢかい当尾(とおの)の里で、父も母も知らぬ幼時を幸田は祖父の庄屋屋敷に四
つの夏まで育った。父は行方が知れず、生みの母は父の屋敷に入れて貰えなかった。幸田自身やがて母
にも秘密に人手にゆだねられ、京都市内で育った。生母は、だが、彼が学齢の時分には捜し捜しあてて
来た。さりげなく養家を訪れ、校門で待ち、よく行く遊び場もおぼえて、最法寺跡に秋香る萩の庭へま
でも忍びよるように、声ひとつかけず、彼の顔を見に来ていた。彼は、それを、知っていた──。
 泉川。いづみがわ。いつみき・とてか……。

92

言えば何もかも繰り言にすぎない。母ははやく死んだと聞いたし、実父も死んだ。母とも父とも一度
も呼びかけなかった。機会も意思もなかった。このおれとは「分きて」関わりなく流れ去ってしまった
父母の川、泉川。「何時(いつ)その人を見たる事のありて、かやうに恋しくはある事ならん」と『百人一首一
夕話』は一首の大意を読んでいた。紫式部の曾祖父などと知る由もなく、だが「泉川いつ見きとてか」
の歌一つゆえに場中納言兼輔(かねすけ)の名が幼時から幸田には、なつかしい。
 彼は──またしても「たいふ」のことを考えていた。いまが今、対談を名目に逢いに京都へ急いでい
る宮道(みやぢ)敦子のことも考えていた。
 道風が、「たいふ」に逢いに出かけたのに、生憎と「先だちてむねもちが」いたため、人づてに「早
帰りね」帰って頂戴と耳打ちされた。後撰集(ごせんしゆう)にその時の歌のやりとりが見えるが、恋路を阻んだ「むね
もち」の皆目探索が利かず、本によって「兼茂」とある。「かねもち(四字傍点)をよしとすべし」と江戸時代から
国学の人は言っている。
 兵衛督(ひようえのかみ)兼茂ならば兼輔の兄で、娘に歌よみの「兵衛」命婦(ひようえのみようぶ)がいた。兼茂兼輔ともに家は東京極の「加
茂川」堤にあったが、兼輔には東山栗田に聞えた山荘があり、そして兄兼茂も右京郊外の太秦(うづまさ)、音戸山
の南麓に山荘をもっていたのである。
 後撰和歌集の「たいふ」が歌をやりとりした相手で、はっきり「太秦」に彼女がいたと告げているの
は、一人は道風(みちかぜ)で、もう一人は位人臣を極めた小野宮の藤原実頼(さねより)である。実頼の歌はこうであった。

    秋、たいふが太秦の傍(かたは)らなる家に侍りけるに、

93

    荻(おぎ)の葉にふみを挿して遣(つか)はしける
  山ざとのもの寂しさは荻の葉の
    なびくごとにぞ思ひやらるる

「道風忍びて参(ま)うで来けるに、親きき付けて制しければ」と理(こと)わって「たいふ」は、道風に、「いなづ
まの光の間にも君を見てしが」と歌をやっていた。この「親」とは、では「兼茂」なのか。それでは春
宮大夫(とうぐうのだいぶ)定国と春宮御乳母の命婦とを親に生まれていたのが即ち「たいふ」かという、このほど来の幸田
康之自身の推理はどうなるのか──。
 雪──は、晴れていた。時間を気にしながらかけ込んだホテル・フジタでは、だがメッセージ一枚だ
けに幸田は迎えられた。学芸部のO君からで、「小野さんにご趣向がお有りのようです。五時半に車で
お迎えに上りますので、お部屋でごゆっくりお休み下さい」と鉛筆の走り書き。ヘッ、と達筆のメモで
鼻のあたまを叩いてフロントの女性に笑われた。
「小野さん」とは…。
 これもご趣向なのか。二度三度新聞社との連絡にも、両方であの宮道敦子のことは「筆屋さん」「筆
屋さん」で通してきた。小町に化けて出る気かな。
 部屋は東向きのツインが用意してあった。
 東山の峰々がうそのように寒く晴れ、冬ざれの加茂川堤を白い風に舞ってみやこどりの二、三羽がま
んじ巴と弧を描いている。

94

 幸田は身軽になり、新しいワイシャツをハンガーにかけておいてざぶざぶ顔を洗った。……と、肩か
ら背中へ、静かに押してくるちからのようなもの。
 電話…。
 電話ではなかった。はいはい。洗面所を小走りに出てドアをひく、と、スラックスの敦子が、肩をす
くめて滑りこんだ。時を押す大きな車輪は羽一枚の美しい重みで、巌を噛んだようにふっつり停止した。

 夢だよ…これは。夢…なんだよこれは。そんな言葉を涯しなく敦子の耳にささやいていた。
添い遂げたいの、それだけ。
 美しい乳首が紅をはいたように匂い、敦子の息はすずしい香(こう)を薫(た)いたように匂った。幸田は指さきを
そっと立てて右から左から、爪まで光ってひらかれた敦子の両の脚のはらを、とん、とんと歩ませる。
「こっち高野川…、こっちは加茂川……。ね」
「いや…」
「そして、川と川とがここで…出会いまして、鴨のお宮…」
 敦子は身を添わせてくッと反り、うち伏す幸田を深々とまた五体に沈めた──。
「もったいないことを、仰言やるのね」
「寿詞(よごと)をとなえただけさ、国産みの神さまだって柱をめぐりながら……」
「いや。…もう子供は産みとないわ」
 言った敦子の体温は一瞬冷め、はッとまた熱く抱かれてきた。敦子に子供のいるいないをすら一度と

95

して幸田は確かめてなかった。その必要を感じさせない敦子ではあった。だが、向うは幸田のことはよ
く知っていた、余計な□入(くにゆう)で彼の現実を侵しはせぬだけだった。
「あなたは、小野さんだったの。小野さん、が、現在の苗字なの…それとも」
 しかし敦子は接吻をせがんで答えなかった。かたち佳(い)いおんなの唇が、冷んやりとちからを持ってい
た。幸田は目をとじ乳房に掌(て)をそっと置いた。敦子を抱いて、それこそはいつも幸田のたからものであ
った。
 逢いたかったわ、逢いたかったわ。
 目の底を、しろい萩の花が無数に散っていた。顔をおおって敦子がせきあげていた。
 静かに時の車輪がまた動いていた。敦子の化粧は手早い。幸田は川を見ていた。
「金沢の綾地切も、見てきたんだがナ」と、浴室から戻ってきた敦子を顧みた。
「えぇ。そやけど綾地切どこやなかったんでしょう。……大輔(たいふ)に、それで…限りなく接近しはったの」
「もちろん、と言いたいが…」
 ソファに並んだ敦子に、つい昼過ぎまでの思案のあらましを話した。まだ目にほうっと血色を浮がべ、
敦子は頬に繊(しろ)い指を添えてじっと聴いてくれた。
「保明(やすあきら)親王が立(りつ)太子のときの、新任の春宮大夫(とうぐうだいぶ)に目をおつけになったのは、さすがやわ。定国は、左大
臣にとても買われていた人ですものね」
「そうなの…」
「大和物語に泉の大将定国が、ひどく酔って夜更けに時平の家にたち寄るお話が、たしか、あったわ」

96

「あぁあれ…ね。あれはむしろ、時平が驚いてどこからのお帰りかと聞いたのに対し、お伴(とも)の壬生忠岑(みぶのただみね)
が、なンだっけか…かささぎの、渡せる橋…」
「…橋の、霜のうへを、夜半(よは)に踏み分けことさらにこそ…」
「まるで時平と定国がホモみたいだけど、つまり忠岑の機智の歌詠みを褒めていた一段でしょう」
「でも左大臣みずからがよ。どちらへお出ましのお序ででしたかと急いで格子を上げさせた、つまり晴
れの場にあらためたというのだって、また忠岑の歌に感心のあげくとはいえ『いとあはれにをかしと思(おぼ)
して、その夜一夜(ひとよ)、大御酒(おほみき)参り遊び給ひて』大将に佳い着物を贈ったり、忠岑にも土産を与えたりとい
うのだって。ね。ただごとじゃないと思いません…」
「……そうか…。そう、だったのか。その一夜の内に…」
「ええ、その夜の内に」
「実は定国が酒の酔いを上べよそおいつつ、熱心に、数え歳二つの保明の立太子を勧めに来ていたの…
ならば…」
「親王は、時平の孫ですものね」
「定国には、実の姉の、孫。それでこそ、夜半(よわ)に踏み分けことさら訪れたッて…わけ、か。時平が下へ
も置かなかったはず、だ」
「定国自身春宮大夫になりたいのも、宮仕えの経験のある奥さんを乳母(めのと)に任じてもらうのも、これくら
いお膳立ての調った交渉はなかったでしょうね」
「しかし…その奥さんがぼくのいう『だいぶ』の母親だとすると、例の、親きき付けて制しければ…の、

97

その親かも知れない藤原兼茂のことが、問題なんだ…」
「それは問題ゃありません。『だいぶ』があんな歌を詠んで、道風(みちかぜ)なんかと恋のできた年齢(とし)には、とっ
くに定国は死んでいます、でしょ…」
「あ、そうか。彼、春宮大夫(とうぐうのだいぶ)を兼ねた大納言右大将のまま、たった二年後には死んでいる」
「兼茂は定国の家司(けいし)でしたの。弟の定方に対し、兼茂の弟の兼輔がやっぱり家司(けい)しやったように」
「と…『だいぶ』の母は定国が死んだあとで、兼茂の妻に直ったわけだ、よくあったことだもンね。そ
して…その母親の里が、太秦(うづまさ)にあった…」
 敦子は、だが、黙って起って手で幸田を制し、時計の針を指さしさし、音もなくハンドバッグをつか
んで、部屋を出て行った。
 新聞社が約束の迎えまでに、三十分となかった。

98
 

     六 の 帖
 

 濃いまどろみから、身を揉むほどにして幸田はひとりホテルのベッドで目配めた。窓越しはるかに、
薄雲を被(き)て比叡山が淡く夕焼けていた。
 胸が鳴る。
 窓へ立って、一気にカーテンを引いた。川面も、川向うも、うちつづく屋根屋根も暮れそめて師走の
底で寒げだった。白いものも散っていた。
 ぞッとする心地に幸田はルームのありとある電灯をつけてまわって、それから、顔を洗いに鏡の前へ
行った。
 鏡の前に、見馴れない櫛らしいものを見つけ、手にとった。櫛とはいえぬプラスティックの、柄(え)のな
いブラッシュだった、ただ歯の部分が合歓(ねむ)の葉の寝入ったように拝み打ちになっていて、掌(て)に収まるほ
ど(二字傍点)良さが、背をまるめた感じに持ち易い。背筋を指で押すと、歯がパチンと腹で開いて恰好のブラッシ
ュになった。

99

 夢やなかったのか。敦子がいて、今…帰って行った、忘れもンを残して。
 幸田はためらいなくブラッシュで自分の髪をすいてみた。引かれる感覚が髪にあった、なのに…櫛は、
掌の中で溶けたように失せていた。鏡に照れてしまった幸田は、む、と怖い顔になりとって付けたよう
に歯を磨きだした。
 迎えの車は新聞社の旗を付けてはいなかった。ハイヤーとは恐れ入るな。苦笑いしながら、
「行く先は…」とも訊く気が失せていた。
 宵やみを分けて、車は妙にせまい町なかを走っている。京の町なかば表の大通りとはちがい、ことに
こんな雪暮夜(ゆきもよい)は晩(くれ)がはやい。タイヤの音が濡れて耳につき、ライトに浮かんで先触れをつとめるように
底冷えの街風(つむじ)が、俄かにまた降りしきる師走の雪をフロント・ガラスの前へ前へ吹き巻いて行く。
 運転手も幸田も堪えたように黙っていたが、それもそう永くなかった、徐行して…烏丸(からすま)通がさきに見
えていた。
 丸、竹、夷(えびす)川…この通(みち)を来てたのか。なら、そこの角がK新聞。新聞社の会議室で対談すンのか、な
んゃいな。それならタクシーで社まで来てくれて、済んだのに。
 しかしハイヤーは案に相違しウソのように明るい烏丸(からすま)の大通りをつうッと突き抜くと、またも西側の
小路(こうじ)へ、雪もろともに丸木の橋でも渡るみたいに、一と揺れゆらりと闇へ身を揉みこんだ。
 …ん。
 たしか…商工会議所のビルがこの辺やったが、…対談は、そっちでかナ。尻からもぞもぞと身ぶるい
がして、幸田は堪りかね声を放った、

100

「冷えこむねえ、…」
「寒(さぶ)おす。今晩は積りますやろ」と運転手は、鷹揚に。
 幸田はまた黙って、足を踏んばるふうにシートの前へ手をかけていた。半丁もさきか、大きな木影に
おおわれ路の肩へ浮かんだように、角燈が白い。あれは…料亭だか旅館だか「小野」と幸田は読んだ。
はて……。またゆらりと足もとが揺れ…頭の芯に灯が入って、絞るように、すぐ消えた。角燈も文字も
もの蔭へ消えた。
 しきりに流れる水の音がする。
 その音へ音へ雪がおやみなく吸われて、一筋の小川がすぐ路の右に沈んでいた。烏丸(からすま)川…。この辺り
では室町通までの間にかぎって泉川テいうてます、と運転手が教えてくれた。
「と、この道は冷泉小路(れいぜいこうじ)ですか」
「さよでございます」
 この川、加茂川より出でて「一条東洞院(ひがしりとういん)ヨリ大炊御門(おほひみかど)ニ至リ、西流シテ烏丸(からすま)に至リ、南流シテ冷泉
ニ至リ又西折シテ室町ニ至リ、又南流シテ四条ニ至リ、西洋シテ西洞院(にしのとういん)川ニ合ス」というが、でも現在(いま)
も…。いいや、どうだってと幸田は思った。
 寒い。
 川の北側を「小野」の築地塀が西へのび、堀越しに川面にかげを垂れて樹々の枝がそよぎそよぎ雪を
被(き)ていた。扉(と)をくらく閉ざした大きな門の前を通り過ぎ、左手を見ると古い稲荷社があるらしく、鳥居
にかぶって雪杉がぼっと白い影になっていた。居ずまいを正して、

101

 ──宵やみにまどふ思ひは、はれやらで、ゆきすぎ難き小野の宮居ぞ……

 □をついて出た。
「鏡の御門から」と、道の先を追うようにだれかくらやみの向うで叫んでいた。
「降りよう」
 幸田は構わず徐行の車から雪みちに降り、声に随(つ)いて、そろそろと歩いた。意外の大雪──。

 録音の用意が出来、対談は、森閑とひろい「小野」の奥のこざっぱりとした一室で、刻限にそなえて
いた。あいた上座に幸田はつかつかと入った。胸のあたりから、こびりついたような雪の寒さが、ゆっ
くりと溶けていた。
「このたびは…ご指名いただきまして、おおきに」と、新聞社側で紹介があるまえに、身じまいきりり
と、まちがいない、敦子の手をついたうるわしい挨拶があった。和服姿に逢うのは初めてではない。が、
今夜は、朽ち葉色の地に、濃淡で一面小紋に染めた冬の蝶々。頭をあげてからは、左手は膝に、右は爪
さきかるく畳に添えたまま雪見障子を背に微笑んで…、若い。
 ほんとに「宮道(みやぢ)」敦子なのか。異(ちが)う女か。
 幸田はまざまざと逢うていた先刻(さつき)の敦子の体温や体重をまたひそかに身に測りながら、こんなご面倒
をかけるハメになった詫びや礼を言(こと)短かに返した。春を待たせてたて段に織った帯のつむぎの明るい色

102

目が、結びめちいさく、きりっと濃緑の帯締めに映えていた。
 ホテルまでお迎えに出向きませんでと、取材を担当の思いのほか年かさの0記者につづいて文化部長
のA氏も頭を下げた。きれいに乾いた木の肌のような表情は、見ようで、佳い味の大人(たいじん)であった。
「写真、撮らしてもろてええですか」とも序でに聞かれた。座敷の隅で、ハンサムな中年カメラマンが
器械を畳にひろげていた。
「かなんわぁ」
 敦子の、若い低声(こごえ)が、ひとわたり皆の笑い声を誘った。
「黒白の写真ではあかんのやな、さよか。ほな筆屋さんのは、カラーで載せまひょか」
 部長がひょうきんにマゼ返し、敦子はしろい手のさきで横に払った。やっぱり「副社長」いうンかな
ぁ世馴れていると、幸田はあぐらになり顔だけで笑っていた。
 泉水(せんすい)の遠くでかがりを焚くとみえ、障子にときおり火影が来て、雪は、この一夜(ひとよ)をやまぬ気色と見え
た。幸田はかすかな睡む気にさっきから耐えていた。温(あたた)こなったしやろか。そうかも知れない。が、座
敷の様子がまだ妙に目馴れてこないのもふわふわした気分を強いていた。もし有るものなら自分自身の
「心」という水玉を、掌(て)に置いてゆらゆら揺すっているみたい…だ、京都駅に降りてこのかた。
「夜道に日は暮れへん言いますし…どうぞお寛ぎやして」と、いつのまにかこの家(や)の主顔(あるじ)をした女が近
くへ来て、のどかな□を利く。そして坐ったなりちいさく手を拍って人を呼んだりする、のが、幸田に
は、東京で留守をしているはずの妻の若かったときに、容子も、物言いも、ふと似て想われた。
「お食事はお席改めて、あと…でも、よろしいですか」と、A部長。

103
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「それにしたかて、先生に、お酒ちょっと入れていただかんと」と、女あるじが。
「そら、そや。雪見酒やな…ぼくらも欲しいな」
 そんなことが言い合われ、酒がくるまでにもう写真に撮られ始めていた。そして、きまり切った打合
せはなるべく端折(はしよ)り、酒がくる、席が定まると、すぐ、大きいのでおひとつと雅(が)な白玉(しらたま)の碗にお酌がて
ら、0記者に目で開□をうながされた。まったりと、木の香もして、お、冷や…やないか。お気楽に。
ん…とうなづいて盞(さかずき)をすうとひくその間(ま)に、向うから、
「読ませてもろたご本には、よう太ってるテお書きになってますけど、思うたよりお若ういらっしゃい
ますね」
「太ってますよ」と笑うよりなかった。みな笑った。自分でも若いような気がした。
「背もお高いですね」
「ちっとも…。一七〇センチと私は称するのですが、家内は六八だといいます」と、言ってしまって幸
田はすこし汗をかいた。妻に肖た主(あるじ)らしい女は席をもう外していた。
「面白い奥さん。きっといいご夫婦なんやわ。…はようご結婚しはったんでしょう」と、敦子は澄まし
ている。
「ええ。大学で向うが一年下でして。で、私が大学院を一年だけやってから、東京へ。三十年近うなり
ますよ。最初の頃は、一日を八十円で二人で暮していました」
「うそばっかり…。東山の、八坂サンのそばでお育ちやしたて…ほんまに」
「西(さい)院の辺で生まれたらしいのですが、四歳の夏まで南山城の加茂の祖父の家で育ちました。その後、

104

事情があってこの市内の、八坂神社、祗園さんに近いラジオ屋へ、貰い子されたんです」
 ウソでない話をしているのに、妙に、絵空事を言い散らしている気がする。
「済みません。なんや戸籍調べしてしもて」と笑顔で敦子は間を置いた。
「あなたのも、そいじゃ伺いましょうか」
「いやあ…堪忍しとおくれやす。先生(せんせ)い祗園さんて今お言やしたけど、祗園あたりへも永いこと白川砂が
積り積って、戦時中に防空壕を、掘っても掘ってもサラサラの土地やったてお書きになっています…、
知りませんでした。何万年か前は京都全体が深泥池(みどろがいけ)みたいな湖沼地帯やったて、ほんまやろか」
「神泉苑が町のまんなかに残っていますね。水溜りがあんなふうにあちこち在ったんでしょ。古典では、
京の町を人が出歩くとき、意外に水の上をよう渡っています。いま川を渡るというと鴨川とか桂川と思
うでしょうが、平安京には、北から南へ、東から西へと、もっともっと川や小川が走ってたと思う。上
地の傾きからしても、あたりまえの話やね」
「この辺りもそぅいえぱ、愛宕(おたぎ)郡とした、。おたぎいうの、水のたぎち走る様子ゃて。ちごたかしら」
「もうちょっと都会に水気を残しといたらええと思うけど。京都でも、堀川、天神川、高瀬川、疏水、
みなドンドン大きめの川にも蓋をしてるでしょう、暗渠にしてしもてる…」
「京都は、よそに比べたら破壊され度は少ない方ゃいいますけど、…変りましたわ」
「変りかたが、はよなった。現代としてはやむをえない早さかも知らんけどね」
「それかて、現代としては…いう、留保をつけてのことですし…」
「人間の暮しですからね、変って行くのも当然でもあり、自然でも…あるが」

105

「そうお言やすけど先生、それが望まし思で変っていくのやったら、よろしえ。力づくで変えられてい
くのは、ちょっと…違うのと違うやろか」
 幸田はうつむいて、ひとくち白玉(しらたま)の冷(ひ)ゃに唇(くち)をつけた。
「話ちがいますけンど…。ここのお池も相当なものですな。さっき、明るいうちに見せてもろて…。ま
ん中あたりアレ、だいぶ深(ふこ)おっせ」と、部長が、離れた席から二人に息をつがせてくれた、
「よっぽど深いところで湧いとる水や……」
「東の川からもときどき引いているようですけど、おおかたは湧き水…出(い)づ水(み)やて聞いてます」
「そう言やここは、言うのもナンやが…小野(二字傍点)さんになるまえが泉(一字傍点)はんやった、そうでしたな」
「そや、泉大将のお邸や…。そうでした」と、0記者もしっかり□を入れた。
「しかし驚いたね、鳥丸川が冷泉小路をまだ流れてたなんて。たいした趣向だ…」
 幸田の本気の物言いがわざとに聞えたか、みな手を拍つほど笑った。笑われてみると我ながらやはり
可笑しく、なんだか独りでいばった感じがする。感じがするといえばこの座敷の感じが最初入ったとき
より広い、いや、広くてくらくて、閉めきった感じがする。
「趣向やなんて先生(せんせ)。趣向しといやすのは、そちらサンどっしゃん……」と、敦子はさぐり顔に、「何
でも知っといやして。ご冗談ばっかり…」
「小野の宮…ですね。ここは」
「はい、はい。さよでございます。むかしは、小野営惟喬(これたか)親王さんがここにお住まいて。そのあと泉殿、
とも申しました。ご存じゃないようやし、へ、何でも聞いておくれやす…」と、敦子がツンとする。

106

「泉殿とは…。寝殿造のハシリかな」
「もぅ…知らん。……それとも、ほんとにお忘れ…」
「忘れる、て」と意外さにふわと視線を浮かばせた真向から、フラッシュをたかれた。はっと顔を伏せ
た。かろうじて「泉」とか「小野」とかまた聞いたような、だがものみな灼(や)かれた瞳(め)の奥で白う濁って、
糸を吸いこむように濃い匂いが額のうしろへ抜けた。くちゃくちゃとそこで痛い糸玉にもつれた。
「この辺で」などと、だれかが言っている。
 この辺で、どうするというのか。伏せた顔のまま幸田は思い出した、小野の宮の四足(しそく)門、鏡の御門、
はいつも堅く閉ざされていた、と。むかし「小野宮殿」のもとへ「天神」がいつもその門から訪れ、夜
もすがらの話がはずんだ。俗人は通さぬ門であったのだ、と。天神といえば、菅原道真…。

 ………。

 顔をあげると、づしやかに下りた蔀格子(しとみごうし)が隅々(くまぐま)にかげを溜めて、目の隅であかい小さな灯が瞬(また)たいた。
軟障(ぜじよう)の絵もゆれ寒さもゆるんで、軒端をかすめたらしい雪が、ざ、さと遠くで崩れ落ちる。…そうか、
この深い「泉」の屋敷は、小野宮惟喬親王のなくなったあと、広い池の上へ廊ももろとも晴れやかに舞
台を構えて、いつ頃からか、藤原定国が評判の持ちものであったのか。だが、その「泉大将」の死んだ
延喜六年のあとは、だれが…。それが、あの、「小野…の宮、殿」なら。待てよ…。
「それもお忘れですか」と敦子の声が、そばで支えた。

107

「目が…。よく見えない」
「頭(とう)の殿ったら…。お酒が、いけなかったのかしら。お弱いのね」
 おれが弱い、酒に。なにを言うか。首をふる鼻さきを、ふわと薫(た)きものの渡る気はいがした。それに
おれはもう頭(とう)の殿ゃないぞ、それは弟の師輔(もろすけ)…。

「宰相殿、ご機嫌よう…」
 この間まで蔵人頭(くろうどのとう)であった実頼(さねより)に、立ちながら涼しい声をかけて入って来たのは、美しい家刀自(いえとうじ)、女
あるじ、に伴われた前坊保明の御息所(みやすどころ)、仁善子(にさこ)藤原氏であった。主の姉も、客人(まろうど)の妹も、故時平公(しへいこう)の女(むすめ)。
「ようこそお渡りを。お小さい宮さまもお揃いにて、…うれしゅうございますこと。さ、こちらへお直
りなさいませ」
 思わず座が畏(かしこ)まっている間にも、はきはきもの馴れて敦子は、主(あるじ)の実頼と向き合う場所に、宮と、宮
が連れの女の児のためにそつなく席を設けた。主の妻は、十歳(とう)に満たない保明親(やすあきら)王が忘れ形見の熙子女
おう
王(ひかるこによおう)のそばへ自分のしとねも運ばせ、少女の背になかば垂れた髪のふさふさと色佳いのを、目ひとつで、
惚れ惚れと見ている。
「大輪(たいふ)が雪の日に来てくれていると聞いて、機嫌のいい顔を見にきましたぞ」
「また宮さまは、わたくしをお苛(いじ)めに…。機嫌などよくて堪りましょうか。宰相さま、上さま、すこし
お□を添えて下さいまし」と、敦子が。
「これはどうだ。筋がちがうぞ。平(へい)宰相殿にお頼みになるがいい。わたしは、見替えられた身だからね

108

お前に」
「ま…あんな…?」
 敦子のわざとのむくれ顔を見て実頼の妻と御息所とはころころと笑った。すると、大人ばかりのそん
な場がめずらしいか、幼い姫宮も、こぼれる笑顔を袖で隠した。なんと美しい…このお子ならばと、后
の位にも上るにちがいない少女をうちまもりながら、実頼は、この三人、姉妹といい母娘といい、まあ
よう肖ていると微笑まれた。怖い政治家(ひと)でありながら、なにかで笑い出すと、大事の政(まつりごと)もそっちのけ
に、笑って笑いぬいたという贈(そう)太政大臣時平の血を、妻も、その妹も、その妹の子も、一枚の絵をまる
で写したように享けている。
「典侍(すけ)殿も、今宵はみえられましょうか。お久しいが」と、主の妹の噂を、実頼の妻がする。引き取っ
て大輪は、典侍(ないしのすけ)貴子がこの頃の消息を語った。
かぶうらいしえ
 かつて亡き保明皇太子のやはり侍妃の一人であった貴子は、この一年、火(か)、風(ふう)、雷(らい)、地震、死穢(しえ)など
うち続いて、四月には「承平」元年(九三一)と世の改まったのも空しく、七月、とうとう宇多院太上
法皇の崩御をみるという、そのようなさなかにひしと内裏(うち)住みに精励してきた。歳八つで即位した今上(きんじよう)
の御所を懸命に切回して大過なかった典侍(てんじ)貴子は、だれよりも今は皇太后となった叔母穏子(やすこ)の信頼をえ
て、山々忙しい。かつての「大夫(だいぶ)」敦子が、ことさら「大輪(たいふ)」と名乗りをかえ、「中北の方」とまで呼
ばれて住み馴れた小野宮の実頼の許(もと)から懲りずにまた宮仕えに出はじめたというのも、延喜以来の遁れ
がたい縁(えに)の糸を、穏子や貴子に切にっよく牽かれたからであった。
 だが、根から内裏(うち)勤めの好きな敦子を、巧みに誘ったもう一人がいたのも、実頼は知っている。

109

 敦子の母で、むかし乳母命婦(めのとのみようぶ)と呼ばれて時めいていた母清子が、藤原兼茂亡きあとの現在の男として
迎えている、平伊望(たいらのこれもち)。彼は久しい皇后穏子が恩顧の一人で、現に御世の改まった今も参議の皇太后大
夫であり、式部大輔も兼ねていた。太后の力添えは大きく、位も従四(じゆし)の上(じよう)。同じ下(げ)で蔵人頭(くろうとのとう)からこの三
月参議に進んだばかりの讃岐守実頼よりも、「宰相」の地位には伊望の方が五年もはやく就いていた。
もっとも年齢(とし)も彼はことし五十一、実頼は三十二。
 その伊望が、(手蹟(て)が立たず、「これもち」と書いても人は「むねもち」かと読んでしまう、その伊
望が)敦子に対し現在の親ざまに振舞いつつ母清子にも強いて娘を今上の御所へ、典侍貴子の手助けに
…と、とうとう再度の出仕にまで□説き落としてしまった。天子の母穏子(やすこ)の、それに遠まわしに実は実
頼自身の気持ちも、そこに、介在していた。
 数ならぬ身ではあれ小野宮のなかで、この数年来、敦子は「中北(なかきた)の方(かた)」つまり第ニ位の妻のように実
頼の□からは甘く遇されて来た。しかしその実頼にも、やがては先帝醍醐の女御能子(よしこ)を正妻の一人に迎
えたい気持ちがあった。醍醐天皇の遺詔である由も父忠平から洩れ聞いていたし、女御の父の右大臣定
方からも婚儀を望む気持ちはほのめかされていた。
 能子(「仁善子」とある系図は錯っている)とは同じ勧修寺家の従姉妹同士に当たる敦子は、この成
行きにさすがに思い屈(く)した。すこし泣かれもしたし、太秦(うづまさ)の隠れ処(が)へ遁れて実頼をやきもきさせた。あ
げく実頼は、敦子に対し、夫である自分のそれ「宰相」でなく義父伊望の官職、それも皇太后「大夫」
の方でなく式部「大輔」の方を名乗ってならばと宮仕えを聴(ゆる)してやった。それが昨、延長八年(九三〇)
の、世を挙(こぞ)って騒ぎまた嘆いたあの惨事や大事が過ぎて、すこし以後のことであった。

110

                          保明親王
                            ?   ┌─慶頼王
                            ?───┤
                            ?   └─熈子女王
                         ┌─仁善子
                         │
                         ├─保忠
                         │
                  ┌─時平───┼─顕忠
                  │      │
                  │      ├─敦忠   ┌─敦敏
            藤原基経──┤      │      │
                  │      └──女   ├─述子
                  │         ?   │
                  │         ?───┼─頼忠
菅原是善              │         ?   │
│                 │       ┌─実頼  └─斉敏
│┌─道真             ├─忠平    │ ?
└┤                │ ?     │ ?─────慶子
 └─類子             │ ?─────┤ ?
   ?              │ ?     │ 大輔
   ?━━━━━━━━━━━━━━│━順子    │ ?
   ?              │       │ ?─────みこ
   光孝──宇多         │       │ ?
       ?          │      ┏│━保明親王
       ?━━━━━━━━━━│━醍醐   ┃│ ?
       ?          │ ?    ┃│ ?
     ┌─胤子         │ ?━━━━┫└─貴子
     │            │ ?    ┃
藤原高藤─┼─定方──朝忠     └─穏子   ┣━━寛明親王(朱雀)
     │                   ┃
     └─定国(泉大将)           ┗━━成明親王(村上)
       ?
       ?───大夫・大輔(敦子)
       ?
       乳母命婦(清子)
       ?    ?
     藤原兼茂   平伊望(桓武平氏)    

111

 去年──は雨期の五月になって、平安京にいっこう雨が降らなかった。六月はまるで降らなかった。
 ところが六月末の二十六日に至って、どうか雨が降らせぬものか諸卿の殿上(てんじよう)に相議(あいはか)ること数刻が過ぎ
たころ。突如ずうんと沈むほどに日がかげる…と見るまに、都の西北愛岩山(あたごさん)に黒雲の沸き立つのが道行
く人には見えたという。
 お、お、お…。歓呼(かんこ)して起って、清涼殿(せいりようでん)西南の柱まで、いささかがさつに駆け出したのは年六十四の
大納言正三位(しようさんみ)藤原清貫(きよつら)であった、彼は天に向かいさながら来(こ)よと命ずるかに手をあげた。児戯ににた老
清貫の無作法もしかし、それまでの議事のいかにも難渋を極めた実感にはむしろ釣合うものであったと
みえ、いっそ安堵の声が一座にそよめいた。だが清貫が叫びやめ、からからと誰かがほがらかに笑い始
めた、その瞬時に雷声大喝、霹靂(へきれき)の神火は薙(な)きざま大納言の五体を火だるまに燃えたまま台盤所(だいばんどころ)の壷へ、
小庭へ、叩きつけた。衣冠は焼け失せ、薄い胸板が血しぶきを吐いてざくろのように砕けていた。轟々
の雷(らい)は鳴りやまず火と稲妻とに追われて、宮中は、火宅。
 右中弁平稀世(うちゆうべんたいらのまれよ)も顔を焼かれた。腹をえぐられ悶絶して息絶えた者、髪を炎に包まれ走って庭に転倒
する者。帝は難を常寧殿に避けられ、泣き叫ぶ声は満庭をどよもした。雨は最前から一滴も降ってはい
ない。そして、なまぬるい風がいっときゆるく右近の橘の辺りを渦巻き渡ると、雷はやがて東山椿ヶ峰
の方へごろごろと去って行った。
 宮中に死者九人。
 あのとき誰かからからと声をあげて笑った、あれだけはみなが不思議に聞き覚えていた。

112

「菅丞相(かんしようじよう)のお声に似た…」とも、あとは言うまでもなかった。顔色(がんしよく)を失って人は陰気におののいた。
かつて菅公(かんこう)の左遷と追放とに、雷(らい)に打たれた清貫は画策の重い一役を買っている…。以来、醍醐の帝は
心も、身も、異例に悩まれて…。
 だが…、後日、亡き道真公の名をば謹んでまず□にした最初の人が、父摂政の忠平(ただひら)であったとは一人
として、自分と弟師輔のほかには一人として覚えていない。実頼(さねより)は、いま、そのことを考えていた。
 去年──あの惨事の頃の実頼は右中将で播磨守を兼ね、昇殿も聴(ゆる)されていた。が、あの日は母順子(なほこ)が
妹も伴(つ)れ小一条の邸から、訪れてくれるというので、それで出仕(しゆつし)を怠り、小野宮の私邸で、ちようど今
のように家の女たちを泉殿に集め、たわいなく、姫宮や我が娘の迷子(のぶこ)慶子らの相手もしてやって暑気を
散じていた。彼とて三、四通って行く女の無くはなかったが、所詮は一つ身内に睦ましく住み馴れたこ
の家が気に入っていた。妻も、妻の妹の御息所も、その御息所にむかし「大夫(だいぶ)」の名で仕えていたとも
いえる前坊保明親王の乳母子(めのとご)敦子(あつこ)も、みな不幸な事情は身に負うていながら、ふしぎなほど、一言に尽
せば根が陽気な女たちであった。
 実頼はよく思ってみる、自分たち忠平の身の者が謂わばいくらか猫に似ているなら、伯父時平にして
も時平のこの娘たちにしても猫より犬に似ている、それも雄犬に、と。
 もったいないが、謂(い)えば道真公も、犬というより猫でおわしたお方、そして、わが…母君も。春には
五十の賀をよろず滞(とどこお)りなく祝い算(かぞ)えられた母の、かすかに目尻にしわのみえた横顔をみていた実頼は、
ふとあのとき視線を浮かばせて、目には見えない西の大門(おおもん)の静かにいつも閉じたままなのを思いやって
いた。なにか、だれか…が、訪(おとな)い来つつあるような……。

113

 薄雲に霞んで、目を射る夏のまぶしさはなかったが、そのぶんむし暑いあの日の昼さがりであった。
 東の対の屋の前から北の対のほうへ、ひろい出(い)づ水(み)が汀(みぎわ)おもしろう大きな鉤(かぎ)の手をなして、それでも、
さざ波を立てていた。池の東がわは烏丸(からすま)川をへだてて低めに平(ひら)に長い土居を築(つ)き、その前後に、それは
実頼の好みで間隔よろしくすくすくとただ杉の木がならぶ。杉と杉のはざまに東山の峰々がわかい女の
まどろむ風情でかげろうている。
 幸い、あの日はすこしある風がここちよく、祖母や叔母にしきりに望まれ敦子も□を添えて、いまし
も十二になる慶子(よしこ)が、得手の和琴(わごん)を渡り廊下に近い柱のかげで爪弾(つまび)きかけていた。傾(かし)げた髪にちいさい
耳がほのかに見えている。むかし実頼から言い寄って、東宮に近侍の大夫(だいぶ)敦子に強いて生ませたのがこ
の娘(こ)だった。母譲りに利発ではきはきしていながら、いつももっと幼い子らのまだうしろに身を持して
いるのが、父実頼にもふといとおしい娘であった。この子もいつか女御(にようご)になりととは思うものの現東宮
寛明(ゆたあきら)親王は元服の日さえまだ迎えられず、年齢(とし)はわずか八歳…。そういえば…もうお一人の「みこ」が
ひかるこに‡おう
見えぬが、またおみ脚が痛まれるか気の毒にと、実頼は、熈子女王(ひかるこひよおう)の美しい妹宮を気づかった。
「和子(わこ)。笛のお相手を」と、北の方が長男敦敏に勧めていた。十四歳だが小柄で、頑是ない。

  池の涼しき汀には 夏の影こそなかりけれ
  喬(こだか)き松を吹く風の 声も哀れと聞こえぬる
 
 鼓をかまえてひときわ美しくこういう機会(おり)に謡うのも、袿(うちぎ)姿に畏(かしこ)まり単衣(ひとえ)を重ねた敦子の役だ。いま

114

は亡い泉大将定国の庶子敦子は、この泉殿で稚(いとけ)ない一時期を育てられていた。
 小野営実頼は、そうそう…、こんなことも聞き知っていた。おおかたは、敦子から聞いた。
敦子の生まれる前年昌泰四年(九〇一)一月のことであったという、時の右大臣従二位執政の人であ
り、しかし明日にもその位を逐われると廟議(びようぎ)定まっていた菅原道真が、ただ一度この泉殿の邸に右大将
定国を訪れ、身辺のあまりに急な事態の執り成しを、膝を折ってひたすら頼み入れたとか。寛平(かんぴよう)の御遺
誠、つまり宇多上皇が醍醐天皇への御教訓にも、この人定国と名指しに、彼が近親姉妹のうち一、二は
必ず選んで後宮の雑事を行わせよなどと、皇室の信頼ことに厚い勧修寺(かじゆうじ)家の棟梁であった。醍醐天皇か
らみれば母方の叔父に当り、皇太子時代から互いに頼みの腹心の間柄であったその上に、左大臣藤原時
平とも、従前すこぶる良い関係でいた。
 その定国は、右大臣の道真の為に打開の労をとることを、あえてあの時、拒み徹したらしい。
あの夜道真を導いて泉大将にこの来客(まれびと)を取りついだのが、敦子の母命婦であった。菅丞相(かんしようじよう)が最期の
一夜のしみじみものあわれであったことを、敦子はその母から、実頼はその敦子から聞いていた。
実頼はまた自分の母順子(なほこ)からも聞いていた、道真が、その日父忠平のもとへまず火急の相談をもちか
けていたという事も。その日その時刻は、彼実頼(さねより)がこの世に産き声をあげて丁度一年めであった──、
延喜と改元される年(九〇一)の正月二十四日のことであった──とも。
 数年も「前(─字傍点)参議」に止められたままの当時の忠平(ただひら)に、けれど、不運の右大臣の為に何が出来たろう。
そもそも兄時平が自身妻にと望んでいた道真の美しい姪順子を、上皇宇多院の直々の後押しで、人も
あれ弟の忠平に事盛大にめあわせたのが、道真公失脚に繋ったと、父忠平は昨今(いま)もそう実頼には語って

115

いる?。
「…おぉ…心地よう、三人ともよう為(な)された。さ、さ、そちらの宮さまも、姫さまも、おらくに、お涼
しくなられませ。ここは人目もない…」
 幼い者らの笛をほめ琴をほめ、忠平のその妻が、その時平の娘や孫娘たちにも、潤って静かな声をな
に気兼ねなくかけていた。御息所仁善子(にさこ)の方も、順子(なほこ)がいまいる小一条の邸もさぞ住み心地のいいとこ
ろでしょう、一度訪ねたいなどと優しいあいさつを返していた。
 実頼の母順子(なほこ)は、源氏の、しかも「菅原の君」といわれた人であった。菅原道真の妹類子(たぐふこ)が光孝天皇
との間に儲けた女子で、道真には、姪。源氏を賜ったその匂いやかな順子を光孝の皇子の宇多天皇が養
って子とし、前参議藤原忠平の妻として授けられたのが昌泰三年(九〇〇)、それは、相違ない。
 正月の除目(じもく)で弱冠二十一歳の忠平をいまだ従四位下のまま一気に参議に挙げ、但しずく辞させて前(──字傍点)参
議と巧みに箔をつけたうえ、晴れがましい朱雀院西の対での順子との婚儀であった。上皇がみずから東
の対にあって儀式を指揮されたと老人たちは一つ語りにいまも言う。が、さてそれならば、日数をかぞ
えて…自分は、もしや母の生みの子ではないのかも、知れぬ…。実頼は久しくその詮索に、いや、うか
と詮索もならぬ疑念に悩んで来た──。
 ──どおと、そのとき、風であった。追風に匂い立つように御息所(みやすどころ)と女王(によおう)を先ずうながし、そして気
丈に声をかけて幼い者たちを急いで対の屋へと命じたのはその母、菅原の君の順子であった。猶予のな
らぬ雲行きの険しさに実頼は思わず目を閉じた。目の底をまっ黒い人影が奔るさまして内裏(だいり)の方角へよ
ぎって消えた。

116

「行きなさい、はやく…」と実頼は叫んだが、自身は起たなかった。
 池は両手で揺するように波立ち騒いで、稲妻が土居の大杉を斜めに飛んだ。
 遠くをつんざく落雷が、ものの二、三十もあったか。
 女子供がみな遁れ隠れたあとも、実頼は、ひとり身づくろいして泉殿に居残っていた。
 息をのんだように、雨は一行も降らない。
 雷がもしこの身を打とうならやむをえない、しかし打つまい…と実頼は思いつつ、「人生(ひとよ)ハ寄(き)(かり
ずまい)ナラズヤ、客愁カクモ深ケレバ」とつぶやいていた。だれの句とも覚えなかった。なぜか延喜
十四年(九一四)たしか…五月、この邸がはげしく焼け落ちた日のことを実頼は色のついた夢のように
今雷鳴轟々のさなか、あざやかに思い浮かべていた。左京の六百余戸があの一日で灰になった。一条の
東洞院(ひがしのとういん)辺からまるで川に沿うように、火は、南へ、西へ、飛ぶかとみえた。「泉殿」からまたも「小
野の宮」と名をかえていたこの家屋敷は、泉大将の死後に購(あがな)い取った左大臣時平の手を経て、その当時
は皇太子保明親王の為に遺贈されていた。やがてわが娘の一人をその東宮妃に…そしてこの家にと願い
置いて、左大臣自身も、延喜九年(九〇九)に、三十九歳の若さで無念にすでに果てていた。

 延長八年(九三〇)九月二十二日、醍醐天皇はついに位をのがれて八歳の皇太子寛明親王に譲位され、
即日左大臣藤原忠平に幼主を保ち輔(たす)けて政事を摂行せよと詔勅があった。九月末には、延喜の聖帝とう
たわれた醍醐上皇の四十六歳を一期(いちご)に崩御(ほうぎよ)のことが遍(あまね)く伝えられた。贈正二位右大臣菅原道真の怨霊を
謂(い)いかつ恐れる声は今や朝廷の内に外にすさまじく、そして改元のかいもなく今年承平元年(九三一)

117

七月、仁和寺御室(おむろ)で醍醐の御父宇多法皇が崩御され、春秋六十五と算えられた。宮中の呉竹はみな枯れ
た。

 うつつの夢から実頼は、ふと覚めた。小野宮一夕(ひとよ)の雪のまどいを、なにごともなげに大人はさざめき
話していた。
「宰相さま、お睡(ね)むでも、起きておいでなされませや」と耳もとで大輔にささやかれた。
「眠りはしないが…。子たちは…」
 女子供のすがたはなく、いつか壁から湧いたような男どもの影と声が増えていた。この雪の夜に…だ
れだろう。億劫(おつくう)さにすこしひるんでいる実頼の近くへ来て大輔の敦子が告げた。
「通風(みちかぜ)、それと忠岑(ただみね)を呼んでございます。それと右兵衛佐(うひようえのすけ)殿が、お見え…」
「朝忠(あさただ)が…。それは…」
 居直りかけて、くッと胸が痛んだ。胸に手をあてた宰相実頼の、その懐をかき分けて出るように、幸
田康之は、夢の、また夢から、今…、我にかえった。
 
 
 

     七の帖
 

「ま、どうにか…。ありがたい五十の賀よ、あなた」
「そのとおりだ。で、出来たの」
「ええ。階下(した)へ降りられるでしょ。だいじようぶ…」
「もぅ、だいじょうぶだ」
「よかった。じゃあね」

妻は臥(ね)たまま見送っている幸田をうながしておいて、襖のまえへ起った。引き手に指をかけて…ふツ
と振向く。なにか言うかと目で待ったが、迪子はそのままくしゃと泣き顔になりながら微笑(わら)った。
 妻が行ったあと、もうしばらく幸田は臥ていた。最前まで、からの物干し場で竿がときどき木枯らし
にきしむのを、夢うつつに聞いていた。いまは隣家の犬が繋がれた鎖をしきりに鳴らして、人を呼んで
いる。シャシャン、シャシャッとものに当る鎖の音がひどく懐しく、生きて家に帰れたな、ここはおれ
の家なんだなと幸田はほそい目を仰向きに目いっぱいみひらいた。六月に嫁がせた朝日子(あさひこ)の空(あ)いた二階

119(5)

の部屋に、雨戸をたててこの二日間安静の床をのべていた。目が覚めるといつも星の下にいた。朝日子
がまだ娘の頃、突如として柾目(まさめ)の天井に発光質の銀紙で星屑を天の川のようにちりばめた、なにをする
かと幸田は叱った。以前幸田が書斎につかい、いつか京都から親を呼んで入ってもらうつもりの部屋で
あった。
 嫁(い)ってからも、そのままにしてあった。本棚にも娘の買いためた本がかなり残っている。勉強机や棚
に、空瓶(あきびん)にさして何種類ものブーケを花盛りのように立てていったのも娘の仕業だ。幸田は床を出て部
屋の明りを消してみた。一時に頭上は星空になった。胸板を掌でじっと温めたまま幸田は暗闇の底にひ
そんでいた。
 師走二十一日、この日は、幸田の誕生日だ。朝には、息子が志望の法学部へ推薦入学がほぼ決まった
心祝いもかねて、赤い飯にも箸をつけた。いつのまにか体重が六十キロにもなっているが、まだ息子の
表情(かお)は幼い。お父さんが満五十のお祝いは、お二人水入らずでどうぞと、その日建日子(たけひこ)は晩は友だちと
遊んで帰るらしい。
「あれで、お父さんが無事で、よっぽどほッとしてるのよ」と迪子に言われれば、幸田も胸を撫でおろ
すしかないのだった。その迪子も、一まわり細ッそりしたみたい…。
 寿司の和可菜に頼んで佳い鯛を手に入れ、身は刺身にしてもらい、頭は持って来させて、土鍋で、近
江かぶらの角切りと柚子(ゆず)の香(か)とをいっぱいに添え、迪子は幸田がことに好物の「たいかぶら」に煮てい
た。
 鍋の蓋をとれば、透きとおるようなかぶらと、たちこめる柚(ゆう)の香り。野菜に鯛の味をしませ、それで

120(6)

いて濃い色をつけないよう、あらかじめ二つの鍋を使って煮たという、そんな楽屋ばなしも嬉しそうに
しながら、朱塗りに菊の盃に、ひとつだけよと堅く約束させて妻は富の寿を冷やで、八分めも注いでく
れた。
 すぱらしい蕪(かぶら)だった。歯ざわりの静かさは、翡翠色した美味(うま)い水をしっとり噛みしめるみたいだ、や
わらかに□の奥へ灯がはいったみたいだ。聞げば今朝「筆屋さん」から宅急便で届きましたの、錦のお
店のよと、妻は芝漬けのにおいを台所にこもらせながら華やいで返事をする。京の錦通に軒並の、生麩(なまふ)
の麩丹もぐじの魚伊も味噌の岡田屋も、こう東京の田舎まで生き帰ってみれば、うそのように幸田にも
なつかしい。
 敦子の手紙は付いてなかったと確かめて、ちいさな息を吐いた──。
 幸田は、京の師走十三日、夕暮れて約束のK新聞社の新年用「対談」の席へ運ばれる車から、折あし
い牡丹雪が狂い舞うなかへ、強(た)って望んで、降りてその場で心臓発作を起した。町通りに抱きすくめら
れたように、昔から稲荷社が朱の鳥居の奥に古い拝殿と杉の巨木を守っている…、幸田はそこまで来て、
ぜひにと運転手に車を停めさせたという。
「よっぽどそれまでシンドかったんやろか。もうすぐですテ言うんやけど、いいや降りて歩きたいテ…。
風流なお人やナ思て車停めまして、ほしてドアを開けて、降りはったかはらんかいう間(ま)やった。お倒れ
やした」
 ま、そんな風に幸田はあとで聞いた。が、胸の苦痛に屈して降りたという記憶はない。目当ての「小
野」がもう鼻のさきなら、ぜひに「泉川」を覗いて行きたい、ものの本で知った稲荷の杉も拝んで通り

121(7)

たい。それだけだった。
 酔興が過ぎました…と、幸田は、さいわい手近にかつぎ込まれた内科医院のベッドでわれに返ってか
らは、誰にも彼にもあやまるしかなかった。あやまりながら、呆(ぼう)やりとしていた。火の尽きた灰のよう
に胸の芯がたよりなく、余熱になってショックの痛みがまだかすかにさし引きしていた。
 ──けれど、大事にならんでよろしおした。肝が冷えましたと、0記者に相違ない指の長い男の手で、
臥たままの脈をさぐられた。責任者らしいのも含めてほかにも一人二人男の顔があり、「対談」相手の
「筆屋の副社長」の心もちこわばった白い顔も覗いていた。目は合わさずに幸田はていねいに自分の不
始末をその敦子の方へも詫びた。まあ…よろし。よろしがナ。折畳みの椅子を引張って来ながらAと名
乗って、文化部長がすぐと割って入った。
「お稲荷さんはとにかく、それにしたかて、一九八*年の京の町なかを先生(せんせ)、千年も昔の泉川が流れて
よもンなら、ニュースでっせえ」と、と(一字傍点)拍子もない幸田の幻惑を陽気にかきまぜる口調にも、どこかで
聞きなれたような親しい気分を幸田は覚えた。
 安堵も半分、「雪がわるさ(三字傍点)しよったンや」「お稲荷サンにかつがれはった」とみなに笑われひやかさ
れ、そんな病人の世迷言(よまいごと)より何より、落着いたといえ今晩だけでも大事をとってと、同じ宵のうちに近
くの府立病院へ幸田は運ばれた。車までは歩いて、乗った。が、病院では手もなく監視付きの治療室に
入れられ、東京へも知らせてあると間際に聞いて急にぐったりした。付添って来た0や敦子らはみな帰
された。妙にぺろツと舌が出たりした。
 ものものしい部屋で一人ベッドに仰向くと、背中半分が土中にめり込んでいるような重たさに、思わ

122(8)

ず、あ、ぁ、と声が出た。あの発作がもう一度来てもここでなら安心という気持ちと、あんな、かきむ
しるような、吐くに吐き出せない苦痛は二度といやという不安とが煙(けむ)のように目さきへ渦を巻く。目を
っむってしまうのが、怖かった。だが、もう目をあいていられず滑り落ちるように寝入ったらしい──。
「筆屋の…、あの人と、なにか話したのかい」と、やっと坐って箸をとった妻のほうへ幸田は尋ねた。
「いぃえ、ほとんど。でも病院に三日いた間に、二度もお見舞いに来てくださったの、最初はお花もっ
て。次はあたしにお弁当。菱岩の二段をご自分でとどけてくださったの」
「豪勢ぇ。よかったナ…。あそこは仕出し専門やけど、自分で取りに行ったのかな」
「どれからお箸をつけたらいいのか、上なんか迷うくらいなのよね。下の段だけで十分よ…。豆ご飯で
しょ。ちらし寿司に穴子きゅうり巻に、それに鯛の紫蘇寿司がそれぁ佳いの…。あんなにして貰って、
よかったのかしら…。でも、おいしかった」
 妻の、指折り数えんばかりに、幸田は苦笑した。
「それをきみ…一人で食ったんだ。おれ、覚えていないもん」
 そうでしようね…と妻はちよっと声をのんで、しかしすぐ晴れやかに敦子の噂をした。敦子は二度来
て二度とも病室には入ろうとせず、ドアのそとで、迪手相手に短いが行届いた挨拶だけして帰って行っ
たという。幸田はふうッと小野宮での一夜のまどいを想い直していた。
「あれだけのお店を仕切っている人なんでしょう。きちッとした人ねえ」と妻はほめ、そして突然聞い
て来た、「なんで、あなた、あんな人をご存じでしたの」
「…京都の観光雑誌でね、見ていたのさ。……なにしろ商売が筆や墨や紙じゃない。秋萩帖を小説にッ

123(9)

てときだもの、渡りに船と…。なにかの折はタスケに、なってもらえるかも知れないからね」
「ま。不純な動機で…ずるいこと」
「しかし、それにしちゃドジを踏んだな」
「そうよぅ。心がけがわるかったんだ」
「お。舌鋒きびしいナ…。かぶらは旨そうに食ってるくせに」
 へ、へとわらい、それでも妻は「これは、あたしにいただいたのよ」と澄ました。澄ました顔が、や
っぱり…だれかに肖ていた。白い身をぽくり、ぽくりと、鯛の頭をせせりながら幸田は脳裏に蔵(おさ)めたフ
ィルムを、そろそろと、また巻き戻していた。

 あの治療室で検査機器に手足を繋がれたままどれほどの時間寝ていたか。気がつくと…肩へ手が
置かれていた。看護婦…ではなかった。スラックスに栗色の毛のコートをぶかぶか羽織った敦子が顔を
寄せていた。また来たナと思った。それなら敦子に訊ねておきたいことは胸の内で束になっていた。
「どうして…あんな雪にお降(お)りになったの」
 敦子はたしなめるようにささやいた。目頭で、ベッドに腰かけていいよと幸田は応え、そのまま黙っ
ていた。
「お稲荷さん…でしょ。そうなのね」
 敦子はそうに違いないという顔をし、幸田はこくんと首を動かした。
 東山三十六の峰々の一等南へ居流れて、稲荷山に、名高い神杉が衆庶の信仰をあつめてそびえ立った

124(10)

のは、いつの時代にも変りがない。が、十世紀の話だがものの本に、藤原忠平の子実頼がそのはるか稲
荷山の杉をつね日ごろ畏(かしこ)んだと、ある。畏んだあまりに杉の見える、というより杉に自身を見られてし
まう小野の宮自邸の南面(みなみおもて)に、実頼は、決しておろそかな姿(な)りでは立たなかった、立てばうやうやしく杉
の方へ遥拝(ようはい)したといわれたのは、だが、まこと伏見稲荷の杉をであっただろうか。二里ではきくまい、
たとえ影ほどに見えたにしても都のまんなか、現在京都御所のほぼ南西の角あたりから稲荷山の杉では、
あんまり気遠くはないか。
 幸田は、気になる逸話ではあると思いつつ、ずっと疑いを挟んできた。
 それより、小野宮から南まぢかには稲荷末社がまつられ、杉の大樹も立っていた。いわぱご近所の間
柄とみて実頼とお稲荷との話は読んだ方がおもしろい、いや適切なのでは……。
 あのとき運転手に「小野」と聞き「泉川」とも聞いて…そのうえ「お稲荷」まで見た。まぼろしにも
あの雪杉のもの凄げな影は、あのとき、だから見過こしがたかった……。
「秋萩帖のことを、教えてくれないか」と幸田は、敦子にはべつのことを□にした。
「秋萩帖のなにを…」
「たとえば……小野道風(おののとうふう)に出番が、ほんと…あったんだろうか」
「道風(みちかぜ)は、書け(二字傍点)といえば書きますわ、お手本でもお清書でも」
「書けと…言ったの」
「あなた(三字傍点)が仰言やったんじゃなくて」
「そんな…」

125(11)

「お忘れになったんなら、いいわ。そのつもりでお相手をします…」
 敦子はすこしぱかり、よそよそしい顔をした。その顔に幸田はかすかに嫉妬した。
「彼(一字傍点)のことは、またにしよう。歌だけど…数は」
「数は、たくさん…でも…」
「でも…何…」
「秋萩帖をよくごらんになったの」
「写真と、活字とでだけど」
「秋二、冬が二十七で雑十九か……なんて数えていますでしょう、今の人は。でも歌をよく読めばそう
は割切れませんわ。歌のならびかたも、まとまりが無いではなく、でも…ちよっと順番を動かしてやれ
ば、二首一番の組合せも、流れも、もっとよくなる余地がありそうに思えますものね」
「草稿だといいたいの」
 敦子は黙っていた。幸田はややひるむ心地がして話をほかへ持って行った。
 もし博物館のK博士が主張するように、『秋萩帖』の最初本がかならず綾地の冊子ないし巻物であっ
たとして、原材料の綾が舶来なのは疑いもない。が、どこから、どうその綾地を手に入れることが出来
たろう…。
いき
 敦子は一と呼吸おいて、そしてごく素直に返事をした。藤原実頼にはじまる小野宮家はのちのちも富
裕をもって聞えたが、根拠のひとつに宋の国との交易が数えられている。筑前の国にあった高田牧(こうだのまき)は、
その意味で小野宮家にはまことに重要な所領であったらしく、通常の牛・馬や絹や米はむろん、別貢物

126(12)

として魚貝、海藻の類のほかにしばしば唐綾(からあや)や香木・陶磁器なども都へ送って来ていた。この牧が、筑
前沿海に位置して宋と交易していたに就いては、時代はすこしさがるけれど実頼養子(実は孫)の実質(さねすけ)
時代に、この家領を通じて宋商人との間に書簡や進物(しんもつ)を交していた証拠が残っている──。
 敦子は、でも、高田牧(こうだのまき)がいまの福岡県のどの辺にあったか、自分には分らないと付け足した。そう聞
いて反射的に幸田は、自分は(三字傍点)それを知っていた気が、ふと、した。だが今はなにも思い出せなかった。
同じ「こうだ」故にそんな気がしたのだろう、もともと「神田(こうだ)」の訓みが転じたのなら、神様の数ほど
諸国にあっても不思議でない名字(みようじ)だった。
「もう一つ…。綾地裂(ぎれ)に字を書くッたって、しかし、素綾ぱかしじゃない。金銀泥(でい)で下絵装飾したのも
遺っているよね。そういう…字が書けるように、つまり料紙ふうに調製するという段階が、あった。あ
ったでしょ。それは…どこで、誰がしたの」
 敦子は笑いだした、「…おかしな方」
「なんで」と幸田はおのれを持した、「これで…建前(二字傍点)は守
っている気なんだからね」
「はぃはぃ。……内々の用でしたら縫司(ぬいのつかさ)の女に頼むとか。
御匣殿(みくしげどの)を通してお頼みになるとか、でしょうね」
「なるほど…御匣殿ね」と幸田は仰向きに寝たまま、顎を
ひいて合点した。
「覚えてはるでしよ、醍醐の皇太子保明(やすあきら)に召された妃には、
 

醍醐────保明親王
       ?
       ?
藤原玄上───女(頼子)
       ? ?
       ? ?
藤原時平──敦忠 ?
         ?
       藤原文範
 

127(13)

時平女(むすめ)の仁善子(にさこ)と、忠平女の貴子とのほかに、参議藤原玄上(はるかみ)の女、ほんとは孫なんですけれど、が、も
う一人…いたのを」
「いたね。皇太子に死なれたあと、亡き人を夢に見たの、自分は見ない羨ましいのッて、大夫(だいぶ)と、歌を
やりとりしていたね。あんた(三字傍点)たち…、仲がよかった」
「えぇ。…その玄上女(むすめ)の頼子サン、あのあとまた内裏住(うちず)みして、御匣殿の別当をっとめてましたのを、
お忘れ…」
「覚えてる。…そのうち、敦忠の忍び妻の一人になった。大鏡で読んだよ」
 大鏡と聞いて、敦子は居ずまいわるげに、すこし身じろぐ…と、そのまま頭からゆらゆらと影になり
形になりして消えて行きそうになった。とっさに幸田は自分の手を握ってと命じ(二字傍点)た。きれいに影が形に
また…まぢかく戻って来て、敦子は、幸田の胸にやわらかに手をさしこんだ。
「玄上女(はるかみむすめ)のことッて、一度も考えなかったなあ。だけど、敦忠は天慶六年(九四三)には、三十八歳の
中納言で、はやく死んじゃうから…」
「えぇ。そして死ぬまえに、頼子の運命を予言するのね、彼は」
「自分が死んだあと、おまえ頼子は文範(ふみのり)の、当時は敦忠の家来格の藤原文範、紫式部のひいお祖父さん
に当る人、の妻に、きっとなるやろと。なにを敦忠が思(おも)てたか肚(はら)の内は分らんけど、事実が、そう成る。
大鏡という本は、こういうことを、ちゃんと書いててくれよるから面白いよ」
「…新しい夫の文範は、その後永生きをして随分えらくなりますけれど、当時はたったの式部少丞でし
たもの…びっくり…。ご存じよ、ほら…まえのご主人枇杷(びわ)中納言教忠の号を添えて、枇杷式部なんて、

128(14)

ちょっと佳い仇名がついたのよね頼子サン。でも、彼女とってもイヤがって…。で、結局御所を退(ひ)いた
んでしたわ」
「………」
「彼女…頼子さん、お話ししなかったの」
「いや…」
「あらま…」と、敦子はにっこりした。すぐ、「疲れませんか」とも訊いた。
「もっと知りたいね」
「いま。ここで…ですの」
 幸田は握られたままの手を動かして、ちがうと伝えた。敦子はちいさく頷き、「頼子さんたち、待っ
てますのよ」とささやいた。それから、つと起っと、舞を舞うように腕を豊かにひろげ、幸田のうえへ
懐をぶかぶか押しひらきざま、ふわと乗ってきた。暖か…い瞬時の闇に支えられて幸田は、顧える女の
乳首を、まさぐるふうに下から唇(くち)にくわえた。ひどい人よ、ひどい人よ……。とぎれる声が男の耳にか
すかに美しかった。
 やがて──からだを離して女は亀甲花菱(きつこうはなびし)にはなやいだ袿(うちぎ)の下に隠れ、柔かにひたとうつ伏したまま、
さわぐ息づかいを忍んでいた。山がちかいか、…鳥がなく。
「わが如(ごと)は、思はぬ君を。世の中の、心細きに、なほ…頼むかな。…ね、敦子…」
「おじょうずに…うそをおつきゃこと…。きみだにも心ぼそしと思ひなば…我さへ…頼む、人やなから
む。……もぅ、いや…」

129(15)

 女は、着物に隠れたまま、くっくっと笑った。

 こつッと音がした。
 ナイフがものに当ったか妻が、迪子が、すこし疲れたという顔でリンゴをむいていた。幸田が五十の
誕生日を祝う鯛の頭は小骨まで透明な残骸と化して、鍋もろとも食卓のかげへ片付けられていた。
「あなた、お仕事出来まして」
「ああ、やんなくちゃね。対談の埋め合わせに、おめでたものの短編を、約束して来たから…。二度も
アナを、あけらんないよ」
 妻は、やや間をおいて──京都の親たちのことを□にした。
 幸田が倒れて、翌日午過ぎに妻が建日子(たけひこ)と駆けこんで来たのはともかく、彼が一般病室に移されると
待っていたように知恩院(ちおいん)下の家から、揃って九十にちかい養父母と、叔母までが見舞いに来たには、ち
いさくなった。京都へ来てるやて知らんがな、びっくりするやないか、どうおしたんぇ一体…。なにも
かも逆様ごとで、幸田も妻もあやまるばかりだったが、あれで…万一…と想像すると、だれより妻を襲
った不安はなまやさしいことでなかった。
「お先に失礼ッてワケに、こりゃ行かないね」
「冗談じゃないわ」
 幸田は逸(いち)はやく、掌(て)まで合わせて謝った。
 リンゴの皿を手に受け、しばらくぶりに書斎に入って、気になる頼まれ原稿の締切を確かめた。歳末

130(16)

ではあり、どれも月の早めに前もって済ませておいたのが幸いして、青ざめるほどのことはない。クリ
スマス過ぎたくらいに、速達で埋め合わせの短編小説を京都の新聞社へ送ればおおかた足りたが、それ
も指折るまでもなく日限がせまっていた。明日の晩に、水道橋で宝生流「蝉丸」の能がある。シテは歯
科の神戸先生が習っている年若いお師匠さんだ、わるいが諦めると決め、決めてから、
 はて…
と、幸田は腕組みした。
 逝く年を思い顧て、明日ももし「蝉丸」を観れば、ことし三度めになる。二度めは、十月末に渋谷の
能楽堂で梅若のを観た。毎度のこと梅若万紀夫は、わるくなかった。が、舞台は舞台として、あの日、
幸田は飲み友達でもある詩人のY氏と隣に並んだまま、妙なことばかり夢心地に想っていた──。
「鶴亀」みたいに日出度い能ではない。しかも盲目ゆえに逢坂山に捨てられる蝉丸も、生まれながら髪
が逆立つ奇病ゆえに巷にはやく捨てられていた姉の逆髪も、二人とも、「延喜の聖帝」醍醐天皇の「第
四」「第三」の皇子(みこ)というではないか。何ごとをこの能、「聖代」にこと寄せて見所(けんじよ)に訴えたいのか…。
 能の帰り、例の行き当りばったりに暖簾をはねてから、連れの詩人に、その話をした。
「ぼくは。蝉丸を逢坂山まで連れてってさあ、無理に坊主にさせてしまうヤツ…そぅ清貫(きよつら)。あいつが、
気になるね」と、絵の春陽会のいい顔でもあるY氏は、酒がおそいという顔で帳場の方をにらみながら、
無造作に言い放った。藤原清貫か…、言われてあの時、幸田は、かるく絶句した。
「延喜の聖代を代表して清貫のヤツ、蝉丸や逆髪をやっちゃうんだからね。めくらで不具で…、恥部と
いうか暗部というか…それを無残に切り捨てて聖代は、ますます聖代になる、なれる…とばかりにね」

131(17)

と、Y氏は辛辣だ。
「延喜の御代というのは、緒(しよ)についた摂関政治をなんとか確保したい下心で、藤原北家、ことに兄時平(しへい)
の蔭にいながら忠平(ただひら)が着々と地下活動をしていた時代でしよう。蝉丸たちを棄てるはなしも、見ようじ
や源氏(二字傍点)崩しだものね」と、幸田はいつもほど酒に気がなく、茶碗蒸しなどを、あの時、頼んでいた。
「源氏崩し、仰せのとおりだんだん露骨には、なる…。けれど蝉丸や逆髪はそもそも賜姓源氏ではない。
もしそうであっても、だからといってただ源氏なみには見られませんよ。彼らには盲(めし)い、聾(みみし)い、足萎(な)え、
逆髪(さかがみ)、みな不幸な障害ゆえに、尋常の人をふかく超えた不思議なちからが具わっていたんでね。逆髪も、
坂神か塞神(さいのかみ)の別の名乗りかも知れない、…少なくともそういうことを畏(おそ)れて、延喜の聖代は見たとこ身
体障害者の二人を、巷に棄てているんでね…露骨にね」と、Y氏。
「そうは言える。言えるけれども…また、事実は、そんな神秘をもう十世紀にもなりゃ、まるまるは信
じちゃいませんよ。半分はお題目ですよ、お題目に乗っかって安んじて弱者の切捨てが始まった…と、
ぼくはそう読みますね。律令体制を解体して行く為の、それが下半身での課題なんだ。そして上半身で
は摂関政治で年端も行かない天皇を、手品のタネにつかう」
「そうか…。つまりこうだナ。律令のようなややこしい組織でよりも、貴と賤、都と鄙という二重の座
標で日本の国を、価値判断的に簡単明瞭に運営して行こうと。…賤は、鄙へ、棄てりゃよいと」
 詩も書き絵も描く達者なYさんは、なかなかの左派であった。
「逆髪については何とも言えないけど…。蝉丸は、逢坂山の開明(せきの)神にかかわる伝説の人、ないしは巫祝(ふしゆく)
の人であったと想われてますよね。しかも彼は琵琶の手だれで、名高い博雅三位(はくがのさんみ)に秘曲を伝えたという、

132(18)

はやく言ゃ琵琶法師なんだから…。のちのちまで厳重に維持された当道(とうどう)の先祖格ですよ。盲人の官位を
司り、その職業を労(いた)わり護った当道制の発祥と、彼の場合、かならずしも無縁とは言いきれない……」
「つまり…」と、Y氏はもっぱら手酌の手を、ふと止め、話の先を、幸田にうながした。
「つまり芸能の民が芸能ゆえの神秘性を保ちきれなくなった。そこを見定め、律令日本という囲いから、
お払い箱にしたんだとは言えない?」
「分る…よ、それは。律令日本というのはもともと芸能的職能をたっぷり抱いてましたからね。なにし
ろ、祭政一致。その祭りの部分をお払いに出して行くってのは、まさに天皇政治の芯抜きですから。だ
から…」
「だから蝉丸逆髪を野山に棄てるのにも、天皇崩しをねらう藤原氏が手を下した。延喜の聖帝は、それ
を冷淡に見殺しにした。かくて漂泊の民はどっと増えた…」
「それ、それだよ、ぼくがあの能で藤原清貫の登場に注目するのも。ね、気がついているでしょ。ヤツ
は『鶴亀』に出る大臣みたいに、延喜の聖代、つまり天皇(すめらみこと)に『仕へ奉る臣下なり』とは、一度も名乗り
ませんよ。清貫といやあなた、醍醐天皇のというより、かっては藤原左大臣時平(ときひら)の副官の一人ですから
ね。そこが、彼と、彼のおやじの能吏保則(やすのり)とはちがいます」
「反菅原道真党の、有力な旗振りでもありましたね、清貫は」
「彼の父親の藤原保則は、これは優秀な官吏でしたが、すでに後輩でもある道真に対して、えらく点の
辛い人物でした。輪をかけて息子は頭からの道真嫌いで、父子二代していろんな機会に、しかも討って
出るように道真の道を狭くする方へ方へ働いています。あの時代の者はよぅそれを知っていた。で…あ

133(19)

げく、清涼殿で雷に焼き殺されるでしょう、清貫は」
「Yさん、詳しいね…」と幸田は降参半分、ひやかした。
「これで歴史画にも手を染めてますからね、お見知りおきを。で、…清貫が清涼殿で焼け死ぬと、間髪
をいれず、道真怨霊ッてのがとび出したじゃないですか、ねッ…」
「罪もない道真を太宰府で死なせたと、胸に覚えの醍醐天皇に、天神の怨霊の凄さでとどめを刺し、共
犯の兄時平の遺児たちにも徹底的にワリを食わせる。主流を堅めたい忠平としちゃ、この清貫の惨事を
悪宣伝に利用しない手はなかった…」
「二度めですね、怨霊の利用といえば」と、Y氏。
「七年まえに、皇太子が、保明(やすあきら)親王が、それで殺(や)られてますね」
「殺(や)られた…と、あなたはお考え…」
「少なくとも忠平にすれば、死んでくれて有難い皇太子でしたからね…保明は。その子の皇太子慶頼(よしより)王
にしてもね。あのままじゃ外戚に立つのは、やはり本院(時平)の子の保忠たちで、忠平らはワキにな
る…」
「で、保明親王が死ぬとすかさず、道真の名前で崇りという揺さぶりをかけた…あれは、忠平ですよ犯
人(ホシ)は…」
「犯人(ホシ)ね。…まあね。にしても…菅原道真という人物が、あれは、ちょっとした蝉丸でしたね」
 幸田が思わずそこへ話を結ぶと、異説好きのY画伯はポンと手を拍って、「それ、いい。貰います」
とご機嫌でファッファッと笑った。幸田は、光る針の尖(さき)のように有楽町で逢った片脚萎えた美少女のこ

134(20)

とを、想っていた──。
 ──あんな話でYサンと酒を飲んだ、あれから二日とたたぬ頃に、幸田は敦子と東京で逢っていた。
画伯とした蝉丸談義は、幸田から恰好の話題にと持出したのに、敦子はめずらしく乗って来なかった。
それよりも、やがて金沢へ行くのなら中村記念美術館の綾地歌切だけは、頼みこんででもぜひ観てくる
ようにと繰返した。
 えろう蝉丸にはそっけなかったなあ。皇子どころか雑色(ぞうしき)クラスの男やったかも知れん蝉丸では、相手
にも出来んかったかな……。
 明日の能番組をひろげツ放しに、ふと書庫へ入って醍醐天皇の諸皇子を調べてみたが、無駄だった。
蝉丸かと思しき人物は当然ながら見当らなかった。
 蝉丸よりは秋萩帖ですよ、はい分りました。
 一人二役で独り言(ご)ち、小走りになって幸田は凍てた書庫から書斎へとって返した。灯を消したテラス
の闇へ、書庫のおおきな飾り窓ごしに粉雪の降りだしたのを見た。建日子がはやく帰れば、ひさしぶり
に碁などいいなと思った。
 留守中の郵便物に二、三、気をつかって返事の要るのが有った。その処置だけ済ませて、やはり、仕
事はもう一晩休もうと幸田は決めた。寝たいほどではないが、テレビに付合う根気もない。朝日子に電
話でもかけてやったらと、妻は知恵をさずけたが億劫だった。星を仰いで寝ることにしましょ…とノビ
をする夫へ、
「果報があるでしょうよ」

135(21)

と迪子は笑った。
 五十になって今さら果報は望まない。しかし誘う水があるなら乗ってはみたい。しかし宮道(みやぢ)敦子のあ
やかし(四字傍点)に、ほしいままには領略されたくない。
 食べたばかりの近江かぶらの「送り主」も株式会社「筆屋」内としてあって、だからあの敦子には相
違なく、しかし筆屋社長の姓はやっぱり「小野」サンだった。引退した先代の子飼いの社員たちと経営
上の対立に倦(う)んだかたちで、自分はやや身を後ろへ退(の)いて、事業は異腹の妹に任せてきた。それが成功
したんですッてよ…と、迪子も京都へ帰ればいっぱし京雀の一羽に早がわりして、幸田が知ろうとしな
かったこともそっなく耳に仕入れていた。
「妹夫婦(二字傍点)……なのかい」
「それは分らない。あなた、気になって」と妻はひやかし、そして子細顔に付け足した、「ちょっと筆
屋…サンも、分らないとこ、あるわねぇ」
 妻は、敦子が「宮道」姓とは思いも寄らずにいるふうだが、それとて敦子が幸田ひとりの思いをこと
さら惹くための名乗りであったのだろうか。ベンの例会で引合わされ、幸田から「宮の道…ですか」と
関心をみせたのは忘れないし、その時はもう気ぜわしい紹介者の女史はよそのテーブルで浮かれていた。
S社の佐々和子は「同伴者」の敦子のことを、ただ「筆屋の副社長ですの」としか幸田には言わなかっ
た、それは確かだ。
 しかしほぐれるはずのない詮索だった。
 いや。もう子供は産みとないわ…

136(22)

 敦子は、あのとき、比叡山が見え鴨川のせせらぎが聞えるホテルのベッドで、そううめいた。はッと
した。言った敦子の体温も一瞬冷め、けれどまた熱く抱かれてきたではないか。十世紀の大夫(だいぶ)敦子は、
すくなくも二人の子を産んでいた…のだ、まず藤原実頼女(むすめ)の慶子を、そして保明皇太子の御子(みこ)を。
 慶子はのちに、実頼のはからいで朱雀天皇の女御(にようご)の一人になる。
 だが、「みこ」のことになると、男みことも、女みことも、敦子はかたく□をつぐんだままであった
──。
 蝉丸…。逆髪…。允子ちゃん。
 幸田は夕刊をひろげた妻のまえで、突如、ワゥとひくく吠えた。
 妻の新聞はビクとも動かず、猫のノコが、そろりと障子をあけて廊下へ出ていった。

137(23)

     八の帖
 

 蝉丸や逆髪のような子が「だいぶの君」敦子に生まれてはいなかったか。保明皇太子に愛されて儲け
た「みこ」は不幸な生まれつきに生涯を切なく生き、母敦子も重荷が卸(おろ)せなかったのかも…と幸田は想
い至って、立往生した。そんな王ないし女王が、はたして歴史上に在っただろうか。
 泉大将定国の女(むすめ)が保明皇太子の乳母子(めのとご)、分りよくいえば乳姉弟(ちきようだい)の「だいぶの君」敦子であり、正式に
妃とも侍妾とも数えられなかったその敦子が保明親王の「みこ」を儲けていたとは、親王の父醍醐天皇
の信頼のおける『御集(ごしゆう)』に明記してある。保明には、別に、時平女である王妃仁善子(にさこ)の生んだ慶頼(よしより)王と
熈子女王(ひかるこによおう)とがあった。美しい女王は後に朱雀天皇の女御となって、後々に冷泉天皇の皇后となられる昌
子内親王を産んだ。慶頼王の方は延喜二十三年(延長元年・九二三)に俄かに父保明皇太子に死なれ、
年少のまま皇太子の地位を襲ったものの、二年後には五歳で父宮のあとを追ってしまった。父の場合も
子の場合も菅原道真の霊がとり殺したと噂が立ち、生後間もない新皇太子の寛明(ゆたあきら)親王(朱雀天皇)は以
来三年もの月日を日の目も見ぬ奥深い御所の一室に囲われ護られ、怨霊をおそれる母穏子(やすこ)藤原氏の手で

138(24)

厳重に養育されたといわれている。
 保明親王の妃には忠平女(むすめ)の貴子もいたが、貴子が御子を儲けた形跡はない。
もう一人、藤原玄上(はるかみ)の女頼子も保明の侍妾に数えられていて、のちに中納言教忠の、さらに式部丞(しきぶのじよう)文
範の妻となり、行く行くはあの紫式部の曾祖母となった人であるが、保明皇太子の御子を産んでいたか
どうかは定かではない。むしろ敦忠との仲に右兵衛佐佐理(うひようえのすけすけまさ)一子があったとは、金沢からの帰りに新幹線
で隣り合うた式部頼子が、きちんと、幸田を相手にほのめかしていた。
 ところでこの佐理も、その後幸田の追尋によればまた一の蝉丸(二字傍点)であった、と言うのも、彼も世に隠れ
ない琵琶の法師であったから。冷泉朝の現官をなげうち卒然と比叡山に遁れてのち、いつか山科の四(し)の
宮河原に人康(さねやす)の親王(みこ)の遺跡を守って、蝉丸とすこしも変りない庵(いおり)住みに世を終えた人であったから。源
氏物語に不思議の琵琶を伝えて誇り高いあの明石入道の、この佐理(すけまさ)は紫式部がまず想い寄ったモデルで
でもあっただろうか。
 幸田は、蝉丸が住んだ逢坂山の関を踏んだことがない。関の明神を拝んだことがない。だが、まるで
忘れていたが人康親王にゆかりの北山科四の官辺なら、子供の頃からまんざら不案内ではなかった。
人康(さねやす)親王は仁明天皇の四(し)の宮と生まれ、不幸な失明ゆえに美しい青年の身で京から近江に近い山科(やましな)柳
山の麓に、隠れ住んだお人。なぜか雨夜尊(あまよのみこと)と盲法師らに慕われ崇められて、大正昭和に至るまで当道の
人は年一度四の宮河原の徳林庵に集い、終日琵琶を弾(たん)じて親王の霊をなぐさめ続けてきたといわれる。
 その京阪電鉄四の宮駅からさほど遠くない、泉水(いずみ)町という町なかに諸羽(もろは)流華道の家元が住んでいた。
幸田が養家の叔母は、若くからこの流儀のひとかどの株であったかして何かにつけ家元に顔を出し、幸

139(25)

田も国民学校の二年三年くらいまで、気がむくと叔母のまるい尻にくっついてそのお寺、硝子戸の多い
こぢんまり日当りのいい双羽山(そううざん)来光寺を訪れたことが度々あった。頭をくりくりと丸めた白粉気のない
鼻の短いおばあさんが、白い紙にのせてきまって紅葉や梅の形した小さい干菓子(ひがし)を三つくれた。大きな
茶碗の底にすこし溜った青いお茶も喫(の)ませた。
 来光寺のことはほかに憶えない。むしろ家元ではきまって尻の永い叔母にそそのかされ、時に叔母と
も一緒に、近所の寺やお堂を順にのぞいて歩くのが呑気で面白かった。気が向けば国鉄の東海道線を北
へ越え、眉さきに柳田の真緑(まみどり)をまばゆく仰ぎながらひとり諸明(もろは)神社の境内に入って行くこともあった。
 桜が、人かげ一つない境内に敷きつめたように散っていた日は、異様な静かさに胸が騒いだ。整って
気持ちのいいお社であったが、大きくはない。秋には紅葉もよく照った。参道の脇を埋めて米をまくよ
うにこぼれ咲いていたのが、萩という花だと叔母に教わったのもここのお宮でだった。
 叔母には、だが、もう一つをこの境内で教えられている。拝殿の奥に、結いめぐらされた本殿の一画
へと入って行く小門が、いつも無造作に扉(と)をあけていた。砂利を踏んで本殿の背後にまわると、稲荷と
天満(てんま)が一対にちいさく祭ってある脇に、注連(しめ)縄を張った背丈どころでない苔むした石がずんと立ってい
る。叔母は苔むしたこの石に「在原業平」という「美男子」の和歌が一首刻んであると、肩に置いた手
に力を添えて神妙な顔で幼い幸田に教えた。
 諸明神社でのことはそれきり記憶を洩れていた。が、この師走に病後を労(いたわ)って能の「蝉丸」を観に出
向くのをあきらめたあと、はね上がるほど妻のまえで声を放って幸田の思い出したことが、ある──。
 北山科の来光寺から諸明神社へは、あれでも、いささかの距離があった。迷いこそしないが八つや九

140(26)

つでそう毎度足の向く先でなく、たいていは家元の近所をうろついていたのだ。
 ちょうど道の奥へ三軒お寺が並んでいたし、門はどの門もあいていた。幸田は一軒おいて向うの、門
柱の黒いふしぎに佳い匂いのするお寺がお気に入りで、そこは門を入るといきなり一段二段低くおびた
だしい萩叢(はぎむら)に石畳の径(こみち)が埋もれていた。構わず二つほど萩のなかを曲ると、柳と燈篭とのかげに畳千枚
ほどの角(かく)な泉水(せんすい)が沈んでいた。苔の浮いた水にひたひた腹を触れそうに、えらく厚い石橋がべたりと渡
してあるその上から、柳を枝長に手折って睡蓮のかげを突ついていると、ぷくと丸い□をあけて緋鯉真
鯉があがって来たりした。
 鯉のすむそんな池に幸田はうっかり運動靴を片方落としてしまったことがある。腹這いに袖を濡らし
て手で探ったが及ばなかった。彼は□やかましい叔母を呼んで来て煩わせるよりは、萩の奥の庫裏(くり)に助
けを求める方をえらんだ。おそるおそる切子格子(きりこごうし)のすこし重い硝子戸をあけて人を呼んでみると、思い
がけず奥深くとんとんと磨きあげた板敷を踏んで、稚(いとけな)いほどの子がかけて来た。
 かしこく上りかまちに立って、「はあい。どなたさんですか」と大人のような□を利く。四つにもな
るまい。ぐっと詰まって、しかし、「棒、貸して。靴落ちてん」と幸田が掛合うと、少女はすずしい顔
で、真ツ黒い太い壁柱に柄長(えなが)の竹の熊手の見えるのを指さした。「おおきに」と手を出したところへ母
親らしい人があらわれ、自分も外へ出て手伝ってくれた。少女も来た。
 幸田は、さっき少女を見たときから、何故だか、胸を絞られていた。息苦しいくらいだった。内緒や
で…内緒やで…と、せわしなく□のなかで言い言い顔が火照った。
 布の靴はやがて濡れ鼠で熊手にかけられた。古新聞や雑巾でさかんに拭ってもらっても、すぐには乾

141(27)
 
 

かない。日当りに干しておいて、上がって待つように勧められた。
 来光寺さんのちいさな客だと知れると、少女のうら若いような母親は、いろんなことを幸田に話させ
て楽しんだ。名前は康之で「康(や)ッちゃん」と呼ばれていると聞くと、その人もずく「康ッちゃん」と呼
んでくれた。
 いい匂いの寺内には母娘(おやこ)のほかに人けがなく、母親と幸田で話しているあいだ少女は涼しい顔をして、
□をはさまなかった。
 大きな桟の障子がまぶしいほど白い。藍色した畳のへりに、踏むのが勿体ないような金の花模様が光
っていた。その人は紅いちいさな針山の針箱をひきよせ、うす紫の着物の袖のようなものを膝にひろげ
て休みなく糸と針とを使っていた。赤い覆いをして床の間に立てた琴というのも、幸田は初めて見覚え
た。母親の声にうなずき少女が立って障子をあけると、縁側のまぢかで、そこの庭にもやさしい色の萩
の花が日ざかりに咲きこぼれていた。
 帰りたくなかった。幸田は家になんぞ帰りたくなくて、半分泣けそうになっていた──。
 四(し)の宮の「萩の寺」で、池に靴をはめてきた「康ツちゃん」の失敗(しくじり)は、叔母の稽古場でながいこと一
つ話にされた。それは、だが、もういい。あの「萩の寺」胎蔵寺の黒い門柱にもう一つ小さめの表札が
打ちつけてあって、ひょっとしてあれは「宮道(みやぢ)」であったかも知れないのも、だぶん、みんな思い過ご
しであるのだろう。思い過ごしでもよかった、冴え冴えとしたあんな萩の秋を、名もしらず芳(かぐ)わしい少
女と母と三人で過ごした記憶をよみがえらせてくれた「蝉丸」の能に、幸田は感謝した。
 人康(さねやす)親王のことも、むろん、調べた。業平の歌を刻んだという諸明神社の大きな琵琶石のことは伊勢

142(28)

物語で確かめた。文徳(もんとく)天皇の女御多賀幾子(たかきこ)という人の、死んで七七日(しちしちにち)の法事が山科安祥寺で営まれた。
兄の右大将常行(ときつら)が、そのついでに、近くで出家しておいでの人康親王をお見舞い申すと、宮の住まいは
滝を落とし水を走らせなど、思いのほか風情よくおもしろう造ってあった。珍客の到来を喜ばれた宮は
接待に勤められ、常行は恐縮して、この宮にふさわしい贈り物もがなと考えた。
 あげく所縁(ゆかり)の家に「紀の国の千里の浜」でえた石のあるのを思い出し、人をやって運ばせるとなかな
か「見るは聞くにまさる」名石であった。なにか趣向をと人々に和歌を競わせて、なかで在原業平の一
首を「青き苔をきざみて、蒔絵のかたに」石にきざませ、「島(つまり庭園泉石)好みたまふ君」に贈
った。琵琶に堪能な宮にちなんで人はこの名石を「琵琶石」とあがめ、のちには注連縄(しめなわ)をめぐらせもし
た。
 入道の宮の山荘は近隣を占めて広々としていたらしいが、宮の没後は早くに荒廃した。中納言教忠の
子の佐理入道が一張りの琵琶を友に庵(いおり)住みしたのは、いま十禅寺の北に接した人康(さねやす)親王の墓のほとりか、
東へ寄った人康親王御霊社(ごりようしや)ないし蝉丸手洗(てあらい)の水ともいわれて今も足摺池のあるほとりであったろう、泉
水町の名にも「島好みたまひし」雨夜尊(あまよのみこと)の往時が偲ばれている。
 もっとも幸田は異な心地もした。知らぬ者のない失明の宮ではなかったか。四の宮川の鳴瀬を耳に楽
しみ、庭に幾重にも水を走らせて聴いたというではないか。石に刻んだいくら業平の秀歌にしても、見
えない目には見当のつかぬ趣向に思われる…が、ま、それはいい。
 それより佐理の琵琶というのを、幸田は気にした。
 佐理の父敦忠は風流才子で鳴らし、音曲にも秀でていた。号は本院中納言、「又号枇杷」と本にはあ

143(29)

る。妻の一人であった玄上女(はるかみむすめ)の頼子が、のちに朋輩に「枇杷式部」とあだなされて宮仕えを退いたとい
うことも、頼子の□からではないが、宮道敦子に幸田は聞いていた。だがその「枇杷」はあるいは「琵
琶」が正しいのかも知れない…と、幸田は考えはじめていた。そう…それに違いないと。
 保明親王の弟にあたる村上天皇の頃から、ものの本に時おり皇室秘蔵の琵琶の名があらわれ、ことに
「玄象(げんじよう)」または「玄上」という名器が神秘的に畏敬されていた。たとえば平家物語のような軍記にもそ
れが出て来た。たびたび紛失しては見つけられ、そのつど伝説が加わって室町時代まで実在していたと
もいわれる。今昔物語には例の博雅三位(はくがのさんみ)も羅城門にすむ鬼も「玄象」の琵琶にからんで登場する。幸田
は、しかし、後撰集の「大輔(たいふ)」を尋ね捜すうちに出会っていた参議藤原玄上(はるかみ)の名が、当て推量だが、琵
琶の「玄上」と無縁であるわけがない気がしていた。
 この琵琶の伝説は、あまりにことごとしい。眉に唾をつけたい。が、南家(なんけ)藤原氏の宰相玄上卿となる
と、これはまた何の華やかもなかった。女(むすめ)の頼子が保明皇太子の侍妾にあげられた位が花で、琵琶の玄
上または玄象との繋がりを示す記録も、無い。事実無いと幸田は思っていたし、しかし無いことでよけ
い隠れた深い結びつきを想像したくはあった。ところが、記録が有った、関係は有ったのである。
 古事談という説話集の第六に、「村上天皇、唐土ノ琵琶博士廉承武(れんしようぶ)ニ合フ事」と題した不思議の一段
があり、名器玄上が登場している。不思議の方はこの際構わない。が、見遣せない、いや聞き遁せない
のは段の末尾に、或る人が、玄上伝世について博識無双の中納言大江匡房(おおえのまさふさ)に質問している、その匡房の
返事であった。自分はたしかな説を知らない。そう匡房は答え、「延喜のころ、玄上宰相と言われた琵
琶弾き(が所持)の琵琶だと思うが」と、さらりと加えていた。

144(30)

 父玄上が名誉の琵琶弾きなら女(むすめ)頼子がもしや「琵琶内侍」ないし「琵琶式部」にされても、またその
遺児の佐理(すけまさ)が聞えた「琵琶法師」に事実成っても、これは脈絡がつく。公卿補任(くぎようぶにん)で調べると藤原文上の
母は、仁明・文徳両朝の非参議で従三位百済王家の勝義の女(むすめ)であった。勝義の父は百済三玄風(はるかぜ)であった。
それだけでない、この勝義は渡来の家に伝わる秘技秘術を以て人康(さねやす)親王に親しく琵琶を伝授していた。
 藤原玄上の参議昇任は延喜十九年(九一九)、おそらくはその年に女頼子を皇太子にすすめ、また母
方から伝えた名器「玄上」をも
皇室に献じたのであろう。
「琵琶式部」の頼子にまた逢い
たい、「だいぶの君」の敦子と
一緒に、いやいや「萩の寺」の
宮道敦子と一緒に、ぜひ逢って
みたい。そして…、逆髪(さかがみ)ならぬ
脚萎えて美しい極みの少女允子(まさこ)
とも。その折りは尋ねよう、あ
れもこれも聞いて確かめようと、
幸田は、胸にいろいろを凝(じ)っと
押し畳んでいた。
 琵琶「玄上」のことでは、だ
 

醍醐────保明親王
       ?
       ?
藤原玄上───女(頼子)
       ? ?
       ?━?━━━━佐理───文慶
       ? ?
藤原時平──敦忠 ?────為信
         ?     ?
        藤原文範   ?───女
               ?   ?
           宮道忠用女   ?
      ┌兼茂          ?──紫式部
藤原高藤──┤            ? 
      └兼輔───雅正────為時   

145(31)

が、今一っ見落とせない記事が大鏡に出ていた。「たいぶ」敦子の先の義父であった藤原兼茂(かねもち)が、これ
また「高名(こうみよう)の琵琶弾き」と呼ばれ、「相撲節(すまひのせち)に玄上たまはり(拝借して)て、御前にて」いみじくも青
海波(せいがいは)の曲を弾きすましていたのである。この稀代の琵琶は気難しくて凡手が触れても音ひとつ出さない
難儀な代物(しろもの)、それを兼茂は、蝉丸も博雅三位(はくがのさんみ)もなにかわ、承明門の外まで玲瀧と響かせたという。或い
は「重代(ぢゆうだい)の琵琶弾き」玄上卿の、兼茂は一二の弟子でもあったのだろうか。
 左兵衛督(さひようえのかみ)兼茂は、しかし、不幸な死にざまを伝えられる人でもある。弟の堤中納言兼輔(かねすけ)ほど能吏では
なかったか、ないし後盾の泉大将定国にはやく死なれていたからか、兼輔より二年遅れて延喜二十三年
正月にやっと参議に挙げられ、たった二た月と経ずに、宮中で卒中死した。四位(しい)の、しかも従下(じゆげ)のまま
であった。追っかけ保明皇太子が突如として落命した。当時兼茂の妻清子は皇太子の元の乳母(めのと)であり、
清子の子の敦子は、その皇太子保明(やすあきら)の「みこ」をひそかに生み落としていたのである。

 病後を柔(やん)わり労(いたわ)っている余裕がなかった。幸田は時間割にしたがうくらいに約束の仕事を捌く一方、
博物館のK博士にとうとう頼みこんで、師走も仕事納めの間近い館内で『秋萩帖』を特に観せてもらい
に出向いたりした。
 いつもは硝子越しに観てきたのが、眼に直かに、巻物のかたちで手にも持たせてもらうと、伝世の重
みにさすがに幸田は負けた。草仮名(そうがな)じたいの印象は秋萩の歌二首も冬以下の歌もとくに改める点はなか
った。が、和歌四十八首のうしろへ晋(しん)の王羲之(おうぎし)の消息類を続々と臨書してある部分には顔が灼けそうに
気圧(けお)された。写真でしかそこは見たことがなかった。関心もあまり持たないで来たが、鳴り響いていた。

146(32)

紙背淮南子(えなんじ)の堂々とした楷書も伏見天皇の紙継ぎ部分の花押(かおう)も理屈抜きに有難くて、幸田は心のうちで
何かしら易々とひっくり返された物音を聞く気がしてならなかった。
 その日K氏は館内に不在で、「家来」さんの若い一人が心得て便宜をはかってくれた。『秋萩帖』第
二紙以下から字母を切出して、K氏の推測にたがわず金沢の中村美術館にある綾地切(ぎれ)の歌とそっくりに
字を並べてみせた青年だった。
 幸田は、こっそり尋ねてみた、「道風(とうふう)の筆…だったと、ほんとに思いますか…」と。
まともに答えてもらえる質問ではない、が、道風にかなり近いか…といった返事を期待していた。U
君は微笑んでいた。
「伝佐理(さり)という綾地切筆者の言い伝えは、いけませんか全然…」
「佐理はたしかに若い頃、熱心に道風の手を写していました…」
「臨書をね…。この三蹟の佐理の父親は、つまり藤原敦敏は、手はどうでした…書けた方なんですか」
「それは分りませんね。早く死んだようですし…」
「いっそですね、佐理のお祖父さん…清慎公実頼(さねより)があの綾地の歌を書いていたかも、という推測はどう
でしょうか。実頼なら、道風ッぽい字は書けたのでは…。手本もいくらも手に入ってたでしょう」
「でも……どこから、なんで実頼の名前が出るんですか」
「道風が惚れてた後撰和歌集の大輔(たいふ)という女は、保明皇太子と乳母子(めのとご)の間柄でいた頃から、藤原実頼の
…妻、すくなくとも思い者の一人でしたからね」
 U君は黙った。幸田もそれ以上若い学芸員を刺激するのは避けた。綾地の裂(きれ)に「夏来ぬと」と書かれ

147(33)

た歌の、『亭子院歌合』甲本乙本混同の表現もいっこう気がかりなままだけれど、古典には疎(うと)そうなU
君相手では始まらない。
 オーバーの襟を重ね、小雪に背中を丸うして通用門を出た幸田は、今度は券を買って表門からまた博
物館に入り直した。河内信貴山(こうちしぎさん)神社が所蔵の、藤原定信筆と伝えた『後撰和歌集』が出陳してあると、
いまU君に聞いて来た。定信といえば建礼門院右京大夫(うきようのだいぶ)の祖父にあたり、五千余巻の一筆一切経を二十
三年間にわたって書写したというこの能書の人が、なぜか幸田には以前から懐かしかった。まして初見(しよけん)
の後撰集とあっては見逃せない。
 クリスマスも過ぎて閑散を極めた博物館構内に、おびただしい鳩が、降る粉雪を煽(あお)って面白いように
下りては舞い、舞ってはまた曇った大屋根をかすめて地上にばら撒かれた。からっぽのベンチの背にす
こし手を触れ、幸田はそっと空を仰いだ。それから、まっすぐ正面の本館へ一、二また一、二と低い階
段をのぼった。
 二階にあがり、先ず絵の部屋部屋は、惜しみ思いながら一っ二っと素通りした。載金(きりがね)が優しく目にじ
みて白象に騎(の)った「普賢菩薩図」の前では、それでも足がすくんだ。京都知恩院の「早来迎(はやらいごう)」や宗達の
「蓮池水禽図」にも敬意と目礼とを捧げて通り抜けた。それでもどうにも堪らず、時季はずれながら円
山応挙の藤の屏風の前で、幸田は、こんなに美しい花がまたと地上に咲くものであろうかと、頬を掌(て)で
はさんでため息をついた。根津美術館は、この国宝を、この師走逼迫(ひつぱく)に惜しまず博物館へ貸し出してい
たかと、妙なことに感心したりした。
 動けないでいると、

148(34)

「先生…はやく…」
 次の隅部屋からこつんこつッと片輪な足音をさせながら、やわらかい少女の声が幸田を招いた。
「あ、君。ごめん…。つい…ね。これをね」
「ええ…その絵、あたしも大好き」
 允子(まさこ)はすばらしい歯並びをみせて、目をみひらくように表情をつくった。コートに、黒いベレをかぶ
っている。手ぶらである。ゆっくり来て横に並びながら、声あかるく、
「筆屋のおばさまが、はやく呼んでらっしゃいッて。だから呼びに来ましたの」
「へいへい。参ります参ります」と幸田はおどけた。
 敦子と頼子とは書蹟の展示室に入っていたが、敦子は幸田を認めるとすぐに、今まで観ていたケース
の前を離れるともなく離れるそぶりだった。
「後撰集…信貴山本。そうでしよう」と、幸田は声かけた。
「それが…。ほら、見せも見せたり…こんな佳いところですのよ」
 幸田は、頼子が指をさして笑顔で待ちもうけている側(そば)へ寄って行った。
「ほら…、ごらんになって」
 幸田はすこし照れた心持ちに襲われながら、頼子の言うまま横長な硝子ケースを上から覗き込んだ。
允子も寄添って来た、敦子も、戻ってくるけはいであった。
 夜明けの空のような淡い藍。それへ金銀のもみ箔を撒いた鳥の子紙のまんなかに、いきなり、「たい
ふにつかはしける  左大臣」という文字が見えた。小野宮実頼(おののみやさねより)の歌であった。

149(35)

    たいふにつかはしける
            左大臣
  いろふかく染めしたもとのいとどしく
    なみだにさへも濃さまさるかな

「まッ。やってらンないわ」
 高校生が遠慮のない声を、感極まったふうに押し殺し洩らしたから、笑ってしまった。後年の官職で
「左大臣」とはあるが、「だいぶ」敦子が実頼に背くように春宮(とうぐう)に愛されていたころ、敦子との仲にす
でに慶子という子まで成していた当時少将の若い実頼から、そっと書き送った愚痴な歌であった。
 本は一冊の粘葉装(でつちようそう)に出来ていた。解説によれば緑、紫、茶、白の鳥の子紙を二つ折りにして重ね、折
目の外に糊づけに貼り合わせてある。白い紙には表に飛雲文様が漉き込んであるともいう。そして信貴
山本には、緞子(どんす)の表紙が新たに加えられてあるらしい。
「筆屋のおばさま、先生に、なんてご返事をなさったの」と、允子は二人を見比べて容赦がない。敦子
は黙ってベレ帽の上からコツンとくらわせた。
「定信くらい筆達者ならですよ。秋萩の二首をあの程度に臨書するのは、軽い軽いンじゃなかったの…、
どう思う」と、幸田はわりこむ允子にかまわず、大人二人を均分に見た。
「あ、ずるいんだ」とうそぶいて允子は背中を揺する格好で離れて行った、片脚をすこし牽いて。

150(36)

「でもあれば…あの、国宝『秋萩帖』の第一紙分は、ほんとうに、原(一字傍点)秋萩帖なんてものの、必ず断簡…
だなんて、思えて」と頼子が、人差し指をまっすぐ顔のまえに立てて、□を切った。頼子も今日はベレ
っぽい黒い帽子をかぶって、ポケットの大きな茶色のビッグジャケットにタイトスカート、セーターも
同色という、お寺さんにしては毎度のことだがナウい格好をしていた。背は敦子よりすこし低くて、難
なく妹分に見えていた。
「式部さん、そこ…そこですよ。あの秋萩二首は、古今集の秋の部に、あのまま二首続きで載っていて、
読み人しらずの歌なんだもんね。現在の『秋萩帖』第一紙を、もとどおり第二紙以下と切離しておいて、
先入観なしにすなおに想像すれば……、ね…、数ある古今集切の一つ(二字傍点)であるだけ…かも知れないんだよ、
あの一紙は」
 幸田は、ついに、腹にあったことを初めて□にした。
「現在(いま)の『秋萩帖』には、なにかの本から二首続きで引いたッて歌は、ほかに無いわね」と、頼子。
「そうなの。秋萩二首だけが別もの。…ただ…十二世紀の料紙に十世紀の草仮名で書いてあるのは、い
わゆる時代(二字傍点)は合いません。だから第一紙とて写本には違いなく、第二紙以下と元の筆が同じか、とても
手が似ているッて事は、やっぱり確かなのね。だから秋萩二首の第一紙部分が見つかったときに、好都
合に伏見天皇のお手習いの頭ンとこへ継ぎ足したろう…江戸時代に、と。あたしも、そう思いますわ」
 敦子は、巡回の係員の耳をはばかりながら、静かな□を利いた。幸田は気がついていた、敦子は「小
野」の対談の席へ幸田を迎えた雪の晩と同じ、朽ち葉色に蝶の小紋の着物を着ていた。それへ淡い色の
羽織を重ねていた。

151(37)

 離れていた允子が手招きして、「見て見て」と大人たちを呼んだ。そっちへ流れて覗いてみると大津
市追分の大宅(おおや)家から出ている『浜ちどり』という手鏡(てかがみ)が開いてある。その右の一扇に、「伝文慶」筆と
注があって、独立した歌二首に詞書を添えて、まるで面相筆で書いたような細字(さいじ)が、実に達者に書きく
だしてあった。あ…と、だれかが声にした。
「これ…頼子おばさま……でしょう」と、允子は「御匣殿(みくしげどの)」とあるよみ人の名を指さし、顔を見てはっ
と言いやめた。頼子は顔色を変えていた。

    敦忠左兵衛佐(さひやうゑのすけ)に侍りける時に忍びて言ひちぎりて侍
    りけることの世にきこえ侍りにければ  御匣殿
  人しれずたのめしことは柏木の
    もりやしにけむ世にふりにけり

 人知れずおすがりしたような敦忠さまとの仲でしたのに、その兵衛佐(=柏木(かしわぎ))さまが世間に漏らし
ておしまいになったのでしようか、なにもかも知られてしまって…という、歌。
 もう一首、

    やむごとなき所にさぶらひける女のもとに、秋ごろ
    しのびてまからむとをとこの言ひければ

152(38)

                    よみ人しらず
  秋はぎの花もうゑおかぬ宿なれば
    しかたちよらむ所だになし

「こっちのはね、この…筆屋のおばさまのお歌なのよ」と、あッと制している敦子を退けて頼子は、気
を取り直した顔で、陽気にすっぱ抜いた。「だいぶの君」敦子が皇太子にひしと添うていたときに実頼
が懲りずまにひそかにまた言い寄るのを、きれいに袖にした、振った歌だ。秋萩には「鹿」が寄る。そ
の秋萩も植えていない私の宿へ「然(し)か」そのように言い寄っていただく場所は、空いておりません……。
「じゃ、なんで、よみ人しらずなの」と允子。
「それはね允子ちゃん。なんだってエライお方に不都合なときには、そう世間の人が勝手にしちゃうの。
ね…。先住、そうでしたわね」
「すると…この忍んで行くぞッて男の人は、先生なんだナ」
「わるい人でしょう」
「わるい人なのねぇ」
 大夫敦子とどうやら小大(こだい)允子とは、目を見合わして実頼役をわらって見せた。幸田は眉をしかめ、筆
者に擬された伝「文慶」のことを思っていた。半分は知らんフリをしていた。
 頼子の様子からも、「文慶」は彼女には実の孫、敦忠との間に出来た琵琶法師の佐理(すけまさ)が俗世で儲けて
いた唯一の男子の名に違いない。そして文慶の母とは、実頼の長男敦敏が遣した女子。三蹟の一人であ

153(39)

るもう一人の佐理(すけまさ)の、姉──。
「なんで、こんなものが遺ってしまったんでしよう」と、頼子の声はくぐもっていた。
「行きましよう…。寒くなってきたわ」と敦子がうながした。
 雪はやんで、上野の山には日が照っていた。枝がちのこずえの波が高々と目路(めじ)をさえぎって、うす曇
りの空を冬の光が流れる。洋食の精養軒の裏あたりで車を拾い、十分もしない間に湯島天神の門のわき
に店を出している「やぐら」という蕎麦屋に、四人で腰を休めた。
 だれが言い出したとも覚えない、ただ、なによりも天神さまに先ずお詣りして休息はそれから…と、
四人ともが思っていた。「やぐら」は本店が京都南座前にあり、ほんものの鴨なんばが自慢だった。こ
の店でも本店に同じというので、四人とも鴨なんばを頼んで幸田は酒も頼んだ。
「…食べながらで、いい…。ちょっとぼくの思案を聞いて欲しいんだ…」
 幸田は酌を引受けようとした敦子を掌(て)でそっと制して、古清水(こきよみず)を写した瓢(ひさぎ)を、手酌で猪□(ちよく)へ傾けた。
敦子は勧められて、遠慮した。

 さて…、十世紀初めの京都の政情は、よく言われるように宇多上皇と右大臣菅原道真に対する、醍醐
天皇と左大臣藤原時平の綱引きだった。
 藤原氏ととくに血縁のなかった宇多院は、即位以来、目の上のどでかいこぶであった関白基経が死ん
でしまうと、院政の権で、たちまち律令制を振粛、ならびに権門藤原氏を抑制の政策を次々に打ち出し
寛平(かんぴよう)の治(ち)といわれる路線へ走った。学者で地方官上がりの菅原道真は蔵人(くろうど)の頭(とう)という側近一の要職に挙

154(40)

                          保明親王
                            ?   ┌─慶頼王
                            ?───┤
                            ?   └─熈子女王
                         ┌─仁善子
                         │
                         ├─保忠
                         │
                  ┌─時平───┼─顕忠
                  │      │
                  │      ├─敦忠   ┌─敦敏
            藤原基経──┤      │      │
                  │      └──女   ├─述子
                  │         ?   │
                  │         ?───┼─頼忠
菅原是善              │         ?   │
│                 │       ┌─実頼  └─斉敏
│┌─道真             ├─忠平    │ ?
└┤                │ ?     │ ?─────慶子
 └─類子             │ ?─────┤ ?
   ?              │ ?     │ 大夫(敦子)
   ?━━━━━━━━━━━━━━│━順子    │ ?
   ?              │       │ ?─────みこ
   光孝──宇多         │       │ ?
       ?          │      ┏│━保明親王
       ?━━━━━━━━━━│━醍醐   ┃│ ?  ?
       ?          │ ?    ┃│ ?  玄上女(頼子)
     ┌─胤子         │ ?━━━━┫├─貴子
     │            │ ?    ┃│
藤原高藤─┼─定方──朝忠     └─穏子   ┃└─師輔   
     │                   ┃
     └─定国(泉大将)           ┣━━ 成明親王(村上)
       ?                 ┃
       ?───大夫・大輔(敦子)     ┗━━ 寛明親王(朱雀)
       ?
       乳母命婦(清子)
       ?    ?
     藤原兼茂   平伊望(桓武平氏)    

155(41)

げられ、ほぼそれと見合いの意味でまだ年若い、しかし藤原氏の正嫡時平の官位も宇多院は上げて行っ
た。時平も、醍醐初政の頃までは上皇先導の個性味ある政治にかなりよく協力していたのである。
 少年の醍醐天皇は胤子藤原氏、宇多女御の所生(しよしよう)であった。その藤原氏一族の、時平は揺がぬ一の人で
あった。藤原氏や高貴の源氏の多くは、一菅原氏の道真があまりに重く用いられるのを憎んでいた。
醍醐の後宮には、はやくに宇多上皇が、生母班子太皇太后の意も汲んで同母妹の為子を納(い)れていた。
ところが為子は昌泰二年(八九九)に死に、にわかな死は、かねて上皇らにより入内(じゆだい)を阻止されていた
藤原穏子(やすこ)の生母、あの盲人康親王(もうさねやす)の女(むすめ)、が怨霊となって殺したのだと暗い噂が流れた。穏子の父は亡き
関白基経であった。太皇太后と宇多上皇とはかたくその帝に娶(め)されるのを禁じ、しかし穏子の兄時平は
策をめぐらし、血気の醍醐天皇の心を動かして妹の参入を強引に実現させた。宇多上皇の胸にこの時、
「不孝」の醍醐帝に替えてその弟斉世(ときよ)親王を天子の位に立ててもいいとの思いが、いちまつ兆さなかっ
たとはいえず、結果としてこれが道真失脚に険悪につながった。菅原道真の女(むすめ)は斉世親王の妻であった
から。

 女三人──は、幸田の話すのを平静に聞いていた。三人とも熟知の経緯であった。

 天子の廃立(はいりゆう)を企てたとの冤罪(えんざい)に坐して、右大臣道真はあえなく九州の太宰府で死んだ。
 一方、穏子藤原氏はめでたく同じ延喜三年に醍醐の皇子保明親王を産んだ。すかさず時平らは立太子
を計略し、乳母(めのと)に、女子を儲けて間もない腹心藤原建国の妾(しよう)の一人を挙げた。片腕道真をもがれ気も衰

156(42)

えて宇多上皇は政局を離れ、保明は二歳で太子に立ち、乳母子(めのとご)の稚い敦子も母清子に伴われて、以来皇
太子座所にまぢかく生い育った。定国は、もと小野宮入道親王の邸であった今は自邸の泉殿を、奉侍す
る皇太子のために概(おおむ)ね明渡していた。
 皇太子の母となった女御穏子がむろん兄時平とは極めてよく、宇多上皇や道真には冷淡な存在であっ
たのは言うまでもない。宇多の念入りの後援で、その養女の「菅原の君」順子(なほこ)を妻にしていた次兄忠平
に対しても、妹穏子は疎い気持ちを隠さなかった。忠平はもともと宇多の寵をえながら道真寄りのとこ
ろで力を蓄えた人であったし、女(むすめ)の一人は渦中の道真女婿(じよせい)、即ち斉世親王の室に加わってさえいたので
ある──。
「さ、そこでだ……」と幸田は息を引いた、「そこで、忠平嫡男の実頼なンだけど…」
「ね、場所を替えません…」と頼子が、気をつかう風に幸田の顔を見て□をはさんだ。
「替えてもいいけれど…どこか在るかなあ」
「いっそ萩の寺(三字傍点)まで帰るのは、どうかしら。その方が落着くわ」
 頼子の提案に敦子は幸田をうかがい、允子は大人しい。でも、その前に、一つだけ話のしまりを着け
ておきたい。幸田は、あえて敦子の顔をみて、尋ねた。
「乳母命婦(めのとみようぶ)といわれたあなたの母親の名は、精神の精子か、清水(きよみず)の清子かはともかく、ほんとに藤原氏
だったの。宮道(みやぢ)氏ではなかったんだね」
「それは…」と、敦子はなぜか顔をあかくした。
「それは、わたくしがお話ししましょう」

157(43)

 式部頼子がおだやかに割込んだ。頷いて幸田は、したみ酒をからにした。
 古今集雑の部に、春宮(とうぐう)保明親王の帯刀(たちはき)だった男が職を解かれ、その復職を請い願う歌一首を載せてい
る。さしたる歌ではない、が、その作者の宮道潔興(みやぢのきよき)と命婦清子とは実の兄妹だった。つまり清子は元来
宮道氏に生まれていたのである。繰返すまでもない、醍醐天皇生母の母方、ということは春宮祖母の母
方が、宮道氏の出であった。父方は勧修寺家藤原氏。宮道氏の本宅を勅額の勧修寺としたのも醍醐天皇
とうぐうりだいぷき上き
の生母胤子藤原氏の発起であり、泉大将定国はそのすぐ弟で春宮大夫を兼ねた。潔興はもっとも近い親
類として、定国の配下にいて、春宮保明に対し、帯刀の武士としてすくなくとも一時近侍していたので
ある。
 清子は藤原定国がはやくから養女として育てた。そして聡明に成人した清子の麗質を惜しみ、他の男
には何としても添わせなかった。そしていっしか北山科の一寺に清子は隠され、敦子が、表向きだれを
父とは知られずに、そこでひっそり生まれた。のちに母とともに皇太子の座所に移され、定国庶子の、
「だいぶの君」藤原(二字傍点)敦子として宮廷社会にはなやいだ。
「すると…太秦(うずまさ)にいたりしたのは」
 敦子が、急にころころと可愛らしく笑った。頼子たちも笑った。……

158(44)

     九の帖

 山手線の巣鴨駅を過ぎた頃から幸田は、こころもち肌寒さを覚えて、座ったまま尻をもたげぎみにオ
ーバーの襟を両手で立てた。街の宵明りが窓の小雪に濡れてにじんで、へんに静かだった。一人として
しゃべっている乗客がいない。幸田はまだ□ににおっている濃い酒の香にふと思い屈しながら、たしか
に鶯谷の駅前の蕎麦屋で酒…を、のんで来たのを思い出した。
 博物館を出たときに自分独りであったのかどうか、それが頼りない。
 しかし雨にいまにもゆるみそうな雪に吹かれて、いかん、またあぶない胸が…と拳を握りしめ足を早
めた見当が、博物館わきを裏へ、鶯谷駅の方角へであったのは忘れていない。それも、酒のやれる蕎麦
屋が駅へかけこむ目の前にあるのを知っていたからで、特大の海老てんぷら蕎麦を大盤りの二合徳利な
どという野暮な真似は、上野の博物館通いのつど、幸田がひとりでに覚えた道楽なのであった。
 なんのこッた…。がっかりして幸田は電車が大塚を過ぎると舌打ちがわりに座席を立ってしまい、す
こし乱暴に肩で人を押しわけてドアに近寄って行った。すぐに池袋だ、酔いが自分で分った。

159(45)

 はて何しに『秋萩帖』を観せてもらいに、おれは、博物館に行ったろう。むろんほんものを硝子越し
にでなく眺めさせて欲しかった、どんな新たな思いつきに取りつかれないものではないと期待はしてい
た。
 手蹟(て)はもともとはやっぱり同じだナ。それでも第一紙と第二紙以下とは、元来がべつものであったん
じゃないか。少なくとも第一紙だけは、十世紀の道風なら道風の筆でもよい、それとても数多い古今集
切(ぎれ)の一遺例が、たまたま(四字傍点)筆の似通いから第二紙以下の先頭にたまたま(四字傍点)貼り継がれたのではなかっただろ
うか。幸田はいつからかこの考えにとりつかれて、それを、実物を目にして確かめてみたかったのだ。
 書き写した人が、はっきり現存(いま)の『秋萩帖』では二人いる。第一紙の秋萩二首を書いた一人と、第二
紙以下の冬と雑の歌四十六首を書いたもう一人と。昔の人は、第一紙を道風筆の原本の断簡とみて、そ
れ以下を行成卿の写本とみた。近代の人は、少なくもともに道風の手であることは断言せず、しかし第
一紙と以下とを通じた原本・原蹟の存在も大きくは疑わなかった。
 だがごく近年、K博士らの新しい研究は現存の『秋萩帖』における道風の手も行成の手も否認した。
二種の手蹟をそれぞれ十二世紀と十四世紀の写本に過ぎぬとし、しかも両者が共通の分母として、小野
道風の真蹟に成るいわば原本『秋萩帖』の存在を大胆に推定した。その貴重な断簡二点も明かに指し示
し、金沢市の中村記念美術館および東京杉並区の或る書道文庫が所蔵する同筆一連の綾地歌切がそれで
あると、つぶさに考証した。
 幸田は舌を巻いた。首肯きもした。
 だが、巻いた舌がゆるむにつれ、一度うなづいた首をまたいろいろに傾(かし)げだした。他の可能性は全然

160(46)

ないのだろうか。同じ原本・原蹟から書き写したにしては、秋萩の二首だけが、以下の冬や雑の歌とも、
また二葉の綾地切とも(手は似ているのは認めるけれども)もともと方角を異(こと)にしたモティーフに導か
れていたように想えてならない…。
 では、それならば…ことの最初に、何が行われてそして現在(いま)の『秋萩帖』があるのか。
 分らない…、だから幸田は、敦子や頼子たちにどうかして逢いたかったのだ。
 ひっそり閑と明日は早や師走もこと(二字傍点)仕舞いの博物館で、信貴山本(しぎさんぽん)『後撰集』や手鑑(てかがみ)の『浜ちどり』に
出逢って来たのが、うつつと境目のないただ幻惑であったとは幸田には思われない。女たちのほんのり
体温をただよわせたいい匂いは、まだ頬のまぢかに消えのこっていて、幸田をふと酔わせる。
 彼女らに聞きたい或るひとつの事を、おれは、終始、□にしそびれていた…。
 池袋駅ホームの雑踏へよろりと孤り背中を押されて出ながら、幸田は、その□にしそびれた事を、あ
の実頼(さねより)という藤原氏がほんとうに母源氏の子であったかどうか…を、また、考え出していた。
 あの──料亭の「小野」へ、宮道(みやぢ)敦子との新春用の新聞対談に誘われながら経てきた幸田自身の「実
頼」体験の中で、承平元年(九三一)の小野宮邸へ実頼母の「菅原の君」順子(なほこ)源氏が訪れていたという、
それこそは、有りうべくもない幻であった。順子は、醍醐天皇の皇太孫慶頼(よしより)王のあっけない「疱瘡」死
に前後して、延長三年(九二五)の内に同じく病死をしていた人だ。
 なんで、あんな、夢のまた夢を見たのだろう…。
 幸田は耳にのこったあの日の雷鳴の凄さよりも、天災を屋根の下へはやくのがれよと稚(いとけな)い人たちを
励ましていた、ろうたけた老女の面影と匂いとを忘れていない。幸田自身の過去半生に、時としてつと

161(47)

身に添うようにして幾度も姿をあらわした、いまは亡いはずの生みの母(であろう…)に、その面差し
が肖ていたからかも知れない。
 幸田は顔もしかと知らない生みのそんな母のことを、愛したという自覚がない。一度もない。愛した
りしないことを気の張りに成人してきた。だが実頼という人は死なれた母のことを忘れる日なく、しか
も卸(おろ)しようもない胸の重荷に、自分は事実あの「菅原の君」から生まれた子であったろうか、ありえた
ことだろうか…と、疑いつづけていた。
 菅公失墜の日のきっちり一年前、昌泰三年(九〇〇)一月に藤原実頼が生まれていたのは諸系図にも
くわしく、彼は童名を「うしかひ」と呼ばれて、『寛平次第記』によれば、名づけ申した人が「菅原道
真」とまで証言されてある。また『大鏡』によれば実頼の身の者は、だから牛飼いという言葉を日ごろ
も避け、「牛つき」と謂うたものだと思い出を話している。だが、実頼の父忠平(ただひら)が、光彦先帝と道真妹
との間に生まれた源順子を妻に迎えたという、その陽春華燭の当日から数えてみると、実頼の誕生日は、
あろうことか二た月余も先立っていて、それに就いての真相を語ったものが、まるで無い。
 実頼は、父が宮廷のだれかしら親しんだ女に産ませた自分を、正妻の「菅原の君」に預けて育てさせ
たか、と、久しい間ひとり悩ましく想って来た。だが、だが…だが…、またいつかしら自分は「菅原の
君」の腹からさきに(三字傍点)生まれ、そのあとで(三字傍点)母は父忠平の妻にされたのかも知れない、自分は母の子でない
のではなく、むしろ父の子でないのかも知れない…とも、想いかけていた。ことに母に死なれたあと、
さて目にみえてなにがあったわけでないのに、父や弟師輔(もろすけ)たちと同座のおりなど、ふと、心細くそんな
疑いに身を冷やすことがあった。

162(48)

だが…、父忠平の子でなくて、だれが自分の実の父か。
 幸田は、実頼のくるしい自問に代ってひとつの解答を幸田なりにもちかけていた。確かめようは、な
い。だけれども宮道(みやぢ)敦子や式部頼子にそう話してみたい。それが何故かひどく差しせまった質問に思え
ながら、端的にもち出せずに先刻来、夢うつつにあれやこれやと悩んでいた…わけか。

 山手線を下りると電話で、妻におそくなったことわりを告げた。留守中になにか用事が出来ているか
も尋ねた。
「なにもないけど…。あなた、寒いの、だいじようぶですか。いま、どこなの」
「池袋…。からだは、なんともない」
「そィじゃ、まだ、お寺へ寄ってくるおつもり…」
「お寺…」
「常行寺を、もいっぺん、ぜひ見てきたいて言うてらしたやないの」
 忘れていた。そんなことを言い言い家を出てきたのだろうか。幸田はうんうんと電話を切った。
 西武線ではただ座席に座りたい一心で目の前の各駅停車に小走りにかけ込んだ。と──、黒いベレを
かぶった允子…がつッかけ追ッかけ…て来て、脇へ腰かけて、走ったりしてはダメと幸田をたしなめた。
敦子と頼子も…わらいながらそばへ乗って来て並んだ。允子は幸田の肘に肘をこすって身動(じろ)ぎし、裏方
がいきなり舞台の上で幕を揚げられたように、人に見られて幸田は火照る心地がした。
「太秦(うづまさ)の…、あそこへなら、いますぐにも行ってみたいわね」

163(49)
 
 
 

 敦子はこともなく頼子相手に、さっきからの話の先を継いだ。
「アラだから言ったでしょう、行きましょうッて」
「だって、沼袋の…かと、思ったの」
 頼子は肩をすくめ、ちいさく片掌で顔をかくすふりして、幸田にも聞えるように敦子の方へそっと□
ずさんだ。
「世のなかはおもひのほかに鳴(なる)滝の…でしょ」
「深き山路に咲きし秋(一字傍点)萩。イヤぁねぇ」と、敦子。
「なんなのそれ…。思わせぶりだナ」
「そうでしょうか」と頼子はまた敦子の袖を引くように低く歌った、「かぜさそふ白砂山のおくつき
に…」
「あはれは秋(一字傍点)と…鳴る滝の音」
「…へんな人たちだ」と幸田。
「ま。勝手に飽き(二字傍点)ておいて、なんでも、知らんふりをなさるのね」
「でも…今は真冬よ」
 允子がちらつく外の小雪を、首をまげ窓をこつこつ叩いて指さした。それから唐突に幸田に聞いた。
「その…鳴滝の般若寺(はんにやぢ)へは、いまも行かれますの」と。呆ッと聞きながら胸の内で幸田は、もう京の西
山をわたる風に吹かれていた。
「行ってももぅ何もないよ、昔のままに秋には萩がたくさん咲いているけれど…。鳴滝にしても、人家

164(50)

のはざまにこれが滝…ッて見つけるだけで容易じゃないんだ。見つけたって滝の音は絶えて久しく、ガ
ッカリするのがおちでね」
「むかしはほんとに、鳴る…滝でしたの」
「そう、遠くからよく聞えた…そりゃ般若寺の辺ッて、佳いところでね。延喜の御代にお寺を中興した
観賢僧正という人が、評判のいいエラい人で。信心と遊山(ゆさん)を兼ねて、人がそりゃよく出かけてったお寺。
双(ならび)ヶ丘の西に沿うて北向けば、近いんだ…」
「双ヶ丘の北側を御室(おむろ)の方から山づたいに行っても、よかったのね。いまの妙心寺の東に、宇多院とい
う建物が、以前はあって…。その脇を抜けていくと、御室。鳴滝はもう西ッ隣みたいなものね…。京で
手ぢかな山寺(二字傍点)といえば、萩が咲く萩の寺、五台山般若寺のことやというてよかったわ…」と頼子が。
「小大(こだい)ちゃん……忘れてしまったのね」
 敦子が幸田のまえから可憐(いとお)しそうに少女へ顔をむけて尋ねた。
「よく思い出せないの…。行ってみたい…」と、允子は。
「行けるさ」
「そうよ行きましょうよ。車…待たせておきましたの、実は。雨に変わってくみたいですし」
「ま、お姉さま。…手早いわ」
 頼子が初めて聞く呼びかたで敦子の方へ微笑んだ。幸田はわけ分らずギョッとし、つ、つ、と電車は
江古田駅の、急行が追い越し待ちのホームに、ゆっくりと停まった。
「ここの駅前に、車なんか入ってこれないよ、狭いんだから…」

165(51)

 そう言い言い腕時計を見ようとした幸田のそぶりを、黙って允子のしろい手がのびて、制した。改札
□のすぐ向うにまッ黒いハイヤーが、駅前のいろんな明りや音を鋭く射返して四人を待っていた。行儀
よげな運転手の帽子が、車の向側(あつち)から迎えに出ようときびきび動いた。手袋が白かった。
 顔をあげるとバックミラーから運転手が目顔で幸田に挨拶を送っていた。
「あんたは…」京都のホテルから対談の席の「小野」へ幸田をはこんだ、「あの…」
「へぇ、おおきに…」
「めんどうをかけたね…あの晩は」
「めっそうもない。ようおなりやして…。よろしゅおした」
「こんやも…また雪で」
「雪、好きだけどナ…」と允子。
「ユキはよいよい、しかし天神様の帰りがこわいのは、ごめんを蒙るよ」
 敦子は運転手の横で笑わなかった。くすんと允子ひとりが頼子にもたれて鼻を鳴らし、幸田も黙りこ
んだ。雪が小さな雨の音にかわり、すこし心の臓が痛み出した。

「お母さまの七年が…」と、しばらくして頼子が、小大(こだい)允子の向うで、誰にともなくつぶやいた。
「ええ。のびのびに…。あんなことが、いろいろと続きましたものね」と敦子が振向くことはせずに引
取って、その声ははなはだ若く、静かであった。車がゆっくり、しかしゴットンと(五字傍点)一つ揺れた。
「あんなこと…て、何。だれのお母さんのこと…」

166(52)

 幸田の無遠慮な問いには返事がなかった。また、しばらくして敦子が□を利いた。
「いっそ…ナンナ、失礼を申すようですけれど、ご一緒に…なさいましたら」
「ご一緒…。ま」と頼子の声が少女のようにはずんだ、「…いいお考え…」
「ご法事のことなど、女の□をはさむことじゃありませんが、でもなにか…内々に心に残る記念のよう
な…。ご趣向などと申してもナンですが、なされぱ…と」
 いらいらした気分に追い込まれながら、女たちが、死んだ彼の(二字傍点)母のことを話しているらしいと分って
きた。座席にすこし沈みぎみに彼は腕組みし、下唇をかるく噛んで目を閉じた。耳の底をはしるように
風の音が流れて、いつか膝から寒さがゆるんでいる。
「…で、一緒にとは、だれと一緒にというんだね」
 暫時は静寂に耐えてから、目は閉じたまま組んだ腕をほどいて、訊いた。
「ご存じではございませぬか…」と敦子の声が極端にちいさかった。
「…知らない。知るわけがない」
 男の語気に頼子がすこし畏(かしこま)るふうであった。
「わたしの母は、亭子(ていじ)の院…宇多の帝(みかど)の…ご養女であられた…」
「わたくしを産んだ母も、泉大将の…養女でございました。でもご承知のように…、大将はわたくしの、
実の父でもございます」
「………」
「大殿様(忠平)は、なくなられました宇多の上皇様が、菅公(かんこう)、さきの右大臣様のさしつぎにご信頼あ

167(53)

つくご寵愛なさった御方…。その御方に上皇様は、御異母妹(おんいもうと)でもあられました御養女の、菅原の君様を
お授けに」
「お腹に、隠し子を添えて…このわたしを添えて…だと…」
「御二方とも、今は亡き数に入(い)られました。事実だけを、どうかお心に…」
「どれほどの人が…それを…」
「知るほどの者は、みな…かと存じます」
「師輔(もろすけ)も…太后(穏子)(おおぎさきやすこ)も…」
「はい」
 実頼は目をみひらき、女たちは扇のかげで重く□を閉じた。風が簾の裾をあさく揺り、牛つきの男の
牛を追う足音が轍(わだち)のきしみにまじって、西山の秋は日近に迫っていた。かすかに日の衰えも実頼は感じ
とった。
 あぶないことだ……。
 亡き醍醐天皇のお覚えに、ときおり冷やりとかたくきらめく視線のまじったことを、彼は、忘れてい
なかった。叔母太后にもそれを感じてきた。つい昨日今日にもご機嫌うかがいに参るつどかすかに肌寒
く、いつぞや彼は師輔に耳打ちしてこの弟も似た気持ちでいるかと確かめたことすらあった。師輔はそ
のときうす笑いして、因縁でございますからと答えた。ばかなことを訊いた…と、実頼はイヤになった。
 醍醐先帝の皇后穏子(やすこ)は、入内(じゆだい)のそもそもからはげしく舅の宇多上皇に阻まれ疎まれて来た。兄時平の
策謀と力とがなければ女御(にようご)にすらなれなかった。穏子が時平をふかく頼み慕い、そのぶん宇多院の寵臣

168(54)

であった菅原道真はもとより、道真の姪にあたる源順子を世をゆする勢いで妻にした弟忠平に対しても、
とかく疎ましげであったのは、何度思うてみても、道理だった。
 だが、時平ははやく若く死に忠平がいまは大藤原氏の一の人であってみれば、この兄と妹の間柄にも
修復はすすんでいた。穏子第一子の保明皇太子の妃に、実頼と同じ「菅原の君」順子の腹に生まれてい
た貴子を迎えたのも、いままた朱雀朝の後宮管理をその貴子の尽力にゆだねているのも、それであった。
実頼自身が時平女(むすめ)の迪子(みちこ)を妻にし、その二男頼忠を、時平嗣子で子のない保忠の手に預けて、絶やして
はならぬ本院の家をつがせたいと昨今動いているのも、それとても大后穏子の実意なのであった。
 実頼の立場は、だが、若き日の宇多と「菅原の君」との闇間の仲に…ひそかに生まれていたのが噂ど
おりなら、たしかに「あぶな」く、そして微妙だった。
 摂政で左大臣の藤原忠平が道真公と親しかったのは事実であり、その「道真怨霊」を今しも秘かにあ
やつって、気を病んだ醍醐天皇を覿面(てきめん)の死に追いいれ、さらに亡兄時平の気弱な遺児たちを恐れおのの
かせてますます政局から駆逐(くちく)しようと計っている忠平が遠慮も深謀も、少なくとも子である実頼、師輔
らには分っていた。
 実頼にしてもそれで不都合はなかった。
 だが、その策略が昨今はむしろ主として二男師輔の方寸に出て、父忠平はただ悠々と「役割」を演じ
る風であるのが実頼の気がかりになっていた。
 弟の生母は源能有(よしなり)の女であった。それだけでも叔母太后には.菅原の君L所生の兄実頼より、気安い
「召人(めしうど)」でありえた。いとけない師輔女の安子を、もはや東宮と目された皇太弟成明(なりあきら)親王の妃にと穏子

169(55)

母后が望んでいるとか、そんな噂もとかく疑いにくいものになっていた。表向きは忠平嫡子の実頼も、
隠密々(おんみつみつ)の後盾であった宇多法皇にこの初秋(しよしゆう)死なれてしまってからは、ふと足もとに風立つのを覚える。
恭(うやうや)しくは振舞っていながら弟師輔の、ときに思いがけないような敵慨心(てきがいしん)に、実頼は何度かはっとさせ
られてもいたのである。
 あぶない…。 牛車(ぎつしや)がぐらりと、ものにつまづいた。あ、と声あげて「みこ」が顔を実頼の袖へ伏せた。一瞬、ほそ
く歪んだ足首の骨の露わに目をそむけ、敦子の白い手がそれを蔽い隠した。九つか十にもなったか。保
明の親王(みこ)に眉目(まみ)のあたりがよう肖(に)通うた…。同車の女たちを身近に感じながら、実頼は、例にないこん
な三人をともなって、自分がどこへ何をしに都を出てきたのかを、ふと、忘れていた──。
 般若寺のもの馴れた坊のひとつに一行は車をやすめ、実頼だけが金堂に心知った老僧の一人を呼び寄
せて、もの語りしみじみと母「菅原の君」のために供養のひとときを持った。そのあいだに、女たちも
山僧四人にまもられ、徒歩(かち)で、允子は僧に抱かれて、亡き文献彦(ぶんけんげん)皇太子と、同じく慶頼(よしより)王を併せ葬った
般若寺からはなお奥谷の、滝津瀬が鳴る白砂山陵へ詣でて来た。
「さらにかへらぬ夢をみるかな」と、敦子がおもわず允子(まさこ)を抱きよせ顔に肩を埋めれば、
「身ひとつのかくなる滝を尋ねきて」と声をふるわせて、頼子も、顔をそむけた──。

 寺にのこった実頼はよもやまの話のはてに、折入って、だがさりげなく、僧に頼んだ。おくればせ亡
母の七年に加えて、来年七月を期し、御恩を幾重にも蒙(こうむ)った御室の宇多防法皇様ご一周忌のご冥福のた

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めにも、我一人のひそかな祈願を捧げたいと思うが、と。
「四季の歌を合せるのなど、どうであろうか…」
 かつてしぱしぱ宮中に参じ夜居(よい)の僧を勤めたこともある年とった人は、黙ってうなづいた。
 やがて般若寺(はんにやぢ)を辞した実頼たちは、車の簾をあげさせ、鳴滝川に沿うて秋の山道をやや麓へ西へしば
らくは目を楽しませて行った。ゆるやかな音戸山(おんどやま)の起伏を右にみあげながら、とある径(こみち)へ折れ込んで行
くと、道の奥に文徳帝田邑(たむら)陵のこぐらい森がひときわ盛りあがって見え、森のきれめを鳥がいくつも飛
び立っては木の間に沈んで行った。実頼らははばかって車を降りた。
 音戸山の西を遠く山越にときに隠水(こもりづ)になって小川が流れ落ち、大小の池をところどころ山かけや谷そ
こに繋いでいた。文徳陵を、ひかる勾玉(まがたま)を添えたように天然の濠(ほり)となって北側から西に取り巻いている
深い池も、その一つであった。真碧(まみどり)をたたえた勾玉の尾の、南側へのび切った果ての土堤が参道で、真
正面の奥津城(おくつき)のうえにひときわ喬(こだか)い松ヶ枝が空に冴えていた。
 池をへだてた御陵の北は、山ひとつがそっくり竹薮だった。
うづまさ
 西へはなだらかに視野がひらけ、太秦、嵯峨、海津の里のはるか上に山なみが風に光っていた。桂川
もおおきくうねって見えた。
かねも‘りこもい、,づ主?・
 敦子の母が、夫兼茂(かねもち)亡きあとも気ままな籠り居に用いてきた太秦の山荘は、文徳御陵の西の窪にまた
一つ瓜のような池を抱いて隠れていた。広くもなく狭くもなく、どんな事情でかこの紅白の萩が這う清
慎寺の地は、太秦広隆寺の支配に属したまま、生前から泉大将の、そしてまた兼茂の久しい預かりにな
っていた。「だいぶ」の昔の敦子も、宮仕えの気疲れを癒しにしばしばここに隠れ住み、若い実頼や年

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かさな小野道風が競うように忍び通うて、かたみに心騒がせた日々もあった。
 うら若い日の敦子はこの山家で、実頼のために最初の女の子を産んだ。保明皇太子との間にあるまじ
き女の「みこ」をも人知れずここで産み落としていた──。
 やがて敦子は、寛いてもう夕暮れの池を眺めている実頼のもとへ、客の一人を伴ってきた。残りの日
ざしに池の上ははなはなと紅葉に照って、野の末まで秋風が領じている。
「道風(みちかぜ)、お召しによりまかり越しました」
 実頼は尻目におうような挨拶を返したまま、だれにともなく池の向うの忍びよる夕やみへ手をかざし
たまま、つぶやいた。
「また、来ている…」
 人影が、さ…と動いて紅葉のおくへ失せた…か。
「はて。だれでございましょう…」
「道風(みちかぜ)とか…申さなかったか…」と実頼はっと客を顧みて、それから敦子の美しい額にやおら視線をめ
ぐらせた。
「また、そのような…」と客も敦子もすこし含んだ実頼のざれごとに辟易(へきえき)し、しかし遠慮のない笑い芦
も沸いて涼風(すずかぜ)に運ばれて行った。実頼は、あらためて、この日の遊びにだれだれが来るかと半ば目の前
の客に聞かせるために敦子に尋ねた。朝忠(あさただ)、雅正(まさただ)、大中臣能宣(おおなかとみよしのぶ)、平兼盛、源順(みなもとのしたがう)、それにあの壬生忠岑(みぶのただみね)
も、と、敦子は最後に父定国にながく仕えた座持ちのいい家人(けにん)の名前を付加えた。
「そうそう…少将様(敦忠)も参られます」

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「なるほど…」と実頼は微妙に笑った、「御匣殿(みくしげどの)もまじられて…。何よりの書き役もここにおられる。
さぞ佳い歌が出来ような」
「御匣殿には琵琶を所望なさいませ。この内記殿も、それは美しく笛を吹かれます」
「そなたの笛は、すると道風(みちかぜ)の別しての伝授であったか…」
 以後おろそかには聴けぬと実頼は皮肉を言いながら、少内記道風に向って折入っての頼みごとがある
のだが…と□を切った、そのために一と足はやく来てもらったのだとも。
 道風はうなづいて聞く姿勢になった。
 延喜二十年、非蔵人(ひくろうど)の身で能書ゆえに昇殿を聴(ゆる)された少内記の道風は、きわだって眼窩の大きく深い、
鼻も下唇も大きく垂れめの異相の持主だが、不思議と辺りを払う気凛(きひん)の清質に富んでいた。延長四年に
書いた智証大師諡号(しごう)勅書のみごとさは朝廷を感動させ、以来彼の書を調度手本に望む貴族はあとを絶た
ない。清涼殿の壁に賢君明臣の徳行を書したのも、それをさらにみごとに書き新ためたのも、道風であ
った。
 それのみでない、小野道風は敦子藤原氏を産んだ乳母命婦(めのとのみようぶ)の従姉弟にも当っていた。小野氏もまた宮
道(みやぢ)や大宅(おおやけ)氏とともに山科やまた小野の里にも古く根をおろした旧親族であった。
 実頼のいわば懇望(こんもう)をしみじみと聞きおえた遺風は、ごく淡泊に、して料紙は何に…と、尋ねた。
「幸い、海を渡ってきた、願ってもない綾絹が西国から手に入っています」
「ほう。…で、巻物になさいますか」
「そう思うが…。四季と雑の歌を、歌合ふうに番仕立てに撰(え)りすぐって、各十番、百首ぐらいでは…。

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字配りの感じは…、その硯を」と、実頼は敦子の近くから引寄せ、懐紙(ふところがみ)に、ちと思案してからおおま
かなかな(二字傍点)の分ち書きで、彼自身好きな、古今和歌集から秋萩の歌二首をきまじめに並べてみせた。

  あきはきのした葉
  色つくいまよりそ
  ひとりあるひとの
  いねかてにする

  なきわたる雁のな
  みたや落ちつらむ
  ものもふやとの萩
  のうへのつゆ

 失礼ながら…と遺風はこれをすこし古様(こよう)に草仮名(そうがな)にさらさらと書き直してみせたが、筆の走りかわざ
とか、前後に二字を書き漏らしていた。

  安幾破起乃之参者以口
  都久以末余理処悲

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  東理安留悲東乃
  以禰円転件数流

  奈幾利多留閑里能口
  差当也於知都羅
  武毛能毛布也登乃
  者幾能有部能都由

 うむ…と言葉もなく実頼は、思わず敦子の目の前へ子供が親に手渡すようにさし示した。
「…これだ」
 実頼はそう言うなり、歌は撰ぶ、すぐに…と自分に言い聞かせる表情(かお)であった。
 道風は同座の人にも会釈しながら、静かな、だが毅い声で実頼自身の筆で書かれてはと、思いも寄ら
ぬことを勧めた。
 そう言われてみれば、そのような思いが先刻来実頼を催していなかったとは言えず、とどのつまり、
もしも道風が手本を書いてくれるのならぱ…よく手習いをしてと、敦子にも、また話の途中から部屋の
内へ招かれていた頼子にも勧められて、実頼はその気になって行った。
「歌を選ぶのに、ことさらな意味付けはすまいよ。だれかれの歌を…などと思いわずらうこともやめよ
う。なんとなく、ただ何ともなくものあわれに心にしみる歌を拾い集めて、さりげなく歌と歌とを番(つが)え

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てみたい。ことさらな趣向(たくみ)は要らない。身を用なきものと眺めてさらさらと生きて行く、ま…そんな具
合の歌巻物を、みほとけの御前(おまえ)にいつとなく人知れずに御供養できれば、それでいい」
「意味ありげなことばかり、このごろは、多(お)おございますもの」
「そうだ…。歌は、おまえ…たちも撰んでくれるナ。ま、ちか頃の歌がいいと思うが…多いめに頼む」
「お手習い、よく、あそばせ」と頼子が笑顔で言い、実頼はきまじめに頷いた。
とうぶう
 敦子は実頼の手が伸ぴるのをかるく制して、道風の書いた秋萩二首の懐紙をすばやく袖の内に隠して
微笑んでみせた。
 道風(みちかぜ)は実頼の筆のを拾いあげ、礼儀正しく懐中した。
 もう先(せん)から灯が入って、客が、一人、二人と山荘へおとずれ寄る気色であった。月は見えずに、外面(とのも)
がほんのり白い。
 客もそろい、題によってたくさんな歌がよまれた。朗詠があった。音楽があった。
 それから話題は古今和歌集の成った昔に戻ったが、一座に、その延喜五年頃かつがつ生まれていたの
は実頼、敦子それにやや年かさな道風のほかには少なかった。末座の老忠岑(ただみね)二人が、撰集(せんじゆう)にたずさわっ
て栄誉の名を残していた。若々しい文雅の雰囲気にあってどこか武人じみてさえ目にうつる壬生(みぶの)忠岑の
体験は、まばゆく羨ましいものであった。
 忠岑は語った、古今和歌集の成るに際して元締めの役割を勤めたのは、実は「だいぶ」敦子様の父泉
大将様であり、企画(もよおし)の最初に動いたのはずっと早い時期であったらしい。宇多の帝が政局がらみに菅公
に内々に撰をお命じであったのも知る人はみな知っていて、古今和歌集がとうとう出来上ったときの感

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慨には、世人倶(よひととも)にそれは複雑なものがありました…と。
 若い源順が□をはさんだ、古今集にとられた歌と昨今の歌とではどこが違っておりましょうか。いく
ぶん忠岑を誘って議論にもちこみたい客気も手つだっていただろう、だが老人は受けずに、むしろ他所
見(よそみ)にうそぶく感じにつぶやいた。
「次の機会が、遠からず仰せ出されましょうて…」
 一座は沈黙した。ゆぅらりと渦を巻くような沈黙だった、だれもが胸つかれていた。そうなれば、い
い。どんなにいいだろう……。
「お願いがございます…」と忠参のわきから、突如として遺風(みちかぜ)が主人公の実頼へ手をついた。実頼はな
ぜかはッと敦子の目をのぞいた。敦子は表情をうしなっていた。
「撰集(せんしゅう)のご沙汰あらば、…どうか、私の歌を一つなりと…。お願い…お願い申す…」
 道風はほとんど威圧的なくらい堂々と頭をさげていた。頼子が、たまりかね、扇をしなよく動かしな
がら、ころころと笑い出した。ほッ…と皆の息がゆるんだ──。

 ガクンと各駅停車の終着駅──、保谷(ほうや)。
 幸田はざわざわと出て行く人のけはいに、ポケットから手を出しあわてて席を立った。とげとげした
風がオーバーの足もとを巻き、プラットホームはこんもり雪を被(き)ていた。駅夫が雪かきの竹箒を脇にか
いこみ、片手を高くあげてピーッと笛を吹いた。線路向うの銀行の建物がすっかり電気を消し、すこし
離れて正月の飾り物を売る店がはだか電球を道端にぶらさげて、客を呼びこんでいる。果物屋も煙草屋

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も店はあけていたが、雪のやんだ夜空がまッ黒い。
 改札を出でまた電話を家に入れた。
 意外に早いと思ったか迪子の声は暖かく、歩いてないで駅のタクシーに乗ってきたら…と、はずんだ。
「食いもの、あるの…」
「ありますとも、だから…はやく。常行寺には寄ってこなかったのね」
「ああ。すこし飲んだものでね、ねむくて…。あのあと何もなかった…」
「あったわよ。金沢のホラ…、フードピァ金沢でしたっけ、このあいだ行ってらした。あそこの事務所
からお電話がありましたよ。来年もまた講師を頼みたいから、よろしくッて」
「終ったばかりなのに…。ヘェそうなの…。それだけ」
「あ、そ、も一つよ。S社の佐々さん…ちがう、そうでしょ。佐々さんからお電話で。よく分らないん
だけど…待って…メモ見ますから……。え?と京都の…山科の…、タイゾー寺さんですか、萩の寺の…。
以前ペンクラブであなたに会うたことある人ですって。その人が今日だか昨日だか…自殺なさったン…
…、佐々さんあんまりビックリしたもんで、…聞いてるの、あなた……。先生にも、ご通知だけしてお
こ思て電話かけました…ッてよ」
「……フーン…」
「お世話になった方…。うかがっといただけで…よかったの」
「…あぁ、いい……」
「よかった。じゃそんなとこで喋ってないで…はよ、お帰り」

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 わかったと応えて幸田は受話器を置いた。胸板がへこんで、黒ずんだ突起がのどへ突きあげた。
 くそッ…。死なせるものか。
 幸田は決然ともう一度受話器をとりあげ、秘密の電話番号を指深く立ててまわした。

 …………。

 萩の寺々の萩の花々が目にみえ、……カチッと音がして、それから…宮道(みやぢ)敦子のすこしも変らぬ声が、
幸田の名を、はんなり呼び返して来た。露を払って、萩という萩が目の底で波をうっていた。
──完──

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