秦恒平 湖(うみ)の本 17
加賀小納言・或る雲隠れ考 他
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目次
加賀小納言 …………………………………3
或る雲隠れ考 ………………………………35
*
源氏物語の本筋 ……………………………111
作品の後に ………………………………127
湖(うみ)の本・要約と予告 …………130
〈表紙〉
装画 城 景都
印刻 井口哲郎
装幀 堤いく子
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加賀小納言
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「太陽」昭和五十二年十一月号
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一
しろい指さきを空(くう)にちいさく二つ打って、小兵部(こひようぶ)の眼が為時に告げていた。「──」すこし遠い耳を
庇い、為時は指貫(さしぬき)の片膝を前へ送って相手の眼を見返した。もう一度小兵部の尼が指を、かすかに、ち
よん、ちょんと、二度打った。あ。──為時は合点し、声をのんで庭面(も)へ顔をそむけた。
夏六月の燃え立つ日射しを避けて縁先、網干(あぼし)の高欄(こうらん)を尾の短い小鳥が伝いながら、青い胸をふくらま
せ嘴を上げている。つつましやかに遣水(やりみず)を通して、僅かな岩と楓(かえで)に低い灌木を配した苔の庭の、それで
も西寄りに軒越す二株(しゆ)の樺桜が、まぱゆいまで青葉を茂らせていた。
この春、長和三年、皇太子敦成(あつひら)親王が傳(もりやく)の大納言道網をはじめ、頼道や懐平(かねひら)ら春宮(とうぐう)がたの公卿(くぎよう)に護
られ、先追う声も晴々と垣一重の雲林(うりん)院へ花見に来た日、かっては同じ彰子(あきこ)中宮の女房だった小兵部は、
花曇りをうち囃す拍子の声に誘われふと端近に立ったなり、「うらやまし」と呟いてしまった──。
「その辺に」と、為時がいま居るあたり枕べに屏風を立てて紫式部が病む身を横たえていたことを、切
髪のまだそぐわない若い尼は、はずかしそうに話していたのだった。が、小兵部(こひようぶ)のそんな呟きを聴いた
わが娘の侘びしさを想うと、こころは窶(やつ)れ、為時は、だらしないほど涙を頬に垂れた。
小兵部は、だが額髪(ひたいがみ)を横に揺り、黙って衣の袖に隠しながら人さし指の先だけを、細く、そっと、使
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ってみせたのだ。
へんに上うヒうぐうてん口上うぴと
──僧正遍昭(へんじよう)の集に冷泉院のまだ春宮(とうぐう)だった昔、宮ももろとも殿上人(でんじようびと)が桜狩にうちつれて紫野の雲林
院へ出かける、そのあとを追わせて風流(みやび)心の僧正が、「うらやまし春の宮入うち群れておのが物とや花
をみるらん」と詠(よ)みかけた古歌がある。
あの時──小兵部の「うらやまし」を耳にした紫式部は高麗端(こうらいべり)の厚畳(あつじよう)に臥したまま、顧みに縁に膝を
ついた小兵部の方へいっそいたずららしくほほ笑んで、肉の落ちた指を一本立て、顔の上で、かすかに
二度、動かしたという。花は、そんな枕近くにまで風に散って来た。一瞬判じがつかなかった、が。
「うらやま、じ──」
咄嗟に小兵部がそう問い返すと、病者は頷くとなくもうほほ笑みの消えた蒼い顔色を隠すように、濃
い紅(くれない)のとりわけ艶(えん)な打衣(うちぎぬ)の下へ、肩先から身を引き入れた。
ぬりこbみじろ
それから十日たたぬうち、夕世ぎて、紫式部はひとり塗籠(ぬりごめ)で、軽い咳を三つ四つして、身動いたとも
見えないまま、死んだ。咳を聴きつけてすぐ寄って行った小兵部の眼に、それは例のように花を眺めて
いると映ったくらい何げない寝姿だったが、そら耳か、「梨の、はな」とぽっつり呟く声に木枕が頬に
すこし外(そ)れて見えたので、直しに添い寄ると、もう式部の唇が真白に乾いていた──。
小兵部の父庶政(ちかただ)は六位蔵人(ろくいのくろうど)の以前、一時為時の下官だった。その親に死なれ、宮仕えのまま紫式部の
弟兵部丞惟規(ひようぶのじようのぶのり)のまだ若い妻になってからは、とかく殿上(てんじよう)の淵酔(えんずい)などがわずらわしいとつい引籠りがちな
式部の局(つぼね)で、朋輩の小兵衛(こひようえ)らも一緒に炭櫃(すびつ)を囲んでいて道長に見つかったりした仲だ。敦成(あつひら)親王誕生の
年の大つごもり、中宮女房の鞍負(ゆげい)と御所の内でこの小兵部が引きはぎに遭い、はだかで泣いていた窮場
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を、式部が殿上の弟に庇わせたことは紫式部日記にも見えていた。
その惟規も死んだ。父の任国に付き随い、小兵部を呼び寄せよう段になり、咳こみはじめて俄かに死
んだ。そして為時は、数日前、あと一年の任期をあまし強(あなが)ちに越後守を辞して、京へ帰って来た。あと
は甥でもある婿信経に襲わせよとの廟議(びようぎ)を待ち、そしてためらいなく、娘紫式部の最期が知りたさにこ
こ紫野の荘を尋ねて来た。
わけ有って久しい宮仕えを秋には退(ひ)き、いまは娘賢子(かた)ももとの加茂川堤の邸に残し置いて、雲林院の
方で小兵部の君と軽い病を養っています、が、そちらはいかが、と父の安否を気づかう式部暮のうちの
文(ふみ)が、春早々越後に届いて、はかばかしい返事も為時はせずじまいだった。
ゆきつもる年に添へても頼むかな
君を白嶺(しらね)の松にたぐへて
新年に父の長寿を念じながら、老いた親の無事の帰任を「まつ」と願った、その娘もまた為時に先立
って逝(い)った。厭(いと)わしいことのみ多い此の世を、もう生きつづけまい。そう思ってあれは、あの娘は、我
から死を願ったのだろうか。
憂きことのまさる此の世を見じとてや
空の雲とも人のなりけむ
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為時はそんな述懐を、初めて逢う亡き子息の妻には秘して、その尼が押しやるようにさし出した娘式
部の歌の集に、心騒いで眼を走らせた。
これは自分で、と、訊くともなく呟げば尼は「はい」と頷く。観音経を写したらしい裏紙に、さすが
にままならぬ手蹟(て)の乱れもそこここに見えながら、
早うより、童(わらは)友だちなりし人に、年ごろ経て行きあひたるが、
ほのかにて、七月十日のほど、月に競(きほ)ひて帰りにければ
めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に
雲隠れにし夜半(よは)の月かげ
に始まる、百首あまり──。
「梨の花、とか申しましたな」
小兵部は、そら耳でございましたかも、と言いながら肯(うべな)い、為時はこんな歌があると、尼の方へ身を
寄せた。
花の散るころ、梨の花といふも桜も、夕暮れの
風の騒ぎに、いづれと見えぬ色なるを
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花といはばいづれかにほひなしと見む
散り交(か)ふ色の異(こと)ならなくに
夕やみを、梨も桜も分ちなく入り乱れては舞い散る花の白さを幻に見ながら、塗籠(ぬりごめ)の昏(くら)い壁に向いた
ままあれは雲隠れて行ったか。為時は、可愛げのない女の顔にも喩(たと)える花の名を、ことさら懐しそうに
□にして逝(い)ったという娘の最後の型破りに、ふと背をまるめ心よわく瞑目(めいもく)した。
歌はよくよく選び抜いてある。父や、亡き母や姉や、愛していた弟にすら直(じ)かに触れたのが一首もな
い、それもあの娘らしいと為時は合点した。が、忽卒(そうそつ)に読み通し、読み違えたかとまた読み直して、は
て──合点ならぬ所が一つあった。
「──」ともう一度、真如観(しんによかん)という小兵部の得度名(とくどな)を問い直してから、為時は、集の末尾に紫式部に宛
てて返歌している、加賀少納言という人を知らないのだが、と訊いた。
尼も知らなかった。内裏(うち)わたりでも耳にしたことがない──。為時は、まだ十分綴じられていない冊
子(そうし)を指の腹で柔らかにどんどん打ちながら、むっと黙りこんだ。
小(こ)少将の君の書きたまへりし打解文(うちとけぶみ)の、物の中なるを見付けて加賀少納言のもとに
暮れぬ間(ま)の身をば思はで人の世の
あはれを知るぞかつは悲しき
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誰(たれ)か世にながらへて見む書きとめし
跡は消えせぬ形見(かたみ)なれども
これはいい。分る。宮仕えの昔から一つ局(つぼね)を二つに分けて使いあう仲の小少将だった。すこしの隙(ひま)に
も歌を書き交していた。大殿(おおとの)の上(うえ)の姪に当たり、育ちよく人柄も上品で美しいのに父時通(ときみち)にはやく死な
れ、よほど運のない人とわがことのように娘が嘆くのも聴いたことがあり、紫式部日記にも何度も名を
あげ褒めて書いていた。なにの折であったか細殿(ほそどの)の三の□に入って二人で厚い綿入れを着重ねて臥しな
がら、火取りに火を入れ、宮仕えの辛さなどを喞(かこ)ちあったりしていた。顔こそ見ないがあの物静かに好
ましい人に去年春死なれ、その後ゆくりかに形見の文反古(ふみほうぐ)などを見つけたのでは、さぞ心細く、人の世
の「あはれ」はひとしお身にしみたに違いない、この集もそれが催しになって編む気になったものか。
誰か世にながらへて見む──と、辞世ともいえる娘の歌を低く誦(ず)してみて、だからなお、為時には家集
の最後を結ぶ歌が、歌の据えようが訝(いぶか)しかった。
返し 加賀少納言
亡き人をしのぶることもいつまでぞ
今日のあはれは明日(あす)のわが身を
みずから撰んだ家の集を、なぜ自分の歌で結ばないのか。さして上臈(じようろう)とも見えない加賀少納言という
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名が、たれか小少将の君の縁辺に見つかるのか、それにしても氏素姓(うじすじよう)も知れぬ女の歌で紫式部集ほどの
悼尾(とうび)を飾るとは。
歌は、だが、申し分なかった。小少将を離れひとり紫式部の哀傷をさえ離れて、人も世ももろとも無
常の底知れぬ深さへ確かに身と心とを沈めている。雲隠れの歌に始まった一代自撰の百余首を、加賀少
納言の返歌は紫式部に代りみごとに詠いおさめて揺(ゆる)がない。
昨秋、七夕過ぎたころから手がけた家集というから、小少将の君とは別に、「七月十日のほど」の月
に競うてほのかに行き逢いながらすぐ帰って行ったとかいう童(わらわ)友だちへも、心尽しの供養の撰歌であっ
たか。為時はそうも察しながら雲隠れの歌の詞書から、また「その人遠き所へいくなりけり」とある次
の歌の詞書(ことばがき)から、はや男に愛される年ごろになっていたらしいその「童友だち」の幼な顔を、遥かに想
い起こしていた。
「その人」は、刑部大輔(ぎようぶたゆう)藤原雅正(まさただ)の娘が肥前守平維時(たいらのこれとき)との仲にえた子だった。為時には実の妹の娘、
姪、であり、式部とは一つ年かさの従姉だった。長徳二年夏、維持に先がけ肥前へ下(くだ)った権守(ごんのかみ)橘為義の、
もう若くはない妻として幾分、心細そうに九州へ下って行った。「諾子(なぎこ)」とか呼ばれたその従姉とわが娘
とは、同じ年の同じ時期に為時も北国の受領(ずりよう)となって赴任していたので、互いに肥前と越前と、北の海
を護るべき公の便りにこと寄せて歌を書きかわす機会にもむしろ恵まれていたのに、折悪しい疫病(えや)みで
あの諾子は彼(か)の地で儚(はかな)くなってしまった。それと知ったあの時の娘の嘆きがどんなに烈しかったか、為
時はいま娘を喪い、遺された家の集の第一首から、もうそれを、胸つまるほど思い起していた──。
小少将の君とよく肖(に)たお方だったそうでございますね。尼僧真如観は声をかけ、一瞬為時は身の傍を、
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ものの通り抜けて行く気がした。が、現(うつつ)にその思いを捉ええぬまま、小兵部の尼の瓜美(うりざね)顔を美しいとた
だ眺めていた。
女の身動(みじろ)ぎに、為時は我に返った。「で、あれは、どこに臥って居りましたのか──」
紫式部が咳病(がいびよう)を養いきれず死んだこの紫野の荘は、広い雲林院の東北をささやかに囲って為時の兄為
頼が伝領したのを、文名の高くなった姪に喜んで譲ってくれた邸だった。
式部は、だが小兵部とここに移り住んでやがて冬になると、終日塗籠(ぬりごめ)を出ないことが多かった。年明
けて、好きな紅梅の見えぬのが物足らないとも嘆いていたが、初桜のころから、日の有るうちは厚畳(あつじよう)を
二つ端近に敷かせて、静か過ぎるくらい凝(じ)っと横臥(おうが)のまま庭面(も)を眺めるのを好んだ。思わずタ風が打掛(うちかけ)
の裾を揺る時分になっても、小兵部が強(た)って蔀(しとみ)を下ろしきるまで、式部は床を変えなかった。
「それに、どうお願い申上げましても、夜はかならずおひとりで、と」
「──塗籠が、狭いのですね」
「いいえ。塗籠とは申してもちょっと変った設(しつら)えでございますし。その集も、そこでお撰びなさいまし
た。お心持ちがよろしいと、時折り箏(しよう)の琴などお弾きになりますのを、お化粧の間で耳を澄ませたこと
もございました」
「あれは──あの子は、親の私でさえよう分りきれない心の隅々(くまぐま)を、自分でも、持て余して居(お)ったよう
な──。さぞ、宮仕えでは、人に嫌われてばかり居たでしょうな」
そんな、と眉をひそめ、水晶の数珠をしなやかに膝に垂れたなり、尼は声を忍び掌(て)で顔を蔽って歔欷(すすりな)
いた。
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為時はその塗籠に入ってみたかった。この庭のある部屋へ通るまでに手水(ちようず)所と隣りあって黒い妻戸が
壁の並びに一枚閉じていたのがそうなら、東向きに格子の丸い面白い肘掛窓が風情よく切ってある。窓
の外は南面(みなみおもて)と趣変り、松の巨木と武骨な蘇鉄とで小高い山に造ってある。
頼み入(い)る、という□の利き方で為時は望むままを告げた。小兵部はすこし顔色を染めそれでもすぐ頷
く、と、家集を手に為時はもう起っていた。辛抱がなかった。そういう時、とくに為時の左の肩は小刻
みに揺れた。袍(うえのきぬ)に透けて、穀(こめ)織りのうしろ腰、分厚い格袋(かくぶくろ)の辺が暑そうだった。
ふと思い出し、為時は起ったまま小兵部に訊いた。あれも、──真如観どののような、尼になってか
ら死んだのですか。
そうではなかった。
「それに就ては、あれは何も申さなかったでしようか」
「──」
「たとえば」と為時はすこし笑ってみせながら「紫の上に、生前、戒を授けなかった罰、などと」
「いいえ。さようなこと何一っ仰(お)っしゃいません。ただ」
「ただ──」
「──致し方ないこと、と」
「うらやまじ(一字傍点)、ですかな、それも」
為時は尼の前をすこしよろめいて歩いた。家集を編み終え、真実此の世でする仕事はもうみな仕終え
た気が、あれはしていた、と為時は想う。父は越後に。その父に、一と目逢って死にたいけれどそれも
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強い望みではなかっただろう。髪を切れずにいる姿で逢うのも気重くなかったか、どうして自分は尼に
なれないのかと絶えず苦い笑いを噛み殺しながら、結局そこにも、あれは重い期待をかけてはいなかっ
たのだろう一。
二
塗り籠(こ)めた壁が存外に冷(ひ)いやりとにおっていた。昏(くら)い。が、風変りな書斎とも見え、物の多いなりに
二人はらくに並んで寝られる広さだ。尼が窓格子を上げかけるのを為時は響く声で制し、敷いたままの
茵(しとね)の方を表戸近くから立って眺めた。源氏物語の「初音」の巻に、「東京錦(とうぎようぎ)のことごとしき、縁(へり)さした
る茵」とあるほどの花やかさはないが、薄畳(うすじよう)の芯にどうやら綿も入れ、四方の縁(へり)を赤地の錦でさしまわ
してある。小袖に生袴(きのはかま)で、よく硯に向っていた若かりし娘の気軽な後髪がやや嵩足(かさた)らずに薄いのを、母
のない子の父の眼で、ひそかに思い嘆いた昔が懐しい。
「篁子(たかこ)──」
と幼な名を呼べば、幻は今にも父を振り仰いで微笑むかと、為時は身動(じろ)ぎもならなかった。
白い平絹(ひらぎぬ)のままの三尺几帳が一つ、戸の脇に片寄せてあるのは部屋の主(あるじ)が夏を待たずに死んだという
ことか。帷(かたびら)の、どこでも目馴れた蘇芳(すおう)の朽木(くちき)文様が一つ二つ解(ほつ)れていた。円座(わろうだ)が二、三枚無造作に棚
厨子(ずし)の前に重ねてある。厨子はもう一つ、観音開きが下に付いた二階のがあり、「ひとつにはふる(二字傍点)歌、
物語のえも言はず虫の巣になりにたる、むつかしく這ひ散れば、あけて見る人もはべらず。片つかたに
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書(ふみ)ども、わざと置き重ねし人もはべらずなりにし後、手(た)触るる人もことになし」と、当人が以前日記に
書いていたままではないか。花蝶蒔絵の挟軾(きようそく)が机の脇に、ところどころ銀文様を打った衣架(いか)は壁ぎわに、
鏡箱や唐櫛笥(からくしげ)も小さな二階棚の上に、ある。燈火は透き漆の黒い高杯(たかつき)を逆さに、底にからの油皿が載せ
てはあるが、油も燈心も切れていた。
為時は自分で窓を外へ押し上げた。快い日かげに、苔の生えた雨落溝(あまおちみぞ)の小石の色が綺麗だ。すこし腰
をかがめざま、眼を蘇鉄の山へ移して行くと、夜雨(やう)燈篭の平たい傘の上へさっき高欄にいた小鳥が二羽
になって来ていた。
思い余った体(てい)の為時に、小兵部は、故人の忘れ形見十六になる賢(かた)子も同じようにここに来て、この塗
籠(ぬりごめ)に一夜(ひとよ)泊ってさえ行ったと話しかけた。もっともひとりではこわいと尼に一緒に寝てもらい、それで
も賢子は夜半(よわ)に脅えて小兵部と抱き合うたまま、しくしく泣きあかしたとか、為時はそれをなまめかし
く聴きながら、自分も泊って行こう、と思った。
小兵部は暫く座をはずし、外から妻戸を静かに押して行った。塗籠の、何もかもが一度にすうっと翳(かげ)
に沈みかけて辛うじて物の形の端々だけほの白く浮かんで見える。蝉の声に蜩(ひぐらし)が混じり、わざともう
窓を下ろしてしまうと、いっそ闇から湧くもののように絶え間なく耳に満ちた。
娘が坐った茵(しとね)へ、すぐには寄れなかった。が、そこに坐りたかった。血の温(ぬく)みをかすかにも感じてみ
たかった。眼の真前に、暗い壁が壁とも見えない底知れない色をして、茫と広かった。為時は、娘が窓
に背いてものを書き、ものを読んだらしい、と、やっと気付いた。
それにしても、加賀、とはな。
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光源氏の物語にも加賀とか加賀守というのは出て来ない。為時は挟軾(きようそく)に顎肘突いた恰好で文机(ふづくえ)の上の
家集をぼんやり見た。
「加賀。かが、──か」
分りそうで、結局「少納言」の方へ為時は引き戻された。道長の三友に、少納言の乳母(めのと)という人が付
いていた。小(こ)少将の君とは殿の上(うえ)を介して縁のつながる間柄だったかもしれない。が、紫式部の方で平
常(へいぜい)親しくする先ではない、まして家集最後の歌を任せるような。
少納言となら、むしろ清少納言の名の方をよく□にした。日記にもあったあんな容赦ないばかりの言
い草はあれはあれとして、誰もが顧ない梨の花を少納言が懐しいものに見立てて枕草子に書いていたの
など、長恨歌に頼ってことごとしいとは言いくたしながら、やはり無視できない相手と、ずっと思って
いたようだ。
仕方がなかった、と為時は思う。家集にもさすが大事にあの夫宣孝(のぶたか)との儚(はかな)かった日々を記念している
娘に、結婚前とはいえ当の宣孝がかつて言い寄った寄られたと噂のある清少納言のことを、そう快く受
け容れられるはずはなかった。
それにしても、加賀少納言──は、分らない。
為時は、いつぞや訊(き)いてみたことがある、そなた、ほんとに一人で光源氏の物語を書いているのかと。
燈影(ほかげ)も長々と、宮仕え前から娘が物語の筆を執(と)る姿はこの眼で二度三度ならず見知っていて、それでも
そう訊かずに居れなかった。のち藤(とう)式部から紫式部と名をあげて行った娘は、だが、「さ、どうでござ
いますか」と、いっそ陰気に父の問いを笑うだけだった。
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足音静かに小兵部(こひようぶ)の尼が油壼と燈心を持ち、戻って来た。心ばかりの供御(くご)は、夕暮れにすこし間のあ
る先の場所でと勧められ、ここへはその間に蚊ふすべをと、言われてみれば為時は耳のうしろを一つ二
つ蚊に喰われていた。
酒の用意は断り、硯を身近に寄せてみたものの、短い夕立が通りすぎ蝉や蜩の声が落ちても、妙に
うっとりと何も想い浮かぱず、むしろものが誘うように塗籠の方へ気を惹かれ惹かれ、高時は先刻から、
死んだ娘と忘れ形見の孫娘とを半々に想いつづけていた。もう早や彰子(あき)皇太后から出仕(しゆつし)を待たれている
賢子は、父宣孝の血か、紫式部とはよほど違った鷹揚(おうよう)な育ち方をしている。遠国から矢も楯もたまらず
祖父が帰ったのを迎えるにも、驚く先に、そづかなかった。如才なかった。あれが篁(たか)子なら、お帰りな
さいませとだけで、昨日に変る今日というほどの顔もしてみせるものでない。それにつけあの篁子紫式
部の日記の後の方に、為時も思わず眉をひそめたくらい、同じ女房がたの月旦(げつたん)が凄ましかった。が、あ
れを書いていた寛弘七年ごろ、賢子はまだ十を過ぎたばかり、母が娘に訓(おし)えおく、というには早過ぎる
中身だった。とすると、ああも露(あら)わな消息を、いったい誰に宛てて書いたか。例えばそれが加賀少納言
だったのか。そうなら加賀とは、と、不審はまた元へ戻る。
「秋のけはひ入りたつままに、土御門殿(つちみかどどの)のありさま、いはむかたなくをかし」に始まって、中宮御産か
ら五節(ごせち)の舞姫を叙し、そして師走二十九日、「としくれてわが世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじ
きかな とぞひとりごたれし」と述懐して終るまでが、日記と言い条、慶事を前に中宮(ちゆうぐう)女房紫式部に託
されていた公の記録だった。その続きは為時と、最近には賢子とが眼を通しているだけで、むろん世に
出るわけもないが、だからこそ為時には、小兵部が引きはぎに遭ったというちようどあの物騒な大晦日
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の記事以降、どうかすると紫式部の独り言、というより、誰かしら奇妙にものの影にでも向かって話し
かけているふうの□調が、あの日記に感じられてならない。
──蚊ふすべの白い匂いが塗寵の闇を静かに漂いのぼっていた。ささやかに、窓の下へ来て蛙がのど
を鳴らす。間を置いては忘れた時分に、ぐるる、と一声ずつ鳴らす。
き‘すまうきおりうわぎうちぎ
小兵部は燈心に火を鑽(き)りかけてから、やがて衾(ふすま)の代りにと亡き人の青い浮織(うきおり)の表着(うわぎ)に袿(うちぎ)を添え、小脇
戸のそばに置くと為時をひとり塗籠に残して行った。椿唐草の文様を父は見覚えていた。いまは亡い娘
の装束(しようぞく)を、ためらいがちに為時は一度膝に載せ手で袖をかき探って、また畳に置いた。そして燈を引き
きようモく
寄せ、挟軾(きようそく)を膝の上へ抱えこむように上に両肘を預けると、家の集を手に支えてゆっくり読み直して行
った。
長徳元年のもう初冬ごろ、姪の諾子(なぎこ)が、親維時(これとき)の肥前守兼任に随い九州へ一緒にと言われ、当時六位
蔵人(くろうど)の為義との仲もまだ十分定まらないのが心細くて、篁子の所へ泣きあかしに来た。為時はそれをあ
とで聴いた。何かというとあの二人は、互いに姉妹がありながらはしたないまで往来を楽しみ、篁子が
親譲りの箏(そう)の琴を教えてやれば、諾子の方は賀茂や清水(きよみず)辺へも一つ車で誘い出したりして、よくはしゃ
いでいた。
検非違使(けびいし)でもあった維時の赴任は、だが明くる長徳二年正月十六日、内大臣伊周(これちか)、権(ごん)中納言隆家らの
花山法皇不敬事件に煽られ、余儀ない日延べになり、ところが皮肉にもやがて正月二十日の除目(じもく)で、為
時自身十年の散位(さんみ)からやっと越前守に任じられた。同時に、諾子を妻に定めたばかりの橘為義が肥前権
守(ひぜんのごんのかみ)となって岳父より一と足早く九州へ赴くこととなり、此度(こたび)の下向(げこう)はもう互いに遁れられない定めだっ
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た。それでなおさら、双方北陸越前へ九州肥前へと発つ夏までの間、二人の乙女は何かにつけ書き交わ
し詠(よ)み交わし繁々と顔を合せていた。事情を知った為時には、紫式部集雲隠れの第一首からおよそ十九
二十首めかまだすこし先まで、それらはみな、娘の篁子(たかこ)が童(わらわ)友だち以来の従姉諾子(なぎこ)を詠み、また互いに
詠み交わしたものばかりと分った。
そんな歌の中で、篁子のやがて夫になる、為時には若い朋輩(ほうばい)の、あの藤原宣孝が娘たちにやりこめら
れているのがおかしかった。宣孝は加茂堤にある為時の邸へ方違(かたたが)えに来て、ちょうど諾子も篁子たちの
所に泊っていたのが気になったか、夜陰、女部屋を覗くような覗かぬような振舞に及んで、翌朝痛い竹
箆(しつぺい)返しを喰った。その、わざと諾子の手蹟(て)で書いてやったという「おぼつかなそれかあらぬか明(あけ)ぐれの
空おぼれする朝顔の花」という篁子の歌も、当惑した宣孝の返歌も、ちゃんと撰の内に入っていた。
とりわけ為時を思わず泣かせたのは、赴任直前の折悪しい流行り病いで、一時に、娘は実の姉を、従
姉諾子も三つ下の妹を亡くしたさなかの歌だった。
姉なりし人亡くなり、また、人の妹(おとと)失ひたるが、かたみに行きあひて、亡きが
代りに思ひ交はさむと言ひけり。文の上に姉君(二字傍点)と書き、中の君(三字傍点)と書き通はしけ
るが、をのがじし遠き所へ行き別るるに、よそながら別れ惜しみで
北へ行く雁(かり)のつばさにことづてよ
雲の上(うは)がき書き絶えずして
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そしてやがて姉(諾子)は途中津の国から、また肥前から、雁に託して書き寄越せば、妹(篁子)も
越前の国府(こくふ)から遥々と歌を返していた。
あひ見むと思ふ心は松浦(まつら)なる
鏡の神や空に見るらむ
返し、又の年持(も)て来たり
行きめぐり逢ふを松浦の鏡には
たれをかけつつ祈るとか知る
諾子は、だが、この歌を「中の君」の従妹が受取ったちようど翌る春弥生(やよい)、父維時の護送で太宰府に
流されて来ていた前(さきの)内大臣伊周(これちか)の赦免と前後して、当歳の乳呑子もろとも儚(はかな)く病死していた。訃報を受
け鬱々と慰まなかった篁子は、とうとう次の冬が来ぬうちにと、好まぬ雪国の越前をひとり都へ遁(に)げ帰
りやがて宣孝の熱心な求婚に応じたが、その宣孝も、娘を一人遺し置いて篁子を二十八歳の寡婦にして
しまった。長保三年四月末、諾子らと同じ苦しくて儚い疫病死(えやみじ)にだった。
藤原宣孝は面白い男だった、と為時は思う。根は元気に男まさりの篁子から、宣孝だけが多くの才や
煌(きら)らかな気質を、親の為時も舌を巻くほど上手に引き出した。怒らせ懊(じ)らせ寂しがらせ、それでいてよ
く笑わせてもいた。快い涙も巧みに誘い、妻としての自信をもたせた。夫でありながら、賢い父親のよ
うに篁子を甘えさせて自分は下に敷かれ顔をしていた。
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童女の頃からいっそ朗か過ぎたような娘だったが、諾子に死なれ、夫宣孝に先立たれてからのあれは、
まるで別の女に変り果てた。為時は、此の世の幸をつくづく思い棄てた顔でもう□癖にして「世を常な
し」「世を憂し」と呟(つぶや)く時の、頑ななほど無表情な篁子に、手を焼いた覚えが幾らもある。可愛い賢子
が病気になり家中が騒いでいても、あの母親は辛い胸の中(うち)を遠くへ掴んで投げたような、ひっそり醒め
た歌を詠んで耐えていた。
──為時は、諾子の死を嘆く娘の思いを、ひとりおろおろ、家集の中に追った。
遠き所へ行きにし人の亡くなりにけるを、親はらからなど帰り来て、
悲しきことを言ひたるに
いづかたの雲路と聞がば尋ねまし
列(つら)離れけむ雁が行方を
そしてすぐ続いて、もう宣孝にも死なれ薄鈍(うすにび)の衣を着ていたころ、為時が慰め、篁子が返した歌が並
んでいた。生涯夥しい歌かずからただ百首余りを撰んだ中にも、「姉君」諾子のと夫宣孝のと、まる四
年を隔てた二つの死をひしと押し並べてわが紫式部が何をこの家集に籠めたかったか、為時は揺らぐ燈
影(ほかげ)に顔をそむけるように、ただ頷き、頷きしていた。これはそういう集なのだ。死なれた(四字傍点)者の集なのだ。
そしてあの源氏物語は、こういう家の集を自身撰んだ者の物語だった。紫式部日記もそうだった──。
篁子はあのころ、物語でも書いてはどうかと勧める父にそっと頷いていた。だが素直そうなその横顔
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がいよいよものの蔭へ退いて黙然(もくねん)と虚(うつ)ろを覗くふうなのを、為時は見ていられなかった。母亡く父は官
途程遠く、三十前に早や子のある寡婦になり終った娘の行く先を、為時はただ凡庸な初老の父親として
空しく思い嘆くしかすべを知らなかった。
慰めが半ばの父の勧めは、だが、空しくはなかった。あの「若紫」の巻を、見て下さいますかと初め
て持って来られた為時の驚きというものは──。篁子はさらに続けて、「紅葉賀(もみぢのが)」の巻を書き「花宴(はなのうたげ)」
の巻を書いて来た。
物語でもと勧めてみた思惑を、当の為時がすぐには思い出せない。ただ、娘が、姉や従姉と古物語を
飽かず読み合っては褒めたり貶(けな)したり、やがて好き勝手に互いに書き改め見せ合っていたのを、母代り
の父はよく知っていた。諾子もそうだった、が、とくに篁子はそういう付きあいが好きなたちだった。
日記にも幼い日々を思い出し出し、自分の物語好きについて述懐していた。
父の眼に、あれは、あの娘は、実(まこと)あるそらごとを絵に画くように想い見る必要からも、弟惟規(のぶのり)以上に
父の学問を眼に耳に、日々倫(ぬす)もうと努めていたような子だった。「日本紀の御局(おつぼね)」と宮仕えのひまに謗(そし)
る人がいたというのも無理からぬ男まさりの勉強のほどは、追々に「賢木(さかき)」「花散里」「須磨」の巻々
へと、もはや為時も唖然とする勢いで書きつがれて行ったあの光源氏の物語に、歴然と顕われ出た。そ
してもう娘は、ただ為時女(むすめ)の篁子(たかこ)藤原氏から、宮仕えの名乗りも藤式部ならぬ晴がましい紫式部と、名
残なく世に知れ渡って、彰子中宮に、日ごろ文集(もんじゆう)や楽府(がふ)などを講じ進(まい)らせたり、道長の殿や上にも機嫌
を取られるような場所へ、押しも押されもせず出て行っていた。
「あなかしこ此のわたりに、若紫やさぶらふ」などと酒席の流れに上達部(かんだちめ)に窺(うかが)われるようなはでな名を
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えながら、だが紫式部の、世は「常なし」「憂し」と思いじみた平常(へいぜい)には、頑ななというよりどこか宮
仕えをすら気獺(けだる)くよそに見た無表情が漂い、月に向かい琴をかき鳴らしていても、塵積った唐の書だの
厳(いか)めしげな経だのを読んでいても、却って傍(はた)の者の胸を不安に騒がせた。
ちょうどあの頃からだった、光源氏の物語に、急に、紫の上とはちがう女たちが立ち現われはじめた。
為時は、いまは我が手で媒(なかだ)ちするまでもなく、世に読み囃(はや)され書き写されて行くあの物語の中の、突
如「帚木(ははきぎ)」「空蝉(うつせみ)」「夕顔」などの巻々を知った時のずんと腸(はらわた)が冷えるような愕(おどろ)きを、決して忘れな
い。それは世間の誰一人とも頒(わか)ちえない愕きだった。まるで辣(すく)んでいた。やがて垂下がりして来た娘の
部屋へ、我から足を運んで為時は息込んで訊かずに居れなかった。あの巻、巻も、そなた、ほんとうに
一人で書いたのか。書けたのか──。
聴きたかった。知りたかった。
夏ながら冷えて来た塗籠の中で、為時は息を殺し思わず身近な亡き娘の袿(うちぎ)を抱き取り、物言うように、
揺れる火の色に同じことを問うていた。──と身の内にもふと、ものが動く。袿に重ねて為時は浮織の
装束を両手で胸に重く抱き上げた。火皿がかすかに鳴り焔が朱くふくらむ。挟軾(きようそく)から文机(ふづくえ)の側へゆっく
り膝を送りながら、壁に、自分の影が長く濃く伸びて坐っているのを、為時は見た。影は小刻みに輪郭
を乱して揺れ動き、焔が静まると、影も黙した。
我が影、──か。いま身の内をよぎると感じたのは、この、影──。あ。為時はたんと机を手で打っ
た。
「加賀、でない。影、であろうが」
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壁を見据えて言い放つ。と、我が影と見ていた影がすうっと歩を運んで近づくように為時の前へ、色
濃く、優しく、揺れて動いて、そして塗籠の闇の下から、瞭(あき)らかな女の声が、はい、と応えた。むっと
坤(うめ)いて娘の表着(うわぎ)に為時は顔を埋めた。烏帽子(えぼし)が、からっと文机に落ちた。
壁に、為時の、と見えて、いますこし容態(ようだい)ささやかに濃い影、が畏(かしこま)っている。為時は挟軾を外して
容(かたち)を改めた。
「加賀、少納言──か。そして」
「──」
「そして、そなたは、諾(なぎ)──」
影の少納言はゆらっと一と揺れ肩さきを色淡(うす)くした。為時は長く嘘(うそぶ)いたなり、暫く物が言えなかった。
そうであったかー。
「と──、あの物語は、そなた、と」
頷くともなしに燈(ともし)が朱々と揺れ、為時はまた黙った。黙って、影の物語の、その先を促す気になって
いた。
三
まだ宮仕え前、左衛門佐(うえもんのすけ)宣孝に死なれた篁子(たかこ)が心やりに書こうとしたのは、はじめ、『輝く日の宮』
という高貴の女人の物語で、光源氏は宮への叶わぬ恋に悩む美貌の少年として登場するはずだった。そ
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の限りでは、それは古物語の『梅壺の少将』や『正三位』なみに、最初諾子(なぎこ)の幼い妹が想いついた話で、
むしろ物語の筋を考え合った昔からこの案に篁子は躓(つまづ)いていた。いくら妃料(きさいがね)と羨む上(かみ)の品(しな)ながら、女と
生まれて此の世を苦しく生き泥(なず)まない人があるものか。光君(きみ)はともかく、女の身で輝く日の宮などと、
絵空事もそんなめでたいばかりの話はあんまり古めかしい。
──頷くのも忘れて、かげ(二字傍点)の諾子の、此の世のものでない姪の、話すことを為時は聴いていた。
それより、篁子が新しい物語を創るべく熱心に姉や従姉妹を説いたのは、おおよそ、こうだった。
ここにいま四人いる、その内の誰が聴き誰が話す、というのでなく、四人なりに銘々が例えば源氏や
藤原氏や内裏(うち)わたりの悪御達(わるごたち)だの古女房だのに扮した体(てい)で、互いの見聞を、ああだった、そうではなか
ったと寄り寄り筋のある一つの物語に膨らませて行く。いろんな人物にいろんな事件を絡ませ、前後左
右から□さがなく取り沙汰して行くふうの書き方をしてみる。ただ一人の見聞の体で空々しいお話を窮
屈に書き進めるより、そうなれば皆で想像を尽し合って思いがけない話の輪を拡げることがかなりらく
にできるし、同じ人物にしても、語り手の立場や気性しだいで、或る時はしごく立派になり或る場面で
はひどく滑稽にもなるだろう、そうあってこそ、身辺に生きた人物としての魅力も産み出せるのではな
いか。
──なるほどな。為時には合点できた。
だがそんなふうに書かれた物語は、かつて一つとして有ったためしがない。篁子の説得は一度も容れ
られずじまいに、諾子ひとり朧ろにそれも面白そうな、と思っただけで終った。自分が、物語世界に生
きる□さがない女房の一人になりきり世なれてあれこれ物を言うには、篁子自身にしてもまだまだ稚(おさ)な
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過ぎた。
篁子はそれでも「輝く日の宮」から書こうとした。亡き童(わらわ)友だちと頒ち合った楽しみをひとり生き残
った身が、形有るものにしてみたい。篁子は結局、日の宮とゆかり有る若紫の少女を先君が見初(そ)める話
に、処女作の猪口を掴んだ。光にはすでに妻が居る。しかし輝く日の宮の藤壼女御を義母(はは)と慕いながら、
もはや二人はあさましい逢瀬を忍んで、義母は、子の子を妊っている。篁子は一人で幾役もの物語り手
を夢中で演じつつ、物語は追々に昏(くら)くめくるめく恋と、そして源氏と藤原氏の苛酷な闘いの経過とを辿
って行った。「須磨」へ流されの巻に及んだ頃には、もう為時女(むすめ)の篁子は紫式部と花やかに人に呼ばれ
ていた。
──そのとおりだった。それなのに、と為時は家集に眼を落す。あれは内裏(うち)わたりの暮しをいつも大
なり小なり「ものあはれ」と眺め、「身の憂さは心のうちに慕ひ来でいま九重(ここのへ)ぞ思ひ乱るる」などと呟
きながら、「一といふ文字」すら人前では書けないふりを我が身に強いていたらしい。
だが式部には、そもそもの出仕(しゆつし)から彰子中宮のため源氏物語を、より立派に長く書きつぐのがいわば
職掌だった。朝夕他の女房がしているようなこまごました仕事はいっそ免除されていて、それはそれで
気疲れした。朋輩の聞きにくいかげ□にも悩まされ、さりとてどこへ遁れるすべもなかった。とうに越
前守の任を終えまた久しい無官の歳月を送っていた父為時や、弟惟規(のぶのり)の新たな任官には、今では式部の
筆一管こそが役立たねばならなかった。
式部には、やがての中宮御産の模様を、土御門殿(つちみかどどの)の、いわば私(一字傍点)の側から記録すべく、特命が下りてい
た。道長ときわどく女郎花(おみなえし)の歌を詠み交わしたり、道長妻の倫子より菊の着せ綿を貰って長寿を祈られ
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たり、御産が済めば、中宮の御前で仰々しいほどに源氏物語が冊子(そうし)に作られるのを、宰領したりもした。
式部は、だが、ともするとそんな自分を、心にもないよそのもののように気(け)遠くうち眺めていた。や
がては、「身を思はずなりと嘆くことの、やうやうなのめに、ひたぶるのさま」にもなって行った。人
はそれを、意外に控えめな温和しい女とくらいに、却って心安く思うだけだった。
数ならぬ心に身をばまかせねど
身にしたがふは心なりけり
心だにいかなる身にかかなふらむ
思ひ知れども思ひ知られず
また、
水鳥を水の上とやよそに見む
われも浮きたる世をすぐしつつ
小少将の君が、こんな式部に少しずつ気づいて行った。それともう一人、「わたくし」も──と、加
賀少納言の声は話しつづけた──影の形と添い寄って、「中の君」の身の上を倶生神(くしようじん)さながら今は亡い
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「大君(おほひぎみ)」も見つめつづけていた。
──そのような、「いや、このようなことが、と言うべきか」と、影(一字傍点)を見守ったまま為時は言葉を置
き換え、だが、あれには、篁子には、信じえたのだろうか。
為時の、己れにも聴えぬほどの呟きを影は笑って、可能か不可能か、自身の胸に聴けと応えた。物語
に現われる人物、などというより遥かに直(じ)かに式部の身近で生き交わした相手、紫式部にはそういう式
部自身の影のような相手がいて、人知れず絶えず対話が交わされていただろうとは、為時一人が抱いて
来た久しい心の闇ではなかったか、その闇のあまりの深さについこうして浮かんで出た「わたくしも、
──やっぱりあなた様の心の内を彷徨(さまよ)う、影」と、諾子(なぎこ)の影はそう言い捨てて、ふっと□を噤(つぐ)むのを為
時は黙然と壁の上に見つめていた。
朗かな昔の童(わらわ)友だち同士と気鬱に相い憐れむ女房同士、と思って見較へれば諾子と小少将とはべつに
似ていなかった。が、式部自身には時を隔ててなぜか似通って想えた心親しい二人であったらしい。
小少将と式部とは里帰りの合間にもよく文(ふみ)や歌をやりとりした。一つ局(つぼね)に顔が揃えはよく互いに髪を
梳(くしけず)り合っていた。怪しい仲だと大殿にからかわれたこともあり、事実温和しい小少将なのに、自分の
従姉の大納言の君を紫式部が愛していると、もっともこれは大納言の君の方からも同じく、ひどく恨め
しがることがあった。「お気づきでいらっしゃったでしようが」と、影は言った。あの紫式部には遠い
昔から秘かに美しい少女と睦み合ってさえ居れば、とくべつ男の誘いも必要でないようなふしが見えて
いた。
──為時は頷いた。だから宣孝のような磊落(らいらく)で、親ほども世馴れた賢い男を夫にと、自分は勧めたの
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だ。
大納言の君にしても、いま一人式部がとくに美しい人よと身も心も寄せていた右大将道網女(むすめ)の、宰相
の君にしても、だが、式部のひたぶる物語を書きつづけねば居れぬ心の洞(うろ)の、その底黝(ぐろ)い深みを我が眼
で覗こうとはしない人たちだった。それにもう誰と寄り寄り知恵を出し合って書く、という気軽な身上
でもない。小少将の君のいない独り居の、夜ごと式部は局の戸に堅く錠をさしては、光源氏と紫上のも
のあわれな物語をしみじみ書きつぎながら、ほとほと須磨へ先君が我から身を流したその先(一字傍点)、に思い惑
っていた。
まだ物語の全部を通した筋すら定めかねていた。何とも、光源氏が太宰府へ追われた前の伊周(これちか)の大臣(おとど)
かのように見え、それでは、一族があげて道長方に仕えている立場上も、気まずい。
式部は、「若紫」の巻にすでに藤壼を妊(みごも)らせていた光君の奇怪な夢を、生まれる子の即位なりまた光
君の須磨流謫(るたく)を暗示して夢占いが「およびなうおぼしもかけぬすぢのこと」と占っていたその後の成行
を、中宮はじめ多くの公達(きんだち)や女房から、また畏(かしこ)くも帝の方からも、早く読みたいと催促されていた。助
けて、手を貸して、というほどの昏い身もだえに幾夜かを迎えるうちには、水鶏(くいな)鳴く声に紛れ、夜もす
がらほとほとと真木の戸口を叩く気まぐれな道長の訪れに、「あさましかりし」女の業(ごう)をくやしく思い
出して泣き伏さねばならぬこともあった。
諾子(なぎこ)は、そんな式部のひとり寂しい影に重ねて、うつつなき身を、或る夏の夜更けの局に顕(た)ち現われ
て、こう詠(うた)いかけた。
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忘るるは憂き世の常と思ふにも
身をやる方のなきぞ侘びぬる
返し
誰(た)が里も訪(と)ひもや来るとほととぎす
心のかぎり待ちぞわびにし
その頃、諾子と死に別れた橘為義は、べつの女を妻に、官は大内記(だいないき)をかけた少納言へ進んでいた。加
賀少納言?加賀(二字傍点)ならぬ影(一字傍点)の諾子を、式部は戯れにそう呼んでひそかに源氏物語共同の創作者に迎え、
それもさすが小少将だけは、あなたには影になって語りかけて来るもの(二字傍点)でも憑(つ)いたか、と訝(いぶか)しがった。
紫式部は微笑(わら)い、ことさら否みもしなかった。ほとほと書き泥(なず)んだ暁など、「やうやう明けゆくほどに、
渡殿(わたどの)に来て、局の下より出づる水を、高欄を押へて、しばし」見入ったまま思わず式部が、「影見ても
憂きわが涙落ち添ひて」と呟いていると、いつか小少将も寄って来て「ひとりゐて涙ぐみける水の面(おも)に
うき添はるらむ影やいづれぞ」と幾分表情も改めて、我から水にうつした式部の面影を脇でさし覗いた
りした。
やがて諾子の加賀少納言は──と、影(一字傍点)は自ら名乗った──源氏物語の進行に、紫式部の思いもかけな
かった、新たに幾つかの着想を差し出した。まずは、輝く日の宮だの若紫や葵上だのと、上の品の女に
ばかり光源氏を関わり合せるのでは、あまりによそごとめく。
式部もむろん異存なく、小少将が雨夜の宿直(とのい)にひとり中宮のお前に参っている夜の間(ま)を籠めて、形は
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影と壁の前で語り明したあげくが、全く新しい「帚木(ははきぎ)」そして「空蝉(うつせみ)」の巻にと書き上がって行った。
二人して頒ち合い、ことに篁子には忘れがたい思い出となっているあの宣孝が方違(かたたが)え明けの朝顔を嗤(わら)っ
た一件など、もぬけの空蝉に呆れる光君を書き表わす恰好の話題だったし、二人ともの伯父に当たる、
藤原為頼の名高い歌に、「后(きさい)がねもししからずはよき国の若き受領(ずりよう)の妻がねならし」と詠われた、いわ
ゆる中(なか)の品(しな)の女の運命(さだめ)についても、胸痛いまで熱心に紫式部と加賀少納言とは語り明さずに居れなかっ
た。あなたが書かないなら自分がと、加賀はもうのちのち、「関屋」の巻での、源氏と空蝉の再会まで
を見通しているような□も利いた。
それだけではない。肥前へ下(くだ)って肥前で死んで来た諾子(なぎこ)は、式部がこれまでどおり紫上を大事に書く
かたわらで、自分は「夕顔」の巻の後日譚(たん)にやがて九州育ちの「玉鬘(かづら)」という、あの可憐な夕顔の美し
い忘れ形見を、新たな女主人公の一人として光源氏の物語に迎えたい夢を、語りやまなかった。
そうだったか。それで分った。為時はーぽんと手を拍った。
橘為義は肥前へ赴任後、早々、に余儀ない公用でひとり都に召還された。その留守中、諾子に執拗に言
い寄る武骨な田舎侍がいたという話を、式部は聴くも怖ろしげだったが、その男から遁げのびる暇(いとま)もな
く幼な子もろとも病に空しくなってしまった□惜しさを、今さらに諾子は思うらしく、「すると、あな
たが玉鬘の君ね」「でも、紫の上のお邪魔はしないわ」などと稚(おさな)いこともああ言えばこう応えながら、
聴き書きに、夢中で筆をやる式部の手がそれでも遅いと、影は影で懊(じ)れたことも幾夜もあった。
かくて「帚木」「空蝉」「夕顔」それに「末摘花(すえつむはな)」の巻は、「須磨」まで先立っていた巻々のあとへ
世に出て、改めて読者を唸らせた。源氏物語と紫式部の声価は、むしろ「夕顔」の巻があらわれて初め
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て世に揺(ゆる)ぎないものと定まった。
式部と加賀の合作は今や、「須磨」の巻まで都合十一帖の全部に通じ、さらにこの先の巻々に及ぶ重
重しい主題を、「若紫」より、いや「帚木」の巻よりもまだ前に、美しくものあわれな首巻として、書
き起こす所へ向かわねばならなかった。
紫式部にすれば、流謫(るたく)の光源氏が、たとえ伊周(これちか)の大臣でなくとも、昨日今日の世に生きる特定の誰か
に擬して取沙汰されるのはいやだった。「日本紀の御局」の仇名にふさわしく、そこで式部は、その「桐
壼」の巻の中に畏(かしこ)くも宇多天皇の尊号を二度までわざと出し、光君の父帝を誰の眼にも今を遡ること六
代、醍醐天皇に敢えてあてながら、それとなく「いづれの御時(おほんとき)にか」と物語りはじめる書き出しを考え
ついた。
それだ──。それだから物語に手を出さなかった男たちも、源氏物語には正史なみの敬意すら払った、
と、為時は□を添えた。
式部の考えはこうだった。醍醐、朱雀そしてその弟の村上天皇天暦(てんりやく)の治(ち)に擬し、藤壺と光君との不倫
の恋に生まれた皇子が君臨する聖代を、いわゆる一世源氏が藤原氏を凌ぐ盛期として書き表わしてみて
はどうか。僅かな道長一族のほかは、同じ藤原氏とて不遇と不安に沈みこんでいる世の人々の憂さを、
代ってのべることもできそうな気がする。むろん露骨にそれと言うのでなく、すべて一代過去のことに
なって行くつど、あれは実は何々天皇の御代だったかと分るような書き方をすればいい。歴史そのまま
の固い印象は慎重に避けた方がいい。
だが、もっと物語の進行に即した、筋の上の工夫も大事だった。言うまでもない「若紫」の巻では、
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想像してもならない光君の眩ゆい将来とともに、しかし「その中に違(たが)ひ目ありて」途中不遇に沈むと、
夢占いに予告がさせてある。光誕生の「桐壺」の巻には、どうしても、そのまた一つ前の予言を仕組み
たい。即ち、光君は、──ついに天皇ではないが、さりとて決して臣下でもない御位(みくらい)に即(つ)くであろう。
諾子(なぎこ)のこの提案は式部を頷かせた。ここまで想いつけば、光源氏にもう須磨流謫という、予言どおり
の苦い目をみせているのだから、「明石」の巻への大胆な展開を見こんで、なおその上、光源氏に「三
人の子が生まれ、そのうちの二人は、男子が天皇に女子が皇后になり、残る一人が太政大臣になるだろ
う」という、のちに「澪標(みをつくし)」の巻に顔を出す豪勢な予言も、無理なくちゃんと用意ができた。
作者たちは追々に、光源氏をそうは甘やかすまいという考えに傾いて行った。のちには、女三宮(によさんのみや)とい
うどこか脆(もろ)い貴女を、余儀ない六条院の光源氏正妃として物語に導き入れた。女三宮は紫の上を泣かせ、
また人知れず柏木右衛門督(かしわぎえもんのかみ)の子、薫の君を産んで夫六条院に苦杯を喫ませた。
が、それでもなお紫式部は、全体を、生まれながら母を喪った子が、母に肖た妻を得て行く物語とし
て光君と紫上の生涯を形造りたい考えだけは、断然譲らなかった。成ろうなら、そのようにして自分は、
顔も憶えず死なれた生母の魂を鎮めたい。式部はその時ばかりはどこか勝気な幼な顔を甦えらせ、影の
少納言をはっきり納得させた。
「桐壺」の巻で式部はまだうら若い光君に、亡き祖母や母の里を「二なう改め造らせ」て、こう言わせ
た、「かかる所に、思ふやうならむ人をすゑて住まばや」と。この二条院に、光源氏はむろん生母桐壺
更衣(こうい)に生き写しの義母、藤壺女御と一緒に住みたい。が、女御は亡き桐壺の形代(かたしろ)に父帝が最愛する、輝
く日の宮だった。仕方なく光君は藤壺によく肖た、つまりは亡き生みの母にもよく肖た、ゆかりの若紫
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を根ながらこの邸に移し植える──、という体(てい)で物語を大きく語り継げば、もう「須磨」のあとは、明
石の上の物語と玉鬘の物語とを、左右から光と紫上との主節に絡めつつ、予言の一つ一つを面白く、巧
みに成就して行ってそれで、十分、だった。
「して、そなたは──」
いつもあれの傍で、と露わに問いかけ、だが為時は、返事を待とうともしなかった。光源氏雲隠れま
で、そなた達の趣向はそれしきでは尽きまい、それに宇治十帖のこともある、訊きたいことがまだいろ
いろある──。
性急な催促に、影は、答えない。
重ねて迫れば、加賀少納言は、父に応じたかっての篁子(たかこ)とそっくり物静かに含み笑って、ふと身を退(ひ)
き気味に場所をずらして居ずまいを正す。と──、加賀の笑いを打ち返し、塗籠(ぬりごめ)の闇に籠(こも)ってまざまざ
と、あの紫式部の声が、
亡き人をしのぶることもいつまでぞ
今日のあはれは明日のわが身を
と、為時には聴えて──眼の前の壁へ、すうっといま一つの女の影(一字傍点)が、父の不審にいついつまでも応え
ようと、小さく黒く、添い寄るように竝(なら)んだ。
夏の夜は、まだ宵──だった。
──完──
34
或る雲隠れ考
35
「新潮」昭和四十五年六月号
36
内侍のすけ
一
源氏物語五十四帖と伝える中で、「雲隠(くもがくれ)」の巻は巻の名だけがあって本文(ほんもん)を欠いている。散逸したも
のか、もとよりわざと本文を必要としない意図であったか、手近な潤一郎訳の源氏物語では、「此の前
の幻の巻と此の後の匂宮の巻との間に八年が経過してる、光源氏がその間に世を去ってゐる」との注
がある。「幻」の巻の源氏は五十二歳。つづめて言えば、光源氏は出家し、やがて死んだと「雲隠」の
巻の名は、一語でこれだけのことを言いえていることになる。
書いてなくてよかったと思い、もし本文が書かれてあったのならどんな話であっただろうか、それも
読みたい、とよく考えた。自分なら「雲隠」の巻をどう書くだろう──、源語(げんご)五十四帖読みかえすたぴ、
「雲隠」の本文を書く自分をたわいなく想像して小さな興奮を味わっていた。
前の大戦直後、学制が改まってまだ新制中学と断わらないと通じないような学校へ上がったばかりの
時分、私ははじめてこの物語を与謝野晶子訳の豪華な二冊本で読んだ。ずっしりと持ち重りのするその
37
本は、どの頁からも鈍(にぶ)んだ金色のまたたきが感じられ、くらい土蔵(くら)の奥を覗きこむ心地がした。薄暗い
部屋の隅へ、洩れ入(い)る日の光に背く恰好で腹這い、本を胸の下に抑えこむようにしてむさぽり読んだの
である。
分厚な表紙の冷たい手ざわりは、挨もたまらぬ土蔵内(くらうち)の大きなつづらから今とり出してきたような、
あざやかな、身の緊まる感銘を強いた。本も、本の中の世界も、幽(かす)かな翳(かげ)を吸い寄せて光る、くらい、
まぶしい色を頻りに想わせた。光る翳に添うように井荻(いおぎ)明子の姿が浮かび、明子が本をさがして呉れて
いる情景が眼に見えた。明り窓のかげで蜘蛛の巣が斜めの日に銀細工のように光る。物尺(ものさし)を当てたほど
きちんと並んだ大小の箪笥、長持、道具箱は、桐材、樅、栗、楓など木目(もくめ)までが浮き立って見える。く
すみ切った紺地間道(かんとう)の紐が見え、渋い朱縞の太い組紐や紫白の総(ふさ)をずっしり垂れた化粧縄までとりどり
りんとうぢあ吐いく†り
に見える。笹龍膽(りんどう)の定紋(じようもん)を高蒔絵にした真塗(しんぬり)胴の大太鼓がある。そばに、地粗(ぢあ)れの胸高にたっぷり灰釉(はいぐすり)
の流れた、はだかの信楽(しがらき)の大壺がある。無造作に壷の中へ箒や桟払いが突っ立ててある──。
このような想像の下絵になって、丈高に長くつづく板塀や、厳(いか)めしい忍び返しの内側に二つも三つも
土蔵の屋根が見えた。屋根は松木立より高く見えた。土蔵の一つ一つが私の家より大きく、揺ぎなく見
えた。あの中にはどんな家の宝が蔵ってあるのだろう──、幼かった頃のため息が、源氏物語を読む中
学生の想像にはまじり合っていた。
まだ小学校が国民学校と呼ばれていた戦争さなかの明け暮れ、卒業式の日に両陛下の写真の前で井荻
明子は総代の答辞を読んだ。三年生の私は、卒業式て寂しいもんやなと、はじめてそんなことを考えな
がら、余韻をひく声が雨天体操場の無骨な天井にひびくのに聴き入っていた。戦争の大波にあおられて、
38
明けて四年生の新学期を丹波の山奥で迎えねばならなかった私の耳には、明子のきれいな声が残ってい
て、京都へ帰りたいと泣かせる種になった。幼い想いにも遠い近寄りがたい人であった。
戦争は負けて終り、私は京都へ帰ってきた。どこかしことなく大きな変化で渦を巻いていた。
渦の中から思いがけずあの明子が姿を見せた。叔母の茶室へ茶の湯を習いに通っていたのである。私
が中学へ進む時分には、望むまま、その明子が晶子源氏を稽古場へ運んできて呉れた。
明子は井荻の名に傲(おご)らなかった。大学へは進まず、幼稚園の先生という難かしい仕事をえらび、病身
の婚約者を励ましつづけて心もち遅めな結婚をした明子は、昭和三十年春らんまんの頃に宗陽(そうよう)という優
しい茶名を得て叔母の門を言葉ずくなに去って行った。
明子を慕いながら晶子源氏をはじめて読んだ頃の私は、おどおどと物語の美しさに眼を瞠(みは)るだけの少
年であったけれど、別れた春にはもう市内の大学に通いはじめて、源氏物語を読むにも原文のまま怪し
く品■(ひんしつ)を加えてみるような、暗い目つきの男に変っていた。私の「雲隠」が、もう紛れなしに心の底に
沈んでいて、針の尖のように光っていたのを想い出す。
二
私の(二字傍点)「雲隠」と言うのも変だが、とにかく今頃になってそれを想い出させたのは、明子の従妹、井荻
阿以子だった。けれど、阿以子がなぜ急に「雲隠」の巻のはなしなどを始めたか、咄嵯には分らず、分
らぬなりにあまり気味のいいことではなかった。
それにしても、話はやはりこの私の「雲隠」からはじめねばならない。
(■:こざとへん に たてに 少と馬)
39
源氏物語「紅葉賀(もみぢのが)」の巻は「桐壺」「帚木(ははきぎ)」とつづいて七帖目、光源氏十八歳の十月から十九歳の秋
までを書いてある。
朱雀院での御遊(ぎよゆう)に先立ち禁庭で試楽(しがく)が催され、源氏は頭(とうの)中将と一緒に帝の前で青海波(せいがいは)を舞う。「一き
わけっこうでございました」と桐壺帝に答える藤壺女御(にようご)は、この時人知れず光君(ひかるのきみ)の子を宿していた。
年が明けて、藤壼は美しい皇子(みこ)を産んだ。紛れもなく我が面差しを映した若宮を父帝に見せられ、罪
ある源氏は「怖ろしうも、辱(かたじけな)くも、嬉しくも、あはれにも、かたがた移ろふ心地」がする。御簾(みす)の内
の女御も総身を汗にしていた。罪の子は後に、冷泉(れいぜい)の帝となる。
皇子を儲けた藤壼は中宮になり、源氏は宰相に昇進する。藤壼こそ、終生源氏が理想の女人(によにん)で、「薄
雲」の巻でこの中宮が逝(なくな)るまでは、紫夫人でさえ紫の上(一字傍点)とは呼ばれていない。
「紅葉賀」の巻では紫はまだいわけない少女である。源氏の正妻葵の上からはとかく面白からぬことに
想われているけれど、母のない子を持った、心地でこの少女をいとおしがる源氏の愛は、藤壺を慕う気も
ちの裏返しでもあった。藤壺には姪に当たる幸い薄いこの少女を、源氏は先ごろ人少なな侘住居から奪
うように二条院へ引きとったばかりだった。若紫が源氏の妻になるのは葵の不幸な死の後のことである。
葵の上の兄が、青海波を一緒に舞った頭中将である。源氏無二の親友で、他聞(たぶん)を憚る女の品定めに雨
夜を明かす真似もしてきた。源氏の父桐壺の帝は「賢木(さかき)」の巻の前に、葵の上は「葵」で、藤壺女院は
「薄雲」で、紫の上は「幻」で死んでゆく。みな「雲隠」の巻以前のことであり、「雲隠」本文を書く
にしてもこの人たちは亡き数に入っている。光の生涯を通じて親しかったのは頭中将一人と言っていい
40
ので、「紅葉賀」の巻まで読みすすめてくると、まず間違いなくこの貴公子を意識し、私の「雲隠」で
はぜひ一役買ってもらわねば、と思ったものだ。
「紅葉賀の巻には源姓の内侍(ないし)のすけ(典侍)で五十七、八になる老女のあさはかな色好みのさまが、光
と頭中将との滑稽な鞘当てを添えて、挿話風に書かれてある。桐壺更衣(こうい)の死を嘆く帝に藤壼入内(じゆだい)をすす
めたのと同じ典侍(すけ)であろうか、この老官女は、後段でも一、二度顔を出すけれど、まず此処だけの人物
である。色好みの老女と面白半分まだはたち前の貴公子たちとの絡みが奇抜で、主役は、老女の花ごこ
ろである」と、もう何年も前、私はものに書き留めている。
巻の後半、源氏は藤壼への満たされぬ恋を紫のゆかりに慰めていた。御所には沢山女官(によかん)がいて愛を求
めてくるのだが無風流にならぬ程度にあしらうばかりだった。中に典侍を勤める年寄りで、人柄よく嗜(たしな)
みもあり、人に敬われていながら妙にあだめいた性分から蓮葉(はすは)なことをしかける女がいた。いい年をし
てと不審ついでに冗談を言ってみる、と、不似合とも思わずなびき寄ってきた。呆れながら、物好きな
源氏は時おり似つかわしくない情を交していたものの、さすがに敬遠ぎみであった。老女は恨みまじり
に機会を待っていた。
「たとえば、雲隠れの野辺送りに出た百歳ちかい女がひとり秋草寂しい野もせに佇み、杖にすがり涙の
沽(か)れた眼を時雨(しぐれ)する鈍(に)び雲へ向けたまま光源氏の死を嘆いている。そこへ同じ悲しみにうち沈んだ太政
大臣もとの頭中将の車がかえって来る。
久方のめぐり逢いに誘われ、老女の花ごころは若い日の光宰相と頭中将の幻をあやしく映し出す。あ
だし野の露吹き乱れて真昏(まつくら)な背景に変り、袖裂(き)れ帯解けて絡みつほぐれつ痴(たわ)け舞う貴公子二人を右に左
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に、老典侍(ないしのすけ)は燦欄(さんらん)たる光を一身に浴びつつ桃惚と舞いに舞う──。
連れ舞いの面白さを思いきり効果的に出せれば、哀れもおかしみもひとしおの世界がここにはありそ
うに思える」
私は私の(二字傍点)「雲隠」の着想を、こう書き留めている。
もし若い美女たちの愛執(あいしゆう)や思慕であったなら「雲隠」の巻には、ただ悲嘆ばかりがある。源(げんの)典侍なら
そうではない。無論、光源氏の物語がこういう「雲隠」で果てるのは原作者の考えとは違い過ぎていよ
うが、違うところに私の意図も、じつは、或る不審もあった──。
「紅葉質」の典侍を見ると、姿、髪かたちさっぱりと花やかで色気もあるが、不相応なまでの若づくり
が疎ましく、露骨に誘われては源氏も逃げ出さずに居れなかった。噂を知った頭中将は、源氏の君の物
好きに呆れながら、好奇心にまかせ自分もこの老官女に語らいついてしまった。
或る夕立あとの宵紛れに源氏が温明殿(うんめいでん)のそばを歩いていると、老典侍が琵琶を上手に弾き催馬楽(さいばら)を謡
っていた。なかなか佳い声なのが気味わるいと聴きつつ「われ立ちぬれぬ、その殿戸(とのんど)開かせ」など低声(こごえ)
で謡いかけてみると、直ぐさま「押し開いて来ませ」と添えてきた。
迷惑半分、面白半分つい「押し開」き長居をしている内に、頭中将が見つけた。いたずらな中将はそ
っと二人の寝ている所へ忍び入った。人の気はいに、しどけなく直衣(のうし)だけを引っかけ源氏が急いで屏風
のかげへ隠れるのも侵入者にはおかしくてならない。中将は押し黙っていかにも怒ったふうに典侍(すけ)を責
めたて、はてはすらりと太刀を抜いた。老女は「あなた、あなた」と手を合わさんばかりの困りよう、
「五十七、八の人の、打解けて物思ひ騒げる気はひ、得ならぬはたちの若人(わこうど)達の御中(おんなか)にて物懼(お)ぢしたる、
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いと、つきなし」と書かれている。
自分と知ってのいたずらと分り、源氏は、物蔭から太刀を持った頭中将の手を抓(つね)りあげた。男二人は
もろ声に笑い興じ、果ては互いに帯を解く袖を裂くの悪ふざけて、どっちともつかぬあられない恰好に
なり、さわさわと退散してしまう。
この挿話には、ただ単純に面白いと言ってしまえない、気味のわるい印象があった。ただ偶然に混(まじ)り
ものめいて書かれたとは思えない何かが、この老女にまつわっている。「雲隠」の巻にこの典侍をと着
想したあの時(三字傍点)のことを想い出すと私の頬は硬ばった。原作者の思惑はさておいて、奇妙に蠢(うごめ)くまるで別
の眼でものを見ている自分に気がついた。
だが、今はもう少しだけ老女の振舞のあやしさを見届けておこう。
──「葵」の巻は、桐壺帝から朱雀(すじやく)帝へ御代(みよ)が改まり加茂の斎院も交替になる辺りから始まる。
そして葵祭の日、源氏は紫と同車で祭見に出て行く。出がけに、少女の豊かな黒髪を手づから削(そ)いで
「千ひろ」と祝ってやるところ、成人して行く若紫の溢れそうな美しさが眼にうかぶ。
祭礼は人、車、たてこんで、遅れてきた源氏たちは車を寄せる場所がなかった。と、「場所をあけて
あげましょう。こちらへ」と言い寄越す者がある。あの典侍であった。吃驚(びつくり)もし、憎らしくもあり、紫
にまでちらりと嫉妬してくる老女に迷惑して、源氏は車の簾(すだれ)を上げなかった。
それから十年。御代はじつは源氏と藤壺の子冷泉帝へ移り、源氏は三十二歳の内大臣として政(まつりごと)を執
り仕切っていた。けれど葵の上すでに亡く、少女であった紫は今は正妻として源氏の深い愛をあつめて
いる。
43
その「朝顔」の巻で、女(によ)五(ご)の宮の家で父宮の喪に服している前斎院を源氏は繁々と訪ねていた。表向
きの口実は女五の宮の見舞いであった。が、老耄(ろうもう)の宮は対話に疲れるとすぐ欠伸(あくび)、つづいていびきとい
う調子だから源氏はこれ幸いと朝顔のいる方へ退(さが)ろうとする。前斎院の朝顔とは昔から深いいわくが、
あった。と、いかにも年寄りじみたしわぶきが聞えて、いざり寄って来た者がある。
「世にあるものの数に入れて下さらないのでございましょうか」と言うのを聴くとあの源典侍であった。
相変らずしなをつくって、歯の抜け落ちたまばらな口もとの思いやられる声(こわ)づかいをする。そればかり
か今だに「あなたとの契りが忘れられませんの」などと、うめきたいような歌を詠(よ)みかけてくるので源
氏は居た堪まらずその場を滑り出て、行ってしまうのだった。
この時、女の年は七十前後、しかし仏勤めの老尼僧のからだはまだまだ尽きぬ花ごころを秘め、咲こ
うとさえしていた──。
「朝顔」の巻からまた二十年、私の(二字傍点)「雲隠」の巻を白寿にほどない老女の物狂いとして、それも舞踊の
形で書いてみたかった。幻覚を貫いて奔る女体の活躍が典侍の哀しみに広がりを与え、広がりの中から
鮮かに感傷の絵が浮き出るだろう。きらきら光る水に似た哀しみに、叩きつけるような鮮かな色彩を添
えつつ、老女は舞いつづけねばならない。
いつか書きたいとは思っていた。だが筆執る暇もないまま諦め忘れていたのは、所詮さほどの欲もな
かったからで、阿以子の方からわざわざ言い出さなければ、遠い以前の「雲隠」考など、じつを言えば
想い出したくもなかった。
44
だが、井荻阿以子は殊さら「雲隠」を口にするふうであった。
三
東京へ出てくると、阿以子は青山高樹町の友だちの家へ泊って行く。友だちというのは映画女優で声
も演技もハスキーな魅力から、名前も知れている。小がらなからだをかさかさ動かすと、砂の散るよう
に乾いた肉の匂いのする女で、新宿の薄暗いバアヘ私を呼び出し、阿以子がふいとこのボイシュな女優
を連れてきた時も、奇妙な官能に衝きたてられた記憶がある。いつ、こんな女と親しくなったか、その
方に興味をもつのだが、阿以子は喋らない。
阿以子は月に一度ずつ上京してきた。藤間流の宗家筋で指導を受け、これもいつできた弟子なのか二、
三軒の稽古先をまわって、また京都へ帰ってゆく、その三日ほどの間を高樹町で厄介になるらしいが、
もう二年もの間そうであったと私が知ったのは、去年の夏(四字傍点)、例年のように家族で京都へ里帰りした時で
あった。
阿以子のことを妻との間では「おっ師匠(しよ)はん」と呼んでいる。家の内にちゃんとした踊りの稽古場ま
で造っている阿以子を、「おっ師匠はん」と呼ぶのはなまじ私とは幼馴染であるだけに、当たり障りが
なかった。
逢えば気ごころの知れた、女友だちというよりいとこぐらいの隔てなさから、年に二度三度と京都へ
帰っていながら、めったなことでない限り、殊さら阿以子の顔を見ようという気も起きない。たまたま
出逢うと、五分ほど一緒に歩くか立ち話をして、大抵はそれで済んだ。
45
ところが、去年の夏(四字傍点)に限ってそれでは済まなかったのである、──私はつくづく阿以子の顔を見た。
秀でた額から頬へ、奇妙に女のやつれがにじんで見えた。
翌日の午後には家族と東京へ帰る予定でいた、それで今晩もう一度逢うという約束を阿以子とはして
別れたが、あとを引きそうな、重く淀んだ阿以子の□つきであった。
あれから九ヵ月過ぎ、その間に東京で十度阿以子と逢った。
「これまで、なんで逢わんトいたんやろう」
青山、渋谷、神楽坂など逢う場所は違っていたが、くらい息づかいになると、阿以子は必ずそれを言
った──。
その阿以子が、「雲隠れのはなし、今でも書いてくれはるか」と急に寝返りざまに言い出した時は驚
いた。
私の「雲隠」を阿以子に初めて話したのは、そう、七、八年以前のことだ。何を今さらと、眼の奥を、
暗い渦が急にぐるぐると動いた。渦の描き出す絵模様が、次第に匂いそうな血の色に染まって行くのは
堪らなく気味わるくもあり、また奇妙に快い興奮で唇(くち)の端を歪ませもした。
それにしても阿以子は老典侍(ないしのすけ)を舞える女ではない。緊まったっよい眉、めずらしいほど端正な鼻す
じ。微笑(わら)うと唇(くち)もとに甘えた表情も動くとはいえ、光源氏とは見えない、せいぜい頭中将の役どころで
あり、阿以子自身は振付けると言っているが、荷重(おも)でないか──。
蛾の羽ばたくように揺らめく蒼白い電燈に透かして、ベッドの上で両肘ついた阿以子の顔をそれとな
しに覗き見た。それが、つい、一昨日(三字傍点)のはなしなのである。
46
千代
四
断わっておこう。「雲隠」の話はもう済んでしまっていて、何かしら別の長物語がこれから始まる、
というのではない、それどころか私の(二字傍点)「雲隠」の巻が本当に始まるのは、あの井荻明子や阿以子の祖父
の昔からだ、ということを。
最近、戦争前の古い茶道誌を見ていてその井荻徳蔵の急死を報せる記事を見つけた。「篤実な茶人と
豪放な商人とが厚みのある小柄の中で至極に同居してみた人」だと書いてあって、それなりに定まった
評判ではあったのだろうが、私が叔母や両親から聴いていた井荻徳蔵の噂は、もう少し人くさかった。
阿以子の□からつとめて聞き出したところも同じだった。
ありかじつ,「ん
先代から古美術を扱(あつか)って巨きな産を成し、当時漸く上り坂の裏千家とは昵懇(じつこん)で、宗宇という茶名を貰
っている。裕福にもまかせて、楽庵などと、物の端に小ぶりなお旦那文字で号を書きつけてあることに
さえ可笑味を感じるほど、この徳蔵は派手好きな男であった。阿以子の父を経て私の叔母の手もとへ、
裏千家の十四代が若い頃徳蔵に宛てた丁重な茶事の誘い文(ぶみ)が表具されて納まっている。夜咄(よばな)しの茶事は、
殊さら徳蔵の方から請求したものであるらしく、墨の色ににじんだかすかな諧謔の調子に、かえって誘
われた客の人柄が出ている。
47
徳蔵には妻との仲に登代、徳介、寿介、嘉介の一女三男があった。噂のわりに家の外に子は少なかっ
た。お舟という、妻の仙より十も若い妾に千代という子を産ませたのが例外で、経験の乏しい若い娘に
関わることはお舟の後にはなかった。
千代に踵(きびす)をついたように本家の仙が長男の徳介を産んだのが明治三十六年であった。後日になって、
仙は腹を痛めた息子にまで、「お前は残りもんでできた子おやさかい、情ない」と埒もなく厭味を言い
募っだそうである。
徳介ははじめての男の子だったから、井荻では賛沢に出産を祝った。徳蔵はいけもしない酒を□にふ
くみ、「何のじゃ(二字傍点)になられた」「長者になられた」などと喚きながら産褥近くまで踊りこんだという。
だが徳蔵は行届いた小さな隠れ家(が)を銀閣寺辺に見つけさせ、そこでたわいなく少女のお舟と痴(たわ)けてもい
た。仙は気づかなかった。
産後暫くのうちにお舟が病死すると、千代は危うかった命を大阪の祖母に引きとられた。まだ若くて、
宗右衛門町に一かどの茶屋を構えていたこの祖母の所へ徳蔵が出入りすることはやがて仙に知れた。妻
の望むまま深くも考えず、徳蔵は物ごころつかぬ千代を本家へ移した。面倒は、徳介やつづいて生まれ
ていた寿介と同様、乳母に見させた。
仙は千代という名まで嫌っだそうである。実の娘がとよ(二字傍点)で外腹の子にちよ(二字傍点)とは面白くない、みよ(二字傍点)と呼
ぶことにしようと本気で考えたこともあった。ばからしいと自制しながら、徳蔵の外遊びが眼に余ると
我にもなくこんな埒もない思案に悩み、額ぎわを汗ばませ、あかい顔をして小さな千代を、じっと睨む
こともあった。
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姉娘の登代は明治三十四年、妹の千代が三十六年の生まれで、学校へ上がる年ごろになると、千代と
同年の徳介との間柄は微妙であった。
登代は気性が烈しく、一本気で、思ったとおりを容赦なく外へ出した。甘ったれたことが嫌いで、外
見はふっくらなだらかな顔かたちでありながら、銹(さ)びれた声音(こわね)で言いつのる時は万事が高飛車できつい。
妹が学校で苛(いじ)められていた時など、苛めっ子を追っ払ったその掌を返して千代を廊下へ突き飛ばしたり
した。千代のことなど構いつけて腹立たしいという調子であったとは、見ていた私の叔母の幼い頃の記
憶である。
妹は、姉が自分をどう思っているか推測しかねて悩むことはなかった。その代り、何十年来、登代の
ことを「姉さん」と呼ぶだけにも、箍(たが)で頭の鉢を緊められるような鬱屈を感じつづけてきた。
登代は二十四で中京(なかぎよう)の呉服老舗(しにせ)から婿を入れ分家した。普選法が公布され、加藤高明内閣がつぶれた
りまた出来たり、世情穏かでなかった頃である。
徳蔵は登代の頑(かたく)なしげな気性をむしろ愛していたらしい、嫁に出そうとも言わなかった。当時として
は縁組も遅かった。徳蔵が屋敷うちを割いてこの娘に与えたのは、一つには仙の機嫌をとるため、家に
千代を残したまま登代を他家へ嫁がせるのがうまくないからであった。そして翌年の秋には、大正天皇
病中を憚りながら、千代が、同業の早川へ嫁に出ている。
昭和二年山東出兵の噂をよそに、登代は長男を産み、一ヵ月足らずで死なせた。次いで、徳介が名古
屋の旧家から藤を嫁に迎え、四年に初を儲けた。翌年、登代が秀夫を産み、七年には女の子の明子を生
んだ。徳蔵の次男寿介は大学のあと東京へ移りきり、結婚していて京都へ帰って来る気色(けしき)もなかった。
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三高(さんこう)在学中の末の嘉介が仙の可愛がっていた女中を連れ、和歌山の女の里へ隠れてしまったのは、明子
の生まれるより少し以前のことであった。
五
千代の嫁ぎ先はすでに微禄していて、夫の幾太郎も家業を継ぐ意志をもたなかった。古美術を商う家
の子としては破格のことであったかと思われるが京都大学で化学を学び、大して面倒もかけぬかわり、
妻を顧ることも少ない青年であった。茶道具の早川と仲間うちには知られた老舗(しにせ)を継ぐはずの次男を、
近年病死させてからは、親たちももう将来を見限った商売をしていた。家の風や厳(いか)めしい調度に昔日(せきじつ)の
名残があるにはあったが、寒々した納戸(なんど)へふと一人籠もって銹(さ)び朱の古い用だんすに触れたり、黒光り
した鉄の■(かん)や釘隠しの古朴な意匠をみていると、千代は頬の強(こわ)ばるのを覚えた。陽はささず畳も古び、
家紋の立ち藤を染め抜いた畳べりを踏むとがっと足の裏へ冷えこんでくるこの納戸へ、乏しい燈火を持
ちこんで針仕事をする時だけが、それでも千代のくつろぎの時間であった。
徳蔵は千代の嫁ぎ支度(じたく)に一軒の家を用意してやった。船岡の西、まぢかに衣笠山のみえる陽ざしの穏
かな小さな家であった。千代は馴染みにくい夫と二人、四十日ほどもこの家に住んだ。勝手のわるい気
細な新婚世帯であったが、あとになってみれば心静かな日々ではあった。幾太郎が大学へ出るのに不便
という、ただそれだけの□実で強いて二条堀川の親の家へ連れて行かれてからは、一日と欠かさぬ月な
みな嫁の苦労が執拗(しつこ)い霧のように千代のからだに沈みつづけた。夫は一層妻に疎くなっていた。
千代が井荻徳蔵の娘であることを早川では荷厄介にもしていた。舅は嫁が表向きの商いに眼を配るの
(■:金へん に 丸)
50
を嫌った。姑は嫁に用をまかせて、長火鉢の向うからじっと見ているふうの人であった。膝を崩さず、
長い煙管(きせる)で姑はたばこを喫(す)った。とんとんと灰吹きを叩きながら古風な髪に手をかけて「ああ痒(か)ゆ」な
どと呟かれるたびに、千代はどきっとした。
器量のいい嫁とは言えなかった。魅力あるからだももたなかった。小まめに用を足してそつなく、に
っと微笑(わら)って千代は何にでも相槌をうつことにとうから馴れてしまっていた。二年して子がなかった。
夫の愛撫を半ばあきらめて過ごした。「嫁はおとなしおしてなあ」と外向きのいい姑はにんまりしなが
ら、よその者にはよくこう言っていた。
千代は幼い頃、書を名のある人に習っていて、特にかなはよく書いた。自然、古筆(こひつ)の読みにも馴染み
やすく、徳蔵は時に筆くせや用字の不審を千代の眼でただすことがあった。
「新年の御祝としてはやばや御文下され嬉しく拝し上げ候先々(まずまず)いづれも様御機嫌よく新しき年にうつら
せられめでたく申しをさめ候こなた皆々無事にてよはひ重ね候御返事かたがた御祝儀申し上げ候めでた
くかしこ、うめ」と葉書一杯にこれだけの文字を書き流した年賀状を東京へ出てからの私は貰っている。
昔ながらの書簡文範(ぶんぱん)抜き書きのような文言(もんげん)だが、読み下(くだ)す前に、濃く淡く官製葉書の粗い地紙をものと
もしない筆づかいの巧みさに見入ったものであった。署名のうめは千代の替名である。井荻の家では、
若い明子や本家の初はともかく、登代にも嫁に来た藤にもこの替名があって、まつとかふみとかを用い
ている。どのような便宜あってのことか私などにはよく分らない。見ためはお嬢様らしさに乏しくても、
さすがに千代も人並以上の素養があったことだけを、言い添えておきたいのである。
蔵(くら)帳に筆を入れる時など、徳蔵は千代をそばへ置き、いろいろな覚えを書きとらせたりした。茶■や
(■:怨の 心 が 皿)
51
茶入(ちやいれ)、水指(みずさし)、古筆、墨跡(ぼくせき)、調度、棚物、茶杓などの産、柄、銘、伝来、由緒、作者からわけ分らずの符
丁に至るまで、小まめに千代は書いたり消したり写したりして成人した。登代にも徳介にもそれは敬遠
される仕事であった。骨董いじりの大旦那の好き半分思いつき半分の整理は、時間のかかる割に当人独
りのたのしみではた迷惑なところもある。番頭の手を借るより、心安く、徳蔵はそんな時いつも千代を呼
びつけた。知らず知らず千代は多少の眼ききに育てられていたのである。
手習い好きで、古幅(こふく)を父に借りてはいろいろのかな文字を習い、稽古に励んだ娘時代をもっている千
代の眼が、早川の家で貧すれば鈍するふうの商いに気づくことも稀ではなかった。千代の背はそのつど
心もちまるく小さくなって行った。
──徳介が結婚して間もない昭和三年の晩春頃、千代は所用で井荻へ出向いた。
「用がすんだら、もう一ぺん顔をお見せ」
徳蔵はそんなふうに言った。
仙や登代がうすぐらい顔つきだった。平常なら「ちい」とか「おい」としか呼ばない徳介だけが神妙
に初々しい嫁に引き合わせてくれた。藤は「お姉さんですか。よろしう」と夫のうしろで低声で挨拶を
した。叮嚀すぎるほど低く頭をさげて返しながら、家中がちぐはぐでいるらしいと千代は気づいていた。
花の散りすぎぬうち「炉も名残(なご)りやよってお人はん(客を招くこと)しよ思てな」と父は言いつけた。
茶道具をもち出して用意の取り合わせをしようというのだ、「散った花が汚れよらんうちに」と茶室の
見える庭先に突っ佇って徳蔵は呟いていた。千代は呼びとめられて嬉しかった。つまりはそういう手伝
いを好むたちであった。早川へは電話でことわった。幾太郎の帰りが遅いのは分っていた。姑は、「晩
52
御飯もよばれといでやす」と物静かな声のまま電話を切った。切れた電話の前で「へえ、おおきに」と
□籠もりながら、暫くのあいだ千代は肩をすぼめていた。
徳蔵にはさて何の心づもりなかったらしい。顎に手をあて、ぼんやり庭の方をながめていた。桜は葉
がちで、散り敷いた花びらの白さが泉水のあたりに花やいでいた。徳蔵も何かしら不興でいるのだが、
なぜなのかはっきりしない。用もなげな茶遊びの思案にどうにか気分を紛らせようとしている父を見な
がら、千代は控えていた。
徳蔵はようやく道具の名前や仕舞ってある場所を喋りはじめた。会記風にそっなく手控えてゆく。自
分の知らない品物があると千代は「それは」と父の顔を見る。娘の反応が徳蔵には愉快で、「ええもん
やで」と二言三言ずつ注釈を添える。中に、利休の子の少庵が好んだ夜桜棗(なつめ)の本家(ほんか)があった。手に入れ
るまでの苦心を吹聴しいしい、「そやけど、まあ陰気なもんやな」と徳蔵は撫然としていた。真塗(しんぬり)の闇
に透けて桜の花が散って見えた。千代は言われたとおりの諸道具を座敷へ運びこんだ。
惜春とも祝婚ともつかぬこしらえで、折角の夜桜棗とてすこし時候遅れに思える。千代は一目で好き
になったその品を両の掌(て)で抱きながら、お父さん、どうかしたはると思う──。
仙が入って来た。登代も来た。むっとして「何どす」と徳蔵はきいた。座敷内をざっと見まわしてか
ら仙は早口に苦情をならべた。よそへ出た者に土蔵(くら)の用事までさせてほしくない。面(つら)当てがましくて面
白くない。登代はそこまで聞いて、ふいと行ってしまった。
「かにしとおくれやす、さし出まして」と千代はあやまった。
何にむかむかしたのか徳蔵は立ってきていきなり千代の頭をぱちんと叩いた。ぐらっと動いた髷が辛
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うじてもち直り、千代はその時はじめて夜桜の棗を畳へ戻し、夕方ちかいうすれ日が漆に光るのを見て
から、急に突っ伏して泣いた。
「ばかもん」
吐きすてて徳蔵は庭へばたばた下りて行った。仙は奥の襖を明け放して出て行った。
涙はさほどこぼれない。千代は肘を起こし、棄の中の暗闇に潜んでいる桜花を見ていた。捉えどころ
ない寂しさに五体が冷えた。そして、夢中で早川へ戻った。
徳蔵の使いで弘一という若い番頭が追って来た。置いて行った風呂敷包みにはあの棗と一緒に帰去来
と名づけて井伊直弼が自身で削った茶杓が入っていた。それでも、父に頭を打たれた寂しさは身をはな
れず、いたわりの二た品を膝もとへ置いたまま、千代は納戸で固くなっていた。
六
昭和四年、井荻では初が生れた。
祝儀物を届けにきた千代は、夕暮れ前に里の家を出た。
縄手通まで来た時、若い男の声に呼びとめられた。番頭の弥一が、小走りで追って来た。「なんぞ用
か」と立ちどまると、「いえ、今帰らしてもらうとこどす」と言う。弥一はそこから五分も先の三条川
端辺で親の知った家の厄介になっていた。内輪の祝いで用がはぶけたものか、めったになく日のあるう
ちに暇をもらえたことを弥一は潤った声で順序よく喋った。肩をならべながら、千代は黙っていた。
弥一は大津の出で小学校のあとすぐ井荻へ奉公に来た。千代よりまだ三つほど年若なご円顔の少年
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は、居丈高な登代や若旦那たちを遠目にみて、ただくるくると走り使いに精出すばかりの何年かを過ご
してきた。
「あんた、どんなうちに住んどいるのえ」と訊ねても「へえ」とだけで黙っている。その黙りかたが何
となくおかしかった。笑うと、「すぐそこどすさかい」一ぺんどうぞ覗いて行ってと思いもかけぬこと
を言い出す。登代ならさしずめ頬の一つも叩きかねない、それだけに弥一の何気なさに妙に桁はずれた
ところがあって、千代は心誘われた。
高い所から見下ろす心地で、けれどまた爪先立つほどの歩きかたではにかみに耐えながら、しもたや
の狭い仕切り戸を潜(くぐ)り、ちんちん■(かん)の鳴る重そうな抽き出しを幾重ねも敷きこんだ梯子段をぞろぞろと
上った。よく始末された、だが飾り気のない八畳の間に西日が射していた。
「えらいとこに大黒さんがおいやす」
千代はころころ笑った。すぐ裏の家の奥土蔵の上に三尺はありそうな大黒(だいこく)瓦がふくよかに千代らの様
子を覗いていた。弥一の方へ振りむくと、今までそんな千代を見ていたらしい眼がふとそれ、慌てて有
り合わせの茶を注(つ)ぐ恰好まで目新しく、千代は何かを忘れていた、いや忘れていたかった。
「床の間にお花くらいお入れやす」今時分やったら何の花がええ、花入は何がええと、千代はつとめて
そんなふうに物を言っていた。男はただ「へえ」「へえ」と応えた。
その時分、早川から千代を帰してほしいと井荻へ電話があった。
「とうに、出やはりました」
「とうに」という所を仙は強いてきっぱりと告げ直したのである。
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千代は、たかだか三十分ほどの内に夫の家へ帰り着いたが、一時間の余も道草を食ってきた羽目にな
って、しかし弘一風情の下宿(とや)へ寄ったなどとは言いわけできなかった。
次の年、夏にならぬ前に千代は不縁になって井荻へ戻された。分家の登代が秀夫を産んで間なしの頃
であった。「ええわ」と徳蔵は低声(こごえ)だったが、仙は「えらいこっちゃ」とはっきり言った。千代は両手
をついていた。何かの用で弘一がその場へ顔を出した時、千代は歯を噛み合わせて泣いた。
今度こそは無事に育てたいと、二度めの男の子に仙も登代も油断がなかった。本家から女中の手が割
かれ、千代もいつの間にか女中の分を働いていた。時にはそういう女たちと一緒に食膳さえ囲んだ。女
たちは「お千代様(さん)」と呼んでいたが、古い番頭などは家族なみに「おっちよはん」と呼びかけた。藤も
もう「姉さん」とは敬わなかったし、徳介が「ちい、ちい」呼び捨てるのを止めだてしなくなっていた。
一人娘の初までがまわらぬ舌で「ちい」「ちい」と追いまわした。
初が小学校へ通うようになっても、千代の日常に変化はなかった。三十過ぎて、心もちまるかった背
がまるみを増したが、小まめに黙しがちに本家、分家の用を足すところは同じだった。謙遜な言葉づか
いのうしろから賢い気配りでいつか相手に穏かにものを教えているといった人柄や、五尺そこそこの、
ひよわな背中をすこし前かがみにして小股にさかさか歩く様子など、この頃からいよいよ千代のものと
なり切って行った。
分家ではもう明子が生まれていた。一番番頭は下京辺に店をもち、次の久造にもやがてのれん分けが
話題になる時分であった。あの弥一でさえ以前の小僧らしさが抜け、言葉かずこそ少ないが、若い者に
あれこれ用をいうほどになっていた。千代まで、「弥一」と呼びつけにしてきた古くからの呼び癖を知
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らず知らず億劫(おつくう)がって、近頃では「あの」とか「ほら」とかごまかしてすませていた。女中や若い者に
むかって言う場合には「弥一つあんが」というふうに話した。
──弥一が、主人の供をして或る茶会に出かけた時の手柄話は、この際省くことができない。
その日、ギヤマンの大鉢に水菓子を出され、楽庵は一目で鉢に手を出そうとした。商売仲間の茶会で
は、床の間の物から水屋道具に至るまでが商品だから、席中で「これはええ」「けっこうなもんや」と
讃辞を呈しておくことは、いわば入札権を留保したのと同然である。
弥一もあまりみごとな切子(きりこ)なので、勉強のためにと徳蔵の許しもえて改めて水屋から持ち出してもら
ったが、仔細に見ていると筋目正しく刻んだ切子の線の一所一列に極くかすかながら揺らいだ所がある。
大きな鉢の表面に花のように泡のようにくっきり美しく切り刻まれた小霰(こあられ)文様が一円無限に仕上がって
いないで、どことなく微妙な継ぎ目になっている。よくよく見極めてゆくと、継ぎ目を糊塗しようと切
子の一部にむりがしてある。
弥一は主人を見て首を振った。徳蔵は広間へまわってから亭主をそっと呼び寄せ、「いけまへんな、
あれ。おまけやすか」と笑った。失笑した先方は「かなんなあ」とぼやいてから、瑕(きず)物と知れたまま値
引いて手放すのも辛い、あのギヤマンは別に始末をするので他の品で勘弁をとあやまった。「そんなら、
花入を」と徳蔵はもう一度愉快そうに笑った。亭主が席中でだいぶ自慢していた品である。徳利風の象
嵌手高麗(ぞうがんでこうらい)青磁で渋くくすんだ色ながら、位地(いじ)塗の小板の上で美しく土壁の寂びを吸っていた。
徳蔵は弘一にこの花入を呉れてやった。弥一が「へえ、おおきに」としか言わなかったという話も徳
蔵の苦笑まじりに伝えられている。が、徳蔵には別の算段もあった。
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弥一は三十前になっていた。恰幅(かつぷく)もあった。腰は低いし、ものの言いようも金もち相手だけにそつな
く丁重だが、一面むっつりして何やら押し強そうな所がある。ぽつんと一人きりの気分にはまったりす
ると、ときどき死んだお舟のことを徳蔵は想い出すようになっていた。広い家の中をせせこましく立ち
働いている千代と鉢合ったりする時、遠い匂いをかぐような具合に、苦しそうだったお舟のつわり頃な
どが想い出された。もう少しでも母親に似て綺麗に生まれてくればよかったのにと思う一方、千代の器
量が要するに自分の容貌から損な貰い物をしているのだと気づくと、苦笑もされる。あのままでは飼い
殺しや、祖母の方の商売を嗣がせておいてやったら、まさかにああは女中染(じ)みまいにと徳蔵はすこし情
ない心地がした。姉さん女房で辛抱すると言ったら──、千代と弥一とを別家させ、徳介の仕事を肩代
りさせてみようか。
千代が何と言うか、弥一がどう言うか、徳蔵はそこまでの分別もせずに、仙に相談した。仙は徳介に、
徳介は藤に、藤は登代に告げた。その時分になると、井荻の家(いえ)中で噂せぬ者はなかった。
千代は動顛した。弥一の方も脣を噛んでむっつりしている。二人は家の内で出逢っても見苦しいほど
遠ざけ合って過ぎた。男が障子に貼りつくように歩けば、女は縁から転げ落ちそうに離れてすれちがっ
た。それだけでも皆はおかしがった。初や秀夫までが、「出戻りお嫁はん」とか「番頭はんの奥さん」
とか、憎まれ□をちっちっと水鉄砲のように吹きかけた。
七
千代に弥一を、という話が井荻の家中で表立ったのは昭和十年から十一年にかけてで、私が生まれ、
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阿以子が生まれようという頃に当たっている。
「ああまた恥かきやな──」
千代は思い屈した。どうなるのやろと思うと眼の前が白かった。立つことさえ怖いように、自分の部
屋にじっと坐ったままの日々がつづいた。
弥一に女のあったことが、やがて知れた。
誰もが驚いた。徳蔵も驚いた。驚いたあとで、妻にする女かどうか、いずれは別れる女なのかとでも
訊(き)いたであろう。弥一の返事がどうだったか私は知らない。女の名は佐和。弥一と同じ滋賀県の生まれ
で、二十六、七にはなっていた。一度嫁に行ったらしいが当時はひとり、小さな暖簾店を膳所(ぜぜ)の辺にあ
けていた。実家らしいものを何かの事情でとうから喪っている女であった。
別れるとも別れられぬとも、弥一はむっつり言い渋ったらしく、徳蔵にすれば弥一でなくてはならぬ
ことはなかったが、弥一でなくては縁づけにくい千代であった。弥一の親は、佐和とのことなど滅相も
ないと徳蔵の前でむやみと否定した。
佐和という女に逢おう。──それはもはや半ば徳蔵の酔興であった。
佐和は井荻徳蔵の話を聴きとってしまうと言葉ずくなに自分に異存はない、良いお話でとあっさり承
知した。弥一は主人のうしろでただ黙然(もくねん)としていた。
徳蔵は話の中途から女の身籠もっているらしいのに気づいていた。膳所まで出てきて、やんわり何か
に誘いこまれた気がする。まだまだ娘らしい匂いの、賢そうな佐和の額や唇が細い筆で描いたほどにき
りっと美しかった。にわかに疲れながら、ふしぎなものを見るように徳蔵は若い女の崩さぬ膝のかたち
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を見つめていた。
こうして佐和は昭和十一年三月一日、弥一の子を産んだ。阿以子と名づけたのは父親である。私生児
として届出られた阿以子は、母の沢辺姓のまま笠井弥一の認知を受けている。
父親は阿以子を溺愛した。けれど、阿以子ゆえに千代との縁組を反古にしようかと悩み惑うふうも見
せず、佐和には、それが弥一の我慢づよさとも図々しさとも受けとれてさすがに辛かったと、その程度
には娘に愚痴を洩らしたこともあったようだ。
弥一は井荻の勤めを退(ひ)けると毎日膳所(ぜぜ)へ帰って行った。下宿は断わってしまった。弥一と、佐和、阿
以子母娘とは、ほぼ一年の間だけ一つ家族として一つ家の内で暮したことになる。
阿以子にその一年間の記憶のあろう筈はない。記憶もなく、ただ教えられた事実としてだけの親子三
人の月日を過去にもつ空しさは、阿以子の□からそう言われてみると道理であった。だが、私の場合の
ように、単に事実としてすら生みの両親と一緒に暮せた日が一日もなかったのと較べたら。
「いや。あかん、あかん」
激しく髪を揺すり、むっと暗がりの方を向いて、こんな話をする時、阿以子はきまって泣いた。
──誰の眼にもぬけぬけと弥一は千代の婿に成り変った。事が定まってからも眉ひとつ動かさず、避
けていた当人同士も、男の方から従前どおりに戻して行った。急にからだも大きくなった。徳介が「福
助はん」と呼び始めた時、誰もが成駒屋ではなく、売り出しの足袋(たび)会社の招き人形を聯想した。鹿爪ら
しい表情まで似ていた。日が西山に入ってしまうと、「へ、御免やす」と腰をかがめかがめ帰って行く
のである。時にはその場に千代さえ居合わせた。膳所の、女の家へ帰って行くと知っていて、誰も冗談
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一つ言いかけられなかった──。
世にもふしぎな一年余が井荻の家内を吹き抜けた。皆がもうそのことにも馴れた。弥一の番頭ぶりに
幅も格も備わり、徳介も大概は「弥一に」と言うだけで用を足した。弥一はやっぱり「へえ、へえ」と
何処を向いても丁重に取りなし、千代一人が人知れず呆(ぼん)やりしていた。
八
十二年の春、千代と弥一は結婚した。女が三十四、男は三つ若く、家は本家からそう遠くない同じ通
に構えた。敷砂利に笹を植えた細い外露地を進んで、玄関脇の枝折戸(しおりど)を押すと苔の厚い庭になっている。
畳一つもある岩の傍に千両の二、三株があって、雪消えの時など殊に美しいと叔母に聞いていた。茶室
もあって、裏千家から来た「楽庵」の扁額が打ってある。徳蔵夫婦の隠居に用意した家であったから、
仙は千代たちが住むのに大不服だったが、徳蔵は「まあええわ」と押し切った。婚礼の支度などはみな
早川へ嫁いだ時のものをあてて済ませた。
徳蔵は千代を呼んで金がほしいかと訊いたそうだ。いやいやをして、千代はこの時しくしく泣いた。
徳蔵は立って地袋から掛物を一本出してきた。「ええもんやで、これは」と例の調子で注釈はするが箱
をあけて見せるでもなく、「そうと持っていきや」と膝がしらへ押しつけておいて、立った。桃の時季
だった。庭の隅に咲いたのと同じ花が床の経筒(きようづつ)に二輪三輪と妙に寂しく咲かせてある。千代は、父に頭
を叩かれた昔を、泣き泣き想い出していた。
佐和の方へは、縁切れの金ではないと但し書のついた金が届けられた。阿以子はまかり間違えば、井
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荻別家の跡をとらせる外(そと)孫だから大事に育ててもらわないと困る──、徳蔵の筆太なそんな小さな文字
が佐和の胸を熱くさせた。金と書状を届けてきた弥一は素知らぬふりで阿以子と気兼なしにふざけてい
た。千代の待つ家へ、「帰る」とも言わなかった。
──三十年ちかい昔のことである。どこまで事実を伝えているか確かめるすべもないまま、私は、弥
一を厭な男と思う。私の叔母が「旦那(だん)さん」と畏れているとは別の意味あいで私も弥一を見ると奇妙に
圧迫される。じかに関わりない相手だけれど、叔母の稽古場で、いろいろな茶会で、時には当の弥一の
家で、路上で、何度となく顔を合わせていた。「土佐光貞いうたら土佐派の何代くらいどっしゃろ、宏(ひろ)
さんに訊いといとくれやす」などと叔母は頼まれて来たりした。好みの方面のことではあり私も気安く
調べて返事した。
まむかえば、弥一は私を「宏(ひろ)さん」と几帳面に呼ぶ。稽古場で叔母と二人きりの時に私がひょいと顔
を出すと、必要以上に生真面目に会釈する。笑止にも叔母の方はへどもどして私を追っ払いたがるのだ、
私も早々に引き上げ、あれやこれやでいよいよ弥一を厭な男と思い屈するのであった。
千代の前で阿以子は佐和のことを「膳所(ぜぜ)のお母さん」と気兼なしに呼んでいた。千代は笑って相手に
なっていた。弥一も居合わせ、叔母とも一緒にこの私自身、井荻の家でそれを見聞きしたことが何度か
ある。だが、見たのは穏かな幾つもの微笑ばかりであった。
三十四、五の年から井荻の大きな屋台を弥一は熱心に支えた。徳蔵はとうから徳介に家督を譲り、徳
介は弥一に商いをあずけ、おっとり暮した。走狗(そうく)の如くと譬(たと)えようにも、どこか重苦しい弥一の取りな
しだったが、徳介や登代らには勿論、その子ども達にまで極く慇懃(いんぎん)で、礼を失うということはなかった。
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隠居の徳蔵や仙に向かってはあくまで使用人として、慎重な口をきいた。
昭和十三、四年頃からさすがに井荻の家も窮屈になっていた。非常時めいた世情の中ではぞろっと着
物も着て居れず、弥一はカーキ色の国民服を着こんで、「これからどないしてみなに食べさしていくの
やろ」と思いあぐねた。数あった家作も少しずつ手放して行った。それでも、徳蔵一代だけは豪勢にと、
弥一は気重な心配りをつづけていたのである。
十六年真夏に、楽庵井荻徳蔵は七十で死んだ。大戦争を知らずに死んだだけでなく、ただ一人、自室
の隅へうっ伏せに頭を突っこむふうになって、暫くは家人にさえ知られず、徳蔵は絶命していた。死ぬ
前に何をしようとしていたかも分らなかった。篤実な茶人、豪放な商人だったと、その死は悼まれた。
戦争が始まった。初や明子の通学に女中がつかなくなった。町内ごとに集まった国民学校の生徒らは
二列縦隊をつくり、班長の号令一下(いつか)歩調をとりながら、さくさくと校門を潜(くぐ)る時代がつづいた。私もそ
ういう隊伍にまじる年ごろになっていた。
阿以子の方は、膳所(ぜぜ)の母のもとから膳所の国民学校へ通っていた。
阿以子
九
去年の夏(四字傍点)、阿以子と逢って、千代の病気が陰気に黝ずんで来ていることを、私は改めて知った。
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つねから、寂しい花の一輪のように乾いた表情を白ませ何か虚(うつ)ろを覗くふうな千代には違いなかった
が、そんな侘しい脱落が最近目立って頻繁になり、顔つきも病的にしずんでさえ来た。それを想いあれ
を想いするに、「お祖父さんに叩かれはった時分からのことやないか──思うねん」と阿以子は言うの
であった、が。
再婚以来二十六、七年、弥一との間にも子どもはできなかった。昭和二十二年春早くに膳所から沢辺
佐和の娘を迎え、やがて井荻の籍へ移している。
早川の家を追われたもうその頃から、千代の、心には鬱陶しく澱(よど)みつづけるものがあった。そして、弥
一の方が商売上社寺の月釜や道具屋仲間内での懸釜の必要から、水屋手伝いを名目に登代や千代の幼馴
染で近所で茶の湯を教えている私の叔母を近づけたのは、阿以子が籍を移り、私は私で貰い子の境涯を
転校して来た美少女の顔や姿に推し量っていた時分のことかと思われる。
私は覚えている、あの終戦直後はどこでもそうだったが、ことに焼けずにすんだ京都へはつてをたず
ね、仮住居を求めてくる人が多かった。だが、私がはじめて見た阿以子は戦災者でも引揚家族でもなく、
「沢辺」という姓のまま井荻の別家へ養女にきた子だった。この私も学童疎開先の丹波から帰ってきた
ばかり、二人とももう六年生になろうとしていた。
卒業の半年ばかり前から、友だちは「井荻さん」と阿以子のことを呼んでいた。井荻の姓や人なみで
ない美しい顔かたちより、学校の五年、六年生にもなってから養女にきた少女の心を、私はふしぎだと
想った。どういう気もちだろうと想った。幼な想いにも阿以子を意識する私は、他の何にもまして、養
女、という一件を重く見ていた。
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終戦間際に分家では主人の保夫が病死した。ごて(二字傍点)後家(ごけ)と悪口を言われながら登代はほとんど本家に起
居し、老母と二人して徳介、藤の跡つぎ夫婦を牽制した。
阿以子が入籍した年、終戦の余紛も絶えぬうちに徳介が肝硬変で急死、同年の内に仙まで七十一で老
衰死してしまうと、井荻の内情も世代が改まって、むずかしいことになった。
本家では孫娘の初がしっかり者で、家の建て直しのために若い時分から責任めいたものを意識してい
た。父と祖母が続けざま鬼籍に入ると、母に代って諸事に意見を言いはじめた。初は伯母の登代をさえ
若々しい弁□(べんこう)で圧倒した。弥一や千代を「伯父さん」「伯母さん」とは呼ばずいつも名前で呼びつけ、
商売の始終に就き報告や説明を求めた。親族との無用の交渉も省き、旧い井荻の虚名より、とにかく世
の中が穏やかに建ち直るまで、新しい時世にふさわしく堅実に家を守り抜こうという意図であった。初
は頑強にそれを貫こうとした。
登代の息子は温和に本家のいとこを支持した。明子も旧家の澱みがちな薄暗い暮しぶりを好まず、母
のかどかどしい振舞には批判的であった。その頃から兄の方は医家開業を目標にし、妹は家を出て自立
しようかと真剣に考えていた。それ以外に登代の家族に新しい収入の途もなかった。
見たところ謙虚に振舞ってはいても、家へ帰れば自分より気らくに暮していそうで登代は妹にひがん
でいた。千代を「妾の子」と軽蔑してきた姉は、今は阿以子を「よその子」と平気で言ってのけるきつ
い伯母になっていた。
千代は頭(ず)を低うしていたが阿以子はそんな登代が赦せなかった。本家の初にも「よその子」と苦々し
く言い捨てられたことのある阿以子は、その初が二十三歳で銀行員の養子を迎える婚礼の日の朝、井荻
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の家をあっさり出奔してしまっている。
千代は当惑した。千代その人が嫌われたかと猜(さい)されもする。阿以子のようにはこの自分はできなかっ
た、そう思うと遠い物音に脅えるように阿以子を肯(うべな)ってやりたい衝迫もあった。心の中に筋の通った道
具立てがまるでない、ただ辛くて混乱していて、千代にはしんしんと寂しい阿以子の家出であった。
阿以子は、三年めに突如舞い戻ってきた。すでに若柳(わかやぎ)流に打ちこんでいたし、やがて茶の湯、活け花
の稽古に私の叔母のもとへ通っても来た。私が阿以子と身近な□をきくようになったのはその時以来で
あった。踊りの方は一年たたぬまに名取になり、家元が急に亡くなったかと思うとすぐ藤間流へ鞍替え
し、今では藤間鏡之祐と名乗って「雲隠れ、振附けてみたいねん」と言うほどのお師匠はんだ。二十八
になるが、頑として結婚すると言わない。
出奔中のことを阿以子は話そうとしない。述懐めいて言う時もあるけれど、細かな行跡は親にも一言
も洩らしていない。東京の地理に明るく、「寿介叔父さんが」などとふと言いかけたりするけれど、言
葉は京ことばのままであった。
そんな阿以子の□から、井荻の家へ移された当時の話を聞いている。
十
私が疎開先の丹波から京都へようよう帰ったのは終戦後一年余も過ぎた二十一年の秋、五年生であっ
た。そして、阿以子が母と一緒に膳所(ぜぜ)を出て、京都鹿(しし)ヶ谷の法然院で井荻千代に初対面したのがその師
走、二日のことである。
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千代は沈鬱な表情をもちはじめていた。そう人に注意されると慌てて、「なにお言やすの、いやどす
え」と大仰に手を振って見せるけれど、そこそこにその場を立って行く後妻の細うちんまりした感じが
弥一の気にかかっていた。暫くして、阿以子と「逢(お)おてみとおす」と言い出したのは千代であった。
「そうか、逢おてやってくれはるか」
それなら法然院でと自分から提案までした或る日の夫との会話に、千代はふしぎに安らいだ。法然院
でと言ったのにも、わけはあった。
井荻徳蔵は若い妾のお舟が死んだ時、母親の意に逆らって、墓所を妾宅からも近かったこの東山の静
かな寺に申し請(う)けていた。住持(じゆうじ)と懇意で、茶会にも好んで此処の茶室を使った。寂びた小間には由緒の
ある道具がよう似合うと言い、鹿(しし)おどしの音に鳥の声がまじる他は山風ばかりの茶庭の趣を、磊落(らいらく)な徳
蔵らしくもなく愛していた。
「ここはな、どうも木イやら草やらが多すぎて、木(こ)暗いだけやない何やもさもさとまとまらん感じやが、
そこが妙に懐かしてナ」
茶室のある内露地のたたずまいには、いつか父からこんなふうに述懐めいて聞かされた想い出が残っ
ている。父が使った懐かしいということばの味が千代にも分る。殊に山ふところに夕陽が映え、柿色の
みごとな木(こ)洩れ日が池みずや露を打った庭石のあちこちに落ちこぼれる時分の、足もとの浮かぶような
酔い心地の美しさは沈みがちな千代の気もちに瞬間ではあれ切ない恍惚感を与えた。
平常は陽もささぬ奥の見晴(みはらし)の間にまぎれ入って、そっと戸障子を払ってみると、西に吉田山が見え黒
谷真如堂の堂塔が影黒く光る。仏間には瑞々しい散華(さんげ)の香気が朱の直壇(じきだん)の翳(かげ)りの底から白く浮かんで、
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微光を吸った華鬘(けまん)や瓔珞(ようらく)のきらめきも物畏ろしげに仏界の異薫を内陣いっぱいににじませている。
あの父は、生母の墓参に千代を連れて行ってくれることはなかった。しかし、命日に自由に鹿(しし)ヶ谷ま
で出かけて行くのはゆるされていた。季節の花で墓前を浄め閼伽(あか)水をそそぎながら、渡る風の蒼澄んだ
声に佇(たたず)む時、ふっと父にうしろから名を呼ばれたこともあった。けれども、父娘(おやこ)は帰りは別々に井荻の
家に入ったのである。
「筒鳥は化仏(けぶつ)菩薩の喚(よ)ぶ音とも」と誰かの句にあった。萱(かや)で茸(ふ)いた総門を抜けでゆるやかな傾斜のまま
拡がった前庭を見下ろすと、甃(いし)みちの左右に真新しく砂絵を描き清めた砂壇が築(つ)いてあり、白寂びた石
橋(しやつきよう)が蓮の池に架かっている。睡蓮の凛々(りり)しい紅白に混ってあやめの色が鮮かに一輪眼を惹くこともあっ
た──。
想い出に酔いながら千代は水銹(みさ)び草のひろがるまま木暗く山裾へ隠れゆく池をながめ、また鳥の声を
聞く。化仏や菩薩に招かれたとも覚えぬ千代は、昔、父の相伴(しようばん)で一碗の茶を振舞われ、住持から「分荼
離迦(ふんだりか)」という地獄の話を聞いたことが忘れられなかった。
分荼離迦とは蓮の花のことで、この地獄へ来ると声あって「ここに蓮の池があるぞ、水は飲めるし涼
しい木蔭もあるぞ」と聞える。駆け寄ると路傍に大きな穴が無数にあって猛火が燃え熾(さか)っており、落ち
こめぱ全身は忽ち焼け失せ、焼け切ってしまうと生身(しようしん)は活きかえってまた焼き尽される。渇(かわ)きはやまず、
やっと蓮の池にまろび入ったかと思うと、池は紅蓮(ぐれん)の炎と化して微塵の隙もなく、限りない高みへ罪人
を吹きあげる。罪人は空高く焼き焙(あぶ)られて死に、また活き返って同じ苦患(くげん)を繰り返す。
住持は庭の睡蓮の美しさから、座興をそえる心入れもあってか千代の方へ殊さらにこの話をして聞か
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せた。
「怖がることはないのやで。怖がる前によう考えてみないかんことがある。あの橋の上へ、これからは
ぼやっとは立てんで」と、住持は徳蔵の顔も見合わせてはっはっと笑った。徳蔵は正法(しようぼう)念処経というお
経の名を神妙に訊ねていた。それ以来、方丈の襖絵も、椿庭の古樹も千代の眼に厳(いか)めしく残るようにな
った。恵心僧都(えしんそうず)作の弥陀坐像に一■(いつちゆう)の香(こう)をたく時も、何か遠い世界の喚(よ)ぶ声を虚(むな)しく聞き入れようとし
てはみたのであった。
そんな帰るさに見入った睡蓮の池は事もなげに静かだった。夕陽の色に惹かれ、顧みに赤松の秀(ほ)つ枝(え)
を振り仰いだ時、それが一筋のあやしい炎かとも千代は幻惑された。すでに翳となった甃(いし)の上を行く父
に小走りに寄って行きながら、分荼離迦(ふんだりか)の映像がいつかただ寂しい夕明りの記憶へ薄められる日の身の
上の幸(さち)を祈らなかったか。だが、侘しい半生の営みは、身に熱塊(ねつかい)をおし沈めるばかりの過ぎこしをただ
千代に想い起こさせた。
渇きに耐えず蓮の池へひた走るということさえできなかった。幻をさえ見ず、我から我が表情の黝(くろ)ず
むことを知った千代は、弥一の控えめな□添えをしおにして、沢辺佐和と娘に逢ってみようと考えるよ
うになった──。
久しい間、佐和のことは考えた。想像した。鬱屈した幻像は時に鋭く爪を立てて千代の胸を圧(お)してき
た。夫は我がものと頼む思いがすでに空しく、むかし早川の家で寂しかったのと趣変って、弥一のあく
まで鷹揚(おうよう)で叮嚀な日常なのを素直に悦べぬ不快が蟠(わだかま)っていた。逢ったこともないのに、我と我が心よ
りもどっしり、いつももう一人の女が手触り強く千代の中に坐っていた。ただの一度も弥一に理不尽を
69
咎めたてたことのない腑甲斐なさが、留守をする夜は体を焦がしつけた。
それなのに憎まないできた。怨めしかったが、運がないとも思った。憎み切る気根の枯れているのも
千代には分っていた。時を送り時を迎え、それは生きている証(あか)しかは知れぬが、意志の方は関わりなく
枯れてゆく一枚の病葉(わくらば)のように無力だった。
測りがたい何ものかのちからに千代は自分の定業(じようごう)を説明させようとした。母を貫き子に流れた痛い閃
光のようなものを感じた。その光が自分のからだに飛びこんだまま何処かへ消えてゆく途を探しあぐね
ている。佐和──という人に逢ってみよう。夫とその女の仲に生まれた阿以子とかいう娘の顔を見てみ
ようと千代は決心した。ずるいとも鈍いともつかぬ弥一の表情に眼をそむけながら、決心などと呼ぶに
も当たらぬほど即座に心はそこへ奔(はし)った。千代はそろりと仏壇の前に立った。軽いめまいがあった──。
当日、佐和たちより早く来て生母の墓前に跪(ひざまづ)いた千代に、いつもと変らぬ蒼白い山の風が冴えた。
冬の日ざしが墓石に鈍んでうすれる。供えたくとも十分花のない時世であった。凍(こご)える手で存分に水を
漱(そそ)ぎかけながら、この母の倍も年を重ねたことを思っていた。母の倍も苦しく生きてきたか、それは分
らなかったけれど、母より寂しい半生を顧るのは何にともなく怨めしく哀しかった。失ってしまったも
のの小さな影が、哀しみにかぶさってくっきり浮かぶのが何処かに見えていた。涙を吹き散らすように
風が頬に当る──。蓮の池には薄い氷が浮いていた。
十一
──大津から乗って来た京津電車は、あの日、三条蹴上(けあげ)で阿以子らを下ろした。
70
石だたみの坂道が蒼暗い山かげをかすめ抜けて三条通へ広々とうねっていた。師走の風は遠慮なく佐
和の着物の裾を翻(ひるがえ)して路上に渦を巻いた。
南禅寺の境内から永観望のわきを抜けて行った。山茶花(さざんか)を何度も見た。
法然院では大杉が無残に空をさえぎっていた。木洩れ日も葉さやぎも、淵の底をほそぼそと辿る心地
にはよそのものであった。杉落葉も枯れ笹も凍てついていた。墓地の方から追いすがってくる真白な寒
気に、思わず母娘は足を早めた。立ちどまって、佐和は脅えたふうに阿以子の肩に手を置いた。母の足
もとから走るように日のうすれるのも阿以子は見た。
この時、佐和が三十六歳、千代は四十三歳であった。阿以子の印象では、千代にくらべて膳所(ぜぜ)の母の
若くちからのある表情が目立ったためか、案内された小座敷に通って、さて蒔絵手焙(てあぶり)を中に対(むか)い合って
いるのが奇妙にちぐはぐな居辛さだった、という。方丈寄りに、春蘭の間、芳菊の間、老梅の間、脩竹
の間などとつづくその一間に初対面の三人は入ったらしい。茶席のある、奥の見晴(みはらし)の間あたりで謡曲の
稽古仲間らしい晴れやかな声々がさすがにしみじみと寺内に流れていた。当時終戦あとの街々の荒寒な
表情と想い較べてみて、凄いような別世間がこの清寂の浄土寺(でら) には、あった。
りおらくがん
阿以子は初めて抹茶というものを喫(の)んだ。寺紋を捺(お)した落雁(らくがん)のざらっとした甘い舌触りのあと、寺僧
の運んできた赤い土茶碗に脣をあて、苦い泡を阿以子はそうっと吸い切った。
千代の眼は小さいながらきらきら光っていた。阿以子の顔を見て、その光る瞳は笑うような哀しいよ
うな素早い感情の満ち干(ひ)で、間断なく揺らいだ。落ちつきのない動揺ではなく、澄んだ、賢い判断が自
分の額の上を幾度となく往来したように阿以子は覚えている。
71
子どもを前にして大人たちはさほど多くを話すこともなかった。髪のきれいなこと、姿勢の佳いこと
を千代は愛想らしくほめてくれた。顔をしわにして人なつっこく眼がわらう。そんな千代が、心もち猫
背にも見える撫で肩をしていた。阿以子は真直ぐ千代を見てときどき簡単な返事を自分でした。話が跡
切れた時、奥の謡い声が一きわ高く聴えてきた。阿以子にも、それが声を合わせての念仏かのように聴
えた。ふと思い思いに心を寄せながら、佐和は「お静かで──」と、□の中で呟いた。
「あれは、隅田川……」
千代は直ぐそう言って、きゅっと□を結んだ。あれは隅田川、と言った千代のはっきりした口調に阿
以子は惹かれた。小さな顔が小さいまま凛と光り、佐和はなぜか黙って頭を垂れていた。
その日、阿以子は大人たちの言うまま母と別れ、千代と一緒にはじめて父の家へ行った。
父は寛いだ恰好で阿以子を待っていた。膳所で見る父とはまた違った笑顔だと咄嵯に感じながら、す
こしだけ固くなって三人で静かな夕食をした。厭とか窮屈とかいうのではなかったが、父の顔がまとも
に見づらく、いっそ千代と二人だけならいいと阿以子は思った。
次の日には、父と一緒に母の家へ帰った。
京都と膳所(ぜぜ)とを好きなように往き来すればいいこと、寝泊り自由のこと、ただ追い追い井荻の義母や
家にも馴れて、年明けた新学期からは京都の小学校へ転校することなどが決められて行った。阿以子は
なるべく平凡に尋常に納得しようとした。
本家へ挨拶に出たのは、年初めの或る雨の午後であった。一つの傘に入れて千代が阿以子を連れて行
った。
72
病臥という程でないにしても、めっきり仙は弱っていた。「ご挨拶させとおすよって」と言うと、老
人は寝たままでふいと眼をつむり、それから急にぱっちり瞠(みひら)いた眼で千代をにらんだ。退ろうとすると、
登代、徳介、藤にも来てもらえと言いつけた。
「えらいべっぴんえなあ」と一番に言われて千代はふと心はずんだふうにそれへ応えたのだが、阿以子
はほめられたと思えなかった。「あんたがおいでやした時と、えろ、ちごたある」と露骨に仙は千代の
顔を見た。寄っていた大人たちは□をあけ笑った。仕様がなさに千代もわらっていた。嘲弄の声音は幼
い阿以子にさえ、いやに明快に響いた。
「これで、あんたもお母はんの気イがよう分らはったやろ。えらいめぐり合わせやな」と登代が言った。
仙は厭な顔をして「もうええが」と向うむきになってしまい、思い出したようにそののままの姿勢で、
「その子、唖(おし)かいな」と不機嫌に吐きすてた。慌てて千代は阿以子を見はしたが、挨拶せよと命令する、
母親らしい意地がなかった。
「こんにちは」
大人は大きな□をあけて笑った。仙は向き直って灰色の眼で睨みつけた。
笑い納まらぬうちに駆けこんで来た初が、「なんや、こんな子おかいな」と立ったまま言い放った。
本家の跡嗣ぎ娘を首だけ向けて見返し、「なんや平たい顔しょって」と阿以子は憎々しくはしたなく思
っだそうである。「こんにちは」とまた繰り返した。大人はもう一度笑い、初はむっとなって出て行っ
た。
──千代は鹿爪らしく眉を寄せて阿以子の顔を覗く。そして、我にかえったように軽く首を振り照れ
73
てにこにこする。そんな笑顔が少女のように見えるのが千代の表情の数少ない美点なのだが、それも砂
地に吸われる撒(ま)き水のようにみるみるうすれて、ぽかんと表情がゆるむ。眉がしぼんで千代は泣きそう
になってしまうのである。
阿以子は千代に起こされて眼ざめ、千代のつくった朝御飯を食べる。千代に送られて学校へ出、千代
にお帰りと迎えられる。夕食はよく二人だけで向き合って食べた。「お母さん」と呼ぶことにためらい
はなかった。時には「膳所へも行っとあげやす」と言ってくれる。阿以子は遠慮しなかった。井荻の母
と膳所の母とを一つにして二つに割ったもの、それが自分、という考えを阿以子は自身にしつらえて行
った。父への厭悪(えんお)が芽生えていた。
十二
そして──、井荻明子に源氏物語を借り、薄暗い部屋の隅で耽読(たんどく)していた頃から、少年のたわいなさ
ながら、大人の世界を品■(ひんしつ)しつづける隠微な視覚が着実に私の中で育まれていたのだが、この視覚が漸
く焦点を結びはじめたのは、あやしい挿話に纏わられて私の(二字傍点)「雲隠」の巻に源典侍(げんのないしのすけ)が惑い出て来た、
あの時、であった。あの時(三字傍点)のこと──を話そう。
阿以子が若柳流の名取披露に連獅子を踊ったのは、飄然と井荻へ舞い戻って来てのまるで挨拶代りの
ようなものであった。叔母と一緒に招かれていた私は、ちょうど一年前のことを、想い出していた。
舞いも踊りも見るのは好きだが、自分でできるのは盆踊り程度のものである。その盆踊りも、敗戦あ
74
との数年ほどは異様なまで流行したものであったが、大学へ入る頃にはさすが祗園町(まち)の盆踊りも寂びれ
ていた。十時をまわればさっと散ってしまう。だが祗園をはずれた二、三の町内ではそれでもきまって
まだ踊りの輪も重々しく、道いっぱいに渦巻いていた。更けるにつれあちこちから踊り飽かぬ若者たち
が合流して来るので、顔触れだけであの町内はもう終ったらしいと分る。阿以子の町内が、と言っても
その年同以子は家出して行方(ゆきがた)知れなかったのだが、こうした盆踊り行脚(あんぎや)の熱っぽい終着駅の一つだった。
その晩も私はあちこち踊りまわって最後にここへ辿りつき、半ばもう足を引きずりながら奇妙なリズ
ムを追っていた。暑さしのぎに、見る阿呆の人垣もまだびっしりだった。その中に、千代がいた。
軒をかすめるほど踊りの波をかぶるのが千代の家ではこの時季の約束事だし、気のいい千代は、時に
は門前へ氷を割ってざるに用意してくれていた。のぼせた者は、そこまで来るとちょいと氷のかけらを
さらって頬張る。
私を見て千代が笑っていた。照れてふと仕草を忘れ、うしろから押し出された。近所の人と一緒に千
代はもう一度ころころ笑った。
「家へ入って汗などお拭きやす。つめたいもん、つくったげますさかい」
やんちゃ坊主をあやすように千代は私を見上げ、肩そびやかし気味に私は外露地をのそりのそり千代
について行った。主人は留守だった。
家の内は用のある所に小さな燈(ひ)があるばかり、外の騒ぎが奥めいて届いてくるだけに静かさと暗さが
幾重にも折り重なり、物の隈(くま)を底籠もって見せていた。植木の足もとで、燈の色を受けた草の影が重っ
苦しく黝ずんだものの塊りに見えていた。戸障子を思いきりよく払って、部屋の四方は御簾(みす)囲いにして
75
ある。部屋の内一つだけ点(とも)した小さな電燈へ、古い家の広いすみずみからくらやみが迫って来るように
見えた。
千代は私を残しておいて、廊下の向うへ引っこんだ。
縁づたいに、となりの座敷へ入ってみた。
立派な仏壇。時候柄で、燈明もあがり、ほおずきや南京(なんきん)、なす、トマトなどが輪花(りんか)の盆に盛ってある。
燈明のちかちかせわしなく描いては消す影絵の色は、臆病な私に奇妙な緊張を強いた。
ふっと気圧(けお)されて振りかえった。すこし離れて千代の顔があった。
柄になく燈明になど見入っていたことで照れていた。照れて部屋を出ようと踏み出した時、かん高い
声が私の方へ「ぼん」と呼んだ。飲物の入ったコップが受皿の上でかちかち音をたて、黄色い液体は千
代のからだと一緒に暗い翳になって傾(かし)いだ。思わず私は、すくんだ。そろそろと近づいて来る足どりが、
眼つきが、さっきまでの千代とは思えなかった。
「どう、しやはったん」
私は上(うわ)ずったままあと退(じさ)った。踊囃子がどっと遠くでにぎわい、千代の小さな影がゆらゆら揺れてい
る。膝から震えが来そうで私は千代の両肩を圧(お)すように揺すった。顔は見なかった。
コップが落ち、土ほこりで汚れた足のうらにジュースの冷たさがつっと来た。千代の眼に生気が戻っ
たかに見えた。私をちらと見上げ、ふと硬ばった表情を背けるとつかまれた肩の手を邪慳に払いのけ、
小走りに千代は仏壇の前へ両手でもつきそうにへたっと坐った。正気なのか──、背筋を固くして私は
佇立(ちよりつ)していた。
76
どれほどの間(ま)そうしていたのだろう、凝(じ)っと仏壇の奥を見ていた千代が伸びあがるように腰を浮かし、
そろ、そろと、そしてすうっと右手を燈明の方へ出している。骨ばった小さな手のかたちが燈の色を吸
って黒い影を添わせ、生き物じみてゆらゆら仏壇の奥へ伸びてゆくのを、私は見た。横顔は動く手と無
縁にただ白い花一輪のようにさめていた。
一目散に玄関をとび出した。踊りの渦を突き崩す勢いで私はめちゃめちゃに家へ走っていた。真夏の
夜空が黄金(きん)色にまたたいて、この時、あの源典侍(げんのないしのすけ)の妖しく狂い舞う姿を私は幻覚した──。
その後──も、千代とは隔てなく話している。が、もう腰の低い気のいい笑顔の千代だけが私の頭に
あるのではなかった。
一年過ぎ、秋と呼ぶ頃から叔母の稽古場で阿以子と親しい□をきき合うようになっていた。美貌の阿
以子の心に、千代を見てきたあの眼つきで何となく針を沈め沈めようとする私は、師走に入ったある稽
古日、濃い宵やみの中へ阿以子を送って出、その足で少し歩いてみようかと誘った。
辰巳橋から暗(くら)がり町(ちよう)へ抜け、縄手からまた白川ぞいの石道を戻ってくるわずか十四、五分の寒い散歩
のあいだに、私ははじめてあの「雲隠(くもがくれ)」の着想について喋った。創作舞踊に意欲をもっている、振付け
の勉強もしたいと、阿以子が、茶室で稽古の合間に言っていたからである──。
だが、沈めたつもりの針はもちろん何物も阿以子の心の底から釣りあげられそうになかった。阿以子
はただ歩き、話し、快活に笑いながら私に送られてそのまま、家の前まで戻った。
「寄って行きよし──」
ぐずぐずとつられて私は外露地まで入った。表の門燈と内玄関との間が廊下のように遠く、くらかっ
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た。ためらって、めんどうになって私は帰りたくなった。
「帰らはんの」と、阿以子は低声(こごえ)になった。
「内侍(ないし)のすけ、どや。振付けてみるか」
かすれた声で囁くと、うんと額いて阿以子は寒そうに肩をすくめ私を見た。傍の笹がかさかさ鳴るだ
けで表の通を行く人もなく、露地塀ごしに両側の家の迫った濃い弱の向うに、夜空が深くのぞけていた。
「寒いなあ」と言いながら阿以子の肩に手をかけ、つっと前かがみに寄ったと見えて、私は無器用に女
の肩を抱き、眼をつむってコートの下の乳房をつかんだ。鞠(まり)のように掌(て)を圧しつける温かなはずみに逆
らうと、阿以子は梢を揺するような息を吐いて、固くなった──。
そのまま、一人外へ出た。
十三
典侍(すけ)の挿話をなぜ咄嵯に「雲隠」の巻に集約する気になったのだろう、この不審が或る時私をふと衝
き動かした。千代によりかかっての発想なら、そして、どこかで自分を光の君に倒錯させてのものなら、
殊さら光死後の場面、葬(はう)りの日の哀傷などと結びつく必要はなかったのである。考えもせず気にもとめ
ていなかったこんな詮索をはじめたのは、阿以子を宵やみの露地で坤(うめ)かせたその翌春のことであった。
その春、叔母は社中のために知恩(ちお)院の白寿庵で稽古釜を懸けた。
当日は雨あがりで、木の間がちの庭もあかるく、障子をはらうと隠水(こもりず)がきらきら光って来客の嘆賞を
誘っていた。私は結城の銹び朱に仙台平(ひら)の袴を着け、水屋と庭とを宰領した。阿以子も客に乞われて何
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度か庭に出てカメラに納まっていたが、疲れると仲間たちにまじって何となく私のそばに坐っていた。
翌日学校の帰り井荻へ礼に寄った。前の日千代夫婦はもちろん早々に白寿庵へ足を運んで、殊に弥一
は水屋から席中まで仔細に見まわり、私にも幾つか助言してくれた。
「お疲れやしたやろ──」
さあさあと千代は私を上へあげておいて、遠くから朗かにねぎらってくれた。
「二階に、おいない」と阿以子は誘った。髪を黄色いスカーフでくくりあげ、化粧前の顔に血の色がさ
している。昨日と見違えるさらりとふだん着の阿以子もめずらしく、セーターの胸もとが、手を髪にや
ったりする時、新鮮に眼を射た。
父親にねだって二階の八畳と六畳とを踊りの稽古場に改造した話は、弥一の親馬鹿とも阿以子の賛沢
とも叔母の□から聴いて知っていた。手前の六畳には衣裳ダンスなどに押し狭められて半間の床の間が
あり、もう花菖蒲の絵短冊がかけてある。春めいて、特徴ある印象画伯の署名までが暖かに見えた。袋
に入った三味線は隅に立てかけられ、撥(ばち)ははだかで床の間に置いてあった。
阿以子は手早く脱ぎ置きの羽織や足袋を蔵いながら、「どうえ」と呼びかけた。が、何が「どうえ」
だか、咄嵯に感想も浮かばない。
「レコードの調子、えろ、わるうてなあ」と所在なく阿以子は蓄音機の蓋をとった。
未練がましくピックアップをいじったり電源のぐあいを見ている阿以子の横で、私はレコード針の容
れ物を掌にのせ物珍しげに針をつまみあげていた。まるみを帯びて鋭くとがった小さな金属が、何かの
武器ほどに簡潔に美しく見える、と、うっかり阿以子の頭が下から私の手をはねあげた。針は生きもの
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のようにざらっと稽古場の板の間に光った。金属性の容れ物だけがからんとぷざまにはねかえり、針の
一本一本は静かに日光を射返しながら、絵のように動かなかった。
阿以子はベロッと舌を出した。
静かだ──、針を拾いながら添い寄るように阿以子をうかがった。たっぷりある髪が耳を隠し、リボ
ンにせめがれた豊かな前髪のすぐ下に小さなにきびが一つ二つある。
拾い拾い、言ってみた、「明子さんも結婚したし、こんどは阿以子ちゃんの番やな」
返事はなく、阿以子の息づかいと細い指さきとが、光る針の一本一本に誘われるふうに近づいていた。
素足で、板の問がきゅっきゅっとこすれた音をさせた。
「あたしはね、言うときますけど結婚はせえしません……。ほんまえ」
「ほんまえ」と阿以子は両膝を揃えてついたままの恰好で、えらく念を入れた。「わかったか」「わか
ってや」と阿以子の眼がそう言い切ってからも私を見据えて動かない。その顔を同じ恰好で見ていたが
得体の知れない波に尻を押され、「わあっ」と声をあげて私は阿以子の頬を両掌でおさえた。
乱暴のつもりはなかった。「阿呆」とくらいは阿以子に言わせたかった。
だが阿以子は動かなかった。はらいのけてくるはずの阿以子の手が、私の両掌に顔をあずけた重みで
前へ流れた。耳を蔽っていた髪が今度は私の手へ崩れてくるのも構わず脣を額につけた。
むりな姿勢のまま阿以子は下から私の眼をのぞいた。光る眼が言葉を喪って、阿以子は無表情に美し
かった。眼をとじさせ、ふるえる唇に唇を重ねた。ちからを籠めて掌を女の胸にあて、眼を明けたまま
私は阿以子の片頬を平手でぴたぴた叩いていた。
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ものすごい音がした。物に当たって散乱する音だった。
──はっと、離れた。
千代の真白なちいさな顔が、生首を据えたように階段の下からぬっと出ていた。双の瞳(め)のぽっかり虚
ろなのが、どんな叱責の罵声より怖ろしく何かを管めていた。だが、花の咲かないから(二字傍点)の植木鉢のよう
に、その瞳は、陽ざしの中で、死んでいた。
去年の夏
十四
今晩もう一度逢おう──とそう阿以子がきめた場所は、奇妙に青やいだ木屋町の喫茶店であった。青
いのは天井や壁の色でなく、ゴムの植木があちこちに立っているからだと、阿以子のつくづくの話に耳
を傾けながら思っていた。テーブルのすぐそばにも立っている濃い色の平たい葉を、つまんだり放した
り、阿以子の話はもう何年もの昔、あの怖かった茶会の翌る日にさかのぼるより、なかった。話は、ま
たも去年の夏(四字傍点)のことである。
発作が来ると千代は頭をかかえ畳にもぐりこみそうにして、もだえるという。かん高い叫び声をあげ、
軟らかな小虫のようにからだをまるめこむ。尻をあげ頭をぐいぐいと畳へこすりつけてゆく。弥一や阿
以子をはじきとばす位のちからが千代の昆虫のような姿勢には籠もっていて、からだに手を触れると痛
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みと言っていいほどの感じがあると阿以子は言った。
この最近の侘しいような義母の放心、発作の連続につけても、骨が綿になりそうな疲れが阿以子を襲
った。憂鬱だった。昼間、白川ぞいでたまたま出逢った時から、阿以子は、この話を私に聴いてほしか
ったのである──。
医師である分家の秀夫は千代をヒステリイと診断していた。千代が自分で言ったそうだが、ピンポン
玉みたいなぐりぐりが、ばねに引かれるように胸さきがら咽喉もとへ突き上げてくるという。秀夫がそ
れ以上のことは言わず、投薬と処置とで千代を鎮めておくのは、何故ともなし、いかにもご大家井荻ら
しいやり方ではないかと私は聴いた。
千代は、欝積させたもののそのとぐろの複雑さを実演して見せるかのように、発作がくるとからだを
巻きこむが、やがて耳を蔽わせる罵詈(ばり)をとめどなく吐き散らす。怨み募られるのは主に分家の「後家」
であった。弥一はその後家の息子に手当てを頼むのをどんなに遠慮しただろう。秀夫は千代のために自
分の母親を手厳しくたしなめるのだったが、却って千代の病気を評判にしてしまった。
たまたま私の叔母も同座の或る時、発作が米た。弥一は千代を阿以子にあずけ、追い立てるようにい
わくのある叔母を玄関まで送り出したというが、阿以子からそれを聴いて、ああやっぱりあれ(二字傍点)も加害者
の一人かと肌寒くなった。
病気がはっきり現れたのは、阿以子が家出の直後からであったらしい。家出そのものが当人の言葉ど
おりに信ずるなら本家の初との衝突が原因だったし、千代の発作も初のせいだったと阿以子は強調する。
その話をすると「長(なご)なるさかい」と一度は□ごもりながら、結局は辛抱できそうになく、最近とくにひ
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どく繰り返される発作もやっぱり初の仕打ちが千代を動顛させるからだ、と附け加えた。
聴きようでは、千代をかかえての愚痴でもあったし、本家への憤懣にも聞えた。どちらであっても、
千代の発作といい、初との間の悶着といい、久しい私の不審や関心に直接に響いてくるものがある。阿
以子がはっきり千代の側に立ってものを言うのであり、それには、ただの身びいきを超えた理由が何か
ある、この私に聴かせたい聴いてほしい理由とて、多分同じなのであろうと私は思った。沈めて置いた
昔の針に、今、獲物がかかっていた。
「時間、かまへんの」と阿以子は、あの夏の晩、うかがうふうに私を見た──。
阿以子は本家へ挨拶に出た日から初に反撥した。初は六つ七つも年嵩であり、よそ向きには気配り賢
く人当たりのいい方なのだが、内へはとかく一族を率いる眼で身構えずにおれない立場にいた。祖母ゆ
ずりの毅(つよ)い気性と潔癖もあずかって、阿以子を軽蔑するという以上に、阿以子の出生をさえ穢く思うら
しく、弥一の押し強さにひしがれた伯母の千代までも、初が好くわけはなかった。
阿以子が家をとび出した時、初は千代を面罵した。「井荻の恥」ということばも当然のように出た。
万々承知だった。頭をさげる以外にない、千代には佗しい一方の阿以子の出奔事件だったのである。
その時初はこうも言った、「ちゃんとした家(うち)のちゃんとした娘はんなら、こんなあほな真似おしやす
やろか」それから、「ちゃんとした親の気もちいうもんは、あんたらに分らはらへんやろ。あんな子お
の気もちゃったら、あんたもよう分らはるのやろけど」
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千代は泣いた。
その晩、帰ってきた夫の顔を見るなり、玄関ちかい小座敷で、はじめて千代は烈しい発作を起こした
という。
初が何を意図して「ちゃんとした家(うち)」とか「ちゃんとした子」とか言ったか、それはよく分る。が、
その思惑どおりに千代が手ひどく傷ついたことは、もっとよく分る。
初は指摘し、千代は素はだかにされた。屈辱は阿以子に及び、この私へも、阿以子の苦い述懐を透(とお)し
て薄暗い翳はさしていた。
十五
ちゃんとした生まれでないにしても千代自身の咎(とが)ではなかった。ちゃんとするもしないも父と母とが
結婚していたかどうかに帰する。阿以子はそう断定する。結婚という約束事の方が当人たちの気もちや
人柄以上に、ちゃんとする、しないを決めてしまう。良いか悪いかではない、動かし難いそれが世間の
きまりだと認めねばならぬことが阿以子にはこたえた。世間が介添えして約束事を保証しないだけのこ
とではないのか、何か測り難い不公平があるのではないか。少なくとも妻という名の女が生んだ子はち
ゃんとした子、よその女の生んだ子はちゃんとしない子と、生まれながらに生涯を仕分けられるのは、
これは不公平に違いない。阿以子は自分と千代との微妙な生まれの違いを意識して秘かに慰み、そんな
ふうに慰む気もちに哀しい卑屈さを思い知った。
自分の場合、父のあの選択が一切を決定したと思う理由が阿以子にはあった。千代の母はたしかに妾
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であったし阿以子の母はそうではなかった(四字傍点)のだ。それならこそ、徳蔵と弥一との違いからは却って妾遊
びをしているのではない弥一の方に意識を洩れた鋭い病勢が見える、平然として傷つかない虚ろな欠落
がある──。
阿以子は父を赦さなくなった。お父さんこそ気ちがいと違うのやろか、と、阿以子は呟くのである。
千代の錯乱を驚きはしても、千代を喰い荒すすだまは弥一に見えなかった。千代にもまた阿以子に対
してすらも弥一は「ちゃんとした」別の心の戸籍をもっていたのだ。弥一は傷つかず、千代一人が心も
からだも黝ずみ朽ちてゆく。千代は、もう耐え切れないのか──。
千代の発作を私は二度見ている。くらい想像と不審とはやはりそこから拡がった。
階段から首だけぬっと出していた千代の顔が埴輪の眼ほどの空虚な空洞であったことは怖い想い出に
相違なかった。レコード針を踊り舞台に撤さ散らしたあの春(三字傍点)のことだ。
「お母さん」と阿以子はあの時悲鳴をあげた。後ろ手についた私の掌に拾いこぼした針の一本が突き立
った。はじかれたように私も阿以子のあとからかけ寄ってみると、千代はまるで舟ばたに錨(いかり)をかけたよ
うにぎゅっと両手の爪を階段の途中に喰い入らせて、硬直していた。わずかに、耳をくすぐるようにか
ちかち歯の根を噛み合わすのが聞えたが、千代か阿以子か、私自身なのかも知れぬまま阿敏子の震える
声に励まされて私は千代を抱え、一段一段階下(した)へ運んだ。飛び散った茶と茶碗のかけが危く、掌の血が
背から抱えこんだ千代の胸もとに気味わるくにじむ。その気味わるさには、一瞬触れた千代の胸乳の奇
妙なまるいぬくみも、軟らかにまじっていた。
手早くのべた床に枕をはずして寝させたが、何かのはずみで千代はごろっと俯伏せになったかと思う
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と、枕でも腹にあてがった恰好で背を高くまるめて動かなくなった。「おばさん」と呼び「お母さん」
と叫んで両方から肩に手をかけたが、千代は一言だけ「ぼん」とうめいて、やにわに阿以子の手を引き
寄せて噛みついた。この人は正気や、と思い、そう思いながら私は「お医者はん呼んで来るわ」と玄関
へとび出した。
分家の秀夫は「それは──」と言った。「あんさんはもうけっこうですよって。どうぞ引きとって下
さい」と附け加えるのを忘れず、鞄一つ提げた下駄はぎで表通りをかけて行った。血ですこし汚れてい
たが、まるで歯がたを探すふうに私は道の真中で自分の掌に見入っていた。
盆踊りの夜の経験から私の「雲隠」を着想し、千代の妖しい錯乱をしたたかに想い描いた私が、この
二度めの経験で確かめたことが一つだけあった。二度とも千代が「ぼん」と呼んだことだ。誰なのだろ
うか、私でさえ二度や三度は人から「ぼん」「ぼんぼん」と呼ばれた覚えはあるけれど、千代自身はと
うの昔から「宏(ひろ)さん」「宏(ひろツ)ちゃん」と言い馴染んでいて、「ぼん」とは呼んでいない。私のような者を
「ぼんぼん」呼ばわりは見当ちがいなのである。
それなのに今度の錯乱も阿以子ゆえというより、私ゆえのように思えた。ただいくらそう思えたにし
ても、それ以上に進める想像と言えば、せいぜい私の(二字傍点)「雲隠」程度なので、千代がこの私に執着しそう
な筋合いのあろうわけは何もなかった。
阿以子が踊りの方で忙しくなり、やがて茶の湯の稽古へも跡絶(とだ)えがちになると、私も具合がわるくて
井荻とは疎くなって行った。その翌年にもなると同じ大学内で妻と出違い、半年たたずに結婚を約束し
ている。阿以子への食欲に似た情念がさっぱりと乾いて、むしろ井荻とも阿以子ともおよそ違った新鮮
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な妻の方へ、無二無三に奔っていたのである。
そしてもう、何年──になるだろう。
東京で逢おう──、思い寄らぬ約束ができたのも、木屋町の喫茶店でだ、去年の夏(四字傍点)のことであった。
約束には重苦しいそれまでの気分を吹き散らしてみたい、はしゃいだ調子があった。阿以子は時計をの
ぞいて、急に立った。十時ちかかった。またしても、千代は私を誰かと取り違えていたのではなかった
か、と、つられて立ちながらそう想いはじめた。仏壇の前ヘベたりと坐って、千代はたしかに何にとも
なく手をのばした、あの時のあの怖さが私の胸に生きていた。阿以子と話しつづけるうちにも、頻りに
千代に秘密はないのか、と、私は訊きそびれていた。
家へ帰ると、むろん娘は二階へあげられて寝てしまっていた。父は奥の間で露わに広い胸を見せ暑苦
しそうに宵寝しており、母と妻とはちんと澄まして二人でテレビを観ていた。
妻は、顔はテレビヘ向けたまま席を立ち黙って茶を湯呑へ注いでくれた。よく冷えた茶が、めまいほ
どに見つづけてきたどす黒い血渦の映像をいっとき静めるかと思った。妙に安心して、テレビに見入っ
ている妻の黒い眼を横からながめながめ、私は茶を飲んだ。
叔母がいつものように出稽古の井荻から、戻ってきた。阿以子の顔を見てから腰をあげてきたらしい。
暫く世間話をするうちにも、叔母は懐紙(かいし)に包んだ松屋の干菓子などを出して、妻にすすめた。
「お千代はん、どないやの」母が訊いた。
「はあ今日なんか、ちゃんとしとるのえ」
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ああいう病気は先が読めんよってと叔母は何でもなく返事した。千代は明年が還暦で、「あてお祝い
にお茶会さしてもらいまひよか。宗匠その節はよろしう」などと、冗談にもそんなことが話題になった
と言う。
「大変ですね、でも。そんなふうに倒れはったりしやはっては」
京ことばと東京弁とをまぜこぜに妻が叔母の方へ向いた時、叔母はもう、もそもそ立ちかけていた。
「何不自由ないやろに、なんでそないに、ヒスが起きるのやろ」と母は皮肉そうな□つきをしたが、そ
れにも答えず、ただいかにも暑くて大儀という調子で「よいしょ」と、膝の辺を手で支え、叔母は重い
尻をあげた。
おやと思った。訊きかけて、やめて、この時になって或る疑惑が翳を濃くした。
裏の離家(はなれ)へ引っこむ叔母の尻について私も部屋を出た。
明日には東京へ帰って行く私は、例によってからだに用心しろとか、表の父や母とあらがうなとか、
疲れるほどの仕事はするなとか、きまったことを叔母の前で喋った。叔母は聞くともなくゆるゆる床を
のべており、私は次の間で見ていた。
「お千代はんて、──なんで、子どもできなかったの」
虚を衝くように訊ねた。一瞬、だが返事がない。
はずされた間のわるさが変だった。わざと間を埋めようとせず、狭苦しい穴蔵じみた叔母の部屋のが
さつなたたずまいに強いて眼を据えていた。この暑苦しいのに、よれよれのぼろっ切れを木の葉かずら
みたいに身にまとうのと変りない乱雑さで、叔母は窮屈な部屋に床を敷いていた。ぶらんと下がった電
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燈は、そんな動作に余念なげな叔母のかげになったり現れたりする位に低く、多分床の中から叔母はこ
の低い電燈のさらに垂れたソケットの紐をあやつって点滅させるのであるらしい。次の部屋の暗い中に
坐って、私は叔母の行儀のわるい肥満体を執拗に見ていた。顔が明るくも暗くも見える──。
叔母は立ち働きながら黙ってちょいと私を見た。血のかよわない若い甥に、ちまちまと意見されて鈍
重に生返事をしていた六十姿のしんきくさい眼でない光る眼が、ちいさく、ふっと逸(そ)れて行った。ちか
りと感光する一瞬が奔った。
十六
千代には子があったのである。あったと言って間違いなら、子を産めぬからだでは、なかった。四年
余りの早川幾太郎との結婚生活で子宝に恵まれなかったのが千代の咎でなかった証拠に、昭和十二年、
弥一を迎えて間なしに千代は妊娠していたのである。
千代にも、千代に告げられて慌てた弥一にもそれはあまりに早々と来た。早過ぎた。千代は顔をしか
め、「どないしまほ」としおれたそうだ。嬉しそうにというよりは奇妙に滑稽な頼りのない顔つきであ
った。かすかな甘えが思わず脣(くち)をすぼめ眼をしばたたく、あの貧相な癖を誘っていた。男の方は早過ぎ
る不面目ばかりが先立つ思いで、我が身までうとましかった。別れてきた佐和や娘への遠慮がある、新
しい主筋の妻のこうも早い妊娠が気恥ずかしく気重くも感じられる。もっと露骨にはやはり井荻中(じゆう)の蔭
□が迷惑であった。
弥一は厭な顔をした。千代は黙りこんだ。ふしぎと片づけてしまうには気味のわるい話だが、人に気
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づかれぬままに胎児は流れてしまった。人手を頼まぬ不運な流産に夫一人がほっとして、妻はそうでは
なかった。その後、妊娠ということが絶えた。
千代は泣くのを覚え、弥一は知らぬふりをしつづけた。そして、泣かなくなった千代が或る日、膳所(ぜぜ)
で育っている阿以子を、引きとってはとぽっつり夫に言いかけた、という話へつながる。
男とも女とも知れぬみず児であったが、千代は男の子と考えているらしく、阿以子より一つ二つ年少
の少年の存在を信じたがった。似た年恰好の私がそんな千代に或る場合特別な興奮を惹き起すことはあ
り得たかも知れない。仏壇に小指の先ほどの金無垢の大黒天がおさめてあって、千代はなぜかそんな小
ささに顔も見なかった子どもへのいとしさを覚えるらしく、一人きめに大事がるふうであった。阿以子
が見つけてお守りに財布へ入れようとして千代を仰天させたこともあり、その場は弥一がうまく取り繕
ったので、阿以子はまだ義母の秘密に気づいていない──。
「あれは、隅田川……」
千代はそう言い切り、佐和は頭を垂れたと阿以子は話してくれた。法然院での、初対面の時のことだ。
阿以子には母二人のやりとりが分っていない。聴いた私も分らず、ただあの法然院の清寂を貫きひび
いたであろう、η残りてもかひあるべきは空しくて、あるはかひなきははきぎの、見えつ隠れつ面影の、
から、ワキが出て、η今は何と御歎き候ひても、かひなき事。ただ念仏を、御申候ひて、後世(ごせ)を、御弔
ひ候へ、などの条(くだ)りを物凄げに想いやったものだが、育(ほぐく)みそだてるべき子を喪って、我が為にはあだし
女の娘を引きとろうと決心した千代と、そうと知った佐和の神妙な応対とを今想像してみると、この隅
田川の情景は紛れようなく二人の気もちそのままであった。
90
阿以子の話では佐和は極く近年、教団に入信し独特の強力な布教にも熱心だと言う。阿以子はそれも
疎ましくて膳所へ足を向け渋っているそうだが、千代が千代の傷口を吹き曝して来たように、佐和にも
娘を棄てた傷手(いたで)は疼くのであろう。心の闇路に娘をたずね歩く一人の母の崩折れがちなからだを支える
細い杖となって、薄ら寒い信仰がかぼそく役立っているかも知れぬことを、阿以子はすこしも気づかぬ
ふうであったが。
「生まれのひがみと産みのひがみいうて弥一つあんも言うたはる」と叔母は喋った。まったくやという
調子だった。千代の惹き起す面倒が増せば増すほど、弥一は妻の悲しみをただの愚痴としてよその女に
喋り散らすのだろうか、喋っている叔母の顔が気味わるかった。
来年は還暦だから茶会でもさしてほしいと千代はかりにも冗談の言える様子だった。だがその冗談に
さえ重苦しく濃いくまどりが幽気を沈めているかと想われる。六十年を経て安らぎたのしむ還暦の祝い
ではあるまい、本意(ほい)ない□惜しさで泥まみれの過去の中へのめりこんだまま、生きながら我が身を葬る
べき一の墓碣(ぼけつ)を標する、哀しい一期(いちご)の一会(いちえ)に他ならない。
「どうえ、あんた、ちいと手伝うたげなはいやしと上機嫌で叔母は私をさえそそのかす。いっもなら母(おも)
屋の兄嫁を謗(そし)って愚痴一方の叔母の□から、こうまで聞くだけのことは聞きすてて表へ戻りながら、私
の腹の中は悪態とも満足ともつかぬ騒がしさで落ちつかなかった。
一時過ぎまで老父母と話しこんだあと我々の部屋へひきとってしまうと、妻は直ぐにすうすうと寝入
った。
燈を消したあとの闇へまじまじと眼を見開きながらうつつに奇妙な幻を私は見ていた。何匹かの魔鳥
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が毒々しい長い首の先の鋭い嘴で仲間の鳥の気味わるくくねった尾に噛みつき、噛まれた奴がまた別の
に噛みついて怖ろしい輪になり、ぎゃえぎえっと喚(おら)びながら真赤な虚空をぐるぐる飛ぴめぐっていた。
閻婆度処(えんばどしよ)という地獄に住む閻婆鳥は嘴鋭く炎を吐き、罪人を捉えて空中高く上がりさんざん弄(もてあそ)ぶと
眼くるめく地上へ叩きつけるそうだ。象ほども大きいその閻婆は五彩の羽根と鉄の脚を持っており、ま
ともに見れば眩(まば)ゆさに眼を灼かれるというし、喚声を聴けば腸も砕け恐怖は三世に及んで消滅しない。
この魔鳥の怪しい輪廻(りんね)のさまにしんから脅え脅え私は怖い夢に落ちこんで行った。
暗やみにまたふと眼醒めたらしい時、猿すべりに似た木の上に、白い砥の粉を練ってからだ中に塗っ
たような、猿ともつかぬ獣が血膿(うみ)の溜った眼を怒らせ、むっとうずくまっているのを見た。総毛だつ心
地で枕もとの燈をつけた。妻も娘も安らかな息をもらしていたが、部屋の隅にはうごめくかげが感じら
れ、怖かった。あれが、あれが千代を喰い荒しているすだまなのか知れないと、幻覚の生々しい血の匂
いにまた脅えた。寝苦しいままの朝あけが訪れた時、私の肌は汗で冷いやりしていた。
──東京へ帰っての日常は、泥まじりの砂地をまろぶようなものであった。ただ仕事、仕事で何も何
も均しなみに汚れて、その汚れの早さに驚いてみるさえ稀だった。井荻のことなども、遠い火の手をか
えって美しく望み見るに近かった。
阿以子はそれでも約束どおり九月半ば過ぎた或る日、青山から会社へ電話を寄越した。
次の十月には都合で二度上京してきた。二度めの十月二十八日が月曜日で、その前の土曜日の午すこ
し前、私は思いも寄らぬ藤木瑶子の温和しい声をデスクの電話で聴いた。いつか私の嫁にと思ってもい
たらしい叔母には大事の弟子、私にも可愛い妹弟子だ。短大出の友だち何人かと奥日光や尾瀬を旅して
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の帰りがけであった。私はちょうど退社間際だった。
瑶子たちは宵一番の下り特急券を用意していて、時間までめいめい都内を自由行動することに決めて
いた。前以て手紙を出しておこうと思う一方、吃驚させてもみたくてと言いわけになりながら、「よか
ったわあ。東京の真中イひとりほり出されるとこやった」と電話口の向うで肩をすくめるらしかった。
御茶の水まで来てもらって、そこから二人で妻に電話をした。
慌しかった。二時前に娘の「瑶ちゃん、いらっしゃあい」に迎えられ、そして妻に「大切に送ったげ
てね」とウィンクされて家を出たのが四時半であった。
郊外電車から夕燈んだ向うの方に巨きなガスタンクの球群が見える。あれは晩になると草色に照明さ
れてまるでメロンみたいなんだというと、「そう」とだけで引き寵もって、やがて瑶子はちかぢか婚約
することになりそうだと話してくれた。
「たのしかったわ。おおきに……」
瑶子はそう言って地下鉄の人ごみにまぎれ、からだごとそっと寄って来た。横顔が眼をとじたふうに
見えた。東京駅では、仲間の人らを遠くに見つけてから、別れた。
「さいなら」瑶子は真顔で手を出した。
そっと手を触れ、「今度京都へ帰っても、まだ顔が見られるのかな」と思わず言った。
「はよ帰って来てや。東京なんかやめて、もう京都へ帰って来よし」
瑶子ははっきりそう言い、「迪子(みちこ)さんとアコちゃんによろしう」と京娘らしいお辞儀をした。
翌々日私は渋谷の道玄坂を歩きながら阿以子にこのことを喋った。嫁に行く日の瑶子の、さぞ美
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しかろうことを、ことばを選び、選びながら。
その直後だった、ほのぐらい宿の一室で阿以子は惜しげもなく、初めて、真白に脱ぎすてた。
きれいなからだに波が騒ぎ、かすかに潮の香にまじって魂消えそうな風の音が流れた。やがて──浜
をはなれ、遠い山なみをゆっくりながめながら、ぱちんと指をはじいて誘惑者は、黙っていた。
雲隠れ
十七
「誰の絵」
廊下づたいに来た妻が、帛紗(ふくさ)ばさみと茶席扇を手に横にならぶ。槙の木かげの青く澱(よど)んだ水の色が、
蔽いかぶさる金泥(こんでい)の下へ底暗く沈んで行くのを、「あんなの、隠水(こもりず)って言うのかしら」
思いも寄らぬ雅(が)なことを妻は言った。
白いアンサンブルの衿もとを紅い玉で飾り、横顔が心もち澄ましていた。今まで茶室で脚を折ってき
たせいか、或いはその隠水とやらの色の青さのせいか妻はいつもより頬に血色を浮かべていた。古い寺
のがっちり目のつんだ古畳の上へ私たちの影法師が短く並んでいた。
狩野光信の槙と海棠の絵を見ながら想像していた埒もないつくり話をして聴かせた。
「そんなの、うそでしょ」と微笑(わら)い、それでも妻も襖絵に見入る。
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「そうか、隠水(こもりず)か……」私は、隠水などということは考えてもみなかった。
こもりづの 沢いづみなる石根(いはね)ゆも 通しておもふ 吾が恋ふらくは──
妻のブローチが際立って紅くなまなましく見えた。阿以子のことを私は考えていた。
──この日法然(ほうねん)院を訪れた私たちは先ず奥の見晴(みはらし)の間へ通って、誰の書なのか、半畳敷もありそうな
「壽」の大字を見た。井荻千代還暦を祝う意味とは知れても、墨痕淋漓(りんり)のぴんぴんはねた筆づかいに半
ばは呆れて私は脣を歪めた。吉田山を遠い背景に、桜色の花吹雪が何処へともなく散り乱れるのが床前
に佇んだまま見えた。
茶室へ通ってみると、”明けぬれば夜深う出で給ふに、有明の月いとをかしう、花の木どもやうやう
盛(さかり)過ぎて、僅なる木陰のいとおもしろき、庭に霧渡りたる、そこはかとなく霞みあひて、秋の夜の哀(あはれ)に
多くたちまされり”と、春暁を叙した紫式部の文章を鳥丸光広卿が書き流した掛物が、先ずみごとだっ
た。やや黄ばんだ本紙に、濃い藍地に金彩の蔓唐草を配した中(ちゆう)まわし、天地は笹地紋の素白(そはく)の錦で花梨(かりん)
の軸、露は紫という、いかにも亡き父から貰って秘蔵してきたらしい清潔な香りのする一幅、それへ白
い苔(つぼみ)の青葉草に茶がらを挿し合わせたあの弥一出世を物語る青磁の徳利が、ものを言っていた。
千代の挨拶は神妙だった。
正客をつとめる私の叔母も人の違ったような水際だった□上を述べた。だが笑止なことに叔母が賀の
祝に思い至ったのは、露地、待合の用意から花曇りのめでたさを「御一統様」に相代って麗々しくほめ
あげた、その後だった。「今日はまた──」と、年かさの叔母が千代の還暦に無精らしく会釈するのを、
次答の登代や藤はむずかしい顔をして聴いていた。
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「アコちゃんは」
千代は末座の私の妻にそう娘のことを問いかけたきり、さっさと水屋へ隠れてしまった。
入れ代って菓子を運び出してきたのが藤木瑶子だったので「まあ」と妻は呟いた。にっこりと、温和(おとな)
しく小座敷の薄明りに瑶子は白足袋の爪先をしなわせた。煙草盆を据え、金銀でたっぷり万代草(ももよぐさ)を粗(あら)描
きした火鉢の横へ干菓子を盛った一閑の五角盆がならぶと、もう三畳の茶室にはあいた畳がなかった。
藤木の家は井荻とは近所づきあいで親しくしていたし、瑶子は叔母の大事な弟子の一人であったから、
こういう際の手伝いには極く自然なのだが、妻が声を出したのはいっこう阿以子の影がささぬからでも
あった。だが私は知っていた。阿以子は、京都にいなかったのだ──。
「お母(か)はんの祝いやいうのに、あれは何しとんのやね」と席半ばに登代は今さららしい口叱言をぶっつ
けたが、千代は何となく取り合わない。叔母があれからそれへと愛想を言うのにも、へえへえと微笑を
含んで頭をさげるばかりだった。
夜桜棗(なつめ)も逸品には違いなかったけれど、眼を瞠(みは)らせたのは、艶(えん)な取合わせにまじって粗末にさえ映る
楓の茶杓だった。肌黒い削りあとも鋭くて銘は帰去来、井伊直弼が埋木舎(うもれぎのや)の時代に差添(さしぞえ)で古木に切りつ
けて作ったというが、張りつめた祈願の如きものを杓のかたちが表していて、それは花ひらく春の想い
にもふさわず、長次郎のくすんだ黒茶碗にもふさわず、染附(そめつけ)の芋頭水指にもふさわしくなかった。ただ
お道具拝見を周旋する千代の白ちゃけた骨の浮いた手が触れた時は、まるで短剣のように茶黒い木肌が
ぎっと眼に来た。だが点前(てまえ)に出ている瑶子が何より美しかった。透けて出そうな桜色の匂いが華奢な指
さきからにじみ出ると、黄伊羅保(いらほ)の茶碗も無骨な茶杓も急に優しく見えた。ちょっとした点前(てまえ)のつまず
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きに私たちの方へ小首をすくめて見せる瑶子は、千代にまっわって行く妄想から何度も私を救い出した。
妻がそっと膝で押す。つつしみ深く示されたかすかな嫉妬を神妙な顔つきではずし、私の気もちは思い
のほか揺らいだ。
私の席からは水屋にいる弥一の息づかいや二言三言の低声は聞えたが、当人は、顔を見せなかった。
立派な道具ごしらえに瑶子の初々しい奉仕を添えて、この夫婦はいったい何を考えているのだろう。茶
室を出てくる時もそんな不審が解けぬまま、そのあと、しびれた脚をさすって、椿の庭に日の洩れるの
を見、私は私なりにお目当てにしてきた二の間の槙海棠図を観に来たのである──。
岩に根ざした海棠が小さな葉と花のある枝を水辺へ拡げている。水は影も映さず重く澱んで流れない。
私は考えていた。妻は、だぶん瑶子の点前のことより阿以子の不在で何か訊ねるに違いないと。知らな
くて差支えないことだった。だが私は知っていた。私だけが知っていた。隠水という雅なことばが聞え
て、私は席中のはなやいだ想念を呪術にかかったように忘れた。
阿以子は深刻には考えてない、と、そんな当てずっぽうがあった。男のずるさ、とは言うまい、この
私のずるさがそう思わせていて、それがさすが胸もとに小さな傷□となっていた。蒼黝い水のひそみを
隠水(こもりず)と言われて忽ち古歌を喚び寄せた私は、歌の一徹さに苦々しい女の喘ぎを聴きとめ、その時、もう
或る傲慢さが心にきざしていた。
十八
千代の茶会が実現しようとは考えてもみなかった。阿以子もわざとなのか何も喋らなかった。この三
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月末になって、やがて新しい年次休暇の貰える四月初めには京都へ遊びに帰りましょうと妻はさっさと
母に手紙も書き、退引(のつぴき)ならぬまでの約束ができていた。千代が法然院で四月十一日に釜を懸けるという、
叔母の便りが念を押すように届いたのも同じ頃であった。それでもまだ、まさかと思っていた。
あれ以来、渋谷の宿以来、阿以子と何度も逢っていた。くだくだしく書けば書くで疎ましく、気の滅
入る後日ばなしがつづくわけである。情念には烈しさも美しさもなかった。恋という気組みが私にはな
かった。阿以子ほどの女がなぜこんなことに執(しゆう)しているか──。扇の形に敷布にひろがる髪の色や、の
けぞって行く胸の上の双子星のような黒子(ほくろ)を他所(よそ)事めいて私はながめた。
いろんなこと、殊に千代や弥一について私は聴き出していた。さも、それが阿以子と逢いつづける大
切な用件ででもあるように。だが、要するによそわれた話題であり、聞きようによってはもっとみごと
な音色を女の□はひびかせる。恋は無感動に萎えていたが、柔らかいベッドには柔らかいなりのぬくみ
もあって、月に一度のそのぬくみを待つ、心地は、特別のご馳走で迎えてくれる夕食のようにたわいなく、
しかし愉しいものであった。あの微妙な近親感さえ薄れて、ただ、伸び切ったゴム紐みたいに、からだ
の一部分だけがかなりの面倒くささもまじえて阿以子を待っている──。自分の気もちが物の形を見つ
け出すように定まって行くにつけ、これでは弥一の異様さとまるで違わない、なるほどわけも分らない
が分りようもない役立たずな男と女との味気なさってあるものだと、私は思った。
その四月九日という日に──それはむろん一昨日(三字傍点)に、ということになるがまた阿以子から電話が来た。
唐突なのは例のことだが、次の日には家中で京都へ発つ用意をしていた私は、あさって(四字傍点)の茶会で気ぜわ
しいはずの千代のことを想って、こんな時に上京してくる阿以子がふと不快だった。阿以子の含み笑い
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だけでその電話は切れた。青山まで車をとばす間のもう宵明りの街の景色などが眼の前に水絵のように
髣髴した。いっそ不機嫌そうに私は声の跡切れた受話器を置いた。
根津美術館の裏みちに沿って霞町の方へふと折れた小路の奥に薄青い門燈を隠すように柳が糸を垂れ
ている。阿以子は暗い路を物影を縫うように近寄ってきた。白っぽいハイヒールがつつと動くさまは、
こうした時に奇妙に欲情をそそった。
疲れが残るのである。どこかでからだが触れ合っている、ただそれだけのことが気(け)うとくて、互いに
ぽかんと天井を見上げたり枕スタンドで青白く掌を透かせてみたりして過ごすことになる。そして唐突
に、くるりと俯伏せになった阿以子が、あの(二字傍点)「雲隠(二字傍点)」のはなしを始めた、振付けてみたいという。意外
だった。
阿以子は古い昔の私の思いつきを、よく覚えていた。機嫌を買おう話題かと訝(いぶか)しむ心地もあったが、
「置き」は、枯野の秋の寂しい道を涙ながら都へ戻って行く人や車のしめやかさを、所作や台詞なしに
唄で流して置いて、などと興がってもちかけられると、私も「よいしょ」と腹這いになってあごを両掌
で支えた。典侍の「出」から「くどき」にかかるところはそう難かしくない。頭中将をどの辺で登場さ
せてから「語り」になるか、語りの部分はもう過去へ戻っての幻想場面にするか、「踊り地」をたっぷ
りとり、「散らし」にかけて幻想のまま溶暗(ようあん)にするかなどとついつい調子に乗ってしまったのである。
ηかなはぬ物憂さに、かなはぬ物憂さに、見っけきこえて恨みんと、夕立あとの宵まぎれ、
鎹(かすがい)も錠もあらばこそ、我や人妻君を待つ殿戸(とのんど)の内はささがにの蜘蛛(くも)の行ひいちじるく──。
詞(ことば)こそ工夫したことはないが場面だけならすぐ想い浮かべられる。いつか私だけが喋っていた。阿以
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子の黒瞳(め)がじっと横から見上げているのにはっと気づいた時、そんな瞳(め)をどこかで見た気がした。両手
を伸ばして阿以子は私の首をぐっと抱きこみ、汗ばむことのないさらさらした腰から脚を絡ませてきた。
思いきり、まるい乳房をつかんだ。
「──葬(はふ)りの日、花はさかりの日ざしかな」
こんな句があるそうだと言って、阿以子は上手に湯を使いながら、「雲隠れの方は秋やけど、うちの
お母さんのは花盛りやろな」とはしゃいだ声を出した。ふと、言っていることの意味がつかめず、わざ
とばしゃばしゃ湯ぶねの湯をはねて返事をしないでいた。そして間を置いて、先刻から何度めかになる
軽□を私はとばした。
「ほんまに悪い奴だよ君は。茶会の手伝いくらいしてやるもンだよ」
阿以子の声がはね返ってきた、「うち、子ども──産まな、あかんやろか」
黙った。蛇□からポトッボトッと落ちる雫の音が湯気の籠もったせまい浴室に重っ苦しくひびいて、
二人とも息をのんですくんでいた。
「──まあ、やめとけよ」
「うん。あさって病院へ行くことにしてきたんえ。美乃ちゃんが連れてってくれる言うねん」
と、阿敏子はもう尋常な声をして、停まっていたフィルムがまた動き出したみたいに、せかせかとまる
いかかとを石鹸でこすりはじめた。美乃ちゃんというのは、この近くに住んでいる阿以子の友だちの女
優の名まえである。
阿以子ははじめて私に抱かれた時、女としての作法も十分に知らぬらしくみえた。それでいて用心と
100
いうこともしなかった。二度、三度と注意したが、放埒というのではないにしても、どうだっていいと
阿以子は考えているとしか思いようがなかった。「妊娠して面倒なのはお互い様だよ」と言っても「え
えがな」と取り合わず「子どもは産まへん」と定(き)まったことのように言う。「産まへんて、産めないか
らだだってことか」と訳き返すと、「ううん。産まへんということやが」と断言する。何万年もの昔か
ら紛れなく滴(したた)りつづけてきた糸のような一本の血筋を今自分のからだにつなぎとめている。「自分さえ
頑張ってそれを指の隙間から洩らさなんだら、こんないやらしい、しようもない生命(いのち)たらいうもんをま
たしても誰ぞに引き嗣がいて済むのやもん」と阿以子は言った。「子どもつくるのえらいみたいに言う
たはる人ら、自分のしてはること、よう、わけ分ってはるのやろか思うわ」とも言った。誰かに引き渡
しても大丈夫と何十万年もの血渦の重さに責任がもてるのならともかく、せいぜい我が身一つに握りし
めてしまうのが精一杯の功徳とも言えそうな、ろくでもない生命を正気で子どものからだに生みつけら
れるものだろうか──。
生みつけられた出来損ねの卵が、辛い思いで成長して、その挙句、生み損ねた卵のことで半分狂って
しまったのだから、還暦もへちまもあるわけなく、死んだ卵の冷えきった殻を抱きながら、そういう自
分の一生を生きたまま葬ってやる儀式みたいな井荻千代の茶会に、何がお祝いの、何がおめでたいのと、
考えれば可哀想な思いつきではないことかと、阿以子は義理ある母について苦いことばを□走っていた
が、阿以子が家元勤めを余儀ない□実に逃げてきた東京で、千代の茶会とちょうど同じ日に、私たちの
子を葬り去ろうとしているのを、この私は、この私は、それを面白い暗合だ、と感じてもいた。暗合で
も偶然でもあろうはずがなく、それは阿以子の冷笑の演戯なのであろう。それならそれも面白い、と私
101
は思っていた。
偽悪のポーズを自分に強いたのではなかった。だが、滑り落ちてしまったように、あの時、湯気の中
で私に惑乱もなければ感動もなかった。むしろ、白いはだかのまま脣をひき緊めぎゅっぎゅっと手拭い
を絞っている阿以子の胸乳の尖(さき)が、まだどこか私の官能を喚び醒ますらしいのを感じていた。触ってみ
たくさえあった。
十九
妻は襖絵に気をとられて何も訊ねなかった。すっかり分散した気分で、遠太鼓に囃されるような苛ら
立ちを私は覚えた。仏殿に凝(じ)っと坐っていた時も、芳香をたたえて直壇(じきだん)を荘厳(しようごん)する二十五の牡丹花を讃
嘆する妻の無邪気な声は聴き辛かった。
老梅の間で振舞いがあった。
そこへ行く廊下の手水(ちようず)鉢に、青笹をぴんと張った艶やかな樋がかかっていた。「佳(い)いなあ」と言って
振返ってみた妻の□もとが器械のように動いて、突然阿以子のことを訊いた。うっと詰まって「さあ」
とも、私は言えなかった。
老梅の間は広くない。飾り気もない。白麻を青糸で綴じた寺院らしい座蒲団に、ほっこりしたふうな
大人たちがもう坐っていた。
ここで登代の□から面白いはなしを聴いた。今日の茶会に千代は先夫の早川を招く気があった、とい
うのである。
102
早川幾太郎は実は極く最近まで東京のK大学で教鞭をとっていたが、去年の暮に自動車の事故で死ん
だ。私も新聞で見知っていて、正月に阿以子と逢った時にもその話をした。むろん早川から井荻へ挨拶
あほ
のあるわけはなく、千代はまして知らぬことであった。何の気なしに本家の藤に希望を洩らして「阿呆(あほ)
お言(い)やす」と叱られついでに義太郎はもう在世しないと教えられた時、千代はぽかんとした顔で「そう
そう」とか「ほんに」とか呟いたという。
登代はそこまで喋って「まあどういう気やろ」とからから笑ったが、ついて笑う者がなかったので今
度は阿以子の不埒を、また、あげつらいだした。
千代の容態は悪くこそあれ軽快の兆しは何もなかった。茶会の亭主役を勤めるなど、事柄が客あしら
いだけに誰にも滅相もなく思えたが、平常な時の獅噛みつくような神経で、きっと息張って希望する千
代の執念にまず弥一が気圧されてしまった。極く内輪のうすうす様子も知れている人たちだけを招くこ
とで用意は進められてきたのだが、まかり違えば主人公抜きの茶振舞いになるか知れず、それを気づか
って弥一は思いきってみごとな道具揃えに念を入れたとも聴いている。
当日の点前となるとかんじんの阿以子は、稽古をつんできた藤木瑶子と違い、あまり役に立たない。
それにしても母親の賀の祝に手伝いを怠っているのを阿以子嫌いの登代たちがここぞと咎めるのは当然
であった。だがさすがに藤も叔母も尻馬に乗らず、登代ひとり、腰をかがめかがめ改めて顔を出した千
代の方へずけずけと話を蒸し返す。
千代はしかし、ひょっこり頭を振った。それだけであった。登代の調子を外らすような無意味な仕草
の中で千代の頬があいまいに歪む。心もち落ち窪んで淡い隈(くま)の入ったその眼を覗きながら、あの阿以子
103
のからだから今しも流れ落ちる血糊の如きものを、私は想っていた。
田ごと(三字傍点)に仕切った縁高(ふちだか)が運ばれた。
□取には、桜いか黄身ずしに瓢箪飯蛸(いいだこ)を合わせ、竹の子の木の芽和(あ)えが添えてある。
大徳寺納豆を酒でもどして辛味を抜き、鯛の薄づくりで包んである。碗豆(えんどう)御飯に花見団子が添えてあ
る。
吸物椀は、葛たたきの車海老にへぎうどのすまし汁で、やはり木の芽が添えてある。
菱岩の真新しい杉箸が添えてある。
これはこれで何と優雅な点心だろうと思う一方、ちようど今ごろ、私も知らない東京の産院のベッド
に上がっている阿以子の、孤独な硬い表情が私一人の胸の底へぎゅっと来て、離れない。
「踊りのお稽古の方がえろ大変や言いましてな、どうしてもお家元へ顔出さんならしまへんのやて」
思い出したようにとぼけた挨拶を私に仕かけて、千代ははじめて言いわけめかしい顔をした。私は私
で気味わるく、登代は機嫌をそこねて「そんなばかなことて、あるやろか。なあ」と吸物椀を片手に箸
も置かずとなりの藤を肘で突いた。
「美味(おい)しいのねえ」と妻が場はずれた挨拶をはさんだ時、瑶子が大きな盆に香煎(こうせん)の用意をして来た。千
代は瑶子もここへご馳走を運び出してお相伴をするように言い、ついでに私たちの娘のために縁高の一
つをお土産に包んでもらうよう水屋へ伝えさせた。
「なんでアコちゃん連れて来てくれはらしまへんの。大きならはって、可愛らしおすのやてなあ」と千
代は三里下がったお愛想を妻に返した。
104
弥一が挨拶に出た。千代とならぶと小牛ほどある足袋の福助型の弥一が両膝に手をかけ、肩を張った
恰好でかしこまると、藤原という婦人はご馳走のお取り合わせが本当にすぱらしいですわと挨拶を戻す。
「いつもの菱岩とちごてますなあ」と叔母が通(つう)がれば弥一は無愛想な顔つきのまま、「淡交の去年の春
の号でしたかいな、出てましたんや。まあそっくり真似てやらしてみましたんどす」と種を明した。
「いやもう千代は豪儀なもんえ、還暦やくらいで、こないなことできるのやさかい」と登代がまたきつ
いことを言いかけたが、にっと千代はうつむき、弥一も「へえ」とだけで才槌(さいづち)頭をそっぽへ振って、とり合わなかった。
瑶子が自分の縁高と吸物椀を盆にのせ、そろりと歩いてきた。
長く黒光りのした廊下を踏んでくる瑶子の袂(たもと)が揺れ動き、椿の庭に朱い花びらが幾つも朱く散り落ち
ているのも見えていた。
一時から四時という極く短い案内で、もう三時半をまわっていた。客も絶えたようすで、「大神宮さ
んのお手伝(てツた)いに較べたら、うんとらくえ」と瑶子はわらう。叔母の懸釜で、寺町の大神宮祭を手伝わせ
られると、まず朝から晩まで二百と下らぬ客につづけざま茶を点(た)てる。私にも覚えのあるちょっと懐し
い大神宮の名が、瑶子との久しい親しみを自然と想い起こさせた。
「お式、きまったの」
妻にこごえで訊かれて瑶子は朱くなった。
「この秋に」
□の中で言うらしく、私は聞かぬふりをした。
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二十
法然院の下を流れる疏水べりの桜がわずかに盛りを過ぎて、花曇りの空からときどききらきらと陽が
洩れていた。この陽ざしの中を、幼な顔を光で透き徹らせて赤ん坊の魂がたゆたう影となり昇天してい
る時分であった。だが、こんなミュートスじみた想像にはなじめない。無気味に冷え切って一つの細胞
が細胞のまま土の底へのがれて行くだけ、それを葬(はふ)りと呼ぶのは感傷というものである。この半日、幾
分かは居ずまいのわるい自覚があっただろうか、歩きながら私はそれを考えてみた、銀閣寺へ足を伸ば
しての戻り道で──。
振舞いのあと叔母は残って手伝うと言ったのである。来るべき客はあらかた来て、もう仕舞う時刻で
あった。相客と別れ、門まで見送ってくれた瑶子に礼を言って私は妻と二人門のわきの木暗い石のだら
だら坂を下り、山辺の道を銀閣寺まで抜けて行った。
人の多い時候のわりに、いつもながら御茶の井にながく足をとめる者はない。月待山のふところに抱
きこまれた枯山水(かれさんすい)の岩組の下から、冬の月のような岩清水は孤独な表情を動かさなかった。□をつけて
私はその月の光を噛み砕いた。四っばかりの女の子がひょっこりそばへ来て、「つめたいか」と唱うよ
うに訊く。妻はそちらの方へ気をとられ、私は私で赤土の山肌から山の上へわけもない視線を送りなが
ら、阿以子のことを想っていたようである。
銀閣寺の庭は好きだ。募ってくる奔放な興奮がある。乱暴な感じさえする。銀閣の上層を細い柱一本
が片側を支えているどきどきするような不安。山も近すぎる。厚顔なほどである。始末のわるい音楽を
106
辛抱して聴くうちに噴き出てくる身じろぎを伴ったあの興奮。
咲きのこりの桜も多く、銀沙灘に散り乱れた花びらが目に立った。「ここで観る桜って、案外佳(よ)くな
いのね」と妻は断定した。たしかに花は乱暴なこの庭の空気に奇妙な妥協を強いていた。桜は桜なりに
美し過ぎて、心もち荒っぽくなっている気分になじまず、気味わるく惹きこまれるように阿以子はどう
しているかと気にし始めていた。私は、殊さら強い□調で妻の衿もとの、血の色したブローチを見咎め
た。
結婚できなかった男と女の苦痛に較べると、同じ二人から洩れ出来た子どもの心やそういう親と子の
関わりの方に遥かに苦い毒の味がのこる。そうではないか、人間の血が濃く粘って濁り始めたのはこう
した親と子の余儀ない定めが性懲りもなく反復されたからだ。自分がそういう子で、また親ともなった
ことを嘆きはしない。しかし、この私自身が「ちゃんとしない」子であったように、弥一と佐和の子の
阿以子もそう、徳蔵と舟の子の千代もそうなのだと納得するのは、やはり肌寒く底気味がわるいのであ
る。井荻という大きな家系の底に隠れたこの一脈の隠水(こもりず)は、まるで先の見えない動かぬ流れである、す
えて腐って滓(おり)を沈めた隠沼(こもりぬ)になっている。平然と人を呑みつづけて埋まることのない底なし沼である。
誰の足もとにも崩れ落ちて行く地獄沼なのである。
「結婚は不公平」だと阿以子は繰り返し言った。この不公平を人はいつの時代かにむりやり納得してし
まった。その時の暗い心の裂けめがこの沼のはじめであろう、不公平を自覚し、不公平に耐えられない
阿以子は、千代のように生きながら自身を葬ることになる前に、生まれる前の子を今──葬っている。
私は知っていた。阿以子を東京に一人残して、自分は妻子を連れて京都の春に遊んでいる。自分は生
107
まれぬ子の葬りのために指先一つ動かさずにいる。そんな自分を怪訝(けげん)がるだけの冷ややかな余裕もある。
妻と二人、関雪(かんせつ)桜の川ぞい道を法然院へ戻って行き行き、木蔭から鳥が飛び立てば鳥のことを、風が吹
けば散る花びらのことを□にしている私だった。
叔母の手があいていたら、南禅寺まで足をのばして湯どうふを一緒に食べよう、妻とそう話し合って
いた。勿体ないとか何とか言い言い叔母が嬉しがるのは知れている。半分くらいむっとした表情をつく
りながらついて来てくれるだろう。だが、茶会あとの片づけ仕事がそう手早く終るものでないのも私は
承知していた。
道具類はまだあれこれと水屋に散らばっていた。花は抜いて、掛物も巻くだけ巻きその辺に置いてあ
る。茶室へまわってみると、釜はあげ火も取って、花筏(はないかだ)の炉縁(ろぶち)がもう古村の寺什(じじゆう)に入れ替えてあった。
千代の姿が見当たらず、弥一と叔母と若い番頭とが手馴れた巧みさで茶碗や水指(みずさし)を箱におさめていた。
内輪の者のような顔で、だが手伝うわけでなく妻と私は佇(た)ったまま弥一らの手仕事をながめていた。こ
ういう役には立たない瑶子は先に帰して、代りに叔母が居残ったらしく、義理がたい千代は礼を言い言
い瑶子を見送って出ているのかも知れなかった。
「お初つあん。お見ええしまへんどしたな」棗(なつめ)の茶を茶罐へ戻しながら、もそっ、と、叔母が喋った。
まるっこく短い指が器用に紅絹(もみ)裏を使って棗から碧い茶を拭っていた。
「来ますかいな、あれが」
弥一は唐銅(からかね)の建水(けんすい)からつやつやと濡れを拭いながら低声(こごえ)で応じ、「あほらしい」というようなことを
□の中でもぐもぐ言った。何があほらしいのか分らなかった。叔母にも分らなかったろう、弥一自身は
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どうなのだろう。
「それ、を」と叔母が手を突き出すと、弥一は黙って自分のそばから花入をとって渡し、箱はすこし離
れた所からごついからだを伸ばして引き寄せ、「へ」と叔母の膝もとへ押して遣る。私は叔母が平静な
妙に鷹揚な表情で落ちつき払っているのに感心した。「宗匠」と何かで弥一が呼ぶと「へえ」とあかる
い若やいだ返事を返す。おかしいほどである。
「さぶちゃん、広間の敷物巻いとくれやすか」
叔母は番頭に言いつけた。若い衆は出□に立っている私たちの横をすり抜けて出て行った。
「よう、わざわざ来とおくれやしたな」と、菓子鉢に濡れぶきんを当てながら弥一は誰にともなく大旦
那みたいな柔らかな声をかけた。
「阿以子さんのお点前も見せてほしいでしたわ」と、妻はすこし甘えた声になった。今になって私の方
を見ながら、なぜそんなことを言い出すかと、急に居心地わるかった。
弥陀如来に奉る散華(さんげ)の前で今一度瞑目し、叔母と同道は断念してもうすっかり斜めに縞を描いている
夕明りの蓮池に出た。鐘楼が色を喪って山の手にひそんでいる。萱ぶきの、小高くちんまりした山門に
かぶさって、薄澄んだ夕空を隠す幾本もの大杉が並んでいる。椿の巨木が堂々と道に枝を張っている。
椿が朱い、そればかりが色あざやかな夕まぐれであった。
ざわざわ鳴る風がうそ寒い。左の山はらば濃い影になって奥黝(ぐろ)く木々を鳴らしはじめていた。その山
なかに見え隠れに墓原が引汐のように居流れている。木々の切れめへ西日があざやかに突き抜け、白い
小花の舞う草萌(も)えの小道づたいに、亡母の墓参をすませてきたらしい千代が、手桶を提げ、一足一足い
109
たわりながら下りてきた。遠くて顔は見えないが、着物の裾を気にしながら来る足もとへ、手さきへ、
額髪へ、失い日ざしがめざましい斑(まだ)ら縞を落としかけている。巨きな杉の蔭へ入ると、千代のからだは
痛々しく寂しそうに黝ずんで見えた。
千代が墓地から下の参道へ下りようとした時、ちょうど同じその所へ一人の婦人が足早に姿を見せた。
白い足袋さきが湿った土の道から浮き立って、風呂敷包みを小さく抱えた左手首が着物の袖をずっと抜
け出ていた。婦人の顔ははじめ近寄って行く私たちの方を見たが、すぐにそこへ下りて来ようとする千
代に真向かって、急に停まった。歩みも停まった。
千代は俯(うつむ)きがちに、よそへは気もちが届かなかった。
「奥さん──」
そう呼びかけた声は、阿以子が私を呼ぶ声と同じだった。千代の顔が、ゆっくり動いた。だが、かさ
かさした白い表情は冷え冷えと引き沈んだまま、今はもう何事をも認めようとしていなかった。
沢辺佐和は、包みを抱いて立ち辣(すく)んだ。
「おツ師匠(しよ)はんのお母さんだ」と私は慌てて囁いた。
「こわいわ」
妻は私の腕をつかんで顔を伏せた。胸の中で、何かが、ぐちゃっと潰れて、流れはじめた。
──完──
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源氏物語の本筋
111
「墨」昭和五十七年一月号
112
源氏物語に光君(ひかるのきみ)のモデル詮議は、あまり、取柄がない。時代設定でも似たようなことは言えるが、
この方は、朧ろに宇多、醍醐、朱雀(すじやく)、村上、冷泉(れいぜい)の天皇がたの時代を想ってみるだけの意味は、ある。
一例を以てするならば、これは皇家をしのいで藤家(とうけ)が世にときめく、いわば平安王政が平安王朝即ち藤
原時代に傾斜して行くちょうどそういう難しい時期に見当ててある物語であって、しかも仮構の源氏物
語そのものでは、皇家と藤家との削るしのぎは、現実と逆に、前者優位に表現される。そこに、自身は
藤原氏の末流に属しながら、「此の世をばわが世と」誇る氏(うじ)の長者道長の娘に仕えた物語作者紫式部の
”批評”が露われてくる。そういう意味合いから”時代”を読むそれなりに深長な面白さは、ぜひ汲む
べきものと、私は考えている。
実例を挙げようか。その意味深長は「葵」の巻にみえる名高い車争いの場面にくっきり浮かんで見え
る。
光君は左大臣藤原氏の娘葵上(あおいのうえ)を正妻に迎えているが、やや年かさな妻を敬して、必ずしも夫婦仲は
あまくない。そしてすでに幾人ものよその女に光君はふれている中に、六条御息所(みやすんどころ)という貴女がいる。
この亡き皇太子の未亡人は光君を深く愛しており、世間でも葵上に拮抗(きつこう)する女人(によにん)かとひそかに噂もし重
んじてもいるから、葵上がたてば無視できない好ましからぬ存在なのはむろんだが、肝腎の光君その人
113
に、義母の藤壺中宮との仲で苦しくも罪の恋が深まっていて、御息所にしてもひそかに光君の疎遠を恨
みがちになっていた。じつは、御息所も葵上もまだよく知らずにいるが、光君は自邸の二条院に、藤壺
中宮の幼い姪に当る生(お)い先めでたい若紫の少女を引きとって慈(いつぐし)み育てているところであった。この少
女が作者紫式部名誉の名のりに結びついた最愛理想の妻紫上となって行く。ほんとうは御息所も葵上も、
光源氏の本来の世界からは悲しく落ちこぼされている貴女たちなのであり、しかもこの二人が光君への
本意ない女の愛と嫉妬ゆえに烈しく争うかたちとなるのが、ここの車争いの場面であった。
賀茂の斎王御禊(とけい)の日、即ち賀茂川原に出て斎王が体を清めるはらいの当日、供奉(ぐぶ)に、すでに大将の位
を極めて花やぐ若々しい光君が随(したが)うというので都大路はこぞっての人出。妊娠中で心暗れない葵上も、
また敢(あえ)ない心悩みにやっれた六条御息所も、それぞれ人のすすめるままに物見の車で出かけるのだが、
一歩おくれて出た葵上がたの車は良い場所が求められずに、たまたま御息所の車の、主(あるじ)さながらややや
つれて見えるのを、心逸(はや)る葵上の供人たちが強引に押しのけようと狼籍(ろうぜき)をはたらく。挑発された側でも
男たちは黙っていない。狩野山楽(さんらく)にみごとに絵にした一隻の屏風があるが、白丁(はくてい)たちが算を乱して喧嘩
になる有様は、双方に美しく誇り高い貴女が姿なくひっそり控えているだけに、物凄い。
「おのづから見知りぬ」と本文にあるのは、場を占めていた車が六条御息所のそれと、後から来た葵上
の供人たちも見定めて、その上で乱暴をしかけているのだ。彼らの物言いは、こうであった、「さばか
りにては、さな言はせそ」つまり、いかに先君と昵懇(じつこん)で、また皇家の縁につらなる御息所であるとはい
え、それだけで大きなことを言わせるな。こちらは光君には正妻どころか、何と言っても藤原氏だ、と。
また、「大将殿をぞ、豪家(ごうけ)には思ひ聞(きこ)ゆらむ」つまり光源氏の大将を、世に並びない豪家とお思い申し
114
てその蔭に隠れる気でそちらはいるのだろうが、こっちは藤原氏だぞ、と。その藤原氏の葵上様に良い
場所をお譲り申せと言うのだ、と。
むろん加えて、葵上は帝がゆるした光君の正式の妻であって、御息所は日蔭の人という押し強さもこ
の藤原氏の側にはあった。それだけに御息所の受けた屈辱は二重にはげしく、やがて生霊(いきりよう)と化して産褥
の葵上をとり殺してしまうのは、物語の運びとして、十分に迫力も説得力もある。が、その件はさて措
く。
「大将殿をぞ、豪家には思ひ聞ゆらむ」という葵上の供人たちの罵りように耳を留めて欲しい。光君は
葵上の夫であるけれども、ここでは夫婦が一体と見られずに、むしろ藤原氏とは本来別の婿殿という意
識のされかたになっている。とりも直さず光君は皇子なのだから、ここの意識は皇家と藤原氏とが対立、
対等、いや「豪家には思ひ聞ゆらむ」という反語的表出に於て、むしろ皇家の「大将殿」を下めに眺め
るくらい藤原氏の勢いづいた□吻(くちぶり)である。御息所はせいぜい皇家の大将殿の寵(おも)いものだろうが、こちら
の葵上様は藤原氏の長者左大臣の御息女なのだ、到底同列に見られないぞという、思い切った物言いが
響きわたっているところだ。「これは、更に、さやうに、さしのけなどすべき御事にもあらず」と抗(あらが)っ
た御息所がたの声は圧倒されている。葵上に疎々(うとうと)しくなりがちな婿殿光源氏が、暗に、しかしかなり露
わにそしられてもいるところだ。
光源氏の「源氏」とは、明らかに皇胤(こういん)を意味している。十二世紀の源平争乱とはちがう。源(一字傍点)氏も平(一字傍点)氏
も臣籍に降りた皇胤に与えられた姓であって、ことに紫式部が生きた時代より一と昔、二た昔も前には
この源氏の存在が藤原氏には眼の上のこぶだった。摂関政治などという律令(りつりよう)制の枠外へはみ出た権力集
115
中の工夫は、藤原氏が、他氏族もそうだがことに皇胤の源氏を圧倒して皇家を現実の力でしのいで行く
ための凄い決め技だったと言えるし、紫式部のころはそれが最高度に成功して行って、源氏はすべて貧
寒と衰えた時代だったのだ。
だが紫式部は源氏物語の中でこれを逆転させている。物語中の藤原氏には、大きく眺めて左大臣流と
右大臣流とが二派拮抗しており、はじめは自派の皇太子を生み育て即位させて行く右大臣流が力づよく
て、左大臣の娘を妻にした光源氏は、夫婦仲こそうまくなく夕霧という長男一人をのこして葵上には先
立たれてしまうものの、舅の左大臣や義兄頭(とうの)中将とはむしろ常に親和し協調して、右大臣がたに対抗の
努力を怠らない、そういう間柄であった。
それも舅が死に、藤壺中宮と光源氏との仲にひそかに生れていた皇太子が即位(冷泉帝)して右大臣
がたの勢いが地に落ちる頃からは、光君と頭中将との表面は親しく内に潜んで烈しい競争が、新たな皇
家と藤家との競合が、展開される。政局に於ても、趣味生活に於ても、後宮に於ても、例えば恋に於て
も火花が散る。真剣で、なかなか美しい火花が散る。それを見落としていると、源氏物語は正しく読み
切れなくなる。
対抗の結果はどうなって行くか。少々度がすぎるくらいに、事々に皇室は藤原氏より先へ出て行く。
優位に立つ。花やぐ。それは現実の平安王朝のすがたと、ちょうど逆の成行というしかない。
典型的なのが宇治十帖へもながれこむ、匂宮(におうのみや)と薫君(かおるのきみ)との対立である。匂宮は光源氏の孫、紫上が
ことに愛した孫に当る。薫君は、表面先君と降嫁した正妻の一人女三宮(によさんのみや)との仲に生れた次男である、が、
その実は左大臣藤原氏の嫡流で頭中将の長男の柏木(かしわぎ)が、女三宮に生ませてしまった罪の子なのである。
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光源氏とは戸籍上の子ではあるが、血縁はかげで切れている。それが、みごとに名のりにあらわされて
いる。
光は色露わに匂い出ずる美しさを生むが、闇にも薫る美しさは、じつは光を要しない。光と匂は切り
はなせない縁語だけれど、光と薫とは縁の切れているもともと別の価値なのである。紫式部という作者
は名のり一つにそこまで勘定をきちんと付けている。これは私の、少年来の、動かぬ理解である。
したがって、宇治十帖で光源氏の物語世界を正統に相続しているのは匂宮であり、薫君ではない。ま
た宇治の浮舟をめぐる恋のさやあてでも、匂宮はまことに荒々しいまで親友の薫君に無残な敗北感を背
負わせる。皇家と藤家との対立は、物語にあって最後の最期の「夢浮橋」を渡り切るまで執拗にもちこ
され描写されつづけている。
これは、どういう意味なのだろう。紫式部は、繰返していうが、うだつの上がらぬ藤原氏の末端貴族
を父親にもった人である。同じ藤原氏でも真にときめいたのは摂政関白や太政大臣になりうる家筋だっ
た。摂関家が他の公家(くげ)衆を権威に於て制圧した歴史は、じつに江戸の幕末にも及んでいる。うそではな
かったのである。
制圧されたのは、だが、公家衆だけでなく天皇家、皇家、皇族も同じだった。だから失地を回復した
いと誰より天皇がたが望むようになるのも理の当然で、十一世紀も半ばすぎるととうとう藤原氏の束縛
をはねのけ、院政時代が来る。後三条、白河、鳥羽、後白河そして後鳥羽院とつづいた院政つまり上皇
独裁の政治は、摂関政治の在りようを弱める一方、武家抬頭(たいとう)をも決定的に招いた危い賭けだったが、考
えようでは、読みようでは、源氏物語とは院政待望の潜勢伏流を虚構世界へ先取りした、予兆した、ま
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ことに末恐ろしい”創作”であったと、強調せざるをえない。
さて、世に”源語五十四帖”などと謂う。源氏物語は、開巻「桐壺」から一日一帖ずつとしても、結
巻「夢浮橋」を読み終えるまでに五十四日かかる勘定になる。事実私は日に一巻(一帖)ずつ連日読み
進むという定めを過去に数回は体験しているが、想像以上にしんどい(四字傍点)読書だったとは、白状せねばなら
ない。殊に中ほどの「若菜上」「若菜下」の巻あたり、岩波文庫でそれぞれ百べ−ジを超える。二十頁
ていどの巻々も多いなかで、この「若菜」の辺が物語も高潮してくるかわり、必ずその日のうちに読み
切るには分量が多い。よほど没頭してかからぬと時間が足りない。そしてここをやっと乗り切れば、私
の場合、もう確実に定めどおり「夢浮橋」まで読み上げて行くことができた。
そんな、毎日一帖などと辛いめ(一字傍点)を科する必要はないのかも知れないが、体験的には、こう最初(はな)から定
めておいて是非にと肚(はら)をくくるのが、結局は確かな読了へ到達しやすい。それくらいの頑張りがむしろ
読了へ、気の張りにも支えにもなる。やはり源氏物語はしたたかな”大作”なのである。
山岸徳平校注の岩波文庫本は私の無二の愛読書になっている。大判の本は持ち疲れがして、どこかで
飽きが来る。同じ意味で谷崎潤一郎の現代語訳新書判も愛用している。現代語訳も結局は、私の場合、
谷崎の仕事が揺るぎなく立派に思える。深切に眼が行届いていると思われる。
何度読み返しても源氏物語にはいろいろ教えられる。四季自然のなつかしさ優しさ、人事の微妙さに
しても、読むつどずいぶん新鮮にまたまた眼を洗われる思いで頷き直すことが、きっと、有る。多々有
る。物語の進みぐあいはおろか、細部の表現などまでそらに覚えこんでいるほどなのに、しかも新しい
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感じ方で大きくも細かにも頷き頷くことが出来るのは、文学の世界がほんとうに生きて働いているから
であろう。それに読み手の私の方も現に生きて暮して、それなりに成長といわぬまでも変っては来てい
る。だから同じ源氏物語を同じ私が読む、読み返す、にしても微妙なところで出逢いようも変って行く。
源氏物語を包括的に鑑賞する、その鑑賞をともあれ或る客観性を備えて他の人に伝達する、というの
は、まこと容易なわざでない。何十人の学者が何千頁をも費した大部の鑑賞講座も出版されている。正
直なところそんな講座原稿を読破する根気があるなら、本文を、それなりに二度三度四度ととにかく読
み返された方が、結果はトクに思える。読書体験は、他人に肩代りしてもらえるものでは、本来ないは
ずだから。と同時に、”読み方”という”規則”もないのだから。私は源氏物語ほどの”大作”なれば
こそ、むしろ書誌的な、文学史的な、概念的でいわゆる解説的な鑑賞などより、もっと自分自身の直観
や語感に触れてくる、一見瑣末(さまつ)な疑問や不審や関心や興味を根気よく持ち、運び、培(つちか)って、誰に何遠慮
もない関わりを自身と源氏物語との間に確保され、拡大され、充実されることを勧めたい。
先に、また以下に弄する駄弁も、そういう風に少年の昔から勝手気儘に源氏物語と関わりつづけてき
た私の、それならどんな印象を、どんな疑念を、どんな関心をどう胸中にふくらませたか、少々の実例
を提供して終ることになる。それで十分というのが私の思案であり、なるほど、そういうことなら自分
も幾つかすでに問題を抱えている、或いはそういうことなら自分もこれから読み新ためて何か問題点に
行き当れそうだ、などと少してもこの古典中の大古典に親愛の情を持って下されば、それに越したこと
はない。その上で拙著『古典愛読』(中公新書)などをも参者下されば、なおなお有難い。
源氏物語が、現行の五十四帖そのままの順序で、当初から一定の計画どおりに書かれた長篇小説であ
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ると思いこむのは事情がちがう。「桐壺」の巻が実際に書かれたのを、学者によって、第二十一帖「乙
女」の辺まで書き進んでからのこととすら説いている。「乙女」かどうかは別として、「桐壺」が、或
る程度作の行方が作者にも見えてのち、はじめて源氏物語全篇の主節に、構想に、起点を与えるべく書
き副(そ)えられた大事な首巻であろうとは、十分頷ける。源氏物語はかならずしも一筋の縄でくくれるほど
単純な構造でなく、いわば本筋、大筋に対し副次的な幾つか大小の物語(並びの巻)が附随して生起し
ている。この見極めが無いと源氏物語の展開が徒(いたず)らに散漫に思えてくる。大事なのはやはり本筋を、大
筋を、どんな物語であると受取るか、なるべく早く銘々に察知することだろう。
読む人によっては「桐壺」の巻に、高麗人(こまうど)の相人(そうにん)つまり人相によってよく未来を占う者が、光君を見
て「おどろきて、数多(あまた)たび」頭をふって予言した言葉から、主人公の行末とともに物語の展開を察する
やもしれない。
「国の親となりて、帝王の、上(かみ)なき位にのぽるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふる
ことやあらん。朝廷(おほやけ)のかためとなりて、天(あめ)の下助くる方にて見れば、又、その相たがふべし。」
おぼしbLくだ
皇子と生れた光君が、皇位をよそに父帝の思召(おぼしめし)でいったん源氏と降(くだ)り、位は人臣を極め、ついには六
条院として上皇の待遇を得て行く未来。光源氏の物語をそういう物語と取っていけない道理はなく、そ
れならばもっと後にも、光君に実の子は三人生れよう、一人は天子(冷泉帝)に、一人は皇后(明石中
宮)に、正妻(葵上)腹の長男(夕霧)は太政大臣に、とも予言されていて、ただし表向きはこの予言
が当らなかった体(てい)に、薫君という男子も生れてくる。この四(一字傍点)人の光源氏をつぐ世代の出生譚(たん)が、たしか
に一人一人分たいそう興趣に富んで、少くも右の二つの予言に思いを添わせて源氏物語の雅びにあわれ
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な展開をたんのうすることは、むしろ賢明な態度とさえ言える。間違いなく、ここに一つの主節、本筋
に当るものは、有る。
だが、右の予言などは、いわば婦女子を読者対象としたこの偉大な少女小説、大通俗小説にとっては、
読者の頭へ図柄を叩きこむ意図的な”前口上””説明”でなくもない。一篇の、それは動機(モチーフ)にまでは深
められていない、明らかに主節、大筋、荒筋を支える有効な支柱、突っ支(か)え棒、なのではないか。そう
いう感想へ辿りつければ源氏物語愛読は、少くも一段階、上へ、奥へ、と進んだことになりそうだ。
私は、かねて「桐壷」の巻をことに重視して読む。どの時点で書かれたにせよ、並々でない作者の覚
悟がこの大長篇を意図づけ動機づけて、それを明しもしているのが、やはり首巻の「桐壺」と受取って
いる。時代設定。主人公の父帝と母更衣(こうい)のこと。後宮(こうきゆう)の不安。光君誕生と母更衣への迫害そして死。帝
の悲嘆。母方祖母の死。ここで光君のめでたさ、相人予言があって”源氏”へ降下。父帝に新たに藤壼
女御(にようご)の入内(じゆだい)がつづいて、光君の(死んだ桐壺更衣と義母藤壺女御とを打重ねた)母恋い。そして源氏の
元服、結婚、藤壺への思慕と密通があり、そのあと祖母や母の遺宝の二条院を光君は自身の本拠に設(しつら)え
る。およそこういう内容と進行とで「桐壼」の巻は成っている。想像以上にこの巻、この一帖で源氏物
語は強い太い軸をもつ。それを読み取り正しく掴み取ればよい。
桐壺更衣(光君生母)は、どう死んだか。
更衣の実母は帝の見舞いにこたえて、「よこざまなるやうにて、遂に、かくなり侍りぬれば、かへり
ては、つらくなむ、かしこき御心ざしを、思ひ給へ侍る」と率直に恨み言を言う。一切のはじめに、天
下が眉をひそめるほど帝の更衣に対する度はずれた愛欲が先行していた。その歪みから「人の嫉(そね)み深く、
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安からぬこと、多くなり添ひ」光君の生母は「よこざま」に、つまり横死(おうし)を遂げたのだ。帝の寵愛が更
衣を死なせたのです、恨めしいことですとこの気丈の祖母は悲痛の限りを絶叫する。当然、生れながら
実母を喪ってしまった稚(いとけな)い光君の哀れと憤りとを、父帝に対しこの祖母が代弁しているのであって、
源氏物語全部の動因をここに、帝の異様な愛欲と更衣の(のちに祖母君もの)横死とに、はきと見定め
ることは殊に大事と私は読んでいる。
源氏物語には少くも二つの大きな不倫が書かれている。一つは光君が、生母にとてもよく肖ていると
評判の藤壺、父帝の新たな寵愛の的である新女御つまり義母と通じて秘かに罪の子を生ませる。これが
表むき光君の弟皇子のままに後年には冷泉帝となり、この帝はついに光君を実父と悟って臣籍からふた
たび引上げ、”六条院”という称号で上皇格の敬礼を払うことになる。光君が、事実上父の妻を侵(おか)して
不義の子をなしたこの一件は、道義的には古来多くの論難を受けてきた。
その、いわば報いとして、光源氏は後年に、強いられた正妻女三宮を藤原氏の柏木に盗まれて我が子
ならぬ薫君を子として育てることになる。
右の二つの事件が分き難い因果応報の極致に彩られて読めることは明らかだが、それでもなお、光源
氏の生涯はあわれにめでたい雲隠れまで決定的な墜落なしに大団円を迎えるし、宇治十帖に転じてのち
も、光君の世界を正統に相続した兵部卿匂宮のめでたさに暗い翳(かげ)りはない。あるいはやがて皇位にとい
う予感にもこの匂宮は包まれているし、本邸”二条院”には実に桐壺=藤壺=紫上とつながる紫の濃い
ゆかりを新たに体した、正妻の宇治中君(なかのきみ)が世嗣ぎの御子をも生(な)している。
なぜ光源氏は根源の罪をゆるされ、直系の子孫にもこよない繁栄が見えるのか。”院政”予兆という
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現実の平安時代を反映しているという議論は、内因には触れていない。源氏物語そのもの全部に根ざし
た原因、動因としては、私の見るところ、光源氏の生母を横さまの死で奪うことになった父桐壺帝の過
度の愛欲こそが、根本に深く咎められているのだ。父は、子の母を無思慮に死に奪い去らせた負いめを
償(つぐな)うことになった。それが藤壺と光君との恋となり冷泉帝出産となり、しかも亡き桐壺帝の霊はこの不
義を一つの償いとして赦(ゆる)し受け入れるしかなかった。
桐の花も藤の花も紫色に咲く。桐壺とは面影が肖ていて、母を喪(うしな)っている光君にすれば、亡母と義母
とは一つ(二字傍点)であり、しかも恋しい限りの理想の人となった。だが現実世界の掟というものがある。そこに
闇の子が生れる必然も芽生えた。
「桐壺」の巻は亡き祖母、生母の本拠を美しく造り改めて源氏の私邸”二条院”に新装する記述で終る。
「かかる所に、思ふやうならむ人をすゑて住まばや」
そうとのみ若き光源氏は「なげかしう思(おぼ)しわたる」と本文は告げている。この、生母を鎮魂の”二条
院”にあの藤壺女御のようなお方を迎えて一緒に、永遠の愛の暮しができたならぱと、母を喪った子は
嘆きかつ切望するのだ。むろん藤壺は父帝の寵愛ひとかたでない「かがやく日の宮」である。叶う話で
ない。そこで光君がこの二条院に強いて迎え入れたのが、藤壺によく首た藤壼の姪に当る若紫、即ち理
想の妻たる紫上であった。
私は光源氏の物語の本筋、大筋を「母を喪(うしな)った子が、母に背た妻を迎える話」と少年の昔から思い定
めてきた。また、そこから私自身の文学を生み、また同じ動機(モチーフ)の鏡花や潤一郎の文学を愛してきた。
匂宮は明石中宮の第二皇子だが、幼来祖母の紫上を、「ばば」ならぬ「はは」と呼び慕って育った。
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紫上は六条院の春の女王として光源氏最愛の妻と生きてのち、病をえて、そして本来の”二条院”にか
えり、その庭の紅梅と樺桜とを添えて”二条院”そのものを愛する匂宮に譲り渡し、光君を悲嘆にくれ
させて幻と消え、死んで行く。
実にこの”二条院”という場が源氏物語にもつ重い意味、一つは紫のゆかり、一つは母系の鎮魂とい
う根源の意味、をよく読みとることなしに、源氏物語全部の根幹に触れえたことにはならないだろう。
”二条院”を本拠に匂宮は愛する宇治中君を妻に迎えて、光君の血統を儲ける。今は亡い桐壺へ、藤壼
へ、紫上へ、王家の裔(すえ)へ、それほどの鎮魂慰霊が他にありえようはずがない。
最初に死があった。光君には、それは生母に死なれるという受身の死だが、父桐壺帝には、それは光
君の母を死なせる(二字傍点)という加害の死だった。この加害被害の断裂を埋め癒すべく物語の本筋は、光君と子
孫の光り匂う境涯および死者の霊魂を鎮め慰めるという主軸に副って、ものあわれにも美しく進む。
そしてこの母なる二条院を軸にした本筋、大筋の周辺に、多彩な人生と逸話と事件とがみごとな枝葉
をひろげる。夕顔と玉鬘(たまかづら)母娘や、六条御息所と秋好(あきこのむ)中宮が辿った運命や、夕霧と雲井の雁の恋の成就や、
宇治大君(おおいぎみ)の死や、ことに明石入道・明石上.明石中宮・匂宮の系譜にも遠くに匂う桐壺更衣鎮魂の色濃
いゆかりなど、どれも皆すこぶる趣深い。そこには、恋であれ美の享受であれ四季山水への思い入れで
あれ、すべてすぐれた”趣向の自然”と”神威への信仰”とが生きてはたらく。べつの謂い方をすれば
みごとな日々の心競べの優しさと厳しさとが生きてはたらく。物狂いに生き、ほほ笑みに批評を通わせ
る凄い人生と時代とが、広々と豊かに覗き込める。と同時に、もう一つの六条院という太い軸も、ある。
源氏物語とは実に「六条院物語」と「二条院物語」とが両輪をなして運んで行く「世界」なのである。
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源氏物語に、類型的な人物は出てこない。端々の人物までがたとえ一と筆描きにも血の通った表現を
与えられ、印象に残る。「空蝉」の巻で空蝉(うつせみ)は女主人公だけれど、相手がたの軒端の荻にしても妙に、心
惹かれる。同情できる。物語にいちまつの滑稽味を添える貴重な存在の老女源典侍(げんのないしのすけ)や、若い近江君や、
6たく二じゆうくろうと
光君に終生忠実な惟光(これみつ)や、主君の須磨流謫(るたく)に敢然扈従(こじゆう)する、もとの六位蔵人(くろうど)や、果ては、浮舟に求婚し
ながらきわどく打算的に遁げを打つ末流貴族など、その他数え切れない人物が私の胸にもう揺るぎない
存在感で三十余年来住みついている。筆の冴えとしか言いようがないが、私は、そうした人物が、真実
感溢れる季節や住居や状況の中にしっかり置かれている点を看落としたくない。表現の成功はこの配慮
にかかっていよう。
源氏物語は巨大な山だから、登り口はまた幾筋もあるに違いない。そこにまた主なものと脇のもの,と
の区別を、我からしっかり見定めることは大事だ。
しかしもっと大事なのは、この源氏物語という大雄峰の全容がいかなるもので、いかなる色合いと姿
とをもって、人の目を、人の胸を打つのか、そうした主眼、眼目へと本質的な見渡しをよく試みつづけ
る態度が欲しい。そして年を追いそうした感慨や鑑賞が或る成長と充実に恵まれるよう努力するとよい。
はっきり言って、それが源氏物語からより多くを享(う)ける一等正しく一番トクな、心がけだろうと思う。私
は、だから、目下の自分の鑑賞を至り着いた最期のところと思わず、今は動かせないほどの見解にもま
た自然な高まりや深まりが来て、結果的に私自身がまた別様の次元へ脱け出て行けるだろうことに希望
を失わない。
私は今のところ、こう思っている。源氏物語とは最も佳い意味で”好色”の物語なのだと。好色の背
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後にしみじみと時代の仏教思想や感覚が沈んでいる。多くの多くの死に逝(ゆ)ける人と時とが、それを教え
てくれる。光(一字傍点)君という謂い方で照し出される世界は当然に匂(一字傍点)う色(一字傍点)であり、それが”紫のゆかり”になっ
て筋が通って来る。そうした筋の下に昏い闇の花が薫(一字傍点)っている。死と罪と救いとを求めて人間の実存的
なあわれへ孤り歩み寄って行くのは、誰よりも巻末を飾る薫大将でありまた美しい浮舟のはかない尼姿
である。
源氏物語の宇治十帖を静かに導いて行く本当の力は宇治入道の宮とその化身のような僧都(そうず)なのかもし
れない。入道の宮は薫の精神を育て、僧都は浮舟の行方に夢浮橋を幻視させる。学者たちは、ここに、
あの『往生要集』を著わして古代社会に浄土の夢と地獄の相をつきつけた畏るべき宗教者恵心(えしん)僧都源信(げんしん)
の影響を読み取ろうとしているが、見当ちがいとも言えまい。
源氏物語をつくづく読もうと発心なさる方には勧めたい。いずれの日にか『紫式部集』といわれる私
家集をきっと読まれることを。作者の、心にうつる光と闇と、匂と薫との実景として、物言う影として、
御覧になることを。そしてまた、願わくは源氏物語の成立ちを小説化した私の短篇『加賀少納言』をも、
どうかお読み合わせください、と。
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作品の後に
この殺人的だった真夏に『みごもりの湖』三冊をほぼ三ヶ月でお届けした作業は、実に厳しか
った。その間に母と叔母との骨折や衰弱による入院が重なり、清瀬へ昭島へと洗濯物を運んだり
見舞ったりの間隔もあけられず、本来本業の締切仕事もむろん大事な約束ばかりで、やや顧みて、
通過してこれたのが不思議なほどの気分である。
三冊の間隔をあけてもまずく、しかし詰めすぎても負担をかけるようで、気がもめた。増頁し
価格をエッセイと同じにして二冊で出そうと思えば出来たのかも知れず、ご負担もその方がやや
やすくつき完結も早かった。ただ事務的な混乱がコワくて、踏み切れなかった。(郵便での訂正
やお願いが、数量なれば、それだけで双方たいへんな時間と労力の費えになる。)
だが「湖の本」は、これからが、或る意味で秦恒平の長編時期にさしかかる。大きな山へ一歩
一歩登って行くような、動機のつよい、連鎖性も濃い創作が、『風の奏で』『冬祭り』『北の時代』
『四度の瀧』『親指のマリア』など続き、さらに『猿・懸想猿』『誘惑』『罪はわが前に』『亀裂・
凍結・迷走』『秋萩帖』『修羅一風姿訛伝一』などの作品群が併走する。短編・中編もまだまだ尽
きないが、ともあれ、これまでの「湖の本」がこうした長編時期への地固めであったとは、作者
に強い自覚がある。『みごもりの湖』は、その先登に立つ長編小説であった。
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これらを、どう刊行し続けられるか、「湖の本」は胸突八丁へさしかかっている。従来の規模
を守っでゆっくりと気長く進むのは、事務的にはらくである。だがその際は一作品で中には四分
冊、完結に一年かかる長篇も、ある。せめて増頁して三分冊、そして佳いエッセイ集を一冊添え
て一年分にしたい気がするが、その際はどうあっても小説の価格を一七〇〇円見当に改めないと
維持できなくなる。バカ高い送料・郵便代に加え、消費税プラス五割増し近い製作費の値上げも
来ており、他方部数は楽観できない。長編が続くとなれば、増えるよりは減る方が多くなろう、
いよいよ赤坂城から千早城へ、撤退を迫られる日へ近づいて行く。それが、辛いが実感である。
幸い「継続して」の読者が、現在九割ちかい。長編へ向けて、さらにご継続下さいとお願いす
るより、ない。ご意向やご意見を、ご遠慮なく、お聞かせ願えれば有り難い。
来年は「湖の本」二十冊へも到達する。従来も、既刊本を「知人友人に贈り物」としてご入金
ご注文下さる方、喜ばれたという実例、が多かったが、今後はその場合に限り、「寄贈先のお名
前および著者の識語、署名を入れ、何方からの贈り物かも書き添え」てお送りする。但し刊行発
送時の署名はとても作業上無理なので、ご注文の時期を、やや、ずらしてお申し込み下さい。
さて、この巻は二つ変則をあえてした。初出順を逆にしたこと、エッセイを一つ添えたこと。
あとの趣意は容易に汲んでいただけよう。さきのは、『或る雲隠れ考』をいわば新作ほどの気持
ちでまた手を入れてみたから、と、しておく。
『加賀少納言』はソ連で、日本の短編小説選集に翻訳収録されている。とりわけてこの作品が、
という点でも思わず「へえツ」と声をあげられる読者が多かろう。ソ連の日本文学への理解度は、
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訪ソ時の体験に徴しても予想を超えて甚だ高級であった。雑誌「太陽」の紫式部特集に書いた作
品だが、いわば作者の紫式部観をもなしている。今でも、読み巧者中の巧者に、『加賀少納言』
と一番に挙げてくださる人が二、三人ある。加賀少納言とは紫式部集の大尾の歌の作者名なのだ
が、これほど研究が進んでなお唯一人、まったく正体不明の人。小説家として、とうてい黙過で
きない不思議の存在なのである。
『或る雲隠れ考』ほど執着してきた作品は、ない。いいわるいではなく、気にかかるのである。
『畜生塚』と『慈子』との間に位置して、昭和三十九年二月二十六日に起稿、十二月二十三日一
応脱稿、以後、私家版初出、「新潮」発表、さらに以後三度の単行本収録と、機会ごとに手を入
れてきた。今回も手を入れた。
美術史では作者や成立時期の判定に「基準作品」ということを言う。意味はすこし違うがこの
小説は、作者の「京都時代」に限りなく「近い」色合いを保存している。ヒロインの実母以外と
は、すべて作者は□を利いたことがある。このままが、すべて在った。そして、すべて無かった、
のである。初期作品いらいの作者の方法が、まだ固い拙いものも残しながら、この作品で試みら
れていた。現実に限りなく近い絵空事にリアリティーをと、文壇などはるかな遠くにまだ置いた
まま、初心に願っていた。一種の「基準作品」かも、知れないのである。
世界史的にめまぐるしかった今年も、やがて行く。謹賀来年!佳い春をお迎え下さいますよ
うお祈りし、年始の賀状に代えさせていただきます。春には面白いエッセイ巻を、お届けします。
年末年始に新刊の筑摩書房『親指のマリア』統書房『美の回廊』をお読み願えれば幸いです。
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