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秦恒平 湖(うみ)の本 23 冬祭り 中
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目次
第一章 ロシアヘ…………………………上巻…5
第二章 バイカル号で……………………上巻…37
第三章 津軽の海を………………………上巻…70
第四章 ナホトカから……………………上巻…102
第五章 ハバロフスク経由………………上巻…133
第六章 雨のモスクワ……………………上巻…162
第七章 ルサールカ………………………………192
第八章 再会………………………………………224
第九章 そして一週間……………………………258
第十章 黄金の秋…………………………………293
第十一章 冬のことぶれ………………………326…
第十二章 提案…………………………下巻…
第十三章 ひまつりの山へ……………下巻…
第十四章 みごもりの湖へ……………下巻…
第十五章 愛(かな)しい日々………下巻…
第十六章 冬祭り………………………下巻…
作品の後に ………………………………1181
〈表紙〉
装画 城 景都
印刻 井口哲郎
装幀 堤いく子
(いく:或 のたすきが三本)
2
冬祭り 中
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東京新聞・中日新聞・北海道新聞・西日本新聞・河北新聞・神戸新聞 夕刊
昭和五十五年五月九日(金)一五十六年二月二十八日(土)二百四十一回連載
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──睡さよりも露骨に、疲労が、たとえば眉の下の骨をにぶく疼(うず)かせていた。眼球がくしゃくしゃし
た紙のように瞼にさわる。
すこし早いがロビーへおりて、ポストを探したり切手や封筒が買えたら買うなりしておこう。
チャイ(茶)ぐらいカフェでひとり呑めるだろう。
そう思ってパスポートと財布をつかみ廊下へでた。ひゅっと肩さきを射すくめる空気の冷えに、とっ
て返してジャケットを着重ねた。
ああは言っても、冬子といつ逢えるか。実現しなければ、吉(よツ)さんや安曇(あど)順子に、見たか、もない話だ
った。大きな予定こそ十三日晩おそくに列車「赤い矢」でレニングラードヘ発ち、そのあとは、グルジ
ア共和国へ行きたいと希望はしてあるが。
「グルジア。それは、いいです。ビ(一字傍点)リシヘ行きましょう」と、即座にエレーナさんの賛成もえてある。
が、ここ四日間のモスクワでのスケジュールは聴いていない。耳にのこる冬子の声をとり包むように、
深いところから懸念のかげがすうっと伸びた。
冬子とは、一正確に二十年と七ヶ月話さなかったことになる。最後のあの時など、冬子は眼を光ら
せ、かけ寄ろうとするのを、来るなと遠くから双の親指と人さし指とを十手か二丁拳銃のように突きつ
け、そむきざま人波にすばやく巻かれて行った。迪(みち)子が、一期若いすでに籍に入った妻、が大学を卒業
の当日だった。三月二十一日、卒業式場に近い、大学構内の図書館まえだった。
──まだ二回生の冬子に、あの日あの場所へ、どんなほかの用があっただろう。
安曇(あど)冬子は高校を卒業すると、一年間四条高島屋のネクタイ売場に勤めたが、二年めに、思いたって
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同じ大学の三年後輩として入学してきた、ただし構内に同居の女子大学部の学生として。
相談ずくではなかった。それどころか、中学三年の秋いらい休まず伯母の茶室へお茶の稽古に通って
来ていたのに、あの二、三年間は、どう顔をあわせても、表面なごやかに、だがAの横棒にくわえる縦
線はきまって二本、人目にまぎれて立てる指も冷やかにいつも二本だった──たった一度、を除いて。
そうだった。今しがた、二十年と七ヶ月ぶり冬子と電話□で話して、話す最中から、もう、遠い背戸
を外でほとほと叩くように、眼の底へおとずれ寄る人影があった。妻ではない。安曇順子でも、ない。
小松秋子だった。女学校以来、秋(ああ)ちゃん冬(ふう)ちゃんとお神酒徳利に睦みおうた冬子の親友が、久しいモ
スクワでの逢う瀬を、かすかに、はや堰(せ)きに来ていた──。
──秋子の、小気味いい名乗りを聴いたのは、彼女が高校一年のたしか師走に入って、突如、学校内
の茶室に、新入りの茶道部員として顔を見せた時だ。おッと声がでた。小松秋子と見知っていた。
「普通コース、ですね」
「はい。一年三組です。よろしくお願いします」
「おたがいさま」
そして知らぬ顔で、手のあいた三年生部員に、手ほどきの帛紗(ふくさ)さばきから教えさせた。
その年は、高校に茶道部ができて二年めだった。
初代校長が、親交のあった茶室建築の達者にたのんで、美術コース校舎の二階、広い和室に隣接して
一間(いつけん)の下座床(げざどこ)をもつ茶室を、造りつけた。不十分ながら稽古用の茶道具も一式用意されていた。だが、
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当時、せっかく茶道部をつくっても指導の先生が校内に見つからなかった。
それでも秋子らが入学の前年には、数人の仲間を集め、同好会の体裁を調えたうえ、稽古のため茶室
と道具とを使わせてもらいたいと、よほど芯になって奔走してみたものだ。春、新学年に発足して、し
かし部員の減るのは早かった。夏休みまえには三年生の先輩女子と自分と、二人しか残らなかった。先
輩の0さんには、自分が家で伯母に習ってきたかぎりの手前作法を、そっくり見習ってもらった。二人
で金を出しあって、抹茶や菓子を買い、炭火も使って、およそむだ□ひとつきかず、ひっそり閑とした
なかで代る代る小習(こならい)の作法を稽古した。夕かげが西の障子窓にあたってはなはなと朱い色が手前畳に落
ちかかるころ、黙然と火を落とし二人で帰りじたくする時分は、いかにも寂しく心ぼそく、これで茶道
部が育つかという心配より、この先輩にどう卒業するまで気もちよく稽古をつづけてもらえるかが、不
安だった。
二学期、やっと二人、一年生から女子の入部があった。が、そのうち一人は長つづきがしなかった、
三学年から各一人きりの稽古では、茶室にはいる鍵を毎度校長室へ借りに行くにも肩身せまかった。
その次の春だった、冬子と小松秋子とが申しあわせ、同じ高校へ試験をうけて入学してきたのは。自
宅からまぢかな、高校大学もある女子中学から強いて公立に転じるのを、よく母親が許し兄も同意した
と思うばかりだが、小松秋子の場合は家庭の事情もちがい、経済的に、私立の学校をはなれるいい機会(しお)
であったのだろう。
新学年、さいわいと三年、二年生から数人の茶道部入りがあった。五月ごろ一時に六、七人の一年生
たちが、陽気にさんざめいて茶室になだれこんできた。生徒会の予算もつき、道具も増えた。茶道部担
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当の部長先生もでき、秋の文化祭にはつごう十五人の部員で終日茶室に客を迎えて遺漏なかった。冬子
もそ知らぬ顔で秋子を誘って、この日はじめて「宏ツちゃん」の茶室にお客の一人になってみたらしい、
その結果が、意外な小松秋子の部員参加となった。
──これが小松秋子か。父親に死なれたと聞いた、あれから何年…。
浅黒い顔の□もとをきっと結んで、ただ素直にというより、上級生に食いつく熱心さで同じ帛紗(ふくさ)さば
きの動作を反復練習している秋子を、眼の隅にとらえていた。炉の前では二年生の一人が稽古中で、そ
れからも注意はそらせなかった。
いい新人だなと、すぐ、わかった。
茶の湯の作法がどれほど出来そうかどうか、茶碗一枚、柄杓(ひしやく)一本を、とにかく持たせた手つきで、お
よそ見当がつく。秋子は、帛紗のように平素使わない分厚な四角い裂地(きれじ)を扱うにも、上手下手でなく、
もの柔かに手に自然になじませていた。あるていど茶の湯について承知していそうな、きちんとした落
着きがあった。
いったい人の噂をしない安曇(あど)名子の□から、それでも聞きえていたかぎりでは、秋子は女学校のころ
表現体操、つまり体育祭にグループでする創作ダンスふうのものなど、抜群に達者だったらしい。つね
は一見寡黙で人の前へなど出そうにないのに、さて、やるとなると思いきってダンスでも劇でも渦中に
とぴこんでしまうタイプで、ちょっと、茶室に膝をそろえて坐っていそうにない女生徒と、よそ目にも
見ていた。
三年生同士は卒業が迫っていたし、二年生部員には今後軸になれそうな者が見あたらない。願っても
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ない──そう思って秋子初心の割稽古(わりげいこ)のさまを、当日はやや離れた場処から、□をださず眺めていた。
冬子は親友に「宏ッちゃんのこと」は、話していなかった。秋子の勧めたとおり、あの時冬子も一緒
に入部すればよかったのだ。が、冬子は諾(き)かなかった。人と同じように「宏ッちゃん」にものを言うの
はいや(二字傍点)と。後日になるが冬子は、逆に小松秋子から「先輩の当尾さん」を紹介されるはめにもなった。
冬子らしくない誤算が、ながく尾をひいた。さもなくて、夫がだす手紙の署名にとっさに線一本といえ
ども鉛筆で書きくわえる、──来て、逢いたいととうとう呼びかけて来る──理由が、なかった。
「ドーブライエ ウートラ」
たどたどしい朝の挨拶にちょっとした品物をそえ、鍵番嬢に鍵をあずけた。人影ない玄関の、すこぶ
る背の高い武骨なドアのそとへ吹きよせられた夜来の落葉が、眼にしみる。
十カペイカ払って、紅茶(チャイ)を一杯のんだ。約四十円。ビュフェは広く、おやおや京都でも東
京でも、古い大学へ行くと頭のつかえそうな学生の地下食堂がこんなであるな、ただしそう思うのはう
す暗いからで、天井は高いなと見まわしながら、隅の、広いテーブルを一人占めにした。ガラスの、蝿
よけのような蓋のしたに、揚げたのや煮たのや酢漬けのも、主に魚と見える惣菜がならんでいる。煮こ
ごりのようなのもある。野菜はころんと太い胡瓜などが山積み、の、そんな台のむこうに白い布で髪を
おおった女がひとり、無□に坐って頭だけ見えている。
奥のひと隅にカウンターがあり、酒瓶や果実水の瓶がならんでいる。寄って行って、二十五カペイカ
払って洋梨のを一瓶買った。
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値段が数字で示してあり、指さして、その場で支払えば品物を渡してくれる場合はいい。が、ケース
に入れた食べ物など、いちいち入□近い食券売場へもどって品名を申告し、金を払い、該当の食券を受
けとって、また陳列棚のまえでジェーヴシカに実物とひきかえてもらう。見ていると、どうも、そうら
しい。だが、「チャイ」とくらい言えても食べ物の名前などどれ一つ、たとえば魚の切身の煮こごりに
しても全然わからない。
なかなか、一人ビュフェヘ来て自在に朝飯も食いかねるぞと首をすくめながら、ジュースの瓶を抱い
て、フロントわきの売店では一つ一つ指さしてモスクワ風景の絵葉書や切手を、見はからいに買うと、
一度部屋へ帰った。
封筒がまだ買えない。旅、快適。ソ連の人、親切。ホテルは個室、万歳。シベリヤ鉄道、断念。
二十三日、成田空港着。九月十日(月)曇天午前十時二十分、モスクワ、オスクンキノホテル。
行動開始。
レストランで三人そろっての朝食後に、妻あて、葉書を書いた。あてずっぽうに先に切手を四枚貼っ
てから、せまい余白に書いた。
果実水を、洗面所のコップであおるように三杯のんだ。睡けで、くらくらする。「七時間時差初体験。
強烈」と、かろうじて葉書の隅に書きくわえた。
エレーナさんから、今回の招待責任者である作家同盟のニコライ・フェドレンコ氏に、今日会っても
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らうと電話がきた。欠かせない、それだけは訪ソ作家としての”公用”であれば、早く済ませたい。
団長とTさんの部屋へそのよし伝えて、受話器を置く、と、今一度よほど冬子の声が聴きたいのを強
いて転じて、イリナ・リボーワ前モスクワ大学教授のアパートに電話した。久しい日本の作家らとの半
ば公的な付合いからしても、一言、モスクワに無事ついた挨拶にそえ、健康を祝するのはむしろ礼儀だ
った。
約束の十一時半に、階下(した)へおりた。迎えの車の、うしろの席に三人、Tさんは望んで男二人の間へは
いり、エレーナさんは助手席から、時にふりむき、時に前を見たまま、雑多な質問に、
「そー、です」とか、
「いいえェ」とかまず応じておいて、必要なかぎりを上手に話してくれた。話にも、話し方にも、押し
つける感じがない。そうした平静なエレーナさんのとりなしで緊張のほぐれて行く自分に気づくという
のは、ありがたい話だった。同じ学問をした古い友達と久々に逢って、お互いの関心を穏やかにわかち
あうような、そういう雰囲気にうまく誘い入れてくれる生得(しようとく)の気分を、いわば新たに加わったこの旅の
仲間は、エレーナ・レジーナさんは、持ちあわせていた。
窓の外も見たいし、彼女との会話もつづけたい。日本の三人も含めてみなお互い初対面に近いグルー
プが、しっくりとそれぞれの歩幅を乱さず、気もちいい旅をこのままつづけたい。物見遊山の珍しさよ
りも、一刻一刻が、平凡な言いぐさだが、平和でありたい──。
と、なんだか様子のくすんだ町で、車が停まった。
「おりましよう」
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へ、という気分だった。
眼のまえに、小アパートという風情で時代のあかのしみついた三階建が、憂鬱そうな横顔をみせて佇
んでいる。一、二、窓が半開きの階上(うえ)を指さされても、壁の漆喰が野放図に剥げて見えるだけだ。一八
二一年、ドストエフスキイが此の世に生をうけた、うす汚れたままの建物が、その”施療院”だった。
彼の父はここマリンスキィ病院に勤務した医者だという。道路のすこし先から右手の門内に入るとすぐ、
施療院と対称の位置に、やはり一階は石積みで二階から上は黄土の漆喰という建物がある。一階、玄関
のすぐ左の部屋に幼い日々ドストエフスキイが家族と住んだ、つまり当病院のそれが職員住宅だった。
構内、奥のほうには胴のふくらんだ石の柱が八、九本も破風(はふ)を支えた、白壁の、結核研究所とやらが並
び、数百坪の前庭は黄ばみかけた大小の木立で、飾りけもなく埋もれていた。
研究所正面のわずかな平地に、高い台座の裾を水溜りに囲まれ、遠眼にもすこぶる丈高い出来のいい
彫像が、長身の背をすこしまるめ、ふりむきざまに立っている。身丈にあまる囚人服の胸のまえでかる
く両の手先を組んだ、長髯(ちようぜん)のその人が『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』の作者だ。高い樹々に深々
と包まれた徒刑囚ドストエフスキイの像だ。
いきなり凄いのと出違った心地で、雨雲の垂れた空をすこしまぶしくふり仰いだ。
像は、もの柔かな哀しみの視線で、人間の胸にわだかまる不可知の性根をのぞき見ていた。、心温かな
一人の受難者の風貌に、ふと十字架に上ったという人の表情が重なってくると、黄色い落葉をうかべた
水溜りにうつる、自分のちいさな黒い影にさむざむと眼をおとし、へんに気よわく、父母未生(みしよう)以前の身
内の闇に身をなげ入れたい気さえした。
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門のほうへ去っていく三人の仲間の背越しに、赤い市街電車の通りぬけるのが見えた。電車道のむこ
うに、淡い緑の壁の、何百年も以前からそこに在るような家が、寂れたなりにしみじみと美しい色で建
っている。青いトラックが走り緑や黄色の自動車が駐(と)まっているのに人影はない道を、電車線路だけが
静かな林のかげへ右折していくのを、やがて、Tさんのよこに佇んで、黙然と見た。
日本なら、初冬という冷えこみだ。
冬子はドストエフスキイを読んだだろうかと、ちら、と思った。早よ逢いたい…と、低声に電話の向
うで息をつめた冬子のあの願いが、瞬間、胸板を熱く内からつきあげた。
エレーナさんは、客がもういいと言うまで、辛抱よく待ってくれる。そして、ほほえんで、
「まいりましょう」と、ゆっくり車にもどる。
「スカーフが、よく似あいます」と、ふりむいてTさんを元気づけもする。
その車でモスクワを走っていて、時にあざやかに、時に目ざわりなのは、天にむかって途方なく尖っ
てつッ立つ大建築が、遠くまた近く、ひょいひょいと視線をさえぎることだろうか。市内に五つ六つと
かあるらしい巨大な避雷針様のその頂には、きまって赤い大きな星が、在りし日のスターリンの威勢の
いい号令さながら光って見える。それとても、信じられないほどうつろう天候に、深沈と、また花やか
に、おっと胸の一点がしぼられるほどの見ものに変わることもある。
街なみは、むろんどこを見ても眼にめずらしい。明年のオリンピックにマラソン選手がこの河ぞいを
走る予定と、日本のテレビで見覚えてきた大きな河も渡った。
ひょろりと高いだけの、黄色いビルが指さされた。
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「何、でしょう」
「作家アパート、です」
「………」
作家たちは国から別荘地を支給され、創作はたぶんそっちでするのだろう。それにしても一つビルに
作家の群居とは、すさまじい。
ソ連作家同盟の本部は、そのアパートから二、三分、ヴォロフスキイ通りに面して鉄格子の門を構え
た、さながら大邸宅だった。道理だった。径(こみち)を円周なりに沿わせたなかに広々と二重三重の花壇を築き、
その芯に、ここにも丈高う台座の上で椅子に腰かけ、両腕を肘かけにあずけて沈思黙考の偉人は、今度
は、トルストイ。背後の、何世紀風だが破風(はふ)に堂々と紋章をかかげた、銅板葺きの石の建物は、ソ連作
家同盟は、そのトルストイの名作『戦争と平和』の舞台にもなっていた伯爵邸だった。
もと駐日本大使、中国文明の研究者としても著名なフェドレンコ氏との会見は、K団長の謝辞こそや
や緊張ぎみだったけれど、その後は、飾りけのない会話に終始した。氏は自分の名を「費徳林」と漢字
で書いてみせたり、「意思」「好意」などと「意(こころ)」を意味する文字を大事に思っていると話したりしな
がら、レニングラードに次いで、グルジァヘ行きたいと聴くと、なぜか肩をそびやかし手をひろげるポ
ーズも出た。持参した「好日」と銘のある桜蒔絵の馬上盃を手渡し、三十分ほどで”用事”はすんだ。
執務室のひと隅で、紅茶を一杯、の穏やかな三十分だった。
かって貴族の家の食堂だったのを、そのまま現代作家たちのために使っているという邸内の奥まった
場処へ、くつろいだ笑顔でエレーナさんは案内してくれた。しんみりとほの暗く感じるのは、卓も椅子
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も床も堅固な窓枠も、総じて古色を帯びた木造りだからか。
天井は吹き抜きの、左の奥にてすりの美しい階段があり、二階に、室内楽のためのテラスや黒光りし
た木の扉の小部屋が見えていた。いくつも垂れたシャンデリアも豪華だが、もっと眼をひくのは右手の
一角、縦長な飾り窓に幾色にもたっぷりと静かな光を溜めた、ステンドグラスだった。
ソ連邦の各地から、それに外国からの客もまじって、この食堂には文学者かエレーナさんのようなこ
この職員のほか立ち入る人もなく、食事もできるが、静かな対談にも和やかな小宴にもそれぞれふさわ
しい、深い水底に憩うようなやすらぎの空気が漂っていた。
食事のあとエレーナさんの執務室へも立ち寄った。デスクのうしろに、日本の芝居絵が三枚、ピンで
留めてあったり、わきの本棚にも机にも日本語の本があれこれ並んで、懇意な日本の作家からの絵葉書
が届いていたりする。
象牙色の受話器を置くまもなく彼女は、立ったなりいくつか急ぎの用を電話ですます。濃いグリーン
の絹のブラウスに、銀鎖の、装飾化はしてあるがどうやら十字架めいたペンダントが垂れている。
──また車で、クレムリンの赤の広場についた時分から、雨になった。ためらいなく手袋をしたほど、
踏む石畳を通して爪先へ刺すような冷えこみだりた。だが白い雨粒が傘を鳴らせば鳴らすほど、寒いな
がら空気はむしろ優しく潤って、厳しすぎるクレムリンの赤く長い城壁に、”美しい”意味をもつ文字
どおり”赤い”(クラスナヤ)魅力を添えた。
すっぽりと修理中の足場におおわれたワシーリイ寺院の前に立っと、左に、赤くて巌畳(がんじよう)な(と書きた
い)壁面が二、二百メートルにも延ぴ、長大な広場の奥には、ロシアの貴族たちが社交場に使ったとい
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うやはり赤い煉瓦造りの歴史博物館の、左右対称、高い低い四つの美しい尖塔が愛らしいほど華奢に、
積木の家のように、雨にうるんで建っている。城壁の要所を占めて林立する尖塔はそそり立つ高さで例
の赤い星をいただいており、中ほど、あれがと指さされた赤と白の四角な箱を積み重ねた出っぱりに人
だかりしているのが、レーニン廟だった。衛兵二人が、魔法にかかったように硬直して立っていた。
心をひかれた一つは、蒼みを帯びて謹厚に敷きつめてある石畳の、広場そのもの、だったかもしれな
い。雨脚にうたれ、一つ一つの石が磨いたように濡れていた。だれもが、傘をさして、また雨にうたれ
てその石畳のうえを歩くのが、さも静かに、嬉しげにさえ、見えた。
もっと眼をうばわれたのは、そんな広場の右手、さし迫るタやみを蒼白く呼吸するようにクレムリン
にまむかって、雨中に建った一連の建物だ。建物の大きさや形というより、まえの並木もふくめて、微
妙に柔和な色あいに惹かれた。
街には、むろんいろんな古い新しい様式の建物がいり混じっていたが、ことに色のよさ、総じてごく
淡い緑、淡い黄、淡い紅、淡い青などに落着いた白を配した二色の風合いが、曇りがちなモスクワの空
を、しっとり明るく見せる工夫になっている。浮彫(レリーフ)も石の柱も尖塔も窓の縁飾りも、それでみな、印象
にのこる。風情のいい坂道が多く、緑はしたたり落ちるようだし、さすがに人出も観光客も盛り場には
溢れて服装はとりどりだったが、はじめてヨーロッパを見る眼に、意外に建物の調ってどれも色優しい
のが、大事な忘れものを思い出さされた気がして嬉しかった。
のんきな感想なのかもしれない。漁業や北方領土などでよほど窮屈になっている今の日本とソ連との、
またソ連と西側世界や中国とのいろいろ物騒な関わりからして、そんな、雲や雨や樹々の緑や建物の色
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あいの魅力を眼に追っているのでは、現代作家たるセンスを疑うという気むずかしい人もないではない
だろう。だが、そういう角度からとかく尖った気分でものを見る、思う、そして昂(たかぶ)るばかりが能でない
のも、確かだった。身にふれて来る、ひたすら色や形や音や匂いを物に即してまず受けとりたい。まし
てここは住みなれた母国でなく、歴史も伝説も、物の名前すらまるで知らない土地だ。
歴史博物館のなかで、数えきれぬほど珍しい遺品を観せてもらった。一つ一つ面白くもつまらなくも
あった。いずれにしても容易に記憶に残るまい気があった。少なくもそこからソ連に対する意見を持ち
急ぐ気になどなれなかった。
それよりも赤の広場に佇んだなり、寒さに肩を細うして両手で傘の柄をにぎりしめ、じっと遠くのな
にかを見つめて動かないTさんの紅いスカーフや、その白い傘越しに、毛糸の帽子や服が愛らしい坊や
を、かるがると抱いたのっぽなロシア人の父親や、横断歩道のある広い坂道に日本製の自動車が、妙に
きざに黄色く駐まっているのや、魚が餌を食ったときの釣竿ににた細長い街燈にほっと灯のはいる、お
よそそうした、事や物の印象の強さに、うなづけた。手応えがあった。こういうモスクワで、冬子と逢
う──。そうか──と、思わず奥歯をかみしめるほど手応えが、あった。
夕刻の正六時、レーニン廟の扉をまもる兵士の交替劇を観た。クレムリンの厚い防壁の彼方から一人
の上司と二人の衛兵が三角形になり、雨中をかつかつと歩調をとって赤い城壁にそうて整然と行進して
くる。そして扉(と)をわずかに開いて廟内に慎重に黙祷をささげ終ると、前任者から恭しく銃を受領、かわ
りに、雨だからか威儀を正して外套を脱ぎ与え、そして上司と兵士二人はまた、雨もものかは、高々と
脚をあげながらどこか壁の彼方へきえて行く。
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なにがおかしくも感動的でもなく、ただ高らかな足音だけに力があった。その迫力にいくらか怯えな
がら、その一方でたとえばエレーナさんが今も日本の現代文学を一字一句ずつロシア語に訳していく作
業を、彼女の表情を、想像した。この響く足音を遠くに聴きながら、卒業論文には容易ならぬわが西鶴
の小説を二つの掌(て)に操みこむように論じたという、その心境を想像した。その彼女と、おりよく視線が
あった。互いに微笑で頷きかえしながら、モスクワ第二日は、小やみになってきた雨とともに、音もな
く、冥(く)れ色を深めていた。
前日におとらぬ、長い一日だった。明朝は十時十五分に発って、モスクワから北へ七十キロ、ザゴル
スクにあるロシア正教会のいわば大本山へ脚をのばす。
「きっと、お天気がいーです」とエレーナさんは助手席でうつむいたなり、手帖になにか書いては、は
い、と紙切れを手渡してくれる。1から8まで番号がふってある。
ホテルヘ今帰っての夜食に、これを給仕に見せればいろんな料理が出てくる段取りだが、一語として
判読できない。
「なにが、出てくるのかしらね」と、Tさん。
「それはァ、今夜の、おたのしみです」
女二人そう笑いあう横で、K団長がちいさなくしゃみをした。すぐ、なにかプスッとつぶやくのにう
ち重ね、エレーナさんも、
「ブッチェ・ズダローブィ!」
「ナンです、そりゃ」と訊いた。
190(18)
「ソ連ではくしゃみをした人に、すぐ、こう声をかけます。お大事に!という意味です」
「あ、日本もそうですよ。そうですよね」と、Tさんに、その先を促された。
「他人がお大事にとは、声かけませんけどね。くしゃみをした当人がふッとかコンチクショ(ごめんな
さい)とかナムアミダブツとか、ちょっとしたまじないを言うんです」
「すると団長さんは今、なにと言いましたか」
エレーナさんに顔を見られ、K氏は照れて盛んに手をふった。せまい車に笑い声がいっとき渦巻いた。
191(19)
第七草 ルサールカ
九月十一日。ラジオのロシア音楽が、小きざみな速い弦の旋律に、間遠ながら、規則正しく鼓のよう
に鳴る相の手をはさむ。朝早やの日の光がぜいたくに部屋にさしこむ。
七時に超き、たっぷり湯をあび洗濯もしてから、ちょっと歩いてみる気でホテルを出た。表通りの、
ボックスふうの売店でつごうよく封筒が買えた。新聞やタバコを売る店には人だかりがして、目のまえ
の停留所を、トロリーバスが短い間隔で発着する。上天気だが、寒すぎる。
ビュフェで、具のたくさんつまったピロシキを二つ紙に包んでもらい、白のワインを一本と、粟おこ
しににた堅そうな菓子とを買いたして、はやばやと部屋にもどった。果実水がコップに一杯半ほど残っ
ていた。
やっと、手紙らしい手紙が書けた。ラジオの人声も音楽も邪魔にならず、鼻唄もでた。
192(20)
窓のむこうが高層アパートです。宵には、キッチンに立って夕餉のしたくをするらしい、いかにも
エプロンがけの女の人影が、窓という窓のいたる処に見え渡せます。部屋のほうでは大人や子どもの
動きまわるのが見え、電燈がいきいきと、またたく。カーテンのある窓が意外にすくないのです。
けさは、そのアパートからたくさんな人が出てくるのを、近くへ行って見てきました。ごくちいさ
な子連れの、若い母親がむやみと多いのに驚きました。子どもはどこの国でも可愛く、ロシアの女の
人は、若ければ若いほどほっそりと表情の彫りも深く、美しい。洋服はカラフルで酒落ています。す
こし化粧が濃いめです。
あたりまえの話だが、どこを見まわしても同じ庶民の平均的な暮しが目だちます。尋常にその暮し
がくりかえされているらしい町の情景に、なんとなく勇気づけられる。正直な話こういう人たちと争
いたくない。が、「ソ連」が「要注意」である事情も、動かないからね。
こう書いた時は鼻唄をやめていた。ゆうべレストランで、四十代といった給仕のおばさん二人が、ふ
とどきな酔っぱらいの中年男を、どしんどしんと体当たりで追い出しためざましい光景についても、面
白おかしく書いた。「見たこともない多種多様の顔を、晩飯の二時間かけて興味津々で見まわすわけで
す。モスクワは多彩な民族のルツボで、さらに我々のような外国人がくわわっている。膚より髪の色々
に眼をひかれるね。みな自分の髪にあわせて、服装を選んでいるみたいです。見ばえがします」とも書
きそえた。
193(21)
先進国のなかで、ソ連ほどいわゆる人種差別の露骨でない国はめずらしいと聞いてきたのが、およそ
そのとおりらしい。「なかなかAT HOMEです。錯覚にしても、けっこうなことです」と最後に書
いた。
エレーナさんの今日の迎えは午前十時の約束だった。手紙を封筒におさめてしまうと、窓のそとがま
た晴れやかに、部屋のなかまでだいぶ温かになってきた。いつでも外出できる恰好になって、パスポー
トや財布も身につけて、電話のまえに腰かけた。九時半を過ぎていた。
今日むりでも、──残る二日のうちには、かならず、冬子と逢わねばならぬ。
──発信音が、三度鳴り、電話へ歩みよるすばやい足どりが眼にみえて、もじもじと呼ぶと、冬子も
名を呼びかえし、昂(たかぶ)らない声で、今日の予定から聴こうとする。□にはしない思いは思いとして、必要
なことから、まず必要なように処置してゆくのが、まぎれない冬子の流儀だった。
晩にはボリショイ.サーカス、と聴いて冬子は、ま、とふくみ笑いながら、どちらでと訊ねた。
「よく知らない。レーニン丘のほうとか、モスクワ大学が近くにある、とか」
「わかりました。街なかのより、いい場処よ。京都なら宝ケ池へんの感じ」
「京都か。遠い話になるなァ」
「そうでもないのよ。わたくしには」
「………」
「ごめんなさい。よけいなこと、むし返して。で、きのうが朝十一時半のお出かけで、けさは十時すぎ
なわけね。見当がこれでついたし、あした、朝早くにお逢いしたいわ。早起きなさって。ね。公園の入
194(22)
□。わかったかしら」
「けさ、歩いてみたから。見当はつくよ」
「じゃ、その門を入ってくださいな。あそこは、開門が早いはずですの。そしてバラ園から左の奥へ、
蔦かづらの塀みたいなのの奥へ入ってちようだい。そう大きくない、まッ白いすてきな建物があります。
まえに、拭きこんだお盆みたいな草むらがあって、大理石の、宏ッちゃんの好きそうな女神像がうつむ
きかげんに立ってますの。ベンチもあるし、広ゥい場処ですから、おたがいに、まちがいがないわ」
「そこへ、何時に」
「七時半。朝、食べないでいらして。起きられる」
「平気さ。それより、きみが…そんな早くに」
「だいじようぶよ」
「で、待つリミットは」
「あいかわらず慎重なのね。あたくしなら絶対だいじょうぶですけど。そうね、一時間。宏ッちゃんは
お客様ですものね。ヤースナヤ・ポリヤーナなんかへお出かけってことになると、朝早いかしれません
し」
「トルストイの領地があったところだね。ザゴルスクの修道院よりも、遠いの」
「二百キロ、ほど」
「そりゃ有るな。でも、ぼくたちそこは、希望していないけど」
話題をかえて、冬子の妹や甥や、野尻家の消息などを話した。冬子は相槌をうったり訊(き)きかえしたり
195(23)
はするものの、たいがい承知のことかして、自分からたいして物を言わない。
二つ、こちらで訊ねたいことがあった。
いつから、ソ連にいるか。牧田氏との電話で訊けばすんだことだが、どこか錆びついたぐあいに質問
できないでいた。
また、文士稼業のどのへんまで冬子が知ってくれているか。名は聞いているが、作品は読んでないと
牧田氏に二度念を押されているのが気になっていた。
「冬(ふう)ちゃん」
「え」
「ほんとに、元気、なの」
「……どうして」
「だって声が……優しすぎる」
冬子はふっと笑ったが、それもたしかに昔の冬子とちがい、かたい壁に邪魔され、それ以上どうして
も温度が上がらない、とでもいう静かさだった。
「それより、宏ッちゃん。秋(ああ)ちゃんとは」
「小松さん…。逢ってない」
ほかの誰より冬子が小松秋子の名を語りかけるなど、それこそ、ない(二字傍点)話と思ってきた。
秋子と、この二十年、京都へ帰ってまるで逢わなかったというのではない。が、久しくとだえてもい
た。たとえ逢っても、秋子は、「当尾(とおの)さん」が高校の昔の安曇(あど)冬子などという、ただ、一下級生の名前
196(24)
を、記憶しているとすら、思いもよらぬらしい。
「ずっと、逢ってらっしゃらないの」と冬子はかさねて訊いた。
「ここ二年ほど……。あの茶道部が毎年茶会をするんでね。その案内は今年ももらってるけど」
秋子は今では茶道部同窓会の、いわば堅い芯に位置している。
「それじゃ、結婚式にも」
「ケッ……婚したの、彼女」
「いやな、人」
「だれが。ぼく…がかい」
「そう、よ」
「そう……思う。自分でも」
「かんたんに降参なさるのね。そこが、いや」
「彼女、ほんとに、結婚したって」
「そのお話、これ以上はだめ。それにあしたのお寝坊も、だめよ」
しかたなく、やがて出かけるザゴルスクという町だか村だかのことを訊ねた。冬子はひと息おいて、
修道院のことは行けば一目瞭然だから言わないけれど、マトリヨーシカという、木の、入れ子人形など
機会があったら見てくるようにと教えてくれた。
「ちよっと、日本のこけし人形みたいな、ヤツだろ」
「ええ。轆轤(ろくろ)で挽くのかしら」
197(25)
「轆轤…町(ちよう)か。なつかしいね」
「そりゃ、もう、とても」
「そう言や、ぼく琵琶湖の西の、ホラ、安曇(あど)川の奥まで行ってみたよ。かなりの川なんだね、安曇の本
あざな
流らしい朽木谷(くつきだに)の大川……。轆轤という学名も残ってた」
「……そんなお話も、みな、あしたね」
「ああ、逢いたいね。今、すぐにもね」
冬子の、声なくこもる息の濃さを痛いほど受話器に耳を押しつけて聴いた。お子さん何人、と訊きか
けて、やめた──。
ザゴルスクヘ、道は広々と日を射かえして、車のなかですこし汗ばむくらいだった。
ひとしきり喋るだけ喋ってしまうと沈黙、そして放心のうすい靄(もや)がひろがる。
こう、ものの災(も)えたって見える時、あんな遠い杜(もり)の緑や、白樺林の奥のひとところかっと明るい黄色
など、絵具ではどう出すのだろう。かりに線だけで、ああものの表面や周囲がくらくらと磨いたメタル
みたいに照っていて、表現できるだろうか──。
モスクワから東北へ、一時間半は走るらしい。途中アブラムツェボとかの近くを通過するが、十九世
紀の終りごろそこに領地のあった、マモントワという婦人が、海外の旅さきから一つの”入れ子人形”
をもち帰った。日本のものだった。ナホトカからの列車や飛行機で一緒の、S氏の著書にはそうあった。
美術工芸にくわしかったマモントワ夫人はこの”入れ子人形”をもとにして、当時ザゴルスクにいた
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木地屋のズベドーチキン氏に形を、マリューチン氏に上絵を依頼し、今日見る起きあがり小法師(こぼし)ににた、
マトリョーシカの原形が生れたという。S氏ひとりの提唱でなく、ロシア人の民俗学者が七十年もまえ
に報告していることだ。
「デーモ、それが、よく、わかりませんねェ」と、エレーナさんは、だが、首をタテにふらない。
「今日は、ザゴルスクの民芸博物館には時間ないでしょうけれど、もしもそこで、日本の人形が先で、
マトリョーシカはこけしや起きあがり小法師をまねて出来たといわれると、博物館の説明する人は、か
ならーず否定します」
助手席から笑顔をうしろむきに、エレーナさんは、「ニエット」と言わんばかりに指をたてている。
「わかります。ソビエト民衆独自の発案によったもの、というわけですね」
「そーです」
「マトリョーシカをまだ手に持ってみたこと、ないけれど。写真だと、日本のダルマさんスタイルです
ね。ロシアの民俗人形は、古いとこ、どこまで遡(さかのぼ)れますか」
エレーナさんはうーんと声をのんだ。
「考古学上の発掘によると、いちばん古いので九世紀。粘土でできた笛。それと馬。鳥も出土してます
ね。木が材料のもむろんあります」
「ザゴルスクは、伝統的に木の玩具の産地なのですか」
「そーです。セルギエフ、それとポサードつまり現在のザゴルスクがそーです。しかし十八世紀にはボ
ゴロードとか、今のゴーリキー州の各地に、それぞれ、たいへん工夫した木の玩具がありました」
199(27)
「すると、マトリョーシカはザゴルスクの専売なんですね」
「センバイ。ああ、ちがいます。ゴーリキーでもキーロフ・カリーニンでも感じのちがったマトリョー
シカの面白いのを、今もたくさん製造しています。それ以外ザゴルスクの人形では、地主の貴族、おし
ゃれの騎兵隊、僧侶の兵隊などが面白いですね。いちばん立派のは、三位一体(さんみいつたい)修道院の建物を、せんぶ、
美しい色を塗ってこまかい木組みでしあげた、あーれが、りっぱです」
「見られますか」
「三位一体修道院へ、今から行きます」
そういう名前の聖堂が、ザゴルスクにあるということらしい。このへんでTさんが、話題をひきとっ
て、三位一体の三位がなにをさすかといった話から、イコン(聖像画)はわかるが、イコノスターズと
はどんなのかと訊いていた。
「イーマ、わかります」
エレーナさんは、遠くに警官の姿をみとめると運転手にも注意して、シートベルトをすばやく肩にか
けながら返事をした。今を、イーマと伸ばして言うのが、いかにもザゴルスクヘついたなら万事、と聴
こえた。
おおきな竹林ににた印象の、蜿蜒(えんえん)と長い白樺の森を突ッきって、車は走る。
松や杉も見た。
ポプラの黄葉に日ざしがやわらかく、森の切れめに広大な緑地やはるかな青い斜面や林も見た。
あれは教会かと、輝くドームを指さすと、昔の貴族の屋敷だったり、あれもと訊くと古い時代の教会
200(28)
だったりする。ゴーゴリやツルゲーネフの好きだったアブラムツェポ村に近いのか──。
白馬にまたがり悠揚せまらずピクニックにでも来るのが、一等似あいそうな、絵のようなロシアが惜
しげなく視野いちめんにひろがっている。──こりゃァ、まるで『初恋』のあれ(二字傍点)じゃないか。美しくも
不可解な、ジナイーダとの愛をとうとう失った語り手が、幼い日のツルゲーネフが、そのじつ秘密の恋
敵であった父親と、悲しみをこらえ、轡(くつわ)をならべて遠乗りに出る、あの、最後のところ──。
絵に描ければなと、ぼんやり思っていた。
麦笛や、四十の恋の合図吹く──か。
放心のなかで、昔おぼえた虚子の句を反芻していた。走りさる窓外の秋色(しゅうしき)にかぶせて、麦秋の黄熟が
連想されてもいたからだ。が、一つには、今四十をいくつも超えた年齢(とし)になって、この句を読んだ昔に
はまさか四十で恋などといぷかしい気がしたのだが、案に違(たが)ってそうでないからだ。六 波羅の野尻の家
で、冬子の、しんとただ静かなだけにも、頬に血汐がさしてきた、あれとちがわない動悸を、今、同じ
冬子を感じて自分の胸がうっている。
指を折るまでもなくこの師走が来ないと、四十四にならない。すると、冬子は──。
何年かまえにまだ勤めていた時分、東京でやっと土地が買えると報せた際、叱責まじりに京都の父に
四十二坪はやめときや、死に(二字傍点)坪いうてゲンがわるいよってにと窘(たしな)められた。年寄りはそういうことを考
えるものかと言葉をうしなったが、──四十の坂を歩む者に、恋とは、そして死とは、どんな顔でつき
あえばいいのか。
「……エレーナさん。すみませんがザゴルスクというところについて、前もって、説明を聴かしていた
201(29)
だけないかな」
K老団長は新型のレコーダーを片手に、卒然と前の席へはりきった声をかけた。
「ああ、それは。十四世紀に建った古いりっぱな修道院のあるところです。また、モスクワを守る堅い
砦でもありましたから、歴史的に大きな戦争が何度も闘われました。城壁のなかに、いろんな時代の古
いロシアの建築や絵画、芸術があつまっていて、りっぱな宝箱です」
たからばこ、と言われて感じが伝わる。
タタールの果敢な侵攻をしばしば支え、また十七世紀には、ポーランドとリトワニアの兵一万五千の
はげしい城攻めを、三千人で十六ヶ月耐えぬいた激戦場。しかもソ連邦に四ヶ処あるロシア正教本山の
最大の聖地として、巡礼者が今も群集するという。
「なかに、神学校があります」
「え。そんなの、あるの、今も」と、Tさん。
「モスクワ大学に負けない、高いレベルの学校です。学生は、ソ連の娘たちにとても人気があります。
卒業式の時など、門の前に若い女性の、人だかりがします」
エレーナさんはそう言って笑った。
「で、キリスト教神学を勉強するわけですか」
「そ?です。神学を勉強します」
「おどろきましたわ」
「ほんと。その事実と、ソ連というお国の現実とが、どう結びあってるか、ぼくたち、ちょっとうかう
202(30)
かものが言えないけれど」
返事は、なかった。
「……ザゴルスクにつくときっと、おどろくことが、もっと有りそうね」
Tさんは男二人のまんなかで、眉をはってまっすぐ前方を見ながら、きわどい話題をおし静めるよう
に独り言を言った。頬が桜色に見えた。エレーナさんは黙っていたが、ややあって、ふと指さすように、
「ザゴルスク、です」
道幅はあって、両側に古い二階家が居流れる。階下(した)はもと商店で上が住まいだったとか、明治時分の
洋館風に見え、先代からの店じまいといった静かさ。楊柳(やなぎ)めいて枝を垂れた並木が、あわい黄緑(きみどり)の翳を
路上にひいている。
思いなし旧門前町の風情に、ほっとひと息もれた。
御本山の参道という様子は、やがてまた、起伏に富んだ田園風景にかわった。車は細まった路を迂回
ぎみに、路面より沈んだ広い窪地をひらッたく埋めつくした煉瓦積みの建物を、窓ちかぢかと見おろし
て走った。
地に蟠(わだかま)る赤黒い建物の、鉄格子をはめたわずかな窓という窓が、地底を這う、さも蟻の巣の奥深さ
を思わせる。ロシア正教会の神や聖人に仕える、それは司教や修道士たちの住房だった。
パチンと目の前が鳴った気がした。なぜか、わからない。理由もなく唐突に思いだしたことがある。
京の鴨川を、汚す──と言って、盆の精霊送りに、河原へ出て石を積むのを当局が禁じた。川遊びに
ことよせ家(いえ)中で、一族で、石を積む、それもご先祖さんを祭るためにと、律義に仕来(しきた)りを守る人は、戦
203(31)
後になって、もうほんの僅かな人数だったのに。
禁じることは、ない。
野尻での稽古日、冬子の叔母は厳しい顔ではっきりそう言った。
「なんで、いかんテ言わはるのですか」と冬子が訊いた。まだ中学生だった。
「親類やら隣近所が一緒になってな。その年のお当番が世話して河原で飲んで食べてしやはるの。石積
んで、お線香あげて。お供えもんもして。水で死んだ人も祭らはって、河原仏さんやいうたもんや。そ
れが……、なにが悪い」
なにが悪い。──そうだ、なにが悪い。修道士の軒の低い家を眺めながら、今さらに一徹なあの声を
なつかしく耳に聴いた。
──どこをどう通りぬけたか、視野が一度にひらけた。
車をおり、──声をのんだ。おッ城、だ。
広場にバスやタクシーが群れているま上を、おびただしい鳩が羽音たかく翔びかい、やがて黒いしぶ
きを叩きつける勢いで城壁、その上にそそり立って燦(さん)とかがやいた大聖堂のドームヘ舞いおりる。
遠く緑におおわれた丘陵を前陣に、ザゴルスクの城は、ゆるやかな弧を描いて、激戦の昔をしのぶ矢
狭間(やはざま)や銃眼をそなえた城構えを固めていた。
だが、城壁を高々とぬきんでた巨大な葱坊主なりのどのドームにも、正教の黄金の十字架が光ってい
る。綿雲の白をつき抜いて空は澄みとおり、厚い壁をうがって奥へ幾重ものアーチ、に誘われ城内へ歩
をはこぶ人の群れにも、信者とばかりは見えない、のどかな観光の姿勢がある。ロッジ風の食堂や売店
204(32)
がならぴ、便所の用意にもぬかりがない。ザゴルスクの修道院、教会、学校は、いわば法域の防壁内に
しかと囲いこまれていた。
空色に、白い水玉の散った葱坊主がドカーンと四つ寄り、ひときわ高い金色の同じドームを、天に届
けともり立てている聖堂があった。
純白と、明るい青と、二色の柱で高く、ひたすら高く細く、四階五階も鐘楼を積みあげた頂に、きら
めく金の飾り屋根をのせ、目もくらむ十字架がはるか蒼天をさしているのもあった。赤い教会も、まっ
白いのもあった。ぴかぴかのも、ごく時代の古い教会もあった。それぞれにフレスコやモザイクで聖母
子や聖人を描いた壁画が、しみじみと随処に眺められた。
見入っていると眼が離れない。次へ、と思うと、絵や建物から視線を力づくもぎとらねぱならない。
エレーナさんの説明も聴きたく、それさえ、もどかしい。
「三位一体修道院とおっしゃってましたね。どれでしよう」
エレーナさんは、左へ奥まったいくらか小柄に華奢な聖堂をTさんに指さした。日本風にいうと南北
朝の時代、ザゴルスクに聖地をひらいた聖セルギウスの遺体をおさめ、聖ルブリョフがイコンの傑作を
遺している。
「入って、いいでしようか」
「どーぞ、どーぞ。今日は、とくに熱心な信者が多いです」
だれだか聖人の祭日に当たるらしく、Tさんは正教徒の作法にならい落着いた手つきで、スカーフで
髪をおおった。
205(33)
扉を押す、と、視野は闇にのまれ、闇の底からきらめく金彩と燈明のまたたきが頒歌(ヒムン)とともに湧きた
つ。
いくらもない、長方形の部屋だった。
戸口の右から奥へ、壁に、あの選挙投票の記名所ににた、祈薦と黙想のための木の棚がならび、ちい
ひざまづカか
さなろうそくの火が燃え、黒い影となって跪(ひざまづ)き、聖書に額(ぬか)をつく人で溢れていた。
左は、開かれた扉だった。閾居ぎわに立つと、美しいイコン(聖像画)や燭台に飾られた柱のかげか
ら、上下幾段にも一面にイコンで埋まった壁、さらに奥の聖域を燦然とへだてたイコノスタース(聖像
壁)が、見えた。
信者は外陣にひしめいていた。司教は内陣の右翼へむいて立ち、低く高くとめどもなく祈薦書を誦(ず)し
ていた。その声に添えて信者も唱え、かつ歌い、たちまちに身を投じて跪くと床に、柱の聖像に、手に
もった聖像(イコン)に無我夢中の□づけをくりかえす。はせよって司教の裳裾に接吻する者もいる。
司教が立った、さながら豪華な寝所(しんじよ)と見える一画に聖セルギウスの柩は安置されていた。
眼が感じる色は、ただ、黄金(きん)のきらめき。
そしてふり仰ぐドームは日の光をすずしくはらみ、天なるキリストの顔が力づよく下界を見すえてい
た。
見ればわかりますと、電話□で冬子は言った。
見れば、かならずわかるとは思わないが、見なければわからない情景だった。
外へ出て、ちいさな聖堂で聖水を汲み、三十カペイカを積んで身内と思う人のため、冬子のため、無
206(34)
数の接吻でやに(二字傍点)のように光る聖母子像のまえへろうそくの火をかかげた。一瞬、耳たぶを窪ませたあの
加賀法子の白い横顔を瞼の裏に見た。シュルシュルと──世にもふしぎなものの声を、耳の奥に聴いた。
──イワン雷帝の命(めい)で建てたという壮麗なドゥホフスカヤ大会堂では、ミサがあげられていた。会衆
は司教らともろとも合唱し、十字を切り、そして三十分一時間は、みるみる過ぎてしまう。手から手へ
渡ってくる赤いろうそくを、立錐の余地ない礼拝所に立ちつくし次々へ送りながら、感動しているのか、
呆れているのか、わからなくなった。腕も脚もこわばっていた。
そのさなかにも、そばで十六、七の少女が、音なく、床に膝を折ってぬかづき、しみじみと永遠(とわ)をよ
び醒ますような接吻を、神に捧げていた。そして静かにまた起った少女の頬は、どんなやさしい花より
も美しく、感謝の色に染まっていた。
その、おなじ少女の拝跪と接吻とのくりかえしを、もう先刻来、何度見ていたか──。ソ連では珍し
い漆のような黒髪をまえへ垂れて伏した少女の耳たぶが、光る涙のように小粒の真珠をつけていた。
とうに一時半もすぎているのに空腹でさえなく、モスクワヘ帰る車のなか、眼はあいたままぼんやり
していた。
「人間は、一の、無益な受難である」
病いがちと伝えきく哲学者サルトルの言葉が、遠く、か細く、弓弦(ゆんづる)をひき鳴らすように聴こえた。人
は、自由であるべく詛(のろ)われている。しかも自己を喪失してしまうことなしに人はけっして、真に自由に
はなれない。存在の深みに到達できない。たしかそう彼は言っていた。が、なぜこんな言葉を、梓巫女(あずさみこ)
が神をおろす時のように、弓弦の音などを伴奏に思いだすのか──。
207(35)
冬(ふう)ちゃん。
ザゴルスク──を、見てきたよ。
あの「宝箱」どうやら凄い毒も忍ばせていた気がするが、毒の魅力を信じないで、神も仏もなにを恵
んでくれるものか。盲(めし)い、耳しい、足なえた、いや正気さえ喪った信者の多かったのを驚きゃしない。
聖堂の扉□で黙ってコペイカをせがむ彼らに、此の世ならぬ美味を添えて信仰の毒を著った神は、聖人
たちは、やはり偉大な人だね──。
そんなことも冬子に喋った、夢うつつに。
冬子は、だが、こたえなかった。そして唇に指をたてて黙らせ、ゆっくり視線をめぐらす。と、底冷
えの京の鴨川を数百のゆりかもめがまっしろに乱舞している──。昭和たしか二十八年の正月やった。
そやな──。すると、冬子は視線をもとへもどし、うなづいた。頬に凍ったような微笑が浮かんでいた。
京都の正月──は寒かった。あの日は雪も降った。氷雨にも逢った。しかしみるみる薄化粧の東山は
美しかった。七条河原を狂い舞う白いゆりかもめの群も美しかった。日曜日だった。冬子はその頃、市
立高校への転学をもう心に決めていたらしい。
二人は京阪電車で深草というところまで行き、東の、石峰寺(せきほうじ)をたずねた。昔は黄檗(おうばく)宗の伽藍の栄えた
寺だが、見るかげなく、龍宮造りの赤門をくぐると正面に薬師堂と左に庫裡(くり)が遺っているだけだった。
堂の裏山には、若冲(じやくちゆう)という江戸時代奇想の画家の趣向した、石の五百羅漢が面白いと野尻吉男の父に
聞いていた。
208(36)
いろんなことを、あの小父さんには教えられた。石峰寺の話題が出た、正月になって二度めの習字の
日、冬子のあの叔父は北の庭で手水鉢(ちようづばち)の氷を割っていた。そして笑顔で「氷は、溶けるとどうなる」と
問いかけた。むろん、水になると返事した。
「ホナ氷が(─字傍点)溶けるとどうなる」
一瞬つまった。なにか禅問答めいた気はしたが、咄嵯の用意がない。
「…春に、なります」
そう言ったのは、うしろへ来ていた冬子だった。冬子の叔父はにっこりすると二人を書斎へ手招いた。
飴釉(あめぐすり)がむっくり温かな大樋焼の手焙りを、膝をそろえた二人のあいだへ押しこむようにして、今度は、
この頃どんな歌が出来るかとまた訊かれた。
高校のある丘から、南へ、山路ひとつ越えてまた低く垂れた尾根なりの丘がある。兵士らのをはじめ
点々と墳墓が数十。昼休みや放課後にその丘をひとり歩く。
「二、三日前、はじめて九つほどの、連作が出来ました」
「けっこやな。二つ三つ、教(おせ)てんか」
そして一つ二つ覚えたまま□遊(くちずさ)むと冬子の叔父はじっと聴いていたが、
「宏ッちゃん、それ、歌(うと)とぉみ」
「歌う…の、ですか」
「そやが。そうかて歌やないかいな。それとも歌えん歌詠んでて、ええのンか」
「……」と、膝に拳をつくって俯(うつむ)いていた。
209(37)
埴土(はにつち)をまろめしままの古塚のまんぢゆうはあはれ雪消えぬかも
炎□(えんく)のこと日はかくろひて山そばの灌木はたと鎮まれるとき
日のくれの山ふところの二つ三つ塚をめぐりてゐし生命はも
そして
山かひの路ほそみっつ木の暗(くれ)を化性(けしやう)はほほと名を呼びかはす
「ま、それはそれとして。なんでお墓歩いてみる気にならはった」
「なんとなく……」と□ごもって冬子を見たが、彼女は叔父の机からなにかの雑誌の□絵をひらいて見
ていた。伊藤若冲の、あとで教えてもらったが、名高い鶏の絵だった。
冬子の叔父はなにを思ったか、そのあとしばらく、「墓」というものの話をして聴かせた。
──古墳のことは高校でも中学でも習っているだろうが、一つ一つの古墳になんという人が葬られて
いたか、じつはほとんど、わかっていない。天皇陵といわれるものでさえ不確かで、それで平安時代の
はじめには管理上困った問題がよく起きたらしい。と、いうのも、天皇家でも国民も、まだ墓詣りの風
習をもたなかったからだ。
もともと墓は築(つ)いてしまえば、二度と見る必要も訪れる必要もないものだった。そう考えられた期間
は意外に長く、巨石を用い木ははえ放題の古墳などむしろ近在の人に豊富な薪を提供し、必要とあれば
石材のいい供給源になった。奈良、平安の豪族も、寺社を建てるのに古墳の石を平然と流用した記録は
210(38)
多く、蘇我馬子の墓と伝説のある飛鳥の石舞台も、石舞台に劣らぬ大きさで秦氏の首長を葬ったらしい
京都太秦(うづまさ)の蛇塚にしても、今ではまるはだかにされている。
それにしても権力者の墳墓がなぜ営まれたかというと、庶民同然に死骸を野山や河原に放置しておく
と(これが普通だった)死者の気力が生前の権勢なみに現世に影響する、のを、地に埋めておさえこむ
目的が一等大きかった。およそ奈良から平安時代の初めまでは、そうだった。ご先祖はお精霊(しよらい)さんとし
て尊ぶけれど、遺骸や埋葬地が尊重されたという実例はとぼしく、むしろ迷惑がられ、忘れられた──。
「どや。そんなこと考えてみはったこと、ありますかな」
六道さんの話に耳を傾けながら、冬子へせつなくむかう情愛や、共感が動いていた──。
「九世紀の中ごろィな。もう初冬いう時分やったが、鴨川をはじめ河原の髑髏(どくろ)を焼き捨てェいう命令に、
たちまち五千五百以上もの頭骸骨が集まったそうな。鴨川だけは十日たたんまに、も一遍髑髏を集めて
処分したという記事がある。それが平安京でいう、五条、六条の河原の話や。つまり五条から六条の河
原がわれわれ庶民の墓地、それと放牧の場所やった」
「………」
墓。
葬礼。
墓地。
眼に見えず築かれた大きな文化的複合に思い及ぶことはむりでも、人が人を葬るという意味を、思い
辿る、はじめて感じた興深さ──。
211(39)
そうは言っても、十二世紀、平安時代もごく末まで、京の都の葬送されない死体は、処かまわず放置、
遺棄されることこそ多くて、鴨の河原や鳥追野までも運ばれれば、幸せなほうだった。河原も野山も、
実情は、墓地ですらなかった。
政府は、父祖の墓を守れと躍起に指導し、表彰もしたけれど、路傍の髑髏ごときに驚かない世間の風(ふう)
は、都の内にさえ永くつづいて、まして葬送のあとの墓参の習いは容易に生れなかった。
「ご先祖を大事に思うのは日本人のええとこや。そやさかい、今、こんなこと言うと妙な気がするやろ
う。けどな、墓そのものはおおかた宏ッちゃんの歌にあるように土(ど)饅頭か木ィ立てるだけやった。この
世をばわが世とぞ思うテ歌(うと)うた藤原道長ほどの人のお墓かて、ちっさなもんやった。お墓を大(おツ)きィ造ろ
いう気は、摂政関白でも源氏の将軍でもとくべつ持ってなかった」
冬子の叔父は、こんな話をそれ以上してもどうかと思ったか、かすかににが笑いをうかべて、それで
も日本人の、死と死体と死者への微妙な態度の変化が、日本中にいろんな土着の信仰や葬送の儀礼を生
み育てることになったとつけくわえ、一度冬子の顔に眼をとめておいて、ふと視線をこっちへむけた。
そして、さっきから冬子が見ていた若冲の鶏の絵をさし出すと、唐突に感想を求めた。
「なんか……畏しい絵ェです」と、どぎまぎしながら正直に答えた。
赤い鶏冠(とさか)を立てて羽根の色まで克明に、牡鶏牝鶏たちがぷきみな無表情で全身に力をみなぎらせ、あ
っち向きこっち向き、どきどきする美しさで描かれていた。魔法つかいが、一撃のもと老若男女を鶏に
変えたようなこわさだ。そんな返事をした。
話題が、若冲の手になる石峰寺石の五百羅漢さんに転じたのはそのあとだった。六道さんは、いつか
212(40)
と同じに、
「冬(ふう)ちゃん。いっぺん連れて行ッとあげ」と笑顔だった。彼女の叔父はこう言った。
「宏ッちゃん。京都の、それも東山区で生れ育ったもんが、深草、稲荷、南の鳥部山、北の鳥追野ない
し大谷、黒谷とつづくいろんなお山(一字傍点)のことを知らはらんでは、どもならん」
「どもならん」と諧謔の気もちをふくんだあの物言いも、忘れられない──。
石峰寺の裏山はさほど広くなかった。しかし変化に富んだ山中の斜面を幾場面にも、托鉢修行、座禅
窟、出山(しゅつさん)釈迦、賽の河原などとおびただしい石仏が笑い、泣き、考え、悩み、悟り、法を説いていた。
人ひとりとも逢わなかった。聴こえるのは山風に鳴る竹林と樹々のさやぎ。時として風花(かざはな)が舞いまた
竹と竹とのもつれあう音がした。そして半歩の横に、いつも冬子──。
家の庭を歩むほども冬子は息を乱さず、さて物も言わず順序よう道の先をおいながら、急(せ)きたてはし
なかった。なぜか「若冲巧妙」石造の五百羅漢などに、冬子はとくべつ気を惹かれていないらしく思え
た。
そう思って見れば、仏の顔や姿にどこか至らない俗な感じがあった。ただ山の静かさと寒さに圧倒さ
れていた。いつとなく冬子の掌(て)が掌(て)を求めて、ちいさな女の頬のぬくみがオーバーも着ない少年の二の
腕を、物言いたげに押した──。
──あの日からちょうど十二年あと、時分も同じ正月真冬の石峰寺裏山では、冬子の妹の順子が、横
にいた。旬日後に水沼某との結婚をひかえ、ふきこぼれそうに激してくるものを順子は耐えているらし
かった。そしてお釈迦さんをなかに左右に文殊、普賢の両菩薩を配した説法場のまえまで来ると、さん
213(41)
ざめく四囲の羅漢たちにはじらいながら、モヘヤのコートの匂うようなピンク色の衿をたて、涙を子ど
もみたいに手の甲でふいて、しいて笑おう笑おうとするのだ。
「順……」
ただ、そう呼んでみるだけのくぐもった声に、烈しく首を横にふる。顔が怒っているように見えた。
踏みこんで抱きとるしかなかった。
「……おにいちゃん」
抱かれるまえ、これだけはという抗(あらが)いようで順子はうるむ瞳(め)を逸らさなかった。
「おにいちゃんと結婚したかったの。ほんと……」
──唇を重ねているあいだ、鳴る笹竹の黝(あおぐろ)い葉むらから黄金(きん)の小粒を揉むような遠い遠い呟きを聴
いた。順子も聴いた。
「……あの人、妬(や)いてるのやわ」
順子が□にした「あの人」が、結婚を約束した当の相手のことでなく、姉を、冬子のことをさしてい
るのは明らかだった。だが順子は──、十二年前やはりこの石の三尊仏のまえで、あの姉が、晴れやか
に冬の日に額を照らし、笑みさえふくんで少年のぎごちない□づけに美しい瞳をみひらいていたのは、
知らない──。
──冬子とのころ、石峰寺のなお奥山といえば、風騒ぐ松林のしたはおどろに、草深いただ尾根つづ
きだった。七面山へ登れば遠い稲荷山の森かげを頂上へ這いすすむ無数の鳥居の列がうねうねと朱い。
「あの鳥居くぐって、お山へ登ってみはったことありますか」
214(42)
「ない。あの朱いのんが、なんゃ怖い気ィして……」
冬子は、そんな返事は聴かない顔でさきを歩いた。失い旗を立てた七面山大天女とやらの祠(ほこら)を裏から
見おろす辺で路はわかれ、それ以上も奥へ分けいるのは多分にためらわれたが、このさきに、十数年ま
え古い鏡が何十面と見つかった池があると冬子に顔を見られては、あとへ退(ひ)けなかった。
ものの十分も山ふところを木伝いにざくざくと枯れた松葉の路を踏みすすむ。見え隠れに山また山の
端(は)が幾重にも遠い。と、目前に、あの異様な光景──は、あれは、何だったのか。
稚児ケ池と聴いた時から、木むらのかげにこっぽり深いちいさな池を想っていた。ところが突如ひら
けた視野の底で、それは平たい皿に水を張ったように見えた。汀(みぎわ)に枯れ色の真菅(ますげ)がたち、池の芯は冬雲
を浮かべて波だっていた。
が、ことの次第にしたがえばこう明るい池を眼にしたのは、あと(二字傍点)、だった。瞳(め)を灼く朱いかたまりが、
暴投された火の玉のようにさき(二字傍点)に襲ってきた。池の左、だぶん北に、崖か、丘か、を埋めておーと声が
でたほど犇(ひしめ)いていた、鳥居、鳥居──、また朱い旗も幾流れも。
旗や鳥居の根かたには、黒いこげ色の岩膚がこぶこぶと、眼をこらせば、崖一面にくらい横穴が幾千
となく掘られ、洞(うろ)の□の一つ一つに三重四重の小さな鳥居が懸けてある。ところどころ岩を組んで祠(ほこら)が
据えてもある。
朱い崖、の根を洗って池水がせまり、流れ寄るように菅や水草がそんな祭場へ近づきがたくしていた
が、冬子が指をさすのを見ると、平たい池を、幅二尺とない粗末なただ板で浅瀬づたいにじぐざぐと架
け渡した浮橋が、水草を割って崖のま正面へとどいていた。
215(43)
冬子は、だが、橋だけ指さしてはいなかった。おびただしい鳥居のかげにひそんであちらに一つ、こ
ちらにも一つと白い後姿がうずくまって見えた。祭文か呪文か、□々に唱えつづけているのも洩れ聴い
た。
なんという寒さだったろう。立ちすくみ、半歩も踏みだせなかった。いやや。いやや。と、そう□に
は出せずただ拒絶の言葉ばかりが、べこべこと胸板を内から叩いた。
池は深いのか。
──深いところはだいぶ深く、湧き水らしい。
あれはお宮か。
──おお昔のお墓の跡と聞いている。船型の石のお棺が三つほど遺っている。
だれの。
──深草一帯に住んだといえぱ、お稲荷を祀った秦氏か、それより大和から北上してきた鴨氏の墓に
違いない。
あのうずくまっている人らは。
冬子はやや答えしぶる顔をして、一度はなにか言いかけ、□ごもった。そして冬子の、亡くなった父
が深草の人だったと呟いた。
「おいない」
冬子は明瞭な□調で言った。すこし長めの髪を耳にはさむ、と、耳たぶの窪みが翳をもった。
チチと小鳥が鳴きたつ笹原を踏みわけ、丘の頂上へ二た折れ三折れ登って行った。岩がいくつも露頭
216(44)
して、あとは黒土の二百坪ほどの平地が、切れこんだ谷をかかえて尾根を奥へのばしていた。淀、伏見、
鳥羽、桂、遠くは長岡京や嵐山まで広々とかすんで見渡せる。風にのって足もとで巫女(みこ)の唱える声が濃
い煙(けむ)のように舞いのぼってくる。
冬子は、父親の話をそれ以上しなかった。訊きそびれた。が、なんで冬子がここへ連れて登ったか、
わかる気はした。東寺の五重の塔が、なぜか平安京めざして陣頭に立てた旗のようにここではきわだっ
て見え、幾すじにも大きな鴨川、桂川、木津川が南へ南へ相寄り流れて行く。
「御所の見える京都だけが京都とはちがうのえ」と、そのうえは冬子は□にしなかったけれど、習いお
ぼえた、山城国一揆といった昔びとの意地を、つと指さされた気がした。
「稚児ケ池テ。清閑寺の奥のあそこも、稚児ケ池やったな……」
冬子のちいさな肩を抱いたまま、つぶやかれた。
脱皮しそこねた赤じむぐりを冬子が面倒みてやった、あの清水(きよみづ)裏の山路を上っていくと、尾根ぞいに
前後二丁もある細い池があった。
市の地図にも、稚児ケ池と出ているが、
「幼稚園の稚イやろ。ちっちゃい子がどうするんや。泳いだンか」
「そんなン……漢字を読むさかい、そう思てしまうのやろ。おおむかしの人が、だれかて稚イいう字イ
読めたり書けたり識ってたて、宏ツちゃん思わはりますか」
「………」
「ち(─字傍点)は、おろち(─字傍点)、みづち(─字傍点)、のち(─字傍点)。間違いなくつち(二字傍点)のつまったち(─字傍点)。つちのこ(四字傍点)テ幻の蛇の名前でしょ。つち(二字傍点)
217(45)
は古うから蛇の呼び名の一つで、いかづち(二字傍点)(雷)もたち(一字傍点)(太刀)も、姿かたちからして伝説的にみな蛇
に通じる名前……」
「すると……」と、見おろす池の静かさにふと引きこまれる。
「龍も蛇も水の神さんやし。こうして山なかの水のある、菅や真葦や芦やら草のぎょうさん生えた、日
本中にあるそういう場処は、みな、豊葦原のナカツ国をかたどって、おお昔からなにかとお祭りしてき
たとこゃそうえ」
「鏡、沈めて……か」
冬子はうなづいた。
勾玉(まがたま)や壺も沈めた。鏡ケ池、長者ケ池、稚児ケ池そして蛇(じや)ケ池。
いま稲荷山の中にもやはり上古の祭場の跡らしい湿原の聖地が遺っているけれど、深草のこの神子(みこ)谷
に置き忘れられたような稚児ケ池へは、洛南の各処からぽつんぽつんと今も人知れず人が寄る。
「ぽつんぽつん」と、冬子がそう言った□つきは愛らしかった。
「冬(ふう)ちゃんには、いろんなことヲ教えてもらうな」
「教えるやて、そんな……」
冬子は、ちょっと怒った眼をした。その視線を両掌でさえぎり、寒さにほのあからんだ鼻を鼻でチョ
ンと押してやった。
「宏ッちゃん」
「ん……」
218(46)
「あたしのこと、いつまでも覚えててくれはりますか」
それは、一瞬聴く耳にこびるほどあまい□つきだったが、意表もっかれた。将来に及んで二人の仲を
言いあらわす便宜な言葉を、恋人とも、夫婦とも、一度もまだ意識しないでいた。しないように意識し
ていた。その事実が、にわかに燻(くすぶ)る煙のように眼をぱちぱちさせた。あいまいに、ただ、首をうんうん
動かすのを冬子は黒髪を風に逆立てて、黙って、見返していた──。
ザゴルスクからまたモスクワ市内へ帰る車は、道幅四、五十メートル、白樺の森をつっきる長い切通
しにかかっていた。
「ちょっと停めましょう」とエレーナさんが気をきかせた。通りすぎるだけでなく、あれほど大きな森
が、近寄ってみればどんな音をさせどんな匂いのするものか、中まで入って行けるかなどと思っていた
矢先だった。
下車して、さて森のなかが自在に歩けるでなく、湿気をふくんで下草は青々と膝こす高さで、そこか
しこ、もう足もとから意外な隠水(こらりづ)がひろがっている。それでも、わずかな石づたいにK団長と水から水
を跳び跳びすこし入ってみた。深沈と、惻々と、足もとを襲う寒さ。
「こういう森に、古い沼なんか隠れてるんでしょうね」
「ありますよ。きれいな川が流れていることもあります」とエレーナさんはわらう。
「すると、ルサールカも棲(す)んでますね」と訊いたのは、エレーナさんの横にいたTさんだった。
ルサールカ──
219(47)
「それ……」とエレーナさんは笑みくずれて、「よ?く、ご存じですねえ」
「ことばがね。いい響きで、水の精らしい名前ですしね」
「河童ですかそれは」と車のドアに手をかけながら団長は端的なことを言う。河童ではない。日本の河
童に近いのは「ボジャノイ」というのがそっくりに思えるけれど、どちらも十分まだ説明されていない。
「ルサールカの正体は結局、何なんです……」
また車が走りだすとすぐ、訊きかえさずにおれなかった。エレーナさんの□ぶりでは水の司のボジャ
ノイに連れあいがいて、それがルサールカのような□ぶりだ。たしかに女性らしい呼び名だが、女の水
死人、溺死人のことをルサールカと呼ぶのだと、ロシア民俗にくわしいあのS氏の本で読んでいた。
フィンランド湾に面したエストニア地方の昔話ですがとことわって、エレーナさんは直接の説明を避
け、こう話してくれた。
男がいた。海辺で心をそらに佇んでいるとルサールカがあらわれ、男を海にひきこみ、孤島に連れて
行った。彼女は男に求婚し、男は三日三晩の思案のあげくうなづく、と、その刹那にすばらしい宮殿が
出現して二人は新婚の夢をむさぼった。ところが、やがて四日めごとにルサールカが夫から姿を隠す。
問いつめると妻は懇願して、聞かないで、あとを追わないでと嘆く。それでも男はとうとうルサールカ
のあとをつけ、壁の穴からのぞき見ると、なかは浴場だった。
ルサールカは背信の夫を責め、彼をもとの海辺へ送り帰してしまった。男は家族を探したがだれ一人
知った者がいない。ルサールカが連れ去ってこのかた、この地上に、すでに、三百年が過ぎていた──。
「つまり、龍宮城の乙姫さんですか」と団長。
220(48)
「ルサールカ自身が亀の役もしてますね。浴場ってのが可笑しいな。はだかになって、正体があらわれ
たってわけでしようか。そうじゃないナ。やっぱり若がえりの、または蘇りの水を浴びるのですね」
「そ?です」と言ったきりエレーナさんはなにも言い足さなかったが、豊玉姫が海辺の産屋(うぶや)で子を産む
姿を、夫の山彦が見露わしたことなども想いだした。
「モスクワにもいますか。あの白樺の森なんかにも」
「……蛇ですか。稀に、います」
「蛇を祭りますか」
「ルサールカなら祭ります。ルサーリ、つまり春祭りから出た名まえと説明している人もいます」
そこで、会話はちょっととぎれた。
「河童と蛇とは、つまりは同じなんでしょうか」
今度は、エレーナさんに訊かれた。
「難問ですねえ。ポジャノイがルサールカ以上によく説明されてないように、日本の河童もねえ。水の
神、水の精には違いないが。どれも溺死、水死と関わってくるのも、ある意味で当然ですが…。河童の
駒引きと言いましてね。よく馬が出てくる」
「ああそれならルサールカがそうです。お祭りの時は白馬の姿をして引き出されます」
「そうですか。白馬が……。凄いことを聴いたなア。日本でも、蛇は馬に乗って現れると言う人が多い
ですよ。もっとも干支(えと)で蛇の歳と馬の歳とが、前と後とで隣りあってますからねえ」
ルサールカが馬に、白い馬になるのか。だいじに憶えておこうと思った。
221(49)
「溺れ死んだものが、水の精になるのかね。なるほどね。日本でもそうなんですか」
K氏がTさんのむこうから顔をこっちへねじむけた。
「日本ではルサールカのことを、ミツハノメと言ってますね。水を司る吉野の丹生川上(にぶのかわかみ)神社なんかの祭
神なんです。ミツハを、昔の人は罔象(もうしよう)とむずかしい字をあてているのですが、一つは、ただようとか虚
無とかいう意味で。今一つは、水中の怪物ないし神さんの名前で中国でも通用していたようです。
ところが古来吉野の川には、神を慰めるため、いけにえの女がささげられるんですね。水死体になっ
て若い女が川面を流れていた情景なんかを、人麻呂の歌ったのが、万葉集に採ってあります。
八雲さす出雲の児らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ
吉野の宮滝にすむ水神へ、これは人身御供(ひとみごくう)なんですね。そして水死の美女また、ミツハノメ(罔象女)
と呼ばれます。即ちルサールカ……」
「吉野で、だけ…」とTさん。
「じゃ、ないと思いますね。聖なる川や、むろん山でも、くりかえされてたことでしょう。八岐大蛇(やまたのおろち)に
ささげられるはずだった出雲の国のクシイナダ姫にしても……もとは」
「さっきの歌。でも出雲の児らと吉野の川ですと、場所がちがいませんか」と、エレーナさんが日本通
らしい鋭い点をついた。
「それはね。いづも(三字傍点)という言葉のもともとが、蛇をトーテムにした南島系の隼人らと同じあづみ(三字傍点)族の転
訛(てんか)でね。吉野の女もクシイナダ姫も、安曇(あづみ)族の女なんですよ」
「やれやれ。肩がこって腹がへった」とK氏が音をあげた。
222(50)
「そ?ですねえ、おなかがへりましたね。四時…前に、作家同盟で食事ができます」
「あら、また作家同盟に」
「今日は、カルムィク自治共和国の詩人で同盟の理事の一人が、みなさんを、おひるにご招待します」
カルムィクというのがわからない。正直のところ、人に会うよりホテルヘもどって、どさッとベッド
に身をなげたい。晩の、サーカスも観たいけれど、それ以上に睡い。
冬子の声が聴きたかった。
ソ連中の魅力を眼のまえに積まれても、冬子と、電話で喋っているほうがいい。
──ザゴルスクはよかった。よかったから、だから京都へ、深草の奥の稚児ケ池へ思いがとんだ。ど
う脈絡をさぐる知恵もないが、あの礼拝のさなかに身を置いて、もし近くに、冬子の姿がまぎれていな
いかと胸を騒がせたのは、うそでない──。
臀(しり)をずらし、ずぶずぶと水面下に沈むように空席にめりこんだ。無性にじれったい。
横で団長とTさんとが、ザゴルスクやなにかのあれこれ固有名詞をエレーナさんに確かめてメモして
いた。あとあとのためにも、物の名、土地の名など正確に覚えたほうがいい。日本でならきっとそうす
ることが、今、その気になれなかった。断念していた。冷淡だった。赤い、白い。寒い、暖い。くらい、
明るい。そういうことで足りていた。
ソ連を、ただソ連の印象や記憶として受容れる気に、まるでなっていない。ソ連より、日本や京都の
ことを考えていたい──。
冬子がモスクワにいるからだと思った。それを肯定した。妙な旅になったな。そう思った。
223(51)
第八章 再 会
九月十二日。朝六時半、正確に眼ざめた。冷えこむ心配はあったが、湯にも漬かった。
冬子にいよいよ逢う。のに、気分はこの二ヶ月来で、一等沈静していた。浴槽のなかで□まかせに、
ひと山越えてふた山越えて
お宮の前でタンタン狸さん
遊ぼじゃないか
今ごはんのまっさいちゅう
おかずはなあに梅干こうこ
ひときれ頂戴
224(52)
あかんべしろんべいやしんぼ
憶えていそうにない唄がスラスラでた。
あのね、おしようさんがね
ない本もってね
ナムチン ナムチン
あらおかしわね
イチリットライライ
らっきよ食ってシッシ
シンガラモッチャキャッキャ
キャベツで ホイ
講堂まえのたたきへ寄って、雨で運動場へ出られない日など、男も女も入りまじりに休み時間マリを
ついた。敗戦直後だ。小学校の五、六年生。唄はだれも□から出放題に、調子のよさでおぼえるだけ。
わけがわからないほうが面白いと男子は照れて大声でわめく。
また、見ていると女の子同士、一人が二本の指を歩かせるように、友だちの二の腕から肩へ、「二階、
あがらしてや」と、チョコチョコのぼらせる。そして、「屋上、あがらしてや」とまたチョコチョコ首
225(53)
すじを通って頭へ。「おりさしてや」と反対の肩へさがりざま、急に、「コチヨ、コチヨ、コチョ」と
早口に指で腋の下をくすぐる。
そんな遊びようを、はためにも好きでなかった。三十年余も思いだすことがなかった。だが、憶えて
いた──。
冬子のそんな年齢(とし)ごろを知らないのだが、もとの安曇(あど)から間近かった小学校でも、また私立の京都女
学校の時分でも、彼女が、よほどやんちゃに賑やかに幼な友達と遊んだにちがいないこと、唄をうたい
マリをつき、よく流行った「お一段」のゴムひもをスカートをひるがえして高々と跳びこえたこと、縄
跡び、ドッジボールそれに紺のブルマー姿での体操なども上手だったことは、順子や吉(よツ)さんの証言をま
たずとも、察していた。ただ、自分の眼でそういう冬子を見る機会がなかった。
それが今さらもの惜しく──て、思いだした手まり唄かも知れない。
洗面台に置いた腕時計を一度のぞき、二度たしかめ、浴槽のなかで石鹸をつかいながらも、たがいに
「秋(ああ)ちゃん」「冬(ふう)ちゃん」と呼びおうて、
「二階、あがらしてや」
「コチヨコチョ」とふざけていた仲良しの様子が、殺風景な浴室の湯気のなかに幻燈の絵のように想い
浮かぶ。
京の京の大仏(たいぷッ)つあんは
天火(てん)びィで焼ァけてなァ
226(54)
三十ゥ三間堂は焼け残(のオこ)った
アリヤ ドンドンドン
コリャ ドンドンドン
うしろの正面にどォなた
お猿キャッキャッキャ
また□をついて出たこんな京のわらべ唄が、冬子や小松秋子の育った元の大仏廻り、とりわけて「正
面」界隈の人には禁句(タブー)だった。というのも、これが寛政十年の雷火をまぬかれた、概して火事運の強い
三十三間堂廻りの者の、もともとやや面白ずく囃したてたという唄だったから──。
「アリャ ドンドンドン コリャ ドンドンドン」というかけ声は陽気で、なにが気にさわるかと、よ
その者は思う。
が、豊(ほう)太閤が造った昔から、この方広寺大仏を囲んで鐘鋳(かねい)、薬罐(やかん)、塗師(ぬし)屋、棟梁、茶屋、鍵屋、鞘屋、
瓦役、問屋などの町、そして馬町(うままち)などと多くの職人商人が集まった久しい土地柄にすれば、火事さわぎ
はむろん、秀吉を諷した「お猿キャツキャッキャ」さえ愉快でない。のに、秋子や冬子の女学校でも、
わざと「ドンドン」とか「キャッキャ」とか意地わるを言う生徒がいた。
「それだけと違(ちや)うねん」と、美貌に似あわぬザラついた声で、秋子はすこし躁状態の時などわざと伝法
に嘆いたものだ、と言うのも、「うしろの正面(しようめ)にどォなた」とみなが囃せば、輪のなかの鬼(一字傍点)は「花子ち
ゃん」などと眼隠しでしゃがんだ自分のまうしろの者を当てねばならず、当たれば鬼(一字傍点)の身分を解放され
227(55)
るが、外れれぱいっそう大声で、
どっこいすべって 橋の下
も一つまわって どォなた
とやられてしまう。
この「橋の下」がきびしく響いた。鴨川に架かった正面橋でつながる東の「正面」地区と、西の「新
地」との、今では旧観実質ともまったく改っているけれども、かつては眼に見えやすかった落差が、少
年少女の耳に眼にこびりついて意識されていたからだ。
かんじんの大仏が焼け、さしも豊太閤以来の正面の景気も下火になり、すべってころんで橋下の苦界
へ身を落とす──とくらいの面白ずくの唄を、それでも笑って聴いていられるか。
「そやろ。あたりまえやろ」
秋子はしつこく同意を求めたが、そんな深読みでうたった覚えはなかった。だがそう言われればうな
づくしかない。ふし面白いただ童謡とばかり思ってきたたわいない唄が、小松秋子ほど堅実なもともと
勤め人の家庭に育った娘の思いをさえ、こう騒がす事実は身にこたえ、胸にもしみた。
──あの秋子が、しかしいつ結婚してしまったというのだろう。最後に逢った二、三年前は、桂に近
いちいさなコーポラスの二階東の端に、親と姉ともひとり離れ住んで、高校卒業いらい三度めの職場だ
という、薩摩焼のB商店に勤めていた。鹿児島ならぬ京の白薩摩といわれ、白地に細緻な金銀の絵付が、
茶席にはあまり使いたくない、しつこい焼き物だけれども、相当に外貨を稼ぐらしく、秋子は、妙に下
半身に貫禄さえついて、
228(56)
「よろし。今日はうちが奢ったげる」などと年ごとに大きな口もきいた。
情にあつい淋しがりで、嫁(ゆ)きおくれたのを気にしいしい元気に励んでいた秋子を、まして手をとって
教えた茶の湯を習いつづけ、茶道部同窓会のめんどうまできちんと見てくれている秋子を、嫌ういわれ
はなかった。が、世間ずれした鼻っ柱のつよさや、わざと品のない□のききように辟易して、ま今度は
よそう、今度もよそうと帰洛のつど連絡を怠っていたまの結婚、ということだったらしい。それはいい。
「このごろ、ハイネとは愛を語ってないのか」と、この夏、三番町のホテルで赤い葡萄酒に□をつけな
がら野尻吉男が呟いていた、あれは何だ、あいつめ──。
──七時をさしている腕時計に、苦笑いのまま急いで浴槽(ゆぶね)を出た。冬子との約束の、ジェルジンスキ
ィ公園まで、ホテル・オスクンキノから五分とかからない。
コートはやめ、衿の立った厚めのセーターにブレザーを重ねた。ためらって、やはりカメラを持った。
冬子とわかちあう、モスクワの朝だ、せめてたたずまいと、公園の内、外とは撮して帰りたい。
エレーナさんの連絡があるのは、十時半からあと、部屋で待てばよかった。雲あれど晴れまの色すこ
ぶる青し。風あり。走り去るトロリーバスにまだ人影はまばらだった。車道があり、並木の歩道があり、
まだ内側に、しゃれた長い長い鉄柵に沿うて草もえの踏みつけ路ができている。柵の内から繁った樹々
がみずみずしい枝葉を垂れ、小鳥がしきりに鳴いて枝から枝を渡るらしい。
時差の疲労が抜けない。ゆうべも、サーカスをプログラムせんぶ観ての帰りに名高いモスクワの地下
鉄をこころみなどして、ホテルヘは十一時すぎていた。思わずエレベーターのなかで、あす一日、休息
したいという声も出ていた。十行余の日記がやっと、枕もとに眼ざましの時計を置き忘れなかったのが
229(57)
精いっぱいで、ベッドに倒れこんだ。
妻の夢をみた。なぜか腹を痛がっていた。パジャマの上から掌でしばらく押えてやると、あったかい
わ、らくになったわと言って微笑(わら)う。
妻は冬子を知らない。冬子は妻を、見てさえいる。そんな、冬子と同じめを妻には見せたくなかった。
こんな──、こんな遠い処へ来て夫と暮しているなんて。可哀想な冬(ふう)ちゃん。京都へお帰り、もとの
東山界隈に。清水山(きよみづやま)の墓地ちかくに。唄うくらいそう呟いてもみる自分が、自分で、その滑稽な思いあ
がりを憎んでいた。
──公園へ入るのに十カペイカを支払うらしい。そのためのボックスも門を入ると右手にあった。無
人(ぷにん)だった。たたずんで、バラ園を眺めていたが見とがめて声をかけてくる人も、冬子らしい姿もない。
草野球ならグラウンドが横に二面とれそうな広場の、右一帯でバラが栽培され、左半分は眼にしみる青
芝。その芝生のはずれに、もとは回廊(コリドール)といったものか、高さ七、八メートル、びっしり蔦かづらに蔽わ
れた、分厚な、まるで真緑の壁が百メートルの余も奥へ、延びている。
そしてあれが──あの緑色の壁ごしに見える白い宮殿、三角の破風(はふ)のうえに何かしら飾りを高くあげ
ているのが、冬子の話していためじるしの建物らしい。
その冬子も見えず、入園料を渡す相手もあらわれない。
冬子は白い建物のまえで待てと言った。それなら、もう、むこうへ来ているのかもしれず、窓□にち
いさな銅貨(コペイカ)一つを戴せると急ぎ足にその場をはなれた。広場の正面は、左右にひろがる木暗い森──。
芝生とバラ園とのあいだを行くと、やがて四つ辻。
230(58)
左を見ると道幅に緑の壁にすきまがあいて、奥に、奥の右寄りに、冬子が盆のようなと言った芝生の
端縁(へり)と、木のベンチとが見えた。鳩か、と思う白い鳥が一羽、風にさからうように翅をうち、緑の回廊
に沿うてはらはらと舞いおりる、と、ベンチをかすめ、ふと蔭へ消えた。
小走りに、
「冬ちゃん」と呼んだ──。
冬子は、いなかった。
かけこんだ眼のまえ、さしわたし十五メートルほどの、なるほど盆のような青芝のまんなかに四角な
台座を据えて、大理石のヴィーナスが、垂れた右腕の手首を欠き、うすぎぬの下で左膝をかるく曲げて
伏し眼で、うっとりと立っていた。
芝生のむこうに、長い木のベンチが間をおいて、二つ。
だれもいない。
鳥もいない。
約束の時刻に七、八分まだあった。
しばらく女神像を、と見こう見、盆のまわりを一周して一度ベンチにかけ、また起って回廊ぞいに奥
へ歩いた。見あげると蔓や葉が絡まりついた桁と柱は、元気な小学生が猿より巧く片手でぶらさがって
は前へ進むあの「ウンテイ」に似ていた。雲梯か、運梯と書くのか。ところどころ紅葉がああきれいな
と見ている、風が揺る、さらさらと木叢(こむら)に物音がして鳥が巣をかけているか、いや、それとも、と、ま
るでべつの想いへ急速に惹かれて行った──。
231(59)
──昭和三十四年一月三十日に第十八刷を発行したむね奥付にある、星が一つ、つまり定価四拾円の、
ま新しい岩波文庫を安曇(あど)冬子は置き土産に、中学三年の正月いらい無欠席で当尾(とうの)へ通いつめた茶の湯の
稽古をやめた。母親の塩梅(あんばい)もよくなかったが、それだけが「お休みさせて」もらう理由ではなかったろ
う。師匠である当尾の伯母は、この秋に免許の茶名もと思っていた冬子のつまづきを惜しんだ。
茶室に、あの日のあの時だれもいなかった。
伯母にかわって最後の稽古をみてやりながら、「雪」という、冬子の好きな茶箱手前の茶を、のんだ。
それがすむと、代りあって、炉のまえで、人の来ぬまに手早い平手前(ひらてまえ)の茶を、冬子のために点(た)ててやっ
た。
伯母が、久しい冬子との仲をどう察していたか知らない。この二月中にも甥がべつの恋人を連れて家
を、京都をすて、東京へ行ってしまう話を伯母はむし返さなかった。
むろん、冬子は事情を知っていた。
「山深雪未消」と、だれかしら坊主が書いた一行の幅(ふく)の足もとに、六角の唐銅(からかね)へ寒牡丹がいけてあった。
「下萌え」と鶴屋が銘した早緑色の菓子を、水屋から、べつに冬子のまえへ運んできながら、「寒おす
なァ」と伯母のつぶやくのが、なぜか痛いほど身にこたえた。
冬子がそっと手渡して行ったのは、ホフマンの『黄金主壺』で、昭和九年に石川道雄が訳して以来の
文庫本だった。かつて、一度も話題にしたことのない本だった──。
なにをしても運のわるいヘマをしでかす純情な大学生のアンセルムスが、その日もいまいましい醜態
232(60)
を演じたあげく、目の前に美しいエルベ河の「黄金(きん)の■漣(さざなみ)」がさざめく、とある「紫丁香花(ライラック)の樹蔭」に
腰をおろしている。と、妙な、さらさら鳴る物音を聴いた。
其の音は初めは彼の直ぐ傍の草叢(くさむら)の中で起って、軈(やが)で彼の頭上に覆ひ被(かぶ)さって居る紫丁香花の樹の枝
葉の蔭へと滑るやうに攀(のぼ)って行った。其れは風が木の葉を揺るがして居るやうでもあり、又小鳥が枝
の問を気儘に彼方此方(あちこち)と飛び交ひながら小さな翼を羽榑(はばた)いて居るやうでもあった。ところが其れは微(かす)
かに物を言ひはじめた、囁(ささや)きはじめた。
思わずアンゼルムスの見あげる眼に、「緑金の小蛇」が枝葉のあいだをするする身をすりつけ滑りま
わりながら、可愛い鎌首をのばしてくる、その、しなやかな身動きにつれて、「紫丁香花(ライーラック)の茂みが其の
葉蔭から、幾千の緑玉(エメラルド)を撤さ散らすかと怪しまれた。」
総身を「紫電」に撃たれ心の奥が「動悸々々」して、アンゼルムスが蛇のほうを見つめる、むこうで
も「椅麗な濃青の雙の睛(め)が、云ひ知れぬ憧憬の色を泛(うか)べて彼を見まもって居た。非常に大きな喜びと非
常に深い苦しみとが一緒になった未だ嘗て覚えぬ感情で、」彼は、今にも胸がはちきれそうだった。
だが、──あえなく別れの時が来た。
ぶきっちょな大学生に清楚な愛を示した小蛇は、名を「セルベンチナ」といった。アンゼルムスもそ
の「優婉な碧い睛(め)」の彼女を一瞥のうちに恋い慕い、人眼には狂気した者のように再会の機会を求め歩
く──。
(■:さんずい に 猗)
233(61)
冬子は、蛇ぎらいをよく知ってくれていた。
それが世間普通の態度とも承知して、ことさら話題にもしなかったし、清水の裏山いらい二度と眼の
まえでじかに蛇身にふれる機会とてもなかった。が、『黄金宝壺』ははっきり蛇の本だった。冬子はそ
れを読めと言った。
読みながら──涙をポタポタ落とした。胸の芯が灼けた。本は今日買ってきたようにピカピカしてい
た。例の合図も、「冬子より」とも書き入れてない。
冬(ふう)ちゃんは、ほんとうに去(い)ってしまった。そう判断するしかなかった。理屈にはあわないがそれほど
セルベンチナは、美しい蛇だった。やさしい極みの、一抹といえど厭悪(えんお)や怖畏(ふい)を心によびおこさせない、
愛らしい蛇だった──。
「おゝ、今一度なりと光って呉れ、輝いて呉れ、可愛い黄金の小蛇よ、今一度なりとお前の鈴のやう
な声を聞かして呉れ!せめて今一度己(おれ)を凝視(みつ)めて呉れ、世にも美しい碧(あを)い瞳よ、ほんの今一度なり
と!さもないと此の己(おれ)は苦しさの余り、燃えたっ様な恋しさの余り、恐らく死んで了(しま)ふだらう!」
アンゼルムスのこんな言葉を、読後、人知れず幾度つぶやいたことか。
消え失せた青春をいたむ、ただ感傷の挽歌であったかもしれず、だが心のどこかに、しょせん蛇はか
なわないというすさまじい背信を、自分に指さして咎め苦しめる呪いのようでもあった。
「おゝ、今一度……」
234(62)
「ほんの今一度……」
名子は、だが、アンゼルムスほど純真に蛇の愛に生きようとしない俗物を責めて、蔑(さげす)んで、立ち去っ
た。ホフマンの物語が、それをはっきり示していた。
蛇であるセルベンチナヘの愛をついに貫いたアンゼルムスは、その碧い瞳が緑金の小蛇によく肖た現
世の美少女、ただ彼の立身を、ひいては自分の栄耀を夢見るヴェロニカをふりきって、無垢の愛ゆえつ
いに蛇体をまぬかれた優美なセルベンチナとともに、楽園アトランチスで至福の永生をわかちあう。
それなのに!
ヴェロニカを連れて行って、さっさと「宮中顧問官」にでもおなり!とわらった冬子。──その冬
子を待っていた。こんな、モスクワの、公園で。
遠く、街が鳴っていた。刷いたように雲も走っていた。
「紫丁香花(ライラック)」ではないが──朝まだき、ジェルジンスキィ公園の一画に人ひとりの影もなく、一歩また
半歩近寄って廊の柱に這いまつわる蔦かつらの奥を見あげる、と、案にたがわぬ暗がりにほのかに影が
ゆれ、やがて白い鳩が一羽、烈しく翔(と)びたつでなく朝日にきらめいて、中ぞらに翅(はね)をうった。
すばやくカメラをむけた。
と、シャッターの音にかぶさって、
「アンゼルムス……」
ふりむいた。加賀、法子──かと思った。
ちがった。髪はすっきりショートカットだが、十は、若くみえるが、たてた指一本をそっと□もとに
235(63)
──名子にちがいなかった。黄金(きん)のリングを耳にはめ、白いブラウスに、ラメ糸で大きくVネックに金
の縁どりした淡いピンクのモヘアニットを着かさねていた。腕に、やはりモヘアの、温かそうなピンク、
オレンジ、赤や茶色が入りまじったカーディガンをかるくあずけて。
「セルベンチナを、想いだしててくださったのね」
「…冬(ふう)…ちゃん、だね。ほんとだね」
ベンチヘ眼顔でさそいながら、冬子は早足で来たためかすこし頬を染めたまま、わらって、
「お忘れ…」
「………」
「きみはわが蔭にあり、わが馨(かをり)、きみを繞(めぐ)れと、すげなきはきみかや。恋の焔(ほむら)の燃ゆるとき、馨はまた
わが言の葉なるを……」
「それは……ライラックのそよぐ茂みが、アンゼルムスに呼びかけた歌」
「風も歌ったわ。こうよ。……きみが雙鬢(さうびん)に吹きまつはれど、すげなきはきみかや。恋の焔の燃ゆると
き、息吹(いぶき)はまたわが言の葉なるを」
「そして太陽の光も、雲間を破って…」
「きみに灼熱の黄金を注げど、すげなきはきみかや。恋の焔の燃ゆるとき、熱はまたわが言の葉なるを
……」
「アンゼルムスには、その歌が聴こえた」
「宏ッちゃんは……聴こうと、してくださらなかった」
236(64)
「………」
「宮中顧問官夫人。お元気のようね」
「でも、あれはヴェロニカじゃないよ。ぼくだって宮中顧問官なんかじゃ、ない……」
「そうね。いいわ。よしましょう、そんなお話。それより、ようこそいらしたわ。夢みたい」
「冬ちゃん……すこし顔色が」
「汗がひいて。冷えてきたのね。着るわ。…宏ッちゃん朝御飯ぬきでしよう。持ってきてるのよ。ちよ
とだけど」
「よく…」朝早うに──そんなことまでと訊きかけて、こらえた。よけいなことだった。
冬子は大きな籠に、魔法瓶の日本茶もいれてきた。三重の入れ子にしまえる三色の密封容器も日本製
で、栗御飯に、むっくり巻きあげたまだ温かいだし(二字傍点)巻きを三つ添えたのが、一等大きい。ビニールの風
呂敷を手早くベンチにひろげて、
「あたしのですけど。でも、なつかしいでしょ」と、冬子はこまかな乳(にゆう)に色佳う小菊の叢(くさむら)を描いた古
清水(こきよみず)、筒姿(な)りの湯呑みを手にとらせた。
旅中、パックした煎茶や焙(ほう)じ茶を試みないではなかったが、洗面所の湯ではよく出ない。
「ありがと」と両掌にいただく、「里ごころがついちゃうわね」とほほえみながら冬子は竹の割箸を二
つに割ってくれた。
淡紅色のパックには、好きな椎茸(しいたけ)に京湯葉、干瓢(かんぴよう)それと高野豆腐も煮しめて、「お豆さん」少々。そ
してちいさい白いパックに自分で漬けたという梅干。らっきよう。茄子はきらいと承知で、緑色の冴え
237(65)
た胡瓜の浅漬け。
「これは…」
「おぼえてらした。唐辛子を、ちょっとね」
「きのしょ…」
「そうなの。おいしいって食べものじゃありませんけど」
冬子は首をすくめ、「お箸、あたしのぶんも持ってきてるのよ」
頭上をさっきの鳩が、今度は二羽になって、黒いのが先に、また白いのが先に、幾度も輪をかいて翔(と)
びさった。赤い布の袋をさげ、鳶色の髪にセーターと同じ赤いフードの母親が、二つ三つの子を歩かせ
て森のほうへゆっくり通りすぎながら、めずらしい日本人同士のままごとを、いぶかしくも興ありげに
眺めて行く。
「何時まで、いいんですの」
「十時半には、部屋で電話を待つ約束になっている」
「二時間は、たっぷりあるわ。うれしい」
そのあと箸だけがかわるがわる動いて、すこし重い沈黙がきた。同じ湯呑みの茶をすすり、同じ容器
の食べものを頒けながら、気がつくと冬子の眼じりを涙がつたっていた。
この人が、──泣くのか。
箸をおいて、あらためて冬子に、冬子の母の死を悼んだ。
「お葬式に冬(ふう)ちゃん、あの時出られたの」
238(66)
だが首をふるほどの返事もなかった。いつからソ連にいるか。訊くなと、名子はからだで答えていた。
──もうやがて八年になる冬子らの母の死を、結局、報されずに過ぎた。後日、野尻吉男から聞いた。
呼ぶまいという冬子の意向を察してにが笑いしながら、京都の順子に、東京からすぐ電話で悔やみを言
った。それもあの頃はまだ勤めていた会社からだ。
電話も手紙もこっちからの一方交通だった。約束ごとのように順子はその点も辛抱よく、年賀状一枚、
よこしたことがない。
恰幅のいい、色白な頬にも額にもむしろすぐ血の気がさすなど、順子らの母は早死した息子の憲吉と
似た体質の、すこし陰気な方の人だったが、順子の結婚直前に馬町の家で最後に会った時は、もうはっ
きり貧血症状が悪性を感じさせる衰えようだった。結局それが生命とりになったが、順子は電話□で、
「一種の自滅……ゃ思う」と母の死について洩らしていた。双方で、冬子のことは□にしなかった。
安曇(あど)の母親のことは、その後妙に宿題めいて(早く亡くなっていた父親のことも、ともども)結着の
つかない、いろいろ聴かねばすまない気がかりとなって残っていた──。
「ね、…歩きましょう。ごめんなさいね、うっとうしい顔を見せて」
そう言うと冬子は、手早く、ひろげた物を片づけた。
蓋付きでもない手篭を、冬子は、緑色に花模様のブラトーク、つまり大きめのスカーフで蔽うと、そ
のままベンチヘしばらく置いて行く気だった。
「だいじょうぶ。無くなりゃしませんから」と、わらう。
「でも、その綺麗なの。かぶったら」
239(67)
牡丹に蝶が舞い、水仙や小菊や芙蓉も咲き、りんどうも莟(つぼみ)をいっぱいもったにぎやかな染め模様が、
ソ連ふうというか、すこし色濃い緑の生地にあふれている。冬子はすなおに肩から背ヘブラトークを羽
織って、ぐるっと、ひとまわりした。
「どうお。ロシア娘に見えるかしら」
黒い糸のふさがたくさんに垂れ、カーディガンやセーターのやさしい色めへ妖しくまっわる。
「ずいぶん…神経の太い図案だねえ」
「でしょう。だから…」とさっさと籠へもどして、冬子は両手で背を押しかえすように森の道へむき直
らせ、そのまま右の腕を抱いた。
言葉つきが、二人とも京の昔のそれとは変っていた。すぎた歳月は、どう、さらい直すすべもない。
「京都に、お年寄りは」と、牧田家を思った問いかけにも、冬子は首を横へそっとふるだけ。
「十一月のお茶会…ね」
「……雲岫会(うんしゆうかい)のこと。高校(がつこ)の」
「ええ。ひょっとすると、出られるかもしれません」
「転勤……」
冬子はもう一度首を横にふった。心配しないでほしいが健康にすこし問題がある、と言う。とくに厳
冬は身動きにもこたえて、
「からだにひびでも入りそうに痛いの」
「なんと。だめな冬の子だねえ。そりゃ日本で、よく癒さなきゃね。すると、東京……」
240(68)
「きめてないの、まだ。京都ですと、順がいてくれますでしよ」
「いい医者が要るなら、相談にのるよ」
「うれしいわ。でも宏ッちゃんは…」
「そう、五年になるんだ、勤めをやめて。大丈夫、でも。会社の若い友だちに紹介を頼むて(一字傍点)もある。一
人前の医書編集者に、みな、育ってるからね」
「朝日子ちゃんの生れる時が、そうでしたわね、いいお医者さんにかかれて」
「それを……どうして」
「知ってます。なーンでもよ」
冬子は組んだ腕をわざと揺すってみせた。
それは、こっちが書いてもいる。本にもなっているし、本が読めなくても順子らとよほど連絡がとれ
ているらしい。小松秋子以外に報せて(一字傍点)のあろうと思えない、高校の創立三十年を記念した茶道部の茶会
が文化の日を期していることまで、ちゃんと冬子は承知している一。
「深い…森だなあ。これでも、モスクワ市内なんでしよ」
「すてきでしよう。森は森ですけど、木がね、大きすぎないからあんなに空がきれいに見えて。陰気じ
ゃないのね。宏ッちゃん、きっと好きになると思った」
一面の黄葉という季節ではなく、落葉も深くない。幅二、三メートルまた五、六メートルもの散歩道
が森のなかをごく自然に往きかって、背もたれの高い、大柄なソ連人がいかにも腰かけやすそうなベン
チも、間隔をおいて、忘れず緑蔭の好処に配してある。
241(69)
「ジェルジンスキィというのは、革命家、党の権力者だった人の名前らしいの。もともとオスタンキノ
宮殿があった誰かさんの領地なのね。ほら、ホテルの名前もオスタンキノでしょう。この今は国立の植
物園の、そうね、むこう……」と、冬子は思案顔に指さして、「の、ほうに木造ですけど、なかなか感
じのいい十八世紀の宮殿があるの」
「それが、今は農奴芸術博物館に…」
「ええ。シュレメーチェフという伯爵家の農奴たちが、天井から床まで腕をふるって造ったそうよ、そ
れがとても華奢で。行きたい…」と訊かれた。オスタンキノ宮殿はコレクションもすてきだが、とくに
建築の全体を指揮した農奴アルグノフの意匠感覚が繊細に行きとどいて、とりわけ専用の劇場が、いろ
んな仕掛けや音響効果ですばらしい。シュレメーチェフという伯爵は十八世紀の頃、芝居や歌、踊りの
才能に恵まれた二百人もの農奴をかかえ、ふだんにこの劇場を使わせ、楽しんでいたとか、
「行きたい……」と、名子はもう一度訊いた。
「いや。冬(ふう)ちゃんとだけ、いたいね」
「ま。京都で、そうは言ってくださらなかったわ」
「………」
ふり仰ぐ頭のまえ、匂うような黄葉に朝日が照っていた。そして遠く木(こ)がくれて、せわしく翅をうつ
鳥たちのけはいも──。ためらいのない抱擁と、一瞬、ぶつかるような□づけのそのあいだに、皓い歯
をちいさく鳴らして冬子は両手を垂れたなり、綿よりやわらかに抱かれていた。
…………
242(70)
思いがけない、森のなかで、二人づれの若い兵士たちと出会った。話しあうふうでもなく、きまじめ
に、奥のほうからまっすぐ来て、まっすぐすれ違った。ふりむいて、囁きあうようすでもなかった。
冬子がくすっと、笑う。
「笑うな」
「笑う……」
冬子はそう抗(あらが)い、しばらく笑いやまなかった。カメラをむけると、路上、ああ向きこう同き、小娘の
ように手を上げたり、広げたり。
すると、また、今度は女の二人づれが来た。年恰好、背恰好、髪の色も、両方でベルト付きのじみな
レインコートを着ているのも、そっくり。大股に、歩調をそろえて、落葉のうえを黒い靴音を鳴らして
通りすぎて行った。冬子より若いにちがいない。のに、いかつく、老けて見えた。
「冬(ふう)ちゃん、きれいだね」
静かなもとの表情にかえった冬子へ、言わずにおれない。
「いいえ。からだつきが貧弱なだけよ」
「でも、なかった……華奢は華奢だけど」
さっき抱いた冬子のたしかな感触を、思わずもう一度深く呼吸しながら言いすすんだ、
「子どもを、産んでないからだを、しているね」
冬子が、ぴたりと足をとめた。腕をほどいて、俯いて、
「どうして、そう想うの」
243(71)
「どうしてテこたないんだが。吉(よ)ッさんも順もなにも言わないし」
「あたしもそういうお喋りを、しない。だから……」
「そうかもね。親は、子どもの話をしたがるものだよ。でも……そうか。やっぱり冬ちゃんも、お母さ
んだったの」
「………」
「ソ連じゃ十七歳まで中学。義務教育だそうだね。一人。男の子。それとも二人かな…。そうか、じゃ、
うちのと…」
「早合点はよして、宏ッちゃん。母親には、あたし、なりそこねたんですよ。……もう、遠いことなの」
「…まさか…」
「子どもの、お墓があるわ。深草に」
「深草……」
棒立ちだった。
「順も、お連れしたでしょ、一度。でも、お話し、しなかったみたいね」
冬子は.ベンチを見つけ、腰かけようと提議した。
──深草石峰寺の裏山に、冬子、現在牧田夫人、に連れられ底冷えておびただしい石仏を木もれ日に
見た最初は、とおいとおい昔の、小正月すぎた真冬だった。
その後同じまた真冬──、やがて結婚するという安曇(あど)順子、冬子の妹、とパーラーの窓ぎわから四条
244(72)
の雑踏をゆるゆる横切って行く京阪電車を眺めていて、ふと、石峰寺へ行ってみたいと囁かれたあの日
は、冬子との昔が一瞬思いだせずに、半ば、偶然が順子にえらばせたお寺のように感じた。深草が、彼
女らの死んだ父親に由縁の土地とはちょっと間をおいてから思いだした、そして頷けた。冬子とも来た
ことのある寺と、順子は知るまい──ひとりそう胸に畳んで、行方知れぬ「冬(ふう)ちゃん」も気になり、急
な結婚をひかえた「順」の、思いがけない、涙、にもあのとき負けていた。
京阪電車の深草駅を東へ、大門町の地蔵堂の下に、名水と聴いていた「茶碗子の水」の湧くのを見て
やがて、表通りをひとつ裏へまわるぐあいに、あの日、順子はひそとした小路を通って行こうと言った。
ちょうど祗園花街の、それも中部歌舞練場の真北に、奥まって葭簾(よしず)を垂れた千本格子の茶屋や置屋が
ならんだ路地(ろうじ)、に似ていた。忍び返しの黒板塀に黒格子の門構えで静まりかえった屋敷もあった。風花
が舞う寒さではあり人影を見なかったことは冬子との昔にかわりなく、横を歩く順子を幾度姉と錯覚し
たか。したかったか──。
冬子と最初に出かけた年齢(とし)ごろでは、伊藤若冲という江戸時代の絵描きの、名前を知っていたのがせ
いぜいだった。若冲の墓詣りを思いつくにはやはり順子との機会まで待たねばならなかった。山坂を利
用したせまい墓地に、案内の木札が立っていた、それは記憶にある。そのあと若冲の墓より二段三段奥
へあがって、まだ、本堂の屋根を見おろす高さでもなかったし、さてあの時順子が、どれかその辺の墓
石をそれ(二字傍点)と指さしていたか、──とも、思えば、思える。
そのくせ訊いてみた、順子らの父親が深草の、どの辺の人か。だが姉が昔そうだったと同じに、妹の
返事はなかった。
245(73)
「そやけど……なんで深草に、お墓を」
菩提樹の黄葉を見あげ、牧田夫人の冬子はカーディガンの衿で両方から頬を包むようにして、すぐに
は答えなかった。
石峰寺の墓に記憶がない。だから、何家の墓とも覚えがないのだが、当然牧田家の墓地でなければな
らず、安曇(あど)家代々の墓なら兄の憲吉や母のも清閑寺山にあるのを知っていた。この夏、順子をうながし
彼女の車で山科側からハイウェイを通って、墓前に山の花を供え掌(て)も合わせてきた。
どこへ行き、どこにいても、冬子との思い出が肩さきにとまっていた。それと知ってか知らずにか、
知らぬはずがない順子は、そんな、冬子の死んだ子どもの話など、一度も□にしたことがなかった──。
牧田欣一という名前を、オスタンキノの森に冬子といて、同じベンチに腰かけて、もち出したくはな
い。吉(よツ)さんの野球部で先輩といった縁をかってに想像はしていたが、石峰寺に牧田の墓所があるのなら
死んだ冬子の父とも深草という地縁があっての縁組だったのかも知れない、それはそれで頷けたし、さ
きの質問は自然消滅でいい。が、なんとなくため息もでて話の継穂をうしなっていた。
「……アンゼルムス」
冬子は、戯れともつかず、そんな名で、静かに呼びかけてきた。「緑金」の小蛇を愛したという、ホ
フマンの物語『黄金宝壺』のあの大学生だ。
「あなた…セルベンチナに逢いたくて」と、世にも美しいという蛇の名を冬子は□にした。
「逢いたかった……」
246(74)
「じゃ、ご覧なさいナあそこ」
「……」と、冬子の視線を追い、径(みち)をへだてて黄金(きん)色に明るんだ木叢(こむら)の奥を透かし見た。葉が茂り、白
い花が飾って、細う、揺れて──いる。動いて──いる。
「滑り抜けては…滑って入(い)り……青枝(えだ)の中で、咲きにほふ花のさなかで、踊って、とぐろを巻いて纒(まつ)は
りつく」と、冬子はうたうように。
「娘よ…」
「そなたは陽光(ひかり)の中で踊りやれ…早く」
「早く上っておいで…下りておいで……朝陽が光の箭(や)を射るよ」
「朝風が微かに囁くよ……。さ、宏ッちゃん写真を早う」
はっと起った。が、半歩も前へ動けず、そのまま三度四度シャッターボタンを押した──。
「ホフマンの詩(うた)を、まあ、よく、憶えててくださったのね」
いくらか血の気がひいていたか知れず、ぼっと突っ立っている顔を見あげて、冬子は、もとのとおり
平静な瞳(め)で、はげますように笑う。モスクワ北郊、それもこの時季にあれほど縞麗な小蛇を見る機会(こと)は
まれと、言われるまでない珍しいめ(──字傍点)を、見せてくれたのだ。
「する…と」と逸(はや)ってあれこれと言いかけるのを冬子はすばやく制し、眼を見あわせて、そっと頭(かぶり)をふ
った。
「だって……でも、…その子は」
「もういいんです。すんだの。それより、行きましょう。公園はひろいのよ」
247(75)
「………」
そしていくつか径(こみち)を、と折れこう折れ、たがいに腰を抱き背を抱きつと顔も寄せあいながら、なくな
りもせずもとのベンチに人待ち顔のバスケットの処へもどった。
「宏ッちゃん。マトリヨーシカを、きのう、ザゴルスクで見られて」
「いや、時間が足りなくて。教会に入っちゃうと、ぼくら、なかなか動かないでしょう。約束していた
カルムイク共和国の詩人にも、たいぶ作家同盟で待ってもらった」
「でも、あのお人形なら、知ってたでしょ」
「うん。大きめのになると三十センチぐらいかな。おなかに、同じマトリョーシカが一ダースもセット
してある。字のとおりの、入れ子だね」
「子たくさん……」
「そんな願望がね。感じられるね。北陸金沢に、八幡起上がりといって、嫁入りに子宝を願って持って
く張子の人形。あれが似てる。関連は、かならずしもこけし(三字傍点)に限らない気がする」
「じゃ、これはどう。おみやげよ…」
冬子はバスケットの底から、げんきに足掻(あが)いた木彫りの馬をとり出した。眼のまえへささげられ、手
にとって、見るとただ裸馬ではない。髪のゆたかな少女が鞍も手綱もなく、たてがみをつかんで前かが
みに背に跨っている。彫りは浅いが木の艶が生きて、ユーモラスにも見え、きまじめな手仕事にも見え
た。
「ボゴローツクといってね。十八世紀はじめにはもう木のおもちゃで有名だった村の製品。スラヴ馬の
248(76)
少女ですって」
「だって…これは」
「これは。……なんですの」
なに、と反問されてち上っと窮した。馬に乗ったスラヴの少女だ。木彫りの民芸品だ。だが──ルサ
ールカ。
いや陸奥(みちのく)の巫女(みこ)が語りつたえたおしら(三字傍点)神祭文(さいもん)にも、長者の娘が馬に恋して天涯に翔(と)ぶとは言わなかっ
たか。
「いや、…よく彫れてると思って。いただくの」
「かさばらないでしょ」
変わりやすいモスクワの空模様が、雲こそ、夏のそれのように白く、高く、だが、雲間の秋空は耳を
すませぱ鳴っているように濃く冴えて、まぶしい。
──名子が子を産んでいた。悩ましい話だった。
広いバラ畑と森のあわいを径(こみち)がのびる。先へ、森の側へ、左の奥へ歩いていくと、野をうねる白い蛇
のように、砂利の径はまた、紅いの淡紅(とき)色のいろいろなパラの花園(かえん)へ誘っていく。どこにも人の姿がな
い。森の頭ごしに竿を立てたみたいなテレビ塔がのぞきこんでいた。冬子は眼をほそめて空をふり仰い
でいたが、
「ゆうべのサーカス、いかがでして」
「うん。わるくなかった。ピエロは、巧いねやっぱり。だけど」
249(77)
「睡かった…ンでしょ」
「まさに。面白がる頭のはたらきと、モーレツ睡いという頭のボケが、両立してた。あれも時差体験か
ね」
「だいじょうぶですの、今」
「ごちそうで、元気回復」
「あんなおママごと久しぶり…でしたね。で、今日はどちらへ」
「夜はボリショイ劇場とか。プロコフィエフのオペラだって」
「バレエじゃなく。オペラですと、言葉がね」
「筋でも知ってるとなんとかね。ウクライナの農村を舞台にした、反戦ものだとか」
「それなら『セメン・コッコオ』ですね。人の名前。お好きかも知れません、きっと。若い戦士のドラ
マですけど、いきなり求婚したり婚礼があったりで、その風俗がめずらしいの」
「午後はまた同盟本部の食堂で、日本の古典を翻訳したり研究したりしてる人と話しあうらしい」
「では、ですねえ……」と、子どもが鹿爪らしくものを言うように冬子は翌日分の予定まで訊く。
「わかんない。夜何時だか、だいぶ遅い時間に汽車でレニングラードヘ発つ。案内の通訳さんは、むり
をしない人だから」
「だからあしたも、午前中は…」
「今日とそう違わないと思う。だから、…」
「もう一度逢える、わね」
250(78)
「………」
「気にしないでネ、ほか(二字傍点)のことなら。…逢ってくださる」
「もちろん。あなたさえいいなら。そのために来たんだ」
冬子は歩みをとめた。そして勢いよく人さし指を一本、眼の高さに立ててみせた。
「それで、…小松さんは、いつ、結婚したの」
冬子の立てた指を包むように掌(て)に握りながら、訊く、と、ぐっと引き抜いて冬子は、一本だった指を
二本にして顔をそむけた。
「わかった。訊かない。……興味もないんだ」
冬子は機敏に場面をもとへもどし、明朝も七時半は可能か、可能なら、いわば同じ敷地ともいえる国
民経済成果博覧会(ペ?・デー・エヌ・ハー)の会場をミニバスでまわって、朝食もそこのビュフェでと提案した。
「よっぽどそこは広いらしいね」
「万博を年中やってるのと同じですわ。大阪のほら、万博敷地の三分の二ですって」
「けと、冬(ふう)ちゃん」
「え」
「えーと、そうだな…この公園というか、森は、奥のほういろいろと、まだ」
冬子はうなづいた。
「なら、その国民経済成果博覧会とかいうソ連の万博は、遠慮するよ。かりに話すことがもう無くった
って、ここでこう、さっきも言ったけど、二人でいたい。せっかくならね」
251(79)
「ありがとう。でもソ連も、たくさん見て帰りたいンでしょ」
「ぼくのは、ソ連でないと、という旅じゃないんだ。冬(ふう)ちゃんが呼んでいる、だから来た。来たかった。
たわいないか知れないが、それが…ぼくの、生きてるって意味(こと)でね」
いかにもたわいなかった。浅々しいそんな言いくさに頬朱らむのを自覚した。だが冬子が呼べば冬子
のもとへかけ寄るそれ以外の、そんなたわいなさ以外のどんな生きる意味を抱きかかえてきたと言える
のか。政治、ちがう。文学、ちがう。肉親、……ちがう。夫婦だけだ。ほかはどれも百万年の記憶に耐
ええない。冬子は、だが永劫(えいごう)の一閃(いつせん)──。
あたりは尋常な西洋庭園の風情だった。白い幾何学模様の浅い浴槽(ゆぶね)ににた池や、池に通じる太い鎖状
の水路や、物指をあてたような大小の敷き砂利が、まぶしい芝の緑にひき映えている。空気も、しっと
り潤って感じられる。噴水のまだ出ていないのがかえってありがたく、ひっそり池の端に腰かけ、内側
へ一つ段が造ってあるのに足をあずけて内向きに冬子とならんだ。日の光が頭、背、膝を、足先までを
黄色く包みこみ、池水は雲のかげをうかべ、時おり小波をひろげてはまた静まりかえる。
「あなた(三字傍点)の・…こと」と、冬子ははじめての呼びようで、間を、ちょっとおいた。「ずっと……永いこ
と見てましたの。考えてたの」
「………」
「あなたは、遺書を書くぐあいに小説や随筆をいつも書いてらっしゃるのね。いつでも、もうこの仕事
が最後と思って、待っていらっしゃる」
「待つ…」
252(80)
「そうよ。なるべく不意にそれ(二字傍点)の来るのをね。で、それで、なにかに対し、頭をさげたことにしたがっ
てるみたい。でも、……それ(二字傍点)は卑怯だわ」
「そう。卑怯だね。…帳尻をあわすみたいで」
「あたしが言うとおりのこと、でも、思ってらっしゃるでしよ」
「………」
「ですからお逢いしたかったの。一度、早いことお逢いしなきゃ、と思うようになりましたの」
「ありがと。あれ(二字傍点)をネ、例の牧田さんの手紙。あれを見たとき、やっと…と、思った。肩の荷がおりた
というんじゃむろんないが」
「へんな言い方しますけど、つまり、退場する権利を手にいれた……」
思わず微笑(わら)えた。退場する権利、か。うなづいた。
「するとこれは、今度のご旅行は、花道かなんかのおつもりですの、舞台を下りる」
「そりゃ今度に限らない。この数年、いつも、なにをする時もその気だった。あなたが見抜いていたと
おりさ。ただし死は自分で決めることじゃない。不意に決まってくれる。それを待っている。それはほ
んとだ」
「宏ッちゃんに、あたし、提案があるの一つ」
「なに…」
「まだ、言わない。でも近いうちにきっと言うわ。だから、なるべく受入れていただきたいの」
なにに拠って冬子が「遺書」の一語をひきだす忖度(そんたく)をしたか。察しに錯(あや)まりがないだけ興味を逆にも
253(81)
った。冬子は、即座の一例に、「絶筆」というエッゼイをあげた。離婚したばかりの順子と京都で逢っ
てきた、あの年の霜月すえか、師走はじめに書いていた。
──伊豆の山に浄土房という僧がいた。寺は弟子にゆずり、山ぎわに庵室をかまえて後世菩提(ごせぼだい)を願っ
たが、長雨に山がくずれて、庵室もろとも埋められてしまった。惨状、ほどこすすべもなく、せめて師
の遺骸をえたいと弟子が土を掘りのけてみると、庵室は跡形ないなかに師の御房(ごぼう)はつつがなかった。み
な嬉し泣きしたが、当の浄土房ひとり浮かぬ顔で、「あさましき損を取りたるぞや」と愚痴っぽい。
損とは庵室のことか、本尊などを失ったことかといぶかしむ弟子に、浄土房は首を横にふった。自分
は如来観音を念じて災厄をまぬがれると思い馴れてきたので、此度もとっさに「南無観音」ととなえて
しまった。だが、そのひと声をとなえた同じひまに「南無阿弥陀仏」ととなえて極楽往生をこそとげる
べきだった。つまらぬ命拾いして、「うき世にながらへんこと、本当(まめやか)に損をとりたる心地す」と、浄土
房はさも□惜しげに涙を流した。聴く者もみなもの哀れに思った──。
なにげなく古い本で拾い読んだ話だが、理屈ぬきに同感、も言いすぎだろうが、同情できた。ああも
っともだと思った。いい話だなといった価値判断ではない。自分が浄土房であっても、同じことを思っ
たろう。そればかりか、即刻只今、浄土房と同然のはめに陥ったとして、願わくは現世利益(りやく)の観音でな
く、摂取不捨(せつしゆふしや)の南無阿弥陀仏をとなえて往生したいと思うと、わかっていたからだ。弥陀の本願まこと
ならぱ、といった条件をつけてではない。また死を望むのでもない。
死は一瞬の好機であり、すばやく果すべきものという気がある。これは自殺とはもっとも遠い観念だ。
好機は稀に恵まれる。浄土房が一瞬の逸機を「損」と思う悔いの痛みは、だから一層重く、尊い。
254(82)
多少の気はずかしさに抗(あらが)って、「念々死去」の四字がいつも頭にある。好機にたしかに逢おうと思う
からで、これも、進んでは死を望まない意思表示であるつもり、浄土房のような山崩れの下敷きになり
たいとか、交通事故に遭いたいとか、重病に罹りたいなどというのではない。逆だ。
──と、そんなことを枕に、正岡子規や尾崎紅葉らの絶筆に対する感想を書いたのだった。
「……考えることは変わってないが。この数年、気もちはずっとなさけなく、濁ってきてる。よごれて
きてる」
冬子は、すこし潤んだ眼で見かえすように視線をとめ、黙然と、膝においていた手をとりすり寄って、
顔を、胸へ埋めてきた。
「ぼくが、どれくらいいいかげんな男か……子どもが死んだと聴いた先刻も、即座に、牧田さんの子ど
もだと思った…」
「…でも」
「あのセルベンチナ。そうさ。奇蹟みたいなあの綺麗な小蛇にさっき逢わせてもらった。そして冬(ふう)ちゃ
んの□遊(ずさ)みに誘われて、ぼくは……原作にない、〈娘よ〉と、つい□走っていた」
「ええ」
「きみは…、ぼくの子を産んだのか」
「いいえ、死なせたのよ。あたし……あの子を、抱いてもあげられなかった」
「あの……一度で、か」
夢にも幾度想い描いたかしれぬ罪者の始終をうつつに聴きながら、実感とほど遠い心地で、顫えやま
255(93)
ぬ冬子を日の光のさなかに抱いていた。
「ぼくたちの子。……どれだけ、生きられたの」
「二日、半」と冬子は顔をおおった。
二十年前、──ホフマンの文庫本を読みふけらせておいて、冬子はちようど一週間後、二月十四日土
曜「もう一度」と大学生アンゼルムスの願いを聴きとどけたように、姿を、京都駅の上り線ホームヘ
現わした。二十一時四十七分、上り急行明星号の増結車に乗って妻が、まだ品部(ともべ)姓の迪子(みちこ)が、ひと足早
く東京へ二人の新居、アパート、の用意に渋谷代官山の兄の家へ発った直後だ。
朝からのひどい雨だった。迪子と逢う約束で大学に行き、大学院の資料室へもう読むあてのないドイ
ツ語の本を返してから、雨の道を吉田山の東側まで彼女を下宿へ送って歩いた。一つ傘の下で、しとど
に雨の音を聴いた。
家へ帰ると伯母の茶室に人の寄る稽古日だった。
来るはずない冬子を、それでもむなしく期待しながら、「是花是花」と判じもののような一行が、越
前の壺に紅白の梅をいけてある床の間に懸かっていたのを、眺めた。
家出も同然の出奔になるはずだった。手もとにろくに金もなく、卒業まえの迪子が東京でアパートを
決めているあいだに、京都では乏しい蔵書など売り払って、せめても最初の給料日までのたしにせねば
ならない。幸い東京での職場はえていた。迪子の就職先も定まっていた。
タ通ぎ、遅く発つ迪子を見送りがてら夜汽車の坐席も確保してやりたく、早めに真如堂前の下宿まで
迎えに行った。長い時間駅で行列するのは苦にしない。明日からの日々に、不安があった。希望もあっ
256(84)
た。のべつ立って話していた気もするし、黙りこくっていたのかもしれない。
「だいじようぶやテ、きっと」
窓ぎわの席がやっととれた迪子は、明るいレンガ色のオーバーもぬがず、ホームに手をさしのべて、
わざとそう京ことばを使って笑顔を見せた。うなづいて笑いかえし、手をにぎった。
「かぜ、ひかんときや。寒いし、窓しめ」
「うん」と答えながら迪子は手をはなさない。
五日いや一週間ほどで、今度はいよいよ京の下宿をひき払うべくまた迪子はもどってくる。結局二月
二十四、五日には二人で京都をはなれ、東京へ、新婚のアパートヘとにかく移りきる予定だった。
東山のまっくら闇へ汽車がホームを出ていくのを、見送っていた。希望(のぞみ)の灯はあまり心細く雨風に吹
き消されそうで、底知れぬ闇夜さながら先途を思う不安がからだを包む。オーバーの肩をちいさくすく
め、一瞬身動きの自由を奪われた心地でうつむいていた背中を、──そっと抱いてくる手があった。
「冬(ふう)ちゃん。……なんで」ここへと、答えなど、ほしくもなかった。ふしぎな安堵の思いで頬に血の気
がよみがえった。嬉しかった。
「かんにん。……先生(せんせ)に、電話さしてもウたん」
「伯母に。で…待ってたンか」
冬子はもう答えなかった。来て、とさえ言わず、駅前から押すようにタクシーに乗せると、一直線に
馬町(うままち)の家へ走った。そのあいだもずっと、冬子は、両方の腕で腕を抱きかかえて離さなかった。
安曇(あど)の家に、その晩順子も、母親も、いなかった。雨が、雪に、──しんしんと京は底冷えていた。
257(85)
第九章 そして一週間……
九月十三日。十一時に部屋でエレーナさんからの電話を受けた。今日のホテル出発は正午。団長と丁
さんにその由それぞれ連絡しておいて、部屋でぼんやり。二十分まえに冬子と別れてきた。
逢う時間をきのうより四十分おそく、かわりに朝食の心配はしてもらわず、同じバラ庭園の、浅い池
の端(はた)でと約束ができていた。それでも冬子は、パックした熱い濃いスープにそえ、日本で食べなれた□
あたりの軽いアメリカン.クラッカーやちいさなキャビアの罐詰を用意していた。紙コップと、魔法瓶
にコーヒーも昨日と同じバスケットに入れて。
ありがたかった。正直なはなし睡くて、朝食どころでなかったのだ。
そればかりか、冬子は古いハーモニカを家から持ってきた。見覚えのある、亡くなった冬子らの兄憲
258(86)
吉がよく上手に吹いていた外国製のもので、父親ゆずりと聞いた。そのハーモニカを遠目に羨しがって
いたのを少女らしく観察していて、兄の死後に、一度呉れようとしたことがあった。その時は貰うべき
でないと思えて辞退した──。
人かげの見えないジェルジンスキィ公園の奥で、古い、手に重いハーモニカは音色高く、澄んでよく
響いた。すすめられるまま、「野菊」や「浜辺の歌」や、シューベルトの子守唄など吹いてみるのを冬
子はただ聴いていたが、クリスティナ・ロセッティの詩に日本人が曲をつけた、「風」というのを吹き
だすと、声を添えて唱ってくれた。
誰(たアれ)が風を見たでしょう?
僕もあなたも見やしない、
けれど木の葉を顫わせて
風は通りぬけてゆく。
西条八十のやさしい訳で、この歌を幾度ふたりは唱ったろう、清閑寺の奥山や、稚児ケ池から山科(やましな)側
へくだる小松がいっぱいの山なかに、埋もれたような岩屋に隠れて。
二番まで唱い終ると顔を見あわせて笑い声をあげた。
「よし。今度はいっぺんに正月といこう」
聴きてはパチパチ手を拍った。
259(87)
「さ、安曇(あど)冬子さん。四方(よも)の景色を、起って唱いましょう」
「はい」と両手をわきに、気をつけの姿勢。太い畝のコーデュロイで仕立てたグリーンのコートを、お
っとり肩で着こなして。下は、今日も暖かそうに衿の立った明るいブルーのセーターを着こんで、左に、
大きな銀の鎖で腕飾(ブレスレツト)が隠れ見え、マフラーは地味な茶と緑の格子縞。
思わず、腰かけたなり見あげていた。
「いい……」
「ええ」
ひい ふう みい よ
四方(よも)の景色を 初春(はる)とながめて
梅に鷲 ホホンホケキョと囀(さアえづ)る
あすは祗園の 二軒茶屋(ぢやアや)で
琴や三味線
囃しナンテン手まり唄
歌の中山 ちょ五(ごん) 五五(ごんごん)
ちょ六 六六 ちょ七 七七
ちょ八 八八 ちょ九が九十(くんじゆ)で
ちょッと百つゥいた 一二三四(ひいふうみいよ)
260(88)
眼をとじて聴げば、声は少女の昔のまま白い空気を顫わせる。
返そうとするハーモニカを手へ押しもどして、「行きましょ」と、冬子は起ったなり──。
「また、置いてくの」と、手の付いた籠を見た。
冬子はうなづく。
なるほど、庭園の一角を奥へ切りこむように進むと、また新たな広い一郭が樹々の緑に包まれ静まり
かえっていた。変哲もない草野と見えたその右の奥に、木(こ)隠れてひろがり光る水のけはいが感じられる
と、冬子は、握っていた掌に力をこめ子どもっぽく小きざみに揺る。はあはあと、息を吐く。「歌の中
山、ちょ五(ごん)ごんごん、ちょ六ろくろく」とつい、つられて□遊(ずさ)みながら、遠い森かけを手をつないでや
って来る白いプラトークの老婆と、赤い服の幼な子を見つけると、二人して佇み、つと、そのまま顔を
よせ唇を重ねる──。
道の右に沿うて、木叢(こむら)のかげに沼のような川のようなものがすこし茶がかった水の色を光らせて、と
ころどころ木の間にひっそり顔をのぞかせた。
岸も堤もない。
差し渡しも遠くなくて自然に木や草が汀(みぎわ)へせまっているなかには、眼のさめるような美しい黄葉もま
じって見えた。
それが次第に奥へひろがった長大な池のさまに水面が明るく澄んでくると、いくつか木かげを潜り潜
りこちら側は水辺まで歩みよれるようになり、水のうえへ太い枝をひろげた、見るから、心地よい緑蔭に
261(89)
水絵をえがいて、野鴨の群れ游(およ)ぐ姿もまぢかに見られた。
「舟遊びでもするのかしら」と冬子がつぶやいたのは、葦間を幅二メートルほど分けて、簡単に板と手
すりとで舟着き場がつくってあったからだ。が、舟は影かたちなく、そこにも野鴨が群れて、二人の足
音につれ岸辺から池へ羽音かるくつぎつぎ下りて、ゆるくかたまりながら、それも次第にほどけたよう
に広がり遠のき、池の芯へ静かに流されて行く。と、もっと遠くを、悠々と白鳥のひとつがいが高く首
をあげて綺麗な水の輪をおしひろげていた。幅は、長くて五、六十メートルだが、池の奥行は森かげへ
先が見えないほど深まって、白く輝く雲を惜しみなく浮かべている。
冬子はとある樹の根かたを指さして、あの空色のベンチにしばらく坐って行きたいと言う。日ざしの
下にいると、額がすこし灼ける気がするほど上天気だった。雨だったらたいへんだったねと、笑えた。
──美しい池の端で話したこと、そのさき、深い森のまんなかに輪を描いたような真緑の草地があっ
て、純白の花々が屋根から柱へからまり咲いた亭(ちん)で話したこと──、みな、思いだすのさえ妙に惜しま
れる。
滋賀県の安曇(あど)川、朽木(くつき)谷をたずねて、細々と今も轆轤を挽(ひ)く職人に土地の昔語りを聴いた話をすれば、
冬子も、はじめて安曇家と野尻家の、また代々深草に根生いの父の実家加茂氏の話をして聴かせた。そ
の中には、五畿内および近江と丹波の御坊聖(おんぼうひじり)を東大寺大勧進職の龍光院が差配したとか、京中の三昧聖(さんまいひじり)
は高辻少納言家が進退を成敗していたのが近代に及んでどうとか、耳なれないといえばあまり不思議な
史実などもまじり、ただまじまじと、冬子のひときわ優しい眉目(みめ)の辺を見つめて熱心に聴いたのも、今
がいま反芻(はんすう)し、何もかも嚥(の)みこむというわけには、到底行かない──。
262(90)
名子は自分から一度二度話頭を小松秋子へむけることもあった。結局尻切れとんぼにすんだが、かり
にも、「宏ッちゃんが、秋(ああ)ちゃんを奥さんにしやはる気ィ、せえへなんだ」と、思わず昔の言葉づかい。
「それやのに、気がかりで…」
今春には曾田と姓をかえたという小松秋子の、品がいいとも柄がわるいともその時々に陽気に印象の
ゆれ動く顔や声音を想いだすふうに、冬子は、ながいあいだ秋子を気にしている自分がいやだったと、
遠くを見る眼で、述懐したりもした。
冬子がとうとう泣きくずれたのは、かろうじて二日半を此の世に生きた女の子を、あっけなく死なせ
ねばならなかった前後の、母も妹も、安曇(あど)家に仕えるほどの気もちで出入りする老若ももろとも心痛の
数ヶ月について、話さずにすまなくなった時だ。冬子は黙して応えなかったらしいが、生くべき子の父
親がだれか、安曇で、いや六波羅の野尻でも察しのつかぬ者は一人もいなかったはず──。
頭を垂れて聴いた。
話しおわる時分には冬子は微笑していた。瞳(め)は潤んで、いぶかしいまで愛情をうかべていた。
お前の愛にふさわしいだれが此の世にいよう。
俺は──ちがう。
だが冬子はすがるほどに手をとり、自分は眼をとじると声にもならず息を喘いで、とった手さきを青
いセーターのしたへ誘うのだ。なつかしく掌(て)にはすこし余る胸乳(むなじ)の、たなごころをくすぐるかすかな乳
首の触れを忘れるものか、降りつく雪がいつかまた篠つく真冬の雨とかわり安曇の裏を音羽川へ奔流と
なって走るにまかせ、ふたり汗みずくに闇の底を押し流された、あの夜──京都駅から妻となる迪子を
263(91)
東京へ送りだした二十年前のあの夜、しなやかな冬子の青白い肢体は、のた(二字傍点)を打って男の総身を絞った。
あんな凄い声を自分ののどが吐きだすとは──。愕き、畏れ、それでも、幾度冬子の名を我を忘れて叫
んだか。
──ジェルジンスキィの森から、キョキョキョとさわいで筒のような尾で虚空を高く刺しながら、若
草色の、咽喉の下だけまッ白い鳥が、亭(ちん)に腰かけたなり横ざまに一つに折り伏す二人の足もとにきて、
すぐまた斜めに光の渦輪へ翔ぴたって行った。
女の唇を、やさしい舌を、しかと唇に、舌にたしかめたまま、冬子のいっそ笑顔に眼をあてていると、
ものの溶ける感じに「しょがない」とでもいう感情の翳りが読んでとれた。読んでとるしかなかった。
ふさわしい同士が愛しあうと、定(き)まってやしないわ──理屈言うの、やめましょ。
鈴をふるように、冬子はからませた舌を歯さきにあてて揺りながら、かすかに声をきざむ。二つの指
さきを使ってセーターのうえから、ゆっくり乳首を操むと、矢が走るように、女のからだを堅い芯がと
おる。
顔をはなし、そのまま、□を指でふさいだ。冬子の眼がしたから見るのを見つめかえし、低く、響く
声で□遊(ずさ)んだ、遠い昔にもそうしたように。
η通リャンセ、通リャンセ
冬子も声を忍んで、あどけないほど、
264(92)
ηこォこはどこの細道じゃ と、思いきりゆっくり。
η天神──サマノ細道ジャ
ηどうぞ通して くだしゃんせ と声が沈む、のを押っかぶせて、
η御用ノ無イモノ通シャセヌ
冬子は顔をそむけた。そして、
ηこの子のうまれた(四字傍点)お祝いにィ
きれいに声を澄ませ、流れる涙をすするように、
ηお札を納めにまいります…、
往き(二字傍点)がどう良く帰り(二字傍点)がどう怖いのか、なにも、わからない。ただ腕のなかに冬子がいた。今、いた。
昔とかわりない冬子だった。昔とかわりない児戯を演じた。たわいなかった。たわいなさを隠れ道にし、
二人きりの他界に潜りでて行けるかしれない願いを、いつもいつも二人はもっていた。だれに手を貸し
てもらえるあてもない寂しい願いだった。
二人が、昔も今も、□にしない言葉は──結婚。それを願わなかったとも、真剣に考えたとも、言え
ばうそになる。結婚、の二字に酔いそうになると強いて頭をふった。卑怯のそしりに堪えても、未練な
酔いは、力づく──醒まさねばならなかった。
「成るはなしゃないで。わかってるやろが……」と、ほかでもない野尻吉男がつらい顔をして背なかを
こづいた。六道さんも、習字の先生も、似たことをそれとなく呟き聞かせていた気がする──。
身内──それは、冬子を妻とは呼ぶまい断念を埋めあわせる、苦しまぎれの愛の表白だった。その一
265(93)
方で早く、確実に、結婚の相手をべつに探さねばならぬ、と、大学に入った時分にはもう考えていた。
──思いたってモスクワ川のかなたモスクワ大学の尖塔が見えている絵葉書に、安曇順子あて、京都
市右京の住所を書いた。冬(ふう)ちゃんは元気ですと書き、今しがたジェルジンスキィという名の美しい森で、
二度めのさよならを言いあって、自分は近くのホテルに帰ってきたばかりとも書いた。
前夜は、プロコフィエフのオペラを一と幕だけ観て、タクシーでオスタンキノヘもどった。九時だっ
た。エレーナさんも一緒に食事に誘い、キャビア、いくら、白身の魚などで、ワインを一本多く呑んだ。
時差の疲れが三人ともやっと抜けて、話がはずんだ。やはり作家同盟の招きですこし早くに着き、コー
カサスのほうをもう旅してきたというK出版社の人たち、ことに顔なじみの陽気なA氏の噂話を肴に、
気分よく笑った。オペラのまえ、彼らと昼食の席で合流してきたのだ、その歓談は、日ソあわせて十人
もの賑やかさだった。
一行、いや二た組の日本からの客を招待した、詩人で同盟理事の一人クグルチノフ氏だけがエレーナ
さんの通訳を必要としたが、リボーワ前教授も、愛弟子らしいタチヤナさんも、自在に日本語が話せた。
この、三十まえのタチヤナさんは、スラヴ風美人で、恩師に負けず現在『源氏物語』を宇治十帖の総
角(あげまき)の巻までロシア語訳していた。さらに数年前出版した『謡曲』というタイトルの自著を持参して見せ
てくれたが、「熊野(ゆや)」「松風」ほか二十番ほどの訳文をそえての研究書だった。
前教授がエレーナさんを指さして、「オール5」という日本ふうの言い方で称賛していたのも印象的
だった。頷けた。この才媛、頬をそめた表情が子どもっぽく愛らしいと、A氏は収容所じこみの得意の
266(94)
片言で、騒々しいくらいからかっていた──。
「Kさん。今日のチェーホフ記念館が、よかったですね。樺太の珍しい地図もありましたし」と、Tさ
んは夜食の席で話題をかえた。
「そうなんですよ。あそこはエレーナさん、今度モスクワヘ帰った時、ぼく一人でいいから、もう一度
行きたいな」
「いーです。行きましょう」とエレーナさんは愛矯よく片眼をとじて、うなづいていた。
きのうまでの疲れが、やっと抜けた。しかし寒い(暖房は十月から)。みな、多少は鼻をクズつか
せています。防寒の用意を十分してきてよかった。あとのお二人、夜歩きの時など震えあがっている。
平年ならモスクワでも十月末の気温らしい、実際に何度だか知らないが。
元気で。気をつけて。下に重ねる薄い長靴下効果あり。日本茶や、梅干も助かっています。
一九七九、九、十三 正午まえ オスクンキノ安
九、十三 六・五五 たそがれ時。遠くけむった青空をうす紫の雲がただよう。むかいのアパート
に七つ八つと灯がつきはじめた。ラジオが軽妙な伴奏で男の唄を流している。民謡かもしれない、ど
こか哀愁と諧謔とのないまぜになったテンポの速いこのうたいあげは、現代のものか。
今日はトレチャコフ美術館をゆっくり観た。国宝といわれる十二世紀のイコン「ウラジミールの聖
母子」や近代のイワノフ、ヤロシェンコ、ビリシャーギンや、ことにレーピンの絵がりっぱで、克明
267(95)
にメモをとった。そんな時もエレーナさんにいちいち画題や画家や時代背景を訊くとちゃんと答えて
くれる。
そこで『アンナ・カレーニナ』が書かれたというトルストイの屋敷へも行った。作家同盟の建物に
くらべると質素だが、内部は好もしい住まいて好感をもった。革細工の好きな文豪が自身で作った長
靴だの、巨人が着そうな熊の毛皮の外套だの、愛用の自転車だのを見ているうち無性に彼の本が読み
たくなった。但しまず問題の多い『クロイツェル・ソナタ』を考えたのが、不思議だった。エレーナ
さんは『復活』が一等好きと言う。
どこへ行った、あそこへ行ったというだけの記録ではつまらない。「勉強になった」なんて言って
みても、すぐ、忘れてしまう。物と名前とが結びつきにくいうえ、珍しいという感情が曲者で、これ
にだまされるとたくさんの精力を費消する。自分の深い慾にパイプをつながない見聞など、すぐゴミ
のように頭のなかで腐る。なんでも見てやろうという、浅間しい気にはなれない。
「すべて月花をば、さのみ目にて(三字傍点)見るものかは」と兼好法師が言っているだろ。
四時前、作家同盟に着くと三人で食事。エレーナさんは今日帰国のA氏らを見送りに空港へ。ゆっ
くりと食堂の一角を占領して遅い昼食を味わい、バカばなしを楽しんだあと、界隈を散歩。
想像以上に美しい街だよモスクワは。うきうきと花やいではいないが、表通から裏通まで、時間に
選別された佳い古さと新しい建設とが、相剋(せめ)ぎあうでなく共存している。市民の落ちつきもこの街の
一つの魅力かもしれない。来年にオリンピックを控えている街とは気がつかないくらいだ。人あたり
は大まかでも、不快を感じたことはまだ一度もない。しかし一言に尽くせば、モスクワは雲の美しい
268(96)
街だね。樹や草の緑もいいけれど。七・四〇P・M、
妻への手紙を一段落、便箋は机にひろげたなり、荷ごしらえをはじめた。
冬子が電話をくれた。ご無事でね、と声を忍ばせ、
「あのお願いを、忘れないで……」
九時に三人で夕食し、十時四十分にエレーナさんの迎えがある。午後十二時、レニングラード駅から
「赤い矢」号で発つという。その今日が木曜。またモスクワにもどる予定の九月二十日が、木曜。冬子
は、そのあいだ毎日一篇ずつの短い小説を書いて帰って、自分に献じてほしいと、今朝の別れにジェル
ジンスキィ公園で突然言いだした。
「…以前に、そんなふうに掌説を二十幾つも書きついだこと、宏ッちゃん、あったでしよう」
「それが、きのう言ってた、提案、なのか」
「いいえ。それは、べつ……」
その余のことは言わず冬子の電話は切れた。時計をみると夜八時に数分あった。オスタンキノ最後の
食事まえを、ホテルの近くでも独り歩きしてみたかったのだが、冬子の声が聴けたことで気もかわった。
荷ごしらえは一切合財を大きな鞄になげこめばすむ。ひろげた便箋から書きかけのぶんをひとまず封筒
におさめると、横浜港いらい使ったことのない原稿用紙を数枚、机に出した──。
また電話が鳴った。エレーナさんか、それとも団長かと思った。牧田氏だった。
「……でしょうな。有りそうでなかなか時間てやつはね。でも、今度モスクワヘもどられた時は様子が
269(97)
違うと思います。とくにグルジアから帰ってみえた当日、二十日ですか。その日の夜分はきっとお時間
があきますよ」
「そうでしょうか」
「だってホラ、ご案内の…そのロシア人、奥さんでお母さんでしょ。七日八日も家をあけて…」
「なるほど」
「ですから、その晩をアテにすることにして、今度はどこのホテルになるか、必ず電話をくださいませ
んか。白い米の飯で茶漬でも食べにいらして」
「ありがとうございます……」
「二十日すぎてしまうと、私が仕事のほうでごたごたするもんで」
「この時間、まだ事務所(オフイス)に……」
そうだと笑って牧田氏はまた念を押す。
冬子も、□には出さなかったが夫と一緒に一度はそんな顔合せがあると、もともと承知にちがいなか
った。それなら小説はその時に手渡してね、という気か──。
なにを書くアテもない。が、掌説というのはアテのなさが面白さだ。むりかと危みながらペンを持っ
た。九時と約束の食事に二、三分遅刻して階下へかけおりるときには、提げ鞄のポケットに、二つ折り
四枚たらずの、まず木曜日の「木」と題をつけた一篇がしまわれていた。
なぜだかレストランもビュフェも閉店していた。飲みものなら部屋に残っている。Tさんにチョコレ
ートを半包みもらって匆々にひきあげ、妻へ手紙のつづきを書いた。この部屋とも一時間ほどでお別れ
270(98)
になる。多少北郊に寄っていちいち都心へ往来に時間はとれたが、個室をもらったありがたさは筆紙に
尽くせない。
封をすると、いつでも出られる恰好(なり)で、電気を消しベッドにあおむけになった。手布もひっかけると
甘い言葉を囁くぐあいに睡気が来る。今一度冬子の声が待たれたが、電話は鳴らない。
冬子の産んだ女の子が、もし無事育っていたら。潮の流れる勢いで、そうだとやはり嬉しかったとい
う気が暗闇のかなたからさしてきた。そんなことでいいのか。あまりいい加減なとなじる分別もあるに
はありながら、二十年の歳月ゆえか、冬子の表情に赦しを読んできた気か胸の鼓動はかすかな訝(いぶか)しさを
包んで、ほぼ平静だった。
┌─┐ みたされぬ思いをこらえ、男は来る日も来る日も岡にのぼり東の空へあてどない矢を射た。
│木│ 矢は夕月のしたを高く飛んで、人知れずはるかな野に姿に立った。矢はやがて根を生じ、百
└─┘ 年、緑苔(りよくたい)ゆたかに美しい森と化した。男は老いてなお、黙然とむなしい矢を虚空に放ちつづけ
ていた。
いつか森に若い女がひとり棲(す)んだ。森は日暮れともなると、きまって、かすかな、だが言いようなく
なつかしい物音を、一つ、たしかに女の耳に聴かせた。音は、鋭く刺すようであり、やわらかに蔽うよ
うであり、女は、全身で聴いた。日に日に、全身でそれを待った。雨の日も雪の日も物音はかそけく、
すばやく、無類にやさしく森を顫わせ、女も顫えた。女は日ましに美しくなった。
271(99)
男の矢数は、ついに尽きた。弓をすて、ただもう重い足をむなしく過ぎ逝きし矢の方角へと歩ませた。
額は老いを刻み頬はこけていた。眼だけ光っていた。
森が静まりかえってから、半歳が過ぎた。
「もう半歳待とう」と美しい女はつぶやいた。その半歳もかけ去るように過ぎた。森はひそとも鳴らな
かった。女は苔あたたかな岩穴のすまいを沼のほとりへ出て行って、水鏡をのぞいた。
「もう一年待とう」と美しい若い女は自分をはげますようにほほ笑んだ。春だった。紅い草花が森に咲
き満ちていた。
夏になると花は白く咲き、秋には青く咲いた。森は鳴りをひそめたままだった。
男はただ歩いていた。はじめて見る山だった。はじめて渡る川だった。歩一歩のあてどない前進だけ
があった。
冬が来た。男の道はけわしくなった。女の森には雪が積んだ。男は喘ぎ、女は淋しかった。明日は待
ちわびた一年があえなく果てる日だった。
とうとう、男は行くてに森を見た。幾千となく通り抜けてきたどの森とも、その森はちがって見えた。
雪を被(き)てなお、豊かに美しい緑の森だった。一歩近づき二歩近づき、忘れていた遠い物音のように身内
を血が動くのを、男は聴いた。あら壁のような頬を涙がつたい、男は両の拳を握ったまま拭うことも忘
れていた。
女は近づく足音を聴いた。顫えながら待った。水にうつした顔はまだ十分美しい。うつむいて、微笑
んで、両の掌(て)は胸のまえに組んで、祈るように女は男の足音を、呼び声を、待ち望んだ。
272(100)
男は、若い美しい女を見た、まるい沼のむこうに。昏い岩穴を背にたたずみ、どんな色の花より女の
姿はやさしかった。
女は、老い衰えた男を見た、急に日のかげった沼のむこうに。脚もとも覚束なく息をきらせ、眼だけ
凄いほど光っていた。
「妻を尋ねて……」と、女の問いに老人は気弱に答えた。
「夫を待って……」と、落胆を隠さず若い女も答えた。吐息は徒労を嘆いて濃い霧のように美しい顔を
曇らせた。
眼に光を失った男はやがて沼を半ばめぐると、見送る女に背をむけた。
その後姿に、女は待ちこがれた若者の逞しい肩幅と背筋を幻に見た。女は走った。抱いた。
男ははや一樹の老木と化(な)り、枝という枝に雪を置いていた。
女は崩折れ、いつまでも泣いていたが、次第に一の白蛇と身を変えてながく樹上に棲んだ。女もまた、
男がかつて放った矢の一と筋にちがいなかった。
九月十四日。金曜。午前三時半ごろ列車”赤い矢”号がどこかの駅に停まった。深々と息を籠めたた
ちどまりようだった。
ちいさな合図でごとんとまた発車したのが四時。それからの夢で、延々とやまない大地震に遭った。
此の世も終るか。瓦の飛ぶ街を無二無三にかけていた。次ぎに、うってかわって妻の真正面の裸形(らぎよう)を夢
273(101)
見た。輪郭のきっぱりした、デルボー描くシュールな絵のようだった。
六時半を七時半と時計を見ちがえ、とび起きた。団長は顔を両掌でかわいらしく包み、右脚と腹にだ
け三角に毛布をかけてすうすうといびき。カップに残った紅茶半杯と、エレーナさん差入れのトマト二
つが朝食だ。細めにカーテンをあけ、余念なく景色をメモした。線路ぎわの柵にもたれ、緑と白のとっ
ちゃん帽をかぶって通過する列車へ微笑を送っていた青年の、頬の白かったこと。
朝八時半、レニングラードのモスクワ駅に着。
ネフスキー大通りに近いヨーロッパホテルの三階に、国立ロシア美術館や古い教会のまぢかく見える
個室が用意されていた。万事がオスタンキノより格別豪華な設(しつら)えだが、風呂の湯だけがなかなか澄んで
くれない。
喫茶室で詩人リトヘウ氏に会った。アラスカヘ指呼の間というソ連邦北辺のチュクチの人で、日本で
紹介されれば眼もとも身ぶりも日本人としか思うまい。チュクチでは近年まで文字がなかった。リトヘ
ウ氏は今、創業の気魄をこめ民族の伝説や物語をチュクチ語で詩に書いている。エレーナさんのそんな
紹介や通訳を聴いた。よく鞣(なめ)された分厚な茶色いジャンパーに、太い枠の眼鏡が似あった同年輩のこの
詩人との三十分は、小粒ながら、北海の珠を掌(て)に拾ったような収穫に想えた。
十時半にホテルを出た。寒かった。まず車をおりたのは、対岸に、物指をあてたようにみごとに建物
が頭をそろえて眺められる、ネヴア河畔だった。青銹(さ)び灰色がかったこまかな河波に、雨もよいの雲を
洩れ日差しがきらめく。眼のまえの、草色と白のあれ(二字傍点)が、冬宮殿。エルミタージュ美術館。この街では
あれより背の高い建物は許可されない、と聴いた。
274(102)
河を渡って鴎舞う海軍省広場から宮殿広場へまわった時も、冬宮殿の華麗、まむかいに世界一長大な
と聴いた陸軍省の壮大よりも、節度よくそろった建物の頭(ず)のひくさ(三字傍点)に心惹かれていた。威丈高でなかっ
た。晴れて、曇って、降って、また晴れている空あいのめまぐるしさがいっそ美しいと見えるまで、レ
ニングラードの街そのものの静穏さが、モスクワとはまた異質な品のよさか。
外国人専用の、”白樺(べリヨーズカ)”という大通りのドル・シヨッブではじめて買物もしてから、聖イサク大聖
堂に入った。聖像壁(イコノスタース)と聖像画(イコン)とのさながら豪華絢爛な美術館に、観光客があふれていた。壮麗さに、人
は地を這う虫ににて、ただ荘厳なドームを見あげて、くりかえし深い息を吸うばかり。
芸術家たちの墓地公園をそぞろ歩いた。ドストエフスキイがそこで亡くなったアパートと附属記念館
も観に行った。その机で『カラマーゾフの兄弟』を書き、そのソファベツドで死神を迎えたという、ち
いさなイコンを飾った書斎をのぞいた。克明な、書き損じのほとんどない肉筆の原稿も見た。
三時半に一度ホテルにもどり、昼食後、夜の音楽会(リサイタル)までの時間を利用して、掌篇を一つ書いた。
「金」と題をつけた。
┌─┐ 少女は、ちいさなてのひらに夕日のさいごの一(ひと)しずくを受けた。
│金│ ものみな、青いやみに沈んだ。
└─┘ やみの中で少女はてのひらをそっと開いた。かがやく一粒の金無垢が、少女の眼もとをほの
かな黄金色(きんいろ)に染めた。
275(103)
少女は黄金(きん)の粒から一本の縫針をつくった。針は虚空を刺して光った。
少女は黄金の針で刺繍をはじめた。針は生きたように動いた。布地の上に、涯てしなく月夜の海が広
がって行った。
あやつる人もない小舟が、どこからか少女の前へ漂い寄った。静かな波にはこばれ、少女と舟とは青
い海の上を流れた。どこまでも、どこまでも、海は寂しい月夜の底を流れた。
舟べりに身を寄せ、少女は黄金の針を波間に垂れた。
針が鋭く波を砕くと、波の下から黄金色の蝶が一匹、夜空にひらひら舞いあがった。
つづいて一匹、また一匹、七色の無数の蝶が、いたいけに翅をたわめ、波を潜り、あとからあとから
風に舞い月に酔って、大空いっぱい眼くるめく虹の大橋を懸け渡した。
羽ばたく蝶の懸け橋を、少女は一足一足登って行った。一足すすむと一足くずれ、蝶は踏みだす足も
とから色を喪った。枯れ葉のように落ちて行く夥しい蝶の群が、遥かの海を灰色に変えた。
少女はなおも登りつづけた。
月がいよいよ明るく照った。
とうとう、虹の橋がなかぞらに壮絶えた。少女の足もとには、波間を最初にのがれでた黄金色の蝶が
ただ一匹、燦めき羽ばたくだけだった。
少女は夢中で最後の蝶の背を踏んだ。黄金の蝶は少女をのせ、涯てない空の涯でべ、ゆらりと飛び立
った。
黄金の針を心細く抱き、上も下も、左も右も、濛々と湧く雲の峰から峰を縫って、少女と蝶との旅は
276(104)
ながかった。
少女は訊いた。
蝶は答えた。
ひときわ高い高い雲の峰からまっかに輝く日の光が射す一瞬、黄金の針を力いっぱい光の渦へめがけ
て刺すがいい、と。
少女は、また訊いた。
蝶が、また答えた。
わたしは日の神の末の子、怒りに触れ久しく海の底に逐われていたのを、おまえに救われた。おまえ
が、あやまたず日の神の御手(みて)に、その、黄金(きん)の針と化した一しずくの光を無事戻してくれようなら、わ
たしはゆるされ、おまえはわたしの妻となって、望みの場所で幸せな一生を過こすことができる、と。
少女は黙した。
蝶も黙した。
奈落を吹きあげる風に巻かれ、蝶と少女は涯てない空をなお空の涯てまで舞いあがりながら、行くて
に黄金の針を燦めかせ、ひときわ高いという雲の峰をよもの暗闇にふり仰いだ。
少女は見た。蝶も見た。あまり遥かな高い高い峰は、昏く、大きく、近寄りもならない。少女と蝶は、
だが、飛びつづけた。
一刹那、あかい光の矢が少女の眉間を射抜く、と見るまに少女は黄金の針を、炎(も)える焔の芯へ、ちく
と刺した。あっと声もろとも少女は、一人の満月のような青年と並んで、なっかしいもとの草野の原に
277(105)
立っていた。
まっかな朝日が、東の空に静かに上っていた。
九月十五日。土曜。K団長はエルミタージュ美術館を棄権して、エレーナさんの案内で巡洋艦オーロ
ラ号の見学にまわり、Tさんも、絵や彫刻はほどほどに、だぶんアテがあってひとり教会かどこかへ行
ってきたらしい。
高名な美術館を、十一時開館から夕刻までつくづくと一人で観てまわった。ただしどれほどの絵があ
ったかとなると、物量に稀釈(うす)められ、宮殿内部のめまいしそうな装飾(インテリア)ほどにも強烈にこの一作、あの一
点といった印象があまり残らない。それでもレンブラントの『ダナエ』に逢った。
なにしろ宏大で、迷路のような部屋から部屋を足まかせに歩くものだから同じ階、同じ一画を堂々め
ぐりもした。思わず窓辺へもたれ、しゃがみたいほどの脚のしびれを耐えたまま、ネヴァ河を上下する
船を、ぼうっと見送ったりした。ちょうどそんな場処に、エル一ミタージュ随一と評判の、レオナルドの
『聖母子』があった──。
結局考古室は割愛して、四時すぎ、痛い足の裏をひきずりながら、とはいえタクシーに乗ってしまい
たくなく、宮殿広場から陸軍本部のアーチを潜りぬけ、夕せまるネフスキー大通りをゆっくりホテルま
で歩いた。
街角でピロシキの立売りを二つ買って、モエカ川畔で、老若となく男女となくロシア人といっしょに
278(106)
風にふかれながら喰った。カザン寺院の前では噴水を見ながらベンチで一と息。それからセルフサービ
スのカフェに入って、二十二カペイクのコーヒーを立ってのみ、婦人服の専門店や郵便局や書店をのぞ
いた。建物はクラシックで大きいが、売場はベニヤ板で囲ったような、がさっな百貨店のなかも、そろ
りそろり人にもまれて見てまわった。
ホテルの部屋には前日に一階売店で買っておいたブランディーが置いてある。空腹を感じていないだ
けに、靴も靴下もぬぎすてての佳い酒は、香りだけで酔わせてくれる。
一字も書く間がなくシャワーを使い、身仕舞いして、六時半、そろってホテルを出た。
キーロフ記念オペラ・バレエ劇場、レニングラード・オペラの本拠で、チャイコフスキー作曲、プー
シキン原作の「エヴゲニィ・オネーギン」を三幕三時間、二階左翼の桟敷前列で堪能した。オネーギン
はテノール抜群のセルゲイ・レーフェルフースが演じ、タチアナ役とならんで最終のカーテンコールは
二十回におよんだ。大概の客が退散してからも、十数人でも熱心なファンが拍手をつづけるかぎり、根
気よく二人であらわれ、しまいに二人でキスしあってやっと退場。
『オネーギン』は、翻訳だけでは十分な魅力を読みとることの難儀なプーシキンの代表作だったが、幕
間ごとにエレーナさんの懇切な教授を受けながらオペラは、演奏も、舞台も、モスクワのボリショイ劇
場に劣らぬ落着いた雰囲気も、それぞれに楽しかった。
前夜はバッハのオルガン曲を聴きに若い男女が盛装してフィルハーモニイの音楽堂を埋めていた。十
前後としか見えない子どもも大勢いて、屈託なく演奏に聴き惚れていた。
今夜は大人の客が多く、どう見渡しても、舞台に再現されている十九世紀初葉の風俗との間に、深刻
279(107)
な亀裂や断絶が眼に映ってこない。その戸惑いを、やがて共感へみちびくか意外と考えこむか、ぜひ答
がほしいという気が、あまり動いてこない。いっそマーテルの香りに酔ってモスクワの冬子に贈る今日
の一篇を書こう、書きたい、と願う自分を肯定していた。
┌─┐ 男は老いてなお役所勤めの貧処世だった。子はおろか妻もなかったが、酔えばかならず人を
│土│ 扼して妻子の自慢をした。嘲り憐れみ、みなが男を酔生子と呼んだ。
└─┘ 酔生子は青春多感の昔、夢に、川岸を歩いて、川向うを来る女を見た。青年は歩をやめ、女
の視線を熱望した。女は応えてあでやかに笑んだが、川波にせかれ声は届かなかった。夢は卒然と醒め
た。
二年後、酔生子はむなしく憧れやまぬ女と、また夢に出違った。夢中の青年ははや官界に所を得て有
能だった。或る時、市中一箇の壺を購うべく、東西に歩を散じ、いささか渇きを覚えていた。とある店
の土間に立ち、さて宜(よろ)しき壺をおびただしい鉢や皿の山から撰り分けながら、家人を呼んで湯を所望し
た。女が出てにこやかに盆をささげるのを見て、男は声を放ちひしと手をとった。頬を染め、女はそっ
と頷いた。だが、夢はそこで醒めた。
男の現実は、嗤(わら)うべきものだった。人は木の端を路傍に蹴転がすように遇した。あまんじて、受けた。
男は夢に棲んでかの壺を売る女をすでに妻とし、夢のなかで十分幸せだった。
夢中、男は次第に官民にも重く任じられ、琴瑟(きんひつ)和して女は二人の子を産んだ。一姉(し)一弟(てい)、すこやかに
280(108)
育った。女の親はかわらず市中に壺や皿を焼き、女が商った。
この家では女が土をもみ、父が轆轤(ろくろ)を蹴った。火処(ほと)を守って、七日七夜の火を絶やさず焼くのは母の
仕事だった。やがて娘が継がねぱならぬそれは刻苦の業だった。母は運命(さだめ)と訓え、女も眉を張って頷い
た。人は女をほめて陶家の玉壺(ぎよつこ)となぞらえ呼んだ。
酔生子は日々塵労を忘れて幸福な男の役を夢寐(むび)に演じつづけ、上司、同僚、近隣はみな、酔生子の生
くるに甲斐ない人生を嘲りながら、その表情の、かえって年ごとに晴れやかなのをすこぶる奇異に思っ
た。
夢にも生きつづけた酔生子にも、不安はあった。その夢を見失うことだった。幸い夢は年ごとに頻繁
におとずれた。時に益体(やくたい)もない酔生子昼寝の夢にも、愛すべき妻や子は敬意を尽くし、夫であり父であ
る男のまえに健気だった。
齢五十、夢中、男が罪なく事に坐して官を捨てた年、娘は良縁をえてはや一女の母であり、息子は大
学に学んでいた。だが女は老いた父と母を黄泉路(よみじ)に送った。
女が土をもみ、男が大小の壼に造り、そして夫婦して焼くなりわいの日々が来た。陶家の宝壺と人は
出来のよさを褒めた。酒はより旨く、籾(もみ)はより新しくなった。枝挿せば花咲き、花押せば実を結んだ。
身に抱げば膚に馴れて潤んだ。
酔生子酔余の吹聴(ふいちよう)は、いっそ人の好んで聴くところとなった。嘘と知れた嘘の面白さをただ嗤うだけ
の座興だったが、一閃、酔生子の嘘にあてどない己が身の上の不安を照し出される人も、なかには居た。
酔生子は夢に愛妻とはかって、一の麗しい骨壺を焼きあげた。子を呼びよせて男は姉に、女は弟に清
281(109)
浄の土を一掬いずつ壺に容れよと命じた。
「これが、わたしたちの墓だ」
父は言い置き、母は子らに頷いた。
酔生子の死は俄(にわ)かに来た。酔って駟(し)(乗物)の速きを避けえなかった。人は、衰老の男の死顔にふと
浮かぶ笑みを見て慄然(ぎよつ)とした。
もはや醒めることのない最期の夢路を、酔生子は、息子が美しい嫁をえた日の慶びを妻と語らうべく、
足どり軽く急いでいた。
九月十六日。食事は部屋を明るくして、という思い習いがあるから、ソ連のレストラン、ビュフェや、
カフェなどの暗いのを鬱陶しく感じていたが、電力不足のためでなく、むしろこうあるはずのものとエ
レーナさんらは言う。見た眼の美しさに微塵も考慮の払われない料理で、こちらもそんなものと思って
つきあうから食欲なく、さて不満不都合もない。団長もTさんも朝食抜きなのか、ビュフェに現われな
い。
十時に出発、一時間半でレニングラード郊外三十キロにあるエカテリーナ二世の大噴水宮殿やピョー
トル大帝の夏宮殿を訪れた。バルト海のなかでもフィンランド湾と呼ばれる海辺で、遊覧船が湾内をひ
とめぐりする。北欧の秋風はすこぶる冷いけれど、天気よく、日曜日とあって家族づれの人出が船中に
も波打っていた。
282(110)
風のためか海水はやや茶色。鴎が手に触れそうに近々と浮かび、鳴き、翔びたつ。
大小無数の噴水が、宮殿と金色燦然の彫刻と緑の樹々や芝生に映え、挑むように晴れた空へあがる壮
快さはそれとして、これも建日子(たけひこ)ぐらいと来ておれば格別、宏大だが大まかな西洋庭園というのは結局
のところ本当の賛沢とはべつものの気がする。そんなことを、同じ京都の人であるTさんにさえ話しか
ける根気が失せていたけれど、桂離宮や修学院離宮の庭は、天龍寺や醍醐三宝院の庭は、やはり凄いな
と思った。こんなぴかぴかした処にくらべれば、規模は知らないが平安神宮の後苑や円山公園のほうが、
木一本石一つにもよほど気配りこまかに、賛沢に出来ている、ただし掃除が行届いてさえいればな、と
苦笑した。
明夕方五時の便で、グルジア共和国の首都トビリシヘ飛ぶ予定が告げられた。ホテルヘもどって、例
の遅い昼食のあとは晩まで自由時間をもらい、部屋の窓から、公園ごしに正面(ファサード)の見える国立ロシア美術
館へ行ってみた。
ある点ではここのほうがエルミタージュより興味がもてた。ルーベンスやレンブラントもなく、セザ
ンヌ、ルノアール、ゴーギャンもここでは観られないかわり、辛抱のいいロシア美術の存外に小股な足
どりを丁寧に辿って歩ける。美術的な価値はいくらか度外視すれば、ロシアの風俗や風景や歴史がごく
具体的に眼に見え、遠く西ヨーロッパ文明をにらみながらロシアからソ連へ、余儀なく移り動いたお国
柄の必然のようなものが、美術史としても面白く頷けてくる。
モスクワのトレチャコフ美術館では、こうは分かりにくかった。ここへ来れてよかったと思った。聖
像画(イコン)そのものの佳さ、美しさもいわゆる絵画史に一度組み入れながら相対化して眺めていると、その不
283(111)
動の要素と流動的な歴史的な要素とが素地と図形との関係のように、或る瞬間からふっと見てとれだし
たりする。
だが、固まりかけていたマメをまた歩きづめに二つもつぶしてしまった。七時半からの、ロッシーニ
の歌劇「セビリアの理髪師」に良い席がとれているというのが、あまり歩かずにすむ劇場だといいがと
思いながら、そろりそろり足をひきずって部屋へもどった。
マールイ劇場は幸いホテルからまぢかくにあった。団長はまた不参。惜しいと思った。喜劇の演技の、
様式的に仕上がっている点など、前夜の悲劇以上だった。入り組んだ筋だけれど解説なしで存分笑えた。
食事をして部屋にもどれたのが十二時。万事をおいて、今日の原稿用紙をひろげた。
┌─┐ 男は日と争った。
│日│ 日を罵り嘲った。
└─┘ 日は男を地獄へ蹴落とした。
地獄の底を、男は無二無三に走った。
走りながら日を憎んだ。
足もとに、いつか一条の光る細い道が闇を裂いて延びていた。道の両側に、数限りなく男を見つめる
青白い顔があった。
発光体のように、顔は闇からにじみ出ていた。端正で、無表情で、虚空にうかんで、微塵も動かぬマ
284(112)
スクの、眼だけが生きて男を見つめていた。
男は走った。
前にも後にも数えきれない自分の影が飛んでいた。
光る道の奥に、真黒い扉がみえた。
扉は押すとも引くとも知れぬ一枚の厚い板にみえた。
扉ではなかった。
闇黒のはじまる所だった。
男は倒れこむように、頭から闇の底へ底へ落ちて行った。
落ちながら、もがいて虚空を蹴った。
逆流する血が脳漿を潜りぬけ、足指の一本一本をぼってり脹(は)れあがらせる。下半身が寒く、顔は生ま
温かく、落体の恐ろしい速度に鼻をちぎられ、鼓膜を引き裂かれて、男はやがて落ちる速さを、闇黒の
ただなかにふと忘れていた。
と、男は硬いよそよそしいものに支えられて、音もなく横たわった。
部屋──というのもあたらない厚ぼったい濃い闇が、男を隙間なくとりこめていたが、やがて、身ひ
とつをきっちり闇間に浮かぱせて、物憂い微光が泥のような己れの姿を男の眼にみせた。
男を支えていたのは、無愛想に、冷たく困苦しく、いっそ、ただの”場所”と呼んだほうがいい、そ
っけない、気味のわるい場所だった。
物惜しみするように男の身に触れて、まるで皮膚ほどにその場所は”在る”とみえたが、その先は濛
285(113)
濛と昏闇(くらやみ)に呑まれ、男は己れを泥のようにみたまま、闇黒の重さにひしがれて、ただ横たわっていた。
「暗いなあ──」
男ははじめて□をきいた。
どう追い求めても洩れる微光のふしぎなかたちが探れない。
身を揉めばこぼれるようにものかげが揺れ、手をのべてまさぐると、いっとき、ぼうっと光の粉をま
いたように明るみ、またすぐ闇に沈む。
男はようやく起った。
やたらぐるぐる手を振った。
歩きまわった。
すると、男の身に添っていたほの明るさが幾重にも闇ににじみあい、淡い色で流れ、そして、消える。
男はなにも考えず、ただただほんのすこしでも多く、すこしでも時間長く、身のそばに明るみをひき
とめたいばかりに、一つ所を、輪を描いて、無二無三に手を振り足を躍らせ、走りはじめた。
息づかいのほか足音すら響かぬ闇黒地獄の底の底で、男は、そこから逃れ出たいとも考え忘れて、ひ
たすら、無限の円環を有限に返そうとでもするかのように、息を吐き、黙々と、無表情に一つ所をぐる
ぐると、それでも日の世界の傲慢(ごうまん)を憎みながら、走りつづけていた。
九月十七日。月曜。朝食を抜いた。暖い。窓をあけると、美術館正面の美しい破風(はふ)が朝日に照って、
286(114)
壁の淡黄と、柱の白と、窓の淡緑とが魅惑の音楽を奏でてくれる。
ゆうべのマールイ劇場が道越えに窓からすぐ斜め左に見え、早朝来、朗々と男声合唱の練習が洩れ聴
こえる。どこにも在る住居(アパート)同然のビルだが、丈の高い、幅のせまい、重い木の扉を押すと、なかば本の
挿絵などで見知ったとおりの、土間席を、四階五階も華美(はで)なカーテンの桟敷がまるく囲んだ劇場になっ
ている。
八時すぎにホテルを出、ひとり劇場の角を左へ折れ、ひっそりした小運河に沿ってまた右に進む、と、
エレーナさん流にいう「血のうえ寺院」が、折から修理中。
ある皇帝の暗殺された場処に建っていて、大きくはないが見るから美しいキリストと使徒とのモザイ
ク画が道の正面に、高々と嵌めこんである。「スパス寺院」とも呼ばれるように、運河を向う岸へ渡っ
た位置から、聖堂の外壁にモザイクの優美なスパス(キリストの肖像ないし聖人もふくめ、とくに顔を
りっぱに描いたイコンをそう呼ぷ)も見える。
寺の右わきから、ちょうどロシア美術館の裏庭にあたる公園に入ってみた。森も林もあり、広い芝生
に色ゆたかな花園があり、ごく自然な瓢なりの池がある。周囲六、七百メートルの池をめぐる木蔭道を
高校生くらいな男女が、先生もいっしょにジョギング。たくさんなベンチでは、ひとり新聞を読み、ひ
とり鳩に餌をやり、ひとり物を思い、ひとり読書しているかと思うと、子づれの母親、恋人同士、少年
同士も静かに散歩を楽しんでいる。緑蔭に色々のプラトークや服がチューブからしぼりたての絵具のよ
うに映えていた。
午前は、車でセンナヤ(草市場)広場を通り、『罪と罰』のいくつもの舞台を順に訪れた。金貸し婆
287(115)
さんのアパート、大学生ラスコーリニコフのアパート、美しい街の女ソーニャのアパートなどが作品ど
おりの位置関係で実在し、その内の程よい辺に、作者ドストエフスキイ自身が住んだアパートもあった。
彼を訪ねて暫時逗留したという二葉亭四迷のアパートものぞいた。運河の水がかすかに臭い、通りがか
りに何を見物に来たかと人が見咎めるくらい、どこか佗びしいレニングラードのそこは場末めく裏町だ
った。
あの部屋で金貸しの婆さんを殺したあと、その階段を下り、この内庭を突っ切ってあそこのトンネル
のような通路から貧しい大学生ラスコーリニコフは外の路上へ遁れて出たのですと、エレーナさんは黒
ずくめの服装で、すこし睡そうに、説明してくれた。
Tさんの希望で次にニコライ寺院を尋ねた。ここが佳かった。今も市中に稀に生きたロシア正教のお
寺で、内陣の右寄りで葬式を、左寄りで同時に洗礼式をしているのに立会えた。死者がどんな人かわか
らないが、洗礼を受けていたのは長身の少年だった。くらい堂内にはおびただしいイコンが底光りして
永遠(とわ)の祈りと□づけとにこたえていた。信者はひきもきらず跪(ひざまづ)き、額(ぬか)づき、燭をかかげていた。
三時前ヨーロツバホテルをチェック・アウト。
レニングラード空港に入ったものの気象条件がわるく、五時発予定のトビリシむけ飛行機がなかなか
飛ばない。
待つこと七時間。
エレーナさんの翻訳仕事をたっぷり手伝い、手紙を書き、ベンチで疲れ寝のK氏やTさんからすこし
離れて、今日の掌説を書いた。「月」と題をつけた。
288(116)
┌─┐ 男は走った。
│金│ 男を追って、女が走った。
└─┘ 女のうしろを、影も急いだ。
家は焼かれ、橋は落とされ、鞭が鳴り怒声が渦巻く。
右往し左往し、影はおくれた。
風にさそわれ、影は山のうえにいた。
田あり畑があり、影は呼んだ。
答えはなかった。
また風にあおられ、影は舟のなかにいた。
舟は瀬に、瀬は波にのって、影は海のうえにいた。
岸なく里もなく、影は動かなかった。
影より濃い闇に繊(ほそ)い月がでた。
「知っているか」
影がきいた。
「知らない」
月はこたえた。
289(117)
舷(ふなばた)を波が打った。
波にきいた。
「知らない」
波もこたえた。
波と月とはひそひそ話し、そして、きいた。
「おまえは、だれか」
影はつぶやいた。
「知らない」
月と波とは、ながいあいだ影のために言い争った。
艫(とも)にうずくまり、かたくなに影は黙っていた。
黙って考えていた。
自分は、だれかー。
どこから、来たかー。
と、舳(へさき)に男が泳ぎついた。
と、女も泳きついた。
舟が揺れた。
波がさわぎ、月がかげった。
むっつり影はきいた。
290(118)
「どこへ行くか」
「知らない」
男はたよりなく女を見た。
「知らないわ」
女もやるせなく男を見た。
影は、忽然と消えた。
月が隠れ、波も絶えた。
闇の底で男が身じろいだ。
女も身がまえた。
「おまえの子を、生もう」
声は一つに縺(もつ)れて闇に沈んだ。
舟は、から(二字傍点)だった。
から(二字傍点)の舟は、あてどない波路の旅をただよい流れて、ある、青い島の、ちいさな砂浜にうち上げられ
た。
浜べの岩に、とうに風にはこばれた影が、満月の光をあびてつくねんと腰かけていた。
「知っているか」
船と影とは、両方から、同じことをきいた。
「知らない」
291(119)
そして心細い同じ問いを、寒々と吐きすてるように満月に問いかけながら、舟は、誘う波をおそれ、
影は、吹く風に身をすくめた。
月は、うなづき、微笑(わら)って、こたえない。
と、波を二つに割って、海のなかから片手に高く火をかかげ、片手に小ぶとりの黒い豚をひいて、男
が、浜へ上がってきた。
男のよこには、竹篭や壺をかかえた女もいて、右に、左に、ひきつれた幼な子の、兄はちいさな弓矢
を背負い、妹はたわわに稲穂を持っていた。
四人のあとを、美しく毒もつ蛇が、したかった。
男は火を守って家を建て、女は物を納めた。
兄は山に鳥けものを追い、妹は野を拓いて耕した。
影は、形をえた。
舟は、つながれた。
男はハヤト、女はアヅミと名のって、子孫を殖やし、アマ舟は、白銀の月のしずくに身を洗いながら、
島から島、浦から浦へ漕ぎ渡った。
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第十章 黄金の秋
九月十八日。レニングラードの零時に、やっと飛行機が飛び、時差、プラス一時間の午前四時に突風
すさまじいトビリシ空港へ慎重に着陸。当地作家同盟の若い職員と詩人ノネシビリ氏の子息とに出迎え
られ、払暁イベリアホテル十二階の個室に入った。
六時就寝、朝九時半まで、まどろむていどの眠りだった。眼をこすりながら強風のベランダに立つと、
右、眼下に碧潭(へきたん)が見え、左に稜線なだらかな、ところどころ地膚をみせた山なみが伸びていた。赤瓦の
寄せ棟がめだつひなびた市街が山から川への斜面に、さらに川をこえて平野部にひろがり、下流域に遠
く高層住宅群の密集する新市街が望めた。
風とばかり思ったのは、数珠つなぎに走る自動車の疾走音でもあった。ソ連邦屈指の、裕福な共和国。
世界一の長寿国。黒海とカスピ海にはさまれ、近東アジアとソ連領をつなぐ廊下のような国。世界中で
293(121)
キリスト教を最も早く国教として受入れた国。
ひとり散歩に出た。
一瞥、まず文字がちがう。グルジア人は自国に固有の文字をもつ数少ない民族の一つだ。世紀前ずで
に有数の都市文明を育てていた。人の顔つきもちがう。コーカサス山脈の南、トルコと国境を接し、チ
ェーホフがあの金髪のマーシャと別れた、アルメニヤ地方と隣りあっている。ともに、いやほど戦禍に
あい強国の支配と戦ってもきた。
街角でシャンペンを一本買って帰って、レニングラードから包み持ってきたパイの残りと黒パンとで、
朝と昼をかねた。ほろ酔いのあと梅干の二粒がじつにうまい。その勢いで今日の掌説を書いてしまった。
火曜日の題は、「火」。
午すぎ、ロビーで、共和国の詩人代議士というべきノネシビリ氏六十歳の陽気な歓迎の辞を聴き、さ
っそくホテルの隣の食堂へ連れて行かれた。これが旧約聖書の世界を銅版画(エッチング)にしたような、人影はみな、
黒い翳(かげ)としか見えないホールで、腋の高さほどある一本脚の卓に椅りかかって談笑、かつ飲食。パンは、
差渡し二十五センチもあるただ一枚の薄い皮のごとく、これでギバブという棒状の羊肉を、たまねぎや
パセリも添えて巻いて食う。コニャックやビールをあおる。見たところ客は四、五十人壮年の男ばかり
で、顔の広そうなノネさん(と、かげで略して呼ばせてもらった)に握手を求め、盛んに寄ってくる。
ここで公務のある詩人と別れ、車二台に分乗してクラ川畔の岩壁上に六世紀のキリスト教会を訪れた
り、日あたり美しい山中に「農民の家」博物館のあるのを見学したり、市街地にもどって国立グルジア
美術館の奥の特別室へ通され、背の高い美人案内嬢の心もち無表情な説明を聴きながら、眼をみはるイ
294(122)
コンの数々をたっぷり観せてもらったりした。
夕刻、ホテルにもどると、たまらず、小一時間ベッドに倒れふした。
夜分、ノネシビリ氏の家に招かれた。同じアパートに住む、当地作家同盟の責任者夫妻らも一緒のグ
ルジア人流儀に賑やかな晩餐は、酒類と果実の豊富さだけでも満腹した。
手の付いた、いわばグルジア焼の壺に赤いワインがいっぱい入ったままをホテルへもらって帰り、十
一時すぎて、K団長の部屋でつくづく呑みかわす、と、ついベランダヘ浮かれ出て、夜風にさそわれ、
「真白きィ富士ィの嶺(ね)ェ緑のオ江のオ島」と声をそろえて唱って、隣室のTさんに一喝された。
┌─┐ 女は、事あるごとに男を辱(はずかし)めた。
│火│ 女は「火」と呼ばれ仕事ができて、男はといえば泥のようにだめな男だった。
└─┘ 火の女が罵りだすと、うすら笑いで肩をすくめ、くるりと背をむけて男は聞き流した。女は
なかなかの美人だった。
男は夢をよくみた。夢のなかで火の女は水より従順だった。優しかった。男が仮借(かしやく)なく、床のなかで
意地を曲げて当たり散らしても、鳩のような眼をして女はうつくしい声をあげた。
眼が醒めても男は夢の女のその声を忘れなかった。昼間罵られるのが苦にならなかった。しくじりを
重ねては女の燃え熾(さか)る怒声を聴こうとした。
ある日も度のすぎた昂(たかぶ)った声で女は男の失敗を責めはじめた。はたで聞く耳もしびれ、舌の先がいが
295(123)
らっぽかった。眉をひそめた。
しかし男は平気だった。ゆっくりふり向いてにっと笑いかけた男は、酒落(しやらく)な調子で言った、やあ、実
はゆうべ、君を抱いた夢をみてね、佳かったよ?。みな、くすっと笑った。
泥の男はそれから、意地わるな火の女と顔をあわすつど低声(こごえ)で必らず、前の晩にみたという夢のこと
を、すばやく囁きかけた。
執拗に、こっそり、狙いを定めて男は女のそばへ寄って行った。人まえでは女と喋らなかった。攻撃
してくる時も好きにさせておいた。
しかし、女が廊下へ出ると、追って出て囁いた。部屋のすみで化粧を直していると、なにげなく近づ
いた。人がいないと、すこし身ぶりまでして、夢でする女のしぐさを、微笑を浮がべ浮がべ、まねた。
男の描写力は妖しいまで、巧緻だった。吐き気とともに女は刺戟された。男に寄られると思わず服の
うえで胸を隠すようになった。一枚、一枚、着ているものを剥がれてゆくようだった。
それだけではすまなかった。
男の指が、自分のからだに力強くかかるのを、はっきり感じた。
感じ足りないと女は想像で補うようになった。想像のなかでは、男が、見ちがえるほども豪毅だった。
剛快だった。
馬鹿、と叫びながら女は夜ごと夢うつつに汗を流した。汗でぬめった肌に男の匂いがかぶさった。
女のほうで、避けるようになった。
男が来ると顔あからめ、あわてて用のない電話をかけたり、忙しそうなふりをした。両の肩がかすか
296(124)
に硬ばって、声もうわずった。
いつか人も、火の女が、消えたように肩をすくめて歩くのをみていた。しかし、だれが女の火を伏せ
たかわからなかった。男はだれの眼にも、あい変わらず泥のような、ぐずな男だった。
男は隙をみつけると、卑屈に背をまるめて女に近づいた。情なさそうな、さも、詫びるような表情で、
うすら笑って女をみた。そして巧みに、じつに巧みに、唾をはきかけるように、ちゅっちゅっと男は囁
いた。
負けたわ、と、女はよそから電話をかけてきた、どうにでもして頂戴──。
男は□ごもって、それから、はっきり断った。
一瞬戸惑ったような沈黙、のあと、侮辱された女は低声で、鋭く、気違い──と叫んだ。
気違いにゃ気違いの愉しみようがあるさと、男は、笑って電話を切った。男は泥のように眼をとじ、
劫火と燃えて罵りつづける女の声を耳の底に聴いていた。
九月十九日。水曜。八時半に起床。夜来の雨はやんで、山なみが濃い蒸気をあげていた。
昨日の印象を、出発前の時間を利用してこまかにノートに書きとめた。
もう二、三日間長く当グルジアに逗留できれば、この国はよほどの感銘を心に刻んでくれそうな気が
する。音楽、舞踊、陶芸、金工、そして民俗も髭が巻いたようなグルジア文字に負けない異彩を放って
いる。酒もうまい。おおかたのソ連人はどう思うかしれないが、「また一つのソ連」という牧田氏の助
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言は適切だった。
並木の緑がみずみずしい街の一角で車をおり、とある建物の二階で、ノネシビリ氏をふくむグルジア
翻訳出版委員会の六人と午前の時間をほとんど使って会談した。ステフカさんというブルガリア生れで
モスクワ大学を卒業した女性だけが日本語を話し、あとはエレーナさんが通訳した。
提出された資料を一見すると、日本の古典文学が大きな洩れもなく、『古事記』『風土記』からはじ
まり細かに時代をおい作者をあげて網羅され、あまつさえ内容の要約もきちんと尽されていた。
座長のオタル氏は、従来ロシア語からグルジア語に重訳してきたこれらを、日本語からじかに訳せる
よう努力したいと言う。当面、日本の和歌を千首ていど撰んでの出版を当委員会の大事な目標にしてい
るとも言う。
グルジアの人々は、顔を合わせば「勝利」と声をかけ、他家を訪れては「平和」と挨拶するそうだ。
ノネさんは、ゆうベもそう話してくれた。周辺諸国との攻防や帰属の問題を一方に、文化と伝統の歴史
を久しく紡いできた人々の陽性な意欲に、好感をもった。客として訪れるのに、この国ほど、うそ偽り
なく気のおけない訪問先は、そう、例があるまい。
そういえばノネさん一流の詩的な会話には、二度三度「神」と翻訳される言葉がとび出した。いささ
か言葉尻をとらえた気味もあるがその「神」について反問すると、一瞬愛想のいい黒瞳(くろめ)をくるくると宙
に輝かせてから、彼は、一座へはっと両腕をひろげて、
「我々の神とは、即ち文学、です」と破顔一笑した当意即妙が、なんともおかしかった。
ソ連内での固有名詞については頭から断念していたが、例えば地図などにトビリシとあってもエレー
298(126)
ナさんの発音では、「ビ(一字傍点)リシ」としか聴こえない。そのビ(一字傍点)リシ郊外、北とも南とも知れない相当距離ま
で、前二世紀にはもう栄えていたという古都ツヒェタに遺るキリスト教会を、一つ、二つとたずねても、
さも大事らしい地名や教会の名前が、容易に手帖に書きとれない。
またたく燈明のなかでフレスコの聖壁画はみないたましく損じていたが、眼にしみる色調の優美さは、
偶像崇拝の是非にゆれた古代・中世キリスト教の神秘をうかがわせ、立ち去りがたかった。
ひとあし外へ出れば、教会の四面に崩れてもなお厳(いか)めしい城壁が、過ぎし大昔の激闘のさまを彷彿と
させる──。
近在のコルホーズでは、いわば村長さん宅に賑々しい午餐の一席が用意されていた。
果物をお土産に山ほど車に積んでもらい、とっぷり暮れてホテルヘもどると、ひとりすぐ街に出て、
坂の多い道から道を宵闇を縫ってひっそり歩きまわった。また酒を二本買ってもどって、あすの荷ごし
らえして入浴のあと、リンゴをむき桃をむき、□を朱く染めて柘榴(ざくろ)を噛みながら掌説をしあげた。ベラ
ンダヘ出て、ひとり「ビリシ」の夜に、乾盃!
┌─┐ 男はあおむけに寝ていた。空はきれいに晴れていた。ちぎったような雲が大波にみえ、刷い
│水│ たような雲は小波にみえた。
└─┘ 高いところを速い大きな鳥が翔んで行った。たくさんの鳩も、一度、二度輪を描いて翔んで
行った。魚みたいだと男は想った。
299(127)
雲が波で、鳥が魚で──、すると、あの真蒼な空ははるかな水面だ。男は波を乗せてゆっくり流れる
水面を、気が遠くなりそうにじっとあおむいたまま見あげていた。
男はまた想った。あのきれいに蒼い遠くが水面なら、自分は深い深い水の底に横たわっているのか。
そうだと男は自分で自分に返事した。
男は愉快だった気分に、すこし不安なかげの落ちかかるのを感じた。あの遥かな高いところから、ど
うしてこう深々と沈んでしまったのか。男はしだいに息苦しかった。起った。地を蹴っては腕をあげ、
物狂おしく揺った。水面は高く高く、眼にしみる蒼さではればれと照っていた。
女が来た。
女は男の話を聴き、うす笑いを浮かべて、面白いじゃない、と言った。男はすこし青い顔になって女
をにらんだ。
女は山へ遊びに行きましょうよと男を誘った。山には鏡のように澄んだ深い池がある。池には魚もい
る。泳ぐこともできる。
女は上機嫌で、笑談らしく言った、水の底がどんなか、あたし魔法を使って、あんたを小石にしてそ
の池に沈めてあげる。
女と男は、それから、山へ出かけた。鏡のような池は、山ふところに蒼空を浮かべて、ひっそり崖の
したに沈んでいた。あれは空を翔ぶ鳥か、水を泳ぐ魚かと、きらきら光るかすかな影を男は指さして女
に問うた。女もうしろから覗きこみ、自分でたしかめて来るといいわと笑い声ともども、男を池につき
落とした。男は黒い一つの石ころとなって池の芯をまっすぐ沈んだ。
300(128)
池の水はそれは澄んでいた。遠い水面が明るく蒼く輝いていた。雲か波か。魚か鳥か。石になった男
はやはり分別をつけかねて、じっと、潤んで光る一枚の鏡を見あげた。その鏡を、女の顔が笑ってのぞ
いているのを、男は遠い想い出のようにつくづく見た。男は女を愛していた。
突如、白く燃えたかげが宙を飛んで、鏡は音高くこなごなに割れた。だが無数の破片はやがてもとの
らぎ⊥うお上
一枚の水鏡にみるみるもどる、と、さながら蒼空を舞う天女のように、裸形(らぎよう)の女が悠々と、欣然と游(およ)ぐ
姿をうつしだした。
身に水垢を生じながら、石になった男は池の底からまじろぎもせず、女のまぶしい姿態に見惚れてい
た。
水の底も住めば天国でしょう。
女は朗かに笑った。男は女の声を聞いていなかった。
ああ、なんと美しい乳房の、水にさからいつむつむと盛りあげたあの、まるいはずみ。
大粒の真珠を見え隠れに光らせ、しなやかに屈伸する二本の脚のあわいに一条の翳(かげ)を沈めて、なだら
かにふくらんだ双つの丘。
だが──美しいその裸形に、へそ(二字傍点)がない。
男のくらい沈黙に気づくと、女は深く水をくぐって池の底から石の男をすくいあげ、そっと地上へな
げ返した。
へそ(二字傍点)なんか、無くてもいいさ。
男は、池の芯へ大声で叫んだが女の姿ははやかき消え、一枚の、天上とも地底とも知れぬ澄んだ鏡が、
301(129)
刻々とびひ割れて行った。
九月二十日。木曜。七時まえ洗面、さっぱり眼がさめたので日ざしのにじむカーテンを思いきっては
らった。トビリシ三度めの朝が三度なりに趣よく、空気のせいか、街の、瓦一枚窓一つ、テラスやベラ
ンダや壁のひだ一つ一つが今朝はみな固有の色をもち、表情もくっきりと、断崖上の十二階から見おろ
せる。クラ川は、ゆったり下流に淀をうみ、朝日は山寄りに明るく、平野部はまだ静かな日蔭に眠って
いる。遠く高まる青やかな山嶺にわずかに雲が立ち、麓はさながらたなびく霞にかげっている。
九時まえにホテルをチェック・アウト。飛行場へはノネシビリ氏と、終始案内してくれた作家同盟の
好青年ズヴオーリ君が見送りにみえ、コーヒーとジュースで、こもごも別れを惜しんだ。
晴天。到着の際とうってかわり風なく、十時二十分かるがると離陸、の、途端昨日コルホーズでの午
餐に、例のレコード盤みたいな白いパンや、チーズパイや、牛、豚、鶏むろん羊の肉や、アルコール分
七〇度もあるという自家製ウオツカ”チャチャ”や、ワインの赤いの白いのや、豊富な野菜、果物それ
に各種のソースなど色、形とりどり大小さまざまな皿、鉢、壺やカップが長大なテーブルに隙間もなか
った有様を、まるで花びらを千切ってまいたぐあいに想いだした。
モスクワ時間に時計を一時間捲きもどした。雲塊を無数に貫きでた白い牙のようなコーカサスの大山
脈を眼下に、そして天際(てんさい)に富士山ににた端正な高峰(たかね)もみとめながら、やがて何もかもうすがすむ青い印
象に溶けたように、夢らしい夢も見ず、浅い眠りに落ちて行った。
302(130)
ふと、にぎやかな音楽で眼を醒ますと、飛行機は降下に入ろうとしている。すぐ安全ベルトを締めた。
ちぎれ雲のなかに、よく耕やされた地表がゆらゆら傾く。はじめロシア語で、つぎに英語でスチュワー
デスの懇切なモスクワ案内が終ると、あんまり陽気すぎる男の「ダーダダラーダ」とか「ライラララ」
とか唄声が、機内を圧倒。思わずにが笑いの眼が、エレーナさんの同じにが笑いと出会った。
十一時四十三分、着陸。垂れてきそうな曇天下だが、モスクワの黄葉は、確実にこの一週間の留守の
うちに色濃くなって見えた。
「ああ、今度のホテル、い?ですね。場処がいーです」
空港から電話連絡をとったエレーナさんが嬉しそうな声でもどってきた。レニングラード大通りにあ
るホテル・ソビエツカヤに、一人ずつの部屋が用意されていた。
今日をふくめて旅程はあますところ三日間。そのあとK団長は別行動で、まず英国へ飛ぷ。ロンドン
までの飛行機の手配やホテルヘの連絡まで、エレーナさんは、想っている以上にこまごま手を尽してく
れていた。無事で、ということぱかりがひとりお年寄りを見送る若い三人の、もう目前にさし迫った願
いだった。
奇妙に、日本のことを忘れていた。帰国まえに届くはずのない手紙はもう書かず、それでも、土産を
買わなきゃと、ときどき思う。
エレーナさんに、ホテルにむかう車中、
「じつは……」と、高校での先輩に招かれているが、訪ねていいか訊いた。どういう方でしょうと反問
され、商社の、モスクワ支店長ですと答えると即座に、
303(131)
「どーぞどーぞ」
よかったとにっこりしながら、今日も冬子のために一篇書くかどうかと、ふと、迷った。
┌─┐ 蛇を飼う夫婦があった。
│金│ 蛇はある日急にぐつたりして死んだ。
└─┘ 夫婦は庭に蛇を埋めて、そこになつめの木を挿した。
若木は大きくなって青い葉をつけはじめた。
すると、どこからかおびただしい虫がきて、さんざんに若葉を食った。
食ってしまうと毛虫は、ぼたぼた土に落ちた。
夫婦は気味わるがって虫を追ったが、むだだった。いっそ木を抜こうとしたが、二人がかりでも抜け
なかった。鋸の歯を当てると、かねの鱗のように歯こぼれした。
翌年になると、また青い葉がなつめの木についた。たちまち虫がきて、庭中をまッ黒にするほどだっ
た。
次の年もおなじだった。
次の年、夫婦の家に若い女が来て、女中にしてくれろ、と言った。
夫婦は女を女中にした。
季節が来て、庭のなつめに青い葉がついた。夫婦は憂修な顔をした。
304(132)
毛虫の群は、からだをねじり合わせながら若葉に噛みついた。なつめは無残にはだかになった。落ち
た毛虫が、じゅうたんのようになつめの根もとで蠢(うごめ)いた。
若い女は庭へおりて、乾いた紙に火をつけて毛虫を燃した。
水のはねるような音がして、虫はくるくるとからだを巻きながら死んだ。火は、なつめの木に移って、
葉のない枝を焼きつくし、焼けぼっくい一本が残った。焼けぼっくいの先は、生木が裂けて肌白く焦げ
ていた。
突然、その薄白いなかからあぶくが湧き、そしてどろっと赤いものが噴きだし、焼け焦げた幹をぬら
ぬら伝って、虫の死骸のほうへ流れた。
若い女はじっとみていたが、急にそばへ寄って、片手で幹をつかむとぐいと抜いて捨てた。
その晩、夫婦は夢をみた。
飼っていた蛇が寝ている夫婦ののどに巻きついて、鎌首をたててこう言った。
虫を退治てくれたのは嬉しいが、焼きたてられては切ない。
そして、かっかっと歯を噛みあわせて夫婦の鼻先で威嚇(いかく)した。
夫婦は若い女に暇をだした。暇をだされるのはいいが、なつめの木のあった下を掘らしてくれろと女
は言った。夫婦は承知した。
女は土を掘って、ながいながい蛇の抜け殻をずるずると抜きだした。
ほかになにも持たず、抜け殻ひとつを懐へ入れると、女は出て行った。
夫婦もどこかへ越して行った。
305(133)
年老った大きな猫が一匹住みついたそうである。
掌説は結局書かなかった。書かずに凝(じ)っと、ただ思いだしていた。
何年まえか突如「蛇」という題で、するすると、想ったこともない短い話が書けた。書いて自分でえ
たい知れない妙な気がした。それでいてそんなものが俄かに出来たことが面白く、以来どこまで続くか
何のあてもなく、だが連日一篇ずつ二十四、五も書いた。
冬子はそれを知っていて、モスクワをあけたこの一週間、毎日一篇、ぜひにと奨めたのだ。書けたも
のを、欲しいとさえ望んだ。
木曜から水曜まで、積み重ねて七篇。だが──冬子がこんなのを、悦ぶだろうか。
なるほどレニングラード大通りの、今度のホテルは立派だった。あまり使わない典雅(エレガント)という讃辞を、
安心して呈したかった。玄関を入り、高い天井を見あげ、絨緞(じゅうたん)を踏んで、石の手すりの階段を広い踊り
場を一つ経二つ経て二階三階へ順にあがるだけで、旅の疲れが癒されるような落着いた空気がしっとり
ホテル内に漂っていた。
団長とTさんのトビリシでの部屋が一度隣りあったきり、今度も三人が三人ともよほど離れ離れの部
屋を指定されていた。ベッドの二つある広い佳い部屋だった。濃い紅に金の唐草でカーテンとベッドカ
ヴァがそろえてあり、珍しいテレビ、冷蔵庫まであって、その余の設(しつら)えも、堅固なのも華奢なのもとり
306(134)
まぜて、帰国ちかい二た晩を十分安楽にすごせそうな雰囲気だった。
誰にといって、やはりエレーナさんに感謝したかった。有難かった。
荷をあけ、なんだかだととにかく酒瓶や壺や持参の湯呑みなど、割れ物から円い卓にならべた。コル
ホーズでもらってきたリンゴが袋にいっぱい。重かったなァと思わず笑いだせて、さて腕時計をにらむ
と、遅い昼食の約束に、あまり間がない。腹も空いていた。
着がえのほうを省略する気で電話へ寄って行った。
ややためらって、手帖を見た。そしてロシア人が出ると困るなと思いながら、牧田氏のオフィスを呼
んだ。二度鳴ってご当人が出てくれた。
「ぶじ、帰ってきました」
「よかった。それじゃ今晩、お話を聴かせてください。いいんでしょ」
「ええ……」
「そりゃいい。米の飯をご馳走しましょう。そのつもりでお待ちしてました。えーと、ホテルは」
ソビエツカヤだと返事すると、七時半に迎えに行く、念のため部屋の電話番号もと手控えてから、そ
こは、外国の客を迎える最高級のホテルです、感じいいでしょうと、さも温厚な声が笑った。
「ご造作かけて、恐縮ですね」
「なんの。なつかしい。大歓迎ですよ」
「………」
受話器を置くとまた取って、またためらって、だが冬子の声は聴きたかった。まちがえまいと、番号
307(135)
を見確かめてゆっくりダイヤルをまわした、が、話し中。手早い牧田氏からの連絡がさきに入っている
のかしれず、すると冬子はこれから買物にでも出るのだろう。何をいま考えて、冬(ふう)ちゃんは、どんな顔
をして夫の電話を受けていたかと思うと、役たたずの受話器を置きもせず、妙に、ぼんやりしてしまう。
往きはよいよい帰りは怖い──怖いながらも通りゃんせ、か。
さっきからすこし頭痛がしていたのは、カーテンのかげで、大きな窓の、上のほうの小窓があいてい
るのに、気づかなかったためらしい。
わずかの間にモスクワはうんと寒かった。窓辺へでて、遠く近くの木立に入りまじりにかっと真ッ黄
色い菩提樹などに眼をとめていると、頭の芯にちいさな輪があって、鈍い痛みの小粒をゆっくり締めつ
けようとする。急いで感冒用のカプセルを探した。約束の食事の時間が来ていた。
──オペラ大劇場といった豪華な食堂だった。なかなか、エレーナさんに任せてでないと席もとれそ
うにないが、ウェイターの応対は礼儀正しく、料理の出も、むやみに待たすというほどではない。
「K団長さん。疲れませんか」
K氏はちっちゃく指先を横にふり、やさしいような笑顔をあからめ、すこし、と低声(こごえ)でエレーナさん
に答えていた。
「今日は、ど?ぞ。お休みください、ごゆっくり」
「エレーナさんこそ。ながいことお家(うち)留守になさって。それで、まだお引きとめして。ネェ」と、Tさ
んの挨拶にもソツがなく、相槌を求められあわてて頷いた。
猛烈、酒がほしい。頭が、荷づくりしたてのように堅かった。ワイングラスを一人だけさっさとカラ
308(136)
にするのもぐあいわるく、ウオツカをお年寄りにつきあわせるのもどうか。ボルシチも肉も野菜も、片
づけ仕事といったていでごろんごろんと咽喉を落ちて行く。
それでいて一等喋っていた。エレーナさんにもぜひまた日本へいらしてほしいとか、トビリシで手厚
くお世話いただいたノネシビリ氏最愛のタマラ夫人が、ちょっぴりフランス語ができたらしいのに此方
はまるでダメだったとか、コルホーズヘの途中ツヒエタの教会で出会った青年僧が、頬にも顎にも濃い
ひげを生やして長髪だったとか、お茶の産地というのでグルジアと静岡の製茶関係者とはかなり交流し
ているらしいですよとか、翻訳委員会で一人だけ日本語の話せたトビリシのステフカさんは、美人でし
たねえとか。
さすがに、はかばかしい相手はだれもしてくれなかった。喋るのも黙りこむのもみな億劫なほど、疲
労にめげているのだった。部屋で、めいめいの清潔なベッドで前後不覚に寝入ってしまいたいのだ。
エレーナさんは、それでも、後刻、作家同盟の本部へ帰って改めて明日の予定を連絡するつもりだが、
部屋にいるかと訊く。
「まだ働くのですね。えらいなア」といくらか呆(あき)れたという□を叩いて、頷いた。
K氏が、「あしたは、クレムリン」と、なるほど、ここはモスクワ、もっともな質問を呈した。来年
のオリンピックを控えて、なかを改修中の建物が多いのは生憎(あいにく)だけれど、
「歩いてみるだけでもね……。せっかくだし」
「いーです。行きましょう。それからTさん。いー、教会があります、そこへも行きましょう」
「はいはい。その、佳いというのは」
309(137)
「…イコンがいーです」
「礼拝も…。信者の方がおいでになる教会」
「そーです」
Tさんはにっこりした。
K氏がロンドンヘ飛ぶための手配など、まだエレーナさんには確認の必要な用事があるらしい。もう、
あの加賀法子は行ってしまったはず、なにかしら団長に言伝てを頼みたいような、だが、なにもかも空
しいような気がして、さっきまでの反動か、はりついたぐあいに二枚の唇を開くのも大儀だった。
部屋は三階だった。Tさんだけ二階だった。
やはり階段をのぼって、鍵番の女史から恭しく預けた鍵をまた受取った。鉄で、大きい。鍵穴も大き
い。が、合い□はかならずしも滑らかでなかった。
ソファにぐたりと凭(もた)れこんで、数えてみると睡さに添うてかるい二重視など、不調なところがいくら
もある。
エィと起って、残りすくない梅干を二粒一度に□ヘなげこむと、どうせ必要な、掌篇小説を七つ、冬
子のために清書しようと思った。
冬子がこんなのを悦ぶだろうかと、また思った。残り少ない原稿紙の枚数に気を配りながら、六時前
には清書を終えた。
ためいきが出た。冬子の悦ぶように書く、といったものでこれは有りえようはずもなく、七曜にあて
てと趣向をたてたため、かえって何がとび出すか予測つかなかった。が、七つ揃って、まあ良かったと
310(138)
いう物書きの満足のようなものも暖昧なぬくもりになって、胸にこもっていた。
土産がなにも、著書一冊も残っていない。袋にいっぱいのグルジアのリンゴが今さらありがたかった。
が、三十校足らずの七篇は、どう冬子に手渡せばよいのか、それを□実に電話がかけたいけれど、かけ
てよいと許されている時刻は過ぎていた。
エレーナさんからの電話が、明朝十時半にホテルを出る、そしてソ日友好協会で日本文学について座
談会をと、予定を報せてきた。なにげなくはいはいと聞いて、
「えッ…」と声をあげ、笑われた。
団長とTさんにそれぞれ電話で伝えた。二人ともやっぱり同じ声をあげた。
「で、いらっしゃるの。お友だちのとこ」
「ええ。迎えにきてくれるって言いますし」
「そう。それは愉しんでこられると、いいわ」
Tさんとはお互い、自分もあんなふうな京風の標準語を喋っているんだナと思いあえる、安心感がで
きていた。
ひとりの部屋にボンボン響くくらい拍手(かしわで)うって、入浴の用意をした。気をはって行けば、湯冷(ざ)めもす
まい。風呂というと癖のように唄が□をついて出て、節は、と拍子もない「スイスイ、スーダラタッタ、
スラスラ、スイスイスイ」なのに吃驚した。あとの詞は知らず、一度浮かんででた□遊(くちずさ)みが払いのけて
ものかない、湯からあがってまだ、半ば諦め顔で「スーダラタッタスーイスイ」とくりかえしていた。
牧田氏の招待を辞すべきだった気がしてきた。道義などというこだわりこそないが、冬子にもそれは
311(139)
ないと信じられたが、彼女に、夫のまえで難儀な相槌などうたせたくなかった。うつのも気づまりだっ
た。が、一方に冬子の主婦ぶりが見てみたい、さが悪しさとしか言いようのない好奇心も動いていた。
思案して、背広を着こんで、すこし固くなっている自分に苦笑しながら鍵をもって部屋を出た。
トレチャコフ美術館やレニングラードの国立ロシア美術館でたくさん観た、あの十九世紀の、かすか
に類型への傾斜も感じさせ、さて西ヨーロッパ美術の影響からも脱して、なつかしく自然な母なるロシ
アの風光にめざめたような落着いたタッチの風景画が、このホテルには、ふんだんに飾られていた。ま
た、ここぞといえる場処にきまって絵付の華やかな大きな花瓶を、統一のとれた撰択(センス)で飾っていた。
牧田氏は約束の時刻より早めに来て、玄関を入った正面の階段下で、高い台に据えたそんなはでな磁
器のやや小ぶりな一つを指さしあい、制服を着たホテルの職員と鷹揚にやきもの談議でもしているらし
かった。ふうん──と単純に感心したまま、ふと見あげてくる眼と、階段を下りながらの視線とが、出
会った。記憶にない顔だ、が、感じはつかめた、京都の、人だ。あれは煎茶小川流家元のK氏とおなじ
体型だナ、顔の輪郭も似ていると思った。やや下ぶくれの卵型だ。冬(ふう)ちゃん──
宵闇のモスクワ市街をどんどん走りながら、車中、まずは互いの履歴書を順に読みあげあうぐあいに、
ぼつぼつ話が進んだ。
「野球は……大学では」
「早稲田でですか。軟式でしたからね、ぽくのは。一年半ほどでよしちゃいました。露文では、ご存じ
でしよ IさんMさん。R。それとGさんなんか一緒で…」
「と、牧田さんも文学を」
312(140)
「いや。わたしはやらないんですが。芥川賞とったRとは、今も文通してますよ」
それからまた野球へ話がもどると、野尻吉男という後輩を憶えているか、訊ねた。
「フットワークのいいセカンドで、よくダブルプレーをやりましたよ。旧家でしたね六波羅辺の。あす
こに住んでまずか、まだ」
「いえ。…ご存じなかったですか……東京です」
「卒業してからは顔、見てないなァ」
「…出版、いえ出版企画のオフィスを持ってましてね。がんばってます。牧田さん、ソ連には、もう」
「四年半ですかな。来年のオリンピックがすむまでは、帰してもらえンですね。暮しにくくはないんや
けど……」
「以前は、すると…東京」
「大阪に七年いましたけど、あとはね。ホラ東伏見ですわ、お稲荷さんの」
「ええッ」
「そう。電車はおタクは池袋線で、わたしは新宿線か、それか吉祥寺へ出て国電でしたからナンだけど、
同じ市の住人ですよ。だからお手紙貰(も)うて、なつかしィてね」
頷きながら動顛していた。少くも十年、冬子は自転車でせいぜい二十分の所に住んでいた──。数瞬
の失認状態から、かろうじて、モスクワは寒いとつぶやいた。
「それですよ。ソ連の人は寒い自体は苦にしませんが…ひどい時節は、零下何十度でしょ。こんなのも
一度エンジンを凍らしちゃうと難儀でね」
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「自動車、ないと困りましょ」
「そりゃね。ところが故障しても、部品が、ソ連じゃ絶対量も、種類も、乏しい」
この人が──冬ちゃんの亭主。そうか。やっぱり──
「でも、面白い国だなとわたしなんか思いますよ。日本じゃいろんなソ連についての本が出てるけど、
こう住みついてみると、べつの、そう悪い一方じゃない感想がある。二週間でも、実際に旅されて、ど
うでした。想像してらしたのと、ちょっと違ってませんか」
「ええ。予想と違ってたとこ、当然だけどありますね、たくさん。ただしソ連政府の悪しき大国主義は
主義で、絶対好かんですね」
牧田氏は、ははと笑った。同感だと言った。そして、サ、着いたといっそう元気な声で、ソ連政府が
在留外国人に貸与するアパートの、職種による格差の最低例が今に見られますよと、気をもたせ顔に、
ゆるい坂道へ車を乗りあげて行った。肚(はら)の下がシンと硬い。胸も鳴った。
テラスが六列、十七階まで頸を高く反って数えた大きなアパートが、少くも二棟見えていた。エレベ
ーターの乗りぎわ、小ぶとりの「ドイツ人」と入れかわった。ここに住むやはり商社マンの由、そうい
う家族ばかりをかためているらしい。
牧田家が、さて何階だったか、上気したまま、表札も漢字ではなくて、ドアの外まわりなどかつて暮
した団地風社宅のと似ていると思った。
黒いコートの牧田氏は、車の鍵(キイ)一つの手ぶらで、気軽にブザーを押す。
と、湯気にこもった感じにすこし声遠く、だがドアのむこうへ足音がササと近づいて。
314(142)
「お連れしたよゥ…」
「はい……」とでも応えてか、カチッと錠がはずれて牧田氏は強そうな手でドアを引いた。沓(くつ)ぬぎはせ
まく、そして眼のまえ和風のおちっいた壁紙に、複製にしてもみごとな土田麦僊の舞子のデッサンが、
額にして嵌めてある。のを、一瞥背越しに認めながら、わきへ身をひいての主婦の気もちいい出迎えの
声を、全身で聴いた──。
「さ、おあがりください」と言いおいて、牧田氏は受取ったリンゴの袋を抱いて足ばやに奥へ消える、
玄関の、ややうす暗いなかでまだ靴もぬぎかねて、
「ほんとに、よくいらして下さいましたわ。どうぞ。散らかしておりますのよ」と目のまえ、挨拶は静
かに──おだやかな身ぶりで招じ入れてくれる人の、その──顔を、まともに見た。
チガ──ウ。冬(ふう)ちゃんじゃ、ない──全然ちがう人だった、その人は。
牧田夫人は、全然、冬子と別人だった。冬ちゃん、なにを──するンだ…。
「……」と胴顫いになるのを、ドアに片手あずけて堪(こら)えている顔つきを、
「さ、どうぞ、お寒ございましたでしょ。晩がたは急に冷えてまいりますのよ」
そんなふうに察してくれながら、うす紫の、浅く衿を立てた飾りけないセーターとロングスカートの
奥さんは、なにか用意の途中かして、気さくな横歩きのていで奥へ退っていった。
牧田氏が、たっぷりした銀ねずのセーターとズボン姿にくつろいで、奥さんと交替に、まだそんな処(とこ)
にいるのかという願で、大きなソファのほうへ呼ぶ。
冬子がからだよわく、帰国をひかえて、牧田氏の妹のような人でもたまたま日本から手伝いに来てい
315(143)
る──のなら、あの鉤の手に右へ隠れた奥のほうから、今にも冬子が顔を出す──か。
「たばこ、は」
「ああ…やりません」
「ア。ごめんなさい、コートどうぞ」と牧田氏は、内ポケットに掌説七つ分を縦長にまるめて入れたま
まのを、気さくにどこかへ吊りに行ってくれた、そのついでに、おういと──家の者、を呼びたてた。
もうそこの食卓にガス台と、どうやら鳥鍋やら何やらの用意ができていて、瀬戸物の茶碗やガラスコッ
プがナプキンを添えて伏せてある。
ハイハイと声がして、さっきの──冬子でない婦人が中学一、二年の父親似の少女と、色白な、五年
生か六年くらいの少年との背を双の手で押しだすように姿を見せた。
「いらっしゃいませ。おリンゴを沢山に頂戴して…」
「今晩はァ」
「リツ子とショウジです。そして、家内」
ソファから起って、いちいち頭をさげて返す笑顔がゆがみそうになる。気がつくと、白い大きな衿巻
をしたようなコリー犬が広いフロアを悠々と歩く。徐々に霧が晴れるふうに部屋のあちこちが眼に入っ
てくる、と、この家の主が、なみなみでない美術好きなのが見てとれた。ちいさいが李朝象嵌手(ぞうがんで)の壺が
硝子戸棚の中ほどに据えてある。棚をかえて、東欧系の、華奢に焼いた幾何学文様のちいさな酒壺(しゆこ)やら
カッブやらも数置いてある。両の拳を痛いほどにぎったまま、ホホウなどと声に出してみた。奥まった
壁に遠目にも油で広隆寺十二神将の一つを描いたとみえる十号ほどの絵は、東京の百貨店で例年春には
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個展を開く春陽会のベテラン画家の作とも見分けがついた。
そんなことは、どうでもいいのだった。が、どうでもいいから、そんなことに獅噛(しが)みついていた。夕
食は早くすませていたらしい子どもたちにロクな愛想も言えずじまいに、彼らが奥へ引っこんだあと、
とにかくも小品ながら麦僊の舞子の絵から褒めだした。
「絵はこの人の」と夫人のほうを見て、そっちの趣味は奥さんの父君に恩恵をうけていると、牧田氏は
いくらか頬をあからめた。
「あなた、ホラ。ご馳走はなにもないんですのよ。でもお話はあっちへ移って」と奥さんは男二人にこ
もごも笑いかけ、食卓へつくように催促した。ガスの火が燃えていた。
冬子が、──奥さんのうしろへすうっと、現われて出そうな気がする。
いや、現われまい。当然だ。冬子はもう(いない)──という苦い断念に、きりきり苛(さいな)まれた。
牧田夫人弘子さんは、京都と縁のない、少くも数代東京の山手に根を生うた家に育っていた。大学も
東京だったが病弱で中退し、名のある画家の塾へ数年も通うてから、ちよっとしたきっかけでちようど
牧田氏が転勤して行った先へ就職した。一年たって結婚した、のが、昭和四十年だったという。
「うちのは晩婚ですのよねェ」と奥さんは屈託のない声のまま、煮えた鍋の料理を行儀のいい箸さばき
で取りわけてくれた。冬子とちがう。眼鼻だちがくっきりと明るい。声音も高い。
主人に、強い酒がいいか、それともビールのようなものがと訊かれて、即座にビールを頼んだ。鑵の
ドイツ製だ、モスクワヘ着いてからはじめてのビールだった。歯にしみた。
「この人は、このアパートじゃァ”先生”でしてね。ヒマな奥さん連中や子どもに”お絵描き”ってや
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つを、教えてますLと主人。
「と、奥さんの作品も」
壁を見まわすのを、奥さんは、にが笑いして制(と)めた。
「まァそんなのより、ハイ、召しあがって。白い御飯と、京都のお漬物もちょっとだけですけど」
「わざわざ……」
「いえ大阪の支社から出張してきたやつがいまして。届けてくれましたんで」と、牧田氏。
「どちらでしたか。あの頃のおすまいは」
「ご存じでしょ、小松谷の、正林寺。馬町(うままち)の東の」
「…ええ。珍しい、佳い阿弥陀経石が、墓地のすみに立ってる、あのお寺ですね」
「やっぱりお精(くわ)しい。あの南、裏に、古い家(うち)が今もかたまってましょ。あの辺です。小学校時分は伏見
区でしたが」
冬子のもとの家から二百メートルも苦集滅道(くずめじ)の坂を上った辺だ、小松内府平重盛の居館や藤原氏の大
きな園池(えんち)があったといわれ、池田町の地名も残り、安徳天皇安産祈願の三島神社もまぢかい。さらに行
げば茶■坂、そして、清閑寺。
と、食卓の一隅へ、眼を惹かれた。
「失礼ですが、それは」
「これですか。まアこんなのを出しておいて。いえね。主人が好きで自分でつくりますのよ。ご存じで
すか…」
(■:苑 のくさかんむりをはずしたもの に 皿)
318(146)
奥さんの声のしたで、牧田氏は自分でパクッとちいさい密封容器の蓋をはずして見せてくれた。
「きの…しょ」
「まあ。やっぱり京都の方ですのねェ」
「唐辛子がわたし好きでね。自分で、その辺にごろごろある空地に栽えとくんですわ。召しあがります
か」
「はァ…」と、どう眺めても、ジェルジンスキィ公園で冬子が笑ってさし出したあの容器、あの、□に
苦いきのしょに想えた。どうぞじか(二字傍点)にと勧められ、箸のさきをつかって□へ運んだ。寒気がした。
男二人の話題は結局ソ連という国のうえへ動いた。通貨の一ルーブルが公式には四百円見当に換算さ
れていながら、貿易上は百円ていどにしかあまり信用がない、などという話。
アパートの話も面白かった。
外国から招聘の芸術家や大学の客員教授級だと都心に近い、設備も間取りもいい酒落たアパートが与
えられ、「われわれ商人」だと、一等地理的に遠いこういう大集団住宅にかためられる。そんなことも
牧田氏は笑いながら言う、が、親子四人が、さして窮屈といった顔つきでなく、鷹揚に、品よく上手に
暮している感じだった。ことに便所は、めったに見られない磨きっぷりで、奥さんの心入れか、マジョ
リカの小壺に野の花の色など、眼にしみた。くらツと壁(タイル)に頭をもたせ、ひくく唸って冬子の名を呼んだ。
遠く遠く水の走るような音──が、していた。
「モスクワの中心部から四十キロぐらいまでは、猛烈な勢いでこういう高層アパートが拡がってます。
ここの窓からもよく見えます。但し日本とちがい、到る処に森なんかあって、殺風景とばかりは言えま
319(147)
せんね。きのこ、わらび、三つ葉なんか採り放題でネ」と話のつづぎ。
「ここもそんな森が近くに」
「ありますよ。五千坪ほどの池もすぐ近所に。水泳は、表むき禁止されてますがね。でも泳ぐよりみな
日光浴です。甲羅を干しに遠方から日に千人も来ますよ季節になると」
「森に…蛇、いますか」
「ウーン緯度が高いからねえ。でも一度、見たなア。以前にモスクワ大学の構内で。茶色い縞(しま)のやつ」
「この辺でも出ますわよ。この間ッて、十日も前。ね、あなた。そこの池の東側の水門のところ。あそ
こへ二匹沈むように這いこんだって人だかりがしてましたもの」
「でも、蛇が、どうかしましたか」
「いえ。この前のオスタンキノ。あそこに泊ってた時に一度。近くに深い森の公園がありましょう」
「ジェルジンスキィ。あそこに…ねエ」
そして一転、律子ちゃんの高校進学の話題になり、それがオリンピック明けの春に迫っているという
ことから、ひとしきり、モスクワ五輪の前景気が市内にあまり感じられない理由がいろいろ説明された。
奥さんは建日子(たけひこ)にと五輪マークをつけた愛らしいやきものの熊のミーシャを持ってきてくれ、もう一つ
これは、「お姉さんのお机にでも」と、素朴な木造りの、姉と弟で糸を巻いている組人形を、ミーシャ
とならべて置いた。
冬子のくれた少女ののった木の馬を、ホテルを出がけ、たしかに円い卓の上に、トビリシの壺やワイ
ンの瓶と一緒に見てきた──あの、ハーモニカも──。
320(148)
「これで、おとといトビリシで詩人のアパート、きのうはコルホーズで村長さんの屋敷、そしてお宅と、
趣のちがったソ連の家庭を、三つのぞかせていただきました。日本を発つ時はこんな幸運は想ってもみ
なかったですよ」
辞去の時刻を推し測ってそんなことを□にした。実感だった。
「サ、それじゃ、お疲れの出ンうち、お送りしまし上う。運転だいじようぷ。軽いビールでしたから」
ご馳走は鍋のほかにもあって、たくさん食べ残した。
「奥さん。お大事に。日本へお帰りになって、もしお役に立てることがあったら、ご遠慮なく仰っしゃ
ってください」
弘子さんはだまってあかくなって頭をさげた。「さようなら」を言いに子どもたちが呼ばれた。
九月二十一日。まがりなりに日本茶の用意があると聴いて、ゆうべ牧田夫人は、プラスチックのまる
い容器は使いすてでいいからと、白い飯に漬物二種と焼海苔を持たせてくれた。快晴。八時起床。朝湯
のあとのけっこうな茶漬だった。三粒残った梅干も、二つまで食べた。グルジアのリンゴも一つとって
あった。
瓶の底に三センチほどワインが呑みあましてあるのは、牧田氏にホテルまで送り返してもらったあと、
とびつくように栓を抜いた残りだった──。
書き物机へ乗馬の少女と糸繰り人形とをならべ、椅子に腰かけて凝っと眺めていた。様式的に同種の一
細工にちがいない。それは、貰って帰った密封容器の大きさや色が、朝早い公園のベンチで手にしたの
321(149)
とそっくり、「きのしょ」の味も同じだった、というのと違わない事実なのだ。考えこむまでもない、
どれも、何事でもない、ただの事実──。
あす(二字傍点)は帰国だ。そのことを考えた。
人の顔や名前と用意すべき土産物とを思いくらべ、不足分は手帖にメモした。
朝九時半すぎてからと約束の電話には、早すぎた。が、受話器をとりあげずにおれなかった。
二度鳴って、発信者がコトッと消えた。
「…もしもし」
「ア、宏ッちゃん……。お早うございます。よく、おやすみになれて」
「冬(ふう)…ちゃん」と舌が縺(もつ)れた、「いろいろと、ありがとう」
「こちらこそ。小説、よくお書きになれたわ。あたしこそ、ありがとうございました」
「…でも…」
「だいじに、お預かりします。あしたはお見送りもできませんが、近いうちきっとまたお目にかかりた
いの。けっしてご迷惑かけないようにするわ」
「それは…いつだか……わからないね、まだ」
「え。でも、きっとあたしと分かってくださるように、お知らせします」
「たのしみだ…。きっと、だよ。しかし、からだは大事にしないと」
「はい」
「きっとだよ」
322(150)
「………」
「提案がある、って…」
「それも今度の時に。でもお願いね。聴いてね」
「こわいね」
「いや。こわいなんて…」
「冗談さ。順や吉(よ)ッさんに言伝ては」
冬子はフフフと笑って答えなかった。そして今日の行動予定を訊いた。
知っているだけ気軽く返事して、時間までホテルの近くを歩いてみるつもりと言うと、冬子は、ホテ
ルの玄関前から右寄り先の方角へ十二、三分も行くと、今時分の季節、みごとに黄葉した市中の並木通
りがあると教えてくれた。
「黄金の秋(ザラターヤ・オーセニ)だね」と、わざと牧田氏が同窓会誌に送っていた文中の、プーシキンによる一句を□にし
てみたが、冬子はあっさり、
「そうなの」とこたえて、やがて「冬」になると語尾を遠くした。
電話は、蒼空が鳴るようにさようならの声を響かせて、切れた。
急いでゆうべ脱ぎっ放しのコートをかけた場処へ駆けた。バーバリィコートの深い内懐に、七篇の原
稿はきれいに失せていた。
──冬(ふう)ちゃん、やる、じゃないか。
なにかしらこみ上げてくる嬉しさを□いっぱい含むように、唇をとがらせた。涙が、ぷっと溢れた。
323(151)
荷も整頓した。散歩にも出た。
十時十五分、一同そろうと、立寄るだけということで、ゴーリキー通りから右へ迂回して、ウォスク
レシーニェ教会をのぞいた。エレーナさんは覚えやすく「復活お寺」と翻訳してくれた。
裏街の、古びた小教会だった。が、一歩入って、おッ、と声が出た。ほのぐらく、あたかもロシア正
教の十字架を象(かたど)った串(一字傍点)の字なりの堂内が、数百年をへたイコンに満ち満ち、煌めく金色に共鳴りして、
正面のキリスト像が生きているようだった。
五分ほどという約束が容易に守れなかった。今日は正教の大祭日らしく、改めて夕方にと、エレーナ
さんに宥(なだ)めすかされて外へ出た。
ソ日友好協会での座談会へは、ソ連側はモスクワ大学の学生六、七人をふくめ十数人。エレーナさん
もここでは通訳の必要がなく、笑顔の美しい優雅な婦人の司会で二時間余。質問あり、議論もあって、
熱っぽい話しあいがつづいた。中間小説や内向の世代の話題はK団長とTさんにまかせ、日本の物語に
ついては思うままを話した。やはり古典への関心がつよいという印象をもった。
終って放送記者のマイク・インタビューにも応じた。
別れのまえ、司会の婦人が寄ってきて握手を求め、
「美しい日本語をたっぷり聴かせていただきました。話される言葉がそのまま美しかった。感動してい
ます」と謝辞があった。
すこし暑いくらいな午後の日盛りにクレムリンのなかを歩いた。およそ予習ということが不十分なた
め、どの建物もああ椅麗だ、ああすばらしいと思うだけで通りすぎた。
324(152)
フィルムの残りを消化すべく、盛んにシャッターボタンを押して歩いた。どの建物にも入らない。エ
レーナさんもにこにこと歩くだけだ。鐘の王様だの大砲の王様だの、すこし呆れた。それでも写真に撮
った。
クレムリンでは、結局、ソ連政府そのものが、建物の黄色と白の配合もこころよく、すっきり美しく
見えただけでない、やはり或る種異様の迫力が感じとれて、印象深かった。
街のビュフェで肉料理とコーヒーの昼食をとり、ロシアホテル一階のドル・シヨッブでまとめて買物
もして、三時半に一度宿舎のホテルにもどった。
K団長ひとりエレーナさん再度の案内で、約束どおりチェーホフ記念館へ取材に出かけて行った。
自室で、今朝予告されていたリボーワ前教授の来訪を待った。『平家物語』のロシア語訳について理
解の届かぬ一箇処があるという話だった。幸いお役に立てた。一時間余も二人で話したところで、エレー
ナさんに階下から呼びだされ、休息の団長はホテルに残して、教授を車でアパートに送りとどけた足で、
もう一度「復活お寺」の礼拝にむかった。Tさんは待ちかねて、先に出かけていた。
堂内は無数の燈明にゆらめき輝き、黒衣の司祭は頭に浅い緑の布を被て際限なくなにか唱えごとをし
ていた。信者は老女が多く、だが屈強の男も若い男女や少女もまじり、聖なる歌声が響く。
眼をとじ、冬子のことを思っていた。冬子は生きている。俺の、この胸に、熱く触れて物を言ってい
る。言っている──。
──掌(て)と掌をひとり握りしめ顔を伏せた。横で、髪をおおったエレーナさんがそっと礼拝のそぶりを
見せていた。赤いスカーフのTさんも、二、三列まえでじっと佇んでいた。
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第十一章 冬のことぶれ
九月二十二日。九時まで朝寝した。エレーナさんにもらった甘いクッキーを朝食に、グルジア産の軽
いシャンペンを呑みながら昨日の覚えを書きとった。ウォスクレシーニェ教会の弥撒(みさ)とソ日友好協会で
の歓談とは、こまかに、記憶の限りを書いた。
ゆうべはその「復活お寺」からホテルヘもどると、荷ごしらえがたいへんと出渋るK団長を抜きに、
最後の晩餐を、三人で。レストランに席を交渉することから注文まで、やっぱりエレーナさんに頼んだ。
キャビア、蝶鮫のフライその他。スープが好きでないエレーナさんは二人分だけボルシチをとってくれ
た。
食事の終る時分に午前の話しあいの席で識りあったキム氏が著書持参で訪ねてみえ、エレーナさんの
案内で最後のコーヒーとアイスクリームをご一緒願った。友好協会では禅の研究家である年輩の婦人に、
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署名、献辞入り日本の芸術伝統を論じた一冊も貰っていた。キム氏の本は、日本の近代文学を論じてい
るらしかった。
エレーナさんを見送ってから、二階ロビーで三人で十一時まで話しこんだ──。
飛行機の搭乗券も受取ってあった。
ソ連邦の広大さに負けないほどのスーツケースが、持参の土産や自著がなくなったぶん新しい買物や
土産で埋めあわされ、たいして嵩(かさ)も重さもかわらない。帰国の電報まで、もうエレーナさんは留守宅へ
打ってくれていた──。
さて朝の出がけに、まずロビーへ三人寄ってK団長とお別れの会をした。飛行機の時間もちがい、ロ
ンドンヘ飛ぶK氏を先に空港へ見送ってから、また二人をホテルヘ迎えにエレーナさんが戻ってくる。
成田へは、モスクワ時間で午後八時発の便だった。
気の利かない、ごく至らない娘と息子役しか演じえなかったことをおやじ団長氏に若い二人は詫びた。
どうかロンドン・パリでの滞在を無事でと祈った。
「荷物は、もう」
「ええ出来ました……」と、K氏は、それでも次の一人旅に緊張を隠せぬ面持で、ヨーロッパの旅には
馴れているTさんに幾つかこまごまと質問しては、手帖に控えていた。Tさんの返答はそばで聴いてい
ても要領をえていて、根気よく、親切だった。
エレーナさんの文字どおり最後の配慮も、親切というほかないものだった。十一時半の出迎えに、行
かない気でいる団長も熱心に誘って、はじめての市街地を通り、A・ルブリョフ美術館へ出かけたのだ。
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広いモスクワ市のどの見当になるか相変わらずさっぱり知れない。が、東京の旧都電ににた市街電車
の道から緑蔭ゆたかな林の奥へ吸いこまれそうに入って行く、と、清々しい白の城郭に囲われ、鉄格子
の門をとざした、だが、銃眼も矢狭間(やはざま)も微塵の威圧感のない、閑雅な、もと男子に限ったという修道院
が静まりかえっていた。
潜り門のまえに立つとアーチをあたかも壁画の厚い額縁に、愛すべく美しい白い聖堂が緑の野と黄葉
した林のなかに、左右に小路をひかえて、しんと建っている。白樺、ポプラ、プラタナス、菩提樹そし
て柏がみな黄金色(きんいろ)に照っている。紫や、黄色、赤などの野の花も、多くはないが、草野の到る処に可憐
に咲いていた。
自然のなかに美術館(修道院)があるのでなく、自然をそっくりやさしく保存するふうに稀代の壁画
家と慕われている聖ルブリョフの記念館は、人を待っていた。
建物は純白を基調に、屋根は色銹びて淡い緑。
「夢を見てるみたいです」と、あまりの清々しさに呟かずにおれない。
「ほんとだ」と団長もうなづく。Tさんは日の光を木洩れに透かし見て目をほそめ、エレーナさんは微
笑していた。
なんと穏やかな日ざしだろう、どの白壁もまぶしくない。二週間まえば雨が冷たかった。空は垂れこ
めて暗かった。今は眼のまえの長いベンチに仔猫が二匹昼寝を楽しんでいる。猫の一匹と尻をくっつけ
て六、七十の、二人とも金髪、白い服と緑の服の婦人が顔を寄せあって、なにか絵のある本を見ている。
ザゴルスクや聖イサク寺院やツヒェタの古教会や「復活お寺」など、ずいぶん正教の聖堂、修道院な
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どを観てきた。美術館もたくさん訪れた。地域もちがい、建った時代や建てた人もちがう。それは、わ
かっている。が、こうまで心なごんで明るく澄みきった訪問先はなかった。エレーナさんが、わざと最
後まで掌中の珠を蔵(しま)っていたかとさえ想像された。
菩提樹の輝く葉蔭を抜けて、まず二階建の白い陳列館で、多彩な聖母子像やスパスを観た。じんと肩
先からしびれることがある。うっとり眼を吸い寄せられ、頬の辺へ紅潮してくることもある。
選ぴぬかれたイコンの名品館だった。
エレーナさんはここへ来て、自分の好みや判断を包みかくさず、むしろ三人に大事に見落としのない
ようにと、貴重な、秀れた、また珍しい作品のまえへ無言で誘うように立ちどまっては、寄って行くと、
「これは、いーですねえ。すばらしいです」とか、
「これは同じスパスでも、ヨハネの聖杯に子どもの姿でキリストが描かれています。とても珍しい」と
か、
「これは聖ニコライで、こっちは翼をひろげて街の空を翔ぶ聖ミハイルです。この聖人の手に持ってい
ますのは、聖軍隊の旗です」とか、
「この赤と黒と金色の大担な組合せのうえへ描かれた、日本の仏教風に言いますと半跏像のようなキリ
ストは、とくに、力強いキリストという意味をこめて、スパスとはいわず、スパッシゥオと呼ばれてい
ます」と、製作年代、画題はもとより内容、特色などの説明に力がはいる。
また庭を通って、奥の、もう一つの横に長い平屋に入った。ここには聖像壁(イコノスタース)が広い壁面におさまって、
咲き群れた芙蓉の花がましたに見える窓ちかくには、「ウラジミールの聖母子」と呼ばれるそれは優美
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なイコンが架けてある。思わず双つの掌を握りあわせたまま近よった。
黒衣のマリアが両の掌をひろげ肩の高さにさしあげている、その胸のまんなかにさながら宿るように
幼いイエスが描かれた聖母子像もあった。ガブリエル・マタイ・ルカ・ヨハネら聖人を四囲に配し、ひ
ときわ金色に映えてひしと頬をよせあう聖母子像もあった。
「二日、半」と呻(うめ)いて、産んだのでなく死なせたのですと顔をそむけた冬子を、ふと肩先に感じた。静
かに手をそこへ置くと、指さきをなぶって秋気が動く。
冬子が、また現われる日の確実に来ることを信じた。浄い空気に満ち満ちた聖ルブリョフの美術館に
いて、冬子へむかう愛が新たななにごとかを妊みはじめる──。旅が、ソ連への旅が有終の美を飾って
いた──。
街のドル.ショップに寄って、朝日子や建日子にルパシカ(民族衣裳)を買いたした。
ホテルでは、四時にサノビッチ氏という客を待つ約束だった、エレーナさんの友人で三十九歳、『紫
式部集』を翻訳している人とか。そのあいだにK団長を空港へ送って、六時にまたエレーナさんは残る
二人を迎えに帰ってくる。
部屋にもどると荷ごしらえを急いだ。真珠をあしらった銀のブローチと、ことに文様の佳くできた御
所解(ど)きの風呂敷をエレーナさんに記念に取分けてあった。感謝の気もちもちょっと書き添えたかった。
タチヤナさんに電話して、『源氏物語』のりっぱな完訳を期待している、なにかお役に立てることが
あれば手紙でなりと言い付けてほしいと別れを告げた。
「おだいじに」と聴こえた日本語の、思いがけない美しい響きに一瞬胸つかれた。
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時計を見て、ためらわず、冬子を電話□に呼んだ。冬子はじっと待っていたらしい。
「うれしい」と、声ははずんでいたが遠かった。明るい声だった。耳を澄ました。
「京都でまた逢おう」
「ええ。京都でまた、逢ってくださいね」
「一緒に……」と言いかけるのをええ、ええと冬子は遮って、うたうように、
「宏ッちゃんとなら行ってみたい処(とこ)、たくさんありますもの」
「うん……。ハーモニカは預ったよ」
「……。旅のお疲れが出ませんように。そして、この旅が、また新しいお仕事にどうか役だちますよう
に」
「ありがとう。……じゃ、帰ります」
「……さよなら。お逢いできてうれしかったわ」
ああと応じてふり切るように受話器を置いた。すぐまた取って、思い定めて、しっかり──同じ(二字傍点)電話
番号をまわした。その指先で痛いほど額を押しながら、もしもしと呼んだ。
牧田夫人は、アパートの集会所から部屋にもどったところだった。ご主人は、なにかの見本市に出張
と聞いていた。帰国の挨拶をかね、一昨晩のご馳走に礼を言った。弘子さんの声ははれやかに、
「旅のお疲れが出ませんように。新しいいいお仕事をと、主人ともどもお祈りしております」
「……。ありがとうございます。どうかお大切に、ご帰国の際はお報せください」
──電話から離れ、ベッドヘ仰むきに倒れた。しばらく涙をこらえていたが、こらえ、きれなかった。
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荷物を廊下へ出した。
サノビッチ氏は『伊勢物語』『枕草子』それに西行の『山家集』を訳したロシア語の本を手土産に、
たくさんな話題と少々の質問をたずさえ訪ねてきた。まじめで、愛嬌があり、一本気そうなこの長身の
ハンサムと残った酒をくみかわし、ハラショーと乾盃して別れるまで二時間ちかく、話題は終始紫式部
であり清少納言だった。
客を見送ると熱い湯で顔を洗った。
身ごしらえして、ゆっくり、辺りを見まわし、ひとつひとつ灯を消した。
扉をあけて外へ出た。
エタージュナヤ(鍵番)の女性にもやさしい挨拶をもらった。
「さようなら」
握手を求めると温かい手がさしのべられた。
夕すぎた六時五分、ホテル・ソビエツカヤを出てモスクワ市郊外シェレメチボの国際空港へむかう車
窓の眺めは、わずか二週間の滞在中にひときわ秋色を深め、ポプラ、菩提樹、柏などどの黄葉もさし迫
る夕霧に巻かれて刻々と黄昏の底へ、淡い灰色と化して沈もうとしていた。
リボーワさんのアパートヘ寄ると、エレーナさんがひとり何階かまでかけ上がって、クレムリンを図
案化した刀の鐔(つば)大の鉄の文鎮を一つことづかってきた。那須与一が扇の的を射た矢の長さが「十三束(ぞく)二
伏(ふたつぶせ)」あった、その「一束」が拳に握った指四本分の幅の意味とはわかっているが、「伏」とは、と訊か
れて幸い返事できた、そんなことへの記念のお土産だった。「二伏」は指二本をそろえた横幅をいう。
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恐縮しながら、だが心はそらだった。一時停車していた界隈は、名前は赤軍街とか赤軍町とか妙なとこ
ろだが、たそがれの冷えを塗り籠めてつづく長い長い並木の、はなやかでまた深沈とした黄色に眼を奪
われた。酔ってしまいそうな黄金の秋(ザラターヤ・オーセニ)。
そうか──冬ちゃんは、この辺まで散歩するがいいと言ってくれてたのか。
走り去る景色をおしみ、だれもおし黙っていた。こう静かな夕暮れの別れは、淋しすぎる。前の席か
らエレーナさんがふりむいて、驚いたことにエレーナさんは涙ぐんでいた。
K氏は、無事にロンドンヘ飛びたったろうか。屈託がないようで無いといえない人だけに、言葉の通
じない、とくにパリの空港やホテルで不愉快がないといいが。それさえも□にしたくなかった。
空港へ入ると一連の手続きがある。しっかりしたエレーナさんのいつも端的な指示と助言にしたがっ
て、あんまりすばやく、あんまりあっさりと何もかも運ばれて行くのにびっくりし、そして、ふと気が
ついた時はもう、その狭いたかだか一、ニメートルの通路をむこうへ通り越せば、ガタンと鉄鎖に阻ま
れてそこが「国境」であるのだった。
エレーナさんの左手がのびて手を自然にとった。右手はTさんの手をとっていた。ちいさな一つのそ
んな輪になって、感謝の言葉はあんまり短く、立ちすくんで声を喪なっていた。たがいに軽い抱擁があ
って、エレーナさんの眼が濡れていた。
「ダスヴィターニャ」と声を張った。
「さようなら。また……」と日本ふうにちいさく頭をさげ、もう一度両手を出してエレーナさんは握手
した──。
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空港ではなにも買いたしたりせず、カフェで、飲みなれたレモネードの瓶を、Tさんと頒けあった。
そしてアナウンスに随って最後の関を通ろうとした時、K氏が、二人の今が今まで心配の種だったK
団長が、ぽつりとベンチに腰かけ、声をかけてくるのに気づいた。ロンドンヘ発の便が遅れているとい
うのだ、が、もしかしてK氏ひとりの乗り遅れでないといいが。
気が顛倒した。
頬の肉がひきつった。が、立ち話の時間もない。
「飛行機の遅れなんですね。そう言ってるのですね空港は」
不安そうに二度額いている老人をのこし、ご無事で、また日本でと、もう別れて行くしかなかった。
モスクワ時間の九月二十二日午後八時二十三分、満員のアエロフロートは大きな機体をゆっくり動か
しはじめた。
離陸するとすぐ腕時計を日本時間に六時間進めた。九月二十三日の、午前二時三十九分。成田空港ま
で八千五十キロ、九時間半の飛行と、日本語のアナウンスもあった。
ひとしきりTさんと話したことは、みな、旅の印象のおさらえで、心覚えを交換し記憶ちがいを訂正
しあうといった”作業”に類した。
いつのまにか両方でとろとろ睡りこんでいたらしく、夢に、加賀法子が手をひいて迷子のK団長をロ
ンドンのどこかしらへ案内して行くらしい遠いうしろ姿を見た。ぎょっと呼びとめる声がのどにつまっ
て、眼醒めた。へんにまっ白い夢だった。
六時半。進行方向の遠い地平が明るんで見え、すこし角度が変わると日光のかげへ沈んだ昏い闇の底
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に、鈍く眼を射るぶきみな紅が澱(おり)になって淀んでいた。
機が進むにつれてはるかに青白さが広がる。朝へ追いすがって飛んでいる気がする。
ちいさな丸窓に顔を押しつけ、眼下に湧きたつ灰色の雲海をのぞきこみながら、影もない日本、大八
州国(おおやしまぐに)と呼ばれた日本列島と日本人である自分との関わりが、あやふやな、頼りないものにふと思えた。
それから、人はなぜあんな堅い土の上に棲まねばならなかったろうと、ふと、思った。こういう雲の上
に自在に暮して、必要に応じて陸地や水中の世界も利するというわけには行かなかったのか。天国や高
天原は、人間の愚痴と叡智との、いずれがそも願わせた絵空事だったのだろう──。
疲れて睡くて混乱していた。それは自覚していた。しかし今、このちいさな丸い窓の外から、天上か
ら、冬子の顔がにっこり、さかさまに、覗きこむのと覗きこまぬのとでは、何百倍もの祈願をかけて覗
きこむことの自然を、必然を、より信じたかった。覗いてほしかった。呼んでほしかった。成ろうなら
手をとって、天空を透明な影の二つと化して翔びつづけたかった。
過去、冬子の死を幾度びも想像し、大急ぎで回避した。そのつどふさぎの虫が一匹また一匹殖えて脳
の芯を齧りだす、そのほうを、いっそ耐えてきた。
疲れて睡くて、混乱していながら、ふさぎの虫が一両日、活動していないのに気づいてもいた。冷た
く冷たい、が、澄んだ水のような或るあわれが、虫たちを静かに溺れさせている──そして冬子の死を
受け入れるしかないなかで、今も死者とも思えぬ冬子とモスクワですごせた時の間の重さに、測り知れ
ず励まされていた。冬子とまた逢って触れた喜びが、両の眼と掌(て)とをじんじん灼(や)くほど生きていた。
これから──だ。日本へお帰りなさい、その日から、新しいなにかが始まるのよと、そう冬子が「提
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案」したいのなら、それを受けよう。冬子は、雲の上をただ白い影となって翔んでいるはずのない、死
んでなお生きている死者、あの日本の、あの葦原中国(あしはらのなかつくに)の死者、なのに違いない。
十一時半、雲海の底に地形が浮かんだ。急に大気がザラつく。機体がきしる。積乱雲が途方もない高
さで青空を突きあげ、成田は気温三十度とスピーカーが告げていた。
──Tさんが先ず朝日子を見つけた。見送りの日のまま、オレンジ色のワンピース姿で手をあげてい
る。
と、──朝日子のすぐうしろから、竪(た)てた指一本を□にあて、ちいさく頷いて咄嵯に人波に沈んで行
った、ジーパンの、赤いティシャツは──。
東京箱崎のターミナルビルまで空港のバスを利用し、Tさんともそこでいよいよ別れを告げてしまう
と、自動車のにがてな娘にしんぼうさせ、タクシーに大きな荷を積みこんだ。
成田までもご苦労さん。留守中は変わりなかったか。出した手紙はみな届いているか。えらい暑さだ
が、母さんは夏バテしていないか。
やつぎぱやに訊く一方だった、が、答えるほうはのんびりしていた。おやじが、無事に帰ってきたの
だ、朝日子にしても連休初日の早起きで、ほっとして睡くもあるのだろう。そう思いつつ、明日ともい
わず今日からもう始まるもとの暮しへの無事着陸も果したかった。
そんな、もと(二字傍点)の暮しなどという安直な考えが、日本の土を踏むとたちまち湧いて出るていどの旅だっ
たではないか。つまらないやつだおまえは、と自分で自分が嗤(わら)えたが、その嗤いにしても一種気取りに
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類する、やはり、帰ってきた興奮なのであった。
「えーと。今日は…」
「日曜日。だから、けさお父さんの古典講座、八回めのラジオもちゃんとお母さん、聴いてたみたいよ。
それと北の湖、また優勝」
「そうかい北の湖。そりゃいい。十七回め、か。新横綱はどうだったい。三重の海は」
「よく知らないけど、可もなし不可もなかったんじゃないですか」
「建日子(たけひこ)は」
「本気みたいよ、中学受験」
「へえ……」
「けさも、さっさと勉強に出かけてたし」
「代々木」
「いえ。二学期からは、同じN塾だけど、お茶の水にもあるんですって」
「で……おまえは。矢が、まともに飛ぶようになってるか」
朝日子の弓がどんな腕前か知らない。弓道部がそっくりどれかの流儀に属しているのは当然として、
道場に、袴をつけた部員たちが正座して居並ぶわけだ。射手の矢が的を抜けば、すかさず「ヨツシャぁ
(良射)」とはやし、逸れれば「ちよいやァ」と泣き、たまたま四射して四中しようなら、声をそろえ、
「カイチュウ!(皆中)」とさけぶはなしは、いつか妻からまた聞きに聴いて大笑いした。二本に一本の
率で当だれは「ハワケ(羽分け)」たなどとも言うらしく、朝日子が、ハワケるまでとても行かないのは
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(165)まだ半年たらずの稽古でしかたないが、いろいろある同好会のなかでなんで弓道部なのか、妙にくすぐ
ったい気がしていた。
「お父さんこそ、どうなの。ソ連が、面白かったとかって。さっきから、すこしも言わないじゃないで
すか」
「そりゃ面白かったさ。家へ帰ったらいやほど喋るとも。聴き手は多いほうがハリアイもあるしラクだ
からな」
「お母さん…心配、してたわよゥ。まいンちうるさいくらい」
「どゥして」
「どしてってことはないですけどね。なンてっても、テキは、ソ連ですから」
「テキはないだろう。お父さん満足してちゃんと帰ってきてるんだからな。ソ連が厳重要注意だとは、
やっぱり思ってるけどね。あそこは隅々にドジでドンで、能率の悪いとこが多いわりに、外をむけば、
大号令の威力をめちゃに表わしそうだし。……もっとも、本気で日本に親切な大国なんか有るはずない
と思う。……マ、隣国の島国からすると、奇妙に、どこもけんのんな大国ばかりサ」
「さかさまだと、安心なのにね」
「どういうことさ」
「日本みたいに、大号令は通らなくても、末端(はじ)は、なんとかテキパキしてる……」
娘は父親の凡庸な大国論を、ほとんど素知らぬ顔でそんなふうにやりすごすと、一言、
「ま、これからせいぜい勉強してね」とつけ加えた。それはそのとおりだった。分からんことは分から
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んとそれで済ます気はないにしても、見さかいなく通(つう)がるのは、はた迷惑だ──。
タクシーは目白を走っていた。
「仕事……来てそうか」
「暑苦しいくらい。お机に山積みよ」
「やっぱり。どこか涼しそうなトコを見てくるなんて話でも、ないかいな。それにしても、なァんて日
本は暑いんだろ」
「取材旅行の話なら、ありましたよ。窯場を見てきてって」
「また…。どこの」
「お母さんが電話で聞いてたけど。山陰のほう…じゃない」
「萩……。出雲。それとも丹波かな。丹波だといいがな」
「どうして」
「立坑(たちくい)の、蛇窯って登り窯が見たいんだ」
「蛇…窯。恰好が」
「だろ。たぶん山坂をうねうね這うぐあいに窯が築(つ)いてある」
「丹波というと、京都府ね」
「兵庫県だよ、丹波焼の窯があるのはね。丹波は昔は丹後も、だぶん但馬も含んで、出雲勢力圏と山背(やましろ)、
大和、伊勢とをつなぐ微妙な古代の道だった」
「四道将軍の一人は、丹波に派遣されてましたわね」
339(167)
「ああ。よく憶えてたナ」
「そうそ、パパ」と朝日子は幼い日の呼びようにもどって、
「ホラ蛇窯といえば、あの、Y女史の、蛇の古名〈カカ〉説だけど……」
「………」
「あれと、べつの説が出てたの、ご存じ」
「べつの説なら、幾らもあるんだよ、以前から。ヘビは、ハビ、フェビ、ハブ、ハバ、ビミ、ベミ、ハ
ミ、チャミ、みな同根の名前だって。チ、ツチ、ツツ、カガチもそういうし、沖縄の青マタ赤マタのマタ
もそうだし、ほかにも、ナ、ナガ、ヌガ、ヌラ、ナワ、ナメ、ノジ、ヌシ、ノロシ、ナブサなどと、き
りないね。
柳田国男は〈青大将の起源〉なんて論文を書いてるけど、日本中でそりゃ蛇はいろんな名で呼ばれて
て、カカなんて、じつは未知数の新説なのさ。で、なんだって。どこで見たの。きみのその説は」
「中村さんで弓道部のお友だちに聞いたの。彼女は週刊誌で仕入れてギョッとしたんですって。でもお
父さん知ってたのね。ナカ=蛇族説」
「……週刊誌はよく見てないんだけどね。柳田が拾った名前にも、ナ、ナガ、ヌガなど挙がってるしホ
レ、北九州志賀島(しかしま)で見つかった金印。漢に貢(みつぎ)する倭(わ)の奴(な)の国の王に対し漢王が与えたという金印さ。
この場合の〈奴(な)〉は自称か他称かわかンないが、あの辺は大昔アヅミ族の根元地で、シンボルは多分
まちがいない、蛇。そして海人(あま)の原郷ともみられる中国江南語では蛇を〈ナ〉と呼んでる。もっと南の
タイまでも行くと、頭に角の生えた密林の巨大な怪蛇を〈ナーク〉と呼び、実在が信じ怖れられている
340(168)
そうだし、インド語やマレー語の蛇神が〈ナガ〉……」
「ナークなんて、英語の、スネーク(四字傍点)にもつながりそうね」
「それでね。日本のことを豊葦原のナカツクニというじゃないの。この呼びかたはどうも土中下の中の
意味じゃなく、茂った葦原に根づいた蛇族(ナカ)の国だろうという人もある。首領がナガ髄(すね)彦さ」
「中村さんをびっくりさせた週刊誌のK氏説が、そうなのよ」
「そりゃギョッとしたろうね。この、蛇をトーテムにする渡海種族が、それ以前の日本の、粟作と焼畑
を主とした農耕生活に、新しく稲栽培を、米を、もちこんだらしいよ」
「じゃ、ヘビという言葉は」と、朝日子。
ひみこ
「これは朝鮮語なんだね。ビミ、ベミ。金思■という学者は、耶馬台国の卑弥呼をさしてはっきり、蛇
姫ないしは光明姫の意味だと言ってる。お父さんはこれは彼女らの自称じゃなく、様子を知った朝鮮、
中国の人から見ての他称だろうと思うし、奴国(なのくに)と卑弥呼は、同じじゃないにしても、ナもヒミも蛇族の
名のりである確率は高いと思うよ。あの金印の摘みは蛇のかたちだしね」
「いやァね……」
「でも、それが日本さ。主に海から糧(かて)をえていた、漁(いさ)りをしていた漁夫(いざなぎ)、漁婦(いざなみ)がいて、アマ照ス日の神、
月の神、海の神がいて、その子孫が、山の神の娘や海の神の娘と次々結婚したんだもの。日本の神話は
おおかたアマの伝承に根づいていた。それを征服王朝である大和朝廷が、じつに上手に彼らの支配を妥
当化すべく系譜化しちゃったんだなァ。
国生みの一等最初に出来た淡路島も、出雲国も、伊勢国も、難波(なにわ)も熊野も吉野も山背(やましろ)も、みなアヅミ
341(169)
やハヤトらアマの根拠地だよ。その範囲は日本中の海ぞい、山なかにわたって断然広い。まさに葦原の
蛇族(ナカ)の国といえる時期がなが(二字傍点)かった」
「そういえば、長虫ともいうわねェ」
「そもそも、なが(二字傍点)いという日本語の語源が、蛇(ナカ)だったとも思える」
「お父さん、おどろいちゃァだめよ。そのナカさんが家を訪ねてみえたのよ」
「えッ」
「ナカ・ノリコさん。ジーパンに赤いティシャツの美人。小説見てほしいって。読者よ。あたしはきの
う弓道部で留守だったの。お母さんと建日子と、おそいお午の最中だったので、クロワッサンとスープ
とご馳走したんですってよ」
「どこの……人」
「よく聞いてませんけど」
「……ナカさん」
「ネコとノコとが、ぬッと例によって脚で障子あけて、右と左からお部屋に入ったの。その方ね、きや
ァとお座蒲団で、こう、ガードしたそうよ」
「かわいそうに…」
「ほんとね」と朝日子は笑うが、とても笑えなかった。
「写真たくさん撮れて」
「写真…。あ。禁止命令(ニエット)は一度もなかった。自制すべきは、したからね」
342(170)
「税関で、ぜ?んぶ消されちゃうとか」
「それはぜったい無い。そういうことを、お互いに言ったり思ったりするのはいかんね」
「そうね。ごめんなさい」
娘は頭をさげた。タクシーはやがて西武鉄道を跨ぐ大きな陸橋へかかるだろう。ふっと黙りこんだ。
その、ノリコとかいう名の、中か、那珂か那賀か、名賀かもしれない「読者」が留守中家族に会って
帰ったという話の、ほぼ決定的な冬子帰国のことぶれ(四字傍点)であるのを、信じた。カガ、法子──に違いない
と思った。空港へわざと姿を見せた、あれも。
──三日後の正午、姫路までのひかり号発車の揺れに身をまかせていた。
萩、出雲をあわせてか、それとも立坑窯だけか、いずれでもと編集者に言われて即座に後者の、丹波
焼探訪を希望した。理由は幾らもあったが、長州萩までは遠すぎるのと、兵庫県下の今田(こんだ)町なら、仕事
のあと京都へ近いのが有難い。ただし山深く、交通の便にあまり恵まれていない。
できれば車の使える案内者のあるに越したことがないと思っているところへ、たまたま姫路市の郊外
に窯を築(つ)き、茶陶も焼くが一風あるオブジェも造る女流陶芸会所属のNさんから、神戸市内での個展案
内状に刷りこむ短文を依頼の手紙が届いていた。
去年の公募展に、文部大臣賞その他の審査委員を引受けた時からの、心安い知人でもあり、電話で承諾
の趣を伝えかたがた事情を告げると、立坑へは仕事がらみ再々出かけており、姫路まで来てくれるなら
自分の車で案内するくらい何でもない、当地には、よろしければご一緒したい読者も身近にいますので
343(171)
歓迎、と、早速の好便に躊躇なく話をきめた。気分転換にも早いほうがよかった。ソ連の印象をながな
がひきずって暮すわけに行かない。締まりがつくならぱ、早くっけたい──。
文芸家協会の理事長と事務長に帰国の挨拶状を入れ、エレーナさんと牧田夫妻にも礼状を書いておい
て、気がかりな写真フィルムの現像もすぐ注文にだした。ジェルジンスキィの冬子が、撮れているのか、
どうか。
送り届ける土産物を家人にそれぞれ托し、旅中溜めこんだ資料や記録類はひとまず一つのダンボール
箱にぜんぶ容れた。返事の要るのと要らぬのと留守中に郵便物を二つに分けて、あれもこれも、帰宅し
た翌日に大方の雑用は片づいた。
旅の感想を求めて矢継早な電話もきた。親しい人が無事を悦んでくれる電話のなかには、自分は明春
からの大河ドラマの撮影に、明日パリに飛びますといった元気そうな俳優G・Kの声もまじっていた。
謹直に当方の名だけを上書きした「ナカさん」の縦長の封筒は、きちんと糊づけがしてあった。めざ
す人が留守を承知で尋ねてきたのは、後日に原稿を受取りかたがた再度訪れるということか。感じのい
いはきはきした人で、
「あなたに直接習ってはいないけど、あの…短大の、卒業生だそうですよ」と聴いたなり、あまり、乗
らない顔をしておいた。妻にしても、そんなふうな原稿持参者は幾人か応接の覚えがあり、小説、どう
でしたなどとよけいな口はださない。
一人になって開けてみた封筒には──、予期したとおりモスクワで冬子がたしかに預ったはずの掌篇、
「木」から「水」まで七作の自筆原稿が、そっくり縦半分析りになって入って、封裏の右下隅には鉛筆
344(172)
で、A+のサインだけが目だたず1 住処も連絡すべき電話番号もない。
原稿は抽出しにしまい、封筒は慎重にたたんで新幹線に持ちこんだ。
考えないことにした。なにかの訪れを、ひたすら待つことも、やめた。
あの法子の姓が、カガであれ仮りにナカであっても、彼女がつまりお使い(三字傍点)であるのなら、なにも迷惑
はかけないと約束していた冬子の声は、耳の底にある。見られている畏(おそ)れに、微妙な安心すらまじる感
じが、さしひきする汐のようにからだを流れていた。
乗客は、空席と半々。二人席が一人で占領できた。窓越しに、肩さきから膝へくる日ざしにもぎらぎ
らした騒がしさはなく、睡ってよし、うとうとものを想っていてもよかった。ただ、ソ連のことはなる
べく考えまいとした。たいした理由はなかった。
野尻の吉ッさんに、帰ったよと電話一本を、かけたものかどうか迷ったあげく、かけずじまいで出て
きた。彼に宛てては、絵はがき一枚出さなかったけれど、冬子とモスクワで逢った話は従妹から知らさ
れているかもしれず、今顔をあわせてただ笑い咄(ばなし)にして済ます気にもなれないし、真顔であれこれ喋る
気には、もっとなれない。
順子とは、だが逢う気だった。逢ってのうえは順子しだいと思い、この際彼女の顔を見るという一事
は万事に優先して、こう波立つものを鎮めるにも、ぜひ必要だった。冬子と順子がベつの女と思えない
ほど、順子を呼へば冬子が来そうな、順子ももうはや影と消え失せていそうな、だから一段と強い調子
で、来てと呼ばれていそうな、いろんな幻が思いの底でゆらゆら本絵を描く──。
名古屋まで眠った。名古屋からは、提げ鞄に押しこんできたこの数日間の朝刊・夕刊から、主な見出
345(173)
しを拾った。忘れものを思いだすといったことでもない。週刊誌はご免を蒙りたいし、堅い本よりも新
聞なら目先は変わるから、だった。眼を通しさえすれば”処分”もできる。
たいした記事は見なかった。一つだけ、なにか「水」をテーマの記念講演会での要旨を、三人の著名
な演者の顔写真人りで大きく扱った頁があり、一等目だつ場所に、一、二度□をきき手紙ももらったあ
る作家の話というのが載っていた。見出しが奇妙なと思い、ざっと読んで、これはゆっくり読み直さな
いとと、その頁だけ切り離して他はぜんぶ、ビールの空罐といっしょに捨てに起った。
手を洗って、時計を見て、コーヒーがのみたかった。二つ隣りに食堂車がある。
ナホトカの夜行列車で、腹をすかしてしびれの切れる行列のあげくソ連製の鰯料理にありついたのを
思いだし、にっと笑えた。あの『ロシアの河童』さんは、モスクワで毎日鉱水を愛飲しながら図書館通
いをしているにちがいない。オペラ「浦島太郎」のN氏ははるかなグルジアでピアノを叩いて、さて今
度はバレェのための組曲たとえば「水の女」などというのを、作曲している最中かもしれない──。
食堂は入□ちかくに席がいくつも空いていた。どのテーブルも、同じ季節の花で飾ってある。窓は広
く、明るすぎるくらい空気が乾いて、調理室の方で食器の触れる音が硬い。いまさし出されたら、こう
いう気分の時なら吸えない煙草が吸ってみたくなるかもしれない。窓辺に席をとり、彼岸すぎた関ケ原
辺の、まだどこといって秋とも言いきれない、照った空の色を眺めながらコーヒーを待った。
やがて型どおりにコーヒーが運ばれ、心もち椅子のうえで居ずまいを直したうしろから、ふっと風が
来て、眼のまえへ、人影が立った──。
「あんたか……お坐りよ」
346(174)
うなづいて──加賀法子は温和しく斜めの席の椅子をひく。
「なんだ。遠慮せず、まえへ来なさい」
「はい」
そして法子は、紅茶を注文した。
「どっちで呼べばいい。カガさんか。それともナカさん」
「どっちでもいいのです。法子と呼んでください。ほんとうなら、当尾(とうの)──法子のはず、でしたから」
髪は短いなりにウェイブさせ、クレープの赤地に白の点(ドット)が見るから綺麗なプリーツの、佳いワンピー
スを、しなやかに着こなしている。スプーンをもつ手の袖□を、浅く絞ってあるのが手首の細さによく
似合い、清楚なりに人目をひく化粧ののりも──たいした変身だ。
長いトンネルに入った。コーヒーカップをかるくさし上げ、
「思いだしてたんだよ。バイカル号や、国際列車や……。そうそ、うちの猫たちが失礼」
法子はそれには答えず、紅茶をゆっくりかきまぜていた。
「あの時の加賀法子さんなら、ロンドンでもうすっかり落着いているだろう。熊谷君…だったね、彼も
スペインできっと大作を描きだしている。そう思うよ」
法子はさえぎるように手をあげた。
「どう、呼べぱいいのですか。先生。それとも……」
「それとも……」
「………」と、法子は眼を伏せてしまった。窪んだままあからんだ耳たぶが愛らしく、ちょっと、間が
347(175)
あった。
「マ、いいじゃないか。その辺は自然に落着くさ」
「自然という言い方に、ずいぶんな趣向をお凝らしになるのね」
「非難に聴こえるね」
「もちろん非難のつもりですわ。だって先生……は」
「卑怯……か」
法子はにんまりと頷いた。どっとトンネルを出ると光線が幾束にもなって窓を鳴らしテーブルのうえ
を鳴らす。頬が熱かった。
「ぼくは姫路まで行くけど…」
「ええ。でも、あたしはご一緒しません」
それで君はどこへと訊きかけ、あやうく踏みとどまって顔をのぞく、その視線を払いのけるように、
法子は近づく伊吹の山巓(さんてん)を眉をあげて眺めていた。
「法子」
「はい」と鋭く顔が動き、眼がまっすぐ眼を見る。
「それで、お母さんがどうかしたの。なにか託(こと)づけがある…」
「ええ。というより、提案があるの」
「………」
「なにもかも、お話ししたってわけではなかったと思いますけど。だいじなことは、およそ…は」
348(176)
「ああ。心得ている。そして、逡巡していないつもりだが」
「わかってます。ですから……お母さんのこと、そのまま(四字傍点)で、もう一度しっかりと受けとめてあげてほ
しいんです。もう一度……」
「………」
「お父さんのことは、お母さん、なんだって知っています。そのうえでの提案……いえ、あたしのお願
いですの」
「お願いなんて言うな、肚(はら)はモスクワできめていた。お母さん、早く日本へ、寒くならないうちに、早
く元気で京都へ、帰ってくるといいね」
「ありがとう」と声がとぎれた。潤んだ瞳(め)に光が溜まっていた。
「で、きみはどうするのかね」
「あたしは……あたしのことなら、忘れててくださっていいの。お邪魔しないわ」
「邪魔どころか。お母さんとやり直すんだ、法子とだって……。だろ……。法子という名、お母さんが
つけたの」
「えツ」と絶句したきり法子は眼を瞠(みひら)いていた。
「お母さんは……」
「……ご存じ、ないのね。お母さんはあたしのこと、抱くまもなかったのよ」
「………」
「男の子なら宏之(ひろゆき)、女なら宏…子と、お母さんは願ってたと思うの。でも、かけつけた安曇(あど)の祖母が」
349(177)
「法子……と」
「はい。そしてその名で、祖母に抱かれて二度法子ちゃァんと呼ばれた時、が」
「最期。……そうか」
「そうなの。法子という名は、順叔母さんの、ちいさいまま亡くなった妹、あたしには叔母さんの名ま
えでしたの」
「その人のことだったのか。順には聴いてたよ、そういう妹がいた話。で、その……」
「いえ、その法子叔母のことは、あたしじゃなくお母さんから聞いてください」
法子はすこし眼を細め、盗れるものをせきかねるふうにちいさな顎をそったが、すぐまたパチッと瞠(みひら)
いて微笑んだ。赤い洋服の赤が美しい。
「きみの……」
「…なんですか」
「手を握らせてくれないか」
法子の、ためらいのない両手がテーブルごしにさし出された。掌も甲も、しなやかな指にも温かに血
が通っていた。形のいい、健康そうな爪の色だ。そっと頭をさげた。この感謝は、だれが受けてくれる
のか──。
「お父さん、近江富士……」
「そうだね。ナホトカ湾で見たあの山と、ほんと、そっくりだ」
「………」
350(178)
「ぼくは、あさってには京都へ寄る気なんだが」
法子の返事はなかった。この子となにごとかを約束するというのがむりな話なのだ、仕方なかった。
京都のもつ意味がすっかり変わってしまった気がする。そうでない気もする。それは、京都駅で降り
てまずどこへ自分が足を向けるのかで決まる気もする。法子とこうむかいあい、もうやがて自分ひとり
は京都を通過して行くということが、法子に対し申しわけないひけめにもなりかけていた。
ぼくも降りようか──と法子に言いたい。が、それがたかだか二、三時間のつまり穴埋めにすぎず、
姫路へは晩の六時七時に着いても電話一本で明日の打合せくらいできるという、乾いた計算が裏で支え
ていた。はっきり言えば目前の法子に、そのやさしさに胸ときめかせているのであり、露骨でないだけ
この好色は罪をはらんでいる。今ごろ大学の教室でペンを走らせているであろう朝日子の表情に想いく
らべ見くらべて、法子がたぶんまだ二十歳(はたち)にすこし満たず、朝日子のほうは十九になってまる六十日、
と指おり数えていると頬の肉を抓(つね)られたような痛さが去来する。
朝日子の□から、冗談ともつかず、笑って、何度か聴いたことがある。
「──あたしに、知らないお姉さんがいる気がしてならないわ」
「なぜ兄貴じゃいけないんだね」と訊きかえすと小首をかしげ、
「お父さんが、そう望んでるからじゃなくて……」
今もし朝日子と法子とどちらか一人だけだと迫られたなら、どうする気か。迪子と冬子と、というよ
うな対比ならばいやほど考えまた小説にも書いてきたのだが、年恰好のこうもちかい娘二人からそれを
突きつけ迫られるとは、迂闊にも想ってみたことがなかった。いずれにしても現(うつつ)か夢かだった。夢の現(うつつ)
351(179)
を信じていた。信じたかった。
「法子の、誕生日を教えてくれないか」
法子はやわらかに右の肩をすこし動かした。
「十一月二十三日です。覚えてていただきたいわ。その日が、命日です……お母さんの」
「忘れないよ」
そう聴くとゆっくり頷いて白い水のように法子の顔がゆらゆら揺れ、小波たつ水輪のなかに、安曇(あど)冬
子のけむった表情がたゆたい現われた。勤めをやめ、同じ大学を受験し入学してきた頃の若々しい冬子
の顔だった。
幻は瞬時に失せた。
「比叡山も見えてきましたわ」
「京都だね……」
法子は静かに席を起った。
「ごちそうさま、でした」
「いやいや。気をつけて。さ、お行き」
「はい……」
支払いをすませて廊下へ出るともう法子の姿はなかった。
京都駅に着いて、自席から反対側のホームヘそれとなく顔をむけていた時も、歩み去る法子のうしろ
影さえ見つからなかった──。(以下・下巻)
352(180)
作品の後に
旧ソ連へのわたしの旅行は、当時のソビエト作家同盟の招待であった。日本文芸家協会は、ほ
ぼ例年、三人の会員を選んでかの国からの招待に応じていた。同様にかの国からの詩人や作家た
ちも、日本に招いていた。いわば「文化交流」していたのである。
もとより、わたしの場合、きっかけがあった。
ある年のある日、わたしは加賀乙彦氏といっしよに鎌倉の高橋たか子さんのハイカラな家をた
ずねた。高橋家には大庭みな子さんも先にみえていた。招かれてとはいえ、わたしが人の家をた
ずねて行くというのは珍しい事であった。歓談のさなかに、その日、高橋さんから一緒にソ連へ
行ってみませんかと誘われた。協会へ訪ソの希望を申し入れておけば、ソ連の招待者として選ば
れるだろうと大庭さんも加賀さんも見越していた。すこし前、井上靖氏のお誘いで、わたしは、
中国訪問の一行のうちに加わり、旅行してきた。豪勢な旅で目もくらみ、肩も張った。三人なら、
そしてソ連なら、あれよりは気楽だろう。
高橋さんとわたしとは京都市内の出身で、互いに「京」風の物言いに遠慮がいらない。そのう
え妙に「ぼうツとしている」わたしが連れなら、文士連中の旅にはつきものの揉めごとも起きま
いと、高橋さんはそこを買っているふうであった。わたしは、たしかに「ぼうッとして」いた。
181
「いいですよ、行きましょうか」などと相槌をうったものだ。瓢箪から、やがて駒がほんとに出
てしまい、そうなればわたしは四の五の言わぬタチであった。団長の宮内寒弥氏とは、成り行き
の相旅となった。誰とでも構わなかった。
ソ連側で万端の世話をしてくれたのは、作品にも実名のまま登場のエレーナさんであった。日
本の訪ソ作家は、ほぼ例外なく、みなエレーナ・レジーナさんの言い尽くせない御世話になって
きたし、多くの人がそれを書いている。文壇にかぎっていえば、もっとも人気あるロシア人だと
いうことになる。小説中とはいえ、わたしも、ことに過不足なくエレーナさんの風貌なり親切で
優秀なお人柄なりを書いておきたかった。実名で登場のその他ソ連の文学者たちにしても、わた
しは、むしろなるべく等身大の記録を一方では心掛けていた。小説としてそれが「効果」をもつ
だけでなく、積極的な意義すらもつであろうことを期待していた。まこと、佳い旅であった。
いまやソ連邦は、世界歴史の大波にのまれて姿を消した。だが間違いなくわたしが旅した頃の
モスクワにはソ連政府があり、現在のペテルスブルクはレニングラードの名で美しく静かな表情
をたたえていた。グルジアのあの温暖・穏和な首都トビリシが、昨今、戦乱の巷と化したことな
ど、十余年まえのあの旅では予測もできなかったのである。だが伝え聞く、作中にも登場して陽
気で親切だった詩人政治家ノネシビリ氏のその後の死も、政変がらみの気の毒なものであったと
か。予測もできなかったと、あっさり書いたけれども、正直のところそれはウソで、グルジア人
が朝にタに「勝利を」「平和を」の挨拶を□にしているのを聴いたとき、すでに、わたしはこの
国二千年の多難と苦難の歴史を想っていた。
182
ロシアを、旧ソ連領土を、悠々と旅してきたことは、いわば作品の動機を強く喚び起こす力に
なった。どう結びついたかではなく、最初から結びついていた。深く催され、旅のすべてを克明
に記憶してほぼ錯らなかったと思う。そういう体験は中国旅行のときには力及ばなかった。
だが新聞三社の連載の「提案」がもし無かっても、この作品とわたしは出会っていただろうか。
それを、わたしは思う。もっと強く思いかつ驚くのは、何故、わたしに新聞は白羽の矢をたてて
来たかということだ。分からない。もともと原稿執筆の依頼などということは、書く側では何故
自分になのかたいてい分からない。だから驚く必要はいっそ無いのであるが、実のところ依頼の
電話をうけた瞬間の「驚き」にこそ、この小説は宿されていた。それが実感だった。尻ごみする
どころか、あの時、わたしは電話の声にかぶってもっとべつの声を聴いていた。「お願い」と、
その声は、わたしを励ましつづけた。
さて、わたしの大学生活はつつがなく前期を終えた。三十人ほどと予想した一講座に二百二十
余人が登録し、大きな教室へ、二度も移った。最終日まで、ほぼ九割がた出席してくれた。その
講義内容が「新潮」九月号に、漱石の「心」論として掲載されている。また雑誌「太陽」にも何
度か教室の情況をレポートしておいた。わが「工学部(文学)教授」としての日々はけっこう作
家の好奇心を満たしてくれているが、ことにこのわたしに「博士論文」を書かせて「学位」を持
たせようという、興味津々の波もさわいで来ている。学位と縁のない「教授」はわが国立大学で、
わたしがたったの一人であるとやら。「博士返上」の夏目漱石先生に、聞かせてあげたい。
183
作品の後に
旧ソ連へのわたしの旅行は、当時のソビエト作家同盟の招待であった。日本文芸家協会は、ほ
ぼ例年、三人の会員を選んでかの国からの招待に応じていた。同様にかの国からの詩人や作家た
ちも、日本に招いていた。いわば「文化交流」していたのである。
もとより、わたしの場合、きっかけがあった。
ある年のある日、わたしは加賀乙彦氏といっしよに鎌倉の高橋たか子さんのハイカラな家をた
ずねた。高橋家には大庭みな子さんも先にみえていた。招かれてとはいえ、わたしが人の家をた
ずねて行くというのは珍しい事であった。歓談のさなかに、その日、高橋さんから一緒にソ連へ
行ってみませんかと誘われた。協会へ訪ソの希望を申し入れておけば、ソ連の招待者として選ば
れるだろうと大庭さんも加賀さんも見越していた。すこし前、井上靖氏のお誘いで、わたしは、
中国訪問の一行のうちに加わり、旅行してきた。豪勢な旅で目もくらみ、肩も張った。三人なら、
そしてソ連なら、あれよりは気楽だろう。
高橋さんとわたしとは京都市内の出身で、互いに「京」風の物言いに遠慮がいらない。そのう
え妙に「ぼうツとしている」わたしが連れなら、文士連中の旅にはつきものの揉めごとも起きま
いと、高橋さんはそこを買っているふうであった。わたしは、たしかに「ぼうッとして」いた。
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「いいですよ、行きましょうか」などと相槌をうったものだ。瓢箪から、やがて駒がほんとに出
てしまい、そうなればわたしは四の五の言わぬタチであった。団長の宮内寒弥氏とは、成り行き
の相旅となった。誰とでも構わなかった。
ソ連側で万端の世話をしてくれたのは、作品にも実名のまま登場のエレーナさんであった。日
本の訪ソ作家は、ほぼ例外なく、みなエレーナ・レジーナさんの言い尽くせない御世話になって
きたし、多くの人がそれを書いている。文壇にかぎっていえば、もっとも人気あるロシア人だと
いうことになる。小説中とはいえ、わたしも、ことに過不足なくエレーナさんの風貌なり親切で
優秀なお人柄なりを書いておきたかった。実名で登場のその他ソ連の文学者たちにしても、わた
しは、むしろなるべく等身大の記録を一方では心掛けていた。小説としてそれが「効果」をもつ
だけでなく、積極的な意義すらもつであろうことを期待していた。まこと、佳い旅であった。
いまやソ連邦は、世界歴史の大波にのまれて姿を消した。だが間違いなくわたしが旅した頃の
モスクワにはソ連政府があり、現在のペテルスブルクはレニングラードの名で美しく静かな表情
をたたえていた。グルジアのあの温暖・穏和な首都トビリシが、昨今、戦乱の巷と化したことな
ど、十余年まえのあの旅では予測もできなかったのである。だが伝え聞く、作中にも登場して陽
気で親切だった詩人政治家ノネシビリ氏のその後の死も、政変がらみの気の毒なものであったと
か。予測もできなかったと、あっさり書いたけれども、正直のところそれはウソで、グルジア人
が朝にタに「勝利を」「平和を」の挨拶を□にしているのを聴いたとき、すでに、わたしはこの
国二千年の多難と苦難の歴史を想っていた。
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ロシアを、旧ソ連領土を、悠々と旅してきたことは、いわば作品の動機を強く喚び起こす力に
なった。どう結びついたかではなく、最初から結びついていた。深く催され、旅のすべてを克明
に記憶してほぼ錯らなかったと思う。そういう体験は中国旅行のときには力及ばなかった。
だが新聞三社の連載の「提案」がもし無かっても、この作品とわたしは出会っていただろうか。
それを、わたしは思う。もっと強く思いかつ驚くのは、何故、わたしに新聞は白羽の矢をたてて
来たかということだ。分からない。もともと原稿執筆の依頼などということは、書く側では何故
自分になのかたいてい分からない。だから驚く必要はいっそ無いのであるが、実のところ依頼の
電話をうけた瞬間の「驚き」にこそ、この小説は宿されていた。それが実感だった。尻ごみする
どころか、あの時、わたしは電話の声にかぶってもっとべつの声を聴いていた。「お願い」と、
その声は、わたしを励ましつづけた。
さて、わたしの大学生活はつつがなく前期を終えた。三十人ほどと予想した一講座に二百二十
余人が登録し、大きな教室へ、二度も移った。最終日まで、ほぼ九割がた出席してくれた。その
講義内容が「新潮」九月号に、漱石の「心」論として掲載されている。また雑誌「太陽」にも何
度か教室の情況をレポートしておいた。わが「工学部(文学)教授」としての日々はけっこう作
家の好奇心を満たしてくれているが、ことにこのわたしに「博士論文」を書かせて「学位」を持
たせようという、興味津々の波もさわいで来ている。学位と縁のない「教授」はわが国立大学で、
わたしがたったの一人であるとやら。「博士返上」の夏目漱石先生に、聞かせてあげたい。
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