文学に寄せて エッセイの頁 1
*この頁には、近現代・古典時代にわたる、文学・芸能・文化・歴史等へ寄せたエッセイ・評論・研究を掲載します。
*掲載── 玉の小琴 = 和泉鮎子 小林秀雄雑感 = 高田欣一 和歌にみる定家と式子内親王
=
秦澄美枝 台湾万葉集のこと = 森 秀樹 書縁千里
= 長谷川 泉 上林暁 = 門脇 照男 漱石の『こころ』再読
= 高井良 健一 わたしの「森 敦」 = 三好 徹 思い出すこと(井上靖と大岡昇平)
=三好 徹 短歌雑感 = 大塚 布見子 杜鵑 = 高橋
光義 オーリガの忍耐 ・ ある私信 = 高田 欣一 『源氏物語』の常陸
= 和泉 鮎子
玉の小琴 和泉鮎子
光源氏四十七歳の春は、妻と愛人、それにひとり娘の四人による琴の合奏という催しで幕があいた。今日、琴といえば十三弦の箏を指すのがふつうだが、この時代、琴とは弦楽器の総称であった。四人の弾いた楽器はそれぞれちがうもので、現代の弦楽四重奏にちかいであろう。箏の琴、和琴(わごん)、琴(きん)の琴、それに琵琶の琴が、四人の女性により奏でられたのである。
このとき、源氏が紫の上に振り当てたのは、和琴であった。
和琴について、源氏は、取り立てていうほどのこともないもののように見せながら、この上もなく巧みにつくられており、奥義といっても何ほどのことがあるわけでもないが、ほんとうに弾きこなすことはまことにむつかしい、といっている。
その、もっともむつかしい楽器を紫の上に弾かせたのは、それだけ彼女の力量を信頼し、期待するところがあったのであろう。そして、紫の上は、よく源氏の期待に応えたのであった。
和琴は唯一の日本固有の弦楽器なのだそうで、弦は六弦、大きさも形も箏によく似ているが、弦の数が少ないので、やや幅狭である。倭琴(やまとごと)、東琴(あづまごと)ともいい、べつに、御琴(みこと)とも呼ばれている。上古は神降し(かみおろし)や、神託をうかがうときに掻き鳴らされ、神聖視されたところからの呼称である。
やがて神楽や舞楽などに用いられ、貴族の管弦のあそびでも弾かれるようになったが、現在も神事の際に奏でられることがある。わたしも京都の下鴨神社の御蔭祭と、奈良の春日大社の若宮おん祭で、和琴が奏でられるというより、ゆるらかに鳴らされる閑雅な音(ね)を聴いたことがある。
最近、天照大神が天の岩戸に籠ったとき、岩戸の前に弓が六張り立てられて、その弦(つる)が鳴らされたという話を知った。
弓に張った弦を手でつよく引いて鳴らすのを、鳴弦、弦打ちなどという。招霊や邪気を払うために行われるもので、天の岩戸で弓が鳴らされたのも、そうした呪術的な意味のこめられたものであったろう。
六張りの弓ということは六本の弦である。古くは祭祀具の役もつとめた和琴の誕生譚につながるのではないか。あらためて『古事記』と『日本書紀』、それに『古語拾遺』の天の岩戸のくだりを読み返してみたが、六張りはおろか、一張りの弓も出て来ない。
鴨長明の『無名抄』に「和琴のおこり」という段を見つけたが、
或人云(いはく)、和琴のおこりは、弓六張をひきならべ
て、これを神楽に用ゐけるを、煩はしとて後の人の琴に作
り移せると申し伝へたるを、(後略)
と、あるばかりで、天の岩戸でのことは記されてない。
和琴ハ本邦固有ノ器ナリ、蓋シ神代ニハジマル(「ハジ」
は日偏に旁は方)、故ニ太笛ト共ニ、諸器ノ最トナシ、単
ニ御琴(ミコト)ト称シタリキ、(中略)多ク祭祀ニ用ヰ
ル、故ニ又神琴ノ名アリ、(中略)伝ヘ言フ、太古天鈿命
ノ歌舞ヲ天窟ノ前ニ奏スルヤ、金鵄命、長白羽命、天香弓
六張ヲ並ベ、弦ヲ叩テ音ヲ調フ、時ニ金色ノ霊鵄アリ、来
テ弓ハズ(「ハズ」は弓偏に旁は「肖」の正字)ニ止マ
ル。後人桐ヲ斫リテ之ヲ製ス、体ハ箏ニ似テ首ハ鵄ノ尾ノ
如シ、故ニ又鵄ノ尾琴と云フ、即チ古ノ遺象ナリ、
(以下略)
『古事類苑』(明治四三年刊)の「楽舞部」にある「和琴」の項の冒頭部分である。あちこちたずねていて、これを見出したときはうれしかった。「天香弓」はアメノカグユミと読むのだろう。天香山という聖なる山から得た聖なる木でつくられた聖なる弓なのだろう。伐りたての、香も高いしなやかな木にきりりと弦を張った、すらりと丈高い弓が想像される。
この弓を並べ、叩いて鳴らした神さまが、金鵄命、長白羽命と、その名もきらきらしい。金色にかがやく鳥と、純白の冠毛や飾り毛の長やかな白鷺のような鳥が、舞いあがり舞いくだりして、かがやく翼で弓弦を打ち叩いているさまがおもわれる。「金色ノ霊鵄」が飛んで来て弓弭にとまったというのは、神武天皇が長髄彦に苦戦を強いられていたとき、「金色(こがね)の霊(あや)しき鵄(とび)有りて飛び来りて、皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止れり」と『日本書紀』にある記述そのままである。
『古事類苑』の語る和琴のおこりは、参考文献としてあげてある数種の書物のうちのもっとも古い『豊受皇太神御鎮座本紀』(鎌倉時代中期の成立)と、それに次ぐ『元元集』(北畠親房著・南北朝時代初期成立)を典拠としたようである。岩戸隠れにかかわるものなのに、もっと遡った時代のものはないかと不満も不審も残るが、幻想的で、読んでいてたのしい。
和琴にかぎらず、弦楽器のもとは弓だという。いわれてみれば、ハープや箜篌(くご)など、いかにも最初は弓だった、弦がつぎつぎ増えていって今のかたちになったという感じがする。
一方、琴の起りやその推移にかかわりなく、上古さながら、弓弦を鳴らして神降しや死霊・生霊の口寄せをする巫女は各地にいて、説話や物語、謡いものなどにもしばしば登場している。
能の「葵上」には、梓弓を鳴らして霊を呼び寄せる巫女がツレとして登場するし、「歌占」のシテは男巫(おとこみこ)で、弓弦に結び下げた短冊のうたによって占いをしているが、神意をうかがうために弓弦を引いて鳴らすこともあったようにおもわれる。「引けば引かるる梓弓」という詞章がそれをうかがわせる。
御伽草子の「鼠の草子」には、梓の巫女が弓を鳴らして神降しをするさまが描かれている。権頭(ごんのかみ)なる劫を経たねずみが娶った人間の妻に逃げられ、その行方を知ろうとして、巫女に口寄せを頼むと、この巫女はいきなり、「うち鳴らし候ふぞや、かき鳴らし候ふぞや」と言い、「ああさんまれなあ」と唱え出す。「葵上」の巫女が、まず、「天清浄地清浄(てんしゃうじゃうぢしゃうじゃう)、内外(ないげ)清浄、六根清浄」と、浄めのことばを重々しく唱えるのとは大ちがいである。
「ああさんまれなあ」は「ああ、さもあれな」をひきのばしたものだというが、憑依状態へとみずからを誘う独特のイントネーションで唱えたのであろう。
同じ梓弓をひいて霊を呼び寄せる巫女ながら、貴族の邸に招かれるのと、庶民を相手にするのとのちがいがうかがわれて興味をひかれる。
こうした「梓巫女」「梓」と呼ばれる巫女たちは、明治のころにもけっこういたというし、現在も東北や北陸地方には、梓弓のほか、苛高(いらたか)数珠や太鼓などを用いて口寄せをする巫女が、わずかながらいるという。彼女たちが死霊・生霊を呼び出すときに鳴らす梓弓が、天の岩戸の前の六張りの弓につながるとおもうと、何だか眩むような気がする。
和琴による神降しの古例に、神功皇后が和琴のひびきに感応して「帰神(かむがかり)」したという『古事記』の記述がある。仲哀天皇が熊曾を討とうとして、神意を伺うべく、みずから御琴(みこと)を弾くと、神功皇后が「帰神し」、神のことばを語ったというのである。『日本書紀』も皇后の神がかりを伝えているが、このときは武内宿祢が和琴を弾いている。
神楽をよめる 藤原公泰
忘れずよ雲居にさゆる六(むつ)の弦(を)のしらべを
そへし星のひかりは
琴を詠じたうたはけっこうあるが、和琴と特定できるものとなると、そう多くはない。
挙げたうたは、「六の弦」と詠み、詞書にも「神楽」とあるから和琴を詠んだものと見てよいであろう。ここで回想されている和琴のしらべは、光源氏が催したようなはなやかな、人に聴かせるための演奏ではなく、神にお聴かせ申したものである。「冴ゆる」といい「星のひかり」といっているから、空気の冴え緊った冬の夜の神事であろう。
このうたが南朝方の人のうたをあつめた『新葉和歌集』にあるものと知れば、初句の「忘れずよ」に籠められた思いのほどは如何ばかりかと心が留まる。北朝方に追われ「雲居」を離れて、どれほど経っての詠であったか。
社頭松 小侍従
榊とる庭火のかげにひく琴のしらべにかよふ峯の松風
詞書の「社頭」や初句の「榊とる」をかんがえあわせれば、この琴もやはり、神事の場で弾かれた和琴であろう。作者小侍従は、平安末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した歌人、「待宵小侍従」の雅名で知られている。石清水八幡宮の別当の娘で、このうたも石清水の神に奉納された歌合の中の一首である。平安中期の人徽子女王(村上天皇女御)の、
琴の音に峰の松風通ふらしいづれのをより調べそめけん
を、うつくしくひびかせてあるせいか、琴を弾いているのが神事に携わる楽人でなく、装束の上に髪ながく流した女性のような気がしてくる。
小侍従自身も和琴をよくしたようで、『山家集』には、西行に秘曲を弾いて聴かせたことが記されており、室町時代に成った『体源抄』の和琴の系図にも彼女の名が見える。傑出した弾き手だったのであろう。
女のもとにまかりたりけるに、あづまをさし出でて
侍りければ 大江匡衡
逢坂の関のあなたもまだ見ねばあづまのことも知られざ
りけり
『後拾遺和歌集』にあるもので、詞書の「あづま」は東琴――和琴である。このうた、いくつか伝わっている話によると、匡衡の風体や起ち居が無骨なので、どうせ和琴のたしなみなどなかろうとあなどった女房たちが仕掛けた意地悪に、応えたものだという。
無調法でしてとうろたえるかと思いきや、逢坂の関のむこう、東のことは何も存じませんのでと、「あづまのこと」に「東の国の事」と「東の琴」を掛けた和歌で応じ、御簾の外に差し出された和琴に触れなかったようである。当意即妙な受答えが、今の代のわたしにも小気味よくおもわれる。
川舟のうきて過ぎゆく波の上にあづまのことぞ知られ馴
れぬる
このうたも「あづまのこと」に「東琴」と「東国のこと」とが掛けられているが、匡衡のうたとは、何とおもむきを異にしていることか。匡衡の場合には、彼にうたを詠ませた女たちがいた。彼のうたを、さすが、おみごととが褒めそやすひとたちのいる場があった。けれど、「川舟の……」のうたは詠むともなく孤りの心のうちにつぶやかれている。結句の「知られ馴れぬる」が重たい。作者は式子内親王。
内親王のいう東国の事とは兄以仁王のことといわれている。以仁王は源頼政にすすめられ、彼とともに早すぎた平家打倒の狼煙をあげて敗死したが、しばらくの間、生存説が流れた。落ちのびて東国に在るという。そうした風聞にかすかな望みをつなぎ、息のつまる思いもしたことであろう。やがて、ひそかに囁かれていた生存説も消え、内親王の身のめぐりをひやひや冷たい風が過ぎてゆく――。
「琴」に「事」を掛けてうたうことは、早く『萬葉集』に見られる。
倭琴に寄する
膝に伏す玉の小琴の事なくはいたくここだく我恋ひめやも
「玉の小琴」は琴の美称、そして「小琴の」までは「事」を引き出すための序詞で、事がなかったらこんなにはげしく恋しようかという、妨げのある恋、それゆえ、よりつのる恋の思いをうたったものである。この時代の倭琴、すなわち和琴が、現在伝わっているものよりはるかにちいさく、膝の上に乗せて奏でられていたことを示すとともに、「膝に伏す玉の小琴」に、恋人の膝にもたれる可憐な女性もイメージされる。そして、あたかもいとしいひとを愛撫するように、膝に乗せた琴を掻き鳴らしつつ思いみだれている若者がうかぶ。
埴輪に膝の上の琴を弾いているのがあるが、あの埴輪青年も恋人をおもいつつ、玉の小琴を弾いていたのだろうか。
このうたや、琴を弾く埴輪青年の表情からは、和琴のもつ呪術性といったものは感じられないが、もしかしたら、相手に思いがとどくといったような俗信があって、萬葉の若者は琴を弾いていたのかもしれない。
ところで、埴輪の琴の多くは五弦なのだそうである。和琴の弦が六本に定まる前の、原(げん)和琴とでもいうようなものなのだろうか。先ごろ、奈良県御所市の遺跡から出土した、五世紀なかばごろのものと推定されている琴の写真を見た。何本、弦が張ってあったものか写真からはわからなかったが、大きさは長さ五十センチ、幅は二十センチ足らずぐらいである。まさに「膝に伏す玉の小琴」であり、埴輪が膝に乗せている琴そのままとおもったけれど、祭祀用品とともに埋まっていたというから、神意をうかがうために掻き鳴らされたものかもしれない。
両人対酌すれば山花開く
一杯一杯又一杯
我は酔うて眠らんと欲す君は且(しばらく)去れ
明朝意有らば琴(きん)を抱いて来たれ
作者の李白は、酒を愛し、遍歴のうちに生涯を終えた超俗の詩人として知られる。この、「山中にて幽人と対酌す」は、もっとも人口に膾炙しているものの一つであろう。こういう詩を読むと、お酒に弱いことが口惜しくなってくる。この琴はもちろん和琴ではないが、埴輪青年が膝に乗せていたような、ささやかで愛らしいものであったような気がする。
(いづみ あゆこ 歌人 日本ペンクラブ会員)
小林秀雄雑感 高田 欣一
残暑お見舞申し上げます。あっというまに一年の半分が過ぎたと思ったら、八月も終わり近くなり、三分の二が終ろうとしています。
去年の暮には、今年は志賀直哉を全部読もうと志を立てたのですが、途中で小林秀雄のことを書いたあとから、ドストエフスキイの『白痴』を読み出したのをきっかけに、ドストエフスキイに嵌まっています。じつは六十を過ぎたら大きな活字でドストエフスキイを読みたいと思っていたところに、平成七年、地下鉄サリン事件がきっかけで、オウムの犯罪が明るみに出ました。そのとき、これは一種の「悪霊」の仕業かなと思い、『悪霊』を読みはじめました。
しかし、そう思って読むとぜんぜん面白くないのですね。小林秀雄は『ヒットラァと悪魔』でスタヴローギンとヒットラーを並べているし、アンジェイ・ワイダ監督はその映画『悪霊』でスターリン批判をしています。こちらも見ましたが、面白くありませんでした。スタヴローギンは内部の人間ですよね。小林秀雄は「ヒットラァをスタヴロオギンに比するのは、私の文学趣味ではない」と断っていますが、それでもどちらかというと外部の人間、外にある異形として書いています。
ところが、『悪霊』の中でシャートフがスタヴローギンに向かって、「たとえ真理はキリストの外にあると数学的に証明するものがあっても、あなたは真理とともにあるよりは、むしろキリストとともにあるほうを選ぶだろうって。あなたはこう言いましたね?言ったでしょう?」と、問いかける場面があります。(第二部第一章7・新潮文庫版江川卓訳上巻392ページ)これについてスタヴローギンは「昔の自分の思想をくり返されるのは不愉快だ」というように答えていますが、この言葉は小林秀雄が引用しているシベリアの監獄から二年間の懲罰兵役に向かうドストエフスキイ自身が、フォン・ヴィジン夫人に書いた手紙に書いた言葉で、スタヴローギンはあきらかにムイシュキンともラスコオリニコフとも通じているんですね。少なくともシャートフにはそう見えるわけです。彼は「信仰があるかどうか」と訊いています。『「罪と罰」について2』の終わりの「すべて信仰によらぬことは罪なり」というロマ書の引用のことを思い出しました。
ドストエフスキイは『白痴』の中でも、ムイシュキンにさまざまの人から「あなたは神を信じますか?」という問いかけをさせていますが、ムイシュキンはつねにその答をはぐらかせています。スタヴローギンは信仰を持たぬ神人なので、そうしたものが人間のうちに棲み得るおそろしさを、誰よりも強く感じていたのがドストエフスキイだったわけですが、小林秀雄はそこまで書いているわけではありません。自分のことを棚に上げて言うわけですが、小林秀雄はラスコオリニコフからムイシュキンに行く道は辿ったわけですが、ムイシュキンからスタヴローギンに行く道は、充分に辿れませんでした。そこへ行く前にドストエフスキイ論は中絶してしまったわけですから。小林秀雄のドストエフスキイは『白痴』で終わりです。
しかし、そんなことを考えながらドストエフスキイを読み、小林秀雄を読んでいると、不思議なことに気がつきました。小林秀雄が昭和二十年以後に最も力をこめて書いた文章は何か。『本居宣長』の最終章は当然入るでしょう。『感想』の最初の部分も入るでしょう。あれはあの部分に帰るために、延々とベルグソンについて書きながら、ついにそこに帰れないとわかったのが、中絶の最大の理由だとわたくしは考えています。
あとは何でしょうか。そう考えて読むと、『ゴッホの手紙』の文章も『近代絵画』も残らず、さきにちょっと触れた『「罪と罰」について2』の最終章と『「白痴」について
2』の第三章の終わりがそれに当るのではないかと思いました。『ゴッホの手紙』にも『近代絵画』にも『モーツァルト』でさえ、そうした文章の冴えは見せていません。それに匹敵するのは戦争中の『無常といふ事』のうちの何篇かの文章でしょうか。
小林秀雄の文章は物凄く飛躍するのです。文脈の中で一つ一つの文がイメージを乗せてすさまじい勢いで走るのです。その勢いは普通の人間を跳ね飛ばしてしまう激しさですが、その像がきちっきちっと読むものの心に映じるゆえに、非常に説得力があるのです。若い頃わたくしもそういう文章を書きたいと思いました。しかしどんなに真似をしても、かえって自分の文章がひどくなるだけなのです。どんなすごい文章か、引用はしませんが、機会があったら、『「罪と罰」について2』の最終章の文章だけでも読んでください。
では、それほどすごい文章で書かれた『「罪と罰」について2』が、小林秀雄の表芸でなく、なぜ『モーツァルト』『ゴッホの手紙』『近代絵画』と続く音楽や絵画について書かれた文章が主流になったのでしょうか。小林秀雄という人は、どんなものが売れるかというジャーナリスティックな感覚の非常に鋭敏な人でした。そうでなければ出版社の顧問だか相談役を長く勤められるはずが無いので、彼が「売れる」と見抜いた本はみんな売れたと言われています。音楽や絵画のことを書いたほうが文学のことを書くより読まれると思ったのでしょう。この時期に対談した坂口安吾は、文学で育った人間がモーツァルトだゴッホだと言っているのは卑怯だと、酔った勢いで絡んでいますが、書くものはちゃんと書いているわけです。
ことに『「白痴」について 2』は、『ゴッホの手紙』を書き終わってから『近代絵画』を書き始めるまでの期間、「中央公論」という、当時では「改造」なきあと、最高といってもいい舞台で書き始められた文章ですが、最初から物凄く力が入っているのが分かります。『近代絵画』よりははるかにエネルギーを使っているのが分かります。
しかし、この文章は『「罪と罰」について2』と違って、なぜ九章ある章立ての中間にクライマックスが来るかというと、それにはわけがあるのです。実は第四章で終ろうとしていたのです。具体的に言うと、昭和二十七年の五月から始った連載が一回休載したあと九月で一応終わりになったのです。しかしいったん病気ということで四回で終るはずの論が、病後の経過が非常によく、執筆しても差し支えないほど良くなったという理由であと四回書いて、第一部完了ということにしたようです。よく見ると最初の四回とあとの四回は調子が違います。しかも『白痴』の主要人物であるムイシュキンのほかの三人、ラゴージン、ナスターシャ、アグラーヤに関する文章は何も無く、あと四週間の余命を宣告されたイポリートの独白と、抜け目の無い生活者レーベジェフと天才的虚言者イヴォルギン将軍の、盗まれた四百ルーブルを巡るたてひき、千八百十二年にナポレオンの小姓だったと言うイヴォルギンについての感想が大部分を占めるのです。
たしかに、この小説を冷静に読み返してみると、これらの人物の登場して喋る場面は小説の大部分を占め、主役三人はムイシュキンの心の中に棲むだけなので、アグラーヤよりはその母親のエバンチナ夫人の心の動きのほうがずっとよく書けています。ムイシュキン公爵でさえ、何を考えているのか分からないところがあります。彼の話ではっきりイメージとして残るのは、死刑の話を除けば、スイスでその死を見た哀れな女マリイと滝と城の話です。この話を除けば、ロシアのムイシュキンとは、彼がいるために調子が狂ってくるほかの登場人物のためにだけ存在しているようです。
しかし、この小林秀雄の評論を最初に読んだときはかなり面食らいました。雑誌初出の当時は高校に入った年なので、小林秀雄という名前さえ知りませんでした。わたくしが最初に読んだのは、昭和三十九年これが『「白痴」について』と銘打たれて、角川書店から千二百円という、当時としては大変高い値段で出されたときです。そのとき最後の第九章が書かれました。出版社はどうして中央公論社ではなく角川書店だったのでしょうか。この年の終わりになると、小林秀雄は獅子文六を入れて、角川源義と三人で出羽三山の旅などしているので、大分親交が深くなり、雑誌に載せたままで本になっていないこの作品を本にしたいと、角川が言ったのかもしれません。書評などにはこの本はいっさい出てきませんでした。同じ月に出た『考へるヒント』がよく売れて、小林といえば「考えるヒント」だったからです。
角川でもこんな売れそうもない本を出すのか、小林だから出したのかなと思いました。余談ですが、角川書店はわたくしの学生時代、もっともいい本を出す出版社で、講談社の編集者にはなりたくないが、角川書店の編集者にはなりたいと思っていました。ですから就職試験を受けて、首尾よく最終面接まで行きました。
わたくしと角川社長の対話は「どうして君は小林秀雄は好きなのに石川淳を好かないのかね?」で始まり、「いい本と売れる本は違うのだけれど、きみはそのことをどう思うかね?」で終りました。どう答えたか、答は憶えていません。その三年前のことです。試験は落ちました。角川書店は、学力試験一番の学生は採らないという伝統があるのだと誰かからいわれました。角川の本などもう絶対に買うものかと思いましたが、一年就職浪人をした上、学習塾を開いて二年目で、少しは順調に行っていたので、そういう高い本も買えたのです。考えてみれば、文庫本を除いては初めて買った小林秀雄の新刊書だったのです。
角川は社長はあんなことを言ったのに、相変わらず売れないいい本を出していると、おかしくなりました。この本は今も持っています。しかし、この作品が小林秀雄のこの時代の作品群の中でもっとも力のこもったものだと思い出したのは、ごく最近のことです。
この作品が刊行された昭和三十九年という年を、わたくしは小林秀雄にとって特別な年だと思っています。前年に『感想』は中断しました。六十四歳になっていました。その年齢に達して初めて分かる、自分の人生が何処まで続くかという目測がはじめて立つ歳です。
無駄な荷物は下ろして、必要最低限の荷物で出来るだけ遠くまで行かなければならない。小林秀雄はそう思ったのでしょう。ドストエフスキイという荷物はそのとき下ろされたのでしょう。しかし、小林はドストエフスキイを読むことを止めたとは思えません。
『「白痴」について 2』の第三章の文章が非常によいと思うのは、小林秀雄が戦争中の沈黙の時期に何をしてきたかということがよく分かるからです。「旧約聖書に登場する最大の人生観察家(ヨブのこと・筆者註)は、人生とは荒唐不稽なものであると断言してゐる。生きてゐるよりはいっそ死んだ方が増しだ、死ぬより初めから生れて来ない方が増しだと言ってゐる。予言者等の行ふ残虐や不徳や狡猾など、何の事でもない。彼等は、皆自分のする事が、本当には解らぬのである。たゞ、解らぬといふ事を知ってゐるといふ奇怪な意識を燃やして、まっしぐらに生きる」
山本七平氏は、この後に続く四つの旧約聖書の引用の出典をことごとく挙げています(「小林秀雄とラスコーリニコフ」新潮文庫『小林秀雄の流儀』所収)。「ヨブ記」を読み続けるにもっともふさわしい時期を小林秀雄はどう過したか。
「ドストエフスキイは、ヨブのやうに、「我がなんぢとともに造りし河馬を見よ」といふ神の声を聞いたかも知れない。恐らく、彼も亦、ヨブの如く、よく言はれる宗教的体験といふやうな、いかがはしいものを語るほど愚かではなかったであらう。「静かに光り、同時に恐ろしい」事が、彼に起ったであらう。それは、信と言っても不信と言っても、ただの言葉に過ぎないやうなものだったであらう。彼の作品の、あの長い呼吸も、其処に由来するのであらう」
小林はそこでさりげなく、「空想」はもう止めねばならぬ、と付け加えます。なぜならドストエフスキイが獄中で読むことを許されていたのは、新約聖書だけで、旧約聖書はなかったからだというわけです。ドストエフスキイと、この文章に横溢する旧約のイメージは何の関係もない。旧約聖書の世界とドストエフスキイの世界を繋ぐ世界に生きていたのは、小林秀雄であったからです。わたくしは、むしろこの「空想」という言葉の中に、人は「空想」しうるからこそ人であり、「空想」の中で人はもっとも美しいという言葉を献げたくなります。人は幻を貪って生きる。こんな風にいいたくなるのです。
もしも、昭和三十九年の小林秀雄が「本居宣長」を取らずに、「ドストエフスキイ」を取ったらどうなっていたろうか、とふと考えます。「もし」とか「たら」は意味のないことですが、そう考えて行くと、わたくしはあることが思い浮かぶのです。
晩年の小林秀雄は小田村寅二郎氏の国民文化研究会の夏季学生合宿会に招かれて何度も講演に行っています。そのテープが新潮社から発売されていて、わたくしもいくつか持っています。国民文化研究会というのは聖徳太子を顕彰するという主旨で造られた修養団体ですから、そこでは聖徳太子が当然話題になります。『本居宣長』を書き終わったあとの宣長についての講演テープについているリーフレットで、亜細亜大学の夜久正雄とおっしゃる先生が、小林秀雄の聖徳太子について言った言葉を紹介しています。
「聖徳太子は、日本最初の思想家だ。『義疏』(太子著『三経義疏』のこと)という本(書物)は、外圧をじっと耐えて爆発するように、日本人があらわれた、というものだ。太子を外国文化の影響に染まった人、という人たちがいるが、そんなものではない。あの人はほんとうの日本人だ。自分が犠牲になって、歴史を作ったんです。だから、日本人はみんな太子を崇めているんです。太子の苦しみが日本人にはわかるんです。それでなくてどうしてあんなに皆んなが太子を憶いますか!」
これを読んだ時、わたくしは、ああ小林秀雄は自分のことを言っているなと思いました。
小林秀雄の専門は何だったんだろう、と又自分のことを棚にあげて考えます。小林秀雄のずっとあとの東大仏文の後輩立花隆は、同じ問いを自分に課して、専門のないのが専門と嘯きます。小林秀雄にも同じことが言えるでしょう。『本居宣長』以降は「日本文化史研究家」とでも言えるかもしれません。ではそれ以前は何だったのか。ロシア語の出来ないドストエフスキイ研究家ということになるのでしょうか。考えてみれば、ロシア語ができないということは、小林秀雄にとって致命的なことで、それがドストエフスキイの作品論を中断させた最大の理由だという人がいますが、それもある程度あてはまるかもしれません。
しかし、それではそれまでのドストエフスキイ論もロシア語の出来なかったロシア文学者のものとして不完全なものなのかどうか。それに対しては、わたくしも不安があります。フォン・ヴィジン夫人に語った「キリストは真理の外にいても」という「真理」とはプラウダ(pravda)なのか、もしそうだとしても、この真理は英語の言うtruthの要素をどれだけ含むのか、factという言葉にどれだけ近いのか。この「真理」のニュアンスによって幾通りにも取れるのです。けれども、大事なことはそういうハンディが歴然としながら、なおそれでもドストエフスキイと取り組まなければならなかった男として、彼が居るという事です。彼の仕事はやはり「外圧をじっと耐えて爆発するように、日本人があらわれた」ものだったと思います。
夜久さんの文章は、このあと木内(信胤)氏が、ぜひ聖徳太子について書いて欲しいというと、「ぼくにはそれに取り組む時間的余裕は、もうないですよ」という言葉が返ってきます。ドストエフスキイについて書く余裕さえないのだから、聖徳太子なんてとんでもないことです。あれは、やはり自分のことを言ったんですよ。
小林秀雄の『本居宣長』がどんな点で不備で、どんな点で偏っているかなどということは、わたくしはあまり関心がありません。小林秀雄のようでない「本居宣長」論は当然可能だし、それはそれでいいと思っています。
だから小林秀雄が「あとの人たちに仕事を残しておくことも大事だ」と言ったことを素直に受け取って、彼が『本居宣長』を始める前に肩から下ろした荷物をもう一度検証して、彼が残した仕事は何だったのか、考えたいと思っています。
今回は此処までです。「エッセイ通信」という題は外しました。じつは、四ページという枠の中では、考えることが書ききれなくなったからです。体裁も変えました。いつもお便りを下さる方に、三ヶ月あまりご無沙汰した近況報告として、お便りする次第です。
長い間「エッセイ通信」をご愛読くださいまして有難うございました。今度はさらに体裁を変えて、一回二万字をめどに挑戦します。
それはそうと、最近、インターネットにも凝っています。作家の名前を入れて検索すると、ずらずらと関連するホームページが現われます。志賀直哉で多いのは、大学の卒業論文を元にしたホームページです。だいたい今の若い人の受容の仕方がわかります。いちばん人気があり、いろいろな人の意見の飛び交うのは、三島由紀夫と小林秀雄です。「新潮社」が自分のところをホームグラウンドにした作家だといっても、なぜこの不況時にこの二人の全集を出したかわかりました。小説は読まれている形跡はないが、文学は健在だなと思っています。 (二〇〇一・八・十五)
和歌にみる定家と式子内親王
秦 澄美枝
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
忍ぶることのよわりもぞする
広く知られた式子内親王の代表歌であり、謡曲「定家」に式子その人を象徴するものとして引かれた歌である。この歌では人生のほとんどすべてをかけて長く耐え忍んできた恋情が極まり、命までも「絶えなば絶えね」と絶叫する中で、「玉の緒」という歌語による美的イメージが昇華し拡散する情熱の高まりゆえの一層の悲しさ切なさが詠まれている。これこそ内親王が人間として女性として生涯かけて美しく追い続けた恋の姿勢であり、歌人として摸索し続けた歌のテーマであった。ところでこの歌は「忍ぶる恋」を詠んだ題詠であって、『新古今集』では同題の歌「忘れてはうち嘆かるる夕かなわれのみ知りて過ぐる月日を」「わが恋は知る人もなし堰く床の涙漏らすな黄楊の小枕」と三首連作として恋部に入集していることなど、新古今時代において式子は「忍ぶる恋を詠ませて当代随一」との評価を得ていたのである。そして題詠でありながらもこれらの歌で表現される世界と、歌人としての評価に、幼少からの賀茂斎王としての生活や成長後の長く病気と孤独に苦しんだ実人生が重層化されて伝説の内親王像が形成されていくのである。
なげくともこふともあはむみちやなき
君葛城の峯の白雲
やはり謡曲「定家」に引かれた『拾遺愚草』に入る定家の歌である。この歌は『新古今集』に入る「よそにのみ見てややみなむ葛城の高間の山の峯の白雲」を本歌として、本歌と同趣好の葛城伝説や成就かなわぬ高貴な女性への恋情を詠む神秘的な恋歌である。歌人藤原定家は、式子の歌の師、俊成を父として、後鳥羽院と共に新古今時代を築く当代の代表歌人であり、本歌本説取という方法を極めた歌詠みであった。たとえば、謡曲「定家」後段、クリ「朝の雲、夕の雨と古言も」の典拠でもある文選『高唐賦』を本説として定家も「春の夜の夢の浮橋とだへして峯にわかるる横雲の空」という歌を詠んでいるが、この歌こそ新古今調の非常に色濃いものであると同時に、本歌本説取の方法の最も成功した定家の代表的秀歌なのである。この歌は横雲が流れてゆく春の叙景美を詠みながら、本説の、王が夢の中で仙女と契るというはかなく艶な恋物語を背景として神秘的な余情を漂わせている。しかし創造の世界においてこのような美を求めた定家も、現実においては日記『明月記』に見るように官位昇進を憂え、思うままにならない身体の病に苛まれる人間であった。むしろそういう現実があったからこそ創造の世界においては超現実の神秘な美を求めていったと考えられるのである。
ところでこの式子内親王と定家との恋は実際のところどのようなものだったのであろうか。謡曲「定家」が生まれる背景には、古く『謡曲拾葉抄』『正徹物語』等に式子の忍恋物語が見られるが、この恋の相手が定家か否かという点については定かではない。時代が下って、近世の中院通茂『渓雲問答』には、式子と定家との間について俊成が窘めたところ定家の座右の歌として「玉の緒の…」の歌があり、これほどの歌詠みなら定家が式子に心ひかれるのはもっともであると俊成も定家の心情を理解したという話がある。このような伝承が室町以前から伝わっていたとすれば、伝承が謡曲「定家」の典拠になったことは当然であろう。しかし現在では二人の恋が事実であるという見方は成立しにくく、現実の定家と式子との関係については『明月記』に見られるばかりである。そこで定家が初めて式子に参見した記事を見ると、「今日初参…、薫物馨香芬馥」(治承五年正月大三日)とある。時に定家二十歳、式子三十二歳(従来は年令も不明であったが、近年上横手雅敬氏が陽明叢書『人車記』解説で式子の生年を久安五年と明らかにされた)であった。高貴な身分の内親王ゆえに定家など直接参見することなどできるはずもなく御簾を隔てての初見であった。これ以後の記事にも見られる立場をふまえてのかかわり方や、二人の年齢差、直接に男女の交流を意味する恋の贈答歌が見られないことなどが合わさって、やはり二人の恋の事実は考えにくいのである。そればかりか近年石丸晶子氏は式子の面影人は法然ではないかとの式子伝も述べられた。
それでは定家にとって式子とはどのような存在であったのだろうか。先の『明月記』の「薫物馨香芬馥」によれば、御簾を隔てて伝わる式子のイメージは馥郁たる薫に包まれた定家が手の届かぬ神秘な雲の上人であった。この後定家が式子に参見するプロセスは、琴の音をうかがう折りや、和歌を奉る折りなど、直接に人間的かかわりでなく、香・音楽・和歌という王朝の貴族が愛した雅な世界においてであった。そしてこのような記述から見れば、定家にとって式子とは自分が果てしなく追い求める王朝の文化を体現する人そのものではなかったかと想像されてくる。定家が式子に憧れを抱いたことは確かだが、先の『高唐賦』の世界のような人間界を超えた雲のかなたの仙女に対する神秘な憧れのようなものであったと考えられるのである。
だからこそ禅竹が女体の能の無上の姿として好む「朝に行雲となり、夕には行雨となりけん面影」(『歌舞髄脳記』)の「雲」が、「定家」の構成のポイントになっている事には、ある種の創作意識が伺えるのである。謡曲「定家」は「雲も行きかふ遠近の」で始まり、「朝の雲、夕の雨」でクライマックスを迎え、「ありし雲居の花の袖」と終焉に向かう。この「雲」こそ美的景風としてのそれであると同時に、定家の永遠につきることのない高貴な女性への神秘な憧れを暗示するものと思われる。中段クリに対として引かれた宗貞の「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ」の雲上の美しい天女と、果たせぬ思いの人、先の定家の「嘆くとも恋ふともあはむ道やなき君葛城の峯の白雲」の雲上の神秘な女性と思い人にこそ式子と定家が重ねられてくるのである。
─「橘高」平成五年五月号─
(筆者は、日本文学研究家。日本ペンクラブ会員。姓は同じだが編輯者ととくべつの縁はない。色濃く主観に彩られた著書『和歌戀華抄』の一編を戴いた。周到な研究論文も多く含まれた中で、だれもが知りたい能「定家」にかかわるエッセイを選んだ。この人には、清泉女子大学に於ける教職者の学生に対するセクハラを強烈に告発したね力作『魂の殺人』もある。1.6.27掲載)
台湾万葉集のこと 森 秀樹
孤蓬万里著「台湾万葉集」を読む
少しうがった見方をすれば、本書はもともと「私家版」である。しかし、台湾の多くの歌よみ編著者の積年の努力を軽視する気持ちはない。孤蓬万里(呉建堂)がまとめた『台湾万葉集下巻』を復刻したものだが、原本は大岡信が朝日(新聞)の「折々の歌」で紹介する前は、まさに好事家の私家版に過ぎなかったといってもよい。筆者の知る範囲でも、上、中巻に続きこの大冊が日本の名のある歌人たちに送られてきたが、黙殺されていた。
これは、結社を中心とした歌壇の実態をみれば至極あたりまえのことで、歌人や評論家に献呈されるおびただしい数の私家版は陽の目を見ることなく捨てられている。無名の、特に団体活動に参加していない素人の歌集を批評する土壌は、惜しいことにほとんどないのである。そういうことでは、日本では数少ない、詩歌全般を評論する大岡信の目にとまったのは幸運であったかもしれないが、反面、今までの時間の費えを考えれば遅きに失した感もある。
ただ、大岡信が「折々の歌」で十九首もとりあげ、好意的な批評を書いたのは、持ち上げ過ぎとの冷めた見方が一部にはある。このところ新聞やテレビで紹介されることも多く、かなりの知名度であり、筆者が四月初めに台北の孤蓬万里氏宅を訪問した際も、日本からの取材依頼の電話に応対されていた。左様、われわれは熱しやすい(そしてさめやすい)。大岡以外のプロが本書をとりあげなかったのは、前述のような背景もあったはずだが、日本の現代短歌の常識をこえた素朴な台湾の歌ににべもなかったのであろう。大岡は、その〈素人っぽさ丸出しの歌〉を、われわれが忘れている
歌のプロトタイプの一つとして世に問いかけたのである。
ここで問題は二つ提起されている。台湾の短歌を、日本のそれとは異なるものと、にべもなかったプロたちは、外国人の詠んだ歌とはあまり意識せずに読んだ(もしくはパラパラめくっただけ)に違いない。これは、実は重要な点である。大岡が造語したような〈日本語人〉の存在を意識していれば、また少なくとも歌の作者たちを外人〈台湾人〉として意識していれば、斟酌があって当然だったのだ。そうでなかったのは、本書の歌が日本語としては、ややセピア色であっても、完璧に近いものであり、読む側にそういうおまけの気持ちをおこさせなかったからでもある。つまり外人が作った歌ではな
かったのである。
このデリケートな現象を他に例をあげることは難しいが、強いて言えば、韓国やブラジルの人たちが歌集をだすケースに似ている。ただし、台湾の場合には、大岡の指摘するように〈日本語で短歌を作らずにはいられない〉、ほとんど母語の台湾語ではなく日本語のみで教育を受け教養を積み重ねた人たちの存在があり、特別な状況といってもよいのである。われわれはその歴史的事実をほとんどおろそかにしてきたのだ。
もう一点は、歌の言葉が、いかに技巧がなく粗削りであっても、自らがしぼりだしたものであるなら、それが歌のいのちであり創作であるという原初である。これを決して忘れてはならない。
本書は、先亡もふくめ多くの歌を紹介、孤蓬万里の解説が詳しい歌書でもある。万葉集のタイトルにふさわしい歌集であるとみるも、批判するも、みな自由である。
「世界日報」平成六年(7994年)四月二十九日(金曜日)
孤蓬万里著『「台湾万葉集」物語』を読む
本書は前回書評した集英社版より発行が先である。来年(1995)の日拠(日本統治)百年を前にしての刊行は意義が大きい。本書を読む前の最低の予備知識は、一八九五年からちょうど五十年間、日本の台湾統治があり、その後、約五十年間、国民党の政治下に台湾がおかれていること、終戦時、小学校の高学年生であった人たち以上の年齢層は、日本人と同じ(皇民化)日本語教育を受けたこと。特に、旧制の中学以上の高等教育を受けた人たちは、その学校教育のほとんどすべてを日本語で受けていた事実があること。それと、戦後、国民党の支配下におかれてのち国語(北京語)の制定があり、表むきは一九八七年まで、日本語の便用、著作物の輸入は厳しく制限されていた経緯がある。
だから、「台湾万葉集」の作者たち(台湾人以外に日本から嫁いだ人もいる)は、台湾語以上に思想や教養の基盤をなしてきた母語〉に近い日本語で、歌作りの灯を絶やさぬようにしてきたのである。
本書は、「台湾万葉集」のうちより、「台湾万葉百人一首」として現存歌人の百首、物故歌人の三十一首をのせている。この活動を長くたばねてきた編著者・孤蓬万里(呉建堂)が手際よくまとめたもので、いろいろな歌風をもつ台湾の歌詠みたちをまんべんなく選んでおり、「台湾万葉集」の何たるか、全体像の把握には重宝である。とくに、本書で有り難いのは、台湾短歌史ともいうべき「台湾短歌の歩み」を紹介していることで、評者も多くの示唆を得ることができた。
私事となるが、評者の亡父(森晟軒)は昭和九年より十年代初めまで台湾に生活し、昭和十年の北原白秋の『多磨』創刊には台北から参加している。亡父の事跡は本書にはないが、亡父と晩年まで親交のあった、憲法学者で歌人の故井上孚麿(昭和四年に台北帝大文政学部内に結社)の記録が載っており、在台時の亡父の作歌活動の探究にヒントをもらった。孤蓬万里氏とはこの内容確認のために、お手紙を差し上げたご縁で、四月初めにお目にかかる機会を得た。
本書は、台湾の短歌の揺籃期から戦前、戦後の結社活動を歴年で紹介しており、台湾の歌壇の総合史としては、多分類書がないと思われることから、非常に貴重な文献資料でもある。とりわけ、戦前の内地の文学者や歌人たちの台湾での足跡を知る上で資料的価値は大きい。戦前の「台湾歌人クラブ」は内地人の組織であったが、錚々たる名前が並んでいる。この伝統を、戦後の真空時間をのりこえ、台湾の歌人たちが引き継いだともいえるであろう。
戦後、日本語が急速に台湾から姿を消す一方、中国文学が当然支持を受けていった。その中で、「台湾万葉集」の作者たちは、自らの手になる台湾の歌壇を作っていったのだが、台湾の結社活動も発足していった。それが『台湾万葉集』として結実したともいえる。ほかに、日本の結社や俳壇、台湾の詩壇に参加した歌人も多くいる。「からたち」に籍を置いていた亡父と同年の高名な作家・巫永福氏にも今回お目にかかることができたのは僥倖であった。 (岩波書店刊)
「世界日報」平成六年五月十三日(金曜日)
(筆者は、作家で多彩多方面の研究者でもある。耳目にふれにくい極めて珍しい「台湾万葉集」紹介記事として貴重なものである。湖の本の、読者。 1.6.9掲載)
書 縁 千 里 長谷川
泉
秦恒平について書くのに、なぜ「書縁千里」などということを持ち出したか、ということを、まず最初に書いておこう。
秦恒平が、私の書を求めたことがあった。いつの頃か忘れたが、書いて与えた文字は、よく覚えている。
文字は「文質彬々」であった。
「文質彬々」は、王羲之にかかわる。
そして、また蘭亭にかかわる。
蘭亭にかかわれば、往年の会稽、現在の紹興につながる。
紹興は、魯迅・周恩来・秋瑾の出身地としても有名であるが、ここでは、そのことよりも、秦恒平が紹興を訪れたことがあるということに深くかかわる。そしてまた秦恒平の「中国に旅して」という文章にもかかわる。
それだけではない。秦恒平の「蘭亭を愛(を)しむ」という文章にもかかわる。
私も、昨年、平成四年十一月には上海・南京・揚州・蘇州・紹興・杭州などを巡遊した。日本翻訳家協会と、中国外国文学出版協会との翻訳文化交流実現の為であった。まず南京の訳林出版社の李景端社長を団長とする中国側七名が、六
- 七月に訪日したのに対し、日本側は私が団長として七名の訪中団を組織し、上記の各地を訪れたのである。上海外国語学院と南京大学では、私の文学講演も組み入れられていた。それらの報告は日本翻訳家協会の機関誌「JST
NEWS」や「鴎外」、「日本文学」近代部会誌、「国文学解釈と鑑賞」、又「解釈」などに記したので、ここでは繰り返さないが、それらの中ではセーブした紹興のことだけは、秦恒平とのかかわりで、記しておくことにする。
秦恒平の「中国に旅して」では、井上靖を団長とする日本作家代表団の一員として北京・大同・杭州・紹興・蘇州・上海を廻った時の感想が述べられていた。紹興では、「牧歌的な水郷」の裏町の美しい民家と運河と橋のたたずまいに感嘆した趣きが活写されていた。そこには、まぎれもない、作家の目が光っていた。
秦恒平の「蘭亭を愛しむ」では、王義之をめぐっての「たん(_のヘンが貝ヘン。ダマスの意)蘭亭」や太宗の「蘭亭殉葬」、はては則天武后時代に、この「稀代の猛女が寵愛した張易之」によって太宗の陵墓があばかれ、「蘭亭序」が逸失するまでのことが記されている。すなわち、「中国を旅して」の紹興観とは違ったアングルでの、紹興にまつわる話である。
「まつわる」ということでいえば、「蘭亭を愛しむ」では、太宗が死に臨んでなお伴侶たらんと切願した「蘭亭序」への純粋愛(芸術
+ α)への感銘が中核となっているが、この文章の導入は「大学問題」の原稿依頼をされた実体験から始められ、さらに上野の東京文化会館での第二十回美学会全国大会への顔出し、「勤め柄、各種の医学会を傍聴取材する機会」があったこと、そこでの大学紛争などの外面的状態、内部の取引のこと、美学会会場を出て小走りですぐ近くの国立東京博物館で王義之の「蘭亭序」を見ての感慨、その中にはさまれている戦国末期武将松永久秀が信貴山落城の際、愛蔵の平蜘蛛の釜と一緒に自ら火に入ったという茶器酷愛の話の紹介と、感想とが述べられている。
紹興に「まつわる」ゆえに、以上のようなことを述べて来たが、ことは秦恒平の作品構成の手法にかかわるから、このようなことをまず述べたのである。
作家・批評家秦恒平は、私が役員をしていた医学書院を受験して来た。京都の大学の美学の大学院在学という履歴から、家庭関係も、ふつうの受験者よりは複雑であるという、言ってみれば、変わり種であった。このことは、秦恒平自身が文章にもしているので、ここに記してもかまわないと思う。そして秦恒平の作品は、そのような出自のこと、入社試験のこと、医学書院での勤務ぶりのこと、医学界の内情のこと、大学紛争だけでなく、一時出版社各社に吹き荒れた労働争議のこと、などなども盛り込んだ作品群がある。
秦恒平には、身辺の切実な事象のフラグメントを素材にした作品群がある。もちろん、小説としては、鴎外のいう「歴史其儘」と「歴史離れ」の機微がひそんでいる。私小説といわれるものでないにしても、作家には、写真機とは違った事実処理の手法がある。虚実皮膜の論は、そこいらにも存在する。
秦恒平には、森鴎外の「歴史其儘と歴史離れ」文に触れて、歴史の「自然」を尊重する、その「自然」なるものについての論評がある。だが、秦恒平に限らず、小説家は、あげて身辺を擦過した素材
─ それは現象だろうと、精神的な、「夢幻」のようなものであろうと ─ に拠りかからずに作品が書けるであろうか。そのメカニズムの機微は書き手である作家自身だけには分明であっても、作品に対する研究者、評者、読者には、いっこうにはっきりしない事柄が幾らでもあるだろうと思う。その度合いの濃淡が、また作り手の人によって異なっているから、始末が悪い。
もちろん、作品の水底に、深く沈殿している諸事象は、すっぱり切って捨てて、文章面だけを見て行けばよい、という学究の方法論がないわけではない。しかし、問題は、活きて動いている作品であるから、水面上に姿をあらわした字面だけから、ほんとうに理解・享受ができるかということになってくる。
秦恒平が「源氏物語」を初め、古典に密着し旧来の読み方の外皮を引っぺがして、赤い血を流させたことは、忘れられていない。外皮だけでなく、さらに皮膚と粘着した肉質そのものを切ったこともある。また近代作品にしても、いわゆる、かいなでの定説的読み方を、根本から引っくりかえしたこともある。それは、作家の目の確かさであり、切れ味の爽かさである。作家は鈍重なまでに剛直であり、詩人は清爽であるとすれば、秦恒平の切れ味は、剛腕に似て、案外、清爽である。ということは、作家だけでなく、詩人としての資質をも持っているということになる。
紹興の王羲之の書が、格の正しい楷書だけでなく、行書、草書までを確立させたことを思う。秦恒平は、まだ春秋に富んでいる。
[注]「鴎外」の「鴎」は正字が正しい。(機械で誰にでも「鴎」の正字が自由に出せるという段階でないのを遺憾とする。)
─「文藝空間」9 特集・秦恒平の文学世界 巻頭言 1993年10月─
(筆者は、国文学者。川端康成研究会、森鴎外記念館等を統べ、浩瀚な著作選十二巻がある。精緻な解釈学を確立した碩学として広く知られている。久松潜一賞。日本ペンクラブ名誉会員。この編輯者は、長谷川氏の部下として多忙を極めた「編集長」の背中をみながら、作家活動へ歩み出していった。湖の本も支えて戴いている。)
上林 暁 一教師の戦後史より
門脇 照男
日曜日や土曜日の午後、私は海軍でもらった赤茶けたドタ靴をはき、草色の雑嚢を肩に掛けて東京の街なかを歩いていた。いつも一人だった.街なかのどこかで物がこわされ、いつもどこかで威勢のよい槌音がしていた。喧噪で猥雑で、妙にさびしく、活気が満ちていた。すべてが混沌としていた。そんな中で、たしかに何かが生れようとしている気配だけはひしひしと感じられ、明るい未来への予感に浮々とする瞬間があった。自分の才能も限界も知らず、私はひたすらに何かを求めようとしていた..、
N子からはよく手紙がきた。陰気な田舎のようすを下手な字で書き綴り、きまって終りは「あなたのお手紙をひたすらお待ちしています」と結んであった。私はめったに手紙を出さなかったのだ。里の母からは、時々、折れ釘を並べたような片仮名ばかりの手紙がきて、私を涙ぐませた。表書きはいつも兄の代筆だった。
そんな時、不意に義父から一通の手紙が届いた。東京の生活にも大分なれた、五月のはじめ頃だったろう。いぶかりながら開いてみると、便箋一枚に大きな字で「もう二度とうちのしきゐはまたがんでよい」と書いてあった。私は脳天に一撃をくらって目がくらんだ。くらんだ目の中で、N子と子供の顔が遠のいたり近づいたりした。義父の怒るのも無理はなかった。百姓もせず、文学だの小説だのと寝言のように言っている男を養子に迎えた義父も、運の悪い男だった。私はそこでハッと目覚めるか、思い切って決着をつけるか、すべきだったかも知れない。が、事実は、ぐすぐずと途惑い、悶々とした思いの中で日をすごした。
太宰治が自殺したのは、そんなことがあって間もなくのことだったろう。それまでにも二、三度太宰の家の辺りへ行ったが、会う勇気は出なかった。
その日、私は、一日勤めを休んで、小雨降る玉川上水のあたりをうろついた。どこからか、「トカトントン、トカトントン、」という音が聞こえてくるようだった。私が田舎にいる時に読んだ『ヴィヨンの妻』の中で、その巻頭に載っていた「トカトントン」に私はいかれてい。私がはじめて読んだ太宰の小説だった。小説とはこういうものか、と私は目からうろこが落ちるようにそう思った。まさに神わざ、小説は神わざ、そんな気がした。小説を書くことはいいことだ、すばらしいことだ、と私は思った。その太宰治が死んだのだった。この濁流の中で死んでいるに違いなかった。私は降りしきる雨の中で、涙を流していただろうか。今はもう、遠い昔の物語りである。
上林暁の家へ行ったのもその頃だったろう。それまでにも一度、私は上林暁を見ていた。日曜日の街歩きの時だったろうか。夜の阿佐ケ谷の街でだったような気もする。広い会場に人が溢れ、ずっと遠くの演壇に立って何やら言っているのが上林暁だった。杉並区長に立候補した新居格の応援演説をしていたのだった。どんな話をしたかは一切忘れている。その場面もひどくあいまいだ。ただ一つの雰囲気として、たしかに上林暁が何かを話していた情景だけが頭にある。後年それは、新居格の応援演説ではなく、杉並区長をしていた新居格が任期の途中で辞任することになり、新居格氏に頼まれて、その後任の人を推薦する演説だったことを知った。
私が上林暁を見たはじめであった。「文学の歓びと苦しみについて」や、「聖ヨハネ病院にて」を書いた小説家がここにいる、という思いで、まんじりともせず私は、彼の話を聞いたのだったろう。が、今となってはその印象もあいまいである。はじめて上林暁の家を訪問したのはいつだったか。それもまたあいまいな霧の中にぼやけている。多分その年の六月の終り頃ではなかったか。太宰治の自殺のことを話し、先生もまた、そのことに異常な関心のあることを知って驚いたことを覚えている。
私はその時、先生の『病妻物語』を持って行った。それには「聖ヨハネ病院にて」も載っていた。私はその本に、先生の署名をしてもらおうと思ったのだったろう。その時、私には、そんな甘い気持しかなかったことは事実だ。今もその『病妻物語』は手元にあるが、勿論署名などはなく、手あかにまみれている。先生の亡くなった今、三十数年前のその本は、私にさまざまのことを思わせる。扉には「この一巻を亡き妻の霊に捧ぐ」とあり、あとがきには「読み返したくもない本を、自分の最も大切な本とせねばならぬ自分を、私は不幸な作家と悲しむべきであらうか。それとも作家の宿命と諦むべきであらうか」とある。
妻の死と太宰の死と──、現実と文学の打撃の中で、小説を書かねばならぬ作家の不幸と宿命が、私にどれほどわかっていたというのだろう。小雨の中を太宰の姿を求めて歩いた自分は一体何ものだったのか。真実を求めるといいながら、私は一体何を求めていたのだろう。文学というものが単なる真率や努力の中にあるのではなく、屈折と変容の中で、作家の血とないまぜになった天成の華としてあることが薄々わかりかけたのはいつのことだったろうか。.今は、その真率や努力すら薄れかけ、文学は遠きにありての嘆きをかこつほどに堕落したが、三十数年前の私もまた、甘い感傷の中で、N子のことも子供のことも、父母のことも本当は思わず、人生や現実を文学的に転嫁し、糊塗していたのではなかったか。
阿佐ケ谷の家から歩いて、二十分ほどで行ける上林暁の家へ、それから私は何度も行った。時には小説めいた原稿を持ってゆき、「見てください」と臆面もなく言ったりした。
先生はたいてい、狭い庭のある縁側へ小さな坐り机を置いてものを書いていた。それでも私が行くと、ペンを置いて相手をしてくれた。妹さんもいて、先生のそばで懐しげに四国の話などすることもあった。自分の部屋に閉じこもり、という風ではなかった。勿論狭い家の中では、どこへ逃げようもなかったのかも知れぬ。いかにも地味で、不遇な作家という感じだった。しばらく通ったが、私の原稿はついぞ見てくれたことがなかった。置いて帰った原稿は、私が置いた書棚の上や本の間に、いつまでもそのままにあった。私も次第に先生の所へ行かなくなった。
後年私は、先生が昭和二十五年に書いた「零落者の群」という小説を読んで、その当時の私の姿が、僅かにそこに描かれていることを懐かしく思った。が、それについて先生と話したことは一度もなかった。
──『続 しおり籠 私の文学
点々』所収──
(筆者は、1924年生まれ、多年教職にあり、読売短編小説賞、香川菊池寛賞などを受賞の香川県在住の堅実な私小説作家。湖の本の読者。)
漱石の『こころ』再読 高井良
健一
夏目漱石の『こころ』を再読した。
高校時代、現代文の恩師に『こころ』の世界へいざなわれて以来、16年ぶりのことである。今回、わたしを『こころ』の世界にいざなったのは、秦恒平さん。秦さんは、東工大で『こころ』を題材として、人のこころのあやに迫る文学の授業をされていた。秦さんのホームページで、『こころ』の講義ノートを読み、ぜひとも自分で再読し、たしかめてみたいと思ったのだ。
『こころ』の読みとりについての話は、本のページに譲るが、1冊の本を、時間をおいて読み返すというのは、変化する自分と不変の自分とを知る、愉しい営みである。
高校2年のとき、気合を入れて『こころ』の感想文を書いたことがある。あのとき、私は「K」と「先生」を対象として、観念だけが先走り、実践が伴わない彼らのありようを批判した。そして、自分と他者を追いつめない「いい加減」「適当」という実践原理があるのではないかと論じた。
そして、大学時代、私は教育実習で訪れた母校で、『こころ』の感想文を受けとり、読み返す機会を得た。そのとき、「K」や「先生」、そして「私」と同じような学究の徒の立場にいた私は、「いい加減」「適当」な高校時代の自分を許容できず、過去の自分を断罪した。そこで私が断罪した過去の自分とは、世間そのものであった。
それから10年ほどの歳月が過ぎ去り、私は「感想文」ではなく、『こころ』そのものを読んでみた。私のこころは、上「先生と私」、中「両親と私」に引き込まれた。人に巻き込まれるのでも、人を拒絶するのでもなく、人と関係をとり、そこから学んでいくことはどのようにして可能か。『こころ』の「私」の「先生」と「両親」についての考察を通して、さまざまな思いが脳裏をかけめぐった。
しかしながら、高校時代に圧倒的な比重を占めていた(教科書でもこの場面が引用されている)下「先生と遺書」は、以前よりずっと小さい存在になっていた。
今回、私は、「K」や「先生」のありようを批判するというより、気の毒なことだと感じた。「K」や「先生」が考えた以上に人間とは弱いものではないのかと、私は今思う。
『こころ』には「向上心のないものは馬鹿だ」という印象に残ることばがある。自己を鍛錬することで、強くなれるという一つの幻想がここにはある。この幻想が、感情(あるいはこころ)というままならないものに敗れ去ったとき、「K」、そして「先生」は自らを裁く結末に至る。
そこで「先生」と「両親」の世界が対置される。
「先生」の思索は根源的である。「先生」の世界は、一見輝かしく見える。しかし、「先生」は読書はするが、知的生産はしない。「先生」は日々の糧を国債の利子によって得ている。一方の「両親」は、世間的な慣習にとらわれている。見てくれ主義であり、浅はかに思える。しかし、病いの中で「私」の学資の工面をしている。こうして限りなき「観念」の世界と、限りなき「実践」の世界に引き裂かれる「私」が浮かび上がってくる。これは西欧の学問と日本社会の現実のはざまを、どちらにも同一化することなく生き抜いた漱石の姿でもあるだろう。
私自身に引きつけて考えるなら、身体を観念の支配下におこうとした大学時代、そして見事に破綻をきたした現在、現実への居直りがいやなら、はざまを生き抜く以外に道はない。「先生」の死、「父」の死のあとの「私」の人生は、「近代」の死、「世間」の死のあとの私たちの歩みとも重なっている。『こころ』は偉大な作品である。
(筆者は、東京経済大学教員。メールで寄稿いただいた。1.3.7)
わたしの「森
敦」 三好 徹
昭和三十四年の四月下旬に初めて森さんに出逢ったときのことも、最後にものいわぬ人となって天へ還って行った森さんに病院の霊安室で接したときのことも、よく覚えている。最初のときはわたしが二十八歳で森さんは四十七、八歳だった。そのときから平成元年七月末に森さんが亡くなられるまでの三十年間、わたしは森さんからいろいろと教えられた。といっても、森さんが芥川賞を受けて多忙になってからは、会って話を聞く機会は減り、電話で話すことが多かった。わたしが自作を贈呈すると必ず電話がかかってきて、五分か十分、ときには一時間近くもあれこれと話をした。他愛のない話になることが多かった。森さんと、小説についてとめどもなく話をしたのは、森さんが山形から上京して近代印刷に勤めていた時代であった。会社にも、下石原のアパートにも何度となく行った。
そういう会話のなかで、森さんはときどき若かったころの話をした。太宰治や檀一雄がよく出てきた。菊池寛も志賀直哉も出た。不思議なことに、もっとも縁の深かった横光利一のことはあまり出なかった。ソウル時代のこともカラフト放浪も奈良時代も聞いた。わたしは、森さんに関しては、かなりの知識をもったつもりでいた。
弥彦でも大山でも下石原でも、つねにかたわらには奥さんの暘さんがついていた。わたしは訪ねるときはいつも一升びんをぶらさげて行き、三人で飲みながら話をした。奥さんが、
「三好さんがきて下さると嬉しいわァ」
といったことがある。奥さんは天女のような人で、笑顔が何ともいえず優雅だった。どうしてですか、と聞くと、
「だってお酒がのめるんですもの」
と微笑しながら、本当においしそうに盃を口もとに運ぶのである。わたしは森さんに聞いたことがある。森さんのような放浪の不良が、どうしてこんな綺麗な人をひっかけることができたんです? まったく不思議としかいいようがない。すると森さんは、
「ひっかけたんじゃありませんよ。ぼくが惚れられたんです」
「まさか、はッはッはッ」
とわたしは笑い、森さんも笑い、奥さんも笑った。
惚れられた、というのは、森さんのてれ(二字に、傍点)だとわたしは思っていた。それ以上は聞かなかった。森さんは作品もそうだが、独特の遠近法をもっていた。わたしは、森流忍法エンキンの術、などといったことがあるが、それがわかっていないと、森さんの作品の根底に横たわるものを理.解するのは難しい。
「月山」が受賞したあと、わたしは古山高麗雄さんにいわれて「季刊藝術」に「森さんのこと」というエッセイを書いた。
「月山」が発表になったあとで、文芸雑誌にのった批評家による
月評を読んで、わたしはかれらがひどい読みちがえをしているの
に呆れてしまった。三人とも「月山」は死に対する心理.を描いた
ものとして理解しているのだ。日本の文学は、死に対する場面の
考え方を書くと成功するんだとか、この主人公はいったい何をし
てくっているのかわからないとか、人間は月山を眺めて美しいと
いいながら死ねるはずはないとか、見当違いなことをいっている。
そうではないのだ。「月山」は、こういう解釈とはまさに逆の、生
を描いた作品だと思う。生を書くにあたって、まともに生ばかり書
いたのでは、その作品は決して倍率一倍以上にはなりえない。
.むしろ一倍以下になるのがふつうで、近くのものは見えても遠く
のものは何も見えなくなり、現実をパノラマ的にとらえることは不
可能になる。
右の文章はその一部だが、三人の批評家の一人の I が、これに怒って「文学界」に反論をのせた。もともとわたしは批評家、ことに純文学のそれを信用していない。たとえば、E
は、.一九八四年に開かれた国際ペン東京大会にふれた文章で、理事会におけるわたしの発言を完全にデッチアゲて書いた。.そして、わたしの抗議を受けると、あれは文学と
して書いたものだ、とひらき直った弁解をした。要するに、文学を免罪符としてあるいは隠れミノとして用いている。I
の反論もその類のものだった。わたしは森さんに、わかっているつもりのわからず屋にものをわからせるのは面倒だけれど、放っておくと認めたことになるから書こうと思うが……といった。森さんはいかにも森さんらしくカラカラと笑って、
「それもいいけれど、読む人が読めば、あなたの書いたている方が正しいとちゃんとわかりますよ」
といった。
森さんのエンキンの術の一つであった。小説家が批評家を相手に論争するのは時間の無駄であり、そんな目前の光景に目を奪われるよりも遠くの山を見ろ、というのである。
わたしが森さんに教えられることが多かった、というのは、じつはこういうところなのだ。森さんの卓絶していたところは、眼光紙背に徹していたが、同時に紙の上つらにも、ちゃんと目くばりの行き届いていた点だった。いいかえれば、森さんは脱俗の人生を過した人だったが、俗なこともまた決して軽蔑していなかった。わたしは直木賞の候補になること三度目で受賞したのだが、二度目のあと、もらえなくても作家としてどうやらやって行けそうだ、というと、森さんは、
「それはいかん。一度はともかく、二度候補になった以上は取らなければいけません」
と断乎たる口調でいった。
「そうですかね」
「そうです。絶対に取りなさい」
と森さんはいった。
芥川賞にしろ直木賞にしろ、受賞すれば作品発表の場が広くなるから有利であることは確かだが、といって、作家として才能が乏しければそれまでのことである。また、運不運ということもある。現に受賞しても消えた人は多いし、受賞しなくても.旺盛な執筆活動をしている人も多い。賞はいわば俗である。それまでわたしは、森さんはそういう俗を問題にしない人だと思っていたから、むしろ驚いたのである。森さんはたちどころにわたしの胸中を見抜いて、
「そりゃ、賞なんかなくたって、あなたはやっていける。しかし、一度だけならこだわることはないが、二度なったからには候補のままで終っちゃいかんのです。大丈夫、あなたなら必ず取れます」
そのあとしばらくして、わたしは別冊文春に書いた作品のゲラを森さんに見てもらった。森さんは例によって大いにほめたのち、聖少年としてあった題名について、
「これは聖少女に変えた方がいい。第一、あなたはこの少年を前景にしてじつは少女を描いている」
「ええ、エンキンの術のつもりです」
「それならやはり聖少女であるべきだし、それにタイトルには女が入った方が売れるものですよ」
その言葉が森さんの口から出たことに、まったく驚いてしまった。
森さんは、門弟三千人というふうなボス的な人ではなかったが、書いたものを読んでもらった人は多い。小島信夫さんが書いているように、森さんは名調教師でもあった。といって、どう走る(書く)かを手とり足とりして教えるわけではなかったが。
森さんを形容するには、文学者というより文人という方がふさわしいと思うが、そのころの森さんは、いわゆる、文学から昇華した次元に身を置いていた、と思う。おそらく意識的にそうしていたに違いない。森さんの志は、つねに望洋にあった。天の一角から地上を見ているようなところがあった。文学の世界の仙人でもあった。そして、ときどき地上に降りてきては、わたしのような若いものとの接触を楽しんでいた。その過程で、わたしはもっとも多く教えを受ける幸運に恵まれたのであった。
わたしが頭の中にある作品についてそれとなく話すと、森さんは、
.「それはおもしろい。大蔵経のどこそこにこういうことが書いてあって……」
などとくわしく説明し、大蔵経に目を通したことのないわたしをくさらせた。
「困りますよ。そういうのは読んでいないんだから」
「いや、読まなくても構わんのです」
と森さんはいうのである。
わたしは森さんが誰かの作品を評したのを聞いたことがない。唯一の例外は小島さんの作品で、あとはドストエフスキーなど外国の作家の作品に関するものばかりだった。しかし、多くの現代作家のものを読んでいたことは確かである。
これは、わたしの独断だが、森さんが胸中ひそかに森さんふうにいえば、
(これは只者(ただもの)ではない)
と認めていたのは、カフカではないか、と思う。森さんの口から、カフカはすばらしいとか大したものだとか、聞いたわけではない。あるいは、カフカの作品について、あれこれ議論したわけではない。何かのときにわたしが「変身」を初めて読んだときのショックを話すと、
「ああ、そうでしょう」
といったことがあっただけである。
以下もわたしの推論だが、あるとき森さんは、自分たちがどんなに頭をしぼって物語を創作しても、中国の古典や仏教の経典や聖書などにすでに書いてあるものだ、という意味のことをいったことがある。
森さんが長い間筆をとろうとしなかったのは、それが一つの理由ではないだろうか。いまだかつて誰もが書いていないものを書くのでなければ書く意味がない、と思っていたのではないだろうか。「意味の変容」はそこから発したものであり、「月山」は自分にきびしかった森さんが決して満足はしないが、かろうじて合格点をつけられるとして古山さんに渡したのではないだろうか。いったん原稿を渡してから返してもらいたがったのは、それを物語るのではないか。また、内心で認めていたのはカフカだけではないかとわたしが独断するのも、カフカの独自性の故なのである。
正直にいって、森さんについて語ることは難しい。これは前記の「森さんのこと」でも書いたが、百枚書けば、もうあと五十枚は必.要だという気になり、それなら最初から二百枚ということで書き上げると、あと百枚は必要だ、という気になるのである。まして短い枚数の「解説」では、どうにもならない。かりに、わたしと森さんとのふれあったことを全部ここに書いたところで、それはごく一面的なものにすぎず、「森敦の人と文学」を解明したものとはなり得ない。素朴な「文は人なり」をもってすれば、この全集をていねいに読破すれば何とかわかることになるが、それさえも決して充分とはいえないだろう。
たいていのことは聞いていたつもりのわたしも、この巻におさめられた一種の回想談には、
(ああ、そうだったのか)
とあらためて謎を解かれたような想いになることが多かった。ことに、「天に訴える手紙」「心残り」の二編は、短いものながら、わたしをつかまえてはなさなかった。
奥さんが亡くなられたとき、わたしは知らなかった。少したってから知って、わたしは森さんに苦情をいった。きのうやきょうのつきあいじゃあるまいし、知らせてくれたっていいじゃないですか、とわたしはいった。少しだが、怒っていた。森さんは困ったように、誰にも知らせなかったのだ、といった。
あの天女を知る数少ない一人として、そんなみずくさい……といいかけて、わたしは絶句した。生き残っている人間のなかで、森さんこそもっとも悲痛な想いをしていることに気がついたのだ。
森さんが亡くなった日、わたしは旅先から帰宅して、家人から富子さんの連絡があったことを聞き、すぐに病院へ駆けつけた。
遺体はまだぬくもりを残していた。わたしがそのぬくもりを掌に感じているときに、警察が解剖するつもりであることを知った。不意の死の場合は、げんみつに法的な処理をしようとすると、そういうことになる。司法記者をした経験のあるわたしは、それを知っていたが、同時にそうされずにすむ道のあることも知っていた。わたしは担当の警官に交渉し、富子さんにも話して、森さんの主治医にきてもらい、どうにか解剖されることを回避した。その間に古山さん、高野悦子さんをはじめ、続々と駆けつけてきた。顔見知りの編集者の一人が近寄ってきて小声で、こんな場所でナンですが、何か書いてほしい、といった。これは文芸雑誌の担当者として、やむを得ないことである。
わたしはことわった。いまはその気になれない、といい、相手も了承した。だが、本当は、その気になれなかったのが唯一の理由ではなかった。
亡くなった先輩や知友の追悼文を書いたことはある。だが、それは確かにつきあいはあったものの、あるいは心の通じあいはあったものの、森さんとの三十年とは比べものにならなかった。森さんに接したものが誰でも感じたように、自分はほかの人よりも森さんの知遇を得ている、と思いこませる魅力を森さんはもっていた。いうにいわれぬあたたかみがあった。不思議なオーラを発する人であった。
わたしもそのオーラを浴びた一人だったが、わたしのひそかなる自負は、森さんが世間的に無名だったころから接していたことであり、小島さんには及ばないとしても、わたしだけが知る森敦の一面を綴るには、それなりの時間が必要だと思ったのだ。NHKのたっての依頼で、小島さんとラジオで三十分間の対談をしたが、それは森さんをNHKにひっぱり出した担当者の熱意に負けたせいなのだ。
この巻の解説を引き受けたのは、それなりの時間が経過したように思ったからである。もとより、この文章はいわゆる解説ではない。森さんの小説は、文体に独特のリズムがあって、そのリズムになじむまでは、人によってはいくらか時間がかかるかもしれない。だが、いったんなじんでしまうと、逆にそのリズムに惹きこまれてしまう。この巻におさめられたのは、小説ではなくてエッセイであるが、エッセイの文体は、小説よりもやさしいので、すぐに溶けこめる。短いエッセイは、読むがわにとってその場限りのものだから、森さんはそこを心得ていて、誰にも親しめるように書いたように思える。だからといって書きとばしたものではなく、.どんな短いものでも、森敦その人を忠実にあらわしていることはいうまでもない。むしろ、森羅万象を奔放に語ることによって、主題をしぼる小説よりも、森さんの人柄を多角的に反映するものになっている。他の人は知らないが、少なくともわたしにはそう思える。
いまごろ森さんはどこでどうしているだろう。天の一角にあって、奥さんや太宰や檀らと雑談をかわしながらふと地上を見て、うごめいているわたしたちに眼鏡の奥の、優しく、時に鋭い目を向けて、
「やァ、やっているね。いいものを書いて下さいね。大丈夫、あなたは書ける人だ」
といわんばかりに微笑んでいるのではないだろうか。わたしに関する限り、森さんの怒ったのを見たことがない。この文章が森さんの真価を伝え得ないとしても、森さんは笑って赦して下さるだろう。
森さんが現世を逝ったのは確かだとしても、わたしのなかでは森さんは亡くなっていない。森さん、さようなら、ともいいたくない。森さんは、会って別れるときも電話を切るときも「じゃね」といった。この全集のどのページをとっても、その声がわたしには聞こえてくる。
(『森敦全集』第八巻「エッセイ 2」筑摩書房)
─エッセイ集『旅の夢 異国の空』(蒼樹社刊・1999)の巻頭より。─
(筆者は、日本ペンクラブ副会長、作家、直木賞受賞。表裏なき遒勁の魅力に満ちた気迫・文章・文藝の人として知られている。思いあふれて、いっそもどかしそうな筆致に森敦への熱い気持ちが脈打っている。森敦に出逢う、この一文がいい機縁になるようにと、三好氏とともに願いたい。「チェ・ゲバラ」を書かれた著書にひときわ感銘をうけたことを言い添えておく。)
思い出すこと ─井上靖と大岡昇平─
三好 徹
思い出は多い、が、それは何もわたしだけではないだろう。井上(靖)さんは、井上さんに接した人すべてにそれぞれの思い出を残した人だった。それも井上さんとその人だけのものを、である。だから、それは胸の中にしまっておいた方がいいのだが、あえて書きとめておきたいことがある。
あれは、さまざまな曲折があったあとに(国際ペン)東京大会のメインテーマが決定した数日後だった。わたしは大会の事務的なことで夜七時すぎにお宅へ伺った。一時間ほどで用件が終って辞去しようとしたときだった。電話があって井上さんは応接間を出た。
数分して戻ってきた井上さんの顔はなぜか紅潮していた。浴びるように飲んでも何ひとつ変らない井上さんが、どうしてにわかに酔ったようになったのか、わたしには見当がつかなかった。すると井上さんは、
「いまの電話は大岡昇平君からでした」
と自分の方からいった。
わたしは大岡さんとは文壇碁会で碁を打ったり、ご本人の希望で推理小説の文庫本の解説を書いたり、わたしの作品に関したことで手紙を.頂いたりしたことがあり、それはそれで敬愛する作家だったが、『蒼き狼』をめぐって井上さんとかなり激しい論争をしたことも知っていた。
文壇ゴルフの消息通から聞いた話では、同じ組にしないように主催者が気をつかっているということだった。
驚いているわたしに井上さんは、大岡さんと話をしたのは何年ぶりになるかわからないことや、電話の内容が、「核状況下の文学」というテーマが日本で開かれる国際ペン大会にもっともふさわしいものである、と大岡さんがいったこと、大会の成功を願っていることなど、じつに嬉しそうに語り、
「あなたがいてくれたのは本当に偶然だけれど、よかったですねェ」
とブランデーのお湯わりをうまそうに口に運んだ。そしてわたしが辞去する前にも、
「今夜の電話のことは、ほかの人は誰も知らない、あなたとわたしだけの知っていることとして、どうか記憶しておいて下さい」
「もちろんです。忘れようたって忘れられるものじゃありません」
わたしはこのことを誰にも話さなかった。二人だけが知っていることといわれたせいもあるが、その一方で、犬猿の仲のようにいわれた偉大な二人の作家が東京大会の前に心を通じ合っていた事実を、いっかは明らかにしておきたいとも思っていた。
その侍がとうとうきてしまった。切ないとも悲しいとも、言いいようがないことである。
(「日本ペンクラブ会報」一九九一年三月十五日)
─エッセイ集『旅の夢 異国の空』創樹社刊 巻頭より─
(筆者は、直木賞作家、日本ペンクラブ副会長。これを読んだときは、涙ぐんでしまった。これは、編輯者がご好意に甘えて強いて頂戴した文学史的な貴重な挿話である。)
短歌雑感 抄
大塚 布見子
*新機軸の危険性
尾山篤二郎が斎藤茂古の歌集「白桃」の批評を試みたあと、
「歌といふものは妙な文学である。何か新機軸を出さうとか、今度は斯う云ふ風にやらうとか、何かしら一つの意図をもつてかかると、結果は非常に卑賤なものになる。云々」
とかき、斎藤茂吉のある種の歌の失敗も、時に何かに興味をもちすぎ、何らかの、意図をもってかかったばあいではないか、という意味のことを言っている。つまり、新しさを出そうと意識して、気取ったり、観念的になることの危険性を示唆したものであろう。
最近は一首のなかに、ある意味を持たせようと意図したり、そこに文学的な何かを出そうと試みる傾向があるようだけれども、たいてい、言葉が多くごたごたして、歌とは遠いものになっていることが多い。すっきりと意が通らないのである。
自然詠にしても、そこに心象を取り入れなければ平凡に堕するという歌人もいるようだけれども、心象を入れたために、かえって歌が卑小になっているばあいが多い。
石走る垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも
この志貴皇子(しきのみこ)の歌は、上句を高音で一気に詠み下し、そこに滝水の飛沫やその速さをみせ、結句を極めて素直に詠嘆し、ゆるやかな低音で押えている。おそらく、志貴皇子は「春になりにけるかも」がしぜんに口を衝いて出たであろうし、わたしたちもそこをよむとき、ほっとして、滝水の前に立って春の訪れをよろこんでいる光景を眼に浮べるのである。
それは、この結句が「間(ま)」になっているからである。現代のある歌人は、ここで別の言葉を挿入しなければ凡になるとして、何らかの意味をもたせるところかも知れない。が、ここに別の言葉を入れれば、上句の張りを減殺するだけでなく、読者はそれで疲れをおぼえるはずである。しかも、この一首が、いまなお、清新な息吹きをもっているのは、志貴皇子がひねったり、気取ったりせず、いかにも素直に対象をとらえ、写しているからであろう。
現代歌人も、こういう自然詠を、もう一度見直すべき時ではないかと思う。季節の移り変りは、万葉の昔から日々新たなるものがあるはずで、それを鋭敏にキャッチし、感動するのは、すくなくとも歌人のひとつの特権ではないかと思う。が、機械文明の中で、ちくじ感覚も詩魂も濁り薄れているのは、現代歌人の歌がだんだん観念化し、病的なほど難解になりつつあるのでも判るようである。
吉野秀雄は、『短歌とは何か』の歌論集の中で、
雲を出し月の右弦の薄くあり吾にはすでに感傷はなし
など、いくつかの歌をあげたあと、「これらの歌の欠陥として、小主観による不自然さが目立つが、頭の中のはからひや、小手先のひねくりこねくりがいかにはかなくもまたくだらぬものであるか、その反対に、まともに正直に、素朴に端的に、しんみりと謙虚に、観て感じてそれをそのままわかりやすい言葉に言ひ現はすことがいかに高く深く尊いか。云々」
とかいている。これはそのまま、志貴皇子の歌にも通じているようで、味読すべき言葉であろうと思う。
一「サキクサ」昭和五十六年三月号一
*難解歌を推す独断
梳けばかく光まつはる髪にして厭離の方になづさひにける 河野
愛子
夭死せし母のほほえみ空にみちわれに尾花の髪白みそむ 馬場あき子
東北の神は刀切(なたきり)蕗の葉の夜のかたはらにわれもあるべし
山中智恵子
以上三首は、岩田正氏が歌誌「かりん」に挙げた中から抜き出した歌で、氏はこれらの歌を、女性としての情念と知性を、ふかく味わえる作品であり、現代短歌のひとつの極北を指し示している歌であろうと絶讃している。
この三首とも格別難解な歌ではないが、これらの三人は現代歌壇でも難解な歌詠みとして通っている。短歌総合誌に載った三人の歌をみても、しばしばその難解さに辟易する。しかし、岩田氏が推奨する歌人はほとんどこういう難解歌を詠む人達のようである。
いまこの三首に私評を加える前に、なぜ岩田氏がこういう歌を推奨するかを考えてみたい。まず氏の文章をここに抜きがきしてみよう。
「──折口信夫が提起した女流歌人に特有の諸性格、たとえば山川登美子の歌にポーズを見、与謝野晶子の歌に観念を見、そして「出まかせ調」の歌の、とどのつまりに「即魂」を見た、それらの諸要素は、まぎれもなく現代女流歌人の、いわば究極的・体質的性格ともいえるのではなかろうか。内面化の道において、魂をうたうことに増して、抒情の深刻さと美しさを約束するモメントは、他にないのである」
こうかいて、岩田氏は右の歌をあげて讃辞を送っているのであるが、実に頭に入りにくい文章である。もっと判りやすくかけないものかと思う。
谷崎潤一郎はその「文章読本」で、「彼は意識的に反抗した」とかかずに、「彼はわざと反抗した」でいいではないかと言っているが、岩田氏のこの文章をみると、ずいぶん気張っているし、気取りが目につく。そしてこういった文章の流れが、そのまま氏の推奨する歌にはあるようである。
そこで一首目の河野愛子氏の歌をみてみると、「梳けばかく光まつはる髪にして」の上句は、やや観念から発した詠みかただが、これはこれでいいとして、下句の「厭離の方になづさひにける」がキザっぽくかんじられる。突然気取った心理の世界にはいっているので、素直に受けとれない。何か隠花植物でも見るような印象を受けるのである。つまり、一首としての自然の流れがなく、頭で作っている卑小さをこの歌にかんじる。
次に馬場あき子氏の歌であるが、この上句「夭死せし母のほほえみ空にみち──」というのは、普通ではあり得ない大仰な表現である。だから、もし母の微笑が空にみちたことを詠むのであれば、いつ、どうし微笑がみちたか、それを表現してイメージを呼びおこすべきではないか。いきなり微笑が空にみちたと言われても、納得がいかないし、それに下句の髪が白くなったと言うのも、すぐには頷けないのである。こういう飛躍が許されるならば、ある意味では歌は作りやすい。が、もっと自然に、誰にも頷けるごとく作ろうとするところに、歌のむつかしさがあるはずだと思う。
山中智恵子氏の歌でも、「夜のかたはら」とは、何かと考えはじめると、やはりこの一首を正確には把握できない。こういう歌を、現代短歌の極北を示す歌として推奨するところに、岩田氏の独断からくる誤謬があるのではないか。そう私は思う。
一「サキクサ」昭和五十五年三月号一
*初心に引き戻す作業
藍はわが想ひの潮さしのぼる月中の藍とふべくもなし
こういう歌はサロン化でもして互いに狙っている意図をききただし、そういう予備知識をもってからでないと理解しがたい歌である。どこがどう繋がっていくのか、一読しただけでは頭に入って来ない。「藍はわが想ひの潮」という初句からして、実にあいまいな観念志向である。こういうふうに、作者の一つの思念を自分勝手に吐き出した字句の羅列を、短歌と銘打たれては叶わないと思う。
しかも、わたしがおどろいたのは、この作品を伊藤一彦氏は「短歌研究」誌上で評して、「一読して感動し、二読三読してさらに感動の広がる作である」と、最大限の賞讃を送っていることである。こうなると、わたしなどはもう匙を投げざるを得ない。
この歌の作者安永蕗子氏はかつて、塚本邦雄氏との対談で「短歌は謎解きのおもしろさもあっていい」と言い、そこに文学があるという意味のことを言っているので、この一首にも謎解きの面白さを持って来たのかも知れないけれども、短歌がクイズになっては、これはもう短歌とは別種のもので、極く少数の人だけの愛玩の異質のものと言わざるを得ないのである。
同じ号に鹿児島寿蔵氏の左の如き一首がある。
ひとくみのまろきひひなにひたすらに手染の紙を貼りかさねゆく
一読してわかる歌である。一組のまるい雛に、手染の紙をひたすらに貼り重ねている光景が鮮明に浮んでくる。韻を含んだ言葉の斡旋もたしかだし、結句の重点もきまっている。調べもまろやかで、一読、人のもつひたむきな愛とか悲しさのようなものが、しみじみと伝わってくる歌である。
前者の歌と比べて、品格がちがうというかんじだ。これは流派が違うとか何とかいう以前の問題で、短歌の恐ろしさを見せつけられる。
前者のように、何か意図をもったり、気取ったりすると、歌は重点も決まらずに、ただ言葉を並べただけの品のないものになるようである。
短歌は三十一文字という極めて短い詩形だから、一歩まちがうと、たちまち迷路に入ってしまう。自分だけで閉じこもって歌をつくる恐ろしさがここにある。無論、歌作は孤独な作業にちがいないが、それだけではひとりよがりになり、知らないうちに、迷路に入り込む。歌会とか勉強会の重要性もここにあるし、つねに『万葉集』やその他の名歌をひもとくことも、短歌の本道を見失わないためには非常に大切なことなのである。
心理学の実験では、目をとじて歩くと、決してまっすぐには歩けないものだという。それとおなじく、ひとりで歌作していると、いつかマンネリ化したり、嫌気がさしたりし、ともすれば、ひとりよがりの難解な歌を詠みはじめる傾向がある。いってみれば、短歌はつねに初心に引き戻す作業も必要なわけで、それが短詩形のもつ一つの宿命だと思う。
─サキクサ」昭和五十六年十二月号一
(筆者は、歌人。「サキクサ」主宰。湖の本の読者でも。新刊の『大塚布見子選集』第七巻より巻頭の三編を戴いた。書かれた年次の古いことを百も承知で、この大塚言及の意義のいまなおいささかも古びていないのを嘆く思いが、編輯者にあった。およそポレミーク(論争的)ということで、今日大塚さんほどきちっとモノの言える人は歌壇に一人としていないのでは。とうの昔から歌壇のためには、嚢中の、黄金!の針なのである。少なくもこの針と正面から討ちあって火花を散らしてみる論者が出てこないのは淋しい。大塚さんの論にもスキはいろいろあろうはずだのに、である。正論の貫かれている強さか、向う意気か。この「e-文庫・湖」のなかで、どうか、短歌を愛する人よ、議論を闘わせて欲しい。)
*『茂吉歳時記』より*
杜 鵑 高橋 光義
六月の盆地は色鮮やかな青磁の器に似ている。人々はその緑の器の中に息づき、鳥や花は溢れる緑のエーテルの中に、とりどりの生をいとなむ。とりわけ、この山形盆地はその緑が豊かな澄んだ色合いを湛えているようだ。最上川とそれに沿う青田の果てしない広がりを、奥羽山脈、出羽山地の限りない、しっとりとした芽吹が丸くとり囲む。この緑したたる青磁に一つのアクセントをおっとりとつけているのが、斑雪の月山であろう。その斑雪を見ながら、雨に濡れ、蓑を着けて田植をした少年の頃が懐かしく想いだされるが、少年の感傷をそそったのはこの杜鵑ではなく、郭公鳥であった。気短な、そして朴訥な父から、この鳥にまつわる物語を、畦草の上に身体を投げだしながら聞いたのも、遠い過去のことである。
杜鵑はもともと個体数が郭公鳥に比して少ないのであるが、特にこの山形盆地に多くは生息しない。一応低山性の鳥と理解してよいと想うが、山好きの私がかつて経験したのは、白頭翁の花が衰え散り始めた坊平高原で、夕方緑の静寂の中にひそむが如く啼く一つ声であった。しかし、青山に透明な木霊を作ってしきりに啼く声は言いようもない。例えば月山をはるか北に羽黒山に下っていくと修験道で栄えた手向部落がある。この小さな中学校に教鞭をとっていた四年間、授業の最中、六月の校舎すれすれに飛ぶ切実な声をしきりに聞いた。杜鵑であった。遠い古典の鳥が私にまざまざと蘇った最初の一時であった。
杜鵑には異名が多い。元来、鳥の名は多くその鳴き声に由来すると言われるが、「ホトトギス、オトタカチョウ」は明らかに鳴き声によるものであろう。他に字面では、時鳥、杜鵑・不如帰・杜魂・無常鳥・黄昏鳥・夕影鳥・菖蒲鳥等々があり、さらに、初時鳥・山時鳥などがある。黄昏鳥・夕影鳥は特に美しい名であるが、珍しく夜も啼く習性をも暗示して面白く、無常鳥は、その声の切実悲痛さを、不如帰は直線的飛翔の不回帰性的イメージを示して寂蓼感を深める。反面菖蒲鳥は又優雅な名であるが、菖蒲の花群の上を啼き過ぎる杜鵑はすでに一幅の絵画であろう。このようにとりどりの異名そのものを考えただけで楽しいのであるが、このほかにもまだまだこの鳥の異名があることを念うとき杜鵑と日本人の結びつきのどうにもならぬ深さを思わないわけにはいかない。
万葉集には杜鵑の歌が多い。恐らく鳥の中で最も多く詠まれているのがこの杜鵑であろう。しかもこの杜鵑愛好は平安・鎌倉期の歌人にも受けつがれ、日本人の詩的伝統の一中核を形成するのであるが、これは日本の気候の湿潤さと日本人の感傷的性癖に大きくかかわるのを否定できまい。
古に恋ふらむ鳥は霍公(ほととぎす)けだしや鳴きし吾が念(も)へる如(ごと) 額田王
ほととぎすいたくな鳴きそ独りゐて寝(い)の寝らえぬに聞けば苦しも 大伴坂上郎女
前の歌の大意は「古へに恋ふらむ鳥かと歌をいただきましたが、其の鳥はほととぎすでありませう。恐らくその鳥は鳴いたことでありませう。吾が古へを恋ふるごとくに。(万葉集私注)」で明らかであり、後の歌は、杜鵑の声の悲しさと、ひとり眠れぬ憂いを結びつけたもので、もう、この古代に、杜鵑は悲愴の鳥と一様に認識されていることが分る。
さて、中国においてこの鳥がどのように詩歌にあらわれているか、浅学の私は明快に位置づけられないが、枕草子の中には、さすがに「あはれなる」鳥として登場L、「夜深くうち出でたる声の、らうらうじう愛敬づきたる、いみじう心あくがれ、せむ方なし。六月になりぬれば、音もせずなりぬる、すべていふもおろかなり。」と最大級の賛辞を呈している。あの勝気な、自分の感覚を至上とする清少納言もこの鳥には批評の矛をふり回す手を忘れ、茫然自失しているのである。なお引用文中の六月は陰暦六月であり、今の七月中下旬頃と、ほぼ理解してよい。.
(斎藤)茂吉の鳥の歌は、すべて七六〇首の多きに及んでいる。その中で特に好んだものの一つにやはりこの杜鵑をあげることができよう。歌数は三十九首ほど、それぞれに佳品であり、茂吉の感動の深さが感じとられる。
目のまへの山には深き霧ながら心こほしき朝ほととぎす たかはら
ひとりして比叡の山をわれ歩みあかつき闇に啼くほととぎす 白桃
あきらけき月の光の染(し)むときにわが家ちかく啼くほととぎす 霜
「たかはら」の歌は月山登山の折の作で、あくまで幽寂深遠の趣きがある。第三句は、長塚節の「白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水汲みにけり」を連想させるが、清澄さにおいても通うものがある。「白桃」の歌は未明に啼く声に感興をよびおこしている。茂吉の杜鵑の歌は、とりわけ夜と暁に多く結晶しているが、これは感覚的には夜啼く鳥の神秘性、静寂性が心を惹きつけたのであろうか。況んや、ここは霊場比叡山である。次の
歌は月明に啼く杜鵑で、苛酷な戦争の泥沼化した中でひとり聞くこの声は、茂吉をこよなく慰めたのであろう。
みすずかる信濃のくにの山がひに声さやさやし飛ぶほととぎす ともしび
あかり消してひとり寝しかばあな朗ら浜原の山に鳴くほととぎす 白桃
癒えかかる吾にむかひてやすらかに昼もいねよと啼くほととぎす 白き山
茂吉の歌集「赤光」は日本的伝統類型からの超克離反をあえて試みた歌集とも言,えよう。おのずから、青壮年期には杜鵑の歌も稀であるがやがてその数を増し、すべての羈絆から自らを解き放ち、自由自在の歌境へと進展していく。それだけに、杜鵑の声を「悲痛切実」の一色に塗りつぶすことはしない。あるがままに茂吉は感動し、詠嘆する。
射干(ひあふぎ)の花のふふまむ頃となり山ほととぎすいまだ聞こえず 寒雲
月かげのきよきはざまと思へども山ほととぎすはやも来啼かず 小園
啼かぬ声に耳を傾け見ぬ鳥に心を動かすのは、それだけ愛着が大きいのである。鳴かぬからこそ逆にその存在が強く意識されるのである。茂吉における杜鵑はそのように実在感の大きい鳥であった。喜怒哀楽のそれぞれの坩堝におのずからの色調でさまざまに、リアルに結晶した作品、それが茂吉の杜鵑の歌であった。
――歌誌「山麓」昭和五十五年六月号所載――
(筆者は歌人、文芸批評家。ニホンペンクラブ会員。湖の本の読者。山形県在住。斎藤茂吉への傾倒と親炙は深く、『茂吉歳時記』は代表作の一つで、斎藤茂吉文学賞を受けておられる。0.11.22寄稿)
*エッセイ通信より*
オーリガの忍耐 高田 欣一
いつだったか、日本橋の三越で奥村土牛の展覧会があったとき、縦横二メートルもある櫻の絵があって、一枚一枚の、その丹念に描かれた櫻の花びらを眺めながら、藝術とは、結局のところ忍耐だな、と思ったことがある。
別に長い小説や大きな絵があっても、それを忍耐だとは思わない。対象はきわめて小さい、しかし、それをなんとか自分の心に添うように表現しようと長くやっている仕事に、私は忍耐としかいいようもないものを感じる。
エッセイ通信を続けさせていただいているあいだに、なんで四頁という限定で書いているのか、というお訊ねと、どうして小説を書かないのか、という質問を、何人かの方からいただいた。長さについていえば、書きやすいから書いているという以外にないが、別に今の文章をこれ以上長く書こうとも思わない。文章は短ければ短いほどいい。一行で書く腕がないから、仕方なく何千文字かを費やしていると思っている。つぎの質問の答えも同じだろう。私は一輪の花を一心に全力を挙げて書こうとする行為にうたれる。自分もそうありたいと思っている。小説とか評論とかいうジャンルを意識したことはない。心に思っていることをなるべくあるがままに書こうとしている。それが書けないから、ときどき溜息をもらしているにすぎない。
私が、これはいい文章だな、と思う文章をひとつ挙げろと言われれば、ためらうことなく、小林秀雄の『花見』という文章を挙げる。「新潮」の昭和三十九年七月号に載った。文春文庫の『考えるヒント』に収められている。
話はいたって単純である。小林氏が日本のいろいろの場所に出かけていって講演をするときに出逢う櫻の話であるが、話のとっかかりの部分には、山形県の酒田の宿で出会った中川一政氏の伊達政宗の漢詩と源実朝、源頼政の和歌を並べて書いた書の額を見た話がつかわれている。政宗の一生と、だれでも知っている実朝の変死と、頼政の宇治の平等院での自死が語られる。実朝が優れた歌人であることは知られているが、頼政の歌はそれほど知られていない。話は政宗の生涯から信州の高遠の血染めの櫻の話になり、一転して弘前の夜櫻の話になる。
東京の櫻は、一年でいちばんいそがしい年度替りの三月の終わりから四月の初めにかけてあっさりと終わるが、弘前の櫻は五月のゴールデンウィークが盛りである。弘前にかぎらず、青森でも八戸でも、そこで冬のあいだ暮らすのは、寒くていやであるが、この休日の時期に、居ながらに櫻を見られることは、その地の人のしあわせである。
小林氏の櫻は、開け放された大広間から見える満開の夜櫻の光景で終わる。「狐に化かされたようだ」という同行の女流作家のつぶやきが紹介されたあとで、つぎのような小林氏の言葉が添えられる。
「なるほど、これはかなり正確な表現に違ひない。もし、こんな花を見る機は、私にはもう二度とめぐつて来ないのが、先ず確実な事ならば。私は、そんな事を思つた。何かさういふ気味合の歌を、頼政も詠んでゐたやうな気がする。この年頃になると、花を見て、花に見られてゐる感が深い、確か、そんな意味の歌であつたと思ふが、思ひ出せない。花やかへりて我を見るらん─何処で、何で読んだか思ひ出せない」
晩年の小林秀雄氏に私淑して、すすんで秘書的な役割もして、『小林秀雄の思ひ出』というすぐれた本を書いた文芸春秋社の元編集者郡司勝義氏の文章「『本居宣長』周游」(「文学界」平成八年四月号)によれば、小林氏はこの歌の思い出せない上の句を、じつは知っていたという。全歌は次の通りである。
いりかたになりにけるこそ惜しけれど花やかへりて我を見るらん
説明するまでもなく、「いりかた」は夕暮れと晩年をかけている。小林秀雄ときに六十二歳、『本居宣長』の執筆の始まる前年である。その十三年後完成した『本居宣長』の表紙見返しには、奥村土牛の櫻の絵が使われている。
「いりかたになりにけるこそ」という感懐は、別のものにもある。美しいものを若い頃は、欲望をもって眺める。欲望が見る目を邪魔する。相手が自分を見る目は気付かないのである。見たら見返されている。こういうことは歳をとらないとわからない。欲望がなくなってはじめて、あれはそういうことだったのか、といまさらのように気付くことがある。いろいろのことがあった人は、ここで色ざんげが始まるのであるが、さしたることもなかった私には、語るべき色ざんげなどあろうはずがない。源頼政という武人がどういう人であったか、それこそ私は平等院の自害のことしか知らないのであるが、少なくとも小林氏の挙げている歌は、花を詠んで人を表現した歌であるようにも聞こえる。頼政の人生が透けて見えるようである。
藝術は忍耐だという奥村土牛の絵を前にした感想から、妙なところに脱線したが、実は私が書きたいのは『三人姉妹』のことである。若い頃私は、藝術は断念だと考えていた。何物かを断念したところから藝術は始まる。『三四郎』に心惹かれたのは、そこに青春の断念が表現されていたからである。『かもめ』に惹かれたのもそのせいだろう。「断念」から「忍耐」へという道筋は、チェーホフが『かもめ』から『ワーニャ伯父さん』を経て『三人姉妹』へと、書き継いでいった道筋の中によく見える。『細雪』を読み返したのも、それが姉妹の物語だったからだ。『細雪』の映画は一度目は見ていないし、二度目はもう忘れたが、三度目の市川崑はよく覚えている。幸子役の佐久間良子と妙子役の古手川祐子が、尼崎の臨海工業地帯の海岸を歩きながら、「いろいろあったけど、何も変らへんなぁ」と語り合う場面に、市川崑がこの映画の舞台となった昭和十三年と昭和六十年代までの時代を鋭く批評させている目を感じながら、同時に彼がここで『三人姉妹』の幕切れを意識しているのではないかという気もした。こと映画とか演劇にかかわったことのある人なら、チェーホフを意識しないはずはないだろう。
いうまでもなく『細雪』の最後は、『三人姉妹』の最後とは違っている。劇の三人姉妹は、ひとりは不倫の恋人との別れを経験した直後である。彼女は夫を愛していないし、心の中は別れた男のことでいっぱいである。もう一人は、結婚して別の町にともに旅立つはずだった男を、恋敵との決闘で失っている。『細雪』の姉妹たちは小説では、ひとりは愛する男を病で失い、ふたたび得た恋人の子供は死児として生まれてくるのだが、もうひとりは縁を得て、東京に嫁してゆく汽車に乗り込む。小説はそこで終わっている。
映画の妙子は妊娠中で、ゆったりした手編みのカーディガンに身を包んで、愛する人の子を身ごもった喜びを全身で表現している。彼女を訪れる幸子の、このときだけはわざと目立たぬ黒いコートをまとった和服姿は、その背景となる臨海工業地帯の陰鬱な景色と、よどんだ水とふしぎに調和して、映画監督が谷崎潤一郎の絢爛豪華な世界に逆らって、懸命に自己表現している気配が感じられる。それがチェーホフを連想させるのは、もともとチェーホフの劇の幕切れが、マーシャの失意とイリーナの絶望より、彼女たちを従えた長女オーリガの忍耐のほうにウエイトがかかっていると、思えるせいだろう。
戯曲をト書きの部分まで注意して読むと、彼女たちの嘆きの長ぜりふのあいだには、妻をとりもどしたマーシャの夫のうきうきした姿と、かつてはモスクワ大学の教授を目指した彼女たちの兄弟アンドレイが、子供を乗せた乳母車を押して舞台を横切る場面が書き込まれている。彼はいま市議会に籍を置き、妻はそこの上司と密かな関係を続けている。芝居の最後のオーリガの「あれ(楽隊の音)を聞いていると、もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。それがわかったら、それがわかったらね」というせりふは、のんだくれの老軍医チェブトイキン、舞台でいつも、自分たちはもともといないのかもしれないし、いるとおもっているのは錯覚かもしれないと繰り返し言っている男の、「おんなじことさ、おんなじことさ」という、つぶやきのような言葉とだぶって終わっている。
戯曲は何度も読み込んで行くと、突然紙の上に人物が立ち上がり、せりふを喋り、演技をして見せてくれることがある。『三人姉妹』は、そういう読み方をすると、まるで意味の違った作品になる。この劇は、ほとんどなんの事件も起きぬオーリガの劇なのではないかと思えるほど、舞台の上を歩き回る長女オーリガの印象が強くなるのである。
女優がマーシャを演じるにはどうしたらいいか、イリーナを演じるにはどうしたらいいか、演出家は指針を与えることはできる。しかし、オーリガを演じるにはどうしたらいいか、私が演出家だったら、ただ一言こういうだろう。「オーリガは長女です」と。
プローゾロフ家の三人姉妹の置かれている状況を、もう一度おさらいしてみよう。母親は姉妹たちが顔も忘れかけているほど遠い昔、たぶん十数年前に亡くなっている。父親の旅団長が世を去ったのは、この劇の始まるちょうど一年前である。母親が死んでから十数年のあいだ、オーリガがこの家の中で果たしてきた役割を考えてみればいい。こんな場合、長女は心理的には父親に対しては身の回りの世話をする妻の役目をし、弟や妹たちには監督者としての母親の役目をする。十代の終わりからこうした役割を果たす女性は、私たちの周囲にも容易に見つけられる。父親の死は悲しい出来事であるが、父親の世話から解放されたオーリガにとっては、結婚の機会がめぐって来たことになる。彼女はもう二十八歳になり、婚期を逸しかけている。第一幕でオーリガが語る結婚願望は、彼女が舞台の上ではこの一度しか語らない言葉であり、その後に起きるアンドレイの結婚、マーシャの恋、トウーゼンバフとソリョーヌイのイリーナをめぐる恋のさや当てなどから、観客には忘れ去られるが、彼女の中にはずっと生き続けている気持ちであることはまちがいない。この幕の中で語られる生まれ故郷のモスクワに帰るという姉妹たちの夢も、アンドレイの土地の娘との結婚により遠ざかり、彼の市議会への就職によってほとんど消えてなくなっている。「モスクワ」という夢と「結婚」の夢は姉妹たちの共通の夢であるが、それが無残に消えてゆくのが、この劇の主題である。
オーリガにとっては、この夢の消失はもうすこし複雑である。なぜヴェルシーニン中佐は、オーリガではなく、夫のいるマーシャとダブル不倫をするのか、トウーゼンバフはどうして、歳のそう違わないオーリガではなく、二十歳のイリーナを選ぶのか。
この劇の中で登場人物たちを過不足なく公平に評価しているのは、オーリガである。なぜ男たちは彼女を素通りしてゆくのか、彼女が不審に思わないわけはない。しかし彼女はそれを語らない。なぜなら彼女は長女だからである。第三幕の終わりでイリーナは姉に自分がトウーゼンバフを選んだことを初めて告白する。そのときのオーリガの反応は、まったく表現されていない。しかし、読者は、俳優は、観客はイリーナのせりふの中に、オーリガの自分を殺した励ましのしぐさを読むべきである。戯曲を読むとはそういうことである。
第二幕で、チェブトイキンが「バルザック、ベルジーチェフにて結婚」という新聞記事をつぶやくのを、イリーナが無意識に繰り返す部分の解釈も同じことが言える。ここで彼女は、自分がモスクワ行きの夢を棄てて田舎町で結婚することになるかも知れないという自分の運命を予感している、というのは一面的な解釈である。ここではイリーナの恋はイリーナ自身にも意識されていない。彼女は未婚の姉のことを同時に考えながら、チェブトイキンの言葉を繰り返す。
こう読んで行かないと、最後のオーリガがふたりの妹を抱きしめながら、「生きて行かなければ」「生きて行きましょうよ」というせりふの強さも生きて来ないのである。チェーホフがなぜ、『ワーニャ伯父さん』の最後で、失意のワーニャを励ますために、ソーニャが語るせりふとほぼ同じせりふを、ここで再びオーリガに語らせたか、なぜわざわざ三人の姉妹を登場させる劇を書いたかも、意味をなさないのである。彼はここで絶望の言葉も、失意も、断念の言葉もない、本当の忍耐を書きたかったのである。失意も断念も心のうちにしまいこんだ忍耐だけが、本当の忍耐に価するのだ。
埼玉県から佐倉に越してきたころ、私は文学からも日本の文学者からも離れたところにいて、しきりに日本の文学について考えていた。文学を忘れたわけではないが、といって今しなければならないとも考えていなかったのである。とにかくすることが多すぎ、片付けることが多すぎたのである。その頃考えていたのは、日本の文学は私たちが無意識に背負っている家という重圧を充分に表現したものはないし、そういうものに真っ向からむかいあっていないな、ということだった。そのかぎりでは日本の近代文学、なかんずく小説は末っ子の反逆に過ぎない、と思っていたのである。
奥村土牛の絵を見て、忍耐ということを考えたのも、『花見』を読んだのもちょうどその頃だった。
ある私信 高田 欣一
丸山健二氏が自伝風の長い文章『生者へ』の中で、小説とエッセイの違いをこう書いています。「かつても、そして今も、エッセイなのか小説なのか区別できないような作品が氾濫している。エッセイと小説の境界線が試行錯誤の結果としてぼやけ、滲んできたというのではなく、易きに流れた付けが回ってきただけなのであろう。別な言い方をすれば、これは書き手がその程度の才能しか持ち合わせていなかったという何よりの証拠でもある」
「エッセイは長いブランクがあっても、復帰するのにそう苦労することはない。だが、小説となるとそうはゆかない。しばらくのあいだ小説を書かないでいると、かつてのような調子では書き進められない。歯を食いしばって書いても、覚悟以上の気合を入れて書かないと、それまでの実力を回復する作品を完成させるのは困難である。書かなかったあいだに本人の想像よりはるかに実力が下回っているのである」
「ところが、眼力というのは一度養われると滅多なことでは衰えない。高い眼力が失われていないというその自信が創作者にとんでもない勘違いを引き起こさせてしまう。小説を書く腕も依然として眼力と同じレベルを保っているという錯覚にとらわれる。いざ、これまでのような小説を書こうとしてペンを握っても、真剣に小説と取り組んでいた頃のようにはとても書けないことを思い知らされ、愕然とするばかりである」
これは本当のことだと思います。長いこと、私はエッセイは書けるが、小説を書く才能はないな、と思っていました。しかし、それは間違いなので、気の利いたエッセイは努力しなくても書けるが、小説は努力しなければ書けない。ということは、やはり本当のエッセイを書こうとすれば、小説を書くような努力をしなければいけないということだと思います。
小説がつまらない、読まれないと言われています。じじつ日本の小説はつまらなくなった。それは、丸山健二のいうように、小説を努力して書かなくなったせいなのでしょう。別の言い方をすれば、集中力を持った優秀な才能が小説を書かなくなったのでしょう。ずっと大きな眼で文学史を振り返れば、小説などというものが文学の主人公だった時代は、たかだかここ百年ぐらいで、それ以前の文学とは和歌であった。この和歌というものは、『古今集』や『新古今集』という勅撰集ひとつを例にとっても、夥しいエネルギーがここに集積されている。選者は単に歌を集めるだけでなく、ものすごい数の「読み人知らず」を、自分で作ってその中にはさみこむ。そして、春夏秋冬、旅、哀傷などの歌を絵巻物のように繰り広げてゆく。この中には、実に多くの約束事が用いられて、ひとつひとつの歌の背後に隠れている。たとえば丸谷才一の『新々百人一首』という本を読んでいると、それをまざまざと実感させられるのですが、紀貫之とか藤原俊成、定家といったこうした勅撰集の選者は、「ああ歌詠みか」といって、簡単には済ますわけにはいかない存在なのです。繰り返しますが、小説はまだありませんでした。もっとも物語という形式はありました。絵空事のうちに自分を閉じ込める、自分が書いているものは絵空事だという徹底的な自覚の上で、仕事をした人の作品として、それは残っています。しかし絵空事を書ける才能は特殊なものです。能の『源氏供養』は、そういう才能に恵まれた紫式部は地獄に堕ちたにちがいないという観念の上に立っています。こういう人間は、罰されて当然という健全な考えが一方にあったのでしょう。
小説は自我の表現であるという。しかし、表現されるべき自我とは何物であるか。
まえにあなたも一緒に居られた席で、いかに書くかでなく、いかに書かないかに偉大な作家は腐心している、そこに気づくべきだといったら、みんなが一斉に、余りに評論家的発言と言ってきました。しかしそうではないのです。私は漱石が好きで、最近は漱石よりあとの日本の小説は、そのうち全て無くなるのではないかと思っているくらいですが、彼がもっともエネルギーを用いたのは、いかに書くかでなく、いかに書かないかです。
あなたが小説を書き出したことを聞いて、また余計なことを始めたなと思う人がいるだろうな、と思いました。「まあ、あれは病気だから仕方がない」と思っている人もいるでしょう。小説というものは、縁のない人にはその程度のものだという徹底的な自覚があれば、作品はもっと変わるでしょう。小説とは、小説や小説家を心のうちで馬鹿にしている人間の心も動かさなければならないのです。また、それだけの覚悟がなければ書いてはいけないもののように思います。
前にあなたに送った手紙を、小説を読んでいないほかの人にもわかるように、ちょっと細工をして書き直しています。
多分「由希子」という名の女主人公は、「喬」という名の夫とヨーロッパ旅行を楽しんでいます。小説はドイツからチェコにゆくバスの中で、「夫」が道端に並ぶ娼婦たちを、熱心に見ているところから始まります。「私」はそれをいやだなと思ってみています。それは「私」が十数年前に「娼婦」まがいの行動をして、家を飛び出したという過去があるからです。「夫」が、そのことを忘れていないのは事実ですが、気にしていないという態度を示す、そして「気にしていない」ことが、無神経な言動を生み、それが「私」を傷つけるという、二人の関係はよく書けています。ただ欲を言うと、作者が状況証拠、傍証として持ち出している「夫」が不倫のドラマを見てしゃべる発言などはいらないかもしれません。この窓の外の娼婦たちと「夫」と「妻」と、この三つの描写だけで押し切っていけたら、もっとよかったと思います。しかしそうなると、文章がいかにも軽薄に思えます。あなたの文章を引用しようとしましたが、引用できないのに愕然としました。描写すべきところを説明しているのです。
こういう小説の困ったところは、「なぜ、旅行から始まるの?なぜ、夫が不倫のドラマを見ていて、なにか口走るところから始めないの?」と言われるところです。ヨーロッパ旅行は小説の中でアクセサリーになってしまいます。同行する関口さんというよくしゃべる男の行動、チェコ人と結婚してガイドをしている年齢不詳の女もスナップとしてはよく書けていますが、それ以上ではありません。しかし、作者がどうしてもこの旅行が書きたいのは、「夫」が初めて重たい腰を上げた旅行だったからでしょう。だからどうしても、ここから始めたかったのでしょう。ならば、そこで書ききらなければいけません。説明する必要はありません。
「私」の過去に何があったか、暗示するだけで書く必要はありません。「私」が「娼婦」の存在に、「夫」が無邪気にそれを見て、好奇心を満足させる姿に傷つくにしては、自分を「娼婦」と同一視する過去の重たさは書かれていません。説明すればするだけ嘘っぽくなります。男が女に惹かれる、あるいは女が男に惹かれるには、どうしようもない細部の重さがある。この「夫」にはそれがない。そのなさが、彼のよいところなのですが、それを存在として際立たせるには、彼を捨てた十何年か前の、男といた生活の細部がひとつあればいい。ソフィア・ローレンの映画というのもいいが、『ひまわり』を見ていない人にどう説明するか。
あるいは、話は一挙に飛んで、男といる生活の中で、「私」を探し当てた「夫」が、「男」のくわえたタバコにライターで火をつけるところにゆくか。ここは、すごいところです。この部分があるために、冒頭の「夫」がバスの中で「娼婦」を面白がって見るところは、「私」の言うように「夫」の減点対象ではなく、加点対象になります。
時間の処理に苦労されている、どう書いていいかわからないといわれていますが、これは「同時性」という問題で、どんなにうまく書いても、その過去の時間が現在、単に「いま」ではなく、小説の描写が行われている「現在」の時制のなかに生きてこないと、うまくいきません。逆にいうと、それが生きていれば、どんな風に書いてもうまく行くということになります。
これは、裏返せば、この作品の中で過去というファクターはあるのかどうかということになります。作者は意識していないかもしれませんが、ここにいる「喬」という人物は、とてもよく書けています。後半、特に花になんかまるで興味のない、鈍感な男が、まさにそういう男であるゆえに、ということがわかってくるところで存在感が増してきます。
だから、なおのこと前半のあっちへいったり、こっちへいったりのうろうろ歩きが惜しまれます。ずばり言えば、「私」を娼婦まがいの行動に走らせた男とのエピソード、これは今回は全部要らなくないですか?
これは、「亮太」というその男を書く意味について、根本的なことだと思います。あなたの人生の中で、そのことがどういう意味を持つのか、明らかにしたいのなら、「私」は何年の何月にこういう事をしてこうなって、こういう理由でふたたび家に帰ったと、淡々と書けば、いちばんいいでしょう。しかしこれを書けば、「喬」にあたる人物は傷つくだろうし、その眼を意識しないでは書けないでしょう。「あなたはそのことを書かなければいけませんよ」というのは、悪魔の囁きで、そんなものは書く必要はないのです。最初に言ったように、いかに書くかでなく、いかに書かないか、です。
もうひとつ、小説は男と女のあいだのことを書くことになっている。まあ『源氏物語』以来、それはあたりまえのことになっている。坪内逍遥は『小説神髄』で、「小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情欲にて、所謂百八煩悩是れなり」と言って済ましていますが、小説家でなかった逍遥先生は、それ以上深く考えた形跡はない。
その点は、二葉亭四迷のほうがすごかった。「恋する男の苦しみ」を書いた。これが小説だと言った。漱石もそうです。「よござんすか。恋愛は神聖です。しかし罪悪です」。だれかが「虚飾に満ちた性」と言ったら、聞いた人が、「虚飾」でない「性」がどこにあるか、と文句を言った。よく聞いたら「虚飾に満ちた生」の間違いであったという話をどこかで読んで笑ってしまいました。男と女の関係というのは、その人間の中身に関係のないところで成り立ってしまうので、この危うさが即人情である。そこのところを見極めないといけないのです。『こころ』の「先生」は、「お嬢さん」のどんな中身を認めて、「妻」に欲しいといったのか、「奥さん」と「お嬢さん」は、「先生」のどんなところを認めて、「お嬢さん」を「先生」の「妻」にしていいといったのか。人間の中身ということを突き詰めていったのが、Kの生き方だとすると、「先生」と「お嬢さん(のちの奥さん)」の関係は、その逆です。
誰かが、「先生」と「奥さん」のあいだに性生活がなかった。「先生」はKのことを考えると、「奥さん」と交われなくなり、「奥さん」は処女のままだったというけったいな論を発表していましたが、まあ、そんなこともないだろうが、そういう風にも見えるところもある。あなたの「亮太」ものにもそういうところがある。
「性」に関する部分があまりに少ない。そういうところは書きたくない、ということかもしれないが、明かそうとすれば隠れる、隠そうとすれば顕われる、そういうことではないのですか。正面切って書く必要はないのです。人間の一番奥深い部分は説明できない、それを別の形で説明しようとするのが小説で、それには言語表現のもっとも玄妙な使い方があります。
要は、気を抜かないできっちり書くこと。書き込むことだと思います。
主人公を三人称でなく「私」にしたことは正解です。また、ここは書けないなと思ったら、遠慮なく省くことです。いつか書けるようになります。いつまでも書けなかったら、そこは書く必要のないことです。
若いとき、正確に言えば、二十一歳のとき高校の同級生だった古屋健三というひとに連れられて、日仏会館に慶応大学教授佐藤朔氏の話を聞きに行ったことがあります。佐藤教授は小説を書いたことのないボオドレエルがヴィリエ・ド・リラダンに小説の書き方を教える話をしていました。travaillez,travaillez,(努力しろ、努力しろ)といいつづけた。そして、自分が詩を書きつづけて、どれだけ原稿料を稼いだか告げたそうです。何フラン何十サンチーム、驚くべき少ない金額だったと言っていました。もう大分昔のことですので、記憶は定かではありません。話していたのが佐藤教授なのか、それとも東大の杉捷夫教授なのかさえわからなくなっています。しかし、話の内容だけはよく覚えています。ボオドレエルが専門でない佐藤教授が、なぜボオドレエルの話をしたか、たぶんそれはサルトルがボオドレエルのことを書いていて、そのエピソードを書いていたからかもしれません。しかし、話している人が、その話にうたれて話していることはよくわかりました。手紙を書いていてそのことを思い出しました。
せっかく、あなたの小説について書いているのだから、引用できるところはないかと捜していたら、最後のほうに見つかりました。「私は名前を思い出そうとした。押し花にするときに、植物図鑑も調べたはずだ。もちろんその時花の名前は書いている。私はあの蔓草を見てから、頭の隅で何度か花の名前を思い出そうとして、焦れったくなり諦めようとした。するとふいに思い浮かんだ。花の名前をはっきりと思い出した。私は泡のように膨らんだ喜びを誰かに伝えたかった。この薄い壊れやすい小さな喜びを誰かに伝えたい。『やっと思い出したの』と言おうとして私は喬を振り返った。私は胸に鋭い刃物を突き立てられたようなショックをうけた。喬は深く暗い苦しみの真っ只中で泣き疲れた人のように眠っていた」そのあとあなたは寝入っている男の顔は悲惨だった、と書いていますが、それは書く必要はありません。言わなくてもわかるのです。
私なら、小説の題は「鐘を撞く男」ではなくて「花の名前」にしますね。これも私の学校の一年先輩だった高名な直木賞作家におなじものがありますが、あったっていいじゃないですか。
毎月、遊びをかねて、その月の花で絵入り歳時記を作って楽しんでいます。九月はコスモスでしたが、このメキシコ原産の花は意外に日本の家庭に入り込んで、完全に家庭の花になっているせいか、いい句が見つかりません。たったひとつありました。その名も水原秋桜子です。
コスモスを離れし蝶に谿深し
ひらひらとコスモスを離れてゆく蝶の姿が目に浮かぶようです。谿の深さはだれも測れないのです。
勝手なことを書きました。ご健勝を祈ります。 (平成十二年十月七日)
*筆者註 「オーリガの忍耐」のチェーホフ『三人姉妹』は「新潮文庫」神西清訳によりました。「ある私信」。二葉亭四迷の小説を「恋する男の苦しみ」と言ったのは、小谷野敦氏です。(岩波文庫「近代日本文学のすすめ」所収の文章)。したがってここでの漱石の『こころ』の読み方は、なかば、小谷野氏の卓抜な論に刺激されて、できあがったものともいえます。感謝します。
(筆者は、エッセイスト 湖の本の読者。0.11.12寄稿。 犀利な「エッセイ通信」を書きつづけておられる。)
年二十二三ばかりのほどにて、心ばせしめやかに、才(ざえ)ありといふ方は人にゆるさ
れたれど、きらきらしう今めいてなどはえあらぬにや、通ひし所なども絶えて、
しっとりしたよい雰囲気をもち、学才もあるけれど、羽振りはよくない。そして、通っていた女とも縁が切れてしまっている──。まじめで、どこかものさびしげ、けっこう好感の持てる貴族の青年という印象である。
この左近少将が、任果てて帰洛した常陸介──常陸国の次官──の娘に熱心に言い寄る。といっても、この時代のこと、相手の顔かたちひとつ見知っているわけではない。青年たちは世間のうわさ、その家の主(あるじ)や兄弟の身分や起居振舞などから、姫君のようすや人となりを想像し、懸想文やうたを届けたり、相手の屋敷へ足を運んだりするのである。
左近少将も、ちらとも見たことのない姫君に、「いとねむごろに言ひわたりけり」とあるから、しげしげ、恋文やうたを届けたり、まめに訪問したりしたのであろう。
やがて姫君の母親は、大勢の求婚者のなかから、左近少将を選ぶ。人柄も無難だし、心持ちもしっかりしていて、男女の仲らいもほどほどにわきまえているようで、しかも品がある。それに、あちらの父親は亡くなっているけれど近衛大将、こちらは貴族といっても末流、財力はあるけれど、たかが一介の地方官である。身分の点でもこれ以上の人は望むべく
もない──。
ちなみに左近少将の位階は正五位下、常陸介は正六位下で、四段階の差がある。両者の家格、年齢などを考えると、この差はさらにひろがってゆくものと思われる。その上、常陸介は以前、少将の父に仕えていたことがあるというから、主家の子息を婿取ることになる。またとない縁組とおもったのであろう。
ところが婚礼も間近になって左近少将は、求婚した姫君が常陸介の実子ではなく、継娘であることを知り、にわかに不機嫌になる。
彼は仲立ちをした人物にこう言う。地方官風情の家と縁を結ぶのを世間ではよく言わないけれど、当節、よくあることだし、自分を大切に扱い援助してくれるなら、そうした不利や不面目も帳消しになるだろう。しかし、継子とあっては常陸介も実の娘ほどの愛情を注がないだろうから、おのずと、自分に対しても期待したほどのことはしてくれまい。それでも世
間では、財力が目当てで常陸介に取入ったとうわさするだろう。そんなことでは婿になったところで何の得にもならない。
常陸国は親王が国守となる特別扱いの国である。しかし遥任といって、親王は任地に赴かないので、次官である介が事実上の国守ということになる。国守は中央官吏にはない収入のほか、税収入もかなり自由にできたから、財を成すには最適の地位であった。まして、常陸は大国──大きさによって、国々は大・上・中・下の四等級に分けられていた──である。左近少将が婿になろうとした常陸介も裕福であった。
少将は言い放つ。うつくしい女を妻にしたいなんておもわない。上品であでやかな女をと願えばたやすく得られようが、それを得たところでどうなろう。貧しくて何事もおもうにまかせないのに、風雅を好んだところで、そうした人間のなれの果てはみすぼらしいものだ。世間からも人並みには扱われない例を見ると、少しくらい人々から非難されてもかまわない、地方官風情であろうが、財力のある者と縁を結び、裕福に暮らしてゆきたい、と。「心ばせしめやかに、才ありといふ方は人にゆるされ」たという貴公子のことばともおもえない。
没落したりして経済的にめぐまれない貴族が、家格には目をつぶって富裕な家の娘と結婚する例は、古今東西を問わずいくらでも拾うことができるが、こう、あからさまにいわれると、鼻白んでしまう。この貧乏貴公子は厚顔にも、援助が確実に期待できる常陸介のまだ幼い実子にさっさとのりかえてしまう。
左近少将には明らかに、常陸介への侮蔑がある。常陸介個人というより、鄙──田舎に対する侮蔑がある。そして、これは左近少将に限ったことではなく、当時の都人のほとんどが抱いていた感情であった。
破談になった継娘の実父は、光源氏の異母弟である宇治の八宮である。常陸介の妻は若いころ、侍女として八宮に仕えていてこの娘を生んだのだった。しかし、宮はこの母子に冷たかった。妻を喪った寂しさから、身近にいた身分低い女との間に子をもうけることになったことを、うとましくおもい、劣り腹の子とその母を全くかえりみなかった。この女性はやむなく幼い娘を連れて常陸介と結婚したのである。
八宮も心ない人ではなく、高雅で信仰心も厚く、情のこまやかな人物に描かれているが、相手が身分の懸け離れた者となると、べつなのだろうか。召使う女とのかりそめの交渉はともかく、その結果として子を持ったことが、のちに仏道に心をかたむけ、「聖(ひじり)の親王(みこ)」とも呼ばれるようになる宮には、耐え難かったのだろうか。いずれにせよ、
この娘──「宇治十帖」後半のヒロイン浮舟──の不幸は、父にうとまれた誕生から始まっていたことになる。
それにしても、左近少将といい、八宮といい、何と身勝手なと、現代人の感覚では腹が立つ。当時の貴族の感覚、社会常識では褒められないまでも、とくに難じられることではないのだろうけれど。
相手を地方官風情と見くだしながら、その財力を当てにして縁組をする神経には、馴染めないどころか卑しさを感じずにはいられないし、自分の子を生んだ女を、その子もろとも見向きもしない態度は、八宮に自己嫌悪のような感情が働いての態度としても、酷いとおもわずにはいられない。
作者紫式部は、八宮にはその美点に多く筆を費やし、左近少将にはリアリスティックに筆を運んでいるように見える。ところが、常陸介となると、まことに辛辣である。
都の人間だったのに長く地方官を歴任しているうちに、もの言いも起居振舞もすっかり田舎じみてしまった男、品物の善し悪しもわからず、ただ財力にあかせて調度類を買い集め、それを所狭しと飾りたてて悦に入っている男、娘たちのために招いた琴や琵琶の師匠に、ほどもわきまえず大げさな謝礼をする男、継娘から実子へと臆面もなくのりかえた娘婿に、官位を得るために要るとあれば、どんな宝物でも用意するという男。こうした常陸介の無教養な成りあがり者のいやらしさが、誇張され、小馬鹿にした筆致でつづられているのだけれど、これがおおむね、介の妻の批判のまなざしを通して描かれている。おもしろいといおうか、凄いといおうか。介の蕪雑ぶりとともに、その妻のひんやり冷たい心根が、くっきり浮かびあがってくる仕掛けになっている。
かつて宮家に仕えたことのある彼女は、宮家の雅び、品格といったものに触れ、それ相応のたしなみも身につけているのだろう。夫の振舞いを「いと見苦し」と、冷淡に軽蔑の心もまじえて見ている。
彼女の、父親を異にする娘たちの一方への偏愛、一方への無関心ぶりも徹底したものである。常陸介との間の子より、八宮との子である浮舟の方がすぐれている、格も上だとおもい、大切にしている。手に入った調度品なども、夫の目が利かないのをこれ幸いと、よいものはまず浮舟に、よくないものは現在の夫との子に与えている。
介の妻にはあきらかに、尊貴な血に対する崇拝と、そうした血に自分は関わったのだという誇り、優越感がある。一つ家族ながら、わたしと浮舟はべつ──。かつて八宮に人も無げなあしらいを受け、さげすまれた身が、今度はさげすむ側にまわっている。
妻のこうした心理を粗野な常陸介も、さすがに気づかずにはいない。「あこをば思ひおとしたまへり」、わたしの子を見さげてばかにしているのだなと、文句をいう。
相手をさげすみつつ打算から資産家の婿になる左近少将も、札びらを切る成金の田舎者常陸介も、また、あるかないかの教養をちらつかせて相手を見くだす介の妻も、現代でもよく見られるタイプである。八宮のように愛人とその間にできた子を見棄てる例も、これまた、見聞きしないわけではない。彼らは『源氏物語』のなかでは、ほんの傍役・端役に過ぎない存在だけれど、こうした、現代にも通ずる人物がいきいきと描かれているのも、この物語を読むたのしみの一つである。
ところで、紫式部は、成りあがり者で粗野な地方官を造型するにあたって、なぜ、その任地に常陸をえらんだのだろう。大国はいくらもあるのに、なぜ、常陸国なのか。
当時の都人の例に洩れず、彼女の眼は田舎に対して冷やかであるが、東国、ことに常陸には冷たいように思われる。
『源氏物語』中、もっとも手ひどく嘲笑されていると思われる人物も、「常陸」を呼称にもっている。
この物語のごく初めのほう、十八歳ころの光源氏は、零落した宮家の姫に語らいつく。
「居丈(ゐだけ)の高く、を背長(せなが)」で、鼻は「普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたる」──座高が高くて胴長、鼻は普賢菩薩の乗物である象の鼻のよう、あきれるくらい高く長く伸びていて先がちょっと垂れ、赤らんでいる──に始まり、額は広くてたいへんな馬づら、色白だけれど青みがかっていて、
身体は痩せて骨ばっている。よいのはゆたかな黒髪だけと、完膚なきまでにその容姿をあげつらわれているのは常陸宮、常陸親王と呼ばれている皇族の姫である。
容姿だけではない。うた一首満足に詠めないし、受け答えもたどたどしく、何の才覚もなくて、万事に風情のかけらもないと、物語作者は手きびしい。父親王に早く死に別れ、頼る人もない逼迫した暮しぶりも、作者はあきれるほど克明に描き出している。何だか、欠点をこれでもかこれでもかとあばきたて、いじめているようで、読んでいて厭な気分になる。
この姫君を『源氏物語』の読者は「末摘花」と呼ぶが、これは彼女の赤い鼻を嘲笑った光源氏のうたからのもので、物語のなかではさすがに「末摘花」とはいわない。「常陸の君」「常陸の御方」と呼んでいる。
彼女は光源氏の憐憫というか、庇護というか、とにかく経済面の助けを受けて、貧窮からは脱し得たが、とんでもない贈物をしたりして源氏にもてあまされている。彼女の登場シーンは少ないが、ほぼ二十年ほどの間、出てくれば嘲われ、その最期も語られることなく、物語から消えている。
「常陸」を呼名に持つ人に空蝉という女性の夫がいる。この人の登場も光源氏のごく若いころである。初めは「伊予介」と呼ばれていたが、伊予国の次官をつとめたあと、常陸介に任じられたので、常陸介と呼名が変っている。この人物もちょっと哀れな役どころを振り当てられている。
この人はどういういきさつでか、息子より若い空蝉を後添いに得、大事にかしづいていたが、妻を都に残して伊予に在任中に、光源氏のためにコキュにされてしまう。やがて帰任した彼は、そうとも知らず、十七歳という、孫ほどの年齢ながら中将である光源氏のところへ帰任の挨拶にゆく。十七歳の驕児は、さすがに「あいなくまばゆ」く、「後めた」い思い
で、老人に会うが、
舟路のしわざとてすこし黒みやつれたる旅姿、いとふつつかに心づきなし。
と、相手を冷静に観察もしている。臆してなどいない。知られたところで、相手は老いたる一地方官、どうということはない──。
もう一人、「常陸」を呼名に持つ人がいる。
その人が姿を見せるのは「匂宮」の巻になってからである。この巻は光源氏没後の『源氏物語』の最初の部分で、光源氏のいない物語を彩ってゆく貴公子たちが、華やかに登場する。
たのしい遊びごとが催され、若い親王や貴族たちがつぎつぎ現れる。光源氏の娘明石中宮を母とする親王たちは、みな「気高くきよげ」、気品があって、すっきりとうつくしいが、なかにも匂宮は、
げにいとすぐれてこよなう見えたまふ。
まことにすぐれていて、ぬきんでてすばらしい。こう最上級のことばで、褒め讃えた作者は、筆をつぎ、
四の皇子、常陸宮と聞ゆる更衣腹のは、思ひなしにや、けはひこよなう劣りたまへり。
と、常陸宮を登場させている。
「こよなう」という形容詞が、くっきり、プラスイメージとマイナスイメージに使いわけられているのに、まず、おどろく。それに、「思ひなしにや」とはいうものの、「こよなう劣りたまへり」とは凄まじい言いようではないか。この宮が、取り立てて何をするでもない存在で終っているだけに、異様に感じられる。
ここでも「常陸」を名告る人は哀れな存在である。これ以上の褒めことばがない人物の引き立て役として、「けはひこよなう劣」る常陸宮の登場が求められたのであろう。かつて「紅葉賀」で、青海波を舞う当時十八歳の光源氏を讃えるのに、ともに舞った頭中将を、人よりすぐれてはいるけれど、光源氏と並んでは「花のかたはらの深山木なり」と、断じたど
ころではない。
哀れな常陸宮が再び姿を見せるのは、ほぼ十年後、やはり華やかな宴の場である。しかし、天皇主催の藤花の宴に伺候する王族・貴族の一人として名を記されたにとどまっている。うた一首詠む場、笛一ふし吹く場も与えられてない。以降、この「けはひこよなう劣りたまへる」と作者に造型され、それ以外の評価は何一つない常陸宮は、読者の前に姿を見せることはない。
挙げてきた二人の常陸宮、二人の常陸介の間には、もちろん、何の関係もない。当時の風習として職名・官名を呼称としたので、同じ呼名となっただけのことである。それにしても作者はこの四人に何と、冷酷なのだろう。
教養人で音楽・美術に造詣が深い父の子として生まれたのに、とんでもない不器量で頭の働きもわるくて、嗤いものにされ続けた常陸宮の姫。もう一人の常陸宮は、美点をあますなくそなえた異母兄を引き立てるために、そのかたわらに品格劣る身を曝させられている。人のよい老常陸介は孫のような若い貴族に妻をぬすまれ、もう一人の常陸介は成りあがり者ぶり、俗物ぶりを、いやになるほど書きたてられ、冷笑されている。
『源氏物語』には、このほかに「常陸」を呼名とする人物がもう一人いる。けれどこの人は、老尼とその孫との会話の中に身内のひとりとして話題にのぼっただけである。「常陸」ということばに、浮舟が「わが親の名」と耳をとらえられ、続くうわさ話を聞くともなく聞いてしまう、そのきっかけとしての「常陸」なので、人格は与えられていない。
こうして見てくると、最後にあげた一人を除く、常陸たれそれの扱いようが気になってならない。
常陸とは無関係ながら、嗤いものにされるために物語に登場している女性に、「近江の君」がいる。彼女の父は頭中将。光源氏を別格とすれば、当代きっての名流で教養人でもある。近江の君は、成人してからこの父のもとに引き取られており、母方についての言及はないから、身分低い者を母として生まれたのだろう。容貌はまあまあなのだけれど、とほうもない早口で高調子、単細胞で、何の心得もない。父に向かって「父上の尿便壷の掃除でも何でもします」という神経の持主である。その近江の君が、異母姉である女御のもとにうたを詠みおくる。
草わかみ常陸の浦のいかが崎いかであひ見む田子の浦浪
要するに「いかがあひ見む」、なんとかしてお目にかかりとう存じますという意なのだが、あちこちの地名が何の脈絡もなく詠みこんであり、気取っているだけ、どうしようもないうたの見本といった代物なのである。ちなみに「いかが崎」は琵琶湖から流れ出る瀬田川の、瀬田橋あたりから石山にかけてをいい、「田子の浦」は今の静岡県富士市の海岸である。
これを受け取った女御方が、これまた、意地がわるい。さんざん笑いのめしたあげく、
常陸なる駿河の海の須磨の浦に浪立ち出でよ箱崎の松
と、女房の一人が女御に代って返歌する。「立ち出でよ」、お出でなさい、「箱崎のまつ」、待っています、という意味だが、相手を真似るどころか、それ以上に歌枕を羅列している。
近江の君は、女房たちの底意地のわるさに気がつかない。返歌を見て、「をかしの御口つきや。待つとのたまへるを」、おもしろい御詠みぶりだこと、待つとおっしゃってくださったと喜んでいる。
試みに、女房の返歌にある地名を拾ってみると、常陸、駿河、摂津、筑紫と、東国から筑紫にわたっている。ここでも常陸が双方のうたに詠まれている。答歌は、贈歌の一部分を詠みこむのがしきたりとおもっても、なぜ常陸がえらばれたのかと、こだわりたくなる。
『枕草子』にも「常陸介」というあだ名の乞食尼が出てくる。御所の女房たちがからかって唄をうたわせると、「まろは誰と寝む。常陸介と寝む。寝たる肌もよし」と、たいへんエロティックな唄をうたったところからのあだ名であるが、この「常陸介」も、徹底的に軽蔑され、女房たちにいいようにからかわれ、もてあそばれている。
「筑波」と「筑紫」はここで倭の国が「尽く」、尽きるという意味で、「ツクシ」「ツクハ」の地名になったという説がある。その「ツクハ」の山のある常陸は、辺境の地という感覚もわからないではない。辺境の地どころか、地の果て、ものおそろしい所におもわれたのだろう。しかし、辺境の地は常陸に限らないのに、なぜ、嘲笑の対象というと、常陸なのだろう。
それにしても、『源氏物語』に於ける常陸の扱いは徹底している。紫式部には「常陸」に対する特別な感情があったようにおもわれてならない。もしかしたら、彼女の身辺にどうにも気に入らない人物がいて、それが常陸に関わりのある人だったのかも知れない。
紫式部にはけっこう底意地のわるいところがある。『源氏物語』に「源典侍」という色好みの老女が登場する。やはり、さんざんなぶりものされているのだが、当時、女官の最高の地位である典侍の職にあったのは、紫式部の夫の縁戚の女性だった。しかも「源典侍」と呼ばれていたので、物語の、あの年がいもなく色好みな源典侍は彼女がモデルだと騒がれ、とうとう宮中にいたたまれず、辞表を提出している。紫式部にはきっと何か確執のある相手だったのだろう。
この気の毒な源典侍、源明子の場合は、辞表提出のことが藤原行成の日記『権記』(ごんき)にあるので、紫式部の筆誅というか、意地のわるいやり方が、後世に伝わることになったのだけれど、こうしたことは、ほかにもあったのではなかろうか。『源氏物語』を読んで、歯ぎしりしたり、くやし涙にくれる常陸なにがしや、その妻や愛人、娘などがいたのか
も知れない。
追記 文中に、「空蝉」ということばが二度出てきます。この「蝉」という字に困じ果てております。正しくは「憚」と同じ旁のはずですのに、わが器械は、「蝉」しか出してくれません。仕方なく、奇妙な字のまま、ということにいたしました。
(0.10.25 初出)
(筆者は、歌人。湖の本の読者。0.10.25第一番の寄稿。常陸筑波にお住まいであり、ひとしおの視点であり視野の深さである。)