e-magazine湖(umi)=秦恒平編輯 2

 
   この頁は、寄稿21編の「創作 1」として、満了しました。

  引き続き「創作 2」輯を、第15頁に掲載して参ります。

 

     
*目次――「鱧の皮 ・ 上司小剣」    「風呂場の話 ・ 門脇照男」    「赤いたい ・ 門脇照男」     「花連歌 ・ 目 精二」    「善財童子さま ・ 小島敏郎」    「白い鯉 ・ 三原 誠」   「たたかい ・ 三原 誠」   「朱鷺草 ・ 源田朝子」    「牡丹雪 ・ 藤田理史」    「さぎむすめ ・ 吉田優子」   「門出の人 二編 ・ 出久根達郎」    「泥眼 ・ 上野重光」   「森へ ・ 高橋由美子」   「四重奏 ・ 上野重光」   「温もり ・ 石久保豊」   「ラーゲルレーブ 作=軽気球 ・ 鈴木栄 訳」    「母 ・ 藤野千江」   「神楽岡 ・ 高橋由美子」   「人形教育=渚 ・ 憎悪 ・ 関口深志」    「祖母と母と僕と ・ 藤田理史」    「般若心経 ・ 勝田貞夫私訳」
 
 



 
 
 
 

          鱧(はも)の皮             上司小剣
 
 
 

       一

 郵便配達が巡査のやうな靴音をさして入つて来た。
「福島磯(いそ)……といふ人が居ますか。」
 彼は焦々(いらいら)した調子でかう言つて、束になつた葉書や手紙の中から、赤い印紙を二枚貼(は)つた封の厚いのを取り出した。
 道頓堀の夜景は丁(ちやう)どこれから、といふ時刻で、筋向うの芝居は幕間(まくあひ)になつたらしく、讃岐屋(さぬきや)の店は一時に立て込んで、二階からの通し物や、芝居の本家や前茶屋からの出前で、銀場も板場もテンテコ舞をする程であつた。
「福島磯……此処(こゝ)だす、此処だす。」と忙しいお文は、銀場から白い手を差し出した。男も女も、襷(たすき)がけでクルクルと郵便配達の周囲を廻つてゐるけれども、お客の方に夢中で、誰れ一人女主人の為めに、郵便配達の手から厚い封書を取り次ぐものはなかつた。
「標札を出しとくか、何々方としといて貰はんと困るな。」
 怖(こは)い顔をした郵便配達は、かう言つて、一間も此方(こつち)から厚い封書を銀場へ投げ込むと、クルリと身体の向を変へて、靴音荒々しく、板場で焼く鰻(うなぎ)の匂を嗅ぎながら、暖簾(のれん)を潜(くゞ)つて去つた。
 四十人前といふ前茶屋の大口が焼き上つて、二階の客にも十二組までお愛そ(勘定の事)を済ましたので、お文は漸(やうや)く膝の下から先刻の厚い封書を取り出して、先づ其の外形からつくづく見た。手蹟には一目でそれと見覚えがあるが、出した人の名はなかつた。消印の「東京中央」といふ字が不明瞭ながらも、兎(と)も角(かく)読むことが出来た。
「何や、阿呆(あほ)らしい。……」
 小さく独り言をいつて、お文は厚い封書を其のまゝ銀場の金庫の抽斗(ひきだし)に入れたが、暫くしてまた取り出して見た。さうして封を披(ひら)くのが怖ろしいやうにも思はれた。
「福島磯……私(わたへ)が名前を変へたのを、何(ど)うして知つてるのやろ、不思議やな。叔父さんが知らしたのかな。」
 お文はかう思つて、またつくづくと厚い封書の宛名の字を眺めてゐた。
 河岸(かし)に沿うた裏家根に点(つ)けてある、「さぬきや」の文字の現れた広告電燈の色の変る度に、お文の背中は、赤や、青や、紫や、硝子(ガラス)障子(しょうじ)に映るさまざまの光に彩(いろど)られた。
 一しきり立て込んだ客も、二階と階下(した)とに一組づゝゐるだけになつた。三本目の銚子を取り換へてから小一時間にもなる二階の二人連れは、勘定が危さうで、雇女は一人二人づゝ、抜き足して階子段を上つて行つた。
 

       二

 新まいの雇女にお客と間違へられて、お文の叔父の源太郎が入つて来た。
「お出でやアす。」と、新まいの女の叫んだのには、一同が笑つた。中には腹を抱へて笑ひ崩れてゐるものもあつた。
「をツ<2字に、傍点>さん、えゝとこへ来とくなはつた。今こんな手紙が来ましたのやがな。独りで見るのも心持がわるいよつて、電話かけてをツ<2字に、傍点>さん呼ばうと思うてましたのや。」
 お文は女どものゲラゲラとまだ笑ひ止まぬのを、見向きもしないで、銀場の前に立つた叔父の大きな身体を見上げるやうにして、かう言つた。
「手紙テ、何処からや。……福造のとこからやないか。」
 源太郎は年の故(せゐ)で稍(やゝ)曲つた太い腰をヨタヨタさせながら、銀場の横の狭い通り口へ一杯になつて、角帯の小さな結び目を見せつゝ、背後(うしろ)の三畳へ入つた。
 其処には箪笥(たんす)やら蠅入らずやら、さまざまの家具類が物置のやうに置いてあつて、人の坐るところは畳一枚ほどしかなかつた。其の狭い空地へ大きく胡坐(あぐら)をかいた源太郎は、五十を越してから始めた煙草を無器用に吸はうとして、腰に挿した煙草入れを抜き取つたが、火鉢も煙草盆も無いので、煙草を詰めた煙管(きせる)を空しく弄(いぢ)りながら、対(むか)う河岸(がし)の美しい灯の影を眺めてゐた。対う河岸は宗右衛門町で、何をする家か、灯がゆらゆらと動いて、それが、螢を踏み蹂躙(にじ)つた時のやうに、キラキラと河水に映つた。初秋の夜風は冷々(ひえびえ)として、河には漣(さゞなみ)が立つてゐた。
「能(よ)う当りましたな。……東京から来ましたのや。……これだす。」
 勘定の危(あやぶ)まれた二階の客の、銀貨銅貨取り混ぜた払ひを検(あらた)めて、それから新らしい客の通した麦酒(ビール)と鮒の鉄砲和(てつぱうあへ)とを受けてから、一寸の閑(ひま)を見出したお文は、後(うしろ)を向いてかう言つた。彼女の手には厚い封書があつた。
「さうか、矢ツ張り福造から来たんか、何言うて来たんや。……また金送れか。分つてるがな。」
 源太郎は眼をクシヤクシヤさして、店から射す灯に透かしつゝ、覗(のぞ)くやうに封書の表書(うはがき)を読まうとしたが、暗くて判らなかつた。
「をツ<2字に、傍点>さんに先き読んで貰ひまへうかな。……私(わたへ)まだ封開けまへんのや。」
 かうは言つてゐるものの、封書は固くお文の手に握られて、源太郎に渡さうとする容子(ようす)は見えなかつた。
「お前、先きい読んだらえゝやないか。……お前とこへ来たんやもん。」
「私、何や知らん、怖いやうな気がするよつて。」
「阿呆(あほ)らしい、何言うてるのや。」
 冷笑を鼻の尖端(さき)に浮べて、源太郎は煙の出ぬ煙管を弄り廻してゐた。
「そんなら私(わたへ)、そツちへいて読みますわ。……をツ<2字に、傍点>さん一寸銀場を代つとくなはれ、あのまむし<3字に、傍点>が五つ上ると金太に魚槽(ふね)を見にやつとくなはれ。……金太えゝか。」
 気軽に尻を上げて、お文は叔父と板前の金太とに物を言ふと、厚い封書を握つたまゝ、薄暗い三畳へ入つた。
「よし来た、代らう。どツこいしよ。」と、源太郎は太い腰を浮かして、煙管を右の手に、煙草入を左の手に攫(つか)んで、お文と入れ代りに銀場へ坐つた。
 豆絞りの手拭で鉢巻をして、すらすらと機械の廻るやうな手つきで鰻を裂いてゐた板前の金太は、チラリと横を向いて源太郎の顔を見ると、にツこり笑つた。
「此処へも電気点(つ)けんと、どんならんなア。阿母(おか)アはんは倹約人(しまつや)やよつて、点けえでもえゝ、と言やはるけど、暗うて仕様がおまへんなをツ<2字に、傍点>さん。……二十八も点けてる電気やもん、五燭を一つぐらゐ殖(ふ)やしたかて、何んでもあれへん、なアをツ<2字に、傍点>さん。」
 がらくた<4字に、傍点>の載つてゐる三畳の棚を、手探りでガタゴトさせながら、お文は声高に独り言のやうなことを言つてゐたが、やがてパツと燐寸(マツチ)を擦つて、手燭に灯を点けた。
 河風にチラチラする蝋燭の灯に透かして、一心に長い手紙を披(ひろ)げてゐる、お文の肉附のよい横顔の、白く光るのを、時々振り返つて見ながら、源太郎は、姪(めひ)も最(も)う三十六になつたのかあアと、染々(しみじみ)さう思つた。
 毛糸の弁当嚢(ぶくろ)を提げて、「福島さん学校へ」と友達に誘はれて小学校へ通つてゐた姪の後姿を毎朝見てゐたのは、ツイ此頃のことのやうに思はれるのに、と、源太郎はまださう思つて、聟(むこ)養子を貰つた婚礼の折の外は、一度も外の髪に結つたことのない、お文の新蝶々を、俯(うつむ)いて家出した夫の手紙に読み耽つてゐるお文の頭の上に見てゐた。其の新蝶々は、震へるやうに微かに動いてゐた。
「何んにも書いたらしまへんがな。……長いばツかりで。……病気で困つてるよつて金送れと、それから子供は何(ど)うしてるちふことと、……今度といふ今度は懲(こ)りごりしたよつて、あやまる<4字に、傍点>さかい元の鞘(さや)へ納まりたいや、……決つてるのや。」
 口では何でもないやうに言つてゐるお文の眼の、異様に輝いて、手紙を見詰めてゐるのが、蝋燭の光の中に淡く見出された。
「まアをツ<2字に、傍点>さん、読んで見なはれ。面白おまツせ。」
 気にも止めぬといふ風に見せようとして、態(わざ)とらしい微笑を口元に浮べながら、残り惜しさうに手紙を其処に置き棄てて、お文は立ち上ると、叔父の背後に寄つて、無言で銀場を代らうとした。
「どツこいしよ。」と、源太郎はまた重さうに腰を浮かして、手燭の点けツぱなしになつてゐる三畳へ、大きな身体を這ひ込むやうにして坐つた。煙管はまだ先刻から一服も吸はずに、右の手へ筆を持ち添へて握つてゐた。
「をツ<2字に、傍点>さん、筆……筆。」と、お文は銀場の筆を叔父の手から取り戻して、懈怠(けだる)さうに、叔父の肥つた膝の温味(ぬくみ)の残つた座蒲団の上に坐ると、出ないのを無理に吐き出すやうな欠伸(あくび)を一つした。
 源太郎は、蝋燭の火で漸(やつ)と一服煙草を吸ひ付けると、掃除のわるい煙管をズウズウ音させて、無恰好に煙を吐きつゝ、だらしなく披(ひろ)げたまゝになつてゐる手紙の上に眼を落した。
「其の表書(うはがき)なア、福島磯といふのを知つてるのが不思議でなりまへんのや。」
 手紙を三四行読みかけた時、お文がこんなことを言つたので、源太郎は手紙の上に俯(うつぶ)いたなりに、首を捻(ね)ぢ向けて、お文の方を見た。
「福造の居よる時から、さう言うてたがな、お文よりお磯の方がえゝちうて、福島と島やさかい、磯と文句が続いてえゝと、私(わし)が福造に言うてたがな。……それで書いて来よつたんや。われの名も福島福造……は福があり過ぎて悪いよつて、福島理記といふのが、劃の数が良いさかい、理記にせいと言うてやつたんやが、さう書いて来よれへんか。……私んとこへおこしよつたのには、ちやんと理記と書いて、宛名も福島照久様としてよる。源太郎とはしよらへん。」
 好きな姓名判断の方へ、源太郎は話を総(すべ)て持つて行かうとした。
「やゝこし<4字に、傍点>おますな、皆んな名が二つつゝあつて。……けど福造を理記にしたら、少しは増しな人間になりますか知らん。」
 世間話をするやうな調子を装うて、お文は家出してゐる夫の判断を聞かうとした。
「名を変へてもあいつ<3字に、傍点>はあかんな。」
 そツ気なく言つて、源太郎は身体を真ツ直ぐに胡坐(あぐら)をかき直した。お文はあがつた蒲焼と玉子焼とを一寸検(あらた)めて、十六番の紙札につけると、雇女に二階へ持たしてやつた。
「この間も、選名術の先生に私のことを見て貰うた序(ついで)に聞いてやつたら、福島福造といふ名と四十四といふ年を言うただけで、先生は直(ぢ)きに、『この人はあかんわい、放蕩者で、其の放蕩は一生止まん。止む時は命数の終りや。性質が薄情残酷で、これから一寸頭を持ち上げることはあつても、また失敗して、そんなことを繰り返してる中にだんだん悪い方へ填(はま)つて行く』と言やはつたがな。ほんまに能(よ)う合うてるやないか。」
 到頭詰まつて了(しま)つた煙管を下に置いて、源太郎は沈み切つた物の言ひやうをした。お文は聞えぬ振りをして、板場の方を向いたまゝ、厭な厭な顔をしてゐた。
 

       三

 源太郎がまた俯いて、読みかけの長い手紙を読まうとした時、下の河中(かはなか)から突然大きな声が聞えた。
「おーい、……おーい、……讃岐屋(さぬきや)ア。……おーい、讃岐屋ア。」
 重い身体を、どツこいしよと浮かして、源太郎が腰硝子(ガラス)の障子を開け、水の上へ架(か)け出した二尺の濡れ縁へ危さうに片足を踏み出した時、河の中からはまた大きな声が聞えた。
「おーい、讃岐屋ア。……鰻で飯を二人前呉れえ。」
「へえ、あの……」と、変な返事をして、源太郎は河の中を覗き込んだが、色変りの広告電燈が眩(まぶ)しく映るだけで、黒く流れた水の上のことは能く分らなかつた。
「をツ<2字に、傍点>さん、をツ<2字に、傍点>さん。」と、お文の声が背後から呼ぶので、銀場を振り返ると、お文は両手を左の腰の辺に当てて、長いものを横たへた身振りをして見せた。
「あゝ、サーベルかいな。」
 漸く合点(がてん)の行つた源太郎は、小さい声でかうお文に答へて、「へえ、今直きに拵(こしら)へて上げます。」と、黒い水の上に向つて叫んだ。
「さうか、早くして呉れ。」といふ声の方を、瞳を定めてヂツと見下すと、真下の石垣にぴツたりと糊付(のりづけ)か何かのやうにくツ付いて、薄暗く油煙に汚れた赤い灯の点いてゐる小さな舟の中に、白い人影がむくむくと二つ動いてゐた。其の白い人影の一つが急に黒くなつたのは、外套を着たのらしかつた。
 通し物の順番を追はずに、板前を急がせた水の上からの註文は直ぐ出来て、別に添へた一品の料理と香の物、茶瓶なぞとともに、こんな時の用意に備へてある長い綱の付いた平たい籠に入れて、源太郎の手で水の上へ手繰(たぐ)り下された。
「サンキユー。」と、妙な声が水の上から聞えたので、源太郎は馬鹿馬鹿しさうに微笑を漏らした。
 雇女が一人三畳へ入つて来て、濡れ縁へ出て対岸(むかうぎし)の紅い灯を眺めながら、欄干を叩いて低く喇叭節(らつぱぶし)を唄つてゐたが、藪から棒に、「上町の旦那はん、……八千代はん、えらうおまんな。この夏全(まる)で休んではりましたんやな。……もう出てはりますさうやけど、お金もたんと<3字に、傍点>出来ましたんやろかいな。」と、源太
郎に向つて言つた。
 随一の名妓と唄はれてゐる、富田屋の八千代の住む加賀屋といふ河沿ひの家のあたりは、対岸でも灯の色が殊に鮮かで、調子の高い撥(ばち)の音も其の辺から流れて来るやうに思はれた。空には星が一杯で、黒い河水に映る両岸の灯(ひ)と色を競ふやうであつた。
 名妓の噂を始めた縮れ毛の、色の黒い、足の大きな雇女は、源太郎が何とも言はぬので、また欄干を叩いて喇叭節をやり出した。
 手紙を前に披(ひろ)げて、ヂツと腕組をしてゐた源太郎は、稍(やゝ)暫くしてから、空(から)になつた食器が籠に入つて雇女の手で河の中から迫(せ)り上つて来たのを見たので、突然銀場の方を向いて、「これ、何んぼになるんやな。」と頓狂な声を出した。
「よろしおますのやがな、お序(ついで)の時にと、さう言はしとくなはれ。」
 算盤(そろばん)を弾きながら、お文が向うむいたまゝで言つたのと、殆んど同時に、総てを心得てゐる雇女は、濡れ縁から下を覗き込んで、
「よろしおます、お序の時で。」と高く叫んだ。水の上からも何か言つてゐるやうであつたが、意味は分らなかつた。やがて、赤い灯の唯一つ薄暗く煤(すゝ)けて点いてゐる小舟は、音もなく黒い水の上を滑つて、映る両岸の灯の影を乱しつゝ、暗(やみ)の中に漕ぎ去つた。
 

       四

 腕組をして考へてゐた源太郎は、また俯(うつぶ)いて長い手紙に向つた。さうして今度は口の中で低く声を立てて読んでゐたが、読み終るまでに稍長いことかゝつた。
 お文は銀場から、その鋭い眼で入り代り立ち代る客を送り迎へして、男女二十八人の雇人を万遍(まんべん)なく立ち働かせるやうに、心を一杯に張り切つてゐた。夜の更けようとするに連れて、客の足はだんだん繁くなつた。暖簾(のれん)を掲げた入口から、丁字形に階下の間と二階の階子段(はしごだん)とへ通ふ三和土(たゝき)には、絶えず水が撒(ま)かれて、其の上に履物の音が引ツ切りなしに響いた。
 これから芝居の閉場(はね)る前頃を頂上として、それまでの一戦と、お文は立つて帯を締め直したが、時々は背後を振り向いて、手紙を読んでゐる叔父の気色を窺(うかゞ)はうとした。
「二十円送れ……と書いてあるやないか。」と、源太郎は眼をクシヤクシヤさしてお文の方を見た。
「さうだすな。」と、お文は軽く他人のことのやうに言つた。
「福造の借銭は、一体何んぼあるやらうな。」
 畳みかけるやうにして、源太郎が言つたので、お文は忙しい中で胸算用をして、
「千円はおますやらうな。」と、相変らず世間話のやうに答へた。
「この前に出よつた時は千二百円ほど借銭をさらすし、其の前の時も彼れ是れ八百円はあつたやないか。……今度の千円を入れると、三千円やないか。……高価(たか)い養子やなア。」
 自然と皮肉な調子になつて来た源太郎の言葉を、お文は忙しさに紛(まぎ)らして、聞いてはゐぬ風をしながら、隅の方の暗いところでコソコソ話をしてゐる男女二人の雇人を見付けて、
「留吉にお鶴は何してるんや。この忙しい最中に……これだけの人数が喰べて行かれるのは、商売のお蔭やないか。商売を粗末にする者は、家に置いとけんさかいな、ちやツちや<5字に、傍点>と出ていとくれ。」と、癇高い声を立てた。男女二人の雇人は、雷に打たれたほどの驚きやうをして、パツと左右に飛んで立ち別れた。
「味醂(みりん)屋へまた二十円貸せちうて来たんやないか……味醂屋にはこの春家出する時三十円借りがあるんやで。能(よ)うそんな厚かましいことが言はれたもんやな。」
 何処までも追つかけるといつた風に、源太郎は、福造の棚卸(たなおろし)をお文の背中から浴びせた。
「味醂屋どこやおまへん。去年家にゐて出前持をしてたあの久吉な、今島の内の丸利にゐますのや。あそこへいて、この春久吉に一円借せと言ひましたさうだツせ。困つて来ると恥も外聞も分りまへんのやなア。」
 また世間話をするやうな、何気ない調子に戻つて、お文は背後(うしろ)を振り返り振り返り、叔父の言葉に合槌を打つた。
「味醂屋や酒屋や松魚節(かつを)屋の、取引先へ無心を言うて来よるのが、一番強腹(がうはら)やな……何んぼ借して呉れんやうに言うといても、先方(さき)では若(も)し福造が戻つて来よるかと思うて、厭々ながら借すのやが、無理もないわい。若しも戻つて来よると、讃岐屋の旦那はんやもんな。其の時復讐をしられるのが辛(つら)いよつてな。取引先も考へて見ると気の毒なもんや。」
 染々(しみじみ)と同情する言葉つきになつて、源太郎は太い溜息を吐(つ)いた。
「饂飩(うどん)屋に丁稚(でつち)をしてた時から、四十四にもなるまで、大阪に居ますのやもん、生れは大和でも、大阪者と同じことだすよつてな。私等(わたへら)の知らん知人もおますよつて、あゝやつて東京へほつたらかし<6字に、傍点>とくと、其処ら中へ無心状を出して、借銭の上塗をするばかりだす。困つたもんやなア。」
 漸く他人のことではないやうな物の言ひ振りになつて、お文は広く白い額へ青筋をビクビク動かしてゐた。
「あゝ、『鱧(はも)の皮を御送り下されたく候』と書いてあるで……何吐(ぬ)かしやがるのや。」と、源太郎は長い手紙の一番終りの小さな字を読んで笑つた。
「鱧の皮の二杯酢が何より好物だすよつてな。……東京にあれおまへんてな。」
 夫の好物を思ひ出して、お文の心はさまざまに乱れてゐるやうであつた。
「鱧の皮、細う切つて、二杯酢にして一晩ぐらゐ漬けとくと、温飯(ぬくめし)に載せて一寸いけるさかいな。」と、源太郎は長い手紙を巻き納めながら、暢気(のんき)なことを言つた。
 

       五

 堺の大浜に隠居して、三人の孫を育ててゐるお梶(かぢ)が、三歳になる季(すゑ)の孫を負つて入つて来た。
「阿母(おか)アはん、好いとこへ来とくなはつた。をツ[2字に、傍点]さんも来てはりますのや。」と、お文は嬉しさうな顔をして母を迎へた。
「お家(へ)はん、お出でやす。」と、男女の雇人中の古参なものは口々に言つて、一時「気を付けツ」といつたやうな姿勢をした。
「あばちやん、ばア。母アちやん、ばア。ぢいちやん、ばア。」と、お梶は歌のやうに節を付けて背中の孫に聞かせながら、ズウツと源太郎の胡坐(あぐら)をかいてゐる三畳へ入つて行つた。
 背中から下された孫は、母の顔を見ても、大叔父の顔を見ても、直ぐベソをかいて、祖母の懐に噛(かじ)り付いた。
「あゝ辛度(しんど)や。」と疲れた状(さま)をして、薄くなつた髪を引ツ詰めに結(ゆ)つた、小さな新蝶々の崩れを両手で直したお梶は、忙しさうに孫を抱き上げて、萎(しな)びた乳房を弄(なぶ)らしてゐた。
「其の子が一番福造に似てよるな。」と、源太郎は重苦しさうな物の言ひやうをして、つくづくと姉の膝の上の子供を見てゐた。
「性根まで似てよるとお仕舞ひや。」
 笑ひながらお梶は、萎びた乳房を握つてゐる小さな手を窃(そつ)と引き離して襟(えり)をかき合はした。孫は漸く祖母の膝を離れて、気になる風で大叔父の方を見ながら、細い眼尻の下つた平ツたい色白の顔を振り振り、ヨチヨチと濡れ縁の方に歩いた。
「男やと心配やが、女やよつて、まア安心だす。」
 戦場のやうに店の忙しい中を、お文は銀場から背後を振り返つて、厭味(いやみ)らしく言つた。
 それを耳にもかけぬ風で、お梶は弟の前の煙管(きせる)を取り上げて、一服すはうとしたが、煙管の詰まつてゐるのに顔を顰(しか)めて、「をツ<2字に、傍点>さん、また詰まつてるな。素人(しろと)の煙草呑みはこれやさかいな。」と、俯いて紙捻(こより)を拵へ、丁寧に煙管の掃除を始めた。
「福造から手紙が来たある。……一寸読んで見なはれ。」と、源太郎は厚い封書を姉の前に押しやつた。
「それ、福造の手紙かいな……私(わし)はよツぽど今それで煙管掃除の紙捻を拵へようかと思うたんや。」
 封書を一寸見やつただけで、お梶は顔を顰め顰め、毒々しい黒い脂(やに)を引き摺り出して煙管の掃除を続けた。
「まア一寸でよいさかい、其の手紙を読んどくなはれ。それを読まさんことにや話が出来まへん。」
「福造の手紙なら読まんかて大概分つたるがな……眼がわるいのに、こんな灯で字が読めやへん。何んならをツさん<2字に、傍点>、読んで聞かしとくれ。」
 煙管を下に置いて、巧みな手つきで短くなつた蝋燭のシンを切つてから、お梶はスパスパと快く通るやうになつた煙管で、可味(うま)さうに煙草を吸つて、濃い煙を吐き出した。源太郎は自分よりも上手な煙草の吸ひやうを感心する風で姉の顔を見つめてゐた。
 孫はまた祖母の膝に戻つて、萎びた乳も弄らずに、罪のない顔をして、すやすやと眠つて了つた。
「福造の手紙を読(よん)で聞かすのも、何(なん)やら工合がわるいが、……ほんなら中に書いてあることをざつと言うて見よう。」
 源太郎はかう言つて、構へ込むやうな身体つきをしながら、
「まア何んや、例(いつ)もの通りの無心があつてな。……今度は大負けに負けよつて、二十円や。……それから、この店の名義を切り替へて福造の名にすること。時々浪花節(なにはぶし)や、活動写真や、仁和賀(にわか)芝居の興行をしても、ゴテゴテ言はんこと。これだけを承知して呉れるんなら、元の鞘へ納まつてもえゝ、自分の拵へた借銭は自分に片付けるよつて、心配せいでもよい。……長いことゴテゴテ書いてあるが、煎じ詰めた正味はこれだけや。……あゝさうさう、それから鱧(はも)の皮を一円がん送つて呉れえや。」と、手紙を披(ひろ)げ披げ言つて、逆に巻いて行つたのを、ぽんと其処へ投げた。
 怖い顔をして、ヂツと聴いてゐたお梶は、気味のわるい苦笑を口元に湛(たゝ)へて、
「阿呆臭(あほくさ)い、それやと全(まる)で此方からお頼み申して、戻つて貰ふやうなもんやないか。……えゝ加減にしときよるとえゝ、そんなことで此方が話に乗ると思うてよるのか知らん。」と言ひ言ひ、孫を側の座蒲団の上へ寝さし、戸棚から敷蒲団を一枚出して上にかけた。細い寝息が騒がしい店の物音にも消されずに、スウスウと聞えた。
「奈良丸を千円で三日買うて来て、千円上つて、損得なしの元々やつたのが、福造の興行物の一番上出来やつたんやないか。……其の外の口は損ばつかり。あんなことに手を出したらどん<2字に、傍点>ならん。……一切合財(いつさいがつさい)興行物はせんこと。店の名義は戻つてから身持を見定め、自分の借銭のかた<2字に、傍点>を付けてから、切り替へること。それから、何(ど)うあつても家出をせぬといふ一札を書くこと。……これだけを確(しつ)かり約束せんと、今度といふ今度は家の敷居跨(また)がせん。」
 もう四五年で七十の鐺(こじり)を取らうとする年の割には、皺の尠(すくな)い、キチンと調(とゝの)つた顔に力んだ筋を見せて、お梶は店の男女や客にまで聞える程の声を出した。
 銀場のお文は知らぬ顔をして帳面を繰つてゐた。
 

       六

 夜も十時を過ぎると、表の賑ひに変りはないが、店はズツと閑(ひま)になつた。
「阿母(おか)アはん、今夜泊つて行きなはるとえゝな。……今から去(い)なれへん。」
 漸(やつ)と自分の身体になつたと思はれるまでに、手の隙(す)いて来たお文は、銀場を空にして母の側に立つた。
「去ねんこともないが、寝た児を連れて電車に乗るのも敵(かな)はんよつて、久し振りや、そんなら泊つて行かう。……をツ<2字に、傍点>さんは、もう去ぬか。」
 其の日の新聞を披(ひろ)げた上に坐睡(ゐねむり)をしてゐた源太郎は、驚いた風でキヨロキヨロして、「あゝ、去にます。」と、手を伸ばして姉の前の煙草入を納(しま)ひかけたが、煙管は先刻から煙草ばかり吸ひ続けてゐる姉が持つたまゝでゐた。
「狭いよつてなア此処は、……此処へ寝ると、昔淀川の三十石に乗つたことを思ひ出すなア。……食(くら)んか舟でも来さうや。」と、お梶は煙管を弟に返し、孫の寝姿に添うて横になつた。
「をツ<2字に、傍点>さん、善哉(ぜんざい)でも喰べに行きまへうかいな。……久し振りや、阿母アはんに一寸銀場見て貰うて。……なア阿母アはん、よろしおまツしやろ。」
 何もかも忘れて了つたやうに、気軽な物の言ひやうをして、お文は早や身支度をし始めた。
「いといで。眼がわるなつたけど、こなひだ<4字に、傍点>までしてた仕事やもん、閑(ひま)な時の銀場ぐらゐ、これでも勤まるがな。」と身を起して、お梶はさツさ[3字に、傍点]と銀場へ坐つた。
「またもや御意の変らぬ中にや、……をツ<2字に、傍点>さん、さア行きまへう。」
 元気のよいお文を先きに立てて、源太郎は太い腰を曲げながら、ヨタヨタと店の暖簾(のれん)を潜(くゞ)つて、賑やかな道頓堀の通りへ出た。
「牛に牽(ひ)かれて善光寺参り、ちふけど、馬に牽かれて牛が出て行くやうやな。」と、お梶は眼をクシヤクシヤさして、銀場も明るい電燈の下に微笑(ほゝゑ)みつゝ、二人の出て行くのを見送つた。
 

       七

 筋向うの芝居の前には、赤い幟(のぼり)が出て、それに大入の人数が記されてあつた。其処らには人々が真ツ黒に集まつて、花電燈の光を浴びつゝ、絵看板なぞを見てゐた。序幕から大切(おほぎり)までを一つ一つ、俗悪な、浮世絵とも何とも付かぬものにかき現した絵看板は、芝居小屋の表つき一杯に掲げられて、竹に雀か何かの模様を置いた、縮緬(ちりめん)地の幅の広い縁を取つてあるのも毒々しかつた。
 お文と源太郎とは、人込みの中を抜けて、褄(つま)を取つて行く紅白粉(べにおしろい)の濃い女や、萌黄(もえぎ)の風呂敷に箱らしい四角なものを包んだのを掲げた女やに摩(す)れ違ひながら、千日前(せんにちまへ)の方へ曲つた。
「千日前ちふとこは、洋服着た人の滅多に居んとこやてな。さう聞いてみると成るほどさうや。」と、源太郎は動(やゝ)もすると突き当らうとする群集に、一人でも多く眼を注ぎつゝ言つた。
「兵隊は別だすかいな。皆洋服着てますがな。」
 例(いつ)もの軽い調子で言つて、お文はにこにこと法善寺裏の細い路次へ曲つた。其処も此処も食物を並べた店の多い中を通つて、この路次へ入ると、奥の方からまた食物の匂が湧き出して来るやうであつた。
 路次の中には寄席(よせ)もあつた。道が漸(やうや)く人一人行き違へるだけの狭さなので、寄席の木戸番の高く客を呼ぶ声は、通行人の鼓膜を突き破りさうであつた。芸人の名を書いた庵(いほり)看板の並んでゐるのをチラと見て、お文は其の奥の善哉屋の横に、祀(まつ)つたやうにして看板に置いてある、大きなおかめ[3字に、傍点]人形の前に立つた。
「このお多福古いもんだすな。何年経(た)つても同(おんな)し顔してよる……大かたをツ<2字に、傍点>さんの子供の時からおますのやろ。」
 妙に感心した風の顔をして、お文はおかめ[3字に、傍点]人形の前を動かなかつた。笑み滴(こぼ)れさうな白い顔、下げ髪にした黒い頭、青や赤の着物の色どり、前こゞみになつて、客を迎へてゐる姿が、お文の初めてこの人形を見た幾十年の昔と少しも変つてゐないと思はれた。
 子供の折、初めてこのお多福人形を見てから、今日までに、随分さまざまのことがあつた。とお文はまたそんなことを考へて、これから後、この人形は何時までかうやつて笑ひ顔を続けてゐるであらうかと思つてみた。
「死んだおばん<3字に、傍点>が、子供の時からあつたと言うてたさかい、余ツぽど古いもんやらうな。」
 かう言つて源太郎も、七十一で一昨年(をとゝし)亡(なくな)つた祖母が、子供の時にこのおかめ[3字に、傍点]人形を見た頃の有様を、いろいろ想像して見たくなつた。其の時分、千日前は墓場であつたさうなが、この辺はもうかうした賑やかさで、多くの人たちが、店に並んだ食物の匂を嗅ぎながら歩き廻つてゐたのであらうか。其の食物は皆人の腹に入つて、其の人たちも追々に死んで行つた。さうして後から後からと新らしい人が出て来て、食物を拵へたり、並べたり、歩き廻つたりしては、また追々に死んで行く。それをこのおかめ[3字に、傍点]人形は、かうやつて何時まで眺めてゐるのであらう。
 こんなことを考へながら、ぼんやり立つてゐる中に、源太郎はフラフラとした気持になつて、
「今夜火事がいて、焼けて砕けて了(しま)ふやら知れん。」と、自分の耳にもハツキリと聞えるほどの独り言をいつて、自分ながらハツと気がついて、首を縮めながら四辺(あたり)を見廻した。
「何言うてなはるのや。……火事がいく、何処(どこ)が焼けますのや、……しよう<3字に、傍点>もない、確(しつ)かりしなはらんかいな。」
 お文はにこにこ笑つて、叔父の袂(たもと)を引ツ張りつゝ言つた。
「さア早う入つて、善哉喰べようやないか。何ぐづぐづしてるんや。」と、急に焦々(いらいら)した風をして、源太郎は善哉屋の暖簾を潜らうとした。
「をツ<2字に、傍点>さん、をツ<2字に、傍点>さん……そんなとこおき<2字に、傍点>まへう、此方へおい<2字に、傍点>なはれ。」と、お文はさツさと歩き出して、善哉屋の筋向うにある小粋(こいき)な小料理屋の狭苦しい入口から、足の濡れるほど水を撒いた三和土(たゝき)の上に立つた。小ぢんまりした沓脱石(くつぬぎいし)も、一面に水に濡れて、切籠(きりこ)形の燈籠の淡い光がそれに映つてゐた。
「あゝ、御寮人さん、お出でやす。まアお久しおますこと、えらいお見限りだしたな。さアお上りやす。」
 赤前垂の肥つた女は、食物を載せた盆を持つて、狭い廊下を通りすがりに、沓脱石の前に立つてゐるお文の姿を見出して、ペラペラと言つた。
「上らうと思うて来たんやもん、上らずに去(い)ぬ気遣ひおまへん。」
 かう言つて駒下駄を沓脱石の上に脱ぎ棄てたお文の背中を、ポンと叩いて、赤前垂の女は、
「まア御寮人さん……」と、仰山(ぎょうさん)らしく呆(あき)れた表情をしたが、後から随(つ)いて入つて来た源太郎の大きな姿を見ると、
「お連れはんだツか。……何うぞお上り。さア此方へお出でやへえな。」と、優しく言つて、窮屈な階子段を二階へ案内した。
 茶室好みと言つたやうな、細そりした華奢(きやしや)な普請(ふしん)の階子段から廊下に、大きな身体を一杯にして、ミシミシ音をさせながら、頭の支(つか)へさうな低い天井を気にして、源太郎は二階の奥の方の鍵の手に曲つたところへ、女中とお文との後から入つて行つた。
「善哉(ぜんざい)なんぞ厭だすがな。こんなとこへ来るといふと、阿母アはんが怒りはるよつて、あゝ言ひましたんや。」
 向うの広間に置いた幾つもの衝立(ついたて)の蔭に飲食(のみくひ)してゐる、幾組もの客を見渡しつゝ、お文はさも快ささうに、のんびりとして言つた。
「御寮人さん、お出でやす。」
「御寮人はん、お久しおますな。」
 なぞと、痩せたのや肥えたのや、四五人の赤前垂の女中が代る代る出て来た。其の度にお文が白いのを鼻紙に包んで与(や)るのを、源太郎は下手な煙草の吸ひやうをしながら、眼を光らして見てゐる。
 肥つた女中は、チリンチリンと小さく鈴の鳴るやうな音をさして、一つ一つ捻つた器具の載つてゐる杯盤を運んで来た。
「まア一つおあがりやへえな。」と、女中は盃洗の底に沈んでゐた杯を取り上げ、水を切つて、先づ源太郎に献(さ)した。源太郎は酌(さ)された酒の黄色いのを、しツぽく[4字に、傍点]台の上に一寸見たなりで、無器用な煙草を止めずにゐた。
「こんな下等なとこやよつて、重亭や入船のやうに行きまへんが、お口に合ひまへんやろけど、まアあがつとくなはれ……なア姐(ねえ)はん。」
 自分に献された初めの一杯を、ぐツと飲み乾したお文は、かう言つてから、二度目の酌を女中にさせながら、
「姐はん、このお方はな、こんなぼくねん<4字に、傍点>人みたいな風してはりますけど、重亭でも入船でも、それから富田屋(とんだや)でも皆知つてやはりますんやで。なかなか隅に置けまへんで。」と、早や酔ひの廻つたやうな声を出した。
「ほんまに隅へ置けまへんな。粋なお方や、あんた<3字に、傍点>はん一つおあがりなはツとくれやす。」と、女中は備前焼の銚子を持つて、源太郎の方へ膝推(お)し進めた。
「奈良丸はんと一所に行かはりましたのやもん。芸子はんでも、八千代はんや、吉勇はんを、皆知つてやはりまツせ。」
 かう言つてお文は、夫の福造が千円で三日の間奈良丸を買つて、大入を取つた時、讃岐屋の旦那々々と立てられて、茶屋酒を飲み歩いた折のことを思ひ出してゐた。さうして叔父の源太郎が監督者とも付かず、取巻とも付かずに、福造の後に随いて茶屋遊びの味を生れて初めて知つたことの可笑(をか)しさが、今更に込み上げて来た。
「阿呆らしいこと言はずに置いとくれ。」と、源太郎も笑ひを含んで漸く杯を取り上げ、冷(さ)めた酒を半分ほど飲んだ。
 雲丹(うに)だの海鼠腸(このわた)だの、お文の好きなものを少しづゝ手塩皿に取り分けたのや、其の他いろいろの気取つた鉢肴(はちざかな)を運んで置いて、女中は暫く座を外した。お文は手酌で三四杯続けて飲んで、源太郎の杯にも、お代りの熱い銚子から波々と注いだ。
「お前の酒飲むことは、姉貴も薄々知つてるが、店も忙しいし、福造のこともあつて、むしやくしや<6字に、傍点>するやらうと思うて、黙つてるんやらうが、あんまり大酒飲まん方がえゝで。」
 肴ばかりむしやむしや喰べて、源太郎は物柔かに言つた。
「置いとくなはれ、をツ<2字に、傍点>さん。意見は飲まん時にしとくなはれな。飲んでる時に意見をしられると、お酒が味ない。……をツ<2字に、傍点>さんかて、まツさら<4字に、傍点>散財知らん人やおまへんやないか。今度堀江へ附き合ひなはれ。此処らでは顔がさしますよつてな、堀江で綺麗なんを呼びまへう。」
 かう言つて、お文は少しも肴に手を付けずに、また四五杯飲んだ、果てはコツプを取り寄せて、それに注がせて呷(あふ)つた。
 もう何も言はずに、源太郎はお文の取り寄せて呉れた生魚(なま)の鮓(すし)を喰べてゐた。
 

       八

 お文と源太郎とが、其の小料理屋を出た時は、夜半(よなか)を余程過ぎてゐた。寄席(よせ)は疾(と)くに閉場(はね)て、狭い路次も昼間からの疲労を息(やす)めてゐるやうに、ひつそりしてゐた。
「私(わし)が六歳(むつゝ)ぐらゐの時やつたなア、死んだおばん<3字に、傍点>の先に立つて、あのお多福人形の前まで走つて来ると、堅いものにガチンとどたま<3字に、傍点>(頭の事)打付(ぶつ)けて、痛いの痛うなかつたのて。……武士(さむらひ)の刀の先きへどたま<3字に、傍点>打付けたんやもん。武士が怒りよれへんかと思うて、痛いより怖かつたのなんのて。……其の武士が笑うてよつた顔が今でも眼に見えるやうや。……丁ど刀の柄の先きへ頭が行くんやもん、それからも一遍打付けたことがあつた。」
 思ひ出した昔懐かしい話に、酔つたお文を笑はして、源太郎は人通りの疎(まば)らになつた千日前を道頓堀へ、先きに立つて歩いた。
「をツ<2字に、傍点>さんも古いもんやな。芝居の舞台で見るのと違うて、二本差したほんまの武士(さむらひ)を見てやはるんやもんなア。」と、お文は笑ひ笑ひ言つて、格別酔つた風もなく、叔父の後からくツ付いて歩いた。
「これから家へ行くと、お酒の臭気(かざ)がして阿母アはんに知れますよつて、私(わたへ)もうちいと<3字に、傍点>歩いて行きますわ。をツ<2字に、傍点>さん別れまへう。」
 かう言つて辻を西に曲つて行くお文を、源太郎は追ツかけるやうにして、一所に戎橋(えびすばし)からクルリと宗右衛門町へ廻つた。
 富田屋にも、伊丹幸にも、大和屋にも、眠つたやうな灯が点いて、陽気な町も湿つてゐた。たまに出逢ふのは、送られて行く化粧の女で、それも狐か何かの如くに思はれた。
「私(わたへ)、一寸東京へいてこうかと思ひますのや。……今夜やおまへんで。……夜行でいて、また翌(あく)る日の夜行で戻つたら、阿母アはんに内証にしとかれますやろ。……さうやつて何とか話付けて来たいと思ひますのや。……あの人をあれなりにしといても、仕様がおまへんよつてな。私も身体が続きまへんわ、一人で大勢使うてあの商売をして行くのは。……中一日だすよつて、其の間をツ<2字に、傍点>さんが銀場をしとくなはれな。」
 酔はもう全く醒(さ)めた風で、お文は染々(しみじみ)とこんなことを言ひ出した。
「今、お前が福造に会ふのは考へもんやないかなア。」と、源太郎も思案に余つた。
 

       九

 日本橋の詰で、叔父を終夜運転の電車に乗せて、子供の多い上町(うへまち)の家へ帰してから、お文は道頓堀でまだ起きてゐた蒲鉾(かまぼこ)屋に寄つて、鱧(はも)の皮を一円買ひ、眠さうにしてゐる丁稚(でつち)に小包郵便の荷作(につくり)をさして、それを提げると、急ぎ足に家へ帰つた。
 三畳では母のお梶がまだ寝付かずにゐるらしいので、鱧の皮の小包を窃(そつ)と銀場の下へ押し込んで、下の便所へ行つて、電燈の栓を捻ると、パツとした光の下に、男女二人の雇人の立つてゐる影を見出した。
「また留吉にお鶴やないか。……今から出ていとくれ。この月の給金を上げるよつて。……お前らのやうなもんがゐると、家中の示しが付かん。」
 寝てゐる雇人等が皆眼を覚ますほどの声を立てて、お文は癇癪(かんしやく)の筋をピクピクと額に動かした。
「何んやいな、今時分に大けな声して。……兎も角明日(あした)のことにしたらえゝ。」と、お梶が寝衣(ねまき)姿で寒さうに出て来たのを機会(しほ)に、二人の雇人は、別れ別れに各の寝床へ逃げ込んで行つた。
 まだブツブツ言ひながら、表の戸締をして、鍵を例(いつ)ものやうに懐中深く捻(ね)ぢ込んだお文は、今しがた銀場の下へ入れた鱧の皮の小包を一寸撫でて見て、それから自分も寝支度にかゝつた。

             ── 「ホトトギス」大正三年一月初出 ──
 

(作者は、明治大正昭和の戦後までを生きた著名な小説家。1874 - 1947。最初期の日本ペンクラブに参加している。この作品は代表作であるばかりか、文学史的にも出色の傑作として声価が高い。文学が芸術であることの見本のような味わいに感嘆する。すでに著作権が切れているので、有り難く採録させてもらう。味わってほしい。鰻や鱧の味でありながら、お茶漬けも香の物も吸い物も備わっている。この名作を以て「創作 1」欄を結びとして「創作 2」欄へ移動する。1.9.4掲載)



 
 
 

            風呂場の話      門脇 照男
 
 
 

 風呂場を建てよう、と言い出したのは父だった。
「木は山へ行ったら、いくらでもあるけん」というので、僕は父について山へいった。
 僕はそれまで、父の山へ行ったことがなかった。
「お前もうちの山がどんな山か、どこが境か見ておいたらいい」と父は言った。
「うん」と僕はきまり悪げに返事して、この年がきて(僕は今年、満三十七才になった)まだ父に百姓仕事は任せ切り、気儘な学校勤めをしていることを恥ずかしく思った。僕はこの家へ養子に来てから、ほんとに百姓仕事はしなかった。しなかったというよりは、そんな百姓仕事を極端に嫌って、スキがあればいつか都会へ飛び出そうと、身構えて暮していた。が、そんな身構えはすぐ父や母や妻に見破られて、こっぴどく叩きのめされ、「うーん」と唸って僕はくたばった。くたばりながら僕は思った。<今に見ておれ、ぼくだって……> だがそれはいつも失敗して、僕はとうとう田舎の百姓家に縛りつけられ、その運命をはね返すファイトも、もう湧いて来そうになかった。
 その頃、「風呂場を建てよう」と父が言い出したのだ。
 僕も風呂場が粗末なことは知っていた。
「こんな風呂場やけんど、汗を流してぬくもったらええんや」と、僕がこの家へ養子に来た当座、父はよくそう言った。
 その風呂場は、釜場の裏で、通りに面した土塀とその釜場との間にある半間(はんげん)の通路を仕切り、庇をつけて中へ鉄砲風呂を据えていた。天井はトタンぶき、三方は小砂利の混った荒壁で、それがもう何十年か経っているので、ザラザラして、ちょっと手を触れたらポロポロと小砂利がこぼれた。だから湯の中には豆粒位の小砂利がこぼれ込んでいるのは珍らしくなく、いきなり尻を据えると、チクリと臀部の柔らかい部分をやられるので、いつも、足の裏か手の先でさな(2字に、傍点)の上を撫でまわし、無事を確認して尻を落付けるのだった。
 昼間でもおバケが出るように薄暗い。通路に面した一方には小窓が開いており、入口になった所は一年中開けっ放しだ。その入口の半間を二つに仕切って、右側に風呂の焚き口がある。だから小さな鉄砲風呂は心持ち右に寄り、荒いセメントがその鉄砲風呂を抱きしめている。風呂の入口は、やはりセメントで二段ばかりの階段になっている。体を洗う所はないから、風呂の中に立ち上がって足を釜の縁に持ち上げたり手を伸ばしたりして体をこする。勿論父や母は石鹸など使わないので、風呂の中がそんなに汚れることはない。僕ははじめ、石鹸が使いたいがどうしたものかともじもじしていると、「中で使うたらええが、むりに石鹸を使いたいんやったら」と父は、少し皮肉げにそう言った。
「すみません」と僕が言うと、「ええが、そんでも」と父は言い、「クニ子やって」と僕の妻の名を言って、「こっそり使いよった」と言って笑った。
 シャツやパンツを脱いでも置く所はないから、すぐそばに積み上げたタキギの上にひっ掛けておく。はじめは電気もそこへ引いてなかった。風呂場の隅に三角の木の台を置いて、そこへ蝋燭を立てるようにはしてあった。が、父や母は蝋燭を灯して入ることはなく、妻も入口が見通しになっているものだから、絶対に蝋燭はつけなかった。僕がブツブツ不平を言うと、父はやっと電気を引いて、五燭光の豆電球を取りつけた。それだけでも随分文化的な感じがした。僕が実家にいた子供の頃の風呂もひどかったが、これ程ではなかった。所が電気をつけると厄介なことが一つ出来た。どうしても入口の戸が必要になったのだ。風呂場は、少し奥まった所にあるとは言え、人が来れば、その土塀に沿ってチラと見通しになる位置にあるのだ。それに入口の戸は何といっても必要なものだ。特に冬の木枯しの吹きすさぶ頃、寒風にさらされながら風呂に入るというのも、風流どころの話ではなかった。温まりながら耐寒訓練をしているようなものだった。所が父や母は勿論妻までが、その寒風に吹かれながら風呂に入るのを、それほど苦痛とは思っていないようすだった。
「ぬくもるのはええが、立って洗えもしないし、出た時の寒さ、これじゃ風呂になんか入らん方がましみたいだ」とある夜僕が、妻と寝ながらたまりかねてそう言うと、「それほど寒いこともないのん」と言って、妻は僕の体に抱きついてきた。僕はその時ほど、永年の習慣というものは恐ろしい! と感心したことはない。
  妻は□ではそう言いながら、本当は寒いに違いない。だが自分でどうこうすることはようしないし、それに僕が、電気をつけさせてもらって、又その上に戸までつけるなどと言い出すと、余程の贅沢だと父に叱られることを恐れ、僕をなだめ説き伏せて、何とか平穏無事に、この僕を、この百姓家の一員に馴致しようとする、必死のあがきのせいかも知れなかった。それは徐々に僕の、心に了解されてきたことだが……。
 僕は風呂の人口に、古い莚を垂らす工夫をした。勿論夏は暑くていけないが、冬だと湯気がこもって暖かく、温泉気分だった。父や母は絶対に莚は使わなかった。妻も父母に遠慮してか面倒だからか、莚は使わず、電気を消して風呂に入った。だから莚は僕の専用で、はかない僕のレジスタンスの象徴みたいに見えた。
 すべてこの家には、昔からのしきたりがあるのだ。それを破ることは、例えば釘一本打つことも、それが新規な工事であれば許されなかった。「そんなこと位」と思うことでも、それはすべて僕の、スキがあれば都会に飛び出そうという身構えに通じている、と解釈された。解釈されるぐらいは構わないし、義のためにはチャランバランも演じかねない僕だったが、人の情には弱いという僕の弱点がある。人を泣かせて何になる、すべては自分に撥ね返ってくるという諦めや、イージーな保身の術にも通じている。
 考えてみれば、父も母も妻もかわいそうな人間だ、と僕は思った。戦争中は海軍に行って、短剣下げていた男といえば、きっと体は剛健で、精神も逞しいと父や母は思ったに違いない。それに終戦後は学校勤めをしているのだから、田舎の百姓家にはもってこいの養子だった。
「どうしても、来てもらわんにゃ」と、仲人をしているおクメ婆さんが、三日にあげず実家へ通ってきた。
「これからは百姓がええんや、どない時代になっても、食いはずれはのうて……」と、僕の実父も実母もそう言い、それに僕は僕で、あの戦後の虚脱感という奴が、人並みに僕の心にも押し寄せて、毎日小学校で五年生を教えていたが、一カ月の月給は百姓が作る芋一貫目の相場だし、銃火の下をくぐった身には何といってもままごとみたいな生活で、時たま生徒を並べて一列ピンタを食わせるぐらいが生き甲斐みたいに(今考えれば、ひどいことをしたもんだ)何の張合いがある訳でもなく、それより白いご飯や新鮮な野菜をたらふく食うて、妻と寝て、こどもをこしらえて、山の中で平穏な一生を送ることも、これからの時世にはそれ位が喜びだろうと適当に判断し、判断するより女と寝られるという平和な喜びみたいなものが先立って(あの戦争中、銃火の下をくぐった者でなければ、その実感は湧かないだろう)僕は一も二もなく養子に行った。
 学校勤めはしていても、百姓仕事にも精出して、一家の中心になって働いてくれると信じ込み、養子に迎えたその男が、どんな風の吹きまわしか、事もあろうに一文にもならぬブンガクとやらに熱中し、スキをねらって都会に飛び出そうと身構えている。そんなことなら離縁をすればいいものの、男と女の仲はそれほど単純に割り切ることも出来ず、次の年には八重も生れ、続いてクニオも誕生し、妻は掻爬を繰り返し、僕自身何のために苦しんでブンガクなどしているのか、自分ながらバカくさくなることもあり、それほど才能もない男がと、持前の自己嫌悪からノイローゼ気味、そんなことならこの田舎で、かわいい妻と抱き合って、偕老同穴とまではいかなくとも、平穏無事な生涯を終えることも自分の身に合っているなどと、変な諦めもしているのだった。
 そのようにして十五年、せめて風呂場に電気をともし、莚をぶら下げる位が関の山で、僕はすっかり田舎者になり切って、ブンガクの方もボチボチというところだった。
「風呂場を建てよう」と言い出したのはその頃だった。僕は全く驚いた。驚いたというのは、何も客観的な根拠がある訳ではなく、もう風呂場を建ててから四十年(僕よりも年寄りだ)、祖父母に父母、そして父の兄弟姉妹が八人、僕ら夫婦と二人の子供、それらがうようよわいわいと、四十年近く使い古してきたのだから、もう使い甲斐は十分あったし、天井のトタン板も、煙突の熱気のためか、すぐ赤茶けてボロボロし、部屋全体が煤けてタヌキの巣のようだった。そんなものだから、風呂場を新築するのは何も不思議はないのだが、それが父の口から言い出されたので驚いた訳だ。
「風呂場を?」と僕は言った。
「そうや、こないにはどんどん新築の家が出来よるやろ。ブロックや鉄筋の家まで、こない山の中にも出来る時世や、それに人間一代働いて、一つ位の家は建てにゃ笑われるがい」と父は言い、
「おりや(母屋)や納屋までは手が出んけん、風呂場でも建てるんや」と言って、「お前も手伝え」と僕に言った。
  手伝え、というのは、肉体的な労働もあるが、お金を出せという意味でもあった、僕の月給は、毎月僕のタバコ代と小遣いを差し引いて、そっくり妻の手を経て父に渡されていた。父はタバコも吸わず酒も飲まず、道楽は何一つしない男だから、そのお金は誰かの名義で貯金されているのに違いなかった。しかしそんな通帳を僕は見せてくれとも言わないし、見せてくれたこともない、僕は余り不自由せずに、どうにかその日が過ごせればいい方だから、そんなことには恬淡としていた。それだけは多分に父の気に入っているらしかった。そんな手前父は、僕に多少の義理立てをするつもりで言ったのだろう。
「そりゃ、風呂場を建てるのは賛成やけんど……」と僕は言って曖昧に笑った。父もきっと照れ臭かったに違いない。父が家のことで僕に相談を持ちかけたのは、後にも先にもこれだけだったのだから……。

 父と一緒に山へ木を見に行ったのは麦蒔きも終った十一月の末の、よく晴れた日曜日の朝だった。
 長女の八重と妻は、小学五年になるクニオを連れ、バスに乗って町へ買物に行った。八重は中学三年になるのだが、冬物のスラックスが欲しいと言っていた。クニオはバスに乗るのがうれしいものだから、どうしても一緒に行くと言ってきかなかった。
「今日は、みんなお出かけかえ」と母が、干した柿をすばぶりながら、玄関の所まで出て来て、
「おバア一人はさみしかよ」と柄にもないことを言った。
「何モウロクしよったか、アホタレ。猫のミーもおるし、鶏のハミもやらないかんのや」と父がどなった。
「ほいでも、さみしかよ」と母は言い、腰を曲げて、ひょこひょこ庭をうろついていた。
 母は六十三になり、父より四つ若いのだが、誰が見ても母の方が五つや六つは年寄りに見えた。それは腰が曲がっていることと、歯が殆どないことと、髪がすっかり白くなっているのでそう見えるのだった。
 腰が曲がっているのは或程度体質で、僕がこの家に来た時の五十才近くの頃から、大分くの字になっていた。八重が生まれてから母は百姓仕事は妻に任せて、八重の子守りにかかり切ったが、もうそのころは最敬礼をした位になっていたので、子守りには都合がよかった。背中にひょいと放り載せると、帯で締め上げる必要もなく、ずり落ちる心配もなく、ひょこひょこ歩く母の背中に取り付いて、八重はままごとなどして遊んでいた。
 最近では、頭を垂れた稲穂みたいに、水平以下に頭が落ちこんで、亀みたいに顔だけ持ち上げて歩いていた。随分苦しいだろうとこちらは思うのだが、病気一つしたことはなく、腰が痛いとも言わず、ちょこちょこした足取りで、二十羽ほどの鶏の世話をして毎日呑気にくらしていた。
 歯は奥歯が二三枚あるだけで、前歯は上も下もすっかりなかった。それでもかなり固いものでも食いちぎり、漬物など、カリカリと音を立てて奥歯でかんだ。それで消化不良もおこさないのだから、歯ぐきもすっかり硬化して、歯のように固くなっているのに違いなかった。唇は内側へ漏斗状にくぼみ、放射状の皺が顔の下半分を絞り上げて唇に向って走っていた。それだけでも、随分年寄りに見えるのだ。髪が白いのはかえって気品がある位のもので、朝夕椿油をつけてきれいに撫でつけ、「禿げとるのよりよっぽどましや」と言って自慢した。それを言うと父はすぐ気嫌を悪くして母を睨みつける。父は額ぎわから頭のてっぺんまで、つるつるに禿げ上がっていた。これは一種の遺伝みたいな病気で、耳の上や後頭部には黒い髪が密生している。それで体こそ小さいがでっぷりして、浅黒く灼き込んでいるのだから、遠目には幕末の志士のはしくれみたいに、精悍な容貌にも見えていた。
「しゃんとしたオナゴやけんど、おバアも年が寄ったわい」と父は、僕と一緒に山道を登りながらそう言った。

 この頃母はよく、一人になると淋しがった。
「はよ、もんてこいよ」と、誰かが外出する時には必ず言った。それは母が、つい半年ほど前に、実家の兄を失ったからではないか、と僕は思った。母の実家の兄は七十三で死んだ。二人だけの兄妹で、その兄に死なれると、やはり年は取っていてもかなりこたえるのだなと僕は思った。
「お前もうなんぼになったや」と父が言った。
「満で三十七や」と僕が言うと、
「若いのォ」と父は言い、「わっしゃかしお前位の時にゃ、それこそ働き盛りやった。力も強うて、一俵の米俵は軽うに差し上げとった。八段歩の田をおバアと二人で耕して、その上秋と春には蚕も飼いよった。ようけ飼うた時は、繭が五十貫もでけたことがある」と昔を懐しげに言い、「ちょっと見てみい」と言って、坂の途中で立ち止って向うの山を指さした。
「今、あそこにみかんを作っとろう、あそこがもとはうちの桑畑やった。この下の道をおバアと二人で、しいこら、しいこら、たなかご(4字に、傍点)に一パイ桑を摘んで、担うて帰ったもんや」
「ほォ」と大げさに、僕は感嘆を示し、「えらいこっちゃったなァ」
「えらいも何も、その頃は感じざった。ただ働くのが面白うてのう」
 父は僕の方をチラ、と見ると、又先に立って坂を登った。父がそんなに親しげに僕に話しかけるのは珍しいことだった。しかしそのチラとした流し目には、やっぱり不甲斐ない僕を蔑(さげす)んだ色があった。それは僕のヒガミかも知れないが……。お前がもっとしゃんとしとったら、近所並みにタバコもどんどん作れるし、桑畑を人手に渡すこともない、と言っているようだった。しかしこの頃になっては、父も百姓仕事が割に合わない仕事だということは知っていた。知っていながら、僕の前では、そんな素振りはおくびにも出さなかった。僕には父の強がりが傷(いた)ましい位に思われ、「この年がきて、そんなに働かいでも」と僕は思った。でも若い時から叩き上げた百姓仕事は、父にとっては一つの道楽みたいなもので、用事がなくても朝は暗いうちから起き上り、ズボンの裾をまくってあちこちする。動物園にいる或る種の動物の本能的な習性にも似ていると、僕はそんな父のようすを眺めてもいた。
 その年の梅雨は一卜月位早くきて、半熟になった麦が立ち腐れの状態になっていた。近所のタンボでは刈り取るのは手間損やからと、タンボに火をつけて燃したりした。所が父は、「もったいない」と言って、僕の妻を督励し、すっかり刈り取って母屋と納屋の軒下に積み上げた。堆肥にでもするのか、と僕が思っていると、次の日曜日を当てこんで、「お前も手伝え」と、朝早くから発動機を唸らせた。麦こぎをして、たとえどれだけでも麦をとらにゃ、と父は言った。「油代も出んじゃろう」と僕がブスッと言うと、しばらくして「のほほんと遊びくさって、たまの日曜日に手伝う位が何ぞ」と父は、向うへむいてうそぶいていた。母がそれを取りなすように、「鶏のハミ位はでけるけん、まあこいでみんな」とアヒルが泳ぐような恰好で、大した仕事も出来ないのに、忙しそうにちょこちょこしていた。
 僕は手拭いでホーカムリをし、綿ボロを耳の穴につめ込ん.で(あの発動機のパンパン言う音を耳元で聞いているのは耐えられない)生乾きの腐れ麦を機械の中にかましていった。
 麦こぎ機は最新式の自動型で、一握りずつ位の麦をかまし台の上に押し並べて、順々に歯車にかましてゆく。すると、その歯車が自動的に麦を送って、麦粒だけを弾き落し、麦殻は向う側ヘポタポタ落ちてゆく。僕はその麦を並べてかます役目だ。父は全体の指揮や機械の点検、その合間で麦束を僕の側まで運んでくる。妻は麦殻を大きく束ねて庭の一方へ積みヒげてゆく。母はかますを当てがって麦粒を入れる役目だ。どの仕事も一刻の猶予もないが、僕の役目は細かい注意を必要とする。うっかりすれば、麦と一緒に手を歯車の中へかましてしまう。又一度にどっと麦を送ると、荷重になって、エンジンは停まらないまでも革ベルトを外してしまう。一度ベルトを外したりエンジンを停めたりすると、弾んだ調子を狂わせられて、みんな気嫌が悪くなる。だから僕の仕事は一番責任の重い仕事だ。用心はしていたが、僕はその日、再三エンジンを停めたりベルトを外した。でもそれは僕のせいではないのだから、みんな吐息をついて、「何さま麦が半乾きじゃけん」と天とうさんを恨んでいた。
「そうや、もっと干さにゃこげられへん」と僕も勢いに乗って言いまくった。
「しょうがないわ、ほいだら干すか」と父が言った。僕はもう半分こいだのだから、そして大して麦粒もこぼれ出してはこないのだから、後の半分位は堆肥にしても、と思っていたが、父はあくまでこぐのだという。「堆肥にするのは麦殻だけで十分じゃ」と父は言い、庭一面に残った麦を拡げていった。僕は庭の隅に突き坐って、みんなのようすを眺めていた。父はチラッ、チラッと僕の方をはがゆげな顔して見るが、僕はてんで取り合わず、取ってつけた咳払いなどしてはかない抵抗を試みたりした。しかし後になって考えてみると、父も七十に近くなって、いくら本能的な習性とは言え、そのすさまじい執念は、僕の心に一つの感動を呼ぶほどのものでもあった。
 僕は父のそんな執念を、僕の知っている作家の一人に当てはめても考えてみるのだった。その作家は、誠実な文学の鬼と定評されている作家だ。自分から不幸を買って出るような人で、安楽なくらしの出来る身分だのに、純文学一途に打ち込んで、それも地味な私小説だから原稿の売れ行きも悪く、終戦直後に狂った妻を死なせていた。ところが最近、六十を幾つか過ぎて脳溢血にかかり、歩行もかなわず痩せ衰え、自分で原稿を書くことも出来ず、看護の妹さんに口述筆記させているのだった。その口述もたどたどと、永年つきそった妹さんにも聞きとりにくく、それでも小説を書くことを諦めようとはしていない。僕はそんな話を聞くたびに、執念の恐しさをまざまざと見る思いだ。僕の父とこの作家と、一口に論ずることは出来ないが、僕は父の執念も、決して笑いごとではないと思うのだ。僕は肉体労働を本質的に蔑視はするが、それでは僕にどんな執念があるというのだ。何につけてもジレッタントで、口を開けば不平を言い、適当にお茶を濁してその場をしのごうとする。恥ずかしい ! と僕は思った。
 チラッと父が流し目をくれるのも、僕にとっては頂門の一針なのだ。

 道は猫車がやっと通れるほどの山道で、それが雑草に覆われ、つづら折りになってどこまでも続いていた。時々視界の開けた所に出ると、僕の村がはるか目の下にかすんで見えた。細長い谷間の村だ。一本の白い県道が、その谷間を縫ってくねくねと続き、その道をはさんでパラパラと在所がある。一つ二つと読んでいっても、数えるほどしかないその家並みを、僕はじっと見下していた。父も坂の途中に突ったって、それを見ていた。
「ツネヒコはんきが見えるじゃろう」と父は僕に言った。
 ツネヒコはんきの話は聞いていた。ツネヒコはんは僕より二つ三つ上らしく、終戦直後僕と前後してこの村へ養子に来た。だから僕は父母から、ツネヒコはんの話はよく聞かされた。二つ三つ向うの村の村長の末子だということだった。農学校を出ており、来た当座は村役場へ勤めていた。が、それも一種のアクセサリーだったらしく、二、三年で役場をやめると、十年このかた百姓仕事に打ち込んでいる。タバコ耕作組合理事、村会議員など三つ四つの肩書きを持ち、村の顔役らしかった。百姓は落ち目だ、と言っても、多角経営で骨身惜しまず働けば安月給よりよっぽどいい。ツネヒコはんはそれを実証しているそうだ。
「ツネヒコはんはしっかりしとる。お前も一ぺん聞きに行け」と父が言ったのは、三年ほど前の村会議員の選挙のときだった。ツネヒコはんは部落の人に推されて、村会議員の選挙に立候補したのだった。その立会演説会が、村の小学校の講堂で催された。父は、二三日前の街頭? 演説でツネヒコはんの話を聞き、大変感心して帰ったのだった。
「ああ」とは言ったが、僕は気が進まなかった。ライバルなどという意識はちっともないのに、そんなことをけしかけて、ちっとは僕をましな人間にしようとする父の魂胆らしかった。
「頭が痛うて、ふらふらする」と僕は嘘を言った。父は見下げたろくでなしだと言う風に、僕の方をチラッと見ると、「じゃ、留守番しとるか」と言って、父母と妻との三人は、てんでに座布団など小脇に抱え、旅行にでも行くようなよそ行きの顔つきつくって学校へ行った。
 ツネヒコはんは最高点で当選した。前村長の実父の威光もあったかも知れないが、それはツネヒコはんがこの村へ養子に来て、いかに立派な家庭を築き、部落や村のために献身しているかの何よりの証左となった。僕の一票など、ツネヒコはんの前には、吹けば飛ぶようなものだった。
「ツネヒコはんは、今、鉄筋の家を建てよるっちゅう話や、ここから見えろうが」と言って、父は左手の山分部落の方を指さした。
 僕はツネヒコはんきがどの辺か、ちっとも知らなかった。この十五年村に住んでいるとはいえ、僕は毎日町の学校ヘバスに乗って通っている。僕にとっては二十軒程の部落の人さえ、その顔と名前が一致せず、ひどい醜態を演じたことも再三だった。それはひとえに僕の生活態度にかかっていた。この村は仮の里、という観念が、ぼくの心にこびりついている。もう十五年、夜がくれば帰ってくるが、愛着などというものはちっとも湧かない。だから子供の方がよっぽど詳しい。どこそこに栗が落ちているとか、あの淵にはうなぎがいたとか、誰さんきの婆さんが中風で寝ているとか……。僕はそんなことばを聞くたびに、抱きしめたくなるほど子供がいとしい。が、そんな時に限って僕は、キョトンとした蛙みたいな顔つきで、こんなことを考える。僕の住む所は、はるか彼方の、その茫漠とした雲霞の果ての、ちっちゃな文化住宅の、ネオンまたたく……。
「クソバカ!」と叩きのめされ、「う一ん」と唸るたびごとに、僕の心は現実に引き戻されて、「あっそうだった、ここは田舎だ。ツネヒコはんも鉄筋の家を建てるのか」と、それがちっとも自分には関わりのない、バカみたいなことの連続で、それでもそのバカみたいなことが、本当は僕を閉じこめ苦しめて、息の根も止めようとしているのだった、と思いつく。
 なるほど父の指さす彼方を見ると、鉄のやぐらがひょろりと伸びて、黒っぽい塊みたいなものが山の麓にもり上がっていた。
「おじいは五年ほど前に死んだけんど、ツネヒコはんがこじゃんとしとるけんのォ」
 僕は嫌な気がした。いくら性分とはいっても、そして今まで、いくらこれに類したことはいわれておるとはいえ、余りにも露骨に僕に当てつけたそのことばは、コチンと僕の心に突き当たる。僕は返事もしなかった。
「さあ、もう一息、すぐそこや」と言って父が立ち上った時、ヒョロリとひょろけて、ドシンと尻餅をつき、そこが急勾配だったものだから、上体を僕の方へ仰向けてきた。僕は一間ほど後にいたが、慌てて駆け寄り、片膝折ってどうにか上体だけは受け止めた。
「どしたんぜ」と言うと、「うッ」と父は白い眼をむいて下から僕の顔を斜(はす)かいに見上げ、「何でもない、ちょっとひょろけたんや」と言った。もし僕がいなかったらどうだろう、とその時僕は思った。そう思うことはちょっと小気味よい位のものだった。コツンと石か何かで頭を打って、ついでに二つ三つは転げていよう。「あ、いたッ」とか何とか言って、父が顔を顰(しか)めて立ち上がっている姿が浮かび、僕は思わずほくそ笑んでいた。
 父は最近とみに足が脆くなっていた。二年ほど前「オートバイに乗ってみる」といって、母や妻が止めるのも聞かず、近所の若い衆にモーターバイクを借り、広庭でしばらく稽古した。「世話ないがい、こんなの、自転車と同じや」と言って、調子に乗って無免許で走っていた。ところがそのあげく、家の前の深い田圃へ飛込んだ。現場を見ている者はなかったが、近所の若い衆が二三人来て、モーターバイクを引き上げた。どこも怪我はしていなかった。「止まった時、ちょっとひょろけたんや」と父は言った。それはそうかも知れなかった。が、以後父はモーターバイクに乗ろうとは言わなかった。父も、自分が老いぼれたということは感じたらしかった。僕に対することばでも、昔のような覇気はない。
「ここやで」と言って父が立ちどまった。僕はその沼のほとりに立って上を見上げた。ジャングルみたいに雑木が茂り、(僕は木の名前を殆ど知らないので何でも雑木だ) その中にポツポツと曲がりくねった松が、ひょろりとした枝ぶりで伸びていた。山と自慢するから、もっとどっしりした大木がぎっしり生えているのかと思ったら、そうでもなかった。「この沼から上がそうや。一通り見て廻るきん、境を覚えておけ」と父が言った。
  僕は興味がなかったが「うん」と生返事した。生返事はしたが、僕にはズシンとこたえるものがあったのだ。〈この山も、いつかは僕の山になる〉という、一種めいるような重い感じだった。
 境の左手は、ヒデマサはんきのみかん山だった。
「ヒデマサはんは、毎年一尺位境を切り込んできやがる」と父は言った。
「見てみイ、この木など枯れよろうが」と言って、父は一本のかなり太い松の木を両手で揺すった。それはちょうど境にあって、境の溝を深く切り込んだために、根が半分位切断されていた。これはひどい、と僕も思った。
「もうボチボチ枯れかけとるんや」と父は、ちょっとうるんだ、いかにも無念そうな目で梢の辺りを眺め上げ、「去年まではこの根もあった」と言って、切り落とされた小さな木の根の、こぶこぶした所を撫でていた。
「うっかりしたらすぐこれじゃ、どうせ枯れようが、枯れたってこれは置かにゃいかん、何よりも境の目印じゃけんのォ」
 父もヒデマサはんの悪どいやり方には、何十年も手を焼いてきたらしかった。
 頂上へ登った所で、「これからが分りにくい」と言って、「用心せにゃ、急な下りやから足元も危いし、それに、何が出るやら知れん」と言った。それは全くジャングルだった。「ここに石があろう、これから左がヨシオはんきの山だ」と父は言った。「この石だけが目印じゃけん」
 その石は、男がゆっくり一抱えするほどの何の変哲もないものだった。「おじいの代から、そのまま据わっとる」と父は言った。そんな石が十間間隔位で、ジャングルの中の芝の腐れや枯枝の中に埋まっていた。そんな石をさぐりながら父は、時々山の中へ踏み込んで、
「これはいい、棟木になる」とか、「これは柱や」とか言って、そんな斬る予定の奴に持参した赤紐を巻きつけていった。
 父が思わぬ災難にあったのは、そんなことをして二時間余り山の中をうろついて、もうすぐ、さっきの沼へ出る小径へ下りようとする時だった。
「いたッ」という父の悲鳴を僕は聞いた。「どしたんぜ」というきまり文句で、僕がジャングルの中を掻き分け、父の所へ近づくと、父は手拭で顔を覆ってゃがんでいた。
「蜂じャ、クマン蜂じゃ、目をやられたッ」
と言って、父は「はよ、ションベン出せ」と言った。そう言ったってたやすく小便の出る訳はないが、僕は慌てて、チョビ、チョビと出して、それで手を濡らして父の右目の上へすり込んだ。もう目の上は赤く爛れて上脹れていた。それがケチのつきはじめだった。

「永年山へ行くけんど、こなんことは初めてじゃ」と父はにがり切って座敷に寝転がり、濡れた手拭で目の上を冷やしていた。
「今朝は、何か悪いことがあるような気がしたんじゃ」と枕元に坐った母が、もういっぱしの病人扱いだった。
「アホ、気のせいじゃ。淋しかよなどと、変なことを言うからよ」と父は怒った。
 妻も二人の子供も、父の枕元をちょろちょろして、今だかつて見たことのない父の、そんな病人姿を不思議そうに眺めていた。
「病院行くかぜ」と僕は言った。
「こななことで病院行ったら、それこそ笑われるが」と父は言い、「もう治っとろが」と言って手拭を外した。それはいかにも父の強がりを示すものだった。右目は赤いボタ餅を押し当てたように脹れふたがり、左目にも波及して、目の潰れた伎楽面のようなまずい顔になっていた。
「気が重た一い」と言って二三日ぶらぶらしたが、十日程して父は大工を呼んできた。大工といってもこの村にいる叩き大工だ。叩き大工というのは、金槌でやたらに釘を打つだけの間に合わせの大工のことだ。やぶ医者というようなものだった。
 叩き大工の善さんは、父と二人で風呂場を建てる位置を物色した。現在の鉄砲風呂がある位置は狭すぎる。それに、拡げるとしたら釜場まで改造しなければいけなくなる。木は山にいくらでもあるのだから、そんな補修のようなことをするのは父の気に入らぬらしかった。
「一戸建ちの、ごりっとした奴を建てる」と父は言い、そうなると、どうしても釜場の裏の柿の木のある所、ということになる。そこは土塀が鍵の手になった三角形の空き地で、牛屋の寝座をかえる時などは、その柿の木に牛を繋いで遊ばせておいたりする。そこを通って裏の小路へ抜ける開き戸が、土塀をくり抜いてつけてある。
 そこにある柿の木は古い奴で、僕が養子に来た時から、ちっとも変らぬ枝ぶりだ。西条柿という奴だ。渋柿だから熟さないと食べられない。母はその柿が好物で、熟した奴を一日に十個位は平気で食べる。青い柿の実の皮をむいて、藁に通して土塀に鈴なりにぶら下げ、こげ茶色にしなびた奴を冬口まで、母はうまそうにしゃぶっている。
「柿の木も斬らにゃ」と言い出した時、母はまっこうから反対だった。善さんはそれが仕事の邪魔になるので嫌な顔をしたが、結局枝を刎ねるということに落付いた。
 仕事にかかると善さんは、四五人の若い衆を引き連れてきて、父の山から木を斬り出し始めた。猫車を引いて善さん達は毎日山へ通っていた。四五日も行ったろうか、庭に大小とりまぜて三十本程の松の木が並べられた。父と母とが朝暗いうちから起き出して、毎日松の皮をむき、善さんが墨をつけて手斧を掛けた。一方、三角形の空き地は別の人夫が三人程来て、セメントで地形(ぢぎょう)した。二坪程の小さな家でも、叩き大工の善さんには大仕事らしく、二十日かかってもまだ棟が上がらなかった。僕の男の子は、毎日人が来るもんだからお祭みたいにはしゃいで、木屑を振り撒いて忍者霧隠れの術を演じたりしていた。
 暮の二日と正月の三日、善さんは仕事を休んだ。そして一月中旬の、棟が上がるという前の日に、突然父がぶっ倒れた。それはほんとにぶっ倒れたという感じだった。朝起きると、父の顔はブクッと脹れていた。脹れているのは顔だけでなく、胸から腹、足の先まで全身そうだった。朝起きて来ないものだから、母が不思議がって寝間を覗くと、「うん、うん」唸っていたそうだ。
「どしたんぜ」と母が言うと、「う一ん、えらい」と一こと言って父は歯をくいしばったそうだ。母が呼びに来たので僕がとんで行くと、父は蒲団で顔を隠した。
「脹れとるんじゃが、見てみい」と言って、母が父の蒲団を無理にはがした。父が、しぼみかけた風船玉みたいな顔を向けた。
<蜂の毒 !>と一瞬僕はそう思った。〈今頃ぶり返すとは何ごとだろう!〉
  僕はすぐ近所のタバコ屋へ走って医者へ電話をかけた。村の医者がやってきたのはそれから一時間もたっていた。
「ご苦労さんです」父は慇懃に医者に礼を言った。若い時から医者に手を握られたことがないというのを自慢していた父だけに、その時の気持はどんなだろうか、と僕は思った。
「一週間位前から、力仕事したら胸がえらかった」「昨日から、小便がツイも出とらん」などと父は、医者に訊かれると、ボソボソした声で返事した。
「どうしてわたしに、何もかも言わなんだんぜ」と言って母が悔やんだ。
「やっぱり腎臓げなな、よっぽど急性ですわ」と一通り診察したあとで、医者が自信ありげにそう言った。
「ジンゾウ ?」と母がおどろいた。
「ゾウのつく病いは、むつかしい言うて、聞いとりますけんど」
「ま、手当てが早かったら何とか、とにかく町の病院へ入院せないきまへんな」と医者が言い、黄色い注射を一本打ってから紹介状を書いてくれた。
  僕はすぐ車を呼んで、妻と二人で父を車まで運んだ。父は無理に歩くと言ったが、二三歩あるいて諦めた。父は黒っぽい着物をゾロリと着て、毛糸の首巻きをし、妻の地味なネッカチーフで顔を隠した。
  町の病院でも診立ては同じく腎臓病で、父はその日から重患病舎に入れられた。
 次の日の棟上げは延期して、善さんも病院へ見舞に来た。
「ほんに、縁起が悪いこっちゃ」と母が陰でぶつぶつこぼした。
「あの風呂場を建てるんが悪いんじゃろうか……」と母が言った。そう言えば、僕がはじめて父と山へ木を見に行った時が、ケチのつきはじめのような気もした。そして棟上げの前の日に倒れたのだ。僕はそんな縁起はかつぎたくないが、「風呂場を建てよう」と言い出してからの父は何もかもついてなかった。
「ほんまは、山へ木を見に行った前の晩に、夢見が悪かったんや」と母が言い出した。僕はその時、「さびしかよ、さびしかよ」と言った母のことばを思い浮かべて気味が悪くなった。
「あんたがな、死んだ夢見たんや」僕はドキンとした。
「あんたがな、今頃になって、急に東京へ行く言い出したんや。みんな止めたが聞かなんだ。ほいだらどないなったんか、あんたが死んで戻っとるんや」僕は二度ドキンとした。「言おうと思うたが、どうしても今までよう言わなんだ」僕は薄暗い病院の廊下に佇んで、十五年間の僕の所行を取りとめもなく思い浮かべた。
 バカの一つ覚えみたいに、ブンガク、ブンガクと眩きながら、あてどなく暮してきた十五年だった。それで何ほどのことがあったというのか。僕はもうブンガクはやめよう、山の中に埋もれて清らかな庶民の一生を終えようと、そんな法悦みたいなものを考えはじめている。が、それが又機縁になって、ブンガクのしがらみの中にさ迷い込む凡夫になったりもした。そんな僕の心の陰微な揺れは、家の者には分らない。妻にだって分らない。
「あんたがブンガクなんかで身を立てたって、わたしはチッとも嬉しいとは思わない」
 高等女学校を出た十九才の春から、妻は百姓仕事一式で、新聞もろくろく読まず、まして小説などと言うと、都会の若且那の寝言ぐらいにしか考えていない女だった。顔は浅黒く灼き込んで、手は男みたいにごつごつしている。そんな彼女に腹を立て、ブンガクの本など投げつけて、目くじら立ててどなり合い、身も心もくたくたで、そのくせ夜がくると抱き合って、男と女の哀しいさがも見せていた。が、そんなファイトも今はなく、僕は東京へ行きたいなどとは、もう思わなかった。が、僕の求めるものが、やはり田舎の風物にそぐわぬものであることは、僕自身、そして父母も妻も知っていた。僕は何よりも煩わしい近所付き合いや、ごてごてした人の噂に耐えられない。だから僕のそんな思想傾向は、すぐ東京ということばに結びつけて考えられてしまうのだった。
 父は頼りにならぬ男にアイソをつかし、「死んでもお前らの世話にならん」と言いながら、僕を連れて山へ木を見に行ったりもするのだった。やはり今となっては、僕以外に頼る男はないという、諦めの境地であろうか。それは父の気力の衰えを示していることでもあった。
「そななんは、迷信や!」と言って、僕は母の前でチェッと舌打ちした。

 父の病気は一進一退で、もう二カ月にもなるのに、一向恢復の見込みは立たなかった。「医者の薬は信用でけん」と言って、母は、煎じ薬やまじないなどを、人から聞いては取り寄せて、「お父はん、やってみんな」と言って、いやがる父を無理に説き伏せ、医者の目を盗んで色々試みた。それはトウモロコシのヒゲであったり、蛇の皮であったりした。トウモロコシのヒゲは煎じて飲むが、蛇の皮は飯粒をつぶして足の裏に貼りつけるのだった。それはまじないで、微熱も取れて小便もよく出るようになる、ということだった。が、一向に効果はなく、父の衰弱は日増しに目立った。
 一方僕は、うっちゃっておいた風呂場の工事を、善さんに頼んで始めていた。僕はその棟上げの日を心配した。三度目の正直ということがあるからだ。が、棟上げが終った夜おそく僕が病院へ行くと、父は案外元気で、うつらうつらと眠っていたが、「建ったかや」と言った。「建ったけんど」と僕が言うと、「ほいだら、瓦ぶきは、山分のハジメはんにたのめ」と言い、浴場にはタイルを張って、脱衣場には大きな姿見をつけるんや、それから螢光灯も引くように」と言った。
 その時、ベッドの下へうずくまって寝ていた母が、「お父はん、心配ないわな、みんなけっこうにしてくれるけん、早う治っていのうなァ」と殊更哀れげな声で言った。父に悪い ! と瞬間僕はそう思った。
  父は黙って顔を横へふり向けた。その顔は、一頃のような脹れは引いたが、黴びたような色で、たるんだ皮膚が、ぶよ,ぶよしていた。変れば変るものだ、と僕は思った。病気は悪魔がとりつくというが、ほんとにそんな感じだった。あの幕末の志士のはしくれみたいな精悍な顔が、今は虫の息で、いとどなよなよと気力も失せて息づいている。
 よく見ると、その横顔が小刻みにふるえていた。〈おや?〉と思って僕はそれを見ていた。僕が話しかけても、父はもう返事もしなかった。父は泣いていたのだった。
りょうてん
 それから三日ほどして僕が病院へ行くと、「やっぱり竜奠(りょうてん)はんにおがんでもらおう。もう頼りになるのは竜奠はんだけや」と母が言い出した。それは、僕にも父にも哀願するようなひびきがあった。
 母は竜奠はんの信者だった。実家の兄が七十三で死んだ時にも、母は竜奠はんにおがんでもらって、実家の庭の五葉の松を根こそぎ切らせた。ために兄は、半年以上は長生きしたと母は信じていた。竜奠はんはこの地方にはやっている占師で、この人が占えば大ていの病気は治る、という迷信があった。母だって、もともと迷信だということは知っているのだ。父は今まで母がいくらすすめても、「クソバカが」と言って相手にしなかった。が、今度ばかりは、母の説得になびいたようだ。なびくというより、父はもう体力も気力も衰えて、「すきなようにしたらええが」という諦めの方が強かった。父はもう、自分の死期の近いことを悟っていたのではなかろうか。
 それから二三日して、僕が竜奠はんに頼んで行くと、赤ら顔のコロッと肥えた六十がらみの竜奠はんが、洋服姿でスクーターに乗ってやってきた。
 早速座敷のまん中に急拵えの祭壇を作り、派手なベロベロした着物を纏うと、父の姓名や生年月日などを詳しく聞いて、「竜奠大明神」と書いた金や銀の紙きれを、手品師みたいな手付きで打ち振り、卦を出しては、ぶつぶつ口の中で呪文を唱えた。それから竜奠はんは、懐中時計のような磁石を出して方位を確かめ、邸の中心を測った。それから家の中や邸の中を、呪文を唱えながら歩きまわった。やがて祭壇の前に戻った竜奠はんが、しばらく呪文を唱えていたが、赤ら顔のキョトンとした顔を僕の方へ向けて、おごそかに言った。
「家相が悪いなァ」
 そのことばは、真実、感に打たれた者でなければ到底発することが出来ない程の、威厳と寂蓼に満ちたものだった。僕の心の中を、瞬間、悲哀感がつき抜けた。〈やっぱり ! そうか……〉と僕は思った。妻も僕に並んで坐り、男みたいに頑丈な拳を膝の上で握りしめている。二人の子供はすっかり怯えて、竜奠はんが来た時から、どこへ隠れたのか姿も見せない。
「こんな不吉な家相の家も珍しい。これでよう、障りもなしに持ってこられた。不思議な位じゃ」と竜奠はんは言い、「大明神様のおかげで原因も分ったんやから、この上は、まず何よりもあんたが(と僕の方をじっと見て)、竜奠大明神様を信仰することじゃ。それともう一つ、さし当っての応急処置と、これが必要じゃ」と言った。
〈何や、いい気になりやがって! ケチをつけるのもいいかげんにしたらいいわい !〉僕の心に不思議な闘志が湧いてきた。それは今まで眠っていたものが、非常に自分にとってかけがえのない何かが、ガバッと身を起す感じで、僕自身驚いた。
「それで何ですかいな、こんな不吉な家相も珍しいんですかい !」と僕は皮肉をこめて、露骨に反感を示した。妻がはげしく僕の袖を引いて泣顔を作った。
「まァ、そうむきになりなさんな、これもみんな大明神のお告げなんじゃ、今はまだ顕現しとりなさらんようじゃが、普段の竜奠大明神の信仰が何より大切じゃ、それさえあれば、そんなものは抑えられんことはない」
 その勿体ぶったことばが気に食わない。こんな迷信にやりこめられてたまるもんか、人事を尽くして天命を待てばいいんだ。家相もクソもあるものか。
「詐欺(さぎ)みたいなもんや」と思わず僕は呟いてしまったのだ。
 その時、僕の頭上で大音声が爆烈した。
「バチ当りめ ! きっと呪われてあるぞ !」
  それはたしかに、人間の声とは思われなかった。僕は心臓が潰れるほど驚いて飛び上り、妻はキャッと叫んでのけぞった。
「今のは、大明神のお声です。わたしは、その怒りを鎮めてもらうよう、十分とりはからいます。ただあなたが、大明神の怒りに触れたということは、これは取り返しのつかぬことになるかも知れません。今のように、大明神がお怒りになるのは、一年に一度か、二年に一度のことなのです。わたしはこれから、そのお怒りをとくために、随分努力いたします。あなたもそのおつもりで、大明神への信仰を早速今日から始めなくてはなりません。いいですか。あなたは詐欺みたいだとおっしゃったが、この家の家相がこんなに悪いのは、実はその原因はあなたにあるのですぞ。あなたは、この家には全くふさわしくない。わたしはそんな筈はないと、何度お祈り申しても、やっぱり大明神はそうおっしゃるのです。これは恐しいことです。ですから思わず時間を取って、大明神のご気嫌も大分そこねてはいたのです。わたしはこれをあなたに言いたくはなかった。しかしあなたは、この凶言をわたしに言わせるようにしたのです。よう今まで持ってこられた、とわたしが言ったのは、実はそのことだったのです。でもあなたが、これから後、大明神に本当の信仰を尽くされるならば、それは徐々に好転し、禍を転じて福となす、一家の繁栄……」
 いつ果てるともなかった。〈この野郎 !〉と僕は思った。誑(たぶらか)されてたまるものか……。この家の不吉の中心が僕にある……何たることだ ! あくまで僕はこんな奴に抵抗してみせる、こんな奴に組み敷かれて、めそめそしていてたまるものか !
「どうぞ、信仰の生活に入って下さい。お父さんの全快、ひいては家庭の幸福のためにです。もう一度言いますが、今はそれが顕現してないんですよ。だから、竜奠大明神の信仰で、本当に安心立命した幸福が得られるのです。お父さんのご病気も、徐々に快方に向います」
 僕は返事もしなかった。
「もう一つ、応急の処置の方ですが」と今度は妻の方へ向いて、竜奠はんは、「風呂場が悪いですなァ」と感にたえたようにそう言った。これには僕もドキンとした。
「風呂場を建てたりこわしたりするのは、慎重の上にも慎重を要することです」と竜奠はんは言った。
「前の風呂場の跡もその儘ですが、あれがいけない。風呂場の神が宙に迷うて、それが悪さをしとるんです。それと、今度の風呂場の方角が又悪い。艮(うしとら)といって、家の中心から考えると、一番悪い方角に風呂場を建てた。もう建てたもんはしょうがないから、巽(たつみ)の壁に穴を開けて下さい。それでどうにか凌(しの)げるじゃろうとは思います」
 それから竜奠はんは、風呂場の神を鎮め導く神事を行ない、邸の四隅の土を二尺五寸の深さに掘らせて丸い穴をあけ、そこへうやうやしく竜奠大明神のキラキラしたご幣を埋めてお祈りをした。
 夜に入って妻が一合程の酒を出すと、竜奠はんは黄色い歯を見せてケラケラと笑い転げ、「これでこのやしきは、竜奠やしきになりました」と言いおいて、スクーターに乗って帰って行った。
 次の日僕は、竜奠はんがありがたいご祈祷したと母に報告した。母はすっかり喜んで、「お父はん、もう治るぜ、竜奠はんが治して上げる言うたんぜ」と父の体をゆさぶった。が、父は返事もしなかった。
 それから一ト月ほど父は入院していた訳だが、よくなるどころか、食欲は少しもなく、心臓も結滞がちで、事実上医者も見放していた。ものを言うのも大儀そうで、呆けたように眠ってばかりいた。
「竜奠はんも竜奠はんや……」と言って母は嘆いた。妻も僕も、父が死んでからのあれこれの処置を、真剣に考えねばならなくなった。
 父が、「もう家へ帰る」と言い出した時、母も、「帰るかぜ、そうやなァ、帰るかぜ」と、小さい子をあやすように言って涙を拭いた。妻も僕も観念した。医者に相談すると、「好きなようにさせて上げなさい」と言った。事実上、間近かに迫った死を宣告されたのだった。
「病人が、家に帰る言い出したらあかんのや」と、僕と二人で父を家に運ぶタクシーの中で、母は泣き続けた。父に聞こえたら悪い ! と思ったが、母はすっかり興奮し切り、父はタクシーの中も知らぬげに、眠り続けていた。
  家では妻が、父の蒲団を敷いて待っていた。「さあ、お父はん、もんたぜなァ、うちがええなァ、六十何年住んだ家じゃけんなあ、長いこと病院で、ほんまにえらかったなァ」と言いざま、母は蒲団に縋りついて泣いた。妻もその母に取りついて、声を殺して泣いていた。
 僕はそんな姿を見ていると、僕だけが、あんかんと、竜奠はんにも楯ついて、父を死に追いやる悪鬼のような気がして、父の部屋をかけ抜け、風呂場の方へ走って行った。僕は風呂場の入口の柱の一つに取りついて、柱の根元を蹴っとばし、泣きたくなるのを我慢していた。が、とうとう辛棒し切れずに僕は泣いた。僕の目からは、後から後から涙が湧いて、もうどうしようもないのだった。竜奠はんが言うように、浴室の壁に僕が開けた四角い穴。それに何の意味があったというのか。浴室のタイル張り、脱衣場の姿見、螢光灯も取り付けている。父の言うように、それらは取り付けたが、父は風呂場を見たいとも言いはしない。父の思う、一戸建ちのごりっとした二坪の風呂場……、僕はそんな風呂場の中を、あてどなく見渡しながら、僕と父と、その確執の十五年を、慚愧の念に打たれて思い出していた。
 おクメ婆さんはとうに死んだが、おクメ婆さんが三日にあげず僕の実家へ通って来たこと。結婚式の夜のにぎわい。初めて八重が生れた時の父の喜び。妻にブンガクの本をぶっつけて、額から血が出た時の父のけんまく。「出て行け !」「よし、出て行く!」と、ケツをまくって渡り合い、刃傷沙汰にも及びかねない夜々のできごと。それらはもう、遥かな昔の出来ごとなのだが……、僕の心の傷は癒されそうにもない。
  僕がこの家に全くふさわしくない、などと言った竜奠はんの言い草はどうでもよいが、僕がブンガクなんかに取りつかれ、現実の人間関係をおろそかにして、「お父はん」と呼んだことはただの一度もなく、父のためにも、とうとうよい養子にはなり得なかった、その僕の償いはいかにすべきか……。父に対してではない、僕の僕自身に対するつぐないだ……。
 ──家に帰って一週間日に、父は死んだ。何も食べず、何も言わず、眠りながらの往生だった。
 
 

 (作者は、香川県在住の小説家。「文芸広場」昭和四十一年一月号に初出のこの作は、「赤いたい」以来の作風をあざやかに定着させた人生半ばの代表作であり、いわば極め付きの私小説であり、しかも叙述にみごとにゆとりがある。自己批評もある。舅を婿が描いたこれほどの秀作を見たことが余り無い。文芸広場叢書11『火花』所収。掲載できて嬉しい。湖の本の読者である。1.9.3掲載)



 
 
 

            赤 い た い     門脇  照男
 
 

 初めて過ごす東京の冬も、思ったほどのことはなかった。かすかな植込みを透かして、漂うような朝日のかげが畳の上に柔らかな光を落す頃、「いただきます」「ごちそうさま」と型通りの食事を終った私は、八畳間の机に向っていた。毎日頭を圧しつけられるような同居生活の中で、ここだけは、僅かに自由な私の世界が開けていた。
 雑然ととり散らした雑誌を拾い上げた私は、煙草を吹かしながら、しみじみと日曜の有難さに浸っていた。それはかけ甲斐のない賜物のように思えるのだった。
 生れて初めて東京へ出た私は、伯父の世話でどうにか小学教師の職にもありつき、好きな文学書を買うことと、兵隊生活で覚えた煙草の味を愉しむ位の余裕は充分に恵まれていた。私にはこれだけの自由が、ただ有難かった。これだけの生活が得られたことでも、私には夢のような気持がするのだった。
 一年前の私は、田舎の小学校の、薄暗い職員室で、満たされない悶々の味気ない日々だった。さも教育熱心らしい装いを凝らし、大きな風呂敷包みを自転車に括り付けて家に帰るのは、きまって遅い田舎の夕飯時を過ぎていた。義父義母の横で小さくなって食べる夕飯が、私には堪えられなかったのだ。「もう家の人やから、何の遠慮もいらんのぞ」私の貧相な骨張った横顔を見ながら、一人娘の婿を労わる感慨をこめて、何度か言われた言葉だった。「本当に我が子だと思い込んでいなさる」と、暖かい父母の言葉を心の底で噛み締めながらも、私には、次第に意識的に、この言葉に反撥する逞しい根性が芽ぐみ始めていた。それはどうにもならない仕儀だった。「お父さん」「お母さん」と呼ぶのさえ、私には精一ぱいの仕事だった。私の意識にある父母は、痛々しいほど愚鈍な、それでいて尊厳極まりなく、私の生還を祈りつつ山の中で老い果てた父母あるのみだった。

 私にはもう父母はない……。復員列車の立て込んだ慌しさの中で、そのことばかり思い続けていた。物心ついてからの父母の姿が、次々に浮かんで、疲れ切った心の芯に容赦ない激しさで突きささってきた。のろのろ走る汽車の窓から、次第に開けてゆく朝靄の中に言いようのない吐息をそっと吐いては、その伴奏のような激しさで涙がこみ上げてきた。放心したように眠り呆けた戦友の横顔も、私には関わりのない世界の重なりだった。
 三年ぶりに見る故郷の山を感慨深く仰ぎながら、日暮れの田舎道を急ぐ私の足は、そのまますっくりと飛び込んでゆけない我が家の抵抗を感じて、訳もなくよろよろとよろけたりした。
 兄夫婦が父の後をひきまいて、がむしゃらに働いていた。
「お父はんも、お母はんもな、お前のこと言い続けて死んだんや。何とかお前の行く先を見届けたい、言うてな」
 私は何と言ってよいか分らぬ儘に、仏壇の前に坐って長い間黙祷した。
 父は若い時からの心臓病がこじれて、半年もこの仏壇の前へ寝たきりで死んだのだった。母の死は、私が応召して間もない頃の冬だった。末っ子の私は、小学校へ上るようになってからも、まだ母の懐の中で乳を玩(もてあそ)びながら眠ったのだった。その頃、私の家は悲境のどん底にあった。一見豪壮な門戸は張っているが、その実、饒(ゆた)かな家でないことは子供心にも痛いほど分っていた。東京の大学を卒業するばかりになっていた長兄が、思想問題に連坐し、間もなくよくない.死に方をしたのもその頃だった。そのほとぼりも醒めぬ頃、秋の取り入れに忙殺されていた或る晩、奥の間から慌しく飛び出して来た父が血相変えて叫んだ。「金がない! 貯金の通帳もないぞ!」父母は奥の間の莚をはぐりはぐり、「ない! ない!」と叫んだ。「今朝はたしかに、この下にあった」と母も言い張った。箪笥の抽斗(ひきだし)は掻き廻されていた。父は引きつった顔をし、眼だけギラギラ光らせて突っ立っていた。
「お前が、戸締り忘れたきんじゃ!」
 父は突然そう言うと、母の頬を張り飛ばした。母は目の粗い莚に顔を押し付けて泣きじゃくっていた。
 私はおどおどと、異様な父母の姿を見ていたが、「誰かが悪いことをして、父母を泣かせたんだ」と思うと、「誰がしたん! 誰がしたん!」と泣き叫びながら、莚の上へ手足をばたばたと投げつけて、喚き続けた。母に抱き起こされても身悶えして泣いた。
「泣かいでええんや、悪いことした人はすぐ分るきんの……」水洟を垂らしてかさかさの手足をむき出した頼りない私を、母はしっかりと抱き締めていた。母の涙が私の頬をすべって辷って睫毛ににじみ、私の泣き腫らした目に染(し)み込んだ。、、
「お母はん、大きんなったら、赤い大けなたい(2字に傍点=鯛)を買うてあげるぜ」私はしゃくり上げながら、母の乳にしがみついたのだった。
 パッパッと明滅する燈明の揺れの中を、ゆるゆると、淡い紫の煙がたなびいて消えて行った。私の目の中で、二十数年の感傷が渦を巻いて流れていた。
 そっと瞼を押さえながら仏壇を離れた私は、兄と今後の対策を話した。長兄の一件に懲りて中学へもやって貰えなかった兄は、豪放な山の男だった。
「父母を思う……、そりゃお前、たわいない感傷じゃ」兄は快活に笑って、「養子に行けや」と切り出した。
 私だって、いつまでも父母に恋々としていようなどとは思っていない。父母のいないこの家は、私にとってはもう何の未練もありはしないのだ。未練どころか、近付き難い抵抗となって、はっきりと私を拒む或る力をさえ予感した。明治の昔から田舎教師は養子に行くものとの常道は、何の理.届もなく、私の前にも用意されてあるのだ。敗戦の痛手を身にしみて受けた私の心も、今はひたすらに平安な道を求めていた。

  私は兄夫婦の骨折りで、三里ばかり距(へだ)たった村の百姓家へ貰われていった。前途に何の理想も見出せない私は、せめて温厚な田舎教師として、清く美しい生涯を送ろうと思った。そう思うことでも、私には大きな喜びに違いなかった。
だが──理想と現実との相剋は、私の弱い心を次第にわなわなと、高ぶった不同調を奏でながら擦過してゆくように思えた。私の感傷的な理想などどこにも容れる余地はなく、パタパタ、と大きな音を立てて閉ざされていった。
 義父との間にも、大きな時代のずれ(2字に、傍点)があることを、次第に意識し始めていた。私は自分の弱い心を弁護するように、全ての人に温かく接することが出来るのだと、変な誇りをすら抱いていた。だが……、現実はどうだ。義父の心をその儘、当然の在り方としてしっかり受け止めながら、心の底では激しく反発し続ける私の声を聞いた。全てを愛する、──大きな世界をも覆うような抱擁力──これも所詮は、私の弱い感傷に過ぎなかったのだ。現実のことごとに、私は痛いほどそれを見せつけられた。
 忙しく田畑に出て立ち働く父母にも、何かうとうとしいものを感じた。洟汁を垂らして、いくら教えても解らない田舎の子供達には、激しい嫌悪が先走った。そんな中では、人間は所詮、正当な行為の出来ぬのを知った。荒々しく反発するか、自分の弱い殻に閉籠もるか、二つの抜け道しかないのだった。
 気の弱い私は、次第に自分の意識に沈潜して行くばかりだった。学校では「真面目一方の先生」という風評だったが、その実不明朗な最も好ましからざる先生に違いなく、家庭では黙りこくって、自分のことだけしか考えない、穀潰(ごくつぶ)しの養子になり果てていた。そんな満たされない吐け口は必ず妻に向って、容赦なくぶちまけられた。愛することと憎むことと、色の違った等辺の三角定規を重ねたように、私の心の中に怪しい色彩の綾を作って畳まれていった。
 子供達の引き揚げた薄暗い教室の隅で、黙然として泣いた。便所にしゃがみながらも、言い知れぬ憤怒がこみ上げてきた。
 とっぷり暮れた村道を、カタカタ自転車を走らせながら、私は何かを企らみ始めていた。
「お前は弱い! 強くなれ! 生きるんだ! 自信を持て!」
 私の感傷的に淀んだ沼に投げ込まれたその言葉は、鮮烈な飛沫となって、五体に飛び散る思いだった。
 赤いたい(2字に、傍点)を買う対象はなくなったけれど、あのあどけない、それでいて強烈な刻印は、不逞な魂となって心の中に焼きついていたのだった。
 私は義父の反対を押し切ってでも、これだけは実現してみせる、と息巻いた。妻は淋しい諦めをして、私を東京に送り出した。妻の伯父が東京で視学をしていたので、私の身柄 ? はそこに移された。

「脇田さん! 小包ですよォ」
 私は読みさした雑誌を伏せると、煙草を吹かしながら玄関に立った。
 小さな包が不体裁な網の目に縛られて、太い縢(かが)りを分けながら書かれた字は、相変らず下手な妻の筆跡だった。
 妻から一度学校へ手紙が来た時、「これ……奥さんから?」と年増の女先生に言われてひどく赤面し、こっぴどくその不見識を罵(ののし)ってやってから、久しく止絶えていたのだ。その後、私も内心可愛想にも思ったが、今更何ともならず、味気ない思いで打遣(うっちゃ)っておいたのだった。
 私はやや救われた思いで、机の上に持ち帰り、ごそごそ包みを解いていると、
「佳子からか?」
 伯父が謹厳な顔をして立っていた。
「ええ……靴下のようです。この間、送ると言ってきたから……」
 私は虚を突かれる思いを、さりげなく受け流していた。
 包みの中からは、小さく畳まれた毛糸の靴下が出てきた。その下には、隅に「脇田」と刺繍したハンカチもあった。
「お前は、どう思うかね」
 伯父は、日の射した畳の上へどっかと腰を下すと、キラキラ光る眼鏡越しに私を瞶(みつ)めた。漠然としたこの言い方の中には、一年間の蓄積された感情が畳み込まれていた。二人の胸の空洞を吹き抜ける味気ない思いの響きがあった。
「すまん、と思います」
 こそこそと雑誌を押しやる手元が震えた。
「昨日も校長会で近井君に会ったんだが、お前は、どうも不明朗でいかん、指導力は全然ないとこぼしとった。俺の顔も、少しは考えて貰いたいね」
  伯父は突樫貧(つっけんどん)に言って、プッと煙草の煙を吐いた。その仕草は、弱い殻に閉籠ろうとする私の心を、ハッと立ち向かわせるに十分だった。
「今度の異動で温情主義はとらん」と洩らした校長の言葉も思い合わされた。咄嵯の勢いで私は、
「少なくとも私は、私なりの信念でやっとります !」と叫ぶところだった。が……信念? これさえ私には、たわいない感傷に過ぎないのではないか……。音楽の時間、体操の時間、……あの自分の沈痛な表情はどうだ……。自嘲にも似た悲しい諦めだった。
「すみません……」弱々しく吐くより他、仕方のないことだった。
「お前は、少なくとも教育者じゃろう。その積りで、俺も何とか世話している。一体、そんな物を読んで、何になるんだ。佳子のことも、少しは考えてみい」
 伯父は胡散臭そうにポッポと煙草の煙を吹きながら、裸体のある頁をパラパラとめくった。
 下らない小説ばかり読んでいる私──、じい一んと寂しさが込み上げてきた。──こんな物を読んで何になる? ……それは、私にも分らぬことだった。ただ自然、ただ祈り、弱い殻に閉籠った孤独な私の魂の、自由な遊歩場であるに過ぎなかった。感傷をあれほど唾棄して強く飛躍したと思った私は、やっぱり同じ感傷の沼に漂う一枚の木の葉のように、何の力もなく、信念もないのだった。赤いたい(2字に、傍点)の夢も、たわけた寝言のように、汚濁の沼に色褪せてゆく思いだった。
「そんな下らん雑誌は、売り飛ばすか焼くかしなさい。ぞろ(2字に、傍点)なのが俺は大嫌いなんだ」
 私は空ろな眼で四囲を見廻した。
「朝のうちに、きちんと片付けなさい」
 義父によく似たまっとう(4字に、傍点)な伯父──その後姿を呆然と見送りながら、宿命に似た悲しさが全身を襲った。伯父を憎む気になどなれなかった。ここにも正当な、一個の美しい社会人がいた──。
「お母さん !」宙に呟くように言うと、訳もなく涙が溢れてきそうになった。悠然と日曜の有難さに酔っていた私は、急転直下、はしたない自己の裸形に還っていた。たわいない感傷? 現実の厳しさは、ひしひしと私の身近かに不気味な足音を立てて迫っていた。世故に疎い私は、教職を離れて、どうして薄っぺらな本の一冊も手に入れることが出来よう。煙草の一本も吸える見込みはないのだった。更に恐ろしいことは、伯父の家を追われた私の惨めな姿だった。最後に残った物さえ今は剥ぎ去られようとしている──。その常識的な力は、私の足下を掬(すく)うに足るものだった。

 孤独な私は、寂しさに堪え兼ねると、ぶらりと街を歩く癖がついていた。新宿に出て、三越へ行き、家具類の並んだ中をうろうろと歩きまわるのもそんな時だった。中でも、さしずめ私の目を牽くのは安楽椅子だった。私は今まで、一度もそんな椅子に掛けたことはなかった。誰に気兼ねすることもなく、こんな椅子に長々と寝そべってみたい! 竹製の粗末なものではあったが、後部の刻みを一つずつ落して、好きな傾斜にすることが出来るようになっていた。二千五百円と書かれた紙片が、脚にしっかり結えつけてあった。二カ月位煙草を止めれば、買えないこともないのだった。しかし……、こんな物を置く所はどこにもないのだ。もし置けたところで、烏に紙だと言って冷笑されるのが落ちだった。
 その日は丁度退け時でもあるし、長い箪笥に隠れた位置にあったので、誰も見ている者はなかった。私は内心躊躇しながら、こそこそと台の上へ這い上がって、そっと腰を下してみた。四囲を見廻したが誰も来ないのを確かめ、思い切って体を凭せた。次の瞬間、私は弾き返されたように飛び退(の)いて、又のこのこと、箪笥や机の並んだ間を、訳もなく歩きまわるのだった。
 安住の地を求めたい! 誰の干渉も受けず、思い切り肢体を伸ばして、放歌吟誦してみたい !……しかし、非力な今の私には、全ては夢と、たわいない感傷に過ぎないのだった。

 私は、一冊ずつ雑誌を拾い上げて、積み重ねていた。
「売っちゃおう」私は、投げ捨てるように呟いて持ち上げてみた。一貫目は十分ある重みだった。一年間に買い集めた、乏しい私の書架を飾る唯一の物なのだ。さすがに惜しい気もした。「どっかへ、こっそり隠してやろうか……」売っても、どうせ幾許(いくばく)にもならないことは、分り切っているのだ。
 私は妻から送られた包装紙を拡げて、それを包んだ。
 さしずめ用のない靴下が、柔らかな感触を漂わせて、足下に転がった。幾晩も夜業の手をかじかめながら、一針、一針、丹念に縫ったに違いないその色なのだ。
 私は妻の好意をしっかりと受け止めたい思いで、黄色く絞られた口の所に足を差し込んだ。私はそこに、異様なものがあるのに気づいて、引き出してみた。半紙に包んだ中から「善通寺大本山御守」と金文字を浮かした守袋と、二百円の紙幣が出てきた。私は胸を突かれる思いで、半紙に書かれた、分りにくい鉛筆書きの字を読んだ。

 ──あなたは御元気ですか。うちにも、みんな元気です。私の手製のきたない靴下を送ります。怒らずにはいて下さい。御願いです。東京の冬は、四国よりはずっと寒いと言う事です。かぜなど引かぬ様にして下さい。お守りを同封しました。昨日は、善通寺さんの祭礼で、母と二人で行ったのです。二百円は、御小遣いの残りで少ないのですが、本の一冊でも買って下さい。こちらは、まだ雪は降りません。伯父さんや伯母さんにもよろしく。では……どうか御元気で……、
            佳子より

 私は虚空を突く激しさで、「佳子 !」と心に叫んだ。文字のことにはそれと触れず、ひたすら許しを乞う贈物の積りなのだろうか。
 まずい文字の一句一句には、愚鈍な女の、それに比例した深い思いが籠められているのだった。
「下手糞が! 女の字って、もっと椅麗に書くもんだ !」と叱りつけると、鍬持つ節くれ立った手を強張らせながら、何の役にも立たない字を一生懸命に書いていた妻の顔が、切なく浮かんだ。朝寒い善通寺駅の改札口の柵に免れて、声を忍んで泣き崩れた肩の丸みが、愛(いと)しく胸にこみ上げてきた。私には妻がいる。その妻は全身で私を信じ、愛しているのだ。この女を不幸にしてはならない!  私は、ぽっとりとむず痒い感触を、太股の間にさし挾んで妻を恋うた。一年間忘れていた妻の体臭が、脈打つ激しさで五体を駆け巡った。

 私は雑誌の包みを抱えて、そそくさと家を出た。
  門の前には、独楽(こま)を回す子供が五、六人、日溜りの中で遊び呆けていた。杉垣に狭められた長い路地を突き抜けた私は、大通りを左に折れて、行きつけた古本屋へ飛び込んだ。
「これ、買ってくれますか……」
 主人は、不審げな面持ちで私を眺めながら、「売るんですか? せっかく集めたのにねェ……大した金にもなりませんが……」憐れむような眼付きだった。私は、はたと当惑してしまった。
「では……又来ます。四、五日、……預ってください !」
 咄嗟の思いで言い捨てた私は、逃げるようにそこを出た。
 私は、久しぶりに、晴れ晴れとした思いが湧くのを覚えた。
 長い杉垣の間の路地を小走りに走りながら、私の頭の中には、母の顔と、妻の顔とが、浮かんでは消え、消えては又浮かんだ。
「赤い、大きなたい(2字に、傍点)を……」「赤いたい(2字に、傍点)を……」
 ぜェぜェ息を切り、感傷的に潤んだ眼を繁叩(しばだた)きながら、私は駈け続けるのだった。
 
 

(作者は、作家。香川県在住、大正十三年生れ。「文学集団」昭和二十四年五月号に福田清人に見いだされて掲載されたこの短編は、前年春、小説を書きたい一心で上京、その年の暮れに書かれた作者愛着の秀作。かすかに流れるユーモアとペーソスとは、門脇さんが仰ぎ見ていた太宰治からの薫染であろうか。この文庫の第三頁エッセイ欄に掲載の「上林暁」とともに読まれていい記念作である。昭和四十一年刊の文芸広場叢書11『火花』所収。湖の本の読者。)



 
 
 

         花連歌     目 精二
 
 

   椿
 

 早朝、投宿した比叡山の薄暗い宿房から廊下に出てみると、あたりは一面の雪景色である。昨夜ここから見えた、黒々とした木立の間から、はるか眼下にチカチカと瞬いていた琵琶湖畔の街灯りが夢のようでもある。
 深夜に隣りの布団の上でひどくうなされている友人を揺り起して、すぐ又、旅の疲れで寝入ってしまい、雪降る気配さえ知らずに熟睡してしまったらしい。美大の卒業を前にしてスケッチ旅行に私を誘った友人の、昨夜のうなされようはモノノケがついたように凄じかつた。低い声でうなりながら、布団を跳ねのけ、敷布に両肘をつき立て拳を握りしめて海老反りに全身を硬直させていた。

 少し遅れて洗面に起って来た彼が、音も無く降りしきる雪を、同じように肩を並べて見ている。その細面の横顔には悪夢の翳りもなく、あいかわらず冷たい端正さにすきとおっている。
「おはよう」の無言の挨拶の眼に、いつも他人を見下すような高慢さだけが消えている。殆ど自分を語らない彼に昨夜の夢の詮索は無用と思い、今日の旅のスケジュールだけを打ち合わせた。

 他の仲間と違って、彼は若者特有の芸術論も語らず、女の話もしない。しかし彼の絵の才能は他を圧し、教授達の賞讃をほしいままにしている。又、時折、首に白い包帯を巻いて教室に現われ、その色白の見えぬ首筋には嚥脂色の吸跡が隠されているはずである。仲間達は、そんな彼の気障さを疎んじたが、私にはよくアルバイトを探して来てくれ、時々ピソハネもされるが、大切な友人である。
 断片的な彼の話を継ぎ合わせると、二人の歳上の女が彼をめぐって葛藤を繰り返しているらしい。一人は既に同棲のまま彼の子供を育てている。彼の美貌と才能は、女にとって格好の夢であっても不思議ではない。その泥沼から逃げるように、又、別の恋人が出現し始めている。

 あまり雪の積らぬうちに山を下りる事に話がまとまり、明王堂に出向き、阿闍梨様に一宿のお礼を深々と述べた。寒々とした堂内に、真赤な明王の燃えるような膚が異様にかがやいている。私は未だ、その像の前にひれ伏す意味が分らない。彼は明王像に複雑な一瞥を投げていた。
  下り道ながら十センチ程積った雪道は歩きづらい。少し歩いて私の提案で小休止した。一面の銀世界の中で、私に小犬のような童心が湧き、雪だるまを作りたくなった。彼は、そんな私を少し離れたところで煙草をふかしながら、小馬鹿にしたような表情でじっと見ている。かなり大きな雪まろげが出来、それに雪の肉髻を重ねる頃、勘の良い彼は、昨日スケッチした唐招提寺の破損仏の仏頭の形に近づいたのが分ったようである。無器用な私をなじりながら、しぶしぶ手を貸し始めた。
 誰れ一人通らぬ雪の山道で、二人は汗さえにじませて仏頭造りに熱中した。言葉を交す事もなく、サラサラと降りしきる雪の中に居た。教室では嘗て見た事もない、彼の真剣な横顔に雪が降りかかっている。私はそっとその作業から手を引いて、美事な仏頭の出来上るのを傍観していた。
 そんな山道を、麓から登って来たらしい一人の女が近づいて来た。仏頭の前で立ち止り、思わぬところに出現した像に少し驚いたようである。頭からかぶったショールの下から、影ある顔をほころばせてその出来ばえを褒め、製作者の彼に微笑みかけた。その中年の女は、明王堂に毎日参拝している事など、はんなりした京都弁で語りながら、手籠の中から何処からか手折って来た寒椿をとり出し仏頭に添え、し.はらく合掌した。
 仏頭の首元に置かれた一輪の寒椿の真紅が、焙火のように雪の中で映えている。凍えるような静寂の中で、その紅色だけが血のように熱い。私はふと、彼の首筋に視線を走らせて、ぼんやり、それ、を見ていた。
 
 

  沈丁花
 

 町工場の騒音の響く中、この辺りの家並にふさわしからぬ一軒の古びた屋敷が在る。その一角だけが常にひっそり静まりかえっているのは、暫く手入れもしない庭木や灌木の垣の緑の深さのせいかもしれない。
 少年の住む粗末なアパートと、酒屋の中間辺りにこの家が在り、度々彼は酒好きの父に飲み足らぬ焼酎を買いにこの路を走らされた。凍える冬の夜の寒さに比べ、春めく頃はついつい使いの足もゆったりとなる。屋敷の垣に植えられた数十株の沈丁花が開く頃、生温かい夜気の中に漂う花の香に酔うように、少年は酒壜を抱えてしばらく立ち止っていたりした。花の名を教えてくれた母親は何処かへ姿を消して一年にもなる。
 去年のやはり春めく夜、物心ついてからずっと繰り返されていた、父の酒が因での口論が母と始まり、少年は布団を覆(かぶ)って泣いた。両耳に流れ入る涙がやがてつめたく冷えていく頃、父母の罵り合う声は遠く夢の中にとりこめられて行った。いつもは数日で戻る母の出奔は、今度はひどく永く続いている。一年の廻(めぐ)りは、沈丁花の香りの中で大人びた感傷となって胸をしめつけている。
 或る夕刻、沈丁花の香に佇む少年は、この屋敷の主らしい老女に呼びとめられた。老女は仔猫を捨てて来て欲しいと依頼し、親猫が連れ戻さぬよう川の中に捨てる事まで指示して、少年には多額と思える金を胸ポケットに捻じこんだ。病弱らしい老女の哀願するような眼の光と、胸ポケットのふくらみに戸惑い乍ら少年は渋々と未だ充分毛も生えそろわぬ三匹の仔猫を、布を敷きつめたボール函につめた。この冬、沈丁花のところどころに雪が白々と残る夜、株の根元でうずくまる猫の交尾を見ていた。
 少年は決心がつかぬまま重い足どりで屋敷の門を出て河に向っていた。嘗て何度も捨て猫を飼おうとした事がある。その度に結局、猫も飼えぬ自分の状況を熟知させられて来た。憐憫がいつしか数倍の哀しみになって跳ね返って来る事を知って居り、老女は花の香に佇む彼の、年齢に似ぬ諦観を嗅ぎとっていたのかもしれない。
 二日ばかり続いた雨を集め、街中の河は水量を増していつもより激しく流れている。両岸を高いコンクリートで固められた、水面まで五、六メートルもある橋の上に立って下をのぞきこんだ。生活の染みこんだ物が浮き沈みしながら流れている。様々の人々が色々なものをこの河に捨て流している。夥しい数のゴミをひとつひとつ眼で追っている内に、少年の持つ函の中のしきりに鳴きながら四肢をふんばって動く仔猫の存在が、いつしか遠く意識から離れていった。
 思い切りよく彼は手中の函を河の中へ投げた。函の蓋が空中で開き、バラバラと仔猫達が散って水面に堕ちていった。先程、函に詰めこむ時、少年の決心の鈍さが固い紐の結びをためらわせていたのであろう。自分の行為に驚きながらも眼を閉じたりせず、数秒間仔猫達が藻掻きながら水面に沈んで行くのをしっかりと見届けていた。
 その夜、彼は手にした金で父の好物の鰻を買って待った。父の帰りは又遅い。先に床に入って眼を閉じると、河の中に堕ちて行く猫の姿態がまざまぎと網膜に焼きついて離れない。寝つけぬ夜を迎えていた。少年の指先は自分の下腹部に、あの仔猫の和毛(にこげ)に似た感触にふれてたじろぎ、ふるえた。沈丁花の香が、生々しく鼻孔を擽るように漂ってくるようでもあった。
 
 

  百日草
 

 この街は、その名にふさわしく東京の「谷」のように思える。様々の人々が、肉体や心を病んでここに流れ堕ちて来ていた。
 三畳ひと間のドヤに身を寄せ合っている一組の男女もその例に洩れない。〈オトコ〉は立派な体躯を持ちながら酒に浸っており、〈おんな〉は顔の右半面に拡がった赤い痣を持つ。それを厚化粧で覆って、労働者相手の小銭で足りる春を売っている。

 梅雨があけて、すぐ続いた熱帯夜の澱んだ湿気の残る早朝、街の中の空き地の如き小さな公園で二人は遇った。無一文の男に乞われて、労働者達に早朝から開けている安食堂で女は酒とめしを奢った。黄濁した眼だけが不釣合いの屈強な若者が、汗とも泪ともつかぬものを頬に光らせてヒビ割れた唇に安酒を呷るのを眺め、女は優越感の味のする蕎麦を啜っていた。同情はこの街でも、自分より堕ちた人間を確かめ見る安堵の時をつくる。女はいつも安い金で買われながら男達の侮蔑に苛まれていた。酒を恵む相手の冷やかな視線を感じて、男も又、女の汗で剥げかかった化粧の下から覗く赤い皮膚を盗み見た。
 負い目の中で男は、女の右側に枕を並べ痣に頬を添えて眠り、翌朝早く街角に立ち、仕事に出て行った。そして、女の許に夜遅く正体も無く泥酔して戻り、汗のしみ込んだ作業着のポケットから小銭が一粒ころがり落ち、金はそれが全てであった。膝元に崩れて眠る男を横目に女は慣れた化粧の手鏡を取り出し、この街に流れて来て初めてのヒモと最後の夢を持つ自分を覘(のぞ)いた。

 同じ事が繰りかえされ三ヶ月近く過ぎた。男の日当はその夜に全て酒に消え、女の細々とした稼ぎが二人を繋ぎ止めていた。女の夢に酬いられない己れに日々傷を深くする男は、宿酔(ふつかよ)いの床の中で人が変ったように優しい。二人で立ち直る明日からの夢を語り絡め、遇う前の互いの過去を短い時間で埋めるかのように、ぴったりと肌を寄せ合った。

 そして、昨夜も、十日間の飯場暮しでまとまった金も飲み果たし、一日近く毛布を覆って自責の念に身をふるわせている。昨夜嘔吐した洗面器の中味を女の視線に投げつけ、そのままの女の寝顔を見る事が出来ない。やがて男は顔を埋めた儘、詫びるように汚れた女を自分の方へ強い力で抱き寄せた。
 台風が接近しており、逃亡防止の為にとりつけられた鉄格子つきの窓を強い雨が叩いている。女は雨の中を走り、頼まれた睡眠薬と弁当を買って戻った。薬の力で酒を飲まぬ夜を過す何度目かの試みである。二人は布団の上に腹這いになって弁当を食べ、薬を飲んだ。使いの途で女が手折ってきて空壜に挿した一輪の赤い花の名を男が尋ねた。故郷の仏壇に供えられていた花に似るそれがどうしても想い出せない。二人は知る限りの花の名を、ゲームに興じるようにあげ合い、笑った。

 すでに寝息をたてる男の腕の中で、女は枕元の花を見ていた。厚い花弁の裏側は、表の赤色を隠すように白い。その白さが少しずつぼやけて、睡気が誘う時、消防車のサイレンが近づくのを聴いた。女は自分を胎内に宿した母親が、火事を見たとか、父の欲情を受け入れたとか云う痣に纏わる迷い言をふと想い起し、二度右頬に受けた熱さの記憶をはっきりと蘇えらせた。
 サイレンは夢の中まで一層大きく響いて来ていたが、女はやっと花の名を想い出し、呟くように男に告げた。
 「百日草……」と。
 
 

   
 

 敗戦から一年近く経ってやっと、南方で戦病死した長男の遺骨が還って来た。形ばかりの小さな白木の函は両掌の上でいかにも軽く、振ると中からコロコロと虚しい音が聴える。それが息子の何であるのか確かめたくて函を開いた。幾重にも巻いた布の芯に、黒く血の惨んだガーゼが現われ、その骰子(サイコロ)状の中味をもう胸が塞がれて解く事が出来ない。捨吉は/小指をつめて送って来やがった/と慟哭した。賭博好きの職人らしい想像である。長男が/出征後に開けてくれ/と云い残して行った封筒の中味、髪の毛と爪も函に入れて蓋を閉じた。せっかく学問させながらも、自分に似て見栄っぱりな長男の志願の出征を口惜しく思った。
 質素な葬儀が済み、出征前夜、自分から乞うて母親に抱きついて眠って行った長男の遺骨を持ち、女房は未だ引き払わぬ疎開先の実家へ、小学生の二人の子供を連れて戻り去った。定職を持ち得ぬ捨吉の許で、子供を食べさせてはゆけない。
 捨吉と十七才の次男が空襲で焼け残った下町の長屋に居た。他人を真似て闇市でスイトソなど商ってはみたが、職人気質の彼は無残に失敗した。空腹の浮浪児達の眼の前で食い物を商う事が辛く、三日目には全てを彼らに振る舞い、何かにひどく立腹して空の屋台を引いて帰って来てしまった。誰も居ない家に戻り.ゴロンと畳に身を投げ出し、雨漏りの跡のしみついた天井を眺めている内に、突然、みじめな自分への怒りが爆発した。狂ったように鉈を振りあげ神棚を壊し始めた。爆風を思わせる塵ほこりが天井から舞い溢れ部屋中に充満した。暫く米など炊いた事のない竈に神棚の全てを投げ入れて燃やした。無知な捨吉の云いしれぬ怒りの、神への八ツ当りであった。丁度戻った次男が、竈の火に映える父親のすさまじい形相へ/俺が兄貴と替っていればナ/と冷やかに声をかけた。
 次男はすっかりグレている。何をしているのか、身なりも結構いいし、洋モクなど時々父親に投げてよこす。そして、いつのまにか住居も次男の連れて来る客達の花札の賭場に変った。いつ入れたのか彼の腕に二、三輪の桜の入れ墨と女の名前が彫りこんである。その名さえ、女房気取りで彼に纏わりつく派手な娘のものとはすでに違っている。
 一組しかない花札も夜毎の熱気に角が丸くなりずいぶん傷ついていた。桜のカス札はもう真横に白いヒビさえ走らせている。捨吉は次男の背一面に桜の彫りものを咲かせる事を思った。捨吉自身、若い頃から器用に自分でいたずらを施しており、腿に彫ったおかめの面もすっかり肉の落ちた皮膚の上でしぼんでいた。次男も立派な彫りものを必要とする生き方に足を踏み入れている。どうせなら、親の手で息子の身を傷つけ飾ってやろう。
 雲と満開の桜の下に髑髏を配し、次男の干支(えと)の大蛇がそれを巻く図柄を背中に描いた。若い肌は線描きの墨をはじけさす程、脂が濃い。手製の彫り針のタコ糸をきりりと強く締め直して、たっぷり墨を含ませた筆の軸を口に銜え、うつ伏せの次男に体重を乗せた。やがて、確かな手応えで針先が肌に喰いこみ、はじき、息をつめて血の吹き出す傷口に素速く墨を入れた。古い襖に針先から血墨が勢いよく飛び散り、次男の背中に一輪一輪血の滲んだ筋彫りの桜の花びらがふくれ上り、生臭い匂いを放って咲いてゆく。
 捨吉は次男の肌に指の腹を添えながら、失った長男の/行ってきます/と白い歯を見せて笑い、父の手を握ったあの大きな掌の温もりを想い起していた。
 
 

  木槿
 

 初夏、遅い目覚めの朝、部屋いっぱいに湿った雨の気配に窓際のカーテンを引く。あばら屋の借家の狭い庭は、音もなく煙るような雨に濡れている。一隅の灌木の緑の中に、白い蝶が羽根を休めて止っている。雨に打たれる蝶の痛々しさを不審に思い眼を凝らすと、それは一輪の木槿の花の咲き始めであった。眼覚めのけだるさの中、夢の続きのように、木槿は次々と開花して数日の間にいっぱいに花をつける。茶花に愛でられる如く、ひどく短命な花でもある。〈道のべの木槿は馬に喰はれけり〉芭蕉の一句の治定の確かさと、その内在するものに深く感動したりする。
 あの咲きほこる樹の下、充分雨を含んだ黒土の中に、去年埋めた猫の屍体が確実な時の流れの中で腐っているはずである。
 繰り返す季節の廻り、あの日も雨であった。猫のむくろをダンボール函に詰め、木槿の花を隙間なく飾って土の下深々と埋めた。一握の土地さえ持ち得ず、己れの筆塚さえつくれぬ絵描きの飼い主が、他人の土地に無断で埋葬した。
 五年間程、生活を共にした雄のシャム猫である。その気性の激しさを疎んじられて友人から貰い受けたが、わずかの期間に借家住いの飼い主の都合に従って、三回の転居を共にした仲である。放し飼いにしながらも姿を消す事もなく、その土地その場に慣れついて住んだ。人になつかず家になつくと云う定説に外れた猫だったのかもしれない。満身創痍の形容ぴったりの闘争に明け暮れていた。何故こうまで喧嘩好きかと呆れ果てたが、考えてみれば哀れである。ひとつの土地で精いっぱいの縄張り争いの末、やっと自分のテリトリーを勝ち得た頃には転居の憂き目に合う。猫は再び一からやり直しの闘争を力の限り始めなくてはならない。ザックリと口のあいた深手の傷をその度に自力で癒した。押入れの暗部の中で幾日も飲まず食わずでひたすら傷を舐め、苦しい息に腹を波打たせながら体力の回復を待つ。そんな状況に追い込んだ飼い主への恨みの視線も投げかけず、唯々吾が身の性(さが)のつたなさに堪える如くである。やがて、フラフラと水を飲みに這い出し、筆洗の水を旨そうに飲み、よろけつつも長々とノビをする。そしてきらめく午后の陽射しをじっと視ていたりする。そんな猫の強さに、飼い主はしばしば吾が身を恥じた。好きな絵を描きながら、その道程の傷の痛みについつい愚痴をこぼし、闘争にはっきり破れている身の傷口を見つめて人目のつかぬところで舐める行為を怠っている。
 猫は小さい頃から飼い主の腕枕で眠るのが習性となっている。喧嘩の夢に寝呆け野性に戻り、飼い主の腕を血が吹き出るほど噛みついたり、雨の夜をほっつき歩き泥だらけの体で布団にすべり込み、何度も叩き出されたりもした。しかし共に身を寄せて安堵の鼾をたてて眠る五年近い添い伏しは野ぶし達の眠りに似ている。争いのあいまに時々狩猟本能の成果を飼い主の枕元に運んでくれる。鼠、トカゲ、ヤモリ、雀等々、飼い主の困惑もおかまいなしに、自分の好物の小鰺の返礼に獲(と)って来た。蛇など持って来たら承知しないぞとひどく打擲(ちょうちゃく)されると、しばらく後でいかにも高価らしいローラカナリアなど盗んで来ては、枕元に美しくも残酷な死骸を並べていたりする。猫との好意のすれ違いにはずいぶんと困らされたものである。
 やがて猫は度重なる闘争の末に片目を失った。飼い主にふさわしからぬ優雅な姿態のシャム猫であったが、日が経るに従って益々うす汚く一種の凄味さえ漂わせはじめた。たったひとつ残った眼でも相変らず喧嘩好きであった。
 そして木槿の花の満開の頃、イエローファットと云う病に仆(たお)れた。何の事はない、鰺の食べ過ぎによる美食が原因である。貧乏のくせに美食とはと飼い主を苦笑させた。体調を崩した猫は初めての甘えをみせて病む身を飼い主にすり寄せて眠り、床の中で失禁した。翌朝、事の重さに金をかき集めて獣医に看せた。手遅れを宣言され尿毒症による狂暴を防ぐ為にも注射による安楽死を勧められたが、どんな状況でもこの猫には自然死が似つかわしい。飼い主のエゴは看とる覚悟で家に連れて帰った。
 数時間後、深々と息を吐いて猫の命は尽きた。抱きあげると脚をだらりと伸しきったまま、その体長の大きさに今更のように眼を見張った。飼い主の手にずしりと重い感触だけが残った。添える花は、折りから異常に咲き狂う木槿しか見当らない。呆然と雨の庭におり立ち、腕いっぱいになるほど白い花を手折っていた。白い花びらの芯の部分が鮮やかに赤い木槿である。
 「底紅」という種類である事を、後に、聞いた。
 
 

  紫陽花
 

 六月の週末、工場の終業ベルに解き放されて間もなく、彼は近所の未だ客のまばらな銭湯の湯舟に身体を沈めていた。夏至近くの梅雨の晴れ間の陽射しが高い天窓から入り込み、そんな早い時間の入浴が少々贅沢な気分にさせている。
 浅黒い若い膚が、溢れる豊かな湯の中で、やがて紅殻色に上気してくる頃、ふと身体周辺に滲み出し湯の表面に流れ出すインク色の油膜に気づき、彼は濃い眉を寄せて舌打ちをした。充分、石鹸で機械油を洗い落したはずであるのに、どこかに染みついた油が、赤・黄・緑・紫と原色のマーブル文様を描いて湯舟の表面に流れ出し、陽に光っている。

 少年の頃、友人の誰れよりも早く大人びた肉体を恥じて、客の少ない一番湯によく通った。
 あの日誰も居ないはずの湯舟の煙る中に原色の生首が浮んでいた。風呂屋近くの空地に小屋がけしている旅廻りの芝居の役者がひとり、舞台化粧を落さずに身を沈めていたのだ。そして、天窓から射す夕日のスポットライトを浴びながら、湯気の立ちのぼる中で、少年の身体を凝視していた。
 舐めるような視線が近づき、親切ごかしに、固辞する少年のしなやかな背を愛でつつ流してくれ始めた。二人だけしか居ない湯気に霞む白いタイルの上で、やがて役者の巧みな話術と指の動きに眩惑され、少年の下腹に磨り白粉がベッタリと粘りつき、鬢附油の濃く匂う役者の頭部が少年の股間でゆっくりと動いた。

 週末はいつも工場の帰りに銭湯に寄り、安アパートに戻って小ざっぱりとしたシャツに着替えてから、電車を乗り継いで繁華街へ出向く。毎週きまったように二本立ての映画を観て、ラーメンとライスで腹ごしらえしてから、程良い時刻に裏通りの一軒のバーへ足を運ぶ。
 変哲もない扉を押せば、マスターの使い慣れた媚びを含んだ挨拶の声に、カウンターに居並ぶ男達の視線が品定めをするように一瞥彼に痛くつきささる。それを外ずして俯き顔で空席に腰を落す。ずいぶんこの店に通っていながら彼は他の客のようには殆ど口を開かない。母への仕送り後の生活費を考えてちびりちびり舐めるようにビールのコップを口に運んでいる。
 周囲の男達は皆、小指を猫のひげのようにピンと立てて煙草やコップをあやつり、女言葉で彩られた面白おかしい恋の経緯や、肉への賛美の話題でさわがしい。口も重く仲間にも入らず、金も使わずに、必ず最後には格好の客を拾って行く彼を、マスターもボーイ達もけっして気を許してはいない。
 今夜も又、彼は終電の時間近くになって些かの勘定を済ませて腰をあげ手洗いに立った。そして手洗いからの帰りしなに、一人の外国人に小さく声をかけた。〈Why dont you get on ball ?〉 店に入ってからずっと遠慮がちではあるが、離れた席から、湯舟の役者と同じ視線を彼に送っていたその男は、彼のブロークンな英語を解したのか、飛び挑ねたように腰をあげ、足早やに店を出た彼を勘定の釣りも受け取らずに、追って来ていた。

 カーテン越しの朝の陽射しに、彼はうっすらと眼をあけてみる。有名なやくざ俳優に面差しの似る彼の顔を、じっと窺(のぞ)きこんでいる男の存在に一瞬戸惑い、いつものように昨夜からの成り行きの記憶を呼び戻して安堵し、苦笑と共に相手を見上げる。やはり外国人は動物に似ているとつくづく感じる。ベッドいっぱいに染みついたこの臭いも獣の食べ物のせいだ。昨夜二度応えていながら、又朝に手に余る量を持ちつつも中途半端な硬度で喘ぐ執拗さに辟易とする。唯々、その男根と同じように焦点の定まらないブルーの淡い明度を持つ眸だけが妙に愛しい。

 午下り刻、彼は昨夜の相手の部屋を出た。靴を履く彼を呼び止め、相手は財布を探っている。いつでも彼は相手に金を請求はしないが、相手が多少の金を握らせれば、それはそれで遠慮なく受け取ってはいる。
 昨夜の相手は名刺をとり出しくCall on me> 哀願するように囁きながら彼のポケットに名刺を滑りこませた。彼に靴ベラを手渡し、それを〈horn〉と英語で教え、意味を解せぬ様子の彼に、それを頭の上に立てて〈角=ツノ〉の形を見せた。続けて日本の意味を尋ねる相手に、咄嵯にヘラの英語が思いつかぬまま、この場にふさわしく、わざとベロを出してその形を真似た。相手は少し顔を赤らめて納得したようである。
  相手は門まで送って来た。昨夜は分らなかったが、ある学校の宿舎のようでもあった。睡眠不足の眼には、から梅雨の陽は眩しい。一面に紫陽花が重たげな花をつけた植込みの中を歩いた。昨夜の帷(とば)りの中で一向に夜陰に溶けずに白けた塊りをみせていたのはこの花だったのかと今初めて気づいた。
 この学校の英語教師らしい相手は、陽の中で職業に目覚めたかのようにその花を指差して<hydrangea>と美しいアクセントで彼に教える。彼は間違えて<hydrogen〉と聞き返した。〈紫陽花〉もく水素〉も似ていると思った。
  二人のちぐはぐな会話に聴き耳を立てるように、紫色の夥しい数の大輪の花がひっそりと息をひそめており、毒々しい原色に彩られた生首がいくつも並んで彼を視ているように思えた。
 
 

  百日紅
 

 昭和二十年夏──。多摩川の清流に沿った小さな花柳界の中に、もう数ヶ月前に廃業してしまった料亭〈やまと〉の荒れ果てた庭で、幼い少年と一つ歳上の少女が遊んでいる。広い庭の雑草に交って点在する石組みや石燈籠の間に、今一本の百日紅の樹が、うす紅色の炎のようにちぢれた花弁にあふれて咲き誇っていた。そのすべすべくした幹は、その名の通り猿のスベリ台のようだと、幼い二人は信じて、花を摘んではやや傾斜のある幹の部分に滑らせて遊んでいる。
 生垣の破れから小さな身を入れてしまえば、ここは二人だけの遊び場である。東京の空襲を逃れて、この土地で芸者をしている姉の許へ疎開して来た少年と、この地に住む朝鮮人の少女は、自然と他の遊び仲間から離れて、何の遊び道具も持たずとも一緒に過す事が多い。〈ゲイシャの子〉とくチョウセンジン〉は他の子供達に溶け込めぬ壁があり、それが一層二人を親密にしていた。
 まだ陽が高いうちに姉達芸者一団と共に、風呂屋の裏口から多少高い金を支払って入ったヤミ風呂から帰り、少年は香りのよい天花粉にまぶされ、置屋の定まらぬ夕食時間のまま、白米の握り飯を二つこしらえてもらって少女を遊びの誘いに行く。注意深く握り飯を背に隠して少女を呼んだ。
 少女の母は貧しくとも、少年から食べものを与えられる事をひどく嫌う。一度、二人で分け合って食べていた蒸し芋を、母親は少女の手から叩き落とし、耳を強く引っぱって家に連れ帰った。心配顔で中を窺う少年の耳に、口惜し気な響きを含んだ聴き慣れぬ言葉で大声で仕置きする母親と、少女の泣き叫ぶ声がずいぶん永い時間続いていた事がある。
 近くに駐屯する軍人相手の花街の置屋には、将校相手の売れっ子芸者も抱えて、食料に不自由は無い。「桃太郎」の名で出ている少年の姉も、ふくよかな美貌と子飼いからの芸達者も加わり、妹芸者「勝丸」と共に置屋の稼ぎ頭である。
 荒れた〈やまと〉の庭へ誘い出した少女と二人は握り飯をほおばり、百日紅の下でいろいろなゴッコ遊びに戯れている。少女から持ちかげられて最近おぼえた秘戯が夢中になって繰り返されていた。戸の閉ざされた料亭の濡れ縁に少女は仰臥して垢で黒ずんだ腿を開らく。少女のそこは、芸者達の黒々とした翳りもなく、百日紅の幹のようにすべすべと輝いている。多少の小便の匂いも、置屋の防空壕の中でのカビのすえた臭いに交った強烈な脂粉に汗ばむ体臭に比べればいっそ清々しい。あの夜、この土地にも初めて空襲警報が鳴り響き、少年は芸者達に起され壕に入った。遠くに落される爆弾の地鳴りが壕にも響き伝わり、泊り座敷で居ぬ姉を案じながら身を縮めめている暗闇の中で、誰れかが少年の身体をまさぐっていた。訳知りの女達の忍び笑いの中で、白粉と汗と酒に混濁した獣物(けもの)に似た動きに困惑して、声を殺して耐えた事がある。
 少年は少女の秘処に花びらを埋め、少女は少年の堅い肉片を弄び、お互いの肉体に無いものを玩具にして遊んだ。
 先程から庭のむこうの料亭から賑やかな宴会のざわめきが聴えて来ていた。さすがに派手な御座敷は少なくなってはいたが、隣の敷地続きのく仙寅〉に久しぶりに大きな宴会が入っているらしい。
 二人はその浮立つ華やかさにひかれ、身を繕って境の植え込みを這い抜けて〈仙寅〉に潜入した。よく手入れの行き届いた庭の向うに、大きく障子が開け放たれ、座敷を半分覆うように廊下の庇から簾が一列に並べ垂らされている。座敷の内部はよく分らぬまでも、芸者達の色鮮かな着物の裾と軍袴のカーキ色が入り交り、もう酒席はかなり乱れているらしい。三味線がひときわ高く調子を上げ「浅い川」の曲に変った。川渡りの振りで踊る芸者達の白い脚が、少しずつたくし上げられる裾につれて見えかくれして、和すように客の軍人達の興奮した蛮声が高まって行く。
 そんな座敷を外すように一人の芸者が廊下の端に出て来た。姉の「桃太郎」である。酒に上気した頬をさますように袖で風を送りながら佇んでいる。やや夕日に近づいた陽の中の姿に、少女は思わず、緕麗 ! とため息をつき、少年も得意そうにうなづいてみせた。私のお母ちゃんだってちゃんと化粧すればもっと椅麗よと、少女は「桃太郎」の美しさに少女らしい嫉妬を燃やした眼で見返した。酔いを醒ます姉の姿を追うように、上衣を脱いだ一人の軍人が千鳥足で近づいて来、それを前から承知していたように姉の姿に一層の媚が表われていた。形ばかりの抗いを示して、姉は男に抱きすくめられた。お座敷着の花模様の裾を割って滑り込んで来る男の手をじらすように制している。
 その光景の成り行きを興味深く見入る少女の手を強く引っぱって、少年は慌てて深い負い目を避ける為にその場を去った。

 やがて、数日後しんと静まりかえった唯々白金色の太陽の下、玉音放送が流れて敗戦となった。低空を黒々と飛行機が次々に通り、夕刻から暫く一陣の突風が吹き荒れ、高々と唄う異国の歌が少女の家からいつまでも続いた。
 九月半ば、もうこの花柳界も赤ら顔の進駐軍の兵隊達の遊び場に変り、姉は闇屋らしき男と結婚する事になり、少年は近々東京に帰されるようである。前借の残った芸者達は煌々と電燈のついた白日の如き見番(けんばん)の前に並んでいる。「勝丸」は軍隊の慰問でしか着なかった派手派手しい振袖の長い袂を翻し、紫の鬘巻をリボンのように洗い髪の上に結んで流し、帯を繕う手が後に回らぬほど綿のように疲れるまで稼いでいる。

 少女と久しぶりに百日紅の樹の下に居た。もう花は無残に地に堕ちて盛りの面影も無い。少年は年老いた東京の母の許に帰り、少女は遠い故郷へ帰る前の子供らしい別れの秘戯の後、少女は、少年の姉が本当は母であるという噂話を確め尋ねた。他人(ひと)の口の端(は)に感じて来た事実を、少女の口から残酷に告げられて、少年は狂ったように怒り少女に飛びかかって行った。疎外されていた二人が、初めて口汚くお互いの心の中に隠していた蔑称をぶつけて罵り合った。取組み合いの激しい喧嘩の末に、少女は軽るやかに身を躍らせて庭から道へ逃げ出し走った。
 後を追う少年を時折ふり返えり、今までの負い目を埋めるように勝ち誇った嘲笑を見せている。一瞬、真昼の太陽が照ったまま俄か雨が降り出していた。カラカラに乾いた道に雨が降り注いだが、二人の距離の間に雨雲の切れ目があったようである。立ち止まった二人は同じ道の上で、少女は陽ざしの中に居て、少年は雨の中で濡れていた。
 
 

  
 

 旧い校舎の中でも一番奥まった場所のこの資料室は特にうす暗い。何処からかひどい寒気が吹き込んで来る。乾燥しきった空気の中でも、かすかなカビの匂いさえする。
 何度も、膠の固まる絵の具皿を鉄製の火鉢に乗せながら、かじかんだ手を、小さな火種の上にかざしている。
 どうしても宋画の模写をしたくなって、授業の課題以外の事に、自らすすんでここに来ている。時々授業をサボってアルバイトに出かけている画学生にとっては珍らしい事でもある。
 持ち出し禁止の貴重な軸であるから、この寒い場所で写さなければならない。資料室の助手は小幅の〈蓮池小禽図〉を貸してくれた。三枚の葉が池の面に伸び、それを縫うような一茎のゆるやかな曲線の上に、程よい重さで白い花が開いており、その下に一枚の花びらがはらりと散って行く。画面下の空間には水草ののぞく池面を一羽の鴨が餌を追っている。
 教授達のヌルッとした線とは異質の、息をひそませるような緊張感に研がれた線が描かれ、成程全てがきりりと引き締っている。蓮池図の情景は夏ではあるが、それをこの冬の寒気の中で模写するのも、宋画であるからこそふさわしくも思えた。
 助手は隣室に閉じこもって何んの会話もない。時折、模写の進行状態を見下すように一瞥しに来るだけである。軸を借りる折や、返却して帰る時の簡単な挨拶だけで数日が過ぎている。
 代赭色に古色のついた軸の極めて見えにくい線は、何度も天平紙を巻きあげ何んとか息をつめて写し終え、それを仮張りに貼り替え彩色に入った。水草も鳥も蓮の葉の墨色もどうにか調子よく写し終えたが、花とたった一枚の散華がどうもうまく行かない。厚く塗りすぎてしまった胡粉が、なんべん古色を上から覆うように引いても、執勘に白く浮きあがってしまう。特に、散る一枚の花びらがどうにもならない。消えぬ白さに苛だち、自分の失敗に焦れた。もう一度花びらの上に古色を重ねて、乾きを待った。
 その間、冷えきった手を火鉢の炭火にかざして、ほの暗い資料室の隅々まで初めて眺めまわした。うず高く本が積み上げられている窓際にはもう早くも傾きかけた日が弱々しい光を射しかけている。凩が立てつけの悪い窓をしきりにたたいており、本の隙間のスリガラスに逆光に浮び上った落書きがあるのに気づいた。目を凝らして読むと、ところどころ剥げかかってはいるが、太々と墨で書かれたはずの「明日入営」の四文字のようである。
 敗戦から十五年経って二十歳をむかえている身には「入営」の文字の意味を解するのに数秒かかっていた。誰かが過去に、ここで入営前日まで模写をしていたのかもしれない。その落書きの主を想って、様々の憶測をめぐらしてずいぶん永い間、寒風に震える窓ガラスの四文字をぼんやりと見ていた。そして筆をとり、しばらく離れた距離からその四文字の万感迫る筆勢を真似て、何度も空間に書き擦ってみた。
 絵の具の乾かぬ内に資料室の閉館時間に追われ、又明日に仕事を延ばして部屋を出た。窓ガラスの文字が心に残って少々重い足どりで上野の山をゆっくりと歩いた。右手の赫々とした夕日の輝きにひかれるように、この寒空の下に誰れも居らぬ不忍の池の端(はた)に出た。コートの衿を立てマフラーで鼻まですっぽりつつみ、ポケットに深く手を入れて丸くなって池のほとりのベンチに腰を下した。
 目の前の池の面は広々とした蓮池である。枯れて殆んど棒状になった蓮の茎だけが池の面につき出た敗荷(はいか)の情景が拡っている。低く沈んで行く夕日の残照に映えて、池の面は血の色に燃えるように赤く小波立ち、茶褐色の骨を思わぜる夥しい量の蓮の茎がどこまでも続いていた。
 それを見つめている内にふと、自分の模写の一枚の散華の白さを、あのまま故意に消さずにおこうと思った。

    ──『異聞 みにくいあひるの子』1988年 1月 創樹社刊より──
 
 
 

(作者=さっか・せいじは、1937年生れ無所属の日本画家。本名古山康雄氏。東京芸大日本画部卒業。テーマのある個展を多くもつ傍ら書かれた『異聞 みにくいあひるの子』は異彩を放つ小説で好評をえた。アンデルセン体験と自伝的な味わいを融合した境涯に魅力があるが、長編のために、スキャンしやすい原題「花散文」八編を戴いた。蛇足、補足の「寓話」と作者はいわれるが、味わいの濃い佳いものである。今一度ていねいに推敲して用字用語が磨き直されれば、この人なりの繪のない繪本となろう。湖の本の、読者。1.7.20 掲載)



 
 
 
 

  善財童子(ぜんざいどうじ)さま  小島 敏郎
 
 

 サラの木が、サワサワと、風にそよいでいました。林の中は、ひんやりとして、いいきもちでした。 
 インドの、むかしむかしの、お話です。
 近くのガヤ村には、ぜんざい(四字に、傍点)という、こどもかいました。林の中のことなら知らないことはないのですが、今日は、びっくりしました。いままで見たこともないほど、大ぜいの、お坊さんかおられたのです。やがて、村の人びともやってきて、サラの林は、人でいっぱいになりました、おしゃかさまのお弟子の、文殊(もんじゅ)ぼさつさまが、お話をされるのです。ぜんざいも、いっしょにすわって聞きました。
 やさしい声でした、ぜんざいには、むつかしすぎましたが、最後に、こんなことをおっしゃいました。
「たとえば、池に、ひっそりさいている、ハスの花をごらんなさい。その、ひとつひとつの花の上にも、ほとけ(三字に、傍点)さまか、すわっていらっしゃるのです。でも、それが見える人は、りっぱな人だけです。いろんな勉強をし、正しい行ないをして、世の中の人のためになるように、なったとき、初めて見えてくるのですよ。」
 ぜんざいは、また、びっくりしました。林の中のことなら、なんだって知っているつもりでした。
「でも、ハスの花の上に、そんな人がいたかしらん。」
 ぜんざいは、人がきをくぐりぬけ、林の小みちを走って、ぜんざいだけしか知らない、小さな池にでました。その水面には、まっ白なハスの花が、たくさんさいていました。ぜんざいは、その、ひとつひとつの花を、よく見ました。やっぱり、花の上に、ほとけさまなんか見つかりませんでした。ぜんざいは、池のほとりに、すわりこんでしまいました。
 池は、こわいほど静かでした。
「りっぱな人になったら見えるのかなあ。」
 ぜんざいが、そう思いながら林の中へもどっていくと、お話が終ったのか、大ぜいのお坊さんが、こちらへやってきました。その中に、文殊さまも、いらっしゃいました。
「文殊さま。どうしたら、わたしもりっぱな人になれるでしょうか。」
 と、ぜんざいは、たずねました。
 すると、文殊さまは、
「よくたずねました。その、りっぱな人になりたいと思うことが、いちばん大切なことですよ。あなたは、りっぱな人のところへ行って、どうしたらよいかを、ていねいにお聞きし、教えられたとおりに、いっしょうけんめい努力して、世の中の人のためにならなければなりません。南の方に、カラクという国があります。そこの、クドクウンという、お坊さんにお聞きなさい。」
 と、教えてくださいました。
 ぜんざいは、大よろこびで、南の国への旅にでました。

   *

 それは初めての、つらい旅でした。ひと月も歩いて、やっとのことで、ぜんざいが、そのお坊さんをさがしだすと、
「どうしたら、りっぱな人になれるでしょうか。」
 と、たずねました。すると、そのお坊さんは、
「よくたずねられた。わしも、りっぱな人になって人びとを救おうと、修行をしておるが、やっと、どうしたら、良いことと悪いことの見わけがつくかがわかったぞ。どんなうそをついても、お見とおしじゃ。わしは、そのことを教えてしんぜよう。じゃが、りっぱな人になるには、わしも、もっともっと修行せねばならん。南の方にジザイという国がある。そこのミガという先生なら、きっと、ほかのこともよく知っとるじゃろう。」
 と、教えてくださいました。
 ぜんざいは、いっしょうけんめい良いことと悪いことを見わける方法を学んでから、お礼をいって、また南への旅にでました。

   *

 三百里も歩いて、やっとのことで、その先生をさがしだすと、ぜんざいは、
「どうしたら、りっぱな人になれるでしょうか。」
 と、たずねました。すると、その先生は、
「よくたずねたね。先生も、りっぱな人になって、みんなに教えてあげようと、いろんなことばを勉強してるんだが、やっと、どんな国のことばでも、どんなけものや虫、どんな草や木のことばでもわかるようになったよ。アリさんのお話だって、タンポポの歌だってわかるんだよ。先生は、それを教えてあげよう。でも、ほかのことは先生もまだ勉強中だ。そうだ、南の方に、バラモンという行者がいる。かれに教わってごらん。」
 と、おっしゃいました。
 ぜんざいは、いっしょうけんめいに、ことばということばを学ぶと、また旅にでました。

   *

 やっとのことでバラモンをさがしだしたとき、かれは苦しい行の最中でした。かたな、などの、はものでできた高い山の上から、燃える火の海へ飛びこもうとしていたのです。
「どうしたら、りっぱな人になれるでしょうか。」
 と、たずねますと、バラモンはいいました。
「ちょうど良いところへきた。おまえさんも、この、はものの山に登って、火の海に飛びこむがいい。」
 ぜんざいは、びっくりしてこう考えました。
「りっぱな人になることは、むつかしい。これは、きっと悪魔が、わたしのじゃまをして、殺そうとしているんだ。」
 すると、大空から、たくさんの天女が、口をそろえていいました。
「悪魔なんかじゃありません。あなたはきっと、こわがっているんだわ。」
 ぜんざいは、はずかしくなって、バラモンにおわびをし、りっぱな人になりたい一心で、はものの山から、火の海へ飛びこみました。
 するとどうでしょう。ちっとも熱くはありません。なんだかいいきもちです。
 バラモンは、いいました。
「ぜんざいよ。おまえさんは勇気と、一心に思いをこめたときの強さを学んだ。おれにはもう教えることなんかなくなった。南へ行って、ミタラという女の子に会いなさい。」
「女の子なんかに会って、なんになるのかな。」
 と、思いながら南へ行くと、大きな宮殿がありました。みると宮殿には宝石がちりばめてあって、数えきれないほどたくさんの、むかしの、りっぱな人の絵がありました。ミタラはそこのお姫さまでした。
「どうしたら、りっぱな人になれるでしょうか。」
 と、たずねると、お姫さまはいいました。
「ねえ見て、この絵。わたしったら、なん回もなん回も、生まれかわって、この人たちみんなに会ってきたのよ。そうして、いっしょうけんめい練習したわ。あなたにも教えてあげるわね。」
 ミタラ姫が教えてくれたのは、いろんなじゅもん(四字に、傍点)でした。頭がよくなるじゅもん。だれの考えていることでも、わかってしまうじゅもん。病気をなおすじゅもん。おぼれている人を助けるじゅもん。とうめい人間になるじゅもん。どんな願いでもかなえるじゅもん。ただ、ムニャムニャムニャーというだけでいいのです。世界をほろぼすじゅもんなんて、こわ一いのも、あるんですよ。
「でも、ほんとうに、りっぱな人になるまでは使っちゃだめよ。ずっと南に住んでるジザっていうお姉さんにも会っていきなさいね。」
 って、最後にお姫さまは、いいました。

   *

 少し行くと、また宮殿がありました。ところが、こちらの宮殿は、ふつうの木でできた、あっさりしたつくりで、たいそう大きいのに、中は、がらんどうでした。そうして、まん中に若い女の人が、ぽつんと、ただひとりすわっていました。
 着物は、つつましく、道具といったら、おわんがひとつ、前にあるだけでしたが、その女の人は美しく、やさしい人でした。
「どうしたら、りっぱな人になれるでしょうか。」
 と、ぜんざいがたずねると、女の人は答えました。
「よく、たずねましたわね。わたしは、人に物をほどこすことができるの。着物でも、かみかざりでも、家具でも、わたしの持っている物ならなんでも、人にあげました。最後にひとつ残った、このおわんからは、中から、いくらでも、ごはんが出てくるので、百人、千人は、おろか、世界中の人びとに、食べ物をさしあげることだって、できるのよ。わたしは、世界中のこどもたちが、おなかをすかせて死んじゃうことがないように、したいと思っているのよ。」
 ぜんざいは、こうして、よくばらないで、みんなに物をあげることを、いっしょうけんめいに学びました。そうして、つぎに、マンゾク王に会うように、いわれました。

   *

 ぜんざいが、これまで会った人びとのことを思いだし、教えられたことを考え、感謝して、南へ南へと歩いておりますと、大きな国に着きました。
 王さまは、ちょうど、お仕事中で、裁判をしておられました。
「おまえは、なにをしたのだね。」
「はい、王さま。わたしは人をなぐりました。でも、それは相手が先に、けったからです。」
「人をなぐってはいけないという、この国の法律を忘れたのか。なぐった方の手を切ってやる。ついでに、先にけったやつの足も切れ。」
 と、目の前で、ひとりは手を、ひとりは足を切られました。
「つぎのものは、なにをした。」
「はい、王さま。わたしは、ただ、そのう、おじぎをするのを忘れただけです。」
「よし、おまえは、おじぎをしなかった、その首を切ってやる。」
 と、目の前で、首を切られました。つぎのものは、いねむりをしたので、両目をえぐられました。火をちゃんと消さなかったものは、熱い灰の中に投げこまれました。おねしょうをしたものは、そのふとんにくるまれて、油をそそぎ、火をつけられました。それはそれは恐ろしい裁判でした。
「これは、王さまのほうが、もっと悪ものにちがいない。こんな人が、どうして、りっぱな人なものか。」
 ぜんざいが、こう思っていると、また天女たちか、口をそろえていいました。
「悪ものなんかじゃ、ありません。あなたは人の、ほんとうの心が、まだわからないの。」
 そこで、ぜんざいは、王さまのところへ行って、たずねました。
「どうしたら、りっぱな人になれるでしょうか。」
 すると、王さまは答えられました。
「よくたずねた。わしは、正しい行ないと、人を、いましめることを学んだ。さっきの、つみびとたちは、じつは、みんな、わしが作ったロボットじゃよ。人間そっくりのロボットに悪いことをさせ恐ろしい裁判をすれば、それを見た人間は、みんな、もう悪いことは、しなくなるのじゃよ。わしは、アリ一びきだって殺しゃせんぞ。いきものの命は、みんな大切じゃぞ。」
 そこで、ぜんざいは、王さまから、正しい行ないと人をいましめることを学んで、さらに南への旅をつづけました。

   *

 こんどは大きな海にでました。そして、王さまから教わった、船乗りを見つけだすと、
「どうしたら、りっぱな人になれるでしょうか。」
 と、たずねました。
「ようこそ、ここまでおいでなすった。まあ、おいらの船に乗んなせえ。海のことなら、だれにも負けないよ。世界中の港を知ってるし、どこに宝島があって、どこに人を食う、ばけものが住んでいるか。どこの海の底に恐ろしい竜が住んでいて、どこに危ないうずが巻いているか。海の色、空の色で、あらしがくるか、たつまきがおこるか。太陽に月、星座を見れば、いま自分が、どこにいるかだってわかるさね。だから、長い船旅だって、こわくは、ないのさ。まあ、生れてから死ぬまでの人生の旅だって同じことさね。努力して知識を深め、しんちょうに行動して、たえず自分がどっちに向いているか、わかったなら、かならず、りっぱな人になれるさね。さあ、着いたぜ、ぜんざいさん。」

   *

 海の上に、岩にかこまれて、そびえる山は、フダラカ山(さん)。あたりは美しい花におおわれ、おいしそうな、果物のなる木がいっぱいです。森の中には泉がわき、すてきな香(かおり)のする草をわけて、小川が流れ、美しい沼にそそいでいました。
 ぜんざいが山を登っていくと、涼しそうな岩かげに、たくさんの美しい着物をきた人たちが集まっています。みると、それぞれ、みごとな宝石の上にすわっています。まんなかでダイヤモンドより固い宝石の上に、足を組んですわり、お話をしておられるのが観音さまでした。手には楊柳(ようりゅう)という、やなぎの小枝を持ち、近くに薬びんを置いておられました。
 ぜんざいは、ていねいに、おじぎをしてたずねました。
「どうしたらりっぱな人になれるでしょうか。」
 観音さまは、やさしくお答えになりました。
「よくたずねてくれました。わたしは、いつもわたしのことを信じてくれている人なら、どんな悩みを持っていても、『かんのんさま!』と、わたしの名前をよべば助けてあげようと、ちかいをたてました。どこへでも、すぐに飛んでいって、なんにでも変身し、やさしい声をかけ、ときには強そうな姿をして、光の輪でつつんで、人びとを救います。危険なめにあったとき、熱病におかされたとき、しばられ殺されそうになったとき、貧乏、あらそい、死、悪もの、愛や憎しみなど、どんな悩みや恐ろしさからも救ってあげるのです。」
 ぜんざいは、よろこんで、人を救うということを、いっしょうけんめい学び、また、旅にでたのでした。

   *

 ぜんざいは、まだまだ、たくさんの人に会いました。たくさんのことを学びました。そうして、南へ南へと旅をつづけたのでした。
 あるときは、大きな川の川ぎしで、砂あそびをしている男の子に会いました。その子は、川のぜんぶの砂つぶの数を数えることができたのです。ぜんざいは、その子から、ふしぎな算数を教えてもらいました。
 またあるときは、おばあさんに会いました。むかしのことは、ぜんぶおぼえていて、けっして忘れない方法を教えてくださったのでした。
 たくさんの、お金持ちにも会いました。どんなほしいものでも、空から降らせる方法を教えてくれた人。反対に、自分が少しのものしかなくても、いつもじゅうぶんに満足したきもちでいられる方法を教えてくれた人。どんな病気でもなおせる薬の作り方を教えてくれた人。どんな悩みを持ち、ゆううつな人でも、たちどころに、いいきもちに、幸せにしてしまう香水の作り方を教えてくれた人。
 ある王さまからは、ふしあわせな人、貧しい人をかわいそうに思い、心から愛してあげる、いつくしみの心を学びました。
 たくさんの、夜空の女神さまにも会いました。人びとが夜空を見あげるとき、その日、良いことをした人には、やすらかな心を、悪いことをした人には、いつくしみ悲しむ心をおこさせることを学びました。また、いっしょうけんめい、行ないを正しくして、夜には、光あふれる美しい国ぐにや、人びとの夢を見ることを学びました。
 ぜんざいが、お会いした人は、とうとう、ぜんぶで五十人にもなりました。そして、五十ばんめの女神さまは、南へ行って、弥勒ぼさつ(三字に、傍点)さまに会うようにいわれました。

   *

 弥勒(みろく)さまの宮殿は、暗い林の中に高くそびえていました。門のとびらは閉まっていましたが、弥勒さまは、ちょうど外から帰ってこられました。そして、ぜんざいを見ると、こうおっしゃいました。
「よくここまで、たどりつきましたね、ぜんざい。あなたは五十人もの人に、いろんなことを学んで、とうとうここまで、来ることができました。それは最初に、りっぱな人になって世の中のためになりたいと、固く、心に願ったからです。その強い決意があなたを守り、ここまでつれてきてくれたのですよ。あなたは、たくさんのことを学んで、身につけました。さあ、これからわたしの宮殿に入れてあげよう。」
 弥勒さまが、右の指をポンと、はじかれると、門は自然に開き、ぜんざいが中へはいると、門は閉じました。
 ぜんざいは、思わず、まばたきをしました。宮殿の中は、外からは思いもつかないほど、広く、明るく、キラキラ光っていました。ルビーや水晶、エメラルドなどの宝石でできた宮殿には、黄金の鈴の音(ね)が、たくさんの美しい鳥の声といっしょになって、ひびきわたり、あたりいちめんに、香水のにおいがして、空からは、いろんな花びらが舞い散り、数知れない玉の光が、すみずみを照していました。窓の外を見ると、空は晴れわたってかがやき、同じような宮殿が、なん万となく、つながっているのが見えました。ぜんざいは、うれしくなって、おどりあがり、やがて、心がやわらぐと、頭の中まですっきりしました。
「ぜんぶの宮殿へ行ってみたい。でも、どうしたら行けるのかしら。」
 と、ぜんざいが、ふと考えますと、たちまちぜんざいに、なん万もの分身ができて、ぜんぶの宮殿に、ひとりずつの、ぜんざいがいました。
 その宮殿のひとつひとつが、ひとつの世界になっていて、弥勒さまや、おしゃかさまのような、りっぱなかたが、それぞれお生まれになって、りっぱな人になりたいと思いたち、いろんな苦労をされて、りっぱな人になり、ふしぎな力で世の中の人びとを助けられるようすを、ひとりずつのぜんざいが、ひとつひとつ見て学ぶことができたのでした。
「見ましたか、ぜんざい。りっぱな人たちのふしぎな力が見えましたか。」
 と、弥勒さまの声がしました。
「はい、見ました。」
 たくさんのぜんざいが、口をそろえて答えますと、また弥勒さまの、指をポンと、はじく音がして、いつのまにか、ぜんざいは、ひとつの体になって、宮殿の門の外にいました。
 まるで、夢のようなできごとでした。竜宮城の浦島太郎が、少しと思ったあいだに、百年をすごしたのと、ちょうど反対に、なん百年をすごしたつもりが、ほんの少しのあいだのできごとだったのです。
 弥勒さまが、最後におっしゃいました。
「ぜんざい。あなたに、宮殿の中のすばらしい世界が見えたのは、宮殿がすばらしいからではありません。あなたが、すばらしく見ることができるほど成長したのですよ。あなたは、もうすぐ、りっぱな人になれます。さあ、早く帰って、文殊さまに、このことをお伝えなさい。」

   *

 文殊さまのお名前を聞いて、ぜんざいは、ふっと、ふるさとのことを思いだしました。
「南へ南へと旅をして、とうとう、こんな南の国まで来てしまった。ああ、早く帰りたい。」
 と、そのとき、とたんに、目の前に、文殊さまが表われ、あたりは、見おぼえのある、ふるさとのけしきになりました。
 そこは、ぜんざいが育ったガヤ村です。でも、いままで見たこともないほど空は透きとおって青く、木は緑にかがやき、家も人びとも、きれいに見えました。まるで、まだ弥勒さまの宮殿の中のようです。
「ようこそおかえり、ぜんざい。あなたはりっぱに長い旅を終え、すべてのことを学びました。あっというまに帰ってこれたのも、あなたの村が前より美しく見えるのも、あなたに力がついたからです。もうどこへ行こうと、なにをしようと、思うままにできますよ。」
 文殊さまが、こうおっしゃると、ぜんざいは、ただもう、うれしくて、なみだを流していいました。
「ありがとうございます、文殊さま。おかげさまで、さまざまなことを学び、さまざまな力をつけることができました。このうえは、さらに努力して、りっぱな人になって、世の中のためになりたいと思います。」
「よくぞ、いいました。ぜんざい。その、りっぱな人になって、世の中のためになりたいという、強い心が、あなたをここまで成長させたのです。さあ、普賢ぼさつさまが、あなたをずっと、お待ちだったのですよ。」

   *

「普賢(ふげん)ぼさつさま。」
 と、ぜんざいがつぶやくと、とたんに明るくなって、そこは、おしゃかさまのおられる、ギオンショウジャというところ。光の輪につつまれた、おしゃかさまの、右には普賢さま、左には文殊さまがおられ、まわりには大ぜいのお弟子さまがおられました。
 普賢さまが、おっしゃいました。
「待っていたのですよ、ぜんざい。苦しいことに負けずに、長い旅を終えました。この大ぜいのお弟子の中でも、ほんの少ししか学んでいない人には、わたしの名前は教えてもらえない。まして、わたしの姿は見えないのだよ。あなたには、もう見えますね、ぜんざい。あなたは、もう、りっぱな人です。今日からは、ぼさつ(三字に、傍点)という、おしゃかさまのお弟子になって、いっしょに学びながら、世の中の人びとのために、はたらくのですよ。」
「ありがとうございます、普賢さま。」
 ぜんざいが深くおじぎをして、ふりかえりますと、前に池があって、ハスの花が、いっぱいさいていました。ひとつひとつ、よ一く、見ました。が、花の上には、やっぱり、ほとけ(三字に、傍点)さまは、おられませんでした。でも、ハスの花は、とってもきれいでした。池も林も空も、見れば見るほど、まえに見たこともないほど、きれいに見えました。そして、ぜんざいの心の中まで、すっきりしました。
「ほとけさまが見えるって、こんなことかもしれない。」
 と、ぜんざいは、にっこりほほえみました。
 こうして、善財童子さまの、長い長い旅は終りました。
 めでたし、めでたし。                         (1980年8月発行)
 
 

    あとがき
 

 恋人を連れ去られた善財(スダナ)王子が、いろんな人に尋ねて南へ南へ追いかけていくという、恋物語がインドの古典民話にありますが(筑摩書房『原始仏典』中村元)、おそらくそれらを基に仏教説話が創作され、インドにおいてある大乗仏典の中に編入されました。これが中国に伝わり漢訳されて華厳経(けごんきょう)と呼ばれました。華厳経は法華経(ほけきょう)と同様に仏典の中でも古く、中国華厳宗の基となり、禅宗にも多大の影響を与えています。
  善財童子様の説話は、この華厳経の結文(けつぶん)として、〈入法界品(にゅうほっかいぼん)〉という最後の長い章にまとめられ、難解な教理を、善財童子様を主人公とした物語に仕立て直したものです。ここでは、悩み多い世の中から救われるには、修行をして悟りを得、菩薩(ぼさつ)になると同時に、人びとの救済をしなければならないと説きます。これが後の禅宗ですと、悩みぬいた上で一切を忘れること(無)によってのみ、一転、悟りの世界に入れると教え、悟りへの道は言葉にできないと教えます。が、逆に華厳経では、悟りの世界を言葉を尽くして歌いあげ、どんなにすれば悟りに至るかを、こと細かに段階を追って説きます。それは仏典の中でも極めて華麗かつ途方もなく広大で、路端の花から宇宙の塵の一つ一つまで仏が満ちみち、かつ全宇宙が巨大な仏そのものであると考え、これを教えるために奈良の大仏もできたのです(東大寺は華厳宗)。本当の悪人はいない。なぜなら、すべての人の心の中には仏が眠っているから。だれもが勤勉に働き、努力することによって何かを教えうる師となれる。そして善財のような子供でも、堅く決意して師を訪ねれば、段階を追って悟りの世界に入り、本来の美しい世界に目覚め、また人びとを救済することによって偉い人(菩薩)になれると説くのです。
 したがって、中国や日本において華厳経が広まった時期には、善財童子様は民衆の人気者であったようで、東海道の〈五十三次(つぎ)〉や武芸の〈指南(しなん)〉という言葉の語源となり、東大寺の絵巻物やジャワ・ボロブドール遺跡彫刻の主要テーマとなっています。
 観音様は、法華経によれば、法(ダルマ)を求めて修行することを本願とし、同時に衆生(しゅじょう)の許(もと)へ赴き、そのすべての悩みを救うことを誓願された、諸願一切成就、現世利益の菩薩です。その強い力を誇示するために、本来は同じ観音様であるものが、時として十一面観音、あるいは千手観音などとして表わされ、広く民衆の信仰を集めてきました。華厳経の観音様は、この説話の中で五十三ケ所の善知識(聖者)の一人として出てくるだけですが、その居城の美しさが人びとを魅了し、これを基に補怛洛迦山浄土(ふたらかさんじょうど)の信仰も起こり(新潮文庫『楼蘭』〈補陀落渡海記〉井上靖)、あるいは、中国で道教や禅の風潮のもと、水辺にくつろぐ悠然として優しい観音像として好んで画かれ、水月観音、白衣観音、そして楊柳を手に持つ楊柳観音が信仰されるに至ったものと思われます(本文の観音様の一節の柳云々は筆者が挿入したものです)。『西遊記』(平凡社)の中でも、たびたび楊柳を手に持った観音様が登場して、三蔵法師の一行を救い導くなど、民衆の人気のほどはわかります(余談ながら、善財童子も端役で登場します)。
  参考文献として、隆文館『仏教説話文学全集 4』が適確に要約されているのでお薦めします。
 
 
 

(作者は、京都祇園会の鉾町、百足屋町に生まれた優れた建築家であったが、1992年に享年四十二で惜しくも夭折された。多くの調査研究、建築設計の他に執筆活動も豊かであった。この「善財童子さま」は京ことばでもともと書かれ、さらに標準語にもされている。編輯者には京ことばの原作がおもしろいが、かなりの脚注がほどこされているのは、その必要があるわけで、ひろい読者のことを考慮し、まずは標準語版を此処に戴いた。優れた文藻文才を惜しみ、詩人で叔父に当たる木島始氏らの尽力で遺作集『森の精ホテルで』が刊行されている。夫人また木島氏のお許しがあり、もう何編かをぜひ掲載し世界に発信したい。 1.7.17 祇園会に掲載)



 
 
 

         白 い 鯉         三原 誠
 
 
 

「滝雅志って、憶えていますか? たしか、あなたがA高校にいらっしゃった頃の、生徒会長だったと思いますがね」
  私が郷里のA高校に勤めていたのは、もうずいぶん以前のことである。が、同じ学校の教師仲間だった内村にそう言われると、滝の面影はすぐに思い出された。私は、A高校からこちらの大学に移る年、そこで生徒会の顧問をやっていたから、滝とは親しみを密にしたほうだ。
「滝ばかりじゃない。そのころ大学を出たての君の、燃えるような教育熱もよく憶えている」
 私の揶揄に、内村はふんというように肩を動かした。が、次に、内村が静かな悲しみを目にみせて言った言葉は、私を唖然とさせた。
「その滝は死にましたよ。それもあの秀才が、生まれもつかぬ白痴になって──」
 以下は、学会で上京し、ついでに私を訪ねた内村の話である。
 

 あれは、もう十年余りも前になりますか。
 ぼくが、家で原稿の整理をしていると、久しぶりに滝がやって来て、大宰府に行かないかと言うのです。それが、あまりに籔から棒の誘いなので理由をきくと、何でも彼の勤めている博物館を訪ねたフランス人を案内するのだが、その人が車を運転しているので、出不精のぼくを連れ出すには好都合だと思って寄ったということでした。
 ぼくは、ご承知のように専門が電気のほうで、無風流な上に研究室にばかり閉じこもっていますから気がつかずにいましたが、そう聞くと、成程梅の花の時期です。ちょうど原稿の整理も大方すんでいるので、梅の花をみて気ばらしをするのも良かろうとも思い、家の前に停まっている大型の外車にも、心がひかれました。あれなら、たとい大宰府でなくてもいい、あまりやったことのないドライブという気分も味あわれようという、情ない心が大いに動きました。
 そこで、ぼくは、外人が、それも令嬢(マドモアゼル)が一緒だというので、少々念入りに身仕度をして出掛けました。
  道のり一時間半ばかりのドライブというものがどんなものだったかは、もう大方忘れてしまいました。ただ、車は期待通りの乗り心地のものだったのに、その車の中で交される滝と令嬢とのフランス語の会話がぼくにはまるでわからず、すると、誘われた同行者であるのに、自分だけが除け者にされているような僻みを、覚えないこともない道中だったようです。
  ですから、目的地の大宰府に着いて、車という密室から、春まだ寒い外界に出たときには、正直、ほっとした気になりました。
  ところが、それからが大へんでした。
  初めにも言ったように、ぼくは、滝から誘われた時、花見のつもりでいたのです。ところが、滝が案内するのは花里遠く離れた所ばかりで、やれここが総門祉だの、あの大石の並びが本殿祉だの、これが道真公謫所の地だのといった工合。
 その時分には、まだ現在のようには、庁舎跡の観光風的な整備はすすんでいまぜんでした。ですから、梅の花どころか、寺院はまあいいとしても、なかにはただ石瓦が転っているだけの、いや、それらしい何も残っていない所さえあって、畑ちがいのぼくには、まるで感興の湧かないところばかりでした。
 そのうえ、滝は説明をほとんどフランス語でやるし、たまにぼくに説明をしてくれるときには、日本人ならその歴史は知っているはずと思っているせいか、ぼくにはフランス語同様に一向に理解のできない文脈のものです。が、滝の案内は時のたつにつれてますます専門化し、水城(みずき)の跡までも足をのばしそうな形勢を見せ、時には、説明を放って、そこいらの石ころや粘土に一人で興がる風も出てきました。
 こうした古跡めぐりが、彼等の最初からの計画だったのか、あるいは、滝の古代文化への研究熱が自然とそうしたのか、それはわかりません。
 ところが、妙だったのは、連れの外人令嬢が、いっこうに辟易のそぶりを見せずにいることでした。それどころか、次第に光を帯びてくる滝の瞳から目を離さずについてくる。どんなに日本通だとしても、安楽寺跡まで興味を持つなんて普通ではありません。ぼくは、ひょっとするとこの令嬢、滝の日本人ばなれした容貌に参っているんじゃないか──と思いました。すると、ぼくはここについて来たことが途端につまらなくなってきて、多少、意地悪な気持ちから
「滝君、昌代さんは誘わなかったの ?」
とたずねました。
  すると彼は、初めはぼくの質問に当惑したような表情をとりましたが、それから視線を遠くにやると
「いま稽古に入っています。五月に何か発表するらしいのです」
と、短く答えました。
 昌代さんというのは、ぼくが高校のとき、クラス担任だった藤波という先生のお嬢さんです。
 ぼくは、クラス会や同窓会の幹事をしている関係で、いまも藤波先生にご交際をいただいていますが、そのお嬢さんと滝は、大学の頃からの親交が続いていました。
 もし、滝が博物館での研究生活でなく、普通の会社勤めを選んでおれば、あるいは、昌代さんのほうに現代舞踊という創作活動がなかったのなら、二人はとうに結婚していたでしょう。もっとも、昌代さんのその現代舞踊というものがどんな意味のものか、ぼくには、滝の古代文化研究以上に理解できない代物ではありますがね。しかし、求むれば果てしない道が続くのは、どんな仕事でも同じことのようです。
 ところで、ぼくは、藤波先生を訪ねるのに、そこで昌代さんに会えるのが心ひそかな愉しみでもありました。
 玄関での挨拶や、先生の部屋で茶をととのえるわずかな間だけれども、昌代さんの目くばりや唇の艶、かしげる首すじや手指のつくるしなが、いつもぼくに、彼女の親しみをしぶきのように感じさせてくるのです。もっとも、それは、昌代さんのなかで、滝という篩(ふるい)に梳(す)かれたものではあったでしょうが、それでも、女性との交際に縁うすいぼくにはひどく快いものでした。
 あるとき、玄関の扉を開けた昌代さんが、ぼくを見るなり
「あらッ」
と、思わず小さな声をたてたことがありました。そして、みるみる頬を紅潮させ、把手に添えていた手指に、すばやく狼狽をかくしました。
 昌代さんは、客を間違えたのです。滝を待っていたのかも知れない。しかし、その日、ぼくは自分が招かれざる客だとわかってからも、昌代さんの頬からうなじに流れていった羞恥の色のあざやかさに、口を渇かされて立っていました。あのときほど、昌代さんを美しいと思ったことはありません。ぼくは、藤波先生を訪うたびの帰りの道、やや嫉妬めく慶ばしさを滝に感じていたものでした。
 その昌代さんが、稽古に入ると全く人が変わってしまうのです。
 ぼくは一度だけ、そんな時期に行き遇ったことがあります。
 そのとき、ぼくは、昌代さんを病み上がりの人かとあやしみました。
 いつもの、ぼくをたのしませるあのきらきらした親しみの動きが、うそのようになくなってしまっていて、目につくものは、短く笑う後の乾いた唇の鎮まりや、動作の区切りごとに、動きを停めた体のその部分に露われる、よそよそしさばかりです。よそよそしさならばとにかく、例えば、膝に揃えておかれる指先や、伏し顔のうしろにのぞくうなじの白さには、相手を無縁の者とする、ほとんど敵意に近いものさえが感じられるのです。
 ぼくは、茶を注ぐ昌代さんの手の表情が与える異和感を、何故と怪しまずにはいられまぜんでした。それは、しなやかではあるが、その底に己れのみを恃する冷酷さと強靱さとをひそめた、ちょうど、爬虫類から受ける感じのものに似ていました。
 ひとつひとつの仕草に長い時間がすぎる気がし、その間、藤波先生もぼくも黙っていました。
 もし、そのまま過ぎていれば、ぼくは、女性生理へのいわれなき忌み心や、稚い自恃に対する反撥心で、自分を焦ら立たせていったかもしれません。
「からだのぐあいでも──」
わるいのですかと、ぼくが質(き)かずもがなのことを言ったのは、自分のそんな感じようを拒もうとするつもりのものでした。
「え ?」
  そのとき、昌代さんは、その日初めてぼくを直視したと思います。
 鋭い耀きの目差(まなざし)でした。
 が、昌代さんは、すぐにその瞳を伏せ
「いいえ」
と、唇に心外な笑みを浮かべ、小さくかぶりをふりました。
 昌代さんが部屋を出ていくと、藤波先生は、非礼を詫びるような表情を作ってみせました。が、ぼくは、それに気がつかないふうをして話に入りました。
 しかし、それからの話の途中で、言葉をとぎらせるのはぼくのほうでした。
「え ?」
と、ぼくに向けた耀きの瞳が伏さったとき、そのあとに、昌代さんの眉から鼻にかけての、あの削ったような線が、蒼い二本の孤条(こすじ)でぼくの前に在りました。それが、昌代さんが去った後もぼくの言葉の間にわり込んできて、気がつくと、ぼくは口を閉ざしてそれに見入っているのです。
 何か狂暴な力のものが、昌代さんのそこを掃いていったことが、ぼくにさえ、はっきりと感じられました。昌代さんを、いやおうなしに異邦人に変えてしまう力のもの──。
 そして、昌代さんのその眉の線は、他人には近よれない、彼女だけが耐えねばならない孤独さを、くっきりとしめしていました。
「稽古に入ると、きまって──」
 藤波先生のつぶやきを、ぼくは遠くからの声のように聞いていました。

 何か新しい舞踊の稽古に入るとき、昌代さんの体にみちてくるこうした情念と孤独とは、もちろん滝にだってどうなるものではありません。ただ、彼はぼくと違って、昌代さんのそうしたものに焦ら立たされることはないのですが、それでも、ふとした鬱屈の心が動かないでもないらしいのです。
「いま稽古に入っています」
と答えたとき、ぼくは彼の表情にその翳が浮かび去るのを見ました。
 だからぼくは、そういう滝をみると、意地悪な仕方をしたという反省にかられましたが、そのためか、ぼくは、滝の顔が普段とは違っているのに、初めて気がつきました。
 少し顔がむくんでいる──
 といっても、顔色は別に悪くもないので、ぼくはその日、何も言わずにいました。
 思えば、ぼくの心は、春は名のみの筑紫の風に、寒々として在ったようです。

 滝の危篤を報らせる電報を受けとったのは、それから一ヶ月の後でした。
 ぼくは、すぐにかけつけました。というのは、もちろん滝との交際にもよりますが、同時に、電報をうったのが昌代さんではないかと思ったからです。そして、彼女からの報らせならば、どんなことを措いても行かねばならないという気がしました。
 しかし、これはぼくの考え違いで、電報をうったのは滝の親爺さんでした。あの親爺さん、大学に勤めているといえぱ、何でもできるように思っているのですから。息子の苦しみように肝をつぶし、ぼくにまで報らせたわけです。
「先生よウ。どうにかしてつかあされ」
と、あの土のしみたひび割れの手に掌をとられたとき、ぼくは自分が医者でないことが苦しかった。が次に、ぼくは自分が医者でなくて良かったと思いました。医者にだって、どうにもできなかったのですから。
 滝は腎臓をやられていて、ぼくと大宰府にいってから間もなく、床についたらしいのです。
 驚きました。水分を排泄できないので、滝とは思えないほどふくれ上がっている。瞼までが気味悪く部厚く腫れていて、全体がまるでゴム人形の感じです。そして、排泄されない尿の毒素が、その日、ついに脳を冒したわけです。
 尿毒症っていうやつで、ひどいものですね。
 ちょっとここで断っておきますが、滝が病院に入院せずにいたのを、ぼくは非常識にすぎると思います。しかし、それは、豊かでなかった長い間の家庭経済の習慣や、それにもまして、ある宗教への家庭総ぐるみの帰依心によることのようで、それには、病人を外に出さぬ戒律でもがあるのでしょうか。もっともその日は、滝が家に臥すことを訝しんだり責めたりするには、あまりに緊迫した部屋の様子でした。
 ぼくが行ったとき、滝は、もう三時間ほど前からの痙攣で、その苦しみようったらありません。七転八倒とはあのことでしょうし、断末魔とはあの相(すがた)をいうのでしょう。それに、舌を噛まないように二本の箸を口にはさみこんであるのが、いちだんと残酷な感じをかもし出していました。
 医者にもどうにもできなかったと言いましたが、事実、主治医らしい老医師も、立ち合いの若い医師と二人で、いまはさじを投げた形で黙念と坐ったきり。ただ、おびただしい注射のアンプルの破片が、そのわきに冷めたく光っているだけです。
 あとで聞いたことですが、そのころには滝の兄姉と医師の間に、安楽死をにおわせる言葉が、他人には聞きとれない低さの声で交わされていたといいます。
 何しろ、医師もさじを投げています。助からぬ命を永らえさせ、苦しめておくより──と希ったわけです。また、もし万が一に助かったとしても、脳を冒されているので白痴になるだろうことは、それまでの例で医師が断言しています。白痴になって人の笑い物にさらされるよりは──と考えたのです。
 ただ、それが実行に移されなかったのは、滝のおふくろさんのせいでした。
 滝のおふくろさんは、隣室で滝よりもひどく苦しんでいました。何しろ滝は末っ子で、目に入れても痛くない四十っ子。しかも、子どもの中でただ一人、最高学府を了えさせた自慢の息子です。それが、唇を破ってもがき始めたものですから、たまりません。部屋を転ろげ、あるときは失神し、あるときは蒼白な顔に乱れかかってくる髪の間に、異様に光るまなこをのぞかせ、帰依する仏に称名を唱えるその姿は、凄惨そのものというか──ぼくは、母性愛のつくる夜叉像の一つをみる気がしました。
 滝がもし息を引きとっていたら、確かにおふくろさんも同時に息絶えていたでしょう。いや、ふだん体の弱いおふくろさんの方が先に参りはせぬかと、医者もそちらの方に気を配る有様。だから、みなが心の中では滝の安楽死を思っていても、その実行を口にすることはできずにいたのです。
 苦しみ続ける滝。その痙攣する肉のくねり。ゆがんでくる体をおさえつける兄姉の骨っぽい手と指。おふくろさんの呻き声と、香のにおい。他室に集った近所の人々の話し合う葬儀の手はず──そういうものがひとつの塊となって、しめきった家の中に、どこという落ちつき場もなく、不気味に震えとまどっています。
 ぼくは、いたたまれない気がしてきました。実際、人間が苦しんでいるというのに、何もされないでいるということは、いたたまらないことです。
 しかし、ぼくは、そこに居つづけておりました。
 いたたまれないのに、ぼくをそこに留めたのは、ぼくの全身に拡がった激しい怒りでした。
 怒り──。
 昌代さんなんです。
 ぼくは、電報をもらったとき、昌代さんをすぐに思い出したのですから、昌代さんがそこにいることに、一番に気がついて良かったはずです。が、ぼくは、周りの者の一番最後に彼女に気がつきました。それは、滝とそのおふくろさんの苦しみに、小心者のぼくが心を転倒させたことにもよりましょうが、それよりも、昌代さんの姿勢がぼくをよせつけなかったのです。いや、ぼくをばかりではない。他の人も、昌代さんがそこにいることに気を留めていたかどうか──。
 昌代さんは、滝の枕もとに坐っていました。
 そして、その表情をみたとき、ぼくは冷水を浴びた気がしました。
 蒼白な顔の色と、するどい瞳と、みがかれた鋼鉄のようなかたい姿勢──ぼくは、昌代さんのその形相に、周りのすべての者と全く異った残酷な艶光りを感じました。滝とそのおふくろさんを中心に、周りの人々が息づまるような祈り──とはならないまでにも、その緊張を続けているのに、昌代さんは、そんなこころには全く無関心に──ぼくは、直観的に思いました。昌代さんは、死の形を、人間が死んでゆくおりの相(すがた)をつかもうとしているのではないか──。
 そう思ったとき、ぼくは慄然とした怒りに襲われたのです。
 世に芸術家を僭称する人種を、このときほど憎悪したことはありません。

 それから二時間、都合五時間あまり脳を冒された滝の痙攣は続きました。そして、午後十一時ごろ、それがやみました。そして、奇蹟が──科学者のぼくが奇蹟と言うのが変だったら、ひとつの事実がおきた、と言いましょう。現代医学がそれを説明し得ないからといって、ぼくが実際にこの目で見た事実が否定されることはないでしょうから。
 激しい痙攣がしだいに力を失うようにやみ、みんなが、最期かと滝に見入った時です。滝の瞼が糸のように細く開かれ、瞳が静かな動きをみせました。と同時に、あれが生気というものでしょうか、柔らかな光のものが、その奥から耀いてきたのです。
「どうしたんです。みんな集まって ?」
 滝が言った最初の言葉でした。いま蘇った世界をあやしむ、静かな声でした。
 ぼくたちは、何も応えることができませんでした。
 静寂な、そして崇高な時間がゆっくりと過ぎました。ぼくは、滝の瞳のいろに、常に変わらぬ、あの聰明な光を感じとりました。それは不思議なことでした。
 突然、滝のおふくろさんが部屋に裾を乱してとびこんで来ました。
「雅志、よかったね」
と手を握り、それから、足音をたてずそこを離れて隣室に行くと、そこの仏壇の前で狂ったように喜びの経を唱え始めました。
 あなたは笑うかもしれないが、ぼくは再び、いたたまれない気持ちになりました。
 そして、部屋を出ようとした時でした。
 誰かを呼んだような鋭い人の声に、ぼくは思わず振り返りました。そして、滝の兄の腕に倒れている昌代さんを見たのです。
 直ちに注射がうたれ、応急の処置がとられました。
 ぼくは、立ったままでそれを眺めていました。昌代さんが、滝の死の枕辺で何を考え、何を感じていたか、ぼくは知らない。しかし、気を失った昌代さんの蒼白な瞼の下から、青い静脈をすかせてみせるこめかみに、つっつっとひとすじの涙が流れていくのをみた時、ぼくの体から、昌代さんに対して湧いていたあの怒りは、洗われるように消えていきました。そして、ぼくは、何かを祝福したいような、何かを懺悔するような──とにかく、何かしらんが涙がにじんできたのでした。

 それから、滝の病気は嘘のように恢復していったらしいのです。
 ぼくは広島の方の研究室に行く事になっていたので仕事に追われ、ついその後の見舞状を失礼していた有様でしたが、出発を二三日後にひかえた秋の終わり、滝から病気全快の報らせと、いつかの見舞を謝する便りがつきました。かつて脳を病んだ人間とは思えぬ達者さの、あなたも知っているでしょう、まったく、いい字を書きますからね。それも若い者には珍しい毛筆ですからね。
 手紙によると、奇蹟は続いたらしい。もっとも、奇蹟とは書いてはありませんでしたが。というのは、普通、腎臓炎をやった者は、いくら恢復したからといっても、やはり、蛋白質が排泄されていくらしいのです。ところが彼の場合、大学での検尿の結果は、この医学界の常識すらも破ったということでした。
『母の念ずる仏が私を救ったのだと、母が言います。私はそれに反対しようとは思わず、それが私の胸にひびいてくるままに、素直に受け入れようと思っています』
と書いてある彼の言葉は、如何に無神論者のぼくにも、それをどうとあげつらう気をおこさせぬひびきのものでした。

 広島から帰ったのは、冬がすぎた──いいですか、これは大事なことだけれども、ひと冬すぎた、翌年の八月中旬でした。そして、それから二週間ばかり経ったころだったと思います。
 何しろ、暑い日でした。
 九州の暑さを、あなたはまだ憶えていますか。東京の、うだるように湿度の高い暑さとはまるで違う。空気が金属的にキラキラ光って、太陽は、九州の表現を用いると『ヤキヤキ』と照る。すみきって遠くまでみえるような暑さです。それに、ぼくの庭の樹々では、熊蝉が暑さにたぎるような鳴き声をたてていました。
 ぼくは、広島での研究の整理に大童でしたが、その日、予期もしない昌代さんの訪問を受けました。滝ならまだしも、昌代さんです。ところが、それまでにない、まったく意外な昌代さん来訪だったのに、何故か、ぼくにはこの日の記憶が、不思議に鮮明ではないのです。昌代さんがどんな服装だったのかはもとより、ぼくがどんな接待をし、どんなことを話し合い、どの位の時間であったのか──これは、このあとあとに出遇う出来事の印象の強烈さが、この日の色彩をうすめてしまったのかもしれません。が、もとはと言えば、この日、昌代さんが訪ねてきた訳がいっこうにつかめず、妙にちぐはぐにその時間をすごしたことによるようです。別に用があってのことではなく、ただ、訪ねたく思ったから来ましたと言うが、二人に共通する話題のものといえば、滝についてのことしかありません。しかし、滝への親しみは、ぼくと昌代さんでは性質のちがったものですから、たがいに慎しむものがあって、話をはずませることもなく、短く終わってしまいます。昌代さんに疲れが見えている気がしましたから、何か創作の緊張から気分を変えるためのものかとも思いました。が、それなら、ぼくよりは滝を訪ねるほうが辻棲が合う。滝に、昌代さんに会えぬ忙しさがあるのかとさぐってもみましたが、それは、昌代さんにもはっきりしていないふうでした。
 訪ねたくなったから来たという相手を、そのまま迎えていればいいのだろうけれども、ぼくにはそんな、人との在りようの覚えがなく、相手が女性だけに落ちつけないのです。が、そのうち、昌代さんは、来たときと同じように、つまり、気まぐれな寄り道の家から帰るようにして、帰っていきました。
 どうしたというのだろう──仕事を続ける気を失って、ぼくは、昌代さんの来訪のわけをぼんやりと考えました。そして、その思案にようやく倦むころ、ぼくは、ぼくの心に沈んでいる短い言葉に気がつきました。
 尿毒症って、こわい病気ですわね──
 昌代さんが、話のどこかでもらしたそのつぶやきを、ぼくは、すぎた日の一夜の怖さをしのぶものと聞いていたようです。
 が、ちがう──
 昌代さんが居なくなってみると、胸底に残されたそれは、過ぎた日を偲ぶものではなく、いまを傷(いた)む言葉となって、ぼくに不気味にひびいていました。そういえぱ、それをつぶやいたとき、昌代さんの眉辺を、何かを耐えようとするうす青さのものが、一瞬の翳をつくっていったと思う。
 滝に何かがおきている。
 昌代さんは、そのためにぼくを訪ねてきた──。
 翌日、ぼくは、あたふたと滝を訪ねていきました。

 しかし、彼の異様な変身をまのあたりに見るまでには、なお五ヶ月の月日を経た、厳寒のひと日を待たねぱなりません。昌代さんに示唆されて訪ねていった日は、熊蝉と油蝉との鳴き声の聞こえる彼の部屋で、彼とわずかな時間をすごすだけで終わりました。
 衒(てら)った言い方を許してもらえるなら、ぼくは、倦怠というものがどんなに怖しいものであるかを、この日に知ったようです。
 その日、ぼくは、滝に起きたにちがいない何かの異常さを気遣って出掛けたのでした。そして、その異常さは、まず形態に現れるものと思っていたのです。助かった後の白痴を予言した医師たち──あなただって、白痴ときいてまず連想するのは、そうした形態のもの、たとえば唇がだらしなくゆるんでいるとか、着物の襟の合わせようが妙だとかといったものでしょう。
 ところが
「やあ先生、いらっしゃい」
と迎えてくれた彼は、秀いでた眉の下に聰明な瞳を光らせた、あの滝雅志です。ぼくは、まず最初に少々の失望を覚え、それから、ほっと安堵しました。
「どう?  すっかりいいの」
「はい。そのせつはどうも」
「勉強はすすんでいる ?」
「勉強ですか──すっかり怠けぐせがついて」
「論文のほうは ?」
「はあ──でも」
「うん、まあ、ぼつぼつやるさね」
「ええ」
「このあいだ、昌代さんが訪ねてくれたよ」
「はあ、そうですか」
「仲良くやっているの」
「ええ、まあ」
 以前からそうでしたが、仕事の内容はお互に話し合うものでもないので、話の種といえばこれ位のものです。しかし、ぼくはいつも、こうした、とりたてれば味気もない話から、若い研究生のぴちぴちした皮膚を感じとっていました。
 ところがこの日は、話が文字通りそれだけで終わってしまい、何の余韻も残しませんでした。ぼくには、家に残してきた研究の整理ばかりが思われて来、滝と話す時間が惜しまれてならなくなったのです。滝に異常はないのだから、訪ねてきた意味はなくなってしまった──と思うのです。
 これは、ぼくの好奇心があまり大きく、それが満たされるのが殆んどなかったことによる心情のものでしたろう。少くとも、その日は、そう考えました。しまいには、昌代さんの来訪に、何か滝の緊迫した変化を予期した自分がにがにがしく思われ、それがあまりにひどいものでしたから、帰りの電車の中では、滝だって昌代さんだって、あるいは二人の間のことだって、ぼくには関係のないことだから、もう何も構わないぞというあさましい気持ちにさえなりました。
 だが、ぼくが今すこし人生に冷静であり謙虚であったのなら、ぼくは滝の内部におきていた、あの異様な変化に気がついていたかもしれないと、悔むのです。
 滝は、それらの日々、彼の聰明さを以ってしても、どうするこもできない倦怠に襲われていたのです。彼をして、古代文化への情熱と昌代さんへの愛情を棄て去らせ、ついに彼を死に導いていった、あの不可思議な快楽──そう、それは生命とさえとり代えられる快楽でした──その快楽への欲求が満たされないまま、彼の中に倦怠を産んでいたのです。彼の部屋でぼくを退屈させたのは、彼の内部のその倦怠でした。
 しかし、ぼくは彼のそれに気がつくよりも先に、そのためにすっかり退屈させられてしまったのでした。

 それからまる一年間、ぼくと滝との交遊は中絶します。もちろん、それまでにも何の接触もなくすぎた長い期間もありましたが、この時ほどに、中絶した友情のしらじらしい気分を味わったことはありません。
 察しのいいあなたには、もうわかってしまっているかもしれません。ぼくは、いつしか昌代さんに心惹かれていたのです。といって、小心者の常で、滝と昌代さんとの間をどうしようという気持ちも持てず、また、かつて滝の教師であったということも、ぼくにある種の抵抗を感じさせました。だからぼくは、いちばん無難なやり方、すなわち、滝への友情を通して昌代さんに近づこう、近づこうというほど積極的な言葉はぴったりしないが、昌代さんと同じ思いのものを頒ち持とうと希っていたようです。それには滝の変化──、それも、滝の健康の変化がいちばん効果的に、同じ思いをつくりあげると思われました。滝の病床を見舞い、あるいは、夏の午後彼を訪ねたのも、こうしたぼくの、ひそかな意識の表われでしたろう。
 ところが、こんなぼくのひそかな期待が、熊蝉の鳴く夏の午後、彼の平常に変わらない容姿と瞳とによって否定されたものですから、友情もたちまち萎えていったというわけです。いや、待ってください。なるほど、こうしたぼくの心情分析は当を得てないかもしれません。そうしたものから独立した友情を、ぼくが滝に持っていることは確かだし、反対に、分析をもっと密にすれば、もっといやしいものが出てくるかもしれません。
 だが、いまはその論議をしばらく措きましよう。何もごまかすわけではありませんが、そんな論議などどうでもいいような、たとえ、ぼくが滝の異常化をなおも希んでいたとしても、そんなぼくの希みとは桁の違う彼の異常さに、すぐその年の冬、ぼくはゆき当たるのですから。

 新年の挨拶を交したから、一月の末か二月の初めだったと思います。
 ぼくは、福岡市で遇然、昌代さんの父上の藤波先生に会って、河豚をご馳走になりました。博多の河豚のおいしさを、まだ憶えていますか。それはまあそれとして、気にしておればそれだけ片意地になるぼくが、滝と昌代さんのその後のことをたずねたのは、河豚の美味(うま)さに盃を重ねすぎた酔いのせいでした。
 しかし、その酔いも、先生の話が終わるころには完全に醒め果て、ぼくは、酒酔いとは別な興奮にかられていました。
 その夜、ぼくは、すすめに従って先生の家に泊まりました。いつもなら姿をみせる昌代さんが、挨拶にも出ませんでしたが、それにもぼくは気分を乱されず、ただ、夜の明けるのを待ちかねていました。

 翌朝六時半、ぼくは、先生から聞いた筑後川の川辺に出掛けました。
 空にはまだ二三の星が光を凍らせたままで、足もとの道には、霜がガラス粉のように光っていました。風はありませんでしたが、それだけ空気の粒子が細かいようで、外套を通してくる寒さは、寒いというより痛いほどでした。朝のうすあかりを背にした耳納山塊の山稜は、冬空につったつ刃物の鋭さを感じさせ、道のくぼみに張りつめた氷は、あまりに凍てついているので、ぼくが不用意に足をついても、ひびけるどころか滑りもしません。鳥も飛ばず、何の物音もにおいもありません。両耳がひきちぎれたように感覚を失い、危くすれば、体全体も麻痺しそうに思えました。心も寒さに居すくめられて、何を考えることもできませんでした。
 部落の出口の所で、ひょっくり滝と出会いましたが、あらかじめ時間をみはからって来ていたぼくには、それほど偶然なことではありませんでした。ただ、その時、滝がみせた態度は、藤波先生に話を聞いていたとはいえ、ぼくにはやはり異様なものでした。
 滝は、ぼくを一瞥しました。
 ほんとうに、彼がぼくを見た仕方は、一瞥という言葉の表わすそれで、彼にとっては、全く偶然な、あり得ないぼくとの逢会であったはずなのに、眉ひとつ動かさず、吐く息の白さを乱すわけでもありませんでした。ぼくに向けた燃えるような眼は、決してぼくを見ているのでも、あるいはまた、世の習慣を見る眼でもありません。そこには、欲望に飢えるけものの、あたりを無視する激しさだけがありました。
 彼と出遇って、ぼくの唇は自然と笑みを浮かべていたようです。しかし、その笑みは、彼の瞳の前では迎合的な卑屈さをぼく自身に感じさせました。
 ぼくは、そのまますたすたと歩いてゆく滝の後について行きながら
「お早よう」
と、極めて快活に声をかけました。彼が、挨拶を返さなかったのはもちろんです。
 滝は、綿の厚いどてらを着、手拭で頬かむりをしていましたが、素足にはいた草履の真新しさが、彼の姿を不潔には感じさせずにいました。
 目指す川辺についたとき、ぼくを驚かしたのは、そこに昌代さんがいたことです。ぼくは、もういちど前の夜の藤波先生の話を思い出し、その驚きをしずめました。
 ぼくと昌代さんは目礼を交し、滝が杭の綱を解いている間に、そこに浮かぶ舟に乗りました。滝は、それを拒みはしませんでしたが、もし、ぼくたちが乗るのに遅れていたら、待ちもしなかったろうとわかりました。
 川には、対岸がはっきり見えないほど、川靄がたちこめていました。川面は、さすがに凍ってはいませんでしたが、冷めたくよどんでいて、どちらの方向に流れているのか、ただ、折れて水面についた枯葦の葉先が、それを示すだけです。
 滝の操る棹からの雫が、小さな音をたてていました。
 滝、昌代さん、それにぼく──もしこのとき、誰か岸辺に立つ者がいたとすれば、川霧のなかを遠ざかっていく舟上の三人を、どう見たことでしょう。
 ぼくの体は、おさえようもなく震えていましたが、それほどの寒さはもう感じていませんでした。
 靄を川面の左右に分けながら、舟が五百メートルも川を上ったときでした。急に、ポチャポチャと丸味を帯びた水音が、岸の方から聞こえました。気がつくと、すぐ左手、竹の生えた岸の川堤が、波にけずられて中腹から空洞になり、舟から拡がっていく波が、その空洞の天井をうつ度に、丸い反響音をたてているのです。
 滝は、そこで棹を上げ、舟底から覗き箱をとりました。蓋のない木箱の底に硝子をはめこんだもので、これを水におしあてると、波や光の反射にわずらわされず、水中をみることができます。舟の底には、その覗き箱が二、三個ころがっていました。
 ぼくは、その一つをとって、滝から少し離れた舷(ふなべり)で水をのぞきこみました。
 水は、うす緑色に重くにごっていました。川底にうちこまれている棒ぐいでしょう、黒いかげが五、六本ぼんやり見えていました。それ以外、ぼくには何も見えませんでした。
 だが、滝は──
 ぼくは、滝の動くけはいに顔を上げました。滝は、その時にはもう肩からどてらを舟底に滑り落としていました。どてらの下に、滝は、下着一枚もつけていませんでした。
 彼の皮膚は、たちまち漂白されてゆくように、白く鳥肌だっていきました。ぼくは息をのみ、寒いというおもいが風のようにすぎました。
  滝は、舷(ふなべり)で大きく息を吸いこみましたが、そのとき、彼の表情に不思議な悦びが耀いているのを見ました。が、それも束の間のことで、滝はそこから、憑かれた者のように、水音ひとったてず、足から真冬の川に体を沈めてゆきました。
 ぼくは、剃刀の刃に膚を裂かれていくような、動くことのできない痛さを覚えました。ぐっぐっと、体のどこかがへし折られた感じもしました。
 が、ぼくは、すぐに覗き箱を水にあて、滝を追いました。
 滝の足はすでに川底につき、濁った水煙が袋につつまれた形で揺れていました。両腕を胸の前に浮かすようにさし出した滝の格好は、川底に流れがあれば、そのまま流されて行きそうに見えました。
 やがて、岸から返してくる波紋が、まだ舟底にとどかないころ、ぼくの覗き箱を斜(はす)にきって、紡錘状の大きな影が静かに動き、滝の腕の前で停まりました。
 かすかに、ためらいを見せて動く胸びれ──その動きに合わせるように、今度は、滝の体が静かにその影に傾いていきます。
 厳冬の鯉は、人の体温をまでしたうとか──。
 その冬の鯉が動いたのか、滝の体がなおも傾いていったのか──いつしか鯉は、滝の胸と両腕にひしと抱かれています。
 どれだけの時間がすぎていったのか──滝は息づまる苦痛に──いや、ぼくはあの滝の表情を、人が恍惚な極限にみせる表情と区別することができない。むしろ、滝は、苦痛に顔をふり上げたというより、恍惚に首をそらせたのかもしれない。が、彼のその顔がぼくの覗き箱に真向かったと思うと、次には、滝は頬をすりよせるようにして、鯉の背をがっと噛みました。同時に、吐き出された息の泡が、荒々しく水面に浮かんでくると、それを追うように、川底をけった滝が舷に姿をみせ、鯉を投げ入れました。
 ぼくは、舷を這い上がってくる滝に、精魂つき果てた呆(ほ)うけの表情をみました。

 滝は、唇を紫色にして、舟のまわりにさざ波をたてるほど震えながら棹を操っていましたが、とある淵にくると、再び三度、あの精悍な容姿に変わっていきました。
 ぼくは、こうして話していると、ぼくの頭の中にあのうす緑の冬の川水が満ちて来て、たくましい彼の裸体が、その底に立っている気がします。ただ、ぼくの頭の中には、滝の体温をしたう鯉が翳をみせません。いえ、ぼくばかりではありますまい。あの冬の鯉は、人の観念の中には生き得ない代物のようです。

「悦惚な苦悩に仰向ける滝君の表情をごらんなさい。冬の鯉とする抱擁──それは、滝君か死病の底から探ぐってきた悦楽、滝君だけに許されたオルガスムスと言っていいものです。そして、それはもう人の子の昌代の手のとどかない世界のものになったのです。婚約を解いて、あれは今、滝君のそうした相(すがた)を、せめて自分の舞踊にうつしとってしまおうとしているらしいのですが、そうなるといつものように、あれはもう私の手のとどかないところで生き始めるのですよ」
 福岡の街で河豚を食べながら、ぼくは藤波先生にそんな話を聞いていました。
 村から研究室に帰ってからも、ぼくは、滝の姿と共に、水中をのぞいていた昌代さんの姿も忘れ得ませんでした。
 一すじの髪も乱さずに後ろにたばね、肉うすい頬を朝の空気にさらしながら、水面におしあてる覗き箱を支える指に、陶器のような美しさをみせ、じっと水中のものを見つめる彼女の姿には、声をかけることを許さないきびしい孤独のいろがありましたが、同時にそこには、掠奪者の表情にみる、あの傲慢なふうも感じとられました。
 あのとき、水のあおさに映えた彼女の額のいろと、燃えるような瞳の光とは、嫉妬のそれだったのか、それとも、もっと冷酷な、彼女の意志のものでしたか──。
 研究室に帰ってからのぼくには、もう昌代さんへの疚(やま)しい愛着は、きれいになくなっていました。そして、ぼくは、滝のあの無駄のない水中での美しい姿態が、昌代さんの体にみごとに昇華していくことを祈らずにはいられませんでした。

 そのままに春が去り、夏も秋もすぎて、次にきた冬の半ば、ぼくは、突然滝の訪問を受けました。
 彼は部屋に入ってきたまま、一時間近くも口をききませんでした。
 初めはぼくも、手をかえ品をかえて彼から何かを聞き出そうと声をかけていましたが、しまいにはそれにも飽きて、といって仕事も続けられないので、炬燵に入ったまま、新聞のすみずみ、広告から尋ね人の欄まで、二回も三回も読みました。
 手をかえ品をかえと言いましたが、まったく滝の容貌は一変してしまっています。どこか、かんじんなところが空ろになったように、話の焦点をどこにおき、彼のどこに向かって話しかけたらいいかわからないほど、彼の表情にはしまりがありません。唇が濡れ、頬には気味悪な艶が光り──それは、熊蝉の鳴く夏の午後、ぼくがひそかに描いた滝の容姿そのままのものでした。ぼくは、彼と同じ部屋にいることが息苦しくさえ感じましたが、それを誇張していえば、何か汚物をつけている者と向かい合っているような、肉体的な嫌悪のものでした。
 ぼくは、とうとう我慢ができなくなり
「どうだね、家の者も心配しているだろうよ。別に用がないのなら、そろそろ帰っては」
と、帰りを促そうと思いました。
 そのときです。滝が声もなく泣いているのに気がついたのは。
「どうした ?」
  ぼくは、そうたずねました。
  すると、涙が彼の気分をときほぐしたのでしょうか、しばらくの間をおくと、滝は、もどかしげに言葉を並べ始めました。
 しかし、それはいっこうに要を得ないものでした。同じ言葉を何回ともなく繰り返しているかと思うと、突然、関係もない言葉に飛躍していくというふうで、さらには、脳神経の異常からくるらしい言語障害がありましたし、話の途中で、幾度も呼吸につまるのです。興奮のあまり、頬の筋肉が硬直し、ぼくが思わず体をそらせるほど、眼を見ひらくこともありました。
 それは、まるで脳裡の妖しげな幻影に操られる、本能のうごめきのようなものでした。
 しまいに彼は、自分の仕様に絶望したかのように言葉と動きを停めると、ボタンをとばす勢いで上衣とシャツを脱ぎ、それから、くるりと裸の背をぼくに向けました。
 そのとき、ぼくには理解できなかったそれまでの彼の切れぎれの言葉が、電光のような速さで結びつき、ひとつの意味を現わしてきました。
 滝の右肩、そこに巨大な手術の跡がくぼみを作っているのです。
 話によると、傷は夏の腫れ物の手術跡らしく、その傷跡のくぼみのため、この冬、まだ一尾の鯉もとらえられないのです。冬の鯉が、彼に近づいてくるのに変わりはないのですが、彼の腕がわずかでも動くと、鯉は、はじかれたように逃げていくらしいのです。
 滝は、ぼくの向こうで炬燵にも入らず、ある時は狂ほしく、あるときは放心した表情で、そのことをぼくに訴えました。
 しかし、ぼくに何ができましょう。
 ぼくはその話を聞きながら、動物の体内に起きる電気のはかり知れぬ微妙さと、それに鋭く反応する生き物の本能の不思議さとを、こみ上げる悲しみを抑えながら考えているだけでした。

 この冬の終わり、三月の初めでした。
 ぼくは、一通の電報をうけとり、本郷村に急ぎました。

 その日も、舟は霜のきびしい岸に沿って川を上って行ったと思います。
 滝が、その日もどてらを着ていたかどうか──おそらく彼は、川靄も凍る朝の空気の中で、初めから裸だったのではないでしょうか。思いつめた彼の感覚は、真冬の寒さも受けつけなかったに違いありません。
 滝は、次々に鯉の逃げて行く日々の終わりにあたって、その日にすべてを賭けていたのです。彼の本能が、いまや失われんとする悦楽を求めて、はげしくあえいでいたのです。
 白く乾いた木舟の上には、昌代さんの姿もありました。
 昌代さんが、ただ外套だけをしか着ていなかったことについては、いろいろの推察がなされました。
 滝の相(すがた)をうつすためには、滝の感覚した冬を感覚する必要があったからだとか、そういう芸事のことからでなく、滝と同じ冬の寒さを自分の肌にも受けようとする、彼女のたち難い滝への恋情によるとか、いや彼女は、日を追うて乱れていく滝によって、彼女自身少しおかしくなっていたためだとか──。
 舟は、やはり、あの、水のうす緑によどんだ、竹のある淵で、静かに停まったのでしょう。
 昌代さんは、覗き箱を水面にあてて、滝の姿が水に降りてくるのを待っていました。
 やがて、滝の体が川底にとまる。たくましい筋肉が体の表面につくるうす翳のしま模様。
 やがて、黒い丸味の影が斜に動き、滝の体が静かな傾きをみせ始める。
 鯉はいま、冬の水の中で滝の胸と両腕の中に囲まれ、川の面を漣がとおりすぎていきました。
 そのとき、滝の胸廓に映る縞かげがわずかに揺れ、腕が──とみるその刹那、鯉の影はつと滝の腕から離れ去ります。
 絶望に首をそらせた滝の苦悩の表情が、覗き箱と真向かい、さしのばされたままの両腕は、舟上の人に愁訴(うれ)え、その人をよびました──。そして滝の体は、わずかな時もおかずに川に沈んできた白い体に、また傾いていったのです
 獲物に気どられまいとしながら輪をちぢめていく滝の腕の動きは、呼吸の苦しさを無視して、静かでゆるやかでした。
 やがて、滝の腕は白い体にくい入り、白い腕は滝の首をしめていきました──。
 靄の這う川面を、赤い外套だけが残された木舟が静かに流れて行き、川下の高い橋には人影もありません。わずかに、遠くの村落の森から、二三条の炊煙が夜明けの空にたちのぼっていました。

「聞いていますか」
と、内村は話を続けた。
 ──といっても、ぼくの話はもう終わりですがね。もちろん、最後の部分はぼくの想像にすぎません。
 マサシシス。マサヨシス。
 という一通の電報を受けたぼくは、すぐに村へ急ぎました。
 相擁した二人の水死体は、狭い村の人々に数々の話題をよんでいました。
 ぼくは、研究室に帰る日の夕暮、かつて滝と昌代さんとぼくとで行った川の堤に行きました。そしてそこで、いま話したようなことをぼんやり空想しました。
 その日も、寒い日でした。
 陽が沈んだ西の空高く、飛行機が二機とんでいました。それは、銀の粒のように小さく光り、そこからひかれてゆく飛行機雲は、山かげの夕陽に茜色(あかね)に染んでいました。          ─
 
 
 
 

(作者は、多くの優れた作品を遺して惜しくも早く、平成二年十月に亡くなった。「白い鯉」は昭和三十年八月の「季節風」八号に発表された、三番目に若い時期の創作であるが、印象強烈の秀作で、作者その人が終生抱いた故国の自然と季節とへのデーモニッシュな共感と哀情とが、一種凄絶な文学的表現を産んだ。三原さんは生涯に三冊の単行本を出して逝った。昭和五十五年の『ぎしねらみ』から、芥川賞候補作にあげられた巻頭の「たたかい」を先に戴き、昭和五十六年゜の『愛は光うすく』からも巻頭の「白い鯉」をここに戴いた。この作品にはあの厳しかった批評家平野謙が注目したのである。三冊目の本は昭和六十二年書き下ろしの長編『汝等きりしたんニ非ズ』で、郷土の隠れキリシタンを書いた迫力満点の力作であった。秦が、請われて序文を書いた。哀悼の思いに堪え得ない。 1.7.13 掲載)



 
 
 

     たたかい    三原 誠
 
 

 兵隊サンのことをはなそうと思います。
 兵隊サンのことは、戦争が終わって今までに、たくさんの人がたくさんの事を書いています。戦場のたたかいはもちろん、国内での二等兵、古参上等兵、下士官、将校などの、そんないろいろなヒ人間的な、ヒ民主的な出来事を読むと、ぼくは兵隊サンにならずによかった、本当によかったとおもうのです。
 それても戦争に負ける──ぼくの中学四年生──までは、兵隊サンが好きでしたし、わるい仕組があるなどとは気がつきませんでした。
 小さい頃から、ずうっと兵隊さんになじんでいました。
 ぼくの村は師団のあった久留米から四里程はなれた農村ですから、秋のとり入れがすむと、はるか耳納山塊の麓までひろがるその刈田で、きまって連隊の演習があるのです。帽子に目じるしの白い布を巻いた兵隊サンが、パチパチと機関銃や小銃をうちあい、遠くで旗がふられ、あるときは戦車や、車にひかれた大砲も、部落の道を田の方に駆けていきました。そして、あれは戦いの終わりを告げるのでしょうか、タッタッタッタッタアとラッパの音がきこえてくるのは、これもきまって穀殻を焼く田の煙が、部落までひろがってくる夕暮で、すると屋根の棟瓦にまたがって見物していたぼくたちに、遠くからの軍歌の声が、何か奇妙になつかしい悲しさで聞こえてくるのでした。
 演習帰りの兵隊サンが部落に入り、家いえに分宿していくことはしばしばでした。もちろん、ぼくのうちは貧乏でしたから、泊るのはみな一等兵か二等兵かの兵隊サンでした。それでも兵隊サンが家に泊ると、あの皮革と汗と鉄とのいりまじったにおいが、あぶらのようにし一んと畳や壁や廊下の板にしみこんで、それがぼくたちの心を、祭のように刺激するのでした。
 もっとも、こうした兵隊サンたちの演習は、アメリカとの戦争が始まる少し前から、村では行なわれなくなったようです。
 不思議なのは、ぼくたち村の子供たちがく兵隊サン>という時、それはこうした野戦の兵隊サンだけをさしていたことです。村のすぐわきには、村の畑からそのままつづいて、当時日本一といわれた太刀洗飛行場があり、飛行第四連隊がいました。その連隊祭には、ぼくたちは弁当まで持って見物に行ったものです。が、それを兵隊サンという言葉の外においたのは、飛行兵というものがぼくたちにとって、空に見る飛行機よりもなじみがうすかったせいかも知れません。と同時に、時折見かける飛行兵は三々五々の人数で、隊列を組む集団ではなかった事も、大きく原因しているのでしょう。そして飛行連隊が飛行学校になると、飛行兵との接触は更になくなり、やがて戦いが激しくなって、特攻機がとびたつようになると、学徒動員で飛行場に通っていたぼくたちの目には、飛行兵は兵隊サンというより、もうそれを超えたものとなって見えました。
 ですから、戦争に負ける一年前の夏の頃、部落にきて、それぞれの家に分宿した七百人ばかりの部隊は、ほんとうに久し振りのく兵隊サン>たちでした。

  昼間も、うすぐらい四畳の部屋で寝ているより他に仕事のない祖母(ばあ)サマまでが、兵隊サンが泊ると聞いた日からは、倭(ちい)さくしなびた体を、ちょこなんと中庭の葉蔭の縁側にまるめておりました。
 何でも祖母サマのつれあいというのは、日露戦争で戦死したとかで、それからというものは祖母サマは、まるで自分が武士の嫁だったように思いこみ、気位ばかりを高くしていましたから、木の葉をもれる夏のあおい光の底に沈んだようにして、しかし膝に新聞を読みさしのように置いたところは、兵隊サンを待つ祖母サマなりのポーズだったのでしょう。その新聞には、東条内閣の総辞職の記事と共に、狂犬予防の徹底が防空対策として発表されてもいました。
 『最近また狂犬がふえ出した。空襲激化のこんにち、畜犬、野犬に対して断乎たる対策をたてないと空襲時の混乱と相まって、狂犬による被害が相当大きいものと予想される。野犬に対しては内務省が防空対策として徹底的に掃蕩するが、人間も疎開するこの際だから、愛犬家には気の毒だができるだけ飼犬も整理し、空の守りを……』
 祖母サマは新聞が読めませんでしたが、毎夜の空襲警報のサイレンで、戦争がおもわしくないとは、わかっているようでした。それだけに兵隊サンを待つ心は大きかったにちがいありません。
 ところがこの祖母サマが
「ふんになア、何チいうタ兵隊サン達じゃろうかねえ !」
   と、皺ばかりの唇を歯のない口の奥でへの字にむすんだのは、兵隊サンが来てまだ三日もたたぬうちでした。
 無理もありません。
 だいいち、この兵隊サン達には、前にも言ったあの兵隊サン特有のにおいが、全くなかったのです。兵隊サンならばたった一人ででも、そこからはあの汗のにじんだ皮革のにおい、油の光る銃身のにおい、埃と太陽の熱のにおい、それらがごっちゃになったにおいが伝わってくるものです。そしてそのにおいは、軍隊をおく国の国民ならば誰の心にも、その一部に、まるで麻薬をかがされたような痙攣をひきおこします。
 いや、たかがにおい、といっても馬鹿にはなりません。動物たちが雌雄をお互に知り合うのはお尻の部分のにおいですし、それでなくとも、アメリカなどにみる黒人差別は、皮膚の色からというよりも、黒人の体臭に原因するというじゃありませんか。
 ですから、兵隊サンのにおいのないものは兵隊サンではないわけで、祖母サマは、ねだった甘味をもらえなかったような不気嫌さをみせて、また、うす暗い四畳の部屋に戻ってしまいました。
 それならば、この兵隊サン達は、わざとそんなにおいを消した、ちょうど、人を斬る時も殺気をみせなかったという、むかしの忍者のような性格の部隊かというと、それともちがいます。
 ぼくが、動員で通勤していた飛行場から帰ったのは、もう兵隊サンが家に着いた時分でしたが、自転車を玄関に入れ、廊下をわたっていくと、つきあたりの階段を大男の兵隊サンが降りてきました。ぼくはその兵隊サンの面長な顔をみた時、すぐに、物置きの床にころがしてほしてある大きな馬鈴薯を髣髴しました。それは歪み加減や顔のつや色のせいからだったと思います。齢は、もう四十歳をすぎていることは確かで、とっくに将校の年頃ですが、草色のシャツの胸にとめられた赤い襟章には、布の星が黄色く一つ見えるだけです。
「おや、こりゃァ──大男の兵隊サンは腰をかがめ、うすいまばらな毛のある頭をさげました──坊ちゃんですかの。お邪魔になっちょります。はい、よろしゅう」
 部隊の命令で民家に泊まるのは当然なことと、泊まる方も泊める方も思っていた頃のことですからこんな挨拶は今までにかってなかった事でした。さらに、汗を流そうと、物置小舎の横を流れている川の方に行く途中、ぼくは裏庭で、ももひきの形をしたズボンをゆるめようとしている兵隊サンに出遇いました。
「ヒェッ !」
 これは小男の兵隊サンで、まんまるな小さな顔は、海ぞこのウニのように一面の鬚でした。
「あの、あなた、ここの家の方ですかァ。ああ、そうですか。どうですかなァ、センキョクは ?」
 ぼくは兵隊サンの言う意味がわかりませんでした。
「はあ ?」
 すると今度は兵隊サンは、急に落ちつきを失くしてたずね出しました。
「あのッ、セッチンは、セッチンはどこにあるでッしょうか」
 鬚の兵隊サンはやはり四十代で、襟章には黄色い星が二つ並んでいます。
「エッ。家の中にあるトですか、セッチンが」
 それから、少しガニ股でかけて行く姿には、隠密のような暗さは、少しも見当りません。
 話は別になりますが、便所が家の内部にあるということは、この兵隊サンばかりでなく、馬鈴薯の──吉野二等兵サンもあとでしみじみとこう言ったものでした。
「ベンジョが家の中にあるのは、ほんによかですのゥ。冬や雨の日は辛かァですケのう」
 便所を母屋から離して、裏庭や畑の一隅に建てるのは、ぼくたちの村よりもっと田舎の農家に共通したものだったのです。
 こんなふうに、はじめの出遇いから、どうもピンとこない兵隊サンたちでしたが、家に泊った四人の──吉野二等兵、ウニのような鬚づらの竹田一等兵、班長の、すきとおるような美声の持主で、しかし青白くやせた青年の緒方兵長、それから、いつも口に唾をためているように言葉がはっきりせず吉野二等兵よりもっと顔の長い、反り顎の桜木二等兵──この四人の兵隊サンに、銃が二挺しかないのには、どうにも驚いてしまいました。これを知ったのは、兵隊サンが来て一週間もすぎた頃で、そういえば、そのとき兵隊サン達は、家に来て初めて銃の手入れをしたようです。
 玄関を入ったちょうどそこの土間の前の部屋でした。ぼくがそこに行きあわせたとき、桜木二等兵サンが大きな目玉をむいて、銃を吉野二等兵サンに渡すところでした。何か懸命に頼んでいる様子で、吉野二等兵サンが銃を受けとってからも、その手もとを心配そうに──というのは反り顎の上で口を半開きにしてのぞきこんでいました。何しろ銃身のわずかなすき間に、挨一つあっても失神するまでに殴打される時代のことですから、ぼくも他人ごとながら気になりました。吉野二等兵サンも懸命になりました。首を傾け、銃を裏にしたり返したり、ガチャガチャと何度もためしたりするのですが、うまくいかぬらしいのです。ぼくは中学での教練で少しは銃の扱いも学んでいましたから、余程、手出しをしようかという気になりました。が、その時、吉野二等兵サンが呆れてしまったような声をあげました。
「こりゃ、あんた。安全装置バそのままにしたままじゃなかですか。このままで出来る事(こつ)ですかァ」
 どうも、この目玉ばかり大きくて反り顎の桜木二等兵サンは、子供のぼくから見ても人並だとは思えぬことが、ままあるのです。特に、脚絆を巻く不器用さは目に余りました。先ず、脚絆を足首にあてがいます。そしてぐるりとひとまきするのですが、もうその折の、片手から他方の手に渡すときにすでに指がもつれるらしく、脚絆の束がコロコロと土間にころがって、長くのびてしまいます。ぼくは初めの頃は、桜木二等兵サンの脚絆だけが何か布地が厚く、片手の指にあまるのかとさえ思いました。うまく足首に巻きつけても、それからが大変です。足の太さが同じならば、一定の傾斜でそのまま螺線状にまきつけていけばいいのですが、御承知のようにふくらはぎの所までくると、急に傾斜が鋭くなって脚絆が重なり合わなくなります。そこで、脚絆を折りたたみながら間をふさぎ、脚をしめてまきあげていくのですが、この折りたたむ途端に脚絆の束が掌の内側にきて、するとたちまちコロコロと土間にのびていきます。それをようやく無事終わったとしても、その足で土間に立ったときにはもうゆるみ始めていて、道に並ぶときには、ふくらはぎのあたりの脚絆が足首のところにずりおちてしまっている始末です。
 脚絆まきですらそうですがら、まして銃の手入れなど思いもよりません。が、本人は真剣なのですから、古野二等兵サンの、安堵を交えた頓狂な呆れ声をきくと、ようやく体をおこし、口だけを大きくひらいて、まるで煙の輪を吐くように、ほっと急をはいて笑いました。
 しかし一方、吉野二等兵サンは、故障の原因はみつけたのですが、原因の発見がただちに解決になったかどうかは疑問です。他人事のように安堵のままの桜木二竿兵サンの横で、しきりに銃の同じ箇所をいじりまわしていましたが、そのとき燕が土間に入ってきました。天井の巣には、近頃羽毛の揃った雛が四羽、大口で親鳥を迎え、大口で親鳥を送り出していました。すると、吉野二等兵サンは、今更のように、ほうという恰好で顔を上げ、腰を浮かせました。
「ほう、こりゃ、どうかァ」
 そして顔を天井の巣に向けたまま、手に持った銃をそうっと横にいた竹田一等兵サンに渡しました。
 有無を言わせぬ、しかしごく自然な形で渡された銃に、竹田二等兵サンはちらっと目をやりましたが、これも
「もう、巣立つ頃じゃなかトですかナ」
と言いながら立ちあがりました。銃は、これもまた自然に桜木二等兵サンに移ってしまいました。
 桜木二等兵サンはしばらく二人の後ろ姿と銃を見比べていましたが、やがて、そのままに銃を壁にたてかけると、ゆっくり、やはり燕の巣の下に歩いてきました。
 吉野二等兵サンのさし出す指先にも、巣の雛はぢゅうぢゅう声をたてています。ぼくはそのとき、壁にひっそりとたてかけられた三八式歩兵銃が、兵隊サンの人数よりも少ない、ただの二挺ということに気がついたのです。
「なァに、もやいで使いますケ、よかです」
 いつかそのわけを、竹田一等兵サンがそう説明してくれました。

 それでは、銃を使わぬ七百人あまりもの兵隊サンは、約ニケ月の間何をしたのかといいますと、工兵隊の仕事──といえばいいてしょう。そういえば、部落に来たこの部隊が、どこの、何連隊の、何部隊だったのかは、兵隊サンの方で秘密にしている風もないのに、村人の話題にもなりませんでした。どこから来たのかとたずねますと、
「わたしゃ熊本県の……」
 とか
「朝倉郡の三奈木村ですタイ」
 とかと、その出身地をこたえていました。
 工兵隊といえば、すぐに橋を架ける姿が浮かんでくるのですが、ここの兵隊サンたちの仕事は、壕を作る事でした。そしてこの壕も、人間用の地下壕ではなく飛行機のために地上に築くものでした。
 はじめに言いましたように、村のすぐわきには広い飛行場があり、数多くの練習機にまじって、その頃になると、隼や鍾馗、飛燕、それに名前は忘れましたが四式と呼ばれた戦闘機の類や、呑竜、飛竜などの重爆撃機などもかなり姿をみせていました。こうした実戦機を空襲から守る──直撃弾ならば仕方がありませんが、その爆風による被害から守るための壕で、土を馬蹄型に築いていくのです。そしてこれには、飛行機を敵の目からかくし、更に分散しておくという目的もありましたから、壕は飛行場の周辺、飛行場に接する四つの村の森に作られました。
 朝、部落の道に整列し行進して行く兵隊サンが手にしているのは、ですからシャベルと土を運ぶモッコと、それを担うための棒だけだったのです。そして、軍歌もうたわず目的地につくと、すぐ裸になり、土を掘り、土を運び、ある兵隊サン達は壕を作り、ある兵隊サン達は飛行場からそこまでの誘導路をつくるのでした。
 動員のぼくが五時に仕事を終わって帰るとき、兵隊サンたちはまだ働いていました。
 ギラギラする太陽の下でうごく兵隊サンたちは赤土にまみれ、汗がその皮膚のはね土を洗い流して、体に縞模様を描いていました。遠い森でうごく兵隊サンの姿は、何かキラッとした光のようにみえます。
 ぼくはその作業場を通る時は、夢中でペタルをふみました。泥と汗にまみれ、気合の声もなく、しかし、力をその筋肉の翳にみせながら、緩慢な動作でうごく、裸の、年とった兵隊サンの群れが、ニュース映画でみる中国の苦力の群れを思い出させようとするからです。するとずうっと以前、あの秋の末の田の煙のにおいにつつまれてきいた遠い軍歌とはちがった、別な悲しみ──いや、何かしら働くことのつまらなさがこみあげてくるのでした。ぼくの友人で少年航空兵から特攻隊員になった者がいます。その話によると、彼等もまた九州南端の基地で壕掘りを続けさせられたそうです。飛びたくとも、乗る飛行機が不足していました。ですから彼等は最後には、先ず優先灼に飛ぶ権利のあるあの自殺機への塔乗を、ぞくぞくと希望したといいます──。
 来る日も来る日も、油蝉の鳴きたてる暑さの日が続きました。
 しかし、ここの兵隊サンには特攻隊の友人や、動員通いのぼくたちのように、別にこれといった自棄も不満もみえませんでした。
「ふんにのウ。兵隊サンかチ思うたら、百姓ドンかのウ」
 祖母サマは四畳の部屋で憎たれ口をたたいていましたが、実際、ここの兵隊サンには、壕作りという仕事は手慣れた仕事だったかも知れません。そして、とまどい、困惑する事といえば、わずかに夜の点呼時に行なわれる、軍人勅諭の暗誦だけだったようです。

 ヒトツ 軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスベシ
 ヒトツ 軍人ハ礼儀ヲ正シクスベシ
 ヒトツ 軍人ハ……
 という軍人勅諭は、その頃の男性なら誰でもが憶え、いや一度は暗記させられたはずのものです。それは日本帝国軍人の精神でした。銃の代りにシャベルを持っていても、あるいは、赤トンボの練習機の燃料がガソリンからアルコールに変わっても、この軍人勅諭は、帝国陸海軍存在の厳とした証でした。
 ですから夜の点呼の折に、必ず、どの班かの誰かに暗誦の指名があるのは、軍隊である限り当然のことです。
 夜九時、部隊の兵隊サンはそれぞれ分宿している家の前に並び、その、人の列が暗い部落の道を長くつらぬきます。
 点呼は小隊毎に行なわれる風でした。小隊といっても、兵隊サンは家毎の距離をとって一列に並んでいますから、その先頭から終わりまでは二百米にもおよびます。ですから、道の辻に立っている小隊長の号令は、わずかにその語尾だけが、ケーッ、テーッときこえてくるだけでした。号令がすむと人員報告の第ナァンパーン、異常ゥナシィ、第ナンパァーン、異常ゥナシィという声が、色もにおいもない花火のように、暗がりの列を先頭の方から移っておきてきます。その次がいよいよ勅諭暗誦です。人員報告から適当な時間をおいて、途中幾人かの班長の中継で命令が伝えられます。
「第四パァン、平井二等へーイ、忠節の項」
「第八班、山本一等兵、礼儀の項」
 という工合です。ひとりひとり指名されるのは、隊長の手もとで隊員名簿がめくられているのでしょう。
 ある夜、ぼくの家の兵隊サンが指名されました。
「第七班、桜木二等へ─ィ、武勇の項」
  そのとき、当の七班の兵隊サンと同様、見物のぼくの方にも動悸が高まりました。毎夜の点呼の見物で、この勅諭暗誦が兵隊サンの一番の苦手とわかっていましたし、しかも指名を受けたのが桜木二等兵サンです。
 案の定、声のない混乱がおきました。桜木二答兵サンは気オ付ケの姿勢のまま、目玉ばかりをぎょろつかせ、その大きな反り顎の上で唇を噛んだりつき出したりしており、その前に並んだ三.人は、小学生のように桜木二等兵サンをふりかえっています。が、とうとう吉野二等兵サンは見てはいられぬという風に首をちぢめ、竹田一等兵サンは何かいそがしく胸もとをさぐり、「どうしまっしょうかのう」と、オロオロとひとり言をもらしました。
 その時、突然、美声を響かせたのは班長の緒方兵長サンでした。
「ひとつ、軍人は武勇を尚ぶべし。それ武勇は我国にては古よりいとも貴べる所なれば、我国の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまじ。まして軍人たらんものこの心の、この心の──もといッ !」
 勅諭や祝詞の特徴は、同じ語調、文句のくりかえしにあります。
『まして軍人たらんものはこの心のかたからでは、物の用に立ち得べしとも思われず』という文句は、指定された武勇の項ではなく、忠節の項の一部です。そしてこうした暗誦の途中で、間違いに気がつくということは、更に次の混乱をひきおこすことになりました。
「まして、まして」
 軍人ハ戦ニノゾミ……と、自信のない小声に変わると、進んで部下の任をかって出た班長は、そこで絶句してしまいました。
 ところが、とっさに大声で後をついだのは、さっきから胸ポケットを探り、ようやく勅諭集の頁をひらいた竹田一等兵サンです。
「まして軍人ハ戦にのソみ敵にあたるの職なれハ片時も武勇を忘れてよかるへきか」
 吉野二等兵サンがうしろからまわって、竹田一等兵サンをかくすようにして胸をはり、にんまりと微笑みました。指名されたとは別な誰が読んでいようと、隊長にわかる筈はないのです。しかし、竹田一等兵サンの朗読はそのままの棒読みで、勅諭集には省かれている濁音のにごりも、そのままにして読んでいました。
「さハあれ武勇にハ大勇あり小勇ありて同シからス。けっきにはやり粗暴のふるまヒなトせんハ武勇とハ、武勇とハ……」
 竹田一等兵サンがここでつまったのは、次の〈謂〉という字が読めなかったにちがいありません。前の吉野二等兵サンの脇をつついて、そこの頁を指さしていましたが、吉野二等兵サンは空を見上げたり、頁をすかしたりして、軒からもれるあかりのくらさを理由に首をひねるだけでした。竹田一等兵サンは構わずそこをとばして続けました。
「武勇とは……かたし。軍人たるものは常に、常に……義理を……力をねり……を…-して……事を……るへし。小敵たるとも……大敵……おそれス……か武職を……さむこそ誠の……」
 懸命で読む竹田一等兵サンの声は、それでもつきあたる漢字の数の多さに力をそがれ、次第に弱まりました。うしろでは指名された当の桜木二等兵サンが、竹田一等兵サンの必死な暗誦には無関心に、見物のぼくたちに時折ぎょろりとした目玉を送っていました。
 気がつくと、天の川が、そんな部隊の長い列のはるか上空に、列とははすかいにふとぶとと南北に横たわっています。
「……さハあれ武勇を……ふものハ常ツね人に……ふには温和を第一とし……の……を得むと心掛けよ……なき勇を……」
 竹田一等兵サンのひくい声が天の川の下を流れていきます。そしてその節(せつ)がまだ終わらないうちでした。テーッという号令が隊長サンの方からきこえ、竹田一等兵サンの声がひたとやみました。それは点呼の終わりの号令で、隊長サンには勅諭の一節を読み終わる、おおよその見当がついているのですから、その時間をすぎると、そのまま解散の号令を発したのです。
「いやァ、冷汗が流れましたノ」
 吉野二等兵サンが大きな体を小さくして入ってきました。
「班長ドノ。あんたが初めうまくやったからようございましたバイ」
 竹田一等兵サンが鬚の中で笑っていました。
「いやァ。忠節の項ならよう覚えとりますバッテン──」
 班長サンはてれ笑いをしています。
 みると三人とも家の下駄をつっかけ、桜木二等兵サンだけが、十三文もあろうかと思う軍靴をはいています。出て行く時、もう余分の下駄がみつからなかったのでしょう。その靴の紐がとけたままで二枚の甲皮が大口をあいていました。

 どうにもこの桜木二等兵サンは、一升にして一合程の不足があるようで、脚絆まきや銃の手入ればかりか、何事にもこうした緩慢さがつきまとうようでした。
 裏の物置小舎の横を流れる川は、そこから少し下流のところで、深い、広い淵を作っていました。そして淵には、沸騰する程に夏の太陽にあたためられた田の水も流れこんでいましたから、兵隊サン達は温泉、温泉とよび、作業から帰るとお互を誘って体を洗っていました。実際、時間どきになるとそこは銭湯なみに混みあい、その裸のにぎわいの声が風にのって家まで聞えてくるのですが、そんな折にでも、竹田一等兵サンや吉野二等兵サンに声をかけられて一緒に出かけた筈の桜木二等兵サンが、その上流の水汲み場で、念入りに褌を洗っているという工合でした。

 兵隊サン達は、作業を終わって帰ってくると、夜の点呼までこれといった軍事訓練があるわけではありませんので、夏の夕暮の明るさを、いくぶんかは、もてあまし気味にみえました。五六年前軽い中風にやられてから、すっかり人の好くなったぼくの父は、わざわざ兵隊サンのために、碁や将棋を揃えたのですが、竹田一等兵サンにも吉野二等兵サンにも、もちろん桜木二等兵サンにもそんな趣味はなかったようです。
 吉野二等兵サンは、夕食がすむと必ず物置小舎の前の庭に出て、そこの一画に植えてある南瓜の雌花に、古筆を使ってさかんに花粉をつけてやりました。
「南瓜にゃ男と女ゴがありますケの。ほんに南瓜というても馬鹿にゃ出来まッせんタイ」
 畑仕事に慣れぬ嫂にしきりに文句をつけるのは、水浴びの帰り、家の畑を見廻ってからです。
「オクさま。あそこには何を植えなさるノ ?  え ?  大根ですかァ。そんならあなた。あんな事(こつ)じゃいけまッせんタイ。もっとウーンと深こうして、土塊(つちくれ)のきざみようも、も少し考えてやらんト、可哀そうかトですよ。ほんに出来る事(こつ)なら、わしがチョイとやってあげますがのう 」
 どんなに暇だといっても、民家への目のつくような手伝いは禁じられていたのでしょう。吉野二等兵サンはそれを舌打ちして口惜しむのです。大根が可哀そうだとは、初めてきく言葉でしたが、吉野二等兵サンは大根ばかりでなく、作業場で掘りかえされるさつま芋にも、憤然とした同情をしめしていました。
「むごかァですなァ。まだよう育ち切っておらんですよ。それを掘りくりかえすなんて、もう少し壕作りは待てんもんでッしょうかのう」
 かと思うと、裏庭で遊んでいる雌鶏を不意につかむこともよくありました。
「トウトウトウトウトウ」
 吉野二等兵サンはそうして雄鶏を呼びます。雄鶏は、吉野二等兵サンに捕まった雌鶏が首をさげ、お尻をあげてその手もとにうずくまされていますから、易やすとその上に乗っていけるのです。
「しんそこまで入ってなかト強かヒヨコは出来んですタイ。トウトウトウトウ」
 そんな折の吉野二等兵サンの言葉は、軍人勅諭を読むのとは比較にならぬ確信のものでした。
 吉野二等兵サンが小さなさつま芋を持ってくるのに対して、竹田一等兵サンは、いつも粘土をポケットにしのばせてきました。竹田一等兵サンは確かに左官屋さんだったと思います。彼は作業場から持ってくる──これには桜木二等兵サンのポケットも利用されましたが──粘土を使って、家の壁くずれをその滞在中にすっかり直してくれました。
「あそこの粘土は性質がよかですヨ」
 と御気嫌で、驚いたことには便所の汲みとり口あたりまでも直してしまいました。ぼくが風呂場にいますと、すぐ横の便所の内と外で話し声がするのです。相手は父でした。
「……いやァ塗り鏝がありますなら、もう少しうまくやれますがの」
 父が礼を言っているようでした。
「……いやァ、どうも……。それで旦那サン、戦局はどうでッしょかの」
 戦局はどうだろうというのが竹田一等兵サンの口癖で、初めての挨拶でぼくがまごついたのもこれでした。実際、軍人が戦況をぼくたちにたずねるとは、奇妙なことです。
「今度は、いつか、かまどを塗りまッしょうかなァ」
  父が何と内部(なか)から応えたかわかりません。
 このように吉野二等兵サンが畑に気を配り、竹田一等兵サンが壁ぬりをしていたのは、二人のそれまでの生活が、軍人生活のすきまをぬって息吹いてくるからだったのでしょう。と同時に、父と家人への幾分の感謝もまじっていたようでもありました。
 父は中風を病んでからも、いつしかまた晩酌を始めていました。お酒はその頃もちろん配給制でしたが、ほくの兄は村の醸造家と組んで、軍需工場の役人相手に大量の酒の横流しをやっていましたから、家人の晩酌に事欠くようなことはありませんでした。その晩酌の相手に、父は、庭や廊下で出遇う兵隊サンをえらびました。
「いやァ、そんな事(こつ)したら、旦那サンの分が少くのうなって、ハイ、すみまッせんタイ」
「酒なんか飲みおったら、班長サンからお目玉ですタイ」
 初めは遠慮していた竹田一等兵サンや吉野二等兵サンも、根が好きなうえに、緒方兵長サンは、どうも年上ばかりの部下のなかには居づらいらしく、作業場から帰るときまって班長会議とかで、ぼくの家の裏手にある、炊事班の泊った家に出掛けていくものですから、しまいには、結構二人が交代に父の相手をたのしむようになりました。そしてこうなると、父と二人の誰が考えついたのでしょうか、晩酌のはじめには、縁側から眺められる庭の植木に、横の川から汲んできては、水を撤くのです。なるほど、そうすればときならぬ夕立のあとのように、一段と涼がましてくるのでした。
 桜木二等兵サンには父の相手はつとまりません。初めの頃、一度父の前に坐りましたが、たった盃一ぱいだけでもう真赤になり、その大目玉と反り.顎でたちまち達磨大師になりました。しかしその桜木二等兵サンも、二階の柱にもたれながら、雫のしたたる庭木を見下して、まんざらでもない夕涼みの顔つきでした。
 お酒の外に、母や姉は兵隊サンたちの食事を時折見舞っていました。その頃の食糧不足は言うまでもありません。

『おいしい粉食。栄養があって満腹感』
 食糧自給の建前からはもちろん、完全に栄養を摂取して満腹感を与え、しかも非常用の便によいという粉食が近頃しきりに問題になっている。翼政会代議士道山治郎氏もこの粉食の提唱者で、道山家では一日一回は必ず粉食を常用している。粉食の材料は粉になるものなら、桑の葉、いものつるいもの葉、南瓜の葉、茶殻、みかんの皮、とうもろこしの毛などと、手近かなもので十指にあまるのである。

 これは当時の新聞による『粉食のすすめ』です。ぼくの家でも、とうもろこしの毛とまではいきませんが、夕食はうどんですますという日をまじえていました。しかし、それでも量は、兵隊サンの飯盒盛りきりとはちがって豊かだったものですから、そのうどんを頒けるのです。
「兵隊サン、うどん.要りまッせんか」
 二階にこう声をかけるのはぼくの役目でした。すると
「ハッ頂戴いたしますッ」
 と珍しく吉野二等兵サンの軍隊言葉がかえってきます。しかし、実際に降りてくるのはきまって桜木二等兵サンで、桜木二等兵サンが階段をおりるのに音をたてないのは、一段いちだんに両手をついておりる臆病な仕方のせいでした。そ
れから桜木二与兵サンは台所にぬうっとたち、うどんをひたした水の器を、後生大事に波もたてずに運んでいきます。
 こうした家からの食糧補給の外に、ばくの家に泊った兵隊サンは、今一つその恩恵を蒙る事がありました。それは中隊の炊事班が、ぼくの家の裏手にある、昔の料理屋におかれたことです。時間になると、それぞれ三四個の飯盒をさげた兵隊サンが、この家の前庭に集まって食事の分配を受けます。そして、最後の班の当番兵が帰った後でも、食糧がまだ大釜に残ることが時たまあるのでした。
「お-い」
 炊事兵の声が、ぼくの家を中心にした両隣りの兵隊サンにきこえるのは、こんな日です。
「めしがあるぞうォ」
 するとその声が終わらぬうちに、もう階段に足音がおき、鬚一杯の竹田一等兵サンが、ねずみのようなすばやさで家を出ます。そのすばやさは、手にした飯盒のふれ合う音が、そこから振り落されまいとしがみついている風にきこえるほどでした。
「あの役は、桜木サンじゃ務まらんじゃろ」
 うどんを取りにくる桜木二等兵サンのもっそりした姿を思って、家の者は笑っていました。

 こうした食事取りのせわしさと、毎夜の軍人勅諭暗誦を除けば、部落の兵隊サンたちは、村人と何のかわりもありません。いやその軍人勅諭にしても、中学生のぼくの方がそらんじていました。
 国民皆兵という言葉がありましたが、まさしく兵隊というものが国民と重なりあった形です。そしてこの国民皆兵の兵隊サンは、どうしても前線の壮烈な兵隊サンには結びついていきません。嫂が、あの人はきっと肺病もちヨ、肌があんなに白かろうがネ、といった班長の緒方兵長サンは、前にも言ったように暇さえあれば──という事は始終、裏手の家の班長会議に出掛けて、赤い顔になって帰りますし、部下を呼ぶにも
「タケダ !」
「ヨシノ !」
「サクラギ !」
  と歯切れよくは行かず、竹田アア、吉野オオ、桜木イイとぐずついて、その時ポンと後頭部を叩いてやれば「──サン」という敬語がとび出してくるようで、命令一下の班統制には、部下の年齢か父親のそれにあまりに近すぎるといった恰好でした。竹田一等兵サン、吉野二等兵サンも、自分の姿を前線の塹壕の中において考えることは出来なかったでしょうし、桜木サンは戦況を伝える新聞が読めたかどうか──文字が書けないのは確かです。
「達者にしちょるかチ書いてつかァさい」
 ある日、桜木二等兵サンが畳に四ツ這いになって首をのばし、姉に代筆をたのんでいるのをきいていたことがあります。
「はい。……次は」
 姉は笑いながら筆を使っていました。
「秀さん所に銭は払うたかチ書いてつかァさい」
「──はい」
「ヨシ坊の腫物(できもん)は直ったかチ書いてつかァさい」
「はい──書きました」
「……牛の種つけはしたかチ書いてつかアさい」
「はい」
 姉がくすりと笑い、少し顔を赤らめたようでした。が、桜木二等兵サンの大真面目な目玉はピクリともしません。
「──書きました」
「それから、キュウおんじのとこに法事があったろうが、法事のおかえしは何だったかチ書いてつかァさい」
 きいていると、桜木二等兵サンの便りは質問ばかりが並んできます。姉もこれに気がついて、少しは自分の事も知らせておあげになったら、と言いました。
「──今、テツ公の世話は誰がしちょるかチ書いてつかァさい」
「──はい。次は ?」
 すると桜木二等兵サンは、姉の注意もあったからでしょう、しばらく考えこむ風でしたが:
「そン次に」
 と続けた言葉は、ぼくたちを驚かせました。
「そン次に──戦争にゃもうすぐ負けるから、じきに帰ってくるぞチ書いてつかァさい」
「はあ ?」
「もうすぐ戦争にゃ負けるから、帰ってくる、待っちょれチ書いてつかァさい」
 その時、班長会議から帰ってきた緒方兵長サンが、廊下の上り口から声をかけました。
「おうッ、桜木イイ、うまい事やっちょるのう」
 姉はその声をきくと、今書いたばかりの最後の文句をとっさにぬりつぶし、桜木二等兵サンは別に不満もみせずそれを受けとると、のっそりたちあがって二階へ引きげました。その顔が、あろうことか赫らんでみえたのは、灯の関係からだったでしょう。
 緒方兵長サンは、珍しく姉の前に腰を下し、酔いの軽口も交えて水をたのみました。

 桜木二等兵サンが、戦争には負けるぞと断言したそれには、実はわけがあったのです。
 姉が手紙を代筆した日の一週間程前でした。ちょうどその日は村の夏祭にあたっておりましたから、父は二階の兵隊サンを.夕食に招きました。緒方兵長サンはあいかわらず班長会議に出ていましたから、残りの三人、それにぼくの兄も加わっていました。兄は兵隊サン達と同年配、あるいはやや若かったのですが、徴用検査の折、二時間も便所で力んで痔をひりだしたおかげで徴発をのがれ、のうのうとして酒の横流しで暮らしていました。
 兵隊サンたちは、次から次と姉の運ぶ銚子の数に驚き、酒の飲めぬ桜木二等兵サンは、煮物の鶏を骨までカリカリ噛み砕いていました。話は自然と兄を中心に竹田一等兵サン、吉野二等兵サンの間に活溌になります。そして当然、竹田一等兵サンの
「戦局はどうでッしょかの」
 が出たのです。
「負けますネ」
 兄はひとことで言い切りました。
「負けるでありますか」
 これは吉野二等兵サンで、さすがに意外だったのでしょう、軍隊言葉が出ました。
「負けます」
「ほほう」
 兵隊サンよりも、闇屋の方が戦の見通しに明るいとは妙です。が、竹田一等兵サンは、初めてこんな明解な答に出遇ったせいでしょう、もうそのわけもたずねようとせず、しきりに感心ばかりしているのです。
「──となると、どうなりまツしょうかの」
「どうって、どうにもなりまツせん」.
「そうですかァ。いやあ、そげん事はなかでッしょう ?  戦争に負けるトですバイ、若旦那サン」
「そりゃ──まあ──まず軍隊は武装解除ですタイね」
「武装解除 ?」
「そんなら──この時、吉野.一等兵サンが、不安な表情でのり出し、声をひそめてたずねました──そんなら、まあ、ないないには聞いておりましたが、いよいよキンを抜かれますのですかァ」
「え ?」
「ほら、キンですタイ。日本人はみな種ギレになるごと、キンは抜くチきいちょりましたが──」
 吉野二等兵サンのその質問に、竹田一等兵サンも兄の顔に見入り、盃の手をそうっと食卓の蔭におろしました。
「はあ── ?  いやぁ、そんな事(こつ)はなかです。そんな馬鹿な事(こつ)はなかです」
 兄は笑いながら大声を出し、銚子をとりあげて二人に酒をすすめました。
「.そうですかノ。いや、安心しました」
「ほんに !」
  どうもこの兵隊サンには、負けることよりもその方が大切だったのです。
 そのとき、それまで黙っていた桜木二等兵サンが、突然、
「ケッケッケッ   ケ一」
 と鋭い声の笑いをたて、すると、竹田一等兵サンも吉野二等兵サンもこれに安堵の声をあわせるのでした。

 こうして、平和ではないがまことに平穏な日日が、部落と部落の兵.隊サンに続きました。
 祖母サマは四畳の部屋にいち日中おり、父は晩酌を続けています。
 兵隊サンの仕上げる壕は次第に数を増し、複葉の練習機がその中にちょこんと据わっているのも見かけました。
 緒方兵長サンは日日の班長会議をたのしみ、竹田一等兵サンはかまども塗り、吉野二等兵サンは鶏の雌雄を媒酌し、桜木二等兵サンは反り顎の上で唇をもぐつかせていました。
 そんな日の、もう作業もおわりに近い日でした。
 珍らしく緒方兵長サンが、酒気なしで班長会議から帰ってきました。そして竹田一等兵サンを呼び、吉野二等兵サンを呼ぶと、桜木二等兵サンだけが残っていた二階へ行き、すると、そのまま畳をふむ音も、蚊を追う団扇の音もせぬ、し一んとした時間がはじまりました。
 それは長い滞在にもかってなかったことで、何か事件がおき、あるいはおきかかっているとは、家人がみな灯を消してしまった後にも、二階の灯が庭の樹の葉にいつまでも映っていることでもしれました。ぼくは夜中、誰かが便所におりてくるひそかな階段のきしみをききながら、しかし二階の灯が消える前に眠ってしまいました。
 翌朝、ぼくが洗面しているとき、台所で嫂と話をする緒方兵長サンの声がきこえました。

「──ええ、突然じゃったです」
「そうですかァ。して、どちらです」
「さあ、わからんです、私にも」
「……みんなで見送りまっしょ。ほんに可哀そうに」
「はあ、仕方なかです」
「もう、時間ですか」
「ええ、もうそろそろ来る頃チ思います」
 ぼくはあわてて表へ出ました。
 道路の両側に部落の人と、それからいつもとかわらぬ作業衣をきた兵隊サンたちが出ていました。
「何かあったトですか」
 ぼくはそこにいた吉野二等兵サンにたずねました。
「はあ」
 吉野二等兵サンは体を小さくして元気がなく、ぼくの質問にオロオロし、竹田一等兵サンも、ぼくの視線にあうと、するすると場所をかえるのです。ぼくは嫂にたずねました。
「動員令が来たそうな。班に一人の割当で出せって命令だったそうな」
「──すると……」
「行先はわからんが、南方じゃろうって」
「そんなら家(うち)からは」
「そう、桜木二等兵サンが……」
 来たッ、と誰かの低い鋭い声がしました。
 部隊の本隊に集って、そこから行進してきたのでしょう、完全武装をした兵隊サンの列が、いつも夜の点呼で小隊長の立つ道の辻を曲って近づいてきました。世話になった部落への感謝の為でしょうか、隊長を先頭にした歩調トレの行進です。しかし、両側の家の前に並んで兵士を送る村人からは、バンザイの声はおきませんでした。ただ自分の家に泊っていた一等兵サンや二等兵サンを、列の中に見出そうと、喰いいるような目を向けているだけです。
 桜木二等兵サンがいました。
 銃と、外被をまいた背(はい)のうだけが列の上に見えました。そして桜木二等兵サンは家の前をすぎる時、歩調トレの窮屈な歩みのまま、あの大きな目玉をぎょろりとぼくたちの方に向け、二三度、あの反り顎で頷き、その上の唇を微笑ませました。
「かんにんナ」
 ぼくの隣で、吉野二等兵サンのつぶやきが、そのとき聞こえました。
 考えると、兵隊サンたち──緒方兵長、竹田一等兵、吉野二等兵、それに桜木二等兵は、前夜のあの静けさの中で、はじめてタタカイを経験していたのです。誰を班の中からその一人としてえらぶか──それは前線のタタカイに比べても、誰一人としての友軍もない、孤独な、激しい、冷酷な、ひとりひとりが自分だけでせねばならぬタタカイでした。
 そしてそんな兵隊サンにとって、桜木という、確かに人並みにはおいつかぬ二等兵の存在は、タタカイの苦しさを果して緩めてくれるものだったでしょうか──あるいは、桜木二等兵サンのその白痴さ加減は、かえって一人ひとりのタタカイを傷多いものとしたのでしょうか──。
 出陣の部隊が部落を出た後には、静けさが──しかし前夜のあの沈黙から何かが脱落してしまった静けさが家にひろがり、その静けさの中で、一挺になってしまった三八式歩兵銃が、ひっそりと壁にたてかけられていました。
 気がつくと、天井の燕の雛はもうとっくに巣立った後です。
「兵隊サンはどこ行った ?  兵隊サンはどこ行った ?」
 四畳の部屋から祖母(ばあ)サマの声がしていました。    ─了─

    ─文学同人誌「季節風」36初出  「文学界」昭和三十八年三月号転載─
 
 

(作者は、小説家。優れた力量をもって同人誌「季節風」でも卓越した作品を次々に発表されていたが、平成二年十月二十一日、惜しくも亡くなった。「たたかい」は傑作である。名作である。これも今は亡き久保田正文氏が「文学界」の同人雑誌評に、この一作のみを取り上げて称揚した異例の批評があるのを、ここにも異例をあえてして転載しようと試みたが、作品内容を説明もされているのでやめた。惜しんであまりある作家への供養としては、やはり読者一人一人に読んでもらうのが本筋だろう。三原さんと面識はなかったが、いつも熱い視線をわたしの仕事に向けて戴いていた。わたしから氏の代表作長編の刊行に一文を贈ったこともある。夫人節子さんは「湖の本」に大きな支持を今も寄せ続けて下さっている。「たたかい」は、校正していて、じつに「嬉しい」充実作であった。文学であった。「e-文庫・湖」は面目を得た。感謝ひとしおである。他の秀作もぜひ此処に紹介したい。 1.6.24掲載)



 
 

       朱鷺草

     
                  源田 朝子
 

          
 晴れ上がった五月の連休のある朝、小学校五年生の野口英一は、父親直之と渋谷に行くため地下鉄の駅に向かって歩いていた。
 四月には美しい白いトンネルを作っていた駅までの桜並木も、今ではすっかり葉桜となり、その若やかな緑の上に一片の雲もない光にみちた青空が大きく広がっていた。しかしこの明るい朝の光景とはうらはらに、この親子は先程から言い争いを続けていた。くぐもった直之の声とは違い、英一の甲高い声は通行人がいっせいに振りかえるほど大きかった。
 「絶対にそうだよ。早川君は絶対にわざと僕の作品の上に墨汁をこぼしたんだよ」
 「まさかそんなことはしないだろう」
 地下鉄の長い階段を並んで降りながら、直之は息子の英一を振りかえって苦笑した。
 「僕が天賞を貰って、あいつはカッカきてたんだ。今度の東京都の展覧会でも、入賞するかもしれないと思って、あいつは必死にその邪魔をしようとしたんだよ」
 「英一、言葉をつつしみなさい。パパだって早川君を知ってるよ。お前とは幼稚園のときから一緒じゃないか。あの子は決してそんなことする子ではないよ」
 「ちがうよー。パパはこのごろのあいつを知らないんだ。最近僕を敵対視して大変なんだよ。僕の邪魔ばっかりしてたんだ。わざと僕に宿題を教えなかったり、先生が黒板に書いた算数の問題をわざと間違えて教えたりしたんだよ」
 「だって算数の問題くらい、自分で見ればいいじゃないか」
 「僕、天気の悪い日はよく見えないんだよ」
 「メガネをかけなきゃだめじゃないか」
 直之は階段の途中に立ち止まって、英一を叱った。
 「うっとうしくて、なるべくかけたくないんだよ。まだメガネなしでも、まるで見えないってわけじゃないんだもの」
 「こら、必ずかけなきゃだめだよ。いずれにしろ、他人に問題をきく自分のほうが悪いにきまってるじゃないか」
 「でも、今度のことだけは許せないよ」
 最後の階段を踏みはずしそうになりながら、英一は顔を真赤にして興奮していた。
 今度のこととはこういうことなのだ。毎年夏休みの後、英一の小学校では生徒が休み中に制作した作品のコンクールを行なうことになっている。図工も習字も家庭科の裁縫も理科の実験研究も、詩のような作品も、自分で考案した楽器などまでもである。
 一年から六年までの各クラスから五点ずつを担任の教師が選び出し、その百点ほどの作品を、校長をはじめとする教師陣が丹念に調べて、天地人の三賞を決め、他の数点を入賞作品として顕彰する習わしになっていた。特に本年は、その最優秀作品が、渋谷で開かれる第一回東京都児童作品展に出品されるのだ。そこに展示される数百の作品の中から、文部大臣賞や都知事賞が決められることにもなっていた。

 四年生になった英一は、今年こそ天地人の三賞に入りたいという強い希望をもっていたので、周到に計画を練り、自分に一番向いている植物の観察記録をそれにあてようと決心した。毎日のように案を練り、遂に朝顔の観察記録と決めたのだ。それも通常の平凡なものではなく、陽当たりのいい南と、日陰になる北に鉢を置き、なお肥料をほどこすものとほどこさぬものとの区別をつけて、小さな双葉の若芽の頃から、三日おきくらいに丹念な記録をとり続けた。朝顔が心配で、夏休みも学校から出かけた軽井沢合宿の三日間以外、家のものにどんなにすすめられても旅行に出ようとはしな
かった。
 毎年夏休みには、家族全員で祖母がひとりで暮らしている福井県を訪ねることにしていたが、英一がどうしても行かぬと頑張るので、しかたなく直之が祖母を東京に連れてくることになったほどだ。
 春の種まきにはじまった数ヶ月にわたるその記録は、英一の絵のうまさもあって眼をみはるほどの出来となった。それは植物にとって一番必要なものは太陽なのだという、当然すぎるほどの結論を引き出したにすぎないが、克明な描写によって眼前に示されると、いまさらのように感動を覚えてしまうのだ。矢島先生も、
 「野口やったねえ」
 と、英一の頭に手をのせて眼をうるませていた。そして、九月の末日の審査会で、満場一致の評価を得て、天賞に選ばれたのである。
 白い画用紙を巻紙の幅に切ってつなげ、四種類の鉢植えの成長過程を四本の巻紙にし、四段に並べて鋲でとめて展示したのだ。
 それは四種の成長の差異が、一目で読み取れる見事な記録であった。
 天賞ばかりでなく、これが東京都主催の児童作品展に選ばれたと知って、英一は飛びあがってよろこんだ。もしその作品展で上位十人に選ばれ入賞した場合、賞品として双眼顕微鏡をもらえると聞いたからだ。英一が顕微鏡に夢中になったのは、理科の実験で雪の結晶を見てからだ。学校の単眼顕微鏡で見ても、その星状の結晶の美しさには思わず歓声をあげてしまった。不思議なことに同じ雪でも星状ではなく、見事な樹枝状のものもある。英一は時のたつのも忘れて、顕微鏡に見入っていた。それからはもう夢中で、パパに泣きついて単眼顕微鏡を買ってもらったのだ。
 それ以来英一は、庭の花といわず草といわず、台所の塩や砂糖、洗面所の練り歯磨や石けんやポマードまで、スライドガラスの上にのせて楽しんだ。四百倍の単眼顕微鏡でさえこんなに面白いのだから、二千倍にもなる双眼顕微鏡ならまたどんなによく見えて素晴らしいだろう。もし入賞できたらと、英一はわくわくするのだった。

 英一の作品は、展覧会の日まで八ヶ月間学校に保管されることになった。そして会場に搬入する三日前、担任の矢島先生に呼ばれて最後の点検をした。三つほど机を重ね、巻紙を四段に並べてみた。じっと眺めていた矢島先生が、説明のポイントとなるところだけは、墨を使って濃く太く書いたほうがいいかもしれないと提案なさり、英一もなるほどと思ったので、細い筆を使って鉛筆の上をなぞることにした。南側の二本の巻紙が終わり、北側の二本を広げて書こうとしていると、それまで放課後の校庭でサッカーをしていたクラスメートがどやどやと教室に入ってきた。
 「すごいなあ」
 「野口は天才だ」
 皆が英一のまわりに駆け寄りはやしたてた。早川博もその中にいた。
 二十人ほどのクラスメートが机のまわりをぐるりと取り囲み、後ろの子供たちからかがめと言われて、前の子供たちは床に膝を折った。最前列の早川博は、床にぺたりと座り、机に両腕を、肘をはる形に重ね、その上に顎をのせて、じっと英一の作業を眺めていた。どれほど時間がたっていたろうか、博がふと巻紙の何かを指そうとして人指し指を伸ばしたのだ。それは丁度後ろの子供たちが、急に強く覗きこもうとして同時にぐんと押す形になった時だったかもしれないが、その博の人指し指の先が墨汁の瓶にぐいと触って、瓶は巻紙の上に黒い汁を垂らしながらころがってしまった。あ
わてて瓶を起こそうとした英一の手元がまた狂って二度倒しの形になり、二段に重ねた巻紙の両方に、黒い飛沫を大幅にとばす結果になった。
 「アーッ」
 と叫ぶ子供たちの合唱のようなどよめきと、わっと泣き出した英一の声が一つになって、放課後の教室は騒音の渦となった。
 「僕そんなつもりじゃなかったんだよ」
 泣きながら拳をふり上げて博の身体を叩き続ける英一に、博も泣きだしながら何べんも何べんも同じことを叫んでいた。
 「早川がやったんだ」
 子供たちは口々に怒鳴った。
 英一と博は常にライバルであった。二年生のころからトップの座を争いつづけ、それは学校ばかりでなく、塾においても一点の攻防に凌ぎを削る競争相手だった。
 四年のこの夏休みの製作品で、二人の間にはじめて大きな差がついたといえたかもしれない。博がどんなに口惜しい思いをしているか、博が何を言わなくても子供たちはよくわかっていた。
 「卑怯だぞ」
 いく人かの子供たちがそう叫んだ。
 提出日を二日後に控え、どう修正の方法もなかったのである。
 微細な変化までを克明に書き記したその絵に、下書きはなかった。鉛筆で書きこんだ説明は、もはや判読不能であった。十数メートルにわたるその記録を、書き直すすべはなかったのだ。
 矢島先生もただ茫然として、その大きな黒いしみや、無数に飛び散った黒い飛沫を眺めるばかりであった。
 児童作品展には、地賞を受けた、五年女子生徒の「わたしの学校」と題する、大判のフランス刺繍が代わりに出されることになった。英一の落胆は正視できぬほどのものがあった。英一に深く同情したクラスメートたちから、博は完全につまはじきにされてしまった。

 「男の子はそんなにいつまでも同じことばかり言って悔やむものではないよ。早川君だってわざとやったわけじゃないとパパは信じているよ。あやまちというのは誰にだってあるものだよ」
 「違うよ。絶対にあやまちなんかじゃない。あいつはわざとやったんだ」
 直之は呆れはてたというふうに英一を眺めた。
 二人はそのまま渋谷につくまで、地下鉄のなかで黙りこんでいた。
 階段を上って地上に出ると、まばゆいばかりの五月の陽がわっと照りつけて、父子は思わず眼を細めた。ゴールデンウィークの最中とあって、渋谷は歩道も満足に歩けぬほどの混雑ぶりであった。
 駅前の大きなスクランブル交差点は、わずか一、二分の信号の変わり目に、大波が打ち寄せるように大勢の人が集まってくるのだ。その交差点で青信号を待っていると、突然直之が、「あっ」と声をあげた。英一が振りかえると、直之は地下に通じる階段脇に、草花を並べて売っている麦わら帽子のおばさんのところに足早に向かっていた。
 「朱鷺草じゃないか」
 直之はピンクの小さな花を指して言った。
 「そうだよ。昨日千葉からとどいたんだ」
 麦わら帽子のおばさんは、男のような口をきいた。
 「へぇー珍しいねえ。東京に来てから初めてみたよ」
 「さっき買ってった人もそう言ってたよ。わたしゃ一時間ほど前にここに来たんだけど、十束あったのが、もう五束売れちまったんだ」
 「残りの五束を全部もらうよ。一束いくらだい」
 「一束五百円だから二千五百円だよ」
 「残り全部買うんだから、少し安くならないかい」
 「だめだめ。高けりゃ三束くらいにしときなよ」
 「いいよ。しかたない。全部貰うよ。だがね、これから行かなきゃならないところがあるんだ。お金は払っておくから預かっといてくれないかい。一時間もかからないと思うよ」
 直之はポケットから財布を出しながら言った。
 「いいさ、じゃあしばって別にしておくよ」
 「五つも買うのぉ?」
 英一はびっくりして訊いた。
 「そうさ、パパの田舎の湖のそばにたくさん咲いてた花さ。きれいだろう」
 「ほんとだ。かわいい花だね」
 「可憐な花だろう。福井のおばあさまは、この花が大好きなんだよ。東京で見つけたと言ったら、きっと驚くよ」
 よく見ると、柔らかなピンク色をした美しい花で、ごく小型の洋蘭といった感じだ。三枚の細い小さな花びらが、とんぼの羽根のように、いやプロペラのように三方にひろがっており、花の中心には、濃いピンクの斑点をつけた唇弁と、それをまるく覆うようにして、濃いピンクの筋が入った二枚の花弁がかぶさっていた。高さは二十数センチ。どの花にも葉っぱはたった一枚だけ。それも茎の中ほどに片側一枚だけの細長い葉が出ているのだ。
 「なぜ朱鷺草かといえばね、花があの絶滅しかかっている朱鷺の羽の色によく似た色だからなんだ。」
 直之は英一をふり向いて言った。
 「へえー、僕、朱鷺って知ってるよ。学校で習ったもん。今日本にたった三羽しか残っていないって先生はおっしゃったよ」
 「そうなんだよ。パパは昭和三十五、六年ころだったと思うけれど、能登で空を飛ぶ四羽の朱鷺をこの眼で見たことがあったんだ」
 「ほんと!」
 英一は目を丸くして直之を見た。
 「そうだよ。あれはたしか、夏の終わりころだったな。眉上山の上を四羽ほど羽を大きく広げて飛んでいくのを見たんだよ。本当にラッキーだったねぇ。羽の裏がやわらかな美しいピンクでね、ほんの少しオレンジがかっていたような気もするんだが、その羽に陽の光があたって、黄金色に輝いている感じだった。皆、わあーきれいだなあって思わず立ち上がって歓声をあげたほどだよ。だが、あの能登の朱鷺も、その後全滅したと聞いた。残念だね」
 「どうしていなくなっちゃったの?」
 直之は三千円出して、麦わら帽子のおばさんから五百円お釣りをもらうと、
 「じゃあよろしく頼むね」
と、手をあげた。
 「あいよ」
 おばさんは、黒く日焼けした顔に白い歯を見せて、にっと笑った。
 「それはねえ、朱鷺が美しすぎたためなんだよ。乱獲されたことが一番大きかったんだ。天然記念物になり、国際保護鳥に指定されてからは撃つことは禁じられたけれど、今度は餌が充分でなくなってしまったんだ。森や山が切り開かれたことにも一因があるし、農薬によって餌が汚染されて食べられなくなったことも大きかったんだ」
 ちょうど青信号になったスクランブル交差点を渡りながら、直之はそう説明した。
 「先生から聞いたんだけど、最後に残った三羽も、山のなかではなく、今佐渡島にある保護センターで飼われているんだって」
 「そうなんだよ。英一はよく知ってるね。パパもあのとき見た美しい朱鷺の姿が忘れられず、その後も気をつけて新聞記事を読んでいるんだが、どうしても三羽以上には殖えないようだね。あの三羽が死んだら、日本から朱鷺は完全に姿を消してしまうのだろうか、悲しいことだ」
 直之は無念そうに言った。
 「ねえパパ、朱鷺の羽の色って、さっきの朱鷺草とかいう花の色に似てるの?」
 「柔らかなピンクというところが似ているよ。朱鷺の羽の色があまりに美しいので、朱鷺色という名詞まで出来たほどだ。鳥がいなくなって、あの小さな花に名前だけが残るのかなあ。しかし、そんなことには関係なく、パパはあの朱鷺草は特別に好きな花なんだ」
 「ふうーん。今でも福井に咲いているの」
 「もちろんさ。湖ちかくの湿地帯には、まだけっこうたくさん見られる花さ。英一は憶えていないかい」
 「おぼえてないなあ」
 英一は思い出そうとして、しきりに首を傾げた。湖や、湖のまわりを取り囲む山々の姿はすぐ目に浮かんでも、湖畔の湿地帯に咲くこのピンクの花を思い出すことはどうしても出来なかった。
 「おじいさまのお墓のそばに、春になるといっぱい咲いているよ。今度行ったときによく見てごらん」
 「そうするよ」

 児童会館の前には、たくさんの小学生が群れていた。
 「野口くーん」
 会館の入り口に立って、こちらに手を振っている男の子が見えた。
 「あっ、松谷君だ」
 松谷君は、もう展覧会を観終わって出るところらしい。
 「野口君、ほんとうに残念だったね。君の朝顔の記録が出ていれば、絶対に入賞していたと思うよ。共同研究や共同制作ではおもしろいものも色々あったけれど、野口君みたいに一人であんな立派な研究をしたのは一つもなかったよ」
 英一は下唇を噛みしめてそんな松谷君の話を聞いていた。手を振って駆けぬけていく松谷君の後ろ姿を見送っていた英一は突然言った。
 「パパ、僕やっぱりこの展覧会見たくないよ。見たいならパパだけ見てきてよ」
 「ばか言うんじゃないよ。わざわざそのために来たんじゃないか」
 「いやだ、僕見ないよ」
 「英一!」
 直之はメガネの下からきっとなって英一を睨んだ。しかし英一はあっという間に児童会館前の坂道を駆けおりて、じきに姿が見えなくなった。直之はそんな英一を追いかけはせず、不機嫌な表情のまま館内に入っていった。

 ふりそそぐ五月の陽光の中で、その明るさとはうらはらな沈んだ顔をした英一が花売りおばさんの傍に立っていた。
 「バカなやつだ」
 直之は苛立たしげに言った。
 麦わら帽子のおばさんは目敏く直之を見つけると、古新聞にくるんだ朱鷺草の束をひょいと持ち上げ、
 「あいよ」
と、差し出した。
 「ありがとう」
 それを受けとると、直之は険しい表情で英一を見ながら言った。
 「デパートでお昼を食べて帰ろうかと思ったがやめた。本当におまえはバカなやつだ」
 「お昼なんて食べなくていいよ。パパには、僕のこの口惜しい気持なんか、絶対に、絶対にわかりゃしないよ」
 叫ぶようにそう言うと、英一はわっと泣き出した。直之はそんな英一を呆れはてたように眺め、大きく一つ溜め息をついた。
 何事かと通行人たちが、一斉に二人を振り返る。
 「みっともない。泣くのはよしなさい。さあいい天気だし、明治神宮まで歩いてみよう」
 直之は、今渡ったばかりのスクランブル交差点を、人波に押されながらまた戻りはじめた。英一は握りしめた拳で両眼を交互にぬぐいながら、それでも直之に遅れまいとして小走りに従った。
 若者でごったがえしている渋谷の混雑もデパートを通りすぎるあたりまでだ。左手にオリンピック競技場の大きな三角屋根が、五月晴れの空に浮かび上がって見えるころには、三々五々舗道を駆けぬけるマラソンの青年たちを除けば、いく組かの家族連れがちらほら見える程度だった。
 直之は、黒々と生い繁る神宮の森が間近に見えるまで、英一を振り向きもせず、声もかけず、ただ黙々と歩いていた。そこまで来て初めて立ち止まり、
 「先にメシを食おう」
と、英一に向かって言った。
 英一はまだ少ししゃくりあげながら、それでも黙ってこっくり頷いた。
 高くそびえる欅の大木が、表参道の幅広い道を、両側から覆いかぶさるようにして、豊かな緑の枝葉を広げていた。
 直之はその並木がよく見えるガラス張りのビルの二階にあるレストランに英一を連れて行った。お昼に少し早かったせいか、客もまばらだ。ボーイに案内されて窓際のテーブルにつくと、直之は早速抱きかかえていた朱鷺草の束を、隣の椅子の上に毀れ物でも置くようにそっと載せた。親子は向かい合って坐った。
 ボーイがお水やおしぼりと一緒にメニューを持ってきた。直之はコップの水を一口飲むと、おもむろにメニューを広げて英一に訊ねた。
 「英一、なにが食べたいかね。エビフライ、チキンカツ、ハンバーグ、ビーフシチュー。いろいろある。どうする」
 「僕、ハンバーグがいい」
 「おまえはいつもハンバーグだな。今日は何かほかのものを食べてみないか」
 「じゃあビーフシチュー」
 「そうか、それじゃパパもそれにしよう。おまえはほんとに肉が好きだねえ」
 「うん大好き」
 英一は、初めてにっこりした。涙はすっかり乾いていた。
 「パンにしますか。ライスにしますか」
 メモをとりながらボーイが訊いた。
 「僕はパン」
 「私はライスをもらおうか」
 直之は椅子の上に載せた朱鷺草を心配そうに覗きこみ、眼の前にあるコップの水を、ほんの二、三滴ずつ五束の根元に垂らした。
 「おばあさまのところに、今でもこの花そんなに咲いてるの?」
 「ああ」
 「おじいさまのお墓に何べんも行ったけど、一度も見なかったなあ」
 「あのお墓に、五月から七月ころにかけてかたまって咲いているよ。おまえが行くのはいつも花の終わる八月半ばだから気がつかなかったんだよ」
 なだらかな丘が、湖に向かって下っていくその斜面の下に、十数基の墓石が立ち並んでいる光景を英一は思い出していた。
 「おばあさまはそんなにこのピンクの花が好きなの」
 「そうさ。おばあさまは若いころ、ほんとに楚々たる美人でね。楚々たるなんてわかるかい? 辞書を引いてごらん。清らかで美しいと書いてあるはずだよ。おじいさまはいつもこの花を見ると、ふみによく似ているとおっしゃったもんだよ」
 「ふぅーん。ずいぶん愛妻家だったんだね」
 にやにやしながら英一が言った。
 「英一は愛妻家なんて言葉知ってるのかい」
 「モチさ」
 泣いて腫れぼったくなっていた英一の眼がやんちゃ坊主に戻っていた。
 「でもおばあさまが美人だったって、よくわかるよ。髪は真っ白だけど、今でもとてもきれいなおばあさんだよ。夏子おばちゃまによく似ているよ」
 「夏子か、そう言えば夏子はおばあさまにそっくりだね。。何しろおばあさまは若いころ、評判の小町娘でね。小町娘というのは、今で言うミス何々とかいうやつだよ。おじいさまはいうなれば恋の勝利者というわけだ」
 「へぇー、ライバルがそんなにいたの」
 「いや一人だけさ」
 「一体それは誰だったの」
 「中学時代からの同級生だった高山先生だよ」
 「高山先生って誰?」
 「村のお医者さんさ。もう十年ほど前に亡くなっているけれどね」
 「おじいさまってどんな人だったの」
 「そうだな。背が高くて、なかなか恰幅のいい人だったよ。東京の大学を出て稼業の酒造会社を継いだんだ。今、清二おじさんがやっている会社さ。でも本当は学者になりたかったそうだ。長男の宿命でね。家業を継がねばならなかったんだけど、三十五歳で急死してしまったんだ」
 「ずいぶん早く亡くなったんだね」
 「そうだ。早すぎたよ」
 ボーイがサラダを持ってきて、二人の前に並べた。
 「パパはそのときいくつだったの」
 「十歳だよ。ちょうど今の英一くらいだな」
 「そうすると三十五年前か」
 「パパの年をよく知っているね」
 「家庭調査票で見たんだ」
 「なんだそうか」
 直之はサラダを口に運びながら笑った。
 「おじいさまは何の病気で亡くなったの」
 サラダのプチトマトを飲みこむと英一は訊ねた。
 「心臓だよ」
 「今だったら助かったかもしれないんでしょう」
 「さあどうかな。戦争が終わって七、八年経ったころだったがねえ。世の中がやっと少し落ち着きを取り戻したところで、今ほど医療機関が発達していなかったからかなあ。おじいさまは医者の誤診で亡くなったんだよ」
 「ええっほんと」
 二人の前に、まだグツグツ煮えているビーフシチューが運ばれた。
 「何の病気と間違えたの」
 英一はナイフとフォークを持ったまま、直之をじっと見つめた。
 「心筋梗塞が急性アルコール中毒症に間違えられてしまったんだ」
 「ええっ、その先生誰なの? まだ生きているの」
 英一は矢継ぎ早に質問した。
 「いいから早く食べなさい。熱いから気をつけるんだよ」
 直之はシチュー皿を指さした。
 英一は不器用そうにビーフのかたまりにナイフを入れて、フーフー吹きながら一口ほおばったが、でもまたすぐ眼をあげて訊いた。
 「警察には言ったの」
 「いいや。その先生はおじいさまの友だちだったんだ。さっき話した高山先生だよ」
 「えーっほんと。おじいさまのライバルだったんでしょう」
 「そうさ、だけどそれだからって高山先生はわざとそんなことしたわけじゃないんだよ」
 「ふぅーん」
 「あたりまえさ、完全に誤診したんだ。常日頃おじいさまはすごく丈夫だったし、ほんとに風邪ひとつひかない人だったんだよ。ちょうどその晩、村で寄り合いがあって、酒には弱いくせにしこたま飲んで酔っぱらい、大声で歌いながら帰ってきて、その直後に倒れたんだ。以前同じようにして急性アルコール中毒症になったことがあったので、高山先生もてっきりアルコール中毒症と思いこんでしまわれたんだろうね」
 「でも僕、絶対にその先生がいけなかったと思うよ」
 「もちろんさ。おかしいと思っておばあさまが急いで町のお医者さんを呼んだときは、すでに手遅れで助からなかったんだ」
 二人はそのまま急に黙りこみ、ただもくもくとシチューを食べた。
 直之はお皿を取りにきたボーイに、食後のコーヒーを、英一にはアイスクリームを頼んだ。そしてテーブルの上で両手を組んでじっと英一を見た。英一は待っていましたとばかりに訊ねた。
 「おじいさまは、自分が誤診されたことを知っていたの」
 「うん、よく知っていたんだ」
 「えっ、どうして。誰が話したの」
 直之は英一の眼を見つめたまま言った。
 「なあ英一、パパはさっき渋谷で朱鷺草を見たとき、ふとおじいさまがおまえを見ているような気がしたんだよ」
 英一は怪訝な顔をした。
 「いいかい英一。パパはかねがね英一が大人になったら、そうだな、せめて中学生になったら、おじいさまが亡くなったときの話をしようと思っていたんだ。しかし今日のおまえを見ていて、やはり今日こそそれを話すべき日だと思ったんだ」
 英一はなおも怪訝な顔をした。
 「おまえは早川君が、おまえを妬んでわざと墨汁をこぼしたと思っているんだろう」
 「うん」
 「心からそう思うのか」
 「うんそう思う」
 直之は溜め息をついた。
 「パパがおじいさまの死の床に呼ばれたのは、亡くなる前の日なんだ。おばあさまが泣きながら『おとうさまが直之と二人きりでぜひ話したいことがあるとおっしゃっている』と言うので、まだ子供だったパパは一人でおじいさまの部屋に入っていった。おじいさまの顔は土気色で、一度に二、三十歳年をとった感じだった。唇は乾いてひび割れ、そのとき『胸のなかに五本もの焼け火箸をあてられているようだ』と苦しんでいたんだ。ひと言喋るのも大変で顔を激しく歪めていた。町から来たお医者さんが喋ってはいけないと言われた。でもおじいさまは『どうしてもさっき先生や妻に話し
たことを、私の口から直接この子に話しておかねばならない。死んでもいいから話させてくれ』と頼んだ。『五分だけですよ』と言ってお医者さんは看護婦さんと一緒に部屋を出ていかれた。おじいさまはそれを見届けてから、僕にもっと側に来いという仕草をなさった。それで僕は急いで枕元ににじり寄った。おじいさまは囁くような小さな声で話すので、僕は片耳をおじいさまの口元にしっかり近づけたんだ」
 直之は状況を再現するとでもいったふうに、耳に手をあててみせた。
 「おじいさまは、こんな風に話しはじめた。『直之、お父さんはもう絶対に助からないと思う。お母さんやこんなに小さいおまえや夏子を残していくかと思うとくやしくてたまらない……。おまえがこの先どうなるのか、はたして大学には行けるのだろうかなどと考えるととても辛い。でもお父さんは今、これだけはどうしてもおまえに言っておきたいのだ』おじいさまは赤く充血した眼でパパを見た。」
 直之はそう言うと、当時を思いおこしてでもいるような表情でじっと遠くを見つめた。ややあって直之は口を開いた。
 「おじいさまはこうおっしゃった。『直之、おまえは高山先生をけっして恨んではいけないよ。昨日高山先生は手をついてお父さんに謝った。本当に正直な人だ。直之、人間は神様ではないから、どうしても過ちを犯してしまうことがある。お父さんは死ぬのは口惜しいが、真実を言うと高山先生を恨む気持はまったくないんだ。おまえだってわかるだろう。おまえは四歳のころからずっと高山先生に診ていただいたね。おまえがおたふく風邪のすぐ後、麻疹にかかって重体になってしまったことがあったね。あのとき高山先生は、二晩おまえの枕元にいて必死に治療してくださった。おまえが足に釘を刺して抜けなくなったときも、おまえを横抱きにして町の診療所まで走り続けて下さった。夏子が赤ん坊のころ、消化不良をおこして下痢が止まらなくなったのをおまえも憶えているだろう。日に日に衰弱して死んでしまうかと思った。いろいろ薬を飲ませても効き目がなくて、お母さんは泣いていた。そのとき高山先生は、新しい薬が東京にあると知って、とんぼ返りで取りにいって下さったろう。それを飲んで夏子は嘘のように治ってしまった。高山先生の手厚い看護がなければ、おまえも夏子もとうに死んでいたかもしれないんだよ。高山先生に命を助けられた村人はたくさんいるんだ。お父さんは高山先生を心から尊敬しているんだ。私たち二人は、子供のときから同級生で烈しい喧嘩もしたが、本当にいい奴だった。いいか、けっして高山先生を恨んではいけないよ。大きくなったら夏子にもよく話してやってくれ』そこまで話して、おじいさまは呼吸困難に陥ってしまった。そしておじいさまはそのまま意識を失い、次の朝早く亡くなったんだ……」

 直之の話を聞きながら英一は、運ばれてきたアイスクリームを食べることも忘れ、思わず両手で涙をぬぐった。
 「おじいさまってほんとうにえらい人だったんだね」
 「パパもそう思うよ。村の人たちは高山先生とおじいさまが恋仇だったことをよく知っていたから、口さがない連中のなかには高山先生が故意におじいさまを誤診したにちがいない、なんて言う奴までいたんだ。おじいさまはそんなことも全部わかっていて、苦しい息の下でパパにあれだけのことを言ったんだと思うんだ」
 一時近くなって、急にレストランは立てこんできた。入り口のベンチで空席待ちをしている若い人たちを見て直之は、
 「さあ、いい天気だし、少し外を歩いてみよう。神宮の森はすぐそこだよ」
と立ち上がった。そして隣に置いた朱鷺草の束をまた大事そうに抱きかかえた。
 いつの間にか欅並木の大通りは歩行者天国になっていた。若い人や子供連れの夫婦などが、ゆっくりとした歩調で横に広がって歩いている。
 明治神宮の第一皇居から御社殿へ続く参道を歩くと、その緑の深さに英一は、ここが東京のなかとはとても信じられぬ気がした。
 直之は英一を振り返って言った。
 「これは自然の森ではないんだよ。大正九年といっても英一にはピンとこないだろうな。西暦で言えば、一九二〇年に明治天皇を祭るこの神宮が出来て、一九二一年に国民などから寄付された十万本近い樹が植栽されたんだ。いうなれば人工の森さ。最初から百年後、二百年後を考えて、植える樹もよく研究したんだ。ほとんどが常緑樹なんだよ。その後も植栽をくり返し、自然に殖えた樹もあって、今では十七万本近くにもなっているそうだ。都民にとって何よりの憩いの森だね」
 祭日とあって、人影も途切れず続く。
 「ねえ、パパ、さっきの話だけれど、どうしてその朱鷺草を見て、おじいさまが僕を見ていらっしゃると思ったの」
 「そうだね。その話をしなくちゃね」
 二人は参道の砂利道を一歩入った森のなかに、石のベンチを見つけてそこに坐った。木漏れ日をちらして、爽やかな五月の風が二人の頬を心地よく吹き抜けた。
 「おじいさまのお墓をおまえも見ただろう」
 「うん」
 「最初お墓を作ったときには、朱鷺草は咲いていなかったんだ。お墓を作った次の年の春に、おじいさまのお墓を取り囲むようにして、あの花が咲いたそうだ。おばあさまはそれを見て大変悦ばれたんだ。何しろ朱鷺草はおじいさまの大好きな花だったからね。おじいさまとおばあさまのそもそものなれそめも、おばあさまがまだ女学生だったころ、おじいさまが湖のそばで見つけた朱鷺草を持ってきて『この花はほんとうにふみさんによく似ているよ』とさしだしたことからだったそうだ」
 「うわあ照れくさい」
 英一は首をすくめ、おどけた表情をしながら笑った。
 「でもね、そのことでおじいさまがおまえを見ていると思ったんわけじゃないんだよ。さて、何から話したものかな。そうだ。おじいさまが亡くなって酒造会社はおじいさまの弟の清二叔父さんが引き継ぐことになったんだ」
 「それで、お金は出してくれたの」
 「まあな。どうにか生活出来るくらいにはな。学資まではまわらなかったから、おばあさまが村の小学校の先生になって、僕や夏子の学資を作り出してくれたんだよ。高山先生はね、あの後すぐ村の医者をやめ、もう一度勉強し直すと言って、自分の出身校である弘前の大学病院に戻られたんだ。四年ほどそこにいて、五年目にまた村に帰って、それから亡くなるまで身を粉にして、村人のために尽くされたんだ。亡くなったのは一月の寒い朝、雪のなかを往診に出て、患者の家の前で脳出血のために帰らぬ人になられたんだ。その高山先生は、パパの大学の学資を出そうとなさったんだがね、おばあさまが断固として拒絶したんだよ。ほんとを言えば、おばあさまは最後まで絶対に高山先生を許していなかったんだ。もっとも高山先生が村人からとっている診療費などはけた違いに安かったから、たとえそうでなくても貰うわけにはいかなかっただろうけれどもね……。しかし、おばあさまにしてみれば、無理からぬ心境だったろうなあ」
 そう言って直之は黙りこんだ。
 「高山先生は、おじいさまが先生を許して亡くなったことを知っていたの」
 「うん、町のお医者さんが話したそうだ。高山先生はそれを聞いて声をあげて泣いたらしい」
 その後、二人は黙って森のなかを吹きぬける風の音を聞いていた。ややあって、英一が言った。
 「ねえパパ、今までに誤診で死んだ人はたくさんいるの」
 「まさか、そんなことは絶対にないよ。誤診された人はいるかもしれないが、死ぬなどということはめったにないさ。今、ほとんどの病院では一人の先生だけが診るわけじゃないからね。どこかで誤診は発見されるんだよ。安心しなさい。しかし、どんな名医にだって誤診はあるんだよ。人間のすることだからな。でもその誤診を通して、医者はより多くの人を救うことが出来るようになっていくんだよ」
 「でもその番に当たった人は災難だね。僕は当たりたくないなあ」
 「そうだねえ。パパも当たりたくないと思うね」
 二人は顔を見合わせた。
 「そうだ。朱鷺草の話をしようね。高山先生は、遺書を遺しておられたんだ。そこに、自分の墓はおじいさまの墓のある墓地に埋めてほしいとあったんだ。村人はその遺志を汲んで、丁重にあの墓地に先生を葬ったんだ。高山先生は結婚なさらず、一生一人で過ごされたからね。それで村人たちが代りにやったんだよ。お墓はおじいさまの墓の四つ隣に作られたんだ。なぜっておじいさまの隣にすでに三つの墓が出来ていたからね。雪がとけた次の年の春のことだ。通りがかった村人がびっくりしたそうだ。なぜなら高山先生のお墓のまわりに、朱鷺草が咲いていたからだ。もちろんおじいさまのお墓のまわりにも咲いていたのさ。本当に不思議なんだけど、二人の間にある三つの墓のまわりにはまったく咲いていなかったというんだ。村人たちはそれを見て『野口さんと高山先生がきっと天国で手を取りあったにちがいない』と言ったそうだ。村人に連れられて、おばあさまは半信半疑でそれを見に行ったのさ。愛らしいピンクの花が、二つの墓を取り囲んで、二つの輪になっていたそうだ。じっとそれを眺めていたおばあさまは『あなた、親友の高山先生が来てくださって嬉しいんでしょ。よかったわね』と言ってわっと泣き出したそうだ」
 英一は思わず眼をしばたいた。
 「おばあさまは臨終のおじいさまから話を聞いていたけれど、それでもどうしても高山先生を許してはいなかったと思う。でも二つの同じ花に彩られたお墓を見たそのとき初めて、高山先生を許す気持になったんだね。この朱鷺草のおかげさ」
 直之は膝の上に抱えていた朱鷺草をじっと見つめた。英一も覗きこんだ。英一は何だかその愛らしい花がみんな微笑んでいるような気がした。
 「おじいさまと高山先生は、子供のときから親友だった。好みまで似ていたから恋仇にまでなってしまったけれど、お互いの信頼は何があっても崩れることはなかったんだよ。おまえと早川君は、そんな風な親友ではないかもしれないけれど、幼稚園の三年間から早川君とは同じクラスだったんだろう? ママから聞いたんだがおまえが水疱瘡で幼稚園を長く休んだとき、早川君は幼稚園の帰り、いつも家のブロック塀によじ登って、じっと何十分も家のなかを見ていたそうだ。おまえが心配でたまらなかったんだよ。毎日毎日そうやっていたとママは話していたよ。あるとき、ママが庭に出て『英ちゃんはもうよくなったから大丈夫よ。来週の月曜日から幼稚園に行くのよ』と声をかけたら、とても嬉しそうににっこりわらって走っていったらしい。おまえが小学校二年生のころか、鉄棒から落ちて足を挫いたときも心配してくれたそうじゃないか」
 「うん。一緒になってワーワー泣いたんで、みんな早川君が足を挫いたのかと思ったんだ」
 「そうだろう。おまえのことを親身になって案じてくれたんだよ。今だっておまえが足を挫けば、早川君は一緒になって泣き出すとパパは思っているよ」
 英一はうつむいて黙っていた。
 「さあ、早く帰ってこの朱鷺草を水苔の中に植えてやらなければ」
 直之はそう言ってベンチから立ち上がった。
 英一もベンチから一緒に立ち上がり何気なく見上げると、黒いまでに繁り合う樹々のなかで青空はほんのわずか垣間見られるだけだった。英一はふと自分が深い山のなかにいるような心地がした。これから山を下ればすぐにおじいさまのお墓に行けるような気がした。朱鷺草に囲まれた二つのお墓を見てみたい。英一は駆け出しそうになっていた。

 連休明けの月曜日である。
 「オーイ野口、サッカーしようよ」 
 牧田君が教室の後ろから大声で手を振った。
 「うん、しよう」
 英一も元気に答えると、突然くるりと後ろを向いて、早川君に言った。
 「ねえ、君も一緒にやろうよ」
 早川君はびっくりして一瞬きょとんと英一の顔を眺めた。
 「僕やってもいいの?」
 早川君はおそるおそる訊ねた。あれ以来皆からつまはじきにされ、毎日ひとりで小さくなっていた早川君は、英一の誘いをすぐには信じられなかったらしい。
 「いいに決まってるじゃないか」
 英一は早川君の腕を引っぱると、椅子から立たせ、昇降口のほうへぐいぐい引っぱっていった。
 「ほんとにいいの」
 早川君は引っぱられながら、もう一度英一に訊ねた。
 「もちろんさ」
 英一の声は明るかった。
 「野口君ごめんね。でもほんとにわざとしたんじゃないんだよ。ほんとなんだよ」
 早川君は突然立ち止まってそう言うと、急に両眼から大粒の涙をこぼした。
 「わかってるって」
 英一は笑いながら大声で言うと、思いっきり早川君の肩を叩いた。
 そのとき、英一の心のなかに見えたのは、湖に近い二つのお墓のまわりで、そよ風を受けながら小さく揺れているあの愛らしい朱鷺草の花々だった。   (了)
 
 
 

(作者は、湖の本の一読者の母上にあたる方で、年輩は編輯者とあまりちがわないというから、六十五の前後か。若い頃に児童文学の書き手を志していた。この作品は、読者である女性のまだ小さかった頃に、母上からお話しされたり読み聞かせられたりして、子供ごころにも好きだった作だという。寄稿してきたのはそのお嬢さんであるが作者も健在。一読して、じつにきちっとした楷書の文章で、ほとんど欠陥というものの無く書かれてあるのに驚いた。あまりにきっちりし過ぎているのかも知れないが、段取りも巧みで、なによりも読後感は温かいし気持ちがいい。少しくわれわれ年輩のものがの接して感化されたかも知れない「小国民文芸」めく味わいも無き西もあらずだが、教訓は教訓としても、この「朱鷺草」をうまく生かした物語には不自然でない変化もあって、首尾の整いはきちんとしている。これはこれで、なかなかの一編として鑑賞に堪える魅力がある。ぜひ一読されたい一編である。 1.6.16掲載)                                  



 
 
 

       牡丹雪      藤田 理史
 

 
 紫色の花が土に散っていた。近寄ってみて、牡丹の花だと坊やは認めた。境内を囲うように造られた公園の、遊び場から少し離れた所に、寒牡丹の低木が何本か植えてある。その場に屈み込んで形のよい花弁に触れながら、坊やはオユキさんの声を思い出していた。??牡丹の花って、綺麗なんだけど、花が突然崩れてしまうのよね。見るたんびに、あたしはなんだか怖くなってくるの。
 とん、と屈めた背中を小突かれて、坊やは振り返った。時々絡んでくる上級生たちが自分を取り囲んでいた、弾かれたように坊やは立ち上がった。
 坊やには友達がいなかった。同じ保育園に通っていた仲間たちは、小学校に上がると学級も離れ離れで、間もなく疎遠になった。町の中心と郊外の境目あたりの住宅地は、南小学校の学区にあたる。歩いて三十分、田んぼのど真ん中にぽつんと突っ立つ校舎までの長い道のりを、最上級生から黄色い帽子の一年生までが一列に並んで歩いた。
 背が高いというより頭の人一倍大きかった坊やは、文字通りの坊っちゃん刈りだった。つやつやの前髪は凛々しいほどの濃い眉毛を隠して、くりっとした瞳をいつも大きく見開いていた。勉強の成績はめっぽうよかった。同級生たちから僻み半分にキノコと渾名をつけられ、何かと吊るし上げにされた。一つの学年に四組までしかなく、他学年の繋がりも幼なじみの延長上にある。頭のいいキノコ坊っちゃんの噂は間もなく上級生にも広まった。いつのまにか、公園の片隅で中学年のグループに四方を囲まれるようになった。坊やのでかい図体は、ともすると背の低い四年生を凌いだ。
「なんだよ、そのツラはよお」
 四年生のちびは、坊やのセーターの首を掴んで睨みつけたつもりだった。
「むかつくんだよお、キノコアタマ」
 まずは一発頬を張られた。ぐらりと仰け反ると、二本の腕が肩にのしかかって坊やは尻餅をついた。上級生たちの土で汚れた靴が、坊やのセーターやズボンに次々と跡をつけていく。坊やは声ひとつ上げなかった。上げても無意味なことを知っていた。靴の地面をこする音がやむと、再び胸倉を掴まれて元の立ち位置まで引きずられた。もう一発頬に打撃が飛んだ。
「キョーハコレグライデユルシトイテヤル」
 ちびの捨て台詞に続いて、四、五人の群れは離れていった。
 公園は車道に面している。小学校に入る以前、坊やはしばしば公園に沿った歩道に立ち、右に左に行き交う車の群れを眺めたものだった。両親の影響をそのまま受けた車好きらしく、坊やは恐らく愛着を込めて自動車のことを<がーじーやー>と妙な名で呼んでいた。
 保育園の年長組に上がる頃には、車のエンジン音でその車種を判断できるくらいになっていた。然し、小学校に入ったのち、坊やはこの歩道を滅多に通らなくなった。上級生に絡まれた日などは、裏側の柵の破れたところを潜り、人通りの少ない裏道を辿って帰路に着いた。
 独りの帰り道では黄色の帽子をランドセルの中に閉まっていた。迂闊に被っていると、絡まれた時に帽子を取り上げられ、散々に弄ばれてしまうからだ。群青色のランドセルにも靴の跡がついていた。両親が珍しいものを見つけたと嬉しそうに買ってきてくれたものだが、この群青色がまた否が応にも坊やを目立たせた。みんなと同じ黒がいい、と坊やはパパとママに聞こえないように呟くのだった。
 初冬の向かい風が、赫くなった坊やの頬を鋭く切りつける。左の脇から鎖に繋がれた犬が吼えかかってきた。形のよい眉を顰めて、坊やは足早に歩き去っていった。
 

 薄桃色の壁を卑猥な落書きが汚している。淫らに書きなぐられた数字やアルファベットの群れは、坊やの眼には点と線の塊としか映らない。錆びついた階段をとことこ上って、踊り場から左に折れると狭い廊下。表情のない平面を敷き詰めた安アパートの内部は、ひっそり静まって廃墟さながらの不気味さを漂わせる。だが坊やは躊躇うことなく前に進み、三つ目のドアを左手に認めたところで立ち止まる。思いっきり背伸びをして人差し指の先端を小さなボタンにぶつける。ピンポーンと高い音色が鳴り、その音をかき消すように坊やはもうドアノブを手前に引いていた。
「オユキさあん」
 甲高い声が六畳二間の部屋に響いた。坊やはぺしゃんこの青いスニーカーを黒い女物のブーツの傍に爪先を揃えて並べた。
「いらっしゃい」
 少し気だるげな微笑みを浮かべ、雪子は奥の炬燵に温まっている。台所と居間を区切る閾の襖はいつも開け放たれており、部屋に上がると坊やの視線は即座に雪子をとらえることができた。
 箪笥の傍にランドセルを下ろし、雪子の斜向いに座ってズボンの脚を布団の中に入れた。橙色の熱が、少年の両脚を温かく包み込む。
「坊や、他人様のお家に上がる時は<お邪魔します>ってちゃんと言わなきゃ。お母さんにそう教えてもらわなかった?」
 坊やの頭を撫でつけながら、雪子は土の粒が髪に付着しているのを感じた。またやられてきたなと見てとるだけで、口には出さなかった。
「教えてもらったよ。ちゃんと言ってるよ。でも、オユキさんちはべつ」
 少し舌足らずに、坊やは言葉を返してきた。あまり素直に子どもの笑顔を見せないが、大人の優しい手を邪険に撥ね退けるようなことはしない子だった。
「一言多いぞ、このナマイキ坊主め」
 雪子は、撫でていた左手で、坊やの後ろ髪をさっと払った。粒の感触は消え失せた。
「オユキさん、なにかオヤツある」
 坊やがここに来るのを見越して、いつも煎餅やスナックの類いのお菓子を木の皿に用意してある。坊やの手の届くところまで動かしてやると、「ありがと」と呟いて咀嚼の音をばりばりと立て始める。雪子は手をつけない。夕方からの仕事が控えているのだ。
「うえぇおゆいうぁん」
 煎餅を頬張りながら言葉を発するので、そんな風に聞こえる。<ねえオユキさん>である。
「なあに」
 返事をしてやると、坊やは口の中に溜まったものをごくんと呑み下した。
「オユキさん、あのね??ぼく、ガッケンやめたいの」
 坊やは小学校に上がった頃からG社の塾に通わされていた。話を聴く限りでは、少年一人だけ優秀で飛び級をどんどん重ね、算数と漢字については三年生の範囲も既に学んでいるようだった。
「どうして。勉強、難しいの」
「ううん。あんまりむずかしくない」
「先生と上手くいかないのかな」
「先生はホメてくれるよ。オタクノオコサンハユーシューデスネって、いっつもママにおんなじこと言ってる」
「じゃあ、友達とケンカしちゃった、とか」
「??」
 坊やは口を噤んだ。言おうか言うまいかと迷っていると見える。肉づきのいい両手を炬燵の布団の中に引っ込め、所在なさげに身体をふらふら揺らしている。テーブルの上に食べ終えた煎餅の包みが散らかっている。雪子は黙って坊やを見守っていた。すると、程なく相手は尖らせていた脣を開いた。
「ぼく、友達、もういない」
 ぽつりと呟いたかと思うと、坊やは口を閉じた。炬燵に突っ込んでいた両手は、再びお菓子の群れへ向かっていく。俯き加減の表情はいつもと同じ少し仏頂面な丸顔だったが、がっつくように煎餅を口に放り込む少年の瞳は、そのレンズに何物をも写し取らないかのように頑なに黒ずんでいた。
 

 雪子が逆児を産み堕として間もなく死なせた日からもう七年経った。その一月後に生まれた坊やは、もう小学校の一年生だ。
 芸者置き屋の福島さんの家からほんの数軒先のところに、福島のおかみさんを<お二号さん>にしている旦那の借家がある。坊やの家の真向かいである。
 坊やの祖父は、この町で警官を勤め終えた後、自動車学校の校長に就いていた。その人が四年前に他界し、妻も一昨年にその後を追って逝った。その長男??坊やの父親はもう四十を越しているようだが、雪子の眼にはなかなか渋く見えて悪くない。N市にある県庁に勤めているわりに、あまり役人くささを感じさせない人だ。この人の奥さんは夫に較べだいぶ若い。もとはN市の出身で、いいところのお嬢さんだったらしいとおかみさんが喋っていた。あんたとは育ちの違う人だよ。おかみさんの言葉が、気にすまいとしても頭の片隅に引っ掛かる。
 M町は、古くから芸者の町とされてきた。雪子の母は、今はとうに隠居しているが、現役の頃は当時の町長のご贔屓にさせてもらっていたほどの売れっ子であった。雪子は、母と同じ道を歩んだのはいいが、どうやらその道の才覚に先代ほど恵まれなかったと見える。今のアパート住まいで、やさぐれた男と腐れ縁の同棲をどうにか保つのが関の山というところである。
 器量は朋輩の間でも優れている方なのだが、持って生まれた資質を当の本人は活かし切れず持て余している気味であった。お座敷に出れば恰幅のいいお偉いさんからもそれなりに可愛がってはもらえる。然し、万遍なく人気を稼ぐのが災いして、あっちへふら、こっちへふらと靡いているうちに、お得意様はみな他の同僚を択び取ってしまい、気がつくと雪子は置いてけぼりを食っている。あんたは若いくせに八方美人が過ぎるんだよ。おかみさんのぼやきを何度聞かされたかわからない。
 同棲相手の男に出逢ったのは、町にただ一軒のパチンコ屋だった。いつも酔っ払ったように紅潮した顔を不機嫌そうに歪めて、男は黙々とパチンコ台に向かっていた。三回ほど続けて隣りの台で同じ若い男性に出くわすと、性分で雪子は声をかけたくなった。不貞腐れたような声で「ああ」とか「そう」とか短い返事しか寄越さなかったが、つかみは悪くないと思った。ハリネズミのような爆発頭の印象は強く、チンピラと見なすには洒落っ気のまさったアクセサリーをじゃらじゃら身につけていた。結局その夜は男の部屋に泊まった。それから一週間で雪子は自分のボロ屋を引き払い、男の部屋で同棲を始めた。それが今のアパートである。
 同棲を始めてから半年で、雪子は妊娠三ヶ月と医者に告げられた。一時的に勤めを休んで子を産もうと決めたが、籍は入れなかった。子を産んだ後も芸妓は続けるつもりだった。日雇いの労働でその日暮らしを繰り返していた男一人の稼ぎだけでは、まともな核家族は築けそうにもなかったからだ。
 男はあまり口を利かないが、黙っていてもやるべきことはやる人だった。不安定な収入ながらも平日は休まず働きに出て、パチンコや酒に注ぎ込む金も節約するようになった。女の甘えも我が侭も受け入れて文句を言わず暴力も振るわない。雪子の遊び心はいつのまにか身内の絆に移り変わっていった。
 然し、結局雪子は子どもに恵まれなかった。予定日より二十日も早い陣痛が始まり、逆児がその身体を光のもとに晒すまでに半日かかった。そして母の血に塗れた赤ん坊は、産声を上げることなく、あまりにも短い人生の幕を閉じた。二人で病院から帰った日の夜は、どちらも軽く風呂を浴びて早々と布団に潜った。暫くの静寂ののち、女の歔く声が狭い部屋に響き始めた。男は慰めも咎めもせず、ただじっと黙って女の泣き声を聴いていた。
 翌朝から、一緒に暮らし始めた頃と同じ共働きの生活に戻った。皐月の朔だった。
 坊やが此の世に生を受けたのは、雪子の長男が光を見ることなく葬られてからほぼ一ヶ月後のことだ。既にお座敷に戻っていた雪子は、梅雨に入って間もない或る日、旦那の向かいの家に男の子が産まれたらしいとおかみさんが話しているのを聞きとめた。ちょうど置き屋に着いたところだった。居間に上がると、おかみさんと数人の朋輩が少し慌てた顔つきで口を噤んだ。雪子は聞こえなかったふりをして自分から別の話題を振った。
 若い母子は近所によく迎えられていた。母親は人並み以上に器量よしの愛想よしで、訛りのない言葉遣いもはきはきとして厭味でなかった。向いのやくざな旦那でさえ、坊やの母親にわりと打ち解けていたようだった。
 置き屋まで通う道すがら、まだ赤ん坊だった坊やが若い母親の腕に抱かれているのによく出くわした。可愛いお子さんですね、雪子は自然に声をかけていた。
 男の子ですか、子育て大変でしょう。
 ええ、とんだ泣き虫なの。夜になると泣きやまなくって。
 茶色がかった髪を傾げながら、切れ長の眼もとが微笑んだ。赤ん坊のくりくりした瞳は母親と似ていなかった。このひとよりあたしの方が眼は大きい、と雪子は思った。母親の腕の中で赤ん坊はとろんとした眼つきを宙に彷徨わせていた。
 あたしの子どもの眼は、瞼を固く閉じたまんまでとうとう開かなかったんですよ。自分より五つほども年嵩の女性に挑みかかるような気持ちが、雪子に芽生えていた。然し、本音の上に被せた笑顔の仮面は決して剥がそうとしなかった。奥さん、知らぬが仏って言いますよね。雪子は初めてその諺の意味をよくわかった気がした。
 子どもが独りで外に出られるくらいにまで育つと、母親は姑の看病に忙しくなり、あまり外に姿を見せなくなった。まだ保育園に入る前で、坊やはベビーランドという民間の託児施設に預けられていたが、夕方には施設専用のバスに送られ帰って来る。福島さんのお抱えの芸妓が置き屋に足を運ぶ時分、坊やはよく近くの通りできょろきょろしていた。
 程なく雪子と坊やは近づいた。
 オユキサン、ドコニスンデルノ。或る日いきなり名指しで坊やの方が訊ねてきた。
 あのね、ここからちょっと歩いたところ。あっちの方よ。ついさっき自分の歩いてきた道を雪子は指差した。
 オユキサン、オデカケチューナンダ。
 そうよ。これからお仕事なの。
 フウン。イツゴロオワルノ。
 そうねえ、坊やがもうおねんねしてる頃かな。
 ソウナンダ。ボクノパパ、オネンネノマエニカエッテクルヨ。
 普通の人は朝からお仕事だものね。おねんねの頃までやってたらみんな疲れちゃうわ。だけど、あたしのお仕事はこれからだから、夜中まで頑張らなくちゃ。
 ヘエー。タイヘンナンダ。ガンッバッテネ。
 ええ、ありがとう。
 オユキサン、コンドオユキサンチオシエテ。
 そうね、お仕事がお休みの日にね。
 そして、雪子は或る休みの日に坊やを自分と男のアパートまで案内した。福島さんの置き屋から更に向こうへ足を伸ばすと踏み切りに出くわす。線路を踏み越えると新興の住宅地にアパートや社宅の外壁も見え隠れする。五分ほども歩けば薄桃色の壁に辿り着く。
 アリガトウ、ボクモウヒトリデコレルヨ。
 道、もう憶えたの。
 ウン、オボエタ。
 賢いのねえ、この子ったら。
 手入れの行き届いたつやつやの髪を撫で、坊やの手を取ったまま雪子はゆっくりと階段を上っていった。
 ??そして今、坊やと雪子は同じ炬燵に温まっている。いつも坊やの方であれこれ取り留めのない話を雪子に聞かせてくれるのだが、今日はあまり口を利かず、畳の上に投げてあった漫画を手に取り、持て余したようにページをめくっている。男は時々やさぐれた麻雀の漫画を買ってきては、ろくに読まぬうちに打っちゃってしまう。雪子もぱらぱらと眺めてみるだけで、結局ちゃんと読むのは坊やということになる。わかるのかと訊くと、パパがマージャンをする、ぼくもできるようになりたいと答える。賭け事を識る坊やの両親は、休日になると街を二つ越え競馬場まではるばるワーゲンを走らせるということだった。一人息子の方も、<がーじーやー>が大好きだった。そういえば、最近<がーじーやー>の話題も少なくなった。学校帰りに一緒に遊べる仲間に恵まれていないようだと雪子には察しがついていた。そうでなければ週に何度もこの部屋に来たりしない。母親にはダレダレクンノウチニイッテキタなどと出任せを言っているのだろう。
 床の上の黒い置き時計はもう四時を回っている。隅っこのハンドバッグに手を伸ばし、雪子は炬燵からスカートの両脚を抜いた。黒いセーターの上に黄土色のジャケットを着込む。膝小僧の見えるスカートの下に、ストッキングは穿いていない。今夜寒波がこの地方にやって来るとニュースで聞いていたが、まだ師走に入ったばかりだ。雪子は多寡を括ってそれ以上は厚着せず出ることにした。
「坊や、あたしもう行くよ」
 煎餅を食べた後のゴミを片づけ上がり框に立つと、坊やはランドセルを背負い雪子の傍に寄ってきた。
 廊下を抜けて階段を下り切ると、ひゅうっと冬の気配が吹きつけてくる。西の空から分厚い雲が姿を覗かせ、夕焼けの陽は消え入るように沈みかかっている。
「今夜は寒くなるかもねえ。まあいいか、もう着替えるの面倒くさいや」
 女は少年に笑いかけ、並んで歩き出した。
「あーあ、おウチ帰りたくないなあ」
 芝居の台詞のような声で、坊やは殆ど嘆いていた。
「珍しいのね、帰りたくないだなんて」
「だって、ガッケンやめるって言ったら、きっとパパとママに叱られるもの」
「??あら、ほんとにやめちゃうの?」
 少し先を行くようにしていた坊やは、ついと立ち止まった。とうに踏み切りを越えて、視線の先に坊やの家がもう見えていた。煉瓦色の壁をアイビーが伸び放題に取り囲んでいる。
「??うん。やめる」
 ぱっと振り向き、頬の引き攣ったような笑みを投げかけた。「バイバイ」と坊やは群青色の鞄を背中に揺らしながら駆け出していった。雪子はまだ立ち止まったまま、坊やの姿が路地の向こうに消え去るのを見送っていた。
 

 三人の夕食は片づいて、母が台所からグレープフルーツの入ったタッパとフォークを持ってきた。父が電気ポットから急須に熱湯を注ぐ。深い緑色のお茶っ葉が沸騰した渦に巻かれくるくる回り、すぐさま湯気を吐き出す丸い口に蓋を閉める。通気孔から漏れる白い吐息は、瞬く間に居間の空気の中へ吸い込まれてしまう。夫婦で柄を揃えた湯呑みに、急須のおちょぼ口から煎茶が代わり番こに注がれていく。母が電気カーペットの上に横座りになり落ち着くと、父は妻の前に小さい方の湯呑みを置いた。タッパの蓋を開けると、鮮明な黄色い果実が姿を現す。万遍なく砂糖の粒の振りかけられたデザートの山の真ん中あたりに、母は銀色の三叉をずぶりと差し込む。
「はい、まあちゃん」
 母親は息子に微笑みを振り向けた。
 坊やは、先刻から父と母をじっと見つめていたが、覚悟を決めた俯き顔で口を開いた。
「??ガッケンをやめたい」
 え、と訊き質すように母が顔を近づけてきた。父は何も聞こえていない風に週刊誌を開いている。
「ガッケンをやめたい」
 同じ言葉を、勢い余って殊更に大きく発した。ことんと沈黙が落ち、テレビニュースの音声だけが耳に入ってくる。
 坊やは俯けていた顔をゆっくりと上げてみた。眼の前の母が、見知らぬ若い婦人に見えた。婦人は小首を傾げ坊やの顔を見据えた。
「どうして? あそこの先生、いつもまあちゃんのこと褒めてくれてるのよ。今まできちんとやってたじゃない」
「うん」
「じゃあ、どうしてやめたいなんて言うの?」
「??」
 坊やは言葉に詰まった。飛び級が厭だから。言えない。トビキューガイヤダカラ。坊やはちゃんと知っていた。飛び級はエラいことなのだ。周りの子どもたちはみな学校の授業を頭に入れるだけで精一杯なのに、自分だけは何もかも先回りしてわかっており、もう二年分も先の課程にまで進んでいる。親戚や近所の誰もが褒めそやす<天才まあちゃん>なのだ。父も母も愚かしい自慢話などは決してしなかったが、子どもの秀才ぶりを恃んでいたのは言うまでもなく両親であった。坊やはちゃんと知っていた。だから言えないのだ。
「どうしたん?」
 父が週刊誌から顔を上げ母の方を見た。
「この子が塾をやめたいって??」
 父の視線は坊やの真正面に移動した。
「おいまあ坊、どうしたんだ。何かあったのか」
 坊やは正座の姿勢を崩さぬまま、窺うように父の顔へ眼を向けた。親二人の視線が自分に集中しているのが、無言で圧してくる重みに感じられた。
「何も言ってくれないと、こっちもわからんだろうが。何か向こうに不満があるなら、パパが言ってあげるから」
 何もかも不満です、と坊やは答えたかった。
「ねえ、どうしたの」
 母親の手が坊やの肩先に伸びてきた。重ねた足の甲にだんだん痺れが蔓延していく。今こうして両親と向かい合っていることが、いたたまれないほど息苦しかった。父が丁寧に梳かしつけてくれる髪はキノコ頭と貶され、群青色の鞄は事ある毎に弄繰り回され、整いすぎて少し窮屈なほどの服にも時に汚れた靴跡をつけられる。坊やは、イジメという言葉を知っていた。今の自分がそれにあたるとは思わなかったが、親に話したらイジメと見られるだろうと考えた。両親が坊やに与えてくれたものを否定することになってしまうのが、坊やには心苦しかった。
 坊やは、普通の子どもと同じところに立ちたかった。先取りの知識に膨らまされ厖くなった頭が、不必要に物を考え込んでしまう。気がついた時には周囲から浮き上がり、友達と呼べる仲間は何処にもいないのだ。そんな自分をいったい誰が羨むだろう??。
 オユキさんの眼が、坊やをそっと見つめていた。オユキさんはいつも何も言わないけれど、きっとわかってくれている。坊やの黒眼は訝しげな顔つきの両親をとらえているが、瞼の裏側にオユキさんの静かな顔がゆったり浮かんでいた。オユキさん、と呼びかける言葉を呑み込んで、坊やは黒眼に映る相手に呟いた。
「だから、やめたい」
「うん、やめたいのはわかったから、理由を聞かせてほしいの」
「??言いたくない」
「言いたくないって、どういうことだ」
 父の眉毛が、急に険しく歪んだ。
「言いたくないようなことなら、わざわざ自分で言い出すことないだろうが。お前、本気でやめたいと思ってるのか」
 初めて聴く、父の詰る口調だった。怖じ気づいた緊張が染み渡るように胸の裡に広がり、心臓がどくどく揺さぶられてきた。
「せっかく頑張ってきたんだから、最後まできちんとやった方がすっきりするわよ。ね」
 坊やを諭すというよりは夫を宥めるような口調で母は言った。然し、坊やを叱りつけたことのない母親の優しげな言葉は、却って坊やに奇妙な葛藤を促した。オユキさんの姿が脳裡にちらつく度に、母とオユキさんを別々に乗せた天秤の皿が右に左に傾いた。
「??話したって、わかんないよ」
 坊やがぼそりと言葉をこぼした瞬間、父はくわっと眼を見開いた。唸るような音を立て平手打ちが坊やの頬に飛び、もろに受けた身体はぐらついた。四年生のちびのパンチより遥かに重たい衝撃で、眼の淵に涙が湧いた。
「ちょっとあなた、何もぶたなくたって」
 咄嗟に息子の身体を支え、母親はおろおろと立ち上がった。
「なんだおまえ、こいつを庇うのか。俺たちはコケにされてるんだぞ。話してもわからんだと。戯けたことを抜かすな。何様のつもりになってるんだ」
「ねえあなた、この子にはこの子なりの理由があるのよ。気恥ずかしくて言えないだけなのよ。まだ子どもなんだから」
「おまえ、いくらなんでも甘やかしすぎなんじゃないか。少しは厳しくするところがないと、図に乗ってただの頭でっかちになる。だいたいな、根性が好すぎるんだ、おまえは」
「あたしのことは関係ないでしょう。よしてよ、子どものいる前で」
 狼狽えた母の声は潤んでいた。坊やの両の肩を母の手がしがみつくように掴んでいる。坊やは重苦しい枷に捕らわれたような感じがした。
「おまえ、賢い子は責任という言葉を自ずと理解するだろうが。自分で自分の責任をとる気もないような奴は許さん。子どもの身勝手を叱って何が悪いんだ」
「だからってこの子をぶたなくても??」
「子どもはおまえの所有物じゃない。おまえの方こそ、そんなみっともない真似はやめろ」
 はっと気づいて、母は両の腕を引っ込めた。
「肝腎なところでしっかり為付けないからこんなことになるんだ。おまえがしっかりしなけりゃあ??」
「あたしばっかりが悪いみたいに言わないでよお??」
 突然、娘のような甲高い声を上げ、母はその顔を両手で蔽った。
 一徹な亭主関白ではない夫と、教育ママなどという意識をさらさら持たない妻は、正直なところ、唐突に生まれ出た神童さながらの一人息子を持て余していた。でき得る限り子どもに優しく仲良く接したつもりだったのが、肝腎の息子にそっぽを向かれてしまった。母は、塾のない日に坊やが遅く帰って来るのも咎めなかった。友達と遊んでいたという息子の話を何の疑いも持たず聞き入れていた。然し、他所のやんちゃな腕白坊主よりずっと従順で素直だった筈の子どもは、意味のつかめない反抗を示した。息子のあどけない丸顔が、得体の知れない靄に紛れ、不可解な霧の向こうへ遠ざかっていく??。
 見てはいけないものを見た、と坊やは思った。そして、天秤にかけていた二つの気持ちが、急激に一方へ傾いていくのを感じた。坊やを叱るよりは妻の方を責め立てる父も、理不尽に押し込められたことに抗うように涙をこぼす母も、もはや坊やの意識のレンズには写っていなかった。瞼の裏に見え隠れしていたオユキさんの、手招きする姿がはっきりと見えた。女神の真っ白な手に誘われるように、坊やはすっくと立ち上がり、リビングから廊下に抜け出ていった。
「おい、まあ坊、まだ話は終ってないぞ」
 夫が声を張り上げると、妻も我に返り顔を上げた。
「ねえ、何処に行くの。待って??」
 母の手が縋るように自分に触れてくるのを感じた。坊やは玄関に向かって逸散に走り出した。
「まあちゃん!」
 最後に聴き取れたのは母の叫び声だった。ぺしゃんこのスニーカーを突っかけドアのチェーンを外し、ノブをつかむと上半身ごとドアに押しつけ一気に外へ出た。殴りつけるような北風が着の身着のままの身体を包み込む。真っ先に右へ折れて、街灯に淡く照らされた通りを坊やは駆け出していった。急速に肌の凍てていく痛みに喘いで、オユキさあんと胸の内で喚ぶ声は鈍び色した冬空にわんわんと響いた。
 

 置き屋までの道を草履でひたひたと歩く。同じ衣装で置き屋から出た時とは大違いの冷気が、着物の裾から容赦なく襦袢の内まで??に入り込んでくる。思わず心持ち身を屈めてアスファルトの路地を雪子は急いだ。
 お座敷は一次会でお開きになって、思いのほか早く置き屋に戻れそうだった。M町には県のいわゆる官公庁があり、そこに勤める役人連中の接待は芸者つきの呑み会が定石とされてきた。毎年師走の上旬というと、官公庁の職員たちは県会と呼ばれる大掛かりな会議で連日半徹夜の状態が続くので、当然ながら接待などを組み込む余裕もなく、こちらとしてはやや閑のできる時期でもあった。然し、雪子が子どもだった頃に較べると、芸者街そのものが全国的にも廃れてきている。オイルショックからこちら、税金の不正支出などという言葉で呑み屋の芸者たちもオンブズマンの批難のターゲットにされつつあった。今日のような日は次第に多くなっていくのだろうか、と雪子はほんの小さい種のような不安をふと覚えた。
 商店街を抜けてすぐの線路を越え、裏道に入ると、ずっとまっすぐ歩いた先で福島さんの家に辿り着く。ところどころに街灯が青白い光を放っている。このあたりの道は夜でも女一人で歩けるぐらいになった。通い馴れた木造建ての屋根が薄闇にぼんやりと輪郭を顕してきたかと思うと、こっちへ向かってくる小さな人影が眼についた。どたどたと倒れ込むようにして走る姿に見憶えがあった。
「??坊や!」
 言葉の出るより先に雪子も駆け出していた。路地の真ん中で抱き止めるようにしゃがんで、昼間会った時と同じセーターの両肩を、左右の掌に包み込んだ。
「どうしたの、こんな晩くに。お母さんが心配??」
「ママなんか、もうどうでもいい」
 相手を遮るように喚いて、坊やは雪子の着物姿に身体を寄せた。抱きついてくる温もりを受け止め、思わず雪子は坊やの背中に手を回した。おかみさんの娘がまだ赤ん坊だった頃、自分がよくあやして抱いてやったのを雪子は思い出していた。あの時の幼児を包み込んでいた乳臭さは感じられず、代わりに或る種の甘さを伴なった不思議な匂いが腕の中に寵もった。
 左胸が少しどきどきしてくるのに雪子は戸惑いすら感じた。男の子だ、ああ男の子だ、と頭の中を同じ言葉が駆け巡る。こうなることを懼れて距離を置いていたような、そのくせ心の何処かで待ち望んでいたような??。雪子の身体は火照ってきた。家屋の隙間を縫って吹きつけてくる夜風を浴びながら、二人は身体をほどこうとしなかった。雪子が左手を坊やの後ろ頭に回してやると、躊躇わず坊やは膨らんだ胸元に顔を填めてきた。くしゃくしゃになった丸顔が、涙を見せまいと堪えているのがわかった。
 この子はいったいどうしたんだろう。もしもあの時、子どもがまっすぐにあたしの身体から産まれてきてちゃんと瞼を開けていたなら、こんな風に甘えてくれるのだろうか??。坊やは、雪子の前では天才まあちゃんでもキノコ頭でもなく、名前を持たないただの坊やだった。それでいい、それがいい、と冷やされてぱりぱりした坊っちゃん刈りの後ろ頭を雪子は優しく撫でていた。
 ??と、はらりと白い花弁のようなものが一瞬閃いた。雪子は空を仰ぎ見た。
「ほら、坊や??」
 初雪がひらひらと舞って降りてくるのが見えた。坊やはきらきらした瞳を大きく見開いて、夜空に白い息をはあっと飛ばした。冬の風に煽り立てられるように牡丹雪は徐々にその舞いを勢いづかせて、アスファルトはみるみるうちに銀色に塗り替えられてゆく。ひっそり静まった路地に身体を寄せ合う二人は、もう斑の雪化粧を身に纏っていた。
「オユキさん、髪に雪がわんさかついてるよ。ホンモノのお雪さんだ」
 雪子から身を離して、坊やはいつものはしゃいだ声を上げた。
「あら、坊やにだって雪がいっぱいかぶっちゃってるわよ。雪男のおでましだぁッ」
「ぐわあァァー」
 戯れて怪獣の仕草を真似ながら、坊やは雪を自ら浴びるように歩き回った。この子が風邪をひかないうちに屋根の下に入ろうと雪子は立ち上がった。
「坊や、こっちおいで」
 大人しくとことこ追いついてきた坊やに手を差し伸べ、初めてアパートを案内した時のように柔らかく握った。
「オユキさんの手、あったかいね」
「ふふ、あったかいでしょう。あんまり強く握ると、火傷しちゃうんだぞ」
 二人は手を繋いだまま置き屋の方に向かって一歩踏み出した、??その瞬間だった。
「まあちゃん!」
 悲痛なほどの甲高い声が前方から響いてきた。声の主を認めるより先に、雪子の手はびくんと顫えを奔らせ、結んでいた坊やの手から離れた。自分より少し背丈の低い人影が、走りながら近づいてくる。薄手のジャンバーの無防備な肩に雪を浅く積もらせ、泣き腫らした後と窺える両の眼は光っていた。奥さんは息を切らせて二人の眼の前で立ち止まった。
「まあちゃん??」
 涙声で呼んで、すぐさま屈み込んで坊やを抱きしめた。然し、坊やは急に魂が抜けて子どもの人形になってしまったかのように、母親に抱かれたまま声ひとつ漏らさなかった。牡丹雪に包まれた夢の中から、ひっくり返るような勢いで現実に引き戻されていくのを雪子は感じた。火照っていた身熱は冷め、寒気は襦袢の中で跳ね返った。思わず知らず胸を抱く恰好になって母子を見やると、奥さんは立ち上がった。
「すいませんお雪さん、子どもがとんだ迷惑をかけて??」
「いえ、そんな、あたしはたまたま通りかかっただけですから」
 何も知らない奥さんの言葉に、雪子の仮面さえも慄いていた。坊やと奥さんは、まあちゃんとママだ。息子と母親だ。あたしは売れない芸者の女だ。知らぬが仏。
 奥さんは坊やの左手を離すまいとがっちり握っている。雪子は母親に気づかれないように坊やの方へ眼を向けた。坊やは、くりくりの瞳を牡丹雪の群れに虚ろに投げ出しているだけだった。
「雪??激しくなってきましたわね」
「ええ。今夜はさすがにお客さんはもう来ないかしら」
「この子はほんとに、人騒がせで??。こんなことがあっても、ろくに口も利けないんだから。夜なんかに独りで外に出たら、迷子になるに決まってるのに」
「お子さんが無事で、何よりでした」
「ほんとにすいませんでした。それじゃ、雪に降られて帰ります。おやすみなさい」
「おやすなさい。お気をつけて」
 ぼとっ、と、牡丹の花の崩れ堕ちる音が耳の奥にあった。
 遠ざかる母子の後ろ姿から眼を逸らすことができず、そのまま雪に埋もれてしまうかのように、雪子はいつまでも路地の真ん中で立ち尽くしていた。ぐったりと崩れ堕ちた潰れた牡丹花の色は、白雪を敷いた薄い絨毯に滲んで、雪子の視界をくらい紫色に染めた。だんだん赤く変わっていった。

                                                                                           ─了─
       
 
 

(作者は、高校を卒業したばかりの、いわゆる浪人中。少年の昔から、図抜けた文才と理解力をもっていた。編輯者のもっとも年若な友人である。若い芸者をそこそに書いて哀情を漂わせている。十分な推敲はできていないが、いいたいことは言い尽くしていると読める。このまま暫く、厳しい目で、この作品に読者の視線の突き刺さることを願っている。1.5.1寄稿)



 
 
 

       さぎむすめ      吉田 優子
 
 

      上

 喉にあてた指先を皮膚に沿わせ、ゆっくり下ろしてゆく。胸のなぞえに双つの乳房の間を抜けると、指は異変を捉えてぴくっと止まる。その感触におののいて、路子は目を瞠いた。深く息を吐いて湯槽に体を押しつけた。
 掌で掬い上げた湯は、浴室の明かりを反射して微かに顔を映す。火傷痕がぼんやりと視界の端にある。長く湯に浸かっていて、朦朧と思い出すのは風の強かった晩の出来事――。繰り返し見たくない光景を、湯は情け容赦なく映し出す。透きとおった水は残酷な鏡だと路子は思う。
 家の中まで響く風の音を聞き、「これじゃあ、桜、みんな散っちゃうね」と母に話した晩、路子は中学の入学式を三日後に控えていた。父親は地区の寄合いに出かけていたので、二人で早い夕飯を済ませた。四月になっても寒い日が続いていた。ストーブに薬罐をかけて湯を沸かし、ココアを飲んで温まった。
 九時過ぎに帰宅した父は、炬燵に深く手を入れて今夜の寄合いのことをあれこれ母に話していたが、しばらくすると声を荒げて怒鳴り出した。
 またか、と路子はうんざりした。
 母の些細な言葉端をつかまえて、いつも一方的に怒鳴りはじめる。そういうときの父は決まって酔っていた。
 母が言いなだめようとする度、怒鳴り声でかき消す。その反応の単純さを、母が嗤った。少しふてぶてしいと感じ、路子は、まずいなと思った。
 案の定、父は猛って母の襟をつかみ、柱に打ち据えた。風呂からあがったばかりの路子はストーブの傍で手にクリームを塗っていたが、振り返り、頬を叩かれている母を見て、すぐ顔を前に戻した。じわりと涙が出てきた。罵声の合間から、やだ――痛い――という母の声が聞こえてくる。路子は怖くなり、体をこわばらせた。絶え間なく低い唸りを吹きつける風のせいか、母の柱に頭打たれるせいか、棚のガラス戸が顫動してぢぢぢと音を立てていた。
 路子の腕に炬燵机の角が当たった。振り向くと、逃れようとする母がもがいていた。その襟首を引っぱりながら父は炬燵を蹴放った。一瞬浮いて炬燵はストーブに強くぶつかった。ストーブは揺れ、載っていた薬罐も揺れた。ぐらり落ちざまに外れた薬罐の蓋から白い湯気が濛々と噴き出た。危険を感じる暇なく、自分の腹に煮え湯のかかる瞬間を路子は見た。ぎゃ、と上げた悲鳴は、驚愕、恐怖、痛み、いずれのためだったか。
 母に抱きかかえられ風呂場へ行ったところで記憶は朧になってゆく。風呂場で腹に水をかけられ、体は冷えて感覚を失い、意識は遠のいていった。サイレンの音を聞いた気がするが、担架で運ばれたのも、病院で手当てを受けたのも、夢うつつの出来事だった。
 しばらく入院した。着替えを手伝う母の涙を見たとき、路子は自分の体に残っているであろう火傷痕を想った。腹一面に、それはあった。抜けてゆく体中の力と一緒に、未来までが遠ざかっていった。
 母は隣町にある実家に戻っていた。退院した路子もそこから中学へ通うことになった。制服は今年中学を卒業した近所の女の子に譲ってもらえたが、登校すると、学期のはじめに遅れた路子に奇異な視線が注がれた。ひそひそ噂されているのに気づかぬわけはなく、路子は席に着いて窓の外に目を遣り、穏やかでない胸の内を覚られまいとした。
 両親の間では離婚に向けて事が進んでいた。父は入院しているときに二、三度、形ばかりの見舞いに来たたものの、以後、連絡はない。どちらが路子を引き取るか話し合ったとき、お母さんと、という路子の言葉に、周りの誰も口を挟まなかった。裁判で養育費や慰謝料についてさんざんもめて、ひとまず決着がつくと、もう路子に父はなかった。
 怒鳴り声の聞こえる夜はあまたあった。獣じみた父の声を寝床で聞き、路子は目を瞑って細くなった眠気の糸に縋りついていた。傷は、そんな幾夜の記憶と共にある。
 湯面をぴしゃりと打って、路子は両手で顔を覆った。
 網戸にした窓からカーテンを揺らして入ってくる風が皮膚に心地よかった。うららかな陽の下、母は蒲団を干している。路子は畳にごろりと横になって長閑な午下を持て余していた。旅行のしおりに拠ると、江ノ島・鎌倉方面を回っている同級生たちはちょうど水族館を見物している頃だ。
 路子はこの修学旅行へ行っていない。路子の頑に拒む理由を母親から知らされている教師たちは、無理に連れて行こうとしなかった。
 むくと起き上がり、路子は勝手口から外へ出た。持ち出して来た鍵で物置の戸を開けた。中には、祖父や、早くに亡くなった伯父の読んでいた本が棚から溢れて山積みになっている。
 幾度となく見た背表紙の並びへ、また順繰りに視線をあててみる。下の方に、文庫本に混じって黒い箱入りの本を見つけた。埃を払うと、それは女形役者の写真集だった。
 頁は指先にひんやりした。赤い振袖と銀簪のお姫様が袖に手を隠して愛らしく首を傾げていた。次を捲って、傍にいる女の顔を覗き込み懸命に何かを訴えている芸者の無理にひねった肢体に見とれ、路子はずるずるとその場に座り込んだ。乱れた着物とおくれ毛の哀れな娘もあった。十二単衣は小野小町と記してあった。憂いのある面差しは、小町その人だと想われた。
 「これはなあに」
 本を持って物置を飛び出した路子は、頬を紅潮させて母のところへ行った。開いた頁には、真白い装束にわたぼうしを深く被った役者が、雪の降る中、蛇の目傘をさして寂しげに立っている。
 「あれ、懐しい。どこにあったの、これ」
 「物置の本棚」
 写真集は、昔、若い頃に買ったものだと母は言った。
 「これは鷺娘」
 「さぎむすめ?」
 「そう、踊りの」
 祖母が開いていた踊りの教室で代稽古を勤めたことのある母だが、路子を産んだ頃から踊りと離れ、祖父に先立たれて隠居した祖母の跡を引き継ぎはしなかった。離れにある稽古場は長いこと使っていない。
 「はじめは鷺でね、次に艶やかな娘になって、それからまた鷺に戻って、今度は地獄の責め苦にあうの」
 「地獄の責め苦?」
 「そう」
 「なんでそんなのがあるの」
 「煩悩の罪かな、女の」
 「ふうん……」
 女の、と聞いて、母の口からそんな言葉の出たのが怕くて、路子は本を閉じた。
 離れの鍵を借り、路子は稽古場へ行った。幼い時分、ここで祖母に踊りの稽古をつけてもらったことがある。当時はすぐに飽きてしまって長続きしなかった。
 しんとした板の上に立ち、美しい女姿をした役者の鷺娘を思い浮かべた。鏡を見て、目を閉じ、白い衣装とわたぼうしを纏った自分の姿を思い描いてみた。ちらちら雪に濡れ鷺の、しょんぼりと可愛らし……。
 「踊ってみるかい」
 びっくりして振り返ると、祖母が立っていた。うん、と頷いた路子に祖母は「まず掃除からだね、お母さんを呼んどいで」と言った。
 「これはおばあちゃんが縫ってくれたんだっけ」
 祖母と二人して押入から引っぱり出してきた古い着物のひとつを手に取って母が言った。黒地に赤い縞の入った単衣だった。
 「そう、あたしが縫ったんだよ。あんたも随分着てたじゃないか。路子の稽古着にちょうどよさそうだねえ」
 路子は毎日、学校から帰ると着替えて稽古場へ行った。祖母と、勤めから帰った母に稽古をつけてもらった。ねじり込む顎の線を、見返った背中を、目に焼きついているあの役者にかさねた。
  花もの云わぬためしでも
  しらぬ素振りは奈良の京
  杉に縋るも好きずき
  松にまとうも好きずき
 かいぐり、ひろめて、眺めて――。祖母の旧知の教室に通って出た発表会で、路子は凛然と舞台に上った。客席に母が見えた。路子の記憶にある幾つもの夜は、母のものでもあった。寝床で聞いた父の罵声と母の悲鳴――。路子の胸の澱みもまた、母のものだった。
 西の空が縹に染み出していた。車庫に自転車をしまって出てきた路子は、回覧板回してくれる、という祖母の声を玄関で聞き、はあい、と返事して鞄を置いた。用意されていた袋を持って土手沿いに歩くと、小川の水面が煌めいた。
 芝生の庭に、色とりどりの花が珍しい。チャイムを押すと軽やかな音色が響き、ほどなくドアが開いた。出て来たのはいつもの老婆ではなかった。
 「こんにちは、回覧板お願いします」
 この家の娘だと路子は知っていた。袋を受け取った知世は、路子ちゃんね、ちょっと待ってて、とドアを閉めた。一度しか会ったことのない知世に憶えていてもらったのが嬉しかった。
 「これ、少しだけど」
 戻った知世は路子の手に飴を握らせた。
 「ありがとうございます」
 路子は丁寧に頭を下げ、制服も、と言った。
 「あのときはぶかぶかだったのに、もうぴったりだね」
 長い髪を風にかき上げた知世の指は細かった。瞼のぽってりしたところが、あの役者に少し似ていると思った。路子は知世に別れを言って、飴を大事にポケットへしまった。
 家の前の土手を静かに下り、制服のスカートの裾を気にしながら川べりにしゃがんだ。対岸のせせらぎに、真白い鷺が一羽、足を浸していた。上流には枯れ草を燃やしている誰かの姿が小さく見える。ゆっくり滑って来る煙はしだいに細くなり、流れに溶けて消えた。
 路子は掌をひらいた。裏返して、翳した。繊細さとはほど遠かった。知世に譲ってもらった制服を着ていても、知世になれるわけなかった。形を真似ても、あの役者と同じに美しいはずがなかった。
 宵闇に白く嵌め込まれて動かぬ鷺を、路子は見つめた。腹の傷は醜い、傷を呪う自分のほうがもっと醜い――。
 突然、鷺が羽ばたいた。頭上を掠め彼方へ飛び去った。あっと見送って、土手の上に母を見つけた。
 「どうしたの」
 路子が土手を上って行くと、母が心配そうに訊いた。
 「なんでもない」
 森がざわめいて、路子の頬に黒髪の筋が散った。
 母の死んだのは、路子が高校二年の冬だった。自動車事故だった。夜遅く、知人の家を出て帰宅する途中、信号の無い路地を右折しようとしたところで運転席側に追突された。即死だった。
 深夜に電話のベルが鳴ったとき、不吉な予感が路子の体を駆け抜けた。祖母と一緒に病院へ駆けつけ、事実を静かに受け容れた。闇が路子を呑み込んだ。暗い渦の中で流されもがきながら、路子は孤独の淵をしっかりつかんでいた。
 母の初七日を終えた日、祖母が遺影に向かって座っていた。カーテンを開け放った窓からの陽がやわらかく温かく、少し曲がった背中に射していた。つられて路子も後ろに座った。祖母は背を向けたまま、問わず語りに話し出した。
  「美世子はねえ、俊道さんと結婚する前に結婚したい人がいたんだよね。美男子でね、バーテンダーというやつで。自分の店を持ちたくてこつこつ貯金してたらしいんだけど、夜の商売だし、おじいさんが絶対だめって言って。家に挨拶に来たとき、見るからに水商売風のその人を見て口きかないんだもの。そうやってずっと反対してたらほんとうにだめになった。あんなに反対しなければ美世子には別の人生があったのかね」
 路子の初めて聞く母の話だった。
 「その人とだめになった頃、魂が抜けたみたいにぼんやりしてたから、勧められるままに縁談を受けてさ。俊道さんはおとなしくていい人だと、思ったんだけどねえ……。やっぱりあんたは――」
 祖母は急に口をつぐんだ。次を待ったが、話はそれきりだった。
 やっぱりあんたは、俊道さんの子じゃないのかもね。
 そう言う声が聞こえた。部屋は既に西陽で朱く、祖母はいない。路子は瞠目した。
 だとすれば、母と自分に対する仕打ちも腑に落ちる。わたしはあの人の子では、ない――。
 母はきっとバーテンダーの男性を想い続けていた。父の拳は、その想いに向けられていたのかも知れない。
 教師の勧めで路子は大学を受験した。母の遺した保険金と貯金をたして、アルバイトをしながらなら、四年間の費用はなんとかなるだろうと見積もった。
 試験を終え、路子の許に大学から合格通知が届いて間もなく、祖母が倒れた。一週間の入院の後、静かに去った。疎遠な親戚たちに連絡をとって、どうにか葬式を出した。祖母の灰になる煙を見ながら、路子はずっと前からひとりだった気がした。
 哀れなのは鷺であったか、それとも叶わぬ恋にやつれた娘であったか。誰もいなくなった家の稽古場で、路子は鷺娘を舞った。恋しい人を想い、娘は舞う。恋しい、恋しいと泣いて舞う。情念の深さが女の罪。生まれついての行く末を定められての畜生道。成り下がるのなら、せめて鷺に、美しい白鷺にしてくだいませ。いいえ、女人の姿こそうつし身、まことは愚かな鷺でございます。あなた様に逢いたいばかりに、人の姿を借りて参りました。ここから先は地獄の責め苦、もとより覚悟の上にございます。覚悟も承知もしておりましたが、想いの届かぬ地獄は、このからだを裂きまする……。
 音も無く降る窓の雪が、路子の瞳を黝く濡らした。
 
 

     

 ごったがえす昼休みの食堂で、そこしか空いていなかったとはいえ、陽のあたる窓際の席は暑かった。僕はせっせと箸を口に運ぶ海老原と向かい合わせに座り、まだ熱いうどんには手をつけず、太陽光の反射する広場の噴水に目を細めていた。
 僕越しに手招きする海老原の目線の先に、お盆を持った多賀子が空席を探していた。
 「もう済んだから、ここ空くよ」
 やって来た多賀子にそう言い、海老原は、じゃあな、と席を立った。多賀子は掌で顔に風を送りながら、暑いわねえ、と空いた席に座った。僕らに気を利かせたであろう海老原の去った後は少し気恥ずかしかった。
 「映画のタダ券貰ったんだけど、行かない?」
 多賀子は鞄から招待券を二枚出して見せた。最近話題になっている、古いサスペンス映画のリメイクだった。興味は無かったが暇つぶしにはなるだろうと思った。
 「行くよ」
 「いつがいいかな。レイトショーもやってるみたいだけど、夜はバイトがあるんだっけ」
 「うん……」
 アルバイトのことを思い出して、途端に気が滅入った。この四月から中学生の家庭教師をしているが、一学期の成績は生徒の母親を納得させられるものではなかったらしく、「先生は優しすぎます、もっと厳しく教えてください」と、きつく言われ、鬱々と帰途についたのはつい一昨日のことだ。
 家庭教師先の青木宅を出たのは、十時半を少し回った頃だった。その時刻、住宅街の近辺をうろつく人など見ないせいか、木々の向こうにぽつりと現れた人影は妖しく目を惹いた。
 ひっそりした夜のペデストリアンでは、車輪の回る音さえ憚られた。自転車をゆっくり漕いでいると視界を横切る街路樹と街路樹の間に赤が走った。和服姿の女の人がひとり、公園にいた。赤いのは着物の柄だった。月の明るい夜だから見えた、ごく小さな赤だった。なぜあの人はひとりで公園にいたのか――。
 「佐久間君」
 「え」
 「え、じゃなくて。映画、いつ見に行く?」
 「……土曜日なら大丈夫だよ」
 「じゃあ土曜日ね。何時から上映するか訊いておくから。次、教室遠いから先行くね」
 いつの間にか食事を済ませ手を振りながら食堂を出て行く多賀子を見送って、時計を見ると昼休みは残り十分しかなく、僕は慌ててぬるくなったうどんを啜った。
 「先生、どうぞ。隆一も座って」
 隆一との学習を終え、帰り支度をして階段を下りると、母親がテーブルにアイスコーヒーを用意して待っていた。この前の続きだと想像がついた。
 「わたしからもよく言って聞かせたんですけれど、今日はどうでしたか」
 「集中してやっていました」
 「そうですか、とにかく落ち着いて机の前に座る習慣をね、隆一」
 たった今も隣であさっての方を向いている隆一の落ち着きなさを、母親は心配していた。確かに、隆一を学習に集中させるため時に強く諌めなければならず、僕はそれが苦手だった。
 「あっという間に三年になってしまいますから」
 隆一君の将来はどんなふうに、と喉まで出たのを呑み込んだ。僕の当面の問題と隆一のそれとでは違いすぎるし、僕自身、答えられない質問だった。
 中学生のとき、医者になりたいと言った記憶がある。思いつきも、口に出すと本気だった気がしたが、実際に医師への道を歩んでいるのは兄の方だった。
 「もうすぐ中間テストなんです。ああいうものは年間のスケジュールとして決まってますでしょ。年度のはじめに学校からプリントを貰ってあるので、先生に日程を知っていただいた方がいいと思って」
 「そうですね、これコピーさせてください」
 僕は神妙に相槌を打って母親の拡げたプリントを鞄にしまい、青木宅を後にした。
 医師を志したのは誰かに強要されたからではない。医師の子であるという自意識のせいか、あるいは、父と同じ道を躊躇わず行く兄をずっと傍で見ていたせいかも知れなかった。目に見えない周囲の圧力を自己の動機にすりかえていた。受験に失敗した後は、何をしたいとも、何ができるとも思えなくなった。結局、医学部は諦め、あてのない毎日を繰り返している。
 昨日、大学で行われた就職ガイダンスに行かなかった僕を上目遣いに睨んで、また来なかったでしょ、と多賀子は言った。
 何してたの。
 寝過ごしたんだ。
 しょうがないなあ、今度は電話してあげる。
 悪いね。
 そう言ったものの、正直疎ましかった。多賀子のこういう気遣いが、焦りに拍車をかける。
 ほんとうは寝過ごしたのではなかった。ガイダンスがはじまっていることはわかっていた。あの時間僕は、アパートで時計の針が一秒一分と刻んでゆくのを傍観していた。いっそ眠ってしまいたかったが、目醒めても何も変わらないことはわかっていた。
 ペデストリアンの静けさに気づいて自転車のスピードを落とした。鈍い月の下、公園に彼女はいた。着物の袂をひらひらさせ、どうやら踊っているらしい。ペダルから足を下ろして耳を澄ましたが、音楽らしきものは聞こえてこなかった。
 僕は自転車を降り、歩き出した。耳許で鼓動がうるさかった。はじめは公園の外周づたいに大回りして、よろよろと、徐々に近づいて行った。気づいたらしく、彼女は僕を見て動きを止めた。耳からイヤホンを外し、懐に入れた。ああ、そうやって踊っていたのかと合点がいくには、だが、余裕がなさすぎた。
 「あの、こんばんは」
 彼女の前まで行って足を止め、やっと言った。真直ぐな視線を受けて僕は狼狽えた。
 「邪魔してごめんなさい」
 「いいえ……」
 それ以上、言葉の用意がなかった。
 「……佐久間さん、ですよね」
 沈黙の後、彼女の口から出た僕の名前に驚いた。
 「そうですけど、よく御存知で」
 「社会学概論でお見かけしました」
 「ああ――」
 二学期になってからは一度しか行っていない、切ってしまおうかと思っていた授業だった。あれに来ていたのか。だとしても、なぜ僕の名前を知っているのかわからなかった。出席をとらない授業だった。
 言葉を次げずにいると、彼女も黙ってしまった。
 ここは潔く退くべきと思い、失礼しました、と言い残して僕は踵を返した。背を向け、自転車のハンドルを握ったところで振り返ると、彼女が黯々した木立の方へ歩み出していた。闇の奥へ呑み込まれて行く後ろ姿を、僕は慌てて追いかけた。
 「どこまで帰るんですか」
 振り向いた彼女の、ひと重瞼が涼しげだった。
 「春日四丁目まで」
 「どうやって?」
 「バスで」
 「……じゃあ、バス停まで送ります」
 彼女は安倍路子と名乗った。人文の二年だとも言った。
 「なぜあんなところに……」
 自転車を押しながら、僕は訊ねた。
 「あそこなら、夜は人に見られる心配が少ないと思って」
 学生の住むアパートが密集している大学の近くだと、公園に繰り出して酒盛りする学生などいて人気も多いが、公務員宿舎が軒を並べるこの住宅街の辺りなら夜は静まりかえる。ときどき車のヘッドライトが横切るが、それも一瞬のこと、木々に
囲まれた公園の中までわざわざ覗くことはないだろう。
 バスのヘッドライトが見えた。来た、と僕は呟いた。
 「おやすみなさい」
 彼女の乗り込んだバスが見えなくなるまで僕はそこにいた。おやすみなさい、と耳に残った声を、その夜、幾度も反芻した。
 それから、アルバイトの帰り、公園に寄る僕を路子が待つのは常となった。
 ベンチに腰かけた僕の前で路子は踊る。スピーカーから、夜陰をぬって三味線が響く。腰を低く落とすと路子の体はたおやかに変化した。顔の横で掌をぱちんと合わせ、そのまま反対側へ水平に伸ばし、手のある側から、いち、に、さん、と顔が前を向く。すうと掬いあげながら片足立ちになり、掌を返してゆっくり足を下ろす。その手足の梢からゆらめき立つ無数の糸に身を委ねきっていた僕は、こちらを向いた路子の視線にどきりと肩を浮かせた。
 社会学概論にも、また行きはじめた。知った者のいない教室で、僕らは隣同士に席を取った。授業が終わり、教室を出て一緒に歩いていると、向こうから海老原がやって来るのが見えた。その目は明らかに路子を追っていた。擦れ違いざま軽く手を挙げる挨拶は、互いにぎこちなかった。
 僕らが海老原の目に何と映ったか、実はわからない。案外深読みをしていないかもしれないが、どうであれ、僕はとうに路子へ傾いていた自分の気持ちを認めた。
 踊り終えてベンチに座った路子の、缶コーヒーを受け取ろうとした小さな手を握った。はたと静止して離す機会を失ったまま、視線が合った。
 路子の眼差しは僕を透かして、遥かなる孤独を見ている。きょうだいも親もいないの、と言った、僕が家族について訊いてしまったあのときと同じに。
 もともとひとりっ子で、両親が離婚した後は母親と一緒にいたんだけど、母は三年前、交通事故で死んだの。祖母も亡くなって。父親は、はじめからいなかったものと、今は思ってる。
 親戚の人はいないの、という僕の問いに首を振って答えた路子を、忘れるものではなかった。
 力込めるより先に、小さな手はつつと抜けていった。決まり悪さに俯いて、僕は地面の石ころを見るともなしに見ながら、肩に羽織った赤いストールの中に一層身を沈める路子を感じていた。
 アルバイトへバスで行った日、学習を終えると僕は急ぎ足で青木宅を出た。公園までの道のり、ときどき走った。
 ベンチに腰かけている路子が見え、足を緩めた。そのまま近づこうとして、思わず立ち止まった。路子の足許近く、人工池に白い鳥が羽を休めていた。鳥は、鷺だ。昔、学校帰りの田圃道で見たことがある。鷺の白さは、懐しい夕暮れの風景の中で、いつも潔かった。
 鷺に人を怖れているようすのないのが奇妙だった。こころなし、路子の方へ首を上げている。路子は鷺に向かって身じろぎもせず、はりつめた肩先をこちらへ向けていた。
 行ってどうするつもりだったのか、自分でもわからない。近づこうとして不用意に歩み出した僕の靴先はぱちりと小枝を踏んだ。気取った鷺が鋭く飛び立ち、僕は我に還った。
 「どうしたの、自転車は」
 僕を見つけて路子は立ち上がった。左の頬が外灯に浮かび上がった。
 「……パンクしたからバスで来たんだ」
 考えてきたはずの言い訳は歯切れ悪く、声は蒼ざめていた。時は再び流れ出して変わりなかった。路子は僕を待っていた、それだけだった。
 「渡したいものがあるんだけど、ちょっと家に寄ってくれるかな」
 バス停へ向かう途中、つとめて平静に僕は言った。
 「何」
 「見ればわかる」
 他の乗客の手前、バスに乗った僕らは無口だった。車内では皆が和服姿の路子に注目している気がして面映かった。横目でちらと見ると、路子は目を閉じてバスの揺れに身を任せていた。
 天久保二丁目で降りて歩いた。学生町のここはまだ活動時間の内だった。アパートへ向かう途中の公園に、サッカーや空手の個人練習に勤しむ学生たちの姿があった。どこか遠くの方からトランペットの音色まで聞こえてくる。
 「みんな遅くまで頑張ってる」
 「ねえ」
 僕らは顔を見合わせてくすくす笑った。夜目にも目立つ和服姿の路子を伴って、もう誰の目に触れようと構わなかった。
 アパートに着いて鍵を開け、どうぞ、と言うと、路子は遠慮がちに玄関に立った。
 「上がって」
 「……お邪魔します」
 狭い一間のアパートで所在なさげに路子が座るのを待って、僕は電機店の袋に入った箱を前へ置いた。
 「これ、あげる」
 路子は目をきょとんとさせた。コンロに薬罐をかけながら僕は、開けて、と促した。箱の中身は携帯用のカセットプレーヤーだった。
 「これを、くれるの?」
 「うん。今使ってるのは壊れそうでしょう」
 「そうだけど……」
 路子のプレーヤーは、接触が悪いのかときどき音が出なくなる。
 「誕生日のプレゼントだよ」
 「誕生日は、まだずっと先」
 「いいから、あげる」
 路子はプレーヤーをじっと見ていたが、それではありがたく頂戴します、と言ってぺこりと頭を下げた。
 コーヒーを飲む路子の喉が滑らかだった。テレビのニュースを見ながら、僕らはたわいなくしゃべった。帰ると言わず、言わせず、夜は更けた。更けるのを待っていた。話しながら見つめる目がとろりとしてきて、寝ていいよ、と僕は言った。テーブルをどけ、押入から蒲団と毛布を出して敷いた。
 「着るもの出そうか」
 はっと路子は僕を見た。
 「いい……」
 僕は目をそらしてせっかちにおやすみを言い、明かりを消した。ロフト式のパイプベッドに上り、着替えて蒲団を被った。
 横になったものの、眠るはずなかった。月の明かりがカーテン越しに、うっすら部屋の輪郭を形どっている。しばらくして衣擦れの音が聞こえてきた。帯を解いているのだなと思った。小さな咳払いの後、ぱったり静かになった。言いたいことを言い出せないまま時間が過ぎ、路子はもう眠ってしまっただろうかと心配になった。
 「寝てる?」
 僕が訊くと、まだ、というくぐもった声が返ってきた。
 「そっちに、行くよ」
 今度は返事がない。僕は起きてベッドの梯子を下りた。枕許にしゃがんで、路子、と呼ぶと、毛布の端を少し捲って顔を覗かせた。
 「眠い?」
 「少うし」
 「――手を貸して」
 おずおず出された手を、僕は握った。冷たかった。そのままもう片方の手で毛布を剥ぎ、路子を覆った。襦袢ひとつの体に腕を回すと、路子が硬くなったのがわかった。僕は腕に力を入れた。あ、と短く路子は叫んだ。髪に触れ、頬に触れた。
 脣に触れた途端、路子の体から力が抜けた。くらい光を放つ瞳は真前の僕さえ見ていない。僕は路子の両肩をつかんで揺すった。名を呼ぶと、顔を背けた。
 いやか、と訊くのも虚しく、いや、というより、自らを放棄している路子を腕の中に抱えておく勇気はなかった。毛布をそっと掛け直して、僕は自分の寝床に戻った。眠気などどこかへ行ってしまっていたが、やけで蒲団を被った。
 目は開いているのに何も見えない、真暗い中にいた。寂しかった。堪らずうずくまり、膝を抱えて顔を埋めた。
 ほのかなぬくもりに顔を上げると、ぼんやり白かった。鷺だった。やさしいぬくもりだった。
 山あいに育った幼い頃、水をはった田圃や浅川に鷺を見ることは、それでも珍しかった。見つけると誰かが指さした。下校途中、橋の上から仲間がいたづらに鷺めがけて石を投げつけた。慌てて止めたが、石は無防備な鷺に命中した。変哲のない通学路の風景の中で、白く気高過ぎたのが鷺の不幸だった。
 手を伸ばしても、すぐ傍にいるはずの鷺に届かない。触れたと思うと、遠のいていた。掌は空を掻き、這い寄っては見失った。そのうち、たったひとつ感じられたぬくもりも幽かになり、やがて消えた。冷たさを取り戻した世界は闇に包まれ、また何も見えなくなった。
 目尻に涙の零れるのに呆然とした。慌てて下を見ると、蒲団が畳まれていた。プレーヤーの箱もそのまま、路子はいなくなっていた。飛び起きて玄関の戸を開け、通りを見渡したが、そんなところにいるはずなかった。
 僕は戻ってどさりと蒲団に倒れ込み、この手に蘇ってくる、束の間の小さな体の記憶を抱き締めた。冷たさに、そろそろと体を起こし、蒲団を押入にしまった。
 以来、公園の前を通っていない。アルバイトへは別の道を使って行く。社会学概論も休んでしまった。次の週、思い直して行ってみたが、路子は来なかった。この分だと路子も公園へ行っていないと思った。僕らは他に連絡を取る術を知らなかった。
 「先生、来週の月曜は休みにしてもらってもいいですか」
 僕が豆テストの採点を終えたのを見計らって隆一は言った。
 「友だちに呼ばれたんですよ、クリスマスパーティー」
 もう、そんな時季だった。
 「いいけど、お母さんは知ってるの」
 「はい、休みでいいって。先生は予定ないんですか」
 「ん、別にないよ」
 「大学生はデートするんじゃないんですか、食事に行ったりドライブに行ったり」
 「それはないな、金も車もないからね」
 ふと多賀子のことを思い出し、隆一から視線を外した。多賀子とは、互いに一人暮らす肩を寄せ合って過ごしてきたのだと、今は思う。情けも沁みる過ぎた時間から目をそらして、しばらく多賀子に逢っていない。教室や廊下で顔を合わせても、個人的な連絡はつかぬよう立ち振舞った。部屋の電話を留守にして、多賀子からとわかれば受話器を取らなかった。狡いことだとわかっていた。
 吐く息の白い、底冷えのする日だった。待っていると思わなかったが、見回して、公園に誰もいないのを知ると落胆した。仕方なくベンチに腰かけた。
 白い手拭いを深く被っていた、あの踊りは何だったか。確か、路子は手拭いの片端を小さくくわえ、それから蛇の目傘をさし、唄を待っていた。
  思い重なる胸の闇
  せめて哀れと夕暮れに
  ちらちら雪に濡れ鷺の
  しょんぼりと可愛らし
 あれは鷺だった。俯いたまま、路子は持ち上げた足の爪先をついと払って下ろした。もう片方の爪先も同じにすれば、浅瀬に足を浸した鷺の仕種に見えた。
  それえそれえ
  匂い桜の花笠
  縁と月日を廻りくるくる車笠
  それそれそれそうじゃえ
  それが浮き名の端となる
 幾度も回って、傘は高く掲げられた。ぱっと放すと、ふわりと浮く。反対の手で柄を受け取り、また放して、受け取る。かいぐる指の先から、遠くを見つめる襟許から、秘めた想いが零れ落ちた。因果めいた鷺の踊りは、華やかに辛い恋の物語だった。
 路子は気づいていた。僕のどこかに、孤独を羨む気持ちのあったことを。つきまとう父と兄の影から解放されたくて天涯の孤独に自分をなぞらえた、そういう腑甲斐無さを、路子は拒んだのかも知れない。
  一呪の内に恐ろしや
  地獄の有様ことごとく
  罪をただして閻王の
  鉄杖まさにありありと
  等活畜生衆生地獄
  或いは叫喚大叫喚
  修羅の太鼓は隙もなく
 路子の体に刃が沈んだ。髪を振り振り、大きく反って身悶える姿は僕を圧倒した。頬にまとわりつく髪にやつれ、片腕を一際高く挙げて突っぱると、路子は崩れ臥した。
 夜の公園で、不思議に幾度も僕にだけ踊って見せた理由を考えていた。踊りに託された想いは、いったい何だったか。あの夜の頑なの正体を、ほんとうに僕は知ろうとしたろうか。哀れみたまえ我が憂き身と聴こえた唄は、今まさに、路子の痛哭だった。
 いつまでも起き上がろうとしない路子に、僕は駆け寄った。抱き起こして呼びかけると、路子は目を開けた。僕に向けられた穏やかな瞳を、瞼がゆっくり蔽っていった。
 ――恋しい人を想い、娘は舞う。恋しい、恋しいと泣いて舞う。情念の深さが女の罪。生まれついての行く末を定められての畜生道。成り下がるのなら、せめて鷺に、美しい白鷺にしてくだいませ。いいえ、女人の姿こそうつし身、まことは愚かな鷺でございます。あなた様に逢いたいばかりに、人の姿を借りて参りました。あなた様との、これが逢瀬だと、浮かれた我がこころこそ愚か。ここから先は地獄の責め苦、もとより覚悟の上にございます。等活畜生衆生地獄。覚悟も承知もしておりましたが、想いの届かぬ地獄は、このからだを裂きまする……。
 どこからと知れぬ声の途絶えたとき、目の醒める白さで腕を離れ飛び立ったのは鷺だった。一羽に続いて、幾百、幾千の白鷺が粒になって遠く天にひしめいた。羽ばたきの落としたひとひらをつかんで見ると、手には何もなかった。宙を舞う白い羽は掌にとける雪に変わっていた。気づけば、僕はベンチに横たわり、虚空に腕を差しのべていた。
 降り急ぐ雪は枝の上に厚く辺りの気配を閉じ込めて、空気はいよいよしんと冴えている。僕は半身を起こし、白きの散る彼方の源を凝視した。

     ─
 
 

(作者は、群馬県在住。創作に志をもっているらしく、かたわら、歌舞伎などを愛している人のように想われる。詳しいことは知らない。二度三度、書き直してもらった。構想する力のある書き手で、ながいものを最後まで読ませてくれる、が推敲はまだまだ出来ていない。「上」の、病院で自分の体を初めて目にするところまでは、編輯者が推敲を手伝っているが、さらに精緻に手を入れてほしい。なぜ推敲にこだわるか。こういう話材の運び方は、とかく物語にひきずられて通俗のよごれのようなもので作品に匂いが付いてしまうのを、清潔な文章の力で清拭したいからだ。本当に冴えて清い世界になればなるほど「さぎ」のあわれが生きるからだ。よく頑張って本格の推敲を何度も自発的に重ねた作者に敬意を表します。1.4.25掲載)



 
 
 

    門出の人 二編       出久根 達郎
 
 

         貧の功徳
 

 五坪足らずの古本屋、わが「芳雅堂」が、今夏、開店二十周年を迎えた。
 二十年、という歳月が嘘のよう、店に関しては何ひとつ変らない。古本屋という商売は、俗世間の時間と全く無縁のようである。現在は大不況だそうだが、わが店の売上は、この二十年間まるきり変化がない。良くもならなければ悪くもならない。と言えば聞こえがよいが、なに、低いままで一定なのである。これ以上悪くなりようがない、という数字で、考えてみればこれは不思議な話である。やろうとして出来る芸当ではない。
 集団就職で上京した十五歳の私は、中央区月島の古本屋の住み込み店員になった。小僧、手代、番頭と順を踏み十三年つとめた。徒弟奉公としては長い方である。
 単純な理由だった。独立開業しようにも元手がなくて叶わなかったのである。
 十代で酒煙草を覚えた私は、給料の大半をそれにつぎこんでしまった。古本屋は開業資金が結構かかる。三十歳を目前にして、さすがに私も安閑としていられなくなった。必死に蓄財にいそしんだが、貯金というものは、あれは長い歳月をかけるもので、急に思いたって即席で出来るものではない。
 店の主人に保証人を頼み、銀行から二百万円の融資を受けた。先輩たちから百万円借り、退職金が五十万、手元がなんとか百数十万、総計五百万そこそこ、これがわが独立資金である。
 店を借り、造作費を払い、商品を仕入れると、いくらも残らない。当座の運用金三十万を握って看板をあげた。店さえ開ければ、なんとかなるだろう、という見込み頼みの、おっかなびっくり、綱渡りの、いざや出発である。
 なんとかなる、どころではない。暑い盛りの八月六日にフタを開けたが、口切りの売上、しめて四三七〇円である。翌日が四〇一〇円、三日め、三九二〇円、四日め、二八九〇円、五日め、一六三〇円と次第に、じり貧をたどっている。
 口あけの時期がよくなかった。連日の猛暑で、本を読む気が起こらない。大学生は夏休みで海山にでかけている。
 私は懸命に働いた。午前八時に店をあけ、午前零時まで営業した。一週間後には午前三時すぎまで延長した。そのころ私は独身だったので、こんな無茶も平気でやれたのである。休みなしで働いた。
 当時、夜中まで営業していた古本屋は、おそらく日本で一軒だけだったろう。そのことを報じた週刊誌の切り抜きを、客に見せられた覚えがある。多分に揶揄(やゆ)まじりの文章だったが、私は真剣だった。
 閉店まぎわ、小学一年生という女の子が、ひとりで漫画を買いにきたことがあり、幽霊を見たようにびっくりした。夜中に起きている小学生を想像できなかったからだが、夏休みでつい宵っぱりだったのだろう。ギョッとした私を見て、女の子もギョッとしたようだった。コンビニエンス・ストアが登場する前の話である。
 真夜中まで開店して格段の売上もあがらなかったが、いろんな人たちと知りあう余禄を得た。ひとりはK君という学生である。
 午前一時すぎ、アルバイトを終えての帰途、必ず私の店に立ち寄った。日当が入るらしく、その金で酒とつまみを買い、私を話相手に一杯飲もうという魂胆である。下宿のセンベイ布団に腹ばって独酌してもつまらぬ、とこちらを退屈しのぎの具にした。いつのぞいても客の姿がなく、あるじが暇をもてあましているように見えたのだろう。K君にしてみれば、同情心である。
 こちらは売上の先細りに気が気でなかったが、かといって古本屋はあくまでも蟻地獄の客待ち商売で、いかんともしがたい。なるようになるさ、と店先で学生と酒盛りである。
 K君は北ベトナムの大統領ホー・チ・ミン氏にそっくりの風貌で、ベトナム服に似た上着とズボンを愛用しているので、私は彼をホーおじさんと呼んだ。おじさんはないですよ、とK君は笑いながら抗議した。
 彼はいつも笑っていた。私は彼のまじめな表情を見たことがない。
 K君は私との献酬後、帰宅するのがおっくうになり、泊まるようになった。いっそ同居させてほしい、と言いだした。寄宿料を支払うかわりに店番をする、と持ちかけてきた。
 学校はどうする? と聞くと、学費値あげ反対闘争で授業どころでなく、勉学の意欲も薄れた、と笑う。古本屋の店番をしつつ好きな本を読んだ方が、よほど身のためだ、と笑うので、K君の思うままにさせた。
 彼は本好きの若者で、私の店に頻繁に寄ったのも本を捜すのが目的で、酒盛りはそれに付随したことだった。
 しかしK君もわが店の不振ぶりには度肝を抜かれたらしい。一日中すわっていて、ひとりも客が入ってきません、ぼくの顔が悪いせいでしょうか、とこぼした。
 そんなことはない。K君の笑顔は、誰が見ても福の神の笑顔である。
 古本屋の客は面白い本につられてくるのであって、つまりは当店の品揃えが凡(ぼん)なのである。資本金の多寡が、商品に如実にあらわれるのだ。
 店番していて売れないのは肩身が狭い、本を読んでいても、やましいです、とK君は再び割りの良いアルバイトにでかけていった。過酷な肉体労働である。そして月末になると、私に現金で下宿代を入れてくれるのだった。
 気を遣ってもらわなくてよい、と辞退するのだが、K君は聞かない。この金で本を仕入れて下さい、店に並べる前に私に読ませて下さい、それで十分です、と笑う。
 まったく生き神さまのような男であった。私はK君の好意に甘えた。
 少しずつ店がよみがえり始めた。
 K君が広告チラシを作って配りましょう、と活を入れた。店の宣伝をしなくちゃだめです、文案を考えて下さい、絵はぼくが描く、と早速クレヨンとわら半紙をしこたま買いこんできた。
「創業ゼロ年 ゆえに古本高く買います ほこりごとおゆずり下さい」はどうだろう? 売る方は品揃えが不十分ゆえ効果が期待できない、不用の本をひきとる方で、もうけようと思う。そう提案すると、創業ゼロ年のゼロは、楕円を大きく記しましょう、と半紙のほぼ中央に、赤色で無造作にその通り描いた。そして私の即興文を書き、最後に、本がまん中から開かれた絵を、ひと筆描きで描いた。そこにコケシの眼のようなものを書きこんだ。本が笑っている図である。
 なんだか古本屋らしからぬチラシだねえ、と感想を述べると、へただから目だつんです、チラシはとにかく人目を引き、手に取って見てもらわなくては、と断言した。
 私たちは酒を飲みながら、興にまかせて手描きのチラシをせっせと製作した。競争で、描いたのである。
 出来あがったチラシを、翌日K君は、アルバイト先に行く道筋の、各戸の郵便受けに残らず投函した。これを連日くり返した。毎回、往復の道を変えて広げた。
 望ましい効果があったとはいえない。
 カメラをさげた中年の男性が訪ねてきて、チラシを拝見しました、大変驚きました、ついては店の写真を一枚とらせて下さい、資料として保存させていただきます、と丁重に切りだすから、なにごとです、と問えば、ポケットからくだんのチラシを取りだし、これはこちらさまではありませんか、と。当店の広告に間違いありませんが、と受け取ってながめれば、どうや私の筆跡、酔った勢いで書きなぐったものだから、「創業一〇〇〇年」とある。
 藤原道長の時代に開業の老舗が、クレヨン描きのお粗末なチラシを配るはずもなく、間違える方もどうかと思うが、古本屋さんだからあるいは、と考ました、と客に罪はない。
 ご覧の店構えでして、と笑うと、客はざっと書棚を見回して、たちまち納得したらしい。
 K君はやがて家郷から呼び出しがきて、本意なくも都落ちとあいなった。故郷は九州の宮崎である。
 年が年中、ホーおじさんの一帳羅で押し通すK君は、失礼ながら富貴の出とは思われない。私同様、貧家育ちに違いない。手ぶらで帰郷しようとするK君に、私は両親にせめて手みやげを、とかさばらない荷を調(ととの)えた。
 元気でがんばれよ、と握手を求めたら、ご主人も踏んばって下さい、いやですよ、ぼくがいつか上京してみたら芳雅堂が影も形もなかったなんて。三倍も四倍も大きな店舗に変っていますように、と涙声で言い、声たてて笑った。笑いながら弁解した。ぼくは泣くのも喜ぶのも笑い顔になってしまうんです。
 結構じゃないか。K君のそれは誇っていい美点だよ、大事にいつまでもその笑顔を続けてね、と私も泣きそうになって、あわてて笑顔につくろった。
 K君はすぐに礼状をよこした。ご両親がみやげを大層喜んだそうであった。私はK君が自分で調えたことにして贈るように、と知恵をつけたのである。むすこが人への気配りを学んで帰った、と泣いて喜んだそうであった。
 ところが礼状のあとを追いかけて、お米が一俵、貨車便で私あてに届けられたのである。続いて送られた手紙によれば、彼は手みやげの一件をご両親に正直にうちあけたのであった。親御さんが恐縮してお返しを下さったのである。
 私はK君の軽率に眉をひそめ、一方でその正直ぶりを喝采した。しかし貧しい親御さんによけいな負担をかけたのは気が重かった。
 しかしよくよく聞いてみると、K君は豪農の末っ子なのであった。しかも生家は由緒ある旧家だというのである。私の思いこみによる、馬鹿げた独り合点であった。
 K君は家庭の事情で郷里に居つき、地元の薬品会社につとめた。やがて結婚し、程なく父となった。
 私も開業三年めに、身を固めた。男手ひとつの不自由と弊害は、まず健康面に顕(あらわ)れた。食事が不規則で、かつ栄養不良ゆえ貧血気味で、しょっちゅう風邪をひき、こじらせ、おまけに臓器に石が出来る奇病にかかった。ラーメンばかり食べていたのである。
 もともと私は食うことに無頓着であった。東京に出てくるまで、ろくすっぽ白米を口にしたことがない極貧生活だったから、飢えなければよし、という単純さで食事に対してきた。栄養のバランスなど頭にない。
 あけがた、トイレで失神して、水道管のつきだした部分に、右眉のま上を痛打した。あと一センチずれていたら、眼球をやられ、どうなっていたかわからない。仮死状態から蘇ったとき、痛みそのものより、独身生活の恐さ淋しさを身ぶるいするほど強烈に味わった。
 ふたり口は養える、というけど、私一人の時よりも経済状態はむしろ悪くなった。石油ショック後の長い不況で、本が売れない。
 私と家内は、やみくもに働いた。デパートやスーパーでの古本即売展に積極的に参加した。渋谷の公園通りに露店を出したこともある。テントを張って、その中で寝泊りした。早朝、カラスの大群に襲われて、こわい思いをした。本屋商売と思えない過酷さである。
 かたわら通信販売もおこなった。古書目録を作って、地方の愛好家に郵送し注文を取るのである。金がないので手書きし、それをコピーしたものを綴じて小冊子に作った。
 K君にも無沙汰の詫び状がわりに送った。
「チラシを思いだします。また創業一〇〇〇年を思いだしました。売価の桁をくれぐれも間違えませんように」と返事がきた。陣中見舞いと称して、米が一俵届けられた。東京生まれの家内が、初めて見る米俵に目を丸くした。

 仕事で上京したK君が、寸暇を利用して店に寄ってくれた。十数年ぶりの再会である。
 K君は中年太りで、堂々たる貫禄である。鼻下にヒゲをたくわえていた。なんだか、そぐわないよ、と笑うと、ぼくは童顔だから威厳がなく、人に示しがつかないんです、それで、と妙な弁解をした。
「ご主人も変らないけど、お店も変りませんね。芳雅堂ビルが建っているかと、楽しみにしてまいりましたのに」と冗談を言った。
「K君がいた時分と、まったく売上が変らないんだよ」とこれは正直な話だった。
「怒らないで下さいよ」とK君が釘をさした。
「あの頃、いい体験をした、と今でも楽しく思いだします。ぼくは貧しさというものを知らないで育ちました。本屋さんのおかげで、一端を味わうことができました。得がたい経験でした」
 なるほど当方の苦労を楽しんでいる者もいたのか、と私は笑った。
「申しわけありません。本屋さんと出会わなければ、ぼくは世間しらずのお坊ちゃんで、一生を終りました」K君が笑った。
「すると、自分は貧乏の功徳を施したわけだ」
「そういうことです」
 私たちは大笑いした。
 K君の笑顔は昔と変らないが、ヒゲを生やした分、人生の苦渋というものを、どことなく感じさせる。私の功徳は、彼にはヒゲの知恵程度のものであろう。
 しかし私にとってK君は、苦闘時代を苦しいと毫(ごう)も感じさせず、むしろ楽しく過ごさせてくれた恩人である。大もうけさせてくれるものだけが、福の神ではあるまい。K君の天性の笑顔が、どれだけ当時の暗澹たる気分をやわらげてくれたか。お互いさま、というものである。

   ─初出「文藝春秋」1994年2月号 単行本『たとえばの楽しみ』所収─
 
 
 

          タンポポ
 

 中学校卒業後の進路は、一存で決めた。私の家は生活保護を受けていた。保護家庭の子女は、義務教育を修了すると、いやも応もなく働きに出て、稼ぎを家に入れなければならぬ規則だった。国から借りた生活資金は、そういう形で返済しなければならぬ。
 私は就職も就職先も、誰にも相談しないで決めた。昭和三十四年当時の、中学卒に対する求人の大半は、商店員か中小企業の工員である。月給千五百円から二千円が多かった。
 書店員、というのがあった。住み込みで食事付き、手取り三千円。書店なら思う存分に本が読めるだろう、勉強も出来る。私はあとさき考えず飛びついた。菓子屋なら菓子が食える、と幼児が単純に思いこむのと同じ発想である。
  上京当日、私は初めて両親に就職の件をうちあけた。出立(しゅったつ)は数時間後だと告げると、両親は仰天した。行先が東京の中央区月島と知ると、母親が不意に泣きだした。島と聞いて胸をつぶしたのである。鬼界(きかい)ヶ島の俊寛(しゅんかん)を想像したらしい。流人(るにん)ではない、となだめたが、私にも月島がどういう島であるか見当がつかなかった。銀座に近い島、と職安の係員が説明したが、すると尚更もってイメージできない場所であり土地である。船で渡るのか、と母が聞いたが、たぶん橋が架かっていると思う、と平凡な答えしかできない。マムシがいるのじゃないか、と東京を見たことのない母が取り越し苦労をした。人間が多いから蛇はいない、と断言すると、巾着(きんちゃく)切りが鵜の目タカの目で狙っているぞ、とたたみこんだ。
 要するに息子のひとり旅が心配なのである。
 こんな大事を勝手に決めるなんて、親不孝者の最たるものだ、と母親がぐちり始めた。
 私はうんざりして、表へ出た。乗合バスの時間まで大分、間があった。故郷の風景も見納めだ、という気で私はあちこちをうろついた。数年前、樹上生活を夢みて、椿(つばき)の幹と枝の股に、丸太や板きれやムシロで小屋を掛けた。その椿の大木を見あげると、葉群れのあわいに小屋の残骸が乗っていた。万が一、東京での生活が失敗したなら、帰ってきてひっそりあの小屋で孤独の生涯を送ろう、と考えた。そう考えたら、いっぺんに気分が晴れた。
 椿は花の盛りを過ぎていた。ボトッと音がして、私の足元に赤いのが一つ落ちてきた。私の覚悟に賛同してくれたもの、と受けとった。
 花冠の落下点に、黄色いものが光っていた。
 タンポポである。早春の陽ざしに、あかりのように見えた。私はしゃがんで、タンポポに語りかけた。お前のかわりに東京を見てきてあげる。そして唇をすぼめて軽く息を吹きつけた。するとまるで黄色い紙吹雪が舞うように、花びらがいっぺんに剥がれて宙に飛散したのである。綿毛に変る寸前の花だったろうか。鮮やかな手妻(てづま)を見せられたようで、私は軽くのけぞった。

 月島の勤め先を訪ねると、そこは古本屋であった。田舎者だったので古本屋の存在を知らなかった。書店というから、てっきり新刊店と疑わなかったのである。正直の話、内心がっかりした。古くさい本と湿気(しけ)たにおいと活気のなさ、何やら陰気臭い雰囲気に、これは出世を望めるような職場でない、と感じたのである。聞いたこともない書名や著者の本ばかりである。十五歳の少年が飛びつきたくなるような書物は一冊も見当らない。
 到着したのは午後だったが、仕事は明日からだ、と番頭さんに申し渡された。すなわち今日だけは自由に遊んでよい。私はとにかく月島の町をざっと回ってみることにした。
 まず隅田川を眺めたい、と思った。小学校で「春のうららの隅田川」という歌を習った。「うらら」という意味がわからなかった。「鵜等々(うらら)」のことなのだろう、と独り合点していた。
 隅田川にはたくさんの鵜が泳いでいるもの、と以来ずっとそう思っていた。
 東京をよく知らなかったからである。
 六年生の遠足で、上野動物園にきた。西郷像の前で記念撮影した。東京を見たのは、それだけである。上野の山にあがる石段のへりに、カリントウのお化けのような巨大な古い犬の糞がころがっていて、東京にも野糞がある、と非常に奇異に感じたのを覚えている。そうして石段を昇りつめたら例の銅像で、西郷さんが犬を連れているので、なんだか妙な気がした。一瞬、糞のぬしと錯覚したのである。
 隅田川をめざしたつもりが、逆の方向に歩いていた。朝汐(あさしお)橋という橋に行き当った。運河があり、一部は貯木場になっていた。そういえば木場(きば)が近い。橋を渡った。のちに地図で確かめると、そこは晴海(はるみ)という、月島と同じく埋めたて地であった。私は知らなかったが、晴海も島のひとつであった。ハーモニカの吹口(ふきぐち)をいくつも重ねたような建物が並んでいる。高層団地である。
 団地の前の、べらぼうにだだっ広い道路を、ひやひやしながら横断した。車の数は少ない.が、いずれも猛烈なスピードで走っている。
 道路の向うは原っぱであった。原っぱの先には倉庫が並び、クレーンのようなものが見える。何より、原っぱの広大な眺めである。
 私は草むらに仰向けに寝た。東京に居る、という気がしない。草の匂いは田舎のそれであった。深呼吸しながら、ここを秘密の隠れ場所にしよう、と決めた。
 そして一ヵ月後、店の休日に私は一人でやってきた。陽気もよかったので寝ころんで本を読むつもりだった。私は思わず目をみはった。草原が、なかった。いや青い原っぱが、一面まっ黄色の花畑に変化していた。タンポポの群生である。出京当日の一輪を思いだした。私の息差しで、はかなく四散した花びらを思いだした。あの花の種子が私の着衣にしがみつき、そのままここに運ばれたのだ、と信じた。一つの種子が、こんなにも沢山の花を咲かせたのだ、と思った。魔法だ、自分は魔法使いだ、と口の中でつぶやいたつもりだったが、知らず、声に発していたらしい。数メートル先の草むらから、若い女性がむっくりと起きあがったので、びっくりした。隠れるほどの丈のある草むらではなかったから、タンポポに目を奪われて、こちらが相手の存在に気づかなかっただけである。
「魔法ってなんですか? 」と話しかけてきたが、相当訛(なまり)が強い。年恰好から私同様、集団就職組らしい。聞いてみると、案の定だった。三月の半ばに、築地の魚屋に店員として勤めた。ところが仕事は店番でなく、いわば女中奉公である。月一回のはずの休日もない。
 使いに出されたのを幸い、逃げてきた。そう語った。
「朝だって三時に起こされるのよ」
「三時に? 夜中じゃないですか」
「主人が市場に買い出しに行くの。せっかちな人なの。私眠くて、ぐずっていたら、主人が布団を剥いで、そして……」あとは言いよどんだ。
  彼女は私の身の上を聞くと、来月の何日にここでまた会いましょう、と約束させた。私はうなずいたが、なんとなくたじろぐものがあって、その草原には再び踏み人らなかった。
 彼女は佃島(つくだじま)の渡船で渡ってきた、と語った。漁師の娘で、晴海という地名と潮の香にひかれて、ふらふらと歩いてきた、と語った。
 数年後のある日、私はその佃の渡船に乗った。何気なく足もとを見やると、タンポポの花が一輪落ちているのだった。
 娘の名も顔も今は思い出せない。あるいは、彼女はタンポポの精であったかもしれない。

          ─初出「室内」1993年 単行本『逢わばや見ばや』1997年 所収─
 
 

 (筆者は、直木賞作家。あたたかい筆触のエッセイふう小説やコラム執筆にも巧みなことで著名。多年の古書店経営を通して豊かな人間理解と世間・歴史の観察に、魅力横溢の達筆をふるわれている。ご厚意に甘え、お人を識るにふさわしい二編を、まず選ばせていただいた。小説作品として編輯者は読んだ。「門出の人」と題を添えさせてもらった。人の決意して立ち上がる姿が好きなのである。もう久しく、湖の本を購読し声援していただいている。)



 
 

      泥 眼        上野 重光
 

 装束の間に入ってくるなり、篤彦は、床柱の竹花入れに挿してあった一輪に、
 「新年に侘助か・・・」
 語気が棘になり胸に刺さった。靖子は弟子の邦子に目配せをした。
 「中庭になにかあったでしょう」
 着物を脱ぎながら篤彦は強い調子で言った。狂言方の女出立のような仕種で立ち上がると、邦子はくるりと回って摺足で出て行った。弟子といっても、邦子は篤彦や靖子よりひと回りも年嵩である。生花教師の免状を持つ邦子の前で、篤彦が大そうな口を利いたので、彼女のプライドをいささか傷つけたのだ。邦子の師匠大岡靖子は宗家嫡流の日枝篤彦とは同い年で、高弟の子女として幼少から、共に能の世界に生きてきた同士だった。長じて、篤彦が宗家後継者たる己が存在をそれともなく意識し始めると、靖子とのあいだにも主従の関係が次第にあからさまになっていった。だが表に出なくとも一門中では靖子の方が力は上かと噂されていた。
 一年前に二十七代日枝迢雪が急逝した。いずれ宗家を継承しなければならない篤彦の能に、不惑を越えてなお幽玄の風あらわれず、評価定まらぬままにもやもや年を越した。亡き先代の出演予定は二年先あたりまで決まっていたため、一門の高弟が代わる代わる勤めてはきたものの、それぞれに出演予定があり、埋め合わせの埋め合わせなどと、次第にやりくりは窮屈になってきていた。今日行われる新年定期能の演目のうち、篤彦の勤める「羽衣」も、先代の代役であった。「羽衣」のようにポピュラーな曲なら、と、敢えて高弟たちも異を唱えなかったので、篤彦はどうにか面目を施した。そんな次第で新年定期能に対する篤彦の思い入れは大きかった。靖子らへのこれまでにない大柄(おうへい)な態度も、新年からつとめて威厳を示そうと心に決めていた現われかも知れなかった。

 中庭からつぼみのふっくらとしたあけぼの椿を一輪切取って戻った邦子が、さり気なく竹花入れに挿した。かんじんなところを見ようとしなかった篤彦に、(こんなことだから・・・)と、靖子も邦子もその感性のあり処を疑った。
畳二畳ほどにうち広げた風呂敷包みから足袋や肌着・股引などの下着装束を邦子は取り出して靖子に渡した。靖子はそれらのひとつひとつを確かめては、篤彦の体に当てた。真綿入りの胴着を付け色襟を重ねる時、篤彦は自分の手を使おうとはしなかった。
 「あら、紐がこんなに・・・」
 邦子が言った。
 「どこか、付け忘れたのかしら・・・」
 篤彦の下着装束をぐるりと眺めながら靖子は言った。
 「いいんです。これから使うものですから。その紐を使ってウエストを絞ってください」
 「この上、まだ一本締めるのですか?」
 様式に違うことを靖子がとがめた。
 「そのとおり」
 有無を言わせない言い方だった。邦子は黙ったまま紐を二つ折りにして靖子に渡した。
 「このあたりですか?」
 膝立ちのまま靖子は、先に巻いてある腰紐の上に重ねる程度にあてがった。
 「わかっていませんね。私は天人なんですよ。女のウエストというのはどのあたりでくびれているんですか、もう少し上でしょう」
 相変わらず両腕を広げたままの篤彦は、膝まづいている靖子の顔の前に腹を突き出した。篤彦に抱きつくような格好で靖子は紐を前に持ってきた。
 「もっと強く」
 「まだ、ですか・・・」
 「もっと、もっと、・・・おんなのからだは紐をかけやすいようにくびれている、とか、だれかの詩にあったね・・・」
 「邦子さんも引いてくださらない?」
 「ひとりで絞らなければ不自然になりますよ。加減が違うんだ」
 靖子は自分の額を篤彦の腹に当てて引き絞った。こんなに篤彦のからだに近づいたのは何年ぶりのことだろう、と靖子は思った。この日のために元旦から精進潔斎している筈の篤彦に不埒な想いを抱くことさえ、仕返しめいていて、自分の執念深さをあらためておそろしいと思った。
 「よし、そしたら、くにさん、そこのパッドを取ってください」
 「これ、肩パッドですか。奥様の・・・?」
 「よけいなことは言わない」
 パッドを手に取った篤彦は、二枚重ねて左の胸もとに押し込んだ。残り二枚も同様に右の胸もとに押し込んだ。強く絞ったウエストに当てた手を胸に向けて撫で上げた。
 「したて見苦しければさらに見どころなし。ことさら、女かかり、したてもて本とす」
 鏡を見つめる篤彦は、袖口を指でたぐって両袖をいっぺんに絞り、開き加減になっている襟を合わせた。豊かな胸だった。真っ白な肌着が、美しい女体の陰翳を現した。

 一時間ほど経っただろうか、長廊下に沿って割り当てられた支度部屋にひとの気配が濃くなってきた。大鼓の皮を焙じる臭いがかすかに流れてくる。これから開演までおよそ三十分。出番に合わせて、仕舞、狂言、能の順に準備が進められてゆく。
 昨日の衣装合わせの折に衣桁に掛けておいた摺箔の襦袢を、靖子と邦子が大事に引いて、篤彦の背後から着せかけた。篤彦は自ら前裾をたぐり上げ、その丈を慎重に見計らうと、
「ここだ」と言った。たくし上げた位置を、靖子は胴帯で固定した。さらに唐織を組紐で締め付けた。女体としてしっかり下拵えしてあったために、腰巻から上になまめかしいむき出しの上半身を暗示する摺箔の襦袢は、エロチックなほど美しい輝きを見せ、豊満艶福の天平風とは違う、痩身端麗な現代風の女形を象徴していると見えた。
 床几に腰かけた篤彦に鬘を付け、髪を巻き込みつつ、谷水の流れるように綺麗に寄せて、元結で締めた。
鬘帯をつけ終えたところに、後見が到着した。
 「若先生、ああ、ちょうどよいところでしたね」 後見大岡 鍛は靖子の父である。今は日枝家の重鎮として、四方を固めていた。「綺麗に決まりました」と、あらためて畳に正座して、篤彦を仰いで言った。「工夫が効いています」
 「分かりますか」
 篤彦は言った。
 「わかりますとも」
 「まだあるのです・・・」
 「それはたのしみなことです」
 どうだとばかり篤彦は靖子を見た。
 「では、鏡の間に・・・」
 と後見が促した。靖子は面を捧げ、邦子は白蓮の天冠を捧げた。
 葛桶に腰かけた篤彦が、うやうやしく、面「増女」に礼したところで、あとのことは後見に委ね、靖子と邦子は装束の間に戻った。

 篤彦の「羽衣」を、控室のモニターで観ていた。
 「お綺麗ですわ、若先生・・・」
 惚れ惚れとした様子で邦子は言った。靖子は食い入るように画面に見入っていた。ついさっきまで我儘なガキのように振舞っていた篤彦が、今は完璧なほどに美しい天女となって舞っている。こころもち前傾を保つことによって腹部は締まり、ほんのりと胸が出て、硬い能衣装の殻を破って生れた花の精のように見える。腰高な若さは、ウェストの絞りの位置を上げたことにもよるが、裾さばきの軽やかさは、まるでそのあたりを清風がそよいでいるようだった。美しい、と思った。しかし声には出さなかった。なにかいまいましさがわだかまっていた。父に言った篤彦の「工夫はまだあるのです」という言葉が気になっていた。なにをしようとしているのか、少なくとも自分だけには明かしてくれてもよかったではないか・・・そんな水臭さがいつから湧くようになったのだろう。次第によそよそしくなってゆく篤彦を内心恨んでもいた。だから、邦子のように「綺麗」と率直に言える心境ではなかった。

 紅地に鳳凰模様の長絹を付けて出で立った篤彦が、序の舞に入って身を静々と翻した時、下造りの女体が長絹にふわりと浮き出る、いわゆるボディコンシャスな作用を見せた。
 (うつくしい・・・) 靖子は思わず息を飲んだ。舞台の上に男しか立てなかった能の歴史は、
 男が女であることを示さなければならなかった。現代のように、たとえ場数は少なくとも、女性が舞台に立てるようになった時、男は男のからだであることをよしとして節制を欠き、膨満武骨な体型を羞じることもなく曝すことになったのではないか。とすれば、篤彦の工夫は、歴史的な本道をゆくものではないか。扇をかざすあの手の華奢なこと、日に焼けるからといってゴルフを絶ったのも、この為だったか・・・。三十代で真の花を究めなければ四十より能は下ると花伝にある。このあたりで評価が定着しなければ、宗家嫡流といえどもその先はない。そんな焦りが篤彦を開眼させたのであろう。自らの身の花を見つけ、年々去来の花に追いついたのだ。これでは、この美しさでは、私は彼にうち負かされている。・・・完膚なきまでに。
 破の舞にかかった。長絹がそよぎ、唐織の裾さばきの涼しさに目を奪われていた靖子は、ついに篤彦の工夫を見つけた。
 「邦子さん、あの足袋を見て・・・」
 「かかとを上げているのでしょうか」
 「いつあんなことを・・・」
 「足袋だけはご自分でお履きになりましたから・・・」
 腰高の秘密はここにあった。足袋の内側のかかと部分に底上げの詰物を入れたのであろう。もとより篤彦は足の長いスタイリストである。その上の工夫は破格の効果を発揮した。靖子は抜け駆けされた思いがした。
 「ごめんなさいね。気分が悪いの・・・」
 口を手でおさえながらモニターテレビから離れた靖子は、控室の廊下を走るようにして下った。篤彦への嫉妬だけが原因ではなかった。時分の花を陰で演出したに違いない篤彦の妻十葵子に対する嫉妬のほうが大きかった。

 鼓がアズサの囃子を奏し始めた。
 「天清浄地清浄、内外清浄六根清浄」
 ツレのゆったりと謡う声が遠く響いてくる。鏡の間で控えていた靖子は立ちあがった。裾と袖を邦子が甲斐甲斐しく整えた。
 「寄り人は、今ぞ寄り来る 長浜の、・・・」
 自分に呼びかけるようなツレの声高な吟唱を、靖子はこころのそこに落とした。
 お幕が揚がった。おもむろに踏み出した靖子は、はるかな登りにも似る橋懸を、六条御息所が破れ車に乗っている態で、静々と摺って行った。一の松に到るまでに、靖子はみずからなんとなく、(ゆるい)、と感じ始めていた。そのゆるさが、役と自分とを剥がしてゆくようだった。

 ・・・装束の間での仕上げに、後見を勤める篤彦は間に合わなかった。邦子ひとりの女手では、紐も帯も、その締め方に甘さが残った。女流のシテにとって、装束は身の丈に余り、胸元を大きく広げることで丈を調整するといっても限度があった。まして縫箔の腰巻の上に唐織を壷折るのは容易なことではなく、著しく時間を取られた。鏡の間に移って泥眼の面を押し戴くとき、ようやく後見が現われたが、正座して仰ぎ見るのも形だけで、「いいでしょう」と言って、邦子が畳んでおいた出シ小袖を抱えて廊下に出て行った。能の世界にまだ払拭しきれずに残っている女性蔑視のあらわれかと、靖子はいまいましくおもいながら、面を付けた。そこに邪念が入り込んだ。面を押し戴き、瞑目し、六条御息所に心身移入すべきところを、篤彦へのわだかまりを抱いたまま気合の抜けた一瞬に、面の内を見てしまった。それは、ふたつの暗い節穴と、ひしゃげた鼻と、呆けた口にかたどられた木偶の表情であった。人間の顔の内側の哀しいまでの醜さを覗いてしまったような気がした。苦悶のために輪郭の茫洋とした泥眼、その表皮に怨念を供給する暗い泥沼そのものだった。泥眼と木偶と自分、この三つの顔への分裂と着付けの甘さが、時間と空間の核となるべきシテを、希薄で曖昧な存在に陥れているのを自覚した。

 一の松に止まり『一声』にかかった。息を溜めてから、少し高めに声を張った。
 「三つの車に法の道、火宅の門をや出でぬらん。夕顔の宿の破れ車、遣る方なきこそ哀しけれ」
 そっと涙をかくす仕種をし、アシライの囃子にうながされるようにして常座までのぼる。
 そこで後ろを向き、『次第』を謡おうとした。
 「・・・・・・・・」
 言葉が出てこない。二の句が継げなくなるのは、昔から靖子にとって癖になっていた。この日のために次第ばかりどれほど練習したことだろう。本番に備えては、いつもひとに見せられないほどの努力をして間に合わせてきた。もはや完璧と思って臨んだのに、その場になって体のほうが意識した。一声の語尾を繰り返して、呼び戻しを図ってみたがだめだった。
 八人の地謡、ワキとワキツレの射るような視線を感じる。囃子が空回りしながら小節を越えてゆく。靖子は置いてゆかれそうになった。
 (篤彦さん、助けて。後見の出番なのよ・・・)
 篤彦は目を瞑っている。
 (早くして。・・・お願い。助けて、篤彦さん)
 小鼓や大皷がけしかけるように打ち込んでくる。
 (何?・・・何んて言えばいいの?)
 もはや間合いが延び切る寸前だった。
 (ああ、取り返しがつかないわ。ここが限度・・・。篤彦、もう、なにも頼まない)
 「およそ輪廻は車の輪のごとく、六趣四生を出でやらず、・・・・」
 靖子は『次第』をとばして『サシ』をなめらかに謡っていた。しかし思いは分裂していた。
 ・・・真空であるべき世界には風穴が開き、呪縛力は失せ、見者の神経は、能の秘める緊迫した非日常性、能の真髄から遠く離れていってしまっているにちがいない。救いのひと声をかけてくれたなら、こんなことにならなかった。なぜ助けてくれなかったのか。後見たる者、「葵上」の次第を覚えていない筈はない。鏡の間でも冷たかった。これは見せしめなのか。なぜそんなことをする必要があるのか・・・。まだ互いに小学生の頃、一門「比叡会」の発表会に出演することになった。朝から始まった会の〆は宗家迢雪の『船弁慶』、子方義経を靖子が務めることになっていた。装束の間で着付けを行っている時、緊張のあまり不意の初潮をみた。周囲は舞台を汚してはならじと、ひと月前の定期能で義経を演じた篤彦を急遽代役として立たせた。弟子たちの詰める客席のいちばん後ろで、ボーイソプラノも凛々しい義経を務める篤彦を、泪しながら観ていたことを思い出す。悔しさと救われた思いの入りまじった複雑な泪だった。幼馴染で、良きライバルで、一度は篤彦から結婚までほのめかされたこともあった。幾たび身を任せたことか。それなのに、なぜ私を痛めつける・・・。十葵子のさしがね? 考えられないわけではない。あのひとは昔、文学部の親友で、謡の教室に誘ったのも私だった。子供のころから日本舞踊のお稽古をしていたから、筋がよくて、たちまち上達した。篤彦を紹介したのは私である。そのうちに篤彦の方が十葵子に惹かれるようになった。篤彦が『松風』を演ずることになり、松風の妹村雨は当然私のものだと思っていたのに、十葵子をあてた。技量経歴から見て考えられないことだった。裏切られた思いと十葵子への嫉妬でどれだけ苦しまなければならなかったか。十葵子の村雨が、古面を付けた松風の後塵を拝すように並んだ時、その新しい真白な面は、そこだけが清らかに光り輝いていた。見者はシテの松風よりも、水衣女出立の清楚で愛くるしいツレ村雨に目を瞠った。篤彦と十葵子の結婚が決まったのは、そのすぐ後のことだった。・・・
 幼少より父の謡を子守唄にしていた靖子は、いつのまにか父の声調を絶対音階として身につけていた。エネルギー量の大きい発声は、ビブラートする時倍音になるため靖子の女声と美しく共鳴した。一方、日枝家の声調は代々熔けた硝子のように硬質にして柔軟なねばつくような甘さを含む。無調整のまま放たれる一声は、大岡家より数度高いため、合唱する場合に和声が叶わず、無粋な不協和音をもたらすという事実を相互に認めていた。いつであったか、シテ篤彦・ツレ靖子の『熊野』が組まれた。演能中感じ続けた異様な耳鳴りは、互いの声調の微妙な差から発していることを、そして互いの相性の悪さを悟らせた。相対的な音感で自在に謡い流すことのできる十葵子を篤彦が選ぶのも頷けることであった。
 (これは運命だわ。十葵子は私の身代わりなのね・・・)
 出シ小袖に近づくにつれて妄想が渦巻いた。

 唐織と見たのは、葵上だった。いや、十葵子だった。
 「思い知らずや世の中の、情は人のためならず」
 地謡は、恨めし気な下げ歌から、上げ歌に移ってゆく。
 靖子は正面に向き直った。
 「・・・・なにを嘆くぞ葛の葉の、恨みはさらに尽きすまじ。恨みはさらに尽きすまじ」
 上げ歌にさそわれて、靖子はくくと呻いた。もしこの面を外しても、私の顔は泥眼であろう。私が六条御息所に移入したのではなく、六条御息所が私に移入したのだ。怨霊にそそのかされてゆく妄念の二重性に、今は狂えるだけ狂ってしまえ、と靖子は思った。
 「・・・いかに言うともいまは打たではかなうまじとて、枕に立ち寄りちょうと打てば・・・。今の恨みはありし報い、真恚の炎は身を焦がす。・・・思い知れ・・・」
 靖子は出シ小袖に向かって見込み、片膝をついて、扇を頭上まで振り上げてから思い切り後妻打ちを加えた。立ち上がる時、小袖の腹のあたりをぎりぎりと踏んだ。
 (見たか、篤彦、私は十葵子の腹を踏みつけてやったのだ。恨みを晴らすとは、こういうことなのだ。思い知れ、篤彦・・・)

 それからの靖子は憑き物の落ちた思いでせいせいと舞った。

 般若面を付けた後シテは、ついに成仏得脱の身となって脇正面の彼方の空を仰ぎ、トメ拍子を打った。息を静め、しばらくの間放下した体で佇っていた。
 (忍辱慈悲・・・。もう、なにも残ってはいない)
 そうこころのなかでつぶやきながら靖子は橋懸を下ってゆく。
 三の松にかかったあたりで、大きな拍手が湧いた。邦子に無理を言って席を埋めてもらった生花の生徒たちだった。
 般若面の内に泪の匂いがこもった。

 鏡の間で面の紐を解き面箱に納めた後、装束の間に移った。邦子が介添えをしながら、「十葵子夫人が・・・」と、耳打ちをした。
 うす桃いろのあけぼの椿のつぼみが、ホッと息をするように咲き口をほどいていた。  (了)

 
 

(作者は、本頁にすでに掲載の「四重奏」の作家。健闘の第二作である。一応出来ているが推敲は足りないと思ったし、前半と後半とに、少しく出来味の差も感じられ、再考してもらった。これは手直しのされた稿である。) 



 
 

      森へ         高橋 由美子
 
 

 空にしたカップの分厚いまるみを撫でまわしながら、
 「今までに、見たことないとこゃから」
と理沙が言った。
 学校を早めに逃げ出した敦子と理沙は、堺町三条のイノダコーヒー本店で、出入りする客たちの奇妙なほど落ち着き払った顔つきを順繰りに眺めて、午後の長い時間を過ごしていた。
 いつものことに混み合っている、が、めずらしく今日は知った顔がなく、梅雨どきにもこの店は爽やかに空調が効いていた。ときどき来てはだるそうに長居する二人の若い娘を、とくに気に
するものはいない。
 「なあ、行こ」
 お得意(はこ)の、"未知との出会い"を、理沙が促す。
 「下鴨までかぁ。遠いやんか」
 敦子は壁の古時計を見上げた。五時をまわっていた。"新発見"のどれほどいい場所でも、わざわざ出かけるには遅い時間だ。それでも欠乏した栄養を求めているように敦子の脳は、無為に過ごした時間を引き摺ったまま家に帰るのを許さなかった。今耳にしたばかりの「地図」という謎めいた店の名前が、けだるい体を椅子から立ち上がらせた。
 夕暮れて行くひとときを静かに休憩している大人たちのひろげた新聞や、歩き疲れてきた観光客の投げ出した足の間をすり抜けて、二人は店を出た。
 「バス代ないで」
 サイフの小銭を数えて、敦子は口をすぼめた。
 「歩こ。三十分で着くて」と、理沙。
 季節は長い散歩にふさわしくなく、たっぷり湿った梅雨の薀気が、太陽の沈みかけた今も足元に澱(おり)のように沈んでいる。すぐ汗が吹き、Tシャツの色が変わった。
 理沙に先導されるかたちの急ぎ足で、堺町通りを北へ、御池通りに出た。葉をいっぱいつけた欅とプラタナスの並木に風がながれ、道行く人をあおっていた。
 市役所の角を曲がり、河原町通りを北へ、今出川通りにつきあたるまではただ真直ぐ歩けばよかった。目当ての場所に期待して敦子も少しずつ昂揚していた。歩道を蹴るスニーカーのゴム底が弾み、歩道を行き交う人を理沙も敦子もラグビー選手のように勢いよくかわして進んだ。あかく夕焼けていた空から、藍錆いろのベールが少しずつ降りてくる。敦子は時折りたちどまり、わきへ窪んだ知らない小路や小さな寺を覗くようなこともして、理沙を怒らせた。
 夕餉を用意する匂いもただよいはじめた路上だった。
 「何してんの。日ぃが暮れるやんか」
 足を返して理沙がぼやいた、「暑いんやし。余計な事させんといて」
 「わかった、わかった」
 「ええ匂いやったな」
 「カレーかな」
 
 たどり着いた河原町今出川の辺、出町界隈は、理沙と待ち合わせてお茶を飲んだりジャズを聴いたりして敦子もなじんでいた。アーケードの商店街はいつも買い物の人出があり、北の方からくる大原女を見かけたりもした。
 理沙は交差点を北に渡ろうとしながら、一瞬左方向へ、西へ、じっと視線をのばした。同志社大学があり、車道の南側一帯は御所だ。理沙の家は御所の西、烏丸今出川の近くにある。
 去年、近くの路上で学生と警察のきつい衝突があってから理沙はなぜかこのへんで遊ぶのをいやがるようになり、敦子も久しぶりだった。京大から波及したその衝突は、道路がバリケード封鎖され、火炎瓶と催涙ガスの飛び交う激しいものだったが、今はもう何事もなかったようにごく普通の商店街にもどっていた。
 交差点の信号は黄色で、もう赤に変わるその時、理沙は急に敦子の手を引いて、
 「すぐそこやから」と走り出した。信号は赤だった。
 市電が警鐘を鳴らしがたがたと車体を揺らせて、走る敦子の真後ろを通過した。息をきらせて車道を渡り切った時、信号待ちしていたおばあさんに声を掛けられた。
 「赤信号で渡ったらあかんがな、危ないでえ」
 おばあさんは理沙と敦子の狼ヘアの頭からベルボトムのジーンズの擦り切れた裾までを胡散臭げに睨んで言った。
 「おばあちゃんこそ轢かれんときや」
 理沙はやさしげにお返しをした。
 おばあさんは、へ、おおきにと言い、何かぶつぶつ独り言を言いながら、底に車の付いた赤いビニールの買い物袋を重そうに引っぱって、青信号の横断歩道をゆっくり渡っていった。青い縮みのくたびれたワンピースの裾から下着を覗かせ、すり減った黒い鼻緒のぞうりを履いて深い前傾姿勢で歩いていくおばあさんを、理沙はじっと見送っていた。
 顔つきの少し変わった理沙と肩を並べて鴨川の橋を渡り、下鴨本通りに向かった。
 「何であんな長いことおばあちゃん見てたん」
 葵橋の上で敦子は聞いた。
 「おばあちゃん、戦争の間、この辺で買い物も出来ひんかったやろな、思てな」
 「戦争て、いつの戦争のことやねん。日ぃが暮れてしまうえ」
 敦子はわざとそんなふうに言いながら、二年前になくなった祖母の声音を思い出していた。黝く暮れた糺の森が川の向こうに鬱蒼と盛り上がって見え、比叡山が大きかった。
 「糺の森のただす、は調べ糺すの意味や。ここにはほんまに神さんがいやはるんやで」
 そう教えてくれたのは祖母だった。「そやし、いまも近くに裁判所がありますにゃ」とは、だが祖母加津の諧謔であったのか。
 下鴨神社からもう少し歩いて、やがて「一本松」というバス停に着いた。すっかり暮れていた。一帯が住宅街で、小さな商店がぽつりぽつりあり、しめった宵闇が幕のようにおりていた。それらしい松の影はなかった。
 「えらい田舎みたいな名前やな」
 「昔は、ええ目印やったんやろな大きな一本松が」
 とり合わぬ口振りで理沙はそう言い、さっさと細い路地に先に入って行った。入り口に小さく「地図」とだけ書いてあり、ほかに何の店らしい意思表示も何もなかった。
 「これが謎の場所かいな。なんや」
 敦子はにくまれ口を利いた。外観に情報のない店は入りにくい。
 「だいじょうぶやて、リサーチ済みやさかい。はよ入ろ」
 理沙はのぞきたげな敦子の背を押しな、手をのばして扉を開けた。

 そこはまるで洞窟のようで、確かに敦子が今まで見た事のないところだった。
 短い時間では出来っこない幾層もが裏に隠れているのではないかと思うほど、壁は色濃い粘土色をしていた。何千年後に発掘された遺跡をさも思わせたが、敦子がそう感じたのは一瞬で、謎めいているものの怪しくはなかった。謎めいた感じは音楽のせいだった。
 聞いた事のない変わった音楽が、狭い空間を揺らめいていた。
 冷たくつき放しながらも暖かく包み込む矛盾した感覚に敦子はとまどい、少し緊張した。
 入り口のわきに小さなカウンターがあった。中にいる鬚面の男が敦子たちに軽く会釈した。理沙が真ん中の席にさっさと座ったので敦子も従った。
 「ここが一番、音がよう聞こえる場所やねん」
 常連の顔をして理沙は言った。小学校にあるような机と椅子が並んでいて、小さな薄い座布団が乗っていた。
 壁に沿った長い椅子には三人の男の客が、ひとりずつ少しずつ離れて座っていた。揃って俯き、ふたりのことを気にする風もなかったが、音楽に合わせてかすかに体を揺すりつづけて、寝ているのではないらしかった。長い時間そうしているのだろう、彼等の前のカップもグラスも、すっかり乾いていた。罰を食って居残りさせられている生徒みたいにも見え、何かを待っているようにも見えた。
 ずっと昔に父親と旅した時に見た、北陸の暗い駅の待ち合い室を敦子は思い出した。父と出かけたあれは家からいちばん遠いところだった。いま「地図」の席に座っていると、自然に他の客と同じ姿勢になり、これから乗る列車を待っているような錯覚をしそうだった。鬚面の男が注文をとりに来た。「マスター」と理沙が教えた。
 敦子は無理して大人びた低い声を出しコーヒーを頼んでから尋ねた。
 「この音楽、なんですか」
 マスターは口を利かず、カウンターの横の壁に掛かったレコード・ジャケットを指差した。壁際に座った客のひとりが頭を上げ、抗議するような厳しい目つきを初めてふたりの方に向けた。
 「あの人、こっち見てるみたいな気ぃするけど」
 「ああ。この前来た時もいた人やわ」
 理沙は小声で敦子に言うとそ知らぬ顔で立ち上がり、壁のレコードの方へ歩いて行った。コーヒーは熱く、苦い味がした。
 複雑なメロデイはいつまでも終わる気配がなく、長く難しい曲になかなか集中できずに敦子は、壁際から来る視線が理沙の方を向いているのを、視野の片隅で感じとっていた。
 レコード・ジャケットを手に取って熱心に見ている理沙のところへマスターが近付き、何か話しかけている。頷いたり首を傾げたりして話を聞いていた理沙が席に戻り、ふうっとため息をついた。
 「また、難しいもんと出おうてしもたわ」
 「何やったん」
 「サンフランシスコのサイケデリックバンドで、グレイトフル・デッド。心地よい死、ていう意味やて」
 「へえ。おかしな名前のバンドはぎょうさんあるけど、死ぃを名前にするのて、相当な変わりもんやな」
 理沙は声をひそめて、
 「なんか恐いわ。心地よい死ぃて、ええのんか悪いのんか、わかるか敦ちゃん」
 「べつに恐い事ないわ、あたしは。ほんまの死やのうて、想像上のやないかなぁ、喩えッちゅうか。よう言うやんあたしらかて。
今日は死んでるわ、て。大人かて言うで。うちの父親、仕事休みの時、あー、今日は一日死んでたな、てようゆうてたよ」
 「・・サイケデリックは知ってるやろ」
 「派手な、か」
 「違う。創造的で静穏な精神状態のことや、ってマスターが言うたはった」
 それだけ言うと理沙も俯いて、小さく体を揺すりだした。
 ソウゾウテキデ セイオンナ セイシンジョウタイ……
 難しそうで、敦子も目をつぶって音に身をまかせた。
 音は敦子の予想を超える展開をした。縦横無尽でつかみどころがなく、ギターの音はまるで、神経で出来た弦をかき鳴らしているように繊細に聞こえた。始まった瞬間に消え、時空の中に確かに存在しながら破滅と再生をくり返して感覚の洞窟内に留まり、長いものがたりを伝えた。
 どれほどの時間が経ったか。敦子はゆったり揺すられながら想像した。ギターの音のひとつひとつに羽が付き、好きな画家マックス・エルンストのつくりだした烏頭男の姿に化(な)って自由に無数にそこいら辺を飛び、ドラムとベースの音もだんだん赤や青の龍の姿に変わっていって、透明な鱗の太い胴を鳥頭男にからみつけ駆け回っているのを……。
 微かに薄く、人の歌声が聞こえてきた。粘土質の洞窟の表面を擦るような上ずった男の声だ。敦子は背骨のあたりがぞくっとするのを覚えた。
 一緒に来るかい、と聞こえた。
 皆が何かを待っている気がしたのは錯覚ではなかった。
 音楽が別世界へ連れて行ってくれるのを待っていたのだ。
 ここは「地図」という場所で、敦子達はその一部だった。
 音の列車はゆっくりとしたリズムで走り、見知らぬ場所へと向かっていた。歩き疲れた敦子の足を、暖かい音の潤いが徐々にほぐしてくれるのを感じた。逆に頭は思考するのを止めたがり、空虚な白いただの固まりになろうと、だんだん乾いていった。少し攻撃的になった音は白い固まりに突入しようと旋回し、敦子の貧しい脳を覆い隠して執拗に白い画布を編み出していった。
 白い脳のキャンバスが出来た。キャンバスは絵の具の潤いに渇き、敦子は油絵の具の薬品めく匂いを思い出した。粘り気の強い絵の具を透明なオイルでかき混ぜて、色と色から新たな色をつくり出すあのささやかな喜びを、敦子ははっきり思い出していった。
 敦子は今、心地よい死の中にいた。劣悪な脳細胞が音の命令で自らを破壊し、古い皮膚のように剥がされ、音の渦に巻かれて死んでいった。 すっきりと、いい気分だった。似た気持ちになったことが、前に、一度だけあった。
 東山の高校に入学してまもなく、その頃の校内は暴力だらけだった。造反有理。暴力の干渉は外からもあった。生徒の中からも噴き出た。生徒とのあいだに自信も見識も見失ったような教師たちは、硬い表情で殻にもぐりこんだ。黒板に数式を並べたて、きまりの時間を消費するだけといった退屈な、気づまりな数学の授業中に「それ」は起きた。
 長い棒を手に、ジョアン・ミロの絵に似た黒い矢印や緑の楕円のまるで傷痕を模様にしたヘルメットを目深に冠り、薄茶色いタオルで顔の下半分を覆って奇妙に装った男が一人、突如敦子たちの教室に飛び込んで来た。
 教師に飛び掛かると男はチョークを握った腕を捩じ上げ床に押し倒し、 「こんな奴の授業は受けるな」と、くぐもった、しかし大きな声で叫んだ。 生徒の一人とも、無縁な校外からの闖入者とも分からぬまま、五十がらみの男の教師は逆らうことなく項を垂れ、教科書を持った片手を静かに床についていた。沈着なのか怯えているのかすらも分からない。
 成りゆきを呆然と見て、来るべきものが来たのだと敦子は自分に言い聞かせた。それもあやふやだった。組み敷かれた教師は、無抵抗だった。その気なら出来ることはあったのにしなかった。「逃げろ」とか「襲いかかれ」「助けてくれ」とか教室の生徒に向かって叫ぶことも。
 乱入者に引き摺られ、絞められる鳥みたいなおびえた目をして、教師は教室から消えていった。乱入した男の突き刺すほど燃えた目が、敦子の胸を深く貫いた。静かな、死のような時間が過ぎた。
 敦子はあの時、自分が、まだ何一つを「生きて」などこなかったという事実に貫かれていた。教師と男の姿が消えた時、敦子は、無抵抗に暴力にひれ伏した教師の示した道しるべではなく、自分自身の脚で進み行くべき、巨きな深い森の奥への道のない道を探さなければならない、のに気づき始めた。森──だ。豊穣を抱いた森。そうだ、芸術の森へ……。
 敦子はこの学校で自分の身を置いた場所をいま初めて意識したのだ。京都でただ一箇所の、専攻は、芸術コース。ミロやダリやエルンストが好きだった。しかし、単に好きだっただけで、して来たのはお絵かきの延長だった。芸術の森へ、ちっぽけな想像力に跼蹐していた脳の内部の破壊を終えて、極く繊細な視力と聴力と、鋭い感受性と集中力を持って、その遠くて深い森に向かって出発しなければ……。森を抜けて青空があるかどうかはわからないが、森を避けることはもうできない。

  自分より以外には描けない絵が描きたいと、敦子は思った。
 初めは花の絵がいい。花に見えない花の絵になるだろう。
 ローズマダー色の影を付けた得体のしれない花の絵を描いて、現実の森、祖母と話した糺の森に置いてみよう。古代から続く森の深みに溶け込み、きっと祖母の魂も見つけてくれるに違いない。
 「なんちゅうへたな絵や」と祖母はわらうだろう。それでいい。へたやからこそ、えぇ絵が描けるんやでおばあちゃん。
 足元を伝い上がって心臓にまで到達し波に変わった心地いい潤いに、乾いた上半身が飲み込まれていった。動悸が音楽と呼応して、敦子を揺さぶった。音楽と一緒に駆け回わりたかったが、鳥頭男と龍たちはどんどん高いところに上って、ついて行けなかった。
 ついて行ける気力と自由とが、敦子にはまだ足りなかった。
 音がひゅうんと風のように高みから急降下した瞬間、反響が洞窟の隅々まで駆け巡り、敦子は時が止まって永遠に、今の目の奥の光景が不変のような気がした。
 「敦ちゃん。敦ちゃん、だいじょぶか」
 理沙の声がして、到着「駅」の近いのを知った。
 「あたし、死んでたんかな」
 短かかったのか長かったのか、現実とは全く違う時間の流れの中にいたと、不確かな意識の底で思った。敦子の身体中を満たす暖かい潤いだけが、はっきりした実感になって残っていた。
 「列車が来て、父親といっしょに乗ってるうちに時間が止まってしもた気ぃしてた」
 「音楽のせいやな。混沌の中の秩序を表現してんのやて。あんた連れて来たかいがあったわ。このバンドの、もとの名前はワーロックス、魔術師たち。マスターにさっき聞いたんや」
 「ふうん。…あんたは、死なへんかったんか」
 「あんま好みゃないし。音楽くらいで死ぬかいな。同志社の前で<戦争>見たあの時から、ときどき死んだ気分になるけど。あんまり凄い<戦争>見て、長いこと怖おーて、はよ忘れよ思うてたん。
 あんたにもちゃんと話さへんかった。うちの隣のお店のガラスが割れて、家飛び出したんや。石やら火炎瓶やら飛んでくるやんか。あっちゅうまにあそこの交番、わあっと火に巻かれたん見て。体固まってしもて動かへんかった。あれから、たまにやけど、時々な、おんなじようになるねん…」
 「そやったん」
 「うん。ほんまは<戦争>の中ぃ飛び込みたかったんやけど、体、動かへんかった」
 理沙の告白が、敦子を急に我に帰らせた。冷えた残りの、ひとしずくのコーヒーをすすり込んだ。
 音楽はマイルス・デイビスの、新しいアルバムに変わっていた。
 不安をかき立てるような響きに、居心地の悪さを覚えた。
 壁際から来る視線は、いつの間にか消えていた。なぜか理沙が、とても淋しそうに見えた。
 店を出て夜の澄んだ空気を吸い込むと頭がはっきりし、すっかり暗くなった路地を一本松のバス停まで、黙りこくって歩いた。
 人通りはなく、身震いするほどの闇が真直ぐなはずの通りを遮っていた。バスが来るまでの長い時間立ち続けたが、どこへ行けばいいのか、わからなかった。

 「地図」にはその後、週に一度は行くようになり、熱いコーヒーを飲んで新しい音に出会った。しかし少ない小遣いがそう続くわけなく、本格の蒸し暑さが始まった頃から、「地図」への足はすこしずつ遠退いた。
 理沙の様子が変だと敦子が気づいたのは、最後に「地図」に行ってからひと月半もたった頃だ。理沙が学校に来ない。電話してもいつも留守で、全く連絡が取れなかった。
 思い当たる節はあった。「地図」での理沙はだんだん変になっていった。ふさぎ込んで敦子が話しかけても返事しなかったり、用があるしと先に帰ったりした。新しい音にも興味をもたなくなった。
 積極性が裏目になり苦しんでいるのかもしれなかったが、理沙は何も話さないまま消えていたので、敦子にもどうすることもできなかった。
 ふたりが再会したのは、秋の気配がじっとり暑い残りの夏をすこしずつ追いやり始めた、ある日曜の夜だった。敦子は錦市場で母に頼まれたお使いものを買い、以前三条河原町の「六曜社」で知り合った大学教授に勧められ、どうしても見かった日本の前衛映画を最終上映で見て、がんがん痛む頭に耐えながら急いで帰ろうと、四条通りのバス停に向かっていた。
 新京極の映画館から四条通りへ出て車の排ガスを吸い込むと、頭痛はますますひどくなった。まだ芽の出ていない植物に一気に強い肥料を浴びせたような、きつい気分だった。
 あんな映画を見たのを後悔しながらぼうっと疲れた目で前を見ると、通りの向かいの祇園社御旅所の前に、無意味な影ほどもぼんやりと立って揺れている理沙を見つけた。
 「えらい久しぶりやな理沙。どうしてたん」
 頭痛をこらえ駆け寄って、意識した明るい調子で声をかけた。
 驚いたふうもなく、理沙は毎日顔を合わせていた時と同じように言葉を返した。
 「別に。まあいろいろあってな。もうちょっとしたら、話、するわ」
 「心配してたんやで。いっつも留守やし」
 「わかってるて。それよりなあ、敦ちゃん。信号て、こんなきれいやったんやな。なあ、そう思わへんか」
 「信号がきれい、て、あんた。だいじょうぶなんか」
 理沙はおかしくなってしまった。頭痛がますますひどくなった。
 「帰ろ。送ってくし」
 肩を抱いて、わが家路とは逆の烏丸のほうへ敦子は理沙を押すようにして歩いた。理沙は信号の話をつづけた。
 「初めてふたりで<地図>に行った時な。出町の信号で走ったやろ。覚えてるか。あの時もな、信号がえらいきれいに見えたんや。電車で隠れる前にもっと見てたかったし走ったんや」
 「轢かれるかと思たえ、あの時。知らんおばあちゃんに怒られてしもたやん」
 「敦ちゃん、あたし・・また・・」
 理沙の言いたいことが敦子にはわかった。理沙の急変を心配した敦子は、ある日「地図」まで理沙を探しに行ったことがあった。
 マスターから、理沙が時々一人でくるようになって、あの「抗議の視線」の男と親しくなっていたことを聞かされた。
 男は「地図」の近くに住む大学生で、一年程前から恋人と一緒によく店に来ていたが、最近その恋人に自殺されてしまい、落ち込んでいた。
 恋人たちは聴きにくいほど口論することも度々あったというが、むろん死の本当の理由はわからず、それが男を苦しめていると聞けば頷けた。 マスターのいわく自殺した女も、「地図」に来て知らないレコードがかかると、あの宵に理沙のしたように、壁のレコード・ジャケットのところまで行き、手にとって熱心に見ていたものだと。
 酒と音楽と、有り余った「時間」の外には死なれた彼を癒すものはなく、死者の身替わりになれる訳でなし、つきあわないほうがええよと、こっそりマスターは理沙を説得したのだった。
 理沙はしぶしぶ受け入れ、放心状態のまま自宅に籠もり切り、夜だけ繁華街をうろついていた。
 現実の死は、理沙の心に得たい知れぬ痛みを噴出させた。
 「まーた難しいもんと、出逢(でお)たんやろ」
 死んでたんやなと胸に秘めて諧謔の口調をわざと操る敦子に、理沙は返事せず、四条烏丸の交差点の信号を、凍ったほどじっと見つめていた。目にあふれるものが、ビル街に残った明りをきらきら射返し光った。
 信号よりずっときれいだと敦子は思い、友だちがここにいるよと、心の中でそっと言った。   
 
 
 

(作者は、高校時代から絵画を学び、現代音楽に深く親しんできた。前作「神楽岡」にならぶ作のようだが、まだ、どういう大構想で進むものか編輯者には見えない。なにかの立ち現れる可能性を待ちたい。「一本松」と地名で題されていたが、替えてみた。湖の本の読者。次を、待ちたい。)



 
 

   四 重 奏 ─狂言・浄瑠璃・能・小説─ 上野 重光 作
 
 

        狂言 常 滑 祝 言       上野 重光
 

男 角樽を抱えて走り出る。
   「かもうてくださるな」
女 結納の品が載った三方を抱えて走り出る。
   「かもうてくださるな」
 と言いながら、 それぞれ逃れる体で相前後して走って行く。
 男は後から走って来る女を追っ手だと思っているので、 二
 の松やシテ柱に隠れる仕種をしながら行く。 女は、 隠れて
 いる男を追い越して行く時、 自分にかかる追っ手と思い、
 「ヒェーッ」 と叫びながら正面に出る。
 正先でぶつかり、 その場にへたりこむ。 ふたり、 声を合わ
 せて、
 「ええい、 もはやかもうてくださるなと申すに」
 と叫び、 互いに見合うが、 そこで人違いであることに気づい
 ておどろいた体。
男  「そなたはみどもを追うて来たのではなかったのか」
女  「あなたさまはわたくしを追うてこられたのではなかったのですか」
男  「いいや、 いいや、 これは不思議なこと。 わわしい追っ手が来たものじゃと思うておったが」
女  「いいや、 いいや、 これは不思議なこと。 うるさい追っ手が来たものだと思うておりましたに」
男  「人違いであったわ。 ハッ、 ハッ、 ハッ・・・」
女  「お人違いでござりました。 ハッ、 ハッ、 ハッ・・・」
  と、 互いに安堵の体でたからかに笑う。
男  「ちと尋ねるが、 そなたはみどもを追っ手と見て逃げたと申したが、 あれほどにすばやく逃るるからには、 何か深いいわれがあってのことだと見受けたが、 さてどうじゃ」
女  「は、 はい」 と、 もじもじする。
男  「こうしているうちにほんとうの追っ手が来るかも知れぬによって、 早う申さぬか」
女  「では申し上げまする。 実は、 わたくし、 本日、 熱田神宮のご神前にて結納を取り交わすことになっておりました。 ところが、 その連れ合いになる相手とは、 あのあたりでは有名な放蕩者。 縁あってのこととは申しましても、 いずれは身上を食い潰すのが目に見えているような男とは、 添いとげる自信が失せまして、 さてどうしたものやらと思案しておりましたところ、 あちらさまが約束の時刻に遅れておりますのを幸い、 今こそとばかり逃げ出しました。 追っ手がこようものなら、 いっそのこと常滑の海に飛び込んでやろうかと・・・」
男  「そういうことであったか。 不憫な話じゃ。 して、 そなたが大事そうに抱えているものはなんじゃ」
女  「これでござりまするか」
男  「そうじゃ」
女  「これは結納の品々でござりまする。 トホホ・・・」
男  「なんと、 結納の品々とな。 これを持って常滑の海へなァ。 なんともあわれな話じゃ。 トホホ・・」
 と男は貰い泣きする。
 女はそっと顔を上げて
女  「そなたさまこそ、 わたくしを見るなりお逃げなされました。 何かよほどのわけありかとお見受けいたしましたが、 およろしいようでしたら、 わたくしにもお聞かせ下さいませ」
男  「そなたに話すほどのことではないわ」
女  「そのようにおっしゃらずに。 わたくしとて恥をしのんでなにもかもお話し申し上げたではございませぬか」
男、 咳ばらいなどして勿体をつけて
   「そうであったな。 みどもが話さねば片手落ちじゃ。 されば申そう」
 時間をかせいでいる体。
女  「さ、 さ、 早く。 こうしているうちにもほんとうの追っ手が来ぬともかぎりませぬ」
男  「そうであった、 そうであった。 では、 申そう。 実はみどもは本日、 熱田神宮のご神前にて結納を取り交わすことになっておった。 みどもの奉公先は瀬戸物屋でござるが、 その連れ合いとなるのが、奉公先のひとり娘での。 ひょんなことから惚れられてしもうて」
女  「それは、 それは、 よろしゅうございました」
男  「まて、 まて、 それほどのものではないわ」
女  「どうしてでございまするか」
男、 女の顔をじっと見る。
   「相手がそなたほどの美人であったらのう・・・」
女  「女は気だてと申しまする」
男  「せめて気だてだけでも良ければと思うたが、 母親譲りの気の強さ。 いくら跡取りになれると言われても、 これではとうてい辛抱もならず、 そうかと言うて、 奉公先には二度と戻れず・・・」
女  「それでお逃げなされたというわけでござりまするか。 それはまたお気の毒なお話でござりまする。して、 あなたさまが大事そうに抱えておいでなさるものは」
男  「これか?」
女  「はい、 それは何でござりまするか」
男  「これは祝い酒じゃ。 あァ、 ヤレヤレ・・・」
女  「結納の祝い酒を抱えて常滑の海へ・・・。 なんとおいたわしいお話ですこと。 トホホ・・・」
 と、貰い泣きする。
男  「さて、 さて、 これはまっこと不思議なことよのう。 そなたもみどもも、 本日、 熱田神宮のご神前において執り行うべきであった別々(べちべち})の結納から逃れ逃れて、 知多の細道をずんずんと半日も下ってこの常滑までたどりついたと言うわけじゃ。 それぞれが結納の品を抱えて、 荒れる海原に身を投じ  ようとの覚悟を持って参ったところまでも同じじゃ。 聞けば、 互いの事情もあまりに似ている」
女  「ほんとうによう似ておりまする」
男  「もとよりの縁をここでひとつに結ぼうという熱田様のありがたいおぼしめしかも知れぬ。 このいでたちも結納に叶うておる。 結納の品もふたつ合わせてひとつじゃ」
女  「ふたつ合わせてひとつとは、 なんてうれしいことを申されますやら。 もはやこの身は、 一度死んだも同じこと。 あなたさまさえおよろしければ・・・」
男  「まずはめでたい。 これよりは生まれ変わったつもりでともに助けあってゆこうではないか」
女  「よろしゅうお願い申し上げまする」
男  「さっそくこの祝い酒を開けて、 固めの盃としよう」
女  「それがよろしゅうございまする。 さればめでたいお酒をおのみなされ」
 後見が用意した盃を男に与え、 角樽を傾ける。
男  「あるは、 あるは」 と口をつけて、 「さあ、 さあ、 そなたの番じゃ」 と盃をわたす。
女  「ありがとうございまする」 と、 受けた後 「さ、 さ、 あなたさまの番でございます」
男  「おお、 まっことうまい酒じゃ」
  と、 三三九度の応酬。
男  「ずいぶんと気持ようなったゆえ、 なにか謡いとうなった」
女  「それはご一興でござりまする」
男  「では、 参ろうか」
女  「どうぞ参りゃれ」
男  「ヤアラめでたよのォ 縁なれば今日が吉日 長持積んで ふたりくりだす宝船 荒ぶる海も宵海路(よいうなじ)  ひんがしは熱田(あつた)さま 西に桑名の住吉さま 彼岸此岸(かなたこなた)にさしわたす縁の結びのめでたさよ」
男女  「ハッ、 ハッ、 ハッ・・・」 と笑う。
男  「みどもがひとつ受け持ったによって、 そなたもひとつ謡うてみやれ」
女  「では、 はずかしながら、 わたくしめもひとつ謡うてみまする」
男  「よい、 よい」
女  「鶴は松に 亀は巌(いわお)に 尾張の若は鶴松君」
男女  「ハッ、 ハッ、 ハッ・・・」
男  「この上は、 たとえわれらの仲を引離そう者があろうとも、 共に連れ添いましょうぞ」
女  「たとえ追手が来ようとも、 ふたりが力を合わせ、 退けましょうぞ」
 両人うち興じているところへ、 それぞれの追っ手 (仲人) が走り出る。
仲人A  「婿殿、 婿殿はいずこに・・・」
仲人B  「お嫁ご殿 お嫁ご殿はいずこに・・・」
 AとBは別々に走り回り、 やがて、 高笑いして興じている男
 女にそれぞれさがしている相手を見つける。
仲人A  「ありゃ、 ありゃ、 婿殿はこんなところに」
仲人B  「ありゃ、 ありゃ、 お嫁ご殿はこんなところに」
仲人A  「これは手前どもの婿殿でござる」
 と、 後ろから羽交い絞めにする。
仲人B  「これはてまえどものお嫁ご殿でござる」
 と、手を取って引く。
男  「みどもはどなたの婿でもござりませぬ」
 と、 羽交い絞めから逃れる。
女  「わたくしとてどなたの嫁でもござりませぬ」
 追手の手をふりほどく。
男女  「ふたりはたった今、 熱田さまのお導きめでたく、 結ばれましたによって、 おかまいめさるな」
仲人AB  「な、 なんじゃと、 このふらちものめが」
 女、 角樽を取って、 無言で男に示し、 男は了解の体で大き
 くうなづく。
男  「ま、 ま、 そうご立腹なさいますな。 六里、 七里の道のりをここまで駆けてこられたからには、 さぞやのんども渇いておられましょう。 幸い、 ここにめでたいお酒のご用意もござりまする。 どうぞお召し上がりくだされ」
仲人AB  「ムム」 と一度はためらいながら、 「いささかつかれたによって、 まずはいただこう」
 と、 それぞれ坐る。
女  「それではこちらさまからどうぞ」
仲人A  「おお、 あるわ、 あるわ」
女  「では、 こなたさまもどうぞ」
仲人B  「おお、 ある、 ある」
女  「さ、 さ、 こちらさま、 もうおひとつ」
仲人A  「うん、 うんあるぞ、 あるぞ」
女  「さ、 さ、 こなたさまも、 もうおひとつ」
仲人B  「おう、 おう、 あるぞよ、 あるぞよ」
 AB共にかなり酩酊した体。
仲人A  「だいぶ気持ち良うなった。 ここは唄のひとつもあらばと思うが。 婿殿まずは謡うてくりゃれ」
男  「それはご一興でござる。 しからばめでたい唄を私めが謡いまするによって、 おふたかたは囃いてくだされ」
仲人A  「なんと囃す」
男  「はや住ノ江や 住ノ江や と囃いてくだされ」
仲人A  「はや住ノ江や 住ノ江や でよろしいかな」
男  「それでよろしゅうござります」
男  「では、 こちらさまも、 はや住ノ江や 住ノ江や・・・と」
仲人B  「はや住ノ江や 住ノ江や・・・ これでよろしいかな」
男  「いや、 なかなかでござる。 さればご一緒に」
仲人AB 扇子を掌に打ち、 囃し始める。
   「はや住ノ江や 住ノ江や・・・」
男  「月は望月 空にひとつ 水面にひとつ 餅をほうばる兎ぴょこんと波の上」
 たちあがって、 足拍子など入れて舞う。
仲人AB  「はや住ノ江や 住ノ江や」
男  「ヤアラめでたよのォ 縁なれば今日が吉日 長持積んで ふたりくりだす宝船」
仲人AB  「はや住ノ江や 住ノ江や」
男  「荒ぶる海も宵海路 ひんがしは熱田(あつた)さま 西に桑名の住吉さま 彼岸此岸にさしわたす 縁の結 びのめでたさよ」
 男、 舞いながら片手で女に逃げろと合図を送る。
仲人AB  「はや住ノ江や 住ノ江や」
男  「浦舟の 帆を押す風と出潮(いでしお)に 任せまかせて その島陰(しんまかげ)」
 男は自分の方に気を引かせるために舞の所作を大きく、
 声も大きく謡う。 謡も出まかせ、 どうにでもなれという体。
 女、 ワキ柱の陰にかくれる体。
仲人AB  「はや住ノ江や 住ノ江や」
男  「遠くなる 遠く鳴尾の沖過ぎて」
 男、 抜足、 差足しながら 「遠くなる」 に合わせて女の方
 に逃れる体。
仲人AB  「はや住ノ江につきにけり・・・ハッ、 ハッ、 ハッ・・・」
 仲人が酔いにまかせてうち興じている間に、 男は女を促
 し、 目付柱の方に向かって逃れる体。
男  「逃るるなら今でござる」
女  「今でござりまする」
 仲人ABは気付いて追おうとするが、 足がもつれてもたも
 たしている。
仲人AB  「逃すまいぞ、 逃すまいぞ・・・」
男女  「かもうてくださるな、 もはやかもうてくださるな」
 手を取り合って橋懸を走り、 幕にとびこんでゆく。
仲人AB  「やるまいぞ、 やるまいぞ・・・」 と、 千鳥あしで追って、  

 
 
 

      浄瑠璃 (新内)  三囲三味線 (みめぐりじやみせん)      上野 重光
 

 浮舟の燈(あか)りたゆたふ枕橋。宵に影濃き葉桜の、下枝(しづえ)の揺れに誘(おび)かれて、牛島、三囲(みめぐり)、長命寺。瀬音も聞かぬ言問(こととひ)の、ゆくともゆかぬ戻り潮。閻浮(えんぶ)濯ぎてとどこほる水はぬばたまの隅田川。すみてすまぬは恋心。

夢寿(ゆめじゅ) 「清(きよ)さん、どうしたいって言うの、このわたしを」
清和(きよかず) 「ああ、思い切れないんだ。わからないんだ」
夢寿 「知ってるのよ、私は」
清和 「何を知っていると言うんだ」
夢寿 「こんなところに連れ込んで、私をなぶろうと思っているのね。この性悪(しょうわる)な夢寿を」
清和 「わからねえよ、わからねえ。今のおれには、自分の気持さえわからねえ」

 晩春(おそはる)のこぬか雨。男女(おとこおんな)の魂魄を、つつみつつみて向島。堤の影のはろけさや。

夢寿 「四十九日も済まないというのに、夫の墓も指呼の間の、宵の墨堤に連れ込むなんて、あまりにむごい仕打ちじゃないか」

 黒髪のしとどに重(おも)るかなしさに、思はず添へば、かいもつれ、こころごころはうらはらに、またも地獄をかき抱く。

清和 「夢さん、そこまでわかっていてくれるのなら、おれの苦しみだって百も承知だろうね」
夢寿 「だからわたしが悪かったと、どれほど詫びたってゆるしてくれない。許さぬ、許さぬと言いながら、こうしてまたわたしを」
清和 「おれは、そんじょそこらのミイラ取りじゃない」
夢寿 「それじゃあ、わたしのミイラをきっと取っていってね」

 多情がなせし春の罪。思へば卯月、ひと月前。夢寿が語る蘭蝶に、合はす三味線清和の瑠璃の音色も宵の川。そのさざ波のざざあかり、乱れみだれて散りぢりに、うたかたのごと消えにける。

清和 「もとはと言へば春道(しゅんとう)が、師歴十年の春の会、おまえがさらう蘭蝶の、三味を突然断ってきた。おまえの亭主は病が篤く、今日か明日とも知れない命。なんとかうれしい報告を枕元まで届けてやりたいという殊勝な心に、ついほだされて、しゃしゃりでたのが運の尽き。おとなのやることはきたねえやい。……にわか合わせの蘭蝶だったが、仕舞ってみればやんやの喝采。舞台の袖で手を取り合って喜んだのもつかのま、師匠春道が現れて、『夢寿、よくやった、よくやった』と、抱きかかえてのはしゃぎよう。夢寿も夢寿じゃないか、あれほど悪しざまに言っていた春道に、先生先生(せんせせんせ)とすがりついて、うれし涙にくれるなんぞ。……あんまりな……」
夢寿 「男心をもてあそぶ悪い女と思っているのなら、どうぞわたしをなぶっても殺しても気のすむようにして……。でもその前にひとつだけわたしの話しを聞いておくれ。……あの時、春道先生が急のことわりをいれたのは、清さんの三味をためすため。若いあなたとわたしの掛け合いを、清和と夢寿の掛け合いを世に問うための粋なはからいだったということを……」
清和 「うそだ、うそだ。またこのおれをからかおうと思っているんだろう」
夢寿 「どうしても信じてくれないのなら、どうぞひと思いに殺しておくれ」
清和 「殺してすむなら、とうの昔。それができずに堕地獄をのたうちまわって今日この夜まで……」
夢寿 「ああ、清さん、そんなにまであんたはわたしを……」
清和 「夢寿、夢寿、夢のあかしに、いっそこのまま……」

 鐘は鳴るなる水面(みなも)にひびく。彼岸今戸の待乳山(まつちやま)、聖天(しやうでん)様の遠鐘か、それとも夜天(やてん)、界十方(かいじつぱう)、いざなひの鐘か、いと涼し。赤白(しやくびやく)のいろをはららに浮かしめて、水は盈(み)ちみつ隅田川。うたかたも波もみぢんの光(かげ)となる小夜の水面の黄金(こがね)のほとけ。   (了)
 
 
 
 

         能 沈 黙     上野 重光

 
人物  前ジテ 旅の僧   (化身)大口僧出立
     後ジテ 受難者   白装束出立
     ワキ  里の男    着流尉出立
     アイ   旅の男   肩衣半袴出立

場面 洛外の刑場に続く路上。
 

1. 〔次第〕 (囃子につれてワキが登場。.常座にとまる) 
<ワキ>浅みどり況して昏きを踏みまがひ、つぶて雨(ふ)りくる谷間にひさぐ。
(名ノリ)
かやうに候ふ者は、都のはたて、霧湧く谷に佗びつつながらふ者にて候。鳥獣に劣る生きざまの、心枯れ果てむとして成す術もなし。一握の銀貨谷間に放り、ひとりおろおろと隠れてもみしが、やがて忘却の時は流れ流れて、昨日の恥も京の上風。また繁らふか閻浮の貧焚(たんらん)。さりとてわが心痛いまだ癒えざれば、娑婆の乞丐(かたゐ)となりて、路傍のむぐらにこもる。(脇座に行き、着座する)

2.〔次第〕(囃子につれてシテが登場。常座にとまる。シテは、右手に持った笹を、肩にかつぎなどしている)
<シテ>谷間よりゑらぎの声す、ふくれゆく春の懶惰(らんだ)にくれなゐ濯ぎ。
(地謡がくり返す.)
<シテ>大地に父無く、海に母無し。暗黒をゆく霊風、巻きたち吹きよせ、石の堂閣毀たむとせり。朝(あした)夕べのひかりを分かつ、気まぐれ神の午睡(うまい)のはてを、もとより無明、一切無明の群衆(ぐんじゅ)はいづれ、かかるひと日を劫初と知らず、そこより始まる朝と夜、そこより始まる空と水、地と海、草・木の実、魚(うお)・ 鳥・獣、つひにおのれが人の象(かたち)のあらはれにさへ、畏れなく、おののきもなく、暗愚混沌を常として、ここに及びたり。ここに及びたり。
 谷ふかく生樹たふるる気配あり、めりめりめりと心はひしぐ。
あやつりの糸かも知れず、陽のひかり、彩(いろ)あはき葉を谷に敷きたり。
(この謡の終りごろに、ワキが立ち上がる。)
 <ワキ>いかにこれなるお僧に尋ね申すべきことの候。
<シテ>なにごとにて候ふぞ。
 <ワキ>これはこの都のあたりに住居いたす者にて候ふが、西方の天(そら)のいと妖し気な有様はいかなる故か、教え候へ。
<シテ>げにげに今日の天の様、彩すさまじく移ろへば、妖しとわれもたぢろぎぬ。
<ワキ>西方も東方も、今ははや見分かぬほどに紅く染まりて候ふが。
<シテ>いづれとも定めがたければ、すべてが思ふところ候ふよ。
<ワキ>紅蓮の炎のただ中を移らふは、
<シテ>白き天眼(てんげん)。
<ワキ>地(つち)よりい涌くぬばたまの渦煙りは、
<シテ>おごれる者の心のごとし。
くれなゐに地の爐燃えたつはたてより圧しくるものをいましめとせむ
と、某の詠めるも、かかる末世の景色に立ち合いたるがゆゑか。見よ、見よ、
墟(つか)の辺に、真葛はやさしくさやぎたり、曳かれしひとのかたちまろらに。
<ワキ>曳かれしひととは、いかなる人候ふか。
<シテ>あをき敗神候ふよ。曳かれゆくみちみち、
つきつめてわれ弱きゆゑ、ためされし丘のごとくに時はよこたふ
と、細き声にて詠みしとも聞けり。あはれ、彼方をおほふ塵の嵐は、暗示の手のごと立ち上がり、われらが方に向ひ候ふ。
<ワキ>あなおそろしや、この丘は、神の死角にて候ふか。むらさきの火焔にたぢろぐばかりなり。
<シテ>うらぎりの男かくまふ谷なれや、花なき梢(うれ)を吹きとほる風。
<ワキ>飢ゑしゆゑかまねばならぬかくまぐさ、笞あたらしくのびゆく谷に。
<地謡>喪へば尉よりもろき谷の道、ひとかげ細くいざなへど、いつか瘠地(せきち)とかはりはて、かかとに棘は食ひ入りぬ。かかとに棘は食い入りぬ。
(この地謡の間に、アイが片幕で目立たぬように登場し、アイ座に着座)
<シテ>さらばお暇申そうずるにて候。
<ワキ>しばらく、ただ今の教へに、いささか、心の乱れて候。お僧の姿に思ひあたるかげこそあれば、このまま別れること難し。その名教え候へ。
<シテ>名を明かすは易きことなれど、もとよりつたなき旅の身なれば、わが姿など忘れ候へ。
<ワキ>さてはて、かかる心ゆらぎ、胸さわぎは何故ぞ。敗神とは、うらぎりとは。
季(とき)とほく水はかよはず、散りやすき花の過剰もそのかみのこと。
かれがれのほそきこの身をすぼませて、鵯のごときぞ夕の飛来は。
(この間に、シテは真中に来て着座。ワキは脇座に戻り着座)
<地謡>ゆけと言ふさむき声あり、ふりむけば、くぬぎ葉老ひて、そびらをふるふ。
地の骨よ、その腰をくだき、臨終の叫びを放ちしは、いつのことか。
<シテ>眼窩に水を溜め、四肢を抱へ、方位たもちしままに頽(くづを)れしは昨日のこと。
<地謡>石の腹に石を孕み
<シテ>重く地に腹ばひ
<地謡>うめき
<シテ>うめけば
<地謡>求める手に皺寄る
<シテ>暗い波
<地謡>ひからびたる貝殻に、季節はゆく。
<シテ>飛ぶものを、はた這ふものを虐げて、ひとてふものは誰の象(かたち)ぞ。
<地謡>淡く濃く、荒地の昼の幾たむろ、みにくきいろをまとふばかりに。
<シテ>ことのはの互(かたみ)のいろのかよはずと、人散りゆかむ、暗き窪地に。
ひとりだに・・・
<地謡>ひとりだに、まなこ澄めば生くべきを、焼きこぼれたる市の鍵振る。
市の鍵振る・・・。           
 (シテは静かに幕へ中入する。)

3.〔次第〕(アイがアイ座を立って、常座で天を仰ぐ態。やがて真中に出て座り、受難者について物語って、退く。)
<アイ>ありゃ、ありゃ、これはこれは、地がまっかに燃えてをる。地に火がついたのか。都も煙と塵の中ぢゃ。都の空には光が見えぬ。まるで闇夜ではないか。
<ワキ>空を閉ざしをるは、雲か霞か、それとも煙か。
<アイ>霞か、雲か……。じっと見すえていると、その動きははっきりせぬが、ひとたび目を離して また見直してみると、膨張しながらこちらに接近して来る有様が良くわかる。凄まじい勢ひで広がっておるわ。雲か煙か、あの一団の黒い塊は、風神の姿のようにも見え、それを支えるようにして涌きあがる猛煙は、刻々と変わってゆく陰翳のはたらきもあるのであろうが、花籠を頭上に捧げる乙女の群像をかたどっておる。その群像の下半身が伸び上がってゆくにしたがって、都を閉ざすばかりに立ち上がる壁が、まるで地盤を掬われでもしたかのごとく、表の層を剥ぎながら崩れ続けてをる。その壁の層のひとつひとつが、苦悶する人々の表情を現わし、声のない絶望の口を開けて倒れてゆく。なんといふ寂しい光景であろう。なんといふ静けさ……。
(名ノリ)
それがしは、南国の浜辺に住居いたす名もなき漁師でござる。このたび都の春の大祭を見物いたそうと思いたち、女を埋めたるごとき沙漠を辿り、男を埋めたるごとき山々を越えて花の都に参った。が、いかなることか、それがしがまず初手に出逢ったものは、なんと罪びとの曳き廻し騒ぎであった。居並ぶ見物人の後ろより背伸びをして、その罪びとののろい歩みを眺めてをったところ、突然、それがしが前に立ってをつた見物のひとびとが、まるで潮が退く態にて後しざりを始めた。それかあらぬかそれがしは、曳き廻しの光景を目のあたりに見ることができた。 が、それもつかのま、槍を持った役人が近づいて、罪人の代りに刑架を担いで行けと、それがしに命じた。なにゆゑにそれがしが……と一瞬、反発する気になったが、役人にそむくことはできず、黙ってその刑架を担ぎあげた。いやはや、その重さと言ったらとても尋常のしろものではござらぬ。かくなるものは、柱木と横木を別々に運び、現場にて組むのが道理なれど、こちらでは初手から十字に組んで運ぶことになってをるらしい。これであの丘までとなれば、いくら罪びととて、耐えられるものではない。即ち彼の男は、街なかの辻にかかったところで倒れてしまいをつた。ままよとばかり、それがしは黙って担ぎ上げた。肩にずしりと食い入ったが、力にかけては自信がある。ところで、当の男はいささか参ったるていたらくで、それがしが足については来られず、その間隔が空くたびに鞭をあびねばならなんだ。とても正視はならず、それがしは自らの歩調を加減しつつ進んだ。これはまた不思議なことながら、それがしの かたはらを歩く見物の人たちが、それがしに向って、もっとゆるゆる行けと、しきりに目くば せをする。その時、それがしは初めて知ったのだ。群衆がかやうに静かなのは、かの男の運命を悲しんでのことなる故、と。進むみちみち考えた。それがしが早く歩けばそれだけかの男の死を早めることになる。それがしがかの男の死の時を決めてしまうことになる。もしもかの男が自ら刑架を負うならば、死の時を自分で決めることができる。かく思ひたるそれがしは、自分の歩調をゆるめた。が、目ざとき役人が槍の石突きにてそれがしをど突きをつた。もっと早く歩けと言う。幾たびも打たれたるゆゑ、さすがにそれがしも参って、足元がおぼつかなくなった。ふらふらしながら、知らず素直な気持になって、かの男をちらりと見やると、むかふもそれがしをちらりと見る。そしてかの男は、透きとほるごとき声をもて、「あなたはあなたの歩みにて」と、ひとこと言った。「いかなることにて候ふや」と問へば、「あなたはそれがしの重荷を負へり」と、また透きとほるごとき声もて、さとすごとく語った。
<ワキ>かの男とは、いかなる男候うか。
<アイ>われらが重荷を負ひて行きし人候うよ。(問答の後アイは半幕にて退く)

4.〔次第〕(囃子。たっぷりと間があって一声。地謡と同時に、アイが十字の刑架を担いで登場。数歩遅れて後シテが荊冠を手に下げて登場。ふたりは地謡に合わせて、常座、角、正中とめぐる。ふたりはやがて橋懸を去る。ワキは立ち上がり、茫然と見送る。)
<地謡>春は花びら、秋は蜻蛉(せいれい)の羽根の吹溜り。愛しき言葉の艀化場の、 春の終りに早や秋風。 午後と言へどもたそがれの色のなか 、はぐれしごとく歩むなり。 はぐれしごとく歩むなり。
<シテ>喪ひし大地、喪ひし海。
<地謡>はろけき岬を傾けるほどの満ち潮無く、 ぬたりぬたり、 ぬらりぬらり、 ぬらぬらぬらっと浮く油 。覆ふ油のくろぐろと、 うねりうねれる死の海に、 ためしに投ぜし海流壜。 この広ごりに継がむ、あてどなき希望(のぞみ)。
<シテ>天に外れし蝶番。
<地謡>地獄に切れし岩の堰。
<シテ>白光赤光(びゃっこうしゃっこう)
<地謡>黄光緑光
<シテ>青光また紫光
<地謡>ひかりは速く
<シテ>とどろきは鈍(のろ)し
<地謡>白光赤光黄光緑光青光また紫光 。 とどろきもてここに到り、 足元くつがへすまでのつかのまを 、散華ま近き芥子のうてなに病む蝶が見る夢の、 極彩色のまぽろしを、 美しとのみ仰ぐかな 。美しとのみ仰ぐかな。
<シテ>大地の倉にねむれる黒き蜜。 あれは神の蓄へ。 いづれ現身(うつしみ)魂魄の、 闇に帰らむ時あらば、流沙土水に包まれて、 夢の旅路にたたむものを。
<地謡>いたづらに大地の倉を簀(す)となし、 いたづらに汲みつくし、 あまつさへ火をかけ、 おのれに酔ふもの世に尽きずば、おのが放ちし業火に巻かれよ、 ひとたびは減びてみよと、 瓦礫の荒野歩みゆく激しき心押さへ押さへて、 人の重荷の一切を負ひしがごとく、 火炎風塵のなかに消えにけり。 火炎風塵のなかに消えにけり。
                                    (了)
 

 

        小説 敦 子         上野 重光
 

 雨季も終えようという頃なのに、雨の匂のしない、傘とは縁のない日が続いていた。そのかわり、敦子の白いパラソルが、よく目に映る。十年前に一万五千円、今いくらかしら、とは敦子の口ぐせである。空にかざせば、乱菊のひとつひとつが愛しいほど丁寧な刺繍で、既に十夏を経たはずなのに不思議に色の褪せたところがない。
 日傘はやはり女性が手にかざすべきものである。私はあえて相合とは洒落ずに、移動する陰に添うようにして歩いた。
 参道には、樹の姿をくっきりと焼きつけるような強い陽ざしがまだ残っている。下枝(しずえ)の茂りが左右から手を伸
ばしているが、相当に幅員のある道ではその手が互いに届ききらず、青空がそこに割り込むかたちになった。枝の連りがやわらかな弧を描いて嵩にかかり、木陰を選んで歩いている人が圧縮されたようにひじょうにちいさく見える。その人たちを横切るようにしてぞろぞろと先を行くのは、森の中の能楽堂から出てきた客である。拝殿から下りてくる客のゆっくりとした歩みにくらべて、これからお参りしようとする人は、みな急ぎ足で砂利を蹴って歩いてゆく。
 鶏が参道に出て遊んでいる。閉門の刻もそろそろという静けさだ。
  石燈籠の下で形(なり )のちいさい鶏が春落葉の乾いたのをがさがさと掻いている。そのかたわらで、首を伸ばしたま
ま、じっと通行人の挙動を窺っているのは雄鶏である。
 「親子連れなのね。お父さんと雛と」
 敦子が言った。
 「番(つがい)だと思ったら、親子なのか……」
 「樹にのぼって見てるのがお母さん鶏(どり)じゃない ? 」
  さんご樹の葉のなかに隠れている一羽を指差して言った。確かに、枯葉を掻いているのは、母鶏にくらべて色艶が甘かった。
 私は昼にも、樹の下にいる二羽を目にしていた。午後一時に池の端の『宮きし』で待ち合わせていたのに、敦子が三〇分も遅刻したために、先に食事をしてしまって、また参道まで出て敦子の来るのを待っていたのである。その間に、孫のお宮参りのためにきた男が、からかうつもりはなかったのだろうが、ちいさい方の鶏に触れようとした。すると、道を隔てた博物館の広場にいた雄鶏が、うなり声をたて猛烈な勢いで走ってきて、男にとびかかる姿勢をとった。何もせえへん、と男は言って、雄鶏に情を示した。雄鶏はちいさい方の前に立って羽を納めたが、その男の家族が去るまで動こうとはせず、ここ、ここ、と不機嫌な声をたてていた。
 かぼちゃを裏ごしし始めたら手が止まらなくなっちゃって、と、言いながら敦子の現れたのはそのすぐあとのことである。……

 「この子たち、こんなところにいないで、もっと奥で遊べばよいのに」
 敦子が、言った。
 「ここらが縄張りなんだろう」
 森の奥にも幾組も番のいるのを、私は昼の間に観ていた。この森も広いように見えて意外に手狭まなのであろう。
 旧家を移築した茶室を通りすがりにのぞいた。茶会が開かれていれば山茶花の垣根越しに華かな和服姿を眺め
ることもできるのに、今日は雨戸が閉っていた。屋号を又兵衛といった。敦子はここで開かれた春の茶会に出席したことが自慢の筈だった。が、今日は何故かそのことを口にしなかった。
  「疲れているようだね」
 私は言った。
 「それほどでもない」
 演能の間、天井から吹きおろす冷気が利きすぎるのか、敦子は、こんなことのためにと携えてきたサマーカーディガンの胸をしきりに掻き合わせていたが、風邪をひいたのかもしれなくて、一転、外はこの暑さだ。喘息持ちの体に、温度の変化はきつかろう。
 「帰ったらお茶をたてようか」敦子が言った。「田辺さんからいただいた萩の平茶碗を使ってみたいの」
 「いいね。もう、そういう季節なんだね」
 私は、浅くひろがる瀬のような涼しい緑を思った。
 大鳥居のかたわらの売店がカーテンを閉めるところだった。
 熱い地面にへばりついていた鳩の群が一勢に起きあがって、ぐるぐると喉を鳴らしながら私たちの方にやってきた。
 「何んにもないの」
 敦子が手を広げながら言った。
 鳩の群を避けずに歩いてゆくと、あてがはずれたように道を空けたが、未練がましい幾羽かはまだついてくる。その中に雀が一羽混っていた。
 地下鉄の駅までは見通しのよい広い舗道が続いている。ゆっくり歩いてゆく私たちの前に、人影はなかった。右側に続く森の、音のない揺れを重く感じていた。そして萩の平茶碗の不思議に淡い蒼さを思った。
 同人誌の編集長だった田辺さんから、平茶碗より先にいただいた井戸茶碗も、やはり萩だった。郷里の山口からわざわざ取り寄せてくれたものだ。先の茶碗は、使い込んでいるうちに、うっすらと紅味がさして、土が咲いてきた。釉のむらを焙り出すというのではないから、花幽とはいわないかもしれないが、花の変容を想わせた。掌に残るぬくもりと、さばきになじむ具合もさることながら、湯を浴びてぽっと明るくなったその彩は、夜明りに燃える肌を彷彿とさせずにはいなかった。深く、厚く、そして熱い情感は、やはり冬のものであろう。また、夏は夏で、やわらかく涼しい肌を恋う。浅い平茶碗は、掬い持つのではなく、あてがう感じに掌を添えて呷る。泉に口をもってゆくようなひそけさがある。殊に萩は、彩涼しく肌もやわらかで、夏にふさわしい。不思議な蒼さは、秘めもつからだへのいとおしさに通う。静脈が透けるような景色をしげしげと眺めると、季節感による使い分けの妙味がおのづと現われてくる。

 「途中で眠っていたね」
 私は言った。
 「分った ? 」
  「ワキが 『夢のごとくに仮枕……』と言ったとたんに……」
  「夢から覚めたのよね」と、敦子が笑いながら後を受けた。「だって、間狂言、くどすぎるんですもの」
 「少し過剰だったろうか……復曲能ということで、解らない人にサービスしたつもりなんだろう。十人中七人は眠っていた。尤も、能は半睡半醒で観る幻なんだから、それを功徳と思わなけりゃいけない。……で、どんな夢を見てたの ? 」
 くるみの木の陰が切れて、ぎらっとした光が私たちを舐めた。
 「奈良坂からの眺めを想像しているうちに夢に踏み込んだのね。二月堂の舞台から、ひとりで奈良の街を見おろしていたわ。松や杉の秀(ほ)の上に大仏殿の鴟尾や五重塔の水煙が輝いているの。空には、二上山の方からやってきた黒い雲が急に爆ぜるように稲妻を走らせて、大空間の、見えない神経を確かめるみたいだった。パッと明るくなるたびに、大地から何かを引き抜いているようで、私も、そこに見える何もかも浄化されている感じがしたの……。思い出話になったわね。重衡の名所教えに誘われたのかしら……」
 敦子の思い出話と言ったのは、五年前の夏の旅のことだった。奈良まで行って喧嘩して、それぞれ勝手に歩き始めた。まもなく雨が降り出した。私は東大寺南大門の下で雨宿りしていたが、高い屋根から帯になって落ちかかる雨水を逃れ、鹿の糞が溶けだした泥水を踏みながら回廊に駆け込んだのだった。雷の足は頭上にあって、踏みつけにされた天邪鬼のようなみじめな気持になっていた。回廊の取り巻く大空間に、天の忿怒がすべて叩き込まれているようだった。雨の止むのを待ちきれない人たちが、回廊から大仏殿へ、大仏殿から回廊へと走った。いずれも途中で雷鳴に嚇されて、腰をぬかしそうな格好で渡りきった。その頃、ひとり別に歩いていた敦子は、戒壇院から正倉院をめぐり了えて、まったく濡れることもなく、二月堂の舞台に立っていたのである。
 「思い出すのもいまいましいな」
 私は言った。
 「一緒に歩かなかった罰よ」
 敦子が言った。
 復曲能『重衡』の入場券を手に入れてからニヶ月、謡曲全集のうちの『笠卒塔婆』のコピーをとって、何度も読み返していたので、筋書きには十分通じていた。平重衡が父清盛の命令で焼き払った南都の寺院は、謡のなかで次々に読まれてゆくが、そのひとつひとつの風景を、私も敦子も想像することができた。それが、雷に追われた奈良の旅を思い起こさせたのだった。

 パラソルのなかの敦子が淡い発光体になっていた。萩の平茶碗の蒼白い肌に通うものだった。
 「このごろ、空がとても綺麗に見えるの」
 敦子が言った。
 「梅雨も短かかったからね」
 「そういうことじゃなくて……」
 「………」
 「執着しなくなったっていうことなの」
 「執着のしようがないじゃないか」
 少しいらだって私は言った。パラソルがくるくると回転しながら私を取り込んだ。 (あなたには分らなくていい)と言っているような気がした。
  「想像なら何んとでもいえるが……」と私が言うと、敦子は意識した微笑みを見せた。私は続けた。「それは杞憂だって、ぼくは何度も言っているのに」
 「慰さめてくれなくてもいいの。もう十分だから……」
 明日告げられるであろう精密検査の結果について、敦子はまったく悲観的になっているようだった。
 ブラウスを盛り上げている敦子の乳房のその左側の方がナマリのように冷たく重いものに感じられてならなかった。晴れてふたたびその生命に触れる日のあれと私はひそかにひそかに祈念した。       (了)
 
 

(作者は、東京在住の作家。個人誌「晴巒」を継続刊行してきたらしい。年齢も経歴もしかとは知らないが、作の印象はまだ若く歌っている。細部の措辞に清淡平明の深みが加わってくれば、読者を動かすにたる創作世界がさらに広がるだろう。能の表示法にはもう少し時間をかけたい。総題は編輯者が仮に添えた。)



 
 

       温 も り         石久保豊

 

  せまいアパートのこと、何処にいても話は届く。
 「光子、あなた、今まで寝ていたの」
 「いいえ」
 と、言いながら、光子はキッチンから冬子のいる居間の方へ振り向いた。
 「あッ…」
 二間きりない次の間の壁際のベッドに、冬子は仰向けになって寝ているではないか。

 …:起きて起きて、 さあ早く、 早く帰ってよ、 駅からの電話だったわ、 バスなら少し間があるけれど、 車で来ればすぐだわ、 早くして、 早くよ、やだ!  ネクタイなんかどうでもいいじゃないの、 早くして、 靴出したわ…。

  たった今、 追い出すように帰らせたばかりの、 井出の温もりがまだ残っていたのであろう。
 冬子の言った言葉の裏を知らぬ振りに、 光子は盆を持ってキッチンを出た。
 「コーヒーいれたわ」
 「:……}
 「コーヒー、如何でコザリマスルカ」
 冬子は天井へ顔を向けたまま、
 「人の温もりの中に寝たなんて…、 何年ぶりのことかしら……」
 「……」
 冬子は、 のろのろと起きあがりながら、
 「七年か……ああ…、 光子は何年」
 「何でそんなこと」
 友達同士の二人が、それぞれの夫と、別れてからの年月のことを言っているのである。
 冬子は生き別れ、 光子は死別、 夫が死んでから三年半、 井出と会うようになって一年、 光子は数えなくても答えは出るが、 井出のことは伏せておきたかった。
 冬子は、 ようやくベッドから離れて窓際の椅子に来て坐った。コーヒーを飲みながら、何の変哲もない曇り日の、 場末の町の風景を眺めている。
 「いただきものなの、どう」
 光子は小さな白い皿の上に、ボンドボワを落すように入れた。
 「おいしいのよ」
 「ありがと」
 言いながら、冬子はゆっくり光子の方へ振り向いた。 泣いていたのである…。
 「 ? …どうしたの、どうかしたの」
 「……へんなところで、 決心付いちゃったわ…、 私、 矢崎のところへ戻るわ」
 「えッ…」

 「矢崎、 女に子供つくっちゃったのよッ」
 電話の向こうで、 怒鳴るように泣いたあの日の冬子…。
 「矢崎も、 その女も、 憎いけれど、 生れて来る子のこと考えるとね」
 好きで好きで一緒になった矢崎と、 冬子は泣きながら、 気強く別れた。
 結婚なんて、男なんて、ふつふつ嫌ッの七年。
 「あのひと、 死んだの、 風邪拗(こじ)らせて、 肺炎またこじらせちゃって…、 男の子がいるの」
 「……」
 「矢崎、この間突然会社に来て、 びっくり、 もう一度一緒になってくれないかって、 腹立った…、 とても腹立ったわ…。 死ななければ一生一緒に暮したんでしょッ、 矢崎の父や母まで会社に来たり、 家へ来たりしてね、 父が戻ってやれって言うのよ、 そして母と一緒にその子に逢ったりしているの。 これにも又腹立ったわ」
 冬子は流し放しの涙を、 思い出したように拭いた。
 「考えちゃったわ。考えあぐねたわ、光子に話したくて、 逢いたくて、 今日ここへ来て…、 光子のベット見て、 何気なく、 私、 ねそべったのよ……。 そうしたら、思いがけない人の温もりが残っていて……、 何と言うか、 何と言ったらいいか、 いいのかわからない、 わからないのよ。 体が縮むほどにね……」
 「……」
 「私の体の、 私の体の何処かに、 まだ女が残っていた…。 女が残っているなんて、 思ってもみなかった…」
 冬子は、 涙を拭きふき、 戸惑うような笑い顔を光子に向けた。

 温もりと冬子は言ったけれど、 おそらく、 井出の、 男の、 体臭であったのであろう。
 「賛成よ、矢崎さん喜ぶわ、今度こそ大事にしてくれるわよ。 矢崎さんもともとやさしいもの、 あなただって忘れてはいなかったでしょ」
 母の家へ寄って帰ると言う冬子を、 光子は、 エレベーターの前までおくって別れた。

 冬子が来ると言う電話に、
 「帰らせるのか」
  と、口だけ不服そうに井出は言ったが、 手は、 結構素早く動いていた。 ネクタイも靴下までも丸めて、 ズボンのポケットヘねじ込んだ。 その素足の踵へ指一本突込んで、 そそくさと靴を履く…、 光子は震えが来るような、 いやらしさを感じて目をそらせた。
  光子の両親に逢うのはもう一寸待てと言う。 光子の友達には、 決して逢おうとしない。 二人の愛をたしかめ合う時間だけが大事だ。 他のことは僕には無駄だという。
 はじめは、 真面目な、 几帳面な…と思っていた…が…、 それは計算高いことであり、 徹底したl吝嗇、 育ちと生活がそうさせるということも解って来た。 何もかも、 あまりにかけはなれた性格であった。
 「何でこんな人に、 私は尽しているのだろう」
 光子はこの頃、 そう考えることが多くなった。 決心がつかない自分自身さえ、 疎ましくも思えてならなかった。

 「ああ、 捨てりやあいいんだわ」
 声に出して光子は言った。
 「冬子はやさしい…、 女がまだ残っていたなんて、ああ嫌だ、 私は嫌だ、 女なんていらない、 むしり取ってって捨ててやる、 捨てて見せる ! 」
 光子は、 ベッドに、 音立てて横になった。 軋みが背に伝わる…。
 温もりは、 疾うに消えて、 もう無かった。

   ──雑誌「新松柏」第 6 号 平成十二年七月刊 初出──
 
 

(筆者は、既に九十歳を越した独居のご老人、女性、である。湖の本の読者。むかし、歌人でもあったのではないかと想像される。映画の世界にも近く生きてきた人らしい。正確に詳しいことは存じ上げないが、秦恒平への自称「押し掛け弟子」である。短編小説を十作ちかく活字でも原稿でも見ているし、女徒然草をお書きなさいと勧めてきたほど、エッセイが多彩に軽妙・辛辣でおもしろい。短歌まじりに、もらっている百通できかない手書きの手紙は、豊かな知識や見聞や回想に彩られて、お人がよく見え、自体が文藝を成している。この作品も、決して昔の書きすさびを持ちだしたものでなく、正真正銘、卆寿すぎて精神健全な老女の作であることを、編輯者が保証する。簡潔に、微妙な女の気持ちを書いて余さぬこれは一の傑作である。加餐を心より念ずる。 0.12.17)



 
 
 
     ラーゲルレーブ作 軽 気 球
 
 

           鈴木 栄 訳
 
 

  はじめに
  ラーゲルレーブ(Selma Lagerlof( o にウムラウト) , 1858?1940)はスェーデンの女流作家である。
  北方神話をうたった『イェスタ・ベルリング物語』によって彼女の名声は一躍世界的になり、1909年にはノーベル文学賞を受け、更に1914年にはスエーデンアカデミーの会員に推挙された。「イエスタ・ベルリング物語』と並んで広く親しまれているのは『ニルスの素晴らしいスェーデンの旅』であるが、そのほかにも彼女の作品はかなり多く、そのドイツ語訳全集は12巻からなっている。いまや彼女の作品は、世界の各国語に翻訳されて、おびただしい読者層を持っている。故郷の自然に対する優しい感情や、人間的愛、宗教的神秘性、道徳的清純さが至る処に溢れていて、豊かな想像力で、印象的に語られる言葉とともに、非常な魅力となっている。
 この訳は、旧制高校の二年生(1938)の夏休みに試みたもので、当時の語学力では、彼女の魅力の半分も伝えていないと思うが、私にとってはただ一冊の翻訳書であり、何かの形で残しておきたいと思い、この本(限定私家版・非売)になった。
 ただ、手書きの原稿が一部残っているだけで、テキストの所在も分からず、改訳は無理で、やむをえず旧稿の言葉づかいを改めるにとどまったことをお許し頂きたい。
 今考えてみれば、この本の翻訳を思い立ったのは、子どもと家族・生育環境の問題が、心のどこかに芽生えていたのかもしれない。そして現在の育児観につながって来たのかもしれない。そういう意味でも私にとっては、懐かしい、思いでの一冊である。
 なお、本書の日本語訳はこれまでには出ていない。    1998年8月   鈴木 栄
 
 

    

 ある雨降りの十月の夕方、ストックホルム行の普通車の一車室に一組の父子が乗っておりました。父親は、一方のベンチを一人で占領しておりました。子どもたちはその向いにお互いに身をすりよせて座り、ジュールベルンの「軽気球に乗って六週間」という小説を読んでいました。その本は手垢で汚れており、破れてさえおりました。子どもたちはその本をすっかり暗記しており、何回となくその内容について話し合っていました。しかし子どもたちは繰り返し繰り返し、いつも満足してこの本を読んでいました。子どもたちはなにもかも忘れて勇敢な気球乗りと一緒にアフリカ横断をやっているのです。そして今通っているスウェーデンの景色を見ようともしないのです。
 子ども二人はとてもよく似ていました。身長も同じくらいで、お揃いの鼠色の外套を着て、青い帽子をかぶっていました。二人とも大きい夢見がちな眼をしており、小さい団子鼻をつけていました。二人は大の仲良しで、どこへでも一緒に行き、他の子どもたちにはかまわず、何時も発明や探検旅行のことなどを語り合っていました。しかし性格は全く反対でした。兄のレンナルトは今年十三歳になりますか、学校の成績はよくなく、どの学科も皆と一緒にはやってゆけません。その代わりとても器用で、なにか新しいことをやるのが好きでした。彼は発明家になって飛行機を作ろうと思っていました。弟のフーゴーは一つ年下ですがとても利口で、学校はもう兄さんと一緒でした。しかしフーゴーも勉強は余り好きでなく、運動ばかりやっていました。スキーも上手いし、自転車に乗ることも出来たし、スケートもやりました。彼は大きくなったら探検旅行に行こうと思っていました。兄さんのレンナルトが飛行機を作ったら、それに乗って世界中のまだ発見されていないものをみんな見つけてやるのだと言っていました。
 お父さんは体の大きい人ですが漏斗胸で顔色は蒼く指は細く、美しい手をしている人です。洋服の着方は少しだらしがないようです。ワイシャツはしわくちゃで、襟は顎からはみ出しており、チョッキのボタンはかけちがえていて、おまけに靴下もだらりと下がっておりました。髪は長く襟に届くほどのびています。しかしこれはだらしがないからではなく、こうしておくのが好きだからです。
 お父さんは代々続いた田舎の旅音楽士の家に生まれました。そしてお父さんは2つの非常にすぐれた才能をもっていました。その1つは非常にすぐれた音楽的才能で、これがまず現れました。ストックホルムのアカデミーで勉強してから二, 三年外国へ行き、すばらしい進歩をしましたので、お父さん自身もまた先生も世界的ヴァイオリニストになるだろうと信じておりました。この期待に背かないような才能は十分持っておりましたが、ただ忍耐力がなかったのです。それで社会的には地位も得られず、間もなく故郷へ帰り、近くの田舎町の教会のオルガン弾きになりました。始めの中は人々の期待にそえなかったことを恥じておりましたが、だんだん誰の世話にもならずに暮らしてゆけることに満足するようになりました。この職についてから間もなく結婚しました。そして数年の間はその境遇に満足しきっておりました。いい家庭を持っており、明るいやさしい妻がおり、おまけに二人の子どもさえ恵まれました。彼は町中の人気者で、どこへ出掛けても引っ張り凧でした。しかしこれも長くは続きませんでした。間もなく彼はこのような生活に飽きてきました。もう一度世に出て一か八か運だめしをして見たいとひそかに考え始めました。しかし妻子のある身ではそれも叶わず、どうしても今のままで行くより仕方がありませんでした。
 夫がもう一度世に出て華々しく活躍したいという希望を持っていることを知った妻は、一生懸命でそんなことをしないようにと説得しました。彼女は今から又やっても若い時のようには行くまいと考えていたのです。彼女はこう言いました。「私たちはいま十分幸福です。これ以上を望むなんて神様の罰があたりますよ。」と。しかし止めたことは間違いでした。この間違いで彼女は非常に苦しまねばなりませんでした。というのはもう一つのこの家に伝わる特徴が彼に現れたからです。彼の名声や成功に対するあこがれは充たされませんでしたので、その鬱(う)さを酒で紛らわそうとし始めたのです。
 彼の家の人々が皆そうであったように、彼もまた思慮もなく、限りもなく酒を飲み続けました。そして間もなく零落して来ました。彼はすっかり変わってしまいました。愛想がよく、人好きのする人であった彼か、不機嫌なそして冷淡な人になってしまいました。そして非常にいけなかったことに妻を大変憎んだのです。彼は酒を飲んでいる時はもちろん、飲んでいない時も、あれこれにつけて妻をいじめました。
 それで家庭は彼ら兄弟にとってはなんの関心もないところになりましたし、彼らの少年時代は不幸そのものでありました。唯一の彼らの楽しみは機械の模型や探検旅行などについて語り合う彼らだけの時間でした。お母さんは時々彼らが話しに興じているのを見受けましたが、お父さんはこんなことをしているなどとは気もつきませんでした。そして今日もお父さんは子どもらを喜ばせるような話をしようとはしていません。そればかりではなく「ストックホルムへ行きたくはないか。」とか、「お父さんと旅行へ行くのは面白くないのか。」などと言って彼らの楽しみを再三再四邪魔をしておりました。
 こんなことを聞かれると彼らは素っ気ない返事をしてすぐまた本を読み耽りました。しかしお父さんはうるさく話しかけます。お父さんは自分では、「子どもたちは自分がやさしいのですっかり喜んでいるのだ。ただ内気な子どもたちだからそれを顔に現さないだけなのだ。」と思い込んでいるのでした。「子どもたちは長い間母親に甘やかされたからこんなに臆病で小心なのだ。しかし私の所へ来たからには鍛え直してやらねばならぬ。」とお父さんは考えていました。
 しかしこう考えたのはお父さんの思い違いでした。子どもたちが素っ気ない返事をしたのは内気だからではなくて、彼らは躾がよく、父の気持ちを損ねまいとしているからなのでした。もしそうでないとしたら彼らはきっとこう答えたでしょう。「どうしてお父さんと旅行するのが楽しいのですか。」と。また、「お父さんは自分ではもちろんなにか偉い人であるかのように思っているのでしょう。しかし僕らはお父さんが落ちぶれた意志の弱い人に過ぎないことはよく知っています。なぜ僕らはストックホルムを見物出来ることを喜ばねばならないのですか。お父さんは僕たちを喜ばせるためではなくて、お母さんを苦しませるために連れて来たのでしょう。」と答えたかもしれません。
 お父さんは子どもたちには構わない方がよかったのでした。子どもたちは憂鬱な、不安そうな顔をして、お父さんが上機嫌なのに腹をたてておりました。
「お父さんはお母さんが家で泣いているのを知っているから今日はあんなに機嫌がいいのだね。」と,二人は小声で話し合っておりました。
 お父さんが余りにもうるさく話しかけるので、彼らは本を見てはいたものの、もう読んではおりませんでした。そして苦々しい気持ちで、お父さんのために苦しまねばならなかったいろいろなことを思い出していたのでした。
 彼らはお父さんが真っ昼間から酔いどれて、子どもたちにからかわれながら帰ってきたときのことを思い出しました。また酒飲みの父を持ったためにからかわれたり、あだ名をつけられたりしたことも思い出しました。
 彼らは父のために恥ずかしい思いをし、絶えず苦しみ、その上彼らの楽しみまで父に邪魔されたのでした。父のこうした悪事は数限りないものでした。彼らは従順な辛抱強い子どもでしたが、父に対しては強い憎悪を感じておりました。そしてこの憎悪がだんだん強くなるのをどうすることも出来ませんでした。
 少なくともお父さんは自分が昨日したことに、子どもたちが非常に失望.したということを理解すべきでありました。こんどのことはなんと言っても今までの中ではもっともひどいことでありましたから。
 話はこうなのです。お母さんは今年の春からお父さんと別れようと考えておりました。お父さんはありとあらゆる方法でお母さんをいじめました。しかしお母さんはお父さんを全く駄目な人にはすまいと思っておりましたので、今までは離婚しようなどとは考えても見ませんでした。しかし今度という今度はもう子どもたちのために別れようと決心したのでした。お母さんはお父さんが子どもたちを不幸にしたのだということをよく知っていましたから、この悲惨な境遇から引き出して幸福で平和な家庭を子どもたちに与えなければならないと考えたのです。
 春の休みに入ったとき、彼女は子どもたちを田舎の実家へやり、自分は外国旅行に出掛けました。こうして離婚の第一歩を踏み出したわけです。もちろんこんなことをして、自分の方が悪くて離婚になったのだと人に思われるのはいい気持ちではなかったでしょうが、彼女は子どもたちのためにあえてこんなことをしたのです。しかしもっと不満なことは、子どもは父の方へやるようにとの判決を受けたことです。なぜなら彼女は自分で家出をしたのですから。しかしお父さんはきっと子どもたちを手許へ置くことはないと自分を慰めておりましたものの、子どもたちのことを思えば胸がいたみました。
 離婚が成立するとすぐ彼女は帰って来て、子どもたちと一緒に暮らそうと家を借りました。二日たって準備がすっかり出来ましたので子どもたちも来ることになりました。この日は子どもたちにとっては非常に嬉しい日でした。この家には大きな部屡が一つとそれに小さな台所がついていました。部屋数こそは少ないが、何もかも新しい.立派な家で、それにお母さんがいろいろ工夫して居心地よいものでした。部屋は一日中お母さんと子どもたちの仕事部屋になり、夜は子どもたちの寝室にあてられるはずでした。台所も小じんまりしたところで、ここで食事をしようと母子は語り合いました。台所のかげの仕切った部屋はお母さんの寝室と決められました。
 お母さんはこれからの生活はかなり切りつめなければならないだろうと子どもたちに言い聞かせました。彼女は女学校の音楽の先生になりましたが、この先生の俸給だけで暮らさなければならなかったからです。ですから女中をやとうなどは思いもよらぬことで、自分たちですべて間に合わせなければなりませんでした。しかし子どもたちにはすべてが嬉しいのでした。ことにお母さんの手伝いが出来ることが彼らを喜ばせました。彼らは喜んで水を汲んだり、木を運んだりしました。また自分で靴を磨き、ベッドをつくりました。子どもたちにとっては自分たちでああこうといろいろ考えるのは結構楽しいことでした。
 また小さな部屋がもう一つあって、そこにレンナルトが機械をしまっておきました。そして鍵も自分で持っており、ここにはレンナルトとフーゴーしか入れませんでした。
 しかし母子のこうした幸福な生活も長くは続きませんでした。それは例のとおり父がまた邪魔をしたのです。ある日お母さんが子どもたちに、お父さんが数万円の遺産を相続したので、仕事をやめてストックホルムへ引っ越すらしいという噂があると話しました。母子はお父さんがこの町から出て行くのを非常に喜びました。お父さんがこの町におらなくなると、どこかの通りでお父さんに会って気まずい思いをする心配もなくなるからです。しかしこの喜びはほんのつかの間でした。お父さんの使いの人が来て子どもたちをストックホルムへ連れて行くつもりだと言いました。
 お母さんは泣いて、子どもたちは連れて行かないようにとお願いしましたが、使いの人はお父さんが子どもたちは自分の手許におくと言って頑として譲らないと言いました。そしてもし子どもたちを渡さないなら警察の力を借りるまでの話だと脅しました。使いの人は判決文の中には子どもは父のものだと書いてあるからもう一度読めとも言いました。お母さんもこのことはよく知っているのです。しかし子どもを手放すことはどうしても出来ませんでした。お父さんの使いは「お父さんは子どもたちを愛しているから自分の手許におきたいと言うのだ。」などといろんなよさそうなことを言いましたが、子どもたちはお父さんはただお母さんを苦しめたいばかりにこうするのだということはよく分かっておりました。お父さんはお母さんが離婚したことによってかえって苦しむようにとこんなことを考え出したのでした。お父さんの考えではお母さんが子どものことを考えていつも心配しているようにとこうしたので、皆憎しみと悪意から出たことなのでした。
 お父さんは自分の意志を通し、いまこの父子はストックホルムヘの旅の途中にあるのでした。子どもたちの向かいに座って、お父さんはお母さんから子どもたちを取り返してお母さんを悲しませたこと喜んでいるのでした。それと反対に、子どもたちはお父さんのところにいて、お父さんと一緒に暮らさねばならないと考えると、だんだんいまいましくなってゆきました。もう完全に彼らは父の思い通りにならなければならないのでしょうか。なんとかならないものでしょうか ?
  お父さんは後ろによりかかってしばらくまどろみました。すると子どもたちは急に勢いよく話し出しました。彼らは一日中逃げる工夫をしてしていたのですから今が絶好のチャンスです。彼らは汽車が森を通った時に乗車口から飛び出そうと相談しました。そして上手く逃げることが出来たら、森の中の人の知らないところに小屋を建てて、そこで人目につかないように暮らそうなどと話し合いました。
 子どもたちがこんな相談をしてる中に、汽車はある駅に着きました。そして一人の百姓らしい女が子どもたちの手をひいて乗って来ました。彼女は黒い着物を着て頭巾をかぶり、親切そうな顔つきをしていました。彼女は子どもの外套を脱がせ、子どもをショールにくるみました。そして靴を脱がせ、雨で冷えた足をふいてやり、風呂敷包みから靴下と靴を取り出してはかせました。それからボンボンを与え椅子の上に寝かせて、頭を膝にのせて寝つかせました。
 子どもたちは代わる代わるこの子どもの世話をしている女を見ました。何度も何度も見ている中に子どもたちの眼には涙が浮かびました。そしてもうこの女を見ないで黙ってうつむいてしまいました。
 子どもにはこの女の人と一緒に他の誰もが気づかないもう一人の婦人が乗ったように思われたのです。そしてこの人こそはお母さんなのです。子どもたちには、お母さんが昨夜お父さんと一緒に行かなければならないと決まったときにそうしたように、お母さんが来て二人の間に座り二人の手を握ったように思われたのです。
「お前たちは私のためにお父さんをうらんだりしてはいけません。お父さんは、私がお父さんがもう一度世に出ようというのを止めたことをまだ怒っているのです。お父さんはきっと私をどんなに苦しめても飽き足らないでしょう。お前たちはこれからお父さんのところへ行かなければならないのですから、お父さんにやさしくして上げると約束してください。決してお父さんの気に入らないことをしてはいけません。出来るだけ気をつけてお世話をして上げて下さい。今言ったことは決して忘れないと私に約束して下さい。でないとどうしてお前たちを手放せるものでしょう。」昨夜ははっきりと約束したのでした。
 お母さんは言います。「お父さんのところから逃げてはいけません。私に約束して下さい。決して逃げませんと。」子どもたちは今また約束をしました。
 子どもは母の言葉はよく守るものです。この子どもたちも昨夜お母さんと約束したことを思い出した時、逃げようなどという考えはなくなってしまいました。お父さんはまだ眠っています。しかし子どもたちは大人しくして座っています。そしてまた前にも増して熱心に本を読み始めました。彼らの友達のジュールベルン小父さんは、彼らを心配から引づり出してアフリカの神秘境へと導きます。
 南町区から少し離れた郊外にお父さんは中庭に面した一階の二部屋を借りました。この部屋は修繕もされずに、何年もいろいろな家族に使われておりましたので、壁紙はしみや破れたところだらけで、天井は煤け・窓の硝子はこわれ、床は踏み減らされて凸凹になっておりました。運送屋が二、三人で家具を駅から持って来て、部屋の中にいい加減に置いて行きました。父子は荷物を解きにかかりました。お父さんは斧を振り上げて箱を開けようとしています。子どもたちは箱からコップや食器等を出して戸棚へ入れます。彼らは仕事が上手で熱心ですが、お父さんはコップは一つ皿は一枚づつしか運んではならないと小言を言うのを止めません。お父さんの仕事は一向に捗りません。お父さんの手はブルブルふるえて力がありませんから、汗びっしょりになっていますが箱の蓋を開けることが出来ないのです。お父さんは斧を置いてこれは逆さじゃないかと考えています。すると子どもの一人が斧を取って箱を開け始めました。お父さんは子どもをつきのけて、「レンナルト、お前はまさかこのおれにさえ出来ないのに、この箱の蓋が取れると思っているのではあるまいな。」と叱りつけました。そして、「この箱は慣れた職人でなくては駄目だ。」といって上着を着て帽子をかぶって出て行きました。
 お父さんはドアから一歩外に出るとすぐ自分の腕に力のないわけが分かりました。その時は朝まだ早く、まだアルコールを全然やっていないのでした。。「もし飲み屋へでも行ってコニャックを一杯ひっかければ力が出て来て、人を頼まなくてもいいだろう。その方がよほどいい。」とお父さんは考えたのでした。
 そこでお父さんは街に出て飲み屋を探しました。そして彼が中庭に面した部屋に帰って来たのはもう夜の八時でした。
 お父さんは若い頃、まだ大学にいっていた頃にはこの近くに住んでおりました。そして店員や小売商人などと一緒に合唱団を作り、モーゼバッケの近くの料理屋でよく会を開いたものでした。そこでお父さんはこの料理屋がまだあるかどうか訪ねてみたいと思ったのです。この料理屋はまだ残っていました。そしてお父さんはラッキーにもそこで朝食をとっている昔の仲間に会いました。彼らは非常に喜びお父さんに朝食を御馳走し、お父さんがストックホルムへ来たことを心から喜びました。朝食が済んだのでお父さんは帰ろうとしましたが、その仲間たちが「お前も一緒に。」と言いました。それが夜の八時まで続いたのです。お父さんは楽しい仲間から別れることは出来なかったのです。
 お父さんが帰ったとき子どもたちは真っ暗闇の中におりました。お父さんがポケットからマッチを出して荷物の中に紛れ込んでいた蝋燭の燃えさしに火をつけた時、顔を真っ赤にしてほこりだらけにはなっているが、元気なそして楽しく一日を過ごしたらしい子どもらを見つけました。
 部屋の中には家具がきちんと置かれ、箱の蓋は取り外されていました。そして藁や紙屑はすっかり掃き集められており、一つの部屋には子どもたちのベッドが、他の部屋にはお父さんのベッドが置かれてあり、お父さんのベッドはきちんとメイクされておりました。
 それを見たお父さんの心の中に、また例のとうりの変化が起こりました。家へ帰ったときには片付ける仕事から逃げて、子どもたちにご飯も食べさせなかったことを恥じておりましたが、今子どもたちが元気でいるのを見て、彼らのために仲間と別れて帰ってきたことを悔やみ始めました。そしてだんだん気がいらだってきました。
 お父さんは子どもたちがこんなに働いたのですと誇らしく思い、ほめて貰おうとしていることはよく分かっていましたが、どうしてもほめる気になれませんでした。そしてほめるどころか「誰かが来て助けてくれたんだろう。このストックホルムではただでは塵一つ貰うことは出来ないんだということを忘れて貰っては困るぜ。」とさえ言いました。
 子どもたちは誰にも手伝って貰わないで、自分たちだけでやったんですといいましたが、お父さんは叱るのを止めませんでした。
「こんな大きな箱の蓋を開けるなんてとんでもないことだ。そんなことをすれば怪我をするかもしれないじゃないか。だからあんなに止めろと言っておいたのに。お前たちはわしの言うことを聞かないといけないんだぞ。わしはお前たちには責任があるんだからな。」
 それからお父さんは蝋燭に火をともして台所へ行き、そして戸棚の中も調べました。コップや皿などはキチンと並べてありました。お父さんは鵜の目鷹の目で叱言の種を探しているのです。突然お父さんは子どもたちの晩ご飯の残りを見つけ「どうして鳥肉なんか食べたんだ。」と怒鳴りつけました。
「どっから一体持って来やがったんだ。」「お前たちは王様にでもなったっもりでいるのか。」「金を出して鳥肉を食うなんてぜいたくじゃないか。」
 しかしよく考えてみると、お父さんは子どもたちにはお金は一文も渡していなかったのです。そして今度は「この鳥は盗んで来たんじゃないか。」と眼をむいて怒り出しました。
 お父さんは一人で怒鳴って、暴れ廻りましたが子どもたちはただ黙っていました。子どもたちは答えようともしないでお父さんを暴れるままにしておきました。お父さんは長々と説教し、とうとう説教し疲れてしまいました。そして「お願いだから本当のことを言ってくれ。お前たちが本当のことさえ言ってくれればどんなことをやったにしろ許してやるから。」と手を合わせて哀願し始めました。
 子どもたちはとうとう我慢しきれなくなってプッと吹き出しました。掛毛布を剥いで床の上に起き上がりました。顔はおかしさをこらえていたので真っ赤です。そしてレンナルトは笑いこけて言葉もきれぎれに「お母さんがお餞別に鶏を一羽くれたんですよお父さん。」と言いました。
 お父さんは立ち上がって子どもたちを睨みつけ、なにか言おうとしましたが、なんと言ってよいか分からなくなりましたので苦々しそうに舌打ちして自分の寝室へ入りました。

  * * *

  お父さんは子どもたちがよく働くということが分かりましたので女中代わりに酷使しました。朝はレンナルトにはコーヒーを沸かせと言い、フーゴーにはパンを買ってこいとか、食卓の支度をしろなどと言いつけます。朝食が済むと自分は椅子に座って、子どもたちがベッドを作り直したり、部屋を掃除したり、ストーブに火を入れたりするのを黙って見物しています。ひっきりなしにあれだこれだと仕事を言いつけて父の威厳を示そうとしているのです。朝の掃除が済むとぶらりと出掛け、お昼までは帰りません。昼飯はレストランから届けさせます。子どもたちはほったらかしてただ自分だけ遊び歩きます。そして帰った時にベットが作っていないと機嫌が悪いのです。しかしそれ以上のことも望みませんでした。ですから子どもたちは一日中二人で好きなことが出来るのでした。
 子どもたちの大切な日課の一つはお母さんへ手紙を書くことでした。お母さんは毎日手紙をよこし、返信用の切手まで入れてありました。手紙にはいつもお父さんの言いつけを守りなさいと書いてありました。そしてお父さんも若いときはやさしい、野心的で勤勉な、いい人であったと書いて、不幸なお父さんにやさしくして上げなさいと結んであるのでした。「もしあなた方がお父さんに親切にするなら、お父さんもきっとあなた方をお母さんの所へ帰すでしょう。」と書いてあることもありました。またあるときは「お母さんはあなた方を手許に置くことができないものかどうかわざわざ牧師さんや市長さんのところへ相談に行って見ましたがどうもいい方法がないとのことでした。お母さんはあなた方に、せめて街に出たときだけでも会いたいのでストックホルムへ行こうかとも思いました。しかし近所の人々は「待てば海路の日和」ということもあるから止めるようにといいます。この人たちはお父さんが間もなくあなた方が嫌になって、帰してよこすだろうと思っているのです。お母さんは本当にどうしていいか分かりません。あなた方がストックホルムで、面倒を見てくれる人もいないところで暮らしているのがなにより気がかりですが、お母さんもこの町を去るとなれば仕事がなくなりますから、あなた方を折角連れ戻しても食べることも出来ません。しかしお母さんはクリスマスの頃にはきっとストックホルムへ行きますから待ってて下さいね。」と書いてよこしました。
 子どもたちはお母さんに日課を詳しく書いて送りました。お父さんの食事やベッドの世話まで出来るだけ親切にやっていると書いて送りましたが、お母さんには子どもたちはまだお父さんを嫌っているということがよく分かりました。子どもたちは淋しい生活をしているように思われました。大都市の中で、面倒をみてくれる人もいない所にいるのですから。しかしこの方がかえっていいのかもしれません。もし悪い人と友達になってグレてしまえば大変なことになりますから。
 子どもたちはお母さんに「僕たちのことは心配しないで下さい。僕たちは靴下も繕えますし、ボタンもつけられます。なんの不自由も感じていません。レンナルトの発明も捗っています。これが完成すればなにもかもよくなるでしょう」と書きました。
 しかしお母さんはいつも心配です。寝ても覚めても心は子どもたちのことで一杯でした。
お母さんは毎日神様に、ストックホルムで誘惑から守ってくれる人も、悪いことをしないように注意する人もいない、淋しい日々を送っている子どもたちを守って下さいとお願いしておりました。

   * * *

 ある日父子揃ってオペラ見物に出掛けました。それはお父さんの友達が、その人は宮中楽団の人でしたので、交響楽団の試演にさそったからでした。オーケストラの演奏が始まって美しいメロディーが劇場に一杯になった時お父さんは深い感動を受けたのです。もう我慢出来なくなって泣き出してしまいました。すすり泣いて、鼻をすすりあげておったお父さんが声を上げて泣き出したのです。自制心も失ってしまい、周囲の人々への迷惑もなにもかも忘れて泣きつづけましたので、係の人に出てくれるように注意されました。お父さんは黙って大人しく子どもたちの手を取って劇場を出ました。お父さんは家に帰りつくまで泣きつづけました。
 お父さんは子どもたちの手を強く握り、黙って歩いておりました。すると子どもたちも突然泣き出しました。子どもたちにも今始めていかにお父さんが芸術を愛しておったかということが分かったのです。落ちぶれて、他の人々の演奏を聞くことはどんなにお父さんにとってはつらいことだったのでしょう。期待されておりながら果たせなかったお父さんの運命は、悲惨と言わざるを得ないでしょう。これはレンナルトが飛行機の製作に失敗し、フーゴーが探検が出来なくなったときの二人の気持ちとなんの変わるところもないのです。いつの間にか年をとってしまい、頭上を自分が作ったものでもなく、もちろん操縦も出来ない立派な飛行機が飛んで行くのを黙って見送らねばならないとしたら、もう考えるだけでも耐えられないのではないでしょうか。

   * * *

  ある日の午前のことでした。子どもたちは座って本を読んでいました。お父さんは楽譜を小脇にかかえて外出しようとするところでした。お父さんは音楽の教授に行くんだと言っていますが子どもらは本当だと考えたことはありませんでした。お父さんは出掛けるときはいつも機嫌がよくないのです。今日も「音楽の教授に行くんだ。」と言ったとき子どもたちの顔色が変わったのを見てこう言いました。「お前たちはお父さんの言うことを信じないのか。」
「俺は余りにも寛大すぎるんだ。二人とも横っ面を張って来ればよかったんだ。あのおっかあの奴、入れ智恵してるんだな。」とお父さんは思いました。「一寸子どもの様子を見に戻ったらどうだろう。」と考えました。「彼奴らが勉強しているのをみたところで別に悪くはないだろう。」
 お父さんは大急ぎで庭を横切ってドアを開けました。子どもたちは二人ともお父さんが戻ってくるとは思っていませんでした。突然お父さんが来たのに驚いて二人とも顔を真っ赤にしてもじもじしてます。そしてレンナルトは紙の一束を机の引き出しの中に慌てて隠しました。
 ストックホルムへ来て間もない頃のことでした。子どもたちがどこの学校へ行くのか尋ねたとき、お父さんは学校のことなんか当分お預けだと答えました。「その中(うち)にはいい先生の所へやるさ。」と言っておりましたが一向にやってくれません。それで子どもたちはもう学校へ行くなどとはいわないで自分たちでプランをたてて勉強することにしたのです。それから一週間もたたない中に教科書を探し出して、午前中は古い机に向かって勉強し出しました。「習ったことを忘れないように自分で勉強しなさい。」とお母さんが手紙に書いてよこしたのは言うまでもありません。
 お父さんは今急に部屋に入って来てこのプランを見たのです。時計を出してこのプランと見比べてみました。「水曜日 10時一11時 地理」
 それから机の側に寄って「お前たちは今本当に地理をやっていたのかね。」と尋ねました。「はい、やっていました。」と子どもたちは顔を真っ赤にして答えました。「しかしどっから地理の教科書や地図を見付けたんだい。」子どもたちは書棚の方を見てさも当惑したような様子でした。「僕らは本当を言えばまだやっていないんです。」とレンナルトは言いました。「そうかそうか。本当はお前たちは何か別のことをやろうとしてるんだろう。」こう言って、お父さんは満足そうに立ち上がりました。この戦は明らかにお父さんの勝です。この優勢を守っていれば子どもたちは降参するだろうとお父さんは考えていたのです。
 子どもたちは黙っていました。子どもたちはオペラを見に行ってからお父さんにいくらか同情するようになり、お父さんに柔順に仕えることは以前程苦しいものではなくなったのでした。しかしお父さんを信じようとは、夢にも思ったことはありませんでした。気の毒だとは思っても、尊敬の念は起こらなかったのでした。
「お前たちはお母さんに手紙を書いたろう。」とお父さんはきつい声で言いました。子どもたちは口を揃えて言いました。「書きはしませんよ、お父さん。」
「じゃお前たちは何をしてたんだ。」「僕たちはおしゃべりしてただけなんです。」「嘘を言え。お父さんはレンナルトが何か机の引き出しの中へ入れたのをちゃんと見たんだぞ。」子どもたちはまた黙ってしまいました。「おい出して見ろ。」とおとうさんは怒って顔を真っ赤にして言いました。お父さんは息子たちがお母さんへお父さんの悪口を書いてやるところだったから見せないんだと思ったのです。お父さんは引き出しの前に立っているレンナルトを殴ろうとして手を振り上げました。すると今まで黙っていたフーゴーが「乱暴してはいけません。」と叫びました。「僕らはレンナルトの工夫したもののことを話し合っていたのです。」
 フーゴーはレンナルトを押しのけて引き出しから一枚の紙を出しました。それには奇妙な形の飛行船が下手な繪で書かれていました。「レンナルトは昨夜飛行船につける新しい帆を工夫したのです。そして僕たちは今そのことを話し合っていたのです。」
 お父さんはしかしフーゴーの言ったことを信じません。そして引き出しの中を自分でまた探しました。しかしそこには航空旅行に使う気球や落下傘や飛行機などの繪で一杯の紙しか入っていませんでした。
 子どもたちが驚いたことは、お父さんがこの紙を捨てたり、馬鹿なことをやってると笑ったりしないで一枚々々丹念に見始めたことです。実はお父さんも機械をいじることが好きだったのです。そして若い頃にはこんなことに興味を持っていたのです。しばらく見ている中にあれこれと子どもたち聞きました。そしてこの言葉の中に、お父さんが非常に興味をもって見ているということが聞きとれましたので、レンナルトは始めはもじもじしていましたか、だんだん喜んで答えるようになりました。
 間もなく父子は飛行機や飛行船について熱心に議論し始めました。そしてすっかり油がのって来ましたので子どもたちは喜んでプランや未来の夢などをお父さんに語り出しました。だからお父さんは今子どもたちが工夫している飛行船ではそう飛べないということが分かっていても、非常に感心しました。子どもらはアルミニウムのエンジンや飛行機やバランスのことなどをなんでもないことのように言うのです。お父さんは子どもたちが学校の成績がよくないので、こんなに利口だとは思ってもいなかったのです。しかし今は子どもらがいっぱしの学者のように思われたのでした。
 高尚な考えと理想。これは誰よりもこのお父さんがよく分かっていました。自分自身こんなふうに夢を見たことがしみじみと思い出されて、笑う気にはなれませんでした。この日からお父さんは外出しなくなりお昼のご飯になるまで子どもたちといろいろ話し合いました。そして驚いたことに、すっかり子どもたちのいいお友達になってしまいました。

   * * *

 夜の十一時頃でした。お父さんは通りを千鳥足で歩いて来ました。子どもらはその両側について歩いています。子どもたちはお父さんを料理屋で見つけて黙って戸口に立っておったのです。お父さんは一人でテーブルの前に座って椰子酒を飲んでいました。そして部屋の隅の方でやっている女楽団に耳を傾けておりました。しばらくするとお父さんは子どもらの来ているのに気がついて戸口の方にやって来て「何してるんだ。」「一体なにしに来たんだ。」と言いました。「そんなこと言ったってお父さん、今日は家へ帰らなくちゃいやですよ。」と子どもたちは言いました。「今日は十二月五日じゃありませんか。お父さんの約束した──。」
 そこでお父さんは今日はフーゴーの誕生日で早く家に帰ると約束したのを思い出しました。お父さんはすっかり忘れておったのです。フーゴーはお父さんの贈り物を待っていましたが、これもお父さんは忘れていました。
 それでもとにかくお父さんは子どもたちと一緒に今帰って来たのです。子どもたちにもまた自身にも、不満を感じながらも。家へ帰って見ると誕生日のお祝いのテーブルが待っていました。子どもたちが心を込めて支度したのです。レンナルトはケーキを焼きました。しかしそれも冷えきってしまいました。彼らはお母さんから貰った僅かのお金で、胡桃やアーモンドや苺のジャムなんかを買ったのです。こんなに作った御馳走を自分たちだけで食べようとしたのではありません。お父さんが帰ったら一緒に食べようと思って待っていたのです。お父さんと仲良しになってからは、お父さんなしでは何も出来ないのでした。お父さんもこのことはよく知っていましたし、子どもたちにこんなに慕われては悪い気もしません。とてもいい機嫌になってテーブルに着いたわけです。しかし半分酔っておりましたのでこのときつまずきました。そしてテーブルの端にしがみつきましたので、苺のジャムも饅頭も菓子も皿やコップと一緒に皆床の上に撒いてしまったのです。お父さんは子どもたちの悲しそうな顔を見てプイと外に出て、夜が明けても帰りませんでした。

   * * *

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 二月のある日の午前のこと、子どもらはスケートを持って出掛けました。彼らは全く別の人のようでした。やせて顔色が悪く、汚れた洋服を来てだらしなく見えました。髪ももじゃもじゃしており、顔ももうしばらく洗ったことがないようで、靴も靴下もボロボロでした。お互いに話し合っているときでも、時々悪童たちが使うような言葉が出ました。また、呪い言葉さえ混じっていました。
 フーゴーの誕生日の晩から、お父さんが帰ってくるのを忘れたときから、彼らは全く変わってしまったのでした。あの時までは二人とも、これからきっとよくなるぞ、と言う希望があったのでした。最初はお父さんが二人をお母さんの所へ帰してくれるだろうとそればかり待っていました。次にはお父さんは自分たちを愛してくれ、あるいは自分たちのことを考えて酒を止めてくれるのではないかとも考えました。そればかりではなく、お父さんとお母さんが仲直りしてまた皆で幸福に暮らせる時が来るのではないかとさえ考えておったのです。しかしあの晩からは二人ともはっきり知ったのです・もう何もかも駄目なんだと。お父さんの好きなものは酒だけでした。たとえ時々いいようなことを言っても、本当はさっぱり子どものことなんかは考えていないのです。
 子どもたちはすっかり絶望的な気持ちになってしまいました。もうどうにもならないんだ、お父さんと別れることなんか出来ないんだ。子どもたちは一生牢につながれると言う判決を受けた囚人のような気持ちになってしまいました。彼らのあの素晴らしい計画さえ彼らの心をなぐさめることが出来ないのです。今のように閉じ込められておってはやろうにもやれないのです。だからもう勉強する気もなくなってしまいました。彼らは偉人の話をよく読んだり聞いたりしていましたので、立派な業績を上げるのには知識が必要なことは百も承知でしたが。
 しかしもっとも大きな打撃は、クリスマスには来ると言っておったお母さんが来なかったことです。十二月の始めにお母さんは階段で転んで脚を折ったのです。そしてクリスマスの頃も退院出来なかったのです。今はもう治りましたが学校も始まっていますし、旅費がほとんど怪我のためになくなったのです。
 子どもたちは広い世界に唯一人置いてきぼりにされたように感じました。もうどんなにもがいてもどうにもならないことは分かりきったことでした。それで面白くもない勉強なんかで苦労するのはつまらないように思えたのです。と言うのは、自分たちの気に入ったことをやったってどうせどうにもならないんですから。
 時々ベッドもそのままのこともありました。部屋の掃除なんかはもう決してしません。掃除なんかしたところでまたすぐきたなくなるんですから。二人がどうしているか見に来る人などは一人もいないのです。
 お父さんはますます落ちぶれて来ました。時々これではいけないと思い、子どもたちにもしっかりしろと言うのですが、それも無駄なことでした。自分の言いつけたことも片っ端から忘れてしまうのです。
 子どもたちもまた、午前の勉強をサボり始めました。誰も試問もしてくれません。これでは勉強もまた無意味です。それに二、三日前から氷がよく張るようになりました。ですから勉強なんかをするよりはスケートでもやっている方がいいわけです。
 氷の上は毎日子どもで一杯です。そして皆家にいて勉強するよりも、スケートの方がいい連中なのです。
 今日はとくにいい天気です。ますます部屋の中にいることは出来ません。零下二、三度くらいでそう寒くもなく、静かで空気は澄んで、お日様がキラキラ輝いています。非常にいい天気です。学校はスケート休みにしたようで、スケートを取りに帰る子どもたちで道は一杯です。もうスケート場へ急いでいる子もおります。
 こんな子どもたちの間に交っていると、二人はとても憂鬱そうに見えます。顔には笑み一つ浮かべていません。二人の不幸は決して忘れることが出来ないほど大きいのです。
 二人がスケート場へ着いたとき、皆はもう元気で滑っていました。岸は人で一杯です。少し離れて巣をこわされた蟻のように入り乱れて滑っている人々が見られます。ずっと遠くには素晴らしいスピードで動いている点々が見えます。
 二人もスケートをはいてこの群に交じりました。二人ともとても上手です。滑っている中に頬には赤味を増し、眼は輝き出しましたが、決して他の子どものように朗らかには見えませんでした。
 二人が岸の方に向かって滑り出した時、突然美しいものを見ました。大きな気球がストックホルムの方からバルト海の方へ流れて行きます。赤と黄のだんだらになった気球は、日光を受けて火玉のように輝きました。ゴンドラは沢山の旗で飾られていました。そして気球は、そんなに高く飛んではおりませんので、美しい彩りが手に取るように見えるのです。
 子どもたちは気球を見た時、わ一っと歓声をあげました。生まれて始めて気球が飛んでいるのを見たからです。気球は彼らが想像していたよりずっと美しいものでした。この気球を見たとき、またあの空想や計画が、彼らの慰めであり友達であったあの空想や計画が思い出されたのです。二人は立ち止まってじっと見つめました。ゴンドラには錨や砂袋がついています。
 気球は非常な速度で凍った湾の上を飛んで行きます。大人も子どもも一緒になって大声をあげて気球を追って行きます。丁度大きな曳き綱のような曲線をなして追って行きます。気球に乗っている人は色とりどりの紙片をまきます。それがゆっくり蒼い空をひらひら舞いながら落ちて来ます。二人は先頭に立って気球を追っています。顔を上に向けて、眼は気球から離さず、先へ先へと走って行きます。彼らの眼はお母さんと別れてから始めて幸福そうに輝きました。彼らはもう夢中になって、気球を追うこと以外には何も眼中にありません。
 しかし気球はずんずん飛んで行きますから余程早い人でも遅れてしまいます。気球を追う人はだんだん少なくなりました。しかしまだ追っている人の先頭には二人の子どもがおりました。二人は余りにも熱心に追っているので見ている人も気が付きました。後になって人々は、二人の頭上にはなにか神々しいものがあったと言っています。二人は笑いもしません。叫び声もあげません。しかし上を向いている彼らの顔には幻でも見ているような恍惚の輝きがありました。
 気球は丁度二人を正しい道に戻し、元気を出せと教えるために遣わされた天使のようなものでした。気球を見たとき、二人の胸はまた発明にとりかかりたい気持ちで一杯でした。二人は必ず成功すると思いました。「我慢するならばきっと最後には勝利が得られるのだ。そして自分たちの造った飛行船に乗って、空を飛ぶ日が来るのだ。そうだその中(うち)に、人々の頭上を飛んで見せるんだ。飛行船は今のものよりずっとずっといいのだ。方向を変えることも、回転することも、下降も上昇も思いのままなんだ。風があってもなくてもかまわないんだ。そして夜でも昼でも、どこへでも行けるんだ。」こう考えると、二人は高い山の峰を下に見て、荒涼たる砂漠や神秘境を探検しているような気持ちになるのでした。世界中のありとあらゆる美しいものが見られるんだと思いました。
「フーゴー、僕らは止(や)めてはいけないんだ。」とレンナルトは言いました。「やり遂げさえすればすばらしいんだ。」と。
 お父さんとお父さんの不幸。これは何も関係のないことです。大きな目的を持った人は下らないことにこだわってはいけません。
 気球は遠くへ行けば行く程早くなります。人々はもう追いません。二人だけはしかしまだ追っています。しかも翼でも生えたように早く軽快に。
 岸に立って見ていた人が突然叫びました。驚愕と恐怖の叫びです。人々は二人の追っている気球が氷の割れ目の上を飛んで行くのを見たのです。
「そこは水だ。水だ。」と人々は叫びました。
 下の方で滑っていた人々はこの叫びを聞いて一斉に湾の口の方を見ました。そして一筋の水が日を受けて輝いているのを見ました。また二人の子どもが上ばかり見て、これに気付かないで滑っていくのを見ました。子どもたちは下を見ようともしません。
 人々は大声で叫び出しました。滑っている人々は止めようとして駆け出しました。子どもはしかし一向に気が付かずに気球を追っています。二人は人々が自分たちを追っているのだとは知らないようです。後ろで叫んでいる人々の声はおろか、波の音さえも聞こえないようです。彼らには気球以外は何もありません。そしてこの気球が彼らを引っ張っているのです。レンナルトは足下に飛行船があるような気がしました。フーゴーも北極の神秘境の上空を飛んでいるような気がしているのです。
 氷の上にいる人々も、岸にいる人々も瞬く間に二人が氷の割れ目に近づいて行くのを見ました。息もつけない数瞬、叫ぼうにも叫べません。
 空に輝く気球を死出の旅路の導者とは知らずに追っている二人の頭上には一種の魔のようなものがありました。
 気球に乗っている人々も二人に気が付きました。二人が危ないということを知りました。そして大声で叫んで、身振りで二人に危険であることを知らせようとしましたが、子どもたちには何のことか分かりません。二人が気球に乗っている人々が何か合図をしているのを見たとき、乗せてくれると言って、おいでおいでをしているのだと思ったのです。二人は手を差し伸べて嬉しそうに走りました。美しい大空を気球に乗って飛べるんだという希望に胸をふくらませて。
 このとき二人の子どもはもう水際まで来ておりました。
 顔を上に向けて希望に充ちた笑みを浮かべて、二人は海の中へ落ちて、見えなくなってしまいました。
 二人を止めようとして追った人々が氷の端に着いたときは、波が二人を氷の下に呑み込んでしまった後でした。そして救おうにも救うすべはありませんでした。  (おわり)
 

     
 (訳者は、名古屋大学名誉教授 小児科学。ウイルス病や育児学に大きな業績をのこされている。原作はノーベル賞を二十世紀の初めに受けた女性作家であり、これを旧制高等学校二年生の時に翻訳された手書き原稿が、幸いに保存されていた。二十世紀を終えようとする今に、初々しい心優しい筆致の本邦初訳作品を原稿のまま紹介できるのが嬉しい。)



 

              藤野 千江

 
 母は、八十二で、ものが食べづらくなり、検査の結果、胃に潰瘍ができているのがわかった。母の高齢を周囲(はた)の者は心配したが、 「ご飯がたべれるようになるんやったら、手術するでわ」と、平然と言い放った。
 摘出された潰瘍は、干し柿ほどもあったが、良性で予後も良好だった。
 手術以前、もしも転んだりしてはと無用の事故を不安がった家族は、母を寝たきりにさせていた。それも原因で、もともと膝に水がたまっていたため、歩行障害がでてきた。説明を聞いてもわかりにくい治療薬の数が、なにかと増えた。
 母に痴呆症が見えかくれしはじめたのは、手術から一年後、末娘千江の一家が I 市に転勤して、二年もしたころだった。義姉からの電話が思いがけぬ母の異変を告げてきた。
 「千江ちゃん、おばあちゃんがな。ヨシ君とハル君がおらんようになったけん、はよう探してきてって、ゆうんよ。きとれへんてなんぼゆうても、ほなって、隣でねとったのにてゆうけん、電話かけて聞いてみたらええでえ、ちゅうてこの電話したんよ。」
 電話口に出た母の口調はまだまだ元気だった。、
 「ほんまに来とれへんだでぇ? 隣に来て、ねとったんでよ。くるまがよおけとおりよるけん、ケガでもさせたらいかんおもてな、ねえさんに、はようさがしてきてえ、ゆうてたのんみょったんよ。ふしぎやなあ。ほんまにおったんでよ。」
 「ばあちゃん、こどもらみんな、学校へいっとうけん、そっちやにいんどれへんでよ。夢みたんじゃわよ。」
 「おまはんがゆうんじゃけん、ほうかいなあ。」
 お盆休みに千江たちは母の元へ帰省した。
 見た目に元気な母も、話す内容(こと)には、ときに過去と現在がないまぜになっている。
 「こないだ、正っさんがきて、てつのうてくれてなあ、屋根もあんばいようなおっとうだろ?」
 五年も前のことを昨日のように話してくる母。兼業農家で共働きの兄夫婦だから、ひとり家にいる母の症状が進むのも無理ないことかもしれないが、記憶の鮮明な部分だけがなんの違和感もなく、つなぎあわされているのだ。
 大阪に住む長女の照子が、ときおり見舞いに来ていた。照子は自分の子供たちがみな結婚して手を離れ、身軽になっていたから、日帰りででも様子だけは見にちょくちょく訪れていた。照子と千江は二十三も年の離れた姉妹だった。
 二男七女の末っ子で、千江は、月足らずで生まれた未熟児だった。高齢出産の母の産後はよくなくて、乳飲み子への授乳も禁じられたが隠れて母は赤ん坊に乳を与え、姉は重湯を飲まし、親代わりに世話をしてくれた。いまその母を看病する照子は、よく言った。
 「千江が、おかあはんと、おる時間がいちばんみじかいさかいに、思い出がすくのうてかわいそうやなあ。ちょっとでもなごういっしょにおれるように、看病しとくさかい。」
 その後再度の転勤で千江たちは前任地に帰ってきた。一年後には家を建てた。兄に伴われて母が新築祝いに訪れてくれたが、そのときにはもう、介添えがなければ歩けなくなっていた。畳の上をにじり寄ることでしか、母は身動きできなかった。
 この頃の母は、辛い口惜しい思いの毎日だったらしいと、後々に、照子は話した。
 ひとりで立ちあがれない母には、排泄の始末も無理だった。食べれば排泄物も増えるからと、お茶わんにご飯が一杯とお菜がすこし。お櫃は手の届かないところに置かれた。母は一食を二回に分けて食べていた。背中が丸く曲がって、入浴時の衣服の脱ぎ着にも手間がかかる。介添えの義姉は姑の背中を棒っきれで叩いて罵り、だが、気丈さの残っていた母も、売り言葉に買い言葉でかなり応戦したらしい。
 「背中がまがっとおのわな、肋膜の手術をしとおけんじゃ! ほんなに世話するんがいやんじゃったら、かんまんわい! おまはんやの世話にゃあ、なれえへんけん!」
 頭のケガも照子は見つけていた。
  「こけて、コンテナのかどで打ったってゆうてはったけど、あれかて叩かれてはったんかもわからへんで、なあ。頭のてっぺんさん、どないしたら打つのんよ。」
 八年経て今も口惜しさがこみあげるか、照子は声を震わせた。
 だが、歩けないはずの母が深夜に徘徊して、暗がりの中でケガをした。家族の負担はさらに加わっり、千江を訪れた姪は「やさしゅうしてあげなと思おとんじゃけんどな、ゆうこと聞かんけんナ、つい、きつうにゆうてしもて…。」と、涙ぐんだ。
 昼間は閉じこめておくしかなく、見かねた民生委員の口利きで特別養護老人ホームにと、話がそこまでくると、跡取り息子の兄にはそれも辛い選択だった。付き添いに照子が来てくれた。
 母をそんなとこへ入れてと、兄たちの仕打ちをなじるべつの姉もいたが、気がねなく見舞いに行けるし、なにより母が「安全」なのに安心した。兄は仕事の行きかえりに、毎日見舞っていた。
 母は、自分が今いるところも分別できぬまま、いつしか心の奥底に押し殺してきた憤懣をふきだし始めた。声をあらげ、嫁をののしる声がとげとげしく部屋の外へも洩れた。
 もともとは人に仏のように慕われてきた母だった。貧乏にくじけることなく、いつも気丈だった。小学校二年で奉公に出た母は、本を読んで字を覚え、行儀作法や包丁さばきなども、人に見習って覚えた。なにをさせても前向きで陽気な人。難儀な姑につかえ、大酒呑みの夫を支え、おおぜいの子も無難に育てあげて、きょうだいのだれ一人も理不尽に母に叱られた覚えなどもっていないのだ、そんな母だった。
 その母の初めて見せた修羅の険しさに、照子も、兄も他の姉たちも胸がしめつけられた。
 だが、混沌とした記憶の奥では幸せだった昔をさまよっているとも見えた。先に逝った人たちが母をしきりに訪れては話しかけているらしく、娘たちもみな若くて、末娘の千江などまだこの世に生まれてもいないのだ。千江はそんな母の世界の外にいた。それはそれで千江には寂しいことだったけれど、母が幸せそうに混沌のうちに心身をひたしている様は、安心でもあった。
 だが、それにしても、どこか変なのでは…。
 注意深く見守っていた照子が、或る奇怪な原因らしきものに思い当たった。日々に数種類も与えられている中の、或る薬をのむと、きまって母の行動に異常が現れるのだった。そう気付いた照子は何度もためらったのちに、主治医に相談をもちかけた。渋い顔をしながら、だが、主治医はその薬を母の処方からとりのぞいた。混沌の淵からしずしずと這い上がってくるように、母の記憶が、少しずつ正常化されてきた。姉も兄夫婦も固唾をのんで日々見守っていた。照子の機転(はたらき)でたしかに症状はすこし落ちついた。照子がついて車椅子で出歩くことさえ出来た母だった。だが、何としても家には帰らないと、鬼でも棲むかのように拒み続けた。
 「としいったらなあ。こどもらあがもんてくるゆうたら、ごっつおうをつくってまっといたろう、思とったんになあ。こないになってもて。」
 仏の顔つきにもどったかの母は、つぶやくようにさびしく、それを、言うのだ。母の記憶がもどったことが本当によかったのかどうかは誰にも分かりはしない。
 容態が落ち着いたのを見届けて、照子は大阪へ帰った。
 もう母は一日の大半を、静かに、眠りの世界に身をゆだねているようになった。母を見舞う千江の目に、穏やかに眠る母の顔が、一瞬ゆがみ、ツツーと涙が頬を伝った。そっとぬぐってあげた。頬はやわらかく、野良仕事で日焼けした名残りはどこにもなく、かたかった手も色白くなり、皮膚のしたで肉付きは目立って落ちていた。枯れ木の音もなく朽ちていくように母は衰えた、衰えていった。
 平成六年三月二十日。
 足をさすっていた兄の手の中から、静かに、静かに母のぬくもりが消えていった。八十六歳。よく謂う「眠るような」おだやかな死だった。

 

(筆者は、徳島県の働く主婦。湖の本の読者 推敲を重ねに重ねてもらい、読める私小説によく到達したと思う。)



 
 

        神 楽 岡         高橋 由美子
 
 

 その長い坂を、心臓破りの坂と、敦子の母は呼んでいた。
 東京にあるのと同じ名前で神楽坂といい、東山とは切り離されたかたちの、神楽岡とも呼ばれる小高い山、吉田山を西側から上がる坂だ。この坂を上がり切った所の、寺と神社に囲まれた住宅地の一角に、敦子は母と暮らしていた。紫野から移って、およそ一年。
 平安神宮のある岡崎の北側に位置し、とくべつ不便ではないのに環境がいたって静かなのは、京都観光のコースからやや離れているからで、熱心な神仏の信者か、旅行者がときたま訪れる程度の、敦子たち母娘が落ち着いて住むには佳い所だった。
 ひとつだけ、急勾配の長い坂を上がらなければ我が家に着けない難点を除けば。
 敦子の母、淑恵は、寝たきりの長い闘病生活から解放されてまだ間がなく、身長156センチで体重35キロの、見るから虚弱な体をしていた。原因不明で全身が徐々に衰弱していく厄介な病に淑恵が侵されたのは、敦子の妹を死産した14年前で、人並みの生活に戻るのに、幼児の敦子が思春期に入るまでの劇的に、そう劇的にとあえていいたい長い時間を必要とした。七つの病院と複数の医者と介護人が登場する間、一人の、家事を異様にうまくこなす妙な子供が自動的に育った。遊び時間が家事労働の時間に変わったことへの恨めしさと、母が死なずに生きていてくれた喜びとが一緒くたに重い固まりになり、敦子の心に長いあいだ根を生やしていた。何度全身くまなく検査しても淑恵の衰弱の原因は見つからず、いつまでも床から起き上がることができなかった。ときには狂人扱いされて、電気ショック療法という過激な治療も受けさせられた。みかねた親類に祈祷師を呼ばれたこともあった。
 全身の肉という肉が退化して消えて無くなり、骨にへばりついた皮膚に触れるとゆらゆら揺れる状態でも過酷に生き続けている母親は、敦子にとって決して奇怪でも狂人でもなく、抜けるように白く透き通った顔でじっと動かず微笑む様子からは、菩薩めく慈愛さえ感じた。物心ついた時にはすでに寝たきりの母親が、町場の個人病院の名医に出会ってリハビリに励み、ある日突然起き上がったのを見た時、敦子は感動の前に、重力が人の面相を全く変えてしまうことに心底驚いた。
 とりあえず回復したとはいうものの、買い物先で倒れてそのまま病院へ直行することが今もたまにあり、淑恵の日常はまだまだ不安を抱えていた。風の強い日など母が坂で吹き飛ばされないかと、敦子は本気で心配した。
 淑恵は夫、修一と離婚したばかりでもあった。病は家族を一時団結させ、時間と共に崩壊させた。経済の、また精神の負担に耐えきれず、修一は地道な勤めを辞めて博打をうつような危うい事業を興したものの見事に失敗し、より大きな負担を背負うはめになった。負担は病み上がりの淑恵と子供の敦子にも当然のしかかった。
 ほぼ毎日来る債権者の罵声を聞き続けた淑恵は、目に見えて再び衰弱していった。
 一つの苦しみから逃れるには新たな苦しみを受け入れるしか方法はなく、自立に必要なぎりぎりの体力を得たとき、淑恵は離婚という不安な自由の方を選択し、一人娘の敦子に思いの通じることを願った。どちらか一人の親を選べと敦子が裁判所から言われた時に、悩んだあげく母をと決心したのはそのことが理由だった。
 父とは自然に別れられた。なんの感情もわきあがらなかったのが、不思議だった。
 静かな環境を得た淑恵に今必要なものが、なにかしら深い心の拠り所であると敦子に想像はできるものの、淑恵の興味や関心がひたすら娘の自分に向かうのは遠慮したいと思っていた。母はぜひ守る必要があったが、親と過ごす以外の時間もたっぷり必要だった。絶対に来てほしい幸せを探す術は、まだ知らないでいた。
 家事が得意な妙な子供は、いつしか大人びた、妙な娘になった。
 淑恵は病のせいもあって色白細面で気がやさしいが、敦子は背が高く痩せてひょろひょろしていて目鼻立ちがはっきりし、十七にしては老け顔で、意志が強そうに見えた。
 初対面の人から歳相応に見られたためしがなく、20歳くらいですかと聞かれることもあれば奥さん、と呼ばれたこともある。これほど似ていない母娘もめずらしかった。
 ものの見方も同世代とは少し違ってしまい、皆が良いと言うもの、例えば少女らしい可愛げな服装や流行には一切興味がなく、古着屋で見つけたGパンにスニーカーで通した。友人の誰もが見たがらない、聞きたがらない暗い絵や人気のない音楽、よくわかりもしないくせに難解なヨーロッパ映画に心惹かれた。大人の気持ちがいつも気にかかり、考えを推測するのが面白かったが、早く大人になりたいわけではなかった。
 敦子が友人たちとなによりも違っていたのは、孤独を知らないことだった。
 生まれつき孤独な敦子には孤独の実感が欠落していた。一人の時間がどれほど長くてもそれは自由で幸せな時間で、辛いとか淋しいということがなかった。人も恋わなかった。勉強と家事のあいまにレコードをかけサイフオンでコーヒーをいれ、絵を描き詩を作り、幸せを感じた。
 吉田山に越してきた頃、神楽坂の往復は淑恵の体に当然負担をかけ、日々の厳しさはむしろ倍増した。二度も三度も立ち止まりながらやっと家まで上り終えたとき、淑恵の心臓は、糸ほど細い血管に血液を送るため、捻れたように苦悶した。血液が体の末端に向かってザア−と流れる音が聞こえるえと淑恵が言った時、敦子は母の心臓が破れてし
まわないことを祈った。ほんとうに祈った。敦子もたいていは坂の三分の二の所て一息いれ、淑恵がこんな場所を転居先に選んだのがうらめしかった。しかしほぼ一年間の上がり下りで、母娘は、細々とでもどうにか暮らしていける力が得られたし、そうなってみればみるで、坂の途中から眺める京の街や西山なみへの視野の広さは、疲れた心身をふかぶかと癒してもくれたのだ。
 家に辿り着くための坂は、神楽坂の他にもあった。抜け道も入れて、敦子の知るかぎりあと六から七方向にあるが、どの道も人通りは少なく、東から真如堂の境内へ入る急な石段のある道は昼でも静まり返っていて、人と出くわすとふと恐怖するくらいだった。
 もしもの変質者には絶好の環境だろうが、敦子たち母娘が幸い今のところ無事なのは、女人を守るといわれる真如堂、つまり真正極楽寺や近隣の神社の霊験やろと、少なくとも淑恵はいっそ心おさなく信じていた。
 淑恵は職場になった医院への通勤には、黒谷を抜ける道を利用した。黒谷には交番があり、霊験以外の守護が期待できるからであった。 
 家から山を下りる時敦子が好んで通ったのは、宗忠神社の境内を抜け、吉田神社の前を通って京都大学へ出る道筋だった。途中はきつい坂にもなっていて木々が生い茂り、淑恵は危いからやめとおきと言うが、演劇やコンサートや集会など、様々な催しが学祭のとき以外にもある京大へ、いちばん早く着ける近道だった。
 京大のキャンパスは東大路と今出川通りをまたいで、吉田山の西北の裾野に広がっている。大学構内はいつも活気があった。70年安保闘争は治まりつつあり、一時絶え間なく聞こえていたアジ演説こそ少なくなったが、立て看板はまだ何枚も並んでいたし、粉砕の決起のと書かれた埃まみれのポスターが建物の壁や塀に乱雑に貼られたままで、物思うように青く静かに佇んだ吉田山とは対照的だった。学生が自主運営する催しは誰でも自由に参加でき、高校生の敦子には、高い料金を取る一般ホールの催しより魅力的だった。西部講堂で定期的に行われるMOJO WESTというコンサートには知名度の高いミュージシャンが出演するので、いつも観客を大量動員した。敦子はクラスメートの理沙を誘ってコンサートへ行くのを、なによりも楽しみにしていた。
 瓦屋根を派手な絵で化粧されたこの古い講堂の中で絞り出すように若者たちが歌い叫ぶのを聞くとき、確かに、敦子は、久しい歴史を学生たちと過ごしてきた朽ちる寸前の講堂が、若いエネルギーにうち震えて激しく鼓動しているのを感じた。
 音楽を通して人と心を結び合うことが、今の敦子にどれほど大切かが、音楽という力をそもそも侮っている母淑恵の想像力の中では、いささかも場を得ていない。
 敦子はそれに焦れ、しかしほぼ断念していた。
 夏休み最後の土曜のことだ。敦子はそんな音楽の渦の中から帰宅を急ぎ、神楽坂をえいやっと声も出し、若やかに駆け上がっていた。いつもと同じ、坂の三分の二の辺で心臓が破裂しそうになり、立ちどまり…かけた、時、だった。ピアノの音が聞こえた。
 何度も坂を往き来してきたのに、ピアノを耳にするのは初めてだった。やさしい音色にひき寄せられ、敦子は音のする家の前でしばらく立ち止まり聴き耳を立てていた。
 その家は相当に古びてあちこち壊れかけていた。敦子はこれまでてっきり廃屋のように思っていたのだ、驚いた。五、六分も経ったろうか、紫のTシャツを着た女が家の中から敦子に手招きして、「中で聞いていっていいわよ」と声をかけた。これにも驚いた。
 戸惑ったが、「時々窓からあなたを見かけてたのよ、坂を上がって来る時、いつもこのへんで立ち止まってはあはあ言ってる」と言う女性の言葉に安心し、遠慮なく上がらせてもらうことにした。京ことばでないもの言いも敦子の興味をそそった。
 気のやさしい淑恵には、すでに何人かの友人が出来ていたが、敦子には特に近所に親しい友だちもまだなく、知り合いをつくるちょうどいいきっかけになると思った。
 ピアノは十畳ほどの和室の真ん中に置かれ、家の外からは想像できないほど、室内は凝った織り物や色ガラスに差された花などで、趣味よく設えてあった。小柄な痩せた男がピアノを弾いていたのでまた驚いた。招き入れた人が二言三言男に囁いたが、彼は気に止める風もなく演奏し続けた。勧められたまま敦子は奏者の斜め後ろのほうに座った。
 長髪を無造作に束ね、男はまるで空気の中を泳ぐ仕種をしていた。鍵盤の上をはしる指先は、マジシャンが出すカードや鳩のかわりに、次から次へ違うメロデイーを、時に早く強く、時にはゆっくりと弱く、掴みだしてきた。美しい曲だ。心地良いともせつないとも思い惑いつつ音楽に全身がを満たされると感じた、そこで、ふと演奏は終了した。
 余韻が、敦子をすぐには立ち上がらせなかった。
 「サティーが、好き?」男は敦子にじかに聞いた。
 「サティー」
 「今の曲です。エリック・サティー、ジムノペディです」
 「初めて聞きました。えぇ…感動しました」
 男は笑顔だけを返して立ち上がり、こちらへどうぞと言った。
 案内されたのは庭だった。広くはない庭の半分ほどが畑になっていて、室内で見た黄色いマリ−ゴールドの花畑の横に、茄子、それに胡瓜も、棒に蔓を絡ませてきれいに並んでいた。男は、生った野菜をひとつひとつ愛でるように眺めながら山本と名乗り、東京から来たんです、と敦子に言った。紫のシャツの女性は奥さんのサチさんで、彼女も畑に下りてきて草取りを始めた。吉田山に越してきた時期が敦子たちと近いことも知った。あんなにもピアノの弾ける人が、わざわざ東京から来てなぜ廃屋まがいの家に住んでいるのだろう。学生運動の絡みもあって、東京から京都、京都から東京と、人の行き来が頻繁にあるらしいことは噂で聞いていたが、まさか山本が活動家であるとは思えなかった。山本は、形はわるいが艶のいい茄子と胡瓜をいくつかもぎ取ると敦子に手渡し、またいらっしゃい、と言った。ピアノを弾いているとき華奢に見えた指先は、近くで見ると関節が太くごつごつとしていた。痩(こ)けた頬をしているが、日焼けした顔のその目は明るかった。
 「ピアニスト、なんですか」
 胡瓜の棘が掌に痛いのを我慢して、敦子が聞いた。
 「体、壊してね。休業中なんです。今はアマチュアの農民かな」
 同意を求めるように、山本はサチのほうを向いた。
 「東京にいた時はサティーなんか弾いたことなかったのよ」サチが言った。
 「野菜もあんまり食ってなかったな」
 「だから。だから死にかけたのよ」
 夫婦の会話が深刻になる前に、敦子は帰ろうと思った。こじれた理由(わけ)など聞いて、いいピアノの余韻を壊したくなかった。
 「野菜、おおきにありがとうございます。またピアノ、聴かせて下さい」
 「いつでもいらっしゃい。たいてい家にいるから」
 山本は腕を高く上げ、出ていく敦子に茄子と胡瓜を振った。サチも額の汗を軍手で拭い、笑いながら手を振った。紫色のTシャツと、茄子と胡瓜とが高く伸びた雑草の間で揺れていたのを、それからしばらくの間、敦子は忘れることがなかった。山合いを吹き抜ける風が、わが家へ帰って行く敦子の背へ、知って間のないメロデイーをさやかに運んで来た。

 その日は、手の届きそうに雲が低かった。敦子は今出川通りの喫茶店へ、進々堂へ行こうと京大への坂を早足に下っていた。大事な話があると理沙が呼び出した。
 約束の時間に一時間近くあったが、たいていは勉強中の京大生たちが長い時間座席を占領しているので、家から近い敦子が早めに行って、パンとコーヒーを置けるだけのスペースを理沙のためにも確保しておくつもりだった。
 昼もうす暗い林の坂道がいつもより暗かった。雨になりそうだ。
 傘を持って来なかった敦子は急いで林を抜けるうち、通ったことのない、民家の集まる入り組んだ場所に迷いこんでしまった。抜けられると思った場所は行き止まりで、あせってうろうろしているうちに誰かの私有地に入ってしまったらしい。
 鍬を使っている大柄な男が、目の前にいた。
 「何ぞ御用どっか」
 驚いた敦子は詫びた。
 「すんません。迷てしもて」
 「ここはうちの庭やけど」
 そう言って男は、鍬で土をかき混ぜた。湿った土の匂いが鼻へ来た。
 「どこへ行きたいの」
 「進々堂・・・」
 「ちょっと戻らなな。こっからは行けまへん」
 「お邪魔しました」
 慌てて立ち去ろうとすると、男は言った。
 「行き方、書いたげまっさ。ちょっとややこしいし。コーヒーいれよか思てたとこですにゃ。飲んでいきませんか。進々堂ほどおいしないけど。ちょっと待ってて下さいや」
 あっけにとられる敦子をその場に放り出して、男は家に入った。敦子は、ご近所に畑仕事をしている家が何軒もあるのに驚いていた。吉田山で畑を見かけたなど、この一年に一度もなかった。畑仕事をする人は開放的なのか、あの山本もそうだつたが、気さくに人を招く。ぽかんと立っているうちに、和風の長盆にのせてコーヒーが運ばれてきた。
 「こっちおいない。なんや雨がきそうゃないですか」
 少し強くなってきた南風で草色のカーテンが揺れる縁側に、男は何の構いげもなく敦子を口一つで招いた。男は縁側に直接紙を置いて進々堂までの丁寧な地図を書きあげ、そして黙ってコーヒーを一口飲み、畑を見つめていた。四角な沓脱ぎ石に足を乗せて縁側に腰かけ、敦子もコーヒーを飲んだ。進々堂のよりおいしいかもしれへんと思った。
 三十から四十の間ぐらいだろう。男は若くもなく年老いてもいず、敦子には教師か公務員、実直そうなサラリーマンにも見えた。突然の侵入者で歳もいかない敦子をお客扱いに、もの柔らかに話してくれたので、真面目そうな印象を勝手に受けただけかも知れない。背丈がありかちっとした体格なのに、どことなし疲れた様子にも見えて、暗い生気のない目をしていると思った。
 「何を作ったはるんですか」と聞いてみた。
 「畑か。畑は、まだ始めたばっかりで、収穫はないんや」
 山本夫妻が思い浮かんだが、よけいなことを言うのはやめた。
 「大きなお家(うち)ですね。お家の人は」
 「広いだけの家やけど。一人で住んでますのや」
 意外な返事に敦子は落ち着かない気分になった。
 「高村敦子です。神楽岡の吉田山荘の並びに住んでます。17歳です。引っ越して来てまだ一年なんで、道に迷てしまいました」
 よく考えもしないうちに思いつきでべらべらと喋った。
 「わたしは、岩佐。会社づとめをしてたけど、今は農業志望いうんかな。土いじりが好きなんや。けど、難しィて困ってまっすわ」
 「趣味で野菜作りをしたはる知り合いが、います」
 「わたしは、独りで、やってみたいんやわ。土をいじってると、落ち着く…」
 コーヒーを飲み切りながら敦子はふうん、そうなんかと思い、ぽつりぽつり降り出した雨が、盛り上がった土の上に小さな穴を開けていくのを、すこしうつけた心地で見つめた。日焼けした太い腕で岩佐は、いま気が付いたようにズボンの汚れを払った。
 向きを変えた風が、濡れた土と汗の入り交じった匂いを、敦子の鼻先に突き付けた。 
 静かな雨の午後だ。何か話しかけようと岩佐は敦子のほうを向き、押されたように敦子は書いて貰ったものを掴んで立ち上がった。
 「友だちと約束してるんで失礼します。ごちそうさんでした」
 「傘、持っといき」
 だいじょうぶですからと敦子は走り出しながら言った。傘なんか借りたら返しに来んならん。雨がいきなり強く降り出した。敦子は林の中を迷いながら闇雲に走った。 
 せっかくの地図を見るのも忘れていた。びっしょり濡れて、進々堂に着いた。
 理沙が、満員の店内で窮屈そうに座りながら敦子を睨んでいるのがガラス越しに見えた。ひどく動悸がしている。走ったせいだと思った。
 十分しか遅れていないのに理沙は怒っていた。
 「はよ来るはずやったやんか」
 「堪忍。知らん道通ったら迷てしもたん」
 「あーあ、びしょびしょやんか。コーヒーおかわり頼むけど、あんたもコーヒーでええか」
 「コーヒーはやめとく。紅茶にする。で、話て何ぇ」
 「へへー、それがな、・・・」理沙は何かを企んでいる時の、含み笑いで、「東京、行こ思うねん」
 「ヘッ。何しに」
 「なんやいろいろ面白そうなことが起こってるみたいやし、見て来んねん。将来住むための下見もあるしな。あんたも行かへん」
 「そんな余裕、あるわけがないやろ」
 敦子は内心、東京へ行きたくてたまらなかった。理沙が将来、東京に住みたいと思っていたことを初めて知った。ふたりは似たものどうしで、ほんの少しだけ理沙のほうが大人だった。
 「修学旅行みたいに夜行の鈍行で行くねん。しんどいけど安いで」
 「どこ泊まんの」
 「もうキープしたあんにゃ。知り合いのまた知り合いの、カメラマンのスタジオ」
 「相変わらず危ないことゆうてるわ。一人で行き。なんかあっても知らんで」
 「あんたは心配し過ぎの、臆病もんやさかいな」
 「ようそんなこと、言えるな」
 それから三日後、理沙は本当に東京へ行ってしまった。

 数日の間、岩佐のことが頭から離れなかった。不意の奇妙な出会いだったことを、忘れてしまうほどの出来事も起きない、だるいような日が続いていた。
 楽しそうに野菜作りをしていた山本家と違い、暗い目つきで独り土を耕していた岩佐のことが気になった。東京へ行った理沙からは何の連絡もない。淑恵は医院の仕事が忙しく、敦子の相手をする暇もなかった。夏休みももう終わる。思い切って敦子は、もう一度岩佐を訪ねてみようと思った。
 珍しく湿気のない、さわやかないい日だった。
 敦子は木漏れ日の降る林を、いつか迷った場所へ歩いて行った。
 残り少ない寿命を惜しむように、秋ぐちの蝉がしきりに鳴いていた。
 何のために行こうとしているのか。
 岩佐の「ひとり」に、同情しているのか。
 土をいじっているとなぜ落ち着くのか。なぜ落ち着かなければいけないのか。
 社会の歯車から降りた大人達がなぜ土を耕したがるのか。
 知りたい。知りたい衝動が、敦子は押さえられなかった。
 畑に岩佐はいなかった。土は深く掘り起こされていた。何を植える気か。
 「こんにちは」
 返事がない。縁側の雨戸は開いていたが、草色のカーテンがひかれたガラス戸は閉まっていた。戸の隙間からもう一度呼ぼうとして、敦子ははっとした。人の、泣く声。
 押し殺した男の嗚咽だ。薄暗い座敷の端で、体を丸めて泣いている岩佐が隙間から見えた。敦子は佇ちすくんだ。すぐ引き返さなければ、と思い、立て掛けられた鍬の柄にぶつかった。戸が、開いた。
 「ああ、この前の・・、いつからそこに」
 地図やコーヒーのお礼を言おうとしても、言葉が出てこなかった。
 「どうぞ」
 ガラス戸とカーテンが一緒に勢いよく開け放され、すると、特徴のある匂いがさあっと流れた。匂いは、戸棚や本棚が並ぶ縁側に面した部屋の隅の、大きな「黒い箱」から、仏壇からきた。白い百合で満たされた中から、小蝋燭の灯に照らされた葬式写真が浮き上がって見えた。こぼれそうな笑顔の、女性と、子供の写真。百合たちは、自身が放つ強烈な香りを周囲に詫びるように、どれも可憐に首を折り曲げていた。
 「命日なんですわ」頭を垂れて腫れた目を隠し、岩佐はぼそっと口にした。
 「こんな日に来てしもて」
 「あんたが、初めてのお客さんや。さ、上がって下さい」
 父に付くべきか、母に付くべきか、両親が別れた時と同じくらい敦子は迷い、だが引き留められたうれしさが、迷いを凌いだ。
 閉め切られていた鬱々とした部屋に、昼の匂いを敦子が持ち込んだ。
 岩佐は奥からビールとジュースを持ってくるとテーブルに置いて、言った。
 「えらい日に来てしもたなと、思てはるやろな。正直ゆうて、あんたの顔を見せてもろて、ちょっと気が晴れましたわ、おおきに。ほんま、おおきにや。ビールは、勧めたらあきませんな、まだ17や言うたはつたね」
 岩佐は少し歯を見せ笑顔を作ろうとしたが、唇の端がぴくりと、動いただけだった。
 敦子はこの男の無気味な暗さはなんなのだろうと思った。質問をした。
 「この前お会いした時に、なんでやろと思て、聞きたかったことがあるんです」
 「なんですやろ。ゆうてみて下さい」
 「私の知り合いで、音楽家やのに仕事休んで畑やったはる人がいるんです。成った茄子や胡瓜見てうれしそうな顔、しやはるんです。お百姓さんやないのに。岩佐さんも土いじりが好きやいわはりました。土をいじったはると、なんで落ち着くんですか?」
 コップのビールを一気に飲み干して、岩佐はしばらく口ごもっていた。
 「仕事がなくなったら、食べる心配せなあかん。幸い土地があったらなんかつくろ、思うてあたりまえや。けど私は、ちょっとちがうんや。土は、あったこて優しいしな。いじってると、アイツらの体やら顔を、こう」と少し手を震わせ、「撫でてるみたいな気イがして、落ち着くんや」
 岩佐は農業がしたいわけではなかった。視線が宙を浮いて、唇が震えていた。
 敦子は今にも彼がまた泣き出すかとはらはらした。
 「ときどきな、土の上に横になりますねん。長いこと横になってると、今までの人生も、これからの人生も、どうでもよぅなる…」
 冷えたオレンジジュースが胃に滲み、敦子はきりきりっと胸がつまった。
 「かんにんかんにん、いやな話聴かしてもて」すまなさそうな岩佐の顔を見た時、自分でも意外な言葉が、敦子の口をついて出た。
 「そんな生き方はあかん、と思います。もっと、前向きに生きて下さい」
 励ますつもりの、敦子の精一杯の言葉だった。
 「車の事故なんや、去年、わたしのせいで、二人とも死なせてしもた。わたしだけが、助かってしもたんや。命日ゃいうても、誰が来てくれるでもないんです」
 堰を切って喋り出すかと思った、が、ぐっと岩佐は唇を噛んだ。
 「前向きに生きて、あんた、何かええことがあるか。目の前のずーっと先にあるのんは、土、なんやで。土やで」
 土、の意味がわかるのにしばらく時間がかかった。わかつて、ショックだった。
 めまぐるしく言葉を探したが出てこない。さわやかないい日が、えらい成りゆきだった。
 「先にあんのが土やったら、何も、今から土のこと、考えんでもええやないですか。世の中には楽しい事も、一杯あるやないですか」
 「おおきに。あんた、励ましてくれてるんやね。あんたほどの歳の頃は、わたしも楽しい毎日やったんゃ。さ、もうやめとこ。ジュース、もっとどう」
 「もう失礼します」
 「また、来てくれはるか」
 返事出来なかった。岩佐の顔と畑の土を見ないようにして、家を出てきた。
 土・・。この林の道の僅かな土の中にも、いろんな生き物が生きている。
 そう感じながら敦子はスニーカーの底で思いきり強く土を踏みつけて歩いた。
 歩きながら、自分が奥深いお仏壇(ぶったん)の闇の中をさまようている気がしてきた。
 滅入ってくるのを振り払うように頭を上げた。重なり合った木々の向こうに吉田神社の丹塗りの柱が見えた。丹塗りの赤は、葉の緑の補色と雲間の日光を受けて、めざましく照って見えた。一瞬小さな希望も呼び起こされたが、宗忠神社の鳥居をくぐり、長い石段を下りかけて無彩色の真如堂の屋根瓦が目に入ってきた時、あれは何であったか途方もない無力感が敦子を襲った。畑に掘った深い穴の底にあの岩佐が寝転んだ姿がかっと思い浮かんで、足が震えた。体にまとわりついた強い百合の香が、敦子の全身を締めつけた。
 次の日敦子は、一日気分が悪かった。悪い時には悪いことが重なるもので、夕方、黒谷の交番から俄かな電話があった。淑恵が、母が、仕事の帰りに痴漢にあったという。
 敦子が交番へ駆け込むと、見なれた顔の巡査と淑恵とが笑って出迎えた。
 隅っこで若い男がうなだれて座っていた。巡査が言った。
 「お嬢ちゃんか。お母さんお手柄やったで。痴漢捕まえて、ここへ連れてきゃはったんやもんな。さ、いつしょに気ぃつけてお帰り。手続きはみな済んださかい」
 家に着くまでの間、淑恵は喋り続けた。むろん格闘したわけではない、年甲斐に男の行いを諭して、交番まで痴漢男と一緒に歩いて行ったというのだ、落ち着いて対処できたのは、敦子に内緒で飲み続けていた向精神薬のおかげやろと母は告白し、この頃自分が若く見えるだろうことをちょっと自慢気に口にした後で、淑恵は、唐突に方面を変えた。
 「あんた、十八になったら、好きにしてええぇ」
 「なんやね突然。痴漢退治した途端、強気になって」
 「そやから、どこ行ってもかまへん、ゆうてんね」
 自立して決別するのは子供のほうからだと、敦子は思った。今立ち上がり、家族から去ろうと決めたのは、親である淑恵だった。
 少し前を歩いていく母のふくらはぎに、小さな筋肉の付いているのが、初めて敦子の目に見えた。筋肉は、暗闇から出てほの明るい未来の方角へゆっくり歩き出している淑恵の体を、しっかり支えていた。
 「お母ちゃん、崖のほうへ行ったらあかんで。孤独は楽しいンや」
 横切った車の音で、敦子の声は淑恵に届かなかった。
 何を信心してきたわけではないが、敦子は骨と薄い皮膚だけだった淑恵の足についた肉こそ、霊験なのかも、奇跡なのかもしれないと思った。
 母はもう大丈夫らしい。薬物に支えられたたとえ頼りない細々とした健康であったにしても、敦子は母は大丈夫やと、直感した。この夏のふたつの偶然の出会いを、本当は秘密にしておきたかったことを、いつか淑恵に話してみようと思った。
 その夜、理沙から電話があった。まだ東京にいるという明るい声が、受話器からびんびん響いた。
 「今、新宿やけど、えらいぎょうさん人がいてな。ギター弾いてうとてる人がいたり、通路に寝転んでる人がいたりな。うわぁッ…大騒ぎしてるのんもいるわ。なんか街中が燃え上がってるみたいで、凄いとこやさかい、ここの音をあんたにも聞かしたげよ思てな。ほら」
 ざわついた都会の喧噪がたしかに敦子の耳朶を震わせた。理沙がうらやましかった。
 「聞こえたー? あんたも来たらよかったのに」
 「楽しそうでええな。こっちは沈みっぱなしや」
 「あ、あした帰るさかい。そうや今度な、こっちで見たバンドが、西部講堂のコンサートに出るねんて。一緒に見に行こ」
 「あんまりコンサート、行く気、せえへんねん」
 「なんやー、元気ないなー。東京のバンド、ええで。音もかっこええけど、歌詞がものすご文学的やねん。絶対好きになると思うわ」
 「なんてゆうのン」
 「はっぴいえんど」
 「ハッピーエンド? ええ名前やな」
 「ええ名前やろ」
 「なあ理沙。おじさん一人、コンサートに連れて行ってもええか」
 「どこのおじさん」
 「近所の、農家のおじさんや」
 「へー、あんたとこの近所に農家なんかあったか」
 「それがな、けっこうあんねん。この前もな・・」
 「もう切れるし、帰ってから聞くわ。ほな、あしたな」
 しばらくぶりの理沙の声で、敦子はすこし元気づいた。
 明日は山本さんの家に行って、ピアノ聴かせてもらおと思った。
 あの夫婦のドラマが、たとえどう深刻であっても、聴いてみたいな、聴きにいこと思った。     了
 

 
 

(この若い筆者が、どんな人かよく知らないが、小説の舞台になっている京都の神楽岡は知っている。現在の作者は高校二年生ではない、東京都在住の主婦であり仕事にも就いていると思われる。何度かの意見交換をしてここまで仕上げてもらった。たぶん、この短編の前にも後にも小説世界が展開するのではないか。編輯者はそれも楽しみに期待している。)


 
         人 形 教 育       関口 深志

                  
 
 

 渚は泣いたことがなかった。
 15年間、泣くために必要な環境が彼女にはなかった。
 だからといって笑ったこともない。
 誰もが彼女のことを「人形」と呼んでいた。
 まるで「入れるべきものを入れ忘れた」という雰囲気を渚は持っていた。
 透き通るような真っ白な肌と見事に対照的な短く黒い髪、黒い目。
 汚れなどどこにもない、黒子も見あたらない身体はまさに人形だった。

 「里井、それは理屈じゃないよ。理屈なんかない。泣いたり、笑ったりっていうのは誰にでも出来ることさ。君だって例外じゃないよ、俺なんかさ・・・。」

 30そこそこの担任の沢井は渚の疑問を跳ね除けた。
 「先生なら分かってくれるかもしれない・・・と思っていたのに・・・」
 渚の小さな期待を踏みにじる沢井の分かったような口調は、理解してくれないことを表していた。

 ?あんたなんかに問い掛けなければ良かった?

 日々、渚は答えにたどり着けない。
 「どうしたら私はみんなと同じになれるのか」
 ごく普通のありきたりの家庭環境、学校、その往復の日々の中で、「人形」と呼ばれている自分がみじめでしょうがなかった。笑うことも出来ない、泣くことも出来ない、だけど「心」は心に存在している。

 ?私は人形なんかじゃない?

 思いは強くなっていく。人に人として認められたい。だから大人たちに問い掛ける。
 「どうしたら泣いたり笑ったり出来るの?」
 母親にも聞いた。父親にも聞いた。本も読み漁った。
 だが、小さな胸は痛み続けていた。苦痛だけが日々を覆う。

 そんな中、沢井はあの日以来、親しげに渚に近づく。
 「なぁ、里井、なんかあったら俺に言えよ。遠慮することなんかないぞ。学校では俺がいつも味方だからな。」
 親代わりにでもなったつもりか、それとも救いを求められたのが嬉しかったのか、沢井は渚に近寄ることが多くなった。だが、渚にはそれが上辺だけの、「聖職者」の偽善の言葉にしか聞こえなかった。

 「もう逃げたい」
 不安な日常の中で心の底からそう思ったとき、渚は自分だけの秘密の場所へ行く。校舎の裏の、整理されていない誰も来ない「陰」の場所へ。
 ここで渚は猫を飼っていた。渚と同じで身体が白い仲間だった。だから渚は彼女に「繭」と名前をつけた。白糸に包まれているイメージを渚は感じていた。

 「繭・・・私もお前みたいにいつも泣けるといいのに・・・。」

 給食のパンの欠片を繭に与えながら呟く。繭は私と同じ白色だから分かってくれる・・・そう渚は思っていた。ここでいつも会えることだけが喜びだった。しかし、そんなささやかな幸せでは渚に笑顔を作らせることができなかった。
 そして・・・。

 ある朝。渚は早く起きて繭のためにサンドウィッチを作った。
 昼頃、授業を抜け出し、いつもの場所へ持っていこうとすると、そこに繭がいなかった。

 「繭・・・? 繭・・・?」

  か細い声を発(だ)して渚は繭を探す。
 すこし奥のほうまで歩いて、見ると、いつもの「白い仲間」は赤く塗られていた。

 「繭・・・?どうしたの?」

 赤い繭は無造作にフェンスの前で横たわっていた。

 「繭・・・?」
 繭の腹からあふれだす赤い血に渚は触った。「グチュッ」という音が感覚として伝わる。
 「繭? 繭!?」
  渚は一心不乱に、裂かれた繭を揺り動かす。
  「繭? 繭?どうしたの? どうして泣いてくれないの? なんで目を開けないの?」
 渚の制服に血が跳ね返る。真っ白い手が赤く染まっていく。頬に血が飛び散る。

 「繭・・・?」
 渚は理解できた。そして待っていたのは空白の時間だけだった。
 焦点の定まらない眼で渚は、よろよろと、そして一散にそこから走り出した。

 気づけばかぼそい腕で石を拾っては窓ガラスに投げつけていた。
 校舎から悲鳴が聞こえる。
 「キャーッ!」
 「なんだなんだ、どうしたんだ?」
 渚は無我夢中で石を投げつづけた。パリーンとものの崩れる音が校内の静寂(しじま)を揺らし、生徒たちが騒ぎ出す。
 「里井!何してるんだお前は!」
 渚の方へ沢井が駆け寄ってくる。渚は逃げる。

 ?もう何も考えられない。壊したい。現実が嫌だ。壊したい。?

 衝動だけが渚を動かしていた。

 だが、すぐに豪腕の教師たちに取り押さえられてしまった。
 「私は弱い・・・。弱い・・・。」
 渚は叫ぶこともなく、生徒指導室へ連行された。

 「里井、お前なんであんなことを・・・お前、血だらけじゃないかどうしたんだ一体!?」
 「怪我じゃない・・・」
 「ん?血じゃないのか?」
 コクリと渚はうなずき、冷たいパイプ椅子に座らされた。
 担任と主任教諭が生徒たちとは隔離されたこの部屋で尋問しつづける。
 渚は何も語ろうとしない。
 「山倉先生、すいませんがここは里井と私の二人で話したいんで・・・」
 「そうですか。じゃあ、あとで様子見をします。私は生徒たちを静めてきます。沢井先生、あとはよろしく。」
 主任教諭はその場を出て行った。

 その後1時間、無表情で何も語らない渚に沢井は思いもかけない言葉を発した。
 「それ、猫の血だろ?」
 沢井は呟いた。その瞬間、渚の瞳孔が開いた。
 「なんで・・・知ってるの・・・?」
 「お前は前、俺に問い掛けたよな。『泣くってどういうことですか?』って。」
 この男が何を言っているのかわからなかった。
 「いやぁ、お前がみんなから『人形』って言われてるのを俺は知ってるよ。だから人形じゃないお前が見たかったんだ。教師として、だ。」
 「どういう・・・こと?」
 「そういうことさ。」
 渚は机をバンと叩いて立ち上がった。
 「ほら、それが感情だよ。お前にもあるってわかっただろ?」
 渚は拳を握り締めた。
 スッと椅子から沢井が立ち上がり、渚の顔に近づく。
 「里井、いや渚・・・お前は素敵だ。この透き通る肌、無表情の顔、澄んだ瞳、どれも素晴らしい・・・。」
 沢井は渚の頬の血を舐め上げる。
 「汚れたお前が見たかったんだ。お前が時々授業を抜け出して、あの猫に会いに行っている事ぐらい知ってる。お前の壊れてゆく姿、それを見たくてたまらなかったんだよ・・・。」
 渚の頬が紅潮していく。
 「俺が殺したんだよ・・・繭を」
 渚は沢井を殴りつけた。
 「痛いなぁ。」
 沢井は笑みを浮かべながら渚の腕をつかむ。
 「離せ!」
 「離さないよ・・・今は二人きりだ。こんなチャンス二度とないかもしれない。俺はこの時間(とき)を待っていたんだから・・・。」
 沢井は渚の唇を奪おうとしだした。渚は激しく抵抗するが男の腕力の前では無力だった。
 「お前がいいんだ。他の生徒とは違う・・・。お前は人形なんかじゃない。これから俺が感情というものをお前に注ぎ込んでいってやるよ・・・。お前の本当の姿が見たい・・・。教師として、だ。これは教育だよ・・・。」
 「うぐぐぐ」
 沢井は強引に口づけしようとした。渚は狙い澄まして沢井の唇をきつく噛み切った。
 「うがぁっ」
 沢井の口から血が溢れ出す。
 渚は急いで部屋を飛び出した。

 「もう・・・もう何もかも・・・嫌だ・・・。」

 廊下で騒ぎ出している生徒たちの波をかきわけ、渚は階段を飛び降りて走っていく。

 「みんな嫌。嫌い。嫌い!嫌い!嫌い!!狂ってる!!」

 渚は踊り場から足を踏み外し、身体を弾ませて階段の下へ転げ落ちた。

 薄らいでゆく意識の中で、渚の瞳からは涙が溢れ出た。
 「繭・・・泣くってこういうことなんだね・・・知らなかった・・・。」

 階段の高いところで、教師は血の匂いの唇をティッシュで隠していた。不気味によごれた瞳(め)が、折れ曲がって突っ伏した生徒を、白い人形の渚を、ただ見おろしていた。
 

  憎悪     

 渚は冷たいベッドの上で目を覚ました。病院であることにはすぐ気づいた。自分の部屋の匂いとは違う、無機質な感覚が寒さと共に渚を覆った。
「渚! 気が付いた?!」
「・・・。お母さん・・?」
「よかった・・・」
 母親は渚の頬をさすり、涙をこぼした。
「私・・どうして・・たの」
「よかった・・無事でよかった・・このまま目を開けなかったらどうしようかと思ってたわ。渚、心配させて・・」
 泣く母を横目に、渚は天井を眺めた。
「私、そうか・・。階段から落ちて・・痛っ」
「渚、動いては駄目。左足と、左の手首にヒビが入ってるらしいから。でも、お医者さん、1・2週間で治るって。大丈夫よ。」
 母親が動作で傷の部分を示しても渚は「そう・・・」と、天井をぼんやり眺めていた。
「今日はもうゆっくり休みなさい。あ、そう。先生がね、渚のこと、とても心配なさってたわよ。」
「えっ・・・!?」
「沢井先生って、ほんと、いい先生ね。階段で足を滑らせたんだって、あなた。病院に運ばれるまでずっと付き添って、面会時間が過ぎても、あなたが『起きるまで待つ』って言って。もうこんな時間だし帰っていただいたけど。さっきまで、ずっといらしたのよ。」
「・・今、何時?」
「12時よ・・。渚、いい先生で、よかったわね」
「・・・何か言ってた?」
 渚は呟くように問い掛ける。
「何を?」
「落ちただけなの? ・・私」
「どういうこと? 休み時間に階段からすべり落ちたってしか聞いてないわ?」
「・・ふーん・・・」
 渚は焦点の定まらない視界の中で、目を徐々に閉じ、眠ることにした。

 次の日の朝、有り余るほど陽射しの届く病室に、沢井が訪れた。
「まぁ、先生。来てくださったんですか?」
「いやぁ。授業の始まる前に、里井の容態を見ておこうと思いまして」
 沢井はさわやかげな笑みを振りまきながら渚に近づく。
「里井・・身体、痛むか?」
「はい・・・少し」
「そうか。でも1・2週間で退院なんだろ? ゆっくり傷を治して、元気に学校に来れるようにな。待ってるぞ」
 沢井はねている渚の髪の毛を指先で触れ、耳元で囁くように、「学校に来る日を、待ってるぞ・・」
 男の吐息に、渚はぶるっと震える。
「では、お母さん。僕はこれで」
「はい、ありがとうございます。先生。」
 母親の90度以上に深深と頭を下げる姿に、渚はなんとも言えない苦しい感情を覚えた。
「真面目な先生よね・・」
 さらりと沢井が去った後、母親がつぶやく。
「あっ、私もそろそろ出かけなきゃ。今日は、そうね、4時にはまた来れるからね」
「・・うん」

 昼、沢井が、また渚の前に現われた。
「なんで来たの?」
 渚は冷たく言い放つ。
「来たら駄目か?」
 薄ら笑いを浮かべ、沢井がベッドの横の椅子に座る。
「・・私、動けない・・」
「そうだよなぁ」
「だから、何も出来ない」
「うん、そうだ」
「お父さんも、お母さんもいない部屋・・・」
「それにお前は、大きな声が出せない」
「えっ?」
 渚の唇を強引に沢井は奪った。
「うぐっうぐぐっ」
 沢井はベッドの渚に覆い被さるようにした。
 唾液の糸が引いて、ゆっくり沢井が身体を後ろに下げる。
「唇を噛まなかっただけ成長したな」
「私を、どうしたら気が済むの?」
 少し震えた声で渚が言う。
「言っただろ? 俺は、お前に、みんなから『人形』と呼ばれてるお前にだな、愛を注ぎ込んで、感情を覚えさせたいって。簡単に言えば『人間』にしてやりたいってことさ。」
「こんなことされてまで、『人間』になんかなりたくない」
 渚が天井を眺めながら言う。無視して沢井が続ける。
「教育とはな、『する側』と『受ける側』では感覚が違うものさ。お前は俺に教育を頼んだんだ。俺に任せておけばいいんだよ。」
「こういう人と知ってれば、頼まなかったわ」
 渚は語気を強めて言う。
 沢井は渚の左足を上から押さえつけた。
「ギャアッ」
「痛い? 痛いのか? でも、それが感情じゃないんだよ。他の動物でも痛みは感じる。しかし憎悪は存在しない。」
 ほんとかなと渚はとっさに思い、限りなく無表情に近い視線で沢井を睨んだ。
「そう、その眼つきが憎悪というものだよ。憎いだろ俺が。お前を傷つけようとする俺が、腕が、すべての『現在』が、苦痛だろ? その先にあるのがお前の感情というもんさ」
 沢井は添え木に包帯の巻かれた右足をさすりつつ、渚の太ももを上へと辿った。
「・・ごめん。もうこんなことはしないよ。」
 沢井は渚の身体から離れた。
「・・・」
 渚の顔が蒼くなっていく。
「学校に来る日まで、待っている」
 沢井はその一言を残し、渚の部屋を出ていった。         (つづく)

 

(この若い筆者は、苦しかった長い期間を克服して、きちっと帰還した。その間には目を瞠るほど音楽に、作詞に、エッセイにと表現力をつけ、業界にも足跡を残してきた。この連続して書かれるらしい若い作品を、老境の編輯者は、暫くのあいだこのまま見ていようと思う。マンガのキャプションみたいにも読めるが、育つ芽であるなら潰さぬようにしたい。分からない。関口君は今日平成十二年の十一月二十日、法政大学通信教育部の法学部法律学科から「本科生」として正式な入学通知を受け取った。「特修生」という立場から全ての必要な単位を取得してである。健闘を祈る。)



 



 

    祖母と母と僕と      藤田 理史

 

 去年の十二月、母の母、僕には祖母に当たる人が、亡くなりました。僕の祖父母はこれで四人とも天に召されたことになるのですが、物心ついてから血縁の近い身内に死なれたのは初めてです。
 でも、さほど深い思いを寄せていた祖母ではありませんでした、むしろ書きたいのは、母のことです。母と祖母のことを思うと、なんと言うか、切っても切れない母娘とはいえ、或る種の凄まじさを感じないでいられないのです。
 祖母は七十二歳で亡くなりました。夫が、つまり僕の祖父が病に斃れてからは、以来三十年もを、まったく働かず、夫の遺産だけで過ごしてきました、最期の最後まで。夫は、ずいぶん田舎だった戦前の新潟から早稲田大学に受かった、ま、指折りの成り上がりエリートで、一代で地位と財を成した実業家として、高度経済成長の時期、地元ではそれなりに名を馳せていたと聞きます。
 この夫婦は三人の娘をもうけました。母は末娘で、当時としては、かなり<いいとこのお嬢さん>だったそうです。
 祖父と祖母がどんな経緯でどう結ばれたかは知りませんが、祖母は、年齢(とし)若くに嫁いだためか、よくものも見えぬまま自分を気高い貴婦人と思い込んでいて、そういう視線で夫をも崇拝視していたようです。そんなためか、四人姉妹の祖母は三女でしたが、尋常な家庭をもっていた三人の姉妹からは嫌われ、僕も、その祖母の姉や妹に会ってかなり刺激的な「実感」を得ました。
 祖母は、いわば視野狭窄の最たる人でした。自分本位。三人の娘すら眼中になく、ただもう夫に尽くす自分を、可愛(いとおし)くも自慢にしていたそうです。
 その祖父が、四十代の盛りに、癌で亡くなってしまいました。後継ぎのあの字も考えていなかった。祖父の事業はあっけない一代(ひとよ)きりの花盛りでした。母は当時高校生、すぐ上の姉もまだ学生の身でしたが、祖母はいっこう家計を案じることなく、夫の遺産を思うまま湯水のように費い捨てていました。金のあった強みは凄かったそうで、長女や次女を嫁がせた時など、相手の家や許婚者にもずいぶん横柄な態度に出て、誰も、祖母には逆らえなかったといいます。
 そういう環境で母は育ち、ドラマにありそうなほど抑圧(=プレッシャー)を受けました。習い事は、うるさく強いられましたし、ほんの一例ですが休日には一家揃って朝から正座でクラシック音楽を聴かされたり、考慮の余地なく高校は推薦枠の私立女子校に行かされたり、母に聞いた話は奇妙に嘘くさくて、でも、ぜんぶ事実なのでした。こういうこともあるんだと、驚くことばかりでした。
 祖父の死後、祖母は食事のつど、なにがなんでも娘たちに父親の位牌のある仏壇を拝ませていました。父親の霊前に掌(て)を合わせるのを、強制していた、されていたというのも変だとは思いますが、晩年も、祖母の家で一緒に食事をする時など、きっと彼女はまず仏壇に向かっていました。僕にもそうせよと強いました。それはそれで、とくべつ不都合もないことですが、いかにも強いる感じはいやでした。
 母は大学に行っていません。祖母が行かせなかったのです、学費を出すのは厭だと言って。
 母は高校を出ると、アメリカに渡って(友人と一緒に行動したそうで、祖母にはほとんど負担を掛けなかったと聞いています。)数年間働いた後、帰国してやがて父と結婚しています。母の姉二人も似たような独り立ちの歩みから家庭をもったらしく、祖母は、娘にお金をかけることなど念頭にもなかったのです。
 祖母の家は、家庭的な愛情とは懸け離れていました、家族は、ただ同居していただけのようなものでした。自然、長女も次女も東京の方へ嫁いで行った後は、母親の世話には眼もくれません。祖母の最期は、末娘の母がすべて看取ったも同然でした。
 再婚しなかった祖母は、娘三人を嫁に出した後は、悠々と一人自適の生活を送っていました、と、こう言うのも、あんまり、事実とはかけ離れるようです。祖母の日常は吝嗇と贅沢との甚だしいアンバランスで、高価な服は買うのに、袖もほとんど通さず、古びたまま溜まる一方でした。買物の紙袋や古新聞も勿体ながって棄てず、独り暮しに大き過ぎた家は、大きなゴミ箱も同然だったのです。
 結婚後の僕の母は、新潟市の中心部から外れた父の実家で、ごく普通(なみ)の生活を続けていましたが、自分の母が病気になったと聞くと、十年前になりますが父と僕と三人で、新潟市内へ戻って来ました。(その頃には父方の祖父母は亡くなっていました。)
 祖母は肝臓を病んでいました。病状は不安定そのもので、入退院を繰り返して最晩年を過ごすことになります。独り占めしていた祖父の遺産も残り少なく、祖母はながく住んできた豪邸を、むろん独断で、お金に替えました。この時、邸の内に山積みのゴミを業者に処分してもらって、それだけに百万円もかかったといいます。あり得た話だなと僕にも思えます。
 新潟に住んでからは、ずっとマンションの賃貸暮らし吾が藤田家でしたが、なんとか病気から回復していた祖母も、自分の新しい家が出来るまで、独りで、同じマンションの下の階に暮らしていました。そのうち祖母は新しい家へ引っ越して行きました。僕が小学校四年生時分で、そしてあの頃でした、祖母は娘夫婦と、つまり僕の父母と大喧嘩をして、数年ほど双方で連絡を断ちました。因業なというしかない祖母に、父も母も堪忍袋の緒を切らしたのです。それでも、そんな母の母が病気で寝込んだと知って、五年前になりますか、我が家はまた祖母の世話をすることになりました。
 その頃には祖母からの相続も自然話題にならざるを得なくなり、母は、父も加わって、母の姉二人と面倒な衝突を繰り返していました。よくある話です。伯母たちは、僕の口ではっきり言ってしまえば、人間的に母よりだいぶ劣っていました。あながち贔屓目だとは思いません、祖母がどんなに勝手な暴君であったか知っていながら、遠い東京に住んでいるのをいいことに、祖母の世話は一切妹に、僕の母に、任せっきりにしていたのです、これも、よくある話ですが。
 母は、母親の面倒を、それはこまめに見ていました。ほんとうです。新しい家に移り住んでからも、祖母という人は体調が戻ればもう無駄にものを買いまくって、掃除も整理整頓もできず、する気もなく、家はお化け屋敷さながらでした。それでも母は、過保護も過ぎると思うほど祖母をよく援けていました。老耄の祖母が一年半前に突然昏倒してからは、もう眼を瞠るばかりでした。その母をどれだけ僕は手助けしてあげたか、どうか。その辺、僕にも僕の問題があったと思わねばなりません、が、祖母の肝臓はもうよほど癌に侵食されていまして、行き着くところ難儀な入院生活がずうっと続きました。言い遅れましたが母はあの頃も勤め仕事をしていました。夕方に仕事を退けると毎日欠かさず祖母に付き添い、何時間も看護婦なみに世話をしていました。へとへととは、あの母のすがたでした。
 薄情な僕は、祖母が嫌いなあまり、何故こうまで母は祖母を看病するのだろうと思い、連日の介護の負担で途方もなく心身に疲労を溜めていく母を、ゴリゴリに固まった肩や足の裏をときどきマッサージなどしてやりながら、何が何だか混乱した心地でただ見ていました。僕はといえば、祖母のために指一本も動かしはしなかったのです。
 恐らく母の思いは、心根は、父にすら分からなかったことでしょう、頭では理解を示していたか知れませんが、妻のあの母親へ、父自身とてもそんな気持ちになれないことも分かっていた筈です。これが血の繋がりなのか。切るに切れない絆なのか。この一年半の日々を通して、僕は血縁というものの重さ大きさを知りました、いえ、そこまで言うのは言いすぎ、自分を飾っています。祖母と、その祖母を嫌っていた僕自身も濃い血縁に繋がれているのですからね。
 半年ほど前、主治医は、祖母が年内もつかどうかという話を母にしました。癌への延命治療をとりやめ、なるべく安楽に逝けるようにという方針が医師との間で立ちました。それでも秋になり祖母は一月ほど退院できました。食事を美味しいと言って摂ったりもしました。退院しても、また入院中の一時退院ででも、そんな時祖母は、病と老との苦をおして少しでも体調が良ければ買物に行きたがりました、近くのスーパーへでも。自分が癌に侵されているとも余命少ないということも祖母は知りません、その方がいいと誰も知らせなかったのです。だからでしょう、はやく元気になって買い物がしたい、美味しい物が食べたいと、そんな方へばかり祖母の気持ちは行っていたようです。
 祖母は、僕にも、東京の従兄弟達にも、断乎<おばあちゃん>とは呼ばせませんでした。東京の孫達は、祖母をなんと<お母様>と呼んでいたのです、いまもそう呼んでいます。信じられない話ですが、それほどまで祖母は自分をべつのものに創りあげていました。自分で自分を気高く、若く、絶対の存在と思っていたのです。そう思わせたがっていたのです、間違いなく。
 祖母のケチなことは、相変わらずでした。僕は祖母に小遣いを貰った記憶がほとんど有りません。もっと幼い時分、その頃入院していた父方の祖父は、両親に連れられて見舞うつど、お小遣いをくれ、親に僕の玩具を買わせていたと聞きます。そういうことがこの母方の祖母には絶えて無かった。なんだかそれぐらいで人をケチのそうでないのと決めつけているようで、僕もだいぶおかしいなと恥じ入りますが、ま、それも僕の実感なんです。あっちの祖父とこっちの祖母との落差に驚いていたというのが、実感でした。
 秋の退院から体調を崩して間もなく病院に戻ったあと、祖母の肝機能はひどく低下し、容態は眼に見え悪くなって行きました。黄疸が身体中に蔓延(ひろが)り、そこかしこに痒みが走り、四六時中点滴から解放されない日々でした。母は、ぜひなく仕事の長引く火曜と金曜日の以外は欠かさず夕過ぎに祖母を見舞い、少しでも楽になるように懸命に看病し続けました。僕はというと、週に一度は祖母に顔を見せていましたが、一週間という、それだけの間にも祖母の具合は、ガクガクガクと階段から転げ落ちるように悪化し、痛ましいというしか言葉もない凄さでした。
 十二月二日、宵の七時ごろ父から電話があって、すぐタクシーで病院に行きました。数日前から個室に移されていたのですが、朝に母が顔を見せた時は比較的まともに対話出来ていたのに、昼過ぎて急変したらしく、蜘蛛の糸に絡まれたように呼吸器や心電図のコードに身を抱かれ、祖母の意識はとうに朦朧としていました。じっと見ていて、僕は、つらかった。
 七時四十五分、臨終でした。祖母と僕とは、いったい何であったのだろう、一瞬、しかし突き刺すほど痛く、その思いが僕に来ました。
 祖母は最後まで自分が癌であったとも、自分が死んで行くのだということも気づかぬまま、「楽に逝かれたのではないか」と主治医は話していました。母が、どう思っていたか、軽率なことは言えませんが、父も、僕も、そう思いました。でも、そんなふうに生き残ったものが思うのも、勝手な話だという気持ちも、かすかに動いていました。さらにかすかに、その気持ちに或るうしろめたさが混じっていなかったかと、今にして僕は静かにもの思うこともあります。祖母は、なにもかも心得て死んでいったのかも知れません。あの祖父とまた逢えるとも…。
 祖母の亡くなる一週間前あたりから、母は、よく、涙をこぼしていました。祖母のことに話が及ぶと、涙を流さないまでも、きっと母の瞳(め)は潤んでいました。臨終の時もずっと泣いていたのですが、通夜も葬儀も全て終った今になっても、時々、「お母さんでしたからね」と、つい涙ぐまれるように母は言い言いしています。僕は、そう聴くたびに、母にしか分からないことだ、父や僕や、遠く離れた伯母たちやその家族や、肉親の縁をことさら切って捨てていた祖母の姉妹達には絶対分からないだろう、分かると言ってもそれは上っ面の理解(こと)でしかないだろうと、そういう風に思うのです。そういう思い方自体に、じつは、僕自身の「人間」としての問題もあるぞと、そう…、かすかに、かすかに…しか、まだ感じ取れていない。僕は、僕が、まだ相対化しては見えていないようです。他は辛辣に批評して、自分のことは意識もせずに赦しています。十七歳になる、そんな、今の「僕」です。

 長くなりましたね。蛇足ですが、でも、秦さんにはどうしてもこの話をしたかったのです。
 実は、母だけでなく、父方の血縁もまた違った意味合いで、また別の複雑な事情を孕んでいます。そういう人生の難所を幾重にも通ってきたからか、両親は、僕を大事に思ってくれています。僕は恵まれている。家族の一員として、血縁で結ばれた同胞として、今の父と母のもとに生まれたことを、僕は幸せに思っています。その一方で、僕のような不熟者には、母が祖母を喪った時の気持ちも、本当のところまだ分かってあげられません。母は血縁だが、祖母はまるで血縁で無いかのように僕は久しく祖母を見て、いいえ見棄ててきたのですもの、矛盾しています。とても変なんです。いま僕に言えるのは、父と母に感謝し、大切にしていきたいと思う、そのこと一つです。
 
                  ―  二○○○年四月 書下し  初出 ―

 

(この創作ふうの長いメールを、すうっと送ってきた作者は、まだ高校三年生になるならずの四月初めであったと憶えている。いまは大学受験を年明けに控えている。中学生だった頃から、対等に友人として付き合っている。 こういう話材を「小説」にするには、もう少し懐が深くなる必要が有るにしても、微妙な自己批評が芽生えている。)


 

  玄奘三蔵訳   勝田貞夫また訳
  
  摩訶般若波羅密多心経  
 
 

この世を見渡す観音さまは どしたらいいかと修行をされた この世はすべて空だと見抜き 一切の苦厄をのり越えられた
 
これおまえ ものみな空にほかならず 空がものに他ならない 形あるもの即ち空 空が即ち色なのだ ひとの心のはたらきも これまた同じく空である よいかおまえ あらゆるものが空なのだから 生もなければ滅もない 空のこころにものなどなく 喜び悲しみ欲分別も 目鼻手足も心もなく  姿形も想いも無い 見るもの聞くもの十八界も 心の奥まで無に等しい 三世の因縁や迷いもないが 迷いがなくなるわけではない ほれあの猫は老死を悩まぬが 老死がなくなるわけではない 苦もその元もそれから逃れる道などもない 人の知恵など悟りが何だ 取るには足らぬものなのだ

 菩薩さまは そこんところがよくおわかりだから 心にわだかまりがない わだかまりがないから 恐れもないし 考えちがいも邪念もなく こころが安らぎ涅槃におられるのだ 三世の仏さまも ここんところを身につけなさり 正しい悟りを得られたのだ だから般若波羅密多は 計り知れない言葉だし あまねく照らす言葉だし この上もない言葉だし 比ぶべきない言葉だし 必ずかならず苦しみをとる 真実うそではないのだぞ

 そこで言葉を教えよう

 即ちその言葉とは ガテー ガテー パーラガテー パラサンガテー ボーディー スヴァー ハー
 
 

 

(勝田さんは、このホームページがご縁で出逢った知己。同じ昭和十年生まれで、お医者さん。まだお目にかからないが、逢いたいお一人。「湖の本」をたくさん買ってはスキャンして下さる。)