文学に寄せて 論考の頁 1
*この頁には、近現代・古典時代にわたる、文学・芸能・文化・歴史等へ寄せた評論・研究を掲載します。
*掲載── 認識論としての文藝学 = 戸坂 潤 辻谷の寅子石考・詩一編
= 榊 政子 秦恒平『初恋』 = 河野仁昭 至宝『阿蜜哩多軍荼利法』の行方
= 森 秀樹 浦島伝説略史 = 林 晃平 『跫音』跋 =
木島 始 秦恒平『廬山』 = 萬田 務 「廬山」まで =
平澤信一
結城信一の肖像 = 矢部 登 琉球の御茶屋御殿考 = 真岡哲夫 『細雪』の船場ことば
= 三島佑一 百姓名を読む = 森 秀樹 『海やまのあひだ』雑考
= 石内 徹 神西清のこと = 石内 徹 江馬細香の遺稿出版
= 門 玲子 結城信一の本 = 矢部 登 「初恋」論 = 原善(校正未了)
認識論としての文藝学
戸坂 潤
文藝学の対象は云うまでもなく文藝である。尤(もっと)も従来の日本語の習慣によると、文藝は又文学とも呼ばれている。文学という言葉は通俗語として、又文壇的方言として、特別なニュアンスを有(も)つて来ている。単に文藝全般を意味する場合ばかりではなくて、却つて小説とか詩とかいう特定の文藝のジャンルを意味したり、又はそうでなくて、一つの作家的乃至人間的態度を意味したりもしているのである。丁度詩という言葉が文藝の一つのジャンルを意味すると同時に、文藝全体に互(わた)る一つのエスプリを指す場合があるように、文学という言葉も亦、往々にして藝術の一領域ばかりでなくて文藝創作の精神を指すようだ。そしてこの文藝的精神が、日本の社会の与えられた文化事情の下では、特に「小説」(実は小説=ロマンというよりも「短篇小読」・エルツェールンク・ノヴェル=「中篇小説」なのだが)又は精々「詩」=ポエムというジャンルとなつて発現する処から、小説や詩というジャンルが即ち文学だというような潜在観念を産んでくるのである。文学すると云うような場合、案外この文壇的な潜在観念が働いているのであり、又文学以前と云う時には、愈々この潜在観念が明らかになるだろう。
だが、文藝全体を意味したり或いは特定の一つ二つの文藝ジャンルを意味したりするよりも、文藝創作(乃至之に直接して享受)のエスプリ・精神・を意味する方が、文学という言葉として高く買われていいだろうと思う。なぜというに、文学が暗に、小説とか詩とかいう特定ジャンルを指すかのように思うのは、勿論視野の狭い見地を告白するものであつて、他の事柄についての見識までが疑われる底(てい)のものであるし、又文藝全体を依然として文学と呼ぶことは、折角文藝という科学的な言葉があるのに、非常に観念のハッキリしない言葉をわざわざ使うことになるからである。
なぜ文学という言葉がハッキリした観念を云い表わさぬか。日本語の個有な慣例はとに角として、少くとも国際的な用語としては、文学は一般に文筆作品を意味しているのであつて、科学上の文献や文書までも含むのだから、文学は必ずしも文藝に限定されないわけなのだ。それ故特に藝術的文学だけが、所謂文学というものに当るということになつて、藝術領域の問題に関する限りは(精神の問題に関しては別として)、文学という言葉は無用な混雑を惹き起こすものに過ぎないからだ。
東洋乃至日本には、文藝と文献(フィロロギー)との区別は概念上あまり判然としない伝統が存在している。夫(それ)は文藝作品自身が社会にとつて多分に教訓的な意義を有つていた一種の封建的・文化政治的・イデオロギーの結果であつたかも知れない。文藝作品はこの場合、暗誦訓話すべきものとしての古典とされ典拠とされた。だから之は一つの文化史的な知識に還元されて了う。かくて文藝は文献学(フィロロギー)に帰するわけだ。文人とは一種の学者である。それが文学者となるのである。──文藝はこの伝統に基いて、文学という何か学間のような言葉で呼ばれることとなる。勿論今日の文学なるものは実質に於て文藝自身を指すものであつて、毛頭、文献学や何かを指すのではない。それであればこそ、文学作家の教養不足ということも問題になるわけで、つまりここで教養と呼ばれるものは、文献学的知識の類だと考えられているのである。だが文藝が文学と呼ぶ習慣はこうして出来たというのだ。
そこで、この文学という言葉を別に活かすために、文学は文献学を指す言葉にしたらばどうか、という意見がある。それによると、例えば支那佛教のテキスト・クリティックによる解釈の体系などが、文学というものになるわけだ。それは悪くはないが、併(しか)しこういう点をまず考えて見る必要がある。支那佛教の過去に於ける文化的思想的内容は、今日の支那をも日本をも本当に文化的・思想的・に規定しているのではない。なる程一部の文化財の遺産としては勿論何等かの現代文化の要素にはなつているが、併しそれは現在の支那や日本の文化的・思想的・進歩の力となつているのではない。それに独力の力があるとすれば寧ろ復活的・反動的・な力に過ぎないのが、今日の事実だ。僧侶の社会理論の如きがその好い例だろう。処でここに文献学なるものの権限が、おのずから明らかになるのである。つまり文献学なるものは、それ自身では何ら時代の実際問題の解決を与えることの出來るものではない、ということなのである。文献的知識は文化的・思想的・課題にとつて缺くことの出来ない一つの歴史学的手段ではあるが、もしその手段が独立して支配的な認識方法となるなら、途方もない思想文化の姿が現前することになる。文献学はそういう制限を持つた一つの手段科學だ。吾々は支那佛教(一般に佛教でもいい)のカテゴリーを以て現下の資本主義社会の何物をも分析出来ないだろう。
処が之を文学と呼べという。そういう命名法は恐らく多分に不満を呼び起こすに相違ない。文学という言葉はなる程文藝という言葉に席を譲つてもよい。だがそれであるからと云つて、文学を今云つたような文献学だとして了わねばならぬ理由は、まだない筈だ。──でそう考えて来ると、要するに「文学」とは、文藝創作を通じて受け取ることの出来る文藝のエスプリだ、ということにすれば、いいのである。之が文学という実際の用語を、最も親切に生かしたものとなるのではないかと思う。
だがそうすれば又、文学なる言葉を単に文藝という藝術の一種類・一領域・のエスプリだけに限定する必要もなかつた筈だ。なぜなら、文藝に於て働くエスプリと云われるこの輪廓が空間的に限定され得ないような一種の気体は、一体美術や工藝や音楽に於けるエスプリと原則的に隔離出来るものだろうか。一切の藝術はその時代の精神を反映すると云われる。その時代の思想・文化・を表現すると云われる。このことは単に、同時代の諸藝術の間に社会的乃至歴史的な連関があつて同じ傾向で貫かれている、というだけではない。諸藝術のエスプリそのもの・イデー自身・に共通なもののあることを指すのである。して見れば、文藝に於けるエスプリだけを他の諸藝術の夫から、原則的に隔離して了うことは出来ない筈だ。ロダンは多分に卑俗な世界観を、乃至藝術観をさえ、持つていたが、その彼にしても、彫刻の内に一切の藝術や哲学や宗教を見ると云つている。ましてエスプリが諸藝術様式の間に有つている共通性・流動性・は、常識にぞくすると云つてもいいようだ。
でもし、文学というものをば文藝に於けるエスプリだと見るなら(そして事実そういう風にも日本語では用いられている)、寧ろ之を藝術全般に互るエスプリと見るのが、首尾一貫したことなのだ。之を藝術全般に互るイデーと云つても思想と云つてもいい。ただそのイデーなり思想なりが、能動的な工作力や推進力を持つた生きたものだとしてであるが。
だがそうすれば更に、エスプリとしての文学は、実はもはや藝術全般だけを蔽うものでさえなくなつて了わねばならぬ。藝術に於けるこのエスプリなるものが、哲学や科学を原則的に除外するということは、受け取れないことだ。して見れば藝術・哲学・科学の文化内容の一切を貫く一つの精神とでも云うべきものが、即ち文学だ、ということになりそうである。そう云つて云えないことはないかも知れないのだ。
併しこう云つて来ると、文学という観念はほしいままに徒(いたず)らに拡大された観がなくはあるまい。文学は何と云つても文藝を中心にして出來ている観念だつたのだ。それが哲学や又更に科学にまで直接するとなると、もはや文学という言葉の特殊の利き目がなくなつて了う。こうした用語の拡大は無意味であるようにさえ見えるかも知れない。
事実、文学という言葉は、こういう結果になる程にさえ、曖昧なものなのだ。だから文学という言葉の代りに文藝という言葉を使うことが、何より便宜であつたのだ。併しこの曖昧な処が案外色々の関係を説明出来るものを含んでいるということを、今注目しなければならないのである。と云うのはつまり、思想のエスプリとしての文学なるものは、文藝と科学とに互つて之を一貫しているもののように考えられるからであつて、二つのものを結びつけて考えさせるものが、この文学という一つのそれ自身は曖昧な併し効果から云つて有力な、切札であるだろうからだ。まだ特別に文藝という藝術のジャンルの態をなしていないような科学的な論文やエッセイも(所謂科学や評論の各ジャンルの如き)、なお且つ文学的な意義を持つことの出来る場合が多いという事実から、「科学と文学(実は文藝)」との関係は極めて重大な問題になるからである。処でここで役に立つのは、文藝という藝術の一領域・一種類・一ジャンル・や、科学という一文化領域ではなくて、こうしたものの背景に想定される処の一つの思想的力・文化的エ─ジェンシー・としての文学という精神なのだ。
吾々は例えば文藝と科学とを徒らに分類学的に区別して見た処で始まらないのであって、必要なことは両者の本質的な同一と差別にある筈だ。そのために役立つものを、恰(あだか)もこのエスプリとして理解されている文学なる通俗語が、云い表わしているというのである。
それ故、この意味に於ける文学は、文藝という言葉があるにも拘らず、「文藝界」にとつて、矢張依然として重大なカテゴリーでなくてはならぬ。勿論文藝学は藝術学乃至美学の一部分であつて、この藝術学乃至美学にとつてもこうした思想的エージェンシーとしての文学は重大な意義を持つわけだが、実際問題から云つて、こうした場合にまで之を文学と呼ぶことには、一応の説明の責任を負う必要がありそうで、自然そうした用語例はあまり見当らない。文学は特に文藝に於て、思想的エージェンシーを最も自然に云い表わす。そうすれば、文学というカテゴリーは、特に文藝学にとつて、愈々意義の深いものとなるだろう。
文藝学の根本的な課題の一つは、単に文藝が何であるかだけではない。と云うのは、文藝という藝術種類に這入る文化現象の社会的説明や歴史的叙述だけが、その根本課題ではない。文藝学は、文藝に於ける、又文藝と直接する藝術種類や藝術外の文化領域やとの関係に於ける、文学的なものが何か、に答えるものでなくてはならない。少くとも文藝は文藝学によつて、まずこの観点から分析・省察されることが必要だ。文藝は文藝である。之を一つの藝術の領域と見て了う限り、文藝は文藝以上の何ものでもない。だが、文藝が文藝たる所以である処のその文学的な本質は、恰もそれが科学と同じに、一種の認識だという処にあるのである。で、認識としての文藝、それがこの場合「文学」と呼ばれている処のものであつた。だからこの際、文学をば一種の認識能力のようなものと考えてもいいだろう。一種の認識の意慾や野心、エネルギーやセンスやタレント、そうしたものが文学的なものと考えられる。文学的な眼や文学的な真実や文学的な価値という言葉も、ここから生きて来るのだ。
だが旧く古典的理論に於て、藝術が一般に自然の模倣だと云われるように(その自然がまたイデヤの模倣であるかどうかは問題外として)、今日の藝術理論の最高結論から云つても、一切の藝術は実在の模写乃至反映に他ならない。少くとも藝術理論上のリアリズム(スタイルとしてのリアリズムではない)に立つ限り、そう云わざるを得ない。仮にそうだとして、処が一般認識理論上亦、リアリズム(唯物論)に立つ限り、一切の認識は実在の模写乃至反映である。それ故、この推論から行けば、一切の藝術が認識に他ならぬということになる。独り文藝だけが認識であつたのではないこと勿論だ。
認識論上の模写説、即ち唯物論だが、この模写説によると、一切の文化が何等かの條件と制約との下に於ける実在の模写反映であつた。かくて宗教は一つの倒錯した実在反映であつた。では藝術はどういう規定による反映か、又特に文藝はどういう形をとつた反映であるか。だがそれより先に、この際倒錯した反映だとか(或いは歪められた模写だとか)何とか云うためには、一定の規準があつてそう云えるわけだが、その規準になるものは何か。夫は取りも直さず科学的乃至理論的な認識なのである。実際、科学的理論(特に自然科学の夫)は認識の普遍妥当性に於て一等発達した認識の様式だつたのである。認識という時、だから科学的理論的認識を尺度とするか足場とすることによつて、話しは始まるわけだ。宗教についてもそうだが、藝術についてもこの点、少しも変りはない筈である。(道徳についてもそう云えるので、道徳なるものの認識論的意義を、かつて私はほんのほんのわずか触れたことがある。)
藝術をば科学的認識によつて推し計ることは以ての他の間違いだ、と抗議するものがいるとしたら、吾々は反問しなければならぬ。では何を規準にして藝術と科学との連関を見つけ出す心算(つもり)か、それとも二つのものは全く無関係な絶縁された文化形象ででもあるのか、と。藝術を他の文化領域との内部的連関を絶つて孤立させて取り扱うことを、最初から誤りだと吾々は考える。この誤りを犯さぬためには、要するに科学的認識を規準として、認識としての藝術を分析する他はない。藝術理論上のリアリズム(必ずしもスタイルとしてのリアリズムではない)とは、他でもない、この経緯を指して呼ぶ名である。
さて藝術一般がそうだとして、その内で特に文藝は、認識として或る一つの特権を持つている。特権というのは勿論科学的認識という規準から割り出した特権なのだ。と云うのは、文藝は云うまでもなく主に言語表象による藝術であり、その意味では概念を乗具とする藝術であるが、処が科学的認識こそ、言語表象乃至概念を乗具とする認識であつた。そこで文藝は、他の藝術様式に較べて、科学に特別に近い近親関係を有つているわけなのだ。文藝が認識である所以(ゆえん)は、美術や音楽が認識であるよりも、より以上に、認識が一等組織的に発達したために認識原型の意義を有つている科学的認識に、本質的に接近している、と云うのである。
文藝が言語表象による藝術であることはよいとして、夫が概念を乗具とするとは受け取れないと云うかも知れないが、併し言葉によつて云い表わされるものは、さし当り何であれ概念なのだ。ただ問題はその概念が如何なる表象機能を以て登場するかにあるのであつて、文藝に於ては概念は文学的表象として機能するが、併し決してただの概念的表象としては働かない、という迄である。
かくてともかく文藝は一種の認識である、而も科学的認識と本質的に近親関係にある認識である、ということが判る。それが一種の認識であり又藝術の中でも特権ある認識であるが故に、文藝と科学との連関は極めて密接で、この連関を除いては文藝の文学的本質は遂に捉えることが出来ない。──ここに文藝学がまず認識論でなければならぬ理由がある。なぜなら、それは丁度、科学論がまず認識論でなければならぬと、全く平行することだからだ。
文藝学という観念は旧くからあつたものではない。主として近代ドイツの文学史家の手によつて造り上げられた概念であるように見える。(之まで存在する殆んど凡ての文藝学なるものは、ブルジョア文藝学であつた。フランツ・シルレルはF・メーリンクから唯物論的文藝学の出発点を導こうとしている。)之は今の処大体に於て、文藝史論と大して別なものではないようだ。──だがこれが歴史記述又は歴史的要約であるからと云つて、文藝の認識論でなかつたということにはならぬ。元來認識論とは認識の歴史の論理的洗練のことだ。一体論理乃至論理学というものが歴史の結論以外の何ものでもない。価値の観点は歴史の事実が原則を結論する処に発見する、それが論理というものだ。認識の歴史的発展とそれから結果するこの論理的結論とを媒介するものが認識論というものであつた。
処でこういう意味に於ける認識論、というよりも寧ろ論理学は、藝術に関しては今日まで多くは美学の名を以て呼ばれて來た。美学を形式的な美的情緒の問題に集中しようとするT・リップス風の偏極や、美学を美術乃至美術史に個有な因縁あるものとする日本帝大的習慣を別とすれば、(尤もこうした傾向はいずれもカントの「美」の観点──それは「崇高」の観念からさえ区別されたごく極限されたものである──に由來するので、本来意味のあることだが)、今日まで多くの美学は大半藝術の論理学とも云うべきものだった。H・テーヌの藝術の社会的考察も実は藝術的価値の問題をねらつていたわけで(少くとも「イギリス文学史」の序説はそうだ)ギュヨーによつて一応その論理学としての目的が果された(ギュヨーは美的価値そのものが社会的な本質を有つと考える)。ただテーヌもギュヨーも、社会に於ける階級的対立が藝術価値に及ぼす関係を充分に見抜くことが出来なかつた。処で之に反してフリーチェの「藝術社会学」はとに角階級対立を中心とした芸術の社会学であつたが、これも実は当然なことながら藝術の論理学を目標にしていたわけで、この点批判的に展開されて、今日のサヴェートの藝術理論となつているわけだ。之が今日の藝術の認識論に相当するものである。そして、ヘーゲル(及びT.フィッシャー)の「美学」が正に藝術の認識論の名にも値するということは、多言を要しない。
藝術の認識論、それは藝術史から抽出された藝術の論理学とも云うべきものである。藝術の社会学から導き出された藝術の論理学も亦、ここに一致しなければならぬ筈のものである。つまり藝術の歴史的社会的発展構造の論理的結論が夫だ。──だが大切な点は、このことが、藝術の認識機能の分析を抽象抽出しそして更に夫を根柢におくのでなければ、不可能なのだ、ということである。つまり、藝術的認識に於ける模写機能の特性についての分析が、根柢におかれ得るように、分析を展開しなければならない、という点が今大切なのである。それがなければ、藝術史や藝術社会学や又藝術学ではあつても、また充分に藝術の認識論ではない。正当な意味での美学と呼ぶことも出來ないだろう。
さて処で、特に文藝に関する藝術の認識論、それが文藝学の最も重大な意義でなくてはならなかつた。文藝学は単なる文藝史の展開やその経験的要約に止まつてはならない、文藝史の原則の論理学的要約でなければならぬ。だがそれだけではなく、文藝的認識に於ける模写機能の特性についての分析が根柢におかれ得るように、その分析が進められるのでなければならぬ。文藝学がまず文藝の認識論でなければならぬというのは、この意味だ。「文学」という言葉もかかる認識論的なカテゴリーとして、初めて理論上の意義を有つものである。
文藝学を文藝の認識論と見る時、第一に問題になるのは、夫と科学に関する認識論との相互の連関だろう。或いは同じことだが、この広汎な意味での認識論に於ける、文藝学と科学論との関係だ。或いは同じく、文藝と科学との関係なのである。──従来認識論と云えば、殆んど凡て科学乃至理論に関するものに限定されていた。それは前にも云つたように、今日まで実際問題として見ても、科学特に自然科学の認識が最も組織的で単一義的で統一的な発展をして来たので、之が凡そ認識なるものの典型となつているからだ。それに、なぜ又科学特に自然科学がそういう特別に恵まれた条件を持てたかと云うと、全く、自然科学に最も特有である処の、実験と産業との直接関係という、この認識に於けるマテリアリズム乃至リアリズムのおかげなのだ。だが史的唯物論の成立によつて、社会科学の認識が初めて自然科学の夫に平行した単一義性と統一性を有つようになつた。そこで社会科学についての認識論が積極的に展開出来るようになつたと共に、夫と自然科学に関する認識論との間に、一元的な統一が可能になつたのである。從來のブルジョア認識論は単なる判断論理学の延長か、そうでなければ専ら自然科学の認識論か、さもなくば精々自然科学と社会(文化・精神・)科学とを二元論的にしか処理出来ない認識論であつた。──処で今度は、この認識論が、唯物論的な文藝学の成長と一緒に、文藝に関する処にまで拡張されねばならぬ点へ来ている、と私は考える。
マルクス主義的認識論と雖(いえど)も、今日まで、ブルジョア認識論と同じく、殆んど凡て科学乃至理論に就いての認識論に限定されていた。之はブルジョア認識論にとつては当然なことだつたのである。なぜならブルジョア認識論は科学に関しても実践的な模写説は取らず、又ブルジョア文藝理論は模写説としてのリアリズムを取るための必然的な論拠を有つていなかつた。從つて文藝理論と所謂認識論との間にはブルジョア的理論にして見れば、何等、思いつき以外の共通の地盤は見当らなかつたわけだ。処がこの点、現代唯物論は全く条件を異にしている。現代唯物論による認識論は、首尾一貫して模写反映の理論に立脚する。処が現代唯物論による文藝理論も亦同じく首尾一貫して模写反映の理論だ。それが文藝学の哲学的カテゴリーとしての(前にも云つたようにスタイルとしてではない)リアリズムというものだ。(ミールスキー「リアリズム」──熊澤復六訳を見よ。)文藝は世界の・時代の・自然の・社会の・反映だ。文學は鏡である(レーニン「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」を見よ。)だからして唯物論によつて初めて、科学の認識論が文藝の「認識論」にまで拡大延長され得る条件が発生したのである。文学なる概念もこの認識論に於て初めて、科学的カテゴリーとなることが出来る。
而も一旦この条件が発生した以上、もはや吾々は認識論を科学だけに就いてのものとして限定しておくことを許されないだろう。認識論は文藝に就いても延長展開されなければならぬ。そうしなければ文藝が認識である所以(ゆえん)も、文藝の認識が本来の意味でのリアリズムである所以も、そうした文藝の根本的な規定を、理解する緒口(いとぐち)は、全くなかつた筈だからである。──でもし仮に、例えばリアリズムという問題が今後の文藝学の何より重大な根本問題であるとしたなら、(私は夫を疑わないのだが)、文藝学はまず第一に、みずからが認識論である点を、実質的に明らかにせざるを得ないだろう。そしてその時、問題はおのずから、文藝と科学との認識論上の連関へと運ばれて行くに相違ないのだ。──だが今日の唯物論的文藝学は、この方向ではまだそこまで話しを進めていないのではないかと、私(ひそ)かに考える。
(文藝と科学との認識論上の関係について、《その間に道徳がはさまった》私は以前少しばかり分析を試みて見たが、今ここに展開し直すだけに新しく進んだものをまだ持ち合わさないから、さし控える。なお又、文藝に限らず藝術一般について、認識論的課題を押し拡げることは、私には当分出来そうもないことである。すでに宗教についての認識論的検討は多くの人によつて基礎をおかれているのだが。)
──昭和十二(1937)年一月「唯物論研究」──
(とさか じゅん 哲学者 1900.9.27 - 1945.8.9 東京神田に生まれる。雑誌「唯物論研究」等に拠り活躍、戦時に数次の裁判において当局の弾圧に抵抗の末、下獄。敗戦直前に獄死。「文藝」の意義を問うた掲載論文は、昭和十二(1937)年一月「唯物論研究」に初出。)
辻谷の寅子石 榊 政子
生きてあることがうとましい日は、辻谷の寅子石に逢いにゆく。
延慶四年三月八日 報恩眞佛法師 大發主 釈唯願
と銘された丈余の青石塔婆は、綾瀬川に近いさびしい水田の只中に、無口な大男のように立っている。南無阿弥陀佛の雄渾な鑿のあとが数百年の風雪に耐え、なお深々と抉られて、
昭和の寂光を溜めている。
むかし、このあたりの長者の養女で寅子なる美女が男たちの争いのもとになるのを耐えかね自害して果て、長者はその遺言を守り、寅子の腿肉を膾(なます)にし男たちに振る舞ったそうな。男たちは食して後これを知り愕ろき悔やみ秩父から青石を運んで建て供養したそうな……。
啓蟄の頃三月八日、板碑を囲む共同墓地の村人は、寄り寄って御斎(おとき)をし、寅子石とよばれる板碑に詣でその冥福を祈るという。
わが肉を男たちに与えた佳人の消息を手繰ってみたいと近在の古老をたずねると、「弓山」「膳洗い沼」「有無(あんなし)」など、その跡もさだかならぬ地名ばかりが、ともっては消える螢火のようにはかなく浮かび、板碑にも御詠歌(ごえいか)にも寅子の名は行方知れない。
下総の入江に身を投げた真間(まま)の手児名(てこな)ならば「いにしへの眞間の手児女をかくばかり」と、人麿にもうたわれ「雨月物語」にもとどめられたものを……。
唯願とは、浄土真宗高田派の高僧眞佛の愛弟子であろうか。親鸞に問いかけた唯圓のような悩める若き仏徒か、それとも寅子を慕った複数の男たちを象徴する法名であろうか。
ある古老は、承久の乱で鎌倉に背いた三浦胤義の曽孫が寅子であるという。なるほど「承久記」によれば胤義の七人の遺子のうち、六人は刺し違えたり首を刎(は)ねられたりしたが、三男豊王丸だけは小河の尼の命乞いで永らえている。
また別の古老は、曽我十郎祐成の愛人大磯の遊女虎御前の名を挙げる。曽我兄弟の魂鎮めに諸国を巡礼した虎御前は、京から東国に流された公達の忘れ形見、和歌の道に心よせ、人丸、赤人の跡をたずね、業平源氏の物語に情たずさえる才女であったという。
富士山に向かって斜(しゃ)に構えた寅子石の目路(めじ)の彼方に、鎌倉時代のすさまじい戦乱の絵巻が繰り広げられる。
──人肉を食らっても訝しくなかった時代──人びとは悔いつつ供養塔を建てたが……現代の寅子は蟷螂(とうろう)のように男を食らい、男もまた食われて悔いはしないだろう。
生きものの気配にふと我に返ると、一匹の白蛇がするすると墓地を縫い水田の方へと消えていった。〈散文詩・寅子石に逢いにゆく〉
この不思議な伝説にまつわる散文詩を書いたのは、昭和五十年代だったが、詩の終わりに現われた白蛇は、今も私の眼裏を音もなく過(よぎ)っていく。それはひとつの疑問符のかたちで私の中に蟠踞(ばんきょ)し、ふとした折にそっと首を傾(かし)げていたりする。
今年は現代的な視点で「寅子石」に対(むか)ってみるべく、思いをあらたにして出かける。平成九年三月八日、板碑に銘された延慶四年から六八六年目になるこの日は快晴で、自転車と伴走する風もこころよい。
寅子石を囲む蓮田市馬込辻谷の旧河合村辻谷組衆の墓石は、以前は刻字も判読し難いような古びた墓石が多かったが、今は磨かれた新しい墓石が目立ち、墓誌、囲いの石垣も整えられている。目路を遮る建物がほとんどない畠地の一画に屹立する板碑は、長さ四メートル、幅○・八メートル、三角形の下に二条の横線がくっきりと穿(うが)たれ、裾広がりの長梯形状の板碑の正面には、蓮弁を下に「南無阿弥陀佛」(一字の大きさ約三〇センチ)と六字名号の薬研彫が見事だ。碑の頂点が指す武蔵野の空は青くうらうらと限りない広がりを見せる。
持参の線香を供え手を合わせ瞑目する。まもなく、三々五々花束や水桶などを手にした人びとが集まって来られた。三十代から八十代ぐらいまでの女性が多く、男性はチラホラ。二十人ほどの人たちが、お盆に山盛りの白だんごと、花、線香を供え、水をそそぎ、交々(こもごも)に合掌、拝礼される。七百年近い歳月、先祖から受け継いだ伝承を絶やすことなく守りつづけて農業、教職、会社員、工場経営者など職業もさまざまのようだが、ほっかりと通い合う連繋の温もりが伝わってくる。読経、詠歌、和讃などを唱したりはしなかったが、このあと今年の当番の家に集まって、御斎(おとき)をされるそうで、静かに墓地を出、ペンペン草やホトケノザが群れ咲く畠の小径を、一列になって歩いてゆくさまは、まさに早春の風物詩のひとこまであった。
ところで、この王者のような板碑の向かって左わきに、高さ二メートルほどの今ひとつの石碑が存在する。
「重要美術品認定記念碑」とあり、碑面に、
抑々(そもそも)当板石塔婆は今を去る六百三十有余年鎌倉末葉延慶四年三月八日 唯願法師が其の師眞佛法師に対し報恩のため建立せるものにして俗に寅子石と称せらるるもの也
口碑を尋ぬれば昔当地一帯を領有せる長者の一愛娘寅子は近在稀に見る麗人にして其の端麗なる容姿嫣然たる明眸は幾多若人の情抑え難く 遂に意を決し身を犠牲にして衆望に応ふ 時の人乃ち供養塔を建て其の冥福を祈りたりと
所在の弓山膳棚の名は其の故事を語り三月八日をもつて妙霊供養とし供養念仏の妙音綿々として今日郷土に響くも故なしとせず ─後略─
この本文のほか、一年前の昭和十六年四月に、文部省が重要美術品としての保存を認定した旨も刻されている。記念碑の裏面には、本橋悌次ほか十四名と、世話人三名、発起人竹野谷源右衛門の名が連なる。
このほか、板石塔婆前面に並ぶ香炉と、その左右の石燈籠を仔細に見ると、向かって右の石燈籠に、
万延元年(一八六〇)三月八日、五百五拾回忌、馬込村瑠璃光山東光院五十世
左の石燈籠に、
明治四十三年(一九一〇)、六百回忌菩提也施主辻谷組中
そして中央の香炉には「昭和三十五年(一九六〇)、六百五拾回忌菩提也、東光院満蔵寺五十六世」と、万延元年から五十年毎に新しい供養のしるしが奉納されてきていた。
「重要美術品認定記念碑」が建立されたのは、太平洋戦争の最中であり、資源の乏しい時代であったが、そういえば私が去年取材した「藤橋」が架け替えられた昭和十八年も、あの悪夢のような時代である。遡って蒙古軍の襲来に、宮中では敵国調伏の御修法(みしほ)が行われ、人びとも外圧と内戦に怯えていた十三、四世紀のことなどが思い合わされ、寅子石の謎はこの国の底深い痛みの根と繋がっているように思える。
世にもまれな美女が複数の男に望まれる物語は、眞間の手古女(手古奈)の入水伝説、竹取物語のかぐや姫ほか珍しくはない。男たちに難問をつきつけて天界に還るかぐや姫の辛口な大人のメルヘンは別格として、悩み抜いた女が自殺したり剃髪して尼になるなどの悲話は数え切れない。しかし、自分の腿の肉を膾(なます)にして、自分を欲した全部の男に食させるように──との遺言はおそろしい。しかも養父母とはいえ、これを実行したという話は、説話の詐術がほどこされていたにしても謎めいている。
岩槻市馬込の天台宗の古刹で、板碑の傍(かたわ)らの記念碑、香炉などに寺名が刻されている満蔵寺の田中住職にお尋ねすると、過去帳など火災で焼失し、由来は不明であるとのこと。
また岩槻市太田の浄土真宗(本願寺派)の河津住職は、「板碑は眞佛法師への報恩碑であろうけれど、寅子の伝説はおそらくあとからの付け足しでしょう」と答えられた。
『新編武蔵風土記稿』巻之百四十五に〈膳棚〉〈有無〉〈子膾明神社〉が明記されているし、大宮市深作の春岡小学校の近くに、<膳棚橋>、丸ヶ崎にある、<子なます神社>は、昭文杜発行の現在の地図にも記載されている。また、<子膾明神社>には、円空も立ち寄ったようで、円空作にしては珍しい掌にのるほどの、小さな薬師像が置かれてあったそうで、十数年前に、その像を保管されていた丸ヶ崎の多聞院で拝観させて頂いたことがある。
いわゆる人肉嗜食は意図的に食するので、今世紀のフランスで日本男性のS氏が世を騒がせたし、アンデス山中の飛行機墜落で雪の中に七十日間も閉じこめられても、生きのびた何人かの記録もある。平安時代の「餓餽草子」、近世の飢饉(けがつ)、太平洋戦争中の孤島などでの、絵空ごとではない現実があった。
とはいえ、「寅子石」の伝説では、寅子さんの膾を食した男たちはそれとは知らずに、食膳で寅子さんの愛を分配されたようである。
ひとまず、寅子の事件が有ったか無かったか「有無(あんなし)」の地名にまでなったという伝説の有無(うむ)は棚に上げて、厳然と建つ大板碑の被供養者「眞佛法師」と、建碑者と思われる「釈・唯願」の史実への足跡を探ってみたい。なお、この板碑の背面には「銭巳上佰五十貫」という刻字が見られるが、寅子の名はどこにもない。当時の銭一貫は米一石の値に相当するそうで、莫大な費用を要したに違いない。地上四メートルの地下には、その何分の一かの埋まった部分があるはずだし、この緑泥片岩の巨石を筏にのせて産地から運ばせ、石工に造営の作業をさせることは、とても個人の僧が負担できるものではないと思う。
「唯願」を個人名と仮定して『真宗新辞典』の頁を繰ってみた。「唯願」の二字は無かっ
たが「唯願無行」の四文字があり、その意は、「唯願無行」→「別時意会通(べつじいえつう)」→「往生別時意」となっていた。
その「別時意会通」の意は〔摂大乗論〕の四意趣の一とあり、その解釈は俗徒の私には難解で、宗教哲学の袋小路で立往生させられる始末……。
さらに「二十四輩」の中で唯がつく僧を調べると「唯仏」「唯信」「唯円」、願がつくのは「信願」など、まぎらわしい僧名が並ぶ。
「眞佛」は「親鸞聖人二十四輩」の二十四人の高弟の第二番目にあげられている。この「眞佛」についてその閲歴をみると、当時としては新興宗教だった専修念仏宗(浄土真宗)の悲愴ともいえる足どりがうかび上がってくる。
比叡山で修学し法然の門に入った親鸞は、すでに政権を動かすほどの強力な勢力となっていた僧徒と幕府の弾圧で、専修念仏停止の法難に遇い、建永二年(一二○七)越後に流罪になる。五年後赦免されるが京に戻らず、建保二年(一二一四)妻子と共に関東の地に留まり、経文読誦発願と布教をする。
人間を透徹した目で、ありのまま眺める人間肯定の精神をわかりやすく説き「教行信証」「浄土和讃」ほか、今に残る多くの宗教書、法文歌などを表わした。
眞佛がその親鸞聖人を、稲田の草庵に訪ねるのは眞佛(椎尾弥三郎春時)十六歳の年であった。下野国(しもつけのくに)真岡城王大内国春の嫡子として生まれ、六歳の時筑波山の俊源法師に師事、七歳で外典六経を暗記した逸材と伝えられる。父国春の死に遇い椎尾城王となったが、真宗への志やみがたく家督を弟国綱に譲り、親鸞聖人の門弟となる。「往昔、黒谷の会衆(えしゅう)三百余人未だ如此(かくのごとき)を見(みる)なし」と聖人が称(たた)えた程、聡明、賢者の器量を具えた若き仏徒であったという。
早くも十八歳の時、親鸞の名代として京都に上り、三月下野の高田に帰り宗祖を扶けて高田専修寺を創立。貞永元年(一二三二)第二世住職となった。
師の親鸞聖人が関東での布教を二十年間にわたって行じ、弟子たちに託して京都に帰るのは六十三歳頃であるが、建長初年頃から関東の教団に対する幕府の弾圧はきびしくなり、親鸞は息男善鸞を代理に派遣する。しかし善鸞は弾圧者側にとり入って、建長八年(一二五六)義絶されるのだ。「善鸞事件」と呼ばれているこの事件についての消息を『親鸞の詩と書簡』(在家佛教協会)の中から拾ってみる。東西両本願寺、高田専修寺などに蔵されていた親鸞からの<親鸞聖人御消息集><未燈抄>などの書簡の中から、建長四年(一二五二)二月二十四日付の東国への手紙に、
……往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとをもて、よも師をそしり善知識をあなづりなんとすることは候はじとこそおぼえ候へ。このふみをもて、かしま(鹿島)・なめかた(行方)・南の庄、いづかたもこれにこころざしおはしまさんひとには、おなじ御こころによみきかせたまふべく候。あなかしこ、あなかしこ
長田氏は「善鸞事件」について、
建長四年の頃、常陸方面に、造悪無碍(念仏を信じさえすればどんな悪事をはたらいてもかまわないという)説がさかんであったので、親鸞は長男善鸞を関東へ送って、正しい信心を闡明し、邪義を糾正させようとしたらしい。ところがその善鸞が、親鸞の息であるという立場を利用して、逆に策動し、親鸞の門弟たちを自分の勢力下にとり入れようとしたようである。
と解説している。さらに善鸞は父の指示によると称して地頭、名主などの地方権力とむすび、鎌倉政権に対し専修念仏者を誣告したという。これらのことに苦慮された二十四輩第一の性信、眞佛たちが上洛して東国への下向を懇請し、あるいは書簡で教えを乞い、親鸞から懇々と諭す返信が認(したた)められるが、書簡の往復に一ヶ月余りも要するので、今の世から見ると何とももどかしい。
眞佛は示寂の五ヶ月前の正嘉元年十月にも、女婿の顕智と共に上洛している。
蓮田市郷土資料館の大塚孝司氏から頂いた『紫尾村誌』に描かれた眞佛上人は、
後深草天皇の宝治二年(一二四八)十一月四十歳の砌安心決定抄を製し、善鸞及立川流の邪義を砕研し、同月上洛聖人に謁し浄土和讃・高僧和讃の二帖を宗祖から相伝した。建長六年(一二五四)四十六歳の時には、鹿島神宮神官等の請に応じ、往生要集の講演をした。建長七年三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)を読むこと一千二百返、正嘉元年(一二五七)十月京都に上り宗祖親鸞聖人に謁し十一月中旬高田に帰ったが、この時宗祖と最後の別れを惜しんでいる。
後深草天皇の正嘉二年五十歳の砌、日毎に門弟の道俗を招いて次々と勧誡教化し、三月五日には門弟一同に告別をなし、八日辰の刻(午前八時)浄衣を着て如来堂の正面に端座合掌、門弟と共に勧行し、未の刻(午後二時)高声に念仏四十八返を称え
往生不労諸善策
端合掌證無為
と唱えて示寂された、三日を経て葬送されたが端座の姿が少しも変わらなかったと伝えられている(現在椎尾の野村家は眞佛上人の後裔だといわれている)。
これを拝読したとき、私は眞佛上人は善鸞事件の責任をとり「即身成仏」のような自裁をされたのでは? と、どきりとした。岩槻清浄寺の河津住職に質問したところ、真宗では「即身成仏」ということはいわない。「即得往生」ということはある──と。
『真宗新辞典』や『親鸞聖人二十四輩巡拝』によれば、出自が東国の武士、城主、太守、都から下ってきた皇族や公卿まで見られる二十四輩は、百八歳まで生きたといわれる西念をはじめ七、八十代を超える長寿を全うした上人が多い中で、眞佛五十歳の示寂は私には早過ぎる幕切れのように思われてならない。
眞佛の最も近くにあった顕智(眞佛の女婿)は、親鸞面授の高弟で、親鸞帰洛後は、下野(しもつけ)と京都を何度も往復して聞法を怠らなかったという。
弘長二年(一二六二)十一月二十八日の京都善法院で、親鸞の臨終にもあい、その後の大谷廟堂の造営維持にも尽力している。しかし眞佛なきあとの高田専修寺(現・栃木県二宮町)継承については、眞佛の息男眞澄(信証)と争う羽目になり、顕智が専修寺三世となり、眞澄は結城の称名寺を継ぐことになる。
城主の出自である眞佛は温和な秀才であったようだが、顕智は実務肌の行動的な傑物であったと推測される。ところで顕智の出自は不明なばかりでなく(富士山で拾われたとも……)八十五歳の延慶三年(一三一〇)七月四日、如来堂に払子ひとつ残して行方知れずになり、今でも地元で毎年八月一日に、顕智を探したずねる徹夜の「顕智まつり」が催されている。
それにしても『紫尾村誌』に見えた「後深草天皇の宝治二年、善鸞及立川流の邪義云々……」の立川流とは?
『密教の本』(学習研究社)によれば、稀代の邪教といわれた「真言立川流」は、髑髏(どくろ)を本尊とし、この法を成就すれば三世に通じ超能力を得られるというもので、鎌倉時代から南北朝の動乱期にかけて流行したという。
まず文観上人(一二七八 - 一三五七)の名が挙げられているが、文観は平安時代に伊豆に仁寛が開いた立川流をのち大成したとある。「雑密」といわれる呪術的宗教は、奈良時代の道鏡を挙げるまでもなく、早くから宗教の奥深い聖処にとぐろを巻いていたようである。
鎌倉時代後期の宮廷秘話でもある『とはずがたり』は、後深草天皇から寵愛された女性二条の日記紀行文学である。作者の「後深草院二条」は、正嘉二年(一二五八・眞佛上人示寂の年)に、中院大納言雅忠と大納言典侍近子の間に生まれている。母の近子を愛していた後深草天皇は、早逝した近子の形見の美しい女児を四歳で出仕させ、光源氏が紫の上を慈しんで育み、やがて妻にしたように、「吾が子」と呼んで寵愛する。成人した二条は華麗な女房生活とはいえ、持明院統と大覚寺統の政争渦巻く中で、後深草院ばかりか、西園寺実兼、鷹司兼平、亀山院、仁和寺の法助上人などとの複雑な多角形の愛に翻弄される。
梅原猛氏は『百人一語』で、「『とはずがたり』における、マルキ・ド・サドの世界のような院の所業の背後に在ったのは、実は立川流の真言密教の思想であった」と指摘する。
しかし『とはずがたり』の後半は愛の遍歴の後、ひとりになった二条が、正応二年(一二八九)から発心の沙弥尼となって、諸国の寺社、歌枕の故地などを訪ね、十数年を費やして、五部大乗経の書写を行じ、道中の見聞と心のうちを流麗な筆に託した貴重な記録文学になっている。その中で二条は鎌倉を経て武蔵国の小川口(現・川口市)に、正応二年の十二月に入り、また『伊勢物語』に歌われたみよしのの里(現・川越市的場)や、堀兼の井の跡(狭山市)にも踏み入っている。
昭和二十五年に宮内庁書陵部編叢書の一冊として、はじめて世に出たという『とはずがたり』は、『源氏物語』のように、作者と同時代の人びとに書写されたり回し読みされたりはしなかったようだ。けれど二条の後半生の後に「女西行」と称されるようになる旅で触れ合った人びと、特に女性たちの目には、貴人の玩具にすぎなかった宮廷から抜け出て、初々しい尼僧の旅路を辿りゆく姿は、清爽なものに映ったに違いない。
後宮で恵まれた暮らしをしたであろう宮女やその仕女たちも、仕えている主に先立たれたあとは、髪をおろして尼になるか落魄の境涯に甘んじることが多かった。奈良の法華寺の長老にまで出世した聖恵房慈善や、法隆寺の「天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゆうちょう)」を発見した信如ほか、高位にのぼった尼僧も多い一方で、諸国を勧進遊行した熊野比丘尼、歩き巫女、宮中に招かれ後白河法皇に今様・法文歌などを伝えた"遊びをせんとや生まれけん"の『梁塵秘抄(りょうじんひしよう)』の「遊女(あそび)」と呼ばれた歌姫たち、上臈くずれの遊行の女性や傀儡女(くぐつめ)などなど、道中の情報伝達媒介者にもなり得た無名の女たちが、数知れず漂泊(ただよ)っていた。
二条は旅の途上、そんな遊女の姉妹と歌のやりとりもしている。川口での逗留先は、川越入道経重の後家で尼になっている女性の庵であった。当時善光寺詣りが盛んであり、二条は荒涼とした武蔵野の庵室に二ヶ月余りも滞在し早春二月に信濃の善光寺詣でに赴く。川口市舟戸町の善光寺は、現在は真言宗だが当時は浄土宗で、鎌倉~南北朝期の板碑も多く、尼僧銘も目につく。
嘉元二年(一三○四)、後深草法皇崩御の年は、二条の父雅忠の三十三回忌でもあった。この年、二条は、歌聖人麿の墓に参籠し夢告によって「御影供(みえいぐ)」を行ったのは、その翌年の三月八日であったという。諸国を巡りながら「大集経」の写経を行じてきた二条は、その費用を捻出するために、大切に手離さないでいた父母の形見まで手離すのだ。
二親の形見とみつる玉櫛笥(たまくしげ)
今日別れ行くことぞ悲しき
母の形見の平手箱を、ちょうど東国へ下るある人が相当高額で引きとってくれた折に、平手箱に添えやった一首である。
平手箱を引きとってくれたある人が誰であるか不明だが、正応二年(一二八九)新将軍となって鎌倉入りした久明親王は、後深草院の皇子であったし、二条の前身を知り、それとなく見守っていた人びとが諸国にいても不思議ではない。東国と京都を往来して、親鸞没後、その後裔の教団経営に奉仕していたであろう顕智も、二条を見守っていた一人であったかもしれない。
波乱の後半生を潔く生き、嘉元三年(一三○五)三月八日に大志の「御影供」を果たした尼御のありように、八十翁の顕智上人が、あらためて原始真宗門徒のさきがけだった眞佛師への追慕の念を沸(たぎ)らせたのではないか。ときに正嘉二年(一二五八)三月八日の眞佛示寂の年から五十年が過ぎようとしていた。
顕智は弟子唯願(あるいは結衆門徒?)に、眞佛報恩碑建立を促す啓示を与えたのではなかろうか。説話めく「寅子石」呼称の謎を知るのも、延慶三年(一三一〇)、忽然と雲隠れされた顕智上人その人であるような気もする。
鎌倉時代を中心に東国の武士がおびただしい血を流したが、青石塔婆の原料になる石材を産する埼玉県は、全国でも最も板碑が多く二万基をこえるという。板碑に彫られるかたちは、「南無阿弥陀佛」「南無妙法蓮華経」などの念仏・題目ほか、梵字・仏画などで装飾を施されたりさまざまだが、中でも最も多いのは阿弥陀如来の種子(キリーク)を上部に配した板碑である。
蓮田市馬込辻谷の「寅子石」には、種子はなく、六字名号の力強い陰刻がシンプルで、おかしがたい威厳と迫力に満ちている。私はこれからも、生きてあることがうとましくなる日には逢いにゆく。
伝説を史実と照合させようとすると、万華鏡さながら、揺らすほどに謎めいた象(かたち)が繰り広げられ、その裏側の魔の沼に引き摺り込まれそうになる。けれど現在進行形のこの世の事象も、仮想空間と奇怪な現実が混交して、宙吊りの情報に目まぐるしく惑わされている状態といえそうだ。
せめて未来につながる現実をしっかり見つめる一方で、古人がのこした遺跡・伝説・文の林などにも分け入って、限りあるいのちを寄せ合って生きた人びとのこころに触れたい。大いなるものへの祈りの声を聴きたいと希う。
〈付記〉
この原稿を何度も書き直し、ようやくペンを置いた平成九年六月八日。Y紙の日曜版を開くと、「ミステリー光と影」に、"こわいせりふ"という短編が載っている。昭和二十年十一月、群馬の山村で起きた事件で、知的障害のある十七歳の娘を母親が絞殺し、飢えていた家族のため肉鍋にして食べさせたというものである。その娘の名は「トラ」であり、母親は「トラや」と、一、二度呼んでから手にかけたという。
その年は私も十七歳、焦土に暮らす痩せっぽちの少女だった。倉田百三著の『出家とその弟子』に出会ったのは翌昭和二十一年。当時の日記に、
「あヽ滅びるものは滅びよ。崩れるものは崩れよ。そして運命に毀(こぼ)たれぬ確かなものだけ残ってくれ。……」など、稚拙な文字で親鸞が唯圓と交わした会話のところどころが抜き書きしてあった。
参考文献
『親鸞聖人二十四輩巡拝』新妻久郎(平8・朱鷺書房)
『親鸞の詩と書簡』長田恒雄(昭31・在家佛教協会)
『親鸞』澤田ふじ子(平2・淡交社)
『真宗新辞典』
『密教の本』(平4・学習研究社)
『中世宮廷女性の日記』松本寧至(昭61・中央公論社)
『中世に生きる女たち』脇田晴子(平7・岩波書店)
『新編武蔵風土記稿』
『紫尾村誌』
『岩槻市史』
寅子石考
榊 政子
──さあさ 召し上ってくだされ
これなる膾(なます)は娘の捧げもの
長者のすすめに四十人の男は 懇望した美しいお
寅の姿が見えぬのを訝しみながらも 鉢に盛られた
淡紅色の膾を ひとひらずつ嚥み下した
四十人の男から所望され 一人を選べなかった長
者の娘お寅は わが処女の肉で飢えた男たちをもて
なしてほしいとの遺言を枕辺に自害して果てた
恋する男たちの舌をとろかし その血肉となって
体内をかけめぐった愛
奪う愛がむさぼり食らうことであるならば与える
愛は血を流し命を絶つことに極まる
蓮田市馬込辻谷の共同墓地に屹然とそびえる長さ
一丈余の石碑を 人々は寅子石と呼ぶ
二十世紀も暮れ方の冬の陽ざしが傾いて 娘を食
らった男たちが泣き泣き建てた無骨な板碑に 百日
紅の裸木が静脈のような影を這わせる
お寅の血でよごれた皿を洗った皿沼 宴の膳が流
れついた膳棚橋 円空が掌にのるほどの可憐な薬師
像を残していった子膾社……今に残る呼名に不思議
な物語りが証しされて
橋のほとりの庚申塔には 右ぢおんじへ 左江戸
みちと刻まれてはいるが わたしはいま何処の岐路
にあるのやら
もはや人から所望されることもない女は 皿沼で
洗う皿もなく 膳棚橋から川に流しやるほどのロマ
ンもない
血の色の夕焼に燻っているのが 自からの肉の匂
いであることに当惑し 立ち疎むばかり──
『伝説をさかのぼる』平成十二年七月さきたま出版会刊より
(作者は、埼玉県在住の詩人。「蔵王文学」「木綿」同人。数冊の詩集をもち、武蔵国の往時を史実と伝承により探訪した、また故郷青森の文人達の足跡をしみじみ辿る、着実な、詩性に満ちた散文の業績もある。「寅子石」にかかわる検証と美しい詩とを、あえて対にしてここに掲げる。湖の本の読者。1.11.15掲載)
秦 恒平 『初恋』──大道芸人の娘の愛
河野
仁昭
1
わたしの京都への関心をかきたて、京都への認識を改めさせてくれたのは、秦恒平の京都論だった。
十代の終わりに四国の片田舎から出てきたわたしがみた京都は、妙にごみごみしていた。名前だけは知っていた神社や寺院を訪ねてみたりもしたが、観光客の姿はほとんどなく、建物も庭園もかなり荒れていた。寺によっては雨漏りで畳が腐りかけていて、部屋に黴の臭いがこもっていた。訪ねたといっても、なにかの用で通りがかりに、知名度の高い社寺をみかけると、その名前にひかれて立ち寄ってみるといった程度のことで、わざわざ訪ねてみるほどの興味も関心もなかった。千年の「花の都」などとは信じがたい気持ちだった。
そのころのことだ。わたしはアルバイトに、東山区にある某役所の臨時雇いをしばらくしていたのだったが、役所とは別棟の小さな平屋に住んでいた用務員の奥さんに、ちぎれたボタンをつけてもらうなど、ときどき世話になっていた。休日を利用して帰省したわたしがその話をしたところ、母がお土産にもって行ってあげるようにと、柏餅をかなりたくさんつくって包んでくれた。わたしはわずらわしい気持ちだったが、食糧不足の時代だったし、田舎にはそんなものしか土産らしいものはなかった。
包の一つは下宿のお婆さんにあげた。お婆さんはおし戴くようにして受け取ってくれた。もう一つを用務員の奥さんにもつて行ったところ、なんやろ、といってわたしの目のまえで包を開いて、餅の一つを親指と人差指で汚い物でもつまみあげるようにして、しげしげと眺めた。ありがとうともいわなかった。
用務員の奥さんといっても、そのときおそらく三十歳を少し出たところくらいだったと思う。二人か三人子供がいたが、まだ一人も小学校へはあがっていなかった。
京都の人に、迂闊に物などあげるものではないという思いが、身に滲みた。そのときの複雑な思いは、いまなお心に残っている。あの奥さんがはたして京都の人かどうかは知らない。おそらく京都生まれではなかったろう、人まえもおかまいなく、胸元を開いて子供の口に豊満な乳房を含ませるような女性だった。
いまもって京都人のデリカシーが理解できない田舎者で、茶の湯の心得すらもないわたしは、この街ではずいぶん恥をかいてきたし、嫌な思いを味わってきた。逆にいえば、無神経に加えて、京都の習慣に無知なわたしは、それと意識することなく、まわりの人たちに対して、数々失礼な言動を重ねてきたわけである。
京都の街に観光客が帰ってきたのは昭和三十年前後、つまり朝鮮戦争の末期ころからだったと思う。わたしが人並みに京都に関する書物を読んだり、折にふれ名所旧蹟などを訪ねるようになったのも、そのころからである。京都に住んで十年もたっていながら、わたしは旅行者あるいは観光客の一人であった。そういう者としてのなんでも見てやろうで、テーマもなければ体系もない、要するに行き当たりばったりだった。
それからさらに十年たち二十年たち、わたしの京都住まいは、戦後京都の復興の歩みとともにあったわけだが、依然として旅行者であり観光客だという気分は抜けなかった。わたしにとって京都は、矛盾するようだが所詮旅先の街であった。京都市民になったという思いはまるでなかった。
そんなわたしの京都への認識を改めさせてくれたのは、秦恒平の京都論だったということは冒頭に書いた。ショックだったのは、彼が『朝日ジャーナル』に昭和五十九年五月から九月にかけて連載した『洛東巷談・京とあした』であった。そのまえにわたしは、彼の『京
あす あさって』(昭和五十四年)という随想集を読んでいたから『洛東巷談』に毎回注目していたのだが、『京
あす あさって』には、たとえば次のような一節があって、わたしを瞠目させたのであった。
*
見え見えの慾は深いし、こまかい暮しをしているから、京都では有徳人(うとくにん)と貧乏人の別なく、すこぶる勘定高い。その点、大阪人よりも金勘定がきたない。街中を占有意識で浸蝕して、行儀わるく悠然とつね姿(な)りで我がもの顔に過ごしたいのも、裏がえすとそのほうが安くあがるからだ。つね姿りで通せる世界は広いほうがよく、よそ行きに改まらねばならぬ世界は、せまいほうがいい。いつも晴れ着ではかなわんのである。これは保守とか革新とかと別のことで、内弁慶の心情である。内弁慶ほど差別的によそものを見る。京都は日本中で一等差別のきつい街だと私は断言する。
*
断っておかねばならないが、わたしは旅行者、観光客の気分が抜けないとはいうものの、三十年も四十年も住み、しかも、多少は文献にも当たり、あちこち見に出歩き、数は多くないにもせよ親しい人もできてみれば、自ずから京都に愛着がわく。ふるさとがあるとはいうものの、室生犀星ではないが帰るところではない。だから、秦恒平が京都出身者であるなしにかかわらず、ずけずけと京都の悪口をいわれるといい気がしなかった。だが、「京都は日本中で一等差別がきつい街」だといわれてみて、なるほどそうであったかと腑におちる思いがしたのである。いい気がするもしないもなかった。
京都へ来るまえ一年ほど、わたしは大阪をうろついていた。活気があるのは闇市だけのような、戦災に焼けただれた街で、敗戦国の悲惨さを見せつけられる思いがしたものだが、人々は意外に親切だった。別けへだてを感じさせなかったのである。先年の阪神淡路大震災後の一時期がそうだったように、貧富の区別なくお互いに無一物にひとしくなってしまっていたからでもあったろうが、京都の人とは明らかに肌ざわりがちがった。田舎者であることに引け目を感じさせられることがなかったのだ。
『洛東巷談・京とあした』は、京都人の無自覚的な序列(あるいは位取り)すなわち差別の歴史を軸にして展開した京都論だといってよい。次のような一節がある。
*
すさまじい差別と逆差別とを温存しつつ、それに無感覚になっている、なろうとしている「京都」が、確かに今も、ある。私自身まぎれもない差別者だった少年時代を回顧した、これは実感である。あらゆる歴史的な差別問題の根は、貴賎都鄙という座標の「象徴」たる「京都」それ自体にあったという実感である。
*
秦はここでは、在日朝鮮・韓国人を含めて、「よそ」から移り住んできた人たちを「異人」と総称して「和人」と同格視しなかった歴史と現代を説くのだが、「異人」がもたらした文物によって発展を遂げてきた歴史に照らして、これはたしかに矛盾した歴史的事実である。わたしたちが住む京都においていい例が、平安遷都の基をひらいた秦氏に対してそうであったことである。しかし、「よそ」からの移住者は外国から来た「異人」だけではなく、程度の差はあるにせよ、都の外から入り込んできた者もそうみなされて不思議はなかった。それどころか、秦によると都とは洛中のことであって、洛外すなわち鴨川の東に住む者は都人とはみなされなかったというのだ。そのはるかな延長にある四国、九州、関東、東北ともなれば、いうも愚かであろう。外国(とつくに)に等しかったはずだ。
おそらく「貴賎」は「都鄙」とも無関係ではない。「鄙にはまれな」などといういい方には価値観が感じられる。「野鄙」ともなればなおのことだ。さらに、地位、財産、教養などとも大いに関係があろう。秦はいう。
*
しかも奇妙にも、差別の重荷はあくまで重く、それなのに差別している側はほとんどその事から意識が逸(そ)れてしまっている。いや、たぶん意識を逸らしてしまっている。見て見ぬふりという一等苛酷な優越の態度がびまんしてしまっている。故意に意地悪はしていない、しなかった、などという言いわけは、だが、意味がないのだ。
*
記紀万葉からすでに.「貴賎都鄙」に関する表現は出てくる。平安朝の文学についてはいうまでもない。京都の歴史は、秦恒平のいう「差別と逆差別」を内に抱えての歴史であったことを認めざるをえないのである。
秦のいわゆる辛口京都論は、ほめられることに慣れてしまっている京都人にとっては、すんなりとは受け入れがたい。わたしの知人にも彼を誤解している人がいる。水上勉に対してもそうである。
改めていうのも気がひけるが、秦にとって京都は、好きも嫌いもない、生まれ育ったふるさとなのだ。人が京都をけなしたら、おそらくむきになって京都を擁護するだろう。彼の京都論は、彼の自画像にひとしい。京都は彼の内にあるのであって、旅行者や観光客にとってのような外の世界ではないのである。東京へ行って会社づとめをしながら小説家になった彼は、東京という生活環境に身を置くことによって、京都人以外のなにものでもありえない彼自身を見出さねばならなかったのだ。その過程をへて小説家になったといってもよいだろうし、小説家になって内なる京都がいっそう明確になったともいえるだろう。
少なくともいままでのところ、京都を抜きにして秦の文学はありえなかったし、その京都は、京都育ちでなかったらおそらく見えてこない京都であった。その一例が以下に紹介する短編『初恋』である。
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『初恋』(昭和五十三年十月)の原題は『雲居寺跡(うんごじあと)』であった。この原題から察せられるように、『初恋』
の重要な舞台は雲居寺跡である。
といっても、わたしはそんな寺がかつて京都にあったことさえ知らず、あるいは架空の寺の名前ではないかと思った。しかし、読んでいくうちに、どうやら実在した寺らしいと思いを改めざるをえなかった。秦の小説は現実と幻想を重層化させながら展開するという複雑な構造をもつものが多く、この『初恋』もそうなのだが、その幻想はわたしが読んだかぎりでは、なんらかの歴史的事実にもとづく世界であって、全くの幻想でも架空の世界でもないのである。現実と幻想の重層化は時間的遠近の重層化だといっておそらく誤りない。相互にからみ合い浸透し合うといいかえてもよいだろう。時間のパースペクティヴの最も近景に位置するのは作者のいまの私生活なのだ。
雲居寺は架空の寺ではなさそうだと思うようになって少し調べてみると、たしかにかつて存在した寺であった。それは、いまは一般に八坂の塔といわれる五重塔しか残っていない法観寺の東北に境を接する寺であった。創建は弘仁年間(八一○-二四年)で、白鳳時代に建立されたと伝えられる法観寺より百五十年ほど新しいが、それでも平安時代初期のもので、当初は八坂東院と呼ばれていた。それがいつのころからか「雲居寺(うんごじ)」「雲古寺」「雲孤寺」「くも
いでら」などともいわれるに至ったという(竹村俊則著『昭和京都名所図会-洛東・上)。
永享八年(一四三六)に寺は戦火によって焼失したのだったが、足利第六代将軍義教(一四二九-一四四一年)の肝煎りによって再建されたものの、応仁の乱で再び焼け、以後再興されることはなかった。その後、慶長十一年(一六〇六)に高台寺が建立されたことにより、雲居寺跡は高台寺の境内の一部にとりこまれ、その跡も確定しがたくなった。
西山克が雲居寺について書いた「参詣曼茶羅を読む・21」(『京都新聞』一九九四年十一月一日)によると、「瞻西(せんせい)上人が天治元年(一一二四)に安置した阿弥陀大仏を本尊とするこの寺は、半僧半俗の勧進聖たちのセンターとして、エネルギッシュな大道芸的雰囲気に満ちていた」というのである。謡曲「自然居士」にそのことは明らかだと、西山はつけ加えている。
瞻 (正しくは月ヘン。コード漢字が無い。) 西上人は叡山の僧で、雲居寺を天下に知らしめた人であり、彼が安置した丈六の阿弥陀坐像は、雲居寺が高台寺建立の際に合併した上京寺町頭の十念寺に、いま安置されている阿弥陀坐像だと伝えられている。
雲居寺に多少こだわったのは、秦恒平は明らかに、以上のようなことを熟知していて『初恋』の舞台に使っているからである。
小説のヒロイン木地雪子は、愛八という芸人の娘でる。愛八は新京極の寄席の幕間や、地蔵盆の余興に呼ばれたりして、決してうまいとはいえない浪花節を語ったり、パントマイムを演じたり、鳥や動物の真似をしたり、客の野次と当意即妙に掛け合って客を笑わせるといった芸をみせて、子供たちには結構人気があった。
雪子が中学三年生のとき同じクラスになった「私」は、彼女が愛八の娘あることを知らなかったが、いわば存在感の稀薄な彼女に、なぜか惹かれるものをおぼえていた。
どういうわけか雪子は高校へ進学しなかった。多くのクラスメートと同様、公立高校に進学した「私」は、その年の夏、偶然、地蔵盆で浪花節を語っている愛八の曲師をつとめている雪子をみかけた。愛八にいわれるまま舞台に上って即席の芸も見せた。面白くもおかしくもない芸であった。その後、彼女は新京極の寄席にも「愛丸」の芸名で出るようになり、「私」は授業をさぼって彼女が出る寄席をみてまわった。
ただ、芸人としての雪子をみたのは、その年だけだった。一年足らずで芸をやめた彼女は、勤めに出たり、洋裁を習ったり、普通一般の娘たちとかわりない生き方をするようになっていた。それが雪子の意志によることかどうか「私」には知るべくもないことであった。「私」は彼女に会いたい一心から、その姿を躍起になって追いもとめた。
『初恋』のストーリーがもつれはじめるのはこの前後からである。古代末期の『梁塵秘抄』の世界へ秦は読者をいざなうのである。
秦は昭和五十二年十二月二日からNHKラジオの文化シリーズ「中世の歌謡」のなかで、「梁塵秘抄」と題して毎週日曜日に六回にわたって放送した(その内容に加筆した『梁塵秘抄-信仰と愛欲の歌謡』が翌五十三年に「NHKブックス」の一冊として出版されている)。その放送にまつわることなどから『初恋』では『梁塵秘抄』の世界へ分け入ることになるのだが、伏線はあった。高校一年生になった「私」が、いくつかの科目のうち特に「日本の古典」が刺激的だったとして、『梁塵秘抄』の「仏は常に在(いま)せども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ」とか「舞へ舞へかたつぶり 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に
蹴(くゑ)させてん」など著名な作品を「へえ」と思って読んだとしてあげているのである。
『梁塵秘抄』を編纂しただけでなく、丹念な「口伝」をそれに添えるほど傾倒なみなみでなかった後白河院について、『初恋』では次のように書かれている。
*
ところが梁塵秘抄の御口伝を読みますと四宮(しのみや)の雅仁親王、のち後白河天皇、は「十余歳」の若い頃から夢中でそれも御所の中で、今様(いまよう)、つまり流行の歌謡を好んで練習に励んだ。「好んで怠る事なし」。そのためには遊女、くぐつ、白拍子を問わず呼び寄せて習ったと、はっきり書いてある。
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その「今様」が『梁塵秘抄』に収められている歌謡である。後白河院が歌謡の師匠として迎え、御所の近くに家を与えて手厚く遇したのが、「五条の尼とも呼ばれる乙前(おとまえ)」であった。後白河院が出会ったときには、彼女はすでに七十歳を超えていたが、「名人中の名人、本物の正しき名人」認められたのである。乙前はおそらく「流れの遊女(あそび)」だったろうと、秦はつけ加えている。そういう老女を師匠の座に据えて、「一天万乗の君主」である後白河院は歌謡の練習に励んだ。
乙前が八十四歳で世を去るとき、見舞いに駆けつけた後白河院は今様を唱って慰め、彼女の死後一年間、千部の経を読みとおしただけでなく、一周忌には「あれは今様をこそ尊いお経以上に欣こんで聴いてくれたぞと思い出して、習った今様の、主なものを暁方までかけて悉く唱いとおし、心から後世安楽を祈ってやった」。その後も命日ごとにそうしてとぶらった、と秦は書いている。「梁塵秘抄の全巻が、さながら河原住みの遊女乙前への供養かとさえ取れる──」とつけ加えてもいる。
ここまで読み進めば、『初恋』の展開の過程に『梁塵秘抄』を大きく据えた意図は明らかである。雪子の父愛八は、後白河院のような今様を熱愛する主上と出会うことがなければ、「河原住みの遊女」として生涯を終えたであろう乙前と同様、能や歌舞伎などのような「筋目立った芸能人」には比すべくもない卑しい芸人だった、そのアナロジーなのである。
雪子に惹かれ、執拗に会うチャンスをもとめる「私」に対して、周囲の大人たちは、露骨に愛八を軽蔑して「私」に雪子を諦めさせようとする。最初のうちは「職業に貴賎があるか」ていどの反抗しかできなかった「私」は、だんだん愛八の藝は歴史的にみれば、決して差別を受け、軽んじられるようなものではなかったことを理解するようになる。「身動きとれぬ絶対世襲の身分」として伝わってこなかっただけなのだ。「古代の今様も、中世の猿楽能や狂言や近世の歌舞伎も、その真相と一体に鴨の河原を母胎にしていた」のだ。
楽譜のない時代の方便として、後白河院はこれぞと思う二人の弟子を選んで今様の唄を伝える。選ばれたのは藤原師長と源資時であった。師長は左大臣藤原頼長の子で太政大臣だったが、資時は「せいぜい従下の四位程度で官途を見限った人」(『梁塵秘抄─信仰と愛欲の歌謡』)であった。木曽義仲が都へ迫ったとき、後白河院はひそかに御所を出て鞍馬山へ逃れ、さらに比叡山東塔の南谷円融房へ移って身を隠す。このときただ一人お供をしたのが資時で、秦は、資時を乙前の孫ではないかと推測する。それほど後白河院とは深い関係にあった。
秦の推測はさらに、この逃避行中に資時は後白河院のすすめで出家の肚を決め、出家後、先にふれた雲居寺跡に住んだ、というふうに発展する。「高台寺境内の山なかに、雲居庵というもう崩れかけた古い建物」があり、そのかたわらに資時の墓とみられるものがあるというのだ。
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萩が佳く、今は境内を分けて霊山(りょうぜん)観音いうコンクリ、トの大仏が人を集めているが、あの一帯がもと雲居寺の旧地で、奈良大仏にならぶ京の大仏が坐(おわ)したとも、お能の、自然居士(じねんこじ)の舞台とも知らなかった。ささらを摺り鞨鼓(かっこ)を打ち身を以て謡い舞う「自然居士」や「放下僧(ほうかぞう)」の姿を能舞台で観たのは、東京へ出てきてからだ。あのような鎌倉室町時代の瓢げた大道藝を知り、幸若、説経、浄瑠璃の歴史を知り、それも愛八や雪子の物真似の先蹤(せんしょう)と思い当るとそれにひかれて、遊部の裔とは知らず、また唱導の世界に聞こえた安居院(あぐい)の澄憲の異母兄弟とも知らずに資時入道の終(つい)の栖(すみか)を、小説世界のなかで雲居寺畔に定めようとしたのも、根本に雪子との出逢いを私が培っていた証拠かしれなかった。
*
『初恋』はこのように作者が直接顔を覗かせなどしながらクライマックスへと進展する。
養父はじめまわりの大人たちの忠告にもかかわらず、しつこく雪子の姿を追っていた「私」は、ついに建仁寺ちかくの路地の奥に、彼女の家をつきとめる。「も、来んといて、ナ」といい、また、「しまいに、あんたが困るのえ」と、彼女はたしなめるようにいった。しかし、とにかく足掛け三年目にしてようやく、普通にものをいってくれるようになったのである。
そんな彼女を初めて美術館に誘った「私」は、知恩院下の自分の家に近い粟田坂の下までもどって、うどん屋へ入った。なけなしの小遣いをはたいて玉子丼をとり、雪子には親子丼をおごった。「私」はぺろりと空にしたが、彼女は半分ほど食べて「多いという顔」だった。「私」はその丼を奪いとって残りをさらえてしまった。あきれたように眺めている雪子に「ごっ馳走(つお)はん」というと、「ありがとう」とちいさく頭をさげた。
二人はそれから粟田山へ登って、静かに冬日を浴びている尊勝院の縁側に並んで座って、初めて抱き合ってキスをした。将軍塚を通り、あてずっぽうに渓を下った。「一味(一字に、傍点)同心(一字に、傍点)ていうやろ」と、雪子は快活で、身のこなしが軽かった。下りたところが高台寺の奥の雲居寺跡だった。
墓と思って見ればそう見える一基の墓碑が立っており、すぐ近くに堅く戸を閉ざした寂びれた建物があった。雪子は裏戸を押して真っ暗な屋内へ入り、「私」もあとにつづいた。「私」はそこに愛八らが車座になって謡をうたっている幻覚に襲われる。「無垢の衣(きぬ)に緋の袴」姿の雪子は、「とね」という女の謡にあわせ、小笹を採って少年のように舞った。雪子と「私」は愛八から祝福を受けた。『梁塵秘抄』の「愛欲」の世界に入りこんでいたのである。
幻覚から覚めたとき、二人は露出した根太板の上で、顔をさぐりあいながら抱擁し合っていた。寺の若い僧に発見されたのは、夢から覚めかけたときであった。二人は松原警察署へ突き出されたのだったが、行きずりに出会ってわたしが誘った人だと、雪子は必死に「私」をかばってくれた。だが、ことは穏便には済ましてもらえず、「私」は担任教師あずかりになっていた卒業証書を養母と一緒にもらいに行かねばならないことになったし、当然ながら家では大騒動だった。
*
雪子のことは、親類の大人も乗り出し、残りなく押し潰しにかかった。「高校生の分際で」をとび越えて、ことは迂遠に
「太閤さん」の検地や刀狩から大袈裟にはじまり、それを言うならいよいよ秀吉がただ無法に決めつけた差別を、三百年か四百年かけて徳川や大名が、いや「僕ら」百姓町人もこぞってもっと非道に、もっといわれなく手前味噌に煮つめてしまったという話に「尽きるやないか」と私は抗弁した。大人は、だが「それが政治いうモンやないか」と、もっともらしいが曖昧な、それで話がぐずついてくると要は愛八らが筋目立った藝能人でないというだけの、手前勝手に酷薄な言い草を、幾通りにも繰り返した。
*
「私」には理論的に大人を納得させる力はまだなくて、一方的に父に押しまくられ、何度か顔を張られもした。だが、雪子を諦めるとはいわなかった。
雪子に詫びをいうため、「私」は何度も訪ねたが戸を開けてもらえず、四度目にやっと入れてもらえたが、雪子も愛八もいなかった。雪子はひと晩泣き明かした、しかし悦んでもいたと、寝ていた老婆がいった。雪子の「おば」だという人が、二度と木地の家を探したりしてくれるなと、脅かすようにそばからいった。これ以上つけまわして、雪子に可哀相な思いをさせてやらないでくれ、というのである。
母に付き添われて担任教師の家へ卒業証書をもらいに行った翌日、珍しく中学時代の国語の教師に呼ばれた。「私」に目をかけてくれていた話のわかる教師で、新京極の裏寺町の寺の住職だった。行ってみると意外にも雪子が来ていて、寺の住人のように寛いでいた。この子の親父とは親しいのだと、教師は「雪子をまるい顎でさし」てから、かしこまっている二人に、「どや、えやろが、もう。先々ちゅうこともある、わるいことは言わん。この辺が、汐時やて。二人ともここでやめとけ」といった。「私」は市内の私立大学への推薦入学が決まっていて、今度の事件でもそれは取り消されずに済んでいた。
辞去しようとして「私」が立つと、雪子も立った。教師は止めなかったが「私」を呼びとめて、「思う所はお前にかて有るはずや。が、それはもっともっとしてから、文章に書きなさい。それもお前の、道、ちゅうもんやないのか──」と、諭すようにいった。この辺りはどうも、秦自身の体験に即して書かれているような気配である。
教師宅からの帰り、「私」は雪子と初めて四条の喫茶店へ入った。そこを出ると雪子は、「眼ェつむって、ついて来よしや」と先に立った。「私」はそのあとに従った。ものはいわなかった。市電に乗った、郊外電車にも乗った。狭い路地も歩いた、武家屋敷のような家々が棟を並べた通りも歩いた。廓の中も、商店街も歩いた。とにかく、どこをどう歩いたやら「私」には見当がつかなかったが、雪子について我武者羅に歩いた。一軒だけ、天井の低い、土間の土まで真っ黒な家へ入った。造りは堅固だった。雪子は上がり框に「私」を待たせて奥へ入り、「雪子をすこし華奢したような」少女が、香ばしい茶を淹れてきた。雪子は服を着替えて出てきた。
彼女は心ゆくまでデートをしたがったのだ。「私」には察しがついていた、「雪子の殆ど我武者羅な歩きっぷりは、それがもはや力ずくの別れの儀式──」だと。くたくたになりながら、「私」は黙々と雪子に従った。「京都という名の土という土を踏み抜きたい気だった」。
夕闇が迫るころ、二人は鴨川の河川敷へ下りた。激しい雨になっていた。
鴨川に対して秦恒平は特別な認識をもっている。それは洛中と洛外の境界であり、鴨川の東は「京の『かたゐ』の洛外」であった。「歴史的に鴨川は怨みと血で穢れた川だった。だから祭の川、清めの川でもあった。そういう川を抱きこんだところに、平安(二字に、傍点)京がその実は不安(二字に、傍点)京として出発した真相も透けて見えた」、と『初恋』にも書いている。古代の今様も、中世の猿楽能や狂言や近世の歌舞伎も、「その真相と一体に鴨の河原を母胎にしていた」と書いていることは先にみた。
『初恋』の最後の舞台を、その河川敷にしたのは、秦のそういう認識と無関係ではないかもしれない。雪子は雨に打たれながら、どっと水際に座りこんだ。
*
腕一本で雪子の背をわずかなりと庇う庇う隣りに蹲踞(かが)んだ。雨はセルロイドのカラーを伝って背筋を濡らす。丸太町の、あの橋の下までもどろうと言いかけて、やめた。雪子が決めることだった。と、雪子は立った、かと見ると、そのまま、くるくるっと二度、眼の前で一世一代のトンボを切った。ついとしゃがんで、のみを拾う猿の真似をした。巧かった。きわどくこの期(ご)に愛丸が物狂うて見せた遊んで見せたと思った。が、雪子はそのまま影法師になってうずくまると、足もとの小石を力まかせに川面へなげた。がっくり顔を垂れて影法師はもう起たなかった。
気違いじみた若いアベックに声をかける者はない。
霧を巻いて河原は刻々闇に冷え、いくらもいた小鳥の影もなかった。心(しん)の髄まで強まる雨に打たれ打たれ、やがて雪子は全身で雨粒をはじき返すように、髪を揺り身を揺って泣きだした。顔を空にそむけて泣きつづけた。向う岸に大学病院の窓の灯がにじみ、鴨の川面は真昏(まっくら)だった。
いやな街だ。
ずぶ濡れの雪子を力かぎり抱きながら、つくづく、そう思った──。
*
衝撃的な別れのシーンである。大道藝人の娘として卑しめられてきた雪子の切なさが、なんとも複雑な思いを伴って胸を打つ。若い男女の愛をこのようにえがいた作品を、わたしはほかに知らない。
「私」が雪子に会ったのは、これが最後だった。結婚して上京し、七年たった夏休みに京都へ帰った「私」は、雪子の死を知る。その死は、「私」の大学在学中のことだったのだ。「私」は初めて、「地に顔を擦りつけて雪子に詫びたかった」。愛八にも、曲師のおばさんにも、耳たぶの垂れていたお婆さんにも詫びたかった。
雪子の死を知った「私」は、源資時について書こうと思い立つ。それは、京都の隠された「真相」を剔決することであり、雪子への罪のつぐないにほかならなかったのである。
3
秦恒平がNHKラジオで、『梁塵秘抄』について六回連続放送したのは、昭和五十二年十月から十一月にかけてであり、それに加筆した単行本『梁塵秘抄─信仰と愛欲の歌謡』が出版されたのは、翌五十三都市三月であった。この年の十月に『初恋』は発表されている。刊行や発表の年月だけでなく、その内容からみても、両者は姉妹編だといってよいだろう。「京都は日本中で一等差別のきつい街だと私は断言する」と書いた「きのう・京・あした」(原題「東と西」)を発表したのも五十三年である(『京
あす あさって』に収録)。
秦恒平は十余年まえから、シリーズ『湖の本』を私費で刊行して自作の翻刻をつづけている。小説・評論その他、ジャンルを問わず翻刻されているので、わたしのよう秦文学に関心をもっている者にとってはまことに有り難い。
このシリーズの第十一巻(一九八九ー平成元年二月)に、初期の小説『畜生塚』と『初恋』が収録されていて、その巻末の「作品の後に」のなかで、秦は『初恋』につい次のように書いている。
*
次の『初恋』は著者が「作家十年」四十二歳の作品であり、はっきり意識し意図して作品世界に強い曲り角を探りあてた仕事ある。忘れもしない宮川寅雄先生がいち早く「あれは有難かった」という言い方で評価して下さった。が、その実は苦しい経緯があり、作の運びも入り組んでいて、どの文藝誌に発表することも結局出来なかった。差別の禁忌に触れ公表を回避したいという理由などがついた。
*
『初恋』は主題、題材、技法ともに、秦が「作家十年」にして文学的転換を意図的に遂げようとした作品であったことがうかがえるのである。この時期の『梁塵秘抄ー信仰と愛欲の歌謡』といい『京
あす あさって』といい、おそらく『初恋』の意図と密接な関係をもっている。彼はまた、「作品『初恋』には、題材的にも、私の、『文学』『創作』への初恋(二字に、傍点)を遂げたような意味が籠められている。が、それは作品から読者には察していただけるだろうと思う」とも書いている。秦はこの作品によって、独自の世界を確実に探り当てたのである。京都出身者としての独自の世界、とはっきりいってしまってよいだろう。
ただ、残念ながらわたしは、うかうかと過ごしてきたからでもあるが、京都における差別の実態が、秦がえがいているような領域にまで、及んでいるものかどうかを知らない。作品にえがかれた時代と現在では、おそらく大きく変わってきているのも事実である。
改めて断るまでもないことだが、小説は事実の報告ではない。本質的には作り物であり虚構である。虚構を構えて作者は、事実とは異次元の文学的真実をえがこうとする。文学の真の価値はそこにある。
『初恋』でえがかれた物語が事実に即しているか否かは無関心でいられる問題ではない。が、これが文学作品である限り、秦が表現しようとした真実が、わたしに確かに伝わってくるか否かが、まず問われねばなるまい。そのリアリティーと強烈なインパクトは、真実ならではのものだと、わたしは躊躇なく答えたい。 ─了─
─『京おんなの肖像』京都新聞社刊 1997年10月 より─
(筆者は、京都在住の著名な評論家・詩人。日本ペンクラブ会員。「京都」にかかわる文学・文藝の面からの精緻な論策は質量ともに卓越していて、谷崎や川端の京都での足跡もよく追求実証されていて有り難い。また近代京都の成り立ちをめぐって思想的・社会的・政治的な基盤にも触れてゆく視野は確かなものである。この『初恋』鑑賞は河野氏の力を入れて繰り返し書かれてきたもので、作者としてひとしお嬉しく有り難い。 1.7.11
掲載)
至宝『阿蜜哩多軍荼利法』の行方
森 秀樹
当初の目論見といささか異なるが、本論は紙幅に限りもあり、原資料の活字化を第一義とする。まず、小論を書くきっかけとなった、大正五年六月十一日(日)「萬朝報」の記事を全文紹介する(当用漢字、新かなに改め、適宜読みを括弧でくくった)。
三絶の至宝 軍荼利経の価値
文学博士森鴎外氏が先月中母堂峰子刀自七七日法要の記念に阿蜜哩多軍荼利経(あみつりたぐんだりきょう)という稀世の経文を印刷して知己の人々に配本した事は当時の本紙夕刊に報じた通りで、此の写経は千余年間其の存在が世間から知られずにいたのを、古写経好きの田中光顕伯が五年前江州(ごうしゅう)石山寺から買い取った書類の中にあって、其を大村西崖(おおむらせいがい)(注1)氏が発見し、大村氏が森博士の相談を受けて印刷させるようになったのだという事を当時記載した、其の記事に対して石山寺現住三室戸(みむろど)光遍師は、六年前就職した人であるから、自分の責任上重大な問題(5字に、傍線)として六大新報(ろくだいしんぼう)(六月二十五日)に寄書して該(がい)写経は石山寺から売ったものでないと自己の潔白を示そうと努めている、元来此の写経は支那青龍寺の寺僧義操(ぎそう)が梵語の原本から口述翻訳したのを、同じ青龍手の僧海雲(かいうん)が筆記したもので、天下に唯だ一部ほかない貴重な経典である、それを当侍入唐(にっとう)して海雲及び義真(義操の高弟)両人に師事していた慈覚大師(注2)が譲り受けて日本に持ち帰り、初め叡山に在ったのが後に石山寺へ移ったものである、之に就き発見者なる青崖師は次の如く語った、「五年前と云ったのは自分が田中家で此の古写経を発見した時で田中伯が京都の故西村兼文(にしむらかねふみ)(4字に、傍線)氏から唯(ただ)古写経として他の二三巻と共に買い受けたのは明治二十年頃の事である、多分西村氏が石山寺から廿(うま)く引出して来たものと思われる。此の写経は可なりの長文であるが薄手の白麻紙に書かれ赤漆の軸がついて居り、外見はすこぶる粗末なものであった、一寸(ちょっと)点画(てんかく)を見ても明らかに唐代のものであることが分る、又海雲の手記なることも明らかで、百数十個所の剥脱があり、品段(ぼんだん)の整って居らぬ点から云っても、稿本であったことが確かである、今日では梵経にも漢訳経典中にも此れが無く、実に世界に唯だ一つしかない写経として自分は之れを海雲師の自筆当時の原本義操口述の抜粋(5字に、傍線)として三絶の至宝と称している、此の経文は軍荼利夜叉明王(ぐんだりやしゃみょうおう)(注4)を如何に礼拝祈祷して結縁(けちえん)すべきかを教えたもので、中に梵語の引用用頗(すこぶ)る多く、梵文学研究者にとりて、頗る価値のあるもので、誠に希代の珍書である、慈覚大師が唐から帰朝した時法全(はっせん)から『別尊儀軌』(べつそんぎき)二巻の原本を承相したと伝えられているが、思うに此の写経は其の中の二巻であったに相違ない、当時慈覚大師が朝廷へ差出した『入唐新求聖経目録』(にっとうしんぐうしょうぎょうもくろく)(注5)の中には確かに『阿蜜哩多軍荼利法』一巻の記入があった、然るに其後千数百年間此の経典の所在を失していた、之は恐らく石山寺の名僧淳祐内供(じゅんゆうないく)(注6)が叡山から借り出して来て其儘(そのまま)に石山寺に保存されてあったものだろう、所が石山寺では此の至宝なる写経の由来(5字に、傍線)を知らず、粗末に之を扱っていたものであろう、石山寺には目下萩野文学博士に嘱して目録作成中であるが今も尚珍品少なからずとの事であるが、今までには其他にも随分良いものを失った事だろうと思われる」云々、此の談話に依ると石山寺から西村氏が買いとって田中伯の手に其が移ったのは今から三十年前の事だから此の写経の紛失は現住職の責任ではないことは勿論である、併し当時西村氏が如何なる方法で買取ったかは氏の没後なるを以て明確にする事が出来ぬ。(注…文中の傍線は記事中で小見出し)
注
(1)大村西崖(一八六八 一九二七)は、明治大正時代の東洋美術史家。著述も多いが、大正七年(一九一八)刊の『密教発達史』五巻で帝国学士院賞を受けている。
(2)慈覚大師(七九四 八六四)は、円仁(えんにん)の没後の称号。第三世天台座主。八三八(承和五)に入唐し、在唐十年に及んだ。
(3)西村兼文は、田中光顕の周辺にあって古書、古写経などの蒐集を行った数奇者の一人。西本願寺の寺侍で、古文物についての記述も多い。朋治二十三年没直前『壬生浪士始末記』を著作。偽妄なども行った。(『かがみ』三〇号を参照)
(4)軍荼利明王。梵語 Kundali。軍荼は音写で訳して水瓶のこと、利は所有をあらわす語の音写である。水瓶から連想できる甘露水を合わせて甘露軍荼利を漢梵合成の名称となっているともいう。
(5)入唐新求聖経目録。円仁が在唐十年の成果として、帰国の年、八四七(承和一四)にただちに表進した唐から命がけで持ちかえった文書目録。本目録中最も多いのは密教経典、儀軌の類で、その数は空海の請来した典籍数を凌駕する。
(6)淳祐(八九〇 九五三)は、平安中期の真言宗の僧。菅原道真の孫。石山寺普厳院に隠れて著作に従事した。
まさに至宝とも言うべきこの『阿蜜哩多軍荼利法』の移動なり行方を推理するにあたって、記事にそって試論を展開してみよう。
まず、鴎外が『阿蜜哩多軍荼利法』を印刷、記念配本したという、母堂峰子刀自七七日法要の日を特定してみたい。峰子が没したのは、大正五年三月二十八日で、『萬朝報』の七七日法要つまり四十九日とすると五月二十日になるが、この前後の同紙夕刊の記事では見当らなかった。また、鴎外が配本した『阿蜜哩多軍荼利法』の巻頭に西崖の序があり、「鴎外の母堂七日忌の記念出版」とあるが、七日忌(なぬかき)が七七日法要を指すのか不明である。
『阿蜜哩多軍荼利法』は円仁の大旅行記『入唐求法巡礼行記』(深谷憲一訳、中公文庫)の付録にある、「入唐新求聖経目録」に三〇五「阿密哩多軍荼利法」とある。この典拠については、深谷憲一先生より詳しくご教示をたまわったので引かせていただく。〈故・龍谷大学の小野勝年先生が、高山寺所蔵本と青蓮院所蔵本の「八家各請来録」を厳密に比較対照、校勘を行ったものである。この両所蔵本はいずれも粘葉本(でっちょうぼん)で、高山寺本は筆跡から平安末期から鎌倉町代の写本と推定され「大正蔵経」目録部の底本となった由。青蓮院所蔵本はその奥書で寛治五年(一〇九一)、円融蔵本によって勝豪が校勘し、さらに雙厳蔵の「聖教目録」と「在唐送進録」によって異同を正したといわれる。ただしいずれも目録だけのこと。〉また、宮井義雄先生よりご教示いただいた「平安遺文」(八巻)にも、典拠不明で高山寺本とは異同があるが、「阿密哩多軍荼利法」一巻とある。その他、この『阿蜜(密)哩多軍荼利法』について、『日本仏教典籍大事典』、『国書総目録』、『国訳一切経』には同名の経典はなかった。
さて、新聞記事にひとまず信憑性をおくとして、筆者が調べた限りでは鴎外関係の逸話として、この『阿蜜哩多軍荼利法』についての論文、または解説が見当たらなかった(大正、昭和初期のものも含めて、「鴎外紀念本郷図書館」所蔵の書冊を調べたにとどまった)。ここで、大きな疑問がわきだした。いかに私家版にしろ、これだけの価値ある経典の出版化(活字化)を鴎外がなした(発行者は大村西崖)にもかかわらず、その後、声が聞かれないのは何故であろうか。
円仁の『入唐求法巡礼行記』は、明治十六年(一八八三)に東寺観智院で写本が発見されるまでは、室町以後長く世に忘れられていた存在であった。写本発見後、明治四十年に円仁の記録は「続々群書類従」に収められたが、実際は、昭和三十八年に故ライシャワー博士が翻訳解説した名著『世界史上の円仁』が発表されるまでは、ほとんど知られることはなかった。つまり、マルコポーロの「東方見聞録」よりさかのぼること四百年以前の、はるかに記録としては信頼度の高いこの円仁の大旅行記を研究するには、あまりの難業で手がつけられなかったのが事実であった。だから、大正五年の当時に、円仁の事蹟および中国から宝物のように持ち帰った経典のことを知悉していた人がいたとしたら、該博な知識といわねぱならぬ。むろん鴎外もその一人と想定できるのだが ?
ただ、これほど大切な経典の出版が、その後資料としても評価を受けず、また、鴎外の事蹟としても埋没したのは腑におちない。それと、国宝級の孤本『阿蜜哩多軍荼利法』の原本(巻子本)が実在しているのなら、その後の消息を心配せずにはいられないのである。
ここで推論をすすめてみる。明治初年の廃仏穀釈の時代と明治前半もかなりの混乱期で、大小各寺の寺宝はむやみに収奪されていった、また、差し出した財宝帳などの文書類もほとんど現存していないのが実情である。だから、新聞にあるとおり、明治二十年頃、西村兼文があまり価値を知らなかった石山寺から、持ち出したことは容易に想像できる。それと<薄手の白麻紙に書かれた赤漆の軸がついており…>云々も現存する関連経典からいうと、あるていど信頼はおける。ただ、西村兼文はとかく偽妄のあった人物<にせものをつかませる>ときくと、話が複雑になってくるのである。
石山寺は戦後もだいぶ寺宝を売却した経緯がある。大正当時の住持の三室戸師は、柳原からでた公家の一族で、元子爵家の三室戸氏の分家筋を知っているので、聞いてみたが詳しくはわからなかった。田中光顕の所蔵品は、関東大震災にも罹災せず、戦後もだいぶ売却されていったが、この『阿蜜哩多軍荼利法』については移動の記録は一切ない。現時点では原本はまったく不明である。原本をみたうえではないと、その真偽についても不明であろう。ただし、原本の行方がわからないいま、鴎外が出版し、残存僅少なるこの『阿蜜哩多軍荼利法』の価値は当然想像できるもので、研究が待たれる。この一二八頁の小冊子の解読はなかなか手ごわい。ぜひ、鴎外の専門家の手により解読をすすめ、鴎外の出版の謎と意義を探ってほしいものである。本論を書くにあたって、深谷憲一、宮井義雄両先生から貴重なご高見をたまわったこと、長谷川泉先生、鴎外記念本郷図書館の山崎穆氏にもご腐心いただいたことを感謝申し上げる。
─「鴎外」第五十六号(平成七年一月)─
(筆者は、作家で、日本ペンクラブ会員。この当時、日本翻訳家協会理事・日本古文書学会会員。一読以来心を惹かれた言及で、興味深く拝見した。仏教史からも森鴎外研究という側面からも、有効なフォローのぜひ欲しい貴重な提言である。なお「鴎外」という表記を此処であえてしているのは、文字の化けるおそれがまだ払拭されていないからで、ご容赦願う。 1.6.27掲載)
浦島伝説略史
林 晃平
世に五大昔話という言い方がある。桃太郎 ・ 花咲爺 ・ 舌切雀 ・ かちかち山 ・ 猿蟹合戦がそれである。明治初期にはこれにぶんぶく茶釜 ・ 金太郎を加えた七つが、子ども向けの絵本の.圧倒的な素材であった。浦島太郎の話はそれには含まれていない。しかし、浦島の話がその時にまだ生まれていなかったわけではない。浦島の話は、古くは現存最古の歴史文学書である『日本書紀』や『風土記』に既に見られ、途切れることなく連綿と現在まで続いているのである。ゆえにこれを文学のモチーフのひとつと考える時、浦島の話は日本の文学の中で古代から現在までを見通すことのできる唯一のモチーフであり素材ということができる。先に触れた昔話の中にも、地域との関わりの深いものはあるが、特に桃太郎などは浦島伝説と同様に伝承の地を各地に持っている。しかし、桃太郎が文献で遡れるのは江戸時代までであること(注一1)から、その性格も大きく異なってくる。
浦島伝説という呼称
ところで、この一千数百年の間ずっと日本において伝わって来たこの浦島の話を何と呼べばよいか。浦島伝承、浦島説話、その名称には、いろいろな観点からいろいろな呼称が考えられるだろう。本書ではその扱う対象を一括して「浦島伝説」と呼ぶことにする。それは、この浦島伝説では、当初から一貫して「浦島」という呼称が用いられており、玉くしげ
・ 玉手箱という物にまつわって説かれ、また日本各地で、そこに存在する事物とも深く関わって説かれてきているからである。また、対象を単に一般に知られた文学作品や文献に限らず、各地に存在する事物(美術・建築・彫刻・遺物など)や芸能・伝承、その他周辺の事柄をも含めて考えていきたいからである。ゆえに浦島にまつわる古今東西の事物伝承のすべてを研究の対象としている。本書で扱われたのは文献を中心としたその一部に過ぎないが、まだまだ扱うべき、研究すべき資料は多く残されているのである。
伝説とは、常に語られ受け継がれていくから伝説と呼ばれるのであろう。しかし、伝説が常に語られ受け継がれていくのはなぜであろうか。他の伝承や説話とはどこが異なるのであろう。結果から考えるならば、語り継がれる伝説とは、人々がその伝説にあるべき価値を見出して、それを支持しているからではないか。ゆえに語られなくなった伝説があるとすれば、それはその存在する価値が認められなくなったために、人が語ることをしなくなったのではないのか。それが常に一定の価値観を持っているかは別として、語るべき有用性こそが伝説の存在の根源のひとつであろう。
文学史としての浦島伝説
浦島伝説を通して文学史の再構築ができないか、という思いをここ十数年持している。これを、なぜ浦島伝説を研究
するのかという問いへの答えに用いている。三浦佑之氏の『浦島太郎の文学史』(平1-11)が刊行される以前からの思いであり、その考えは、氏の著に対する書評(伝承文学研究・第39号、平3・5)の中でも触れている。古代から現代まで一貫して見通すことのできる浦島伝説は、文学史の指標の役割を果たすことが可能だろう、と思われる。いや、浦島伝説こそが、唯一日本文学史を測るものさしとなることができるのだとすら思う。しかし、それとともに、果たしてそれを文学という枠の中だけでとらえるのがよいかどうかの危倶も起きてきた。
文学史以前に、そもそも文学とは何かという問いかけがなされなければならない。それは、学生の頃からの課題の一つであった。そして、その解答としてある程度の自分なりのものを得て.いる。文学とは固定した文学作品(テキスト)のことではない。文学とは、テキストを読者が読むという行為を通して享受する時に、読者の側に発生する現象(イメージ)なのである。だから、文学の発生とは、作品の誕生を指すわけではない。
文学には最低二つの発生がある。一つは、表現者がテキストを作成するまでの行為において発生する。もう一つは、享受者がテキストと向き合う時にである。ゆえに享受者にとって文学とは「表現者が提供したテキストを通して享受者が獲得する現象=イメージ」であり、それは、常に一回性のものである。もちろんこれは、享受者を中心とした文学のとらえ方であり、表現者の側から考えることも必要であろう。しかし、表現者の側にしても、文学を作品として固定する行為は、推敲を経る過程においては、享受者の文学行為と何ら変わらないものとなるであろう。文学はテキストと向き合うことにおいてのみ発生するのである。
しかし、考えを進めていくうちに、文学とは文字表現のみだろうか、と考えるようになってきた。文字とは、ことばの記録手段に過ぎない。それならば、ことばの伝達には、口頭の伝達もある。文字表現記載の文学以外にも、口承の文学を考える必要があるだろう。このあたりまでは、先学も触れていて、私自身も学生の頃に既に考えていたことである。だが、さらに考えていくと、文学表現とはことばだけであろうかと考えるようになった。文学がイメージを構築する現象ならば、そのイメージはことば以外にも表現可能であるからである。また、文学作品も時代と共にジャンルが拡大し、研究の対象とする範囲も増えてきている。能・狂言・所謂幸若の舞・浄瑠璃・歌舞伎などの芸能(こうした振りや楽曲を伴うものに対して、文学研究は文字表現にのみ対象を限定しているという謂いもあろうが、それだけで作品の理解や研究が可能かどうかについては論は侯たない)も、絵巻絵入本の所謂御伽草子も、文学として盛んに研究されるようになっている。今や漫画も学問の対象である。こうした文字やことば以外の表現を含むものを、文学以外として排除してしまうことは正しくないであろう。文学がテキストを通してのイメージの伝達行為であるならば、これらはテキストのメディアの質的な違いに過ぎないのではないかともいえるからである。
文学とメディア
文学の定義は、人によってさまざまあろう。狭義には「文字で記載表現された芸術作品」に限定する者もあろう。しかし、それならば、文字の獲得以前には、文学は存在しえないし、マルチメディアの電子社会において文学は消滅していってしまうであろう。だが、もともと、文学をイメージとそのメディアの表現との関わりでとらえるならば、文字表現は文学表現の一メディアに過ぎなくなり、口承から書承、書承から電子メディアヘの一過渡期の表現となる。文学はそれぞれの時代に即応した表現を選択しているに過ぎないといえよう。
電子メディアは文字を表示しているだけの状態では、一見それまでの紙などの書承の文字メディアと何ら変わりなく見える。しかし、そのデータの可変性を含め、大量のデータが、瞬時に、遠くの場所に転載可能であることなど、その特性を考えると、いうまでもないことだが本質的に全く違うものである。千数百年の間、文字表現を中心としてきた文学にとって、西暦二〇〇〇年前後の現在こそが、その過渡期であることは間違いない。文学は今まさに大きく変わろうとしている。
文学が、常にメディアに即応していこうとすることは次の例からもいえる。たとえば小説で描かれた内容が漫画化されたり映画化されることは多かった。だが、それだけではなく、今日の文学状況においては、漫画のキャラクターがアニメーションとなるだけでなく、逆に実写版のテレビ化や映画化されてドラマとなり、また文字化されて小説となること(注一3)が起きていることからも理解できよう。漫画だけではない。本来個々の性格を持ちえないビデオゲームのキャラクターさえも、アニメとなり実写映画となり、小説化され(注ー4)ていく。こうした文学とメディアの自在性は、文学本来の特性であろう。
しかし、そうした本来異なる絵画・動画・音楽などのメディアが、電子化によって一元化可能となった。マルチメディアと呼ばれるメディアの誕生である。マルチメディア化された現在において、もはやこうした過去のジャンルの垣根を作り、それを問うこと自体には意味は少ないのかもしれない。だが、新しく誕生したマルチメディアは、まだまだ発展途上のメディアで、その表現に即応した文学ソフトを現状では模索中といったところであろう。
こうした文学の電子メディア化を念頭に置くと、浦島伝説もその対象を文学だけに限定できるかどうかの危惧が出てくる。電子メディアとしてマルチ表現される文学とは、見方を変えれば、必然的に文化の総体として現れたマルチメディアの現状でもある。ゆえに、浦島太郎の文学史は、今日から見れば、浦島太郎の文化史でもあり得るのである。
浦島伝説と宗教
改めて浦島伝説を見直せば、時代の進展と文化の発展と共に多くのメディアと表現を選んで来たことがわかる。今日残されている最古の表現は、漢字を使った表記である。しかし、漢文という外来表記法だけでなく『万葉集』の長歌を含め『丹後国風土記』逸文末尾の和歌など万葉仮名というやまとことばの表記も併存している。だが、平安時代までは、和歌の仮名表記をのぞけば『続浦島子伝記』など漢文伝の漢文表記が主流であった。かろうじて歌学書に漢文伝の和文化された表現が仮名書きされているだけである。歌学書は基本的には和歌を読むための知識を提供する書物である。どの歌学書もそこに記された伝説が漢文伝を主体としているということは、『万葉集』以外には京の都の著者たちの手元に和文の浦島を語る資料が存在しなかったためであろう。少なくとも和文の伝説が流布していたとはいいがたい。ただし、漢文伝を和訳したような和文が諸書に見られることから、純粋な漢文伝ではなく、そうした和らげたものが通用していたことも想定できる。
しかし、一方ではまた、仁明天皇の四十の賀に捧げた長歌のように、漢文伝とは異なる浦島伝説もあり、そうした伝説を「古語」と呼んだようだ。興福寺の僧侶たちに限られるのかはわからないが、京とは別の伝承を持った奈良の僧侶たちが存在したようすが窺われるのである。
こうした伝説の状況から、次第に変化が起きてきたことがわかるのが『四十八願釈』第一願に引かれる挿話である。そこに登場する浦島伝説は断片的ながら漢文で記されたものである。そして、名前は「浦島子」という漢文伝の主人公でありながらその漢文伝にはない四方四季の要素を既に持っている。注目されるのは、それが仏教の浄土系という宗教の枠組みの中で説かれていることである。『四十八願釈』の著者とされる聖覚は能説の父澄憲の後を継ぎ安居院に住した。最初比叡山に修行した天台の僧侶であったが、法然房源空の弟子となったという。この伝説はそのまま浄土宗に聖聡の『大経直談要註記』に受け継がれて、所謂御伽草子『為盛発心因縁集』の中にも見られる。また、近い内容のものは西教寺蔵『因縁抄』に見られ、さらに所謂御伽草子「浦島太郎」の中へとつながっていくものとなる。また、文章も次第に和文化していく。
浦島は帰郷後、その長寿から神として祀られて、国司も必ず幣を奉納する神として著名であった。このことは早くには鴨長明の『無名抄』に記され、『後撰集正義』に受け継がれ、中世末の『月庵酔醒記』にも記されている。また、この浦島を祀った神社は能「浦島」にも登場する。勅使が不死の薬を浦島明神から受け取るの.である。こうした神となった浦島への信仰に対して、先の浄土系の伝説は全く別の次元で説かれているものである。既に著名な浦島を介して、己が信仰を.広めようとするのである。言わば宗教の側が浦島伝説を利用しているのである。
浦島伝説が、宗教に利用されることは、先の興福寺の僧侶たちの例もあり、また、この後近世においてもやはり仏教寺院において利用されていく。具体的には浦島寺という寺院の存在がある。著名なのは木曽の寝覚浦島寺と呼ばれ
る臨川寺、そして神奈川の浦島寺と呼ばれる観福寺である。臨川寺は、龍宮から.丹後に帰郷した浦島が、その後木曽
まで来て、寝覚の床で釣りをし、龍宮から持ち帰った弁財天を麦置したという縁起をもつ。神奈川の観福寺では、浦島が丹後に帰郷した時に父母の既に亡くなっていたのを悲しみ、出身地の今の神奈川県の三浦まで帰る途中に背負っていた龍官伝来の観音が重くなって父母の墓を教え、浦島はそこに観音を安置し、堂を建立したという縁起をもつ。因みにこの観福寺には天明期には既に浦島大明神と亀化龍女神の二像も存在していた。これら二寺院がどうして浦島伝説と結びついたのかの詳細は、はっきりとしない。しかし、どちらも浦島伝説を略縁起にして盛んに刊行していたことは認められる。特に観福寺は檀家がなかった。寺の経営は、楽ではなかったであろう。だが、江戸時代の道中記の盛んな刊行は人の旺盛な移動を物語り、道中記には必ず、名所と名物が添えられている。街道沿いにある観福寺は、勢い道中の旅人に頼ることが大きかったと思われる。従って、寺の宣伝も、たとえば文政本略縁起の末尾は「現世には無病息災にして、壽命長久を持(たも)ち、来世には極楽浄土に往生して、安穏微妙の快樂を得んことを、實に、是、観音薩唾の本懐、明神守護の冥慮に應ずるもの歟」と現世利益の強いものとなっている。
こうした伝説の利用について、浦島伝説の側に立って見れば、宗教によって自身の伝説を変容し成長してきたともいえよう。略縁起を例にとれば、臨川寺の略縁起にはほとんど変化はないのに対して、観福寺の略縁起には少なくとも三回の変遷がある。観福寺は時代や社会、寺院のおかれている状況に応じてその都度もっとも適する縁起に改変してきたといえよう。そして、伝説も可変可能な範囲において変化していく。浦島太郎重長と名前を付け、行き先がとこよの国からわたつみの都になり、さらに龍宮に変わろうとも、よりふさわしいものに変わっただけなのであろう。伝説にとってはいかにその時代に応じた伝説内容を受容者に提供するかということである。
浦島乗亀譚への変容
そうした時代に応じた変容こそが、伝説の維持に必要なものであったろう。たとえば、浦島が亀に乗ることも、その典型といえよう。所謂御伽草子「浦島太郎」までは、浦島は亀に乗ることをしていない。龍宮には船を漕いでいくのである。龍宮は海底とは限らないのである。ところが、十八世紀初めには浦島は亀に乗り、そのことは意外にもすんなり承認され、以後それが当たり前のようになって草双紙類にも描かれていく。ゆえに享保頃にはまだ普及版「御伽草子」といえる所謂渋川版「祝言御伽文庫」が盛んに出版されているが、浦島伝説に限っていえば、その「祝言御伽文庫」の影響は少ないといえるだろう。
では、なぜ浦島はそんなにも急に亀に乗ることが可能だったのだろうか。それは先ず人が亀に乗るという前例があっ
たからである。しかし、それ以上に大切なことは、その当時ちょうど乗るのにお誂え向きの「蓑亀」が誕生して流行していたからである。浦島はどんな亀にも乗れるわけではなかった。それまで乗らなかったのだから、乗るには乗ってしかるべき亀でなくてはならない。蓑亀は十七世紀初頭に日本で流行したと思われる瑞獣で、その形状は、耳、牙、爪、蓑状の尻尾など、それまでに見ることのできない持異なものであった。それは、浦島のような貴人・仙人・神が乗るにふさわしい亀であった。ゆえに以後鶴に並ぶ亀として独自の地位を確立する。(注-5)蓑亀の流行が浦島伝説を動かし、浦島を船から亀に乗り換えさせたのである。
現代では、浦島は海辺で亀を助けたから、また、龍宮は海の底にあるから、浦島を乗せて行ったのは海亀だと誤解されていることが多い。それも蓑亀を認めない今日的常識からやむを得ないことではある。しかし、蓑亀は今なお祝いごとの象徴として描かれている。それだけではない。明治以降の絵本の挿絵に描かれる亀の姿を見てみよう。そこには尻尾が蓑状になっているものがいくつも見られる。蓑亀は約束ごととして描かれてきたのである。浦島と蓑亀のつながりは決して途切れてしまったわけではない。
亀に乗ることに付随して変化したことがある。一つは亀の大きさの適正化であり、もう一つは亀の素性である。亀の大きさの方は単純である。浦島が乗るにはそ、れにふさわしい大きさがいるという、大ききさ.の調整が要請されたのである。所謂御伽草子の絵巻絵本類に見られる亀は、竿で釣り上げられることから、せいぜい数十センチの楽に抱え上げられる程度の大きさに過ぎない。それでは亀に乗って龍宮に行くには小さ過ぎるのである。かといって、大きな海亀にすれば、今度は子どもたちが苛めるには不都合となる。そこで、巌谷小波は亀の子を乗る時に大きくさせた。他にも、後日成長してとか、子亀が助けられたのを親亀が恩返しにと実は親子関係を創出するものもある。こうした改変は伝説の本質に関わらないことなのでまだよい。しかし、亀の素性の変化となると大きなものになる。
古代の浦島伝説において、浦島の相手となる女は亀姫であった。所謂御伽草子でも、乙姫の正体は亀(龍宮の乙姫=
亀)であった。だから、亀と浦島の関係は異類婚となる報恩譚であった。しかし、浦島が亀に乗り出してから次第に様子が変わっていき、亀はいつの間にか別の独立した人格を与えられ、龍宮の眷属となっていく。そして乙姫も龍王の娘役から、女主人となって、浦島に亀を助けてもらった礼を述べる。本来の助けられた恩を婚姻によって返すという異類婚姻譚の仕組みがいつの間にか崩壊してしまっているのである。この伝説の変容の中に、受容者側の意識の変化を読み取りたい。異類としての亀と乙姫の差別化が行われたのである。それは人間関係の適正化でもあった。伝説はこうして時代によって、その時代に受容されやすいように修正されていく。
浦島伝説とメディア
浦島伝説におけるメディアの変革は、何度か訪れている。口承の変容は詳らかでないが、書承の範囲でも、大量な
書写本を持つ所謂御伽草子の流布本の絵巻絵入本。そして一度に大量生産が可能となった画期的な木版印刷。これらにより浦島伝説は飛躍的に広まったであろう。木版でも具体的にいえば、文学作品では「祝言御伽文庫」のような草
紙だけでなく赤本や草双紙、さらには美術では錦絵など。また、浦島寺を支えた略縁起や道中記・名所図会などの類
に至るまで、印刷というメディアは大量な普及に貢献した。
だが、そうした流れをさらに加速して大きく一気に変えたのが明治初期の状況である。江戸時代の木版の残存である明治赤本「浦島太郎物がたり」(明治初年-;十年代後半)やそれと同じ形態の銅版「浦島太郎弌代記」(明治16.8)、さらにはメディアとしては新しいが内容は江戸の読本をそのまま載せた活版印刷のボール表紙本「浦島太郎一代記」(明治22.9)。一方同じ十年代の後半には外国人向けに外国語表記でありながら木版錦絵刷りの縮緬本「日本昔噺」(明治18-25)が刊行される。また、幸堂得知は木版変体仮名文字という旧メディアのまま新作十二番の一つとして『浦島次郎蓬莱噺』を春陽堂から刊行(明治24.12)、幸田露伴も浦島次郎を主人公に「新浦島」を新聞『国会』に連載(明治28.1)。明治の十年代から二十年代にかけては、これらの多様なメディアに多彩な浦島伝説が記載され、まさに百花繚乱の感がある。しかし、実際はその伝説の内容と同じく新しいものに古いものが入り交じった混沌とした状態であった。そうした状況から抜け出したのが、巌谷小波の「日本昔噺」(明治29・2)であった。その内容に彼の独自性は少なかったが、以後、小波の作品はお伽ブームに乗って活版印刷として大量に印刷され、またたくまに浦島伝説を席巻していく。
印刷のメディアとしてもう一つ忘れてはならないのが教科書の問題である。明治三十七年から始まる教科書の国定化は、小波の作品以上に浦島伝説にも大きな変化を及ぼした。日本全国が一つの教科書で学ぶ国定教科書に教材として採用された浦島伝説は、これにより画一化して固定されていくのである。本来地域によって、また個人によって異なる伝説であったものが、統一された一つのテキストの出現によって普遍化してしまったのである。しかし、国語の読本の教科書の場合は六期の改定を経てきているためにその内容には多少の揺れがあった。それに対して九十年近く変化なく今日の我々の浦島伝説を規定していると思われる教科書がある。それは話ではなく、案外なことに歌である。明治四十四年に刊行された文部省唱歌は刊行以来変わることなく歌い継がれてきているのである。旋律を伴った詞章こそ口ずさみやすく覚えやすい。「助けた亀に連れられて」とか「鯛や比目魚(ひらめ)の舞踊(まひをどり)」など、それほど重要な詞章でなくてもつい口を突いて出るものである。だが、この詞章では浦島は亀に乗ったかどうかもわからない。また、タイやヒラメなど魚の踊りは小波の昔噺にも出てこないのである。
メディアとの関わりで触れておかなければならないのは、演劇という表現メディアである。中世になって新たに登場してくる能「浦島」には甲乙二作があり、間狂言も存在する。狂言「浦島」も江戸時代には存在した。これらは人間の演技であるが、浄瑠璃は人形である。人間にしか表現できないものもあれば、人形でしか表現できないこともあるだろう。古浄瑠璃には『浦島大明神御本地』や『浦島太郎 玉よりひめはつねのゑん』などが残っているが、注目されるのは、どちらも龍馬や亀に乗ることである。からくりを含め、浦島伝説のイメージをこうした人形芝居の表現が変えて行ったと見ていいだろう。こうしたからくりを経て、近松門左衛門の『浦島年代記』があり、為永太郎兵衛『浦島太郎倭物語』も登場してくる。また、歌舞伎や長唄などにも浦島を題材としたものが存在している。
こうした演劇は明治になっても浦島を題材として新しい表現を模索する。坪内逍遙の『新曲浦島』は彼の国劇刷新運動の為の實践例として書かれたが、実現するにはあまりにも困難な課題を盛り込み過ぎた実験劇であった。森鴎外も独自の視点で『玉篋両浦嶼』を書いている。また大正期には武者小路実篤が「浦島と乙姫」(大15.3)を発表している。そして、国定教科書でも第五期(昭16)には戯曲化されている。この時の趣旨が「劇化して与えることによって一層興味を増し、架空的な話の筋から受ける不合理を除去して、この説話の真の精神を体得させることができる」としているのは、演劇というメディアの違いを意識してのことであった。
「浦島」的なるもの
浦島伝説は、一千年以上も日本文学の中で展開されてきた。しかし、その伝説の源流はどこなのかを問うことはむ
つかしい。そもそも何を以て浦島伝説と認定できようか。例えば『万葉集』の浦島伝説には亀が登場しない。これが
原型に近いのか、はたまた、変形されたものなのか。絶えず流動している伝説のどこに中心があるのかも、判定は人によって異なるであろう。取り敢えずその主人公が「浦島」であることを伝説の要としたいのだが、既にそれすらも危うく
なってきている。
新しいメディア、新しいジャンルに浦島伝説は敏感である。例えば推理小説やミステリーの類でも、松本清張が『Dの複合』(昭40-43)で丹後の網野神社を登場させ、内田康夫も『讃岐路殺人事件』(平1)に讃岐の浦島太郎を登場させている。SFにも浦島伝説を題材にした作品がある。浦島伝説をSFがどう作品化するかは、興味深いものがあるが
あるが、中でも注目したいのが、筒井康隆「公害浦島覗機関(たいむすりっぷのぞきのからくり)」(昭45)・栗本薫「心中天浦島(しんじゅうてんのうらしま)」(昭56)と「ウラシマの帰還」(昭58)である。
筒井康隆の「公害浦島覗機関」は、日本で公害問題が騒がれた時期の発表。主人公は「おれ」とだけ書かれる名門ホテルの営繕係長。建築後三十五年たつホテルはガタがきて毎日が修理の連続で忙しい。彼はある日、ある部屋の柱の中には特別な空間があることに気づき、こっそり柱の中に入り、覗き穴から部屋を覗く。そこでは総理大臣が、都市再開発のために都市から住民をいったん追い出す手段として、人間が住めなくなるまで公害を発生させることを工場経営者達に密かに要請している。反対側を覗くと別の事態が進行し、覗くたびに公害は進んでいく。彼はこの事態を前に柱の中で考え、どのみちずっと柱の中にいるわけにはいかないと、外に出る。出てみると何の変化もなく、恐れるほどのことはないと、油断してホテルの玄関のドアを開けたとたん、外気のスモッグの黒煙が流れこんできて彼を取り囲み、彼は背は曲がり、髭はのび、皺ができ、腰は抜け、たちまち白髪の老人になってしまう。
この結末は確かに浦島太郎が玉手箱を開けたときと同じである。しかし、この作品には浦島太郎という固有の人物は出てこない。あるいはこの「おれ」が実は浦島という名前なのかもしれない。また、この浦島的な結末には.玉手箱も出てこない。しかし、ドアを開けることで歳をとるということから、実はホテル自体が一つの玉手箱的存在であったととることが読者には可能である。浦島はその逆の玉手箱の中に閉じ込められていたわけである。また、「おれ」が柱の中で考えた「この空間は、外部の時間だけがすごいスピードで経過するという、いわば一種の龍宮城であり、これは浦島効果なのだろうか。」という結論から、龍宮城が実際に出てこなくても、狭い柱の中が龍宮城ではないかと記されることで、浦島伝説と構造が類似していることがわかる。
だが、やはりこの作品が極めて浦島的なのは、結末や構造的なことだけではなく、むしろ作品中一か所だけ使われている「浦島効果」ということばの意味からであろう。このような時間の不均衡な経過が起きていることが浦島的なのである。この時間経過の差を浦島的な部分と見るのは、何も最近に始まったことではない。例えば、明治前期の一八八九年に、森鴎外はアメリカの作家アーヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」を「新世界の浦島」と題して翻訳している。しかもこれは、片岡政行の英訳「浦島」の副題「日本のリップ・ヴァン・ウィンクル」を借りたものといえる。
しかし、こうした時間経過の差異を浦島的ととらえる方法は、日本には既に平安時代にあった。平安中期(1007)の序のある源為憲の『世俗諺文』の中に「七世之孫」という語の項目がある。その説明には、中国の『続斉諧記』の故事を引き、二人の男が山で道に迷った末、女たちに歓待され、やっと故郷へ帰り着いた時には、誰一人として知る者もなく、七代後の孫が答えたと説く。そして末尾に「本朝浦島子同事也」と記す。『蒙求』に「劉阮天台」とあるこの故事と日本の浦島とが同じことであるとは、時間経過の差異に関してのことであろう。浦島伝説にとってもこの時間経過が重要な浦島的部分であったのである。
こうした浦島的部分をさらに展開させたのが、栗本薫の「心中天浦島」である。人類が火星に移住して生活を営むようになった時代の宇宙空間を自由に飛び回る男たちと火星の地球人たちを登場人物にし、浦島的な悲劇がもとで死んでしまった男女を描いている。死んだ男はテオ百四十歳、女はクラリス十七歳。これで心中とはとてもじゃないが年齢が違いすぎる。しかも、男は女の父親だったという。
結論的に書けばこうなるが、ことはそんなに簡単ではない。原因はこの時代の宇宙船の航行速度にあった。宇宙船は光速の八倍以上の速度で進む。アインシュタインの相対性理論によると、物質が光速より速く移動すると時間がゆがむ。宇宙船の中の彼らは地上と時間の経過が異なり、地上よりずっとゆっくり時間が進み、宇宙船の二年半は地上の十年となる。結果的に飛行士たちがこの宇宙齢で旅をすればするほど、時間の差は開いていく。心中とはこうした時間の歪みが生んだ悲劇を清算しようとする行為であった。
同じ栗本の「ウラシマの帰還」も宇宙飛行士ものである。先の筒井の作品にも浦島は主人公として出てこなかったが、栗本の二つの作品には、題名を除いて、「浦島」の文字すら出てこない。しかし、これが浦島的であることは読むものには充分に納得できるであろう。鍵は筒井の作品に出てきた「浦島効果」である。この語の定義は普通の辞書類には載っていないが、例えば『世界のSF文学`総解説』(1984.12)欄外には、「ウラシマ効果」として「光速に近い速度で進む宇宙船内では、相対性理論により時間の経過が外界より遅くなるので、宇宿飛行士が帰還したとき地上での時間経過との間にズレが生じる。このような現象を浦島太郎のエピソードに見立ててこう呼ぶ。」(66頁)と記載されている。まさに作品の内容そのままである。SFは、浦島伝説の中から「浦島」的なものを取り出して「ウラシマ効果」と命名したのである。ゆえに、浦島が主人公とならなくても浦島伝説は受け継がれていくことになろう。
浦島伝説の担い手
伝説はそれを信仰するものによって伝承されてきた。例えば、丹後の網野町や伊根町以外にも、海に全く関わらない埼玉県秩父の山の中にも、秋田県の横手盆地にも浦島伝説はあり、浦島神社がある。浦島を神と祀る信仰は、どうしてこんな所にも根づいているのであろう。伝承の論理は、複雑で一つではない。同じ海のない木曽の寝覚の床の浦
島伝説の存在をどう説明しよう。そこには浦島を祀った神社は現存しない。(注-6)
浦島伝説とともに祀られたのは弁財天であった。臨川寺の本尊も別である。宗教との関わりで伝説は変容されながらも語られてきた。伝説が自然発生するものでないならば、伝説を持ち運んだ者がいるはずである。誰が何のために浦島の伝説を持ち込んだのか。それを解明
する糸口はなかなかつかめない。
しかし、伝説を人間が語る以上は、人間の所為ゆえにそれを支える意味合いも改めて見えてくる。政治上の理由も、経済上の理由もあろう。略縁起の刊行が布教の具として有効だと考えられる時、それが金銭と引き換えられるならば、
同時に経営の具ともなったろう。木版印刷というメディアはその大量処理を可能にした。物見遊山を含めた旅人の往来はその購入を可能にした。伝説の担い手は宗教者であり、購入者の旅人であった。江戸時代の浦島寺の存続をそういった面からとらえることは間違ってはいないだろう。伝説も経済社会と切り離して考えることはできないのである。
だが、近代になってそうした動きとは別のことが浦島伝説には起きる。一つは、お伽話・絵本の普及である。これによって、伝説は子どもの話とされてしまった。さらに、教科書に採用さ、れ、唱歌となって全国津々浦々に画一的な伝説が流された。伝説は教科書を編集する国家が管理し、国民が担い手となった。信仰と切り離され、面一化したものを伝説と呼ぶことは妥当であろうか。固定した伝説はそのエネルギーを失い、滅んでいくだろう。
だが、一千年以上の流れを持つ浦島伝説の場合は、そう簡単に伝説は崩れなかったようだ。地域の信仰はかろうじて残っているものがまだ多く存在する。さらに新しい動きは始まっていた。観光としての伝説の称揚である。それは、何度も試みられた。ディスカバーi・ジャパンという外からの動きもあり、町おこしという内側からの動きもあった。従来は顧みられることの少なかった伝説に、新しい価値観が付与され、それを意図的に語ろうとするのである。そうした動きを象徴するのが二〇〇〇年七月に京都府伊根町で開催された「うらしまサミット」である。今、浦島伝説の担い手は、地域住民であり、地方自治体であり、そして、観光客である。
もう一つ、挙げておこう。常に途絶えることなき伝説の担い手は、読者である。読者こそは、文学の中に自己の期待する読みを構築していく。文学を読み解く行為は、作者の表現を理解していくだけでなく、自己の文学をテキストを媒介として構築する行為でもある。伝説という大きな枠組みは、文学の理解をその中で読み解くための指針ともなりうる。「浦島」ということばから、現代の読者たちは『源氏物語』の中に新たなる浦島伝説をいくつも見つけた。それは表現する側の意図するしないに関わらず、文学を読み解こうとするものの知的好奇心の産物でもある。伝説は読者に担われて、時には補完という観点から増補され、時には省略され新たな伝説を構築していくのである。
注
(1) 小久保桃江『福祉の原点と桃太郎研究』(昭52.9、講談社出版サービスセンター・小久保商店)、アン・ヘリング『江戸
児童図書へのいざない』(昭63.8、くもん出版)所収「桃太郎再発見」
(2) 昔話に比した伝説の特徴について柳田國男は、語りの無形式、記念物の存在、対象の信仰の三つを挙げている。
(3) こうした例の枚挙に暇はないが、鉄腕アトムや鉄人28号のテレビ実写版や水島新司『ドカベン』や『野球狂の詩』などの映画化を挙げておく。
(4) これも、取り敢えず「ストリート・ファイター」や「桃太郎伝説」シリーズを例示しておく。
(5) たとえば、ポケットモンスター・シリーズの「ゼニガメ」が「カメール」、「カメックス」と変身していく中で、「カメール」の姿は蓑亀そのものである。このデザインが意識されたものであったか否かは問わないが、亀が成長して特別な能力を持つ
ようになることは、おそらく意識下に蓑亀の特異性があったものであろう。
(6) 現在の寝覚の床では床岩の上に「浦島堂」のみがある。これは明治以前の木版絵図類には「弁才天」と記されているものと位置的には同じものと思われる。同じく明治以前の木版絵図類には臨川寺対岸の床山に「浦島社」または「浦島神社」と記されたものが見られるが、現在これに関する伝説は聞かない。また明治以降の絵図にもこの社の存在は欠落している。
(筆者は、苫小牧駒沢大学教授。全国大学国語・国文学会の会場で知り合い、メールをかわして『浦島伝説の研究』より、示唆に富む「序章」分を此処に戴いた。浦島太郎といえばほとんど神代のこととすら思われる題材だが、連綿とわれらの世界に生き続けて、いま電子的なマルチメディアとも関わりながら、タフな文学・文化として、なお問題を生き生きと発信している。林氏の網羅的かつ論証的な大著の「序章」だけからも、魅力ある伝説の今日性がうかがわれる。同時に電子化時代の「文学」の流動化へも示唆的に言及されていてじつに面白い。湖の本の読者にもなってもらえた。 1.6.19掲載開始)
強制収容から社会復帰へ
邑久光明園ハンセン氏病患者創作集『跫音』跋
木島 始
……白い砂、青い松、ないだ海、あたたかい微風、なだらかな坂道、……わたしは小島を一周して、それから文芸会のひとびとと話をすることになった。主なる話の内容は、想像力と言葉の造型性についてであった。
わたしは、じぶんの喋る言葉が浮づって、およそ造型することからほどとおいのを自覚していた。わたしは文芸会のひとびとの作品をすでに読んではいた。気候温暖な瀬戸内海の小島──自然の条件としてはもっともすごしやすいと思われる環境にすんでいるひとびとと、すでに言葉をとおして、顔みしりであったのだ。しかし、直接、顔みしりになるときびしい断絶がわたしたちのあいだに横たわっていることに気づいた。適当な比較ではないかもしれないが、ナチスの拷問をうけたものとうけないものとのあいだにあるどうしようもない断絶、それをフランスの作家が描いていたのを想いおこした。
わたしは、この断絶にこそ橋をかけようと懸命にならざるをえなかった。その橋の構築に、想像力また構想力が役立ちうると考えなければならなかった。さもなければ、文学なんか消えたほうがいい。それは憐みや同情をむしろしりぞけたうえに立つものである筈であった。文芸会のひとびとも、あくまでライ文学というような限られたところで作品をみないで批評してくれるようにと、わたしに要求していた。もとよりわたしもその心算で、二、三十篇もそのときまでに読んでいたであろうか。
しかし、……創作集の出版にまでこぎつけて、わたしはあらためてひとりひとりとその条件について考えることを思いたった。出身や遍歴した職業をきき、それらが往々にして制約として縛りがちなのをむしろめいめいの踏台に思考の材料にとわたしは考えたかった。
しかし、それはわたしに集中的に問題の深さを思い知らせることとなった。出身も経歴もそれらの何ひとつ語られず、それらはすべて闇のかなたに押しやられているのである。
理由をどうか考えてもらいたい。わたしはじぶんの浅薄な不明を恥じる、と同時にこれらのひとびとにみずからについての沈黙を強いている日本の社会の偏見の重圧に慄然とする。問題は、療養所のなかにではなくて、こちら側にあったのだ。病菌はすでに確認されて久しく、培養はまだ成功せずも治療には曙光がみえるという。ところが、患者たちは病菌にだけではなくて、政策の結果と偏見に蝕まれているのである。患者たちの収容によって社会から感染の危険を一掃するという目的で一歩をふみいだしたにせよ、遺伝という偏見すら社会にまだまだ瀰漫しているのである。そしてまた、この強制収容とい5事態が測りしれない内面の抑圧をつくりだしているのである。
わたしは、内面に抑圧ざれたあらゆるコンプレックスの自己解放に、文学のひとつのエネルギーの根源をみいだすので、文芸会のひとびとの直面している創作上の課題の複雑さに眼をみはった。近代国家としての外観のその内側に、歪みが集中してハンセン氏病患者にのしかかっていた。
戦前の作品である「浮浪者」(柳井春男作)と「新しき住家」(葵光あきら作)は、強制収容を明暗両面からえがいているが、時代は移って、これからは療養所からの社会複帰の問題が当然主題としてとりあげられるようになるだろう。言わばそれは受難という主題から能動的なたとえばコロニー建設というような主題の方向に転換されるときでもある。未解放部落の人が出身を伏せたり、色のうすい黒人が白人として.通用することで偏見の重圧をくぐりぬけてゆくこととも、社会に偏見の存在するかぎり生きぬくためのこの主題は関連してくるであろう。
だが、まだこの集ではそういろ主題にまでいたっていない。一個の生命体である人間が、病菌と文字どおり格闘しているありさまは、「くらやみ」(椎名三平作)や「手術台」(浅野日出雄作)になまなましい。これらの作品が、体験によりかかりすぎていたとしても、実感をなまのまま尊重しすぎていたとしても、やはりかけがえのない内的な苦悶の記録になっていることは否めまい。病者と健康者という関係は、肉親愛との相剋とい5形で「母の日」(五月早苗作)や「愛児」(森本とし作)や「義眼」(城田肇作)にするどくつきつめた姿で出されている。それらのいずれもが、発病という雷撃のような体験をそのまま文章にしようとしているために、視野は局限され、ライ文学という特殊な問題小説の枠のなかへみずから入りこんでしまうような傾向とはなっているが。
療養所内での問題を扱ったものとしては「仙吉の歌」(瀬田洋作)がもっともすぐれていると思われる。この作品集は、病者の書いたものだから出来ぱえを問わないというのではなくて、未熟は未熟として一通たりとも読者からの感想批評がよせられることが望まれる。それにはつぎにあげてゆく作品の作者たちが適当であろう。というのは、前述した作品の作者は故人かさもなくぱ現在創作の筆をとっていないひとびとであるから。「入江」(波多野啓作)と「樋門」(野上徹作)は、稚拙な自然主義的な創作方法でではあるけれども、体験の奥底ふかくに沈んでいる幼年少年期のモチーフを緻密に追おうとしていて力作である。歳月に洗われてもなおのこったモチーフだけに、それなりの強さをもっているわけなのであろう。「日の翳」(上村元作)はうってかわってアクチュアルな主題にとりくんでいる。この作品と「猿橋」(江田?作)とはもっとも意慾的な方法をもちいて現実と対決しようとしている。ハンセン氏病患者の問題をすてたわけではない。そうい5逃避としてではなくて、一方は不備ながらも記録的な方法を挿入し、他方は民間伝承を昇華する民衆の過程を多角的に辿ろうとして、現実を追求しているのである。
率直にいって、農村に取材した着実な長篇小説をかきつつある「猿橋」の作者いがい、完成度は高いとはいえないであろう。それだけに、いっそうこれらを読んだひとからの関心と批評がよせられることが期待される。
なお、全国の療養所にあって筆をとっているひとはしばらくおくとして、邑久光明園で旺盛に小説をかいているひととして高沢道雄、潮三樹二らがあることを記しておく。
─『跫音』(書肆パトリア)は、一九五七年十一月刊
─
(筆者は、詩人、英文学者、元法政大学教授。数十年も昔の或る情況と苦闘の息づかいを間接的にも伝えて、今にも意義を有している。小泉純一郎首相による新世紀初の良き政治判断にいたるまでのあまりに長かった道程を思えば、この木島氏の跋文には早い時期における甚だ的確な認識が示されていて、敬服する。
1.5.31掲載)
秦恒平『廬山』 萬田 務
『廬山』は、昭和四十六年十二月「展望」に発表され、同四十七年六月、芸術生活社より刊行された。
〈虎渓三笑図〉で知られた陶淵明と陸修静と恵遠法師、その恵遠法師の数奇な出生と、八歳のときに出家になるため、廬山に赴くはなしを描いた短編である。
恵遠の祖父・伯麟は〈ごまかしのきかぬ気象〉の武将で、その棒は百の剣より恐れられていた。そんな彼があるとき、武勇にまかせて無辜の土民を殺し、一人の若い女を嬰児もろとも剣で突き殺してから、剣を握れなくなって棒に持ちかえる。西晋が潰えた最後の戦から帰った彼は、娘の玉蘭が自分のあずかり知らぬ孫を産み落としたので、怒りのあまり相手の若者を斬る。ところが、若者は〈両掌を合わせ南無、阿弥陀仏と一声叫んで〉死に、つづいて娘も、南無阿弥陀仏と壁書して自殺してしまった。
江寧寺の宝応和尚を訪ねたとき、宝応から〈後世(ごせ)〉ということを知らされるとともに、恵覚法師の存在も知らされる。いつか〈心にえたいの知れぬ不安〉を覚えた麟は、それを解くために二郎、三郎を相次いで恵覚法師を尋ねて廬山に赴かせた。ところが、二人とも目的を達することなく死んでしまう。失意にあった麟と妻は、四郎として育てている孫の劉(恵遠)と、その友だちの秀蓮を連れて川原に遊んだとき、幻影をみる。そこで、八歳の恵遠を三たび廬山へ向かわせる決意をし、一方、恵遠も思うところあって同意する。
恵遠は揚子江を遡り、途中で舟を捨てて山裾を伝いながら目指す廬山へと進む。山中に入った彼は、いつか道に迷い、食糧も食い果たし、必死になって歩きつづけた。ところが急な崖を滑って失神し、夢の中で寝てしまい、夢のまた夢で秀蓮に出会う。我にかえった彼は、何度も転びながらもついに頂上に辿り着き、そこでまた、たったひとつの瞳のごときものに化して、月明の鶴にのる女人を、母の幻としてみる。同じ時刻、麓の恵覚法師とその弟子の恵元は、ともに同様な幻覚にとらわれ、廬山に引き寄せられるので二人して向かう。そして恵覚は、恵遠の瞑想裡にみられた仏に会い、恵遠も虎にのった仏として恵覚をみる。
十年後、一たび老父母の許に帰り、今生の意味を問う二人に一言、〈此の世のことはみな、夢まぼろしと思せよ〉と告げ、一枚の絵絹を残し再び去っていった。
秦恒平の文学的出発は、昭和三十七年七月<二十六歳>だが、文壇処女作となったのが『清経入水』(昭和四六・八、「展望」)である。それが第五回太宰治賞を受賞し、ようやく作家として歩み出した。
太宰治賞に強く推したという中村光夫は、秦登場の意味と課題を<自己表現の欲求を、たんなる自伝をこえてここまで拡大、あるいは深化しようとする試みは、現代小説の壁を破る企てとして意味があり、やがてこれを実現する才能と根気を作者に期待したい>(昭和四四・七・二九、「朝日新聞」夕刊)と述べたが、秦もそれに応えるかのように、『畜生塚』(昭和四五・二「新潮」)『廬山』『閨秀』(昭和四七・一二、「展望」)などにおいて、多くの現代作家たちに欠如している抒情の切れ味のよさを示してみせている。
秦は、文壇へ登場する契機となった『清経入水』以来、夢を語りつづけているといってもけっして過言ではない。しかしその夢は、桶谷秀昭も言うように<いまや目にみえる現実は確実な手ざわりでとらえがたいという理由で、夢の中に何かを求めにゆくというのでは>なく、〈どんな現代的な意味づけも拒絶している〉(「秘色」昭四五・九、「芸術生活」)のであるが、ここにこそ秦文学の大きな特色があると言っていい。
たとえば、『畜生塚』の最初の「夢の中」の章を一瞥するだけでも、そのことは判然とする。車中の人である主人公のいま読んでいる書物は、岡倉天心の『茶の本』で、ページのひらかれているところといえば、〈はかないことを夢もうではないか、そうして、事物のうつくしい愚かしさについて思いめぐらそうではないか〉という第一章の最終部である。この天心の言う〈はかないことを夢もうではないか〉にこそ、秦のこころが託されていると思われるが、しかし、秦はけっしてそこに反時代的な意図をこめているのではない。つまり、秦における夢は、〈自意識の表現手段〉、あるいは〈想像力の実験素材〉(桶谷秀昭)にすぎないのであって、それらをとおしてもっとアクチュアルな主題を意図しているのである。
『廬山』は、第六十六回芥川賞候補作で、永井龍男と瀧井孝作によって推された作品である。この作品をみていくうえで、全体を二つに分けて考えてみることにする。前半では武人・麟の人となり、それに恵遠の数奇な出生が、後半では八歳の恵遠が出家して廬山に赴き、その師恵覚に相まみえるまでの不思議な体験が、それぞれの中心になっている。
麟は宝応和尚にきかされるまで〈後世〉ということを知らず、己の生に執着するのみで、若者たちが最後に残した〈南無阿弥陀仏〉の意味も理解できないような人物である。そんな麟が、〈紫雲に捲かれて突兀と聳える廬山を見上げ〉てから、〈南無阿弥陀仏〉の意味をどうにかして解こうと思う。一方、恵遠は恋に殉じた〈父母を弔うのは、誰でもない自分だ〉と秘かに決心し、廬山に向けて出発した。
このように、『廬山』という題名は、きわめて象徴的な意味を担っている。言うまでもなく、作者の眼目は後者にある。恵遠が一人で廬山に入り、道に迷い、生命の危機にさらされながらも、頂上めがけて這い上がるところなどは、ねばり強く、また、迫力あるタッチで描かれていることでも察知できる。特に、夢のまた夢で、秀蓮が現われ、どこまでも一筋にのびる白い道の涯に紅色で自己を、こなたに藍色で恵遠の後ろ姿を描き、絵の世界に恵遠を導き入れるあたり、さらに、恵遠が虎の背にのった仏として恵覚法師をみ、恵覚も恵遠の瞑想裡にみられた阿弥陀如来威神光々の御影をみるあたりは、読む者をして幻想の世界に誘うに十分である。
それはなにより、秦自身の見果てぬ夢でもあったに違いない。秦も〈あとがき〉で、〈説話の体を利して私の述懐を籠めた〉と書いているところからも窺える。永井龍男が〈「廬山」は美しい作品である。美しさに、殉じた作品である〉(単行本帯文)と賛辞を送ったのもけっして誇張ではなかろう。
『廬山』はけっきょく、美と倫理に取材したものであって、その意味では現代との行動的な交わりを意図したものではない。しかし、<どんなちいさな一篇もみな「廬山」に収斂されるような私の生来の願いを籠めて〉(筆者宛書簡)描かねばならなかった秦の生を推して測るべきで、方法が異なっていても、まぎれもなく秀れた現代作家であり、現代小説である。彼のこの方法は、表現にいっそう磨きがかけられた『閨秀』へと継承される。
─.昭和四九年七月「国文学 解釈と鑑賞」第三九巻九号 双文社刊『心の棲み家
昭和の作家群像』所収─
(筆者は、文藝評論家、京都橘女子大学教授。宮沢賢治の研究で知られる。この稿が久しいご縁のはじめとなった。湖の本の読者でも。)
「廬山」まで 平澤
信一
いま試みに<廬山>という語を辞書にたずねれば、<中国、江西省北部の名山。九江市の南にあり、北は揚子江、東は、は陽湖(=はようこ。「は」の漢字再現不可)に臨む。晋の高僧恵遠(えおん)の東林寺、陶潜の靖節書院、香炉峰の遺愛寺など名所旧跡が多かったが、その多くは太平天国の乱で荒廃した>(小学館『日本国語大辞典』)という事実が確認されはする。だが、それよりも我々にとってなじみ深いのは、たとえば<廬山の交わり=風雅な交わり>や<廬山の真面目(しんめんもく)=複雑雄大で測り知れないこと>といった成句の方なのではあるまいか。そもそも書き出しからして、恵遠の東林寺を訪れた陶潜、陸修静らの「虎渓三笑」が持ち出されているのだから、そこに<廬山の交わり>を想起するのは、ごく自然の成り行きなのだと言えよう。
では我々が、これから踏み入ろうとしている<廬山>とは一体、どんな山なのか。それがもはや<中国江西省の北部>にある実在の山そのものでないことはあきらかだ。そうではなく<廬=仮屋>としての山、すなわち<周代に匡俗が、天道仙人と山中に隠棲し、定王がさがしたところだれもいない廬のみが残っていた>(小学館『佛教大事典』)とされる命名の起源にまで遡る(10字に傍点)、<廬山>としか名付けようのない体験を再び生きることこそ、テクストの要請にほかなるまい。<恵覚法師という高邁な僧侶>との邂逅を求め、ひとり<廬山>に踏み込む少年<劉の小舟>は<ゆっくり揚子江を遡った(3字に傍点、平澤=以下、断りなき場合、同じ)>のだ。
呼び出される水
テクストは、だが、更にもうひとつの要請を担っている。作品の冒頭で語り手は狩野山楽の手になる「虎渓三笑」に言及するが、この絵の渓流には<水も、流れにひたる草木も見えない(4字に傍点)。虎渓は絵にむかう者の胸の底を流れる>とされるのだから。
<廬阜に居ること三十余年、恵遠は客を送って足跡(そくせき)嘗(かつ)て虎渓を過(よ)ぎるということがなかった。
ところがその日に限って談笑殊に愉快で、思わず橋を踏み越えた。>
まず<二三歩遅れていた陶潜が石橋の真中で笑い>、<気がついて恵遠も陸修静も渡り切った所で顔を見合わせた>エピソードをこの絵に見ていると<ごく自然に笑いの生じた瞬間が描けていて気もちが佳い>と語り手は言う。が、ここで生じたのは単なる<笑い>ではなく、先に掲げた<廬山の交わり>を超えた<何か>だろう。別の見方をすれば<水も、流れにひたる草木も見えない(4字に傍点)>はずの虎渓を<水>は、このようにして流れ出すのではないか。というのも<廬山の交わり>を<思わず>踏み越えてしまったときの<不意の沈黙>を満たすようにして<笑い>は生じたのだ。<沈黙>こそが<笑い>を導く。そのようにして<見えない(4字に傍点)虎渓>はテクストの至る所に<水>を呼び出してくるようだ。
<もう休まなかった。じっとしていると暗い山に呑みこまれそうであった。ただ前を見て歩いた。道らしい道もなかった。竹やぶがあると迂回した。蛇が走るのである。急な斜面に真直ぐ伸びた杉の林。劉はためらわず這って登った。強い下草の匂いが陽の光に泡(傍点)立つようであった。登っても登っても上があった。下れば嶮しい崖に行き当った。劉はさるすべりの紅い花の木にもたれて顔を伏せた。自分の息づかいだけが荒く、風絶え、鳥も鳴かなかった。水が欲しい(5字に傍点)。足は血(傍点)を垂れて脹れていた。ふくらはぎを裂かれているのも知っていた。汗(傍点)が煮え、それも僅かな身動きで忽ち冷えた。顫えながら劉の眼は涙(傍点)をためて高い崖を見上げた。>
<登っているつもりでも、嶮しさに負けて横へ横へ伝い歩いていることが多かった。縞麗な花をつけた小枝が意地悪く肌に突き立った。流れる血(4字に傍点)の上を木蔦がはじき、袖に絡んで笹は眼を打った。うっとうずくまったまま、忽ち灰色に変る眼の前で風が渦(傍点)を巻いた。劉の吐く息はとうに泣(傍点)声に近かった。大声で泣(傍点)いている方が気もらくであり賑やかであった。眼をかばい、片手は青葉と枝とをかき分けながら劉は脆くも行きどまりの岩肌に胸を突き返された。水が欲しかった(7字に傍点)。眼がまい、よろめきよろめき殆ど這うだけであった。岫(みね)へ帰る雲が夕日に映えて見え隠れしても、廬山の頂は全然見えなかった。>
<水が欲しい><水が欲しかった>などとあからさまに言うまでもない。<泡><汗><涙><渦><泣><流>といった様々な手段でテクストは<水>を呼び込み続けている。ここまできて我々は言葉が、対象を再現するよりもまず像を呼び起こすものであることを改めて認識するのだろう。いま<流れ>と書きつけるなり<水>はたちまち辺りを<流れ>出すのだし、それはまた彼のふくらはぎに<汗>を、足に<血>を、眼に<涙>をも<流し>始めるのだ。そして、こうした要請に弄ばれる<劉>を通じて我々はようやく<登っているつもりでも、嶮しさに負けて横へ横へ伝い歩いている>テクストそのものに向き合い始めている。前方に<道らしい道>などまるでなく、<ただ前を見て歩>こうとしながら(すればするほど)、決して<迂回>を免れ得ない<書くこと>の本来性を触知させられるのだ。もしかしたら我々は<廬山の頂>に辿り着くことができないのではないか??そう感じたとき<廬山>は改めて<じっとしていると><呑みこまれそう>な<暗い山>として立ち現われてくる。<雨=水>はたちまちテクストを浸透し始めるのだ。
<雨(傍点)やむと急に暗くなった。(中略)
劉は泣(傍点)いていなかった。泣(傍点)くと疲れた。脹れた脚は骨まで痺れた。同じ場所をぐるぐる(4字に傍点)這い回っていたこともあった。出口のない青黝い暗やみに迷いこみ、行きどまり行きどまり(10字に傍点)に茨のとげや足を刺す浅茅や岩や、吸い込まれそうやみな真っ黒な谷があった。どろっと粘っこく揺れる木の暗(やみ)が四方からじりじり(4字に傍点)劉を蔽い籠めた。ぐったりし、また思い直して劉は手を振りまわしまわし(8字に傍点)暗の渦(傍点)にもぐりこんで行った。>
<廬山=暗>を捉えあぐねてテクストは<ぐるぐる><行きどまり行きどまり><じりじり><まわしまわし>といった〈迂回=同語反復〉を繰り返すばかりだ。<劉>は<殆ど両眼をとじて><必死に這える(3字に傍点)だけ這った(3字に傍点)。四つ這い(2字に傍点)の掌も膝も痺れていたが、這って(3字に傍点)、這って(3字に傍点)>、いつしか<夢の中にいた>。そうして<山はらを流れる(3字に傍点)>少女<秀蓮の声>を感じて、その手になる<絵に紛れ入>り、<とじた瞼のうらの淡い月光に心を洗われ(3字に傍点)><傷ついたものを洗い流され(5字に傍点)>、ついに<どことも知れぬ広大な宇宙の一点、一箇の大きな瞳(め)の如きものと化して世界を眺め>ている自分に気付くのだ。このとき<劉>は<廬山>という<暗>と、ただ向き合いながら共振し、テクストはあらゆる<境界>を超え、世界全体を揺るがす<波動>としてのみ我々の前にある
??。
重層するテクスト
秦作品の魅力に<幻想のリアリティ>を指摘するのは、いかにも容易いことだ。その方法の一端を、たとえば文壇処女作「清経入水」における<額縁の除去>にみる原善の主張にも、それなりの説得力は無論ある。だがテクストというものが、そもそも夢うつつを問わず、言語という分節化によってただひたすらに織り成されてゆく記号の群れであることを思うとき、<現実×幻想>といった対置に一体、どれほどの有効性があるのだろう。それよりも秦作品の魅惑を決定的に支えるのは、テクストの非<再現性>であり、その非<再現性>のゆえに垣間見せられる<書くこと>そのものの姿なのだと言ってみることはできないだろうか。というのもそこには、テクストの断片がある像を呼び起こし、その像がまた別の断片を引き寄せることで思いもかけぬ物語を現前させるような<ことばあそび>的な要素(しかし<あそび>とは言うまでもなく<死者の復活>を祈る行為だ)が、至る所に張り巡らされているのだから??。「清経入水」にせよ、「みごもりの湖」にせよ、そうした<テクストの重層>が作品の主要モチーフとして<歴史という神話>の相対化をも促そうとしている。入水した筈の<清経>や追討方の兵士たちに姦された筈の<恵美東子>が、いつのまにか<遁走>というテクストを生き始めているのである。
秦作品が自らの生成の場所として<海>や<湖>といった<水辺>を好むのは、そこが<むすび>に適しているという無意識の確信からであろうか(意図的な手法と言うなら、それはあまりに見え透いている)。いずれにせよ、こうした<テクストの重層>をもたらす<舟>の役割については何度でも強調しておかなければならない。そもそも文壇処女作「清経入水」など、実に<舟上の物語>とみて差し支えないので、「序詞」で踏み込んだ<家のかたち>が<浮きたつ船のように大きく見えた>と語られたとき、すでに<僕>は結末の<小舟>に乗せられていたとも言えるのだし、たとえば「みごもりの湖」の<直子を載せて遠ざかった船>にしても、それに重ねて<私>は<昏れゆく湖上を一葉の小舟にまかせて東へと遁れた恵美東子(えみのあずまこ)を想い、また「慈子」で<朱雀光之(みつゆき)先生>が不帰の客となった<赤十字病院>は<巡洋艦>に見立てられてもいるのだ。揺られることで像は振(ぶ)れ、他の像と分かち難いまでに相互浸透し始める。そうした視点を経て、もう一度「廬山」に還るなら、<世界中が海になりこの廬山だけが海の真中に浮かんでいる>という像や、先に指摘した<呼び出される水>の頻出からして、それは<水>を遍在させる事によって、あらゆる像を<むすび>得る<場>としての<廬山>を求める、いわば意味を超えた<書くことの臨界>への旅なのだと言えるだろう。意味を超えるとき言葉は<もの>としての側面をにわかに顕示し始める。<失神と幻覚との繰り返し>のなかで、<劉>は初めて<水の音、渓水(たにみず)が物に当って奔る音>を聴く。
<聴こえていた水の音(3字に傍点)がやみ、しかしすぐまたものの音(4字に傍点)は聴こえてきた。>
ここで<水>の更にその奥に垣間見られたものは一体、何なのだろう。秦恒平「怨念論」によれば、<もの>とは<指さして示せる一定の動かぬ状態(2字に傍点)なのではない。むしろ“もの”は身をもがいて外へ露(あら)われようとする動き(2字に傍点)を意味した。人の、物の、動作を、表情を、ことばを動かして露われてくるある不可思議の吐息であり、呼びかけを意味した>(傍点・ルビ原文)というが、そう感じるとき<もの>は決して名指し得ないけれど、しかし確かに伝わる<何ものか>であろう。<劉>が邂逅を望んだ<恵覚>は果して、この<もの>の導きによって現れるのである。
<恵覚は夜前より頻りに眼が冴えた。眼醒めてしまうと老人の常で睡りにくい。起って手水(ちょうず)を使ったり低声で経をくちずさんだりするその何度めかに恵覚は湖の方に耳馴れぬもの(2字に傍点)音を聴いたのである。もの(2字に傍点)音というような音ではなかった。人や鳥の声でも、物(傍点)が触れ合って鳴るのでも、また雨風が通るのでもなかった。強いて謂えば恵覚その人の頭の中に、胸の内に、雪が降るとも花が匂うとも精妙な何もの(2字に傍点)かが通り抜けて行くと形容してみるよりない或る動き、耀(かがや)き、清らかな静かな賑わいのようなもの(2字に傍点)が感じられたのである。恵覚は眼を凝らして遠くを覩(み)ながら実に瞑黙の内に我と我が心の深い湖を覗いていた。>
<もの音>を聴いたと言いながら、同時にそれが<もの音>というような<音>でないとは、どういうことなのか。<音>でない<もの音>すなわち<もの>? だが、それは<物>が触れ合って鳴るのでもないのだという。ここで<恵覚>が感じた<もの>をテクストは決して名指し得ない。テクストは<もの>そのものであろうとして結局、<もののけ>であるよりほかないのだ。では、ここでいわれる<もの>とは一体、何なのか? このとき我々は、たったいま投げかけた問いが、そのまま冒頭で掲げた「<廬山>とは一体、どんな山なのか?」という問いと自然に重なり合うのを知る。<もの/もののけ>と<廬/仮屋>との照応。つまり<もの=廬>なのだ。しかもなお<恵覚>が<もの>を感じて<遠くを覩(み)ながら実に瞑黙の内に我と我が心の深い湖を覗いていた>ことは見逃せない。というのも「語られるものは何か?」という向う側への問いは、常に内面への折り返しを含意しているのだから。ここまできて我々はひとつの結論に至る。これまで<廬山>と呼ばれていたのは<踏破すべき山>では決してなく、<踏破しようとする心>のことであったのだと。そして、その<心の深い湖>を満たすためにこそ、テクストは様々な形で<水>を呼び出していたのだと。こうした<求める心>の共振において、ようやく<劉>と<恵覚>とは巡り合うのである。
山という場所
ここで決して名指し得ない<もの=廬>という図式は我々に、冒頭で掲げた<廬山の真面目>という言葉を思い起させる。そして、この作品が「虎渓三笑」すなわち<廬山の交わり>から書き出されたことに思い至るとき、我々は「廬山」と呼ばれるテクストが実は<交わり>と<真面目>の<むすばれた>場であることに気づくのである。<廬=もの>だとして、しかし<廬山>とはいかなる<むすび>の場所なのか? そう考えるとき、秦恒平「長女論」の次の記述は、我々に貴重な示唆を与えてくれる。
<本来はかくれているもの(2字に傍点)が鬼(傍点)=隠(傍点)=陰(傍点)で、その鬼(もの)を探ね顕わすのが生ける人死なれた人であった。その心とからだが隠国と現世とを通わす道になっていた。女体を山(傍点)と形容し女人を山の神(3字に傍点)と呼ぶ所以(ゆえん)は遠く古く、これら民俗的な事実は何としても誰にも否定できないのである。(傍点・ルビ原文)>
ここで説き明かされる<廬=もの=鬼><山=女体>という図式。つまり「廬山」は「清経入水」や「みごもりの湖」などと同じく<鬼女>の物語でもあるのだ。ここまできて我々は、<女体>としての作品について語らねばならないだろう。<廬山=鬼女の真面目>についてなら、たとえば「みごもりの湖」の<槙子>が、失踪した姉<菊子>に実感していたではないか。
<心の内に結んだ姉の像が二転三転し、幸田や迪子が書いてよこした姿は絵空事に溶けて流れそうだ。幸田は迪子が嘘は書かぬと言ったけれど、そして迪子の眼と耳には嘘でなくとも、だからあの手紙のあの姉が姉の虚像でないとは言えなかった。小説の直子(平澤註=姉がモデルと考えられている)、手紙の姉、それに両親や伯父伯母や、むらや信はん幸田の叔母らが見てきた姉。また槙子自身が憶えている姉。重なりそうでみな容易に一つの像に整わない幾つもの輪郭が、宙に浮かんでいる??。>
様々な像が集う場としての<女体>すなわち<隠れる>場としての<女体=作品>とは同時に<顕れる>ものを待つ場所でもあるのだろう。そして、その本来的な<不在>こそが<存在>への呼び水であることを思うとき、作品に<流れ出す>のはもはや単なる<水>ではなく、敢えて言うなら、生命の発生を担う<血>であろう。だが、この先には更に大きな問題が横たわっている。というのも、ほかでもない<女体>から月毎に流れ出る<血>が、その規則性によって<時間>という意識に通じるとき、<血>とはすなわち<歴史>の根拠ではないのか。つまり秦作品に見られる<歴史>の相対化とは、別の見方をすれば<血>の相対化でもあるということだ。ここにはおそらく、秦自身が好んで語る<独自の身内観>なるものの根拠がある。秦の作品行為とは、だから歴史的な身内観に対する<身隠り>であると同時に新たな身内観の<身籠り>に賭けられているのであり、たとえば<絵空事には絵空事にしかない不壊(ふえ)の値のある>ことを教えてくれた筈の<慈子>が妻と娘を連れた<私>を前にして<「ひどいわ??
」>と<みるみる血の気を失>わざるを得ないのは、彼女が<流産>してしまったためなのだ。
ここまで来て我々は「廬山」における主人公の<劉>が<祖父の四郎=四男>として育てられていたことに思い至らねばなるまい。しかも<劉>にとって祖父<麟>は<父母の敵>なのであり、本来的に和解しがたい存在なのである。にもかかわらず、この祖父を悟りに導くのが決して実の息子たちではなく<全くあずかり知らぬ孫=劉>であるのは一体、何故なのか?
<あの祖父はいつも自分に物(傍点)を言いたげであった。しかし自分から抱かれに寄って行けなかった。祖父の悲しみと辛さを劉は感じていた。あの祖父が父を斬った、母は父のあとを追った。.そんなことは知らずにいたかった??犀川の堤に祖父とならんで安山に鳴る竹の風を聴いた或る日、劉は自分が祖父と同じ寂しさ、人と生まれまた人に死なれた寂しさに身をちぢめていることにはじめて気づいた。>
祖父が言いたげだった<物=もの>、その言いようのない心の動きを通じて、ふたりはようやく<むすばれ>る。そうして<劉>は<いまこの舟の上に、すぐ傍に、自分の影と重なるように祖父の影を感じ>たのだという。
結末近く、得度して帰郷した<劉=恵遠>によって祖父は<崩れる枝の雪が水に流されるように(7字に傍点)><清(傍点)い瞳にからだごと吸いとられて行>く。このとき<沸(たぎ)つように>どっと心に甦る、祖父の<今生の徒労感>を吸い取りながら<流><清>という<水>を分泌する<恵遠>とは、さながら「廬山」というテクストに翻弄され、<書くこと/読むこと>の臨界において漸く<むすばれた>我々自身を逆照射する鏡像でもあるだろう。<恵遠>が写し取ったという<恵覚法師の臨終に描いた幻覚>は果して<幻覚>であろうか。そう問うことはすなわち<水も、流れにひたる草木も見えない(4字に傍点)><虎渓>に<水>は流れているか、と問うことに等しい。
* 秦恒平の引用はすべて『湖の本』に拠った。
─「文藝空間」第9号(1993年10月1日発行)初出─
(筆者は、米子高専助教授、近代文学専攻。編輯者は、1986年春から早稲田大学文芸科三年生の小説創作ゼミを頼まれ、二年間だけ手伝ったが、平澤君は初年度に教室にいた「気鋭」の学生で、宮沢賢治に関心が深かった。初出からは時間を経たが、この「廬山論」が秦の読者にどう受け入れられるか、興味深く眺めたい。著者の手入れ原稿をそのまま掲載する。湖の本の読者。1.4.18掲載)
結城信一の肖像 矢部
登
1 《すぐれた美術品》のような小説
結城信一が昭和二十三年(一九四八)十月号の「群像」新人創作特集に「秋祭」(『青い水』所収)を発表して文壇に登場したのは三十二歳のときである。そのときの新人に選ばれた五人のうち、最後まで小説を書きつづけてきたのは、結城信一ただ一人であった。
この「秋祭」発表ののち、結城信一は昭和二十四年(一九四九)七月号の「早稲田文學」新鋭作家集に「二月の風」を、昭和二十七年(一九五二)六月号の「オール讀物」清純小説五人集に「紅い木蓮」(「木蓮」と改題されて『鎭魂曲』所収)を、同年十一月号の「文學界」新人創作特輯に「薔薇の中」等を発表しているのが注目される。
昭和二十五年(一九五○)度版の『文藝年鑑』から結城信一の名前は登載され、作家生活に入ってゆくのだが、そのおのおのの創作特集等に選ばれた当時の新人を掲げると、次のようになる。
「群像」新人創作特集(北川晃二、梅田晴夫、小林達夫、椿實)
「早稲田文學」新鋭作家集(浜野健三郎、荒木太郎、林弘、小田仁二郎)
「オール讀物」清純小説五人集(芹沢光治良、小山清、戸石泰一、井上靖)
「文學界」新人創作特輯(安岡章太郎、伊藤桂一、三條薫、澤野久雄)
さらには、昭和三十一年(一九五六)二月号の「文學界」現代新鋭特集に「炎晝」を発表している。結城信一のほかには、安岡章太郎、福永武彦、近藤啓太郎、三浦朱門がいた。
ところで、結城信一は、いきなり原稿用紙に書かない。
まず、静かに墨を摺る。部屋のなかには墨の甘い芳香が漂いはじめ、そのなかで、細筆で半紙に下書をして作品の草稿をつくる。草稿をもとに、さらに推敲を重ね、結城信一はそこではじめて原稿用紙に浄書する。たとえ四百字一枚の短文であっても例外ではない。描く対象にふさわしい一つの言葉が定着するまで辛抱強く考えぬき、時間をかけて丹念に見つめつづける。《自分の生き方にふさはしい文章》の表現を求めて苦悩しながら、結城信一は正字旧かなづかいによる作品を彫心鏤骨してきた。一行一行遺書をしたためるようにして。
一篇の小説作品を仕上げるのに数年の歳月をかけたものも少なくなかったのである。
寡作ではあったが、確実な作品をこつこつと書きつづけてきた結城信一は、大層律儀で、また大層頑固な人ではなかったか。
昭和五十九年(一九八四)十月二十六日、午前六時五十分、六十八歳で死去するまでの三十六年間にまとめられた作品集は、病弱で孤独な日々のなかでの、その時々の結城信一の遺稿集とも看做すことができる。これら作品群の精緻で丹誠な文章は光り、《表面的な叙情ではなくてなにか肉感的とさえいえるものを持っているので、ちょうどすぐれた美術品を見るような気持でなん度でも読むことが出来る》と書いたのは駒井哲郎であった。
結城信一の生き方が結城文学を支え、研きあげられた、《すぐれた美術品》のように鈍く光らせてきたのであったから。
2 《私の少女》との邂逅と教員生活
大正五年(一九一六)三月六日、結城信一は東京市下谷区中根岸町(現在、台東区根岸)に生れた。戸籍面は、東京府南葛飾郡亀戸町(現在、墨田区亀戸)にて出生、とある。
二歳のときに小児麻痺に罹り、左脚跛行となる。この罹病、および附随する体験のあらましを結城信一は『螢草』(創文社・昭和三十三年十二月二十五日)一巻に書き込んでいる。
昭和三年(一九二八)、日本大学中学校(現在、日大一高)へ進学した結城信一は阿部知二に英語を教わり、昭和九年(一九三四)、第二早稲田高等学院文科へ入学してからは會津八一に英語を、国文学を岩本素白に教わった。この夏、日本橋区箱崎町(現在、中央区箱崎)に父幸作が独力で興した結城回漕店(現在、結城運輸倉庫株式会社)の仕事を手伝いながらの学生生活であったため、健康を一層大きく損なう。かたわら、「學友會雑誌34」(昭和九年十二月二十日)に短歌二首「夏から秋へ(抄)」を発表。翌年、ガリ版刷りの詩文集『時計臺』(昭和十年九月十六日)と『雰圍氣』(同年十一月一日)を作製し、同人雑誌「柵の会」に誘われて参加する。
過労状態がつづくなか、早稲田大学英文科へ進んだ昭和十一年(一九三六)、二・二六事件が起きた年であるが、結城信一は兵役免除となり、夏、胸部疾患により千葉市登戸町の海辺の住居に転地療養する。
このとき、一人の少女と出会う。後年、結城信一は《私の初恋だつた》と誌している。
昭和十四年(一九三九)春、二十三歳で英文科を卒業した結城信一は、大学院に在籍して日夏耿之介の教えを受けた。東京に就職先はなく、結城信一は栃木県宇都宮へ都落ちし、宇都宮実業学校(現在、宇都宮学園高等学校。当時の場所には宇都宮女子商業高等学校がある。)で昭和十五年(一九四○)四月より七月まで英語教師として過ごした。昼間部の授業のほかに週二日の夜学も勤めたのである。健康を得るために静かな田園生活を希求して敢えて都落ちした結城信一ではあったが、逆に病を得て帰京する。東京から通勤可能な中学校の教師になりたい希望は叶えられず、結局結城信一はふたたび都落ちし、昭和十六年(一九四一)六月より十二月まで千葉県夷隅郡大多喜町の大多喜中学校(現在、県立大多喜高等学校)で教員生活をして過ごした。十二月八日、太平洋戦争開戦の日に結城信一は大多喜から帰京し、そののち、東京で短期間ながら本郷中学校(現在、本郷高等学校)、東調布高等女学校(戦後廃校)の教師を経て、昭和十九年(一九四四)九月より外務省の外郭団体である国際学友会日本語学校の講師(のちに教授)となる。結城信一が日本語を教えていたのは昭和十九年六月に来日した第二次南方特別留学生である。
昭和二十年(一九四五)十二月十五日、日本語学校閉鎖により退職するが、その間の八月十五日に終戦となり、結城信一はふたたび命を与えられたような歓喜におののいた。
結城信一は二十代後半におけるこれら教員生活の体験を作品のなかに書き誌している。
宇都宮の実業学校でのことは「柿ノ木坂」(「群像」昭和三十年十月号。『螢草』所収)と「炎晝」(「文學界」昭和三十一年二月号。『鶴の書』所収)、「幻日抄」(「青春と読書」昭和五十三年六月第五四号)等に、大多喜中学校でのことは「落落の章」(「早稲田文学」昭和二十八年五月号。『螢草』所収)に、日本語学校でのことは「流離」(「象徴」昭和二十一年十月創刊号。『青い水』所収)と「インドネシアの空」(「群像」昭和三十三年十一月号。『鎭魂曲』所収)等に。
3 戦後の出発と『螢草』
戦後に至って、昭和二十一年(一九四六)一月より五月まで、結城信一は雑誌「ロゴス」を千葉眞幸と編輯し、創刊号(五月)に「鶯〔鶯・冬夜抄〕」を発表。第二号(六月)まで編輯する。
つづいて八月より翌年八月まで、恩師會津八一の揮毫を表紙に刷込んだ高雅な学藝季刊誌「象徴」を松島榮一と編輯し、秋季創刊号(十月)に「流離」を発表する。第三号まで編輯し、この「象徴」創刊にあたって、夏には本文カットをお願いに岡鹿之助を訪れ、意気投合する。以後、結城信一は岡鹿之助を《心の師》として親炙し、その敬慕は終生変ることがなかった。
昭和二十二年(一九四七)六月の「象徴」第三号に「復興祭」、同年同月発行の「小説研究」第一季に「短篇二章〔ある黄昏・夢の跡〕」を発表して「群像」の創作合評にとりあげられ、結城信一が「群像」の新人創作特集に三十枚の短篇小説「秋祭」を発表して文壇に登場したのは、冒頭で誌したように昭和二十三年(一九四八)十月、三十二歳のときであった。
「復興祭」はのちに、英文科で教えを受けた谷崎精二の還暦を祝って編まれた早稲田作家集『時代の花束』(東方社・昭和二十六年七月一日)に収録された。
昭和二十五年(一九五○)秋から昭和二十七年(一九五二)秋までの三年間、結城信一は『螢草』一巻にまとめられる「轉身」(「早稲田文學」昭和二十六年十一月号)、「螢草」(「群像」昭和二十六年四月号)、「柿ノ木坂」、「落落の章」とつづく四百枚に近い連作体の長篇小説に没頭していた。みずからの暗い青春をモデルにした自伝的作品であり、そのなかの標題作「螢草」で作中の二十一歳の大学生である《私》は十五歳の少女を愛し、その少女は二十歳になった正月に此の世を去る。いこう、少女は結城信一の心奥に《私の少女》となって刻み込まれ生きつづける。そこには、喪失することによって逆に所有する青春の背理が存在していた。清潔な詩情、美しい抒情と評言される結城文学の根源にはこの《私の少女》がいたのである。
戦争末期の東京大空襲下、昭和二十年(一九四五)一月から六月にかけて短歌百余首をつくる。三月十日未明の下町空襲の焼跡を見た結城信一は、「もういつ死ぬかも知れぬ」といった悲壮な思いを抱きながら、一巻の遺稿を成さんと藁半紙に小説「絹」を起稿したのであった。
終戦時、ちょうど書き上げられた草稿が昭和二十五年(一九五○)十月に完成する百五十四枚の中篇小説「螢草」となった。
結城信一には後年、《私は「螢草」が世に出たところで、死んでしまつてもよかつた》と誌された一節もある。それほどまでの強い思いがこめられた自信作であり、「螢草、螢草……」と胸のなかで繰返し口づさみながら祈っていた当時の結城信一の姿が想起される。
『螢草』の最終章「落落の章」の下書は、昭和二十七年(一九五二)の夏と秋の二度にわたって、駒井哲郎の軽井沢別荘で数日の共同生活をしたその秋の季節のなかで脱稿されているのであった。駒井哲郎は《生涯の友》となる。
「螢草」、「轉身」、「落落の章」の三篇はそれぞれ芥川賞の候補作でもある。
昭和三十年(一九五五)八月十日、結城信一は最初の記念すべき短篇集『青い水』(緑地社)を岡鹿之助の装幀により刊行する。そこで、結城信一の三十代は終わろうとする。
4 室生犀星への共鳴執心と研究
結城信一には愛の美しさを描いて比類のない短篇小説「冬隣」(「群像」昭和二十五年六月号。『青い水』所収)や「春」(「群像」昭和二十七年一月号。『青い水』所収)、「交響變奏曲」(増刊「群像」昭和二十八年六月十五日。『青い水』所収)、「青い水」(「文學界」昭和二十八年十月号。『青い水』所収)、「山吹」(「早稲田文学」昭和三十四年三月号。『鶴の書』所収)等がある。
そのなかで結城信一が望む愛は、もうこの《地上の愛》の姿ではないのかも知れぬ。
此の世では結ばれることのない、また報われることも決してない、夢のような男女の哀しい愛の姿なのである。
室生犀星『黒髪の書』(新潮社・昭和三十年二月二十八日)の怖ろしいほどの一行によって戦慄的な感動を受けた結城信一は、昭和三十三年(一九五八)、犀星に関する研究をはじめる。結城信一、四十二歳のときである。いままで《感受性の作家、官能の作家、市井鬼物の作家》と思われていた室生犀星が、この一行によって、結城信一の眼前に《いのちの作家》として立ち現われたのである。《そこで眼を洗はれ、室生さんの旧著を徹底的に蒐集し、その世界を探求し、その一ページにまでたどりついた作者の足どりを追つてみよう、と思ひたつた》結城信一は、犀星の初版本蒐集への旅に出たのであった。
そのいっぽう、昭和三十四年(一九五九)九月、會津八一の一文「実践的」を巻頭に登載した《伝記を中心とする学藝誌》「銅鑼」創刊に参加し、「室生犀星の一時期」(昭和三十四年十月第一号)、「犀星における小説の出発点」(昭和三十五年五月第三号)、「犀星上京の日」(昭和四十一年九月第一七号)、「室生犀星序説」(昭和五十一年十一月第三一号)等を発表する。結城信一の犀星研究の成果は精緻な「年譜」(『日本の文学35室生犀星』中央公論社・昭和四十一年十二月五日。ほか)と「書誌」(『室生犀星全集別巻二』新潮社・昭和四十三年一月三十日。ほか)の作成や二十余篇のエッセイ等に結実している。
結城信一が《全身を室生犀星の火で焼かれ》たその一行とは、十数年にわたり宿痾と闘いつづけながら、病臥生活をおくっていた若い有名な文学者に、夫人が顔を寄せてそっと囁くのを犀星が聴いたという、次の言葉である。
《……そんなにお苦しかつたら、ね、一緒に死んであげませうか……》
此の世の愛の姿とも思われないが、じっさいは、この《地上の愛》の姿なのである。
だからこそ、室生犀星はつづけて、《うそでもいいからこんな言葉に出会すために、生きてもゐたのではなかつたか、生きてゐるからこの言葉がふるひ付きたくなる、麗はしさを見せてくるのではなからうか》と誌したのであろう。そんな犀星に《いのちの作家》を見出した結城信一の胸奥の思いもまた、その夫人の囁きを聴いたときの犀星とおなじ処にあったにちがいない。
結城信一は《室生犀星の世界》を掘起すために、《好きであればあるだけ、会はぬことの方が、作品に即しての親しみの節度が保てる》として、犀星に会うことを避けてきた。これは、結城信一の犀星へ寄せる共鳴執心が並大抵ではなかったことを明確に現わしてもいる。十三年もの歳月をかけて蒐集した犀星の二十冊を超える詩集と二百冊以上の初版美本は、現在、「結城信一コレクション」として日本近代文学館に寄贈されて在る。
5 「鎭魂曲」発表の前後と『夜の鐘』
結城信一にとって「鎭魂曲」(「近代文学」昭和三十九年一月号。『鎭魂曲』所収)を発表した前後九年間は極めて重要な意味を持つ。
「通遼日記」(「群像」昭和三十五年八月号)から「山の池」(「群像」昭和昭和四十四年三月号。『夜の鐘』所収)発表に至る結城信一の四十代半ばから五十代半ばにあたる。
この間、作品発表は「鎭魂曲」、「湖畔」(「風景」昭和四十年十二月号。『鎭魂曲』所収)の二篇と極端に少ないが、『鶴の書』(創文社・昭和三十六年三月二十五日)、『鎭魂曲』(創文社・昭和四十二年一月十五日)の二冊の短篇集とシュトルムの翻訳『みずうみ・三色菫』(少女世界文学全集18・偕成社・昭和三十七年五月十五日)が刊行されている。三度にわたる胃潰瘍と環状七号線による騒音や振動、排気ガス等に苦しめ抜かれた一時期である。同時に長いスランプの歳月でもあった。
そのなかで、みずからを《すでに死者の仲間に入つてしまつてゐる》と考える結城信一は、《私の少女》への愛の乾きと死の主題の変奏を繰返す。結城信一はふたたび《私の少女》のもとへ回帰するのである。戦争末期、一巻の遺稿を成さんと小説を起稿した十九年前のときとおなじように。二度目の胃潰瘍による二回もの大量吐血後の、明日死ぬかも知れぬといった恐怖と不安の日々のなかで、命を刻むようにして書き綴られた作品が「鎭魂曲」であった。
この時期、結城信一には「鎭魂曲」を誌す以外、《私の少女》へ寄せる、もうどのような強い愛の表現があったであろう。
哀しみの深さは、実にこの一作に極まっている。
結城信一が昭和三十五年(一九六○)夏からの長いスランプを抜けだし、ようやく創作の筆力が甦るのは、三度目の胃潰瘍による手術後の第一作である「湖畔」を経て、昭和四十三年(一九六八)秋、小品集『夜明けのランプ』(創文社・同年八月五日)刊行の年であった。
この九年間にわたる苦しい一時期を経ることによって、結城信一は図らずも、駒井哲郎の装幀になる短篇集『夜の鐘』(講談社・昭和四十六年三月八日)に結実する鬼気人に迫る作品群を遺し得たのである。初期の甘い感傷性はだいぶ薄れ、文体にも微妙な変化が生じている。奥行に一層の深さが加わり、緊張感が増している。そこには澄んだ死への深化と危うい狂気の迸りさえ強く感じられる。結城信一の積年の苦悩と悲哀から生れた遺書とも読める、一字一句、ゆるがせにすることなく丹念に書き込まれている「ボナールの庭」(「群像」昭和四十四年十月号)やみずからの命の欠片を深く鏤めて綴られた「夜の鐘」(「群像」昭和四十五年三月号)、「落葉亭」(「群像」昭和四十五年九月号)、「山の池」、「バルトークの夜」(「風景」昭和四十四年四月号)等九篇が収録されている。
『夜の鐘』一巻からは、「もういつ死んでもいい」という、結城信一の悲痛な声が聴こえてくるのである。
愛する《私の少女》を失い、鬱鬱として絶望的な戦後の時代を結城信一が発狂もせずに自殺もしないで生きてきたのは、やはり文学への夢と情熱があったからにほかならぬ。
結城信一が座右の銘としていたのは、ピエール・ボナールの次の言葉である。
《辛抱強くあらねばならない
待つことをおぼえなくてはならない
潮どきに感動がわきおこつてくる》
6 『文化祭』の印行と《滅びの支度》
結城信一は『夜の鐘』刊行後、長い間、作品集を編む機会に恵まれなかった。
もっとも、小品集『萩すすき』(青娥書房・昭和五十一年十月十五日)の刊行はある。
『萩すすき』は第五回平林たい子文学賞の候補作であったが、小品文集という理由で見送られた。
結城信一は『夜の鐘』刊行から七年後の昭和五十二年(一九七七)三月三十日、岡鹿之助と駒井哲郎の絵で装われた、正字旧かなづかいによる『文化祭』近作自選短篇集を私家版で印行する。この『文化祭』は、前年十一月二十日、駒井哲郎死去(五十六歳)による追悼の意味をこめた一巻でもあった。私家版印行の二ケ月後、青娥書房から市販本として『文化祭』自選短篇集も刊行されている。
標題作である「文化祭」(「群像」昭和四十九年十月号)の原型は二十八年前の終戦の年の秋に書かれた結城信一の出発作「鶯」まで遡及する。三十枚の短篇小説「鶯」は発表してから十二年後、「冬夜抄」の一部分を織り込み改稿されて四十枚の「雪のあと」(季刊「現代文学」昭和三十三年四月第一号)になり、さらに十六年後、「文化祭」となってみごとに蘇生する。「鶯」の最上老人が教室でその存在に気附いていらい、あえかな愛情を抱きつづけ、養女にまでもと思った村瀬葉子、「雪のあと」の磯貝直子、「文化祭」の磯貝邦子は、《誰の手によつても奪はれたくはなかつた》という結城信一の心奥に鏤刻された《私の少女》を念頭に置いて描かれたものにほかならぬ。「文化祭」は《処女の純潔に対する憧れの書》であり、末尾の《……此処のところで、終つたな……》という呟きには、如何にしても心を通わすことのできない作者の深い哀しみが漂っている。
老人と少女との二人の魂の微妙な交感が美しい旋律を奏でているのだが、そこには結城信一の孤独な命の炎が青白く燃焼しているかのようである。
ここで想起されるのは、結城信一が室生犀星の王朝物の短篇小説「津の國人」について誌した「解説」(『かげろふの日記遺文・津の國人』角川文庫・昭和四十二年九月三十日)の一節である。
《……室生さんは「官能の作家」であつたが、同時に、あるひはそれ以上に「いのちの作家」であつたのだ。……〔略〕……あなたは健やかに生きておいでなのでせうか、ひよつとすると今はもうこの世のひとでないのではないか、わたくしのこの思ひ、この声、そして、いのちよ、嘆きよ、飛び立つてあなたのもとにわが悲しみを知らせてくれ、と心の中で悶々と叫びつづける筒井の、そのいのちのあはれを作者は描きあげたのである。……》
この筒井の思いとして綴られている一字一句の言葉は、そのまま結城信一の胸奥の思いでもあったのではないか。筒井の《いのちのあはれ》をみごとに描きあげた犀星に託して、結城信一はみずからの胸の内の真情を吐露したのではなかっただろうか。
おそらくこの行文の奥には、結城信一の《私の少女》を失った心奥の叫びが切実にこめられ、秘められていたにちがいない。すなわち、結城信一が繰返し《私の少女》への憧憬と死を主題とする変奏を綿々と書き綴ってきた母胎は、昭和十六年(一九四一)暮に十八枚の処女作「冬夜抄」を書いたとき、あるいはさらに遡って昭和十一年(一九三六)八月下旬に千葉の登戸海岸で《私の少女》との運命的な、またと在ろうかと思われるような邂逅をしたそのとき既に胚胎し、将来紡がねばならぬ鎭魂曲の企図の中央に立っていたのである。
結城信一こそ、まさしく、《いのちの作家》であったのだ。
結城信一は『文化祭』近作自選短篇集印行の年、『恩地孝四郎詩集』(六興出版・昭和五十二年十一月二十八日)を編輯して「解題」「略歴」等をまとめている。
昭和五十三年(一九七八)四月二十八日、岡鹿之助が長逝(七十九歳)する。
私家版『文化祭』は結城信一の六十代への新たな文学的出発の一巻となり、同時にそれは、死へ向っての《滅びの支度》でもあった。
7 『空の細道』と日本文学大賞受賞
昭和五十五年(一九八○)五月、結城信一は『空の細道』(河出書房新社・同年二月二十五日)で新潮社の第十二回日本文学大賞を受賞する。六十四歳になっていた。
前年には唯一のエッセイ集『作家のいろいろ』(六興出版・昭和五十四年七月二十五日)が刊行されている。
二十八枚の短篇小説「空の細道」(「文藝」昭和五十三年五月号)は夢うつつのなかで老人の少女へ寄せる、しかも三十年前に死んだ少女へのこまやかな交情を通して、小鳥たちに化身した十八歳の少女たちに呼ばれて死の世界へ入ってゆく、老年の死に対する恐怖と寂寥を肌理こまかい透明な文章で結晶させている。《空の細道》とは作中の山形老人が夕暮の空の一角に見る、死者の化身である小鳥たちが束の間飛翔する幻の細道であり、それはまた死の世界へつながる細道と重なりあって余韻が残る。ひそかに遺稿として書き上げられた、哀切極まりない短篇小説で、かつての「落葉亭」をなお一層研ぎ澄ましたような、妖しい、凄みのある、死の気配が行間から滲みでてくるみごとな作品である。
「空の細道」は当初、第六回川端康成文学賞の候補作であった。
《昔から結城氏を知っている私としては、リリシズムは氏の出発時からの特徴で、以前は空中にただよいがちだつたそのリリシズムがいまでは肉付きの面のように物自体に貼りつき、この作品ではさらに煮つまって物そのものになってきた》、と「選評」で書いたのは吉行淳之介である。
結城信一が吉行淳之介と相識ったのは、昭和二十八年(一九五三)二月十二日、「文學界」編輯部肝入りの新人の定期的会合「一二会」においてであった。吉行淳之介には追悼文「日暮里本行寺」(「新潮」昭和六十年一月号。『犬が育てた猫』『懐かしい人たち』所収)がある。
結城信一は二十五歳のときに書いた処女作「冬夜抄」いこう、「鎭魂曲」、「文化祭」、「空の細道」等を経て、六十八歳の死去する年に発表された「過客」(「海燕」昭和五十九年三月号)に至る四十四年間にわたって繰返し《私の少女》へ寄せる愛と憧憬を描きつづけてきた。自画像を丹念に書きつづけてきた以上に《私の少女》に心底ふかく打込んでいた。
《私の少女》のもとへ立ち戻ることで、結城信一はなにを反芻し、なにを求めようとしたのであったのか。結城信一の心奥にはつねに《私の少女》が甦り、またときに《私の少女》へと回帰する。あたかも運命的な機能をもって迫ってくるかのように。結城信一が《私の少女》へ寄せる、このことは、此の世での愛の思いの深さによるものであったのかも知れぬ。
8 結城信一の死と未完の長篇『百本の茨』
『空の細道』刊行後、結城信一は《第二の青春の書》を織りなしてゆく。
心を寄せていたルドンが晩年の六十代に若々しい色彩の秀作を描いて変貌したように。
結城信一もまた、亡會津八一、岡鹿之助、駒井哲郎へ手向けられた典雅な鎭魂曲を書き継いでゆくのである。
『石榴抄』(新潮社・昭和五十六年七月十五日)所収の「炎のほとり」(「新潮」昭和五十五年七月号)と「炎のなごり」(「新潮」同年十月号)で亡友毛利の悲恋を物語るとともに、標題作では會津八一と高橋きい子との《結縁》を描いている。毛利のモデルは、結城信一の第二早稲田高等学院時代からの友人で、雑誌「ロゴス」創刊に参画しながら、昭和二十一年(一九四六)三月に急逝した千葉眞幸である。文科専攻の結城信一とは違い、千葉眞幸は史学科専攻であった。
『不吉な港』(「新潮」昭和五十八年五月号。新潮社・同年十月十日)は、戦後の青春を共有した亡友《銅版画の詩人》への鎭魂曲であり、《多年の心の師》岡鹿之助の霊前に捧げられている。
寡作を通して《わがひとり居る》細道をあるいてきた結城信一が死の予感のなかで六十代最後の仕事としたのは、『百本の茨』という自伝的連作小説の完結であった。
『百本の茨』とは「有明月」(昭和五十九年五月号)と「暁紅」(同年八月号)の二篇のみが「新潮」に発表されただけで、結城信一の死去により惜しくも中断し、未完に終わった自伝的連作小説の標題である。「有明月」には昭和三十六年(一九六一)六月の二回もの大量吐血したことが中心に書き込まれている。つづく「暁紅」では、三年後の昭和三十九年(一九六四)十月に再発した胃潰瘍の五時間にも及ぶ手術体験が精細に書かれ、当時の「覚書」も織り込まれていて、結城信一の日常生活の興味ふかい断片を垣間見ることができる。さらには、かつて二十歳までのことを綴った「轉身」の主要な部分が再度描かれてもいる。
昭和三十年代における、結城信一四十代の苦難の一時期であった。
この『百本の茨』という標題には六十八年間に及ぶ結城信一の人生を象徴する魂の傷みがこめられている。
結城信一が『百本の茨』に至って、『石榴抄』と『不吉な港』のなかで戦中戦後の暗い青春を鮮やかに彫琢したいこうの、病みがちで孤独な作者自身の肖像を鏤刻すべき連作小説に取りかかったのは明らかである。未完の長篇に終わった『百本の茨』は、結城信一がみずからの命を賭し、最後の精魂を傾けた仕事であったが、いっぽうでは《絵を描きながら、死にたいと願ひます》、そんなセザンヌの言葉を呟いている結城信一の静かな声も聴こえてくる。その言葉どおりの細道をあるいて、純粋な詩魂を生涯持ちつづ純粋な詩魂を生涯持ちつづけた希有な小説家結城信一は、《私の少女》との美しい思い出を胸奥に抱いて滅びたのである。
そのときちょうど、岡鹿之助歿後初の大規模な回顧展(ブリヂストン美術館)が開催中であった。昭和二十一年(一九四六)夏から三十八年間に及ぶ岡鹿之助への敬慕の念が、結城信一を亡師の回顧展のさなかに、そっと此の世から立去ってゆかせることを可能にしたのである。
──「結城信一の世界」第一号(一九九五年十一月二十日)──
(筆者は、文学研究者。殊に結城信一研究では深い敬愛に基づいた追随をゆるない精緻な探求と紹介で知られている。さきの「結城信一の本」とならび、好個の論究を素心平意の達文で愛読願いたい。日本ペンクラブ会員に推した。久しい湖の本の読者である。)
秦 恒平 様
仕事で書いている論文の推敲がだいぶ進み、投稿間近になってなってきた勢いに乗じ、中野(智行)さんの気持ちの良い文章にも触発され、ずっと抱えていたテーマの一つを、この連休でまとめてみました。
この原稿を書きたかった最も大きな理由は、沖縄でお茶を習っている人たちが、(教えている先生の多くも)、茶道は戦後になってようやく本土からやってきた外来文化で、本来沖縄とは無縁のものだと思ってしまっていることでした。
確かに、沖縄には京都のように利休さんが作った茶室もありませんし、九州のように古い流派も残ってはいません。そのせいか、地域に根を張ったような安定感がなく、みんな何となく頼りない心持ちでお茶をしているように、私には見受けられました。できるだけ沢山の人に、少なくとも17世紀の琉球に、忘筌のようないいお茶室があったことを知ってほしい、できればそれを復元して、胸を張って「沖縄自慢の茶室」で茶会をしてみたい、そういう気持ちで書いてみたもので
す。
沖縄に十二年住んでいて、琉球文化の層の厚さ、沖縄学という学問の領域があることに驚きました。しかし、すべての分野を網羅していると思われた沖縄学も、意外と手が回っていないところもあり、この原稿で扱ってみた琉球王朝の茶の湯に関しては、沖縄県立芸術大学の、文化受容史が専門のホルスト・ヘンネマンさんというドイツ人教授が一人で、細々と研究をしている現状です。日本で茶の湯という文化が形作られていく過程で、琉球を要にした交易ルートが果たした役割は大きく、物の流通と共に、茶の湯自体も、早くに琉球に招来されていたことはあまり知られていません。 今回は、琉球王朝の茶の湯自体には深く触れず、「御茶屋御殿」という建物にテーマを絞ってみました。機会があれば、琉球王朝と千家のつながりを軸に、王朝の茶道文化についても書いてみたいと思います。
理系の学術論文と違って、文系の論考を書く場合は、ある程度テーマへの導入部として、落語のまくらのようなものがあっていいのか、小見出しが必要か、重要なポイントを繰り返して強調してもいいのか(私はよくこのポイントのだめ押しをして、同じことを二度書くな、と上司に怒られます)などわからないことばかりですが、我流のスタイルで書いてしまいました。謝辞、参考文献についても同様です。また、御茶屋御殿の周辺にある、琉球文化の背景をどの程度書き込むべきかもよくわかりませんでした。
最も重要なのは、このテーマが、「e-文庫・湖umi」のカテゴリーに収まるものであるかどうかです。なんだか、『畜生塚』に出てくる、「オトギヤロ」の香合の名誉挽回にムキになっている道具屋さんのようなことをしているのかなぁ、など
と自信がなくなってきました。慣れない分野の書き物はしない方がいいのかも知れませんが、あの道具屋さんと同様、御茶屋御殿の茶室については胸を張って世に出したいとフンガイしてもいるのです。
いずれにせよ、まず秦さんに「琉球版忘筌」の存在を知っていただければ、とりあえずは満足です。よろしくご指導お願いいたします。2001.2.13
真岡 哲夫
琉球の御茶屋御殿考
眞岡 哲夫
消失した御茶屋御殿
琉球は、歴史的には中国と日本の影響を色濃く受け、地理的には東南アジア諸島と共通する亜熱帯海洋性気候にあることから、これらの要因が複雑に融合した独自の文化を生み出しました。琉球文化といえば、首里城などの建築にはじまり、三線に代表される音楽、あでやかな舞踊、紅型(びんがた)などの美術工芸品等々、枚挙にいとまがないほどですが、その一方で文化的価値が高いにもかかわらず、世に顧みられることのないものも少なからず存在しています。その一つに、御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)という御殿の茶室があります。
御茶屋御殿とは、十七世紀後半に琉球王国の首都・首里(しゅり)に建造された、尚(しょう)王家の離宮を指します。戦前に文部省が行った調査では、首里城守礼門などと共に、御茶屋御殿も国宝候補となっていましたが、沖縄戦により建物は跡形もなく消失しました。沖縄県那覇市首里崎山町四丁目付近に遺構の石垣が一部残り、現在その近辺は首里カトリック教会と城南小学校になっています。
欠落する茶室としての検証
戦後首里城が国営公園として整備され、一九九二年に正殿が復元された後、復元事業は正殿以外の建造物におよび、離宮であった御茶屋御殿も復元されるべき建造物として候補にあがるようになりました。その後御茶屋御殿に関する報道や著作、論文もいくつか発表されるようになりましたが、それらのほとんどは、御茶屋御殿が文献上では中国皇帝の使者・冊封使(さっぷうし)を歓待する場面でよく登場することから、もっぱら冊封使に関連づけられて取り上げられています。これらの論考は、王家の公文書である『球陽(きゅうよう)』等の記録をひき、歴代冊封使が御茶屋御殿での宴をいかに楽しみ、興にまかせてどういった漢詩を詠み扁額を残したかを述べて、中琉外交の場として御茶屋御殿は重要であったという結論を導いています。
むろん、このような論考も重要ですが、ここには御茶屋御殿があたかも中国との関係の枠内のみでとらえられてしまう危険性があります。御茶屋御殿は、その名が示すとおり、茶室を含んだ御殿であり、茶の湯を行う場として建設されたはずですが、「御茶」に関する部分、すなわち茶の湯に使われた茶亭が一体どこにあり、茶室がどのように使われていたのかなど、茶の湯の場としての解析に正面から取り組んだ論考はこれまでされておりません。
そこでここでは、現存する資料をもとに、御茶屋御殿の茶室の構造と機能を明らかにしてみたいと思います。以下に、御茶屋御殿が造られるに至った経緯を簡単に述べた後、これを茶室として見たときどのような価値があるかを検証していきます。
琉球の歴史と文化の多面性
琉球王国は、一四〇六年に尚思紹(しょう・ししょう)が中山王となったことにより始まり、一八七九年に内務大丞・松田道之が、六〇〇名の歩兵と共に首里城へのり込み、琉球処分を言い渡したことにより消滅します。琉球王国の主たる産業は海外貿易で、中国の王朝に対して臣下の礼をとり、王国が誕生してから消滅するまでのすべての期間を通して朝貢貿易を行いました。また、一六〇九年以降は、薩摩に制圧されて日本の幕藩体制にも組み込まれ、二重の支配下におかれるという特殊な立場におかれました。首里城は琉球王国の王府として、十五世紀中頃から次第に整備が進み、王朝文化の殿堂となってゆくのですが、複雑な政治背景や他国との交流が文化面にも色濃く反映し、ここに花開いた王朝文化は、日琉中の文化を織り交ぜた独自の多面性を持つこととなります。そしてその多面性は、御茶屋御殿にも反映されることとなります。
二つの離宮
琉球王朝には、南苑(なんえん)と東苑(とうえん)という二つの離宮が存在していました。このうちの東苑が、御茶屋御殿のことで、一六八三年に清の康煕帝の冊封使として来琉した王楫(おうしゅう)が、「崎山は首里城継世門の東にあり、中山第一の景勝地である」(使琉球雑録)ことから、これを東苑と命名し、以降この名で呼ばれるようになりました。ちなみに南苑は、十八世紀末頃に首里城西南方の湧水に富む高台に建造された廻遊式庭園で、識名御殿(しちなうどぅん)と呼ばれ、一九九五年に国指定名勝として復元開園されました。建築家田辺泰は『琉球建築』(座右宝刊行会)の中で、「南苑を桂離宮にたとえるならば、東苑は修学院離宮にも擬すべきものであろう」と述べ、南苑と東苑の特徴を巧みに表現しています。
御茶屋御殿の茶亭
御茶屋御殿は首里城からみると南東にあたる、見晴らしの良い丘の上にありました。『琉球国絵図資料集・第三集』(沖縄県教育委員会文化課編、熔樹社)収録の首里古地図に、一七〇〇年頃の御茶屋御殿の配置が記されているので、その位置関係をみてみることにします。まず、首里城の方から南西に向かっていくと、西向きに門があります。向かって右側の御茶屋部分には、築地塀に瓦葺きと見られる門があり、左側の苑部には透かしのある垣に簡素な木門が構えられています。築地塀の中には、赤と青で描かれた建物が三棟と、番屋風の建物を伴った内門が認められます。また、左側の苑部の門を入ってすぐの所にも、一群の建物が建っていて、御茶屋御殿が、単に一棟の御殿を指したものではなく、複数の建物と庭を持った施設であったことがわかります。
原田禹雄氏(「東苑をめぐって」南島研究38巻)は、東苑内の建物の配置について、「門をくぐった芝生の上方、苑内の一番高いところに、望仙閣という吹き抜けの木造建築があり、その後ろに、南向きに能仁堂という釈迦堂が建っていた。能仁堂から東へ行き、小さい竹の橋を渡ると岡がありながめがよく、門を入った芝生には、南向きに大小二軒の茶亭があった」と述べています。この、望仙閣・能仁堂・大小二軒の茶亭が、首里古地図に赤と青で記された建物の、どれに該当するのかはにわかに判断がつきませんが、園内東側の、門から入って一番奥の建物にだけは石垣が書き込まれていて、前出『琉球建築』に所収されている写真とその形が一致していることから、この建物が茶亭であったと断定できます。首里古地図をよく見ると、この建物は、東(右)側の、こちらに妻を向けた棟と、西(左)側の、こちらに平を向けた二棟から成り立っているように見えます。写真が残っているのは、東側の建物部分だけですが、西側の建物が、小さい方の茶亭なのかもしれません。
東苑に茶亭が建てられたのは、尚貞王(しょうていおう)の時代、一六八二年と言われています。この時代は、十七世紀の初頭に、堺の人、喜安(きあん)によって琉球王朝にもたらされた利休流の茶の湯が、尚豊王(しょうほうおう)から尚貞王に到り全盛期を迎えていた頃にあたります。東苑には、剃髪・単衣の茶道職・御茶屋当(あたい)がおかれ、王朝の迎賓館としてお茶の他にも、生け花、武芸など様々な催しの会場となり、多くの扁額や詩が寄せられ、琉球王朝の文化の殿堂としての役割を担っていたものと思われます。
御茶屋御殿の様式
御茶屋御殿と似た施設が他にないか探していたところ、福島県の会津若松市に同名の「御茶屋御殿」という建物があることがわかりました。会津の御茶屋御殿は、藩主の松平氏が別邸として営んだもので、現在は「会津松平氏庭園」として、国の名勝に指定されています。その園内には各種の薬草が栽培されていたことから、「御薬園(おやくえん)」の名で広く親しまれています。薬園は、大宝律令の職制としての薬部・薬園師から始まり、古くは平城京薬師寺などに薬園がおかれた記録があります。江戸時代には、将軍家をはじめとして、各藩が盛んに薬園を経営し、薬品の製造、鑑識、研究などを行ったようです。
会津にある御茶屋御殿と琉球の御茶屋御殿の間には、何か共通性があるのでしょうか。まず、御薬園と東苑の成立年代と構成を比較してみます。会津若松市教育委員会の資料によれば、御薬園は、一六九六年に小堀遠州の流れをくむ園匠、目黒浄定によって現在の形に整えられました。御薬園の立地に関して特徴的なことは、園内に薬師堂などが建立されたほか、庭園が付随し、御茶屋が建てられたことです。このことは、御薬園が、単なる薬草園ではなくして、将軍や藩主の鑑賞や遊興にも使用されたことを示しています。
一方、東苑の造営は、諸説ありますが、一六七七年から一六八二年頃で、その構成は、釈迦堂、庭園、茶亭などからなっています。また、後述するように、その作風には遠州の手法が色濃く感じられます。さらに、苑内には薬種が栽植されていた記録があり、国王、冊封使の歓待に使われたことは、前に述べたとおりです。こうしてみると両者は、十七世紀後半に遠州流の作風で造営され、仏堂、庭園、薬園を伴い、もっぱら貴人の利用に供されたことなど、その特徴が良く一致しています。
つぎに、御薬園の御茶屋御殿と、東苑の茶亭を比較してみましょう。御薬園の御茶屋御殿の上の間は八畳敷で、北側に一間床を構えています。その西側に次の間が、さらに北側に扣(ひかえ)の間が続いています。写真を見ると、天井も高く長押(なげし、柱をつなぐ水平材)も入って、書院造りの堅苦しい雰囲気になりそうなところですが、柱に面皮丸太(めんかわまるた、丸太の四隅を平らに削って自然味を残したもの)を使うなどして、数寄屋造りのわびた雰囲気をうまく作り出しています。座敷の回りには、広縁がめぐらされ、庭園と座敷をつなげる役割をしています。ここからは庭園のすばらしいながめを鑑賞できるようになっています。
一方、東苑の茶亭も御薬園のそれと同様、三室から成り立っています。やや北向きに西面する玄関を入った南側には、上の間とみられる床を配した七畳敷があり、時計回りに十畳半、六畳の間が続いています。ただし十畳半の部屋は、六畳と四畳半に仕切って使われていた可能性があります。これらの部屋は、広縁に囲まれており、景観鑑賞の目的を持っていたことを物語っています。つまり、両者の基本構造は、いずれも床の間を持った主室に、二つの控えの間が付随し、その回りに広縁を配していて、茶室についても特徴が良く一致しています。
御薬園が国の名勝として復元されるに際しては、会津若松市教育委員会や(財)文化財建築物保存技術協会によって詳細な報告書が残されています。これらは、東苑の茶亭の復元を考える際に大変参考になるものと思われます。また、御茶屋御殿に関して、遠州流の作風を指摘したものはこれまでになく、薬園様式という、もうひとつのキーワードと共に、新たな観点から東苑をとらえ直す必要があると思われます。
御茶屋御殿独自の工夫
『琉球建築』に、一九三四年から三五年ごろの御茶屋御殿の茶亭の図面と写真が掲載されています。また、文部省職員であった阪谷良之進も、一九三一年当時の茶亭を撮影しており、数葉の写真が沖縄県立図書館に保管されております。
これらの資料をもとに、茶亭の構造を見ていくことにしましょう。前に触れたように、東苑には大小二棟の茶亭があったようです。二つの資料にある「御茶屋御殿」の図面、写真は、このうちの大きな棟のものとみて間違いないでしょう。茶亭の外観の写真は、南東側から北西に面している建物正面を撮ったもの、北側から建物正面と向かって左側を撮ったもの、西側から建物正面と向かって右側を撮影した三枚があります。建物右側を写した写真から、南向きの傾斜地に琉球石灰岩の石垣を築き、その上に茶亭が建てられていたことがわかります。建物は、木造平屋のほぼ正方形をしており、外壁は竪板張りで、屋根は入母屋造り、明式瓦葺きです。建物左側の写真を見ると、縁側から広縁には沓脱石を使って三段登るようになっていて、床の位置が高かったことがわかります。関東平野の農家などでも、川の氾濫による浸水に備え、床の位置が高くとられている家を見かけますが、御茶屋御殿は丘の上にあり、浸水の心配はありません。この床は、高床にして涼気を取り入れる工夫です。
外壁の木板は三段に張られています。復元された南苑(識名園)の御殿を見ますと、外壁は上下二段に張られており、上半分が蔀戸(しとみど)のように外に突き上げられるようになっています。東苑茶亭の外壁では、一番上の段が突き上げられるようになっており、正面玄関右脇および建物右側部分の玄関側半分が、このような構造の壁になっています。写真をよく見ると、中段部分に一対の小さな取っ手が付けられているのがわかりますが、この取っ手を持って引き上げると、中段が取り外せるようになっています。下段は造り付けになっていて、その高さはちょうど舟の艫程度で、蔀戸を上げ中段を取り除くと、広縁から手すりに寄りかかって庭が観賞できるようになっています。
正面玄関と、左側の勝手口と見られる入口は、母屋から突出しており、庇(ひさし)を付けて軒先から柱を下ろしています。これは、識名園の御殿の玄関部分とほぼ同じ造りです。玄関部分の左右二本の軒先柱は、左側は上三分の二に袖壁を付けていますが、右側はまったくの吹き抜きになっています。これに対して、勝手口は両側とも足下まで袖壁が取り付けられています。玄関右側の袖壁を取り去ったのは南向きの眺望に配慮したためで、細かい心配りがされています。軒先柱は右側を写した写真の建物右(南)端にも見られ、建物背面の、簀縁(すのこえん)の付いた部分にも幅の細い庇が付けられていたことがわかります。
茶室に入る前には、手水を使って身を清めますが、東苑茶亭には玄関の左脇に大型の舟形手水鉢が据えられています。通常茶庭では、石の手水鉢を低く据えて、つくばって使うことが多いのですが、この手水鉢は大型で背が高く、立って使ったものと思われます。ここからもこの茶亭が、王家、国賓などの貴人用に造られたことが感じられます。
建物左側の庭に面している部分は広縁が続き、合計四組の沓脱石が据えられています。こうすれば、庭のどこからでも広縁に上がれ、逆にどこからでも庭に下りられるわけですから、建物を庭に向かって最大限開放している姿勢が感じられます。左側を写した写真では、この広縁に簾が掛けめぐらされています。また、右側を写した写真を見ると、玄関左側の簾の部分が透けていて、広縁から庭を見たときの、涼しげな光景が想像できます。さらに、左側の写真には、軒先にも簾を掛ける取っ手がみられますから、日射の加減によって、内側の簾を巻き上げ、外側に短い簾を掛けたことも考えられます。このように茶亭には納涼に主眼を置いたさまざまな仕掛けが凝らされています。
東苑七畳敷茶室の作風
小堀遠州(一五七九?一六四七)は、利休、織部亡き後、将軍家茶道師範として家光に仕えた大名茶人です。遠州は、公家的な古典美と武家茶道との一体化をはかり、作事奉行として多くの城や茶室を造営し「書院茶」を確立しました。遠州の作庭には、通常「御亭」と「御茶屋」という、二つの建物が設けられました。御茶屋は、畳敷き四畳半以上の茶座敷で、専ら貴人の利用に供し、上段、中段、下段の室を持っていました。会津若松市の御薬園でも、御茶屋御殿と楽寿亭という二棟が設けられ、御茶屋御殿は、上の間、次の間、扣(ひかえ)の間から成り立っています。また、東苑の茶亭も大小二棟があり、大きな茶亭は三室からなっていることを前に記しました。これらの特徴は、小堀遠州の作風と良く一致しています。
東苑の茶亭内の三室のうち、玄関入って右手の部屋が、上段の間と思われます。この広間は、七畳間の南側に一間の出床があります。一九三一年当時の写真を見てみますと、その様子がよくわかります。撮影時の茶室は、畳を取り外した状態であったため、写真左下隅に正方形の板の切り込みが認められ、ここから炉の位置が推定できます。炉が、床柱の方からみて半畳過ぎた先に切られています。この位置に炉を切ると、点前座が座敷の中央寄りに位置し、しかも床と平行に並んで設けられることになります。またこの炉は、亭主が茶道口から茶室に入り、そこにそのまま座って点前をはじめる「小間切」という切り方のため、書院でありながら草庵の小間の点前のような雰囲気を醸し出します。
このような間取りの茶室が他にあるかあたってみたところ、京都の大徳寺孤蓬庵(こほうあん)に忘筌(ぼうせん)という茶室がありました。忘筌は十二畳ですが、床から遠い下座側の五畳を取り去ると、東苑七畳敷茶室と全く同じ間取りになります。忘筌の作者は、小堀遠州です。忘筌には草庵風な装置や意匠は全く見られず、書院茶室様式の完成された手法で、茶の湯に適した機能と雰囲気を創り上げています。同様な間取りは、妙心寺桂春院既白軒書院、稲荷大社御茶屋一の間などでもみられますが、炉の切り方は若干違っています。
東苑の七畳敷にも、書院茶室としてのさまざまな工夫がみられます。柱や床柱には、御薬園の茶室と同様、面皮丸太が使われ、書院でありながらわびた雰囲気をつくり出しています。床は忘筌と全く同じ構造ですが、床框(とこがまち)や床柱は、忘筌のものよりより面取りが浅く、自然味を残しています。しかし反対に、床の上方の落し掛け(おとしがけ)の位置は、忘筌が例外的に低く取り付けられているのに較べ、東苑の七畳敷は高く、格高くつくられています。床脇の下が吹き抜けられているのも忘筌と同じで、床脇がそのまま点前座にとって風炉先の役割をします。天井は、両者とも竿縁天井(さおぶちてんじょう)ですが、東苑七畳敷のほうが、やや低くつくられています。この他、襖や床に張り付けられた唐紙の文様や、襖引き手の位置など、両者に若干の相違が見られますが、東苑七畳敷が復元されると、床前は忘筌にかぎりなく近い雰囲気の茶室になることが予想されます。それは、完成された書院様式の手法でつくられた茶室が、十七世紀の琉球に存在していたことを示すことにほかなりません。
茶室としての価値
これまでみてきたように、御茶屋御殿は、遠州流の書院様式にもとづいて建造されたものであり、茶亭には亜熱帯気候に順応するための工夫がなされ、一部唐様の建築様式も取り入れた独特の建物であったことがわかりました。御茶屋御殿には、なお多くの疑問が残されています。文献にある小さな茶亭の位置、茶亭の東側の小間と見られる部屋の構造、勝手口と水屋の構造、などなどは今後の研究を待たねばなりません。しかしながら、現時点でも間違いなく言えることは、東苑の茶亭が、茶室建築としてきわめて価値の高いものであり、御茶屋御殿の復元にあたっては、茶道史的な見地からも充分な検討がされるべきであると言うことです。
資料収集にご協力をいただきました、会津若松市教育委員会、沖縄県立図書館にお礼申し上げます。
(参考文献)
会津若松市教育委員会『名勝会津松平氏庭園整備基本計画報告書』会津若松市教育委員会
(財)文化財建築物保存技術協会『名勝会津松平氏庭園(楽寿亭)修理工事報告書』(財)会津保松会
沖縄県教育委員会文化課『琉球国絵図資料集・第三集』熔樹社
御茶屋御殿復元既成会準備委員会『御茶屋御殿』御茶屋御殿復元既成会準備委員会
阪谷良之進『戦前の沖縄・奄美写真帳』沖縄県立図書館
田辺泰『琉球建築』座右宝刊行会
玉城千賀子「近世琉球の「お茶」について」琉球大学法文学部1986年度卒業論文
野々村孝男『首里城を救った男』ニライ社
原田禹雄「東苑をめぐって」南島研究38巻44-53
中村昌生『京都茶室細見』平凡社
中村昌生『茶匠と建築』鹿島研究所出版会
(筆者は、気鋭の植物病理学者として国際的に活躍の傍ら、茶の湯を愛し嗜み、ながく沖縄県下に赴任のあいだに、こういう研究にも重い寄られていた。これは、貴重な言及であり、専門家たちをも裨益するものと思う。エッセイやメールの独特の温厚美というべき真岡さん達意の文章には、すでにこの「e-文庫・湖」のなかでフアンが出来ている。湖の本の読者でも。)
『細雪』の船場ことば 三島 佑一
一
『細雪』の会話の言葉は、船場ことばが使われていて、御寮人(ごりょん)さ
んや、とうさんや、こいさんの雰囲気がよく出ているといわれている。しかし一方で、そこで使われている船場ことばは決して正確ではない、おかしいと批判する人もある。
それに対して私は、そもそも大阪弁を活字にすること自体甚だ困難で、変な受け取られ方をするのはやむをえないということと、小説の会話は小説の会話として、日常会話とは区別して理解しなければならない、単純に日常会話の物差で律することはできないと考えて来た。
しかし今度、以上の点から改めて『細雪』を読み返し、点検してみたところ、いろいろ気になる所が出て来たので一文を草してみたくなった。
お断りしておくが、私は『春琴抄』の舞台となった船場道修町に昭和三年に生まれ、それから太平洋戦争の始まる昭和十六年まで維持された、丁稚(でっち)奉公、女中奉公の最後の模様を見て育った者である。
すでに職住分離は始まっていて、会社組織になりつつあったものの、それは半分くらいで、私の家など彼ら住込み奉公人と起居を共にし、大阪弁丸出しの生活をしていた。しかしそれはあくまで幼少期の感受した経験である上に、そういう旧体制のくずれて行く時代でもあった。
即ち職住分離によって、店の間から奥の、暖簾から中の上り框(かまち)から上の女の世界が、近所の居宅から、さらに空気のよい芦屋や豊中や仁川などの郊外の別荘へと移り、大阪の店舗と家族の住む郊外の別荘の関係が疎遠になりつつあると同時に、客に対する船場の言葉づかいを下の者に注意する小番頭の年代が、徴兵検査から衛生兵などとして狩り出され、その分船場以外のなまりのままの若い者が補充され、船場ことばが次第に乱れていった時代といえると思う。
しかし年輩の旦那さんや大番頭さん、それに職住同居で暖簾の内にとどまっている、お家(え)さん(姑)や御寮人さんやいとさんの女の世界によって、まだまだ昔の船場ことばは維持されていた。
私の強みはただそういう船場ことばの雰囲気に身をおいていたということだが、以後学校で教えられた標準語を使うようになって、昔の大阪弁を忘れることも多くなったので、昔の大阪弁は意識して使わないと口から出て来ない。単なる過去の自分自身の狭い経験に頼っていては、記憶も曖昧な上に、正面切って大阪弁に取組み、研究しているわけでもないから、案外誤りを犯す。したがってせいぜい年長の人々に聞き、本も読んで考えてみたい。以上のような次第なので、お気づきになった点いろいろご批判を仰ぎたいと思う。
二
まず冒頭の「こいさん」と次女の幸子が四女の末娘妙子を呼ぶ呼び方、──船場の女の雰囲気に読者を引張り込む効果はあるが、姉妹同士でこんな言い方を許容する家庭はどれくらいあったのだろうか。
なぜなら「こいさん」は小いとさんのつづまったもの、「いとさん」はいとしい人、いといけない人の意から来ているといわれ、つまり可愛らしいお嬢さんということ。したがって身内同士で「可愛らしいお嬢さん」と呼び合うのは、厳密にいえば自画自賛の滑稽な話、いとさんはもちろんのこと、いとさんの「い」が曖昧に発音されることから転音した「とうさん」も同様で、つまり「いとさん」「とうさん」「こいさん」は元来の意味から考えれば、親子兄弟姉妹の身内では使ってはおかしい言葉。あくまで他人が、身近なところでは番頭、手代、丁稚、女中、近所の者、それに訪問客などが使った。身内では自然に言わない習慣がついていた。中には親から厳しく注意された家庭もあったと聞く。
しかし『細雪』の冒頭のような言い方はしなかったかというと、そうでもないらしい。「いとさん」はそれこそ桃割れ姿のええしのお嬢さんの感がある。それに対して「とうさん」はよく耳にしたが、東京の人は「父さん」かと思うそうで、東京出身の谷崎には抵抗があったのであろう(船場では「お父さん」といっていたから紛らわしくなかった)。
その点「こいさん」は大阪独特で、語感もいい。谷崎は特にこの言葉を好んだようで、『春琴抄』でも春琴が次女で三女四女もあるのに「こいさん」と呼ばせている。『船場ものがたり』の著者で、三越の南の伏見町に明治三十年後半に生まれ育った香村菊雄氏の言によれば、「こいさん」はそんなこだわりもなく、身内でも気軽に使っていた家庭が割合あったそうである。
ただ『細雪』の場合、もう少し立ち入って考えてみると、幸子にしても雪子にしても、下がまだ生まれていないうちは、「こいさん」と呼ばれていた時期があった。下ができると周囲のものが自然に末娘の方を「こいさん」と呼ぶ。そして今までの「こいさん」が「中ちゃん」「中さん」となる。
鶴子と幸子とは二つ違い、幸子と雪子とは四つ違い、雪子と妙子とは四つ違い。したがって幸子の場合は二つのとき次ができたのであるから、自分が「こいさん」と呼ばれていたなと思う間もなく「中ぁんちゃん」に切替えられて抵抗がなかったと思うが、雪子の場合下ができたのは四つだから、「こいさん」と呼ばれた響がまだ記憶に生々しい。しかもすでに「中ぁんちゃん」と呼ぶべき幸子が上にいるから、周囲は今までの「こいさん」はそのままにして、新しくできた末娘を「小いとちゃん」「小嬢ちゃん」または「ややいとちゃん」など各家庭でまちまちだが、そんな呼び方をしたと考えられる。
しかし「小いとちゃん」「小嬢ちゃん」「ややいとちゃん」では子供のうちはよくても、大きくなったらおかしいし、新しく彼女らを知る者は、自然に妙子を「こいさん」と呼び、幸子・雪子を「幸子とうさん」「雪子とうさん」と呼ぶようになる。そんなことから妙子を「こいさん」と呼ぶようになるには少々時間がかかった、逆に雪子にとっては、妙子が生まれたからすぐ「こいさん」と呼ばれなくなったのではなく、そのまま「こいさん」と呼ばれた期間が長かったと考えられる。したがって後の方──例えば上巻二十二章で、雪子も妙子を「こいさん」と呼んでいるが、その場合、かつて自分にいわれた「こいさん」という呼び名を、今度は妹に向って呼ぶには抵抗があるはずである。「妙ちゃん」「妙子ちゃん」と呼ぶのが自然であろう。
ちなみに私の家庭の場合、私は上二人の姉には体の大小に関係なく、「大(おっ)き姉ちゃん」「小(ちっ)こ姉ちゃん」、妹には名前の上一字に「ちゃん」をつけて呼んでいた。父母も自分の娘に「とうさん」「こいさん」などとは言わなかった。
三
次にひっかかるのは一章の終り、妙子が階下の女中に、「御寮人さん注射しやはるで。──注射器消毒しといてや」と言うところである。
ここは女中の立場に立って自分の姉を「御寮人さん」と呼んでいると考えられる。親が自分の子供の立場に立つて、「お父さん」「お母さん」「パパ」「ママ」と配偶者を呼ぶのに似ている。しかし後者はあくまで一般的な呼称で、特殊な敬称はないが、「御寮人さん」という呼び方は、船場の富裕な商家の奥さんという特殊な敬称を意味している。
もっとも御寮人さんである妻が亭主を「旦さん」と呼んだり、「旦那さん呼んではるで」と使用人にはよく言った。逆に亭主も「御寮人さんは
?」と聞いたりするのも不自然ではなかった。殊に船場では番頭を跡継養子にする、いわゆる女系家族が多かったから、今まで「御寮人さん」と呼んでいた習慣が、結婚してもなかなか抜け切れなかったこともあったろう。自営業で社内で妻が夫を「社長」、夫が妻を「副社長」と呼んでおかしくないのと似ている。したがってこれが船場の中でのことなら、まだしも妙子が姉のことをこのように言うことは考えられないでもない。
しかし舞台は芦屋、蒔岡商店は船場から十二三年も前に姿を消している。しかも幸子は結婚してすぐ芦屋に住み、鶴子の場合と違って、船場の御寮人さん的存在感が薄い人である。
鶴子の場合は辰男を養子にもらったときまだ船場に蒔岡商店があり、したがって「御寮人さん」と呼ばれていたであろう。
けれども幸子の場合は、夫の貞之助が計理士で、船場の今橋に事務所を持っていたとしても、使っているのは、旦さん、亀吉トン、お梅どんなどと呼んだり呼ばれたりするのでもない男女の事務員であり、幸子もあまり事務所を訪れることはなかったようである。その辺のことは一切書かれていないから、幸子と船場との関係は希薄である。
ただ、御寮人さんとは寮即ち部屋つきで女中つきのまま婚家へ嫁ぐ人という意味といわれているから、本家の女中が分家へ行って「御寮人さん」と呼んでその呼び名を温存した。または本家へ幸子が来たとき、本家の女中たちは「幸子御寮人さん」と呼んだであろうから、そういうところで呼ばれていたことは考えられる。
しかしまだ十八の女中のお春どんは三年前の十五のとき、ということは蒔岡家が船場を去って七年後の芦屋の分家に奉公に来たのだから、船場の空気を全然知らない。しかも彼女が一番上の女中のように書かれている。だからほっておけば彼女らの口から、「御寮人さん」という言葉が出て来ることはないはずである。
とすれば、幸子や雪子や妙子が、かつての船場の大店(おおたな)蒔岡商店の衿持で、「御寮人さんと呼ぶようにしなさい」と躾けたということになる。現にここでも、普通はわざわざ「御寮人さん」と言わなくても、「はる」という大阪弁の敬語を使っているから誰が注射するのかわかるし、妹の立場から姉を「御寮人さん」と口にするのはちょっとためらわれるところ、だから省いて言うはずである。
こういうところが小説的会話で、「御寮人さん」を使うことによってその辺の事情を示唆しているともとれるし、殊更使わなければ消えてしまうほど、船場における蒔岡家の残影がかすかになっていることをうかがわせているともとれる。
さらに今一歩突っ込んで考えるならば、谷崎は久保一枝という実際に使った女中を「お春どん」として小説世界にそのまま持ち込むことによって、作品にリアルな息吹きを吹き込もうとした反面、実生活とフィクションの世界を混乱させたともいうことができる。
幸子を「御寮人さん」とお春が呼んでいるのは、モデルの松子が歴とした船場の大店根津商店に嫁した御寮人さんだから、つい安易に重ねあわせてしまったといえなくもない。
また松子の妹の重子や信子は、松子が「御寮人さん」とよく言われているのを耳にして来たから、自分らも「御寮人さん注射しやはるで」というような言い方も口から出やすかったと思う。谷崎も高嶺の花と仰ぎ見ていた根津松子夫人を自分のものにしたのだから、船場の御寮人さんという崇敬の念を持ちつづけて、妻の松子を見たかった、重子や信子も引取ってそんな雰囲気の中で生活した。そんな実生活の舞台裏が、こんなところについ顔を出したと見ることもできる。
四
逆に船場の令室令嬢というイメージをもっと自然に出せるところとして、最初の見合の相手瀬越を斡旋する井谷の言葉がある。
井谷は幸子がよく行く神戸の美容院の女主人で、弟は九章にあるように大阪の鉄屋国分商店に勤めているし、その国分商店の常務を瀬越との見合の介添役にしている。だから幸子や雪子を世間一般のと、「奥さん」や「お嬢さん」と言うより、「御寮人さん」「嬢(とう)さん」と呼んだ方が、彼女らの心証をよくすることはわかっているはずである。しかし見合の席での会話にそれが出て来ないというのは、幸子や雪子に船場を意識していないということで、こんなところにも過去の大店の影がもはや薄らいでいることを暗示しているともとれるし、そういうことを谷崎が示唆しているともとれる。
逆にモデルの松子・重子・信子たちがそういうふうに見られていたことが顔を出しているのかもしれない。
同様のことは二十二章で本家の辰雄家族が上京するのを見送った駅で、辰雄の大学時代の同窓で、辰雄が蒔岡家へ来た当座、終始遊びに来た関原という男が、五、六年ぶりに海外出張から帰って来て、妙子を呼び止めた会話にも出ている。彼は妙子には「こいさん」と言いながら、幸子のことは「幸子ちゃんは今夜は
?」といっている。幸子が婿養子をもらったことは知っているようだから(ただしその婿養子の貞之助も見送りに来ていたことは知らなかったようだが)、こんなところでさりげなく「幸子ちゃん、御寮人さんにならはったんですね」という言葉を入れると、船場との結びつきを読者に印象づけることができるのだが。そうしないということは、ここでも蒔岡家の分家の船場の影が薄くなったことを諷しているのかもしれない。
五
次に気になるのは上巻六章の「姉ちゃん、こいちゃん、いってらっしやい」。八章の「有難う、姉ちゃん」というような、標準語を使う悦子の言葉づかいである。もしも悦子が船場の中に住んでいるか、船場の小学校に通っているならば、「お早うお帰り」「おおきに」という船場言葉が出るはずである。
当時は今日と違って越境入学はやかましくなかったので、船場の中の小学校は、甚しいところは半分くらいが校区外の越境入学、芦屋などの郊外から通ってくる児童も珍しくなかった。ただしそういう児童は店が船場の校区内にあるので、低学年なら女中なり丁稚なりが別荘と学校間を送り迎えして、下校後ちょっと店に立ち寄って父や母の顔を見て帰る。都合によってそのまま店の奥にいて、父や母と一緒に郊外の別荘に帰るというようなこともあった。
蒔岡家の場合は店がもう船場にないのだから、悦子は地元の小学校に通うほかない。したがって芦屋の小学校友達の言葉になじむのは自然の勢いではある。
しかし前述したように、芦屋は船場の商家の暖簾から中の上り框(かまち)から上の女の世界が、職住分離によって居を移した所といってよいから、そしてそういう人達は船場ことばを最高のものとして誇りに思う意識が強かったから、この蒔岡家の分家のように、「御寮人さん」「こいさん」という呼称を、疾(と)うに船場とは縁が切れているのに使い、芦屋の中で船場という城を固守しているのである。
芦屋は大阪よりむしろ神戸に近いし、ほっておけば兵庫や神戸なまりの言葉に感化される。しかしそういう言葉のなまりに染まらぬように、蒔岡家の人たちは船場ことばを堂々と駆使し、そうすることによって船場の人間であることを自己確認しているのである。
したがって悦子が「いってらっしゃい」「有難う」という標準語を使うのは、それだけ世代も若く、貿易港神戸に近く、ハイカラな近代的な気分が入っているともとれるが、「お早うお帰り」「おおきに」で取り囲まれて暮らしている船場の人間が耳にすれば、何か親しみが薄い違和感を抱く。子供は学校ではともかく、家の中では大人たちの使っている方言の方に感化されて、教科書的なとりすました標準語は意識してしか使わない。現に悦子は、「そうやろ」とか、「いかんねん」とか、「やってんなあ」とか、妙子叔母を「こいちゃん」と、皆が呼んでいるように呼んでいる。その点、こういう言葉が悦子の口から出たとき、船場の城を守ろうとする幸子や雪子が聞きとがめて、「えらいかしこまった言葉づかいするんやなあ」とか、「学校では皆そないな標準語で挨拶してんのんか」とか、一言あってしかるべきだと思うのだが。
香村菊雄氏の言によれば、船場ではたとい楽しい会話がはずんでいても、お家(え)さんや御寮人さんが、「そんな汚い言葉づかいしたらいきまへん」とぴしっとその場で注意するので座が白けてしまうほどだったというし、番頭も店じまいをしてから、今日のあのときの客に対する言い方はいけない、亀吉トンはまだ国なまりが残ってるなどと、丁稚たちに今でいう話し方教室をひらいていた。そういう光景が晩方表通りを通ると、よく聞えて来た。ものを言えば何か言われるので、もの言わずの丁稚や女中があったほどだとか。
とすれば次のような悦子の言葉づかいを、母親の幸子はなぜ注意しないのであろうか。
上巻二十六章で、幸子が妙子に電話をかけている悦子に、
「こいさんになあ、暇やったら姉ちゃん迎いに行ったげ、言いなさい」という。それを受けて悦子が、
「あのなあ、お母ちゃんがなあ、こいちゃん暇やったら迎いに行ったげなさいて」という。
ここで悦子が単純に母親の言葉を反復して妙子に伝えればよいのに、母親もいっていない「なさい」という命令形を妙子にわざわざ使っていることである。母親の幸子はすかさず、いくら身内でも年上の叔母にそんな言い方をしてはいけませんと注意しなければいけないところである。これは船場ことばとは関係のない、一般的な対人会話用法であるが。
ついでにいえば、上巻八章で幸子が娘の悦子のことを、「お春どん、あんたお嬢ちゃんに、何ぞ今日のこと云うたんか」「あんた、お嬢ちゃんにいつ云うたん」と言っているのもおかしい。自分の娘だから「お嬢さん」とは言わず、「悦子」と呼ぶべきであろう。しかしここも小説的会話で、殊さら悦子をええしのお嬢さんに見せる効果をねらってのことかもしれない。が、同じいうならいっそ「とうちゃん」を使う方が、船場のお嬢さんという雰囲気がより出るであろう。
ここへ来て気がついたことは、貞之助や幸子や雪子や妙子の会話の中に、「お早うお帰り」や「おおきに」が使われていないことである。これでは悦子が言うはずがないし、大人が注意するはずもない。
日常会話は一過性で、つい言い間違いや余計な言葉や失礼な言葉が口をついて出て、しまったと思うことがあるが、小説の中の会話は、谷崎の場合など一日三枚のペースでじっくり推敲して作り上げたものである。したがってそれなりの意味を考えるとすれば、谷崎潤一郎は大阪の人がよく使う「お早うお帰り」や「おおきに」をあまり好まなかったのであろうか。それとも今日大阪の人がこれらの言葉をほとんど使わないのから照らしてみれば、谷崎は蒔岡家の人々に時代を先取りさせたと考えるべきなのであろうか。
「細雪」と船場ことばについては、さらに時間をかけて考察してみたいと思っている。
(「大阪春秋」第八十五号 平成八年十二月二十五日発行(季刊) 所収)
『細雪』の船場ことば (続)
一
私は四年前、本誌八十五号に「『細雪』の船場ことば」と題して書いたことがある。
その末尾に、「さらに時間をかけて考察したいと思っている」と記したものの、続編は細部の異論も出るような問題なのでそのままでいたところ、今回特集「なにわことば」の一部として依頼を受けた。そこで、他に気づいたことを採りあげてみることにする。
前回同様、あらさがしをするようなことになるので気がすすまないが、そもそも『細雪』で使われている船場ことばはおかしいのではないかという声を、まま耳にしたことが動機になって、個々に検討を始めたのだから御容赦願いたい。また今回はいやそうではないということもあるように思うので、御意見をお聞かせいただければありがたい。
前回お断りしたように、私は昭和三年(一九二八)船場道修町の薬問屋に生まれ育ち、幼少時代は大阪弁丸出しの生活をしていた。それだけの体験を基にするのだから、強みもあるが危険もある。危険というのは案外思い込みもあるし、忘れてしまって間違いをするからである。
ただ前回本誌に書いたことが機縁になって、四天王寺国際仏教大学で、大学短大総合の特別研究講座「大阪ことば」を開くことになり、『細雪』の講義もして、少しは勉強した。が、その程度のことで、決して専門に大阪ことばにかかわっているものではない。
二
まず妙子が幸子に言う会話。
「そんな会社の名、私(あたし)は聞いたことあれへなんだ」「何で四十一まで結婚しやはれへなんだやろ」(上・一=上巻第一章の略)など以下たびたび出てくる「へなんだ」は、「へん」(打消)に「なかった」(打消の過去形)が結びついて「ん」が略され、「なかった」が「なんだ」になまって、しかもただの打消の過去形というややこしい成立ちをもつようだが、聞いたところでは、普通は「へんなんだ」「へんなんだんやろ」とさらに「ん」を入れて言っていたらしい。が、私の小さい頃、昭和十年代前後で、私たちの世代ではもうあまり使わなくなっていたことに気づく。
『細雪』は昭和十一年秋から十六年春までの時代設定だが、大人は言っているのを耳にしても、子供は「へんかった」と、もとの形のうち「な」を省いた歯切れのいい言い方をしていた。意味は違うが、丁稚や番頭や旦那衆が「それ、なんだす」と言っていたのに対し、子供は「それ、なんや」「なんやの」などと言った。濁音が何となく古臭く感じられるので、死語になって行ったのであろう。
もっとも小学生の悦子が、「来なんだの」(下・二)という言い方は、「来んかったの」とともに使ったように思う。他に「知らなんだ」「食べなんだ」なども、「知らんかった」「食べんかった」が主だが、使ったように思う。
次に気になるのは、前例の「結婚しやはる」などのなくてもいいところに入れる「や」。「あの人、昨日またやって来やはって」「云やはるねんが」「承知してほしい云やはって」(上・四)など。やはり幸子と妙子の会話であるが、この「や」は、女の子が「あの子、こんなことしやはるねんし」と「し」を末尾において強調し、いけず(意地悪、あてこすり)ことばとしてよく耳にしたので、何となく下品に感じる。
「何で西宮へ家を持ちゃはったん」「死にゃはったんやったわなあ」(下・九)のように「ゃ」を小文字で書いて、軽く含ませる発音だと下品には聞こえない。実際は下品に聞こえない言い方をしているのだろうが、以下たびたび大文字で書かれていると、そんなふうにもとれてイメージがこわれる。表記がむつかしい。
「なさい」という、下に丁寧語の命令形「ませ」の省かれた形と考えるか、「なさる」自体の命令形とも考えられる使い方も気になる。元来は尊敬語であるものの、船場界隈では通常先生が生徒に、大人が子供に向かってなどに使い、上の者に対しては使わない。
したがって妙子が姉の幸子に、「これにしなさい」「ま、うちの云う通りにしてみなさい」(上・五)「これ着けなさい」(上・十二)などの言い方は、「これにしたら」「うちの云う通りにしてみ」「これ着けたらどう」というような勧誘表現にするのが普通である。
「中姉(なかあん)ちゃんと雪姉(きあん)ちゃんで呼ばれて来なさい」(下・二十九)という妙子の言葉も、よそ行きの言葉では「呼ばれて来て下さい」、普段着の言い方では「呼ばれて来て」で切って、命令形にしない含みをもたせた表現をする。
また悦子が母に、「こいちゃん何で家(うち)へ連れて来(け)えへんの。早う引き取ったげなさいな
!」(下・十九)は、「引き取ったげてえな !」と、ねだる口調になると思う。
「ごらん」もさらに尊敬の意を含んでやわらかいが、「なさい」が省略されているからやはり標準語の間接的な命令形。したがって「これしてごらん」「中姉ちゃん、息してごらん」(上・五)などは、「これしはったら」「息しはったら」と尊敬語「はる」を使って「ごらん」の尊敬の意を出すか、もっと気軽に「これしとおみ」「息しとおみ」というような言い方もする。
これは神戸の方から入って来た女性ことばで、牧村史陽『大阪ことば事典』によれば、「シトォ=シトオクナハレ(してちょうだい)の約」とあり、それに「してみたら」の意が加わったものと解されるから、やさしく言えば敬意が生じる。が、一方では単に「している」「しておる」がちぢまって「してる→しとる→しとお」になった形とも解されるので、時にぞんざいにも聞こえる。
「あんたはとにかく、何も持たんと話だけして来なさい」(上・十四)、幸子が夫貞之助にいう言葉も、「来たらええ」または「来とくれやす」というところ。「やす」は「遊ばせ」に当たる。同じく「もう止(や)めなさい」(上・二十)は、「止めとき」「止めといて」「お止めやす」、命令形にしても「止めときなはれ」と敬語「はる」を使う。標準語で言うなら「来て下さい」「止めて下さい」となる。同じく「(雪子ちゃんやこいさんに)晩は何ぞ奢(おご)りなさい」(中・二十七)は、「奢って上げたら」から「奢ったげて」になり、略して「奢ったげ」になるところ。お見合いの席で幸子がボーイに、「お隣へ少し葡萄酒を注いで上げて」(上・十一)といっているように。
貞之助が妻幸子に、「明るい所(とこ)へ来てみなさい」「臥(ね)てなさい」(上・二十)と言うのも他人行儀の感じで、「来てみ」「臥て」で止めてしまう。
三
女中のお春が、あまりにも折目正しい標準語で敬語を使っているのも気になる。敬語は使う人自身の人柄や品位をかもし出す性質を持っているから、女中のお春が立派に見える。
「奥さんに申し上げてくれおっしゃっていらっしゃいます」(中・六)、「シュトルツさんへお茶に呼ばれていらっしゃいました。もうお帰りになる時分でございますけど、お呼びして参りましょう」(中・十)、「これからこちらの御寮人(ごりょん)さんがお伺いしたいとおっしゃっていらっしゃいますのんで、私がお供して参ります。旦那様からお手紙が参っておりますのんで持って参りますが、ほかに何ぞ持って参りますものは
?」(中・十七)、「六時半頃と存じますが」(中・三十五)とか。
ところがこのお春は「幾日でも垢だらけのものを平気で着ている」「中から御寮人様のブルマーが出て来た」「洗濯するのが面倒臭さに、お上のものまで穿(は)いていた」「傍へ寄ると臭くてたまらぬ」「始終買い食いや摘(つま)み食いをする」「素質が悪く、学校の成績なども弟妹に比べて著しく劣る」幸子は「何せ、だらしないことというたら、あの着物の着かた見たかて分るやろ。お春どんは前も何も丸出しにしてるいうて、ほかの女中たちが笑うたもんやったけど、今かてちょっとも直ってえへん。生れつきいうもんは何ぼ叱言(こごと)云うたかてあかんもんやなあ」と愚痴っている。しかも、まだ二十歳、そんなお春の言葉とはとても思えない。
それから「は」の返事も標準語的で、「へ」「へえ」がないのも船場の雰囲気からお春を浮き上がらせている。
昔は丁稚奉公したら「はい」ではない「へえ」と返事せよと旦那や番頭から教えこまれた。女中も例外ではない。いわば四六時中大阪ことばの話し方教室の中にいるようなもので、お家(え)さん(姑)、御寮人さんは両方の個人教授であった。なまりの強い地方から来た.者は大阪弁になじむのがたいていでなく、たとい仲間と談笑していても容赦なく注意されるので座が白け、もの言わずの丁稚や女中になったといわれるほどである。とすると、このお春の標準語の敬語の言葉づかいは誰が教えたものか。芦屋で、船場の雰囲気を存分に発散している蒔岡家の人たちの中で、標準語の優等生が一人いるようで不自然である。
したがって、例えば「はあ、わたくしが出て参りました時はいらっしゃいました……」(下・二十二)は、「へぇ、わてが出て参(さん)じました時はいたはりました……」と、「わて」や「参じ」を使うように教えられるはずである。「参じ」は「参上する」武家ことばだが、船場では「行(い)て参じます」というのがメリハリの効いた挨拶ことばであった。
四
『細雪』は帯が「キュウキュウ」鳴るので、あれこれ帯を結び替えるところから始まるが、その頃着物の柄選びによく使われた「はんなり」とか「こおと」とかいう言葉が、全く出て来ないのがふしぎである。
「それ、似合うやろか」(上・五)の次に、「派手やないやろか」とか「ちょっと地味と違う
?」とかあっていいし、それに対し「これでええ、これでええ」の次に、「はんなりしててええ」とか、「こおとで品があってええ」とか、あっていいところである。
また、「雪子ちゃんの年で、あれだけ派手なもん着こなせる人はあれしませんで」(下・二)の次には、「派手は派手でもはんなりしてよう身に合うたある」と一言ほしいところである。
なぜなら「派手」は、「派手なお人や」「ちょっと派手すぎへん
?」と否定的に使うことが多かった。
これは派手は成金と結びついて、船場は成金に見られることを嫌ったのと関係がある。ちょっと金ができたからといって派手にふるまうのを成金根性といって蔑んだ。暖簾分けさせてもらった本家を立てて、たとい急成長して本家をしのぐようになっても、分家別家は本家以上に出ることを慎むという風があって、派手は「はしたない」と見られたからである。また栄枯盛衰は世の常であるので、成金になったからといって有頂天になってひけらかすのを自戒したこともあった。
そこで「はんなり」した派手が好まれた。「はんなり」は「花なり」と「ほんのり」が結びついたような言葉で、上品な、やわらかいはなやかさをいう。「こおと」も「高等」から来ているといわれ、世間では「地味」と片付けられているようだが、やはり上品でシックな地味をいい、「派手─地味」、「はんなり─こおと」あるいは「派手─はんなり─こおと─地味」という図式が考えられ、それぞれ単なる派手や地味とは一味違った。
共によい言葉なのに戦後使われなくなったので、せめて『細雪』の中にあったら生きつづけるのにと残念である。敗戦のどん底で「はんなり」も「こおと」も死語になったのはわかるが、経済大国になった今日では、これらの語のもつ洗練された雰囲気がまた復活しているから、言葉も復活してよいと思うのだが。
妙子の言葉で「よばれてめえへんか」(上・十六)は、表記すると下品に感じる。「みませんか→みまへんか→みいひんか」s音がh音に変わってseがheになるのは大阪弁の特徴で、「mima」のm音が脱落しa音がi音に変化して「mii」になった形だが、この方がまだしもという感じもする。「めえへんか」は「見えた見えた」が「めえためえた」に転じたところからできたと思われる。今も使っている言葉で、日常会話では別に気にならないのであるが。
「食う方やったら」(上・十七)という貞之助の言葉づかいも蒔岡家らしくない。「食べる方やったら」と言ってほしい。
「大阪弁使うてくれなんだら、どこの子たちやら分らへん」(中・十四)と雪子が東京の姉の子供に言うのもおかしい。「良うできた子たちをお持ちで」などと、「子たち」は船場の慣習ではよその家の子供にいう一種の敬称で、ここはやはり身内扱いで「どこの子やら分らへん(複数でも単数で)」とするべきであろう。
作者が苦慮したと思われることに、それぞれ自分をいう場合の呼称がある。妙子だけ「うち」、他の姉たちは「あたし」、悦子は「悦子」と使い分けされている。これらは各家庭でさまざまだし、妙子の場合も最初に引用した箇所のように姉妹間でも「私(あたし)は聞いたことあれへなんだ」と言い、姉夫婦が上京する際、見送りに来た老妓や義兄の学友には「あたし」と言っている。
「うち」は今でも妻が夫のことを「うちのひと」とよく言っているから──もっともこの「うち」には「家」の意味も含まれているが──、現実には場合によって姉たちも「うち」を使うこともあると思うし、悦子は学校と家の中では使い分けしているから、他の言い方も出て来ておかしくない。が、小説の中では混乱が生じる恐れがある。これも文字化する上のむつかしさである。
船場では御寮人さん・いとさんも「わて」という風習があった。しかし文字化すると品が下がるようにも感じられるので、せめてお春の場合に「わて」を使うと、より船場の雰囲気が出るのではないかと思うのだが。
最後に、当初から不審に思っていた「中姉(なかあん)ちゃん」「雪姉(きあん)ちゃん」という呼び方は、やはり船場では言わないようである。「ゆきあんちゃん」が詰まって「きあんちゃん」に聞こえたと説明してあるが、「あんちゃん」に結びついて語呂がよいのは「き」音ぐらいしかないのでないか。「中あんちゃん」も特殊な言い方で、一般には「中さん」「中ちゃん」と言っていた。とすれば「細雪(ささめゆき)」といい、「雪(き)あんちゃん」といい、谷崎は素晴らしい言葉の発見者といわなければならない。
東灘岡本の谷崎邸への出稽古に父菊原琴治検校の手を引いて行った菊原初子氏は、「松子奥さんとせんど(長く何度も)船場ことばで話している間、谷崎先生は隣の部屋の戸の側でずっとお聞きになっておいでやしたそうで。あとから知って、そおでっか、そないにしてお勉強されてやしたんでっか。それで『細雪』で、きれいな船場ことばを上手に使うておしやすのんですなあ」とよく話されている。大阪弁を活字にして文章にするのは敬遠される風潮の中、『細雪』には堂々と船場ことばが登場するのは千金の重みがある。
(「大阪春秋」第101号 平成十二年十二月十九日発行季刊 所収)
(筆者は、四天王寺国際仏教大学教授。船場大阪を語る会会長。大阪船場という地の利もさることながら、深い考察で谷崎学に優れた業績の多いお一人。特にお願いしてご寄稿戴いた。)
百姓名を読む 中世のイメージを求めて
森 秀樹
近世初頭の百姓の名前には、中世の雰囲気を残す官名などの名残りが多く見られ、兵農がまだはっきりと分離していなかった時代のイメージをつかむことができます。とりわけ関東の太閤検地帳、徳川検地帳には、俗に「関東の百官名」と呼ばれるほど、バラエティに富んだ八省百官の官職名が登場してきます
官名のたくさん出てくるたいへん興味深い例として、文禄四年(一五九五)乙未霜月二日の「下岡本村検地帳」(栃木県河内町下岡本・五月女久五家文書)からその名前を拾ってみることにします。土地台帳とも言うべき検地帳は歴史的にとても大切な記録なのですが、ふつう見ただけでは、味もそっけもないような古文書(帳簿)で、字面からはなかなか往時のイメージがわいてこないものです。しかし、読みかたによっては、想像力と推理力を働かせてくれる恰好のストーリーにもなりえますし、土の匂いがつたわってくることもあります。
*検地帳からの名寄せ
1 国府(守)名 (国の等級─上・中・下─、遠近─遠・中・近─は「延喜式」による)
1 丹波(京都府。上国、近国)
2 備後(広島県。上国、中国)
3 因幡(鳥取県。上国、近国)
4 若狭(福井県。中国、近国)
5 河内守(大阪府。上国、近国)
6 豊後および豊後守(大分県。上国、遠国)
7 さとの守および佐渡守(新潟県。中国、遠国)
8 淡路守および、あわち(兵庫県。下国、近国)
9 対馬守および、つしま、つし満(長崎県。下国、遠国)
10 丹後(京都府。中国。近国)
11 讃岐守(香川県。上国、中国)
2 官職名 (大宝律令、養老律令一令制一に規定された制度にもとづく官制は、律令国家が形骸化した後も、京都の宮廷に存続した。)
1 兵庫(兵庫寮 : 兵器の監理及び儀杖をつかさどる役所)
2 雅楽亮(=うたのすけ。治部省に属する、歌舞を教習する雅楽寮の次官一亮一)
3 内蔵助(=くらのすけ。中務=なかつかさ省の内蔵寮の次官一助―。金銀、珠玉、宝器を管理し、供進の御服、祭祀の奉幣をつかさどる役所)
4 監物および、けんもつ(中務省、大蔵、内蔵などの出納をつかさどる職)
5 雅楽丞(=うたのじょう。雅楽寮の判官一じょう―)
6 たちわき(帯刀=たてわき。または、たちはき。東宮職、舎人の中から武術にすぐれたものを皇太子の警衛に当て、特に帯刀させた。)
7 大学助(=だいがくのすけ。式部省の中、官吏養成教育機関の大学寮の次官)
8 内記(=ないき。中務省。詔勅、宣命を起草、奉行し、宮中一切の事を記録した官。能文、能筆の者が選ばれた。)
9 蔵人(=くらんど又は、くろうど。蔵人所の職員、天皇に近侍し、伝宣、進奏、儀式、その他の宮中の大小の雑事をつかさどる役所で名誉の職とされた。)
10 玄蕃(=げんば。玄蕃寮。治部省に属し、外国使節の接待、送迎、仏寺や僧尼の名籍をつかさどる役所)
11 もんと(主水=もひとりの司=つかさの略。宮内省の被官。水、粥、氷室の事をつかさどる役所)
12 右京亮(=うきょうのすけ。右京職の次官。京職=きょうしき、は京中の戸口、田宅、訴訟、租税、道路などの事務をつかさどる役所。左京職、右京職に分かれていた。)
13 左京亮
14 内膳(宮内省に属し、天皇の食事の事をつかさどる役所)
15 たくみ(内匠寮。中務省に属し、禁中の器物、工匠の事、殿舎の装飾をつかさどる役所)
16 はやと(隼人。兵部省に属し、宮門の警衛にあたった。つわもののつかさ)
17 将監(=しょうげん。近衛府の判官。皇居を警衛し、行幸には供奉警備した武官)
18 主膳(東宮坊の被官。主膳官 : 皇太子に奉仕、御饌を調達し、試食をつかさどる役所)
19 修理亮(=しゅりのすけ。修理職。令外の官司で、内裏の修理・造営をつかさどった。おさめつくるつかさ)
20 げき(外記。八省諸司および諸国の元締めたる太政官=だじょうかんの主典。小納言の下で、太政官の記録や公事=くじ、をつかさどる官。四等官の最下位)
21 かげゆ(勘解由使=かげゆし : 国司などの交替の時、後任者から前任者に交付する文書─解由─を審査した職)
以上のような百姓の官名を少し難しい言葉で「官途名」といい、その官途名がついた経緯を「官途成」といっています。中世では村内の有力農民が、儀式を経たり、「官途状」をもらうなどして官名をつけていったことも考えられるようです。また、もともとは、先祖がその職についたことを名誉として名前をもらったのでしょうが、平安初期頃の古い時代から、官職や官名が金銭で売られていたという記録も残っています。そして、時代とともに、台所の苦しい朝廷が官名の大安売りをしていき、中世のある時点では(これはもちろん、地政学的な条件によって個々の村落の事情は違いますが、)かなり官途名が一般化そして次第に形骸化していったのではないでしょうか。
ただ官途名(他に、太夫成、権守成という言葉が学術的にはあります)が一般化していったにしろ、その名前のステータスシンボル的な意味合いが大きいならば、名前を持つことで、村落での有力者たる肩書以上の重みがあったのかも知れません。また、いわゆる武士的な名前(官名)を持つ者の、村落での武士的な役割を何か意味しているかも知れません。ただ、今とりあげた太閤検地帳の時期は、すでに戦国期を終え、兵農分離がかなり進んでいた背景があり、そこら辺は確かではありません。
もう少し突っ込むならば、各人の名前をまとめ(名寄せ)、名請け地の耕作面積をだしてみなくてはなりませんが、おおまかに見回したところでは、官名を持つ者の優越性は立証できないように思えます。反対に、もし官名を持つ者の耕作地が少ない場合は、半農半士的な性格の百姓が農事を離れつつあった、という経緯として考えられますが、いずれにしろ、前後の時代の同村の百姓名を調べてみなければならないでしょう。そして、この村の場合、官名の占める割合がかなり大きいので、官名を持つ者を有力者(地位、財力)、特権階級として判断することはできないわけですが、一方、官名を持つ度合が大きい村全体としてのイメージの方がおぼろげながら見えてくるかも知れません。
それと、もし調査を続けるなら、大体同時期の近隣地域の百姓名を採集し、比較検討する必要も生じてくると思いますが、これは、文書記録の保存の状況からいって至難の技ではないでしょうか。
3 衛門名 (衛門府。宮城門をまもり、出入りを巡検する役。左衛門府、右衛門府に分かれている。この衛門からでた名前は、近世の百姓名の中心的在在となっていく。)
* 源左へもん(頭に、源氏からでたと思われる源がつく。)
* 八郎へもん(衛門プラス排行型) * 八郎左へもん * 太郎右衛門(衛門プラス排行型。もともと右衛門の長男・太郎だが、形骸化していった。) *
刑部左衛門(刑部省一刑罰、訴訟をつかさどる役所─プラス衛門。官名のダブリ)
4 兵衛名 (兵衛府。左右があり、内裏の守衛をつかさどった。これも近世百姓名に多い。)
*助兵へ(助兵衛、助は次官の意味) * 源兵へ(源兵衛)
5 排行名 (太郎、次郎、三郎のように出生の順位を示す。中世、近世で最もポピュラーな名前)
* 六郎次郎(次郎の六男)三郎五郎、四郎三郎、八郎三郎(この排行ダブリ型は近世初期まででほとんどなくなる) *
又三郎、助三郎、喜四郎、喜六郎、新三郎、藤四郎(藤は藤原の藤か)、助二郎、源二郎、源三郎、彦六郎(六郎の彦(孫かひまご))、弥五郎、助十郎、彦太郎
6 排行名プラス官名 (一部3に重複する)
* 八郎へもん(出生の順位プラス官名)、さへもん二郎、右衛門三郎、さへもん五郎、孫へもん、孫さへもん、弥さへもん、弥へもん
7 排行の略称 (氏あるいは官職名の下に排行を付ける場合は、郎の字を省く風習よりおこった)
* 助六、藤六(藤原の藤か)、藤七、新六、彦七、弥七
8 僧名または寺名
* 小里坊、真龍坊、長伝坊、持宝坊、しか房、善行房(房のつく名は移動もする修行僧か)
* 吉祥院、宝連院 * 禅門 * 道明、道満、道妙、道珍、道森、道清(この道のつく名前が多いが、僧の数としては多すぎるので、武士的一族の実名かもしれない。) *
満足(これも、僧名とも実名ともとれる。)
百姓は、南北朝頃までは、名(うじな)、仮名(けみょう・通称のこと)、実名(じつみょう)をもっていて、武士と同じような名前の付けかたであったといいます。そして、その後官名が仮名としてひろくつかわれるようになっていきました。また、江戸時代の百姓は公的な文書では苗字・実名を名乗ることは許されていなかったわけで、今日(こんにち)目を通せる文書はすべて仮名といってもかまいません。ということは、記録に残る実名(例えば、西郷吉之助隆盛の隆盛の部分)がないということで、どの程度実名(源平藤橘(げんぺいとうきつ)に代表される氏名(うじな)も含め)が日常生活で普及していたかは定かではありません。ただ、近しい間では、幼名とか、小字(こあざ)、地字(ちあざ)、仮名または仮名の略称(またはニックネーム的な通称)で呼び、村役など地位があるものに対してはその役職名で呼んでいたことが多いと思われます。また、実名が使われたケースとしては、筆者の確認した範囲では、実印(判子)の印文(図案化した実名)か、日記、覚書などの私文書以外にはありません。
*中世の村を想像する
この下岡本村(中世の岡本郷)は高一千石以上の大きい村で、官名(官名の転訛は除く)を拾いだすと、名請け人総数一五〇人として、ほぼ五分の一近くの数になっています。また官吏や国守(国府はみな関東以西)があれこれ登場し、一つの村で国の行政機関がある程度そろってしまうにぎやかさです。まるで独立国のようでもあります。……このにぎやかさはどこからくるのでしょうか。
*関東百官名を考える
今までに、下野、上野、武蔵、安房、上総、下総の、天正から慶長、元和期頃までの検地帳を少しずつ調べていますが、確かに他の地方に比べて官名が多く見られ、俗に関東の百官名と言われたこともうなずけます。それでは、近世初頭の関東の百姓名に官名が多くあった理由は何なのでしょうか……。
◆秀吉の刀狩り、検地も西に比べ遅く、規模も小さかった。ということは、兵農分離をポイントとする中世から近世への最終的脱皮が遅れた、ともいえます。
◆これは、秀吉の関東平定、奥羽平定の時間的推移をみても分かります。東北の検地帳はまだ調べていないので分かりませんが、官名が関東よりは少ないにしろ、同じような傾向が見えるはずです。
◆官名が多いということは、武士的な存在(戦(いくさ)に備える士たち)が多かった、という推測も成りたつはずです。そして、西の新しい統一政府の意に対して、戦う姿勢、抵抗する気構えが充分残っていた、ともいえます。天下が統一されたといっても、秀吉の政策の徹底は関東では、まだまだおぼつかなく、刀狩、検地に際し相当の精神的抵抗にあい、妥協している事も多くあったのではないでしょうか。
◆時代も、朝鮮出兵の文禄の役、その後の慶長の役、関ヶ原の合戦、大阪の陣など激しく動いており、武力による村落の自衛権は必要とされていたと思います。
◆坂東はもののふの国であり、戦う農民、耕す兵士の伝統は続いていたと思われます。
◆関東(特に北関東)は、歴史的にみても中央から離れた辺地であり、中央に対する特別の感情、官尊とか貴種への憧憬が強かった、という別の見方もできます。
◆その後、17世紀の中頃(寛永の終わり頃)には、官名も殆ど消滅または変化していくようです。これは江戸幕府も落ち着いてきて、江戸に近いこともあり、百姓要素が安定し、武士的要素がなくなっていった結果かと思われます。
多少とりとめのないまま、推論をすすめてみた次第です。
──SEIKEN BUNKO 所載──
(筆者は、日本ペンクラブ会員、作家で、またじつにユニークに広範囲な視野と深い視線をもった日本学者である。この稿なども幾重にも楽しめて、貴重な提示である。感謝。0.12.29)
『海やまのあひだ』雑考 石内 徹
一 歌人の業
私事から始める。
二十年ほど以前、東京・経堂に坪野哲久・山田あき御夫妻をおたずねした。寒かったので、冬であったろう。壮年を過ぎていた御夫妻は、当時すでに高名な歌人であった。(注1)壁面をほとんど本に占められた御自宅で、妻と、一緒にお話を伺った。私が折口信夫に関心を寄せていることを知ると、山田あき氏は、「好きな歌です」とおっしゃって、折口信夫の晩年の秀歌の何首かを何の遅滞もなくすらすらと口遊まれた。(注2)折口が弟子に歌を暗記することをすすめたことを思い出し、一流の歌人というものの片鱗を垣間見た思いがした。
私たちが通されたのは、清潔なダイニングキッチンだったように思う。御夫妻にむきあう形で簡素な椅子に腰を下ろしたが、暖房がなく、寒さが身にしみた。哲久氏のスリッパを履かれた白い素足にしもやけができていたことを不思議に、おぼえている。あき氏は、話の途中で、小ぶりな茶碗に香りの高い煎茶を何度も入れ替えて下さった。そのまろやかな滋味を、氏の涼やかに澄み切ったご容貌とともに、今だにはっきりと覚えている。
また、その時伺った話で、印象にのこったのは、歌を一首作って二百円にしかならない。「短歌」などの専門誌から注文があり、十首か、十五首を寄稿しても、二千円か、三千円にしかならず、それらの作品を作るのに、何日も寝食を忘れ、骨身を削られるという話であった。
また、若き日、哲久氏は歌で食べられずにいろいろな職についたという。しかし、俗事には不向きのようであった。そのころ、氏は三軒茶屋の古本屋で折口信夫の黒い装丁の稀覯書『古代研究』(全三冊)に出会う。その本が読みたくて手にとってながめても買う余裕はない。店に入るたびに手にとってながめていたが、その本は、ある日忽然と姿を消し、悔いが長く残ったという話も伺った。当時は、まだ本が、知識が、価値をもち人を魅了する輝きを持ったよき時代だったのである。そういう時代であっても、貧しい生活を送る覚悟をしない限り、歌人としては生きられなかったのである。(注3)
しかし、御会いした印象では、御夫妻は貧しさを気にかけていなかったように思う。お話を伺っていて、内面の充実がおのずと横溢し、清々しい、それでいて何ともいえず神神しい精神の息吹が御両人から伝わってきて、心に灯がともったような明るい快い気分になった。いつの間にか、私も妻も豊かな精神の感化の余徳にあずかっていたのである。
歌の話にもどろう。
歌は、小なりとはいえ、一首一首がそれぞれ独立し、小宇宙を成し一つの世界として完結している。そのために、歌は、一つのテーマと幾つかのモチーフとで一気呵成に何十首、あるいは何百首も詠むことは不可能である。それが散文との差異である。作歌とは、一首を心を込め時間をかけて生み出し、掌中の珠のように大切に育むものということを両氏のお話から私は学んだ。また、両氏の会話に用いられたことばも、詩語と同じように、一つ一つがキラキラと粒立って輝いていた。
両氏のように歌を生活の中心に据えて生きてゆくことは、生半可な覚悟ではできまい。作歌の苦楽を骨の髄まで知った者以外には、耐えられないことである。折口信夫が、歌は日本人のゴースト(ghost)であると語った(注4)が、歌を作ることは業(ごう)であるという気がする。重ねて、折口のことばを借用すれば、やはり「歌は一期(いちご)の病」なのである。そのため、歌人は天分があって、且つ執着し努めなければ、決して大成しない。一流の歌人になるのは至難のことなのである。
ところで、歌集は、個々独立した歌の集成である。そこから主題やモチーフを引き出すことは、かなり困難が伴う。歌人は、決して歌集をイメージして歌を作っているわけではないからである。歌集とは、いってみれば多面体のダイヤモンドのように光のあて方によって、さまざまな断面が多彩、多様な眩い輝きを放つものと言えるかもしれない。従って、その断面の一つ一つのディテールに歌人の個性がかすかな痕跡をのこし、歌に独自な表情をそえる。それが、結果として、歌を集成した歌集にも、微かな独自の表情と色合いとを刻む。それを読み取り、指摘することは、むずかしいが決して不可能ではあるまい。
それでは、釈迢空の『海やまのあひだ』がどのような特徴を持つ歌集なのか、検討をしてみよう。
二 『海やまのあひだ』の成立
『海やまのあひだ』は、大正十四年五月三十日に改造社版の現代代表短歌叢書第五篇自選歌集として出版された。
構成は、逆編年順である。これは、迢空の他の詩歌集には見られない特徴である。逆編年順にした理由は次のように考えられる。
迢空は、文学観の相違や人間関係の齟齬などにより、大正十年にそれまで所属していた「アララギ」を離れる。「自撰年譜」には、大正十年(三十五歳)「此年冬から、自然に『アララギ』に遠ざかる」(全集第三十一巻 三六六頁)とある。迢空が「アララギ」の同人になったのは、大正六年二月であるので、五年間、「アララギ」同人だった。それからしばらく期間を置き、大正十三年(三十八歳)四月、北原白秋の「日光」の創刊に「古泉千樫の慂めによつて、同人に加る」(「自撰年譜」全集第三十一巻三六七頁)。
それまで抑圧されていた迢空の歌才は、「アララギ」の羈絆から解き放たれ、ひとり(三字に、傍点)になることによって、個性豊かに伸長し、眼を瞠るはなやかさで開花した。迢空が拠った日光社は、一般の短歌結社の派閥のように歌人たち同人を束縛することなく、同人たちの個性を尊重する、結社とも言えないほど自由な結社だった。迢空は、この「日光」の同人たちとの新鮮で自由な交流の中で、息をふき返し、所を得たのである。
この時期の迢空短歌を代表する成果として「島山」や「蜑の村」「供養塔」などの独自な作品群が思い浮かぶ。迢空が、処女歌集を出版しようと考えたとき、歌境のいちじるしく進んだこれら一連のすぐれた作品を読者に印象付けるには、逆編年順の形が最も効果的な形式であったろう。迢空が、逆編年順の形式を採用したこれが一つの大きな理由と考えられる。私は、今このことに疑義を挟む気は毛頭ない。素直にこのことを首肯する。首肯した上で、もう一歩踏み込んでみたい。なぜなら、これで逆編年順採用の理由のすべてが説明されたとは、私には考えられないからである。
まず、無心に『海やまのあひだ』を披見してみよう。改造社版と全集とでは巻頭の組み方が違っている。改造社版の歌集では、巻頭一頁を使い「大正十四年―一首」としるし、次頁を白紙とし、三首目に次の歌が詞書を付して揚げられている。
この集を、まづ與へむと思ふ子あるに、
かの子らや われに知られぬ妻とりて、生き
のひそけさに わびつゝをゐむ
全集だと、これが一頁におさめられている。大正十四年は、この一首だけが歌集に収録されている。念のためにそれまでの年毎の作歌数をあげておこう。
大正十三年 五十二首
大正十二年 三十首
大正十一年 四十五首
大正十年 三十四首
大正九年 四十七首
大正八年 百二十七首
大正七年 五十六首
大正六年 百十二首
大正五年 二十五首
大正四年以前、明治四十四年まで 八十七首
明治四十三年以前、三十七年頃まで 七十五首
以上、大正十四年の一首を含めて、合計六九一首を収めている。右のように年毎の作歌数をたどってみると、大正十四年、一首というのは奇異な感を与える。なぜ、この年だけ一首なのか。また、この一首は、大正十四年のいつ作歌されたのであろうか。歌集を出す折、その編集の過程で出来たものかもしれないと推測はつくものの、記録がないので作製月日の特定はできない。
まず、分かることから考えてみよ。
詞書は「この集を、まづ与へむと思ふ子あるに、」と記されている。つまり、詞書は、歌集の編集作業が進んで、ある程度形を成してから献辞のように書き添えられたという雰囲気が、この表現から感得される。
歌われた「かの子ら」とは、迢空の今宮中学校の教え子伊勢清志であるといわれている。「『かの子ら』のら(一字に、傍点)は複数のら(一字に、傍点)ではなく、愛称の接尾語だろう。」(注5)迢空は、大正八年に連作「蒜の葉」を「アララギ」に発表している。大正六年にも「清志に与へたる」を「アララギ」に発表し、うち四首を『海やまのあひだ』に収めている。
「蒜の葉」の連作も「清志に与へたる」も迢空のもとから去った伊勢清志をうたったものである。同性に対する恋情を綴った歌には、まぎれもなく迢空の赤裸々な感情がこめられている。「蒜の葉」の巻頭歌は、「叱ることありて後」と題して次のようにうたわれている。
薩摩より、汝がふみ来到(キタ)る。ふみの上に、涙おとして喜ぶ。われは
一首の掉尾に「涙おとして喜ぶ。われは」と「われは」が倒置されて強調表現になっている。ここで、歌の内容について一般論を展開しても意味はないが、手紙の上に涙をおとして喜ぶとは、デフォルメとしても度が過ぎている。しかし、歌の真の読者が伊勢清志であれは、過剰なと思えるこのような表現も、相手に対する赤裸々な心情の告白になる。迢空には、はしなくもそういう無意識の計算が働いたのかもしれない。
あるいは、丸谷才一が「男泣きについての文学論」(『みみづくの夢』昭和六十年三月中央公論社)で指摘したように、日本文学の古典にあらわれる理想的男性像は、『古事記』にみえる須佐之男命をはじめ、倭建命、『伊勢物語』の在原業平、『源氏物語』の光源氏、『心中天網島』の紙屋治兵衛など、みな落涙を理想的主人公の証明としている。(注6)この歌の下の句は、その伝統を踏まえた類型的表現という解釈も成り立つ。いずれにしろ、この落涙の歌は、自分の白い肌膚の美しさを詠った(注7)ナルシシズム・センチメンタリズムの強い迢空らしい表現といえる。
次が「蒜の葉」と題された連作の一首目である。
雪間にかゞふ蒜(ヒル)の葉 若ければ、我にそむきて行く心はも
一、二句は、雪の間からみずみずしい若い緑の蒜の葉が芽ぶき、生命をキラキラと眩いまでに輝かしている。その若々しい蒜の葉に伊勢清志を重ねて、「若ければ、我にそむきて行く心はも」と掌中の珠のような清志が、自分にそむいて去ったことを詠っている。三句目の「若ければ」、ということばはかなり重い。そこに清志との年齢差についての迢空のこだわりが窺える。迢空の内に苦い思いが渦巻いていたと想像できる。なお、五句目末尾の「心はも」の「はも」は、係助詞の「は」と「も」の複合した連語で、強い愛情や執心などをこめた詠嘆をあらわす。眩い若緑の蒜と若い伊勢清志とは重なっているのである。ここには、去ってゆく者に対する作者の愛情や嘆き、落胆など悲哀を含んだ錯雑した感情が詠われている。
つづけて、
おのづから 歩みとゞまる。雪のうへに なげく心を、汝(ナ)は 知らざらむ
と、迢空は自分の別離のなげきを清志が知らないのだろうとの推測を詠っている。この歌の本意は、私のこの気持を知って欲しいという祈るような願いにある。自己愛にしろ、エゴイズムにしろ、それは若者の特権であろう。清志は迢空の愛情に応えることに嫌けがさし、そのもとを去ったのである。そうであれば、清志が迢空に対して思いをはせることは考えられない。
「鹿児島」には二十二首が収められている。清志が九州の造士館高校に入学し、女性と恋愛関係になったことを迢空が知り、翻意させるために鹿児島におとずれた時の心情をうたった作品である。
憎みがたき心はさびし。島山の緑かげろふ時を経につゝ
迢空は、清志を憎もうと思っても憎み切れないのである。その心情を「さびし」と表現し、次の引用歌の一首目では「もの言ひがたし」というほどに怒りながら、二首目では「あやぶみにけり」と本気でその行末を案じている。愛憎の相剋が、痛々しいまでに赤裸々にうたわれている。
汝が心そむけるを知る。山路ゆき いきどほろしくして、もの言ひがたし
叱りつゝ もの言ふ夜はの牀のうちに、こたへせぬ子を あやぶみにけり
庭草に、やみてはふりつぐつゆの雨 心怒りのたゆみ来にけり
わが黙(モダ)す心を知れり。燈のしたに ひたうつむきて、身じろがぬ汝(ナレ)は
引用四首目の「燈のしたに ひたうつむきて、身じろがぬ汝(ナレ)は」と清志の心がかたくなになり、貝のように押し黙って心をとざしているさまが目に見えるようである。結局、清志の心は迢空にもどらなかった。迢空は、「かの少咋の為に(注8)」で、次のような心情を吐露している。
国遠く、我におぢつゝ 汝が住みてありと思ふ時 悔いにけるかも
何ごとも、完(スデ)にをはりぬ。息づきて 全(マタ)く霽(ハル)けむ心ともがな
寛恕(ユルシ)なき我ならめや。汝を瞻るに、心ほとほと息づくころぞ
庭の木の古葉掃きつゝ、待ちごゝろ失せにし今を 安しと思はむ
迢空らしいのは、「かの少咋の為に」という詞書である。これは『万葉集』巻第十八の大伴家持の「史生尾張ノ少咋を教へ喩す歌一首、並びに短歌」という題詞をもつ長歌と反歌四首からとられたものである。尾張ノ少咋の詳細については、「傳未詳」(注9)であるが、家持が赴任した「越中国の史生」である。「史生」とは「定員三名の書記官」(注10)と注記されている家持の下僚である。少咋が「佐夫流(さぶる)」という名のうかれめに心を移し、本妻を忘れたのをいましめたのが、これらの歌である。
家持は、その詞書で「戸令(こりょう)」を引いて、次のように述べている。「戸令」を引いたところに、官吏としての家持の一面が窺われる。
七出例に云はく、但一条を犯さば、即ち合(マサ)に之を出すべし。
七出なくして、輙、棄てたる者は、徒(ヅ)一年半とすてへり。三不去
に云はく、七出を犯すと雖も、合(マサ)に棄つべからず。
違へる者
は、杖一百とす。唯、奸と悪疾とを犯さば、之を棄つることを得しめ
よてへり。
両妻例に云はく、妻ありて、更に娶れる者は、徒(ヅ)
一年とす。女
家は杖一百して離てゝへり。
詔書に云はく、 義夫節婦を愍み賜ふてへり。謹しみて案ふに、先
の件の数条は、建法の基にして、化道(ケダウ) の源なり。然れば
則、義夫の道は、情別なきに存す。一家財を同じくせば、豈、旧を
忘れ、新しきを愛するの志あらめやてへり。所以(ゆゑ)
に数行の
歌を綴り作りて、旧きを棄つる惑ひを悔いしむ。其詞に日はく、
(『折口信夫全集』10三四三頁?三四四頁)
この詞書掉尾の「旧きを棄つる惑ひを悔いしむ」という箇所や、反歌の三首目「紅はうつらふものぞ。橡(ツルバミ)のなれにし衣(キヌ)に、なほ及(シ)かめやも」に迢空は、自分の心情を投映したのであろう。反歌の三首目について説明を補足しておけば、訳は、「美しい紅の色はあせやすいものである。地味な橡で染めた着ふるした着物にやはり及ぼうか。(注11)」となる。これは、「紅の衣を左夫流にたとへ、橡のなれにし衣を本妻にたとへたのである」。(注12)
これを迢空に引きつけて敷衍すれば、本妻が迢空にあたり、清志の新しい恋人は、「左夫流」にあたり、清志が、「少咋」という設定であろう。そう考えて家持の反歌を披見すると、二首目は、滑稽である。
里人の見る目恥かし。さぶる子に迷はす君が、寝屋出後(ネヤデシリ)ぶり(注13) 4108
迢空は、この歌に次のような訳を付している。
近所の人の見る目も恥かしい。さぶる子に迷うて入らつしやる貴方が、寝屋を出て行 きなさる後姿が。 (注14)
家持は、この歌で、少咋を戯画化し、客観的にみたとき、その姿がいかに、格好が悪いかをうたい、やんわりと品よく揶揄している。遊びがあって絶好のはやし方である。この家持の意識は、そのまま迢空の意識だったのであろう。さすがに、折口は新進気鋭の万葉学者である。この『万葉集』の家持の歌を引いたところに、その学才が並々でないことが窺われる。また、折口は、この歌の前三首の題詞に「寄物陳思(きぶつちんし)」と用いている。これは『万葉集』では、巻十一、巻十二などに、「正述心緒」と一対で用いられたことばである。「正述心緒」が、「直接自分の思いを述べる歌(注15)」であるのに対し、「寄物陳思」は「物に寄せて思いを述べる歌。『正述心緒』と同様、人麻呂の考案した語と認められる。上の句で景物を叙し下の句で心情を述べる歌が多い(注16)」と伊藤博は解説をしている。
さて、ここで迢空の「寄物陳思」について言及しておこう。「寄物陳思」は、やはり、「蒜の葉」の中の連作である。「かの少咋の為に」の前に置かれている。その一首目が次の歌である。
尾張ノ少咋(ヲグヒ)のぼらず。年満ちて、きのふも 今日も 人続(ツ)ぎて上る
「尾張ノ少咋のぼらず」と用いている。清志が上京しないことを素直になげいているのである。二首目が、
つくしの遊行嬢子(ウカレヲトメ)になづみつゝ、旅人(タビト)は 竟(ツヒ)に還りたりけり
と詠われており、「つくしの遊行嬢子になづみつゝ」という表現も一首目同様、前出の「かの少咋の爲に」四首と気分の上では連接している。同じ固有名詞を用いていること以上に、「遊行嬢子」ということばを使用したところに九州の清志の恋人に対する蔑視の気持が潜んでいるような気がする。ここでは、「竟(ツヒ)に還りたりけり」と清志が迢空の手元にもどったことで安堵しているようにみえる。が、これは、「遊行嬢子」をふりきって九州の太宰府から帰京した大伴旅人の『万葉集』の巻六の九六七、九六八の歌をふまえているために、「とうとう帰らなかった教え子を暗示した歌」(『折口信夫集』補注一九九、四七四頁)となる。すると恋しい人に帰られた「遊行嬢子」は、さしずめ折口にあたることになる。話が錯綜し複雑である。
いずれにしても、この歌は大伴旅人の歌を背景として作られており、あまりにも技巧に走りすぎたために、歌意が正確に伝わりにくい歌となっている。迢空に感情をあらわに表出したくないという自己韜晦の思いが強かったために、このような難解な歌となったのであろう。歌としては、高い評価を与えられないと思う。
ここで、前出の引用歌「かの少咋の為に」に話をもどそう。「かの少咋の為に」二首目上句で「何ごとも 完(スデ)にをはりぬ」と清志との関係の終焉が詠われている。このように詠うことは、迢空にとり断腸の思いであったろう。
二首目を受けて、四首目で迢空は、「待ちごゝろ失せにし今を」と一見、淡々と詠っている。清志に対する思い(手元にもどって来て欲しいという期待)をはっきりとたち切った表現となっている。掉尾の「安しと思はむ」には、まだ少し未練がのこっている。――やせがまんをしている、――と考えるべきなのであろう。これで清志に対する歌は終わる。なお、「庭の木の古葉掃きつゝ」という上の句は、老人にやつした風情がうかがわれ、私の思いも古葉のようにしぼみ、それを掃きすてているという風に理解される。この一首で連作のとじめとしたのである。しかし、迢空はこの大正八年、三十三歳である。老境にはいるのは、まだまだ先の話で、どうみても、老人にやつすには若すぎる年齢である。
それから、六年の歳月が流れ、大正十四年に一首、献辞のようにうたわれたのが、先に引いた歌である。
私は、「『葛の花』雑考」で、この歌に触れ、この作品があることで「『海やまのあひだ』は、公刊の歌集でありながら、私信の役割をも荷っ」(注17)たと述べた。逆編年順にしたことが、生きたのである。逆編年順にしたことによって、結果として、この歌が献辞のように据えられ、あまり違和感を読者に与えなかったのである。読者の目は、大正十三年の「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」を先立てた「島山」や「蜑の村」あるいは「夜」などのきわめて秀逸な連作に目が向き、大正十四年の一首目にあまり思いを潜めることなく、歌集の世界にいざなわれていった。迢空にしても、この大正十四年の一首は、たった一人の真の読者である伊勢清志に差し出されたもので、読者は、伊勢清志一人でよかったはずであろう。
逆編年順にして、大正十四年の項に一首のみを掲げた迢空の勇気には脱帽する他ない。これは、係累がないからできたことかもしれない。この時、迢空は、國學院大学教授、慶応義塾大学文学部講師である。それだけ、迢空の清志への思いが、一途で熱いものであったと理解するべきなのであろう。
三 伊勢清志との別離
迢空は、伊勢清志との別れを「夏のわかれ十一首」と題して昭和元年九月に発表し、後第二歌集『春のことぶれ』に収めている。その詞書は、次のように書かれている。
十年まへの夏、子どもから育てた生徒の一人を、
造士館高等学校へ送つた。其頃の寂しくて、乏し
かった日々は、この子の拘泥のない心持ちに救は
れることが多かつた。たゝしてやつた日の記憶が、
此ごろ頻りに鮮やかに浮んで来る。(全集24 一八五頁)
その三首目には、迢空の心情がストレートに「汝はやりがたし」と表現されている。
飯倉の坂の のぼりに、
汗かける 白き額(ヌカ)見れば、
汝はやりがたし (全集24 一八六頁)
十首目の詞書は「二年後、時々おこす手紙は、私を寂しがらせる様になつた」と綴られている。十首目と十一首目の歌を引いておこう。
この憐(メグ)き心にも、
尚むくゆな と 言ひたまふか
と 詞哭(コトナ)きにけり
ふみの上に、
こと荒(アラ)らけく叱りつゝ
下むなしさの
せむすべ知らず (全集24 一八九頁)
これら伊勢清志とのかかわりを執ねく詠ったことから推測されることは、若き折口信夫にとって、清志は最も大切な恋人だったということに尽きる。昭和元年においても、その感情は少しも変らなかったのである。
四 「自撰年譜」の問題
全集第三十一巻所収「年譜」は、追空が作った「自撰年譜」を弟子の岡野弘彦が補訂加筆して作成したものである。二つの年譜に、どのように清志の名前が記されているか調べてみよう。
折口が清志とかかわる契機は、明治四十四年(折口信夫二十五歳)「十一月、今宮の囑託教員となる。三年級の國語・漢文と、學級訓育を擔當」したことに始まる。翌年、「明治四十五年─大正元年(二十六歳)」「自撰年譜」には、次のような記述がなされている。
八月、志摩・伊勢・紀伊に渉って、熊野廻りをする。
同行、生徒伊勢清志(四字に、傍点)・上道清一の二人。『海やまのあひだ』第一稿は、此間に出來る。(全集第三十一巻 三六二頁)(傍点引用者)
「自撰年譜」には、伊勢清志の名は、ここにしか記されていない。しかし、全集の「年譜」を披見すると、大正三年(一九一四)折口信夫二十八歳の項に次のような記述がある。
三月、二年半學級訓育を擔當した今宮中學校第四期生
卒業。同時に職を辭し、四月二十日上京、本郷六丁目
十二番地(赤門前)の下宿屋昌平館に下宿。後を追つて
上京して來た四期生、萩原雄祐・竹原光三・鈴木金太
郎・伊勢清志(略) 等十人程、昌平館に同宿。(全集第
三十一巻 三九〇頁)
同じ大正三年の「自撰年譜」を念のために引用しておこう。伊勢清志の名がはぶかれている。
三月、生徒(六十六人)卒業。即日辭職、東上。金澤庄
三郎先生の國語教科書(「中學校用國語教科書」)編纂
の為。本郷赤門前昌平館に下宿。後から後からたよつ
て來た生徒鈴木金太郎・萩原雄祐・竹原光三・ (瀧山
徳三・)後藤一雄等十人程同宿。 (全集第三十一巻 三
六三頁)
さらには、大正八年の「自撰年譜」の記述は、次のようになっている。
三月、(會津に行き、引き返して、)鹿児島へ行く。七月、
再、鹿児島へ行く。 (全集第三十一巻 三六五頁)
「鹿児島へ行く」とのみ記されていて、目的が――伊勢清志に会いに下向したという肝心要なことが記されておらず、――この年譜からでは、窺知できない。「自撰年譜」は、昭和十二年、第一書房刊『短歌文學全集 釋迢空篇』の為に、著者が自ら編輯したものである。それに昭和五年改造社刊『現代短歌全集』第十三巻所収の年譜をも校合し、括弧内に六号活字で表わされている。
折口信夫は、ここで意図的に伊勢清志の名を消したのである。それは、伊勢清志にかわる人物(恋人)が新たに登場したからである。藤井春洋である。
藤井春洋は、「自撰年譜」昭和二年(四十一歳)の項に、「六月、富山・金澤を経て、能登國羽咋郡・鹿島郡を採訪し、氣多一の宮に、學生藤井春洋の生家を訪ふ」としてあらわれる。つづけて、翌三年の項に、「十月、大井出石に轉居。藤井春洋を家族の一人に加へる」、同五年の項に、「三月、春洋、國學院大學國文科卒業」とある。
この年譜にふれて、丸谷才一が「他の者の同居の場合には、『家族の一人』といふやうな情愛のこもつた言ひまはしは用ゐられなかつた。(注18)」と片片たる語句から春洋が折口信夫にとって特別の存在であることを的確に読みとっている。丸谷は、「折口信夫にとつて折口(旧姓、藤井)春洋は、弟子であり、養子であり、そして愛人であつた。これを江戸の言葉で言へば、信夫は念者であり、春洋は若衆だつたのである」(注19)と、その関係についてはっきりと指摘している。
春洋と折口信夫とのかかわりは、大正十四年四月、(折口信夫三十九歳の時)、「春洋、國學院大学予科に入学。折口信夫に師事し、中村浩・藤井貞文らと島船社を結ぶ(注20)」というところからはじまる。そして、昭和三年には同居をはじめている。春洋の手前、前の恋人のことについては、折口信夫といえども、遠慮があったろう。「自撰年譜」は、昭和十二年一月に発表されており、すでに春洋を得たことによって、清志への身を焦がすような思いは薄れていたか、消えていたのであろう。これが「自撰年譜」に一箇所しか清志の名前がのこらなかった理由である。『海やまのあひだ』上梓の段階では、まだ春洋は、予科に入学したばかりで折口の視野に入っていなかったか、入っていてもその存在は、小さかったのである。そのために、清志に対する思いを誰はばかることなくストレートに折口信夫は『海やまのあひだ』に表現したと推考できる。
五 「自歌自註」
「自歌自註」は、斎藤茂吉の『作歌四十年』(昭和二十八年刊)に触発され、口述されたもので、『海やまのあひだ』の二七七首と『春のことぶれ』一〇九首をとりあげている。発表は没後「中央公論」。昭和二十八年二月から岡野弘彦を相手に口述を開始し、折口の死によって中絶した。口述されたのが昭和二十八年ということは、折口信夫の最晩年である。最愛の養嗣子、折口春洋は、召集され、すでに昭和二十年、硫黄島で玉砕している。岡野弘彦の「折口信夫とその墓碑銘」(昭和五三年一一月 「国学院雑誌」)によれば、折口信夫は、昭和二十年二月十七日を春洋の命日と思い定めていた。つまり、「自歌自註」は、春洋を失った後の最晩年に語られたものだったのである。したがって、伊勢清志のことを語るのにほとんど制約のない良好な状況下で、「自歌自註」は語られたのである。
さて、折口信夫は、伊勢清志に関する歌をどのように語っているのか。まず、彼をうたった歌が、何首「自歌自註」にとられたのか、その検討から、話の糸口をほぐすことにしよう。
清志をうたった歌は、『海やまのあひだ』に、四十三首、(注21)『春のことぶれ』に十一首おさめられている。折口が、「自歌自註」でとりあげたのが、『海やまのあひだ』から二十首、『春のことぶれ』から三首で、ほぼ半分である。何がとられ、何がおとされているか。おとした基準は何によるのか。私には、おとされた歌が興を引く。「自歌自註」を読み直してみよう。
「自歌自註」は、編年体で記されているが、ここでは、『海やまのあひだ』の逆編年順に従う。
大正十四年の一首について、折口は次のように回想している。
この歌集の最後が、大正十四年の一首「此集を、まづ
与へむと思ふ子あるに」といふ 詞書きのある、「かの
子らや われに知られぬ妻とりて、生きのひそけさに
わびつゝをゐむ」といふ歌で終ひになつてゐる。 此年
の五月、改造社の自選歌集、六冊出たうちの 一冊とし
て、出版された。その為に、他にも 多少の歌はあつた
のだけれど、序文代りに此歌を据ゑたのである。(序文
以下に、傍点)(全集 31 二三〇頁)(傍点引用者)
折口は、「序文代りに此歌を据ゑた」理由については、黙したままである。一切、当時の状況については、言及を控えている。大正六年発表の「清志に与へたる」もはぶかれ言及がない。固有名詞が出ているものはさけようという意識がはたらいたからであろう。大正八年の「蒜の葉」は、八首のうち六首をとり、二首おとしている。「蒜の葉」は、連作で、その前に「叱ることありて後」という小見出しをつけて、次の一首があったが、これもおとされている。
薩摩より、汝がふみ来到(キタ)る。ふみの上に、涙おとして喜ぶ。われは
また、小見出しの「蒜の葉」の中で落とされた歌は、次の歌である。
おのづから 歩みとゞまる。雪のうへに なげく心を、汝は 知らざらむ
榛(ハリ)の木の若芽つやめく昼の道。ほとほと 心くづほれ来る
これらはぶかれた三首に共通するのは、清志に対する感情がストレートに表現されていることである。「涙おとして喜ぶ」「なげく心を」「ほとほと心くづほれ来る」などの表現は、老境に入っていた六十八歳の折口にとって、なじみにくい違和感ののこる青臭い表現だったのではないか。この「自歌自註」を口述する時点では、清志に対する思いも、すでに昇華してはるか遠いものとなっていたであろう。それが、自注するべき歌の選択にもはたらいていたと認められる。また、清志に対しても配慮がはたらいていたことが、次の「蒜の葉」の口述の行文から看取される。
古い発表には、却て固有名詞などもはつきり書いて
をつたのであるが、今は四十年以上もたつて、一廉
(イツカド)の人間になってゐる本人に、新しう記憶
を呼び起させるまでもないから、唯、文学作品らし
い取り扱ひをした『海やまのあひだ』による。 (全
集31 一四一頁)
四十年以上も閲すると、時間の浸食にあって、どんな強い感情も濾過されて、あわあわとしたものに変化するのであろう。迢空は、「自歌自註」を語るとき「心にはずみがあつた(注22)」という。「口述は、いつも先生から『さあ、書いておくれ』といってすすんで語り出すのであった(注23)」という。春洋がなくなり、苛酷な敗戦を体験し、苦々しい、砂を噛むような索漠たる戦後を不本意に生きる折口信夫にとって、過去は歌を介して追想の対象と化して精光を放ち輝いていたということであろう。
注
〈1〉坪野哲久氏は、明治三十九年九月一日石川県高浜町に生れる。大正十四年東洋大学に入学。同年島木赤彦に師事し、アララギに入会。赤彦没後、ポトナム同人、後、新興歌人同盟などに参加。昭和四十六年八月『碧巌』(タイガー・プロ)で読売文学賞を受賞する。「母のくにかへり来しかなや冷々と冬濤圧(お)して太陽没(しづ)む」(『百花』)や「散りくるを踏むかりそめのことながらわれの時間をうつくしくする」(『碧巌』)などの歌がある。山田あき氏は、明治三十三年一月一日新潟県東頸城郡川原村に生れる。本名坪野つい。高田高女卒。坪野哲久と結婚。哲久とともに「鍛冶」を創刊。歌集に『紺』(昭和二六年五月)『流花泉』(昭和四八年九月)がある。「連翹の花にとどろくむなぞこに浄く不断のわが泉あり」(『紺』)や「病むきみにつね添うる手のひそかなれ白鳥老いて霜の羽交す」(『流花泉』)の絶唱がある。
〈2〉山田あき氏は、迢空の次の歌を暗誦して下さった。
いまははた 老いかゞまりて、誰よりもかれよりも 低き しはぶきをする
かくひとり老いかゞまりて ひとのみな 憎む日はやく 到りけるかも
人間を深く愛する神ありて もしもの言はゞ われの如けむ
いずれも迢空の『倭をぐな』所収の最晩年の歌であった。
〈3〉坪野哲久の『胡蝶夢』に「貧生涯ただいちにんの侶(とも)たりき吾妻のいのち死なしめざらむ」とある。哲久は、自己の生涯を「貧生涯」と約言してみせた。歌は、妻山田あきに対する深い愛情を吐露した作品だが、哲久が、自己の生涯をどう捉えていたかが分って興をそそられる一首である。
〈4〉折口信夫「短歌啓蒙一」(新版全集31)で「何しろ歌は、日本人のためのごうすとである。優美にいへばやまと人のための千年のものゝけである。」(三四四頁)と述べている。
〈5〉岡野弘彦『折口信夫の記』(一九九六年一〇月一〇日 中央公論社)二一四頁。
〈6〉男泣きについて、『伊勢物語』六に次のような話がのっている。
「むかし、おとこありけり。」女を「からうじて盗み出(い)でて、」「芥川といふ河を率(ゐ)て」「あばらなる蔵に、女をば奥にをし入れて」おいたのに「鬼はや一口に食ひてけり。」夜が明けてゆくころ、男が「見れば率(ゐ)て来(こ)し女もなし。」男は、女が鬼に食われたことを知る。作者は、男が「足ずりをして泣け(まで、傍点)どもかひなし」(傍点引用者)と結んでいる。話は続くが、ここでは、主人公の男がくやしくて、地団太をふんで泣いていることが確認できればよい。この泣き方は、優雅なものではない。感情が激し、滂沱として流す涙も、理想的な主人公の条件なのかもしれない。引用は、阪倉篤義他校注『竹取物語 伊勢物語 大和物語』〈日本古典文学大系9〉(昭和四七年五月一五日岩波書店 一一四頁)。もう一例、近松門左衛門の『心中天網島』を披見してみよう。たとえば、「治兵衛おさん離別の場」で、次のように語られている。主人公紙屋治兵衛の妻おさんが「門送(かどおく)りさへそこそこに、敷居(しきゐ)も越すや越さぬうち、炬燵(こたつ)に治兵衛またころり、被(かぶ)る蒲団(ふとん)の格子縞(こうしじま)。まだ曾根崎を忘れずかと、あきれながら立寄(たちよ)つて。蒲団を取つて引退くれば、枕に伝ふ涙の滝フシ身も浮くばかり泣きゐたる。」と。治兵衛の泣く様は、「枕に伝ふ涙の滝 身も浮くばかり泣きゐたる」と表現されている。ゐゐゐまた、「治兵衛、眼押拭ひ。同悲しい涙は目より出て。無念涙は耳からなりとも出るならば。言はずと心を見すべきに。同し目よりこぼるゝ涙の色の変らねば。心の見えぬは、もつとももつとも。」(鳥越文蔵校注・訳『近松門左衛門集』二〈日本古典文学全集44〉昭和五十年八月三一日 小学館 四八六頁?四八七頁)と悲しみによる涙と無念の涙とが同じ眼から流れ、その区別がつかない。治兵衛は、そのことを心底嘆いている。この作品では、涙がきわめて大きく扱われており、このような趣向は戦後の文芸の世界ではすでに消滅している。引用したいずれの文章も治兵衛を表現するのに涙を援用というより濫用している。涙が、まるで治兵衛の感情や表情を象徴し、表出しているようである。江戸文学に造詣の深い博覧強記の折口信夫にも当然この知識はあったであろう。
〈7〉『海やまのあひだ』に「わが腹の、白くまどかにたわめるも、思ひすつべき若さにあらず」(全集24 九四頁)という歌がある。大正五年の歌である。迢空三十歳の作。白い肌膚に美を感じた迢空のまぎれもない自己陶酔の歌である。
〈8〉『折口信夫集』〈日本近代文学大系46〉(昭和四七年四月一〇日
角川書店)三五〇頁頭注五で「『少咋』は『寄物陳思』の歌と同じく教え子、伊勢清志のこと」と解説している。
〈9〉澤瀉久孝『萬葉集注釋』巻第十八 (昭和五九年五月二十日 中央公論社)一一五頁。
〈10〉中西進『万葉集全訳注原文付』(四)(一九九六年七月一五日
講談社)一七八頁。脚注1。
〈11〉注〈9〉に同じ。一二八頁。
〈12〉注〈11〉に同じ。
〈13〉この反歌第五句目について、澤瀉久孝は、本文を「宮出しりぶり」と読み、「訓釋」の項で次のように言及している。
宮出しりぶり──「宮出」は宮仕に出ること(二・一七五)であるが、ここは役所に出勤することである。略解に「さて、宮出と言ふべきよしなし。宣長は、美は尼の誤にて、閨出かと言へり、猶考ふべし」と云ひ、古義に「雅澄竊ニ按フに、此(ココ)は宮出(ミヤデ)とはいふまじきが如くなれども、此(コ)は少咋が、遊女に甚(フカ)く惑ひて、彼が家に朝参(ミカドマイリ)する如く通ふを、嘲哢(アザケ)りて、わざと宮出(ミヤデ)とはいへるなるべし、次下の歌に、遊女が家のことを、伊都伎之等能(イツキシトノ)とよめるも、同じこゝろばえなるを合セ考フべし」とあるのは「考へすごしであらう」と佐佐木博士の云はれてゐる通りであらう。(一二五頁)
〈14〉『折口信夫全集』10(一九九五年一一月二五日 中央公論社) 三四五頁。
〈15〉伊藤博『萬葉集釋注』六(一九九九年七月七日 集英社) 四九二頁。
〈16〉注〈15〉に同じ。九八頁。
〈17〉拙稿「『葛の花』雑考」(「折口信夫研究会報」第32号 平成一一年四月一一日 折口信夫研究会 五頁)
〈18〉丸谷才一「白い鳥」(『鳥の歌』一九八七年八月一五日 福武書店 一六六頁)
〈19〉注〈18〉に同じ。
〈20〉石内徹編「『月しろの旗』関係年譜」(拙著『釈迢空「月しろの旗」注考』一九九四年三月三一日 折口信夫研究会 三七七頁)
〈21〉私は、この『海やまのあひだ』で清志をうたった歌の数四十三首の中に、連作「姶羅(アヒラ)の山」三十九首を入れていない。しかし、大正八年に、「蒜の葉」などと平行して作られた「姶羅の山」も、その数の中に加算するのが正しいのであろう。「姶羅の山」が、「鹿児島県姶良(あいら)郡内の山」(『折口信夫集』〈日本近代文学大系46〉 昭和四七年四月一〇日 角川書店 三五三頁、頭注一〇)であり、この連作の三首目「夏やまの朝のいきれに、たどたどし。人の命を愛(ヲ)しまずあらめや」の「人」について、「自歌自註」で「この創作当時は、自分から遠ざかつてゐた人、その人も生命長く生きてゐてほしい──さういふ気が起つて来た。さういふ気にならずにゐられない──といふつもりでこしらへた、叙事的な内容を持つた抒情詩である。」(全集31 一三〇頁)と回想しており、この「人」が伊勢清志を指していることは、『折口信夫集』の補注二〇一(四七四頁)を引くまでもなく、明らかである。とすれば、『海やまのあひだ』で清志をうたった歌数は、八十二首で、「自歌自註」でとりあげた清志の歌数は、四十首。『春のことぶれ』が三首だから、計、四十三首とりあげられたことになる。しかし、問題は、鹿児島の地名を冠した「姶羅の山」という題以外、「自歌自註」を披見しなければ、この連作が清志を詠ったとは、思えないところにある。さらに、「蒜の葉」と題して詠った歌を、「姶羅の山」の三首目に移して歌集に収録したところに、この歌の別のよみの可能性が生じている。この連作については、後日、機会があれば、改めて考察することにしたい。
〈22〉注〈5〉に同じ。一二八頁。
〈23〉注〈22〉に同じ。
(筆者は、国文学研究者。湖の本読者。その学風やお人柄は、次項に掲載の「自著の周辺」が巧まずして教えています。)
神西清のこと 自著の周辺 石内 徹
昨年と今年、二冊の著書を上梓した。『神西清文藝譜』(港の人刊)と『荷風文学考』(レクス出版刊)とである。
知友に拙著を送呈した。すると、その礼状に、意外だとか、こんな処にまで手をのばしているのか、といった評言がいくつか散見されたが、勝手に褒辞と受けとった。私のライフワークは折口信夫である。しかし、研究者の姿勢として、折口信夫だけを研究していればよいというものでもあるまい。
ところで、私には、神西清について忘れられない鮮烈な思い出がある。話は、大学在学中にさかのぼる。私は、代々木中学校で教育実習をおこなった。その中学校で使用していた教科書に、たまたま神西清の「雪の宿り」が収載されていた。教材として教室では使用しなかった。だが、題名に惹かれて一読し、典雅ともいうべき玲瓏たる文体のすばらしさに魅了され、息をのんだ。水晶のもつ清冷で硬質な透明感と輝きとが、その文体にはあった。繊細でありながら、限りなく明晰なのである。この時、神西清という作家が私の意識に特別な存在として記憶された。
卒業後、折口研究から、折口を敬愛した堀辰雄にたどりつく。神西清は、その堀の親友である。私の視野にようやく神西清の姿が浮かび上がり、私は神西清との久々の再会をよろこぶことになる。古くさいいい方だが、私は、そこに目に見えない深い縁のようなものを感じた。これが起点となり、私の神西清研究がスタートした。
私は、まず、「折口信夫と神西清」を昭和五十二年八月、「折口学と近代」第三号に発表した。間を置いて、「『雪の宿り』論」を「芸術至上主義文芸」第八号に発表した。これが五十七年十一月である。折口と神西清とのかかわりをもう少し深く知りたいと思い、手紙に添えて、この拙稿を神西清夫人・神西百合氏に謹んで送呈した。これが機縁となり、以後、幸運にも神西百合氏の知遇を得ることになった。
遅々としたあゆみであるが、すこしずつ神西清の作品を収集し繙読していった。また、休日、神西百合氏の御迷惑をもかえりみず、鎌倉山のご自宅に何度も伺った。そこで、百合氏から生前の神西清の人柄や生い立などのお話をうかがうことができた。今となっては、そのお話をテープになぜ録音しておかなかったかと悔やまれてならない。何度か伺ううちに、多くの貴重な資料──蔵書・原稿・日記・手紙・写真・家系図から位牌まで、手にとって拝見させていただき、必要なものはコピーあるいは、写真に写させていただいた。
それらの未発表の資料をもとに、二冊の編著がまとまった。『人物書誌大系23 神西清』(日外アソシエーツ刊)と『神西清蔵書目録』(日本図書センター刊)とである。
次の仕事として、披見させていただいた資料をもとに、神西清の評伝の執筆に着手した。評伝はみじかいものだが、『神西清文藝譜』の「? 文人・神西清抄」にまとまった。「抄」としたのは、神西清の全貌を俯瞰できるほど完備していないからである。しかし、一つの神西清像を浮きあがらせることには成功したと思う。
神西清は、ロシア文学の名翻訳者として、一世を風靡し、それこそ赫奕たる盛名を馳せた。特に、チェーホフの作品の翻訳は有名である。他に、トゥルゲーネフの『散文詩』やレールモントフの詩、ジャック・シャルドンヌの随想、ドストイエフスキイの小説『永遠の良人』、プーシキンの『大尉の娘』、アンドレ・ジイドの『田園交響楽』など多くのすぐれた翻訳がある。また、『散文の運命』や『詩と小説の間』という切れ味のよい評論集、『少年』や『恢復期』、『灰色の眼の女』などの小説集、さらに、『神西清詩集』と、その活動は多岐にわたる。そのために、現行の文学史の扱いは、神西清にきわめて冷淡である。小説家としての神西清は、ディレッタントであって、本業は翻訳者とみなし、文学史における位置付けはなされていないのである。
昨年、刊行した拙著『神西清文藝譜』は、文学史で等閑にされている小説家としての神西清に一つの照明をあてた。同書は、?で「『雪の宿り』論」と「『死児変相』論」とを収めている。この二つの作品論では、小説家としての神西清の全貌は、捉え切れないが、?の評伝と併読すれば、神西清が、いかにすぐれた小説家であるか、おぼろげながら理解できよう。
同書には、?として折口とのかかわりがどのようなものか、また、神西の蔵書についての言及もある。さらに、神西清が活躍していたとき、河出書房の編集者として、神西の担当となった徳永朝子氏からの聞き書きも収めてある。聞き書きは、生前の神西清が、気むずかしく、プライドの高い、才能豊かな人物であること、酒を愛し、凝り性であることなど知られざる神西清の素顔の一面が、活写されていて興を引こう。
神西清という作家は、既述の通り、現行の文学史の中では忘れ去られている。だが、「雪の宿り」か、あるいは「春泥」か、あるいは「鸚鵡」か、このうちの一編でも、これら珠玉の名品を読めば、稀有の才を持った名文家であることが分る。このまま泡沫(うたかた)のように消えさってよい作家では決してないのである。
現在、神西清研究が、どのような状況にあるかを理解していただくために、?として、参考文献目録を付した。活用いただきたい。
参考文献の中で、特にすぐれたものとして神西百合氏の「みずぐるま」(「蝉」2 文治堂書店 昭50・11)と池内紀氏の「『ほんやく』と『やくほん』」(『翻訳の日本語』〈日本語の世界第15巻〉
中央公論社 昭56・11)とをあげておく。池内氏の論文は、神西の翻訳の特質を解明して出色のもの。また、百合氏のエッセイは、ありし日の神西清の創作家としての鬼気迫る苦しみを伝えてあまりある。
神西清の文学の特質は、鏤骨彫心というべきもので、職人芸、それも名人の手になった仕事を思わせる。文章に心血をそそいでいるのである。そのために寡作であった。
その神西清も、昭和三十二年三月十一日、五十三歳で舌癌のために惜しまれて没した。ライフワークとして、自己のアイデンティティーを確認するための歴史小説「小野物語」を構想し、昭和十八年、準備のために「神西村史」を借用し、丹念に筆写したり、勤務の合間に古本屋をこまめにまわり、多くの質の高い書物を吟味して大量に購入し、年末には「『小野物語』の文献殆ど出揃う」(『神西清日記』昭和十八年十二月二十日)というまでに準備がととのう。
しかし、「小野物語」は一行も書かれずに終った。完成すれば、神西家の祖先の一人、小野国通を主人公として、彼の生きた争乱の戦国時代を描き、華麗な歴史絵巻となるはずであった。神西清の死が、あまりにも早すぎたのである。
なお、ついでに補足しておけば、正徳二年(一七一二年)に成立した『関西陰徳太平記』には、天正六年(一五四八年)神西元通が「上月城没落」のとき、一族や他の士卒の命を助けるために尼子勝久とともに切腹して果てたことが描かれている。この場面は、軍記である同書のまぎれもなくハイライトである。この元通が、「神西家略譜」では、国通にあたる。「敏達天皇之子春日之皇子之裔」という家系図巻頭の一節を持ち出すまでもなく、神西家は、掛け値なしの一流の名家・名門である。清の父は、内務省の高等官。選良である。母止(しづか)の父は医者。その祖父は徳川家御典医である。神西清のプライドが高いのも、出自のしからしむるところかもしれない。
現在、神西家には、『神西清日記』が残されている。その主要な部分が、平成十二年春、クレス出版から複製されて刊行される予定である。『神西清日記』は、資料的価値だけでなく、文学的にもすぐれ、荷風の『断腸亭日乗』や内田百間の日記に匹敵し、少しの遜色もない。日記には、神西清の生活が、天候や堀辰雄の近況、あるいは購入した書物の読後感や、出席した告別式の感想、あるいは敗戦間近な世相や空襲のことなど、時代を反映した興味深い見聞や体験、思索などが無駄のない見事な文章で綴られている。多分、下書きもせずに怱怱の間に日日綴られたと思われるこの日記から、一知識人が、戦中をどのように生きたかを垣間見ることができる。また、神西清研究の上からみても、日記公刊の意義は大きく、刊行が、心から待たれる。
江馬細香『湘夢遺稿』の「刻資及諸入費控」について
門 玲子
『湘夢遺稿』上下二冊は美濃大垣の女流詩人江馬細香(一七八七--一八六七)の遺稿詩集である。細香は大垣藩の蘭医江馬蘭斎の長女で、名前は多保または
? (じょう。漢字「島」の「山」の位置へ「衣」が入る。)、字は細香、湘夢と号した。文久元年に七十五歳で没し、その後十年を経た明治四年に遺族の手によって出版されたのが『湘夢遺稿』である。
同書の体裁は大本二冊(縦二十五.七糎、横十六糎)。原題簽、左肩「湘夢遺稿 上(下)」。見返しに「明治四辛未新 /湘夢遺稿/春齢菴蔵版」とある。春齢は大垣藩医であった細香の祖父江馬元澄(父蘭斎の養父)以来、代々江馬家の当主が襲名した庵号で、すなわち『湘夢遺稿』は江馬家の私家藏版本である。奥付には「明治四辛未歳秋八月上梓」とあり、発兌書肆として東京の和泉屋吉兵衛・和泉屋金右衛門・大垣の平野利兵衛・岡安慶助夫・大坂の伊丹屋善兵衛.京都の勝村治右衛門と六軒の本屋が名を連ねている。
本文は序跋等を含め、上下巻あわせて六十五丁。半丁の行数は十行。全三百五十言の詩が収録されている。
巻頭には、天保元年主十二月に書かれた、細香の師頼山陽の書簡を模刻掲載している。ついで大垣藩老を勤めた小原鉄心と細香の姪孫江馬信成の序がある。何れも明治三年に書かれている。巻末に大坂の儒者後藤松陰(美濃出身)が撰した細香の墓誌銘、大垣藩儒者野村藤陰が明治三年に書いた跋、細香の甥江馬元齢の題詞がある。
頼山陽の書簡は大窪詩仏が出版した『随園女弟子詩選々』を細香に贈り、それに添えて細香に自作の詩集を出版するよう勧めた内容で、「御生涯之思出ニ是迄之詩を選候て上木被成候ハゞ、可面白候」とある。しかし、結局細香はこの勧めには従わなかった。
野村藤陰の跋文の中に「其の属者姪孫輩、其の遺稿を抄録し、以て刊行せんことを謀り、余に校字を索む。余の女史に於ける麗澤の恩浅少ならず。乃ち百忙を排し、黽勉以て業を卒う」(原漢文)とあるので、細香が残したおびただしい詩稿の中から三百五十首を選び出す作業を、主として藤陰が行ったと思われる。そして当時江馬家の当主であった信成(五代目春齢)が出版に係わるすべての事務を行い、その従兄弟である江馬春煕が校訂を行った。
江馬信成(一八二六?七四)は細香の甥元益の長男で、大垣藩医を勤めた。江馬春煕(一八五四?一九〇一)は元益の弟元齢の長男で藩校の蘭学助教授となり、明治以後は東京神田で開業し、東京医会の発展に尽力した。ともに幼時から細香に愛されて育った人たちである。
さて、江馬家には蘭学・語学・歴史・漢学・漢詩文・郷土史関係の厖大な文書と書簡が残されたが、現在その大半は岐阜県歴史資料館に寄託され、細香関係のもののみが同家に残されている。それらは、『湘夢遺稿』の元となった詩稿、細香宛諸家書簡、書画類、細香の手写したものなど蔵書の一部等である。
それらの文書の中に『湘夢遺稿』を刊行した際に要した諸費用や刊行後の配布先などを、江馬信成が記録した帳面がある。当時の書籍刊行の諸事情を窺う好資料と考えられるので、ここに紹介しようと思う。
半紙全二十一枚を折紙にし、右端をこよりで綴じて横長の帳面に仕立てたもので、料紙は江馬家に届けられた薬礼の包み紙を利用している。表紙に「湘夢遺稿/刻資及諸入費控/春齢菴」と題する。春齢菴、すなわち江馬信成の筆跡である。内容は、まず二丁分表裏に『湘夢遺稿』を出版するに要した費用の出入りを克明に記し、次の四・五丁分にその配布先と受け取った金額を記している。その後十・五丁分の白紙があり、最後に費用の総計が記されている。全内容は以下の通り。なお、( )内は門(=筆者)による注記である。
午(明治三年)二月十七日
一、刻費 金拾両 板木代
右、勝村(京の本屋、勝村治右衛門。本書の実質的版元)へ出
午五月中旬
一、刻費 金弐拾両 板木代
右、上京之節、勝村へ渡
午十二月廿四日
一、刻費 金三拾両 板木代
右、勝村へ差出
午十二月
一、刻費 金壱両壱分 小原参事(小原鉄心。当時大垣藩大参事)序文謝儀式
未(明治四年)三月廿七日
一、刻費 金三十両 彫刻諸入用
右、勝村へ出
未六月
一、刻費 壱分 山田訥斎(美濃笠松の南画家。篆刻の名手)礼
一、壱両壱分弐朱 諸雑費
一、刻費 弐朱 飛脚賃
六月
一、刻費 十両 遺稿板代
勝村へ差出 (」 1オ)
一、刻費 三朱 証印代
一、壱分弐朱 運賃
一、壱分ト六百八十文 運賃
十月廿七日
一、弐十両 書物代
権之介(京都の分家、江馬榴園)江向出
右惣書付
四十三両弐分壱朱
壱貫五百文代弐朱
右之内ヘ入ル。
一、拾両 勝村下店、板料入(「下店」はおろしだな、つまり勝村の書籍卸売りないし小売りの部門をいうのではあるまいか。すなわち出来上がった『遺稿』若干部を勝村が売品として引き取った代金を、板料に入れたというのであろう)
一、板木 諸入費残 九両三分一朱
差引残
弐十三両弐分(壱分弐朱を抹消し弐分を傍書)
十二月二日
一、壱分壱朱百文 運賃(」1ウ)
未六月
一、遺稿 弐部来
三朱宛
〆十部 摺主諸処へ上納本等
未八月六日
一、遺稿 十部来
代弐両弐朱
一、同 百部来
未十月十一日
一、同 九十部来
十二月二日
一、同 三十部来 (」2オ)
遺稿彫刻代
一、百十二両一分三朱(一両弐分弐朱を抹消し二両一分三朱を傍書)
内九両三分壱朱未済
一、百両 木金
一、十三両 手前出金
製本諸入費
一、四拾四両壱分弐朱
内弐十両 取替済
同十両 勝村板料ニ而済 (」2ウ)
遺稿配冊覚
百十弐部乃内
一、下 壱部 山田訥斎
一、壱分到来 七月
一、下壱部 藤江(江馬家は大垣藤江村にあり)
弐十匁来
十六匁来
八月六日
一、壱部 竹島(江馬元齢は大垣竹島町に別家開業していた)
同日
一、壱部 戸塚
弐分到来
八月七日
一、壱部 小原(小原鉄心)
同
一、壱部 野村(野村藤陰)
八月十日
一、壱部 本屋慶助(大垣の本屋、岡安慶助。本書の相版元の一)
同
一、壱部 野川杏平(蘭方医。江馬塾門人)
同
一、壱部 藤江
壱分入
八月
一、壱部 筒見初三
壱分壱朱来 (」3オ)
九月二日
一、壱部 本慶(本屋慶助)
一、同 上田酔夢(小原鉄心弟か)
一、弐拾部 藤江
一、五部 竹島
壱両壱分入
九月三日
一、六部 本慶
一、壱部 宇野達次郎
壱分到来
一、壱部 誓運寺(大垣船町、浄土真宗大谷派)
壱分弐朱到来
一、壱部 温井琢造(三代目江馬春齢、号松斎の実家)
壱分来
一、弐部 高田 柏渕(美濃多芸郡高田村の柏渕家)
千秋
壱分来、柏渕(」3ウ)
一、壱部 野村 伊島
一、壱部 後部安年
壱分到来
一、同 牛洞寺(牛洞にある寺か)
申(明治五年)正月壱分到来
六日
一、五部 藤江
同
一、壱部 春煕(江馬元齢の長男)
九日
一、壱部 小野崎
同
一、弐部 同人取次
同
一、弐部 野村謙蔵
弐分壱朱来
同
一、壱部 小野崎へ頼 春堂(二字難読)
十日
一、壱部 藤江 (」4オ)
九月十二日
一、壱部 池内立堆
九月十三日
一、壱部 上有知 秋水(美濃上有知村の画家、村瀬秋水。村瀬藤城の弟)
同
一、壱部 同 彦平
壱分入
同
一、壱部 立松龍伯(尾張の医師。江馬塾門人)
同
一、同 加藤顕吉(尾張の医師。江馬塾門人)
同
一、同 五反郷 片野南易
同
一、同 楡俣 口口高太郎
一、同 竹ヶ鼻 霞山(美濃竹鼻村江吉良安楽寺の住職。細香の詩友)
壱分来 (」4ウ)
一、東平へ渡 弐部 藤江
九月廿日
一、壱部 田口鳳介(美濃の医師。江馬塾門人)
壱分壱朱入
同
一、十部 平流軒(大垣の本屋、平野利兵衛。本書の相版元の一)
内七部笠松
一、五部 平流軒
一、三部 本慶
九月廿七日
一、壱部 北村純吾(美濃の医師。江馬塾門人)
一、壱部 安藤友三郎
弐分来
一、壱部 藤江
一、弐部 平流軒 (」5オ)
一、弐拾部 本慶
内壱部戻り
十月十一十二日
一、六十部 平流軒
壱部戻り又五部戻り
十一月金五両受取
十月十七日
一、壱部 金華穂
同
一、弐部 但州津崎 油筒屋 真宰
同
一、五部 武光
壱部帰り
十月廿日
一、七部 藤江
十月廿二日
一、壱部 曾根江 近□
十月廿三日
一、五部 勢州玉垣 杉野伊右衛門
申、壱両壱分十匁入
十月廿二日
一、弐部 海老本
弐分壱朱済 (」5ウ)
十月廿六日
一、壱部 船木巌郎
一、壱部 鳩居堂(京の文具屋)
十一月十六日
一、壱部 小野崎
一、壱部 海老本
壱分弐匁来
十一月十七日
一、五部 藤江
一、十部 平流軒
十二月六日
一、五両入 藤江行〆四十一部之内
十二月廿九日
一、七両弐分三朱ト二匁入 本慶二十九部代
一、〆八十一部 金弐十両壱分八十一匁 平流軒
内五両入
又十二月晦日 五両入
又五月廿七日 三両入
又申七月十三日 一両ト五百文 並□□□三文
請取
五十部分済、残十部貸
申七月十三日記 (」6オ)
十二月晦日
一、壱両壱分 小野崎より入
晦日
一、五両壱分 藤江より入
壬申(明治五年)正月八日
一、壱部 入(入金済みの印か) 春琢(江馬元益の次男)
正月十三日
一、壱部 大□ 石倉
正月十七日
一、壱部 入 春琢
廿日
一、五部 入 本慶
廿一日
一、壱部 入 春琢
一、壱部 大橋魁介
四月
一、壱部 笠原退助 (」6ウ)
一、五部 竹島
二部戻り三分入
七月二日
六部平流軒より戻り
五月
同家より戻り
申七月廿一日
一、五部 本慶
当春(明治六年か)残り
一、拾部 平流軒
右之代未済
内六部戻り (」7オ)
(以下十・五丁分白紙)
遺稿板木入費
惣計
一、百十二両壱分壱朱
内九両三分壱朱不足
弐両弐分 残金所持之分
七両壱分壱朱 足し
右之通ニ而皆済之事
同製本代運賃等
一、金四十三両弐分三朱 弐百弐部
印形代共
一、金弐分三朱 運賃
〆四十四両壱分弐朱
内二十両弐分三朱済
手前より出
(残二十三両弐分三朱不足とある一行抹消)
拾両 勝村下店 板料ニ而入
不足 十三両弐分三朱 (」18オ)
十二月二日来
一、六両(壱分弐朱を抹消) 三十部
運賃、壱分壱朱百文 板代ニ而払
惣〆
二十九両壱分弐朱 一貫五百文
右十二月廿二日出皆済
辛未(明治四年)冬改
一、六十三両 手前取替
同
一、三十五両三分三朱 本代入 (」18ウ)
(一丁分白紙)
一、百三十七匁三分弐厘 遺稿十部ニ付、仕立元価
一、三十弐匁三分弐厘 十部ニ付、板木代
一、弐匁四分(弐十四匁を抹消し傍書)
十部ニ付、運賃
〆百七十弐匁四厘(百八十匁を抹消し傍書)
壱部ニ付、諸入用入れ元償
十七匁弐分壱厘
本屋へ遣候分
十七匁一分六厘
一部ニ付、弐匁九分五厘之益 (」20オ)
以上が「湘夢遺稿刻資及諸入費控」(以下「控」と略称)の全貌である。これにより、どのようなことが明らかになるであろうか。まず、『湘夢遺稿』の奥付には六軒の書肆が名を連ねているが、この「控」によれば、一切の出版業務を行ったのは京都の勝村であった。いまだ純然たる地方出版は難しかったものと思われる。江馬家は古くから京都に多くの知友があり、分家江馬榴園.天江も同地で活躍中であり、三都のうち最も近い京都の書肆が選ばれたのであろう。
次に、明治三・四年ころに『湘夢遺稿』のような詩集を、いわゆる私家版で出版しようとした場合、おおよそ左のような費用を要したことがわかる。
板木代 百十二両一分一朱
製本代 四十三両二分三朱(二百二部)
運賃 二分三朱(京都・大垣問)
追加製本代 六両(三十部)
すなわち、ざっと計算して百六十二両二分三朱を支払い、本を二百三十二部受け取っているのである。これらの費用のうち十両は「勝村下店板料にて入」と記入がある(18オ)。「下店」とは「おろし店」つまり版元勝村の書物卸し売りないし小売営業の部門をいうと思われ、『湘夢遺稿』を勝村が自店で売りさばく分の本代を、板木代ないし製本代に入れたものと考えられる。
江馬家では出来上がった本を諸方に呈したり、本屋を通して売り捌いている。本を贈呈された者の一部は、金一分ないし一分二朱程度の返礼をしている。
本の一般への売り捌きは、相版元に名を連ねている大垣の本屋慶助こと岡安慶助、平流軒こと平野利兵衛を通している。本の出来た明治四年の年内だけで、まず本屋慶助には二十九部を卸し、代金として七両二分三朱と二匁を受け取っており、平流軒には八十一部を卸し、代金として二十両一分と八十一匁を四回に分けて受け取っている。この代金は、一両六十匁で換算すると、一部あたりほぼ銀十六匁に相当する。
一方、江馬家では本の原価計算を左のようにしておこなっている。
本十部につき、
?仕立て代 百三十七匁三分二厘
?板木代 三十二匁三分二厘
?運賃 二匁四分
合計 百七十二匁四厘
(本一部につき 十七匁二分一厘)
前にあげた総費用とこの原価計算との厳密な関係には不明な点も残るが、少なくとも板木代は二千部強で償却を見込んでいたことが知られる。
ここでよくわからないのは、この原価に対し、本屋へは前記の通り十六匁と原価割れの値段で卸している点である。あるいは相版元に名を連ねるに際し、あらかじめ本屋よりなにがしかの出資金を受け取っていたのであろうか。わからないといえぱ、その外の相版元である東京や大阪の本屋へはどのように本を卸していたのかという点も、全く「控」からは読み取ることが出来ない。どうも当時の相合版の実態、すなわち相版元の具体的な役割や意味については、まだまだ不明な点が多いようである。
もっとも、明治初年頃は物価が高騰しており、その事情をいくぶん反映しているかもしれないが、出版に係わる諸々の事情は江戸期のそれとほぼ同様であったと思われる。
いずれにせよ、この「控」は、『湘夢遺稿』の出版が、細香の知友たち、藤江村の江馬本家、竹島町の分家、さらに京都江馬家をも巻き込んでの大事業であったこと、言い換えればこれらの人々の細香への思慕の念がいかに大きなものであったかを、あらためて物語っているように思われるのである。
〔江馬家所蔵資料および細香に関する参考文献〕
*『江馬文書目録』江馬文書研究会編・発行 昭51
*『大垣藩医江馬蘭斎』青木一郎著、江馬蘭斎顕彰会発行 昭51
*『大垣藩の洋医江馬元齢』青木一郎著、江馬文書研究会発行 昭52
*『江馬家来簡集』江馬文書研究会編、思文閣出版 昭59
*『江馬細香来簡集』江馬文書研究会編、思文閣出版 昭63
*『江馬細香-化政期の女流詩人』門 玲子著、BOC出版部 昭59
*『江馬細香詩集湘夢遺稿』上下 門 玲子訳注、汲古書院 平4
〔付記〕 貴重な資料の公開を快くお許し下さった大垣市の江馬寿美子様に厚くお礼申し上げます。
──『東海近世』第七号・平成七年十一月刊(東海近世文学会) より──
(筆者は、江戸時代女流文学研究者。日本ペンクラブ会員。湖の本読者。克明な探求と清明な筆致で知られた民間の研究者で、ことに江馬細香の優れた研究は高く評価され栄誉を受けられています。本稿は、自費出版・私家版の資料としてもまことに興味深いものです。江馬細香は頼山陽の愛をうけた優れた詩人・文学者でした。)
結城信一の本 矢部 登
結城信一の本は、全部で十三册刊行されている。
終戦直後の昭和二十一年(一九四六)から昭和五十九年(一九八四)までの三十八年間に及ぶ文学的営為のなかで精選され、まとめられた本である。いま、全十三册を眼前に並べてページを繰っていると、その一册一册からは、結城信一の静かな低い声が聴こえてくる。
たとえば、こうささやく、『青い水』がある。
《……私は中に大きな海をたたへた一個の小さな静かな生きた貝殻を探し求めたい。この重い疲労と苦痛の浪の渦の中から。……》
結城信一の小説は、戦争の勃発と同時に断ち切られてしまった青春の深い悲しみとみずからの密かな祈りを、《この重い疲労と苦痛の浪の渦の中》で、一作一作丹念に長い時間をかけて、遺書のように書き綴ってきたものであった。
また、私の胸奥には、次の一節(「こころざしおとろへし日は」短歌研究・昭和三十一年七月号)も、ふかぶかと刻み込まれている。
《……戦争による傷痕は、決して私自身から消えうせてはゐないのだ。私が病みがちに今なほ生きてゐることは、その耐難い傷痕の中に生きてゐるのであつて、所謂戦争の終結による平和の中に生きてゐるのではない。……》
そんな孤独な日々のなかで、結城信一は時代のながれから遠く離れ、自分一人のつつましい世界を自身の生き方に重ね合わせた文章で繰返し綴ってきた。《文学とは一に表現、二に表現》(岩本素白)と常に思いながら。ひっそりと、青白い命の炎を燃やし続けてきたのである。
結城信一の小説からは、古風といった一瞥で済まされてしまいそうな、典雅とか気品、禮節、節度、完璧等の言葉が思い浮ぶ。こういった言葉は、いまでもそうだが、もはや、殆ど理解されそうにない世紀へと入ってゆくようだ。結城信一の魂を鎭めるように、古風な《中に大きな海をたたへた一個の小さな静かな生きた貝殻》として在る、愛着ふかい作品群を一巻にまとめるとき、結城氏には望むべき本の姿としての造本・装幀が思い描かれていたにちがいない。結城信一は戦後逸速く、学藝誌「ロゴス」(昭和二十一年五月)と「象徴」(昭和二十一年十月)を創刊した編輯者でもあったのだから。「ロゴス」は石井鶴三の扉絵、「象徴」の題簽は會津八一、カットは岡鹿之助であった。
結城信一の小説を、私は愛情をもって大切に取り扱わなければならない、と思う。正字旧かなづかいで精魂こめて書き誌された小説自体も、そう望んでいる筈である。
そのみごとな結実が、結城信一の本には在る。
*
『青い水』は結城信一の初めての本である。
昭和三十年(一九五五)八月十日、六つの短篇小説を収めて、当時、東京創元社から独立した小林秀雄の緑地社から刊行されている。装幀は岡鹿之助であった。
結城信一の「あとがき」には、《この最初の短篇集に、岡鹿之助氏の斬新な美しい装幀をいただけたことに、今、私は深い感謝と喜びを感じてゐる》と簡単に誌されているだけだが、後年、この書については、《装幀一切をしてくださつたのが岡鹿之助氏で、本の型、カバー、表紙、目次面の挿絵、本文の組方まで、こちらの身の引緊るほどの有難い心くばりをいただいたものである》とも述懐している。
私はこの一節に出合って驚愕した。
これは、換言すれば、作品集の造本設計から装幀までの一切の指定を岡鹿之助が行った、ということであろう。岡鹿之助の装幀本がすべてそうなのかどうか、私は詳しく知らないが、おそらく、異例のことのように思われる。
岡鹿之助の結城信一へ寄せる、深い愛情と激励の思いが窺われるのである。
本文の版面指定は、押しつけがましさがなく、見開きのページのなかで、ゆったりと、ひそかに佇んでいるような贅沢な組み方である。
結城信一が短篇小説「春」(「群像」昭和二十七年一月号。『青い水』所収)を発表した折に、岡鹿之助はカットを寄せている。清潔な詩情と美しい抒情を湛える結城文学に親しみ、結城信一の練り上げられた文章による《みごとな精神の所産》に好感を抱きながら、愛情を持って接してきたであろう岡鹿之助ならではの造本・装幀であった。昭和二十一年(一九四六)初夏、「象徴」のカットをお願いにあがっていらい、岡鹿之助を《心の師》として親炙してきた結城信一にとって、この最初の本の刊行は望外の喜びであったろう。
このような、記念すべき作品集から出発した、結城信一は幸福な小説家であった。
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『夜の鐘』は、昭和四十六年(一九七一)三月八日、七つの短篇小説と二つの小品を収めて、講談社から刊行されている。駒井哲郎の装幀になる、六册目の本であった。
結城信一が駒井哲郎に会ったのは、昭和二十七年(一九五二)五月である。《お互ひに畏敬する岡鹿之助氏が、それとなく敷いて下さつたレールの上であつた》。また、《二人は、岡さんの大きな温い懐のなかで、長い友情を深めてきた》(「銅版画の詩人駒井哲郎」)と結城信一は懐旧の思いをこめて誌している。
岡鹿之助を訪れてから六年のちに識合った駒井哲郎は、結城信一の《生涯の友》となった。
駒井哲郎には『青い水』を紹介した一文(「朝日新聞」昭和四十四年三月二十七日)もあって、《結城氏は作品の数はすくないかもしれないが、いつも確実な、みがき上げられた作品しか創らない人なのではないのか》、《表面的な叙情ではなくてなにか肉感的とさえいえるものを持っているので、ちょうどすぐれた美術品を見るような気持でなん度でも読むことが出来る》、といみじくも書いている。
貼函と本扉に使用されているブラウンの沈んだ色調のモノタイプは、まるで星雲や流星が飛び交っているような、夢や幻覚の星月夜を髣髴とさせる。その暗黒の宇宙の深みの底には、『夜の鐘』に収録されている七つの短篇小説と二つの小品からかもしだされる、落着いた燻し銀の暗いきらめきを観ることができる。私は、そこに、《死者の世界》が秘められているかのように感じられて、眩暈がするほどであった。鬱鬱として絶望的な戦後の時代を結城信一が発狂もせず自殺もしないで辛抱強く生きてきたのは、やはり、文学への夢と情熱があったからにほかならぬ。
私には、『夜の鐘』一巻から、「もういつ死んでもいい」という、結城信一の悲痛な声が聴こえてくる。
そんな《挽歌の連作》ともいうべき作品群を装うのにふさわしい、駒井哲郎の装幀は、作品の内容とも美しく溶け合った、《すぐれた美術品》のように在る。
結城信一は「あとがき」で、《この本の装幀を多年の畏友駒井哲郎氏にしてもらへたことに、深く感謝してゐる。私には遠い道を歩いてきた、といふ感慨が痛切にある》と誌しているが、この《多年》、《遠い道》には、当然、岡鹿之助もいたのである。
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ところで、『青い水』と『夜の鐘』の間には、次の四册の本がある。
『螢草』。昭和三十三年(一九五八)十二月二十五日、自伝風な長篇小説として刊行されている。題字の木版は畦地梅太郎。
『鶴の書』。昭和三十六年(一九六一)三月二十五日、五つの短篇小説を収めて刊行されている。装幀は大谷一良。
『鎭魂曲』。昭和四十二年(一九六七)一月十五日、五つの短篇小説を収めて刊行されている。扉カットは串田孫一。
『夜明けのランプ』。昭和四十三年(一九六八)八月五日、九つの小品を収めて刊行され、題字等は背と平に題簽貼りされている。装幀は串田孫一。
いずれも創文社から発行され、大洞正典によって造られた。
大洞正典と結城信一は、第二早稲田高等学院の学生時代からの友人である。
戦後、大洞氏が或る文藝誌で結城信一の名前と作品を識って駭き、その嬉しさを伝えたのをきっかけにして、結城氏との旧交はあたためられ、途切れることなく続いて頻繁になった。その交友は、結城信一が亡くなるまでの五十年余に及ぶ。
これら四册の本で、題字の木版、装幀、カット等をされた畦地梅太郎、串田孫一、大谷一良の諸氏は、「アルプ」(創文社発行)に携わっていた人たちである。
山の文藝誌「アルプ」は、串田氏の編輯により昭和三十三年(一九五八)三月に創刊され、昭和五十八年(一九八三)二月に三百号を発行して終刊された。この「アルプ」に、寡作な結城信一は、大洞氏の要望にこたえて十七篇の小品と一篇の詩を発表している。神秘な山や高原を舞台にして、遠いむかしの日の歌を物語る結城信一独特の美しい小品で、私には、次のような戦慄的な声が聴こえてくる。
《……「彼は劇場にも映画にも行かない。人と、からだがすれあふことに、耐へられないからだ」……》
「アルプ」に発表された結城信一の浄書原稿は、大洞氏がすべてを大切に保管されていて、現在、日本近代文学館の「結城信一コレクション」に寄贈されて在る。
私は、結城信一のこれら四册の本をながめながら、「アルプ」を母胎に誕生した山の画文集や詩集、随想集等の本も想起した。そこからは、本造りの名人であると同時に優れた編輯者としての大洞正典の姿が浮び上ってくる。
本文の版面指定から刷り位置、造本・装幀に至るまで、余白を活かし、すっきりして無駄がない。文字だけによる、大洞氏のこまやかな心配りが隅々にまで行き届いていて、落着いた、古風な静寂をかもしだしている。さらには、充分に吟味された材質や木版の題字、継ぎ表紙、題簽貼り等の肌触りから、沁々とした、やさしい温かさも感じられるのである。それは、学生時代からの結城信一を識り、結城文学を愛して歇まない大洞正典ならではの繊細さと篤い友情によるものであろう。
私は大洞氏の本造りに魅了される。
*
『青い水』から、『夜の鐘』、創文社の本と簡単に見てきたが、結城信一の本にふさわしい造本・装幀で、あらためて私は師友に恵まれた結城氏であったと思う。
結城信一の人柄もあろう。作品から匂い立つ魅力的な香気にも拠ったであろう。
私にはここで、おのずから、結城信一の造った『文化祭』が浮ぶ。
『文化祭』は、昭和五十二年(一九七七)三月三十日に印行され、単行本未収録作品のなかから八つの短篇小説が自選され収められている。六年ぶりの近作自選短篇集で、制作は《精興社企画制作部》と奥附にある。
この本の装幀を結城信一は『夜の鐘』とおなじように駒井哲郎にしてもらいたかった。が、昭和五十一年(一九七六)十一月二十日、駒井哲郎の死去により、その望みは絶たれ、『文化祭』は駒井哲郎へ捧げる本になった。
本扉には岡鹿之助の絵が二色刷りされ、次の扉には駒井哲郎の絵がある。目次面にも岡鹿之助の絵があり、これらの絵はいずれも再度の使用であった。
精興社明朝といわれる女性的な、やや細身の特徴のある字面が10ポという大きな活字でゆったりと組版された本文は読みやすく、天地に余白を多くとった刷り位置で印刷が叮嚀になされているため、よけいに映えて美しい。『文化祭』は活版の原版刷で、気品のある精緻なできばえの作品集になっている。私の胸底で、ふと、『文化祭』と『青い水』とが重なりあう。結城信一は『文化祭』を造ろうと企図したとき、岡鹿之助が造本設計まで行った二十二年前の出発の書『青い水』を念頭に置いていたのではなかったか。『夜の鐘』刊行後、短篇集を編む機会に恵まれなかった結城信一が、死の予感のなかで印行した『文化祭』一巻は、六十代への新たな出発の書であるとともに、《滅びの支度》でもあったから。
残された歳月があと七年しかないことを、むろん結城信一は知らない。
しかし『文化祭』のなかに、私は今までにない、結城信一の意表をつく言葉を聴いて、眼を瞠った。次の一行である。
《……「仲間と一緒になつてゐればいいが、一本立ちでゐては、辛いことです。……樹木とおなじですよ」……》
――「サンパン」第七号(一九九九年一月)初出――
(筆者は、文学研究者 日本ペンクラブ会員 湖の本の読者。0.11.14寄稿。誠実な探求と平意の名文で知られた文学者で、ことに結城信一研究では追随を許さぬ成果を挙げておられます。)
秦恒平に「初恋」という中篇小説がある。卑賎芸能への差別を扱った題材といい、幻想を駆使した方法といい、刺激的な作品なのだが、「雲居寺跡」と題された初出が目立たない場所―「あるとき」昭53.10―であったことと、「初恋」と改題されて収められた単行本『初恋』―講談社、昭54.10.24―も絶版となっている現在、あまり注目されることのない不幸な作品となっている。作者の作品への思い入れの深さは単行本表題作として巻頭に据え
られていることでも明らかだが、その『初恋』の「あとがき」には次のように書かれていた。
そもそも「雲居寺跡」(うんごじあと)という歴史小説を書きかけ、
書き切れずに『清経入水』に転じたのが幸い陽の目をみて、今年
でちょうど十年になる。その「雲居寺跡」へまた意を決して踏みこ
み、そして此の際思い切った改題をさえ試みたのは、此処に私の、
文学への「初恋」も芽生えていたと、今つくづく自覚するからだ。
作品「初恋」に芽生えていたというく文学への「初恋」〉とはどういうことか、その作者の思い入れの所以(ゆえん)を探りつつ、秦文学における「初恋」の重要性を明らかにする方向で、以下に論を進めてみたい。
T 初恋の物語
しかしまず「初恋」がどんな物語かを知っておかねばなるまい。秦文学の他の多くの作品同様、「初恋」もまた過去と現在、幻想と現実とが複雑に錯綜した重層的な作品構造を持っており、その梗概を簡略にまとめることは難しい。そして後の論の展開のためにも、ここではむしろ紙数を惜しむことなくストーリーを忠実にたどってみたい。
「初恋」は全八章から成り、各章交互に過去と現在が語られる構成をとっており、奇数章では(それ以前の回想を含みつつ)高校一年から三年までの三年間における、語り手当尾(とおの)の木地雪子へのく初恋〉が語られ、それから二十年以上を経て小説家となっている当尾の現在に即して偶数章はおおむね進行する。ラジオの講座で梁塵秘抄について話してきたその最終回が放送された数日後から流れだす現在の時間では、その放送への反響を契機に繰り広げられる梁塵秘抄の世界、とりわけ源資時(すけとき)への思いが中心に語られている。各章は匂付(においづけ)とでもいうべき巧妙な接合をもって展開しており、奇数章の過去の体験が偶数章の現在の芸能観を培い、そしてその過去の回想にまた現在の芸能観が影をおとす、という相互に浸透しあう二つの世界から作品は成り立っているのだが、ここでは表題の〈初恋〉がとりあえず指し示している当尾の過去の部分を中心にたどってみよう。
(以下、〔 〕内の算用数字は湖の本版『初恋』の頁数を示している。)
「一」では当尾の高校一年の夏休み、地蔵盆の日の回想が中心に語られる。
毎年の地蔵盆の中日(なかび)に行なわれる余興には、決まって〈なんとか愛八〉というくへたな浪花節語り〉〔57〕が呼ばれていた。浪花節よりもその後の〈付(つけたり)の芸〉〔58〕が呼びもので、大人たちに尋ねれば〈のろんじ〉〈かったい〉〔59〕と答えられる、〈ごく初期の猿若〉〔58〕を想起させるものだった。高校に進学して古典の教科書等によって今様に触れることでくなんとなく愛八の芸にこれまでとちょっと違った興味らしいものを持ちはじめていた〉〔61〕当尾は、その日の曲師を勤めていたく娘、愛丸〉〔63〕と紹介された少女が、中学時代をともに過ごした木地雪子であることを知る。〈妙に気が動顛し〉〔64〕た当尾は人をかきわけ雪子のそばへ歩みよっていった。(以上「一」。以下「二」の現在時では、梁塵秘抄のラジオ放送の視聴者から源資時についての話が面白かったという電話をもらい、雪子が電話してくるはずはないと思いつつも逢いたさを募らせている現在の心境と、後白河院と資時のことについてが語られる。)
しかし呼びかけた当尾を無視したかったのか雪子は振向かない。その〈木地雪子を振向かせるのに、足かけ三年かかった〉〔73〕という、三年間の当尾の幼い、しかし執拗な雪子へのアプローチが「三」で語られる。
愛丸として寄席に出るときは、〈あつかましく楽屋へ忍び入〉〔74〕るまでに通いつめ、手紙を出し続け、跡をつけまわす、その当尾の雪子への執着は、〈近在の物嗤いに〉〔73〕なるほどのものだったが、〈四つ五つで人に、「貰い子風情」と唾をかけられて以来、つとめて鈍感になろうとし〉〔73〕ていた彼は意に介さず雪子につきまとい続ける。当尾は〈雪子の何に惚れこんだのかがさつぱり自分で〉〔76〕もわからず、そして雪子はいっこうに振向いてはくれない。〈「しまいに、あんたが困るのえ」〉〔79〕という雪子のことばどおり、周囲の反応は単に当尾の愚行への物嗤いのみならず、〈かったい〉〔59・79〕としての雪子一家の生業への差別に絡んだ痛罵をも含むものとなっていた。(以上「三」。
以下「四」では、「二」を承けた資時に関する記述が続き、資時の母壱岐が乙前の孫娘であることや、資時は〈己(おの)が生立ちの秘密〉を知らず、後白河院は乙前らとのく深い縁からも万事心得てひとしお資時を愛〉〔81〕しただろうことが、〈自分が貰い子の身にも比(よそ)えて〉〔81〕語られる。そして雪子を想い出してから日本古来の〈あそび〉〔81〕の歴史に思いを馳せるが、資時の墓の所在を雲居庵の傍と知らせる、写真を添えた、例の視聴者からかと思われる手紙を彼は受け取る。)
その雪子が漸くに振向いてくれた、高校卒業間近の日のことが「五」で語られる。初めて応じてくれた美術展へのデートのあと入ったうどん屋で、雪子の食べ残した丼を彼が浚えてしまったことが彼女の心を当尾に近づけたらしく、粟田山への山径を登った二人は、尊勝院の境内で抱きあう。雪子の突然の変わり身に愕き理由を尋ねる当尾に、彼女はさり
げなく〈一味(一字に、傍点)同心(一字に、傍点)〉〔93〕ということばで答える。〈何かが今、誓い合われていた〉〔93〕と
感じられる抱擁をしながらの二人の山行は、途中から菊渓の源流へと下る冒険となり、そして高台寺の奥〈まちがいのない雲居寺跡(うんごじあと)〉〔99〕へと出た二人は、金網の破れから忍びこみ〈早蕨(さわらび)のように頭をまるめて、ひっそり立っている一つの墓〉〔99〕を見つける。(以上「五」。「六」では「四」での来信を承けての雲居庵についての説明と、彼の娘が聞いてきた平曲演奏についてが語られたあと、〈短い夢を夕食前にむさぼるのが、このところ〉のく行儀のわるい癖〉〔102〕だとして、その夕べの夢が語られるが、それは「五」の続きとしての雲居庵での雪子との夜の夢であり、古代装束を身にまとった愛八ら一族に囲まれての《同火同食》の祝言だった。)
雲居庵の板敷に古畳を立て囲い抱きあって寝た二人は、翌早朝発見され、〈高台寺の奥を犯した〉〔107〕として警察に突きだされ新聞沙汰にもなる。親類が乗りだして二人は引き裂かれるが、そこには年齢の問題以上に愛八らの職業への蔑視があり、当尾はそれに怒りを覚えつつも論難の術(すべ)を知らず、ただ〈真の身内とは何〉〔109〕かと思いをめぐらすのみだった。雪子とも会おうとするがかなわず、訪れた雪子の家でも愛八の姉と老婆とから多くを訊きだすことはできなかった。そんなある日中学時代の国語の恩師に呼びだされてみれば、それは雪子も同席でのく別ればなし〉〔115〕の確認だった。〈大学出たらまた、逢〉〔115〕うことでそれを諾(うべな)った当尾は、恩師から〈思う所(とこ)は〉〈もっともっとしてから、文章に書〉〔115〕くことを勧められ、雪子と共にそこを辞す。(以上「七」。以下「八」では、その恩師の太平記研究には愛八と懇意だったことが繋がっているだろうことを語ったあと、「七」の続きとして、雪子との最後の日に行なわれた京都の街中を我武者羅に歩きまわるというく別れの儀式〉〔119〕が回想され、その後の現在時までの経緯が説明される。)
大学を出ても雪子とは逢うことなく当尾は現在の妻と結婚するが、雪子は既に死んでいたことを七年後に知らされ、雪子に詫びたく思うのと同時に、〈「資時」を書きたい〉〔121〕と思い立つ。その晩〈高台寺の墓地を上って行く女を追ってい〉〔121〕る夢を見、〈鉤蕨(かぎわらび)に似た、あれが雪子の墓かと、ふと想〉〔122〕う。夢そのままに『雲居寺跡』という小説を書きだしたが中絶した。まだ資時の小説を書きだせないでいる現在、〈しきりに木地雪子を夢見た〉〔122〕いという心境を述べて、当尾の語りは終わる。
U 下敷きにされた作品
ところで以上に見てきたところは単なる作品の梗概であって、その重層的な構造を頭に置きつつたどったにせよ、作品内部の、表層のレベルでの錯綜をほぐしたにすぎない。「初恋」という作品の真の重層性を考えるには、作品そのものがその上に重ね置かれた、もう一つの層の存在をも視野に入れる必要がある。つまり「初恋」という作品は、確かに
資時の梁塵秘抄を核とする芸能の歴史的世界を下敷きにして、その上に《現実》の世界を虚構することで成り立っていたのだが、その二つの世界を含めたさらにその下に実はもう一つ別の、意図的に踏まえられた世界があるのである。
しかしそれは当然のことながら「初恋」のみを読んでいる読者には見えるべくもない世界である。が逆にその世界の存在を知って、それを作品の下敷きに入れることで、あたかもその熱によって何も描かれてはいないかに見えた白地に判然とした図柄があぶりだされてくるように、かなり読み解きにくい「初恋」の世界が、その錯綜した諸要素の関係性が明らかになることで、クリアーなものになるといった世界である。しかし勿体ぶるのはよそう。その意図的に踏まえられたであろうもう一つの世界とは、秦恒平自身の旧作「清経入水」(「展望」昭44・8)の世界である。先に引いた「あとがき」で、単行本刊行年が「清経入水」からくちょうど十年に〉あたることがことさら思い入れある書き方をされていたのも実はこのためと言えるのである。
ところで「清経入水」を読んだことのある読者なら、この「あとがき」に触れたとき多少の違和感を覚えたはずである。「初恋」の原題が「雲居寺跡」なのは、そのクライマックスの舞台がまさしく雲居寺跡である以上納得できるものの、なぜ「清経入水」が「雲居寺跡」なのか、〈転じた〉と書かれている以上その原構想やそれに伴うタイトルは措いても、「清経入水」と「初恋」との間にそんなに深い関係があるのか、といった不審は拭えなかったはずだ。
したがってここで両作の関係性について問題にするにしても、例えば単に両作とも京都を舞台にし、歴史的なあるいは古典文学的な世界を背景にしてその作品世界が成り立っている、といった秦文学のほとんどすべてに共通するような特徴を挙げることではすむまい。そうした共通点といった次元を超えて、意図的に踏まえたであろうと言えるのは、作品の構造そのものまでがぴったりと重なりあうからなのだが、その前にまず「清経入水」がどんな物語なのかを見ておかねばなるまい。
山中の一軒家で襖のむこうの談笑の声音を懐かしんで襖をあけてもあけても、談笑の声は空ろな部屋のむこうから聞こえ続ける。そんな何度も見続けている〈夢〉が序詞的に語られたあと、丹波山中の狐塚は〈きよつね塚〉が正しく、平清経に関わりがある、という教え子の話を紹介した中学時代の恩師の手紙で物語は始まる。清経は〈鬼〉と深い交渉があり、平家物語が伝える入水は実は丹波山中への遁走だった、と考えていた宏は、広島行の仕事のついでに京都に立ち寄り、鬼山和子というその教え子の少女に会わせてもらう。奇異と怖れとを抱きつつ和子の話に惹きつけられて京都まで足を運んだのは、清経考証以外に宏に丹波と鬼山姓にまつわる苦い思い出があるからだった。戦時中丹波に疎開していた宏は同じ部落の鬼山紀子という年上の少女と幼な恋を体験したが、紀子一家はむきつけにく鬼〉と嘱し蔑まれる怪しい雰囲気を持っていた。その蔑みを宏も持ちつつしかし憧れもしていた紀子と、宏はある嵐の夜鬼山山中で偶然一夜を共にすることになる。京都に帰った宏の前に紀子が再び姿を現わすのは、大学入学が決まった冬だが、そこで宏は鬼山山中での肌の記憶に誘われて紀子の肉体に惑溺する。しかし紀子は急に姿を見せなくなるのだが、〈紀子を鬼と信じて、怖れ、また恋していた。どこかで差別や軽蔑さえも、していた〉宏は、その別離に安堵の気持ちが隠せなかった。
そうした紀子の妹が実は和子なのではないか、あるいは和子は紀子その人ではなかったか、という奇異な思いにとらわれつつ平家縁の宮島を訪れた宏は、漁(すなど)る若い男に沖の小島の名を聞き〈きつね塚〉)と教えられ、さらに山の上の〈蛇塚〉を指さされる。その瞬間宏は落下の感覚を味わい、その中で〈夢〉の談笑の声をしかと聞き分け、談笑の主は〈瀬戸の海に沈んで果てた平家〉一門であったことを悟り、そして〈この僕が清経なのだと知〉る。鬼山の岩穴の前に立った宏に「お父さん」と呼びかけた小蛇が和子に変じ、その和子から彼女が紀子との間の娘であり、既に亡い紀子の遺髪を埋めたこの塚が狐塚であることを知らされる。我に返った宏の前に、宮島の狐塚も蛇塚ももうない。沖に遠ざかる紀子たちの小舟を見送りつつ、宏は佇(た)ち竦(すく)み続ける……。
先にも触れたようにできあがった世界としては二つの作品はまったく別なものであり、一読したかぎりでは両者の相似性質肇されやすいのだが、このような形で梗概をたどったとき・両者の距離はかなり接近してこよう。すなわ単に歴史的世界を借景としたにとどまらぬ、その上に《現実》世界が重ねあわされる重層性がまず両作に共通しているが、その下敷きにされた世界がともに源平争乱の時代であり、そこに重ねられるのが語り手の幼な恋の体験だということまでがぴったり一致している。そしてそれ以上に、この二つの世界を重ねあわせたのは作者の意図であり趣向であったのだが、それが語り手の考証を交えた語りの進行に連れて、重ねあわされたという作為を感じさせないまでに融合していく展開を見せる、という構造の一致こそ見落とされてはなるまい。
こうした構造の一致の上に立てば、細部での様々な共通項はいくらでも拾いだすことができる。
「初恋」の当尾(とおの)、「清経入水」の宏という語り手の名前は、両作では姓名別々に分けられているが、他の多くの作品で主人公の名に採られた《当尾宏》そのものであろう(事実「清経入水」の私家版ではこのフルネームが出てきている)し、その名告(なの)りが実父母の籍に入(い)るをえず京都府相楽郡当尾(二字に、傍点)村の父方祖父宅に預けられて幼時を過ごし、その後現姓の秦家に引き取られてからもとりあえず宏一(ひろかず)と名を変えられていた、作者その人の影を落としたものであることが既に示すように、両作の当尾も宏も、ともにその時々の作者の現実を、例えば梁塵秘抄のラジオ放送をしたり(昭52・10・2-511・6)、医学関係出版社に勤務していたり(昭34・4-49・8)といった形で色濃く反映した存在なのである。
もっともこれは他作にも通底した秦文学における創作の秘儀に属する部分ではあり、これについては後にまた考えねばなるまいが、そして表面的には当尾は作家、宏は会社員という違いはあるものの、両者とも憑かれたように歴史上の人物である資時を、そして清経を追いかけ続けている点も「初恋」と「清経入水」では共通している。そしてその考証という形の熱心な追跡は、その対象の人物の母親を、それぞれ壱岐、丹波という(地名を名告りとし、それぞれの作品のヒロインとつながりを持たせた名であることも共通する)白拍子だとする(ともにそれ自体虚構の設定である)ところを大きな発条(ばね)として進められる。さらにその考証を含めた物語は、それぞれの追いかけている人物の墓を、資時のそれは雲居庵横の鉤蕨の形をした自然石の墓だとし、清経の墓は丹波鬼山にあるくきつね塚〉だとし、その所在を知らせる来信によって大きな展開を見せることまで一致しているのだ。
そしてその考証と並行して回想の形で語られる主人公の過去、すなわち下敷きにされた古典の世界の上に重ねられた《現実》の世界の中でも、両作品は多くの共通項をもっている。そもそもその《現実》の世界とは、ともに主人公の過去の幼な恋を中心とするものであった。その恋の相手との交渉の期間は、「清経入水」では小学五年から社会人となって
上京したあとまでと長く、「初恋」では高校一年(出会いまで遡っても中学一年)から高校三年までと短い、という差こそあれ、そしてその交渉のクライマックスでの深い交わりの程は「清経入水」ではかなり露骨に、「初恋」では微妙に書かれているという違いもあるものの、ともに高校三年の冬、京都東山の山径にてその恋のクライマックスを迎えるという、年立ても舞台も一致している。
そしてそのクライマックスの直後に彼らの幼な恋は破局を迎えることになる。そこに宏の父が関与したのではないかということが、「清経入水」では読者にはその事実関係の確認ができるべくもない宏の妄想の形で語られていたが、「初恋」でははっきりと父親をはじめとする親戚らの手によってその破局がもたらされていたことが語られている。さらにその幼な恋の相手である鬼山紀子も木地雪子も、ともに語りの現在時では既に此の世に亡い存在であること、そしてそのことが今まさに語りが終わろうとする時点ではじめて明かされるという構成(という以上の語りの構造)もまた一致している。
そしてそのヒロインは「清経入水」では〈鬼〉、「初恋」では〈かったい〉〔59・79〕と呼び蔑まれる、ともに卑賎の者として設定されている。そうした差別がヒロインに及ぶのは、勿論その家全体が差別の対象とされているにせよ、主に〈峠向うの杉戸の出だった〉鬼山藤次と、〈のろんじ〉〔59〕である愛八こと遊垣専一という、ともに父親の卑種性によっているのだ。このヒロインが卑種なる父の側に寄っていることに対応して、両作ともに語り手は追いかけている歴史上の人物の方に、やはり卑種なるこの場合は母の側を、貴種なる父を敢えて捨てる形で選びとらせている。すなわち清経は父なる平家一門を捨て母なるく鬼〉の側を選んで丹波に奔る、それがく清経入水〉ならぬ《清経遁走》という宏の考証の方向だったのであり、「初恋」でも資時が郢曲(えいきょく)の名門である父資賢の源家を離れて下賎な平曲語りを、つまりは白拍子なる母をも大きく括りとる世界の方を選びとっていく姿が、作品末尾の〈夢〉の中で当尾の幻想によって描かれるのだ。
さらに「清経入水」での清経の墓とされた〈きつね塚〉が実は遺髪が埋められた紀子の墓であったことと呼応して、「初恋」での当尾は、自身過去に雪子とともに見つけ、そして現在写真によって資時の墓と教えられた〈鉤蕨に似た、あれが雪子の墓かと、ふと想った〉〔122〕りしているのである>。この合理的な説明などを求めさせないリアリティをもったものではあるのだが、やはり「清経入水」の宏の覚醒を横に、あるいは下敷きに置いたとき、より明瞭にわかりやすくなるはずである。しかしこれらは幻想の中での発覚であり、あるいは幻想を承けての想像であり、その内容の意味するところは幻想の在り方自体を考えることなしには見えまいし、そもそもその幻想のメカニズこそが両作に共通する最たるものなのである。
V 原点としての夢
以上に見てきたように「初恋」と「清経入水」との間には様々な共通部分が拾いだせた。その他そのそれぞれの共通項の中でも、例えば大学進学は推薦によるものであったこと等、より細部での一致をいくらでも列挙することは出来ようし、さらには父の職業がラジオ商であったことや、主人公が蛇嫌いであることやといった細かな道具立てのいちいちまでが、ことごとく自身の旧作が踏まえられているのだ。しかしこうした例をこれ以上挙げ続けるのは煩わしく、最も本質的といえる一致をこそ見てみるべきだろう。
ところでここに挙げた三点はそれぞれ作者秦恒平の伝記的事実に照応しているのであり、そこから他の例えば幼な恋に関する共通項を作者の実体験に基くが故、と捉える視方もあるいは可能であろう。事実彼を私小説的作家として見てそうした下衆っぽい勘繰りがされがちな要素を秦文学はもっている。しかしそうした危険を敢えて冒し、と言うよりもむしろそのこと自体を遊ぶかに、作者の現実を作中に鏤(ちりば)めることによってある種の枠組みをとった上で幻想を恣(ほしいまま)にするといった、私小説の逆手とでも呼ぶべき方法をとる作家が秦恒平なのである。
原体験と呼ぶべき恋愛体験の有無やそれとの異同は知らず、少なくとも作品の構造上の一致は偶然とは言えまいし、両作の細部に亘る様々な重なりあいは、そうした一致する構造がまずあり、その枠組みの上にそれぞれの細部が配列された結果と考えるべきだろう。すなわちここでも各作品でとられた私小説の逆手といった方法同様に、偶然にではなく意図的に、「初恋」では「清経入水」が踏まえられていると言えよう。そう意図的だと言えることを明らかにするためにも、先に述べた最も作品にとって本質的な一致点を見るべきだし、そうすることで(たとえ両作における相似性というだけではことばの足りない様々な一致を偶然のものとするにしても、そうであれば尚さらに)単に作品にとってのみならず、秦文学にとっての本質的なものが見えてくるはずである。
ではその、「清経入水」との最たる一致を見せる、「初恋」における幻想とはいったいどんなものか。
先にも既に触れたように「初恋」は「一」から「八」までの各章で過去と現在とを交互に語り分けていく構成をとっている。しかもその各章間の展開は円滑の妙の極みを見せており、偶数章の現在時、語り手当尾が梁塵秘抄およびその周辺の芸能についての様々な思惟をめぐらせる、そのそれぞれに関連する形で(つまり語り手の連想の形で)過去が喚び起こされ、その幼な恋の体験が奇数章で回想され、語られていく。したがって語られた側(読者)としては、雪子との物語と資時の時代とが次第に重なりあってくるなかで、最後にその二つの世界が渾然と融合することになるのが、作品末尾に置かれた当尾の〈夢〉なのである。この融合を円滑に準備するために最終「八」では例外的に現在と過去とがとも
に語られていたのだ。まず当尾の見た〈夢〉を我々も見てみよう。
その晩、夢を見た。夢の中で私は高台寺の墓地を上って行く
女を追っていた。そして、急に姿を見喪った時、眼の前に金網
の破れがあった。とびこみながら性急に「雪子」「雪子」と呼んだ。
そう呼んだつもりだった。のに、まるで違う名前が山辺にこだま
して、するとわざと隠れているのか、ほどよい木陰から名を呼び
返された。知らぬ名だった。が、それはもう私の名前に相違なか
った。露坐の大仏の上を勢いよく鳩の群が舞っていた。
「なぜ、わしを置いて行く」
「ほっほ……ちゃんとわたくしのあとをつけておいでだったでは
ありませぬか。わるいお方が付きまとうと、さあ、父上の前で言
いつけましょうか」
私は苦笑した。雲居寺(うんごじ)の池の上を渡って熱心な師の
御房(ごぼう)の繰り返し繰り返し弾く琵琶の手が聴えていた――。
〔121〕
夢とは本来そういうものだろうが、ここでのく夢〉もまたかなり意味のつかみにくいものであろう。つまり〈雪子〉の名前はどうくまるで違う名前〉として発語されたのか、自分を呼び返した〈知らぬ名〉とはいったいどんな名なのか。しかし語り手はこの〈夢〉以前に周到に伏線(という言い方は後に見るように実は適当ではないが)を施してくれている。「四」で資時の〈母の名は「壱岐」と〉〔80〕したあと、語り手はその壱岐につき〈「つねに消えせぬゆき(二字に、傍点)の島」という今様があり、「壱岐」は当時「雪」と音通だったことだけ、いやこの女が「あそび」だったことも、判っている。〉〔81〕と述べていた。そして雪(傍点)子がその〈あそび〉の血脈を引く者として捉えられていることを考えれば、ここでの〈違う名前〉は〈壱岐〉以外には考えられない。となれば〈呼び返された〉〈知らぬ名〉は、それがく見も知らぬ産みの母親を、何度私は「あそび」の境涯の人と想ってみたことか。〉と述懐する〈私の名前に相違な〉い以上、〈資時〉としかなるまい。「初恋」の
世界で語り手が思いをめぐらす歴史上の人物の中で〈師〉と呼ばれうるのは乙前、慈鎮、そして後白河院の三人だが、
〈御房〉には乙前は当たらず、後二者と師弟関係にあるのは資時しかいない。さらに〈琵琶の手〉に〈熱心な〉師とは後白河院に特定されるはずだが、ともあれそこからも〈私の名前〉は〈資時〉となるはずなのである。そして「清経入水」にも通じる、秦恒平における母恋を考える好材料ともなろう、この〈夢〉において無意識のうちに母の〈あとをつけて〉いたこと、そしてそれを資賢という〈父上の前で言いつけ〉られるのに〈苦笑〉を禁じえないということが象徴的に意味するものこそ、先に述べた資時における母の側の選択、平曲への傾斜なのである。
ところでこの作品末尾に至って語り手が自身の追いかけていた歴史上の人物と一体化するという展開は、「清経入水」において作品の結ばれる直前に宏が〈平家に迎えられない今は異端の鬼の群に身を絡められた即ちこの僕が清経なのだ〉と自覚する語りの進行と軌を一にしているのである。そしてその「清経入水」では、その最後の宮島での幻想の中で現われる鬼山和子という紀子の娘が、そもそもの清経考証を促す〈まどわし〉を行なっていたのであり、すべてはその幻想を出発点に、つまり語りの進行とは逆に、幻想の現実への侵食作用が遡行的に作品前半にまで及んでいくといった作品構造をもっていたように、「初恋」もまた、この作品末尾の〈夢〉を原点として、そこから当尾の回想(過去)も考証(現在)も、すなわち作品世界のすべてが織り成されているのである。
先に見た偶数章の現在の《現実》に挟まれて語られる奇数章における過去の恋愛体験とは、あくまでも現在時での回想だったのであり、そこで語られている内容は、現在時の語り手の解釈・感想・解説を挿まれた、それによって潤色されたものだった。例えば愛八の芸について語る件(くだ)りでは〈今(傍線)なら私は躊躇なく物真似と言う。ごく初期の猿若を考える。〉〔58〕という現在時での注釈がつけ加えられており、藝人の絵解きについてもく今(傍線)なら音羽屋(しょうろく)が得意のうかれ坊主のチョボクレを想い出す語り口〉〔74〕だという形で解説し、〈異形と見える若い雪子の風体(ふうてい)〉についてもく今(傍線)だと能装束の摺箔の着付などをすぐ想いついただろう〉〔90〕と語っている。これらはすべて、愛八そして雪子の藝を、長い藝能の歴史の中でその正統な伝統の血脈を引くものとして位置づけうる認識をもった、現在時の視点によるものである。そして現在時からの回想とは、そうした視点に立つことでの過去の再度のたどり直しということになる以上、これは回想、そしてそれを語ることの本来の在り方にむしろ忠実なものと言えるのかもしれない。
だがいかに本来的な在り方とは言え、いや本来的であれば尚さらに地の文から消えてしかるべき〈今〉という視座がことさらに頻出している。そしてそれらは、〈今(傍線)にしてあの時、だれ一人、私にしても、結婚の二字をけっして口にしなかったのに、思い当る。〉〔112〕という箇所をむしろ例外に、先の例同様の〈今(傍線)なら〉〈「靱猿(うつぼざる)」ふうの小舞を連想しただろう。〉〔63〕、〈猿楽者(さるごうもの)の門附(かどづけ)か大道藝かと見ただろう。〉〔64〕と愛丸(雪子)の藝を捉えたり、大人の口にしたくかったい〉〔59・79〕ということばについて〈「かたゐおきな」という、ただ下賎の老人というにとどまらない〉〔79〕〈芸能者たちが古来いたことを今(傍線)の私はもう知っている。〉〔80〕とする形での、藝能への造詣を深めた現在時からの解釈なのである。そして当時の自分を〈今(傍線)に思えば「聖(ひじり)をたてじはや」という気だった。「年の若きおり戯(たは)れせん」と思っていた。〉〔73〕と振り返るところに最も顕著に表われているように、その藝能への関心の中心に資時がい、梁塵秘抄があったとき、〈今の私〉が最も深く関わるその今様歌謡をもって、彼は当時の自分の心情をも脚色し、過去のすべてをたどり返すことになるのだ。
しかしでは、そうした視点をもちうる〈今〉とはいったいいつ(二字に、傍点)なのか。その〈今〉資時への関心、梁塵秘抄への興味を持つに至らしめたのは何か。すなわち過去を振り返っていく視座であるく今〉を、そう在らしめたものはいったい何なのか。それを明らかにするためには、回想される過去を過去として対象化させ、現在と区別して各章交互に振り分けさせた、その現在時の原点を探すべきだろう。現在時はどこまで遡りうるのか、どこから過去と区別されるのか。
W 夢の呪力
「初恋」では偶数章に置かれた現在時の語りは、ほぼ直線的な時間軸に沿って進行する。
そして最後の「八」で、強制的に別れさせられたあとの、雪子と最後に出会って過ごした、
その過去の回想が現在時に混入したあと、時間軸はそのままそこから延ばされる形で、雪
子と別れ〈京都を捨て、東京で結婚した〉痂〕それ以降のことが駆け足で語られ、語り
の現在時〈今〉にたどりつく。したがってこの「八」末尾が時間軸の折り目になっている
わけだが、そこでは次のように語られている。
恋
エ3エ初
木地雪子が、まだ私が一年間大学院に籍を置いていた間に、それはちょうど、私が
妻の卒業を待っていたような間に病死したらしいことを、結婚後七年めの夏の休暇で
親の家へ帰って、聴いた。(-:-)雪子のことをもっと聴きたかった。が、聴される
エ32
ことでなかった。耐えて、傭いて、そうですが、と頷いた。将軍塚で、雪子が拾った
おはじきの黄色が蘇る。一瞬肩先へものが来たと感じた。「資時」を書きたいと、あ
の時、思い立った。そう思いながら、はじめて私は本当に青くなった。地に顔を擦り
つけて雪子に詫びたかった。愛八にも、曲師のおばさんや耳たぶを垂れていたお婆さ
んにも詫びたかった。〔伽5捌〕
先に引いた自分が資時になりかわる〈夢〉がこの直後に続くのだが、作家である当尾が
資時や梁塵秘抄に関心を抱き、そこを〈今の私〉として過去を回想していく「初恋」の、
その当尾の〈今〉を色濃く規定しているのが、この〈「資時」を書きたいと〉〈思い立〉ち、
〈その晩〉資時を生きる〈夢〉〔響を見る、今から〈十何年か〉〔轡前の〈結婚後七年
め〉一o一に当たる〈あの時〉一響なのであった。では〈あの時〉当尾が体験したものは
何か。
それを一語で名.つければ、秦恒平の他の多くの主人公たちが体験したのと同様の、《死
なれた》体験ということになろう。雪子が既に死んでいたことをはじめて聞かされ、その
《死なれた》悲しみと痛切な悔いの中から、偶数章に振り分けられた現在時の当尾の人生
は始まったのであり、その《死なれた》思いをもって奇数章の過去はたどり直されるので
恋
133初
ある。つまりは「初恋」という物語のすべてはこの《死なれた》地点から織り成されてい
たのだ。
ところでそこを、雪子に《死なれた》ところを出発点とする物語なら、当然その語りの
現在時では、語り手は雪子の既に此の世に亡いことを知っていたはずだ。にもかかわらず、
語り手はあたかも現在時も雪子が生きているかに(そう読者に思わせるように)語ってい
る。確かに「八」まで読んで当尾の語った体験を共有したあとで読み返せば、〈雪子が電
話してくるはずはなかった。逢いたかった。〉〔66〕という述懐は、その死を知っている者
の発言として不合理なところはなく、決して読者を証かしていたことにはなるまい。し
かしその〈一瞬木地雪子かと想ったあんな電話を受け〉〔81〕たその後日、電話が鳴った
ときにく一瞬胸が騒いだ〉〔皿〕と語る当尾の語りを聞いている読者は(しかも雪子と見
た高台寺奥の墓の写真を同封し、それを資時の墓だと知らせる来信まであっては、そして
そソ)が人の立ちいることのできない場所であってみれば)雪子の現在の存命を疑わず、電
話と手紙の主を雪子と信じざるをえないだろうし、この後の現在時における雪子の登場を
期待もするはずである。
しかしなにも語り手に抗議をしているわけではない。そもそもこれは作者レベルでの、
読者にもまた当尾同様の《死なれた》思いを同時体験させようという、巧妙に仕組まれた
Ill
エ34
趣向であり、「八」末尾まで読み進んではじめて雪子の死を知らされ驚く読者の驚きが、
雪子の死を聞かされた時点での当尾の驚きにみあい、その《死なれた》思いのリアリティ、
すなわち「初恋」という作品の原動力を保証する効果が狙われていたはずなのだから。そ
してさらに当尾が敢えて雪子が生きているかに語ったにしたところで、そこにも責めを負
わせることはできまい。なぜなら、読者が作品を読み進むにつれ、現在と過去、そして雪
子の世界と資時の世界が融合してきたように、その融合された折り目における《死なれ
た》ところを出発点として現在を生きている当尾は、その読者の経験を先取りして、現在
と過去を同時に生きていると言えるのであり、そして《死なれた》地点を折り目として始
められる現在の人生と、過去の生の回想とが等価であるような作品構造が如実に示すよう
に、当尾が過去の世界の雪子をそのまま現在の世界の実在として感じたとしても、(まさ
に『冬祭り』の語り手が今は亡き冬子を実在として信じ、ともに生きるように)なんら不
思議はないからである。
そしてそうした生を当尾に生かしめているのは、雪子に《死なれた》思いと、それによ
って見た〈夢〉だったのであり、もし当尾が雪子の実在を信じることを不思議とするにし
ても、そうした幻想的な生ならしめるのは、この〈夢〉の呪力のせいなのである。「清経
入水」における最後の宮島での幻想がそうであったように、「初恋」の末尾に置かれた
〈夢〉もまた、現実を侵食する作用をもっており、そこからすべての作品世界が紡ぎださ
れていると言えるのだ。そのことは、過去の物語の中で地蔵盆の夜当尾が雪子に惹かれる
ことになった、そもそもその場面が、年立てとしては当然《死なれた》あとのく夢〉に先
行するにもかかわらず、その〈夢〉によって脚色されて回想されている事実が、端的に示
していよう。
恋
135初
雪子は妙に白い着物を着ていた。背に、黒い変った柄が稲妻なりに走っていながら、
印象は真白かった。じっと見つめるうち、白地に、烈しく雨が降って見えた。無数の
鳥が遠く翔び去って行くのが見えた。しまいに雪子の背も着物も透きとおり、遙かち
いさな燈火の色が一つから二つ、五つ、十と上になり下になり揺れ動くのが見えて、
しいんと眼の底まで静かだった。愛八の「のろんじ」が佳境に入っていると分別しな
"】たにそここわ
カら、我身ひとつは山里らしい渓底の細道をあてどなく歩く心地がしていた。伯くな
ってまた、「木地」と呼んだ。木地という、かつて何の印象もなかったただの苗字が
ふと意味ありげに面白かった。面白い以上に軽く肌に粟を生じる響すらもってきた。
雪子は振向かなかった一。
木地雪子を振向かせるのに、足かけ三年かかった。どこにそんな執勘さが秘んでい
エ36
たか、時に自分がよその誰かのような気さえしながら、残る高校の二年半、
もなりに手段をつくして雪子につきまとった。父には罵倒された。一72573〕
私は子ど
「初恋」における過去の幼な恋とは、こうした〈雪子を振向かせる〉〔73〕ことに執心し、
雪子を追い続けたことに始まっていた。そしてその恋の発端というべきこの場面は、〈高
台寺の墓地を上って行く女を追っていた〉一町〕作品末尾の〈夢〉にそっくり照応してい
ると言える。そもそも〈夢〉でく露坐の大仏の上を勢いよく鳩の群が舞っていた〉ことが
回想に影を落とし、その導入部で雪子の着物の〈白地に〉〈無数の鳥が遠く翔び去って行
く〉幻を喚び起こしているのだ。そして〈夢〉において〈鳩の群〉を見ることが、それ以
前の〈それはもう私の名前に相違なかった〉と自覚している、そこではまだ現代人として
の意識をもっている〈私〉が、完全に資時になりきった〈わし〉一町として生きだす、
直接の契機になっていたように、回想の中でのく無数の烏〉の幻も、そこから回想の幻想
化を促進させる役割を果たしているのだ。
雪子を振向かせるために名前を呼ぼうとする、その〈心地〉がく渓底の細道をあてどな
く歩く心地〉と形容されるのは、まさに〈夢〉の舞台が踏まえられているからであり、
〈「雪子」と呼んだ〉〈のに、まるで違う名前〉〔響になったことに呼応して、〈「木地」と
恋
エ37初
呼んだ〉あとその名が〈ふと意味ありげに〉思えてくるのだ。そして雪子の名を呼んだ自
分が〈知らぬ名〉でく呼び返された〉ときの気持ちがく自分がよその誰かのような気〉
〔73〕持ちに反映されるのである。
この〈よその誰かのような気〉〔73一や〈あてどなく歩く心地〉〔72〕を、我を忘れた夢
中の状態の形容だと平板に解釈するのは(確かに読者レベルでは結果的にその効果をもた
らしているものの)あまりにリアリズムに即きすぎていよう。そして夢とは日常の延長に
あり、現実の過去がまずあってその上で夢が見られた以上、現実の体験が夢に流入するの
は当然だとして、ここでも逆に恋の発端の体験の方が〈夢〉に影を落としたのだとするあ
くまでも現実的な捉え方は、表面上の年立てに囚われすぎて作品における語りのメカニズ
ムを忘れていよう。なるほど原体験が夢に投影されるにせよ、その〈夢〉を見たあとで当
の過去が回想されているのであって、語られているところを読者が聞いている〈今〉の前
にまずく夢〉があったこと、したがって語られているのは原体験としての現実そのもので
はよもやなく、あくまでも〈今〉の時点での潤色を施されたものであることは既に見てお
いたとおりであり、これまでも厳密に《現実》という表記をとってきたはずである。
そして(論者においてもぞうした先への展開を予想した布石を置く、それ以上に細心で
あろうはずの)作者の側での意図を問題にするならば、勿論こうした二つ.の場面の照応は、
欝欝灘
エ38
伏線と呼ばれるべきものであろう。事実、伏線とは(それが意図の圏外で結果的にそうな
ったのではなく、あくまでも計算ずくで施された場合)まさにテクストの後ろ側から(す
なわち〈夢〉の側から)発想されるもののはずだ。作者の意図に基く伏線だと名.つけたと
ころで、それは語りのレベルで機能している〈夢〉が回想を統御する、幻想の侵食作用を
否定することにはなるまい。そもそも後に見るように、語り手が在るべき生をつかむべく
回想をし、それを語る形で幻想の生を生き直しているのと、まさにイコールの形で作家の
《書く》という行為は位置.つけられているのであり、いかに作者の側の《書く》という営
為に力点を置くにせよ、それは《語り》と関連する在り方として捉えられねばならないは
ずだ。
むしろ伏線だと考えることは(そう名.つけて事足れりとすることの無効性は勿論とし
て)ある種の危険を伴おう。つまり作者の側の意図を重視するあまり、そのことが語りの
機能を忘れさせ、夢の呪力を信じさせぬ現実主義を導き、そして秦作品を誤読させる可能
性をもつのである。それは後ろに位置する〈夢〉の描写がその前に置かれた出会いの場面
に入りこんだことを認めつつも、〈夢〉の呪力(という形の語りのメカニズム)を視野に
入れずにすべてを作者の意図の圏内に括り入れることで、描写された(実は語られた)場
面の非現実性や不合理性を衝き、あるいは明らさまな作者の作為の跡を論う、といった
恋
エ39初
批判的な読みを生じさせかねないのだ。文壇登場作である「清経入水」がその太宰治賞の
選評の中で〈現代怪奇小説〉一河上徹太郎「効果的な結びつけ」「展望」昭44・8一といった読ま
れ方をされていたのも、そうしたことと決して無縁ではなかろう。
「初恋」の中でも例えば、〈やっとやっと〉〈雪子が振向いた〉〔86〕恋のクライマックス
であるく高台寺の奥を犯した事件〉〔o〕において、〈まちがいのない雲居寺跡へ出てきた
のだ〉〔99〕と書かれるのは、雪子に《死なれた》あと『雲居寺跡』という小説を〈いき
なり書きはじめた〉時点においてすら〈あの一帯がもと雲居寺の旧地で〉あったことを
〈知らなかった〉繊585〕と書かれている以上、明らかな年立て上の矛盾であり、しかも
その小説で〈資時入道の終の栖を〉〈雲居寺畔に定めようとしたのも、根本に雪子との出
逢いを私が培っていた証拠かしれなかった〉〔85〕とする当尾の考えは、当時そこを〈雲
居寺跡〉と知らなかった以上牽強付会も甚だしく、二重の潮齢を生じている、といった批
判も出されかねまい。
しかし〈まちがいのない〉と言っているのは(それが「五」であり、その直前の「四」
で)そこが雲居寺跡であることを既に語っていた語り手なのであり、当時の当尾その人で
はないのだ。そうした語りのメカニズムを忘れ表面上の年立てに囚われることは、語られ
た世界をそのまま現実と思いこむことに通じ、したがって幻想的な場面への展開の折りに、
1一[一
エ40
その両者の落差をもって作品に怪奇性を感じてしまうのだ。このように回想された過去が
そのままの現実でないように、語られている現在もまた現実そのままでないことは既に見
ておいたはずだ。であれば(つまり死した雪子の実在を信じるような《現実》の中にあっ
ては)資時のことを考え、雪子のことを想い出しつつ語っている現在(しかもその両者が
重なりあった〈夢〉を見てしまったあとのく今〉)両者のつながりの中を語ることで生き
ている語り手が、たとえ年立て的には歪曲になろうと、そのつながりの確かさを〈証拠〉
という形で物語りたくなる心理に、なんら不自然なものはないはずだ。そして忘れてなら
ないのは、たとえ歪曲にせよ牽強付会にせよ、それは語り手当尾によるものであって、決
して作者のそれではない、ということである。
秦文学の諸作品は、こうした語りの、そしてその核にある幻想のメカニズムを見落とし
ては、決してその世界を捉えられないような作品なのである。では「初恋」において、こ
うして語っていくことの意味はいったいどこにあるのか。そもそもその核にあるとされる
〈夢〉とはいったい何を意味していたのだろうか。
V幻想の意味
「初恋」という作品における核とも言える
〈夢〉とは、
既に引いて見たように語り手当尾
恋
エ奴初
が資時になりかわる幻想であり、作品の末尾に位置していた。その〈夢〉を導く《死なれ
た》体験であるくあの時〉〔響についての語りもそのまま引いておいた。その二つの場
面のつながりの中で「初恋」における〈夢〉のもつ意味を考えることは、同時にその《死
なれた》体験ととりあえず一語で括ったことの意味をさらに肉.つけすることにもなるはず
だろう。そしてそのためにはここでも、同様の幻想を同じく作品末尾にもった「清経入
水」を下敷きに入れることが、理解を早めてくれよう。
では「清経入水」における作品末尾の幻想である主人公宏の宮島での体験にはどんな意
味があったのか。具体的な引用によってそれを詳細に見ていく煩を避け、図式化する形で
たどってみよう。宏はまず平清経の入水に興味を抱き、その入水が鬼のもとへの遁走であ
ったのではないかという考証を続けていたが、そこで見えてきたのがA〔清経H鬼〕と括
(
られる認識だった。それを裏打ちするのが丹波でのく鬼〉と蔑まれた鬼山紀子との体験で
あり、その回想を通してQ〔鬼"紀子〕という宏の実感が語られる。その考証と回想とが
重なりあわされたとき、最後の宮島幻想で、踏まえられたであろう謡曲「清経」さながら
に、死した紀子が宏の前に顕ち現われる。これは謂わばC・Gの融合によるJ〔清経"紀
子〕としての顕現であった。そしてこの紀子の顕ち現われは、その前に宏の〈即ちこの僕
が清経なのだ〉との、つまりC〔宏"清経〕という自覚をまってのものだった。γ)うして
(
.■
エ42
自身が共感を寄せ追いかけていた歴史上の人物になりかわるEという幻想を経て、その人
物(清経)とヒロイン(紀子)のつながりがJの形で明らかになる幻想が宮島幻想であり、
それはそのEとJがさらに結合されることで、J〔宏-紀子〕という(「初恋」のことば
で言えば)〈真の身内〉〔o一としての認識をえる方向に開かれていた幻想であった。(詳
しくは本書「清経入水」のw節以降を参照)
この「清経入水」における宮島幻想にそのまま当てはまる形の、謂わば雲居寺幻想と呼
べるのが「初恋」のく夢〉なのである。
当尾が〈夢〉の中で体験するのは、既に見たように、追いかけていた雪子が資時の母壱
岐と化り、そして自身が資時となることだった。そしてその〈夢〉が見られたくその晩〉
〔21〕とは、雪子の死を知らされたその晩であった。まずはそこから見ていこう。
1
当尾は〈結婚後七年〉〔噂すなわち雪子と別れてからは十二年もたったその日はじめ
て、彼女が八年前に死んでいたことを知らされる。その当尾の《死なれた》思いが、〈一
瞬肩先へものが来たと感じた〉〔皿〕という形で表現されているのだ。そこでの悔いと悲
しみとの中で(念のためこのときはく東京で勤めばじめて数年経って〉梁塵秘抄の〈本を
手にした〉〔69〕あととなり、年立てとしても、なんの矛盾はなく)資時を中心とした芸
能の謂わばく遊部〉〔82〕の歴史の流れに雪子を正当に位置.つけるべく、〈「資時」を書き
恋
エ43初
たいと、あの時、思い立った〉〔響のである。これを「清経入水」の場合に倣って図式
化すれば、K〔資時■雪子〕となろう雪子の芸を正統化する試みであり、その方向が見い
出されたとき、結局は自身も差別する側に踏みとどまることで雪子と別れ(そしてあるい
はそのために死なせ)てしまった謂われなき不当な差別への痛切な反省が生まれるのだ。
〈書きたいと〉〈そう思いながら、はじめて私は本当に青くなった。地に顔を擦りつけて雪
子に詫びたかった。〉〔捌〕と思うのはそのためである。しかしこの覚醒があってこそ当尾
にはものが見えてくる。それがこの直後に描かれる〈夢〉である。
その中で当尾は、「清経入水」の宏が自身を清経だと自覚したのと同じように、資時と
いう〈知らぬ名〉を自らのく名前に相違な〉価〕いという自覚をえる。そして単なる自
覚以上に(先にも見た〈鳩の群〉の舞う姿を眺めやるア)とを挿んで)〈わし〉〔響という
形で資時そのものを生き始める。これは完全に切〔当尾-資時〕と図式化できよう。つま
(
り彼が〈思い立った〉というく「資時」を書〉くことは、すなわちその対象を、対象とし
て生きることに他ならなかったのだ。
したがってこの〈夢〉を見たからこそ彼は〈夢そのままに『雲居寺跡』の出を書きだ〉
痂〕すア)とができるのだが、そのことで彼が目指しているのは《死なれた》悲しみを癒
されること以上に、《死なせた》とも言える悔いを拭うためにも、雪子に許され、浄めら
灘
144
れることだろう。それは、雪子との別れを余儀なくされたとき〈真の身内とは何だろう〉
檎〕と自問したことへ答える形で、雪子こそを〈真の身内〉とすべく一体化をえること
で果たされるはずだ。つまりはc〔当尾H雪子〕としての一体化である。そのことはまた、
(
その自問のさいに思われた〈あの一瞬、少くもあの一瞬雪子こそは、わが身内わが血肉だ
った。〉倫〕という、〈一瞬〉を永遠に延ばすア)とだと言ってもよい。
しかし¢が導かれるためには統括されるべきQと化が完全であることが必要で、だから
こそ〈『雲居寺跡』の出を書きだ〉痂一させる〈夢〉を見た晩、(汲全きイコールで結
ばれたものとすべく)当尾は資時の墓とされた〈鉤蕨に似た、あれが雪子の墓かと、ふ
と想った〉痂〕のである。そこで完全となったC〔資時H雪子〕、D〔当尾H資時〕の図
式が、「清経入水」同様に融合されることでE〔当尾H雪子〕というく真の身内〉〔o〕を
確認し、あるいはそこを生きるために、彼は『雲居寺跡』を書きだすのである。そうした
Kをはならしめる媒介であり、しかもωの体現を先取りしたのがく夢〉であった。したが
ってその〈「資時」を書〉価〕こうとする小説が、この〈夢〉の場面を〈そのままに〉
痂〕書きだされるのも当然だと言えるのだ。
ところで「あとがき」の言う〈『清経入水』に転〉ずる前に〈書きかけ〉られた、実際
の作者における原「雲居寺跡」と「清経入水」との異同は知るべくもないが、このく夢そ
恋
エ45初
のまま〉の冒頭をもって書きだされた作中作『雲居寺跡』は、作品冒頭に序詞としての
く夢〉を置かれた「清経入水」を想起させるはずだ。そして「清経入水」における作品末
尾の宮島幻想は、序詞として置かれた〈夢〉を解明するものであったのだが、そのように
冒頭と末尾に分離され(てもよかったものがそうされ)ていない「初恋」のく夢〉の場合
はどうか。
既に見てきたように、「初恋」の時間軸はこの〈夢〉の前後を折り目としていたのであ
り、《死なれた》ところで見た〈夢〉が当尾を〈今の私〉たらしめていたのだった。当尾
は〈夢〉を見たところがら語りだす。それは同じところがら『雲居寺跡』を書きだした、
その延長で今、この場での語りが為されているのだ、とも言えよう。そしてその語りの行
きつく先もまた、この〈夢〉であった。こうした語りの展開の意図するところは、先に触
れたような、読者に語り手の体験を追体験させるための、作者による計算のみではないの
だ。ここでも作者以上に語り手の切実な要求が作品を動かしている。雪子を追い続けた自
らが資時となりかわり、そして雪子との〈真の身内〉〔o〕の確認を為しえた〈夢〉を、
語り手自身が再度体験しようとする試みが、この「初恋」における語りなのだ。〈夢〉は
語りの出発点であったと同時にその到達点であったという意味で、「清経入水」の序詞の
〈夢〉と宮島幻想との呼応と同じことが「初恋」でも為されている。「初恋」では「清経入
エ46
水」の序詞の〈夢〉が作品最後の幻想の位置に重ねて置かれた恰好なのである。
そのこととも関係するが、「清経入水」では宮島幻想にいたってはじめて序詞の〈夢〉
の意味が解明されたのに対して、「初恋」での語り手は〈夢〉のもつ意味をすべて承知し
たところがら語りだしている。すべてを知った上で、今ではもう取り返しのつかないその
過去を、かく在るべきだったとの思いを混えた形で当尾は回想を始めているのだ。語られ
た過去が現実そのままではなく、〈今の私〉〔80〕からく今だと〉こうく想いついただろ
う〉〔90〕という潤色を施されたものであったことは既に見たとおりである。そしてそれ
は単に回想という以上に、回想し、それを語ることが、そのまま在るべき生をたどり直す
ような在り方のはずだ。
そもそも「清経入水」での宮島幻想とは、先にも触れたとおり〔宏H紀子〕というく真
の身内〉の確認をえる方向に開かれていたのだが、それはあくまでも開かれていたのみで、
宏はそのことの意味をしかと自覚していたわけではない。《死なれた》実感の中で伊ち嚥
んでいるだけで、彼はその後それを確認する機会を持たねばならなかった。それはく夢〉
と鬼山体験の意味を宮島幻想で知るまでの、過去の回想と語りが「清経入水」で為されて
いたと言えることを敷桁すれば、今度はその宮島幻想を出発点に過去がたどり直され、そ
して宮島幻想の意味を知るべきもう一つの幻想が夢見られることが、「清経入水」の先に
恋
エ47初
は要求されていたと言えよう。だとしたら「初恋」のく夢〉とはそうした幻想であり、そ
してそのように、つまり今度は《死なれた》ところがらたどり返されたのが「初恋」の語
りだと言ってもよいはずだ。
そうした「初恋」において《死なれた》ことの意味を真に自覚し、そしてあるべき生を
求めるためにたどり返された世界が雪子との物語だったのだが、それが同時に先に蕊さに
見たような「清経入水」の世界と相似以上の関係にあったことは、こうしたところにその
理由があったのだ。作品内部の構造を読み解くさいに作者の意図を意識しすぎることの避
けるべきは前に述べたとおりだが(作品外部での創作動機の部分に関してはその限りでな
いことは勿論であり)この「清経入水」をこそたどり直すべく「初恋」が書かれていると
いう点は、何度でも強調しなければならないことなのである。「初恋」においてたどり直
しが図られているのは、当尾にあっては雪子との物語であり、作者にあっては「清経入
水」なのだと。
しかもその「清経入水」が作者の原「雲居寺跡」からく転じた〉ものであり、その
〈夢〉を冒頭に書きだす構想が当尾の〈書きだした〉〔響作中作『雲居寺跡』に共通して
いたという事情を視野に入れれば、〈それからでも十何年かたち、1まだ資時の小説は
書きだせない。〉痂〕と結び近くで告白される「初恋」にあって、遂に〈資時の小説〉は
竈鰹
、軒
齪.
瑛耀
昇■
エ48
書かれずに終わりながら、そのことを語ってきた小説が当初「雲居寺跡」と題されたこと
のなかに、単に舞台が〈雲居寺跡〉だから、そして資時について思惟をめぐらしているか
ら、という以上の意味が自ずと浮かびあがってこよう。
雪子に《死なれ》、そのことによってはじめて得られた覚醒のなかで、悔いをもって雪
子との過去を生き返す決意が、〈「資時」を書きたい〉〔響という形で表明されたのだと
して、それを〈資時の小説〉〔轡である『雲居寺跡』として実際に書くことによって果
たすのと、そのことを語りながら生き直すことは、当尾にあっては本質的に同義のはずだ
からだ。そして作者にあっては今見てきたとおり、『雲居寺跡』として書かれてしかるべ
き生き直された世界が、自身の「雲居寺跡」の発展した「清経入水」とぴったり重なる世
界だったのだから。
この語り手と作者とにとりあえず二分して見たところは、《書く》ということをめぐる
問題として当然連関してくることではあるが、そのことについてはもう少しあとに見ると
して、「初恋」での当尾の語りは『雲居寺跡』を書けなかったことの代償だ、とあるいは
過少に読みとられることはあからじめ斥けられよう。「初恋」における語りが何を意味し、
その中で当尾が何を果たそうとしているのかは、次の箇所に明らかだろう。
「逢えるもンなら、それでもえやろ。お前も、そやな」
書きもの机の向うから覗きこむように先生は雪子の反応を促した。雪子はひたすら
静かなまま、もっと傭いたのか眼でものを言ったか、私にはわからなかった。雲居庵
の板敷に、古畳を黄泉国のように立て囲って抱きあって寝た夢うつつが、薄れて行く
絵空事の記憶のようで、掴めるのならぜひもう一度この手で掴みたかった。〔15〕
1
恋
μ9初
これは「七」の結び直前、親たちによる強制的な別れのあと、恩師から〈つまりは別れ
ばなし〉〔唖の確認をさせられている場面であり、回想内部での心情ではあるが一この
直後にその恩師から〈思う所はお前にかて有るはずや。が、それはもっともっとしてから一
文章に書きなさい。それもお前の、道、ちゅうもんやないのか一〉佗5o〕と諭される
場面が続き、既に《書くこと》に向けて方向。つけられている箇所である。ここで述べられ
ている、〈薄れて行く絵空事の記憶〉を〈夢うつつ〉のままに(というよりく夢うつつ〉
であるからこそかえってリアルに生きられるが故に)再度掴もうとすること、それこそが
当尾が語りの中で目論んでいることなのである。彼はそのために語り続け、そしてその語
りを促したことになった〈夢〉、その中で雪子との〈真の身内〉を生きる可能性を示され
た〈夢〉を(語りながら、いや語ることによって)再度見るところへ向けてその語りは進
エ50
められるのだ。
その語ることによって〈夢うつつ〉を生きる最も如実な例が(と言うよりそれは先に引
いた〈抱きあって寝た夢うつつ〉を〈もう一度この手で掴みたかった〉という願いが結実
された具体例であるが)「六」でく高台寺一件〉〔rが夢に見られる場面である。資時の
墓を見たあとの二人が雲居庵に忍び入ったことを語るこの場面は、直前「五」の結びを承
けたものであり、読者は回想の続きと思わされて読み進むのだが、庵内には愛八らがいて、
雪子との祝言の場となるという幻想的な進展を見せるに及んで夢と気.つかされる。しかも
その中で二人は、後に語られる〈夢〉を先取りして(実際はその〈夢〉がソ)の夢に入りこ
んで、なのだが)資時の時代のものであろう装束を身につけて、すなわち古代人として生
きているのだ。
「初恋」における当尾の初恋のクライマックスである高台寺すなわち雲居寺跡での体験は、
このように夢の中での幻想の形でしか読者には語られないのだ。そして読者には当尾がそ
の過去に実際に体験したのがどのようなことであったのか遂に判然としない、それと同じ
ように、語り手にもまた現実の過去はほとんど意味がなくなっているのである。現実が
〈薄れて行く絵空事の記憶〉になっている以上に、彼はその〈夢うつつ〉をこそ語りつつ
生きるために、むしろ記憶を薄れさせ、そして現実を変形させている。それはこのく高台
寺一件〉価〕の幻想の中に、単に《死なれた》晩の〈夢〉のみならず現在時の記憶もま
た侵入するといった形のものである。当尾が〈下腹巻に薄青の狩衣姿〉一o〕であったの
に対し、雪子は〈無垢の衣に緋の袴〉〔o〕をつけて庵の中の祝言は執り行なわれている
のだが、この雪子の服装は現在時の語り手当尾が娘から聞いた〈浄衣に緋の袴の切髪も椅
麗な四十ちかい〉価〕平曲語りの女の服装そのままなのだ。
そしてその女は〈右眼の真横にこんな1黒子があった〉〔o〕と教えられることによっ
て、〈眼の横にちいさな黒子のある〉血一雪子の妹を当尾に想い起こさせ、それがそうし
た雪子との夢を見させた、とむしろ現実的には解釈されるべきことなのだろう。しかし
「初恋」核心の場面が夢によってしか語られないものだったことの方が重要で、それは過
去の〈夢〉からも現在時の意識からも相互に織り成された〈夢うつつ〉であり、しかしそ
の中をこそ当尾は確実に生きているのである。ともあれその夢は娘から平曲語りの話を聞
いたそのあとに、次のような形で夢見られていたのだ。
恋
151初
銀杏はなく雲丹の残りも心細いが、まだ酒は美味い。そしてこのまま、春に向かう
日の思わぬ山遊びのあげく忍び入った高台寺の奥で、雪子に腕をひつばられて見たあ
の、資時墓とやらを一など、ちょっと寒いかと思い寝の短い夢を夕食前にむさぼる
152
のが、このところ行儀のわるい癖になっている。
〔02503一
11⊥
眼が醒めると酔いの方も醒めている。
このように酒後に最も大事な体験を生き直す夢を見ることで、〈夢うつつ〉を〈もう一
度この手で掴〉〔価〕もうとする語り手によって語られてきた「初恋」は、作品のすべて
がそのことに捧げられていると言えるのだ。「初恋」は次のように閉じられている。既に
引いた〈夢〉に続く語りである。
鉤蕨に似た、あれが雪子の墓かと、ふと想った。
東京へ帰るとすぐ、夢そのままに『雲居寺跡』の出を書きだしたが、二年かけて、
結局中絶した。若かった女優のKを、はじめてテレビで観たのがその時分だった、切
ないドラマを気迫で演じていた。右の眼に並んで、ちいさな黒子があった。
それからでも十何年かたち、iまだ資時の小説は書きだせない。
しきりに木地雪子を夢見たかった。将軍塚で雪子が拾ったガラスのおはじきを、鴨
の河原へ、今度埋めに行こう、ぜひ行こう。
そう思い思い、今夜も酒の量を過ごした。痂〕
恋
153初
〈このところ行儀のわるい癖になっている〉〔皿5o〕酒後の夢によって高台寺幻想が〈む
さぼ〉〔皿〕られていたことに呼応して、このように〈今夜も酒の量を過ごした〉という
語りをもって結ばれる「初恋」は、単に高台寺の幻想のみならず回想された過去も、それ
を語りつつある現在も、すべてが雪子に《死なれた》思いの中での、〈しきりに木地雪子
を夢見たかった〉という願いからく量を過ごした〉酒による、夢の中でこそたどり直され
た物語だと言えるのである。〈夢〉を出発点として〈夢〉で語り終える「初恋」の語りと
は、それ自体が〈今夜〉の酒後の夢の中のものだった。しかもそれはく今夜も〉見られた
夢であり、〈このところ〉のく行儀のわるい癖〉なのであって、一度夢見られて事足りる
ような一回性のものではない。まさに「清経入水」の序詞の〈夢〉がく同じこの夢をつ、つ
けて何度も見〉られているものであったように、何度も反倒し直されねばならぬものなの
だ。そしてそれは何度もたどり直し生き返されねばならぬほど、雪子との体験の意味が大
きいことを物語っているはずなのである。ではいったいその雪子との体験にはどんな意味
があったのか。なぜ雪子を〈真の身内〉一o〕と呼べるのか。
w差別への開眼
風脚蝋ooooooo鮎ooooo価榊楓o一珊.oo捌.-耀o一-山岨麟倒鰍ooo冊側帯o脚蝋oo
エ54
既に見たとおり、その雪子との物語を資時への思索と重ねあわせた形の「初恋」は、そ
の重層的な構造のさらに下に作者自らの旧作「清経入水」の世界が透けて見えるような作
品だった。そしてそれが偶然的な一致ではなく、意図的に踏まえられていたことも以上に
見てきたとおりである。
そもそも秦恒平という作家は、第一評論集『花と風』一筑摩書房、昭叩.9.25一の昔から
《繰り返す》ことの意義を言挙げしていたそのままに、同じ主題のもとにいくつもの創作
をものする作家ではあるが、主題が同じであるからこそそれを決して同一の手法によって
は描かない、という倫理性をもった作家である。(それは例えばこの「初恋」を収録した
短篇集自体が方法のバリエーションの陳列になっているが如き、その単行本の編み方のな
かにも歴然としているはずだ。)そして冒頭にも見たように秦恒平が甚しき自己言及をそ
の特徴とする文学世界を展開しているとき、「初恋」と「清経入水」の相似性を偶然によ
るものと考えることはあまりに的を外れていよう。
では意図的に旧作が踏まえられているとしたら、幻想によって語る、という方法におい
ては本質的な一致を見せる両作にあって、方法が同一であるからこそ今度は、異なってい
るのは内容一主題の方のはずだ。例えばその幻想の中で、「清経入水」では〔宏-清経〕
の自覚にとどまっていたところを、「初恋」では〈わし〉〔響として当尾が資時を生きる
恋
155初
ことになる、という発展を見ることができる。だがその最も本質的なところは次の点にあ
ろう。「清経入水」では宮島幻想によって紀子に《死なれた》ことを自覚する宏に、今後
その思いをもって《死なれた》ことの意味を考えつつ生をたどり返させるところで終わっ
ていたのに対し、まさに「初恋」は雪子に《死なれた》自覚のもとに過去が回想されてい
るのであって、その回想あるいは幻想の形で実際に在るべき生をたどり直す、という「清
経入水」からの延長、進展が見られるのである。このことあってこそ先の資時をそのまま
に生きる可能性という発展も生じうるのだ。
そしてこの語り手による生のたどり返しが、そのまま作者による旧作のたどり直しに他
ならなかったのだが、であればその、語り手あるいは主人公の成長にみあった形の作品の
進展とは、まさにそのたどり直されたときに見えてきたもの、ということになろう。そし
てそのことを明らかにすることがすなわち、雪子の意味を明かすことにつながるはずだ。
例えば「清経入水」がたどり返されたとき、「清経入水」の中だけでは判然としなかっ
た、恋人との別れに対する父の関与が「初恋」では明瞭にされてくるわけであり、また、
宏が遊女に関心を寄せ、清経の母が白拍子であることに殊さらの思い入れをするのはなぜ
なのか、「清経入水」にあっては暖昧であったところが、「初恋」では当尾が貰い子であっ
たという設定から、
.毒
エ56
私の育った家は鴨川東、名高い祇園花街でも乙部と呼ばれた区域に背を合わせてい
たし、子どもの頃の乙部には、いかにも遊女と呼びたい風情の女がいくらもいた。名
は知らなくとも顔は見憶えているそんな女たちを、子ども心に決して厭わしくは見な
かった。それどころか見も知らぬ産みの母親を、何度私は「あそび」の境涯の人と想
ってみたことか。〔83〕
と述べられることで判然としてくるのだ。このように「初恋」は作者自身の文壇処女作
「清経入水」の世界に立ち返り、そこをたどり直すことで自身の文学の出発したところ、
およびその核心にあるものを鮮明に照らしだそうとし、そして結果的には「清経入水」の
世界を補うような作品となっているのだ。
しかしそれはあくまでも結果であって「初恋」が当初から「清経入水」の焼き直しとし
て目論まれていたわけでは勿論ない。両作はそれぞれ別個の作品世界をもっている。その
違いの最たるもの、すなわち「初恋」が「清経入水」をたどり直したとき見えてくる最も
重要なことは、紀子とは異なる雪子の形象化の中にあるはずだ。そもそも両作は紀子との
物語であり雪子との物語であったのであり、語り手がその名告りからも明らかな同一主体
恋
エ57初
の成長として位置.つけられるとき、作品の発展、差異の大部分は、語られている(そして
語り手の成長を促したことになる)対象の側に負わされているはずなのだから。そして先
に見た「清経入水」を表層レベルで補っている二点が、ともに父と母とをめぐる語り手の
貰い子体験から生じた、謂わば《不定形の生》とも言うべき孤絶の場からの意識によるも
のだったのであり、そのときその意識に通底して〈真の身内とは何だろう〉〔岬と問わ
れる、〈真の身内〉として紀子や雪子が位置.つけられているのだから。では雪子はなに故
に〈真の身内〉となるのか。雪子は紀子とはどう異なっているのか。
「清経入水」の鬼山紀子は〈鬼〉と蔑まれ、彼女たちとく親しむ事が人の爪弾きに逢う〉
ような、差別を被っている家の女だった。幻想的な作品の中にあって蛇の化身とされ、鬼
の形相をもつかに(宏に想われる形で)紀子が描かれることの由来は、現実的にはあるい
は未解放部落の出身かと読め(そして私家版では実際そうであるかに書かれてい)るのだ
が、一篇すべてを幻想とも読める作品の中では判然としないままに終わっていた。と言う
よりむしろその紀子の鬼性は宏の心証のみに拠っていたのだった。宏は紀子に憧れつつ怖
れていた。その怖れが紀子との別れにむしろ安堵を覚えさせたのであり、その結局は紀子
から遁れてきたことが漢たる悔いを生み、そして幻想を育んでいたのだ、と言えよう。
「初恋」の雪子はそうした紀子の負性をそのまま荷い、紀子では差別の根拠が暖昧だった
灘纂
エ58
ところを今度は明瞭に、下級芸能の輩〈のろんじ〉〔59〕として(確たる根拠をもつとさ
れる)差別を身に負って生きており、そしてこの度の語り手当尾はそれを充分知った上で、
その根拠に謡う形で雪子を愛すのである。
これは作者自身が旧作の中で無意識のうちに行なってきた差別への加担を自覚したとこ
ろで、今度は怖れなく紀子を愛すべく、被差別の側に立っていることを承知の上で、いや
不当な差別を被っているからこそ、雪子を当尾に愛させているのだと言えよう。このヒロ
インが差別を被っていることを明瞭にさせた点、そこにこそ「清経入水」の焼き直しでは
決してない「初恋」を「初恋」たらしめている面目があるのだ。しかしではなぜそうした
たどり直しが為しえたのか。何が〈『清経入水』に転じた〉〈その「雲居寺跡」へまた意を
決して踏みこ〉一前掲初刊本「あとがき)ませたのか。
「初恋」の中でも当尾が出演しているラジオ放送の「梁塵秘抄」とは、作者秦恒平におい
ては昭和五十二年九月二十九日から放送されており、それがNHKブックスの一冊としてエ58
ところを今度は明瞭に、下級芸能の輩〈のろんじ〉〔59〕として(確たる根拠をもつとさ
れる)差別を身に負って生きており、そしてこの度の語り手当尾はそれを充分知った上で、
その根拠に謡う形で雪子を愛すのである。
これは作者自身が旧作の中で無意識のうちに行なってきた差別への加担を自覚したとこ
ろで、今度は怖れなく紀子を愛すべく、被差別の側に立っていることを承知の上で、いや
不当な差別を被っているからこそ、雪子を当尾に愛させているのだと言えよう。このヒロ
インが差別を被っていることを明瞭にさせた点、そこにこそ「清経入水」の焼き直しでは
決してない「初恋」を「初恋」たらしめている面目があるのだ。しかしではなぜそうした
たどり直しが為しえたのか。何が〈『清経入水』に転じた〉〈その「雲居寺跡」へまた意を
決して踏みこ〉一前掲初刊本「あとがき)ませたのか。
「初恋」の中でも当尾が出演しているラジオ放送の「梁塵秘抄」とは、作者秦恒平におい
ては昭和五十二年九月二十九日から放送されており、それがNHKブックスの一冊として
刊行されたのが翌五十三年三月二十日であった。「初恋」が原題「雲居寺跡」として発表
されたのがその十月であり、この梁塵秘抄をめぐる資時への関心が「初恋」に投影されて
いるであろうことは容易に察しがっく。しかしこの芸能への関心を差別の問題と絡めて雪
子との物語の中に盛りこませえた契機(あるいはその芸能への関心を謂わば《裏文化》へ
恋
Z59初
の開眼として意味.つけたもの)としてもう一書の存在を忘れてはなるまい。
その『梁塵秘抄-信仰と愛欲の歌謡1』でも称揚された後白河院と遊女乙前との
〈出会い〉をその一項として吸収することで成った『日本史との出会い』一ちくま少年図書館、
昭弘・8・25)がそれである。その刊行は「初恋」初版とは一年近くも前後するものの、著
者の詳細な「自筆年譜」一『四度の瀧』珠心書算、昭60・-・-所収一によれば、その書き下ろ
しの依頼は昭和五十二年九月二十二日、同月二日のNHKラジオ「梁塵秘抄」出演依頼と
ほぼ同じ頃に為されており、脱稿は翌年十一月二十四日であった。同じ「自筆年譜」は
「初恋」が昭和五十二年十二月、『梁塵秘抄』の浄書がすんだ三日後の二十八日に成ったこ
とを明かしている。したがってまだ定稿を得ていないもののその構想、執筆は「初恋」に
先行していたはずの『日本史との出会い』とは、乙前・世阿弥・千利休といった卑賎の側
に照明をあてて、彼らと、彼らとは対極にいる後白河院・足利義満・豊臣秀吉という尊貴
の側との〈出会い〉を以て〈日本史〉を語ることで中学生に〈日本史との出会い〉を果た
させようとした好著だった。
そこにさらに法然と親鷺の出会いを加えた四組の〈出会い〉を語る四章仕立ての『日本
史との出会い』の、どこまでが「初恋」の段階で執筆されていたかは(「自筆年譜」もそ
γ)までは筆が及んでいない以上)知りようもないが、少なくとも「梁塵秘抄」のラジオ放
麟
160
送への準備が同時に進められていたとき、双方が相互に影響しあったことは充分察せられ
ようし、その第一章「共感の歌声《後白河院と乙前》」しか形を成していなかったにせよ、
それが構想されていた以上詳細な章立てはともあれ、卑賎と尊貴との〈出会い〉という着
想は得られていたはずである。そこで謂わば裏の日本史、文化史への展望を掴みえたから
こそ生じた視座が同時に依頼のあった『梁塵秘抄』を支え、それらが相補って為さしめた
《裏文化》への開眼が、故なく卑賎の者として蔑まれてきた被差別者への共感を促す形で
「初恋」の世界を成立させたのである。
つまり『日本史との出会い』の着想によって得られた視座と、『梁塵秘抄』による資時
考証とを、ともに吸収する形で成ったのが「初恋」だったと言えるのだ。そしてそうした
視座をもちえだからこそそこに立つことで、自身の文学の中でそれまでに無意識に行なっ
てしまった差別(と先にもとりあえずそう呼んだがこれは、無自覚に主人公に行なわせて
しまった差別、という方が正確で、であればさらに進めていい直されるべき、作者にとっ
て無自覚であった反差別)を反省的にたどり直すことができたのである。「初恋」におい
て《死なれた》ことから悔いをもってたどり返される過去が、単に雪子との物語に終わら
ず、作者自身が成した旧作の世界をも対象とされたのはそのためなのだ。
しかしそれはあくまでもたどり直しにすぎない。たどり直して捉えられた被差別の側に
恋
エ6エ初
立つ人間を
〈真の身内〉
として確認して生きられる在るべき生が、
そこから、
《死なれ
た》ところがら開始されねばならなかったはずだ。「初恋」の場合でも当尾は差別する側
の圧力に負ける形で、結局は自らもこちら側に身を置いたままにその〈初恋〉は終わって
いたのだし、《死なれた》ことによって得たそのことへの覚醒のなかで決意されたく「資
時」を書〉〔響くことも遂に為しえずにいた。そしてしかしそのかわりに為されている
回想、語りの中でも(夢の変成作用を被りつつも)目論まれていたのは在るべきだった過
去のたどり直しにすぎず、今後を生きることではなかった。「清経入水」を、《裏文化》へ
の開眼を果たした視座からたどり直すことで深めた「初恋」も、結局は初恋がそのまま成
熟した愛ではありえないように、今後への発展の余地を残した世界にとどまっていると言
えよう。
「初恋」以降秦恒平の文学は、そこを発条として大きく旋回する。まず「初恋」および
『梁塵秘抄』を承けてであろう、資時を重要な人物として平家物語の成立をめぐる物語が、
嵐の奏で一一原題、平家難、「季刊歴史と文学一罵・6・q姦一春秋羅.3.m一とし
て書かれる。そこでは(「清経入水」の宏も「初恋」の当尾も実はそうであったはずの)
《死なれた》のみならず《死なせた》ことの意味追求が(死なれた悲しみに耽る建礼門院
右京大夫との対比も効果的に使われ、そしてここでも現実のヒロイン徳子との重ねあわせ
エ62
が図られつつ)建礼門院徳子と後白河院に焦点を当てて行なわれることになる。その試み
を「初恋」との間に挟んだ『冬祭り』一「東京新聞」他、昭55・5.9556.2.28。講談社、昭
56・5・25一の中では、差別によって死なせてしまった者との在るべき生の方向が、たど
り直しではなく、したがって必然的に幻想の形で、探られることになる。そしてそこでは
同時に(「初恋」では《裏文化》にとどまったところを押し広げた恰好で)被征服民が差
別される側に押しやられてきた《裏日本》の歴史が、自身が「清経入水」で紀子を〈蛇〉
の化身として形象したことの意味を追認する(すなわちまたもやたどり直す)かに、民俗
学的資料を渉猟して播いていかれることになるのだ。そこを承けた『北の時代』一原題
「最上徳内」、「世界」昭57・10559`2。筑摩書房、昭59・6・30一ではさらにアイヌや在日朝鮮
人の問題にまで広げた追求が続けられるのだが、両作ともその作品の中で(「初恋」では
明らさまにはそうされなかった)「清経入水」への言及が堂々と為されることになるのだ。
こうした「初恋」以降の秦文学における社会性の深まりが、先に旋回と呼んだことの内
実であったのだが、これは実は決して唐突なものではない。そもそも彼の処女作の一つで
ある「折胃翁の死」一執筆、昭37。「或る折腎翁」と改題され『鷹山』芸術生活社、昭47.6.12所
収一にせよその主題に絡まる兵役拒否の問題は、激化極まる当時の安保闘争の中での自ら
の主体的な在り方を問うために扱われていたはずだろう。彼の文学について美と倫理の問
恋
初
63
1
冊議
題がとやかくされる中で見失われがちな秦恒平における社会性は、その出発においてから
鮮明だったし、その後の例えば茶の湯に対して一『茶ノ道廃ルベシ』北洋社、昭52・10・20一で
あれ、京都について(『洛東巷談・京とあした』朝日新聞社、昭60・2・20一であれ、歌壇へ向け
て(「〈新春鼎談一これからの詩性と好情」「短歌」昭60・-)であれ、ある種戦闘的とも言える評
論活動の中にも歴然としているはずだ。しかしそうした社会性を(反差別の方向の主題を
もった「初恋」が、いかにその当時ジャーナリズムが特にこの問題に敏感だったとはいえ、
「文学界」からく差別の禁忌に触れ公表回避したいと〉されたという、「自筆年譜」が伝え
る事実が如実に物語るように)最も扱いにくい差別の問題の追究として体現し、そして評
論活動ではなく創作の形でその追究を行ないえたのは「初恋」以降なのであり、それと
《死なれた》悲しみから《死なせた》償いへという独自の死生観と重ねあわせた発展を可
能にしたのが、『日本史との出会い』と「初恋」による〈裏文化〉への、差別への開眼だ
ったのだ。〈「清経入水」以来の作風が『日本史との出会い』「初恋」『風の奏で』『冬祭
り』「最上徳内」等を経て〉「四度の瀧」にく結節した〉と、やはり「自筆年譜」に語られ
ているのは、以上に見てきたような展開をさしてのものなのである。そしてここに挙げら
れている「初恋」以降の諸作が、「初恋」が「清経入水」をたどり直しているように、「清
経入水」を再度踏まえる形で書かれることになる、その契機と言える最初のたどり直しを
エ64
行ない、(当尾のみならず)謂わば作者をも覚醒させることで以降の文学の発展を促した、
という意味で「初恋」は秦文学の中にあって注目され、そして評価されるべき作品なので
ある。
皿書くことへの意味問い
そうした秦文学におけるターニングポイントに「初恋」は位置するのだが、しかしその
ターンはある種の犠牲を伴わざるをえないものでもあった。
既に見てきた古典あるいは歴史的世界との重層的な作品構造、その重層性を自然なもの
たらしめるために必然的に要求された幻想的な作風、そして《死なれた》ことから《生ま
れた》ことを捉え直す独自の死生観、の他に秦文学の一大特徴をなしていたのが、その死
生観とも表裏する固有の身内観であった。
「初恋」でも当尾が雪子との別れにさいして〈真の身内とは何だろう〉〔o〕と自問する
ところに端的に表わされている、語り手のそして作者自身の貰い子体験から生じたであろ
う、孤絶の認識に立ったところでのく真の身内〉の追求がそれである。
「清経入水」から「初恋」に至る諸作、特に「畜生塚」一「新潮」昭妬・2一、「或る『雲隠』
考」一「新潮」昭45・6一、『慈子』一筑摩書房、昭47・4・27一などによって探られてきたこの大
きなテーマが、「初恋」では先の自問や〈親子よりまだ夫婦の方がずっとほんまの身内同
士になれるンと違うやろか〉〔97〕と語ることばに引き継がれてはいるものの、そこでの被
差別側への共感という新たな領域の開拓によって、かえってそのことのために後退させら
れている、と読まれなくもないのである。まず彼独特の身内観の何たるかを見てみよう。
『閑吟集-孤心と恋愛の歌謡1』一NHKブックス、昭57・11・20一の中では次のように語
られている。
恋
エ65初
私は、私自身は、子どもの頃から或る動機もあって、この人の世の人をさして、三
種類に分類する思い慣いをもってきました。
一等疎遠なところに「世間」を眺めます。その存在と尊厳とは承知も納得もしてい
るが、今直ちに日々の関わりのない、いわば世界中の人々をさします。
次に、その「世間」から、日々偶然に、余儀なく、また必要あって接して行く、知
り合って行く関わり合って行く「他人」という層が必然的に生じます。血族、親族、
家族すら、私は、とりあえず「他人」に部類します。師弟、同僚、友人、近隣等々の
すべてが、まずは「他人」に属します。そして、その「他人」の中から私は「身内」
を探し求めます。
エ66
人は、父母未生以前から本来「孤独」な存在です。世間という名の大海原に、我
一人が立てるだけの島に仔立している存在として、寄りそうことの不可能な他人の島
へ、「愛」を求めて呼びつ、つけている。それが「人」に定められた真の位相です。と
ころが、この不可能への渇望が、或る瞬間に可能となり、しょせん不可能なはずの我
一人の島に愛する人(人々)と一緒に立ちえていると信じられる時と場合とが生じま
す。その人(人々)が「身内」です。それは真に価値ある錯覚、つまり夢なのですが、
本来孤独の人間が、どうしてこの夢なくて孤独地獄に堪えられるものですか。だから
人は愛の名で真の「身内」を探し求める。偶然の親子より、必然の夫婦や恋人の方を
私は大事な人間関係と考える、これが理由です。
お互いに、不可能を可能にしあえる仲、運命を共有しあえる仲が「身内」同士です。
自分一人でしか立てない場所に、いっか一緒に立ってしまっている仲が「身内」です。
断絶した親子、協力のない形ばかりの夫婦、偶然の血縁にもたれかかっただけの、き
ょうだい、親族といったものは、「世間」でこそなけれ、私の定義では「他人」でし
かなくなります。血縁や法の保証が即ち「身内」を無条件に約束するなどという安易
なことは、まったく私は考えてもこなかった。真に「身内」でありつ.つけるには、ど
んな間柄であれ、「身内」の価値を支え合うふだんの努力が厳しく求められるからで
す。
爺1
.纈
恋
エ67初
秦恒平の身内観が最も叶檸に解説された文章を選んだために長い引用になってしまった
が、こうした身内観は〈本来の家〉でのく本来の家族〉一「畜生塚」一、〈未生以前のはから
い〉一『慈子』一と、ことばを換えつつ秦作品では何度も繰り返されてきていた。その『慈
子』でくあの"はからい"ということを、ご両親というものからこぼれ落ちていらしたお
父様は、他人である私や宏さんを通して確かめようとなさっていたのでしょうか〉と利根
から推測されている朱雀光之そのままに、作者秦恒平の場合の〈或る動機〉というのも、
両親から〈こぼれ落ち〉た貰い子という存在故の空白の生い立ちから生じた孤絶の認識の
はずだが、そこから培われた身内観の中で〈真の身内〉と呼ばれるのは、引用文中でも明
らかだろうがく友だち、恋人、愛人、夫婦、同胞などという凡ゆる約束ごとから放たれ
た〉一「畜生塚」一関係である。いやむしろ関係ということばを使うのを避けるべき、〈現在
での関係とはまるで違った遠い昔からの配慮というかはからいというか、血でも約束でも
ない結ばれ〉一『慈子』一によるのがく真の身内〉であった。
そうした身内観が「初恋」までの諸作で追究され展開されてきたのだが、「初恋」で当
尾が身内性を見い出しているであろう雪子は、それまでのく真の身内〉とはやや質を異に
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している。三年間執勘に追いかけ続けた当尾に〈やっとやっとなぜ雪子が振向いたのか〉
〔86〕と言えば、結局は彼女の〈置きかねている丼鉢を手軽に奪いとり、自分の箸であっ
さりさらえてしまった〉〔89〕という一点によってだった。〈雪子の突然の変り身に樗い
て〉〔92〕理由を訊ねる当尾に、彼女は〈「一味同心ていうやろ」とさりげなく〉〔93一答え
ている。そしてそれを追認するかに酒後の夢の形で回想される高台寺幻想では、〈愛八は
同じ焔で次に折敷のするめを手に持って焼いた〉その〈愛八の手が細く裂いたするめを、
私と雪子は一緒に食べ〉〔o〕るという、《同火回食》の祝言が執り行なわれてもいる。そ
して確かにこの《同火回食》、〈一味同心〉によって、つまり差別という詮索を拒否するこ
とで、〈年齢も容儀も思想もどんなことも詮索することなしに信じて愛し疑わない身内だ
けの世界〉(「畜生塚」一が築かれたかには見えよう。しかしそこでは雪子にせよ当尾にせよ
その反発なり拒否なりが自覚的であればこそ尚さらに、そう反発し拒否すべき詮索(差
別)が歴然と前提されているわけであり、〈詮索することなしに〉という、関係に拘束さ
れない、詮索そのものをも視野に入れないところで成り立つはずのく真の身内〉が、逆に
〈一味〉なり〈同心〉なりという新たな関係の中に後退させられ、その関係を超えた純粋
性が逆に稀薄化されているとも言えるはずだ。つまり「初恋」における被差別の側への歩
みよりという作品系譜の中での進展とは、それまでに追究されてきた身内観を後退させる
瞬締
恋
エ69初
かもしれない危険を伴うものだったと言えよう。
しかしまさに後退であったにせよそれはあくまでも作品系譜の中でのものであり、「初
恋」一篇に限って言えば、〈一味同心〉ということばで括られる、同情、共感という形で
結ばれる被差別の側との関係性は、当尾が貰い子であるという設定からも、彼が雪子に惹
かれることや雪子が彼に振向くことの理由.つけとして、むしろ作品にリアリティを与える
ものとして有効に機能していると言えよう。作品系譜の中でも、確かにその後の展開は、
〈蛇〉に象徴される被差別者の側に身を添えていく方向に進み、〈身内〉の特定化がより深
みにおいて為されているかに見える。そしてそのことは『風の奏で』では平家物語、『北
の時代』では最上徳内、といった下敷きにされた世界、すなわち二重構造の下部の方が強
くせり出すに伴って、その上に重ねられた《現実》世界としての虚構部分における身内観
の追究の比重が小さくなる、と言うこともできよう。しかしそのとき同時にそれに反比例
して現実の語り手の《書く》という意味が問題化されていくことにもなっているのだ。す
なわち『風の奏で』における作中での主人公の創作の進行と同時に進められる語りや、
『北の時代』における〈自画像〉の試みとしての創作の意味.つけや、『四度の瀧』における
ヒロイン探しとしての創作の意味解明や、といった形で《書く》ということが問題にされ
ていくのである。勿論「誘惑」一「すばる」昭51・12一において現実と非現実とを画定する行
o
エ70
為の無効性が問題化され、『みごもりの湖』一新潮社、昭r・9・20)において作中作と同時
進行の形で物語が展開されたり、といった具合に、「初恋」以前でも常に秦恒平の文学は
陰に陽に《書く》という営為への意味問いを含んだ形で展開されてきていたのだが、「初
恋」においては、作品がそもそも原題そのままの『雲居寺跡』という小説を書こうとし、
そして書けなかった、と表明する体のものであり、中学時代の恩師から為すべき〈道〉
〔o〕として《書く》ことを勧められ、そして《死なれた》ことから《書く》ことを決意
し、〈夢うつつ〉〔価〕をなろうことなら再度掴もうとして回想・幻想される形の一篇の作
品は、謂わば《書く》という行為に向けて開かれた、《書く》までの心的なメカニズムが
探られた作品と言えよう。このことと先に「清経入水」と対比したときの《たどり直し》
とは同列のことであり、この「初恋」で開かれた方向に向かって、謂わばこの時点では
くまだ〉〈書きだせない〉とされた〈資時の小説〉痂〕が、単なる《たどり直し》ではな
く在るべき生を真に生きる形で書かれることになるのが、(原「雲居寺跡」との異同は知
らず、少なくとも象徴的には)『風の奏で』なのである。
そうした《書く》という行為への意識が根強くあったからこそ「初恋」では自身の旧作
「清経入水」が意図的に踏まえられたのであり、その「清経入水」の前身である原「雲居
寺跡」が対象化されることで、そこでの作家活動を開始した時点での、新鮮であったはず
簾恋
エ7エ初
の《書く》ことの意味、生成のメカニズムが探られることになるのである。そこにこそ初
刊本「あとがき」のいうく初恋〉の意味はあり、「雲居寺跡」と初出では題しながら、〈ま
だ資時の小説は書きだせない〉〔轡と結んだこと、そしてそこを自身の文学へのく初
恋〉として改題したところがら、その後の彼の文学の発展が可能となったのである。
ところでこうした《書く》という営為への自覚とは、これまでの自身が創作した世界の
対象化を必然的に促すことになり、そのとき当然、自身の《不定形の生》ともいうべき孤
絶の認識から追究されたく真の身内〉〔o〕の意味が、(そもそもそれがイデアルな世界で
しか果たせないものであることは先の『閑吟集-孤心と恋愛の歌謡1』からの引用で
も明らかだろうが、そうであれば)それを《真》ならしめた虚構(イデアルな世界の創
出)の質、すなわち《書く》という営為のメカニズムの解明として問われることになるの
は、《書く》こと自体が既に表現主体の不定形の生の意識の定形化である以上、必然なの
である。
ともあれそうした問題化の、以降のさらなる発展を保証したのが「初恋」であり、「初
恋」はその〈裏文化〉への開眼と表裏したところでの、《書く》在りようへの追究といっ
た点でも、秦文学における大きなステップボードの役割を果たした作品と言えるのである。
しかしでは《書く》ということは一体何なのか。それをさらに対象化する文学研究とい
■o
エ72
つた営為の意味することも含め、その問題の答を出すには、『風の奏で』から『四度の
瀧』までを、謂わば初恋ならぬ成熟した愛の諸相を分析する機会を待ってからにすべきだ
ろう。(昭61.4.27)
加賀少納言
唐突だが村上春樹に「ス。ハゲティー工場の秘密」一新潮文庫『象工場のハッピーエンド』所
収一という面白い小品がある。短いものなので、全文を引いてみよう。
エ73加賀少納言
彼らは私の書斎をス。ハゲティー工場と呼ぶ。「彼ら」とは羊男と双子の美少女のこ
とである。ス。ハゲティー工場ということばにはたいした意味はない。湯の温度を調節
したり、塩をふったり、タイマーをセットしたり、という程度のことである。
私が原稿を書いていると、羊男が耳をひらひらさせながらやってくる。
「ねえ、おいらどうもその文章気に入らないな」
「そうかな?」と私は言う。
「なんとなく生意気だし、ためがないよ」
「ふうん」と私は言う。私だってわりと苦労して書いたのだ。
(筆者は、上武大学教授 近代国文学研究者 日―本ペンクラブ会員。湖の本の読者で、東大教授竹内整一氏とともに秦恒平文学研究会を十数年に及んで継続開催されている。川端康成研究の指導的な一人として活躍。著書に『秦恒平の文学』右文書院その他がある。)