電子版 秦恒平・湖(うみ)の本 18-19 『風の奏で』
 
 
 

  湖の本・創作第十八・十九巻 風の奏で
 
 

*秦恒平・湖(うみ)の本18・19のスキャン原稿で、まだ全く校正出来ていない。校正未了。



 
 
 
 
 

     風の奏で     秦 恒平
 
 
 
 
 
 

目次

一 大原の巻 5
二 女院の巻 17
三 鼓の巻 32
四 弓の巻 56
五 故院の巻 72
六 灌頂の巻 93

七 西行の巻 116
八 阿波の巻
九 讃岐の巻
十 今様の巻
十一 琵琶の巻
十二 寂光の巻
 作品の後に ………………………………126
 湖(うみ)の本・要約と予告 …………130

〈表紙〉
装画 城 景都
印刻 井口哲郎
装幀 堤いく子

2

風の奏で ──寂光平家── 上

3

「歴史と文学」昭和五十四年夏季号・秋季号(「平家擬記(へいけもどき)」改題)

4

大原の巻

古今著聞集(ここんちよもんじゆう)の好色第十一に、こんな一段がみえる。

 ある人が大原あたりをそぞろ歩くうちつと、心よげな庵(いおり)に行き逢(お)うた。のぞいてみると庵主らしい尼
がひとり、清げに住みなした様子といい、つつましく仏の座をしつらえた心ばえといい、これはと思
う品のよさに、それとても因縁であったか、またはこの男を魔界へ誘おう手が動いたものか、いかに
もこの尼風情を見すごして帰る気になれず、我になく無遠慮にとかく物を言いかけて近づく、脅えて
隠れようとするのを、すばやく抱きすくめてしまった。
 あさましく思いのほかのことに尼が夢中であらがったのはむろんだが、それは女に残ったまだ若や
かな魅力を思い知らせるばかりであったし、何を仕向けようと人のけはいはなし物音に耳をそばだて

5

る庵も近くになく、どう拒もうが拒みとおせはせぬと見極めて男は懇(ねんご)ろにかきくどきくどき落として、
とうとう思いのまま女の柔肌(やわはだ)を開かせてしまった。
 女の、力およばずわが胸の下でうちそむくようにただ泣いて身を汗にしていく此の世ならぬ声を、
男は夢うつつに聴き、ひとえに己(おの)が痴(たわ)れ思いゆえにと緑なす切り髪の黒さをかきさぐりいとおしかっ
たが、いつか女も泣きやみ、はずかしそうに背をむけたままじっと抱かれている乳房のぬくみ、肩さ
きの匂い。男はいよいよぼうっと憧れ心地にあれこれ思い乱れ、さりとて庵にこのまま住みつく身上
でなし、よくよくこの後(ご)のことも約束しあって後髪をひかれひかれひとまず都へ帰っていった。
 さてまた二三日のうちに必用意も十分して女を迎えに大原の里をたずねてみると、庵のさまはもと
のまま、あるじはいない。隠れたかと手を尽してさがし求めたけれど、見つからなかった。ただ、さ
きに二人して熱い夢を抱きおうた閨(ねや)の荒壁に、墨の跡も美しく歌ひとつ書きのこして、
  世をいとふつひのすみかと思ひしに
   なほ憂きことはおほはらの里
 女の行方(ゆくえ)はさいごまで知れずじまいであった。悪縁に惹かれ思いのほかの振舞を男はしたというし
かないが、そうまで思い入った色好みなら、かえって上求菩提(じようぐぼだい)の花ごころといつの日か咲き出ずるや
もしれない。

「大原の辺の尼、男に遇(あ)ひて後(のち)身を隠す事」はおよそこう終っている。古今著聞集はこういう説話を前
後七百二、三十も集め、好色の章だけで十八段、「スコブル狂簡タリトイヘドモ、イササカニマタ実録

ヲ兼ヌ」と序にあるが、大原の話、どう「実録ヲ兼」ねているともこれでは皆目知れぬ。が、それは知
れぬのでなく知らぬだけのことで、知る人ぞ知るといわんばかりに「なほ憂きことは」という歌を碑(いしぶみ)に
たてた場処がある。大原寂光院からやや北を段々の山田に沿うてせせらぐ小川があり、すこし川上に、
流れを両方からおおうようにこんもり青い藪が、なまめく山はらへ連なってこまやかな翳(かげ)をふくんでい
る。その藪にだれの詠歌(えいか)となく背のひくい鞍馬石に、「世をいとふつひの栖(すみか)」と苔のよごれにもまぎれ
ず読みとることができる。
 寂光院境内には例の平家物語「大原御幸(ごこう)」から後白河法皇の「池水に汀(みぎは)の桜」が散りしいてどうして
という歌とならべて、女院(によいん)の、いうまでもなく建礼門院徳子平氏の、

  思ひきや深山(みやま)の奥にすまひして
   雲井の月をよそにみんとは

という尋常な歌碑が麗々しく木(こ)もれの日ざしに曝(さら)してある。訪れた人はそのついでに、二重にたっぷり
数珠を懸けて合掌した女院の殊勝な尼姿を、ほの暗いものの奥に覗いて帰る。像は美貌の国母(こくも)と申すよ
り、色白の表情がしっかりと悧発そうで、半眼(はんがん)に空(くう)を見つめた顔はかりにもべそをかいたとはみえず、
「見るべき程の事は見つ」と言い放ち身を躍らせて壇ノ浦に入水死(じゆすいし)した兄新中納言知盛(とももり)のことなどが、
反射的に想いだされる。
 建礼門院の事績といえば、平家物語ではすべて西海(さいかい)の波間から熊手にかけて拾いあげられ、寿永二年

(一一八三)の都落ちこのかた二年ぶりに無惨な姿で入洛して以後のことと極(きわ)まっている。後白河法皇
の大原御幸を寂滅の光ともかげともただしめじめと叙し終って、やがて女院の最期をつげる趣は哀れの
極みと言わんばかり。しかし建礼門院はじつは御幸後三十七、八年もを闊達に生きのび、源氏亡びたあ
と北条義時、泰時の活躍で後鳥羽、土御門(つちみかど)、順徳三上皇があえなく隠岐(おき)や土佐や佐渡へ流されてしまう
未曾有(みぞう)の承久(じようきゆう)の乱をさえ、しかと聴きいれ見いれて、貞応(じようおう)二年(一二二三)三月の下旬に亡くなった。
七十歳に手が届こうとしていた。但し、今残っている幾種もの写本がその往生を「建久二年きさらぎの
中旬」としているのは後白河院が亡くなる前年、西暦でいうと一一九一年のこととなり、ことさら死期
を三十三年も事実より早めてあるのに眼がとまる──。
 平家物語がなぜか遠慮がちにその人の上に言葉かずをわざと惜しんでいるのが、一人はいわば舅の後
白河院で、もう一人がいわば嫁の建礼門院である。まだしも院の場合いきおい触れずにすまぬ場面が多
かったけれど、女院については、平家栄華の眼目ともなられた方にかかわらず、入水以前の逸話のひと
つとて平家物語は物語らない。面(おも)だたしい入内(じゆだい)、八年待たせての難産、心ここになかった都落ちそして
流転(るてん)の四苦八苦、さらに安徳天皇いまはご最期という折にすら、その、人と立場とにふさわしい観察も
記録も跡をとどめない。建礼門院徳子という人物が、ただのお人形であったからか。

 久しぶり平家物語でまたひとつ小説が書きたかった。思いたって、それでももう何年かけてしまった
ことか。狙いも今度は人物の行状より、「平家物語」がそもそも何故、そして如何様(いかよう)に生い立ったかを
書いてみたい。──面白い。力を貸そうと言う人とも出会った。

 きれぎれにメモほどのものは書き留めてきた。場面も頭にある。ただ想像していたという方が長かっ
たに違いはないが、そんな数年をふりかえってみると、存外に私の「平家物語」は、いや「平家擬記(へいけもどき)」
はすでにあらかた体をなしていた。それに気づいたのがこの霜月はじめ、わけ知りのM教授に、思いが
けない京都祗園の茶屋「間垣」の、ふとした話(こと)を耳うちされてからであった。
 私はすこし気を励まし、また何ほどか心中に寂しい疼(うず)きも感じながら、順序なしに、書ける場面から
小説の文章を創っていった。たとえ胸にしこりの人に言えない秘は秘として、作の仕上げの最後の場面
なども用意できていないのだが、それさえ刻々とむこうから追って来そうな──、吐露したい何かがし
きりに筆の運びを促してやまない。

 京都醍醐の三宝院から真南へ、日野の法界呼寄りの街道ぞいに旧宇治郡の南里(なんり)という聚落(しゆうらく)がある。こ
こに安阿弥(あんなみ)、というから仏師快慶の作の十一面千手観音を祀った一言寺(いちごんじ)という真言宗の寺がのこってい
て、境内内侍(ないし)堂に当寺を発願(ほつがん)の阿波内侍像を安置してあるのが、あの大原寂光院の女院像とすこぶる肖(に)
ている。阿波内侍を、一言寺では平治の乱に殺された少納言入道信西(しんぜい)の娘といっているが、それは違う
だろう。権石中弁(ごんうちゆうべん)だった藤原貞憲(さだのり)の娘だから信西には孫女(そんじよ)というのが正しく、因果なことに平治の乱の
当年に生れている。女ながら聡慧(そうけい)、とくに史を講じて学生(がくしよう)に勝り、音声(おんじよう)人にすぐれていた。
この一言寺のある現在南里町に、平家を語る人が二人いる。六十をすぎているが見るから気の若い八
木あいさんと、娘の市子さんとで、母親の方に勤めに出ているつれあいがいて、娘は、中学と小学校と
の子ども二人がありながら、未亡人。年寄が店で煙草を売り、三十代なかばの市子さんは土地の郵便局

で働いていた。近所に別居の、あいさんの下の息子夫婦は市内の中学でそろって理科と保健の先生をし
ているとか。古代学の研究者で知られた京都下鴨のT博士に誘われ去年の真夏、八月上旬、この八木さ
ん母娘の平家語りを、南里まで私も聴きに行った。が、これが、潅頂(かんじよう)の巻といわれる部分をしか語らな
い。それも「平家」とも「平曲」ともいわず、「御所ぶし」と八木家では呼んでいた。
 平家物語には、本により巻末に”灌頂”という部分が付くのと付かぬのとある。灌頂の巻はふつう建
礼門院のご出家から大原へ隠棲のことに及び、文治二年(一一八六)春後白河法皇の御幸(ごこう)をまってあた
かも女院長広舌(ちようこうぜつ)により「六道(りくどう)の沙汰」を哀切に語り聴かせてやがてご往生、という段取り。「まぢかく
は六波羅の入道、前太政大臣平朝臣(さきのだいじようだいじんたいらのあそん)清盛公と申しゝ人のありさま、伝へうけたまはるこそ心も詞(ことば)も及
ばれね。その先祖を尋ぬれば」とはじまって、「さる程に六尺御前(ごぜん)は田越河(たごえがは)にて、切られてけり。それ
よりしてこそ平家の子孫は永く絶えにけり」と結ばれる平家物語からは、結(ゆい)の外にまた囲われた、いわ
ば「建礼門焼物語」の体(てい)になっている。
 八木家の「御所ぶし」は、古様(こよう)というか漢文調というか場処にも語り手にもよるのだろうが、名古屋
や東京で聴ける前田流検校(けんぎよう)の語りなどと印象が違ってちょっと固い。そのかわり琵琶が佳かった。とく
に市子さんのは「雲蔵」と名がついて、音色(ねいろ)もいかにも幽谷(ゆうこく)の湿潤を想わせた。むろんその伝来を証拠
だてる蓄えを二人に求めてもむりというしかなかったが、八木家が代々一言観音の侍者(じしや)で今も内侍(ないし)堂へ
のいろんな奉仕を怠っていないという話は、琵琶でない時は小弓を指ではじいて代用するという伝えと
一緒に、すこぶる耳に立った。
 それだけでない、「大原御幸」を語りおえるとすぐ涼しそうな湯帷子(ゆかたびら)に着がえて出てきたあいさんは、

10

いっそ陽気に、黄ばんだ団扇と交互に好きな煙草を煙管(きせる)に詰めかえ詰めかえしながら、こんな話もして
くれた。ある者が「内侍(ないツ)さん」を介し、御所ぶしをそもそも創(つく)るについて予(あらかじ)め念を押すというか、内
意を伺ってきた。構わないか、というわけだ。
「御所はナ」
 あいさんは建礼門院のことを気安く三、四代前のえらい先祖をでもいうように、「御所」と呼んだ。
「御所は、そんなン好きにせエお言やしたそうなえ。死ぬまでの間ナ、泣いて泣いてホーラ位きとおし
とった謂(ゆ)うたかてかまへん。そなイお言やしてからナ、阿波ン内侍(ないツ)さんのお顔見やはって、にこっとお
笑いやしたそうどすわ」
 あいさんは肉づきの平ったく白い相好(そうごう)を、そっくり、にこっと崩してみせた。T博士も私も、その場
に居合した市子さんや小学生もみなあははと笑ったが、正直のところそんなあいさんの愛矯は演技過剰
というべきで、あとで聴けばT博士も同感だったが、かりに真にうけるとしても建礼門院のその笑いと
は、よほど鳴咽(おえつ)に近かったろう──。
 庭に生(な)ったものですがと、どこかいき(二字傍点)な、だが控えめな市子さんが冷えた枇杷を華奢な籠に盛ってき
てくれ、そしてあいさんは、すこし横坐りになりながら、ほかにも面白い、というより相当に突飛な話
をしてくれた。たとえば「御所」は物をなげて的に当てるのが上手だったという、どこからそんなはし
たない言い伝えが生れたか建礼門院という女性(によしよう)の通念とあまりかけ離れていて、気になる、といえば気
になる。男でも聞かぬ話だが、しかしまた閑居の徒然(つれづれ)に、何がきっかけというでなくいつしか縁に腰か
けたなり足もとの小石をふと手近な石に、泉水(せんすい)になげてみる、また時ならぬ蛙や長虫の出現に、もうお

11

どろくともなしに、いっそ無聊(ぶりよう)をいやす手すさびめいて小石をなげて追い払う、──有りえないことで
なく、尼姿の女院と侍女が並んでそんな他愛ない競技に笑い興じもしたとして、感じは、わかる。手練(しゆれん)
わくら仕上うちようつぷて
のはては梢の病葉(わくらば)やら苔がめじるしの石垣やらをめがけ、窈窕(ようちょう)たる美女がひゅっ、ひゅっと礫(つぶて)を打って
いた──なら、それは「六道の沙汰」などと陰々滅々よりどれほど心地よいかしれない。
「御所は、どっちかて言いますとナ、ようお笑いやしてホン気散じなお方どしたそうながナ」
 まるで早く亡くなった母親か祖母かの話をするくらい、あいさんはもうひっきりなしに煙管を使いな
がら一座の誰より気散(きさん)じに喋った。語り伝えた鬼哭啾々(きこくしゆうしゆう)の平家は平家、御所が朗らかな人であった事実
とは関わりもなげに、八木家の母娘はさっぱり割切っていた。御所ぶしはつくりもの、詮索に値(あたい)しない
自明のことと疑わぬそんな応接に、八百年も昔の女院その人の態度が端的にさながら表わされていた。
そう、見えた。
 南里在(ざい)で御所ぶしを語ってきたのは、八木さん一軒のことだったろうか。
 案の定、そうではなかった。正確にいえないが明治頃までは少くも数軒に六、七人は語れる者がいた。
いはしたが世間に対しそれを負い目に思う風があり、自然、聴く人も聴かせる機会も寡くなるがままに、
「風前の燈(ともしび)やねエ、もう──」
 南里から遠くもない水晶谷に南禅院というこれも古い寺がある。境内には一言寺の内侍堂に当る女院
堂もあって、そこにも建礼門院の古い絵像が遺っている。あいさんには、二十(はたち)前の娘時分に彼女を仕込
んだ祖母につれられてその女院堂の供養に、人が「六道」を語るのを聴いた記憶があった。語ったのは、
その当時直谷(すくがたに)とよんでいた水晶谷の在の人で、やはり女であったらしく、上(かみ)醍醐より宇治市嵐山に至る

12

かなりな山間地には、南里同様古くから「御所ぶし」を語りつぐ家筋があったという。

「南禅院は、近い言(ゆ)うたかて此処(ここ)からよっぽど有ります。成賢(じようけん)僧正隠遁の地や言うとりますが、成賢と
いう坊(ぼん)さんは、これも信西入道の孫ですよ。おもろい話でンなア、多分女院堂を建てたに違いないその
成賢僧正の、妹ちゅうのが例の小督局(こごうのつぼね)やさかいナ」
「と、桜町──」
「そう。横町中納言成範(しげのり)の息子です」
 T博士は私に半分、八木家の人に半分という顔つきで説明してくれた。
 小督ははじめ冷泉(れいぜい)隆房の恋慕をうけ、やがて高倉天皇の寵愛に身をゆだねた。隆房の妻と高倉院中宮
つまり建礼門院とは同じ母から生れた平清盛の娘、姉と妹、であったから、小督は娘二人の男を一人し
じゆだい
て奪うにくい女、もし皇子の一人でも小督に産まれては平家一門の難儀、徳子の方は入内してもう何年
も妊娠していない、と、少くも父親の清盛は本気で怒った。清盛をおそれて一度は我から遁れ、次に力
ずくで逐(お)われて宮中を出、尼になった小督と南禅院の成賢とが兄妹なら、一言寺の阿波内侍とは従姉妹
同士という話になる。
 建礼門院が三途(さんづ)の川を渡り損じて再び都入りしたのが元暦(げんりやく)二年(一一八五)四月二十七日のこと、さ
てその日はとりあえず八条の南、堀河の東にあった義弟冷泉隆房の八条御堂(みどう)に入った。女院には数日前、
然るべき片山里の辺に坐(おわ)せよと後白河法皇の院旨(いんじ)が達せられており、一夜をすごした次の日には東山の
かつけん
麓、吉田の権律師実憲(ごんのりつしじつけん)の坊へ移った。実憲は興福寺別当の権僧正覚憲(かつけん)の弟子、覚憲は阿波内侍のまさし
き叔父の一人、信西藤原通憲(みちのり)の子の一人であった。

13

 この後、五月一日の女院出家までわずか二日のうちに、後白河院は源氏方との間で、建礼門院を一(いつ)の
徳子平氏として院御所に安住せしめたい旨熱心に折衝をかさねたが、さすが気のいい九郎義経も軽々(けいけい)に
この要求は容れられず、あらぬ噂や薄笑いが人々の口の端(は)を歪ませただけで終った。
 六月二十一日、源氏の手にあった平家の宗盛父子が斬られたと知ると女院は、宵闇にまぎれ実憲の坊
より西に、鴨川の瀬音もまぢかい野河御所へ移って行った。できればもっと山里にと願われたが、幸か
不幸か七月九日に大きな地震が揺った。築地は崩れ門は破れて、我がもの顔に宮の奥まで秋風が吹きぬ
けて行く凄まじさに、それでも八月ごろまで辛抱したけれど、「侍(さぶら)ひ給ふ女房のゆかりにて、大原のお
く、寂光院と申候所こそ、しづか」と聴くと惜しげなく女院は都を離れる決心がついた。妹である隆房
北の方の心づくしで御輿(みこし)なども用意された。門院の称号はそのままであったが、年官年爵は停(とど)められて
いた。隆房卿夫婦が終始女院の身辺に気を配ってくれた。
 それなら大原寂光院もこの隆房室の「ゆかり」かというと、かりにも当時参議右兵衛督(うひようえのかみ)で院にも格別
覚えのよかった人の妻、女院の実の妹を「侍(さぶら)ひ給ふ女房」と呼ぶわけがない。寂光院とは久しく阿波内
侍の父、弁入道真憲(じようけん)が「大原の坊」と家の集に書き記していた庵。阿波内侍は野河御所の惨状を見かね、
かつ「山里は物さびしき事こそあるなれども、世の憂きよりは住みよかんなるものを」との意を体して
女院の大原入りを働きかけたのである──。
 芽生(せりよう)の里の大原寂光院から醍醐に近い南里の一言寺へは、同じ今日の京都市でも北の端から南の外れ
への距離がある。八木家を辞し、侘びた町なかを通りぬけてはじめて一言寺の境内へ石段を上った日は、
木々の緑も暑苦しく油蝉が鳴きしきっていた。

14

 Tさんも私も少年が着るような短いシャツ一枚で、さすが博士の方は入道頭にハンチングをのせると
由(よし)ありげな大人にみえたけれど、安直なカメラを臍の辺へさげた恰好のこちらは、後日聞くところ、中
学生の娘がいる男ととても人目にみえなかったらしい。
 境内の大榎の根方にちんまり五輪の石塔が立っていた。その結いまわした玉垣に凭(もた)れて、蔀戸(しとみど)のおり
ているあれが内侍堂という隠(こも)り堂めく檜皮葺(ひわだぶき)を見あげていると、さしづめあれへ人をよせて阿波内侍が
「大原御幸」などを語って聴かせたという伝承のためか、屋根から梢へ、梢の彼方を遠く西へ北へ連な
る山なみが、眼には見えねど小栗栖(おぐるす)、大岩、稲荷山さらに音羽、栗田、鹿(しし)ケ谷から比叡山に及んで太く
大きく撓(たわ)んだ弓かのようにふと想われてならない。すると、寂光院と一言寺とはちょうど弓筈(ゆはず)にあたる。
 東山を弓に、誰がどんな矢を京の空へ射たか。阿波内侍がどんな役をしたか。内侍が宇治へも伏見へ
も近いこの南里の一言寺界隈で、平家を諸人に語った、ということが本当にありえたのだろうか──。
鄙びた御所ぶしや市子さんのふっくら頬をはった美貌にも心ひかれ、私は多分に感傷的になっていた。
 ところで──「平家勘文禄(かんもんろく)」という、平家を語りついた検校(けんぎよう)たちに伝わる南北朝ごろの文献が、なん
と六人もの平家の作者を名ざしている。「一には少納言入道信西の嫡子、高野の宰相入道が作文(さくもん)の平家
は、本末とゝのほらず有(あり)けれども、其詞(そのことば)優美なる故に、世にひろく用(もちひ)られたり。是を北国平家」と呼ん
でいる。信西の子で宰相つまり参議にも任じられたのは嫡子俊憲(としのり)だろう。
「二には少納言の息女、宰相入道には妹、善恵比丘尼(ぜんねびくに)の作文の平家は、其詞、秀でたりといへども、女
の言葉なれば物よはき故に、あまねく流布(るふ)せず。月卿雲客(げつけいうんかく)の北方(きたのかた)、内裏(だいり)女房たちのもてあそぴ物と成ぬ。
世間にかな本(三字傍点)」と呼んでいるのがそれ、と勘文禄はいう。善恵比丘尼がほかならぬ阿波内侍の法名(ほうみょう)であ

15

るからは「息女」ではない。やはり信西孫女(そんじよ)のことである。
「三には少納言入道の三男、宰相入道俊憲には舎弟、桜町の中納言成範卿の作文の平家は、仏法の詞を
まじふるが故に、平家(平曲の徒)のうちに是を用ふ」とある。
 四と五も興味深いがこの際は信西一族でないのでおいて、「六には少納言信西の子息、玄用法師の作
文の平家は、上中下三巻の書に作る。天台宗に是あり……東国にも少々流布す。北国にも是有(これあり)。……性
仏(しやうぶつ)熊野の権現の御示現によって語り出せる本、則是也。夢中託宣の本」だと言っている。玄用は系図に
憲曜、とあるが、それよりも彼の作文を「性仏」が語ったという部分に眼がとまる。
 それにしても藤原信西(しんぜい)の子孫がこうまで平家ないし平家物語の成りたちに顔をだすのが不思議、とは
いえ後白河法皇と清盛の娘建礼門院とを相譲らぬ主人公に、少くも大原寂光院という舞台を用意した功
労者が阿波内侍とだけは、数ある異本のどれ一つとして例外なく□をそろえている。内侍にゆかりの南
里には、今もその灌頂の巻ばかりが「御所ぶし」の名で細々と土地の語り芸になっている、それとて明
日にも消えいりそうな有様ではあるが。
 ──あの日京の町へ帰って行く京阪電車を、私は四条で降り、T博士は三条終点まで乗ってあとはバ
スでというもう別れぎわ、東京へはいつ帰るかと訊かれた。今度は夏休みの家族づれだしせめてもう一
日、二日はと返事すると、それならこの際、大原寂光院の北の山寄りにちょっとした藪のあるのを覗い
てくるとよい、
「ヒントは、古今著聞集──」
と、もう半分ドアの外へでた私の背中を叩いてT博士は、愉快そうに、さらに、「お気ぱりやす」と声

16

を張りあげていた。私も笑って頷きかえし、手をふって車窓へ一礼し、二礼した。
 翌日、妻も子ども二人も、ぜひにというので四人つれだって大原へ出かけたのはむろんのこと、なる
ほど、深くもない藪の真中に点々と真夏の日ざしがこぼれて、「つひの栖(すみか)」の名残らしく古塚めいて歌
碑一つが妙にこんもりうち棄てたように建っていた。
「これがどうかしたの」
 今しがた人ずくなな寂光院を出てきたばかり、娘につめ寄られ、さて昔の事ながらさすが「なほ憂き
ことはおほはらの里」の意味までは女の子に話しづらい。名高い「大原御幸」の下地に、こういう無頼
な陰画を敷いて想った□説(くぜつ)の徒が当時どんなに多かったかは、今日でも建礼門院ときくと淫らな話かと
身を乗りだす男の多いことでも知れている。
 この物語に、□さがなく指さされた体(てい)の後白河院の登場はもう暫く間をおくよりないが、それより大
原は芹生(せりよう)の藪の中で、私が手帖にメモを忘れなかったのは鞍馬石の碑の裏に、指さきでさぐってなおか
つ辛うじて読みとれた、「な」「す」の二字であった。

二女院の巻

 さて、南里(なんり)の八木市子さんが語ってくれた「女院御往生」を、試みに書きおろしてみれぱ、

 ……然(しか)るを此の寂光院にていよいよ行ひ澄ませ給ひ年月を送り給ふ。たまたま付き添ひ奉る尼女房た

17

ちも或(ある)は死に或(ある)は堪へかねて出づ。此の寂光院と申すはもとより住持(ぢゆうぢ)の僧もなく御庵室も塵積り庭草
繁し、浅茅が原と荒れをはんぬ。野干(やかん)つねにおとづれ天狗しきりに荒れければ、堪へかねさせ給ひつ
つ都へ忍び法勝寺といふ処に出でまし、幽(かす)かなる御有様にて住みおはす程に、

と、いったことになる。「日本一の大天狗」とは、鎌倉の頼朝が後白河法皇に手を焼いての舌打ちであ
ったことが思いだされ、それならば「野干(きつね)」はと、そうも下司(げす)の勘繰りは控えて、この分だと「建久二
年」はおくとも、大原の里での女院ご往生はありえない。思えばあの寒い上にも湿気て寂しい山里が、
女人遁世の別所とはいえ長く辛抱できる安住地であったわけがない。寂光院北裏の山はらに大原西陵な
どとあるのも、何の根拠もなく、今一度市子さんの語りをおよそ再現してみれば、

 承久三年、後鳥羽院御合戦(ごかつせん)に都も静ならず、一院をはじめまゐらせ御子達(みこたち)院々営々も悉く東夷(あづまえびす)の
ため国々へ流されさせ給ふと聞しめすにつけても、平家都を落ち西海の波の上を漂ひつつ、つひには
海の底に沈み給ひし安徳天皇の御事、今の様に思(おぼ)しめし合はすにつけてもいよいよ御歎きも尽き給は
ず。いかなる罪の報いにて、斯かる憂き世に生き遇(あ)ひて、憂き事をのみ見聞くらん。寂光院にあらま
しかば、よそには聞けど目の前に見聞かざらましと、思しめすぞせめての事と覚えて哀れなる。これ
につけても朝夕の行業(ぎようごう)怠らせ給ばず、御年(おんとし)六十七と申す貞応(ぢやうおう)二年の春の暮れ、東山の鷲尾(わしのを)といふ処に
て御往生有り。

18

 念のため史料価値の高い点で定評のある平家物語延鹿本に当ってみても、

 ……御年六十八と申(まうし)し貞応二年の春晩(くれ)に紫雲たなびき音楽雲に聞えて臨終正念にして往生の素懐を遂
 げさせ給ひにけり。御骨をば東山鷲尾と云ふ所に奉レ納(をさめたてまつり)けるとぞ聞(きこ)えし。

となっている。鷲尾で死んだか、よそで死に鷲尾に葬ったかの違いはあれ、歿年まで大原に住んだので
ないだけは、動かない。源頼朝がはじめて上洛し、大納言で右近衛(うこんえの)大将に任じられて政所(まんどころ)を開くと、旬
日の後に両職を拝辞したのが建久元年(一一九〇)の冬。やがて軍勢を率(ひき)い鎌倉へひきあげて行った直
後の師走逼迫(ひつぱく)に、建礼門院一行は降る雪をおかし、此の度(たび)は公然と都近い白河、今いう岡崎の善勝寺ま
で四年半ぶりに帰ってきた。それというのも頼朝は法皇が大原御幸の翌文治三年二月、すでに摂津国の
真井(まい)、嶋屋の両荘を女院の料に進じていたほどで、健康を□実に居を移すくらい、ご随意にの返事はと
れたのであろう、頼朝上洛は好機であった。
 善勝寺は、名高い法勝寺の西南、円勝寺の真南に接して一画およそ百二十メートル四方を占めていた。
待賢門院御願(ごがん)の円勝寺が今日の市立美術館敷地にほぼ当るというから、平安神宮のあの朱い大鳥居から
疏水(そすい)の真上にかけて善勝寺はあった。当時の善勝等長者が女院妹の夫、正二位権(ごん)大納言冷泉(れいぜい)隆房であっ
たことを思えば、大原からの遷御(せんぎよ)はもともと人づきあいのいい建礼門院にとってひとしお望ましいこと
であったに相違なく、暮しむきよりなにより、よほど朝夕安心できて、また人も自然逢いに来てくれや
すくなる。

19

 いずれこの善勝寺での建礼門院の新たな日常こそ問わねばならない。が、それとても改めて文治二年
春の大原御幸を顧ることから始めたい。古今著聞集が虚構したあの怪しからぬ風聞の実否を問うのでは
ない。そのような話なら、女院出家の折とかぎらず、とうの昔から人の□の端に上っていたこと、安徳
天皇の父御(ててご)がじつは、と、途方もない噂すらあった。
 事実の──有った無かったは、言わない。壇ノ浦では勝軍の九郎義経とも、と噂され、法皇の大原御
幸では尼姿の女院自身、西国にあって兄宗盛と道ならぬ契りを重ねたよし涙ながら懺悔されたと、まこ
としやかな噂もたった。なにももはや、女院こそが本当の敗軍の将であったという意味あいもあろう、
どう今さら兵を語ってみてもはじまらなかった。
 建礼門脇の晩年を、しかしある意味で支えもし救いもしたのが、この、噂、というものであったやも
しれない、建礼門院のいわば成れの果てにつき、つまりは噂の集大成のような「平家物語」に組み入れ
るための打診があったと、なるほど有りそうな話が南里の八木家にも伝わっていた。その、一等古く遡
りうるのが例の大原御幸であった。
うまりナけとき
 後白河法皇に昵懇(じつこん)の石馬(うまの)入道源資時(すけとき)と女院侍女の阿波内侍の仲に道がついていた。同じ平治生れの叔
父と姪であった。その道を通って院が大原まで訪ねてみえると聞くと、どう断っても来る気なら来てし
まうお人と承知で、女院は迷惑の旨を返辞した。
 この時──それはそれと聴き流し、阿波内侍は資時からの□うつしに、このごろ世間で「平家」を語
り歩く者の多いことを女院につげている。

 もっともなこと、というのが女院の反応だった。保元平治の軍(いくさ)語りはもとより、どう仕入れて誰がそ

20

こまで潤色したか、宮廷の男女艶詞(つやことば)の類すら、清水(きよみず)へ参り北野に詣でると境内や鳥居下に人を寄せて面
白う語る法師らは以前からいた。有髪(うはつ)あり盲(めしい)あり、説経の種にする僧もいるようであった。夫が小督(こごう)に
執心(しゆうしん)した時分のいささか同情すべき失恋譚が、ただ噂でなしに物哀しくも面白う七五調で謡い囃され、
当の隆房がそれを忍んで聴きにも行ったと、呆れて、いっそ笑ってしまう話も女院は妹の□から聴かさ
れていた。
「春日(かすが)の山の藤波の 木(こ)高き色に人知れぬ 心を尽し染めしより 寝ても醒めても忘られぬ 思ひのみ
なるよしなさよ かつ見るうちも胸騒ぎ 見ぬまはましてけふ幾日(いくか) いつかいつか(繰返し記号)と待たれつつ」とか、
「思ふも苦し雲の上に 通ひし道は絶え間多み たまたま(繰返し記号)はただ燈火(ともしび)の 影ほのかなる宵のまの 名残
はさらにさてしもぞ せむかたも無き心地なる」とか、 
「かくしつつ 睦月(むつき)の九日(ここぬか)やや更けし 夜半(よは)に逢ひ見しそのほどの 心のまどひ」などと、夫はむろん
首を横にふっていたけれど、妻の思いには当の隆房自作の艶詞にちがいなく、それを□さがなく節づけ
て誦(よ)み歩き、唱い歩く者が、たしかにいくらもいた。
 隆房はそれのみか、源氏の威勢を憚ることなく平家公達(きむだち)草子なるものを今のうちに作っておくと言い、
自分で書き人にも、清盛の娘である我が妻にも、書かせたがっていた。文字で描くさながらの肖像のよ
うに、平家公達の一人一人を栄華のままにより美しく書きとどめておこうと、隆房は、暗にそれが後白
河院の御意(ぎよい)であるかにひとり頷き頷き、成ろうなら女院にさえ筆を持たせたがっている、それが女院の
慰めになるものと思っている──。
 資時から伝わる話は、同じ院の意向にしてもだいぶ違った。院は巷の平家語りに、もうよほど異同は

21

おろか放埒(ほうらつ)な脚色が進み、それがまた人気に投じているというそのことをいっそ興がっておられた。話
に尾鰭というものがついて生きもののように世を泳ぎまわるのは至極当然のこと、どんな厳粛な史実も
巷間の濫僧(らんそう)ばらが取捨し潤色するのを拒めるわけはなく、たしかな日記や史料を芯に、いっそそれらの
誦(よ)み語りを、蒐集し、編成して大きなある物語に誰かがまとめてみればよい。なまじな修史の事業をお
こすより面白い。本当の嘘のと目先の成敗より、嘘も本当にしてしまう力さえあれば、人は漢字ばかり
の歴史より物語(それ)の方を読んで楽しむであろう、読めない者には語って聴かせればよい、その工夫もすれ
ばよいと、今様(いまよう)謡いに堪能な後白河院は平家公達草子の程度でない大きなことを考えておられた。五十
年百年すれば「平家物語」こそなににもまして人の悦ぶ今様(二字傍点)になっていよう、と予言された。
 ──院が今、大原まで建礼門院を訪ねられる真意をむやみに忖度(そんたく)するのは憚り多いけれど、嘘をまこ
との、院でなければ果せないある仕上げをなさるおつもりか、とでも想ってみると、今度の御思いたち
は院にしかおできにならないご趣向かもしれぬ──。資時はそう言い、阿波内侍もそのままを女院に伝
えた。
 建礼門院は、それでも、院に大原まで来られたくなかった。しかし院の御幸(ごこう)は思いのほか大がかりに
実現した。供奉(ぐぶ)の公卿(くぎよう)、殿上人はどの平家物語異本に徴しても都合十余人を下らず、侍も少々ついた。
道案内は右馬入道資時がつとめた。
 なぜこうまで、と女院が御幸の真意を訝(いぶかし)んだ時、法皇は当然であると単簡に返辞した。それから自
分が六十になった話をしてぶしつけに女院の年齢を指おりかぞえた。建礼門院徳子は三十二になってい
た。院はふと黙りこんで、顔をそむけるように庭面を吹雪(ふぶ)く花を見ていた。うつけたような横顔がよく

22

張った額から耳の方へ、思いなしか蒼かった。
 資時が名ざされて、得意の、「山寺行ふ聖(ひじり)こそ あはれに尊きものはあれ」といううたを、所柄もよ
ろしく、低声(こごえ)で謡った。「行道引声阿弥陀経(ぎやうどういんぜいあみだきやう)」の辺から院も声をそえながら、謡いも終えぬうち、にわ
かに女院をはたと睨むぐらいの顔になり、早□に□の中でしきりに何ことか言い募られるらしかった。
「決して」とか「また」とか「こんな」とか「鎌──」などときれぎれに聴いたのが何であったか、女
院はそっと頭をふるぐらいにしてしかと覚える気もなかったが、法皇が本当に途方もない「平家物語」
を胸に蔵(しま)って山ふかく大原までみえたかどうか、我がことはおいて、女院は、この見るから厳畳(がんじよう)な人の
部厚い胸の奥に畳まれた、人知れぬ思いのひだの深く濃まかに悩ましいものを、推し測ってみずにおれ
なかった。
 あの院は、折あれば忍んできて源氏物語のどの巻が好きかなどと、心知った女房の一人一人に面白そ
うに答えさせ、さて麿はと几帳の蔭から手を握って、「かがりび──」と低声(こごえ)でそそのかすようなお方
であった。

  篝火にたちそふ恋の煙こそ
   世には絶えせぬほのほなりけれ

 光源氏が生(な)さぬ仲の娘玉鬘(たまかづら)と琴を枕に添い臥しながら、「苦しき下燃え」の想いをなげ懸けた歌だ、
「篝火」はその巻の名であった。

23

「あやし」と、取られた手を退(ひ)くと、
「くはや」と遁げ帰るなど、物語の描写をそのままに、後白河の院という方はそういう擬(もど)きが生来お好
きなのであった。
 建久三年(一一九二)──女院が大原を出て白河(岡崎)善勝寺に身をよせて一年三ケ月を経た三月
十三日、後白河法皇崩御。建礼門院は、固く人を遠ざけて三日食を断った。

  ゆくへなき空に消ちてよ篝火の
   たよりにたぐふ煙とならば  玉鬘

 あの時、自分がどんな気持でいたのか、それは、女院自身問うを憚かる問いかけであった。皇室と平
家。舅と嫁。男と女。あまりに久しく、またあまりに微妙なよじれねじれの故に、自分では答えきれな
い問いかけであった。それに較べれば義弟隆房が、自分になり平家になり寄せつづけてくれる好意の結
晶めいた平家公達草子など、かつて、やはり同じ隆房がものした、法皇五十歳を祝う安元(あんげん)御賀詞を読み
返すよりもっと、あまりに今さらな、呑気な、美文であった。
 隆房は人に死なれた(四字傍点)ということが、無い。妹と、女二人顔を合した時の、それは女院が□にせずに噛
みしめる思いであり、隆房の妻にすれば不運の姉と同じ清盛の娘として、しみじみ嘆かずにおれぬ言い
草であった。それに、と女院は言いかけて□を噤(つぐ)む。隆房は、人を死なせたこともない、あの父清盛の
ように。また、あの舅、後白河院のようにも。そして罪深い自分のようにも。

24

人を死なせた、あまりに多く死なせてしまった負担は、女院に寒すぎるほど透き徹った目醒めをもう
何年も強いていた。
 死なれただけを哀しんで泣いておれない。
 そう思うと時に女院は笑いたくさえなってしまう。そんな自分がふとなさけないが、「御所はお変り
になった」と亡き御子(みこ)の帝(みかど)の御乳母(おんめのと)であった佐局(すけのつぼね)、弟重衡(しげひら)の北の方、などに恨めしそうな泣き顔をされ
るのが、叶わない時もある。中には、ただ泣きたいために訪ねてくれるような、昔の、右京大夫(うきようのだいぶ)のよう
な侍女もいた。むろんじっと付き合ってやりながら、そんな身のまわりで、いささかこうるさく立ちは
たらく阿波内侍(あわのないし)が、今さら珍らかな女に思えてくる。
 女院には全部は察しをつけかねる或る渦輪の如きものを、阿波内侍はたえず身辺に漂わせ、拡がらせ、
思いもかけない人物をひょっこり渦の中から女院の眼の前へつれ出してみせたりする。内侍は誰とでも
会った。どこへでも平然と出かけて行った。得体の知れぬ頼もしさ、お互い四十の坂を越えて行くうち
何かまだこの先に、ひょっとして珍しく面白いめをこの者が用意してくれていそうな、そんな買いかぶ
りを女院はしてみたくさえあった。
 そんなことを思いながらあれこれ善勝寺で年齢(とし)を重ね、その間にも正治元年、十二世紀最後の年の十
月、さすがに誰より抱きおうて泣くことのできた妹、隆房の妻に先ただれた。承元三年(一二〇九)末
には、無病遺恨無シ、生涯大幸ノ人ナリなどと言われながら、頼む前(さきの)大納言隆房卿も呆気なく死んだ。
そして──

25

 そして建礼門院には善勝寺でそのまま自身の生涯を終える、ということも許されなかったのである。
 もう最晩年、建保七年(一二一九)の四月二日朝まだき、折悪しい北風にあおられて尊勝寺西塔から
起こった大火が、南隣の円勝寺や金剛勝院を焼き落した余勢であっけなくさらに南の善勝寺も西隣の証
菩提(しようぼだい)院もを、あらかた灰にしてしまった。建久元年の真冬にはじまった女院の善勝寺時代は、足かけ二
十九年で不慮の火炎に阻まれ、思いがけず七十ちかい老境に及んでまた思いよらぬ新たな住まいを、女
院は算段せねばならなかった。が、幸い白河から遠からぬ、真葛(まくず)が原の南の山辺に、予め用意したもの
のように、鷲尾(わしのお)の金仙院(こんせんいん)という山荘が女院の到来を待っていた。
 ──あの朝、女院はよく寝入っていた。近ごろこうよく眠れたことは寡(すくな)く、揺するように声かけて起
こされたのがちよっと腹だたしいくらいだった。火と聞いて床は離れたものの外廻りを坊主や侍が走る
跫音(あしおと)にも妙に気が騒がない。善勝寺には女院のためにと特に世話をする男手のあるでなく、隆衡(たかひら)、あの
隆房の子、の家族もあいにく一人も泊り合せてなかった。主だった僧が火急の使いで、火の手早く所詮
どこかへお渡り願うよりないが、用意できる車は二軸、と言ってくる。牛が火に脅えるからと、もう牛
飼いが車寄せで声高に人を呼んでいる。
 残して惜しいほどの物はもたぬ人に、女院はなっていた。寂光院の昔こそ一間(ひとま)に来迎(らいごう)の三尊おわしま
し、中尊のお手には五色の糸をかけるという設(しつら)えもしてあった。左に普賢の絵像、右には善導和尚なら
びに先の幼帝の御影(みえい)をかけ、八軸の妙文(みようもん)、九帖の御書(おんしよ)もいわば荷び住居を堪(こら)えるお飾りに欠かせぬ気が
した。香華(こうげ)も絶やせなかった。それも都近くへ戻って十五年、二十年のうちいつか人目が訝(いぶか)しむくらい
さような用意が気(け)うとく物憂くて、尼女房の中に、諸経の要文(ようもん)を色紙に書いては熱心に障子に押してま

26

わる者がいても、ただほほ笑んで女院は見すごしてきた。文治このかた麻の衣や紙の衾(ふすま)にことさら耐え
てきたのも、今は人が勧めさえすれぱ絹でも何でも黙って身につけた。我から物乞う真似はしてこなか
っただけ、高倉院の持仏であった黄金(きん)の弥陀の三寸ばかりなのを御厨子(みずし)なりに身に抱げば、あとは馴染
んだ筆硯や、物の本、草子で代りの得がたい四、五冊。未練に、今暁けていく柱障子に歌を書き遺す気
もしないで、もうどれほど焼けたかなどと、我にもないことを想っている自分を女院は塊(は)じた。
 阿波内侍の荷が、誰のより重い。葛籠(つづら)に何を内侍が蔵(しま)い溜めてきたか、時代を証(あか)しすべきいろいろの
資料と女院はおよそ承知で、牛飼いにもそれからまず車へ運ばせた。──家々に火を放って都を落ちて
いった寿永の昔には自分も泣いた。男も泣いていた。あの後白河の院は、夜陰(やいん)に紛れ右馬頭(うまのかみ)資時ひとり
の手びきで鞍馬へ遁れ、池殿頼盛も摂政殿基通も落ちる平家につれない背をむけた。天をおそれぬ誰か
が都の空へ矢一つ射かけたまがまがしさに、七月秋の物風がにわかに真白い雨脚を誘って、辿りついた
福原の仮屋でも女はただ顔見合せてみな声もなかった。あの時、この阿波が「明石の海 きよき渚に
潮間(しほがひ)に なのりそや摘まむ 玉も拾はむ貝も拾はむ」と催馬楽(さいばら)ひとつめでとう謡ってくれたのを忘れな
い。あれほどの折に罪なき(三字傍点)配所の「明石」の巻にかけて元明の「伊勢の海」と謡わなかったのは機転だ
ったけれど、一抹「伊勢」のままでもと思った。我らは伊勢平氏──か、由ないことを。彼女(あれ)は、玉と
いい貝という名の、骨を拾うことになる日を知っていたまで──。
 ──ふと我にかえると、冷泉家を介し望んで女院の傍へ来ている幾人か、まだ若い侍女たちが、小走
りに床を鳴らして物を運びながら、行く先は鷲尾(わしのお)の、としきりに言い含めている。そんな声々に急(せ)きた
てられ、咲き遅れた紅枝垂(べにしだれ)のまだ色佳(よ)い花の匂いにちらと眼をやって、女院はゆっくり車寄せへ出てい

27

った。地を渦巻いて風が物を捲きあげる。ちいさな炎の絡んだ檜皮(ひわだ)や杉の小枝がみるみる散りばい、空
は濛々と黒煙を栗田天王の方へ吹き流していた。
 これしきの火、幾度遭うたことか、そう思いよれば気は軽く、かえって励まされたように女院は心は
ずんでさえいた。
 きこえた善勝寺不動尊はかろうじて白川を南へ、桔梗河原に渡され、建礼門院を追って同じ日のうち
に金仙院に移された。さしもの大寺(たいじ)を次々に焼き落した火は、堪えかねたように夕方から降りだした雨
空へ、音もなく幾筋も細い煙を立ちのぼらせ、翌日の午後に及んだ。
 浅い夢をきれぎれに幾つも見て、女院は一夜の宿でさすが早く眼ざめた。雨はおやみなく軒端に、苔
の庭に、ただしとしとと降った。何でもない、雨の季節がまた来たまでと寝たまま思い、またうとうと
とした。それから人の声ではっきり眼がさめた。その昔ここへは幾度も訪れている。泊ったこともある。
花の季はすぎ、ものの映えもないけれどよろしければゆるりとそこにと、父の昔にかわらぬ隆衡(たかひら)の、も
のに動じない見舞は昨夜(ゆうべ)に届いていたが、宵寝の女院は知らなかった。
「だれか、怪我した者はなかったか」
 善勝寺境内の東、池の端(はた)の三昧(ざんまい)院と並びの坊舎だけが焼け残ったと、報せをもって青侍(あおざむらい)が使いに来
たと聴き、そう訊ねさせた。女院が隠居の焼け跡から、地主神でも祀ったか錆びをふいた古い鏡が二面
出たと使いの者は松喰鶴の一面を持参していた。ほう──と、かすかに思い揺らいだ胸を抱いたまま冷
えきった八稜の鏡を床に置いて、女院は、いつか雨のやんでいる庭の方へひとり寄った。
 広くはない。が、右左に大小の築山を眩しいまでの緑苔(りよくたい)と、岩と、その外を白砂(はくさ)で囲って、松のある

28

じ顔した姿が佳(い)い。小高い丘に、箒目の美しい小粒の白川石を利かして勾欄(こうらん)の前を奔(はし)る山川(やまがわ)に見たて、
築山の奥は三側四側(みかわよかわ)に木深く樹を植え渡し、低い築地塀で下の雲居寺(うんごじ)境内とを隔ててある。山桜をわざ
と一株(いつしゆ)と限って、東の高みに大きく枝をはったのがもうすっかり紅らんだ嫩葉(わかば)になって、根方に、女院
もうろ覚えの隆衡の祖父が大和多武峯(とうのみね)の奥の古寺(ふるでら)から運んだという人の背丈を二つ積んだほどの異形(いぎよう)十
三重、苔の石塔が立っていた。華奢な廊下が矩(かね)を折ったように左へ折れ、また右へ折れて奥へ続く、と、
軽やかな柿葺(こけら)が二重の起(むく)り屋根になって、東、鷲峯山(じゆぶせん)の山の端(は)が、まだ雨雲の垂れた四月の空に椀を伏
せたかに、ふっくら、真緑に盛りあがっていた。
 もし隆衡が許すなら、物凄い不動を置いたこの建物でなく、すこしうしろの山に、こんもり隠(こも)ったむ
しろ古い建物の岩栖院(がんせいいん)を借り、心知った者もときどき呼びよせて一緒に京の町を見渡しながら住みたい。
ふくろうが啼き鹿がよる。狸までが、あれは人を怖れず戸をあげても遊びに来るというが、ただ峯の紅
葉ふもとの桜や、双林寺、長楽寺の鐘の音だけでない暮しも、もう、できるだけのことはして楽しんで
みていいのではないか──。
 女院は廊下の角に佇(たたず)んで山を見あげながら、金仙院の北の木戸から菊渓(きくだに)の瀬音を下に聴いて岨(そわ)づたい
に南寄りの山懐へ入って行く、と、奥の院めいて露台のついた岩栖院の亭(ちん)があるのを想い描いていた。
 板と萱(かや)でふいた、わざと柱も武骨な、しかも舞良戸(まいらど)の中は厚畳(あつじよう)を敷きつめた見晴しのいい建物である
が、どうにも、折々それをめざして奥山づたいにどこを渡って来るものか、ただの杣人(そまぎと)とみえない男女
がたしかに暫く泊って、しかし五日とおかず必ずまた去って行くという。庭で火を焚く細い煙で知れる
が、決してここまでは下りてこず建物を荒していくこともないので、もう馴れてうち捨ててあるという

29

話をよほど以前に女院は聴いていた。今ふとそれを思いだし、そのくせ頭を奔るように横(よ)ぎったのは、
何の関係もない、もし成ろうなら伏見あたりでこの頃も人を寄せては語るという、何とやら琵琶の法師
の平家語りを聴きたい、という思いつきであった。

 善勝寺から建礼門院徳子を迎えた鷲尾のこの金仙院は、隆房の父で、平清盛とはことに昵懇(じっこん)であった
藤原家成が造った。岩栖院は家成の父家保が建てた。そして家保、家成とも、山荘の南に接した雲居寺(うんごじ)
すいらんじゅぷせんり上うじゆせんわしのお
の大壇越(だいだんえつ)であった。雲居寺背後の翠巒(すいらん)を釈迦仏の遺跡にちなんで鷲峯山(じゆぶせん)ないし霊鷲山(りようじゆせん)といい、鷲尾(わしのお)とは
この鷲のお山のやや北へなだれた尾なりの丘をそう呼んだのであり、十二世紀はじめ瞻西(せんせい)上人という人
が東に山、北に丘を負うた雲居寺境内に八丈もの金色(こんじき)の阿弥陀如来坐像を開眼(かいげん)、京の大仏として喧伝(けんでん)さ
れた。
 二十世紀の今、雲居寺なく、金仙院も岩栖院もむろん跡形なくて、全境域の北半分が高台寺になって
いる。金仙院はこの高台守北辺、従来墓地に当るなだらかな丘尾(きゆうび)にあった。そして現在の御霊屋(おたまや)南寄り
の山の上、即ち岩栖院跡にはいま茶室の傘(からかさ)亭が造ってある。T博士の説に、必ずやこのバルコニーめ
く珍しい二階建の茶室近辺に真実建礼門院陵と目すべき旧墳墓が見つかるであろう、とある。

 鷲尾の墓地に沿った北の麓を菊渓(きくだに)が流れ、向う側は現在東大谷の墓また墓波が山はら一面に湧き返っ
ているが、女院在世の昔は菊渓の清流をはさんで双林寺につづく一帯は、春、欄漫の桜田と変じ、その
一角を占めて西行法師も一時、庵(いおり)を結んだ跡が遺っていた。
 もともとここ東大谷から八坂清水西大谷、そして鳥辺野までも四季の景勝である一方、都人には一円

30

に化野(あだしの)とも六道(ろくどう)とも眺められてきた、いわば山中(さんちゆう)の他界、到る処の青山(せいざん)、に他ならなかった。だから寺
が建ち墓地も整い、それへ奉仕の名もない人も多く集まり住んだ。善知識も庵を結び世捨て人も移り来
て住んだ。法然が然り西行も然り、建礼門院とてもやはり同じその一人であった。
 菊渓川は今も高台寺下の鷲尾町(わしおちよう)に、朱い■(おおがさ)をたてて染めの暖簾や土の鈴や笛や千代紙細工の店がで
ているすぐ北どなりを、瀬音高う暗渠にそそいで、西の宮川、鴨川に及んでいる。
 但し一ケ処、祇園甲部のよほど東寄り、とは言ってもお茶屋のたち並ぶ花街(かがい)のま真中に、そう人に知
られていない、四国白峯(しろみね)陵とはべつに崇徳天皇御廟(ごびよう)があり、ここへ、菊渓の流れが露表している。廟内
はあまりな荒れ放題で、間口は相応に、それとて牢格子にもみえる三、四間の厳めしい構えであるが、
近隣が勝手な物置き場にしては古自転車や建具の片割れや、罅(ひび)入(い)った植木鉢の類でじわじわ侵蝕した真
中に、それらしい墳丘(ふんきゆう)がたしかに有る。川はそのまた南側を、心もち弓なりに、ゆるやかに、ちよっと
淵めいた淀みをなして流れている。
 ただの湧き水でない証拠に、私自身むかし友達と一緒に確かめてみたのであるが、鷲尾町まで行って
朱く塗った竹トンボの羽根を渓流に投げこむ、と、それ、と近道をかけおり、東山の電車通も一散に無
法横断して花見町の崇徳御廟までが数分間、必ず竹トンボの方がすこし我々より早めに、ぽかりと件(くだん)の
淵に浮かびあがって、また暗渠へゆっくり引き沈んで行ってしまう。
 聞げば御廟の西隣に屋号を間垣という佳いお茶屋があって、以前はここの庭へも菊渓川が風情を添え
ていたらしい。が、天気しだいで水が溢れるのに懲り、やはり暗渠に葬り去ってしまったというのだ。
「そやけど──」かりにも御廟の荒れように対し誰も彼も冷淡など、子供ごころに異な心地で間垣の息

(■:竹かんむり に 登)

31

子、苗字(みょうじ)は長尾、を詰問すると、どうもこの御廟、万事程々に、っまりあまり触らぬがよいというのが
近隣の言い伝えで、根が信心深い廓(くるわ)の女も、地元の祗園さん建仁(けんねん)さん安井の金毘羅さんはおろか北野へ
も清水へも詣(まい)りにいくが、花街(さと)の真中のこの崇徳天皇廟へは寄りつかないというのであった。長尾の家
でもむしろお隣りの崇徳天皇より真葛ケ原の西行法師を尊崇し、西行庵へは代々の奉仕を怠っていない。
下鴨のT博士へ、そもそも紹介状をくれた人は西行研究で知られたM教授だけれど、そのM教授にじか
に引き合せてくれたのは竹馬(ちくば)の友ならぬ竹トンボを暗渠に流しおうた長尾泰彦の、姉、徳子であった。
MとTご両所が、たいした論敵同士であることも、徳子に聴いて知っていた。

二 鼓の巻

徳子はお茶屋間垣の女将(じよしよう)、自然、家のわざに東隣の崇徳天皇御廟をお守(もり)し、また真葛の西行庵へ気を
配るのも彼女の役であった。西行研究の聴えた専門家が、かりに加えて間垣遊客の一人であっても、い
ずれ弟の泰彦より姉とまず懇意であって然るべく、しかしそれなら話を伝え聞いた私がM教授に紹介し
てくれよと長尾に頼みこんだかというと、それは成らぬ相談であった。長尾泰彦は私と同じ大学へ入っ
て三年めに自殺し、十三回忌の法事がたまたま私がある文学賞をもらって直後の、七月、祗園会(え)のさな
かであった。
 夏の京都へは祭か、さもなければ八月大文字に帰ると決めていた。どちらにしても魂(たま)祭り、となれば
私の夏休みは自然長尾の、同時に彼の母親の、墓参に重なった。墓まで行けぬ時も間垣へはきっと寄っ

32

たが、表むきは仏壇の前へただ坐って帰る客であった。
 M教授とは、偶然が折合うたにすぎない。受賞作が平家の公達(きんだち)、清経の入水譚(じゆすいたん)であったのも法事の席
には物哀れな話題となり、いつか西行の噂からたしか横浜ずまいのM教授の名がでて、「その先生(せんせ)、来
といやすのえ」と聴いた旅館が、私の親の家からすぐ東町にあった。京の手土産にあすにも浜作(はまさく)の印籠
煮(いんろに)でも宿へ届ける手ばず、それならぼくがお使いにと笑った瓢箪から駒がでて、翌日徳子は私をその旅
館稲波(いななみ)へ誘って行ってくれた。
 ──徳子はただ親友長尾泰彦の姉であっただけでない。あれは間違いなく明日にも一学期の通知表を
もらうという季節、新制中学の三年生だった二つ上の徳子と、長尾の勉強部屋で口を利きあったもうは
じめのその日から、徳子は、私にも「姉さん」であった。
 あからさまにそう呼んだのがいっからか詮索のすべない遠いむかし話でしかない。が、長尾家で、つ
まりお茶屋「間垣」のいわば私的空間では、誰も、母親も泰彦も、そんなふうな私をはなから受け入れ
てくれた。「姉さん」と、胸も顫えるような一人子の私に、そう呼べとまず唆(そそのか)したのが、彼らの母親
その人であったこともけっして私は忘れない。
 誰の知恵がそう育てたのか、長尾は幼年から一種の愛書家であったらしい。東に白砂(はくさ)の坪庭を抱いた
天井の高い四畳半の壁に造りつけの彼の本棚は、一瞥私には目のくらむ花園であった。花園を無遠慮に
とびまわりたいがためにも私は、名高い花街(はなまち)の一画を半ばわが家かのように思って、間垣へ足をはこん
だ。廓(くるわ)、甲部、祗園町といった場所を厭(いと)いも避けもしない界隈で、私自身も育ってはいたのである。
私には説明できない。長尾家の人がなぜ私をあんなに愛してくれたのか。平家びいきだったから、な

33

どと言っても世間はただ世迷言(よまいごと)に聴くだけだろう。が、徳子とも出違うより以前、出身小学校のちがっ
た長尾泰彦に対してぼうという関心をもったそもそもはじめが、それであった。授業の休み時間になぜ
ともなく廊下に近い教室のうしろの隅に男ばかり七、八人がかたまって、源氏と平家のどっちが好きか
と、子どもらしい水かけ論になった、そのなかで、長尾と私との二人だけが熱心な平家方であった。
 雄弁ではなかったが長尾がくり出す知識は抜群に豊富であった。私など体(てい)よく尻馬に乗ったぐあいで
しかなかった。それでも彼は母にも姉にも、私のことを、先ず姓名は当然として、次にはその平家が好
きという一点をあげて紹介してくれたものだ。美しかった母親はいっそう美しく微笑み、徳子は数日前
プールで弟が、
「厄介かけて。かんにんえ」と礼を言ってくれた。
「どうしたん」と母親が訊ねると、
「なんでもない、ない」と長尾はあかくなって姉の□を封じた。なんでもない話であった。私も黙って
いた。
 間垣で逢った徳子は、学校や市営プールで見ていた人と別人のように想えた。もっと大人に見えた。
だがあの日、私を家へと、熱心に弟に誘わせたのは、じつは徳子であった。
 徳子は、まれに弟とはいさかっても、私がその繚乱たる自室へ好きに出入りするのを咎めなかった。
たぷん生命の次に大事であるのだろう、琴、三味線、鼓や櫛笄(こうがい)や、匂い高く眼を奪う色とりどりのえ
たい知れない着物や裂地(きれじ)に手を触れるのをさえ、笑ってゆるしていた。徳子はやがて在学のまま、子桃
の名で舞子に出る人であったし、私の中学では珍しいことではなかった。

(笄:は 俗字)

34

「どんな気イする」と低声(こごえ)で訊いた。徳子が返辞をしなかったことだけ憶えている。
 徳子と泰彦とのどっちの部屋を私がより好んでいたか、そしてわが育ての親より大事にあの姉弟をと
んなに愛してきたか、過ぎこし十九年は、その定宿(じようやど)へM教授を連れだって訪ねる徳子と私とを、晴れ晴
れとした気分ばかりにはさせなかった。泰彦も、彼の美しかった母ももう此の世になく、私は、妻と呼
べない「姉さん」をこのうえ失ってしまいたく、なかった──。
 ──M教授は浴衣がけの胡座(あぐら)で、丸い眼鏡を鼻の頭へずらして手紙を書いていた。卓の端に食べ終え
た西瓜の皿がのっていて、慌てて下へかくしながら片手で眼鏡を押しあげて、まだ立ったままの徳子の
方へ、
「──まあお坐り、お坐り」
 枕の下を白川が流れ、川向うの柳の道を見知ったうどん屋の出前持が通る。挨拶がすんで暫く、私が
この辺で育ったという話から二たむかしも前、戦前の白川新橋や狸橋辺の話をした。床の間の籠に鉄線
花(か)の紫がきれいだった。
 M教授は私の受賞作を読んでくれていた。
「で、当分お勤めのまま──」
「ええ。自信もありませんし」
「──でも医学雑誌の編集者ってのは──どうなんですか」
 担当の領分は狭くなかった。消化器、そして呼吸器と循環器の専門誌を預っていたから、内科、外科、
病理、生理に血液学も含んでおよそ脳神経や精神の方面を除く臨床医学の大部分と関わっていた。ほか

35

に小児科、産婦人科、皮膚科の雑誌も私の課で出していた。家庭医学ではない。日々の研究論文や綜説(レビュー)
の類を載せていたし、どの領分(ゲビート)からも基礎研究や臨床研究のアップ・トゥ・デートな単行書を企画する
義務を負うていた。十年をすぎたそんな凝りかたまったような堅い編集者稼業も、いっそ私は性にあっ
た仕事と好んでいた。人が意外に思ってくれるほどは文学と並び立たない仕事でない。逆であった──。
「忙しいのはまだいいんですが。労使関係の荒れた職場でしてね」
「そうか、あなたは会社じゃえらい人、でしたね」
 みなで笑った。
「下ツ端(ぱ)管理職の一人ですよ」
「二足わらじのはきづらそうな環境というわけだ。でも、がんばらなくちゃ」
「ありがとうございます」
ビールに枝豆がでて、自然、受賞作がらみに平家の清経の話にもなった。清経の生母がじっは「家女
房丹波」にしても、名目は内大臣重盛とあの冷泉隆房には叔母に当る経子との仲にできた子、それで祖
父清盛の一字と経子の一字を諱(いみな)に貰ったと教えられた。豊前(ぶぜん)柳浦で早々と寂しく入水死した左(さ)中将清経
と平家公達草子の編著者隆房とは従兄弟同士であり、隆房の妻、隆衡(たかひら)の母は、そして建礼門院も、この
平清経には若い叔母に当っていた。
 灌頂(かんじよう)の巻の作者は大原の尼女院にこう述懐させている。

 ……人間の事は、愛別離苦、怨憎会苦(をんぞうゑく)、共に、吾身に知られて候ふ。四苦八苦一として残る所候はず。

36

さても筑前国太宰府と云(いふ)処にて、維義(これよし)とかやに九国(きうこく)の内をも追出され、山野広(ひろし)といへども立寄休むべ
き処なし。同じ秋の末にもなりしかば、昔は九重の雲の上にて見し月を、今は八重(やへ)の塩路に詠(なが)めつゝ、
ころせりちん■い
明し暮し候ひし程に、神無月(かんなづき)の比(ころ)ほひ、清経の中将が、都のうちをぱ源氏が為に責(せめ)落され、鎮西(ちんぜい)をば
維義が為に追出さる、網にかゝれる魚の如く、何(いづ)くへ行がば遁るべきかは、存(ながら)へ果(はつ)べき身にもあらず
とて、海に沈み候ひしぞ心憂き事の始めにて候ひし。

 ところが平家物語巻第八「太宰府落」をみれば平家憂き事の始めがこう語ってある。

 ……新羅(しんら)、百済(はくさい)、高麗(かうらい)、契丹(けいたん)、雲の終(はて)海の終(はて)迄も、落行(おちゆか)ばやとはおぼしけれども波風向うて叶はねば、
兵藤次(ひやうどうじ)秀遠に具せられて、山賀城にぞ籠(こも)り給ふ。山賀へも敵(かたき)寄すと聞えしかぱ、小舟共に召て、通夜(よもすがら)
豊前国、柳浦へそ渡り給ふ。爰(ここ)に、内裏(だいり)造るべき由(よし)沙汰有しかども、分限(ぶんげん)無かりければ造られず。又
長門より源氏寄(よす)と聞えしかば、海士小舟(あまをぶね)に取乗て、海にぞ浮び給ひける。
 小松殿の三男、左の中将清経は、本(もと)より何事も思入れける人なれば「都をば源氏が為に攻落され、
鎮西(ちんぜい)をば維義が為に追出さる。網に懸(かか)れる魚の如し。何くへ行かば遁(のがる)べきかは。長らへ果(はつ)べき身にも
あらず。」とて、月の夜心を澄し舟の屋形に立山て、横笛音取(やうでうねとり)朗詠して、遊ばれけるが、閑(しづか)に経論み
念仏して一海にぞ沈み給ひける。男女泣悲めど甲斐ぞなき。

 清経の言うことが、ほぼ寸分違わない、それはまだしも、まずここで清経入水(じゆすい)が印象に残り、灌頂の

37

巻でまた同文をいとわず強調され再確認されているのがなぜだろうとそもそも思った。それを強調して
いるのが、建礼門院なのも重々しかった。ここへ来て、都落ちした平家の総帥(そうすい)、が悪ければ錦の御旗が
宗盛でなく、安穏天皇でもなくて建礼門院であった事実に今さら思い当った、と、ごく幼稚なそんなこ
とも私は初対面の先生に喋った。
「なに、それはね。徳子──」と、一度□籠ってM教授は私のつれの顔をちらと見て、
「いえネ、建礼門院に清経が、好かれてたってことですよ」
「五つ六つ──」
「清経の方が若い。が、それはたいした問題じゃないでしょう。それよか、そう考えてみる、するって
エと筋が通る、なんだかわけが分ってくる、ってとこが大事なんじゃないですか。ぼくらにはそういう
とこで冒険ができない。なまじ学者として、しづらい。が、小説家にはその想像が許されているでしょ
う」
「なるほど」
「なるほどじゃない、あなただって今度のお作では、やり過きな位やってらした。だから面白かった、
とも言える」
「恐れ入ります」
「恐れ入ってちゃいけない。大いにやってください。但し巧く、自然に。それに、掘り下げてやってく
ださい。するとぼくらだって助けられるし、読者も面白がる」
 もう一箇処本文(ほんもん)の重複で気にしているところがあると私は言った。木曾義仲の勢いに追われていよい

38

よ都落ちのそのさ中だ、やはり巻第八の冒頭、「山門御幸(ごこう)」がこう始まる。
 寿永二年七月廿四日夜半ばかり、法皇は按察使(あぜち)大納言資賢(すけかた)卿の子息、右馬頭(うまのかみ)資時ばかり御供にて、
ひそかに御所を出てさせ給ひ鞍馬へ御幸なる。鞍馬の寺僧ども、「是は尚(なほ)都ちかくて、あしう候ひな
む」と申すあひだ……

これが、巻第七の「主上都落」には、
その上ほか
 其夜(そのよ)法皇をば内々平家のとり奉って、都の外(ほか)へ落ち行くべしといふ事をきこしめされてやありけん。
按察使大納言資賢卿の子息、右馬頭資時計(ばかり)御供にて、ひそかに御所を出てさせ給ひ、鞍馬へ御幸なる。
人是を知らざりけり。

「と、これもー」
「それも、お気に入り。資時は法皇の、それはたいへんなお気に入り」
 M教授はそう言って浴衣の胸を盛大にくつろげ、ひとりうんうん頷いて、私にまたビールをついでく
れた。教授のコップには徳子が私の横からついだ。
「それはそうと、平家の公達でない、源の清経──知ってますか」
「──、義経やなし──にですか」

39

 思わず徳子の顔も見る、彼女は知らん顔をしていた。知りませんと返事するよりなかった。
 源清経については、しかし、まだ措(お)くとしよう。とにかくこの日の初対面は話もはずんで忘れがたい
日になった。平家物語のほかでもない最初本(三字傍点)が、如何なる経緯で成ったか、興味があると、すでにその
日私は□にしていたはず、そして後日、好都合に恵まれ、今度はT博士と知りあった。それも、平家物
語のことならとM教授がきちんとした紹介の労を厭われなかったのだ、が、それよりも今は話をやはり
長尾の自殺へ戻そう。T博士と南里の八木家や一言寺を訪れたのも、あれは、彼のちょうど十七回忌の
夏に当っていた──。
 たんに自殺ではなかった。長尾泰彦は高校時分のクラスメートと心中したのである。
 私は盲腸の手術で、泉涌寺(せんにゆうじ)下のNという外科病院の二階で寝ていた。予後が長びいていて、まだ窓ぎ
わのベッドをおりられず、退屈して、仰向けに手鏡で下を通る人の頭を眺めていた。病室の前がたまた
ま卒業した母校への通学路になっていて、見覚えの後輩が時折り通る時刻であった。そこへ長尾が大井
尭子(あきこ)をつれて見舞いにきた。長尾は入院以来もう三度めであったが、尭子ははじめてだった。思いもよ
らなかった。
「どうやね」
「もう大丈夫(だいじようぶ)思うよ」
「盲腸も、こわいな」
「ああ」
 妙にボソボソした話になり、尭子はすこし蒼白い顔で黙って木の丸椅子に坐っていた。どこかへ、こ

40

れから行くのかと訊いた。
「ここへ来たんやないか」と長尾は笑った。
「ア、そうか。おおきにおおきに」
 なんとなく私は手をさしのべて長尾に握手を求めた。彼は両手で軽く私の手を揺って、何も言わなか
った──。
 いったい大井尭子と、私は在学中からそう□をきいた方でなかった。長尾が時々話してくれたような
尭子は、いいにつけわるいにつけ教室で私の見ていた彼女の印象と、よほど輪郭がずれていた。無表情
な、いっそ鈍なと言いたい、しかし色白の、華奢なりに美しい子に違いはなかった。鈍などころか走ら
せればたいしたスプリンターであったし、教科書も上手に読んだ。「那須与一」など、私よりずっと確
り朗読するのを教室で聴いたこともある、が、たとえば冗談を言うのがうまくてなどとは、いくら長尾
の話でも信じにくかった。
 私には長尾の姉の方が格段に魅力があった。すっと立った姿が、前で見よこで見ても同じ中学時分か
ら徳子は椅麗で、丈高い感じがした。一緒にいて気持にはりがあったし、たいがいなことはいつも長尾
と楽しみもしいたずらもしていながら、
「泰彦にナイシヨえ」と囁かれればいっそ「共犯者」のように胸をときめかせて、徳子がするように私
もし、徳子が誘う処へ私もこっそり身を忍ばせた。長尾はともかくも、母親は二人の間を気づいていた
だろう、だが、差当っては余分な話。
 また、この物語に長尾泰彦と大井尭子の儚(はかな)かった恋の始末なども差当って余分なようではあるが、一

41

ケ処話の継ぎ穂になりそうな、尭子の家が「清水坂(きよみずざか)の傘屋」だったということ、それすら私は知らずに
いた。たしかにたいがいな処へは、南座の芝居、奈良の法隆寺、木津の川泳ぎ、将軍塚登りなど、几帳
面なくらい私をよく誘った長尾が、尭子の清水坂へは一人で行くらしかった。彼女は、長尾も私も高校
へ上がってからはじめて出逢った生徒で、私にすれば中学や小学校のころの友人ほどは、さて家の商売
が何で親きょうだいは何人家族でと、知る気も機会も乏しかった。
「清水坂の傘屋」といつごろ聞いたのか──、
「ええ風情やな」と長尾の奴をこづいたのはたしかだ。私も好きな清水から清閑寺へかけ夕暮れすぎた
時雨の相合傘でも想像していたなら、高校を卒業して、すでに大学生ではあったはず。長尾も私と同じ
文学部で、卒業論文には、祗園の子らしく遊女の研究でもどうかと笑っていた。存外本気であったかも
しれず、男にしては廓育ちに悪びれたところのない奴だった。
 その時分、大井尭子が家事を手伝っていたか勤めたのかも知らずにいた。銀行へ就職志望で、試験を
うけたように思うがそれもどうだったか、それほど疎いまま後年、参考源平盛衰記を手にいれて、拾い
読むうち「清水坂の傘屋」にぶつかった。重盛亡く清盛も熱(あ)っち死にしたあとの平家の元締、評判のわ
るかった内大臣宗盛がじつは清水坂傘張りの伜だったと、人もあろうに宗盛生母のはずの二位の尼時子
が、今は波の藻屑と安徳天皇もろとも壇ノ浦に入水(じゆすい)のまぎわに、無念そうに告白していた。
 これはあまりな話で信じる必要もない、が、そうまでして印象づけねばみすみす水ごころ有って沈み
もやらず、熊手にかけて源氏に拾われた宗盛清宗親子の醜態は説明つけかねると思った誰か知恵者が、
現にいたのであろう。

42

 兄重盛が物語中の重盛ほど理想的な男でなかったことは、「平家悪行の始なれ」といわれた子息資盛
の、時の関白に対する暴行がけっして物語本文のような入道清盛の指令によるのでなく、じつは父重盛
が使嗾(しそう)していた証拠正しい史実からも知られるし、弟宗盛が物語に書かれているほど凡庸なばかりでな
かった点も、かんじんなところで、神器をやすやすとは後白河院の手に返さなかった踏んばりなどにう
かがえる。それもこれも、役者の役どころを予めきめて創作した平家物語、という事情によるのであっ
て、宗盛わが子にあらず、京は清水坂天蓋張りの伜で、自分の産んだ女児とすりかえて育てた、とすれ
ば二位の尼時子一存の振舞は奇怪過ぎる。時子が早く平家の主流に確かに身をおきたかった、なさぬ仲
の嫡男重盛を凌いで夫清盛の跡をとる男子がほしかった、にしても、後に器量人知盛やまた重衡も生ん
でいた、だから信じられない、信じなくていい道理なのだが、M教授と旅館稲波ではじめて会うた前日、
西行庵での施餓鬼の席で、おいおいにほぐれた誰かの口から、あの大井尭子の生家が死者を祝(はふ)りの葬儀
屋だったことを聴いた。それは──初耳であった。蛇の目や、ビニール張りの雨傘を売っていたのと違
ったか──。話をひきとったのは悉皆(しつかい)屋の宇野という老人だった。
「その傘やない、ホレ衣笠山いうたら」
「──あ、蓮華谷の」
「そやそや」と頷かれて糸を引くように合点がいった。
 古来三昧場(さんまいじよう)に衣笠はっきもの、むろんお寺さんにも、と雨傘ならぬ法事葬儀の天蓋(てんがい)、衣笠それでカサ
屋と聴げば長尾のよけいな憚りようももの哀れであったし、清水谷地主権現(ぢしゆごんげん)の花盛りに愛(め)でて、遊女熊
野(ゆや)と遊んだあの宗盛生家の稼業が俄然気にもなった。清水坂近くなら葬儀や仏事に特製の蓋(かさ)や法具を造

43

る職人がいくらも住んで不思議でなく、但しそんな道々(みちみち)の者が、かりにも平清盛の妻にどう近づけたか。
だが、ただの雨傘屋よりそれは、有りえたに違いない。と、いうのも──
 あの左中将清経が入水の前に、「横笛(やうでう)音取(ねとり)朗詠してあそばれける」とは本文に紛れもない。詩か歌か、
たぷん催馬楽(さいばら)や今様(いまよう)であってもそれを謡うのが即ち朗詠であり,謳歌(おうが)であろう、その発声の高い低いを
横笛の音色で予め当ってみるのが「音取」だから、この場面、歌ないし音楽がつまり「あそび」の意味
になる。
 唐突だが古事記のはなしをしてみよう、大国主命国譲りの前段天(あま)つ神の使者として天若日子(あめわかひこ)が出雲へ
送られながら、国つ神の歓待に心ゆるんでいつかな復奏しない。あまつさえ催促の使いに来た鳴女(なきめ)の雉(きざし)
を声聴き悪(にく)しと天上より持参の弓矢で射殺(いころ)してしまった。血に染んで天に届いたその矢を神々が逆に地
上へ衝(つ)き返されると、あやまたず天若日子は「高■坂(たかむなさか)」を射抜かれ、死んでしまう。
あヵあまつくにたまのかみbこくだな
 ……是(ここ)に天(あめ)なる天若日子が父、天津国玉神(あまつくにたまのかみ)、またその妻子(めこ)ども聞きて、降(くだ)り来て、哭(な)き悲みて、乃ち
其処に喪屋(もや)を作りて、河雁(かはがり)を岐佐理持(きさりもち)とし、鷺を掃持(ははき)とし、翠鳥(そに)を御食人(みけびと)とし、雀を碓女(うすめ)とし、雉(きぎし)を
哭女(なきめ)とし、如此(かく)行ひ定めて、日八日夜八夜(ひやかよやよ)を遊(一字傍点)びたりき。
 この条、書きとどめられた日本で最古の葬(はう)りの儀式かと読んでよい。が、同時に古事記中、「遊」と
いう文字の初出にもなっている。「岐佐理持」とは死者のため食を盛った器を捧持する者、「御食人」
つしらもや
はその食を調理する者、「碓女」はその用に米を舂(つ)き精(しら)げる者、そして「掃持」とは喪屋(もや)を清め、「哭

(■:匈 の下に 月)

44

女」とは役として号哭(ごうこく)する者であろう、みな鳥に擬してあるが、それらしい冠りや装束をつけたと想像
すれぱこれは今も田舎へ行くとまま見られる葬礼、葬列のかなりありのままの配役を表わしている。そ
れと分ったうえでこの連日連夜の「遊び」とは何か。
 右の配役中、「碓女(うすめ)」には霊前に歌舞を以て奉仕する者、神楽の女、の意味があって、宇受売(うずめ)と書け
ば、言わすと知れた天岩戸舞(あめのいわとまい)の宇受売命(うずめのみこと)を想いだす。

……天香山(あめのかぐやま)の天之(あめの)日影を手次(たすき)に繋(か)けて、天之真析(まさき)を鬘(かづら)と為(し)て、天香山の小竹葉(ささは)を手草(たぐさ)に結ひて、天之
石屋戸(いはやど)にうけ伏して、踏みとどろこし、神懸(かむがか)り為(し)て、■乳(むなぢ)を掛(か)き出で、裳緒(もひも)をほとに忍(お)し垂れき、爾(かれ)
高天原(たかまのはら)動(ゆす)りて、八百万神(やほよろづのかみ)共に咲ひき。
 
 岩屋の中から天照(あまてらす)大神は「何由(など)て天宇受売(あめのうづめ)は、楽(あそ)びし、亦(また)八百万神諸(もろもろ)咲(わら)ふぞ」と不審に思うのであ
るが、ここに「楽(あそ)び」という表記が出てくる。古事記中「あそび」の初出に違いなく、しかもいささか
猥褻(わいせつ)がかつて宇受売が歌い舞う有様を、人は、神楽のはじめと認めてきた。
 ところで天照大神が岩屋にひき隠(こも)った状況は、これが日本語の本来の「しぬ」というつまり生でも死
でもない、その中間にいきおいなく萎(しな)えたさまを表わしていたらしい。岩屋は即ちその間に屍霊が住む
喪屋であり、宇受売らは天照の今一度の甦りを願って「歓喜咲楽(えらぎあそ)」んでいる。天若日子の場合よりもこ
の場面がじつは原初の葬いなのであり、違いは、天照大神が幸い甦ってまた岩屋を出、天若日子は甦る
ことなく遂に黄身路(よみじ)に往(い)にはてた。

(■:匈 の下に 月)

45
 右馬入道の資時は与一に琵琶を教えたと禁秘抄一紙はいう。二人は無縁でなかった。与一は御室(おむろ)のほ
かに栗田、といえば慈鎮のいた青蓮院(しようれんいん)、へも召されていたというから有りえたことだ、行長のことは暫
く措くともこの資時正仏と与一成仏とが平家物語最初本の企てに、同じ表記「しやう仏」の名で参加し
ていたと考えてみるのはどうであろうか。「しやう仏といひける盲目」とは与一で、その与一に「教へ
てかたらせ」たのは、詞を書いた行長入道でもあるが同時に曲節(ふし)を勘(かんが)えた右馬入道正仏という二人の公
家であったと徒然草のかの一段を読むのである。長い間に同じ「しやう仏」ゆえ一人の名と思いこまれ、
するともう資時とも与一とも寸法がどこか揃わず、「明らかならざりし」一つの言い伝えになってしま
う──。
 信用のおける本でないにせよ江戸時代の伝書に幾つか、生仏を指して綾小路資時としたものがある。
Y博士もそれは斟酌されたに違いなく、平曲もまた広く郢曲朗詠(えいきよくろうえい)の道に繋がるとみれば、彼が活躍の時
期に徴しても平家物語の成立に、歌唱技の名人とゆるされた源家(げんけ)郢曲家元格の資時の存在は、断然巨き
かったろう。伝書は伝書なりにその辺の事情を反映しているのである。
 Y博士の説にみえた「如一」にはまだ触れる機(おり)でない、それより生仏と書く「しやう仏」がかりに実
在したとして、彼が、本当に平家物語の最初本に年代的に関わりえたのかどうか。
 扇を射た那須与一を、覚一本は「二十許(はたちばかり)の男士(をのこ)也」という。源平盛衰記には、「生年十七歳、色白ク
小髭生(ハエ)、弓ノ取様、馬ノ乗貌(ノリガホ)、優ナル男ニゾ見エタリケル」とある。時に寿永四年(天暦二年、一一八
五)二月十八日の酉(とり)の刻、とあるから、機を逸すると扇の的も夕やみに消え失せそうなたそがれ時であ
った。

67

 勘定に入れておきたいのは、与一がこの後何年生きたか、である。かりに建礼門院と同じに貞応二年
(一二三三)頃まで生きたとすれば、享年ほぼ五十代後半となる。例の順徳天皇の禁秘抄が、皇子へ譲
位と前後する承久三年(一二二一)四月に成っており、そして五月に破天荒の承久の乱が起き、後鳥羽、
土御門(つちみかど)、順徳三上皇は鎌倉幕府による遠島に遭い、仲恭天皇も践祚(せんそ)のまま即位式なく廃された。禁秘抄
一紙は何としてもその以後に、さほど間もあけずに出来て、しかも与一こと往生房成仏はもう死んでい
た。が、伏見院ともいわれた即成就院の「旧跡」はまだ人に記憶されていた。
 どう永生きしたにしても与一は、建礼門院崩御は知らずに死んだに違いない。他方、平家物語の成立
に「志やう仏」が貢献したのなら、彼は、遅くも承久の乱以前に行長入道らとチームを組んでいねばな
らない。「後鳥羽院の御時」とは間違いなく承久の乱以前をいうし、まして「御時」を源氏物語冒頭の
「いづれの御時(おほんとき)にか」にも倣って在位期の意味にとれば、平家滅亡の元暦(げんりやく)二年(一一八五)三月以後院
政を再開した建久九年(一一九八)正月までの、ほぼ十三年間に限られてくる。こうなると平家物語最
初歩はすでに十二世紀のうちに初動、ということ──だ。
 行長と那須与一とに、じつは、濃い縁といえるものがあった。与一は下野国(しもつけのくに)の住人であり、一方、行
長の「信濃前司」とは明白なまちがいで「前下野守(さきのしもつけのかみ)」が正しいことは今では確認されている。利害関
係は知らず、与一はあるいは資時より早くから国守(こくしゆ)行長と相識であったに違いない。
 禁秘抄一紙は、先の「旧跡アリ」のあとに与一が「モト北面二仕(つこ)ウマツリシ者」であった由を言って
いる。あまつさえ彼が屋島壇ノ浦から京都へ引揚げてのち平(へい)大納言時忠の娘を九郎判官に媒(なかだ)ちしたのが、
結果的に鎌倉殿の配下たる行末をわるくしたとまで言っている。信じにくい所を敢て信じてかりに右の

68

記事を杖、柱と頼めば、他でもなくあの扇の的の発案者が「平(へい)関白」と異名をとった時忠卿であったこ
とも思い入れて、おのずとまた色めくべつの挿話が屋島の沖に浮かび上がってくる。参考源平盛衰記を
読もう、海に陸に火のでるほど戦って甲乙なく、源氏平家ともに引き退き一と息をつぐところだ。

……沖ヨリ飾リタル船一艘渚二向(むかひ)テ漕寄(こぎよす)。二月廿日ノ事ナルニ、柳ノ五重(いつつかさね)二紅(くれなゐ)ノ袴著(き)テ、袖笠カ
ヅケル女房アリ。皆紅ノ扇二日ヲ出(いだ)シタルヲ杭二挟(はさん)デ、船ノ艫頭二立(たて)テ、是ヲ射ヨトテ、源氏ノ方ヲ
ゾ招(まねい)タル。此女房ト云(いふ)ハ、建礼門院ノ后立(きさいだち)ノ御時、千人ノ中ヨリ撰出(えらびいだ)セル雑司(ざふし)二、玉虫の前トモ云(いひ)又
ハ舞ノ前トモ申(まうす)。今年十九ニジ成(なり)ケル。雲ノ■(もとどり)霞ノ眉、花ノカホハセ、雪ノ膚(はだ)、絵二書(かく)トモ筆モ及(および)
カタシ、折節(をりふし)夕日二耀(かがやい)テ、イトゞ色コソ増(まさ)リケレバ、西国マデモ召具(めしぐ)セラレタリケルヲ出(いだ)サレテ、
此扇ヲ立タリ。

 長門本を見ると、こうある。

……彼扇立(かのあふぎたて)タル女房、元ハ建礼門院ノ雑仕二参(まゐつ)テ、玉虫ト召(めさ)レケルガ当時ハ時忠卿ノ中愛ノ前トゾ申(まうし)
ケル。天下二聞エケル美女ナリ。是ヲ以テ扇ヲ立(たて)タラバ、九郎判官サル情アル男ナレバ、近ク打寄(うちよつ)テ、
興二入(いら)ンズラント計(はかつ)テ、船ノ艫屋形(ともやかた)二簾ヲ懸(かけ)テ、其(その)中二教経景清(のりつねかげきよ)以下惣(そう)ジテ十余人、究寛(くきよう)ノ手垂(てだれ)、精
兵(せいびよう)ヲ調(ととのえ)テ、近附キ寄(よつ)タラバ、一矢(ひとや)二射落サント巧(たくみ)テ、サラヌ様ニモテナシテ、渚近ウ指寄(さしよせ)タレバ、
判官先二心得テ、遥二引退(ひきしりぞい)テゾ見ラレケル。

(■:髟(かみがしら) に 衆)

69

「最愛」とは平家物語に繰返して出てくる、いわば男と女の、夫と妻との睦じい仲をいうけれど、「中
愛ノ前」は分らない。いっそ「時忠卿ノ中(うち)」に召使われて「愛ノ前トゾ申ケル」と読んではどうか。
「愛の前」か「舞の前」か、後年念仏の教えに奔って後鳥羽院を怒らせた美女の名が鈴虫と松虫とであ
ったことも思い出されるが、この「玉虫」を矢面(やおもて)に立てる作戦が九郎判官の好色に的を絞ったものとは、
的にされた当人さえ早分りがしていたのだから、帰洛の後敗者時忠が、勝者義経に対する駆引の材料に
件(くだん)の美女を優に面白う絡ませずにいなかったのは、無論であった。
 時忠は義経の手に、もし鎌倉の頼朝に渡ればいかにも立場のない文柄(ふがら)を一束(いつそく)没収されていた。何とし
ても奪い返したい苦心惨憺の挙句、子息時実(ときざね)の入知恵で、すでに河越重頼の娘を妻にしている義経を、
自身の婿にと考えた。但し時忠は正妻帥典侍(そつのすけ)腹の当年十八になる大事な姫君を惜しみ、すこし年嵩な劣
り腹の娘をやった、というが、じつは義経も承知のうえ、屋島合戦に見初められていた玉虫の柔肌と交
換に件の文反故(ふみほうぐ)を事なく取り戻せたのである。そんな橋渡しが他ならぬ那須与一にできたのは、扇の的
の主役が出揃う時忠なりの趣向もさりながら、この主役男女が、知らぬ間柄ではなかったからだ。
 いったい北面の侍が勤務上後宮の女人に接するとなればまず雑仕女(ぞうしめ)が相手であるしかなく、下▲(げろう)とい
えども女房ほどの者とは□をきく機会もめったにない。後白河法皇の侍那須与一と建礼門院の雑仕女玉
虫とが夙(つと)に存知寄りの仲でありえた点を、気転の時忠が利用せぬ手はなかった。それどころか、与一ま
た美しい玉虫ととうに思いをかけ合っていたなら、どうか。
 面白ずくの話はしたくないが、玉虫はまた舞の前と呼ばれていたから、やはり島の千歳(せんざい)、若の前の流

(▲:くさかんむり に 臈)

70

れを汲む、白拍子。名高い祗王や仏御前ほどでなくても、義経生母の常磐(ときわ)御前なみに美貌を以て女院に
奉仕した、やはり遊女(あそび)の一人であった。それならば聞えた白拍子、舞の名手で磯の禅師の娘静御前も夙(はや)
くに義経と最愛の仲であったから、表向き前大納言時忠の娘として迎えられた玉虫の方は別所にやや遠
く囲い置かれ、判官に鎌倉を憚かる気もあり、とかく通い路(じ)はかれがれになっていたらしい。
 義経はやがて頼朝と仲悪(あし)く、それならば退いて西国(さいごく)を経略せんものと京都を落ち行く前夜に玉虫を訪
れると、女は、「ツラカラバ我モロトモニサモアラデナド憂キ人ノ恋シカルラン」とひとり□ずさみに
間遠な男を怨んでいた。義経もそぞろ哀れに頼もしくもあらぬ行末を契ったが、ついの別れになったと
源平盛衰記は書いており、そしてこの玉虫の宿所というのが、伏見ではない、逆に、建礼門院の大原庵
室へも近く当時洛北の岩倉の里に遷されていた「即成就院」だったのである。
 今日、泉涌寺長老は末寺である即成院の草創をこう説いている。正暦(しようりやく)三年(九九二)恵心僧都(えしんそうず)が伏
見に光明院を創したのがはじめで、後、関白藤原頼通の第三子作庭術で聞えた橘俊綱が寛治年間(一〇
八七?九四)山荘を造営し、その中に、当時盛んであった浄土思想の影響で、阿弥陀如来及び二十五菩
薩を奉安する阿弥陀堂を建立(こんりゆう)、伏見寺または即成就院と称した。その子円智大僧都が遠く北岩倉に移し
たが、建久六年(一一九五)後白河天皇の皇女宣陽門院が御父帝の追福のため元の地に再興し、下野国
(栃木県)那須野庄を寺領として寄進された。文禄三年(一五九四)豊臣秀吉が伏見桃山築城に当りま
た大亀谷に移し云々──と、それ以降はさし当っての問題でない。
 奇しくも阿波内侍の一言寺と大原寂光院とが京の北僻(ほくへき)と南陬(なんすう)に隔てていたほども、北岩倉と伏見南郊
とでは離れていた。その北から南へ、即成院を断然また移転した宣陽門院こと覲子(きんし)内親王の生母とは、

71

誰あろうやがて後鳥羽院政の再開に院別当(いんのべつとう)として辣腕を振い、鎌倉幕府への対抗心を若い後鳥羽上皇に
ひしと植えつけた宰相源通親(みちちか)の、その妻、平家物語に「政道は一向、卿(きやう)の局(つぼね)のまゝなりければ」と諸人
を愁歎させた藤原範子であった。
 関白九条兼実が頼朝方ならば、対抗馬の源通親は義経方であった。義経の寵(おも)い者をそれとなく身近な
即成院に庇うことは自然の勢いであり、そんな即成就院に対し信仰篤い那須与一が、穏当に鎌倉殿の御
家人などでありえようはずがなかった。一時は守護地頭にもなり庄も多く預ったろうが、存外に寿永の
英雄は早く文治年間にももう隻眼(せきがん)の比丘(びく)となり、同じく比丘尼(びくに)と姿を変えていた玉虫が待つ即成就院に
身を寄せていたのである。

五 故院の巻

 平家物語がそもそもの最初どう出来たか。ともあれ例の屋島や壇ノ浦の弓矢合戦こそ、平家語りの琵
琶法師手一には”おはこ”であった──話、のあとを継ぎたい。
 早業の金子親範(ちかのり)も「与一」なら、遠矢の浅利義成も「与一」にした。それが「那須与一」自讃の趣向
であった。行長も資時もにやにや笑って、頭(かぶり)を横には振らなかったのである。
 しかし、元暦(げんりやく)二年(一一八五)はじめて院北面の身を聴(ゆる)されて義経軍に参加するまで、たとえば前年
二月の一谷の合戦など、親兄弟は知らずこの与一自身は体験していなかっ。彼は十六という歳の三月
に父に伴われてはじめて東国を離れ、東七条の院の法住寺御所に伺候した。治承三年冬このかた平家の

72

力で各所を連れ回されたまま御所に落着けなかった後白河法皇は、清盛六十四歳の熱(あ)っち死にの直後、
嗣子宗盛に乞われて十数ケ月ぶりに法住寺殿に還御(かんぎよ)成り、すぐ院政を再開し北面の武士を強化した。那
須武者所は挙げて鎌倉殿の麾下(きか)にはせ参じていたが、院の思召(おぼしめし)ということで、父資宗は末子の与一一人
を北面の警固に奉ったのである。
 かくて文盲の野人であった与一には末世の末輩ながら多感な京の青春にめくるめく三年がすぎた。小
兵(こひよう)ながら天与の弓術がものの折にはどんなに晴がましい嘆美の声渦(こえうず)を院内に巻かせたことか、だがこの
間の与一で注目せねぱならぬことが、べつに二つある。
 一つは、彼が坂東声ながら聴き覚えに「足柄」のような難しい歌謡をすら一と癖つけて巧みに謡い、
地下(じげ)同士の酒盛にはむろん、時に「今様狂ヒ」の院にも召されては謡い囃して悦ばせることができたこ
と。
 もう一つ、寿永二年七月廿四日夜半の法皇鞍馬への脱出行には、見え隠れに法皇と殿上人(てんじようびと)資時との道
行(みちゆき)を守護し参らせた北面二、三があった中に、那須与一の名を挙げている平家物語異本が一、二有ると
いうこと。と、なると与一は、木曾義仲がやがて院御所を攻めたりした法住寺合戦などにこそ院方で活
躍していても、その義仲を討ち果した義経や範頼の軍には、加わっていなかった。父や兄と再会して以
後も相変らず彼は北面の侍で居坐っていた。自然、源平角逐(かくちく)を語る段になれば、行長や資時が「東国」
の縁を求め合戦の様子を他の「武士に問ひ聞」く必要は、一谷合戦と限らず多かった。
もちひヒおうげんざんみ
 いったい、平家物語で合戦らしい場面は巻第四に以仁王(もちひとおう)を奉じて蹶起した源三位(げんざんみ)頼政の挙兵からはじ
まり、主には木曾義仲と九郎義経との活躍に尽されている。徒然草がいうように蒲冠者範頼の影はいた

73

って淡(うす)い。しかも誰が平家物語を最初に構想するにしても、それが主に源平の合戦状てなければならな
かった以上、成立を願った人物なり集団なりが情報蒐めに熱心に気を配ったのは道理であった。大原御
幸がすでにそれであって、あれは効果的な幕切れの場面づくりである一方、よほど重要な取材(インタビュー)でもあ
った。後白河法皇にすればあの時点で平家物語中のどの巻、どの場面の情報がほしかったか、平家栄華
と滅亡の経過を、いわゆる「断絶平家」を、という堅い原則にはめて、編年の体に骨組をなす部分や場
面はぜひ欠かせぬ限り、それを仔細に当っていけば、逆にどういう証言者を揃えたらほぼ十分なものに
なるか、主な顔ぶれの見当さえつかぬではない。
 むろん現に出来あがっている平家物語からの結果論ではあるけれど、合戦に限っていえば巻第十一の
那須与一と同様に、巻第九ならば「生食(いけづき)の沙汰」「宇治川先陣」の佐々木四郎高綱とか、「一二之懸(かけ)」
「敦盛最期」の熊谷次郎直実(なおざね)とか、また木曾殿のことなら名高い手書(てかき)の大夫房覚明、源三位頼政の挙兵
なら筒井の浄妙房明秀などは、己が活躍にも併せてまた彼らなりに戦況によく眼を届かせていたはずだ。
 寿永三年(一一八四)正月、木曾義仲を追い落して兄範頼より一と足早く都入りした義経は、「軍兵(ぐんびやう)
共に軍(いくさ)をばせさせ、院御所の覚束(おぼつか)なきに、守護し奉らんとて、先ず我身共に直甲(ひたかぶと)五六騎、六条殿へ馳(はせ)参」
じて門を扣(たた)かせている。

……法皇大(おほき)に御感在(ぎよかんあつ)てやがて門を開かせて入(いれ)られけり。九郎義経其日の装束には、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、
紫裾濃(すそご)の鎧著(き)て、鍬形打(くはがたうつ)たる甲(かぶと)の緒しめ、金作(こがねづくり)の太刀を帯(は)き、切斑(きりふ)の矢負ひ、滋藤(しげとう)の弓の鳥打を紙
の広さ一寸許(ばかり)に切て、左巻にぞ巻(まい)たりける。今日の大将軍の験(しるし)とぞ見えし。法皇は中門の■子(れんじ)より叡

(■:木へん に 雨 の下に □□□(□三つ))

74

覧有て、「ゆゝしげなる者どもかな、皆名乗(なのら)せよ」と仰(おほせ)ければ、先づ大将軍九郎義経、次に安田三郎
義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、渋谷右馬允(うまのじよう)重資とこそ名乗(なのつ)たれ。義経具
して武士は六人鎧は色々也けれども、頬魂(つらだましひ)事柄何(いづ)れも劣らず。大膳太夫成忠仰せを承はて、九郎義
きほく仕しかしこまつ
経を大床(おほゆか)の際(きは)へ召て、合戦の次第を委(くはし)く御尋あれば、義経畏(かしこまつ)て申けるは、……

「木曾が会党など参(まゐつ)て、狼籍も」まだありかねないこの期(ご)に、法皇は「合戦の次第を委(くはし)く」聞いて側近
に書き取らせずにいなかった。それもこの一度に限らなかった、正月廿日、いま人相(いりあい)の時刻に唯一騎、
粟津の松原へ駈入(かけい)って薄氷(うすらい)光るタまぐれの深田に馬の脚をとられ、ついに木曾義仲が三浦の石田次郎の
弓に内甲(うちかぶと)を深く射させての最期となった、そしてもう廿九日には早や平家追討のため範頼義経は西国発
向の院宣を受けている、その僅か十日足らずの間に、法皇は四度までも九郎義経を呼びたて、頼朝が挙
兵以来の関東の事情をつぶさに問い訊(ただ)していたのである。
 そういうことを義仲は面倒がった。但し、木曾の傍にはかつて平清盛を「平氏の糟糠、武家の塵芥」
と南都の大衆を代表して罵倒した最乗房信救という悪僧が、大夫房覚明と名を替え「文武二道の達者」
と聞えた手書(てかき)つまり右筆(ゆうひつ)役となって扈従(こじゆう)していた。彼はもと進士蔵人(しんじくろうど)の道広といった文章生(もんじようのしよう)でもあり、
院や、御室(おむろ)の守覚法親王の熱心を満足させるため、こまごまと南都焼亡このかたのことを書き物にして
提供することさえ厭わなかった。
 だが、鎌倉大事の範頼は、公家方とその種の付き合いを敢て肯(がえ)んじなかった。それも当然であった。
早く鎌倉に侍所を設け、養和元年(一一八一)には法皇との間で政治折衝を開始していた頼朝は、東国

75

沙汰権を認める院宣を得て、流人(るにん)の身から四位兵衛佐(しいひようえのすけ)の本位に復してもいたのである。京都と鎌倉とに
は、単純な義経などに察しもつかない腹のさぐりあいがもう始まっていて、後白河院はしかも情報分析
の達人であった。
 範頼は賢くその辺を心得ていたのに、義経はそのつど、如才ないまで法皇が好かれそうな部下さえ当
時六条御所や時に御室(おむろ)へ伴って、くわしい聞書きにも畏(かしこま)って応じた。梶原一党がこれを露わに制した
のも、義経とのよく知られたこの後の確執の種になった。義経は、いかなる意味でも法皇に仕え奉る源
氏の侍(一字傍点)の域を出られなかった。
 義経のこの手の素直さに、法皇はたしかにある評価を下していた。清盛亡く義仲も討たれた今、西海
の平家と東国の頼朝とを左右に睨みつついかにもして双方を手下(てか)に抑える手だてに、法皇が、はっきり
「あの男(おのこ)を」追立(おつた)ててと側近に洩らすのを、右馬入道資時などは聴きとめていたのである。

「凄いお方でございましたよ。畏(おそろ)しかった──」
 資時などがそう阿波内侍(あわのないし)らの前で呟く声には、しみじみとした実感があった。
 後白河法皇という人には、あれほどの動乱も自身で煽った気味が、たしかにある。清盛を引立てては
藤原氏や寺社の力を抑えたし、清盛が図にのってくれば挑発してぼろを出させた。資財も使わせた。平
家の力を削ごうと狙う近臣には陰謀もそそのかした。所詮院政という揖(かじ)は手放せない、それでいて、実
にさまざまにこの法皇はまめな人であった。男女の別なく色を好んだ。思わぬ場所で、いきなりむずと
背後から抱き辣められると、腕ちからの強いお方でちょっと身動きとれないことも度々(どど)有ったと、後年

76

には正仏房の資時入道も苦笑っては阿波内侍相手に幾らでも思い出ばなしをして聴かせている。
 出違いがそもそも手籠めであった、──あれは治承二年春の熊野詣での途中、資時は二十(はたち)。
 父の資質(すけかた)大納言が自慢で育てた資時は稀な歌い手で、初の目見えは十六の秋に院御所での今様(いまよう)合せで
あった。あれいらいも法皇は遠くからぼうっと眺めるようにしか彼を見なかった。それが、この熊野へ
の旅の、もう藤白王子の泊りごろからものの愚いたように「資時」「資時」になった。
 彼は父大納言にそっと呼ばれ、不覚をとるでないと注意されて赫い顔をした。一行の中に逢い初(そ)めて
間もない恋人がいたのだ、が、父の注意はそれではなかった。法皇は前夜から資時に、自分の今様雑芸
の秘術の限りを教えてとらせたいと言いはじめ、父資質も有難き仰せと畏(かしこま)っていたのである。そして
滝尻の王子に着いた三月廿三日という晩、夜更けて資時は人ばらいした拝殿にひとり召され、「権現(ごんげん)」
という難曲を朗々と謡われる浄衣の法皇の、畏(おそろ)しいほど真剣な顔をただ見守った。
 二人だけの稽古は深更に及んで、師は名人、弟子は天才であった。互いに会心の笑みを交してさて退(さが)
ろうとする資時を、つと起って法皇は背後から羽交(はが)いに締めた。
「眼をとじて、いよ」
 その一言のままに資時は、顫えたなり祭壇の後の暗がり、厚畳(あつじよう)を二枚重ねた上へ押し倒されたのであ
る──。
 ──資時入道が喋っていったことは内侍が徒然のお慰めに女院に、建礼門院に、また話す。
 話してくれなくても聴えてくる。女院は何によらず人が話すのを聴いて楽しむたちであった。男同士
のそんな痴(たわ)けた話もとくに珍しくなく、今さら聞いておぞけを振いもしない。摂政基通でさえ院のため

77

にそんな奉仕を厭わなかったとか、ほかに父清盛が寵愛したという祗王や仏御前のような遊女(あそび)のことも、
資時自身の話にしても、□伝てに聴いて、ただ遠い、半ば絵空事かのように、時に涙ぐまれ時に笑えな
がら他愛なく面白かった。
 それにしても人は色んなことをよく知っていて、気を許した同士際限なく喋っている。宇治大納言が
今、昔、の沢山な、ありえようと思えぬ話ばかりをさもありえたことに書き集めだしたあの時分から、
そんな根も葉もなげな逸話に限ってこつこつと聞書きに溜めこむのを趣味にする者が、公家や坊主に増
えているとは耳にしていたが、そんなことも昔は世の余り者が仕方なくすることとしか思わなかった。
 けれど資時の話だと、あの後白河の法皇からが、例によって途方もない分量で今代(きんだい)の逸聞集をつくり
たがっておいでであったとか、それは、どういうことなのか。もう源氏や狭衣(さごろも)物語の時代でないという
ことは絵巻の題材ひとつ見ても分っていだけれど、つまりはこまごまとした事実や見聞の山は山なりに、
それをまた突き崩して新しい別の何かが面白おかしい形に創りだせるといった、後先(あとさき)のない計画ばかり
がお好きであった、ということか。
 大原へ見え、この善勝寺へも二度三度とおいでになると、「保元」「平治」の方は誰それにまかせた、
あれしきのことで今さら興奮もしない、だから、だから「平家物語」をと□調をつよめてよく言われた。
幸か不幸か夥しい今様を聚(あつ)めた梁塵秘抄や和歌の千載集のようには治承寿永の合戦状はまだ不十分なよ
うだけれど、年中行事絵巻など形を得たもの、新撰風土記など得ずに終ったもの、なにしろ人手を上手
に使われご自分で手や□を働かすのもすこしも厭わないお方であった。世の中がいまいましゅう荒(すさ)んで
いるさなかにも、相手が心得た北面の者や女房ででもあれば、まず聞けと手を捉(と)るようにして、きっと、

78

今こんなことを思うているぞと風変りなことばかりをさも面白うてならぬお顔で話される。
 そうかと思うと、うとましいご自分の色恋沙汰をわざとぞんざいな□つきで話される。興が乗るとす
ぐ拍子をとって、まあこんな歌を御所のうちで聴くことかとびっくりするような、品(しな)下がった珍しい歌
をさすがにお上手にうたわれる。
「それでいてわたくしどもの申し上げますことを、こまごまとよくご記憶になるのですからね。うかと
した話などしておりますと、離れた所からでも、以前に申したと違うではないかと、私など、よくお叱
りを受けたものでございます」と資時。
「人を多勢寄せてみなで何かをなさるのが、お好きでいらっしゃいましたね。それも、従前になかった
ことをね」と阿波内侍。
「それでよく近習の者は困らされました。なにしろ清少納言は好かないが、あの、『人の噂話ほど面白
いことを、どうしてせずに居れようか』という、あれには感じ入る、と仰せになる方ですからね、人が
寄っておればすぐ、なにか面白いことを思いつかぬか、ではない、思いつけ、と笑ってお責めになる。
むかしの信西(しんぜい)殿なんかはどうだったのでしょう、妙音院の師長(もろなが)殿やわたくしの父などはそういう思いつ
きが上手でございましたね。以前の、法性寺の大殿(おおとの)(忠通)もそういう方面では御前とはうまが合った。
いやわたくしなど、ろくな智恵も出ませんでね。で、たいがいは、御前がご自分で仰せ出されました」
「色懺悔なんかね。これも讃仏乗(さんぶつじよう)の因である、ありのままに銘々秘め事を語り申せ、でしょ」
「あれは──」と、資時はこのごろすこし猪昔気味の肩さきを思わず揺(ゆす)って笑いだした。
 この話、後白河院に強いられ小侍従という女房が忍ぶ逢瀬を物語ったのである。情緒纒綿、一座

79

は鳴りを静めて聴き惚れていたが、語り終えたところで、事もあるにその逢うた恋の当の相手であった
院が、躍気になって「怪しからぬ」その男の名を問いつめた。
「申し上げてよろしゅうございますか」
「おお申されよ──」というので、結局院は袖に顔を隠して遁げだした。
 だが、資時が言うには、ああいう場合けっして御前は忘れておいでなのではなかった。あれがあの方
の天性猿楽(さるがう)好きというもので、小侍従と腹を合してというではむろんなく、それでもわざとあのように
露わな返辞を強いてしまって、咄嵯にいたたまれないふりをなさる、どっと人もどよむ、のを、そのじ
つご自分が楽しまれている。
「ですから、本当に面白かったのは、小侍従が御前を指さし申したからでない。その時の御前のお遁げ
になりっぷりですよ腹を抱えましたのは。お上手なのですよ、こうネ」と資時は一度身を起しかけ、
「とても真似はできない」とすぐやめてしまった。
 阿波内侍も同じような話を叔父に聞いていた。女院の前では憚らねばならぬ話題であったが、どうせ
昔ばなしを始めれば大小となく平家のことはやりすごせるものでなく、女院も側近にあまり気を遣わせ
まいとしていた。それに今となっては本当に有ったことを有ったまま知ってもみたい。で、内侍もちょ
っと女院に会釈をしておいて、話は、例の鹿(しし)ケ谷の一件であった。
 大納言成親を盟主に西光法師や平(へい)判官康頼らが俊寛僧都の邸で、平家を討とうと合議した席での法皇
が、やはり今の資時の話にそっくりであった。なにか物騒な談合らしいと案じてお供をしてきたいわば
院には乳(ち)兄弟の静憲(じようけん)法印が、話の成行に呆れ、今にも六波羅へ洩れ聞えて由々しい事になりますぞと真

80

顔で警(いまし)めたところ、あのずんぐり太った成親が顔色を変えて思わず座を起っはずみに、狩衣(かりぎぬ)の袖にかけ
て院の御前の瓶子(へいし)を引き倒す。と、すかさず院はまるで謎々の題を出すぐあいに、
「この心は──」
と、どんと片膝立て、こぼれる酒に目もくれず大きな声で一同に訊かれた、という。
「まア、人が胸衝(つ)かれてみな青くおなりの最中ではございませんか。そんな時に、この心は、と仰せ出
されるそういう所は、じつに不思議なお方でしたね。叔父の法師もよほど胆の坐った人ですけれど、あ
の場の御前を目(ま)のあたりにした時は仰天したと申します。勿体ないながら讃岐の院が、武にもあらず文
にもあらぬ四宮(しのみや)と御前のことを謗(そし)られたとか申すことが、当っているのやら大はずれなのやら、ただむ
やみに総身が顫えたとつくづく申しておりましたけれど、──もっとも大納言もさすが興言(きようげん)はお上手で
したね。平氏が倒れました、などと。そういう御利□が何より故院のお気に召していたのでございまし
ょ。もう叔父のはらはらなどそっちのけの空気になって、お酔いにもなっていたのでしょう、御前は、
誰ぞ、成親の今の利□を種に猿楽(さるがう)して見せよと、こうネ、腕を肱(ひじ)までお出し遊ばして振りまわされたそ
うですの」
「それは、何とも──有りそうなことで。この話、いただきますよ。行長に聞かせたい」
 内侍の話に先が有ったことは我々も心得ている。「者ども参って猿楽仕れ」とは、即興に滑稽物真似

を演じてみよという意味で、誰もせぬなら自分がというほどの興がりょう、それを、「笑壺(ゑつぼ)に入(い)らせお
はしまして」と、資時から又聞きに行侵入道は巧く治承記の筆に乗せた。

81

平判官つと参り、「ああ、あまりに平氏の多う候ふに、もて酔いて候」と申す。
俊寛僧都「さてそれをばいかが仕るべき」と申しけれぱ
西光法師「頸をとるに如(し)かず」とて、瓶子(へいし)のくびをとってぞ入りける。
(浄憲法印はあまりのあさましさにつやつや物も申されず、返す返すも恐ろしかりし事共なり)

 こう仮りに覚一本が伝えた本文(ほんもん)を科白(せりふ)とト書に割って書き写してみると、酒の勢いのこれが即妙の寸
劇であったことがよくわかる。三人がわざわざ座を起って、身振も剽軽(ひようきん)に、法皇や法印を観客に度ぎつ
い役を演じてみせている。まんまと瓶子(へいし)(平氏)の頸を取り退場してみせた仕草も酒気芬々と眼に浮か
んで、まったくの巫山戯(ふざけ)であった。これが当時、猿楽仕るという折の俳優(わざおぎ)なのであり、後白河院の一言
で「御謀叛」の密会たちどころに一場の狂言と化したのであった。
「──で、治承認はもう、よほど──」
「でも、ないのです。というより、妙な申しようだが難産してますよ。故院のご在世中早うに、ご存じ
のように時長の民部が保元記、平治記なみに三巻分のあらましはこしらえましたけれど、例によって六
波羅殿への筆づかいその他が貧相でしてね、お気に召さなかった。御前はあれで清盛公の、それは理解
者でしたから──というのはネ。どこか共犯者というくらいなお気持がご晩年にはいつもおありだった。
 マ、それに盲目(めしい)に教えて憶えさせるのに時長の筆では言いまわしがいちいち窮屈でした。なに私は、
それが故院の厳重な仰せであったものですから、ただ佐女牛(さめうじ)辺の法師(めくら)のためらくな琵琶の手を副えて、
すこしでも憶えよいよう誦(よ)みよいよう詞(ことば)に調子をつけてもらう工夫を、傍に居てしたわけだが、面白く

82

作るという気のない人でね、あの葉室(はむろ)時長とは、どうもうまくいかなかった。
 これは、今の後鳥羽院の上も栗田の僧正(慈円)殿も同じお考えで、あれほどの源平合戦でしたもの、
保元平治の場合よりずっと太い骨組をもたせなけれぱあの大波欄を叙してなお秩序立った感銘は産みだ
せませんよ。僧正は今もってこれにはご反対だが、必要なら嘘を創りだしてでも面白う一と筋は通さね
ばならぬ、事実がなんだ、乱暴なようだが、嘘は、いわば歴史を生かす空気なのだとあの故院は、よく
仰せられましたよ。が、そういう理屈は、少くも堅物(かたぶつ)の時長には通りません。だから時長には、保元記
と、とくに平治記の方──、鎌倉の頼朝が、この正月に急に死にましたからね、五十三歳ですか、そこ
までの記事を追加しておく一方、あれだってもっと語りやすく詞の吟味をしてもらう。しかし、治承記
はいったん白紙に戻して、題も心惹くものに替えよ、巻数も増やせというのが後白河の院の、申さば、
御遺言でした」
「それを──、中山行長殿が」
「あの御仁もたいした変わり者だが、当代あれほど筆の立っ人はいませんからね。それに時長とは従兄
弟同士でいて、これは阿波殿のご一統と違うて、えらく仲が悪い。行長はあの賢こぶった時長に一と泡
吹かせたくて仕様がない。九条の大殿(兼実)には永くお仕えしてきた人ですからね、弟御の僧正殿か
らもお□ぞえがありましたことでこの私が、御前のご内意といったことをちょっと伝えに、つまり水を
むけに中山まで参りますと、いきなり、全部任せてほしい、と、こうでしたよ」
「全部、を、ですか」
「そうです。しかし絵空事ではないんで、いくら行長の父御が弁官の時分からの文書類を手もとに遺し

83

てあると言っても、せいぜい治承四、五年から元暦(げんりやく)ごろまでで、そればかりでどうなるわけもない。こ
ちらも、というと院や栗田でも、ということですが八方手をつくして物や人を揃えている。私など、そ
の為に御前の仰せで官途を見限ったわけですからね、それだけのものは、謙虚に有効に使ってほしい。
また使わねばできる仕事でない。
 巷の説経法師や平家語りが勝手に語っているのは噂ていどのものだけれど、それも聞書きに、私はず
いぶん拾い集めましたよ。面白そうなのは故院が直々に御所ちかくへ呼んでお聴きにもなっています。
妓王や仏のあの話なんかがそうです。それと、何度も申しますが、日本紀や続紀(しよつき)ではないんで。一部二
部のむずかしい本を手から手へ写して読みまわすより、むかしから雨夜内親王(あまよのみこ)の身内と称する御前(ごぜ)や座
頭(ざとう)どもに教えて、鴨の川原で積塔(しやくとう)の、納涼(すずみ)のという機(おり)には世の民草が頷き頷き聴くことのできる物語に
つくれというご意向が、磐石(ばんじやく)のように重い。とても行長一人の名作が望みなのでない、そこをよう分別
の上で、奮発せいと行長には言い含めたわけですよ」
「それで、院は」
「故院は三つの点で、あらためて行長の出した案に感心なさったのです。一つは時長の三巻を、六巻に
すること。その後に手にいれた聞書きの量が、多いからね。二つは各巻をすべて何年何月何日と日付で
語りはじめるなど、叙事に編年の体をきっぱり立てること。歴史ですからね。三つは、題も治承記でな
く平家の物語として大筋を一貫させ、おそれながらやはりあの大原御幸で巻を閉じること。これに対し
て後白河の院は、大鏡や、この頃に出来た今鏡、水鏡などの文章では朗々としかも聴き宜(よ)うは語れない。
まして謡えない。調歌(おうが)するに好都合な、かつてない文章の体をこの資時とも申し合せてよく工夫せよ、

84

と──」
「それは、いつごろの事でしたの」
「私の父が亡くなった年です、文治四年(一一八八)でした。こちらの御所様はまだ大原にいらしたし、
去年とうとう──の、あの六代御前が、高雄の文覚房(もんがくぼう)の手の内にまだご健在であった」
「で、そういう方針には──」
「反対もございました。それもなかなか強かった。とくに栗田の僧正殿、あの時分は無動寺の検校(けんぎよう)でい
らしたが、あの方などは平家物語でなく、源平合戦状、源平盛衰記、源平闘諍録などと、今もまだ源平
の興亡記ということを事あるつど仰言るので、行長も敬遠して近寄らないのですよ。どうも僧正殿には
鎌倉を立てておくお立場がある。それに、ご自分でも何か歴史のご本をご思案のように見えます、が」
「──」
「故院は、根はよほど源氏より平家をお認めでしたからね。それは摂関家の方とは違うのですよ。鎌倉
に対してはすこしも気を許されてなかった。僧正殿にはあれでまだ公家(くげ)の世に希望がお有りになるが、
あの御前には、ご自分が亡くなられたあと所詮武家の成敗にまかせて世は東国になびくに違いない、と
いう不如意なお見通しというのがはっきりありました。で、結局そういう世の中になってしまうにして
はあまり多くの者を死なせ(三字傍点)すぎたと、ご最期ちかくはとかく苦笑いばかりなさっていた。彼世(あつち)へ行って
清盛と顔が合せにくいと。
 ──それと、大きな声では言えないが、義経が奥州衣川で殺された時分から、故院は、これで頼朝も
長くあるまいとお読みであった。東国武士たちの望みや北条氏の力についてもようお調ベでしたからね。

85

だからこそ、ただ平家(二字傍点)の物語でよい、平家物語でよい、と。平家を栄えさせたのも自分、滅びさせたの
も自分、麿と清盛とは、互いにそういう身の定めであった、それを、畏れ多いがこの建礼門院の御所様
とご対面の大原御幸で、ぜひ締めくくるようにと、くれぐれも仰せられて──。そこへ至るまでは、麿
のことはあまり表むきに書くな語るなというのが大方針でした」
「それで、もう六巻まで、行長殿はお書きになったのですか」
「いえ、それはまだまだ──。時長の三巻本は、あれはあれで大原御幸まで事実どおりちゃんと書いて
はいたのですが、その、事実どおりという点にあの故院はご満足なさらなかった。味けない、と。それ
はあなた、巻頭からがすでにそうでした。いきなり『仁平三年正月十五日刑部卿(ぎやうぶきやう)平忠盛歳(とし)五十八にてう
せにき。清盛嫡男たるによってその迩(あと)をつぐ。保元々年七月に宇治の在府代(よ)をみだり給(たまひ)し時、安芸守と
て御方(みかた)にて勲功ありしかば、播磨守に遷(うつ)って同(おなじ)き三年太宰大弐になる。』──これでは保元記、平治記
の書き出しよりもまだ味けないでしょう」
「それで、祇園精舎(しようじや)の──」
「そうです。あなたには話しましたね、祇園精舎の鐘の声、あれが出来た。建久、二年の新緑のころで
したかね。さしあたり六巻本の行方はあれで決まったのですよ。行長が、弟御の法蓮御房(ごぼう)の知恵を借り
まして書いてきた。思わず手を拍(う)ったね。節をつけて私が御前に誦(よ)んでお聴かせしましたが、お喜びと
いったらなかった。法蓮房信空といえば法然上人念仏の一の御弟子ですからね、これまで天台の山門や
栗田殿とは何かと厄介な問題がある。が、行長はとくべつ信、心のある人ではないが念仏門に対しても独
特の勘が働くとみえて、毛坊主や聖(ひじり)に語らせるには、これだというのですよ、これだ、と。御前は私の

86

手から琵琶をお取上げになると、もう早や□うつしに、諸行無常の響ありと語っておみせだった──」
 資時にはまったく忘れがたいことばかりであった。あれは決してただ月なみな「諸行無常」でない、
という話を内侍相手にひとしきり熱心にしはじめた。これをものの初めに語って聴かすことで、数えき
れぬ人数を修羅の巷に追いいれ死なしめたのが、ただ清盛と平家だけの「悪行」でないという秘かな自
覚を、平家物語の全部を通じて言いおおせるであろうと後白河院は、お考えになった。だから、行長自
信の作文(さくもん)を嘉納された。これで、あとは任せるとまで言いきられた。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おご
れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ。

 低声(こごえ)で語って聴かせる資時の美声は、楽器の必要もなく、ちいさく膝を打つ手拍子にも、さすがあの
一度二度ここへも伺候した与一などと違う重代の芸の奥行があり、優しみがあった。
「御所も、あれで、聴いておいでですよ」
 阿波内侍は囁き、資時は畏って、他にも人影の動いて見えるその方へそっと頭(ず)を低くした──。

 聞くとなく、女院はこんな話も、まして手狭(てぜま)な寂光院の頃はよく耳にした。これも罰のうちと諦めて、
ああそうかと頷き、そうだったのかと驚きもしながら、さすがに一年二年はただ心憂く情けなかったが、
つくづく寂光院の春秋が無聊(ぶりよう)に思えだしたころからは、たとえそれが平家一門の不幸であっても、強い

87

て、いや進んで聞く気になった。むろんそれをしも退屈しのぎ、とは誰にも言わせない。平家の正嫡六
代御前といい、紀州へ落ちていた丹後の侍従忠房といい、大炊御門(おおいみかど)の養子になっていた土佐守宗実(むねざね)とい
い、みな亡き長兄重盛卿が愛(かな)しい者に思いのこされた和子(わこ)たちが、次々に斬られたり死んだりして行く
噂には胸つぶれた。泣いて身を縮めた。しかし身を縮めながら源氏といわず平家といわず、この先々の
世が結局武家の成敗にゆだねられて行く限りには、公家とは別の、いわば公家のただ侍(一字傍点)では決しておれ
ないがための血腥(ちなまぐさい)作法も守って行くしかないらしいと女院は思い知った。
 女院は阿波内侍から保元、平治の出来事をこまかに学び直していた。保元の乱では源氏も平家もただ
持分を出られなかった。公家の言うままに追い使われながら、しかも父清盛は、仲の悪かった叔父忠正
を敢て斬って、源氏の義朝にも父為義や弟たちをむり強いに斬らせた。
 あの時に流した血のにおいが武家を眼醒めさせ、平治の乱は、もうはっきりと源平の闘いであった。
公家はどう手の施しようもなく、清盛は再び幼い幾人もの源氏の血を流した。
 そのお返しに今源氏が平家の腹の中の子までを殺し尽しているとして、父が悪かったとか頼朝が酷(むご)い
とか言ってすむことでない。それが武家の作法になったおかげで平家も源氏も公家の侍でなくなれたの
なら、かりにも清盛の娘が、ただこの成行を泣いてすむことでないとも、安徳天皇のこの生母平氏はよ
うよう思い知らされてきたのである。それどころか目の前の阿波内侍のその祖父信西入道を殺したのも、
清盛勝利の平治の乱であった──。
 つまりは竹の筒から覗くくらいにしか世の中が見えてなかったと、そう気がつくと呆れるほど竹筒は
おろかふっふっと眼の前の雲、霧が払われて行く、寒いくらいさっぱりした爽やかさを女院は覚えはじ

88

めていた。この、にわかに説明のつかない感じから、なに不自由なかった九重(ここのえ)の雲の上のまだ奥で暮し
た歳月を想い直してみると、面白おかしかったようでさて何が本当に面白かったとも指折り数えようが
なく、むやみと眼の前を綺麗なばかりのものがふわふわしていた気がする。
 頼朝も死んでしまった、今、建久十年。あの資時や阿波内侍が四十一、二歳になるという──。
 そう言えば寂光院でのまる一年が過ぎ、ただならず紅葉の美しかったある日に、前ぶれなくむかし歌
詠みの俊成(しゆんぜい)の娘分ということで仕えてくれた女房右京大夫が訪(おとず)れて、泣きに泣いて帰ったことがある。
あれも阿波と同い歳のはず、あの清経とは気象の違った兄資盛と、はでな噂のあった事も知っていた。
美しいというではない。が、円顔が愛くるしく、いつもころころとよく右京大夫は笑ってばかりいた。
手蹟(て)は世尊寺流の伊行(これゆき)が自慢にした娘でまばゆいくらいに書いたし、笙や笛は重代の大神(おおみわ)基政の孫、そ
れも名人の誉高い夕霧を母にもって、そのうえ和歌も器用に詠んだから、女信西(しんぜい)などと公達(きんだち)に敬遠され
た阿波と違い、たいそうな人気者であった。それが、ふっと暇を取ってしまい、それきりになった。母
の病い重く永の別れをしたらしいが、養和寿永のあの慌しい限りの間にも、資盛はむりを重ねて東山や
西山の遠い所まであれには逢いに通っていたとか。そんな思い出ばなしに身も世もなくああ泣きに泣か
れて、阿波内侍などが貰い泣きしながら慰め役に廻っていたくらい、資盛とは切ない恋をしていた。
 あの資盛のことは、建礼門院もとても忘れられなかった。関白松殿の御事に無礼を働いて平家悪行の
始めと謗(そし)られた十三か四の昔は、もうもう腕白が自慢の鼻つまみであったが、都落ちのあと柳浦で思い
がけず弟清経にあんな寂しい死に方をされ、また屋島の行宮(あんぐう)から兄維盛(これもり)や弟忠房にも姿を隠されてしま
って、あれほど向意気の強かった資盛が、ほとほと平家一門の中で肩身狭そうにひっそり蒼い顔をして

89

いたもの──。
 合戦となれば死に場所を求めていたのか、はらはらする手荒な軍(いくさ)をするとみなに眉をひそめられてい
たが、壇ノ浦の最期といえば──。今はと眼と眼を合せ六尺豊かな教盛(のりもり)、小胆りで色白な経盛の叔父二
人が、鎧の上へ重い碇(いかり)を負うて手を組んで水しぶき高く入水(じゆすい)されたあの時、女たちの天に届くような悲
鳴も容赦なく寄せ返す荒波にうち消され、泣くに泣けず、眼を瞠(みひら)いて辺りのさまを見守るばかりでいる、
と、あれで波の上一段(いつたん)ばかり離れた大きくもない舟の艫(とも)に、はっと血の凍る静けさであの資盛と弟の少
将有盛、従兄弟の左馬頭(さまのかみ)行盛の三人が総身に枝が生えたように霧しい矢数(やかず)を立てたまま互いに背を合せ、
三方をにらんで突っ立った。敵も味方も一瞬鳴りをひそめるうちにも三人はゆっくりとその場で一とま
わり二たまわりするのが、正気の生きた人と見えなかった。とうに死んでいるのか、むしろ此の世なら
ぬ阿修羅か何ぞのように、兜を戴いた顔といわず手脚といわず血汐を垂れながら、眼は虚空にぽっかり
浮かんで──。
 よき大将とみて我に返った源氏の兵船から射かける矢は美しいまで幾筋も糸をひいて波の上を走る、
と、ぐっと三人の身動きに生気が戻り、おうと喚(おめ)いて三人ながら一つに向きあうともう全身で頷き、幼
いほどの行盛の鎧の引合せを腕(かいな)を撓(たわ)めて有盛がまず刺し、その有盛と資盛とは、互いにのけぞる頸と頸
とを、一気に太刀先に貫くと庇うように一つに肩を抱きおうて、横倒しに、どうと海の底へ沈んでいっ
た──。
 仲が良く、とかく重衡(しげひら)を兄分に立てては温和しい清経を袖にし、物議ばかりかもしていた気のおける
甥たちであったが、あの時は身に替えても、死なせたくない、と夢中で神、仏をお恨みした。掌(て)と掌(て)を

90

握りしめて思わず仰いだもう夕空を心ない海鳥が幾羽も小さく黒く奔(はし)りさって、朱(あか)らひく雲を斜めに黄
金色(きんいろ)の太い柱のような日光(ひかげ)がどこと知らぬはるかな山の端へ、突き立って見えていた。
 ──あの時、右京大夫に資盛の最期のさまを話すかどうか迷ってしまい、結局、黙っていた。以来十
三年、今また宮仕えのかたわら幾度も訪ねてくれるけれど、いまだに話せばただ泣かせてしまうだけの
ことと思い、阿波にも言うなと制(と)めてある。自分も泣きたかった。事実、泣けてしかたなかった。が、
そのうちに、右京大夫の涙を、多少よそのものに見る眼ができているのに驚いた。
 そう、あれほど泣くのはいじらしい。が、右京大夫の涙の奥には承安、安元の昔のあんな宮仕えの華
やぎを、あたかも失った若さを望み返すように懐しむところが有りすぎる。
 安元三年(一一七七)春、といえば重盛、宗盛が揃って左右(さう)の大将に並ぴ、平家は湧きたったが、そ
のかげに成親(なりちか)ら藤原氏の怨みも底籠っていたのに思い及ばなかった時分のこと、あれはそう、事の起こ
りは高倉の主上(うえ)が仰せ出されたのであったらしい、知盛、実宗(さねむね)、あの引っこみ思案の権亮(ごんのすけ)維盛まで加わ
っての悪巫山戯(わるふざけ)で、重衡と隆房がまず盗人の風体をまねて、西の台盤所の、すこし端近い遣戸(やりど)の辺に臥(やす)
んでいた御匣殿(みくしげ)や大納言佐(だいなごんのすけ)、右京大夫、小少将らをそれと知られずに顫えあがらせ、唐衣(からぎぬ)や袿(うちぎ)をみな脱
がせて持ちさったことがあった。泣きふしてしまった佐(すけ)は当の重衡の妻でさえあったのだから、隆房な
どまして面白おかしくその話を何度したかしれず、また大笑いして聴きはしたのだが、それほど怖いめ
に遭った何がよくてか、右京大夫は泣きみ笑いみ大原へはじめて来てくれた文治二年の秋の半日にも、
あの悪巫山戯を結局一番の話題にして帰っていった。
 知盛兄は壇ノ浦に、維盛は熊野の沖に沈み、そして重衡は南都等々の大衆に渡され斬られた。今もこ

91

こに髪を白うして音もなく暮す佐局(すけのつぼね)と、今はの際(きわ)に日野の里をよぎる道すがら一と目逢うて行ったの
が、かえって、心残りを増したと死に後れた妻が泣くのももっともだが、右京にせよ佐(すけ)にせよ、それはひ
たすら、死なれ(二字傍点)た涙。だが、自分のはもっと酷(むご)く、あまりに多く死なせ(二字傍点)た涙と、同じ心の後白河の院も
おわさず、誰にこの苦しさを告げることもならぬ──。
 そういえぱあのころ頭(とうの)中将であった実宗(さねむね)もよく御所へ顔をだしては、名手と聞えた琵琶や歌をしみじ
み聴かせてくれながら、なにかというと右京大夫に目をつけて琴弾けと言うのを、あれは、例のころこ
ろ笑うばかり、「こと(二字傍点)醒ましになるだけですもの」と酒落た軽□ではぐらかしては風流男(みやびお)たちを躍起に
させていた。
 右京のあんな利□も主上(うえ)や重衡らのあのような悪だくみも、あのようなことが、隆房にしても涙ぐま
んまでくさぐさに書きとめて懐しがるそれほどの事で本当にあったのであろうか。
 毛筋も慴(おび)えた顔は見せずに死んで行った清経をはじめ、一谷の忠度(ただのり)、敦盛、通盛、知章(ともあきら)や、壇ノ浦で
の資盛、教経、知盛らの無残な死にざまばかりを風の鳴りや潮の響ともろともに眼に耳に灼きつけてき
た身には、同じ流す涙の色も味も、まるで違う。それとても思い上がった言いぐさと我から我に言い聞
かせ、せめてそう□にはだすまいと、心を警(いまし)めながら、要するに同じ興言、同じ猿楽にせよ、あの御位(みくらい)す
ら危い瀬戸際にいて俊寛や西光に「猿楽(さるがう)仕れよ」と咄嵯に命じずにおれない亡き後白河の院のあれと、
隆房らのそれとでは、遊ぶ心根の図太さというものがずいぶん違っていたと思う。
 あの法皇というお方は、たとえ生き死にの間際が迫っていても、ふと思い興ずるものが胸の内にきざ
すと、もうその瞬間に、人がようせぬなら自分でなりと猿楽して悦ばずにすませない虫を、心中にいつ

92

も養うておられた──。

六 灌頂の巻

 建礼門院徳子は、正四位下安芸守(しようしいげあきのかみ)清盛の娘として久寿二年(一一五五)、保元の乱の前年に生れてい
る。が、父はこの娘を妃(きさい)がねと認めていなかった。生れるとすぐ、十九歳年長の異腹の長兄重盛の養女
となって育っている。高倉天皇には、のち六条の摂政基実(もとざね)に嫁いで白河殿と呼ばれた盛子の方を清盛は
入内(じゆだい)させたがっていた。それを白紙に返したのが、徳子を重盛の手から預かっていた高倉生母の建春門
院であり、その実は、ふとしたことから稚い徳子を溺愛した、まさに、後(──字傍点)の白河院その人であった。
 中宮徳子の幼時をしのぶ逸話は異様に寡(すくな)い。その中に、彼女が屈託なく、さて妙に寂しくも育ったこ
とを想像させる文字どおり一つ話を伝えておくのは無駄であるまい。徳子がはじめて後白河上皇の御所
に伺候したのはむろん童女の昔であったが、例の資賢や師長ら近習を寄せて今様など朗詠の最中、ふと
物好きな院に戯れに水をむけられると、この浄海入道の孫女(二字傍点)は即座に幼い声をはって謡いあげた、のが、
何とこんな田植唄であった。

おもしろや 京には車 淀に船
淀に船 桂の川に むかひ船

93

 一句を謡って「ソヨーノー」二句を謡いあげてまた「ソヨーノー」と掛け声もはればれと面白う、し
かしいかにもこれは意外な飛び入りであった。養父小松殿は「アマリイマイマシカリケレバ」彼女にそ
んな唄を教えた家女房の丹波を「追出(ついしゆつ)」せられたというのだが、ひとり院は大手を拍(う)ってのご機嫌であ
った。おそらく右の丹波とは柳浦に入水をとげた清経の生母に違いなく、彼に乳を含ませながらの子守
唄を徳子も無心に聴き覚えて育ったかと思うと、この話、可笑しくもありまた物哀しい。
 高倉天皇とまる十年の夫婦生活で、現に七年めにかろうじて安徳天皇を一人産んだだけで、中宮の腹
には他に一人の皇女すらなかった。が、天皇には小督局(こごうのつぼね)に産ませた皇女以外にのちの七条院殖子(たねこ)が産ん
だ後高倉院守貞および四宮(しのみや)尊成親王即ち後鳥羽天皇と、少将局腹の三宮(さんのみや)とがあった。夫としてどことい
う至らぬところのない、先の強盗一件のような、陽気さも度を越した遊びにすらうち興じる人ではあっ
たけれど、中宮との仲はますます穏やかで、小督ら他の女にみせられたひたむきな愛の対象にはついぞ
自分はならずじまいであったと女院は自覚していた。
 妊娠は、やっと治承二年(一一七八)春のことであった。むろん誰よりも清盛夫妻が騒いだ。祈祷に
加えて秋には特赦、大赦があった。あまり「へいし」が多くて悪酔いがするとよろめいてみせた平判官
康頼たちも、眼をうち窪ませて謫処(たくしよ)の鬼界島からやっと帰ってきた。
 十一月十二日に中宮は産気づいた。

 京中六波羅ひしめきあへり。御産所は、六波羅池殿にてありけるに、法皇も御幸(ごこう)なる。関白殿を始
め奉って、太政大臣以下(いげ)の公卿殿上人、すべて世に人とかぞへられ、官加階にのぞみをかけ、所帯所

94

職を帯する程の人の、一人(いちにん)も洩るるはなかりけり。

 しかし綾小路資時は行かなかった。好奇心のつよい中山行長の方は、後年を予期するともなく、当日
の詳しい手控えを書き置いていた。あの冷泉隆房も同じことを試み、これは麗々しく粘葉本(でつちようぼん)に仕立てて
清盛の妻二位の尼に献じた。女院もあれば読んで、女房に写させておいた。
 思いだすのもっらい難産であったが、それなのに隆房は中宮の苦痛はきれいに省略して、ひたすら皇
子降誕を寿(ほ)ぎ祝う言葉を書きつらねるばかりであった。ただ一つ女院が深く感動したのは、父清盛や毎
時子の動揺にひきかえひとり法皇が、満堂を圧して高らかに数珠押しもみ一気に怨霊を調伏されたとい
う事実であった。
 今、隆房の記は読むべくもないが、平家物語にのこる行長の筆はひときわの迫力に満ちている。

 かかりしかども、中宮はひまなくしきらせ給ふばかりにて、御産(ごさん)もとみになりやらず。入道相国(しやうこく)、
二位殿、胸に手をおいて、こはいかんにせんとぞあきれ給ふ。人の物申しけれども、ただ、「ともか
うも、よき様によき様に」とぞ宣(のたま)ひける。「さりともいくさの陣ならば、是程浄海は臆せじ物を」と
ぞ、後には仰せられける。

 平家を憎む怨霊はここぞと依代(よりまし)に憑(の)り移ってまがまがしく騒ぎ、名僧高僧こぞって火の出るほど祈祷
するがはかばかしい験が見えない。ただ安産を願っているのではない、いかに安産であれ生れたのが皇

95

女では、清盛夫婦には何の価値もない。
 この時後白河法皇は新熊野(いまぐまの)社へ御幸の途中立寄って、おりから精進の身もいとわず、ずいと中宮の臥
床(ふしど)近くに居坐ると、千手(せんじゆ)経をうちあげ誦(ず)する声は居並ぷ僧らの読経(どきよう)を圧倒し、「今一(ひと)きは事かはって」
思わず誰も誰もうち見守(まも)らずにおれなかった。

 法皇仰せなりけるは、「いかなる御物気(おんもののけ)なりとも、この老(おい)法師がかくて候はんには、争(いかで)かちかづき
奉るべき。就中(なかんづく)に今あらはるる処の怨霊共は、みなわが朝恩によつて、人となつし者共ぞかし。たと
ひ報謝の心をこそ存ぜずとも、豈(あに)障碍(しやうげ)をなすべきや。速やかにまかり退(の)き候へ」とて、「女人生産(によにんしやうさん)し
がたからん時にのぞんで、邪魔遮障し、苦忍びがたからんにも、心をいたして大悲呪を称誦(しようず)せば、鬼
神退散して、安楽に生ぜん」と、あそばいて、皆水精(みなずいしやう)の御数珠(おんずず)、おしもませ給へば、御座平安のみな
らず、皇子にてこそましましけれ。
 頭(とうの)中将重衡(しげひら)、其時はいまだ中宮の亮(すけ)にておはしけるが、御簾(みす)の内よりつつと出でて「御座(ごさん)平安、皇
子御誕生候ぞや」と、たからかに申されければ、法皇を始め参らせて、関白殿以下の大臣、公卿殿上
人、おのおの助修(じよしゆ)、数輩(すはい)の御験者(ごけんじや)、陰陽頭(おんやうのかみ)、典薬頭、すべて堂上堂下一同にあつと悦びあへる声、門
外までどよみて、しばしはしづまりやらざりけり。

 国母(こくも)とはよく言ったもの、皇子誕生、「あまりのうれしさに、声をあげて」泣いた祖父清盛にも祖母
晴子にも、もう高倉天皇や中宮徳子は用済みであった。

96

 治承二年の十一月十二日にやっと生れて、十五日にもう立太子、四年二月には一年と三ケ月のこの言
仁親王がはや践祚(せんそ)した。その間、女院には養父の重盛が四十二歳で亡くなった。失ってみれば平家には
太い柱であった。法皇はすかさずその平家の屋台を揺り、清盛は反撥して治承四年の十一月、院の勢力
を朝廷から一掃し院も鳥羽殿に押っ籠めた。挙句は強引に高倉天皇に退位も強いた。位を譲った新院は
まだようやく二十歳、保元の乱をさし招いた、いまわしい崇徳天皇あの即位の昔が囁きあわれたのはも
ちろんであった。
 この年は四月に凄い飆風(ひようふう)吹き荒れ、五月には以仁王(もちひとおう)を奉じた源頼政があえなく討たれ、六月福原遷都、
秋には頼朝、義仲が兵を挙げて、平家は、思わぬ富士川の脆い敗け軍に戦(おのの)いた。十一月また福原から京
の都へ還ってきたが、心も空の春から秋へかけて高倉上皇は二度の厳島御幸を重ね、その疲れでか呆気
なく翌る養和元年(一一八一)正月早々に亡くなった。そして閏(うるう)二月には大相国清盛入道の、世に恐ろ
しい死にさまが巷の声を凍りつかせた。人々は、前年師走二十八日、南都東大寺や興福寺の伽藍を片時(へんし)
に灰と焼き落した平重衡(しげひら)の悪行(あくぎよう)が、二人の命を縮めたと噂しあった。
 二月、久々に後白河院は法住寺御所に帰り住み、宗盛は政治向きをすべて院の采配にまかせている。
 ──ともこうも世はただ移り行き、さて喝采する気はないが、遮る気もない。しかしこれだけは聴き
届けていただく。先帝亡く清盛重盛も亡い今、何かの事があらば宮は帝(みかど)を抱き参らせて、必ず、麿と行
を倶(とも)になさらねばならぬ。
止?h了
 そう法皇の凄い忠告があったのが同じ二月の内であった。それ以前にも、主上の傳(もり)は人にまかせ、法
住寺殿へ来てのどかに住まわれぬかと誘われ、女院は断っていた。すると前触れなしに院は内裏に姿を

97

見せ、主上(うえ)への挨拶もそこそこに何やらけわしいほどの顔で女院の前から人を遠ざけ、いきなり脅しに
近い「行を倶に」といったことを言いだした。安徳天皇をひとり平家の帝にしてしまってはならぬ、そ
れは平家の為にならぬと言われても黙って聴き過ごすしか、女院には判断がならない。その他、こまご
まと人に洩らすこともならぬ話ばかりをされた中には、どのようにしてそれまでと、胸も顫えるほど源
氏の状勢に院はくわしかった。それすら女院を通じて平家に伝わるのも案の内なのか、伝わるまいとた
かをくくられているのか、よく分らないのだった。
 あの年、頼朝が抑えたはずの東国にも源氏に叛いて兵を興す者はいた。出足の鈍った源氏に、平家勝
つの報せも幾度も聴いた。むしろ源氏より、あの養和といった一年二年は飢饉こそ恐れねばならなかっ
た。合戦の兵粮(ひようろう)に事よせて諸国荘園から米麦も徴(め)しあげた。それももう平家の下知(げち)では果せず、院宣を
仰ぐこともあった──。
 院に対し、ただわけもなくいやと思う気持と、もはや此の世にあのお方より頼もしく思う人はいない
という気持とに、建礼門院はこもごも悩まされた。母は、二位の尼は健在であった。叔父も何人もいた。
宗盛、知盛という兄もいる。が、幼い主上(うえ)と自分の運命とを誰が万全に支えてくれるとは思えぬことを、
法皇は、毒を注ぐように女院に誡(さと)した。
 平家一門のうち、女院の揺らぎがちな心細さに誰より早う身を寄せて来たのが、父重盛に死なれた清
経であった。京都西七条朱雀の権現堂に、筆者不明の故内府重盛亡霊を供養する紺紙(こんし)に金字の千手経一
巻が遺っており、この他一帯を歓喜の森と昔から呼んで一画にたしかに清経が住んでいたので、彼か、
ないし彼に擬しての奉納と見られているが、経の見返しには稚拙ながら重盛が金三千両を送ったという、

98

宋の育王山寺(いおうさんじ)らしい堂塔の絵を見あげる体(てい)に瞑目合掌の一人の上■(じようろう)が真横から描かれている。女が誰か
はさておいても、この清経、女院と二人きりになると憚りなく、平家の世はもう終るのですとすら言っ
た。他の者なら容赦ならぬ言い草であったけれど、清経に言われると心がしおれた。じりじりと、その
通りになり行くらしい世のさまから眼を背けておれなくなった。
 清経には入宋(につそう)の希望があった。たとえ出家は許されずとも、往時の市隠慶滋保胤(よししげのやすたね)のような信仰もあり
学問もできる境涯が理想ですと、寂しい国母である姉(一字傍点)に、彼はよく愬(うつた)えていた。
清経は兄の三位維盛が絵のような優男(やさおとこ)なのと違い、大柄で物静かな男であった。もう一人の兄資盛ほ
ど機敏でも器用でもなかった。資盛はあれで、折を心得た巧い和歌など詠んで女を悦ばせる術を知って
いた。維盛は舞踏をさせれば光源氏さながらであった。が、清経は幼時こそひなびた面白い歌を□遊(くちずさ)ん
で、声も美しかったのを女院は憶えていたが、いつからかふっつり謡わなくなり、しかも和歌も人と詠
みかわすふうではなかった。
 意外なことに、二人の兄にさしたる戦功がなかったのにこの清経だけは北国の合戦で、めだたないが
何かしら、力をいつも見せた。力戦するのではなかった。敵の動きを高い確度で予測してあまり兵を失
わず、倶利伽羅(くりから)谷でも篠原合戦でも清経の手の者は毎度ほぼ無傷であった。皮肉まじりに秘訣があるか
と問われてもすげなく首を横にふる、が、女院にはただ、人も使いようでと話していた。真意はよく掴
めなかった。
 清経では忘れられない話があった。それは、彼がたしか十四、五の歳になるまで、とかく大人に嗤(わら)わ
れながら、源氏物語があるのだから平家には平家物語があるべきですと、すこしはにかんで言いだすの

(■:くさかんむり に 臈)

99

である。と、誰が光平家(二字傍点)なのか、それはまあ大殿のこととしても薫大将は匂兵部卿はと、きまって重衡
や資盛に揶揄(からか)われるのが落ちであったが、それでも家の記などそっくり重盛卿が清経の手に遺して亡く
なったという話を聞かれた時、法皇は、それはさもあろう、清経のいう平家物語とは、御堂(みどう)関白の栄華
物語に倣うつもりだからなと頷かれた。しかし、付け足してこうも笑いを含んで仰言った、「はて、そ
れが平家の手で書けるかな」と。そして清経が、これまたいつとなく、ふっつり「平家物語」を□にし
なくなっていた。
 思えば寿永二年(一一八三)の都落ち前にかつがつ顔が合うた際、清経は俯きかげんに音もなく近寄
ってくると、亡き父のあの預り物を悉く火中に葬ってきたのを「宮はお許し下さいますね」とすこし押
しっけぎみに囁いた。うつつ心なくなぜか強く頷き返していた。平家中の誰より早う死ぬことを、もう
動かしようもなく考えていた人のおっとり切れ上がった眼の色が、寒々と寂しかったのを忘れることが
できない──。
 清経とは逆に、最後の最期まで平家の命運を信じ、神わざのような戦(いくさ)を仕抜いた能登守教経は、福原
を落ちてからも、いや都にいる頃から、なぜ厳島に内裏(だいり)を移さないかと言いやまなかった。女には分ら
ない特別な理由があったのか、宗盛の大臣はまるで取りあげなかったけれど、あの軍上手の教経の言う
ことであるし、今に思っても、なぜ西海を右往左往しながら一度として平家に由縁(ゆかり)のあの島をせめて死
場所に選ばなかったか、詮ない繰り事だけれども一考の価値はあった気がしてならない。
「福原では都に近過ぎるのです」と、叫ぶように教経が、主だった一人一人に一谷(いちのたに)の幄舎(あくしや)でつめ寄って
いたとか女房が話すのを聴き、思わず深いため息をついた者は多かったはず──。

100

 本意なく都へ連れ戻された寿永四年四月、院はすげない見舞いを寄越されたついでに、例の平家文書(もんじよ)
はどうなったかとお問合せがあった。ございませぬとお返事を差上げたあと、堪(こら)えられず、泣いた。清
経が、よく焼き捨ててくれたとその時思ったのは院への腹立ちまぎれゆえであったか、もう今では筋道
通して思いだせないけれど、院が、はっきりと今度はご自分で「平家物語」をお考えであるらしいのは
分った。院がなさるなら、自分も何かせねばならぬ、おいとおしい主上(うえ)はじめ父や重盛卿や清経、知盛、
教経らの為にもと、芥子粒ほどのかすかさでそう思い、しかし、そういう自分の前途にあの時なに一つ
希望ももてなかった。思いたくなかったが亡き高倉院が十分自分のものでありえなかったと同様、亡き
安徳天皇も所詮吾子(あこ)と思えないあるふわふわと有難い存在のまま、この母の胸にも抱かれないで二位の
尼ともろともに深い波間に沈まれた。母よ、と振向いても下さらなかった──。
 ふと女院はもの思う現(うつつ)の夢を破られた。番(つが)いで尾長の鵯(ひよどり)が来て、やかましく鳴いて木の実を啄(ついば)むの
は、いつものことであった。それではなかった。放出(はなちいで)めいて、小部屋にしつらえたすこし端近にいるら
しい資時入道の話し声が、今日は、例になく生真面目に阿波内侍に何事かを申入れていたのである。
 

 この日、資時は円山吉水房(まるやまよしみずぼう)の前大僧正慈円と暫時面談してきた。堅い話ではない。髪こそ剪(き)ったがた
いして経を誦み習う気もない正仏資時であった。歌も詠まぬ、詩も作らぬ、が、洛中洛外の動静には通
じていた。いま誰は何処に住んでどんな話をしていたからはじまって、何の祭、どんな新しい風流(ふりゆう)や喧
嘩、どのような噂の種が播かれているか、これがどう面白くどうつまらないか、資時が話せば慈円はい
くらでも聴こうとする。聴き上手であった。事によっては聴きながら筆を持って覚えを取った。物の始

101

終は有興不思議、というのが九条兼実(かねざね)の弟、この、すでに二度天台座主(ざす)を経ていた前人僧正慈円(慈鎮
和尚)の、変わらぬ□癖であった。
 たとえばあの頼朝。平治のむかしに処刑される運命にあったのを池禅尼の命乞いで清盛は伊豆に放ち、
その頼朝によって平家は滅んだ。資時にすれば何度聴いた話かしれないが、慈円は繰返し同じこのこと
を考え考え直していたのである。面白い──そして不思議、と感じるそこの所にたしかな道理を見窮め
うれば、面白さ不思議さがひとしお深まるに違いない。慈円はその道理を京、鎌倉が並びたつ明日の世
の無事を願うためにも、何としても手まさぐり見出そうとしている人であった。生きて動いて変わって
行く世の中、の、その変わるという事実を支えている道理、を彼は誰にむかっても繰返し繰返し□にし
た。「おほけなく浮世の民におほふ」という自詠のふる歌を思わず□遊(ずさ)みにする人でもあった。観察家
の行長は、「叔父御の悪(あく)左府に似ておいでだ。いい所だけが似ている」と慈円を評していた──。
「──今まで、こんなものを見直していた」
 慈円は資時の方へ一枚の紙を手渡す、その、ちょっと恭(うやうや)しい手つきに資時も居ずまいを正した。文
治三年(一一八七)三月に後白河の院が朝廷奉公の人および遁世の人にも天下泰平の策を諮(はか)った院宣の
写しであった。「天下泰平、日トシテ思ハザルナシ。然ルニ七八年コノカタ干戈(かんか)シバシバ起リ、人ミナ
軍旅ニ苦シミ、民スベテ農桑ヲ忘ル」といった文字が見え、読み進むうちには遁世者に対し、「宜シク
念仏転経(てんぎやう)ノ余暇ヲ以テ、ツブサニ隠スコトナギノ諌言(とうげん)(道理の言)ヲ進ゼヨ。兼ネテ又当時ノ政務中、
モシ国ニ不利ナルモノ有ラバ、同ジク条貫ヲ勒(ろく)シテ以テ聴覚ニ備ヘヨ」とも有った。
 資時もむろん憶えていた、あの時にはじめて後白河院と当時無動寺の法印慈円との仲に黙契の如きも

102

のが成り立って、「平家物語」への大きな構想はまさしくこの間(かん)に胚胎した。そのためにわざと二人が
会談したことは一度もなかったが、院に昵懇の資時は、出家後は慈円の「坊官」として「扶持(ふち)」されて
いる一人であった。彼を介して保元、平治このかたを院と慈円とはともに「乱世」の二字で確認のうえ、
これを恣(ほしいまま)に巷説の蚕食するにまかせず、後世に正しく語りつぐべきものと頷きあった。慈円は院に夙(はや)
くその意図があったのを知り、畏怖の念に打たれながら、今は院の意を体して資時らの編纂に後援を惜
しむまいことを、冥々の裡(うち)に約束した。慈円はまったくその気でいた。但し慈円はより歴史らしい「治
承寿永記」ふうの、少くも源氏と平家とを平均に眺めたものを考えていたし、後白河院はともあれ壮大
な□承文芸(オーラルリテラチユア)の長篇を想っていたのである。
 あの頃はまだ葉室時長の三巻ですら中途を歩んでいた。後に知れたことだが、同じ時長による保元記、
平治記に対し、故信西(しんぜい)の家系が徐々に積極的に不満足な箇処から独自の改変を加えはじめる一方、もっ
ぱら子弟の一人安居院(あぐい)の澄憲(ちようけん)らの唱導で白河殿夜討の事や義朝幼少の弟悉く誅(ちゆう)せらるる事など説経場に
も続々登場しつつあって、それには資時も興味津々であった。たとえばその修辞と頓才、ないし説話を
法談にうまく結びつけて聴衆を酔わせる語り□に。
 そして同様の関心をもった人物として九条殿家司(けいし)の一人行長とも出逢ったし、保元平治記につぐもの
を私に心がけている家なり人なりがけっして一、二にとどまらないことも資時はつきとめた。彼は故院
や慈円と連絡を絶やすことなしに調査を重ねる一方、時長の治承記にかわる新たな六巻本の筆者に、下
野前印(しもつけのぜんじ)行長を擬していった。
 文才ある者ならいくらも候補者はいた。が、実際問題としては融通のきかぬ漢才であって当人が自慢

103

に思うほどは他人に、ことに下々の者には面白くも何ともない無用の長物であった。公家に内輪話を喋
らせるより神崎江口や青墓(おうはか)などの遊女(あそび)の□から聴く世間話の方がよほど刺戟的だと故院がよく嗤(わら)われた
のを、逆に故院の無頼と放埒を謗(そし)る種にした者もいたけれど、資時はそうは考えなかった。帝王の行儀
として如何(いかが)かということをべつにすれば、人が本当に頷くのは面白さに対してだけだ、といった大胆な
ことを言い放たれた故院のお心は少くも民衆には理解される──と、そうはっきり行長の□からしみじ
み聴けた日から、万事が、資時の心の中でもやっと順調に動きはじめたのであった。
 行長と資時との握手に、院も慈円も異存なかった。
 二人は、例の「祗園精舎の鐘の声」と、秀抜な「諸行無常の響」をうち出すのに知恵を貸した行長舎
弟の法蓮房信空を介して民衆に人気をえている法然の念仏義を、そして澄憲その他信西子弟の学殖と見
開を借りて唱導表白の文体を折衷してみる、そういう趣向で大きな「今様(いまよう)」を企画した。那須与一のよ
うな、なるべく名も知られ、むろん歌もうたえる法師に教えて語らせるという新機軸もやがて胸中にあ
った。それにも院や慈円は賛成であった。行長を弁の権官(ごんかん)に転じて、多少の閑暇と取材の自由とを与え
るように資時入道は院に奏請した──。
 以来十数年、元久元年(一二〇四)──というこの春を迎えて、乱世は相変わらず乱世であった。頼
朝が死ぬとすぐ鎌倉では梶原父子が誅された。佐々木経高、城長茂(じようながもち)とこもごも京都での反幕府騒動につ
づいて祗園社北嶺(ほくれい)と清水寺南都との争いも起き、鎌倉では、比企(ひき)氏による北条氏打倒の企てが失敗して
将軍頼家は伊豆修善寺に幽閉されていた。しかも怨霊は天下に満ち亡率は四海に溢れている。乱世は崇
り故──と慈円は誰に対してもそう言った。これを救うには仏神(ぶつしん)の冥助(みようじよ)を以て禍(か)を福に転じ、天下安穏、

104

泰平の祈願をひたすらに私無く行じるしかない。差当ってそれが王法為本(いほん)、仏法興隆を願う慈円の目標
であり、力を尽して滅罪生善(しようぜん)、攘災招福の祈祷あるのみと考え、そのためのある大きな事業を今興そう
としていた。
 資時流に言い直せば、滅罪生善とはすなわち保元以来寿永に至る戦死者の亡霊に対し、速やかに今代(きんだい)
が負うた罪を心より懺悔して、はじめて仏神の利生(りしよう)と加護を乞い祈るということも可能となる。慈円は、
時代の罪を一身に負うて懺罪(ざんざい)の行法、懺法(せんぼう)、を行なう根本道場を白河の官房に建立(こんりゆう)しようとしていた。
ひとえに亡卒怨霊を浄土の蓮台に鈎召(こうしよう)し、ひいては太上天皇の宝寿長遠を祈り奉って一天四海安穏快善
を請い願おうというのであって、これはひとり慈円の願いでなかった。兄の前摂政関白九条兼実もこの
鎮まらぬ世の乱れを源平興亡の戦禍に没した亡霊の所為(しよい)と考えていたし、鎌倉幕府も早く建久八年(一
一九七)、巷の妖言、流言に耐えかねたように八万四千基もの小塔を供養して保元以来戦死者の冥福を
祈っている。
 しかも今、後鳥羽院の院政は、日ごとに鎌倉方、武家方との対決へと露骨に身構えはじめていた──。

「それでね、そこの白川の真南、青蓮院の坂下にご存じのように僧正殿の白川御房がございます。あそ
こに、大懺法(だいせんぼう)院というのをご建立になる計画が緒(しよ)についている──」
「──」
「が、さてまた、巷では例の、琵琶を弾くのも弾かぬのも、髪のあるのも無いのもいろんな聖(ひじり)どもが、
説法や物乞いの種に合戦や政を談じて、諸行無常の盛者必衰のと語り歩いています。中には、私どもが

105

内々に伏見衆と呼んで与一やその他数人の者に一と句切ずつ教えましたのが、もうよほどの人数にひろ
がって、稲荷、東寺、清水(きよみず)、鷲尾(わしのお)、五条若宮、北野、桂や、鴨の河原などで人を寄せている。今までは
主に、鬼界が島流人(るにん)の物語と高倉宮御謀叛に関わる一連の物語が人気を集めているのですが、これは流
人だった康頼入道が双林寺に、それに成経殿も健在なこと、先頃はまた高倉宮にお仕えしていた信連(のぶつら)と
いう侍が久々に京へ姿を見せたりしまして、行長も精一杯に書いては筆を加え加えしていますからね。
 それどころでない。こうなると、面白い話がどこからとなくあとからあとから付(つけたり)に増えてきまして、
逆に、法師どもの方からこういう話も書いてくれい琵琶の手も、と頼んで参るやら、いつのまにか私な
どの知らぬ語りものが出来ていたりする。行長も私もまたそれに手を加えるわけで、正直の話、手に負
えない──」
「まあ、面白いこと──」
「そんな。面白がられては閉口するわけですが、なにしろ雨後の竹の子のようなことになってくる。僧
正殿も行長らにしても、根本は私の見るところお互いにすこし違ってはいるが、これも時勢、時運の然
らしむるところと観察されている。文治や建久の昔にはただの噂がふわふわ散らぼうていたのが、十年
十五年のうちに輪郭のある史実にも説話にも育ってきたというのです。
 但し慈円僧正はこれを、昨今の世情不穏を民意が咎めているのだから、より正確な史話が、むしろ道
理を正す史観が必要とおっしゃるし、行長などは、久しく地を這って生きてきた者が武者の世を歓迎し
て自身も膝を伸(の)して起とうとする、所詮は元へ戻らぬ新しい時代の傾向なのだ、歴史の面白さに今気づ
いているからだと申しておる。あの仁は、昔からではあるまいが、この仕事に取組んで以来でしょうな、

106
 

とんと公家(くげ)離れしているのですよ。その点は私などもそうだし、失礼だが、あなたの御一統も──」
「同類、ですね。どの叔父たちも申しますのですよ、これからの世はもう道々の者(四字傍点)が動かすのだなと。
公家も、はっきりと道(一字傍点)を立て通す家だけが生き残りそうな気がする、とも。それにしても、──烈しい
風が吹いたものですね」
「古代の花はみごとに吹き散らされたが」
「花の匂いは──」
「たっぷりまだ残っている。それが消え失せぬ間に新しい蕾が、どう、ふくらむか」
「それで──行長殿のその六巻本とかは」
「頼朝の死んだ昔も、もう五年も前になりますか、同じように訊かれましたね。──今度もまたある意
味で難産なのですよ。というのが先刻来の話の続きになるわけだが──じつは六巻は出来たのです。出
来たのだけれども、思っていた全部でなくて、例の祗園精舎からはじまって六波羅殿死去まで、要は治
承までで六巻にもなってしまいまして、仕方なく、仮りに今はこれを〈治承物語〉と呼んでいます」
「治承──物語」
「そう。時長の頃の〈治承記〉とは違う(二字傍点)という意味と、これだけで〈平家物語〉とはまだ言えないとい
う意味で。それに琵琶法師が語って程よく句切れる長さ、というのを一段一段に考える必要があったの
ですが、一句の長さが程よいと、今度は話が次々と増えやすくもなる。間へ間へ、はさもうと思えばは
さめますからね。行長の本意がいかにあれ、結果として全六巻の予定が、すでに半分で六巻になった」
「すると十二巻に」

107

「それで私からのお願いというのをいよいよお話しせねばならない、たしかに十二巻に、なりますでし
よう。まあ巻数は後で六巻にするも三巻にするも便宜にすればいい話ですけれどね、要は半分しかまだ
出来ないのには、一つは行長のお勤め、という事情もあります。
 が、他方〈平家〉語りと呼んでいます巷の語り手を、これまでは、せいぜい私や与一がおよその人数
や拡がりはつかんでいたが、もっとはっきりした形で、大きく把握する必要がある、というのが後鳥羽
の院や慈円僧正殿のご意向なのですよ」
「それを、あなたが──」
「いえ。と言っても当座は私も手伝わねばなるまいし、後々はやはり、私一存では、古来の例(ためし)にまかせ
て安倍晴明(せいめい)流の土御門(つちみかど)家に芸人の支配を頼みたいのですが、そういう策を立てる以前に、今の段階では
あれで存外に横に互いの繋がりを持っている毛坊主や法師の動きを、先に申した大懺法院に大きく取り
まとめようという構想を僧正殿はお持ちになっている。そして月々十五日には三昧の仏事を営んで源平
の死者を供養のかたわら、詩歌や舞楽に加えて〈平家〉語りをさせる。これは、──こういうことです。
つまり彼らに語らせる〈平家〉の物語を、公然、大懺法院から世に出す。ここで聴(ゆる)された者だけが〈平
家〉を語れるようにする、というわけですよ。そのためにも再度、というか一層というか、積極的に行
長の今の仕事を推し進めねばならぬわけですが」
「で、いったい何をわたくしに」と、阿波内侍はすこしまぶしそうな顔をした。
「御所様に、お叱りを受けるかもしれません──これは、あくまでも私の一存なのです。が、あるいは
故院の深い思召(おぼしめ)しが、この鈍な私に、今時分になってやっと心づかせたことと申せるかも知れません。

108

私、吉水房で、今日も大懺法院のことをあれこれ僧正殿のお□からうかがっていますうちに、ふと、と
いうより、はっきりと、こんなことを思いつきました。どうかお聴きを願いたい──」
 資時はいっそ大儀そうに居ずまいを正した。言葉は熱心なわりに心もちぼうっと、見ようによっては
うつけた顔をしている。なにかに夢中になっている時彼がこういう顔になるのを阿波内侍は、心得ていた。
お互い、四十六──歳か。内侍は黙って次の言葉を待った。
「六代御前のご最期があってから今年は六年め。あの大原御幸から数えますと十八年という歳月がもう
経ちました。今では、我々の平家物語も、六代殿ご最期までを書かねばならぬと決めています。予定外
の悲しい事実で、あのことでは文覚御房にも何度も行長と同道で会いましたよ、古い話もたくさん聴き
ました──たいした人物だった。思い起こすと、あの御房がいきなり神護寺へ御奉加とやらで故院の御
所に乱入して来た日が、承安三年(一一七三)四月のいつでしたか、ほぼ三十年も遠い昔のことになる。
今度、改めて勧進帳を読んだが名文でね。あれで気さくによく話すお人で、至極物覚えがいい。行長
と二人して話の合間も別れてからも溜息のつきどおしでしたが、なかなか、あの文覚房の存在というの
は頼朝挙兵から六代殿の被斬(きられ)にまで太い芯を通しています。この春にはまだまだ老いの一徹が過ぎて流
されてしまいましたけれど──ともあれ、私どもは今のこの平家語りを、いわば〈断絶平家〉と呼べる
ようなものとして一貫させたいと志してきたわけですよ。少くも行長や私はそう考え、内々にそう呼び
合うてきた──」
「──」
「しかしながら、今年はご存じのように後白河の院の十三回忌に当る。それで、と申すとなンだが私は

109

よくあの大原御幸のことを想い起こしましてな。思えば思うほどあの御幸には故院の御思い入れが深か
った。なぜにあの御幸(ごこう)をことさら思い立たれ、なぜにあの御幸を以て平家の物語を結ぶよう思召された
か。申さば〈断絶平家〉ならぬ〈追悼平家〉というお気持が故院には並々でなくあったからではないか。
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響ありとお聴きになってああもお手を拍(う)たれたには、大原御幸のあのご
対面に、あの文句と首尾照応する情(もの)をつくづくお籠めになりたかったのではあるまいか──」
「おっしゃること、──すこしずつ分ってきたように思いますわ」
「そうですか。ですと、話がはかどる。──時長はむろん文治二年(一一八六)の大原御幸までで彼の
三巻本の筆を擱(お)いていた。筆つきは味けなかった。これを今、行長ははっきり建久九年(一一九八)の
六代被斬(ろくだいのきられ)までと予定して筆をやっています。むろんその方が〈断絶平家〉の考えをより明確に打ち出せ
る。へんな言い方を致しますけれど行長はこれに満足しています。こちらの御所様の都入り、吉田入り、
御出家から大原入りまで、みな編年の体に順を追って叙して行く段取りはつけてあって、当然あの大原
御幸にも丹念に筆を用いるはずでいます。が、なお考えが決まっていないのは建久元年(一一九〇)に
大原の寂光院をお出ましになり、ここ白河善勝寺にお渡りになっている事実も叙すべきか、それは触れ
ずにおくか。これはもう私は、はずしていいことと思うているのですがね。
 ──で、やっと本題に入るのですが、行長にも誰方にも相談してみたわけでない、が、私は平家物語
に今一つ故院のご遺志を汲んで〈追悼平家〉の性格をどうかして明確に持たせてみたい、と願いはじめ
た。それには、六巻でも十二巻でもいい平家物語のその後(うしろ)の部分に、べつに、申さば建礼門院物語とも
いうべき一巻を付(つけたり)に加えてみる。その中心に、大原御幸のあのご対面を置く──」

110

「まあ、よろしいこと──」
「本文の方にも故院はよくよくの場面にしかはっきりとはお顔を出されない。院こそ、時代をその掌の
上に、心棒のように支えておられたお方ですからね。
 それで私の考えではこの御所様の御産(ごさん)の折と、先年うかがった例の猿楽仕れと仰せられた鹿(しし)ケ谷のあ
そこの場面、その余の一、二、例えば治承三年(一一七九)鳥羽殿に追っ籠められたその日に悠々と湯
浴(あ)みをされた話や、養和元年(一一八一)でしたかね六波羅殿の手で信濃へ流されていた私の父などが
許されて、久々に院御所に参った日のお嬉しそうであったご様子くらいは表に出そう、という心づもり
だが、こちらの御所様にはもう終始一貫して、ただお名前だけを必要な限り出すにとどめているわけで
す。〈治承物語〉だけでなく寿永、元暦のこともみなその方針でとおすわけですが、だからこそ私は、
この別巻とも裏書きともいうべき、故院とこちらの御所様との物語では、お二人の再会を思うさま念入
りに創りだしてほしい。お二方の御思い入れの底から万感に堪えて湧き上がってくる〈追悼平家〉とい
うご真情を、ぜひ玲瓏と輝かせていただきたい──」
「えつ──」
「率直に申しましょう。その部分を、行長の筆とはべつに私はこちらで、つまりあなたにと申してもよ
い、書いて下さるようにと、お願い申すのです」
「──」
「平家物語は、もはやたれぞ一人(二字傍点)の創作などではあってならないと私は思う。また、ひとり平家の方々
と限っての追悼追憶でもありえない。栗田の僧正殿のお言葉ではありませんが、成ろうなら世を挙(こぞ)って

111

語り継がねばならない滅罪生善(めつざいしおうぜん)の、さまの変わった、いわば一品経(いつぽんきよう)供養のようなものでこそありたいと
私は願うようになりました。言(こと)をそえ筆をそえて参加して来るどんな人も志もこの物語は拒まず、いつ
も手をひろげていたい、と、仮りにこれを故院のご遺志と解しますなら、どこの誰方よりもこの御所様
のお膝もとからも、と──」
「おどろきました。本当に、おどろきましたわ。なんという、まあ」
「そう、おどろかれないでください。あなたこそその任にある方です、私はよく知っている。きっと御
所様も頷いて下さいましょう。
 あなたには行長とまた違った、重代のご見識がお有りになる。それに、安居院(あぐゐ)の澄憲殿こそ昨年亡く
なられたが、あなたのお役にたつご親族は朝野(ちようや)に満ちて、信西(しんぜい)殿の衣鉢(いはつ)遺響を世に稀なほど大事に伝え
継いでおられる。洩れ聴くところ信西殿は箏(そう)の極意(ごくい)を保たれ、また内宴の折など舞曲を奏する妓女の一
人一人を、ご自身でご教練なさるほど音曲雑芸(ぞうげい)や舞楽にご堪能であったとか、今世にある白拍子どもは、
大概が信西殿のご工夫になる舞の手を習い覚えてきた者ばかりというではありませんか。女信西とうた
われたあなたならば、行長ともまた違った、謡い語りの利く美しい詞曲を、りっぱに仕上げて下されよ
う──」
「滅相もない」
「いや、そのご謙遜は私には通りますまい。よく存じあげています。この仕事になみなみでない関心を
お持ちなのは与一からも聞いており、そうでなくとも察していましたからね。だからこそこれもまった
くあなたにだけ先ずお諮(はか)り申すこととなったのだが──、私は、所詮斯の道を一と筋に生きて参った者、

112

故院の御(み)弟子の末席を汚したまま願わくは往生を遂げたい存念でおります。
 それにっけて、いずれ平家物語は巻数に関わりなくこの先、眼で読む本と、法師ばらが憶えて語り継
いで参る本とに必定(ひつじよう)岐れて行くに違いない。二十四巻、四十八巻にもますます読み本は増えるでしょう。
私はそれに何の異存もない。そして他方に百句、百二十句もの語り本にふくれ上がりもして行く、むし
ろその際に、申さばこの道の──〈平家〉語り、〈平曲〉とでもいいましょうか──この、芸から芸を
承け嗣いで参るうえでのある約束事を、私は大事に今のうちに樹てておきたいのですよ。
あじやりかんぢ上う
 ホラあれですよ、ご存じの密教に申します阿闇梨から阿闇梨へ秘法を伝え嗣いで行く、授職灌頂──
あれです。あのためにも、十二巻のまだ奥に、我らなりに、故院とこの御所様のことをながく記念に結
び籠めたもう一巻をべつに立てて、灌頂の巻として秘蔵したい。そして真に伝えるに値する芸をもった
法師に限ってこれを語るのを聴(ゆる)してやりたいのです」
「──」
「いかがでしょう、この灌頂の巻に平家物語十二巻の心がみな籠っている、というほどの〈大原御幸〉
を、あなたの筆で望みたい──」
「そんな──ご無理なことを」
「無理でしょうか。いや、私は思い出すのですよ。大原御幸のあの折、はじめ御所様と他のお局(つぼね)がたは
上の山へ花摘みにおいででした。あなたお一人が庵室に残ってらした。院はそれも思いのほかでいらし
たので、その様なことまで女院をお煩わせ申しているのか、世をお捨てになったとはいえあまり痛わし
いと嘆かれた。すると憶えておいででしょう、言下にあなたはお答えなさったのですよ、それが、御所

113

 様のためには捨身(しやしん)の行にほかならぬと。因果経の語句をあげてでしたかね、おみごとなご返辞であった。
女信西、変わらぬなと、のちのちまで院内(いんうち)での御語り草でした。それに何度も言うが、あなたには今は
安居院(あぐゐ)の聖覚殿といい醍醐の成賢僧正といい、願ってもないまだまだ御一統の御後見(おんうしろみ)がある。失礼だが、
それにも私は大変な期待をかけているのです」
「そうおっしゃっても、──一存にお返辞の成るお話ではございません。そんな──なかなか」
「ご存じでしょう、昔から鴨や桂の河原では、法会(ほうえ)の一つに日を選んでは流れ灌頂をやる。卒塔婆(そとば)を水
面(みなも)に立て真白い仏幡(ぶつぱん)を懸ける。流れが幡(はた)の裾をぬらして行く、と、広く下流の水族、群生に慈悲の功徳
が及ぶといいますね、ことに水没海没の亡霊亡魂が灌頂の果報を得るというのですが、ああして盲目(めしい)た
ちはなにかというと結縁(けちえん)を呼びかけ河原に集って、法事らしきことを営んでいる。
 それに倣ったわけでもあるまいが琵琶法師は石上、流泉、揚貞操の三秘曲を授けることを、灌頂と呼
んでいます。盲目の世界では、その盲目ゆえに古来琵琶の弾き語り一つにもある不思議の呪力が加わっ
て、験者(げんじや)の加持(かじ)祈薦にも等しい効験が期待されるというのですから、もし、ふさわしい灌頂の巻を平家
物語にもべつに設け、これを芸の功徳として正しく伝えるならば、〈平家〉を語ってただ平家の追悼に
とどまらない、無量不思議の供養を一谷、屋島、壇ノ浦に沈んだ多くの尊霊に対して行なうことができ
る──そうではありませんか──」

「そのとおりです。よう、申された──」

114

 あ、と資時と内侍(ないし)は思わず跪いた。几帳を手ずから押して、比丘尼(びくに)姿の建礼門院が凝然(ぎようぜん)と二人の前に
佇(たたず)んでいた。お美しい。それに、お若い──。こうまぢかに女院の声を聴くのは資時もはじめてであっ
た。お謡いになれぱさぞ佳いお声であろう。すこし逆上(のぼ)せぎみに□疾(くちど)に資時がご機嫌をうかがうのを女
院はそっと手でしずめるように、立ったまま、わずかに間をおいて、
「で、その大懺法院(だいせんぽういん)とかで」と、話の先を追うた。
「はい。その灌頂の巻を披露することができましたならぱと、恐れながら、心より願うております」
「そなたには、それが伝法の」
「授職、灌頂──」
「麿には懺悔(ざんげ)の、結縁灌頂(けちえんかんじよう)」
「──」
「──」
「阿波。麿からも──どうか、頼みますぞ」
 阿波内侍は深々と床に両手をついて、泣き泣き何度も頷いていた。女院は──浄衣の袖を左右から胸
に抱くようにして、音もなく二人の前に坐ろうとし、内侍は手早く茵(しとね)をすすめた。桜色した女院のちい
さな足の爪先が見え隠れする──。
 資時は顔をあげ、女院の豊かな頬を伝う涙にまぷしいように見入ったまま、寿永の秋を闇夜(あんや)鞍馬へひ
しひしと馬をやりながら聴いた、故後白河院の常に変わらぬ確かな声音(こわね)や、夜風をものともせぬ今様(いまよう)う
たの入念な節まわしの美しかったことを、ただ、限りなくなつかしく想い起こしていた。

115

七 西行の巻

 伏見の「那須与一旧蹟」に佇み尽したあの日以前にも、T博士が見透かしたとおり私は八木市子との
二度めを、京都駅前のホテルでおそい昼食をしたことがある。やはり、関西へ出張の仕事を週末の休日
へつないだせわしい京都入りだった。勤め先と聞いていた郵便局を調べ、市子に電話をかけた。「御所
ぶし」のことを今すこし知りたいし、それに母親のちがう姉と聞いている祗園間垣の徳子の名前も出す
と、皆まで言わせず、午後なら出て行けますと言ってくれた。
 受話器を置いてすぐ、市子を案内して双林寺にある長尾泰彦の墓参りをしようかと想った。で、即座
に徳子の方へも電話でそれを言うと、まだ早い、と賛成しない。
「まだ、言うと、いつやったら、よろしいンですか」
 すこしからかうように私が問い直しても、徳子は、返事しなかった。

116

 秋だった。
 着飾らないで来た市子の頬がほうっと紅く柔らかそうに見えた。洋食の方がいいと答えながら市子は
エレベーターの隅で俯いていた。
 八木家の御所ぶしを、もう幼いと言っておれない肝腎の女の子が、いっこう稽古する気に、たぶんこ
の先も、なってくれそうになく、年寄にも市子にもそれが鬱陶しい重荷で、と、そんな話題にいきなり
なった。弟夫婦も、一応学校勤めの先生らしい大まかな理解は双方へ示すものの、結局、琵琶など抱い
て大きな声を出すのを辛気くさく、また恥ずかしく想う子どもに同情していた。
 市子自身が好んで御所ぶしを習った、覚えた、というでなく、それでも清水(きよみず)坂から南里へ貰い子にや
られるについて、子ども心に漠然と覚悟はあった。
「覚悟テ、言い様おかしおすけンど」と当人も笑いだす、が、そんな覚悟に助けられ、養家での暮しに
早く融けこめはしたのである。いずれ夫にと決められていた「お兄ちゃん」は、愛想はないなりに、道
をひとつ折れて行くにも「きちツと直角にお歩きやす」ような堅い跡取りであった。いっそ市子より四
つ年上の義弟の方が世渡りも如才なく、高校生の市子を、自分が通っていた大学から近い宝ケ池だの円
通寺だのへ連れだすのも彼だった。帰りにはうどんの一杯も奢ってくれた。早くに下京区役所の吏員に
なっていた兄は、朝に家を出できちんと時間通り夕過ぎて帰ってきても、ひとり将棋盤の駒をああでも
ない、こうでもないと動かして余念なく、弟や市子をつかまえて相手になれとも言ったことがなかった。
 幼かった市子が養母あいの御所ぶしを習うことに家の男たちはむろん文句は言わない。しかし、ある
気持の負担、といったぐあいに感じていたのもむしろ彼らであったらしく、この時節、公然認められて

117

もいない鄙びた芸の一つがたとえ絶えたとして仕方ないと、態度はいつもそう語っていた。市子も、兄
たちのそういう”評価”をだんだんに身に感じながらその一人と約束どおり結婚し、二人の子を産み、
しかし御所ぶしゆえにこの家で養われたという事情は忘れえなかった。だから自分の産んだ娘に「そん
なンいやや」と放言されてみると、夫も亡く、一つ仕残した最後の義務を今さら果せそうにないいやな
気は、かすかにであれ、やはり、した。捉(つか)まえ遊びの鬼にされたまま、みな親に呼び返される時刻が来
て「さいなら」を言いあうはめになったような「すかっとせえへん」気分と聴くと私はつい、頷くかわ
りの笑い声になった。
「やっぱし……おかしおすか」
市子は心外そうな、というほどの顔もしなかった。我(が)を抑えるのに馴れた顔が、死んだ実の姉の尭(あき)子
より間垣の徳子に肖ていた。はずみで、私はそう市子に言った。
「自分でかて、そう思(おも)てます」
「──逢うたこと、まだ無いんでしょ」
 市子は、だが、澄ましていた。
 好都合にもし市子ともの静かな初対面が果せれば、と、じつは徳子には頼まれていた。大原の藪に、
歌も侘びびしい古塚を見て帰ったあの(二字傍点)晩は、私の気持も浅瀬が走るようにそれならどこでどう会わせて、
ああもこうもして、と動いたが、さて便宜はなかった。放っておくしかなかった。
 いつまでも放っておけなくて──と眼の前の市子にちょっと私は頭をさげた。白いハンカチを出して
ほてり気味の顔をそっとおさえおさえ、市子もかすかに頭をさげ、

118

「あちらさん──は」
 父に繋がる姉をそんなふうに市子は指して、徳子が結婚しているか訊いた。首を横にふると、一瞬怪
訝(けげん)そうな眼がやや頑なにものを言わなかった。そして、ふっとどこかから力が抜けた。
 ──徳子が男の子を一人産んだのは、長尾泰彦や私が大学一年を終える間際の二月二十日だった、そ
れを機に子桃の徳子はよほど惜しまれて妓籍を抜け、まだ現役の母に代ってお茶屋間垣の切り盛りに専
念するようになった。
「女の子の方(ほ)が、育てやすいテ言うけンど」と徳子は屈託なげに、もともと旦那を持つという廓の習い
にも、結婚という世の常の約束事にすらも乗気でなかった。誰が生れた子の父親か戸籍上の認知も徳子
は望まず、否やも言えずお祖母ちゃんにされてしまった市桃が、せめて泰彦の弟の体(てい)にと言うのにも頷
かなかった。
「あてが欲しテあての産んだ子オどす。好きにさしとくれやす」
そして命名には弟をそばへ呼ぴ、
「あんたの、泰彦の〈泰〉て字イ上に付いたたれぞ偉い人の名ア、ちょっとそこで何人か言うとおみ」
と試みた。「かましまへん」と聴(ゆる)され私も長尾について産褥を覗きに行っていたが、長尾に、さて顔を
見られて、何人とはそんな名は思い出せなかった。泰時、くらいであった。「泰」の字のついた人は陰
陽道(おんみようどう)の土御門(つちみかど)家、つまり安倍氏に多いが、「偉い人とも言えんし」と呟くのを聞き流して徳子は、北条
泰時がどんな人物か訊(き)いて、弟の返事に納得するとすぐ、
「時彦」と、横に寝かしたもううす赤い頭に生ぶ毛だっている息子の名前を決めた。両の眼がうるんで

119

徳子の頬の色は底白う照っていた──。
「──北条、泰時、いうと、えーと、承久、の乱の時どしたやろか、御所さんにお会いにおいデやした
いうお侍、どしたね」と、市子。
「え。──建礼門院とも彼、逢うてたんですか」
「そんなン──あて見てたンやおへんけど、そんな風に、おばあちゃんに聴いたような──」
「そうですか。──泰時が、明恵(みようえ)上人と会った話は有名なんですよ。へえ、建礼門院とも。うそにして
も面白いなそれは」
「どうせ、うそどすやろ」
 思わず顔を見た。市子はアイスクリームの方へ俯いて屈託もなげであった。夏以来この人と逢うたの
が初めて、ということをまた忘れた。
 ちょっと変わっているのだろうか。死んだ大井尭子がなかなかユーモラスな□も利くと、何度長尾に
聞かされても信じられなかったのを思いだした。尭子のことを訊ねても、市子もたいして姉の記憶をも
たない。産みの母親が祗園の芸妓であった昔の話も、かえって私の方が徳子から又聴きに話してやれる
ほどで、市子は姉の死に顔もろくに見ないまま葬式の日は端の方に退(の)いて、割切れない気持で立ったり
坐ったりしていただけだという。
「も一人、妹さんがいましたね」
「桃子──。あの人も、そやけど、手紙一本来(き)イしませんの。那須のおばあちゃん所で、噂聞くだけど
す」

120

「その那須さん──というのが」
「はあ。うろおぼえどすけど。ちょっともお坊(ぼん)さんらしない、粋な着物お着やすと似合いそうな、その
くせ物言いなんかきつい感じの人どした」
「那須与一の子孫やいうてた幕府寄合格の那須家と──血縁が」
「さあ。どうどすやろね。津軽家との縁がどうとか聞いた気もしますけンど」
「名前は」
「──」
「その人なんですか。つまり、その、お父さん…あなた方の── 」
 市子は眼を伏せていた。与一二十四世を称した那須賀礼という人が、天保頃に「那須家蔵平家物語目
録」を作ったことは知っている。が、清水愛染寺(きよみずあいぜんじ)の那須、ひょっとして市桃や若里と関わりをもったか
しれない男に、さらには大原の藪にいにしえの女院をしのぶ碑を据えた人物にも、つながる筋であった
かどうか──。
「ま、考えてみると」と、市子は浅い縁(えにし)の桃子という妹のことが気にかかるとみえ、「あの人ともあの
お葬式ではじめて顔見たンと同(おんな)しどした。あのあと三、四回どすもン、道で出会(お)たかてお互いに分らし
ません。──寂びしおす」
「──」
「津軽三味線よう弾かはりますのやて──民謡ばやりどすやろ。あっちこちの町や村やいうて演芸会な
ンかおすと、日傭いで弾いたり踊ったりしもって衣裳は自前で流れ歩いてますのやて。そういう水商売

121

のお人がぎょうさん、居ヤはるそうやけど──、一、二年前は、九州の佐賀とか福岡とかまで行って、
あっちの方の琵琶語りも習(なろ)たいうて」
「筑前、琵琶──ですか」
「よう知らんのどすけどネ妙に寂びしおすのン。そんな噂、肉身の妹のことで他人(ひと)さんから聴くだけや
とネ──」
 形のいいしっとり濡れた唇をしていた。気を換えたように市子は眼をあげた。
「──あの、さっきの〈泰〉の字イつく名前──いうお話どすけど、安倍氏に多いテ……」
「ええ」と頷いた。
 市子はちょっと□籠っていた。そして□籠った感じのままその「安倍氏」のことで、耳寄りな二つの
ことを相次いで喋った。
 一つは、つい今しがたも市子の□に上(のぼ)った清水坂にある那須という家のおばあちゃんが安倍姓の家か
ら嫁いでおり、同じ安倍の、そう遠くない何代か前に祗園の間垣、つまり長尾の家が分れて出来たとい
う話で、長尾と安倍に親類づきあいが今あるかどうかくわしくは知らないが、もう一つはその安倍から、
二人ある八木家の子を一緒に引取ってでも市子を後妻にと、現に、縁談が来ているという話であった。
世間の狭い京都では有りそうな話だ。眼の前の、八月にはじめて南里の家で逢うた時分よりすこしまた
頬のあたりをふっくら見せて、桃のようにかすかに生ぶ毛すら日に光りそうな市子には、まだまだ似合
う縁談でそれはあるに違いなかった。私は、言葉を喪っていた。
 だが、もっと耳寄りの、面白い話も市子はしてくれた。安倍はもと桂女(かつらめ)を出していた家筋だというの

122

である。咄嵯に何事かよう分らなかった。大原文、白川女のようにっまり桂の辺に住む女ととれば市子
の□ぶりにすこしそぐわない。
「ほな、桂姫いいましたらご存じやろか」
「──」
「ほなお亀の方(かた)は」
「お亀、ですか。あの、──家康の」
 頷き返されてやっと先が見えた。洛南、深草藤の森から六地蔵、宇治へ、また山科、追分へも小栗栖(おぐるす)
の方へも通えるよう豊臣秀吉が八科峠へかけて拓いた山道がある。桃山築城のため大手筋の、大昔から
の御香宮(ごこうのみや)をここへ移したので宮谷道と土地の人は呼んだが、この新道に茶店を出したたいした美女の名
を、お亀といった。家康大坂攻めの御陣女郎に召され、尾張侯義直を産んでのちに相応院と呼ばれ、そ
んなことから八科峠路をお亀谷ひいて大亀谷といったらしい話は、古い地誌で知っていた。
 お亀の方(かた)は、しかし、男山八幡の社家(しやけ)で志水某の娘分として幕府内では遇された。家康が召した時は
はや寡婦ですらあったという。そしてなぜか彼女のひきで江戸城の奥向きへとくに出入りをゆるされた
桂女(かつらめ)のいたのが、格式を誇っていっか桂姫を自称したというわけである。苗字(みようじ)を下されて中沢氏を名乗
っていた。そう市子が教えてくれた。
 桂姫とは桂女たちの統領であったのかどうか、分らない。が、大概の桂女は桂川ぞいにいわゆる桂の
里に住み、桂姫の中沢氏ひとりもっと東へ寄った上鳥羽に住んだ。「何しに、江戸へまでわざわざ」と
呆れてみせると、市子は軽く頷くふうに、こんなことを話した──。(以下・次巻)

123

平家系図(傍線本編登場人物)

平正盛─┬─忠盛─┬─清盛──┬─重盛──┬─維盛──┬─六代
    │    │     │     │     │
    └─忠正 ├─経盛  ├─基盛  ├─資盛  └─女
         │ │   │ │   │
         │ ├経正 │ └行盛 ├─清経
         │ │   │     │
         │ └敦盛 ├─宗盛  ├─有盛
         │     │ │   │
         ├─教盛  │ ├清宗 ├─師盛
         │ │   │ │   │
         │ ├通盛 │ └能宗 ├─忠房
         │ │   │     │
         │ └教経 ├─知盛  └─宗実
         │     │ │
         ├─頼盛  │ ├知章
         │     │ │
         └─忠度  │ └知忠
           │   │
           └忠行 ├─重衡
               │
               ├─女子(花山院兼雅室)
               │
               ├─徳子(建礼門院)
               │
               ├─盛子(白川殿)
               │
               ├─女子(大納言隆房室)
               │
               ├─女子(藤原基通室)
               │
               ├─女子(修理大夫信隆室)
               │
               ├─女子(廊御方、母常盤御前)
               │
               └─女子(後白河院三条、母厳島内侍)

皇室系図

72      75
白河天皇  ┌─崇徳天皇──────重仁親王
  │   │
73│   │ 77        78     79
掘河天皇  ├─後白河天皇───┬─二条天皇───六条天皇
  │   │         │
74│   │         │
鳥羽天皇  ├─■子(八条院) ├─守覚法親王    ┌─範子(坊門院)
  │   │         │          │
  │   │         │          │ 81
  └───┼─統子(上西門院)├─以仁王──北陸宮 ├─安徳天皇
      │         │          │
      │ 76      │          │         86
      └─近衛天皇    ├─式子内親王    ├─後高倉院────後掘河天皇
                │          │
                │ 80       │
                └─高倉天皇─────┼─惟明親王
                           │
      (■:日へん に 章)          │ 82      83
                           └─後鳥羽天皇─┬─土御門天皇
                                   │
                                   │ 84     85
                                   └─順徳天皇───仲恭天皇
 

信西略系

      紀二位
       │       ┌─小督局
       ├────成範─┤
       │       └─成賢
藤原(信西)通憲  ┌─俊憲  
       │  │
       ├──┼─貞憲───阿波内侍
       │  │
       女  ├─静憲
          │
          └─澄憲───聖覚
 
 

行長略系

     ┌─行隆──行長
     │
中山顕時─┼─時光──時長
     │
     └─女子
        ?
     ┌─平時忠
     │
     └─時子(二位尼)
        ?
       平清盛
 

隆房略系
 

藤原顕季
  │
  家保 ┌─成親───成経
  │  │
  家成─┼─隆季────隆房
     │       ?
     └─経子    ?
       ?     ?
       ?─清経  ?─隆衡
       ?     ?
     ┌─重盛    ?
     │       ?
  平清盛┼───────女子
     │
     └─徳子(建礼門院)
 

<関係年表>

久寿二 1155 平徳子生る
保元一 1156 保元の乱
平治一 1159 平治の乱
仁安二 1167 平清盛太政大臣に
承安一 1171 平徳子高倉天皇女御に
  二 1172 徳子中宮に
  三 1173 文覚院御所に乱入、伊豆に流さる
  四 1174 今様合せ
安元一 1175 後白河法皇五十の賀
治承一 1177 鹿ヶ谷陰謀
  二 1178 源資時、法皇御弟子となる中宮御産
  三 1179 平重盛没、清盛クーデター、法皇鳥羽殿に幽閉
  四 1180 安徳天皇践祚、源頼政挙兵、福原遷都、源頼朝・義仲挙兵、還都、南都焼亡
養和一 1181 高倉上皇・清盛没、大飢饉
寿永二 1183 主上平家都落、法皇山門御幸、後鳥羽天皇践祚、平清経入水、義仲法住寺攻め
元暦一 1184 木曽義仲戦死、一谷合戦、源義経検非違使に
文治一 1185 屋島壇浦合戦、安徳天皇没、神器還御、建礼門院出家・大原寂光院へ、平重衡斬らる
  二 1186 大原御幸、右京大夫女院訪問
  五 1189 義経戦死 
建久一 1190 西行法師没、頼朝上洛、建礼問院白河善勝寺に
  三 1192 後白河法皇没、頼朝征夷大将軍に
  九 1198 六代御前斬らる、後鳥羽院政開始
正治一 1199 頼朝没
元久一 1204 源頼家没、文覚流さる、大懺法院建立  
  二 1205 藤原隆信没、北条義時執権、新古今集
承久一 1219 源実朝没、公家将軍、建礼門院鷲尾に
  二 1220 慈円愚管抄
  三 1221 順徳上皇禁秘抄、承久の乱
貞応二 1223 建礼門院没
 
 

秦恒平 湖(うみ)の本 19 風の奏で 下
---------------------------------------

秦恒平 湖(うみ)の本 18
 

風の奏で ──寂光平家── 下

3

 天性というのか八木市子は、こみいった事も、すらすらと要領よく話してくれた。
 桂姫──の先祖は岩田姫といい、神功(じんぐう)皇后の侍女であった。皇后が朝鮮へ兵を出したおり冑(かぶと)の代りに
綿帽子をかぶったといわれ、桂姫の中沢氏は累代この綿帽子を奉持しつつ古来貴紳に対し機(おり)あればこれ
をお目見えにそなえて祝意を表わした。神君家康公の如きは陣中この綿帽子を自身恭しく頂戴した、被(かぶ)
った、と。
 話を聴けば一つには武運を呪(まじな)う巫祝(かんなぎ)に近く、出征時に八幡神つまり応神天皇を妊っていたという神功
皇后や、また岩田姫の名からも、二つにはどこやら岩田帯を身にまとう男子安産の祈祷と関係ありげに
想えた。桂女(かつらめ)たちがこの時御陣女郎のお亀を、往古岩田姫が皇后に仕えたようによろしく介抱したとい
うのも、もしすでに後の尾張侯徳川義直を妊娠していたのだとするとよく出来た話になり、のちのち中
沢氏がお亀の方の庇護(ひき)で折を見ては江戸までも御祝儀の挨拶にでたのが、納得できぬでもない。
 が、安倍家が桂女を出したという話へ筋道は、まだ定かでなかった。それに桂女であれ桂姫であれお
亀の方との因縁はもっと濃く、つまりは同じ御陣女郎同士であったのではないか。
かつらめ
 民俗学の柳田国男は、「以前、京都の初春を艶(えん)ならしめたものに、桂女と称する、一団の女性があっ
た」と桂女由来記を書き起こしている。市子の話から察してただの物売りでない、今すこし「初春」に
ふさわしいおめでたさが「艶」の文字を花やかに読ませる。
 桂姫を称(とな)えて江戸参府の格式を誇った中沢氏と、いわゆる桂女たちとは、住んだ場所こそ心もち離れ
ていても、ものものしい例の綿帽子とやらを名目にお目見えをゆるされ、権門勢家に折ふしの祝言を申
上げに参るのを職分とも特権ともしていた点はすこしも違わなかった。また彼女らが石清水(いわしみず)八幡社と浅

(4)124

くない縁に結ばれ合うていた点も、お亀の方同様であった。桂でも鳥羽でもない大亀谷のお亀、宮谷道
のお亀とは、つまり茶店の女主人である才覚をも備えたようなもとは御香宮(ごこうのみや)の巫女(みこ)筋、いわば伏見の(三字傍点)桂
女に相違なかった。彼女もまた桂帽子と称して白い布で頭をつつみ、八幡社や御香宮はじめ諸所のお屋
敷へ自家製の桂飴を持参しては御祝儀の金品を頂戴して帰るのを伝統の得分(とくぶん)にしていた一人なので、そ
の伝統ももとは御陣女郎の身の上に生れていた。そうに違いなかった。
 桂女が「富豪有力の家に出入して、平産を祝し、又緑児の強健をまじなふ」習俗は巧みに演出され、
輿入(こしいれ)の脇に必ず桂女をやとって供に連れる習慣も自然に広まったという。京都でその風が衰えてのちは
桂女も随時諸侯の縁について各地に四散し、かえって京に残った者ほどいつとなく自分を「只の百姓」
と考えるようになった。柳田によれば、江戸時代も終(しま)  い頃には「単に律気なる百姓の内儀が、何かは知
らず古例を守って、斯(か)ういふ貴人の家へ、年頭の礼に出るのを、家の面目と」思いこむまでになってい
た──。
 桂女がこう衰えるより「少し以前」と市子は言うのであった、伺候する貴人の家の一軒に陰陽道(おんみようどう)
の土御門(つちみかど)家があり、また夜叉、地蔵、孫夜叉とつづいた一軒の桂女の家があって、この家系が「刀さす
のン」を聴(ゆる)されとくに安倍の苗字を下された。祗園の間垣、あの長尾泰彦の家は市子の朧ろな記憶でも、
その安倍氏のゆかりに違いなかったのである。
 土御門家支配ということばが古くからある。暦を知り祈祷術に長じて村里を経めぐりながら、うらな
い、まじないを生業(なりわい)にしていた毛坊主、濫僧(らんそう)輩はみな名高い安倍晴朗の子孫である土御門家の管轄に服
してきた。三年一度の書替で一人一枚一匁の免許状が関所往来の手形にもなった。彼らはいわぱ上代巫

(5)125

祝(ふしゆく)の遺蘗(いげつ)、遊部(あそびべ)の徒であった。塊儡子(くぐつ)、唱門師(しようもんじ)、舞舞(まいまい)、鉢叩、乞食、鉦打(かねうち)、猿飼、聖(ひじり)、博士、散所大夫、
犬神人(いぬじにん)などがそうであった。男女の別なく半僧半俗「殊ニ色々ノ護符ノ類ヲ遠近ノ民家ニ配リテ僅カヅ
ツノ初穂ヲ集ムルヲ専ラ」とする配礼者たちも、大多数が陰陽道の総管轄者であった土御門家の支配に
服していた。むろん熊野比丘尼(びくに)や梓巫女(あずさみこ)らも同じ、平家を語った盲人たちも土御門家支配とは終始微妙
な関係にあった。
 それほどの家から由緒ある安倍の苗字を、市子の話どおりもし徳子や泰彦の何代か前の先祖が聴(ゆる)され
ていたとして、それでさて──どうだというのか。
 桂女由来記の著者は、明治大正の時分にはや数軒に減っていたこの「一団の女性」を指して、「類を
同じくする、他の多くの部曲(かきべ)が、夙(つと)に漂遊の途に上り、果知らぬ旅を続けて居たに反して、不思議な愛
着を以て、故郷の土に親しみ、桂川の水の流の、千年の変化をよそに眺めつゝ、静に伝統の生活を送っ
て居た」と書いている。桂女の領分が桂、鳥羽、伏見に亘(わた)っていた以上これが鴨川、宇治川ないし木津
川にも及んでよく、そうした京浪速(なにわ)の河川に沿うてひっそりと根をおろし、次第に遊女(あそび)ぐらしから村里
の主婦のような所へと暮しぶりを変えて行った人の姿を、眼の奥に寂びしやかに点々と求めうれば、や
がてここは話の糸を、とりあえず、あの西行法師の身の上に結ぶことができる──やもしれない。
 桂川は流れて淀へ注ぐ。鴨川も宇治川も木津川も淀へ注ぐ。その水辺は古来なにより遊女の集う場所
として知られた。淀川下流の江口神崎はわけて名高い水駅であって、それ以上に名高い遊女(あそび)の里であっ
た。新古今集の巻第十一に、天王寺にまいった往きか帰りか、雨に降られそんな江口の里で宿を頼んで
断られた折の西行の歌というのを載せている。遊女妙(たえ)の返歌も出ている。偽撰ながら西行の著作をよそ

(6)126

おうた撰集抄(せんじゆうしよう)では、妙という名はないかわり、家あるじの遊女を「四十(よそじ)あまり」のみめかたち物の言
いよう「さもあてやかにやさしく侍りき」とほめており、西行は結局一夜の宿をえて「よもすがら、な
にとなき事ども語り」明したことになっている。後日の話も面白う、説話の体はかなりよく調っている。
 ところで、西行とこの遊女妙とは旧知ないし有縁(うえん)の間柄でありえたかしれぬという推量の、強(あなが)ち奇抜
でないことを私はM教授に教えられていた。白川ぞいの旅館稲波へ徳子に伴われてM先生と初対面のあ
の祗園夏祭りのころ、
「それはそうと、平家の公達(きんだち)ではない源の清経──知ってますか」と訊かれて、
「義経やなしに、──ですか」と絶句した、あれを、私は思いだす。
今さら言いわけがましいが、その清経を私は知っていた。ただ源氏とは知らなかった。話を聴いて、
「あ、それなら──」とすぐ思いだせた。が、後白河上皇の名高い梁塵秘抄御□伝(ごくでん)に見えている、「監
物(けんもつ)清経」の名前だけが思いだせた。彼が鷲尾(わしのお)の北麓(ほくろく)、西行堂のあの西行法師母方の祖父であったとは、
知る由なかった。
「ほう──」
 ビールのコップを思わずわきへのけて坐り直すと、徳子は、あの時、ゆっくり私の横で団扇(うちわ)を動かし
はじめた。

 愚か者あつかいされたほど今様に熱中しだした「十余歳」まだ雅仁親王時代の後白河院の師匠分が誰
であったか、よく分らない。が、院の今様自伝といえる御□伝巻第十で最初に出てくる名前が、近習の

(7〕127

公家では源資賢(すけかた)、藤原季兼の二人であり、下ざまの者では鏡山のあこ丸、神崎のかねの二人である。
資賢は右馬(うま)入道あの源資時の父、平家物語では「按察使(あぜちの)大納言」として何度も姿を見せる源家郢(えい)曲の
統領、なかなか粋な上達部(かんだちめ)であった。季兼の方は藤原教家の孫に当る。正四位下敦家は、あまり今様(うた)の
巧さに金峯山(きんぷせん)の神に眷属に召された、つまり神隠しに遭った人物、千載集を撰した藤原俊成母方の祖父
にも当っている。そして鏡山は近江の、神崎は摂津の名に負う水駅であるし、あご丸もかねも梁塵(りようじん)の名
に恥じないつまり梁(うつばり)の塵を浮かぱせるほどの、声よき遊女であった。「今様を好みて怠る事無」き雅
仁親王はこういう連中を相手に「四季につけて折を嫌はず、昼は終日(ひねもす)に謡ひ暮らし、夜は終夜(よもすがら)謡ひ明か
さぬ夜は無」かった。「あまり責めしかぱ、喉腫れて、湯水通ひしも術(ずち)無かりしかど、構へて謡ひ出し
にき。或は七、八、五十日もしは百日の歌など始めて後、千日の歌も謡ひとほしてき。昼は謡はぬ時も
ありしかど、夜は歌を謡ひ明かさぬ夜は無かりき」という有様であった。
 だが、源清経もそんな相手の一人として御□伝に語られているかというと、そうでない。俊成の祖父
敦家の名声も院が生れるずっと前のこととただ伝え聞いていたように、西行の母方の祖父清経のことも、
じつはある遊女の想い出話を記録しているにすぎなかった。その遊女とは、後白河が一期(いちご)の敬愛を籠め
て師と重んじた五条の尼、乙前(おとまえ)であった。乙前は、清経が寵愛した美濃国青墓の遊女目井の養女であっ
た。
 父鳥羽院が崩御のあと、物騒がしく浅間しいことが起き、さすがに今様遊びもしかねた、と後白河は
語っている。保元の乱(一一五六)で兄の崇徳天皇を打ち負かし、左大臣頼長を無残な死に至らせたこ
とをこれは指しており、一躍、信西(しんぜい)入道が世にあらわれた。信西の政治はなかなか立派で、後白河天皇

(8)128

は安んじてまた今様遊びに戻る。と、「年来(としごろ)いかで聞かむ」と執心する歌い女(め)のことが頭を去らない。
今は五条の辺に住むという乙前であった。
 思いこむとこの天皇辛抱がない、のを、信西が聞きつけ、
「声をかけて、みましょう」
 乙前の孫娘を信西は近頃寵愛していたのである。仕方なくの体(てい)で乙前は伺候した。保元二年正月十日
すぎ、すでに齢七十をすぎていたが、歌を謡わせれば畏しいまでの名人であった。この出逢いに天皇は
すこぶる満足し、無二無三に習って至極の師とおろそかにしなかったあらましは、梁塵秘抄の御□伝が
たいへん感動的に語っている。

 乙前が八十四という年の春、急に病が重くなったが、まだ持前の元気さで、どうという変化もなか
ったから、もち直すだろうと思っているうちに、間もなく危篤、という話。御所の近くに家を与えで
あったので、急いで忍んで見舞ってやると、抱き起こされ挨拶をした。大分弱っているので、二人の
久しく親しい縁を思い、後世(ごせ)を願う供養にもと、当座に法華経の一巻を読んでやってから、ついでに
今様も謡って聴かせようかと訊ねると、喜んで急いで頷く。
  像法転じては薬師の誓ひぞたのもしき
  一たび御名をきく人は万(よろず)の病なしとぞいふ
 二三遍もくりかえし謡って聴かせたのを、経を聴くよりも嬉しがり、こうお聴かせいただいてこそ、
苦しい命も生き返りそうでございますと、手をすって泣く泣く喜んだ有様を、互いに哀れに感じなが

(9)129

ら、その日は帰った。
 その後、お室(むろ)の仁和寺へ出向いているうち、二月十九日にとうとう死んだと聞いた。惜しいという
年齢(とし)ではないが、多年見なれていたので悲しさ限りなく、世のはかなさ、おくれ先立つ現世のさだめ
など、今にはじまったことではないがあれやこれやと思いつづけられ、まして今様歌と限らず、多く
教えてもらったこの道の師匠でもあったのだからと、死の報せを聞いた日から朝夕に身をつつしみ、
阿弥陀経を読んで乙前の西方極楽往生を祈り、五十日間はつとめた。
 また一年間、千部の法華経を読みとおし、次の年二月十九日の命日には、あれは今様をこそ尊いお
経以上に欣こんで聴いてくれたぞ、と思いだして、習った今様の、主なものを晩方までかけて悉く謡
いとおし、心から後世安楽を祈ってやった。
 その後も、命日ごとに、必ず乙前を思って、後世をとぶらう今様を謡ったことだ。

 乙前の師匠を目井といい、やはりたいした謡い手であった。源清経は尾張へ下る途中目井を知り、あ
まり巧さに、耐えきれずやがて京都へつれ帰り年久しく共棲みした。いっか女としては飽きはててのち
もどうしても別れられず、目井が青墓へ行く時は彼もついて行くかあとから早々迎えに行っては一緒に
都へ帰るなどしていた。いとわしさに寝る時も背くようにしている、と、目井の瞬きする腱毛が清経の
背に触れる。ぞうっとするくらいいやなのだが、それでもなお「歌のいみじさに」「歌のいみじさに」
(と御□伝は同じことばを重ねている)清経は目井を棄てるどころか、尼になって、死ぬまで、面倒を
見とおした。目井の養女乙前は問わず語りにそんな清経執心の深さを後白河院に話して聞かせていたの

130

である。
 目井が、清経の情人として上京したには相違なかった。が、清経よりはよほど年嵩で、むしろ清経と
乙前との方が、年恰好は似合っていた。
 乙前とは、彼女が十二、三歳のころ目井の供をして旅中の清経の宿を訪れた折が初対面であった。目
井の歌はもとより、この少女の歌声のめでたさにも清経は驚嘆した。遮二無二目井もろとも京へつれ帰
って一つ家に住ませ、目井に命じて十分乙前を仕込ませた。目井も「誓言(ちかごと)をたてて皆教へて」くれたと、
そう乙前が自分で言っている。御□伝中この辺の□つきは微妙で、清経は乙前生来の天才と女としての
容色の双方に逸早く目をとめ、名伯楽として目井を終生養ったのも要は乙前ゆえに、と言っているよう
にとれる。事実その気味がある。
 それにしても清経の斯道執心は度はずれていた。今様耽溺(たんでき)という点で後白河院も内々に舌を巻いてい
る。藤原敦家とこの源清経とは院の御□伝中ただ今様の名人としてでなく、その随分堪能、ついに芸能
に依り身命を失ったような境涯が讃嘆されているのである。

 聖(ひじり)を立てじはや 袈裟を掛けじはや 数珠(ずず)を持たじはや 年の若き折 戯(たは)れせん

とは院自身の生き方であったが、敦家も清経も、これが「年の若き折」と限らなかった一代の規格外(アウトサイダー)で
あった。それだけでなかった。
「いえネ」と、M教授はあの日「稲波」の座敷で徳子と私を半々に眺めながら、こんな話もして聴かせ

131

た。
 元永二年(一二九)九月三日、といえば西行がまだ二歳の折のこと、源師時ら遊び好きの公家数人、
当時信仰を集めていた摂津の広田社詣でに、八幡社の別当が用意の船で、淀川を下ったという。
「なんの、途中江□神崎の遊女が舟で迎えにでて、合流して今様なんか謡って船遊びですよ。おあとは
まさか舟の中でもあるまいし、神崎の里に上がって、ま、銘々にナニしたってのはお定まりですがね。
そんなこたどうでもいいんで、次の日のこと。師時はご承知のように長秋記って克明な公家(くげ)日記をつけ
てましたからね──どうやら前夜は巫山雲雨よろしくのお天気だったのか、晩方から雨やみ天は快晴っ
てんで、朝八時ごろまた舟出しようとしたわけ。
 ところがここに〈前行者監物清経帰りて云ふ〉という一句が入る。彼氏曰く、海で雨に逢うと寒いし
波が高いと引き返すに返せない。この天気、先行きどうも怪しいからこの際陸路を取りましょうって、
ま、それもどっちでもいい。が〈前行者〉はつまり案内者。なるほど船にするか馬や車で行くかの思案
もお役目なんでしょうけど、ナニ、広田社がそもそも□実でしてね。江□神崎で遊ぶのがこの神詣での
公然の風儀でした。清経というお人、今様が巧い、蹴鞠(けまり)の技も抜群の上に、あの方のお遊びでも、公家
仲間が安心して道芝をまかせられる通人だった」
「と、あの江□の、妙は──」
「それですよ。──家を出づる人としきけば仮りの宿に心とむなと思ふばかりぞ。あの遊女(あそび)にしても、
どうもお祖父さんの清経が清経でしょう、西行と妙とが廻り廻っていっそ親戚づきあいくらいな仲だっ
たと、ぼくなんか、素直に受取りたい」

132

「──」
「西行の母親──佐藤康清のマア妻ですね。この女が監物(けんもつ)清経の娘というのは確かなんです。しかしこ
の娘を産ませた女、西行のお祖母さん、をですよ、これを乙前のことだと言ってる学者もいます。事実、
清経は乙前に娘を産ませている。が、西行のお祖母さんになる人はやはり乙前でない。しかし江□の泊
の女では、あったかも」
「西行はそれを知っていた。妙の方でも、知ってたんですね」
「──」
「──」
「どうです。今度は西行をお書きになりませんか。西行というと山家集(さんかしゆう)だ、和歌だ、剛毅な武勇の士だ
と考える。それに違いないが、一方あの清経の孫ですよ。遊女(あそび)の孫ですらあったかしれない。西行は千
載、新古今の和歌も詠んだが、梁塵秘抄の世界を諸国に担い歩いてたとも、言えるのですよ、聖(ひじり)ですか
らね。山嶽斗藪(とそう)の行者でもありましたからね」
「と、法文歌(ほうもんうた)の一つや二つ──」
「ええ、作詞者の一人でありえたでしょう。彼は白峯(しろみね)詣でで知られるように心底崇徳天皇寄りのようだ
けど、その血には後白河院のそれと共鳴する素質も濃く流れてた。そう思いますよ」
「──」
「そして、その西行さんをね、昭和の今日、こんな別婿さんが大事にお守(も)りをしたはる」
M教授は京ことばで笑って徳子の顔の前へ、指でちいさな二重丸を描いた──。

133

八 阿波の巻

 秋はじめに聴いていた、機会あれば「ご挨拶しとおす…」という市子の気持は、府立医大で難儀な仕
事をした初冬のあの土曜日のうちに、電話で徳子に伝えた。晩も、九時過ぎていたか。そして徳子のな
ぜ逢いにこないかとわざと私相手に酔った□をきくのを構わず、だしぬけに「安倍」のことを訊いた。
「なんえそんな他人(ひと)さんのことオ。……あてヲお嫁さんに欲しいお言(い)やした人どっしゃん」
 徳子の勇み足か知れなかった。訊いたことと返事とはよほどずれていた。私は黙った。徳子も□籠っ
て、どこにいるのかと訊きかえした。徳子も知っている、わざと東京六本木のあるバアの名を言った。
「あほ──」
 そして急に、息子の明春大学へ進学の話をはじめた。酒が入っているらしい。時彦を京都へ呼び戻し、
国立はむりでも徳子の手の届くどこか私大を受験させたいという話に、私は乗らなかった。本人にその
気がない。東京での寮生活に馴れ、大学へも、支障なくまずは、そのまま進める。彼は、時彦は、やっ
とその状態を是認していた。楽しみかけていた。
 あとがつかえてると私は電話を切りかけた。赤電話は、顔馴染みもいつのまにか多い、祗園町北側路
地のなかの、広くもない呑み屋にある。うかうか立っているまに酒を呑む自分の席が無くなりかねない、
それにもうT博士(さん)もその「梅鉢」へ顔を出してくれる時分であった。
「覚えといや」

134

 徳子はまた酔ったふりをした。こっちも聴かぬふりをして、ふと、市子の、行方知れない妹の名前が
桃子と、知っていたか訊ねた。
「──」
「市、桃──」
 徳子はほとんど聴きとれない静かな声になった。このごろ何もかもが寂びしおすの、と呟いたような、
誰かもそんなこと言っていたがと思いながら受話器を置いた。遊女の妙が、いつとなく淀の川波をゆっ
くり遡りながらいわゆる桂女(かつらめ)とやらに身を変えて行ったかと一瞬想った。「淀、川──淀、川」と口の
中で苦いものを噛むように呟かれ、葦や荻の、突っ伏すように荒い風に騒ぐさまを幻に見た。
 翌る──日曜の朝早く、いきなり京都ホテルのロビーから、電話で徳子に呼び起こされた。
「ああ臭(く)さ、お酒のにおい」などとにくまれ□をきく。お午食(ひる)をと誘っておいて「古くさアい洋食を」
と徳子は注文をつけた。濃い緑色に透けた脚の細いグラスが二つ、ちんと触れあった気がした。午後、
伏見の即成就院跡を尋ねた足で、今日中に東京へ帰りますと言うと、徳子はそっと頷いた──。
 安倍家のことは徳子からはあまり訊きだせなかった。以前「清水坂のかさ屋」という話を法事の席で
絵解きしてくれた宇野という老人がいた、あの人が安倍家と桂姫の中沢家との二軒をどこかで血縁につ
なぐ役をした家であったらしい。その宇野と今も親しい家が、唯一軒桂に残って観光客相手に桂飴を商
っているという。
 そう言われて思いだした。死んだ長尾の部屋で学校帰りに半日もごろごろしていた中学生時分、不揃
いに四角くぶち切った妙に透明な飴をよくなめた。甘いものの乏しい時世だった。べたつかず、しっと

135

り甘い、あれが桂飴だったか一、すると。
 しかし徳子は余分な想像に私をひたらせておかなかった。時彦のこと、市子のこと、間垣の商売のこ
と、それに私のこのごろ書くもののこと。どれだけ喋っても徳子は静かに、しんとして見えた。すこし
やせたかと思い、それを言うとちいさく手を横にふった。市子とは、花の時分に西行庵ででもと知恵の
ないはなしにも頷いて、食後のアイスクリームのカップを徳子はふしぎな物を覗くように眺めていた。
「姉さん一」
徳子は眼をあげた。
「げんき、出してくださいよ」
「げんき、げんき」
そう言って徳子は両の手を拳にしてみせた。御所解きの白い袖があがって腕時計のない手首がほっそ
り見えた。亡くなった市桃おばさんのことが想いだされた。

 年を越して、前ぶれなく南里の八木家を二度めに訪れたのは雪が散らつく正月末の日曜日であった。
市子とは逢えなかった。子どもの姿もなかった。土間に椅子をもらって、昔ながらの大火鉢を端近に毛
布を膝に当てた年寄りと、一時間あまり話した。煙草を買いにその間に二人、客があった。店の前を三
度ほどバスが通った。すいていた。
市子の縁談はまだ燻っていた。誰にもふんぎりの付けにくいことらしく、無遠慮を承知で私はこの時
も安倍家について訊ねた。

136

「桂離宮、ご存じどすやろ」
「ええ」
「あの先の、桂大橋の西に麦代餅(むぎてもち)いうて、粒あんのようけ入ったン売ってるお店がおすの。その前をナ、
もちょっと行きますとほれ桂飴の本家やいうて、一軒だけ佳(え)えお店出たりますワ。さ、その前をもうち
ょっと行くと古いお地蔵さん祀ったお寺が、おす」
「それ、あれでしょ。桂地蔵でしよ」
「そうそ、よう知っといやすな。そのつい隣どしたが。以前に安倍さんのお家(うち)、おしたんは」
「今は」
「今は五条の若宮通イお変わりやしとす、菅大臣神社(かんだいじんさん)の近くイな。もう昔のこっとす、悉皆屋はんでナ。
しっかりやっといやすのやて」
「──」
「京都は、なんやかんや言うたかて狭(せも)おす──」
 八木あいは脱いだ白いエプロンを毛布の上で袖畳みしながら、私の胸の内を見透かすような眼をあげ
て、あははと笑った。
 事のついでにあいの□から、せめて二つのことを聴いて帰りたかった。だが間垣の亡くなったおかあ
はんが「市桃」であったことも、あいは知らなかった。大井尭子のあとに市子と桃子とを産んだ母親が
「若里」だったことさえよく知らずじまいに死なれていて、市子を養女にしたのも、もう葬儀屋の店を
畳んでしまっていた大井の老祖父母との間にもち上がった話らしかった。

137

「それは、ナンとすな、女(おなご)はん二人の仲が、ほんまに、悪かったんやろかナ。良すぎたんと違うのンど
すか」
 あいは年寄りらしく市桃、若里について思いきったことを□にし、私はよけいな話を持ちだしてしま
ったのを一瞬悔いた。それで急いてもう一つ、阿波内侍のことを訊いてみた。というのも、信西(しんぜい)の娘に
せよ孫娘にせよ、阿波の名が信西の一統の誰に由来するか、阿波国を受領(ずりよう)した経歴の者が見当らないこ
とに気づいていたからだ。学界にはとかく阿波内侍の実在をさえ怪しむ声が多いのも気がかりであった。
 あいにはやはり手に余る質問であった。だが御所ぶじに阿波内侍の「祖母(ばば)は紀伊の二位」と呼ばれて
いる信西が妻女の名にしても、むかし紀伊郡と呼ばれた鳥羽伏見の旧族紀氏の出であって付いたもの、
「アハ」が必ずしも官職の阿波守やなんかでなくて、一種の「渾名やおへんのか」と、あいは物を知ら
ぬ人がそれなりに的を射るときの、さらっとした口をきいた。
 まさかとは思ったが、大和物語にこんな話がある。白という名の遊女が時の帝の名指しで歌を一つ詠
んだ。

  浜千鳥飛び行く限ありければ
   雲居る山をあは(二字傍点)とこそ見れ

「遥にして遠きよしを、歌に仕れ」と命じられて奉っており、漂泊の遊女の身上が、千鳥の水の上を飛
ぶようにさも自在に見えて、なお貴人のお傍へは遥かに遠く近寄りがたいと、そんな敬った思いを籠め

138

ている。字眼は「あは」であろう、淡々(あわあわ)とした水辺の遊女の境涯をうまく印象づけていて、遊女と限ら
ぬ漂泊者の胸を去来する嘆息のようなものを巧まず響かせていた。
 そう言えば酔った徳子の電話をさばいて祗園梅林でT博士(さん)と呑んだ初冬の晩にも、阿波内侍のことを
訊いたものだ。あの時だった。先生は桂女由来記と著者の名を教えてくれてから、さて、「阿波内侍の
ことはよう分らんのやけど」と断り、徒然草が例の平家物語について行長や生仏の名前をもちだしてい
るすぐ前段の、静御前の母親といわれる磯の禅師、のことを話した。「通憲(みちのり)(信西)入道、舞の手の中
に、興有る事どもをえらびて、いその禅師といひける女に教へて舞はせけり」という、私はそれを憶え
ていなかった。
「そうですか憶えてませんか。白き水干(すいかん)に鞘巻(さうまき)をささせ、烏帽子(えぼし)をひき入れたりければ、男舞とぞいひ
ける。禅師がむすめ静と言ひける、此の芸をつげり。これ白拍子の根元なり。仏神の本縁をうたふテ、
いうてます」
「それで──」
「それでテ、その磯の禅師がたしか阿波とも呼ばれてまンにゃ。阿波の磯の出やいう人もいやはるけど
違う。ホラ、近江の朝妻、あの近くに磯いうて遊女がようけいた、あそこの出エですよ。そやのに呼び
名が、阿波ですわ」
「面白いですね」
「面白いですか。桂地蔵テ知ってはるでしよう。あのお地蔵さんの霊験あらたかなンをうまいことかつ
ぎよった詐話師(さわし)が、昔いよりましてね」

139

「昔、とは」
「足利将軍義持の時分──ですな。この坊主、とうと捕まりよったんやが、これが阿波ノ法師なンや。
が、阿波の住人でも何でもない」
「何者(なにもん)ですか」
「看聞御記みるとこの阿波法師を罵って、イタカめテ呼んでます。ト(うら)や算を致す移他家唱門師(いたかしよもんじ)の類、と
書いた文書もあります。戦国時代にはこれを細作間諜(さいさくかんちよう)、つまりスパイに使う大名もいたいうけど、後白
河院かて、例のおタクがごひいきの平清経かツて巧いとこ使(つこ)てましたんや」
「イタカ──ですか。桂の辺で。聞いたことないなア、京都では。もっと北国の、奥州とか。イタコ、
イチコ、モリコ……」
「そうです。京都の辺てはすンぐイタカや言わんよになってますな。□寄せとか叩き巫女(みこ)とかね。それ
に梓巫女(あずさみこ)、そイで流れ灌頂」
「あ、それは職人尽絵(しよくにんづくしえ)の、あれですね」
 T博士は返辞の代りに、片一方の靴をごとんともう止まり木の下へ脱ぎ捨てながら、正解に近づいた
らしく、私の背中を平手でポンと打った。
 七十一番職人歌合の第三十六番にイタカが登場する。絵は塗笠をかぶって覆面して坐った姿に描かれ、
手に短い卒塔婆をさし上げ膝もとにも卒塔婆や樒(しきび)がおいてあって、「流れ灌頂流させたまへ」と呼ばわ
っている。歌は、「如何(いか)にせん五条の橋の下むせぴはては泪(なみだ)の流れ灌頂」とある。むろん五条橋下と限
らず、桂川でも宇治川でも浅瀬があれば死者をいたんで人は群れた。柳田国男は「学問も無き賤者なれ

140

ども経文を暗唱して物を乞ひありく」と「イタカ」について書いていた。「思ふにイタカは一定の邑落(いふらく)
に住せず常に家を移して行きし為に此文字(移他家)を用ゐしならんか」とも書き「サンカ」や「クグ
ツ」との類縁を「漂泊」の二字に探っていた。遊女の「遊」の字も漂泊を意味すると説いていた。
「さきの阿波法師にしたかてそンなヤからね、川面に浮がぶ水の泡、てな酒落た名のりでないとも言え
まへんのやな」
「と、阿波内侍も──」
「それは、ちょっと酒の勢いで放言するとやね。信西入道が、阿波の磯の禅師に産ました子オを、息子
の貞憲に育てさしたとも──」
「と、静御前とは父親の違(ちご)た姉さんになるんですか」
「ソラ、まあ年齢(とし)がうんと違うしね。静の生まれた時は、信西はもう此の世にいませんワ」
「──」
「信じられまへんか。そやけどでっせ、信西は阿波内侍の生まれたンとおんなし、平治元年に、例の五
条の尼、乙前、の孫娘で壱岐(いき)いうた女にも、郢曲の天才資時を孕(はら)ます力が、あったんやさかい」
あモぴ
「そうか──そうですね。資時の母親は遊女でしたね。まだ資時をおなかに抱いてるうちに信西に死な
れて、資賢が母子とも引きとった──」
「あの時分の公家は、みな、ようけ子オ作ってますな、ほんま」
「ほんまに」と私も鶏鵡返しに頷いた。流れ灌頂の阿波法師と桂女(かつらめ)が夫婦者のように眼の奥ですうっと
寄り合うて、遠い向こうをきらきらと奔る川渡がさも見えた──。

141

 ──我に返って私は八木あいに頼んだ。御所ぶしを語るのに琵琶の都合がつかぬ時は小弓を鳴らすと
聞いた、その弓というのを「見せて呉れませんか」と。
 やはり梓の材(き)で。弦ははずしてあった──。

 京都から帰った留守中に、長尾時彦の手紙が来ていた。東京に居坐りたい、京都の私大は気が進まな
いという相談であった。今さら祗園へ帰って、さて居心地がいいと限らないという簡単な文面だ。私は
頷いた。
 此の世にもういない親友の、その姉の子とは妻も中学生の娘もよく承知で、名前しか聴いたことのな
い京育ちの高校生に興味をもっていた。一度家へ招んであげてと何遍か言われながら、時彦も強いて望
まず、しかしたまに渋谷界隈で晩飯などを奢ると窮屈がることなく、黙々と何でもよく食った。煙草は
やらないが、酒は勧めれば辞退しない。剣道部にいるといって、ごつくなった竹刀(しない)だこを触らせてくれ
ながら、女の子に目下あまり興味がないなどと言う。背丈はそうないが、いつのまにか部厚い肩をして、
母親に肖ない浅黒い顔色にぱっちりした眼が、眩しいくらい大きかった。
「もてるんじゃないのか、よく」
「もてますよ。でもね」と時彦はうそぶく。
 髪は短く、ちょっと神経質そうだった京都時分の時彦が、東京で仲間と寮の暮しをはじめてからは、
たまに私の書いたものの感想まで言いだすことがあり、概ね否定的であったけれど、なまじ祗園にいる
母親によりも保証人の私の方へよく物も相談しているらしいと、徳子は憎らしがる。が、あれでよほど

142

息子は陽気になったとホッと肩の荷を軽くしているふうでもあった。
 はじめは二た月に一度の割で逢いに上京していたのが、
「そんなに来ないでよ」と辟易されると徳子はそんなところも時彦の言うことをよくきき、私とだけち
ょっと逢って、学校の寮へ電話だけしてまた京都へ帰って行くこともあった。時彦が世話になるからと、
ひよっこり間垣の名で折々の京土産がわが家へ届く。荷を送りだした日付から十日以上先の土曜日夕方
に、徳子は必ず約束のホテルに肩入りしており、顔を出す出さないも、電話にしても、それは私次第と
決めてあった。中一日いて、遅くも月曜の午まえにはきっと徳子は京都へ帰って行った。
 この年は、例年になく勤め先の春闘が烈しかった。「如月(きさらぎ)の望月のころ」に西行堂を借り、M教授も
うまく横浜から誘いだして成ろうなら市子の御所ぶしを聴きたかったのだ、徳子と市子の対面もさりな
がら、M教授(さん)、T博士(さん)が一座して酒になったあとの話題がさぞこたえられないに違いなく、いい機会(しお)に
妻もつれて行くかどうかも思案の数にいれながら、何の思案どころでない組合の大攻勢に、管理職は二
月上旬から連日の会議や定日発行の雑誌の遅れで身動きならなかった。むろん社内ではかりにも本業と
いう顔をしてはならぬ頼まれ小説や随筆の方の渋滞甚しく、十五年の余を世話になった会社にも文士稼
業にも双方顔のたつ退社の汐時を、私はもうはっきり見る肚(はら)になっていた。だからよけい勤めは精一杯
こなして、春闘三ケ月という我が社の年中行事を深傷(ふかで)を負わずに乗りきっておく必要があった。
 月刊の医学雑誌を自分の課に五誌かかえていた。一誌ごとに印刷所へ入稿の作業があり、校正往来、
校了の仕事があった。専門家を招いて編集会議で企画もする。原稿依頼の手続きも欠かせない。〆切の
来た原稿を取りにも歩いた。そろそろお定まりの組合が外出拒否戦術を取りはじめるとつくづく身にこ

143

たえた。争議中、課長が勤務精励するのはスト破りに類するという個別撃破の矢面(やおもて)を右に左によけなが
ら、二足わらじの重さに腰の上までじわじわ痺れ、目方も日ごとに減った。どの管理職もデスクのまわ
りを天井から床まで個室然として要求貫徹のステツカーで囲いまわされ、私も手でかき分けかき分けて
はそこへ出入りしていた。一枚でも破ろうなら吊し上げられる。
 その最中(さなか)だった。選(え)りに撰(え)って梁塵秘抄の歌謡を六回大過かけてラジオで解説しないかと注文が来た。
第一回放送がゴールデンウイークあけの次の日曜日からと予定されていた。はなから無理な話で、一度
に三回分三時間の録音を強行しても、まる二日はスタジオに籠らねばならない。争議が五月に持越され
るか納まるか、四月末は例年血を見そうな労使の攻防になり、今年は二度三度ももう小競合ともいえな
い軋櫟(あつれき)が□汚く団交の席にもちこまれていた。毎年の嘉例然として全管理職が社外に退避する日も今日
明日に迫っていた。五週間以内に録音を終えてなければならぬというスケジュールは、承諾したわけで
ないのに、電話□の私の顔をぴくぴく顫わせた。
 それなのに、引き受けた。なんとなく、なんとなく平家物語最初本の胎動から灌頂の巻の提議まで、
私の想像はもう実感も添って動いていた。もう一寸、もう一寸で何かへ手の届く予感があった。
 もう一つの、それも久しい私の懸案は、あの後白河院をそこへ、平家物語へ、と催した個人的、とい
うよりもっと大きな時代のちからのようなものを、平家物語を「はい、どうぞ」と盛って出す盆(一字傍点)か受け
皿(三字傍点)のようなものを、手さぐりにでも掴んでみたいということであった。西行法師ほど、それがたとえ私
の無知ゆえにもせよ、あんなに反復白河院的に見えていた人物が、梁塵秘抄の世界と臍の緒を繋いでい
た。御□伝の巻第十にあらわれる一見尋常な監物(けんもつ)清径なみの公家たちを、あまり何気なく自分が読み過

144

ごしてきたのに私は今さら気がついた。
 良い機会だ。
 遁すてはなかった。
 会社中の誰彼の顔が、労使の別なしに一瞬真白く眼をむいて去来するのをがっと首を横にふり払って、
遅くも四月末の(昭和)天皇誕生日にはまず二回分録音のためスタジオを手配してくれていいと、その
夜おそく確認の電話□で私はディレクターに約束した。
 受話器を置くとほっと宙に浮かぶように私は放心していた。とりとめなく、例えば北条泰時が承久の
乱後、鷲尾(わしのお)の金仙院に建礼門院を訪(おとの)うたという八木市子に聴いた話などが泡みたいにぽかっと思いださ
れた。有りえたかしれない。のちの執権泰時の生母は吾妻鏡にも名だけで氏素姓の知れぬ女であった。
果ては建礼門院に随(つ)いて、西海の波間に自ら沈んだような美しい雑仕(ぞうし)の一人であったらしいとも、いつ
か女の或る作家がテレビの歴史番組で喋っているのを聴いた。泰時が乱の当時何歳になっていたか調べ
る気になれず、承久の事変までもその眼で見送ったただ建礼門院無類の老いの重みが、堅い岩のように
胸の底にずしんと沈んで行くのだ。
 あんまり長く生きたという思いに、最晩年の女院がどう耐えたか、耐ええたか。私はいぶせさにぶる
ると総身を揺すって、せめて、あの資時の誘いをいれ阿波内侍に灌頂の巻を書かせる肚(はら)をきめた元久元
年(一二〇四)頃、白河善勝寺の一室、へ時間のネジを捲き戻そうとした。あの時──女院も、資時や
内侍も今の私のように宙を漂う思いをしたのではなかったか。いったい建礼門院は後白河自身の意図で
成った梁塵秘抄を手にしたことがあったのだろうか。そう想う。すると、また不意討ちに建礼門院は西

145

行のあの山家集を一度でも手にしただろうかが気になった。どきどきするくらい気になりだした。
 気を静めようと、私は手近な紙片に、
「西行法師」と書いてみた。彼のどんな歌を憶えているかと、思案しいしいやはりこれが一等早く思い
だせた、のを、名前の横に書いてみた。

  願はくは花の下(もと)にて春死なむ
   その如月(きさらぎ)のもちづきの頃

 西行庵に碑があった。二、三年前に大阪へ出張の途中足をのばした河内の山奥の、弘川寺(こうせんじ)、西行終焉
の墓辺にも同じ歌碑が建っていたかしれない。「花月西行──」と、私は彫り込むように余白にそう書
いた。
 じっと自分の字を睨んでいるうち、
「藤原俊成」と今度は書き、勢いで、「定家」とも書き副えた。西行がおもしろく撰んだ「御裳濯河(みもすそがわ)」
「宮河」二種の自歌合(じかあわせ)に請われて良い判詞を書いた父と子だ、自然な連想であった。ボールペンの尻て 
顎を突つきながら待賢門院障(たま)子、崇徳天皇、四国白峯などと思いづいて行くと勢い「保元の乱」と呟き
が出る。と、唐突に「保元以後ノコトハミナ乱世」と書いてあるあの、栗田の僧正慈円が著の愚管抄を
建礼門院は見てから死んだろうか、まさか見まいと、また気になった。手拍子で、
「平清盛」と、あまり無い余白に乱暴に書き加えた。

146

奇しく同じ元永元年(一一一八)に生れ、譬喩的にいえば平清盛と西行法師とは、崇徳、後白河とい
う兄と弟の激越な緊張を弓弦に「古代」という名の弓から射出されたすぐれて強い矢であった。そして
清盛は半途に落ち、西行は「中世」を空高く飛んだ。
 もう一度私は清盛のわきへ「西行法師」と並べ、ものに誘われたように今度はすらすらとその隣へ、
「藤原頼長」とも副えた。副えておいて、ハァ、と声になった。

 今日西行法師が来て言った。「法華一品(いっぽん)経の書写にご賛同を願いたい。両院以下の方々にもご承引
を給わっています。料紙のよし悪(あ)しは問いませぬ、只、ご自筆でご写経くだされぱ」と。常不軽菩薩
品(じようふぎようぼさつぼん)を引受けた。事のついでに年を訊くと二十五(一昨年二十三歳で出家)と答える。そもそも西行と
はもと兵衛尉義清(ひようえりじようのりきよ)(左衛門大夫康清の子)、重代勇士の家柄で法皇にお仕えしていた。出家前より
心を仏道に志し、家も富んでいたためか年若くて心に慾無く、遁世を遂げた。思いきりの良さは今も
人の歎美するところだ。

 康治元年(一一四二)三月十五日、藤原頼長は名高い日記(台記)にこう書きつけた。頼長はこの時
二十三歳、前関白忠実(ただざね)の子、現摂政(せつしよう)忠通の異母弟ですでに正二位内大臣であった。由縁(ゆかり)もなく一法師風
情が尋ね寄って直々にものを頼めるはずのない、とびきりの「貴所」であった、のに、頼長は用件をた
ずさえた西行と会って勧進(かんじん)に応じ、加えてこの勧進聖(ひじり)の年齢、俗名、来歴から遁世の経緯や人物の評判
までを当日の日録に書き誌しているのである。

147

 会った者のことを、それこそ誰と男色(なんしよく)の交りをしたかまで克明に記録するのは或いは頼長の人柄で説
明がつけられる。しかしやがて藤原氏の長者ともなろう頼長が、六位七位のもと北面武士に会ってやっ
たのがそもそも異例すぎると、当時遁世者の或る出世間的(フリーパス)な性格も承知の上で、私ははじめてこの記事
を知った日に、もう感じていた。
 平安時代の四百年を通じ、学者として藤原頼長は信西(しんぜい)藤原通憲(みちのり)に並ぶ大きな存在だ。政治にも筋を通
した。十二世紀、それは沢山な人が非業(ひごう)に斃れた中で私はこの二人の死を他の誰よりも惜しむ気持をも
ちつづけてきた。悪在府とやがて異名をとる二十三歳の頼長が、二十五歳勧進聖の西行に寄せたふしぎ
に温い眼に何か、秘密はないのか。そうでなくて日記にああも書くだろうか。
 こんな不審を黙って抱いてはおれなかった、すでにM教授と京の宿の稲波(いななみ)で初対面の折に、というの
も「西行さんのお祖父さん」の話題が出ていたのだから、渡りに舟で、私は台記の例の箇処について訊
ねている。
「T博士(さん)にそれはお訊きになるのが、早いですな」というのが返事であった。解(げ)せない顔をしたに違い
ない。互いに譲らない論争相手(ポレミツク)だと思っていた、が、徳子は「お二人さん」がその実、はために憎らし
いくらいの「お仲間どすのえ」とあの時、□を添えた。
 徳子にしてははしゃいだ言いかただったのを忘れない。平家のこともさりながら、ともあれ頼長への
不審が私を)博士に出会わせることになった。じっと働かずに最後に笑った兄忠通より、保元の乱で、
馬上無残に頸を射落とされた弟頼長に肩入れする気持がまたまた深まりそうな、懐しいそれは、ご縁、
というものであった。

148

M教授が、しかしあの場で、具体的に何も教えてくれなかったというのではない。
「古今著聞集の、えーと、巻第八。そう、巻第八を帰られたら調べてごらんなさい」と言われた。「孝
行恩愛」と「好色」の各段をおさめた巻だ。
「好色の方じゃないですよ」と笑われた、それがあの日の、よほど長話での笑い納めであった──。さ
て孝行恩愛第十に「藤原頼長、父忠実の愛を蒙る事」という段があって、冒頭頼長の日記にこうある、
と漢文のまま掲げていた。

 頼長初メ母ノ賤シキヲ以テ寵愛ナシ。而ルヲ長ズルニ及ビ九経ヲ誦習(ずしふ)シ、五音ヲ嗜好シ、酒ヲ受ケズ、
 遊戯ヲ事トセズ。超ヲ以テ禅閤(ぜんかふ)予ニ及ビテ家宝ト為シ、尊重スルコト甚シ、云々。

「禅閤」とは出家した前関白、父藤原忠実のこと、この父は頼長生母の身分賤しいため、幼い彼をなか
なか愛してくれなかった。それでも頼長は酒をのまず遊ばずひたすら勉強した。遂には「家宝」とまで
父に「尊重」されるようになった、と言っている。異母兄の前摂政忠通を措(お)いても、左大臣の自分が氏(うじ)
の長者になり内覧の宣旨も受けられたそれが理由だ、とくらいに言いたいらしい。父が忠通を疎み頼長
を偏愛したことは保元の乱の発火点になった史実だ。年齢はずいぶん違いながらこの兄と弟、あまりに
互いを気にしすぎていた。忠通は小倉百人一首に「わたの原こぎ出でてみれぱ」と選ばれているくらい
和歌をよくする。だから頼長はその道を遠退いて詩文を専らにした。兄は花やかに風雅を好み、弟は質
実に学芸に心を傾けた。そして兄は弟の後白河院に、弟は父とともに兄の崇徳上皇について、保元の乱

149

を無残に挑みあわねばすまなかった。
 私の不審に応じて右の日記を読むように言われたのなら、それは「母の賤しきをもって」の部分がM
教授の、答え、でなくとも暗示ではあったに違いない。しかし頼長の生母は土佐守から五四位下治部卿
にもなった藤原盛実(もりざね)の娘で、かりにも諸大夫(しよだいぶ)の家に生れている。それでもなお卑下するというなら、や
はり、兄忠通の生母(右大臣源顕房の娘)に較べてなのだろう、と、私の詮索は、っまりそこで跡絶(とだ)え
た。その後T博士と気がるに声をかけあって酒を呑む仲になってからも、もうとくに平家物語とは遠い
(と思っていた)そのことを問い訊(ただ)す気は失せていた──。
「──酒ヲ受ケズ遊戯ヲ事トセズ、か」
 ボールペンの尻を銜(くわ)え指揮棒のように顔中で振っていた。漢家の学と倭国の旧事に信西が溜息をつい
たくらい通暁していたあの頼長ほど、今様(いまよう)狂いの後白河院と相容れぬ貴族はいないはず、であった。撥
乱反正の厳格を極めた悪左府頼長、なのにどうも私は頷ききれないでいた。彼には父以外に終生こ
れはという大物の味方がなかった。敬遠されていたか尊大であったか、というだけで説明しかねる奇妙
な不審もそこに漂った。矢ぶすまに追われた最後の最期まで頼長を護ったのは、微々たる母方の叔父顕
憲(あきのり)の子弟にほぼ限られていたではないか。
 起って頼長小伝といった参考書を書架から抜いたものの、たいしてあてにしてなかった。ところが、
台記、公安三年九月六日にこんな記事があるとして頼長外祖母のことに言い及んだ解説が目についた。
調べ仕事が割合い多い方の小説家として、こういう偶然の恵みを私は「神サマ仏サマ」と呼んでいるが、
神にも仏にもそう逢えるものでない。

150

  夜になると、外祖母尼公(にこう)の家を訪ね、病状を問うて、自分はひどく泣けた。祖母も泣いたが涙は出
ない。(世間ではこれを死の徴候にかぞえているが、自分はその根拠をまだ調べえていない。)しば
らくして帰宅した。

「余ノ実母ノ祖(おや)」と自記している「尼公」を頼長が見舞ってなに不思議はない。まして瀕死の病床にい
る祖母であった、彼は頻りに出向いていた。が、決まって「夜になると」なのが妙であった。「残夜深
更、密ニ外祖母ノ家ニ向ヒ疾ヲ問フ」とか「今夜、密ニ外祖母ノ家ニ向ヒ、疾ヲ問フ」とか、なぜ決っ
て「ひそかに」なのか。この「尼公」「外祖母」つまり土佐守藤原盛実の妻、のことを頼長はたしかに
愛し、しかも卑下している。そう取れる。
 この婦人のひととなりも何も私には調べようがない。が、土佐守盛実についてはさし当り私にも分る
ことが一つあった。摂政家の久しい家司(けいし)たるを足場に朝廷に一応の地位を築いていたこの諸大夫級の一
公家の名が、やはり梁塵秘抄の御□伝巻第十に印象的に現われるのである。言うまでもない述者の後白
河院は頼長よりなお七、八歳の年少であり、その頼長の祖父と直接には縁がない。盛実の名も、院はや
はり五条の尼乙前から聴いて書き誌していたのである。
 乙前が後白河天皇にはじめて召されたのは保元二年(一一五七)正月十日すぎであった。相性のよさ
というものか、その後乙前と後白河の師弟の仲はさながら芸道の鑑(かがみ)の如くであった。が、そう成り行く
について障りというものはやはりあった。乙前の芸にけちをつける者があらわれた。たとえば同じ青墓

151

出の古参のあこまろは、乙前を斯芸(しげい)の正統とみるのは、
「僻目(ひがめ)ではございませんか」
 そんなふうに今様好きの公家の顔が揃った席で、我こそ正系とあこまろは放言し、それと知って乙前
も逆襲した。
 少々ややこしい話になるが彼女らの師匠には、なおその上に四三という大師匠が存在した。四三の弟
子に目井、和歌、大進(だいしん)、おとど、の少くも四人がいたのである。和歌は大進の姉で、先のあこまろの母
親であった。その他も、銘々に目井には養女の乙前、大進には娘の小大進、おとどには弟子の延寿とい
う芸の跡取りがいた。
 そこで乙前はこう反駁した。
「あこまろの申しようはたいへんな逆さまごとでございます。というのも、あれの母親の和歌が自分で
話していたことですが、師匠の四三によく習うひまもなく、土佐守だった盛実殿に任国へつれて行かれ、
そこで盛実殿の□うつしに主立った歌の謡いようを教えられたのでございます。四三の方はその間に死
んでしまっております。そんな盛実流の母親に習った和歌の子のあこまろが、四三の流儀をきちんと謡
えるわけがございません証拠に、和歌の妹で大進と申しました者が、四三の教えどおりに十分育てたと
聴いています娘の小大進というのを、一度お召し出しになり、謡い較べさせてごらんなさいませ」
 小大進が召し出されたのは言うまでもない。
 乙前にあこまろはむろん、延寿、たれかは、あこまろの娘なども集い寄って法住寺の広御所で今様の
なりもかすけかたなり‘?上しもワ
会になった。一座には成親(なりちか)卿、資賢(すけかた)卿、親信卿、業房(なりふさ)、季兼、法師蓮浄、能盛(よしもり)、広時、康頼、親盛らが

152

居並んだ。そして問題の「足柄」を証人の小大進が謡ったところ、あこまろのとはだいぷちがい、乙前
のとはきっちり符節を合していたのである。

  釈迦の御法(みのり)は浮木(うきぎ)なり 参り会ふ我等は亀なれや 今は当来弥勒の 三会(さんね)の暁疑ばず

 そう法文歌(ほうもんうた)を謡っても、「今は当来弥勒」と調子を上げる箇所など、つゆばかり乙前ゆずりの後白河
院自身の謡いようともちがわない。乙前は目井に、小大進は大道に習いしかも同じ四三の流儀を正しく
習い伝えていたのがこれではっきりし、
「芸の筋とは、たいしたものでございますな」と大仰(おおぎょう)に感激の涙をこぼす公家もいたのを、「笑ひなが
ら、皆、涙を落とす」と院は書き置いている。あこまろは面目を失い、小大進は「心にくきもの」と乙
前の推挙どおり名誉を一時にえたのである。
 この場面で、目井や乙前に対する監物(けんもつ)清径とまるで同じ役まわりで名の出てくるのが、悪左府と畏れ
られた謹直無類の学者政治家頼長の、外祖父盛実なのである。彼は任国まで歌謡いの若い遊女(あそび)を同伴し、
これに逆に歌謡の芸を授けることさえできたというから清経とは好一対、それならば──頼長が母方の
血を気に病んだというのも「母」でなく、この「外祖母」のことではなかったのか。彼女が遊女和歌そ
の人でなくても、いわば和歌と同じ筋の女ではなかったのか──。その晩のうちに私は京都のT博士に
手紙を書いた──。

153

 翌る朝、祗園間垣の例の特急便で、亀屋清水のお団(一字傍点)が家に届いた。編集の仕事で出先の病院外来から
妻へ、よくする例の電話で、それと聞いた。
「早いこと食べた方がおいしいんですって」と、妻は屈託がない。
「うれしいわ」とも声が笑っていた。
「一つ、二百円だぞ」と笑い返しかけて、やめた。金袋に似せ八葉(はちよう)の蓮華を象(かたど)った、さながら上古の唐
モとかb、
菓子そのものだが巾着型(なり)に餡をくるんだただの揚饅頭にも見えて、外包はかりかりと固い。清浄歓喜団(一字傍点)
──か、祗園さんに近い東山線のその菓子屋の店先が眼に見えた。徳子や泰彦と通った母校の運動場が
店の真裏に接していた。
 時彦は東京に居坐り進学がもう定(き)まっている、だから逢いにか、それとも──徳子は何を想って都踊
りのさ中に祗園を出てくるのだろう。だが春闘の有様がこの分では、今度はホテルヘなど、出かけちゃ
行けネーゾ、と赤電話から離れながら私は妙に気張っていた。
 好きな大樋九代の飴色の筒茶碗をほっこりと両掌に包み、なつかしいお団で、一服喫(の)みたかった。
 地下鉄の駅の近くで妻に似合いそうな椅麗な藍の花柄のブラウスが目につくと、校正刷や主原稿の大
きな紙袋を抱いたまま私はためらわず店のドアを押した。

九 讃岐の巻

T博士の、打では響く返事はハガキ一枚に簡単な文面であった。──藤原頼長の外祖母は貴兄の想像

154

されるような女人でなく、頼光流の三河守源頼綱の娘で、参(一字傍点)河掌侍(しようじ)の名で公家日記類にちょくちょく見
える人です。頼長が母方をどうやら卑下しているらしいのは、やはりあなたの最初のご想像どおり、盛
実が諸大夫程度の公家だからでしょう一。
 この日、これで妥結かと思った会社側賃上げ及び労働協約四次回答が、組合大会へ持ち帰りのあと烈
しく突き返されてきた。小石川の安ホテルの会議室を借りた団交要員ぬき臨時の管理職会議は、愚痴っ
ぽく時間ぱかりかけてただ泥の山のように疲れを積みあげ、家についたのは十時すぎていた。T博士の
ハガキを読みおえると思わず捻って、エイと掛け声かけてすぐ横浜のM教授を、
「恐れ入ります」と電話□に呼びだした。
「何事ですかナ」と遠い所で先生の声がちょっと緊張していた。恐縮した。くどいほど謝っても私は訊
きたいことを今夜のうちに訊いてしまわずにおれなかった。
らいこう
 もう以前、源清経を西行法師の外祖父と教えられた上で、私は清経の父が頼光(らいこう)流の源頼綱でないかと
唱えているある研究者の説につき、M教授の判断を問うたことがある。もっとも言われることは分って
いた。案の定目下は不明というよりないとしか教授は答えてくれなかった。
「でも先生、清経の父を頼綱とかりに認めるとですよ、頼綱の孫の一人が、例の源三位(げんざんみ)頼政でしょう、
仲政の子の。清経には甥になるわけで──西行と歌人たる頼政とは、歌仲間をとくに介さずとも、かな
り近い親戚ということになってきますよね。とすると、以仁王を担いで頼政(もちひと)が兵を挙げた途端に、西行
さん、清盛方の手の延びやすい高野山(こうやさん)から伊勢へ、まるで遁げだすというぐあいに急に身を隠した説明
もつく、ってことには──ならんもんでしょうか」

155

「いえネ、それを言うてる人もちゃんと居るのですよ。しかし──私の立場じゃ、確かにウンとは言え
ない」
「年恰好は、つろく(三字傍点)してますね」
「ツロク──」
「あ、ごめんなさい。頼綱、清経、頼政、西行、みな釣合っている──」
「ええ。年勘定はほぼ釣合っているようですね。だが、この先はあなたの領分だな」
「そうでしようか」
「そうですよ」と答えて、あの時M教授はしばらく浮かぬ顔をしていた、私はその顔つきを忘れていな
かった──そして今。
「じつは──」
 T博士に問いあわせた点を前置きに、私は電話□でヤボな話を蒸しかえした。もし──頼長の母方の
曾祖父が三河守源頼綱に違いないなら、その娘の三河掌侍盛子とあの源清経とが、兄と妹、または姉と
弟でありえないか。もしそうであるなら頼長と西行とは曾祖父を共有しあった親類になり、台記に西行
法師訪問の次第がこまごま書きとめられた、たしかに頼長側の私的な動機、のようなものは、説明がで
きる──。
「おもしろい、ですね」
「おもしろい、だけ、ですか先生」
「いえネ、同時代の源氏の系図類がいやに混乱してましてね、ご存知のように。清経って名前もいろん

156

な但書つきでひょこひょこ重複して出でくるんで、目下はまあ、彼のことは系譜未詳と言っておく以外
ないのですよ」
「まだ、そうなんですね。でも、可能性は──」
「可能性ってのは、いつも付いてまわるんです、未詳の問題には特に。だから仮説が成り立つ。あなた
はそこからどのようにでも想像力で新しい西行論をなさるもよし、頼長論をなさってもいいのですよ」
「それなんです、私はこれ──西行と頼長との問題だけでなく、彼らの身内に流れていた血の色という
か、質というか、それがよほどですね、よほどその」
「分りますよ。つまりそういう血が時代の底を騒いで流れてたってことで、あなたの〈平家物語〉が必
然浮上してくる」
「ええ、時代精神ですね。そいつを問題にしたいんで。平家物語実現へ、この西行に流れ頼長にも流れ
てた血こそ素地(したじ)であった。基盤であった、底流であった、動勢であった──」
「かも、知れませんな。文学だけの問題じゃないからね平家物語はね。あなたの言うその〈血〉が、時
代の〈今様〉そのものなんでね」
「はい。しかも誰よりその〈今様〉の価値を手掴みにしていたのが、後白河院だったと。梁塵秘抄の□
伝抜きに〈平家〉なんて、私、決してありえなかったとくらい──」
ほや
「いいでしょいいでしょ。──あ、そう、頼長がおばあさんをいつも暮夜密かに見舞った件ですけどね。
彼女、つまり三河掌侍盛子、藤原盛実(もりざね)の奥さん、この女性を産んだ母親が正体不明です。盛子は頼綱の
三河守在任中に任国で生れてましてね」

157

「ほう、三河で──」
「日本の芸能の、あそこは一大淵叢ですよ」
「三河万歳──」
「それに、鳳来寺の浄瑠璃」
「つまり説経語りも、ですね」
「電話で喋りきれることでこりゃないけどね、──たかが系図いじりの面白ずくではあっていけないと
いうことですよ。万歳ひとつ取っても三河万歳、尾張万歳、越前万歳、伊勢万歳、河内万歳といっぱい
ある。近江猿楽、大和猿楽、摂津猿楽なんてのもある。日本中が民衆のいろんな芸能の網目にしっかり
結ばれてて、問題は、これを〈京都〉という名の日本に対する、〈京都以外〉の日本と、むりやり分別
してしまってた、こと──」
「都(と)と鄙(ひ)、ですね」
「それに貴と賤ね」
「京都で出来たものは、何が何でも雅びという物指で測りすぎてきましたね」
「京都で育たれたんだ、よくお分りでしょ」
「分ります。おんなじ京都と言ってもさまざまでしてね。たとえば鴨川より東で育っただけで私のこと
を洛中に生息している連中は、今でも面白ずく、川向こうって言いますよ。お分りでしょう意味は。そ
ういう貴(一字傍点)で都(一字傍点)の洛中と、賤(一字傍点)で鄙(一字傍点)の洛外なんて歴史的構造を抱えこんだ〈京都〉だったんです」
「光源氏の京都と後白河院の京都とははっきり違ってきてた」

158

「そして貴と賤、都と鄙の、避けがたい混血の進行が〈中世〉の幕をあけた、と一」
「そうそう」
「信西も頼長も西行も、後白河院ですらもそういう意味で中世に先がけたんですね。むしろ清盛や後鳥
羽院の方が古代的で」
「入る日を扇で呼び返したかったり、新・古今集を作ったりね」
「そうなんです。平家物語は、やっぱり、そんな清盛が率いる平家と承知の上の後白河風挽歌一でし
た」
「そして慈円の愚管抄は、過ぎし古代への頼長型の悼辞(とうじ)ですよ。道理、筋道一」
「花より、風」
「それはそうと、あなたは俊成や定家のことも、調べてますか」
「いえ、当面、平家物語にはあまり縁がなさそうに思って」
「そうかな。そんなこと、ないでしょうよ。なにしろ藤原敦家の孫ですよ」
「──」
「それに、俊成の母親は、誰── 」
「敦家の娘ってことでしょ」
「その敦家の妻と娘のこと、ひとつ調べてごらんなさい」
「ハァ」と私は絶句した。考えたこともなかった宿題であった。梁塵秘抄から遠ざかるような目前の不
安も兆した。意気込んでかけた時より、心もち重い気分でM教授に、遅すぎた夜分の電話をまた詫び、お

159

やすみなさい、と受話器を置いた。
 
 春闘は険悪の度を増し、予定をこなす(三字傍点)ぐあいに、社員三百人中五十人以上もいる管理職が役員以外み
な社外に退去する、他社(よそ)にそう例のない、しかし決まりきった年中行事がまた始まった。階段の中途で
とり囲まれた某課長が、逆上して組合員の一人を踊り場へ突き落とし、勢いあまって自分も転げ落ちて
しまった。珍しくもない小競合(こぜりあい)であったが、ちいさな怪我がどんな事故を呼ぶか、危険はいつもあった。
 会社はそんな際の社外での落着き場所を幾つか用意していた。管理職は順繰りに、組合員のパトロー
ルに見つからぬよう指定された集合場所へ日ごと出勤するのだ、この日の避難場所は湯島聖堂であった。
がらんどうの陰気な往昔の教場を借り、孔孟の訓(おし)えにはほど遠い気分で熱の入らない校正や手紙書きを
している同僚課長の、それだけ虚勢もはって組合闘士たちの誰彼を罵ったりしているのを、すこし離れ
てぼんやり聴き流しながら私は文庫本の梁塵秘抄から、ラジオ放送でとりあげる法文歌(ほうもんうた)や神歌(かみうた)を、およ
そ百首と見当をつけて選んでいた。
「やってますな」
 肩を叩かれた。日ごろ気の合う方でないSという課長であった。看護婦むけの雑誌を担当していた。
その彼が、眼の前へ見なれない謄写印刷のうすい雑誌を一冊なげだした。
「響」と、描(か)き文字の誌名を右上に、虎ノ子渡しの石庭をかんたんな図案にしたのを隔てて第「2」号
の数字が左下に配してある。下に、立川高等看護学院文芸部と横一行に書いてある。
「おたくの領分らしいから、あげますよ」

160

Sはそう言うと離れて行った。咄嵯に、
「いらないよ」と言いかけ、それさえ面倒くさかった。やっつけるようにうしろからバラバラと頁をめ
くって、巻頭書のへたな割り付けを見ていやになった。
 次の見開きに目次がある。小品、詩、創作、短歌、俳句、近況……で、看護婦らしいベッドサイド・
ワークは一つもない、と、爪弾くくらいに右から左へざっと眼を送っていって「ン──」と声が出た。
表題の下に(研究)とあとからペンで書き入れた二つの、さきのが「更級(さらしな)日記にみる女性像」で、あと
のが「病床日誌として見た讃岐(さぬき)の典侍(すけ)日記」であった。なるほど「病床日誌として見」るという着眼が
看護学生らしい。
「ほんとに、貰っといていいのか」と離れた場処で週刊誌をひろげているSに念のため声をかけておい
て、自分の持物を一束(いつそく)にかかえこむと、
「おい、出るなよ」と逃亡部隊長顔したずんぐりむっちりの部長の一人を、手先でまあまあと払いのけ
るように湯島聖堂をひとまず出て、お茶の水聖(ひじり)橋の方へ石段をとぼとぼ上って行った。いい日和だった。
神田川を渡る赤い地下鉄が寸時轟々と日光を射返し、すっと地下へ消えて行った。
「研究」は三部に分れ、三人の筆で分担して書かれていた。駿河台の、こぢんまりしたホテルのロビー
に居坐って改めて読みはじめた。(一)の部分は、讃岐典侍日記の型通りの解題であった。(三)の部分はまだ看
護婦の卵が、乏しい実習体験を精一杯に堀河天皇の死を看とる讃岐典侍の看護に重ね合せながら、時代
を超えて、人の上に迫る死の意味を捉えようと頑張っていた。気持よく読めた。が、(二)の部分はもっと
面白かった。堀河天皇瀕死の容態を追う日記文を、石井由紀子という生徒が在院中の結核患者の病状経

161

過および処置に比較して、いちいち簡単な検討を加えている。
「日の暮るるままに、堪へがたげに……かく苦しう思召(おぼしめ)し……ただ消えに消え入らせ給ひぬ」とあれば、
「呼吸困難、失神」と見、「誰もいもねずまもり参らせたれぱ、御けしきいと苦しげにて御足をうちか
けて仰せらるるやう」とあれば、「膝関節部枕挿入、呼吸困難軽減」と見、「おどろかせ給へる御まみ
など日頃ふるままに弱げに見えさせ給ふ」とあれば、「無力顔貌」と注していた。こういう工合に「御
かひな冷ややかにさぐられさせ給ふ」を「四肢冷却」、「むげに御目など変りゆく」を「瞳孔散大」、
「いつの程に変るにかただすくみにすくみはてさせ給ひぬ」を「死後硬直」と見極めるまで前後十九項
を挙げ、天皇臨終を目前に看護する者の観察で、適切に経過を表記していた。
 発熱に氷枕(ひようちん)を用い、胸内苦悶に体位交換を試みるのは今も同じだ。が、堀河天皇の胸痛に対しては、
ただ、祈祷がなされていた。「御かゆなど参らすればめしなどする」とあると「食物少量摂取」と認め、
「衰弱が非常にはなはだしく、食欲もほとんどなく、自発的に何もしない。讃岐が強制的に□に運び、
少量摂取する。現代ならば輸液とか、栄養剤の非経□投与がなされる。中古に於ては、こういったもの
が考えられないし、又粥とか、ひる(のびる)等の粗食で有った為、衰弱も病状進行も速かった様に思
われる」と筆者は注記していた。「御手もはれにはれたればえせさせ給はぬ」という本文には、「いよ
いよ絶望状態となり、受戒の為に直衣(のうし)を着るわけだが、手の浮腫で、ひもが結べないの意であり、浮腫
が全身に著明の状態と思われる」と解説していた。臨終が迫る処なども、「だき起している手にだんだ
んとその冷感が伝わってくる。血圧は下降し、チアノーゼが現われ、四肢冷感を寸分の見のがしもなく
綴っている。相変らず祈祷が行なわれている。今日では酸素吸入やら、輸液や強心剤等々の処置が行な

162

われるのだが」と評価していた。

 堀河天皇はもともと御病弱であった。まだ十六歳の少年の頃から殆ど毎年御病気にかかっておられ
る。「ともすればうち伏し勝ちに……」と書かれてあることによっても推察されるが、この日記の始
まる(嘉承二年、一一〇七)六月二十日からは、急に御病が重くなられたのであろう。
 天皇御重態を知らされた時、御所は人不足で、僅かに作者と他三人の女官だけが天皇の看病に当っ
ている。
 幼少の時に母君に死別された天皇は、人なつこく甘え勝ちのやさしい御気性であった。讃岐の膝に
足をのせられて、「自分は今日明日にも死のうというのに誰もかまってくれない」などと言われる。
讃岐が、「どうしてのんびりなどしておりましょう。唯、自分の力ではどうして差上げることも出来
ないのでございます」と答えれば、「いやぼんやりしている。ちゃんと気をつけて見ているよ」とい
う具合である。苦しさの余り三種の神器の一つである八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)の入っている箱を御自分の胸の上に
お置きになるが、御息も絶え入りがち、胸はゆらぎ喘いでいらっしゃる。何とかお元気をつけようと
お粥やのびるなどの煮たのを差上げると、少し召し上って又お休みになる御様子。そのうち夜も明け
て鐘の音が聞えてくると、ほっとした思いになる。
 京都の暑さは殊の外きびしく、お身体はいよいよ弱り今度こそはもう取返しのつかないことになる
というのが誰の胸にも浮かんできて、悲しさも一入である。召上り物も細くなったので大弐三位が後
から抱いて讃岐が食器を支えてあげるが、それも大変苦痛のようでいらっしゃる。それでいて、足音

163

をしのばせてそっと入ってきた関白忠実ただざねのことは、おわかりになって、「おとどが来た」等と知らせ
て下さるその神経の細さが有難くあわれで、讃岐は不覚にも涙をこぼす。天皇の優しさは、発熱の為
に取り寄せてある氷を、御自分が眺めてさえ気分が爽やかになったのだから、あれを臣下に食べさせ
てやりたいと仰有(おつしや)ったところにも表われている。
 どうかして何時(いつ)ものように御病気が直ぐに軽快するようにと願ったかいもなく、お身体に浮腫が来
て耳も聞えなくなり、すっかり弱ってしまわれる。「いよいよ別れの時が来た」と仰有るまでになっ
た。三井寺の高僧も参内した。比叡山から加持祈祷の僧達もやって来た。人々がさわぎ罵る中に病人
は刻一刻と死に近づいてゆく。戒も受けられ仏の弟子となって念仏を唱えられる。しかし仲々一度に
生と死の境を飛びこえる事はできず「苦しい苦しい」と喘がれる様がおいたわしい。最後には「大神
宮助けさせ給へ。南無平等大会講明(だいゑかうみやう)法華」等と念じられ、僧達女官達が一つになって念仏し祈祷する
声々の中で御眼を閉じ、お□も動かなくなる。
 藤三位(とうのさんみ)、大弐(だいにの)三位は悲嘆にむせんでいるが作者は涙も出ない。まだ生きていらっしゃるかのように
柔かい御腕を取り、若しかして生きかえって下さるかもしれないと、じっと待っている、しかし、そ
の腕はだんだん固くなるばかり。
 泣き叫ぶと書いた以上に深い悲しみを打ち出す確かな筆で日記はその上巻を終っているのである。

 筆者である看護学生の年齢も出身も私には分らないが、右の要約には共感が波打っていた。
 言うまでもなく、堀河天皇の死が即ち稚(いとけな)い鳥羽天皇の即位となって、祖父白河法皇の院政がつづい

164

た。法皇はやがて自分の養女、璋子(たまこ)藤原氏を孫皇の女御(にようご)として入内(じゆだい)させたのが、のちに待賢(たいけん)門院と呼ば
れ、保元の乱の敵(かたき)同士となる崇徳、後白河二帝の生母であった。
讃岐典侍(さぬきのすけ)日記の下巻は讃岐が法皇の強(た)っての命(めい)により鳥羽天皇に再度宮仕えするところからはじまる。
見るもの聴くもの故院を想う種でしかない、が、そのうち彼女は亡き人への愛をさながら母の愛にかえ
て稚い鳥羽天皇に注くようになる。
讃岐典侍長子(ながこ)は讃岐守藤原顕綱の娘で、しかも藤三位また伊予三位とよばれた姉兼子の養女として育
っていた。十二世紀壁頭(へきとう)の康和二年(一一○○)はじめて出仕(しゆつし)、翌年典侍(すけ)に補された。父顕綱は、蜻蛉(かげろう)
日記の作者を母に摂政兼家の庶子と生れた右大将道網の、孫に当っている。そして顕綱の弟が伊予守藤
原敦家だ、「神楽朗詠今様随分堪能ノ名人也。熊野ニ参テ芸ヲ施ス。神威ニ依リ召シ留メラレ、眷属(けんぞく)ト
為リシ由古伝也。芸能二法テ身命ヲ集ヘル人世」と郢(えい)曲相承次第に記された。物狂いのこの叔父に嫁い
で伊予三位の産んだのが、醜男(ぶおとこ)ながら優なる者と物の本にほめられている刑部卿(ぎようぶきよう)敦兼、その子が今様上
手の季兼で、若かりし後白河雅仁親王のうた(二字傍点)仲間として源資賢と並び、真先に梁塵秘抄御□伝に名が出
てくる。
 敦兼の妻は稀にみる美女であったらしい。それ故に醜い夫をふと毛嫌いしはじめると頑なに近寄せな
かった。所在なく敦兼は月かげ冷ややかに風が身にしむ夜、、心澄まして篳篥(ひちりき)の音色もしみじみと、
 

  籬(ませ)のうちなるしら菊も うつろふ見るこそ哀れなれ
  我らが通ひて見し人も 斯くしつつこそ離(か)れにしか

165

と「枯れ」の衷情を繰返し歌い、女心はほだされてもとの優なる仲らいに戻った話が、古今著聞集好色
の章に色よく採ってある。
 そのじつは敦兼の叔母ながら敦兼の義妹(いもうと)として出仕していた讃岐典侍は、おそらくは上級女官の埒を
こえて、後宮の一人でもあったと想われ、堀河天皇との仲はいささか姉と弟との恋に近かった。讃岐は
天皇より二、三歳年嵩であった。
 M教授に、俊成卿の生母を知っているかと訊かれて、これは敦家の娘とすぐ答えられた。俊成の子定
家の明月記に、
「入道殿(俊成)御母儀、刑部数兼朝臣(あそん)ノ妹ナリ」とあるし、三代集之間事にも俊成自身の言葉として
「外祖母伊予三位兼子、堀河院御乳母」と明記されてある、だから、俊成の母を讃岐典侍その人、と説
く学者があるのを私ははじめて知った。反対する学者もいた。
典侍(ないしのすけ)の子か、敦家の孫か、どっちにしても俊成は色濃い物狂いの血筋を母方に承けていたわけだ。
春闘も放送録音のことも忘れてその後の三日ほどを、余念なく私はこの詮索にあてた、陀羅尼よろしく
「世上ノ乱逆(らんげき)追討、月二満ット雖(いへど)モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎(せいじゆう)ハ吾ガ事二非ズ」と呟きながら──。
 藤原俊成は永久二年(一一一四)に父中納言俊忠の末子(まつし)として生れており、家の系図に母は長子忠成の
母と同じとしてある。
 さてすべて端折って、かりにもし讃岐典侍を俊成の母、定家の祖母とすると、彼女は十六歳ごろに俊
忠との仲に忠成を産み、二十六歳ごろに典侍となって三十二歳ごろ堀河天皇に死なれ、引き続き鳥羽幼

166

帝に仕えて三十九歳ごろまたも俊忠の子俊成を産んだということになる。いささか真実感(リアリテイ)に欠けるがそ
れはまだしも、その後なお五年を宮仕えして元永二年(一一一九)八月、院宣により参内(さんだい)を停(とど)められ、
兄道経に預けられているのが、妙なのである。四十四歳ごろのことになる。ちなみに藤原俊忠は保安四
年(一一二三)七月二十九日に五十一歳で死んでいる。元永二年の退出時に、夫がまだ存命なのになぜ
兄に預けられたか。一種の罪人であったからか。
 右の経過は信じられそうな、信じられないような、どこかすっきりと事実同士が噛みあわないうらみ
がある。

 ──文庫本の讃岐典侍日記に〈解説〉が付き、校訂者のK博士がこんなことを書かれていた。
源師時(もろとき)(あの清経を案内人に江口に遊んだ公家)の長秋記という日記に、元永元年(一一一八)秋の
頃、まだ宮中にいた讃岐典侍が一種の発作に襲われ、「自分の身には先帝堀河院の御霊がのり移って御
出でになる」と、さまざまなことを□走ったという記事が見える。「我(先帝御霊)は今上(きんじやう)を守護し参
らせんが為に常に内裏(だいり)に在る。此の間は中宮(ちゆうぐう)方に在って御守護申上げた。中宮はやがて御懐妊あそばす
であらうぞ」などと、信任久しい典侍(ないしのすけ)が叫んだというのである。
 K博士は「かやうな精神状態は、どう説明せらるべきものであるか分らないが、とにかく作者には千
里眼的な、一種特異な心的作用があったものと解せられる。讃岐典侍日記は、かかる作者によって書か
れた」と付言されており、事実予言は的を射た。今謂う「今上」とは先帝御霊の一の皇子、十六歳にな
った鳥羽天皇のことで、懐妊の中宮とはのちの待賢門院、時に十八歳の璋子、傾国の美女であった。

167

讃岐典侍の予言は一度にとどまらない。引きつづいてやがて、「御懐妊の事が成就した。今は皇子誕
生の御事をば朝幕内侍所(あけくれないしどころ)に御祈請(ごきしやう)申上げてゐる。此の事また叶ふであらうぞ。宮中の人々感悦いたせ」
と言い放ち、果してそのとおりになったと後宮(こうきゆう)の元締格の師時がその日録に記している。即ち翌元永二
年五月二十八日、初の皇子誕生に宮中は湧いた。この皇子が顕仁(あきひと)親王のちの讃岐院、崇徳天皇である。
「先帝御霊を称し」或は「前朝(ぜんてう)御霊告の由を称して」と源師時は日記に書いている。典侍は亡き堀河院、
つまり宮中期待の新皇子には祖父に当るお方の霊に催され乗り憑(よ)られているのであって、事実この女人
ほど憑依(よりしろ)として故院の霊を待っにふさわしい人は他になかった。歌道を尚ばれ才芸秀でたものを慈しま
れ、表向きには父白河院政の蔭に閑散と暮されねぱならなかったお若い天皇に対し恋慕を傾けつづけて
きた讃岐典侍だからこそ、空しく死なれた胸の洞(うつ)ろに絶えず故院の面影を待ち迎えようとしていたには
相違ない、それは十分信じられる。のに、それならそれでその予言には、堀河先帝御霊の霊告には、文
庫本の解説中僅々(きんきん)十有余に紹介されたそれきりの事柄にも、実は断然すらりと頷ききれないところがあ
った。
 讃岐典侍が告げた故院の願望は鳥羽天皇の皇子誕生の一事に懸かっていて、一見何一つ不審の筋はな
い。時まさしく元求元年の仲秋、満天皎々の長夜、後宮の女人は挙(こぞ)って局(つぼね)皚、局に白皚々(はくがいがい)の氷輪(ひようりん)を仰いで
いたさなか、常寧殿へ通う后町(きさいまち)廊、あたかも後宮中枢の花道に立って讃岐典侍は高らかに中宮近々のご
懐妊を叫んだ。その時天皇は清涼殿に、だが、当の中宮は上の局(つぼね)はおろか職(しき)の曹司(ぞうし)にも藤壺にも姿がな
かった。中宮璋子は賀茂川の東、白河南殿(なでん)の釣殿(つりどの)に、養いの父白河法皇の腕に抱かれ、池水を射かえす
月かげにほのかに顔をそむけていた、と、□さがなく人は言うのである。

168
 
 

ところで、源師時が長秋記に讃岐典侍憑依(ひようい)の一件を誌しているのは、実は中宮懐妊の秋よりちょうど
一年も後の、皇子出産を経て三ケ月すぎた元永二年(一一一九)八月二十三日のことで、それもすべて
伝聞の態に書き留めている。
 讃岐典侍が先朝御霊と称して「雑事」を奏するのはこの元永二年当時にも何度となくあったことらし
く、師時と同座したある公家によれば、「すでに大事に及ぶ、よってかの元和泉前同道経を召し、(典
侍に)邪気あるの間暫く参内せしむべからざるの由」を白河法皇の御気色(みけしき)として仰せ出されているとか
であった。
「すでに大事に及ぶ」とあるからは、宮廷の内外に噂は尾鰭沢山に広がりかけていた様子が眼に見える
ようで、「大事」の中身も言外に中宮璋子の不行跡を指していたろうと推量される。
 この公家の内緒ばなしは師時同座の際さる僧正の前で囁かれたものだが、その僧正から、実は讃岐典
侍には去年の秋以来、何度かそんなことがあったのだと、例のK博士解説にあった予言騒ぎについても、
まるで初耳のような顔で師時は聴きだしている。
 僧正はその予言の悉く当ったことをしたり顔に認めた上で、「此(かく)の如き事は信ずべからずと雖(いへど)も今そ
の実(懐妊)有り、よって左上(鳥羽)をはじめ奉って信仰の間、先頃はまた称していはく」と、文庫本
の解説にはすっぽり省かれていた刑事を師時や同座の公家たちに話して聴かせた。
 但し師時の公家漢文はここからがひどく読み煩うが、要するに「吾は先朝の霊であるぞ、度々此の女
房に託して奏上させたことみな真実であったと納得が行ったであろう」などと重々しく言い構え、「だ
から」と、次に堀河院の「霊」は意外な要求を宮廷につきつけていたのである。

169

十 今様の巻

 先朝の霊は讃岐典侍の□をかりて、「だから」と言ったらしい、「就ては褒美をこの女房の申し請う
ままにいただかねばならぬ。そうでないと、随分怨みの心を結んで悪事をなすであろう。今望む所は、
讃岐典侍の兄道経を近江守にしてやってほしい。また自分の為、後院の領の内に新に居所を営んでほし
い。」
 要求は白河法皇の耳に達したものの、きれぎれに、「私有り」とか、「不信、仍(よ)って」とか、「此事
無裁許」とか見えるから聴許に至らなかったと分る。このあと「恐らく誤脱」があるらしく史料大成は
注しているが、「悪霊となって子孫をとり殺すべきなりと、此の由書状を以て示す」などという記事が
眼につき、白河法皇もやがて「書状」とやらを直々に読んだ様子、だが、これだと讃岐典侍ないし鳥羽
天皇方が再三法皇方にけちな恩賞をねだるか交換条件を示すかしている風情で、悪く察すれば讃岐典侍
はよほど法皇方に不都合な何ことか真相を睨んでいて、兄道経をして宮中を退出させよとの院の仰せに
も背き、逆に、□を封じたくばと居直っているのではないか。
 主上はこの女房をとりわけて信任、つねづね談笑の相手にされており、いま院宣(いんぜん)を蒙り讃岐典侍退出
の御意(ぎよい)を下されても、「主上定めて請けられざるか」と師時は、いや師時らに話しているさる僧正は確
信ありげに推察している。十七歳の鳥羽天皇は、もし中宮(璋子)の忌避一つで讃岐典持参仕を禁じよ
うという仕儀であるなら自分は断じて同意しないし、向後中宮にも逢わぬ、これは堅い決心とまで、こ

170

とさら側近の□をかりて公言しているのである。
「いえ、ずいぶん□どめはされたのですけれど、同じことは関白殿へも仰せられたそうだし、中宮にも
もう此の事は聴こえているとかいないとか、まあ、ここだけの話にして下され」と僧正は話なかばにし
たり顔をし、師時もその言葉のまま「但し余人に言ふなかれと云々」と当日の筆記を終えている──。
 K博士はこの長秋記一連の記事の前半分だけをあげて「讃岐典時日記は、かかる作者によって書かれ
た」と紹介されたが、「かかる作者」の意味も「先朝御霊」の真情も、後半分のあれこれを知ってみる
と色合いを変えずにいない。御霊も讃岐典侍も鳥羽天皇に良かれとの一味同心はまず疑えないが、逆に
白河法皇や中宮璋子に対しては、事と次第で「悪霊となつて子孫をとり殺す」とか「怨心を結んで悪事
をなす」など物騒な恫喝(どうかつ)を敢えてしているし、しかもこの際の「子孫」とは、生れて間もない顕仁親王
を指さしているとしか考えられない。となると、他ならぬこの皇子の出生を予告して、「禁中の人々感
悦いたせ」とやった当人が、兄道経を近江守に、さもないとと脅かすことになり、辻棲が合わなすぎる
のである。
 そこで強いて先朝御霊告の首尾を通すのなら、今度中宮に生れる皇子は自分の血肉を頒(わ)けた実子では
決してないと、鳥羽天皇側が讃岐典侍憑依(ひようい)の演技力を借り、先手を取って宮廷の内外に宣言したという
楽屋裏を推察してみるのがいっそ面白いし、だぶん間違いがない。おそらく、白河法皇とよくない、時
の関白藤原忠実らがいずれの鳥羽院政をばあてこんだこの企みの黒幕であったのだろう、後年に爆発、
前例のない関白罷免の白河院宣という大事件になる鳥羽および父忠実と、白河および子忠通との結託そ
して対立は、もうはや「東西東西」と、平家物語序幕、保元の乱の場、を予告しつつこの讃岐典侍託宣

171

とさら側近の□をかりて公言しているのである。
「いえ、ずいぶん□どめはされたのですけれど、同じことは関白殿へも仰せられたそうだし、中宮にも
もう此の事は聴こえているとかいないとか、まあ、ここだけの話にして下され」と僧正は話なかばにし
たり顔をし、師時もその言葉のまま「但し余人に言ふなかれと云々」と当日の筆記を終えている──。
 K博士はこの長秋記一連の記事の前半分だけをあげて「讃岐典時日記は、かかる作者によって書かれ
た」と紹介されたが、「かかる作者」の意味も「先朝御霊」の真情も、後半分のあれこれを知ってみる
と色合いを変えずにいない。御霊も讃岐典侍も鳥羽天皇に良かれとの一味同心はまず疑えないが、逆に
白河法皇や中宮璋子に対しては、事と次第で「悪霊となつて子孫をとり殺す」とか「怨心を結んで悪事
をなす」など物騒な恫喝(どうかつ)を敢えてしているし、しかもこの際の「子孫」とは、生れて間もない顕仁親王
を指さしているとしか考えられない。となると、他ならぬこの皇子の出生を予告して、「禁中の人々感
悦いたせ」とやった当人が、兄道経を近江守に、さもないとと脅かすことになり、辻棲が合わなすぎる
のである。
 そこで強いて先朝御霊告の首尾を通すのなら、今度中宮に生れる皇子は自分の血肉を頒(わ)けた実子では
決してないと、鳥羽天皇側が讃岐典侍憑依(ひようい)の演技力を借り、先手を取って宮廷の内外に宣言したという
楽屋裏を推察してみるのがいっそ面白いし、だぶん間違いがない。おそらく、白河法皇とよくない、時
の関白藤原忠実らがいずれの鳥羽院政をばあてこんだこの企みの黒幕であったのだろう、後年に爆発、
前例のない関白罷免の白河院宣という大事件になる鳥羽および父忠実と、白河および子忠通との結託そ
して対立は、もうはや「東西東西」と、平家物語序幕、保元の乱の場、を予告しつつこの讃岐典侍託宣

171

に胚胎していたと言える──なるほどねエ、俊成や定家はこういう讃岐典侍の血も承けていたわけかと、
私はM教授の助言に今さら唸った──。
 歌人藤原俊成は、断絶平家の最後の嫡流六代御前の、母方の曾祖父であった。俊成の姉俊子は、後白
河院の寵児であった建春門院滋子の、祖母、高倉天皇には曾祖母に当った。つまり俊成姉の血の一滴は
安徳天皇に流れて西海の水泡(みなわ)と失せ、弟俊成の血の一滴は平家断絶の悲風に草葉の露と消えていたので
ある。(そういえば同じこの姉の娘が、俊成の姪で定家の従姉が、平治の乱のはかない勝者藤原信頼の
母でもあった。)しかも如何様(いかよう)の栄華の余禄にもあずからず、むしろ俊成その人の平家に対するつきあ
いは慎重すぎるくらい、あえて遠退いてさえいた。一身の面目をただ和歌に賭けていた。非参議の三位
に終った生涯は、讃岐典侍の一件以来重ね重ねなにかに懲りたような、政局へ当らず障らずの姿勢を物
語っており、子の定家が「紅旗征戎ハ吾ガ事ニ非ズ」とうそぶいた態度にも影響している。
 かりに、懲りたが消極的にすぎるなら学んだと言ってもよく、学んだ成果は十分であった。歌道執心
出精によって俊成と定家の父子ほどみごとに家門を押しひろげてみせた公家(くげ)はいない。それはあの頼長
の真四角な、あまり手厳しく性急な覚悟に較べ、まるく身をすくめながら好機を待つ態度が成功したの
であって、それとても、頼長、俊成めいめいの〈今様〉を己(おの)が血汐の色にしかと識別しての処世であっ
た。それぞれに土佐守盛実や伊予守敦家から、なるべく遠く翔(と)び離(か)けりながら、それなりに後白河院に
象徴される〈今様〉の時勢を個性豊かに認識し反映した生涯を、頼長も、俊成も、あの西行にしても、
十分に演じきったのである。
 頼長は甥の慈円を誘いだしてものに道理をと望み、俊成は子の定家を鞭撻して詩の世界の自立を促し

172

た。「花にそむ心のいかでのこりけむ捨てはててきと思ふわが身に」と詠(よ)んで西行は勧進の聖と身をか
え、むしろ道々の者の境涯をさながらに、諸国をさすらい歩いた。それこそ彼らが「中世」の旅立ちに
はなむけた精いっぱいの〈今様〉であった。平家語りが後白河院企画の雄大な〈今様〉でありえたよう
に──。
 が、こんなことまで梁塵秘抄のラジオ放送には盛りこめやしない──。尋常に、六百ちかい歌謡のせ
めて百首ほどを選び出すかたわら、六回に割りふって歌謡の話以外に何をどう話題にするか、およその
見当でもう端からメモを作っていくしかない。
 一、梁塵秘抄の成り立ちそして巻第一
 二、後白河院の執念そして法文歌(ほうもんうた)
 三、十二世紀の今様そして四句神歌(しくのかみうた)
 四、御□伝と遊女乙前そして雑の神歌(一)
 五、(未定)そして雑の神歌(二)
 六、歌謡の変遷そして二句神歌
と、ここまでは頭にあった。
 私は梁塵秘抄を一種の詞華集とばかりは見なかった。美声は梁(うつばり)の塵を浮かばせるという語意からも、
後白河院の本意は「今様」歌唱法を説く御□伝十巻を技芸篇に、歌詞集十巻を資料篇に心がけたむしろ
文芸(二字傍点)ならぬ音楽(二字傍点)、それも芸能寄りに重い編著と読んでいた。
「今様」といえば、ふつう梁塵秘抄歌謡の同義語くらいに取っているけれど、もともとは「古様」に対

173

する言葉だ、どのような時代にも古様はあり今様があった。ことに後白河院が身をもって支えた十二世
紀中葉には多彩な今様化が文学、美術、工芸、宗教、風俗そして社会構造ないし政体にまでめじろ押し
興味津々に進んだ時期であった。
 その広汎な今様化現象の中で、選(え)りに選って雑芸(ぞうげい)とも呼ばれ、それも遊女(あそび)、山伏、歩き巫女(みこ)、くぐつ
等の芸能の徒に担い歩かれ謡い広められたような歌謡をさして、固有名詞然として「今様」の名が献じ
られていた。それら歌謡の好まれかた、謡われかた、そのテンポやムード、そして世間に広まってゆく
広さ早さ道筋などの様態に、言い知れないある新味がよく認められていたから、と思える。
 となれば、それを蒐集し歌唱法の周到な□伝を備えた梁塵秘抄にも、たんに古代歌謡の歌詞を能うか
ぎり集めてみたというだけでない、時代を歩一歩前へ踏みだした、いわばすぐれた今様精神が結晶して
いると、錯(あやま)りなく受けとめる必要がある。編者の後白河院その人をも雄弁に表現しえていると、大事に
評価する必要がある。
 □伝を読むと分る、院は芸道の師家・家元ほどの気迫で己が見識と技芸とを後世に伝えたい態度をは
っきり持していた。師匠そして弟子への愛が院の心を満たしており、それは芸道の正統性という中世的
価値の線上に自愛の芸・能、を位置づけたい願望でもあった。
 後白河院には二つの顔があり、その一面が平家政権や鎌倉の頼朝に向けられる時は、さながらに最後
の古代人の保守的相貌を堅持し、今一面が梁塵秘抄の世界に歌声もろともにふり向けられる時は、あた
かも最初の中世人といいたい表情をもつ。院のこの異なる二つの顔の間でたしかに時代は移り動いた。
彼のたとえば信仰が、彼の政治〈古代〉と芸能〈中世〉との間で過渡的なある不十分さを見せていたの

174

もむりなかった。
「たとひ又今様を謡ふとも、などか蓮台(れんだい)の迎へにあづからざらむ」と院は信じていた。
 それはいい。が、なぜそう信じられたのか。
 院はこう言っている。「其故(そのゆゑ)は、遊女(あそび)のたぐひ、舟に乗りて波の上に泛(うか)び、流に悼をさし、衣裳(きもの)を飾
り色を好みて人の愛念を好み、」そのように妄執(もうしゆう)の罪を重ねている遊女らでも、法文歌など尊い今様を
謡う功徳で往生がとげられる、「ましてわれらはとこそ覚ゆれ」と。
 遊女でさえ、往生する。まして至尊の自分が往生できぬわけはない、と言わんばかりの口吻。ここか
ら法然また親鸞のあの信の深さへは、まだ一歩も二歩も隔てられていた。
 誰が、隔てられたその一歩二歩を近づけるのか。どう近づけるのか。私はそこに「平家物語」実現の
必然を思った。だから「今様」に代る「平家語り」の詞曲が書かれねばならなかったと思った──。
 放送の第五回めを、雑の神歌の後半とともに何を語るか決めかねていたのを、今こそ私はあの、源資
時、に寄せて〈梁塵秘抄から平曲へ〉という必然について語ろうと、決めた。

 四枚で、五枚で、千枚でという短い原稿にも約束があった。気になった。机にさえなればそば屋のテ
ーブルでざる(二字傍点)をさらえながら書いた。どんな騒々しい喫茶店でも机になる場所は貴重だった。ほんの十
五分約束の時間待ちに、依頼原稿をもらいに行った医学部教授室の前の廊下で「職人尽絵(づくしゑ)の魅力」など
というのを立ったなり書いて、眼の前へわっと、頼んであった原稿入りの袋を美人秘書に突きだされ、
声をあげたこともあった。

175

困った、と思うことは他にもあった。社屋でストを打ちつづける課員と、連絡さえとれれぱ簡単に手
も打てることなのに、社外の管理職から直かに組合員へは電話もならぬ争議の成行、というより慣習が
できていた。遠まわしに団体交渉の席を通し重役の□から用事を組合の執行部へ、そして担当者へ、で
は将があかず、返事も早速には返ってこない。仙台のある教授にむりに承諾してもらい、但し大事な病
理写真やX線フィルムが付いてまわり原稿は郵送しかねると言われて、むろん頂戴に上がりますと電話
での□拍子にたしか約束していたのが、〆切をもう幾らかすぎていた。ああは言いながらやはり送って
来たか、まだ来ないのか、組合員には出張拒否も闘争手段の内だからもし行くなら課長の私が行かねば
ならず、その時機も逸したくはなかった。
 出版部長に、念のため、晩に係の者の自宅へ電話をかけますよと一応断ると、いや此の際組合をまち
がって刺戟してもつまらない、待て、ととめられたその午後、三時すぎて集合場所の茗荷谷(みようがだに)M会館へ、
いま団交中の編集局長から急の電話がきた。
 仙台のW教授がご立腹という案の定の話だ。催促かたがた担当者が教授に電話を入れたのはまだしも、
春闘の最中で行かれないから原稿は出来しだいやはり郵送してほしいと押し込んでしまったらしい。原
稿は出来ていて、受取りにくるものと待っていた、郵送したくないとはっきり言っておいたはず、無礼
など、いちいちごもっともの苦情であった。
「──行ってくれるね」
「むろん。で、約束は何時に」
「あした十二時半──。金、要るだろ。すぐ誰かに持たせるから」

176

「費用は、こっちで部長にも用立ててもらいますから、後日の清算でいいです。分りました、すぐ用意
します」
「あしたは、金曜──か。あした中に帰ってこられるね」
「ええ。でも土曜日曜だし。それとも臨時に招集されそうですか。公開団交、どんなですか、シュプレ
ヒコールえらく聴えますね」
「いやもう──大嵐さ」と、編集局長は電話を切った。
 部長には、一度家へ帰るかと訊かれ、思案して首を横にふったものの、嵩ばる原稿を粗相に手に持ち
帰りもならなかった。新幹線のまだ無い仙台まで、ご苦労という課長も、いい息抜きだと羨む部長もい
た。あまり相手になっていず、さっさとM会館を出てしまった。
 赤電話で妻に、新しいワイシャツ二枚とあとはカラでいいから小さいスーツケース、それに幾らかの
金を池袋駅の改札口まで届けてと頼んだ。
「何時の汽車、なの」
 それは上野駅へ行ってみての話であった。仙台へは私ははじめて。新幹線で京都へよりは、時間がか
かるだろうというほどの頭しかない。夜半の宿探しはつまらない。夜行で早朝に仙台に着けば十分と思
っていた、そして、声を嚥(の)んだ。そうだ、徳子があさって東京へ出てくる──。かろうじて間にあいそ
うなのが良かったのか、いっそ重なって逢えない方が良かったのか、思わず胸を鳴らし、置いた受話器
の前で背を人に押されるまで佇んでいた。
 時計を見た。四時をだいぶ過ぎていた。駅員に長距離電話の場所を訊き、西口にある百貨店一階へ地

177

下道の雑踏を呆(ほう)けぎみに歩いた。
 ──仙台へは、上野を朝六時に乗って十時すぎに着く列車が「便利やお言やして」東京を中継ぎに、
いつもそうして帰る「間垣」の客がいる、
「ほんまえ」と電話の向こうで笑って徳子は念をいれ、
「──」となにか短く叫んだ、らしい。人に呼ばれたのか、仕方なく百円玉を三つ四つ追加しながら、
北多摩の家(うち)から朝六時に上野駅まではとてもむりだと思っていると、ものが甦ったようにまた徳子の冷
静な低声(こごえ)が、その、六時発仙台行の切符を「二枚」取っておくよう、うむを言わさなかった。
「──と、今晩は」
「いつものホテル二た晩くりあげてもらうくらい、平気どすテ。よろしおしたら来とお……」
と、そこでコインの数がきれた。
 ──娘のお使いでなく、妻が自分で池袋へ来てくれた。
「だめよ、靴下や下着だって替えなきゃ」
といきなり言われ、
「こっちもだめなんだ、乗物の都合がうまく行かない。あした朝六時発が一番確実なんだけど、うちの
駅を、かりに始発四時半でも上野まで、は」
「危い──わね。切符も、まだ買えてないんでしょ」
「ああ」
「都内に泊れるとこ、あるといいわね」

178

「──」
 会社に近く、著者用のカンヅメ執筆に便利な旅館なら顔は利く。が、事あれかしの組合員にわるく見
つかると厄介な事件(トラブル)になりかねない。拉致(らち)されて社屋へ軟禁された例(ためし)も、過去にあった。人に見られな
がら改札□を少し離れて妻と私はちよっと立往生の体であったが、乗車券はやはり一刻も早く大事をと
って買っておくしかなかった。荷物のやりくりをし、子どもに留守をさせてきた妻は、別れぎわ、恥ず
かしそうにちょっと手をだした。軽く握りかえした。いつもより、華奢に感じた。
 乗車券の二枚は、買えた。思わず軽くなりがちな足を一歩一歩手のひらで抑えるくらいに、ゆっくり
歩いて上野不忍(しのばず)の池寄りに安宿をさがした──。
 半間(はんげん)の浅い床の間は斑(ふ)入りのねじれた竹柱で、張子の起上り小法師に似た愛くるしい達磨の掛軸の裾
に、何をとばしたか茶色いしみがいやだった。高くないベニヤ板の天井に電燈は暗く、畳端縁(べり)だけへん
にけばけばと真新しかった。どこからかけたたましく笑う客の声も聴えた。いま前を通ってきた小さな
映画館の、落ちこんだような地下への階段が急に眼の底に甦ってくる、と、晩飯を断って私は遁げるよ
うに外へ出た。教授への手土産も用意したかった。もう宵闇に、花どきに近い上野の山はむっとむれた
ように黝(あおぐろ)い風を鳴らしていた。
 イングリッド・バークマンの反戦映画を立って観た。人影のない夜霧の大通りにうるんだただ街燈の
列をカメラがじいっと写していた。なかなか泣かないバーグマンの眼もよかった。傍に、やはり立ち見
の若いアベックがいて、女の頬を涙がつたっていた。洋書輸入部でこの一、二年タイプを打っている子
だ、□をきいたことはないが課長がてこずる「反体制」の闘士とか、肩に手をまわしている青年は知ら

179

ない顔だった。のけぞるように離れ、もう行方知れた映画を見捨ててくらい階段を地上へ出た。誰と出
会ってもかまわない、急に鰻が食いたくなった。
 蒲焼で猪□を持ったり置いたり、文庫本の梁塵秘抄に書き入れを増やしながら、酔うにつれて頁の上
が黒白に濡れた映画(スクリーン)に化けて、大輪の白い花のような女の顔をつうっと一とすじ涙がつたって見えたり、
そうかと思うと店内を漂う濃い山淑の香に鼻を衝かれたり、なにがこう寄るべなく侘びしいのか。

  恋ひ恋ひて たまさかに逢ひて寝たる夜の夢はいかが見る
  さしさしきしと抱くとこそ見れ

 鎮め難い好色の催しにからだの深い芯が痛むほど疼くのを酒で殺して、私は、徳子がもう着いている
かしれないいっものホテルヘ電話したい自分を苛(さいな)んだ。本を伏せ、徳利も箸もおいて朦朧と指折りかぞ
え、徳子と出違った昔が何年前になるか思いだそうとするのだが、鳴咽(おえつ)ににた軽い吐きけに妨げ、妨げ
られた。暖簾はもう取りこんであった。四月の仙台は寒いのだろうか、姉さん、ほんとに東京まで来て
るのかと思い、これほどいわれない疑いがまたあろうかと私は恥ずかしかった。

 朝日を窓いっぱいにはらみ、汽車自身が早起きの元気さでぐんぐん走る。大宮駅をすぎるまで、窓辺
へ徳子を坐らせ黙って外の景色を二人で見ていた。とくべつ物を言いあう必要もなく、そのうちに、
「すこし眠っておきます」と告げ、私は背任几れをうしろへずらした。徳子も同じように身じろぐのを背

180

に感じながら、頸すじのうしろを暗やみに引かれるふうにすぐ寝入ってしまったらしい、気がついたの
は郡山駅をがたんと発車した時であった。左肩へ徳子の髪が傾(かし)いでいた。覗きこむと、ん、とあどけな
く呟いてまだ寝入っていた。額髪のすこしほつれたのを指先でかき上げてやると、そのまま薄く眼をあ
いて「おおきに」とちょっと頷く。何時に起きてきたのか、化粧はきちっと出来ていた。
「あと、一時間半」と耳もとへ景気をつけ、掌をつぼめて頬っぺたをかるくはたいてやった。
「お弁当(べんと)にして。食堂イ行くよりか」
 ん、と背筋を伸ばし、この連れはけろっとして車内売りがいつ来るか私に訊きながら、おもむろに、
どこで買ったのか手帖ほどの真新しい「仙台・松島」というミニガイド文庫をハンドバッグからとり出
すのであった。
 その辺が街の真中らしい、東一番丁とある略地図に大きそうなホテルの名が見えたのを、一応の落着
き場所と決めて、仙台駅からタクシーに乗った。まだ色淡いけやき並木が閑散として見えた。どの店も
あいて間がないとみえ、表に水をうち、何となく楷書の字ほどにきっちりと奥の方まで覗けた。
 花は──、
「まだ早い」
 運転手は桜より仙台は七夕がいいと言った。七月でなく、八月五日が前夜祭で六日から三日間がお祭
だそうで薬玉、吹き流し、千羽鶴、短冊などの飾りは一と月の上もかけて作るとか。「よしやまた慰め
かはせ棚機(たなばた)よかかる思ひにまよふ心を」と建礼門院右京大夫がうたっていたのをつと思いだしだし、
黙って聴いている徳子も私と同じ、もう世に亡い弟泰彦や大井尭(あき)子のことを考えている気がした。

181

 ホテルはからりと、ちょっと明るすぎるくらいモダンな玄関をもっていた。ともあれ徳子のスーツケ
ースを一時預けにしておいて喫茶室を探した。車を拾えばこの界隈からたぶん教授室のドアの前まで三
十分で着くだろう。どう遅れても、と徳子に言った、二時半にはこの同じ席まで帰ってこられると。
「そんなン、ちょっとも気にせんといとくれやす。あては、見たい所(とこ)ヲ好きに見てまわってますよって
に」
「──」
「ほんまどすテ。大丈夫」と徳子は、笹かまぼこだの仙台みそだのとそんな店の名ももうおぼえており、
お午食(ひる)にはかに(二字傍点)の食べられる店を見つけて、などと落着きはらっていた。
「降参、です」
 頭をさげて徳子を私は笑わせ、改めて緯段(よこだん)に織ったやたら(三字傍点)の、けむったような色目の匂いをほめた。
藍型の色ざしでむかし懐かしい千代紙ふうの帯に、銹(さ)び朱の帯紐をむっくり結んだ大きな結びめが妙に
頼もしい。いっそ寛いで、さすがに□かずは惜しみ、微笑んで、頷いたり抗(あらが)ったりの徳子の京ことばを、
眼に、耳にとめて、こっちをみる客も何人もいた。百号もある蔵王(ざおう)の山の油絵へ徳子の視線を誘いなが
ら、京都でより、東京でより、こんな仙台といった考えたこともない知らぬ土地に来て二人が睦じい夫
婦者に人目に見えているであろうことに、ふと私は媚びられていた。W教授の部屋へ電話を入れ、そし
て徳子をその場において洗面室へ髭を剃りに起った。
 ここまで来れば大学病院にも医学部にも、ただ挨拶ですましたくない出版の相談や執筆依頼をして行
きたい先生が何人もいた。外来診療や講義のあるこの時間、どれだけ出会えるか望みは薄くとも、徳子

182

が、ひとりの街歩きすら楽しみにしている気安さを頼んで、見送らないでと手でおさえ、客待ち顔のタ
クシーの方ヘスーツケースを提げて行った。タクシーの中で、会えれば会っていきたい医者の名前を三
人、四人と私は手帖に書き出した。
 そんな駆けあしの終点に、副院長室へ尋ねあてたW教授は、白衣を勇ましくソファに脱ぎすててご機
嫌であった。用件はあっさり済んだ。お嬢さんかしらと思ったほど物静かな秘書の手で私の分まで昼弁
当が、ちゃんとテーブルの上に届いていた。春闘の話が蒸し返されることもなく向かいあって、この、
蒸し寿司を盛った茶碗が、仙台の、
「堤焼ですよ」というW教授の話から、同じ堤町で造っている土偶(でく)の堤人形と京都稲荷の伏見人形とに
ついての蘊蓄を拝聴することになった。なるほど執務机の真正面の壁ぎわ、大きな赤い丸のミロのリト
グラフの下に飾り台を据えて伏見の馬ひき狐と並んだのが、立烏帽子に扇と鈴をもった堤人形の子ども
三番叟(さんばそう)であるらしい、いずれも十センチそこそこの鄙びたものだ。
「八畳の部屋にあなた、四段の棚を左右に向かい合わせて、どっちが沢山蒐まるか、て……はっはは」
 二十貫はありそうな赫ら顔の額に思わぬ愛らしい皺をよせてこの副院長先生は、奥さんが、私の去年
こっそり限定出版していた歌集の「愛読者ですよ」とまで嬉しがらせてくれた。奥さんは一時期この地
方の新聞で短歌欄の選者をしていたとか、早桜の二分咲きが窓の久遠く、緑の森を背景に丈高う枝を張
っていた。
 此の際でもあってと、言外に会社の現状を含ませ、一時半、席を起った。いま受けとった新しい論文
を軸に、胃生検法の全面的な再検討を一つの売物にした、いわば「W氏消化器病学」の企画化を、お土

183

産に、承知してもらえた。そのふんぎりを教授につけさせたそういう原稿を仙台まで入手に来たのであ
った。嵩の高いレントゲンフィルムの一箱と、病理のスライド写真一ケースとで用紙五十枚の依頼原稿
がずしっと重い。
「仙台は、何度め」
「じつは、はじめてなんです」
「それじゃ」と教授はせめて瑞鳳寺、霊屋(おたまや)辺を歩いてから汽車に乗ってはどうか、近くのたしか片平町
に、運転手に訊けば分かるうなぎの良い料亭(いえ)もありますよと教えられた。ドアまで見送って出て、まだ、
「何、書いてますか、今」とも訊かれた。五月からのラジオの話もちよっとして、相変らず平家物語を
さわってますと返辞すると、
「次は伊達政宗を書いて下さい」と大笑いされた。
 ──徳子にも驚ろかされた。どこで着替えたのか臙脂色の、それはあっさりしたカーディガンスーツ。
へえと声が出た。綺麗にスカーフも結んでいた。和服では気にとめてなかった黒いバンドの角型の腕時
計が、あんまりよく似合っていて、約束の場所からその手を振られても、私は、徳子が呼んでいるとち
よっとのあいだ思えなかった。
ほとり
 霊屋(おたまや)橋の畔に佳い宿が見つかった、荷物もそっちへ移したと徳子の笑顔はあかるく、あす三時ちょっ
と前の特急券も、駅へ戻ってちゃんと買ってあった。駅前に朝市が立っていて、山菜や野菜を泥つきの
まま賑やかに売っていたのも徳子は丹念に見てきたらしく、客がえらい勢いで値切るのを売り主も応戦
する、そんな□舌(くぜつ)のなじまない土地訛りが面白かったとか。私は呆れてしまって、それからどうした、

184

どこへ行ったのと聴く一方であった。
 えたいの知れぬこの新鮮な気持──これがあの祗園間垣の女将だろうか、死んだ泰彦にこんな姉の装
いや振舞いはあの世からも想像できまいと、じわじわ頬の肉がゆるむ。仙台、仙台。身内を溢れてくる
開放感は京都でも東京でも味わったことのない、澄んで泡だつ酒のようであった。これも旅情なのか、
そればかりではない、と徳子の顔に眼をあてて思った。
「憶えてますか」
「何をどす」
 さてとの話をする気か決めてなかった、何でもよい──夏休み前に学校中ではじめて三条蹴上(けあげ)のプー
ルヘ行った。水泳パンツなど出回らない戦後で、男子はたいがい武徳会じこみの白い褌(まわし)を緊めていたが、
泰彦は緊めようをどこで間違えるのか水に入って上がってくると尻がわれ、後主てを手で直そうと片脚
を爪先だつ恰好がまたおかしい。仲間が指をさして囃すのを三年生の徳子が見咎めてプールサイドをか
け寄ってきた。ひやあという声がまた湧く、と、いきなり徳子は、声の大きかった手近な一人の利き腕
を力いっぱい振りまわして大プールヘはね飛ばし、ぐるっと我々をにらむように見渡した。水着の色は
忘れた、いずれ黒に違いなく、髪は綺麗に濡れて顔や耳の上に乱れていた。眼もうっすら朱らんでそれ
も美しかった、が、胸のふくらみのあれほど優しい線も形も生れてはじめて知る魅惑であった。ひき締
った頬から顎をぐっとふり向けられ、私はぼうっと一歩前へ出て長尾に声をかけた。
「来いよ」
 そして更衣室へ二人で入り、一から褌(ふんどし)を緊め直してやった。ちよつとした手抜きがあって泰彦はそ

185

こが分らずにいたのだ。水を吸った、まして他人(ひと)の褌を緊め直すのはらくでなかったが、素っぱだかに
なって長尾泰彦は鷹揚だった。幾分邪樫に私に尻や腰に触られても、嬉しそうにくるくる回って言うこ
とをよく聴いた。
「すごい姉さんやな」ととうとう言ってしまうと、冷やかされたと思ったか、あの弟は朱い顔をした。
 外に徳子が待ち構えていた。泰彦をちょっと押してうしろを向かせ、そして私に、
「おおきに」と微笑んだ。横腹から尻の方へ顫えが走り、美しい上級生の笑顔に立ちすくみながら、有
頂天だった。
「うちへも、遊びにおいない、ナ」
 そう言い残して徳子は深いプールの方へ白い足の裏が見える元気さでかけ戻って行った──。
「──忘れたわアそんなン」と手をふるのをわざと真正面から覗いてやると、徳子は両掌で顔を隠す。
 よかった、よかったと私は改めて一度二度、しんみり頷かれた。
「何がどす」
「仙台──。楽しめるだけ、楽しんで行きたい。でしょう」
「そうしまひょ、ほんま」
 人に見咎められない程度に笑い声が揃った。せっかくだし松島へ行ってみますかと提案した。徳子は
即座に首を横にふった。
「どうして」
「そうかて──ええ景色に、奪(と)られてしまうの、いややもン」

186

「あほ」
 灰皿に載ったマッチを胸もとへ私はポイと当てた。黄金(きん)色のヘヤピンがきらと動いた。
 ホテルからたぶん南、と思う方へ道一筋移ると自動車を入れないアーケードの商店街があった。ここ
も歩いたのと訊くと頷き、この通りの先に芭蕉の辻という所があるけれど、それは松尾芭蕉のことでな
こもモうわらごも
く、昔同じ名前の薦僧(こもそう)が「住んではったらしおす」という。腰に藁薦(わらごも)を巻いて路傍にも坐ったから薦僧
というらしい、暮露(ぼろ)のことだ。馬聖とも呼ばれた聖(ひじり)であった、毛坊主であった。小さいころ、子奪(と)りか
もと怖れながら、吹き歩く尺八の音色に惹かれて尻を追うて歩いたこともある──。
 かに料理どころか徳子は結局一人ではいやで、昼飯がまだだった。けやきの青葉通まで来ていたが、
私は通りがかりの目星い人を頼み、かに八という店の在り処(ど)を訊きとると、ためらわずタクシーを停め
た。土地の人らしい五十年輩の背広の人に徳子はていねいに礼を言っていた。
 南里の市子のこと、春休みにも祗園へ帰ってこなかった時彦のことも、まだ二人は一度も話題にして
いなかった。この前いつ逢うたといった話もしないし、もともと徳子は私の家族についてつゆほども□
、、、
にしない人だ。かにはしゅん(三字傍点)を過ぎていたが、量はたっぷりあった。名物だとか、いかのポッボ焼もか
じりながら天賞と堅い名のついた地酒を呑んだ。徳子も少々付き合ってくれた。春大根、筍、新牛蒡
さやえんピうわらびうとかきぐナりりんかしらき
木の芽、莢碗豆(さやえんどう)、蕨(わらび)、土当(うど)と盛り沢山な柿釉(かきぐすり)の輪花(りんか)の鉢にも、細い素木(しらき)の箸先を運び運び、徳子は、
「あした、いっしよに見てほしもンがおすのえ」と言って、まじめな顔をした。何を買う気か、頷きか
えしながら、
「どの辺でですか」

187

「駅──」
「──」
「あしたのことにします。どっちみち行く先どすもん」
 売れちゃってたらと私はおどした。徳子は微笑んで首を横にふった。
 荷物もあるし、早めに一度宿へと話がきまって三時半すぎにかに八を出た。広瀬通で車を拾い、土井
晩翠の故居というのを左に見て東北大学の正門前まで、走った。仙台市中に各学部が散らばっているら
しい、この辺を何というか運転手に訊ねて「米ケ袋」と教えられた。
「もう、それ、広瀬川ですよ」
 広瀬川という相撲取りが昔いたことを霊屋(おたまや)橋の真上でひよっこり徳子が□にした。私も憶えていた。
が、へんにおかしかった。運転手が今は青葉山も青葉城もいますなと□をはさむと思わず徳子も私も笑
ってしまった。なぜだか分らない。おかげで川面の景色もろくに見ずに通りすぎた。
 徳子が佳い宿というくらいだ、どんなだろうと想っていた。車は奥まった樹々の間をざざざと砂利を
はじいて走っていた。
 あ、──。
 何を見たのか徳子が走り過ぎた方へ首をそらすように振向いた。まぶしいほど馬酔木(あしび)の大生垣が白い
花を咲かせている奥に、黄梅(おうばい)の一と叢(むら)も、まだタまぐれというには早い日ざしの中に咲き群れていた。
桜はまだあまり見かけなかった。
 タクシーが落着きなく停まると、すばやく徳子が札を手渡した。古い蓮沼の、時計まわりに真向こう

188

が旅館の玄関らしい。が、徳子は車が走り去ると、
「ちよっと」と謝り謝り私の手をひくように足早に道を戻って行くのだ。
 七、八十メートルも戻ったか、霊屋橋へ向かうやや広い舗装路の角まで来て、徳子は私の腕を抱いた
まま武骨な一本の電柱の前へつれて行った。
「──」
 荒れた木膚にこびりついた、もう古い貼り紙の端の方を徳子が、指さす。市川勘次郎一座の旅回りの
チラシを、そのまま赤と白地の二色刷広告に貼って廻ったらしい、しかし徳子が指さしたそこには、も
っと小さい字でたしかに「平家正節(へいけまぶし) 三之下」と小書(こがき)して、
 先帝御入水 大井桃子
と、付(つけたり)めいて刷り込んであった。客を呼んだらしい、前後五日間ばかりの印刷の日付は、もう十日も以
前に過ぎた、今は用ずみの吹き曝しであった。
 ものが言えなかった。
 仙台駅へ、帰りの切符を買いに行った時にも駅ビルの外で同じ貼り紙を見たと、徳子の声が低い。肩
を片手で抱いて、とぼとぼと宿へ戻って行った。
「堪忍(かに)しとおくれやす──」
「?」
「あて、先月、あの人──市子はん、とうど、おうちに黙って勝手に誘わしてもうて──。あの二人、
尭子はんと泰彦とのお墓を、いっしょにお掃除してきましたンえ」

189

 徳子はそう言って立ちどまった。顔が蒼いのは木が茂っているためかしれなかったが、思わず人通り
のない小路ヘスーツケースをどすんと置くと、私は五体を鳴らす勢いで華奢なからだへ突き当るように、
徳子を抱きしめていた。

十一 琵琶の巻

 平曲の定本といわれる平家正節(まぶし)を定めたのは、江戸時代の中ごろ、名古屋前田流の知一(とものいち)で、江戸から
津軽、仙台へまで後を継ぐ者が出て、ことに仙台には今も館山甲午とその門下が大秘事の劔之巻に至る
まで伝習している、そのことを私はうかと忘れていた。こんなことなら仙台市根生いのW教授に、やき
ものや土偶(でく)の話よりそんな前田流平曲が市民にどれほど認識されているのか、好事家(こうずか)のための演奏会が、
わりと常時にあるものかどうかせめて問うてくるのだったと、私も惜しみ、徳子も心が揺れ動くらしか
った。
いき
 それでもと、そこは客商売の呼吸を合わしたかもっぱら徳子の方へ躾けのいい□をきいていた三十す
ぎた仲居が、たまたま食事の段取りを確かめにまた顔を出したついで、平家琵琶を弾いてくれる検校(けんぎよう)さ
んはいまいかと、いきなり、訊くだけ訊いてみた。
「それは、お女将(かみ)さんの方がよう分ることと思いますので」と、このとおりでない仙台言葉でそのお滝
さんとやらはまんざら脈の無いでない返辞をした。徳子がはっきり頷きかえすのを確かめてお滝さんに
私は、自分が小説を書くという必要からもぜひお女将に□を添えてもらいたい、それも今晩にと頭をさ

190
 
 
 

げた。むりは承知であった。
 二人になると、いくらかまだ蒼い顔で、スーツのまま徳子は庭の見える障子ぎわへ起っていった。栗
六角のナグリを並べ打った広縁の左右に勾欄(てすり)をつけて、真中から沓脱(くつぬ)ぎへ下りられる。切炭を地(じ)に埋(い)け
た軒下から、一間も先に光悦垣の眼隠しが立ち、その向こうへ、やや窪んで石組の取合わせ面白くさし
て広くない古池があるのは、先刻(さつき)私ひとり庭履きでそこまで下りて見ていた。
「庭へ、出てみたら」と胡座(あぐら)のまま声をかけた。徳子は、だが、あけた障子をまた閉めて傍へ来た。蛍
光灯のジジと煮える音が耳に残り、一間半の床に瑞巌寺の師家(しけ)らしく、「衆善奉行」「諸悪莫作」と一
休さんのには似もつかない湿潤の行書で細う一双に掛け、貫禄の竹一重に花筏とたぶん月光椿に、ささ
やかに熊谷草が添えてある。
 帳場から、宿の女主人がご挨拶に上がるが差支えないかと電話がきた。食事のあとでもいいのを今に
というのは先刻の話に関わることだろうと承知して待っていると、意外に若い、私よりまだ二つ三つ若
い人が外から声をかけて襖をあけた。
 女将も□数は多くなかった。市内宮城野に連坊栄丁という所があって、そこの瑞雲寺近在にこの一年
ほどちょっと気むずかしい、しかし滅法甲(カン)の声の確りした流れ平家が住みついているのが評判で、見た
目はまるでヒッピーだけれど気がむくとここへも二度三度出張ってくれて、土地の数寄者の前で「卒塔
婆流(そとばながし)」や「生食(いけづき)」を語ったことがある。但しよそ(二字傍点)のお人からこんなふうに望まれたことがなく、と聴い
ては引っこめなかった。
「なんていわはるお人どす」と徳子は□をはさんだ。

191

「名前ですか」
「ええ。大井──桃子とかいう検校さんの名前を、町歩いてて貼り紙で見たんですがね」と、私。
「苗字は、たしか佐々木と聞いてましたけれど──それにうちへ参りましたのは男の人でございますよ、
三十──に、なるやならずの」
「──」
「呼び出しですが、電話で都合だけでも訊いてみましょうか」
徳子の顔色を察し顔に、来てしまえば意外に淡泊な人で布施の高も法外なことは言わないからと、女
将は見当違いのことを遠慮そうに付け加えた。
「ホナお願いしまひょ。先方さんイ、どうぞ、ようオ頼んでみとオくれやす」
 それならと女主人はさがって行った。手洗いに起って戻ってくると徳子の姿がなかった。帳場へ女将
を追って行ったらしく、何を言い添えてくるにせよ、この件は勢い徳子しだいの話と思っていた。成行
は絵空事めいて申し分なく、白けるか、乗るか、私には多少とも面白ずくでありえても、ひよっとして
異母妹(いもうと)の消息を聞き出すことになるかしれない徳子の動揺を、そう軽々しく仰(お)し鎮めもならなかった。
市川勘次郎などと、聴いたこともない旅役者の一座に三日四日と傭われ、女平家で琵琶が弾けるのも仙
台という土地柄ゆえか、だが師匠筋は、同門の人たちの思惑は、と世の常のしがらみがふと気にかかる
点でも、もっと徳子は深切に胸を鳴らしているに違いなかった。
 湯殿は、木の香が湯気に寵り、かすかに柚子(ゆず)も香っていた。窓を細めにあけるとタまぐれに黝(あおぐろ)い壁
になって喬(こだか)い樹々が見る見る遠く墨の色に変わりかけていた。

192

 座敷で電話がなっていた。徳子のすこしはずんだ応対がきれぎれに聴こえ、どうやら先方へ話が通っ
ているらしい。しかしえらいことになったやないか──。湯を唇(くち)の線にまでゆっくり沈んで行キ、ぶく
ぶく泡を吹いた。これこそ微塵も思いかけて来たことでなく、そしてこれこそ本当に仙台に来た甲斐、
と言っていいかどうか、自信はない。行き当りばったり流れ平家の芸人を、顔も知らずにいた異母妹と、
たぶん間違いないだろう、そうと知って徳子がその大井尭(あき)子や八木市子の妹に人づてになりと何ことか
言い明かす気なのか。明かさぬ気か。
「よろしおすか」と声が近かった。
 私は返辞半分に湯槽(ゆぶね)の中に突っ立ってちんと小窓をしめた。次の間から一段ひくく手水場(ちようずば)と湯殿が鉤(かぎ)
の手に別棟に出ばっている、その手水場と隔ての木戸をそっと閉める音がしてもう浴室とは硝子戸ごし
に、静々と脱ぎすてて行くらしい徳子の、やがて衣(きぬ)ずれの下からまぶしい白い石のような裸形(らぎよう)のあらわ
れ出る瞬間を、眼をとじたなり私は暗闇の彼方に見ていた。待っていた──。
 ──徳子を浴室に残して、出た。たぶん肌に着けたものはもう花紫の鼠呂敷に包み分けてあるらしく、
乱れ籠の中は、その人のように静かにものが畳まれていた。
 大事な依頼原稿を、先生の眼の前で数えてきたフィルムやスライド写真の員数を、汗まみれ、もう一
度点検してからスーツケースの底に蔵(しま)い直した。妻は、ビニール袋の他に不用の大きい紙袋も一、二枚
中へ入れてくれていた。今夜に帰る、ともはっきり言ってこなかったが、泊る話もしてなかった。だが
すばやく首を横に振って、そのことは忘れておきたかった──。
 畳数を一つ二つと、べつに数えるまでもなく京間(ま)の十二畳半に次の間の用意もよく、離家(はなれ)ではないが

193

玄関からよほど奥へ通され、近隣に泊り客の気配はなかった。ゆっくり水に物が沈んで行くように外面(とのも)
の木立も垣や石塔や葉蘭、木賊(とくさ)から庭石までも昏い色に塗り籠められていくと、しみじみ、一夜をあず
ける座敷内が見渡される、そんな刻限が私は好きであった。──徳子の白い肌は、木目立った檜の湯槽(ゆぶね)
に匂っていた。今も眼にあった。
「似合うなア」としげしげ見やるのをわざとは無しに胸もとを隠す身のこなし、お互い□には出さなか
ったが、はじめてであった。ホテルの、あんな鏡や便器と同居の浴室で徳子のはだかを見たいと思った
ことがない、徳子も、鍵をかけていたかどうか覚えないが、私を呼んで、外から「よろしおすか」など
と言ったことはなかった。
 帳場からの電話のことも徳子は格別聞かすふうでなく、いずれ妹かしれない女検校の身上に触れて行
く話題をまして湯殿の中では喋りたくなかっただろう。もう出がけ、私は立ったなり湯の中の徳子へ顔
を寄せると徳子も眼をつむって、ほんの一瞬二瞬きゅっと唇を吸いあった。汗の滴(したた)りが濡れた前髪から
睫毛の方へつたうのを、両方から指ではじき、指先が絡み、柔らかな双(そう)の乳房が浮くように湯の面(も)を押
し上げていた。
「──お先に」
「どうぞ──」と徳子の声がすこし嗄(か)れていた──。
 なんとなく、踏みこんだ時から座敷内(うち)が花やいで見えた。が、壁は本聚楽(ほんじゆらく)のすこし金茶がかった、だ
が、田舎に多い奇妙な緑やら代赭(あか)やらではなかったし、襖も京風に白くあっさりしていた。天井もわる
く凝らない竿縁(さおぶち)でそのかわり柾目(まさめ)はよく通っていた。私の気を惹いたのは、廊下側の壁にこれも墨跡(ぼくせき)な

194

みに二面左右に並んだ栗木地の額縁であった。そう大きくなく、一双ともに濃茶地(こいちやぢ)の辻ケ花裂(きれ)が硝子で
捺(お)してある。耳の長い兎を追うように立浪の面白い意匠が右側、そして左のは、白抜きに斜めに高く群
れ飛ぶ千鳥の模様──しかも両方に葵の紋が色どりよく染め出してある。
「さすが、伊達侯(サン)のお膝もとやわねえ」
 額(ひたい)のわきまできれいに汗を拭って、徳子がうしろへ来ていた。薄化粧のすこしほてった立ち姿を、大
手をひろげて抱きよせて匂う頸筋に顔を埋めた。外方(とつぽ)をむき、部屋中をいつもより早足に歩いては辺り
の物を片づけたりする、のが、こうしたそのあとの徳子のくせであった。
「姉さん──」と呼ぶと朱くなって向こうの方でにらむ。
 時分どきだし、夜分あまり遅くなるのもと、むろん先方しだいだが、佐々木なにがしとかそのヒッピ
ー検校の為に別に一人分の食事の用意も、徳子は帳場へ通していた。
「六時半」に来てくれるという。湯ざめしないうちにと徳子は一度袖を通した宿の浴衣を、衣桁(えこう)にかけ
ていた緯段(よこだん)の色の着物に直って帯も締めた。私は浴衣で勘弁願うことにして、それでも立って、帯をき
ちんと結び直した──。
 ここで一緒にといくら勧めても、結局琵琶を持参の青年ひとり別間で用意の食事をするらしく、それ
なら待たせても悪く、酒はお銚子二本に控えてやや気ぜわしい晩飯になった。薄葛(うすくず)で仕立てた梅(ばい)肉豆腐
の「お汁(つゆ)、おいしおす」と、徳子は朱でざんぐり柏の葉を蒔絵した椀を両掌に包む。黄瀬戸の皿に芋茎(ずいき)
のすしは閉□だった、色どりの筆生委だけ銜(くわ)えてお向こうへ譲ると、手が付いたと思えない縞麗なまま
の向付(むこうづけ)が返ってきた。■(さより)を大根と人参で重ね押しに、紅蓼(べにたで)、海苔、綿糸玉子と色佳く、猪□(ちよく)もはなさず

(■:魚へん に 箴)

195

私がすぐからにしたのを徳子は見ていた。
「ね。なに考えてる」
「なアん、にも」
 明るい返事だ、なにも考えていないのがきっと本当だと思った。
「なんデ、え」とも訊き返さず、徳子は珍らしそうに織部(おりべ)の鉢を覗き込み、花鳥賊(いか)に赤貝を敷いて葛ま
ぶしに蒸した、というふうの酢の物に箸を付けていた。箸のごく先がかるく開いて、とろっとかかった
木の芽味噌にぽっちり塗(まみ)れていた。
 ──佐々木理一(りのいち)ですと名乗っただけで、なるほど「まだ青年」みたいな人は上座へ直ろうとしない。
汚れてはいないがジーンズに白いティシャツ姿だ、長い脚だ。私も手伝って座蒲団のほか畳の上の物は
卓までもみなとり片付けた。むさくるしいほどの長髪とは見えず、皓い歯並びをしている。無愛想でも
ない。ただどことなく留年大学生のアルバイト出演のようではあった。微笑(わら)えた。
 着座の姿は、だが定(き)まっていた。青貝を日月(じつげつ)に象嵌して飴色に木地の照った琵琶をゆっくり袋から出
し、袋は丁寧に畳むのを、徳子も私もおし黙って見ていた。
 所望(しよもう)の「句」があるか訊かれた。そう訊いてみるのが儀礼的なもので、お任せすると返辞をすべきな
のか知れなかったが、「大原I」と言いさして私は徳子に、譲った。
「先帝御入水(ごじゆすい)──を。よろしおすやろか」
 青年は微笑んで頷くと、ジーンズの尻ポケットから縦に四つ折りしたものをしごくように抜いて長い
腕とからだを伸ばし、徳子の前へ押しだした。表紙の右上、に「平家正節(まぶし)三之下」、真中に「先帝御

196

入水」と毛筆で大書したそのまたコピーで、左下には「元暦二年三月廿四日」とも同筆、中は尋常なコ
クヨの原稿用紙の頭を二行あけて、いわば台本であった。上手な細いペン字で書き出してあった。
 顔を寄せてざっと眼で追ってみると、下ゲ、中音、中ユリ、折声また白声、ハツミ、指声、三重甲(カン)、
甲、下り、初重などと太字にした記号が詞章の六、七行ごとに、ここで転調というぐあいにはさんであ
る。意味も訓(よ)みもよう分るはずがなかったが、詞(ことば)の横に謡曲水のとは形も違うしあれほどベタでもなく、
しかし点々と節づけの記号が添うていた。ことに終りに近い「三重甲」のあたり、一気に謡うかして句
読点もなく、「悲敷哉(かなしきかな)無常の春の風忽ちに花の御姿を散(ちら)し」、また「情無哉(なさけなきかな)分断の荒波(あらきなみ)、玉躰(ぎよくたい)を沈め奉
つる」と「甲(カン)」に変わる所など、至極高潮の微妙な節を表わす記号が字粒に貼りつけるように書き入れ
てある──と、私が気づくと同時に徳子もそこ(二字傍点)を指ざしていた。三枚にホッチキスでとじ、裏表に書い
た原稿用紙の末尾に、「写諸大井桃子」と本文同筆のちいさな署名が括弧に入れてある、徳子はかるく
唇を噛んでいた──。
「これ、戴いといていいですか」と、私が□を切った。ちょうど剰(あま)っていたものだからと、返辞はあっ
さり、重そうな琵琶はもう青年の膝の上にあった。
「明るすぎませんか」と私。
「──ええ。ちよっと。それにお庭の方へ一、二枚障子を寛(くつろ)げていただけると」
 さほど訛りはなく、このとおりの言い方であった。次の間との隔てを取り払ってそこへは電燈をのこ
し、広縁の天井の燈ものこして座敷の中だけくらくした。閾居際で明りを背負ったジーンズの男はにわ
かに撓(しな)うほど細身の濃い影に変じ、そして縁の外は奈落のように真昏(まつくら)であった。前奏なのか、あれが音(ね)

197

取りというものかかすかに、執拗に、琵琶は低く、愬(うつた)えるようにもう呟(つぶや)き、呟きはじめていた。

 花のように顔を傾けて、徳子平氏は聴き入っていた──。寝おびれた鳩が木の闇に声を含んで物憂く
啼く、やがて夜風がざわざわ荒れた軒端を打っ、と香華(こうげ)の薫りが立ち迷うように岩栖院(がんせいいん)にちいさな渦を
巻いた。金地に雲と浜松の座屏(ざびよう)を背に袈裟の片膝をすこし立てた、その膝から腰から、奈落へ沈み入っ
て行く寂しさに徳子は耐え、佐(すけ)の局と阿波内侍とは左右に、資時ひとりすこし離れて端近に茵(しとね)をもらっ
て──。今宵も大谷の方で人を焼く濃い煙が幾筋も立って、山道を金仙(こんせん)院からここまで登ってくる間に
はかすかに紅い火の色さえ瞬(またた)いて見えた。そんなことを今も想いだしだし、由ありげにただ佐々木氏と
名乗った資時入道の若い弟子の芸が、どう巧いのへたのという対(むか)い方は最初から尼女院(によいん)はしていない。
 ──名もそれらしく与一と、道々の者に身を変えていた那須冠者宗高を阿波内侍が声をひそめ、夜陰(やいん)、
善勝寺の車寄せまではじめて連れてきたあれがもう十七年前の、やはり花の時分であった。たしか元久
元年(一二〇四)。雑仕御覧にぱっと咲いて出た玉虫とやら白拍子を好いて、無骨な紙屋紙(かみやがみ)にもの馴れ
ぬ文(ふみ)を付けてきたとか、小柄なれど、太い声を響かせ催馬楽(さいばら)など上手に謡うとか洩れ聴いていたあの北
面武士が、なぜか半眼に盲(めし)いて名誉の弓矢を琵琶に持ちかえ推参したというのがあまり不思議な気がし
たもの──それなのに今、うら若いほどのこの盲法師はそもそもあの与一に平家語りを習いだしたとい
い、その与一の方は五年前、建保四年(一二一六)、日野とやら伏見とやらで歌詠みの鴨長明と同日に
亡くなったと、これも阿波に聴いた。
 如一(によいち)というこの制■迦(せいたか)童子のような少年、資時も阿波内侍も□を揃えいま伏見衆の中で出色(しゆつしよく)の弾き

(■:□へん に 托のつくり)

198

語りと讃めそやしそやし、久しい善勝寺暮しをにわかに火に逐(お)われ、心細う身一つで鷲尾(わしのお)へ遁げのびた
のを慰めてくれようと今宵連れて来た、呼びよせた、のであるらしい。八年前東国の和田合戦とかの煽
りで都へ上ってきたと聞いた少年の面輪(おもわ)を、勿体なく亡き先帝の幼な顔につい重ねがちに年老いた建礼
門院は、よほど小さく狭く乾いてしまった胸の洞(うろ)にほっとせつない火を点(とも)される、心地でいた。
 那須与一は十七年前、語り草の忠盛昇殿、殿上闇討の一句を演じてくれた。さらに望めば、恐れ入り
ながら治承三年(一一七九)五月十二日午の刻より吹き荒れた辻風の凄さと引きくらべる風情で、故右
府重盛卿熊野詣での辺を、もの静かにしみじみ語ってくれた。あれは、資時に熱弁をふるわれ阿波内侍
の筆で平家語り授職の灌頂の巻をと迫られて間なしの、急な推参であった。
「麿からもどうか、頼みますぞ」と阿波に言ったものの、文治二年(一一八六)秋の大原入りから後白
河院御幸へ、さてどう筆を運ぶものか、すべて有りのままにとも肯(うけが)い難い気後れや拘泥(こだわ)りはやはりあっ
た。それより平家物語がどんなものか、眼に読むもよし、しかし一度誰かが誦(よ)み習うのを聴いてみたい。
 女院の気がそうまで動けば資時らの用意はすばやいものであった。阿波内侍も内々よほど平家物語の
行方に心寄せて古い葛籠(つづら)に物も書き溜めてきたらしいと、今さら女院にも合点(がてん)のふしぶしは多く、だが
往時の北面とはいえ琵琶の法師を座所にま近う招(よ)んだ例も、あれが最初であった。あまり人に知られた
くなかった。
 あの元久元年には源家(げんけ)将軍の二代、頼家が、伊豆とやら修善寺とやらで討たれたと聴いた。秋には相
変わらぬ山門輩の念仏いびりで騒がしかった。あの時分から、亡き重衡(しげひら)卿の妻は吉水(よしみず)の法然庵室を折々
訪れて聴聞(ちようもん)していたらしく、幾度忍んでついて行きたかったか知れないが、念仏停止(ちようじ)を声高に唱える荒

199

くれた言葉も、よそながら三度四度と耳にすれば、□惜しくまだまだ世を憚らねばならぬ気が働いて、
結局、一と言の安心も法然の□ずからは得られぬまま、上人の死をよそに見送ってしまった。建暦(けんりやく)二年
(一二一二)春早々のことであったか──。
 ──女院は、今、如一に語らせて安徳天皇御入水の始末を耳に聴こうなどと望んだのを悔いはじめ、
かつはどんな絵空事をどうまことしやかに言うものか聴きたい気も失せてはいなかった。

  其後は四国鎮西(ちんぜい)の兵者(つはもの)共、皆平家を背(そむい)て源氏に付(つく)、今迄随ひ付(つき)奉ったりしか共(ども)、君に向で弓を引(ひき)主
に対て 太刀を抜

「太刀を抜」くというだけを、まア、揺りに揺って語るもの、なるほど声明(しようみよう)、和讃それに今様の謡い様
をあの辺に活かしているらしい。語っている間は琵琶の手がなく、琵琶を奏でている間は語りがない。
女院は胸の磊塊(らいかい)をせめてそんな詮索の方へ押し流し流し、夢にも忘れるところでない顛末をいっそよそ
に聴こう聴こうと、肩を固くして如一の美声と抗(あらが)っていた。雲居寺(うんごじ)で人声かのように先刻から鉦(かね)が鳴っ
ていた。

  去(され)ば彼岸(かのきし)に、付(つか)んとすれば浪高うして叶難(かなひがたし)、此汀(このみぎは)に寄(よら)んとすれば敵(かたき)矢先を揃(そろへ)て待掛(まちかけ)たり、源平(げんぺい)の
国争ひ、今日を限とぞ見えし

200

 ──そうなのか、人はあれを「源平の国争ひ」というのか。頼朝が死に、一昨年(おととし)には三代将軍源実朝
も死に絶えた、それならばもう国争いは果てた、と本当に人は胸を撫でおろしているというのか。
 新古今和歌集が手から手へ渡って来てはじめて読んだ同じ年に、たしか北条の小四郎義時が親父(ちち)を凌
いで、万事鎌倉方を率いるようになったと聴いた。とうに後鳥羽院のご執心は和歌にはないとも眼敏い
資時入道は見てとっていた。新古今集など、それも入(い)る日を扇で招き返すに似たあえなさと、□には出
さなかったが自分は、あの時、あの壇ノ浦で敵の伸ばす面白ずくの熊手の下をかい潜って浪の上を一間(いつけん)
も跳んだあかねという東国有ちの女のことを想いだしていた。伊豆で名ある平氏の娘であったらしいあ
かねは、源平相剋の東国の渦を身一つで遁れて宮廷の女になっていた。産んだ子とは本意なく生き別れ
て小四郎義時の手に残し置いたとか、あまり寡黙な宮仕えで朋輩との仲もどうかと人眼には映っていた
が、苦しかった都落ちのあともかげ日向なく、世なれて、ものの用にはよく立ってくれた。ある日、浪
に漂う海上のつれづれに女たちが坂東武者の爪弾きをはじめたおり、話題のそこへ及ぶ機先を制して、
「北条の小四郎は、末恐ろしい者でございます」と一と言、顔もあからめずに言い据えた。
 あれがなぜか忘れられずにいた。胸が顫えた。
かたき
 亡き大相国も頼朝も、かの北条義時とやらも、まこと敵(かたき)と思い身を捨てて国を争うた相手がじつは公
家であったよと、さすがによく気づいておいでだったのは結局後白河の故院が誰より早く、それが今で
は後鳥羽の院でおありになる。「武者の世」を、昔に返す「公家の世」へともう誰を東国相手に軍勢を
差し向けもならず、御自身頻りに画策がお有りであるのは勇しいが、変わらず鎌倉に秋波を送ってきた
西国寺公経や、ことに九条家では前摂政兼実の孫道家やまた慈円など所詮成るまじい御軍(おんいくさ)遊びと謗(そし)って、

201

逆にあの実朝のあとへ今まさに摂政道家の子の幼い頼経とやらを公家将軍に鎌倉へ送りこもうとしてい
る。我が田に水を引く空頼みの公武合壁(がつぺき)、都に道家あり東国に頼経が武家を率いて皇家を補弼(ほひつ)の文武両
翼と説きたてる肚(はら)かもしれないが──義時は嗤っていよう、後鳥羽院も嘲笑っておいでであろう。天皇
に御手向かいしてもと、それほど覚悟の武家の国争いが生易しいものであるわけなく、自分など建暦(けんりやく)、
建保とうちつづいて去年にはあかねが産んだという北条泰時が侍所別当になった噂を聞いては、とうと
う武者の世がほんとうに固まってきたとすら思っている──。
 永生きをすれぱ見えるだけのことは見えてくる──と、それも女院には実感であった。
 あの知盛の兄はたしかに「見るべき程の事は見つ」と呻(うめ)き泣いて壇ノ浦で自害されたけれど、果して
どこまで見えていたものか、修羅三昧(ざんまい)のたかが「源平の国争ひ」の果ては見えていたかしれないが、あ
の後こう生きのび生きねばすまなかったこんな心重さは知らない。義経も頼朝もともに死に果てた。あ
かねの□の端にその名の浮かんだ時は女どもがただ嗤った、自分もやはり嗤った北条小四郎が、一子泰
時とともどもたった今も「武者ノ世」を鎌倉からがっきと睨んでいる有様を、知盛卿は知らない。寵愛
の遊女亀菊にやる荘園も思うにまかせず、歯ぎしりして鎌倉を討ちたいと焦っておいでの後鳥羽の院の
こともあの兄は知らない。せめて公家の侍(─字傍点)であることをやめたいと、源平が争った、争わされてきた道
理も西海の平家は気づかずにただ源氏を怨んで死んで行った。その道理知らずは源判官九郎義経にして
も結局同じであったろう──。
 軍の習いに背いて水主揖取(かこかんどり)を狙いうちに船底に射倒した義経に微塵の共感もない。与一が好いた玉虫
を、わが娘めかして義経の手籠めに遭わせた伯父時忠のことも気疎(けうと)く好かなかったし、父や重盛の殿ほ

202

どは母にちがいない二位殿にも懐(なつ)けなかった。時忠や母には妹御に当る建春門院の御所は、もっと気高
く、すこし妬ましいほどの女人であられたが、二位殿にはあのお人柄の静かさがなかった。だから後白
河院もよく言われた、池禅尼(いけのぜんに)のような仏ごころでも世は渡りかねるが、二位の尼の「いかつい」手のひ
らにも天下は載りかねよう、と。笑い声が今も聴こえる。その意味も、今は、わかる。

  二位殿は、日来(ひごろ)より思ひ設玉(まうけたま)へる事なれば、鈍角(にぶいろ)の二つ衣打破(きぬうちかづき)、練袴(ねりばかま)の傍高く取て、神璽を脇に挟(はさみ)、
宝劔を腰に指(さし)て、我は女成共(なれども)、敵(かたき)の手には掛(かかる)まじ、主上(しゆせう)の御共に参(まゐる)也、君に御志(おんこころ)ざし思ひ参(まゐら)せん人々
は、急(いそぎ)、続(つづき)玉へや迚(とて)、静々と舩(ふなば)たへぞ歩行出(あゆみいで)られける。
」ゆせうお仕しまほるかねおんかたちうつくしうあたりぼホ
 主上(しゆせう)は今年八歳(こんねんはつさい)に成(なら)せ御生(おはしま)す。御年の程より遥(はるか)に弥(ね)びさせ玉ひて、御容美敷(おんかたちうつくしう)傍(あたり)も照輝く斗(ばか)ん也。
御髪(おんぐし)黒う、悠々(ゆらゆら)と御背中過(すぎ)させ御生(おはし)ます。
  忙然(あきれ)たる御有様にて……

「なりませぬ」とあの瞬間(とき)叫んだのを憶えている。勝敗は武門の習い、こう軍(いくさ)は仕遂げてなお無事の帝
を龍宮まで強い奉れば即ち過分の行状、そうなっては取り返しがつかぬと院はつくづく仰せられていた、
いずれかように烏滸(おこ)を烏滸とも気づかぬ沙汰に平家一門は沈没するであろうよと。「悪縁に引(ひか)れて御運、
既に尽(つき)」とは無体な、「先東(まづひんが)しに向はせ玉ひ、伊勢大神宮に御暇(おんいとま)」とは何を言うぞ、あの時帝は一度二
度、はっきり、いや(二字傍点)と仰せられた。ただ二位殿にそむいて誰に、この母にさえ、どう愬えていいのかも
すべをご存じがなかっただけ──。

203

頼朝は、八歳の主上にもついに刃を当てたであろうか。当て参らせたやもしれず、しかしもし船の舳(へさき)
に立ってこれは帝に御坐(おわ)すものをと狼籍を制していたなら、雑人(ぞうにん)ばらば知らず、義経に幼い左上を殺(しい)し
奉る大義は一分もなかったはず。二位殿の御振舞ほど鎌倉の頼朝にすれば思う壺はなかった、あれで六
代殿の斬られに至る名分を源氏は至尊の天子を道づれに海没した平家にすべて蔽いかけることができた。
二位殿がゆめそれへ想い及ばれなかったのはむりもない……が、
 η山鳩色の法衣に髪結(びんづらゆは)せ玉ひて。御泪(おんなみだ)に溺(おぼ)れ、小そう美敷(うつくしき)御手を合せ……
 おお如一とやら、なにをそう歔欷(すすりな)くようにあんまり哀しく謡うのか。うそです。そんなことはうそ。
帝は、わがお子はただ二位殿に抱きすくめられ泣いておいででした、大声で──。蝶が翅を畳んで露に
伏すように、老い残り生きのびて今年六十七にもなる建礼門院徳子は、茵(しとね)の上に声もなくくずれて行き
ながら、「千尋(ちひろ)の底にぞ■(しづ)み給ふ」と盲(めし)いた若者の声を揺るのがたまらなくて、泣いた。
 佐(すけ)の局も阿波内侍も両手先で床板を掴むように身を顫わせ、むせび泣いていた。

  雲上(うんす)の龍(りよう)下って海底の、魚と成(なり)玉ふ大梵高台(だいぼんかうたい)の閣の上。釈提書見(しやくだいきけん)の、宮の内。古(いに)しへは、槐門蕀
路(くわいもんきよくろ)の間に、九族を靡(なびか)し今は舩の内浪の下にて御身を一時(いつし)に亡ぼし玉ふこそ悲けれ。

 燭はまたたき魑魅(すだま)はよびかい、舷(ふなばた)を物憂く浪が打つようにゆたゆた耳の底に琵琶は鳴りやまなかっ
た。語り手の声は遠くへ消えていた。燈火(ともし)を背負って細い影をただ棒のように、琵琶の法師は声をかけ
られるのを、待っていた──。

204

「──おおきに」
 胸に溜めた夥しい息を、たまらず「おおきに」の一と言に呟きかえて徳子は両手をつき、若い佐々木
検校(けんぎよう)の方へただもう頭をさげた。女将が起って部屋を明るくしようとするのを、
「ちよっと待っとおくれやす」
 徳子はすこし顔をそむけるように言い、瞬時、四人ともどもすくんだまま黙していた。
「ごめんやすや。あの。お女将(かあ)さんこちらに、鼓、ございますやろか」
 さすが土地柄、有ると打ち返すような返事で女将は一度部屋をあけ、やがて、緒を締めたまま黒っぽ
い帛紗に包まれていた小鼓を、両手で徳子の前にそっと置いた。
「検校さん」
「は──」
「お女将(かあ)さんも。どうぞご縁やお思いやして聴いとくれやすか、亡(の)うなったお方へのご供養どす、芸人
さんの前で失礼なンは堪忍(かんに)しとおくれやす」
 頷きさえしないでみなが身を固うするうちにも、座蒲団をすべって徳子はくらがりの中で先い緒の鼓
をひしと身構えると、η昨日も過ぎ今日も空しく暮れなんとす、あすをも知らぬ此の身ながら、ただ
先帝の御面影、忘るる隙(ひま)はよもあらじと大原御幸、後シテの会釈を謡いだした。

 η極重悪人無他方便、唯称(ゆいしよう)弥陀得生(とくしやう)極楽、主上を初め奉り、二位殿一門の人々成等正覚(じやうとうしやうがく)、南無阿弥
陀仏、や、庵室のあたりに人音の、聞え候。

205

それだけを語って徳子は息をのむのを、η暫くこれに、御休み候へ と、この私は大納言佐局(すけのつほね)に
なり代って私の徳子を、もとの現(うつつ)に引き戻した。
 彼女の鼓が、どんな音色を霊屋(おたまや)の森に響かせたかは言うまい、肌に粟立つある不安に私が戦(おのの)いていた
とだけを告白しておこう。そそくさと女将を促して座敷を明るくしてもらった。今度は、若い検校の方
が深い会釈を、徳子と、私の方へ返していた。
 まあまあ、と私は声を張った。
「こちらへお寄りなさいよ。お酒は──あがりますか」
 頷くのを見でとって女将が退って行くと、残った三人ともしばらく無言でいたが、いっまでもそうは
して居れない、あたかも責務かの如く私は、一っ物問う機会を待ち望んでいたのだ、
「つかぬ事を訊きますが、先刻貰った台本の──ここにこの、写譜をした人というのは──」
「──」
「ご免なさいよ突然で。いえね、この旅館へ入る前にも、街の中で何枚か貼り紙にこの、大井桃子とい
う人の名前を見てたもんですから」
 検校は私の顔をすこしぼうっと眺めていた。
「お煙草、喫うとくれやすや、遠慮のう」と灰皿をすすめ、
「お脚(みあ)も──」と言いかけ「足」に言い直して、らくに坐るようにとも徳子は向こうに間をもたせた。
「──大井桃子とは、いっしょに棲んでまず」
 オ、と私は声をあげてしまった、

206

「それは──ほう」とことさら言葉尻をはねた。事実、びっくりしていた。
「もっとも、今は一座に傭われてまして、盛岡秋田の方まで。ま、田舎わたらいですが」
「田舎わたらい──とは」
「瞽女(ごぜ)さんと同じですよ、巡業というほど景気はようない。ドサ廻り、です」
「──」
 枡(ます)を袴の白い徳利に添えて、鉋目(かんなめ)の八寸にめいめいに蕎麦味噌と下(おろ)し和(あ)え、それに平(ひら)の青磁の盃が乗
って運ばれてきた。ほっと一と息つけた。
 ──加賀、山中温泉での三吟歌仙にこんな一続きがある。

  霰(あられ)ふる左の山は菅の寺     北枝
   遊女四五人田舎わたらひ        曾良
  落書に恋しき君が名もありて       翁
   髪はそらねど魚くはぬ也        北枝

 これが遊女(あそび)だ、遊行女婦(うかれめ)だ。

  一つ家に遊女も寝たり萩と月

207

という名高い芭蕉の吟もある。私は佐々木青年の言葉づかいに今そんな詮索をしていいか悪いか判じか
ねていた。徳子は男二人の間へ座をうつして一盞、いま一盞勧めながら、ただ黙っている──。
「同じことばかり訊いてごめんなさいよ。その、大井桃子さんとは、結婚なさって、ご一緒に──」
「いえ、結婚した、というのじゃありませんが」
「と、お子さんはないのですか」
「──死んで生れた子は仏、というやつです」
「ほう。──卯月(うづき)八日」
青年はにっと笑って頷いた。
「すると──母びとは藤原氏(うじ)、なんですね」と急(せ)きこむ。
「──そうです。但し藤原氏の内舎人(うどねり)というやつです」
「藤(とう)、内(ない)」
「──」
「十、無いンですね。ですか──」
「ええ。弥兵衛(やひやうえ)と知れと哀れやはち(二字傍点)叩き──」
「──月雪や、鉢(一字傍点)たたき名は甚之丞」
「行く年の目ざましぐさや一茶筌売(ちやせんうり)」
「その最後のは蕪村ですね。さりながら博突(ばくち)は打たず鉢たたき、というのもある。あなた蕪村が、よほ
どお好きのようだ」

208

「ぼくは丹後の加悦(かや)から出てきたんです。桃子の母方も、何代か前に丹後の宮津から出てきたそうで」
「ほう──山庄大夫(さんしようだゆう)だな」
「ええ。説経語ってた家かもしれんのです」
「どこで出違われました、その、──桃子さんとは」
 佐々木青年は、また返事を見合わせているようだった。徳子がさりげなく私の前の徳利を持って、向
き直った。

「──どこで出違たいうことはないですね。いつのまにかかなあ、やっぱりこの地方でしたね」と呟く
ような返事にどこか関西訛(なま)りが混じる。酒はいけるらしい、が、そういうことは気のつく徳子が、追加
を帳場に頼む様子でない──。
「蕪村のこと、鉢叩きとお考えのようですね」と念を押した、「大学で勉強なさったの」
「いいえ。大学へは行けませんでした。蕪村の絵エが好きでして。頭巾(ずきん)着て、瓢箪叩いて、腰曲げて歩
いている鉢たたきの老人(としより)の絵(あれ)を見たんです。いっぺんに何もかも分った──」
「夕顔のそれは髑髏(どくろ)かはちたたき、ですね」
「はい。木のはしの坊主のはしや鉢たたき、とも書いた」
「そう。あれですね。──と、やっぱり蕪村の母方は、つまり藤原氏(うじ)、の内舎人、なんですね」
「と思っています」
「失礼だが、あなたの桃子さんも、ですか」
「ぼくも、です」

209

「──桃子さんはお幾つでしょう」
「ぼくが二十九なんです。ぽくよりだいぶ上です」
 あの、と徳子がとうとう□を利きかけて、ためらっていた。
「どうしたの。なんでも伺ったらどう」
「いえ、その……そのお方を、これからも、大事にしたげとくれやすテ言お、思たんどす」と声がちい
さかった。
「桃子も京言葉なんです」
「──」
 徳子は□を噤(つぐ)んで相手を見た。
「いやア平曲は、お二人ともよほど勉強なさったわけだ」
と頓狂に、私が、いちばんどぎまぎしていた。佐々木君も□籠って答えなかった。蕪村のことをもうち
ょっと聞いてみたかったが、平家の余韻も残り惜しく、三人とも追々に□重く黙りこくってしまいそう
になる。
 ──与謝蕪村が六十二歳になる安永六年(一七七七)の花祭、四月八日から亡母を悼(いた)む「新花摘(はなつみ)」と
いう日次(ひなみ)の句文集を書きだしている。その第一日の六句が「潅仏(かんぶつ)やもとより腹はかりの宿」「卯月八日
死ンで生るる子は仏」と始まっていた。そして第四句の初案が「母人(はゝびと)は藤ハら氏也更衣(ころもがへ)」とあり、のち
に「ころもがへ母なん藤原氏(うじ)也けり」と直った。伊勢物語をふまえつつこの句がどう蕪村身辺の「母」
を明しているのか、だれも正解といえる読みは示していない。第五句の「ほとゝぎす歌よむ遊女聞ゆな

210

る」も、第六句の「耳うとき父入道よほどゝきず」も、また第二句の「更衣(ころもがへ)身にしら露のはじめ哉」も、
すべてこの、一連の六句は難解を極めているのだが、私は以前から、ひそかな案の内に彼の母を「藤(一字傍点)原
氏の内(一字傍点)舎人」つまり十(とう)無い(二字傍点)と持ってまわった蕪村の八(一字傍点)説ないし鉢叩き説を抱いてきた。
 それを、他でもない蕪村生母の地といわれる加悦(かや)出身の青年が難なく胸に蔵っていたわけだ。それば
かりか徳子も知らなかったもと清水坂の大井の家が丹後の宮津に根を生うていたことまで知れた。あの
近在は説経語りのふるさと、「山庄大夫」伝説が生い育った土地柄でもあり、同じ根をたぐって遡れば
それは古(こ)浄瑠璃や謡曲にも、説経法師や物語僧へも、またたしかに平家語りの琵琶法師や盲御前(みくらごぜ)たちの
語り草へもたしかにつながって行く太い筋目とは、徳子もさすがに承知していたのである。
 ──佐々木青年がやおら無造作に座蒲団をすべりおりると徳子はハンドバッグを抱いて自分も席を起
ち、次の間で青年を呼びとめて襖をしめた。恐縮している若い検校の声の高さからも、徳子はとうに女
将に内々に聴いて金封を用意していたようだ、そしてむりからぬ、徳子はそれとなく桃子のためにもな
にかセーター一枚なりと、若い愛人の手から渡るようにと願うらしかった。
 徳子は青年を見送って出て暫く座敷に戻らなかった。私は魔法瓶の湯で茶を淹(い)れたり外の硝子戸を一
枚ずつ引いたりしながら、さてあの、鷲尾とはいえよほど山深い岩栖(がんせい)院へ、どんな経緯で建礼門院を慰
めに若い如一が招かれることになったのか、彼が正治二年(一二〇〇)近江源氏の縁辺に生れて、あの
「遠矢」の侍所別当、和田義盛の膝下(しつか)で育った来歴も含めおよそ説明はつけておかねば済むまい、と思
うものの今すぐその余裕もなく、もう、眼もとに泪(なみだ)の痕をみせて徳子が、しかし足どりは元気に座敷へ
戻ってきた。私は大きなため息を聴かせ、平家に奪(と)られたみたいな気もちだと座蒲団へどしんと落ちこ

211

みながら笑った。そばへ来て、膝を揃えて坐った徳子は、両手で穏かに私の手を包んだ。
「ね。このまま呑まないで寝ちゃうては、ない、でしょ」
「出てみまひょか。まだ九時前やし、稲荷小路かどこか」
「稲荷小路って」
「仙台でいっとう夜分賑やかなとこやて。お帳場で知恵つけてもウてきましたんえ」
「よろしい」と手を拍った。ぶんまわしのようにくるりとうしろを向くと徳子は電話でタクシーを呼ば
せた。頭の隅に、このままここで二人きりで呑みたい気もあったが、客商売の台所勤めを心得ている徳
子にはそのへん刻限やなにか気を配るむきもあるのだろう。ほんの一時間も、はるばる来た街の夜を見
歩いてくるだけだ、それに──、仙台はもうまるまるの異郷と思えなかった。
「五分で来ますそうえ」
「そりゃそりゃ」
私は着替えを急いだ。
庭の暗闇を、徳子は硝子戸越しにじっと覗きこんでいた。

十二 寂光の巻

 庭掃きの男に手をひかれて如一(によいち)と、目立って痩せてきた資時入道とが星月夜の岩栖院(がんせいいん)を乏しい燭に足
もとを危ぶみながら辞して行ったあと、ひとしきり山風に乗って菊渓(きくだに)の瀬音が高かった。祗園松原ごし

212
 
 

に遠く鴨の川原で死者を祭って火を焚くらしい、見え隠れに一つ消えまた一つ燃えて、星月夜──。
 建礼門院は阿波内侍と佐(すけ)の局(つぼね)を退らせ一人になったものの、また自分から起って、寝酒をあたためて
くれている二人の方へ顔をだした。酒盛りとも呼べぬたった三人の気ごころ知れた酒のたのしみへこの
頃女院を唆(そそのか)したのは阿波内侍であった。ここは禁中でも局でももうない。岩栖院までのぼって来れば、
ささやかなりに飲食の用意も金仙院の方でして若い侍女や男に運ばせねばならず、それは気の毒と思い
ながら見晴らしよし、それに揃いも揃い年老いた女同士(どし)の内輪話に人聞きを憚る憂いのないのも慰みで
あった。そのうえ酒では、気儘がすぎるかと冷泉(れいぜい)家への聞えも気にかかるが、やがて梅雨、それまでは
と人の出入りのある金仙院より、女院(によいん)は、ここに居坐っていたかった。
 むかし建春門院に仕えていた歌詠み定家の姉が、思いがけない小督(こごう)の尼と連れだって火の見舞いに来
てくれた日もここで話した。同じ西海を漂いあった守貞親王を育てながら、七条院の宣旨また治部卿の
局などと今は呼ばれる亡き知盛兄の妻も来た。あの右京大夫も欠かさず訪ねてくれて、ひとりのこらず
の老婆ばかり山路を煩いながら、だが、岩栖院での遠慮のない話に花を咲かせるのを、楽しいと言って
くれる──。
 それでも時々一人になりたい。但し長くはつづかない。何かにつけ身も思いも宙を漂っている時がふ
と多く、そういう時はいっそ、阿波内侍の話をまた聴こうと思う。阿波も心得て、気散じに笑わせる話
題をその日その日の献立のように心がけていてくれる。六十七にもなって阿波ひとりの話だけが昨日今
日の世間の出来事であった。噂であった。女院も、もうよほど衰えてしまった佐の局も、内侍の話上手
にはどんなに慰められているか知れなかった。

213

時として女院は阿波内侍のためにも早く自分は死んでやりたい、とさえ思う。その日から彼女はまる
でべつの老後をまた盛んに生きはじめそうな、その用意を今も万端怠りなくしているのではないかと、
つい思う。
 阿波内侍がいつから宮仕えに出たのか、今参りの折がどんなであったか女院は憶えていなかった。佐
の局も首を傾げ、しかしその話題になると内侍はにやにや笑って返辞しない。いわば仇筋でさえあった
信西の由縁(ゆかり)とだけで、誰が伴(つ)れて来たのか、後見(うしろみ)は誰なのかも、あまりはっきりしない女官(によかん)であった。
歌は詠まず恋もせずその辺が右京大夫とよほど違っていた。あの当時賢臣などと呼ばれた一部の公家、
ことに早々と出家して大原三寂と名の高かった為隆や頼業(よりなり)とばかり付き合い、さりげない消息を阿波内
侍は男手(おのこで)で書きかわしたりしていることも露顕した。為隆の子の隆信が証拠の文を男どもの退屈しのぎ
に触れ歩いたのだ、帝も噂を聞いて「女信西(しんぜい)」に日本紀(ぎ)を講じてもらおうなどと□になされた。
 中宮の時分は阿波内侍に傍へ寄られると気が重かった。気さくなところが眼に見えにくい、その点は
男たちも同じらしく、やはり右京大夫のように口疾(くちど)に気の利いたことを喋ってははきはきと物を書いて
よこす女に人気があった。それなのに右京大夫の歌は千載集に一首も採られていなかった。それどころ
か新古今集にも入らずじまいであった。人に代ってでも賑やかに歌を遣ったり受けたりが大好きであっ
た右京大夫なのに、また撰者の俊成や定家にはことに親しい縁辺にいたのに、あれももしや資盛という
平家の公達と親しかったためならば気の毒であった。
 俊成九十の賀が後鳥羽院の思召(おぼしめし)で盛んにとり行なわれた、と噂に聴いてしばらくのちにその右京大夫
が、家の集とも日記ともつかぬものを持参して見せてくれたことがある。承安の昔の宮仕え以来のこと

214

をこまごまと、さすが哀れによく書いていてしたたか泣かされた。

  今や夢むかしや夢とまよはれていかに思へどうつつともなき

など佳いと思う歌は幾らも有った。が──、それより、あの時思い、近頃また阿波の手で大原御幸前後
のことが平家物語の灌頂(かんぢよう)の巻とやらつくづくと書き綴られてみて改めて思い当ったことがある。右京大
夫には枕草子なみに事実存ったことは書けても、阿波内侍のようにこう絵空事を面白うは書けなかった
らしい、という違いがこれであった。資時にはそれと承知の付け目であったかと今さらに頷けた。それ
にしても文治の昔にもう「老い衰へた尼一人」の体(てい)で大原寂光院の庭に自身を立たせていたあまり阿波
のうそが可笑しさに、膝を抓(つね)ってやらずにおれなかった。
 女院がことさら望まなくとも、阿波内侍は女院出家このかたの出来事をただ事実どおりになど再現す
る気はなかったのだ。哀れは哀れ、しかし微塵もみじめさはあらわさず、当時はやりの言い草ではもみ
もみと心あるさまに艶(えん)に凄い一巻の詠嘆に徹してみようという内侍の思い入れであった。断絶平家の末
期(まつご)をりっぱにしめくくる徳子平氏のお為にも、また平家物語悼尾(とうび)を飾る格の高さにもと、阿波内侍は、
大原を訪れる後白河院と寂光院に迎える建礼門院との大きい釣合いに気を配っていたのである──。

「──資時は、よほど痩せが目立ちますが、どうなのか」
「恐れ入ります。安心できる容態では、やはり、ないらしゅうございますが。当人はせめて、もう三年

215

生きたいと──」
「──」
「まだ世の中は見定めがつかぬと申しまして、平家物語も、内から外から、本当の仕上げはこれからの
時世したいと考えている様子でございます。今日も雲居(うんご)庵まで迎えに参ったとき熱心に話しておりまし
たのが、噂の、もし九条家からどなたか将軍職にとても関東下向(げこう)が決まれば、平家の厳島、源氏の八幡(ほちまん)
それに藤原の春日(かすが)と神々お揃いで天下の成行を語り合われるといった”夢語り”の一句を播しはさもう
なと、行長殿と──」
「遊び──ですね、もはや」
「いいえ、遊びと見えることが、物語を眼に耳にする人を分りよく頷かせることもございます。悦ばせ
も致します、でしょう」
「──」
「平家物語がやっと十二巻揃いましたのが、あれで今の帝が御即位遊ばすすこし前、承元四年(一二一
○)秋おそくのことでございました。あの年の春に楽府(がふ)の御論議(みろんぎ)の失錯があって行長殿がこれ幸いと出
家されましたのが図に当った、仕事が捗(はかど)ったなどと資時殿も申していましたが、さてそうなってからの
行長といい資時といい、例の凝り性で、またすぐ巻数(かんじゆ)立ての組み替えをはじめまして」
「すると、今の本は」
「はい。この御所ででも手を分けて写しましたあの本はその、組替えのできた方で、治承物語六巻、寿
永物語六巻と申していた頃のものよりずっと読みやすう、語りやすう仕立てでございます。巻一と二に

216

は主に故大相国(だいしようこく)のお話をまとめておりますし、巻二と三には小松内府様のお話を、巻四には以仁(もちひと)王御謀
叛、巻五は福原遷都、巻五から七へかけて頭をもたげた源氏をと、話の散らばらない工夫がしてござい
ます。巻八から十がもっぱら西国戦記、巻十一には、恐れながら屋島壇ノ浦の軍(いくさ)をとりまとめ、巻十二
に六代御前がた、また御所様の──」
「しかし、話の筋はよく通っています」
「はい。年代記を崩しておりませんので。どうしても前後不揃いになりそうな部分は、本当の年代の方
をむしろずらしまして、ちいさな事実に即するより、さながらの大きな時の勢いをまざまざと見聞しや
すいようにと──それを行長・資時本の一つの骨子(こつし)としたようで、そのため、思いきって余分な話はず
いぷん今度の作業で削ぎ捨てたのでございますよ」
「麿のこと、は」
「御所様のことは、あれで最初の思案をすこしも変えず、ご覧のように巻十二の内に御出家と、文治二
年の春大原御幸があった、久々に故院としみじみご対面遊ばしたという事実のみにとどめて書かれ、断
絶平家の哀れは、六代御前様のついの斬られで──」
「そうでしたね」
「でも、もう、ほかにもいろんな平家物語が試みられておりますの。お話の数も、巻数も増え、むしろ
読む一方を狙って書き加えがされているようでございます」
「で、そなたはその行長・資時本の外に重ねて、大原入りから、長い長い六道の沙汰独り語りまで、を
書いてくれたのですね」

217

「べつ(二字傍点)の物語、として書かせていただきました」
「でも、その先を、なぜ書きませぬか」
「先、と申しますと、善勝寺へお移り遊ばしたことを──」
女院は首を横に振った。
「建礼門院はなぜ自分で死なぬか、死ぬ機会は幾らもあったと今までも人は思っていた。まして後の世
の人はきっと訝(いぶか)しく未練に想像することでしょう。でも麿はやはり生くべき宿命(さだめ)であった、むしろ壇ノ
浦へ身をなげたあれこそ国母(こくも)としてあるまじき振舞であったことと、いよいよこのごろ麿は思い当って
いるのです。それに平家生き残りの誰か一人くらい、世の行く果てをせめて見るだけ見て死なねば済む
ことでなかった……。けれど、阿波──麿はこうまで生きてなどすこしもいたくなかったのですよ。永
生きしてよかったとも思わない。せめてその気持を、とうの昔の女院(によいん)死去とでも往生とでも平家物語の
奥の奥にそなたの筆で書き加えておいてほしいのが、今夜(こよい)、幼帝御入水(ごじゆすい)の物語を聴いての、麿の、偽り
ない願いなのです」
「──」
「──麿は、疲れました。疲れた」
 そう呟く女院の表情は揺らぐ燈火(ともし)に濃く淡くにじんで見てとれないまま、声音は阿波の耳にもかすか
な笑みをすら含んでいた。佐(すけ)の局はもう横臥しにすうすう寝息をたてていた。
「建久──そう、建久二年がよい。故院崩御の前年、それに、この辺りにも住んだという西行法師と同
じ如月(きさらぎ)の望月のころがいい──。阿波よ──麿はとうに、その時分にはもう往生していたかった……」

218

「まこと、でございますか」
「まことですとも」
「そんな──」
「人──は後の世の者も、そなたが言うとおりそれでこそ首肯(うなず)く、のではないか」
「──」
 女院はわずかな濁り酒に酔うてか、突如また、べつの提案をした。外の暗闇へ出て、久々に二人して
飛礫(つぶて)を一つうってみたいというのだ。昏いのにとわらわれて、女院は静かな声でわらい返した。阿波ら
しくもない、闇につぶての当てど無さほど、身にしみて、人間と生れたものにふさわしい真似が、また
あろうか──。
 物を遠く拠(な)げるということを覚えたのは、西の海の上であった。男たちがよくそうして憂さをはらし
ていた。軍(いくさ)の役にほんとうに立つなどと思えぬ飛礫を、どの舟も少しずつ積んでいた。やがて向こう見
ずな若い女までがそんな戯れに一人二人と加わったあの、不安で退屈で、あまり物憂かった日々のこと
は大原の庵室でもさすがにくりかえし想いだし、そのうち池に小石をなげこむほどのはしたなさも時に
涙ぐましくなつかしく、時に心すさみがちに無聊(ぶりよう)をしのぐよすがとなった。
 ひゅっ──と阿波が先ず拠げた石は奈落の底をかそけく滑り落ちて、闇に沈んだ。女院が拠げると、
これはかっと鳴ってひときわ濃い樹立の影に近々とはねかえされた。二人は物も言わず佇んでいた。
「ふしぎな──」
女院はやがて手先の汚れを払いながら忍び泣くように呟いた。

219

 阿波も、しんから頷き返した。旧遊零落(れいらく)して半ば泉(せん)に帰(き)す──、音もなく西の雲間を刷いたように太
い稲妻が光る。一瞬に消えた都の、あまり黒々と睡りこけた静かさが、なぜか堪らなく二人にはあさま
しかった。
 ──女院はうすい衾(ふすま)を抱くように身を茵(しとね)に横たえ、阿波内侍はそのまま傍にいてもうしばらく話相手
をした。話題はさしあたって先刻の若い琵琶法師に及んで行った。
 あの如一は、頼朝が死の翌年、俄かに兵を集めて京都を騒動に陥れた佐々木二郎経高の遺児であった。
父が討たれたあと母と姉とで東国に遁れ、和田義盛の手にひそかに庇(かば)われていたが母は死に、一人の姉
は和田の党の義胤(よしたね)という若者に嫁した。弟兵衛(ひようえ)も一簾(ひとかど)の少年に育ちかけていた。それがたった一夜の高
熱のあと火が消えるように明(めい)を失し、延暦三年(一二一三)、和田合戦の折は十四歳になってはいたけ
れどむざむざ敗け軍を支えもならず、盟主義盛は討たれ、兵衛の姉は身替りに殺されて傷ついた義兄(あに)と
手に手をとって弟はかつがつまた都へ遁げ帰ったという。佐々木の一族は頼れず、残党の詮議は厳しく
て二人は鳥追山の墓の林を屍(しかばね)同然に隠れくらした二、三ヶ月のあと、盲いた兵衛ひとり伏見稲荷社の
鳥居本(もと)に庵(いおり)を結んでいた遠い由縁(ゆかり)のさる法師に預けられた。法師は黙ってこの少年を伏見衆、もと那須
崇高の与一の差配にゆだねた。
「和田義盛という名はおぼえています。みな死にましたね、平賀朝政(ともまさ)も、頼家、実朝も」
「梶原、佐々木。比企、畠山も、でございます」
「北条小四郎、きつい男ですね」
「かしこい武士でございます──。和田義胤とかは、それでも生きのびて、表向きはともあれ今では院

220

のお手の内に組入れられております」
「畿内の侍や悪党をよほど集めておいでと、治部卿の局(つぼね)などは危ながっていたけれど──そんな兵衛と
やらと関わりをもって、資時が無事ですむのか」
「資時殿に、深入りはなさるなとわたくしも申すのですが、どうやらあの如一を義胤とわざと逢わせて
は、院の上の東国に対する御征伐の動きを、針の先ほどでも知りたいなどと」
「資時が、か」
「──やはり慈円僧正殿の御謀(はかりごと)でございましょうか」
「年々に院と慈円とはよくない、そうな──」
「そう洩れ聴くことが多うございます。もう公然とはお二方の間を通わせる道は絶えたとさえ噂されて
います。兼実(かねざね)の大殿も先の摂政良経公もなくなり、摂家(せつけ)は総じて院政の前に影がうすいなどと──。僧
正は、院がお愛し遊ぱしますお若い朝仁の親王(みこ)をお仲立ちに、なんとしても院が事を関東に対しお構え
遊ばさぬよう、御諌止(ごかんし)の文ももう幾度か──とか」
「今上(きんじよう)の帝は?」
「お身軽におなり遊ばすため、きっと御譲位になりましょう」
「と──」
「皇太子の宮は幼く、当然外戚の九条家から新摂政が」
「それで潰(つい)えたなら」
「守貞の親王(みこ)をお抱え申されます治部卿の局に、存外のお慶びがあるやも」

221

「──」
「危うい橋でございます」
「その危うい橋を、あんな盲いた若い法師にどう渡らせるのか──」
「気がかりでございます。但し九条家のご事情はいかにあれ、資時殿は、あのお人なりに、もうこの上
新しい軍(いくさ)物語を書くはめに世と人とを陥れとうはない、そのためにも、という気でございましよう」
「──」
「後白河の院にお供をして寿永の昔に鞍馬のお山にまで平家の手を遁れ去った話は、わたくしも何度聴
いたか知れませぬ。その途中、院のいろいろの仰せをつくづくとよう聴いてあのお人は、自分の生涯を
選びとってしまったと、いつもそう申します。──お睡うはございませんか」
「いいえ。もっと聴かせて──」
「あの折、鴨川沿いはかえって物騒と、鳥辺野から、高倉院の御陵のわきを清水寺へ抜けておいでにな
ったのです。清水の裏山を将軍塚へ、そして栗田天王の境内まで歩いてお越えなされたそうでございま
すけれど、もう五十六、七でおわした院のおみ脚の強さには屈強の侍が驚いたと申します。ただの四(し)の
宮でいらした昔、不如意なりに今様(いまよう)を好まれます以前は、人が狩の宮の馬の宮のとお嗤(わら)い申したほど蒲
生や春日野までも飛ぶように駆け巡ってお遊びであったとか、よくお太り遊ばしてからも畏れながら見
るから御胸板など巌畳(がんじよう)でいらっしゃいましたし──。しかもあの寿永の瀬戸際をたれ憚るでない高声(たかごえ)で、
息もきらず嶮しい闇路を平然といくらでもお話しなさる。今様をさも面白うお謡いになる。北面が、前
に一人後に二人離れてお随(つ)き申し、那須与一ら二、三の者は栗田で御乗馬を揃えお待ちしていましたと

222

か」
「それで、院はどのようなお話を──」
「政(まつりごと)に自信はない、と仰言やったそうでございます」
「まあ──」
「しかし、頼長や通憲(みちのり)ほどの公家がもはや現われようもないとあらば、暦は此の場を一歩半歩とて動く
ことは叶わぬ、さりとても政に自信は少しもない、と重ねて仰せになったそうにございます。また、公
家(くげ)か武家かと撰択を迫られれば、結局広く下々の者のためには公家の政の方が無難かとお笑い捨て遊ば
した、とか」
「刀は好かぬ。手を使えばよいとよく仰せられました」
「手──を」
「手はふしぎだ、伸びた先で何かが起こると仰言やった。しかし、刀や弓矢を使うだけが能でないと武
者ばらが悟るのに、さきざき莫大な時をかけても足るまいよ、とも──」
「源氏を、鎌倉という巣から引きずり出せなかったのが、院の、最後までのお悔みでありましたと」
「頼朝も、よく辛抱したわけですね──」
「資時殿にあの時、院はしみじみと仰せられたそうでございます。家を嗣ごうなどと思うなよ、そなた
信西ほどの漢才も資質ほどの和魂ももたぬ凡人ながら、なまじいに官途を心がけることなく身を道の辺(べ)
に捨て果てる気で踏み出せば、もっと広い場所へ出て、稀な才能を存分出のため人のために使えそうな
ついそんなところに生来立っている。そなたには今は見えまい。が、麿には、よくよくその道が見えて

223

いる──」
「平家物語、のことですね」
「分りませぬ。寿永二年のことですもの、まだ院にもはっきりしたお見通しがございましたかどうか。
けれど資時殿の天与の才を、わずか一と握りの公家の遊興の場で費消してはならぬ、身内を流れた道々
の者のせつない血汐を、進んで彼らの行く手に注ぎかけよ、伝えてやれよ、とは、──まあ厳しい仰せ
でございました」
「資時は、仰天したであろう」
「泣いてしまったと申します」
「──」
「すると後白河の院は拍子(ひようし)を打っていきなり謡いだされたと申します、二句の神歌(かみうた)かなんぞのように、
こんなふうに」
と、阿波内侍はそっと膝を打ちながら低声(こごえ)で□遊(くちずさ)むのであった。

  いづくにかねぶり?/て倒れふさむと
   思ふかなしき道芝の露

「それは──」
「はい、西行法師が無常の歌を詠(よ)んだ内の一つでございます。院は西行の、たぶん顔さえご覧になった

224

ことがなかったかと存じますが、ふしぎになつかしく心親しいものよとお思いであったとみえ、時折り、
風になびく富士のけぶりの空に消えて、ゆくへも知らぬわが思ひかなといった聞えた西行の和歌を、お
好きに節づけては□遊んでおいででした──とか。西行も、資時も、あの歌い女(め)の乙前(おとまえ)からは孫か曾孫
かと、院はそれ故いとしい者のように想っておいででありましたかも──」
「まことの話ですか」
「まことともうそとも──ただ院は、西行法師の早う自身でえらんで歩み去った道へ、資時も、とは、
やはり──。思い返すだに荒(すさ)まじゅうございましたあの寿永の夜風のさなか、清水(きよみず)の山越えに、事もな
げにしかしご深切に幾度も若い資時を励まされたのはよくよくの御思い入れかと存じられます。軍も政
もただ凡庸な繰返しを繰返している。それと較べ人の、心から心へ伝える歌声は、拍子変わり詞(ことば)が変わり、
また世の中がどう変わろうと変われば変わるほどそのたくましい寿命は果てまい、果ててはなるまいよ
と、院ははっきり仰せられたのでございます」
「──」
「将軍塚にお立ち遊ばし、焼き立てられて焔を吐きつづける都中を南に北に指さされ、譬(たと)えて言おうな
ら、あれくらい、空しい火の手をつまり人は〈政〉と呼んでいる。そなた人の住む家を火で焼くより、
人の心に火をともせよと大音声(だいおんじよう)、今にも黒雲ごと降りだしそうな夜空に噴き上げるようにからからお嗤(わら)
い遊ぱしたと──」
 建礼門院は、あ、と話している内侍(ないし)の顔を見直した。内侍は小絶(おだ)えなく濡れる涙を拭おうともしない
でいる。──そうか、この阿波内侍は法皇様の──、そう思い至って□をはさんだ、たとえ夫婦でなく

225

とも資時と内侍とがなぜ男女の仲であっていけなかったのか──、
「いえ、そうであった、のですね」
「ま──御所」
「やっぱり、ね──」
「──」
 たしかに中山行長についてあまり詳しいことを知らぬらしく、それに機会が有ってもやはりここまで
挨拶になど来る男でないと分っていたし、内侍も行長を呼ぼうとは勧めなかったけれど、資時は違う。
辿ってみれぱほぽ同いとしの叔父姪と言えなくない倶(とも)に信西入道の血縁、とはいえ大原寂光院の昔から
指折りかぞえて三十五年の間、忙しいにつけ閑(ひま)につけて彼は阿波内侍を訪れ、話しこんで、帰る。時に
太平楽なくらい、こそこそと秘めごとめく振舞が全然なかった。平家とは一時遠退いて、清盛入道から
父の資賢卿ともども眼の敵にされた男だが、それほど故院に親近していたという思いも手伝い、いつか
いっそ身内の一人のように女院も感じてきた。そうであったか、治承二年の熊野詣でのあの頃阿波内侍
は、後白河院にお仕えしていたというわけか。二十(はたち)の資時が逢い初めて間もない恋人と言っていたのは
この阿波のことであったらしい──そしてあの院と。資時をご寵愛のはて阿波の方をさりげなく麿の局(つぼね)
へ根移しされたのも院であられたか。そうであったか。いや、ひょっとして阿波内侍は後白河院のお胤
であったのかも。
「──そんなことで、資時は綾小路の源氏を嗣がなかったのですね」
 建礼門院は仰臥(おうが)のまま溜め息をついていた。

226

 綾小路源家(げんけ)は按察使9あぜち)大納言資賢のあとを、夙(はや)く死んだ長子通家(みちいえ)の子時賢が嗣ぎ、また孫の有資が嗣い
でいる。通家の弟雅賢は後白河院崩御の際に幾人もの公家といっしよに出家をゆるされ、その子有雅は
いま中納言右兵衛督(うひようえのかみ)にも累進し後鳥羽上皇随一の近臣として鎌倉討つべしの急先鋒であってみれば、当
主有資を猶子(ゆうし)の体に、郢曲家伝の秘芸を悉く伝える役まわりの資時入道が、慈円のいわば謀臣めいて九
条摂家の近辺にいる事実は、綾小路家のためあまりにも微妙に過ぎる立場であった。時賢は正五位下右
近衛(うこんえの)少将で一時近江介を兼ねた程度、有資も従五位上に釘づけのまま久しく、まだ嗣子をもたない。
「資時も、気苦労な」
「はい」
「でも資時は、思えば、よくやりましたね」
「御所様がさように仰せられたと知れば悦びましよう。この頃は涙もろくなり、先刻も如一の顔を見た
まま、よう泣いて居りました」
「如一とやら、あれこそ梁(うつばり)の塵を浮かぱせるという佳い声ですね」
「資時は、あの少年を那須与一忘れ形見の一人娘と娶(めあわ)そうとしているのでございますよ」
「すると玉虫の、子──ですか」
「雑仕(ぞうし)御覧で紀伊郡の郡司から差し出されてきた時の玉虫は、むかしの常磐(ときわ)御前やのちの静に劣らない、
まこと傾城(けいせい)の美女でございましたが」
「その娘とかは、やはり、平家を語りますか」
「それはもう。日野薬師の近くに住まわせまして──わたくしも、目をかけております」

227

 ──建礼門院はふうっと肩で息をした。時刻をあまり過ごしたと阿波が詫びて退って行こうとする、
のを、半身を起こし、
「資時には、労(いたわ)るように言っておやり──それと、そなたが久しい苦心の灌頂の巻のことですが。やは
り、女院往生とも死去とも、ぜひ一句加えて、けじめを付けてくれますように。な」
 内侍は端近うすさって、ただ両手をついていた。
「頼みますぞ」
「──もったいのう、ございます」
「その灯は、もう要りませぬ──」
そしてひとり暗闇に埋もれてしまうと女院はゆっくり十、二十、二十五、三十と数をかぞえながら息
を殺し、はるかな時の彼方を凝(じ)っとにらんでいた。あっけないほど、この頃は夢を見ない。こう一人で
臥していても物怪(もののけ)の影もあらわれない。物足りない、さびしいとはこのことかと苦笑いをふと凍らせ、
夢さえ見られないほどもう此の世に身も心もよけいな剰(あま)りものになったと思い当る。女院は反撥するよ
うににたっと闇の底で嗤い、鬼女よろしく□をあいてもみるのだが、何ごとの起こるともなく、外(と)の面(も)
はただ木魂(こだま)の遊ぶ声ばかりであった。
 ──結局、灌頂の巻を大懺法院で授職という慈円や資時の計画は実現しなかったのである。彼らの思
惑と逆に、将軍実朝を官打ちになどと白河、吉水の辺には最勝四天王院の何のと東国を目あての凶々(まがまが)し
い行法しきり、と人の噂を聴くにつけ、追悼平家といった厭戦気分を、ほかでもない都にまき散らされ
ることを院でも内裏(うち)でも望まれまいとは女院や内侍も察しがついた。

228

どうなるか。どうかならねばおさまらぬ世の成行であった。慈円が真剣に怖れるらしい、結局は後鳥
羽、土御門の両院も、今上の帝の御為にも、畏れ多い危険の迫っていることだけは分る。ここが故院と
考えの岐れるところか知れないが、いっそ武者の世となりきるくらいが世のため人のためという気が女
院はせぬでなく、しかも、無辜(むこ)の死を死なせるだけの軍(いくさ)を上皇がたはじめ、一天万乗の帝(みかど)御自らが仕掛
けられてはなるまいに。
 灌頂の巻──は資時がみずから琵琶を弾いて大原御幸冒頭の一部分を聴かせてくれた。読む分には、
彼よりも先に女院は読んだ。よく書いてあった。そう、まるで他人(ひと)のことのように美しく哀れに書けて
いて、しかしあれもやはり嘘でなく、それどころか文治元年から二年春までの間にそっくりあのとおり
のことがあった気さえ女院はしていた。清経の中将のことは、行長の詞章からわざと抜き書きに、阿波
内侍に言(こと)添えてもらったのである。
 

  さる程に寂光院の鐘の声、今日も暮れぬとうち知られ、夕陽(せきやう)西にかたぶけば、御名残惜しうはおぼ
しけれども、御涙をおさへて還御(くわんぎよ)ならせ給ひけり。女院は今更いにしへをおぼしめし出でさせ給ひて、
忍びあへぬ御涙に、袖のしがらみせきあへさせ給ばず、はるかに御覧じおくらせ給ひて、還御もやう
やうのびさせ給ひければ、御本尊にむかひ奉り、「先帝聖霊(しやうりやう)、一門亡魂、成等正覚(じやうとうしやうがく)、頓証菩提」
と、泣く泣くいのらせ給ひけり。昔は東にむかはせ給ひて、「伊勢大神宮、正厳島大明神、天子宝算、
千秋万歳」と申させ給ひしに、今はひきかへて、西にむかひ手をあはせ、「過去聖霊(しやうりやう)、一仏浄土へ」
といのらせ給ふこそ悲しけれ。

229

建礼門院は床の中で、あ、と声をあげた。誰かは知らぬ、闇の奥に朗々と、若々しいほどの男の声が
たしかに、たった今、「幼(一字傍点)帝聖霊、源平(二字傍点)亡魂、成等正覚、頓証菩提」と虚空を渦巻くように唱(とな)え唱え杳(かす)
かに遠のいて行ったではないか。
「御所様──」
 阿波内侍が耳敏く寄ってきた。手に細々と生けるものの如く燈心が燃えている、
「阿波」
 身を起こし叫ぶように女院は呼びかけた。
「早い方がよい、一日も。病いの資時がもし叶わぬなら、先刻の法師を伴うて鴨の河原へ麿をつれて行
っておくれ。みずからが流れ灌頂(かんぢよう)の供養に、四条河原で、あの者のあの声と琵琶とで、諸人にそなたの
大原御幸を、六道(りくどう)の沙汰を、成ろうなら麿が往生成就のくだりまでを、どうか聴かせてほしい。聴きた
い──」

 月刊五誌発行の遅れの挽回に、かつがつめどの立った七月初め、私は辞表を書いた。
 前年の正月にも一度書いていた。今度はどうしても辞めたかった。不景気の声が湿気のように腥(なまぐさ)く
におって拡がっていた。もう、あんなめちゃな春闘も来年からはできまいよと、私の退社を危んで、首
を傾げてくれる人もいた。しかし、私を会社につなぐ糸はぷっつり切れていた。仙台の一夜は誰が咎め
もしなかったが背信を敢てしたには違いなく、ことに昼夜続行の労使の争議に対し、いささかの罪障感

230

もなく私はあの晩も次の土曜日曜も責任放棄した。まる五年の二足わらじで、慎重に文筆業のありよう
も推し測った。自信のあるなしでなく、意志の問題であった。私は、ためらいなく選択したのである。
 ──仙台稲荷小路のあの宵歩きは、すこし他人行儀によその家のあいた戸の内を覗いてまわるぐあい
であった。二軒三軒と、挨拶まわりのように入っては出て、酔わなかった。地酒の「炉ばた」も山菜の
「青葉」も、もう一度入った「かに八」国分町の支店でも、要するに気らくなだけがご馳走だった。早く
二人だけの部屋へ帰りたい気と、気もそぞろのこんな梯子酒でももっと重ねたい、堪能したい気があっ
た。かって覚えのない腕に腕をあずけて歩く、ということさえ徳子はこれっきりのことと思うのか二度
三度と、そう□にしていた、が──。
 八月末と決めた退社日まで、こまめに動きまわった。送別会は全部断った。退(ひ)けどきを家路につくい
つもとすこしも変わらずに、十五年半の勤め先を出てきた。違うのは私のデスクに私物がのこっていな
いというだけだった。
 秋になっても私は東京を動けなかった。新しい本が出たり長編の載った雑誌が出たり、それにつれて
べつの原稿も頼まれた。念願の谷崎潤一郎論にも手をつけた。時彦にだけは思いだしたように葉書くら
い書いてはやっていたが、べつに返事らしいものも来ず、間垣から例の京土産も届かなかった。T博士
からご退職を祝す旨の簡単な手紙一通に、あせらぬようにと一と言添えてあったのが嬉しかった。
 間垣が、今になって店仕舞いを考えているらしい「耳に入れときますよ」とわけ知りのM教授に電話
を貰ったのが、十一月はじめであった。なにしろあの四月都踊りの最中に二日三日にせよ祗園のお茶屋
を留守にしてくる徳子のことであった。時彦への配慮もあるかしれない、驚きが半分の、あとの半分は、

231

やはりそうかと頷く気持も私は抱いていた。その時が来た、私の『平家擬記(へいけもどき)』をいよいよ書きはじめる
時が来た、と思った。死んだ長尾が呼んでいるような声さえ聞いた。
「あては──疲れてしもた。ほんまえ」
 仙台の夜、たった一度そう徳子は涙声で呻(うめ)いて顔をそむけ、笑いにまぎらしていたが──以前から時
彦のために用意した小松谷の仕舞屋(しもたや)に入る手筈ひとつにしても、あれこれと思いまわせば店仕舞いもな
にも簡単に済む話でない。
 その気ならどうにでもかけられる電話を、だが私は徳子にかけなかった。問い合せの手紙一本書く気
にならなかった。私に何一つ手だてらしいものがない以上、右するも左するも徳子の胸三寸にむやみに
指を突っこむ真似はいや、も本気なら、成行をじっと見送る観察者でいようとする打算もあった。冷淡
にすぎる言い草かしれないが、私は、徳子の、心やからだの深部で疼き、渦巻き、もがく何かが本物であ
ることだけを望んでいた。
 しきりに徳子を夢に見た。が、私は動かなかった。来る日も来る日もただじりじりと自分の「平家」
を書き進んだ。いくら書いても巧くならないじれったさが行文に苦々しい翳(かげ)をこもらせて書き手の眉を
しかめさせることが重なる、と、あれ以来何も言って寄越さない徳子に無体に私は肚(はら)を立てたりした。
 そして、新春──
 例年間垣からの賀状には「賀正」の二字に西行の和歌が一首そえてあるのがきまりだ、が、「立つ春
りあしたよみける」と詞書きして、今度の歌はあまり尋常にすぎた。

232

  年くれぬ春くべしとは思ひ寝に
   まさしく見えてかなふ初夢

 肩すかしを食った気がした。
 時彦のは、思いがけない伊勢の朝熊(あさま)山麓から絵葉書であった。文学部の先輩グルーブに厚顔(あつかま)しくもぐ
りこんで、元朝の伊勢参拝に先立ち師走の朝熊山に登ったと、いっそ年末の挨拶に近い文面で、ほうと
声を誘われたのは、この間までの高校生が「猿」の研究をテーマにしたいなどともう言って来ているこ
とであった。猿の生態を、ではなかった。察するに猿真似、猿楽、猿牽きだの、猿丸大夫や猿若などの
「猿」の民俗をいわば地図の体に整理してみる作業を、何人か同好の友と試みてみたくなったと、かつ
てないはずんだ筆で告げていた。
 八木市子からは謹賀新年と毛筆で、あとはペンに替え、西行忌に双林寺か祗園間垣かで御所ぶし演奏
をとの話がある由、T先生らの□添えでどこか放送局がともあれ録音の用意をするらしい。「桃子」と
いう二字にもどきっとした。昨年夏ごろから時おり手紙を寄越すようになった。今は妊娠中、姓も佐々
木に変わってなどと、市子の字は几帳面で読みやすかった。
「ちょっとした親類のようなものね」と、妻は思ったままを素直に□にしていた。
「時彦さんて、優秀なのねえ」
 高校受験を控えた娘は、逢ったことのない青年にも、彼が高校の時分からひきつづき籍を置いた私立
の学園にも興味津々であるらしく、この二人と出違わせるのが時彦しだいのことなのか、やはり徳子の

233

意思を先ず尊重すべきか、私はただウン、ウンと誰にともなく頷くばかりであった。
「御所ぶし──って、あたしも一度聴きたい」
 妻がそう望んだこともこの一度に限らなかった。が、妻を、徳子との場所へ、一人のお客のように迎
えるまねはしたくなかった。徳子に妻を見せたくもなかった。だが──やがての早春に私が娘や妻をつ
れて京都へ、祗園へ、間垣まで出かけていたなら、──その方がきっとよかった、なにかしらべつの結
末がありえた、という及ばぬ悔いが、今も、ある──。
 徳子と逢わなかった一年越しの日かずを何度かぞえたか。私は徳子に逢いたかった。顔を見るだけで
よかった。顔を見合えば一言も必要とせぬ安心というものが一方にあり、しかしそんな安心をことさら
求める必要のない二十余年があったことも思い知っていた。徳子の思いも同じと信じていた。だから、
といって筋道立った説明になるはずなく、つまり御所ぶしを聴きに出かけて行く気に私はなれないでい
た。仙台へなら、何度でも行きたい徳子と一緒に──しかし、といった気分であった。時彦のそれとは
水と油ほど違うのだろうが、いつのまにこう〈京都〉を重苦しく思い、嫌っていたか。憎みさえしてい
たか。〈京都〉といえば、間違いなく私には〈徳子〉と同じ寸法と重さを持っていたはずなのに──。
 途方にくれたその結果、などとも言えぬ何でもない、ごくつまらない用事、たまたま馴染の薄いある
雑誌の記者が二月十五日当日に家まで会いに来たいというのを承知した程度のことで、西行忌の京都行
き封じに私は先手を打ってしまった。一枚の葉書で日野の八木市子方へ、ご成功を祈ると伝えた。内心、
ほっとしていた。
 二月祭日の次の日だった。まだ午まえ。電話が鳴って妻が出た。もちまえの愛想のいい声がだんだん

234

妙に重っ苦しい。
「誰──」
 起って行った私に受話器を渡しながら、「へんよ。ちよっと」と妻は首をすくめた。
「誰」
 受話器の□をふさいでもう一度訊いたが、返辞のすべを忘れたみたいに、妻は、私の顔をぽかんと見
ていた。
 徳子であった。たしかに声は沈んでいたが、へんとは言い過ぎだろうと思い思い、心得顔に一から月
並な挨拶をやや声高に私は送りつづけた。相槌ひとつない、やはりへんかと感じたものの私自身の他人
行儀もへんなものであった。しかし、電話など決してかけて来るはずない徳子なのに──と、私は平静
でおれなかった。
「間垣、店仕舞いだなんて、うそでしょ」
 がさつな□の利きようが気重く、はずかしく、肚(はら)は冷えて縮んで、もう、言うことがなかった。息づ
かいも聴えない堪らなさにまた慌てて呼びかける、と、徳子はことんと電話を切って捨てた。
「どうしたのかな」
首を振ってみるしかない。
「ね。へんでしよ」と妻はちょっと離れて、起ったままだ。
「へん、テこともないけど、──なんだろか」
「あなたの声、聴きたかったのね」

235

「そんなこと言ったかい」
「仰言やりはしないけど、なんだか──」
「気がした、かい」
「ええ」
「へん、だな」
 時彦は学年末提出のレポートを書くと言って、幾つもある合宿寮の伊豆とか房総の勝浦だとかへ友だ
ちと泊りがけで出たという。仕方なく置いた受話器をまたとり上げ、二月十五日に来訪の約束を今日明
日にも早めてくれるよう例の雑誌社に掛け合った。
 その日は、ねむれなかった。また長尾の声を聞いた。誰を呼んでいるのか暗闇へ訊ねたが応えはなく、
「流れ灌頂」
「流れ灌頂」
「流させたまえ」と、入り乱れて声は遠のいて行った。
 ──十三日の晩、ひとり京都に着くとまっすぐ知恩院下の親の家に入った。老父母も叔母も、すっか
り見ため、きたなくなっていた。家の中もよごれていた。三世代が住めるほど広くなく、東京の若い私
たちの家も狭い。年寄りは三人が三人とも八十の坂を喘いでいた。仕送りして済む話でなかった。
「仕様(しよ)あらへんが」
 父は年齢(とし)のほどより毅い語気で苦々しく呟く。父は東京でいっしよに暮したいのだ。母は京都を離れ
たくないと頑張る。そして病気で倒れるまで叔母は京都にいてお茶やお花の先生がしていたいというし、

236

京都へ帰ってきて筆一本で老人三人と妻子とを養う自信はなかった。膝に両手を置き、私は、これは甲
斐性の問題でなく子として親たちへ愛情が浅いだけのことだと自分を詛(そし)った。
 やっとやっと年寄の前を遁げるようにして祗園町へかけこんだ。まちがっても芸妓舞子をよんで茶屋
遊びをする気も、気づかいもなかった。祗園は自分がまさしく育った場所であった。どの小路(こうじ)、路地(ろうじ)を
通り抜けても寛いだ。匂い、物音、宵明り、わけて間垣の表や脇の小路は、塀に見越しの松や槙の木影
までがなつかしい。内玄関に雪洞(ぼんぼり)を据え、前栽(せんざい)も、延段(のべだん)に打った黒や白の石もしっとりと翳をもってい
た。徳子の好きな乾山(けんざん)ふう花籠の絵の衝立(ついたて)もしんと明るく、客が入っていてもいなくても間垣は、昔の
まま間垣のたたずまいを変えてなどいなかった。軒燈もほの白う、ちいそう光っていた。
 こんな時刻、めったに人が寄らないと知っている電話ボックスがある。小銭の数をたしかめてからす
こし急ぎ足に中学の裏の坂を市電通りへ出て行った。黝(あおぐろ)い影になって凍てた夜空へ東山の峯々が肩を組
み合っていた。
 あさってを控え、家にいないはずのない市子が留守であった。あれで、出好きなのかなと幾分不服そ
うな声が出た。電話は苦手だと言っていた年寄が、私と分ると早口にかわって独りで喋りだした。市子
は今日明日にも勤めをやめるらしい、今夜は伏見大手前の小料理屋で、小人数ながら郵便局長や奥さん、
事務員らに送別会をしてもらっているという。
「ご縁談が、きまったんですね」と大声を出した。
「そうどすにゃ。はあも、えらいことどすね」
 七十に手が届いた八木あいも、あさってははじめて間垣を訪れるという話(の)を、遠い噂ばなしのように

237

聴いて、電話を切った。ボックスのある道から東むけば、鷲尾町に入る。暗闇にまぎれ、高台寺墓地の
奥から御霊屋の辺へ忍び入ってこようか、目も彩(あや)な草花蒔絵の厨子(ずし)におさまって雲に浜松の絵を背に、
片膝立てた豊臣秀吉未亡人のちいさな尼姿の坐像を私は想いだしていた。そして、声を呑んだ。
 ──高台院ねねが入定(にゆうじよう)の御霊屋とは、あれが建礼門院往生の地と、とうに忘れられた言い伝えのべ
つの形での再現ではなかったのだろうか。滅び去った豊臣家の最後の生き残りであった北政所(きたのまんどころ)は、我
が身とともに平家生き残りの建礼門院徳子の霊をも手篤く葬ろうとしたかに想えてくる、と、御霊屋に
安置された、小柄な、だが生ける如き尼僧の像が、徳子とねねとの紛らわしい重ね絵になってありあり
眼の底に甦ってきた──行こう、行こう、と無性に思い立った。

 ──気がつくと、藪の中にいた。冷んやり淡い緑色の室(むろ)みたいであった。重なりあう竹の葉裏に黄金(きん)
の針をまき散らして、高い高いところで日が寂(しず)かに照っていた。どこだろう、鷲尾の奥山にこんな藪は
なかったが──「ほほう」と声が出た。
 足もとに小さな古塚がせり上がって見えた。徳子──が横にいた。はだしだった。あどけない紺のひ
だスカートに衿の円い白いブラウスを着てお河童あたまだ。塚を指さすとしゃがんで、苔によごれた石
の膚(はだ)を綺麗に掌(て)で拭いた。「つひの栖(すみか)」と窪んだ字が日影になって読めた。徳子は起ってにっこりした。
 なぜはだしなのと訊きそびれるうち、またしゃがんで塚の根かたを両の手で掘り返しはじめた。嬉し
そうに尾をはねはね背の青い小蛇が寄ってきて徳子の桜色した踝(くるぶし)に絡んだ。まるで構わず徳子はやが
て湿った黒土の下から可愛らしい髑髏を一つ掘り起こした。ぽっかりあいた眼窩(がんか)が愛くるしく、すると

238

小蛇は徳子の膝から七分袖をすばやく渡ってその眼の洞(うろ)に身をすくめて入った。徳子はまたにっこり、
立ちん棒の私を見あげてから元の場所へ、蛇を呑みこんだ髑髏を丁寧に埋めた。埋めたあとをぱんぱん
と平手で固め、元気よく起ちあがる、と徳子が、いつもの間垣のお女将(かあ)はんであった。そのお女将はん
が藪の中でするすると帯を解きはじめた。
「およしなさい」と叫んだ。眼の前がかっと白く泡だつ中から黒い水着の長尾徳子がまっすぐ立って手
招いている。踏み出すとどっと一面の水しぶきに日の光が射して、翳って──何もかも消えた。

 ──知ったような知らぬような片眼の小男が歩いてきた。妙な頭巾を頭にのせてはだしだ、重そうに
脇にかかえこんでいるのがあの「つひの栖」の塚石なので、どうする気か訊いた。ほれ、と指さすのを
見ると「往生成仏」と刻んである。今から大原の里へと言うので、あんたは誰ですとまた訊いた。男は
片眼をとじたまま、日の光を仰いで長嘆息した。
「わしが、みなの父親じゃ」
「ぼくも、ですか」と咳きこんだ。
「あんたは、ちがう」と素気なかった。もう、姿がなかった。

 ──眼もとから頸すじへ黒い斑(ふ)のある小鳥が一羽、翅で水をはじいてかん高く鳴いていた。川波が寄
せては流れ去る。赤子の頭ほどの石が裾半分を洗われ、日ざしは明るい。小鳥は石の上にもとび乗って
しきりに鳴く。いつか三羽四羽に増えている。

239

気だるいくらい緩(ゆつく)り緩り誰かしらそう遠くでなく鉦(かね)を打っている。何を焼くのか白い咽が河原を這っ
てきて、水辺になげだした脛(はぎ)の上を漂って行く。横で、徳子もはだしの足を水に漬けている。両手をう
しろへつき、うっとり横顔に微笑をうかべて徳子は日の照る方へ心もち顎をあげ、眼をつむっていた。
 ──ゆうべ京都へ着いてけさ徳子を電話で呼び出したのに違いない、いや昨日のうちに祗園のどこか
酒の呑める店から電話で約束しておいたのだ。鴨川べりを久々に歩いてみませんかと誘ったら異存ない
という返事であった。南座前では気が利かない、
しゆろぼうきえ
「そやなア、ほんなら三条大橋の西北詰で逢いまひょ。あの橋ぎわのお店でちっさい棕梠箒(しゆろぼうき)の佳(え)えのン
を買わんならん思てましてん──」
 約束の場所へ約束の時間まで、四条縄手の目疾(めやみ)地蔵で習字塾が発表会をしているのを、本堂に上がっ
て見てきた。長尾泰彦や徳子をまだ知らなかった戦争半ばまで、このお寺へ硯や草子を預けて週に三日
習字に通った。同じ時期に長尾の姉弟も通っていたことをずっと後年に知った。
 ──それから四条大橋を渡り、古くから象牙の品を売っている店の二階が喫茶室になっていたので、
上がって熱い珈琲をミルクなしに一と息で喫んだ。どうにも睡い。真昏闇のゆうべの墓地歩きは芯が疲
れた。いまだに岩栖院、ではない二階建ちの茶席時雨亭のその二階へ上がりこんだまま、茣蓙(ござ)に横たわ
って夜風に耳を澄ましている気がする。(どうも、そのとおりだという気がしてならない。)──客が
三組いて、三組とも濃い色の背広ばかり。面白(おもろ)ない店やなとすぐ出て、四条の橋ぎわから河原に下りた。
 夢──となぜ分っていただろう。なるほどオーバーを東京から私は着てきた、それなのに東山の峯々
に霞がたなぴき、対岸の京阪電車の線路沿いに桜の並木が三分咲き四分咲きであった。落着きのわるい

240

夢やな。オーバーを脱ぎ、ちょっと苛々(いらいら)しながら遠い比叡山を眺め眺め三条の方へ河原を歩いて行った。
行くにつれて人が多かった。妙な日やな──。
 約束の時間に徳子は河原へ下りてきた。
「いい箒がありましたか」と訊くと頷いた。眼が笑っていた。人目をかまわず腕を組んで川上へゆっく
り歩いた。二条の橋下まで来るとまた三条へ戻り、四条へ戻り、四条の橋下を南へ潜(くぐ)った。
「この下は、始めて潜るなア」
 徳子の手を引き引き冷(ひ)いやりうすぐらい中で、思わず呟かれた。すこし腥い川風が足もとを払うよう
に奔り抜けた。橋下を出て東を見るといつもある南座が無い。仰天した。目疾(めやみ)地蔵仲源寺の本堂がじか
に見え、南に建仁寺の伽藍もまる見えであった。しかしもう葉桜になって柳の翠(みどり)ばかり目立つ向こう堤
に、京阪電車の影も四条の駅もなかった。眼を凝らしていくらわきを見あげても大橋が有るのか無いの
かしかと覚知できない。それより川中に大きな洲(す)が伸びて、賽の川原のように石積みの小さな塔が草む
らにたくさん埋もれて見えた。
 徳子はあまり静かすぎた。落着かないこっちの様子に眼もくれず、白無垢の軽そうな着物を着て、頭
に、蝉の羽のような黒い布をかけている。それでいてはだしだ、微笑んでいた。坐りましょうと言うな
り懐剣でも抜くように袖から短い棕梠箒を出して、瀬音静かな水辺の砂利の上を二人で並べる広さに器
用に掃き清めてくれた。
 翔びたつ鳥の羽音で一度眼の前が昏くなり、すぐ夜が明け白むように徐々に川波の澄んだうねりがま
た見えてきた。白にちいさな黒い斑(ふ)の小鳥も、また二羽、また三羽、そばへ来て遊びだした。

241

「姉さん」
「──」
「間垣、ほんとに仕舞う気なんですか」
 何度訊いても徳子は知らん顔をしていた。いつか手に水晶の数珠を持っている──と、誰か、小走り
にうしろへ来て徳子に耳うちした。(あ──)大井尭(あき)子だった──、尭子もはだしで、見たこともない
精桿な顔をしていた。徳子がこっちを見て告げた。
「ご譲位と決まりました。幼太子(おさなみこ)がすぐ践祚(せんそ)遊ばしたそうですよ」
やはり、そうか。
「やる気ですね、いよいよ」
「九条道家が摂政とも決まりました。九条家の血をうけた帝(みかど)で京(みやこ)に摂政道家、鎌倉に将軍頼経と、九条
はこれで勢揃いですが、さあ、慈円の愚管抄──予言はどこへ的中するでしょう」
 また一人が耳うちに来た。お、──泰彦。
「愚管抄はその用にあらずと朝仁の親王(みこ)を経て突っ返されだそうです。京都守護の伊賀光季の陣ももう
北面、西面の武士たちに包囲されています」
 徳子は身軽に起った。
 河原へ大勢が出て身丈(みのたけ)ほどに一つ一つ石を積んで二基の塔を築いている。素木(しらき)の卒塔婆の一本に徳子

は「幼帝聖霊成等正覚(じようとうしようがく)」と書き、私にも筆をあずけ、もう一本に「源平亡魂頓証菩提(とんしようぼだい)」と書かせた。
徳子が頷く、と何人かで川瀬に卒塔婆を四本足にしっかり立て、上から白布を深々と蔽いかけた。しき

242

りに鉦(かね)が打たれはじめ、風にはためきながら白布の裾はすこしずつ水に漬かってたゆたい流れた。
 念仏の声と鉦の音(ね)がはたとやんだ。二基の積塔(しやくとう)の前で重々しく琵琶が鳴った。市子だった。すこし離
れて若い座頭と、もう一人知らない女があたりを掃き清めて、並んで坐った。二人とも琵琶を抱いてい
た。往々木君──と桃子か──桃子がいちばん徳子に肖ていた。美しい眉に日の光がいかにも寂しい。
人々は鳴りをしずめ、思い思いに四条河原に坐りこんだ。
「──こんなことで、死んだ人たちがほんとうに慰められるものでしょうか」
 そう呟いたのが自分なのか徳子であったかが分らない。徳子は片膝を物柔らかに立て、数珠を垂らし
て静かに虚空を見ていた。
「わかりません」
「──」
「ただ、こうしたい。それだけのために四十年生きのびて来た気がしています」
 徳子は、聴きとれないほどの声で、もう、疲れたと言った。
 水嵩が増し、卒塔婆は揺れて布の端はきらきら波に光っている。
 ありとある水生(みしよう)の不思議な呟きの渦に惹かれ、溺れるかと思った。それが、本意なく死んだ者の怨嵯(えんさ)
の声か、歔欷(すすりなき)か、または摂取不捨(せつじゆふしや)の弥陀如来を慕う念仏であるのかが分らない。ただ三つの琵琶が呼ぴ
あうように響いては息(や)み、そして必定(ひつじよう)、建礼門院の往生に及ぶらしい灌頂(かんぢよう)の巻を三人はもろ声に語って、
今しも修羅闘諍(しゆらとうじよう)の六道(りくどう)の沙汰切々と、嫋々(じようじよう)と、鴨の川面(かわも)に悲しみ身にあまってあまり寂(しず)かな言の葉を、
日の光さながら、かき流していた。流しつづけて、いた。(完)

243
 

作品の後に

 このところ湖の本の小説巻は、ずうっと132ページで仕上がっている。単純に原稿用紙で、
二六〇枚程になる。単行本一冊の収容枚数はかつては三三〇枚くらいが普通であったが、昨今の
文芸本は、ときに二〇〇枚を割る分量でも活字を大きく行間を広くとって、余白たっぷりに一冊
に仕立ててある。ちなみに今度筑摩書房から出してもらった『修羅』など、原稿枚数だけでいえ
ぱ、二〇〇枚をわずかに越した程度だが、その身軽さを逆に利して、函入りA5判の布装極上製
という、昨今ではめったに無い「美術的」な一冊が仕上がった。出来栄えに著者は最敬礼を捧げ
た。但し一冊定価は二八八○円(送料三一○円)である。湖の本でなら、数十枚分のべつの作品
を追加して、なお一三〇〇円で刊行できる。市販の初版本と、著者手造りの簡素な再刊本との、
それがバランスというものであり、単純に是非も比較もできることではないが。
 とはいえ優に五五〇枚を越すこの『風の奏で』も、湖の本だと上下二冊で送料も消費税もいた
だかずに、都合二六〇〇円でともあれお届けできる。いま普通に出版社から出せばどんな高価に
つくか、昨今の出版事情の厳しさを逆に察していただけるのではないかと、あえてこう書いてみ
るのであるが、その一方、この『風の奏で』も、文芸春秋での初版時は、橋田二朗先生の絵と上
製の美装で、定価一一○○円であったのが忘れがたい。ちょうど十年まえの値段である。

126

 本が高いという声を耳にすることは、なるほど多いといえば、多い。だが、それとても本など
はまだまだ手が出せればこそ、高いの安いのということが言えるのである。
 ちょうど今、ある出版社の多年努力されての『徳田秋声全集』全十八巻の完結広告が届いたば
かりであるが、じつに二百二十篇を網羅した「定本全集」のセット定価が「税込」で「十五万七
千四百九十円」だとある。なんという安さであろう。川端康成が「小説の神様」と賞美した文豪
終生の業績がたったのこの値段である。若い絵描きサンの絵のたったの号単位にも満たない値段
で、『仮装人物』も『縮図』も『徽』も『あらくれ』も、名作佳作のことごとくが自分の書架に
おさまる。たった一点の異国風景や花鳥画にも数千万円の値がつく昨今であるが、徳田秋声ほど
の作家の生涯の作品が、全集が、おどろくなかれ「限定二百五十部」しか出版されない。何千何
万部も売れるのであれば、セット定価ははるかに安価に値下げができるのだが、どうにもそう出
来ない事情があるのであろう。寂しい。安くすればたくさん売れるとも言い切れないところが、
寂しいうえに何とも難しいナと嘆息するよりない。
 かつては本の値段は、「売れる」だろう、だから「売ろう」という気合で付けられた。いまは
「売れない」だろう、それなら「売らなく」て済む値段、つまり極少安全部数を安全高価で製本
するという商いに、ま、なっている。にも拘らず言いたい、小説本、必ずしも高くはないのであ
る。たとえば造本のすばらしさを実物で手にされた方は納得されるだろう、わたしの『修羅』な
ど、よく当節これだけの本がこの値段でと、だれもが思い、また□にされている。
 ともあれ湖の本を出し始めた頃の版元の気持ちは、「見るからに割高なものを、申し訳ありま

127

せんが」というに尽きていた。毎度それを言いつつ発送していた。気持ち自体は変っていないが、
しかも最近では読者の多勢から「値上げしなさい」と勧められる。利益は論外とし労力にも目を
つぶれば少なくも赤字でないのが有り難く、つまりは一人でも多く一回でも長く、読者に作品を
手渡しつづけたいのである。ご支持に感謝している。

 雑誌「古典遺産」33号(一九八二・一〇)巻頭に、梶原正明、加美宏、小林保浩三教授による
『風の奏で』を読む座談会が掲載されていた。かなり長いもので、入手はもう難しいとおもわれ
るが、専門の研究家の有り難い批評に満たされて作品冥利に尽きた。おそまきながらお礼を申し
上げる。
 専門家といえば、作中に登場の「T博士」「M教授」の存在に、なにらかの推量を持たれた読
者は多かろう。誤解を避けるためにも進んで白状しておくが、構想のときからこういう形で、名
だたる例えば角田文衛博士、目崎徳衛教授「のような人」に作品に参加してもらうことを、ひと
つの「手」として工夫していた。もとよりTさんもMさんも、けっして角田博士、目崎教授では、
ない。この作品が本になって後に、たまたま京都のペン大会会場で「秦さん」と声をかけていた
だいたのが角田博士との初対面であったし、目崎教授とはまた一度もお目にかかる機会がない。
教授は、湖の本の値上げを早くから最も熱心に勧めてくださるお一人だが、お顔も背恰好も声も
存じあげないままである。角田博士に声をかけられた時も、作品の「T博士」とは似ても似つか
ぬ謹厳な紳士であったので、わたしは思わず赤面して謝ってしまった。それがあるので目崎教授

128

とも、かりに出違える機会があっても、申し訳なさと怖さとでわたしは多分尻込みしてしまいそ
うである。
 しかしもう一度ご迷惑にならないように断るが、「T博士」は角田氏では、ない。「M教授」
は目崎氏では、ない。だが、そのような人として意図して気儘に働かせは、した。『風の奏で』
は手のこんだフィクションであり、考証めく部分にむしろ小説が働いていると前回にも述べたが、
「T」「M」両所の在りようを、いわば超現実の世界へ棒のように、把手のように突ツこまれた
現実からの介入効果にと、作者は希望していた。否応もなく「T」「M」両先生はいかにも作品
世界の真実度を保証するような監査するような、いわば能舞台のワキの役どころを演じていて、
しかも多少とも察しのきく読者ならば、どう言いのがれようと「T」は角田博士、「M」は目崎
教授「のような人」に想い当てて、おやおや、さては、なるほどなどと思われること必至であり、
厚顔ましくそう企んで書いたのでもある。
 かかる狡猾な配役を、しかし、いままでのところ角田、目崎両先生とも大目に見てくださって
いるのは、無鉄砲な小説家の所業に呆れかえっておられるからであろう、それでも、わたしは嬉
しかった。嬉しい上にも有り難いことに、お二人とも、この湖の本を最初から欠かさず支えてく
ださっている。冥利の作者と天を仰いで感謝している。
 さて、フィクションだ、フィクションだとお前は言うが、作品の語り手は平家の清経を書いて
文学賞を受けているではないか。また祗園石段下の中学でヒロインと出会っているのも、東京本
郷の医書出版社の編集者と作家とを二足わらじにかけながら、梁塵秘抄をラジオ放送したり、会

129

社の春闘に翻弄されている管理職だったりするのも、みなお前の経歴のままではないか。そう詰
め寄る読者もないではなかった。事実である。こういう風に一つ一つ押し込まれれば、じつは一
ひとつ残らず事実ですよと、作者は居直って言うことが出来る。そしてその瞬間に「事実」ツて、
何、という反転ないし暗転が来る。そこに小説(二字傍点)がある。事実であろうがなかろうが、大事なのは
「徳子」に逢えて嬉しかったと、ふるえる程に今も作者が感じていることである。その「徳子」
というのが、建礼門院のことか茶屋間垣の女将のことかは、問うにもあたらないのである。小説
という表現をかりていわば「闇に言い置く」ことに、事実かどうかの詮議は無意味であろうと作
者は思ってきたのである。
 言うまでもなくこの作は遠くは『清経入水』を受け、近くは『初恋(原題・雲居寺跡)』を受
けているし、中公新書『古典愛読』や、NHKブックス『梁塵秘抄』や、ちくま少年図書館『日
本史との出会い』とも深く関わり合っている。『罪はわが前に』をここへ重ねて見る読者もある
かも知れない、そして続く長編『冬祭り』や『北の時代(原題・最上徳内)』から『四度の瀧』
をへて、最近の新井白石・ローマ僧シドッチの対決を書いた新聞小説『親指のマリア』にいたる
まで、表現の方法こそちがえ一貫した態度で、作者は、人間の人間への差別を反省し抗議する方
向を目指してきた。『風の奏で』が芸能と信仰とにかかわる差別の根にふれて、古代中世から現
代までの「京都」を舞台に書いている意図にも、動かしようのない著者の主張がある。
 第二十冊は、凝った肩をほぐしていただけるアダルトの恋の物語を芯に、中秋にお届けします。
 なお『風の奏で』を、六月十一日九十二歳の天寿を完うした叔母ツル、香月宗陽大柿に捧げる。

130