スキャン原稿で、まったく校正できていない。 校正未了
秦恒平 湖(うみ)の本 24 冬祭り 下
目次
第一章 ロシアヘ…………………………上巻…5
第二章 バイカル号で……………………上巻…37
第三章 津軽の海を………………………上巻…70
第四章 ナホトカから……………………上巻…102
第五章 ハバロフスク経由………………上巻…133
第六章 雨のモスクワ……………………上巻…162
第七章 ルサールカ………………………中巻…192
第八章 再会………………………………中巻…224
第九章 そして一週間……………………中巻…258
第十章 黄金の秋…………………………中巻…293
第十一章 冬のことぶれ…………………中巻…326
第十二章 提案……………………………………358
第十三章 ひまつりの山へ………………………389
第十四章 みごもりの湖へ………………………421
第十五章 愛(かな)しい日々…………………455
第十六章 冬祭り…………………………………489
作品の後に ……………………………………176
湖の本・既刊と予告……………………………182
〈表紙〉
装画 城 景都
印刻 井口哲郎
装幀 堤いく子
(いく:或 のたすきが三本)
2
冬祭り 下
3
東京新聞・中日新聞・北海道新聞・西日本新聞・河北新聞・神戸新聞 夕刊
昭和五十五年五月九日(金)一五十六年二月二十八日(土)二百四十一回連載
4
丹波立坑窯の探訪取材は、さてこともなく、翌る夕方には全部を終えた。
丹波焼は、四斗谷(しとや)川ぞいの立坑(兵庫県今田(こんだ)町)にしか残っていない。京都側からいえば篠山(ささやま)を南下
した中国路が、丹南町の古市でまた摂津と播磨へふり分けられるその股ぐらに位置し、丹波古窯(こよう)は純然
丹波の産というより、むしろ三国のきわどい交点、いずれかと言えば摂津路寄りに国鉄福知山線の藍本
駅から西、また相野駅の近在に、集中していた。上古の須恵窯址がこれに対し古市の西の辰巳とか、立
坑より南の三本峠に近い花折や稲荷山に近い古城とかに残っている──。
ささやま
丹波焼が観たいなら、ただ立坑だけでなく是が非にもやはり篠山町にある丹波古陶館へ立寄らねばす
まない──が、この篠山と立坑との間が、遠いというでなく何とも往来の便に乏しい。立坑だけ、篠山
だけならそうでもないのにぜひ両方をとなると、結局、どうかして自動車を頼るしかない。
女流陶芸のNさんには助けられた。前夜の呑み歩きからずっと同行してくれた、姫路市内の高校で地
学を教えているというUさんも、□の軽い愉快な「教頭先生」で、やきものも好きだが古典にもくわし
く、ことに「播磨国風土記」を実地に踏査しているという篤学のお人だった。
東播から北摂へ、そして南丹へという二時間余は、高からぬ山あいの、文字どおり日本の「田舎」の
景色佳さを、たっぷり抱きこんでいた。凡山凡水。眺望はさして広くないが静かでほど良く翳っていて、
奥深くまで十分耕されている。湧きたつ興奮はない。が、黙然とおのが心の内をひとり覗きこみ、思わ
ぬ反省にじっと頷くことのできる、やさしい田舎──。たまたま広大なソ連へ三週間近い旅から帰って
間なしということもあり、ひそやかな立坑の里の、コスモス咲いて風そよぐ秋の日のうつろう静かさに
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は、声を喪って、しみじみ佇(た)ちつくす思いがあった。
嬉しいことに、丹波焼そのものが想像以上に佳かった。ひとかかえもある美しい壺を買い、灰をかぶ
った大ぶりの花生けを買った。笑窪(えくぼ)のおもしろい徳利とぐい呑みも買った。このぐい呑み、ためしに冷
酒をついでもらうと山清水のように見込みが澄んで光る。土質に恵まれない、そのぶん腕にも気合いに
もつつましやかな努力を重ねてきたのが伝統となって、轆轤は上手だし、窯に火をいれてからの辛抱の
よさ、勘のよさが焼物の形や色に、手綺麗によくあらわれていた。
めずらかに煙突なしの登り窯も、ただ伝世の遺物でなく、りっぱに今も使われ、四十メートルに及ぶ
蛇体を山腹にうねらせて火勢すさまじく燃え熾るものすごさは、どう遠巻きに眺めても爛々とにらまれ
轟々と哮(たけ)りたてられるようで、近隣におびただしい黒焦げの立木さながら、立ちすくむ膝もとから腸(はらわた)ま
でも焙(あぶ)られる気分だった。
だが立坑の里そのものは、なごやかに静まりかえっていた。
トタン屋根でおおって積みに積んだ松割木のいい香りがぷんと鼻へくる。古い社にそびえる巨木の梢
から山鳩が翔びたち、花青い露草のかげで虫が鳴く。虚空蔵(こくぞう)山の山すそを四斗谷(しとや)川にかぶってけむった
ように竹やぶが居流れ、人けない街道ぞいには淡い日ざしが落ちては翳って、つと足もとを白猫がはし
る。小紫の菊がゆれ、谷間の村里にかすかにラジオの声がきこえている。そしてあっちで、またこっち
で、今日も火の入った窯の烟が、鈍雲(にびぐも)の空へもくもくと呑みこまれていた。
ひとり畦に立って眺める左右の山なみが、なんどりと優しい。
北へ、小野原のほうへ、重畳した山また山の影も、青に青を重ねてなんどりと美しい──。
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篠山(ささやま)町の、牡丹鍋で近隣にきこえた料亭で夕食にちかい昼食をすませると、ここまで送ってくれた二
人には別れ、ハイヤーを頼んでひとり山陰線の園部駅へ抜けてもらった。県境の天引(あまびき)峠を東に越えると、
また北むきに、園部川の上流にそって暮れ深まる渓谷の底へ底へひきこまれそうにひた走るのは心細か
ったけれど、夕闇に夢かとおそれた尾花の白い揺れも、山あいにこぼれたような星空の藍の色も、また
山川の湍(たぎ)ちの音、窓をあけて胸ふくらむまで吸いこむ空気、みな、東京からはるばる尋ね求めてきた、
それが「丹波」だった。ソ連の旅で想い描いていた「日本」だった。
運転手は、初老の無□な男だった──。
前日、──姫路に着くとすぐNさんの運転で、U教頭も一緒に室津(むろのつ)まで海ぞいに走った時は、ひきく
らべて、車中たいへんな賑やかさだった。好きな谷崎潤一郎の『乱菊物語』について、U氏の地誌的解
説をたっぷり聴いた。室(むろ)の長者、遊君花漆の妖しい魅力もさりながら、瀬戸内に臨んで豆をまいたよう
な唐荷三島を擁した室(むろ)の泊(とまり)の風光に少年の昔から憧れを抱いていた。作中のハイライトといえる小五月(こさつき)
の祭(と、本当に小説どおりにそういうのかどうか)の舞台、室の明神社もぜひ見たかった。
「港の町の地勢と云へば、大概はうしろに山を背負ひ、海岸伝ひの細長い地域に人家がぎっしり(四字傍点)と軒を
連ねる」と、「小五月」の章の「その一」は、たしかそう書き出されていた。山陰線の園部駅へと──
天引(あまびき)峠をすぎ、腸のなかを滑って行くような山中の闇に眼をこらしたまま、遠い漁り火の色を眼の裏に
のぞきこむ心地で、ゆうべのドライブを──じっと想いだしていた。
谷崎の『乱菊物語』はこう筆を運んでいた。
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室の津の町もその例に洩れず、一方に明神の山を控へ、一方に荒戸の浜を控へた入江の縁に沿ひな
がら弓なりに続いてゐるのであるが、祭礼の時の神輿(みこし)の渡御は、弓の一端にある明神の鼻から船で海
上を乗り越えて、他の一端に設けられたお旅所に着き、此処に七日間安置される。有名な小五月の行
列といふのは、七日の後に神輿を守護してお旅所から明神の社へ、その弓なりの線を縫ひつゝ町の中
を練って帰るのである。
ナいにやく
抑■(そもそも)此処の明神は日向国高千穂峰より山城の国二葉山へ遷座まします時、此の地に暫く垂迹(すいじやく)し給ひ
斧、鉈、鎌の三刀を以て藤葛を伐り扱ひ、港をお開きになり、その後洛北加茂へ光臨なされたのであ
る──
むろん時候も時世もちがい、賑いどころか、どの汀(みぎわ)どの岬を車で走っても夕がすむ海の景色は睡いほ
ど穏やかだし、入組んだ漁師町のどの辻へ乗り入れても、さて花漆の昔のなまめく景気はなかった。
それでも魅力があった。車をおりてとぼとぼ歩きながら吸いこむ夕まぐれの空気が甘い。よく練った
羅(うすもの)をふうわり顔にかぶった感じで、かすかな汐の香がよく焙じた茶のように甘い。茅(ち)の輪を吊った漁
家の軒の蔭に桃色の芙蓉が咲き、赤い彼岸花がまばらに咲く。加茂神社の急な、だが短い石段から、ゆ
るやかな、だが幾らか奥まって延びて行く甃道(いしみち)へ歩を運ぶうちにも珠なす紫式部の実が鳥居の根に垂れ
ていたり、笠石の庇(ひさし)を欠いた石燈籠のわきに、萩の紫と白とが土のうえにこまかに花を散らしているの
も見た。
神社はよほど奥ゆかしく、タやみに鎮まり返っていた。日は山にかくれ、気さくに話しやめないベレ
356(8)
ー帽のU教頭の、乾いた木のような声もいささか陰気に境内にこだました。
「谷崎先生の本に出てきますが、この界隈じゃ、浦上氏が強かったようで。アマ…族なんでしょうね」
と訊いた。
「播磨国風土記によると、そうですね。難波(なにわ)の浦に本拠のあったアヅミが移動して来て、この辺に浦上
の里をつくったと。ここの加茂神社はむろん鴨氏の拠点ですが、アヅミとカモとが濃い親族なのはご存
じでしよう」
「ええ……」と頷きながら、思わずU氏の顔を夕やみに探る眼をしたかもしれない、冬子らの父の姓は、
洛南の加茂氏と聞いていたから。
Nさんは、二人の時代離れした歴史の話題に興味がなく、ことに境内に入ってからは、見ていると、
ひとり幼い子のようにぷらんぷらんとあてどない低徊を楽しんでいた。あんな華奢な脚腰で荒い土がよ
く揉める。根生いの分限者(ものもち)に生れた娘さんが窯づめから火入れまでほとんど独力でと聴けばたいしたも
の、ふうん──と思っているうち、その小柄なNさんが、神殿からまむかいに頭の高さまで石垣を組み、
上はそのまま急な傾斜の木叢(こむら)がおおった山ベヘ近寄ると、覗くふうに暗がりを見あげていた。
「なんか有るんですかァ」と声をかけた。
Nさんは手を横にふって、来ないほうがいいと笑う。
「蛇がね。親子か夫婦かしら、二匹でここまで出てたんですの」
Nさんの声は光りもののように宵の空へきらりと飛んだ。山にも海にも無数の鈴鳴りを聴いた。
寒くは──なかった。
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第十二章 提 案
順子を煩わし、ゆうべ予約しておいた京都駅ちかいホテルに着くと、案の定電話がほしいとメッセー
ジつきで、十階南の翼(ウイング)にツインの部屋をあてがわれた。眼のしたに国鉄の線路や新幹線が見おろせ、
灯を点じた桃山城が、気もちよくのびたまっ黒い深草丘陵の南端にきらと光っていた。
順子は電話□で待ちかまえていた、東京へはいつ帰る気か──。彼女にも、姉に似て、要件から先ず
といった、決まりのいい、またそれだけ気性の勝ったつよい部分がある。年をとるにつれ姉よりはっき
りそれが外へ出て、そんなそつのなさとも身構えとも見える賢さが気になることもある。
「あすのうちに帰りたいんだよ。ただ、こっちの家(うち)へもね。親の家…。ちゃんと日本へ帰ってきてるっ
てことを、顔見せて安心させとかないと……」
義理ある両親と伯母と、三人のうち二人まで八十歳過ぎていた。三人が一つ家でもたれおうているの
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をいいことに、若い家族だけ東京に別れ住んで、来春には二十一年にもなる。順子は知っている。
「それよか、夜道に日は暮れないよ。ちょっと出てこれないか。話もある……。璋(あきら)…くんのお許しがあ
れば、だがね」
返事は早かった。
名まえば嵐山でも川しも松尾大橋ぎわのマンションからだと、この時刻、順子の運転で三十分かかる
まい。急いで浴槽(ゆぶね)に湯をため、ロビーへおりる着がえも用意しておいて、その間に昨日今日のあれこれ
心覚えをメモにした。帰れば丹波焼の原稿もさっさと書いてしまう気だし、ゆうべ遅く姫路から妻に電
話して聞いた、T新聞から「また」電話があったという話も、気になった。
「また」というのは、成田へ帰った次の日には旅行記を頼まれていたからだが、締切には余裕がある。
明晩には必ず帰るよと重ねて妻に電話した。とくべつ、急用はないらしい──。
順子とはほぼ四十日ぶり、これほど短い間隔で顔を見ることはここ久しくない話だったが、遠い旅を
してきた実感が、四十日を四ヶ月にもそれ以上にも膨らませ、こっけいなくらい自分が感傷的になって
いると気づくと、やたら西洋人の多い喫茶店で向かいあってからも、つい声が大きくなった。旅のこと。
順子自身のこと。進学をひかえたお互い息子のこと。そういう順序で話は進みながら、順子が、自分か
ら冬子のうえに言い及ぶ気はいはなかった。
「……冬(ふう)ちゃんに、逢ってきたんだよ」
相手がうつむいたすきに、なげこむようにそう言った。釣糸を、あてずっぽう水のうえへ抛(ほう)る気分だ
った。
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「そゥやて、ね」
順子の声はひくく、紅茶にだす手にも揺れがない。冗談じゃ、ない──のに二の句が継げない。
「おい順……困らせるなよ。なんとか言えよ。その話がしたくて来たんだぜ」と、伝法に。
「あたしかて。その話……聴こ思て。冗談にあんな手紙、モスクワから呉れはる……」
「そりゃ、そんなわけないさ。冗談なもんか」
牧田という苗字を順子は知っていた。上馬町(かみうままち)正林寺の南の辻、旧境内に喰いこんだ家並の一軒にS小
学校での同級生が住んでいて、昔も、今でも、京大の学生などを二、三人ずつ下宿させている、その、
二軒おいて西隣りがたしか牧田という苗字だった。牧田欣一氏と冬子とのことは、順子の□が今改めて
きっぱり否認した。
──ながい話を、□ひとつはさまず聴きおえた順子は、亡くなった兄憲吉のハーモニカのことを訊ね
た。
「そう思ったんで持って出てきたよ」と、袖みじかな白いサファリ・コートのポケットからいきなり手
渡そうとした。が、順子はひと目見て首をふる。
「ちがう、かい」
「ううん。それよ。あたしのとこに…在ったはずやのに」
そもそも牧田氏の手紙に書き加えてあったあの鉛筆のタテ棒も、帰国してすぐ見確かめた。土産に冬
子のくれた簡素な馬の人形も、けっこう家族に歓迎されていた。
「死に直し……が、したい思てるのやわ」
360(12)
「もう一度死ぬ…ため、か。そうなのか……」
「信じる……おにいちゃん」
「信じるね。順は信じないか」
順子は吐息をつき、
「あの人なら……」と、にが笑いに頬がゆるむ。
死んで生れた、順子よりもまだ妹が、やはりいたのだった。女の子なら「法子」と父親は名まえまで
考えていた。それなのに、その順子の妹の法子が、日の目も見ず常世(とこよ)の闇に流れ去った日、父親は清閑
寺の奥山に忍んで、心中死していた。
相手は、遠からず嫁入りの話もまとまろうとしていた義妹(いもうと)、安曇(あど)家の末娘だった。六波羅の野尻へ嫁
いだ叔母から六つ若い、三人姉妹で一等綺麗だった叔母が、冬子や順子の父を道づれに烈しい死へと底
昏いあの山路に誘いこんだ。昭和十八年の真冬だった、という。憲吉は小学生だった。冬子も近くのK
幼稚園に行って留守のうちだった──。
順子は、テーブルに置いたハーモニカを見ていたくないと言う。蒼い顔をしている。またポケットに
ねじこみながら、
「でも……それだとお母さんが□癖にされてた、例のひとふしある”生き恥”サ。あの言いまわしに繋
がって行く文脈は、どうなるのかねえ。死なれ(二字傍点)たにはせよ、死なせた(二字傍点)わけじゃァない……」
「文脈」などときざな言葉をえらんだことに臆したが、率直な不審だった。
順子はすぐには答えなかった。だが──、あえて眼のまえに動かぬ蒼い顔に眼をすえ、返事を待った。
361(13)
はたして順子は呟いた。
「小説家って……イヤゃねえ」
「………」
──深草の加茂家、順子らには父の生家は、もと桂川と鴨川の合流点西岸にあった羽束師(はつかし)古社の祠官
だった。祭神は貴船神社に同じという言い方を順子はしたが、それならば、わけて畏ろしい水神のはず
だ。
維新まえに廃社となるとすぐ深草石峰寺の門前に移住し、曾祖父に当たる滋(しげる)は、千百五十年もむかし
空海が創設したという、日本一古く、日本一小さいS大学に神祗史の教鞭をとった。祖父の正は京大工
学部を卒えるとK電鉄の創業に関わり、重役にもなった。正の妻は同僚の野尻達男の妹だったというか
ら、あの歌詠み六道さんの伯母に当たる。
「なるほど……」と合点したものの、順子の話が、まだ猪□を摘まんだまま逡巡しているとは察しがつ
いた。
野尻家のことは、確かなところは知れないが、江戸時代を通じ、建仁寺に三家あった行者頭(あんじやがしら)の筆頭格
だった。安国寺瓊恵やさらに遡って越前武田家とも縁があったといい、鳥辺野に臨んで要(かなめ)の地を占め、
他方鴨の河原に根生いの造園造庭の技術や伝書を管領した。幕末には建仁寺の寺務とまったく離れた。
遠い先祖は土師氏とも菅原氏とも、また近江源氏とも伝えているらしい。
「すると、野尻と加茂との、いわば神仏習合ちゅうのが有ったわけやな」と、わらった。
かならずしも順子は端的にうなづかなかった。
362(14)
「それで……その、加茂さんの家(うち)が、順が、まえにこの道通ろ言うてぼくと通った、石峰寺したのあの、
静かな辻のなかに、ある……」
順子は暗い顔をしたまま、今度もうなづかなかった。
「おにいちゃん、ほンま、なンにも知らんのやねェ。知らんまんまのほうが、良(え)ェ気もするけど」
「オイオイ。今さら、そんな思わせぶりやめてよ」
「そイやったら、訊くけど、おにいちゃんの…ペンネーム。とくに苗字の方。なんで付けてるの」
「秦か…。俺を産んだ母の、里の姓だったらしい…から」
「らしいテ…」
「顔も覚えてないんだよ。それにとウに死んでる。早うから俺は当尾(とうの)の家で育って、なんにも知らない
しね。どうして、訊くの」
「当尾さんと、秦…さんとは」
「関係ないと思うよ。庵を貰い子した時は、仲に立つ人があったようだ。よう知らんけど」
「じつのお父さんの、ご苗字、知ったはる」
「苗字ぐらいはね。父とも、会った記憶はないが、八坂…幸彦いうたかな。どうしたんだよ順。……な
んだか、まわりくどいじゃない」
「一度も、考えたことがないの。六波羅の野尻でかて、馬町の安曇(あど)の家でかて、おにいちゃんのことみ
イんな、家(うち)のもんみたいに受けいれてたん、なんでやテ」
「何を…言いだすやら…」
363(15)((え
「そんなら、悦ちゃんの…」
「吉(よ)ツさんの妹、の」
「そう、あの悦ちゃんのご主人と会わはったことは」
「いや。まだ、ない」
「良平さん。この人のお里が、秦さんえ」
「………」
「野尻の叔父さん、おにいちゃんのことお婿さんに欲しかったらしいけんど、第一、当尾さんの跡取り
でしょう。ほかにもややこしい…こと、あったし」
「やめろよ」とも言いかねた。泡をくっていた。肩を落とし、前髪に片手をつっこんで根がつれるほど
掴んではみても、事情はわからない。が、順子にこのまま□をつぐんでしまわれても、困るのだ。ボー
イに、ウイスキーの水割りをもたせた。──順子は手洗いに起った。
生い立ちのことは知らずに育ち、知るまい意志は、自力で育てた。大学に入る手続きの日まで、だか
ら戸籍も見なかった。それなのに生母和子の姓が秦で、実父幸彦の姓が八坂だったこと、この両親が夫
婦の間柄でなかったことなどは、朧ろに知っていた。
──順子はまた席に落着くと、話をもう一度、加茂正という、彼女たちには父方の祖父のうえへもど
した。
六波羅の野尻家から加茂正に嫁いだ人は、栄、登そして桜子の三人を産んで、やや若いまま死んだ。
正は、やがて、後添いとしての籍は入れずじまいだったが一人の婦人と出違っている。気立てのごくい
364(16)
い未亡人だったそうだ、女と、男と、一人ずつまだ幼い自分の子どもを育てていた。
かなり円満に、結局この婦人が終生正ばかりか先妻の遺児の面倒もよく見てくれた。あいにく順子は
その婦人の姓名をまったく記憶していず、かえって彼女の二人の連れ子が亡父(ちち)の姓を嗣いで秦氏だった
ことを覚えていた。姉娘が和子。四つおさなかった弟周平が、成人して、加茂の末娘桜子と夫婦になっ
た。
そして──
そして桜子と周平の何人かの子の中から野尻悦子、吉ツさんの妹に養子がえらばれた。「良平さん」
だ。順子はそう言ってひと息ついた。
「従兄弟……か、俺の」
「そう、なるわね」
「桜…子さんらはそれで、今どこに」
「東京。関□、台…マチ」
「…あるよ。わかる」
「お祖母さん……おにいちゃんの。その人の名まえが、どうしても思いだせへんの」
「俺のことは、ま……後日それなりにゆっくりやるとして、だね。すると加茂正の息子二人のうち、栄
さんか登さんかが順らのお父さんテわけだ。だが、…なんと遠まわしな話をするもんじゃないか、順ら
しくもない」
「かんにん。それだけ気が、進まへんのよ……喋りとゥないねん」
365(17)
「…また、今度にしようか」
順子はがっくりと首をまえへ落とした。
「いつ時分からそんなこと知ってるんだ」
「あの人が。冬(ふう)ちゃんが……。あれ(二字傍点)があったあと、堪りかねたように母が話してくれたんえ。あの母は、
そんなン黙ってたかてええ話まで……。冬ちゃんの死んだンまでも、自分が死なしたんや言うて」
「も、いいよ。今日はもう、よそう」
「そゥやな」と、淋しそうに笑って、順子は自分もお酒が呑みとうなったと言った。
「それはおよし。代りに運転してなんか、やれんのだからな」
「運転してくれはらんかて、ええモン。璋かて、怒らへんモン」
語尾を明るくはね、順子はわざとにらむ眼をしながら璋に電話をしに、また起った。
渚に、乗ってしまいそうでなかなか寄りきれない浮き木のような懊(じ)れが、三杯めのウィスキーのまわ
りを早くしていた。空腹も感じていた。
「旨いうどんでも、食いに出ないか。あとは、どこでもいい、タクシーのある辺でほうり出してくれた
らいい」
心もち火照った顔で電話からもどってきた順子の先を越し、席を起った。向きあう一瞬、眼が濡れて
きそうなのを、逸らさず見返す、と、順子は負けて、くるっと背を見せ、うなづいた。
璋と、なにを電話口で喋ってきたのか知らない。うしろから肩を抱いてまえへ送りだしながら、二人
して出て行く京の夜の深さが、星空を流れる底昏い川波ほどにもきらきら、きらきら、光って想われた。
366(18)
──翌る朝十時すぎてホテルをチェック・アウトすると、荷物は京都駅に預けてから祗園に近い当尾(とうの)
の親の家へ、無事帰国の顔を見せにたち寄った。伯母も誘って、早めの午食(ひる)にみなで縄手の重兵衛へ寿
司を食いにもでかけた。父は、前歯が三本欠けた□もとを気にせずよく食いよく喋って上機嫌だったが、
すっかり白髪の母はいくらか鬱状態らしく、もともと寡い□数の人が、急にいらいらと突拍子もない話
題で父の饒舌の腰を折ったりした。
なぜ家で泊らんのかと□々に叱られて、返事ができない。ホテルなら、たとえひと晩に一枚二枚でも
原稿が書けるなどと罰当たりな言いわけも、もともと年寄り相手に通る話であるはずがない。
海山の恩あるこの親たちや伯母とこそ、本当の身内同士になれて然るべきなのに、そう思いながら金
縛りに遭ったように、自分で手がさしのべられないでいる。
「お父さん。それではあんまり親不孝なんじゃないの」と、時に、わが娘(こ)にまで責められる。思わずぐ
っと胸にこたえ、だがちりちりと胸の底を焦がす感情は、名づければなぜともえたい知れない、憤りと
いうに近い──。
「……やはり今日のうちに、東京へもどります」と食事がすむと、三人のまえに頭をさげた。
秦恒平と名のって小説を書き本も出していながら、当尾の家で、親たちも息子もそれを一度も話題に
したことがない。当尾とどうやら秦周平(この叔父の名をどこかで聞き覚えていた)との間には、子ど
もの気づかない斡旋や交際が、少くもいつかまでは確かにあった。順子はそう話していた。なるほど久
しい野尻との縁は、吉男と幼稚園で仲良かったというだけでは説明がつかない。なぜあの遠い馬町の幼
稚園まで通い、いつ吉男と親しくなったか、不審には思いながら詮索する気がまえがなかった──。
367(19)
建仁寺境内を抜けて、久しぶり野尻を訪ねる気になった。なにをおいても深草石峰寺の墓地へ行って
みる気でいたのだが順子は賛成せず、いずれ姉と、冬子と、一緒に行けばいいと制(と)めた。
「冬ちゃんのお墓……どこに」と大事なことを訊くと、きつい顔つきに変わって、冬子とはモスクワで
逢ってきたばかりとちがうのかと一喝した。
「あの人は、どこにお墓なんかほしいとも思てへんでしょ。おにいちゃんの胸のなかィ、おにいちゃん
の手で建てたげたお墓のほかには、……」
──あんなに言う一方、順は、冬ちゃんをとうに死者かのように俺が言いかけるのを、そのつど頑(かたく)な
に許さなんだ。あの人を故人と、そう思う権利はない、あんただけにはそれがないと言わんばかりに。
俺にだけ、此の世で一人俺にだけ、あんなふうに冬ちゃんが姿をあらわしたあれにも、もし順が言うの
と同じ非難が暗示されている──としたなら、冬子のしようという「提案」とは、なになのか。なにを
冬子は意図しているか──。
三年ぶりの野尻の家のなかは、若い女主人の選択(センス)で、また見ちがえそうに明るく変わっていた。小学
校と幼稚園の、男の子と女の子が威勢よく育っており、母親の悦子は週に二度、非英語圏からの留学生
二人を家に呼んで英会話と日本語を教えているという。夫はR大学と大阪のS女子大に日本法制史の講
座を持っているという。
「主人が、今度こそいっぺんお目にかかりたい言うてますの。ほんと、お元気そう。ちょっとも宏ッち
ゃん変わらはらへんわ……ねェ、おじいちゃん」
六道さんも習字の先生も、老いてたしかにひとまわりずつは小さくなりながら、耳もよく聴こえ、話
368(20)
し声に力があった。吉男とは八月に逢った話をした。先生のいためた脚の具合も訊いた。六道さんには
おととし新書判で造った少年の昔の歌集を謹呈していた礼を、また言われた。
それから、そこだけはさすがに聖域という感じに昔のままの書斎へ案内された。先生も、悦子も、座
布団をさげてついてきた。友だちと縄跳びしてくると、頬のあかい背の高い女の子は表へ遊びに行った。
順子とゆうべ逢ったことは黙っていた。だれも安曇(あど)の姉妹のうえに触れず、悦子はモスクワの風景や
レニングラードのオペラ劇場の話に興味を示し、老人は丹波立杭の山なかまで、姫路から遠まわりして
窯を見に行った話を、面白そうに頷いて聴いていた。
だが、室津(むろのつ)の明神社ヘ夕通ぎてドライブした話になると、三人が三人とも、ふと白い顔をして黙った。
そんな気がした。
──冬子が、まさか馬町のあの下(しも)の離家(はなれ)で出産したとは想っていない。深草でとも一度は考えたけれ
ど、存外もっと遠方、そう、順子の話を聴いての今なら、焼物造りのNさんが夕闇にうごめく蛇二尾を
山蔭に見つけていた、室の泊の、たとえ加茂神社でなくとも遠い由縁のあの近在に身重の冬子を匿まう
家があったとしても、いい──か。
さりげなく話題をかえ、太秦(うづまさ)辺にと物の本で知った史跡蛇塚の所在を、六道さんに訊ねてみた。
「そらまア、なんでも識っといる宏ッちゃんが。行かはったことないテ……。冬(ふう)」と息がきれ、すぐ電
車でなら嵐電で帷子(かたびら)の辻まで行き、太秦の、撮影所の南に接した「面影町」という辺を尋ねて行けばわ
かると言う。
「あれは、見てもらう値うちあります」
369(21)
老人は顎をひいて強調したついでに、なんと思ったか清閑寺の奥山の稚児ケ池が、今は南半分に縮ま
って、釣堀になっている話をして聴かせた。
「ヘエ。釣れますかねェ」
「それよりか人が行かんわナ、あそこまで。言うたら昔からぶきみなとこどすがナ。京都のもんほど近
寄ると引きこまれる、怖いとこや言うテ寄りつかなんだ」
「でも、近所の子ォは泳ぎに行ってましたよ」
「そうどすにゃ。ええ年の若い衆がで行っとりましたんや。なかには悪い奴がいて、水門の栓抜いて、
魚(さかな)手づかみして帰りよる」
「で、池の北半分は。真中渡ってた山道が、広う良うなったとは聞いてましたが」
「それなんや…」と声がとぎれた。こんな時、女二人はすこしはなれて、控えているだけだ。奥さんは
彼岸すぎたいまも大ぶりの丸い団扇をゆっくり使いつづけていた。
ひヒえへこおぴ
「宏ッちゃんに、ビールでも」と六道さんは悦子さんに言いつけ、白い絣の単衣(ひとえ)に締めた兵児帯(へこおび)のわき
をぱんぱん叩きながら、それからも悦子らに相槌を求め求めては、いろんな話をして聴かせてくれた。
稚児ケ池の北半分が、あらかた埋めたてられて人の持物になり、風流そうな料亭が建って外人客を市
内のホテルからバスで運んでいるという話には、おどろいた。
「一等北の奥に、ちょっと離れて、地面にめりこんだような凄い蓮池がありましたね」
「あれは、残ってます」と言われ、妙に、ほっとした。そのくせ、その池のそばへ行く時が、冬子と一
緒でも、いちばん畏ろしかったのだ。
370(22)
将軍塚や花山天文台へ通うハイウエイも、冬子と遊んだ昔にはなかった。ひょろ長い糸瓜(へちま)なりの稚児
ケ池の縁(ふち)を、身にしみるほど木昏い山路が細々と通っていて、山かげへすこし身を潜らせれば、二人の
息づかいしか聴こえない時もあった。
そよ風と日盛りと山鳥の声に恵まれ、思いがけず開けた眺望を樹間に指さし示されたことがある。さ
つき、つつじなど灌木のなかに不思議に磐座(いわくら)、磐境(いわさか)めいて鎮まり返った岩場も知っている。何の跡だか
十メートル四方にも竪穴(たてあな)を小さな積石で築(つ)き固めたまま、無数の松蓋(まつかさ)で埋もれていたような場処も知っ
ている。深い山とばかり思って息をせいて冬子のあとを追っていたのが、木の茂みをふいに眼で教えら
れて覗くと、ほんの二、三メートル先が、そこなら小学生の時分から何度も平気で登っていた、ごくあ
たりまえな将軍隊界隈の山道であったりした。
山道ということばには少くとも二通りあって、いわば安全な公道は山裾や渓ぞいや、かえって見晴し
のきく尾根を往き、だが、人の知らない隠れ道が、まさかと思うそれらの間近くを忍び顔に通っている。
そしてこの二種類の道を利用する、なにより人が、まるでちがうという事情も否応なしに有るのだった。
ちがいの根を探って行げば、いずれ本になとなかなか書かれない日本史の深い叢(くさむら)へ足を踏みこむこと
になる。──野尻の人と同座の、ふとたまゆらに冬子の面影に添い寄られ寄られ、そんな山の不思議を
なぜかなつかしくしみじみと想像していた。
海の民の裔(すえ)だった安曇(あど)の家が、どの道筋を辿って人生至る処の青山(せいざん)を、基山を守るほどの家職に転じ
て来たのか。そしてその不思議な職掌を、憲吉も冬子も亡く一人とり残されたあの順子は、誰に、どの
ように手続き正しく手渡してきたというのだろう。
371(23)
東京へ帰ったら忙しいなどと言わせず吉男を誘い出そう。そして今までしなかった話を、酒の力をか
りてでもぜひ彼としなければならない──。
帰宅は、どうあっても四時すぎという悦子の夫をわざわざ待つ気はなかった。
たった二日間のことだが、きつい刺戟の連続で、それでかえって何もかもが夢に想えそうなあやふや
な安堵も感じていた。これはもう”冬子時間”とでも呼ぶよりないあやかしの手に自分が抱きこまれた
ということか。いいサ。そう思いながら、野尻のこの家を出たその足でふらふらと、釣堀に変わったと
いう稚児ケ池へ誘われて行きかねないのが畏ろしかった。たまらなく畏ろしかった。
六波蜜羅寺に参る余裕もなく、野尻を辞して出ると遁げるように松原通りを西へ早足に歩いた。通り
の左右が弓矢町で、左へ奥まった路地の一画に、明治に北嵯峨鳥居本へ移転する以前の愛宕(おたぎ)念仏寺旧址
が、石碑一つを記念に心細う残ってあるのを知っていた。ちょっと覗いて帰りたく、やっぱり畏ろしか
った。何にこう動顛するかと訝しいほど、胸の内が昏く、波立っている──。
ロッカーの荷物を出し切符を買い、発車まえの十分余に、まず順子に電話した。璋がでた。少年は電
話の相手が誰かわかると、目だって緊張した声をだした。聴いているのが辛いほどだ。そのくせまだ幼
い声をして彼のほうから電話の切れるのを怖れるように喋りつづけた。少々荒っぽくさよならを言わね
ばならなかった。売店へ走り、妻が好きな俵屋の棹物を買った──。
あたふたと数日がすぎて行くなかで順々にソ連旅行の写真が焼けてきた。いちいち自転車で受取りに
行き、いちいち商店街の喫茶店のまえへ自転車をとめ、コーヒーがさめるほど一枚一枚のカラー写真を
眺めてから家に帰った。
372(24)
冬子の姿は写真になかった。一枚もなかった。死なれた実感がはじめて来た。身のまわり百倍もある
頼りなく広い空洞(うろ)の底へ、どどっと逆さまに落ちて行く、小寒さに肩をすくめた。
ハバロフスクからモスクワヘ飛んだ機内に、ハンチングで笑顔のK団長と岩波文庫を膝に当惑したよ
うなTさんとは、坐席に腰かけ、フラッシュも利いて絢麗に撮れていた。
が、民俗学のS氏にわざわざ頼まれた一枚には、法子はむろん太いパイプを一刻も手離さなかったあ
のS氏や、どんぐり眼の”眼鏡”君ももろとも、まるでレンズのキャッぷをはずし忘れた時のようにフ
ィルムごと一枚、すっかり黒く抜けてしまっていた。
だが、ジェルジンスキィ公園に冬子を待ちながら、夢中で中ぞらヘシャッターを切った白い鳩は撮れ
ていた。ベンチに冬子とならんで、黄金(きん)色に明るんだ木叢(こむら)の奥にうっとり眺めたもの。葉が茂り、白い
花が飾って、細う、枝に絡んで揺れて動いていた世にも綺麗な小蛇も、光線のかげんか真緑に光る肌に
つややかに網目を浮かばせ、たしかに生き物の美しさで、写真の奥にかすかに姿をとどめていた。
──十月四日、気にかかっていた電話が来た。T新聞の文化部長からだ、たかが数枚の旅の原稿に二
度もじきじき催促をかけてくる人ではない。
「……なにごとですか」と、つい笑ってしまった。
「いえネご相談、というより提案なんですが」と、むこうでも笑いを含んだ一瞬間があって、
「…夕刊の、連載、なさるお気持、ありますかねエ」
「連載テ。……小説ですか」
373(25)
まさかという気だった。この新聞には以前十日間連載の、小説でない囲みを書いた覚えがある。
「小説です。……」
即座に受けた。電車を待っていたら眼のまえでドアがあいた。乗った。そんな躊躇のなさに、電話の
むこうでは息を呑んだらしい。
この話信じていいのか。率爾の承諾とはいえ精いっぱいを、
「やります」の一語に放出していた。今さら笑い話にされては堪らないし真面目な話なんでしょうねと
も、もう訊きかえせない。一回分が、三枚半、目下連載中のE氏の作が明年三、四月に終るそのあとへ、
少くとも百五十回ほどをと、つぎつぎ聴きとりながら、この半年のうちに五百枚越す長さの、せめて三
分の一も三月時分までに書き進められるか考えた。緊張した。そんな手早い仕事はしたことがない。
俺が、新聞小説を──と思うだけで、いかん、こりゃ冗談なんだ、今にもHさんはあははと笑いだす
ぞと熱くなった。と同時に遠い昔の漱石や、潤一郎や、有三の、しみじみ読んだもともと新聞小説の題
が、噴き零(こぼ)れる熱湯のように脳を焦がした。
後日の連絡を約束され、それまでに何が書けるか腹案のようなものをと頼まれて、もの静かに呼びか
けてきた電話の声は、暴風雨のように飛び去っていった。
京都を舞台の恋愛もの、すぐに映画になるようなのがいいですねえと半ば以上本気そうな「提案」も
あった。前段はいいが「映画」には頷かなかった。そういう小説は困るのだと、黙って言い返していた。
何を書くか──迷いはない。
考えねばならないのはそれ(二字傍点)を承認黙認でもいい──してもらう算段だ。東京一紙の話でなくこれ
374(26)
は北海道、仙台、名古屋、神戸、九州など幾新聞かが連携の契約になるという。いっそ、それは有難い。
その種の条件は、どう動いてもいい。しかし「冬子」を書きたい。が、冬子との物語は、まだ(二字傍点)、終って
いない──。
案に違(たが)い、法子はあれ以来姿を見せなかった。冬子のそれらしいけはいも感じられず、日ばかり経っ
た。
父がお世話になった、パりから無事な便りもあったと手紙が添って、K団長のお宅から土地の名産の
落花生をたくさん送ってもらった。Tさんからも一度短い電話があった。
新聞の仕事は本決まりで人に話しもならず、むだに日も送れない。二月末になんとか五十回の用意が
ほしいとなれぱ、十二月早々から始めて年内十五回分、もし正月にさらに十六、七回分が書きつげてや
っとの目算だ。引受けている目下の仕事を大小となく並べてみた。どうしても残ってしまうぶんは、凍
結か、延期か。十二月までにともあれ一切片づけておくと肚(はら)を決めた。そして、「一切」という思い入
れにはっとした。血の気の引く、まるで瀬音を身内に聴いた。冬ちゃん、もう時間がない──。唇を噛
んで呻き、そしてまた、あ、と声が出た。
「宏ッちゃんに…、あたし、提案(二字傍点)があるの一つ」
先月十二日の朝、冬子はたしかにそう言った。
「旅のお疲れが出ませんように。そして、この旅が、また新しいお仕事にどうか役だちますように」
もう別れの電話に声を忍んでモスクワの冬子はそう祈ってくれた。九月二十二日の夕方だった。
375(27)
「いえネ。ご相談、というより提案(二字傍点)なんですが」とH部長の電話は笑いを含みながら、どこか慎んだ物
言いだった。けっして冗談とは聴けなかった。十月はじめの四日のことだ。
冬(ふう)ちゃん──きみは、まァ──、こうまでも。机に肘をあずけひとり顔を伏せた。眼をとじ、遠い汐
の鳴りのような音をじっと聴いた。
──ありのままに日を追い、牧田氏の手紙に冬子の合図(サイン)を見つけたところから書きだそう。旅をして、
帰国して、そして今度のこの「提案」やこうした思案も、もう押し止(とど)められない物語の流れにとりこむ
ことになるだろう。現(うつつ)の人でない冬子と今日明日にも、どう成り行くか、作者自身が知らない話だ。
「人は、死んでから(二字傍点)、生きるのえ……ほんまえ」と声高に叫んだ冬子よ。夕日が朱かった鳥辺の基山に、
きらめき躍っていた小鬼たちの、ちいさな首領よ。その生き(二字傍点)の道づれにと、俺を呼ぶがいい。誘うがい
い──。
かける気でいた電話を、無いことに野尻吉男から唐突にかけてきた。しかも病院からだという。同じ
沿線の池袋寄りにある、昔ふうにいえば結核病院だった。浅いが要注意の浸潤が左肺に認められ、血痰
もあった。それでいて何かうまみのある出版企画はないか、などと言っている。緒についた仕事が気に
なるのだろう、まずは半年もの入院を覚悟しているらしかった。
こっちがソ連を旅していたことなど、まるで忘れてしまっているような吉男の□ぶりだった。もちま
えの声が明るかった。
「病気……あせるなよ」
376(28)
「ああ、それだけは気ィつけてるよ。幸い任しとける相棒がいよるんや。助かる……」
それなら何の用で電話をしてきたか。入院の報せというだけか、それとも退屈したか。
病棟病室の番号と面会時間はたしかめたが、さて飛んで見舞いにいく成行でもなかった。来いよとも
行くよとも言わず、電話くらい遠慮なしにかけてくれよと、妙な励ましかたをして受話器をおいた。順
子にまた逢ったか、逢った、とも双方で言わずじまいだった。
親友と思っていた吉(よ)ッさんと、血はつながらないが親戚筋らしい話は、だが、妻や子にもまだしてや
れない。当尾(とうの)の家へ、いつ貰われてきたかも知らず、まして裏に隠れた大人同士の折衝を気づこうとせ
ずおよそ四十年越す歳月が流れ去っていた。ちいさな綻びを頑なに手で隠したまま、眼をそらしつづけ
た歳月だった。順子は綻びに荒い手をかけたことになるが、それも冬子の「提案」の一つ、であるのか
も知れなかった。
リボーワさんに託されていた品をあるロシア文学者の家へ届けたり、近くの陶芸家が夫婦で訪ねてき
たり、そうかと思えば仕事ぬきにベテランのテレビディレクターに誘いだされ、篆刻(てんこく)の趣味できこえた
渋い俳優と三人でしんみり話す、そんな、酒の入る晩がつづいた。が、冷えかじかんだ飯と温かく炊き
あがった飯とを茶碗に半々に混ぜて食っているような、落着きのわるい日々でもあった。
笑止なことに、法子も冬子もあらわれないのが不安だった。新聞小説の仕事にしても今日にも玉手箱
の煙と消え失せるのではないか。こまごまと幾種類もの原稿に手を割(さ)きつづける緊張がかさなると、出
席を通知していた某出版社のパーティーにも不参と決めた。あれも、これも、なんとなく気になった。
それでも十月十一日、京都のある心親しい画家の個展へ、銀座まで出て行った。
377(29)
時間外だったが、途中野尻の病室へ顔をだしてみた。検査中でもあるか、存外近所の喫茶店へ遁げこ
んでいたのかも知れないが、逢えなかった。
祗園の舞子を裸にしたり、華奢な着物をしどけなくまとわせたりして色々に描いたI氏個展の絵は、
わずか十一点ながら、半数以上に手帖に二重丸をつけ、幾行もの感想が書けるほど充実していた。「よ
し」「よし」と、堅い木の実を□中でパチッ、パチッと噛み砕くように呟きながら、たった二た部屋の
会場に静かに胸をはって、一時間半も居坐っていた。法子も、冬子も、だがあらわれなかった──
。
翌る夜は遅くまで机にむかっていた。そしてデジタル時計の日付がかわり、十五分すぎて電話が鳴っ
た。
動顛して聴きとりにくい京都の伯母の声が、父の、養父の、今しがた救急車による入院を、とにかく
も伝えていた。
血圧二百四十──で、昏倒。
あいにく、妻も一両日からだのぐあいがわるかった。朝になっての電話連絡で、父は意識ももどり小
康を保っていて、急の変化はあるまいと母から聞いた。運ばれた先は京都駅の真西に最近開業したばか
りの「ビカビカ」の救急病院だと、祗園近くからはるばる附添って行った母のそんな□調にも、ほっと
ひと息ついている感じは出ていた。
──とにかく一度行きますと、耳の遠い相手に、受話器に□をつけ大声で伝えた。
「おおきにおおきに。そやけど、無理しはらんと」
老いた母は、息子のほうで言うべき科白を、緊張もしているのだろう、かなりハキハキ言い返してき
378(30)
た。
午前中は家を出られなかった。午すぎてもなかなか机のまえを動けないのを、妻が気に病む。とうと
う起って服を着がえだした時、T新聞から、初の打合せに次の週の都合を訊いてきた。
「今日、何曜でしたっけ」と電話□でつぶやきながら、父の容態を考え、木曜日ならと返事した。時刻
は六時半。
「銀座に席を用意しますが。出ていらっしゃれますね」
承知した。各社の何人かと同席らしい。とりあえずH部長と二人で待合わせる場所を、新橋寄りのN
ホテル喫茶室と決めた。
「おじいちゃん、だいじょうぶ……」
ランドセルを廊下になげ出したまま、妙な好物の揚げ豆腐と煮たキャベツを西洋皿に山盛りにしても
らい、白い飯をぱくつきながら建日子(たけひこ)が母親に訊いている。
「だいじょうぶだといいわね……心配だけど」
妻の声が細い。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とつい掛声になって小走りに玄関へ出た。
ちょうど郵便が配達されてくるのを妻に受取ってもらい、靴をはいたなり三和土(たたき)に立って眼を通した。
顔の真横で、褐色の釉(くすり)が腰まで流れた瀬戸の掛花入れにひとつかみのコスモスが咲いている。活字の郵
便物が多いなかに、京都から、文化の日を予定していた母校茶道部の記念茶会は、在学生行事で茶室周
辺を使用しにくい事情ができたため、十一月十一日日曜に日延べのむね謄写刷りの急の葉書が一枚混じ
379(31)
っていた。誰の手蹟(て)か、小松秋子の例年のぞんざいなペン字とちがって、一画もおろそかにしない達筆
だった。
「ハイ郵便です」と配達の□真似をして妻にどさっとひと山手渡した。
「あなた。気をつけてらして。いろいろとね……」
頷き返した。「いろいろ」と言われてみれば、ほんとにいろいろのことが有りそうに想われる。日光
が金属粉のようにきらきら外の道に散りおちて、おむかいの空地には、背丈を越すほおけた穂すすきの
山が盛りあがって──。
「ご旅行、ですか」
小犬を抱いてサンダルで出てきたおとなりのお婆さんに、声をかけられた。
「いえ。そんなけっこうなンじゃなくて」と愛想よう頭だけさげておいて、妻に留守を頼んだ。二階の
小窓から建日子が、
「おじいちゃんのこと、頼んだよゥ」とませた□をきいて手をふっている。路上、女二人の立ち話がは
じまるらしいのを聞きずてに急ぎ足になった。父が担ぎこまれたという病院のことなど、急に不安だっ
た。
翌る朝──面会には時間外だったが。
父は、CCU、と呼ばれる循環系のいわば監視室にひとり臥(ね)かされ、眼をあいていた。親切に答えて
くれた医師やナースの観察ではやがて普通室に移れる回復ぶりだった。倒れるまえ窒息に近い苦悶を愬
えたとか、朝の散歩にやや早足に知恩院の坂を上ったのが響いたらしい。幸い応答もしっかりしていて、
380(32)
珍しく父のほうからこの頃の仕事ぶりについて訊ねたりした。
母も伯母も、意外にさらっと乾いた顔で、さて、こんな騒ぎをまた繰返すかしれない先々までのこと
は、思い悩んでも仕様(しよう)がないやないかと言う。生れついて八十年、今さら動きたくはない、京都で死に
たい、のはわかる。だがわかれば済む話でもなく、と言って若い親子の四人がすぐ京都に帰って暮せる
道(すべ)もない。家もない。
順子は、風邪でひどい声をしていた。ふと、璋(あきら)を呼びだす気になった。父のそばに母を残し、T病院
を出たところだった。おそい昼飯も、ひとりで食うしかない場合だ。
「璋のお午食(ひる)もようしてやってなかったの。お願いします」
順子は提案を歓迎した。勉強中の当人もその気でもう机のまえで起っているという。出逢う時刻と場
処とを告げた。
「璋くんは早めに帰すけれど……おまえさんも大事にして。ぐっすり寝入っているといいよ留守中」
「おおきに。そなィ言うてもうて安心しました。なんや睡とゥなってきた」
そしてさりげなく、その後変わりないかと順子は訊いた。
「なにも出ないんだよ。それが」
「ソラおにいちゃんの、心がけが悪い。出るとか出んとか、お化けにしてしもたら可哀そうや」
「……そだね。そりゃいかん」
恐縮して電話を切った──。
祗園の路地の奥で、璋に、スタンドの中華料理をたくさんご馳走した。彼とは三度めくらいの出逢い
381(33)
だ。話題がたいしてあるのでもない。大学時分、璋が通っている中学へ教職科目の実習に行った覚えが
ある、ずいぶん教壇ではトチったという話をして笑わせているうち、いつか順子に聞いた、璋にやさし
い或る女子大生のことが思いだされた。だが、黙っていた。
よく食べて屈託なく、璋は、高校を、今の学校のつづきでなく、公立に替るほうがいいのかもしれな
いなどとも□にした。
「まだ二年生じゃないか。それとも、私立ってのが、いやかい」
「そんなことあらへんけど……。東京へ、もしも引越したりするんやったら、やっぱり勉強はしとかん
と」
「……。京都が好きなんだろな。きみは」
璋はなにげなく眼をそむけて答えなかった。順子にどんな用意があって居喰いの暮しが立っているの
か、内情は知らない。訊きもしないが、気にならぬではなかった──。
少年を連れて花街の歌舞練場がある花見小路を、建仁寺境内へ歩いた。
璋は、野尻のおばあちゃんのとこへもし行く気なら気が進まないとはっきり言った。なぜと訳き返し
にくい□調だった。並んで歩くと、ちょうど朝日子と建日子とのまんなかに置いて似あいそうな背恰好
で、また物の言いよう、だ。歴史に興味があり絵を観るのも好きらしい。やや神経質に人のことを見過
ぎる用心深さが、母親の眼からは時にさびしいとも聞いていたが。
ふだんは人を入れない寺だが建仁寺内に両足院がある。和尚にひと声挨拶すれば、いい池のある辺ま
では許してくれるだろう。歩きながらそう持ちかけた。少年は微笑んだ。
382(34)
中学一年のちょうどこういう季節だったよ、と璋に話した。
伯母が戦後はじめて両足院の茶室を使って社中の稽古釜を懸けたことがある。同じ日、長谷川等伯と
いう桃山時代の画家が描いた松に二童子の襖絵のある書院では、生け花のほうの社中が、協賛の体(てい)に二
十ぱいばかり生花(せいか)や盛花(もりばな)をならべたものだ。お庭のひろい縁側に腰かけて、終日、十徳や長い袂の着物
で茶室のにじり□を出入りするおじいさんや若い女の客たちを眺め暮した。
敗戦からあれで三年、学校へろくに履き物もはけずに通う子がクラスに何人もいたあのような時代に、
伝来物の茶碗や水指(みずさし)はともかく、どんな菓子で伯母が客をもてなしたか、記憶がない──。
璋と石段を上って行く。と、いきなり庭男の恰好で苔をつくろっている和尚と、思わず顔を見合って
笑い声になった。萩が紅白にもう半ばは咲き崩れながら、やさしい葉の緑を日なかに盛りあげていた。
奥の庭へ石を踏んで行くうち黄色い花の石蕗(つわぶき)も見た。あかい斑点のあれがほととぎす、あっちのが吾亦
紅(われもこう)と指をさすつど、璋はすなおに足をとめて頷く。
小刈込を配した、もともと山畔を利しての茶人藪内(やぶのうち)紹智の巧い作庭で、さほど深くない池の、妙に地
の底にとろりと沈んだ感じが逆に空を高く、広く、明るく見せていた。堂ぞいに庭の西側から入って行
くと奥のやや高みに亭(ちん)が見え、茶室が並んでいる。左に、南面して人かげのない書院の長い縁側が寛(くつろ)
いだ気分を誘う。石組は繁縟(はんじよく)というでなく、だが禅寺のわりにははんなりと、ことに築山(つきやま)から枯滝(かれたき)に造
ったあたり、賛沢な佳い気分が秋の日ざしに匂うように零(こぼ)れ落ちていた。
龍安寺のあの厳しい虎の手渡しの石庭を、璋は、母と二人で観たことがありますと言う。とりあえず
縁に並んで、腰かけて、しばらくの沈黙が通りすぎたあとだった。言いたいのはそれだけか璋はまた黙
383(35)
ったが、すぐ起って、池中の石を踏み踏み子どもらしい脚つきで茶室のほうへ渡って行った。
「龍安寺じゃ、そうは庭を歩けなかったろ」
仰むげに寝ころびざま声をかけると、甲高い笑い声が青空に鳴る。ああ笑いながら、少年が胸の内で
何をひっそりと思いくらべているか、察しは利く。それがまるで見当ちがいかも知れぬ気もする。
璋が、そのそこの襖絵に等伯描く、岩上ふと虚空を顧た童子さながら涼しい眉目(みめ)をしていて、しかも
瞬時にすさまじい蝮指(まむしゆび)になるのを、食事のときから気づいていた。
「どう、こういう庭もいいだろ」
「息がつまらんのが、ええ。人もギョーサンいやへんし」と、そばへ、日光のなかをにこにこ戻ってく
る。
「龍安寺にくらべりゃ木も石も、苔も、もさもさした感じやが。おじさん…はこのお庭へ来ると、自分
がちょっとだけ平常(ふだん)より優しくなる気がするんだ」
璋はとくべっの返事はせず、遠い処を見ていた。
池のむこう、赤い一枚の病葉(わくらば)を風が揺っているすぐうしろの岩根に、ちいさな蛇がいる。璋は事もな
げにそう言う。
「ほんとか…。見えないけど」
「ちっちょなって、隠れとォるもン」
「きみ、見えてるの。それとも、わかるの」
白っぽい苔が生えた岩へ眼を凝らしたまま訊いた。なにも見えない。が、息をひそめて逆にその蛇に
384(36)
見られている気もせぬでなく、ふと縁の下へおろした足もとまで覗かれた。
璋は、自分だけかと思っていだけれど、広い世間には蛇の潜んだ場処が遠くからわかる人がいますな
どと言う。まさかとも言いにくく、璋が親しくしている例の女子大生ふうという若い人が、存外そうい
った同士であるのかもしれない、それどころか──と慌てたまま、あの法子の、元気とも、さて疲れて
いるとも言いにくい、静かにしなやかな印象へ思いが走る。
「ぼくに、ほんとなら姉さんが一人いたテ…ちょっと聞いたことあるんやけど。知ったはりますか」
「……お母さんが言うの。そんなこた…言わないだろ」
璋は、ジーパンの白くすり切れそうな膝小僧を見おろしていた。いま総身に尖鋭な神経をビリビリ働
かせ、彼は、気になるこの大人からなにごとかを聴き出そうとするらしい。
「でも……姉さんテ、一人ぐらい欲しいもんだよな男の子は。おじさん…に似てるよ璋くんは」
眉間をかすかにせぱめて、少年の頬から、うす日が遁げるように笑みが消えた。
鯖(さば)ずしの”いづう”で順子のため好きな鯖のを一本、璋のぶんにも、雀寿司を一本持たせ、もう一度
大原女屋(おはらめ)やの二階で甘いものをご馳走してから、まだ夕暮れともいわぬうちに少年を母親の家へ帰した。
もう一つ二つ、互いに言い残した心地は抱いていた。だが逢わねばよかったという荒けた感じはない。
また逢おうやと恋人に言うようなことを大の男が笑って□にすると、璋は色白な二重あごを無邪気に
まえへ引き、今日の礼をはきはき言った。
四条の橋ぎわまで見送ってやって、別れぎわ太秦(うづまさ)にある蛇塚を見たことがあるかと訊ねた。璋は、端
的に頷いた。今度連れて行ってくれるとも約束ができた。
385(37)
「ありがとう。……お母さんを、だいじにしろよ」
肩に手をおくと頬を染める。竹の皮で巻き締めた二本の老舗(しにせ)の寿司を、重そうに胸に抱いているのが
いとおしいほどだ。
──縄手から、白川ぞいに帰る道でやはり寿司の”蛇の目”へ寄り、母と伯母に握りの折りを買った。
父はよほど元気を回復したらしい。CCUでの観察は一両日つづくが、移送用の高くて幅のないベッ
ドを険呑がって、
「もうそろ、なんや知らん看護婦相手にブツブツ言うたはるのえ」と母は、寿司を醤油でまぶすように
しながら、笑い声まででる。
「お疲れでしょう。やすんでください」と母に寝床を敷いた。
晩、祗園のよく寄る画廊で、少年時代から顔見知りの五つ六つ若い主人に会い、二三意見を聴いた。
「当尾(とうの)さん」と昔のまま呼びかけて、話はかわるが、いま村上華岳の「太子樹下禅那之図」に買いの的
を絞っていますとハンサムのYは眼を輝かす。華岳画の蒐集では抜群の画商と承知していてなお、名高
い彼の仏画でも最上乗の作品が手に入りそうという幼な友達の幸運には、手を拍った。新聞の挿絵画家
に、迷わずYの意見を容れる気になっていた。
次の日午過ぎて京都駅を発つまえ、旧姓のまま勤めつづけていると聞いた小松秋子を電話□に呼びだ
した。
「へーエ。雨が降ンなァ」とやられた。結婚おめでとうと酬いると、
「誰に聞いたン」と声が尖(と)がる。茶会日延べの通知をもらった、いっそ文化の日より足の便がいいと言
386(38)
いも終らず、
「なに、言うてンの」
雲岫(うんしゆう)会の日取りに変更はない。無沙汰の言いわけに、恍(とぼ)けた冗談はやめてと秋子は、「どうせ来(け)ェへ
ンくせに」と、この電話ももう東京へ帰りがけにかけているのを、半分本気で怒った。
──秋子と顔を合わすまい。そう冬子が賢く按配したのなら──もっともだと思った。冬子としての
思案があるのだろうと思った。思い思い東京へ帰った。
──翌日すこし遅くまで寝床にいて、そして起きて、濃いコーヒーで朝昼兼帯のバター・クラッカー
を齧っていると電話が鳴った。
「もう以前、鞍馬の火祭りが見たいとおっしゃってた。どうですかご一緒しますが、いらっしゃいませ
んか」と、「京都」を編集して感度のいい月刊誌の、デスクの声だ。京都三大奇祭の一つが去年は事情
て中止された。それを惜しんでまた復活となったからは見ごたえありますよと煽(あお)られると、腰も浮く。
「十月二十二日か。一週間、ですね、あと」
「原稿書けなんて、野暮言いませんよ」と笑っている。それが聴きたかった。
「行きます」
「そりゃよかった」と電話は切れた。受話器を置き、妻に今の件を話し終らないまに、また電話。
「………」
ナカ・ノリコと若い声がひっそり名のっていた。思案してすぐ、木曜よりあとが好都合と返事した。
「土曜日、かまいませんか」
387(39)
「ええ。お午にいらっしゃい。この前くらいなご馳走でよかったらね」と応じながら、妻に一つめくば
せした。
「あなた。読んであるの、もう」
妻は鞍馬詣りの話に賛成したあと、土曜の客のことを心配した。人指しゆび二本でバツ印を作ってお
いて、ドタドタと二階にあがった。坐りこんで、やおら両の掌をまるめて眼の前の虚空をつかむ恰好を
して考えた。それから、白い二百字原稿用紙を一束、冬子のA+の印のあるもとの封筒に、綾に二つ折り
にざっと突っこみ、Hのサインの右脚を右にはね上げておいてホチキスで封をした。
二十二日の火祭りに行けば、重ねて文化の日にわざわざ、茶道部の会ていどに京都まで旅はしづらい。
冬子がそれも慮(おもんぱか)ったのなら、雑誌「京都」の誘いは、半ば冬子の誘いとも受取れた──。
十月十八日、木曜の晩の銀座初会合は新聞各社の責任者たちと、シャンシャン手を拍つというほどで
なく、さッと酒をのんでなんとなく済んだ。決まったナという感じだけが重かった。
「京都を舞台の恋愛もの」とはなにやら古めかしいが、同じ京都でも鴨川より東、いっそもの凄く鳥追
野一帯にくり広げる話にと、諒解をえた。
「挿絵の画家、アテありますか」と、近年とみに日本画党のT社の文化部長に訊かれた。
「あります。が、ぼくが選んでかまわんのですか」
「そりゃもう。東京の人ですか」
「京都です……が」暫く、待ってほしかった。もう一度祗園の画廊に頼んで、新聞社側にも判断しても
らえる材料を揃えたい。
388(40)
第十二章 ひまつりの山へ
鞍馬の火祭りの晩は、前日が日曜、そして同じ当日に時代祭りも重なって京都市内に宿がとりにくい。
鞍馬街道は車止めになり、祭りの果ては深夜にわたって、特別運転の京福(けいふく)電車だけが頼りだけれど、病
院にまだ父を置きとかく寝覚めがちな母や伯母を夜中(やちゅう)煩わせてもならず、結局二条城の東のホテルにツ
インが予約できて一安心したところです──と、まずそんな話題からナカ・ノリコを客間に迎えた。
建日子(たけひこ)がやがて学校から戻る時刻だった。朝日子のほうは朝サボって、午すぎてから、土曜は週一度
師範がついての弓道部の稽古日と、わざと親に弓引く恰好勇ましく玄関へかけ出した。と、来訪を告げ
るチャイムが鳴って、常より声高に朝日子の客を迎え入れている様子に、妻も、
「あらあら」とか、
「猫たち、入れないで」とか声をかけかけ廊下を渡って行く。
389(41)
ちょっと肌寒い日だった。が、ブラウスのうえにデニムのベストを一枚重ねただけでけっこう温かく
いられるのだろう、ジーパンの客は胸に兵隊の認識票のようなメタルを銀色の鎖に吊って、衿したにも
同じ鎖だけのネックレスをしていた。
正坐はつらいでしょ、脚をお崩しと言えばすなおにらくな風にしている。バイカル号に乗りあわせ新
幹線でも出違った法子にちがいないと思うのだけれど、茶色っぽいトンボメガネで髪はすこし長く、耳
たぶの窪みも隠れていた。
作品の感想は、失礼だが原稿の随処に鉛筆で簡単に書き入れてあるから参考になれば幸い、これ一つ
でどうと批評はしにくいと月並なことを言った。ノリコも、ホチキスでとめてある封を切ってみる気は
なく、神妙に頷いている。
妻は初対面でなかった。それで、初対面らしい話題はその妻からあらかた聞いてある体に割愛して、
台所から、焼きあがったばかりのホットケーキが大皿にナイフも添えて運ばれてきた時分からは、会話
もなるべく女同士にまかせ、紅茶にウイスキーをサービスして話を聴いていた。
あとで小さな建日子も思わず洩らしたように、この日の若い女客は、ものもハキハキ言ったが、こと
に陽気に、小学生がつい今しがた教室でしくじってきた打ち明け話ひとつにも、ころころよく笑う人だ
った。時に上体を座卓にかぶせ、さも腹からおかしそうに、声をあげて笑った。それでいて、なぜ此家(ここ)
をめがけて原稿を持参したか、それはまえ来た日に妻には告げていたのかもしれないが、なにも言わな
い。どんな作家のものを好んで読んだかなどと妻が訊けば、それでも言下に、
「上田秋成。それと泉鏡花」とさらりと答える。『雨月物語』のどの短篇が好きかと訊くと、「吉備津
390(42)
の釜」と躊躇なく、「蛇性の婬」はちょっとと首をかしげながら、眼ざわりなメガネを紅茶のカップの
横へはずした。法子に違いないのだが、そこへ思いの的を絞りかけると、額のさきがへんにぼうと生(な)ま
温かくなる。
「どうして、蛇性の婬は、ちょっと、なの」
「だってェ……可哀そうな蛇は封じこめられてしまうし。吉備津の釜ですと、逆にっていうか当然にも、
わるい男がカンプなく消されちゃうでしょう」
愛くるしい笑顔でノリコは、完膚なくなどと両方の肩を妻のほうへ斜めにもって行くぐあいに、くつ
くつ笑って相槌を求める。
「先生にお訊きしたいんですが、吉備津の釜の磯良(いそら)……あの可哀そうなほんとの(四字傍点)奥さんも、県(あがた)の真女児(まなご)
とおんなじ、蛇性の女ですの」
「……どうして、そんな」
「でも吉備津の釜の前文に、女は死して蟒(みづち)となり、つまり大蛇(おろち)になって怨(あだ)をむくう類(たぐい)って、書いてます
でしょう」
「それは……あなたの言うこと、わかるけど。理由は、それだけ」
「それと名まえ。磯良(いそら)ってのは、醜い怖い顔をした海の神さんの名なんでしょう、アヅミの磯良」
「……」と、目をむいた。
「イソラ……何した神さん」
大きなパンケーキの四分の一では食べたりなくて、トーストに黒胡麻のバターをこってり塗りこんで
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いた顔をあげ、建日子が訊いた。返事をためらっているとノリコの方へ顔をむける。
「え?と。神功皇后、建日子(たけひこ)サン知ってます」とノリコは学校の女先生なみに余裕綽々。こういう知識
でならこの弟また大学生の姉も悩ませている自信家だ。
「その神功皇后が、朝鮮半島へ船出のまえに神々を九州の陣地に招集したわけよ。たくさァん集ったの。
ところが一人だけ来ない神さんがいて、それが、志賀島(しかしま)にアヅミの人が祠ってた磯良(いそら)だったの」
「どうして出て来なかったの」
「海の底に棲んで全身に貝殻や藻がこびりついてて醜いのが恥ずかしいテ言うのね。ところが磯良はお
神楽が大好きな神様と知って、神功皇后がお神楽を聴かせてあげた。磯良はそれに惹きよせられて海中
から凄い姿をあらわし、結局は、神功皇后の船出や勝軍(かちいくさ)をずいぶん助けてあげたというのよ、アヅミの
磯良がよ」
「ふうん。……」
じつは平安朝のはじめから宮廷に入りこんでいた神楽式は、石清水(いわしみず)八幡宮を経てきたいわぱ安曇(あづみ)神楽
だった。この神楽では、笛や和琴(わごん)の楽人歌人が座に着くと、一番に「庭火」という唄を唱って、次には、
「阿知女作法(あちめのわざ)」という奇態な掛合いがはじまるのだ。本方(もとかた)が先に拍子をとり声に出して、「あちめ」と
呼ばわり「おおおお」と応ずる。末方が声をそろえて「おけ」とうち囃す。次いで本末が入れ代って同
様に掛合い、さらに双方から「おおおお」と声をあげて、末方がまた「おけ」と囃す。
これだけのことが、一夜の神楽で時に六度も要所で繰返されるのを「阿知女作法」と呼ぶ、この「あ
ちめ」というのがアヅミの訛りらしく、「おおおお」とはアヅミの磯良が神功皇后に呼ばれて応えたぶ
392(44)
きみな声の残響(なごり)か、と折口信夫(しのぶ)博士らは考えた。折口博士はそればかりか、鬼面で幌身のあの神楽獅子
を、磯良の像(かたち)と推(すい)していた──。
「獅子テ。獅子舞の、あれのことォ」と妻が気軽に□をはさんだ、「だって…海に獅子なんかが、いま
して」
「それは……だれしもハッキリ言いにくいってことが、あるわけでね。津々浦々、大昔の日本人があん
なのを、獅子と認識してたか…どうか」
「それは、むりですね」とノリコは話を端折(はしよ)った。
「ああいう獅子を、かりにライオン風のものと想うようになったのは、よほど後代のことで……むしろ
龍、じゃないかな。根が龍神であり海神、水神なんだよ」
「幌身のお獅子の出る祭りは、まず海人(あま)由来ですものね」と、ノリコ。
「というのも、日本では歴史の底流として、海人が山賤(やまがつ)にもなり、水の神が山の神にもなって行った経
緯があったし」
「すると、なんなの。まさか……蛇」と、妻は顔をしかめた。
「はっきりと字や言葉にかえて蛇とは書かない。言わない。鹿(しし)に思える場合もあるしね。要は、でもお
獅子自身の姿と形で暗にそれは表現してるんだよ。東大寺なんかに伝わる伎楽にも、ナガァい幌身の獅
子が面白く出てくるけど、お腹の模様や身動きのさまを見りゃ、感じ(二字傍点)はわかる」
「じゃ、みなアヅミ……なの」
「そゥは言わん。が、日本列島にアマの足跡が、南から北へ、海から山へと広がりだして二千年以上に
393(45)
はなるんだよ。折口博士は、大国主の物語も、つまりは海人物語(あまがたり)や天語歌(あまがたりうた)などもアヅミ率いる海の民が
アマ駈使丁(はせづかい)となり、、各地におし広げてまわったろうと考えてた。アヅミは、日本の宮廷にも神話にも、
また広い範囲のお祭り、たとえば神楽にも、芸能、たとえば人形つかいにも、想像を絶して浸透し、今
も生きている」
「磯良は蛇なんですね、やはり。吉備津の釜で上田秋成が、不実の夫正太郎を一瞬にフンサィさせたあ
の妻の本性は…蛇」と、ノリコ。
「秋成はものをよくしらべた学者(ひと)でしたからね。アヅミやアマは南海をのり越え、沖縄やまた朝鮮半島
を伝って種族の神の蛇を日本へもちこんだ。ハヤトもそうでしょう。漢帝国もそれを識っていたから、
例の奴(な)の国の金印には、ちゃんと蛇のつまみをつけて遣(や)った。むろん他の動物も持ちこまれてる、秦氏
の牛とかね。それに磯良はイソラじゃない。シラだ。磯城がシキのように。…ナカさん、そうでしょ」
ノリコは□ごもり、妻が生協配給のリンゴを受取りに勝手元へ起ったひまに卓のうえで、片手の指を
ゆっくり二本起こし、みるみる尖端を突き刺さりそうな鉤(かぎ)に曲げてみせたまま、陰気に、顔をそむけた。
その首筋から衿のかげへ、眼の錯覚か、刷いたほど淡い紫色の斑(まだら)が二た筋透けて見えた。
が、妻がもどってくると、さも愉しげに、もとの笑顔で朗かな声をあげた。妻もつられて笑いだした
が、建日子はいっそ不思議そうに美しい客の顔を眺めていた。そして、
「ネコとノコは。お母さん」と訊いた。
「今日は出してあるわよ」と妻の声がはなやいでいる。ノリコは照れくさそうにくすくす笑って、「ご
ちそうさまでした」と取ってつけたような礼を言った。そしてリンゴを食べ終るとさりげない指一本を
394(46)
立て、やがて、それこそするすると暇乞いをして帰って行った。
「あたし。お神楽といえば天宇受売命(あめのうづめのみこと)とばかり、思ってたわ」
ナカ・ノリコが帰ったあと、コーヒーをもう一度たて、坐りなおして妻は言った。建日子は、勉強部
屋へあがって行こうとしていたのを、顔だけ茶の間の端からのぞかせ、
「今日のお客さん。きれいな人だけとちょっと変わってない。ほんとに、このまえ来たあの人なのかな
ァ」と母親の相槌を求める。
「お客さまのこと、そんなふうに言うもんじゃありません。二階へいらっしゃい」
「はァい…」と顔はひっこんだが階段でブツブツ言うていた。
「ウヅメだってアヅミだよ。発音すりゃわかるだろ。磯良のことをアドメのイソラと書いた本がある。
必ず一緒とは言わないけど、根はアタミもアツミも、だぶんアヅマやイヅモ.イヅミも、アタやアトも、
安曇族じゃないか。アマと付く地名も含めれば、薩摩や大隅の隼人族の移住先もくわえて、南島や半島
渡りの海洋民族が足跡を残した範囲は、およそ日本中に広がっている」
「北まで」
「むろんさ。青森県最北端の海辺からネ、愛知県常滑(とこなめ)産のデカいやきものが発掘されてるんだ。古いも
のだよ。とても大昔に陸路を運べたしろものやない。が、それだけの海路を渡る舟の技術は、根からの
海の民でないととても。神功皇后が海を渡るときアヅミの磯良(いそら)の援助をアテにしたというのも、道理な
んだよ。そして先刻(さつき)も言うように磯良はシラだと訓むと、面白い展望がうんと開けてくる…」
「ハタと付く地名だって、多いんでしょう」
395(47)
「多いね。そして持ってた文化も生活習慣もちがってた。要するに海の人も山の人も、そして渡来人も
それぞれちがうものを抱いて日本中に分散し土着し、蛇を祭り、牛や豚を食い、もちまえの技術と習俗
で地域に特色を生みながら中央の政治勢力に利用され、永いあいだ圧(おさ)えつけられていた。大事なことは
だね。今はちがう、とも言えない点さ。あのね……おとなりのね」
「なァに。突然変わるのね。Mさん…のこと」
妻は垣根一重の隣家の苗字を□にした。ご主人はS新聞の論説委員だ。
「いや韓国のこと。但しMさんの受売りにはちがいない。彼、当代切っての韓国通でしょ」
「ええ」
「そのMさんに聞いた話だけど。要は今もって、東側の新羅(しらぎ)と西側の百済(くだら)とがなにかにつけ争っている
ようなもんだってよ」
「……。日本は、エゾとかクマソとかいっても、あんなふうには統一国家が分かれてたこと、ないです
ね」
「そこさ。そのかわりに八方に分散した例えばハタやアヅミ同士の、もっと大胆にいうと平地を占めた
征服族と辺陬(へんすう)のウミ・ヤマ族との、国境なき同朋意識や対立感情が日本列島を蔽ってたかもしれないん
だ、想像以上に。そして、そいつの後遺症が、まだ……」
「えらい話に、ハッテンするものねェ」
妻はあきれて起って行った──。
朝日子にも、ナカ・ノリコと初対面の印象は、ちょっと一風あって、感じのいい美人ねとわるくなか
396(48)
ったらしい。忘れていたがあの時の、バイカル号の女(ひと)に似ていたとも微笑(わら)い、
「小説、どんなでした。お上手」と同い歳に近い同士として、さすがに気にする。
「うまいばかりが能じゃない、のさ」とはぐらかした。その日は、荒っぽい興奮が床に就いてからも残
っていた。
翌る日曜の晩、A新聞から、国立東京博物館の大きな絵画展を観て、感想を書かないかと電話があっ
た。思案して、承知した。
「あしたの今時分は、あなた、鞍馬にいるのね」
妻はそばへ来て、ちょっとしんみりした声になった──。
雑誌デスクとかたい約束ができていたのではなかった。が、夕刻五時半に篝(かがり)に火が入るにしても、早
めに鞍馬へ着いていたい。腹ごしらえもし、祭りに加わる足場も前もって見ておきたい気は両方にあっ
た。上天気でもあり、なおさら月曜朝の列車の混みようも気になって東京駅へ九時には入った。結局、
ひかり自由席に、行列して坐るしかなかった。
通路側の席がやっととれて、安心して、発車のまえから寝入ってしまう構えだった。手洗いに席を起
つ人の脚が足にふれ、眼がさめた。大きな川を列車は渡っていた。天龍川らしかった。
ヒマがあれば眼を通したい半端な印刷物や、新聞雑誌から心覚えに切り抜いたものなど入れた紙袋を、
旅にはいつも持って出る。スーツケースをあけて、それを出した。丹波立杭の窯を見にまず姫路へ出む
いた日、やはり車中、わざわざ手もとに残した新聞の一頁が記憶にあった。水にちなんだ講演会の要旨
だ。演者は三人で、河川工学と考古学とのぶんは尋常な内容だった。が、もう一人の作家の話は、「水
397(49)
の神」という演題も興を惹いたが、記者がつけたらしい小見出しの、「今からでもいい、神社を作って
は」とあるのが、もし演題をじかに補っている気なら、奇妙なものだった。よく読もうと思っていた。
読みなおしてみるとこれも尋常な講演要旨で、むずかしい話はしていない。「日本人は花鳥風月、気
候の移り変わりに敏感で、大変に自然を愛するといわれてきたが、ちょっと疑問だ。たしかに一面では
自然を愛しているが、一面ではまったく無関心」と。同感だった。
「日本では川はゴミ箱みたいで、なんでも捨てるから汚れる。そして汚れた川にはフタをして土地を広
げるというような考えだと、自動車やテレビに見られるような経済的繁栄は望めるが、日本はダメにな
ってしまうのではないか」と。そのとおりだと思った。
「ところが」と作家は締めくくっていた。演題や見出しに関わるこれが言いたいことらしい、「一般の
日本人はなんでも神にしたがるくせに、川や水を神体にした神社というのはまるで聞いたことがない。
私はいまからでもいい、水や川を神体にした神社をつくってもいいと思っている。」
微妙にわかりにくかった。「神体」に、なにを意味させているのか。大和の大神(おおみわ)神社では三輪山が神
体といわれている、そういうことか。だが人の信仰は、その三輪山の精霊を推して大物主神(おおものぬしのかみ)と名づけ、
蛇身の神と崇(あが)めてきた。山の神を蛇と見立てた信仰の本山だ。
その伝でいえば「水や川を神体にした神社」とは、水の神、川の神ないし湖沼や海の神を祠った神社
の意味になり、それならじつはあまねく祠られている。諏訪神社も丹生川上(にぶかわかみ)神社も貴船神社も代表的な
それだ。
水を、川を、もっと尊ぶ気持ちを人にもたそうと話しているのは賛成だ。が、もともとの認識が不十
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分なため、表現も曖昧になっている。思いつきを聞かされた浅々しい感じがのこる──。
食堂へまわったか隣りの客のもどりがおそい。稲田が明るい、畑はすくない。溝川ぞいに秋草が穂を
たれ、柿の実が熟れ、人が歩き、犬が走る。宮があり寺がある。村はずれの岡に新仏(しんぼとけ)のま新しい塔婆が
揺れている。水溜りめく古池が線路わきに木に囲まれ残っている。低い山は近く、高い山は遠い。
ノリコ、泉鏡花の話はしていかなかったナと思いながら、また睡くなった。
うたた寝の夢は像(かたち)にならずに、魂消(たまぎ)ゆるたった一人の遠い歌声ばかりが、はりつめた糸をはじくよう
に闇を打ちつづけた。聞きとれない囀声(さえずり)をしいて聴こうといらだちながら、自分が速い乗物のなかに現
にいるのも覚えていた。声も怖く闇も畏ろしかった。それなのにそんな夢から今にも覚めてしまいそう
なのが、心細くてならない。
眼をあくと湖東、近江富士の麓を列車はかけぬけて行く。
名古屋で入れかわったか、アフロ・ヘアのはでな男が窓ぎわへおさまって、手の汚れそうな劇画雑誌
をめぐっていた。窓に二つならべた罐ビールごしに、淡い青の比良の峰々がはるかな西の空に浮かんで、
雲ひとつない。例年より昨日今日、冷えこみは全国的に厳しいと聞いてきた天気予報を思いだしながら、
さっきまでの夢の昏さにまだ胸の奥を顫わせていた。夢で、泉鏡花の或る種の小説、「蛇くひ」や「湖
のほとり」や「尼ケ紅」や「南地心中」などの、その今にも「袂を探くれば畝々と這出づる」太く丸い
蛇の書かれざまを反吐(へど)が出そうに厭悪(えんお)していた。それでいて歌声の主かもしれない「鏡花」という、常
闇(とこやみ)の底に咲きつづけた名前にしびれそうに心奪われていた──。
京都駅でさっそく今夜の相棒に電話を入れたが、ちいさな出版社にありがちな長い話し中がつづいた。
399(51)
正午すぎ、ならばまさか時刻に遅れるわけもない。ホテルに落着いて万事はそれから──と思うものの
時代祭りと重なり、時候はよし、好天の京都に宿を求めるらしい人数が、ヤレヤレ、八条口のタクシー
乗場に七、八十人数珠つなぎだった。新幹線をおりて駅から足近に京の街なかへまだ(二字傍点)電車の便がない。
仕様がないナと顎を撫でて行列の尻へつきに行くと、
「あなた。……ここよゥ」
「おう」と声が出て、ためらいなく、あがった手のほうへ大股に歩いた。
「……風が冷たい。…鞍馬の夜は、こりゃ相当冷えこむよ」
「だいじようぷよ。一、二枚着こめば」
「モスクワの朝と、どうかな」と笑った。
「………」
冬子がまた前へ動いた列を追って、俯いて自分の荷物を運びかける、のを、横から手伝った。淡いブ
ルーの角のまるいスーツケースだ、冬子の掌(て)のぬくもりが残っていた。靴も明かるく青い。肩にかけた
メッシュのハンドバッグも青い。が、ワンピースはやや茶色がかった渋い草色で、一面蔓草や木の葉を
柄(がら)にした絹の風合いに、黄金(きん)の飾りバックルの黒いベルト。髪は長くも短くもなく、佳いかたちに風を
受けて日ざしに光る。
そういう吉日でもあったか、やっと車に乗れて行先を告げると、すぐ、
「結婚式ですか」と運転手に訊かれた。え、と口ごもるのを冬子は引きとって、そのとおりと花やいで
返事した。
400(52)
「でも、今夜は鞍馬サンの火祭りを見に行きますの」
運転手は京育ちでいてまだ自分は見たことがないが、
「なかなかの祭りゃ言いまんナ。そら、よろしおす」と気のいい挨拶だった。
広い堀川通を西本願寺のまえから、すこしがさっな下京(しもぎよう)の街なみを左右に見て五条、四条と順に北へ
越えて行く。御池通との交叉点を一と筋東の辻へ折れて入って、誰とやら大名の屋敷らしい跡地に大門
だけ残した、まだ新しいホテルのまえへひっそり二人でおろされてみると、思わず頬の辺が熱い。
二人で泊れる部屋だった。荷物をボーイに預けてエレベーターで九階まで上がるあいだも、冬子は、
初々しいまで身近く立って優しい眼で階数をつげる数字の点滅を見つめていた──。
障子をあけると、西むきに、眼下に堀川とお濠とをへだてて二条城がすっかり見おろせた。遠く、京
の西山、嵐山がまろやかな峰を横一線に晴々とそろえている。
冬子は肩の力をぬいてじっと眺めていた。
駅で通じなかった電話を、ベッドに腰かけてもう一度。出たのはデスクでなく、若い女の声で待って
いたように謝られた。次号の編集段階で、なにやら家元筋のうるさい筆者とのあいだにトラブルが起き、
急の後始末に責任者として今晩の相棒は頭を下げに走りまわっているというのだ。昔とった杵柄(きねづか)で、様
子はわかる。家元や管長や会長もうるさかろう、医学部の教授や病院長も編集者には難儀な相手だった。
火祭り──は、これで冬子と二人だ。
受話器をおく、と、冬子は西の窓に障子をたて、微笑んでベッドのそばへ来た──。
胸板を幾センチも磨り減らすような陶酔から眼覚めたとき、脚に脚を絡めて冬子の裸形(らぎよう)は臥したまま
401(53)
青白い焔をあげ、身のそばに、まだ燃え尽きていなかった。
「冬子」
耳もとへ囁くと、いやいやと髪を揺る。背筋からまっすぐに撫でおろして、ふくよかな山を谷へ滑り
おりる、と、かすかに声をあげ、仰むけに寝返りざま冬子は胸の下へ滑り入って、珠の皓歯(しらは)で男の胸乳(むなぢ)
を噛んだ。
──浮かびそうに軽くなった五体に痛いほどシャワーを浴びながら、化粧をなおしている冬子に時間
を訊いた。
四時に鞍馬行きの電車にのる気なら、二時間ほど余裕があった。それまで──冬子は、せっかくこの
ホテルに来たのだし二条城の庭を歩いてみたいと言う。これだけ時間があるなら、車でざっと帷子(かたびら)の辻
に蛇塚を尋ねたい気はあったが、案内しますと嬉しそうに約束して帰った順子の息子の笑顔も想われ、
それに、今が今このあまやかな”冬子時間”に、ことさら「蛇」の探索は避けてすごしたい。
「冬(ふう)ちゃん……おなか、すかしてない」
「あたしより、あなたはいかが」
冬子はバスローブのまま、鏡にむかってかすかにアイ・ラインを引きながら、おっとりした声音で返
事する。冷蔵庫をあけ、
「今はこれが何よりだよ」と、コップを二つ仰むけ、ビール瓶の栓を抜いた。
「あなた。いよいよ新聞……ですってね」
「ああ。ありがとう」
402(54)
「あたしにお礼をおっしゃるの。おかど違いじゃなくて」と冬子は澄まし返って、あっち見てなさいと
言い言い、夜寒を覚悟の着がえにかかった。ベルトはワンピースのを流用して、パンタロンも、上のア
ンサンブルもベージュ色、の胸へ七宝(しつぽう)で透かしのペンダントをたれた。そしてよく鞣したうすい革の半
コートに、ヒールの厚い落着いた靴までが紙袋から出てきた。
「完壁だねェ」
「でしょう……」と冬子は頬を染めている。寒いのがこたえると言っていたモスクワの冬子を思いだし
た。抱きしめた感じはむしろ燃えるようだったが、胸も腰も、背へ手をまわした感触も春雪のようにま
っ白う、柔らかかった。
二条城では国宝の二ノ丸御殿を見に行列するのはやめ、趣向の行届いた清々しい廻遊式の庭園づたい
に、東の橋から内濠を渡り、本丸天守閣跡の、高い石の段をのぼった。
濠(ほり)越えに南の外苑には梅そして桜の林が見おろせたが、幾重もの蒼い木々と堅固な石垣のかげに外濠
は隠れていた。冬子はコートの背なかをふくらませ、寒いかと訊くと寒くないと微笑みかえし、片手を
さしのべ、そばへ来てと眼で誘う。風が煽れば髪に手をやり、佳い背景があればカメラもないのに笑顔
でポーズをしてみせ、そして逸早(いちはや)く濠から頭だけ出した白い穂すすきの数本に眼をとめて、覗き見の可
愛らしい子どもたちみたいよなどと呼びかける。大空を思いきり斜めに刷いて、さわやかに秋の雲が白
かった。
大手門でタクシーを拾い、京都御所の北、「冷泉(れいぜい)さん」の昔ながら固く鎖した公家(くげ)門のまえでおりた。
両脇から背後から同志壮大学の敷地や校舎がとりかこみ、屋敷の軒がことさら低く見える。今出川通を
403(55)
疾走する車の量も騒音も呆れるくらい増えていた。冬子は垣根ごしに指さして、大学構内に、むろん学
生たちの通学用だろう、地面という地面を埋め尽くしているピカピカの単車やバイクの大群が、一斉に
作動した時のすさまじさを言って笑いだした。
ひっきりなしに学生に出会った。狭い歩道で追い越された。
「男の子はそれほど変わった気がしないのに、女子学生は、ずっとお酒落さんになってますわ」
「いろんなことが、あったね。ふた昔と言っても足りないが……忘れたかい」
「忘れた、ことに、しといてあげますわよ」
「それはどうも」と肘を曲げてさしだすと、冬子はためらいなく腕を絡ませて軽く揺る。新しく、赤煉
瓦の瀟洒な半地下式の図書館が出来ているわきを、女子部のほうへゆっくり通りぬけて行きながら、二
人とも黙っていた。両方の人指しゆびを二丁拳銃のように立て、人波のむこうでけわしくバツ印(じる)しを作
ってみせた遠い日の冬子を──忘れていなかった。
小菊が群れ紫苑(しおん)も遠くに咲いた校舎ぎわの花壇に沿うて二、三冊の本をかかえた女子大生が次の講義
へ移動する。冬子は組んだままの腕を牽っぱるように、そんな構内を小運動場も見える通路づたいに、
とある北裏門の外まで連れて出た。
人けのない裏の小路を行くと、猿田彦を主神に天宇受売命(あめのうづめのみこと)ら八所の神々を祀る出雲路幸神社(さいのかみしや)の門扉(もんぴ)に、
菊の透かしの御紋章が眼を惹く。
「縁を結ぶの神さまですって。いっしよに手を合わしてくださる」
冬子はきまじめにそんなことも言った。
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時間を惜しみながら、その冬子が、歩いて十分余リの下鴨神社へも詣って行きたいと言う。いっそ、
と西の鳥居そとまで葵橋のたもとからタクシーを拾った。
「……宏ッちゃん、順のこと、どんな気でいはるの」と、境内に入ると早々に京ことばで訊かれた。篳
篥(ひちりき)の稽古か、悠長に妙になやましい音色が聴こえ、神殿の背後の杜(もり)を白いゆりかもめが羽をうって越え
て行く。
「どんな……ッて。冬(ふう)ちゃんの妹さ。それで、十分じゃないか」
名子はそれ以上をあえて追及せず、賀茂の御祖神(みおやがみ)を祀る宮居(みやい)に慎重に拍手(かしわで)をうっていた。真黒い揚羽
の蝶が追いすがるように背ごしに来て、祭殿の奥へ舞いたって行く、のを、冬子は眺めたままぽッつり
吉(よ)ッさんの名も□にした。
病院の吉ッさんは、お寺だ仏像だと血眼で古寺探訪の本を作りたがっているけれど、日本のいいお宮
を、神々の働きや風土と信仰に即して神話風にも歴史的にも面白く書きおこせぱ、なかなかだいじな読
みものになるでしょうにと冬子は提案する。
「伊勢、賀茂、出雲、熱田や、宇佐、石清水(いわしみづ)、三輪、諏訪、稲荷、熊野、住吉、春日、鹿島、香取、金
力比羅、厳島、丹生川上、貴船や、松尾、八坂、北野、日吉、白山、浅間、竹生島、多賀、気化、龍田、
佐太、……際限がないね」
「大神、天神、明神、権現、八幡などと、神さまのタチやスジで分類しながら親類関係をたどってみる
のも面白いでしょ」
「ただお宮は、お寺ほど写真(え)になるモノを持ってないからなあ。とくに仏像や禅趣味の庭園にかわるセ
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ールス・ポイントが、建物と景色とでは地味といえば地味。ハナシはお寺よりたっぷりと面白いんだけ
ど、近頃その手の出版は、一にも二にも綺麗好みの、要は写真探訪だからね……」
「それと、ひと昔まえの国家神道の強引さも響いてますね。あれがお宮の豊かなロマンをうさんくさい
イデオロギーかのようにねじまげて」
「そう。ちょっとお宮がけむったがられ過ぎてきた」
「それでいて、お祭り観光は大はやりなのね」と冬子は首をすくめた。
「今から見る鞍馬の火祭りだって、さてどんな祭りか、知りたくてもこれという良い解説に出合わない。
奇祭、というだけで済ましてるんだ」
「そこで、宏ッちゃんの登場」とくすっと笑われ、こいつと頭をおさえた──手で、肩を抱く。待って
いたように寄り添い、冬子は深い糺(ただす)の森の底を流れる瀬見の小川の堤に立ちどまった。朱の大鳥居を手
をつないでアヴェツクが潜って行く。野球を禁じた立札のまえで、若い父親もまじって数人の男の子女
の子がテニスボールでの三角ベースを楽しんでいる。自転車で来て、首をひねりひねり、絵を描いてい
るお年寄りもいる。
「こうこんもり樹が大きいと、深呼吸するのが楽しいね」
「ながァいトンネル……もう紅葉してますね」
「あの…子も、連れてきてやりたかった」
「法子のこと。…不意に現われるかしれなくてよ」
「そうかね…」と廻りを見まわして笑われた。
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森のはずれの河合神社にも寄った。祭神は同じ玉依姫命だが、下鴨本社に祀った玉依姫命は丹塗(にぬり)の矢
に変じた火雷神(ほのいかづちのかみ)の愛をうけて別雷神(わけいかづちのかみ)を産んだ女人で、こちらは龍宮の乙姫の身で神武天皇ほかを産
んだ海神の娘と弁(ことわ)けてあった。三輪の大物主神を宵ごとに待ちうけて、蛇である正身(むざね)を明らめたのも玉
依姫だったはず。そういえば、下鳴神殿の前庭には大物主神七つの異名をかかげた小祠がならんでいた。
大国主神も大巳貴神(おおなむちのかみ)も同じ一つの神の別名だ、この大巳貴または大穴持神(おおなもちのかみ)が鞍馬火祭り、由岐神社の主
神だった。
「河合……か。神々しいね、なかなか」
「賀茂川と高野川が寄合う場所を鎮めているのですもの。これより下流でしょ、鴨川と書くのは」
「かも(二字傍点)という名が、ふしぎだね。第一、かみ(二字傍点)様の語源かもしれないしね。アイヌ語のカムイもそうだけ
ど」
「熊襲のくま(二字傍点)へだって遡れ……ぞうよ」
「面白い……ナカ・ナガ郡も日本中に多いけど、カモ、クマ、カミなどとつく地名もいっぱいある」
河合橋を東へ渡ると、冬子は叡電出町柳(でまちやなぎ)駅の切符売場へ小走りに先にバス道路を越えた。青信号を待
って橋詰に立つと、西日の朱い川波のむこうに、北山がきらきらとまぢかく居流れる──。
子どものころ西の四条大宮から嵐山行きを嵐電(らんでん)といい、北の出町柳から八瀬や鞍馬へ行くのを叡電と
呼んでいた。今もそれでいいのか自信はないが、くすんだ短い車輌を二つ繋いただけの路面電車なのは
相変わらずだ。まださほどの客の数でなく、車内はからんと明るかった。
修学院駅までくると、比叡山の頂上が目だって尖り、やがて進行方向に、なるほど跨ってみたいよう
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な鞍馬山が見えてくる。稲田、竹薮、案山子(かがし)、そして群れ咲く彼岸花の田中道を、車輪の赤い乳母車を
白いスカートの母親がゆっくりゆっくり押して行く。学校のジャングル・ジムに子どもが群れている。
冬子が、うっとりと外に見惚れていた。
駅ごとにホームヘ車掌がいちいちおりて乗車券を受取る。田ふすべの烟がかるく鼻をつく香を運んで
くる。岩倉川を越え、木野駅までくるとにわかに西に厚い胸板のような山が迫って見え、ほどなく渓流
に沿って一気に山合いへ──。
「この電車に乗れただけでも、あたし、満足しちゃうわ。ほうら、あの遠い山べに夕日の朱いこと……
人間が大事、人間が大事って言うけど、ほんとかしらテ思うわ」
「どういうこと、それ」
冬子は反問され、自分がなんと言ったのか、ど忘れした、アッという眼を少女っぽく瞠(みひら)く。
「あたし…変なこと言って」
「ま、いいさ。それに…わかる気がするよ」
貴船□駅では眼下に湍(たぎ)つ川瀬をのぞきこみ、貴船の宮へも行ってみたいと冬子はしんみり言う。夜祭
りのこととて鞍馬山越えに滝つ瀬の貴船まではむりと心得ているのだ。
「また来ようよ。…ね」
頷き、冬子は心もちあおい頬で肩さきを押しかえした。
「二十二年にもなるのね。十月の……十六日でしたわ」
「………」
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「あの子、たちも……大きくなって」
冬子はまさぐるように膝のかげで手を握ってきた。
僧正ケ谷から貴船神社まで木の根あらわな急な山坂をひと足ひと足あとに先に鞍馬を越えた昔のこと
を言っているのだ、一瞬──日に照ってもうはや屈託なげな冬子の横顔をのぞき、物が言えなかった。
あの日──同じこの電車に乗ってきたのは、冬子ではなかった。婚約まえの妻と一緒だったのだ。それ
なのにあの子──たち、とは。
妻とは、あの年梅雨まえに大学のなかで出違い、夏休みには東京と京都で手紙をやりとりし、九月新
学期からは講義は休んでも顔を見ない日はなかった。あの日とて休講ではなかった、そして忘れもしな
い由岐神社裏の、近くて遠いと清少納言を嘆かせたつづら折れの山路で、はじめて接吻(キス)したのが冬子の
言う二十二年まえの十月十六日のことだった。その日に婚約したと言っていい、忘れがたい一日だった。
本当に──迪子だったのか。古(いにしえ)の闇部(くらぶ)の山奥を汗に喘いで一緒に上り下りしたあれは、妻の迪子で
なく、自分だったとでも冬子は言うのか──。
駅を出て、鞍馬街道を左へとると両側にもう警固の綱が張られ、朱塗の鞍馬寺仁王門のほうに人だか
りがして見えた。山々は瞼を蔽ってガーンと大きい。
篝火点火が午後五時半、松明(たいまつ)が六時から、〆縄切の儀は八時四十分、神輿渡御(じんよとぎよ)は九時と観光案内に出
ていた、のが、それぞれ小一時間ずつおくれて深夜に及ぶと祭りの進行がアナウンスされると、流れ水
がひとところに溜まるぐあいに仁王門まえへ集い寄っていた物見の客たちから、ため息がもれる。
「電車、何時までって言った」
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「一時十何分かが最終ですって。十五分間隔で全力運転しますと貼紙してたわ」
とにかく腹ごしらえしとかないではもたんと笑いながら、あてずっぽう、道の角に賑っている食べも
の屋にとびこんだ。戸障子を払って二階は貸切りの俄か桟敷らしく、見あげると窓ぎわにもう鈴生(な)りに
客が場を占めている。
階下(した)では、具(ぐ)はたっぷりの山菜そばが一式しかできない。他にはあっさりと葛切りだけが食べられた。
山淹(だ)しだが、香ばしいお茶がほんのり甘いと冬子は眼を細うしながら、
「あんなにもう、お席の空くのを待ってるわ」と戸□の人だかりにも思いが届く。
鞍馬寺は中腹に。仁王門は山麓、まっすぐ来た街道が鉤(かぎ)の手に花背峠へ右折するまぢかに建っている。
二基の神輿(みこし)に四斗樽や角(つの)樽が供えてあるわきを通りぬけ、タやみに朱の色もくすんだ仁王門を潜る、と、
木暗い山坂にかかって由岐神社までが、数分。
「あなた、コートを着たほうがよくてよ」
「うん……」
冬子の勧めにしたがってみて、山の夕寒が、いつかブレザーの肩さきをぬれたかと思うくらい冷たく
していたのに気づいた。
杉や檜の山ふところが鬱蒼と昏い。その路の奥、つづら折れの山路を左に避けた急坂に、懸造(かけづく)りの柱
間(はしらま)が翅をひろげたように六つ、軒の唐破風(からはふ)の瀟洒に美しい拝殿が建っている。通路は不釣合いに右から
三間(みま)、左から四間(ま)のところを急な石段で割って通るのが──軽妙と、そんなふうには□はきかず、冬子
のつと立ちどまって繋いだ手さきに力を絡めてくる思いが、胸にしみた。
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拝殿を潜って上ると一対の凄い杉の巨木が、眼もとどかぬもう夜空の高みを真言く、突き貫(ぬ)いていた。
その間を、狭い急の石段が三、四十段せり上がった左右には朱の鳥居の祠が二、三。岩上社、冠者社と
いい、まして白長弁財天とあればお守(も)りの猪□酒(ちよくざけ)も、生卵も、立札どおり紛れない蛇神来臨へのお供物(くもつ)
だ。
祭殿では、石の狗犬を置いた宝前にうずくまり一心に祈願を籠める人影が一つ、ただ物見遊山の声々
や視線を尻目に、縁にひたと額(ぬか0づいたなり動かない。思わず声が出た。異様に見えた。冬子もじっと見
ていたが、静かに居ずまいを正すとその場で深く頭をたれた。それにも息をつめた。つめたまま冬子に
倣った。眼に見えぬ袋にふわりと頭上から封じこまれたようにさんざめきが遠のき、無数の火の粉が太
い縄と炎(も)えて夜の闇を眼くるめくかけのぼるのが瞼の裏に見えた。
以前神輿はあんな端近な仁王門のまえなんかでなく、拝殿から、まず由岐神社のこの神前へもち上げ、
祭も最高潮に達した時に松明(たいまつ)の海の中で社から神輿へ荒生魂(あらみたま)を移したものと、冬子は教えてくれた。男
たちは、うしろで氏子の女たちがさながら雌雄二筋の太綱を引いて防ぐのに援けられ、そそり立っ杉の
根方を、前後にのたうちまわりながら急な石段を舁(か)きおろしたらしい。
「見たいなァ……」と、つい嘆声に。
「昔はこの一帯樵(きこり)さんたちがいっぱいで、そりゃ力が強かったんですって。でも、今は若い衆も、大半
が街へでて行くサラリーマンなの。とても急なこの石段をおろすどころか、お神輿を舁(か)いてお旅所まで
もよう渡せない。去年も、柴の不足や火の用心でお祭りをよしたというより、つまり力たらずで出来な
かったのよ……もう何時でしょう」
411(63)
「そろそろ、五時半、かな」と腕時計に眼をくっつけた。
「行きましょ。お旅所は叡電の終点よりずっとまだ下(しも)にあるの。けど、鞍馬の鞍馬村らしいのは花背道(みち)
のほうよ。屋根にウダツをあげたお家(うち)がいくらも見られてよ」
「昔の…とおり、だね、冬(ふう)ちゃん」
「そうなの。見ものよ」
「ちがう。昔のとおりに、冬ちゃんが、連れてってくれる。冬ちゃんが、教えてくれる……」
「あら…そうお。ごめんなさい、ツイ」
「なに言うんだ。嬉しいさ。冬ちゃんが見るものを冬ちゃんが見るようにぼくも見たいよ。大事なこと
をそうして覚えてきたもの」
「バカね……」と低声になり、半歩の身近から冬子はとびつくように両手で腕を抱いてきた。
仁王門まえは続々とつめ寄る祭見の人でふくれあがっていた。冬子はためらわず制止の若い警官らが
メガホン片手に右往左往するそんな路上を横切ると、門より右へ、花背の方角へ折れた登り道(じ)に誘い入
れた。
真昏い豪快な山稜を背負うて二階の白壁に蒸籠窓(むしこまど)、そして夜目にしるく瓦屋根に卯建(うだつ)をあげた堅固な
家影(やかげ)が居ならぶ。御神燈のほかは三叉の篝(かがり)にも道の脇に高々と積んだ大榾木(おおほだぎ)にもまだ火が入っていない
のが、さも息をひそめて神の光来を待ち望むふうだ。
「この界隈が鞍馬本町なの。ある時間まではこの道に沿ってさえいたら、火祭りがどんなか大概見られ
るはず……あなた、あそこを」
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指さされた一軒の家のまえがかなり空地になっていて、四本の御幣(ごへい)を立てた下に見るも巨大な松明が
整然と四体、台に受け、重い頭をもたげるふうに、祠ってあった。芯棒を包んで火つきの軽い柴をたっ
ぷり束(たば)ねたのを、コワ板で全長三、四メートルの美しい漏斗状に巻いた上から、把手にもなる太い藤蔓
で、縦横に堅く締めてある。
「凄ェ……というより、この形。美しいもンだね」
「軽やかに見えてて芯木(しんぎ)が太いでしょ。ですからそりゃァ重いの。見ててごらんなさい。若い衆が二人
三人がかりでも途中で持ち耐(こた)えられなくなりますから」
こんなのが鞍馬の各々に二百三百と用意されている。そう言って冬子は、愉しくてならない顔をした。
松明の頭の先へ粗い茶筅の穂状に細い竹の芯をのばし、穂先が丁寧に糸で編んであるのも、ただ松明と
いうより、古代漁業に用いたという筌(うけ)のような、なにか、象徴(シンボル)ふうにここに祭祠されてある気がした。
親類縁者を迎えてどの家も玄関や座敷を開放し、自慢の屏風毛氈(もうせん)をしつらえ、生花をいけ、奥まで明
か明かと祭気分に花やぎきって見えた。
それが祭りの見初めだった。いつしか軒なみ幾百十もの篝に火がつくと路上どっと人影が動きだす。
一軒一軒どうぞと許されて見物して歩くうちには、応挙めく大曲の雪松図(せつしようず)屏風のまえに壇を築(つ)いて、真
新しい茣座に径三寸はあろう古綱が、十重二十重むくむくととぐろを巻いて祀られていたりする──。
壇上そんな大蛇さながらの綱には、手まえ一対の桶に洗い米と糀(こうじ)が、折敷(おしき)には栗おこわが、両脇に眼
にしみる葉付きの大根と生薑(しようが)が供えてあるのだ、ウォーッと唸って、青黒いそのなまな太さに立ちすく
む──。
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大工衆仲間所持と端に字を抜いた菊の紋の大幔幕を張り、大屋根越す柄長(えなが)の鉾を表に立てている家が
あった。
白布で首を象(かたど)った大鎧を、あかあかと、篝火に照して玄関に据えた家もあった。そこかしこ山と積ん
だ大榾木(おおほだぎ)にも火が入ってくる、と、一本の手松明(てまつ)をかかげて浄衣の祝(はふり)がなにやら呼ばわり呼ばわり坂道
を上ってくる。
「神事(じんじ)ニ、参ラッシャイ──」
厳(おごそ)かな、それでいてどっと五体に血が湧く佳い言触(ことぶ)れだ。
「さあ、始まるのね」
言いも終らぬ眼のまえへとび出して来たのは、向う鉢巻の稚(いとけな)い男の子らだ、
「サイレイ、サイリョウ」
「サイレイ、サイリョウ」
親が手ごろの松明(たいまつ)に点火して重々しく肩に担がせてやるのも待てず、はや甲高(かんだか)に火祭りの夜を言祝(ことほ)ぐ
声だ。
「まア可愛い……」
明らかに男の子が華奢な化粧褌(まわし)をたれ、はではでしい友禅の着物を着重ねて黒足袋に緒の赤いわらじ
履き。いなせに白い肩当てを緋縮緬の緒で締め、噴きあげる炎を負うて、
「サイレイ、サイリョウ」と往きつ戻りつ夜空へ澄んだ声を放つ。
七人十人十五人と少年が、ぞくぞく火の波を揺りたてると、たまりかねたように大人も年寄りも、或
414(66)
いは一人で或いは二、三人で大松明を燃しながら、数丁の坂道を、
「サイレイ、サイリョウ」
「サィレィ、サィリヨウ」と往反(おうへん)する。もう鞍馬道は湧きたち渦まく無数の火勢と掛声に溢れ、砕け散
る火の粉は巨大な闇と化した山の端を眼を瞠(みは)る金無垢の美しさで、天心の月明に吸われて行く。
「火、の美しさ……すっかり、忘れてたなァ」と声が顫う。
「畏ろしさも、ね。……ゆうべ遅く、深草の石峰寺本堂が火に焼かれたわ」
耳もとで囁かれた。
「……」と、棒立ちになった、が、冬子に今それを話しあう気はなかった。
それよりも──炬火(きよか)を負うて叫ぶ大人が、さながら女の長襦袢を着流し帯も締めていないのを冬子は
指さす。
そればかりではなかった。
ひときわ音高く燃えさかる長大な松明を、三人がかりで担ぎでた向う鉢巻の青年は、いずれも真黒い
褌(まわし)に白いサガリ、わらじに黒足袋無脚絆の裸の肩から腕へ眼もあやな「雪斎織」の肩当てを身に添え、
五体に火しぶきを浴びて地を踏んで行く。ぷりッと丸い臂(しり)まで白襷(しろたすき)を流しかけ、湍(たぎ)り落ちる火の粉をあ
び藤蔓を頼みに踏んばって、
「サイレイ、サイリョウ」
「サイリヨウ、サイリヨウ」と和する声々に、思わず拍手が湧く。
「祭…礼、かな」と呟くと冬子は耳につと□を寄せてきた。轟ッと鳴る炎に冬子の息が熱く額が朱い。
415(67)
女と男との互いにひしとわが身に誘い入れ(二字傍点)た無垢の愛欲に高鳴る唱和と聴けば、大巳貴神(おおなむち)のみもとに火
と燃え参集する祭子たちのみな女装なのが頷けた。
と──大と人の波に一つ松明を凛々しく運んで行く、あ、と見紛うまるで姉と弟、の一瞬の横顔を冬
子が指さす。
ノリコ──と、アキラ。
追おう──としたが、冬子は制した。
裃(かみしも)姿の大人が、道いっぱいに五人、悠然と一メートルもの手松明(てまつ)をさし上げ、坂道をどこかへ上って
行った。やがて神輿が渡る、路上の見物衆は退(さが)って道をあけてと拡声器(マイク)が告げる時分にはおびただしい
火焔が仁王門まえに参集し、火をあびながらてんでに大松明を押し立てるらしいのだが、制されて近寄
りもならず、かろうじて冬子ととある民家の戸ぎわ一段高い場処から、湧く喚声と唸る火柱のほうへ首
をのばしていた。
黒褌に白いサガリの若者の両腕と肩を蔽った雪斎織が、夜目遠目にどうあっても華美(はで)な文身(いれずみ)としか見
えない。そう名子の耳もとへ言うと頷いて、
「お相撲のようでもあり、漁師のようにも見えて。あの着流しの恰好(なり)も、大漁船(たいりようぶね)の船主などがあんなふ
うな地方が、ありますわね」
「文身(いれずみ)。揮。相撲。どれも太古の海人(あま)の習俗…だったね。それにあの筌(うけ)に似た松明(たいまつ)も」
「…由岐という神社の名は」と冬子。
「矢を入れる靫(ゆぎ)を神前に捧げて疫病を祓(はら)ったんだというけど」
416(68)
「由岐ってとこが、阿波の海岸にあるわ。字が異(ちが)えばもっとずいぶん、各地にも……」
「あ、そうか日祀りの…壱岐の島が昔の発音だと、ユキ」
「それ(二字傍点)をあたしは考えてますの。由岐の火祭りはこれこそ鞍馬の山祭りとみえて、そのじつ遠く懐しい
漁(いさ)りの火を恋い、水神龍神の恩に漁火を捧げわが身も清まわる、はるかな海の民の郷愁のようなものを、
記憶の底に沈めている神事…じゃ、ないかと」
「壱岐は海の民の根拠地だしね……この火祭りが、大巳貴(おおなむち)とか大穴持(おおなもち)とかつまり大地主(おおくにぬし)に、偉大な蛇神
に捧げられているのも、安曇(あづみ)の磯良(いそら)につながる海人由来を偲ばせるね」
おかみのかみ
「なによりおとなりの貴船神社には本祭りがあるわ。祭神は龍神……ご存じでしょ」
「ああ。鴨川の水源を占めた蛇身の水神……朝廷(みかど)の畏れは甚しかった。そして上賀茂、下鴨の両社の宰
領にまかせたんで、今だに神人(じにん)のあいだに揉めごとが起きやすい」
「由岐神社も貴船神社も、丹波か近江か、いずれ出雲経由の水神信仰が山づたい川づたいに南下した時
に、朝廷から、もうこれより川下へは来るな、来てくれるなと制止され、祀り籠められてしまったお宮
に……想われてならないの」
「鞍馬寺の六月の竹伐(き)り…も、水祭り」
「蛇を斬ってその蛇に豊作を祈るのは、蛇神スサノオが八岐大蛇を斬るのと同じなのね。表裏一体。で
すから秋に火祭りを捧げる由岐の氏子が、六月には僧兵の恰好で鞍馬山へ登って竹を伐るの」
「祭式以前…の古くから、この神と一緒に此処まで来て、此処に住みついた人たちがいたんだね…」
「きっと、そのとおりよ」
417(69)
冬子は瞳を凝らしてつよく首肯いた。
頭に白の兜巾(ときん)をいただき大鎧に身を固め葦火をかかげた若者二人が、羽織袴や裃(かみしも)の大人に守られ坂
を下りてきた。お旅所へ渡る神輿にこの鎧姿でとびのって、終夜揉みに揉まれるのが、若者組に組入り
の少年の、昔は胆だめしだったと在所の大人が教えてくれた。
「それかって、今はお神輿(みこツ)さん車に載せて牽かはりますにゃ。ナンも胆だめしやおへんの」
「でも、潔(いさぎよ)いじゃありませんの、兜巾も朱い鞘の刀も」
「幾歳(いくつ)かな。思い切ったる、いい顔をしてる」
そんなことを言いあううち、チーン、チーンと宙に鳴って幾基もの高鉾が、多勢の若衆に八方から組
紐で支えられ坂を下りてくる、と、神事は〆縄切りから神輿渡御へ絶頂を極めて行く。
ドーン、ドカドカと車に載った大太鼓を女たちが陽気に打ち鳴らして通り抜けて行く。
「サイレイ、サイリョウ」
十院、丸坊、七仲間と聞いている氏子衆が、氏子襷を肩ににぎやかに太鼓のあとについてついて仁王
門へ、神前へ、坂を下りて行った──。
「さ。もう十分だわ。石段での神輿(みこし)揉みは、見られないんですものね」
とうに十時をまわっていた。
「でも……よかった。来ていただけて」
「………」
制止の綱を潜ると人垣へ割りこむ勢いで、冬子はすばやく馳けた。本街道へ出ると篝も榾木(ほだぎ)もまだま
418(70)
だ燃え落ちるようすもなしに、肚に響いて、
「サイレイ、サイリョウ」
「サイリョウ、サイリョウ」の掛声──。
思わず弾んで耳もとへ□遊(ずさ)む、と、冬子は歩みざまツンと肩から当たって、半歩先へ、急ぎ足に。
「あの…子、たちは……」
「いいのよ。好きにさせときましょ」
「ごらん冬(ふう)ちゃん。あんな……まっ昏い山…。大きいねェ」
「ほんと。雲も…。でもあなた。こっちの行列も、ずいぶんよ」
冬子は電車を待つ人数に、げんなりした。
「いいさ。まだこの程度なら。小一時間で乗れるよ」
「ぞうお。おなか空いたわ」
コートを脱いで冬子に着せた。にっこりして行列を辛抱する気になったらしい。
こんな連れがいなければ、冬子は冷え進む山間の気に乗じ、一瞬にどこへなりと、京のホテルはおろ
か東京まで、モスクワまででも身を運ぶことが可能なのではないか──午に逢ってから今初めて、そう
いうことを瞬時思った。瞬時に思い罷(や)めた。
──寿司詰めを覚悟していた電車が、どこか緩(ゆつく)りしていた。
「こうゆっくりしたトコが、京都だなァ」
吊革にならんでひと息ついて、さすが疲れがどっと深まる。
419(71)
出町柳の終点へもどるとすぐタクシーを、いっそ祗園へ走らせた。子どもの時分からよく出前を取っ
た、旨いうどんの店が新橋通りにある。すぐ西に、今度の仕事で挿絵を頼みたい幼な馴染みの日本画家
が、生家の二階を佳いアトリエにしている──。
「フゥ……ゥ、おいしいわア」
冬子は天麩羅うどんを汁(つゆ)まで吸いきった。じゃ、もウ一軒と、時間を気にしながら富永町の抜(ぬけ)路地に、
九州の球磨(くま)焼酎を気前よく呑ませる好きな縄のれんがあるのへ、連れて歩いた。
「ンまあ…奥様。ようこそいらして下さいましたこと。お久しゅうございました」
武家の大奥方のように落ちついた老女将の、格子戸を引くなりの挨拶だった。顧(み)る──とたしかに冬
子なのに、いつか連れてきたことのある、妻──にも、想える。妻は、いや冬子は問われて鞍馬へ火祭
りを見にと笑みこぼれたまま、あまい低声(こごえ)になり、
「今日は……婚約記念日の旧婚旅行ですのよウ」
「まアお宜しいこと。お嬢様がた、お留守番」
「はアい。あすは琵琶湖を見に」
そして冬子は当店自慢の鯛のあら煮を食べた。その隣りで、たちまち二本、三本の銚子をあけた。
「サイレイ、サイリョウ……」
胸の底から湧く声に、夜もすがらの夢を、もう見はじめていた。
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第十四章 みごもりの湖(うみ)へ
浮かびあがる感じに、眼が醒めた。
心もちあけておいたカーテンの隙間に日ざしが溜まって、ほッそりと朱い。
冬子は──うなじをかるく捻(ね)じて、綺麗な鼻をみせ、よこで静かに寝息をたてている。こころよい素
肌の冷えに黙って吸われるように弓なりに身を添わせ、乳ぶさをやわらかに掌に包む、と、ちいさく寝
返り胸に顔を埋めてきながら、
「何時……」
眼もあけずに、つぶやく。
八時、すこし過ぎていた。思いのほか肉づきのいい腕をそっと背にまわして、冬子はそのまま、また
寝入って行く。
421(73)
女の髪を、ひろげた五本の指でふうわり硫いてみる。
うなじの窪をくすぐってみる。
鼻をならすと冬子はのどを反ってうすく眼をあけ、またとじた。ベッド・メークした隣りの床が昨日
のままだ。鞍馬の火祭りからホテルヘもどって、たしかに冷蔵庫のビールをもう一、二本もあけたはず、
だが、窓辺の卓はよく片づいていた。
ドァヘ行げば新聞が入れてあるだろう、十月二十──三日か。
ひと月まえ、ちようど今の時刻にはシベリアの空を翔んでいた。人はなぜあんな堅い土の上に棲まね
ばならなかったろうなどと、窓に眼をおしあて、疲れて睡くて混乱しながら思っていた。
あの時、あのちいさい丸窓の外から今冬子の顔がにっこり、さかさまになりと覗くと覗かぬのとでは、
何百倍もの祈願をこめ覗いてくれるほうの自然を、必然を、信じたかった。覗いてほしかった。呼んで
ほしかった。成ろうなら天空を透明な影の二つと化して翔びつづけたかった──。
──その冬子の、しなやかなすはだかが、今、腕のなかにやすやすと埋まっている。
一昨夜に深草の石峰寺本堂が焼かれたという、怖いニュースを思いだした。反射的に冬子のほの温か
い腰をひき寄せながら、このホテルでの、もう一日の宿泊がどうあっても満室でダメなことも悔やしく
思いだした。
そういえば冬子はゆうべ祗園の「梅鉢」で、琵琶湖を見に行くなどと女将に告げていた。
すると──安曇(あど)川、か。
昭和四十九年に湖西線が開通してから、一度だけ敦賀(つるが)まで乗ったことがある。湖(うみ)の眺めは上乗だった。
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火祭り、いやどこか日祀りの記憶もはらんだ鞍馬の山から、一転して懐しやかな、みごもりの湖(うみ)を見に
行く──のも、もし冬子の「提案」であるのなら。それならば、さァ、
「朝、飯、の、時間ゃゾー」
芯が窪んで桜色している耳たぶを、ちいさく、噛むくらいに小声で呼んだ。
ついと仰むけに明るく眼を瞠(みひら)いた冬子が、今日は、十月何日かと訊く。腹這いに見おろす姿勢で返事
すると、
「ひとつき、ね。そうね」
呟くなり冬子ははねあがる烈しさで頸から抱きおとしざま、すべすべと火照った脚を、美しいまでに
ゃさしく絡みあげる。
「あなた……」
「………」
「けっこん、式…よ」
「…ああ、そうだとも」
「……サイレイ」
「サイリョウ……」
冬子は、ふくらむように弓なりに、
「サイレイ」と誘う。
「サイリョウ……サイリョウ」
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男の火矢は、条い闇の底を血汐と燃えて、しぶいた。
──滝の見える洋食堂でセルフサービスの朝食をすませた。
部屋にもどると冬子は、チェック・アウトは自分がしてあとを追うから、ひと足早く入院中のお父さ
んに顔だけでも出してらしたほうがいいと勧めた。同じことを思わぬではなかった、それじゃと、ホテ
ルの費用をあずけ、スーツケースに手をかけるのを冬子は制(と)めた。お見舞いにからだ一つで突然立寄っ
たほうが、父に、ひょっとして母も病室に来ていればなおさら、アトの身動きを告げるのにムリがない。
そう教えて、冬子は自分の持物から、いかにも東京駅で買ってきたとわかる、父が好物のカステラの箱
を手渡した。
「湖西線。中央の改札口に十一時十分までにいらして。永原行きに乗れますわ」
永原は、湖の北端を深く湖水がえぐった西浅井地区の、古い地名だ。
「かならず行くさ。げと、荷物を二つも、きみ……」
「だいじ上うぷ。さ、早く」
──十時二十五分にタクシーに乗り、そして四十分には病棟を散歩中の父を見つけ、廊下の端の長椅
子に腰かけて喋っていた。二日に一度の割合で今日は「おばあちゃん」の来ない日だと、カステラの包
みをねまきの膝に、父の声は年々に大きくなっている。それだけ此方も大声で答えねばならぬ。
「朝、早よ出てきたんやナ。おばあちゃんもあんな言うてても淋しいやろよって、朝日子でも遊びに来
るとええねやがナ」
「もうすぐ、大学が文化祭ですから。存外そっちサボって、京都へ来る気イかもしれませんよ。タケル
424(76)
(建日子のこと)はちょっと無理だけどね」
「やっぱり、受験か」
「受けてみたいらしいですよ。早稲田中学なら通える距離だし」
「ワセダ……」
「好きなんですって。住んでるのが、ホレ」
「都外(一字傍点)の西北やからナ」と、八十すぎてから無精髭に白いものの混じりだした父は、住所をダシに案外
達者な軽口を叩いた。月内には退院可能と親切な婦長に耳打ちしてもらってから、ぜひない「取材」を
言いわけに、立寄れてよかった安心を抱いたまま二、三分の京都駅まで、余裕のある足を運んだ。
──安曇川(あどがわ)へ行ってきたよとモスクワで冬子に話していたのは、むしろ上流の朽木(くつき)村岩瀬という辺ま
で県下屈指の旧秀隣寺庭園へ人に連れて行ってもらったからで、国鉄湖西線ができる以前の安曇川町、
ことに、琵琶湖へそそぐ下流の村里をよく知っているのではなかった。
朽木へは、京都市内で車を雇って洛北大原から途中越(ごえ)、花折峠を走り、安曇川源流に蜿蜒と沿うて奥
比良のまだ西裏の峡谷を通って行った。おおむかし鯖(さば)の道とか塩の道とかの異名で聞えたそれは若狭か
ら山城、大和へ物を運び人を運んだ要路だった。それにも惹かれたし、残り寡(すくな)い奥山に木地師をたずね
て昔ながらの「飛(とび)」の境涯についても話を聞こうという誘いでもあった。
安曇(あど)冬子の家がもと近江の出と聴いたにせよ、冬子はべつだん現在安曇川町との関わりを告げていた
わけでない。それでもそうと思いこみがあったのなら、安曇を珍しくあど(二字傍点)と訓む例をほかに知らない先
入見が勝手を働いたものか。ともあれ湖の西側にまず興味をもち、いつとなく湖東にも及んだ。顔も覚
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えぬ生母の生れ在所が、東の、近江八幡市に近かったと、朧ろに知ってからだ。
母を産んだ近江とも想いそめてからは、湖をめぐる小説を一つ書き、また一つ書いた。あとの一つは
長篇で、人は代表作のように評判してくれた。が──
たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏(くら)き器を近江と言へり 河野裕子
若い、心親しい歌人のこの歌に逢った時、これほども「近江」を自分が書けたのだろうかといたく落
胆しながら、冬子を想い、母を想った──。
──京都駅の塩小路側はバスターミナルのとめどない発着だけでなく、なにの工事か窮屈な板囲いに
けたたましい音がはねかえり、えらく挨っぽい。天気はすばらしく良い。
中央ロホールに入ってちょっととまどい、やがて、改札口のわきに、さわやかな紺のワンピースの冬
子が、真白い衿を光らせ髪もきれいに上げてむこうむきに──あれは法子、半分べそをかいてすねて肩
を揺っているらしい法子に、ものを言う姿を見つけた。娘のほうがすこし背が高い。
「あ」
そんな法子が笑顔になって、颯ッ、と手をふってきた。茶の革のトリミングを利かせたスリムなジー
ンズに、ふくらんだ袖の白い絹のシャツ姿だ、頸と手首との飾りが黒い。冬子もふりかえり、
「いかがでして……」
「あ。だいじょうぷだった、ありがとう。きみ……こんにちは」と法子に笑って握手を求めた。
426(78)
「ね、お父さん、いいでしょ」
「いいとも」
「邪魔しないって、あんなに約束したのに」
冬子は、少女のようにわざと□もとをふくらませる。
「ごめんなさあィ」
俯いてみせながら法子は上わ眼で、にっこり。
電車は、車室の半分を三人で占領したような広さ、だから法子は母と背中あわせの背もたれに身を隠
して、
「ゴェンリョ、シテ、オリマスノ」などと笑わせた。冬子の紺の服はこまかい緑のドットになっていて、
共布で長く胸にたれた蝶結びの尾に見え隠れに、控えめな同じ色のボタンが四っ。衿もとには部厚く細
工した銀の夕顔の花に、葉に、パールが露の玉を輝かせている。イヤリングも真珠。ブレスレットも真
珠。バックルには鬱金(うこん)で上手にFとHの花文字が組み合わせてある。□紅がはえ、眉と眼のあいだもほ
んのり、華やいでみえる。
「なんだか、はずかしいよ」
「あら。どうしてですの」
「きれいだから……」
冬子は俯いてくすくす笑い、すると法子がばァと顔を出して、
「あんなことを言って……。お母さん、お父さんはね。あたしに、いつか、いけないことしたんですよ
427(79)
ゥ」と指さきをくるくるまわす。
「………」
窮していると冬子はすかさず言った。
「ちがうでしょ。いいことしていただいたんでしょ」
へへと照れて法子はもっと離れた斜めの席へ移った。電車は二つめの長いトンネルをもう抜けて、西
大津駅に入るまぎわには穏やかな晴れた山べに近江神宮がちいさく指させた。
「ね、あなた。あの子に、どんないけないことなさったの」
冬子が、すこし、にらむ眼をした。
──パイカル号のボードデッキは、あれで、前夜よりよほど冷えこんで暗かった。ならんで、腰かけ
て、闇の底へ傾き沈む津軽沖の島影を見送りながら、あの時、法子は黙って右の腕へ抱き寄ってきた。
「…ナニ、おやすみのキスをしてあげたって語サ」
「そう……だったかしら」と、冬子。
「ン……」
思わず眼をのぞく。と、笑って顔をてのひらで隠し、
「うそ、つき」とつぶやいた。法子のほうはよその窓べで、往古、巨石を用いる技にたけた人の住んだ
という穴太(あのう)や坂本辺の、掌(て)で低く撫でならしたような山また山のまぢかい緑に、まぶしそうに眼をやっ
ていた。
京都にながく暮らしながら、琵琶湖大橋の西北つめ、真野の水泳場まで町内会からバスを借切って来
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たのが、一度きりだった。琵琶湖の本当の広さも、地図をにらんで想像だけで以前の小説には書いた。
それで書けるという妙な確信も持っていた。冬子や、母が、ペンのそばへ来て助けてくれる気がした。
──湖の側に坐っていた。東の青空に遠霞んで、乳房のような三上山がうるんで見える。
「どうにも、あれが近江のセクシイ・ポイントだね」とつぶやかれた。冬子に同意を求めたがほほえん
で返事しない。法子を呼ぶとすなおに来て、母のよこへならんだ。
「なんだ。ここへ来ないのか」
あいた隣を指一本でつついてみせても、法子は、母にどうぞと勧めて動かない。
「お言葉にあまえまして」
言われるまま席を移す母を、ヘヘェとひやかす声で送り出した法子が、さて、一つ側に横に揃って澄
まし顔の大人を一瞥し、ふっと俯き、ポキッと折れたぐあいに視線を窓の外へまげたなり、たちまち眼
尻に涙をうかべた。
「まァま。こんなおばかさんと知らなかったわ」
そう言って冬子はまたもとへもどって、娘の背へそっと顔を伏せた。
うそのように明るい日ざしに包まれている母と子を、目前に、ただ眺めていた。
自分ががまんならぬいやな男である自覚が、シブるほどに下腹を痛ませる。だが、彼女らのうえにそ
んないやな男で自分がありえた事実が、十年の作家生活をともあれ可能にしたと言えなくないのなら、
作家なんていったい何だというのだろう。人も、我も、此の世に作家よ小説家よと呼ぶことの本当の値(あたい)
は、こう思わず身を寄せあって泣かずにおれないような冬子、法子のような女たちにとって、いかほど
429(81)
のものでありうるのか。
──泣く母と娘をまえに、結局自分のことしか考えない男がここにいて、その男といえば──念々に
死去の夢を見ている、人生に希望というものをじつは微塵も持ったことのない一匹の死ぬべき虫にひと
しいことを、冬子たちは悟っていなかった。
──雄琴を過ぎ堅田を過ぎた。湖東へ渡した大橋の、中ほどがせり上がって美しいむこうに、広大な
琵琶湖がうかびあがるように望める時分には、冬子と法子は姉妹のように肖た額をもう窓ガラスにおし
当てて、快活すぎるほどだった。
ぽつんと、取りのこされた心地ていると、法子が、
「お父さん」とやさしく呼んだ。「まえにお二人でいらした時は、まだ、江若(こうじやく)鉄道の時分でしたね」
「………」
「高島の勝野で乙女塚をごらんになって。饗庭(あいば)で泊って。勝野はご本で、かちの(三字傍点)と訓んでらしたけど、
土地の人はかつの(三字傍点)…よね、お母さん」
「そうね」
「どうして饗庭野まで、安曇川(あどがわ)を通り越したの、お父さん」と法子は追及する。
「どうしてッて……あれは小説だもの」
「それじゃ、いつか、このお母さんと一緒に来ようと思わなかった」
「……思った」
法子はパンと両手を拍って、
430(82)
「じゃ、あたしのこと、今、怒ってるわね。お邪魔して」
「ばかだな。あの時はきみが一緒のはず、ないじゃないか。生れてないんだもの」
「そうかそうか」あははと法子は隣へきて腕をかかえた。
「すると、コブつきで、これはやり直しの旅ってわけね。そうねお母さん」
冬子はわらって答えなかった。
「お父さん。でもこのほうが変化があって、よかったでしょ。場面は新しくなくッちゃ。ね」
「あんな、勝手なこと言って」と冬子は逆らってみせる──。
いつか大きな矢じりめく■(えり)がつぎつぎに眼に入りだした。湖辺にそそぐほんの溝ほどの小川でも、川
□には水藻が育ち餌も多くて魚が寄るという。実際に■に魚がどう寄って、どう水揚げするものか、水
面下の仕組や漁法に想像が及ばないので、景色に惹かれる心地にかえって不思議や趣、も添う。
汀に、もう枯れ色の葦原がすべり入って、ひたひたと遠く湖水に沈んで行く。沖之島が小春日にかす
み、葦間の小杭につながれたまま半ば水をかずいた棚無しの小舟から、背の青い小鳥が鳴き立っ。風な
びく穂すすきの白に、挑むように秋の麒麟草もまぶしい黄色をもたげて、浜辺を、まるで疾駆するよう
に列になって北上する。
漁の舟も汽船も、なぜか一度も見なかった。湖(うみ)はまんまんと凪いでいた。生れ出ずるものを身に抱き
深い夢に寝静まった母親のように、美しいさざなみは、日の光をさわがしく射返すこともしない。
冬子に訊ねてみたいことは、いくらもまだ有るのだが、気分を崩したくなかった。──安曇川をめざ
すらしい湖西線に、今しがた上古の雄族を偲ばせる私邇(わに)駅というのを過ぎてきた。南海の楽土を思わす
(■:魚へん に 入)
431(83)
蓬莱駅もあって、やがて次には、志賀。
どこをどう伝い伝ってこの湖に海の漁法を、いつ誰がもちこんだか。歴史家はたやすく教えてくれよ
うもないらしいが、とりわけ志賀といい滋賀と書いて、それが安曇(あづみ)族根元の地、北九州の志賀島に由来
する事実はおおえまい。
第十四代仲哀天皇が即位したのは、近江志賀の高穴穂宮だった。その神助皇后が筑紫で産んだ応神天
皇から五世の孫に、彦主人王(ひこうしおう)という人がいたという。今の安曇川町の内に住んでいた時、近国より眉目(みめ)
麗わしい振媛(ふるひめ)を迎えて生(な)した子が継体(けいてい)天皇、即ち現存の皇統を湖りうる直系の祖宗だといい、宮内庁管
理で彦主人王の大塚が祠られているはず──。
「ね、お母さん」と法子が急に声をあげた、「こんなに暖かそうなんですもの。比良(ひら)に登ってみましよ
うよ、リフトで」
比良へという提案には、冬子に同意を求められるより早く気が動いた。比良山系に、かつて関心をも
った覚えがない。名高い暮雪の冬景色も知らず、ただ荒れやすい畏ろしげな山とばかり先入見を持って
いた。が──、
かって鯖の道を車で走った日にも、湖畔の村里をこそ懐しみはしたが、奥比良の峡谷を行く寂びしみ
は、けっして物珍しい一方でない屈託にもなった。山登りなど億劫(おつくう)がる気もちのほうが強かった。それ
なのに、法子の「暖い」と言った一語に誘われた。湖が、どんなに広々と望めることだろう。
「ちようどお午ね、比良駅に着くのは」
「山歩きはしなくていいのよ。お父さんにあのロープウエイから比良のガレや紅葉を見せてあげたいの
432(84)
よ」
「ヘェ、楽しみだね。リフトもロープウェイも乗ったことがない。それにもう……」と、あやうく□を
噤んだ。
「それにもう…なに」
法子が突っこんだ。
「………」
この時候なら、蛇は出まい──と、いくら言いやめても察しの利かぬ母子でなかった。
「お父さんテ…わるく遠慮なさるのね」
「法子。およしなさい」
「だって……」
法子はすこし拗(す)ねてみせ、恐縮してさし出した手の甲へ、ポンと柔らかなしっぺいを呉れた。
「なぜ、もっときつく叩かない」
「だって……それじゃ、お母さんが可哀そうすぎるじゃありませんか。バカよ。お父さんなんか大バカ
よ」と、いっかと同じことを、だが、法子はおそろしい優しさで呟いた。
「およしなさい、法子」
「イヤいいんだ。制めだてしちゃいけない。……すっかり法子に軽蔑されてしまった」
「それがお父さんの甘えよ。ご自分が、ご自分を軽蔑なさってるのよ。わからないのかなァ」
「………」
433(85)
火が消えたように、眼の底が昏くなった。母と娘とがすこし厳しくものを言いあう声も耳の奥へ遠の
いた。
杳(はる)かな闇のなかから誰かがため息をつくように呼んだ。
「おまえは……おまえは……」
べつの声がべつの方角から陰気に呼んだ。
「おまえは……おまえは……」
呼ばれているのではなかった。詰問するようにも呆れているようにも声々は鬱陶しくこだました。い
ささかむッとして、誰の声だろうと考えたが自分の声だった。自身で自分を詰問し、自分に呆れ、つく
づく情ない気もちでもう何年ものあいだ心にひとり洩らしつづけてきた昏い呟きが、闇の底に沈んで溜
まっていたのだった。
「お父さん…」と腕を揺すられた。眼のまえに、法子のきまじめな顔があった。
「お父さんごめんなさい。えらそうなこと言って……」
「そんな……お父さんこそわるかった」
「いいのよゥ。さ。それよか三人で比良に登って静かな湖を眺めましょう。近江の湖(うみ)は海ならず、天台
薬師の池ぞかし…よ」
「何(な)ぞの海」と、冬子が笑顔で和した。
「えーと。なんでしたかしらお父さん」
「常楽我浄の風吹げば……」
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「七宝蓮華(しつぽうれんげ)の波ぞ立つ。よいしょ……」と、法子は網棚の荷物をおろした。
日ざしに和んで、比良駅のホームをこころよく風が流れていた。降りたのは三人だけ、改札□で小太
りの若い駅員が眼をパチパチさせた。冬子と法子はそれぞれ灰茶色とうす紫の革の半コートを着重ね、
法子が交渉して二人しかいない駅員詰所へ持物を預けてきた。
借り切ったも同じバスは、一度も停留所で停まることなしに、十五分で三人を山麓の、比良リフト前
まで運んだ。
「あれか……」
晴れあがった日ざしのなかで、胸を張った山膚が健康そうに朱らんで、まるで胸あきの釦(ボタン)のように一
直線に白い鉄柱の列が山上へ延びている。それをまたリフトが高く高く縫いとって行く。橙(だいだい)色と空色
との要するに簡単な腰掛けらしい、七、八メートル間隔で右の列は登り左の列は降りつづけて百、二百
ものからっぽの腰掛けが、陽気な孤独さで間断なく往来するのが見える。眼のとどく限り利用客の姿は、
皆無。
──ふわっと風に煽られるぐあいに、歓声を残して法子が先頭を行った。冬子が落着いて次に乗った。
ワンピースの裾が澄んだ秋風をはらみ、綺麗なふくらはぎの線を一瞬眼に曝す。五十年輩の猪首の係員
に背をとんと押される感じでつづいて宙に舞いあがる。と、足もとはもうはや、透け透けに小板を渡し
ただけの金網の下が緑まぶしく一条の渓(たに)を沈めた峡谷だ。
たいした速さではないが、風を切って寒い。まえて、法子がふりむいてなにか叫び冬子も応えている
らしい声が、きらきら光って雲散霧消。ふり仰ぐ眉の上まで空の青と山の色とが刻々に大きくかぶさっ
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てくる。
「冬(ふう)ちゃん」と呼ぶと、ふりむいて指をさしている。リフトから降りてはいけない。居眠りしてはいけ
ない。「もってきたゴミはもとのザックヘ」などと、次々に通過する鉄柱ごとに親切な注意書きがして
あるが、冬子の指さしたのはそれではなかった。索道のわきを黄色い垣で蜿蜒と囲ってある、その外側
の急峻、カエデやナラなどあざやかに紅葉のはじまっている雑木(ぞうき)の根方に、そこかしこ尖がった追羽根
なりのまッ白い花が、かたまって咲いている。
「センブリ……よゥ」と、かろうじて聴きとれた。
青紫のリンドウも茎短かにたくさん咲いている。
首をねじまげ、背後を見て声がでた。高い──そしてうち重ねた出合い、の奥に、広い大きい琵琶湖。
リフトの下は所々で短い棚になっていて、息がつけた。が、それからまた峭壁を一路登って登って行
く。寂しい──。空へ山へ谷へ開放されたうきうきとした寂しさだ。大きな、眼に見えない掌(て)にやすや
すと運ばれて行く寂しさだった。
上まで、十三分と聞いてきた。
はなやいだ草萌えの急傾斜にさしかかると、いっそう眼のまえまぢかに、浮かぶように紅らんだ山膚
が迫って、飛び降りるのもかんたんならまた飛び乗るのもかんたんな気のするのが、誘惑されている感
じでかえってはらはらする。冬子や法子との間隔がけっして伸びも縮みもしないのも、ふとけだるく睡
気に惹かれる。
「お父さァん」と法子が呼んでいた。
436(88)
まるで子どもの声だ──。
「お母さ…ァん」とも泣くようにふっ切れて、声は広々と山はらを風に流され、谷へ散って行く。
「のォりこォ……。おゥい……。ふゥちゃァん」
耳を澄まして二度呼んだ。冬子が先のほうでにこにこふりむいて手をあげている。法子が、のけぞる
ように首をそって青空へ甲高(かんだか)く笑っている。
「冬ちゃん。……あれ」
左はるかな高みに、崖から峰へ、ロープウエイが広い峡谷のうえを渡っていた。
はてしない紺碧へ両手をひろげて背のびするように、大きな比良山系が、さながらゴブラン織りの花
紅葉と咲き輝いている──。
胸突きの山壁のしたでリフトをおりると、急角度に左へ出て、待っていた赤いゴンドラにすぐ乗りか
えた。照れくさそうに男の乗務員が一人付添う。
「どれくらい高いのかな」
「あの遠い真正面にホラ、雪崩(なだ)れたように白茶けたガレが見えてるでしょ。その上がロープウエイの終
点。あそこいらで、ちょうど千メートルですって」
痛いほど腕を抱きしめてきたまま、法子は、あいた片手で指をさす。冬子も眼を細めて娘の言うなり
に顔を動かしている。右の窓からすこしふりむいてみた大空に聳えているのが北比良の一主峰釈迦岳、
千六十メートル。瞼にのしかかるように巨きいまンまえのが韓(から)岳、そのむこうの、膚あらわに数十丈の
ガレを抱いてさかんに紅葉しているのが、次郎坊千二十メートル。法子の声に淀みはない。そしてめく
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るめく急坂を逆落としに、カラ滝が、ロープウエイの真下をはるか山麓まで深々とえぐれ落ちている。
「こんなに、うらうらとしてますけどね。夏でも山道に迷うと凍え死ぬ人もありますってよ。千メート
ル級の峰が十ありますけれど、タテにもヨコにも、特に北へ行くほどYの字なりに深い谷がずいぶん切
れこんでますの。……滝も池もあって、……いい山ですわ」
若い乗務員がけげんがるほど物静かに、だが、やすやすと冬子もそんなふうに話してくれた。
嚠喨(りゅうりょう)と山上の空は鳴り、そよ風といえども肌身にしみた。人影もなく光充満の展望台からは、八方
に登山□やハイキングコースを示す矢印が出ていた。
山歩きをする用意はなかった。
尾根づたいに、弓なりに二百メートルも行くとロッジがある。簡単な食事ならできると聴けば、空腹
だった。
「そのまえに、此処を見ましょうよ」
法子は「天巧磨崖仏」と立札のある路の右手を指さした。ロープウエイ終点の直下にいかにも磨崖の
石仏群とみえる凄いガレがあった。そのまぢかへ、山腹を巻きこむように急角度に木のてすりの沿った
径(こみち)がおりている──けれど、大人二人は、途中で先をためらった。それほど、すばらしい眺めだった。
視線のおもむく処に、雄松崎の、エプロンステージににた白堤(はくてい)に抱えられ、湖上へぷっくり内湖が張
り出している。そのむこうに沖之島影が色濃く浮かび、湖東鈴鹿の山なみもはるかな伊吹山も淡い青の
まじった薄墨色をして、神代の景色のように静まりかえっていた。
あの辺がと、名子は沖之島の南寄りを遠く指さして言った。
438(90)
「あなたのほんとうのお母さん、お祖母さんの故郷ですわ」
「うん。……そうらしい」
法子はそんな二人を岨(そわ)の鼻に置いたなり、
「あたしが、代表して見てくるわね」と、ほとんど小走りに、天巧磨崖仏とやらがまじまじ見あげられ
る場処まで径を折れ折れおりて行った。
いちめんの薄(すすき)の穂が音をたててまッ白い風にそよぐ。松や杉など常緑樹がまじり絶頂の紅葉期とはい
え、微妙にいろんな色が入りまじる。色浅いのも濃いのも、ナラ、ブナ、栗などの黄葉も目だつなかに、
気をつけてみると夏椿の白い花、花がそこここに美しく落ちていた。
「あそこ。ホラ、火祭りの炎より紅い……あれは、きっとヌルデなのね」
冬子は次郎坊の白く乾いたガレ下に一箇所孤立したように鮮紅色を呈しているひとむれを眼敏く指さ
し、そして急な足場を踏みかためながら、つと背伸びをして接吻(キス)を求めた。
「あたし……また来たい。ご一緒に、また来たいの。何度だってもよ」
冬子は顔をはなしてからも、抱かれたまま涙をうかべて、はずかしそうに確かにはずむ乳(ち)のうえへ手
をさそい、眼をとじて囁いた。
「冬(ふう)ちゃん、冬ちゃん、冬ちゃん……」
無器用にただ名を呼ぶしかなかった。うんうんと首肯き返すしかなかった。そっと法子がもどってき
た──。
──ロッジまで、三人手をつないで歩いた。
439(91)
法子が、聞いたこともない節と言葉とでまるで尻取りのような面白い唄を唱った。
「なんだい、それは」
冬子が教えてくれた。「お月さんいくつ、十三七つ」と唱いなれた童謡の、はるか昔に、中国の南の
ほうで流行った原歌だと。
「こんな唄を日本へ運んだのも、あたしたちのご先祖よ」と、法子は顔を見た。
湖も山も、ロッジの前からはもっと広々と華やいで眺められた。
「……これが、琵琶湖か」
「これが……みごもりの湖(うみ)、よ」
「うーン……見飽きないぞ、コレは」と大手をひろげ、青空を吸いこむほど胸をふくらませた。
「でも……あたし、食べたァい」
法子が逸早く食堂のあいているのを確認してきて叫ぶ。
「でも、痩せたァい」と冬子が奇妙な語呂をあわせ、母娘してアハアハ笑っている。
「なんだ、お父さんは知らないのね。テレビの、コマーシャルよ、コレ」
「……」と首をすくめると女二人は思わず手を拍った。
──社員食堂じみた広い場処で、つけっぱなしのテレビを背にして、法子は店が「自慢」のヵレーラ
イスを、大人は「特製(二字傍点)比良山菜うどん」を食べた。
「妙に麺類がついてまわるね。好きだからいいけどね」と笑えた。
「でも今晩はちがうわよ、お父さん。琵琶湖中のお魚が、たァッぷり食べられてよ」
440(92)
「へえ……たのしみ。どこへ泊るのかな」
法子は答えず、冬子もにこにこして、おうどんが一杯じゃ足りなかありませんかなどと言っている。
「うん。法子に半分てつだってもらうかな」
「いいわよ」
たわいないお喋りの遅い昼食(ひる)をすましてしまえば、もう下山していいのだった。もう一度展望台に立
つと、ブレザーコートだけで寒くはないかと、丈のある娘が横へきて背を抱いてくれた。
「法子。お父さんの歌を聴きましょ」
「ほんと、……お父さん」
「よし…歌うぞ。お母さんも一緒だ」
忘れかけていた懐しい自作の曲にのせ、一等好きな歌を、歌いやすく音をつめてゆっくり歌いだした。
近江の海(み) 夕浪ちどり なが鳴けば こころもしぬに いにしへ……思ふ
名子が、すぐ第二句から声を添えた。
「お父さんは、ほんとにお好きねその歌……」
「もう一度やろう…法子も」
そして法子も若々しい声をそろえた。うっとりと広い湖は心なし霞みながら、空は明るく、山は静か
に深い秋をたたえていた。
441(93)
「よゥしあたしも一つ、やりますか」
法子は、よほど遠くにちいそう翳を帯びた三上山めがけて、きりきりと弓引くまねをしてみせた。背
丈といい横顔といい、一瞬朝日子に見ちがえた。胸が鳴った。
「およしなさい。蜈蚣(むか)ではもういないのよ」
冬子はそう言いおいて、もとの山路へあっさり歩をもどして行った。
「あの子……疲れていますわ」
追いつくのをふりむいて、冬子は低声で言った。
「ゆうべが、アレだからね」
「……」
瞼を焦がす火祭りの興奮がかッと朱く甦えり、璋(あきら)──らしい顔を炎の波に見喪った不審は、まだなま
なましかった。
「きみも疲れたろ」と、かろうじて労(いた)わるのを微笑みかえされ──あ、と冬子のいう「疲れ」の意味を
察した。温い手、はずむ胸、澄んでよく響く声──で冬子が、法子が、この時空にしっかり生きて身近
に実在することの、いかばかり「疲れ」るであろうかを、察してこなかったうかつさ。母と娘とを左右
に抱きよせた。二人のまんなかで顔を伏せた。
「だいじょうぶよ」と、法子が囁く。
一段と、山風が冷えてきた。冬子はロッジの売店で見つけた一、二冊「比良」の自然譜や湖西一円の
いい地図を、買っておくように勧めた。
442(94)
案の定ロープウェイもリフトも山を下る時のほうが緊張した。
眼も、娯しめた。峡谷の豪宕(ごうとう)、湖水の宏遠、そして分厚に賛沢に綴れを織りなした秋色(しゆうしき)の華麗。
リフトは、今度は法子と入れかわりに先頭に乗った。底の抜けたような山坂を宙になげ出され、湖ま
で尻から飛びこみそうな身の軽さだ。だが覗きこむ足下の高いこと、跳びおりるどころでない。
日ざしは柔らかい、のに風が顔をうつ。ふりむくと、冬子がワンピースの裾をはためかせ大わらわに
膝したに敷きこんでいた。その頭ごしに法子がジーンズの脚を元気にはねあげ、声は聴こえないが笑顔
で盛んに片手をふっていた。
前をむくとほんとうの独りだった。ケーブルが鳴り風は飛ぷ。自分の息づかいさえ聴こえない。やは
り寂しい──のに、大きく何ものかに抱かれて安らいでいる思いがあった。この天気の良さったらどう
だ。名にし負う八荒(はつこう)の比良(ひら)が、いつもこうとは考えられない──ならば、、心慈(あつ)い恵みを、いや愛を、こ
の上天気からも思い知るべきだろう俺は。そしてにわかに、もう冬子らをふりむくのが怖くなった。ひ
ょっとして二人とも忽然と光のなかに溶け失せているのかもしれない──。
だが──なにごともなく、リフトをおりた。
バスの発車を小一時間待ち、結局三人だけ。比良駅に帰ってからも、四時の電車にたっぷり三十分の
間があった。赤い彼岸花の咲き残った稲穂の田中道を、ちいさな蜻蛉にまるで先導されてたった二百メ
ートルも歩くと、白く乾いた砂の渚が、斜めにゆるい弧を描いて日の光いっぱいに静まりかえっていた。
女二人が思わず深呼吸するのを聴いた。
まんまえに、沖之島──。
443(95)
南から北へ、琵琶湖はなめらかに光る鋼板(メタル)を敷き広げたように凪いで、足もとを洗う波はぺちょん…
ぴちゃ……と、幼児が柔らかな舌をなめるほどのかそけさだ。
波打際に一番に坐りこんだ。一番草臥れているように見えたか、女たちはやさしい笑い声をあげて横
へならんだ。
浅い浜だった。堤は低く防波石(テトラポツト)も申しわけほどの数で、よほど水辺にまで、夏には水泳場になるらし
い設備もふくめ人家が、左右にのびていた。松並木ほどの飾りけもないそんな砂浜へ清らかな湖水は満
満と寄せていた。
「山の寒さがウソみたいな、のどかさだね」
「大(一字傍点)春日和、ね」と法子が冗談ともなくへんなことを言うのが頷けた。なんどり(四字傍点)と濃まやかな光が湖一
面を満たしている。冬子はぼうッと遠くへ眼をやっていたが、やがて『神を助けた話』というのを読ん
だことがあるかと訊いた。読んでいる。バイカル号で法子に話したあの北海の、猫島とやらでの蜈蚣(むかで)対
蛇の闘いも柳田国男のその本で知った。琵琶湖の話がそのあとに出ていた。
俵藤太が、三上山七巻半の蜈蚣を瀬田の橋から射殺した伝説の前段には、蜈蚣の害に悩んだ湖水の龍
蛇が勇者と見こんで彼に退治を懇請する一件があった。藤太が礼物(れいもつ)に十種の宝を貰った一つというのが
奇特の「俵」だし、名高い三井寺の釣鐘や竹生島の太刀もその一部を寄進し奉納した品と伝えられてい
る。
「だから、この広い湖のどこかに龍宮が隠れているわけさ」
「あなた、それが信じられて」
444(96)
「信じられるとも。絶対、信じてるさ」
「………」
琵琶湖の水量は、八方から注ぐ大小の河川だけでは、とても補えない莫大なものだそうだが、不思議
は解かれていない一。三人とも黙って湖水を眺めていた。うっとりとして瞼が、重く思えてくる。
「泳いでみたいね。ネ、法子」と沈黙を破った。靴を脱いだ爪先を、なめそうにシタ、シタと波が揺れ
ているのだ。
冬子が起った。法子も起った。あと十分で電車が来る。思いもしないことだった、こんなに優しい琵
琶湖がしみじみ眺められたとは一よかった。そう冬子に言いかけながらもとの田中道へもどって行っ
た。ふりむいて、
「法子……」と呼んだ。法子はまだ汀(みぎわ)に佇んで沖のほうを、見ていた。
「あなた。行きましょ」と冬子が誘う。ああと横へならんでまた数歩行ってふりむく、と、法子の姿は
いったん
なく、水隠(みごも)りに渚(なぎさ)から一段(いつたん)のほどを、一条の美しい水屋(みお)がきらきらと光り、輝いて、波間にほそぼそと
消えて行く──のが、見えた。
「いい子、でしょう……」
俯いたまま前を歩いている冬子が独り言のように呟いた。もう、耐えられなかった。そよ風に髪を吹
かれオーンオーンと泣いた。涙で、田んぼも駅も比良の山も青空もぐしょぐしょになった。
「…安曇(あど)川まで、二十分ですから。しばらく寝かせてね」
そう言って冬子は電車が来るとすぐ肩に頬をあずけて寝入ってしまった。法子は、どうしただろう。
445(97)
京都の璋は、今日はまだ学校にいる時刻だろうか──あの子だけが安曇(あど)の血筋を現実(うつつ)に承けつぐただ一
人になってしまった。火祭りの鞍馬駅に、深夜の帰り電車を待って行列しながら冬子にきいた昔語りが、
今──しみじみと反芻できた。
きら──と視野に入ってきた、あの入江が、以前に物の本を見て書いたことのある恵美押勝(えみのおしかつ)最期の地
の「勝野の鬼江」らしい。そう胸が騒ぐと今と昔と、それに冬子に聴いた話とが急にかき混ぜられ、白
濁して肋(あばら)のしたで渦をまいてくる。
左の窓を見ると山々がずっと遠のいていた。近江高島駅を過ぎてからは右の窓からももう湖が見えな
くなって行く。安曇川(あどがわ)町が、安曇川流域にひらけた湖西で屈指の平野部であること、上古来の要地であ
ったらしいことが、自然に納得された。
電車が駅に今すべりこむという時に、冬子は気分よくうまく眼ざめてくれて、
「あら、あんなの……」と、駅前広場を占めたスーパーマーケットの、赤地に緑と白の大きな鳩の広告
塔などを、面白そうに眺めていた。
「銅像があるね」
「近江聖人中江藤樹、よ。藤は、安曇川町の花ですの」
「藤、がね。なるほどね。大儒浅見絅斎(けいさい)もそうだっていうから、この町はずいぶん碩学(せきがく)を産んでいたわ
けだ」
「お忘れなく。あなたも、よ」
「………」
446(98)
そのまま一と足先にホームに出ると、ご感想はと、冬子はふりむいてこっちを見る。
「意外に近いね。京都から、きっちり一時間…だもン」
「そうじゃなくて。あなたが、この町で産まれたってことに」
眼をむくしかない。
「まア、バスに乗りましょうよ。ぐるぐるまわって、面白いんですのよ」
珍しい大笹の並木道を右に見て、冬子は駅前で発車待ちの朱いバスに躊躇なくのりこんだ。農婦とも
漁婦とも格別見分けのつかない、ズボンかもんぺか、手拭いを首に巻いた人もまじって総勢で十人ほど
のお婆ちゃんばかりが、すでに車内を陽気すぎるくらいに占有していた。
若い二人が異様に目だつのにも冬子は平気で、あいた席ヘスーツケースを二つ置かせ、窓ぎわの席を
譲って膝ももも(二字傍点)もくっつくほどにならぶと、「……」となにか嘱いた。
頬のほッと紅く見えるのはこっちも安心で嬉しいが、さて今夜の宿をどこに決めているのか。予約は
京都のホテルか駅かで済ませているのには違いないが、バスは、発車してすぐ街らしい地区をはなれて
からは、刈上げた稲田や、秋草のたれた深そうな溝川や、葭葦(よしあし)のまんなかに小波立って光る沼や内湖に
沿って町道を右へ曲り左へ折れ、大字(あざ)小字を順々に経めぐって行くばかり。いかにも昔ながらの村々が
ただ寄合った感じで、旅客を待つらしい家など有りそうに思われない。
こまごまとたいした家数とは見えないのに、どの字(あざ)にも古寺がのぞけ、古社が見えた。歴史の新しい
藤樹神社などには驚かないが、「下小川」では国狭槌(くにのさづち)神社、「横江」では布留(ふる)神社とある鳥居を見つけ
て、ぬうッと腰が伸びた。
447(99)
国狭槌神とは、イザナギとイザナミが産んだ山の神と野の神との仲に、山野(さんや)の精霊かのように生れて
いる蛇神だし、布留神社は、大和国に名高い石上布留(いそのかみふる)の大社と無関係でありえない。
石上神宮は高天原から下されて即位前の神武天皇を助けた、フツノミタマまたはフルノミタマと呼ば
れた神剣を祀っており、草薙剣と同じく、蛇精を帯びた霊剣なのは言うまでもない。
あと、
そればかりか、安曇(あど)の土地柄を思えば、此処で継体(けいてい)天皇を産んだという女人の名が、奇(くす)しき蛇体を連
想させる三尾君(みおのきみ)の血をひいたフル媛(ひめ)であった事実も、まざまざ思い出させずにいない。
「ね。面白いでしょ」と冬子は笑みをふくむ。
「うん……古代語のフルは、音韻的に、そのまま、冬(ふう)ちゃんのフユに発音の変わることも思いあわせる
と…ね。フル媛は即ちフユ子とも言えるからね」
「あの方は、でも、すばらしい美人でしたそうよ」
そんなことを笑いあううちにお婆ちゃんたちは順々に姿をけし、次でおりましょうと促された時はバ
スのなかには、一人、その人だけで見れば農婦にも漁婦にも思えない七十前後の年寄りが残って、別れ
ぎわ、愛想よく会釈などもしてくれた。
バスは、二人をがらんと広い道の角へ置きざりに、長い橋を渡って行った。
「その橋のしたが、安曇川…なんだね」
「ええ。川のむこうが漁業の北船木。こっちが林業の南船木」
「それにしても今のお婆ちゃん、ゴキゲンだったね。まさか知合い…じゃ」
「知合いよ。ただしあの人には判りっこありませんけど……あのお婆ちゃんに法子はとりあげてもらっ
448(100)
てますの」
「………」
「そんな、蒼い顔をしないで。なんでもないことよ」
「……すると、あの川のむこうには、冬ちゃんちの親類が」
「親類ってほど昨今の縁でもないですけどね。イヤな言葉だけどまア安曇(あど)の顔の利く、古いつながりの
あるお家が幾らかネ」
「今も」
「順が、さァ付きあってればですけれど。……どうかしら。ホラこの道路と川の上流にはさまれてるあ
の辺が、川島ね」と冬子は家並を指して、そこに今も「阿志都弥(あしづみ)さん」という延喜式神名帳このかたの
古社があると話した。アヅミの訊りだろう、か。日本海から近江へ入った力ある海人(あま)族が安曇川沿いの
豊かな漁獲と耕地を基盤に、ついには皇統へも結び合わされて行った歴史が、ここの土地には浸みこん
でいる──。
「とにかく、早く着がえて散歩でもしましょうか」
「あるの……宿が」
「かりにも、安曇の船木崎ですもの。そりゃ鮎の稚魚など買いつけに、漁を楽しみに、遠くからお客は
多いの。でも、今は静かな時季よ。行きましょ。あなたが生れた、あなたのお姉さんのお家(うち)ですもの」
「おいおい……冗談、じゃないぜェ」
「ま。尻ごみをなさるの。男でしょ……」
449(101)
船泊りちかく、表通りからは入り組んだ辻の奥に、こぢんまりと存外ま新しい船木屋旅館が表の格子
戸をあけていた。外まわりに船材をあしらった焼板塀もわるくないが、玄関そとに樹齢豊かに枝を張っ
た松が大屋根を越して小揺るぎもしない立派さ──。
五十半ばはすぎたか、どう見ても台所から手をふきふき今出てきた洋服の人が、湖(うみ)の見える二階の広
間か、階下に二間つづきの日本間かお好きなほうをと、この予約の客が、東京からわざわざの小説家夫
婦とよく心得ている□ぶりだった。但し二階は、隣りに信州伊那谷から永年懇意の数人の客が入っとい
やすの──。
「じゃ、階下……」と即決。
湖の眺望こそないが、内庭を見入れて落着いた床の間つきの六畳と奥の八畳だった。隔ての襖には、
明治の初め、大阪からの粋な遊客が二人がかりで揮毫して帰ったという絵入りの面白い字が、器用にお
さまっている。床柱も欄間も時代物だ、月下に光る沖の白石を墨で描いた軸も品よく、花もま新しい。
「今のあの人が……」
「ええ。佐々木綾さん。お姉さんよ。お父さんは異(ちが)いますけど」
「で、ぼくが、……ほんとにこの家で生れたって」
「ほんとなの。建物は替ってますけど」
「………」
「ごめんなさい。こんなお節介をやく必要は、ないのかなって、これでも考えたの。でも、あなた……
知らないでいることを、この近年、妙に重荷になさってた」
450(102)
「順にもそんなこと言われたな」
「………」
「にしても荒療治だぜ。こりゃ効くなァ」
「おいやなら話しません。そしてご馳走をたくさん頂いて、ゆっくり佳い夢を見たいわ」
お手伝いが茶の用意をして、宿帳と一緒に運んできた。
「名前、書くと……わかってしまうの」
「さあ、どうでしょう。秦は同じお母さんの戸籍名ですからね。叔父さんの名は秦周平だし……」
「じゃア本名の方を書こう…当尾(とうの)…。それでわかっちゃえぱ、それも成行だ」
「あたしの名は、迪子、と書いてくださいね」
「……ペンネーム、のつもり」
「本名よ」
冬子はさりげなかった。ガラス戸の外を音もなく夕やみが這う。浴室があくそれまで、と、冬子は要
点を手短かに話してくれた。
加茂の、自分の父方の祖父も、「宏ッちゃんのお祖母さんに当たるいう人」の顔もうろ覚えでしかな
いが、前妻の三人の遺児を育ててまるで後半生を加茂家に埋めたその賢い婦人が、近江源氏の佐々木家
に育ち、湖東の佐々木山麓、鎌の宮の奥石(おいそ)神社とも由縁(ゆかり)のあったことを冬子は記憶していた。婦人はは
やくに秦氏に嫁いで一女一男を産み、夫の死後数年、二児をつれ京都深草の加茂家に入ったのだが、の
451(103)
ち加茂と実家との両方の縁から、わが娘の和子を、この南船木在の同じ佐々木姓である材木問屋に嫁が
せた。
もとより近江一国に佐々木の旧領は広く、ことに莫大な山水の富を擁した安曇(あど)川沿いには、中世この
かた支族朽木(くつき)氏をはじめ佐々木の末孫が多く土着していた。和子の婚家も、朽木の奥山から筏でおろし
た材木を手広く捌く一方、明治十五年以来いちはやく参画した太湖汽船を船木港に受入れ、仲買いの商
人街も手堅く経営するなど有卦(うけ)に入(い)っていた。
ところが和子は綾ともう一人妹を産んだものの、昭和五年米価が大暴落した秋にその末娘と夫とを同
じ急激な消化器の病気で一度に喪ってしまった。綾はまだ十二歳だった。翌年には江若鉄道が開通、湖
上運輸は急激にさびれ、朽木谷からの筏の集散地となっていた安曇川口に近い梅の木内湖も徐々に干拓
されて行くと、母と娘にはいつか細々と船木屋旅館を維持するだけの、不如意な歳月がつづいた。
それでも多年蓄えた家産は寡いものでなく、とかく同族内に鬱陶しい思惑も動きがちだった。和子は
奔走してもと江戸幕府寄合格の朽木氏の一門から、綾が十八になるのを待つ条件で許婚者を定めると、
自分は佐々木家から離籍し旅館船木屋の帳場に坐るだけ、という思いきった挙にでた。
和子は三十三か四かだった。そうまで娘第一にはからったはずのその人が、女盛りの独り身をもてあ
ましたかのようにみごもってしまい、春には綾が婿をとるという矢先の年の瀬に、裏の蔵座敷に籠もっ
て男の子を出産してしまった。誰よりも驚き、当惑したのが綾だったことは言うまでもない。
──稜の結婚式を待たず、安曇川が川口まで深い雪にとざされていた昭和十一年正月末のタまぐれに、
産後の肥立ちもよくなかった和子が綾の手もふりほどいて、泣く乳呑み児を、宏を、抱きしめ、無一物、
452(104)
一人浜大津へむかう汽船で南船木をふっつりと去った。悪びれることのまったくなかったこの母親は、
宏を深草の老母と義父に托してそのまま男と行方を絶ったが、深草石峰寺町に住んだ少女の昔から、い
わば学校馴染みの八坂という三つ年若い独身者が宏の父親であるとだけは、後日のため実の弟に言いお
いて行った。宏は、冬子の祖父が人を介して根が南山城の出の当尾(とうの)家に預け、のち正式に当尾家との間
に養子縁組を固めた。和子はその後八坂と別れていたらしいが、生涯深草にも安曇川にも、姿を見せな
かった──。
──息を呑むだけの一、二分があった。腕組みして天井を見ていた。冬子は──俯いていた。部屋の
外で声がした。
宿帳を下げがてら湯殿へ招じにきたのは当の女将自身だった。魚の手料理だけが身上(しんじょう)の船木屋でして、
台所へもこの恰好(なり)で立つものですからと歯切れがいい。ようこそと畳にきちんと手をつかれて困(こう)じた。
頬の線や眼など肖ているのかもしれない。まぶしくてパチパチして、船木崎の風情とこの町の古い神社
を見にきたと、よけいな言いわけを言った。
「阿志郎弥(あしづみ)さんでございますか」
「ええ。川の神の思子淵(しこぶち)神社や田の神の雨皈田(うきた)神社や」と冬子が答えた。
「安曇川町だけで三十七社ございますんですよ」
女将は笑いだしたまま宿帳を見ていたが、顔をあげ、
「……先生」は長い小説を書いといやすとか、どちらの新聞にといきなり訊く。
453(105)
「どうして……新聞と」
「失礼いたしました、ものを、よう知りませんで。小説いうと夕刊のもんゃ思てしもて」となにげない、
「いえ。いいんですよ。今度のはそのとおりなんです。が……湖西にはどうかな。東の彦根市、能登川
野辺までは名古屋の夕刊が入ってるんですがね」
女将は、年若な夫婦を眺める眼で、それで──と、夕食になにか目あての魚でもあるかとまた訊いた。
「それはもう、鮒寿司。此家(ここ)のは特別なんでしょう」
「ま、奥様……。そんなに仰っしやっていただいてはまァまァ。それではお任せ願(ねご)て。どうぞ先にお風
呂お使いやしとくれやす」
「ありがとう。失礼ですがお子さんは」
「おおき、に。上夫婦は今横浜ずまいで、石油会社に勤めて。娘夫婦はこちらの高校と中学で、国語の先
生をしておりますんですよ」
「それは……もう、ご安心で」
「いいえェ、なかなか。……お喋りしてしもて。さ。どうぞ」
女将は丁寧なお辞儀をして退って行った。
「……どうだろ。わかった、か」
「感じのいい方ね。おわかりと思うわ、あたしは」と言って冬子がすっと起つ。
「……」と見あげる、そばへ来て、投げだすように両膝をトンとつくと柔らかい息づかいを耳もとに、
「お風呂……。ご一緒、していいでしょ……」
454(106)
第十五章 愛(かな)しい日々
季節はずれで活き鮎のないのが惜しいが、鱒はたっぷり腹子をもち、刺身も煮物も美味しい。むろん
鯉も洗いによく鯉こくまたまったりと深い味噌あじで、とろけそうに旨かった。
もろこ、白魚、甘海老、鰻。刺網でとったという、いさだの玉締め。それに松茸とほうれん草の柚子
酢。京湯葉の鯛の椀にも眼は楽しんだ。
冬子も、銚子で一、二本はあけたろうか。漁師の妻で自分も船を操って漁に出るというお手伝いの婦
人が、料理を運んでくれるつど、■(えり)挿しの時には壺にお神酒(みき)をつぎますとか、初タマを入れた時取れた
魚、なぜかオブリと呼ばれる魚は若宮神社、諏訪神社にお神酒をそえて献上しますとか、話してくれた。
「壺って」
「■に入って逃げられんようになった魚が、集まるとこです。初タマはタモとも言うかいな、初めて入
(■:魚へん に 入)
455(107)
れる黨網(たもあみ)のこと。今の季節は鱒が一番やるな。川に張り網してあるン、見ゃはりましたか」
「いや……」
「そうどすか。張り網テいうならナ。川口の三百メートルから五百メートルの上手に川幅いっぱいに網
張って。その上(かみ)の方ィ網棚を作った簗(やな)ですの。湖(うみ)から上(あが)ってきた魚が、張り網飛び越して網棚へ落ちよ
ります。昔は、春にはウグイ、夏には、ハスもこれで取ったもんやが、今では秋の鱒漁だけをそうやっ
て……」
「琵琶湖の汚染も一時ひどかったそうだけど、どうですか。県ぐるみで中性洗剤を追放したの、利いて
ますか」
「ようなりましたナ。そやけど川の方がいかん。第一に、何かいうと堤をコンクリートで固めはります
やろ。魚が、自然の岸にたれた木ィや草や藻の蔭をつとて上り下りが、できんようにしてしもた。あれ
では川の首をしめてるのと同じですのや」
「川の首をね。なるほどね」
──圧巻は、やはり冬子の注文どおり鮒寿司だった。此家(ここ)のは一度出来たのを粕漬けにさらに半年一
年圧(お)してあり、つきものの凄まじい米の腐敗臭がよく脱け、歯ざわりたしかに、ふわあツと酔うような
芳香がのどの奥へ浸み透る。
女将、いや明らかなわが姉(一字傍点)の綾が着替えて、話の相手にくわわってくれたばかりか、中学の先生とい
う姪にも淡泊な洋服姿で挨拶に出られて驚いた。冬子より二つ、三つ若かろうか。小柄でふっくらした
からだつきの、声のいい人だ。
456(108)
「手」について書いた文章が二年生の国語教科書に出ている。教室で生徒たちと読ましてもらいました
と笑子さんに言われ、はいはいと恐縮しながら、浴衣の胸をかきあわせ、思わず二人のほうへきちんと
坐り直していた。
船木屋の母娘は耳にのこる安曇(あど)川町昔ばなしを幾つか話してくれた。あくまで取材の体(てい)に、酒の手を
休めてノートを取った。川むこうの北船木は、大むかしから京都の賀茂社ととりわけ縁が深く、今も、
生鱒と大鮎とを献上しつづけているとか、この町は、昔から扇骨の生産量が抜群に日本一だとか、ほう
と声の出る耳学問もたくさんした。今はさびれたけれど、昔は山手で佳い硯石を多く産した、名人芸の
雲平筆(うんぺいひつ)というのも一見に値いするなどと聴いた──。
「冬は雪で埋まることもございますけれど、夏など、今度はお子様もご一緒に、ぜひぜひまた」と笑子
さんは愛想よく、母親をかるく促してほどよく下がって行った。奥の八畳へ、二流れにもう床がのべて
あった。
「ながい一日だった……」
寝仕度をすませ六昼間の灯も消し、間(あい)の襖をたてながらのいつわりない述懐だった。冬子はうしろへ
来て背に手をかけてふりむかせると、華奢な、拭きとったような白い素足を爪先だて、黙って手を頸に
捲いた。宿の寝衣のしたで胸は柔らかに張ってはずむ。深い接吻(キス)のあと眼をのぞきこんで、今日一日の
礼を言った。
「あたしこそ。こんなによくして下さるなんて……」
微笑む冬子の瞳がみるみる涙に流れそうなのを、つと、唇(くち)に受ける──。
457(109)
「抱いて。お乳をおさえて……おねがい」
額を擦りつけるように顔で顔を押してきながら、冬子は、片手を飛ばして和風の電燈のたれた紐を引
いた。瞬時の闇に、崩折れ沈むまに右の掌(て)にかたくつかんだ名子の乳房は、熟れた椋(むく)の実ほどの突起が
幽明の境を越えてメッセージを送る送信器(キイ)のように、熱く顫えていた。
「宏ッちゃん。…あたしは……あたしは」
「………」
「あたし、死にとうない……」
「死なすもんか。二度と死なすもんか」
唇(くち)を耳へそう声を殺しながら、ほおずきのような豆電球に照らされ、汗にまみれてふたり輪になり縄
になり、めくるめく奈落の夢へ落ちこんで行った。
──奈落の底で、青白く佇んで手招いている法子と出違った。銀色の月の雫にきらめく渚だった。
舟が、今にも誘われて波に浮かびそうだ。
「お父さん、龍宮へ行きましょうか」
「亀さんが迎えに来てるのかい」と笑った。
「まさか。この舟で、沖の白石まで一と漕きよ。あの辺はそりゃ深いの。その深い湖(うみ)から岩が四つ立ち
あがって、どう眺めても三つにしか見えないのよ。船木の人は三石(みいし)、よその人は化け石って言ってみな
近寄らないけど、一等高い、十四メートルもある岩の頂きへ木蔦につかまって登ると、金毘羅さんが祀
ってあるの。祠(ほこら)の扉(と)をあけると中に青い石が地の底から生えててね、その、まるで石の筍(たけのこ)に、波の底
458(110)
の龍宮まで降りて行ける縄梯子が捲きつけてありますの」
「おもしろい話だね」
「やっぱり信じないのね……」
「信じるさ。ただ、ぼくにその資格が…ね」
「老蘇(おいそ)の佐々木は龍の守護者よ」
「………」
「行くわね。ネ。行くわね」
「ああ。連れてッてくれ。お母さんは……」
「お母さんなら、そこにいてよ」
舳(みよし)もたれて冬子が静かにこっちを見ていた。
「よし。行こう」と法子に手をとらせた。
乗ってしまえば、もう二度と戻ってこないだろう。光る一閃となって妻子の顔が生き生き眼に甦るの
を、肘(ひじ)で庇って、一気に舟に跳びこむ。と、──舟も人も、月も湖も消えうせて、真昏闇の底を這うよ
うに、法子とも冬子とも知れぬ女の声が遠い遠い古の安曇娘子(あどのおとめ)の歌一首を歌いながら、遠ざかって行っ
た。
み空ゆく 月の光に ただひとめ違ひ見し人の 夢にし見ゆる……夢にし見ゆる
459(111)
「お父さん……」と呼ばれて、眼をあいた。よく寝入った冬子の寝床から、いつのまに来ていたかあど
けないような法子の顔が、微笑んで、手首をのばしてくる。
手を握ってやると、すばやく法子は寝床を移ってきた。紅い花柄の温かいパジャマで、父親の胸にま
んまるくもぐりこんだまま、
「お母さん、とっても疲れたみたい。でも、とっても、嬉しそう……。あたしもよ、お父さん」
「そうか……。さ、そうやって此処でおやすみ」
「おやすみなさい。まだ、二時よね」
そして──静かにまた眼が覚めた時法子はそばに居ず、庭へむいた障子とガラス戸とが三センチほど
あいたまま、朝まだき狭霧のように湖国の冷気がひっそりと寝入っている冬子の掛蒲団へ透い寄ってい
た。
戸をしめに行くでなく、寝床に半身を起こして冬子を見ていた。なにも考えてはいなかった。遠くで
遠慮そうに物音が一つした。
「あら。……おめざめ」
「いや。冬(ふう)ちゃんは、もっと寝(やす)んでなさい」
「まァいや。お行儀のわるい子……」と、冬子は寝乱れたふうもなく起って外のガラス戸をしめ、ちん
と障子もたてて寝衣の衿をかきあわせながら、その足でツイともう一度よこへ、暖かに身を添わせてき
た──。
「一つ訊ねていいかい。璋のことだけど……あの子は…」
460(112)
「あの子……は、法子の弟よ。あなたあの(二字傍点)時、順を抱きながらあたしの名を呼んでらしたのよ」
「………」
「信じないのね。それじゃ今、あたしを迪子さんだと想ってみて」
そう言うと名子は蒲団のかげで一瞬にすべてを脱ぎ去って男に手をふれてきた。あ──と抱きすくめ
る、と──妻だった。
「……おまえ」
「あなた」とちいさく胸を噛む。む、と呻くとゆらゆら顔が離れて微笑んで──冬子だった。力をこめ、
しなやかに捲いて包むように冬子がうるむ眼で下半身をそる。と、幾山河(いくやまかわ)を越え濛々と霧が流れるよう
に五体は宙を舞い地を這うて行方も知れなかった──。
──朝食のまえに船泊りまで散歩に出た。湖はよくよく擣(う)った絹のように凪いでしみじみと光ってい
た。今在家(いまざいけ)の家並から湖へ鴨川の注いでいる横江浜まで蛤なりに汀(みぎわ)が長い。濃青く連なる遠い山形が、
満々とたたえた湖水へさも秀でた鼻になって臨んでいる岬に、白髪(しらひげ)神社の朱い鳥居は隠れている──。
眉をあげ冬子はそう指さしてから、形よく積んだテトラポットのそばへ歩を運ぶと、突然ふりむいて、
白鳥が翅をうつように柔らかに両の腕をひろげてみせた。
安曇川堤を、本庄橋のほうへゆっくり歩いた。道にも草にも、冬子の髪やひろげた掌にも赤とんぼが
いっぱい寄ってくる。
「阿志都弥神社(あしづみさん)……お参りしてくださる」
「もちろん」
461(113)
「よかった……小さなお宮よ」
本当に小さなお宮だったが凄いほどの杉に護られていた。土地の人はお稲荷と思っているらしい。拍
手(かしわで)をうつ冬子の耳からうしろ衿が淡い紫をおびて見えるのに愕いた。
朝食がすむと、冬子は唐突にここでの別れを告げた。
「ごめんなさい。法子に駅まで送らせますわ」
「疲れたんだね。……また逢える」
冬子は微笑って頷いた。勘定をしに帳場へ出ると女将に、姉に、湖(うみ)の幸(さち)の手土産に添えて、自分の母
が遺したという歌集を手渡された。
「亡くなります前に、こんなン作った言うてきまして……。先生のようなお方に、見ていただけました
ら……」
秦和子と著者名の入った、小型な歌集だった。
「よろこんで……。お大事に。また……」
「奥様……ありがとうございました。今度はお子様もご一緒に。ご機嫌よう、どうぞ」
重そうに荷物を提げて出てきた冬子へ、駆けよって姉は手も貸し礼も言う。
「はいはい。泊めていただいて。よかったですわ」
見送ると言うのを冬子と□をそろえて丁寧に断った。
「お母様が……歌集ですって、あなた」
「うん…おどろいたよ」
462(114)
「あの笑子さん、国語の先生は、あなたが歌を詠んでらしたのをご存じなのね…」
「そうかね」
バス停留所へのみちみち、ぽつりとそんなことを言いあった。
本庄橋のたもとに法子が待っていた。定刻に来た北船木からのバスに、母のスーツケースをひきうけ
娘がひとり先に乗る。残る冬子はうしろから、
こごえ
「またね。きっと」と低声で背なかにさわった──。
──法子とも、安曇川駅で別れた。
「これ以上ひきとめちゃ、いけないですって。お母さんが」
そう言って法子は改札□でお辞儀をした。
──京都駅へもどると躊躇なく新幹線に乗りかえた。
瀬田川を越えるまで放心していた。それから生母の歌集を読もうと思い、思いとどまった。自ず
とまたそれ(二字傍点)は冬子とはべつの書かねば済まない小説世界であるはずだ。そうか。これも冬ちゃんの
先(一字傍点)を読んだ「提案」ではなくて、応援だったのか。
歌集は新聞雑誌の切り抜きを入れた紙袋に蔵いこみ、東に三上山の麓を走り抜けながら西に遠い比良
の空を眺めた。眼をとじれば、今もじんじんと冬子に触れている。
火祭りの火や、比良の豪快な紅葉や、湖水を揺れ揺れ遠ざかる美しい水尾(みお)や、はじめて逢う姉と姪の
笑顔や、船木崎の青い朝凪ぎが入れかわり思いの底を彩りつづける。そして──追いかけるように、老
蘇の森の鎌の宮参道に、眼をむくほど大きい茅(ち)の輪を懸けた光景が遠い記憶のかげから甦ってきた。茅
463(115)
の輪をくぐり、むしり、斬り落とし、川に流す。上賀茂神社でも雷電神社でも山王神社でも例外のない、
あれは蛇(ち)を斬って蛇(ち)に祈る上古の情念──。
次から次へ蛇の出てくる古代を夢に見つづけた。大伴狭手彦(さでひこ)の妻を引き入れた摺振峰(ひれふりのみね)の沼の神。蛇身
を露わして唖の皇子を追った出雲の肥長比売(ひながひめ)。小子部栖軽(ちいさこべのすがる)が三輪山へ入って捉えてきた雷(いかづち)の神。雷神
と契って蛇体の子を産み育てた常陸の努賀毘●(ぬがひめ)。怖くなかった。どの話も怖くはなかった。美しくさえ
あった。昏い眠りからうすく眼をあけると、列車はもう小田原をすぎて行くところだった。波高く太平
洋の広さが、ふと切ない──。
翌る──十月二十五日も、休んではおれなかった。A新聞と約束の狩野派の大がかりな展覧会を観に
上野へ行き、疲れついでに都の美術館で日本画の公募展ものぞいてから、山手線で池袋までもどった。
待合せの店で妻と夕食して、今度は地下鉄に乗り、水道橋能楽堂で和泉流の狂言「木六駄」を観た。演
者とは、娘同士が高校の時の大の仲良しで、母親同士はPTA仲間というわけだ。大雪に埋もれた山路
を、十二頭もの牛に荷を負わせてただ一人そして仕草ひとつで追って行く懸命の演技は、名人だった亡
き父君(ふくん)の至芸も偲ばせ、見ごたえがあった。
次の日、梅雨あけから進めていた短篇集が出来あがってきた。カヴァに丁画伯の佳い絵が使ってあっ
た。簡単な礼状を添え、南船木の旅館へ、国語の先生あて一冊送った。
婦人雑誌から来年いっぱい巻頭に季節の短文をと頼まれ、一晩寝て、断った。
中世歌謡について書いた二年前の本が、第三刷二千部と通知されてきた。気をよくした勢いで狩野派
464(116)
展の原稿を新聞社へ送った。丹波焼の探訪記も脱稿した。
十月二十九日には電話で父の退院をたしかめた。血圧もおちついて、父はハッハッハと上機嫌だった。
気合いが入った。新聞小説は、十二月早々から書きだせるかどうかが、必ず、あとへ響く。せっせと
頼まれ仕事のケリをつけていった。野尻吉男の電話が──来た。
なにげない話だったが、受話器に耳を澄ました。無性に吉(よ)ッさんの声が懐しい。
「うち(二字傍点)のOいうンに、近いうちちょっと時間さいてやってくれへんか。できる男なんや」
そんなことも言われた。
グルジア共和国のノネシビリ氏夫妻をふくむソ連作家団が、エレーナさんの同行でクリスマスまえに
日本を訪れる。文芸家協会のニュースがそう報せてきた。この一両日、中国の五輪復帰が朝刊の一面を
占めると、次の日には韓国の大統領が、食事中に射殺される騒ぎ。
有史以来初めて木曽の御岳が噴火した明くる日には、わが内閣の総辞職。
落着かない気分からか、それとも帰国以来ソ連という国のとかく物騒な動きに敏感になっているせい
か、早く逢いたいなと思えば思うほど「ノネ」さんやエレーナさんが、時節柄やすやすとはあのお国を
出て来れまいへんに不確かな思いに捉われる。本当はそんなことでもあってくれないと、K団長やTさ
んに再会の機会とてない、日本は狭いようで日ごろは迂遠な文士仲間だった。
0君の訪問を受けたのが十一月一日。冬子の耳うちどおりセット物の古寺探訪に、一文の依頼だ。
「どこを観てこいと……」
「東福寺。それと泉涌寺も」
465(117)
「ウムを言わさん、テやつだね」と笑った。高校の三年間、運動場にいるよりも、大概この二つの寺の
どちらかを歩きまわるか坐りこむかしていた。企画のなかみをよく聴いて、引受けた。
「で、どうなさいます。いっごろなら、いらっしゃれますか。事前にお寺へ連絡をとりますが」
「それなら、早いがいいんだよ。早く済ましちゃいたいんだ。だから……ッと」と、先々の思案はすぐ
にはつけかねた。追って電話することにして、近くの寿司屋へ出て酒を呑んだ。0は京育ちで、大学も
後輩なのだ、どこか国籍不明の詩でも書きそうなヒッピー風のしなやかさを身に備え、物静かに喋る。
身分もアルバイトで、日給を取っているという。
「……京都が、お好きですか」と訊かれた。
「それはどうですかね。単純には答えられないな」
「そうでしょうね。貴賎都鄙が集約されてますからね。時間軸も一本だけでは通せない。考えようでは、
あんなイヤな街もすくないと思います」
0は、盃を宙にささげ持ったまま、冷えた□つきでそんなことも言った。
「だからまた、お互い、忘れられないらしいね。京都を、どことなく本意(ほい)なく離れて来てるからね」
0の育ったという左京の一画を黒谷や永観堂のたたずまいと一緒に想いだしだし、東山もよほど紅ら
んで来ているだろう、早く行こうと考えていた。
「新聞…なにをお書きになるにせよ」と、その晩妻は言った、「それを早く決めるためにも、此の際京
都の空気をたっぷり吸ってらしたほうがいいわ」
──妻は冬子を、存在と非在とにかかわらず知らないのだった。それなのに妻の穏やかな物言いが冬
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子を想わせた。妻に触れながら冬子を想えば一瞬に腕のなかへ冬子が来ていた。子どもたちの場合も同
じだった。或る日など食卓を囲んで冬子が夕餉(ゆうげ)の給仕をし、法子が弟をからかい、璋は姉を無視して今
日読んだ翻訳小説の感想を話しかけ、父親の判断を求めてきた。それは五秒とつづかないフラッシュで
はあったが、瞬き一つのあいだに冬子がもとの迪子に、法子が朝日子に、璋が建日子にもどるのに継ぎ
目というものが見えなかった。
こんなことは以前になかった。”冬子時間”の機能する、それだけの前提が充たされたからと思うし
かなかった。
時間が無限の延長であるなどと誤解してはならない。それより時間とは無際限にスライスの利く大き
な球体にちがいない。人はそのたった一面を唯一の己(おの)が現実と信じ、そこに住む。人の数だけの時間が
あって、親子であれ夫婦であれ、同じ時間を共有はできなくて、錯覚の共有だけが可能なのだ、そこに
”身内”同士の可能もまた錯覚される。
錯覚を利して自分の時間を他者の時間にまるまる投影してくるのがつまり”冬子時間”だ、こうまで
ありあり機能すべく、冬子の魂魄が激越な消耗に耐えているだろうことばかりが案じられた。冬子のこ
とを、だから想うまいと頑張った。
想えば、現われた。
想わねば、切なかった。愛(かな)しい日々だった。
そうかそうか、──こういう日々のことを、苦い悲しみもこめて冬子や順子の母は、法子や璋の安曇(あど)
の祖母は”生き恥”と呼ばずにおれなかったのかと観念した。至る処に冬子の眼が瞠(みひら)いていた。法子の
467(119)
眼が見ていた──。
十一月七日、朝早く、急に朝日子も便乗ということになり、京都へ発った。「おじいちゃん」の退院
を見舞うという娘には□実がある。大学祭直前の喧騒を避ける狙いもあるらしいが、古寺探訪の備忘(メモ)が
わりに同行させる便宜は、親もちゃっかりと勘定に入れた。
「タダイマぁ」
朝日子が前ぶれなしに先ず老人たちの家にとびこんだ。坐っていた母が「へえェ」と起ちあがった。
座椅子に寝衣の立て膝という恰好(なり)の父は、「オオオ」と大□をあいた。恰幅のいい伯母も裏庭づたいに
来るなり「ホーラまあ」と□癖がでる。どんな土産より、来年は二十歳(はたち)になる孫娘の不意の到来が悦ば
れているのだった。チクと胸が痛んだ。
平安神宮近くの美術館で、この日から今年の女流陶芸展が始まっていた。ちょっとかけあしで覗きに
行き、帰りがけ、かろうじて受付で姫路のNさんに逢えて、立坑窯を訪ねた日の、礼が言えた。ともあ
れ年寄りの早い夕食におくれないよう、またかけあしで帰っていった。案の定、朝日子が大童ですきや
きの用意をしていた。
「よし。お肉はお父さんが買ってこよう」
「はばかりさま。古川町で、あたしが買ってきました」
それは結構──。靴を木のサンダルにはきかえて、近所の酒屋へ冷えたビールを二、三本買いに出な
がら、あす、のことを考えていた。冬子は──と待っていた。
翌る八日、阿弥陀来迎の練行(ねりぎよう)で聞こえた末寺(まつぢ)即成就院をふりだしにまず泉涌寺(せんにゆうぢ)から、そして母校もち
468(120)
よっと覗いたあと東福寺へまわったが、冬子らしい気はいは一度も察しなかった。娘だけがずっとそば
にいて、案内の僧に、ときどき直かにものを訊いたりしていた。好天に恵まれ、修復の成った東福寺の
山門楼上から眺めた伏見、淀そして西山へけぶった洛南の風光は、寂しくもまた、心にぎわう晴れやかさ
だった。
思えば、十七、八の昔にくらべて、今は比較にならない”知識”をこの二つのお寺について持ってい
た。が、”東福寺体験””泉涌寺体験”と呼べる吾れひとりの感動と、そうした雑多な知識とはあまり
巧く関わりあうものではない。体験の、感動の、純粋さをいささかならず混濁させそうに、知識はとか
く横柄(おうへい)にハバを利かしたがった。むずかしいものだ──と堪りかねた嘆息もでる。学校にあまり近すぎ
て、ついぞ冬子と二人きりこの界隈を気らくには歩けなかった。その悔いとも痛みともない思い出ばか
りが真実この取材の収穫だった。そしてなぜか、そばで畏っている朝日子のこのさき五年、十年がどん
なかと頻りに想えてならなかった。
最後に寄った塔頭(たつちゆう)退耕庵で、茶室昨夢軒などをつくづく観せてもらったあとからの住職の話に、「建
仁寺の野尻」という言葉が突然出た。
退耕庵は、関ケ原合戦に西軍を率いた一人の安国守恵瓊(えけい)が庵主だった時がある。それが崇り「院」に
もなれない「庵」のままだと住職は笑うのだが、この恵瓊が、建仁寺方丈の修復に著しく貢献していた
ことから、敗け軍(いくさ)のあと同寺に遁げこんだ。その時「侠客」の野尻が、手下(てか)に号令して一山(いつさん)を守護し、
追捕(ついぶ)の徳川方をてこずらせたという話だった。
「清水(きよみづ)下の松原通りに、野尻小路がありますね」
469(121)
「そうどすにゃ。あそこの家(うち)がそうや。ソーラ昔はえらいもんやった」
「でも、その…侠客いうのが…。何です、侠客とは」
「まア侠客風……いうことかな。禅寺には、行者(あんじや)いう制度がありますンやが、頭に毛がある。修行もす
るが法事のお飾りゃなにゃと雑務や給仕もする。そんなんを寺でようけ抱えて、わるゥすると僧兵みた
いにも動かした。野尻ちゅうのは、建仁寺に三人いたいう行者頭(がしら)でも一番やったかしれまへんで。よう
知らんが」
「京都という町は、どうも、そういうお話聴くと、凄いですね。大小の神社仏閣は千二千を下らないで
しょうが、その一つ一つに累代なにかの形で奉仕し、従属し、関係して暮しを立ててきた家(うち)や人が、二
十世紀の今も相当の割合を占めでる」
「あんたさんも、こっちのお人やな。よう、分かっといやす。お花やお茶や、織り染めや、塗りもン・
焼きもンかて、お菓子かで、京都の文化やいうてるもんが、みィんな、そういう人のもンどすのや」
「どこか、根に哀しいもンがありますね」
「癩にさわりますな。京都をただの見世もンのように東京辺の人が言(い)よりますと」
「いやごめんなさい。ぼくもどうやらそのお先棒担いでるらしいですね」と苦笑した。今度のこの企画
の言い出しッペが「侠客」野尻の何代目かの子孫であることは、笑い話にもしにくい気分でのみこんで
しまった。
「お父さんテ、へんなことにも興味もってるのね」
退耕庵を辞するとすぐ朝日子がつぶやいた。
470(122)
「へんテ……野尻のことか」
「ええ」
「それはアレさ。その野尻の家にクラスメートがいてね。そこの小母さんには、長いこと習字教(おせ)てもろ
てたんだよ」
「なァんだ。……でもさすがね。安国守恵瓊(えけい)まで、らくらく遡れるお家(うち)があるのね」
「京都に住みたいかい」
──返事がなかった。
三時半だった。娘ひとりを京阪電車の東福寺駅から街なかへ帰してやると、五葉(ごよう)の辻を東の大通りへ
抜け出て、けさふりだしの即成就院まで、またゆるい坂道を上った。
てまえで、一ノ橋川を北に越えると、剣(つるぎ)神社がある。小学校からの同期生が、このお宮へ養子に入っ
た噂を聞いていた。太刀魚の小絵馬を子どもの虫除(よ)けに納める指折りの古社、とも承知していた。剣に
太刀魚とは、酒落がすこし利きすぎていないか。
冬子らが住んでいた馬町の坂の一丁も上(かみ)に三島神社があり、そこは安産祈願に鰻の絵馬を上げるので
知られていた。それも気になっていた。伊予の大三島神社も伊豆の三島神社も、所属の神人(じにん)は信濃の安
曇(あづみ)氏や大和の穴師神人らと同じに、もと海人(あまびと)が山人(やまびと)に転じた例といわれている。が、鰻──の絵馬とは
ピンとこない。
案じたとおり剣神社(さん)の友人は神職のほかに勤めにも出ていて、留守だった。活発な奥さんが端近では
きはき応対してくれ、幼馴染みの消息はよく知れたが、かんじんの社記が何度もの火災に焼かれ、創建
471(123)
の由緒は判然としない。祭神は瓊々杵命(ににぎのみこと)と白山姫命だった。
「シラヤマヒメ…ですか」
「ニニギさんの奥さんどっしゃろか」
それなら山の神の姫、火のなかで海彦山彦を産んだという木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の異名か。姉妹か。鞍馬の由岐
神社の大杉の根に、はっきり蛇と書いてシラナガ弁財天が祠ってあった。咲耶姫の姉で、醜いからと二
ニギに拒絶されたのはイワナガだった。剣(─字傍点)そして太刀(二字傍点)と祀られているなら、シラヤマヒメが蛇体山水の
神であろうことは疑いなかった。社は、音無川と今熊野川とが合流する渓谷に臨んでいた。
清少納言が仕えた定子皇后の御陵へも、近いはずだった。一陵六火葬塚といわれて、藤原氏の出自の
皇妃が、多くこの南鳥部山に葬られた。あの藤原道長もここで火葬されていながら、今は、どれが誰の
塚とも墓とも知れず、樹々が生い茂っている──。高校の同期生がやはりこの辺で夫婦でやきものを焼
いていた。奥さんは去年の女流陶芸展で文部大臣賞をとった。寄ろうかなと思ったが、夕まぐれのせい
か、西の山の端(は)をもう細々とこがしながら消えて行く、血の色した夕焼けゆえか、子どものころ遊びに
出ではよく感じた家へ帰るに帰れず金縛りにあって泣いてしまいそうな、心細さが、ほんの二十メートル
脇の辻へ入って行くことを、ためらわせた──。
親の家に帰ってみると朝日子の姿がない。
おも
「なんやいナ、一緒やと思てたのに」と老祖母もポカンとしている。
「ホイホイ歩きまわっとるんですよ。まだ五時半にならないから」
「そやけど、もう暗いがな」
472(124)
「ナニ要慎深い子ですからね。平気です」
さあらぬ顔をしていたが、幸い五分たたぬうちに帰ってきた。心配するほどの時刻ではなかったのだ。
「どこを、歩いてきたの……」
「それがネェ」と、娘は眼をまるくしてみせた──。東福寺駅で京阪電車にひとり乗ってすぐ、朝日子
は次の七条駅から真東に、博物館や三十三間室のあるのを思いだしたという。
父親がわけても千体仏の中尊、湛慶作の千手観音坐像に傾倒していたのと、弓道者の端くれとしても
実測六十六間ある軒下をかすめて矢を射通したという通し矢の場処を、その気で眺め直したかったのと
で、ためらいなしに電車をおりた。
そして、結局は西の後廊にならんだすばらしい二十八部衆のなかでも、ことに美しい大弁功徳天のふ
くよかな丸顔を見あげて、うっとり佇んでしまった。
「心もちむかって左下から眺めると、それぁ吸いとられそうに綺麗なのよね。仏像を綺麗なんて言うの、
お父さんおいやなの知ってるんですけどね」
「………」
「そしたら、うしろから声かけられたの。着物を着たお母さんほどの年齢(とし)の人でね。その人もさっきか
らその吉祥天の恰好(なり)をした弁天さまを見てらしたのね」
「どんな…人」
「一風ある感じではあるのよね。でもその方も負けないほどお綺麗なの。中年の魅力かな」
お互いに名のりもなにもしなかった。
473(125)
自分は、これから、清閑寺という東山の古寺へ紅葉を観に行ったあと、山づたいに清水寺へ抜けて祗
園下河原の宿まで歩いて帰るつもりだが、弁天様のご縁に、よろしければご一緒しませんかと東京言葉
で誘われ、その気になった。
博物館まえでタクシーを拾い、ものの五分で渋谷(しぶたに)の坂を上りきるとハイウェイの地下道を歩いて潜り、
急な石段を二、三十旧道へ、登るまでもないどの山も山も、秋の夕日にもう七、八分がた真ツ紅(か)に照っ
た山紅葉。で、
「すばらしいわァ」と叫んでも、
「なんて静かなんでしょう」と嘆声を放っても、その婦人は微笑んで頷くだけだった。
「この裏山のむこうにいいお池があって、そこにお酒を呑ませる家(うち)が出来ているのですよ。ほんとはそ
こへお連れしたいとこだけど、時間がね…もうねッて仰言るし、その通りなんだし、帰ってきちゃった
の」
「下河原まで…か」
「そうよ。その稚児ケ池の料亭には、お父さんのお好きそうな鍋島なんかのやきものが、そりゃ沢山蒐(あつ)
まってるんですって。ぜひお父さんと一度観にいらっしゃいって」
「どうしてお父さんと…なの」
「あれ。お父さんと一緒に来てるとあたし、言ったのかな」
「……そうだろ。で、その人のことは」
「あたし、他人(ひと)さまのことあれこれ訊くのイヤなのよね。その方もなァんにも訊かれなかったし。そう
474(126)
いうのッて、好きなの」
「そんなこと言うたかて、もしかして」と祖母は孫の向う見ずを窘(たしな)める□調になるのを、朝日子はウン
ウン領いてただ微笑んでいた。
「……でも、あたし。よかったわァ。あんなにして京都のもみじを観たんですもの。泉涌寺や東福寺も
よかったけれど、清閑寺から清水への山道を、あんなにして静かに歩いたんですもの」
食後にひとしきり伯母もまじって五人で喋ってから、また街へ、酒の相手に連れだした時、「あんな
にして」と二度も繰返して朝日子は満足そうだった。
次の九日午すぎて、大学祭で弓を射る用意に、娘は、ひとり東京に帰って行った。
「お父さんは、今日からホテルずまいね」
「ああ。考えごともあるし。だから駅までは見送ってやらないよ」
「だいじょうぶです。ひとりだと……すてきな人にまた逢うかもしれないわね」
「それは……イヤきみは……ぎみなら、だいじょうぷだよ」
「なァに、それ。へんなの」
河原町のステーキの店で、ランチのナイフとフォークを皿に置いて、朝日子はすなおな笑い声をあげ
た。
二人とも、足もとに銘々のスーツケースも置いていた。
早めの昼飯をすますと隣りの永楽屋で松茸昆布を家への土産に持たせて、朝日子のタクシーを見送っ
た。
475(127)
予約のホテルに入ると新大平内閣の顔ぶれを新聞でざっと眺めて、小一時間、広いベッドで上着だけ
ぬいで寝入った。夢も見なかった。
電話で眼が醒めた。二時すぎ、だ。法子の声だった。この間の礼を言った。
「あら、それなら今度のお礼も、言って」
「今度の……」
「うまいぐあいに京都へ来れたでしょ。朝日子ちゃんも一緒に」
「うん。ありがとう。……どこなの今。なぜ来ない」
「ご馳走してくださる。このまえお母さんといらした祗園のお店」
「梅林……いいけど。晩だよあそこは」
「いいの、晩で。それよりも璋クン、中間試験の最終日で、お家(うち)に帰ってますわよ。約束してたんでし
よ」
「面影町……だね」
「すこゥし西日のあたりだす時刻がいいの」と教えてくれる。冬子のことを訊いた。
「お母さん、お父さんのお点前(てまえ)でお茶をいただくんだって。なに着て行こうって、そればっかり」
「きみも、元気そうな声してる」
「元気、元気」と笑って、法子は晩の約束をきめるとチーンと電話を切った。
──璋と帷子(かたびら)ノ辻の改札□で逢った。ジージャンの下にこざっぱりと少年らしくシャツを着て、また
背が伸びた。そんな気がした。南□にかなりの商店街があるのを斜めに横切り、ひっそり細い裏道を幾
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度か折れて曲って太秦(うづまさ)撮影所の裏門のまえまで来た。もうその辺から、奥まってこまごまとした家並の
むこうに、朱い夕日がとろんと溜まって見えている。
少年は、蛇塚へ無造作に歩を運ぷ。
「ひええツ……」と絶句した。もと全長七十五メートルの前方後円墳の封土が失われ、後円墳の真中の
横穴式石室だけがすさまじい大きさで露出していた。保津川から運んだらしい大小三十個もの巨石が、
澄んだ秋の空のもとみな赤茶色をしてうず高く積まれ、日光をいっぱい呼吸している。青い草も生えて
いる。
羨道(えんどう)は鉄骨で補強され、まわりは金網で囲われて、玄室に入るすべもない。だが思わず絶句したのは、
飛鳥の石舞台に負けないこの大きな古墳をひしと捲きこんで、幅三メートルとない舗装した通路のすぐ
外側に、ぎっしり軒の低い民家が建てこみ、まるで蛇塚へにじり寄っていたからだ。
「凄いじゃないか」
「……」と、璋は寡黙だった。
「しかし京都市が立ててるこの立札じゃなぜ史跡蛇塚なんだか、サッパリだ。一言も書いてない」
璋は物好きな大人の愚痴にとりあわず、「用事」がすんだら、タクシーを拾ってご一緒に家へお連れ
するように母に言われてきたと、にこにこする。
順子たちの八階の部屋で夕飯を食べた。八階も初めて、夕飯も初めてのことだった。璋が座をはずす
と順子は眼顔で訊いた。火祭りの日から、冬子に逢っている話をすると順子は眼を伏せた。
「佳い部屋だ……ここへも冬(ふう)ちゃん、来てるかもしれない」
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「そゃネ。そやッて、あたしらも生き恥をかいてるのやね」
順子は堪らなくつらそうに、関□台の叔母、「お兄ちゃんの叔父さん」と結婚した桜子叔母から、東
京での縁談に返事を急(せ)かれていることを打明けた。
「順……どうなっても、きみは、きみだよ俺の」
順子は小指のさきで涙をはじいて、寂びしそうに微笑むだけだった。
これから法子に逢うと耳打ちされると、順子はためらわず祗園石段下の喫茶店まで車で送ってくれた。
逢ってみろよと勧めると、一瞬眼を見あわせて、頷く。
二人で店に入ってきたのを眼敏く見つけて、法子はレシートを手に足早に席を起ってきた。支払って
やるうち、女二人は目礼だけで表へ出ていった。
「祗園社(さん)に、詣ってかないか。せっかく、こうなったことだしサ」
そして法子は叔母の腕を優しく捲き、三人の真中を、黙然と歩いた。八坂神社の照明された床い楼門
を潜る時、法子はあいた手で父親の腕もそっとひきよせた。
参拝のあと、幻の娘は初対面の叔母にも一緒に梅林へと誘っていた。
「おおきに。そやけど帰る。車運転せんならんし。璋がて待ってますし」
そう返事しながら順子は、背丈のある姪を抱いて顔を肩さきに埋めてしまった。法子も泣きだしそう
な眼を宙に漂わせ、唇を噛んで叔母の背なかに優しい掌(て)をおく。と、順子は、
「お母ちゃんに……お母ちゃんにかんにんテ、よう言うといてナ。ナ……」
「なんで順叔母ちゃんがあやまることあるの。なンも、あやまらはらイでよろしのえ」
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法子は初めて聴かせる京言葉で叔母をなだめ、一瞬父親をにらんで、鋭く先の折れた指を二本立てた。
冬子の、かすかな身じろぎもたしかに身のそばに感じた。
順子を帰して、二人で梅林の暖簾をくぐってからも、法子はしばらく固い表情をくずさなかった。女
将が、まるで昨晩(ゆうべ)の朝日子と思いこみながら頻りに気を遣ってくれ、やっとやっと機嫌もなおると、自
然あの火祭りの翌る日、琵琶湖を見に行くと言っていた「旧婚旅行」の首尾が話題になった。
法子の猪□に酒をつぎ、ついで貰い、吸物がわりに鱧(はも)、かしわ、しめじ、生まの庄内麩そして三つ葉
に酢だちと柚子を添えた土瓶蒸しや、また、貝柱、かに、胡瓜、うどのうえに海苔を探んだ酢肴を食べ
た。塗椀ににらを刻んだもずくの雑炊も、若い娘がけっこう悦んだ。
冬子がいた。息づかいも頬に触れそうに、まぢかにいた。冬(ふう)ちゃん──これでいいのか。こんなこと
でも、きみは悦んでこうして俺たちのそばに来てくれるのか。──人に気づかれず、幾度も冬子のほう
へ盃をおくり、食べものを勧め、そして物も言った。笑いあった。
「ね、小母さん」
「はいはい」
「お父さんッたらね。あたしとこうしてても、お母さんが一緒ならテ思てはりますのよ」
「まァお嬢様。よろしいやありませんの」
「そうお。ちょっと、癪……」
ちょっと癪、とうそぶいて法子は、祖母ほどの女将と声をそろえて笑いだし、また酌をしてくれた。
愛(かな)しい──日々だった。昔を今に、愛しい刻々が過きつつあった。順子も言っていた、なす由も無い
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それが、いつまで続くの、と。わからない。いや、わかっていた。わかりたくないのだった──。
「……お父さん、ほら。こんなに街にもどこにもたくさんの人が、さも同じ顔をして生きて動いてます
でしょ。でも、その中には、あたしみたいなのも混じってるの。ごらんなさいナ」
法子はそう言って花見小路や四条通の、十一時半すぎてなお繁華のさまを指さし示すのだが、酔眼ゆ
えとも思われず、道行く人に、そんな区別はつけえない。
「法子。お母さんは、どうした」
「それはお母さんに訊くのね」
「ホテルまで送っておくれよ」
「いいえ。タクシーに乗せてあげますわ」
そしてドアがしまるダシッという音に紛れるように法子の姿は路上に失せていた──。
灯の消えた部屋にもどると、上着だけぬいで寝入った。夢も見なかった。どれくらい経ったか電話で
眼が醒めた。冬子の、今行くからドアをあけておいてと、静かな声だった。どこからどこまでが夢だっ
たのか。今はたしかに覚めているのか。置いた受話器から手を離すのも忘れ、かくるい惑いに呆(うつ)けてい
た──。
──朝陽の朱さにはっとうち背きざまさぐる手に、冬子のからだは消え失せていた。だが、ほのかな
温もりになって冬子のにおいは漂っている、あのテーブルの黄色い菊にも、淡い花柄のカーテンにも、
天井にも──。
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朝飯はぬき、湯に漬かり、この十一月十日を一日中歩く気で、なにがなんでもまず高い処に登ってみ
たいと思いホテルを出た。自然と、三条の橋を東へ越え、不意に京阪電車で焼けた石峰寺へという気に
なった。だが寺は門を鎖ざしていた。それにたとえ法子の、そればかりか冬子の墓まであるにしたとこ
ろで、いまは墓参を考える機会(おり)ではない。
加茂、という表札が見つかるかと、順子と通った石峰寺したの寝静まったような小路を歩いた。表札
は見当たらず黒板塀の邸の二、三軒西にせまい間□を最近に造りかえた八坂姓の家があった。赤い郵便
受けに実父の名ににた豊彦、そして忠子、史郎、桂子と書き出してあるのをただ眺めて、なかで若やい
だ声が一つ聞こえたのをしおに、ゆっくり立ち去った。駅へもどると、わけもなく街の方角を嫌い淀、
八幡(やわた)行きの電車に乗った。久しぶりに表参道から石清水(いわしみづ)八幡宮まで登ろうと思った──。
街へもどったのは夕方だった。祗園の画廊に寄って、この人に新聞小説の挿絵をと目星をつけた画家
の二、三点を観せてもらい、写真や経歴などの資料ももらった。独力で、このすぐ西へ地上五階、地下
二階の美術館を建てている、ちょっと知恵を借りたいと主人は言ったが、
「今日は勘弁してくれないか。ここが」と頭を指さし「まるでべつのことでガンガンしてる」とあやま
った。冬子は一度も姿を見せなかったが、始終肩さきに、時々は頬を寄せるほどに何をしても見ても、
どこを歩いても静かな息づかいで、頷いたり抗(あらが)ったりした。
ホテルに帰り、ルームサービスでゆっくり夕食をとった。街で見つけて栓を抜いてもらってきたグル
ジア・ワインが部屋中に香る。
「冬(ふう)ちゃん……」と呼んだ。
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「いま行くわ」と、灯のついた浴室から、化粧を直してでもいそうな元気な声がした──。
──翌る十一日朝も、おそく、ひとりで眼覚めた。暁け方の夢にも冬子を抱いたと想う肌の熱さが、
毛布一枚のしたに籠もっていた。時計のよこのメモ用紙に、鉛筆で、「正午」そしてしっかりと、A+の
サインは、約束の、茶室への誘いだ。母校茶道部の記念茶会とやら…へ、冬子の誘いだ。
十時半、チェック・アウトして荷物を京都駅へ運んだ。日曜のせいか、新幹線の切符は夕すぎた六時
半ちかいのが、やっと一枚買えた。それでももう、今日中には帰らないと仕事に障る。
タクシーに東寺のきわを走ってもらった。高校時分、校舎二階の昇降□から真西に、ここの五重塔水
煙(すいえん)の尖頂が、ちょうど眼の高さに照っても降っても見えた。その塔をまぢかに見あげて行きたかった。
そして昔は風味のいい九条ねぎの産地だった九条通を東へ、市バス東福寺の停留場まで行ってから、あ
と通学路を歩くのが母校へはほどよい早道だ。
校舎の見える丘が、明るく晴れて静まりかえっていた。茶道部の稽古場だった美術科の校舎はとり払
われてしまい、二階にあった茶席の設(しつら)えだけ、そっくりそのまま空地におろされ囲われている。外観は
まるで工事現場の殺風景な事務所のようだけれど、妙なガラスの桟戸を中へ入ってみると、昔から襖一
重の隣りだった作法堂がほどよく狭められ、
「かえってお待合らしィ便いよぅなったくらいで、お水屋もお茶室も、もとどおりにうまいこと保存さ
れてます。お庭のないのがほんまに惜しいわ」と、結婚した旧姓小松秋子に以前電話で聴いていた。
テニスコートにも、グラウンドにも、休日の練習にはげむ運動部の生徒がたくさんいた。先生らしい
姿もあった。
482(134)
在校中から、コスモスの多い丘の上だったが、やや季節におくれてまぶしいほど至る処に群れ咲いて
いるのが、このまえ、朝日子と校内を通りすぎて行った日よりしみじみと眼に色佳い。
だれも、ちらとも闖入者を見咎めるふうでなかった。二十数年昔の先生など三人と残っていそうにな
いのだし、声がかかるわけはない。だが、ウンウンとただ納得しいしい胸を張って、普通科の校舎より
一段と小高いまだ丘のうえの茶室へ、一歩一歩階段を踏みしめて上った。なるほど──工事現場の事務
所と見える真四角なバラック圏い、だが、ガラス戸に手をかけると白檀(びやくだん)が薫って、沓(くつ)脱ぎの隅には、華
やかな女草履が──二足。
「……宏ッちゃん……」と、呼ばれた。
うしろ手に外の戸をしめると、眼のまえの障子があいた。藍に白上がりの印花布を着て紅朱(べにあか)の帯、藍
の帯締めで、冬子が、端近へ出ていた。
「………」
「順が来てますの」
頷いた。水屋に隠れていた順子が、淡いきわた地にうず茶とあずき紫の、それぞれ濃淡のある美しい
更紗の着物に紅紫の帯を締めて、にこにこと現われた。
なにも、言うことはない…それでいいのだ。──炉は灰も炭も麗わしく、湯は釜に鳴っていた。三人
で床の間へむいて坐った。古銅薄端(こどううすはた)の花入れに、西王母椿と万作の照葉(てりは)を挿したのは、冬子だという。
「佳(え)ぇでしょ」と、順子の声音も優しい。
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菊畑に タかげぬれて しかすがに 清閑寺道を きみとのぽりぬ 宏
野尻先生の手蹟(て)で、淡い懐紙仕立てに表具がしてある。
近年に歌集を贈った、そのなかから、順子がえらんで野尻の叔母に書いてもらったという歌だ。「き
み」と詠われている冬子が高校三年の、秋の歌だ。
その余の道具はみな茶道部の有合せを無難に借用して、しかし女二人とも、茶は、喫む側にまわりた
いと譲らない。
冬子は、外部(そと)へ気をつかう必要はない、ふつうの声で話してかまわないとだけ、二人をまず落着かせ
てから、一度こうしたお茶の会をたのしみたかった、これで念が晴れると朗かな声をしていた。
乾山(げんざん)画く紅葉を粗末に模した今焼の替(かえ)茶碗が新しかった。そもそもの茶道部発足の昔、五条坂の陶器
市で安く見つけてきた長楽の赤茶碗が、ほんのり碧(あお)う茶の色も浸(し)みて、三十年近く部員たちにいい感じ
に手馴らわれてきているのを主(おも)茶碗に、まず冬子のために一服点(た)てた。客は服加減をほめ、亭主は、印
花布の、牡丹、蝶、菊、水仙など眼にしみる藍唐草の着映えをほめた。
「おおきに。……そやけど、昔やったら古箪笥にこんな柄の油単(ゆたん)かけて、こんな紅い紐結んで、蔵(しも)てあ
ったでしょ」
冬 子は、今は昔のままの京言葉にもどって、それより、順子の若やいだなりに丈高う着こなした更紗
の着物姿が佳いと、優しい言葉を添えた。
二人とも、しんとまとめた髪の濃さ。
484(136)
「順……おとなしいナ」
ふ、ふと順子は照れて、赭(あか)に大輪の菊を黄金(きん)で摺った菓子鉢から”名立(だ)つ”と銘のついた、銀杏の葉
を畳んだていの菓子へ、姉を見まねで、黒もじの箸を綺麗につかっていた。
「順にも、そのお茶碗で点(た)ててあげよ……。きみは、結局お茶の稽古はせずじまいだったわけか」
「そんなン……やっぱりこの人のあと、ついて歩かんならんもン」と、妹は姉のことを相変わらず「こ
の人」などともう一度呼んで、苦笑した。
順子にも赤楽で茶を点てたところで、冬子に点前(てまえ)を替ってもらった。
「痛いンだよ脚が……しと胡坐(あぐら)になる。
「あかん先生(せんせ)やね」
妹は、からかう。姉は気もちよく沸(たぎ)る湯に水指(みづさし)の水一杓をそそいだ。臙脂に小菊重ねの使いならした
帛紗(ふくさ)にも、いろいろ思い出がある──。
野尻の兄妹の噂をした。吉ッさんもやっと腰が定まったみたいと妹が言えば、
「あれで…。図に乗らなんだら、あれで良(え)ぇやろ」と冬子はしっかりしたことを言う。茶は、一巡して、
なごやかに炉のそばへ三人が寄っていた。ちょっとした沈黙のあと、順子は、再婚する気がしないでい
ると呟いた。火がこそッと崩れ、西の障子窓に西日──。
「冬(ふう)ちゃん。順もいることだ、……もう一度訊いていいかい」
「なんぇ……」
「火祭りの夜、鞍馬の駅で行列しながら話してくれたね。ご両親たちの……こと。あれからそりゃ何度
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も思いだすんだが…どうもその…」
順子は顔を伏せたが、名子は表情を崩さなかった。
「……ややこしィ考えはらんかて。宏ッちゃんのことを、あたしらが姉妹(さようだい)で好きになってしもたように、
父の登と深草の伯父栄と、つまり兄弟して安曇(あど)の母が大好きやったんです。そんな例(ためし)は、神代の昔から
ありましたでしょ。ちがうとこは、母が父以上に伯父のほうを結婚まえから愛してて。……そィで、兄
弟ふたりとも、とうど死なしてしまう結果に、なってしまいました」
「むごい…こと」
「むごいテ……ほんまにそう思わはるのやったら、宏ッちゃん。順を…、この人を、万一にも死なさん
ように。……お願い」
きっぱりと冬子は、それを言った。「……順も。早まったこと、して欲しない」
「わかって…る」
「宏ッちゃんには、もっと……気もちも…もっと自由でいて欲しいの」
「………」
「かんにんえ、こんな、お説教。ま、それが言いたさに…今日は」と、冬子はちいさく顔をそむけた。
「そゃ、さっきの話のつづき。…、あんなわけで。あたしら、憲吉兄ちゃんから、死んで生れた末の妹
まで、きょうだい四人でしたけンど。じつはあたしと、その末の妹とだけは……父親が」
「冬(ふう)ちゃん、もう、いいよ」
「……おおきに。……そんなわけやったの。そやのに安曇(あど)の父は、あたしのこと、ソラもう今思ても気
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がずつないほどに可愛がってくれはりました」
順子が頷いていた。
「そやし。母もあたしも、安曇の父を、ああ追いつめて死なせた時は、つらかった。深草の栄…伯父に
しても、それがモトで……。
やっぱり、言うてしまお。宏ッちゃんと同じに、あたしも安曇川町(あどがわちよう)で、川むこうの北船木で……因果
ゃな……あたしらのあの法子を産んだ同(おんな)し漁師の家で生れたんです。お墓かて……あそこの浄土宗願船
寺にありますの」
「…と、深草は。石峰寺には…」
「それは加茂家の」
「………」
「やめましょ。もう」
冬子はトンと膝を一つ打った。そして白湯(さゆ)が飲みたいと順子に頼んだ──。
花はそのまま。火を始末し道具も仕舞ってそろって茶室を出たのが四時まえ。運動場には野球部員が
外野ヘフライをあげていて吉ツさんや牧田氏のことを思いださせたし、青年のブロンズ像の下ではバレ
ーボールを足もとに、汗を拭き拭きはずむ声で話している女生徒もいて、こっちを見は見ていたけれど、
見えていないのか、特に眼を瞠(みは)っているふうでもなかった。
順子に代り、縮緬の風呂敷に軸の箱を包み持ったまま、
「法子が…、来なかったね」
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「あの子なら今日は、お茶の水の大学祭の余興に、きっと飛入りで朝日子さんと弓の試合して、負かし
てるやろ思います」
眼をむくと、女ふたり愉快そうに笑った。
「順。このあとお願いね。……宏ッちゃんを駅まで、見送ったげて」
「冬(ふう)ちゃん……」
「あたしはちよっと休ましてもらいます。京都駅も、にがてやし。早いけど順、夕御飯でもご馳走して
もゥて。これからのことかて、本気で、よう相談にのっとォもらいや」
そういうことを言うにも、冬子はさりげない。そして、今度の新聞小説はいつから書きはじめるかと
訊いた。
「十二月からと……」
「それまでに、モいっぺん逢いましょ。ね」
頬を血の気がひいて行った、たったもう一度(二字傍点)なのか──。姉妹はいつからか手をとりあって歩いてい
た。
東山七条の手まえて冬子は二人をタクシーからおろした。三十三間堂のむかいに鰻雑炊(うぞうすい)のおいしい店
がある。安曇の名で、二人の席が予約してある──と。
「お姉ちゃん……」
「さいなら、順。璋(あきら)を頼むわね」
信号が変わり、と──から(二字傍点)の車が、もう馬町のほうへ広々とした踏切を走り去って行った──。
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第十六章 冬祭り
モスクワの牧田氏から、十一月四日付の手紙がとどいていた。帰国してすぐ出していた礼状が「誤記
され、(よくあるケースで)入手がおくれ」たという断りから書きだしてあった。
”不安の出発時”と違い、いろいろ体験され良い想い出を持って帰られたとの事、嬉しく存じます。
よほどの理想論者か、頑固な偏見の持主でもない限り、ロシアの大地、ロシアの人々は日本人を魅す
る何かを持っていると思います。
家内も、子どもも元気です。小生任期中はもう当地でお逢いする事はないでしょう。東京での再会
を願っています。良いお仕事を、それにご健勝を、祈っています。
489(141)
四方、すっかり雪。厳しいながら、どことなく暖かみのあるカラッとした冬将軍が居坐っています。
そう書きおさめられた五枚の便箋に、療養のため奥さんが近々帰国するらしいことは一行も見えない。
待てよ──と苦笑いになった。
寒さがヒビクとは冬子が話していたことで、牧田夫妻にそんな□ぶりはなかった。思いこみはこっち
にあった。だから話がその辺へくると、アパートを訪ねた晩も別れの電話でも、やりとりが妙だった。
心配──なのは冬子、だ。
たかだかこの一と月半に新幹線に四度も乗っていた。老父の急な入院こそ突発の事故だろうが、丹波
立坑窯、鞍馬の火祭りとみごもりの湖(うみ)へ、そしてなじみの東福寺や泉涌寺探訪をあたかも”割振って”
くれたうえ母校の茶室にまでゆめ幻と招き寄せたのは、冬子だ。四度が、かりに五度六度と重なっても、
此の際そんな旅や取材がむしろ必要となる新聞小説「提案」の一件も、分厚く、その下には敷きこまれ
ていた。
「モ、いっぺん……」
冬子は別れぎわにそう告げた。
「……もう一度」と妻は、帰宅したばかりの夫が眉間にしわを寄せていると見ると、京都行きをすすめ
た、「あなたは、京都が必要な人なのよ…」
今度は他に用事をもたず、ホテルでも親の家でもない、京風の宿にしてはとも、すすめてくれた。
文士稼業には、書かねばならぬ依頼原稿を、たとえボロほどにも幾重にも身にまとうていれば安心と
490(142)
いうところがある。安住というべきか。それを日一日と脱ぎすてて行って、もうま(一字傍点)裸の寒さで、あてど
ないながい初旅に、新聞小説へ踏みだそうとしている、それが、不安でないわけはなかった。
東福寺探訪記は郵送した。連載ものも全部始末をつけた。ソ連旅行がきわどく中にはさまり、発表後
ちょっと宙に浮いていた四百五十校ほどの歴史小説にも、望みどおり版元が決まった。今度の新聞の仕
事はぜひうちで本にと、条件も添えて早耳の出版社が来てくれたのなど、肚(はら)から驚いた。そういうもの
か──。悦んで、とはとても返事ができなかった。だが、ぽつりぽつりと親しい人には「新聞の話」も
喋れる気分になった。
「冬(ふう)ちゃんのこと、書こ思うねん」と病院の電話□に呼びだして、野尻にもうちあけた。
「……紙の墓、か。良(え)やろ。良(え)ェ思うよ」
そんなふうに、はじめて野尻吉男は冬子を、死者(二字傍点)として語った。──そやないで吉ッさん。冬(ふう)ちゃん
は、死んでから生きとるのやで。そう言いかえしたく、また「紙の墓」という言葉にも、心しおれて、す
こし遠い電話の声に耳を傾けていた──。
このクリスマスには、お世話になったノネシビリ夫妻ともどもお目にかかれますとか楽しみと、ソ連
作家同盟あてエレーナ・レジーナさんに歓迎の手紙も書いた。
三日すぎ四日がただ過ぎて、それに気づいていなかった。
──我にかえると、目前に、すべき”事”といえば一つしか、ない。のに、その一つに手が出なかっ
た。気分が換えたく机を階下に移してみた。頬杖(つらづえ)をついて、それでもとりとめなく物だけは想ってみる
のだ。
491(143)
たとえば野尻の家の、たしか北の庭に大きな蘇鉄の芯に埋められたように、夕霧御前という名を伝え
る膝ほどの石塔婆(せさとうば)があったこと──。説明は聞いた記憶がない。が、六波羅界隈には、清水寺(きよみづでら)門前へか
け鴨川へかけてむかし遊女(あそび)の群れた話なら知っている。石清水(いわしみづ)の楽人(がくにん)の娘で、箏の曲を奏しては名人と
評判された夕霧という女もそうだった。彼女は今際(いまわ)のきわ、建礼門院に仕え平家の公達(きんだち)の寵(おも)い者になっ
ていた愛娘の右京大夫を祗園松原の家に呼びよせ、末期を看取らせたという。まさかその夕霧の墓とも
思わないけれど、由ありげなそんな古塚が、これはと驚く町の小路(こうじ)とか仕舞家(しもたや)の玄関外や坪の内とかに
何百年もひそんでいるのが京都の、わけて鳥追野鳥部山の、歴史でも、また風情でもあった。
野尻が、安曇(あど)が、どんな経路を歩んで六道の辻や苦集滅道(くずめじ)にふしぎの家職を受持つことになったのか、
今となっては誰に問いただす意味も失せている。はびこる草のように人家はこの野も山も埋めつくし、
墓は巨大なビルの小さな抽出し一つと変わりつつある。そして季節ごとに景気よう厄を払い、懸想文(けそうぶみ)を
売り、祭文(さいもん)を唱え、「ものよし」「ものよし」などと縁起をかついで辻々を言触(ことぶ)れて歩いた人の姿も、
すっかり消え失せている。
だが、本当に消え失せたと思っては間違うだろう。野尻や安曇に代る職分は、きっと伝えられている。
安曇家真冬のオコナイこそ跡を絶ってしまったが、あの晩方にも思慮深げな顔を見せていた「厄(やツく)払いま
ひょ」のおじいさんも、冬子と出会えば路上に腰をかがめて礼を怠らなかった山の辺の若い主婦も、身
に負うた”歴史”を、今なおひっそりと誰かしら手から手へ受け渡しつづけている、だから──だから
どうなのか。冬子との結婚を「蛇」に重ねて尻込みしつづけた、あんな思いの根は真実抜けたのか。抜
けたにしてもそれを冬子や法子の、死であがなった事実は動かない。
492(144)
人の寝静まったあとも、思わずうそぶいて一升瓶ごと湯呑みで酒を呑んだ。机の上に、娘の部屋から
借りてきた木の人形が置いてある。冬子のモスクワ土産だ、馬を駆るスラヴの少女が髪をなびかせてい
た。
じっと眺める──と、美しい山の女が好色な旅人を馬に変えてしまう泉鏡花作の『高野聖』も思いだ
されたが、もっと切なく、加賀白山(しらやま)の信仰を背負うた奥州のオシラ祭文、馬と娘との悪夢のような恋物
語が、そしてイソラならぬ安曇の「磯良」のシラのことが、またしても想いおこされる。
「ダメだダメだ……」
干あがった漆喰壁が剥がれ落ちるもろい手ざわりで、一週間が、それこそ消え失せた。十一月十八日、
日曜の朝、同じ秦という名乗りの誼みで、時々親切な声をかけてもらう数寄者(すきしや)から、今夜にもと、夜咄(よばなし)
の茶事に誘ってきた。お気持は嬉しいが、と辞退するなり、
「行ってくる、京都へ……」と電話を跳ねのいて大声でそう叫んだ。杳(かす)かな笑いをふと耳の底に聴いた。
京都へは午後の三時十五分に着いた。
車中汗ばむほど窓外はどこかしことなく晴れやかで、近江路に入るといっもより、まず伊吹山が優し
い感じに灰色のビロードめいて膚を潤ませていた。
おいモこと
新幹線が老蘇(おいそ)の森を東西に分断して走っている事実を、今度はじめて痛いように承知した。痛い──
が実感だった。自分の血が、一半は近江に、老蘇の森近在に根ざしていると冬子に教えられた。父祖と
いう言葉よりも、母胎という文字を夢見る心地で、もうあらかた収穫を終えたらしい田の面(も)の日ざしに
493(145)
眼を細めた。
はるか西の空たかく、溶けて流れそうに淡い色で比良山系が、南へ、比叡へ、長大に聳えて見える。
日本中、山から山を伝って行けない場処はない。同じ山の習俗が意外に遠く伝わり運ばれているのを不
思議がることはないと物の本で識った。比良を眺め鈴鹿を顧て、どうもそのようだと思わざるをえない。
そして母方の祖父の名乗った「秦」という苗字が、こと新らしく意識にのぼる。近江には、湖の東にも
西にも秦という姓で、伐材や木工の業を世襲した人が多いと聞いている。そういう秦氏だったのか。
それとも機織。それとも造酒。それとも土木。それとも芸能。それとも海運。それとも政治。それと
も、それとも──近江と限らず、古代あまりに多方面に率先活躍できたればこそ、秦氏の首長は太秦(うづまさ)と
敬い呼ばれ、蛇塚ほど巨大な古墳ももち、広隆寺や稲荷大社を氏族の芯にまつり、長岡京や平安京の造
営に大いにカを致すことができたのか。
秦氏は、他の氏族にすぐれて鉄との関わりが強かった。秦氏の所持したイナリ伝説は、稲ないし農業
よりも、製鉄(鋳(い)成り)に関わるよほど具象的なイメージをはらんでいる、という専門家の説もあった。
日本中に古来稲荷山とある地名は農よりはむしろ鉄遺跡でありえたらしく、『古事記』にいう八岐大蛇
の形容など素朴な砂鉄採集の方法をさながら暗示しているとも読める、らしい──。
にわかに落ちこんだそんな物思いから、ふと浮かび上がれないまま「間もなく京都」というアナウン
スをうつつに聴いた──。
プラットフォームで、ちょっとの間ぼうッとしていた。列車は去りたちまち人影も退いて、捲きあげ
るような風にただ曝されていると、行方しれない寂しみにひるむ。
494(146)
黄色い電話器へゆっくり寄って行った。ともかく今日の宿(四字傍点)を、こんな駅頭からでも何かしら誰かしら
に尋ねてみる気だった。
置き忘れられたどこか旅行社の薄いPR雑誌が、ダイアルのすぐ上から半分落っこちそうなのを近く
の屑籠へ捨て──かけて、紅い表紙の写真に眼を惹かれた。まちがいない。清閑寺境内のちょうど要石(かなめいし)
辺から質素な本堂と背後の御陵山をずうっと見あげるふうに撮ってあるのが、満目鮮紅──の、もみじ。
雑誌を鷲づかみに、電話のまえをそのまま離れた──。
「清閑寺……」
タクシーに乗りこむとそう命じた。え、と五十年輩の胸の薄そうな運転手が、嗄(しやが)れ声で訊きかえす。
もう一度、清閑寺へとくりかえした。
「どこぞからの、お帰りどすか……」
そうでもないと、ホテルや旅館のある場処でなし、小さいながらスーツケースが気になるようすに、
東京から、と、あとの言葉はのみこんで河原町通を五条大橋越えに、東山へ、鳥辺の墓地わきへまっす
ぐハイウェイを上ってもらった。
左は、山という山が墓標で、右は音羽川。窓へにじり寄って覗いても渓は深く、川むこうの急な斜面
をこぼれ落ちそうに人家がたてこんでいる。あれが──もと安曇(あど)の家であった場処とわかる陶苑の裏手
には、咲き残りの白や黄の菊畑に彩られて西日がはんなり落ちている。
「町ンなかから、にわかに奥深い山ンなかへ突ッこむいう感じが此の道どすな。この年になってここだ
けは、晩がたに通るの怖(こお)おす」
495(147)
「そうお。だってあの阿弥陀ケ峰や、奥の花山かナ六条山いうたかナ。アノ、まァ紅葉の花やかな。あ
の下が焼き場や思うと、厳粛で、わるくないですよ」
「それがわたしら、綺麗は綺麗でぞくっとしまんな。三方から山がコブコブ重なりおうて、まるごと呑
みこみそうに□をあいとる」
「なるほどね。他界……、知らんよその世界に引きこまれそうな」
「それや……よその世界や」
そして運転手はヘヤピンカーブで速度をさげながら、突如のどの奥でつぶれたクワッぁ……という声
を放った。
右から左へ、見あげた清閑寺の山また山が血しぶきを吹いたように真ッ紅。薄澄んだ青が灰色とも見
えて眼にしみいる空のしたで、これ以上は紅くなれない、これ以上は枝をはれない、身を揉む凄さで紅
葉が瞼を焼く──。
「気をつけて」と、思わず運転手に。
「へ。おタクさんも……」
──とり残されてしまうと急に足もとを風が舞いはじめる。
道の下から瓦だけ見せた何軒かの屋根を雀が走り、人ツ気はまるでない。
御陵したの、からっぽの車寄せにスーツケースを置き、駅から手に鷲づかみの、パンフレットふうの
雑誌をめくってみた。清水寺界隈のよくある写真特集で、それ自体は尋常すぎるくらいのものだが、明
治の洋画家黒田清輝の大作「昔語り」が、巧くあしらってある。
496(148)
舞子や仲居をつれ、瓢を肩にかたげた断髪(ざんぎり)の遊客がいる。荒目籠をかついだ在所の少女も通りすがり
に足を停めている。画中、みな佇んだりしゃがんで煙管をくわえたりして坊さん一人を半円にとりかこ
み、話を聴いている。高倉帝と小督局(こごうのつぼね)の悲恋を語るか、語り手は笛吹く手ぶりで熱心に──。フランス
帰りの気鋭の画家が、古都に遊んで実際に出違った光景を描いた絵と、二十数年まえ誰より早く野尻の
六道さんの書斎で聴いていた。冬子もたしか、そばにいた──。
大きな舞台装置へ真正面から入りこむ心地で、御陵まえの広い石段を七、八つあがる。斎垣(いがき)にせかれ
上手へ折れるとすぐ羊歯(しだ)と苔との高い崖につきあたる。鋭くまた右にむいて狭(せば)まったやや急な石段を三
つ四つ五つと踏みしめ二、三十も簡素な木の門へむかって登ると、細い柱に「歌の中山清閑寺」の古び
た門札。
脇の潜りを入った鼻さきに、四隅につんと角の立った律儀な石塔が二基、もみじに取りこめられて妙
に人めかしい。
「ただいま……」と、なんとなく頬がゆるんだ。
紅葉(こうよう)の猛烈なことよ、睫毛がこげる。広くはない本堂まえの楓(かえで)という楓が、葉一枚散らさず、西日に
かッと燃えている──。
籠もり堂ほどの本堂が一つ、それと山べにちんまり、鐘楼──。賽銭箱も置いてない縁にやおら腰を
かけ、車中呑みあましのウイスキーの小瓶から、キャップで、たてつづけに三杯あおった。
阿弥陀ケ峰の頂上を昔のままに烏が舞う。昔とちがうのは、出合いの高速道路を自動車の疾走者があ
まりに絶えまないことだ、境内したにも今、一台パークするらしい。
497(149)
ふうっと息を吐き、眼をとじた。一瞬の闇の奥に深くから甦えるまぱゆいもみじ、また、もみじ──。
と、──
「あらあら、帰ってらしたのね。ごめんなさァい……」
ふだん着の両手に買物籠を二ついっぱいにして、すこし額を汗ばませ冬子が小走りに門からかけ込ん
できた。籠の一つには銀色の鎖で車のキィが絡めてある。
「ちよっとのまに……あんまり紅くなってるもんで。風流だろ。どう、きみも」
「いただこうかな。でも、ストレートかァ」
冬子も腰かけて買物のなかから小さな紙箱を探しあてた。細い抽出しのぐあいに小粒のチョコレート
が二列に八つ並んでいる。キャップにウイスキーをついで手渡してやった。
「ダメよ。半分だけね。ね」と危っかしく二本の指に受けて笑っている。
「法子は、まだ……のようね」
「らしいね。帰ってたらこの有様だもの、かけおりて来るさ」
「お父さん……いっかなァ、迎えに行こうかナなんて、あの子は若いだけに辛抱がないんですよ」
「ゴメン…」と低声になるのを冬子は慌ててうち消して、さ、入りましょ中へと木目の乾いた縁側から
身軽に地面に起った。
門と鐘楼のあわいをからだ一つ細々と登る石段が山へ伸びて、途中枝折戸(しおりど)でとじてある。茨が絡んで、
参詣の人がこれより上へ来ないよう制札が吊ってあるのを、冬子は、造作なく肘で押して先に通った。
もう寒椿が赤い花をつけ、石蕗(つわぶき)も黄色い花茎を苔のうえへのばしている。
498(150)
冬子ひとり勝手へまわらせて、露地からいきなり郭公亭(かつこうてい)の障子をあけ放った。閾居際へ明るく半間(はんげん)朱
塗の文机(ふづくえ)をだし、いつかナカノリコに封筒ごと持たせた自家製の原稿用紙が白いまま載せてある。違い
棚のまえを風呂先で囲って算盤珠の瓶懸けには炭も囲ってあるらしい。南鐐の瓶がちいさく銀色に鳴っ
て、床には「月」と、隷一字の細身の軸。
水屋を通って奥へ着がえに入った。
「なつかしいね」と見まわす。
「ちょくちょく、お世話になりましたものね此処も」と冬子は首をすくめて「佳いでしょう。ね、…」
と肩に手をかけ、眺めざま、つと前へまわって爪先立つのを、両手で頬をはさんだ。
──顔を離すと、まぶしそうに見て、
「お仕事なさるなら、郭公亭がいいわ。王政復古の謀議に使うよりなんぼマシか知れなくてよ」
「えらいことを言うねぇ」と苦笑いした。
山家に造ったこの茶亭には、清水寺成就院の僧月照と薩摩の西郷隆盛とが幕府捕吏の探索をのがれ住
んだと、その由の碑(いしぶみ)も鐘楼わきに建ててある。
境内からは見えないが、郭公亭は南面した寄せ棟の西側へ、南北に切妻をちいさく懸けあわせ住居に
造りつけた、ただ山風の棲家(すみか)には惜しい佳い家に出来ている。ここからは、御陵へも、清水山の頂上へ
も、清閑寺墓地や稚児ケ池はむろん北の正法寺(しようほうじ)や高台守墓地へも自在に通えた。冬子の安曇(あど)の父が、母
の妹と死んでいたのもこの山家でだった。あれ以来、清閑寺本堂の裏を建て増して形ばかり山寺(やまもり)の老人
をおいたが、それも通い住みだった。
499(151)
御陵の管理者も常詰(じようづ)めでなかった。世ばなれたふうな山人も、冬子と見れば腰をかがめ、郭公亭の雨
戸がこっそりあけてあってもけっして咎めなかった。ことに冬子の中学から高校時分へかけてよく二人
で休みに入った──。
「……すばらしい樫の紅葉を見つけましたの。めずらしいでしよ。白玉椿と、貴船菊も水屋に置いてま
すから、あとで活けてね」
生椎茸と鱈(たら)のいいのがあったの、今晩は湯豆腐よと言いながら冬子は着がえを手伝ってくれた。
「自動車ね。順が貸してくれてますの」
「そうか。それじゃ……一度、羽束師(はつかし)村に行ってみたいな」
「鴨川と桂川との合流点……あした行きましょ。今日は、いや。ここで紅葉を見て満足なさって。あな
た、寒かありませんか」
「ああ、ちょっと。あっち明け放ってきたからね。しめてこよう」
「お花。お願いしますわ」
「ヨッシャ……」と起ちながら、牧田欣一氏からの最初の航空便をもらったこの真夏午下がりにも、妻
に、迪子に頼まれ、繁った庭の青もみじを見ながら籠花入に、有合せの河原撫子と山葡萄とを挿して床
柱に懸けたのを、遠い日の夢のように想いだした。
「ホンとに、蝉が木にとまってるみたいな籠なのね」と言ったあの時の妻の声がいま冬子の声にふと溶
けあっている。──異人(ことびと)と思い新枕(にいまくら)をかわしてみれば花嫁は「県(あがた)の真女児(まなご)」蛇性の婬女と『雨月物語』
は畏ろしげに書いたが、物心つかぬ「豊太郎」が偽りない初恋のそれが相手ならば、たとえ信田(しのだ)の森の
500(152)
狐であれ、吉野宮滝に棲む蛇でもあれ、なぜ人外(にんがい)の魔性(ましよう)としてのみ厭い嫌うたのかと、秋成のあまり露
骨な書きざまに反感を覚えた日々のことも想いだした。ああセルペンチナ……永遠の美なる蛇よ。そな
たの道(Serpentine は蛇行する登り路)をどこへなりとと叫んだ、あの大学生アンゼルムスこそ俺の
兄弟だ──なんの、人間だけが、すべてなものか。
──法子はこの日、帰って来なかった。
夕日の最後の一と雫を、郭公亭の縁に冬子と並んで互いの掌(て)に受けてから雨戸をしめた。凄然(せいぜん)として
山が鳴っている。青海波(せいがいは)に千鳥の柄(がら)の寝床を二流れにもうのべてある奥の六畳には、枕もとのお一の箱
のうえに獅子鎮の柄香炉(えごうろ)を薫(くゆ)らせ、華奢な雪洞(ぼんぼり)にコードで電燈がひいてあった。箱の下棚には柔らかな
和紙の束が眼に白く、冬子は、今しがたの酒の残りを蛍手(ほたるで)の徳利にうつし猪□二つ添えて、盆ごと運ん
できた。なつかしや無明長夜(むみようぢようや)が──今はじまる。
──高い樹々に花鶏(あとり)の群れてキョッキョッと鳴きさわぐなかへ、樫鳥の渋い声が相の手をはさんでい
る。床のなかで耳を澄ましているとチッチッと地鳴きする頭高(かしらだか)の山すずめの声も混じる。そばに冬子の
姿はなく、外まわりで落葉をかくらしい箒の音がいかにも静かな、朝──八時半だった。一度も眼を覚
まさなかった。縄のように冬子と縒(よ)じれて死に絶えて、二度と蘇ることはあるまいと感じながら、夢も
見ず常世(とこよ)の闇へ滑り落ちて行ったのに──。
塩ざけをほぐしてのせて、焙(ほう)じ茶の香ばしい出ばなで朝の茶漬けには、好きな椎茸こぶ。千枚漬の八
ツ切。飯は早炊きのがすこしさめ加減の、頃合いだった。
501(153)
「もみじが……。ゆうべから散りはじめましたの」
「そのようだね。冷えて…くるね」
そして十時半には、冬子のやすやすと運転する車で旧伏見街道をまず深草へ、石峰寺へと走った。
加茂家の墓地は、香華(こうげ)を用意して待っていた法子の手で清められていた。
若沖の墓を見、奥の石仏五百羅漢の山庭もざっとひとめぐりすると、代って法子の達者な運転で、や
がて、洗ったような赤煉瓦のR大学の脇を西へ、南へ、また西へと折れ曲って行った。
「R大学ツて、京都駅の近くじゃなかったかね」
「越して来たのよお父さん。まっさら(二字傍点)だったでしょ」
「野尻の良平さんはあそこの先生ですのよ。それと……あなたの、八坂のほうの従妹さんが、学生課に
勤めて頑張ってらっしゃる」
「なんでも……よく知ってるね」
「そうよ、お父さん」と、法子にあっさり笑われた。
伏見下板橋通りの挨っぽい新開地を旧大坂街道の下(しも)鳥羽まで通り抜けた。伏見鳥羽の戦(いくさ)や七卿(しちきよう)落ちの
思いだされるうす暗い片側町を、鴨川下流の堤防にしんみりと沿うて行く──。
法子の提案で堤にあがってみた。東北から大きく西南へ意外に赤茶色い土を押し流してくる鴨川がの
ぞきこめた。むこう岸は、極度に狭まりながら数十メートル下方の合流点へ、剣かなにかの尾のように
尖がっている草深い中州だ。菜畑が尖端(さき)まで作ってある。流れの上手は蕭索として長い三角州のまま上
鳥羽、吉祥院、桂の里まで花々とのび、はるかに西山や愛宕の峰が青み渡って望まれた。
502(154)
鴨と桂との落合いを、場処をかえてもう一度見おろした。中州は刺すように川なかへのび、はびこる
青草が半ば流れにひたって風にそよぎ水に揺れている。桂は鴨より太く、水勢は鴨川がまさっていた。
桂の河原は長々と耕され、草場の西は目たつ鉄筋のビルなど一つもなく、一円昔ながら寂しやかな村里
の眺めだった。羽束師(はつかし)橋を渡って旧鴨川村内をゆっくり走った。
「桂川のまだ西に鴨(一字傍点)川村とは、妙なもンだね」
「ここにはね、三柱の筒男命(つつのおのみこと)をお祀りした、神(一字傍点)川神社の杜(もり)というのが、ホラあそこに。カミ、とカモと
が相通じた証拠のような、この辺では、もう少し下流の羽束師神社と並ぶ大事な古い古いお宮ですの。
摂津の住吉大社と同じ祭神で、ツツは蛇体の水神を意味している言葉ですのよ。桂川と鴨川とをともに
鎮める川祭りの神社としては、もう一つ雌雄(めお)の蛇神を祀った古社が昔はどこか河原近くにあって、そこ
の神主の苗字が代々、加茂……」
「羽束師、というのは」
「洩らしては袖やしほれむ……数ならぬ、身を恥かしの杜(もり)のしづくは、という古歌が石に刻まれて遣っ
ているのを、いま、ごらんになれますわ」
「身を、はづかし……」
「あたかも蛇の姿を厭い嫌うのにこと寄せて、故なく人をはずかしめ、またはずかしめられた者が、久
しく、日本を二分して生きてきた、ということでしょうよ」
「勝った山彦に、敗けた海彦が、膝を折って仕えねばならなかったように…」と、法子が運転席で苦々
しく呟いた一。
503(155)
──羽束師を出てのち西の山辺を北行、秦氏に由縁(ゆかり)の松尾大社に車を駐めた。鴨の玉依姫を丹(に)塗りの
矢と化して妊らせた雷神を祀ると、鎮座記は伝えている。仁王門の金網をはじめ縁結びを頼んで至る処
に杓子を懸け、あの人と結ばれたい、再会したい、一と目逢いたいなどという真剣そのものの願(ね)ぎ言が
書いてある。笑いながら一つ一つ読むうち、いつか顔をそむけ合うて三人で泣いた。
「お母さん。あたしおなかが…すいた」
「はいはい。運転かわるわよ」
松尾大橋の東堤、綺麗な舗装路をフルスピードで嵐山渡戸橋(らんざんとげつきよう)のほうへ走った。
「何度観ても、美しい橋だこと……。璋(あきら)は、拾ってやりたくてもまだ学校だったわね……」
常緑樹を彩る紅葉の山々のあでやかさにも、月曜の午さがりで人出というほどはなく、車を預け屋形
舟をやとって嵐峡館までの水のうえ、大堰川(おおいがわ)に散りこむもみじの一枚一枚がいとおしいほど紅く、ちい
さい。
食事のまえに湯をつかいたいと冬子は宿の女に命じていた。龍潭を見入れ、対岸に鹿が啼く小倉の山
が見渡せる湯殿のあることを知っていた冬子は、小さなバスケツトに着がえも用意して法子に持たせて
いた。
法子がはずかしがったので、すこしずつ時間をずらすことにして、川面にまぢかい部屋を先に出た。
湯は溶槽(ゆぶね)に溢れ、明るいガラス窓越しに見晴しは申し分なかった。静かに冬子があとから来た。つやや
かな裸形(らぎよう)を惜しみなくほてらせ滑り入るように湯につかる。と、眼を見て、湯の面(も)に両の乳房を美しく
浮かばせ声を嚥(の)んで、寄り、すがる──。
504(156)
──名子をのこして外の生簀(いけす)のある庭まで出たところに、法子がひっそり佇んでいた。
「お先…に」
と、──法子は、微笑みかえしそしてふと眉をひそめ、駆けよってきて、堪らず顔をぐぐっと肩に埋
めてくる。
──燗を熱めに頼んでひとり絶えまない瀬音を聴いているうちにも、これは何だ、どうしたことだと
言葉なく自問し、だが自答を手さぐりするまでもない、今しがた法子の悲鳴のような「いや」が、すべ
て明かしていた。あの娘(こ)は──どうかして生きて(三字傍点)、いたいのだ、このまま。母と子と、父も一緒に。そ
れなのに…。
渡戸橋へ戻ったのが三時まえだった。冬子の運転で人影まばらな太秦(うづまさ)広隆寺に立寄った。講堂の阿弥
陀如来像を拝し、霊宝館では、名高い弥勒菩薩のまえに三人が肩を寄せて身動きならなかった。
「ご先祖さまよ……」と、やがて冬子の促しで、秦河勝像、同夫人像と伝わる古体一対の神像のほうへ
歩を移した。太い眉を逆立て□引き結んだ、いかめしい顎ひげの男神像の冠にも厚い胸にもみごとな材
の木目が浮き出て、昏い灯(ほ)かげに、遥かな時の息ざしを刻んでいた──。
──御室(おむろ)仁和寺の西、むかし長尾の里と呼ばれた三宝寺川畔に湍(たぎ)つ鳴滝を聴いてから、一気に北大路
へ抜けでて上賀茂の里へ直行、傾きそめた日ざしをうけて楢(なら)の小川で眼にしみる白さにくき(二字傍点)大根を洗う
女たちを見た。長い丸太の先に重石(おもし)を吊ったすぐき(三字傍点)の天秤圧(てんびんおし)も見た。元気な白犬が飛ぶように里の小路
を宮の森へかけて行く。
賀茂の神へ、女二人の拝礼に胸を衝かれた。
505(157)
鉄のように直立しての拍手(かしわで)は、聴くもおろかな胸のうつろを鳴り響(とよ)もした。両脚踏みしめて横で敬礼
しながら、西の空半分が、まださわやかに晴れているのを想い入れていた。
「あなた……お疲れになって」
「いいや。だいじょうぶ。きみらが元気なら、行こう……貴船まで」
「ぞうお。……嬉しいわね法子」
「ありがとう、お父さん」
「急ごう。暗く…なる」
人ひとりに出逢わず市原の里へ山路をかけ抜けてからは、貴船□までもうヘッドライトを燈すほどの
闇間道(くらまみち)だった。滝つ瀬音を夕闇しるい紅葉蔭に白々と聴きながら、冬子は、運転する法子に、「奥の院
へ」と命じた。
──車をおき、思い川の丹(に)塗りの橋を渡る時分は、もう参道の杉の梢にも朱(あか)らひく夕日の色は残って
いなかった。遠く近く川瀬は響(とよ)んで、──檜皮(ひわだ)で葺いた丹(に)の門の奥に、灯の入ったらしい神殿の鎮まり
が物畏ろしい。門を入るとすぐ左の山裾に、連理の杉を負うた小さな祠から次々と拍手(かしわで)打って進む冬子
らに倣って、太古の用船を、そのまま塚に築(つ)きなしたという古墳もゆっくり一とまわりし、何にともな
くただ永遠(とこしえ)を祈るばかり。とっぷり落ちた夕闇の底から、黙々と、まだ半袖シャツの背の高い老人が、
つもる落葉を色とりどりに境内のまんなかへ掃き寄せている。
──ながい祈願だった。どっと炎のあがる感じに冬子がついに両膝を地に折った。法子も深々と身を
かがめた。詞(ことば)は聴きとれないが昏闇を奔り流れる波より白い二人のつぶやき。
506(158)
途方もない重い時を負うて、耐えて、やがて冬子がまず膝を払って起った。神前を去りやらず、そっ
と右の小指をさしのべて小指に絡ませてくる。
「………」
「あなた……お約束」
黙って、首をタテにふった。
「あなたは神を、ただ敬虔に認識なさっています。いえ、それでもよろしいのよ。でもね……あたした
ちはその神にむかってごらんのように、心から話しかけ、泣きも笑いもしますの。喜びも、怒りも、わが
親に愬えるようにただもう聴いていただくの。そんなふうに、タメにする気などなく神を慕い頼んでい
る人が、まだ、日本の国にたくさんいることをよく記憶していて欲しいんです。それと……そういう人
ほど、此の世で、よわく虐げられてきた切ない歴史を、いいえあやまちの歴史を、どうか、くりかえさ
ないで」
「…よくわかったよ…」これこそが、”提案”なのだ。”抗議”なのだ。
「今すぐ、おわかりになることで、ないでしょうよ。でも…あたしたちが…」
「………」
「法子もあたしも、いなくなったあと……」
「そんな……」
「そんなッて、それならお父さん。あたしたちと一緒に来てくださる気……」
「…行くよ…法子。行くとも」
507(159)
「それはダメ」
名子の声が火花をふいた。法子は叱られ顔を伏せて歔欷(すすりな)く、のを、抱きかかえて冬子を見た。寂しそ
うな母の、眼から頬へ青い此の世の疲れが夜目にも淡い縞になって浮いている──。
宇治の橋姫が、貴船詣でにここで足を洗って憩(やす)んだという足酒石(あしすすぎいし)まで法子の運転で戻ると、女二人は、
車中を動かぬよう固く言いおいて、闇の貴船川を、川原づたいに岩かげへ、水の音のする方へ、身をひ
そめて行った。──やがて帰ってきた冬子も法子も、すこし元気をとりもどしていた。触れる指さきま
でしっとりしなやかに、法子があまえて寄せてくる頬は、だが、水をうったように冷(ひ)いやり濡れていた。
北大路から高野川を東へ渡って、一路東山線を、清閑寺へもどった。祗園石段下、四条大通りなどま
だ賑やかに宵のくちだった。すっかり京の街を、さながらに、
「巻き取ってきたみたいよ」と、法子は一日の足どりを想い辿って愉しそうに笑う。冬子もこれで思い
が叶った、洛外と呼ばれる今日通ったようなところこそ、もともとの京都なのよと応え、
「昨日のうちにステーキ肉を買っておいてよかった、ワインもあるし」と運転席からにっこりふりむき、
片目をつむってみせた。
翌る朝は南から風が吹きこんで、午前中細い雨だった。木の葉が色々に落ちつづけるなかをたまげた
ように時々小鳥が黒い影になって雨空を斜めに鳴いて行く。端近に出てけぷる阿弥陀ケ峰を冬子と眺め
た。法子は元気にそばへ来て話したり、またどこかへ姿を隠していたりした。
盆で、冬子に茶を点(た)ててやった。きのう渡月橋の畔で面白うて買って帰った愛くるしい稚児の嵯峨面
508(160)
を、冬子は白い無地の風呂先のかどに懸け、足もらくななげ坐りで間近へ寄って、茶筅通しの手さばき
などを楽しんで見ていた。菓子は、上用(じようよ)の笑くぼが竹の皮を敷いた紙箱から出てきた。
お午には、法子も一緒に、白菜のなかぬきにたっぷり揚げ豆腐を切りこんでたいたのを、冷や御飯と
漬物で食べた。鰹のだしが利いて、郭公亭がほうっと温かく匂う。昔は山科の里から振り売りの大八車
をひいては山科なすをはじめ畦かぶら、ささげ、大根、唐辛子、畑菜などを積んで、馬町から正面界隈
までも手拭いをかぶったもんぺの農婦が、のどかに声を張って売り歩いた。
「それなら白川や祗園もそうだった。梯子や竹を編んだ床几(しようぎ)なども頭にのせて売りに来たよ」
「それと花屋さん。お仏壇の樒(しきみ)なども、そろそろと思うころにはかならず……」
「花やァ……番茶」
「街を広げるばかりで、近郊農業をすたれさせるなんて。都市設計としてはまるで落第だわ」
大人がそんな話をしているうち、法子は洗い物を片づけ、またふっとその辺に姿を見なくなった。雨
はやんで、豪華な感じのする太い黄金(きん)色の日ざしが、時おり低い雲間を射抜いて山辺や遠い街のうえを
照らした。
清閑寺に、今日も人声はしないが一時間二時間に一人ずつくらい、堂の縁にいっとき黙然と腰かけて
は、肩さきや皺くちゃの登山帽や若々しい女傘に、散る紅葉を置いてまた帰って行くらしい。郭公亭は
かなり高く、一度は上をうかがう人も、鐘楼の上の枝折戸からは結局あきらめてしまう。
何年もまえから冬子と此処に住みなれてきた気がする。広くはないが不自由のないわが家に想えて、
雨があがれば、ちょっとすあしに下駄で、八、九坪の棚になっている南の庭へ冬子を誘い出したりした。
509(161)
法子は御陵守(も)りの詰所を気安い寝床にし、ゆうべもそっちへ行っていたらしい。──墨に金の箔や粉
を微塵に溶きこんだような底光りのなかで、夜をこめて冬子の熱い肢体と幾度絡みあい叫び声をあげた
だろう。乳首はほの紅らんでちいさく立ち、背にも腹にもしみ一つなくさながらに白い炎となって冬子
はすすりなき、名を呼び、宙をはねて接吻した。
「ああ、このために女は生き、このために男は生きるのだわ」と冬子は小刻みに喘ぐ息のしたでそう言
い切った。「そうだわ。そうでしょ。ね」と、首を美しくそって乳(ち)に唇(くち)をあてよと求めた──。
郭公亭の障子をたて、奥へ隠れて冬子をまたそっと脱がせた。
「……冬(ふう)ちゃん」
「なアに」と、甘える。
「もう……ヘタな理屈を言っては生きのびるの、イヤだ……」
冬子は答えず、繊(ほそ)い手を男の膚へやさしく滑らせながら、眼を細ぐとして行った──。
眼を覚ました時、冬子は家にいなかった。
六条天皇陵から音羽の山頂へかかって行く深山蔭(みやまかげ)、苔に包まれ畳半分ほどの岩窟に、湧き水が、こと
に雨のあと、よく溜まる。此の世の時間にせめがれて幻の生命(いのち)をすりへらしている法子も冬子も、わず
かな間にその泉に浸ってはまたそっと戻ってくるのが、わかっていた。いとおしさに、寝床に坐りこん
で顔を伏せた。部屋に鳴咽(おえつ)の声が満ち、山風が荒々しく屋根をうつ──。
夕方まえ法子もつれて、まだ小学生だった冬子とはじめて来た山路を、逆に、清水寺へ歩いた。途中、
三人を見て思わず立ちすくむ六十年配の夫婦者とすれちがったが、冬子らはかすかに会釈をかえしてさ
510(162)
りげなかった。
華奢な木組みの子安塔の根に十センチほどの朱の鳥居と猪口酒(ちよくざけ)が奉納してあった。火の海のような楓
の波、波、の彼方に懸(かけ)造りの舞台も高々と、軒を列ねた清水寺堂塔のまとまりの佳さを□々に言い、そ
してタ茜の街一面に水蒸気ののぼる静かさにじっと見入った。
奥の院から入って、冬子はなにより本堂うしろの地主神社を拝みたいと言う。はでに朱く塗りまわし
て今めかしいが、どこより古い京の産土神(うぶすながみ)。祭神の大巳貴(おおなむち)は誰にもわかるよう大国主命と書き表わされ、
若者はあらたかな縁結びの神さまと親しむらしいが、年寄りははっきり「巳(み)ィさん」と呼んで崇めてい
た。
「あたしたちの縁も、しっかりと結んで下さったわ」
冬子はそう頷き頷き固く手を握らせて、そういうことも疑いのない□ぶりで言う。
「桜の時分にも、来たかったわ」と、法子は天井画の巨龍の絵を見あげながら、ポツリ。
「法子(ノコ)…」と、冬子は制しかけて、あとは言わなかった。
三年版、真葛ケ原と歩いて、円山公園側の石の鳥居から八坂神社にも詣った。
「おけら詣りに来たわね」と囁く母の声を耳敏く法子は聞いて、
「もうすぐ…なのに。大晦日は…」としおれられると、声あげて泣きたい。まるまると着ふくれた赤ち
ゃんのお宮参りにも出逢った。法子は涙を隠さなかった。冬子はしめっぽい二人を励ますように、晩御
飯のまえに映画が観たいと言いだした。
祗園石段下の画廊の表に、新聞小説の挿絵を頼みたいと思う高校後輩の絵が出ていた。黄金(きん)色の畳(たたな)わ
511(163)
る山々をまるでふくよかな茵(しとね)のようにして、淡い桃色のうすぎぬを着た少女が、両頬をそっと手のひら
に支えて静思している──。
「…賛成よ」
冬子はじっと見入ってから端的にそう言うと、にっこり首をタテにふってくれた。
「幸福の黄色いハンカチ」といういかにも”身内”について考えさせてくれる映画を観た。
「おいしィい、ジャワカレー」の店というのを木屋町で探しあてた。からさに涙を流して笑いあい、や
っと一皿を平らげてさんざめくネオンの小路に出たのが九時すぎ。法子の希望をいれ、近くのディスコ
パブとやらへ繰りこんだ。にじむ赤や青の照明と耳をつんざくミュージックに大人はたじろぐ。委細か
まわず法子は、バイカル号でみせた肩さきのこきざみな動きの利いたダンスを、なやましく踊りつづけ
た。人もおとろいて見ていた──。
「あのまま、いつまでも踊らしておいてあげたい……」
一瞬喧騒を消し去るように冬子は、夢中で踊りやめない法子から顔をそむけ、呻いた。
ビヤホールでラストオーダーのジョッキをチンと打ちあわせ乾盃して、四条小橋の橋づめから木屋町
筋を南へ帰るタクシーに乗った。松原大橋を東に渡ってもらった。
人けの絶えた野尻小路をのぞき六道の辻をのぞいて、東山線へ出ると、やがて東側にあすの葬式の用
意に花輪をあげている家のまえを通らねばならなかった。女二人はッと頭をさげ声を喪っているのを、
どう慰めようもなく、ただ膝においた手と手を三つ一つに、固く握りあう──。
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次の朝、霜がおりた。もみじはあやうく枝という枝にとまって真紅に顫えて見えた。伯父の憲吉が愛
したハーモニカを、法子がたどたどしく庭へでて吹いた。
「ハーモニカは、父さんのほうが巧いな」
「癪ね」と笑って手渡され、「庭の千草」や「故郷の空」や「われは海の子」をつづけざま吹いた。冬
子も来て昔から好きだった「野菊」を吹かせ、しっとりと歌う。
しもがおりてもまけないで、
野原や山にむれて咲き、
秋のなごりをおしむ花。
そして冬子は石森延男のもとの詩句を「あかるい」でなしに、「しづかな(四字傍点)野菊、うすむらさきよ」と
替えて歌いおさめた。死の世界のはかりがたい明るさを、瞬間、地平の涯てまでのぞいた気がした。
「このハーモニカ。璋に、やって頂戴な。いつか…」と、冬子は若く逝った兄を想い顔に、寒そうに掌
に笛を載せたまま、今日は「お父さん」のために、何でもいいから買物がしてみたいのと娘のほうへ言
いかけた。
「なにが欲しいとも思わないが。……それよりか」と、絶句した。半日一日でも三人で、そう、この三
人で暮していたかった。二度とこういうことは不可能と察していた、だから──、だからの先が、声に
ならない。
513(165)
四条高島屋のネクタイ売場には、冬子が一度高校を出たあと、わずかの期間勤めていたことがある。
それからまた思いたって、同じ大学へ受験して入ってきたのだった。
職場を退けてくる時刻の冬子を、市電で帰る四条河原町停留所のまンまえの書店で立読みしながら、
よく待った。そんな時に小松秋子とも偶然出逢って、それをまた秋子と待合わせていたように冬子に見
つかってしまったことも、あったのだ──。
冬子はさりげない、しかし佳い織りのネクタイを一本選んでくれた。冬子のために絹のスカーフを買
い、法子には、綺麗な七宝に黄金(きん)鎖のペンダントを自分の手でかけてやった。
四条と蛸薬師通りの間にあったユーハイムが高島屋の北むかいの角に移っていた。革張りの背凭れが
高いふかふかしたソファで旨い紅茶ののめた店だったが、今の店はすっかり様子が変わっていた。法子
は蜂蜜を使った小枝のようなツヴァイゲクーヘンの売出されているのに目をとめ、冬子は木の実のたっ
ぷり入ったプラムケーキに眼を細めていた。
法子の運転で、昼食は割愛して清閑寺へ帰った。馬町の坂を登る、と、もとの安曇(あど)の家が土橋(どばし)を上下
にはさんでいた手前で冬子は歩きたいと言い、法子には徐行してもらって二人で橋づめの祠にちいさな
祈りをささげ、感慨深く、音羽川へそそぐ小川を見おろした。
三島神社に詣り、正林寺の北から弓なりに旧街道の通称茶碗坂へまわって、古い村社の山王神社にも
寄るうち、冬子の疲労は額に、頸から衿もとに、紫色に淡いむらむらになってにじみでた。
──風もないのに紅い木の葉がひらひら、ひらひら苦集滅道(くずめじ)に舞い落ちて行くのを、郭公亭に棒立ち
になって眺めていた。冬子の姿はその辺に見えなかった。
514(166)
「お父さん……お風呂へいらしたら」
「………」
法子は上馬町(かみうままち)の銭湯のあく時刻を勘定にいれて、母の言いつけて送り迎えする気らしい。
「お買物もあるのよ」と法子は言いだした。
約束の時間に、また法子の車に拾われて湯冷めせず郭公亭にもどった。冬子も水にふれて来て元気を
回復したか、紺絣に、半裏仕立ての唐様の上(うわ)っぱりを着重ねて、白足袋で落葉をかいていた。
「お二人は、その辺でしげしげと顔でも見合ってて。お夕飯はあたしにまかせて頂戴」と法子は頑張る。
「あなた。お風邪ひいちゃ、いやですよ」
「きみこそ」
冬子はポンと胸をはってみせ、そして法子が家の中にいる間に、ちょっと裏山の安曇(あど)家の墓地まで一
緒に参ってくださると訊いた。
清閑寺安曇家代々の墓地へは、本堂の背後を段々に山に入るよりも、郭公亭の東からいきなり浅い谷
を渡り、東の尾上(おのえ)へとりつくのが近かった。仰山な墓原から小山ひとつ離れ、松楓の根方に二基の低い
五輪塔を脇侍(わきじ)のていに、一つ墓は、大きくも小さくもなく不思議に出人の手で清らかに守られていた。
掌を合わせる、のを冬子はすこし離れて見ていた。それから、夏にも順子と参ってくれたことの礼を
言い、いつも此処までは難儀ですから気を遣わないでと、優しく念を押した。
「今度こそ、あなたの胸の内に、安らかにあたしたちが棲めるお墓を、建てていただけるのですもの」
「……ほんとうに、もう……ダメなの」
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「ええそれが…約束なのよ。でも、嬉しかったわ。こんなふうにあなたと……生き直せて」
冬子は「死に直せて」と言うのをサラリと避けた。
「お願いがありますの」
「なんだろうか。なンでも……」
「法子が、あたしのあとを追うのは、二日半おくれます。そのあいだ、あなたあの子を……あたしと同
じように愛してやって」
「そんな……」と息をつめた。
「お願い。あの不幸せな子を、あたしと同じに、一日でも二日でも幸せな女にしてやって頂戴」
「………」
「あたしだって……宏ツちゃん……あたしだって死にと、なかった。一緒に生きていたかったわ。でも
あの法子は、たった二日半。眼もあかず、あなたやあたしの声も聞かずに死んでいる子なのよ。抱いて
やって……女らしく。あたしを見送ってから……」
唇をかんで、涙をただ流しているのを冬子は手巾(ハンカチ)で拭いてくれながら、「産み損じた」娘のため、譲
らぬ眼で同じ言葉をくりかえした。
稚児ケ池の奥の蓮池がのぞける処まで、そのあと冬子は連れて行った。もう夕ぐれの気はいのなかに、
うち重ね重ね蓮の葉のなまじろい青さが、微光を放っもののように木の間ごしに犇(ひしめ)いて見えた。
「あなた。あたしの…身内ね」
「そうだ」
516(168)
「あたしが、もし、ご一緒にあの池の底へとお願いしたら」
「行く」
「ほんとね……。ありがとう。でも、いけませんよ。ぜったい、それはいけないのよ」
執心(しゅうしん)を解き放ち、もっと自由になり、自分たちへの負担は忘れてもらおうと、こうして此処に、此の
世に、来ている。冬子はそう言い、しかしどう顔をそむけても耐えきれずふくらむ眼尻の涙は、べつの
ことを言っていた。
「それでもよ。……それでも、ダメよ」と冬子は息を喘(あえ)がせる。花を落とした水引草が笞(しもと)立って黒ずみ、
すこし離れた斜面のふちに、比良で見たより黄色がかったセンブリがまだ莟(つぼ)みももって七、八つ鋭い五弁
の花を光らせていた。その根は千度煎じて振りだしても苦いという花を、こんな時に美しいと思って眺
めている眼をくじり出したかった。
法子の心入れの夕飯はなにもかも温かかった。食後またハーモニカを吹いた。トランプも出てきた。
「……お茶が、いただきたいわ」
「いいとも。郭公亭では冷えるから、ここでぼくがざっと点(た)ててあげよう」
「…あたしも…、お父さんにお茶が習いたかったわ」
「教えてあげたかったね。今、やってみるか」
「ほんと…」と法子はその気だ──。
そして茶のあとかたづけは全部ひきうけているまに、二人はそっと山の奥へ、岩間の泉へ姿を隠し、
そして冬子ひとり、小一時間してもどってきた。
517(169)
「此家(ここ)のことは、あなた。あとで、なにも気を遣わないでいいんですのよ。それは憶えてて」
頷きかえすだけだ──。冬子は凄いほど蒼白だったが、濃い瞳も、瞳を浮かばせた白い眼も冴え冴え
澄んで、男のからだを抱き締める腕ぢからには底知れない精気が籠もっていた。思わずオゥと応えた。
「蛇ともなろう」と叫んでいた。冬子も叫び声をこらえなかった。男は炎を吐き女は満々と充ち溢れた。
固く結んだ二た筋の緒(お)と化して奥の奥まで肉を絡ませ血を求めあい、虚空を埋めて二人の息づかいは狭
霧(さぎり)より濛々と渦巻き流れた。八度遂げた、まで、記憶がある──、
「……あなたも……とうとう蛇になったわ」と、冬子ががっくり頭を落とし、惜しみなく腹這いに両手
両脚をのばし切ったまま息絶え絶えに、だが、しんから嬉しそうにそう呟くのを聴いて、すうッと昏い
夢の器に抱えこまれて行った。
朝──氷室(ひむろ)のように家中が冷えていた。法子が庭に火を焚いているらしく、一面の霜を踏んでやがて
冬子もひっそりどこかから戻ってきた。髪も額も変若水(おちみづ)を浴ぴてきたままひしと濡れて見え、もう、蔽
いようもなく肌はむらむらと淡い濃い紫のしま(二字傍点)を透かしていた。
「そうだ法子。どんど(三字傍点)を焚こう。もっともっと焚いて冷い空気を、火祭りのように温ためなきゃ」
「いいえ、あなた。冬……が、来ましたのよ」
それよりも冬子は、二人に、これから一緒に山を歩いてほしいと言いだした?。
母と娘が、幾度も来て生命(いのち)の泉を浴びたらしい山頂近い岩清水にも立寄った。二人は黙然としゃがん
で両掌の水で顔をひたし、ゆっくり肩で息をしていた。それから清水山の尾根道を一気に北へ踏みわけ、
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はるか眼下に八坂法観寺の五重塔相輪(そうりん)を見おろしながら、急な崖道を、とある墓地に下り立った。霊鷲
山(りようじゆさん)正法寺、開山国阿上人納骨堂の背後(まうしろ)だった。地這えに、残りの野菊が数株(すうしゆ)咲いていた。京都市内を一
望にする景勝としては、これに及ぶ境内はない。が、その余は人跡まれに、佗びた本堂に釈迦涅槃(ねはん)像や
弁天、大黒天などが祀られているだけだ。安曇川口、願船寺とは法類だ。
だが名子はむしろ正法寺本堂の東、峨々たる山壁の根に歳月が置き忘れたような古い古い二基の石の
卒塔婆(そとうば)のまえへ誘った。一は、高さ一メートル余の細い柱の上に五輪塔を重ね、今一つは地上にいとお
しげに、小さな、やはり五輪塔──。
「この二つの塔が……鏡塚。そして、あそこに鏡の水」
石の塔婆の根を潜って崖ぞいに南の岩井まで、北の巨きな岩穴からとろッと重そうに澄みきった山清
水が地下に横たわるように流れていた。正法寺の鏡の水は、清水(きよみづ)地主神社に祀られた産土神(うぶすながみ)が清まわる
秘密の涌井(わくい)と冬子は娘にも教え、どうかしばらく母娘(おやこ)をここに入れて、本堂の縁にあがって京都の街を
眺めていてほしい、二人は最期の命をこの泉に貰いうけ、身を洗い清めて一緒に清閑寺へ帰りたいと頼
むのだった。
カガミ(蛇身)の墓──水──。
なにも考えやめ、くっきり晴れた西山の、尾根の山なみより大地に定規をあてたような山裾の横一線
を街の彼方にホウとした気もちで見た。心おきなく冬子と法子とが岩清水に身を憩い戯れているさまは、
ただ想うだけでも優しく美しく、このまま永遠(とこしえ)に此処に居坐って二人を見守っていてやりたくさえあっ
た。真葛ケ原、八坂、清水坂、どこかしこにも紅いきらめきの落葉が散りに散って、鴨川へ、京の町へ
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流されて行く──。
──高い石段を、ならんで下りた。八坂の塔を見あげ、文之助茶屋で甘酒を呑んだ。
円山公園からタクシーで帰った。御陵山や清閑寺のもみじの散りざまは、凄い──と息をのむしかな
い。親子はかたまって郭公亭に半日坐っていた。時々障子をあけて阿弥陀ケ峰を眺め、またしめ切って
こもごも話した。
冬子は、初めて東京に帰りを待っている家族、迪子や朝日子、建日子のことを□にした。同じ身内と
思い、今ではあなたが愛するようにあたしたちも建日子(たけひこ)ちゃんたちを愛していますとさえ言った。それ
はどこか哀しい嘘のようにも聞える告白だったが、頷いて、ありがとうと頭をさげた。
三時すぎ時雨が来て、去った。法子がそばにいなかった。あと二日半の法子を、お願いよと冬子は安
曇(あど)の墓地で言ったことをくりかえし、そっと手をひいて雨戸をたてたままの奥へ誘った。──乳房はな
おはずんでいた。美しい脚をまッ白に開いたまま冬子は黒髪を乱して宏ッちゃん宏ッちゃんと呼びつづ
けた。抱きしめてもしめてもいとおしかった。五体、骨も溶けよと泣いて願った。
──法子が調えてきた晩の食事を、もう冬子は□にしなかった。
「法子。ごめんね、いつも一人で寝させて。今夜は三人でならんで寝ましょうね」
「お母さん……お母さん!お母さん……いや、いや、死ぬなんて、いや」
冬子は娘を抱いて泣き伏した。
「お父さん。でも、ほんとにありがとう。よく来てくださったわ」
「法子……お父さん、忘れやしないよ」
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「ありがと。……新聞小説、りっぱに書いてね。もしお父さんの小説をちよっとでもわるく言うヤツが
いたら、きっとこのあたしが掴み殺してやるわ……」
法子は、じわッと十本の指の爪を烈しく蝮(まむし)に曲げてみせた。
「おばかさんネ……法子は」と冬子は、涙顔のまま微笑んでいた。
十一月二十三日は新しい稲を祝って果ての秋を送り、一夜に立つ魂(たま)祭りの冬を、心温かに待ち迎える
日──。冬子は二人に、そっと、それを思いださせてくれた。
「……お父さん。バイカル号楽しかったわ!」
「あたしも。ジェルジンスキィ公園の朝を、けっして忘れないわ」
男とは──、なンとものの分からないデクの坊なのだろう。蛸より鈍感に生きていると、冬子らの声
のしたでたじろいだ。ソ連の旅も東京の家族のことも忘れてなかったが、霞ほどの手応えででも覚えて
などいなかった。この期(ご)にもなお好色の熱い感触がちいさく炎をあげている。──蛇になったのだ、か
まわない──と思った。
冬子は法子に部屋の灯をくらくして、床をとるように命じた。手伝った。名子は迫る時の重みに耐え
ていた。だが泣かなかった。微笑んでさえいた。
母と娘を左右に、灯を消して、最期の夜へ手をとり合ってゆっくり沈んで行った。
「あなた……」
「冬子。冬子……愛しているよ」
「愛しているわ……心からよ」と声が絶えて行く、握っていた片手が氷の溶けるように、するすると遠
521(173)
くへ去る──、はっと全身が硬(こわ)ばった。法子の鳴咽(おえつ)が暗闇を揺すり、それでも咄嗟に、灯をつけてはダ
メと父親を制した。
「やすみましょ、お父さん。お父さん……淋しい……」
「法子おいで。お父さんのほうへ、おいで」
「………」
──昭和五十四年、十一月二十三日の朝陽は昏(くら)かった。法子が、身じまいして、起って静かに雨戸を
一枚あけていた。
「お父さん、ちゃんと服を着て。……愕かないでね。順叔母さんと璋(あきら)クンも、もう来てるのよ」
「順たちが」ととび起きた。冬子の床はひっそりと、白い抗カヴァも青海波(せいがいは)の蒲団も人けなく静まって
見える──。
順子と璋が入ってきた。法子はもう一度愕いてはいけないと言い、顔をふって涙を払いながら優しい
じろ
両手で掛蒲団をあげた──。四十センチほどの青白い──小蛇が、まだかすかに身動いで顔を四人にむ
けている。
「冬(ふう)ちゃん……」
声もろとも魂(たま)の緒の今絶えて行く蛇を両の掌に掬いあげていた。
「行きましょ」と法子が叫んだ。
山を駆けた。逝く秋の足音と近づく冬の足音が荒い息にいりまじり、もみじは前後を散りに散る──。
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おととい夕暮に裏からまわって覗いた稚児ケ池の奥まで、幻の法子も現(うつつ)の璋も大人のまえを夢中で走っ
た。
蛇の冬子が片腕をしなやかに捲いて顔を肩にあずけてきていた。いとおしかった。美しかった。
「この山道をこう来るようにと教えてくれてたんだね、きみは」と半ば曇った碧い眼をのぞいて顔を寄
せた。朱い舌がかすかに頬をなでた。
「さ、おいで。やすらかにこの蓮のしたで夢をごらん……そして眼が醒めて淋しくなったら、いつだっ
て呼ぶがいい。それにしても冬(ふう)ちゃん……なんて、軽いのだ」
順子と璋とが来てそっと蛇にふれた。法子は唇を寄せて変わり果てた母の、もうたゆげな瞳をとじて
やった。かすかに、尾がはねて手を打つ──。
「冬子……愛していたんだおまえを」
そう囁き、法子にも手を添えさせ、かさなる大きな蓮の葉のかげへ、あえかにあえかな冬子の命をか
えしてやった。見送る四人のまえをはなやかにいま秋が逝(ゆ)き、新しい春を待つため、優しい母のように、
冬が、すぐうしろに、声もなく、立っていた。
──完──
523(175)
作品の後に
新聞に連載のときの挿絵は、中学・高校で後輩にあたる日展の堀泰明に頼んだ。堀は小学校こ
そべつべつだったが、通から通へ抜け路地を走ればものの二分とかからない近所の子だった。学
区制の定着した京都では、小学校がちがえば、たとえ近所でも異国のように感じてしまう風もあ
って、彼が、同じ市立日吉ケ丘高校の美術コースで日本画を専攻していると噂に聞いた頃までは、
ほとんど念頭になかった。年齢も彼は六つ若く、少年時代の六っちがいは大きかった。
堀の名前を画業に結びつけて意識したのは、もう私が作家生活を始めて以後であったと思う。
人物、ことに少女の描ける、そして風景も描けて佳い線をもっている、そのことを私は堀泰明の
特徴として記憶していた。堀の描く少女と私の想い描いているヒロインたちとは、正直のところ
まったく似ていないのは分かっていた。うまく説明できないが、そのほうが良いと思った、どっ
ちみち、重なりあう筈はないのだから。
さて新聞小説は私も初めて、挿絵は堀も初めてで、さぞ新聞社には心配をかけたろう。私が作
柄のうえで頑固なら、堀も仕事にはごく一徹だった。小説はごらんのように、ただ映像化の台本
めく粗筋っぽい代物ではない。挿絵も、新聞の粗い紙質にのせて縮小されるには、概して丁寧に
筆づかいが細かかった。原画ではさすがの筆も、新聞にのると気の毒なほど細部が飛んだり黒ず
176
んだりした。入稿おくれで絵が電送されたりすると、効果は格別落ちた。堀のためにも読者のた
めにも、かなりはらはらした。ちなみにロシアの絵は、私の撮ってきた写真をふんだんに利用し
てもらった。新聞の挿絵って、たいへんなんだなあと、しみじみと思った。
堀の、時たま線だけで描かれた挿絵は、それは佳かった。比良の麓の湖づらを波そよがせ、世
にも優しい小蛇の泳ぎさる絵など、もともと蛇となると絵でも写真でもとび退く私が、その日の
掲載紙の届いたときは、思わず涙ぐんだ。それほど美しい絵だった。堀はほんとうによく手伝っ
てくれた。嬉しかった。
嬉しかったといえば、やはり、この有り難い「提案」を、実現まで、また連載の終わるまで維
持して貰った新聞三社連合の関係者のみなさんの配慮を、忘れまい。名前をあげてはかえってご
迷惑があるやも知れず控えるが、遅ればせのお礼をここで大勢の皆さんに申し上げたい。二百四
十一回はさぞ長かったろう、いつ「終わってくれるのか」とも思っておられただろう。今度、繰
り返し読みまた読んで、だが、『冬祭り』はこれで祭り終えていると感じた。「あなたは、それ
でも、このモノたちを、差別するのですか」と、読み終えた方に私はそう問いかけたかった。思
えば太宰賞の『清経入水』いらい、繰り返し私は同じ問いを自身にもつきつけ、また世に問うて
きたのである。
* 以下は、できれば、小説を読み終えられてから見てください。
風光明媚な山紫水明の京都や日本を、むろん私は愛している。しかし、それだけの京都でも日
本でもありえない。
177
たとえば過去の、また現代の、そして未来にも及んで最も難儀な問題は何であろうか。根の深
い一つは「世襲」問題だと、この作品を書く以前から確信していた。世間には、望んで確保した
い世襲がある(政治や実業にはもとより、教育や芸術.文学の世界にまでも、ある。)ように、
どうかしてその桎梏(しつこく)から逃れたい世襲もある。芸能などは、本当に久しく、そういう負の世襲の
一つの大社会であったが、戦後に画期的転換をとげ、今や望まれる世襲化へ大きく膨脹している
と見られる。表面はそう見える。にもかかわらず、なお色々に不利な世襲を強いられた立場は厳
然と在って、あたかも「機能」している。九割がたの者は安堵してその恩恵に浴しているのだ。
人種差別や男女差別等は(理解を簡明にするために)措くが、歴史的な差別問題の根の深みが
「何」にあったか。世界史的にみても、常に「死者」との関わりにあった。もっと端的にいえば、
「死体」と関わる距離の遠いと近いとに、深刻な尺度を置かれがちであった。穢れと畏れ。それ
が表裏し、死体の処理と祭祠(芸能)とが分業化された。死者を葬り祭り慰め鎮める、その仕事
の人の世のためには必要不可欠なことをみなが信じ頼みつつ、かつ「お別火」をつかって上へ下
へ差別してきた歴史が、動きなく、有った。日本には、有った。いまも無いとは言いがたい。
人の世に「手分け」のあるのは必然の発展だが、「手直し」をとかく欠く点は、また人のエゴ
の深刻さを示している。いい世襲とつらい世襲とが固定する、それが不等な階級社会でなくて何
であろうか。そのような社会へ、いま日本は、むしろ日一日と逆行して行きつつある。「世襲」
のありようを見ていると、それを言わずにおれなくなる。しかも恐ろしいのは、立場なり生活な
りの外的差別をこえて、人間自体の差別までも制度化してきた錯ちを、また深めて行くのかも知
178
れないエゴイズムである。その一点を自分自身に対しても絶えず告発したいために、私は、私の
小説世界にかなり複雑な仕掛けを、ながいあいだ色を塗り重ね重ねするぐあいに用意しつづけて
来たと言えるだろう。「幻想」という方法をあえて多用したいちばんの理由は、そういうふうな
仕掛けでないと語りきれないほど、「問題」が、危うくも危うく、難儀をきわめていたからであ
る。この『冬祭り』での「蛇」が作の主題とどう絡まっていたかを思ってくださる方には、だぶ
ん、苦心は察していただけるだろう。『風の奏で』や『初恋』では平家語りの成立を話題に芸と
遊びとの同じ問題を考えた。『北の時代』では、田沼・楽翁時代の一知識人の実践に託して、ア
イヌと在日東洋人との同じような問題に挑んでみた。『四度の瀧』では常陸国風土記によりなが
ら征服と差別との根源を考えた。そして『親指のマリア』では白石とシドッチとの画期的な対決
を利して、信仰と近代化にまつわる同じ問題に、すすんで私は直面してみたのである。みな『清
経入水』や『みごもりの湖』以来の同じ姿勢である。どれもこれも一見あつい恋愛小説であるけ
れども、それもまた意図したことであるけれども、それすらが隠れ蓑であるかのように、その蔭
に解きにくく説きにくい、つまりは同じ苦い苦い「問題」意識を一度として捨てたことはなかっ
た。「歴史に学ぶ」ことの、それが私の一つの解答提出でありつづけた。
加えて言えば、そこに「死なれる」という体験、「死なせた」という実感が重なっている。そ
の思いなしに私には、「生まれる」というただの受け身を「生きる」自覚へと運んで行ける道は
無かった。
ともあれ今一度問おう、「それでも、あなたは、この冬子たちを蔑むのですか……」と。
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ところでこの小説では、「時間」を輪に結んでみたくもあった。子供の頃から私は、時間が線
的持続とは思われず、時空間が球のように在り、球自体が膨らんで行くと想って来た。したがっ
て過去とか未来とか現在という区別にさほどの関心がなく、むしろ生前の死や死後の生と相対化
されての現世の生死を感じていた。むろん死ぬことへの不安が紡いだ安心の思案でもあったろう。
作品『冬祭り』の成り立ちには、ちょっと錯綜する時間の輪(リング)が仕組んであり、ことに新聞での読
者は、小説がまだ一行も掲載されていない筈の時点で、その新聞小説を、もう全部読みおえてい
るという造りになっていた。そういう趣向も私は懐にもっていた。しかも「冬祭り」と題をえた
最初、ロシアヘ旅に出るという以上の何一つ具体的なストーリィも、私には用意がなかった。た
だ法子が誘い、ただ冬子が導いてくれた。
現実の人とならんで、歴史上の人が、さらには架空の創られた人が、何の差異もなく私のまる
い時空間に共存している。現実の人々には往々失望するけれど、歴史の人は往々暗闇を孕んでい
るけれど、それに比べると自分の創りあげた人とはほんとうに親しくできる。冬子や法子と共生
しない人生はわたしには考えられない。作品『冬祭り』は、私の建てた、すべて愛する身内たち
の紙の家であり紙の墓である。いや、一作一作が、みな、そうなのである。
さて大学は十月から再開し、六百五十人近くが「文学」に出席票を提出してきた。前期の二倍
強で階段教室に収容しきれない。漱石にかわって、潤一郎を後期は話している。
次の「湖の本」は早春に”京”味津々の「わる□」エッセイをお届けする。書籍小包代が大幅
に値上げされ、苦しい。この出版の息の根を最期にとめるのは、送料と消費税とにちがいない。
180電子版・湖の本 14