e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯 6
 

 * この頁には、人と思想にふれた「魂」の言葉を掲げます。
 
 

 
 
 *  掲載── 真実のいのちを深く見つめる = 高 史明   我は如何にして小説家となりしか = 国木田獨歩   自然私観 = 戸川秋骨   「阿部一族」論ー森鴎外の歴史小説 = 長谷川 泉   知識階級 = 中村 光夫   哲学ノート(抄) = 三木 清      闇のパトス─不安と絶望 = 梅原 猛   笠井誠一讃歌 = 橋本 博英   いのちの声がきこえますか = 高 史明   『慈子(あつこ)』の思い出 = 野呂 芳男   ブッダとしてのイエス = 笠原 芳光   身にしたがう心 =秦 恒平    漱石「こころ」の問題─わが文学の心根に = 秦 恒平  
 



 

   真実のいのちを深く見つめる

         高 史明
 

         一

 二十世紀最後の八月になりました。これからの百年を前にして、これまでの百年が思い返されます。二十世紀は、戦争の連続でした。何時も何処かに戦火の噴煙が立ち上っていた。しかも、この百年には世界戦争が、二度も繰り返されたのでした。恐ろしい惨禍が、世界中を駆け巡ったのです。歴史上かつてない大破壊でした。にもかかわらず、人類はいまだにその教訓を直視しようとしていないのではないか。私たちの前方には、いまなおまことに重い暗雲が広がっています。二十一世紀は、どのような百年になるか。本当の平和が迎えられるのかどうか、確かな先は、不透明なままです。
しかも、この不安は私たちの頭上にあるばかりではなく、足下にもひたひたと迫っていると思えます。政治や経済の世界を覆う混沌は、いまや底なしの感じです。家庭からは暖かさと信頼関係が消え去ろうとしており、教育の現場にも深い空洞化が進行している。便利さと豊かさの追求が、私たちの生活の場を逆に砂上楼閣に変えているのではないでしょうか。なにもかもが、内部崩壊の危機に向かっているかのようです。この暗雲、この不安は何であるのか。
思えば、第二次世界大戦の末期、この国のほとんどの都市は、焼け野原となっていたのでした。私はそのとき関門海峡に面した小さな町にいたのですが、目の前の海峡が、まるで船の墓場のようであったことが忘れられません。戦争が末期にすすむに連れて、機雷に触れた船が毎日のように沈没していたのです。その船の帆柱が、海面ににょきにょきと突き出ていた。青膨れた胴体だけの死者、足だけとなった死者の遺体を何度見たことででしよう。
この大戦では、実に夥しい人が犠牲となったのでした。日本の死傷者は5百万人を越えると言われています。一方、世界中で見ますと、あの第二次世界大戦では、ざっと六千五百万人を越える人が犠牲になったのでした。この無数の仏さまは、今日の世界のあり様をどのように見ておられましょう。それから半世紀を越える年月が経過していますが、私にはいまも海峡の波間には、目に見えない帆柱が林立しているのではないかと気がしてなりません。その波間にはまた、膨れ上がった死体が漂っているのではないか。
深く思えば、あの戦争は生者が、生者中心の知恵をもつて引き起こしたものでした。にもかかわらず、その後の生者は、いまも生者中心です。たとえ死者を悼むことがあっても、それはいつも生者中心なのです。ただ生者の幸せばかりを願っている。それどころか、戦争の犠牲者を新しい踏み台にして、ひたすら自らの欲望を追及しているかのように見えます。今日の生者は、あの夥しい犠牲にもかかわらず、なおもあの戦争を真に反省しょうとしていないのではないか。ほんとうの意味で、死者の叫び、その願いを聞こうとしていない。その生者中心の生き方と、今日の砂上楼閣のような豊かさは、深く関連していると思います。生者中心の眼差しとは、いったい何であるのか。
あの恐ろしい世界大戦の後にも、この地球上では繰り返し悲惨な戦争が起きました。「冷戦」という言葉があります。冷たい戦争―。戦後の世界は、言わばこの冷戦という奇妙な戦争にかなりの間支配されたのでした。これこそ生者中心の業です。世界最大の強国が、最小の弱者に襲い掛かる戦争が繰り返されたわけです。この間、世界最小の国々が、最大の強国に浴びせられた爆弾の量は、第二次世界大戦のときに使用された爆弾を、はるかに上回る量だったと言います。そして、何百万という人々がいのちを奪われたのでした。
第二次世界大戦の夥しい犠牲者の上に、この新しい何百万という犠牲が積み重ねられた。この犠牲者もまた、第二次世界大戦の犠牲者とともに、じっと今日の生者のあり様を見つめているに違いありません。生者とは何かです。今日の先進国の繁栄は、いわばこの数知れない犠牲者の骨の上に築かれたものなのでした。これが繁栄でありましょうか。まさに人間の無明の闇です。今日の繁栄は、まことに退屈です。生気がない。ざらざらしています。いのちの潤いがない。いや、すでに奈落そのものになっているのではないか。
私たちは、いまのままでいいのでしょうか。いまのままでは、また恐ろしい戦争がおきないとは言えません。戦争でいのちを奪われた無数の仏さまの願いを聞こうとしない世界に、どうして真の平和が訪れましょう。二十一世紀の平和は、私たちがまさに、無量の仏さまの願いに耳を傾ける事ができることができるかどうか、この一点にかかっていると言っても過言ではないと思います。二十世紀が終着点を迎えているいまは、その正念場ではないでしょうか。
 

恐ろしい世界大戦の犠牲者が、いま空の彼方から、海の底から、地の底から、私たちに願っているのは、何でありましよう。まずは仏さまのお声を、虚心に聞いて見たいと思います。第二次世界大戦が終わる少し前の八月六日、広島に原爆が落とされました。その広島の原爆にかかわって生まれた詩があります。表題は「死」。広島の原爆詩人・峠三吉が、その原爆詩集の編者です。その一部を読んでみます。
 
白く煮えた首
  手で結んだ毛髪
  脳漿
  むしこめる煙
  ぶつかる火の風
  はじける火の粉の闇で
  金いろの子供の瞳
  燃える体灼ける咽
  どっと崩れ折れて
  腕
  めりこんで
  肩
  おお
  もうすすめぬー(後略)
 
もうひとつ、「炎」詩です。
 
太陽をおしのけた
  ウラニウムの熱線に
  処女の背肉に
  羅衣の花模様を焼きつけ
  司祭の黒衣を
  瞬間
  燃えあがらせ
  1945.Aug.6
  まひるの中の真夜
  人間が神に加えた
  たしかな火刑
  この一夜は
  ひろしまの火光は
  人類の寝床に映り
  歴史はやがて
  すべての神に似るものを
  待ち伏せるーー
 
まことに恐ろしい詩です。ところで、峠三吉はまた、「にんげんをかえせ」という詩を書いています。その詩も読んで見ましょう。
  
ちちをかえせ
  ははをかえせ
  としよりをかえせ
  こどもをかえせ
  わたしをかえせ
  わたしにつながる
  にんげんをかえせ
  にんげんの
  にんげんのよのあるかぎり
  くずれぬへいわを
  へいわをかえせ
 
 広島の劫火は、何もかも焼き尽くしたのでありましょう。峠三吉が、アメリカの占領軍の厳しい追求を受けながら、どうしても叫ばずにおれなかったのがこの詩です。父がいなくなったのです。母もいなくなり、年寄りもいなくなり、子どももいなくなったのです。「にんげげんをかえせ!」とは、なんと恐ろしい叫び声でありましよう。恐ろしい詩です。私たちの今日の豊かさは、この焦土の上に築かれているのです。天にも届きそうなビルが林立していますが、その地下には夥しい仏さまがおられるのです。私たちは、その仏さまを忘れて、自分たちの幸せを謳歌しているのです。まるであの戦争はなかったかのようです。しかし、私にはいまも、この繁栄の向こうに何処までも続く真っ黒い焼け野原が透けて見えます。その焼け野原に立つ仏さまの声のない声が聞こえます。仏さまは、いままさに「にんげんをかえせ!」と叫ばれているのです。人間の時代であるはずなのに人間がいない。戦争のときだけはありません。繁栄の今日において、いよいよ人間が見えなくなりつつある。それが今日の不安ではないのか。
人間とは、いかなる存在なのでありましょう。人間の戦争とは、何であるのか。省みますと、人間は何時の時代にも戦争を繰り返しているのでした。戦争のなかった時代はないと言っていい。それ故でありましょう、戦争こそは、進歩の炎と言う見方もあるようです。しかし、もはやそんなことが言えた時代は終わったのではないか。一九世紀に活躍したプロイセンの軍人クラウゼヴィッツの『戦争論』が思い返されます。彼はナポレオンの国民国家の誕生とともに激化してきたヨーロッパの諸国家間の戦争を、よくよく見つめた人でした。そして彼は、戦争とは別の手段による政治の延長という見解を明らかにしています。確かに、近代の国家間の戦争は、それまでの王侯領主の戦争と違います。この時代の戦争は、まさに国民国家間の政治的・経済的な争いの延長になっています。
また、二〇世紀初頭のロシア革命で中心的な役割を果たしたレーニンも、戦争とは政治の延長であるという戦争観の持ち主でした。彼はこの戦争観の導くところに従って、ロシア革命で主導的な役割を果たしたと言っていいのです。第一次世界大戦とともに深まったロシアの危機は、まさしくロシアが当面した国内的国際的な政治の危機と重なっていたのでした。ロシア革命は、まさしく戦争の危機を政治の危機によって捉え返した革命だったと言えます。きっとレーニンは、何処かでクラウゼヴィッツを学んでいたのではないでしょうか。
だが、第二次世界大戦の末期に登場した核兵器は、それまでの戦争観のすべてを過去のものにしていると考えられます。クラウゼヴィッツには、すでに「絶対的戦争」という観念があったのでした。この絶対戦争では、いわゆる前線と銃後の境はなくなると言います。あらゆる社会構成員のすべてが、戦争に駆り立てられるのです。総力戦という言葉があります。総力戦は、男や女、子どもや年寄りという分け隔てをしません。全員を戦争に駆り立てるのです。第二次世界大戦は、まさにその総力戦だった。あらゆる場所が、人と人の殺し合いの場となったわけです。そこではもはや、戦争目的すら消えていたと考えられます。勝つか、負けるかもありません。ただ殺すために殺すのです。恐ろしい殺しだけが、引き返すことのできない自己目的となるのです。戦場でもまた、それから遠く離れているかのように見える町や村でもー。
そして、二〇世紀の二度目のその総力戦では、ついに核兵器が出現してきたのでした。核爆弾こそは、まさに絶対戦争の究極兵器です。この爆弾は、一瞬にしてあの二〇万都市のまるごとを、地獄の劫火に飲み込んだのでした。峠三吉の「にんげんをかえせ!」は、まさに恐ろしい予言です。人間の総力戦は、人間そのものを絶滅へと駆り立てるのです。現代人は、その劫火を自らの手中に握ることになっているのです。これが繁栄であるのか。
二〇世紀が終点に差し掛かったいまこそ、私たちはこの百年を、人間存在の根っこに重ねて省みていいと思います。「にんげんをかえせ」の叫び声は何であるのか。真摯に聞いていいのです。戦争を政治の延長と見る眼差しは、まさに生者中心の眼差しにほかなりません。もし、戦争が政治の延長であるとするなら、問われていいのは、まさにその政治とは何かです。戦争をする人間は何にか。絶対戦争にまで至りついた私たち生者の知恵とは、いったい何であるのかと言うことです。
 いまにして近代の総体が、その根っこから思い返されます。人間の時代は、どうして絶対戦争に至りつくことになったのでありましょう。思えば、人間中心の時代は、人間がその理性を自覚することから開かれてきたのでした。しかしいまや、その理性が問われていると思います。理性とは何か。理性とは、言わば生者が、自分中心にすべてを対象化して、考え尽くそうとする人間中心の知恵だと言えましょう。現代とは、その知恵によって開拓されてきたのでした。その功績は、まことに偉大です。しかし、生者中心の知恵だけが、人間の知恵でしょうか。死者には知恵はないのか。生者の知恵は、死者の智慧が重ねられて、初めて本物になるのではないか。
人間の歴史は、生者だけでなく、死者の参加があって初めて、その全体像を現すと言えます。歴史だけではない、生者個々人の日々にもまた、死者が常に寄り添っているのです。人間の意識は、眼に見えない死者に支えられていると言っていいのです。生者の対象的意識だけが、意識なのではない。にもかかわらず、近代人は対象的に働く理性の明晰さに幻惑されて、死者を対象化できないものとして、人間の世界から完全に葬り去ったのでした。死者はいないものとされ、死体だけが存在することになっているわけです。しかし、死者を見失うことによって、返って自ら死の根源的不安の虜になっているのではないか。たとえ死者を思うことがあったとしても、常に生者中心であることから、死者に見つめられている自分に気付かない。その現れが、死者に対してご冥福を祈りますという言葉になっているのでありましょう。冥福とは、あの世のことです。現代人の知恵からすると、あの世とは対象化できない世界です。現代人は、あの世を信じていないと言っていい。にもかかわらず、儀礼的に冥福を祈りますと言うのです。生者中心の知恵は、まさに虚仮不実です。
峠三吉の「にんげんをかえせ」の叫びは、まさにいま、その私たちのあり様を根こそぎ映し出す鏡です。生者の方こそが、死者によって見つめられている。私たちはいま、その死者の眼差しに合掌して、あの大戦の夥しい死者の願いを聞くべきでありましよう。

思えば、二〇世紀の二度にわたる世界大戦を根っこには、いわゆる国民国家の登場があります。さらにまた遡れば、人間がその理性に目覚め、理性中心に開くことになった近代という時代があります。ここでいま一歩深く私たちの現代を、その近代の初めから考えて見たいと思います。
アジアがヨーロッパと出会うのは、いわゆる大航海時代以降からでした。生者中心の知恵は、この新しい状況を、人間の歴史の進歩として全的に評価しますが、それだけでいいのか。そこには進歩とともに人間の知恵の無明も、横たわっていなかったか。人間の歴史が、世界史となってからのアジアとヨーロッパの出会いには、もっと深く見つめていい人間の闇が黒々と横たわっていると言っていいのです。
アジアで言えば、その出会いの初めは、まずは天主教の人たちとの交流でした。真摯な人々が、キリスト教の平等思想や救世主思想を持って、訪れてきたわけです。貧しいアジアの人々の多くが、その言葉に深く耳を傾けることになっています。一方、アジアの専制的な支配者は、この人々を恐れたのでした。その思想は、アジアの専制的な支配にとって異質だったわけです。さまざまな衝突が起きています。しかし、その衝突は、決して文明・文化の違いから起きただけではないとも考えられます。一九世紀になると、先駆的来訪者の後から、商船や軍艦なども来航してくるようになったのでした。開港が武力を背景に求められています。しかも、その新しい来航者たちの中には、アヘンを売りつけてくる者もいたのでした。
とりわけ、すでにインドを支配していたイギリスの来航者たちが、中国でとった振る舞いは傍若無人でした。彼らは中国にアヘンを持ち込む一方で、銀を持ち出すことによって、中国社会に深刻な危機をもたらしたわけです。この葛藤から、一八四〇年には、ついに中国とイギリスの間に戦争が起きています。いまに思えば、この戦争こそは、まさに別の形の政治だったと言えましよう。イギリスは中国に対して、政治の別のかたちとしての戦争を押し付けたわけです。  
人間の歴史の近代とは、人間中心の時代の到来であると同時に、戦争という形を取った政治が、世界中に暴風雨のように吹き荒れた時代だったとも言えましょう。世界のあらゆる地域が、この暴風雨に巻き込まれています。言わば、この時期、文明は世界中に戦争と支配という別の形の政治を押し付けたわけです。朝鮮も、このとき同じ暴風雨に襲われています。一八六六年のアメリカ商船の来航につづいて、フランスやドイツの軍艦なども来航してくるようになっている。それにつれて天主教への弾圧が強まる一方、いわゆる列強の朝鮮への圧力もまた露骨になっています。
もちろん日本もまた、この時期この暴風雨の圏外にいることはできませんでした。黒船来航と呼ばれているペリーの浦賀来航は、一八五三年ではなかったでしょうか。それ以降、日本の内外では、さまざまな事件が続発しています。例えば、一八六四年には、いわゆる馬関戦争が起きています。当時のヨーロッパ列強の連合艦隊が、攘夷派の長州藩の横暴を懲らしめるのだということで、あの関門海峡にずらっと軍艦を並べたといいますから、事態はまさに戦争だったと言えましょう。
下関で生まれた私は、子どものときよく聞いたものでした。高杉晋作の軍隊が、下関に砲台を築き、海峡の軍艦に一斉砲撃を加えたと言います。他国の玄関先に軍艦を並べるとは何事かということでしょう。しかし、高杉晋作が作った下関砲台の砲弾は、沖合の軍艦に届かなかったと言われていました。本当かどうか、高杉晋作が作った砲台から打ち出される砲弾は、砲丸投げの鉄ような塊で、ただ重く,あの狭い海峡の中に並んでいる軍艦まで届かなかったと言うのです。
一方、海峡に並んだ列強の軍艦の砲弾は、先が尖った火薬のいっぱい詰まった砲弾だったようです。下関の砲台は、その艦砲射撃を浴びて、一瞬にして壊滅したと言われています。しかも、それにつづいて海兵隊の上陸があった。下関は、その海兵隊によって一時占拠されることにもなったと言われています。この戦争もまた、別の形で展開された政治だったと言えましょう。高杉晋作らが、この戦争に受けた強い衝撃が想像されます。彼らの尊皇攘夷のスローガンが、開国と倒幕に変わったのは、これ以降ではなかったでしょうか。
もちろん、幕府の要人たちにとっても、馬関戦争は深刻な出来事でした。馬関戦争の前には、すでに鹿児島湾での薩英戦争も起きていたわけです。しかも、彼らの間には、すでにアヘン戦争の行方に対する深い不安もあったわけです。例えば、明治維新で中心的な役割を果たした坂本竜馬や高杉晋作、勝海舟や西郷隆盛らに大きな思想的影響を与えた佐久間象山は、アヘン戦争の去就を心配して、次のような手紙を書いています。
「…時に清国。英吉利との戦争の様子は、近ごろ御伝え聞き候や。慥に承り候とも申しかね候ことにて候へども。近来の風聞にては、実に容易ならぬ事に被存候――」と。
 しかも、この時期、徳川幕府は、倒幕・開国をスローガンにし始めた攘夷派の圧力だけでなく、相次ぐ世直し一揆によっても、内側から強い圧力を受けていたのでした。馬関戦争の圧力は、幕府にとっても止めの一撃だったのではなかったか。徳川幕府にとっては、ことここに及んではもはや「大政奉還」の他に取るべき手はなかったと考えていいのです。こうして明治革命が実現されたのでした。この意味からすると、明治革命とは、政治の延長としての戦争の危機を、逆手にとったレーニンのロシア革命の先駆的革命だったとも言えましょう。
実際、そのときの危機がいかに深刻なものであったかは、二五〇年もつづいた幕藩体制の中心の江戸城が、勝海舟と西郷隆盛の談判によって、無血で明け渡されたというからも、容易に想像できるというものです。江戸城の攻防を巡って、幕府の軍隊と天皇を担ぎ出した薩長の連合軍が、あの時期東京で大戦争を繰り広げるようなことをしていたら、いわゆる列強はその内部分裂に切り込んで、日本にいっそう深い傷を負わせることになっていたことでしょう。勝と西郷は、この厳しい状況を背負って、談判に臨んでいたわけです。明治初年の岩倉米欧使節団の随員だった久米邦武は、この革命を「是殆ド天為ナリ、人為ニアラズ」と述べているようですが、それはまた当時の人々の実感だったのではないかと思われます。
ともあれこうして、明治革命は実現されたのでした。内圧と外圧が、相呼応して新しい地平を開いたわけです。それ故にまた、この成功は、アジアの国々を初め、世界の多くの人々によって賞賛されています。いわゆる列強の脅威に曝されていた世界にとって、日本に起きた出来事は、まさに賞賛と羨望の的だったわけです。
しかし、いままさに深く考えられていいのは、それからの百年に二度の世界大戦があったと言うことです。この戦争は何か。文明の世界化とは、それを負の面から見ると、戦争の世界化でもあったのでした。しかも、日本はその二度目の大戦のとき、恐ろしい敗北を喫している。この戦争は、何故であるのか。日本の明治における成功は、同時に人間の生者中心の知恵に潜む負の遺産をも受け継ぐことでもあった、と考えていいのではないでしょうか。そうです、人間の知恵とは、明と暗が一枚重ねになっているのでした。戦争が政治の別の形となってくるのも、まさに人間の知恵に潜むこの闇の現れなのでありましょう。明治維新とは、この闇とともにある人間の知恵とともに開かれたわけです。そうであれば、その文明開化は、明であるとともに暗を深く潜めていたと見てよいのです。いわゆる文明開化とは何であるのか。

私は、文明開化という言葉を前にするとき、しばしばこの福沢諭吉を思い起こします。彼は言わば、日本において言うなら、この文明開化の流れを代表する人物の一人だと言えましょう。彼が今日の一万円札の顔になっているのは、それ故でありましょう。ところで、その彼は文明開化を、どのように見ていたか。彼に『世界国尽』があります。
彼はそこで文明について、次のように述べていました。「―文明開化というは、礼儀を重んじ正理を貴び、人情穏やかにして風俗やさしく、諸職の術は日に新たにして、学問の道は月に進み、農業を勤め工作に励み、百般の技芸尽さざるものなく、国民業に安んじて天の幸いを受け、末頼もしく自から満足せり。亜米利加合衆国、英吉利、仏蘭西、目耳曼、阿蘭陀、瑞西等の諸国は文明開化の域に至れるものというべし。――」
福沢諭吉は、同時の人としては珍しく、亜米利加にもヨーロッパにも出かけた人でした。しかも、異文化の人々の生活を、深く見つめることのできた人です。彼の文章は、まさに彼の眼差しを、正確に反映していると考えられます。正確です。しかし、この正確さとは何かということです。彼はこの文章の中で、いわゆる文明と対比させて、中国や土耳古などを未開・半開と位置付けていました。言うなれば、かの地の人は、文字学問はあっても、「嫉妬の心深くして他国の人を忌み嫌ひ、婦女子を軽蔑し、弱き者を苦しむる風あり」というわけです。また、彼は北亜米利加の人たちについては、文字あれどもこれを読み書きする者は甚だ稀れなり、―道具仕掛けの工夫を知らず、と見なして、これを「蛮野」と位置付けていました。阿弗利加の人々については、もはや言うまでもありません。
しかし、彼の目は、はたして真実を見ているのでありましょうか。彼は北アメリカの人々について、「道具仕掛けの工夫を知らず」と言っていますが、それは単に彼にはその土地の人々の道具が、道具に見えなかったというだけのことではないのか。つまり、彼の目には、機械文明の道具は見えていても、自然が培ってきた彼の地の人々の生活の仕掛けは見えなかったわけです。彼の言葉は、彼が善しとする価値観の反映に過ぎないのです。にもかかわらず、彼はこの価値観を基軸にして、彼の地の人々を野蛮と見ているわけです。いわゆる人間中心の理性とは、彼のこの眼差しを言うのではないでしょうか。これこそ生者中心の理性です。自らの対象に向かうときには、鋭く深くなりますが、他者によって自らを省みることは、まずないと言っていいのです。それこそ人間中心の知恵の闇でありましょう。
福沢諭吉の言葉は、まさにこの自分中心の闇をよくよく示していると考えていいと思います。世界を対象化してゆく眼差しは、そのまま世界を差別する眼差しになるのでした。それが近代の開いた人間中心の合理的理性というものではなかったのか。いま少し彼の言葉を追いかけて、その合理的な理性にどんな不合理が潜んでいたかを見届けたいと思います。

      四

福沢諭吉の『世界国尽』は、明治維新の一年後の一八六九年ものでした。ところで、彼は一八七二年になって、さらに『学問のすすめ』を書いていました。この論文もまた、きわめて合理的・理性的な思想の表明だと言えましょう。例えば、彼はそこで言うわけです。
「―いま世界を見渡すに、文明開化とて文字も武備も盛んにして富強なる国あり。あるいは野蛮未開とて文武ともに不行届きにして貧弱な国あり。一般にヨーロッパ、アメリカの諸国は富んで強く、アジア、アフリカの諸国は貧にして弱し。されどもこの貧富強弱は国の有様なれば、もとより同じかるべからず。然るに自国の富強なる勢いをもって、貧弱なる国へ無理を加えんとするは、いわゆる力士の力をもって、病人の腕を握り折るに異ならず。国の権義において許すべからざることなり」と。
実際、これがあの時代の状況だったのでした。彼の状況認識は正確です。そして、この状況認識から、彼は人々に学問の大切さを説いたわけです。その『学問のすすめ』は、次の言葉によって始められていました。
「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らずといへりー」美しい言葉です。
福沢諭吉は、アメリカの独立宣言の思想を学んでいるのでした。そして、自らを省みて、彼我の違いの根っこを考えるわけです。「人学ばざれば智なし、智なきものは愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによりて出来るものなり」と彼は言います。つまり、これこそが彼我の力の違いの根っこだと言うわけでありましょう。ところで、彼がその「学ぶ」という一点において見ていたのは、何であったか。「学問とは、ただ難しき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学というにあらず」と彼は言います。そして、続けていました。「されば今かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普遍日用に近き実学なり」と。
彼が『学問のすすめ』で考えていたのは、「実学」だったのでした。いま少し彼の言葉を上げて見ましょう。彼は言います。「一科一学も事実を押さえ、そのことにつきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用に達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく皆ことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありてのちには士農工商おのおのその分を尽くし、めいめいの家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり」と。
 ところで、この「実学」とは、言わば科学ことなのでした。彼は彼我の力の違いの根っこに、この科学のあるなしの違いを見ていたのでした。しかも、それが身の独立、家の独立、ひいては国家の独立にかかわる要であると見ている。その見識は、まさにあの時代の状況を底から見抜いていたと言えましよう。
ヨーロッパ列強とアジアの力の差の根っこにあったのは、まさに「科学」だったわけです。福沢諭吉の指摘は正確です。
しかし、この合理的理性の持ち主であった彼が、それからわずか十三年後には、どのような意見の持ち主となっていたか。日本がいわゆる文明国の圧力を受けていたとき、朝鮮や中国もまた、大きな激動に見舞われていたことは、すでに見た通りです。そして、日本は、明治維新によって、近代化への道を切り開いたのでした。しかし、朝鮮ではその近代化は挫折します。金玉均らの甲申事変は、いわゆる三日天下で潰えてしまったわけです。その翌年、一八八五年のことです。彼は『脱亜論』を発表して、何と言っていたか。
「わが日本の国土は、亜細亜の東辺に在りと雖も、其の国民の精神は既に亜細亜の固陋を脱して、西洋の文明に移りたり、然るにここに不幸なるは近隣に国あり、一を支那といい、一を朝鮮という。――されば、今日のはかりごとを為すに我が国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可からず、寧ろ其の伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従って処分すべきのみ」と。
繰り返しですが、いま一度ここに『学問のすすめ』の言葉を上げて見ましょう。かつての彼は、いわゆる文明国の横暴に対して言っていたのでした。「―自国の富強なる勢いをもって、貧弱なる国へ無理を加えんとするは、いわゆる力士の力をもって、病人の腕を握り折るにむ異ならず。国の嫌疑において許すべからざることなり」と。それがこの意見になっているわけです。この違いは何でありましょう。いかにも不合理です。しかし、これこそがまさに正確な対象認識からうまれた理性的な見識なのでありましょう。つまり、近代の人間中心の理性には、この合理的であるが故のこの不合理が潜んでいたわけです。そして、この不合理こそがまた、私たちの今日にも通じている課題ではないでしょうか。
当時のことで言いますなら、いわゆる日韓併合が起きたのは、それからわずか十五年後のことでした。この事態を、当時の人々は、どのように受け止めたことでありましょう。朝鮮を舞台にして、日清の両軍が戦端を開くことになったのは、それから九年後ことでした。日本はこの戦争に勝利します。その勝利に酔うとき、誰がそれからわすが半世紀後の世界大戦の惨状を予測したでありましょう。一方、日韓併合は、まさに朝鮮人にとっては、力士の力をもって腕を握り折られる不幸に相当するものであったわけです。対象認識の正確さは、まさしく不合理の落とし穴だとも考えられます。
そうです、人間中心の理性には、元からしてこの闇が潜んでいたのでした。科学的認識は、確かに合理的です。しかし、その合理性が、不合理を抱え込むのです。ガリレオの地動説を考えて見ましょう。彼の地動説の数学的な証明は、まさに偉大なものです。合理的です。それはまさにヨーロッパに科学を誕生させた根っこだとも言えましょう。その文明が、十八世紀、一九世紀になって、ヨーロッパとアジアが広く出会ってゆく時代を開いていたわけです。しかし、「数」とは、何でありましょう。二二が四は、確かに合理的です。しかし、この自然界には、元から言えば、「数」はなかったのでした。数が機能しているのは、人間世界だけです。それをよくよく考えるなら、地動説の数学的証明とはまた、人間が自らのいのちの古里でもある自然界から、遠く離陸してゆく狼煙でもあったと言えましょう。そもそも合理的とは何であるかと言うことです。
そうです、ガリレオとほぼ同時代の人にデカルトがいました。彼に『方法序説』があります。彼はこの哲学思想の冒頭で、つぎのように言っていました。「良識はこの世で最も公平に配分されているものである。――すなわち、よく判断し、真なるものを偽なるものから分つところの能力、これが本来良識または、理性と名付けられるものだが、これはすべての人において生まれつき相等しいこと。―」と。
デカルトは、ヨーロッパの近代文明の始祖と見なされていますが、それはまさにここに確認されている理性の発見が、万人に認められることになったからでありましょう。つまり、彼のその思想は、時ともに多くの人々に受け入れられ、それとともに人間中心の時代が起きているわけです。デカルトの思想こそは、まさに人間の時代の根っこです。だが、その明こそがまた、暗でもあったわけです。彼の思想が、人間の世界に新しい平等の基礎を開いたのは確かですが、それに安住して良いかということです。その文明人によって、理性がないと見なされた世界はどうなっておりましょう。
実際、人間平等の根拠に理性を据えたデカルトは、当然のようにその理性において自然を対象化してゆくことになります。そこにどのような世界が現れるか。デカルトの言葉を上げて見ましょう。「――それらの一般的原理が私に教えるところでは、人生にきわめて有益なもろもろの認識に至ることが可能なのであり、学院で教えられる理論的哲学の代わりに一つの実際的哲学を見いたすことがことができ、―火や水や風や星や天空やその他われわれをとりまくすべての物体のもつ力とその働きとを、―職人のわざを用いる場合と同様それぞれの適当な用途にあてることができ、かくてわれわれ自身を、いわば自然の主人かつ所有者たらしめることができるのだからである。」
まさしくデカルトの理性の発見は、そのまま科学の成立に通じていたわけです。そして、それはまた自然の所有者としての人間中心の思想に至ることが、ここに明瞭に示されています。人間世界の新しい平等の地平が、そのまま人間と自然の抜き差しならない分裂になっているとは、なんと言う矛盾でありましょう。人間の理性の恐ろしい矛盾です。いや、この矛盾の恐ろしさは、人間と自然を引裂いているばかりではありません。この知恵に潜む矛盾こそが、人間と自然を引裂くのみに止まらず、人間同士を引裂き、ついには世界を全体戦争に落とし込んでゆく人間の根っこの闇だったわけです。戦争が政治の手段となるのも、まさにその闇の究極の現れだと言えましょう。福沢諭吉の合理的理性もまた、その根っこに人知に潜むこの矛盾を深く潜めていたのでした。それこそが「力士の力をもって、病人の腕を握り折るー」と言っていた彼から、『脱亜論』が生まれてきたのは、いわば必然的だったのでした。
思えば、ヨーロッパ近代が生んだ優れた哲学者カントには、すでにこの人間中心の文明に潜む闇を抉る眼があったのでした。彼は真の平和を求めて『永遠平和のために』を書いていますが、そこに次の言葉があります。「―われわれの大陸の文明化された諸国家、とくに商業活動の盛んな諸国家――かれらが外の土地やほかの民族を訪問する際に示す不正は、恐るべき程度に達している。――それはかれらが住民たちを無に等しいとみなしたからである。―」いわゆる人間中心の理性とは、また自分たちと同じ人間が人間に見えなくなる闇でもあったわけです。なんと言う理性の闇でありましょう。

       五

ところで、福沢諭吉の理性にこの人知中心の矛盾があったとするなら、開国・倒幕の道筋を通って実現された明治維新もまた、その闇と無縁ではなかったと考えられないでしょうか。ここでいま一度、明治維新に眼を戻して見たいと思います。そうです、あの激動の時代もまた、至る所にその負の印が刻印されているのでした。しかも、それは日本に伝統する神道・儒教の思想と結合して、いかにも日本的な形を取ることになっていたと考えていいと思います。 
「和魂洋才」という言葉が、あの時代に生まれています。この言葉において言いますと、福沢諭吉の卓見は、いわば洋才の代表だったと言えましょう。あの時代、多くの人々が、この洋才に魅了されていったのでした。その影響は、幕末から維新にかけて実に広く浸透しています。『学問のすすめ』が広く読まれたのも、その広がりの一端を示すものです。しかし、その一方では、強力な対抗思想も台頭することになっていたのでした。洋才を取り入れること、つまり福沢諭吉で言えば、実学を学ぶことを主張する人たちに対して、それで魂まで明渡すことになっていいのか、という意見が登場しているわけです。いわゆる「和魂洋才」という言葉の登場は、その葛藤の産物だったと言っていいと思います。
ところで、維新後この葛藤がとりわけ険しいものになったのは、新しい国作りの根幹ともなる教育の場でした。それこそ洋才の取入れが、魂の売り渡しなっていいのかというわけです。そして一八八一年になったとき、元田永孚の『幼学綱要』が登場してくることになっていました。この「綱要」は、天皇の直接の求めによって編纂されたものだとも言われています。その点からすると、まさにこの「綱要」から、維新政府が激動の社会状況を見据えて、国作りの根幹に何を据えようとしていたかが読み取れるというものです。ではその「綱要」が、あの葛藤の時代に人々に求めていた徳目は、どのようなものであったか。その一部です。
「幼学綱要」 総目
孝行第一  忠節第二
和順第三  友愛第四
信義第五  勤学第六 (以下略)
維新政府が人々に求めた徳目の第一は、「孝行」だったのでした。そして、忠節は第二に置かれています。元田永孚は儒教の碩学でした。この徳目は、その儒教の思想を体現しているわけです。孔子に始る儒教は、地縁・血縁を基本的な縁として、何よりも先祖崇拝の孝の徳を、人倫の第一に挙げているのでした。言うなれば、生者中心の思想がその根っこです。維新政府は、この思想の要の徳を基礎にして、社会の政治的統合を考えているわけです。明治維新は、言わば革命なのでした。しかも、その底流には、いわゆる洋才からの強烈な刺激があったわけです。猛烈な洋才の取り入れが、そのまま和魂まで失うことになったら、元も子もないという不安を抱く者が出てきたとしても不思議ではなかったと考えられます。
ところで、この『幼学綱要』から、ほぼ九年後です。一八九〇年に維新政府はさらに、文部大臣芳川顕正の名によって、いわゆる『教育勅語』を全国に提示することになっていました。維新政府は、「綱要」の上に重ねて、人々にさらに何を求めようとしたのか。その冒頭は、次のようになっていました。「朕惟フニ我ガ皇祖皇宗国を肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我ガ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我ガ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存スーー」
思えば、『幼学綱要』が展開していたのは、先祖崇拝に発現する儒教思想なのでした。しかし、『教育勅語』では、その『幼学綱要』の徳目が君に忠にと入れ変わっています。忠が第一です。「…我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ…」です。この入れ替えは、何でありましょう。大したことはないとも見えます。しかし、これこそ『教育勅語』の要の狙いだったのでした。
いま一度、『勅語』の冒頭に目を向けて見ましょう。その冒頭は、「我ガ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコトー」です。その意味するところは、儒教が地縁・血縁を基礎において、先祖崇拝の孝を徳目に第一に据えていたのだとすると、『教育勅語』は、その「先祖」に神を据え代えたと言っていいと思います。つまり、日本は天皇に連なる神によって肇られた国ということです。勅語は『幼学綱要』が第一にしていた孝行の徳目を、君に忠にと入れ変えることによって、「神」をもって国民統合の真柱に据えたわけです。神の国と定められたところで、どうして親に孝ということが、その国の徳目の第一を占めることができましょう。日本を神の国と押さえたとき、儒教の徳目順は、明らかに変わってこなければならなかったわけです。そうです、明治の日本を代表する哲学者井上哲次郎が、『勅語衍義』を書いていました。つまり、「勅語」の解説です。そこには、この勅語の狙いが、実に詳しく説かれています。井上が維新政府の要請によって書いた解説書では、何が説かれていたか。解説書の一部を読んで見ます。
「――今世界列国ノ情状ヲ大観スレバ欧米諸国ハ勿論、其他欧州ノ人ノ往キテ国ヲ成ス所、皆旺盛ヲ致サザルナク、而シテ之レト進歩ヲ競フニ足ルモノ、唯々東洋諸国アルノミ。然ルニ、印度、埃及土、緬甸、安南等ハ巳ニ其独立ヲ失イ、暹羅、西蔵、朝鮮等ノ諸国ハ極メテ微弱ニシテ、独立ヲ成スコト甚ダ難カラン。然レバ今日東洋ニアリテ屹然独立シ、権利ヲ列国ノ間ニ争ウモノ、唯々日本ト支那トアルノミ。然レドモ支那ハ古典ニ拘泥シ、進歩ノ気象ニ乏シ。独リ日本ハ進歩ノ念、日月ニ興リ、方法如何ニョリテハ驚クベキ文華ヲ将来ニ期スルヲ得ベキナリ。然ルニ日本ハ?爾タル一小国ニシテ、方ニ今各国呑噬ヲ恣ニスルノ秋ナレバ、四方皆敵ナリト思ハザルベカラズ。――然レバ苟モ我ガ邦人タルモノ、国家ノタメニハ一命ヲ塵芥ノ如ク軽ンジ、奮進勇往、以テ之レヲ棄ツルノ公義心ナカルベカラズ。――蓋シ勅語ノ趣意ハ、孝悌忠信ノ徳行ヲ修メテ国家ノ基礎ヲ固クシ、共同愛国ノ義心ヲ培養シテ不慮ノ変ニ備フルニアリ。――」
ここに「四方皆敵ナリ」という言葉があります。そして、「共同愛国ノ義心ヲ培養シテ不慮ノ変ニ備フルニアリ」と言われています。アジアにおいてただ一国、近代革命の道に進み出た日本を取り巻く状況には、当時まことに厳しいものがあったのでした。革命の立役者の一人西郷隆盛が、やがて西南戦争の立役者になるほかなかったこと一つからしても、その内憂外患の日々の厳しさが想像できるというものです。明らかに「勅語」の背景には、この切迫した状況があったわけです。一八八一年の時点で考えられていた『幼学綱要』では、もはや国民統合の箍にはなり得ないということだつたのでありましよう。
ところで、親に孝が第一であったものが、君に忠ということになったということは、言わば儒教が神道にその地位を譲ったことにほかなりません。『教育勅語』の根っこは、明らかに神道の思想なのです。洋才が儒教に席を譲り、さらにまた、神道の登場になっているわけです。このとき日本の近代化は、明らかに西洋の国民国家とは、違う道を歩くことになったと言えましよう。このときから、国民国家に特有な国民と言う表現が消えてゆき、「臣民」という言葉が登場してくることになったと言っていいと思います。国が神国であれば、国民では適切ではないということでありましょう。「勅語」の言葉でそれを言えば、端的に次のようになります。「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」と。
こうして日本の近代革命は、ヨーロッパの近代国家とは、およそ性質の違った道をたどることになるわけです。繰り返しですが、洋才が、儒教を改めて求めさせ、それがさらに神道に至っているのです。その転換は、まことに大きなものでした。そうしたことから、一般的に言って、近代日本はこの異質な点ばかりが取り上げられることになっていたとも言えます。日本自らも、また近代思想の世界観からも、そうだったわけです。 
だが、いまに思えば、果して洋才、儒教、そして神道は、まったく異質な世界なのでしょうか。そこに共通の根っこはなかったかということです。確かに近代文明の洋才と儒教、そして神道がそれぞれに依拠している根っこは、まるで異質です。しかし、よくよく見ると、その根っこは、ともに現世にあると言えないでしょうか。洋才は、明らかに人間中心の思想です。しかし、儒教もまた、本来がその根っこを生者においているのでした。そして、神道もまた、その内実において言うなら、生者中心の清浄にかかわる道です。この現世主義という一点をよくよく見つめるなら、この三者はいずれもその根っこを生者中心の眼差しにおいていると考えてよいのです。
そうです、ここで今一度、『教育勅語』を解説している井上哲次郎の状況認識の横に、近代思想の人福沢諭吉の『学問のすすめ』を置いて見たいと思います。両者は、まさに相呼応しているのです。福沢諭吉は、その『学問のすすめ』で言っていました。繰り返しですが、その一部を上げて見ます。
「―いま世界中を見渡すに、文明開化とて文字も武備も盛んにして富強なる国あり。あるいは蛮野未開とて文武ともに不行届にして貧弱なる国あり。――わが日本国にても、今日の有様にては西洋諸国の富強におよばざるところあれども、――道理にもとりて曲を蒙るの目にいたりては、世界中を敵にするも恐るるに足らず。―日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さずとはこの場合なり。――わが日本国人もいまより学問に志気力を慥にしてまず一身の独立を謀り、したがって一国の富強をいたすことあらば、なんぞ西洋人の力恐るるに足らん。―」と。
明らかに福沢諭吉の『学問すすめ』と井上哲次郎の『教育勅語』の解説には、通底する状況認識があります。『幼学綱要』や『教育勅語』が、厳しい状況に迫られた生者の眼差しを反映しているものなら、『学問のすすめ』もまた、近代思想家としての生者の眼差しから生まれた生者の論理であるわけです。その生者中心の思想が、福沢諭吉においては、まずは「一身の独立」が説かれることになり、一方、『教育勅語』は同じ生者中心の思想から、「臣民」の養成を説くことになっているわけです。
この両者はその違いにもかかわらず、生者の目を立脚地にしている点では、明らかに共通しています。ともに生者の対象認識の世界に立っている。『教育勅語』の神の国が、生者中心の知恵から生まれたものであるなら、福沢諭吉の理性的眼差しもまた、同じ生者中心の知恵に立っているわけです。言葉を代えて言えば、福沢諭吉の合理的眼差しには、極めて深い不合理の闇が潜んでいたのであり、勅語のいかにも不合理な眼差しの根っこにも、鋭い合理的理性的な現状認識が横たわっていたと言うことです。そして、いま私たちが、問われているのは、まさにその生者中心の思想というものではないでしょうか。

思えば、この生者中心の百年は、なんと深い闇であったことか。少し整理しつつ振り返えりたいと思います。明治維新は一八六八年でした。『学問のすすめ』は一八七二年であり、『教育勅語』は一八九〇年のことです。そして、何が始っているか。一八九四年に日清戦争が起きました。この戦争は、さらに一九〇四年の日露戦争に連なります。戦争に戦争が積まれるのです。そして、一九一〇年には、いわゆる日韓併合が実行され、その一方ではいわゆる大逆事件が起きて、幸徳秋水らが逮捕されることになっていました。
初めの不幸が、いよいよ大きくなってゆくわけです。一九一四年には、第一次世界大戦が起きます。そして、ロシア革命が起きました。その政治力学については、すでに述べた通りです。このロシアでの出来事もまた、戦争にかかわる人間中心の知恵の矛盾を、よくよく考えさせるものであったと言えましょう。ところで、この第一次界大戦では、日本は一時的に株が爆発的に値上がりすることがあって、大いに潤うかのようでした。だが、この好景気は、人間の知恵の矛盾の深まりにほかならなかったわけです。一九二九年にはニューヨークの大暴落から、世界中が大恐慌に巻き込まれました。そして、日本はこの危機から、さらなる戦争の劫火を呼び寄せることになっています。
一九三一年には満州事変を起きました。関東軍は自ら満鉄を爆破しておいて、中国人が爆破したと言い立てて、これに戦争を仕掛けたわけです。翌一九三二年には、満州国が成立します。しかし、それは日本がついに自ら破滅の世界戦争に落ちてゆく導火線になったのでした。合理的理性の持ち主である者が、なんという不合理な生き方をすることでありましょう。およそ不合理な、日常の生活感覚では理解できない出来事を、合理的理性を備える人間が推し進めるのです。
人間の理性とは、まさに無明です。そうです、いわゆる満州事変のころです。戦後、総理大臣にもなられた人で石橋湛山という人がいましたが、あの当時の経済誌の論文に、満州は中国人に返したら良いといっていました。満州を占領しても、そこへ注ぎ込む金と人的損害は莫大なものになる。そんなことをするぐらいなら、中国に返して、貿易をした方が、はるかに大きな利益が上がると言うわけです。それこそが合理的な考え方です。しかし、当時は、そんなの理性的な考え方すら通らなかったのでした。満蒙は日本の生命線だ。満州がなくなれば、日本は生きていかれないと言う人がいました。そんな不合理で無謀な意見が人々を捉えるのです。満州事変は、日中戦争に拡大されてゆきます。その結果、ついに第二次世界大戦の地獄に墜落してゆくことになったのでした。
人間中心の理性の無明が、しみじみと思い返されなりません。物事を対象的に捉える知恵とは、対象を正確に捉えているかのように見えながら、実は仮の上を行く知恵の闇であったわけです。あの第二次世界大戦では、日本人の死傷者は、5百万人に達していたと言われます。一方、アジアにおいては、二千数百万人が犠牲となり、世界全体では六千五百万人が犠牲になったのでした。峠三吉の「にんげんをかえせ」は、その地獄のただ中に吹き上がった人間の叫び声だったわけです。その叫び声には、まさに無量の仏さまの願いがこもっていると言えましょう。にもかかわらず、私たち生者は、二十一世紀を目前にしながら、いまなおその仏さまの願いを聞こうとしていないのではないか。いつも生者中心です。あの無量の仏さまのお声が聞ける大地は、何処にあるのでありましょう。

仏の道―仏教はどこにあるのか。思えば、明治革命を担った洋才・儒教・神道の三者は、それぞれまったく異質の世界でありながら、その依って立つ拠り所は、共通して生者中心だったのでした。仏教は何をしていたのでありましょう。日本には中国、朝鮮を通じて渡来したものでありながら、また、独自に深く根付くことになっていた仏教があったはずでありましょう。
改めて、あの激動の時代が思い返されるところです。思えば、徳川の幕藩体制は、ほぼ二五〇年も続いたのでした。近代世界では考えられないほどの安定政権だったわけです。それが近代の世界的な激動に見舞われて、ついに倒壊することになったわけです。大きな変革です。その幕藩体制の末期には、いわゆる「ええじゃないか」の民衆運動が、日本中を暴風雨のように奔流したと言われています。列強の外圧はまた、戊辰戦争に見られるように各種の内圧を誘発したのでした。維新の前年には、各地の上空に伊勢神宮などのお宮のお札が舞い上がる「ええじゃないか」騒動が起きたといわれます。夥しい人々が、「ええじゃないか」と踊り狂い、掛け声を掛け合いながら、江戸から西の各地に溢れかえったのです。長い幕藩体制の箍が緩み始めると、地下に沈められていた民衆の熱狂に、火が放たれたのでありましょう。この「ええじゃないか」は、世直し一揆の奔流だったと言われています。明治維新は、この爆発的な世直しエネルギーと、深く連動していたわけです。事実、「窮民救済」と言うことが言われ、「世直し大明神」の火札なども登場していたと言います。
ところで、この世直し一揆と並んで、あの混乱期にはまた、維新政府に対抗する反対一揆も各地に起こったと言われています。明治維新とは、幕藩体制の転覆であるとともに、人々の長く続いてきた生活習慣の変更を迫ることでもあったわけです。男女の混浴が禁止され、髪型の形までが改めさせられています。それが世直し一揆の潮流と並んで、各地に新政府反対の一揆を引き起こしたのです。とりわけ、明治維新と同時に発令された神仏分離令は、人々のこころの在り様にかかわって、社会に大きな動揺を広げたと言われています。
廃仏毀釈の嵐が、この「分離令」の発令とともにこの国の至る所に吹き荒れたわけです。多くの寺が打ち壊され、仏具やお経が焼かれています。興福寺の五重塔が、十円とかで売り出されたのも、この時期のことではなかったでしょうか。しかし、その一方で神仏分離令は、仏教の側の激しい反発を引き起こしたわけです。それこそいのち掛けの抵抗一揆が起きています。打ち壊される寺がある一方で、人々が死罪を覚悟で寺を守る行動に出ているのです。特に阿弥陀さまを唯一の知恵としている浄土真宗の人々の抵抗は、死罪となる者を出すほど激しいものであったと知られています。しかし、この抵抗が長く続いていないのです。廃仏毀釈の嵐が、沈静化してくるとともに真宗門徒の抵抗も、次第に新しい体制に順応してゆくことになっています。
幕藩体制の長い安定した歴史が、真宗の人々の精神生活にも深い影響を与えていたと考えていいと思います。幕藩体制は、幕府の一括統制下の鎖国体制でもあったのでした。また、この体制はその歴史過程において、神仏習合をこの社会の一般的な社会意識にすることにもなっています。この幕藩体制の下で、仏教もまた、「ただ念仏のみぞまこと」という真実を見失うことになっていたのではなかったでしょうか。言うなれば、仏さまの教えに生きる者が、その下層意識の領域においては、いつしか生者中心の思想に吸収されることになっていたと言うことです。日本において、もっとも深く仏教の真髄を体現しているはずの真宗においても、なおそうだったのだと考えられます。いや、長い間、幕藩体制とともにあった真宗は、他のどの宗教組織よりも新体制に協力的だったとも考えられます。ここに近代日本の天皇制が生まれているわけです。
だが、この近代日本の文明開化は、脱亜入欧でした。その百年は、日本を繁栄させるかのように見えながら、その裏側でいよいいよ無明を深くしていったわけです。日本の歴史が培った精神風土が、その美しい自然とともに失われています。例えば、今日で言うなら、大海に浮かぶ列島の日本にいま、自然のままの海岸線は、どれほど残っていましょう。本来の深いいのちが、人々の人情とともに喪失させられているわけです。ここにいま、インドの詩人タゴールが、一九一六年に現した『日本精神』の言葉を思い起して見たいと思います。あの時期において、彼のなんと暖かい言葉であることか。彼は言います。
「――わたしは今日まで、数々の国を旅行し、あらゆる階層の人々と会ってきましたが、かつてこの国におけるほど、人間らしいものの存在をはっきりと感じたことはただの一度もありませんでした。――この国でわたしを最も感動させたのは、自然の秘密を、あなたがたが分析的知識によってではなく、共感によって知っておられるその確信です。―日本民族はその天才を、日本が修得した知識によってでなく、それ自身の創造によって、物資の誇示によってでなく、その内なる存在の発露によって発揮したのであります。――日本文化の底には『結合』への理想があるのです。ー人と人との『結合』、そして自然との『結合』です。そしてこの愛の真の表現は、この土地にかくも豊富に、かくも普遍的に見られる美の表現の中に見てとることができるのであります。――しかし、真の危険は次のような事実の中にあるのであります。組織化された醜悪さが、人間の心に嵐のように襲いかかり、その量の大きさで毎日毎日を過ごさせ、その侵略的な執拗さと愚弄の力によって、人間の深い心情に逆らって勝利を得てゆくことであります。――日本人の中にも、今直面する国家主義者たちの理想に必ずしも賛成しない人々のいることは、確かであります。彼らの目的は、獲得するということにあるので、成長しょうということにはないのであります。彼らは声を大きくして、『自分たちが、日本を現代化したのだ』と自慢しています。民族の精神は、その時代の精神とある程度、調和しなければならないという意味で、わたしはそう言う人々に賛成なのですが、その一方でまたわたしは、その人々に彼らの言うところの「現代化」なるものは、現代というもののたんなる衒いに過ぎない、ということを警告しなければならないと深く思います。――もとよりわたしは、日本が自己防衛のための現代的な武器を取得するのを怠ってよいと言うつもりは毛頭ありません。しかし、このことは、日本の自衛本能の必要最低限以上に決して出てはならぬものであります。真の力というものは武器の中にあるのではなく、その武器を使用する人々の中にあることを、日本は知るべきです。――現代の日本人が、その少年時代から形づくっている習慣―西洋風な生き方の習慣、外来文化の習慣―が、いつか日本人が自分の本性を理解するうえで、重大な障碍となることが証明されるでありましょう。そしてその時、もし日本の子供たちが、過去を忘れてしまって、その古い歴史の高嶺から来る流れを塞ぐことになるならば、その子供たちの未来は、今までの日本の文化をかくも肥沃ならしめ、豊饒な美と力を生み出してきた、あの瑞々しい生命の源泉を失うことになるでありましょう。――」
 タゴールの言葉には、まさにお釈迦さまの優しさがあります。彼はお釈迦さまこそが、インドの生んだ最大の精華と見る人なのです。暖かさと誠意が満ちています。しかし、あの時代の日本には、もうその言葉を真に聞き入れようとする人は限られることになっていたのでした。そして、何処に行くことになったか。第二次世界大戦の惨状は、それからわずか三十年後のことなのです。

あの戦争においては、実に恐ろしい地獄が出現したのでした。ここでその末期に死んでいった若者たちの声を揚げて見たいと思います。タゴールの言葉が、改めて身に沁みることです。『きけわだつみのこえ』にある声の部分です。
 長谷川 信
明治学院高等部学生。昭和十八年入営。二十四年四月特攻隊員とて沖縄沖にて戦死。二十三歳。
昭和一九年四月二〇日(陸軍飛行学校にて)急に梁川が読みたくなった。
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもいたつ心
単純なるもの、美しい
素朴なるもの、美しい
純真なるもの、美しい
大らかなるもの、美しい
編上靴の配給を受くる時、自分の飯を貰う時、腹が減って飯を前にした時、人間の姿や表情は一変する。明日から食堂に行って食卓に座る時、お念仏をしようと思う。あのいやな目付きを自分もしていると思ったらゾーツとする。眼を閉じて、お念仏しようと思う。
五月十日
―実に馬鹿馬鹿しい。近代文化の精を極めてこれからの戦争に処する我が国の軍隊に文字を一字一句間違えたらいかんーの原始的な火の能率的な国民学校ながれの者が存在するとは、ただあきれるばかり。
五月二十四日
あと、死ぬまでに俺の心は、どこまで荒んてで行くことか。日本民族は果して。―
十一月二十九日
俺たちの苦しみと死とが、俺たちの父や母や弟妹たち、愛する人たちの幸福のために、たとえ僅かでも役立つならば…
一月二日
ただ一人にて生まれ、
一月十八日
歩兵の将校で長らく中支の作戦に転戦した方の話を聞く。
おんなの兵隊や、捕虜の殺し方、それはむごいとか残忍とかそんな言葉じゃ言い表せないほどのものだ。俺は航空隊に転科したことに、一つのほっとした安堵を感じる。つまるところは同じかもしれないが、直接に手を掛けてそれを行なわなくてもよい、ということだ。――人間の獣性というか、そんなものの深く深く人間性の中に根を張っていることをしみじみと思う。――今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなく、ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。敵対し合う民族は、各々その滅亡まで戦いを止めることはないであろう。
恐ろしきかな、あさましきかな。
人類よ、猿の親類よ。
 何という言葉でありましょう。こうして戦場で「いのち」を終えた若者の数はそれこそ、おびただしいものだったのです。この若者たちの声に深く深く耳を傾けるなら、そこには敵も味方もなかったことが教えられます。無数の仏の心です。その心を私たちは、いまどのように頂いているか。あの死んでいった若者たちは、父や母や兄弟や日本を愛していたのでした。あの軍国主義・帝国主義を愛していたわけではないのです。ある若者は書いていました。自分たちは死んでいく。しかし、日本の軍隊とか大東亜共栄圏のためとか、そういうために死ぬのではないと。そういうことで、一度きりのいのちを絶たれるのではとうてい納得いかないと言うわけです。それを死の間際にして、初めてはっきりと意識するのです。もう一人、読んでみます。
和田稔 
東大法学部学生。昭和十八年十二月入団。二十年七月二十五日人間魚雷「回天」搭乗員として訓練中戦死、二十三歳
昭和二十年二月一日
初めて回天搭乗。
漱石の『こころ』を読み、尾崎士郎の『人生劇場』を読む。いずれも、かつて眼を通してものであるが、このようなさっきのみちた生命になってしまった私にとっては、涙く゜ましく、ことさらな感慨めいたものであった。
三月二十六日
お父さん、お母さん、稔はこんな所にいます。――お父さん、三好という中尉が死にました。船の底にもぐりそこねて、ぶっつかったのです。上のハッチから水が入って二時間もして揚げられた時には、すっかりぐにゃんとして、顔は血だらけで死んでいました。―
五月六日
あと一月の命の中には、今までの胡乱な生活の結論を見出そうとでもいうのか。あきらめきれない砂時計の針がまわってゆく。私の突撃の時を動きのとれない時と、それでもそっと怖れていることもあるのだ。
 うわすべりだったためにのみ、私は今まで平気な冷淡な顔をしていた。
そして今、始めて今、私は本当に私の過ちを狼狽している。あと一月の生命に何の装飾もない私を見つけだそうとその私のあがき。私には、もう自分自身がなくなってしまっているようだ。
六月二十日
死生を思わずして、ただ日々の虚弱虚妄のみに大言壮語し得るは、死生を超えたるに似たれども、断じて然らざるなり。―余の一生は、ただ虚栄の一生にして、卑屈の一生なりき。しかれどもその余にとりて、この出撃一ヶ月の静観の日には、いかなる意味におきても余の障碍に一つの句読を打ちたるものならん。―
 ある若者はまた、書いていました。「出陣を前にして家に帰った。老いた母は僕に涙を見せまいとして婦人会の集まりに出て行った。その後ろ姿を心の中で拝みつつ僕は涙を流した」と。なんという涙でありましょう。親鸞聖人にお言葉がありました。「如来ともうすは諸仏をもうすなり」と。この若者たちこそは、まさに諸仏です。敵・味方を超えている。その諸仏の声が聞こえなければ、私たちの方こそが浮かばれないと言えます。にもかかわらず、この若者たちを、生者中心に対象化して見るのみで、「死んだものは浮かばれない」などという私中心のものの考え方がいまも、広く横行しています。私たちは、その物の考え方をこの二十世紀最後において、いまこそ根底から覆していいのではないでしょうか。それがなければ、いつまた恐ろしい全面戦争に落ちるかわからなのが、現代の不安です。そのときは、世界が壊滅することにもなるのではないか。第二次世界大戦は、まさにこの地球に新しい戦争を出現させた最初の戦争だったわけです。原子爆弾の爆発は、その恐ろしい警告だったのではないか。最後にその劫火を浴びた、若者の遺書を読んで見ます。
鈴木実
東大法学部学生。昭和二十年八月六日原子爆弾のために負傷。八月二十五日午後九時三十分大野陸軍病院にて死亡。二十歳。
遺言状
「父母上様。親不孝の自分でしたがどうか御許し下さい。これから自分は親に孝養を尽そうと思っていましたがついに斃れました。自分は貧しい中より第八高等学校、東京帝大へ進ませて頂き、常に感謝して参りました。自分は学生時代からいろいろ父、母上様にご心配を掛けましてこれから孝行する時代に入らんとする時、倒れるのが残念です。姉上様や妹たちは御嫁入りも思い止まり、国民学校児童の教育にあたり、傍らよく父母上様のお手伝いをして下さいました。自分は何とも御礼の申しようもありません。父、母上様は晨(あした)に月を仰ぎ、夕べに星を抱き、こつこつとお働きになって自分を大学にまで進ませて下さり、本当に父、母上様に苦労ばかり掛けて、何の御恩返しも出来ずに死んで行く自分は、残念でお詫びの申しようがありません。しかし父母上様、自分の身は死しても魂は必ず仏前にて、父、母上様や姉上様たちを常に見守っています。魂となって父母上様に孝養を尽したいと思っています。どうか父、母上様、姉上様、妹たちよ泣かないで下さい。魂となって常に皆と一緒に働き、皆と一緒に食事をし、皆とともに笑い、皆と悲しみを共にします。これから秋に入り百虫の声を聞くにつけ、冬ともなりて落ち葉の寂しい林を見るにつけても決して泣かないで下さい。そして如何なる事態に遭遇するも身体に十分注意して、断固として事にあたり、いつまでもいつまでも達者でお暮らし下さい。父、母上様。去る六日の原子爆弾は非常に威力のあるものでした。自分はそのために顔面、背中、左腕を火傷致しました。しかし軍医殿をはじめ看護婦さん、友人たちの心よりなる手厚い看護の中に最期を遂げる自分は、この上もない幸福であります。鈴木実」(片仮名を平仮名に。漢字の一部を今日風に改める)
 何と言う言葉でありましょう。鈴木実君は繰り返し、繰り返し「泣かないで下さいー泣かないで下さい」と言っていました。「泣かないで下さい。泣かないで下さい」です。きっとこの遺書を目にしたご家族は、みんな激しく泣かれたのではないでしょうか。しかし、この遺書を見つめていると、その生者よりも、生者を見守っている仏さまの深い涙が感じられてなりません。仏さまの方こそ、深く泣いているのではないか。この若者は、泣かないで下さいと言いながら、深く深く泣いているのです。その一方、この遺書には、あの時代、絶対的とされていた天皇中心の神の国については、一言も触れていませんでした。その言葉のすべては、父、母上様、姉妹に捧げられているわけです。国家と人間の間のこの亀裂は、何を示すものでありましょう。
恐ろしいほどの内憂外患の圧力に迫られての事とは言え、明治の国家システムには、明らかに生者中心の知恵の深い矛盾が潜んでいたのだと言えます。仏教がその当初は排除されていたのです。そのことの意味が、つくづくと考えさせられます。間もなく幕藩体制とのかかわりにおいて、その両者の間に妥協が成立したのでありましょうが、仏教には日本だけの問題に止まらない世界史的課題があって、それが人類史のこととしてこの両者には、どれほど深く見つめられる眼差しがあったと、それがいまに思い返われるのです。
 二十世紀の人間は、素晴らしい文明を開くことに目が眩んで、人類史とともにある仏さま知恵と涙を見失っていたと言うほかありません。なぜそうなるのか。人間の知恵とは、冷たい記号からなるのでした。直感と概念が分裂しています。その合理的理性は、抽象的な記号とともにあって、いつも仮の世界を形成しているわけです。人間はよくよく気をつけていないと、仮を現実と錯覚してゆくわけです。それ故にまた、人間の実感は、いとも簡単に概念操作の網に絡め取られるのでありましょう。人間の世紀は、その人間の知恵の根っこに横たわる矛盾を、いよいよ極限にまで深めたのでした。二十世紀の戦争は、この根源的矛盾がいよいよ絶対化されてゆく、その第一歩を踏み出したことの証拠なのではなかったか。「にんげんをかえせ」の叫びは、まさに恐ろしい矛盾です。そして、今日の人間もまた、いまなおその叫び声を心底深くに抱え込んでいるのではないでしょうか。 
例えば、恐ろしい第二次世界大戦が終息して、僅か五年後という時に朝鮮戦争が起きています。二十世紀の戦争の闇は終わっていなかったのでした。冷戦構造と呼ばれる奇怪な世界体制が生まれ、長い植民地を生きた土地が、新しい戦争の舞台となつたのでした。しかも、その時、日本の総理大臣吉田茂は、この隣国の不幸を「天佑だ」と見たと言うことです。天佑とは、天の助けということです、朝鮮で起きた戦争を、日本にとっての天の助けだと見ているわけです。言うなれば、これで戦勝国の日本への恐ろしい圧力を回避できると言うことでありましょう。
そして、この吉田首相の判断は、その時点では正確だつたのでした。戦後の日本は、悲惨な朝鮮戦争のお陰で、アメリカの圧力が回避できたわけです。それどころか、かつての死闘の相手から、膨大な支援を受けて、たちまちにして世界の経済大国の道に新しく乗り出すことにもなっているのです。その意味で言うなら、政治家としての吉田首相は、まことに傑出した人物だと言えます。非常に優れたリアリストだった。しかし、この政治的リアリズムには、無量の仏さまを自分の方から対象化しているのであって、生者中心です。その自分が仏さまの方から、常に見つめられているという「仏智」への慄きはなかったと言えましょう。
思えば、明治の福沢諭吉もまた、非常に優れた理知的な人でした。しかし、その理知の人には、人間の理知への信頼はあっても、仏さまに見つめられている人の感性は、ほとんどなかったのではないか。彼の宗教観は、好き人が好きなようにという程度のものだったと言います。この理性が『脱亜論』の元だったのでありましょう。そして、この「脱亜」こそは、日本が新しいし弱肉強食のゲームに引きずり込まれる第一歩だつたわけです。第二次世界大戦は、すでにこの時期の人間中心の知恵によって用意されていたとも言えましょう。そうであれば朝鮮戦争の勃発を、天佑と受け止めるリアリズムは、まさに第二の脱亜論だったと言っていいと思います。今日の私たちは、その人間中心のリアリズムのそろそろ終点にきているのではないでしょうか。
思えば、生者中心の知恵は、ほぼその生者の寿命に見合っているのでした。たとえそれが、社会的に認知されるものであっても、ほぼ五十年を過ぎると更新が求められてくるわけです。それこそが歴史の教訓というものでありましょう。ところで、仏教には、その人間的寿命とは、歴史とともに次第に短くなってゆくという指摘があるのでした。例えば命濁という言葉でもって、人間の寿命は自分中心の文化が進歩して行くにつれて、やがては十歳になって行くであろうと指摘されています。十歳とは、いわば自我誕生の年です。人間とは、まさに人間になったとき、その本来の生を見失ってゆくと言うのです。まるで空想のようです。しかし、今日の文明国における少年たちの不安を見つめるとき、この命濁という眼差しに慄きを覚えるのは、きっと私一人ではないと思います。
いや、それでなくても、私たちの現代は、絶対戦争の時代に落ち込みつつあるのでした。第二次世界大戦の末期、広島と長崎に吹き上がった原爆の劫火は、その前兆ではなかったか。広島・長崎の原爆は、高性能火薬五万トンが爆発するほどの破戒力だったと言います。しかも、人間はその後、その生者中心の知恵でもって太陽エネルギーのからくりを解明したのでした。その科学から、何が生まれているか。核融合爆弾です。広島・長崎の原爆は、核分裂爆弾でした。しかし、新しい原子爆弾は、核分裂爆弾ではなくて、核融合爆弾です。その爆発は、太陽の爆発と同じ原理で起こるわけです。アメリカがビキニ環礁で爆発させたその核融合爆弾の威力は、一発で高性能火薬の千六百万トンの爆発に相当したと言います。
広島では、五万トンに相当する原爆で二十万都市が壊滅したのでした。千六百万トンの爆弾は、それの三百倍以上です。そんな爆弾が、地上で爆発したら、私たちの地上はいったいどうなるのでありましょう。それこそ想像を絶する破壊です。そして、その当時はまだソ連という国があったのでした。このソ連がそのとき、アメリカに負けてはならじとばかり、今度はノバヤゼムリア島の実験場で、同じ核融合爆弾の爆発実験をしています。この核爆弾の威力は、なんと六千万トンだったと言います。しかも、今日の世界には、この爆弾を地球の反対側に向かって発射して、誤差数メートルという正確さで飛ぶミサイルもあるわけです。
「命濁」とともにある五つの濁りを、ここに『阿弥陀経』から引用して置きたいと思います。「釈迦牟尼仏、能く甚難稀有の事を為して、能く娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の中にして、 阿耨多羅三藐三菩提を得て、もろもろの衆生のために、この一切世間に信じ難き法を説きたまう」
「劫濁」とは、時代の濁りです。「見濁」は思想の濁りを意味します。「煩悩濁」は、いわば人間の欲望の濁りであり、「衆生濁」は、人間の資質の低下と、衰えです。そして、最後はまさにいのちの濁りを見つめる「命濁」であるわけです。今日は、まさにこの五濁りの極みにあるのではないでしょうか。
 

夥しい仏の眼差しが感じられます。仏さまの声のない声が聞こえるのです。人間の知恵は、どうして繁栄とともに地獄をも深くしてゆくのでありましょう。明治維新の志士たちや、福沢諭吉、そして吉田茂らの知恵の形を見るなら、明らかに近代ヨーロッパの理性と同じように合理的の裏に不合理を潜めていたことが見て取れます。彼らの理性は、目前の対象に対しては、実に正確に働いているわけですが、五十年もすると、新しい困難を生み出すことになっているのです。人間の歴史は、その葛藤の連続であったと言えます。そして人間中心の現代に至っているのです。人間の知恵には、深い矛盾が潜んでいるわけです。
しかし、その一方で、人間の歴史は、自らの知恵の矛盾を見つめて、時を超えて生きる深い叡智を開いてもいたと言っていいと思います。お釈迦さまや、ソクラテスなどの系列に連なる知恵がある。いまこそその知恵が、深く見つめられていいときではないでしょうか。まずはその扉として、最初に明治の人・夏目漱石の言葉を見ることにします。彼は人間の知恵の矛盾に苦しみ抜きながら、晩年の作品『行人』によって、その根っこの闇を抉り出していたのでした。
「自分のしている事が、自分の目的になっていない程苦しい事はない」と『行人』の主人公は、絶望の極みに来て告白していました。
この一言に近代日本の苦しみを、その根っこにおいて言い当てられていると言えないでしょうか。彼はこの言葉に続いて、さらに次のように問題を展開していました。「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まる事を許してくれたことを知らない科学は、かつて我々に止まることを許してくれた事がない。徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船――何処まで連れて行かれるか分からない、実に恐ろしい」と。
近代の文明開化は、科学の発展とともに発展してきたのでした。しかし、その科学は、人間を何処に連れてゆこうとしているのでありましょう。現代人の心底には、この人類史的な深い不安が横たわっているのではないでしょうか。世界を対象的に分析し、また綜合してゆく科学的方法によって、この深い存在の根っこの不安が解決されるのでありましょうか。人間は科学を本当に大切に生かすためにも、今はむしろ自らの原点にある課題を思い返していいのです。明治維新のときには、生者中心の眼差しが先行して、一度は排除されることになった仏教の眼差しをここ見つめ直していいのです。 
仏教が日本に渡来したのは、聖徳太子の時代でした。そして、鎌倉の動乱期になったとき、法然が浄土教を起した。仏教とは、一部の知識人の占有物ではない、万人の真実の喜びを開く道ではないかと考えたわけです。親鸞は、その法然に心から帰依した人でした。そして、長い孤独と困難きわまる人生の晩年に至って、ついに日本の大地に浄土の真宗を開いたのでした。そして、蓮如がこの真宗を室町期の地獄を生きる人々に開示したわけです。ところで、その真宗とは、いかなる真理であったかと言うことです。まずは、蓮如の言葉において、真宗の真理を見つめたいと思います。先の漱石の言葉は、人間の生きる自分と、その自分のすることとの本質的乖離にかかわるものでしたが、その連なりにおいて言いますと、蓮如にはまた、次の言葉があるわけです。
よきことをしたるが、わろきことあり。わろき事したるが、よき事あり。よきことをしても、われは法儀に付きてよき事したると思い、われ、と云う事あれば、わろきなり。あしき事をしても、心中をひるがえし、本願に帰するは、わろき事したるが、よき道理になる」由、仰せられ候う。しかれば、蓮如上人は、「まいらせ心がわろき」と仰せらるると云々=『御一代聞書』
皆さんは、この言葉に何を思われましょう。蓮如は、毀誉褒貶、まさにさまざまに言われている人でした。真宗の教団の人々は、深く尊敬していますが、その教団の人にしても、厳しい批判の持ち主が決して少なくないのです。とりわけ、第二次世界大戦とその敗北の後には、蓮如否定は厳しいものであったと言えましょう。完全否定の思想家も大勢いたわけです。そして、それにはそれなりの根拠もまたあったのでした。蓮如教団とも呼ばれる真宗教団は、必ずしも親鸞の教えを、厳格に守ったとは言えない歴史を抱えていたわけです。しかし、その否定的側面を理由にして蓮如を完全否定してしまうなら、歴史的人間としての蓮如の全体像を歪めて捉えるだけではなく、真宗の真理と蓮如のかかわりをも歪めてしまうのではないでしょうか。つづめて言いますなら、生者中心の思想の機械的適用となって、歴史と人間の苦悩とともにある創造を見失うってしまうと言うことです。
室町の動乱期を生きた人々は、その地獄のような現実の中で蓮如の言葉の真理を確かに聞き取ったのでした。それがいわゆる一向一揆となった人々の確信だったのでありましょう。蓮如の第一声は、一四六一年の三月、京都に八万人を超える餓死者がでた地獄のどん底からの声であったと言われますが、そこには確かに親鸞の開いた浄土真宗の真理が明示されていたのでした。蓮如は、地獄に喘ぐ人々に訴えているのです。「たとえ名号をとなふるとも、仏たすけたまへとおもふべからず。ただ弥陀をたのむこころの一念の信心によりて、やすく御たすけあることのかたじけなさのあまり、弥陀如来の御たすけあることの御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべきなり。――」と。
蓮如はまだまだ汲み尽くされていないと思います。室町期の日本とアジアのかかわりもまた、なお汲み尽くされていないのではないでしょうか。ともあれいま上げ言葉は、その蓮如の世界の根っこを示しているわけです。ところで、さきの「よきことしたるが、わろきことあり。――」に戻りましょう。ここに言われている「―よき事をしても、われは法儀に付きてよき事したると思い、われ、と云う事あれば、わろきなり」といわれる言葉は、まさに漱石の悩みに連なり、さらに現代の闇の根っこを開いていると言えないでしょうか。
この横に近代文明の祖と見なされているデカルトの言葉を置いて見るとどうでしょう。デカルト思想の要は、『省察』において確立され、『方法序説』に展開された「われ惟う、ゆえにわれあり」でした。それ故に彼は、近代的な理性の祖だと見られている。近代科学は、まさにこの理性によって法を明らかにし、その法にそって幸せを求めてゆく道なのでありましょう。ところで、その立場こそは、まさに「われは法儀につきてよき事をしたると」という思いに相呼応するものではないでしょうか。「法儀」とは、仏教の道理です。しかし、ここには現代人が法則という言葉で考えている客観的法則に通底する意味があります。しかも、現代人は、その法則に至る理性を自分の中心に据えて、理性的に生きることが、最上の生き方と見ているのでした。その意味で、現代人はみんな個人中心主義です。蓮如はしかし、それが最悪へと転化することがある、と指摘しているのでした。現代の課題が、まさにここにあります。実際、現代人は、理性を根本の大地として、その理性を磨き、理性の持ち主の自分を中心に生きているわけですが、その理性と「われ」とは、何でありましよう。ここにお釈迦さまのお言葉を上げて見ます。
わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。=ブッダの真理のことば・感興のことば
お釈迦さまの言葉は簡潔です。しかし、ここには真実があります。私たちは子がない、財がないと言って悩みます。しかし、その自己がすでにして自分のものではないのです。そうであれば、ない、ないと言って悩むこともその根っこでは同じことです。その根っこには、ともに「思う」ということが横たわっていたのでした。にもかかわらず、人間の近代は、その「思う」ということに基礎をおいて、自分を絶対化したわけです。いのちすらも自分のものと見なしているのです。だが、どうしていのちが、自分のものでありましょう。「すでに自己が自分のものではない」のです。その自分ものでもない自己を、自分のものにしているということ、さらに言うなら、いのちを自分のものにしていること、その人間の矛盾こそが、人間の死に至る病だと見てよいのです。お釈迦さまが言われる無明とは、まさにその人間の知恵顛倒を指しているのたではないか。
にもかかわらず、近代日本は、その無明を文明開化とのみ見て、それに向かって進みでたのでありましょう。その当初の仏教の排除は、まさにその無明の現れにほかならないと言えます。そして、大切なことは、このとき仏教の側もまた、ときの状況に圧されてその生者中心の思想に妥協したと言うことです。これは何か。親鸞に次の和讃があります。
末法五濁の有情の
行証かなわぬときなれば
釈迦の遺法ことごとく
竜宮にいりたまいき
いまに思えば、まさに近代日本とは、真実の法がことごとく竜宮に圧しこめる時代であったと言えましょう。そして、何が近代日本を待っていたか。現代の弱肉強食の渦巻きです。文明開化とは、確かにまた、弱肉強食の世界的展開でもあったと見てよいのです。まさにこれこそが「よきことしたるが、わろきことあり」です。そうであれば、今日の私ちが求められているのは、まさに真実のいちのと知恵です。蓮如が、地獄の室町期に依拠した親鸞の大地が、いま真っ直ぐに見つめられていいのです。

浄土真宗の開祖・親鸞はその『教行信証』の「教の巻」において明示していたのでした。「つつしんで浄土真宗を按ずるに、二種の回向あり。ひとつには往相、ふたつには還相なり」と。そして、また「行巻」においては、次のように言われていました。
「つつしんで往相の回向を按ずるに大行あり、大信あり。大行というは、すなわち無礙光如来のみなを称するなり。―この行は大悲の願よりいでたり」と。また、親鸞が大切していた世親は『浄土論』に述べていました。
「正道の大慈悲は、出世の善根より生ず」と。仏教とは阿弥陀さまの出世の善根に基づく真実の知恵であり、真実のいのちなのでした。そうであればそれが生者中心の知恵に奉仕することは、あってはならなかったわけです。
  あるいはまた、『歎異抄』の第五条には、「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟」という言葉があります。一切の生きとし生けるもの。この天と地に存在するあらゆるものは、いのちの縁において言うなら、みな親兄弟に等しいと言うことです。言葉を代えて言いますと、人間の自分とは、世界を自分中心に見ている分けですが、その自分そのものはまた、世界のいちのの縁において誕生しているのであって、そのいのちは自分のものではないと言うことです。この考え方。この眼差しが、二十一世紀を前にしたいま、深く深く見直されていいのです。戦争の世紀は、また自然破壊世紀でした。「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」とは、まことに生の根本です。
とはいえ、親鸞はまたこの言葉を「親鸞は父母孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」という言葉でもって始めていたのでした。そして「そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なりー」と続けていたわけです。親鸞がここで見つめているのは何か。念仏に背を向けている者、生者中心の者の背中で先祖供養のために、あるいは自分の知恵我唯一のものであって、念仏に背を向けている者には、ついにいのちの真の縁は開けることはないと言うことです。例えば、このいのちの縁にかかわって、現代人には、「生態系」という言葉があります。『広辞苑』は、この言葉を次のように開いていました。
「ある地域の生物の群集と、それらに関係する無機的環境を一まとめにし、物質的循環・エネルギーながれなどに注目して、機能系としてとらえたもの」と。私たちの環境は、まさにこの天地の連鎖にあるのでありましょう。現代人の概念は、ほんとうに精密です。しかし、その対象化する知恵は、いのちの連鎖をそのようにも精密に対象することができているにもかかわらず、まさにその知恵でもっていまも引き続き、地球の環境を破壊しつづけているのでありましょう。対象を正確に捉えるだけでは、どうにもならないのです。もっと大切ものがある。それがないと、私たちは、その知恵でもっていよいよ生きものの根本的連なりの輪を破壊することになってゆきましょう。
 話は飛びますが、『葉っぱのフレディ』という絵本がありました。大変な人気です。『葉っぱのフレディ』は、一本の木の葉です。その葉っぱは、歳をとって不安になります。死が迫るのでありましょう。どうしようかと思う。ところで、その行き着いたところは、いや地面に落ちても、木の肥やしになってまた伸びてくるのだという思いです。ここに大地の縁があります。とても美しい絵本でした。私はこの絵本をとてもいい絵本だと思います。素晴らしい思想の展開でもある。
 しかし、私たちはいま、このようないのちの展開を大切にする一方で、いま一つ根本的な眼差しが求められているのではないでしょうか。確かに生きものは、みな兄弟です。つながっている。しかし、人間はこの自然の道理を、対象化して知る存在なのです。しかも、その知る知恵で自然を征服して所有しようとする。これが人間の近代的な理性であって、それを科学的精密さにまで鋭くしたのが現代なのでありましょう。人間は、その自らの知恵、まさに仏に見つめられて無明の闇と化している自らの知恵の闇を知らしめられていいのです。念仏との出遇いなくしては、人間とはいのちの連関を、自ら断ち切るのです。それが現代の不安の根っこなのでありましょう。
「いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」と、親鸞は述べていました。まことに重いお言葉です。人間の、ことやものを対象化する知恵は、いくら精密化されても、それだけでは自然は破壊されるばかりなのです。この地球的規模の問題を個人で言うなら、現代人は対象化する「チエ」で、自分の死が真に解決できるかです。浄土真宗のお寺のお坊さんに尋ねたことがありました。
「現代の生活の中で、出棺を見送られる時にどういう思いで出棺を見送られますか?」
「ご苦労さまでした。長いことご苦労さまでした。南無阿弥陀仏、と見送ります」
と。
しかし、これこそ生者中心の眼差しでありましょう。これは現世利益です。見送る人間の自分中心です。そのお別れの時とは、向こうから見られる時でありましょう。それ故に人間には「愛別離苦」の涙がある。向こうから私中心の現世のすべてが、鋭く見つめられているのです。それが今日は、すべて生者中止です。「ご苦労さまでした、ご冥福をお祈りします」です。「ありがとう。南無阿弥陀仏」と自分中心の念仏を称えている。仏さまに見つめられて、現世に生きる私中心の闇を確かに教えられる縁を、見失っているわけです。向こうからくる慚愧の涙なくして、どうして仏さまの尊さへの感謝が起きましょう。仏さまの智慧が戴けましょう。出棺のときとは声なき仏さまが、そのすべてをあげて「南無阿弥陀仏」の真実をお告げになっているときです。生者はその真実を賜って、はじめて自らの無明を覆していける。戦争の犠牲者の追悼とは、その意味からも今日の私たちの人間中心で見失っていた自分に、真の「いのち」を賜るときなのだと思います。
 さて、いままでに第二次大戦のとき、多くの若者たちが、どんな思いで死地に向かったかを『きけわだつみのこえ』に聞いてきました。今日のご縁の最後にあの戦争のとき、戦犯に問われ、死刑になった若者の声に耳を傾けて見たいと思います。
日本はあの戦争に敗北した後、世界に向かって戦争放棄を誓ったのでした。にもかかわらず、昨今ではその誓いを自ら放棄しょうとする人が出ています。自らは、アメリカに膨大な軍事基地を提供していながら、あの戦争放棄の憲法は、アメリカの圧し付けだったと言うわけです。それこそがまた、生者中心ではないでしょうか。日本の戦争放棄の誓いは、まさに仏さまに見つめられていると言っていいのです。しかも、それこそはまた、人間中心の無明の闇を根本から転じていく誓いだったとも言えましょう。さて、私たちにその無言の願いを、いまも提示をしつづけている仏さまの声をここに上げて見ます。あの世界大戦の後、ついに死刑になった若者の声です。
 木村久夫さんは京大の学生であって、昭和二十年五月二十三日、シンガポール、チャンギー刑務所において、戦犯刑死したのでした。その木村久夫さんが、死の前に『哲学通論』(田辺元著)の余白に書き残した言葉の部分ですが、読んでみます。
「――私は死刑の宣告をせられた。誰がこれを予測したであろう。年齢三〇に至らず、かつ、学半ばにしてこの世を去る運命を誰が予知し得たであろう。波瀾の極めて多かった私ノ一生はまたもや類まれな一波乱の中に字墨消えてゆく。――大きな歴史の転換の下には、私のような陰の犠牲がいかに多くあったかを過去の歴史に照らして知る時、全く無意味のように見える私の死も、大きな世界歴史の命ずるところと感知するのである。
日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真っ只中に負けたのである。日本がこれまであえてしてきた数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今私は世界人類の気晴らしの一つとして死んでゆくのである。これで世界人類がの気持ちが少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである。
私は何ら死に値することをした事はない。悪を為したのは他の人々である。然し今の場合弁解は成立しない。――日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と誹難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んで行ける。―父母よ嘆くな、私が今にまで生き得たという事が幸福だったと考えてください。私もそう信じて死んで行きたい。凡ての望みを失った人間の気持ちは実に不思議なものである。いかなる現世の言葉を持ってしても表し得ない。すでに現世より一歩超越したものである死の恐ろしさも感じなくなった。
  おののきも悲しみもなし絞首台
母の笑顔をいだきてゆかん
 処刑半時間前 擱筆す」
 この仏さまが、いま私たち生者を待つ直ぐに見つめているのです。その仏さまのお心ヲ頂くなら、もう一度武器を持とうと考える前に、世界中に向かって、あなたちもその武器を捨てて見たらどうかと言っていいはずです。これこそが仏さまとともに生きる道です。私は、そういう意味で、二十世紀が終わって二十一世紀に入ろうとしている今、もっとも根源的な意味で念仏の教えは何であったのか、これを本当の意味で謙虚に謙虚にいただき直していいと思います。その時はじめて日本もアジアも開かれる。それがまた、世界に新しい時代がくると言うことでありましよう。南無阿弥陀仏の教えをいただいて生きたい、心からそう念じることです。
 南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
 
 
 
 

(作家・思想家。この欄にすでに「いのちの声がきこえますか」が掲載されている。文字の大小がどう伝わっているのかわかりにくく、大きすぎるとも耳にするので、12ポイントにしてみた。)



 
 
 

 

     我は如何にして小説家となりしか
 

              国木田 獨歩
 
 

 自分が小説家であるか、無いかゞ先づ第一の問題です、世間が自分を小説家であると、定(き)めて居るなら其(それ)も致し方がありません、喧嘩にも成りません、元来自分は小説を書いて其で一身を立(たて)やうなどとは、少年の時も青年の時代も夢にも思つた事が無いので、其で小説家と若(も)し世間がみとめて居るなら、其は自分が取るにもたらぬ、三ツ四ツの短い物語りを書いた結果でありましやう其ならば自分に対する問題の適切なる意義は、「我は如何(いか)にして二三の小説を書きしや」と、言ふ事に成るだろうと思ひます、そうです「家(か)」であるか、「家」で無いかは問題の外(ほか)と致しまして、兎も角も「如何にして二三の物語りを書きしか、而(しか)して、世間から小説家であるとみとめらるゝ男と成りしか、」といふ問で答(こたへ)る事に致しましやう。
 全体自分は、功名心が猛烈な少年で在りまして、少年の時は賢相名将とも成り、名を千歳(せんざい)に残すといふのが一心で、ナポレオン、豊太閤(ほうたいかう)の如き大人物が自分より以前の世にあつて、後世を圧倒し我々を眼下に見て居るのが、残念でたまらないので半夜(はんや)密かに、如何にして我れは世界第一の大人(たいじん)と成るべきやと言ふ問題に触着(ぶつか)つてぼろぼろ涙をこぼした事さへ有るのです、けれども今から思ふと世間の少年は十の八九、皆かくの如き取り止(とめ)のない、馬鹿馬鹿しい、比較根性から出た妄想で、つまりは、坊の蜜柑(みかん)の方が小さいとか、大きいとか言つて泣いたり、わめいたりする動物体(てい)の発作に、過(すぎ)ないのでありましやうが何んでも彼(かん)でも兎も角も、其の発作で心を動かして居たのですから、物語を作つて一生を送るなど言ふ、事は夢にも思はず、思はないばかりではなく寧(むし)ろ男子の恥辱と迄、思つただらうと思ひます(実際、其処まで思つたか思はないかすら、記憶にないのです)、つまり文章家、小説家など言ふものは、絶対に眼中に無かつたのです、処が、自分の精神上に一大革命が起りました、即はち、人性(じんせい)の問題に触着(ぶつかつ)たので有ります、謂(いは)ゆる「我は何処(いづこ)より来りし、」「我は何処に行く」「我とは何んぞや、(What am I?)」との問題に触(ふれ)たので有ります、其(それ)で如何にしてかゝる問題に触たかと言ふ事は、此処で申上る場合では有りませんから止しますが、何しろ結果は則ち精神上の大革命でありまして、今迄の大望(たいまう)が、がらり破れて仕舞(しまつ)たのです、ナポレオンも、秀吉もいつかう、豪(えら)く無くなつて、了つたので有ります、若(もし)豪いならば其豪いと言ふ意義がまるで違つて来て比較根性から出た意義、功名、利達、の意義に成つて仕舞たので有ります。
 当然自分の対手(あひて)が以前と全(まる)で異つて来ました。以前は自分と世間とが常に相対して居たのが、今度は自分と此人生、自分と此自然とが相対して来て、自分の心は全たく其方に取られて了ひました。そこで読む書(もの)が以前とは異(ちが)つて来る、以前は憲法論を読み経済書を読み、グラツドストンの演説集を読み、マコーレーの英国史を読んだ自分は、知らず知らず此等を捨てゝカーライルのサルトルレザルタスを読み、ヲーズヲースの詩集にあこがれ、ゲーテをのぞき見するといふ始末に立到りました。斯(か)うなると、自分は哲学と宗教との縁を離るゝ事が出来なくなり、基督教にて示されし宇宙観、人生観などが寝ても覚めても自分を或は悩まし或は慰め、それに心を奪はれて実際の事は殆ど手にもつかぬ場合もありましたし、自然、自分は宗教家にならうかと思つた事もありました。
 斯ういふ境遇に陥つた青年は当時、自分ばかりでなく、外に幾人(いくら)もあります自分の友達の中(うち)にもあります、そして終極(たうとう)皆(みん)な如何(どう)なつたかと申ますと、遂に宗教家になつたものもあり、語学か倫理の教師になつたものもあり、そして文章を書くのが本職になつたものもあり、先づ此の三類(みとほり)の一に大概は落着て了つたのです。或は未だ何(いづ)れにも落着ないものもあります。そして自分は文章に縁多き方に来て了つたのです。又た教師を為(し)た事もあります。要之(つまり)、煩悶ばかりして居る訳に行かなくなり、パンを口に入れる道を急ぐ場合となれば、先づ其時分の自分の如き種類の青年は、教師にでもなるか、宗教家を本職とする外には使ひ道がないのでありました。
 処が哲学とか宗教とかを、ひねくつて居ると、自然文藝に縁が付いて来るもので、カーライルの如きも同じ道行(みちゆき)で終(つひ)に文学者になつて了ひましたから、自分も我知らず何時(いつ)の間にか、書いて見るやうになつて、従てそれが、身を助ける藝になり、パンを得る唯一の手段となつて了つたのです。
 親父(おやぢ)の脛を噛りながら二十一、二歳まで東京で煩悶を行(や)つて居ましたが、それも出来なくなりまして遂に矢野竜渓先生の推薦で先生の郷里、豊後(ぶんご)の佐伯(さいき)で英語の教師をやつて一年計(ばか)り居ました。此静閑なる一年間に自分は全く自然の愛好者となり、崇拝者となり、ヲーズヲース信者となり、明けても暮ても渓流、山岳、村落、漁村を遍(へめ)ぐり歩き、渓(たに)を横ぎる雲に想(おもひ)を馳(は)せ、森に響く小鳥の声に心を奪はれ、そして同時に、『牛肉と馬鈴薯(じやがいも)』(自分の書いた小説)の主人公、岡本誠夫(をかもとせいふ)の煩悶と同じ煩悶を続けて居ましたので、其当時です、徳冨蘇峯先生に書状(てがみ)を出して自分は最早(もはや)、政治には少しも趣味を有(も)たなくなつたと言ひ送くりましたら、先生から教訓の意味の返事が来た事がありました、実際、それほどまでに自分の心が現代の問題から離れて了つたのです。そこで一年ばかり教師を為(し)て居る中(うち)に、生れついた欝勃(うつぼつ)の念が抑へきれず、遂に又た東京に飛出て来て、入社したでもなく、只だ蘇峯先生の愛顧に附込んで民友社にもぐずり込みました、(もぐずり込むと言へば変ですが、当時の民友社の同人は大概もぐずり込んだので、今日唯今より入社、月給は幾干(いくら)などいふ手続きは無いやうでした)、民友社といへば、当時文藝の本場で、『国民之友』は文壇の最高位を占めて居たといつても宜しい位、その社へ自分が入つたのが則(すなは)ち自分と文藝との縁を確実に結(ゆ)ひつけた源因です。その後の自分の経歴は随分波瀾がありましたが、つまり、『国民之友』といふ当時文壇第一の雑誌に随意に書けるといふ特別の事情で、自然筆も達者になる、則ち藝が上達する、従つて面白味も出て来る、遂には此藝の外(ほか)、何一ツ飯を喰ふ藝がなくなつて、従て喰へなくなると直ぐ此藝を出して来ました。
 誤解されては困ります。自分は今日まで衣食を得る方法として文章を書いたといふ丈けの事で、則ち自分の実際を申上げたので、『文藝は衣食を得る藝当に過ぎず』などとは夢にも思ひません。文藝それ自身の目的の高尚なる事は承知して居ます。又た自分の作物(さくぶつ)は自分が心真(こゝろまこと)に感得し得たるを正直に書いたもので、それが文藝の光輝を幾分か発揮し得て居るといふ自信及び満足も持て居ます。
 何卒(どうか)自分も今後益々奮つて我が製作を世に出さうと思つて居ます。若(も)し自分が小説家ならば、今後益々小説家の本分を尽さうと思つて居ます。
 たゞ自分は、人生問題に煩悶した当時の我から全く離れて、たゞ文藝の為めに文藝に埋(うづも)れ度(た)くありません『人生の研究の結果の報告』といふ覚悟は何処(どこ)までも持て居たいのです。
   政治ですか。そうです、今は政治も何もかも、皆な面白くなりました。何にでも多少の興味を持ち得るやうになりました。

                            (明治四十年一月)

 
 
 

(くにきだ どっぽ  小説家  1871.7.15(新暦8.30) - 1908.6.23 現千葉県銚子に生まれる。 我が国自然主義文学に先駆け、且つ理想をはらみ抒情性に富んだ短編作家として知られた。没年彼が療養費支弁の目的で友情出版された、長谷川二葉亭、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥ら『二十八人集』の連名が当時獨歩の重みを証言して余りある。 掲載作は明治四十年(1907)一月に書かれている。すでに健康大いに衰えかけていた。)



 
 
 

     自 然 私 観        戸川 秋骨

       

哲学は幾度かその系統を改め、宗教と云ふものゝ改めらるゝ事屡(しばしば)なりと雖(いへど)も、未(いま)だ一と度(たび)も人生と云ふ問題の明らかにせられたるを聞かず、限りある人間と云ふものは限りなく人間と云ふものを捕へてさまよふべきか、恐らくはさまよふものなるべし、なまじいに理性の与へられたる動物なれば、解けぬ謎を解かんともがくも是非なからずや。人間と云ふものゝ内には自然と云ふ女神の性あり、人は此の女神より生れ来しものなるべし、必らずや人は自然の内に列せらるべき一ツの受造物なり、只此の女神をして此の人間を生ましめし神は如何なるいたづらものなるか、その隠れ給ふ処は何処ならん、此れは即ち永く人世に謎として与へられたる疑問なりと、或る人は云へり、実(げ)にや人間に動物性のあると共に理性と云ふ貴きものあるに依りても、恐らくは只一人(いちにん)の自然と云ふ女神より偶然に生れ出でしものにはあらざるべし、此の女神に配せし神を求めんがためには、様々の哲学顕(あらは)れ、色々の宗教生れ、経営惨憺力(つと)むる処あれども、未だ露程もそれと云ふもの見出されず。自然に超自然と云ふ一神を配したるはヘブライの宗教なり、運命を基とせし多神を配したるはギリシヤの宗教なり、其他印度の凡神(はんしん)教あり、ペルシヤの拝火教あり、マホメットあり、オヂンあり、何(いづ)れも人間と云ふ怪しきものを解かんとして顕れしものなり、此れ等の教が人間と云ふ問題に付て如何なる説明を与ふるか、蓋(けだし)は略(ほ)ぼ世の人の知れる処にして、更(あらた)めて茲処(ここ)に云ふ事も能(あた)はざるなり、只こゝには暫らく自然に対して人の考へたりし跡を尋ね、ことに東の国の人と西の国の人とが此女神に対し如何に異なれる考を抱きしかを覗(うかが)はんとす、素(もと)より西の国と云ひ東の国と云ふも、その最も狭き一局部に付て言ふに過ぎず、且つや東の想と西の想とは根本に於て相異する処あれば、之を見んには先づ根本の思想に委(くは)しく立ち入るを要すと云へば、此の両想の比較は容易の業にあらず、左(さ)れば余がこゝに此の自然に対する人の心を観んと云ふも畢竟はかいなでの業ならむ、已(や)むなくんば暫らく東西詩人の詠中に逍遙するを得んか。
さて自然とは何ぞとは人の常に問ふ処にして、予(あらかじ)め定めざるを得ざる疑問なれども、こゝに之(これ)が解を与ふる能(あた)はず、只常識にて自然と云ふ所謂(いはゆる)天地山川の意となし置かん、若(も)し強いて明らかなる答を要すとならば、自己の心念以外の萬物を指すと云はんか、かく云はゞ所謂自然ならざるものも其の範囲に容れらるゝならんも、夫は差閊(さしつかへ)なかるべし、蓋(けだ)し自然とは何ぞやとの問の大なるは我とは何ぞやとの問と同じく、此れのみにて一大問題をなし別に研究を要すべきものなり、自然の定義に付て多く云ふ能はざるを咎むる勿(なか)れ。
一般に東洋の思想は自然に屈従し、西洋の思想は自然を征服したるものなりと聞きぬ、広く東洋と云ひては洽(あま)ねく知る処にあらずと雖も、日本支那の思想に付て云へば此の言当を得たるかと思はる、日本の思想も支那の思想も、極めて自然に恋着し、之を愛すれども之を用ゆる事を知らず、露霜には歌を詠じ、星くずを眺めては銀河の乙女を思ふといへども、西洋の思想の如く、雷鳴を聞て之を通信の料に用ゐ、蒸気の立つに運搬の器を発明する事を知らず、何となく自然に左右せられつゝあるが如き感あり、西洋にて斯く自然を用ふるの事実より考へて、切(しき)りに実用々々と叫ぶものあり、此れは誤りたる考なるべし、西洋の器械発明の如きは、敢へて実用と云ふ想より来りしにあらず、自然を支配したる大なる思想より来りしものならん、何(いづ)れにしても今日云ふ処の文明なるものは、此の根本の想より来りしものに相違なきが如し、此の辺又西洋道徳とわが日本の道徳等との差を來(きた)せる事に関係あるべし、通信運搬など云はゞ極めて風雅の趣に反(そむ)けるが如し、まことに風流ならぬに相違なし、而(しか)れども此の不風流却つて或は大なる風流を出(いだ)したるにはあらざるか、人間が自然を征服したる結果は、シエークスピアの如きゲーテの如き、大詩仙を生みしにはあらざるか。
日本及び支那に天地人と云ふ事あり、此の三者は蓋(けだ)し如何なる時代にも如何なる国民にも、貫通して懐抱されたる思想なるが如し、天と云ふ考は凡て神に関はりたるものを概したる名なるべく、地と云ふは即ち自然の称、人とは凡て人事に関したるものを云ふなるべし、さてわが国の思想上に顕れたる処を以てすれば、此の内の地と云ふ事に重きを置きしが如し、若し古来の歌集を取りて見ば如何に地と云ふ自然の重んぜられたるかを知るべし。之に反して天と云ふ事に重きを置きし国民あり、ヘブライ人種の如きは之れなり、此の人種は殆んど自然と人間とを無(なみ)して、之をエホバと云ふ神の内に埋没せしめたり、泣いても神、笑つても神、風の吹く時も神、木の葉の散るにも神なり、其の例を挙ぐれば斯くの如し「エホバは統(す)べ治めたまふ全地はたのしみ、多くの島々は喜ぶべし、雲とくらきは其の周環にあり義と公平とはその宝座の基なり」と概ね此の類(たぐひ)なり、旧約書を取り、予言の書を見、又其の最高の思潮を顕せる詩篇を読まば、如何(いか)ばかり神と云ふ考が彼等の思想に印せられて、凡て自然と人事とを其のうちに没し去れるかを見るべし、此の思想はたゞにイスラエル一国に止まらず、後に来りし基督教にも其の勢力を及ぼし、中世紀より今日に亘りて綿々絶えず、人事を説くに神の摂理と云ふ事を以てせんとし、今猶ほ目に見るべからざる、手に触るべからざる、而かも実在者なりと云ふ、神を論ずる神学なるものを見る、蓋し分外の重きを天に置きしものにして、有名なるポープの言を転じて「人間が尤も力(つと)めて研究すべきものは神なり」と云ふの精神より来しものなり、或る人は誤ツて此の神と云ふ思想こそ、欧洲今日の文化を為したるものなれと云ふ、一見尤もなれども、欧洲今日の文化は一神の想を除き去るも猶何者かを残すべし、其の主座を占むるの栄は決してヘブライ想に帰せしむべからず、植村正久先生なりしか、此の天地人なる題にて、日本には地の思想多くして天の思想甚だ乏しきを論ぜられたり、内村鑑三氏も近頃同じ様なる事を歎かれたりと聞けり、素より此の天に関するわが思想の乏しきは、全く缺けたる処にして悲むべき事には相違なし、然れどもわが之を悲むは、天其のものに重(おもき)を置くが故にあらず、わが思ふ処は別に他に存すればなり。
西洋の何処(いづく)にか人間と云ふものに重きを置きし思想あるが如し、此は欧洲人種全体の特質なるか、左(さ)ればギリシヤの如きは其の主なるものか、哲学此の国に起り、科学此の国に起りを為して、欧洲全体に影響を及ぼし、永く不滅の国民たるに至れり、余は久しく思へり、道徳と云ふ事は左る事ながら基督教を欧洲より取り去りたらんより、此のギリシヤの思想をして袖を連ねて、欧洲の想界より退かしめば更に偉大なる変化起るべしと、斯くの如くなれば、恐らくは欧洲の文化は殆んど無に帰して、荒涼たる原野となり終はらんと、而して其の根底は何処にありやと言はゞ、蓋(けだ)し人間と云ふ事に重きを置きしに在り、此の人間に重きを置きし思想は、能く自然を征服して、実用の上と思想の上とに之を用ゐ、此の思想又た能く天と云ふ神の思想を生み出して、人間の事をして平凡ならざらしめたり、能く考ふるに人は此の宇宙間の主位にあるものなり、更(あらた)めて唯我独尊を云ふにあらずと雖も、人ありての世界なり、人ありての神なり、何事も人間に帰せざるべからず、故に人は其の周囲にある自然を征服して、之を支配すべきものなり、斯くの如くして始めて、人間百般の物質的需用は満足せらるべし、而して只自然征服を以て終はるべからず、次で天と云ふ神なる考を生み出さゞるべからず。凡そ人には霊妙なる理性あり、此の霊妙なるもの即ち自然を征服するを得しなり、人は必らず自から此の理性、即ち人の心霊的の側面を観察すべきものなり、此に於てか始めて天と云ひ神と云ふ思想を出す、己(おのれ)に反省し此の思想を得て以て心霊を説明せんとす、凡そ人間若し心霊に重きを置き、己に省みる処深ければ、自から此の思想を起こす、左れば此の思想は己に省みる処深きを示すものなり、故に又神と云ふものゝ別に貴きにあらずして、人間の貴きなり、見よ、人間を外にして神と云ふものに重きを置くの結果は如何なるべき、此の思想の最高の点まで進みたりしと云ふ、ヘブライの思想は能く優に其の民族をして、世界一の国民たるを得せしめしか、多く神学を究めたるの結果は、幾何(いくばく)の力を人間に及ぼせしや神学なるものは其の尤も得意とする道徳に於てすら成功する処少なきにあらずや、猥(みだ)りに神と云ひ天と叫ぶは、自然に屈従すると更に異なる処なし、神学の如き人間を離れて考へられたる神は、空漠々として殆んど意味なきものなり、今の基督教の如きはまことに此の弊の甚しきものにして、人間の力めて研究すべきものは神なりと云ふ、果して然るや疑なき能(あた)はず、余は日本の思想が自然に屈従したるやの跡あるを惜しみ、并(あは)せて一切天或は神と云ふ事に思ひ付かざりし事を悲む、たゞ或る論者の如く、神に重きを置かず、人間に重きを置て云ふ、わが学ぶ処少く日本の思想が如何(いかが)の発達を為せしやを詳(つまび)らかにせずと雖ども、一見するに、其の人事に亘れる事の少なく、并(なら)びに人間を思ふ事の深からざるにはあらずやと、感ずるもの少なからず、此(こ)はわが眼の僻(ひが)めるためか。
今暫らくわが詩界に逍遙せしめよ、わが文学史の開巻にある萬葉集には一定の評もあり、其の自然に対する力ある声は、赤人の富士の歌を取り出さんも愚かなり、古今集の時に至りても、其の序の偏(ひと)へに自然に懸恋するは、読む人の容易に認め得べき処にして、人生の半面は必らず示されたれど、未だ少しく足らぬ感のせらるゝ事多し、当時よりすれば素(もと)より今日に至るまで、人の情を写したるものとして、名声の嘖々(さくさく)たる源氏物語に於てさへ、其の自然の力の多く顕れたるを見るべし、まことに何れの歌人の詠(えい)を見るも、散文と云ふを見るも、其の筆一旦自然を写すの節に至れば、殆んど趣を殊にするが如きあり、源氏の如きは、素より能く人間を観察したるに相違なきも、猶自然の眼を以て人間を観しかと感ぜらるゝ節(ふし)なきにあらず、

 岩がくれの苔の上になみゐて、かはらけまゐる、おちくる水のさまなど故ある瀧のもとなり、頭(とうの)中将、ふところなりける笛とり出てふきすましたり、弁の君扇はかなううちならして、とよらの寺のにしなるやとうたふ、人よりはことなる君(きむ)だちなるを、源氏の君いたくうちなやみて、岩によりゐたまへるは、たぐひなくゆゝしき御ありさまにてぞ、なにごとにも目うつるまじかりける。

人の心の様々なるを画(ゑが)きたるは全篇に亘りて見ゆれども、凡そかゝる節(ふし)数多(あまた)見ゆ、須磨の浦にて雨風恐ろしき夜、浪たゞこゝもとに吹く心地し給ひ、琴を取りてかきならし給ふ、名高き段の如きは、尤も好き例ならん、あはれ自然のうちより生れ出でたる人かと思はるゝ処多し。
人間を自然の間に立たしめて見れば、まことに愛すべくして亦美しく、而かも人間を説くに易きものなり、然(しか)れども自然のみにては何処(どこ)となく足らぬ心地のせらる。ウオールズウオルスは能く宗教家に愛せらるゝ詩人にして、深く自然を観し田園詩人とまで呼ばれし人なり、故に其の人を見るや又自然の間に於て見しが如し、

  Three years she grew in sun and shower.
  Then nature said, A lovelier flower
  On earth was never sown;
  This child I to myself will take;
  She shall be mine, and I will make
  A lady of mine.

此れ明らかにウォールズウォースの自然と人とを観らるべし、更らに同じ人のベッガーの篇、ソリタリー、リーパーの篇、ナッチングの篇など、何(いづ)れも自然のうちに鎔(と)け込みて、彼処(かしこ)より人間を観たるものゝ如く、其の人間は人間らしからず、何か幽玄界のものゝ如くに感ず、蓋(けだ)しウ氏は初めより人間を観たる人にあらざれば是非なけれど、亦以て自然より観たる人の人らしき完き人にあらざるを観るに足らん。独逸(ドイツ)のシルレルの如き、詳(つまび)らかに知るにはあらずと雖(いへど)も、亦自然を慕ひし一人なるが如きは、其の逍遙篇(スパチールガング)、技術者(キユンストレル)の篇等に依りて僅かに知らるべし、左れば其の戯曲ウヰルヘルム、テルの如き、好くわが日本の想に適し、全篇巧に自然と契合せるが如き大(おほい)にわが国風に合ふが如し、而して其の人間の活動に至りては、ウオールズウォースの人間の如く、枯寂にはあらずと雖も、余り単調にしてテルの如きも、まことの人と思はれざるが如き感なくはあらず。
足利(あしかが)の末葉より徳川時代に及び、著しき発達をなして当時の美術想を発揮せしものは、生花、茶の湯、俳諧、謡曲等なり此れ等は皆な自然崇拝の結果にして、此の国民の気風を顕はすものなり、余は或る一種の論者の如く、之を末技として全然棄て去るの勇気を持たず、此れ等の根底には到底凡骨の人或は西洋趣味の人の解す能はざる美感の埋もれてあるなり、只余は其の自然崇拝の結果なりと思ふが故に、甚しく格外の重きを之に置く事は為さゞるべし。此の一流のアートは盛大を極めて其の後は往々末技に流れ、ために自から之が反動を招(ま)ねき、有為の人士と謂はるゝものをして、誤つて之を排斥せしむるに至れり、而して此の時に当りては、美術家も又之を排斥するものも共に、其の精神を忘れ、此の間別に愛すべきものあるを悟らざりき、蓋し斯くの如き排斥者は、夫の厭ふべき乾燥したる儒学派より起こりしものならむ。
抑(そもそ)も自然とは天地山川の謂(いひ)と解せられたり、実(げ)に自然を口にするもの動(やや)もすれば、青山に対して悲歌を賦すと云ひ、疾風雷雨のうちに上帝を見ると云ふが如き、大言壮語をなす、大言壮語素(もと)より好し、バイロンがウオールズウオルスを罵倒したりと云ふ事、素より謂(い)はれなき事にはあらず、然れども自然とは、啻(ただ)に高山大川のみを云ふにあらず、疾風雷雨のみを云ふにあらず、要は此の自然に対する人の心にあり、曩(さ)きに云ふ処の人間を根底に於て見るにあり、人間だに根底にあらば、自然の量の大小は必ずしも問ふ処にあらざるなり、実にキリストは野の百合を見よと教へたり(ボサンケー氏なりしか之を以て基督教創設者の自然に対する見解とすべしとか)人の思想の如何に依りては、木葉の黄落するも、幽花の谿谷に咲くも、何(ど)れか大なる声ならずとせん、更らに云はゞ日常の行為も取て詩料となすに足るべし、特更(ことさら)に広き天地を徘徊するには及ばざるなり、此の意義に於て余は生花茶の湯の如きものを棄つるの勇なく、併せて甚しき価値をも之に置かざるなり、之を以て末技の如くに為せしはもとより罪、人にあり。近来キリスト教の入り来れるありて、更らに斯くの如き細微なるものを観るの眼を塞(ふさ)げり、今の此の教は教相の野の百合に向ひて、述べられたる言とは甚しき相違をなせり、試みに其人等の言を聞けば大言壮語尽さゞる処なく、己れ一人天下の運命を握れるが如し、而して自然に対する考も徒(いたづら)に大なれども、猶古人の称へし自然と異なる処更らになし、蓋し只基督教の皮を被れる儒教なればにやあらん、云ふ処徒(いたづら)に大にして之に思想の通ずるなくば、只碌々たる巨石のみ、誰れか小なりと雖も金剛石の光輝燦爛たるを撰ばざらん、小事をさへ真に見る能はず、如何(いか)で大なるものを歌ふを得ん、

  Wee, sleekit, cow'rin', tim'rous beastie,
  O, what a panic's in thy breastie!
  Thou need na start awa sae hasty,
               Wi'bickering brattle!
  I wad be laith to rin an'chase thee,
               Wi'murdering pattle!
        *     *     *
  Still thou a rtblest, compar'd wi'me!
  The present only toucheth thee:
  But, Och! I back ward cast my e'e
               On prospects drear;
  An'forward, tho' I canna see,
               I guess an'fear.

此はバルンスが鼠の歌の前後なり、其の題目の小にして又穢(きたな)き、自然界中また他に見るべからざるものならずや、而も亦優に文學史上の華たるを失はざるにあらずや、近く透谷子が「龍丘子」の歌なども、亦此の列に置くを得んか。
日本に於ける族制々度は徳川時代に至りて其の極に達し、士族と平民との区画判然として立ち、美術さへ其の各部に於て個々の発達を為せり、画には在來のものに対して浮世画なるものを生じ、音楽には琴と三味線の如きふさはしき代表者を出し、文学に至りても一種の平民文学とも云ふ様なるものを出して、上流社会の文学と正反対に立ちて相ひ並びて発達をなせり、この平民より出でたる文学はわが文学史上の華として見るべきものにはあらざるか、此は徳川時代を現せし所謂(いはゆる)鹿爪らしき儒教主義、ことに其の縄墨(じょうぼく)主義の感染を免れしため、高遠なる想を缺きしと云ふ瑾(きづ)はあれど、当時平民の間に鬱勃(うつぼつ)たりし、奔放不羈(ほんぽうふき)瀟洒艶麗(しょうしゃえんれい)の象(しょう)を顕はし、まことに能く人間の自由なる精神を発揮し、多く人間と云ふものを其の題目とするに至りしは、喜び賀して可なるものにはあらざるか、此の自由の精神は遠く王朝の萬葉時代にありしもの同種と見て可なるべし、蓋し王朝平安朝に於ては「大和国は丈夫(ますらを)国にして山背国はたをやめ国」と云はれたるが如く、多少の差はあれど、其の周囲の優雅繊麗なる自然の内に養はれ、吉野の花須磨明石の眺めは、自づから人の心に印せられて、当時の詩人を造りしに与(あづか)りて力ありしならん、即ち大に自然の力に懸恋して之に左右せらるゝに至れり、今や徳川氏の時に至りては人事やうやく繁くなりて、自然を観るの時少なく、江戸の如きに至りては、殆んど自然の愛すべきものを見る事さへならぬ位置にありしかば、勢ひ人の心は人事に傾くに及びき、左れば三味線は琴に比して、更らに人間らしき声を出だし、どもの又平の画に至りて大に人物の画の上に活きたるを見るに至り、文学上には西鶴近松を首座に置きて無数の文士を出せり、更めて言はずとも、西鶴近松等の如何に能く人間を観じて画きたるかは、其の著作を一読したるものゝ容易に認め得る処なり、芭蕉の如きも自から古(いにし)への歌人と異なりて、其の詠ずる処の、幽に人の心裡に入れるが如きものあり、もと芭蕉は自然詩人たるを免れずと雖も、猶此(かく)の如きは時勢に関しての故なるべし、余は徳川文学が一面人間を題目としたるを喜び、更に他面には深刻に人間の霊性問題に立ち入らざりしを憎む。
顧みて欧洲の詩歌を読むに、素(もと)より委(くは)しく知る処にあらずと雖も、
其の詠ぜし処は人事に関するもの多く、シエークスピア、ゲーテは言はずも、其の自然を詠ぜしものさへ自(おのづ)から人間に帰着するにはあらずやと思はるゝ節甚(はなはだ)多し、もとより抒情歌と云ふは自家の胸中を吐露するものなれば、自然を歌ふにも自から自己を顕はし、從て人間を顕すと云ふ事多きは勿論なり、今は之に付て細かに亘(わた)るを得ず、同じく抒情と云へども、わが国の歌は人間に重きを置く事少なく、西洋の深きに及ばざるやの感あり。今人間と云ふ問題を言語の上に見るに、欧洲の語には性(セックス)なるもの甚多し、太陽を男性とし月を女性とするは日本支那にもありがちの事なれども、独逸の如きは山河草木一々性を有し、殆んど凡ての名詞に男女の性を付したるは、此れ即ち自然界を人間視したるにはあらずや。又欧洲には擬人法と云ふ事甚だ多し、日本に於ても時に之れなきにはあらずと雖も、欧洲の如く甚しきを視ず、此は言語の成立に由來する処あらんも、又自然を活物として視る事より起りしにあらずともすべけんや、殊にギリシヤに於ては自然の各処に神ありて、凡(すべ)て男女の性を備へ、甚だ人間に近きに似たり、凡(およ)そ斯くの如き證跡は、概ね欧洲思想の人間に重きを置けるを示すにあらざるなきや、ギリシヤ語とヘブライ語とを比較して、名詞の性を顕はすの明なると否とに付き観察を下すが如きは面白き題目ならむ。
シエークスピアには自(おのづ)からシエークスピアの自然あるべし、然れども其の自然に関する点のみを取りて、此の人を評せんは嗚呼(をこ)の極なり、仝(おな)じくゲーテにはゲーテの理想あるべし、されど此の人を論ずるに神に関する思想のみを以てする、恐らくは野暮(やぼ)なるべし、此の二詩仙の良く人間を観察したるは特更に云ふには及ばざれど、ゲーテの自然は別に特殊の趣を備へたる処あるべし、其の小河の歌、月の歌、すみれの歌、などを挙げんには限りもなかるべし、今こゝに手近なるもの一つを挙げん、「良夜」と題するものなり、

(編輯室注: 以下の詩句中、「?」の前の小文字は、ウムラウトを意味する。)

   Nun verlass' ich diese Hu?tte,
   Meiner Liebsten Aufenthalt,   
   Wandle mit verhu?lltem Schritte
   D?rch den o?den finstern Wald:
   Luna bricht durch Busch und Eichen,
   Zephyr meldet ihren Lauf,
   Und die Birken streun mit Neigen
   Ihr den su?szten Weihrauch auf

   Wie ergo?tz' ich im K?hlen,
   Dieser scho?nen Sommernacht!
   O wie still ist hier zu fu?hlen,
   Was die Seele glu?cklich macht!
   La?szt sich kaum die Wonne fassen;
   Und doch wollt' ich, Himmel, dir
   Jausend solcher Na?chte lassen,
   G?b'mein, Ma?dchen Eine mir.

大抵斯くの如く、前のウオールズウオルスと正反対に立てるが如く、自然に魂を入れたらんが如し。
わが文学史に於て内観の深くして、心裡の苦悶を経たるもの西行の如きは少なかるべし、從て其の自然も大に他と異なる処あるが如しと感ぜらる。

 もの思ふ袖にも月は宿りけり濁らですめる水ならねども
 雲もかゝれ花とて春に見て過ん何れの山もあだに思はで
 こゝを又我すみうくてうかれなば松は独にならんとすらん
 知らざりし雲井のよそに見し月の影を袂にやどすべしとは

自然と彼れの心と相ひ争ふが如きものあり、然れども畢竟するに I love not man the less but nature more と絶叫するバイロンの深刻なるに如(し)かず、蓋しバイロンは自から自然を慕ふと雖も、彼れ決して自然詩人にあらずして、心裡の苦痛に悶絶せし結果、彼れをして自然に向はしめたるものにして此の語たまたま、彼が人心に於ける感の深きを見るに足らんか、此れより英吉利(イギリス)の文学に於て多くギリシヤ的の影響を被(かうむれ)れる、スペンサル、ミルトンより下りてキーツに至る、自然并びに、一種の世界観を抱けるシエレー等の自然を観るは、こゝに必要にして興味あるべけれども、冗長に亘るの恐れもあり、又不才の能く為す能はざる処なれば省(は)ぶく、若(も)しキーツの杜鵑(ナイチンゲール)の歌、シエレーの「センシチーブ、プラント」の篇等を見ば、自然が活動踴躍せるを見るべし、之に反してわが詩人にありては、屡々人間が自然の如くに静かにして美くしきを見る、此れ等即ち東西の相異なる処か。
かくの如くなれば余は思ふ、凡ての問題は先づ人自から深く思ひ広く考へて、起りしものならざるべからず、かくて高き神と云ふ考も出づべく、まことに自然をも知らるべし、宜しく皮相の見をはなれて、遠く人心の奥義を見るべし、此れをまことの現実と云ふ、かゝる観察を下して始めて、まことの哲学顕れ、まことの宗教起り、まことの科学発達し、従つて様々の発明所謂実用に供せらるゝものも、出で来りて発達をなすべし、之を思はずして猥りに神の名を称へ、連(しき)りに高遠ならん事を求むるは、其の基を誤れるにはあらずや、また盛んに実用を称して念想を退くるものあるも、同じく誤解せる処あるにあらずや。また近き頃に至りては科学的と云ふ事、恰(あだか)も流行の姿をなし、哲学も科学的なるべしとか云ふ、而して欧洲の今日も大に科学に重きを置けりと、まことに然るべし、左れど科学のみにては此の宇宙の問題に対して満足なる答を与ふる事は難(かた)からん、科学の根本の思想も其の基を、人間とは何ぞやとの人生問題に置かざるべからず、抑(そもそ)も人は此の問題に遭遇して、やがて之を解かんために、科学に依るに至る、此の秩序に依らずして、たゞ科学のみを喋々す、恐らくは終(つひ)に科学も其の完き発達を為し難からん、科学の根底此の人生問題にありて、始めて人生実用の発見発明をも為すに至るべし、始めより科学に依るもの、はた実用のみを主とするもの、其の可なるを見ず。
近頃は又世間的と云ふ語を聞く事多し、出世間など云ふに対する、佛教より出でたる語なるが、其の意義は如何なるものか、恐らくは人事に亘ると云ふの意ならむ、左れど若し之を以て単に人事に関するものと云はゞ、予は此(かく)の如き語の流行せざらん事を願ふ、余が望む処は、文学に関する事は素より凡ての思想は人間的にして、凡て人の霊性を以て始めとなさん事にあり、世間的と云ふ語も此の意味に於て用ゐられん事を願ふ、大文士のうつし画きたる多くの著作にして、人間の千態萬状を顕したるものは、もとよりたゞ其の表面の事実のみを見たるものにあらずして、人の性情の奥深き処を見たるものなり、大文士著の不朽なるこゝにあり。
知らず此れ等の事はみなわが独断か。人生の事漠として知るべからず、知るべからざるものを知らんとするは人間なり、希(こひねがは)くは永く人間をして人間の研究物たらしめよ。

  (明治二十八年一月「文學界」第二十五号)
 
 
 

(とがわ しゅうこつ  英文学者  1870.12.18 - 1939.7.9  熊本県玉名郡に生まれる。島崎藤村、夏目漱石等と交わる。掲載の文明論は、明治二十八(1895)年一月「文學界」第二十五号に初出。)



 
 
 
 

    「阿部一族」論 ─森鴎外の歴史小説─
 
 

                        長谷川 泉   (国文学者)
 
 
 

     (編輯室よりお断り (森鴎外の鴎は正しくない。ヘンは区でなく區であるべきだが、敢えてすると、
     読者の機械環境によっては化け文字になるのをおそれ、不本意ながら鴎外としている。)
 
 
 
 
 
 

 創作家が作品の素材として歴史的事実をとりあげる場合に、ふつう「歴史小説」が形成される。「ふつう」という限定概念を附したのは、このことは一般にそのように取り扱われがちであるが、厳密な意味では、手放しの容易さで是認はできないからである。そのことは「歴史小説」とは何かという本質規定が重要な意義を持つことを確認させると共に、さらに次のようなことがらに留意する必要のあることを意味する。史実を作品の素材として扮飾する場合には、その歴史的事実が、誤謬や、あまりにも空想的幻想に潤色され過ぎていては、素材を歴史的事実にとった興味をそぐことになる。しかし一方そのような素材や環境の扮飾として取りあげられた瑣末の事実は、文芸の本質を貫く価値を傷つけぬ限りにおいて、作品における比重はそう大きくないとも言える。森鴎外は、このようなジレンマを「歴史其儘(そのまま)」および「歴史離れ」ということばで表現している。このことはいわゆる歴史小説の創作技法や、その作品の享受にとっては極めて端的に問題の機敏に触れる重要性を持っている。
 ここで鴎外の、いわゆる「歴史小説」の代表作として「阿部一族」をとりあげてみる。鴎外は「阿部一族」において多くの論理的矛盾を犯している。そのことは鴎外が、乏しい史実・資料から作品「阿部一族」を掘りおこした、その掘りおこし方において歴史的事実の尊重のし方、それとの対処のし方において、いわゆる「歴史小説」の課題を問題的に提起していることを示す。その焦点は、以下作品「阿部一族」を分析してゆく過程においてあきらかになるであろう。
 森鴎外の「阿部一族」は「興津弥五右衛門(おきつ・やごえもん)の遺書」に引きつづいて殉死の問題を扱った、いわゆる「歴史小説」である。「興津弥五右衛門の遺書」は大正元年十月の「中央公論」第二十七巻第十号に載せられた。鴎外の歴史小説としては手始めの作品である。この初稿は神沢貞幹の「翁草」巻六「当代奇覧抜萃」中の「細川家の香木」に拠ったものであった。(改稿は「興津家由緒書」「興津又二郎覚書」「忠興公御以来御三代殉死之面々」などに拠った。)
「阿部一族」はこの「興津弥五右衛門の遺書」に次ぐもので、いわゆる鴎外の歴史小説の第二作である。これは第一作の翌年、すなわち大正二年一月の「中央公論」第二十八巻第一号に載った。鴎外日記の大正元年十一月二十九日には「阿部一族脱藁す。」三十日には「滝田哲太郎の使に阿部一族をわたす。」十二月五日には「滝田哲太郎阿部一族の校正刷を持ちて来ぬ。」とある。この作品は鴎外が小倉時代に写させた「忠興公御以来御三代殉死之面々」と題する一書を基礎として成ったものである。「阿部一族」は「興津弥五右衛門の遺書」と共に、大正二年に書かれたいわゆる歴史小説の第三作「佐橋甚五郎」と共に一書に編まれ、その年の六月、籾山書店から「意地」として出版された。鴎外自記の「意地」広告文の中では「阿部一族」について次のごとく記している。「『阿部一族』は細川家の史料に拠り、従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利の病死に筆を起し、忠利が其の臣寺本八左衛門以下十八人の殉死の願を聴許し、独り阿部弥一右衛門(あべ・やいちえもん)にのみ之(これ)を許さざりしより、弥一右衛門世を狭うし、つひに阿部の一族主家の討手を引受け、悉く滅亡に及ぶの物語。」と。日記によれば鴎外は書名を「軼事篇」とするつもりであったが、書店の請いによって改めたという。意地とは、自我を扼殺する、いわゆる「男の意地」などと用いられる意味を表している。
 鴎外日記の大正二年四月六日の日記には「阿部一族等殉死小説を整理す。」とあり、八日「植竹喜四郎に軼事篇の原稿をわたす。」とし、翌九日「植竹喜四郎が来て請へるにより、軼事篇を意地と改む。」と記されている。
「興津弥五右衛門の遺書」が「意地」収載に当たって、かなり大幅に書き改められた経緯は唐木順三の追求によってあきらかである。また「阿部一族」の初出が「意地」収載に当たって改変された経緯については、大野健二・尾形仂の研究があり、この間には略本興純本の発見のことが指摘されている。
 初出において、「殉死を願つて許された十八人」の名称は、若干「意地」とは違う。そして「意地」における最も大きな改変は、五月六日に十八人全員が「潔く殉死して、高麗門外の山中にある霊屋の側に葬られた。」となっており、津崎五郎長季についてのみ詳細が記述されていたものが、それぞれの詳細な記述となり、殉死の日付についてもまちまちの記述となったことである。
 さて「興津弥五右衛門の遺書」および「阿部一族」は二作共に殉死の問題を扱っている。鴎外がこれらの稿を起こした動機が、乃木希典(のぎ・まれすけ)の殉死にあることは明かな事実として指摘されている。当時の日記には左のごとく記されている。

九月十三日。(前略)翌日午前二時青山を出でて帰る。途上乃木希典夫妻の死を説くものあり。予半信半疑す。
九月十五日。(前略)午後乃木の納棺式に?(のぞ)む。(以下略)
九月十八日。(前略)午後乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る。興津弥五右衛門を艸(さう)して中央公論に寄す。

 鴎外の日記は極めて簡朴であるが、右によってわかるとおり、「興津弥五右衛門の遺書」のまがうかたないモチーフを、日記は語っている。これは鴎外研究家がいい合わせたように引き合いに出すところである。さて、このようにして成った「興津弥五右衛門の遺書」は、骨格の見える透明な作品である。あたかも「水を盛れる玻璃盤」のごとき清澄な作品である。そこには殉死に対する肯定的な讃歌がある。ある鴎外論者の言をかりれば「詩」であり、「思想的・心理的問題性を仮りに一時抑へつけた詩的実験」であった。規矩と拘束とにみちみちた徳川封建社会にあって、抑圧されていた人間性が、封建社会の要求する生活行動の方式にそのまま合致する調和的な人間心理が、この作品では何らの矛盾なく眺められている。時代から与えられた条件の中で、その儘生きるモラルと、それに殉ずる悲壮な美が描かれている。殉死の讃歌はそこに生まれた。しかし、そのような人間性抑圧の上に築き上げられた静謐な調和と反抗のない人生観が、すでに封建社会を脱してまがりなりにもせよ近代の中に片足をつっ込んだ鴎外の生きる「現代」にあって、何等心の中に波紋を投ぜぬ筈はない。封建時代に生きる愚直なまでに見える殉死の肯定をそのままフォーカスに映し出した「興津弥五右衛門の遺書」に対し、鴎外は「阿部一族」においては、殉死という一つの行動が一族の滅亡にまで発展する極端な場合を取りあげた。これは殉死といっても常態ではなく、一変形である。鴎外はこの殉死の一変形をテーマとして「阿部一族」の中において殉死そのものに対するヒューマニスティックな心理的批判を加えたのである。これは「興津弥五右衛門の遺書」における人間観が近代的な整理を経過したことを示している。
 西欧留学以来、鴎外にとって深く相信ずる関係にあった乃木希典の殉死は、近代社会においては極めて注目すべき歴史的事象であり、社会的なセンセイションを起こすものであった。漱石は作品の中にこの体験を持ち込みはしなかったが、講演の中で乃木夫妻の殉死を是認し、至誠から出た成功として説いた。鴎外は乃木希典について殊更に語りはしなかったが、まず乃木の殉死後、数日を出でずして「興津弥五右衛門の遺書」を書き、ついで「阿部一族」を書いた。この作品も乃木夫妻の殉死の年内に生まれた。鴎外の日記によれば大正元年十一月二十九日の脱稿である。芥川龍之介にいたっては「将軍」の中で寸言骨をさす一流の皮肉で、乃木の殉死を祭壇から引きずりおとした。もっともそれは大正十年にいたってのことである。ここには乃木希典の殉死に対する、三人の作家の三人三様の対応が見られて興味深い。

 鴎外をして「興津弥五右衛門の遺書」を書かせ、また「阿部一族」を書かせた創作衝動が乃木夫妻の殉死であったとしても、これらの作品の血肉となったものは、それぞれ「興津家由緒書」などや、また「忠興公御以来御三代殉死之面々」といった史料であった。モチーフはこれらの史料の網の目の中に掬われた。鴎外がこうした史料に対する態度は極めて峻厳であり、客観的であり、自然尊重であり、生まれながらの傍観者の立場であった。鴎外のこうした態度は大正四年元旦「心の花」に寄せて、歴史小説を書き出した動機を記した「歴史其儘と歴史離れ」にあきらかである。この中で、鴎外は、小説は事実を自由に取捨して纏まりをつける習いであるが、自分はそういう手段を最近小説を書く場合に斥(しりぞ)けていると説く。その動機は簡単である。史料を調べて見て、その中に窺われる「自然」尊重の念を発した。それを猥(みだり)に変更するのが厭になった。これがその一つである。また現存の人が自家の主張をありの儘に書くのを見て、現在がありのままに書いてよいなら、過去も書いてよい筈だと思った。これがその二である。鴎外は右のごとく主張する。そして鴎外は自己の作品を観照的ならしめようとする努力を傾け、ディオニソス的な態度を排してアポロ的ならんことを期した。こうした態度を極限までおし進めていくところからは、がんじがらめな歴史の事実による束縛が生ずる。鴎外自身が言うごとく、歴史の自然を変更することを嫌って無意識のうちに歴史の束縛に苦しむ弊が生ずる。それは鴎外自身その中から脱出することを企図しなければならぬていのものであった。鴎外の心にきざした「歴史離れ」のしたさが「山椒大夫」のような伝説と空想の混血児の作品をも書かせた。たとえそれが、すぐれた鴎外鑑賞家である石川淳の評価するごとく「無慙にも駄作」であり、「恬然(てんぜん)として腐臭を放つ」詩であったとしても。
 我々にとっては、作中の阿部弥一右衛門や、興津弥五右衛門が実在の人物であったかどうか、実際にどのように殉死したかというような歴史的瑣末な事実の束縛は大きな関心ではない。これらは名作「雁」の末造やお玉と同じく鴎外作中の一人物である。鴎外の作中において、これらの人物がいかに生き生きと行動し、いかに歴史の進展を担う芸術的エスプリを発揮するかに、むしろ大きな関心は集中する。我々は鴎外の言う「皆当時ノ尺牘等ニ拠リテ筆ヲ行(や)リーノ浮泛(ふはん)ノ字句ナキハ著者ノ敢テ自ラ保証スル所ナリ」というようなことばによって、これらの人物や史実が当時のリアルに近いものであったことを納得する。「阿部一族」や「興津弥五右衛門の遺書」を読むに当たって、我々は鴎外とは別に、自らこれらの作品のバックとなった史料を検索考証してみようとは思わない。史実に忠実であったという鴎外のことばにすら大した顧慮を持たない。作家鴎外自身について言っても、マニアックな史実の詮索や考証癖だけで作品はできはしない。鴎外の持っていた史実の断片資料をいくら整理してみたところで、それだけでは、「阿部一族」や「興津弥五右衛門の遺書」は生まれるものではない。断片的な史実の追求の間に発見された作者の歴史把握と、主体的な共感と、感動と、主張とが、これらの作品を生み出させたのである。もちろんそれらの感動は作者が筆を執ったとたんに消滅し切断されたのかも知れない。作品を生み出すものはモチーフだけではなく、キエチーフも必要である。鴎外が冷徹であり、時に冷酷の評を得たのは強靱なキエチーフのためであった。
 鴎外は創作に当たって、作中の人間も事件も、すべて現象として雲烟過眼視する客観的距離を有していた。その距離の余裕と客観的凝視の眼とが、作品の中立性と共に完全性を与えた。作者自身は曇りのない鏡のように何等の色彩も先入主も持たないで、その前を通り過ぎるさまざまな物象をあるがままに映し出してみせる手法は、谷崎潤一郎のことばをまつまでもなく、日本文学の伝統が与えてきたものであった。そのようなところから、鴎外は、「空気の如くに視る」表現や「椋鳥(むくどり)主義」(ぼんやりと混沌とした味わいを愛する態度)を愛したのであり、虚しさの充実相である「空車(むなぐるま)」のごとき随筆作品を生んだのである。「空車」が「?斑たる先秦銅鼎のやうな蒼古の逸趣」を湛えているかどうかは別として、鴎外随筆中の白眉であることは異論のないところであろう。「空気の如くに視」たり、「空車」を強く意識する心が、鴎外に「興津弥五右衛門の遺書」から「寒山拾得」にいたる一連のいわゆる歴史小説を書かせ、また「澀江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」などの不朽の史伝を書かせたのであった。大正六年の「なかじきり」は鴎外の言を左のごとくに伝える。「歴史に於ては、初め手を下すことを予期せぬ境であつたのに、経歴と遭遇とが人の為めに伝記を作らしむるに至つた。そして其体裁をして荒涼なるジエネアロジツクの方向を取らしめたのは、或は彼(かの)ゾラにルゴン・マカアルの血統を追尋させた自然科学の余勢でもあらうか。」そしてさらに言う。「何故に現在の思量が伝記をしてジエネアロジックの方向を取らしめてゐるかは、未だ全く自ら明かにせざる所で、上に云つた自然科学の影響の如きは、少くも動機の全部では無さゝうである。」と。
 マニア的な史実と系譜探求の瞳の奥にあるものが、鴎外自身冷徹な軍医であった自然科学者的なものの影響であるかどうか。鴎外自身にとっては混沌未分の状態であることを告白した右の文章は極めて意義深いものを持つ。鴎外は、恐らくは、「森鴎外」の著者高橋義孝が推測するごとく「世間に云ふ作家としての資格」に欠けるところがあったでもあろう。彼の血液の中に含まれたどうにも手の下しようのない実証主義的な精神が、芸術的仮構世界の独立した存在を許そうとしなかったとする見解がそれである。人生の大道を歩いて行く任意の人物をとり出して、それをバルザック風に描き、生命化することは鴎外には難しい作業であった。鴎外は作品と自己との間に設けられていなければならない絶縁地帯を、実証的な資質からする宿命として取り除きたかったのである。「百物語」や「鶏」のごとき作品の成功はそれであった。また史伝でも「澀江抽斎」のごとき鴎外自身に近似した人物は、不滅の人間像を刻まれたのであった。鴎外は自身の資質に起因する作家能力の欠陥を、歴史の事実という素材を導入することによって長所として甦生したのであった。
 こうして生まれた鴎外のいわゆる歴史小説には、明白に観取される二つのタイプがある。すなわち歴史の衣裳を部厚くまとった「阿部一族」や「栗山大膳」には普遍的な歴史に対立する色濃い個性が描かれ、これに反して史料のおぼろな歴史の衣裳の淡い「椙原品」や「山椒大夫」や「安井夫人」には、歴史を包含する普遍的人間性が強調されている。おそらくこれは「知らず識らず歴史に縛られ」「此縛の下に喘ぎ苦」しみ「そしてこれを脱せよう」とする苦悶の表徴であろうか。「歴史学的処理によって刻み上げられた人間像の唇に一点の朱を点じたい」とする自然の帰結であったであろう。歴史的事実の桎梏(しっこく)に反撥する人間の姿である。
 
 鴎外は乃木希典夫妻の殉死に刺激されて「興津弥五右衛門の遺書」を書き、殉死という行動形式に盛られた封建社会の枠内における没我の世界と心理を調和的に描き出した。しかし、鴎外の創作心理にも振幅がある。このような懐疑のない平静極まりない人間性の没却に対しては、反撥と批判が大きくその対極を形成するのは当然であった。中野好夫も云う。「一面にはあくまで殉死の倫理と、武士の意地に疑ふところなく亡んで行つた一族の精神に驚嘆すると共に、一面にはすでにむしろ形骸化した倫理的形式の恐るべき魔法的支配力に氷のやうな作者の批判的焦点が結ばれてゐることも、決して見逃すことは出来ないであらう」と。「阿部一族」の基調音はこうして設定された。もちろんそれを納れる史料は、乃木夫妻の殉死の時をはるかに遡る小倉時代に得た「忠興公御以来御三代殉死之面々」であった。登場人物は細川忠利の死に際し、主君の許(ゆるし)を得て殉死した寺本八左衛門直次以下十八人、および許を得ずに追腹を切った阿部弥一右衛門通信である。忠利の許を得ずに殉死した阿部弥一右衛門をめぐって一族滅亡にいたる阿部一族の悲劇が胚胎した。
 殉死とはけだし霊魂の不滅を信ずるところから起こる。尊族の死に当たって、卑属のものが自らの生を絶ってこれに従うのは、尊族の死後も生前の従属関係が連続し、生前と同様、冥府にまで従って奉公しようとする精神に基づく。「日本書紀」には垂仁天皇廿八年十二月、皇弟倭彦命(やまとひこのみこと)を葬った条下における殉死の禁の記述によって見れば、殉死の風は早くから行なわれ、しかも本人の意向に関係なく、第三者の強制によって行なわれる弊が見えている。埴輪はこのような人間性抑圧を斥ける方策として採用された。殉死の禁はその後屡々行なわれているが、これは積年の習俗が容易に抜き難かったことを物語るものである。
「忠興公御以来御三代殉死之面々」をテクストとして「阿部一族」は十九人の家臣の殉死の相を綿々と語っている。決行の時日、殉死者の禄高(ろくだか)・年齢も洩らされることはない。介錯者(かいしゃくしゃ)の名前もあげられている。我々はここで思う。殉死した家臣について、歴史の真実としては、千石取りの武士が千百石取りになっていようと、また十九人という人数が十八人であったとしても、また介錯者の名前が仮に史実と相違していたとしても、「阿部一族」という作品――それは歴史小説とよばれているのであるが――に盛られた歴史の史実的記述が、厳密な歴史科学上の詮鑿(せんさく)から見て、たとえ誤りに満ちていても、そのようなことは我々の関心外のことだということだ。我々は歴史小説に歴史の事実を求めるのではなく、小説を求めているのである。
 芥川龍之介は「澄江堂雑記」の中で、作品の中において「昔」を取扱う態度と作品の中で「昔」が務める役割を述べている。「太古緬?の世」は、異常なテーマを犬死させず芸術的に最も力強く表現するに適している。不自然な障害は、こうして避けられる。しかしお伽噺なら「昔々」ですむが、小説ではほぼ時代の制限が出て来る。したがってその時代の社会状態も、自然の感じを満足させる程度において採り入れられる。歴史の扮装が必要となる。歴史小説はどんな意味においても「昔」の再現を目的としていない。したがって昔のことを小説に書いても、その昔に大した憧憬を持っていない。現代に生まれたことを有難く思っている。芥川は右のように主張する。芥川はこのように歴史小説の「昔」を考えているのであるが、鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」以下いわゆる歴史小説と呼ばれる作品の中で、歴史小説の扮装である歴史的事実を、芥川以上にマニアックな実証的正確さで確認しようとする。それが鴎外の「歴史其儘」であり、「猥に変更」しない態度であった。
 ところで、ここで顧みなければならないものに、グロルマンAdolf von Grolmannの歴史小説不信論がある。グロルマンは主張する。歴史小説は第一に作家自身の個人的要求や趣味による歴史的事実の歪曲、第二にあらゆる歴史的条件を完全に支配再現するだけの能力もなく、逆にまた登場人物のうちに自己の情熱を注ぎ込む程の力量もなく、政治的煽動的な性質の動機から歴史に取材する場合があるとする。そしてこれはいずれの場合においても芸術作品として純粋完全ではない。すなわち歴史の主張と文学表現のディレンマであるとする。このようなグロルマンの歴史小説不信論には、歴史的真実と芸術的真実とを同時に承認し架橋しようとする意図が見られる。このような歴史は、芥川の昔とは異なったものであることは明らかである。芥川は作品において、歴史の事実や時代環境に顧慮を払うことを主張したが、それらの必要は自然の感じを満足させる程度に止まっていた。それは作品の本質ではなかったのである。ところが鴎外のいわゆる歴史小説は、むしろ芥川の「昔」には安住し得なかった。鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」でも、また「阿部一族」においても、その素材が歴史的事実であることによって作品自体を歴史小説に昇華しようとした。鴎外にももちろん作品構成にあたって「歴史離れ」の苦悶はある。しかし鴎外の手法を貫くものは、グロルマンの説くごとき不信の吐息を絶滅することであった。芥川における歴史の衣裳は「自然の感じを満足させる」程度であったのに対して、鴎外においては歴史の事実を克明に拾うのが「自然」を尊重することであった。鴎外のいわゆる歴史小説は、鴎外が慣用した思量のメカニズムによるならば、鴎外自身が恐れる「二つの床の間に寝る」ものであったとしても、歴史家から放肆を責められるものであるよりは、小説家から拘執を笑われるていのものであった。
 我々は今まで幾度も鴎外の「歴史小説」ということばを用いて来た。それは必ずしも手放しの「歴史小説」ということばではなく、いわゆるということばを冠しての使用ではあったが。世上鴎外の歴史小説としては、「興津弥五右衛門の遺書」から「寒山拾得」にいたる作品系譜をあげ、あるいはこれに「澀江抽斎」以下「北条霞亭」にいたる史伝を加える。「澀江抽斎」の一作を以て「日本散文史上初めて現れた正統的な小説」としての評価を与える学者もある。その論拠は、小説とは本来歴史小説なのであるから、「澀江抽斎」は、かつてランケにあって一つの希望として述べられるに止まっていた歴史と文学との統一が完成した作品であり、したがってティピカルな歴史小説ということになるというにある。
 他の鴎外論者によれば、それは「古今一流の大文章」「一点の非なき大文章」であり、「出来上つたものは史伝でも物語でもなく、抽斎といふ人物がいる世界像」であった。ところで、歴史小説ということばほど、俗流文学者を魅惑することばはなかった。彼等は歴史ということばの扮装にだまされたからである。史上の人物や事件を素材とするものは、そのまとまった表面的な歴史の衣裳の扮飾のゆえに、小説でないものまでも「歴史小説」のいかめしい称呼を享受しがちであった。しかし、そのような俗流歴史小説論は今や通用しない。かくのごとき皮相な歴史小説論は、本格的な小説が本来歴史小説である論旨の前に霧散した。また、鴎外・龍之介・藤村の系譜の上にきびしい批判の凝視を加え、高木卓・桜田常久など当時の新進作家に及んだ「歴史文学論」の著者の卓抜な業績も、歴史文学の正しい意義の定着にあずかって力あった。歴史小説は、ふつうには、皮肉にもうっかりすると瑣末な歴史の事実を外衣にまとうがゆえに、かえって真の歴史小説たり得ぬ矛盾を胚胎する。ヴィルヘルム=マィスターや青山半蔵の登場する作品に、作品の本質的な展開、性格の発展、魂のメタモルフォーゼの年代記、要するに真の「歴史」の描出を見出だし、逆に常識的には、最も厳正な意味での歴史小説の典型のように信じられている鴎外の作品の多くに非歴史的な小説をかぎ出した明敏な文学者も、かつては「澀江抽斎」を「歴史小説とは名付け難い」としながら、五、六年を出でずして「小説といふジャンルの本質的諸規定を剰すところなく満してゐるもの」として、本格的な歴史小説と規定する混乱を生じたのも、「歴史小説」というものの複雑な性格に起因するものと見るべきである。
 作品「阿部一族」は、魂のメタモルフォーゼや発展の相の描出に歴史小説の本質を見出だす立場からするならば、重厚に装われた歴史的事実の衣裳は見る見る中に脱落して、本格的な歴史小説の地位から転落する。このような見地からするならば、「暗夜行路」などよりも「伸子」から「風知草」にいたる一連の作品の方が、はるかに歴史小説の本道に近いのである。

「阿部一族」は細川藩の殉死という一つの歴史的事件の横断面図を克明な史的記述と心理解剖によって描き出した作品であった。主君の許可を得ない殉死を行なうことによって、ついに一族滅亡にいたる阿部一族の悲劇的なカタストロフィーを惹起した原因をなす根本的な契機は幾つかある。封建社会のモラルである殉死に対処し、これを見る内面的な、そしてまた局外者の眼の厳しさである。小才覚ある官僚タイプの大目付役(おおめつけやく)林外記(はやし・げき)の苛酷な措置である。悲劇の主人公阿部権兵衛の性格である。若い当主細川光尚(みつひさ)の寛大を欠いた血気の情である。しかし「阿部一族」一篇を蔽う一族滅亡の悲劇の要因となり、この作品の暗鬱な基調をなすものは、殉死のモラルの厳しさであった。
「阿部一族」には殉死の二つのタイプが描かれている。すなわち十八人の家臣のノーマルな殉死と、阿部弥一右衛門のアブノーマルな殉死である。前者はいずれも主君の許可を得ているが、後者は許可を得ていない。後者はいわば犬死である。名聞(みょうもん)を重んずる武士のモラルにあっては、犬死は最も排するところであった。すべてを左右する「殿様のお許」とは、生殺与奪の権を握る絶対者にまつわる封建的モラルの象徴であるが、一個の生を抹殺する殉死にあっても「殿様のお許」が要請されることは、他面無制限な殉死に限界を与えることになった。作中の竹内数馬が「畢竟どれ丈の御入懇(ごじっこん)になつた人が殉死すると云ふ、はつきりした境は無い。同じやうに勤めてゐた御近習の若侍の中に殉死の沙汰が無いので、自分もながらへてゐた。殉死して好い事なら、自分は誰よりも先にする。」と考えるのは、以上のことがらのステロ版である。殉死を行なう範囲は「殿様」の「格別の御懇意を蒙つたもの」である。上古以来しばしば殉死の禁が出されたのは本人の主体的な意志にかかわりない第三者の強制に基づく非人間性に対する抗議の意味が主であったが、戦国乱世を経た後の硬直した封建モラルにあって、殉死はまずその当事者の自律的、主体的意志が行動を律する第一のモメントであったことは否定できない。
 そして次には、衆目の見る一つの客観的批判のモメントがあった。しかし往々にして、これが第一のモメントの領域に侵入し、その規準を左右した。限界のない殉死に限界を与えるものは、この第二のモメントであることが多く、しかも殉死の悲劇はここから醸成された。時には第二のモメントは、本来的なるべき第一のモメントの支柱ともなった。作中、内藤長十郎は「自分の発意で殉死しなくてはならぬと云ふ心持の傍(かたはら)、人が自分を殉死する筈のものだと思つてゐるに違ひないから、自分は殉死を余儀なくせられてゐると、人にすがつて死の方向に進んで行くやうな心持が、殆んど同じ強さに存在」するのを意識した。主君の許を得ずに追腹(おいばら)を切らざるを得なくなった阿部弥一右衛門の耳に入った噂は「阿部はお許の無いを幸に生きてゐると見える。お許は無うても追腹は切られぬ筈がない。阿部の腹の皮は人とは違ふと見える。瓢箪に油でも塗つて切れば好(よ)いに」という惨酷なものであった。
 第三のモメントは主君の許可である。封建社会における絶対者の意志である。「殿様のお許」が武士の名聞を支え、一個の死を天晴(あっぱ)れともし、また犬死ともした。その意味で主君の許可は殉死の限界を最終的に決定するものであった。しかし第二のモメントのマギーはここにも発揮される。殉死を志願する家臣達に対し、細川忠利は「病苦にも増したせつない思」をしながら「許す」ということばを与えなければならなかった。そしてその数は十八人に及んだのであった。それは忠利の主体的な意志の中に浸透してくる第二のモメントの圧力のさせる結果であった。殉死の限界はこのようにして、表面は封建社会の絶対者によって決定された。絶対者の意志は、徳川家康のごとく殉死を禁ずることもできた。しかし「阿部一族」に登場する絶対者は「大功」ある細川忠利という五十四万石の、平凡な大名である。絶対者の主体的意志は、生前にあっては世俗的な名聞に人間を領略された無責任な世人の批判という第二のモメントによって骨髄を侵され、またその死後は阿部弥一右衛門の行なったごとき第二のモメントのマギーに魅せられたやむを得ぬ犬死の行為によって凌辱(りょうじょく)されたのである。

「興津弥五右衛門の遺書」において殉死の讃歌を試みた鴎外は、「阿部一族」では殉死そのものに対する人間的、心理的批判を加えたことはすでに指摘した。前者における肯定的、調和的な詩は後者では懐疑的、批判的に心理の深淵を見つめる理智的な凝視に変わっている。
 鴎外の描いた「阿部一族」には殉死の二つのタイプがあった。まず十八人の場合について。
 第一に、彼等は「死を怖れる念は微塵も無」かった。主のために死ぬのは武士が名誉として見出だした絶対のモラルであった。武士道とは死ぬことと観念する人生観は、常に死を凝視し、死と対決することであった。もちろん武士のすべてが死を怖れなかったのではない。阿部家への討入に際し、命が惜しく屋敷の外をうろうろしていた畑十太夫のごとき武士もあった。しかし自ら志願し、殿の許を得た十八人の武士が命を惜しむように鴎外が描くはずはなかった。
 第二に、彼等は忠利が「始終目を掛けて側近く使つてゐた」者共である。記載のあるものでは封禄千石から二人扶持六石にいたる。年齢は六十四歳から十七歳にいたる。
 第三に、彼等は皆主君から殉死の許可を得た。正確にいうならば十七人は、死んだ忠利から許可を得、田中意徳は当主光尚から強引に許可を得たのである。田中は「当代に追腹(2字に、傍点)を願つても許されぬので、六月十九日に小脇差を腹に突き立ててから願書を出して、とうとう許された。」(傍点は筆者)のである。忠利の死は三月十七日である。殉死の先頭は太田小十郎で、同日の三月十七日であった。殉死の行なわれたのは、時日の記載のあるものでは、四月が多く、四月十七日、二十六日(八名)、二十七日、二十九日となり、五月に入っては五月二日(二人)、七日となり、これで計十五名となる。記載のないのは井原十三郎および小林理右衛門の二人であるが、これは五月六日まで、ないしはその前後の殉死であろう。「扨(さて)五月六日になつたが、まだ殉死する人がぼつぼつある。」という文章がそれを語る。五月六日が一つの目安にされたのは、五月五日に中陰の四十九日が行なわれたためである。日附の書かれている十五名と、日附の分明でない二人を加え、これに六月十九日強引な追腹を切った田中を加えて鴎外記載の通りの十八名となる。そこで鴎外の記述には論理的に誤謬がある。
 第一。五月六日に「まだ殉死する人がぼつぼつ」あり、六月十九日に追腹を切る者があっては「五月六日が来て、十八人(3字に、傍点)のものが皆殉死した」ことには絶対にならない。
 第二。「殿様がお隠れになつた当日から一昨日(四月二十六日=筆者註)までに殉死した家臣が十余人」とあるのは数字的に誤りで、はっきり十人に限定される。
 第三。冷徹な鴎外は、田中意徳をめぐってもう一つの誤謬を加えている。田中に関する鴎外の記述を真とするならば、「先代」忠利の死後、殉死者の殿(しんが)りをつとめ、「当代」光尚から強引な許可を得て追腹(2字に、傍点)を切った田中のある限り、忠利に対し、「……前後して思ひ思ひに殉死の願をして許されたものが、長十郎を加えて十八人(3字に、傍点)」であったり、忠利が「殉死を許した家臣の数が十八人(3字に、傍点)」になったり、「忠利の許を得て殉死した十八人(3字に、傍点)」の家臣が存在するはずはない。記述の一貫性を欠いたこのような支離滅裂は、「阿部一族」の文芸的感銘やテーマとは無関係である。しかし、おそらくは、史実に忠実であり、猥に変更を加えることを最も嫌い、極めて実証的記述を重んじた鴎外にとっては関心を呼ぶことがらであろう。しかし、とにかく十八人(3字に、傍点)は主君に「殉死を願つて許された」のである。「当代」光尚が田中を許したのは問題がない。もちろん追腹を願出た田中に対し、光尚は許す意志はなかった。しかし「小脇差を腹に突き立ててから」出された願書の狂言まじりの真剣さに負けたのであった。鴎外はここに眠っているテーマを格別に掘り起こさなかった。知行と殉死の日付と介錯者の名前を記して淡々と突っ離す他の一連の殉死者と同様に扱って、数え違いの因をなしたのである。
 鴎外の文章を訂正しよう。殉死を願い出た家臣の中から「十七人(3字に、傍点)」を何故忠利は許したか。「命を惜しむもの」「殉死を苦痛とせぬもの」「深く信頼してゐた侍共」である十七人を、忠利は「子息光尚の保護のため」に残したかった。殉死というものが当時要請されているモラルであるとしても、忠利のヒューマニズムは「此人々を自分と一しよに死なせるのが残刻だとは十分感じてゐた。」のである。殉死に対する懐疑と自分の心理を、忠利はいかに整理したか。鴎外の描く忠利は彼等が恩知らず、卑怯者として遇されるのを怖れた。世間的な名聞の批判の声に優位を与えた。君主という絶対者を心の支柱として生きる彼らにとっては、そのような卑怯者・恩知らずの禄盗人(ろくぬすびと)が重く遇せられたとする世の批判にあって、君主の不明という結論が出、累(るい)を君主に及ぼした場合に耐えられぬであろうと気を廻す。いわば絶対者の冒涜をおそれ、世間的な批判の眼を恐れたのである。さらに忠利は、彼らが光尚の周囲にある少壮者共にとっては邪魔物であろうと考え、殉死を許すことが慈悲であるような慰籍(いしゃ)の心持で自らを納得させる。これは明らかに殉死という厳粛な事実を、第二義的なものに考えている立場である。バセヴィ W.H.F.Baseviの「死者の埋葬」をまつまでもなく、原始人においては死者は死んでしまったのでなく生きつづけているのであり、いこい・移住・新しい生活であった。殉死は霊魂不滅を信ずるところから、絶対者に対する三途の川を越えての奉仕の意義があった。しかし鴎外が心理を解剖してみせた忠利にあっては、殉死が生の抹殺、邪魔物の掃除、世間的名聞の遵守として解釈されている。殉死はすでに本来の意義を失い、二義的なものに冒涜されているのである。
 第四に、十八人の殉死には報謝と賠償の意味があった。「殿様」のお側につかえ、「格別の御懇意」を蒙った知遇に対し、これらの家臣には他の者を抜きんでた御恩報じが要請された。失錯を咎めることなく召使われる恩寵に対し、家臣はその知遇に報いなくてはならぬ。内藤長十郎が「その報謝と賠償との道は殉死の外無いと牢(かた)く信ずるやうになつた。」のはそのためであった。
 第五に、彼等は身を殺して一家の繁栄を願った。「死」と対決する日常を送り、死を鴻毛の軽きに比さねばならぬ彼らは「殉死者の遺族が主家の優待を受けると云ふことを考へて、それで己は家族を安穏な地位に置いて、安んじて死ぬることは出来ると思つた」のである。それは確かに殉死者にとっての一つの魅力であり、彼らを死に吸引するモメントであった。
 第六に、殉死という一世一代の死に方は、彼等の名聞マニアの心情にこの上なくマッチするものであった。死所を得ることを念願とする彼等のポーズはかくして喝采を博することができた。忠利の犬牽(いぬひき)、二人扶持六石の切米取津崎五助が犬と共に殉死したその死にざまがそれである。彼は家老達の言う「そちは殿様のお犬牽ではないか。そちが志は殊勝で、殿様のお許が出たのは、此上も無い誉ぢや。もうそれで好い。どうぞ死ぬること丈は思ひ止まつて、御当主に御奉公してくれい」ということばをふり切って殉死した。彼は鴎外によって記載されている者の中では最も知行の少い下賎の身分である。殉死の座に坐った時、彼は何と言ったか。「お鷹匠衆はどうなさりましたな、お犬牽は只今参りますぞ」――彼は高声にこう言い放ち、一声快げに笑って腹を切った。これはポーズの高笑いである。彼の心は名聞の喝采に支えられ、また鷹匠衆への優越感に支えられている。忠利の寵愛した二羽の鷹は、忠利の荼毘(だび)の当日、荼毘所の井戸に入って死んだ。世人はそれが鷹が殉死したと判断して疑わなかった。だが鷹匠衆の殉死のことは聞かぬ。あるいは願って許されなかったのかも知れぬ。しかるに五助は犬牽きでありながら許を得て犬と共に殉死する。犬牽きの鷹匠衆に対する優越感や思うべしである。五助は名聞慾の満足と優越感の重量を刀尖にこめ腹十文字にかき切ったのであった。
 第七に、彼等は殉死についての自律的、主体的な意志の対極に、重苦しい他律的、客観的な批判の眼を意識する。それは第六にあげた人間を領略する名聞の圧力と相通うものである。殉死に「いつどうして極まつたともなく」自然に「掟」を作ったのも、この冷酷無慙な局外者の凝視であった。さきにも引用したが内藤長十郎の心に萌(きざ)した主体的な殉死の発意を蝕んでゆくものは「若し自分が殉死せずにゐたら、恐ろしい屈辱を受けるに違ひないと心配」する「殉死を余儀なくせられ」る外部的な精神圧力であり、このモメントの魔力が、純粋な主体的意志を歪曲し「人にすがつて死の方向へ進んで行くやうな心持」を生ぜしめたのである。この恐るべきモメントが、殉死にあってその限界に最終決定権を持つ主君のお許という封建社会の絶対者の意志をも左右することはすでに述べた。このような冷酷無慙な局外者の凝視に逆に便乗することが、第六の場合にあげた五助のようなポーズの高笑いとなる。主体的な意志を喪失した哀れな死にスプリング・ボードを与えるものは、冷酷無慙な局外者の凝視を喝采のどよめきとして聞きほれる名聞の満足感であった。自分がスポット・ライトの中に坐していることを意識する卑小な得意感であった。それは他律的なものの中に彷徨する憐むべき主体喪失の処世観であるべきはずであった。しかし五助の心理を鴎外はそこまで掘り下げては描かなかった。鴎外は芥川とは違うのである。「お犬牽は只今参りますぞ」という俗臭芬々たることばは「一声快よげ」な笑の中に看過された。明治の末年に殉死した「将軍」は、最後の記念撮影をすることによって、芥川の皮肉な嘲笑を受けなければならなかったのであるが。
「阿部一族」に描かれた殉死の第二のタイプについて。これは主君の許可を得ない阿部弥一右衛門の追腹である。これは殉死の変形である。弥一右衛門は「家中でも殉死する筈のやうに思ひ」、当人もまた「殉死したいと云つて願つた。」のである。すなわち当人の主体的意志も、局外者の冷酷無慙な批判もまた共に弥一右衛門を殉死の限界内に追いやった。しかし主君忠利の許がなかった。阿部弥一右衛門の禄高は千石を越える。身分からいえば、許を得て殉死した十八名の家臣中に記載のある者では筆頭である。彼の挙措(きょそ)が注目されるのは当然であろう。忠利は「光尚に奉公してくれい」と言って弥一右衛門の願望を最後まで聞き入れなかった。十七人(鴎外の文では十八人)の場合に「慈悲」であるとまで思いめぐらして殉死を許した忠利は、弥一右衛門の場合には、彼の生涯唯一の願を拒んだ場合におちいる願出者の苦境を顧慮することなく拒否し通した。そのような結果を生んだのは弥一右衛門の「肯綮(こうけい)に中(あた)つてゐて、間然すべき所が無い。」精励ぶりと「意地で勤める」手ぬかりの無さと、それに反撥してみなければすまないような「捕捉する程の拠りどころが無い」忠利の癖であった。鴎外は忠利の拒否をこの癖に根拠づけた。病苦の中にあってつくづく自分の死と十七人の侍の死について考える余裕を持った忠利の理性は、この度は鈍く曇っている。そして忠利は死んだ。
 弥一右衛門は腹を切らなかった。主君の許を得ずに腹を切るのは犬死である。弥一右衛門は自己の意志の主体性を堅持した。局外者の冷酷無慙な凝視と無責任な批判に堪え抜こうとした。しかし観念の所産であるこのような内面的、主体的な意志は、冷酷無慙な現実の批判の声の前に脆くも崩壊した。「阿部の腹の皮は人とは違ふと見える。瓢箪に油でも塗つて切れば好いに」という噂が、弥一右衛門を犬死に追いやったのである。「げに言へば言はれたものかな、好(よ)いわ。そんなら此腹の皮を瓢箪に油を塗つて切つて見せう。」という響に応ずる起ち上がりがそれである。ここにおいて阿部弥一右衛門は人間の主体的意志の純粋さを歪曲され、主体性を放棄した。彼は冷酷無慙な局外者の無責任な凝視と批判のデーモンに魅せられたのである。彼も名聞(みようもん)マニア以外の何者でもなかったことを暴露した。彼は操り人形のように魂を失って、他律的なものの操りの糸に心魂のからくりをあけ渡した。
 あまつさえ、彼は封建社会の絶対者の意志を冒涜した。彼は犬死を選ぶことによって主君の命に背いたのである。ここに封建武士社会のモラルの秘密がある。妙なことである。彼は犬死によって命を冒したが、結果においては殉死者の列に加えられた。さらに奇妙なことではないか。家中の者は主命が阿部の殉死を禁じていることを承知の上、無責任にも彼に犬死を強いたのである。「お許は無うても追腹は切られぬ筈が無い」という痛烈な陰口は明かに絶対者の意志を凌辱している。「弥一右衛門殿は御先代の御遺言で続いて御奉公なさるさうな。親子兄弟相変らず揃うてお勤めなさる、めでたい事ぢや」という傍輩(ほうばい)の言は明かに絶対者の意志を蹂躙することを慫慂(そそのか)した皮肉な嫉妬である。封建社会における主君の命とは、死と対決する場合、このような陥穽を持った絶対主義であった。否、それは死に対しなくても、恐らくはそうであったであろう。前に述べたごとく、絶対者の絶対は、このように冷酷無慙な第三者的批判、時には俗臭芬々たる凝視によってさえ歪曲され冒涜されるていのものであった。絶対者は絶対的ではなかったのである。
 我々はすでに一番身分の軽い津崎五助が忠利の許を得て殉死しようとした際、家老達の言ったことばを引用した。「殿様のお許が出たのは、此上も無い誉ぢや。もうそれで好い。どうぞ死ぬること丈は思ひ止まつて……」とは何たることばであろう。これは軍閥が利用した天皇制のカリカチュアである。絶対者の絶対を愚弄したことばである。しかし軍閥が利用した天皇制のカリカチュアより僅かに優っている点が一つある。それはほかでもない、絶対を蹂躙することによって死に吸引されてゆく人間性を救出しようとしていることであった。鴎外の眼は、「興津弥五右衛門の遺書」よりはるかに冴えて批判的である。それが「阿部一族」の眼目であり、この作品のレーゾン・デートルでさえある。
 阿部弥一右衛門の追腹は、忠利の意志を無視して犬死であったとはいえ、犬死としては扱われず、それだけでは阿部一族滅亡の悲劇を生むことはなかった。しかし忠利の一周忌に当たりその子阿部権兵衛が先主の焼香をした際に、髻(もとどり)を切って位牌の前に供え、当主光尚の許を得ず武士を捨てることによって悲劇は胚胎した。権兵衛に武士を捨てさせたものは、許を得て殉死した十八人と、許を得ない追腹に対する苛酷な差別待遇であり、そのことに起因する家中の阿部家侮蔑の念であった。権兵衛が負けたのは、またしても意地と冷酷無慙な局外者の凝視であった。阿部権兵衛は縛首となった。「先代の御位牌に対して不敬な事を敢てした、上(かみ)を恐れぬ所行」としての処置が取られたのである。勝手きわまる封建社会のモラル、絶対者の威信は外形的にここに回復されたのである。権兵衛は哀れなその犠牲者であった。阿部一族の立て寵もり、阿部一族討滅の悲劇的フィナーレは、かくして阿部一族の絶望の死をもたらした。
 十八人の殉死者は「皆安堵して死に就<」気持であったのに対し、阿部一族の絶望の死と同様「苦痛を逃れるために死を急ぐもの」に阿部一族の討手に向かった竹内数馬があった。鴎外は執拗にまたしてもここに冷酷無慙な局外者の凝視に翻弄される一つの生命を描いた。数馬をして「苦痛を逃れるため」の死に追いやった直接のモメントは、「数馬は御先代が出格の御取立(おとりたて)をなされたものぢや。御恩報じにあれをお遣りなされい」ということばであった。これを聞いた数馬は「好いわ。討死するまでの事ぢや。」と即座に死の決意を堅めた。数馬の心中で解析されることばは「自分は殉死する筈であつたのに、殉死しなかつたから、命掛の場所に遺ると云ふのである。」限界の無い殉死の限界線上に彷徨する魂に対して、冷酷無慙な局外者の無責任な凝視は、拭うべからざる汚点を印し、死の深淵に吸引してゆく。「興津弥五右衛門の遺書」で殉死への素朴な讃歌をうたった鴎外は、「阿部一族」の中では、執拗なまでにこのような冷酷無慙な局外者の凝視に耐えられぬ魂の韻律を歌っている。前作における殉死の頌歌(しょうか)は一転して、人間性を汚辱する他律的なデーモンに翻弄される生の挽歌となる。センセーショナルな事件であった乃木希典の殉死の感銘から、ただちに「興津弥五右衛門の遺書」を草(そう)した鴎外の、殉死に対する批判の眼の成長がそこに窺われる。その意味で「興津弥五右衛門の遺書」から「阿部一族」にいたる空白には鴎外自身の魂のメタモルフォーゼがある。そこに我々は作家森鴎外の歴史を読み取る。作品「阿部一族」は殉死という一つのアクトを切断の截線として、封建社会における人間性が、冷酷無慙な局外者の凝視によって、いかにむざむざと心魂のからくりをあけ渡さざるを得なかったかの、心象風景の横断面を露出した作品であった。絶対ならぬ「絶対」や、名聞に歪曲され、心理的奴隷となって破滅してゆく人間性の慟哭を描いていた。そのためには、忠利から許を得た殉死の家臣の数が、十七人でも十八人でも大した影響はなかったのである。六月に殉死する者がありながら、五月六日までに「十八人のものが皆殉死」しても大した影響はなかったのである。
 さらに言うならば、第四の論理的矛盾、阿部弥一右衛門の身分が「千百石余(4字に、傍点)」でありながら、数頁の記載を出でずして「千五百石(4字に、傍点)の知行」になっても大した影響はなかったのである。第五の論理的矛盾、すでに一年有余の前に死去している「忠利」が、光尚のかわりに、冥府から顔を出して阿部一族の討手に選ばれた竹内数馬に話しかけても大した影響はなかったのである。(註) 第六の論理的矛盾、竹内数馬の年齢、寛永十五年に十六歳ならば寛永十九年には二十一歳ではなく二十歳が正しいわけであるが、そのようなことは大した影響のないことである。第七の論理的矛盾、光尚が「今年十七歳」というのは寛永十八年であり、また「二十四歳の」とあるのは十九年であるから年号と年齢が合わぬ。また「今年十七歳」というのは、事実に相違し「今年二十三歳」とすべきである。さすれば「二十四歳の」はその儘で正しい。だがそのようなことは大した影響のないことである。歴史小説とはそのようなものである。「阿部一族」のそのような論理的矛盾に基づく瑕瑾は、冷徹無比で史料に対しては極めて峻厳に「歴史其儘」を重んじ「猥(みだり)に変更」することを嫌い「一ノ浮泛(ふはん)ノ字句」なきを期する鴎外森林太郎のみが意に介するところであったであろう。          ─了─

註 「中央公論」発表の原文には「此時の数馬の様子を忠利が聞いて、竹内の屋敷へ使を遣つて、『怪我をせぬやうに、首尾好くいたして参れ』と云はせた。」とある。忠利は光尚の誤記である。「意地」や改造社版「現代日本文学全集」の「森鴎外集」は誤記のまま採録されている。鴎外全集、岩波文庫版等は光尚に直っている。年齢や殉死者の数、時日等の矛盾はどのテキストでも放置されている。なお文中松野右京、松野左京という同一人の誤記らしい人物も出てくる。
 
 
 
 
 

(筆者は、国文学者 1918.2.25  千葉県に生まれる。 第一回久松潜一賞 「阿部一族」論は厖大な博士論文集『森鴎外論考』(長谷川泉著作選 1  明治書院刊)第二編第三章第二節に相当する。)



 
 
 

   知識階級      中村 光夫 (文藝批評家)
 
 
 

   一

 日本の知識階級について考えて見たいと思ったのは、かなり以前からのことですが、実際にはどこから手をつけてよいかわからない難問題です。
 歴史的に考えても、飛鳥奈良時代の留学生、『懐風藻』、『万葉集』に名をのこした詩人たちは、知識階級の先祖と言えましょう。以来ながい時代の転変を通じて、知識階級は絶えず存在し、文化の流れは消長はあっても完全に断絶することなく続いてきたので、ここにわが国の文化のひとつの特質があると思われます。わが国が歴史時代に踏入った時期は、必ずしも古くありませんが、二千年ちかくのあいだ、外国から全面的な侵略や永続する征服をうけたことは、此度の敗戦まで一度もなかったためか、民族の生活の連続性、一貫性では、他に比類を見ないようです。アジアやヨーロッパ大陸の多くの国々に見られるように、異なった宗教を持つ異民族が新たな征服者として或る待期からその国の歴史と文化を全く別物にしてしまうような変動は見られなかったので、源平の合戦も、応仁の乱も、みな同じ言葉を話す人間同士の争いです。

 この特質には、島国という地理的条件、ことにアジア大陸からの距離が大きく作用しています。朝鮮半島、あるいは南支那とわが国を距てる海は、文化交流を古くから可能にするとともに、軍事的侵略を不可能にするに適当な広さと気象条件を持っていたので、このことはわが国の政治的独立の保持と文化の進展に大きな貢献をしています。
 南支那海も朝鮮海峡も、ともにわが国からの侵略も、外国からの攻略も、永続的な成果を保ち得ぬものにする距離であったので、元寇や秀吉の朝鮮遠征も、例外をつくるにたりませんでした。
 わが国と大陸との交通が、ほとんど「平和的」な性質に限られていたことは、一面においては、その影響が生活から抽象された「文化」の面にだけ限定されていたことを意味します。
 外国が現実の政治的、軍事的、あるいは経済的圧力として意識されたことは、長い歴史を通じて、例外の短期間だけで、あとはただ珍奇な美術品、高徳の僧侶、学ぶべき政治倫理思想として意識されたので、この非現実的性格は、現代人の外国にたいする観念にもまだいくぶん残っています。
 わが国がいつも文化の上では外国の影響をうけ、その変化のあとを追いながら、生活の面ではむかしから一貫した連続性を保っていたことは、生活と文化的観念とが、いつも一致しない遊離した関係にあることを示しています。
 知識階級は、いつも文化の観念の保持者としての役割を意識的に果してきました。
 こういう伝統的知識階級の存在の形態が、西欧文化との接触によって、大きな変化を蒙りながら、根本において共通の要素を持ちつづけている、というのが、現代の日本の知識階級の実態でしょう。今日の知識階級の存在理由になっているのは、近代の西洋から移入された知識ですが、この西洋との接触は、わが国の長い文化史を通じて異例の性格を持っていました。
 このときわが国は外国を軍事・経済・政治上の圧力としてうけとり、これに対処する必要にせまられたので、その結果である明治維新が今日の日本の出発点になっています。
 しかしこの場合にも、外国に占領され、完全に植民地化されるという事態はおこらなかったので、ヨーロッパ諸国は「夷狄」として感情的な排斥の印象になりましたが、国策が一転したのちは、打勝つべき競争相手としてより学ぶべき「先進国」として意識されることが多かったのです。こういう事情はたんに過去の事実でなく、現在の僕等の心理状態をつくりあげる有力な条件をなしています。

 僕がこういうことに関心を持ち始めたのは、戦前に留学生としてフランスに行ったときからでした。あまり沢山接触の機会があったわけではありませんが、それでもフランス人や、他のヨーロッパからくる学生たちと話して見ると、自分の考えや感情の動きがいかにも特殊なのに驚きました。一口に言うと、日本人くらい世界中のあらゆる事象を理解しながら(少なくも理解したつもりでいながら)、世界から理解されていない国民はないのではないかという気がしました。
 あまりひどい誤解をされると、一体人間が外国のことを理解する能力はこの程度のものなのか、それなら僕等が外国について持っているつもりの知識も、本質的にはこれと変らないものなのかという気がしてきます。
 それをただただくりかえしている間に、結局僕等が明治以来してきた経験は他国に類のないもので、そのことが僕等と外国人との間の正常な理解を妨げているのではないかと考えました。僕等が生れたときから馴れ、あたりまえと思っている生活や意識がずいぶん特殊なものではないかと疑われてきました。

    二

 第一は僕等の貧乏です。貧乏と言い、金持と言い、何を標準にして言うかは問題ですが、すくなくとも日本の知識階級は、自分の勤労による所得だけで衣食し、そのほかに財産らしいものを持たないのが普通です。
 これは彼の生活がもし失職すれば、その日から成り立たなくなる不安にたえずさらされていることを意味します。中流の勤労階級で、主人の失職や死亡が家族をどんな悲惨な境遇に陥入れるかは、いつも見聞するところです。退職金や弔慰金、生命保険などがあっても、それだけでは到底生計が立たず、未亡人は葬儀もそこそこに、保険の外交でもやらなくてはならないことが多いのです。
 戦後一時「早く病気のできる身分になりたい」という冗談が友達の間で流行りましたが、当時の闇食糧に依存した生活では、一週間も風邪をひいていると家計の歯車が狂ってきます。
 いまはそれほどでなくても、三月の病気を経済上の心配なしにできる人は少ないのではないでしょうか。まして半年一年となると、月給を貰っている人たちでもいろいろ困ることがでてきます。
 つまり僕等は、広い意味でのその日暮らしをしていることになります。「恒産なければ恒心なし」と言いますが、この古い諺がほとんど行われなくなったのは、「恒産」などという言葉がいまでは無意味になったからでしょう。
 では「恒心」のほうはどうか、と考えて見ると、いろいろなものが僕等に欠けるようになってしまったことがわかってきます。
 外国の事情は簡単にわかりませんが、ヨーロッパの知識階級の生活の基礎は一般にもう少し安定しているようです。いわゆる中間層の勤労所得がわが国の二、三倍にのぼるのは、物価がそれだけ高いのですから、大して羨むべきではないかも知れませんが、イギリスやフランスでは勤人でも月給だけで生活しているような人々はむしろ例外で、大概は生活の基礎となる財産を持ち、給料その他の働いて得る収入は、生計の一部をまかなうにすぎないようです。
 これは国全休が富裕で、中産階級の層が厚いためであり、また大学をでた知識階級がより少数の選ばれた階層であるためでもあると思われます。
 しかしわが国のように、国が貧しく一般の生活程度が低いのに、大学と大学生の数だけは世界のどこの国とも飛びはなれた比率だというのも、特別のことで、そこにはそれだけの事情があると思われます。
 知識階級にたいする社会の需要がそれだけ多く、同時に貧しい家の子弟が学歴を社会的地位の向上のための、唯一の確実な手段として重視することを示しているわけです。
 イギリスやフランスのような国は、民主主義国といっても、社会の階級の観念がかなりはっきりしていて、農夫の子は農場を経営し、小売商人の子は大体父の店をつぎ、工員の子は父親と同じ工場につとめるのが原則であり、別の階級にぞくする人間になろうとする考えはそれほど一般的なものではなく、それだけに下層階級が階級としての生活の向上を図る運動は根強く行われています。
 これに対して、わが国では階級的な差別観が、戦前においても、ヨーロッパにくらべれば著しく稀薄であり、それに対応して「立身出世」が社会の各層にわたって美徳とされ、青年の情熱になっていたので、知識階級がその生活の不安に堪えたのは、出世の希望によるとも言えます。彼等はよりよい社会的地位を望むあまり、生活の安定を願わなかったのです。
 こんな風に、貧しい社会を背景に、不安な生活を送りながら、たえず出世を望んで焦立ち、そのためには家族はもちろん、自分自身の生活も犠牲にすることをあえてためらわないのがわが国の知識階級気質だと言ったら、面像を暗く塗りすぎたことになるのでしょうか。
 これは彼の外面的な、社会的存在の仕方について言えることですが、こういう生活は、彼の内面を形づくる知識と性格とも相関関係を持ってきます。
 しかしそれにふれる前に、何故僕等がこういう生き方をするようになったかを、考えて見る必要があります。

 結局それは今日の日本をつくりあげた朋治維新の性格を、それが知識階級の形成について果した役割から考察することになります。
 近代の知識階級の発生はいわゆる洋学伝来の歴史にまで遡るかも知れませんが、ここではそれにはふれません。
 西洋の知識の組織的な移入が国家的必要事とされるようになったのは、明治維新前後からであり、ひとつの社会的階層としての知識階級ができあがったのもこのころであったからです。
 わが国の知識階級にはじめ人材を供給したのは、武士階級でした。というより明治維新は在来の武士階級を知識階級に変質させて行った過程と見てもよいでしょう。
 江戸時代の教養が武士によって握られていた結果、洋学に最初に接触したのも武士階級の出身者でした。しかしオランダの書物を通じて移入された知識が、天文、医学、その他自然科学的な分野にとどまっている間は、それは少数の人々の占有物であり、彼等の大部分は長崎の通詞か医者など、一応武士の階級にぞくしながら、そのなかで特殊な職業に従事する家柄の出身でした。
 この時期の西洋文明は、かつて隋唐の文明が奈良朝のころ輸入されたと同じような純粋の「文化」として輸入されたので、他の者のうかがえぬ真理を所有しているという洋学者たちの誇りは、ギヤマンや時計などの珍奇な舶載品を蒐集する洋癖家の大名が味わう満足に似た、純粋な非実用性を持っていました。
 西欧の近代文明が、これまでの大陸文明と(また二世紀前のキリシタンとも)異なった性格を持つことが次第に明らかにされるようになったのは、やはり外国の艦船の渡来が目立つようになった十九世紀に入ってからで、海岸の防備が急務とされるにつれて、西洋諸国の、これまでわが国の経験になかった侵略的性格が明らかになるとともに、その文明の実用性も認められるようになりました。
 ロシア船が松前藩に通商を求めにきたり、使節ラクスマソが根室にきて通商を求めたりしたのは、十八世紀の末であり、林子平が『海国兵談』を著わしたのもこれと同じ年ですが、ロシア船だけでなく、英国その他の外国の艦船がさかんにわが国の近海に出没し、各地に小被害をあたえるようになったのは、文化文政、すなわち十九世紀の初頭からです。
 そのころから海防が幕府の大きな関心事になるとともに、洋学もそれと併行して著しい進歩をとげました。最初の蘭和辞典『ヅーフ・ハルマ』が完成されたのは天保のはじめ(一八三三年)であり、それから間もなく米船モリソン号を浦賀奉行が砲撃した事件、渡辺崋山、高野長英などの獄、高島秋帆による西洋式銃隊の操練など、それぞれ性格の異なった事件が相ついで起り、西洋諸国との交渉の密接化と、それにたいする国民の反応を示しています。
 ヨーロッパ諸国で海洋を航海する蒸気船が実用に供せられるようになったのはこの時代からであり、一方日本列島を中心として行われた太平洋の捕鯨業も、わが国の鎖国状態を大きな障害と見るようになり、一八四四年(弘化元年)にはオランダ国王が国書をもって開国をすすめるにいたりました。
そして嘉永六年(一八五三年)の米艦渡来とともに、いわゆる幕末の慌しい変革期が始まるのですが、このころになると、外国の艦船の来航は、枚挙のいとまがないくらい頻繁になってくるので、ペリーの要求は、たんに武力を背景にしていただけでなく、このような時代の勢いに裏づけられていました。
 以後、明治維新にいたるまでの十数年間は、この「父祖の法」ではまったく予期しなかった国際環境にどう処して行くかという苦慮のうちに過されました。
「抑(そもそ)も明治年間の日本人にて憂ふ可きものとは何ぞや。外国の交際是れなり。」と福澤諭吉は、明治の初年に書いていますが、維新の動きそのものも、この「憂い」に対処する変革であったと言えましょう。
 知識階級の発生も、この必要に応ずるためでした。
 わが国の知識階級の発達について、簡単な図式をつくってみると、次のようになるでしょう。
 まずそれは、わが国を幕末維新のころおかれていた「半開」の状態から、急激に「文明」にすすむという、国家的必要をみたすことを使命としていました。したがって彼等の身につけたのは、西洋の学問であり、その人的な素材は、主として旧武士階級(とくに下級の武士の間)から供給されました。彼等は「四民の平等」を標榜した社会で、従来武士の間でもきびしく守られていた上下の身分家族の差別から解放され、これまでにない出世の機会を保証されて、その使命にいそしむことができました。この洋学で装われた武士の子弟たちが、僕等の先祖であり、それがいろいろに変質しながら、根本の性格は変らずに現代まできています。

    三

 竹山道雄氏が、「いまの日本の大学は実質的にはまだ旧幕時代の蕃書調所だ」という意味のことを言っていました。これはわが国では現代でも西洋の書物を読むことが、「学問」や「研究」の主要な部分をなしていることを言ったものでしょうが、この現象はまた社会が知識階級にもとめるところが、むかしも今も変らぬことをも示しています。
 今日の東京大学が、制度の上でも蕃書調所の後身であることは、この点からも興味ふかいことです。
 蕃書調所というと、ひどく古風な感じがしますが、これはわが国で、洋学を修めた知識階級を、多量につくりだすことを目的として政府の開設した最初の学校といってもよいものなので、その開所の事情と組織の大要を、原平三氏の研究によって、述べてみます。
 蕃書調所が設立されたのは、安政四年(一八五七年)のことですが、その最大の動機になったのは、数年前の米艦の渡来であり、この事件を機に、それまで事実上長崎奉行に任せられていた対外事務を江戸幕府の直接の所管としたことが、洋式の兵学を修めるためにヨ一口ッパの語学を習得する必要が痛感されたのと相俟って、外交文書の翻訳所、洋書の図書館、語学校の三つをかねた機関として調所を生む動機になりました。
 しかしそのなかで洋学生徒の養成がもっとも重視され、調所自体がほとんど洋学校と同一視されたのが実状で、創設に与った古賀増は調所を設ける主旨は「畢竟海内万民之為メ有益之芸事御開」になることであるから、学校として人的にも物的にも優秀な機能を持たなければならないとし、そのために実験装置を整えることを是非必要としているほか、優れた教授や生徒を集めるために、身分による差別をある程度無視して、諸藩からも人材を募ることを提議しています。
 封建の門閥制度が時勢の必要の前に、自然に崩壊して行く経過がここでもうかがえますが、面白いのは、たとえ軍事上の必要にもとづくにしても、年少の子弟に西洋の学問をさせることの危険が、このときに早くも感知され、指摘されていることです。
 やはり調所の設立に与(あずか)った川路聖謨(きよあきら)は、蘭学が一面において恐るべき毒物であることを強調して、「西洋各国之儀は利を基本といたし、商売の法を以(もって)組立(くみたて)候国風に付(つき)、其極(そのきわみ)君臣を廃し、御国之如く義を尊み、主を重じ、万世神孫之御代(みよ)しろし召(めし)候風俗とは雲泥之相違歟(か)と奉存(ぞんじたてまつり)候。殊には彼国に而先(さきんじて)貨財を以(もって)民情をなつけ、邪宗を以精神を惑はし、終(つひ)に兵力を以土地を奪(うばひ)候儀を業と仕(つかまつ)」ると言い、この毒を防ぐには、まず漢学の素養がある者に限って、これを学ばせることが必要であるとしています。これは明治時代の知識階級がやがてぶつかる問題を逸早く見抜いた卓見であり、川路がこれを指摘したのは、彼が旧守の立場からではあっても、まともな人間としてものを考えたからと思われます。
 勝麟太郎も、幕府から調所創設の準備を命ぜられたとき、「調所創設の目的は夷狄制圧に在る事を明かに示し、邪宗門に陥らざることを第一に警戒する。その為に先ず漢学より入らしめる」という方針を掲げ、調所でなすべき翻訳に兵書戦書を第一にする、と言っています。
 これは当時の人々の洋学に接する気持がどういうものであったかをはっきり示しています。
 彼等の最後の目的は「夷狄の制圧」、少なくともこれら外人たちの圧迫に抗して、彼等の侮りをうけぬ独立の国家に日本を仕立てることであったので、「洋学」はあくまでその手段であり、彼等が将来に夢見た日本においてはそれ以上の地位を占めるべきではないとされました。川路の言うように我々の「御国」においては、たとえ西洋風の兵備を持ったのちも、「義を尊み、主を重じ」るべきであったので、西洋文明の移入は、僕等の政治体制や生活の倫理を、いささかも変えるべきでないとしたのです。
 これが当時の幕府のなかでもっとも才能と見識のすぐれた代表的人物の考えであったとすれば、この時代の開国論は攘夷論と深くつながるところがあると言わねばなりません。
 というより開国論自身が理知的な攘夷論であったので、「蕃書」を取調べるそもそもの動機が夷狄の制圧にあったのは、記憶すべきことです。
 攘夷論も開国論も、実質はそれほど違ったものではなく、同じ時代の人心のいくらか色調を異にした現われと見るのも、おそらくそれほど乱暴なことではないのです。
 眼色毛色の違った、言語も風俗習慣も理解できない人間が、武力を背景として勝手に入り込んでくれば、それにたいして反感を覚え、できれば彼等を打ち払いたいと思うのは自然の情です。
 当時のわが国の攘夷論は、その自然の感情の率直な迸りであるだけでなく、国学の興隆による国体観念の普及と相俟って、多くの武士たちの思考を、各藩の狭い枠から引きだすに大きな役目をはたしたと思われます。民族あるいは国民としての自覚は、近代国家の成立に不可欠なものですが、それがわが国では「夷狄」を対象とすることで、はじめて明確化したのは、皮肉であり、当然なことでもあります。

 安政四年正月から、蕃書調所は、大体昌平黌の制度を範とした学則によって、開校されましたが、入所した稽古人(学生)は幕臣の子弟の志願者約千人のなかから選抜したもので、総数は不明ですが、日々約百人ぐらい出席したということです。
 授業の方法は初歩の者には、句読師という若い先生が個人教授でオランダ語の初歩を教え、ややすすむにつれて、学生同士の輪講、すなわち会読を行うという風で、当時の漢学の教授法をそのままうつしたものですが、一般に学生の程度は低くてほとんど初学者が多く、会読を行うにも専門の学科があるわけでなく、いわゆる普通学の書物を教材にしただけであったということです。
 これは当時の洋学の水準から見てもあまり高級とは言われなかったようで、福澤諭吉が大阪の緒方塾で蘭学を修めたのち、江戸に出て、大阪から江戸に移るのは、蘭学を学ぶためでなく、教えるためだと傲語しているのが思い合わされます。
 蕃書調所は、おそらく当時の日本で最大の洋学教育機関であったに違いなくとも、──少なくも生徒の質においては──最高というわけに行かなかったようです。
 この調所が、開成所、洋書調所などと改称されたのち、維新後に開成学校となり、東京大学となったのは、言うまでもありません。
 維新後には、外人教授の招聘がさかんに行われ、蕃書の取調べどころでなく、蕃人の教授をうけることになったので、わが国の大学教育は始め日本人の手で洋書を調べて読んでいた時代、次に外人を招いて直接に専門知識を吸収した時代、最後にそれと同程度の「学問」を日本人の手で教授できるようになった時代の三つに分けられると思いますが、幕府の末期にも、当局者は「調所」だけでは、とうてい時勢の要求に応える人材を養成できないことを知って、直接に優秀な子弟を外国におくって専門化した知識を得させることを計り、イギリス、ロシア、オランダに相ついで留学生を派遣しています。
 これらの留学生は、大部分慶応四年に幕府が倒れる前後に帰朝しています。彼等の学識は彼等を派遣した幕府のためには役立ちませんでしたが、新政府のもとに開国の方針をとった日本に大きな期待をもって迎えられ、それぞれの役割を果したので、オランダから帰った西周、津田真道、イギリスから帰った中村正直、外山正一、菊池大麓などいずれも明治初期の文化史上逸することのできない名です。
 西や津田などとともに明六社を組織した福澤諭吉、森有礼などもやはり英国から多くを学んでいます。
 わが国の近代知識階級の歴史は彼等から始まります。

    四

 この幕末から明治の初期にかけて育った知識階級の典型は福澤諭吉であり、彼の生涯と心情とは、名著『福翁自伝』をはじめ多くの著作によって、いまでも生き生きと僕等に語りかけます。彼は多くの同時代人のうち、自己を語ることに成功した稀な例外です。
 彼は文学や文学者は軽視していたようですが、この意味ではすぐれた文学者でした。
 しかし彼のような筆を持たず、成功者の生涯を送らなかった同僚のなかにも優秀な人材は多かったので、この世代の人々は、わが国の知識階級の巨人伝説時代という感じをあたえます。
 彼等はいずれも生涯の半ばで維新に際会し、福澤の言うように、「一身にして二世を経る」ような経験をしました。
 維新は徳川幕府の瓦解であり、その限りでは多くは幕臣あるいは幕府によって衣食していた彼等には、身分と生計を失うことでした。
 しかしこの旧秩序の転覆は、幕府の秩序のもとではどうしても異端視されがちであった洋学者や洋学書生には、失うより得るところが多い変革であったので、ことに維新政府が一般の予期に反して開国の方針に決してからは、彼等は在来の技能だけを必要視された賎民の地位から、特殊的な指導者の席をあたえられることになりました。彼等の知識にたいして、はじめてそれにふさわしい(と彼等の信じた)尊敬が払われるようになったことは、新政府にたいする多くの感情的なこだわりを忘れさせるに足るものでした。(幕府の直参としての誇りを持つ者が、諸国の藩士すなわち陪臣の組織する明治政府に仕えるのは、決断を要することでした。)
 武士の支配した封建社会で、学者の地位は表面的な格式から僕等が想像するほど高くなかったので、ことに聖賢の道や治国の法を説く漢学者とちがって、洋学者はもとは洋癖を持った大名の趣味の相手としか見られなかったし、西洋との交通の緊密化と、国内の社会の行詰りが、次第に彼等に政治経済にかんする眼をひらかせた幕末になっても、彼等は「デイデイが大きな屋敷の御出入りになった」ように、幕府から──主として文書を翻訳する──技能を買われたにすぎませんでした。
 こういう言葉を吐いた福澤諭吉は、すでに『西洋事情』の著者であり、英国をはじめとしてヨーロッパの政治や社会制度にかんしても、相当な知識を持っていました。
 彼は大きな「屋敷」の住人である幕府の高官たちが、どんなに無知で臆病な人物であるかをよく知って居り、彼等の偏見だけでなく、伝来の身分門閥の制度が、知識と能力のある人間の登用を堅く拒んでいるのを深く憤っていました。
「私の為に門閥制度は親の敵」とは彼が『自伝』の冒頭に記した言葉です。こういう幕府は倒されねばならないし、また内外から逼迫する時勢を収拾する力を持たないというのが、彼の持論でした。
 彼が倒幕の運動にすすんで加わらなかったのは、その主張をなす志士たちが幕府に輪をかけた攘夷家たちであると思っていたからで、それだけに維新後の新政府が一転して開国の方針を採用し、身分制度の廃止においても旧幕時代には考えられなかったほど徹底した政策をとると、諭吉は年来の理想の思いがけない実視に、ほとんど狂喜しています。
 彼の著作は『西洋事情』から『学問のすゝめ』にいたるまで、革新の「筋書と為り、台帳と為り、全国民をして自由改進の新様の舞を舞はしめた」ので、彼は「悪に強い者は善にも強く」ほとんど野蛮な実行力で、彼の思想を実現してくれた新政府にたいして、讃辞を惜しみませんでした。
 彼自身が政府に加わらなかったのは、学者や思想家が、政治家あるいは軍人にたいして抱く本能的な不信の念が、彼にあっては同時代人の誰より強かっただけでなく、維新の変革にさまざまな形で露呈された人間性の醜さが、彼に世の風潮にともなって官途につくことを嫌わせたのではないかと思われます。彼は新政府の価値をみとめ、それを支持するにやぶさかではなかったのですが、それに膝を屈して仕えるのは、誇りが許さなかったのです。
 彼は維新当初の政府が、強藩の少数者の専制であったことも「時勢において止むを得ざるもの」であったとみとめて、次のように言います。

「維新の大業は首として旧強藩の力に依つて成りしものなり。此一挙につき其士人が心身を労したるは如何ばかりなる可きや……生命は人間無上の宝なり、諸藩の士人は此宝を投じて維新の大業を成したる者にして其業成れば随て政府の権力を握るも亦謂はれなきに非ず。」(『藩閥寡人政府論』)

 しかし彼は別の個所で、彼等の実行力がその「無学」からでていると断じています。

「其有志者は大抵皆藩中有為の人物、祖先以来我国固有の武士道に養はれて其活溌穎敏、磊落不羈なるは殆んど天性にして大胆至極なれども、本来支那の文学道義に入ること甚だ深からず、儒学の極意より之を視れば概して無学と云はざるを得ず。此無学の一派が維新の大事業を成して、……一片の武士道以て報国の大義を重んじ、苟(いやしく)も自国の利益とあれば何事に寄らず之に従ふこと水の低きに就くが如く、旧を棄(すつ)るに吝(やぶさか)ならず、新を入るゝに躊躇せず、……之を彼の支那朝鮮人等が儒教主義に養はれ、恰(あたか)も自大己惚の虚文を以て、脳中縦横に書散らされたる者に比すれば同日の談に非ず。」(福澤全集緒言)

 この言葉が、どこまで彼の真実であったかは問題です。日本の武士階級が、朝鮮か支那の教養ある官吏たちに比べて、はるかに容易に西洋文明を消化し得たのは、彼等が、支那の文学にかんする素養が浅く、要するに「無学」であったからだという観察は、わが国の西洋文明の様相が、何故他の東洋諸国に一歩先んずることができたかという問題にたいするひとつの解答と思われます。
 むろん他の、政治的、社会的原因はいろいろあるにしろ、西洋文明を輸入する主体としての知識階級について言えば、わが国の武士階級は、他の東洋諸国の知的な中核をなした人々より、少なくもそれを功利的側面から受入れるには、非常に適していたと言えます。
 これは必ずしも福澤の言うように、彼等が「無学」であったからではなく、彼等の教養の質が(その武人としての身分と機能に制約されて)実践的、功利的な面を強調したためと思われます。江戸時代の支配道徳は、いつも文弱をきびしく戒めてきたので、一身の修養、あるいは一国の政治の理念としてだけ「学問」は重んじられたのです。
 それを敢て「無学」と言い切った福澤の気持には、儒学を偏重しようとする一部の同時代人の傾向にたいする皮肉もありますが、さらに深いところでは、維新の功臣たちにたいする軽蔑の念が働いていたようです。
 彼が言外に言いたかったことは、彼等が漢学に無学であると同様に、洋学にも無学であったということです。あるいはそのことは、言うまでもないこととして、この文章に前提されているのかも知れません。諭吉は彼等にただ大切な生命を危険にさらす、匹夫の勇だけを見たとも考えられます。少なくも日本という巨船を新しい大洋に進めるのに、蒸気の罐(かま)をたくのは彼等だが、船橋にあって舵をとるのは自分だという自信を持っていたでしょう。
 そしてこれは福澤ひとりでなく、彼や森有礼を中心にして明六社に集まった当時の知識人たちが例外なく持った誇りでした。この誇りは責任感と表裏するもので、明六社はこの責任を日本にたいして果すために結成されたものですが、彼等が説得しようとした相手は一般人よりむしろ政府の当路者でした。
 明六社の機関誌として発刊され、わずか二年たらずで廃刊した『明六雑誌』は、このわが国の知識階級の英雄時代の気風をよく伝えています。明六社の同人には、前記の二人のほか西周、津田真道をはじめ、加藤弘之、西村茂樹、箕作麟祥、などが居り、彼等の大部分は政府の役人でもありました。学者が官途につくべきか否かという点について、福澤と他の同人の間に議論が行われたことがありますが、学者自体が国家の全体にたいして持つ、指導者あるいは救済者としての意義は、誰にも疑われたことはなかったので、「方今我国の文朋を進むるには……人に先(さきだ)って事を為し以て人民の由るべき標的を示す者なかる可(べ)からず、今此標的と為るべき人物を求むるに農の中にあらず商の中にあらず又和漢の学者中にも在らず、其任に当る者に唯一種の洋学者流あるのみ。」と福澤は『学者職分論』に言います。彼がここで学者がともすれば政府に仕えることをもって、自己の抱負を実現する唯一の手段のように考えているのを非難し、洋学者はすべからく民間に自立して、独立の立場から国家に貢献すべきだといったのにたいして、加藤弘之はそんなことをすれば、学者はみな民間に去ってしまって、「不学の者」だけが政府にのこることになるが、それでもよいのかと言っています。
 彼等の自恃の念が強かったことは、こういう言葉の端からもうかがえます。実際においても、政府が彼等を雇うのでなく、彼等が政府をたすけてやるという気風でした。
『明六雑誌』の第二号で西周はかなり『学者職分論』を批評しながら、自分は「翻訳の小技を以て政府に給仕する者」であるが、久しい以前から福澤の高風を慕っている、いますぐに辞職するわけに行かないが、いつか福澤と同じ道を歩きたい、と言い、津田真道は、官吏でいながら、「力を尽して人民自由の説を主張して喩(たと)へ政府の命と雖(いへど)も無理なる事は之を拒む権ある事を知らしめ自主自由の気象を我人民に陶鋳するは我輩の大に望む所なり此事は在官私立に拘らず各其地位に従い其人相当に尽力する事出来べきなり」と言っています。
 こういう自由は、いかに明治初年でも、すべての官吏に許されていたわけではなく、彼等の洋学の知識が、上役にさえ憚られていたことを示すものです。
 当時の洋学の水準はむろん高いとは言えず、西周の言うように、「世の大家先生と称する者も未だ其蘊奥を究めたりと謂ふべからず」という有様でしたが、これは旧幕時代にくらべて、洋学の範囲が、政治経済法律等のあらたな領域にひろまり、需要の度が急激にたかまったのに比して、これを修める者の人数も少なく、教育の機関も整備されていなかったためです。
 福沢諭吉には、これという専門の知識はなかったと言ってもよいのですが、同じことは哲学の先駆者西周や社会学の津田真道などにも言えるので、西周みずから認めるように「苟(いやしく)も入る其門を得れば則ち可なり」という状態でした。
 むろん、それだけの知識を得るだけにも、容易ならぬ努力を要したことはたしかです。福澤が大阪の緒方洪庵の塾にいたとき、夜眠るに枕を用いたことがなく、机にもたれて仮睡するだけであったという挿話は有名ですが、幕末にイギリスに五年の予定で留学した、いわゆる遣英留学生、外山正一、箕作大六(菊池大麓)ほか十数名は、ロンドンに着いてから一個所に合宿し、朝七時起床、八時朝食、九時から午後一時半迄「寸時も机を離れるを得ぬ」規律のもとに勉強し、一時半から五時までの間を昼食と外出の時間として、五時にかえると六時晩餐、七時から十時まで勉強、十時以後は各自の寝室で明日の課業の下調べをして十二時ごろ就寝、というほとんど軍隊式の統御のもとに勉強をしたということです。
 しかし彼等は一年あまりで維新の変に遭い、帰国してしまったので、英語を学んだほか、いわゆる普通学を修めた程度で終ったようです。外山や菊池などが明治になってからいま一度留学しなおしたのは、そのためでしょう。
 彼等の知識は、その修得が困難であったために稀少価値を持ったので、その内容は大したことはなかったわけですが、わが国の近代史上、知識階級がもっとも強い権威を振ったのは、彼等が「無鳥里(とりなきさと)の蝙蝠、無学社会の指南」であったこの一時期でした。皮肉な現象ですが、或る意味では当然なことであるかも知れません。
 福澤が「有志者」にたいしてつかった「無学」という形容詞は、こう考えると彼等自身にあてはまると言えます。この「無学」は──福澤が有志者について言ったと同様に──必ずしも当時の洋学者の欠点とばかり見られないので、ことに後世の専門知識に捕えられて、自分の判断力や感情さえ失った、知識階級にくらべると、彼等が「活溌鋭敏」で、自在に運動し、現実感覚と行動性を失わなかったのは、「無学」のためと思われます。
 彼等は洋学においては──環境に制せられて──手薄な素養しか持てなかったのに反して、漢学を中心とする伝統的教養は、今日では想像できぬほど、深く広く身につけていました。もとより時代の水準から言えば公約数的な性格のものにすぎなかったにしろ、この素地が彼等の行動や思考の根本の規範になったことは動かせません。
 ここでさきにひいた川路聖謨らの、西洋の事物に接触させるには、まず漢学を学ばせるという注意が生きてきます。
 おそらく、ここでものを言うのは「儒学の極意」などでなく、それに陶冶されて育ったわが国の武士に独自な気風、福澤の言葉をかりれば「祖先伝来我国固有の武士道」なのです。さきにも述べたように、わが国の武士階級、ことに下級武士たちの気風は、西洋文朋の移入にさいして決定的な役割を演じたと思われますが、維新前後の洋学者たちの知識、あるいは「無知」が、漢学の素養の上に、西洋の普通学の釉をかけた程度のものであったのは、彼等の判断力を、生きた常識を失わぬ健康なものとする結果を生み、彼等自身にも、また当時の日本にも大きな幸いをもたらしました。
 彼等はただ西洋から、無学な偏見を持たぬ人?が、観察し同感し得た点だけを摂取しようとしたので、その間の心事について、福澤は「一片の武士道以て報国の大義を重んじ、苟も自国の利益とあれば何事に寄らず之に従ふこと水の低きに就くが如く、旧を棄るに吝ならず、新を入るゝに躊躇せず」と言っています。
 彼等の思考においては、人間の幸福と「自国の利益」は離れがたく結びついているというより、まったく同一のものであったので、それが後に問題をはらむわけですが、ともかく彼等は功利主義を説き、私の利益を図ることが、結局は国家を益すると説いても、彼等自身は近代的な合理主義とは異質な武士気質の持主でした。この彼等自身の意識しなかった矛盾に、明治初年の英雄時代の知識階級のもっとも大きな特質があったと思われます。
 なかでもっとも徹底した功利主義を説き、私利を計る必要を主張して「拝金宗」と呼ばれた福澤諭吉は、彼が洋学に志した動機を次のように説明しています。

「抑(そもそ)も余は旧中津藩の士族にして、少小の時より藩士同様に漢書を学び年二十歳ばかりにして始めて洋学を志したるは今を去ること凡そ三十余年前なり、此時に洋書を読み始めたるは何の目的を以てしたる歟、今に於て自から解すること能はず」

 とまで言い、当時の蘭学者は大抵医術の研究を目的としたのであるが、自分は医者の子でもなく、医学研究の志もなかったし、また洋学を修めれば誉れを郷党に得ることができるかというと、反対に「却つて公衆の怒に触るる」のが当時の実状であり、「既に誉れなく又利益なし何の為めに辛苦勤学したるやと尋ねらるれば唯今にても返答に困る次第」であるとくりかえしてから、自らこの理由を次のように述べます。

「一歩を進めて考ふれば説なきに非ず、即ち余は日本の士族の子弟にして士族一般先天遺伝の教育に浴し、一種の気風を具へたるは疑もなき事実にして其気風とは唯出来難き事を好んで之を勤むるの心是れなり当時横文を読むの業は極めて六かしきことにして容易に出来難き学問なりし故に之を勤めたることならん。或は洋学ならで他に何か困難なる事業もありて偶然思ひ附きたらば其方に身を委ねたるやも知るべからず」

 これは少し言いすぎかも知れません。『福翁自伝』において、彼が洋学を始めたのは、西洋の兵書を読むという藩の必要に応えるためであり、同時に長崎遊学は、門閥制度で身動きできない藩内の生活から脱出する機会でもありました。
 しかしこれを学ぶことが彼にとって、一身の利益に結びつかぬ無償の情熱であったのはたしかなようで、同じく『自伝』によると、これはたんに彼ひとりのことでなく、彼が学んだ大阪の緒方塾の書生に共通した気風でした。
「粗衣粗食一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なことは王侯貴人も眼下に見下すといふ気位」と、諭吉は当時の『書生気質』を述べていますが、こういう動機で学問をした者が唱えた功利主義がどういう性格のものかは明らかです。
 むろん諭吉はこういう書生の気風にたいして或る意味では批判的です。
「今の学問は目的に非ずして生計を求むるの方便なり、生計に縁なき学問は封建士族の事なり」と彼は学生にたいして断言します。彼は「金力独尊の時勢」を進んで謳歌しようとさえします。
 しかし彼が内心では、「封建士族」の学問の仕方を是認して、「生計を求める方便」としての学問を本当でないと思っていたことは『自伝』のなかの次の一節でも察せられます。

「今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先ばかり考へてゐるやうでは修学出来なからうと思ふ……如何(どう)したらば立身が出来るだらうか、如何したらば金が手に這入るだらうか、立派な家に住むことが出来るだらうか、如何すれば旨い物を喰ひ、好い着物を着られるだらうかと云ふやうな事にばかり心を引かれて齷齪(あくせく)勉強すると云ふことでは決して真の勉強は出来ないだらう。」

 功利主義もひとつの哲学の学説である以上、その主張者が無償の情熱を持っていても不思議はありません。むしろそうでなければならないのですが、これが社会を支配する原則となり、個人の出世欲を合理化する倫理になると、そのなかに住む「書生」たちは、もはや「王侯貴人」の傲りを持てなくなります。
 こういう変化が起ったのは、明六社の人々のように、明治の外で生れて、明治の社会を、彼等の理念によってつくったと自負した人々のあとから、明治の社会の内部で成長した新しい世代の青年が大人になった時期、ちょうど明治二十年をあいだに挟む数年間においてです。
 新しい文学がこの時期期起ったのは偶然でありません。

    五

 大隈重信は、明治維新の偉業は、「我中等以下の国民たる士族の手」によってなったといい、なかでもその運動の主動力になったのは、「書生」たちであったと断言しています。のちに志士と呼ばれた人々だけでなく、福澤諭吉なども、みずから「書生」を標榜していました。彼は明治の元年か二年に阿波の藩主に会ったとき、「始終その殿様の目を注ぎ旨く誘ふて様々のことを発言せしめ、能く能く之を見れば如何にも無礼横風なる少年にして曾て人に交るの法を知らず、書生同志の附合なれば一言馬鹿と評し去るの外なし」と言っています。
 彼はここで「書生」という言葉をほとんど一個独立の人間というのと同じ意味で使っています。おそらく当時の各藩の有志者、福澤のような半ば処士の生活を送る学者たちの間には、一種の知的な共同社会が生れていて、彼等はその教養や思想の傾向を異にしていても、お互いに会えば話が通じたのです。福澤は勝とは知り合いであり西郷木戸と会えば少なくも相手が「馬鹿」でないことは理解し合ったでしょう。
 福澤は「阿州の若殿」に会ったのち、「此輩をして全国の各地方に君臨せしむるは、人類にして豚、犬の命令を奉ずるに異ならず」と憤っていますが、彼にとって大切なのは、少なくも真人間である書生たちに「人類」を支配させることであり、明治の政府はやがてそれを実現したのです。

 しかしこの「書生」という言葉の意味は、坪内逍遙の『当世書生気質』ではすでに変ってきています。
 この明治十八年に発表された新時代の戯作は、次のような書出しで始まります。

「さまざまに移れば変る浮世かな、幕府さかえし時勢(ころほひ)には、武士のみ時に大江戸の、都もいつか東京と……大都会とて四方より、入こむ人もさまざまなる、中にも別て数多きは、人力車夫と学生なり。おのおの其数六万とは七年以前の推測計算方(おしあてかんじやう)、今はそれにも越えたるべし。到る処に車夫あり、赴く所に学生あり……失敬の挨拶は、ごつさいの掛声に和し、日和下駄の痕は、人車の轍にまじはる。実にすさまじき書生の流行、またおそろしい車の繁昌」

 人力車は明治初年の発明であり、在来二人の労力を要した駕籠に代って、その軽便と速力によって大流行を来たしたものです。
 しかしこれを書生と較べるのは、新しい世相の産物二つを並べる思いつきだけでなく、再生がひとつの社会層として存在するようになったこと、少数の指導者から、ある技術的必要のために養成される青年の群れに変って行ったことを意味します。
 封建社会の秩序の外に形成され、風雲に乗じて、社会の主動権を握った革命家たちの後継者が、多量に組織的につくられるようになったのです。
 福沢諭吉の戯文に『学者の三世相』というのがあります。
「憐れなる哉日本の学者、三世相を見れば始よし、中わるし、終は尚々わるしとあり」という書きだしで、知識階級の価値下落を論じたものです。
 明治の初年の学者は丁度、旧幕時代の漂流人と同じように「物珍らしく持てはやされ」「洋学者とあれば政府に用ひられ諸藩県に雇はれ、啻(ただ)に御馳走のみか多分のお金を戴」いていたのであるが、次第に政府の就職口も狭ばまり、反対に学校の卒業生が殖えた現在は、丁度人力車が「一輛入用の場所に四輛の車を引出し、往来の客を呼べども顧みず、引けども乗らず」といった状態と同じことだと言っています。ここに学者と人力車夫が比較されているのは、これが書かれたのが明治十年前後であるだけに面白いことです。

「恰も学者の立場(たてば)にあくびして客を待ち、二百円の月給を百円に減じ、百は五十に見切れども尚売れ口を見出さず……洋書略学んで進退谷(きはま)る……扨々(さてさて)困り果てたる有様なり、是れ学者の第二世人力車夫の時代なり」

 こう言って彼は学者たちの時世の必要に適応する才覚を持たぬ迂愚と、「第一世漂流人時代」に身についた贅沢の習慣を責め、この弊が改まらぬ限り、やがて「学者第三世お菰の時代」がきて、横文字読む乞食が出現するであろうと予言しています。
 この戯画にはむろん、かなりの誇張があります。しかし知識階級の地位の変化にかんする福澤の観察は誤っていないので、そこに働いたのはたんに需給関係の逆転だけでなく、もっと根本的に社会の構成と、そこで求められる知識の質とが以前と違ったものになったためと思われます。

 つまり知識階級が、特権的な指導者の地位から、支配者たちに使われる技術者に変って行ったので、彼等の知識の向上と逆に、その社会における位置は下ってしまったのです。
 明治初年のわが国の高等教育の発達はめざましいものでした。旧幕時代との最大の違いは、外人教師を招いて直接に西欧の知識を吸収する道がひらけたことで、すでに明治五年に、明治天皇が大学南校に行幸になったとき英米仏独人の教師が二十人に達していました。
 なかにはかなり怪しげな教授もいたようですが、普通学でない専門学科の授業もこのころから行われていたので、明治十年に東京開成学校が東京大学と改称されるころは、施設も整ってきました。 
 ?外森林太郎が東大の医学部を卒業したのは、明治十四年であり、逍遙坪内雄蔵が文学部をでたのは同十六年でした。
この時代には医学士、文学士などはまだかなり世間から重んじられたのであり、逍遙が『書生気質』を発表したとき、文学士が小説を書いたことが世間を驚かしたという挿話はよく知られています。
 しかし彼等の知識はもはやそれだけで彼等を社会にとってかけがえのない存在にするものではなく、彼等は有用であるけれども、代りはいくらでもいる技術者にすぎなかったのです。
 この点で知識階級の「第一世」を漂流民にたとえ、「第二世」を人力車夫にたとえた、諭吉の比喩は正確です。漂民は、彼の身につけた稀有の体験だけで、世間から珍重され、生活にも困りませんが、人力車夫はたとえ客があっても額に汗して走らなければなりません。それも彼等の行きたいところではなく客の命ずる場所にです。
 彼等は「無学」な社会の支配者たちの夢想もしなかったような精細で高度の知識を身につけながら、それを支配者たちの意に適うように用いることしか許されませんでした。それがかりに彼等の新知識と結びついた良心に反する場合にも、長者にしたがうことが、それによって出世の道を確保し、家族を(ことに両親を)安んずることが社会道徳として強制されました。
 こういう矛盾は、「第一世」の知識階級の経験しなかったところでした。彼等は信ずるところを実行にうつすに何等こえがたい障害を、自己の内面にも、また外部にもみとめなかったので、彼等の主張を生活で実験するところに、その意味を見出していました。
 福澤が日本語による演説を始めて試みたり、西周が『百一新論』で百教の一致という壮大なテーマヘの序説を書いたりしているのは、『妻妾論』を書いた森有礼が、その主張を実行するために、新郎新婦が約定書に署名する結婚式を福澤を証人としてあげたのとともに、彼等の思想の当否、知識の深浅は別として、或る爽やかさを感じさせますが、こういう幸福な言行一致を可能にする環境は、明治二十年に成人した世代からすでに失われていました。
 社会の支配者に仕えるのを強いられた彼等に、自分の考え通りに振舞うことは、社会的な落伍を覚悟しない限り許されなかったし、このように出世の念を棄てること自体が、すでに家族の期待に反く点で、大きな不道徳であったのです。
『舞姫』に描かれた太田豊太郎のエリスとの恋愛、その後日譚として伝えられる?外の愛人の渡日、?外の家族が団結して示した彼女にたいする拒否の態度、彼女の帰国、その後間もなく郷党の先輩西周の媒酌によって行われた?外の男爵令嬢との結婚など、この世代の生きかたを象徴するものでした。
 豊太郎は、いわゆる秀才の典型であり、「父の遺言を守り、母の教に従ひ……たゞ所動的、器械的の人物になりて自から悟らざりしが」いま二十五歳に達し、五年の留学の間ベルリンの「自由なる大学の風」に当ったので、「奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり」という心境になりました。
 つまり彼は西洋文明を功利的器械的に輸入しようとしたわが国の必要に応ずるためにドイツに派遣され、それに適した人物になることで満足していたのが、伝統ある近代ヨーロッパの生きた自由の空気を呼吸しているうちに、彼のうちに眠っていた自我の思いがけない目覚めを経験します。これはたんに小説の設定ではなく、作者の自伝と見るべきことで、この口に言い表わしにくい覚醒が、?外の終生の文学的な仕事の基礎になったと思われます。
 これは福澤の言う「独立」とは、或る次元を異にした精神の要求で、ときには彼の生活を犠牲にする情熱でもあり得る点で、宗教的といってもよいものです。
 豊太郎はこの情熱の危険な性格にはじめは気付きません。

「官長はもと心のままに用ひるべき器械をこそ作らんとしたりけめ、独立の思想を懐きて、
人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき、危きは余が当時の地位なりけり。」

 と彼は後になって述懐します。この反省は特徴的です。彼は自分の地位が何かの意味で「器械」にならなければ保てないのをよく知っています。しかしあえてそれを捨てて、人間として生きる可能性を自分にみとめ得ないのです。
 彼に職を失わさせる直接の原因になったエリスとの恋愛は、ただこの内面の矛盾を彼にはっきり気付かせる機縁になっただけであったと言えます。

「鳴呼、独逸に来し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし。さきにこれを操つりしは、我某省の官長にて、今日この糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。」
 
 と彼はエリスと別れる決心をしたとき考えます。ここでエリスをつれて日本に帰る可能性がまったく考慮に上らないのは、豊太郎の性格のせいかも知れません。しかし少なくとも官吏として彼が出世しようと望むなら、エリスとの結婚は間題にならない、そういう雰囲気に日本の官界があったことは事実でしょう。
 豊太郎の場合、特徴的なのは、彼がエリスとの恋を彼の「本領」を生かす道と知りながら、それを捨てて、自由も人間性もみとめぬ環境で「器械的人物」として生きる道を自ら選ぶ点です。そうしながら、その自分を認め得ない自分を意識しています。
 このような環境とこのなかに生きる「我ならぬ我」にたいする不信の念が、?外の生涯を通じて、彼を文学に駆った原動力と思われますが、これと同様に、自己の「本領」と周囲の社会との矛盾は、?外ひとりのものではなく、彼と同時代の鋭敏な良心がみな感じたところです。
 二葉亭四迷の『浮雲』は、『舞姫』と表面非常に違った題材をとりながら、結局同じテーマを扱ったものです。主人公である内海文三は下級の官吏ですが、上役たちにたいする「勤労外の勤労」をおこたったため馘首され、許婚のお勢も、世才にたけた同僚の本田昇にうばわれます。
 文三とお勢とは、当時の新しい教養を代表する青年男女ですが、文三は新しく見えて実は古い型の男であり、お勢の新しさはただの付焼刃にすぎないとするのが、作者の彼等にたいする批判でした。
 文三は、作者の設定によると、幕臣の子で、維新後父は静岡に隠退し、文三が十四の年に病死してしまいます。あとは「男勝りの気丈者」である母親が、「煮焚の業の片手間に、一枚三厘の襯衣(しやつ)を縫(く)けて、……如何(どう)か斯(か)うか湯なり粥なりを啜って、公債の利の細い烟を立ててゐる」境遇に陥り、給仕の勤め口でもさがそうとしているところを叔父にひきとられ、東京にでて、食客と書生をかねたようた境遇にいる間に、ある学校の給費生の試験を通り、存分に勉強できる身分になって、首席で卒業をし、某官庁に勤め口を見付けたことになっています。
 文三の性格は、作者自身のそれを一部分発展させたものですが、この境遇は直接には、二葉亭の外語時代の親友、大田黒重五郎のそれであったようです。
 しかし、これは特別な場合ではなく、当時の士族の子弟の大部分が辿った道であることは、多くの実例で知られます。
 彼等は禄をはなれて貧困の淵に沈んだ家を興し、苦労した母親に孝養をつくさねばならぬ義務を負って、学校を卒業し、社会に第一歩をふみだします。
 しかし彼と社会とのあいだには、後の知識階級が例外なく味わった間隙がすでに存在します。まず彼が勤先で与えられる仕事は、「身の油に根気の心を浸し、眠い眼を睡ずして得た学力を、斯様な果敢ない馬鹿気た事に使ふのかと、思へば悲しく情けなく」なるようなものであり、学校で考えたような思想や条理は、実世間の行動の規準としてはまったく無価値になります。

「学校にゐる中は色々高尚な考へをしても、付焼刃だから、世間に出ると昇みたやうな人間になるといふことを考へて書いた」(『作家苦心談』)

 と二葉亭は言いますが、この点、文三の悩みは、世間にでても昇のような人間になれなかったことにあります。

「新思想の中でも文三のやうなのは進んでゐるには相違ありませんが矢張多数であつて、而も現時の日本に立つて成功もし、勢もあるのは昇一派の人物だらうと考へたのです」

 と彼は同じ文章で言います。
 これによれば、昇こそ新しい社会の適者、すなわち『舞姫』の言う『器械的人物』の典型なのです。
 彼はただ自分の出世と利益しか考えず、一切の思想、情誼などは真にうけません。(彼の後身である『其面影』の葉村は、この処世哲学を次のように要約します。

「苛も金が儲けてえんなら、人情なんぞ未練気なく洒然(さらり)と棄てて了ふんだ、と、まで、腹を極めといてさ、それから其腹を見透されねえやうに、一旦棄てた人情を又拾上げて、人情の面つて奴を被るのです。尤も之を被り切ぢや不可ねえ、臨機応変の宜しきに従つてチヨイチヨイ此奴を脱ぐ。其処がソレ加減物でね、学者にや一寸お暁(わかり)の行きかねる所だ。」)

 二葉亭自身は、思想としては文三の方が新しいと考えていたようですが、実は反対で、昇の新しさ、彼の新時代への適者としての性格は、作品の進行とともに明らかになったようです。昇が文三よりはるかに大人であり、自信にみちた生活の体験から、溌剌たる生気を得ていることは、第二篇の第十章で文三と議論するところに明らかに現われています。この文三から仕かけた口喧嘩ははっきり彼の負で、文三が「前後忘却の態」でいきりたつのにたいして、昇は終始冷静にうけこたえして、文三を条理で詰らせます。この対照は、お勢の心が、ここではまだ半ば以上文三にむいていることを思うと、ほとんど二人の性格の処世における優劣を象徴しているといってよいので、お勢が「高尚」だが「不活溌」で結局我儘な子供にすぎない文三からはなれて、卑俗だが活気があり、機会を把えるに俊敏な、本田に心を傾けて行くのは自然の理と思われます。
 文三とお勢の恋は、二人のもっている「文明」の観念の一致、西洋に模範を見出した自由と真理に則った生き方ヘの共鳴からきています。
この観念的恋愛は、お勢の「西洋主義」へのかぶれが一時の現象にすぎない以上、たとえ文三の失職という事情がなくとも、早晩破れる筈です。
 文三にとって一番困ることは、したがって学校でうけた教育が、彼に限って「付焼刃」に終らなかったことです。秀才であった彼は、そこで教えられた「西洋主義」を本気で自分の生活の原理にします。この点で彼は新しいどころでなく、彼より一世代前の明六社の人々を思わせます。彼の倫理観の基礎をなしているのは、封建時代の武士的・儒教的道徳であり、西洋思想はひとつのより合理的な道徳の理想として、これに(我国の実情を無視して)じかに結びついています。彼のお勢との恋愛の場面は、あくまで「条理」によって「習慣の奴隷」である自分等に制御を加えている点で、森有礼の結婚を思わせます。
 文三の希いは、たんに恋愛においてだけでなく、自己の内面の論理を生活において実現して行くことです。彼は自分の信念を捨ててお勢の心を得ようとは夢にも思わないので、この意味ではまったく武士気質の持主です。男子として恥かしくない、内に顧みて卑しくない生活を送らずに彼には幸福は考えられません。そしてこれが自分一個の満足を生活に期待する一種のエゴイズムであり、他人の犠牲をそのために要求するものであることに、彼は気付きません。ここに彼の悲劇が胚胎するので、彼は気付かなくとも、現実の進行そのものがそのようなエゴイズムの結果である孤独に彼を追込むのです。
 彼はお勢が彼の高尚な心情を理解するのを期待します。しかしお勢は女性の本能によって、文三の内的満足が、その生活の上でどれだけの犠牲を要求するかを察して、それに巻きこまれることを拒否します。エゴイズムがエゴイズムを見抜くわけです。この世界では無意識のエゴイストである文三より、意識的にエゴイストとして振舞う(人情の仮面を用いる)本田の方が上手(うわて)であり、勝利を収めるのは当然です。
 文三の悲劇は、資本主義社会で、封建道徳に固執する者のそれと言うこともできるでしょう。『浮雲』は未完のまま終りましたが、二葉亭の書きのこしたプランによると、文三はお勢を本田に奪われた上、老母の死、あるいはほかの災難にあい、発狂することになっていたようです。
『浮雲』も『舞姫』も、ともに新しい社会の求めている知識階級の型を描いたものと言えます。豊太郎と昇とはともに「器械的人物」である点で、新社会の要求に応えた人物と言えます。前者はそのような自分に不満であり、後者は自分に満足している点を除けば、二人とも出世のために自分の人間的感情を捨てる決心をしている点では同じことです。つまり支配者のために、専門的知識を持つ道具になり、しかもできるだけ手軽で有用な道具としての役割を果すことで、頭角を現わそうとする欲望が彼を支配しています。
 これが明治二十年代の知識階級の型であり、或る意味でこれは現代の知識階級の原型をなしているとも言えます。
 しかしこういう非人間的な条件が、当時の書生たちによって、比較的抵抗なく受入れられたのは、当時の知識階級のおかれていた状態が、まだ社会的に見ればかなり有利であり、この型にさえしたがえば容易に出世の道を辿ることができたためと思われます。
 豊太郎のように、「我本領」に目醒めるには、特別な環境の力を要するのが、当時の通例であり、一般の学生は彼の人生にたいする感覚が変るほど西洋の学問にしたしむ機会は与えられず、その人生観は、二十年前の書生であった支配者たちとむしろ多くの共通点を持っていました。
 むろん「漂流民」的な洋学の知識はもはや役に立たず、専門知識が要求されたことは事実ですが、西洋の学問の権威は当時まだ非常に大きかったので、これによって衣食の道を得、出世の機会をつかむには、それほど深く通ずる必要はなかったようです。
 明治二十年代には、洋服を着ている人間は、それだけで和服の人民たちにくらべて、はっきりした特権階級を形造っていたので、まして、「原書」がすこしでも噛れることは、非常に有利な出世の条件でした。
「器械酌人間」はこういう時勢を背景として、みずから「器械」であることなど、意識しないで生活できたので、この意味では彼等の黄金時代と言えます。

 したがって明治二十年代に、日本の社会に生きる苦痛を語った知識階級は、例外的な環境に育った優秀な一部の異分子なので、?外、二葉亭、透谷などは、これらすぐれた異端者にぞくします。

 一般の知識階級には、彼等が感じたような矛盾をほとんど意識しなかった人々が多かったので、その一例として、さきにふれた二葉亭の友人、大田黒重五郎の回想記があげられます。
 彼は旧姓を小牧といい、徳川の御家人の子として慶応二年に江戸で生れました。そして三歳のとき「着のみ着のまま」で江戸を追われて、富士の裾野の万野ケ原という高原に帰農することになりました。家は藁ぶきの一棟を真中の壁で仕切った二軒の長屋で六畳と四畳の二間しかなく、井戸がないので付近の川水を引くという状態で、火山灰の高原に陸稲、麦、豆などをつくるという生活でしたが、父が農業を嫌って東京にもどりがちであったので、神田の町人の娘であった母が農耕と家事の苦労を一身に背食ったということです。
 重五郎はこの母の労苦をいつも見ながら、その慈愛にはぐくまれてのびのび育ち、明治初年の世相の移り変りを僻村から見聞します。
 移住当時はまだ士族たちは扶持米をうけていて、村の中央にそのための米倉が建てられていたが、数年すると米の下げ渡しは打切られ、その代りに金禄公債が渡されることになり、村人たちは前途に不安を覚えるとともに、一時に大金が懐に入ったので、それを目あてに入りこんできた商人たちに欺されて、懐中時計を買ったり、長靴を買ったりして、折角の公債を失ってしまう者がたくさんいました。
 また或る時、一本しかない山道を、綺麗な着物を着た男女が悉く泣いてくるのにであったことがあり、なかで特に若い男が泣いているのを不思議に思って人にきいて見ると、徴兵にとられた若者を送る一行であったということです。
 このような俄か百姓の辛い生活のなかから母は子供たちの教育に専念し、彼等を学校に入れるために、開墾地をはなれて沼津にうつり、そこで中学を卒えた彼は、上京して大学予備門の試験をうけて失敗し、その向い側にあった外国語学校に入学します。露語科に這入ったのですが、ロシア語を稽古して、それが何になるかなどということは考えはしない、何より五円の給費が目当で、これで貧乏な親から金を貰う必要がなくなるのが有難かったと言っています。
 こんな風にして入学した重五郎は、卒業間際に襲った外語廃校の波瀾も無事にきりぬけて、高等商業学校を卒業し、三井物産につとめ、実業家としての地位を築いて行きます。
 彼の思想の根本はやはり儒教で形づくられたようで、卒業後、九州熊本の名家大田黒家に養子に行っても、養父とものの考えかたの食いちがいに苦しむということもなかったようで、社会的にも家庭的にも恵まれた一生を送ったようです。
『浮雲』の文三の少年期のモデルになったと思われる少年が実際にはこういう生涯を送ったのは面白いことですが、彼のように温厚の君子でなく、かなり叛骨もあり、放浪癖もある徳富蘆花の『思出の記』の主人公も、大学を卒業する早々、二、三の有利な就職の申込をことわり、評論雑誌を主宰して自立の道を歩むことで、回想を終えています。
 明治二十年代から三十年代にかけて、封建時代の遺制と、近代資本主義がたくみに融合され、社会全体が日清戦争の勝利をひとつの跳躍台として登り坂の状態にあるとき、一般の青年層に浅薄だが健実な楽天主義が行われるのが当然であり、蘆花の大衆的人気はこういう時代の気風にふれあうところがあったためと思われます。
 文三や豊太郎のような人物は当時も実在したに違いありませんが、社会の表面には出なかったので、彼等の提出した問題が知識階級一般にとって切実なものになったのは、日露戦争後でした。『其面影』(明澄三十九年発表)で、二葉亭は、文三と昇の対立をそのまま小野哲也と葉村のそれに移して描いていますが、このとき成熟した形で現われたのは、昇─葉村のタイプだけではなく、哲也も文三にくらべればはるかに大人で、それだけに作者の彼にたいする批判はきびしくなっています。
 文三が現実に適合し得ないのは、ただ彼が自己のエゴイズムを自覚せず、少なくも主観的には高潔な心情の持主であるからですが、哲也はすでに葉村より卑しくない心情の持主とは自分にも言えません。彼は葉村と同様、金も欲しいし、実業界にも雄飛したい欲望も持っているので、ただ出来れば手を汚さずにやりたいと思っているところが、葉村より虫がよいだけです。
 彼の小夜子との恋愛も、結局彼に愛する能力がないことが明らかになるだけですが、このように、彼に自分の欲望を自分で見究めて、それを実現する方向に力を集中する意思がかけているのは、内面に生きる拠りどころを持たないからです。
 この点を、二葉亭ははっきりその制作ノオトに規定しています。文三が儒教倫理にしたがって動いていても必ずしも儒教を信奉しているのでないように、哲也も旧い道徳を惰性で守っていても、それはほとんど見栄に近いのです。新時代の教育は旧道徳の構成を破壊して、これにかえるに新しい知識を与えるだけで、科学と懐疑の時代に生きる原理は与えてくれません。二葉亭は同時代人のうち、この問題にもっとも鋭敏に苦しんだ人であるだけに、この知識階級の内面の空白を『其面影』ではじめて意識して描きだしています。哲也は現実の圧迫には堪え切れずに反撥しますが、彼の力は因襲を破るだけに使いつくされてしまい、束縛を逃れることがそのまま彼の生活を破壊してしまいます。
 つまり彼の生活も葉村のそれと同様に、外面に依存しているので、明治の知識階級の生き方は、畢竟その外面性、あるいは内面の空白をどう処理するかにあります。葉村のようにそれを積極的に利用して、適応性を増大するのもひとつの方向ですが、それに満足できなければ、どうしてもなにか生きる拠りどころを見出して、自我と社会との調和をはからなければならないわけです。しかしそれは不可能だというのが、当時の時代精神がこれらの人々に与えた答えでした。
 この内面生活の不可能の問題を、一番鋭く提出したのは、夏目漱石であり、『それから』以後彼の小説に登場する人物は、或る意味で哲也の後継者と言えます。
自然主義の作家が彼の周囲の事実をすべて「自然」の現われと見、想像力によってものを描くことを戒めたのも、この内面への不信と結びついています。

    六

 要するに明治人の精神の孕んでいた矛盾は、明治二十年代に先駆的表現を見出し、四十年代に一種の社会問題として表面化したと言えます。
 この明治末年の知識階級の支配者にたいする反逆は、わが国の近代文化史の上でひとつの大きな事件で、その影響は現代まで及んでいますが、その特質をまだはっきり究めた人はいないようです。
 この現象がはっきりした形をとったのは、日露戦争後のことですが、傾向としては戦前からすでに見られたので、日露戦争が日清戦争にくらべてはるかに重大な国家的危機でありながら、一部の知識階級の関心のほかにおかれたのは、その現われです。
 正宗白鳥は、戦争にさいして、ただ「政治家の都合で戦場にかりだされて命を失ふ者を気の毒に思つた」きりであったと言っていますし、島村抱月は、戦後発表された徳富蘆花の『勝利の悲哀』を評して、

「日露戦後、戦勝の歓喜に眩惑して宗教的理想の境と益々相遠ざからんとするが如き人々は初めから戦勝の悲哀といふが如き精神的福音に耳を傾け得るものとも覚えぬ。」

 といって「国家といふ伝来の生存形式を保持するを以て任務」とする支配者たちと「現代の精神文明」との背離を指摘し、一転して、

「然らば現代の精神文明と浮沈を共にし得る階級の人々に向つて之れを唱へるものとせんか。斯やうなる階級の人々は恐らく論者の考ふるが如く甚しく日露戦争の結果によつて其精神を支配されてはゐまいと思はれる。此の政治史上の大変事に対する我が精神界、思想界の感覚は、むしろ遅鈍に過ぐるほどではなかつたか。精神物質両界の交渉の疎闊なること我が現時の如きは蓋し多く例のない所であらう。」

 といっています。
 この最後の一節は重要です。こんな風の「疎闊」が精神界と物質界の間に生ずるようになったのは、「器械的人間」の地位に甘んずることのできない少数の人々が、支配者のつくりあげた社会秩序の外側に一種の特殊部落をつくって、そこに立籠ることで、自分等の人間的独立を確保しようとしたからです。
 こういう動きのなかで、明星派を中心とするロマンチズムの文学運動、キリスト教を主力とする宗教復活の動きなど、かなり多くの人々を捕えたにしろ、明治初年にくらべれば、知識階級の構成と影響力は次第に衰えて行ったので、ことに政治経済を動かす人々は、彼等の非現実的だ学説を、ちょうど昇が文三を馬鹿にするように、真にうけなくなりました。
 一方「精神界」に生きる人々も、「物質界」を司る者のこうした態度に応えて、ことさら、その世界を無視し、自分等のなかにだけ立籠ることを純粋なやりかたと考えたので、このような知識階級の無力と表裏する、彼等の時事への無関心は、日本の天皇制国家としての体制が、整備されるにしたがって、著しくなってきました。それがすでに日露戦争当時、「蓋し多くの例のない」ほどはっきりしていたことを、抱月は証言してくれます。
 明治四十年代の特色は、この傾向がひとつの社会現象として誰の目にもつくようになったことです。たんに一部の社会の局外に立つ「精神界」の住人たちだけでなく、「器械的人間」たることに甘んじて、勤労によってその日の口を糊している多くの青年たちが、彼等のエゴイズムをひとつの反社会的自覚に高めようとする機運が生れてきました。
 啄木は、明治四十三年に脅かれた『時代閉塞の現状』という論文のなかで、これら新時代の昇の精神には、「日本人特有の或倫理」が働いているといい、それについて次のように言います。

「蓋(けだ)し其倫理は我らの父兄の手に在る間は其国家を保護し、発達さする最重要の武器なるに拘らず、一度我々青年の手に移されるに及んで、全く何人も予期しなかった結論に達してゐるのである。『国家は強大でなければならぬ。我々は夫を阻害すべき何等の理由も持つてゐない。但し我々だけはそれにお手伝ひするのは御免だ!』これ実に今日比較的教養ある殆ど総ての青年が国家と他人たる境遇において有ち得る愛国心の全体ではないか。さうして此結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、更に一層明晰になつてゐる。曰く、『国家は帝国主義で以て日に増し強大になつて行く。誠に結構な事だ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのといふ事にはお構ひなしに一生懸命儲けなければならぬ。国の為なんか考へる暇があるものか !』
  彼の早くから我々の間に竄入してゐる哲学的虚無主義の如きも亦此愛国民の一歩だけ進歩したものであることは云ふまでもない」

 この前のコーテーシヨンのなかと、後のとでは少しニュアンスがちがいます。
 前者が国家と自分とは全く無関係であることを宣言し、国家は国家として生きる自由を持つ代りに、自分にもそれと没交渉でいる自由をみとめてほしいというので、これは主として当時の「精神界」の住人たちの心情です。
 これにたいして後者は、国家のエゴイズムをみとめるだけでなく、それを自分の(反国家的な)生き方の模範にしようとするので、啄木の言う通り、「実業界」に志す青年らしい積極性がそこに感じられます。前者が多少、文三くさいのに比して、彼等こそ真に昇の後継名と思われますが、この昇の自覚は、さまざまな考察を誘いだします。
 第一に明治の初年以来、わが国が国家として歩いたのは、結局昇の道ではなかったか、無定見な国際的出世主義ではなかったかということです。わが国の独立が危うかった明治初年は別として、以後政治家たちは、国民の生活よりむしろ国際的地位の向上をさきに考える傾きが強かったので、これは当時のわが国のおかれた国際環境によると同時に、支配者たちには自然の感情であった武士的虚栄心にもとづくのではないかと疑われます。主人の出世のために家族が犠牲になるのは、彼等には当然の美徳なのです。当時行われた標語に「脱亜入欧」というのがあります。アジアの一国たる地位を脱して、ヨーロッパ諸国と肩を並べようというのです。
 そしてヨーロッパ諸国の「尊敬」と「信用」を得るために、国内で必要以上の軟化政策をとったり、法律制度を整えたりした一方において、やはりこれを欧米にならって、アジアの諸国には不平等条約を強制していたので、こういう周囲を蹴下しても自分だけはよい子になろうという気持が、当時のわが国の国策の根底にあったことは否定できません。
 こうしたわが国の「文明」の偽りに気付いたのは、一部の宗教家と文学者たちであり、「明治の文明全体が虚栄心の上に体裁よく建設されたものです」と『新帰朝者』に言わせている永井荷風、

「日本人ヲ観テ支那人ト云ハレルト厭ガルハ如何、支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ、只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ、心アル人ハ日本人ト呼バルルヨリ支那人と云ハルルヲ名誉トスベキナリ、仮令(たとえ)然ラザルニモセヨ日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ、少シハ考ヘテ見ルガヨカラウ、西洋人ハヤヤモスルト御世辞ニ支那人ハ嫌ダガ日本人ハ好ダト云フ之ヲ聞キ嬉シガルハ世話ニナツタ隣ノ悪口ヲ面白イト思ツテ自分方が景気ガヨイト云フ御世辞ヲ有難ガル軽薄ナ根性ナリ」

 とロンドン滞在中の日記に誌した夏目漱石などがその例にあげられるでしょう。
 こういう国家自身の在りかたが、昇たちを生みだしたと言えますが、明治四十年代の新しさは、彼等が国家の生きかたをそのまま自分たちの生活理論に自覚的に採用し、それによって、国家への絶縁を宣言したことです。
 自己のエゴイズムと国家のエゴイズムを対比させ、前者に徹する態度をとりはじめたことです。
 これは言うまでもなく筋の通った公けの場所で主張できる理屈ではありません。
 しかし大切なのは、こういう気分が知識階級一般のものになり、それが公言できない性質のものであるだけに、人々の心の奥底に手のつけられない勢いでひろがって行ったことです。
「お手伝ひは御免」という傍観型の知識階級も、支配者が国民に臨むと同じエゴイズムで、国家に対する行動型も、ともに国家を自分のかかわりたくない悪、あるいは相手にするにたりない愚者の集団と見倣すようになったのです。
 これは日露戦争後の日本の変質、戦勝による軍閥の台頭、「一等国」に列したという支配者たちの安心と思いあがり、幸徳事件を境とする「国体」意識の強調などと切り離して考えられないことでしょう。
 国家権力、あるいはそれを端的に象徴する軍隊をつくりあげる人々を支配する思想と、知識階級のそれとのあいだに、あまり甚だしい落差ができてしまったため、両者のあいだにはまともな対抗意識さえ失われてしまった、というのが少なくも知識階級一般の意識でした。むろんこれは彼等の無力を蔽うための自己瞞着ともとることができます。天皇を中心とし、農村を背景とした国家の組織にくらべて、知識階級自身の力など微々たるものであったに違いありません。
 しかし彼等が強いてこれらの「おくれた」人々と争わなかったのは、相手が強いからだけでなく、彼等の孤立を結果した「すすんだ頭」に、彼等が或る誇りを感じていたためと思われます。啄木はその点について、

「それは一見強権を敵としてゐるやうであるけれども、さうではない。寧ろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼等は実に一切の人間の活動を白眼を以て見る如く、強権の存在に対しても亦全く没交渉なのである。──それだけ絶望的なのである。」

 と言っています。ここで面白いのは最後の一句です。
 啄木はおそらく彼等が強権と戦うことを望んだでしょう。しかし彼は、周囲の知識階級が期待に反する行動をとったことも、決して彼等の卑怯からという風に説明しません。彼は彼等の行動にでないのは、それだけ彼等が「絶望的」であるからだと言っています。この「絶望」は、彼等が自分の「すすんだ頭」と、周囲との距離を意識しているところからくるので、それが優越感ととなり合っているからこそ、彼等はそこに何等の行動にでないで「一切の人間の活動を白眼を以て見る」状態に安住していられたのです。

 つまり明治初年の知識階級は、周囲にたいして啓蒙の義務感を持ち、「賢智ノ寡ク愚不肖ノ衆クシテ其勢衆寡敵セサルナリ」と思っていてもなおかつ、「賢智ノ徒タラントスル者ハ先ンシテ之ヲ救フ」使命を放棄しませんでした。
 彼と民衆あるいは支配者とのあいだには、知識の量の多寡の差はあっても本質的な断絶はなかったのです。
 それに引換えて、明治二十年代以後の支配者から、「器械的人間」たることを求められた知識階級になると、彼と支配者との間には、思想上の明白な断絶が見られます。彼等は新しい知識を持つ便利な器械であることを支配者から求められながら、新しい知識が新たな人間的自覚を生むことを如何ともし得なかったからです。しかし周囲の環境は、このような人間的自覚を育てるにはなはだ痩せた地盤しか提供しなかったので、知識を持っても、それを他の人間的な思想ときりはなして、内面の論理を統一するより、外界に順応することに努める風潮が一般には圧倒的でした。
 これはたんに封建的な環境で近代思想が育ちにくいというような外面的な理由によるのではなく、少数の先覚者を捕えた近代思想そのものが、新しい生の指導原理になるような積極的内容を持たず、ただ人々を否定と懐疑におしやるだけであったからです。
 文三には、昇を自分のなかにとりこみ、それを越えるような道徳は持てないのです。

 したがって彼にできるのは、昇を排除して、自分だけの世界に立籠ることです。明治の「精神界」が「物質界」と著しい遊離の傾向を示すようになったのは、新しい文学の理念による詩歌や小説が、ようやく一部の知識階級に迎えられるようになった明治二十年代の末からです。
 しかしこの新しい文学理念が自然主義という形をとったとき、それを奉じた文学者が実際にやったことは、近代思想がそれを抱く者の精神を破壊した状況を、彼等が陥った懐疑と否定とがその生活をみだす有様を、ロマンチックな告白の対象にすることでした。

「蓋し、我々朋治の青年が、全く其父兄の手によつて造り出された明治新社会の完成の為に有用な人物となるべく教育されて来た間に、別に青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知る如く、日清戦争の結果によって国民全体が其国民的自覚の勃興を示してから間もなくの事であつた。」(『時代閉塞の現状』)

 と啄木は言いますが、この「自覚的主張」はそれが人間としての目的であった限り、支配者には容れられず、観念的であるために民衆の興味はひかず、いわば社会から遊離した文三たち同志の間の主張に止まったのです。
 彼等は明六社以来の「賢智の寡」たる自信は持っていましたが、周囲の「愚不肖」に語りかける熱情はまったく失ってしまい、国家(支配者と民衆)に無関係の地点で、自分等だけの思想や感情を理解し合おうとしたので、自然主義以来の文学が文壇の文学者同士を相手に書かれたといわれるのは、こういう知識階級や気質の現われの一端なのです。
「すすんだ話」「おくれた話」という自負はここにも作用しています。「一切の人間の活動を白眼を以て見る」ような懐疑と否定の境地に達したことは、近代思想の毒を、それだけ多量に吸収したのを意味し、彼が他の人々より西洋の思想的状況に明るく、その最近の動向にも通じていることになります。
 つまりこれは、彼等が啓蒙的熱情があってはじめて正当化される選ばれた者の意識を、それをまったくなくしたあとでも持ちつづけたので、それ以後のわが国の知識階級の所産に、かならずつきまとう精神の通風の悪さは、この矛盾にもとづくと言えます。
 同時に彼等の観念的であるだけに徹底した世界性もここにもとづくので、すべての思想が直輸入であり、生(なま)の形で、わが国の現実とかかわりなく示されれば、それでよいだけに、わが国の知識階級ほど世界のあらゆる国々の最新の動向に通じている人間はありません。現代のわが国では、ピカソもシェスタコヴィッチもフォークナーもそれぞれ少数だが熱心な公衆を見出します。一人前のインテリである以上、彼等をすべて理解するのが当然と見倣されるだけでなく、一部の青年たちにとっては彼等はすでに古いのです。
 紙数がつきるので大正以後のことについてはふれる余裕がなくなりましたが、明治初年から大正の初め、すなわち一九一〇年を中心とする数年間はわが国にとっても世界にとっても、現代の入口といってよい大切な時期と思われます。二十世紀の前半の主要な事件であった二つの大戦とそれに伴う革命は、世界の各国を動かしたと同様わが国を動かしてきたので、この激しい動揺の時代に僕等がどういう精神の姿勢で這入って行ったかという間題は、現代にもはっきりしたつながりを持つと思われます。

 啓蒙的熱情を失った啓蒙家、国内でまったく無力な地位におかれた代償を、世界との観念的な交流に求め、そのことによって自分等の間だけに通用する学問と芸術をつくりだした知識階級の在りかたは、天皇制国家の特異な産物であり、それを背景にしてはじめて可能なものであったにしろ、現代の僕等の思想や感覚も、そこから強い影響をうけている、というよりそれをそのまま踏襲しているのです。
 

『日本文化研究』初出 昭和三十四年(1959)七月
 
 

(なかむら みつお  文藝批評家・小説家・劇作家 1911.2.5 - 1988.7.12  東京下谷に生まれる。第六代日本ペンクラブ会長 文化功労者 藝術院会員。『風俗小説論』『志賀直哉論』「谷崎潤一郎論』『正宗白鳥論』『想像力について』等々の傑出した業績で批評の世界に大きな足跡をのこされた。 )



 
 
 

   哲学ノート  (抄)    三木 清 (哲学者)
 
 

    序

 これは一冊の選集である。即ち「危機意識の哲学的解明」という最も古いものから、「指導者論」という極めて最近のものに至るまで、私の年来発表した哲学的短論文の中から一定の聯関において選ばれたものであって、その期間は『歴史哲学』以後『構想力の論理』第一を経て今日に及んでいるが、必ずしも発表の順序に従ってはいない。程なく『構想力の論理』第二を世に送ろうとするに先立って、私は書肆の求めによってこの一冊の選集を作ることにした。ここに収められた諸論文は如何にして、また何故に、私が構想力の論理というものに考え至らねばならなかったかの経路を直接或いは間接に示していると考えるからである。
 これらの論文はたいてい当初からノートのつもりで書かれたものである。種々様々の題目について論じているにも拘(かかわ)らず、その間に内容的にも聯関が存在することは注意深い読者の容易に看取せられることであると思う。もとより私はそれらを単に私の個人的な感心からのみ書いたのではない。現実の問題の中に探り入ってそこから哲学的概念を構成し、これによって現実を照明するということはつねに私の願であった。取扱われている問題はこの十年近くの間、少くとも私の見るところでは、我が国において現実の問題であったのであり、今日もその現実性を少しも減じていないと考える。その間私にとって基本的な問題は危機と危機意識の問題であったのである。
 私のノートであるこの本が諸君にもノートとして何等か役立ち得るならば仕合(しあわせ)である。すでにノートである以上、諸君が如何に利用せられるも随意である。必ずしもここに与えられた順序に従って読まれることを要しないであろう、──初めての読者は比較的理解し易いものを選んで読み始められるのが宜い。その選択はすでに諸君の自由である。私が示した問題解決の方向に諸君がついてゆかれるかどうかはもとより諸君の自由である。ただ、これはノートである以上、諸君がこれを完成したものとして受取られることなく、むしろ材料として使用せられ、少くとも何物かこれに書き加えられ、乃至少くとも何程かはこれを書き直されるように期待したいのである。

  昭和十六年(一九四一年)十月廿一日    
                              三 木 清

目次
新しき知性 伝統論 天才論 指導者論 道徳の理念 倫理と人間 時務の論理 批評の生理と病理 レトリックの精神 イデオロギーとパトロギー 歴史的意識と神話的意識 危機意識の哲学的解明 世界観構成の理論

 
   新しき知性

 いったい知性に時代というものがあるであろうか。知性には旧いも新しいもなく、むしろつねに同一であるということが知性の本質的な特徴であると考えられるであろう。知性には論理というものがあり、この論理は知性が時間と空間を超えてつねに同一であるように定めているといわれるであろう。しかしながら論埋にも発展がある。我々は論理の歴史をもっているのである。すべて新しい哲学は新しい論理の発見によってはじめて、本質的に新しいものとして構成されるとすれば、哲学に歴史があるように知性にも歴史があると考えることができるであろう。知性にしても純粋な空虚の中で活動し得るものではない。知性が対象を捉える方法は対象の異るに従って異るべき筈である。対象に制約されるということはもとより知性に自律性が存しないということではない。対象が方法を規定すると共に、逆に方法が対象を規定する。対象に対して構成的でないような方法というものはない。しかし自律的であるといっても、知性はそのかかわる対象の異るに応じて自己の新しい側面を発現し、或いは自己を新たに形成し、かくて発展してゆくのである。知性というものも具体的に見ると全体的な人間の一つの作用にほかならない。従ってそれは感覚、感情、衝動、意志などと種々の聯関を含んでいる。これらのものと如何なる関係に立つかということが知性の性格を決定するであろう。そして現実の人間は歴史的社会的な人間である。知性も現実の人間の作用の一つとしてつねに一定の歴史的環境において働くことを要求されている。知性は自律的であり、自律的でないような知性はないが、知性が自律的であるというのは環境から分離して孤立することではなく、それぞれの歴史的環境において自己を確立してゆくことでなければならない。歴史的環境の異るに従って、或る時代の知性は特に批評的であり、他の時代の知性は特に創造的であるというようなことも生ずるであろう。
 かようにして知性に時代の如きものが考えられるとすれば、知性の新時代或いは二十世紀の知性ともいうべきものは如何なるものであろうか。この場合まず知性に対する不信乃至否認こそ我我の時代の特徴であると考えられるであろう。知性の清算、主知主義の克服こそ新時代的であり、自己の退却、自己の王位返上に努力することこそ今日の知性にふさわしいと主張されている。ところで歴史的に見ると、知性の排斥は何よりも近代文化に対する批判の中から生れたのである。近代は機械の時代であるといわれる。しかるに機械の発達は人間を機械の奴隷に化し、人間生活のうちに種々の非人間的なものを作り出した。機械の発達は人間性を破壊するに至ったが、これは科学の発達の結果である。従って人間性を擁護するために機械を排斥し、その基礎である科学、そして知性を弾劾しなければならぬと考えられた。ここに我々は知性の排撃が実に人間性擁護のヒューマニズムの立場から現われたという事情に注意することが肝要である。即ち逆にいうと、今日知性の擁護はまさにヒューマニズムの立場において行われることを要求されている。尤もこのヒューマニズムは新しい知性の確立によって新しいものにならなければならないであろう。
 人間性の擁護が知性の排撃になったということは現代のパラドックスである。人間の人間である本質、それによって人間が動物から区別される特徴は知性であると古くから考えられてきた。しかるに今では人間性を擁護するために知性が排斥されることになったのである。知性は人間の本性に属するよりもむしろこれを破壊するもののように見られている。そして人間性即ち人間の「自然」として主張されるのは本能であり、衝動であり、すべてパトス的なものである。知性は人間をこの自然から離反させ、かくして人間を滅亡に導くものと考えられるようになった。これに対して我々はもちろん当然反問することができる。──単に本能の如きもののみでなく、知性もまた人間の「自然」であるのではないか。知性を自然の反逆者と見るよりも、むしろ本能でさえもが或る知的なもの即ち「自然のイデー」と見らるべきではないか。そしてこのように見ることがヒューマニズムの精神に合致するのではないであろうか。
 いずれにしても今特に次のことが指摘されねばならない。知性の排斥が右の如くいわゆる機械文明に対する批判を通じて現われたところからも分るように、知性は現代においては主として「技術的知性」の意味に理解されるようになったのである。これは知性そのものについての新しい見方である。現代の反主知主義のみでなく、現代の主知主義もまた、知性の本質に関するかような見方によって、旧い時代の反主知主義からと共に旧い時代の主知主義から区別される。プラグマティズムが現代の主知主義はもとより、現代の反主知主義をも種々の仕方で特徴附けているのはこれに依るのである。附帯的な意味を離れて本質的な意味に従って考える場合、プラグマティズムとは知性の技術的本性の理解にほかならないといい得るであろう。近代における人間観の変遷即ち homo sapiens (理性人間)の人間学から homo faber (工作人間)の人間学への推移も、このような知性の本質についての把握の変化によって規定されている。そこで技術の哲学が今日極めて重要な意味を持つことになったのである。科学の哲学はすでに近代社会の初期から存在したが、技術の哲学が顧みられるようになったのは比較的新しいことであり、新時代の特徴的な問題の一つに属している。
 いま科学と技術とを比較するとき、知性は科学において自然から独立になり、そして技術において再び自然に還るということができるであろう。固(もと)より科学は自然の法則を対象とし、その際また科学は経験に基かなければならぬ。しかし知性が自然のうちに沈んでいる限り科学は生れてこない。人間は知性によって自然から独立になり、かくして自然を客観的に眺め、自然について科学的知識を持つことができる。しかるに科学が技術に転化されるということは一旦自然から脱け出した知性が或る意味において再び自然に還ることである。技術において知識は物体化され、科学の抽象的な法則は形のある具体的なものになる。元来科学の法則はそのように形のある具体的な自然の奥深く探り入り、抽象によって得られたものである。自然そのものがもと技術的であって、我々の直観に直接与えられている自然は自然の技術によって形成されたものと見ることができる。物質的生産にかかわりのない我々の精神的技術においても知識は習慣化されることによって「第二の自然」となる。このように知性は技術において自然に還ると考えることができるとすれば、知性を専ら技術的知性の意味に理解しようとする者が知性を自然の反逆者のように考えることは矛盾であるといわねばならぬであろう。技術的知性こそ自律的な知性と自然との間に内面的な関係を建てるものである。知性は単に自然に反逆すると見らるべきでなく、むしろ知性に対して自然といわれる本能の如きものにおいてもその技術性が明かにされ、かくしてその知的性質が示されなければならない。反主知主義者ももちろん、知性を技術的知性と見ることによって知性と自然との連絡を考えている。しかし彼等はそれによって同時に知性の自律性を否定しようとするのである。即ち知性は衝動の記号にほかならず、知性の言語は衝動の記号言語に過ぎないといわれる。しかるにもし知性が衝動の記号に過ぎないとしたならば、知性の産物であるところの文化が如何にして彼等の主張するように人間の自然を抑圧し得るであろうか。人間の作った文化が人間に対立するというには、文化が自律的なものであるということ、従って知性が自律的なものであるということがなければならない。技術の根抵に科学がなければならぬと考えられるのも、そのことを示している。言い換えると homo sapiens と homo faber とは区別されながら一つのものでなければならない。人間は作ることによって知り、知ることによって作る。技術は生産的行為の立場に立っている。科学も元来技術的要求から生れたものであり、またその結果において技術に利用されるのである。科学はその動機において、その帰結において、実践と結び附くにしても、科学が成立するためには一旦実践の立場を離れて純粋に理論的な立場に立つことが必要である。しかもかようにして却って科学は真に技術の発達に役立ち得るのである。
 近代の機械的乃至技術的文化の弊害として咎められるものは、単に機械乃至技術の罪でなく、むしろこれを利用する社会の一定の組織の罪である。機械は人間の労働を軽減し、かくして人間がその余剰の時間を自己の人格の、自由な発達のために使用することを可能にするであろう。機械はまた精神的文化財が大衆化されることを可能にするであろう。それ故に技術の発達は新しいヒューマニズムの基礎でなければならない。しかるに反対の結果になっているとすれば、原因は社会にあると考えられる。人類は自然に対しては知性的に活動してきたが、社会に関しては同様に知性的でなかった。知性は今日何よりも社会に向って働かなければならない。技術の弊害といわれるものは技術のより進んだ発達によって、同時に他方この技術を社会的に統制することによって除かれ得るであろう。技術の発達そのもののためにも或る統制が必要である。ところでこのような統制はそれ自身一つの技術に、即ち自然に対する技術とは異る社会に対する技術に属している。今日重要な意味をもっているのはこのいわば技術を支配する技術である。新時代の知性は特に社会的知性でなければならぬということができる。社会的知性はその対象の性質に従って自然に対する知性とは性格を異にするであろう。
 しかるに今日においては社会についても自然が重んじられるようになったことに注目しなければならぬ。そしてこの場合にもまた知性は何か自然に反するもののように排斥されている。例えば民族とはパトス的な結合である。パトスとは主体的に理解された自然のことである。民族はつねに深く伝統に根差している。伝統とは何かというと、パトス的になったロゴスのことである。知的文化も伝統となることによって習慣的になるのであるが、習慣的になるということは知性が自然のうちに沈むことである。民族的知性というものはこのような伝統的な知性である。それ故に伝統とか民族的知性とかが考えられるためには、技術的知性の場合と同じように、自然と知性、パトスとロゴスの結び附きが考えられなければならない。単に自然的なものは文化とはいわれないであろう。文化が生れるためには知性が自然から独立になること或いは知性が自律的に働くことが必要である。伝統といっても固(もと)より単に自然的なものではない。伝統があるためには文化が以前に作られなければならぬ。そして文化が作られるためには知性が伝統に対して自律的に活動すること、従ってまた伝統に対して批判的な態度をとることが必要である。科学なしには枝術も考えられないように、知性の自律的な活動なしには新しい伝統となるべき文化の創造はもとより、旧い伝統が文化として存在するということも考えられないであろう。
 知性は空間的なものと見られてきた。時間的なものを空間化し、時間的個別性を捨てて空間的一般性において物を見るのが知性であるといわれてきた。ところで今日強調されている民族の如きものは自然的なものとして固よりどこまでも空間的なものであるが、単に一般的なものでなくて個別的なものであり、従って他方同時にどこまでも時間的なものである。すべて歴史的なものは時間的・空間的なものである。民族の如きも単なる自然でなくむしろ歴史的自然である。歴史的なものは文化的なものでなければならず、文化的なものは知性の自律的な活動なしには作られない。けれども歴史と自然とを抽象的に対立させることも間違っている。真の歴史は却って歴史と自然とが一つであるところに考えられる。新しい知性はかような具体的な意味において歴史的知性でなければならない。歴史的知性とは如何なるものであるかが今日の問題である。
 解決を求められているのは到る処同じ問題である。私は数年来この問題をロゴスとパトスの統一の問題として規定してきた。ヒューマニズムはその本来の意図において全人的立場に立つものとすれば、かようなロゴスとパトスの統一の問題はまさにヒューマニズムの根本的な問題である。現代の反主知主義の哲学は一面的にパトロギー的となることによってヒューマニズムから逸脱している。しかしながらこれに対して抽象的な主知主義を唱えることもヒューマニズムにふさわしいことではない。ヒューマニズムは知性を一層具体的に捉えると共にロゴスとパトスの統一を求めなければならぬ。ヒューマニズムは単なる文化主義ではない。それはむしろ文化が身につくこと、身体化されること、或いは人間そのものが文化的に形成されることを要求している。それ故にここにもロゴスとパトスの統一の問題がある。
 かようにして我々は先ず知性と直観とを抽象的に対立させることをやめなければならない。西洋におけるヒューマニズムの源泉となったギリシア哲学においては知性も或る直観的なものであった。直観的な知性を認めるのでなければプラトンの哲学は理解されないであろう。ルネサンスのヒューマニズムにおいても同様である。デカルトは近代の合理主義の根源といわれるが、彼においても知性は一種の直観であったのであり、直観の知的性質を明かにしようとする現代の現象学はデカルトを祖としている。正しいものと間違ったもの、善いものと悪いものとを直観的に識別する良識 bon sens というものもデカルトの理性 raison といったものから出ていると見ることができる。知性と直観とを合理的なものと非合理的なものとして粗野に対立させることは啓蒙思想の偏見であり、この偏見を去って直観の知的性質を理解することが大切である。しかし今日特に重要な問題はデカルト的直観でなくむしろ行為的直観である。行為的直観の論理的性質が明かにされると共に人間というものの実在性が示されねばならぬ。近代のヒューマニズムは個人主義であることと関聯して人間を単に主観的なものにしてしまった。新しいヒューマニズムは行為の立場に立ち、従って人間をその身体性から抽象することなく、そしてつねに環境においてあるものと見ることから出立して、人間の実在性を示すことができる。しかるに身体性の問題はパトスの問題である。パトスは普通いうように単に主観的なものでなく、それなしには人間の実在性も考えられないようなものである。
 近代の自由主義は批評的な知性を発達させた。自由主義も固より単に批評的であったのでなく、それ自身の創造的な時代をもった。けれどもそれが社会において指導的意義を失うに従って自由主義は次第に創造的でなくなり、知性は単に批評的なものになってしまった。それは批評のための批評、批評一般に堕して行った。この傾向は知性が直観から離れて抽象的になることによって甚だしくされたのである。新時代の知性は単に批評的でなく創造的でなければならない。創造的知性が今日の知性である。批評的な知性が分析的であるのに対して、創造的な知性は綜合的である。抽象的になった批評的な知性は、創造的になるためにパトスと結合しなければならない。知性は民族のパトス、伝統のパトスの中に沈まなければならないといわれている。固より知性がパトスに溺れてしまっては創造はないであろう。創造が行われるためには自然の中からイデーが生れてくること、パトスがロゴスになることが要求される。創造は知性のことでなくて感情のことであるといわれている。その通りであるとしても、創造にはロゴスがパトスになることか必要であるように、パトスがロゴスになることが必要である。
 しかし如何にしてパトスは口ゴスになり、口ゴスはパトスになることができるであろうか。パトスとロゴスの統一は如何にして可能であるか。ロゴスに対してパトスの意味を明かにすることに努めてきた私は、この問題について絶えず考えなければならなかった。そして私は遂に構想力というものにつきあたったのである(拙著『構想力の論理』参照)。カントは感性と悟性の綜合の問題に面して構想力を持ち出した。構想力は、感性と悟性が抽象的に区別されたものとして先ずあって、これらを後から統一するのではない。構想力はそのような仕方で感性と悟性を媒介するのではない。媒介するものは媒介されるものよりも本原的である。構想力のこの本原性に基いて創造は可能である。
 科学が出てくるためには生素な経験主義からの飛躍がなければならないが、かような飛躍は構想力によって可能である。また科学が行為の中へ入るためには知識がパトス的直観と結び附かねばならないが、かような結合は構想力の飛躍によって可能である。知性が自然から独立するためにも、また知性が自然に還るためにも、構想力の媒介が必要である。知性の根柢に考えられねばならぬ直観は構想力でなければならない。構想力は直観的であるといっても単に非合理的なものでなく、それ自身知的なものである。知性の特徴とされる経験の予料、仮説的思考という如きものも、構想力なしに考えられないであろう。創造的知性は単に推理する知性でなく、構想力と一つのものでなければならぬ。
 現代の知性人とは如何なるものであるかという問に対して、「思索人の如く行動し、行動人の如く思索する」というベルグソンの言葉をもって答えることができる(第九回国際哲学会議におけるデカルト記念の会議に寄せた書簡)。ところで思索人の如く行動し、行動人の如く思索するということは構想力の媒介によって可能である。我々の眼前に展開されている世界の現実は種々の形における実験である。相反し相矛盾するように見えるそれらの実験が一つの大きな経験に合流する時がやがて来るであろう。「そこへ哲学が突然やって来て、万人に彼等の運動の全意識を与え、また分析を容易ならしめる綜合を暗示するとき、新しい時代が人類の歴史に新たに開かれ得るであろう。」知性人は眼前の現実に追随することなく、あらゆる個人と民族の経験を人類的な経験に綜合しつつしかも経験的現実を越えて新しい哲学を作り出さねばならぬ。この仕事の成就されるためには偉大な構想力が要求されている。すでに個人から民族へ移るにも、民族から人類へ移るにも、構想力の飛躍が必要であろう。今日の知性人は単に現実を解釈し批評するに止まることなく、行動人の如く思索する者として新しい世界を構想しなければならない。新時代の知性とは構想的な知性である。
 

    伝 統 論

    一
 伝統という語は伝え、伝えられたものを意味している。伝え、伝えられたものとは何を意味するであろうか。ベルンハイムは遺物 Ueberresste と伝統 Tradition とを区別している。遺物とは出来事について直接に残存している一切のものをいい、伝統とは出来事について間接に人間の把握によって貫かれ再現されて伝えられているものをいう。この区別はドゥロイセンの「我々がその理解を求めるところのかの現在からなお直接に残っているもの」と「そのうち人間の表象のうちに入り、追憶のために伝えられているもの」との区別に当っている。かくてベルンハイムによると、遺骨とか言語とか制度とか技術、科学、芸術の如きものは遺物に属し、歴史画とか物語絵とか年代記、伝記等は伝統に属している。このように歴史家が史料の分類上設けた区別はもちろん直ちに我々の一般的な目的に適しないであろう。言語の如きものは、我々はこれを普通に伝統と考えている。しかしそれにも拘らず遺物と伝統との区別は重要である。言語などにしても、その痕跡が残っていても全く死んでしまったものは伝統とはいわれず、遺物といわねばならぬ。即ち伝統は、単なる遺物と区別されて、現在もなお生きているものを意味している。しかるに過去のものが現在もなお生きているというには、その間において絶えず「人間の把握によって貫かれ」、「人間の表象のうちに入る」ということがなければならぬ。その限りベルンハイムの規定は正しいのである。かように絶えず人間の表象のうちに入り、人間の把握によって貫かれるということが伝えられるという意味である。言い換えると、遺物が単に客観的なものであるのに反して、伝統はつねに主体的に把握されたものである。伝統は単に客観的なものでなく、主観的・客観的なものである。過去のものが伝えられるというには、主観的に把握されることによって現在化されるということがなければならぬ。伝えるということを除いて伝統はなく、伝えるということは過去のものを現在化することであり、この行為はつねに現在から起るのである。伝統は行為的に現在に活かされたものであるが、現在の行為はつねに未来への関係を含み、行為によって過去の伝統は現在と未来とに結び附けられている。

  二
 普通に伝統は過去から連続的に我々にまで流れてきたものの如く考えられる。伝統は連続的なものであって、我々はその流のうちにあると考えられている。しかしながらかような見方は少くとも一面的である。先ず伝統のうちには連続的でないものがある。或る時代には全く忘却されていたものが後の時代に至って伝統として復活するということは歴史においてしばしば見られるところである。それが復活するのはその時代の人々の行為にもとづいている。伝統をただ連続的なものと考えることは、それをかように行為的なものと考えないで、何か自然的なもののように考えることである。その場合歴史は単に自然生長的なものとなってしまう。歴史を自然生長的なもののように見るかかる連続観は、保守主義的な伝統主義のうちにも、進歩主義的な進化主義 Evolutionism のうちにも、存している。しかるにかくの如き連続観によっては、歴史における伝統の意味も、また発展の意味も、真に理解され得ない。歴史は自然生長的なものでなくて行為的なものであり、行為によって作られるもの、そして行為によって伝えられるものである。伝統は過去から連続的に我々のうちに流れ込んでおり、我々はこの流のうちにあると考えるとき、我々と伝統との関係は単に内在的なものとなる。しかるに行為は、物が我々に対して超越的であり、我々が物から超越的であることによって可能であるのである。伝統を単に連続的なものと考える伝統主義は、如何にして行為が、従ってまた創造が可能であるかを説明することができぬ。そして行為のないところでは伝統は真に伝統として生きることもできぬ。それのみでなく、そのような伝統主義は自己が欲する如く伝統の権威を基礎附けることもできないであろう。伝統が権威を有することは、それが超越的なものであり、我々から全く独立なものであることによって可能である。伝統が単に連続的な内在的なものであるならば、それは我々にとって権威を有することができず、我々はそれに対して責任あるものとされることができないのである。
 かくて伝統主義の本質は、伝統の超越性を強調し、これに対する我々の行為的態度を力説するところになければならぬ。カール・シュミットは次の如く述べている。革命時代の能動的精神に対して、復古時代は伝統や習慣の概念、徐々の歴史的生長の認識をもって戦った。かような思想は自然的理性の完全な否定、およそ行為的になることを悪と見る絶対的な道徳的受動性を結果した。かような伝統主義は遂にあらゆる知的な自覚的な決断の非合理主義的な拒否となるのである。しかるに伝統主義の首唱者ボナルは、永久な、おのずから自分で発展する生成の思想から遠く離れている。彼にはシェリングの自然哲学、アダム・ミューレルの諸対立の混和、或いはヘーゲルの歴史信仰の如き伝統に対する信仰は存しない。彼にとって、個人の悟性は自分で真理を認識するには余りに弱く惨めなものであるので、伝統は人間の形而上学的信仰が受け容れ得る内容を獲得する唯一の可能性を意味している。伝統に対して我々は何等の綜合、何等の「より高い第三のもの」を知らぬ「此れか彼れか」の前に立っているのであり、ただ「決断」のみが問題である。シュミットはかかる決断の概念から彼の独裁の概念を導き出しているのであるが、ここで我々の注意すべきことは、伝統主義がシェリング、ミューレル、ヘーゲルなどの「ドイツ的センチメンタリズム」即ち浪漫主義、或いは連続的生成を考える有機体説、つまり内在論によってはその真の意味を明かにし得ないということである。伝統の概念は内在的発展の概念によっては基礎附けられることができぬ。
 しかしながらまた伝統を右のような仕方で絶対化することは却って伝統と行為との真の関係を否定することになるであろう。伝統の前には決断するのほかないとしても、もし我々の悟性が自分で真理を認識する能力のないものであるとすれば、我々のかかる決断に真の価値があるであろうか。またもしその際我々はただ社会の伝統に従うに過ぎないとすれば、かかる行為を真に決断と称し得るであろうか。伝統を絶対的な真理として立てることそのこと自身、それをかかるものとして立てる我々の行為の結果である。伝統は我々の行為によって伝統となるのであり、従って伝統も我々の作るものであるということができる。創造なしには伝統なく、伝統そのものが一つの創造に属している。伝統となるものも過去において創造されたものであるのみでなく、現在における創造を通じて伝統として生きたものになるのである。その意味において伝統は単に客観的なものではない。単に客観的なものは伝統でなくて遺物に過ぎぬ。伝統と単なる遺物とを区別することが大切である。過去の遺物は現在における創造を通じてのみ伝統として生き得るのである。歴史の世界において真に客観的なものというのは単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。いわゆる伝統主義者は伝統が現在の立場から行為的に作られるものであることを忘れ、かくて遺物を伝統の如く或いは伝統を遺物の如く考えるという誤謬に屡々陥っている。もとより伝統なしには歴史はない。そうであるとすれば、歴史は二重の創造であるということができる。初め創造されたものが再び創造されることによって伝統の生ずるところに歴史はある。この二重の創造は一つのものにおける創造である。そこに歴史が単に個人の立場からは理解され得ない理由がある。

  三
 およそ伝統と創造との関係は如何なるものであろうか。すべて歴史的に作られたものは形を有している。歴史は形成作用である。形は元来主観的なものと客観的なものとの統一であって、歴史的なものが主観的・客観的であるというのは、それがかかる形として形成されたものであることを意味している。形として歴史的に作られたものは超越的である。形において生命的なものは自己を犠牲にすることによって一つの他の生命の形式を発見するのである。それが創造の意味である。「詩とは感情の解放でなくて感情からの脱出である、それは人格の表現でなくて人格からの脱出である」、とティ・エス・エリオットはいっている。作られたものは形として作るものから独立になり、かくて歴史に伝わるのである。伝統とは形であるということができる。伝統が我々を束縛するというのも形として束縛するのであり、我々が伝統につながるというのも伝えられた形を媒質として創造するということである。何等の媒質もないところでは、我々の感情も思想も結晶することができぬ。「感情の『偉大さ』、強度が、素成分が問題であるのでなく、芸術的過程の強度が、いわばその下で鎔和が行われる圧力が問題である」、とエリオットはいっている。伝統はかかる圧力として創造の媒質である。それが圧力を意味するのはそれが形であるためである。創造には伝統が必要である。形が形を喚び起すのであり、そこに伝統があるのである。
 伝統的なものは遺物とは異っている。遺物は歴史的世界において独立の生存権を有するものではない。しかるに伝統もまた創造されるものであった。伝統が創造されるというのは、それが形を変化する transform ということである。かくてあるかなきかの形は次第にさだかな形となり、弱い線、細い線は消し去られて太い線は愈々(いよいよ)鮮かになってくるという風に、種々の形式における形の変化・形成が行われる。恰(あだか)も人間が青年から壮年、壮年から老年へと形の変化を行う如く、歴史的なものはそれぞれ固有な形の変化を行うのであって、かような形の変化を行う限りそれは生命的なものと考えられるのである。作品は自己自身の運命を有するといわれるのもその意味である。制作者の手を離れた制作物は独立のものとなり、歴史において自己自身の形の変化を遂げる。もとよりそれは単なる外形の変化を意味するのではない。或るものはその外形までも変化することが可能であろうが、他のものにおいては、例えば芸術作品の如く、外形を変化することは不可能であろう。しかし形とは元来単に外的形式をいうのでなく、主観的なものと客観的なものとの統一を意味している。かかるものである故に、一度作られたものも再び主観的に把握されることによって新しい意味を賦与され、内面的に形の変化を遂げるのである。形の変化は、形が主観的なものと客観的なものとの、特殊的なものと一般的なものとの、パトス的なものとロゴス的なものとの統一であるところから考えられる。もちろん伝統は破壊され没落する。伝統も創造によって伝統として生きるのであるとすれば、伝統を作り得るものはまた伝統を毀し得るものでなければならぬ。伝統を毀し得るものであって伝統を有し得る、なぜなら伝統もまた作られるものであるから。伝統は既に形を有するものである故に、如何に変化するにしても限界がある。その変化の果てにおいて元の形は毀れて新しい形が出来てくる。かくの如く形が変化するというのも、形はもと主観的・客観的なもの、或いは特殊的・一般的なもの、或いはパトス的・ロゴス的なものとして、矛盾の統一であるからである。この統一が根本的に毀れるとき形の内面的変化は限界に達し、旧い伝統は没落して新しい形が創造されてくるのである。尤もこの創造それ自身何等かの伝統を媒質とすることなしには不可能である。一つの伝統を排斥する者は他の伝統によって排斥しているのである。

  四
 歴史は二重の創造であるということ、初め作られたものが更に作られるところに歴史があるということは、歴史の本来の主体が個人でなくて社会であるということを意味している。個人もまた社会から歴史的に作られたものである。歴史は社会が自己形成的に形を変化してゆく過程である。人間は社会から作られたものであって、しかも独立なものとして作られ、かくてみずから作ってゆくのであるが、人間のこの作用は社会の自己形成的創造の一分子として創造することにほかならぬ。従って人間においては自己の作るものが同時に自己にとって作られるものの意味を有している。制作が同時に出来事の意味を有している。そこに歴史というものがある。自己の作るものが自己にとって作られるものであることは特に伝統というものにおいて明瞭である。それだから伝統を我々にとってただ単に与えられたもののように考えるという誤解も起り得る。伝統は我々の作るものであり、それが同時に我々にとって作られるものの意味を有しているのである。いわゆる伝統主義者は人間の独立的活動を否定することによって伝統と単なる遺物とを区別することさえ忘れている。人間の独立性を否定することは社会の創造性を否定することである。社会の創造性は社会から作られる人間が独立なものとしてみずから作るところに認められねばならぬ。独立な人間と人間とは物を作ることにおいて結び附く。我の作ったものは我から独立になり、我を超えたものとして我と汝とを結び附ける。我々の作るものが超越的な意味を有するところに人間の創造性が認められる。かようにして作られたものは元来社会的なものである。我が作ることは社会が作ることに我が参加しているにほかならないのであるから。人間と人間とは作られたものにおいて結び附くのみでなく、むしろ根本的には作ることにおいて結び附くのである。我が作ることは実は社会の自己形成の一分子としての作用にほかならないのであるから。
 伝統は社会における人間の行為が習慣的になることによって作られる。行為が習慣的になることがなければ伝統は作られないであろう。しかるに習慣的になるということは自然的になるということであり、習慣的になることによってイデー的なものは自然の中に沈むのである。かくして伝統は次第に身体の中に沈んでゆき、外に伝統を認めない場合においても我々は既に伝統的である。伝統は伝統的になることによって愈々深く社会的身体の中に沈んでゆく。我々の身体はその中に伝統が沈んでいるところの歴史的社会的身体の一分身である。伝統は客観的に形として存在すると共に主体的に社会的身体として存在する。伝統は元来超越的であると同時に内在的であるのである。身体のうちに沈んだ伝統はただ我々の創造を通じてのみ、新しい形の形成においてのみ、復活することができる。創造が伝統を生かし得る唯一の道である。
 

    天 才 論

 天才というものも一つの歴史的社会的現象と考えられるであろう。それは天才運動とか天才時代とかいう言葉で現わされ、人聞社会の一定の状態と結び附いている。かくて例えばチルゼルはイタリアのルネサンスと天才運動との関聯を明かにしようとした。またハィンリヒ・フォン・シュタインはイギリス革命と天才運動との繋がりについて語っている。そしてゲルヴィヌスは天才時代をフランス革命の先駆と称した。これら二つの政治現象のいわば中項として、それら政治史上の出来事を内的に制約している精神的状況の一つの徴候として、あの天才時代が存在した。ドイツではゲーテにおいて近代の天才的人間の典型が見られたのみでなく、カントによってこの天才性の概念の哲学的基礎附けと評価が行われた。シルレルの美的教育に関する第二書簡における、「時代の政治的問題を美学によって解決する」という言葉は、この時代の精神的傾向を特徴的に言い表わしているであろう。
 今日の社会的政治的現象における合言葉は「天才」ではなくてむしろ「指導者」である。この二つの概念が歴史的に含蓄する意味を明瞭にすることは、今日の歴史的現実を把握するために重要であろう。天才の先駆者は「英雄」であった。原始的な英雄崇拝の段階においては人的要素と物的要素とがなお分離していなかった。というのは、崇拝者は彼の英雄と物的目的を共通にしたのである。かくて将軍はその士卒から、予言者はその信者から、学派の頭目はその弟子から驚歎され崇拝されたが、.反対の党派の統領はただ憎悪を喚び起すのみであるというのがつねであった。この党派的な英雄崇拝から段階的に絶えず一層形式的な評価が現われてきた。今や勇敢な敵はもはや増悪をもって見られることなく、むしろ既に或る尊敬をもって見られるようになった。平和な心の殉教者は献身的な闘士と同時に且つ同様に称讃されるようになった。即ちチルゼルの言葉によると、党派的な人物評価は形式的無党派的な人物評価へ推移したのである。実際、我々の時代においては全く違った領域における偉人、全く反対のことがらに奉仕する者が同じように天才と呼ばれている。かような形式化は人々の関心が物よりも人間に、客観的なものよりも主観的なものに向うようになったことと結び附いている。天才の概念の成立は近代の主観主義的傾向と密接な関係をもっている。それは心理的には内的生活に対する反省を前提している。その場合物的な仕事よりも人間的な仕事の能力に、外部からの影響よりも内部の、生得の素質に、また内的生活の種々の面のなかでも最も主観的な、物的に確定するに最も困難なものに注目され、かくて感激や霊感、すべて非合理的なもの、合理的に習得されないものが天才の特徴と看倣される。浪漫的心情が天才主義の出現の地盤であった。人間は個性的なもの、特異なもの、他と共通ならぬものに従って評価され、かくて大衆との関係から切り離されて、孤独であること、理解されないということが天才の特徴であるかのようにさえ思われた。今日の指導者の概念は天才の概念における右の如き形式化と主観主義とを克服するものでなければならぬと考えられるであろう。しかしながら天才の概念がもはや無駄になったのではない。指導者そのものが今日においては天才であるといわれるであろう。天才とは何かという問題は、指導者の問題にとっても決して無関係ではない。指導者が旧い英雄に堕することのないためには、天才の概念を媒介にして指導者の概念が確立されねばならないであろう。かくて「時代の政治的問題を美学によって解決する」ということは、今日或る意味において再び必要になっているのである。
 この場合私はカントの天才論を顧みようと思う。カントの天才論が興味があるのは、先ずそれがいわゆる天才時代の哲学的反省の産物であるためである。この時代のドイツの天才論はフランス、殊にイギリスの文学や思想から大きな影響を受けているが、カントの天才論も同様であって、とりわけジェラードの『天才論』の影響が認められる。しかしまたカントの天才論において興味があるのは、彼があのシュトゥルム・ウント・ドゥラングの天才運動に対して他方、例の如く冷静な、批評的な、懐疑的な態度をとっているということである。それは天才主義的ならぬ天才論として興味が深い。もちろんカントの天才論が重要であるのはその哲学的内容のためである。一般的にいうと、カントによって確立された主観主義の哲学はドイツにおける天才運動の地盤を準備したと見られ得るのであって、カント哲学から出立したドイツ浪漫主義の哲学、フィヒテの自我哲学、シェリングの芸術哲学等が天才時代の思想的背景となった。カントの天才論は『判断力批判』の中で最もまとまって取扱われている。しかしシュラップの研究が明かにしているように彼はたびたびの人間学講義の中で既に天才について論じている。天才の問題は彼にとって元来人間学の問題であった。他方彼の論理学講義が示すところによると、美的完全性或いは後にいう美的判断に関するカントの説は、論理学と感覚論との対比から出てきている。かようにしてカントは『判断力批判』において人間学と論理学とに分れて存在する材料を内面的な統一にもたらすという興味ある試みをなしたと見られ得るのであって、これによって天才論と美的判断の批判とは相互に豊富にされることになった。即ちカントの天才論は心理学と論理学とを統一するものとして重要な示唆を含んでいるであろう。しかるに翻って考えると、カントが彼の先験的批判主義の立場から感覚論と論理学との関係を最も根本的に論じたのは『純粋理性批判』においてであり、そしてその中で彼は感性と悟性とを根源的に媒介するものとして構想力を考えたのである。ちょうどそのことに相応して、カントにとって天才の問題は構想力の問題であった。天才の論理は構想力の論理でなければならぬであろう。これがまた私には重要と思われる点である。
 さてカントは、ニコライによって伝えられる人間学講義の中で、人間の心を資質、才能及び天才に区別した。資質は物を把捉する力をいい、才能はしかし物を生産する力をいう。資質は教育されることの容易さであり、才能は物を発明することの容易さである。即ちカントはすでに才能(タレント)について、物を作る力に関してのみこれを認め、単に物を容易に理解する力は才能とは別の資質(ナトゥレル)のことであると考えた。生徒に必要なのは資質であるが、教師にはしかし才能が必要であるとも彼はいっている。教師は自分で形態と作品を産出し得る者でなければならぬ。才能にしてすでにそうであるとすれば、天才はもちろん物を作るという見地から見らるべきものである。天才は創造的才能である。才能は教育を必要とするが、天才はその必要がなく、むしろあらゆる技巧(クンスト)を代位する、それに属するものはすべて生得のものであり、従って技巧とは反対のもの、自然のものである。自然は物を理解しないであろう、物を理解するということは人間の資質である、しかし自然は絶えず物を作る、天才はかかる自然の如きものであると考えられる。天才が創造的才能であるというのは、カントによると、あらゆる規則なしに物を作るということである。それだから天才でないのに天才と思われようと欲する者は、規則を捨て、これによって天才の外観を与えようとする。しかし規則はその価値を保有している。天才でない者は僭越にも規則を捨てようとしてはならぬ。天才は教育によって作られない、ひとは天才を喚び起すことはできるが、才能を天才にすることはできない。「かようにしてひとは何人にも哲学を教えることができぬ、けれども哲学に対する彼の天才を喚び起すことはできるのであって、その場合彼が天才をもっているかどうかが明かになる。哲学は天才の学である。」天才は創造的才能と呼ばれ、また発明の概念と結び附けられた。「学問の発明には天才が、その修得には資質が、それを他に教えるには才能が必要である。」あらゆる芸術は言うまでもなく天才のものである。中位の天才というのは矛盾である。かような者は能才に過ぎず、天才は或る異常なものである。天才は稀である、言い換えると、毎日何物かが発明されているわけではない。尤も発明というものにも、才能を教育によって完成させ、かようにして規則の導きに従って発明するという場合があるであろう。しかしながら新しい方法を発明するということは教育によって学ぶことができぬ、とカントはいっている。天才は規則に束縛されるのでなく、彼が規則の模範である。天才が規則なしに物を作るということは、彼の作ったものが規則に合っていないということではなく、むしろ反対である。「作られるあらゆるものは規則に合うものでなければならないから、天才は規則に合っていなければならない。」それだからひとは彼の作品から規則を作り得るのであり、かくして天才は模範となるのである。天才は規則の意識なしにしかも規則に合うものを作り出すのである。
 ところで天才は人間の特に如何なる能力に関係するであろうか。人間学についてのカントの講義は一致してこれを構想力に帰している。天才には独創的な構想力が属する。構想力のみが創造的である。あらゆる天才は主として構想力の強さとその創造性に基いている。かようにして『実際的見地における人間学』の中では、「構想力の独創性は、概念に一致する場合、天才と呼ばれる、と定義的に記されている。概念に一致しない場合、それは単なる空想もしくは妄想に過ぎぬ。概念に一致するというのは規則に合っていることであり、また悟性に適っていることである。悟性は規則の能力にほかならない。「天才にとっての本来の領域は構想力のそれである。なぜならこのものは創造的であって他の能力よりもより少く規則の束縛のもとに立ち、そのためにそれだけ独創的であり得る。」しかし構想力の自由な戯れは悟性から導来されたのではないとはいえ悟性に適ったものでなければならず、そうでないとそれは妄想に過ぎないことになる。同じ箇所においてカントは「発明」と「発見」とを区別している。発見というのは、以前から既に存在していて単にまだ知られていなかったものを見出すことであって、コロンブスによるアメリカの発見はその例である。しかるに発明というのは、例えば火薬の発明の如く、それを作った技術家によって初めて存在するようになったのであって、それ以前には全く知られていなかったものを見出すことである。そしてカントは「発明の才能」が天才であるといっている。
 さて美と芸術の問題を主題とした『判断力批判』においてカントの天才論はだいたい次のような形をとっている。芸術は規則を必要とする、規則なしにはおよそ芸術は考えられない。けれども芸術の本質はこの規則が概念から導来されるのでないということを要求している。なぜなら美についての判断は美的(感覚的)であって、その規定根拠は主観的な感覚、感情であり、概念ではないから。ところで芸術はその規則を対象から概念的に導来することができないとすれば、そのものは必然的に主観のうちに、言い換えると、創造する天才の自然のうちに与えられていなければならない。「天才は生得の心の素質であって、これによって自然は芸術に規則を与える。」これがカントの有名な天才の定義である。この言葉のうちには全く深い形而上学的問題が含まれている。そこに言い表わされているのは自然と自由との綜合であり、そしてまさにその点に判断力批判がカントの哲学において占める決定的に重要な体系的地位が存している。芸術は天才の芸術としてのみ考えられ得る。天才の第一の性質は言うまでもなく独創性である。彼は模倣によって作るのではなく、模範なしに作るのである。しかも第二に、天才のこの独創性はそれ自身模範的であり、他に対して規範或いは典型として役立つのでなければならぬ。第三に、創造的天才は自己自身にとっても秘密である。彼は学問的に彼の方法を示し、これによって直接の模倣を可能にすることができぬ。彼は無意識に、彼の自然の、生得の素質に従って、いわば彼を噂く保護神(ゲニウス)の天来の影響のもとに創造するのである。天才は自然として芸術に規則を与える。第四に、天才は学問の領域即ち概念の領域には存在せず、ただ芸術にのみ属している。天才が自然として芸術に与える規則は概念的に導来され定式化され得る法則ではない。それは、既に出来上った芸術作品から、批評と趣味に対する規矩として役立ち得るために、読み取られねばならぬ。.天才の作品はその場合にも精密な、小心翼々の「模作」にとっての手本であるよりも、「模倣」即ち競争的な継承にとっての例である。言い換えると、それは継承者の同じ性質の精神の生産性を刺戟し、これによって「原理を自己自身のうちに求め、かくして自己自身の、屡々より善い道を取る」ように導くのである。ただ天才の作品においてのみ芸術は一つの世代から他の世代へ伝えられる。天才の作品は芸術的理念にとって唯一の伝達手段である。
 いまカントが判断力批判において芸術にのみ天才を認めて、他の領域には天才は存在しないと考えたことは、我々の一般の考え方に一致しないであろう。カント自身、人間学の中では、既に記したように、例えば哲学を天才の学と称している。また彼は天才を発明の才能とも規定したのである。実際我々はあらゆる領域において、発明と独創の存在する場合、そこに天才を考えることができるであろう。カントは天才の芸術のみが芸術であると考え、このように天才というものを重く見たのであるが、同時に彼は天才でなくて天才を気取る者、いわゆる天才的人間、「見たところ今を盛りの天才」を「天才猿ども」といって軽蔑し、非難し、警告した。彼等は訓練馬に乗ってよりも狂い馬に乗ってより善く行進し得ると思っている浅薄な頭脳であり、あらゆる規則を放擲しさえすればそれで既に天才であると信じているのである。「極めて細心な理性の研究に関することがらにおいて誰かが天才の如く語り、決定するならば、それは全く笑うべきことである。」カントが芸術以外の領域においては、天才というものを認めず、芸術においても或る箇所では天才はただ豊富な素材を供し得るのみで、その加工即ち形式は学校風の才能を必要とするという意見を漏している如きことは、彼の、天才論がその時代のいわゆる天才運動に対する彼の抗議的な態度に影響されていることを示すものと解し得るであろう。
 天才はカントによると美なるものを作り出す生産的才能である。これに対して趣味は美なるものを判断する能力である。美的判断は趣味判断にほかならない。カントの判断力批判の主題は美的判断であった。それでは天才と趣味とは如何に関係するであろうか。趣味は単に美なるものを判断する能力であるとすれば、芸術作品の生産にとっては趣味のみでは足りないといわねばならぬ。ところがカントは他の場合には芸術作品を趣味の生産物といっている。これは矛盾であるように見える。しかしこの矛盾は外見上のものである。天才は自然として芸術に規則を与えるというカント自身の定義に従うと、趣味との一致は天才から離すことができず、むしろ本質的なものとして天才に属しなければならぬ。天才の作品は趣味に反するとは考えられ得ない。趣味のない天才は模範的でも典型的でもなく、規則を与えるものでなく、判断の規矩となるものでなく、従っておよそ天才ではないであろう。趣味判断の規定根拠はカントによると美的合目的性である。即ち経験的直観において与えられた対象の形式が、構想力における対象の多様の把捉と悟性の概念の表出との一致するような性質のものである場合、悟性と構想力とは単なる.反省において相互にその仕事の促進のために調和し、そして対象は単に判断力にとって合目的的なものとして知覚されるのである。ところで「その結合(一定の関係における)が天才を構成する心の力は構想力と悟性である。」天才は構想力と悟性という「彼の認識能力の自由な使用における主観の天賦の模範的な独創性」である。そして「構想力がその自由において悟性を喚び起し、また悟性が構想力を概念なしに規則に合った戯れにおく場合、表象は思想として伝えられないで、合目的的な状態の内的感情として伝えられるのである。」天才はただ気儘な構想力であるのではなく、そのいわば相関者として悟性が絶えず注意されている。美的理念は多くのことを考えさせるようにする構想力の生産的な、含蓄的な表象にほかならないのである。
 私はここにこれ以上カントの天才論を追求することを要しないであろう。天才は自然として芸術に規則を与えるという定義、或いはまた芸術作品は自然の生産物として現われ、逆に自然もまた芸術として見られる場合にのみ美と呼ばれ得るという、あの「自然の技術」の思想とも関聯すべき説などに含蓄されると思われる形而上学を展開することは他の機会に譲らねばならぬ。今日我々が指導者の問題を考えるに当ってカントの天才論から学ばねばならぬのは、およそ次の如きことであろう。もとよりすべての指導者が天才であるのではない。指導者は先ず何よりも能才でなければならぬ。人を教え得る能力は才能に属するとカントもいっている。能才ですらない者が天才を粧うが如きは甚だ笑うべきことである。
 天才は──能才もすでに──物を作る能力においてのみ考えられる。それがどのようなものであろうと、単に芸術作品に限られることなく、社会の組織とか制度の如きものであるとしても、物を作るということにおいてのみ天才が考えられる。指導者も何等か天才的なものとして物を作り得る人間でなければならぬ。単なる口舌の徒は指導者の資格を有しないであろう。しかるに「作られるあらゆるものは規則に合うものでなければならないから、天才は規則に合っていなければならない。」もちろん天才は、既に存在する規則に従って作るのではない、彼は創造的である。彼が創造するものはしかし規則を与えるもの、従って悟性に適ったものである。指導者にはかような合埋性が要求されている。その行為に如何なる合理性も認めることができない者は指導者とは考えられない。尤も天才の作品は精密な、小心翼々の「模作」にとっての手本であるよりも、継承者の同じ性質の精神の生産性がそれによって刺戟され、それと競争するという意味における「模倣」にとっての例である。模倣はこの場合単なる模写ではない。継承者は先駆者の遣り方によって、「原理を自己自身のうちに求め、かくして自己自身の、屡々より善い道を取る」ように、「先駆者が汲んだのと同じ源泉から汲み、彼等からはただその際彼等が如何に振舞ったかの仕方を学び取る」ように、導かれるのである。「天才はただ天才によってのみ点火され得る」、とレッシングはいった。指導者においても同様であって、彼の天才が他の人々の精神の同じ性質の創造的才能を刺戟し、喚び起すという仕方で彼は模倣されるのでなければならぬ。芸術は模倣であるという場合、模倣はまさにかくの如き意味であるであろう。例えば美しい風景や人物は芸術家の創造的才能を刺戟し、喚び起し、生産的活動に駆り立てる。その際彼は単に自然を精密に、小心翼々として模写しようとするのではなく、却って自然と同じ源泉から汲み、且つ自然の如く創造しようとするのである。自然そのものが天才的であるといい得るであろう。カントのいう「自然の技術」は天才的なものでなければならぬ。構想力の独創性は自然の技術のうちに存在し、しかもそれは概念と一致している。構想力は世界形成的な原理である。天才が自然の如く働くように、自然は天才の如く働く。単にいわゆる天才のみが天才的であるのではない。あらゆる人間は何等かの程度、何等かの仕方で天才的であり、創造的であり得る。『純粋理性批判』において宇宙論的意味を与えられた構想力、そしてその実現と見られ得る『判断力批判』における自然の技術の思想は、カントの天才論の帰結をここまで持ってくることを可能にするであろう。そこでまた指導者は他の人々の創造的才能を抑圧するのでなく、彼等のうちに存在する天才に点火してこれを生産的にするものでなければならぬ。ソクラテスにおけるダイモニオンの思想は後の天才の概念の端初と見られるのであるが、そのソクラテスの天才はまさにかくの如きものであった。かくの如き意味において模倣され継承されるものが真の指導者である。指導者は規則であるよりも精神であるといわれるであろう。精神(ガイスト)とは何であるか、精神は「生命的にする原理」であるとカントはいっている。美的意味における精神は心における生命的にする原理であって、心の諸力を合目的的に活溌に活動させるものである。この生命的にする原理即ち精神は美的理念の表出の能力にほかならず、美的理念というのは多くのことを考えさせるようにする構想力の生産的な、含蓄的な表象である。ところで天才は天才を喚び起すという場合、各々の人間は一つの創造的世界のうちにある創造的要素と考えられねばならぬであろう。天才はこの創造的世界或いは歴史的自然の深みから汲んでくるのである。すべての人間はかかる世界から作られたものであるが、しかもすべての人間がそれぞれ独創的なものであるとすれば、天才が天才を喚び起すという場合、かかる世界の構造はライプニッツのモナドロジーの如きものと考えられねばならぬであろう。発明と模倣の法則によって社会現象を説明したタルドの社会学の根柢にかかるモナドロジーが存在するのは興味深いことである。またあのドイツにおける天才時代の天才論に哲学的根拠を与えたものがライプニッツのモナドロジーであったのも注目すべきことである。カントの天才論はライプニッツのモナドロジーによって発展させられねばならぬ。同時にそこに今日の指導者の概念の展開にとって一つの重要な契機が見出されるであろう。
 

    指導者論


 指導者という言葉は今日の合言葉である。政治、経済、文化のあらゆる方面に於て、指導者理念が掲げられ、指導的人物が求められている。これが現代の特徴である。もとより指導者というものはいつの時代、どこの社会にも存在する。それはすでに動物社会においても認められるのである。しかしながら、ちょうど天才というものはあらゆる時代に存在するにも拘らずただ一定の時代の一定の社会──例えば浪漫主義時代のドイツ──において天才理念が掲げられ、そこにいわゆる天才時代を出現したように、今日我々の時代は特に指導者時代と称し得るほど指導者の思想がこの時代を特徴附けているのである。
 かように今日指導者というものが前面に現われるようになったのは、如何なる理由にもとづくであろうか。すべての時代、すべての社会に指導者は存在している。しかるに社会の有機的時期即ち均衡と調和の時期においては、その指導者は特に指導者として社会的に自覚されることがない。彼等はいわゆる「自然的指導者」に属するであろう。このものは今日いわれる自己意識的な指導者とは違った性質、違ったタイプのものである。その場合、指導者は殆どみずから指導者として意識することなく、彼等に従う者も全く自然的に従っているのである。或いはむしろ社会生活は特別の人間の指導に特に負うことなしに自然的な調和を示している。それは習慣乃至慣習によって秩序附けられている。習慣とか慣習とかは、「没人間的」なものである。そのような場合、例えば我々の倫理的生活は、嘗て論じた如く、没人間的な格率において定式化された常識的倫理に従って規律されている。かくの如き時代においては指導者という特定の「人間」の重要性が社会的に自覚されるということはないであろう。指導者の観念が特別の含蓄をもって現われてくるのは何よりも社会の危機的時期においてである。明瞭なリーダーシップは最もしばしば危機から生ずると社会学者もいっている(ヤング「社会心理学」)。危機的時期においては従来通用していた常識ではもはや処理することのできないような新しい問題が現われてくる。新しい環境に適応する新しい方法を見出すために、人々は指導者を求め、またその指導者というものが現われてくる。このような場合倫理においても没人間的な格率的倫理に代って、模範と考えられるような「人間」に従ってゆくという人間的倫埋とも称すべきものが生じてくるのである。この人間が倫理上における指導者なのである。政治、経済、文化のあらゆる方面において同様の事態が認められるであろう。今日指導者の観念が前面に出てきたということはまさに現代が社会の転換期といわれるような危機的時期であるということに相応している。
 かくて指樽者というものは社会的状況との関係なしには理解することができない。リーダーシップは一定の状況の函数であると考えることができるであろう。もとより指導者となる者はその個人において一定の特質を具えているのでなければならない。指導者には指導者として必要な天分とか素質とかがある。しかしそれだけが指導者を作るのではない。他面指導者は一定の歴史的社会的状況に制約されて現われてくるものであり、その産物であると見ることができるであろう。ところであの天才時代においてはすべての人間が天才に憧れ、また天才を気取るということがあった。それは単に多数の天才が輩出した故に天才時代と呼ばれるのでなく、むしろ一般の人間が天才を憧憬し天才を気取る傾向が普遍的に存在した故にそのように呼ばれるのである。同じように、今我々の時代が指導者時代と称せられるのは単に多数の指導者が出現しているという理由に依るのではない。この時代においてはすべての人間が、従って何ら指導者としての資格を有することなく、また真の指導者の如何なるものであるかを理解しない人間までもが指導者顔をし、指導者を気取るという一般的傾向が認められる。そして天才時代における弊害が真の天才でない者の天才を気取るところに生じたように、今日の弊害も真の指導者でない者が指導者を気取るところに生じている。それ故に真の指導者が如何なるものであるかを明かにするということは、現代の特徴を把握するためにも、その弊害を匡救するためにも、必要なことでなければならぬ。

  二
 すべて転換期には人間の新しいタイプが現われてくる。指導者というのもかくの如きものであろう。しかし何故に今の時代は、例えば天才の時代でなくて特に指導者の時代であるであろうか。天才崇拝のうちに現われたのは個人の自覚、その特殊性、独自性、根源性の自覚であった。それは封建的全体主義的秩序からの人間の解放を意味した。ルネサンスにおけるイタリアの天才時代がそうであったし、またあのドイツにおける浪漫主義の天才崇拝も近代市民的意識の覚醒と結び附いたものであった。社会史的に見ると、天才時代は近代の個人主義の先駆であったのである。しかるに今日はそのような個人主義的社会からの転換期なのである。この時代はもはや天才の時代ではなく、却って指導者の時代である。今日の指導者理念は個人主義的社会から新しい全体主義の社会への転換期にあたって生れたものである。従って指導者の観念そのものが個人主義的なものでなく、新しい全体主義の理念をそのうちに表現しているのでなければならぬ。個人的に、天才を気取ったり、自己の優越性を誇示したりする者は、真の指尊者とはいい得ないのである。
 もとより最高の指導者は天才でなければならないであろう。しかし天才という場合と指導者という場合とでは、評価の仕方に差異があることに注意しなければならぬ。最高の指導者は天才であると語られる場合すでにその差異が現われている。即ちそれはあらゆる種類の最高の指導者をいずれも同様に天才と認めるのであって、そこに天才の概念における評価の仕方の或る形式主義が見出されるであろう。歴史的社会的に見ると、「天才」に先行したものは「英雄」であった。しかるに原始的な英雄崇拝においては、崇拝者は彼の英雄と目的を共通にしたのである。客観的な目的の評価と主観的な能力の評価とが分離していなかった。将軍はその士卒から、予言者はその信者から、学派の頭目はその弟子から崇拝されたが、反対の党派の統領はただ増悪をもって見られるのが通例であった。英雄崇拝はその根源において党派的であった。このような内容的で党派的な人物評価は歴史的において次第に形式的で無党派的な人物評価に推移していった。天才の概念はこのような形式主義を示している。かくして近代においては全く違った領域における偉人、全く反対のことがらに奉仕する者が同じように天才と呼ばれる。このような形式化は近代における主観主義的傾向と関聯して生じたことである。それは人々の関心がものごとよりも人間に、客観的なものよりも主観的なものに、仕事そのものよりも仕事の能力に向けられるようになったことと関係しているのである。いま指導者の概念は天才の概念における右の如き形式主義と主観主義とを越えたものでなければならないであろう。指導者の概念は或る意味においては英雄の概念と同じである。即ちここに再び或る内容的な党派的な人間評価が現われる。一つの党派の指導者は他の党派に属する者にとっては何等指導者ではない。或ることがらにおける指導者はそれとは無関係なことがらについては何等指導者ではない。全く形式的に指導者というものを考えることはできない。そして天才が自己の主観的なものを発揮しようとする者であるとすれば、指導者は自己を超えた客観的なものに仕える者でなければならない。もとより今日の指導者は昔の英雄の如きものであることができないであろう。天才主義的な指導者が真の指導者でないように、英雄主義的な指導者も真の指導者ではないであろう。新しい指導者は天才の概念における主観主義や非合理主義の弊害を克服すると共に、天才の概念並びにそれを生んだ近代主義における積極的なもの、価値あるものを生かすものでなければならず、これによって古い英雄の概念とは区別されて真に新しいものであることができるのである。
 かようにして指導者に先ず要求されるものは創意である。真の指導者は発明的でなければならぬ。しかるにこの創意とか発明とかいうものはまさに天才の概念を規定するものである。上にいった如く指導者が指導者として前面に現われるのは危機の時代である。それは従来通用してきた常識や理論ではもはや間に合わなくなった時代である。このような時期に要求されるものとして、指導者は創創意的発明的でなければならない。何等の創意もなく、教えられたことをただ繰り返しているような人間は真の指導者であることができぬ。次に天才というのは、他の場合に述べた如く、本来物を作る能力についてのみ認められるところのものである。カントはすでに能才について、物を作る能力についてのみこれを認め、単に物を容易に理解する力は能才ですらないと考えた。天才はもちろん物を作るという見地から見るべきものである。物を作るということは単に知るということと同じではない。天才の概念がそうであるように、指導者もまた物を作り得る者でなければならない。そして実践というのは広い意味において物を作ることであるとすれば、指導者は本質的に実践的でなければならぬ。科学の如きにおいても、真の指導者は与えられた科学的知識をただ理解しているというに止まることなく、みずから科学的研究を実践する人、しかも創意的に、先駆者的に実践する人でなければならぬ。単なる口舌の雄は真の指導者ではない。指導者は高くとまっているのでなく、国民の中に降りて来て、共に実践する人でなければならないのである。ただ単に知っているだけでは指導者ではない。みずから実践する人、物を作る人、他と同じように働く人、いわゆる「パーソナル・リーダーシップ」をとる人であって真の指導者である。
 しかしながら実践には知識が必要である。とりわけ今日の如き複雑な世界においては、知識なしには実践することができない。もちろん知るということは単に過去のことを知ることではない。却って知ることは発見することであるというのが、近代科学によって把握された知識の理念である。知ることが予見することであるということによって、知識は実践的意義を有し得るのである。政治は予見である、と誰かが言った。予見することができない者は真の指導者であることができない。例えば今日の国際情勢はたしかに複雑である。しかしそれをただ複雑であるとのみ言っているのでは、指導者の資格はないであろう。そこに何物かを予見し、我々の進むべき進路を示し得る者であって、真の指導者である。今日の指導者に向って求められるのは何よりもこの予見の能力である。その見通しが次から次へ絶えず間違っているようでは指導者の資格に欠けているものといわねばならない。なるほど今日の事態は正確に見通すことが困難である。そこには従来の常識で判断することのできないものがある。しかしそれだからこそ指導者が要求されるのであって、もしそうでないならば「指導者」というものが特に現われてくる理由もなかったであろう。ところで予見には知識が、科学が必要である。もとより既存の知識、既成の科学だけでは十分ではないのであって、そこに指導者の要求される危機というものの本質があるであろう。従って指導者の知識は発明的、創造的でなければならない。またその場合単に合理的に思惟するのみでは足りないであろう。指導者には直観が、天才的な直観が必要である。特に彼にとっては単に知ることでなく行為することが目的であるとすれば、行為はつねに具体的な、歴史的に特殊的な状況におけるものであるということから考えても、指導者にはすぐれた直観力がなければならないであろう。しかし真の直観は合理的思惟を尽した後に出てくるものである。最初から科学を軽蔑するというような態度からは真の直観は生じない。カントの考えた如く、天才は無意識的に働く構想力の独創性であるが、それは悟性の概念や規則に適ったものでなければならない。そうでなければ天才ではなく、妄想に過ぎぬ。しかも、天才は無意識的に作るものであるにしても、指導者はつねに目的意識的でなければならないのである。自分自身何処へ行くのか分らないような者は他を指導することができぬ。もとより歴史における必然性は単なる必然性ではなく、必然性が同時に可能性の意味を有している。運命というものもかようなものである。従ってそれは我々にとって如何ともし難いものではなく、我々の意志と行為によって変じ得るものである。歴史は我々の作るものである。それだから指導者には決意と行動とが要求されている。決断力を欠ける者、非行動的な人間は指導者としての資格を有しないものといわねばならぬ。指導者は決断の人でなければならない。そこに危機といわれるものの本質がある。危機は連続に対して非連続、断絶を意味し、この非連続、断絶は、決意によってのみ越えることができる。しかるに指導者は唯一人行動する者でなく、他を動かして一緒に行動する者である。そこに唯一人で物を作る天才とは異る指導者の資格が必要であろう。天才は世の中から理解されないのがつねであるというように言われている。しかるに他から理解されないような指導者は何等指導者ではない。指導者であるということのうちには他から理解されるということが含まれている。そしてまた指導者は自己の行動を他に理解させ、これによって他の協力を得るようにしなければならぬ。そこに天才の概念とは異る指導者の概念における知的な、合理的な性格が現われるであろう。彼等の行動は天才的な直観にもとづくにしても、これを他の人々に理解させるために、できるだけ合理的に説明して教えることに努力しなければならないのである。指導者は独善家或いは独断家であることを許されない。協力者をもっているということが指導者の概念に欠くことのできぬ要素である。

  三
 指導というものは関係である。それは一方的なことでなく、そこにはつねに指導する者と指導される者とがなければならない。即ち指導者は応えられなければならない。応えられない者は天才であり得ても指導者ではないのである。
 リーダーシップは関係として道徳的関係でなければならぬ。なぜなら指導者は単に知ることでなく行為することを目的とすべきものであり、リーダーシップは人と人との間の行為的関係として成立するものであるからである。指導する者と指導される者との間に道徳的関係の存在しないところにリーダーシップは存在しない。指導被指導の関係において何よりも必要なのは信頼と責任である。信頼と責任とはあらゆる道徳的関係の根本である。信頼され得るために指導者の具えなければならぬ道徳的資格には種々のものが数えられるであろう。利己的でなく全体のために計るものであって信頼されるのである。自己の金儲けや立身出世を考えることなく全体のために自己を犠牲にするものであって信頼されるのである。ただ世間の風潮に追随するのでなく自己の信念にもとづいて行動するものであって信頼されるのである。率先して実行するものであって信頼されるのである。謙譲の徳を有するものであって信頼されるのである。責任を重んじるものであって信頼されるのである。そして指導者はこの信頼に応える責任をもっている。強い責任感を有するということは指導者にとって大切なことである。他を信頼するものであって自分が信頼されるように、自分から責任を重んじることによって他に責任を重んじさせることができる。指導者は自己の行動に対していつでも責任をとる覚悟がなければならない。自己の行動に対して責任を負うということは、ただその動機さえ純粋であれば宜いというのでなく、またその結果に対して責任を負うということである。かようにして責任を重んじる者はその行動が結果において成功的であるように努力しなければならない。動機さえ純粋であれば宜いと考えることは、個人の良心を満足させるにしても、社会的に見ると無責任ということになる。そして指導者の行動はつねに本質的に社会的見地に立っているのである。社会的良心は自己の行為の結果に対して責任を負うことを要求する。ところで成功するためには知識が、予見が必要である。どれほど動機が純粋であっても──動機の純粋性はもちろんあらゆる場合に先ず要求されるものである──無知であったり予見力が全くなかったりしては不成功に終るのほかない。ここにおいて道徳は知識もしくは智能と結び附かねばならぬ。知識と道徳とは、元来分離し得べきものではないのである。
 リーダーシップは本質的にリレイションシップである以上、指導者はつねに指導される者の協力を必要としている筈である。従って如何なる独裁者も人心を把握することを心掛けざるを得ない。実際また今日の独裁者はそのことを特に重要視しているのである。その点において如何なる独裁者もデモクラティックでなければならないといい得るであろう。そしてそこにあの英雄とは異る指導者の近代性がある。いわゆる官僚的でなく、国民的でなければならぬ。尤も指導者が国民的基礎の上に立つということは必ずしもいわゆるデモクラティックな方法によるのではなかろう。人の心を捉え得るということは天分に属する問題でもある。指導者はそのオーソリティとプレスティッジュとによって指導者となる。しかるにこれらのものはデモクラティックなものでなく、また単に知的な、合理的なものではない。しかし指導者とは単に命令するものではなく、むしろ自己に向って憧憬させるものである。権威も国民的基礎の上に立たないものは真の権威ではないであろう。指導者の権威は、彼がより高いものに仕えているというところから生じる。そして指導する者と指導される者との真の協力は、両者が共により高いものに仕えるところに真に成立し得るのである。そして協力においては、指導者の創意が重要であると同様に、指導される者の創意を重んじることが大切である。各人の有する天才を発見することは指導者の任務であろう。
 国民を把握し得るために指導者は国民心理を把握しなければならぬ。彼はすぐれた心理学者として、国民の外形を観察するに止まることなく、その内部に入って理解しなければならない。指導する者と指導される者との関係が道徳的関係であることを考えると、これは甚だ重要である。ところで指導者が人心を掴むために用いる主要な手段は宣伝と教育である。宣伝は特に近代的な手段である。それは有効であるだけ危険も多いのである。宣伝は理智よりも感情に、各人の判断よりも群衆心理に、うったえるのがつねである。一層大切なのは教育である。宣伝そのものも教育的でなければならない。もとより感情の意義を認めないということはあらゆる場合において間違っている。行動には感情が必要である。大いなる行動は大いなる感情を要するであろう。しかし宣伝の効果がその場その場のものであるのに反して、教育の効果は持続的である。教育は指導する者と指導される者とが共通の理解をもって共通の目標に向って働くことを可能にする。この理解ある協力こそ最も大切である。宣伝はその場の効果をねらうものとして、ひとが現在もっている感情乃至知性にうったえる。宣伝はただ現在にあって、未来を知らない。これに反して教育は現在ある人間を作り変えることを目差している。教育は新しい人聞の形成である。真の指導者は国民を新たに作り直すことによって目的を達しようとするのである。彼は政治は教育であるということを理解して実践するものである。
 指導者の時代は危機或いは転換期として、リーダーシップは「人間」にあるのがつねである。しかし、人間は、指導する者も指導される者も共に組織されなければならない。指導者に必要なのはこの組織力である。ところで組織の発展につれてリーダーシップは次第に人間から制度の中へ入ってゆき、ここにいわば「制度化されたリーダーシップ」或いは「組織された権威」が生ずるに至るであろう。指導者はそのリーダーシップを安定させるためにもこのようにそれを制度化することを求める。それが制度化されると共に組織の自働性が生じ、かくして「指導者」というものは影を没するようになる。もとより指導者が一般になくなるのではない。既にいった如く、どのような社会にも指導者は存在している。しかしその場合、指導者は今日考えられるような意味においてはもはや表面に現われないようになる。かようにして指導者の重要な目標が組織を作ること、リーダーシップを制度化することにある限り、指導者の活動は自己否定にあるということができるであろう。指導者は自己否定的であることによってその目的を達し得るのである。彼等がいつまでも「指導者」であろうとする限り、彼等は組織の力を認めないことによって浮いたものになり、従ってまた真に指導力をもつことができない。もちろん、ここにいう組織とか制度とかは指導者の新しいイデーに従って新たに作られるものである。既成の制度の中にあってその制度の権威に依頼して指導者顔をするが如き者は論外である。 
 (以下・略)
 
 
 
 
 

 (著者は、 西田幾太郎門下の最優等生として知られた哲学者 1897.1.5 - 1945.9 兵庫県揖保郡に生まれる。昭和二十年(1945)三月、共産党員高倉テルをかくまったため検挙され、九月、豊玉拘置所で獄死。『哲学ノート』は昭和十六年真珠湾奇襲の直前十一月、河出書房刊。「序」「目次」とともに冒頭四編を抄出、底本は、昭和三十二年発行「新潮文庫」に拠る。刊行年月日とともに「序」を読めば自ずと浮き上がってくる、これは、第二次世界大戦前夜に世に問うた、哲学者が身を挺した警世の言であると分かる。しかもなお今日の我が国の状況にも、予言的に警告的に深く適合した論策であり、我々は考えねばならぬであろう。2001.11.3掲載)



 
 
 
 
 

    闇のパトス   不安と絶望
 
 

         梅原 猛 (哲学者)
 
 
 

* 希望の裏に不安はひそむ

  夜は昼のように長い。それにもかかわらず、人は夜の思想を見きわめようとはしない。夜はあまりに暗いゆえ、人はもはやちょっと先のことですら見えないとでもいうのであろうか。それとも、夜は眠らねばならぬという健康の法則に人はあまりに忠実に従っているのであろうか。夜の思想を愛する人はあるにはある。しかし、彼はあまりに視力が弱すぎて、この夜の中にうごめくあまりに精緻なパトスの諸相を見ようとするよりは、漠然とした夜の「具体性」と「現実性」とを、「実存」とか名づけて賞美しているにすぎないようである。しかし、夜の闇の中に己の存在を失わざるをえない危機に何度となく臨みつつ、光かがやく昼の日中にすら、ひそかに眠る夜の気配を感ぜずにいられぬ人にとって、夜のパトスの暗さとそしてまた明るさとを見つめるよりほかに見るべきものがあるというのであろうか。
 不安というものがある。それは最もしばしば人を襲うけれど、それゆえにこそ、最もたやすく人の眼をそれるものである。不安が人におしよせるとき、人はできるだけ早くそれからまぬがれようとして、もがき苦しみ、やがてはそれから脱するけれど、そのたびごとに見落とされるのは不安の本質なのである。人は不安であることを語るけれども、不安が何であるかを知ろうとはしない。いったい、不安とは何であるか。それは人間にとってそれなしですましうるものなのか、それとも、人間にいや応なくまつわりつく無気味な何かであるのか。不安は常に未来から襲う。人間がそこに自己を賭し、そこに己の存在の支えをえているそのものから不安は起こってくるのである。人間の未来に対する向かい方が希望あるいは期待であるとは、必ずしも理想主義だけが教えるところではあるまい。とすると、この「未来に対して……」という点で、ひとしい一見正反対の二つのパトスは同じ胞(はら)から生まれた似ても似つかぬ兄弟ではないかという疑いは、全く盲目なものであろうか。そして、不安の本質は逆に希望の本質から導きだされはしないであろうか。
 人は生きる。未来に希望をもって。この一見きわめて明瞭な人生の事実に何かが隠れていないであろうか。人は未来に希望をもたずに生きられないとはどういうことなのだろうか。人は未来にあるものであろうとするが、それは現在それ(2字に、傍点)でないからなのだ。人は現在の自己に堪えないので、未来に価値ある自己の像を作って、それによって絶えず己の耳下でささやく、「おまえなんか」という、不気味な声をまぬがれようとするのである。人間の現在への不満が大きければ大きいほど、それだけ、人は未来に希望を投げるのだ。逆に希望が大きければ大きいほど、そこにこそかえって、人間の現在へ不満が隠れているのである。希望とはそう(2字に、傍点)でない己に堪えられず、そう(2字に、傍点)であろう己を構想し、それ(2字に、傍点)を実現しようとすることによって、そう(2字に、傍点)でない己を忘れようとすることなのである。
 まことに人生は深く、人間は賢い。生きるために、生きゆくことに堪えるために、人間の心の中で己自身にも知られずに、ひそやかにいとなまれることどもはこよなく微妙で不思議である。人はまずそう(2字に、傍点)であろう己をそう(2字に、傍点)でない己に置きかえることによって、自己の最もそばにうずくまる無のささやきから己の耳を塞ぐのである。そしてなおその上、いまだそう(2字に、傍点)でなくそう(2字に、傍点)であるかどうかわからない未来をあたかもそう(2字に、傍点)であるかのごとくに思うことによって、なおいっそう己の存在の空虚さを埋めようとするのである。そしてその結果、そう(2字に、傍点)でない自己は無限に深い闇につつまれて、逆にあたかもそう(2字に、傍点)であるかのごとき自己が栄光をあびてさっそうと登場するのである。げにも微妙な心の作用。しかもそれはけっして特殊な病人に特殊な場合に表われるのではなく、最も健康な一般人の心の中で昼の日中に、しかしただひそやかにのみ行なわれていることなのだ。
 構想力とは何なのか。それは過去と未来とを現在に現前させる人間の表象能力だそうである。さすれば、構想力に栄あれよ。それに乗って、人はこのあまりに「でない」ことの多すぎる現在の己からのがれて「である」の国にいとも軽々とうつりゆくことができるのだ。構想力が人間になかったら、人間は全く現実的になるであろうが、しかし同時にまた全く現実的ではなくなるであろう。人はもはや一切の希望も理想も目的も意志もなく、この現在を無為に生き行くのみであろう。それはもはや人間ではなく、人間以前の何かであろう。構想力とは非常に広い根底的な謎に満ちた人間の能力なのである。そしてそれによってのみ、人は過去と未来に窓を開いてこの現在から逃げだすことができるのだ。そして、この逃出の上にのみ人間の生は立つのだ。そこにこそたとえば金をもうけるなどという最も現実的な生の根がのび、そこにこそたとえば理想の社会を作るなどという最も旺盛な生の花が咲くのだ。現実からの逃出などとは第二のことだ。逃出そのものが現実の人間の基礎なのだ。
 意志とは何なのか。意志とは目的の能力であるとカントは言う。それはいったい何を意味するのか。意志は二重の意味で目的の能力であろう。意志はまず目的を設定する能力であると同時に目的を完遂する人間の能力でもあろう。目的が固定されるとき、意志はもっぱら目的完遂の能力に、すなわち合目的性の能力になる。しかし意志の本来の作用は未来に向かって目的を投げ、目的ゆえに生きることではないか。合目的性の意志は虚弱な意志、中途な意志、半端な意志にすぎない。ああ人間は投げる。限りなく重い石を未来に向かって投げかけて、その重みを身いっぱいに担って生きているのではないか。何ゆえに自己とはこれほど重いのか。己を朝夕馬車馬のように追いたてるこの恐ろしい鞭はいったい何なのか。時あって人間は己にこう問うけれど、彼が重いと思うものこそほかならぬ彼の生を支えているものにすぎないのである。目的を投げること、そのことによってのみ人間はかくほど努力し、そして進歩することができ、そのことによってのみ文明も科学も革命も、そしてまた、へーゲル流にいえば、なべて世の偉大なことがなされえたのであった。
 だがしかし、だがしかし、あまりにしばしば忘れられやすい、しかもけっして忘れてはならぬ一つのことがここにある。目的を投げ目的を追うことによって、人はいったい己に何をなしているのか。そしてまた人はいったい、どこへさすらい行こうとしているのか。何も思わず与えられた目的をなしとげることが絶えず耳下でささやく「何のため」の問いから、生きるためにわざと自らの耳に栓をする「故意の聾者」のしわざであるならば、むやみに目的を投げ目的ゆえに生きることも、ただ襲いくる不安をのがれるために、いたずらに動く「故意の盲者」のしわざではないのか。目的を生に置きかえることによって、けっきょく人間はたった一つのしかも最もたいせつな一つのことを忘れるのである。けっきょく、目的とは人間が未来に投げる自己の「であろう」影であり、それによって、自己の「でない」姿を忘れようとするのではないか。人間が人間的であることの、すなわち意志的であることの極に、人間はひそかに動く「忘却への欲求」を忘却し、あまりに強く生きるのではないか。強く生きるとは、実は「でない」自己への不満に出発し、「であるだろう」と「でないだろう」の中間にさまようことではないか。おお、自己から目をそむけるために、有と無の中間にさまよういともよるべない生物よ。それを人は健康な人間と呼び、たくましい自己と名づけようとしているのか。
 人間の中には猛獣に似た情念が住んでいる。どうかすると、それは何よりもまず己自身を食いひさぎ、果ては己の生命すらもうばってしまうのだ。もともと人間の存在の姿そのものが、かかる猛獣を生みだすに適しているからだ。しかし、同時に人間は何よりもまず、巧妙な猛獣使いであった。最も巧妙な猛獣使いを人は何と呼ぶのか。理想主義者というのがその猛獣使いの名前ではなかったか。理想主義は最もうまく考えだされた猛獣を眠らす方法である。人間の中にある現在の己へのしようことない堪えがたさと未来の己へのとりとめもない不安さという危険な情念を眠らすために、美しき理想の花かおる未来を信じて、そのかぐわしい香によって、うつつの己の醜悪さを忘れようとするのが理想主義の道ではなかったか。巧妙な、誠に巧妙きわまるおきかえによって、己への不満と未来への不安は存在の奥深く眠る。けれど、けっして死にはしないのだ。死なぬ猛獣に恐怖を覚えるのか、理想主義者はさらによく利く麻酔薬を発明した。それを人は世界史の進歩発展と名づけているようである。ここで目的は客観的に固定され、理想は必ず到達されうるものとなる。ここで世界史はかつての野蛮な時代から理性的な時代へと段階的に進歩し、やがては完全に理性の支配する世界が来ることになる。ここで一日も早くかかる世界を迎えるべく努力すべしというもっとも顔な倫理が支配する。しかし歴史の必然的発展という名で人は何よりも己の目的に絶対の安定を与え、己の存在を充分に充実しようとしているのではないか。主観的なものへの恐怖から客観的なものへの基礎づけによりまぬがれようとすることが最も主観的なことではないか。理想主義者は人の心に巣食う猛獣を眠らせようとして高貴な麻酔薬を発明したけれど、それによってかえって、人間の魂の最もたいせつな部分である誠実なる自己意識すら眠らしたのではなかったか。意志、目的、構想力という理想主義者が愛した言葉の真義と、そして理性、悟性というモットーすら世界観的にはいつも先の考えを根底としていたということは、そもそも何を語っているのであろうか。
 

* 忍びよる憂愁と焦燥

 不安は眠る。一見希望に満ち未来が現在によびかけ、現在が未来に応じるこの時間の調和のとれた世界の奥にすら不気味な猛獣が眠っている。未来はいつも不定な何かである。それなのに、現在の己に堪えがたい人間はその不定なものへの期待によってのみ己に堪える。どれほど人間がその不定さをいつわろうとしたところで、穴のあいたバケツからは、どこからか水がもれるものだ。しかも、はげしい自己をもつことは己の投げたすぐれた己の影でしか己に堪えぬことであり、それだけかえって、不安に臨む何かを宿している。人間が人間的になればなるほど、人間は不安への可能性を背負わされている。不安は希望のあるところ必然的に人間に属しているけれど、常には不安はいまだ可能性として己の中で眠っている。
 不安はそれほど深く人間に根づきながら、それほど容易には起こってこない。希望に生きる人間は自己の根をゆすぶる無の震撼を感じても、なお希望に執着する。それは誠にけっこうなことではないか。光あるうちは人は光の中をあゆまねばならないようだ。そして、黄昏(たそがれ)がおとずれて、陽(ひ)がそのもてる豊かな光を失ったときですら、光あるかのごとくに生きることは賢者の道かもしれない。しかし、夜は容赦なく人間を襲う。もはや、どうしようもない夜が必ず来る。そして、光の全くないこの夜と明るい昼の間には、いまだ昼の残照の中に襲い来る闇の気配を知らず黄昏がある。これを人は何というのか。これを人は憂愁といい、焦燥というのではないか。ここでは「でないのではないか」との危惧は感ぜられず、まだ「であろう」未来への信頼は残っている。「そう(2字に、傍点)であろうが、しかし……」というのがここでの懐疑の形である。未来への橋は一つであり、それは完全である。それは「必ずそう(2字に、傍点)なるであろう」。しかし、その橋の彼方(かなた)と現在の自己の間には何という距離と時間があることか。
 人は知っているのか。理想主義者の憂愁とかいうものを。理想主義者は自己をこえてあまりに遠く目的を投げる。そして彼はそれを追う。燃えるような彼方へのあこがれと、倦(う)まずたゆまぬ努力によって、彼は一歩一歩それに近づく。それは楽しき時間であり、自己と目的の間にはたしかに生きがいのある距離が存在している。だがしかし、彼が時あって、しばし、いたずらにはやる馬をとめ、来し方往く道を思いめぐらす時に、彼はいかなる感慨におそわれるのか。彼は進んだ。たしかに。彼は目標に何歩かは近づいた。しかし、この無限に遠い道に比べて、彼の進んだ距離はどれだけだったのか。道は地平の彼方に消え、しかもそれはいずこに終わるとも知られない。しかもそのような無限の道でなかったならば、行くに価しないと思ったのはほかならぬ彼自身ではなかったか。無限な未来に比べて、彼の努力が、彼の苦悩が、彼の克服が何であったか。彼はここで未来の「であろう」己と自己の間の距離を意識する。ここにまた生の有限性への憂愁が人を襲う。未来はたしかに「そう(2字に、傍点)であろう」。しかし、そう(2字に、傍点)であろう未来と現在の自己の間には、最も便利な客観精神ですら、こしがたい溝があるではないか。理想主義のもつ憂愁は夕ばえの憂愁である。日は暮れ行こうとしている。しかもあくまで光を信ずる彼はてりはえる夕ばえの中をひたすら前へ前へと進もうとしている。しかし強固な意志の権化のような彼の英雄的な姿の中に、おそいよる無の影が、何かが欠けているという不安が、ひそかにいともひそかに語りかけているのではないか。
 人は知っているのか。進歩主義者の焦燥とかいうものを。世界はたえず野蛮から文明へと進んでゆく。それゆえに、人は世界史の潮流に乗ってできるだけ早く進まねばならぬ。近代は速度の時代であった。ライプニッツが距離の微少変化を時間の微少変化で微分し速度というものを見出(みいだ)し、そしてさらに、速度の微少変化を時間の微少変化で微分し、加速度というものを、見いだしたときから、近代人の最も関心事は何であったか。それは距離の時間による商である速度というものではなかったか。目的が固定され、世界が必ずそこへと向かうことが確信される時に、問題となるのは速度のみである。どうせ世界は進歩するならば、人間のなすべきことは進歩的であること、すなわち速度的であることのみである。かくて、古代の中庸の徳や、中世の進行の徳に代わって、新たに進歩的であるという近代的なあまりに近代的な徳が現われる。あらゆる徳を歴史的発展の見地から証明し、あらゆる美を現代的必然の立場から価値づけねばならぬほど、近代人は進歩的なのである。しかし、近代人が進歩的であり、速度の愛好者であることを最も雄弁に語っているのは何よりも近代科学のようである。近代科学は人間に何を与えたのか。新聞、写真、映画、ラジオ、蓄音機、電話、電報、種々の機械類、自動車、電車、汽車、飛行機、そして最後に原子爆弾なのである。それらはいったい何を表わすのか。できるだけ速い眼、できるだけ速い耳、できるだけ速い口、できるだけ速い手、できるだけ速い足、そして最後にできるだけ速い死なのである。賢明なるかな。勇敢なるかな。現代人は己をできるだけ速い死へともたらすほど進歩的なのである。まことに神の国を実現するための速度は死の国を実現するための速度となり、人はどことも知らずにただ速度によってのみ己を忘れつつ、まっしぐらに奈落(ならく)の底に落ちゆくようである。しかし、このような速度への悲劇的な愛はいまだ現代人の底に根づよく生きている。そして、人が目的を追い、できるだけ速くそれに到達しようとするとき、あまりに速くない自己へのいらだたしさが人間の心をかむ。その時彼の顔には焦燥が表われる。彼はいまだ「必ずそう(2字に、傍点)なるであろう」ことを信じているけれど、「速くそう(2字に、傍点)ならない」ことが、彼には堪え切れない。一切があまりに遅すぎる。いわば彼はおそいよる「そう(2字に、傍点)でない」ことへの危惧を、目的への信と速度への愛という色ガラスを通じて、「速くはそう(2字に、傍点)でない」という充分安全な充分健康な形で見ようとしたのではないか。闇が襲ってくる。けれど、人間は闇を見るよりは光を見ることを、たといそれが見当違いであったとしても、はるかに好むものらしい.
 

* 存在の引き裂かれる痛み

 夕べの国はいかなる国か。それは昼が夜へとすぎゆくところ。それは光と影とが入りまじり、美しきしばしを歌いかなでるところ。それはおそいくる夜に不安な人がすぎてゆく光に向かって「おお汝(なんじ)永久なれ」と、血の出る願いを叫ぶところ。それは徐々に満ちてくる闇の海をのがれようとして、沈み行く島の上で、人が無限に遠い幻の小船に向かって望みなき救いの助けを呼ぶところ。いずれにせよ、やがて夜は来る。無限に深くそこで昼の真理すらあらわにする夜が人間を襲う。そして夜はまず不安の形で現われる。
 不安とは何か。不安とはそれ(2字に、傍点)であろうとしながら、それ(2字に、傍点)でないのではないかとの危惧である。それゆえ、不安はそれ(2字に、傍点)であろうとする人間の意志に比例すると同時に、それ(2字に、傍点)でないのではないかという危惧にも比例する。しかもそれ(2字に、傍点)でないかもしれぬ危惧はまたそれ(2字に、傍点)であろう可能性に反比例する。通常人は必ずそう(2字に、傍点)であろうと思う幻想に生きるゆえ、危惧は零(ゼロ)となり、不安の影のない希望に満ちた生を生きるけれど、未来の不定という性格は常に不安に宿を与えるのである。人間の生がもしそう(2字に、傍点)であろうとすることであるならば、人間が生きようとすればするだけ、それだけ人間は不安に臨んでいるのである。
 不安は無の意識であるけれど、それはいつも未来から起こってくる。自己がそれ(2字に、傍点)であろうとするのに、それ(2字に、傍点)でないであろう。未来に向かった意志は意志の尖端に無を見いだす。しかし無はそこにのみあるのではなく、何よりもまず、そう(2字に、傍点)であろうとすることの中にそう(2字に、傍点)でないことがかくれているのではないか。無をおおい、無を忘れるために求められた有のさきに人は始めて無を見いだすけれど、実は無はまず最も手近にあったのである。不安に襲われねばならぬと同時に、不安を忘れねばならぬほど有限な人間存在が無をかえって遠い彼方に見いだすのである。かくて未来の無が現在の無を呼び、現在の無が未来の無に答える。ここで相向かって置かれた二つの鏡のように、二つの無が限りなくお互いをうつし出し、かくて無はあたかも己という実体のはなすべからざる属性のように見られるのである。ここで人間は自己の中に巣食う無におびえつつも眺め入らざるをえないのである。
 人間は自己の無に堪えられない。そして人は自己の存在の奥に巣食うあまりに多くの無を差し当たって一つか二つの無におきかえて、それを未来に満たし求めることによって、自己の無を忘れようとする。わずかなもの、ほんのわずかなものを人は求めえて、それによってあたかも彼の全存在が完全な存在に満たされたかのように喜ぶと同時に、わずかなもの、ほんのわずかなものをえないことによって、自己の存在が全くの無の中におしおとされたかのように嘆く。自己がそこに多くの無の原因を追いやっている一つのことが求められないであろうという不安が人を襲うとき、無はそのものがないであろうと人間に感じられるより、むしろあらゆる光がこの世界から消え去ったような感じで人をおそう。人間における昼のパトスが多くの無を一つか二つの無におきかえて、それを未来に求め、その本の無を、そしてあわせてあらゆる無を忘れようとする傾向の上に成り立てば成り立つほど、そのことに感じられる無は彼の全存在にしみ通り、あたかも、もはや生くべき何もないようなパトスに駆るのである。そしてその上一つの無は別の無をよび起こし、彼の世界はもはや生きるに堪えないものとなるのである。
 不安は自己をゆすぶる。不安において未来は有と無の二つに割れ、その間を自己と世界のおりなす運命の針は烈しく動く。自己の存在は有にかけられており、運命の針につれて動くのは自己の存在ではなく、むしろ自己の感情である。針が無にかたむく。自己は無の堪えがたさにおそわれる。針が有にかたむく。やっと無からまぬがれたという安堵が人を満たす。かくして、不安はそのことがなされるまで、人を二つの極の間にゆすぶりつくす。しかし、ここで自己がゆすぶられるのは彼が求めているそのものにおいてであり、彼が求めているそのものからではない。不安が未来の不定なものから起こることによって、無は現在との間に一つの幕をへだてて人をおそい、人を二つの極の間にゆすぶりつくすのである。
 しかし、不安が人間にとって苦しいのは無の意識や自己のゆさぶりであるよりは、むしろ存在のさけゆく痛みゆえであろう。自己がそう(2字に、傍点)であろうとして、そう(2字に、傍点)でない。しかも、この「ない」は現在ないばかりではなく、ずっとないであろう。ここにそう(2字に、傍点)であろうとする自己とそう(2字に、傍点)でない自己とを結びつける何もない。ふつう人はそう(2字に、傍点)であろうとして、そう(2字に、傍点)でない己を感じるとき、そう(2字に、傍点)であろうことを期しつつ、希望をもって生きる。ここでそう(2字に、傍点)であろう自己によって「でない」自己と「であろうとする」自己が統一される。しかし、不安においては二つの自己の間にかけるべき橋はなく、存在は二つに引き裂かれようとする痛みに悩む。未来は生きゆく目標となるはずなのに、未来に向かっている意志はいたずらに無の中にただようのみであり、従ってそれに応じてそこへと向かった過去も、そこへと向かっている現在も空(むな)しさのひびきをたてる.のみである。ここで無と有の間に立てられた不思議な時間の調和がみだれて、存在は二つに裂けゆく痛みにもがくのである。そして、人がそう(2字に、傍点)であろうとすればするほど、分裂はひどく、それに伴う痛みは大きいのである。
 

* 不安を眠らせるための三つの態度

 不安は明らかに希望の弟であった。しかし人は兄を愛すれば愛するほど、弟を憎み、何とかして不安を地下に眠らして、希望だけを、もはや不安という不気味な弟をもたない希望だけを、パトスの王にしようとした。これは一見成功した。しかしこの政策によって不安はもはや忘れられたのではなく、むしろ不安をいかに眠らせるかに存在の忠臣たちの最大の策謀があったのではないか。不安はいかにして眠らせうるであろうか。その問いは不安は何であるかの正しい認識からのみ答えられるであろう。不安とはそう(2字に、傍点)であろうとしながらそう(2字に、傍点)でないのではないかとの危惧であった。それゆえ、不安をまぬがれるには、
?そう(2字に、傍点)でないようなそう(2字に、傍点)であろうとしない。
?全くそう(2字に、傍点)であろうとしない。
?そう(2字に、傍点)であろうとして、そう(2字に、傍点)でないことを意識しない。
かである。おおまかにいえば、?リアリズム、?ニヒリズム、?イデアリズムといわれるかもしれない。
? そう(2字に、傍点)でないようなそう(2字に、傍点)であろうとしない。
 これは最も平凡であるが、最も健康な倫理である。人は己を愛さねばならない。己を愛しうるために、何よりも己をこえた大きな目標を己にたててはならぬ。己が小さいものであると思ったら小さい己にふさわしいささやかな目標をもうけ、そこに最高の価値を見いだすことが最も賢明なことではないか。己をこえてあまりに大きな石を運ぼうとする馬鹿者よ。彼らは石の重さにつぶされようとしているのではないか。自己を知らない愚かもの。さっさと地獄へ行くがよい。彼らは何よりも危険な奴(やつ)だ。それは人に重い石を運ぶことを教えて、人の幸福をぶちこわそうとするからだ。小さい己をもつものよ。われらは互いに愛し合おうではないか。このように最も平凡で最も健康な倫理は語る。そしてこの倫理はしばしば社会人としての道徳という仮面をかぶる。人はよい市民とならねばならぬ。それは彼がよい市民となるであろうからだ。人は最も自己のなりやすいものに目的を見いだし、その目的に最大の価値を与えて、己の存在を重くする。そこで人はたしかに不安をまぬがれる。しかし同時にあらゆる偉大さをも、またまぬがれる。
? 全くそう(2字に、傍点)であろうとしない。
 不安はそう(2字に、傍点)であろうとして、そう(2字に、傍点)でないであろうという危惧である。それゆえ、そうであろうとしなかったら、不安はけっして起こらない。そう(2字に、傍点)であろうとしないことは人間にはあまりに難事である。今彼はそう(2字に、傍点)であろうとしないほど無心ではないが、そう(2字に、傍点)であろうとしないようにならねばならぬ。人は意志の不安から無意志を欲する。これはきわめて敏感な心にきわめて自然に発する心理過程である。彼は一つずつ己のもてる有を捨て、もはやいかなる有によってもわずらわされぬ無の心となる。ここに人は絶対の無心となり、あらゆる有にわずらわされぬゆえ、絶対の自由をえる。しかし人が無を欲するとはどういうことであろうか。たとえば、人はあることをなそうとして、それがほとんど不可能となるとき、あたかも彼がそれが不可能なのを欲したかのように思うことによって、不安の恐ろしさを逃げようとする。もはや生きられないという死への不安をあたかも彼が死を欲すると思うことによりのがれようとする。無の心もそのような倒錯意識にもとづいているのではないか。人はほんとうに無を欲しうるのか。無にもとづく宗教のあまりに有的な権力意志はいったい何を意味しているのであろうか。絶対の無を欲しているつもりで、人は形のない何かを、たとえば最大の自信と安心感とを、そしてそれに伴う最大の権力意志を欲しているのではないか。
? そう(2字に、傍点)であろうとして、そう(2字に、傍点)でないことを意識しない。
 そう(2字に、傍点)であろうとしてそう(2字に、傍点)でないであろうという危惧を感じないために、人は無の意識を殺す必要がある。このために、人は何らかの仮定をそこに置くことによって、無の意識をまぬがれる。たとえば、人は神の国の到来を信じ、神の国を実現するために努力することによって、そう(2字に、傍点)でないであろう自己への不安をそらそうとし、神はいつも最善を欲し、自己にとって悪なることも全体としては善であるという予定調和の思想によって、自己の意志の破滅をまぬがれようとし、あるいはまた、世界史は絶対精神の実現過程であるという思想によって、敗戦の悲しみを忘れようとする。またあるいは逆に一切は必然に起こるという思想によって、自己がそう(2字に、傍点)であろうとしてもそう(2字に、傍点)でないことを自己以外の力によるものと思うことによって、己への責任と不安をまぬがれようとする。人は何ゆえそれほど多くのきらびやかな理想を必要とするのか。それは人間の底がそういうきらびやかな理想によって盲目にされねば生きられないほど暗いものであることを示すのではないか。まことにそう(2字に、傍点)でないことを感じさせないために、人の考えることはあまりに多様である。一つの美しい泡沫(ほうまつ)が消える。するとまた別のもっと美しい泡沫が生の上べに浮かび、しばし人の眼を見はらせる。それはいったい何を意味するのか。生がそういう泡沫によってしか堪えられないほど無に臨んでいることではないか。
 不安は現代的な情念である。しかし、それはけっして現代生まれの情念なのではなく、人間存在と共に古い歴史をもつ情念である。人間は、そしてだれよりもまずメタフィジイカーという存在の忠良なる重臣たちは存在の国から、存在の国の平和のために、不安を追放しようとした。最初、人々には存在に忠良であるということは存在そのものを見つめるよりは、存在を、この不気味な存在を生きゆくためにおおうことにほかならないように思われたからだ。しかし、存在の忠良なる重臣たちのあらゆる策謀が失敗した後に、この存在を、それがどんなに暗くどんなに不気味であったとしても、その正体を見つめるよりほかに、もはや存在に忠良である道はなく、そしてそれによってのみこの不気味な情念のひそやかな支配からまぬがれうるということを人はやっと悟り始めたようである。不安は人間の条件である。しかし、人はこの条件をまぬがれようとするあまり、条件そのものを忘却した。このような背反への反省、忘却への自覚、そしてあらゆる好意的にして、しかも陰険な策謀と弥縫(びほう)への侮蔑、そして新たに存在そのものを見つめようとする決意、このような境位に現代人の最も新しい誠実さが動いていはしないか。実存主義者は見せかけほど存在の革命家ではない。ちょうど、近代医学がむやみな治療を行なうよりは病状を正確に認識することにより進歩したように、もはや一切の存在の策謀への不信の声が巷にみなぎる現在、存在の姿そのものを見つめるよりほかに、正当な哲学の道があるというのであろうか。
 

* 閉ざされた部屋・絶望

 不安は暗いパトスである。しかし、それはいまだ闇のパトスではない。それはいつも希望の裏にまつわるパトスであり、いかに暗いようでも、そこに一抹の光がある。闇のパトスとは何であるか。それを人は絶望と呼んでいないか。絶望とはそう(2字に、傍点)であろうとしながら、そう(2字に、傍点)でありえないことである。ここでもはや「であろう」可能性は全くなく、無は現実的である。不安は「であろうとする」自己と「でない」自己とを結びつける「であろう」自己が失われることによって、存在が二つに裂けゆく痛みであったが、絶望において「である」自己は全く失われ、存在は二つに裂かれた深い傷に悩むのである。そこには不安のもつ二つの未来の間の存在のゆれはなく、未来は全く死に切り、存在は己の中で荒れ狂っている。そこには無をまぬがれようとするあわただしさはなく、無はもはやどうすることもできない重さで彼の上へのしかかっている。
 軽いあまりに軽い絶望がある。人は電車に乗り遅れたことでさえ絶望しうる。しかし、それはそのことに関する絶望で、真の絶望は彼がもっぱら自己を賭し、それによってのみ自己に堪えられるそのものから起こってくる。自己の力をそれへと集中し、自己の運命をそのものの中にのみ見いだすはげしさを人は何というのか。それを人は情熱と呼びはしなかったか。情熱とは生の力をそこへと集中するパトスである。それゆえ、絶望は情熱のあるところ、情熱の果てに起こってくる。まことに人間の情熱は危険なものをもつ。それはたしかにそう(2字に、傍点)であろうものより、むしろほとんどそう(2字に、傍点)でないであろうものから生まれる。そのような危険な賭(かけ)でしか、このおそいよる無の前にある自己の存在を真に充実した存在として感じないのが、恐らくはそれがこの逆説的な人間の運命なのであろう。情熱において人間は存在の極に立つ。しかも、それはいつも無へと落ちゆく淵に臨むゆえである。自己が己のすべてを賭すそのものよ。それはあまりに逃げやすく、うつろいやすい。自己がそれを得ようとすればするほど、それは逃げ、人はいつのまにか無の深淵に落ち込むのである。
 それゆえ、絶望とは自己が全存在を賭してそう(2字に、傍点)であろうとしながら、そう(2字に、傍点)でありえない意識である。自己はそれ(2字に、傍点)であろうとしているのにそれ(2字に、傍点)でありえない。未来へ向かった意志は意志の先に無を見いだすことによって、己自身の中にかえってくる。「それ(2字に、傍点)」はもはや未来に座をもたず、それ(2字に、傍点)であろうとする己自身の中にのみある。意志は実在的なそれ(2字に、傍点)ではなく、己自身の中にある無を志向している。ここで未来は死ぬ。何故(なぜ)なら、未来はそれ(2字に、傍点)であろうことによってのみ己を鼓舞するはずなのに、もはやそれ(2字に、傍点)でありえない。そして過去も死ぬ。何故なら過去はそれ(2字に、傍点)であろうとしてきたのに、今やそれ(2字に、傍点)でありえず、一切の過去が空しさのひびきをたてる。そして、現在は二つの時の死によって、己自身も凍え切っている。絶望はそれ自身の中に曲がった死んだ時間をもつ。そこであらゆるものが凍りつき、自己はただこの冷えきった時間の牢獄を逃げだそうとして空しくももがく。
 絶望は時の死である。希望において、未来は実在的なそれ(2字に、傍点)でもって、誘惑的な身ぶりで人間をいざなう。このそれ(2字に、傍点)を求めることによって、時が生き生きと緊張する。ここにものがそれ(2字に、傍点)を中心にして意味をもつ。己が求める最高のそれ(2字に、傍点)に応じて世界は価値の陰影をもつ。しかし、もはや己がそれ(2字に、傍点)をのみ追うそれ(2字に、傍点)が自己の及びがたい遠くの闇へ去ったとき、己の時は行方を失い、そこに死ぬ。そこではもはや一切のものは意味を失い、価値の秩序はみじめにも崩れ落ちる。ここで、もはや己のよるべきものは何もなく、空白な空間の中に無の声のみがなりひびいている。凍った白い動かない時がそこにある。それにもかかわらず、外の世界ははげしく動く。その動きゆく世界に背を向けて、自己はただ己の内部で凍りつき、もはや生きる意味をもたない時をただ生きてゆく。
 人間とは越えゆくものである。そう(2字に、傍点)であろうとすることにより、人は今の己をこえて別の己であろうとする。現実的な己の像を目がけて人は己自身をこえてゆく。それゆえ、超越はまず第一にかかる人間の姿に根づいている。人間は超越する。しかし、絶望がおそい、もはやそう(2字に、傍点)であろう可能性が己自身から失われるとき、こえゆく目標は失われ、人のもつ世界は止まり、時は凍える。ここに人はこえゆこうとしてもこえゆくことのできない閉じられた部屋に監禁されている己を見いだす。この部屋を人はどうして脱しうるか。人はそれをこの世ではない別の超越的世界を仮定することによりまぬがれようとしているのではないか。超越的世界とは超越してゆく人間がこえゆく先を現実に求めえないほど絶望した時に死せる時を再び生かすくふうから生まれる世界ではなかったか。人間の超越の機能が失われた時、その時何よりも超越者が人間に語りかけるのではないか。
 しかるに今や神は死に、そう(2字に、傍点)であろうとする人間をそう(2字に、傍点)でない無の牢獄から救いだすそう(2字に、傍点)である彼岸は消えた。今や人間が最もそう(2字に、傍点)であろうとするそこに最大の無が容赦なく人を襲う。無の堅い壁にとじられた氷の部屋に人はしばしば己を見いだす。そして無はまずそれ(2字に、傍点)がないという形で人を襲う。それ(2字に、傍点)がない。それ(2字に、傍点)であろうとしてそれ(2字に、傍点)でありえない。それ(2字に、傍点)であろうとすることによってのみ己に堪えうるのにそれ(2字に、傍点)でない。ここに人はそれ(2字に、傍点)がないことに堪えない。たとえば、人は恋人をうることによってのみ己に堪えうるのに今や恋人を失ったことに堪えない。あるいは人は大臣であることによってのみ己に堪えうるのに、今や大臣でないことに堪えない。ここで絶望は号泣の形をとる。ない、ない。自己がもっともそれ(2字に、傍点)であろうとするそれ(2字に、傍点)がどこにもない。いったいそれ(2字に、傍点)がないなどということがありうるのか。それは深夜の悪夢か、それとも真昼の幻影か。それが夢でもなく幻でもないとすれば、天の神よ、地の神よ、あまりに無情ではないか。天も裂け地も裂けよ。己の悲しみに比ぶれば、全世界の破滅が何であるか。ここで彼はひたすら号泣する。しかしいかに彼が泣き叫んだとて、彼の声はいたずらに不毛の谷間にこだまして彼の叫びに答える一つの神もこの世にはないのである。二つに引き裂かれた心の痛み、最も心の内部でたえず鳴りとよむ無のひびき、存在しないことをすら欲する存在することの堪えがたさ。
 このような絶望はむしろ原始的な絶望である。まだ人間が文化とかいう悲劇をにげる遊びを知らず、この地上の何かをひたすら求め、それによってはげしい絶望に臨みつつ没落するよりほかに生きる道を知らなかった時代にこのような純粋な絶望は起こる。それ(2字に、傍点)がないという意識はけっして自己がそれ(2字に、傍点)でないという意識の未発達なものではなくて、むしろ自己の運命がそれほどそれ(2字に、傍点)にかけられており、それ(2字に、傍点)がないという叫びは自己がないという叫びにひとしい重さをもっているところに起こる。恐らく、絶望されているのはそれ(2字に、傍点)がないことでなく、それ(2字に、傍点)がない自己であると人が考え始めたとき、その時もはやそれ(2字に、傍点)を自己から引きはなすことによりこの絶望をまぬがれようとする理性の詭計(きけい)が動き始めているのではないか。現代人がわずらいつつも、たいせつにする自己意識という能力はひょっとしたら大きな自己があるところではなく、大きな自己の悲劇をまぬがれるために小さく自己を切りきざんだところに生まれるかもしれないのだ。自己意識は自己を幾重にも折り曲げる。そしてそれによって一切のはげしいもの、まともなものを幾重にも薄め尽くすのである。とまれ、現代人がいまだ文化とか教養とかいう曖昧な観念によって己をすりつくされないならば、絶望は必ずまずこのような原始的なごまかしのない形で人を襲う。
 

* 絶望からの逃走の試み

 絶望は内化する。絶望において外のそれ(2字に、傍点)に向かいつつ、それ(2字に、傍点)によって自己を忘れていた意識は無の壁にふれることにより自己へとかえってくる。ここでもはや絶望すべきはそれ(2字に、傍点)がないことでなく(2字に、傍点)がない自己である。それ(2字に、傍点)を求めることにより無を忘れようとするはずの意志がかえって最大の空白を自己の内に作る。最も内部の最も肝心な何かが己に欠けている。彼はない己を逃げ出そうとする。もはや己を超えゆき、別の己を作ることのできない彼はただ己から逃げゆこうとのみ意志する。東洋でも絶望者は己から逃げゆくためにあてどのない旅をする。あてどのない旅によって彼は己の中に巣食う無の意識を忘れつつ、死せる時間を蹌踉と歩きゆくことにより動く時間のように自らに思わせようとしたのではないか。別の己をもとめるよりは今の己から逃げだすための生が彼らの旅ではなかったか。どこまで行っても、無は己を追うと知りながら、さすらい行かざるをえない彼らの中に、何よりも自己であることに堪えられぬ深い絶望が宿っていはしないか。
 絶望において、人は己自身を逃げだそうとする。しかし、たとい彼が世界の果てに逃げいったとしても、彼の最も近くでささやく無の声を逃げられないと知ったとき、人は再び己に堪えるくふうをめぐらす。それ(2字に、傍点)を通じて自己が絶望されている。それゆえに、それ(2字に、傍点)を自己から引き離すことによって、彼は絶望をまぬがれようとする。そのために彼は手当たり次第のなるべく自己を痛めぬことに自己をそらそうとする。たとえば次に来る電車の番号が奇数か偶数かを予想することにより今や無一物になった己を一瞬なりとも忘れようとし、彼とは全く縁のない政治運動に奔走することにより失った恋の痛みをそらそうとする。人間の意識はいつも一つの目的に貫かれている。たとえ人が一時に多くの目的を追う時ですら、それらはその上にある最高の目的によりひそかに統一されている。このそれ(2字に、傍点)でもって人間の力を統一する最高のそれ(2字に、傍点)が失われたとき、そのとき人が絶望をまぬがれるためには意識を小さく、できるだけ小さくきざみ、目前の何気ないことの中に一時の賭を見いだせばよい。できるだけたまゆらのできるだけささやかなものへの小さい賭。それによって恐らくはこの統一的なそれ(2字に、傍点)を通じての絶望がしばしなりとも忘れられるであろう。
 それ(2字に、傍点)を求め、それ(2字に、傍点)を失う情熱の果てに人はしばしば己の中に無の深淵を作る。もはや方向をもたない意志はいたずらに自己の中に向かって、日々に深淵を深くする。しかし同時に、深淵に住みうるほど強くない人間は意識のうわべに土を入れる。もしちょっとでも人間が動いたら、くずれ落ちそうな深淵の上の大地で人はしばしを遊ぶ。もし土地がくずれたら、再び人はどこからか土をかき集め、一見堅固そうな遊び場を作る。かくて、人は次から次へと手当たり次第のものを意識につめこみ深淵を覆い、あたかも彼がもはや深淵を超克しえたかのように生きる。しかし、深淵は少なくとも自己から目をそむけたいという意志において人間にかたりかける、その声をも消し去るために、人は再びそのような深淵がもはや己に属しないものと思おうとする。自己をできるだけ浅い方へと移動させ、末梢的な自己を真の自己と思うことにより、蝕まれた自己の中心を人は切り捨てようとする。こうして浅い大地が深淵に対して勝利を叫ぶ。自己がそこの上にきずき上げられ、少しの動揺でそこへと落ちゆく深淵に対して僭越にも大地は勝利をうぬぼれる。しかもそのような僭越なうぬぼれでしか、大地は、たとえしばしですら、深淵に根をはることはできそうにもない、.
 それによって己の中に無の深淵を生み出したそれ(2字に、傍点)を忘れようとする人間の努力はたしかに成功する。しかし、ここで比較的たやすく忘れられるのは、それ(2字に、傍点)によって無が作られたそれ(2字に、傍点)であり、それ(2字に、傍点)によって作られた無ではない。ここで絶望はそれ(2字に、傍点)と関係なく自己がないという形になる。それ(2字に、傍点)を通じて起こされた自己の中に鳴る無のひびきは、それ(2字に、傍点)が意識から去ったとしても、直接に自己にまつわり、自己が何かを行なおうとするそこに最も鳴りとよむ。自己が自己という言葉を発した瞬間に「ない」という声がどこからともなくひびいてくる。
 このような無の声はいろいろな形で起こってくる。絶望とはそれ(2字に、傍点)であろうとしてそれ(2字に、傍点)でありえない意識であった。それゆえ、それ(2字に、傍点)を離れた絶望はまず「自己がありえない」「自己が無能力である」という形をとる。「おれなんか何にもできはしない」と彼はたえず思っている。彼が何か彼の存在を確証できることを将(まさ)にし始めようとするとき、その時おれは駄目だとの声がどこからともなく聞こえてくる。彼があることをなそうとし、その結果、「おれは駄目」なのではなく、最初から、「おれは駄目」なのであり、彼の行為はあたかも「おれは駄目」なのを実証するためのようである。駄目という声は彼がある事柄に今やかかろうとするときに、突然足下から人を襲い、彼の行為を釘づけにしてしまう。彼はちょうど油の切れた機械のように彼の行為の途中で立ち止まり、己自身をこの世で一番愚劣なものと恥じ思うのである。「やはりおれは駄目だ。何もできやしない」と嘆くけれど、彼の嘆きのどこかにすてばちの自足のようなものが漂っている。このような人間が一番好むものは何もできない人間たちであり、最も嫌うものは何かをなしうる人間たちである。それゆえ、彼は人間の有限性を、どんな偉大な人間でもどこかで必ず尻尾を出す有限性を至る所に好んで見つけようとする。こうして彼は彼の不能を人間一般の不能におきかえることによりわずかの気休めを感じる。
 無能力の意識は同時に無価値の意識でもある。彼はそれ(2字に、傍点)に価値を見いだすゆえにそれ(2字に、傍点)であろうとする。そして、それ(2字に、傍点)でありうると思うことにより自己に価値を見いだしている。ところが今や彼はそれ(2字に、傍点)でありえない。それゆえ、彼は己が価値から離されているのを感じる。単に一つの価値から見放されているのみではなく、あらゆる価値から見放されているように彼には思われる。彼はもはや自分が生きるべき価値さえもたないように思う。彼は己が草が生え鼠が生きるのと同じようにしか生きていないのを感じる。いやむしろ草や鼠はおのおのの生命を主張しつづけているが、彼はもはや己の存在への確信がもてない。生きる価値を信じられぬ自己が彼にはむしろ草や鼠よりいっそうやくざな存在のように思われる。自己、自己、自己、世の中でもっともくだらぬいやな奴。さっさと犬にでもくれてしまったほうがましなのだ。彼はこうして己を嘲り、己を痛め、そのあげくいっそう己を価値なきものと思いつつ辛うじて生きている。こういう彼に最も耳寄りな言葉は価値の変革という言葉である。在来の価値は歴史的に崩壊し、従来と全く反対の新しい価値秩序が生まれ出ようとしている。とすれば、彼が全く従来のすべての価値から見放されていることが、それだけ新しい価値を担う自己への証拠となりはしないか。かくて、ここで彼は己への絶望を価値への絶望に転化することにより、己への信頼を回復する。こうして思想的なあるいは社会的な革命家が己への絶望を心の奥へとかくしていとも頼もしげな表情で現われる。
 無価値なの意識はまた無意味の意識との類縁をもつ。自己はそう(2字に、傍点)であろうとすることによって目的に生きる。そしてあらゆるものをその目的のための手段と見なす。ものはそれ(2字に、傍点)へと向かっていることにおいて意味をもつ。しかし、今やそう(2字に、傍点)であろうとする目的は消え、それゆえものはそれ(2字に、傍点)への向きを失い、それ(2字に、傍点)から得ていたものの意味がゆらぐ。このノートは書く意味をもち、あのパンは食べる意味をもつ。しかしもはや生きようとしない人間にとり、ノートもパンも意味をもたない。かくてものは生に必要な遠近法から見られた生々しい意味を失い、でろでろした不気味な存在にかえる。ものと自己との親しみは消え、ものと自己とがばらばらなよそよそしい関係にかえる。しかし、目的が失われることによって意味を失うのは何よりもまず自己である。自己はそう(2字に、傍点)であろうことによって自己の意味を見いだしていたはずなのに、そう(2字に、傍点)でありえない今、自己の存在している意味は無に帰する。ここで自己も、ものもお互いにその確固たる存在性を失って、無意味で不気味な空間に投げだされ、何故とも知らずただそこにあるものと見られる。
 

* 誠実に生きるとき絶望は必然である

 要するに、絶望は自己が無能力無価値無意味の意識であり、自己が救いようのないくさりゆく病におかされている意識である。そこでは一切のものが凍え、一切のものが堪えがたい。しかし何より堪えがたいのはこの自己であり、自己的なものである。人は自己的なものから脱けだそうとしてもがくけれども、あらゆるものがない国はあっても、自己のない国はない。自己が自己より脱けだそうとする速さと同じ速さで自己が自己を追い、あらゆる行為に自己にとって最もいやな自己という印をおしてゆく。こうして、自己的なものは堪えがたい悪臭を発しつつ、彼のまわりをとりかこみ、彼をしてもはや生きることさえできぬ自棄の谷へと投げる。いったいここで彼の存在の証拠とは何か。それは彼がたえずくさりゆく臭いを発していることではないか。いったいここで彼の存在の誇りとは何か。それは彼が己に、もはや堪え切れぬ嫌悪を感じつつ生きていることではないか。自己は自己から背き去る最後の一点において、己に執着している。そしてあらゆる自己は不確かであっても、自己に絶望している自己のしぶとさへの確信が彼の生の唯一の存在理由になっている。
 しかし、このような凍った時間に生きる人間は自己への絶望のあまり自己ならぬ神をはげしく求める。この忌わしい自己と全く離れた絶対的実在者。しかもこの忌わしい自己を救ってくれる光に満ちた実在者。そのような神の名を引きさかれた時の中で人はしきりに呼ぶ。しかし、自己と全く離れて実在するほど自己的でなく、自己を救いうるほど自己的でもある神が容易に見つからないとき、神を求める飢え切った心は石の中にすら神を見るのである。石を神にするために枯れの゜夢見る実在者の理念をそのまま石に認めうるかのようにひそかに己の心を仮想し、その仮想された神により己の実在を確認するのである。自己と自己とが、互いにうつし合い、かみ合い、のろい合い、無限に死の相を呈するこの絶望の白己意識から脱けだすために、人は神をごみだめの中からですら探しだす必要があるのである。
 近代とは人間が神から自己をとり返した時代であったといわれる。デカルトの「我思う故に我在り」の自覚には神学的な一切の人間観から離れて自由にものを考える我への喜びがあった。デカルトの懐疑はけっして暗い自虐ではなく、この自己を意識する自己の絶対的確実性へと到達する手段にほかならなかった。目我よ。自由よ。自己意識よ。近世はこれらの言葉を祭壇にまつり上げ、わいしょわいしょとミコシをかついだ。カントはこの自己意識の立場から一切の絶対者、神、不死、自由を裁いたさめた人であり、ヘーゲルはこの自己意識の運動の中に絶対精神を見た酔える人でもあった。しかし、いったい自己意識とは何か、自己が自己を冷たく眺めた時そこに何を見いだしたか。それ(2字に、傍点)であろうとする人間の自由意志はいったい何にぶつからなければならなかったのか。人間のたゆまぬ努力により黄金にみのり今や刈り入れのみをまつはずの自己の畠を、たちまちにしておそった嵐は何であったか。今や人は苦い顔してすっぱい味のする自我の実を食べる。そして人は不毛の畠をにげて、自我のない国を求めて、どこかへ行こうとしている。
 希望から不安へ、不安から絶望への情念の推移は必然的なものである。昼があるならば、必ず夜がやってくる。そして昼があまりに誇張された人間的な光に満ちすぎているならば、あらゆる真理を冷たい光であらわにする夜は昼の愛好者にはあまりに無情なものかもしれない。でもしかし夜は必ず来る。在来のあまりにまばゆい光にだまされた人間の白昼の夢を裏切って夜はわれらの足下にすでに来ているではないか。しかし、人はこのうつり来る夜を最小に止(とど)めようとしている。せめて不安であってもよい。しかし絶望だけはおことわりである。人はもはや自己の求めるそれ(2字に、傍点)をあいまいにしている。彼は自分がほんとうに何を求めているかを自らにかくし、何かを求める。それ(2字に、傍点)でありうるならば、彼はそれ(2字に、傍点)であろうとしたにちがいないのだ。それ(2字に、傍点)でありえなかったなら、実はそれ(2字に、傍点)であろうとしなかったのだ。このようにして彼はいつも自分の求めるそれ(2字に、傍点)をあいまいにし、情熱の統一をさけようとしている。現代人は分裂的であるという。しかしひょっとしたらこの現代人の分裂的性格に人間の最後の闇よりの逃げ道がありはしないか。
 その上、現代人は自己から目をそむける手段においていちじるしく創意的である。人は人間とは何であるかを考えるひまがあるくらいなら、いかにして人間から眼をそらすかを考える。魂の救いなどという小便臭い疑問は人間の屑である時代おくれの哲学者にまかせておいて、ひまがあったら、事業に遊びに一時の熱をあげたほうがましなのである。忙しく動く社会。忙しく走り回る人間。この忙しさはいったい何のためであるのか。前からたえず迫ってくる死までの時間を引きのばそうとする人間の懸命の努力ゆえなのか。それとも自己の姿をまともに見るひまをさける人間の無意識の努力ゆえなのか。とにかく現代は騒音に満ちている。ちょうど恥ずかしい思い出に苦しめられる人間が大声を出して、その思い出を消そうとするように、これほどまでに騒かしい音によって忘れねばならぬものはったい何なのか。けっきょく現代ではあらゆる文明が騒音に還元される。新聞ラジオはもちろん騒音の第一の伝達者であり、芸術家とかいわれる人すらも海のあなたからくる騒音の感受に忙しすぎるようである。
 こういうもはや絶望することさえできぬ絶望的な現代人の中にあって、反時代的であるほど誠実に時代的に生きる人間にとって絶望はむしろ必然の運命である。人はこの絶望からいったいどこへ行こうとしているのか。人は近代人の血と汗でえた冷静な自己意識を捨て、神を求める熱い心からそのまま神の実在を信じ、神の実在を証明するほど、熱狂的に自己からそむこうとすべきであるか。それともまた、もはやあらゆるものからの自由からの自由に飽き、自由を求めて、自らを無情で強力な政治組織の細胞とするほど、行動的に絶望からのがれるべきなのか。それともまた、もはや深みに住みうるほど浅い人生観を越え、故意に己をあざむいてこの人生のうわべだけを信じて、軽みの中に羽毛のように漂うべきものであるか。それともまた、もはやさび切った理性の槍を手にもって、この絶望という情念を一さしにしうると自惚(うぬぼ)れるほどの見当ちがいの勇気をもつべきものであるか。それともまた。それともまた。道は自由である。いずれにせよ、せめて最も新しい徳である自己に対する誠実さだけはもちたいものと思うのもまたはかない望みであろうか。
 
 
 

(筆者は、梅原猛=うめはらたけし。1925年3月20日 宮城県に生まる。日本ペンクラブ現会長。文化勲章。「闇のパトス 不安と絶望」は、1951年10月25日刊行の同人誌「道程」第一号 に初出。のち単行本『笑いの構造』に収録。)



 
 
 
 
 

            絵画への讃歌 (講演)    橋本博英
 
 

  人柄のこと

 笠井誠一さんは、その名の通り誠一筋(まことひとすじ)の、誠実で真面目な人柄です。
 大学教授にふさわしい指導力、統率力、そして片寄りのない良識の持ち主として愛知県立芸大を創立当初から育てあげた人格者です。これは衆目の認めるところであって、今更、僕が言葉にしなくても、彼の風貌に如実に表れています。
  しかし、笠井さんがただ真面目一方の堅物(かたぶつ)かと言えば、決してそうではない。そう単純には割り切れない、幅も奥行きもあるスケールの大きな人物なのです。その点は、一見しただけの見かけではわかりません。
 例えば──これは付き合いの長い人は誰でも知っていることですが──真面目な絵画論など交わしている時、突然、とんでもないワイ談や卑猥な譬えが、真面目なままの彼の顔から飛び出したりします。みんな一瞬ポカンとするのを見て、彼は楽しそうにカラカラと笑うのです。これが、それまでの話と関係もない話だったらバカか気違いの所業ですが、彼のワイ談はそれまでの話を受けながら、絶妙なタイミングで堅過ぎる場に笑いを挿入するのです。しかも、見事に的を射た話になっている!!
  その例をひとつ挙げたいのですが、ちょっとこの場でははばかれるので止めにして、別の例を挙げましょう。
 これも、随分キタナイ話で大変恐縮なのですが、重要な話なので思い切ってお話しいたします。
 ある時、数人集まって日本人の油絵とヨーロッパ人の油絵の違いについて議論していました。一応意見が出尽くしたところで笠井さんが、「そりゃア、トイレの落書だって、日本人は鉛筆やマジックでチョコチョコとやるけれど、ヤツらは自分が出したクソを手で掴んでバァーッと書くんだから、とてもかなわないヨ」と、例によっていつもの顔で言ったものです。一同、大笑いしてその場は一件落着となったのですが、よく考えてみると、この話は凄い!! 日本人と西洋人の油絵の根(一字に、傍点)にある神経あるいは感覚の違いを見事に言い当てているではありませんか。これは、お茶漬とビフテキを対比させる俗論などとは比較にならないほど、本質を突いた話だと思います。
 この話を念頭に置いて、西洋人の絵を見ると、あのキーファーやルシアン・フロイドのリアリズムの、荒々しくしつっこく、うんざりするような表現の根っこにあるもの、また今年の白日展に特陳されたオッド・ネルドルムの一種特異な人物表現のなまなましさ、ちょっと日本人には受けつけ難い感覚の根が、はっきり見えるような気がします。このことは、特異性を売り物にする現代絵画に限ったことではなく、我が国で神格化さえされて来たレンブラントや、過剰にムチムチしたルーベンスの肉体表現、イモムシに豪華な服を着せたようなゴヤのスペイン王家の人々の肖像などにも、その根底に、あのトイレの落書に通じる神経が確かに、ある。実際、レンブラントのエッチングには、道端にしゃがんで大便や小便をする農婦を描いたものがあります。
 更に、セザンヌやゴッホの初期の油絵は、まさしく大便を手で壁に塗りつける感覚そのもののような気がしますし、美しい色彩で装ってはいるものの、ピカソやマティスのデフォルメ感覚の根には、同様の、荒々しくネバネバした神経の存在を見逃すわけにはいきません。
 こう考えると、笠井さんの少々キタナイ表現は、真実を鋭くえぐり出す言葉として、これ以外にないほど的確なものとなります。
 笠井さんは、約七年間という長い留学生活の中で、西洋文化、とりわけフランス文化の根底にあるものを目だけではなく全身で見届けて来たという気がします。そしてその上で、東洋文化にも深い関心を寄せています。
 合理では割り切れないもの、西欧合理主義からはみ出した部分を熟知しているが故に、非合理の世界や直観を尊ぶ東洋哲学に、彼は深い造詣を持ち得るのです。
 三十数年間余の在職中、東京─名古屋の過酷な往復生活が二十六年も続く中で、益々輝きを加えて来た彼の仕事、その間の彼の健康を支えて来たのは、実は東洋医学の実践だった、と僕は思っています。
 それは当然、絵そのものにも関わっています。極めて西欧的、本格的な構造を持つ側面から放射される光の質(一字に、傍点)に、僕は東洋、あるいは日本を感じるのです。
 ことほどさように、笠井さんは、あの控え目な風貌からは想像もつかぬほどの、端倪するべからざるスケールの人物であることを、まず申し上げておきたいと思います。
 

  デッサン力と描写力

 さて、それでは人物が立派なら、そのまま立派な絵が描けるかと言えば、そんなことがあろう筈はありません。
 絵を描くのは、あくまで技術によってです。こう言うと、絵に技術はいらない、絵はココロだ、なんていう反論が聞こえそうですが、そういう輩(やから)ほど、反俗という俗性を帯びて鼻持ちならない絵を描くものです。ま、それはともかく、古今東西の名作に、技術のない絵は一点もありません。絵は、あくまで作画上の知識と、それを血肉化した教養に支えられた技術によって描くのです。
 笠井さんの絵は、並はずれたデッサン力によって成り立っている、と僕は考えます。
 こう言うとまた、デッサン力を写真的描写の巧みさと勘違いした人たちに、怪訝(けげん)な顔をされそうですが、僕の言うデッサン力は、写真的描写力のことではありません。
 かつては我が国でも、デッサン力という言葉が生きていて、抽象化された作品にもデッサン力の有無を評価の基準にしたものですが、デッサンという言葉がドローイングという描画材料の違いだけのことにすり替えられて使われ出した頃から、あるいは、アメリカからアンドリュー・ワイエスとかいう腕達者なイラストレーターの絵が、絵(一字に、傍点)として上陸してきた頃から、本来のデッサンの意味は消えました。
 ともあれ、ここで僕の言うデッサン力は、物(ことに人体)のコンストラクション(構造)をとらえる力であり、それはコンポジション(構成)につながる力です。描写力はデッサン力の極く初歩的な力に過ぎないのです。

 僕は、実は笠井さんに会う前に、まず彼の石膏デッサンに出会いました。
 昭和二十八年、僕は芸大の入試に落ちて、阿佐ヶ谷洋画研究所に入りまし.た。当時のアサビは芸大の予備校として鳴らしていました。アトリエに入ると、正面に石膏像がズラーッと並んでいて、その上の壁いっぱいに、すでに芸大に入った先輩の模範的なデッサンが張ってありました。それは、いわば初めて見る実物の石膏デッサンで、たちどころに自分が落ちた理由がわかりました。ちょっと手が届かないと思われるほど見事なデッサンばかりだったのです。
 画学生たちはみんな、壁のデッサンに追い着き追い越せを目標に勉強したものです。いまでも、三輪孝先生のデッサンをはじめ、宮崎、飯島、中川、荒瀬、檜山、鎌形、笠井、星、加藤など、デッサンに書かれた名前を思い出します。
 そのうちに、自分の腕が上がるにつれて、批判力もつき、壁のデッサンの欠点も.見えて来ました。中川のデッサンはどうだとか、檜山のデッサンはこうだとか、仲間と盛んに議論したものです。そして僕が、最後までかなわないと思ったのが、笠井、檜山のデッサンだったのです。とりわけ笠井のデッサンは、逆光の、下から見上げたマルス像で、寸分の狂いもない完璧な形と颯爽とした仕上がりは抜群のもので、いまも瞼に焼き付いて離れません。
 翌年、芸大に入った僕に、友人が「ほら、あれが笠井だヨ」と、前庭を歩く笠井さんを指さして教えてくれました。初めて見た笠井さんは、いまとほとんど同じ体型で、小柄な痩身で、やや背を丸めて歩く姿は歳より老けて見え、あの颯爽たるマルス像とのギャップにちょっと戸惑ったものです。

 ここで石膏デッサンについて少し話しておきたいのですが、お許しください。
 まず、石膏像ほど初歩的な描写力を訓練するのに適した対象物は他にない、と僕は思います。それはまず、動かない上に、白い物ですから明暗の階調が立体の面の変化と一致していて、絵画表現の基礎になる調子(ヴァルール)修得に極めて便利なこと、また、何よりも、石膏像そのものの原形が、ギリシャ、ローマ時代からルネッサンスの名作彫刻ですから、どこから見ても美しい造形的なフォルムを持ち、それをそのまま描写することで知らず知らずのうちに、西欧の伝統的な美の規範を身につけることが出来ることです。だから、ひたすら正確に描写すること以外に.石膏デッサンの目的はありません。そう考えれば目的が単純ですから、あれこれ迷うことなく見ること描くことに集中することが出来て、絵描きに大切な集中力を鍛えることにもなります。
 このように石膏像には、ほかの物には替え難い優れた特質があるのですが、これがうまく描けたからといってデッサン力があるとは言えません。なぜなら石膏デッサンは写真的描写でよいからです。正確にさえ描けば、対象の彫刻として持つ素晴しいフォルムが、模写的に絵のフォルムになってくれるのです。そのフォルムの感覚が、生身(なまみ)の人体を描く時に土台となって活かせるかどうかが、本当のデッサンの入口となります。
 デッサンは創造的な仕事であり、単なる描写ではありません。石膏像とは違って、いわば不完全な生身の人体を対象にしながら、それにフォルムを与えること、そのフォルマションの能力をデッサン力と言うのです。
 それは、人体に一種幾何学的な構造を与えると同時に、解剖学的な正確さが、要求される面倒な仕事です。そういうデッサンを、西欧では「アカデミー」と言います。パリのボーザールのデッサン教室の壁に、アングルやプリュードンなどのアカデミーの複製が張られていたのを思い出します。
 このアカデミーの勉強には、やはり適切な指摘が出来る指導者が必要なのですが、残念なことに日本には、数えるほどしかその能力を持った教師はいません。これでは写真的描写力をデッサン力と勘違いしている人が多いのも止むを得ないことかも知れません。
 何だか愚痴っぼくなって来ましたから、笠井さんのことに話を戻しましょう。

 僕が芸大の四年になって伊藤廉先生の教室に入ると、隣が専攻科(現・大学院)のアトリエで、その中に笠井さんがいました。
  その専攻科のアトリエでは、毎日クロッキーばかりやっていたという記憶があります。時折、覗いてみると、笠井さんは、鉛筆、コンテ、ペン、墨汁などをいろいろ使って、実に味のある達者なクロッキーをせっせと描いていました。流石にうまいものだ、と感心したものですが、後に思い起こしてみると、それは日本流のクロッキー、腕の勢いにまかせた描写的な速写だったと思います。
 夏休みが終わって後期に入ると、卒業制作の自宅制作が許されて、学校に出て来る人数がめっきり減りました。そこで学校に出て来ていた中村清治君、古田帯川君など四、五人と共に、僕らも専攻科に倣ってクロッキーを始めました。我流の描写的デッサンでしたが、その約半年間の勉強は、実によい経験となりました。後にアカデミーでやるべきこと、つまりデッサンとは何かに気付いた時の、描く力の下地になったと思います。
 やがて、僕は専攻科に残らずに卒業し、笠井さんとの縁も切れ、彼はフランス政府給費留学生に合格して渡仏、八年間ほど消息も途切れたわけです。
 

  ブリアンションと笠井芸術

 昭和三十九年の秋、結婚して鎌倉から東京に出て来た僕は、先輩の福本章さんに誘われて、翌四十年四月から代々木ゼミナール・デッサン科で教えることになりました。
 そこでパリ・ボーザールのブリアンション教室に学んで来た、今は亡き進藤蕃さんと、人江観さんに出会い、翌四十一年春、やはりブリアンションに学んで帰国したばかりの笠井さんに再会したのです。
 そして、彼らが交々(こもごも)語るブリアンションの指導についての話は、僕にとってまさに衝撃的なものでした。目から鱗(うろこ)が落ちるとはこのことで、それまでの自分の無知を思い知らされ、疑問が次々に晴れていくのを実感しました。
 アカデミー(デッサン)で何をやるべきか、それがどのように油絵に結びついていくか……僕はデッサンを教えに行って、先輩で同僚の彼らからデッサンを教えられたわけです。

 彼らが異口同音に言うところですが、ブリアンションはフランス人には珍しく寡黙ながらも、誠実な温かい人柄で、決して押しつけがましさのないその作風そのままの、自然が囁(ささや)く声にじっと耳を傾けるような、古来の日本人にも通じる面を持った人で、そこに大いに共感を抱いたと笠井さんは語っています。
 しかし、その指導は非常に厳しく、朝は定刻前に教室に入り、一人ひとりのクロッキーを、丁寧に直し、日本流に明暗の調子をつけたり、伺本かの輪郭線が重なっていたりすると、消ゴムで消して一本の決定的な線を引く、といった具合で、HBかHの固い鉛筆で、建造物を見るように人体を見て描け、と言ったそうです。時には見える形よりも数ミリずれた所に線を引き直し、そう直されると、グッと構築的なフォルムになることを実感させられたと言います。とにかくデッサンは、画面のコンポジションに結びつく構造を持ったフォルムでなければならないと、繰り返し説かれたと笠井さんは言います。
 油絵の習作については、笠井さんの滞仏作品を見ればわかるように、形の秩序あるコンポジションと同時に、色のコンポジションを、単純な寒色、暖色の対比で、その量的な配分や配置を考えるように指導され、笠井さんはその教えに従いながら、それを独自に発展させつつ今日まで来た、と僕は思います。
 ブリアンションは、ベラスケス、マネ、マチス、ボナールなどの影響を受けながら、構成の考え方はセザンヌに典拠するものを、新たにアカデミズムに取り込んだ優れた画家であり、偉大な教師であったと思うのです。

 帰国後の笠井さんは人物画を描きません。あれほど凄い人体デッサンを描ける人が勿体ない気はしますが、彼の絵の目的は、まず構成美にあるのです。
 いま「凄い人体デッサン」と言いましたが、ブリアンション教室で描かれた彼のクロッキーを初めて見た時の、ガツンとやられたような驚きを忘れ得ません。かつて芸大の専攻科で描いていたクロッキーの、達者な描線は面影もなく、むしろ無骨なほどに着実な線によって、まさに建造物のように堅固で緊密なコンストラクションが実現されていたのです。これこそ油絵のコンポジションに、そのままつながるデッサンだ、と思いました。
 笠井さんにとって、人体のアカデミーは、コンストラクション=コンポジションの研究のためのもので、人物を描くための予備研究ではなかったのです。だから笠井さんは、自身の造形空間を生み出すために、最も構成に適したモチーフを選んでいるわけで、その結果、身近に在って愛着深い物たちが主なモチーフとなったのでしょう。一時は漁港などの風景も描かれましたが、室内風景あるいは静物画は、留学以来一貫して続けられて来ました。

 画面に、実体を持った物をひとつ描けば、そのまわりは虚の空間となり、それは四角いフレームによって限定されるのですから、実(物)の形の量や位置が決まると同特に、壁やテーブルや床の、虚あるいは地(一字に、傍点)の形が決定されます。そして実(物)が二個以上の複数になれば、虚(地)のフォルムは、複雑に実のフォルムとせめぎ合うことになります。
 この虚と実を一体の関係として意識化し、秩序づけようとしたのがセザンスであり、マチスであって、そこにデフォルメの必要性が構成上の問題として生まれたのです。このセザンヌやマチスの構成理論に基づきながら、極力デフォルメを抑えて、平明で品位ある絵を描いたのがブリアンションであり、その教えを忠実に受け継いで展開させたのが笠井さんだと、僕は考えています。
 ですから、笠井さんの絵には主役といえる物がありません。.画面全体を統合する構成そのものが主役なのです。そして、実と虚のからみ合いの関係が緊密になればなるほど、画面は澄み渡って輝きを放つようになります。そこには笠井さんの卓越したヴァルール感覚.が働いています。
 一見ブッキラボウな彼の輪郭線をよく見てください。それは常に色(一字に、傍点)による線であり、色面と響き合って色彩的効果をあげていますし、線は実に丹念に濃淡を加減しながら、何度も薄い色が重ねられてヴァルールが調整されているのです。
 また、笠井さんの絵の特徴のひとつは、あいまいな部分が全くないことです。これは瓶でこれは林檎、ここはテーブルの面でここは壁、というように画然と区分けされ、それぞれに余計な調子がありません。これをデッサン力のない人がやれば、ただ塗り絵のように平板なものになるでしょう。
 十年ほど前、彼の絵が真に光を放ち始めた頃、実に不思議なことをやり出しました。
 輪郭線はそのまま残しながら、林檎や洋梨などの果物だけに、くっきりとリアルな陰影を施すのです。陰影をつけるのは物を調子で見ることであり、輪郭を線でくくる見方とはそもそも相容れないことです。これは、写真の林檎などに輪郭線をつけてみればよく解ることでしょう。これを全く矛盾を感じさせずに極く自然に見せるのは、よほどの凄腕です。これこそデッサンの力であり、優れたヴァルール感覚の証左です。
 笠井さんは、陰影をつけて外光を描こうとしたのではありません。これは存在の実感を強め、画面自体が放射する光をより強める目的で試みられた荒業(あらわざ)だった、と僕は思います。それは見事に成功しました。

 絵には新しいも古いもありません。ただ永遠のいのちがあるかどうかです。それは、絵.そのものが放射する浄光が、どれほど強く深く人の心の奥底に届くかという一点にかかっています。笠井さんが求め続けているのは、そのことだけだと、僕は信じています。
 笠井さんの絵を見る時、この光を感じるためには、物と物の間の形、つまり実よりも虚の形を見ることをお勧めします。ちょうど音楽を聴く時、主旋律だけ追わずにむしろ低音部を聴こうとすれば、音楽全体の分厚い響きが感じられるように、彼の簡素な表現にひそむ分厚い空間の輝きが感じ取れることでしょう。
 

  おわりに

 大変、長い話になってしまって恐縮ですが、最後にひとつだけ話したいことがあります。

 この頃思うことなのですが、絵の歴史を考える時、絵描きは真っ暗な夜道を、一人ひとりが後手(うしろで)にカンテラを持って自分のうしろを照らしながら、自分は前を歩む人の光を頼りに、足元を確かめながら歩くのだという気がするのです。
 僕は、代々木ゼミで目の鱗を落とされて以来、笠井さんや亡き進藤さんのカンテラの光で足元を照らされながら、懸命に遅れまいと努めて来ました。.歩く恰好は一人ひとりの特徴がありますから、僕は僕の恰好で歩いて来ました。
 その笠井さんや進藤さんはブリアンションのカンテラに導かれて歩き、ブリアンションはマチスやボナールのカンテラに足元を照らされながら歩き、マチスやボナールはセザンヌやモネに、セザンヌはドラクロアやクールベに、というように、近い先輩のカンテラの光に足元を照らされながら、更にその前方にプッサンやルーベンス、チントレット、ヴェロネーゼなどの光を見つめて歩いたように思うのです。
 絵描きは、それぞれ見つめる光の系統が違うようですが、何といってもありがたいのは、足元を照らしてくれる光です。僕がコローやセザンヌをどんなに慕っても、その光は遠くに見えるだけで足元までは届きません。
 おまけにこの世には、鬼火やらフクロウの眼玉やら、まわりにはいかがわしい光が満ちています。
 笠井さんにお願いしたい。どうか、あまり急ぎ足で進んで、僕を引き離さないで足元を照らし続けてください。僕も懸命について行くつもりですから……。
 マチスは「絵描きは、まず舌を切れ」と言いましたが、絵描きのくせに、今日は長々と駄弁を弄して大変失礼いたしました。どうかお恕しください。
                 一了一

 この「笠井誠一讃歌」風媒社刊は、一九九九年六月十五日、日本橋三越本店で開催された「笠井誠一油絵展」オープニング・レセプションにおける挨拶を骨子としていますが、文章化するにあたって、大幅に削除、追加などの修正を行いました。
    一九九九年七月四日 記         橋本博英

橋本博英(はしもとひろひで)略年譜
O1933年 岐阜市に生まれ 1940年 東京で小学校人学  1946年 富山市に移り高校卒業までの7年間を過ごす 富山中部高校卒業
O1958年 東京芸術大学美術学部油絵科(伊藤廉教室)を卒業 1959年 国画会展に出品するが以後無所属となり個展・グループ展にて発表を続ける
O1967年 渡仏 アカデミー・ジュリアン及びグランド・ショミエールに通う
O1968年 帰国 1969年 新樹会招待 以後各種グループ展に参加して1999年に至る
○その間 阿佐ケ谷美術学園 東京造形大学 女子美術大学等にて教鞭をとり 神戸トアロード画廊 富山青木画廊 東京梅田画廊 泰明画廊 梅田画廊等にて個展開催 国際形象展 具象現代展 現美展等にも出品する
O1997年8月からl1月にかけて富山・名古屋・東京・大阪において「光と風のコンチェルト 橋本博英展」として大規模な個展を開催
○1999年現在 八象会同人 和の会同人
○著書 『私の絵画讃歌』(風媒社)『油絵をシステムで学ぶ』(共著・美術出版社:)
 
 
 

 (出逢いはそう遠くはないが、それでも十余年になる。人に連れて行かれた銀座の「菊鮨」の止まり木に隣り合い、言葉を交わし始めた。同じ店に結婚を報じられていた歌舞伎の中村福助当時の児太郎がいた。橋本さんとはその後にゆっくり時間をかけて話し合ったことは一度もない。だが湖の本や新刊の著書を介して、じつに心温かなすばらしい手紙を何度も何度も戴いた。展覧会にも何度も呼んでもらった。深く深く心をゆるしあえた文字どおりの心友であったのに、橋本画伯は新世紀を待つことなく逝去された。くやしい、寂しい別れであった。死なれたと思い落ち込んだ。今でも寂しいのである。画伯はよく新潟の秘酒というべき旨い酒を、折りごとに送ってきて下さった。足柄の画廊から、発病されて本郷に移転して来られた頃に、逢いに行くべきだったかと悔やまれるが、因果なわたしの性格ではやはり遠慮が先立った。この講演録は、じつに優れた内容と生きた言葉とを蔵しており、むしろ橋本画伯の人と芸術を語ってこれに優るものはそう有るまいと信じている。奥さんにお願いして、ここに掲載させていただけるお聴しを得た。嬉しいことである。一字一句を校正しながら、襟を正していた。原題「笠井誠一讃歌」から「絵画への讃歌」と変えた。橋本さんの遺言のようにわたしは聴くのである。 1.5.31掲載)


 
 

 
    いのちの声がきこえますか  (講演) 
 
 
                          
             高 史明 (作家)
 

 

 * はじめに-いのちの問題を通して次世代を考える

 きょうのご縁、日本能率協会という会の催しだと伺いまして、いささか何か場違いな感じがいたしました、これが私の正直な思いでございます。
 しかしながら、今日の時代は、すべての人が裸になって考えていい時期だと、そのような思いでお受けいたしました。とはいえ、時間が限られております。話す道筋をしぼって考えなければなりません。「いのちの声が聞こえますか」と、このような講題をいただいていますが、差し当たっては日本と朝鮮ということ、これもまた今、世界の中のアジアにおいて
、私は大きな深い問題をはらんだ問題を提起しているように思いますので、その角度から一つ。もう一つ、その角度から考えられます今日の問題を、直接いのちの危機にかかわり、その事例を足元のところがら省みてまいりまして、それを二十世紀という時代にまで至った人間のどこにその危機の根拠があるのか、それを探りつつ、二十一世紀へ向かってどこに私どもの道があるのか、それを考えさせていただこうと思います。
 いのちと、このようなテーマで考えますとき、とりわけ私は、仏教の教えが大切だと思っています。私の場合、浄土真宗の教えを学んでおりまずけれども、真宗で教えられるところのいのちを通して、次の世紀への展望を考えてみたい。
  差し当たっては、まずは私の自分の仏教への歩みのきっかけからでございます。
 私は、一九三二年に山口県の下関で生まれました。両親は朝鮮半島から来た労務者でございました。その環境の中には仏教の縁はあまりなかったと言うほかありません。寺とも仏壇とも縁がなかったわけです。あとで気がついて見ますと、浄土真宗、親鸞聖人の教えが、様々な形で縁として身辺にあったと気づかされますけれども、四十三歳になろうというとき、一人ッ子が自ら死んでいくということがあるまでは、自分が仏教の教えと関係があるといふうには、あまり自覚的には考えたことはございませんでした。むしろ宗教とは無縁に人生を送ってきたし、それどころか、宗教は差し当たって現代生活を生きる私にとっては、大事な教えではないとそのように考えていたと思います。
 しかし、その私が浄土真宗の教えをいただくようになりました。きっかけは、一番大事な子が自ら、命を絶ってしまったということです。気がついてみると、南無阿弥陀仏をいただいていたということが始まりでございます。その子どもの死という縁をまず考えてみます。そこから現代生活の中に入ってまいりたいとそのように思います。

 * 残されたメモに「人間はみな百面相だ」

 思えば、子どもが亡くなって二十五年になります。死後に一冊の詩の手帳を残しておりました。ほんとうにたわいのない子どもの走り書きのようなものでございましたけれども、開いて読んでおりますと、子どもなればこそ言葉にしえたと思われるような非常に鋭い眼差しもそこにはございました。
 例えば、『人間』と題して「人間ってみな百面相だ」、と書いていました。たったの一行です。
 中学一年生の一学期が終わる前、十二歳と九ヶ月で世を去りましたけれども、苦しみが始まり、亡くなる一月ちょっとほど前のものでございます。
 その次に置かれていた言葉は『ひとり』でございました。「ひとり、ただくずれさるのをまつだけ」と、これもまたほんとうに恐ろしい言葉です。
 その次は百面相でした。一人である自分を確認し、その原因を見つめようとしたのでしょうか、『じぶん』と題する言葉が続いておりました。「じぶんじしんののう(二字に、傍点)より他人ののう(二字に、傍点)の方がわかりやすい。みんなしんじられない、それはじぶんがしんじられないから」。これが中学一年生の言葉でございます。これらの言葉を死後に目にいたしまして、私は、非常に大きな衝撃を受けました。その後、二十五年間、亡き子と言葉のない対話を繰り返してきております。ここには、この子が十二歳九ヶ月で亡くなっていく過程において抱えていた課題とともにこの子だけの問題ではない、多くの子どもたちの問題、そして今日の時代をも抉(えぐ)る「ひびき」があると思うのです。いや、さらには日本・朝鮮、あるいは世界の足下に潜む時代の闇をも抉っている。そのような思いもすることです。
 「人間ってみな百面相だ」とは、実に恐ろしい言葉です。しかし、これこそ、まさに何人も避けることのできない人間の事実ではないでしょうか。また、百面相であればこそ人間は、逆に真実を求めざるを得ない。そのような人間の抱えている業(ごう)が、そのまま言葉にもなっているような気がいたします。彼は人間のこの重荷に気づいていたのでした。「四苦」の内容を意味することになったとも言える。そして「ひとり、ただくずれさるのをまつだけ」と書いたのでした。「百面相」の内容の苦しさ、恐ろしさの現われであるかと思います。人間の隠れている事実を言語表現してみれば、この苦しさです。そして、彼は、その上に立ちすくみ一人であることを確認せざるを得なかったわけです。崩れさるのを待つだけとは、悲しい言葉です。
 しかも、その原因が自分というものにあったわけです。三番目に置かれていた言葉が明示しているのは、まさに人間の「自分」の抱えている闇です。
 〃自分自身の脳より他人の脳のほうがわかりやすい。みんな信じられない、それは自分が信じられないから〃。
 まことに「自分」とは何か、また「劣る」とは何かです。人類は二十世紀までの歴史を経て、理性を中心に自分のことは自分で責任を持って生きるという道筋を開きました。その意義は計り知れない。しかし、そこから、逆に自分とは何か、それが改めて問われているわけです。この子が最後に読んでいた本との関わりにおいて、いま一歩その内容を考えてみます。
 亡き子は、中学一年生の一学期が終わろうとする七月十七日に亡くなりました。まさか死ぬほどの苦しみとは気づきませんでしたが、様子はおかしかった。それは気づいておりました。様々な形で気づいておりましたけれども、そのおかしさの一つの顕著な例として、本の読み方がものすごい速さで、そして、ものすごい量になっていたということであります。最後は、食卓の上に本を置いて食事をしながら読んでいるという調子でした。
 「おかしい」と思いました。それはもう亡くなる寸前でございますが、私はその本を取り上げてみました。夏目漱石の『こころ』でした。『こころ』を持って二階の自分の部屋に行こうとする子どもから、ひょいとその本を取り上げてみて確認したわけです。漱石の『こころ』という作品、皆さんよくご存知だと思いますが、近代日本を生きた最高の知識人の一人であった漱石が、人間のこころをその時代において深く見つめて生んだ作品です。そこに、亡き子と同じような意味の言葉があります。「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用出来ないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪うより外に仕方がないのです。」
 しかも、漱石は、その『こころ』の主人公の苦悩をたしかにその時代と結び付けて考えていたわけです。「自由と独立と己れに満ちたこの現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しさを味わわなくてはならないでしょう」と彼は言うのです。自由と独立と己の尊厳が確立される時代のただ中で、人間はその己が信じられないという矛盾を抱えていたと漱石は見ていたのでありましよう。
 亡き子の残した言葉が、漱石のような深さを備えていたとはとても思えませんけれども、そこには通底する響きがあると、このように言っていいかと思います。
 しかも、これこそが現代の子どもの苦しみの根っこであり、またそれこそが大人の苦しみにも、通底しているものではないか。そしてそれは民族や国家を超えて、現代人が地球的規模で考えてもいい、そのような問題をはらんでいるのではないか、そのようにも思うのです。

 * 人間は何のために生きるのか

 次にそのように思うところの内容に入っていきたいと思います。
 今のような言葉を書き残していた子どもの詩の手帳を、私たちは出版いたしました。私たちは十二歳で死んだ子に、なお友達を作ってやりたかったわけです。姿はないけれども、世間の人たちにこういう子がいたということを知ってもらいたい、そういう思いだけで出版を承諾しまして、本にしてもらいました。

 ところでその詩集・『ぼくは十二歳』という彼の詩が世に出ましたあと、たくさんのお手紙を頂戴いたしました。中学生、高校生だけではなくて、大学生もおりました、あるいは父母からの手紙もございました。
 そういう手紙には、今日の時代を生きる人間の「自分」というものが抱えている問題、そしてその下に透けて見える二十一世紀に向けての私たちの課題、それがよ一く感じ取れる手紙が数多くありました。その一つ、代表的な手紙を読みながら次の方向へ進んでみたいと思います。
 日本人の中学三年生のお子さんからの手紙です。まずそれをちょっと読んでみます。下田麻理奈さんとおっしゃいます。
 「高史明様 岡百合子様。はじめまして。突然お便りを差し上げる失礼をお許しください。私は、『ぼくは十二歳』を読んで、岡真史君の死に思いを寄せる一中学三年生です」。
 これが書き出しでございます。そしてご自分もまた、人生とは何か、それを考えて、ノートを取っていたという心の状況、そういうことなど披露しながら、人間の問題をどう考えているのか。なぜ、手紙を書くことになったかを書いてありました。
 「私も小学六年のころから詩のノートを書きはじめ、現在、四冊目にいたっています。六年生のときにふと気づいた「なぜ生きるのか」という問いに答えを見つけようと読書し、感じ、考えることこそが生き甲斐だ…などとも思っています。私のそのつたない思考の中で「なんのために生きるか」ということについては、自分の理想や現実を少しずつ見極めてきたつもりです。それは一言で言ってしまえば、"真実を追求するため〃という平凡ではあるけれど…私にとってはそれこそ真実の理由なのです。」と言い、さらに次のようにも言っていました。
 「でも、最近その人間の中の真実というものに、いささか疑問を感じてきました。そこには、人間であるから、社会の中で生活しているから、という類の真実が多すぎるのです。精神のためだけの真実ではなく、私たちの肉体生存のための大人の良識が人間の真実としてのさばっているように思えるのです」。
 実に驚くべき言葉です。その当時私はもう仰天いたしました。しかも、さらにその先には次の言葉があったのです。
 『真実を追うために生きる』ということは、私にとって真実であるけれど、他の人々が多く共存しているということが紛れもない事実であり、人間社会の真実なのです。だから私は、人間としての真実を見極めるために考え、悩んで時間を費やしてきました。そして最近、それに疑問を持ったわけです。人間として自分があるために許す真実は、ほんとうに精神にとっても真実なのかと。精神にとって「われわれの存在」ということは、苦悩することではなく、それ自体が真実ではないかと。うまく言葉では言えないけれど、人間を超えた精神の中にもっとも大きな真実があるのではないか、私の肉体の存在を必要としない自由の中でこそ、真実をつかめるのではないかと思いはじめたのです。そして私は、死という言葉に行き当たりました」、そのように書いて、死を肯定していくその思いを非常に真剣に書いておられました。
 その当時私たちは、まだ死という文字を見るだけで背骨に何か寒けが走るような精神状態でありましたので、その手紙を頂いて、これこそ震え上がってしまいました。もう明日でも、この子死ぬのではないかと、そういう思いすら抱いて、電話をかけたりして、手紙をやりとりするということが、その後始まったわけでございます。
 そして今考えてみると、この手紙の少女の課題、この課題は、現代でもなおかつ十分に解けていないと思われます。それどころか、むしろほんとうの意味で生きるとは何なのか、どこに生きる根拠を求めたらいいのか、それを問いはじめると、それから二十何年か経っておりますけれども、いよいよこの問いは重くなっていると思えます。生きる意味がよけいに見えない状態が来ているのではないか。現代の様々な事件を見ましても、まさにその内実は、私たちに人間そのもの、その根っこからの問いを提起していると言っていい。大人の問題もそうですが、昨今は少年たちの「犯罪」もそうではないか、特に十四歳のあの神戸の少年が、同じ子どもの首を自分の学校の小学校の正門の前に置いて来るという出来事があってからは、一層、そういう様相が深くなっている、そのように思われます。
 いま、私たちは何処にいて、何を問われているかです。私は、今日の事態はもう少し前から始まっているように思います。言うならば、経済の高度成長がこの国を潤わせてくる頃、その一方ですでに子どもの世界にそれとは逆の意味の暗い様相が次々に起きてはいなかっただろうか。そしてそのときそのとき、大人は対症療法的に対処して、それらの事態の根を深く考えることなしに見すごしてきたのではないか、そのように思われます。
 例えば、少し前のことですが、日本におけるフランス語、フランス文学の方の開拓者の第一人者であるというふうに言われてもいいと思いますが、東大の教授であった方のお孫さんがお祖母さまを殺害して、そして自ら自殺するという出来事がございました。あの事件の中にも、恵まれた環境で、恵まれた才能を持って大きくなりながら行き場を失った少年の、私は悲鳴のようなものを感じております。また、今の方は、フランス文学のほうの方でしたけど、英文学の開拓者であったその方のお孫さんがやはりお祖父さまを殺害するという出来事がありました。日本の一番大事なところの学問を、それぞれ先駆者として開いた人の家庭が危機を告げていた。その家族の悲しみ、そしてその子たちの苦しみ、あれは当事者の意図を超えた時代の闇を告げる警戒信号というもの、命の危険信号というものではなかったか。今日、それが
どっという勢いで現れ出てきているのではないかと、私は、そのような思いも抱いています。

 * 福沢諭吉の実学の教えに学ぶ

 ところで、その根っこにあるのは何であるのか、それを考えます。それを考えていきますことは昨今の問題だけではすまない二十世紀全体に関わる問題であり、そして、それをしっかり見つめないことには二十一世紀は開けないのではないかと、そのような思いすら抱かざるを得ない、そういう出来事としてあるように思います。
 ですから、昨今の少年たちの犯罪事件とかかわって、少年法の改正ということで考えられる側面もありましょうけれども、それだけで受け止めて、はたして問題がほんとうの意味で解決するかどうか、そういう根の深い問題を含んでいるのではないかと思っております。それを、なぜそう思うか、そういうことから次に話を進めてまいりたいとそのように思います。

 恐らく問題は、少なくとも明治維新の頃まで、立ち返って考えられていいものを抱えていると思います。あの変革の根っこには、何があったのか、何を基準にしてどういう展開を遂げて今日に至っているか。今日の問題を考えるときに、少なくともその程度の尺度で考えてもいいのです。飛躍するようでございますけれども、目前の問題は、時によっては、百年、千年の課題を潜めていることがあるのです。
 例えば、日本の浄土真宗でいえば蓮如上人の五百回忌が今、勤まっているようでございますけれども、その内実をよくよく見つめる目があればそこに、蓮如上人が、五百年前に提起された問題が、今もってまったく古くない、まったく新しい、そういう問題としても考えられます。そういうことから少なくとも明治維新の前後から、私ども何に当面して、それをどう切り抜けて、そしてそこに何があって今日に至っているか、そういう課題で考えてまいりたいと思うわけでございます。その辺から考えてみたいとそう思います。今日の私どもの生活、ものの考え方、その考え方の根っこを押さえてみると、たしかにそこに共鳴するものがあるわけです。
 今日の私どもの生活、あるいはものの考え方、いろいろなもので支えられていますが、その象徴をひとつ取り上げますと、福沢諭吉先生だと言っていいかと思います。かっては聖徳太子が日本の代表する顔でございましたが、今日は一万円札の顔は福沢諭吉でございます。それはまた福沢諭吉のものの考え方が、世間の一般的な基準になっているんだということでもありましょう。
 では福沢諭吉という方は、どんな考えを持った人であったか。いろいろな角度で考えられましょうけれども、例えば、明治維新との関わりで考えますと、『学問のすヽめ』は、その代表的なものの考え方だと言っていいかと思います。あるいは丸山真男先生が亡くなる寸前は、『文明論之概略』を読みなおしておられましたけれども、この二十世紀の激動期において、福沢諭吉があの明治の頃の激動期をどのように見て切り抜けていったか、丸山先生は丸山先生で考えようとしていたんだろうと、そのように思いますが、その福沢先生です。
 差し当たっては、まず『学問のすヽめ』の要です。皆さん、よくご承知のようにこの「すヽめ」は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」で始まります。アメリカの独立宣言の思想に学んでいると思われますが、この言葉によって『学問のすヽめ』は始まります。
 そのうえで、平等であるはずの人間世界になぜ不平等があるかということを押さえるわけです。「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり」、とそのように押さえています。
 そしてその学びの中心に、福沢諭吉は「一科一学も実事を押へ、其事に就き其物に従ひ、近く物事の道理を求て今日の用に達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たるものは貴賎上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、此の心得ありて後に士農工商各其分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し家も独立し、天下国家も独立すべきなり」と、このように押さえておられました。
. 要は実学でございます。文学というようなものではなくて、今、この時期は実学こそが大至急に身につけなければならない、そのように述べておられている。私は、これは非常に正確な眼差しであったというふうに思います。
 例えば、幕末から明治維新にかけてどういうことがあったのか、あの時代、佐久間象山は西郷隆盛や勝海舟に大きな思想的な影響を与えた人ですが、この人物のアヘン戦争にかかわる不安においてそれを見ることができます。上田藩士に送った手紙があるわけです。
 「…ときに清国、イギリスと戦争の様子は、近頃御伝え聞き候や。慥(にわか)に承候とも申かね候ことに候へども、近年の風聞にては、実に容易ならざることに存じられ候」というような形で、アヘン戦争の行く末を心配しておられました。その背景には、アジアに押し寄せてきたヨーロッパ文明列強の圧力で日本もまたアヘン戦争の脅威にさらされた清国と同じように、下手をすると植民地になってしまうのではないか、そういう恐れがあったと私は思います。
  そのような状況の中で明治の変革があった。そうであれば実学こそが要で、それで身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなりと、そのように考えられたのでありましょう。その目は実に正確だったと、私はそう思います。
 しかしながら、まさに福沢諭吉がその一八七二年の時点において、実学という言葉で考えました要こそが、今日に新しい問題を孕むことになっているということです。この「実学」とは今日の言葉で置き直してみれば、数学的合理性に基づく科学と言っていいと思います。ところで、それが百年たってみると、私たちがただただそれを導入して、身につければそれで済むものではない闇を潜ませていたのではないかと言うことです。これが、今日の世界的な現実の問題になっているのではないかと、そのように思います。
 例えば福沢諭吉の『学問のすヽめ』は一八七二年でございますけれども、ほぼ百年後の一九七二年でしたが、第一次石油ショックがございました。あの第一次石油ショックの前には、アメリカでは近代経済学が学問としては見事に結晶しているわけでございます。ソ連の経済学などというものは、学問とは言えない、ただの観念論だという眼差しで、数学の知識を駆使しての見事な学問が誕生していたわけです。しかし、その経済学が、あの第一次石油ショックを、ほんとうの意味ではたして引き受け得たであろうかということです。むしろ、その後の状況を見ますと、実際にはそれ引き受けることができなかったのではないか。にもかかわらず、その後の次々に起きる状況に対処療法的に対応してきたことが、今日の経済状況の不透明さとしていま私どもの身辺に迫っているのではないか。そして今日の子どもたちの成長の過程の問題と、その根っこの闇は、実は、連動しているのではないかということです。
 近代世界を生み、現代を支えている科学は何かということです。福沢諭吉のときはそれは有効でした、戦後も有効であった、そして現代も、世界中に合理的理性と科学というものが、人間の生き方の中心としてあるわけですが、しかし、それがそのままでいいのかどうなのか、そういう問題があるということです。それがどういうことであるのかということに次に話を進めてまいりたいとそう思います。
  実際、理性とは何か。科学とは何かということです。それは矛盾を孕んでいないか。その整合性にはまた、深い矛盾も潜んでいるのではないか。私は、今日の人間は科学を問うという形で、人類の全体を非常に深いところで問い直さなければ未来は開けないと、そのような大きさの問題に当面しているのではないかと思うのです。

 * 人間を中心とする仏教実学──"生きる目的"

 明治のはじめには、福沢諭吉は時代の要を実学とおさえました。一方、教育の要でいうと、それは、『幼学綱要』であったと言えましょう。しかし、この「綱要」はそれから教育勅語に至ります。その過程にも「実学」に潜む闇の日本に特有のねじれ現象を見ることができますが、教育の問題はひとまずおいていて、ここではまず、実学を中心とするものの考え方と有り様を、仏教を鏡にして考えてみます。実学は差し当たり人間中心です。すると、仮にそれを自力というふうな言葉で押さえてみることができますが、その「自力」とは何かです。
 親鸞聖人の『教行信証』の行の巻にこういう言葉がございました。
 「当にまた例を引きて、自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるがゆえに、禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆえに、よく禅定を修す。禅定を修するをもってのゆえに、神通を修習す。神通をもってのゆえに、よく四天下に遊ぶがごとし。」そしてこう言います。「かくのごとき等を名付けて自力とす」。
 人間は地獄に落ちるのを恐れる。だから仏教でいう戒律を守る。今ふうの言葉で言いますれば、幸せを求めるが故に世間の理性にもとづく規則を守る。科学の世界で言えば、合理的な理性で把握した合法則的な行動を取ると、このように言い直すこともできましょう。そのような生き方をするというわけです。
 法を守って生きる、理性の約束事を守って生きる。そしてそのような生き方をしてゆけば、禅定を修す、つまり精神の統一を実現していくことができる、このように見ておられる。それもそのとおりであります。さらにまた、「禅定を修するが故に神通を修習す」と言う。合理的理性をしっかりと身につけて自然の法則を把握していく人間は、まさに今日神通力を手にしていると言っていいように思います。孫悟空のような力を自由自在に駆使しているわけです。居ながらにして、インターネットを通じて一瞬にして世界中と交信が実現します。飛行機に乗れば日本の反対側のブラジルに二十四時間で到着します。地下から石油を掘り上げて文明生活のためにこれを役立てることもできている。人間はいま、一昔前には信じられないような力を、まさに神通力に匹敵する力を手にしているわけです。
 それを親鸞聖人は、「かくの如き等を、名付けて自力とす」と、このように「論註」からの引用をもって位置づけてありました。たしかにいま人間は、自由自在、どこへでも好きなところへ行ける、好きなものを手に入れることができる。クローン技術を駆使すれば、コピー人間もまた手に入れられる時代でございます。寿命の問題もひょっとすると解決するかもしれない。いわば時間空間の壁を突破しようとしております。しかし「自力とす」という言葉の中には、実は、非常に鋭い眼差しがあると思います。対象化する合理的理性で手に入れられるそれらのものは、実は、ほんとうの幸せではない、ほんとうの命ではないということです。そこに実現される私たちの生活環境は、お浄土の命の輝きがない、そのよう
に言われていると思う。その真実、私は恐るべき仏教の眼差しだと思います。それはしかし、またほんとうにそうなのかどうなのかということを、もう一歩現代生活の中に下りて考えてみたいと思います。「かくの如き等を名付けて自力とする」、神通力を得たとしても、それはほんものの幸せに結びつかないと言われたことの意味は何か、でございます。
 さきほどの下田さんの手紙にもう一度戻ります。彼女は、何のために生きるか、それを問いました。そして、肉体の生存を必要としない精神のための自由、精神に生きる、そこに真実があるのではないかと言いました。そしてそれゆえに、ほんとうに苦しまれたと思います。
 高校に進みまして、さらに漱石の『行人』という作品をテーマにして、自分の考えていること、その悩みをもう一歩具体的に提示しておりました。そこにもまさに、現代に通じる問題があるように思います。
 まあ卑近の例で言いますれば、最近は、日本の文芸家協会の会長さんでもあった江藤淳さんの自殺に通底している問題です。江藤さんの死は個人の死でございますけれども、文芸家協会の会長であったということをその死に重ねてみますと、ある意味ではその死は日本の現状を象徴しているような死ではなかったか。個人の死というふうには考えられない面がある。そういう死をも含んで、私たちの今日の生死に通底している問題を、高校生の下田さんはすでに提起していた。
 これは私の思いこみであるかも知れませんが、中学三年生のときから「死ぬ、死ぬ」と言っていた下田さん、そのたびにこっちは震え上がっていたわけですが、その彼女が死ぬということを言わなくなったのは、東大の三年生になってからでした。秀才で自分の思うとおりの世界へ進んでいたわけですが、三年生になって手紙をくれまして、「死ぬということをやめた」と初めて言った。何でやめたのかと言いましたら、山登りをしたそうです。
 山の頂上に立って、後を振り返ってみると、頂上へ来るまでには、右の足、左の足を交互に動かしてきたわけです。この事実に頂上にきて気がついた、というのです。そして言う。ところが私は、右の足、左の足と交互に動かさなければ辿り着かない頂上に、一気に辿り着こうとして苦しんでいたと。そして死にとりつかれていたんだと、そういうふうなことを、大学の三年生になって言って来るようになったのでした。
 そしてそのような彼女のものの考え方の展開の根っこには、漱石の『行人』の苦しみが横たわっていたのでした。中三のときの手紙は、さきほどのようなものでした。ところで、高一になってまた、もっと詳しい手紙を寄こしてくれたわけです。そして、自分が考えている問題を、夏目漱石の『行人』に重ねて述べていた。そこにまた、現代の闇にそのまま通じていると思われる目があるのです。ちょっと読んでみます。
 「その後、『行人』に見いだした次の言葉は、まさに私が死を思うときそのままの言葉でした。三九段冒頭の〈死ぬか気が違うか、それでなければ宗教に入るか、僕の前途にはこの三つのものしかない〉という兄の言葉。その前の、〈兄さんは自分が鋭敏なだけに、自分のこうと思った針金のように際どい線の上を渡って、生活の歩を進めて行きます〉という兄の姿、そして四四段の終わり、〈…僕はぜひとも生死を超越しなければだめだと思う〉という言葉に、私は強い打撃を与えられました。これらの言葉ばかりを自分に当てはめてみることは決して『行人』をほんとうに理解していることにはなりませんが、ともかく、その時の私の心のうちは、この"兄"そのものだったのです。ただ、宗教というものをまだ知ら
ないので、〈死ぬか、気が違うか〉─そして再び〈自死〉とく狂気〉という言葉が私を強くとらえたのです」。
  ところで、彼女が自分の苦しみそのものと捉えていた『行人』、この作品には、一八七二年に、福沢諭吉が『学問のすヽめ』において提起した「実学」の孕む闇が、形を変えて見つめられていたと考えられなくもない。通底するものがあるのです。しかも、それは日本だけではありません。世界的な闇の根っこです。近代の闇です。そして私はその闇を朝鮮と日本との関わりでも、考えないではおれないと言いたい。
 夏目漱石の『行人』については、だれも文学から離れて評価しませんが、私は、また別の角度からも彼女の手紙などにも刺激されながら、考えるのです。『行人』が発表されたのは一九一二年でした。一九一二年。ところで、日本の朝鮮併合が一九一〇年でございます。朝鮮併合に至る過程には、日清、日露の戦争があり、それに日本は勝利するということがありました。いわゆる近代ヨーロッパの怒涛のような嵐、その根っこにあるものを一刻も早く身につけなければならないと考え、その嵐の下で文明開化を遂げていった日本のその後、それが相次ぐ戦争となり、ついには朝鮮併合に至っているわけです。『学問のすヽめ』で言うなら、いわゆる実学を身につけ、身も独立し、家も独立しというわけでありましょう。必死に求めて独立を実現した、そして日本は外側から見ると、近代の上昇街道を驀進していたのであります。しかし、漱石は『行人』という作品において、文明開化を遂げて身も独立し、家も独立したにも関わらず、その独立した個の中味は、死ぬか気が違うか、さもなければ宗教に入るか、という苦しみでいっぱいだったというわけです。しかも、宗教はないのではないかと見ている。ここには今日の私たちの苦しみの根っこが、すでに非常に深く見つめられています。とはいえ身も独立し、家も独立したにもかかわらず、死ぬか、気が狂うかの苦しみがあるとは何ゆえでありましょう。これこそがまた、今日の問題ではないでしょうか。これこそが「自力」の闇であります。

 * 目的と行動の矛盾からくる苦悩
      死ぬか、気が違うか、宗教に入るか

 例えば、朝鮮併合について、日本の歌人石川啄木は歌を詠んでいます。
   地図の上 朝鮮国に黒々と墨を塗りつつ 秋風を聞く
 これは啄木の歌でございまRけれども、この寂しさの裏側には、近代の闇を見つめている目がある。
 漱石の『行人』の中に描かれている「死ぬか気が違うか、さもなくば」という苦しみも同じ問題でございましょう。それにしても外側から見るとすばらしい隆盛が、どうして、死ぬか気が違うかになるのでありましょう。しかもこの苦しみは、その後の三十二年のいわゆる満州事変からの十五年戦争の悲惨から思い返すと、恐ろしい現実となっていることがわかります。とりわけ、いわゆる特攻隊員として死んでいった若者の心の苦しみが、すでに言い当てられているわけです。漱石は何を見ていたのか、『行人』をもう少し深く考えてみたいと思います。漱石は、日記を克明に書いてきた人でした。ところが『行人』を書いているときは、日記を一行も書いていないと、言います。.要するに日記に書くような心の問
題を、全部この『行人』という作品の中に叩き込んだのが、漱石の『行人』という作品なのです。ところで、彼は主人公の苦しみを語り出すその語りはじめの言葉を、私たち人間全体に関わる苦しみの根源を掘り起こす言葉ではじめていました。
 「兄さんは、書物を読んでも、理屈を考えても、飯を食っても、散歩をしても、二六時中なにをしても、そこに安住することができないそうなのです。何をしても、こんなことはしてはいられないという気分に追いかけられるのだそうです」と。現代の人々もまた、いま同じ気分に追われているのではないでしょうか。
 なぜ、そうなるのか。なぜ、じっとしておれないのか。『行人』の主人公の言葉はこうです。
 「自分のしていることが、自分の目的になっていないほど苦しいことはない」、と。実に明快です。しかし、これこそ人間の根源的矛盾の表現ではないでしょうか。
 私たちは日常的な次元で考えますと、人間には理性がある、そのように考えています。その理性は、目的を立てることができ、そして、その目的に向かって行動を起こしてゆく。したがって、人間とは目的と、することと、が一致していると、普通は考えるわけです。そういう立場から言いますれば、人間にそのような力が備わっていることが、人間の優れたところだというふうに見ることができる。その理性中心から唯物論が生まれます。例えば、蜂は実に精巧な巣を作って、自分の子孫を残していくけれども、前もって青写真を書いて目的をもってそのような蜂の巣を作り、生計を営むものではない。しかし、人間は目的をたて、青写真を描いて、その実現に向かうわけです。そこに人間とほかの生き物の違いがあるんだという。その人間中心が、十九世紀、二十世紀の私たちの立脚地でありましょう。それが幸せに通じると見ていた。
 しかし、漱石は、すでに一九一二年の段階で、その人間中心の裏側を見つめて、「していることが目的と一致しない」と、このように言っていたわけです。人間とはすることと目的とが一致しているかのように見えて、実は一致していないわけです。ここに人間の知恵の矛盾と闇があります。
 大学へ入りたいという目的をもって、それに合わせて自分のすることを統一していく。その限りでは、何か一致しているように見えまずけれども、まさにそこに人間の理性の落とし穴があります。一致しているように思えるものは現象である、虚仮である、仮である、その積み重ねはどこへ行くか、死ぬというところに到達します。自分のしていることは、自分が目的としなかった、しかも最大の問題である死に向かって全部流れ込んでいくというのが、人間存在の抱えている矛盾だと、漱石はそれを見抜いていたんだと思います。
 友人は「そういうようなものは君一人だけ苦しんでいるのではないと悟ればそれまでじゃないか。つまりそう流転しているのがわれわれの運命なんだから」とこのように慰めます。しかし、この『行人』の主人公は、その個人の問題を個人の領域に納まる問題ではないということで、次のような表現で反発するわけです。
 「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつてわれわれに止まることを許してくれたことがない。徒歩から車、車から馬車、馬車から自動車、それから、飛行船、それから、飛行機とどこまでいっても休ませてくれない。どこまで連れて行かれるかわからない。実に恐ろしい」と言う。ほんとうに恐るべき言葉だと思います。
 飛行機はジェット機になり現代人は、さらにミサイルを飛ばすことができます。しかも、戦後、広島の原子爆弾の体験を踏まえたうえで、なおかつ人間は核融合爆弾というものをつくり出しました。太陽エネルギーはどのようにして燃えているか、その構造を解明した知恵で最初に作ったものが核融合爆弾でした。広島型の爆弾で言いますると、広島に落ちた原子爆弾、あの核分裂爆弾は一発が高性能火薬に換算して五万トン分の火薬が破裂したと、そのように言われておりますが、アメリカが最初に実験した核融合爆弾は、一発が一六〇〇万トンでした。五万トンが一六〇〇万トンです、もう恐るべき破壊力、比較になりません。
 その当時、ソ連という国があってフルシチョフが首相のとき、彼がやった実験は、何と一発が六〇〇〇万トンです。高性能火薬に換算して六〇〇〇万トン分の火薬が爆発するというような爆弾を備えた。しかもそれが地球の反対側に向かって誤差数十メートルの正確さで届くという運搬手段まで手に入れてのことです。確かに、どこまで連れて行かれるかわからない、実に恐ろしいと、これは実に正確な私は恐怖感だと思います一方、戦争がない、核爆弾の恐ろしさがないとして、「死」を克服することになれば、同時に完全なバーチャルな世界が出現してくるのでもありましょう。そのとき地球はどうなるか、そして、現代に起きている様々の状況があるわけです。この日常は実はそのような状況としての恐ろしさとともにあって、それが日々に私たちの皮膚感覚の次元において毛穴のところでしみ込んでいると見ていいように
思います、これが現代の不安の本質ではないか。
 漱石は人間のこの無明を、早くから見ぬき苦しんでいたわけです。神経衰弱になって胃が悪くなるのは当たり前だったと思います。
 その苦悩の表現が、死ぬか気が違うか、宗教に入るかです。つまり、自分のしていることが自分の目的にならない根源が、自分という知恵にあるとするならば、自分が死ねばその苦しさは解決します。その次、自分が狂気になれば、これは解決します。だが、死ぬことも気が違うこともできないとすると、宗教しかないとなります。しかし、科学の時代にあっては、宗教は今日だれも省みようとしないわけです。
 これが彼の時代でした。彼は刻一刻とその苦しみを生きていきました。そして最後に行き着くところは、宗教がなくとも、絶対の境地に至ればそれは解決するんではないか、そのような思いに進みでる。"則天去私"が漱石の座右の銘であったと言われますけれども、そういう境地に至れば、と思うわけです。
 しかし、その極点で彼は人間の究極的な問題に鋭く当面することになるのでした。その人間の究極の矛盾とは何か。漱石の言葉で言えばこうです。
 「僕は明らかに絶対の境地を認めている、しかし、僕の世界観が明らかになればなるほど絶対は僕と離れてしまう。要するに、僕は図を開いて地理を調査する人だったのだ。それでいて、脚絆を付けて山河を跋渉する実地の人と同じ経験をしようと焦り抜いているのだ。僕は迂闊なのだ、僕は矛盾なのだ。しかし、迂闊と知り矛盾と知りながら、依然として藻掻いている。」これこそ人間の究極の矛盾です。絶対の境地に至ればいい、ということまでわかったわけですが、わかった途端にその絶対が離れるというのです。人間が分かるということには、この矛盾が潜んでいるわけです。対象的に分かるとは地理の上でそれがわかるということと同じであって、脚絆を付けて実地を踏査している人と違うということです。その人間の有り様がここであらわになるわけです。
 さきほどの下田さんの、山の頂上での気づき、右の足と左の足を動かしてはじめて頂上に着いたのだということ、彼女はひょっとすると、この漱石の作品なんかからもヒントを得ていたんではないかと思います。たしかに、右の足、左の足と動かして、頂上に行く着くことと、地図の上で行き着くことの間には、天と地ほどの開きがあります。いや、その開きは、天と地というだけではないと思う。言葉を超えた違いです。今日の根本問題です。
 下田さんの話を先取りしてみますと、彼女は死ぬのを止めました。今日は、立派なお医者さんとして、ご主人といっしょにアメリカに行っておられるようですけれども、その後もまた嬉しい手紙をくれたことがありました。結婚して赤ちゃんが生まれました。そして、それを知らせてきた言葉の中に、言葉はちょっと正確ではありませんが、私たち夫婦が思わず吹き出すような言葉がありました。
 「赤ちゃんは可愛い、こんな可愛いと思わなかった」といい、そして、「この子がもしも死んだら、私は生きてはおれません」と書いてあった。私たちは嬉しくて笑いました。
 あれだけ死ぬ死ぬといっていたあの時、もし彼女が死んでいたら、お母さんがどれぐらい悲しむでしょう。それを彼女はまったく考えていなかったわけです。自分が母親になって、やっとそれに気がついた。赤ちゃんの力というのは非常に大きいものでした。いのちの喜び、誕生の喜びが、一歩一歩の足の運びに気づいた。彼女にいま一つの力として付け加わりました。
 しかも、それだけではありませんでした。アメリカへ行ったあと、お母様が脳出血で突然亡くなられました。大変悲しんでおられました。その悲しみを知らせてきた手紙ではこんなことが書き添えられてありました。
 「母が亡くなってまだ大事な話をしていないことに気づきました。これからもほんとうに母と話をしたい。母は姿・形がなくなったけれども、それだからこそこれからもずっと私は、姿亡き母と対話してゆくつもりです」。
 私は、その言葉を見て思いました。現代の若手の超一流の知識人に育ってきたその子が、姿なき母と会って、初めて仏教、仏さまとの対話の中に自分の人生の真実を見つけようとしているのだと。対象化できなくなって知る出会いがある。漱石が『行人』で提起していた問題は、実はそういう人間を一方では生んでいるわけです。そしてまた逆に言うと、その問題を見失っているところに、実は、今日の困難が実に深いところには進行しているのではないか、そのように思います

 * 日韓の間にある大きなハードル

 話ががらりと変わりますけれども、朝鮮と日本の関係、金大中大統領が誕生しまして、非常に空気がよろしくなってきました。しかし、私はまだまだ大きなハードルが一つも二つもあると思います。国際的な関係ばかりではなくて、相互の理解の中の問題においてもあります。ちょっと脱線して、仏さまとの対話にもう一歩深く入る前の前哨として横の話を一ついたします。
 金大中大統領の対日関係の顧問に、池明観という方、大変優れた学者がおられます、ニュースで放映されていたことです。日本との文化交流の責任者でもあるようですけれども、この人は、なかなか厳しい日本批判をもっておられるようでした。非常に理性的な立場で日韓交流の道を模索しておられる方だと思いますし、大いに尊敬しているわけですが、一つ、気になることがございました。
 仏教がとても嫌いな方のようでございます。どうして嫌いなのか。元が朝鮮に侵入してきましたときに、ときの高麗の王さまは江華島へ逃げました。そして、仏教の僧たちは大蔵経の印刷に夢中になって、民衆の塗炭の苦しみを省みようとしなかったというわけです。こんな宗教は役に立たないということで嫌いになったようでございます。
 ある意味でそれは当たっておりましょう。先生の民衆を見る目の深さを感じることです。しかし別な角度で言いますと、その時代、大蔵経の印刷もさることながら、民衆次元で四十年間、元との戦いが朝鮮半島では繰り広げられていたわけです。この「義兵」はもう少し深く見つめられていいと思います。一説に四十年間もつづいたと言います。そしていまの韓国の金海には日本侵攻のためのその造船所があったようですが、それが二度焼き討ちにあって、十年間、日本の侵攻は遅れていると言います。
 ところでその抵抗を担っていた軍隊とは、三別抄という正規ではない庶民の軍隊でございました。最後は済州島のほうにまで追い詰められて、済州島から日本に援軍を求める手紙を送っておりますけれども、日本のときの政府は、まあ字があまり上手でないというぐらいで片付けて、あまり真剣に取り上げなかった、そのような記録も戦後には発見されているようですけれども。
 先生はこの義兵の存在をもって、朝鮮と日本の歴史の違いの底流を見ておられますが、その違いはもう少し深く見られていい。この三別抄の人たちの思想的な根拠は、浄土教ではなかったかということです。浄土教、つまり仏教が民衆のものになった強さというものが、すでにあったわけでございます。仏教の深さはよくよく考えられていいと思う。もし、日本と朝鮮の違いを言うなら、日本では法然の浄土宗によって、仏教の根本的民衆化が実現され、それが親鸞の浄土真宗を生み、そして蓮如上人の登場になって、日本史に新しいページを開いていると思えることが上げられています。そういう深さで仏教を考えてみるときに、仏教のもつ意味の日本史、アジア史における大きさというものがもう一度ここで考えられていいと思います。仏教が現代の混沌から新しい科学を生む可能性すら考えられるわけです。これが両者の未来にも大きな意味をもつのではないか。
 ところで、仏教の眼差しの深さは、何処にあるか、元にもどって考えることにします。さし当たりは現実からです。「実学」はなぜ、私たちにとって大事なものでありながら、私たちの今日の状況にそぐわないのか、それを子どもの問題から改めて申し上げてみたい。そして、今日の現実と仏教の関係を考えたい。
 昨今の少年たちの犯罪について、さきほども少年法の改正というふうなことに目が向いているということも申し上げましたけれども、もっと私は非常に深いところで考えていいように思います。
 まず、大まかなところがら申し上げます。十七年間人間世界で大きくなってきて、そして普通に頭のいい子で、普通に大きくなった子が、人殺しをしてみたいから殺してみるということをやってのけるということは何かです。理性は何であるのか。これはいっぺん根こそぎ考えていい問題です。
 あるいは佐賀の少年がバスを乗っ取って、やはり人質を殺しました。そして、そのおばあさまを死にいたらしめる過程の中で告げていた、新聞の中の言葉でございましたけれども、「年寄りはまあ先があんまりないから、年寄りから先に殺す」ということでございました。ある美容院さんに来た八十のおばあさんがそのニュースを見て、カンカンになっていたそうです。年寄りはあまり先がないから、先に殺すとは何事かということで怒っておられた。
 あの少年の発言、そして豊川の少年、殺してみたいから殺すというその発言、別々のようですけれども、実は根っこは通底していて同じだと思います。佐賀の少年からいえばこの発言は極端に合理的でございます。先のあんまり長くない年寄りから先に殺すと言う。その合理性が貫徹するところに、実は体験としての命の深さ、本物の経験が欠けているという現代の、これは恐るべき状況が横たわっていると思います。
 佐賀の少年のあの発言を聞いたとき、私はドストエフスキーの言葉を思い出したものでした。ドストエフスキーは『罪と罰』という作品などが大変有名ですけれども、『罪と罰』というあの作品は、彼の『貧しき人々』というような初期のリアリズムに即した人間観から見ると、質的にまったく違う作品でございます。しかし、彼はあの作品を通して、近代文明の基礎の合理的理性を追求し、抉ったのでした。あの主人公のラスコーリニコフは思うのです。自分には才能があり、若さもある、ただ一つ金がないと。ところが、おばあさんの方は、才能もなければ寿命もないのに金だけ持っている。そんな不合理なことがあるか、というわけです。その金は若さと才能のある自分のほうへ回してこそ、それは役に立つものだということで、あのラスコーリニコフという秀才は、おばあさんを殺害しました。要するに合理主義の貫徹でございます。役に立たないところに金を置いておいてもしかたがないということでございます。だから、どんなに追求されても彼は、罪を認めません。それがいいと信じているからです。
 ところでドストエフスキーはその作品の末尾をどういうふうに展開させてゆくか、彼が罪を認めるきっかけになるのは、十六歳の娼婦の勧めでした。娼婦というもっとも貧困で、もっとも悲惨な生活をしてきた十六歳の女の子、まさに不合理そのものであるような存在の、その女の子が秀才に向かって言う言葉、これこそ私は現代に通じていると思います。
 〃あんたの罪は大地に対する罪だ。大地に告白しなさい、大地に謝りなさい〃 そのように告げられて、あのラスコーリニコフは自分の犯した罪のもっとも深い暗黒を知ったのでした。殺人は同時にもっとも深い生命に対する罪であり、それこそが近代合理主義が見失っている大地に対する罪であるわけです。それを彼は知り、通りに走り出て、大地に膝まづいて告白する。そのような光景をドストエフスキーは結びに持ってきていました。

 * 科学的合理性と絶対的矛盾

 言うなれば、ドストエフスキー氏は人間中心の現代文明の根っこの闇を見ぬいていたわけです。ところであの作品の前に彼は『地下室の手記』を書いていたのです。時期は幕末から明治にかけてのことです。世界が数学的合理主義のレールの上を驀進しはじめた頃です。彼はその進化のはじまりのただ中で『地下室の手記』を書き、その中で何を言うか。
 「諸君、二・二が四というのは、もう生ではなくて死の始まりではないでしょうか」、恐るべき洞察です。近代文明は世界戦争に連らなり、ロシアでは、その後ロシア革命があり、そして革命戦争の二十世紀の時代があります。その根っこが、二・二が四の合理性とは、何という矛盾であるのか。ところで、この二・二が四を絶対としているのが科学的合理性なのでした。しかも、それが絶対化されている。それが、今日、世界の闇の根っこではないのか。私はそれを考えること、そこに今日の私どもの足元の問題の闇が浮かび上がってくると考えています。二・二が四とは、何であるか。
 ちょうど明治維新の頃でございます。一八六八年が明治維新ですが、そのほぼ二十二年後の一八八六年、フランスのアナトール・フランスという有名な作家が『学校』という短文を書いています、小説です。しかし、ここに見事な目がある。算数でいい点数を貰った女の子が、そのことを帰ってお母さんに報告して尋ねました。「いい点数は何の役に立つの、ね、お母さん?」、実にいい質問です。今日、このように子どもに質問されて、自信をもって答えられる大人がはたしてどれだけいるか。「いい点数は何の役に立つの、ね、お母さん?」。たいていの大人は「いい学校に行けます」というふうに言うのでしょう。
 そうすると、漱石の言うところの、自分のしていることが自分の目的にならないという矛盾にぶちあたることになります。オウムの知識人が落ちこんだ矛盾も同じではなかったか。いい点数は何の役に立つのか…。もしもそれが、成績の悪い子からの質問であったとすると、親はきっと怒ると思います。そんな質問するんだったら、もっとまじめに勉強せい、二・二が五と言っている奴が何を言うかと、カンカンになって怒るに違いない、学校の先生もまずは怒るんだろうと思います。実は、そこに、いい点数とは何であるかがわかっていないという問題があるのです。
 アナトール・フランスは、その闇を見ぬいていたと思います。私どもは「二・二が四」と解答を出せばそれで済みます。そして「二・二が五」と言えば、それはだめだとこういうふうになります。そして、なぜ、五になるというのかは、大人はまず考えません。これが大人の常識でありましよう。
 アナトール・フランスは、:一二から四を引くといくつになるかという問題提起をして、数とは何かを問うのです、それがわからない子がいたのでした。普通はもっと勉強せいになります。ところがアナトール・フランスは、なぜわからないかを考えます。わからなかった子は何がわからなかったのか。教えられると、残りは八つだということはわかる。ところが、その残りが八つの帽子か、八つのハンカチか、それがわからないとこう言います。
 考えてみると、ただの抽象的な記号としての「8」というものは、自然界には一つもないのでした。「8」は、人間世界の中にだけあります。その人間世界だけにある記号を絶対化するならば、その絶対化のうえに構築される人間世界が、自然と完全に断絶していくのは、ものの道理でございましょう。
 アナトール・フランスはそれをただの八というものが飲み込めない少女の目を通して明らかにするのです。「8」という記号がのみこめない少女は、記号を必要としない他の生き物とでは話ができると思っております。飼い犬とか小鳥とか、そういうものと話ができるように思っております。その少女の目を通して彼は言います。
 「言葉がわかりあうためには、お互いに愛し合うのに越したことはありません」と。言葉とは相互に理解し合うためにあると考えられています。対話の重要性は否定できません。しかし、その言葉ゆえに人間は、愛を失い、憎み合い、誤解をつみ重ねる。にもかかわらず、「8」を絶対化しようとすることがある。これが人間中心主義なのです。その矛盾を真っ直ぐ見ないで、幸せが実現できると考えると、〃することが目的と一致しない"という根源的闇にぶつかるわけです。今日の学校教育の大きな問題もまた、そういうところに私はあると思います。
 この矛盾は、社会のあらゆるところに現れます。もっと具体的に、一人の子どもが大きくなる過程に目を据えてみましょう。人間はまだクローン技術で生まれておりませんので、お父さんお母さんの縁で生まれてまいります。そうだとすれば、お乳をいただかなければなりません。
 私は自分の目で実際に目にしたんですけれども、あるとき赤ちゃんを連れた若い夫婦と新幹線に乗り合わせたことがあります。お乳の時間がきたらしい。隣でタオルを枕にして赤ちゃんを寝かせました。哺乳瓶に乳を用意しました。そして、どうしたか。哺乳瓶をくわえさせたあとです。赤ちゃんがお乳を吸いはじめたら、ハンドバッグを枕元に置きました。そして、哺乳瓶をそのハンドバッグに立てかけました。赤ちゃんは、何のことはない、ハンドバッグにお乳をのませてもらっているわけです。角度がよければ、赤ちゃんはそれでも乳を吸います。すると、若いお母さんはくるりと背中を向けました。そして亭主と何か楽しそうに話をしておる。
 「8」を絶対化して生れた豊かさからは、自然がなくなる証拠です。これは極端な例ですけれども、今日の豊かさはたしかに"揺籃期"を失っていると考えていい。
 母親にお乳をもらいながら、母親に見つめられるということがなくなっている。これは何か。人間は大人になっていくと、凡夫になります。凡夫とは「生死」のわかれ人です。であればその本質は罪悪、深重であり、その中味は煩悩熾盛です。『歎異抄』が見つめるとおりです。その凡夫になっていく。ところが現代人は、その凡夫になる道すら、なくなっているということです。揺籃期がなくなっているとは、それを意味しているのか。
 授乳をハンドバッグにさせているという極端な例は少ないにしても、この頃は、テレビのお笑い番組を見ながらお乳をやっているという姿は、かなり普遍的じゃないでしょうか。自然分娩はすでになし、授乳の喜びもなくなれば、やがて、出産をも幸せとは感じなくなるでしょう。少子化は必然です。

 * "自他"の違いを知らないままに成長する恐さ

 ところで、揺籃期の次は"模倣期"です、模倣する、これも実に重要です。人間は嫌でも応でも、自分を生きます。自分という知恵を持たざるを得ない。その人間が揺籃期から独り立ちを始めるには、模倣期がなくてはなりません。先にゆく人を模倣するわけです。模倣することなしには、鏡を見る能力をも人間の子どもは失ってまいりましょう。そうすると自他の違いが心身の構造として成立しないということになってきます。自我成立のその基礎がないということです。
 その過程をもう少し考えてみましょう。模倣期のときに、親と子は喃語(なんご)で話をします。アアとかオとかウとか、意味のないただの響きで交換します。子がアアといえば、親もアアという。意味はない。しかし、親子は一番濃密な信号を交わし合っていると言っていいと思います。その濃密な信号の交換、これが言葉のはじまりです。人間の言葉はロボットのそれではないのです。その喃語の時期が失われている。模倣期に模倣期がないということはそういうことだと見てよいのです。体験のない成長のはじまりがここにあるのです。
 そして、次は"労働期"です。労働というと厳しゅうございますけれども、お手伝いです、どの子も家庭ではお手伝いをします。子どもはお手伝いを、必ずしたがる、これは万人が求めるものです、労働したがる。ところが今は、お手伝いする後ろ姿もなければ、暇もない。お手伝いする暇があったらもっと勉強せいと、習い事をせいと。
 今の母親が子どもたちに一番たくさん聞かせている言葉は何であるのか。アンケートをとったところ、この回答は、「早く」でした。朝から晩まで子どもは「早く」という言葉を聞きながら大きくなる。
 早く起きなさい、早く支度しなさい、早く学校へ行きなさい、早く静かにしなさい、早く塾に行きなさい。寝るときは、早く寝なさい、全部早くです。
 昔はそうでなかった。昔の小説なんか見ますと、母親が農家なんかでお手伝いを言いつける、子どもは「いやだ」という。そうすると「そんなに言うことを聞かない子どもは学校に行かなくてもいい」、これが母親の叱る言葉でした。今の母親は、「そんなことしなくてもいいから早く学校にゆきなさい」というふうになるんでしょう。
 そして"学習期"になります。学習期にはいると、もう完全な記号付けです。これは何か。ここでは自他の、分離が、心身の内的事実として成立していない子が、そのまま鋳型に固められることが起きます。そして思春期を迎えるとどうなるか。自他が違うんだということ、痛いということは、こういうことだということが、わからない子が、大量生産されていくとどうなるか。いくらいいことはいい、悪いことは悪いことだと頭で教えられていても、殺してみたいから殺してみる、殺すといったことを経験してみたいから殺す、これが思春期の爆発となって現れるのです。記号漬けの中で自己を成立させたもの
は、内部から変化の起きる思春期には、自分を喪失すると言っていい。自分の頭の中に、もう一人の自分の命令する声が聞こえる。昔だったら精神病の先生たちが、これは精神科の患者であると思われるような現象が、普通の子どもの中に大量に生まれるという状況が生まれている、私はそのように思います。
 それが実に悲惨な状況をいっぱいつくり出しているわけです。これが子どもたちが、人を殺すという悲劇となっているのではないか。
 その逆は自分を殺すということになります。この間もあるお母さんが泣いておられました、非常に優秀な子の母親です。立派な文章を書き、数学は、常に一位という子です。国立大学に入ります。医学部の四年生で自殺しました。親はもう完全に打ちのめされておりました。なぜ、死ぬのかわからない。外から見るとなんの.不満もありません。医学部に行っておる。秀才である、美男子でお金もある、にも関わらず死ぬ。そういう悲劇がいっぱい起きているのではないか、この根っこには、現代の豊かさが抱える人間の矛盾があるということです。二・二が四は、生ではなく死の始まりであるとは恐ろしい洞察です。だからこそ現代とは、人類が自己の根っこを見つめ通した仏教とどうしても対話しなければならないわけです。もっとお話を進めましょう。
 戦後直ぐでございました。食べ物が何もないという状況の中で、食べていかなければなりませんでした。そのような状況にありましたときに、この国ではとても大事な論争が行われておりました。服部之総と三木清の論争でございます。ほんとうにこれは私は、大事な論争だったと思います。
 三木清は戦争の末期、豊玉刑務所に放り込まれておりました。そして、戦争が終わったあとも釈放されなくて、九月二十日ごろ、栄養失調で疥癬という病気になり獄死しております。悲劇です。その彼が監獄の中で学んでいたのが親鸞聖人でした。ノートをとっておりました。
 そのノートについて、これまた非常に優れた良心的な学者であった服部之総が批判しました。その批判点が今日に通じる宗教とまさに科学の問題です。これがすでに戦後直ぐに始まっていた。その問題を考えたい。まず服部之総の批判の言葉を読んでみます。
 「宗教は、歴史的に限定された社会的真理であった」と。これが服部之総の宗教に対する眼差しです。彼は宗教を歴史的に限定された社会真理であったと言う。ここには唯物史観に基づいた科学思想が反映していると思います。そして宗教を古いと見ているところに実に大きな悲劇があったと思います。宗教とは、歴史的に限定された社会的真理であったというよりも、歴史をつくらざるを得ない人間にとっては、永遠に追求せざるを得ない真理であったと見る方がいいのです。いわゆる「科学」思想からどんな方向が生まれているか。
 もう少しそこを読んでみます。
 「…三木は親鸞を哲学的に解釈し得ただけで、親鸞と信仰をともにすることは許されない。これは独り三木の悩みではなく、親鸞に触れ得たすべての現代人の悩みであり、農民と女人の解放が『科学的・哲学的』に約束されていなかった過去の時代と、それが約束された現代との画期的な距離が基底に存在する」。
 彼は、農民、女人の解放がいまや科学的・哲学的にすでに保障されているというわけですね。しかし、その科学とは、言うなれば、二・二が四を真理としている「知恵」なのでした。その数学的合理性に貫ぬかれた「知恵」には、深い矛盾が潜んでいたと言ってよいのです。例えば人類史の大きな曲り角において、お釈迦さまとほぼ同時代を生きたソクラテスが問題にしたのも、根本から言えば、"科学にまで至る人間の知恵だった〃と言っていいのではないでしょうか。彼は人間の知恵を死に映しだして、人間というのは実はわからないのによくわかっていると思っている。人間の知恵というのはそういうものであると見ています。
 人間は死を恐れる、何よりも恐れる。しかしなぜ恐れるのかというわけです。だれも死んで生き返ったものはない。また生きているやつは、まだ死んでいないんだから、死はわかっていないのだ。にも関わらず人間は死を恐れる。そこに人間の知らないのに知っていると思っている知の闇はないかと言うことです。二〇○万年前、ピテカントロプスのとき、人間は死を認識し始めて人間としての歩みを始めたのでした。そのとき人間の根本的課題が起きたと見てよい。人間の知恵は、わからないのにわかっていると思うのです。そう思う知恵で死を退けて生を開こうとする。しかし、それがまた生を見失うのです。それが現代の闇ではないか、仏法はその人間の知恵の闇を見つめて、人間の歴史を末法に至る歩みと捉えたのでした。そういう目で現代を見てみますと、現代の課題がもっとはっきりするように思います。対象化する知恵の精密化ともいえる「科学・哲学」は、人間の無明をより深くする矛盾を潜ませているのです。

 * 〃生死"の苦悩と仏教の教え

 その人間の二・二が四と言える知恵は何であるか。親鸞聖人の言葉で、次にそれを考えてみます。大変おもしろいお言葉がございます。これはもう私などが言うまでもないかと思いますが、『教行信証』の化身土の巻に「大智度論」からの引用がありました。
 お釈迦さまが亡くなられようとするときに、その四つの言葉を残されたと言う。「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。ところで、その意味を「義によりて語に依らざるべし」という言葉を解説しながら述べておられました。「義は語にあらざるなり、人指をもって月を指し、もって我を示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人語りて言わん、『我指をもって月を指し、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや』と。
 そして、言います。「これまたかくのごとし。語は義の指とす。語は義にあらざるなり。これをもってのゆえに、語に依るべからず」。月という言葉は月を指す指に等しいというわけです。ところが人間というのは月という言葉を見ているにもかかわらず、月そのものを見ているつもりになる。月を教えられてもその月を見ずに指を見ているとはそのことです。月そのものは、だから見えないということでございます。これは現代生活の中では、あらゆるところで当てはまるのではないでしょうか。赤ちゃんを見ていながら、赤ちゃんが見えないのです、自分の目の中の闇に気づいていないのです。ものそ
のものが見えていない。これが人間の無明と言うのでありましよう。
 この無明を超えること、それこそがお釈迦さまの教えの根っこです。お釈迦さまが出家をなさる動機を語られた言葉を「四門出遊」と言います。つまり、東西南北の門から外へ出られるとき、人間の生老病死を目にされて、その根源苦の克服を思いたたれた。人間の生老病死、そして愛別離苦、怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦これを仏教では四苦八苦といいます。八つの基本的な苦だというわけです。
 この四苦、その克服を思いたたれたのが出家の動機ですが、その出家の動機にかかわって次の言葉が伝えられているのでした。
 「比丘たちよ、私はそのような生活の中にあって思った。愚かなものは自ら老いる身であり、いまだ老いを免れることを知らないのに、他人の老いたるを見れば己のことは忘れて厭い嫌う。考えてみると、私もまた老いる身である。老いることを免れることはできない。それなのに他人の老いおとろえたさまを見て厭い嫌うというのは、私として相応しいことではない。比丘たちよ、そのように考えたとき、私の青春の驕逸はことごとく絶たれてしまった」。
 他人の老いたるを見れば、己のことは忘れてしまいがちです。つまり、人間の目玉とは、前にある対象が正確によく見えてくるその瞬間、自分が見えなくなる、ということです。他人の死が見えたときは、自分の生が実は見えなくなる。人間の生とは、この目の闇ゆえに、苦となるわけです。それが生老病死の、四苦と言われる。ところが現代では老病死は苦と捉えますけれども、生は苦と捉えないということがはやっています。対象化の闇が教えられているにもかかわらず、その自らの闇に立って、いっそう深く対象的苦に目を奪われるわけです。人間とはまさに「南無」のほか救われることはないと言えます。生が本当の生になっていないところに老病死が起きるのに、老病死だけを苦にしている。言うなれば死を恐れ、それを遠ざけようとして、いよいよ強く死の囚われとなる。それが死ねばゴミになるという考え方です。ゴミと見えることはあっても、そのように見える目が問われることがない、その目で「いのち」が明らかになりましょうか。そのような受け取り方の生が、実はいよいよ深く命を見失ってゆく、そういうふうに言っていいと思います。生が転倒しているわけです。だから老病死がある。この人間の根源的転倒に気づくには愛別離苦という悲しみを、私どもは否応なしに通り抜けなければならないのだと、そのようにも思われます。
 そのようにして考えてみますと、仏教という教えが、私はほんとうになくてはならない教えだと思います。これからの朝鮮や日本を考え、アジアを考え、そして世界を考えていくときに、現代が合理的理性の上に開かれているからこそなおのこと、仏教をほんとうの意味で考えていいのではないか、そのように思います。
 その仏教、親鸞聖人の教えをもう一つ、いただいてまいりたい。では、何処で何時、教えと出会えるのかということです。
 親鸞聖人のお言葉で、私の身に即して非常にわかりやすい言葉がありました。親鸞聖人は「『如来』ともうすは諸仏をもうすなり」と言われます。如来様がこの世にお出ましになったのは、私たちに真実の利益を恵もうと、そのように思われたということですが、その「大無量寿経」の眼差しを説明されるところで言われるのです。
 「如来ともうすは諸仏をもうすなり」、これは私は現代人にとって非常に大事な教えだと思います。身内のものが亡くなったり、あるいは自分が死におそわれたとき、それまでの理性では役に立たないというところに立たされましょう。人間の理性を打ち砕かれてしまう。
 例えば、さきほど申しました江藤淳さん、愛する妻が癌を病むことになった。そして医者に告知を勧められる。そのとき江藤さんが考えたものは何であったのか。現代の人間中心、科学中心の智恵と真向いになっています。死は、人間を本当に見るべきものと真向いにするのです。「告知」とは現象の説明ではなくて、無明の身をいのちの方から見つめられるということです。
 江藤淳さんの問題において、もうちょっとそれを考えてみます。
 「…。医者はその当の本人には『脳内出血』だといっているのだ。そして、家族にはほんとうの病名を告げて、家族からそれを患者に『告知』せよという。…これは患者にとっては勿論、家族にとっても残酷極まる方法ではないか。しかも『告知』の責任だけ負わされて、患者を救うことのできない家族にいたっては、あまりに惨めというほかないではないか。その反面、医者はと言えば、『告知』の責任は一切家族に任せて、万事お見通しの絶対者の立場に立つことができる。あなたの余命は何カ月しかありませんよ、まあ、せいぜい有意義にお過ごしください。…、いくら現代の流行であるにせよ、このからくりには容易に同調できない」。
 彼は、「告知」ということを通して現代の抱えている矛盾を非常に鋭く見抜いているわけです。お医者さんは絶対者の立場に立つことができる。これが二・二が四です。客観的にこれは二・二が四ですと言うことができる。しかし、二・二が四という数学的合理性は、いかにも人間という存在の不合理な側面を見落としているのでした。自分が死ぬとなったら、なかなかあと何日というふうには思うことはできません。ある人はそういうふうに思うことができますけど、よ一く見ますと、大抵の個人は諦めとなりましょう。そして、人間の合理性というのは、表面的につじつまを合わせることができても、命の抱えている無数の縁など到底考えることのできるものではない。むしろ深く見失ってしまうのです。この真の生の喪失、それが、絶対者の立場というものです。それは、生と死の深い連がりを断ち切ってしまう。
 私の知っている人で、非常に優れた方がいました。この方、癌になりました。そして、だんだん死に近づく。ところが優れたご主人と優れた奥さんでありながら、お互いに癌であるということを話し合わない。人生の要の生死が、その土壇場においてなお語り合えないのです。なんと寂しい終り、人生でありましょう。奥さんは奥さんで、頭の毛が抜けているのに、生死の根本を避けて癌の治療を受ける一方。ご主人はお見舞いに行くけれども、生死の死の問題は避けて通る。
 この場合の人生の中身はいったい何であったのか、と私は思います。ある日、お見舞いに行きました。他の人がいるときには明るい顔で話している奥さんが、その人がいなくなって、私一人になったとき、激しく泣き出したものでした、耐えきれなかったのですね。寂しさに…ニコニコ笑っていたのは我慢していたわけです。
 死は自分の問題になると、なかなか客観的な絶対者の立場では引き受けられないのです。大切な家族の問題になるとなかなか客観的になれないのです。しかも、現代はそれを引き受けようにも、生と死を語る方法を持たないと言えます。死ぬということは、何であるのか、死んだらどうなるのかということをほんとうに確信もって語り合える道を持たないのです。これが現代の幸せです。これが、二・二が四から成り立つ客観的な世界です。
 江藤さんはそれに反発したのだと言えましょう。愛し合っていた二人です。私は彼女を見守っていきたいとそのように決意されるわけです。しかし、江藤さんのこの『妻と私』という文章を読んでみますと、医者は他人のことだから絶対者の立場でできるのだということに反発しながら、二人の間では生と死の問題が全く語り合われておりません。成り行きに任せているだけ。
 これは何か。医者は他人ごとですから、対象化する智恵に安心しておれます。これが「絶対者」の立場です。そして江藤さんは、それには反発していながら何も語り合わない。語り合えないのです。それは反発しているようで裏側から同じ智恵の闇に縛られているということではないでしょうか。人間の生きる条件である時と空は、客観的であるようで人間が自ら作りだした時間と空間という物差しの産物です。つまり、時と空に縛られているのは、自らが作りだした物差しに縛られていることにほかならない。江藤さんは医者に反発しながらこの「時間」の囚われとなっているわけです。二人きりになると、自分たちの時間が日常的時間ではないことが明らかとなります。生と死の時間に分裂してゆくわけです。これが
「時間」の囚われでなくてなんでしょう。この分裂は、さらに、「死の時間」をきわだたせてくる。これでは奥さんの死んだとき立ち返れないと思うのは当たり前なのでした。そして実際に立ち返られなかった。自分自身の智恵の罠にはまっていくわけです。彼はそれで死んでいきました。
 これは彼の有り様でございまずけれども、この問題は、さきほどの話の流れで言いますと、実は現代の人間中心の問題だと考えてよい。今のこの世だけがすべてだと思う現代人は、現代をそのように言い切れる自分の二・二が四という智恵の囚われ人になるほかないのです。医者と同じ人間の自分中心の智恵の闇に落ちていてそれに気づくことがない。
 さて、もう時間が来ました。結論に入りたいと思います。現代文明はすべてを「数」に置き換え、その「数」を絶対化していますが「数」は決して全能ではないということです。

 * 数学的合理性から離れられない現代人

 いま一度、アインシュタインの言葉を見てみます。科学者は数学的合理性について、どう思っていたかということです。NHKで出している「アインシュタイン・ロマン」の中の言葉です。
 アインシュタインの友人のマックスボルン夫人がある日彼に尋ねました。「あなたは何もかもが簡単に科学の方法で表現できると信じるのですね」と。すると彼は「そうです」と答えるのですが、それに言葉を付け加えて言う。「けれどもそんなことは何の意味もないでしょう。それはベートーベンの交響曲を等圧線で表すようなおかしな表現になります。芸術では、理論的な構造はどうでもいいのです。鑑賞している人の受け取り方で、様々な色調に変化して素晴らしい人生の一断面を感じさせるべきものなのです。しかし、曖昧さと決別しようとするなら、まさに数学を創造しなければなりません。そして、数学こそは明快なメスではありますが、その代わり実体がなくなってしまうのは宿命です。生き生きとした内容と明快さは両立しません。片一方をとれば片一方は失われるのです。このことを今、私たちは実に悲劇的な形で物理学で経験しているのです。現代の私たちはまさにこの悲劇を刻々に、体験しているのではないか。」
 数学を、ほんとうに大事にしようと思えば、一足す一が二と答えるだけでは足りないのです。それが正解であるのは確かなんですけど、それだけを褒めるのではなくて、一足す一が、三であるとか、四だとかいうふうに言ったときに、言ったその子どもの感性に理性のある大人が逆に学んでいく目があっていいのです。もし、そうなればきっと自然の再発見の道が開かれるはずです。死を無にしないことです。死者に見られている「真」に気づいていき、そういう方向を二十一世紀に向かって私は切り開かなければならないんだと思います。
 私たちはいま、あの七三年の石油ショック以来の経済構造の矛盾に喘いでいます。世界経済の当事者、企業家はいろいろとやりくりしていますけれども、今日のような経済構造ではにっちもさっちもいかない。
 この間テレビを見ておりましたら、宮沢(喜一)さんがアメリカの今の好景気について述べていた。"物を作って売って、それが売れて、好景気ではないんだ"と。あの人特有のニヤニヤ顔で言っておられました。アメリカの好景気の中味は、言うなれば債券の国際的なタライ回しで作られているものでしょう。
 その裏側は、要するに小豆の先物買いに似ている。いやそれならまだ可能性はあるけれども、国債の先物買いは、いわば「数」の魔術です。必然的に空洞化がすすむ。それで維持されているような経済の繁栄が続くはずはない。経済の専門の方の考え方を私は正確だと思います。いつはじけるかわからない。それを作り出しているのが、二・二が四という数学的、合理的理性ですが、しかも現代人はそこから外れることができない。外れる道を知らない。二・二が五という道があるのを知らない。しかし子どもの世界を見れば、あるいは自分の人生を見れば、二・二が四ばかりではないことが明らかです。二・二が四が人間であるなら、二・二が五もあっていい。人間とは不合理な存在だと思います。同じように大地は必ずしも対象的合理性で割り切れるものではありません。そして、人間はその大地に生かされている。
 では、その「大地」に立つことはいかにして可能であるのか。真実の豊かさ、真実の世界の平和はどこで築かれるかです。
 蓮如上人の言葉が思い返されます。私はこの上人は五百年前において、この大地を非常に鋭く見抜かれていたと思います。蓮如上人が人々に浄土真宗の声を最初にアピールしたのは、一四六一年の京都の地獄のどん底でした。
 一月と二月に八万二千人とも八万四千人ともという餓死者が京都に出た。応仁の大乱がその後始まっていくわけですが、大変な時期が始まっていたわけです。その三月が第一声を上げられたときなのでした。そこで何とおっしゃっていたのか。要はただの一言です。
 「たとひ名号をとなふるも、佛たすけたまへ・とはおもふべからず…」
 実に見事な言葉です。人間というものは窮地に落ちると何を思うか、「佛、たすけたまへ」でありましょう。そして念仏を称える。それはしかし、自分のほうから佛を見ているわけです、自分中心です。江藤さんや、私たち現代人の立場です。それが佛、助けたまえとなる。ところが蓮如さんは、佛、助けたまえとは思うべからずと言うのです。そして何を言うか。「ただ弥陀をたのむこころの一念の信心によりて…」と言う。「たのむ」と、「助け」とは違うんだということを非常に鋭く見分けておりました。
 助けるという字、力をつむと書きます。漢字で書くと。どこへつむのか。力がなくなった自分のところへ積んでもらうわけです。だから助けです。しかし、その自分とは何か。助けてくださいと叫ばざるを得なくなったときの自分とは何であるのか。自分のことが自分で信じられない自分が、はじめて助けてくださいと叫ぶわけでございましよう。その自分のところへ力を積んでもらってどうなるのでありましょう。
 どんなに力をもらっても、まるでザルのようなもので、一向にたまりません。その力が自分に積めるように思い、積もうとしたのが、私はオウムの知識人だと思います。自分に力がなくなった、その自分のところにあの教祖からの力をもらおうとした。三木清はそれを迷信と言いました。「迷信の根拠は我慢、我愛のこころであり、我を超越した天や鬼を拝している者は、実は我を拝しているのだ」と言っていた。そしてこれが自分中心の人間の姿なのでありましょう。
 蓮如はその闇を見抜いていた。ただ弥陀をたのむ一念の信心、と言う。そのたのむは何か、「たのむ」は、漢字で書きますといろいろあります。依頼の頼という字もたのむです。しかし、りっしんべんに寺と書く"恃"という漢字もあります。これには助けてくださいという意味は全然ありません、お任せです。漢語的な意味では帰依ということ。砕いて俗風に言えば、まあそこまでの意味ありませんけれども、心をお寺にお任せしますと。私の心をお寺にお任せします、と言うこと、そういう意味が恃むという字です。蓮如上人は地獄の底で、人間の根本の大地を明示していたわけです。"たのむ"から真実が開かれてくる。すごい眼差しです。蓮如上人は、親鸞聖人の教えをしっかりと身につけておられたのでした。そこのところに私は非常に大事なところがあるように思います。
 今の蓮如さんの言葉は第一通の中の言葉ですけれども、第二通の終りには親鸞聖人の『教行信証』の信の巻からの言葉が引用されていました。
 「金剛の信心これを『真実の信心』となづく。真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」。真実の信心には必ず南無阿弥陀仏が備わっておる。だけれども助けてくださいという自分中心の南無阿弥陀仏では、必ずしも阿弥陀の願力、その真心が備わっているものではないと言うのです。さきほど漱石の窮極の苦しみの表現が、「絶対の境地」がわかれば、絶対が自分から離れてしまう、自分は地図の上で…という言葉になっていることを上げました。人間の智恵には根源の真理が"分かる"と、その瞬間、それを自分のものにしてしまう闇が潜んでいるのでした。それは心理的倫理的な問題ではなく、根本的な存在論的闇です。"仏教の真理"がわかれば、また、南無阿弥陀仏が唯一の信だとわかれば、それを自分の手段にする、私物化する。そもそも人間は、命を自分のものと思っているのであります。それが人間の自我であれば、当然その自我は葛藤の坩堝となります。"いのち"は自分のものではないから…。その矛盾をどうするか、これが人間の歴史的課題です。それは葛藤に葛藤の積み重ねでした。どこまでいっ
ても解決されてこない。しかし、「如来と申すは諸仏を申すなり」です。目の前の仏様に教わっていく。その素直な心があるとき、南無阿弥陀仏が動いてくる。穢土(えど)とか、この世とか、あの世とか分けて考える私たちの対象的理性がそのどん底から破れるとき真実のいのちの世界が生まれる。長い人類史、それが行きついた現代に、根本的転換の明りがはじめてさしてくるのです。あらゆるところで…現代人は電子というものが何であるか知らなくても、電子レンジを使って文明生活を享受しております。便利です。しかし、そのことは現代生活全体が非常に抽象的になっているということの裏返しでもありましょう。熱はなくても煮炊きができるというのは、私にはどうしても信じられないですけれども、電子という存在を発見しそれを利用することができて、新しい文明生活がはじまった。しかし、電子の発見は、分子・原子の発見と同じ流れの中のことです。原子爆弾があり、電子ウイルスという新しいウイルスも登場してきている。便利さだけを謳歌していると、実は煮炊きするということの意味が失われてくるのです。自然の体験がなくなる。それは何を失うことか、大地を失うということです。
 九州のほうのお百姓さん、農家の方に教わりました。ある時に聞かれました。「大人がいただくご飯茶碗一膳たっぷりのご飯盛ったら、そこに何粒米粒があると思いますか。」聞かれて、私はその質問に仰天しました。私にはその発想がなかったのでした。何粒米があるかというふうに考えたことがなかった。考えようともしなかった。それで「ありがとう」それで「いただきます」といただいていた、これはいんちき(四字に、傍点)だと私は、そのとき教えられました。自分の人生の"仮"を教えられた。私の"ありがとう"こそは、自分中心の"ありがとう""お助け"下さい念仏〃だったとも言える。
 その人たちは、都会の子どもと田舎の子どもを田んぼに水張ってともに泥んこ遊びをさせるという、そういうことを進めていたのでした。そこでは子どもたちが農業を継ぐと言ってるそうです。自信をもって農業を継ぐと、継がせてくれと…。これこそ子どもの自信です。どうしてこの自信が生まれるか。都会の子どもと田舎の子どもが、米を刈り取ったあとの田んぼ、田植え前の田んぼで泥んこになって遊んだうえで、いったいご飯茶碗の米、一膳に何粒入っているかを考えた、そういう発想が生まれて、実際に子どもたちが数えてみた。二二〇〇粒あったそうです。その二二〇〇粒を考えてみると、一株ちょうどだと言っています。その地方のその計算では…。地方によっては株の大きさが違うようですけれど
も。
 そのことを聞いたときに、ご飯から、それこそ土の香りといいましょうか、それが感じられたものです。そういう感性が私たちの中にもまだあるんですね。その実感の中では、生死が分裂していない、天と地が裂けてないのです。自然を見るときも違って見えるんだと私は思います。それを現代生活は完全に失っている。
 "命を教える"ということで、子どもたちに鶏を抱えさせて、川原に出ていって鶏を一人ずつ抱かせて、生きているということはこういうものだと教える、鶏はビクビク動きます。温かい。と、今度はその鶏を放して、子どもたちに捕まえさせて、最初の先生方の計画では、その鶏を子どもたちに絞めさせて、で、羽を全部むしって、最後にカレーライスを作って食べさせる「命教育」という、そのようなカリキュラムを組んで、実践しようとしていたという話を聞いたことがあります。校長先生とPTAが仰天して、絞めるのだけは大人がやりましょう、ということで、カレーライスをとにかく作って、そして後で感想文を書かせた。その感想文を私は読まされました。
 「気持ち悪くて食べられない」と、これが全員です。鶏を抱かせ、そのビクビクする動きを教える、そして殺して、動かなくなった鶏を抱かせて、「死」を教え、それを食べることで生命の関連を教える。これこそ「クソリアリズム」というものでしょう。ここには、根本的に考えて、「体験」がない。にも拘わらずこれをいわゆる"良心的"といわれる大人が、よしと思っている。子どもたちと向かい合っている。恐ろしいことです。記号というものが、いわゆる良心的な人たちから真の経験を押し殺しているわけです。
"いのち"教育をいうなら、そんな手間隙(てまひま)かけないで、卵からかえして、大事に育ててればいいんです、大事に育てればいい。すると死ねば悲しいと、泣くんでしょうに、悲しいということを通して、命を教えられたときに、はじめて知識ではない命が、私は身についてくるんだろうと思います。ところがいのちを知識にして疑っていない。対象世界の全部を記号にするのと同じように知識にしてそれが、"いのち"だと思っている。
  全部頭の知恵の先走りです。生まれてきた子にお乳を与えて、目と目を見つめ合って、喃語を交わしあって、そして労働を通して、そして記号の世界に入って、さらに仏教という教えを通して人間の根源に関わる問題を考えていく、そういうことを抜きには二十一世紀は開けてこない。
 朝鮮と日本で言えば、実学だけでいけば明治のときの脱亜入欧になるのは、ある意味では論理的に必然だったと思います。その人間の二〇世紀が、私たちに何を問いかけているか、それを自らの根っこから問い返して新しい時代を聞きたいものです。
 だらだらと長いお話をいたしました。しかしほんとうに大事な時代が来ていると思います。大人と若い人たちの間では、感性からしてずれている。でも、若い母親は体で何か感じてくれているところがあるような気がします。それだけに実業の世界の皆さんが、ほんとうの繁栄とはいったいどういうものなのか。ほんとうの"自然"を問うことから、世界に新しい立脚地を発信するようになることを心から願っています。要するに日本だけで生き方を考えるのでなくて、もっと大きな規模でもっと本質的な深さから、いろいろな形の生き方を考えてくださる、そのうえで空間的にも時間的にも生活の質を変えていく。仏教をともに考えて下されば、どんなにすばらしいかとそのように思います。どうも長々と失礼いたしま
した。ありがとうございました。       ─講演終了 

  

 ─「第355回一隅会講演」2000年五月二十五日の速記録より─
 
 

(話されているのは、作家。講演じたいが正確に高さんを紹介しているので繰り返さない。静かに思いめぐらして聴き入りたい。平易な言葉で、だが、じつに畏怖すべき指摘と考察により、途方もなく大事な生死の問題が語られている。これをと、高さんより進んでご寄稿戴いた。第五頁にもエッセイを戴いている。永く、湖の本を支援して下さっている。1.4.15掲載開始)



 
 
 

         『慈子(あつこ)』の思い出
 
 

                野呂 芳男 (神学博士)
 

 誰の人生にも鬱屈してどうしようもない時期というものがある。そんな時期が私にも幾つかあったが、『慈子』と出会ったのはそんな時期、私が苦しみ抜いていた頃であった。今から振り返ってみると、その時期は私にとって、キリスト教以外の宗教性、特に日本の宗教性に深く目覚めてゆく苦闘の時期であった。それ迄は、他の宗教に興味を覚えて、知る努力はしてみたものの、それを自分のキリスト教信仰と深く関わるものとしては取り上げてこなかったように思う。排他的にキリスト教に沈潜していたのだ。
 『慈子』は秦恒平さんの初期の作品である。確か『みごもりの湖』を書店で見つけ、何となくその題名に魅せられ、二、三頁立ち読みして面白くなり買って帰ったのが秦さんの作品に出会った最初であった。主人公の恋人である女性の描写、またその母親がシャーマンであったことなど、それに主人公である青年の結婚や恋愛に対する態度が、更にそれらを通して伝わってくる秦さんの人生への真摯な態度が強く私の心を揺さぶったので、私は秦さんの他の作品も読みたくなった。そして、見つけて買い求めた二、三の作品の中に『慈子』が入っていた。これは私の目で見ると、『みごもりの湖』よりも更に宗教的な作品であるが、今もって私は秦さんの作品の中ではこれら初期の二冊が一番気に入っている。秦さんには沢山の立派なエッセイがあり、小説にも客観的に見ればこれら二冊よりも優れた作品がまだあるのかも知れないが、私が特に気に入っているのは、矢張りこれら二冊なのである。
 もうお分かりのように、私のこのエッセイは秦さんの作品に対する評論などでは全くなく、秦さんには迷惑かも知れないが、この小説との出会いを、この小説が私の中に呼び覚ましてくれたものを、書き連ねてみたいのである。溺愛した人間の妄想と見て下さっても良い。ところで妄想家の常なのかも知れないが、正直言って(失礼を顧みず書いてしまうが)このような小説を書く秦さんという作家がどのような人物であるかには、当時の私は余り興味を覚えなかった。それ故に、秦さんの家を訪ねたのは、ただ彼の作品を手に入れたかったからであった。当時手に入る作品の題名を教えて貰いたかったし、また、秦さんの手もとにあるもので買い求めることができるものがあれば有り難いと思って、見ず知らずの作家に会うのはしんどいと感じながらも、勇気を出して私は秦さんに連絡したのだった。
 今でも私は、秦さんが作品の中で表現しようとしたものを、自分が忠実に汲み取っているかどうかには甚だ自信がなく、作品と私との出会いが作り出す世界にどっぷり漬かってしまっているのだろうと思う。そんな私が秦さんの家を最初にお訪ねしたのは昭和五十二年(一九七七年)十二月十三日のことであった。こんなに訪問の日がはっきりしているのは、秦さんがご自分の数えで五十歳の時に私にも贈って下さった、珠心書肆発行『.四度の瀧』に添付されている「自筆年譜」のお蔭である。ルーズな私が記憶していたものではない。お家にはその後も屡々お邪魔させて戴いたし、学生たちを連れて行った楽しい思い出もある。最初の訪問以来ずっとお交わりをいただいて、どんなに私の心の生活が豊かになったことか。私にとって大変に貴重なこの交わりに対し、この機会に厚く御礼申し上げたい。
 最初に秦さんのお宅にお邪魔したのは立教大学での授業を終えてからであったから、確か午後遅くであった。教えられた通りに西武池袋線の保谷駅で下りてお宅に電話したところ、お嬢さんの朝日子さんを途中まで迎えに出して下さるとのことであった。こちらの服装などをお教えして歩いて行く途中で、高校生の服装の朝日子さんに笑顔で迎えられ、御宅に導かれた。後で知ったことであるが、当時朝日子さんはお茶の水女子高校の二年生であった。その日は、数冊の書物を譲って戴いて早々に帰ろうとしたところ、秦さんや奥さんの迪子さんに引き止められて、とても美味しい蕎麦をご馳走になってしまった。なにもかも満ち足りた思いで私は家に帰ってきた。
 数年経ってからのことであったが、秦さんの用件で朝日子さんが私の家に来られた折りに、(朝日子さんらしく、話題に上ぼせる方の人権やプライバシーを損なわないように配慮して、遠慮がちにではあったが)ある青年のことを語ってくれた。勿論、青年の名前も年齢も職業も、朝日子さんは私に告げはしなかった。その青年には妻があるが、同時にもう一人の女性を愛していた。そして、自分の行動の正当化のために秦さんの『慈子』を持ち出していた。明らかに朝日子さんは、自分の愛する父の作品がそのような仕方で用いられるのが辛かったのだ。
 その折りに、私は殆ど何も『慈子』を弁蔑するような事がらを朝日子さんに語ることができなかった。言うべきことはとても重い事がらであり、秦さんは恐らく本能的に、そのように利用されるかも知れない怖れを持ちながら、それでも書かない訳には行かなくて『慈子』を書いたのだろう。それ故に、私の簡単な弁解は却って秦さんに失礼になるだろうと思ったからだった。

 1 愛について
 『慈子』は昭和四十七年(一九七二年)に筑摩書房から単行本で出版されたが、その原形に当たるものが『斎王譜』という題名で星野書店から私家版で昭和四十一年(一九六六年)に出ている。また、その前昭和三十九年(一九六四年)には『畜生塚・此の世』も私家版で出されている。ここにある畜生塚というのは京都などに見られる、一人の男性と二人の女性などが一緒に埋められている古くから見られる墓のことであり、同時に複数の女性を愛した男が、世間から畜生道を生きたと評価された事実を物語っている。長い間著者の心の中で発酵してきたこの『畜生塚』の主題が、『慈子』の中で大きく取り上げられたとも言えるだろう。
 『慈子』を読まれた方は既にご存じであるが、主人公・当尾(とおの)宏は高校二年の時に、九歳であった慈子と泉涌寺の脇にある来迎院の前で運命的に出会う。やがて宏は慈子の住む来迎院へ屡々遊びに行くようになり、慈子の父・朱雀光之や、一緒に住む淀屋利根とも親しくなる。彼らの住む来迎院の「来迎」は、浄土系の仏教でよく使われる言葉であり、私たちの死の際に阿弥陀仏が菩薩たちを引き連れて迎えに来て下さることを意味するし、慈子の「慈」も、衆生を救う阿弥陀仏の慈悲を表すものなのかもしれない。宏は来迎院の人々との交わりを自分の家の者たちにも、その他の人々にもひた隠しに隠すが、それは来迎院が宏にとってイデアルな世界であり、リアルな世界の目に晒せば来迎院が形作っている理想の世界が汚されるように感じているからである。やがて大学を出て結婚し東京で就職した宏は、京都の大学で勉強している慈子との交わりを尚も続け、リアルな結婚生活とイデアルな慈子との交わりとを峻別し続けてゆく。
 慈子の父光之が他界した後のことになるが、光之が兼好の『徒然草』を好み、それに独特の解釈を加えていたことに気づいていた宏は、自分も兼好の世界に深く入り込んで行くようになり、光之の解釈を自分の心の中で再現しようと努める。そして、そのようにして作られて行く自分の解釈を大学生の慈子にその都度報告して行く。光之の跡を辿った宏の解釈によると、兼好が『徒然草』を書き始めたのは、彼に「魂の眼」が開けてからであった。兼好はかってある貴族の従者であったが、主人が恋人を訪ねる時には主人に付いて行き、主人が帰るまで門の外で、中を覗き見しながら待っていなければならなかった。主人が中で何をしているかを想像したり、帰りに送るために玄関に出てくる女性の動作から、その女性、また、その女性と主人との関係を憶測したりする物欲しげな「従者の眼」では、女を愛することの真実は見えてこない。ところが、主人が訪ねる女性の、主筋に当たる斎王を兼好は秘かに愛するようになって愛の真実に目覚め、彼にも「魂の眼」が開けたのである。
 「魂の眼」によってしか見えてこない世界はそれ自体で充足していて、「従者の眼」で見られた世界からの補足や正当化を必要としない。自分が本当に愛することを体験するならば、それが世間的に見て正しいかどうかは『慈子』の世界ではどうでも良いことなのであり、「従者の眼」の介入をかたくなに拒む。慈子の母であった肇子(はつこ)は、房総の勝浦で慈子を産んで間もなく自殺したのだが、訪ねてきていた親友で従姉妹に当たるお利根さんに慈子のことを託した遺書を残して逝った。慈子の父光之と肇子とは兄妹として育てられたのだが、実は従兄妹であった。そのことを知っていたお利根さんが、ある時それを二人に話してしまったために、仲良しの兄妹であった二人の間に男女の愛が目覚め、肇子は身ごもってしまった。二人が父に告白した時、父は二人を畜生呼ぱわりし、仲は裂かれ、肇子は秘かに出産するために房総の海岸に追いやられて死んで逝ったのだ。世間的には畜生道を歩んだ二人であったが、肇子の遺書には自分が幸福であることが縷々と綴られていた。光之はやがて慈子を連れて来迎院の閑職に追いやられた。事がらの成り行きに責任を感じていたと同時に光之を愛してもいたお利根さんは、家出をして光之と同棲するようになった。
 勝浦の海岸近くの別荘で死んで逝った肇子には、大地母神のイメージを、洋の東西を問わず大地や海で象徴される母神のイメージを、どうも私は重ね合わせてしまう。「肇」という字には「はじめる」という意味があるけれども、宇宙の初め、あるいは、根源である母神的なものを、作者は彼女によって象徴したのかも知れない。彼女からは、自分の死も怖れずに、命を連綿と伝えてゆく女性のやさしさと強さとが感じ取れる。彼女は光之を愛したことを恥じてなどおらず、自分はそれで本当に幸福であったと堂々と告白し、慈子を二人の罪の結晶だなどとは全く考えていない。このように肇子は、『慈子』という小説の持つ受け身の宗教性、母神的で女性的な、受動性の強さを象徴しているのだが、お利根さんが慈子に語ったところによると、自殺の前の晩に肇子はお利根さんにしみじみと話した。

 あの方、(慈子の)お父様のことですが、あの方と自分(肇子)とは兄妹でも従兄妹でもあり、また恋人同士で夫婦でさえあったのだけれども、今、こうして私たちの娘の顔をのぞき、遠くを流れる潮の響きを聞いていると、こういういろんな現在での関係とはまるで違った遠い昔からのはからいというか、血でも約束でもない結ばれの深さが感じられて、あふれそうな恋しさ慕わしさもその深みに戻って直接に感じる時、ああこの世のことなんか何だっていいんだ、自分は一番いいことをしてきたのだ、あの方とは絶対に一つなのだと信じないではおれない、と──。
 私(利根)は運命ということを仰言るのだと思いました。けれど、運命という言葉に寄せてあんなに誇らしげでお嬉しそうな確信が語れるものでしょうか。

 お利根さんが語るこの肇子の言葉には、彼女の魂の眼で見られた運命の世界が、従者の眼で自分たちを見て、畜生呼ぱわりしかしてくれなかったこの世と断絶したものとして語られている。この世の血縁関係や夫婦というような約束ごとは、潮の響きがささやいてくれる遠い昔、生まれる前からの運命のはからいや配慮の前に、跡形もなく消え失せてしまう。
 慈子にその母のことをこのように話してくれたお利根さんも、慈子が大学を出て一応独立した時に、自分の運命に従って光之と肇子の後を追って自殺する。慈子には、自分たち三人のような歩みをせずに世間並の幸福な人生を歩むようにと言い残して、自分たちの運命は自分までで終わりにすることを願っての自殺であった。慈子は、素直に母と呼べるこのお利根さんを、父の眠る墓に葬った。実際には三人一緒に埋められていなかったとしても、理念的には畜生塚がまた一つここにでき上がったのだ。
 このような運命を見詰める魂の眼が人間に開かれるのは直感によるという外はない。それはキリスト者が啓示体験と呼ぶような出来事であろう。ある時に突然、現実を別の角度から見ている自分、現実の諸事件の只中で、それらの事件の奥底を流れる別の次元、別の世界に気づいている自分を見いだすのである。キリスト教ではこれを信仰への目覚めとするが、秦さんの書いている魂の開眼はこのように宗教的なものであろう。
 これ迄の歴史を検討すれぱ分かるように、社会道徳は時代によって変遷してきた。性や結婚に関する社会道徳も例外ではなかった。一夫多妻の時代もあったし、女性のところに男たちが通った時代もあった。イエスの母マリアが処女で身ごもったという、新約聖書の処女懐胎の伝説は、当時イエスの生まれた地域では、婚約したがまだ結婚していない者たちの間に生まれた子供は、処女から生まれたと言われていたところにその根拠がある、と多くの学者たちは考えている。もしそうであるとすれば、今日でもカトリック教会が公には順守を信者に命じている性道徳、またプロテスタントでもピューリタンたちによって守られたり、ビクトリア朝のイギリス人たちがうわべだけであったかもしれないが標榜していたキリスト教的道徳、すなわち、結婚するまでは性関係に入ってはならないという道徳は、イエスの両親によって破られていたことになってしまう。
 昔の話になってしまったが、学問的に聖書の勉強を深くされたある熱心なキリスト者の方から、私はその令嬢の結婚式の司会を頼まれたことがあった。プロテスタントでは教派によって式のやり方はさまざまであるが、通常結婚式には聖書の中からイエスの結婚に関する言葉を読み、結婚する二人からその言葉に基づいた誓約をして貰うことになっている。ところが、その方は誓約の言葉から、離婚してはならないという部分を取り去って貰えないか、と私に頼みこまれた。娘が不幸になった時には離婚だってあり得るのだから、今そんな誓約をさせて、後で嘘を言ったことにならないようにという父親の配慮からであったのだろう。結婚式で互いに死に至る迄節操を守り、互いに離れないと誓約しても、現実には多くの人々が離婚している事実を知れば、この誓約が沢山の偽善者を作り上げていることを私も前から気にしていたので、その申し出を承諾し、その誓約の部分を他の言葉に変えた。余計なことであるかも知れないが、私にとって嬉しいことに、このお二人は今も仲良く立派な結婚生活を送っておられる。誓約の言葉を変えてしまったことで、私を非難される方々も多いのではないかと想像するが、私たちが結婚に関するイエスの言葉をもう一度よく考えてみると、それはピューリタンによって代表されるような道徳とは違ったものを表現しているように私には思える。
 イエスの結婚に関する言葉でよく引き合いに出されるものに、次のものがある。

 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の界を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(「マルコによる福音書」十・一・十二)

 このイエスの言葉をよく考えてみると、離婚が罪であるばかりでなく、どんなに努力してみても一向に一体になれない男女は、そもそも結婚したと言えるのだろうか、という疑問に襲われる。そのような疑念が何故にイエスの心の中で起こらなかったのだろうか。勿論、これはイエスが、神の国の到来が余りにも間近かであると信じていたがために、現実世界で罪と汚れを背負いながらも、共に生きようとする男女の生活はどのようなものであるべきかというような、長期的な問題に心を向ける余裕がなかったからであろう。しかし、はっきりしていることは、イエスが結婚の本来あるべき姿を男女が身も心も一体になることに見ていた事実である。そうすると、一体でないのに漫然と結婚生活らしいものを共にしている男女は、そこで姦通の罪を犯しているとも言えるのではないか。このように結婚や性に関する道徳になると、今日オウム真理教が非難されているような、地下鉄でサリンをばらまくことが、また、脱会しようとする信者を暴力を振るってまで引き止めることが悪であるというのとは違って、その善悪は簡単に決められないものである。秦さんの言う、イデアルな世界とリアルな世界の関係の問題は、ことが結婚や性の問題に関わるが故に、ひどく面倒なものなのである。イデアルな世界から言えば、宏と慈子、光之と肇子と利根は全く一体なのだから、立派に結婚していると言えるけれども、それはいきなりリアルな世界の結婚とはなっていない。『慈子』での秦さんのように、イデアルな世界とリアルな世界とを断絶してしまうことは、いきなり非難されて良いものではないだろう。リアルな世界と混同されているようなイデアルな世界では、リアルな世界を批判したり正したりする力も持たないだろうし、批判や矯正の基準を提供することもできないだろう。イデアルな世界がリアルな世界を超絶しているからこそ、変わり行くリアルな世界に対して、その時代に応じた、しかも成るべくイデアルな世界に近い生活形態を創意工夫させることができるのである。宗教的に言えば終末の彼岸であるイデアルな世界では、つまり神仏の世界では、男と女の区別もないし、霊魂と(新約聖書のパウロの言葉を使えば)霊の体(霊体)とで一つになってしまう者たちが二人だけとは限らないことを考えると、その超絶した世界をできる限り模写することを目指すこの世での愛の人間関係が、男女間だけのものであったり、相手がいつも一人であったりするとは限らないのかも知れない。イエスのおっしゃったアガペーの関係は、一夫一婦の関係がもっとも良く表すこともあり得るが、またある場合には、この世で蔑まれる畜生塚や同性愛でもあり得るのかも知れない。そのことを踏まえた上で、今のこの世では、あるいは、自分個人にとっては、どのような愛の形態が、超絶した愛を可能な限りもっとも良く模写するものであるかを探らねばならないのだ。その形態は歴史の変遷によっても、社会機構の変化によっても影響されるだろうが、また、個人の持つ遺伝的体質、精神的個性、生まれ育つ地域の風俗によっても形作られて行く。この世の慣習にただ柔順であることが道徳的なことなのではなく、与えられた環境の中でどのようにアガペーに満ちた互いの人間生活を形成したら良いのか、そのために苦闘することが真に道徳的なことなのである。この世の律法から自由になったキリスト者が、もう一度アガペーにおいて律法の世界に主体的に入り込んで行くように、いつも繰り返しこの世の律法を改善する苦闘こそが大切なのである。
 『慈子』の最後のところで、日本橋高島屋の洛雅会に妻子を連れて出かけた宏を、妻子連れとも知らずに捜し求めた慈子が宏の妻と出会う場面が描かれているけれども、その時の慈子は「みるみる血の気を失っていった」とある。この小説全体の調子から言ってこの描写が、この世で是認されている結婚生活に生きる宏の妻に対する慈子の後ろめたさを描いたものでないことは明瞭であるが、慈子に象徴されるイデアルな世界がリアルな世界と出会った時の衝撃を表現していることは確かである。私もそうであったが、多くの読者が、この小説の中で秦さんが余りにもイデアルな世界とリアルな世界とを峻別していることに驚き、理解できなかったのであるが、よく考えてみれば宏も慈子もまだ人生を終わった訳ではなく、この小説の終わりの時でもまだ若いのだ。小説は彼らの人生のすべてを描いている訳ではなく、重要な青春の時代だけを描いているのだから、この小説が終わった時期から宏やその家族、また慈子の、イデアルな世界をどのようにこの世に具体化するかの苦闘が始まると理解すべきなのだろう。
 現在広く西欧の所謂キリスト教国や日本で行われている一夫一婦の結婚制度は、身も心も一つになっている、あるいは、なることを無上に願っている男女にとってはなかなかに有り難い制度である。他の男あるいは女からの邪魔も入りにくいし、余り気兼ねせずに互いの愛を深め合うことができるからである。確かにこの意味では、歴史上これ迄に存在したいろいろな制度の中では、比較的に言ってイデアルな結婚に近づくことのできたリアルな制度であるとも言えるが、問題は、どんなに努力しても心や体において一体になれない男女や、同性愛の人々が、この制度でははみ出てしまうことであろう。アガペーさえあるならば、神の御許においては男も女もない以上、キリスト教的に言って、同性愛を否定する根拠はない。それに、前にも述べたことだが、心でも体でも一体になれない男女が、世間体からか道徳的信念からか、この制度にしがみついているのは、何としてもその偽善が鼻もちならない。最終的には、その地域や時代でどのような制度が一般的に守られていようとも、この問題は個人が神の前にただ一人で自分の愛のあり方を決めねばならないものなのである。
 朝日子さんが私に話してくれたあの青年が、ここまで考え抜いて『慈子』の主人公宏に倣っているのであれば、私たちはその青年の決断を尊重せざるを得ないであろう。しかし、深く考えずに表面的に、イデアルな世界とリアルな世界との峻別を自己正当化のために使っているに過ぎないのであれば、その青年の態度は秦さんに気の毒なことになる。
 私たちの目に映る天体の動きが実際には楕円を描いて運動しているにも拘らず、その動きはギリシャ以来理想としてきた完全な円運動である筈だという先入観のために、西欧における近代天文学の発展が幾分遅れてしまったということを、私は何処かで読んだことがある。西欧人のみならず誰でも、人間には今でも完全な円、完全に丸いものを理想とするところがある。人工的に完全に丸く水晶を削って尊ぶようなところがある。しかし、現実には完全に丸い石など見つかるものではなく、丸石と言ってもどこかがでこぼこしている。和歌山県や特に山梨県では今でも、丸石を一つあるいは幾つか積み重ねて、神として崇める風習が存在するが、でこぼこした丸石であったり、卵のような形をした石であったりする。西欧でも貴石を卵型に削って多くの人々が寵愛するようであるが、大地の精の固まりとして尊ばれた石が、理想としては完全に丸いものであるべきなのに、現実にはでこぼこしたもの、あるいは卵形であるというのは、イデアルな世界をリアルな世界に生かす道を教えていて興味深い。現実世界には不条理がいつも人間生活を脅かしているので、それから来る歪みを旨く私たちの生活の中に取り入れて行こうとすると、卵形が一番すっきりした形なのかも知れない。卵形の石が幾つか積み重ねられている有様を想像すると、一つ一つがそれぞれの歪みを旨く利用して重なり合い、他の卵を自分の中に取り込もうとせず、互いの独立を侵さずに、するりと重なり合っている。
 不条理と私がここで呼んでいるものは、人間が生まれながらに持っている利己心のために、互いに傷つけ合ってしか生きられない状況とか、持って生まれた精神的・肉体的な病とか、天災地変などの自然現象とかを指すものであるが、これらは個人の持つ個性の発展を妨げるものである。しかし、すべての人間は、生まれた時代や地域や自然環境からくるこれらの不条理と何らかの形で妥協して生活しなければならず、とても理想の丸型の生活などできるものではない。そこでどうしても自分の理想を現実の不条理の中で生かすために、自分はどのような卵形の人生を送らねばならないかを絶えず問われているのである。『慈子』の中の人物たちは、まさにこの自分たちの卵形形成の途上にあると理解すべきなのであろう。
 ところで、肇子もお利根さんも自殺して逝った。肇子の自殺は、周囲の人々の無理解のために他の男と結婚を強いられて、光之と一緒に生活できないという将来への絶望からであることが分かり過ぎる程に分かって、賛成できないにしろ理解は十分にできるものである。お利根さんの自殺は、先に逝ってしまった光之と肇子と死後の世界で一緒になるためであると共に、このような運命を自分で断ち切り、慈子には普通の女の世間的に幸福な人生を送らせたいがためであった。三人のうちでは生まれつき体の弱かった光之だけが所謂自然死を遂げている。だが、畜生塚へ至る道を慈子には歩ませたくないというお利根さんの願いは達成されたと言えるのであろうか。この小説の終わりまでには達成されてはいないし、運命的な宏と慈子の愛の強さから想像するに、宏が妻と別れでもしない限りそれはいつまでも達成されないように思える。描かれている状況では、とてもとても難しいことであると思うけれども、肇子にしろお利根さんにしろ、自分たちの運命に柔順であるならば自殺という手を加えずに、運命のままに流されてゆくことを選ぶべきではなかったのか。三人のうち光之だけが運命に従っており、女性たちは運命に手を加えてしまった。
 

 2  輪廻転生について
 十代の後半から教会に通い出した私であったが、『慈子』に出会ったのは、二十代の初め頃から本格的に勉強してきたキリスト教が、自分が幼い頃からその中に育てられてきた宗教的雰囲気としっくり合わないことに気づき始めていた頃だった。特別に信心深い家庭に育った訳ではないけれども私の家は真言宗に属し、朝夕仏壇と神棚に礼拝し供え物をして一日を始める習慣をもっていた。このような慣習は東京の下町では根強いものであったので、私だけに特別なことではない。否、多くの日本人にとってありふれたことであろう。それ故に、キリスト教が私の心の土壌に本当に根づくことは、そのまま多くの日本人の心に根づく道なのだ、と言えるのではないかと私は思っている。キリスト教の本格的な勉強が殆ど外国語を使ってなされねばならない事実が象徴するように、これ迄のキリスト教神学を勉強すればする程、日本的なものから離れてしまい、自分の生活する大地から遊離してしまう気がかりを私は持ち始めていたのだ。そんな時に『慈子』が私の目を輪廻転生の世界に向けさせてくれた。この世界は幼い頃から私には馴染み深いものであったが、何故かそれ迄の私は、その世界こそが実はキリスト教と、自分の幼い頃からの宗教性とを結合させる結合点となるものだとは気づいていなかった。『慈子』によってその世界に改めて焦点を合わせるように魅せられてみると、西欧にもキリスト教前からこの宗教性が存在していたことにも、改めて強く印象づけられたのである。
 前にも少し触れたのであるが、イエスはご自身の生涯の終わる前に、それも間もなく、ユダヤの地から始まって、世界の終末が訪れるという期待を持たれていたがために、一人一人の人間が個別に死を迎えた場合に、死後はどうなるのかについて殆ど言及されていない。ところで、このようなイエス理解は、アルバート・シュヴァイツアーたちの言う徹底的週末論による聖書解釈に沿ったものであるが、私もこれが正しいと考えている一人である。従って、イエスはご自分の死後にキリスト教会が成立するなどとの予想は全く持っておられなかったということになる。まして教会の神学が中世において、結局一人一人の死後について語らざるを得なくなるとは思っておられなかったと考えざるを得ない。周知のように、中世の教会はダンテの『神曲』に見られるような天国や煉獄や地獄の教理を作り上げることによって、終末が訪れなかった歴史の中での個人の死後の問題に対応してきたのである。ところが、宗教改革によってプロテスタント教会は聖書主義に立ち戻ったがために、中世の教理的伝統と決別してしまい、死後の問題については皆目要領を得ない発言に終始しているのが現状である。死後についてある程度はっきりとした考えを持たないと、この世の生活を意味づけるに当たって、どうも不明瞭なままに留まる材料が多すぎると私には思われるので、何とかこの点をもう少し教会に明瞭に発言して貰いたいのだ。そして、プロテスタント教会はこの点でむしろ中世カトリック教会の教理よりも、他宗教や民衆の間に深く浸透している輪廻転生信仰を受け入れることによって、日本の宗教的土壌、また、アジアの、否、人類古来の宗教的土壌と結びつくべきではないか、と私は今考えるに至っている。この考えの端緒を作ってくれたのが、『慈子』の中で先生と呼ばれる朱雀光之が宏に語っている言葉であった。
 鎌倉時代の作で亘要文化財に指定されている三宝大荒神が実際に来迎院には祀られているが、小説の中では、ある日宏が訪れると先生もお利根さんも留守で、慈子がその荒神の眷属の一体を畳の上に立たせてそれを繪に描いている。やがて先生とお利根さんが帰ってくるが、先生は大切な仏像で遊んでいる慈子を叱りもせずに、「神、仏のことを粗末に軽々しくみすてるのは間違っている。しかし、死後を頼んで神仏を語るのは間違っていると思うよ。死後の世界というものがあるとしても神、仏がいて宰領される世界じゃない。驚くほど今いる世界とそっくりかも知れん。そっくりどころじゃなく、全く同じかも知れん」と言って、宏の傍らに座り込み話を始める。
 元来は信仰の対象として多くの人々が畏れをもって取り扱う仏像を、慈子が平気で畳の上に置き、遊びとして描いていることに対して、秦さんはそれを「さらりとした若い合理主義」と呼んでいる。そうすると、先生が宏に死後の世界を神や仏の宰領するところではないと言うのも、この合理主養の範疇に入る発言なのであろう。ところが、神や仏を信じる者にとっては、死後の世界を含んで運命が(神や仏の愛と慈悲による加護もなく)ただそれ自体で回転するだけであるという先生の運命論は、むしろ合理的であるとは言い難い。しかし、この問題は今はこれ以上考えないことにしよう。
 先生の話は運命の空間的な面と時間的な面との二つの局面を持っている。空間的な面に関しては、先生は次のように言う。「私には妙な癖があって、よく狭い畳目の一つなどに眼をとめてみつめる。みつめるうちにその畳目一つが実はこの世界と同じ巨きさと豊かさとをもった別の世界のように思えてくる。そこには洒落た街角で別れを惜しむ恋人たちもおれば、土の家の暗い暖炉で薄粥を炊く火もある。緊迫した国際会議もあれば、眼のかすんだ老婆が寒さを厭うて呟く貧の愚痴もある。要するに、何もかも似た別の世界が指の幅一つの狭い畳目の上に拡がっている。……果たしてこれは想像に過ぎないのだろうか、真実そういう世界がそこに実在することを自分は直感しているのではなかろうか、そう考えはじめた。……この転換は非常に私の内側をも変えたという気がしている。……遊びじゃない、これは一種の救いではないかと私は考えた」。直感で知るのであるから、これは合理的な思惟を超えた信仰的描写であるけれども、畳目一つが別の世界、私たちの住む世界のすぐ隣にある別の世界を表しているかも知れないということになると、仮に畳一枚を考えてみるとしたところで、実に多くの、無数といってもよい世界が並んでいることとなる。このような考え方に出会うと、学問的に天文学を通して私たちの住む太陽系宇宙が、広大な銀河系宇宙の中のごく小さい空間を占めるに過ぎないことを知ってはいても、旧約聖書の『創世記』に描かれている天地創造神話で、地球中心の狭い宇宙観に信仰的に慣らされてきたキリスト者は、改めて運命が一挙に拡大された感を与えられる。仏教やヒンズー教の方が『創世記』の神話よりも、先生の話に出てくる宇宙観に近い神話を持っている。キリスト者は『創世記』の狭い宇宙観を率直に捨てるべきである、と私はずっと考えてきたのであるが、畳目に象徴される無数の宇宙、しかも畳目のように一つ一つ並んで隣り合わせに存在しているのではなく、一つの宇宙に別の幾つもの宇宙が、私たちには見えなくとも入り込んで錯綜しているとする、先生の話のような宇宙神話は、『慈子』を初めて読んだ時の私にはとても新鮮であった。
 先生は空間的な思索だけではなく、時間的な思索を付け加える。「私は一人で静かに湯に入るのが好きだが、その際、湯の面にからだの一部、たとえば手首をくの字に折りまげたりして、そこを湯へ少しずつ沈めてゆく訳だ。すると湯は肌の脂にはじかれながらついには豆粒ほどの陸地を露出するだけになる。これが私のみつけた新しい世界なんだ。ずっと沈めると危く陸地は呑みこまれようとする。しかしかすかに浮かせると汐ははしるように引いてゆく。この汐のさしひきに内在するものを超越的なほど無量の時間だと私は感じた。──私はついに私の直観力が、この一見無意味な動作が現前してくれる豆粒米粒ほどの世界において単に地球の歴史ばかりか、太陽系の、宇宙の、歴史をさえ実現させ得ることを悟った。……この直観によって私は先ず人間の歴史そのものが一回きりのものなどである筈がなく、地球自体も勿論宇宙の歴史ですらたとえ二十億光年の何万倍もの寿命であろうと、それをさえ無にしてしまうほどの消長の繰り返しがあったことを信じられるようになった」と先生は言い、このような直観に基づけば、現実はあってもなきに等しい、つまらない、あってもなくても良いようなものだとする。そして、時間的には無量と言ってもよい宇宙の誕生と消滅の繰り返しの流れの中で、空間的にはこれも無量と言ってよい沢山の宇宙の相互浸透的併存の広がりの中で、運命のある「はからい」に応じて、人は世界から世界へと輪廻するのだが、互いに愛し合う者たちはその結ばれを永遠を通して生きるべく努めなくてはならないのだ、とする。
 秦さんが先生を通して語っているこの運命論には、一種虚無的とも言うべき無常観が漂っている。現実の苦悩からの解脱が、現実を無量と言ってもよい程の時間の流れの中の一瞬の存在に過ぎないものと見なして、現実の存在価値を相対化し引き下げるところに求められているからである。これは秦さんが、運命へのひたすらなる服従を説くことと勿論無間係ではない。ところで、現実が存在価値の余りないものであるとすれば、その現実を変えようとする努力も真剣なものではなくなる筈である。しかし、秦さんの一見虚無的無常観に立った、運命への服従に閲する発言をそのまま文字通りに取って良いとは、私には思えないのである。『慈子』の中の人々自身が単に運命に服従しているとは言えないからである。前にも述べたが、お利根さんも肇子も自殺しているが、その行為が正しかったかどうかは別にして、これはひたすらに与えられた運命へ服従したとは言えないだろう。運命とは外から人間を襲うだけのものではなく、人間の内側からも、人間の自由意志を通しても展開されて行くものであることをこの事実は物語っており、何れ程現実が存在価値のないものだと言ってみたところで、なげやりになっていない小説の主人公たちを知ってしまうと、秦さんの虚無的無常観を余り真剣に取る必要はないようだ。投げられたサイコロが示す数のように、外から与えられるというニュアンスが強い運命に対して、自分の実存の自由からどうしても必然的に生きざるを得ないように生きる有り方を、私は宿命という言葉でこれ迄表現してきたのだが、棄さんの運命論はまさに私の言う宿命論に近い。但し、宿命の根底では、自分や他者、否、生きとし生けるもののすべてを生かし抜かねばならないという、殺してはならないという至上命令の囁きが聞こえてくると私は信じているが故に、どうしても自殺が宿命への服従になるとは思えないのではあるが。そして、『慈子』の主人公たちと同じように、私も目に見えるこの世界の現実がすべてではないと知っているが故に、現実を唯一絶対のものとすることは私にもできないけれども、そうかと言って私には、虚無的な無常観には付いて行くこともできない。神の摂理の下にあるこの現実──もっと詳しく言えば、神が不条理と闘いながら、あるいは、不条理との妥協をやむを得ずしながら、とにかくご自分の愛の摂理を展開しているこの現実──も、私が神と一緒になって不条理と闘い、身近かな人々を中心としながらではあるが、人々のために愛に生きる修練の場なのだ。この世は私や他の人々の輪廻にとって大変な意味を持っている。ここに虚無的な無常観に裏打ちされた運命という非人格的なものへの服従と、キリスト教的な宿命論との違いが存在するのだろう。
 ところで、小説の中のお利根さんは、自分が自殺することによって、自分が巻き込まれてきた畜生塚的な光之や肇子との関係を断ち切り、慈子には世間的に幸福な生活を送らせようとしたが、結局それができなかったことは、宏と慈子と宏の妻とがまた畜生塚的関係を続けざるを得なかったことからも明瞭である。これを断ち切ることができるかどうかは、お利根さんのような第三者の問題ではなく、飽くまでも宏とその家族と慈子との間のこれからの問題なのだ。他人の運命を(自分が魔術的に操作できる)非人格的なもの──当事者たちの主体性を考慮しなくても良いもの──と勘違いしているお利根さんの自殺は、人格的な神が私たちの宿命の応答を期待するとしているキリスト教的宿命論から見れば、矢張り誤りと言う他はない。自分の宿命も他人の宿命も最終的には神の手の中にあるのだから、自分が自由にしてはならないものだということを知らない傲慢な行為と非難されても仕方がないだろう。
 それにしても私が『慈子』と出会ってから、目に見えない広大な、互いに含み合い錯綜している沢山の世界や、無限にも等しい時間の流れの中で誕生と消滅を繰り返している沢山の宇宙を、愛する者たちと一緒に輪廻するという輪廻転生の思想を、キリスト教神学の中に取り込まねぱならないという衝動を与えられたことを思うと、秦さんに何れ程感謝しても感謝しきれるものではない。既に述べたように、キリスト教は中世に天国・煉獄・地獄というような死後の世界に関する思想を取り入れたが、しかし、このような死後規は聖書の中にはない。特に新約聖書では徹底的終末論が理由で、死後の状態については殆ど関心が見られないことは、前に述べた通りである。だが、新約聖書の人々が期待していた終末が訪れず、イエスが予想もされていなかった教会が弟子たちによって形作られ、もはや二千年も経つ今では、中世の人々ならずとも宗教が死後について語ることを求めるのは至極当然である。その場合に、死後をどのように考えるかは、私たちの理性に任されていると言ってよいだろう。中世の人々も理性的に考えてあのような死後観を作り上げたのであるから、私たちがそうして悪い筈は全くない。私はその場合に、中世の考え方とは違って輪廻転生の考え方をキリスト教は採用すべきであると考えている。この考えの方が中世の考えよりも遥かに古く、そして広く世界中に信じられてきたし、アジア、その中の日本でも古来から信じられてきたからである。この信仰と結合すれぱ、キリスト教の日本への土着は、もっと容易になるだろう。
 何時かは神のはからいで、神との深い交わりに生きるようになって最早輪廻転生を繰り返す必要がなくなる時が来るであろうが、それ迄は愛を深く深く学ぶために、あるいは、人々に少しでも奉仕するために、私たちは繰り返しいずこかの世界に生まれ変わってくるのだろう。このような思想は早い終末を期待していたイエスには存在しないけれども、また彼がそのような考えに反対した形跡もない。
 これは何も私一人の解釈ではなく、私のようにキリスト教神学に輪廻転生論を受け入れようとする人々に共通している解釈なのだが、「ヨハネによる福音書」九章一節から七節までに関してしばしぱ言われてきたものである。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光りである。』こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム──[遣わされた者]という意味──の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」。
 この物語では、イエスは目が見えない人が癒されることを通して神の業が現れると考えておられ、目が見えないこと自体を何か特別に意味のあることともされておられないが、重要な点は、あの当時の一般的な通念であった考え、すなわち、病気が罪の結果であるという考えをイエスが否定されていることである。弟子たちは当時の通念に立って、その人が生まれながらにして目が見えないのは、本人の罪の結果か、あるいは、両親の罪の結果か、どちらかであろうと考え、そのどちらであるかをイエスに質問している。この目の見えない人は生まれながらそうなのだから、本人の罪の結果であるかも知れないという弟子たちの想定には、その人が前世において罪を犯し、その結果今生において目が見えなくなったという考え、つまり、輪廻転生の考えが伏在していると考えるのが至当であろう。このように、イエスの周辺には、ユダヤ教以外の他の宗教の影響であろうか、民衆の間に輪廻転生を信じる雰囲気があったことは否定できない。しかも興味深いことに、弟子たちの問いかけに対してイエスは輪廻転生を(それへの答の中で、積極的に肯定もされていないけれども)否定もされておらず、ただ賞罰応報思想を否定されたのである。両親の罪であろうと本人が前生で犯した罪であろうと、罪の結果としてその人が目が見えなくなったという思想が明白にイエスによって否定され、病気や不幸が決して神からの刑罰ではないこと、愛の神はそのように応報する存在ではまったくなく、むしろ病気を癒される存在であることが宣言されたのである。   ──了──

─キリスト教神学と宗教の研究雑誌「黎明」創刊号(1995年12月発行 松鶴亭出版部)初出─
 
 

(筆者は、1925年生。青山学院大学教授・立教大学教授を歴任された神学者、牧師、神学博士、文学博士。湖の本の読者で集英社文庫『慈子』の解説もお願いした、編輯者の敬愛する心友のお一人である。この稿の作品梗概は必ずしも厳密ではないが、論旨の展開にはキリスト教への重大提言を含む野呂さんの深い動機が鋭く提示されていて、興奮をおさえがたい。松鶴亭林昌子さんの御厚意によりここに掲載できたことも合わせ、感謝します。)



 
 

     ブッダとしてのイエス  (講演)

 

      笠原 芳光 (京都精華大学名誉教授)

 

 今,、田上太秀先生から私の紹介を的確にお話しいただいて、光栄であります。駒澤大学で 「ブッダとしてのイエス」 というお話をするのは、まさに「釈迦に説法」という言葉の通りで大変恐縮でございます。いろいろ間違ったことを申し上げるかもしれませんがお許し下さい。
  最近、イエスに関する歴史的研究とか、あるいは文学的な想像によるイエスに関する伝記がヨーロッパでもアメリカでも日本でも、日本の場合は主に翻訳ですけれども、紹介されております。少し前の話になりますが、フランスでは一九八九年の一年間に八冊ものイエス伝が出版されたといわれています。およそ世界中にあまたある一人の人物の伝記の中で最多のものはイエス伝だと思います。ゴータマ・ブッダ伝も多いですね。多いのがいいというわけではありませんが、イエス伝はもっとたくさん出ています。それも最近新しいものが続々と出てきております。またドイツでも一九九二年以降、イエスに関する文献が急激に増えて、出版界ではブランド商品であるといわれていると書かれた本もあります。ブランド商品というのは、何も服装だけではないんですね。
 特にイエスという人は、幼少年時代や青年前期の時代というのがまったくと言ってもいいぐらいわからない。そのために、最近はその時代にイエスはどういうことをしたかということが、さまざまな想像によって書かれている本が多いんです。イエスのことを主に記した本では、新約聖書の中に福音
書というのがあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという名前のついた福音書の中に、イエスの生涯あるいは思想が書かれているのですが、これはイエスの死後、イエスをキリストとする信仰の立場から書かれたものですから、必ずしも歴史的な事実とは言えないんです。特に福音書でも、幼年・少年・青年前期のころのイエスはほとんど書かれていないと言っていいのです。そこでさまざまな想像といいますか、ある意味では憶測というものがなされております。
 たとえば、ユダヤの民族宗教であるユダヤ教というのにもいろいろ教派がありまして、その中でも異端的な一派といっていいエツセネ派というのがあります。これはクムラン教団とも言います。クムランというところに住んで、私有財産否定の共同生活をしていた。軍事教練なんかもやっていたという説もありますが、イエスはそのエツセネ派の御曹司であるという説があります。これは歴史的事実ではないと思います。イエスは十字架にかけられて殺されました。ところがエツセネ派というのはかなり医術に長けておるというので、アロエという植物を大量に投与してイエスの傷を治して蘇生させたというのです。そこでイエスはその後、マグダラのマリアという、福音書にも名前が出てまいります女性と結婚をしまして、子供を二人つくり、そのあとは原始キリスト教団の黒幕となって、ペテロとかパウロとかを後ろから操って七十歳まで生き、最後は南フランスへ旅立ったというようなことが書
いてある。たいへんな話ですね。荒唐無稽というべきでしょう。そういう本も出ておりまして、スリラーもののようにして読まれております。日本でも『イエスのミステリー』という題で訳され NHK出版から出て、よく売れております。しかしこれは歴史的にはおかしいわけです。
  あるいはまたイエスは十四歳のときに、商人の一行に加わってインドに行きまして、仏教の勉強をしたという。そういった記録がチベット仏教の僧院に残っているという説があります。本当でしょうか。そういう荒唐無稽と言ってもいいようなものも、かなりあります。それでも最近出ております、特
にそういう形のイエス伝というのは、すべてイエスを人間として描いているというところが特徴だと思います。ヨ一口ッパでも同様で、イエスが死んだのちに復活したという話は神話と言っていいと思いますが、そのようなことをキリスト教は教義としておりますし、教会ではそのことを盛んに教えて
いる。復活祭というものもある。
 しかしイエスが復活をしたということを信ずる人は、ヨーロッパのクリスチャンの中でも非常に少数になってきているということです。そしていわば人間としてのイエスの本がいろいろ出版されて、それを「イエス・ルネッサンス」というふうに呼んでいるそうです。こういうことからイエスは果たして人間なのか、果たして神なのかという問題が、ある意味では真剣に問われています。不真面目に問われている感じもありますが、そういうことに大変興味を持っているというのが今の時代です。一体人間とは何であるか、一体神とは何であるか。そういうことについて順次、お話ししたいと思っております。
 そこで先ほど田上先生からご紹介いただきましたが、この六月に私は『イエス 逆説の生涯』という本を春秋社から出版いたしました。その冒頭に、「イエスはキリストではない」と書いたんです。さらに「むしろイエスはブッダであると言った方がよいのではないか」とも書きました。本日の演題も
「ブッダとしてのイエス」ということになっております。これは大変過激な話ではないかと思われるかもしれません。しかし私はちっとも過激とは思っておりません。むしろきわめて当たり前のことを言っていると思います。そのあたり前のことを、今日はお話ししたいと思います。
. フッダとしてのイエスというときのブッダとは何か。これも先ほどご紹介いただきましたように、ブッダというのは例のゴータマ・シッダルタだけをブッダというのではないということです。ゴータマ・シッダルタという人は、紀元前五世紀に今のネパールに生まれた。そして王子であったというのは皆さんもよくご存じの通りです。ゴータマはブッダといわれたのですが、ブッダとはサンスクリット語の普通名詞でありまして、「自覚を持った人」あるいは「本来の自己に気づいた人間」というような意味であるようです。その意味でブッダとしてのイエスということを申し上げたのです。私はイエスをキリストというよりも、むしろ先ほど言いましたような意味で、ブッダと言った方がふさわしいのではないかというふうに思います。こういう話をすると、仏教とキリスト教を総合しようという考えを持っているのではないかと思われるかもしれませんが、まったくそういう考えはございません。私はブッダの精神が果たして仏教にあらわれているかどうか、さらにイエスの精神がキリスト教にあらわれているか、特にキリスト教にはあまりイエスの精神はあらわれていないのではないかというふうに思っております。ですから仏教とキリスト教を総合しようなんていうことは、まったく考えておりません。ただ一番もとであるところのブッダは何か、あるいはイエスとは何かということを、もっともっと探求しなければならないのではないかと思います。
 普通私たちは、イエス・キリストというふうに申します。よくそのように書いてあるし、あるいは皆さんもそのようにおっしゃると思いますが、これをたとえばヤマダ・タロウというふうに、姓・名だと思っている人が意外に多いんです。この中にはそういう方はいらっしゃらないかと思いますが、実はそうではないんです。イエスというのは本名ですが、キリストというのは何かというと、称号です。「メシア」という言葉があります。たとえばヘンデル作曲「メサイア」という曲が、なぜか年末になると歌われたり流されたりしておりますが、英語でいうメサィアは、ヘブライ語ではメシアといって、救い主、救世主という意味であります。そしてキリストというのは、本来クリストゥスというギリシャ語です。新約聖書はギリシャ語で書かれています。イエスやその当時のイスラエルの人々がしゃべったのはアラム語というヘブライ語の一種と言ってもいい言葉でした。しかし、新約聖書は文化的言語であるギリシャ語で書かれています。ちなみにいわゆる旧約聖書というのはヘブライ語で書かれています。ですからヘブライ語のメシアは、すなわちギリシャ語のクリストゥス、日本でいうキリストです。
 それではメシアというのはどういう意味か。これも先ほどおっしゃっていただいたのですが、「油注がれた者」という意味なんです。その油というのは香油でして、たとえば王になるときには戴冠式というものがありますが、昔は頭に香油を注ぐセレモニーを行ったわけです。王というのは主に政治
上の君主ですが、しかし古代は政治も宗教も一つになっておりましたので、宗教の最高権力者をメシア、救い主と言ったわけです。イエスもまたのちにメシア、キリストであると言われるようになりました。
 ところがイエスは自分では、メシアあるいはキリストというようなことは言わなかったのではないか。言わなかったという証拠はないんです。しかしそのように考えられる。またみずからもメシアである、キリストであるなどと思ったことはないのではないか。人の心の中はわかりませんけれど、どうもイエスを総合的、歴史的に見ていくと、そのように思われます。当時、毎年春になると、頭がおかしくなるのかどうか知りませんが、「われこそはメシアなり」「われこそはキリストなり」というのが次々に出てきました。ところがそういう人はのちにキリストにならずに、キリストであると思わなかったイエスがのちにキリストにされたというのが歴史のアイロニーであると思います。私は聖書学者ではありませんが、最近の聖書学、聖書の歴史的研究の成果から申しますと、イエスはキリストではないというのは決して過激な言葉ではありません。今は学問上の定説とまでは言えないにしても、いずれ定説になるのではないかと思います。それが一番新しい聖書の学問的研究の成果であると思います。
 イエスはキリストではないのではないかということは、かなり前から言われておりました。特に近代、哲学者ヘーゲルのいわゆるヘーゲル左派という人々の中に、キリスト教の問題、聖書の問題をかなりラディカルに考え直した人がおりました。たとえばシュトラウスとか、ブルノ・バウァーというような人がそうですが、そのあたりからだんだんそんなことが考えられるようになってきました。しかしそれはごく一部の人たちであったわけです。一九二六年(大正十五年)ですから、私が生まれる一つ前の年ですが、この年にドイツの神学者というか、聖書学者と言った方がよいかと思いますが、ルドルフ・ブルトマンという人がおりまして、この人が『イエス』という本を書いております。これは日本でも未来社から翻訳が出ておりますが、その中で、「私個人としてはイエスは自分をメシアと考えなかったという意見である」ということをのべています。大正十五年ですからかなり前ですが、もうすでにそういうことをはっきりと言う聖書学者も出ていたわけです。私のような者が、イエスはキリストでないというふうに申しますと、皆さんはちょっとおかしいことを言うなと思われるのではないかと思います。ところが、ドイツの学者のルドルフ・ブルトマソがイエスはキリストではないというと、なるほどというふうに思う。それが日本人の悪い癖であります。ともかくそういうことがすでに言われている。私もそう思います。
 キリストというのは正確にはクリストゥスで、これはヘブライ語のメシアと同じであると、先ほど申しました。そして神から遣わされた救世主というような意味であると。しかし私が思いますに、神から遣わされた救世主というのは大変権威的な存在です。さらに言うならば、権力的な存在です。権威権力の最高のような者が救い主、メシア、キリストということだと思うのですが、私は、イエスはまったく権力的でない人で、権力を忌み嫌った人であると思います。
 これはかなり読まれているのですが、キリスト教界ではちょっと敬遠されているというか忌避されている本があります。ルナンという人がおりました。この人は一九世紀のフランス最大の文人です。二〇世紀の文人は言うまでもなくポール・ヴァレリーですけれども、その前にルナンというすぐれた人がおりました。この人は本来、宗教史学者なんです。そのルナンが書いた『イエス伝』というかなり分厚い本があります。これは岩波文庫で昭和十六年が初版と思いますが、翻訳されております。それ以前から翻訳はあったのですが、普及したのはそれからです。ときどき復刻されていますから、かなりよく読まれているのですが、クリスチャンはなぜかこの本を読みません。しかし今まで書かれたあまたのイエス伝の中で、総合的な意味で最高の作品がこのルナンの『イエス伝』だと私は思います。もし本屋でご覧になったら、お買いになってもよい本ですので、おすすめしたいと思います。私もこの本を読んで感銘を受けました。
 そのルナンの『イエス伝』には、すでに今日のイエスに関する歴史的研究と同じようなことが書かれています。ルナンというのはかなりの人だと思います。しかも一つの特徴として、さきほど権威、権力ということを申しましたが、イエスはアナーキストであると言っています。翻訳では無政府主義者となっていますが、そのように書かれているんです。アナーキストというと、ちょっと誤解されてテロリストと間違える人もありますが、そんな意味ではありません。アナーキズムというのは政治的理想主義でありまして、徹底的に権力を否定するという思想であります。これは実現はしないんです。日本にもかつて幸徳秋水とか大杉栄とか、あるいは石川三四郎という、かなり社会的な活動をした人たちがおりました。ともかく権力を否定する思想、これがアナーキズムであります。ルナンははっきりとイエスはアナーキストであるということを言っています。私は寡聞にしてそういうことを言った人をほとんど知りません。
 ルナンの次に私が知ったのは、日本の大正時代の作家である有島武郎です。有島武郎は晩年のたしか大正九年と思いますが 「ホヰツトマンについて」という講演を東大新人会でしておりまして、その中で、ホイットマンというアメリカの詩人はアナーキストである、そしてまたイエスもホイットマン
に似ているということを言っているんです。つまり有島武郎という日本の小説家がイエスはアナーキストであると言ったというわけです。有島がルナンを読んでいたかどうかわかりませんが、今でもイエスはアナーキストだというと誤解されるところがあって、私はあまり言いたくないのですが。つまり権力否定の思想である。キリストとかメシアというのは大変な権力者です。そうでないのがイエスであるということであります。だからイエスは人生を全うできなかったんです。三十いくつで殺されたでしょう。危険な思想だと思われたわけです。しかし危険ではなくて、人間として実にあるべき理想的な考えではないかと思います。
  さて、そのイエスはいつどこで生まれたかということですけれども、これはもはや定説と言ってもいいのですが、紀元前四年、あるいは紀元前四年以前という言い方もあるのですが、そのころに生まれたとされています。どこで生まれたか。イスラエル(ユダヤ)の北にガリラヤ地方というところがあ
ります。ガリラヤ湖という湖がありますが、そのガリラヤ地方のナザレという小さな村で生まれた。ところがマタイ福音書とルカ福音書には、イエスの生まれたときのことが書いてあるんです。イエスが生まれたときの様子は、歴史的にはまったくわかりません。しかし、後にイエスがキリストにされ神格化されたものですから、そういう偉い人は普通の生まれ方をしていないのではないかというので、処女マリアから生まれたとか、あるいはベツレヘムというところで生まれたと書いてあるんです。ベツレヘムというのはエルサレムの近くの小さな村です。なぜかというと、旧約聖書にミカ書というのがありまして、この中に「ベツレヘムからイスラエルを治める者があらわれる」と書いてあるんです。治めるというのは宗教的な意味も含むのですが、そういうふうに書いてあるので、イエスはイスラエルを治める、宗教的にも支配する人だということで、それならベツレヘムで生まれたのだということにした。とんでもない、イエスが生まれたのはナザレなんです。そういうことがいろいろありまして、だんだんイエスというのは神格化されていきます。
 そして、これも先ほど田上先生がおっしゃいましたけれども、先ごろ亡くなられた中村元博士が訳された『ブッダ最後の旅』という本が岩波文庫にありますが、皆さんもお読みになっていることと思います。これはもとは「大パリニッバーナ経」という阿含経典の一つですけれども、ブッダの最期の日々を書いています。中村先生が解説を書かれていますが、その中にこういう言葉があるんです。「ゴータマ・ブッダが神的存在として描かれている文章は、後代の加筆である。これに反して神的存在らしからぬ人間らしい姿が描かれているのが後代の編纂者の意図に反してまでも経典の中に保存されてきたのであるから、多分に歴史的人物としての真相に近いと言わねばならぬ」。このようにお書きになっています。これは歴史的な研究としては大変すぐれた考え方だと思います。ブッダに関する研究ですが、このことは同時にイエスにもあてはまるというふうに思います。
   さて、イエスは誰の子供であるか。ヨセフという人とマリアの子供であったと言われています。処女降誕などは決してしていません。もちろんあれは神格化するために ああいう話をつくったんです。ヨセフというのはどういう人かというと、大工さんです。大工というより木工職人と言った方が正確で、  農機具とか家具などをつくる職人であった。職人というのは当時のイスラエルにおいては決して下層階級ではないんです。中流階級の家に生まれたわけです。母親になるマリアはどういう人かというと、普通のおばさんです。その間に生まれた長男であったようです。弟や妹がいたということが福音書に出てまいりまして、これは事実ではないかと言われております。先ほどイエスの少年期、青年期はわからないと申しましたが、私もいろいろ推測をしました。父親のヨセフという人は、そのころに亡くなったのではないか。イエスの少年時代あるいは青年時代かははっきりわかりませんが、亡くなったと思われます。ヨセフが早く亡くなったというのは割合歴史的な事実であると多くの人が見なしているわけです。それから先は私の考えでありますが、イエスがのちに神を父親と呼んでいます。今でもキリスト教会では「父なる神」ということを祈りのときに言ったりすることが多いのですが、なぜイエスが神を父と呼んだか。その父というのを、先ほどのアラム語ではアバと言います。このアバというのは日常語であります。日本語でいうと、皆さんも自分の父親に対して「おやじ」というような言葉をお使いになると思いますが、そういう意味で、大変日常的で親しい、またパーソナルでヒューマンな言葉で神を呼んでいるというのは大変なことではないかと思います。もっともこういう考え方はユダヤ教にもあったことはあったんです。しかし、これを別に普及しようとして言ったのではないけれど、のちに普及したのはイエスが大いに語ったからではないかと思われます。キリスト教の「父なる神」というのは、きわめて神的な要素を持っているように思われていますが、イエスはそうではない。イエスは父親が早く亡くなったので、その父親に対する気持ちから神をおやじと呼んだのではないかと思います。ということは、イエスにとっての神、あるいは神に類するものというのは、人間の根源的な問題性であると思います。
 イエスは盛んに神の国ということを言って、神の国をことごとくたとえ話で語っています。神の国は十万億土の彼方にあって、紫の雲がたなびいて光輝くというようなことは一切言っていません。どういうことかというと、人が種をまくとその種は成長する。そして大きな木になって、そこに空の鳥が来て宿る。これが神の国だと言っています。あるいはまた女の人が小麦粉をこねてパンをつくる。そこにパン種を入れる。今でいうイースト菌ですが、それがふくらむ。これが神の国だと言っているんです。そういう話を盛んにします。きわめて日常的、生活的な言葉で神の国をあらわしている。それは決して神格化という意味ではなくて、神をむしろ、人間化しているわけです。イエスが神を父と呼んだのも、神の人間化であるというふうに思います。これがイエスである。キリスト教とはだいぶ違うんです。
 さて、イエスは三十歳ごろに家を出ました。家出をしたんです。なぜかというと、父親が亡くなってあとの大工の仕事をしていたのでしょうが、母親マリアとはあまり親しくなかったのではないかというのが私の仮説です。福音書にそれに類する記事が出てまいります。それで、ともかく家を飛び出した。このあたりの考え方というのは青年にありがちの考え方で、親離れして自立しようとしたわけです。その当時、洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネというのが現れました。ユダヤ教の中で異端的と言ってもいい一派の人ですが、この人はバプテスマ、すなわち洗礼を授けました。ユダヤ教には洗礼はなかったのですが、そのころからほかの宗教の影響で洗礼という儀礼をとり入れる教派が現れて、「悔い改めよ」と、きわめて道徳的というか厳しい倫理を語った。それがかえって魅力があって、多くの人がそこへ行って洗礼を受けました。
 イエスもはじめはそのバプテスマのヨハネに魅力を感じて、ヨハネから洗礼を受けたようです。このことは福音書にもはっきり書いてあります。しかし、洗礼を受けるということは、ヨハネ教団に入団することなんです。歴史的にはヨハネはイエスの先生なんです。ところがキリスト教の立場からすると、イエスは最高の救い主であるから、それに先生などがおるのはおかしいということで、ヨハネを先生にせずに、イエスがあとからやって来ることを告げ知らせた先駆者であると福音書には書いてあります。これは明らかに誤りだと思われます。 もかくイエスはヨハネ教団に入った。はじめはヨハネに魅力を感じたのですが、ヨハネ教団というのはきわめて禁欲主義的です。私は禁欲ということは大事なことだと思いますが、禁欲主義になるとちょっとよくないのではないかと思います。快楽も大事ですが、快楽主義になると行き過ぎであるのと同じです。それから修行もしました。断食をしたようですが、修行主義ということが言えるのではないかと思われます。
 イエスは間もなくそこを飛び出しました。どれぐらいいたかはまったくわかりませんが、あまり長くなかったようです。こういうのがイエスの宗教的関心のはじまりではないかと思います。父親が亡くなり、母親と仲が悪かったというのは言い過ぎかもしれませんが、ともかく家を飛び出した。そしてヨハネ教団に入った。宗教的関心を持つ、あるいは宗教に入ることを発心と言いますが、聖書にはなぜイエスが発心をしたかというのはまったく書いていないんです。聖書ではイエスはキリストであって、キリストははじめから発心などするはずがないというのでしょうか。それは大変な誤りだと思います。イエスもやはり発心をしました。なぜ発心したのか。それはよくわからないけれど、私は一つは早く死んだ父親に対する思いだと思うのです。
 ちなみに申しますと、幼くしてあるいは少年時代に父または母を失って宗教に目覚めるというのは非常に多いんです。皆さんよくご存じの鎌倉仏教の開祖はほとんどがそうです。たとえば法然、たとえば親鸞、そして皆さんの宗祖道元もそうです。日本曹洞宗の開祖である道元は、三歳で父親を失い、七歳で母親を失いました。大変なことですね。それで彼は比叡山に上って出家したわけです。あるいはそのあと出てきた時宗の開祖である捨聖一遍、これもそうです。それから鎌倉仏教とは言わないけれど、同じ時代に「夢之記」というのを書いた明恵もやはり父母を失っております。そういうふうに、特に昔は幼少年時に父や母を失うことが発心の原因になるケースが非常に多いんです。イエスもそうではないかというのが私の考えです。
 それからこれはちょっとわからないのですが、女性関係もあったのではないか。たとえば失恋です。そういうことは書いてありません。けれどもイエスは遊女、これは今の言葉で言えば「売春婦」ですが、そういう人たちとも話をし、あるいは彼女らと大変親しくし、彼女らをかばったとされています。ユダヤ教のパリサイ派が姦淫の現場を見つけて殺そうとしているときにイエスが助けたというような話が、ちゃんとヨハネ福音書第八章にも書かれています。そういうあたりから言いますと、イエスは大変女性と親しかった。最近ではフェミニストというのでしょうか。ともかくイエスは女性にやさしかったということは事実のようです。そういうところから言いますと、かつて青年時代に女性との間に何かあったのではないかと推測されます。のちにすぐれた宗教家になる人はそういう人が多いんです。キリスト教でもアウグスティヌスとか、アッシジのフランチェスコとか、仏教でも良寛とか一休とか、そういう人たちは、かなり女性と親しくしている。そのことによってかえってすぐれた宗教家になったようです。そういうことをすれば宗教家になれるというわけではありませんが、そんな人がかなりいるということから類推しますと、そういう問題もあるのではないかと思われます。
 そしてヨハネ教団に入ったのですけれども、禁欲主義、修行主義に飽きたらずそこを出て自立し、一人でガリラヤ地方を遍歴して人々に呼びかけた。当時ユダヤ教の律法というのは大変厳しいものでした。たとえば、週の最後の土曜日に安息日というのがあって、一切の労働をしてはいけない
。休んでよろしいというのではなく働いてはいけないんです。歩く距離も決まっていたし、煮炊きもできません。今でもまじめなユダヤ教徒はそうしているでしょう。イエスはそういうユダヤ教の律法はおかしいと民衆に呼びかけました。イエスの教えというのはきわめて深い意味で、新しい意味で宗教的だと思います。
 そして病気も癒やしたようです。どれだけ病気を治したかわかりませんが、イエスはのちに治癒神という病気癒やしの神とされたために、福音書には六十いくつもの病気癒やしの記事が書かれています。それほど多くはないにしても、多少の病気は治したと思います。そして弟子が集まってきた。あるいは呼びかけて弟子にした。
 ところが問題は、その弟子たちがイエスをまったく理解することができなかったというのが私の考え方です。普通はイエスの弟子であるペテロ、パウロなどの中には、イエスにつまづいた人もいるけれど、しかしのちにキリスト教をつくって大いに活躍したといわれております。けれども、少し違う
のではないかと思うのです。イエスの弟子は十二人いたとされていますが、実際十二人であったかどうか。不定形でしたから何人いたかわかりません。あるときは多く、あるときは少ない。組織つまり教団はつくらなかったのです。宗教の定義は、教義と儀礼と教団であると言われますが、イエスはその三つをことごとくやっていない。それらを作ったのは弟子たちです。親鸞もそうですね。似ているんです。そういうところからいいますと、イエスの弟子はイエスをまったく理解していなかったと言ってもいいのではないか。
 イエスは最後に都のエルサレムに行って殺されます。なぜエルサレムに行ったのか。ガリラヤのころからイエスはかなりユダヤ教の権力者ににらまれていた。あるいはユダヤを支配しているローマ政府ににらまれていた。だから都へ行けばただちに殺されるとイエスも思ったでしょう。それでもイエスは行ったんです。なぜ行ったか。弟子にすすめられたということもあるんです。イエスの弟子は、イエスとまったく考え方が違うと言ってもいいぐらいでした。エルサレムに行ってイエスを王にまつり上げてローマ政府の支配から独立しようと、ヨハネやヤコブという人は言ったんです。ヨハネという名前の人はいろいろおりますが、イエスの弟子のヨハネとヤコブは「エルサレムに行ったらあなたは王になって、私どもを右と左につけて下さい」と言った。右大臣、左大臣にしてくれと言ったわけで、今なら外務大臣と大蔵大臣にしてくれと言った。何ということでしょうか。イエスはまったく権力否定の人であったにも関わらず、そういうことをこの人たちは言っている。この一事を見てもよくわかります。これはマルコ福音書の第十章に書かれております。弟子たちは権力志向です。しかしイエスは無権力志向であった。イエスはエルサレムに行ったら殺されると思ったけれども、こういう弟子を相手にしていたのではだめだとあきらめたわけです。だからイエスは家を出て、ヨハネ教団を出て、次に自分のつくったキリスト教以前のイエス集団、組織ならざる不定形な集団ですけれども、そこからも離脱しようとしたのではないかというのが私の考えです。
 そして、十字架にかけられることを甘受した。甘んじて受けるというと何だかよろこんでいるみたいですが、そうではなくて、やむを得ないと覚悟したのではないでしょうか。ご存じのように十字架につけられて、「わが神、わが神、何ぞわれを捨てたまいし」と言ったとマルコ福音書にもマタイ福音書にも書かれています。これはどういうことか。旧約聖書の詩篇第二十二篇の冒頭に出てくるのがこの「わが神、わが神、どうして私を見捨てられるのか」という言葉です。一説によりますと、詩篇の第二十二篇というのは、はじめはそのような神への絶望の言葉ではじまり、最後は神に対する信頼、
神への感謝で終わるので、イエスは最後まで言うつもりだったのだけれども、時間切れではじめだけで終わったという珍説もあります。私はそういうことはないと思います。こんなことを言ったかどうかはわかりませんが、やはりそのときに神に捨てられたと思ったのではないか。これは大変なことで
す。私はイエスはキリスト教の教祖ではないと思うのですが、のちに教祖とされた人が、神に捨てられたと言って死んだ。そのことを聖書という経典の中に記すというのはすごいことではないですか。もちろん死んだあとに復活したとか、あるいはもう一度再臨してやって来るという話も出てくるんですけれども、しかし少なくともイエスは神に捨てられたと言ったと書いてある。これは大変なことではないか。よくこんなことが書いてあるなと思います。私は評論家で哲学者の鶴見俊輔氏とよく話をするのですが、鶴見さんが私に「笠原さん、聖書っていうのは素晴らしい本ですね」と言われるので、「どうしてですか」と聞きますと、「教祖が最期に『しまった』と言ったと書いてある」とおっしゃるんです。「しまった、神に捨てられた」ということですね。「こういう経典というのはほかの宗教にはない、それが素晴らしい」と。鶴見俊輔さんのようなキリスト者でない、いわば普通の人が感じる感じ方というのは、きわめて適切ではないかと思います。
 このことを最初に書いたのは、マルコという福音書です。この福音書によると、イエスを処刑したローマの百卒長がいました。その人がイエスのこの言葉や最後に発した呼び声を聞いて、思わず「まことにこの人は神の子である」と言ったと書いてあるんです。百卒長というから百人の部隊長で、ローマ人でしょう。異邦人ですから、宗教なんて信じていない。これはどういうことなのでしょうか。神に捨てられたと言って死んだイエスを見て、まことにこの人は神の子だと言ったというのは、聖書の中における最大の逆説ではないかと私には思われるのです。宗教の論理の最後のところは逆説だと思います。.ここが面白いのです。
 ところが福音書にもいろいろありまして、マルコ福音書が最初に作られた。それは紀元七〇年ごろと言われていますが、そのあと八○年ごろに書かれたのが、マタイとルカという二つの福音書です。ところがマタイ福音書の第二七章によると、イエスが十字架の上で息絶えた、そのあと地震が起こった。それからいろいろな天変地異みたいなことが起こり、先に死んだ多くの人が復活してきたと書いてある。それを見て百卒長が、「まことにこの人は神の子であった」と言ったとマタイ福音書には書いてあるんです。これでは逆説ではないですよ。天変地異が起こった、それを見て彼は神の子であると言うのなら、普通ではないですか。全然宗教的ではないですよ。マタイという人はわかっていない。福音書もいろいろありますから、それを比べてみて下さい。一つ読んでそれが正しいとは思わないで下さい。編集史的方法と言って、マルコやマタイやルカという編集者がつくった福音書を相互に比較して、その中からはるか向こうにあるイエスを探ろうというのが、近年の新しい聖書研究の方法です。
 ルカ福音書というのがあります。これも紀元八O年ごろに書かれたものです。それにはどう書いてあるかというと、イエスは「わが神、わが神、なんぞわれを捨てたまいし」とは言っていません。「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と言ったと書いてある。これは大変宗教家らしい従容たる死ではな
いか。ソクラテスは従容たる死を遂げた。あるいは快川という和尚は、「心頭滅却すれば火もおのずから涼し」と言って従容として死んだ。イエスは従容として死んでいません。「神に捨てられた」と言って死んだのです。ところがそれでは教祖らしくないと思ったのか、ルカはマルコによらないで、「父よ、わが霊を御手にゆだねます」と、もっと立派なことを言ったとしています。「わが神、わが神、何ぞわれを捨てたまいし」というのも本当かどうかわからないけれど、こっちは完全にうそです。さらにまたヨハネ福音書はどう言ったと書いてあるか。「すべてが終わった」と。これも従容たる死です。カントが死ぬときに、「エス・イスト・ダート(これでよろしい)」と言って死んだ。カントはこの真似をしたのかわかりませんが、ともかくすべては終わったと言っている。これも違うのではないか。これでは逆説ではないと私は思います。
 ともかく仮にイエスが絶望して死んだとすると、そういうことは教団としてはあまり公にしたくないことです。何となれば、そういうことを言ったら人がつまづいて救いを得させることができない。布教、伝道に不利だというようなことを考えるでしょう。にも関わらずそれを記している。だから逆にここに本当のものがあるのではないだろうかと思うのです。本当かどうかはわかりませんが、そういうふうに考えられるということです。
 さて、先ほどイエスは離脱の人であると申しました。家出をしてヨハネ教団に入り、そこからも出て、弟子たちと共に不定形の集団をつくったけれど、弟子たちの無理解に愛想を尽かしてみずからの集団からも離脱した。最後に神に捨てられたと言ったとすれば、神からも離脱したのだろうと思います。しかしその離脱は最大の逆説である。イエスは神に捨てられたと言ったけれども、逆にそのことによって救われたのではないだろうか。これは普通の論理ではありません、逆説です。
 このような離脱あるいは逆説というのは、皆さんのような禅の方はよくおわかりになるのではないかというふうに私は思います。禅の論理というのはそういうものではないですか。私は禅の勉強はあまりしておりませんけれども、たとえば鈴木大拙は、大乗仏教の根本原理は即非の論理であると言っていますね。即非とは何かというと、「AはAにあらず、ゆえにAはAなり」ということです。「AはAにあらず、ゆえにAはAならず」というのが普通の論理ですが、AはAでないからAなんだと。これを即非の論理というのだそうですが、鈴木大拙は禅の根本論理としてこういうことを言っています。西洋の形式論理では、こういう論理はまったく矛盾したものであり、非論理であるとされます。しかしながら禅の思想はそうではない。その禅の思想がイエスを理解するのに非常に参考になると思います。
 私は近年、キリスト教を離脱いたしまして、むしろ仏教に教えられることが多いと思っております。しかし仏教徒になろうというわけではございません。キリスト教とか仏教とか、そういう一宗一派としての宗教に真の宗教性があるか。ないとは言えません。けれども宗教よりも宗教性、あるいは宗教的なるもの、これが非常に大事であるというふうに思うのです。宗教というのは教義、儀礼、教団という形のある三つのものによって代表されています。しかし宗教性というのはその中身です。宗教性とはいわくいいがたいものですが、宗教的なものというのも同じです。その方がはるかに大事ではないかというふうに思います。皆さんのことを申し上げるわけではもちろんありませんけれども、世の多くのいわゆる宗教の中には宗教性がない宗教があるんです。あるいはお坊さん、これは何も仏教に限らずキリスト教なども含めてですが、そういう中にきわめて俗っぽい人がいる。逆に俗人の中にきわめて宗教的な人がいる。これがまさに逆説としての宗教性です。
 禅についてもうちょっと申し上げたいのですが、十年ほど前に『宗教の森』という本を春秋社から出しました。新聞に書いた短いエッセイを集めたものですが、出版社の人がちょっと分量が足りないので、対談でも載せたらどうかということで、五人の人と対談をしました。吉本隆明さん、中村雄二郎さん、河合隼雄さん、鶴見俊輔さん、そして上野千鶴子さんと対談をしたものを載せまして、そのおかげでこの本はだいぶ売れました。人のふんどしで相撲を取ったようなことですが、その上野千鶴子さんという人は私の大学の教師だったので、同僚だったんです。彼女は子供のときに教会の日曜学校に行ったことがあり、あるいは仏教にも関心があったということをちらっと聞きまして、それでぜひ宗教の問題について話し合いをして、それを本に載せたいと言いましたところ、いやだいやだと辞退したのですが、彼女は時あたかも東京大学から来てくれと言われて、なぜか京都精華大学を辞めて東京大学へ行くというので、彼女にもちょっと負い目ができて、「仕方がない、やりましょう」ということになって、最後は、「もうどうでもして下さい」というような危険なことを言っていました。ともかく対談をしたらよくしゃべって、三時間ぐらいしゃべったんです。あの人はフェミニストとして大変有名で、頭の非常にいい方ですし、活発な人ですけれども、愛敬があるんです。愛敬というのは大事ですね。女は愛敬というけれど、男も愛敬だと私は思います。上野千鶴子の長所は愛敬にあると思うのですが、その上野千鶴子さんとの対談の一節を書き抜いてきておりますので読みます。

 上野  私はキリスト教には権力主義的な言説を可能にするような装置がいっぱい詰め込まれていると思います。キリスト教からイエスだけを絶対的な他者として救い出して、笠原さんのように無理やり実存的なイエス像をつくり上げるよりも、むしろ仏教、特に禅が潜在させてきたのは超越性の否認、絶対アナーキズムだと思いますが、どうしてそちらの方へいらっしゃらないんですか。
 笠原  それは僕の宗教体験があって、たまたまキリスト教に出会って入信した。ところが入ってみると疑問を感じ、キリスト教の教祖とされているイエスは最近の歴史研究によって、そういう存在ではまったくないということがわかった。イエスは絶対的な他者ではなく、相互主体的に出会う相手なんです。禅の思想には共鳴するところも多いが、そのリアリティをキリストならざるイエスに見出すんです。今のところ、ほかのものをもって変えられない。もっといいのがあればいつでも変わりますが。
 上野  キリスト教の教義による二千年の蓄積と、今のようなお考えを対立させると、相当な消耗戦を闘わなければいけませんね。
 笠原  消耗してますけど。
 上野  それぐらいであれば、禅の中にある究極的なニヒリズム、アナーキズム、それと智慧、その方がはるかにお気持ちに沿うのではありませんか。
 笠原  まいったな。それは賛成なんですが、そういうものがイエスに見出せるというのです。
 上野  禅の祖師たちも、もっとすぐれた思想をつくり出してきましたよ。イエスのように人格化された存在さえつくり出さずに、智慧をずっと積み重ねてきましたね。智慧を言語や人格の姿を借りてあらわさなくてもよいというのが、アナーキズムの行き着く果てではないでしょうか。
 笠原  つまり無ですね。だからイエスは無なんです。無のリアリティです。

 このようなことを言っております。これは大変面白い対談でした。
 ところでちょっと話題を変えまして、救いとは何かということを考えたいと思います。宗教の救い、救済というのは大体上から下に垂直に下りてくる。カール・バルトという神学者がおりますが、垂直ということを強調しています。神や仏は上にある。人間は下にある。そして神や仏に絶対的に依り頼む、これが救いを得る生き方で、多くの人がそのような救いを求めている。私はたしかに人間というのは弱い存在だと思うんです。しかし上にあるものに絶対的に依り頼むということばかりをやっていると、その限りにおいて弱い人間は強くはなれない。特に強くはならなくとも、自立できない。すべて他者に頼っているという人は、宗教者の中にかなりいらっしゃるんです。それで生き甲斐があると思っている方はそれで結構です。私は人の宗教に干渉することはしたくないのでご自由ですけれど、私はそうはできない。
 今、神や仏と申しましたが、イエスやブッダは果たしてそのような存在であったでしょうか。上にあって下にいる人間を救ってやろうというふうに思っただろうか。たとえばマルコ福音書の第五章にこういうことが書いてあります。病気を癒やした人に対して、「あなたの信仰があなたを救った」と言ったと書いてあるんです。これは訳が悪いと思います。信仰という言葉は原語のギリシャ語ではピスティスと言います。ピスティスという言葉は信仰という意味もあるけれど、信頼とか信用とかの「信」ですね。そういう信用とか信頼も含めてピスティスという言葉があるんです。ですからイエスが言ったとされる言葉を訳すならば、「あなたの信頼があなたを救った」とするべきだと思います。しかしあらゆる聖書が「信仰」と訳しています。そう訳すべきではないと思うんですが。あなたの私イエスに対する信頼があなた自身を救ったと、こういうことです。
 イエスはこの病人と同じ地平に立っていたのではないか。上下垂直の関係ではなく、同じ水平の関係における救いではないか。水平というのは社会的な問題で、水平社というのもありました。被差別部落解放運動のはじまりですね。水平というともっぱら社会的なことをあらわすように思われています。そして垂直というと宗教的なことをあらわすと。そのように宗教と社会とをまったく分けて、垂直・水平というのは、おかしいのではないかと思います。今や宗教を考え直さなければいけないのではないか。水平における救済というのは言葉の矛盾であると思われる人があるかもしれないけれど、私はそうではないと思います。ブッダやイエスの救済は水平です。同じ地平に立ってその人に語りかけ、その人の病気を癒やすことで、それがイエスやブッダの救済だったのではないかと私は思うのです。
 それは別の言葉で言えば、いわゆる主体と客体ということです。神は主体であり人間は客体だと。しかし必ずしもそうではないのではないか。相互主体という言葉があります。これはフッサールが言い、サルトルも言っておりました。主体客体ではなくて、お互いに主体であると。そういう関係がイエスやブッダに出会った人に生じたのではないかというのが私の考えです。病気を癒された人は、そのときイエスと同じ存在になったんです。イエスを信ずる人、クリスチャン、イエスの弟子だったのではない、イエスと本質において同じ存在になったのではないか。
 このことは、私が今度出した『イエス 逆説の生涯』という本に書いたのですが、昭和二十五年ですから戦後すぐです。椎名麟三という戦後文学者がおります。この人は赤岩栄という人から洗礼を受けてキリスト教に入り、その後赤岩栄と思想的に仲違いをして、椎名麟三の文学は低下していったというふうに私は思うのですが、それはいいとして、その椎名麟三が洗礼を受ける時に、友人である埴谷雄高に相談しました。埴谷雄高という人は、すぐれた文学者というか思想家ですが、そのときに埴谷雄高はこういうことを言いました。「君が宗教性を持つのはいい。だが教団に入ってはいけない。君自身、イエスと同じ立場がいいのではないか」と言ったそうです。これはすごい言葉です。イエスと同じ立場ということは、キリスト教会では決して言われない言葉です。イエスと同じになるのは神になることだと思われているけれど、そうではない。埴谷雄高のように、キリスト教にも聖書にも暗いというと失礼ですが、あまり発言していない人が、そういう素晴らしいことを言っている。昭和二十五年というと、私もこのころにキリスト教に入ったのですが、こういうことはわからなかった。のちに埴谷雄高と吉本隆明が対談している中に三行ほど出てくるんです。この言葉は埴谷雄高における最大の宗教的発言ではなかったでしょうか。
 たとえばニーチェというと、皆さんはキリスト教に反対した最大の人であると思われるでしょう。たしかにそうです。キリスト教に反対したんです。三代続きの牧師の息子だからああいうふうになったんです。牧師を長くやっていると、ああいうふうに逆転するんです。そのニーチェが『アンチクリスト』という本を書きました。これは有名ですからお読みになった方もあるかと思います。よく間違われますが、「アンチクリスト」という題名であって、「アンチクリストゥス」ではないんです。というのは、クリストというのはドイツ語ではキリスト者、クリスチャンということです。だから反クリスチャン、反キリスト者、反キリスト教という意味なんです。反キリストではないんです。ニーチェは残念ながら、私のようにイエスとキリストを分けて考えていないわけで、ニーチェがキリストというときは私の言うイエスと同じだと思います。そして彼はキリスト、すなわちイエスには反対していない。世のいわゆるクリスチャン、キリスト教に対して徹底的に反対した。そういう人です。その「アンチクリスト」の中にこういう言葉があります。「イエスは神と人間との間のいかなる隔絶をも認めなかったはずである」。 神と人間は隔絶しており、上にいる神によって下にいる人間が救われるというのがキリスト教の考えです。しかしニーチェはちゃんとわかっているんです。続いて「イエスは神と人間との一体感をおのれの福音として生きた人だ」というのです。これは素晴らしいことです。神と人間との一体感というのは、先ほどの埴谷雄高の「イエスと同じ立場がいいのではないか」ということと同じです。埴谷雄高が『アンチクリスト』を読んでこういうことを言ったとも思えないのですが、すぐれた人は同じ真理を時を異にして言う。そういうことではないかと思います。
  こういうニーチェはあまり知られていなかったというと大げさですが、ニーチェ学者というのはずいぶんたくさんおられます。ところがニーチェ学者がキリスト教をどれだけ理解しているか。ニーチェの最大の問題はキリスト教です。だからキリスト教を徹底的に勉強しないとニーチェはわからない。
私はもちろんニーチェの専門家ではないのですが、わかる気がするのはニーチェはキリスト教について正確なことを言っているということです。
  こういうニーチェを現代に蘇らせたのは誰かというと、フランスの哲学者の、ミッシェル・フーコーです。数年前に惜しくも亡くなりましたが、サルトル以後最大の哲学者です。フーコーは難しい。それでもフーコーまでは多少わかりますが、その後のドゥールズとかガタリとかはなかなかわからない。
あれを訳している人はわかっているのかどうか、本人もわかっているかわからないような感じですが、フーコーというのはすごいですよ。フーコーが一九六九年に著した『言葉と物』という本は、非常によく読まれています。バゲットというパンがありますが、あのように売れたという言葉があるぐらい、
フランスではよく売れました。でも難しい本です。新潮社からかなり大冊の訳が出ていますが、その中で、簡単にいうと「ニーチェは人間と神とが互いに相互のものとなり、神の死が人間の消滅の同義語であることを再発見した」ということを書いているんです。ニーチェは人間と神とが互いにお互い
のものであると。つまり水平の関係です。「神が死んだ」と最初に言ったのはヘーゲルですが、流行らせたのはニーチェです。神の死が人間の消滅と同義語であることを再発見したということを言っている。これは神と人間、つまりイエスとわれわれとの間における相互の、そして水平の関係を説いていると考えられます。
 ニーチェは今までもっぱら実存主義者と言われてきました。パスカル、キルケゴール、ニーチェ、サルトルといった実存主義の系譜があり、その中の大きな存在であると思われている。たしかにそうです。同時にフーコーによると二-チェには構造主義の思想があったというのです。構造主義というのはレヴィ・ストロースが一九六〇年代に、人間というのは重層構造の果てに存在するのであって、サルトルのように人間の一番先端の主体、実存ということだけを言っているのではだめだと。昔からの習慣、制度、神話、言語等々を積み重ね、重層構造の果てに人間があるのだというのです。それを重視するのが構造主義です。これは文化人類学とか民俗学とかいうものにも近い思想ですけれども、この構造主義の思想がニーチェにもあるということを見出したのはフーコーです。何となれば垂直ならぬ、水平のいわば「層」という思想を二ーチェが持っていたことがフーコーによって明らかになった。フーコーはニーチェの再発見をしています。ニーチェというのは不思議な人で、ナチスに悪く利用されたこともあったんですが、時代を経てますます新しくなっていくという驚くべき思想家です。
 今まで私が申しました、従来の宗教のような上から下へではない相互救済という、水平における救済という真理のヒントがここにあると思います。そこで一体人間とは何か、神とは何かということについて申します。キリスト教や西洋思想では、神と人間はまったく異なる存在です。日本ではそうで
はないですけれども。そこでは神は絶対他者です。私はイエスを学ぶことによってわかったのですが、神とは人間の根元的な問題性ではないか。フォイエルバッハが神の問題は人間の問題だということを言っていますが、根元的な問題性ということにおいて、フォイエルバッハはまだそこまでわかっていないというふうに思いますが、神とは人間の根元的な問題性であるというのが私の考え方です。
 こういうことはフーコーも言っているんです。フーコーは『言葉と物』の中でこんなことを言っています。「人間は最近の発明に関わるものであり、二世紀と経っていない一形象だ」と。二百年前から人間があるのだというようなことを書いています。「われわれの知の単なる折り目に過ぎない。知がさらに新しい形態を見出しさえすれば、早晩消え去るものだと考えることは何と深い慰めであり、力づけであろう」と。驚くべき言葉です。これはフーコーの『言葉と物」のはじめと終わりに書いてあります。あの本の中で一番のポイントだと思います。人間というのは二百年前にできたに過ぎない。そ
のうちなくなるだろうと。そう考えることは何と深い慰めであろうか、力づけであろうかと。これはパラドクスです。もちろんここで言っている人間というのは「人類」という意味ではなくて、近代ヒューマニズムというような意味を敢えてフーコーは「人間」と書いているのだろうと思います。
 ところで自力か他力かという問題をちょっと考えたい。禅宗は自力である、浄土真宗は他力であると言われる。しかしマルコ福音書の第三章に、こういうことが書いてあります。手が曲がって伸びない人に、イエスは手を伸ばしなさいと言った。そこでその人が手を伸ばすと手が伸びたと。何だ、伸ばせるじゃないかということなんですが、手を伸ばしたのはこの人自身です。自力ですね。しかし手を伸ばしてごらんと言ったのは誰か。イエスです。イエスに言われるまでは、手が伸ばせることを知らなかった。だからイエスが言ったことから言えば、これは他力でしょう。自力でしょうか、他力でしょ
うか。禅宗は自力の宗教と言われています。しかし道元の『正法眼蔵』に、皆さんよくご存じの「生死」の巻というのがありますが、その中にこういうことが書いてあります。「生より死にうつると心うるは、これあやまりなり。(中略) ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」。自力の大家道元が、「仏の方から行う」というのです。これは他力ではないか。ここがすごい。皆さんは禅宗の方が多いと思いますので、自力ということにこだわっておられると思いますけれども、究極においてはこだわらなくていいのではないでしょうか。浄土真宗はものすごく他力にこだわっています。阿弥陀如来によって救われると言っているけれども、それほどこだわらなくていいのではないかというのが私の考えです。
 禅宗というのは仏教の中で一番ブッダに近いというふうに私は思うのですが、初期の阿含経典の中の一つ『大パリニッバーナ経』、これは岩波文庫で『ブッダ最後の旅』という書名で出ていますが、その中でゴータマ・ブッダがこのようなことを言っています。「この世でみずからを島とし、みずか
らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」。これは何のことか。みずからを根拠としなさいと言ったかと思うと、仏法を頼りにしなさいとも言う。大阪弁で「どっちやねん」と言いたい。ブッダというのは大変な人です。こういうことを実際に言ったとすれば、まったく論理を超えたことを言っているんです。ゴータマ・ブッダの中に自力思想と他力思想があって、それがのちに仏教に自力の仏教と他力の仏教に分かれた。そのもとはゴータマ・ブッダです。分かれたことがよかったかどうかというふうに私は思います。私はイエスもまた自力であり、他力であるという話をいたしました。イエスもブッダも自力・他力です。
 禅は大乗仏教の一つだと言われています。しかし大乗仏教は一世紀以後につくられたもので、ブッダは紀元前五世紀の人である。そこで大乗仏教にはブッダの精神が失われているという大乗非仏論というのがあります。日本でも江戸時代に大坂の町人学者であった富永仲基という人が『出定後語』という本を書いて、大乗仏教を批判しました。大乗仏教にはブッダはいないのではないかということを言った。こういう考え方には、たとえば明治時代の姉崎嘲風という宗教学者も賛成しています。
 私がこれにならって言うならば、キリスト教にイエスの精神や思想は失われている。大乗非仏論にならって言うならば、「キリスト教非イエス論」と言うべきではないか。キリスト教を離脱して、キリスト教を超えるときに、イエスを発見し得るのではないか、イエスに出会うのではないか。イエスは一世紀のユダヤ人という他者であるけれども、同時に私がイエスに出会うときに私がイエスになる。そのときイエスを信じるのではなく、イエスのように生きることができるのです。イエスの弟子になるとか、クリスチャンになるとか、イエスを信ずるとか言う必要はないのだ、イエスのように生きればいいのだというのがイエスの本当の教えではないかというふうに私は思う。ブッダは誰でも自覚を得る道、本来の自己に気づく道を開いた人でした。すべての人はブッダになれるんです。人にみな仏性ありということです。そのようにキリスト教では言っていないけれど、イエスもまた、誰でもイエスのように生きることができる道を開いた人ではないか。キリスト教ではわれわれ人間はキリストにはなれず、イエスだけがキリストであるという。しかし、キリスト者、クリスチャンにはなれるというのはおかしいのではないか。イエスからいえば、すべての人がイエスになり得るのではないかというのが私の考えです。これはブッダと同じ考えです。
 イエスはその最期に神に捨てられたと言った。苦しいときに、神も仏もあるものかと言いたくなることがあると思います。神も仏もないと思ってもいいんです。私はイエスの死のさまを知ってそのように思います。そのときに、救われるとか救われないとかといったことはなくなるんです。救われなくてもよろしいということが、もっとも深い救いではないか。パラドクスです。救いというものを肯定するとか否定するとかいうことを超えた、肯定否定を超えた大肯定というものではないか。その大肯定というのをわかりやすく言うならば、死ぬまで生きるということです。誰でも死ぬまで生きるじゃないかと思われるかもしれません。しかし死ぬまで十分に生きるということではないかと思います。私も死ぬまで生きたいと思います。終わります。

──第三十八回 教化学大会 記念講演 1999.10.27  「教化研修」第44号 2000.3.31発行──
 
 

(演者は、京都精華大学名誉教授。この講演録を贈っていただいたことに感謝申し上げます。)



 
 

        身にしたがう心     秦  恒平
 

 「こころ」という言葉を詠みこんで「心」を詠じた和歌は数知れない。が、心ひとつで心の歌には、なかなか、成らない。「かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人(よひと)さだめよ」という業平の歌も、「色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける」という小町の歌にしても、「夢」「花」といったシンボルとの取り合わせで生きている。取合わせ抜きにさも絶対境めいて「心」を純然抽出してみようと、どう「心見て」も、それで「心」が見えるものではない。
 わたしの造語で恐れ入るが「こころ言葉」といえるような表現が、日本語にあって、日常にじつに多用されている。「心根」とか「心配り」とか「心地」とか「下心」とか「心ばえ」とか「心掛け」とか「心得る」とか、際限がない。それらの「こころ言葉」をもし用いずに、同じ趣意を伝えたりしなければならぬとなれば、どんなにかくどく、まわりくどく言葉を費やさねば済まないか、「心細い」はなしになる。
 ところで、わずかに、こう拾ってみただけでも、じつに「日本語」感覚の把握している「心」には、根や底があったり、分配できたり、地や構えがあったり、下や上になったり、映えたり掛けたり獲得したり出来るもののようである。さらには太くも細くも、広くも狭くもなるようなものとして、「心」は、あたかも形ないし象を成しかつ備えて想われて来たことが分かる。
 もとより「こころ言葉」は「こころ」にだけ熟してはいない。「気は心」というように「気」にも「魂」や「意」にも熟していて、表現の多彩さ巧みさには「心奪われ」てしまうほどである。「気」には味あり色もあり、遠くも近くもなる。「魂」は消えたり入ったりする。「意」には内外があったり注げたりもする。こういう全部をひっくるめての「こころ言葉」であり、それ即ち「日本の心」の具体を、よく指し示している。この指示にしたがわずに、ただ観念として「心」を語ろうとしても、かえって「心ない」ことになる。
 いま「具体」とわたしは言ったが、もう一度和歌の話へもどってみると、じつは、「心」が「身」つまり「からだ」に取合わせて意識されている時に、往々、おもしろい「心」観察が成っている。とりわけて天才の、内省的な胸に芽生えたこんな一首に、感じ入る。

  かずならぬ心に身をばまかせねど身にしたがふは心なりけり  紫式部

  心から心にものを思はせて身を苦しむるわが身なりけり     西行

 心が身で身が心というような、統制のつかない微妙な関与と反発との隙間を縫い取るように、われわれは生きている。暮らしている。心だけ、身だけで、喜怒哀楽はしていない。しかもなお紫式部ははっきりと「身にしたがふは心」と呻くほどに認めている。西行も心任せにすれば「身を苦しむる」と嘆いている。「身」に「心」をしっかと繋ぐこと。それは、「心」を、「具体」の連関においてのみ働かせてしか、「身」の安堵つまりは「安心」もないとの認識であったのか。
 興味ふかい詮索の余地が、ここに、在る。
 

(いますぐ、初出の場と年次は分からないが、筆者肩書に東京工業大学教授とあるから平成初年頃のもので、「私のマインド・トゥデイ」という固定欄の最初に掲載されていることも、コピーの頁数でわかる。わたしの「心・身」に対する基本の思いを述べているが、これを書いたときまだバグワン・シュリ・ラジニーシに出逢っていなかったのも、バグワンのつねに「落とせよ」と警告する「マインド」なる欄の名付けに少しも反応していないことで分かる。しかも、すでに「心」に戸惑いと疑念をすらさしはさんで、「身・体」にたしかに繋いで置かねばと覚悟している。この原稿、ここ数年どこへ行ったかなと捜索していた。、ふとプリントコピーが見つかったので採録し、「e-文庫・湖」にも掲載しておきたい。1.2.24)
 


 

   漱石『心』の問題 ーわが文学の心根にー (講演)

 

               秦   恒 平

                             
        (於・昭和女子大学人見記念講堂 (平成八年四月二十五日 午前十時半ー十二時)
                          
 

 つい先日の朝日新聞に、「何と言っても、白楽天」という文章を書いております。この白楽天の詩集が、昔、私の家にありまして、小学校、戦時中でしたから、国民学校…へ、入るや入らずの頃の、いい退屈しのぎだったんです。ナニ、明治の出版物です、総ルビ…。それに訓みと、簡単な解説との付いた詩集でした。なんとなく分かるのもあり、分からない方がもちろん多かったけれども、とにかく、繰返し読んでいました。ま、大昔のことになりました…。
 私は、秦さんの家に生まれた子供じぁなかった…。貰いッ子でした。事情は知りませんでした。知ろうという気も無かった。孤独でいいんだと、六つ七つの歳で、諦めていたんです。育ててくれました父は、根ッから、本を読むなんて、「極道」だと、嫌う人でした。ところが父の父、おじいちゃんは、やたらと漢字ばかりの本を買い集めていた人でした。ずいぶん在った。袖珍本の『白楽天詩集』も、その一冊でした。有名な「長恨歌」も入っていましたが、私の好みではなかった。つき動かされるほど感銘をうけ、繰返し読んだのは、「新豊折臂翁」という、少し長い詩でした。
 米寿ほどのおじいさんの、片方の腕が無残に折れている。わけを問われて答えている。遠い昔むかしに、まだ青年だったおじいさんは、無道な兵役を強いられたんですね。万に一つの生還も望めない、しかも、時の権力が、ただ、身勝手に起こした戦争なのだと悟った青年は、敢然として、時分の腕を、石で砕いて、そうして兵役を拒否・拒絶した。今だに、寒い夜には腕が痛む…それでも、今も、生きて、日々安らかに過ごしていますよと、この「折臂翁」、腕の折れたおじいさん、は、悪しき政治の、勝手な戦争行為に対する、切実な批判を語る…というわけです。もとより、白楽天その人の思想であった…でしょう。 朝日に書いた新聞の文章は、この詩「新豊折臂翁」との出会いが、私を、将来の小説家へ、押し出した、という内容のものでした。事実…私は、その後十七年ほど経まして、あれは、昭和三十七年、一九六二年の、七月二十九日、もう二十六歳半、サラリーマンになって三年めでした、が…突如…、小説を書き始めました。そして、その年末、満二十七の誕生日に書き上げました処女作、が…『或る折臂翁』と題した、現代の、兵役忌避の小説でした。六十年安保闘争に、触発された、ま、あまり上手とは言い兼ねるものでしたが…、原稿用紙を、まッ黒々にしながら、書きました。
「何と言っても、白楽天」は、それでも、意外と受けとった方が多かった。秦さんなら、紫式部とか、谷崎潤一郎とか、泉鏡花とか書いてくるだろうと、担当の記者さんも思っていたようでした。でも…「何と言っても、夏目漱石」と、書いてみてもよかったんです…。
 先刻…私が、貰われッ子だったと、お話ししました…。
お前は貰いッ子だと、もちろん、親は、言いません。けれど、近所の人が、容赦なく私を指さしました。…家の中で、親の前で、大人になるまで、私は、そんなことは露知らない顔の、演技を、し通しました。その一方で、呼び名のある人と人との関係、つまり親子とか、夫婦とか、兄弟とか、親類、師弟、上司と部下、そのほか、もろもろの人間関係の、「型」や「枠組み」というものを、信じ過ぎまい、いや、そんなものは、信じないようにしようと、幼い子供心に、思うようになって行きました。
 あげく…、人間には、要するに自分と、他人と、世間…、この三種類しか、無いんだという、実感を持ってしまった…。他人とは、親や夫婦も含めまして、「知っている(だけの)人」のこと。世間とは、世界中の「知らない人=人類」のこと…と。…それが、幼い私の下した、人間の分類であり、定義でありました。まことに淋しい実感でした。夏目漱石という人は、淋しいを、「寒い」という字で「さむしい」とも表現した人ですが、私の心のうちは、ちょうどそんな感じでした。
 そして…読書。…友達に、…近くの大人の人に、しきりと小説本を、借りて読みました。買っては貰えない…。本屋での立読みが、すっかり生活の一部になっていました。
 あれは敗戦後の、小学校六年の頃でしたが、近所の古本屋で佐々木邦というユーモア作家の本を、題も筋も忘れましたが、立読みしていました。面白いことに作中の男主人公も立読みの常連で、彼の場合は、その本屋の帳場にきれいな娘さんが番をしていて、両方で恋をしていたんです。でも…青年は告白できない。家の奥に雷親父がいるんです…。そこで一計…青年は本棚の或る一冊を引っこ抜いて、娘さんの目の前へ黙って差出しました。そして、先ず自分の事を指差します。次に「本」を指差し、次には本の「題」を指差しました。本の題は「心」一字…。つまり自分の恋は「本」「心」からだと伝えたんです。
 そこんとこだけ、はっきり覚えています。うまいことやりよるなぁ…と思いました。
 それはさておき…読書だけじゃ、けっして満たされないほど、…孤独の毒は、少年の私を、いつも呻かせていました。寒すぎた。とうとう、こういうことを、私は、思い始めるようになったんです。
 この世界は、譬えていうなら、…みなさん、目に、想い浮かべてみて下さいませんか…、
人の世の中とは、広い広い、果てしない「海」なんだと。その海に、よく見ると、無数の島が、まるで、無数の豆をまいたように見えています。さらによく見ると、その島の一つ一つに、一人ずつ、たった一人ずつ、人の立っているのが見えます。島は、たった一人の人の足を乗せる広さしか、もたない。島一つに人一人しか立てないんです。そして…島から島へ、橋は、まったく架かっていない。島は…人は…完全に孤立の状態で、「海」という名の世間に、寒々と、佇んでいるのです。あぁ…これが「生まれる ウォズ・ボーン」という、受け身の意味なんだ。人は、こうして世界に投げ出され…生まれ…ているんだと、私は、ぼんやりと、しかし、身を焼くほど寒い気持ちで、思いました。堪らなかった…。 先刻、人とは、「自分」と「他人」と「世間」だ、それしかないと思った…と、お話ししました。でも、それでは、あんまりだという思いが、だんだん芽生えました。なぜか。「恋」を、して、知ったのです。…恋をして、何を、どう知ったかを、お話ししましょう。
 もう一度、さっきの「海」を、想い浮かべてみて欲しい。橋の架かっていない、島から島へ、人から人へ、呼び合っている、声が、聞こえてきます。淋しいから…、孤独で堪らないから、ああやって、懸命に、人は、人に、呼びかけるのでしょう、私も、新制中学に進んだ頃から、必死に、誰とも、まだ分からない誰かへ、呼びかけていました。
 やがて、一人の女性に出逢いました。…と言っても、それは、転校して来たばかりの、一つ上級、中学三年生の女の子に過ぎませんでしたが、しかしその人は、たちまち、大きな大きな存在になりました。その人も、私を、愛してくれました。が、あっというまに卒業して、家庭の事情もあり、そのまま…まったく私の手の届かない、遠くへ、姿を消して行ってしまったんです。…運命…でした。
 その人は、卒業式のあとで、私を呼び寄せまして、手紙と、記念の贈り物とを手渡してくれました。贈物は、一冊の文庫本でした。夏目漱石の、題が…『心』だったんです。
 あれから、『心』を、何十度読んだことか。…大事に大事に読んで、読んで…そして…こう、考えるようになりました。
 あの「島」には、たしかに、人は、一人しか、立つことが出来ない。それなのに、いつ知れず、人一人しか立てない筈の小さい島に、二人で立っている、三人、五人、とさえ、一緒に立っている・立てていると、信じられる…時が、在る……。
 人一人しか立てない島に、一緒に立てている。そういう人や人たちのことも、「他人」だとか、「世間」だとか、呼ぶのか。呼んでいいのか…。それは、ちがう…と、私は思いました。そして、そういう人たちを、言葉の最も正しい意味で、「自分」と同然の「身内」…「真実の身内」と、名付けようと思ったのです。
 この、私の申します「身内」とは、単に「(良く)知っている人」というだけでは、ありません。譬えて言うなら、「死んでからも、一緒に暮らしたい人」とでも、定義したい。それが真実の「身内」であり、世にいう「親子」「兄弟」「親類」また「夫婦」といった、ひょっとして、抜け殻でも在りかねないような…ただ呼び名だけでは、何ら「真実の身内」は、保証されてはいないのです。それじゃ、親子夫婦といえども、他人に過ぎない…。
 むろん…、私は知っていました。一人しか立てない筈の「島」に、倶に立つ・立てる、などというのは、「錯覚」だと。しかし「高貴な錯覚」「愛ある錯覚」…というべきでしょう。人の「孤独」は動かせない。しかしそれを、「愛」という名の錯覚の深みへ、冷たい氷を溶かすように、温めることは、出来るのです。私はそれを、「恋」をして知りました。その恋が、あたかも化身したかのような、一冊の文庫本…『心』を、読みに読みこむことで、いつか、私の文学の、一つの芯になるもの、思想…を、創り上げて行ったのです。 大学院を、一年だけで中退しますと、すぐ、生まれ育った京都を離れ、東京で就職し、大学時代に知り合った一つ歳若い妻と、結婚生活に入りました。そして三年めの夏、突如小説を、『或る折臂翁』を、私は、書き始めたのでした…。
 以来、七年ーー。私が、小説家として文壇に招き入れてもらったのは、昭和四十四年、一九六九年の六月、桜桃忌の当日でした。『清経入水』という小説が、第5回太宰治賞に選ばれたのです。
 さて、受賞後の五年間は、二足のわらじを履いていました。昭和四十九年に文筆一本になりましたが、心配して下さる方があって、ご好意を無にするわけに行かず、一年間だけ、或る女子短大に、まるで「文学漫談」をしに通ったんです…。そしてその機会に、また、あの、『心』という小説について、考えて見ずに済まなくなったんです。大方の短大生の、この小説を読んでの感想に、どうもこうも…、引っ掛からざるをえなかったんです。
 作中の、あの「先生」は、何という人でしょう。可哀相に…「奥さん」を放っぽり投げて、自殺してしまうなんて、というのが、一つ。
 また…、作中の、あの「私」は、何という人でしょう。今日にも死んで行くお父さんを放っぽり投げて、臨終の枕元から、一散に東京へ出て行くなんて、というのが、もう一つ。 うーんと、唸りました。
 では、私は、その短大の学生のそういう疑問に、どう答えたのか。じつは、ろくすっぽ、何も答えてあげませんでした。まったく申し訳のないことで、あの時の無責任さの悔いが、反省が、今度の東工大では、ひたすら親切に親切に接しようという覚悟になりました。その、東工大の四年間をかけまして、毎年の前半には、漱石の『心』を話題にして来ました。
 話が、すこし前後致しましたが、先の短大の一年間と、今度の東工大の四年半とには、ほぼ十五年ほどの間隔があいています。その十五年ほどのちょうど真ん中辺で、たしか…昭和五十九年の秋九月でしたが、これまた突然に、劇団俳優座から、漱石の原作『心』を、『心ーわが愛』という題で、加藤剛…、永いこと、テレビで大岡越前なんかやっている人ですが、その彼の主演作品として、『心』を、脚色してくれないかと、依頼の電話が突然飛びこんで来たんです。たぶん加藤さんの発案だったのでしょう、私の『心』への愛着は、妻でさえよくは知りませんでした。むろん、引き受けました。
 そこで…もう一度、さっきの素朴な疑問から、問題点を、こう整理し、少し言い換えてみましょうか。
 第一に、「先生」は、明治四十五年(大正元年)に自殺していますが、親友の「K」が自殺のあと、何故、明治四十五年まで、何年も何年もの間、自殺できなかったのでしょう。裏返せば、何故、明治四十五年になって、「先生」は自殺できるようになったのでしょう。何がそうさせた…させ得た、のでしょうか。
 第二に、「私」は、「先生の遺書」を、臨終の父の枕べで受けとります。そして父も母も、故郷も、すべて見捨てまして、無二無三に停車場へ走ります。東京へ駆けつけます。しかし「先生」は、その時は、もう「とつくに、死んでゐる」のです。「私」はそれを知っているのです。なのに、何で、父親が、今にも息を引き取るのも待てずに、あんな行動に出たのでしょうか…。
 次に第三に、『心』という作品は、小説内部の建前として、「私」が、自分の手記(上・中)を、「先生の遺書」(下)に添えまして、世間に、公表していることになっています。「先生」は遺書の最後に、遺書を公表するのは構わない。しかし「妻」の思いは純白に保ってやりたいと、つまり「見せるな」という重い禁忌を、「私」に科しております。それでもなお、ともあれ、大正三年の春から秋へかけ、遺書や手記の公表が、現に、作品『心』として、世間の目に触れているわけです。…これは、いったい…どういう状況なのでしょう。「先生の奥さん」も、大正元年の秋から、たったの一年半ぐらいな間に、「先生」のあとを追って、または病気でもして、もう死んでしまっていると言うのでしょうか。そういう脆弱な、脆い女性だったでしょうか、あの「奥さん」は。どう思いますか……。 で、バン…と、いきなり猛烈なことを申し上げますが、俳優座との最初の打ち合わせに入りました時に、今言った三つの点について、こう私は、自分の理解を話したのです。
 第一の点。あの「先生」は、明治天皇が何人死のうが、乃木夫妻が幾組み殉死しようが、
それだけでは、とうてい自殺なんかできなかった、と。明治の終焉は、自殺の引金にはなったけれど、絶対に必要で十分な条件では、なかったんだと。それよりも、「奥さん」のことを安んじて託せる存在、やっとやっと、この世の中で「たった一人」信じられる存在となった、「私」…というものが在ればこそ、「先生」は、自殺に踏み切れたんだ、と。「K」に死なれたあと、何度も何度も死のうとしながら、そのつどそれを引き止めたのは、「奥さん」を、一人ぽっちで残してゆく、気の毒さだった、不安だったと、「先生」は、繰り返し遺書の中で言っているんです。
 天皇や将軍ゆえに自決を考えるような、そんな外向きの「先生」でなかったのは、作品『心』の、何がテーマなのか、よく考えれば明白です。まさに人間の「心」が主題であり、明治の精神への殉死なんかではなかった。劇は、あくまで「お嬢さん」の家「先生」の家の中で起きていた。人間の心が、どこよりそこで乱れ、絡み、問題を起こしたんです。
 次ぎに、第二の点です。「私」は遺書を見て、「先生」がとっくに死んでいるのを知ってしまいました。それでも、いままさに臨終の父親を見捨て、何故、汽車に飛び乗ったか。父や母以上に大切に感じている人が、東京で、現に悲しみに沈んでいて、或いはその命にも危険を感じていたからでなくて、他に、それ以上に自然な理由が、有り得たでしょうか。 そうです…。夫に死なれた「奥さん」のもとへ、「私」は飛んで行った。「先生」の死も重大事でしたけれど、「奥さん」の生、生命は、現実に、もっと重いものでした、若い愛に今はっきりと気付いた「私」には。…それならば、よく、分かる……。
 思わず顔をしかめた人が、たくさん、おいででしょうね。分かっています、その気持ちも、理由も。順々に、いちいち、チャンと答えましょう。
 さて、第三の点は…。たしかに『心』は、そして「先生の遺書」は、公表されています。
それが小説の建前です。「先生」が遺言で禁止したにもかかわらず、遺書が公表されて行くのは、一つ、「奥さん」がもう死んでいて、遠慮する必要が無くなっているか、二つ、それとも、元気な「奥さん」が、すべて遺書の内容なんぞ、ちゃんと察していて、ぜんぶ「奥さん」が承知のうえで公表されているか、…の、どっちかでしょう。
 私の考えは、後者なんです。秘密もなにも、「奥さん」には、およそ「遺書」の内容が分かっている。承知のうえで、公表を、認めていると読んでいます。
 それだけじゃ、ない。「奥さん」と「私」とには、たぶん結婚が、そして二人の間にはもはや「子供」の存在までも、目前の現実問題として、予期または既に実現していることが、「上・先生と私」の章を、その本文を、丁寧に読めば、はっきり示唆され、表現されてある…と、私は読んでいます。どうですか…。笑っちゃいますか…。
 とにかく、俳優座は、加藤剛さんらは、これを聴いて、びっくりしました。
 で…、ビューンと、話を、先へ進めちゃいますが、私の「読み」に、結果として、十分身を寄せてくれました俳優座公演の、『心ーわが愛』は、昭和六十一年十月八日、六本木の俳優座劇場で、初演の幕をあけました。補助席はおろか、通路にも客があふれるほどの大入りで、興行は、成功しました。

 やや遡りますが、私は、昭和六十年元旦の奥付で、満五十歳の記念にと、『四度の瀧』という限定本を出版しました。俳優座との最初の打ち合わせがあって、暫く後のことです。その本のあとがきに、『心』の、今も申しましたような「読み筋」を、実は書き入れておりました。そしてその本は、いろんな方々に贈ったのですが、その中に、別の或る小説の、すばらしい紹介文を書いてくれていました、若き日の、小森陽一君も居りました。
 小森さんは、明けて新年早々、その、あとがきの「心の説」に対し、やや興奮気味の、共感ないし賛同の手紙をくれました。ちょうど今、自分も、同じ趣意の「心論」を書いていますと書いてありました。しばらく経ってから、小森氏は、その論文を載せた雑誌を、送ってきてくれました。この小森論文の辺から、学界で、「こころ論争」の火蓋が切られたんだと思います。さらに、私の、『心ーわが愛』の舞台が公開され、同時に、私の戯曲、『こころ』も出版されまして、火に油をそそぐことになった。そうした成り行きは、平成六年二月の朝日新聞が、「こころ論争」を大きく取り上げまして、知られています。その新聞記事には、加藤剛の「先生」と、香野百合子の「奥さん」とが、相合傘で歩いている舞台写真を載せていました。この傘が、さながら私の申しますあの小さな「島」の意味を帯びるように、巧みに演出され使われていたのを、懐かしく思い出します。
 さ、そこで、問題点を、もう一つ出して、それを考えてみましょうか。それは「年齢」のことです。「先生」が自殺したあの時、彼は、いったい何歳ぐらいだったのでしょう。「奥さん」は、また「私」は、何歳ぐらいだったのでしょう。
 と言いますのも、先刻の第二の点、…父親の臨終も見捨てて「私」が東京へ走ったのは、既に死んでいる「先生」ではなく、生きて今在る「奥さん」のことを思っての一挙であったろうと、私は、解釈しました。これで、だいぶん、私は笑われました。
 一つは、かりにも年齢が違い過ぎるじゃないかと。
 もう一つは、かりにも「先生の奥さん」と弟子たる者の間で、不道徳だというわけです。「先生はコキュか」などと、ばかばかしい難癖をつけた人までいました。論外です。
 よろしい。二つとも、ちゃんと答えましょう。先ず、二つめの「不道徳」の方…。
 もともと、通俗な道徳つまり「世の掟」に対して、一見背徳的な「人の誠」を重く見た作品が、漱石には、幾つも在るのです。『それから』や『門』を挙げるだけで、足りましょう。ともに、人妻を奪う恋であり、奪った後の結婚生活が書かれています。この恋も結婚も、作者は強く肯定しています。いわゆる不道徳なんてことを、恐れた作者じゃない。 第一に、「先生」を、「コキュ」つまり寝とられ夫にするような、慎みのない、乱暴な「奥さん」でも「私」でもない。逆に、若い「私」を、着々と「恋」の自覚へ誘導していたのは、終始「先生」自身であったことが、上の章の会話をていねいに読めば、歴然としています。「先生」生前の二人に不倫な関係など有るわけもなかったし、万一在ったにせよ、それが「人の誠」に適う愛であれば、それを肯定して書くのが、むしろ、漱石の信念でさえあるでしょう。
 次ぎに「歳の差」という、問題です。大概が、ここへとびついて、私を笑いました、が、どっちが笑うことになったか…。
 結論を先ず言えば、「私」と「奥さん」とは、「先生」の死んだ時点で、二人ともほぼ同い歳…二十七、八歳なんです。「先生」は三十七、八歳なんです。作品を、少し丁寧に読めば、証明できるんです。平成六年九月十二日、毎日新聞の夕刊に、私の、それを証明した文章が出ています。よほど目を引いたとみえ、文芸春秋から出た、その年度のベスト・エッセイ集にも、再録されています。
 で、もうずいぶん以前になりますが、私の読者、それも高校の先生なんぞに、この「歳」の事を、「先生」が自殺した時の年齢をどう読んできたかを、質問してみたんです、試みに…。すると、五十代かと思っていましたが…と、ま、大方が漠然としていて、あんまり、気にもされていない。驚きました。
 鎌倉の海で、若い「私」と一緒に、雑踏の海水浴客をよそめに、うんと沖の方へ出て、悠々と一人で泳ぎを楽しんでいた「先生」なんですよ。私も、じつはそういう水泳を楽しむ方でしたが、四十代になってからは、もう、ちょっと怖い。出来たって、しなかった。五十代じぁ、とんでもない話なんです。
 東工大でも、同じアンケートをとりました。「先生」六十四歳「奥さん」「六十」歳というのが最高齢で、やはり夫婦とも五十、四十代が、断然多かった。一方「私」は大学を卒業したばかりなんだからと、二十二、三歳が多く、以下十八歳などと答えた人もありました。これじゃぁ確かに、「奥さん」と「私」に、男女の愛が生じたり子供が生まれたりしたら、オドロキです。でも、こんなアテずっぽうには何の根拠も無く、つまりデタラメな印象を言っているだけなんです。学校制度も今とはちがい、大学生の年齢も、今日只今のとは、違うんです。平均して、三歳余りは、今よりも年上なのが普通でした。

 さ、よく、聴いていて下さいよ。
 「先生」は、明治天皇崩御の直後に自殺しました。「明治」四十五年(大正元年)で、これは動かぬ史実で、確実です。
『心』には、少なくももう一つ重要な、年代を示す史実が語られています。日清戦争です。明治二十七年八月に始まり、翌年、二十八年二月には勝敗が決しています。この戦争で、「お嬢さん」のお父さんが、戦死をしたと書かれています。かなり激戦でした。七年の冬、八年の春、ま、そう前後の差はなかったでしょう。「奥さん」と「お嬢さん」とは、文字通り、軍人遺族の母子家庭となり、その後、引越しまして、小石川の、源覚寺裏の方に住むことになります。母娘がここへ引越しましてから、また「一年」ほどして、「先生」が、下宿人として、この母子家庭に、同居することになります。「先生」はもう、帝国大学の帽子をかぶっていました。高等学校を卒業し、当時は九月が新学期の大学に、入学の直前、夏の内のことでした。
 問題は、「先生」の下宿同居が、明治何年だったかです。但し日清戦争は動かぬ史実ですから、明治二十八年の夏以前、ということは在りえません。「お嬢さん」のお父さんは、職業軍人でした。屋敷内に馬を飼っている、厩舎などがある、
かなりの上級軍人です。そういう人の遺族が、戦死しましたのでハイと、即座に引越しの許される、そんな世間体でも、時代でもなかったでしょう。強行すれば、遺族は心無いと、無思慮を非難されたでしょう。世智にたけた「未亡人」です、そんなことはしなかった。一周忌、ないし満二年めに当たる三回忌までは動けない。主人亡き家屋敷を守りまして、それから引越したに相違ありません。引越しの理由には、家が広すぎるだけでなく、「お嬢さん」の、女学校進学やら通学の便宜なども、考慮されていたでしょう。

 さ、こうなると、小石川の家に引越したのは、一周忌過ぎた明治二十九年か、三回忌、満二年が経った明治三十年か、とみて宜しく、私は三回忌を重くみて、明治三十年の春に引っ越しと読み取っております。そして、その後「一年ほど」して下宿希望の「先生」が、初めてこの家を訪れて来ます。高等学校六月の卒業式が済んだ、明治三十一年の七月頃でしょう。そしてまた一年ほどして、運命の「K」が、「奥さん」「お嬢さん」らの懸念にかかわらず、「先生」の、自信満々の好意に導かれて、同じ下宿人として同居をします。あげく卒業もまたず、三年生、明治三十四年正月に、「K」は自殺してしまいます。
 では明治三十一年に、「先生」は、何歳で、大学に入学していたのでしょうか。ご注意願っておきますが、当時の文科大学生は、三年間在学して、卒業、でした。「先生」は、明治三十四年六月に卒業しました。年齢さえ判れば、明治四十五年の自殺までを、足算するだけで、ほぼ正確なことが言えるわけです…、そうでしょう…。
 注意深く『心』を読んでいる人なら、まだ「先生」が「十六七」の歳に、「女」の美しさに目が「開いた」体験を語っていたのを記憶している筈です。また、自分が「両親」を亡くしたのは、「まだ廿歳にならない時分」だったとも、明言しています。そのすぐあと、「先生」は、高等学校に入学すべく、満十九か、ないし数え歳の二十歳で、東京に出て来ているのです。高等学校卒業は、順当にみて三年後の、二十三歳頃でありまして、これは、あの、同じ漱石作の小川『三四郎』君が、熊本の高等学校を出て、東京の帝大へ入学すべく上京してきた際の、「二十三年」という、宿帳記入の年齢とも、きっちり、一致しています。「先生」が大学に入ったのは、ほぼ間違いなく、数え歳の二十三、ないし、早くに留年か何かの年遅れがあったにしても、二十四歳でしょう。しぜん、卒業は、二十六歳か七歳です。これも、夏目漱石その人が帝大を卒業したのと、ぴったり一致していますし、例えば、中退はしていますが、もし谷崎潤一郎が、明治四十四年に卒業していても、やはり同じ、数え歳二十六、七歳なんです。実は統計をとった人もありまして、この入学卒業の年齢は、その当時の平均的なものでした……。
 さ、そうなれば、明治四十五年に自殺した「先生」は、明治三十四年から、十一年分を足算した、三十七、八歳であったことになる。これならば、それよりも数年前の鎌倉の海で、高等学校の学生だった「私」と一緒に、元気いっぱいの水泳をしてたって、まだまだ元気なもんです。それと同時に、明治四十五年に、帝大を卒業したばかりの「私」の歳も、これまた、「先生」らと同じく、数え歳の二十六ないし七歳だったと見まして、もはや、何の不自然もないわけです。「先生」と「私」との歳の差は、まずは十歳程、一世代の差、長兄と末弟程度の違いだったんですね。
 それじゃ、「先生の奥さん」の歳は、どんなものであったか。これが何と言いましても微妙に大事になってくる。
 思い出して欲しいんです。鎌倉の海で別れるまえ、「私」は「先生」に、東京のお宅を訪ねてもよろしいかと聞きます。そして秋になり、訪ねて行く。ところが「先生」は留守でした。二度めにもまた不在でした。じつは、毎月の「K」の墓参りに出ていたんですが、「私」の知ったことじゃ、ない。その日は「奥さん」が出てきて、気の毒がってくれた。 ここで、その時に実に注目すべきことが、二つ、書かれています。
 一つは、「私」が、「奥さん」を、「美しい」「美しい」と繰り返していることです。 そもそも、東京という本舞台で、「私」の初対面の相手が、肝心の「先生」ではなく、「奥さん」の方だった。この計らいは、作家の私には判るのですが、意味深長な用意だと言い切れる。まして男が、女と会って、第一印象が「美しい」とあっては、これだけでも「奥さん」が、そう年寄りでないのは確かでしょう。事実「奥さん」と「私」とは、ほぼ同い歳だったんです。「先生」より十ほど若いんです。あとで、はっきりさせます。
 皆さん方、考えてもごらんなさい。あの軍人遺族の母子家庭にですよ。未亡人とお嬢さんだけの女住まいにですよ。二十何歳にもなる「先生」が下宿できたのは、近所でイヤな噂もされず、後指もさされないほど、まだ「お嬢さん」が幼かったからです。「奥さん」「先生」「お嬢さん」に、それぞれ一世代ほどの年齢差があればこそ、ごく穏便に、素人下宿の共同生活も成り立ったんです。もし「お嬢さん」が既に年頃ででもあったりしたら、身元もよく知れない、男子学生とのいきなり同居なんて、ま、とんでもない話です。「お嬢さん」は女学校を、「先生」の大学卒業とほぼ同時に卒業していますが、この当時の制度では、ふつう、十七歳です。たぶんその年の内に、また引っ越して行った小日向台の家で、「先生」と、結婚しています。母子家庭という事情や、「先生」の裕福、「K」の変死の事情などからして、また明治の風からしましても、十七八での結婚に、何の問題もありません。また「お嬢さん」が、上級の学校へ進学していた形跡も、みられません。「先生」と出会ったのは、満で十三か四の少女時代だったんです。不自然はすこしも感じられません。結論として「先生」の自殺した年に、「奥さん」は、「私」よりも一歳年上か、或いは同い歳かも知れない、二十七、八歳です。それ以上は有り得ないんです。
 確認しておきましょう。明治天皇の死と日清戦争という、動かし難い史実を軸に、本文をキチンとよく読めば、「先生」が自殺したのは「三十七、八歳」であり、「奥さん」は「二十七、八歳」です。「私」は「奥さん」と同い歳か、僅かに一つ歳下でしかなかったんです。この証明を引っくり返すのは、たぶん、容易なことではないでしょう。

 こうなって、初めて、よく分かってくる点が、幾つもあります。
 私は去年の暮れに、還暦の六十歳になりました。だから、この三月末で東工大を退職したわけですが、家内も、この四月五日に、やはり還暦を迎えております。で、かりにですね、私のことを、いたく尊敬してくれます男子学生が、いると仮定しましょう。お宅へ訪ねていいですか、ええ、いらっしゃい…。で、せっせと訪ねて来てくれる。慣れるにしたがい、家内とも遠慮のない口を利きあうようになる。
 しかしですね。かりに学生が二十四、五だとしましてもですよ、…まさかに六十の婆さんに惚れたりはしないでしょう。六十が五十、あるいは四十であったって、ま、学生と家内との仲に、めったな事は起きない、というのが順当なところです。でも先生への尊敬は尊敬ですから、学生がそれで良く、先生もそれで良いのなら、いい関係は続くでしょう。いわゆる良き師弟関係とは、そういうものでありましょう。安定して簡単には変化しない人間関係が出来上がっている…、そう言い切って済んでしまいます。
『心』の「先生」「奥さん」と「私」の場合でも、もし、これまで一般に漠然と読まれてきたように、「私」より二倍も、二倍以上も歳とった「先生」「奥さん」夫妻であったのなら、それじゃぁ、私の言うような愛情関係の展開は、当然ながら考えられません。
 しかし事情は、まるで、違っていたじゃないですか。ご夫婦の「先生」「奥さん」対、学生の「私」とばかり眺めていたのが、こと年齢に関しては、年長の「先生」対、若い、同い歳ほどの「奥さん」と「私」となった。これは重大です。人間関係の心理が、年齢で動くのはあまりにも自然なことだから、です。
 作中の「私」は、自分とほとんど歳の違わない、しかも初対面から「美しい」と真先に印象づけられたような、親切で、聡明で、まことに魅力ある「奥さん」のいる、そういう「先生」の家へ、通いつめていたんです。老人夫婦の家へ、じゃないんです。若者の心理として、「美しく」て若い「奥さん」のいる家にしげしげ通うのと、親ほど歳とった夫婦の家を訪ねて行くのと、同じ気分でなんか、ある、筈が、無いじゃありませんか。従来の『心』の読みで、こういう自然な生活的実感を、それぞれの年齢に則して、よく調べよく納得してこなかったなんて、まさに、怠慢も極まれり、です。日本中で、もっとも大勢に永く愛読されて来た『心』ほどの名作にして、こんなに根本の、基本のところで、大きな見当ちがいを平気でやって来たというのが、実は実情であった。
『心』は、本気で読み直されねばならない、誤解の渦に沈んでいた名作なんです。誤解へ導いたのは、多くの過去の知識人でした。例えば漱石全集の解説を一手に引き受けてきた、小宮豊隆という人は、ただただ「先生」と「K」とだけ、つまり「遺書」だけ重視して、上の「先生と私」中の「両親と私」つまり「私」の手記にあたる部分は、完全に見捨てていた。「私」はおろか、「奥さん」や「お嬢さん」の存在すら、まるで、デクの坊同然に、無視していました。積極的に無視していたんです。
 その悪影響ででしょう、高校時代、課題で『心』の感想を書いたという体験談を聞いてみますと、「先生の遺書」しか読まなかった、それでいいと教室で言われたという学生が、山ほどいる。読まなくて済む部分が、一章も二章分もある小説なんて、名作なんて、在るものでしょうか。呆れて、ものが言えないとはこれです。
『心』の魅力は、上・中の手記の章にも、満載されているのです。私なんか、遺書よりもそこの方が、楽しくて、懐かしくて、夢中で読んだ。芝居の台本のために書き抜きを作った経験からも、特に「上」の章には、大事な、微妙な、伏線になっている会話や地の文が、いっぱい有るのが分かります。
 さっき「私」と「奥さん」との初対面の場面で、大事なことが、二つ…と言いました。 一つは「美しい奥さん」という第一印象。このことは、今まで話しました。
 もう一つは、「奥さん」が、事もあろうに、全く初対面の学生に対し、事もあろうに、「先生」のお墓参りの話をしてしまいます。更に事もあろうに、「K」のお墓のある場所まで、具体的に教えていた事です。教わっていたから、「私」は、雑司ヶ谷の墓地までも「先生」を探しあてて行くことが、出来た。
 でも、それがどんなに「先生」にすればショックであったかは、墓地で呼びかけられた瞬間、「どうして」「どうして」と、二度も呻いて、呆れていることで分かります。突然だから驚いたんじゃない。「K」の墓参りという、あの夫婦にすれば、忌まわしいタブーであるほどの、天罰を償うほどの、いわば秘事とも恥部ともいえる行事を、「奥さん」が、いとも簡単に、初対面の「私」に教えたという事が、信じられなかったのです。いいえ、はっきり、心外で、不愉快でさえあったのです。「先生」が、「奥さん」を愛しながらも、信じられずにいたという、かくも歴然たる証拠が、最初ッから、もう作品には露出していた。それは、逆に言えば、無意識にも「奥さん」が、初対面から「私」のことを、受け入れていた事を示しています。また、夫である「先生」への、その墓参りへの、意識の深層での、「奥さん」の不快感を示していたのだとさえ、言えるでしょう。
 この夫婦は愛し合っていました。それは疑いようのないことです。しかも幸福な夫婦ではありませんでした。「先生」自身が、「幸福であるべき一対の夫婦」という物言いをして、「私」から、「べき?」と不審を示されています。愛してはいたが、幸福であるべき筈ではあるが、どうしても幸福になれない夫婦だという、不幸な認識が「先生」にはあり、「奥さん」にも、それが見て取れます。しかし「先生」は、「奥さん」を、真実幸せにしてあげたい愛情を、しっかり、死ぬまで持っていました。でもどうしたら良いのか、気の毒な「先生」が、明治が終わる日まで自殺できなかった、それが、最大の理由でした。
 幸便に、触れておきたいことが一つあります、「先生」は、「十六七」のいわゆる色気づく年頃に、初めて「女」の「美しさ」に目が開いたと述懐しています。ことさらにしています。夏目漱石自身の体験が反映しているのかも知れませんし、軽く読み過ごしてよいこととは考えられません。
 なに一つ注釈はないのですが、べつの箇所で、お互い「男」一人「女」一人だと、夫婦の緊密を語る夫「先生」で在りながら、その別枠に、「十六七」の頃の出会いを、ほんの行きずりなんでしょうが、たいへん重々しく、しかしさりげなく「先生」は告げています。「一人」「一人」とは、言うまでもなく夫婦の間柄での肉体の接触を示唆しているわけで
すが、肉体的な男女関係を取り払えば、「先生」には「お嬢さん=奥さん」以前に「美しい」「女」体験があったのです。「遺書」に明記せざるをえないほどそれは「先生」の記憶にやきついていた。そう、読めます。
 ズバリ言ってこの「女」こそ、「先生・奥さん」夫妻を、「幸福であるべき(不幸な、或いは幸福になりきれない)一対」の夫婦に仕立てた根源だったのではないか。そう読み取らせる作意が秘められていないか、漱石という作者のなかに。
 漱石夫妻の在りようについては、従来、種々語られていますから深くは触れませんが、彼にも結婚以前に「女」の原体験がないし前体験が在ったこと、それがなみなみならず重大な体験だったろうことは、今日、もはやだれも否定していない。
 その反映が「先生の遺書」にももちこまれているのだとしたら、そこに、「先生」の妻に対するいわく言いがたい不充足も、また「奥さん」の夫に対するいわく言いがたい不満も、ともに垣間見うる隙間が在る。われわれ読者はその隙間を眼前にしている、ということになります。
 もし自分という妻がいなければ「先生」はきっと死んでしまうでしょうと、「奥さん」は「私」に自負しています。だが、それすら実はかすかな無意識の強がりだとも、目に見えぬ或る存在への悲しい抵抗だとも、また自負の誇示だとすら見て取ることが可能になります。
「愛し合ってはいた、だが充全には幸福でありえなかった夫婦」を、根底から説明すべく「先生」は、また漱石は、この「十六七」の頃の「女」体験を、「遺書」に、作品に、さし挟んだと私は考えます。そう読んでいます。裏返していえば、「奥さん」が「私」を男として見て行く視線や心理にも、それが痛烈に影響していたことでしょう。
 「先生」は、結局は、「私」に頼ったのです。「この世でたつた一人、信じられる人間」に成ってくれた「私」になら、無意識にも「美しい」人に恋をしているらしい「私」になら、妻を安心して委ね、また妻も、内心の隠れた愛にやがて気づくだろう…と、「先生」は信じたかった。信じられるようになっていた、のでしょう。
 もう一つここで、これは笑われるでしょうが、言ってみたい。「先生」の選択は、或る実例に則して表現すれば「妻君譲渡」に近いものでした。或る実例とは言うまでもなく、あの谷崎潤一郎が、有名な「小田原事件」の絶交から歳月を経まして、ついに昭和五年、三者合意の上で妻千代と離婚し、千代は佐藤春夫と結婚した、あれです。谷崎が「先生」漱石に辛辣であったのは知られています…が、ま、何はさて…本題へ戻りましょう。
 「奥さん」の思い描いた幸福の一つに、この家に、「子供でもあると好いんですがね」という、強い願望がありました。「奥さん」はその言葉を、「先生」を前にして、「私の方を向いて」口にしているのですが、何という微妙な場面でしょう。「一人貰って遣らうか」と「先生」は言い、「貰ッ子じや、ねえあなた」と、またも「奥さん」は「私の方」を向いて愬えるんです。すると「先生」は、自分たち夫婦の間に、「子供は何時まで経ったって出来ッこないよ」と言ってのける。「何故です」と、「私」は即座に反問します。それも、「奥さん」の「代りに聞いた」と、微妙に明記してあります。「先生」は、「天罰だからさ」と高く笑いました。ヒステリックに笑ったんです。「奥さん」は黙って顔を背けていた。何が、どうして「天罰」なのか、「奥さん」にも分っていたからでしょう。察していたからでしょう。当然、そう読むべきところです。
 つまり「奥さん」を幸福にするには、「母」たる人生を与えてあげなければならない。しかし「先生」では、それが不可能なんだと、それを、実にきちんと表現していたのが、この場面です。
 また「先生」には、「私」を「恋」に誘導して行く、無意識の意図が、もう徐々に働き始めていたようです。十分印象的だから、皆さんも気づいておられるでしょう、「先生」は、故意にというしかないほど、何度でも、執拗に、「私」に向かって「恋」の話題を出しています。「恋をしたくありませんか」「とつくに恋で動いているじゃありませんか」「異性に向かう階段として同性の私のところへ」「恋は罪悪ですよ」「たが神聖なものですよ」といった按配に。それにはそれの理由が、動機が、有ったはずです。慎重にそれを読み取るというのも、読み手として、当然、必要だったんじゃないでしょうか。
 けれど、もう一度、さっきの場面に、話を戻します。
 もっと大事な問題点が、あそこには、ちゃんと書かれていたんです。子供が欲しいと、「奥さん」は言いました。「その時」の「私」はといえば、「同情」のない、鈍い男に過ぎませんでした。それでいて彼は、現在執筆中の手記に、あの当時を思い起こしながら、こう書いているのです。「子供を持つた事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅いものの様に考へていた」と。
 「子供を持つた事のない、その時の、私は、……考えていた」という、少々持って回った物言いを、自然に、素直に、しかし語感をよく働かせて、読み直してみて欲しいんです。普通なら、「子供を持つた事のないその時の」など、わざわざ言う必要のないことなんです。だからこそ、この事更な物言いは、「子供を現に持った(又は、やがて持とうとしている)現在の私ならば」、決してそうは「考えない」という気持ちを、表明したものと読んで、いいんじゃないか。そうとしか読めない文章なんじゃないか。普通なら「何の同情も起こらなかった。子供はただ蒼蠅いものの様に考えていた」だけで済む話なんです。
 こういうことに、なります。「私」が、現に、手記ないし作品を書いている現時点で、彼は、自分の「子供」のことを、読者に対し示唆しているのだと。日本語の表現として、ごく自然に、そう受け取れます。子供の現実在ないし近未来の誕生を、「私」は、現に、愛情と分別を持って認知していると、確かに、十分に、読み取れるんです。子供は「蒼蠅い」といった強い表現が、かえって、実感豊かに、現在の気持ちを言い表しているのです。 注意しないといけないのは、『心』という、建前上「私」の公表している手記の部分は、「先生」の自殺から、最大限、一年半以内に書かれています。しかし書かれている中身は、明治四十五年の九月より以前の事柄に、厳しく限定されています。「書いている」現在と、「書かれている」内容の現在とには、登場する人物にも、書き手の心理にも、十分な抑制や整理が行き届いています。一つには、「先生」「奥さん」「私」の当時の人間関係を、冷静に、また礼儀にも孛ることなく、なるべく分かり良く言い表したい、また、そうすべきだという配慮ないし協議さえ、出来ていたからでしょう。なにしろ「奥さん」の承知や同意や協力が、大きくものを言う公表の筈です。承諾無しに強行するような「私」ではないし、「奥さん」が、夫の後追い自殺をしていたなんて推測を許す箇所は、作品のどこにも指摘できないんですから。
 では「奥さん」が「遺書」の内容を察していた、「純白」に何も知らなかったわけはないんだ、だから「公表」に問題はなかったんだ、などと何で言い切れるのか、今度はその疑問に答えましょう。
 まず、皆さんに尋ねます。もしも、あなたが「奥さん」「お嬢さん」の立場にあるとしてですね、「お嬢さん」は当然のこと一年一年成長し、思春期に入って行くわけですが、そんな家に、帝大の青年が二人も同居してきて、この、かなり賢い母親と娘とがですよ、男たちの噂話や評判を、していなかったなんて想像できますか。あなたがたは、しませんか。するでしょう。しなかったら不思議ですね。ものの分った母親は、もともと男二人は迷惑だ、宜しくないと、「先生」に忠告していたぐらいです。その懸念が的中して、「K」は自殺してしまった。あんなに仲のよかった「K」に、「先生」は「お嬢さん」に求婚したとも、承諾を得たとも、告げませんでしたね。「奥さん」はそれと知って、「先生」に剣突くを食らわしています。そしてその直後の「K」の自殺でした。「奥さん」はテキパキと処置して、「先生」を指導もしていた。
 娘の結婚を現実問題と見きわめて、貧乏な「K」より、財産もあり人も良い「先生」の方が…なんてことは、かりにもあの母親は考えていますし、年頃になっていた「お嬢さん」だって、そりぁ、夢中で考えていたでしょう。あのよく笑う「お嬢さん」は、いくらか、男二人を手玉にさえ取っていた、けっこう、したたかな女性です。とてもとても夫のあとを追って死ぬ人ではない、生き抜くタイプです。
 結婚のあと、かなり長期間「先生」は荒れています。妻も姑も、ほとほと胸を痛めたでしょうし、何故かと話し合うのも、当然です。黙りこんで眺めていたなんて、不自然です。と、なると、突き当たるのは「K」の「変死」事件です。「先生の奥さん」は、自分から口を切って、「私」に、「K」の変死を告げながら、夫の無残な変貌を、どうにか解釈して欲しいと愬えていたくらいです、何が「純白」なものですか、考えようによれば「先生」より、もっと辛辣に、事の本質を見抜いていたのが、この「奥さん」「お嬢さん」であったとさえ、読み取れるぐらいです。それなのに、女ふたりとも、まるで人形だなどと軽視し、無視してきた、従来の『心』読みたちは、いったい何を読んでいたのでしょうか。

 いやいや、そうじゃない。あの「先生の奥さん」の、「静」という名前は、明治天皇に殉じて自決した乃木将軍、その夫希典に殉じて自決した、妻「静子」の名前を用いたものだとして、「先生の奥さん」も、だから夫のあとを追って自殺したんだという説も、あったのです。もっともらしい説です、が、私の考えを、聴いてください。
 この作品の中で、実名を与えられている主要人物は、奥さんの「静」だけです。ほかに、
「私」の母親が、「お光」と夫から呼ばれている。あの『三四郎』の故郷で、彼と許嫁のように言われていたのが「三輪田のお光さん」ですから、三四郎が美禰子に失恋したあと、もしこのお光さんと結婚して、『心』の「私」の父親になっていたかのように想像してみるのも、ちょっと面白い。と言いますのも、『心』の「私」という青年は、あの「三四郎」君を、いかにも柔らかに裏返したみたいな、臍の緒の同じい人物とも読めるからです。
 しかしその一方、「私」は、あの「K」の再来のような存在だとも見える。「先生」もそのように感じていた気がしますし、「奥さん」も、最初ッから、そんなふうに感じていたんじゃないか。だから無意識に、あんなふうに墓参りの話もしてしまったんじゃないか。「K」を死なせました「先生」の胸の中には、「K」が愛した「お嬢さん」「奥さん」を、なんとなく「K」の再来かのような「私」の手に、安んじて委ねておいて、自分は「K」のところへ死んで行こうと、そういう深層の衝動が、働いていたんじゃないか。この私は、そう読みたいんです。だから俳優座の舞台でも、最初、熱心に加藤剛の「K」と「私」の二役を、私は希望したんです。
 それは、ま、深入りをしませんが、要するに「先生」の悲劇は、彼がついに「静かな心」
というものを持てなかったところに有るのは、確かだと思う。「静か」という言葉が、この小説の要所要所に現れて、それらは、「先生」の騒ぐ思い、揺れる心を示しています。実に大事なキーワードです。言うまでもない、まさに、そこに、「先生」が深く深く愛しながらも、妻の「静」を、信じ切れずに終わった……、我が物=「我が、静かな心そのもの」として,遂に所有できなかった、という事実が表れている。象徴的に表れている。
 ご存じの方も多いでしょう、『心』は、岩波書店開業の第一冊だったんです。彼は『心』
の出版を先生に懇願し、漱石は本の装丁を自分に任せる事を、条件の一つにして許可したのです。その結果、あの『漱石全集』の特色ある装丁が出来上がったというわけです。
 ただ、ここに一つだけ、『心』のための、特別のこしらえが用意されていました。表紙の表に、四角い窓を明けまして、そこに中国の辞典の一つから、「心」なるものについて書かれた或る部分を引いてきて、その窓に嵌め込んだのです。第一番に「荀子解蔽篇」の説が挙がっていました。以下数行、別の本の説も載っているんですが、その、どれもが、或る示唆を持ち得ているんです。即ち、すべて「荀子解蔽篇」の根本の心の説に合致している。漱石は、よくよくそれを理解した上で、ここに挙げているらしいのです。
「解蔽篇」で、荀子が力強く説いていたのは、「心」には「虚」と「壱」と「静」という、三つの性質があるということです。分かり良くいうと、凡そこうです。
「心」は、無尽蔵になんでも容れることができる一方、いつでも「虚」つまり、からっぽにもなれる。また、あれへこれへと八方に働きながら、また、たった「壱」つの事に集中することも出来る。そして「心」は、いつもその中心のところに、実に「静」かな一点を、しっかり抱いているものだと。その、「静か」という一点の真価が、まさに「心」の命、「心そのもの」なんですね。漱石は、これを知っていた。だから第一番に、「荀子解蔽篇」の挙がった「心」の記事を、わざわざ、表紙に窓を明けて、嵌め込んだ。
 「静かな心」が持てなくて、苦しみ抜いた「先生」でした。「先生」は、「静」さんとの静かに幸せな夫婦生活を、どんなに心から願っていたことか。だがそれは不可能でした。「奥さん」の名前が「静」であることの、辛辣で、切実な意義は、明らかです。
 「虚」と「壱」と、そして「静」との荀子の説を知ってみれば、「静」の名が、乃木将軍の奥さんの名と同じだからといった説は、ニュース記事ふうの趣向としては少し面白いけれども、所詮はその程度のもので、比較にも何にもなりません。
 そもそも、小説『心』は、人間の「心の研究」をうたって構想された作品です。何よりも、「先生」と「K」と「静さん」と「お母さん」と、そして「私」との、少なくともこの五人が、がっちりと、構造的に組み合って、一つの「心」を真剣に探り合った小説です。その中で、「お嬢さん=先生の奥さん」に限って、「静」という実名が与えられている。荀子の「心」の説を、あんなに重く見ていた漱石にすれば、「静さん」こそ「先生」の、また「K」の、さらには「私」の、心から愛し求めていた「心そのもの」であったんだと、まるで、作者の解説をハナから得ていたも同然ではありませんか。明治天皇が何人死のうが、乃木夫妻が幾組み殉死しようが、「先生」の目の前に「私」が登場していなかったら、信頼されていなかったなら、あの「先生」は、「奥さん」を一人ぽっちで残して、自殺は、結局出来ずじまいであったことでしょう。それほど「先生」は、「奥さん」の、幸福な、若々しい再生…最出発を、祈り、また愛していたのだと、私は、思っています。
 「真実の身内」を切望した、愛の小説でこそあれ、死の小説ではないんです、『心』は。
それがたとえボンヤリとでも感じられていたから、こんなにも大勢に愛読されてきたのです。真の身内でありたいと望む「静」と「私」とに、今しも生まれくるあろう新しい若い命の誕生を、「先生」も「K」も、心から、安心して、祝福しているだろうというのが、私の「読み」でした。

 東工大のある学生がこんな指摘をしていました、『心』の「奥さん」は、『三四郎』の美禰子が、三四郎をひきつけることで実は野宮を刺激していたように、「私」を介して夫である「先生」の愛情表現を求め、モーションを掛けていたのではないでしょうかと。
 「先生」存命中の「おくさん」の願望としては、それは有り得た心理だと思われます。しかし結果として「先生」は「奥さん」を「私」に託し、自殺しました。その限りでは悲劇的な夫婦でありました。
 すこし、顧みておきたい。
 「K」は、「お嬢さん」を聡明な人、可愛い人、笑う人というふうに評価し、評価は徐々に高まり、「惚れる」に至りました。死を賭した評価でした。けっして「お嬢さん」を軽くは見ていません。「先生」の方が、むしろ、「K」の告白があってから突発し、友を出し抜いているんですね。この優柔さは、漱石作品にはまま見られる特徴です。
『彼岸過ぎ迄』では、千代子の須永に対する猛烈な批判がある。「愛してもゐないのに嫉妬なさる。それを卑怯だと云ふんです」と。千代子が他の男に関心をよせて初めて須永は動くともなく動くから、やっつけられているんです。
 『三四郎』の野宮もそうです。美禰子が他の男と結婚してから嫉妬しています。
 『それから』の代助など、本心に背いて身をひき、愛する三千代を友人にむしろ押し付けた。そうなってから三千代への愛を自覚し、「世の掟」に背いて奪い返すのです。
 『門』の宗助は、人妻のお米を愛して一瞬に泥に塗れ、そのことに殉じて「世の掟」に背を向け生きて行きますが、子は流れ、もう出来ないことを夫婦の受ける「天罰」と感じています。『心』の「先生」と同じ精神構造をしている。
 『行人』の兄一郎は、弟二郎に現に嫉妬していながら、その弟に妻の「貞操」を確かめる役を強いています。
 どうも漱石の精神にはこういうタイプの男が住み着いているとしか言い様がない。そしてさまざまに人生齟齬を来している。誠実も見えるけれど、卑怯も見える。すくなくも図太くは生きられない。「先生」と「奥さん」に愛は在っても齟齬もあるのも明らかです。「奥さん」の方がずっと図太く生きられる強さを持っていたに違いない、それがまた「先生」の心を「静か」にさせなかった。
 繰り返しますが「奥さん」は、「先生」と「K」との一件を知らなかったか、知っていたかといえば、知らずにいられた道理は無かった。狭い家です。かしこい母子です。だからこそ「先生」は下宿の当座、こっけいなぐらい母子の言動に被害者意識の神経を立てていたではありませんか。
 それじゃ「先生」抜け駆けの求婚、友を裏切った求婚を、「お嬢さん=奥さん」らは、「Kの変死」ゆえに許せなかったでしょうか。とんでもない。自殺は痛ましいが、難儀は失せたと、ほっとさえしていたでしょう。「先生」の抜け駆けも、若い恋のよぎない敢為ぐらいに受け入れて、いっそ「先生」のしつこい煩悶が情けなかったでしょう、合点できなかったでしょう。
 そもそも「K」が婿がねとして欠格者だとは、母子の間だけでなく、市ヶ谷の叔母さんはじめ、親族中の、もう申し合わせになっていたとすら思われる。それで自然と読める態度や言葉を、「奥さん」らは繰りかえし『心』の中で漏らしています。
「奥さん」らが心から待っていたのは、「先生」の、ざっくばらんな「K」一件苦渋の告白と、それに対して「奥さん」らからの慰藉を待ちかつ求める姿勢であったでしょう。
 しかし「先生」は、それを徹底的にしなかった。墓参にも同伴しなかった。話題にもしなかった。妻の「純白」を強いて願望し幻想した。独り妻をおいて死のうとし続けていた。幸福であるべき不幸な夫婦と思い決めていた。妻を信じ切れず、世の中でたった一人信じているのは「私」のことだけと、明言しています。「天罰」という過酷な表現で、子供の欲しい「奥さん」の根深い願いすら、むげに退け、協力を拒絶しているのです。
 こういう夫婦の隙間へ(むしろ「先生」の意に誘われる体で)「私」が導かれて行きます。そしてついには「私」と「奥さん」との距離が、「心臓」の動きと「奥さんの涙」とで急接近します。
 小説表現の微妙なあやのなかで、あの『門』の一瞬の泥まみれといった表現を背景に見入れますと、まことに危ない男女の接触すら想像されなくはないと論じてきた学生も、東工大にはいました。若い今日の学生のなかには、「先生はコキュであった」と読み込むほどの者もいたのです。私は、さすがにそうまで読みたくありませんが、「奥さん」と「私」とに、深い心理での接近は、愛は、あったものと当然信じています。『心』の「奥さん」は、三人の男に愛された「心」そのものだったのです。しかし「K」と「先生」とは「お嬢さん=奥さん」を幸せにできなかった。だからこそ二人の男の化身かのような、まさしく身内かのような「私」の登場が、小説『心』にとって必然の要請だったのです。おそらくは長い長い「遺書」を書いていた間かその前に、「先生」は「私」の「地位」をも周旋し、信頼に報いていた筈です、そう読むのが「遺書」の意図と信実を高めます。
 もう一つ申しそえておきたい。「どこにそんなことが書かれているか」「想像(妄想)に過ぎない」と非難を浴びることがあります。それも文学研究者を自称する専門の読み手から聞く。本文に則して読み、加えて想像力や相応の創造的センスを働かせる。それの出来ない人を、作者は「いい読者」とは歓迎できない。私だけの思いではない、世界的なある作者の弁です。言わで思い、書かで言い、言いおおせて何かあるという、行間を読み紙背に徹するという、そうした日本語表現の今に久しい素質に対し、理解が無さ過ぎはしないか。そんなことでは、源氏物語「一部の大事」などまんまと読み落としてしまいます。古今、作者という人種は、存外に作品に仕掛けをしています。意図的でなくても本能的にそれを創ってしまっている。漱石も例外ではないごく「意識的」な作家であった。どこにそんなことが…。ばかを言っちゃいけない、それを読むのも読者の読書なのです……。
 では、どうか思い出してください。『心』の「先生」は、いま、まさに死なんとして、こう「遺書」に書き、「私」に、祝福を与えています。
「私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です」と。
 この「新しい命」というのがいかなる「命」であれ、「先生」が、「私」に、また「奥さん」に、「真実の身内」として生きよ、幸せになれよと願っていたのは、まず、間違いない。万に一つも、あとを追って死んで来いとは誘っていない。さもなければ、あの「遺書」は単なる無駄になってしまいます。されば「新しい命」とは、「静」に託された「静かな心」であり、また、その「静」によって、やがて「私」にもたらされる、「子供」という愛しい希望、ででもある筈です。そう 読みたいし、そう読める、放恣な妄想をせずとも、まさに本文の表現そのものからそう読み取れる、ということを、今日、心をこめて私は話しました。
 『心』を読んで、ここまで来た、それも、「真の身内」を願う私の「人生」であり「文学」というものであったことを、ご理解いただけるなら、「満足」です。

     ーー秦 恒平・湖の本エッセイ第17巻 『漱石「心」の問題』 1998.9.15刊 所収ーー