「小説 2」輯 14編 満了しました。
「小説 1」輯は、寄稿21編で満了、第 1 頁に掲載しています。
「小説 3」輯は、第17頁に掲載します。そちらをご覧下さい。
*掲載──「竹ノ幻想」 = 真岡哲夫 「微苦笑」
= 石久保豊 「黒衣の人」 = 武川滋郎 「塔のある町で」
= 倉持正夫 「幻談」 = 幸田露伴 「わかれ道」 = 樋口一葉 「冬の王
HANS
LAND 原作」 =
森 鴎外 「あひゞき ツルゲーネフ原作」
=
二葉亭四迷 「皆既月蝕」 = 吉田優子 「驛夫日記」
= 白柳秀湖 「老妓抄」 = 岡本かの子 「春は馬車に乗って」
= 横光利一 「清貧の書」 = 林 芙美子 「或売笑婦の話」
= 徳田秋聲 「ぎしねらみ」 = 三原 誠
竹ノ幻想 竹取翁茶会跡見
真岡哲夫
深い眠りから、ことりと音がするように目が覚めた。枕元の時計がジジジと低く唸り、文字盤のかぼそい光がシーツと枕を青く染めていた。深閑とした辺りの空気は、夜明けまでまだ時間があることを告げていた。
しばらくベッドの中でじっとしていると、帰国便が昨夜堺の空港に着き、夜中過ぎに京都のホテルへ入って、荷も解かずに寝入ってしまったことをようやく思い出した。
私は真白な羽毛枕を抱き、目を閉じて、再び眠りの闇に戻ろうとした。しかし、海外で長く過ごした私の体は一昨日までの時間を憶えていて、どのようにしても眠ってはくれなかった。寝るのを諦めた私は、窓辺に寄ってカーテンの隙間に身を滑り込ませ、外を眺めた。未明と払暁の境か、鴨川を臨む窓の向こうになだらかな東山の連なりが黒く横たわり、窓の上半分にはやがて明けようとする空が少し明るんで見えた。
思わず、ため息が出た。私が渇望していたのは、この東山のようなやさしい曲線、潤んだ空気だった。乾いた空気、冷涼な空、荒々しい自然の造形の中で三年の海外生活を終え、帰国の手続きをする段になると、これまで思い出しもしなかった、日本の柔らかな山の稜線、瑞々しい緑の匂いがにわかに懐かしくなった。妹が好きだったあの景色を見たいと思ったら矢も楯もたまらず、帰国便を東京から関西に変更して、京都へ向かう事にしたのである。
妹は私の海外赴任中に不慮の事故で亡くなった。三年前私が海外へ、妹が嫁に出ることが決まり、家族で最後の記念旅行をした。その時妹は「枕草子に出てくる春は曙の風景が見たい」と言い出し、親子三人、母と私と妹は三月の京都を訪れた。その年は桜が早く、平安神宮の枝垂れ桜はもう満開に咲いていた。妹は、二条のホテルの東向きの窓にいたく満足し、母や私が寝てしまっても、ソファーを窓際に寄せて、膝を抱えたまま外の闇を眺めていた。
嫁に行った妹は、私が海外に赴任して一年後に、泥酔した男の車にはねられてあっけなく死んでしまった。私が職場を一週間ほど留守にして仲間とナイアガラの滝を見に出掛けている間に、妹はもう骨になって多摩丘陵の墓に入れられた。葬式にも間に合わず、結局私は日本に戻らなかった。赴任先の大学で深夜に一人実験机に座っていると、突然京都のホテルで膝を抱えた格好のまま外の闇を見ていた妹を鮮やかに想い出すことがあった。一人で疲れて実験をしている時に、決まって妹のことを想いだした。想い出されるのは妹の後ろ姿だった。窓に向かった姿からは、妹が悲しんでいるのか心穏やかなのか知ることができなかった。
長旅の疲れのためか、久しぶりに見る日本の風景が新鮮だったのか、私は惚けたように窓辺に佇んで物想いに耽っていた。そうしているうちに山の稜線が刻一刻と形を顕わにし、空はうすらんで漆黒から紺へと明るみを増した。
心なしか眼下の町家から物音が聞こえて来るような気がした。山の麓に、うっすらと永観堂の塔のシルエットが浮かび上がった。私は夜明けを待たずに、身支度をし部屋を抜け出した。
部屋からエレベーターに乗りホテルのエントランスを出るまで、誰にも会わなかった。ホテルの外には、ひんやりとした空気と、夜が明ける前の静けさが待っていた。目の前の鴨川を越え、人っ子一人いない通りを東へ歩いた。岡崎公園へさしかかったあたりで、ようやく新聞を配達する乾いたバイクの音が遠くに聞こえるようになった。半時間ほど歩き、疎水にぶつかって細い道を永観堂前まで進み、東山の裾に辿り着くと、夜はすっかり明けていた。家々が目覚め、軒を並べた小さな建物に人の動く音が聞こえてきた。私はそれを避けて人気のない小径へ進み、疎水沿いの道からいつしか若王子神社へと出た。
犬の散歩が交錯する疎水の小径を横切って人気無い神殿に手を合わせた後、所在なく疎水の小径を歩いていると、流れに架かる小さな橋が目に留まった。人一人がようやく通れるような土橋で、その先は細い山道が東山の山懐へ続いている。向こう岸の橋の袂には、黒い玉石が、少し脇の方に置いてある。石は麻紐で結ばれ、黒い麻紐の結び目に白い露が留まって今昇ったばかりの朝日を受けてきらきらしていた。私は小さな土橋の風情と、黒い玉石に惹かれ、何となしに橋を渡り、東山の奥へと続く山道へ踏み入った。
道は雑木林の中を登ったり下ったりして、奥へ奥へと続いていた。ところどころ視界が開けて、眼下に町並みが見晴らせる場所があったが、やがてそれもなくなると、街の音は急速に遠ざかり、うっそうとした山には鳥や風の音だけが聞こえるようになった。
やがて道は稜線に出て二つに分かれた。左も右も下り坂で、分かれ目に小さな石塔がある。文字が刻んであったが、磨り減って、ようやく「左 □□、右 □□」とだけ読めた。分かれ目に佇んでいると、右の方から冷たい風が吹き上がってきた。右をうかがうと、微かに水音が聞こえて来る。私は迷わず右の道を選んだ。
険しい道は下るに従って水気を帯び、岩や木の根に足が滑った。右回りの道が引き返すような急角度で左に曲がると、水音がにわかに大きくなり、正面に屏風のように立ちふさがる岩壁と白い一条の滝が見えてきた。滝壺からは水煙が果てしなく立ち上って辺りに霧の幕を張っていた。
滝は麓にある神社か寺の霊場とみえる。滝壺の右脇に小さな御堂があり、古びた幟が幾流かはためいていた。道は滝壺の左脇を進み、岩壁に阻まれて止まっていた。黒い岩は、長年水に磨かれてなめらかに光沢を放っていた。私は水を含んだ岩壁に触れてみたくなって、水煙の中を手探りで前に進んだ。手に触れた岩壁はしっとりと冷たく、鏡のようにすべすべとしていた。私は目を閉じ岩壁に顔を近づけると、歩き続けて火照った頬を岩肌にそっと近づけた。そうして誰もいない霧の中で、目を閉じていた。
どれほどの時が経ったころだろう、岩に触れたまま目を開くと、すぐそこに大きな洞があった。岩壁に穿たれた穴は、腰をかがめればなんとか人一人が通れるほどのもので、滝の真裏へ向かって続いていた。そこからは乾いた風が吹き上がっていた。私はこの聖域を侵すことを畏れたが、穴の向こう側を見てみたい気もして、しばらく迷った末とうとう滝裏への口に這い入った。
真っ暗な洞門は緩いカーブを描いて滝の裏を抜け、反対側に達していた。岩穴を抜けると、そこは確かに滝の反対側だったが、私には最前反対側から見た景色とどこか様子が違って見えた。しばらくして、滝の脇にあった御堂が、実は黒木の柱を二本立てただけの簡素な門と、バス停の待合室のような腰掛けだったことに気づいた。門には、畳一畳ほどの竹で編んだ蔀戸が朽ち果ててぶら下がっていた。脇の、屋根と壁がついた腰掛けの足下には丸い石板が敷いてあった。
私は、疲れのせいで幻覚を見た様な気がして、顔を両手でごしごしとしごき、空を見上げてからもう一度回りの景色を見回した。門と腰掛けがある以外に怪しいものは見あたらなかった。念のために腕時計を見ると、針は七時少し前を指していた。
気を落ち着けてみれば、この門も遠目には御堂に見えないこともない。夜中飛行機に乗って睡眠不足な上、今朝も早く目覚め、妹を想い出してつい山に分け入って来たのである。霊場の雰囲気に誘われて目が錯覚を起こしても不思議ではない。
納得すると欲が出て、私はもう少し先へ行ってみたくなった。竹の蔀を除け黒木の門をすり抜けると、木立に覆われた道の奥は暗く心なしか風の音も大きく聞こえた。私は少し気味悪くなったが、それでも時々後ろを振り返りながら坂道を上って行った。道はうっそうとして真っ直ぐに続き、やがてあっけなく尾根に達すると、そこで行き止まりになった。
道の終わりからの景色は、からんとして明るかった。尾根の向こう側は、日当たりの加減か木が生えておらず、隅々まで見渡すことができた。草の生えた斜面はゆるやかに下って盆地になり、その先には雑木林の代わりに竹林が続いていた。明るい景色に安堵した私は故郷に帰るような足どりで草地を下りた。
手つかずとみえた竹林の中には、幾筋も道が通っていた。道の先々に藁を積んだ納屋や豆を植えた畑が見え、どこからか微かに焚火の匂いがしてきた。私は、入ってはいけない山里に踏み入ってしまった気がしてもう戻った方が良いと想ったが、同時に、このような山居に住まう人を一目見てみたい気にもなった。なおも進むと、竹林の一番奥まった辺りに、藁葺きの家が見えてきた。屋根は厚く葺かれ、切妻の一方に庇を下ろしその下には玄関が開け放たれていた。中から今にも人が出てきそうな感じがしたが、私が入り口まで歩み寄っても咎める者は誰もいなかった。玄関前から屋敷裏を覗くと、叩き締められた庭に薪がうず高く積まれ、脇には大きな丸太の切り株に薪割り用の鉈が打ち込まれていた。庭の中央に橘の木が一本立ち、時季遅れの揚羽蝶がゆらゆらと枝にまつわるように飛んでいた。
この家の玄関は農家には不似合に立派で、式台が付いていた。式台には艶の出た煤竹が張ってある。玄関の戸は大きく開け放たれ、中は暗かった。私は式台に膝をつき、一段高い畳に手を付いて、奥をそっとうかがった。家の中はしんと静まりかえって物音一つ聞こえなかった。
式台の奥は三畳ほどの畳敷きの小部屋で、中央に臙脂の古いペルシャ絨毯が敷いてあった。壁に、細身の軸が掛かっていた。掛け軸の中回しの裂地には、金糸で菊の紋が打たれて、暗い中にそこだけが光って見えた。本地には細い短冊が一双表装されていて、白い紙地のみがぼおっと目に映った。絨毯の角には、長方形の箱がぽつんと置いてある。小さな箱には、香炉ほどの大きさの火入れと、竹の灰吹きと、刻み煙草を入れたたとう紙が置かれ、雁首に筋目の付いた煙管が箱の上に添えてあった。
わたしはそれが何であるのかを思い出した。幼い頃、あれは小学校に上がってすぐのことだったが、父が病に倒れ母が付き添って街の病院に入院した。父が亡くなるまでの半年間、私と妹は親戚の家を転々とした。母は父の親戚を嫌い、私を隣村の叔母の家に預けた。叔母の家は食堂を営んでいて、夜には得体の知れない男達が集まり夜中まで酒を飲んで麻雀をした。私は夜な夜な聞こえる酔客の怒鳴り声が恐ろしくて眠れず、ついにある夜、すやすやと寝息をたてる妹を置き去りにして、枕を抱いて近所の伯父の家に逃げ込んだ。しかし伯父の家も客商売をしており、住まいは民宿を兼ねていた。家の中にはいつも見ず知らずの客がいた。ここでも酔った男達が酒が遅い風呂がぬるいと罵声をあげていた。私は二階の一部屋をあてがわれたが、階下から客の怒鳴り声が聞こえるたびに、布団の中で体を震わせ、廊下を通る客の足音を聞くと布団の中に潜り込んで息を潜めた。
臆病な私が安息できるただ一つの場所は、町の外れにあった祖父の隠居所だった。日曜になると、私は村の若い衆に頼んで車に乗せてもらい、彼らが町のパチンコ屋や映画館で遊んでいる間を、山の端の竹林の前に建つ静かな隠居所で過ごした。父方の祖父は町の中心で役場の隣に代々薬局を営む家の主だったが、家業を早く弟夫婦に譲り、どういう事情か一人この山端に暮らしていた。代を譲った弟も亡くなり、薬局には弟の嫁と息子夫婦がいた。祖父の身の回りの世話は、その薬局から人が来てしていた。隠居所でまれに、白い割烹着を着た小母さんが煮豆や桃缶をお膳に載せて出してくれた記憶がある。祖父の家はいつも人気がなく、祖父自身も病院と隠居所を行ったり来たりの生活をしていた。それでも私が来ると祖父は喜んで、布団の中から枯枝のような手を出して私の頭を撫でてくれた。
祖父の隠居所には雨戸を閉ざした一室があり、今思えばそこが茶室であった。ある日私が訪ねると、茶室の雨戸が取り払われ、遠くから腰高障子が白くまぶしく目に映った。普段人気のない茶室にみっちりと人の気配がし、障子の合間から難しい香の薫りが聞こえてきた。私がいつも一人で遊ぶ小部屋には絨毯が敷かれ、そこに煙管の載った小箱と、壁に細い掛軸があった。この日私は一日竹林で遊び、遊び疲れて隠居所に戻ると、ちょうど一座の客が帰るところだった。手に手に風呂敷を抱えた女達が町に向かって帰って行く姿が、夕日に照らされて美しかった。去って行く後ろ姿の、白足袋の動く様が、夕闇の中にまだはっきりと見えていた。その足袋が見えなくなるまで、私は夕陽を背にして竹林の前に突っ立っていた。
隠居所にはちょうど母ぐらいの年格好の着物を着た女の人がいて、びっくりした私に菓子をくれお茶を点ててくれた。その人から、祖父が谷を挟んで町の反対側にある山の女学校で教鞭をとっていたことをはじめて聞いた。祖父は理科を教え、どこで修めたものか女学生に仏の教えと茶の稽古をつけていたという。この日は教え子が開いた最後の茶会であった。今では女の人の顔も声も忘れてしまったが、卵の入ったおぼろ饅頭の黄味と、大振りの土の茶碗に入った茶の緑が、それは鮮やかにまた美味しかったことを忘れていない。私が迷い込んだ竹林の家の佇まいは、あの隠居所の茶会の日に似ていた。
人里離れたこの家では、風流なことに茶会が行われているのだ。この家の主は、よほどの数寄者なのであろう。大昔は、通りすがりの不時の客に釜を掛けていた家があったと聞くが、今ではそんな事をする人はない。
私は式台で靴を脱いで寄付に上がると、煙草盆を手に取ってみた。四寸足らずの火入に据えられた炭は既に真っ白に燃え尽きていたが、灰はまだ微かに暖かかった。この様子では茶会は既に果てたのであろう、私は少し残念な気がした。
煙草盆を見入っていると、襖を隔てた隣の部屋で衣擦れの音がした。人が、さわさわと奥から歩いてきて、襖のすぐ向こうに座る気配がした。私は体を固くして、閉じられた襖の向こうをじっと窺った。しかし、襖は開かれず、着物が畳を滑る音がすると、足音は奥の方へ遠のいて行った。茶会の片づけをしている様子であった。
客ももはやいないようだし、見つかったところで同好の者と言えば許されるのではないか。私は自分勝手に解釈すると、目の前の襖を開き一礼をしてそっと座敷に滑り込んだ。
座敷の中は薄暗く、目が慣れるまでしばらく時間がかかった。部屋の中は伽羅の香りが微かにただよう暖かい空気に満ちていた。やがて床の間に、やや向こうに寄せて竹籠が据えられ、秋草が豊かに盛り込まれているのが見えてきた。力強く無造作に編み込まれた籠は黒光りし、咲き乱れる花々の盛りを受け止めて動じなかった。そこには、ささくれ立った手で赤子を抱きかかえるような靱さと優しさがあった。
床の間に寄って、見事に編まれた竹の手仕事を見ようと花入に屈み込んだ時、傾いだ耳の端に、遠く物音が聞こえたような気がした。ぎょっとして顔を上げるとその音は消えた。しばらくして花籠をのぞき込むと、また音が聞こえてきた。さっきはくぐもったような音だったが、今ははっきりと聞こえる。奥の部屋の方で、若い女が澄んだ声で何かを問いかけ、年老いた女が笑いながらそれに答えていた。時折低い老人の声が女達の笑い声に和していた。籠一杯に盛られた秋草を、若い女と媼が籠に活け、翁がそれを見守っている、そんな情景に聞こえた。若い女の声は、死んだ妹に似ているような気がする時もあり、全く別人のように思える時もあった。ただその笑い声は、滅多に笑わない妹が時折ころころと無邪気に笑った時の声音にとても良く似ていた。笑ってしまった後に恥ずかしそうにうつむく妹の顔が、つい昨日見たように鮮明に思い出せた。
いつしか声もしなくなった。我に返って顔を上げると、暗さに慣れた目が床の掛軸を捉えた。「天地」。無邪気ともいえるような手跡で、天は天らしく、地は地そのものを直裁に顕して他に思うところがない。天から地へ、地から天へ、墨の流れとともに人の想いが通っている。地の肩に打たれた点が、極北に輝く北極星のように天地の要を押さえている。
季は秋。賑やかに盛られた花籠の脇、黒地四方盆に黄肌色の香炉が載っている。蹲る獅子の蓋が脇に侍し、微かな余薫がゆらゆらと天に届かんばかり。花のにぎわいに比して来る秋冬の枯れを思わせ、黒盆に浮かぶ肌の暖かさに救われる。
また襖を隔てて人の気配が来た。襖の前に来て止まり、座った。引手に手がかかれば、こちらに出てこられるのだろう。しかし、襖は開かず衣擦れは再び立ち上がると遠ざかって行った。
目が暗さに慣れて点前座の道具が浮かび上がってきた。風炉釜は大侘びである。板風炉に筒型の古びた釜がかかり、秋冷えの客に火を近づけ手前に風炉釜、赤土色の水指は奥へと遠ざけてある。
風炉釜の前に、深い青磁の茶碗が碧き湖のごとくある。飴色の細身の茶杓が釣り合って載る。その右には、真塗黒棗。黒漆の塗りが透くほど幾世紀を重ねて、青磁の茶碗に出逢った不思議さ。深い秘色と細い線が気高い均衡を保っている。
金銅筋目の建水を下げ、上に茶碗が並んでいる。楽の白茶碗が雪を頂いて聳えている。刷毛目茶碗は高台小さく薄く開いてたっぷりと白泥が掃かれて奥に控えている。白楽の隣には赤絵鉢子。富士の峰向こうに昇る朝日かな。ここにも取り合わせの妙がある。
襖の向こうではまたしても若い女の話し声。茶室の中はただ釜の音。外では竹の葉擦れそよそよと。松か竹か風音にいつしか引き込まれ、私は重くなった瞼を静かに閉じていた。
頭上で鳥が鋭く鳴き冷たい風が首筋を通り抜けた。ハッとして我に返ると、私は滝壺の壁面に顔を押しつけて眠っていた。聞こえていなかった水音が、にわかに大きくなって耳に飛び込んできた。いましがたまで水煙に包まれていた滝壺は、霧が晴れ、滝水は透明なまま放物線を描いて滝壺に落ちていた。明るい日射しに岩壁も乾いている。頭の両脇の壁面を拳固で叩くように当てていた手を放すと、岩の突起に当たった手の平が赤くなっていた。私の顔だけが濡れ、涙とも水煙ともつかない流れがあごに雫をつくっていた。
滝壺の壁面から離れ、念のため滝口の裏をうかがってみたが、そこには穴もなく風もなく、向こう岸へと渡る洞門の入り口は二度と目の前には現れなかった。
その後、関西へ行くたびに東山の辺りを歩いたが、若王子の疎水を何度探しても、黒玉石の置かれた橋掛にも、山奥の滝にも、再び出会うことはできなかった。竹林の藁屋を見たのは、あの時唯一度のことである。
微苦笑
石久保 豊
篠田が先に出る。糸子はゆっくりコートの衿を立てながら少しおくれて出た。離れたところに篠田は待っていた。
月に一、二度こんな風にして逢う。別々に来て別々に帰る。駅で落ち合って、小さなホテルで休んで…。
「お待ちどう」
糸子は足早に近づいて肩を並べた。
「何か食べて帰りましょうか」
オートバイが、糸子の声を攫って走りぬけた。街路樹がもう小さな緑をふくらませている。見上げながら篠田が歩調をゆるめた。
「ねえ、これっきりにしようよ」
「……」
糸子は何を言われたのか一瞬わからなかった。
「ああ…」
声にはならなかったが、篠田の言葉の意味が、ぴしりと音をたてるように全身を走った。
二人の前にコップ酒がおいてあった。皿のおでんをつつきながら、
「商売にしているのもいる。女は相手を好きでなくてもいいんじゃないのか」
よもやまの話の続きに、篠田がそんなことを言った。
「やだわ、そこまで落ちてませんから、私にはわかりません」
「そこまで落ちてゆくように、一つ仕込むかな」
「もうお酔いになったんですか」
「おいッ、金が入り用だ、体売ってでも作って来いッ」
「いや、いや、あなたにはそんなこと言えないわ」
「こんなこと言う僕のどこが好き」
「そうね、馬鹿騒ぎの中には、決して入って行かないことかな」
「ふ一む、案外見てるんだね……僕も見てたな」
それは、酔って言っている言葉とは思えなかった。
糸子は、先刻から篠田が眺めていた街路樹の梢を同じように見上げた。
篠田の転勤が決ったが、フランスのイギリスのと言う訳ではない。遠いといっても熊本の支局である。逢おうと思えば逢えないことはない。が、篠田には家庭があった。
三度目の春……、糸子は黙って踵を返しながら、篠田の背を軽く押した。
「ねえ、これっきりにしようよ…」
全身で聞いたのが少し悔(くや)しかった。これが、もし、糸子から篠田に言った言葉であったら、篠田は果して全身で聞いたであろうか。
「重荷にもならず、重荷にもさせずに、済んでしまった…」
糸子は微苦笑した。
─了─
(作者はことし九十二歳。静岡市内の病院で身の老いを養っている。この作品は東京での一人住まいから若い人のいる静岡へ転じる一年ばかり前に老境の人の同人誌に発表された。発表前の原稿で感想を求められ、とてもうまいと称賛した。「押し掛け弟子」の凄いほど筆達者であった。湖の本の読者だった。これで「書けて」いる。小説、長ければいいというものではない。)
黒衣の人 武川
滋郎
放ったらかしていた家の傷みが、ついに限界にきて、大がかりな補修をよぎなくされた。ことのついでに、かねてから望みだった書庫を、一階の一部を建て増すかたちで造ることにした。
八月の終わり頃、増改築がすんで、でき上がった鰻の寝床のような細長い書庫に、家人そうがかりで運び入れた本の山を、しつらえの書棚に収める。それがまた大変な仕事だが、そこまで家人の手を煩わせるのは気がひけ、それに好みに合わせ、仕分けながら収めてゆくのも、けっこう愉しいもので、そこは独り作業を、じっくりと堪能するつもりでいる。
日曜だけの作業で、それにあちこちひっくり返していると、思いがけず面白そうなのが出て来て、つい読み耽ったりするものだから、なかなか事が運ばない。しかし、そこで本の山に埋もれていても、家人の苦情があるわけではないから、いたって暢気なものである。
そんなある日、またある一冊の本に目が止まって、じっくりと腰を落した。三島由紀夫の「三熊野詣」である。読者には、作者と波長が合わぬとか、虫がすかないとかいうのがあって、私にとっても、作者はその一人だった。だから持ち合わせも、同作者の著作物は、これが一冊きりである。その例外物の購入のいきさつを、私はいまでもはっきりおぼえている。
もう二十年も昔のことで、そのころ私はまだ独り身だった。神田の古本屋街から少し離れた裏通りで、しもうた屋の民家が軒を並べた一郭に、ぽつんと一軒だけ、小さな本屋があった。いまでは、地上げ屋に底地買いされ、更地と化している。
その店の、分類もなく雑多に並べられた書棚の片隅に、「三熊野詣」を見つけたのだ。表題に惹かれて手に取ったが、中身を函から出す気もなくすぐ元に戻した。店を出かけたとき、つと藤色の帯に書いてあった「歌人で高名な國文学者」云々の一文が頭に甦り、私は何かに衝かれたように棚に戻り、その本を買い求めていた。
ある予感があった。何かがしきりと私を促していた。家に着くまでの時間がもどかしく、表通りのとある喫茶店に入った。中二階の背後からステンドグラスの淡い光の差しこむ一郭に陣取り、係りの注文の声もそぞろに繙く。そしていっきに読み終える。三、四時間も経っていたろうか。立て込んでいた店内の人影もいつかまばらになっていた。閉店時間もほど近いようである。疲れた頭に、重苦しい芯のようなものが残った。それはそのまま、小説の読後感でもあった。
読みはじめてすぐ、作中の藤宮先生と、さる実在の國文学者――すでに故人だが――があっさり結びつく。その予感は、すでに帯文から始まっていたが、読み進むほどに核心を深めていった。
その学者は、詩歌に長け、特異な学風で、斯界に孤峯を築いた國文学者であり、民俗学者ともいわれていた。詩歌(うた)詠みには、雅号を称い、その何やらむずかしげな名前を、私は中学生の頃から親しんでいた。叔父がその学者の若い頃の弟子の一人で、むろんその感化によるものだった。叔父の家に入りびたって、書斎に居並ぶその学者の著作物を、拾い読みしていた。ことに詩歌集は、活字の少ないぶんだけ少年のヤワな頭にも親しめて、しきりと頁をくった。そしていたる処にちりばめられてある特異な古めかしい語彙に、意味はみかねながらも、胸のときめくのを覚えた。新鮮で強烈な印象が、少年の心を捉え、その摩訶不思議な世界に、ぐいぐいと惹きこんでゆく。
高校二年のときだったか、初めて全集本が刊行されて、その黒ずくめの装幀を目にしたとき、どきりとしたのを、いまでも忘れない。何か異様な、鳥肌立つ慄えが、身奥から噴きあげてくるようだった。
そういえばたしかに「死者の書」も黒表紙だったと、私は叔父の書斎の、馴染んだ書棚の一隅に、目を走らせた。
彼(か)の人の眠りは、徐(シヅ)かに覺めていった。まっ黒い夜の中に、更に冷え壓するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覺えたのである。
した した した。・・・・
そうして、なほ深い闇。・・・・ 次いで、氷になった岩どこ。両脇に垂れさがる荒石の壁。したしたと岩傳(イハツタ)ふ雫の音」
いつ諳えたのだろう、そんな冒頭の一節が、訥々とながらに、声もなく口中に弾んだ。
この人は、黒衣を纏った、常世の國の使者(まれびと)なのだ。つと、そんな観想が湧いた。以来、私はその学者のことを、ひそかに、「黒衣の人」と称ぶようになつた。
そして私は、叔父の出た大学、いやその黒衣の人の母校でもある大学に、なんの迷いもなく入った。
書籍も三十年近くも経てば、すっかり変色して、古色蒼然たる趣きだが、「三熊野詣」は、よほど山の奥まりに潜んでいたとみえ、紙肌の斑紋もわりと少ない。いくらか湿りけもあって、開くと幽かに黴臭い匂いが、籠り立つ。
頭の余白やら文中に、鉛筆で◎やら「 」が記されていて、書き込みもあった。再読の記憶はないから、おそらく喫茶店で読みながらに付けたものだろう。
文中の「 」にこんなのがある。
「近代的な清明大學の明るい校庭を、先生が數人の弟子を連れて横切られる光景は、大學の名物になるほどに異彩を放った。先生は薄い藤いろの色眼鏡で、身につかぬ古くさい背廣を召して、風に吹かれる柳のような歩き方であるかれる。肩はひどい撫で肩、ズボンはまるで袴のやうに幅廣く、髪はそのくせ眞黒に染めてゐるのを、不自然にきれいに撫でつけてゐる。うしろから先生の鞄を捧げて歩く學生も、どうせ反時代的な學生だから、この大學ではみんなのきらふ黒い詰襟の制服を着て、不吉な鴉の群のやうにつき従ってゆく。先生のまはりでは、重病人の病室のように、大きな快活な聲を立てることができない。話を交わすにしてもひそひそ聲で、それを見ると、遠くから、『又葬式がとほる』とみんなが面白がって見るのである」
私がその大学に入ったのは、黒衣の人が常夜の國に還られて、すでにみとせばかりが経ってからだった。それでも、先生の残されていった暗く重い翳は、校内のいたるところに、息苦しいほどに漂っていた。
教壇は、故人を師と仰ぐ弟子たちで溢れ、事あるごとに先生はこう仰った、先生によれば・・・・と師の学説の引用、解説にいとまもなかった。それなりに、師の難解な学問も解きほぐされて、若い学徒の堅い頭にも、抵抗なく入った。しかしそのとき、師の世界の半ばは喪われていた。そのふしぎな魔力は、弟子たちの体を介して、濾過され、毒気を抜かれた上澄だけが提供されていたのだ。
この毒気を、身にまともに浴びなければ、師の神髄を知ることはできないだろう。しかし師はすでになく、その謦咳に接することも叶わぬなら、せめて師の残された著作物と、じかにむきあう以外ないだろうと、若い私は、健気にも思ったものだ。そして下宿の三畳の、棺桶みたいな寝床だけの部屋に、師の膨大な遺書にもひとしい黒ずくめの、全三十一巻の典籍を積み上げて、魄の慄えるのを感じた。
孫弟子志願に、民俗学やら何やらの研究室に、出入りを始めた朋輩を横目に、私はひとり孤を囲み、師の直感やら閃きの横溢する文体と、暗夜の格闘を続けた。果てしなく暗い闇に、幽かに息づくものの気配と、つたつたと闇をまさぐり歩くものの、微かな沓音を聞きながら――。
「いい年こいたおっさんの、ボディビルで鍛えた筋肉隆々たる肉体の、何が美しいというのか。それこそ鼻持ちならぬ、虚飾の美学ではないのか。反吐が出る」
余白になぐり書きされた一文であるが、年老いた野宮先生の容貌の、余りに醜怪な描写に、思わずカッとなって、書き込んだもののようだ。二十年後の今、拾い読みしただけでも、おだやかならぬものを覚える。
師の古代感愛集「乞丐相」の一連に、こんなのがある。
薄き眉 まなじり垂(タ)りて
低平(ヒラ)みたる鼻準(ハナスジ)流れ
顴(ホホ)骨方(クタ)に、受け唇(クチ)薄く
顎張りて 言ふばかりなき えせがたち
みつつ駭く。
肖像写真などから窺うかぎり、いささか誇張に満ちた自画自虐の像とみえる。作者は師の
写真など見ていたろうし、あるいは面識だって多少なりともあったかもしらず、ことの虚実は承知していた筈だ。それを敢えて醜悪化したところをみると、作者の師への悪意が感じられぬでもない。理性では始末のつかない、生理的な嫌悪感、そんなもののはたらきがあるようだ。それはちょうど私が、作者に抱いている拒絶感と同質のものかもしれない。
ま、その当否はともあれ、師の精神の核のようなものは、一通り描かれていて、作者独特の流麗な文体の底に、悲哀とか憂いといったものが、惻々と伝わってこる。
人も 馬も 道ゆきつかれ死にかり。 旅寝かさなるほどの かそけさ
このかそけさというのは、謂ってしまえば寂寥感だが、悲哀、憂い、孤独、哀愁、そんなものを丸ごと呑み込んだ、そこはかとない侘びしさ、淋しさ、悲しみとでもいおうか、それが先生の詩歌(うた)の基調をなすものだ――。そう叔父から教(き)いたのは高校生のときだった。死など縁もゆかりもない年頃に、どれほど感得できたか怪しいものだが、数ある歌の中で、真先に記憶に留めたのも、その歌だった。人生が孤独で不安な一人旅だと知りはじめたいま、寂寥感は草臥れかけた身の内から、じんわり滲み出てくるようだ。
藤宮先生には、郷里に秘めた女人がいた。若い恋は、親に仲を割かれてしまう。大学進学のため上京すると、相手はまもなく病に臥し、そしてやがてはかなくなってしまった。
その女人への追慕の念から、生涯を独身で通すのだが、六十歳になったとき、かって女人と約束していた三熊野詣を果たす。喪き女人を象どった三つの櫛を携え、女弟子を伴い。その三つの櫛を、三熊野の各々の社の境内の一隅に埋めてゆく。その埋葬を、女弟子は、先生が生涯夢みられていた、美しくもはかない架空の物語の完結だと、感得する。
「三熊野詣」の終焉だが、そのとき私の脳裏に、女人と布由子が重ね合わせに想い泛んだ。布由子が子を妊みながら、私から唐突に去って、すでに五年ばかりの歳月が経っていた。半ばほっとしながらも、理不尽な思いもそれとなく積もって、重く籠ったものを引きずっていた日々だった。三十近くにもなって、定(き)まった職にも就かず、転々の浮草稼業(アルバイト)に身をやつしていたのも、あるいはそんな心の蟠りがはたらいていたからかもしれなかった。
喫茶店を出て、帰宅先の駅近くの路地裏の屋台で、なけ無しの銭をはたき、一杯ひっかけた。読後の重苦しさに、唐突に泛んだ布由子のこととも重なって、飲まずにはいられなかった。しかし酔いの回った身に、迎える者もいないアパートの己が部屋は、余計うら侘びしかった。電燈を点けるのも疎ましく、部屋の真ん中にごろりと横になって、仄かな窓明りの漂う宙(あた)りに、ぼんやり目をくれた。家具など一つ無いがらんどうの一郭に、黒ずんだ小山があって、私の唯一の持ち物だった。師の全集本である。学生時分に買い集めた本は、事欠く実入りに、その都度、筍の皮を一枚ずつ剥がす如く売り払い、それだけが残った。いや、敢えて残していた。これを手放したら、おれはもう終りだ。止めどなくだらけてゆくなかで、その思いにすがり、ぎりぎり己れを支えていた。
現在ある書籍は、あれから間もなく、いまの女房とめぐり会い、身を固め、定職にも就いて、それ以来の物だ。師の全集を売らずにすんだのは、奇蹟にもひとしい。
――仄闇に蹲る黒山を、酔眼にぼんやり眺めているうちに、いつかまどろんでいた。そして夢の中で、私はかって布由子と馴染んだ白山の社に赴き、布由子そっくりの黒ずくめの、五つ六つの少女(ちいさご)を見かけた。
布由子と初めて出会ったのは、私が大学三年のときだった。新学期を迎えた春の桜も散りかけたある日、校門の脇の神殿の前で、私は未だ高校生の影を残した新入生とおぼしき女子学生から声をかけられた。長い髪を、櫛目も鮮やかに梳き流し、上から下まで黒ずくめの姿が、いかにも清楚で初々しく、白木造りの神殿を背景に、この上なく好もしく映った。恥じらいの色を、幽かに面に泛べて、若木寮の所在を尋ねた。行ったことはないが、校内の一郭にその寮のあるのを、私はひとづてに聞き知っていた。
「神社本庁知ってますか、その裏手なんだすが・・・・」
いいえと、小声に呟く女子学生に、本庁への道順を説明しかけたが、それも何やら覚束無げで、どうせならと、見通しの利く通りまで案内した。
三日ばかりして、地下食堂の階段口で、その学生とまた出遭った。連れもあり、それにひっつめ髪に和服姿だったから、同じ学生とも思えず、うっかり遣り過してしまうところだった。「この前は、ありがとうございました」と、鄭重な謝辞を受けても、しばらくは、はて誰だったかと、半顔に訝った。が、古風で、控えめな大人びた風情のなかに、どことない初々しげなはにかみが感じられて、ふっと神殿の前で出遭った、黒ずくめの女子学生の姿が、頭によぎった。「あゝ、あのときの」と、遅まきながら出かかったのを呑み込んで、あたふたと辞儀を返した。
それから校舎の廊下などで、偶々出会ったりなどすると、声を掛け合い、時には短いながら立ち話もするようになった。
私は授業をサボリ、学校の向かいの氷川神社の石段に掛けて、先師の黒表紙を繙いていた。こんなことはよくあることで、面白くもない講義は、ぎりぎり単位さえ得れればよいとタカをくくり、適当にサボッて、その時間を黒表紙に振り向けていた。
ふっと本に翳が差し、「まれびと先生ですか」と、女の声。いつもながらの黒ずくめの布由子が、長い髪を靡かせて、横にそっと座った。彼女は、先師のことを、まれびと先生と称んだ。その一言が、私をぐいと布由子に引き寄せた。
「そのご本、家にもあります。兄のですけど」
「ほう。お兄さん、学校の先生?」
布由子は、幽かに苦笑を泛べ、
「ここの同業者」
「て、ことは、大学の先輩でもあるというわけだ」
「そのようです」
ふと、布由子が口吟む。
わが父にわれは厭はえ、
父が母は我を愛(メグ)まず。
兄 姉と 心を別きて
いとけなき我を 育(オツ)しぬ。
「幼き春」の一連と、私にもすぐ判った。途中から、私も和した。
よき衣(キヌ)を 我は常に著
赤き帯 高く結びて、
をみな子の如く装(ヨソホ)ひ ある我を
子らは嫌ひて、
年おなじ同年輩(ヨチコ)の輩(ドチ)も
爪弾(ツマハジ)きしつつ より来ず。
「おれにもガキの時分に、似た想い出がある。三つ上の姉の、赤い着物をやたら着たがり、そいつを装けては、嫌がる姉を追かけ回したものだ。姉ちゃん、姉ちゃんと哭き喚きながら・・・・」
布由子は、口に掌をあて、くっくと忍び笑った――。
三年も後期になると、卒業後の進路のことが、仲間うちの話題にも上り始め、何かと気忙しくなった。同朋のおおかたは、この大学の特徴の一つでもある教職を目指していたが、私はそのための講座を、一切履っていなかった。深い理由もないが、叔父が高校の教師をしていて、何となく敬遠したかった。
さりとて、将来に繋がるどんな展望があったわけでもない。やりたいことは、およそ形をなさぬまま、身の内でもやもやくすぶっているだけだった。時に、大学院へ・・・・と思わぬでもなかったが、途端に父のふんと鼻くくった冷笑が泛び、進学熱はたちどころに萎えている。
大学までは出させてやる。その先の極道は自分の責任(ちから)でやれ。文学など、世の中、クソの役にもたたない。せいぜい、まともにいって、学校の先生がおちだ。無言の冷笑に、そんな言葉が聞こえてくるようだった。
大学は、文学部と決めたとき、目をむくかと思っていた父は、そうか、とあっさり頷いた。が、それは肯定でも否定でもない。倅の器の小ささに幻滅したのだ。哀れむような目をむけて、こう言った。
「それも小は小なりの、一つの選択ではある。その当否は問わない。希望通り大学には行かせてやる。後日、そいつを生かすも殺すもお前次第だ」
そう決まると、父はことが早い。すぐさま年子の妹に、十幾歳か年長の、さる大店の手代格の男を押しつけ、早々、跡目を固めた。よくよく見縊られたものだが、しかしこちらが、それだけの器だというのも確かなようだ。まるで反撥心など起こらないのだから――。よほどおめでたく、暢気にでき上がっているらしい。
大学進学は、同時に四年間という期限付きで、見棄てられたのも同然だった。うかうかしていると、近い将来、食いはぐれるのは必至である。
大学院に上がり、研究室に入って、そこに待ち構えているものは・・・・学問という名の、政治力学。ぞっとするような師弟間の、隠微な人間関係。先輩諸氏の講義を聴いているだけでも、それとなく判る。その先師の学説を挙げるときの、あの慇懃な物言い。
・・・・と先生は仰いました、とか、・・・・と先生は申されました。畏敬の念が、自ずから鄭重な言辞になるのは当然としても、そのひびきの内に籠ったいいようのない圧迫感のようなものが、聴く者にぞくりと鳥肌立たせるのだ。それは私だけの特殊な感じ方なのかのしれないが、こいつは大変な関係だ、とてもじゃない、おれにはやってられない、という気がしてくる。弟子たちの、私情を排し、へんにとりすました物言いが、はからずもその私情のどろどろを覗かせている。
師は、カリスマ的な強烈な個性の持ち主だといわれていたから、その身辺に侍り、仕えていた弟子たちは、媚びへつらいはともあれ、己れを空しくすることへの、抵抗やら葛藤があった筈である。師の機嫌を損ねることへの怯えに、日々さいなまれもしたろう。師を慕う情は、同時に憎悪のほむらも掻き立て、その矛盾に懊悩もした。そしてある者は抗い、切りすてられ、将又、自ら師の許を去って行った者も、少なからずいた筈だ。
教壇では聴かれない先師の奇異な性癖、私生活の奇行ぶりなど、学生の間にも伝説、風評のかたちで、それとなく伝わり、囁かれていた。妙に甲高い女みたいな声だったとか、食器をアルコールで拭くような病的な潔癖性だったとか、何かの呪術師のような黒褌を常用していたとか、そしてその黒褌が連想を拡げて、男色説に繋がってゆく。生涯、独身で通したのは周知の事実だが、それは女を不浄の者と忌み嫌ったせいだとか、将又ますらおに溺れたせいだとか・・・・。
いつだったか、私はその男色のことを、叔父に訊いたことがある。すると叔父は、薄く笑い、返答に窮したふうに、
「おれは映画が好きで、早くに先生から離れたからな・・・・」
と、口尻をにごした。
戦前、叔父が同郷の小林一三氏に請われ、それまで勤務していた中学の教職を辞し、東宝で映画制作に携わっていたことは、父から聞いていた。
「三熊野詣」では、師と愛弟子との私生活を、何やら秘儀めかせ、誇張して描いているが、実際それに近い現実があったとしても、ふしぎではない。いや、師の世界には、そうした連想を掻き立てずにはおかぬ、魔が棲みついているようだ。
師が死して十年。それまで生前の威光に気後れして、実相を禁忌の闇に閉じ込めていたものが、「三熊野詣」を契機に、師と起居を共にしたこともある愛弟子の中から、告白めかせた回想記などのかたちで出始める。
就職は、マスコミ関係と、ぼんやり決めていた。しかし実際その機が到来してみると、これはとめぼしを付けた出版社に公募はなく、強力なツテもない身には、取り付く島もなかった。名だたる新聞社は、苛烈な競争の上、教授の推薦状を要した。その栄誉に与る学業成績でもなく、日頃からの教授の信任も、まるでなかった。
私は入学の折り、叔父の懇意にしていた教授、助教授たちへの紹介状を、幾通か携えていた。そいつを持って、件の面々に挨拶回りをせよというのだ。知遇を得ておけば、後日、就職の折りなど、何かと役立つ筈だと、叔父の示唆をぼんやり感じていたが、どうしてもその気になれず、さりとて叔父の厚意を無にするのも気重く、半ばもてあまし気味に躊躇っていると、いつか機を失い、すべて握り潰していた。持ち前の人見知りもさるものながら、そういった行為が、いかにも人におもねているようで、どうにも堪えがたい。そんなだから、学問の道に進んだところで、師弟関係など結べるわけもなかった。
時はこちらの思惑をよそに、あっという間に過ぎて、身も定まらぬままに、学校を押し出されていた。同時に、家からの仕送りもぱたりと絶え、懼れていた現実が寒々と眼前に立ちはだかる。しかしそれが四年間の遊学の条件だったから、いまさら泣き喚いてもはじまらない。尻尾を巻いて、家に転がり込んだところで、すでに跡目を継いでいる妹夫婦に、身の置き所もなかろう。
たぶんこうもあろうかと、それなりに下準備はしていた。在学中から始めていたアルバイトで、当面の口過ぎを細々ながらに保持し、一方で新聞広告を頼りに、就職活動を続けた。
業界新聞の記者である。マスコミ関係に拘わり、人のツテもアテにしないとなると、そんなものしかなかった。それだって初めは、世間知らずの、ぽっと出の青二才にはありがたく、胸はずませて飛びついたものだ。追々、実情が判るにつれ、そのいかがわしさに、落胆しおよび腰にもなったが。
新聞ないし雑誌記者の募集の三行広告が、生命保険、ミシンの外交員とともに、連日、紙面を賑せていた。
木造のアパートまがいの、二坪ばかりの子穢い事務室に、経理か何かの、妙にいじけた風情の年増が一人、それに年齢不詳の、インテリ崩れの男が、ひとり二人。何処もたいてい似たり寄ったりで、こじつけ記事をネタの、強請り、恐喝(たかり)が生業と、見当もつく。しかし、他にすがるところもないから、目は自ずと三行広告に走り、もしかしたら、少しはマシな所があるやもしれぬと、幽かな望みにこれを託した。そうして出向いたある日のことだ。面談の相手にむかうなり、熱にでもうかされたように、口走っていた。
「あなたたちは、社会のダニです!」
拳のひとつも飛んでくるかと思っていると、相手はにたりと笑い、やんわりと切り返す。
「そういうお前さんは、何です。ダニにたかるダニですか――」
「そうなんです。ダニのおこぼれに与ろうと、のこのこ出かけて来たんです。お蔭さまで、遅まきながらやっと判りました。そんな自分のあさましさが・・・・」
ぼっとなった頭に、自分でも、何を言っているのか、よく判らなかった。捨て台詞さながら事務所を飛び出し、街中を夢遊病者のごとく彷徨った。
それが契機になって、マスコミへの拘りが、ウソのように消えていた。同時に、定職に就かねばという焦りも薄れていた。食うだけなら、何とかなる。当分は静観とゆくか。まだ若い。機会はいくらでもある。焦って手近なところで妥協し、悔いを残すのもつまらぬことだ。
そんな矢先、布由子から思いがけぬ告白を受けた。
「できたみたい――」
白山の社の石段にかけて、私は思わず固唾を呑む。この前会ったとき、こんどの日曜日、家に来てくれないかと言われた。そのときの、どこか口籠った物言いを、つと想い起こした。
背後の杜の梢が、風に鳴いていた。ときおり起こるつむじ風が、階(きざはし)を駆け上がり、足元に砂塵やケヤキの枯れ葉を吹き寄せる。その一枚を布由子は掌に取り、指先に弄ぶ。いつもながらの黒ずくめの衣の内で、幽かに息づくものがあるかにみえた。
人離れた下宿の、暗闇の中で、唐突に布由子を擁きすくめた。あれが初めてだった。そしてただ一度きりだったのに――。
在学中は、二階の大部屋をベニヤ板で間仕切りした三畳間に、他学生と一緒に暮らしていた。卒業してからも、その下宿を出そびれて、一階の物置小屋を改造した一間に、移り住んでいた。
母屋の差し下ろしの一郭を、板壁で囲ったにわか造りの小屋で、西向きに明り取りの小窓が、それも嵌め殺しのが一つあるきりだ。昼なお暗き独房さながらだが、人離れした所が、救いではあった。栖み慣れると、仮の庵でも結んだ気分に満更でもない。布由子も「ここ閑かでいいじゃない」と言い、学校の帰りしな立ち寄ったりする。その日の講義の整理やら、読書などしてゆく。密閉されたあなぐら同然で、読書に耽っていると、陽の移ろいも判じかね、私の帰宅に「あら、もうそんな時間」と、喚声をあげる。
その日はいつになく帰宿が遅かった。まさかと思っていた布由子が居たので、私は驚いたが、当人はさらに驚き、「あゝ大変、兄貴に怒られる」と叫び、あたりの物を慌しく掻き集め、上框に走り寄る。そいつを私は、魔でもさしたように擁きすくめていた。アルバイト先の上司に誘われて、したたかに飲んでいた。細々たる実入りに、自前では滅多に口にできなかったから、気後れしながらも、意地汚くずるずると流し込んでいた。――しかし、布由子は「お酒臭い」と呟きながら、私に身を委ねた。
闇の中で、白い柔肌が、ぎこちなく反り、幽かな声をあげる。声はとぎれとぎれに続いた。いま布由子が変身をとげているのだと、私はぼんやり思った。
夜分に、布由子を家まで送った。身を寄せ合い、腕を組んで、黙々と夜道をたどった。初めてのことに、互いに少しばかり照れ臭い。街燈の下に差しかかって、思わずどちらからともなく離れ、暗くなるとまた擦り寄っていた。そして互いに苦笑を洩らした。付きつ離れつするたびに、布由子の胸のふくらみが、肘に当たり小さくはじける。そのつど唇に銜えた乳首の感触が甦り、私を疼かせた。路地奥の暗がりで、唇を合わせて別れた。
「それで、どうするつもりだ」
「どうするって・・・・」
「生むつもりか」
「そんな――」
布由子は絶句する。いやな言いぐさだと、私は自分に呆れる。布由子ひとりに、責を負わせるつもりか。
「ごめん。始末してくれないか」
「手術ってこと?・・・・。そんなの、怖いし、恥ずかしいし・・・・」
「酷なようだけど、他にとる道はなさそうだ」
「・・・・・・」
布由子は、足元に目を落としたなり黙り込む。私は煙草に火を点け、苛立つ思いを煙に紛らせた。
「できることなら、殺傷沙汰は避けたい。でも、今のおれたちに、何ができる。きみは学生だし、肝心なこのおれは、職も定まらぬ身だ。子供はおろか、この身一つ養うのさえ汲汲たるありさま。まったく、だらしない次第で、こんなの、おんな孕ませる資格ないよな」
「そんな言い方、きらい」
「・・・・・・」
「わたし、学校やめたっていいんだから。あなたについて行きたいの。二人で暮らせるなら、どんな生活だっていいんです」
何だか布由子が急に大人びて感じられた。
「そのことはおれも考えている。いますぐにも、きみと暮らしたいくらいだ。・・・・でも、それには最低限、生活の基盤は必要だ。おれが定職さえ持てば、学校だって続けられる。だからそれまで、待ってほしい。子供は、それからということにして、今度だけは、あきらめてくれ。おれたちは、まだ若い。この先だって、子供はいくらでも、生(で)きる」
「いやな言い方するのね。いちど喪ったものは、にどと還らないのに――」
たしかに布由子の言うとおりだが、しかし私はやはり、差し迫った現実を懼れる。
「おれの知り合いに、学生結婚したのがいて、子供が生きちゃって、産んだはいいけど、育てるのに汲々で、結局、ふたりとも学校やめちゃった。それも、中途半端な身で、ろくな職もなく、土方するには、へんなプライドがあって、そこまでは堕ちきれず、体裁ばかりの半端な仕事では、実入りも少なく、それだけでは食えなくて、血を売って、ミルク代稼いでいる。子供に、己れの血を啜らせているようなものだ。それが親業というものなのかもしれないが、奥さんが病弱で、余計そうなってしまうのだろうけど、おれには、そんなマネできそうにない。勇気もない」
「そうまでして、女を、愛せないんでしょう」
痛烈な一撃に、私は、言葉を失う。
「生活のレベルのことだけじゃないの。女は、色んな生臭いものを身に纏っているから、女と暮らすということは、その泥をまともに浴びることでもあるのよね。・・・・まれびと先生、それがいやなものだから、一生独身を通した。考えようによっては、すごく卑怯だわ」
先師批判にかこつけて、こちらの卑劣さをなじっているようだが、話はさらに飛躍する。
「まれびと先生、男色者だって、ほんと?」
私は布由子のとっぴな質問に、いささか面食らう。
「そんな伝説もあるね。・・・・真偽のほどは、知らないが。蜑の村十三首だったかな、あれなんか、その気で詠めば、そういう歌として読めぬでもない。蜑男(おのこ)を見つめる、あの熱っぽい視線(まなざし)、あれは男色のものか。一般に、男が女の柔肌にむける視線ではある。身辺に囲っていた愛弟子たちは、そんな師の心眼に堪えるような、美丈夫なますらおたちなのだろう。養子に迎えたのも、その一人だった。
その弟子に、赤紙が来て、養子の金沢の実家に赴いた折りの一コマを、室生犀星は『我が愛する詩人の伝記』の中で、興味深く描いている。金沢での二人が、夫婦のようにも、母子のようにも見えたという。戦に赴く夫への、将又、愛子へのけなげなほどの振舞い。妻、母親の役どころに徹していたとみえる。
母親役は、追悲荒年歌、乞丐相、幼き春なんかの、実母への満たされぬ情の裏返しでもあったか。その捩れた母情と絡みあって、男色の性癖を醸し出す・・・・」
「母親って、いやな生きものだから。いま、わたしも、そのいやな生きものになろうとしているのかしら・・・・」
ふと上げた目に、白袴の神主が映る。布由子の異腹の兄で、年も倍ほど違う。二人に気づいてか気づかぬでか、伏目がちに鳥居の前を横切り、向かいの路地に消える。袋小路のどんづまりが、神主の住居である。布由子の実家は、水戸市の郊外だが、彼女は高校の時から、その兄の家に寄宿していた。
「このこと、兄さんには告らせたのか」
「そんなこと言ったら、わたし、追い出される。大学に入るのだって、渋々だったもの」
布由子は肩をすくめ、吐息を洩らす。竦めた肩口に、ケヤキの落葉が、ひとひらふたひら。
「それなら、尚のこと、始末したほうがいい。・・・・それとも、手遅れとでもいうのか」
「さあ、どうかしら・・・・」
「さあって、医者から訊いているだろう」
「病院なんて、行ってませんよ。恥ずかしいもの――」
布由子は、ぼっと顔を赤らめ、
「でも、間違いないの。ずっと無いんですもの」
そういえば、布由子は生(で)きたみたい、という言い方をしていた。それをこちらが勝手に、医者の診察結果と、早合点していたのだ。たぶん彼女の自己診断に、間違いはなさそうだが、もしかすると思い過ごしのような気もして、闇に光明をまさぐる。半信半疑ながら、焦りも募った。
「ためらっていても仕方ない。いずれ医者にかからぬわけにはいかないのだから、それなら早いほうがいい。どう、明日にでも・・・・」
「あなた、一緒に行ってくれる?」
「あゝ」
産婦人科など、あまりゾッとしないが、責はもっぱらこちらにある。布由子が恥を忍ぶ決意をしたのなら、こちらも、応分の恥はかかねばなるまい。同伴することで、彼女の負担が少しでも軽くなるのなら、そうしてやりたい。
その日、布由子は上下のスーツに、黒のストッキングと、いつもながらの黒ずくめの出立ちだった。ただ髪は、和服の時のように巻き上げていて、そのぶんいくらか大人めかせていた。
産婦人科は、その気になって見ると、小さな町にもそれなりに在るものだが、近場はいやだという布由子の意を酌み、ターミナル駅に出る。恥は、どこか知らぬ土地に、紛れ捨てたい。そんな布由子の心情が、私にものり移ったかのようだ。
繁華な街中のビルの、窓に映る産婦人科の文字を、目で追いながら、踏ん切りのつかぬまま遣り過ごしていると、いつか閑静な通りに入っていた。ふと左手に、小さな公園があった。銀杏並木の木の間隠れに、蔦を這わせた古めかしげな洋館風の建物が目に留まる。近づいてみると、産婦人科医院だった。古ぼけて、陰気臭い風情に、何やら不振を囲っているかに見え、二の足踏むていに、暫し顔を見合わせた。ややして、布由子が意を決し、玄関口に足を向けた。恥をかき捨てるには、かえって好都合な所に思えぬでもなかった。
内に入ると、それが思いがけず、まあ、花の賑い。待合室、廊下と腹の膨らんだ女たちで溢れていた。うら若いのから、産みずれ顔の中年女と、年のころも様々なのが、長椅子にどてりと鎮座して、どでかい腹を気だるげに突き出し、はれぼったい胡乱な目が、一斉にこちらに注がれる。何とも異様な雰囲気に、私は思わず居竦んだ。場所柄か男気はさらになく、身の置き所にも窮する始末。尻からげて逃げ出したくなるのを、何とか踏んばり、調剤室の脇の植木鉢の影に、そっと身を潜めて、布由子の戻るのを待った。
しかし布由子は診察室に入ったきり、なかなか戻らなかった。煙草を喫うのも憚れる気配に、余計じりじりしてくる。ひょっとしたら、布由子のやつ、産院の異様な雰囲気に呑まれて、生むのをあきらめ、手術でも受ける気になったか。などと、あらぬことまで妄想(おもいめぐら)せた。
向かいの長椅子の女と、ふと目が合った。というか、女のへんにとげとげした目に、さっきからじっと睨まれていたようなのだ。四十前後の女で、細身の体に、妊婦の風情ではない。すぐ横に、中学生ぐらいの少女が寄り添っていて、どうやら受診者は、その少女のほうらしい。あの、暗く沈んで、苛立った風情は、不始末しでかした娘に付き添う母親の趣き。そんな女の、謂われない挑戦に、私は、いささかたじろぐ。少女の不始末の相手が、布由子のこととも重なって、自分だったような錯覚さえおぼえ、わけもなく顔が火照った。
「わたし、生みます」
「もう、手遅れなのか」
「三ヶ月――。でも、わたし、生むことに決めたんです」
「そんな――」
絶句したなり、私はしばし言葉に窮した。布由子の強い意志が、それとなく感じられて、焦るほどに、私は、言葉を喪う。色づいた銀杏の葉が、しきりと降り注ぎ、その一枚が、布由子の黒い脚に、危うく止まって、金色の扇模様を描く。
「ねえ、お願い、生ませて――。あなたに、迷惑かけないから」
「そんなことじゃないだろう」
私は、思わず強く言い返す。が、布由子の哀願するような眼差しに、昂ぶりかけたほむらも、一瞬にして萎える。
「学校、どうするの?」
「やめます――」
それきり二人は押し黙ったまま、公園をあてどなく彷徨った。そして布由子を家まで送った。
白山の社に、二人並んで、拍手を打つ。いつもながらの、たいした意味もない慣行ながら、布由子は、どんな思いを祈りこめたか。路地の奥に消えてゆく、布由子の黒い背中に、私は不吉なものをぼんやり感じた。
その予感の通り、それが布由子との、最後の別れとなった――。
その夜、布由子は事の次第を、兄に告白(いう)と言った。そのほうがいいと、私も思った。彼女とは、おそらく反対の意味で。布由子は身内の情にすがって、事を甘く見ているようだが、彼女の青臭い意志など、ひとたまりも無く一蹴される筈だ。私は、半ば投げたはてに、ささやかな望みを、その兄に託した。だが、そういう私こそ、その兄を、甘く見縊っていたようで、子を懼れるあまり、元も子も喪うことに気づかなかった。
社の前で別れて以来、半月ばかりが経っていた。その間、布由子からは、何の連絡もなかった。無いことが、どこかで私を、ほっとさせているところもあった。何となく布由子から逃げていたい、いや、いっそうのこと、このまま有耶無耶になってしまえば、それに越したことはない。あの時、社に掌を合わせて、そんな事を念じていたような気もする。
しかしまた一方で、焦燥感に駆られ、電話に飛びつき、ダイヤルを回しかけては、躊躇い、止め、またかけ直しては止め、そんなことを果てしも無く繰り返していた。そして時には、何かに取り憑かれたみたいに、社の前の路地に迷い込み、板塀の内に、耳を澄ませた。戸口に手をかけたものの、押し開く勇気はなく、すごすごと引き返してばかりいたが。
そんなある時、路地に入って来る者があって、引っ込みがつかなくなり、思わず内に声をかけていた。即座に応答があって、現れたのは、見知り顔の兄嫁だった。
来客が私と知って、相手は一瞬、戸惑いの色を見せた。顔に歪んだ微笑を泛べ、すぐ内に引っ込む。が、ややして戻ると、
「神主さんが、お話がございますそうで」
布由子が居るのか、居ないのか判らないが、神主の話というのは、その布由子のことに違いない、と私は直感する。躊躇いながらも、私は兄嫁に誘われて、奥の間に入る。兄が、神事の姿に身を装み、座卓を前に正座していた。不吉な神託でも賜る気配に、私は畏まった。
「布由子のことは、今日かぎり忘れてくれ。不浄な失事は、無かったものと、水に流す。ですからきみも、過去の事は一切忘れて、これからのきみの人生を、存分に生きてほしい」
前置きもなく、いきなり言われて、私は、茫然となった。体ががくがく慄え、いっとき私は、忘我の境を彷徨う。
兄が、何か言ったようだった。私ははッと顔を上げ、兄を見据える。が、それはどうやら私の空耳だったようだ。そんな時、私は、上ずり声に、「布由子さんと、結婚させて下さい」と、叫んでいた。それもまた、虚ろな錯覚だったか。自分では、確かに声に出したつもりだったが、言葉は、口元から出た途端、宙にはじけ飛んでいた。焦るほどに、言葉を喪い、息が詰まり、全身に冷汗が滲み出る。そしていつかそれも萎えしぼんで、虚脱状態に、吐息を漏らす。もう、神託は下されたのだ。いまさら、そんな御託をならべて、何になる。
・・・・でも、布由子には逢いたい。布由子の本心が知りたい。いや、ひとめだけでも――。
「布由子さんは・・・・」
吃りぎみに、それだけがやっと出た。が、すかさず、止めの一撃。
「布由子は、実家に帰した。学校も止めさせた――」
驚き、落胆した私を尻目に、神主はやおら腰をあげ、
「明日、神嘗祭でしてね、多事多忙、これで失礼させて戴きますよ」
何を思ったか、私は咄嗟に畳に額づき、
「すみませんでした」
と、口走っていた。屈めた背中に、神主の無言の視線が、ひりひり感じられた。伏せたなり、遠ざかる衣擦れの音を聞いていた。
つた つた つた
体の中に、穴があいたみたいだ。暗く空ろな穴。果ても無く底くらい虚しさ。その空ろの裡で、猛り立つものが、声なき怒りの声を、轟かせていた。
うつそみの人はさびしも。すさのをぞ 怒りつゝ 國は成しけるものを
そんな先師の歌が、紛れ聞こえた。
布由子と、ふたりの国を造りたかった。もうそれは不可能なのだろうか。布由子は、すでに、黄泉の比良坂を越えてしまった――。
こう こう こう
魂呼びの行者の声を、夢に聞いた。その声に誘われて、私は起きぬけの、うつろな目を瞬かせながら、ふらりと外に出た。電車に乗った。
その幾時間か後、私は、水戸駅の駅頭に立ち、出入りするバスを、ぼんやり眺めやっていた。煙草に火を点ける。その火輪の中に、黒衣の布由子が、ぼっと泛ぶ。よし、行こう――。
話にだけ聞いていた、おぼろな空想の地図を頼りに、郊外行きのバスの一つに乗り込む。
布由子の魂に誘われてか、迷うことも無く実家にたどり着く。胸ふくらませ、半ば怯えながら、おずおずと内に声をかけた。閾の奥の仄暗がりに、家刀自らしき女の貌(かお)が、茫と泛び、私を剣呑に見据えた。布由子さんはと、問いかけるや否や、「居ません」と、ぶっきらぼうに吐き捨てて、闇に紛れた。こちらが何者か瞬時に見抜いての早業。なす術も無く、引き下がるほかなかった。
家刀自の掻き消えた闇に、私は、一瞬ながら、黄泉の國を、垣間見た気がした。布由子は、あの闇に紛れて、おれから身を晦ませてしまったのだ。そして、もう二度と還ってはこないだろう。おれは、おれの中にぽっかりできた暗い穴に、布由子の脱殻(おもいで)を閉じ込めたまま、生きねばならぬのか――。
高台の家の裏手の坂道を、私は、黄泉の比良坂を転げ落ちるように、駆け下りた。畑道をぬけ、土手に上がった。左手に鉄橋が見える。往時のバスでその橋を渡ったのかどうか、定かではないが、その先に水戸駅があるだろうと、見当をつける。
家刀自の憎悪を滾らせた目が、いつまでも追って来るようだった。ひょっとすると、布由子もまた、あの同じ目で、黄泉の國の闇に葬られたのかもしれない。母親って、いやな生きものよ。ため息まじりの、布由子の懐かしげ声が、追憶の耳に甦る。
筑波颪が、音立てて、吹き抜けてゆく。
をゝう をゝう をゝう
黄泉の國を垣間見た者への、怒りの声か。私は、肩をすぼめ、コートの襟を立てる。
ふっと、背後に人の気配。にきび面の少年が、自転車を軋ませ、横合いになだれ込む。
「姉ちゃん、よそに、貰われていった――」
変声期のかすれ声が、風に散った。気恥ずかしげな目を瞬かせて、ごくりと頭を下げると、慌しく風下に走り去る。私は茫然と見送った。引き留めようにも、咄嗟のことに、言葉も泛ばなかった。玄関口に立った時、家刀自の背後の暗がりに、ぼっと立つ少年の姿を、私は垣間見ていた。たぶんその少年であろう。中学生か、布由子にそんな弟がいたことを、私は知らなかった。
弟の姉を思いやる情が、家刀自の無情と重ね合わせになって、私の胸を衝いた。
ありがとう。姉ちゃんを頼むよ。
私は、心の言葉(こえ)を風に乗せて、彼方の少年に送った。
いつだったか、遠い姻戚すじから、養女に望まれているという話を、布由子から聞いたことがある。その時は、笑い話にすませていたが、此度の不始末がもとで、事が急に纏ったようだ。布由子には、負い目に抗い切れなかったか。とすると、子供はやはり始末した。不浄のものを抱えたまま、養女に行けるわけもなかろう。いくら子欲しさの相手でも、馬の骨のタネまで抱え込むとも思えぬ。
しかし、あんなに生むことに執着していた布由子が、その嚢中(のうちゅう)の秘胤を抹殺してまで、相手に身を委ねるだろうか。布由子は一見、ひ弱で、控え目な女だが、あれでけっこう依怙地なところがある。ひとつこうと決めたら、梃でも動かぬ。そのへんは何やら、なよやかな中に、芯が一本、びしりと貫かれているのだ。子を孕んで、更なる女の靭さ、腹をぽんと叩き、ふてぶてしげに、この身まるごと引き取って戴けるのでしたなら、養女にも参りましょう、なんて居直ったやもしれぬ。
そんな訝りが起きるのも、布由子から何の連絡もないためだ。半端でない彼女の意志が、その沈黙の中に、ずしりと感じられた。そしてその意志は、あなたに迷惑はかけない、と言ったとき固まる。またそれは、訣別の辞でもあったのだ。貧しい現実に拘り続けた男への、限りない失望感を抱いて、布由子は、私の手の届かぬ闇に紛れてしまった。安手の現実を保持するため、私は、得がたいものを捨てて顧なかった。
いま、その喪ったものの大きさに、私は茫然と立ち尽くす。
「三熊野詣」との奇遇で、水底に沈めていたうつそみの面が、ぼっと透き見え、その翌日、私は、白山の社にでかけた。
社に寄り付かなくなって、何年が経ったのだろう。たいした歳月でもなかった気もするのだが、あたりはすっかり様変わりしていて、同じ社かと、訝るほどだった。石段の脇の、ケヤキの大樹に、以前には無かった囲いが廻らされ、天然記念物指定の立札が立っていた。そのせいか、どことなく精彩を欠き、老骨に鞭打ちながら気張っているような、痛々しさがあった。
この社の祭神は、伊邪那美命である。神仏合祀の社には、脇侍佛に、観世音菩薩が祀られていたが、明治の廃仏毀釈で、近くの寺に移されたと聞く。
「加賀國の白山の山頂に、奥宮が坐りましてね、白山比媛(シラヤマヒメ)神社と称うんです。泰澄大師という坊さんが、開山したもので、祭神は白山比媛大神、別名、菊理媛(ククリヒメ)神。伊邪那美命になったのは、両部神道が、本地垂迹を解くようになってからの、伝記だといわれている。その菊理媛も、もとは高句麗媛で、『こうくり』の発音が『くくり』に、転訛したというわけです。いや、受け売りですが・・・・」
と、布由子の兄は、笑いながらそんな社の由来を、話してくれた。
その兄は、この社に、いまも奉へているのだろうか。神社本庁の所轄で、神主には、サラリーマンと同じ転勤もあるから、何とも推りかねる。それに、路地奥の住居も、氏子の所有(もの)なのだ。
路地は、身の内に抱えもつ空洞(うろ)のごとく、疎く暗かった。ぼっと翳んだ小暗がりの、轡をならべた民家の、閾戸の一つが、すっと音もなく開いて、そこからいまにも、あの黒ずくめの布由子が顕れるかと、息をつめ、目を凝らした。が、あたりは昼下がりのしじまにことともしなかった。
煙草に火をつけ、ふっと顔をあげた時、どん詰まりの家の板塀の内に、幼き者の掻き消える姿が、ちらりと視界をよぎる。ほんの一瞬のことだが、確かな存在感が、網膜にしかと焼きつく。夢まぼろしに見た、あの少女(ちいさご)。五、六歳だろうか、黒ずくめの装いに、白いリボンが鮮やかだった。
私は、路地に走った。少女の消えた板塀に張り付き、耳をそば立て、内を窺う。這わせた目の先に、見覚えのある表札があった。しかし、文字は幽かに墨跡を留めるばかりで、名乗るのを、拒んでいるかのようだ。
あの頃、布由子の兄には、遅くに生(で)きた女の子がいた。五つか六つだった。さっきのは、その後に生れた妹か。しかしその頃、兄嫁にそんな風情など微塵もなかった。だいいち四十七、八にはなっていた筈で、それから生んだとも思えない。
とすると、あの子は、誰・・・・。そう、布由子の・・・・そして、おれの・・・・。
にわかに体がこわばり、痙攣でも起こしたようだった。慄えは沓底に流れ、かちかちと微かな音を立て、抑える術もなかった。そのひびきに和するように、少女(ちいさご)の独り遊ぶ声が籠り聞こえてくる。・・・・あゝ、あれは布由子の声だ。何とも侘しげなひびき。うつそみのひとは
さびしも。・・・・
「おかあさん!」
少女(ちいさご)の、唐突な一声。続いて、向いの家の、ガラス戸を引く高いひびき。家内から人の出て来る気配に、私は慌てふためき、路地を飛び出る。その背に、母子(ははこ)の囁きが追いすがる。
おとうさんに、あった。
うん。すこしだけね。あのひと、きらい。
どうして。
だって・・・・おかあさん、すてたんだもの。
声は、私の空洞(なか)で、いつまでもこだましていた。
その前夜、私は独居の闇に紛れ寝ぐされて、夢とも幻ともつかぬものの裡で、その少女(ちいさご)のおぼろ姿を垣間見ていた。その夢まぼろしに誘われて、社に赴いたのだ。あるいは、それもまた、昨夜来の虚妄の続きだったのだろうか・・・・。
老いかけの身に、遠い記憶も頼りなくなった。藤宮先生が、櫛埋めの儀式で、孤独な人生のしめくくりに、たび重ねた伝説の最後の夢物語を、自ら演じてみせたように、私もまた、喪った者とのありし日を、夢の裡に紡ぎ織ることで、それを別れの儀式としたい――。
〔引用は中央公論社版・折口信夫全集。三島由紀夫著「三熊野詣」新潮社に拠る〕
(むかわ じろう 小説家 日本ペンクラブ会員 1937.7.4 山梨県に生れる。 湖の本の読者。作品の初出は平成四年(1994)『空蝉』審美社刊)
塔のある町で 倉持
正夫
シエナからその町まで、長距離バスでどのくらいかかるのだろう。
どのくらいかかるのか、私にはわからない。
とにかく、その町には塔が十三基ほど聳え立っていて、それこそ、町そのものが中世そのまま、住む人たちも数百人を数えるくらいで、ひっそりと山の上に暮らしているのだと云う。
そんな町が、はたしてあるのか。本当に存在するのか。
私は、まずそのことを疑った。
――あなた、ボッシボンシという村でバスを乗り換えるのよ。
薄茶のサングラスをかけ、大きな日よけの帽子を被った妻が、長距離バスを待つ乗客の列に付きながら、私に云う。
――うん、わかっている。
――ボッシボンシという村、小さな村だそうだから、よく注意していないと、乗り越してしまうかも知れないわよ。
妻の云う通り、私たちはその国の言葉を何一つ知らない。
ボッシボンシにバスが着いた時、どう云ってバスを降ろして貰えばいいのか。その塔の町へのバスの乗り換えは、どうすればいいのか。いや、そのボッシボンシまで、どのくらいバスに揺られていかなければならないのか。
私たちの後ろに、バスを待つ長い列が出来る。土地の人たちも混じっている。土地の人たちは、みなグループになって互いに肩を叩き合い、笑い合いながら、声高に話を交わしている。ネッカチーフを被って、籠を抱く老婆。ベレー帽にジャンパー姿の、腰の曲がった老人が杖を握り締めて、バスを待ちあぐんでいる。バス発着所前の石畳の広場では、音楽が鳴っている。コーヒーやジュースを売るスタンドが立ち並んでいる。若者たちの人だかりが出来ている。赤や青、緑、黄の縞模様の日よけのパラソルが広場を鮮やかに彩っている。
私たちは、昨夜、シエナの小さいホテルに泊まった。
ホテルのロビーで日本人のガイドに出会った。ガイドは、がっしりとした体躯で、口ひげをのばし、眼の大きな、頬骨の張った、すぐに日本人とわかる顔付きの男だった。
――こんばんは。
と、男は云った。
両腕を開いて、肩をすくめて見せる仕草をし、ちょっと照れた。
――今晩は。
私たちも云った。
――お邪魔していいですか。
――どうぞ、どうぞ。
妻と私は、テーブルの上にガイドブックを広げ、明日の予定を思案している最中だった。フィレンツェのホテルにツアーで二泊の予定がしてある。もう一日、シエナを見て廻るか、それとも、長距離バスでフィレンツェに直行するか、私たちはそれを決めあぐねていた。
――明日のご準備ですか。なかなか大変ですね。
男が云った。
――いや、私たちのは、ほんのちょっとした旅ですから。
私たちは、シエナの町を一日じゅう歩き廻り、夕食を済ませてホテルに戻ったばかりだった。妻も私もワインで、顔を真っ赤にしていた。
――じゃ、シエナの町は、今日、ご覧になったんですね。シエナはいつ来ても本当にいい町です。中世が生きている町ですからね。カンポ広場やププリコ宮、商工会議所、ドゥオモ、チッタ通り、長い、曲がりくねった路地など、みんなご覧になったでしょう。シエナは歩けば歩くほど、見れば見るほど、大変な中世の町ですよ。一日や二日では、とても歩き切れません。それに、中世の都市と農村が集合した、所謂、トスカーナ地方特有の風景が見事に残っています。私も二十年近くもガイドをしていますけど、いつもこの町に来るとほっとします。
男が云った。
――今日、昼にチッタ通りのレストランで吟遊詩人に出会いました。小さい縦笛で、単調な音階の曲を吹く人でしたが。
私は云った。
吟遊詩人と云っても、別に風変わりな服装をしているわけではなかった。ごく当たり前の男で、一曲吹くごとにテーブルを廻って、客から何がしかの金を帽子に受けていた。私たちは、ワインを飲みながらその古風な音色を聞いていた。吟遊詩人は、私たちのテーブルにも来た。彼は目礼し、小さな縦笛を口にした。ひゅうーという音で始まるモノフォニーが響き始めた。
私は、モノフォニーとポリフォニーがどんなふうに中世から近世にかけて発達して来たのかは知らない。しかし、中世には、人々の間には二つの宇宙観があったことは確かだ。家や村や町を中心にした生活空間である小宇宙、その向こう側に拡がる闇。その闇とは、人間の力の及ばぬ神々や悪魔の住む大宇宙であり、病気や、幸、不幸、運命や災害はそこから襲って来るものと、人々は信じていた。だから、彼らにとっては、森の木々を渡る風も狼の雄叫びも、その大宇宙の持つ恐ろしさと変わりなかった。 その頃から、遍歴芸人や吟遊詩人たちは、人々の喜怒哀楽を弦や笛、歌に託して、町や村々を廻って歩いていたのに違いない。
――日本では、吟遊詩人など考えられませんけどね。
――でも、日本にも昔はハレの日にオハヤシが村じゅうを廻って歩くとか、お正月に三河漫才が門付けに立つとか、あった筈ですよ。
そう云って、ガイドの男は笑った。
――今日のような場合、吟遊詩人には、どのくらいのお金をあげたらいいんですか?
私がガイドに云った。
――さあ、殆どが観光客が相手ですからね。いろいろですよ。人によっては二百リラとか、五百リラとかね。で、明日のご予定はフィレンツェですか?
ガイドの男は妻の方に顔を向けた。
――それで、いま迷っていたところなんです。長距離バスでフィレンツェに直行するか。それとも、もう一日、シエナを廻ろうかって。今日、カンポ広場の小さい骨董屋でエッチングを二枚買って来ましたの。
妻が云った。
――ほう、エッチングですか。
――何しろ、言葉がわからないでしょう。
妻はソファの下から無造作に紙包みを取り出した。
一枚は、収穫した穀物を入れた袋を馬の背に乗せ、手綱を引きながら市場に向かう農民を描いたエッチングだった。切り立った山肌に沿った石ころ道の彼方には教会の尖塔。広場には収穫の踊りをおどっている農民の群れ。
もう一枚は、山頂の塔城塞の絵だった。円筒形の主塔を中心に、それぞれ城塞を支える巡視路、見張り小塔、甲塔が細密に描かれている。左から大きな山塊が跳ね橋のある城門塔に迫っている。塔城塞の右方は深い谷となって落ち込んでいる。それに連なる遠い山々が霧に霞んでいる。
――ほう、この収穫のエッチングはいいじゃないですか。中世の農民の顔がユーモラスに描かれている。
ガイドの男が云った。
――ところで、明日、フィレンツェに直行なさるのでしたら、《塔の町》にお寄りになってみませんか。その町は、大変珍しい町でしてね。いや、ヨーロッパじゅうを捜してもそんな町はないかも知れません。文字通りの《塔の町》です。なぜ、その町にだけそんなに沢山の塔が残ったのか、歴史家にもわからないんです。現在、残っている塔の数は十三基ですが、十四世紀の頃には七十三基あったと云われています。いまでは、町に小さなホテルが一つと、あとは観光物産品を売るほんのちょっとした店々や、コーヒーショップが店を開いているくらいです。でも、ご覧になる価値はありますよ。
ガイドが云った。
熱のこもった云い方だった。
――時間的にみて、どうですか?
――そうですね。
ガイドは、ちょっと首をかしげた。
――《塔の町》にいらっしゃるとしたら、帰りの乗り換えのバスの時間を十分気を付けないとね。午前、午後一本ずつしかバスがないんです。それを逃すと、その塔の広場で野宿しなければならないかも知れません。山の上だから、夏でもかなり冷えます。
ガイドの話では、フィレンツェ行きのバスは十時に出る。それに乗って、途中ボッシボンシという村で《塔の町》行きのバスに乗り換える。しかし、そのボッシボンシで乗り換えるバスの時間はわからないと云う。
――フィレンツェのチットで確認してみましょうか。チットでわかる筈ですよ。ちょっと、待ってください。
そう云って、男は電話のあるカウンターの方に立っていった。
妻と私は、そのガイドの、肩幅の広い背中つきを見ていた。
――途中、寄り道をしても大丈夫かしら。
妻が云った。
――そんなことを云ったら、何処へ行っても見知らぬ所ばかりじゃないか。
と、私が云う。
――それもそうね。
妻が云った。
私は、今日、妻と一緒に歩いたカンポ広場の《マーニャの塔》を思い浮かべた。広場は、帆立て貝の形をした白い石で九つに区切られていた。《マーニャの塔》は市庁舎と同じ煉瓦が使われ、独立して立っていた。塔の上に吹きさらしの鐘塔が乗っていた。塔の上部は白、それを支える塔壁は赤煉瓦だった。妻と私は、広場の石畳の上に座って、円形劇場のように拡がる風景を眺めた。アイスクリームを買って食べた。その風景のなかでは、私たちは点のような小さい存在でしかなかった。石畳の上で、私は中世の旅人のことを考えていた。中世の旅人たちはどんな旅をしたのだろう。
街道をさまざまな階級の人々がやって来ては歩み去り、時には王侯貴族の行列が賑やかに過ぎた後を、今度は巡礼者詣での老若男女がとぼとぼと杖をついて過ぎ、やがて遠隔地商人の隊列がほこりを立てながら通り過ぎる。遍歴楽士や乞食たち、娼婦の群れ、馬上の騎士たちが駆け抜けていく。飛脚が走り去る。
中世の人たちは、いまとは比較にならない程、多くの危険にさらされていたのだろう。中世には黒死病が流行した。旅する者たちは、道の端を歩かねばならなかった。道の真ん中は死者たちの場所だった。旅人たちは森や林を通って、未知の街道を辿りながら、倒れ木、土砂崩れ、結氷などに悩まされ、分かれ道を右に行くか、左に行くかで、盗賊に襲われたり、不慮の死に出会ったりしたのだ。
――あなた、本当に明日、その《塔の町》に行くつもり?
妻が云った。
――バスの時間さえはっきりわかれば、そうしてもいいんじゃないの。フィレンツェのホテルには、夕食の時間に間に合えばいいんだ。
――でも、万が一、《塔の町》でバスがなくなって、戻れなくなったら。
――その時は、その時だよ。とにかく、定期のバスがあるというんだから。
――じゃ、あなたに任せるわ。あたしは知らないわよ。
カウンターからガイドが戻って来た。
――チットに電話しましたら、行きは十五分くらいの待ち時間です。ボッシボンシから《塔の町》までの所要時間は三十分です。帰りのバスの時間は、《塔の町》発が四時十分。これに乗ればフィレンツェ行きの最終バスに充分間に合います。
――全く知らない土地で、言葉も不案内なのに、本当に大丈夫かしら。
妻が云った。
――旅というものは、元来、そういうものじゃないでしょうか。ねえ、ご主人。
私は相槌を打つ代わりに、ガイドを見て笑った。
――奥さん、いま流行のパックツアーなどというものは、あれは旅じゃありませんよ。わたしも、女子高校の教師たちを十人程連れて、昨日シエナに来たんですが、お仕着せのコースを駆け足で廻ってホテルに戻るだけですからね。どんなに丁寧に説明してあげても、そんなことお構いなしに写真を取りまくっているんですからね。ガイドにとっては情けない話ですよ。
その自嘲めいたガイドの言葉に親近感が湧いた。
――どうです。ご主人、お時間がありましたら、地下のバアーにいきませんか。
ガイドの男が云った。
――まず、明日どうするか決めませんとね。
私は妻を振り返って云った。
すると、ガイドの男は誘うように云った。
――《塔の町》は本当にいいですよ。是非、そうなさった方がいい。あそこの、《塔の町》は中世から近世にかけて、兎に角、文化の中心になった都市です。シエナとか、フィレンツェは誰でも旅行プランに組み入れますけど、《塔の町》は素通りしてしまいます。わたしは歴史にはあまり詳しくはないんですが、確かダンテもトスカーサゲルフの同盟の大使になって《塔の町》に来ています。その頃、この地方は法王派と皇帝派に分かれて大変な争いだったらしいんですが、わたしには、無論、法王派とか、皇帝派とかはよくわかりません。でも、《塔の町》には現在、中世ロマネスク様式とか、ゴジック様式の塔や建物が沢山残っています。
――あたし、部屋に帰って寝るわ。
妻が中腰になり、明日のことはあなたに任せるというふうに、ガイドの男に会釈して立ち上がった。
――じゃ、明日は、《塔の町》に行くことに決めるよ。
私は妻の背中に向かって云った。
ガイドの男と私の眼が合った。
彼は微苦笑みたいな笑いを浮かべた。
――妻は少し寝不足なんです。明日、《塔の町》に行ったら、元気になりますよ。
私が云った。
ガイドの男と私は地下のバアーに降り、二人並んで止まり木に座った。
――プオナ・セーラ・コーメ・スタ?
灰色の口ひげをのばした、ガイドの顔見知りらしい男が、カウンターの向こうから顎をしゃくって云った。
景気はどうかね。と、云いたげな表情だった。
――まあまあだよ。ペネ・グラット・エ・レイ?
ガイドが云った。
――うん、うまくやっているよ。忙しい毎日だ。
灰色の口ひげの男は、機嫌のいい声でそんなことを云っているふうに見えた。
二人の男たちは、手をあげて笑い合った。
――キャデイの赤にしましょうか。
ガイドの男が私に云った。
小さいバアーだった。鉤の手にカウンターがのびていて、フロアには背の高さ程のスタンドが三つ、レモン・イエローの光を投げかけていた。テーブルには三組の客がいた。フロアにもテーブルの上にも、灰色の壁にも淡い陰が出来ていた。その陰のなかからウエトレスが近づいて来た。
栗毛色のお下げ髪で、鳶色の眼を大きく見開いて、微笑をたたえている。大柄の格子縞のエプロン、白いブラウスの胸元から乳房がこぼれんばかりに盛り上がっている。
ガイドの男と私は、赤ワインで乾杯した。私は、シエナの小さな地下のバアーで、日本人のガイドとの偶然の出会いでグラスを交わしあっていることに感動した。
――そう、そう、自己紹介はまだでしたね。秋野と云います。こちらでもアキノです。子供が三人。女房はフィレンツェ生まれです。
ガイドの男はそう云って笑った。目尻に皺が寄って悪戯っ子のような表情になった。
――私は柏木です。全くの邂逅ですね。こういうのを本当の巡り合わせというんでしょうか。明日の《塔の町》が楽しみです。
――いや、本当に偶然でした。ロビーのソファに日本人のご夫婦がお座りになっているなんてね。無論、ツアーでは、日本人のお世話をすることが多いんです。シエナ一日とか、アッシジを廻ってローマまでのコースとか、スケジュールに合わせてその日、その日のプランを組むのが大変です。歴史、風俗、文化の問題、どれ一つ取ってみても、われわれ日本人が、この地でガイドとして仕事をしていくには大変なことです。わたしもこちらで結婚して、日本を忘れてしまいました。東京がどんなふうに変わったのか、日本の政治がどんなふうになっているのか、こちらの新聞の小さな記事を読んで想像するだけです。しかし、年々、フィレンツェやアッシジにやって来る日本の若い人たちは増えましたね。海外旅行というのは、一種のファッションなんでしょうか。それに、日本人はみなお金持ちですよ。
ガイドの男が云った。
――で、柏木さん、あなたはヨーロッパは度々ご旅行で?
――初めてです。本当のことを云いますと、私は間もなく定年でしてね。その前に一カ月程休暇を貰いました。
私は、ワイングラスをテーブルから取り上げながら云った。赤のワインがグラスのなかでルビーのように揺れた。
――ほう、ご定年ですか。それで、今度のご旅行というわけですか。
ガイドの男は云った。
――いや、ほんのちょっとした旅ですよ。それにしても、いざ定年となると、いろんなことを思い出しましてね。この頃、昭和という時代を、私は一体、何をして来たんだろうと考えたりしてましてね。いささか、歯軋りする思いがあるんです。戦後の神武景気も、岩戸景気も、いざなぎ景気も、私には無関係でした。ずっと、底辺をさ迷って来た感じです。
私は、愚痴っぽくなるのを出来るだけ避けて、明るい口調で云った。
ガイドが私を見た。
――わたしはローマ・オリンピックの年にこちらに来ました。声楽志望だったものですから、随分、無理をして留学しました。わたしはテノールでした。しかし、わたしは声が出なくなりました。声帯にポリープが出来たんです。小さいポリープでしたが、それを取ってから声が出なくなりました。声が出なければ、声楽家としては終わりです。ご覧のようになりました。いまは、妻と子を養うだけの身になりました。しかし、声楽志望を断念してからの方が大変でした。ガイドになるまでにはいろいろありましたからね。でも、いまではこうしてガイドの資格を取って、人並みの生活が出来るようになりました。
ガイドの男はそう云って笑った。
――私は、東京オリンピックの年には失業していました。家内に一年ばかり食べさせて貰っていました。結婚してすぐの年でしたから、私にとっては忘れられない、どん底の年でした。いまでこそ、悠長に、定年前の休暇を貰って旅になど出ていますけど。
私は云った。
その私は、間もなく六十になる。そして、シエナの小さなホテルの地下のバアで行きずりの日本人のガイドとワインを飲んでいる。
――暗い話になってしまいますけど、だんだん、いろんなことを思い出す年になって来たんですよ。今度の旅行も時間を持て余している私を見て、うちの社長が勧めてくれたんです。私の会社は小さい広告代理店ですが、デスクを降りたら、何一つすることはありませんからね。書類も郵便物も来ない。電話もない。文字通り、私のテーブルの前には、冷たくなったお茶一杯あるだけですから。きっと、社長は一日じゅうテーブルの前にぽつねんと座っている私を見るに見かねたのでしょう。
私の勤めている会社は、ケミカル関係の広告を扱っている。社員も二十人ほどのちっぽけな会社だ。私はそこにもう、二十五年もいる。私が新聞の求人広告を見て入社した時は、五反田の駅近い、ガード下の穴ぐらのような事務所だった。社長を含めて、社員はたった五人だった。ガードの上を電車が通過する度に、部室全体が地震のように家鳴りして揺れた。耳が聾のようになった。タプロイド版四頁の新聞まがいのものを出した時期もあった。それでもどうにか、高度成長が始まって昭和元禄と呼ばれるようになった頃から、少しずつ広告も増えて来た。社員が十一人になり、五反田のガード下の事務所から、神田駅の裏側の、小さな、古いビルに引っ越した。昭和四年に建てられたという、そのおんぼろの五階建てのビルには、無論、エレベーターなどなかった。一階から五階までくの字に折れ曲がった、二人並んで上れない程狭い、急な階段がすっかり磨り減って黒くてらてらと光っていた。雨の日には、トイレの臭気が鼻についた。四階に社長室、五階が営業と編集を兼ねた大部室だった。夕方ともなれば、部所ごとにアミダで金を出し合って酒盛りが始まり、酔った揚げ句には、ビール瓶が飛び交った。
そのビルの階段を私はこれまで二十年程、息を切らせながら上ったり、降りたりしたことになる。私のなかで五反田のガード下の事務所以来、その二十何年という月日があっという間に過ぎた。私は、両肘付きの回転椅子に座って、デスクと呼ばれ、自分の歳を考える暇もなかった。
ある日、私は昼どきに社長に呼ばれた。私は、四階に降りていった。
――昼飯はまだだろう。鰻でも食いにいこうか。
社長は私の顔を見るなり、そう云った。
相変わらず、社長は精力的な顔をしていた。頭のてっぺんまで綺麗に禿げ上がっていたが、鼻の下にたくわえたひげは健在で、蟹に似た顔付きは、一層蟹らしくなっていた。
――社長、ご用件は。
私は、ドアー口に立ったまま云った。
――まあ、表にでよう。
そう云って、社長は立ち上がり、椅子の背から上着を取った。
昼にはまだ少し早い時間だったが、鰻屋の暖簾をくぐると、店のなかは、近くのビル街の勤め人やオフィスガールでいっぱいだった。カウンターの端のトイレに近い椅子が二つだけ空いていた。白い割烹着を着た店員が、テーブルの間を忙しげに行き来していた。店の奥の天井付近で、テレビが天気予報を映し出していた。東京地方曇り後雨、明日 ――。
――混んでいるな。トイレの傍でもしょうがないだろう。
社長が云った。
どのテーブルにも、同じ会社の同僚らしいグループが二人、三人と固まりあっている。彼らはそれぞれ、今日は何処の蕎麦屋、明日はどこそこの定食屋というふうに、毎日群れあって、昼飯を食べに出て、会社の不平や上司の噂を云いあっているのだろう。私にもかってはそんな時代があった。しかし、いまの私は、時間遅れの昼飯を独りでこっそり取り、夕方会社を出た後、帰りしなに駅のガード下の立飲み屋に寄るのが習慣になっていた。その習慣も、ある日を境にふっつりとなくなるのだろう。定年退職したら、翌日から私は何をすればいいのだろう。どんなふうにして一日を過ごすことになるのか。
――いや、きみに話したいと思ったことがあってな。
カウンターに座るなり、社長は改まったように云った。左手の指先で口ひげを撫ぜた。
――きみが辞めるのはいつだったかね。
――あと、ひと月たらずです。
――そんなに早かったか。それじゃ、気持ちの上でも落ち着けんだろう。デスクを外れたことだしな。どうだ。この際、思い切って何処か旅行でもして来んか。東南アジアでも、ヨーロッパでも、何処でもいい。まあ、会社にもいろいろ不満もあるだろう。きみとは、五反田以来の間柄だからな。この際、奥さんと一緒に旅行でもして来んか。
――お気持ちは有難いんですけど、
私は云った。
――会社には何も遠慮はいらんよ。辞める日まで、きみが出たいと思った日だけ会社に出てくればいい。奥さんと一緒にフランスでもスペインでも好きなところを廻わって来い。
社長はそう云って、おしぼり用のタオルで顎をごしごし擦った。
――はい、考えてみます。
定年退職の日まで会社に出て来なくてもいい、というのは、どういうことなのだろう、と、私は思った。社長の思いやりなのか。それとも、定年間近い男などいてもいなくてもと考えているのだろうか。いや、そうではあるまい。おそらく、デスクを降りたあと、私が一日じゅう時間を持て余しているのを知ってのことに違いない。
――まあ、よく考えて、奥さんとも相談してみるんだな。悪い話じゃないぞ。旅費の半分くらい、わしにも出してやれんことはない。
その夜、相変わらず、いつものようにガード下の立飲み屋に寄って、私は酔った。
酔って、家に帰った。
――きょう、昼に社長に呼ばれてね。
食事の時に、妻に云った。
――定年になるまで、もういくらでもないけど、気がむく時にだけ出て来ればいいと云われたよ。まあ、仕事もないけどね。
――そんな、あなた。社長は冗談云ったんでしょう。
――そうかもしれない。昼に社長と鰻を食いにいってね。社長がそう云ったんだ。社長には労りの気もあったんだろうと思うんだけど、五反田時代から一緒に苦労して来たんだから。何処か好きな所へ旅行して来いとも云っていた。フランスでもスペインでも、何処でもいい。きみと相談して考えろってね。
――そんなこと云ったって、ヨーロッパなどへ旅行するお金なんて、うちにはないわ。あなたの退職金だって、どのくらい貰えるのかわからないんでしょ。
――まあ、そんなに期待できるもんじゃないよ。
小さな会社の退職金は、月給の十ヵ月というのが、一応の定説だった。私のそれも、凡そ、そんな金額だろう。旅行の費用など出せる筈がない。私は、いまの会社を退職したあと、まだ年金の貰えるまで働かねばならない。しかし、当座、再就職するとしても、私に特別の技術、才覚があるわけではない。差し当たり、私は、パートのマンション管理人か、オーライ、オーライと手を上げながら、車を誘導して駐車場に収める整備員くらいが一番身にふさわしいと云っていいだろう。
――でも、一度くらい海外に行ってみたい気もするわ。行くんだったら、あたしはローマだわ。ローマには、行ってみたいわ。
妻が云った。
私たちは海外旅行はおろか、国内も殆ど歩いてはいなかった。新婚旅行にも行かなかった。結婚してすぐ、私たちは、茅ヶ崎の公団住宅に移った。海寄りの二千所帯もあるマンモス団地だった。妻も私も東京駅までの、往復二時間の立ちずくめの通勤が始まった。日曜日になる度に諍(いさか)った。海辺に行って海を眺める余裕などある筈がなかった。終バスの窓の向こうに見えて来る闇のなかの団地は、ほの白い光りのなかに浮かび上がった巨大なマンモスの墓場に似ていた。その団地の生活も二年とは続かなかった。妻が狭心症を起こしてバスのなかで倒れた。そして、私の勤め先の繊維業界の広告代理店が倒産した。失業した。
冬の初めだった。私は毎日、病院の妻を見舞い、踏み切りを渡って海岸通りの商店街を抜け、人っ子一人いない海を見に行くのが日課のようになった。東京オリンピックの終わった年だった。堤防を降りると、なだらかに海に傾斜している砂丘が視野いっぱいに広がって来た。砂に半ば埋もれた葦簾が、小さな風をたてていた。私は、ジャンバーの襟を立てて、渚の方へ歩いて行く。私には、時間をごまかす方法とてなかった。私は、いつか、海岸通りの酒屋でポケットウイスキーを買うのを覚えた。ウイスキーをラッパ飲みしながら、波のひたひた寄せて来る渚を出来るだけ遠くまで歩いて行って、引き返すことを繰り返した。酔いがまわって来ると、狂暴な生き物が甦って来た。それに耐えながら、砂の上にひっくり返って、眼をつぶった。未来はなかった。病院では、妻が狭心症でベットに臥していた。ある時、砂の上に仰向けになって眼をつぶっていると、顔の上に獣の荒々しい息使いが聞こえた。眼を開くと、茶褐色の大きな犬の鼻面が私の額の上にあった。危うく声を上げそうになった。
――起きちゃいけない。そのまま、動かないで。
砂丘の上から、突然声がした。
私はじっとしていた。
――ジロー、来い。
鋭い声だった。
犬は、二、三度、私の髪の匂いを嗅ぎ、大きなフサフサしたからだを揺すりながら、声の主の方へ走り去った。コリーだった。
――いや、すみません。驚かしちゃつて。
サングラスをかけた男が、砂丘の上から云った。私は、のろのろと身体を起こした。
――畜生め。
私は口のなかで呟いた。
――ひとがいい気分で、酔っ払って寝ているのに。
しかし、私は、少しもいい気分で寝ているのではなかった。私には、その時、確かな明日がなかったのだ。太陽が白っぽく輝いていた。飼い主とコリーは、逆光を浴びながら、何事もなかったように砂丘の上を遠ざかっていった。
――だったら、思い切ってローマに行ってみようかしら。
妻が云った。
――ローマか。
私は口ごもった。
――旅行の費用の方はどうするんだ。退職金を使うわけにはいかないよ。
――一度、ヒロコさんのところに電話して聞いてみるわ。もしかしたら、彼女、便宜をはかって安いキップを探してくれるかも知れない。
妻が云った。
ヒロコさんというのは妻の高校時代のクラスメイトで、月に一度か、二度出会って食事などしていることは私も知っていた。
――まあ、いいよ。きみに任せるよ。
それだけで、その夜の食事どきの話は終わった。
翌朝、玄関口で管理人と出会って、短い言葉を交わした。
――きょうは、燃えるゴミの日でしたね。
私は云った。
管理人は、黒い、大きなビニールの袋を台車に乗せて、ガードレールのある路上に運び出していた。
――そうです。でも、みなさん、燃えるゴミも燃えないゴミも見境なくて。
管理人は笑いながら云った。
私も、燃えるゴミをふた袋、両手に下げていた。
――暑くなりましたね。
管理人が云った。
――ほんとに、暑くなりましたね。
私もそう云って、通りに出た。
私は手ぶらだった。書類用のカバンも何も持っていなかった。何週間か前から、自然とそうなった。カバンは私の分身でなくなった。会社でも、もはやどんな書類も私の決裁は必要でなくなった。私は、定年の日までテーブルの前にじっと座っているだけでいい。社員の誰からも軽んじられている。そう思うのは、私の僻めかも知れなかった。しかし、俄に仕事を奪われた、という考えが私を締めつけた。侘しい思いが顔に出ているのが、トイレの鏡を覗くたびにわかった。
通りに出て、赤レンガの大学病院の塀沿いにいくと、道はS字型にゆっくりと上り坂になり、曲がり角の寝台自動車の会社の前に出る。毎朝、ガレージの前で運転手たちがゴムホースで水を流しながら、大型車の掃除に精を出している。後部のドアーを開け、寝台のカバーを新しいものに取り替えている運転手もいる。私はそれを横目に見ながら通り過ぎる。彼らは陽気に鼻歌交じりに、朝の整備の仕事に取りかかっている。いつも寝台車は、半地下のガレージの車を含めて三十台あまりあった。車庫の二階と三階が彼らの宿舎になっていて、ベランダには、いつも男ものの洗濯物がぶらさがっていた。
しかし、その朝、気付くと、ガーレジには一台も車がなかった。ガレージはがらんとしていて、寝台車はおろか人かげもなかった。早朝から、車は全部出払っている。奇妙な感じがした。寝台車は普通、重病人を家庭から病院に運ぶか、病院で息を引き取った患者を家に連れ戻すために使われるのではないか。今朝は、そんな朝なのか。暑い一日が始まりかけている。人が大勢死ぬのは、こんな朝なのか。しかし、何の変哲もない朝だった。いつかは、私もそんな朝を迎えることになるのだろうか。痴呆症の老人になって死ぬのは嫌だなと思った。病院のベットで末期を迎えたくないなと思った。と、私は、急にヨーロッパに行ってみたくなった。いまなら、遅くない。社長に云われたように、フランスでも、スペインでもいい。妻が息を弾ませて云ったローマでもいい。私は無性に日本を離れたくなった。
――それで、どうなさいました?
ガイドの男は、次の私の言葉を楽しむふうに云った。
――で、こうしてシエナに来ているじゃありませんか。やっと妻も私も念願がかなったというわけですよ。
私たちは声を上げて笑った。
――先っきも云いましたけど、シエナはいつ来ても、本当に美しい町ですよ。でも、明日、お訪ねになる《塔の町》は、もっとあなたのお気に召す筈ですよ。
――私も楽しみにしています。
そう云って、私は目の高さにグラスを上げた。
――よい旅を。
ガイドの男もグラスを上げて云った。
バスは長いこと、なかなかやって来なかった。三十人ほどの長い列が出来た。しかし、バスを待つ人々はのんびりと会話を交わしあっていて、苛立つ様子もなかった。彼らの言葉は何ひとつ解せなかったが、その言葉の響きは、ごく自然な明るいものを含んでいた
子供たちが歓声をあげて、あたりを跳びはねていた。バスを待つ間、鬼ごっこをしながら、黄色い声を弾ませていた。
――バスは来ないのね。いつまで待たせるのかしら。
妻が苛立たしそうに云う。
――コーヒーでも買って来ようか。
――コーヒーより生ジュースのほうがいいわ。
人だかりのした賑やかな広場の売店では、色とりどりのパラソルの蔭で、カセットデッキから音楽が流れている。空を仰ぎながら、私は突然、ムソルギスキーはイタリヤを訪ねたことがあったのだろうか、と思った。彼の《展覧会の絵》のなかに《Vecchio castelle》というタイトルで、文字通り《古城》をうたった、ホルンと木管の対話風な幻想が平坦な旋律で始まり、すぐ続いて甘美な旋律が単調な伴奏で歌い出されている曲を思い出したからだ。新宿の《ガボ》という地下の穴蔵のような喫茶店に通い続けて、仲間たちとリクェストでよくその曲をきいたのは朝鮮戦争当時の暗い冬の頃だったろうか。仲間の誰一人として勤めを持っていなかった。ルンペンのように飢えていた。どんな未来もなかった。日本中が火炎ビンの時代だった。
私は、吸い込まれそうな、限りない青空を見上げながら、そんなことを思った。私はスタンドの売店で、栗毛色の髪の少女からオレンジ・ジュースとコーヒーを買った。
妻は私から無表情にジュースの紙コップを受け取った。私にはまだ昨夜の酔いが残っていた。苦いおくびが出た。
――ゆうべは遅かったのね。あなたはひどく酔っ払って、這うようにして部屋に帰って来たのよ。
妻がストローを口に含みながら、上眼使いに私を見た。
――そんなでもないよ。
私が部屋に戻って来た時、妻はぐっすりと寝入っていた筈だ。ツインの部屋の窓際のベットで、ドアーの方に背をむけて横むきになり、カーテンと縺れあうような格好で身じろぎせずに寝入っていた。私はしたたかに酔っていたが、それでも自分の二本足で階段を上った。酔いのなかで、私は小さな充足感に浸っていた。《塔の町》への期待感もあった。思わぬプランを持ち込んで来たガイドの男とワインを酌み交わしながら、夜遅くまでお喋りしたことが私の心を浮き立たせていた。
彼とはこんな話をした。
――中世ヨーロッパの世界は、いまでは想像もつかないくらい、いろんな意味でおもしろい世界だったんではないでしょうか。彼らは、例えば、石、星、橋、暦、鐘、或いは、驢馬、狼など、日常生活を取りまく具体的なモノたちと拘わりあって生きていたんですね。まず第一に、自然石が民間治療の手段として使われていた。歯痛の場合には、石の上に裸足で立って呪文を唱えながら、身体を上から下へ三回さするとか、瘤を取りたい者は、月が欠けていく頃に顔を月にむけて、石で瘤に触れ、石を背後に投げると瘤が取れるとか、日本でも同じような信仰はありますけどね。それに、中世ヨーロッパにはこんな話もありました。何年たっても子供の出来ない妻はどうすべきか。例えば、三年たっても子供の出来ない女房がいた場合、その女房を背負って三尺くらいの垣根を九つ飛び越えるだけの力のある男が隣りの家にいたら、その男のところへ女房をやれ、というんですね。
――それでも駄目な場合は?
――大市の立つ日に、着飾らせて市に出せというんですよ。いやはや、乱暴な話でしてね。でも、考えてみると、中世の人々にとっては、家を継ぐということは大変大切なことで、どうやって家の相続人、つまり、長男を確保するかというのは、深刻な問題だったんです。というのも、彼らにとって家というのはひとつの小宇宙だったわけですから、今なら、さしずめ、人工受精でしょう。それに、中世には子供を十八人生んでもせいぜい二人くらいしか生き残れない。平均寿命も、三十そこそこ。ですから、死というのは彼らにとって大変なことでした。身近な人が死ぬと、死の世界からの道が開かれたと考えたわけです。人々は、死者がその道を通って無事に死者の世界に入ることが出来、ひとたび開いた死者の道が自然に閉じて、以前のような日常の生活に戻れるようにするために、いろいろな手続きをしました。或る地方では、人が死ぬと、霊が家のなかに留まるのを恐れて、死者が生前にかかわっていたすべてのものを取り除くか、一旦すべてのものを倒してけじめをつける。鏡には覆いをする。すべての水は流し去る。時計があればとめる。椅子は逆さまにする。竈には水をかけて火を消す。家具の位置をずらす。死者が生前に飼っていた蜜蜂や家畜にも覆いをかける。死者は藁床に移され、上から布を掛けられて戸口に足をむけて横たえられる。それから埋葬までの間、隣り近所の者や友人たちが集まって、飲んだり、食べたり、楽師や道化も登場して大変な騒ぎになったらしいですよ。通夜禁止令の出た時代もあったということですからね。つまり、中世の人たちは、死と隣りあって生き、死を生活のなかに取り込み、死を恐れながらも死者と共存していたんでしょう。
私はふと、母の死を思い出した。
――死と隣りあって生きているのは、現代も同じじゃないですか。私の母は、父もガンででしたけど、上顎ガンというガンで死にました。副鼻腔に出来るガンです。顔が醜く歪みましてね。眼球も飛び出して来るんです。
母は、ずっと以前から、耳に水が溜まり出していた。その水抜きの苦痛のひどさを訴えていた。視力もかなり減退していた。左の瞳がどろっと濁って、鼻梁の側に寄って来ていた。首の付け根のリンパ節の腫瘍も、拳大に大きくなった。上顎ガンが第四期まで進行して、副鼻腔を浸蝕し、脳を突き上げるほどに肥大すると、幻覚に襲われ、発狂に似た現象が現われると云う。しかし、母は抗ガン剤の座薬を使いながら、睡眠用の鎮痛剤を、毎夜二錠ずつ飲むことで狂う程の痛みに必死に耐えていたのだ。母は、毎夜のように電話をかけて来た。
――まいんち、身繕いして木戸んとこに立っているとな、おもてを通る人が、誰か、ひとを待っているのけと云うんだ。ほじゃねえ、おら、門んとこさ立って、見た通り、おら、まだ元気でひとり歩き出来るし、まだまだ死にやしねえよって、近所の人に云ってやってんだ。そのくせ、夜になんべ。すっとな、苦しくて、こめかみさ両手で押さえて大声を上げるんだよ。あたしは、何ひとつ悪いことしてこなかったのに、なんでこんなに苦しまなきゃなんねえんだよ。死にてえよォ。死にてえよォ。毎晩、そう云って、畳の上を転げ廻わるんだよ。
私は受話器を握って、その母の言葉を聴きながら、どんな慰めも思い浮かばず、声を呑んだ。
母が死んだのは雪の多い年だった。桜の季節がやって来ている筈なのに、蕾は固かった。母が死んだのは、四月の下旬だった。辛夷の花だけが競い立つように真っ白に咲き誇っていた。
――普通、上顎ガンの場合、最後は狂い死にするというんですが、母は、朝早く風呂に入っていて、浴槽のなかで死んでいたんです。
――ほう。
ガイドの男はグラスを宙で止めて、私の顔を見た。
――自殺かと思ったんですが、自殺ではなかったんです。座薬も睡眠薬も鎮痛薬もきっかり定量だけ残っていました。
なぜ、その時、そんなふうに母の死の話になったのかわからない。
私は母が死ぬ二週間ほど前に会っている。弟が付き添って筑波大の病院をたずねたのはその二ヵ月前のことだった。病院から帰った弟から、夜遅く電話がかかった。
――やはり上顎ガンだったよ。それも四期目で、手術はもう難しいらしい。あとは、延命を考えるだけだと云っていたけど、入院させたら一週間もたたないうちにボケて死んじまうと云われたよ。まあ、家で気長に生きてもらう外はないだろうよ。
――で、本人は知っているの。
――いや、本人は知らない筈だよ。まだ元気だから、当分は大丈夫だろう。
本当にそうならいいがと、その時、私は思った。しかし、死が母に近づいて来ているのは、傍目にもそれとなくわかった。しかし、人が死を宣告されてから死を受容するまでには、ほぼ一定の心理的パターンがあるということを私が知ったのは母が死んでからずっと後のことだった。
第一段階 ――否認
第二段階 ――怒り
第三段階 ――取り引き
第四段階 ――抑鬱
第五段階 ――受容
第一段階では、もしかしたら自分の診断名は誤っているかもしれないという願望。第二段階では、否認が出来なくなって来た憤り、健康な他人に対する羨望、恨み。どうしてわたしだけが死ぬのか。どうして彼や彼女ではいけないのか、という怒りはあらゆる方向にむけられる。家族、医師、看護婦、食事、テレビ。第三段階の取り引きでは、身の回わりの人々や神と何らかの約束を取り交わそうとする。もしかすると、その不可避の現実をもう少し先に延ばせるかも知れない、と考える。第四段階では病気が進んで来て、否認や怒りだけでは対応が不可能になり、大きな喪失感に襲われるようになる。第五段階ではもはや抑鬱も怒りも、健康な人に対する羨望もなくなって、近付く自分の終焉を凝視めるようになる。テレビもラジオも消され、患者はしばしば眠る。
――人が死ぬ時には《死の受容》というのがあると云いますけど、中世ではどうだったんでしょう
私は云った。
――昔のほうがずっと深かったのじゃないでしょうか。パスカルも《人は独りで死ぬ》と云っています。ラ・フォンテーヌの農夫の言葉にはこんなのがあります。《一番死人そっくりの連中が、一番未練がましく死んで行く》。死というものは、何とも意地が悪い。わたしたちがいる時、死は存在しません。死が存在する時、わたしたちはもういないのです。日頃はきれいさっぱり、わたしたちは死を忘れている。しかし、ヨーロッパに来て感じたんですが、ここでは何処の都市に行っても石畳の石の輝きに、長い、長い歴史の深い空間があり、死が一個のものとしてそこに漂っています。
ガイドの男は、遠慮がちに云った。
――そうでしょうね。シエナに来て、私もそんな感慨を持ちました。見えるものと見えないもの。死は誰にも見えませんが、いずれはやって来ます。横手から忍び寄るのか、背後から襲いかかるのか、頭上から舞い落ちてくるのか。でも、敗戦の年から考えると、私も随分と長く生きて来た気もしますよ。特に昭和一桁生まれの世代は、一般の平均寿命が伸び、死亡率がどんどん低下しているのに、死ぬ人間が急増していますからね。肝硬変、糖尿病、くも膜下出血、それに自殺も多いですよ。私も昨年のいま頃、アルコール性の肝炎で一カ月ほど入院させられました。
私はお互いのグラスにワインを注ぎながら、自嘲するように笑った。
――でも、柏木さんは、レンアイケッコンでしょう。奥さまは若々しくて、お美しい。
ガイドの男が話題を変えた。
――レンアイというほどのものじゃありませんよ。物のない、貧しい時代でした。両親も兄弟も呼ばずに、ほんの仲間うちだけの結婚式でした。
私はその頃、目黒のどぶ河近い、小さなプラスチック工場の町工場に勤めていた。テレビの透明なダイヤルを造るインジェクションの仕事だった。昼夜、二交替のきつい仕事だった。妻とは、そこの職場で知りあった。その後、さまざまな職業を転々とした。大井町や品川、茅ヶ崎、大崎と何度も宿を替えた。いつの間にか三十年あまりの月日が過ぎた。
――思い出すのも嫌なことばかり残りましたよ。昭和一桁男には、ロクなことはありませんでした。敗戦前後の最悪の時期の付けがじわじわと這い寄って来たってわけでしょう。
――世代のせいばかりじゃありませんよ。わたしがこちらに来たのは、岸首相が渡米して日米安保条約に調印した年でしたが、あの年にもいろんなことがありました。五月には衆議院で一気に会期延期の強硬採決が行われて、安保改定阻止の闘争が始まりました。六月十日のハガチー事件、十五日のデモのなかでの女子学生の死。十月には社会党の浅沼さんが右翼の少年に殺されました。十一月末には「中央公論」の深沢七郎の《風流夢譚》事件。その一方では、ローマ・オリンピックがあったりして、高度経済成長が始まった年だったとも云えるんじゃないですか。
ガイドの男はそう云って、言葉を続けた。
――わたしにもその時には、まだ希望がありました。でも、いまでは、もはや家族を養うだけで精いっぱいです。わたしの親父もお袋もとうに亡くなりました。わたしがこちらで妻帯して、あくせくしているうちに、全くあっという間でした。わたしも齢をとりました。もう四十九になります。
――それでも、私より十年も若い。
私が云った。
――いやいや、ウラシマタロウですよ。
客はいつか、私たち二人になってしまっていた。
――静かですね。
カウンンターのひげの男は身じろぎもせず、腕組みをして、壁にはりついていた。
――いや、長い話になりました。
ガイドの男が云った。
――お互いに明日は早いのですから。でも、久しぶりにお話が出来て、楽しい時間が持てました。
ガイドの男は手を差しのべて来た。手の甲の厚い、柔らかな掌だった。
バスが来た。
バスはクリューム色の大きな車体を広場に通じる狭い通りから、赤や青や黄のパラソルの下に群がっている人々を押し分けるようにして、私たちの方へ真っすぐにやって来てクラクションを鳴らした。フロントグラスが陽にきらめいた。
バスを待っている行列がざわめき出した。列の人たちは、バスのドア口の方に移動していく。妻と私は大きな旅行バックを引きずりながら、人の列の後に続いた。
――ボッシボンシで降ろしてもらうように、運転手に云わないと駄目よ。
妻が云った。
運転手は快活な長身の若者で、乗客たちに気軽に声をかけていた。フロントグラスから射し込む日差しを受けて、二の腕の生ぶ毛が金色に輝いていた。妻は大きなバックを重そうに担ぎ上げながら、バスに先に乗り込んだ。日よけのサングラスが不釣り合いだった。
私は、妻の後からドアのステップに足をかけ、運転手の方へ手をあげて云った。
――済みません。ボッシボンシでバスを乗り換えて、《塔の町》へ行きたいのです。ボッシボンシに着いたら教えてください。
たどたどしい英語で、途切れ、途切れに云った。
――ボッシボンシ?
運転手が聞き返して来た。
――そうです。ボッシボンシです。
運転手は、雀斑だらけの顔をいっぱいにほころばして大きく頷いた。
大勢の乗客たちが乗り込んで来た。大きな、太った、背の高い男や女たちが体を揺さぶるようにして座席を埋めていく。子供たちが歓声をあげる。手荷物が網棚に押し込まれて、車内は笑い声とざわめきでいっぱいになる。
私たちは不安になる。
――本当に、ボッシボンシ、大丈夫なのかしら?。
妻が云った。
――大丈夫だよ。
不安を隠しながら、私が云う。
バスは、クラクションを鳴らして広場を離れる。
バスは市街地の狭い坂道を上下しながら、谷を挟んだ丘陵地帯に入っていく。石壁の家並みと緑の入り交じった眺望が、バスの窓の外に拡がる。丘の上に、白いドゥオモが見える。シエナは一番美しい町だと、日本人のガイドが云った。
――町の斜面の狭い石畳道を靴音を静かに響かせながら歩いていると、まるで中世という歴史の舞台のなかにでもいるような気がして来ますよ。
ガイドのその言葉を思い出しだ。
大きな谷間を挟んで、両側に丘がなだらかに競り上がっている。オリーブや葡萄畑が拡がっている。バスは、単調で、悠長なエンジンの響きを繰り返す。
――昨夜は、日本人のガイドと、あんなに長い時間どんな話をしていたの?
妻が、サン・グラスの眼をわたしに向けて云う。
――うん、話って、いろんな話さ。取りとめもない話題だよ。あのガイド、山梨の生まれだそうだ。留学して音楽を勉強していて、声帯ポリープの手術で、声が出なくなった。それで、ガイドになったと云っていた。こちらで奥さんを貰って、子供もあるそうだから、大変だろう。
妻は、黙って窓の外に眼を投げた。
丘のなだりに、崩れかけた石造りの教会が僅かに塔の先端の十字架を覗かせていた。
――オペラでも勉強していたのかしら。
――テノールと云っていたから。
私は、昨夜、ホテルの地下のバアでワインを飲みながら、男といろんな話をした。その私は帰国すると、もう職を失うことになる。何処の会社でもそうなのだろうが、誕生日が来ると、その日の十時に会社は退社になる。会社のデスクに座っていて、ぼんやりと空を凝視めている自分に気付いてはっとすることが、時々あった。別に何を考えているのでもない。感傷に浸っているのでもない。ただ、思考を止めたまま、空を凝視めている。そんな時には、鳴っている電話のベルの音も聞こえて来なかった。私のデスクから、何の変哲もない神田のビル街の空が見えていた。私はそれまで、窓から見える空など気にも止めることもなかった。私は、人から傍若無人だと云われるほど仕事に熱中し、それが当然だと思い込んで疑いもしなかった。それが、定年を意識するようになってからデスクの私の眼の向こうの窓枠のなかに区切られた、何の変哲もない神田のビルの空が見えていることに、ある日、気付いたのだ。私は俄に、その空の色が身近かなものに感じた。私は窓枠のなかの空を眺めながら、自分自身をいとおしんでいる。誰にも云えない心のなかの痛みのようなものをじっと押さえている。そんな感慨を私は毎日感じた。本当のことを云って、私は会社で時間を持て余して困っていた。パチンコ屋にも行った。公園に行って何時間もベンチに腰を下ろしながら、新聞を隅から隅まで読んだ。銀座に出て、画廊も歩いてみた。心を満たしてくれるものは何一つなかった。心のなかに拡がっている空洞のようなもの、それは何だろう、と思った。何処からも光は射して来なかった。惨めな思いだけだった。残酷という言葉が浮かんだ。日本橋の地下鉄の駅からデパートに続く地下道を歩いて来て、私は壁面の鏡に映る猫背ぎみの髪の薄い、口をへの字に結んだ、褐色の自分の顔を真正面から初めて見た。鏡のなかから、まるでガンで死んだ、田舎の貧しい筆師だった父が歩み出して来るようだった。突然、目眩のようなものが襲った。私は平衡感覚を失って、床に片膝をついた。しかし、それだけだった。その時、私の周囲で鏡がてらてらと輝き、デパートと地下鉄の改札口を行き交う人々が眩しいほどに華やいで見えることに気付いた。
――元気で、素晴らしい旅行を楽しんで来てください。
会社の連中は、出発の前の日、口々にそう云って私を送り出してくれた。
恐らく、会社を退職する日の朝もみんなはそんなふうにして、私を送り出してくれるのだろうと思いながら、それを受けた。
――じゃ、行ってきます。しばらくの間、休ませてもらいます。
私は、彼らに云った。
その私はいま、シエナから《塔の町》に向かって長距離バスに揺られている。
デスクの整理をしなければと思いながら、そのままにして来たことを思い出した。バスの窓から一面のオリーブ畑が見える。あちこちの煉瓦造りの家々の庭には糸杉が聳え立っている。丘の上の僧院の塔。なだらかな丘の斜面の葡萄畑。ダ・ビンチやボッティチエッリの絵の背景に細かく書き込まれている風景が、いま、私たちの乗っているバスの窓の向こう側でほどけていく。
妻はまどろみ始めている。帽子を目深に落として、窓に右肩をもたせかけながら、バスのゆるやかな振動のなかに身を委ねている。
バスの窓越しに見えるのはなだらかに起伏している丘の重なり。緑一色の葡萄畑。牧場があった。柵の向こうで、牛が群れをなして草を食んでいる。小さな集落。谷合いの街道沿いに石造りの灰白色の家々が肩を寄せ合っている。川に橋が架かっている。こんもりと茂った森。
私は窓の外の風景を眺め続ける。
ボッシボンシまで、あとどのくらい時間がかかるのか。
ラッタ、ラッタ、ラッタ、タッタ、タッタ。
ラッタ、ラッタ、ラッタ、タッタ、タッタ。
ラ、ラ、ラッタ、ラッタ。
子供たちの歌声が、バスの後部から突然聞こえて来た。陽気な、楽しげな歌声だった。
大人たちの笑い声が起こった。
私は、バスの後部を振り返ってみた。退屈しのぎに、子供たちが歌をうたい始めたのだ。バスを待っている間、鬼ごっこをしていた子供たちだった。バスのジーゼルエンジンの底ごもる、眠気を誘うような、悠長な響きが子供たちの歌声で破られた。
通路の向こう側から手が伸びて、誰かが私の肩を叩いた。
――子供たちの歌はいいじゃないか。俺たちの眠気ざましには最適だよ。
そんなふうな、ひどい訛りのある英語で、中年の男が私に話しかけて来た。ギリシャ人かもしれない。白い顎ひげをのばした、赤ら顔の男だった。
ラッタ、ラッタ、タッタ、タッタ。
ラッタ、ラッタ、タッタ、タッタ。
子供たちは、有頂天になって手拍子をとる。バスのなかは、子供たちの歌声でいっぱいになった。
――《塔の町》に行くのかね?
ギリシャ人が云う。
――そう、《塔の町》に。
――わしは、これまで幾度も素通りしている。一遍は行ってみたい。
――子供たちが歌っているのはどんな歌ですか?
私は、たどたどしい英語でたずねる。
――ほう、あれか、あれは、わしも知らん。
妻が眼をさました。
――何かあったの?
バスのなかの騒々しさに気付いて、妻が云う。
子供たちは、相変わらず、床を踏み鳴らしながら、ラッタ、ラッタ、とやっている。
――子供たちが退屈し始めて、歌をうたい出したんだ。お隣りのギリシャ人のじいさんが何処の歌か知らないと云っているのさ。
私が云った。
私は、今日はいい日になるだろうと思った。そんな気がした。私は子供たちの歌声を聞きながら、中学時代に習った英語のサイド・リーダーの《まだらの笛吹き男》を思い出した。子供たちが、ハーメルンの町から何処へともなく消え去る時に歌っていたのはそんな歌ではなかったか。
――あたし、少し眠ったのかしら。
妻が云った。
ハンドバックから手鏡を出した。
――そうね。十分ぐらい。
――そんなに眠った。でも、子供たちは元気ね。何処の国の子供たちかしら。
ラッタ、ラッタ、タッタ、タッタ。
ラッタ、ラッタ、タッタ、タッタ。
子供たちは両手を振りかざして、身体で調子をとり、床を踏み鳴らしながらうたっている。その子供たちの歌声で乗客の大人たちも単調なエンジンの響きから解放されたようにお喋りを始めた。バスのなかが急に賑やかになった。長い、長いハイウエイの幅広い道路だ。バスは路面を滑っていく。バウンドしていく。シートのクッションの弾み方で、それがわかる。
――《パイド・パイパー》の話、中学か、高校の英語の授業で教わらなかった?
手鏡を覗きながら髪を直している妻に云った。
――パイド・パイパー?
――まだらの笛吹き男の話さ。
――中学でも高校でも習わなかった。
――グリムの童話にある話だよ。笛吹き男が自分は鼠捕りだと云って、金を払えばこの町の鼠どもを全部退治してみせると約束した。町の人たちは承知した。男が笛を取り出して吹き鳴らすと、町じゅうの鼠どもが走り出して来て、男の後に従った。男は河まで鼠どもを連れていき、服をからげて水のなかに入っていった。鼠どもも男のあとについていって、みんな溺れて死んでしまった。ところが、町の人たちは、鼠がいなくなると、いろんな口実を作って男に金を払わない。これに腹を立てた男は、まだらの洋服を着て、赤い奇妙な帽子をかぶって町にやって来た。そして、路地々々を廻わって笛を吹き鳴らすと、今度は鼠ではなく、男の子や女の子が大勢集まって来た。子供たちはそのまだらの笛吹きの笛の音に合わせて踊りながら付いて行き、男と一緒に山のなかに消えてしまった。
私がその《まだら服の笛吹き男》を英語の授業で習ったのは、中学二年生の一学期だった。そして、二学期からは英語がなくなって、教練の時間に変わった。その後には、学徒動員が私たちを待っていた。昭和十九年の春、アメリカ軍はすでにマーシャル群島からマリアナ諸島に進攻し始めていた。私たちは、四月に谷田部海軍航空隊の飛行場拡張工事の勤労奉仕に動員された。飛行場の仕事はモッコを使った土運びやトロッコ押しだった。一、二週間経たない間に、仲間たちは次々に荒くれに変身していった。私はひ弱な少年だった。それでも、仲間たちと陽炎の立つ飛行場の草むらで煙草を廻しのみするのを覚えた。六月、アメリカ機動部隊はサイパンに上陸した。七月、守備隊三万人玉砕。飛行場の勤労奉仕は九月まで続いた。私たちがヨコスカの海軍工廠に学徒動員が決まったのは十一月だった。
バスに揺られながら、私は連鎖的にそんなことを思い出した。その仲間のうち、もう六人も死んでいる。
――随分、昔のことを憶えているのね。それでいて、大切なことはみんな忘れてしまうんだものね。わたしは、バースディ・ プレゼントなんか、あなたから貰ったことないもの。
妻は皮肉まじりに云った。
――そんなことはないさ。いつも、ケーキを買って帰ったじゃないか。
――結婚した当時でしょ。それも、だんだん面倒になって。
――そんなことないさ。齢をとっただけさ、何も気付かぬうちに、あっと思う間に過ぎていってしまった。始まりがどんなふうだったか、もう忘れてしまったよ。することが山ほどあったのにね。
私が云った。
妻は口を噤んだ。
バスは小さな集落に入って来た。
高速道路からUターンして、村筋のY字形の道路沿いにバスが停まった。
――ボッシボンシ、ボッシボンシ。
運転手が大声で云った。
私たちはあたふたとバスを降りた。
ボッシボンシで降りたのは、私たち二人だけだった。
家並みもない、ただ野っぱらという感じの、だだっ広い交差路。バスの停留所の後ろは、雑草の生い茂った、なだらかな丘になっている。その向こうは見渡す限り葡萄畑の丘陵の連なりだった。
――こんな所で、乗り換えのバスが来なかったらどうするの?
妻が云った。
――そんなことはないよ。来る筈だよ。待ち時間は十分くらいだと、あの日本人のガイドが云っていた。
そう云いながら、私のなかを一抹の不安が過(よぎ)った。
廃屋が一軒、幅広い道路の向こう側に立っていた。その廃屋の茶褐色の壁に大きな文字で、《DESTOROYED》と、赤いスプレイで塗りたくられていた。その意味がどんなものなのかわからない。
――どうするの。こんなところで、バスが来なかったら、本当に泊まるところもないわよ。
妻が、苛立った声を出して云う。
私も、じりじりした落ち着かない気持ちで、赤茶けた丘陵の折り重なった、荒れ果てた村外れの風景を眺め廻す。或いは、あの日本人のガイドが私たちを嵌めたのか、と云う思いも頭をかすめる。
三十分近く待った。
――しょうがないな。バスはどうしたんだろう。
私は腕時計を見ながら、悲鳴に似た声を上げた。
ちょうど、その時だった。忽然と、丘の傾斜面の向こう側からバスが姿を現したのだ。《塔の町》行きのバスだった。
――バスが来た。
妻が上ずった声を出して云った。
黄色いバスが、車体をぶるんぶるん振動させながら、丘を上って来て、バスの停留所の前で停まった。乗車口のドアが、しゅうっという音と一緒に開いた。
――《塔の町》行きですね?
ステップに足を掛けながら、私が云った。
運転手は大きく頷き、私たちに早く乗れ、と合図した。
バスはクラクションを鳴らして発車した。妻も私もバスの振動でよろめき、座席に倒れ込んだ。バスはボッシボンシの集落を斜め下の谷間に見ながら、すぐ山道に出る。丘陵地帯で、平野らしい平野はなかった。集落らしい集落もなかった。バスは底ごもったエンジンの響きを谷間にこだまさせながら、山間の曲がりくねった道を喘いで行く。バスが山肌をなぞるように幾つも折れて上って行くうちに、やがて、突然、眼の前の山頂に、城壁を張り巡して林立する塔が見えて来た。
《塔の町》だった。
それにしても、こんな山のなかの山頂に時代から取り残されて、いまもなお《塔の町》が生き続けている。山頂の町で、人々はどんな生活をしてくるのか。こんなに沢山の塔を、人々はどのようにして維持しているのか。
――《塔の町》が見えて来たわ。ほら、あそこ。
妻がそう云って、私の方を振り返った。
《塔の町》はいよいよ、私たちの眼の前に近づいて来た。
《塔の町》で十人程の人たちがバスを降りた。みな、《塔の町》を散策する人たちに違いない。或いは、《塔の町》の小さなホテルにすでに予約を取っている人たちかも知れない。しかし、私たちは、三時間程の余裕しか持ち合わせていない。その限られた、わずかばかりの時間のなかで、《塔の町》を見て廻り、四時十分のフィレンツェ行きのバスに乗らなければならない。
私たちは、まず停留所でフィレンツェ行きのバスの時間を確かめた。
停留所を離れて、眼を上げると、天空に聳え立つ塔が私たちの頭の上にあった。いまは十三基だが、十四世紀の最盛期には、実に七十三基の塔が立っていたのだと云う。十三基の塔だけでも林立するという感じだから、山頂に七十三基もの塔が立っていた時には、どんな眺望だったのだろう。
どの塔も長方形で、しかも、窓には装飾がない塔である。しかし、その単純さが一層、塔の垂直感を際立たせている。塔は、樅木に似た鬱蒼とした濃い緑の樹木と赤煉瓦の屋根の間から、塔とはこういうものだ、というふうに私たちを睥睨していた。
シエナのホテルで日本人ガイドから貰った案内書には、《塔の町》の俯瞰図がのっていた。その俯瞰図はちょうどスッポンが頭を下にして南北の方向に手足をのばした恰好に似ている。その首の付け根のところに、いま、私たちは立っていた。一五〇七年に建てられたという城門は三メートル程の赤煉瓦積みの四角形の三層の門で、その城門から左右に伸びる高い城壁が、山頂の町全体を取り囲んでいる。
城門には衛兵所の跡があった。衛兵所のがらんとした暗がりの地面に壁面からわずかな水が滲み出していて、黒い甲冑に身を固めた屈強な衛兵がそこに屈まっているような幻覚を覚えた。
城門をくぐると、何世紀も前の石造りの通りが小さな店々を広げ、陶芸品や木工品を売る店、コーヒー店、花屋、酒屋、レストラン等が並んでいた。しかし、それらはどれも控えめな店の構えで、通りの石造りのどっしりとした緻密な建物のなかにすっぽりと収まっているような佇まいだった。
白塗りの標示があって、それには《サン・ジョバンニー通り》と記されていた。日本人のガイドがくれた案内書にはこんなふうに英語で書かれている。
"《サン・ジョバンニー通り》は、一番南の城門である《セント・グロバニー門》から十三世紀の石積みの建物が立ち並び始め、ここから美しい《塔の町》が始まる。ここには、かつて《セント・フランシス教会》があった。いまはその往時の跡をロマネスク風なアーケイドにわずかに止めるのみである。この通りを北に一キロの所に《泉の広場》がある。《塔の町》最も著名な広場である。中世の建築様式がここに完全な姿で残り、独自の雰囲気が伝えられている。広場はかつて《楡の木の広場》と呼ばれていた。一二七三年に現在の呼称に改められた。多分、当時の市長、G・マルボリー氏によって泉が造られた由来からだろう。彼の紋章は泉の後方の石台に現存している。町の記録によれば、市民たちは火急の時に備えて、広場に各自、陶製の瓶を用意していた。これを割った時には、市当局によって償わされたと云う。"
私たちは重たいバックを引きずりながら、通りを歩いていった。道々、そぞろ歩きの観光客たちに何人も出会った。彼らは、やあと云うふうに笑い顔を向けて来た。妻も、私も笑顔を返した。見知らぬ者同士が偶然、町中などで出会った時に感じるような気安さがそこにあった。背負い籠のようなものに幼子を入れ、妻の手を引きながら歩道を闊歩する若者夫婦もいた。アメリカ人も、東洋人も、ギリシャ人も歩いていた。みなそれぞれ、塔のある町の点景になって、おだやかな表情で歩いていた。
――おい、ちょっと休もう。バックが重すぎる。
私が音をあげて云った。
――そうよ。こんな大荷物を持っていたら、何処も見て歩けないわよ。あたし、ホテルを捜して来る。
妻が云った。
私たちは、ガイドがこの町にただ一つと云っていたホテルが何処にあるのかは聞いていない。
――じゃ、おれはここで待っている。
――動いたら駄目よ。本当にここにいてよ。
妻はそう云って、後も振り返らずに足早に歩道を去っていった。
ガイドは、手荷物などをどうすればいいのかまでは教えてくれなかった。
私は妻を待ちながら、改めて《塔の町》の案内図を開いてみる。私たちが通って来た《セント・グロバニー門》を含めて、五つの城門がある。それらの門を支点にして、町のなかを通りが縦横に張り巡らされている。《泉の広場》の左隣に《ドゥオモ広場》があり、案内書には次のような説明が記されている。
"この広場は《泉の広場》とともに中世の最も文化的な遺産であり、高く聳え立つ塔が広場をなかにして簡素なドゥオモと相対している。塔は鐘楼である。その左手に回廊、右手は《双子の塔》と呼ばれる二基の塔が聳え立つ。この二基の塔は、中世期には法王派の宿敵である皇帝派に属していた。"
法王派と皇帝派との争いの話は、日本人ガイドから聞いていた。十二世紀当時、法王派のアルディケリ家と皇帝派のサルブッチ家とは犬猿の仲だったのだ。
ガイドはシエナのホテルでワインを飲みながら、私に云った。
――《塔の町》の散策の楽しみは何と云っても十二世紀の塔が中心です。中世時代に、この地の貴族たちが血肉を争いあった砦だったんですからね。でも、その後、《塔の町》は経済的に衰退して、そのお陰で中世ロマネスク様式、ゴシック様式の建築物が今日まで残っているんです。
私は案内図を見ながら、その彼の言葉を思い出した。
妻が戻って来た。
――ホテルはすぐに見つかったわ。荷物はフロントで預かってくれるって。本当に助かったわ。
妻が云った。
――それはよかった。
私もほっとした。
――すぐそこの通りのマーケットの向こう側よ。小さいホテルだけど、とても親切だったわ。
妻が、どんなふうにしてホテルのフロントに頼み込んだのか、私にはわからない。しかし、とにかく、私たちは荷物を持たずに、手ぶらで自由に《塔の町》の散策を楽しむことが出来るのを喜んだ。
通りを過ぎると、マーケットがあった。マーケットには、大通りに面した場所にさまざまな土産品や地方色豊かなクラフト製品が並べられていた。《塔の町》周辺で出来る籐編み物のバスケットやワイン、木彫りのスプーンやカップ、陶磁器の壷や花瓶、複製した古地図などだった。そのマーケットの入り口にある表示によれば、そこは曾ての《セント・フランシス教会》の跡地だと云う。しかし、いまは十三世紀か、十四世紀の、古い建物の外郭がマーケットに利用されている。マーケット内部はひっそりとしていた。疎らな観光客が土産物の品定めをしていた。
ホテルはマーケットと隣り合わせにあった。黄色い石灰石で造られた、やはり何世紀も前の、古色蒼然とした小さなホテルだった。ロビーに敷きつめられた真っ赤な絨毯だけがシャンデリアに映えていた。
フロントにバッグを預け、私たちはレストラン《アルフィオ》のテーブルに座って、やっとひと息つくことが出来た。
――わたしの英語、フロントでちゃんと通じたわよ。
妻が得意げに云った。
ウエィターが腰を屈めながら、妻の傍に立った。
――食事を済ましてから、塔を見て廻った方がいいわね。それに、私、お水が欲しいわ。
炭酸の入っていないお水と、妻が英語で云った。
私たちは、その《アルフィオ》で昼食をとった。
私は一人で、《塔の町》特産だという黄金色のワインを一杯だけ飲んだ。
食事を済ませて、私たちは《塔の町》の散策に出掛けることにした。
案内図を見ながら、私たちは《泉の広場》の方に真っすぐ足を向けた。《塔の町》を東西に二分している通りを、私たちは北へ坂道を辿っていた。案内書には東西一キロ、南北二キロとあるから、小さな町に違いない。
私は、くすんだ黄色の建物の佇まいや焦げ茶色の屋根々々、磨り減った石畳の坂道など、中世の名残を深く残したままの風景を眺めながら、《塔の町》を勧めてくれたシエナの日本人ガイドに感謝したい気持ちになった。
――あたし、この風景、映画で見たことあるわ。そう、あたしたちがまだ茅ヶ崎に住んでいた頃よ。確か、《ブラザー・サン・シスター・ムーン》という映画だったような気がする。塔が幾つも聳え立っていて、白い石畳の町だったわ。どんな筋の物語だったか、忘れてしまったけど、ふっと思い出した。
わたしには、そんな記憶はない。《ブラザー・サン・シスター・ムーン》という映画も見た記憶など何ひとつない。茅ヶ崎時代といえば、私たちのドン底の時代だ。もう二十何年も前の昔の話だった。
――映画のこととなると、きみはよく憶えているね。
――《塔の町》に来るまではちょっと不安な気がしたけど、なかなかいい町ね。観光客でごったがえす町でもないし、ひっそりとしていて、寂寞とした、とでも云うのかしら。
妻が云うように、私たちは観光客とは殆ど出会わなかった。土地の人の姿も見かけなかった。中世の石畳道を私たち二人だけが歩いた。
《泉の広場》は二百メートル程、坂を上ったところにあった。
ちょうど、その広場の中央の泉の傍では、テレビのビデオ撮りらしい撮影が行われていた。モデルの若い女が右手を項に添え、笑みをたたえながら、大きく胸を張ったポーズでカメラに向かっていた。銀紙の反射板を持ったアシスタントの男がスタートの声をかけていた。もう一人の介添えの女が黄の衣装を胸に抱えて立っていた。どんなコマ撮りをしているのかわからないが、モデルは白いドレスを着てい、真っ赤なバラを髪に差していた。笑顔が美しかった。私たちは暫くの間立ち止まって、彼らが泉の傍で撮影するシーンに見とれていた。彼らのビデオ撮りはすぐに終わって、お疲れさまというふうに歓声を上げた。彼らには若さが溢れていた。彼らには、明日があった。嫉妬めいた感情がふっと私のなかに湧いた。
――素敵な若者たちだわ。何の撮影かしら。
妻が云った。
私は妻に応えるかわりに、心のなかでこんな呟きを自分自身と交わしていた。
――私たちは、日本からはるばる定年退職の休暇を貰って、夫婦でこの《塔の町》にやって来たんです。日本に帰ると、私の定年の日が待っています。どうです。きみたちのご自慢のこの《泉の広場》を背景にして、私たちの記念写真を一枚撮ってくれませんか。
しかし、若者たちは声高に話し合いながら、そそくさと撮影の道具を取りまとめると、坂道を下って行った。華やかな喧騒さの後に、私たちだけが取り残された。広場の隅には、市民のために泉を掘ったと伝えられる、十三世紀当初の市長、G・マルボリー氏の紋章が黒い石台の上に残されていた。しかし、法王派と皇帝派の争いがここの《泉の広場》を中心にして血みどろの争いを繰り返していたに違いない。或いはまた、この小さな町で共同社会をつくっていた住民たちがこの泉に集まり、噴水で喉を潤しながら、東西の教会が鳴らす鐘の音を平和な祈りの響きとして耳にしていたのだろうか。
広場の左手に隣接して、もう一つの広場、案内書に云う《ドゥオモ広場》があった。広場は七基の塔に取り囲まれ、階段を少し上った高台に回廊が巡らされている。簡素なドゥオモ。その隣りに聳える《双子の塔》と呼ばれる二基の塔が広場を隔てて、五十四メートルの鐘楼と対峙している。私たちは嘆声を上げて、群塔を見上げた。恐らく、シエナの日本人ガイドが私たちに勧めたのは、この眺望だったに違いない。私たちは、歴史のずっしりと重い、時の流れを感じ取った。
私たちは《ドゥオモ広場》を抜けた。案内図を頼りに道なりに《セント・マテオ通り》を左手に見て真っすぐに歩いてみることにした。その通りの突き当たりに第四の城門がある筈だった。時計を見ると、二時を少し廻ったところだった。あと、一時間程歩いた後、荷物を取りにホテルに戻ればいい。フィレンツェ行きのバスの出発の時間までたっぷり二時間程ある。私はそう思った。
――この道を真っすぐ北の方へ歩いて第四の城門のところまで行ってみよう。そこから《フォルグロレ通り》の《セント・ジャコブ門》に出て、《塔の町》を取り巻く城壁沿いに道なりに下ってくると、《泉の広場》に帰って来られるよ。
私は案内図の上に赤いマジックペンで線を引きながら、妻にそう説明した。所要時間は一時間だろうと、私は思った。
私は妻の先に立って通りを歩き出した。振り返ると、赤茶けた屋根の合間から灰色の、細身の角塔が五つ重なり合って見えた。塔にはそれぞれ高低があったが、どの塔もその鋭い稜線を垂直に伸ばし、力強い量感を空中に漂わせていた。
ノコギリ状の胸壁を持った、石造りの、巨大な茶褐色の建物や煉瓦積みのアーチ型の建物が並ぶ通りを、私たちは第四の城門の方に向かって歩いていった。
間もなく、Y字形の道にぶつかった。そこから急斜面の台地に同じ石造りの三階建ての建物が重なり合い、その間を二本の道が左右に分かれてくねくねと続いている。私たちは右手の道を選んだ。すると、次第に道幅が狭くなり、幾つもの道が入り組んで、どれが《フォルグロレ通り》に出る道なのか、判断出来なくなった。
――あなた、道が変よ。だんだん細くなるみたい。
突然、妻が云った。
――そんなことはない。確かにこの道だよ。
私が云う。
私は案内図を広げて、私たちの現在地を確かめてみる。《ドゥオモ広場》を抜けて、《フォルグロレ通り》に向かって歩いて来たことは確かだった。
――この通りを突き抜けて、左の方に真っすぐに折れていけば、《セント・ジャコブ門》のところに出られる筈だよ。
私は事もなげにそう云った。
しかし、道はますます左右に入り組んだ形になって、まるで石の砦のなかに迷い込んだような感じになった。大きな石組みの楼門のような建物が私たちの前に立ちはだかった。
――何処まで行くの。もう時間がないのよ。
妻が不安げに私の腕を引き戻すようにした。
――引き返しましょうよ。
その時になって、私には東西一キロ、南北二キロの小さな町だと聞いていた《塔の町》が、俄に底深い、巨大な都市に感じられて来た。引き返すと云っても、どの道をどう引き返せばいいのか。もう案内図も役立ちそうになかった。それでも、ともかく、わたしたちはもと来た道を引き返すつもりになり、すぐまた、別の道に迷い込んだ。
――どうするつもりなの、あなた。道を聞くにも誰ひとり、出会わないじゃないの。
妻が云うように、《泉の広場》でテレビのビデオ撮りをしていた若い数人の男女以外には、私たちは誰一人出会わなかった。
――あなた、昼間からワインなんか飲んでいるから、こういうことになるんだわ。フィレンツェ行きのバスの時間に間に合わなくなったら、あなた、どうするの?
妻がもう一度云う。
急に眺望が開けた。私たちの視野いっぱいに山頂の下に拡がる葡萄畑や赤茶けた煉瓦積みの家々、直立する糸杉の木立、その間を蛇行する街道、崩れかけた教会の尖塔。そうした風景が、突然、私たちの眼に入って来た。いつの間にか、私たちは、《フォグロレ通り》を通り越して、ジグザグした細い道を辿りながら、北の端の城壁のところまで迷い込んで来てしまっていたのだ。
――もう、フィレンツェ行きのバスには間に合わないわ。
妻が云う。
――あんたは、あのシエナの日本人のガイドにうまいこと云われてお調子に乗ったのよ。
――とにかく、この城壁に沿って道なりに真っすぐ行ってみよう。まだ、バスの時間までは大分間がある。
私は自分に言い聞かせるように、そう云った。
しかし、フィレンツェ行きのバスを逃してしまったら、どうすればいいのか。フィレンツェのホテルで六時に落ち合うことになっているツアーの仲間たちとはどう連絡を取ったらいいのか。
私たちは、北側の城壁沿いに道を選んだ。《塔の町》の中心部を軸にして時計廻りに迂回する恰好になった。地図の上で、私はそう思った。城壁に沿う石畳道はくねくねと同じように何処までも延びていた。右側にはこれも石造りの建物が峙っていた。やがて、城壁側に建つ三角形の館ふうの奇妙な建物に突き当たった。そして、道は右なりに迂回していく。石の壁が一本の灰色の石畳道を挟んで私たちを取り囲んでいる。
――どうしよう。
妻が云った。
見ると、その先は行き止まりになっていて、階のような平たい段々があって、その向こうに赤煉瓦を積んだアーチ型の門が行く手を阻んでいた。その門の内側を一人の黒い僧服を身に纏った男が、足早に過るのが見えた。
何処かの塔で、鐘の鳴る音が聞こえた。
腕時計を見ると、フィレンツェ行きの出るバスの時間が近づいていた。そのバスを逃がすと、私たちは今夜、山頂の《塔の町》の広場で一夜を明かさねばならない。 ─了─
(くらもち まさお 小説家・日本ペンクラブ会員 1929年 茨城県に生れる。 掲載作は、平成四年(1992)九月樹と匠社刊『塔のある町で』に収録。湖の本の読者)
幻 談 幸田 露伴
斯(か)う暑くなつては皆さん方が或(あるひ)は高い山に行かれたり、或は涼しい海辺に行かれたりしまして、さうしてこの悩ましい日を充実した生活の一部分として送らうとなさるのも御尤(ごもつと)もです。が、もう老い朽ちてしまへば山へも行かれず、海へも出られないでゐますが、その代り小庭(こには)の朝露、縁側の夕風ぐらゐに満足して、無難に平和な日を過して行けるといふもので、まあ年寄はそこいらで落着いて行かなければならないのが自然なのです。山へ登るのも極くいゝことであります、深山(しんざん)に入り、高山、嶮山(けんざん)なんぞへ登るといふことになると、一種の神秘的な興味も多いことです。その代り又危険も生じます訳で、怖しい話が伝へられてをります。海もまた同じことです。今お話し致さうといふのは海の話ですが、先に山の話を一度申して置きます。
それは、西暦千八百六十五年の七月の十三日の午前五時半にツェルマットといふ処から出発して、名高いアルプスのマッターホルンを世界始まつて以来最初に征服致しませうと心ざし、その翌十四日の夜明前から骨を折つて、さうして午後一時四十分に頂上へ着きましたのが、あの名高いアルプス登攀記(とうはんき)の著者のウィンパー一行でありました。その一行八人がアルプスのマッターホルンを初めて征服したので、それから段々とアルプスも開けたやうな訳です。
それは皆様がマッターホルンの征服の紀行によつて御承知の通りでありますから、今私が申さなくても夙(つと)に御合点(ごがてん)のことですが、さてその時に、その前から他の一行即ち伊太利(イタリー)のカレルといふ人の一群がやはりそこを征服しようとして、両者は自然と競争の形になつてゐたのであります。併(しか)しカレルの方は不幸にして道の取り方が違つてゐた為に、ウィンパーの一行には負けてしまつたのであります。ウィンパーの一行は登る時には、クロス、それから次に年を取つた方のぺーテル、それからその伜(せがれ)が二人、それからフランシス・ダグラス卿(きやう)といふこれは身分のある人です。それからハドウ、それからハドス、それからウィンパーといふのが一番終(しま)ひで、つまり八人がその順序で登りました。
十四日の一時四十分に到頭(たうたう)さしもの恐しいマッターホルンの頂上、天にもとゞくやうな頂上へ登り得て大(おほい)に喜んで、それから下山にかゝりました。下山にかゝる時には、一番先ヘクロス、その次がハドウ、それからフランシス・ダグラス卿、それから年を取つたところのペーテル、一番終ひがウィンパー、それで段々降りて来たのでありますが、それだけの前古未曾有(ぜんこみぞう)の大成功を収め得た八人は、上りにくらべては猶一倍おそろしい氷雪(ひようせつ)の危険の路を用心深く辿りましたのです。ところが、第二番目のハドウ、それは少し山の経験が足りなかつたせゐもありませうし、又疲労したせゐもありましたらうし、イヤ、むしろ運命のせゐと申したいことで、誤つて滑つて、一番先にゐたクロスヘぶつかりました。さうすると、雪や氷の蔽(おほ)つてゐる足がゝりもないやうな嶮峻(けんしゆん)の処で、さういふことが起つたので、忽ちクロスは身をさらはれ、二人は一つになつて落ちて行きました訳。あらかじめロープをもつて銘々の身をつないで、一人が落ちても他が踏止まり、そして個々の危険を救ふやうにしてあつたのでありますけれども、何せ絶壁の処で落ちかゝつたのですから堪りません、二人に負けて第三番目も落ちて行く。それからフランシス・ダグラス卿は四番目にゐたのですが、三人の下へ落ちて行く勢で、この人も下へ連れて行かれました。ダグラス卿とあと四人との間でロープはピンと張られました。四人はウンと踏堪(ふみこら)へました。落ちる四人と堪へる四人との間で、ロープは力足らずしてプツリと切れて終ひました。丁度(ちやうど)午後三時のことでありましたが、前の四人は四千尺ばかりの氷雪の処を逆(さか)おとしに落下したのです。後(あと)の人は其処(そこ)へ残つたけれども、見る見る自分達の一行の半分は逆落(さかおと)しになつて深い深い谷底へ落ちて行くのを目にした其心持はどんなでしたらう。それで上に残つた者は狂人の如く興奮し、死人の如く絶望し、手足も動かせぬやうになつたけれども、さてあるべきではありませぬから、自分達も今度は滑つて死ぬばかりか、不測(ふそく)の運命に臨(のぞ)んでゐる身と思ひながら段々下りてまゐりまして、さうして漸く午後の六時頃に幾何(いくら)か危険の少いところまで下りて来ました。
下りては来ましたが、つい先刻(さつき)まで一緒にゐた人々がもう訳も分らぬ山の魔の手にさらはれて終(しま)つたと思ふと、不思議な心理状態になつてゐたに相違ありません。で、我々はさういふ場合へ行つたことがなくて、たゞ話のみを聞いただけでは、それらの人の心の中(うち)がどんなものであつたらうかといふことは、先づ殆ど想像出来ぬのでありまするが、そのウィンパーの記したものによりますると、その時夕方六時頃です、ぺーテル一族の者は山登りに馴れてゐる人ですが、その一人がふと見るといふと、リスカンといふ方に、ぼうつとしたアーチのやうなものが見えましたので、はてナと目を留めてをりますると、外(ほか)の者もその見てゐる方を見ました。すると軈(やが)てそのアーチの処へ西洋諸国の人にとつては東洋の我々が思ふのとは違つた感情を持つところの十字架の形が、それも小さいのではない、大きな十字架の形が二つ、ありあり空中に見えました。それで皆もなにかこの世の感じでない感じを以てそれを見ました、と記してありまする。それが一人見たのではありませぬ、残つてゐた人にみな見えたと申すのです。十字架は我々の五輪(ごりん)の塔同様なものです。それは時に山の気象を以て何かの形が見えることもあるものでありますが、兎(と)に角(かく)今のさきまで生きて居つた一行の者が亡くなつて、さうしてその後(あと)へ持つて来て四人が皆さういふ十字架を見た、それも一人二人に見えたのでなく、四人に見えたのでした。山にはよく自分の身体(からだ)の影が光線の投げられる状態によつて、向う側へ現はれることがありまする。四人の中(うち)にはさういふ幻影かと思つた者もあつたでせう、そこで自分達が手を動かしたり身体(からだ)を動かして見たところが、それには何等(なんら)の関係がなかつたと申します。
これで此話はお終ひに致します。古い経文(きやうもん)の言葉に、心は巧(たく)みなる画師(ゑし)の如し、とございます、何となく思(おもひ)浮(うか)めらるゝ言葉ではござりませぬか。
さてお話し致しますのは、自分が魚釣(うをつり)を楽んで居りました頃、或先輩から承(うけたまは)りました御話です。徳川期もまだひどく末にならない時分の事でございます。江戸は本所(ほんじよ)の方に住んで居られました人で――本所といふ処は余り位置の高くない武士どもが多くゐた処で、よく本所の小ツ旗本(こツぱたもと)などと江戸の諺(ことわざ)で申した位で、千石(ごく)とまではならないやうな何百石といふやうな小さな身分の人達が住んで居りました。これもやはりさういふ身分の人で、物事がよく出来るので以て、一時は役(やく)づいて居りました。役づいてをりますれば、つまり出世の道も開けて、宜(よろ)しい訳でしたが、どうも世の中といふものはむづかしいもので、その人が良いから出世するといふ風には決つてゐないもので、却(かへ)つて外(ほか)の者の嫉(そね)みや憎みをも受けまして、さうして役を取上げられまする、さうすると大概小普請(こぶしん)といふのに入る。出る杙(くひ)が打たれて済んで御小普請(おこぶしん)、などと申しまして、小普請入(い)りといふのは、つまり非役(ひやく)になつたといふほどの意味になります。この人も良い人であつたけれども小普請入になつて、小普請になつてみれば閑(ひま)なものですから、御用は殆ど無いので、釣を楽みにしてをりました。別に活計(くらし)に困る訳ぢやなし、奢(おご)りも致さず、偏屈(へんくつ)でもなく、ものはよく分る、男も好(よ)し、誰が目にも良い人。さういふ人でしたから、他の人に面倒な関係なんかを及ぼさない釣を楽(たのし)んでゐたのは極(ご)く結構な御話でした。
そこでこの人、暇具合(ひまぐあひ)さへ良ければ釣に出て居りました。神田川の方に船宿があつて、日取り即ち約束の日には船頭が本所側の方に舟を持つて来てゐるから、其処(そこ)からその舟に乗つて、さうして釣に出て行く。帰る時も舟から直(じき)に本所側に上(あが)つて、自分の屋敷へ行く、まことに都合好くなつてをりました。そして潮(しほ)の好い時には毎日のやうにケイヅを釣つてをりました。ケイヅと申しますと、私が江戸訛(えどなま)りを言ふものとお思ひになる方もありませうが、今は皆様がカイヅカイヅとおつしやいますが、カイヅは訛りで、ケイヅが本当です。系図(けいづ)を言へば鯛の中(うち)、といふので、系図鯛(けいづだひ)を略してケイヅといふ黒い鯛で、あの恵比寿様(ゑびすさま)が抱いて居らつしやるものです。イヤ、斯様(かやう)に申しますと、ゑびす様の抱いてゐらつしやるのは赤い鯛ではないか、変なことばかり言ふ人だと、また叱られますか知れませんが、これは野必大(やひつだい)と申す博物(はくぶつ)の先生が申されたことです。第一ゑびす様が持つて居られるやうなあゝいふ竿では赤い鯛は釣りませぬものです。黒鯛ならあゝいふ竿で丁度釣れますのです。釣竿の談(だん)になりますので、よけいなことですが一寸申し添へます。
或日のこと、この人が例の如く舟に乗つて出ました。船頭の吉(きち)といふのはもう五十過ぎて、船頭の年寄なぞといふものは客が喜ばないもんでありますが、この人は何もさう焦(あせ)つて魚を無暗(むやみ)に獲(と)らといふのではなし、吉といふのは年は取つてゐるけれども、まだそれでもそんなにぼけてゐるほど年を取つてゐるのぢやなし、ものはいろいろよく知つてゐるし、此人は吉を好い船頭として始終使つてゐたのです。釣船頭といふものは魚釣の指南番(しなんばん)か案内人のやうに思ふ方もあるかも知れませぬけれども、元来さういふものぢやないので、たゞ魚釣をして遊ぶ人の相手になるまでで、つまり客を扱(あつか)ふものなんですから、長く船頭をしてゐた者なんぞといふものはよく人を呑込み、さうして人が愉快(ゆくわい)と思ふこと、不愉快と思ふことを呑込んで、愉快と思ふやうに時間を送らせることが出来れば、それが好い船頭です。網船頭(あみせんどう)なぞといふものは尚(なほ)のことさうです。網は御客自身打つ人もあるけれども先づは網打が打つて魚を獲(と)るのです。といつて魚を獲つて活計(くらし)を立てる漁師(れふし)とは異(ちが)ふ。客に魚を与へることを多くするより、客に網漁(あみれふ)に出たといふ興味を与へるのが主(しゆ)です。ですから網打だの釣船頭だのといふものは、洒落(しやれ)が分らないやうな者ぢやそれになつてゐない。遊客も藝者の顔を見れば三絃(しやみ)を弾(ひ)き歌を唄はせ、お酌(しやく)には扇子(せんす)を取つて立つて舞はせる、むやみに多く歌舞を提供させるのが好いと思つてゐるやうな人は、まだまるで遊びを知らないのと同じく、魚にばかりこだはつてゐるのは、所謂(いはゆる)二才客(にさいきやく)です。といつて釣に出て釣らなくても可(よ)いといふ理屈はありませんが、アコギに船頭を使つて無理にでも魚を獲らうといふやうなところは通り越してゐる人ですから、老船頭の吉でも、却つてそれを好いとしてゐるのでした。
ケイヅ釣といふのは釣の中でも又他の釣と様子が違ふ。なぜかと言ひますと、他の、例へばキス釣なんぞといふのは立込(たちこ)みといつて水の中へ入つてゐたり、或(あるひ)は脚榻釣(きやたつつり)といつて高い脚榻を海の中へ立て、その上に上(あが)つて釣るので、魚のお通りを待つてゐるのですから、これを悪く言ふ者は乞食釣(こじきづり)なんぞと言ふ位で、魚が通つてくれなければ仕様が無い、みじめな態(ざま)だからです。それから又ボラ釣なんぞといふものは、ボラといふ魚が余り上等の魚でない、群れ魚ですから獲れる時は重たくて仕方が無い、担(にな)はなくては持てない程獲れたりなんぞする上に、これを釣る時には舟の艫(とも)の方へ出まして、さうして大きな長い板子(いたご)や楫(かぢ)なんぞを舟の小縁(こべり)から小縁へ渡して、それに腰を掛けて、風の吹きさらしにヤタ一(いち)の客よりわるいかつかうをして釣るのでありまするから、もう遊びではありません、本職の漁師みたいな姿になつてしまつて、まことに哀れなものであります。が、それは又それで丁度さういふ調子合(てふしあひ)のことの好きな磊落(らいらく)な人が、ボラ釣は豪爽(がうさう)で好いなどと賞美する釣であります。が、話中(わちゆう)の人はそんな釣はしませぬ。ケイヅ釣りといふのはさういふのと違ひまして、その時分、江戸の前の魚はずつと大川へ奥深く入りましたものでありまして、永代橋(えいたいばし)新大橋より上流(かみ)の方でも釣つたものです。それですから善女(ぜんによ)が功徳(くどく)の為に地蔵尊の御影(ごえい)を刷つた小紙片(せうしへん)を両国橋の上からハラハラと流す、それがケイヅの眼球(めだま)へかぶさるなどといふ今からは想像も出来ないやうな穿(うが)ちさへありました位です。
で、川のケイヅ釣は川の深い処で釣る場合は手釣(てづり)を引いたもので、竿などを振廻して使はずとも済むやうな訳でした。長い釣綸(つりいと)を■輪(わつか・前の漢字は竹冠に隻)から出して、さうして二本指で中(あた)りを考へて釣る。疲れた時には舟の小縁(こべり)へ持つて行つて錐(きり)を立てゝ、 その錐の上に鯨(くぢら)の鬚(ひげ)を据(す)ゑて、その鬚に持たせた岐(また)に綸(いと)をくひこませて休む。これを「いとかけ」と申しました。後(のち)には進歩して、その鯨の鬚の上へ鈴なんぞ附けるやうになり、脈鈴(みやくすゞ)と申すやうになりました。脈鈴は今も用ゐられてゐます。併し今では川の様子が全く異(ちが)ひまして、大川の釣は全部なくなり、ケイヅの脈釣(みやくづり)なんぞといふものは何方(どなた)も御承知ないやうになりました。たゞしその時分でも脈釣ぢやさう釣れない。さうして毎日出て本所から直ぐ鼻の先の大川の永代(えいたい)の上(かみ)あたりで以て釣つてゐては興も尽きるわけですから、話中(わちゆう)の人は、川の脈釣でなく海の竿釣をたのしみました。竿釣にも色々ありまして、明治の末頃はハタキなんぞいふ釣もありました。これは舟の上に立つてゐて、御台場(おだいば)に打附ける波の荒れ狂うやうな処へ鉤(はり)を抛(はふ)つて入れて釣るのです。強い南風(みなみ)に吹かれながら、乱石(らんせき)にあたる浪の白泡立(しらあわだ)つ中へ竿を振つて餌(えさ)を打込むのですから、釣れることは釣れても随分労働的の釣であります。そんな釣はその時分には無かつた、御台場も無かつたのである。それから又今は導流柵(だうりうさく)なんぞで流して釣る流し釣もありますが、これもなかなか草臥(くたび)れる釣であります。釣はどうも魚を獲らうとする三昧(さんまい)になりますと、上品でもなく、遊びも苦しくなるやうでございます。
そんな釣は古い時分にはなくて、澪(みよ)の中(うち)だとか澪がらみで釣るのを澪釣(みよづり)と申しました。これは海の中に自(おのづ)から水の流れる筋がありますから、その筋をたよつて舟を潮(しお)なりにちやんと止めまして、お客は将監(しやうげん)――つまり舟の頭(かしら)の方からの第一の室(ま)――に向うを向いてしやんと坐つて、さうして釣竿を右と左とへ八の字のやうに振込んで、舟首(みよし)近く、甲板(かつぱ)のさきの方に亘(わた)つてゐる簪(かんこ)の右の方へ右の竿、左の方へ左の竿をもたせ、その竿尻を一寸(ちよつと)何とかした銘々の随意の趣向でちよいと軽く止めて置くのであります。さうして客は端然として竿先を見てゐるのです。船頭は客よりも後ろの次の間にゐまして、丁度お供のやうな形に、先づは少し右舷(うげん)によつて扣(ひか)へて居ります。日がさす、雨がふる、いづれにも無論のこと苫(とま)といふものを葺(ふ)きます。それはおもての舟梁(ふなばり)と其次の舟梁とにあいてゐる孔(あな)に、「たてぢ」を立て、二のたてぢに棟(むね)を渡し、肘木(ひぢき)を左右にはね出させて、肘木と肘木とを木竿で連ねて苫(とま)を受けさせます。苫一枚といふのは凡(およ)そ畳一枚より少し大きいもの、贅沢にしますと尺長(しやくなが)の苫は畳一枚のより余程長いのです。それを四枚、舟の表の間(ま)の屋根のやうに葺くのでありますから、まことに具合好く、長四畳(ながよでふ)の室(へや)の天井のやうに引いてしまへば、苫は十分に日も雨も防ぎますから、ちやんと座敷のやうになるので、それでその苫の下即ち表の間――釣舟は多く網舟と違つて表の間が深いのでありますから、まことに調子が宜(よろ)しい。そこへ茣蓙(ござ)なんぞ敷きまして、其上に敷物を置き、胡坐(あぐら)なんぞ掻かないで正しく坐つてゐるのが式(しき)です。故人成田屋が今の幸四郎、当時の染五郎を連れて釣に出た時、藝道舞台上では指図(さしづ)を仰いでも、勝手にしなせいと突放(つつぱな)して教へて呉れなかつたくせに、舟では染五郎の座りやうを咎(とが)めて、そんな馬鹿な坐りやうがあるかと厳しく叱つたといふことを、幸四郎さんから直接に聞きましたが、メナダ釣、ケイヅ釣、すゞき釣、下品でない釣はすべてそんなものです。
それで魚が来ましても、又、鯛の類といふものは、まことにさういふ釣をする人々に具合の好く出来てゐるもので、鯛の二段引(にだんび)きと申しまして、偶(たま)には一度にガブッと食べて釣竿を持つて行くといふやうなこともありますけれども、それは寧(むし)ろ稀有(けう)の例で、ケイヅは大抵は一度釣竿の先へあたりを見せて、それから一寸(ちよつと)して本当に食ふものでありまするから、竿先の動いた時に、来たナと心づきましたら、ゆつくりと手を竿尻にかけて、次のあたりを待つてゐる。次に魚がぎゆつと締める時に、右の竿なら右の手であはせて竿を起し、自分の直(すぐ)と後ろの方へその儘(まま)持つて行くので、さうすると後ろに船頭が居ますから、これがたま(=たも網)をしやんと持つてゐまして掬(すく)ひ取ります。大きくない魚を釣つても、そこが遊びですから竿をぐつと上げて廻して、後ろの船頭の方に遣(や)る。船頭は魚を掬つて、鉤(はり)を外(はづ)して、舟の丁度真中の処に活間(いけま)がありますから魚を其処(そこ)へ入れる。それから船頭が又餌(えさ)をつける。「旦那、つきました」と言ふと、竿をまた元へ戻して狙つたところへ振込むといふ訳であります。ですから、客は上布(じやうふ)の着物を着てゐても釣ることが出来ます訳で、まことに綺麗事(きれいごと)に殿様らしく遣(や)つてゐられる釣です。そこで茶の好きな人は玉露など入れて、茶盆(ちやぼん)を傍に置いて茶を飲んでゐても、相手が二段引きの鯛ですから、慣れてくればしづかに茶碗を下に置いて、さうして釣つてゐられる。酒の好きな人は潮間(しほま)などは酒を飲みながらも釣る。多く夏の釣でありますから、泡盛(あわもり)だとか、柳蔭(やなぎかげ)などといふものが喜ばれたもので、置水屋(おきみづや)ほど大きいものではありませんが上下箱(じやうげばこ)といふのに茶器酒器、食器も具(そな)ヘられ、一寸した下物(さかな)、そんなものも仕込まれてあるやうな訳です。万事がさういふ調子なのですから、真に遊びになります。しかも舟は上(じやう)だな檜(ひのき)で洗ひ立てゝありますれば、清潔此上無しです。しかも涼しい風のすいすい流れる海上に、片苫(かたとま)を切つた舟なんぞ、遠くから見ると余所目(よそめ)から見ても如何(いか)にも涼しいものです。青い空の中へ浮上つたやうに広々と潮が張つてゐる其上に、風のつき抜ける日蔭のある一葉(いちえふ)の舟が、天から落ちた大鳥の一枚の羽のやうにふわりとしてゐるのですから。
それから又、澪釣(みよつり)でない釣もあるのです。それは澪で以てうまく食はなかつたりなんかした時に、魚といふものは必ず何かの蔭にゐるものですから、それを釣るのです。鳥は木により、さかなはかゝり、人は情(なさけ)の蔭による、なんぞといふ「よしこの」がありますが、かゝりといふのは水の中にもさもさしたものがあつて、其処に網を打つことも困難であり、釣鉤(つりばり)を入れることも困難なやうなひつかゝりがあるから、かゝりと申します。そのかゝりには兎角(とかく)に魚が寄るものであります。そのかゝりの前へ出掛けて行つて、さうしてかゝりと擦(す)れ擦れに鉤を打込む、それがかゝり前の釣といひます。澪だの平場(ひらば)だので釣れない時にかゝり前に行くといふことは誰でもすること。又わざわざかゝりへ行きたがる人もある位。古い澪杙(みよぐひ)、ボッカ、われ舟、ヒビがらみ、シカケを失ふのを覚悟の前にして、大様(おほやう)にそれぞれの趣向で遊びます。何(いづ)れにしても大名釣(だいみやうづり)と云はれるだけに、ケイヅ釣は如何にも贅沢に行はれたものです。
ところで釣の味はそれでいゝのですが、やはり釣は根が魚を獲るといふことにあるものですから、余り釣れないと遊びの世界も狭くなります。或日のこと、ちつとも釣れません。釣れないといふと未熟な客は兎角にぶつぶつ船頭に向つて愚痴をこぼすものですが、この人はさういふことを言ふ程あさはかではない人でしたから、釣れなくてもいつもの通りの機嫌でその日は帰つた。その翌日も日取りだつたから、翌日もその人は又吉公(きちこう)を連れて出た。ところが魚といふのは、それは魚だから居さへすれば餌があれば食ひさうなものだけれども、さうも行かないもので、時によると何かを嫌つて、例へば水を嫌ふとか風を嫌ふとか、或は何か不明な原因があつてそれを嫌ふといふと、居ても食はないことがあるもんです。仕方がない。二日ともさつぱり釣れない。そこで幾ら何でもちつとも釣れないので、吉公は弱りました。小潮(こじほ)の時なら知らんこと、いゝ潮に出てゐるのに、二日ともちつとも釣れないといふのは、客はそれほどに思はないにしたところで、船頭に取つては面白くない。それも御客が、釣も出来てゐれば人間も出来てゐる人で、ブツリとも言はないでゐてくれるので却つて気がすくみます。どうも仕様がない。が、どうしても今日は土産を持たせて帰さうと思ふものですから、さあいろいろな潮行(しほゆ)きと場処とを考へて、あれもやり、これもやつたけれども、何様(どう)しても釣れない。それが又釣れるべき筈の、月のない大潮(おほしほ)の日。どうしても釣れないから、吉も到頭へたばつて終(しま)つて、
「やあ旦那、どうも二日とも投げられちやつて申訳がございませんなア」と言ふ。客は笑つて、
「なアにお前、申訳がございませんなんて、そんな野暮(やぼ)かたぎのことを言ふ筈の商売ぢやねえぢやねえか。ハヽヽ。いゝやな。もう帰るより仕方がねえ、そろそろ行かうぢやないか。」
「ヘイ、もう一ヶ処やつて見て、さうして帰りませう。」
「もう一ヶ処たつて、もうそろそろ真(ま)づみになつて来るぢやねえか。」
真づみといふのは、朝のを朝まづみ、晩のを夕まづみと申します。段々と昼になつたり夜になつたりする迫(せ)りつめた時をいふのであつて、兎角(とかく)に魚は今までちつとも出て来なかつたのが、まづみになつて急に出て来たりなんかするものです。吉の腹の中では、まづみに中(あ)てたいのですが、客はわざと其反対を云つたのでした。
「ケイヅ釣に来て、こんなに晩(おそ)くなつて、お前、もう一ヶ処なんて、そんなぶいきなことを言ひ出して。もうよさうよ。」
「済みませんが旦那、もう一ヶ処ちよいと当てゝ。」
と、客と船頭と言ふことがあべこべになりまして、吉は自分の思ふ方へ船をやりました。
吉は全敗に終らせたくない意地から、舟を今日までかゝつたことの無い場処へ持つて行つて、「かし」をきめるのに慎重な態度を取りながら、やがて、
「旦那、竿は一本にして、みよしの真正面へ巧(うま)く振込んで下さい」と申しました。これはその壷(つぼ)以外は、左右も前面も、恐ろしいカヽリであることを語つてゐるのです。客は合点して、「あいよ」とその言葉通りに実に巧く振込みましたが、心中では気乗薄(きのりうす)であつたことも争へませんでした。すると今手にしてみた竿を置くか置かぬかに、魚の中(あた)りか芥(ごみ)の中りか分らぬ中り、――大魚に大ゴミのやうな中りがあり、大ゴミに大魚のやうな中りが有るもので、然様(さう)いふ中りが見えますと同時に、二段引どころではない、糸はピンと張り、竿はズイと引かれて行きさうになりましたから、客は竿尻を取つて一寸(ちよいと)当てゝ、直(すぐ)に竿を立てにかゝりました。が、此方(こつち)の働きは少しも向うへは通じませんで、向うの力ばかりが没義道(もぎどう)に強うございました。竿は二本継(にほんつぎ)の、普通の上物(じやうもの)でしたが、継手(つぎて)の元際(もとぎは)がミチリと小さな音がして、そして糸は敢(あ)へなく断(き)れてしまひました。魚が来てカカリへ啣(くは)へ込んだのか、大芥(おほごみ)が持つて行つたのか、もとより見ぬ物の正体は分りませんが、吉は又一つ此処で黒星がついて、しかも竿が駄目になつたのを見逃しはしませんで、一層心中は暗くなりました。此様(かふ)いふことも無い例では有りませんが、飽(あく)までも練(ね)れた客で、「後追(あとお)ひ小言(こごと)」などは何も言はずに吉の方を向いて、
「帰れつていふことだよ」と笑ひましたのは、一切の事を「もう帰れ」といふ自然の命令の意味合だと軽く流して終(しま)つたのです。「ヘイ」といふよりほかは無い、吉は素直にカシを抜いて、漕ぎ出しながら、
「あつしの樗蒲一(ちよぼいち)がコケだつたんです」と自語的(しごてき)に言つて、チヨイと片手で自分の頭(かしら)を打つ真似をして笑つた。「ハヽヽ」「ハヽヽ」と軽い笑(わらひ)で、双方とも役者が悪くないから味な幕切を見せたのでした。
海には遊船(いうせん)はもとより、何の舟も見渡す限り見え無いやうになつて居ました。吉はぐいぐいと漕いで行く。余り晩(おそ)くまでやつてゐたから、まづい潮になつて来た。それを江戸の方に向つて漕いで行く。さうして段々やつて来ると、陸はもう暗くなつて江戸の方遙(はるか)にチラチラと燈(ひ)が見えるやうになりました。吉は老いても巧いもんで、頻りと身体に調子をのせて漕ぎます。苫は既に取除けてあるし、舟はずんずんと出る。客はすることもないから、しやんとして、たゞぽかんと海面(うみづら)を見てゐると、もう海の小波(さゞなみ)のちらつきも段々と見えなくなって、雨(あま)ずつた空が初(はじめ)は少し赤味があつたが、ぼうつと薄墨になつてまゐりました。さういふ時は空と水が一緒にはならないけれども、空の明るさが海へ溶込(とけこ)むやうになつて、反射する気味が一つもないやうになつて来るから、水際が蒼茫(さうばう)と薄暗くて、たゞ水際だといふことが分る位の話、それでも水の上は明るいものです。客はなんにも所在がないから江戸の彼(あ)の燈(ひ)は何処(どこ)の燈だらうなどと、江戸が近くなるにつけて江戸の方を見、それからずいと東の方を見ますと、――今漕いでゐるのは少しでも潮が上(かみ)から押すのですから、澪(みよ)を外れた、つまり水の抵抗の少い処を漕いでゐるのでしたが、澪の方をヒョイッと見るといふと、暗いといふ程ぢやないが、余程濃い鼠色(ねづみ)に暮れて来た、その水の中からふつと何か出ました。はてナと思つて、其儘見てゐると又何かがヒョイッと出て、今度は少し時間があつて又引込んでしまひました。葭(よし)か蘆(あし)のやうな類(たぐひ)のものに見えたが、そんなものなら平らに水を浮いて流れる筈だし、どうしても細い棒のやうなものが、妙な調子でもつて、ツイと出ては又引込みます。何の必要があるではないが、合点が行きませぬから、
「吉や、どうもあすこの処に変なものが見えるな」と一寸声をかけました。客がヂッと見てゐるその眼の行方(ゆくへ)を見ますと、丁度その時又ヒョイッと細いものが出ました。そして又引込みました。客はもう幾度も見ましたので、
「どうも釣竿が海の中から出たやうに思へるが、何だらう。」
「さうでござんすね、どうも釣竿のやうに見えましたね。」
「併し釣竿が海の中から出る訳はねえぢやねえか。」
「だが旦那、たゞの竹竿が潮の中をころがつて行くのとは違つた調子があるので、釣竿のやうに思へるのですネ。」
吉は客の、心に幾らでも何かの興味を与へたいと思つてゐた時ですから、舟を動かしてその変なものが出た方に向ける。
「ナニ、そんなものを、お前、見たからつて仕様がねえぢやねえか。」
「だつて、あつしにも分らねえをかしなもんだから一寸後学(こうがく)の為に。」
「ハヽヽ、後学の為には宜かつたナ、ハヽヽ。」
吉は客にかまはず、舟をそつちへ持つて行くと、丁度途端にその細長いものが勢よく大きく出て、吉の真向(まつかう)を打たんばかりに現はれた。吉はチャッと片手に受留めたが、シブキがサッと顔へかゝつた。見るとたしかにそれは釣竿で、下に何かゐてグイと持つて行かうとするやうなので、なやすやうにして手をはなさずに、それをすかして見ながら、
「旦那これは釣竿です、野布袋(のぼてい)です、良(い)いもんのやうです。」
「フム、然様(さう)かい」と云ひながら、其竿の根の方を見て、
「ヤ、お客さんぢやねえか。」
お客さんといふのは溺死者(できししや)のことを申しますので、それは漁やなんかに出る者は時々はさういふ訪問者に出会ひますから申出(まおしだ)した言葉です。今の場合、それと見定めましたから、何も嬉しくもないことゆゑ、「お客さんぢやねえか」と、「放してしまへ」と言はぬばかりに申しましたのです。ところが吉は、
「エヽ、ですが、良(い)い竿ですぜ」と、足らぬ明るさの中でためつすかしつ見てゐて、
「野布袋(のぼてい)の丸(まる)でさア」と付足(つけた)した。丸といふのはつなぎ竿になつてゐない物のこと。野布袋竹といふのは申すまでもなく釣竿用の良いもので、大概の釣竿は野布袋の具合のいいのを他の竹の先につないで穂竹(ほだけ)として使ひます。丸といふと、一竿全部がそれなのです。丸が良い訳はないのですが、丸でゐて調子の良い、使へるやうなものは、稀物(まれもの)で、つまり良いものといふわけになるのです。
「そんなこと言つたつて欲しかあねえ」と取合ひませんでした。
が、吉には先刻(さつき)客の竿をラリにさせたことも含んでゐるからでせうか、竿を取らうと思ひまして、折らぬやうに加減をしながらグイと引きました。すると中浮(ちゆううき)になつてゐた御客様は出て来ない訳には行きませんでした。中浮と申しますのは、水死者に三態あります、水面に浮ぶのが一ツ、水底に沈むのが一ツ、両者の間が即ち中浮です。引かれて死体は丁度客の坐の直ぐ前に出て来ました。
「詰(つま)らねえことをするなよ、お返し申せと言つたのに」と言ひながら、傍に来たものですから、其竿を見まするといふと、如何(いか)にも具合の好さゝうなものです。竿といふものは、節(ふし)と節とが具合よく順々に、いゝ割合を以て伸びて行つたのがつまり良い竿の一条件です。今手元からずつと現はれた竿を見ますと、一目(ひとめ)にもわかる実に良いものでしたから、その武士も、思はず竿を握りました。吉は客が竿へ手をかけたのを見ますと、自分の方では持切れませんので、「放しますよ」と云つて手を放して終(しま)つた。竿尻より上の一尺ばかりのところを持つと、竿は水の上に全身を凛(りん)とあらはして、恰(あたか)も名刀の鞘(さや)を払つたやうに美しい姿を見せた。
持たない中(うち)こそ何でも無かつたが、手にして見ると其竿に対して油然(いうぜん)として愛念(あいねん)が起つた。とにかく竿を放さうとして二三度こづいたが、水中の人が堅く握つてゐて離れない。もう一寸(すん)一寸に暗くなつて行く時、よくは分らないが、お客さんといふのはでつぷり肥つた、眉の細くて長いきれいなのが僅(わづか)に見える、耳朶(みみたぶ)が甚だ大きい、頭は余程禿(は)げてゐる、まあ六十近い男。着てゐる物は浅葱(あさぎ)の無紋(むもん)の木綿縮(もめんちゞみ)と思はれる、それに細い麻の衿のついた汗取(あせと)りを下につけ、帯は何だかよく分らないけれども、ぐるりと身体(からだ)が動いた時に白い足袋を穿(は)いてゐたのが目に浸(し)みて見えた。様子を見ると、例へば木刀(ぼくたう)にせよ、一本差して、印籠(いんろう)の一つも腰にしてゐる人の様子でした。
「どうしような」と思はず小声で言つた時、夕風が一ト筋さつと流れて、客は身体の何処かが寒いやうな気がした。捨てゝしまつても勿体(もつたい)ない、取らうかとすれば水中の主(ぬし)が生命がけで執念深く握つてゐるのでした。躊躇のさまを見て吉は又声をかけました。
「それは旦那、お客さんが持つて行つたつて三途川(さんづのかわ)で釣をする訳でもありますまいし、お取りなすつたらどんなものでせう。」
そこで又こづいて見たけれど、どうしてなかなかしつかり掴(つか)んでゐて放しません。死んでも放さないくらゐなのですから、とてもしつかり握つてゐて取れない。といつて刃物を取出して取る訳にも行かない。小指でしつかり竿尻を掴んで、丁度それも布袋竹の節(ふし)の処を握つてゐるからなかなか取れません。仕方がないから渋川流(しぶかはりう)といふ訳でもないが、吾が拇指(おやゆび)をかけて、ぎくりとやつてしまつた。指が離れる、途端に先主人(せんしゆじん)は潮下(しほしも)に流れて行つてしまひ、竿はこちらに残りました。かりそめながら戦つた吾が掌を十分に洗つて、ふところ紙(がみ)三四枚でそれを拭ひ、そのまゝ海へ捨てますと、白い紙玉(かみだま)は魂でゞもあるやうにふわふわと夕闇の中を流れ去りまして、やがて見えなくなりました。吉は帰りをいそぎました。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ナア、一体どういふのだらう。なんにしても岡釣(をかづり)の人には違ひねえな。」
「えゝ、さうです、どうも見たこともねえ人だ。岡釣でも本所、深川、真鍋河岸(まなべがし)や萬年(まんねん)のあたりでまごまごした人とも思はれねえ、あれは上(かみ)の方の向島(むかうじま)か、もっと上の方の岡釣師ですな。」
「成程(なるほど)勘が好い、どうもお前うまいことを言ふ、そして。」
「なアに、あれは何でもございませんよ、中気(ちゆうき)に決まつてゐますよ。岡釣をしてゐて、変な処にしやがみ込んで釣つてゐて、でかい魚(さかな)を引(ひき)かけた途端に中気が出る、転(ころ)げ込んでしまへばそれまででせうネ。だから中気の出さうな人には平場でない処の岡釣はいけねえと昔から言ひまさあ。勿論どんなところだつて中気にいゝことはありませんがネ、ハヽヽ。」
「さうかなア。」
それでその日は帰りました。
いつもの河岸に着いて、客は竿だけ持つて家に帰らうとする。吉が
「旦那は明日は?」
「明日も出る筈になつてるんだが、休ませてもいゝや。」
「イヤ馬鹿雨(ばかあめ)でさへなければあつしやあ迎へに参りますから。」
「さうかい」と言つて別れた。
あくる朝起きてみると雨がしよしよと降つてゐる。
「あゝこの雨を孕(はら)んでやがつたんで二三日漁(れう)がまづかつたんだな。それとも赤潮でもさしてゐたのかナ。」
約束はしたが、こんなに雨が降つちや奴(やつ)も出て来ないだらうと、その人は家(うち)にゐて、せうこと無しの書見(しよけん)などしてゐると、昼近くなつた時分に吉はやつて来た。庭口からまはらせる。
「どうも旦那、お出(で)になるかならないかあやふやだつたけれども、あつしやあ舟を持つて来て居りました。この雨はもう直(じき)あがるに違(ちげ)へねえのですから参りました。御伴(おとも)をしたいとも云出(いひだ)せねえやうな、まづい後(あと)ですが。」
「アヽさうか、よく来てくれた。いや、二三日お前にムダ骨(ぼね)を折らしたが、おしまひに竿が手に入るなんてまあ変なことだなア。」
「竿が手に入るてえのは釣師にや吉兆(きつてう)でさア。」
「ハヽヽ、だがまあ雨が降つてゐる中(うち)あ出たくねえ、雨を止(や)ませる間(あひだ)遊んでゐねえ。」
「ヘイ。時に旦那、あれは ?」
「あれかい。見なさい、外鴨居(そとがもゐ)の上に置いてある。」
吉は勝手の方へ行つて、雑巾盥(ざふきんだらひ)に水を持つて来る。すつかり竿をそれで洗つてから、見るといふと如何(いか)にも良い竿。ぢつと二人は検(あらた)め気味に詳(くは)しく見ます。第一あんなに濡れてゐたので、重くなつてゐるべき筈だが、それがちつとも水が浸(し)みてゐないやうにその時も思つたが、今も同じく軽い。だからこれは全く水が浸みないやうに工夫がしてあるとしか思はれない。それから節廻(ふしまは)りの良いことは無類。さうして蛇口(へびくち)の処を見るといふと、素人細工(しろうとざいく)に違ひないが、まあ上手(じやうず)に出来てゐる。それから一番太い手元の処を見ると一寸(ちよいと)細工がある。細工といつたつて何でもないが、一寸(ちよつと)した穴を明けて、その中に何か入れでもしたのか又塞(ふさ)いである。尻手縄(しつてなは)が付いてゐた跡でもない。何か解らない。そのほかには何の異(かは)つたこともない。
「随分稀(めづ)らしい良(い)い竿だな、そしてこんな具合の好い軽い野布袋(のぼてい)は見たことが無い。」
「さうですな、野布袋といふ奴は元来重いんでございます、そいつを重くちやいやだから、それで工夫をして、竹がまだ野に生きてゐる中(うち)に少し切目(きりめ)なんか入れましたり、痛めたりしまして、十分に育たないやうに片つ方をさういふやうに痛める、右なら右、左なら左の片方をさうしたのを片(かた)うきす、両方から攻めるやつを諸(もろ)うきすといひます。さうして拵(こしら)へると竹が熟(じゆく)した時に養(やしな)ひが十分でないから軽い竹になるのです。」
「それはお前俺も知つてゐるが、うきすの竹はそれだから萎(しな)びたやうになつて面白くない顔つきをしてゐるぢやないか。これはさうぢやない。どういふことをして出来たのだらう、自然にかういふ竹が有つたのかなア。」
竿といふものの良いのを欲しいと思ふと、釣師は竹の生えてゐる藪(やぶ)に行つて自分で以てさがしたり撰(えら)んだりして、買約束(かひやくそく)をして、自分の心の儘に育てたりしますものです。さういふ竹を誰でも探しに行く。少し釣が劫(こふ)を経(へ)て来るとさういふことにもなりまする。唐(たう)の時に温庭ゐん(=竹冠に、均)といふ詩人、これがどうも道楽者で高慢で、品行が悪くて仕様がない人でしたが、釣にかけては小児(こども)同様、自分で以て釣竿を得ようと思つて裴氏(はいし)といふ人の林に這入(はひ)り込んで良い竹を探した詩がありまする。一径互(いつけいたがひ)に紆直(うちよく)し、茅棘(ばうきよく)亦已(またすで)に繁し、といふ句がありまするから、曲りくねつた細径(ほそみち)の茅(かや)や棘(いばら)を分けて、むぐり込むのです。歴尋(れきじん)す嬋娟(せんえん)の節、翦破(せんぱ)す蒼莨根(さうらうこん)、とありまするから、一々此(この)竹、彼(あの)竹と調べまはつた訳です。唐の時は釣が非常に行はれて、薛氏(せつし)の池といふ今日まで名の残る位の釣堀さへ有つた位ですから、竿屋だとて沢山有りましたらうに、当時持囃(もてはや)された詩人の身で、自分で藪くぐりなんぞをしてまでも気に入つた竿を得たがつたのも、好(すき)の道なら身をやつす道理でございます。半井卜養(なからゐぼくやう)といふ狂歌師の狂歌に、浦島が釣の竿とて呉竹(くれたけ)の節(ふし)はろくろく伸びず縮まず、といふのがありまするが、呉竹の竿など余り感心出来ぬものですが、三十六節あつたとかで大(おほい)に節のことを褒(ほ)めてゐまする、そんなやうなものです。それで趣味が高(かう)じて来るといふと、良いのを探すのに浮身(うきみ)をやつすのも自然の勢(いきほひ)です。
二人はだんだんと竿を見入つてゐる中(うち)に、あの老人が死んでも放さずにゐた心持が次第に分つて来ました。
「どうもこんな竹は此処(こゝい)らに見かけねえですから、よその国の物か知れませんネ。それにしろ二間(にけん)の余(よ)もあるものを持つて来るのも大変な話だし。浪人(らうにん)の楽(らく)な人だか何だか知らないけれども、勝手なことをやつて遊んでゐる中(うち)に中気が起つたのでせうが、何にしろ良(い)い竿だ」と吉は云ひました。
「時にお前、蛇口(へびくち)を見てゐた時に、なんぢやないか、先についてゐた糸をくるくるつと捲(ま)いて腹掛(はらがけ)のどんぶりに入れちやつたぢやねえか。」
「エヽ邪魔つけでしたから、それに、今朝それを見まして、それでわつちがこつちの人ぢやねえだらうと思つたんです。」
「どうして。」
「どうしてつたって、段々細(だんだんぼそ)につないでありました。段々細につなぐといふのは、はじまりの処が太い、それから次第に細いの又それより細いのと段々細くして行く。この面倒な法は加州(かしう)やなんぞのやうな国に行くと、鮎(あゆ)を釣るのに蚊鉤(かばり)など使つて釣る、その時蚊鉤がうまく水の上に落ちなければまづいんで、糸が先に落ちて後から蚊鉤が落ちてはいけない、それぢや魚(さかな)が寄らない、それで段々細の糸を拵へるんです。どうして拵へますかといふと、鋏(はさみ)を持つて行つて良い白馬の尾の具合のいゝ、古馬にならないやつのを頂戴して来る。さうしてそれを豆腐の粕で以て上からぎゆうぎゆうと次第々々にこく。さうすると透き通るやうにきれいになる。それを十六本、右撚(よ)りなら右撚りに、最初は出来ないけれども少し慣れると訳無く出来ますことで、片撚りに撚る。さうして一つ拵へる。その次に今度は本数を減らして、前に右撚りなら今度は左撚りに片撚りに撚ります。順々に本数をへらして、右左をちがへて、一番終ひには一本になるやうにつなぎます。あつしあ加州の御客に聞いておぼえましたがネ、西の人は考(かんがへ)がこまかい。それが定跡(ぢやうせき)です。此竿は鮎をねらふのではない、テグスでやつてあるけれども、うまくこきがついて、順減(じゆんべ)らしに細くなつて行くやうにしてあります。この人も相当に釣に苦労してゐますね、切れる処を決めて置きたいからさういふことをするので、岡釣ぢや尚のことです、何処(どこ)でも構はないでぶつ込むのですから、ぶち込んだ処にかゝりがあれば引(ひつ)かゝつてしまふ。そこで竿をいたはつて、しかも早く埒(らち)の明くやうにするには、竿の折れさうになる前に切れ処(どこ)から糸のきれるやうにして置くのです。一番先の細い処から切れる訳だからそれを竿の力で割出して行けば、竿に取つては怖いことも何もない。どんな処へでもぶち込んで、引(ひつ)かゝつていけなくなつたら竿は折れずに糸が切れてしまふ。あとは又直ぐ鉤をくつつければそれでいゝのです。この人が竿を大事にしたことは、上手に段々細にしたところを見てもハッキリ読めましたよ。どうも小指であんなに力を入れて放さないで、まあ竿と心中(しんぢゆう)したやうなもんだが、それだけ大事にしてゐたのだから、無理もねえでさあ。」
などと言つてゐる中(うち)に雨がきれかゝりになりました。主人は座敷、吉は台所へ下つて昼の食事を済ませ、遅いけれども「お出(で)なさい」「出よう」といふので以て、二人は出ました。無論その竿を持つて、そして場所に行くまでに主人は新しく上手に自分でシカケを段々細に拵(こしら)へました。
さあ出て釣り始めると、時々雨が来ましたが、前の時と違つて釣れるは、釣れるは、むやみに調子の好い釣になりました。到頭(たうとう)あまり釣れる為に晩(おそ)くなつて終ひまして、昨日(きのふ)と同じやうな暮方(くれがた)になりました。それで、もう釣もお終ひにしようなあといふので、蛇口(へびくち)から糸を外して、さうしてそれを蔵(しま)つて、竿は苫裏に上げました。だんだんと帰つて来るといふと、又江戸の方に燈(ひ)がチョイチョイ見えるやうになりました。客は昨日からの事を思つて、此竿を指を折つて取つたから「指折(ゆびを)リ」と名づけようかなどと考へてゐました。吉はぐいぐい漕いで来ましたが、せつせと漕いだので、艪臍(ろべそ)が乾いて来ました。乾くと漕ぎづらいから、自分の前の処にある柄杓(ひしやく)を取つて潮を汲んで、身を妙にねぢつて、ばつさりと艪の臍の処に掛けました。こいつが江戸前(えどまへ)の船頭は必ずさういふやうにするので、田舎(ゐなか)船頭のせぬことです。身をねぢつて高い処から其処を狙つてシャッと水を掛ける、丁度その時には臍が上を向いてゐます。うまくやるもので、浮世絵好みの意気な姿です。それで吉が今身体を妙にひねつてシャッとかける、身のむきを元に返して、ヒョッと見るといふと、丁度咋日と同じ位の暗さになつてゐる時、東の方に昨日と同じやうに葭のやうなものがヒョイヒョイと見える。オヤ、と言つて船頭がそつちの方をヂッと見る、表の間に坐つてゐたお客も、船頭がオヤと言つて彼方(あつち)の方を見るので、その方を見ると、薄暗くなつてゐる水の中からヒョイヒョイと、咋日と同じやうに竹が出たり引込(ひつこ)んだりしまする。ハテ、これはと思つて、合点しかねてゐるといふと、船頭も驚きながら、旦那は気が附いたかと思つて見ると、旦那も船頭を見る。お互に何だか訳の分らない気持がしてゐるところへ、今日は少し生暖(なまあたゝ)かい海の夕風が東から吹いて来ました。が、吉は忽(たちま)ち強がつて、「なんでえ、この前の通りのものがそこに出て来る訳はありあしねえ、竿はこつちにあるんだから。ネエ旦那、竿はこつちにあるんぢやありませんか。」
怪(くわい)を見て怪とせざる勇気で、変なものが見えても「こつちに竿があるんだからね、何でもない」といふ意味を言つたのであつたが、船頭も一寸(ちよつと))身を屈(かゞ)めて、竿の方を覗く。客も頭の上の闇を覗く。と、もう暗くなつて苫裏の処だから竿があるかないか殆ど分らない。却(かへ)つて客は船頭のをかしな顔を見る、船頭は客のをかしな顔を見る。客も船頭も此世でない世界を相手の眼の中から見出(みいだ)したいやうな眼つきに相互に見えた。
竿はもとよりそこにあつたが、客は竿を取出して南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言つて海へかへしてしまつた。
(昭和十三年九月)
(こうだろはん 小説家 1867.7.23(又は、7.26) - 1947.5.30 江戸下谷三枚橋横町に生まれる。 昭和十二年(1937 )第一回文化勲章 創設帝国藝術院会員。 昭和二十二年の死に際し政府に国葬の議あり。内閣総理大臣以下葬儀に列席。 掲載作は昭和十三年(1938)九月「日本評論」に初出。)
わかれ道
樋口 一葉
上
お京さん居ますかと窓の戸の外に来て、ことことと羽目(はめ)を敲(たゝ)く音のするに、誰(だ)れだえ、もう寐(ね)て仕舞つたから明日(あした)来てお呉れと嘘を言へば、寐たつて宜(い)いやね、起きて明けてお呉んなさい、傘屋の吉だよ、己(お)れだよと少し高く言へば、嫌な子だね此様(こん)な遅くに何を言ひに来たか、又お餅(かちん)のおねだりか、と笑つて、今あけるよ少時(しばらく)辛棒(しんぼう)おしと言ひながら、仕立かけの縫物に針どめして立つは年頃二十(はたち)余りの意気な女、多い髪の毛を忙しい折からとて結び髪にして、少し長めな八丈(はちでう)の前だれ、お召(めし)の台なしな半天を着て、急ぎ足に沓脱(くつぬぎ)へ下りて格子戸に添ひし雨戸を明くれば、お気の毒さまと言ひながらずつと這入(はい)るは一寸法師(いつすんぼし)と仇名(あだな)のある町内の暴れ者、傘屋の吉(きち)とて持て余しの小僧なり、年は十六なれども不図(ふと)見る処は一か二か、肩幅せばく顔少(ちい)さく、目鼻だちはきりきりと利口(りこう)らしけれど何(いか)にも脊(せい)の低くければ人嘲けりて仇名はつけゝる。御免なさい、と火鉢の傍へづかづかと行けば、御餅(おかちん)を焼くには火が足らないよ、台処(だいどころ)の火消壷から消し炭を持つて来てお前が勝手に焼いてお喰べ、私は今夜中に此れ一枚(ひとつ)を上げねば成らぬ、角(かど)の質屋の旦那どのが御年始着(ごねんしぎ)だからとて針を取れば、吉はふゝんと言つて彼(あ)の兀頭(はげあたま)には惜しい物だ、御初穂(おはつう)を我(お)れでも着て遣(や)らうかと言へば、馬鹿をお言ひで無い人のお初穂を着ると出世が出来ないと言ふでは無いか、今つから延びる事が出来なくては仕方が無い、其様(そん)な事を他処(よそ)の家(うち)でもしては不用(いけない)よと気を付けるに、己(お)れなんぞ御出世は願はないのだから他人(ひと)の物だらうが何だらうが着かぶつて遣るだけが徳さ、お前さん何時(いつ)か左様(さう)言つたね、運が向く時に成ると己れに糸織の着物をこしらへて呉れるつて、本当に調(こしら)へて呉れるかえと真面目だつて言へば、夫(そ)れは調(こし)らへて上げられるやうならお目出度(めでたい)のだもの喜んで調らへるがね、私(わたし)が姿を見てお呉れ、此様(こん)な容躰(ようだい)で人さまの仕事をして居る境界(きようがい)では無からうか、まあ夢のやうな約束さとて笑つて居れば、いいやな夫(そ)れは、出来ない時に調らへて呉れとは言は無い、お前さんに運の向いた時の事さ、まあ其様(そん)な約束でもして喜ばして置いてお呉れ、此様(こん)な野郎が糸織ぞろへを冠(かぶ)つた処がをかしくも無いけれどもと淋しさうな笑顔をすれば、そんなら吉ちやんお前が出世の時は私(わたし)にもしてお呉れか、其約束も極(き)めて置きたいねと微笑んで言へば、其(そい)つはいけない、己れは何(ど)うしても出世なんぞは為(し)ないのだから。何故(なぜ)何故。何故でもしない、誰れが来て無理やりに手を取つて引上げても己れは此処(こゝ)に斯(か)うして居るのが好(い)いのだ、傘屋の油引きが一番好いのだ、何(ど)うで盲目縞(めくらじま)の筒袖に三尺を脊負(しよ)つて産(で)て来たのだらうから、渋を買ひに行く時かすりでも取つて吹矢(ふきや)の一本も当りを取るのが好い運さ、お前さんなぞは以前(もと)が立派な人だと言ふから今に上等の運が馬車に乗つて迎ひに来やすのさ、だけれどもお妾(めかけ)に成ると言ふ謎では無いぜ、悪く取つて怒つてお呉んなさるな、と火なぶりをしながら身の上を歎くに、左様(さう)さ馬車の代りに火の車でも来るであらう、随分胸の燃える事が有るからね、とお京は尺(ものさし)を杖に振返りて吉三が顔を守(まも)りぬ。
例(いつも)の如く台処から炭を持出して、お前は喰ひなさらないかと聞けば、いゝゑ、とお京の頭(つむり)をふるに、では己ればかり御馳走さまに成らうかな、本当に自家(うち)の吝嗇(けちん)ぼうめ八釜(やかま)しい小言(こゞと)ばかり言やがつて、人を使ふ法をも知りやがらない、死んだお老婆(ばあ)さんは彼(あ)んなのでは無かつたけれど、今度の奴等と来たら一人として話せるのは無い、お京さんお前は自家(うち)の半次さんを好きか、随分厭味に出来あがつて、いゝ気の骨頂(こつてう)の奴では無いか、己れは親方の息子だけれど彼奴(あいつ)ばかりは何(ど)うしても主人とは思はれない番(ばん)ごと喧嘩をして遣り込めてやるのだが随分おもしろいよと話しながら、鉄網(かなあみ)の上へ餅をのせて、おゝ熱々(あつあつ)と指先を吹いてかゝりぬ。
己れは何うもお前さんの事が他人のやうに思はれぬは何ういふ物であらう、お京さんお前は弟(おとゝ)といふを持つた事は無いのかと問はれて、私は一人娘(ひとりご)で同胞(けうだい)なしだから弟にも妹(いもと)にも持つた事は一度も無いと言ふ、左様(さう)かなあ、夫れでは矢張(やつぱり)何でも無いのだらう、何処からか斯(か)うお前のやうな人が己れの真身(しんみ)の姉(あね)さんだとか言つて出て来たら何んなに嬉しいか、首つ玉へ噛(かじ)り付いて己れは夫れ限(ぎ)り往生しても喜ぶのだが、本当に己れは木の股からでも出て来たのか、遂(つ)ひしか親類らしい者に逢つた事も無い、夫れだから幾度も幾度も考へては己れは最(も)う一生誰れにも逢ふ事が出来ない位なら今のうち死んで仕舞つた方が気楽だと考へるがね、夫れでも欲があるから可笑(をか)しい、ひよつくり変てこな夢何かを見てね、平常(ふだん)優しい事の一言も言つて呉れる人が母親(おふくろ)や父親(おやぢ)や姉(あね)さんや兄(あに)さんの様に思はれて、もう少し生(いき)て居たら誰れか本当の事を話して呉れるかと楽しんでね、面白くも無い油引きをやつて居るが己れみたやうな変な物が世間にも有るだらうかねえ、お京(けう)さん母親(おふくろ)も父親(おやぢ)も空(から)つきり当(あて)が無いのだよ、親なしで産れて来る子があらうか、己れは何うしても不思議でならない、と焼あがりし餅を両手でたゝきつゝ例(いつ)も言ふなる、心細さを繰返せば、夫れでもお前笹づる錦の守り袋といふ様な証拠は無いのかえ、何か手懸りは有りさうな物だねとお京の言ふを消して、何其様(なにそん)な気の利いた物は有りさうにもしない生れると直(すぐ)さま橋の袂(たもと)の貸赤子(かしあかご)に出されたのだなどゝ朋輩(ほうばい)の奴等が悪口をいふが、もしかすると左様(さう)かも知れない、夫れなら己れは乞食の子だ、母親(おふくろ)も父親(おやぢ)も乞食かも知れない、表を通る襤褸(ぼろ)を下げた奴が矢張己れが親類まきで毎朝きまつて貰ひに来る跣跋(びつこ)片眼(めつかち)の彼(あ)の婆あ何かゞ己れの為の何(なん)に当るか知れはしない、話さないでもお前は大底(たいてい)しつて居るだらうけれど今の傘屋に奉公する前は矢張(やつぱり)己れは角兵衛の獅子を冠(かぶ)つて歩いたのだからと打(うち)しをれて、お京さん己れが本当に乞食の子ならお前は今までのやうに可愛がつては呉れないだらうか、振向いて見ては呉れまいねと言ふに、串戯(じようだん)をお言ひでないお前が何(ど)のやうな人の子で何んな身か夫れは知らないが、何だからとつて嫌(い)やがるも嫌やがらないも言ふ事は無い、お前は平常(ふだん)の気に似合ぬ情(なさけ)ない事をお言ひだけれど、私が少しもお前の身なら非人(ひにん)でも乞食(こじき)でも構ひはない、親が無からうが兄弟が何うだらうが身一つ出世をしたらば宜(よ)からう、何故其様(そん)な意気地なしをお言ひだと励ませば、己れは何うしても駄目だよ、何にも為(し)やうとも思はない、と下を向いて顔をば見せざりき。
中
今は亡(う)せたる傘屋の先代に太つ腹のお松とて一代に身上(しんしやう)をあげたる、女相撲のやうな老婆(ばゞ)さま有りき、六年前の冬の事寺参りの帰りに角兵衛の子供を拾ふて来て、いゝよ親方から八釜(やかま)しく言つて来たら其時の事、可愛想に足が痛くて歩かれないと言ふと朋輩の意地悪が置(おき)ざりに捨てゝ行つたと言ふ、其様(そん)な処へ帰るに当るものか少(ちつ)とも怕(おつ)かない事は無いから私が家に居なさい、皆(みんな)も心配する事は無い何の此子位(このこぐらい)のもの二人や三人、台所へ板を並べてお飯(まんま)を喰べさせるに文句が入(い)る物か、判証文(はんしようもん)を取つた奴でも欠落(かけおち)をするもあれば持逃げの吝(けち)な奴もある、了簡(りょうけん)次第の物だわな、いはゞ馬には乗つて見ろさ、役に立つか立たないか置いて見なけりや知れはせん、お前新網(しんあみ)へ帰るが嫌やなら此家(こゝ)を死場(しにば)と極(き)めて勉強をしなけりやあ成らないよ、しつかり遣(や)つてお呉れと言ひ含められて、吉(きち)や吉やと夫れよりの丹精今油ひきに、大人三人前を一手に引うけて鼻唄交り遣つて退(の)ける腕を見るもの、流石(さすが)に眼鏡と亡き老婆(ひと)をほめける。
恩ある人は二年目に亡(う)せて今の主(あるじ)も内儀様(かみさま)も息子の半次も気に喰はぬ者のみなれど、此処を死場と定めたるなれば厭(い)やとて更に何方(いづかた)に行くべき、身は癇癪(かんしやく)に筋骨(すぢぼね)つまつてか人よりは一寸法師(ぼし)一寸法師と誹(そし)らるゝも口惜しきに、吉や手前(てめへ)は親の日に腥(なまぐ)さを喰(やつ)たであらう、ざまを見ろ廻りの廻りの小仏と朋輩の鼻垂れに仕事の上の仇(あだ)を返されて、鉄拳(かなこぶし)に張(はり)たほす勇気はあれど誠に父母いかなる日に失(う)せて何時(いつ)を精進日(しようじんび)とも心得なき身の、心細き事を思ふては干場(ほしば)の傘のかげに隠くれて大地(だいぢ)を枕に仰向(あほの)き臥(ふ)してはこぼるゝ涙を呑込みぬる悲しさ、四季押(おし)とほし油びかりする目くら縞(じま)の筒袖を振つて火の玉の様な子だと町内に怕(こわ)がられる乱暴も慰むる人なき胸(むな)ぐるしさの余り、仮にも優しう言ふて呉れる人のあれば、しがみ附いて取(とり)ついて離れがたなき思ひなり。仕事屋のお京は今年の春より此(この)裏へと越して来(き)し物なれど物事に気才の利きて長屋中(ながやぢう)への交際(つきあひ)もよく、大屋(おほや)なれば傘屋の者へは殊更に愛想を見せ、小僧さん達着る物のほころびでも切れたなら私の家へ持つてお出(いで)、お家は御多人数(ごたにんず)お内儀(かみ)さんの針もつていらつしやる暇はあるまじ、私は常住(じようぢう)仕事畳紙(たゝう)と首つ引(ぴき)の身なれば本(ほん)の一針造作(ざうさ)は無い、一人住居(ひとりずまい)の相手なしに毎日毎夜さびしくつて暮して居るなれば手すきの時には遊びにも来て下され、私は此様(こん)ながらがらした気なれば吉ちやんの様(やう)な暴れ様(さん)が大好き、癇癪がおこつた時には表の米屋が白犬を擲(は)ると思ふて私の家の洗ひかへしを光沢(つや)出しの木槌(こづち)に、碪(きぬた)うちでも遣(や)りに来て下され、夫れならばお前さんも人に憎くまれず私の方でも大助かり、本に両為(りようだめ)で御座んすほどにと戯言(じょうだん)まじり何時(いつ)となく心安く、お京さんお京さんとて入浸(いりびた)るを職人ども翻弄(からかひ)ては帯屋の大将のあちらこちら、桂川の幕が出る時はお半の脊中(せな)に長右衛門(てうゑもん)と唱はせて彼(あ)の帯の上へちよこなんと乗つて出るか、此奴(こいつ)は好(い)いお茶番だと笑はれるに、男なら真似て見ろ、仕事やの家へ行つて茶棚の奥の菓子鉢の中に、今日は何が何箇(いくつ)あるまで知つて居るのは恐らく己れの外(ほか)には有るまい、質屋の兀頭(はげあたま)めお京さんに首つたけで、仕事を頼むの何が何うしたのと小五月蝿(こうるさく)這入(はいり)込んでは前だれの半襟の帯つかはのと附届(つけとゞけ)をして御機嫌を取つては居るけれど、遂(つ)ひしか喜んだ挨拶をした事が無い、ましてや夜(よ)るでも夜中でも傘屋の吉が来たとさへ言へば寝間着のまゝで格子戸を明けて、今日は一日遊びに来なかつたね、何うかお為(し)か、案じて居たにと手を取つて引入れられる者が他に有らうか、お気の毒様なこつたが独活(うど)の大木は役にたゝない、山椒(さんしよ)は小粒で珍重されると高い事をいふに、此野郎めと脊を酷(ひど)く打たれて、有がたう御座いますと済まして行く顔つき背(せい)さへあれば人串戯(ぢようだん)とて恕(ゆる)すまじけれど、一寸法師(ぼし)の生意気と爪(つま)はぢきして好(い)い嬲(なぶ)りものに烟草(たばこ)休みの話しの種成(たねなり)き。
下
十二月三十日の夜(よ)、吉(きち)は坂上(さかうへ)の得意場へ誂(あつら)への日限(にちげん)の後れしを詫びに行きて、帰りは懐手(ふところで)の急ぎ足、草履下駄の先にかゝる物は面白づくに蹴かへして、ころころと転げると右に左に追ひかけては大溝(おほどぶ)の中へ蹴落(けおと)して一人からからと高笑ひ、聞く者なくて天上のお月さまさも皓々(こうこう)と照し給ふを寒(さぶ)いといふ事知らぬ身なれば只こゝちよく爽(さわやか)にて、帰りは例の窓を敲(たゝ)いてと目算ながら横町を曲れば、いきなり後より追ひすがる人の、両手に目を隠くして忍び笑ひをするに、誰れだ誰れだと指を撫でゝ、何だお京さんか、小指のまむしが物を言ふ、恐赫(おどか)しても駄目だよと顔を振のけるに、憎くらしい当てられた仕舞つたと笑ひ出す。お京はお高祖頭巾(こそづきん)目深(まぶか)に風通(ふうつう)の羽織着て例(いつも)に似合(にあは)ぬ宜(よ)き粧(なり)なるを、吉三は見あげ見おろして、お前何処へ行きなすつたの、今日明日は忙がしくてお飯(まんま)を喰べる間もあるまいと言ふたでは無いか、何処へお客様にあるいて居たのと不審を立てられて、取越しの御年始さと素知らぬ顔をすれば、嘘をいつてるぜ三十日(みそか)の年始を受ける家は無いやな、親類へでも行きなすつたかと問へば、とんでも無い親類へ行くやうな身に成つたのさ、私は明日(あす)あの裏の移転(ひつこし)をするよ、余りだしぬけだから嘸(さぞ)お前おどろくだらうね、私も少し不意なのでまだ本当とも思はれない、兎も角喜んでお呉れ悪るい事では無いからと言ふに、本当か、本当か、と吉は呆れて、嘘では無いか串戯(じようだん)では無いか、其様(そん)な事を言つておどかして呉れなくても宜(よ)い、己れはお前が居なくなつたら少しも面白い事は無くなつて仕舞ふのだから其様(そん)な厭(い)やな戯言(じようだん)は廃(よ)しにしてお呉れ、ゑゝ詰(つま)らない事を言ふ人だと頭(かしら)をふるに、嘘では無いよ何時(いつ)かお前が言つた通り上等の運が馬車に乗つて迎ひに来たといふ騒ぎだから彼処(あすこ)の裏には居られない、吉(きつ)ちやん其(その)うちに糸織(いとをり)ぞろひを調(こしら)へて上(あげ)るよと言へば、厭やだ、己れは其様(そん)な物は貰ひたく無い、お前その好(い)い運といふは詰らぬ処へ行かうといふのでは無いか、一昨日(おとゝひ)自家(うち)の半次さんが左様(さう)いつて居たに、仕事やのお京さんは八百屋横町(よこてう)に按摩をして居る伯父さんが口入れで何処のかお邸(やしき)へ御奉公に出るのださうだ、何お小間使(こまづか)ひと言ふ年ではなし、奥さまのお側やお縫物しの訳は無い、三つ輪に結(ゆ)つて総(ふさ)の下(さが)つた被布(ひふ)を着るお妾(めかけ)さまに相違は無い、何うして彼(あ)の顔で仕事やが通せる物かと此様(こん)な事をいつて居た、己れは其様(そん)な事は無いと思ふから、間違ひだらうと言つて、大喧嘩を遣つたのだが、お前もしや其処へ行くのでは無いか、其(その)お邸へ行くのであらう、と問はれて、何も私(わたし)だとて行きたい事は無いけれど行かなければ成らないのさ、吉ちやんお前にも最(も)う逢はれなくなるねえ、とて唯(たゞ)いふ言(こと)ながら萎(しを)れて聞(きこ)ゆれば、何(ど)んな出世に成るのか知らぬが其処へ行くのは廃(よ)したが宜(よか)らう、何もお前女口一つ針仕事で通せない事もなからう、彼(あ)れほど利く手を持つて居ながら何故つまらない其様な事を始めたのか、余(あんま)り情ないでは無いかと吉は我身の潔白に比(くら)べて、お廃(よ)しよ、お廃しよ、断つてお仕舞(しまひ)なと言へば、困ったねとお京は立止まつて、夫れでも吉ちやん私は洗ひ張(はり)に倦(あ)きが来て、最(も)うお妾でも何でも宜い、何(ど)うで此様(こん)な詰らないづくめだから、寧(いつ)その腐れ縮緬着物(ちりめんぎもの)で世を過ぐさうと思ふのさ。
思ひ切つた事を我れ知らず言つてほゝと笑ひしが、兎も角も家(うち)へ行かうよ、吉ちやん少しお急ぎと言はれて、何だか己れは根つから面白いとも思はれない、お前まあ先へお出(いで)よと後(あと)に附いて、地上に長き影法師を心細げに踏んで行く、いつしか傘屋の路次を入つてお京が例の窓下に立てば、此処をば毎夜音づれて呉れたのなれど、明日(あす)の晩は最うお前の声も聞かれない、世の中つて厭やな物だねと歎息するに、夫れはお前の心がらだとて不満らしう吉三の言ひぬ。
お京は家(うち)に入るより洋燈(ランプ)に火を点(うつ)して、火鉢を掻きおこし、吉ちやんやお焙(あた)りよと声をかけるに己れは厭やだと言つて柱際(はしらぎは)に立つて居るを、夫れでもお前寒(さぶ)からうでは無いか風を引くといけないと気を附ければ、引いても宜(よ)いやね、構はずに置いてお呉れと下を向いて居るに、お前は何(ど)うかおしか、何だか可笑(をか)しな様子だね私の言ふ事が何か疳にでも障つたの、夫れなら其(その)やうに言つて呉れたが宜(い)い、黙つて其様(そん)な顔をして居られると気に成つて仕方が無いと言へば、気になんぞ懸けなくても能(い)いよ、己れも傘屋の吉三だ女のお世話には成らないと言つて、寄(より)かゝりし柱に脊を擦(こす)りながら、あゝ詰らない面白くない、己れは本当(ほんと)に何と言ふのだらう、いろいろの人が鳥渡(ちよつと)好(い)い顔を見せ直様(すぐさま)つまらない事に成つて仕舞ふのだ、傘屋の先(せん)のお老婆(ばあ)さんも能(い)い人で有つたし、紺屋(こうや)のお絹さんといふ縮(ちゞ)れつ毛の人も可愛(かあゆ)がつて呉れたのだけれど、お老婆さんは中風(ちうふう)で死ぬし、お絹さんはお嫁に行くを厭やがつて裏の井戸へ飛込んで仕舞つた、お前は不人情で己れを捨てゝ行(ゆく)し、最(も)う何も彼(か)もつまらない、何だ傘屋の油ひきなんぞ、百人前の仕事をしたからとつて褒美の一つも出やうでは無し朝から晩まで一寸法師の言(いは)れつゞけで、夫れだからと言つて一生立つても此背(このせい)が延びやうかい、待てば甘露(かんろ)といふけれど己れなんぞは一日一日厭やな事ばかり降つて来やがる、一昨日(おとゝひ)半次の奴と大喧嘩をやつて、お京さんばかりは人の妾に出るやうな腸(はらわた)の腐つたのでは無いと威張つたに、五日とたゝずに兜をぬがなければ成らないのであらう、そんな嘘つ吐(つ)きの、ごまかしの、欲の深いお前さんを姉(ねえ)さん同様に思つて居たが口惜(くちを)しい、最うお京さんお前には逢はないよ、何うしてもお前には逢はないよ、長々御世話さま此処からお礼を申(まをし)ます、人をつけ、最う誰れの事も当てにする物か、左様なら、と言つて立あがり沓(くつ)ぬぎの草履下駄(ざうりげた)足に引(ひき)かくるを、あれ吉ちやん夫れはお前勘違ひだ、何も私が此処を離れるとてお前を見捨てる事はしない、私は本当(ほんと)に兄弟とばかり思ふのだもの其様(そん)な愛想(あいそ)づかしは酷(ひど)からう、と後(うしろ)から羽(は)がひじめに抱き止めて、気の早い子だねとお京の諭(さと)せば、そんならお妾に行くを廃(や)めにしなさるかと振(ふり)かへられて、誰れも願ふて行く処では無いけれど、私(わたし)は何(ど)うしても斯(か)うと決心して居るのだから夫れは折角(せつかく)だけれど聞かれないよと言ふに、吉は涕(なみだ)の目に見つめて、お京さん後生(ごせう)だから此肩(こゝ)の手を放してお呉んなさい。
(明治二十九年一月)
(ひぐち いちよう 小説家 1872.5.2(旧3.25) - 1896.11.23 東京府内幸町に生まれる。 抜群の才能で近代に先駆け二十五歳で逝った閨秀作家。 掲載作は、名作「たけくらべ」と時期重なる明治二十九没年(1896)一月「国民之友」に発表のまた一つ、末期の秀作。)
冬の王 HANS
LAND 原作
森 鴎外
このデネマルクといふ国は実に美しい。言語には晴々しい北国の音響があつて、異様に聞える。人種も異様である。驚く程純血で、髪の毛は苧(を)のやうな色か、又は黄金色に光り、肌は雪のやうに白く、体は鞭(むち)のやうにすらりとしてゐる。それに海近く棲(す)んでゐる人種の常で、秘密らしく大きく開いた、妙に赫(かゞや)く目をしてゐる。
己(おれ)はこの国の海岸を愛する。夢を見てゐるやうに美しい、ハムレット太子の故郷、ヘルジンギョオルから、スヱエデンの海岸迄、さつぱりした、住心地(すみごゝち)の好ささうな田舎家(ゐなかや)が、帯の様に続いてゐて、それが田畑の緑に埋もれて、夢を見る様に、海に覗(のぞ)いてゐる。雨を催してゐる日の空気は、舟からこの海岸を手の届くやうに近く見せるのである。
我々は北国の関門に立つてゐるのである。なぜといふに、ここを越せばスカンヂナヰアの南の果である。そこから偉大な半島がノルヱエゲンの瀲(みぎは)や岩のある所まで延びてゐる。
あそこにイプセンの墓がある。あそこにアイスフォオゲルの家がある。どこかあの辺で、北極探険者アンドレエの骨が曝(さら)されてゐる。あそこで地極の夜が人を威(おど)してゐる。あそこで大きな白熊がうろ付き、ピングィン鳥が尻を据ゑて坐り、光つて漂ひ歩く氷の宮殿のあたりに、昔話にありさうな海象が群がつてゐる。あそこに又昔話の磁石(じしやく)の山が、舟の釘を吸ひ寄せるやうに、探険家の心を始終引き付けてゐる地極の秘密が眠つてゐる。我々は北極の閾(しきゐ)の上に立つて、地極といふものの衝(つ)く息を顔に受けてゐる。
この土地では夜も、戸を締めない。乞食もゐなければ、盗賊もゐないからである。斜面をなしてゐる海辺の地の上に、神の平和のやうなものが広がつてゐる。何もかも故郷のドイツなどとは違ふ。更(ふ)けても暗くはならない、此頃の六月の夜の薄明りの、褪(さ)めたやうな色の光線にも、又翌日の朝焼けまで微(かす)かに光り止まない、空想的な、不思議に優しい調子の、薄色の夕日の景色にも、又暴風(あらし)の来さうな、薄黒い空の下で、銀鼠色に光つてゐる海にも、又海岸に棲(す)んでゐる人民の異様な目にも、どの中にも一種の秘密がある。遠い北国の謎がある。静かな夏の日に、北風が持つて来る、あちらの地極世界の沈黙と憂欝とがある。
己(おれ)は静かな所で為事(しごと)をしようと思つて、この海岸の或る部落の、小さい下宿に住み込んだ。青々とした蔓草(つるくさ)の巻き付いてゐる、その家に越して来た当座の、或る日の午前であつた。己の部屋の窓を叩(たゝ)いたものがある。
「誰か」と云つて、その這入(はひ)つた男を見て、己は目を大きくみはつた。
背の高い、立派な男である。この土地で奴僕(ぬぼく)の締める浅葱(あさぎ)の前掛を締めてゐる。男は響の好い、節奏のはつきりしたデネマルク語で、若し靴が一足(そく)間違つてはゐないかと問うた。
果して己は間違つた靴を一足受け取つてゐた。男は自分の過(あやまち)を謝した。
その時己は此男の名を問うたが、なぜそんな事をしたのだか分からない。多分体格の立派なのと、項(うなじ)を反(そら)せて、倣然(がうぜん)としてゐるのとの為めであつただらう。
「エルリングです」と答へて、軽く会釈(ゑしやく)して、男は出て行つた。
エルリングといふのは古い、立派な、北国の王の名である。それを靴を磨く男が名告(なの)つてゐる。ドイツにもフリイドリヒといふ奴僕はゐる。併しまさかアルミニウスといふ名は付けない。この土地はおさんにインゲボルクがゐたり、小間使にエッダがゐたりする。それがさういふ立派な名を汚すわけでもない。
己はいつまでもエルリングの事を忘れる事が出来なかつた。あの男のどこが、こんなに己の注意を惹(ひ)いたのだか、己の部屋に這入つてゐた時間が余り短かつたので、なんとも判断しにくい。目は青くて、妙な表情をしてゐた。なんでもずつと遠くにある物を見てゐるかと思ふ様に、空を見てゐた。悲しげな目といふでもない。真面目な、ごく真面目な目で、譬(たと)へば最も静かな、最も神聖な最も世と懸隔してゐる寂しさのやうだとでも云ひたい目であつた。さうだ。あの男は不思議に寂しげな目をしてゐた。
下宿の女主人は、上品な老処女である。朝食に出た時、そのをばさんにエルリングはどこのものかといふ事を問うた。
「ラアランドのものでございます。どなたでもあの男を見ると不思議がつてお聞きになりますよ。本当にあのエルリングは変つた男です。」かう云ひさして、大層意味ありげに詞(ことば)を切つて、外の事を話し出した。なんだかエルリングの事は、食卓なんぞで、笑談(ぜうだん)半分には話されないとでも思ふらしく見えた。
食事が済んだ時、それまで公爵夫人ででもあるやうに、一座の首席を占めてゐたをばさんが、只エルリングはもう二十五年ばかりも此家にゐるのだといふだけの事を話した。ひどく尊敬してゐるらしい口調で話して、その外の事は言はずにしまつた。丁度親友の内情を人に打ち明けたくないのと、同じやうな関係らしく見えた。
そこで己は外の方角から、エルリングの事を探知しようとした。
己はその後中庭や畠で、エルリングが色々の為事(しごと)をするのを見た。薪を割つてゐる事もある。花壇を掘り返してゐる事もある。桜ん坊を摘んでゐる事もある。一山(ひとやま)もある、濡れた洗濯物を車に積んで干場へ運んで行く事もある。何羽ゐるか知れない程の鶏の世話をしてゐる事もある。古びた自転車に乗つて、郵便局から郵使物を受け取つて帰る事もある。
エルリングの体は筋肉が善く発達してゐる。その幅の広い両肩の上には、哲学者のやうな頭が乗つてゐる。たつぷりある、半明色の髪に少し白髪が交つて、波を打つて、立派な額を囲んでゐる。鼻は立派で、大きくて、しかも優しく、鼻梁(はなばしら)が軽く鷲(わし)の嘴(くちばし)のやうに中隆(なかだか)に曲つてゐる。髭(ひげ)は無い。口は唇が狭く、渋い表情をしてゐるが、それでも冷酷なやうには見えない。歯は白く光つてゐる。
己の鑑定では五十歳位に見える。
下宿には大きい庭があつて、それがすぐに海に接してゐる。カッテガットの波が岸を打つてゐる。そこを散歩して、己は小さい丘の上に、縦(もみ)の木で囲まれた低い小屋のあるのを発見した。木立が、何か秘密を掩(おほ)ひ蔽(かく)すやうな工合に小屋に迫つてゐる。木の枝を押し分けると、赤い窓帷(カアテン)を掛けた窓硝子(まどガラス)が見える。
家の棟に烏が一羽止まつてゐる。馴らしてあるものと見えて、その炭のやうな目で己をぢつと見てゐる。低い戸の側に、沢(つや)の好い、黒い大きい、猫が蹲(うづくま)つて、日向(ひなた)を見詰めてゐて、己が側へ寄つても知らぬ顔をしてゐる。
そこへ弦(つる)のある籐(と)の籠にあかすぐりの実を入れて手に持つた女中が通り掛かつたので、それに此家は誰が住まつてゐるのだと問うた。
「エルリングさんの内です」と、女中が云つた。さも尊敬してゐるらしい調子であつた。
エルリングに出逢つて、話を為掛(しか)けた事は度々あつたが、いつも何か邪魔が出来て会話を中止しなくてはならなかつた。
或晩波の荒れてゐる海の上に、ちぎれちぎれの雲が横(よこた)はつてゐて、その背後に日が沈み掛かつてゐた。如何(いか)にも壮大な、ベエトホオフェンの音楽のやうな景色である。それを見ようと思つて、己は海水浴場に行く狭い道へ出掛けた。ふと槌(つち)の音が聞えた。その方を見ると、浴客が海へ下りて行く階段を、エルリングが修覆してみる。
己が会釈(ゑしやく)すると、エルリングは鳥打帽の庇に手を掛けたが、直ぐその儘(まゝ)為事(しごと)を続けてゐる。暫く立つて見てゐる内に、階段は立派に直つた。
「お前さんも海水浴をするかね」と、己が問うた。
「ええ。毎晩いたします。」
「泳げるかね。」
「大好きです。」
なぜ夜海水浴をするのか問はうかと思つたが止めた。多分昼間は隙(ひま)がないのだらう。
「冬になるとお前さんどこへ行くかね。コッペンハアゲンだらうね。」
「いゝえ。ここにゐます。」
「ここにゐるのだつて。この別荘造りの下宿にかね。」
「ええ。」
「お前さんの外にも、冬になつてあの家にゐる人があるかね。」
「わたくしの外には誰もゐません。」
己はぞつとしてエルリングの顔を見た。「たまるまいぢやないか。冬寒くなつてから、こんな所にたつた一人でゐては。」
エルリングは、俯向(うつむ)いた儘で長い螺釘(ねぢくぎ)を調べるやうに見てゐたが、中音で云つた。
「冬は中々好うございます。」
己はその顔を見詰めて、首を振つた。そして分疏(いひわけ)のやうに、かう云つた。「余計な事を聞くやうだが、わたしは小説を書くものだからね。」
この時相手は初めて顔を上げた。「小説家でお出(いで)なさるのですか。デネマルクの詩人は多くこの土地へ見えますよ。」
「小説なんと云ふものを読むかね。」
エルリングは頭を振つた。「冬になると、随分本を読みます。だが小説は読みません。若い時は読みました。さうですね、マリイ・グルッペなんぞは、今も折々出して見ますよ。ヤァコップセンは好きですからね。どうも此頃の人の書くものは。」手で拒絶するやうな振をした。
己は自分の事を末流だと諦(あきら)めてはゐるが、それでも少し侮辱せられたやうな気がした。そこで会釈(ゑしやく)をして、その場を退(の)いた。
夕食の時、己がをばさんに、あのエルリングのやうな男を、冬の七ケ月間、こんな寂しい家に置くのは、残酷ではないかと云つて見た。
をばさんは意味ありげな微笑をした。そして云ふには、ことしの五月一日に、エルリングは町に手紙をよこして、もう別荘の面白い季節が過ぎてしまつて、そろそろお前さんや、避暑客の群が来られるだらうと思ふと、ぞつとすると云つたと云ふのである。
「して見ると、あなたの御贔屓(ごひいき)のエルリングは、余りお世辞はないと見えますね。」
「それはさうでございます。お世辞なんぞはございません。」かう云つてをばさんは笑つた。
己には此男が段々面白くなつて来た。
その晩十時過ぎに、もう内中(うちぢゆう)のものが寐てしまつてから、己は物案じをしながら、薄暗い庭を歩いて、凪(な)いだ海の鈍い波の音を、ぼんやりして聞いてゐた。その時己の目に明(あか)りが見えた。それはエルリングの家から射してゐたのである。
己は直ぐにその明りを辿つて、家の戸口に行つて、少し動悸(どうき)をさせながら、戸を叩いた。
内からは「どうぞ」と、落ち着いた声で答へた。
己は戸を開けたが、意外の感に打たれて、閾(しきゐ)の上に足を留めた。
ランプの点(つ)けてある古卓(ふるづくゑ)に、エルリングはいつもの為事衣(しごとぎ)を着て、凭(よ)り掛かつてゐる。只前掛だけはしてゐない。何か書き物をしてゐるのである。書いてゐる紙は大判である。その側には、厚い書物が開けてある。卓の上のインク壷の背後には、例の大きい黒猫が蹲(うづくま)つて眠つてゐる。エルリングが肩の上には、例の烏が止まつて今己が出し抜けに来た詫(わび)を云ふのを、真面目な顔附で聞いてゐたが、エルリングが座を起(た)つたので、烏は部屋の隅へ飛んで行つた。
エルリングは椅子を出して己を掛けさせた。己はちよいと横目で、書棚にある書物の背皮を見た。グルンドヰグ、キルケガアルド、ヤアコップ・ビョオメ、アンゲルス・シレジウス、それからギョオテのファウストなどがある。後に言つた三つの書物は、背革の文字で見ると、ドイツの原書である。エルリングはドイツを読むと見える。書物の選択から推して見ると、此男は宗教哲学のやうなものを研究してゐるらしい。
大きな望遠鏡が、高い台に据ゑて、海の方へ向けてある。後に聞けば、その凸面鏡は、エルリングが自分で磨(す)つたのである。書棚の上には、地球儀が一つ置いてある。卓の上には分析に使ふ硝子瓶がある。六分儀がある。古い顕微鏡がある。自然学の趣味もあるといふ事が分かる。家具は、部屋の隅に煖炉が一つ据ゑてあつて、その側に寝台があるばかりである。
「心持の好ささうな住まひだね。」
「ええ。」
「冬になつてからは、誰が煮炊(にたき)をするのだね。」
「わたしが自分で遣ります。」かう云つて、エルリングは左の方を指さした。そこは龕(がん)のやうに出張つてゐて、その中に竈(かまど)や鍋釜(なべかま)が置いてあつた。
「此土地の冬が好きだと云つたつけね。」
「大好きです。」
「冬の間に誰か尋ねて来るかね。」
「あの男だけです。」エルリングが指さしをする方を見ると、祭服を着けた司祭の肖像が卓の上に懸かつてゐる。それより外には扁額(へんがく)のやうなものは一つも懸けてないらしかつた。「あれが友達です。ホオルンベエクと云ふ隣村の牧師です。やはりわたしと同じやうに無妻で暮してゐます。それから余り附合をしないことも同様です。年越の晩には、極まつて来ますが、その外の晩にも、冬になるとちよいちよい来て一しょにトッヂイを飲んで話して行きます。」
「冬になつたら、此辺は早く暗くなるだらうね。」
「三時半位です。」
「早く寝るかね。」
「いゝえ。随分長く起きてゐます。」こんな問答をしてゐるうちに、エルリングは時計を見上げた。「御免なさい。丁度夜なかです。わたしはこれから海水浴を遣(や)るのです。」
己は主人と一しよに立ち上がつた。そして出口の方へ行かうとして、ふと壁を見ると、今迄気が附かなかつたが、あつさりした額縁(がくぶち)に嵌(は)めたものが今一つ懸けてあつた。それに荊(いばら)の輪飾がしてある。薄暗いので、念を入れて額縁の中を覗くと、肖像や画ではなくて、手紙か何かのやうな、書いた物である。己は足を留めて、少し立ち入つたやうで悪いかとも思つたが、決心して聞いて見た。
「あれはなんだね。」
「判決文です。」エルリングはかう云つて、目を大きくみはつて、落ち着いた気色で己を見た。
「誰の。」
「わたくしのです。」
「どう云ふ文句かね。」
「殺人犯で、懲役五箇年です。」緩(ゆる)やかな、力の這入(はひ)つた詞(ことば)で、真面目な、憂愁(いうしう)を帯びた目を、怯(おそ)れ気(げ)もなく、大きくみはつて、己を見ながら、かう云つた。
「その刑期を済ましたのかね。」
「ええ。わたくしの約束した女房を附け廻してゐた船乗でした。」
「そのお上(かみ)さんになる筈の女はどうなつたかね。」
エルリングは異様な手附きをして窓を指さした。その背後(うしろ)は海である。「行つてしまつたのです。移住したのです。行方不明です。」
「それは余程前の事かね。」
「さやう。もう三十年程になります。」
エルリングは昂然(かうぜん)として戸口を出て行くので、己も附いて出た。戸の外で己は握手して覚えず丁寧に礼をした。
暫くしてから海面の薄明りの中で己はエルリングの頭が浮び出て又沈んだのを見た。海水は鈍い銀色の光を放つてゐる。
己は帰つて寝たが、夜どほしエルリングが事を思つてゐた。その犯罪、その生涯の事を思つたのである。
丁度浮木が波に弄(もてあそ)ばれて漂ひ寄るやうに、あの男はいつか此僻遠(へきゑん)の境に来て、漁師をしたか、農夫をしたか知らぬが、或る事に出会つて、それから沈思する、冥想(めいさう)する、思想の上で何物をか求めて、一人でゐると云ふことを覚えたものと見える。その苦痛が、さう云ふ運命にあの男を陥いれたのであらう。そこでかうして、此別荘の冬の王になつてゐる。併し毎年春が来て、あの男の頭上の冠を奪ふと、あの男は浅葱(あさぎ)の前掛をして、人の靴を磨くのである。夏の生活は短い。明るい色の衣裳や、麦藁帽子(むぎわらばうし)や、笑声や、噂話(うはさばなし)はたちまちの間に閃(ひらめ)き去つて、夢の如くに消え失せる。秋の風が立つと、燕や、蝶や、散つた花や、落ちた葉と一しよに、そんな生活は吹きまくられてしまふ。そして別荘の窓を、外から冬の夜の闇が覗く。人に見棄てられた家と、葉の落ち尽した木立のある、広い庭とへ、沈黙が抜足をして尋ねて来る。その時エルリングは又昂然として頭を挙げて、あの小家の中の卓に靠(よ)つてゐるのであらう。その肩の上には鴉(からす)が止まつてゐる。この北国神話の中の神の様な人物は、宇宙の問題に思(おもひ)を潜(ひそ)めてゐる。それでも稀には、あの荊(いばら)の輪飾の下の扁額に目を注ぐことがあるだらう。そしてあの世棄人(よすてびと)も、遠い、微(かす)かな夢のやうに、人世とか、喜怒哀楽とか、得喪利害とか云ふものを思ひ浮べるだらう。併しそれはあの男の為めには、疾(と)くに一切折伏(しやくぶく)し去つた物に過ぎぬ。
暴風が起つて、海が荒れて、波濤(はたう)があの小家を撃ち、庭の木々が軋(きし)めく時、沖を過ぎる舟の中の、心細い舟人は、エルリングが家の窓から洩れる、小さい燈の光を慕はしく思つて見て通ることであらう。
(明治四十五年一月)
(もり おうがい 小説家 1862.2.17(旧1.19) - 1922.7.9 現島根県津和野市に生まれる。本名森林太郎。
陸軍軍医総監・帝室博物館総長・従二位。 掲載の翻訳は明治四十五年(1912)一月「帝国文学」初出。訳者雅号の一字「鴎」は正しくないが、現在の機械環境では正しく受信されない場合があり、極めて遺憾ながら別字にしたがっている。かかる事情の速やかな是正が望まれる。同様の例が他に二三生じている。)
あ ひ ゞ き ツルゲーネフ原作
二葉亭四迷
このあひゞきは先年仏蘭西(フランス)で死去した、露国では有名な小説家、ツルゲーネフといふ人の端物(はもの)の作です。今度徳富(=蘇峰・国民之友社主)先生の御依頼で訳して見ました。私の訳文は我ながら不思議とソノ何んだが、是れでも原文は極めて面白いです。
秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺(かば)の林の中に座してゐたことが有ツた。今朝から小雨が降りそゝぎ、その晴れ間にはおりおり生(な)ま煖(あたゝ)かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合ひ。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思ふと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、無理に押し分けたやうな雲間から澄みて怜悧(さか)し気(げ)に見える人の眼の如くに朗かに晴れた蒼空(あおぞら)がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けてゐた。木の葉が頭上(づじやう)で幽(かす)かに戦(そよ)いだが、その音を聞(きい)たばかりでも季節は知られた。それは春先する、面白さうな、笑ふやうなさゞめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶさうなお饒舌(しやべ)りでもなかツたが、只漸(やうや)く聞取れるか聞取れぬ程のしめやかな私語の声で有つた。そよ吹く風は忍ぶやうに木末(こずゑ)を伝ツた。照ると曇るとで、雨にじめつく林の中のやうすが間断なく移り変ツた。或はそこに在りとある物総(すべ)て一時に微笑したやうに、隈(くま)なくあかみわたツて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思ひがけずも白絹めく、やさしい光沢(つや)を帯び、地上に散り布(し)いた、細かな、落ち葉は俄(には)かに日に映じてまばゆきまでに金色(こんじき)を放ち、頭(かしら)をかきむしツたやうな「パアポロトニク」(蕨の類ゐ)のみごとな茎、加之(しか)も熟(つ)え過ぎた葡萄(ぶだう)めく色を帯びたのが、際限もなくもつれつからみつして、目前に透かして見られた。
或はまた四辺(あたり)一面俄かに薄暗くなりだして、瞬(またゝ)く間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ツた儘でまだ日の眼に逢はぬ雪のやうに、白くおぼろに霞(かす)む――と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するやうにパラパラと降ツて通ツた。樺の木の葉は著(いちじる)しく光沢(つや)は褪(さ)めてゐても流石に尚(な)ほ青かツた、が只そちこちに立つ稚木(わかぎ)のみは総て赤くも黄(きい)ろくも色づいて、をりをり日の光りが今ま雨に濡れた計(ばか)りの細枝の繁味(しげみ)を漏れて滑りながらに脱(ぬ)けて来るのをあびては、キラキラときらめいてゐた。鳥は一ト声も音(ね)を聞かせず、皆何処(どこ)にか隠れて窃(ひそ)まりかヘツてゐたが、只折節に人をさみした白頭翁(しゞふがら)の声のみが、故鈴(ふるすゞ)でも鳴らす如くに、響きわたツた。この樺の林へ来るまへに、自分は猟犬を曳いて、さる高く茂ツた白楊(はこやなぎ)の林を過ぎたが、この樹は――白楊は――全体虫がすかぬ。幹といへば、蒼味(あをみ)がゝツた連翹色(れんげういろ)で、葉といへば、鼠みとも附かず緑りとも附かず、下手な鉄物(かなもの)細工を見るやうで、而(しか)も長(たけ)一杯に頸(くび)を引き伸して、大団扇(おほうちは)のやうに空中に立ちはだかツて――どうも虫が好かぬ。長たらしい茎へ無器用にヒツ付けたやうな薄きたない円葉をうるさく振り立てゝ――どうも虫が好かぬ。この樹を見て快よい時と云ツては、只背びくな灌木(くわんぼく)の中央に一段高く聳(そび)えて、入り日をまともに受け、根本(ねもと)より木末(こずゑ)に至るまでむらなく樺色に染まり乍(なが)ら、風に戦(そよ)いでゐる夏の夕暮か、――さなくば空名残(なご)りなく晴れ渡ツて風のすさまじく吹く日、あをそら影にして立ちながら、ザワザワざわつき、風に吹きなやまされる木の葉の今にも梢をもぎ離れて遠く吹き飛ばされさうに見える時かで。兎に角自分は此樹を好まぬので、ソコデその白楊の林には憩(いこ)はず、わざわざこの樺の林にまで辿(たど)り着いて、地上わづか離れて下枝の生へた、雨凌(あめしの)ぎになりさうな木立を見立てゝ、さて其の下に栖(すみか)を構へ、四辺の風景を眺めながら、唯遊猟者のみが覚えの有るといふ、例の穏かな、罪のない夢を結んだ。
何(な)ン時(どき)ばかり眠ツてゐたか、ハツキリしないが、兎に角暫(しば)らくして眼を覚まして見ると、林の中は日の光りが到らぬ隈もなく、うれしさうに騒ぐ木の葉を漏れて、はなやかに晴れた蒼空がまるで火花でも散らしたやうに、鮮(あざや)かに見渡された。雲は狂ひ廻はる風に吹き払はれて形を潜(ひそ)め、空には繊雲(ちりくも)一ツだも留めず、大気中に含まれた一種清涼の気は人の気を爽かにして、穏かな晴夜の来る前触れをするかと思はれた。自分は将(まさ)に起ち上りてまたさらに運だめし(但し銃猟の事で)をしやうとして、フト端然と坐してゐる人の姿を認めた。眸子(ひとみ)を定めて能(よ)く見れば、それは農夫の娘らしい少女であツた。廿歩ばかりあなたに、物思はし気に頭を垂れ、力なさゝうに両の手を膝に落して、端然と坐してゐた。旁々(かたがた)の手を見れば、半(なかば)はむき出しで、その上に載せた草花の束ねが呼吸をするたびに縞のペチコートの上をしづかにころがツてゐた。清らかな白の表衣(うはぎ)をしとやかに着做(きな)して、咽喉元(のどもと)と手頚(てくび)のあたりでボタンをかけ、大粒な黄ろい飾り玉を二列に分ツて襟から胸へ垂らしてゐた。この少女なかなかの美人で、象牙をも欺(あざ)むく色白の額際(ひたひぎは)で巾の狭い緋(ひ)の抹額(もかう)を締めてゐたが、その下から美しい鶉色(うづらいろ)で、加之(しか)も白く光る濃い頭髪を丁寧に梳(とか)したのがこぼれ出て、二ツの半円を描いて、左右に別れてゐた。顔の他の部分は日に焼けてはゐたが、薄皮だけに却(かへつ)て見所(みどころ)が有つた。眼(まな)ざしは分らなかツた、――始終下目のみ使つてゐたからで、シカシその代り秀(ひい)でた細眉と長ひ睫毛(まつげ)とは明かに見られた。睫毛はうるんでゐて、旁々(かたがた)の頬にも亦蒼ざめた唇へかけて、涙の伝つた痕が夕日にはえて、アリアリと見えた。総じて首付が愛らしく、鼻がすこし大(おほき)く円すぎたが、それすら左(さ)のみ眼障りにはならなかツた程で。取分け自分の気に入ツたはその面(おも)ざし、まことに柔和でしとやかで、取繕ろツた気色(けしき)は微塵もなく、さも憂はしさうで、そしてまた愛度気(あどけ)なく途方に暮れた趣きも有ツた。たれをか待合はせてゐるのと見えて、何か幽(かす)かに物音がしたかと思ふと、少女はあわてて頭(かしら)を擡(もた)げて、振り反つて見て、その大方の涼しい眼、牝鹿のものゝやうにをどをどしたのをば、薄暗い木蔭でひからせた。クワツと見ひらいた眼を物音のした方へ向けて、シゲシゲ視詰めたまゝ、暫らく聞きすましてゐたが、軈(やが)て溜息を吐(つ)いて、静に此方(こなた)を振り向いて、前よりは一際(ひときは)低く屈(かゞ)みながら、また徐(おもむ)ろに花を択(え)り分け初めた。擦(す)りあかめたまぶちに、厳しく拘攣(こうれん)する唇、またしても濃い睫毛の下よりこぼれ出る涙の雫(しづく)は流れよどみて日にきらめいた。かうして、暫く時刻を移していたが、その間少女は、かわいさうに、みじろぎをもせず、唯折々手で涙を拭ひ乍ら、聞き澄ましてのみゐた、只管(ひたすら)聞き澄ましてのみゐた……フとまたガサガサと物音がした、――少女はブルブルと震へた。物音は罷(や)まぬのみか、次第に高まツて、近づいて、遂に思ひ切ツた闊歩の音になると――少女は起き直ツた。何となく心おくれのした気色(けしき)。ヒタと視詰め眼ざしにをどをどした所も有ツた、心の焦(あせ)られて堪へかねた気味も見えた。しげみを漏れて男の姿がチラリ。少女はそなたを注視して、俄にハツと顔を赧(あか)らめて、我も仕合(しあはせ)とおもひ顔にニツコリ笑ツて、起ち上らうとして、フトまた萎(しを)れて、蒼ざめて、どきまぎして、――先の男が傍に来て立ち留つてから、漸(やうや)くおづおづ頭を擡(もた)げて、念ずるやうに其の顔を視詰めた。
自分は尚ほ物蔭に潜みながら、怪しと思ふ心にほだされて、その男の顔をツクヅク眺めたが、あからさまにいへば、余り気には入らなかった。
是れはどう見ても弱冠の素封家(そほうか)の、あまやかされすぎた、給事らしい男で有つた。衣服を見れば故(ことさ)らに風流をめかしてゐるうちにも、また何処(どこ)となく止度気(しどけ)ないのを飾る気味も有ツて、主人の着故(きふ)るしめく、茶の短い外套(ぐわいたう)をはをり、はしばしを連翹色(れんげういろ)に染めた、薔薇色(ばらいろ)の頸巻をまいて、金モールの抹額(もかう)を付けた黒帽を眉深(まぶか)にかぶツてゐた。白襯衣(しろシヤツ)の角のない襟は用捨もなく押し付けるやうに耳柔をささへて、また両頬を擦り、糊で固めた腕飾りは全く手頸をかくして、赤い先の曲ツた指、Turquoise(宝石の一種)製のMyosotis(艸の名)を飾りに付けた金銀の指環を幾個ともなくはめてゐた指にまで至ツた。世には一種の面貌が有る、自分の観察した所では、常に男子の気にもとる代り、不幸にも女子の気に適(かな)ふ面貌が有るが、此男のかほつきは全くその一ツで、桃色で、清らかで、そして極めて傲慢(がうまん)さうで。己(おの)があらけない貌(かほ)だちに故意(わざ)と人を軽ろしめ世に倦(う)みはてた色を装(よそ)はふとして居たものと見えて、絶えず只さへ少(ち)ひさな、薄白く、鼠ばみた眼を細めたり、眉をしわめたり、口角を引き下げたり、強(しひ)て欠伸(あくび)をしたり、さも気のなさゝうな、やりばなしな風を装ふて、或は勇ましく捲き上ツたもみあげを撫でゝ見たり、または厚い上唇の上の黄ばみた髭を引張て見たりして――ヤどうも見て居られぬ程に様子を売る男で有ツた。待合せてゐた例の少女の姿を見た時から、モウ様子を売り出して、ノソリノソリと大股にあるいて傍へ寄りて、立ち止ツて、肩をゆすツて、両手を外套のかくしへ押し入れて、気の無さゝうな眼を走らしてヂロリと少女の顔を見流して、そして下に居た。
「待ツたか?」ト初めて口をきいた、尚ほ何処をか眺めた儘で、欠伸(あくび)をしながら、足を揺(うご)かしながら「ウー?」
少女は急に返答をしえなかツた。
「どんなに待ツたでせう」ト遂にかすかにいツた。
「フム」ト云ツて、先の男は帽子を脱した。さも勿体(もつたい)らしく殆ど眉際(まゆぎは)よりはへだした濃い縮れ髪を撫でゝ、鷹揚(おうやう)に四辺(あたり)を四顧(みまは)して、さてまたソツと帽子をかぶツて、大切な頭をかくして仕舞た。「あぶなく忘れる所よ。それに此の雨だもの!」トまた欠伸。「用は多し、さうさうは仕切れるもんぢやない、その癖動(やゝ)ともすれば小言だ。トキニ出立は明日(あした)になツた……」
「あした!」ト少女はビツクりして男の顔を視詰(みつめ)た。
「あした……オイオイ頼むぜ」ト男は忌々(いまいま)しさうに口早に云ツた、少女のブルブルと震へて差うつむいたのを見て。「頼むぜ『アクーリナ』泣かれちやアあやまる。おれはそれが大嫌ひだ」。ト低い鼻に皺を寄せて、「泣くならおれはすぐ帰らう……何だ馬鹿気た――泣く!」
「アラ泣(なき)はしませんよ」、トあわてゝ「アクーリナ」は云ツた、せぐり来る涙を漸(やうや)くの事で呑み込みながら。暫(しば)らくして、「それぢや明日(あした)お立ちなさるの。いつまた逢はれるだらうネー」
「逢はれるよ、心配せんでも。左やう、来年――でなければさらいねんだ。旦那は彼得堡(ペテルブルグ)で役にでも就きたいやうすだ」、トすこし鼻声で気のなさゝうに云ツて「ガ事に寄ると外国へ往くかも知れん。」
「若(も)しさうでもなツたらモウわたしの事なんざア忘れてお仕舞ひなさるだらうネー」、ト云ツたが、如何にも心細さうで有ツた。
「何故 ? 大丈夫 ! 忘れはしない、ガ『アクーリナ』ちツと是れからは気を附けるがいゝぜ、わるあがきもいゝ加減にして、をやぢの云ふ事もちツとは聴くがいゝ。おれは大丈夫だ、忘れる気遣ひはない、それはなア……イ」、ト平気で伸(のび)をしながら、また欠伸をした。
「ほんとに、『ヴヰクトル、アレクサンドルイチ』、忘れちやアいやですよ」。ト少女は祈るが如くに云ツた、「こんなにお前さんの事を思ふのも、慾徳づくぢやないから……おとつさんのいふこと聴けとおいひなさるけれど……わたしにはそんな事ア出来ないワ……」
「何故 (なぜ)? 」ト仰(あ)ふ向けざまにねころぶ拍子に、両手を頭に敷きながら、宛(あたか)も胸から押し出したやうな声で尋ねた。
「なぜといツてお前さん――アノ始末だものヲ……」
少女は口をつぐんだ。「ヴヰクトル」は袂時計(たもとどけい)の鎖をいらひだした。
「ヲイ、『アクーリナ』、おまへだツて馬鹿ぢや有るまい」トまた話し出した、「そんなくだらん事をいふのは置いて貰はふぜ。おれはお前の為を思ツていふのだ、わかツたか
? 勿論お前は馬鹿ぢやない、やツぱりお袋の性(しやう)を受けてると見えて、それこそ徹頭徹尾いまのソノ農婦といふでもないが、シカシ兎も角も教育はないの――そんなら人のいふことならハイと云ツて聞(きい)てるがいゝぢやないか?」
「だツてこわいやうだもの」。
「ツ、こわい。何もこわいことはちツともないぢやないか
? 何だそれは」、「アクーリナ」の傍へすりよツて「花か ? 」
「花ですよ」ト云ツたが、如何にも哀れさうで有ツた「この清涼茶は今あたしが摘んで来たの」トすこし気の乗ツたやうす「これを牛の子にたべさせると薬になるツて。ホラBur-marigole――そばツかすの薬。チヨイと御覧なさいよ、うつくしいぢや有りませんか、あたし産れてからまだこんなにうつくしい花ア見たことないのよ。ホラ myosotis、ホラ菫(すみれ)……ア、これはネ、お前さんにあげやうと思ツて摘んで来たのですよ」、ト云ひながら、黄ろな野艸(のぐさ)の花の下にあツた、青々としたBlue-bottle
の細い草で束ねたのを取り出して「入(い)りませんか ? 」
「ヴヰクトル」はしぶしぶ手を出して、花束を取ツて、気の無さゝうに匂ひを嗅いで、そして勿体を付けて物思はしさうに空を視あげながら、その花束を指頭でまはしはじめた。「アクーリナ」は「ヴヰクトル」の顔をジツと視詰めた……その愁然(しうぜん)とした眼付のうちになさけを含め、やさしい誠心(まごころ)を込め、吾仏(あがほとけ)とあふぎ敬(うやま)ふ気ざしを現はしてゐた。男の気をかねてゐれぱ、敢(あへ)て泣顔は見せなかつたが、その代り名残(なご)り惜しさうに只管(ひたすら)その顔をのみ眺めてゐた。それに「ヴヰクトル」といへば史丹の如くに臥(ね)そベツて、グツと大負けに負けて、人柄を崩して、いやながら暫(しばら)く「アクーリナ」の本尊になつて、その礼拝祈念を受けつかはしてをつた。その顔を、あから顔を見れば、故(ことさ)らに作ツた堰蹇(えんけん=けんは、塞の土が足)恣き(しき=きは、推の手ヘンが目ヘン)、無頓着な色を帯びてゐたうちにも、何処(どこ)ともなく得得(とくとく)とした所が見透かされて、憎かつた。そして顧みて「アクーリナ」を視れぱ、魂が止(と)め度(ど)なく身をうかれ出て、男の方へのみ引かされて、甘へきつてゐるやうで――アヽよかツた! 暫(しばら)くして「ヴヰクトル」は……「ヴヰクトル」は花束を艸(くさ)の上に取り落して仕舞ひ、青銅の框(わく)を嵌(は)めた眼鏡を外套の隠袋(かくし)から取り出して、眼へ宛(あて)がはふとしてみた、がいくら眉を皺め、頬を捻(ね)ぢ上げ、鼻まで仰ふ向かせて眼鏡を支えやうとして見ても、――どうしても外れて手の中へのみ落ちた。
「なにそれは ? 」と「アクーリナ」がケヾンな顔をして尋ねた。
「眼鏡」と「ヴヰクトル」は傲然として答へた。
「それをかけるとどうかなるの ? 」
「よく見えるのよ」。
「チョイと拝見な」。
「ヴヰクトル」は顔をしかめたが、それでも眼鏡は渡した。
「こわしちやいけんぜ」。
「大夫丈ですよ」トこわごわ眼鏡を眼のそばへ持つて来て「ヲヤ何にも見えないよ」ト愛度気(あどけ)なくいツた。
「そ、そんな……眼を細くしなくツちやいかない、眼を」トさながら不機嫌な教師のやうな声で叱ツた。「アクーリナ」は眼鏡を宛(あ)てがツてゐた方の眼を細めた。「チヨツ、まぬけめ、そツちの眼ぢやない、こツちの眼だ」トまた大声に叱ツて、仕替える間もあらせず、「アクーリナ」の持ツてゐた眼鏡をひツたくツてしまツた。
「アクーリナ」は顔を赤くして、気まりわるさうに笑ツて、余所(よそ)をむいて、
「どうでも私たちの持つもんぢやないと見える」。
「知れた事サ」。
かわいさうに、「アクーリナ」は太い溜息をして黙してしまツた。
「アヽ『ヴヰクトル、アレクサンドルイチ』、どうかして、一所に居られるやうには成らないもんかネー」トだしぬけに云ツた。
「ヴヰクトル」は衣服の裾で眼鏡を拭ひ、再び隠袋(かくし)に納めて、
「それやア当坐四五日はちツとは淋しからうサ」ト寛大の処置を以て、手づから「アクーリナ」の肩を軽く叩いた。「アクーリナ」はその手をソツト肩から外(はづ)して、おづおづ接吻した。「ちツとは淋しからうサ」トまた繰返して云ツて、得々と微笑して、「だが已(やむ)を得ざる次第ぢやないか
? マア積ツても見るがいゝ、旦那もさうだが、おれにしてもこんなケチな所にやゐられない、蓋(けだ)しモウぢきに冬だが、田舎(ゐなか)の冬といふやつは忍ぶ可(べか)らずだ、それから思ふと彼得堡(ペテルブルグ)、たいしたもんだ! うそとおもふなら往ツて見るがいい、お前たちが夢に見た事もない結構なものばかりだ。かう立派な建家、町、カイ社、文明開化――それや不思議なものよ!……」(「アクーリナ」は小児の如くに、口をあいて、一心になツて聞き惚れてゐた。)
「ト噺(はなし)をして聞かしても」ト「ヴヰクトル」は寝返りを打ツて、「無駄か。お前にや空々寂々だ」。
「なぜへ、『ヴヰクトル、アレクサンドルイチ』、わかりますワ、よく解りますワ」。
「ホ、それはおえらいな!」
「アクーリナ」は萎(しを)れた。
「なぜ此頃わさう邪慳(じゃけん)だらう ? 」ト頭をうなだれたまゝで云ツた。
「ナニ此頃わ邪慳だと…… ? 」ト何となく不平さうで「此頃!フヽム此頃!……」
両人とも暫時無言。
「ドレ帰らうか」ト「ヴヰクトル」は臂(ひぢ)を杖に起ちあがらうとした。
「アラモウちツとお出でなさいよ」ト「アクーリナ」は祈るやうに云ツた。
「何故 ? ……暇乞ひならモウ是れで済んでゐるぢやなひか
? 」
「モウちツとお出でなさひよ」。
「ヴヰクトル」は再び横になツて、口笛を吹きだした。「アクーリナ」はその顔をジツと視詰めた、次第々々に胸が波だツて来た様子で、唇も拘攣しだせば、今まで青ざめてゐた頬もまたほの赤くなりだした……
「ヴヰクトル、アレクサンドルイチ」トにじみ声で「お前さんも……あんまり……あんまりだ」。
「何が ? 」ト眉を皺めて、すこし起きあがツて、キツと「アクーリナ」の方を向いた。
「あんまりだワ、『ヴヰクトル、アレクサンドルイチ』、今別れたらまたいつ逢はれるか知れないのだから、なんとか一ト言ぐらゐ云ツたツてよさゝうなものだ、何とか一ト言ぐらゐ……」
「どういへばいゝといふんだ ? 」
「どういへばいゝか知らないけれど……そんな事(こつ)たア百も承知してゐるくせに……モウ今が別れだといふのに一ト言も……あんまりだからいい!」
「可笑(をか)しな事をいふやつだな! どういへばいゝといふんだ
? 」
「何とか一ト言くらゐ……」
「エーくどい!」ト忌々(いまいま)しさうに云ツて、「ヴヰクトル」は起ちあがツた。
「アラかに……かにして頂戴よ」ト「アクーリナ」は早や口に云ツた、辛うじて涙を呑み込みながら。
「腹も立たないが、お前のわからずやにも困る……どうすればいゝといふんだ
? もともと女房にされないのは得心(とくしん)づくぢやないか ? 得心づくぢやなないか
? そんなら何が不足だ ? 何が不足だよ ? 」トさながら返答を催促するやうに、グツと「アクーリナ」の顔を覗(のぞ)きこんで、そして指の股をひろげて手をさしだした。
「何も不足……不足はないけれど」ト吃(ども)りながら、「アクーリナ」もまた震へる手先をさしだして、「たゞ何とか一ト言……」
涙をはらはらと流した。
「チヨツ極(きま)りを始めた」、ト「ヴヰクトル」は平気で云ツた、後(うしろ)から眉間(みけん)へ帽子を滑らしながら。
「何も不足はないけれど」ト「アクーリナ」は両手を顔へ宛てゝ、啜(すゝ)り上げて泣きながら、再び言葉を続(つ)いだ、「今でさへ家にゐるのがつらくツてつらくツてならないのだから、是れから先はどうなる事かと思ふと心細くツて心細くツてなりやアしない……屹度(きつと)無理矢理にお嫁にやられて……苦労するに違ひないから……」
「ならべろならべろ、たんと並べろ」、ト「ヴヰクトル」は足を踏み替え乍ら、口の裏(うち)で云ツた。
「だからたツた一ト言、一ト言何とか……『アクーリナ』おれも……お、お、おれも……」
不意に込み上げて来る涙に、胸がつかえて、云ひきれない――「アクーリナ」は草の上へうつぶしに倒れて苦しさうに泣きだした……総身をブルブル震はして頂門で高波を打たせた……こらへに堪(こら)へた溜め涙の関が一時に切れたので。「ヴヰクトル」は泣(なき)くづをれた「アクーリナ」の背なかを眺めて、暫(しばら)く眺めて、フト首をすくめて、身を転じて、そして大股にゆうゆうと立ち去ツた。
暫くたツた……「アクーリナ」は漸く涙をとゞめて、頭を擡(もた)げて、跳(をど)り上ツて、四辺(あたり)を視まはして、手を拍(うつ)た、跡を追ツて駈けださうとしたが、足が利(き)かない――バツタリ膝をつひた……モウ見るに見かねた、自分は木蔭を躍り出て、かけよらうとすると、「アクーリナ」はフト振りかへツて自分の姿を見るや否や、忽(たちま)ち忍(しの)び音(ね)にアツと叫びながら、ムツクと跳ね起きて、木の間へ駈け入ツた、かと思ふとモウ姿は見えなくなつた。草花のみは取り残されて、歴乱として四辺に充ちた。
自分はたちどまった、花束を拾ひ上げた、そして林を去ツてのらへ出た。日は青々とした空に低く漂ツて、射す影も蒼さめて冷(ひやゝ)かになり、照るとはなくて只ジミな水色のぼかしを見るやうに四方に充ちわたツた。日没にはまた半時間も有らうに、モウゆうやけがほの赤く天末を染めだした。黄ろくからびた刈科(かりかぶ)をわたツて烈しく吹付ける野分(のわき)に催されて、そりかヘツた細かな落ち葉があはたゞしく起き上り、林に沿ふた往来を横ぎつて、自分の側を駈け通ツた、のらに向いて壁のやうにたつ林の一面は総てざわざわざわつき、細末の玉の屑を散らしたやうに、煌(きらめ)きはしないが、ちらついてゐた、また枯(か)れ艸(くさ)、莠(はぐさ)、藁(わら)の嫌ひなくそこら一面にからみついた蜘蛛(くも)の巣は風に吹き靡(なび)かされて波たツてゐた。
自分はたちどまった……心細く成ツて来た、眼に遮(さへぎ)る物象はサツパリとはしてゐれど、おもしろ気(げ)もおかし気もなく、さびれはてたうちにも、どうやら間近になツた冬のすさまじさが見透かされるやうに思はれて。小心な鴉(からす)が重さうに羽ばたきをして、烈しく風を切りながら、頭上を高く飛び過ぎたが、フト首(かうべ)を回(めぐ)らして、横目で自分をにらめて、急に飛び上ツて、声をちぎるやうに啼きわたりながら、林の向ふへかくれてしまツた。鳩が幾羽ともなく群をなして勢込んで穀倉の方から飛んで来たが、フト柱を建てたやうに舞ひ昇ツて、さてパツと一斉に野面(のづら)に散ツた――ア、秋だ! 誰だか禿山(はげやま)の向ふを通ると見えて、から車の音が虚空に響きわたツた……
自分は帰宅した、が可哀さうと思ツた「アクーリナ」の姿は久しく眼前にちらついて、忘れかねた。持帰ツた花の束ねは、からびたまゝで、尚(な)ほいまだに秘蔵して有る………………………
(明治二十一年七ー八月)
(ふたばていしめい 小説家 1864.2.3(又は、2.18) - 1909.5.10 近代文学史劈頭を言文一致の名作「浮雲」で飾った。またロシア小説の清新・苦心の翻訳で後進を刺激した。 掲載作「あひゞき ツルゲーネフ原作」
は明治二十一年七、八月「国民之友」に初出。)
皆既月蝕 吉田優子
一
かすれた声を羨ましいと思っていた。薄い皮膚や、青く透ける眥に、眼を奪われていた。きっとはじめから何もかも羨ましかった。いつも、ヒロにとって必要な者でありたかった。
階段の踊り場から見送るわたしに手を振って、細長い足をだるそうに投げ出したヒロの、真新しいジーンズの藍が夕景色に滲んだ。ヒロは気づいているだろうか、すれ違った女の人の、からだごと振り返った視線に。人眼を惹く天分とわかっていても、こうして思い知る度、不安になった。遠ざかる姿はまぼろしめいて、どこか懐かしかった。
ショッピングモールへは、自転車で十五分。バスも出ているが、歩いて行くのが好きだった。まず、ヒロがやって来る。今から出ます、という電話があってから、わたしの支度はゆっくりでいい。ノックの音にどきりとしてドアを開ける三十分後
まで、待ちわびないように。
「サクサクいってる」
買い物袋をぶら下げながら、できたてのクロワッサンを齧る音が可笑しかった。
「このサクサクが好き。五月ちゃんのは」
「蒸しケーキ」
「ふわふわ、だね」
かなりの距離を、歩いて行こうと言い出したのはヒロだったが、わたしも同じことを考えていた。自転車で並び走るのは煩わしい、それより、歩きながらゆっくり話したい、そんな想いが、ヒロの口を借りて出たようだった。
「『フレンチ・キス』っていう映画観た?」
「観た」
「あれは、『泥棒成金』でしょ」
「そうそう、宝石泥棒とカンヌと……」
「カールトンホテル!」
ヒロとのあいだに、余人には入り込めない数奇な何かを期待してしまうのはこんなときだ。はじめて二人で歩いた夜道、どちらからともなく手をつないだのは、引き寄せ合う心のせいと、ヒロも想ったろうか。
「家に寄って履いてみない」
買ったばかりのジーンズを早く履いてみたくて、帰り路を急ぎながら訊いた。
「うん」
足を止めて大きく頷いたヒロの顔いっぱいに、笑みがひろがった。わたしは嬉しさにはじける頬をせめて隠そうと、先に立って六号棟の階段を駆け上がった。
宿舎の住人たちは、ほとんど出払ってしまっている休日の午下がりだった。わたしたちは気兼ねなく、三階の狭い一間を順に使って着替えた。
「五月ちゃん、デニムじゃないの、はじめてでしょ」
ツイル地のパンツで姿見の前に立つと、ヒロが割り込んで来た。
「うん、はじめて。ヒロは、いつもと同じみたい」
「お店で見てると目移りするんだけど、結局同じのを買っちゃった」
鏡に向かって話すヒロの髪が、傍で香った。
四月のはじめ、学生宿舎の夜は落ち着かない。新しい顔々に触れるもの珍しさか、親許を離れたさびしさのせいか、新入生たちは人の気はいを求めて集う。おそくまで続くから騒ぎは、木々に囲まれ鬱蒼とした宿舎を懸命に灯す。
陽の沈むにつれて、そぞろ騒ぎがはじまっていた。薄い壁を挟んだ隣から筒抜けの、甲高い電話の声に辟易して、わたしは部屋を出た。
一階と二階を繋ぐ路を所々に架けた学内は勾配が多く、長い上り坂では、ライトを灯した自転車のペダルが重かった。幽かな影は夕闇に塗り込まれ、夜間灯の淡い光を、少し冷たい風が薙いでいた。
坂を登りきったところで自転車から降りた。まだ、宿舎と教室の行き来しか憶えていなかった。前にあるのが図書館、西向かいがC棟のはずだった。
立表示を確認しようと歩き出したとき、脇から追い越す人があった。
白いシャツを着ていた。
吹き抜けの鉄階段に響く足音を、あいだをあけて追いかけ、一階へ出た。行き先を占う間もなく、白い背中は、開いている正面のガラス扉へ吸い込まれて行った。建物の脇に”文化系サークル会館”の文字があった。
ほとんどの窓に明かりが見えた。上階からは喧噪がもれ落ちてくる。学棟の林立する中央の静謐とさかさま、外郭は宵のはじめに浮き足立っていた。
二階へ行けばわかるよ、と予め聞いてあった。はじめてミーティングを訪れたわたしは、自己紹介を促され、前へ出て、出身県や所属、希望パートなどをホワイトボードに書き出した。好きなミュージシャンに、ジミ・ヘンドリックスを挙げた。
「ぼくもジミヘン好き」
席へ戻ったわたしに、彼女は笑いかけた。
「槇浩子、新入生です、よろしく」
ぼくと言うのが似合う、華奢なからだつきに眼を惹かれた。
「槇さん……」
「ヒロでいいよ」
彼女は隣に座っていた――否、袖を捲ったシャツの、白いのに気づいたわたしが隣の席を選んだのだ。
「自己紹介しないの」
「先週やったから」
「そう……宿舎は」
「一の矢」
「ふうん、わたしは平砂」
「平砂かあ。いいな、便利で」
「どうして」
「一の矢の周りって何もないんだよ」
平砂から自転車で北へ十分ほど行ったところに、一の矢はあった。実験場や牧場に囲まれたそこは、共用棟にある小さな売店のほか、日用品や食料を販売する店が近辺に皆無だった。同じ外観の棟が平砂の倍は建ち並ぶ中、ヒロのいる二十号棟へすんなり辿り着けるようになるまでに、結局、かなりの回数を要した。
「今日はすぐわかった?」
「うん、まあ……」
「さては迷ったな。電話があってから随分経ったぞ」
言いながら、ヒロはラジカセに入れたCDを再生した。
「これをやりたいんだけど」
ベッドに寄りかかって座る細長い部屋に鳴ったのはU2だった。
「これはSUNDAY BLOODY SUNDAYっていう曲でね、この感じを出すのが難しい」
「歌うのも難しそう、田口君で大丈夫かな」
「うーん、無謀かもね」
タイムテーブルで決められたわたしたちのスタジオ使用時間は始業前だった。早朝にやっと起き出してサークル会館へ行っていた。ぽつりぽつりとやって来るバンドメンバーの顔は、どれも眠たそうだった。
ギターをセッティングするヒロを、備えつけのピアノを叩きながらぼんやり眺めているわたしの意識は、突然かき鳴らされる大音量でたちまちはっきりする。サンバーストのテレキャスターに腕が振り下される度、マーシャルのつくる空気のうねりが狭い部屋に満ちた。
「いい声なんだから、歌ったら」
「歌ってみたいな」
「じゃあ、今度」
「でも、駄目なんだ」
「どうして」
「それはね……」
ヒロはつま弾いていたギターから顔を上げた。
「出ない音があるんだよ。喉から血が出るまで叫んで潰した声だから」
「うわ、痛い」
眉を顰めると、ヒロは「冗談だよ、ほんとうは下手なの」とわらった。
一年で宿舎を出て、借りたアパートはヒロの引っ越し先の近くだった。相談したわけではない。大学の周りに密集しているアパートから選ぶとなれば、物件は自然と限られた。
宿舎にいたときより容易く行き来できるようになると、どちらかの部屋で夜どおし語り、うたた寝して、外の明るむ頃に慌てて帰ることが珍しくなかった。授業のレポートを書いたり、楽器の練習をしているだけで、ほとんど話をせずに過ごすと
きもあった。
「松見公園へ行こうか」
夏の夜、わたしたちは蒸し暑いアパートの部屋を飛び出した。ヒロのアルバイト先で貰ったというワインと、わたしのラジオを持って。チャンネルはヒット曲を流すFMに合わせた。
「I've got a feeling yeah!」
ポール・マッカートニーと一緒に歌い、わたしたちはワイングラスを高々と差しあげた。勢いつけて飲み干し、苦さに震えた。酒は苦手だった。
「五月ちゃん、空いたね」
すすめられ、仕方なくグラスを差し出して、眼を留めた。瓶を持って伸ばしたヒロの腕の、Tシャツからのぞいた肩口に小指ほどの大きさで肉が盛り上がっていた。白い皮膚の上で、異質な光を放っていた。
「随分深そうな」
わたしの眼線を追って首を曲げ、ヒロは頷いた。
「戸棚のガラスで切った痕。父親にぶっ飛ばされたんだ」
こつん、と、受け口に瓶があたって、ワインが注がれた。
何を考えている――。
グラス越しの視線を感じながら、すべて見透かされた心地で、言葉を待った。
「なんてね、ほんとは廃屋で遊んでたときタイルの破片で切った」
ヒロはいたずらそうに笑い、あーあ、ギターを持って来るんだったな、と仰向けに寝転んだ。
「こうしてると寝ちゃうかも」
わたしは口中の苦さを飲み込み、グラスを置いた。同じく仰臥して瞼を伏せると、池の水面が眼の端にきらめいた。
今ここで、ぼくと言うわけを訊ねたら、ヒロは何と答えるだろうか。冗談めかしてはぐらかすか、それとも、迷惑な問いに、あからさまな拒否を見せるか。
――どうしてぼくって言うの。
かつて、そう訊かれるのが疎ましくて仕方なかった。その場しのぎの理由を挙げたとして、どれも違う気がしたからだ。他の少女たちのように、アタシ、となぜ言えないのか、自分でもわからなかった。説明し遂せ得ないもどかしさに腹が立ったが、心に照らしてほんとうの理由を考えたことはなかった。
溢れ出る記憶のまま、閉じた瞼の裏に幼い日々を見た。父に襟首をつかまれ、打ち据えられる母、眼の下の青い痣、切れて腫れた唇……。両家の祖父母を交え、幾度となく繰り返された話し合いで、母のはり上げた声は震えていた。
おもちゃにされましたよ――。
別室にいたわたしのところまで届いたあの声は、耳の底で、まだ響いている。
二
両親の離婚後、母と暮らした。実家に住むことを祖父に許されなかった母は、小学生のわたしを連れてアパートを借りた。わたしは転校し、母はデパートで働きはじめた。
逼迫した家計を、学校で使用する教材を買えず、実感した。授業の度に他のクラスへ借りに行くのは気が重かったが、駄々をこねてどうなるものでもないとわかっていたので、尚更やりきれなかった。
引っ越して間もなく、前の学校のクラスメイトから手紙が届いた。若い恋人をつくって出て行ったという母の噂について、わざわざ知らせてあった。噂に過ぎないと、返事を書いた。父方で、母のことを悪く吹聴しているらしいとは知っていたが、どこまでも追って来る口さがない世間が恨めしかった。
転校する前日の送別会で、教師の黒板に書いた新しい住所をクラス全員が控えたはずだったが、貰った手紙はあとにも先にも興味本意のひとつきりだった。わたしはそのていどの、意に介されぬ存在だった。いつも仲間から外れていた。そのくせ、尖った神経を、びくびくと周囲へ傾けていた。図画の時間に描いたくすんだ色あいの絵は、わたしの見る曇った世界そのものだった。
やむを得ず引っ越すことになったとき、歓喜がからだを駆け抜けた。それまでのわたしを捨て、新天地で生まれ変われると期待した。両親の別れはわたしに暗い陰を落とさなかった。何よりの不幸は、罵る声と悲鳴の絶えない家庭で暮らし続けることだった。
父と遊んだ記憶は無かった。膝に抱かれたことさえ、あったかわからない。わたしに関心は無かったのだろうが、悪鬼となって母に手を挙げる父との触れ合いなど、無くて幸いだった。わたしには母しかいなかった。
母について行くことだけを考えていた、が、怯えもあった。わたしを叩く母を、怖いと感じるときが、ままあった。仕置きされるのは、気に触ることをした自分がいけないのだと思っていた。父との生活に息つまらせていたためと得心したのは、
新しい暮らしの中で、穏やな母に気づいたときだった。父の暴力を受けていた母の心は、今にも壊れそうだったに違いない。
そんな母を、不用意な言葉で煩わせてしまったことがある。
――化粧クリームの瓶を投げつけられたときは、痛かったな。
軽々しく言ったのが、記憶の底に沈めた瑕疵を掘り起こしてしまったのだろう、母は言葉を失い、考え込んだ。
――ごめんね、ごめんね。
しきりに謝る母の不安そうな表情に、捨てるべきものの正体を想った。
――このシャツと、黄色いズボンなら合うわね。
珍しく日曜日に休みを貰えた母との外出の、無性に嬉しかったのをよく憶えている。母はいつものようにわたしの服装に気を配った。バス停で、周りの乗客につられて乗り込もうとしたわたしを、まだよ、と制し、ベンチに座らせた。せわしない往来に目を遣っているうち、バスはやって来た。何処とも知れない行き先に、少し不安を覚えた。混雑した車内で、見慣れぬ窓の風景に追い立てられ、吊り革につかまった母の後ろに、ぴたりと添った。
着いたのは何という名のデパートだったか――。母の勤める店でないのはわかった。そう多くない客足のあいだを抜けてエレベーターを降り、噴水の前へ出た。母が待合にいる買物客たちの方へ手を振ると、灰皿に煙草を押しつけながら立ち上がった若い男があった。
――うちの娘、五月です。同じお店の野村さん。
――母がいつもお世話になってます。
男は、こちらこそ、とわたしの顔を覗き込んだ。話の内容から、母の勤めるデパートの主任らしかった。
母は気さくな質だったし、男にも同様の感じがあったので、そのままレストランで一緒に食事することになっても、特別不審を抱かなかった。
――何でも好きなものを買ってあげるよ。
――よかったねえ、五月ちゃん。
おもちゃ売り場を歩きながら、すっかり打ち解けた風で、男はわたしに言った。会ったばかりの人が、なぜそこまでしてくれるのかはかりかねた上に、物欲を抑えることに慣れていたせいか、欲しいものなど咄嗟に思い浮かばなかった。母に遠慮の無いのも、不思議に映った。絶句して見上げたわたしの顔に、男はどんな感情を読み取ったろうか。
その日から、男はアパートへ来るようになった。手土産は、鮨だったり、ケーキだったり、学習ノートだったりした。
――五月ちゃんは女の子なのに、どうしてぼくって言うの。
男は夕飯に買って来た鰻を食べながらわたしに訊いた。
――わたしって言うようにしたら。
――はあ。
無愛想な低い返事だった。一瞬、男の箸が止まり、母がこちらを見た。気まずかったが、取り繕おうとは思わなかった。沈黙の続く中、わたし一人ふてぶてしかった。
明くる日、近所の空き地へ行った。クラスメイトからの手紙と、マッチを携えて。
うわべだけの挨拶ばかりで、わたしは男に僅かも心を開かなかった。思いがけず感情の露になったのは、愚かな質問で男がわたしの領域へ立ち入って来た、その一度きりだったと思う。後に、ふっつり訪ねて来なくなった男と、勤めを変えた母とのあいだにおいて、わたしはどれほどの障害であり得ただろう。
男からの経済的な援助はあったはずで、そこに母の処世を想わないでもなかったが、男の頻繁に訪ねて来る生活に戻りたくはなかった。最初から、男の吊るして来る土産に価値など無かった。偏えに、わたしのための鮨やケーキだったとしても。
高校へは行きたかったが、合格した暁に入り用になるものを考えると暗澹となった。近場の高校を受験したのは、自転車で通えるという理由だけだった。
入学祝いとして、制服や靴、鞄など一式あつらえてくれたのは、あてにしてはならないはずの祖父母だった。
六年振りに母と実家を訪れたとき、わたしの歳を指折り数えていたと、祖母は言った。手の届かなかった鴨居の、頭上を掠めるようになった部屋で、祖父母と興じたままごと遊びを想い出した。菓子鉢に盛られているのは、何度せがんで一緒に作ったかしれない、祖母の得意なクッキーだった。
中学校では何のクラブに入ってたの、得意な科目は何なの、と祖母はわたしにあれこれ話しかけた。祖父は、しかし黙ったままだった。母も黙しがちだった。赦し合った結果の再会と思ったが、そうではないらしかった。
――おじいちゃんとおばあちゃんに、もう一度お礼を言って。
――ありがとうございました。
帰り際、母と一緒に額づいた。
――ほんとうに助かりました。
――五月のためだ。
祖父は母の方を見なかった。
交わした言葉は、たった一言、それが最後だったと思う。動脈瘤で倒れたという知らせを受けて、母と病院へ駆けつけたとき、祖父はすでに言葉を発することができなくなっていた。
とうとう赦されなかったのを、祖父の頑迷と、母は諦めた。田舎では名士だった祖父にとって、出戻った娘は世間体が悪かったのだろうと。
あの夜――母は切れた唇をタオルで押さえ、引きちぎられた服のまま実家へ車を走らせた。他に行くところはなかった。黙って運転する母の痛みを、助手席にいたわたしは我が身に感じていた。フロントガラスに光る対向車のライトの中、父に襟をわしづかまれた母が見えた。思わず、手に持っていた母の着替えを握り締めた。
父方との談判の度、祖父は敢然と母を守って譲らなかった。対して、父方は、母の不実をあちらこちらでこぼして回った。悪意を含んだ噂はまたたく間に知れ聞こえた。
――つけ入れられる隙のあるのが悪いんだ。
祖父の叱責に、母は「出て行く」と言い放った。言い得ていたのが、母の感情を逆撫でしたのかもしれない。いずれにしても、噂ひしめく田舎にいたくなかったのだろう。母はひろげはじめていた荷物を慌ただしく纏め、早々にアパートを捜し、
わたしを連れて移り住んだ。
祖父の赦せなかったのは、母の女ではなかったか。伝え聞く噂は、事実と微細まで一致せずとも、否定しきれない何かがあった。果たして男は現れた。クラスメイトからの手紙どおりだった。わたしにとって、手紙にあった男と、実際に現れた男の同一人かは問題ではなかった。厭だったのは、そうやって眼前に突き出された母の女だった。
空き地で、便箋に焔の伝うさまを眺めながら、いつまでもこんなものを取っておいた自分が情けなかった。貰った手紙を燃やす罪悪は感じなかった。残った灰は跡形のなくなるまで潰し、土中に埋めた。
三
しだいに近づいて来る声の生々しく耳許に響く頃、我に還って眼を瞠くと、ヒロが背を向けて呻いていた。
「どうしたの」
声をかけると、「お腹痛い」と言い、続けて嘔吐した。悪いものを食べたかと思ったが、今晩同じパスタを取り分けたわたしはどうもなっていない。背中をさすってみても、苦しそうなようすは治まりそうになかった。
「く、すり、がバッグの中に……」
「薬?」
ヒロのバッグをまさぐると、病院の処方薬があった。走って、水道の水をグラスに汲んで来た。
「はい、水」
「見えない……」
「え?」
「何も見えない」
渡そうとするも、ヒロの視線は宙を泳いだまま、真前にあるグラスを見つけられない。貧血を起こしているのかもしれなかった。わたしは薬袋に記された処方を月明かりに照らし、数だけ錠剤を取り出した。
「薬を飲ませるから口開いて」
半身を起こさせ支えた背中はぐっしょり汗で濡れていた。僅か開いた唇に注意深く錠剤をくわえさせ、水を流し入れると、のけぞった喉が動いた。口の端から零れた水を拭いてやった。
「悪い、ちょっと休む……」
喘ぎ喘ぎ言うヒロを、ハンカチを枕にして横たえた。
「いいよ、ゆっくり寝て」
薬をバッグに戻しながら、症状に心あたりがあった。月経のひどいときか、子宮内膜症か――。薬袋にある婦人科の名前を見なくとも想像はついた。女なら、思いあたることだった。
数カ月前、今までにない月経痛に襲われた。ひどい痛みと吐き気に耐えかね、婦人病院を訪れた。診察室で不安げなわたしに、血液の戻りが悪いのでしょうと、医師は穏やかに言った。
「子宮内膜症かもしれませんね、若い人に多いんですよ――」
促されて診察台へ上り、赤いものの流れる部分を開いた。医師はカーテンを開け、看護婦のあてがったエコーの映像を指した。
「これが子宮です」
何やら説明していたが、半分上の空で、ざらざらと黒く映し出された画面を見ていた。そこは、わたしを女に縛りつけた元凶だった。
どこにある、女は、どこにある――。
いつの間にか探していたのは、母の姿だった。父は母の髪をつかみ、引きずり、馬乗りになって首を絞めた。肉の打たれる鈍い音を背に、涙でにじむ視界は血のいろに染まった。
おもちゃという言葉の意味する父の無慚な性癖を、おおよそ察知していた。玩弄される性はあわれで、自分もまた女であることが忌わしかった。ぼく、と言えば、女からはなれられると思った。髪を短く切り、ズボンを履き、女らしいしぐさを排
した。少年たちと駆けまわって遊んだ。空想の少年を演じて、満足だった。ぼくと言うときの、頭の芯にじんと下りる心地よい痺れを、すでに自覚していたから。あの頃、夢に見るほど憧れたのは、擬するための手本にしていた少年たちではなかった。女でなく、男でもない何かに、わたしはなりたかった。
否応なく訪れた性徴の軌道を、変えることはできなかった。日々、重くまるくなりゆくからだの、憧れとのどうしようもない乖離を悟ったとき、受け容れがたかったあまたの情景を、「ぼく」もろとも切り捨てた。圧倒的な父の力の前でなす術の
なかった母を、甘える男を手で打つしぐさでたしなめた母を、定められた行く末に伴ってゆくのは怖かった。
だが、ほんとうは忘れていなかった。女という性を生きている母から、眼を逸らしきれるものではなかった。
甘い痺れをかみしめながら、わたしは身の内に懐かしい「ぼく」を感じていた。
白いシャツの裾を翻し階段を下りてゆく細い肩を追ったのは、自らの影を追ったのに他ならなかった。奥深くに閉じ込めたはずの過去だったが、消え失せることなく、目醒めを待っていた。器官のために女なのではない。「ぼく」は、いまだ遥かな次元で、あてどない靴先を彷徨わせている。
人影の消えた公園に、車の走る音だけがした。ヒロはようやく落ち着き、微かな寝息をたてはじめている。この、男女の狭間で自由に跳躍する性を羨んでいたのは、「ぼく」に違いなかった。
濡れた額にはりついている前髪を、そっとはらっても反応の無いのは、薬の効いているせいなのか――。かざした指先の汗をひやり奪った風が、空で集まり黝い大樹を揺らした。ざわざわと、木の葉が騒ぐ。今は安らかに横たわっているヒロの、くらく覆い被さる影に消え堕ちる刹那、背後に危うい月の気はい、傾いた。 (了)
(作者は、以前この「e−文庫・湖」第二頁に「さぎむすめ」を発表している。モチーフを、今度の作ではさらに着実に小説化し、かなりの安定も得つつ表現した。三度推敲してもらったが、そのつど、文章もよく磨き込まれたと見ている。いい読者を得たい。)
驛夫日記 白柳
秀湖
私は十八歳、人ならば一生の春といふ此若い盛りを、之はまた何として情ない姿だらう。項垂(うなだ)れてヂッと考へながら、多摩川砂利の敷いてある線路を、プラットホームの方へ歩いたが、今更のやうに自分の着て居る小倉の洋服の脂垢(あぶらあか)に見る影もなく穢(よご)れたのが眼につく。私は今遠方シグナルの信號燈(ランターン)を懸けに行つてその戻りである。
目黒の停車場(ステーション)は、行人坂(ぎやうにんざか)に近い夕日が岡を横に断ち切つて、三田村から大崎村に出るまで狭い長い掘割になつて居る。見上げるやうな両側の崖からは、芒(すゝき)と野萩が列車の窓を撫でるばかりに生ひ茂つて、薊(あざみ)や、姫紫苑(ひめしをん)や、螢草や、草藤(ベツチ)の花が目さむるばかりに咲き乱れて居る。
立秋とは名ばかり燬(や)くやうに烈しい八月末の日は今崖の上の黒い白樫(めがし)の森に落ちて、葎(むぐら)の葉ごしにもれて來る光が青白く、うす穢(ぎたな)い私の制服の上に、小さい波紋を描く。
涼しい、生き返るやうな風が一としきり長峰の方から吹き颪(おろ)して、汗ばんだ顔を撫でるかと思ふと、何処からともなく蜩(ひぐらし)の聲が金鈴の雨を聴くやうに聞えて來る。
私は何故こんなに彼女(あのひと)の事を思ふのだらう。私は彼女を恋して居るのであらうか、いやいやもう決して微塵もそんな事のありやう訳はない。私の見る影もない此姿、私のうとましい此職業、恋したとて何としよう。思つたとて何としよう。恋すまい、思ふまい。私は自分をよく知つて居る筈だ。私は自分の地位と職業とをよく辨(わきま)へて居る筈だ。
二
品川行の第二十七列車が出るまでにはまだ半時間余もある。日は沈んだけれども、容易に暮れようとはせぬ。洋燈(ランプ)は今しがた點(つ)けてしまつたし、暫らく用事もないので開け放した窓に倚りかゝつて、それとはなしに深いもの思ひに沈んだ。
風はピッタリ歇(や)んでしまつて、陰鬱な圧しつけられるやうな夏雲に、夕照(ゆふやけ)の色の胸苦しい夕ぐれであつた。
出札掛の河合といふのが、駅夫の岡田を相手に、樺色の夏菊の咲き乱れた、崖に近い柵の傍(そば)に椅子を持ち出して、上衣を脱いで風を入れながら、何やら頻りに笑ひ興じて居る。年頃二十四五の、色の白い眼の細い頭髪(かみ)を油で綺麗に分けた、却々(なかなか)の洒落者(しやれもの)である。
山の手線はまだ単線で客車の運転はホンの僅かなので、私達の労働(しごと)は外から見るほど忙しくはない。それに経営は私立会社と來て居るので、官線の駅夫等が嘗(なめ)るやうな規則攻めの苦しさは、私達にないので、何方(どつち)かといへばマア気楽といふ程であつた。
私はどうした機会(はずみ)か大槻芳雄(おほつきよしを)といふ學生の事を思ひ浮べて、空想はとめどもなく私の胸に溢れて居た。大槻といふのは此停車場(ステーション)から毎朝、新宿まで定期券を利用して何処やらの美術研究所に通うて居る二十歳(はたち)ばかりの青年である。背はスラリとして痩型(やせぎす)の色の白い、張の好い細目の、男らしい、鼻の高い、私の眼からも惚々(ほれぼれ)とするやうな、嫉(ねた)ましい程の美男子であつた。
私は毎朝此青年の立派な姿を見る度(たび)に、何ともいはれぬ羨しさと、わが身の羞しさとを覚えて、野鼠のやうに物蔭にかくれるのが常であつた。永い間通つて居るものと見えて、駅長とは特別懇意でよく駅長室へ來ては巻煙草を燻(くす)べながら、高らかに外國語の事などを語り合うて居るのを聴いた。
私の眼には立派な紳士の礼服姿よりも、軍人のいかめしい制服姿よりも、此青年の背廣の服を着た書生姿が、身にしみて羨ましかつた。私は心から思うた。功名もいらない、富貴(ふうき)も用はない、けれども只一度此脂垢の染みた駅夫の服を脱いで學校へ通つて見度い……。
噫(あゝ)私の盛りはこんな事で暮れてしまふのか。
私は今ふと昔の小學校時代の事を想ひ出した。薄命な母と一処に叔父の宅(うち)に世話になつて居た頃、私は小學校でいつでも首席を占めて、義務教育を終るまで、其地位を人に譲らなかつたこと、將來は必然(きつと)偉い者になるだらうといつて人知れず可愛がつて呉れた校長先生の事、世話になつて居た叔父の息子の成績が悪いので、苦労性の母が、叔父の細君に非常に遠慮をした事など、それからそれへと思ひめぐらして、追懐(おもひで)はいつしか昔の悲しい、いたましい母子(おやこ)の生活の上に遷(うつ)つて居た。
茫然(ぼんやり)して居た私は室の入口の処に立つ人影に驚かされた。見上げるとそれは白地の浴衣(ゆかた)に、黒い唐縮緬(たうちりめん)の兵児帯(へこおび)を締めた、大槻であつた。
「君 ! 汽車は今日も遅れるだらうね」
「えゝ十五分位は……」と私は答へた。山の手線はまだ世間一般によく知られて居ないので、客車は殆ど附属(つけたり)のやうな観があつた。列車の遅刻は殆ど日常(いつも)の事となつて居た。
日はもういつしか暮れて蜩(ひぐらし)の聲も何時の間にか消えてしまつた。
大槻は一寸舌を鳴らしたが、改札の机から椅子を引き寄せて、鷹揚に腰を下した。出札の河合は上衣の袖を通しながら入つて來たが、横眼で悪々(にくにく)しさうに大槻を睨まへながら、奥へ行つてしまつた。
「今から何方(どちら)へ入らつしやるのですか」私は何と思つてか大槻に問うた。
「日比谷まで……今夜、音楽があるんだ」と云ひ放つたが、白い華奢(きやしや)な足を動かして蚊を逐うて居る。
三
「君 ! 僕一つ君に面白い事を尋ねて見ようか」
「え…………」
「軌道(レール)なしに走る汽車があるだらうか」
「そんな汽車が出來たのですか」
「日本に有るのさ」
「何処に」
「東京から青森まで行く間に丁度、一里十六町ばかり、軌道なしで走る処があるね」と云ひ切つたが香の高い巻煙草の煙をフッと吹いた。
私は何だか自分が酷(ひど)く馬鹿にされたやうな氣がして憤然(むつ)とした。
幸福に育つて來た人々の間には滑稽趣味といつたやうなものがあるやうだ。諧謔趣味といつたやうなものがあるやうだ。処が私にはそれがない。その余裕がない。人から語尾を捉へて洒落(しやれ)られたり、地口をたゝかれたりした時のやるせなさ、腹立たしさ、それは到底、私のやうな恵まれぬ過去を持つものでなければ、理解の出來ぬ心の変調だ。イヤ、何(ど)んなに恵まれぬ過去を持つたものでも、容易(たやす)くその境遇に甘んじて幸福な階級の少年少女達に和し、滑稽趣味や、スポーツ熱の中に融込(とけこ)んでしまつて居る人がよくあるものだ。
現に出札の河合は目黒の競馬に夢中だし、駅夫の岡田はべース・ボールの話が三度の飯より好きだ。
けれども何(ど)うしたわけか、私にはそれがない。一切のゲーム、一切のスポーツは勿論、滑稽趣味とか諧謔趣味とかいふものは、私に取つて全くお伽話の世界に現はれてくる王子の夢がお城の寝室の壁に映つたやうなものであつた。
「冗談ですか。僕はまた眞面目で聴いて居ましたよ」
聲が顫へを帯びて居た。幸福に育つて來た人々の耳には、それが何とも思料することの出來ぬ咄嗟(とつさ)の変調であつた。
私は成人(おとな)らしい少年(こども)だ。母と叔父の家に寄寓して居る時から、それはもう随分気兼といふ気兼、苦労といふ苦労のかぎりを尽した。母は人にかくれてまだうら若い私の耳にいたましい浮世話を聞かせたので、私は小さき胸にはりさけるやうな悲哀(かなしみ)を押しかくして、私(ひそ)かに薄命な母を惨(いた)んだ。私は今茲(ことし)十八歳だけれども、私の顔を見た者は誰でも二十五六歳だらうといふ。
「君怒つたのか、よし、君がそんな事で怒る位ならば僕も君に怒るぞ。若し青森までに軌道なしで走る処が一里十六町あつたらどうするか」聲は稍(やゝ)高かつた。
「そんな事がありますか !」私は眼を視張(みはつ)て息をはずませた。
「いゝか、君 ! 軌道と軌道の接続点(つなぎめ)に凡そ二分ばかりの間隙(すき)があるだらう。此間下壇(した)の待合室で、あの工夫の頭(かしら)に聞いたら一哩にあれが凡そ五十ばかりあるとね、それを青森までの哩数に當てて見給へ丁度一里十六町になるよ、つまり一里十六町は汽車が軌道無しで走る訳ぢやあないか」
私はあまりの事に口もきけなかつた。大槻が笑ひながら何か云はうとした刹那、開塞(かいさく)の信號がけたゝましく鳴り出した。
四
品川行のシグナルを処理して私は小走りに階壇を下りた。黄昏(たそがれ)の暗さに大槻の浴衣(ゆかた)を着た後姿は小憎らしい程あざやかに、細身の杖でプラットホームの木壇(もくだん)を叩いて居る。
私は何だか大槻に馬鹿にされた様な氣がして、云ひやうのない不快の感が胸を衝(つ)いて堪へ難いので筧(かけひ)の水を柄杓(ひしやく)から一口グイと飲み干した。
筧の水といふものは此崖から絞れて落つる玉のやうな清水を集めて、小さい素焼の瓶(かめ)に受けたので棺物(まげもの)の柄杓が浮べてある。四邊(あたり)は芒が生ひて、月見草が自然に咲いて居る。之は今の駅長の足立熊太といふ人の趣向で、こんな事の端にも人の心懸けはよく表はれるもの、此駅長は余程上品な風流心に富んだ、かういふ職業に埋れて行くには可惜(あたら)しいやうな男である。長く勤めて居るので、長峰界隈では評判の人望家といふ事、道楽は謡曲で、暇さへあれば社宅の黒板塀から謡ひの聲が漏れて居る。
やがて汽車が着いた。私は駅名喚呼をしなければならぬ。「目黒目黒」と二聲ばかり戸(ドアー)を開けながら呼んで見たが、どうも羞しいやうな氣がして咽喉がつまつた。列車は前後(あとさき)が三等室で、中央(まんなか)が一二等室、見ると後の三等室から、髪をマガレットに束(つか)ねた夕闇に雪を欺くやうな乙女の半身が現はれた。今玉のやうな腕(かひな)をさし伸べて戸の鍵(ラツチ)をはづさうとして居る。
「高谷(たかや)千代子 !」私は思はず心に叫んだが、胸は何となく安からぬ波に騒いだ。
大槻はツカツカと前へ進んだかと思ふと高谷の室の戸をグッと開けてやる。縫上げのたつぷりとした中形の浴衣に帯を小さく結んで、幅廣のリボンを二段に束ねた千代子の小柄な姿がブラットホームに現はれたが、一寸大槻に会釈して其儘階壇の方に歩む。手には元禄模様の華美(はで)な袋にバイオリンを入れて、水色絹に琥珀(こはく)の柄の付いた小形の洋傘(かうもり)を提げて居る。
大槻は直ぐ室に入つたが、今度はまた車窓から半身を出して、自分で戸の鍵をかつた。千代子は他の客に押されて私の立つて居る横手を袖の触れる程にして行く。私はいたく身を羞(は)ぢて一寸體躯を横にしたが其途端に千代子は星のやうな瞳を一寸私の方にうつした。
汽車は此時もう動いて居た。大槻の乗つて居る三等室がプラットホームを歩いて居る千代子の前を横(よこぎ)る時、千代子は其美しい顔をそむけて横を見た。
「マア大槻といふ奴は何といふいけ好かない男だらう」私はかう思ひながら、茫然(ぼんやり)として佇むと、千代子の大理石のやうに白い素顔、露のこぼれるやうな瞳、口もとに云ひやうのない一種の愛嬌を漂へて大槻に会釈した時のあでやかさ。其心象(まぼろし)が瞭々(ありあり)と眼に映つて私は恐ろしい底ひしられぬ嫉妬の谷に陥つた。
「藤岡 ! 閉塞を忘れちやあ困るよ、何を茫然(ぼんやり)として居るかね」
駅長のおだやかな聲が聞えた。私があわてて振り向くと駅長はニッコリ笑つて居た。私は若(も)しや此人に私の恥しい心の底まで見抜かれたのではあるまいかと思ふと、もう堪らなくなつてソコソコと階壇を駆上つて、シグナルを上げた。
権之助坂のあたり、夕暮の烟(けむり)が低くこめて、若しやと思つた其人の姿は影も見えない。
五
野にも、岡にも秋のけしきは満ち満ちて來た。
休暇(やすみ)の日の夕方、私は寂しさに堪へかねてそゞろに長峰の下宿を出たが足はいつの間にか権之助坂を下りて居た。虎杖(いたどり)の花の白く咲いた、荷車の揚げる砂塵のはげしい多摩川道を静かに何処といふ目的(あて)もなく物思ひながらたどるのである。
私は権之助といふ侠客(をとこだて)の物語を想うた、何時か駅長の使をしてやつた時、駅長は遠慮する私を無理に引きとめて、南の縁で麦酒(ビール)を飲みながら私に種々の話をして呉れた。目黒界隈(かいわい)はもと芝増上寺の寺領であつたが何時の頃か悪僧共が共謀して、不正桝を使用し、恐ろしい嚴しい取立てをした。其時村に権之助といふ侠客が居て、百姓の難澁を見て居る事が出來ないといふので、死を決して増上寺から不正桝を掠めて町奉行に告訴して出た。権之助の爲に増上寺の不法は止まつたけれども、彼はそれが爲に罪に問はれて、とある夕ぐれの事であつた。情知らぬ獄卒どもに守られて村中引き廻しにされた上、此岡の上で惨(いたま)しい処刑(しおき)にあうたといふこと。
噫(あゝ)、権之助の最後はこんな夕ぐれであつたらうか。
私は空想の翼を馳せて、色の淺黒い眼の大きい、骨格の逞しい一個の壮漢の男らしい覚悟を想ひ浮べて見た。如何に時代(ときよ)が違ふとは云ひながら昔の人は何故そんなに潔く自分の身を忘れて、世間の爲に尽すといふやうな事が出來たのであらう。
羞しいではないか、私のやうな鬱性(うつしやう)がまたと世にあるであらうか、鬱性といふのも皆自分の身のことばかりクヨクヨと思ふからだ、私が曾て自分の事を離れて物を思つた事があるか、昼の夢、夜の夢、げに私は自分の事ばかりを思ふ。
いつの間にか私は目黒川の橋の上に佇んで欄干に凭(もた)れて居た。此川は夕日が岡と、目黒原との谷を流れて、大崎大井に落ちて、品川に注ぐので川幅が狭いけれども、流は案外に早く、玉のやうな清水をたゝへて居る。水蒸気を含んだ秋のしめやかな空氣を透して遥かに水車の響が手にとるやうに聞えて來る。其水車の響がまた無聲にまさる寂しさを誘(いざな)ふのであつた。
人の橋を渡る気配(けはひ)がしたので、私はフト背後をふりかへると、高谷千代子と其乳母といふのが今橋を渡つて権之助坂の方へ行く処であつた。私が其うしろ姿を見送ると、二人も何か話の調子で同時に背後を見かへつた。私と千代子の視線が会ふと思ひなしか千代子はニッコリ笑つたやうであつた。
私は俯伏(うつぷ)して水を眺めた。其処には見る影もない私の顔が澄んだ秋の水鏡に映つて居る。欄干の処に落ちて居た小石を其まゝ足で水に落すと、波紋は直ぐに私の象(すがた)を消して仕舞つた。
波紋のみだれたやうに、私の思は掻き乱された。
彼女(あのひと)はいま乳母と私に就て何事を語つて行つたらう。彼女は何を笑つたのであらう。私の見すぼらしい姿を嘲笑(あざわら)つたのではあるまいか、私の穢(むさ)くるしい顔を可笑しがつて行つたのではあるまいか。
波紋は静まつて水はまたもとの鏡にかへつた。私は俯伏して、自分ながら嫌氣のするやうな容貌(かほつき)をもう一度映しなほして見た、岸に咲きみだれた藤袴の花が、私の影にそうて優しい姿を水に投げて居る。
六
岡田の話では高谷千代子の家は橋を渡つて突き當りに小學校がある。其學校の裏といふ事である。それを尋ねて見ようといふのではないけれども、私は何時とはなしに大鳥神牡の側を折れて、高谷千代子の家の垣根に沿うて足を運んだ。
遥かに火薬庫の煙筒は高く三田村の岡を抽(ぬ)いて黄昏の空に現れて居るけれども、黒蛇の様な煤煙はもう止んでしまつた。目黒川の対岸(むかう)、一面の稻田には、白い靄が低く迷うて夕日が岡は宛然(さながら)墨繪を見るやうである。
私がさる人の世話で目黒の停車場(ステーション)に働く事になつてからまだ半年には足らぬ程である。初めて出勤して其日から私は千代子のあでやかな姿を見た。千代子は他に五六人の連と一緒に定期乗車券を利用して、澁谷村の「窮行(きゆうかう)女學院」に通つて居るので、私は朝夕、プラットホームに立つて彼女を送りまた迎へた。私は彼女の姿を見るにつけて朝毎に新しい美しさを覚えた。
世には美しい人もあればあるもの、何処(いづく)の処女(をとめ)であるだらうと、私は深く心に思つて見たが流石に同職(なかま)に聴いて見るのも氣羞しいので其儘ふかく胸に秘めて、毎朝さまざまの空想をめぐらして居た。
或る日の事、フトした機会(はずみ)から出札の河合が、千代子の身の上に就て稍精(やゝくは)しい話を自慢らしく話して居るのを聞いた。彼は定期乗車券の事で毎月彼女と親しく語を交すので、長い間には自然いろいろな事を聞き込んで居るのであつた。
千代子は今茲(ことし)十七歳、横濱で有名な貿易商正木某(なにがし)の妾腹に出來たものださうで、其妾といふのは昔新橋で嬌名の高かつた玉子とかいふ藝妓で、千代子が生れた時に世間では、あれは正木の子ではない訥升(とつしよう)といふ役者の子だといふ噂が高く一時は口の悪い新聞にまで謳(うた)はれた程であつたが、正木は二つ返事で其子を引取つた。千代子は其母の姓を名乗つて居るのである。
千代子の通うて居る「窮行女學院」の校長の望月貞子といふのは宮内省では飛ぶ鳥も落すやうな勢力、才色兼備の女官として、また華族女學校の學監として、白雲遠き境までも其名を知らぬ者はない程の女である。けれども冷めたい西風は幾重の墻壁(しやうへき)を越して、階前の梧葉(ごえふ)にも凋落(てうらく)の秋を告げる。貞子の豪奢な生活にも浮世の黒い影は付き纏うて人知れず泣く涙は榮華の袖に乾く間もないといふ噂である。此貞子が世間に秘密(ないしよ)で正木某から少からぬ金を借りた。其縁故で正木は千代子が成長するに連れて「窮行女學院」に入學させて、貞子に其教育を頼んだ。高谷千代子は「窮行女學院」の御客様にあたるのだ。
賎しい女の腹に出來たとはいふものの、生れ落ちると其儘いまの乳母の手に育てられて淋しい郊外に人となつたので、天性(うまれつき)器用な千代子はどこまでも上品で、學校の成績もよく画も音楽も人並優れて上手といふ、乳母の自慢を人の好い駅長なんかは時々聞かされると云ふことであつた。
私は始めて彼女のはかない運命を知つた。自分等親子の寂しい生活と想ひくらべて、稍冷めたい秋の夕を、思はず高谷の家の門のほとりに佇んだ。洒落(あつさり)とした門の扉は固く鎖(とざ)されて、竹垣の根には優しい露草の花が咲いて居る。
七
次の日の朝、私は改札口で思はず千代子と顔を合はせた。私は千代子の眼に何んと知れぬ一種の親みの浮んだ事を見た。私は千代子のやうな美人が、何故私のやうな見すぼらしい駅夫風情(ふぜい)に、あんな意味のありさうな眼付をするのだらうと思ふと共に今朝もまた千代子を限りなく美しい人と思うた。
今日は岡田が休んだので、私は改札もしなければならないのだ。
客は皆階壇を下りた。私は新宿行といふ札を懸け変へて、一二等の待合室を見廻りに行つた。見ると待合のベンチの上に油繪の風景を描き出した繪葉書が二枚置き忘れてある。
急いで取り上げて見たが、私はそれが千代子の忘れたものである事を直ぐに氣付いた。改札口の重い戸を力まかせに閉めて、転ぶやうに階壇を飛び降りたが、其刹那、新宿行の列車は今高く汽笛を鳴らした。
「高谷さん!! 高谷さん!!」と私は呼んで何時もの三等室の前へ駆けつけて繪はがきを差出したけれども、どうしたものか今日に限つて高谷は最後尾の室に居ない。
プラットホームに立つて居た助役の磯といふのが、私の手から奪ふやうに葉書を取つて、既に徐行を始めた列車を追うて、一二等室の前を駆け抜けたが、
「高谷さん! お忘れもの!」と呼んで繪はがきを差出した。
掌中の玉を奪はれたやうに茫然(ぼんやり)として佇んで居ると、千代子は車窓から半身を出して、サモ意外というたやうに夫を受取って一旦顔を引いたが、窓から此方(こつち)を見て、遥かに助役に会釈した。
平常(ふだん)から快からず思ふ磯助役の今日の仕打は何事であらう。あまり客に親切でもない癖に、美しい人と云へばあの通りだ。其癖自分はもう妻子もある身ではないか。
運転手は今馬力をかけたものと見えて、機関車は丁度巨人の喘ぐやうに、大きな音を立てて泥炭の煙を吐きながら澁谷の方へ進んで行く、高谷の乗つて居る室が丁度遠方シグナルのあたりまで行つた頃、思ひ出したやうに、鳥打帽子が窓から首を出して此方を見た。
それは大槻芳雄であつた。
千代子は大槻と同じ室に乗る爲に常例の室をやめたのではあるまいか。千代子はフトすると大槻と恋に陥つたのかも知れない。千代子は大槻を恋して居るに違ひない。私はかう思つて見たが、心の隅ではまさかさうでもあるまいと云ふ聲がした。
俯向(うつむ)いて私は私の掌を見た。労働に疲れ、雨にうたれて澁を塗つたやうな見苦しい私の掌には、ランプの油煙と、機械油とが染み込んで如何にも見苦しい。こんな穢(きたな)い手で私は高谷さんの繪葉書を持つたのか。
洗つたら少しは綺麗になるだらう。
かの筧(かけひ)の水のほとりには、もう野菊と紫苑(しをん)とが咲き乱れて、穂に出た尾花の下には蟋蟀(こほろぎ)の歌が手にとるやうである。私は屈(かゞ)んで柄杓(ひしやく)の水を汲み出して、せめてもの思ひやりに私の穢い手を洗つた。
「おい藤岡 ! あんまりめかしちやいけないよ。高谷さんに思ひ付かれやうたツて無理だぜ」
助役は別に深い意味で云うた訳でもなかつたらうけれど、私にとつては非常に恐ろしい打撃であつた。殆ど脳天から水を浴びせられたやうに恟然(ぎよつ)として見上げると磯は、皮肉な冷笑を浮べながら立つて居た。
「お千代さんが宜敷つて云つたぜ、どうも御親切に有難うツて……」
「だつて私は自分の…………」
とまでは云うたが、あとは唇が強張(こはば)つて、例へば夢の中で悶え苦しむ人のやうに、私は只助役の顔をヂッと見つめた。
「君 ! 腹を立てたのか、馬鹿な奴だ、そんな事で上役に怒つて見た処で何になる」
私は怒つた訳ぢやなかツたけれども、助役の語があまり烈しく私の胸に応へたので、それが只の冗談とは思はれなかつたからである。
私は初めから助役を快よく思うて居なかつたのが、此事以來、もう打ち消すことの出來ない心の隔てを覚えるやうになった。
八
「ちょいと、マア御覧よ、今度はこんな事が書いてあつてよ」と一人が小さい紙片を持つてベンチの隅に俯伏(うつぶ)すとやつと、十四五歳のを頭に四五人の子守女が低い足駄をガタつかせて、其上に重なりあうて各自(てんで)に口のなかで紙片の假名文字をおぼつかなく読んで見てキャッキャッと笑ふ。`
子守女とはいふものの皆近処の長屋に住んで居る労働者の娘で、學校から帰って來ると直ぐ子供の守をさせられる。雨が降っても風が吹いても此子守女が停車場(ステーション)に來て乗客(のりて)の噂をして居ない事は只の一日でもない。華やかに着飾つた女の場合は尚更で、さも羨しさうに打眺めてはヒソヒソと語りあふ。
季節の変り目に此平原によくある烈しい西風が、今日は朝から雨を誘(いざな)うて、硝子(ガラス)窓に吹き付ける。沈鬱な秋の日に乗客はほんの数へるばかり、出札の河合は徒然(つれづれ)に東向の淡暗い電信取扱口から覗いては、例の子守女を相手に聞きぐるしい、恥しい事を語りあうて居たが、果ては流石にロへ出しては云ひ兼ねるものと見えて、小さい紙片に片仮名ばかりで何やら怪しい事を書き付けては渡してやる。
女はそれを拾ひ読んでは娯(たのし)んで居る。其云ひしれぬ肉聲が、光の薄い湿つぽい待合室に鳴り渡つて、人の心を滅入らすやうな戸外の景色に対(くら)べて何となく悲しいやうな、又、淺猿(あさま)しいやうな氣がして來る。
「あれ──河合さん嫌だよ、よう! 堪忍しておくれよう!」と賎しい婦人の媚びるやうな、男の心を激しく刺激するやうな黄い聲がするかと思ふと、他の連中が、ワッと手をたゝいて笑ふ。
「もう雷様が鳴らなけりやあ離れない、雷様が」と河合が圧しつけるやうな低い聲で云ふ。
「謝つたよう! 謝った」と女は泣くやうに叫ぶ。一番年量(としかさ)の、多分高谷の姿でも眞似たつもりだらう髪を廂(ひさし)に結うて、間色のリボンを付けたのが、子を負つた儘。腰を屈めて、愛嬌の深い丸顔を眞赤にして頻(しき)りに謝まつて居る。
見ると女は何うしたものか火燈口から右の手を河合に取られて居る。河合は其手をギュッと握つて掌へ筆で何か描かうとして居る。
「痛いぢやあないか、謝るからよう! あれ一あんなものを描くよう……」
雨はまた一としきり硝子窓を撲つ。淋しい秋の雨と風との間に猥(みだ)りがましい子守女の聲が絶えてはまた聞えて來る。
私の机の下の菰包(こもづつみ)の蔭では折ふし思ひ出したやうに蟲の聲がする。
ふと見ると便所の方に向いた窓の硝子に人影が射したので、私はツイと立つて軒伝ひに冷たい雨の頻吹(しぶき)を浴びながら裏の方に廻つて見ると、青い栗の毬彙(いが)が落ち散つて、そこに十二三歳の少年が頭から雫のする麦藁帽子を被つてションボリとまだ實の入らぬ生栗を喰べて居る。
秋も稍蘭(た)けて、目黒はもうそろそろ栗の季節である。
九
見れば根つから乞食の児でもないやうであるのに、孤児(みなしご)ででもあるのか、何といふ哀れな姿だらう。
「おい、冷めたいだらう。そんなに濡れて、傘はないのか」
「傘なんか無い、食物だつて無いんだもの」と未だ水々しい栗の澁皮をむくのに余念もない。
「さうか、目黒から來たのか、家は何処だい。父親(ちやん)は居ないのか」
「父親なんかもう疾うに死んで仕舞つたい。母親(おつかあ)だけは居たんだけれど、タウトウ乃公(おれ)を置いてけぼりにして何処かへ行つて仕舞つたのさ。けども乃公アその方が氣樂で好いや。だつて母親が居ようもんならそれこそ叱られ通しなんだもの」
「母親は何をして居たんだい」
「納豆売(なつとううり)さ、毎朝麻布の十番まで行つて仕入て來ちやあ白金の方へ売りに行つたんだよ、けどももう家賃が払へなくなつたもんだから、乃公ばつかり置いてけぼりにして何処かへ逃げ出して仕舞つたのさ」
「母親一人でか?」
「小さい坊やもつれて!」
「何処に寝て居るのか」
「昨夜(ゆうべ)は大鳥様へ寝た」と権之助坂の方を指さして見せる。
私は余りの惨(いたま)しさに、ポケットから白銅を取り出して呉れてやると少年は無造作に受取つて「有り難う」と云ひ放つと其儘雨を衝いて長峰のおでん屋の方に駆けて行つて仕舞つた。
見送つて茫然(ぼんやり)と佇んで居ると足立駅長が洋服に蛇(じや)の目(め)の傘をさして社宅から來かけたが、廊下に立つてヂッと私の方を見て居た。雨垂の音にまぎれて氣が付かなかつたが、物の氣配に振り向くと其処に駅長が微笑を含むで居た。
今の白銅は私が夕飯のお菜を買ふ爲に持つて居たので、考へて見ると自分の身に引き比べて何だか気羞しくなつて來た。コソコソと室に入つて椅子に凭(もたれ)ると同時に大崎から來た開塞の信號が湿つぽい空氣に鳴り渡つた。
乗客(のりて)は一人もない。
十
雨が歇(や)むと快晴が來た。
シットリと濡れた尾花が、花やかな朝日に照り映えて、冷めたい秋風が一種云ひしれぬ季節の香を送つて來る。崖の上の櫨(はぜ)はもう十分に色づいて、何処からとなく聞えて來る百舌鳥(もず)の聲が、何となく天氣の続くのを告げるやうである。
今日は日曜で、乗客(のりて)が非常に多い。午後一時三十五分品川行の列車が汽笛を鳴らして運転を初めた頃、エビスビールあたりの帰りであらう面長の色の淺黒い會社員らしい立派な紳士が、眼のあたりにポッと微醺を帯びて、ステッキを持つた手に二等の青切符を掴んで階壇を飛び降りて來た。
「危い! 最早(もう)お止しなさい!! 駄目です、駄目です!」と私は一生懸命に制止した。
紳士は微酔(ほろゑひ)機嫌で余程興奮して居るものと見えて、私のいふ事を更に耳に入れない。行きなり疾走を初めた二等室を追ひかけて飛び乗りをしようとする。私は此瞬間確かに紳士の運命を死と認めた。
よし救へ! 私は立処(たちどころ)に大胆な決心をした。
將(まさ)に紳士が走り出した汽車の窓に手を掛けようとした刹那、私は紳士のインバネスの上から背後(うしろ)ざまに組み付いた。
「な、な、何をするか! 失敬な!! 此奴(こいつ)……」
「お止しなさい、危いです!!」
駅長も駆けつけた。
けれども此時紳士は男の力をこめて私を振り放したが、赫(くわつ)として向き返ると私の胸を突き飛ばした。私は突かれると其儘仰向に倒れたので、アッといふ間もなく、柱の角に後頭部をしたゝか打つけた。
× × ×
假繃帯の下から生々しい血汐が潤み出して私はいふ可からざる苦痛を覚えたが、駅長の出して呉れた筧(かけひ)の水をグウと飲み干すと稍元氣付いて來た。
汽車はもう遠く去つたけれども、隧道(トンネル)の口にはまだ黒い煙が残つて居る。と見ると紳士の顔にもしたゝか泥が付いて、恐ろしい争闘(いさかひ)でもした跡のやう、顔は青褪(あをざ)めて、唇には血の氣の色もない、俯向いて極りが悪さうに萎れて居る。口髯の稍赤味を帯びたのが特長で、鼻の高い、口許(くちもと)に締りのある、一寸苦味走つた男である。
紳士の前に痩型(やせぎす)の骨の引締つた三十前後の男が茶縞の背廣に脚絆(きやはん)といふ身軽な装束で突立つたまゝ眼を光らして居る。鳥打帽子の様子といひ草鞋を穿いた処といひ何処から見ても工夫の頭(かしら)としか見えない。
「どうだ上まで歩かれるか、大丈夫だらう。洗つて見たら大した傷でもあるまい」と駅長が優しくいふので、私も氣を取り直して柱を杖に立ち上つた。
傷は淺いと見えて最早あまり眩暈(めまひ)もしない。「最早大丈夫です」と答へると、駅長は一寸紳士の方を向いて、
「何(ど)うか一寸御話致したい事が御座いますから」といふと紳士は黙つて諾(うなづ)いた。
「ぢやあ君もね」と工夫頭の方を向いて駅長が促した。其親しげなものの云ひ振りで私は初めて、二人が知合であるといふ事を知つた。
駅長は親切に私をいたはつて階壇を昇ると其後から紳士と工夫頭とがついて來た。壇を昇り切ると岡田が駆けて來て、
「大槻様が今直ぐに参りますさうで」と駅長の前に息を切りながら復命した。
十一
私は其儘駅長の社宅に連れて行かれて、南向の縁側に腰を下すと、駅長の細君がまめまめしく立働いていろいろ親切に手を尽してくれる。
そこへ罷職(ひしよく)軍医の大槻延貴(のぶたか)といふのがやつて來て、手當にかゝる。私はヂッと苦痛(くるしみ)を忍んだ。
手術は程なく済んで繃帯も出來た。傷は案外に淺くつて一週間ばかりで全治するだらうといふ話、細君の汲んで來た茶を飲みながら大槻は傍に居た岡田を相手に、私が負傷した顛末を尋ねると細君も眉を顰(しか)めながら熱心に聞いて居たが。
「マア、ほんたうに危いですね、──それにしても藤岡さんが居なけれやあ、其人は今頃もう何うなつて居るか分りませんね」
「何にしろ、直ぐ隧道(トンネル)になるのですからね、どうしたつて助る訳は無いです」と岡田が口を入れる。
「危いですな! 汽車も慣れるとツイ無理をしたくなつて困るのです」と大槻はいうたが、細君と顔を見合はせて、さて今迄忘れて居たやうに互に時候の挨拶をする。
大槻は年頃五十歳あまり、もと陸軍の医者で、職を罷(や)めてからは目黒の三田村に移り住んで、静かに晩年を送らうといふ人、足立駅長とは謡曲の相手で四五年以來(このかた)の交際であるさうだ。
大槻芳雄といふのは延貴の独息子(ひとりむすこ)で、少からぬ恩給の下る上に遺産もあるので、出來るだけ鷹揚には育てたけれど、天性才氣の鋭い方で、學校も出來る、それに水彩畫が好きで若し才氣に任せて邪道に踏み込まなかつたならば天晴(あつぱれ)の名手となる事だらうと、さる先輩は嘆賞した。けれども此人の欠点をいへばあまり畫才に依頼しすぎて技術の修練をおろそかにする処にある。近頃大槻は或る連中と共に日比谷公園の表門に新設される血なまぐさいパノラマを描いたとかいふので朋友の間には、早くも此人の前途に失望して、やがては、女の淺猿しい心を惹く爲に、呉服屋のポスターでも描くだらうと云ふやうな蔭口をきく者も有るさうである。
岡田は暫らくするうちに、停車場(ステーション)の方に呼ばれて行く。大槻軍医も辞し去つた。後で駅長の細君は語を尽して私を慰めて呉れた。細君といふのは年頃三十五六歳、美人といふ程ではないけれども丸顔の、何となく人好きのすると云つたやうな質の顔である。
「下宿に居ちやあ何かと困るでせう。どうせ一週間ばかりなら宅に居て養生しても好いでせう。ね、宅でも大変お前さんに見込を付けていろいろ御國の事情なんかも聞いて見たいなんて云うて居ましたよ」
「え、有り難う。併し此分ぢやあ大した傷でもないやうですから、それにも及びますまい。奥様にお世話になるやうでは反(かへ)つて恐れ入りますから」
「何もお前さん、そんなに遠慮には及ばないよ。些少(ちつと)も構やあしないんだから、気楽にしてお出でなさいよ」細君は一人で承知して居る。
ブーンとものの羽音がしたかと思ふとツイ眼の先の板塀で法師蝉が鳴き出した。コスモスの花に夕日がさして、三歩の庭にも秋の趣はみちみちて居る。
「オ!! 奥様ですか、今日はとんだ事でしたね」と云ふ聲に見ると、大槻が開け放して行つた坪の戸から先刻プラットホームで見受けた工夫頭らしい男が聲をかけながら入つて來たのであつた。細君は立ち上つて、
「マア小林さん、今日は……随分お久しぶりでしたね」といふ口で座蒲團を出す。小林は一寸会釈しながら私を繃帯の下から覗くやうにして、
「何うだい君! 痛むかい。乱暴な奴もあるもんだね」
「え、有り難う、ナアニ大した事も無いやうです」
「傷も案外淺くてね、医者も一週間ばかりで癒るだらうつて云ふんですよ」と細君が口を添へる。
「奥様、今日は僕も關係者(かゝりあひ)なんですよ」
「エー、何うして?」とポッチリとした眼を視張る。
「あんまり乱暴な事を爲(し)やあがるので、ツイ足が辷つて野郎を蹴倒したんです」と云ひながら細君の汲んで出した茶をグッと飲み干す。私は小耳を引立てて聴いて居る。
十二
「今度複線工事の事に就て一寸用事が出來て此所(こゝ)までやつて來たのです。プラットホームで足立さんに會つて挨拶をして居ると、今の一件です。
駅長さんが飛び出したもんですから、私も直ぐ其後へ付いて行つた。此児が」といひかけて一寸私の方を見て、「野郎に突き倒されるのを見ると、グッと癪に障つて男の襟頸を引掴むで力任せに投げ出したんです。するとちやうど隧道(トンネル)に支(つか)へた黒煙が風の吹き廻しでパッと私達の顔へかゝつたんで何(ど)うなつたか一切夢中でしたけれども、眼を開いて見ると可愛さうに野郎インバネスを着たまゝ横倒しに砂利の上に這ひつくばつて居る……」
「マア !」と云うて人の好い細君は眉を顰(しか)めた、私も敵ながら此話を聞いては、あんまり好い氣持がしなかつた。
「それから足立さんと二人で、男を駅長室に連れ込んで談(はな)して見た処が、イやどうも分らないの何のつて、工學士と云へば、一通りの教育も有りながら、あんまり馬鹿氣て居て、話にも何にもならないです」
「悪かつたとも何とも云はないのですか」
「ヤレ駅夫が客に対してあんまり無法な事をするとか、ヤレ自分は工學士で汽車には慣れて居るから、大丈夫飛乗ぐらゐは出來るとか、宛然(まるで)酔漢(ゑひどれ)を相手にして話するよりも分らないのです。何しろ柔和(おとな)しい足立さんも今日は余程激して居たやうでした」
私は小林の談話を聴いて、云ひしれぬ口惜さを覚えた。自分の職務といふよりも、私があの紳士を制止したのは紳士の生命をあやぶんでの事ではないか、私は弱き者の理由が、かくして無下(むげ)に蹂躙(ふみにじ)られて行くのを思うて思はず小さい拳を握つた。
「柔和しい足立様の云ふ事が私には最早、間怠(まだる)つこくなつて來たもんですから、手厳しく談じ付けてやらうとすると足立様が待てというて制する。足立様はそれから静に理を分けて宛然(まるで)三歳児(みつご)に云ひ聞かすやうに談すと野郎も流石に理に落ちたのか、私の権幕に怖ぢたのか、駅夫の負傷は氣の毒だから療治代は何程でも出すと吐(ぬか)すぢやあ有りませんか」
私は思はず涙の頬に流れるのを禁じ得なかつた。療治代は出してやる。私は熟々(つくづく)人の心の悲しさを知つた。流石に人の好い細君も「マア何といふ人でせう!」というてホッと吐息を漏した。
「処が驚くぢやあありませんか、私と足立様とが、決して金を請求する爲にこんな事を云うたのぢやあ無い。療治代を貰ひ度い爲に話したのぢやあないと云ふと、野郎怪訝な顔をして居るのです。それから何と云ふかと思ふと、乃公(おれ)は日本鐵道の曾我とは非常に懇意の間だ。何か話しがあるならば曾我に挨拶しようと云ふ。私はもうグッと胸が塞つて來ましたから、構ふ事はない。最早遣付けて仕舞へと思つたのです。けれども、足立様がしきりに止める。私も駅長の迷惑になるやうではと思ひかへして腕力だけはやめにして出て來たんです」
話して居る処へ駅長が微笑を含むで入つて來た。
「曾我有準の名を余程我々が怖がるものと思つたのか、曾我々々と云ひ通して、俥で逃げ出して仕舞つたよ」と云ひながら駅長は制服の儘、小林と並んで縁側に腰を下したが、「どうも立派な顔はして居ても、話して見ると、あんな紳士が多いのだからな」と云うたが、思ひ出したやうに私の方を見て。
「傷はどうだい、あんまり大した事もあるまい。今、岡田に和服(きもの)を取りに行つて貰ふ事にした」
短かい秋の日はもう暮れかけて、停車場では電鈴がさも忙しさうに鳴り出した。
十三
栗の林に秋の日の幽かな大槻醤師の玄關に私はひとり物思ひながら柱に倚つて、藥の出來るのを待つて居る。
「もう好いのよ……」何処かで聞き覚えのある、優しい処女の聲が、患者控室に當てた玄関を距てて薬局に相対(むかひあ)つた部屋の中から漏れて來たが、廊下を歩む氣配がして、暫くすると、中庭の木戸が開いた。
高谷千代子の美しい姿が其処へ現はれた。何時にない髪を唐人髷(たうじんまげ)に結うて、銘仙の着物に、淺黄色の繻子(しゆす)の帯の野暮なのも此人なればこそ好く似合ふ。小柄な體躯(からだ)をたをやかに、一寸鬱金色(うこんいろ)の薔薇釵(ばらかざし)を氣にしながら振り向いて見る。そこへ大槻が粋な鳥打帽子に、紬(つむぎ)の飛白(かすり)、唐縮緬の兵児帯(へこおび)を背後で結んで、細身のステッキを小脇に挾んだ儘小走りに出て來たが、木戸の掛金を指すと二人肩を並べて、手を取らんばかりに門の方に出て行くのである。
千代子は小さい薬瓶を手巾(ハンカチ)に包んで、それに大槻の描いた水彩畫であらう、半紙を巻いたものを提げて居る。私はハッとしたが、隠れるやうに項垂(うなだ)れて、繃帯のした額に片手を當てた。さうして今一度門の方を見返した。
私が見返した時、二人は丁度今門を出る処であつたが、一斉(いつせい)に玄関の方を振り向いたので、私とバッタリ視線が會うた。私は限りなき羞しさに、俯向いたまゝ薬局の壁に身を寄せた。
きのふまで相知らなかつた二人が何うして、あんな昵懇(ちかづき)になつたのであらう。千代子が大槻を訪ねたのか、イヤイヤそんな事はあるまい、私は信じなかつたが世間の噂では大槻は非常に多情な男で、これまでにもう幾度も処女を弄んだ事があるといふ。さう云へば此間も停車場(ステーション)で態々(わざわざ)千代子の戸を開けてやつた処など恥しげもなく、鐵面皮(あつかま)しいのを見れば大槻が千代子を誘惑したに相違ない。それにしても何と云うて云ひ寄つたらうか。
千代子が大槻の処へ何処か診察して貰ひに行つて、此玄關に待合して居る処へ大槻が奥から出て來て物を云ひかけたに違ひない。「マア此方へ來て畫でも見て入らつしやい」などと云ふ。大槻は好い男だし、それに彼の才氣で口を切られた日には、千代子でなくとも迷はない者はあるまい。
佳人と才子の恋といふのは之であらう。大槻が千代子を恋ふのが無理か、千代子が大槻を慕ふのが無理か、たとへば繪そら言に見るやうな二人の姿を引きくらべて見て私は更に、「私が千代子を恋するのは無理ではないだらうか」と、我と我心に尋ねて見たが、今迄私の思うた事のいつか恐ろしい嫉妬の邪道に踏み込んで居たのに氣がつくと、私はもう堪へかねて繃帯の上から眼を蔽うて薬局の窓に俯伏した。
「藤岡さん、藥が出來ましたよ」と書生は藥を火燈口から差出して呉れたが、私の姿をあやぶんで、
「まだ痛みますか、どうしたんです?」と窮屈さうに覗きながら尋ねる。
「いゝえ、何(ど)うも致しません」と私は簡単に応へて大槻の家の門を出たが、水道の掘割に沿うて、紫苑の花の咲きみだれた三田村の道を停車場の方にたどるのである。
私は何故に千代子の事を想うてこんなに苦しむのだらう。私はゆめ彼女を恋しては居ない。私は何時までも何時までも彼女の事を思ふにしてもそれは思ふばかりで、それで畢竟(つまり)何うしようと云ふのでもない、恋しても居ない人の事を、何故こんなに氣にするのだらう。
それとも之が恋といふものであらうか。
私の耳には眞昼の水の音が宛然(さながら)ゆめのやうに聞えて、細い杉の木立から漏れて來る日の光が、月夜の影のやうに思ひなされた。
十四
私の傷はもう大かた癒えた、次の月曜日あたりから出勤しようと思つて、午後駅長の宅を訪ねて見た。細君が独(ひとり)で板塀の外で張物をして居たが、私が会釈するのを見て、
「今日は留守ですよ、非番でしたけれども本社の方から用があるというて來ましたので朝出かけた儘ですよ」
「何んな御用でせう。此間の事件(こと)ではないでせうか」
「サア、宅(うち)の人もさう云うて居ましたがね、些少(ちつと)も心配する事はないと云つて出て行きましたよ」と去(さ)り氣(げ)なく云うたけれども、私は細君の眉のあたりに何となく晴れやらぬ憂ひの雲を見た。
私は此好い細君が襷をあやどつて甲斐々々しく立働きながらも、夫の首尾を気づかうて、憂を胸にかくして居る姿を見て、しみじみと奉職(つとめ)の身の悲しさを覚えて、私の為過(しすご)しから足立駅長のやうな善人が、不慮の災難を被(き)る事かと思ふと、身も世もあられぬやうな想ひがした。
「心配な事はないでせうか」
「大丈夫でせう」と云うたが、顔を上げて、
「最早(もう)快(い)いのですか」
「えゝ明後日あたりから出勤する事にしたいと思ひまして……」
× × ×
其夜の月はいと明るかつた。
駅長は夕方帰つて來たが、けふは好きな謡曲もやらないで、私の訪ねるのを待つていろいろ其日の首尾を話してくれた。
要するに、私の心配した程でもなかつたが、駅長は云ふ可らざる不快を含むで帰つて來たらしい。
此間の工學士といふのは品川に住んで居た東京市街鐵道會社の技師を勤めて居る蘆(ろ)鉦次郎といふ男で三十二年の卒業生であるさうだ。宮内省に勤めた父親の關係から、社長の曾我とも知合の間で此間の失敗を根に持つて余程卑怯な申立をしたものと見えて初めは大分事が大袈裟であつたのを、幸に足立駅長が非常に人望家であつた爲に、営業所長が力を尽して調停(とりな)して呉れて、辛(やつ)と無事に済んだといふ事であつた。
さう云ふ首尾では駅長が不快に思ふのも無理はない。私は非常に氣の毒に思うて、私が悪いのだから、私が職を罷(や)めたならば、上役の首尾も直るでせうと云へば、駅長は直ぐ打消して、反つて私を慰めた上に、いろいろ行末の事も親切に話して呉れた。
私は駅長の問ふにまかせて、私の身の上話をした。月影のさす秋の夜に心ある夫婦の前で寂しい來しかたの物語をするのは私にとつて、此上(こよ)なき歓喜(よろこび)であつた。
私の父は静岡の者で、母はもと彦根の町のさる町家(まちや)の娘で、まだ振分髪の時分から井伊家に仕へてかの櫻田事件の時には漸(やつ)と十八歳の春であつたといふこと、それから時世が変つて、廃藩置県の行はれた頃には井伊の老臣の石黒某なるものに従うて、遠州濱松へ來た。
石黒某が濱松の縣令に抜擢されたからで、母は櫻田の騒動以來、此石黒某に養はれて居たのであつた。
母は此処で縁があつて父と結婚して、長い御殿奉公を止めて父と静岡に可なりの店を開いて、幸福に暮して居た。母の幸福な生活といふのは實は此十年ばかりの夢に過ぎなかつたので、私は想うて母の身の上に及ぶと、世に婦人の薄命といふけれど、私の母ばかり不幸な人は多くあるまいと思はぬこととてはないのである。
父が死んでから、私達母子(おやこ)は叔父の家に寄寓して云ふに云はれぬ苦労をしたが、私は小學校を出て叔父の仕事の手伝をして居る間も深く自分の無學を羞ぢて、他人ならば學校盛りの年頃を、徒(いたづ)らに羞しい労働に埋れて行く事を悲しんだ。私が漸く年頃となるに連れて叔父との調和(をりあひ)がむづかしく若い心の物狂はしきまで只管(ひたすら)に、苦學──成功といふやうな夢に憧れて、母の膝に歎き伏した時は、苦労性の氣の弱い母も竟(つひ)に私の願望を容れて、下谷の清水町にわびしく住んで居る遠縁の伯母をたよりに上京する事を許して呉れた。
去年の春下谷の伯母を訪ねて、其寡婦(やもめ)暮しの聞きしにまさる貧しさに驚かされた私は、三崎町の「苦學社」の募集廣告を見て、天使の救ひにあうたやうに、雀躍(こをどり)して喜んだ。私は功名の夢を夢みて「苦學社」に入つた。
母の涙の紀念(かたみ)として肌身離さず持つて居た僅かの金を惜しげもなく抛げ出して入學した三崎町の苦學杜を、逃出して、再び下谷の伯母の家に駆け込んだ時は、自分ながら生命のあつたのを怪しんだ程である。私は初めて人間の生血を搾る、恐ろしい悪魔の所業をまのあたり見た。
坂本町に住む伯母の知合の世話で私が目黒の駅に勤める事になつたのは、去年の夏の暮であつた。私はもう食を得ることより外に差當りの目的はない。功名も富貴も、それは皆若い私の夢であつた。私はもう塵のやうな、煙のやうな未來の空想を捨てて、辛い、苦しい生存(ながらへ)の途をたどらなければならないのだ。私の前には餓死と労働との二つの途があつて私は只常暗(とこやみ)の國に行く爲に、其途の一つをたどらなければならないのだ。
駅長も細君も少からぬ同情を以て私の話を聞いて呉れた。稍寒い秋の夜風が身にしみて坪の内には蟲の聲が雨のやうである。
十五
其夜駅長は茶を啜りながら、此間プラットホームで蘆(ろ)工學士を突き倒した小林浩平の身の上話をして呉れた。私が只學問とか榮誉とかいふ果敢(はか)ないうつし世の虚榮を慕うて、現實の身を羞ぢ、世をかねる若い心をあはれと思つたからであらう。其話の大概(あらまし)はかうであつた。
小林といふのは駅長の郷里で一番の旧家でまた有名な資産家であつた。先代に男の子が無くて娘ばかり三人、総領のお幾といふのが彌吉といふ婿を迎へて、あとの娘二人は夫々(それぞれ)他所に縁付いてしまつた。此彌吉とお幾との間に出來たのが彼の小林浩平で、駅長とは竹馬の友であつた。
処がお幾は浩平を産むと兎角病身で、彼が漸(やつ)と六歳の時に病死して仕舞つた。彌吉も未だ年齢は若いし、独身で暮す訳にも行かないので、小林の血統から後妻を迎へて平和に暮して行くうちに後妻にも男の子が二人も生れた。
彌吉は性來義理固い男で、浩平は小林家の一粒種だといふので、かりそめの病氣にも非常に氣を揉んで、後妻に出來た子達とは比較にならぬほど大切にする。妻も無教育な女にしては珍らしい心掛けの持主で夫の処置を夢さら悪く思ふやうな事なく、實子は措いて浩平に尽すといふ風で、世間の評判も好く彌吉も妻の仕打を非常に満足に想うて居た。
処が浩平が成長して見ると誰の氣質を受けたものか、余程の変物(かはりもの)であつた。頭が割合に大きいのに顎がこけて愛らしさの少しも無い、云はば小児らしい処の少い、陰氣な質であった。學友は何時しか彼を「辣韮(らつきよ)」と呼びなして囃(はや)し立てたけれども、此陰鬱な少年の眼には一種不敵の光が浮んで居た。
中學へ行つてからの事は駅長は少しも知らなかつたさうだ。併し一緒に行つたものの話では小學時代と打つて変つて恐ろしい乱暴者になつたさうだ。卒業する時には誰でも小林は軍人志願だらうと想像して居たが、彼は上京して東京専門學校で文學を修めた。此間駅長は鐵道學校に居て彼に関する消息は少しも知らなかつたが、四年ばかり以前に日鐵労働者の大同盟罷工(ストライキ)が行はれた時、正義倶楽部の代表者として現はれたのは、工夫あがりの小林浩平であつた。
驚いて様子を聞いて見ると、彼は學校を出ると其儘、父親に手紙を遣つて「小作人の汗と、株の配當とで生活するのは人間の最大罪悪だ。家産は弟にやる、自分はどうか自由に放任して置いて呉れ」といふ意味を書き送つた。父親は非常に驚いて何か不平でもあるのか、家産を弟に譲つては小林家の先祖に対して申訳がない、殊に世間で親の仕打が悪いから何か不平があつて、面當(つらあて)にする事と思はれては困るといふので、泣くやうにして頼んで見たけれど浩平は頑として聞かなかつた。百方手を尽して見たけれどもそれは全く無駄であつた。
村では浩平を氣が触れたと評判する者さへ有つたさうだ。
幾萬の家産を抛(なげう)ち、義理ある父母を棄てた浩平は其儘工夫の群に姿を隠したが何時の間にか其前半生の歴史を暗ましてしまつた。彼が野獣のやうな工夫の團結を見事に造り上げて、其陣頭に現はれた時には社会に誰一人として彼の學歴を知つて居るものは無かつたのである。駅長は其頃中仙道(なかせんだう)大宮駅に奉職して居て、十幾年かぶりで小林に会見したのであつたさうだ。
「君なんぞまだ若氣の一途(いちづ)に、學問とか、名誉とかいふ事ばかりを思ふのも無理はないけれど、何もそんな思ひをして學問をしなくつても人間の尽す道は吾々の生活の上にも十分あるではないか。
見給へ、學問をして態々(わざわざ)工夫になつた人さへあるでは無いか、君! 大に自重しなくちや好(い)けないよ。若い者には元氣が第一だ」
「はい……」と小さい聲で応へたが、私は何とも知れぬ悲しさと嬉しさとが胸一ぱいになつて、熱い涙がハラハラと頬を流れる。努めて一口応答(うけこたへ)をしようと思ふけれど、張りさけるやうな心臓の激動と、とめどなく流れる涙とに私は只啜上げるばかりであつた。
「小林はあれで立派な學者だ。此間の話では複線工事の監督に此所へ來るといふ事だから、君も氣を付けて昵懇(ちかづき)になつて置いたら何かと都合が好からう」
私の胸には暁の光を見るやうに、新しい勇氣と、新しい希望とが湧いた。
十六
社宅を辞して戸外に出ると夜は更けて月の光は眞昼のやうである。私は長峰の下宿に帰らず、其儘夢のやうな大地を踏んで石壇道の雨に洗はれて険しい行人坂を下りた。
故郷の母のこと、下谷の伯母のこと、それから三崎町の「苦學社」で嘗めた苦痛と恐怖とを想ひ浮べて連想は果てしもなく、功名の夢の破れに驚きながら何時しか私は高谷千代子に対する愚かな恋を思うた。私が是まで私の恋を思ふ度に、冷たい私の智恵は私の耳に囁いて、恋ではない、恋ではないと我と我心を欺いて纔(わづか)に良心の呵責を免れて居たが、今宵此月の光を浴びて來し方の詐欺(いつはり)に思ひ至ると、自分ながら自分の心の淺猿(あさま)しさに驚かれる。
私は今改めて自白する。私の千代子に対する恋は、殆ど一年にわたる私の苦悩であつた。煩悶であつた。さうして私はいま又改めて此月に誓ふ。私は千代子に対する恋を捨てて新しい希望に向つて、男らしく進まなければならない。丁度千代子が私に対するやうな冷さを、数限りなき私達の同輩(なかま)は此社会(よのなか)から受けて居るではないか。私はもう決して高谷千代子の事なんか思はない。
決心につれて涙がこぼれる。立ち尽すと私は初めて荒漠な四邊(あたり)の光景に驚かされた。幽かな深夜の風が玉蜀黍の枯葉に戦(そよ)いで、轡蟲(くつわむし)の聲が絶え絶えに、行く秋のあはれをこめて聞えて來る。先刻(さつき)、目黒の不動の門前を通つた事だけは夢のやうに覚えて居るが、今氣が付いて見ると私は桐ケ谷から碑文谷(ひもんや)に通ふ廣い畑の中に佇んで居る。夜はもう二時を過ぎたらう。寂寞(ひつそり)として宛然(まるで)世の終を見るやうである。
人の髪の毛の焦げるやうな一種異様な臭氣(にほひ)が何処からともなく身に迫つて鼻を撲(う)つたと思ふと、慄然(ぞつ)とするやうに物寂しい夜氣が骨にまでも沁み渡る。
何だらう、何の臭気だらう。
おゝ、私は何時の間にか桐ケ谷の火葬場の裏に立つて居るのだ。森の梢には巨人が帽を脱いで首を擡げたやうに赤煉瓦の煙突が見えて、一度高く静かな空に立ち上つた煙は、また横に靉(たなび)いて、傾く月の光に葡萄鼠の色をした空を徐(しづ)かに蛇窪村(じやがくぼむら)の方に流れて居る。
私は多摩川の丸子街道に出て、大崎に帰らうとすると火葬場の門のあたりで四五人の群に行合うた。私は此人達が火葬場へ佛の骨を拾ひに來たのだといふ事を知つた。両傍に尾花の穂の白く枯れた田舎道を何か寂しさうにヒソヒソと語らひながら平塚村の方に行く後影を私は見送りながら佇んだ。
「おい兄(にい)や、どうしてこんな処へ來たんだい。怪(をか)しいな。狐に魅(つま)まれたんぢやあ無いの?」
私は少年の聲に慄然(ぞつ)として振り向きさま、月あかりにすかして見ると驚いた。此間雨の日に停車場で五銭の白銅を呉れてやつた、彼の少年ではないか。
「君か、君こそどうしてこんな処に來て居るのかい」と私はニタニタ笑つて居る少年の顔を薄氣味悪く覘(のぞ)きながら問ひ返した。
「乃公(おれ)ア當り前よ、此処の御客様に貰ひに來て居るのぢやあ無いか、兄やこそ怪しいや!」と少年は頻りに笑つて居る。
噫(あゝ)、少年は火葬場に骨拾ひに來る人を待受けて施與(ほどこし)を受ける為に、此物寂しい月の夜をこんな処に彷徨(うろつ)いて居るのだ。
五位鷺(ごゐさぎ)が鳴いて夜は曉に近づいた。
十七
其年も暮れて私は十九歳の春を迎へた。
停車場(ステーション)では此頃鐵の火鉢に火を山のやうにおこして、硝子(ガラス)窓を閉め切つた狭い部屋の中で、駅長の影さへ見えなければ椅子を集めて高谷千代子と大槻芳雄の恋物語をする。駅長と大槻とは知合なので駅長の居る時は流石に一同遠慮して居るけれども、助役の當番の時なんぞは、殆ど終日其噂で持ち切るやうな有様である。乃公(おれ)は彼処の森で二人の姿を見たといふものがあれば、乃公は此処の野道で二人が手を取つて歩いて居るのを見たといふ者がある。それから話の花が咲いて、有る事ない事、果ては聴くに忍びないやうな猥(みだ)りがましい噂に落ちて、ドッと笑ふ。
最も之は停車場ばかりの噂ではなかった。長峰の下宿の女房も、権之助坂の團子屋の老婆も、私は至る処で千代子の恋の噂を耳にした。千代子は絶世の美人といふのではないけれども、大理石のやうに細(こま)やかな肌、愛嬌の滴るやうな口許(くちもと)、小鹿が母を慕ふやうな優しい瞳は少くとも萬人の眼を惹いて随分評判の高かつただけに世間の嫉妬(ねたみ)も亦恐ろしい。
嫉妬 ! 私は世間の嫉妬の恐ろしさを今初めて知つた。憐れなる乙女は切なる初恋の盃に口づけする間もなく、身は何時の間にか此恐ろしい毒焔の渦(うづま)きに包まれて、身動きも出來ない讒謗(ざんばう)の糸は、幾重にも其いたいけな手足を縛(いまし)めて居たのである。「何うして大槻といふ奴は有名な男地獄で、最早(もう)横濱に居た時分から婆藝妓なんかに可愛がられた事があつて大変な玉なんだ」と誰やらがこんな事をいうた。
「女だつてさうよ、蟲も殺さないやうな顔はして居ても、根が越後女だからな」私はこんな讒誣(そしり)の聲を聞く度に云ふに云はれぬ辛い思をした。私の同情は無論純粋の清い美しい同情ではなかつた。二人の運命を想ひやる時には、いつでも忌はしい我の影がつき纏うて、他人の幸福を呪ふやうな淺猿しい根性も萌すのであつた。
實際千代子の大槻に対する恋は優しい、はげしい、またいぢらしい初恋のまじり無き眞情であつた。萬事に甘い乳母を相手の生活は千代子に自由の時を與へたので。二人夕ぐれの逍遙(そゞろあるき)など、深き悲痛を包んだ私にとつては此上なく恨めしい事であつた。
貧しき者は、忘れても人を恋するものでない。
恋──といふも烏滸(をこ)がましいが、私にとつては切なる恋、其恋のやぶれから、云ひしれぬ深い悲哀がある上に、私は思ひがけない同輩(なかま)の憎悪を負はなければならない身となつた。それは去年の秋の蘆(ろ)工學士事件から、私は足立駅長に少からぬ信用を得て、時々夜など社宅に呼ばれる事がある。他の同輩はそれを非常に嫌に思うて居る。
私は性來の無口、それに人との交際(つきあひ)が下手で一度隔つた心は、いつ調和がつくといふ事も無く日に疎(うと)ましくなつて行く。磯助役を始め同輩の者とは此頃碌々口をきく事も稀である。私はこんなに同輩から疎まれると共に親しい一人の友が出來た。それはかの漂浪の少年であつた。
此頃の寒空に吹き暴(さら)されて流石に堪へ兼るのであらう。日あたりの好い停車場の廊下に來て、倨(うづく)まつては例の子守女にからかはれて居る。雪の降る日、氷雪(みぞれ)の日、少年は人力車夫の待合に行つて焚火にあたる事を許される。
少年は三日におかず來る。私は暇さへあれば此小さい漂浪者を相手にいろいろの話をして、辛くあたる同輩の刃のやうな口を避けた。私は何時か千代子と行き会つたかの橋の欄干(おばしま)に倚つて、冬枯れの曠野にションボリと孤独の寂寥を心ゆくまでに味ふことも幾度かであつた。
十八
寂しい冬の日は暮れて、やはらかな春の光が又武藏野にめぐつて來た。
丁度三月の末、麦酒(ビール)会社の岡につづいた櫻の蕾が綻びそめた頃、私は白金(しろかね)の塾で大槻医師が転居するといふ噂を耳にした。塾といふのは片山といふ基督(キリスト)教信者が開いて居るのでもとは學校の教師をして居たのが、文部省の忌憚に触れて、夫(それ)からは最早職を求めようともせず、白金今里町の森の中に小さい塾を開いて近所の貧乏人の子供を集めては氣焔を吐いて居る。駅長とは年頃懇意にして居るので、私は駅長の世話で去年の秋の暮あたりから、休暇の日の午後を此片山の塾に通ふ事とした。
片山泉吉というて年齢(とし)は五十ばかり、思想は古いけれども、明治十八年頃に洗礼を受けて、國粋保存主義とは随分はげしい衝突をして来たので、貧乏の中に老いたけれども、氣骨はなかなか青年を凌ぐ勢である。
私は此老夫子(ふうし)の感化で多少読書力も出來た。労働を卑しみ、無學を羞ぢて、世を果敢(はか)なみ、身をかねると云ふやうな女々しい態度から小さいながら、弱いながらも胸の焔を吐いて、冷たい社会を燬(や)きつくしてやらうと云ふやうな男々しい考も湧いて來た。
大槻が転居するといふ噂は、私にとつて全然(まるきり)、他事(ひとごと)のやうには思はれなかつた、私はそれとなく駅長の細君に、聞いて見たが噂は全く事實であつた。肌寒い春の夕がた私は停車場(ステーション)の柱によつて千代子の悲愁を想ひやつた。思ひなしか此頃其女の顔がどうやら憔(やつ)れたやうにも見える。
大槻の家族が巣鴨に転居してから、一週間ばかり、金曜の午後私が改札口に居ると大槻芳雄が來て小形の名刺を私に渡して小聲で囁いた。
「高谷様に之を渡して呉れないか」率直に云へば私は大槻が嫌ひだ。大槻が嫌ひなのは私の嫉妬ではないと思ふ。けれども私が今これを拒むのは何となく嫉妬のやうに見えてそれは卑怯だといふ聲が心の底で私を責める、私は黙つて諾(うなづ)いた。
「有り難う!」と如何にも嬉しさうに云うたが、「君だからこんな事を頼むのよ、好いね詰度(きつと)渡して呉れ給へ!」と念を押すやうにして、ニッコリ笑つた。何といふ美しい青年であらう。心憎いといふのはかう云ふ姿であらう。
何うしたものか其日千代子の學校の帰りは晩(おそ)かつた。何処でどうして私は之を千代子に渡さうかと思つたが、胸は何となく安からぬ思ひに悩んだ。長い春の日も暮れて火ともし頃、なまめかしい廂髪(ひさしがみ)に美人草の釵(かんざし)をさした千代子の姿がプラットホームに現はれた。私は千代子の背後(うしろ)に随いて階壇を昇つたが、他に客は殆ど無い。
「高谷さん!」私は四邊(あたり)を憚りながら呼びかけた。思ひなしか千代子は小走に急ぐ、「高谷さん!」と呼ぶと、此度は壇の中程に立ち止つて私の方を向いたが、怪訝な顔をして口許を手巾(ハンケチ)でおほひながら、鮮やかな眉根を一寸顰(しか)めて居る。
「何ですか大槻さんが之を貴女に上げて下さいつて……」と私は名刺を差出した。
「あゝさう」と蟲の息のやうに応へたが、サモきまりが悪さうに受取つて、淡暗(うすぐら)い洋燈(ランプ)の光ですかして見たが、「どうも有り難う」と迷惑さうに会釈する。私はこの千代子の冷澹な態度に、丁度、長い夢から覚めた人のやうに暫らくは茫然(ぼんやり)として立ち尽した。
辛い人の世の生存(ながらへ)に敗れたものは、鳩のやうな処女の、繊弱(かよわ)い足の下にさへも蹂躙(ふみにじ)られなければならないのか。
翌日、千代子は化粧(よそほひ)を凝らして停車場に來た。其夕、大槻は千代子を送つてプラットホームに降りたが、上野行の終列車で帰つた。土曜、日曜の夕、其後私は幾度も大槻が千代子を送つて目黒に來るのを見た。二人がひそひそと語らひながら、私の顔を見ては何事か笑ひ興ずる時など、私は胸を刳(えぐ)つて嬲殺(なぶりごろし)にされるやうな思ひがした。
佳人と才子との恋は其後幾程もなく消え失せて大槻の姿は再び目黒の階壇に見られなくなつた。例へば曠野に吐き出した列車の煤煙のやうに、さしも烈しかつた世間の噂も何時とはなしに消えて、高谷千代子の姿はいま暮春の花と見るばかり、独り南郊の岡に咲きほこつて居る。
十九
其春のくれ、夏の初から山の手線の複線工事が開始せられた。目黒停車場(ステーション)の掘割は全線を通じて最も大規模の難工事であつた。小林浩平は数多の土方や工夫を監督する爲に出張して、長峰に借家をする。一切の炊事は若い工夫が交代(かはりばん)に勤めて居る。私は初めて小林の勢力を眼(ま)のあたり見た。私は眼に多少の文字ある駅員などが反つて見苦しい虚榮に執着して妄想の奴隷となり、同輩互に排斥し合うて居るのに、野獣のやうな土方や、荒くれな工夫が、此首領の下に階級の感情があくまでも強められ、團結の精神の如何にもよく固められたのを見て、私は聊(いささ)か羞しく思うた。あらぬ思に胸を焦して、罪もない人を妬(ねた)んだり、また悪(にく)しんだりした事の淺猿しさを私はつくづく情なく思うた。
工事は眞夏に入つた。何しろ客車を運転しながら、溝のやうに狭い掘割の中で小山ほどもある崖を崩して行くので、仕事は容易に捗らぬ、一隊の工夫は恵比須麦酒(ゑびすビール)の方から一隊の工夫は大崎の方から目黒停車場を中心として、徐々(だんだん)と工事を進めて來る。
初めのうちは小さいトロッコで崖を崩して土を運搬して居たのが、工事の進行につれて一臺の機關車を用ふる事になつた。たとへば熔炉の中で人を蒸し殺すばかりの暑さの日を、悪魔の群れたやうな土方の一団が、各自(てんで)に十字鍬や、ショーブルを持ちながら、苦しい汗を絞つて、激烈な労働に服して居る処を見ると、私は何となく悲壮な感にうたれる。恵比須停車場の新設地まで泥土を運搬して行つた土工列車が、本線に沿うて纔(わづ)かに敷設された假設軌道(レール)の上を徐行して來る。見ると渋を塗つたやうな頑丈な肌を、烈しい八月の日に暴(さら)して、赤裸體(あかはだか)のもの、襯衣(シヤツ)一枚のもの、赤い褌(ふんどし)を締めたもの、鉢巻をしたもの、二三十人が各自に得物(えもの)を提げて何処といふ事なしに乗込んで居る。汽罐の正面へ大の字に跨つて居るのが有るかと思へば、踏臺へ片足かけて、體躯(からだ)を斜に宙に浮かせて居るのもある。何か頻(しき)りに罵り騒ぎながら、野獣のやうな眼をひからせて居る形相(ぎやうさう)は所詮人間とは思はれない。
余程のガラクタ機關と見えて、空箱の運搬にも、馬力(ばりき)を苦しさうに喘がせて、泥煙をすさまじく突き揚げて居る。土工列車がプラットホーム近くで進行を止めた時、澁谷の方から客車が來た。掘割工事の処に入ると徐行して、今土工列車の傍を通る。土方は云ひ合せたやうに客車の中を覘(のぞ)き込んだが何か眼についたものと見えて、
「ハイカラ! 此処まで來い」
「締めてしまふぞ……脂が乗つてやあがら」
「女學生! ハイカラ! 生かしちやあ置かねえぞ」
私は恐ろしい肉の叫喚(さけび)をまのあたり聴いた。見ると三等室の戸が開いて、高谷千代子が悠々とプラットホームに降りた。華奢(きやしや)な洋傘(かうもり)をパッと拡げて、別に紅い顔をするのでもなく、薄い唇の固く結ぼれた口許(くちもと)に、泣くやうな嘲るやうな一種冷やかな表情を浮べて階壇を登つて行つて仕舞つた、土方はもう顧(みかへ)る者もない、何時の間にかセッセと働いて居る。
私は何故に同じ労働者でありながら、彼の土方のやうに洒然(さつぱり)として働けないのであらう。
土方が額に玉のやうな汗を流して、腕の力で自然に勝つて、あらゆるものを破壊して行く間に、私達は、シグナルやポイントの番をして、機械に生血を吸ひ取られて行くのだ。私達の此痩せ衰へた亡者のやうな體躯(からだ)に比べて、私はあの逞しい土方の體躯が羨ましい。そして一口でも好いからあの美しい千代子の前に立つて、あんな暴言が吐いて見たい。
私は片山先生と小林監督との感化で冬の氷に鎖されたやうな冷たい夢から覚めて、人を羨み身を羞(はぢ)るといふやうな、氣遅れ勝ちの卑しい根性を漸次(だんだん)に捨てて行くことが出來た。
新しい希望に満されて、私は新しい秋を迎へた。
二十
「今日の社会は大かた今僕が話したやうな状態で、丁度また新しい昔の大名(だいみやう)が出來たやうなものだ。昔の大名は領土を持つて居て、百姓から自分勝手に取立をして、立派な城廓を築いたり、又大勢の家來を抱へたりして居た。今話した富豪(かねもち)といふ奴がヤハリ昔の大名と同じで、領土の代りに資本を持つて居る。大仕掛の機械を持つて居る。資本と機械とがあれば、もう吾々労働者の生血を絞り取る事は容易なものだ。昔の百姓、町人達が土下座をして大名の行列を拝んで居る処へ行つて、今から後には御大名だとか將軍様だとか云ふものが無くなつて、皆同等の人間として取扱はれる時が來るというて見た処で、それを信ずるものは一人も無かつたに違ひない。けれども時が來れば大名も無くなる、将軍もなくなる。今僕が茲(こゝ)で君に話したやうな事を、仲間の奴等に聞かして見た処で仕方がない。
いや、僕にしてからが是からの社会は何(ど)んなであらうとか、何時そんな社会になるであらうと云ふやうな事を深く考へるのは大嫌ひだ。又そんな暇もないのだが、少くも現在自分等は朝から晩までこんな苦しい労働をしても何故浮ぶ瀬がないのか、何故こんな世智辛い社会になつたのか、また自分等と社会とは何ういふ関係になつて居るのかといふ事位は皆が知つて居て呉れなくちやあ困る。僕が先刻(さつき)話したやうな事をだね」
小林監督は私を非常に愛してくれる。今日も宵から親切に話し続けて今の社会の成立を殆ど一時間に亙つて熱心に説明して呉れた。
「先年大宮で同盟罷工(ストライキ)があつてから、一時社会では非常に彼(あ)の問題が喧しかつたが、労働者は世間で云ふやうに煽動(おだて)て見た処でさう容易(たやす)く動くものぢやあない。學者なんて云はれる奴等が、同盟罷工と云へば宛然(まるで)お祭騒でもして居るやうに花々しい事に思ふのが第一氣に喰はねえ。縦令(よし)んば煽動(おだて)たにしろ、また唆(そゝのか)したにしろ、君も知つての通り彼(あ)の無教育な連中が一個月なり二個月なり、飢渇を忍んで團結すると云ふ事實の底には、どれ程の苦痛や悲哀があるのか知れたものではない」窪んだ眼は今にも火を見るかと思はれるばかり輝いて、彼の前にはもう何者もない、彼はもう去年プラットホームで私の爲に工學士を突き飛(とば)した工夫頭ではなくて、立派な一角(ひとかど)の學者だ。感にうたれ項(うなじ)を垂れて聴きとれて居る私の姿が、彼にとつては百千の聴衆とも見えるやうである。
「時の力といふものは恐ろしいものだ。大宮一件以來もう十五年になる、僕達が非常に苦痛を嘗めて蒔いた種が此頃漸く芽を出しかけた。北海道にも、足尾にも、別子(べつし)にも、長崎にも僕達の思想(おもひ)は煙のやうに忍び込んで、労働者も非常な勢で覚醒(めざ)めて來た」
それから彼が、其火のやうな辯を続けて今にも暴風雨の來さうな世の状態を語つた時には、私の若い燃えるやうな血潮は、脈管に溢れ渡つて、何とも知れず涙の頬に流れるのを覚えなかつたが、私の肩にソッと手を掛けて、
「惜しいもんだ。學問でもさせたら嘸(さぞ)立派なものになるだらう……けれども行先の遠い身だ。其強い感情をやがて世の下層に沈んで野獣の様にすさんで行く仲間の爲に注いで呉れ給へ。社会の事は総て根氣だ。僕は一生工夫や土方を相手にして溝の埋草になつて仕舞つても、君達のやうな青年(わかもの)があつて、蒔いた種の収穫(とりいれ)をして呉れるかと思へば安心して火の中にでも飛び込むよ」
激しい男性の涙が止めどなく流れて、私は面をあげて見る事が出來なかつた。談話(はなし)が尽きて小林監督は黙つて五分心の洋燈(ランプ)を見つめて居たが人氣の少い寂寥とした室の夜氣に、油を揚る幽かな音が秋のあはれをこめて、冷めたい壁には朦朧と墨繪の影が映つて居る。
「君はもう知つて居るか、足立が辞職するといふ事を」此度は調子を変へて静かに落着いて云ふ。
「エー駅長様はもうやめるのですか!」と私は寝耳に水の驚きを覚えた。「何時(いつ)止めるのでせう、何うして……」と私の聲がとぎれとぎれになる。
「此間遊びに行くと其話が出た。最も以前から其心はあつたんだけれど、細君が引止めて居たのさ」
「駅長様が止めてしまつちやあ……」と私は思はず口に出したが、此人の手前何となく氣がとがめて口を噤むだ。
「其話もあつた。駅長がいろいろ君の身の上話もして、助役との関係も蔭ながら聞いた。若し君さへ好ければ足立の去つた跡は僕が及ばずながら世話をして上げよう」
其夜私は何処までも小林に一身を任せ度い事、幸に一人前の人間ともなつた暁には、及ばずながら身を粉に砕いても其事業の爲に尽し度いといふ事などを、廻らぬ重い口で固く盟つて宿を辞した。
長峰の下宿に帰つてから灯を消して床に入つたが蟲の聲が耳について眠られない。私は暗のうちに眼ざめて、つくづく足立夫婦の親切を思ひ、行く先の運命を種々に想ひめぐらして二時の時計を聴いた。
二十一
少からず私の心を痛めた、足立駅長の辞職問題は、かの営業所長の切なる忠告で、來年の七月まで思ひとまると云ふ事になつて私はホッと一息した。
物思ふ身に秋は早くも暮れて、櫟林(くぬぎばやし)に木枯しの寂しい冬は來た。昨日まで苦しい暑さを想ひやつた土方の仕事は、最早(もう)霜柱の冷たさをいたむ時となつた。山の手線の複線工事も大略(あらまし)済んで、案の通り長峰の掘割が後に残つた。此頃は日増しに土方の数を加へて、短い冬の日脚を、夕方から篝火(かゞり)を焚いて忙しさうに工事を急いで居る。灯影に閃く得物の光、暗にうごめく黒い人影、罵り騒ぐ濁聲(だみごゑ)、十字鍬や、スクープや、ショーブルの乱れた処は、宛然(まるで)戦争(いくさ)の後をまのあたり観るやうである。
大崎村の方から工事を進めて來た土方の一隊は長峰の旧(もと)の隧道(トンネル)に平行して、更に一個の隧道を穿(うが)たうとして居る。丁度其隧道が半分程穿たれた頃の事であつた。一夜霜が雪のやうに置き渡して、大地は宛然鑛石(あらがね)を踏むやうに凍てた朝、例の土方が各自(てんで)に異様な打扮(いでたち)をして、零点以下の空氣に白い呼氣(いき)を吐きながら、隧道の上の常例(いつも)の処で焚火をしようと思つてやつて來て見ると、土は一丈も堕ち窪んで、掘りかけた隧道は物の見事に壊れて居る。
「ヤア、大変だぞ!! こりやあ危い!!」と叫ぶものもあれば「人殺しい、ヤア大変だ」と騒ぎ立てる者もある。
「夜でマア好かつた。工事最中にこんな事があらうものなら、夫(それ)こそ死人があつたんだ」
「馬鹿ア云へ夜だからこんな事が有つたんだ。霜柱の故(せゐ)ぢやあないか」
「生意氣な事を云やあがる、手前見たやうな奴だ。こんな処で押し潰される玉は! 余(あんま)り強吐張(がうつくばり)を云やあがると後生(ごしやう)が無いぞ」
日がさして瓦屋根の霜の溶ける時分には近処の小売屋の女房も出て來れば、例の子守女も集まつて喧しい騒ぎになつて來た。監督の命令で崩れた土は直ぐ停車場(ステーション)前の廣場に積み上げる、夜を日に次でも隧道(トンネル)工事を進めよといふので、土方は朝から何時に無い働き振りである。
霜日和の晴渡つた其日は、午後から鳶色の霧が淡くこめて、風の和(な)いだ静かな天気であつた。午後四時に私は岡田と交代して改札口を出ると今朝大騒ぎのあつた隧道の処にまた人が群立つて何か事故ありげに騒いで居る。何(ど)うしたのだらう。又土が崩れたのではあるまいか。さうだ夫(それ)に違ひないと独(ひとり)で決めて見物人の肩越しに覘いて見ると、土は今朝見たまゝ、大かた掘出して丁度井戸のやうになつて居るばかりで別に新しく崩れたといふ様子もない。
「何うしたんだい、誰か負傷でもしたの」と一人が聞くと、「人が出たんですとさ、人が!」と牛乳配達らしいのが眼を丸くして云ふ。私は事の意外に驚いたが、若しやと云ふ疑念が電光のやうに閃いたので、無理に人を分けて前へ出て見た。
疑念といふのは、土の崩れた中から出た死骸が、フト私の親んだ乞食の少年では無いだらうか、少年は土方の夜業をして捨てて行つた燼(もえさし)にあたる爲に隧道の上の菰掛の假小屋に來て居たのを私は度度見た事があつたからである。見ると死骸はもう蓆(むしろ)に包んで顔は見えないけれども、まだうら若い少年の足が其菰の端から現はれて居るので、私はそれが彼の少年にまぎれもない事を知つた。
噫(あゝ)、可憐(かあい)さうな事をした !
何処からともなく襲うて來た一種の恐怖が全身に痺(しび)れ渡つて、私はもう再び其菰包を見る事すら出來なかつた。昨日まであんなにして居たものを、人間の運命といふものは實に分らないものだ。何といふ薄命な奴だらう、思ふに昨夜の寒さを凌ぎかねて、焚火の燼(もえさし)の傍に菰を被つたまゝ倨(うづく)まつて居た処を、急に崩れ落ちて、こんな淺猿しい最期を遂げたに相違あるまい。
少年の事情はせめて小林監督にでも話してやらう。私は顔をあげて死骸の傍に突立つて居る逞しい労働者の群を見た。薄い冬の夕日が、弱い光を其赭顔(あからがほ)に投げて、猛悪な形相に一種いひしれぬ恐怖と不安の色が浮んで居る。たとへば猛獣が雷鳴を怖れて其鬣(たてがみ)の地に敷くばかり頭を垂れた時のやうに、
「巡査(おまはり)が來た!」
「大將も一処ぢやあ無いか」「大將が來たぞ!」と土方は口々に囁く。やがて小林監督は駐在所の巡査と伴立(つれだ)つてやつて來た。土方達は云ひ合はせたやうに道をあける。
二十二
「好い成佛(じやうぶつ)をしろよ!」と小林の差圖で工夫の一人がショーブルで土を小さい棺桶の上に落した。私はせめてもの心やりに小石を拾つて穴に入れる。黙つて居た一人が此度は横合から盛り上げてある土をザラザラと落したので棺はもう大かた埋もれた。
小坊主が、人の喉を詰らせるやうな冷い空気に咽(むせ)びながら、鈴を鳴らして読経(どきやう)を始めた。
小林は洋服の儘角燈を提げて立つて居る。
私が変死した少年の事に就て小林に話すと、彼は非常に同情して、隧道(トンネル)の崩れたのは自分の監督が行き届かなかつたからで、他に親類(みより)がないと云ふならば、此儘村役場の手に渡すのも可憐さうだから乃公(おれ)が引取つて埋葬してやるといふので、一切を引受けて三田村の寂しい法華寺(ほつけでら)の墓地の隅に葬る事となつた。尤も此寺といふのは例の足立駅長の世話があつたのと、納豆売をして居た少年の母の事を寺の和尚が薄々知つて居たのとで、案外早く話がついて、其夜のうちに埋葬してしまふ事になつたのだ。
今夜は何時になく風が止んで、墓地と畑の境にそゝり立つた榛(はんのき)の梢が煙のやうに、冴え渡る月を抽(ぬ)いて物すごい光が寒竹の藪をあやしく隈(くま)どつて居る。幾つとなく群立つた古い石塔の暗く、また明く、人の立つたやうなのを見越して、なだらかな岡が見える。其岡の上に麦酒(ビール)会社の建築物が現はれて、黒い輪廓があざやかに、灰色の空を区劃(くぎ)つた処など、何とはなしに外國の景色を見るやうである。
咽ぶやうな、絶え入るやうな小坊主の読経は、細くとぎれとぎれに続いた。小林監督は項垂(うなだ)れて考へ込むで居る。
× × ×
「工事が済み次第行くつもりだ。暫らく彼方(あつち)へ行つて働いて見るのも面白からう。同志は直ぐにも來てくれるやうにと云ふのだけれど今此処を外す事は出來ない。それに正軌倶楽部の方の整理(しまつ)も付けて行かなけりやあ困るのだから、早くとも來年の三月末頃にはなるだらうな」
「さうなれば私も非常に嬉しいのです。停車場の方も此頃はつくづく嫌になりましたし、成るたけ早く願ひ度いのです」と私は心から嬉しく答へた。
「駅長も來年の七月までと云ふ事だし、それに彼地(あつち)へ行けば、同志の者は僕を非常に待つて居て呉れるのだから、君も今より少しは好い位置が得られるだらうと思ふ。旁々(かたがた)君の爲にはマア幸福かも知れない」
「足立様も満足して下さるでせう」
「彼(あ)の男も実に好人物だ、郷里の小學校に居た時分からの友達で、鐵道に勤めるやうになつてから最早(もう)二十年にもなるだらう。最早少し覇気(はき)があつたなら相當な地位も得られたらうに、今辞職しちや細君も嘸困るだらう」
二人は話しながら、月の光を浴びて櫟林(くぬぎばやし)の下を長峰の方にたどつた。冬の夜は長くまだ十時を過ぎないけれども往來には人影が杜絶(とだ)えて、軒燈の火も氷るばかりの寒さである。
長崎の水谷造船所と九州鐵道の労働者間に此度余程強固な独立の労働組合が組織されて、突然其組織が発表された事は二三日前の新聞紙に喧しく報道された。私は其組合の幹部が皆小林監督の同志であつて、春を待つて私達が其組合の事業を助ける爲に門司(もじ)に行かねばならぬといふ事は夢にも思はなかつたが、今夜小林監督に其話を聞いて、私は非常に勇み立つた。
實を云ふと私が門司に行くのを喜んだのは一つには目黒を去ると云ふ事があるからである。私は此頃、馴染の乗客に顔を見られたり、また近処の人に遇つたりすると、何だか「彼奴(あいつ)も何時まで駅夫をして居るのか」と思はれるやうな氣がして限りなき羞恥を覚えるやうになつて來た。その羞しい顔を何時までも停車場にさらして人知れぬ苦悩を胸に包むよりも、人の生血の波濤(おほなみ)を眼(ま)のあたり見るやうな、烈しい生存の渦中に身を投げて、心ゆくまで戦つて戦つて、戦ひ尽して見たいといふ悲壮な希望に満たされて居たからである。
私は雨戸を締る爲に窓の障子を開けた。月の光は霜に映つて、宛然(まるで)白銀の絲を引いたやう。裏の藪で狐が鳴いた。
二十三
二十歳(はたち)の春は來た。
停車場(ステーション)も何時の間にか改築される、山の手線の複線工事も大略(ほゞ)出來上つて、一月の十五日から客車の運転は從來(これまで)の三倍数になつた。最早是までのやうに気楽な事も出來ない。私達の仕事は非常に忙しくなつて來た。
鐵道國有案が議会を通過して、遠からず日鐵も官営になるといふ噂は、駅長の辞意を彌(いよい)よ固くした。
私は仕事の忙しくなつた事を寧ろ歓んで迎へた。前途(ゆくさき)に期待(まちまうけ)のある身に取つては物思ふ暇のない程嬉しい事はない。一月も二月も夢のやうに過ぎて、南郊の春は早く、梅も鶯も共に老いた。
佳人の噂はとかく絶える間(ひま)もない。高谷千代子は今年『窮行女學院』を卒業すると直ぐ嫁に行くさうだといふ評判は出札の河合を中心として此頃停車場の問題である。
「女といふものは処女(むすめ)のうちだけが花よ。學校に居れば又試験とか何とか云うて相応に苦労がある。マア學校を卒業して二三年親の処に居る間が女としては幸幅な時だね。學校を卒業すると直ぐお嫁にやるなんて乳母も乳母だ。あんまり氣が利かな過ぎるぢやあ無いか」生意氣な河合はまるで演説でもするやうに喋る。
「ヒヤヒヤ、二三年目黒に居て時々停車場へ遊びに來るやうだと猶好いだらう」と柳瀬といふ新しい駅夫が冷かすと、岡田が後へ尾いて「柳瀬なんぞは知るまいが之には深い原因があるのだね、河合君は知つて居るさ、ねえ君!」
「藤岡なんぞあれで一時大に鬱(ふさ)ぎ込んだからね」と私の方を見て冷笑する、私は思はず顔を赭(あか)らめた。
姿なり、打扮(いでたち)なり、婦人といふものは成るだけ男の眼を惹きつけるやうに装うてそれでやがて男の力に依つて生きようとするのだ。男の思を惹かうとする処に罪がある。それは婦人が男に依つて生きねばならぬ社会の罪だ。罪は罪を生む。私達のやうに汚れた、疲れた、羞しい青年は、空しく思を惹かせられたばかりで、そこに嫉妬(やきもち)が起る。そこに誹謗(そしり)が起る。私は世の罪を思うた。
× × ×
三月十八日は高谷千代子の卒業日、私は非番で終日長峰の下宿に寝て居る積りであつたけれども、何となく氣が鬱いで遣瀬(やるせ)がないので、家を出ると其儘多摩川の二子(ふたこ)の方に足を向けた。木瓜(ぼけ)の花と菫の花とが櫟林(くぬぎばやし)の下に咲き乱れて居る。其疎(まばら)な木立越しに麦の畑が遠く続いて、菜の花の上に黒ずんだ杉の林のあらはれた処など、景色も道も単調ではあるけれど、静かな武蔵野の春に我知らず三里の道を行き尽して、多摩川の谷の一目に見渡される、稻荷坂に出た。
稻荷坂といふのは、旧(もと)布哇(ハワイ)公使の別荘の横手にあつて、坂の中程に小さい稻荷の祠(ほこら)がある。社頭から坂の両側に続いて櫻が今を盛りと咲き乱れて居る。たまさかの休暇を私は春の錦といふ都に背いて思はぬ処で花を見た。祠の縁に腰をかけて、私は此処で『通俗巴里一揆物語』の読みかけを出して見たが、何となく氣が散つて一頁も読む事が出來なかつた。私は静かに坂を下りて、岸に沿うた蛇籠(ぢやかご)の上に腰かけて静かに佳人の運命を想ひ、水の流れをながめた。
此一個月ばかり千代子は何故あんなに鬱いで居るのだらう。汽車を待つ間の椅子にも項垂(うなだ)れて深き想に沈んで居る。千代子の苦悩は年頃の処女が嫁入前に悲むといふ、其深き憂愁(うれひ)であらうか。
群を離れた河千鳥が汀(みぎは)に近く降り立つた。其鳴き渡る聲が、春深い霞に迷うて真昼の寂しさが身に沁みるやうである。
二十四
四月一日私はいよいよ小林浩平に伴はれて門司へ立つのだ。三月十五日限り私は停車場(ステーション)をやめて何くれと旅の仕度に忙(せ)はしい。例へば浮世繪の巻物を披(ひろ)げて見たやうに淡暗(うすぐら)い硝子(ガラス)の窓に毎日毎日映つて來た社会のあらゆる階級のさまざまな人達、別離(わかれ)と思へば恋も怨も皆夢で、残るのは只なつかしい思ひばかりである。森も岡も牧場も水車小屋も、辛い追懐(おもひで)の種ばかり、見るに苦しい景色ではあるけれど、これも別離(わかれ)と云へばまた新しい執着を覚える。
旅の支度も大かた済んだ。別離の心やみ難く、私は三月二十九日の午後、権之助坂を下りてそれとはなしに大鳥神社の側の千代子の家の垣に沿うて、橋和屋といふ料理屋の傍から大崎の田圃(たんぼ)に出た。
蓮華(れんげ)、鷺草、きんぽうげ、鍬形草、暮春の花はちやうど繪具箱を投げ出したやうに、曲りくねった野路を飾つて、久しい紀念(おもひで)の夕日が岡は、遠く出島のやうに、メリヤス会社の処に尽きて居る。目黒川は其崎を繞つて品川に落ちる、其水の淀んだ処を亀の子島といふ。
大崎停車場は軌道(レール)の枕木を黒く焼いて拵えた粗(あらつ)ぽい柵で囲まれて居る。其柵の根には目覚むるやうな苜蓿(クローバー)の葉が青々と茂つて白い花が浮彫のやうに咲いて居る。私はいつか此苜蓿の上に横はつて沈鬱な灰色の空を見た。品川発電所の煤煙が黒蛇のやうに渦(うづま)きながら、亀の子島の松をかすめて遠い空に消えて行く。私は其煙の末をつくづくと眺めやつて、私の來し方のさながら煙のやうな事を思うた。
遠くけたゝましい車輪の音がするので振り返つて見ると、目黒の方から幌(ほろ)をかけた人力車が十臺ばかり、勢よく駆けて來る。雨雲の低く垂れた野中の道に白い砂塵が舞揚つて、青い麦の畑の上に消える。車は見る見る近づいて、やがて私の寝て居る苜蓿の原の踏切を越えた。何の氣もなく見ると、中央の華奢(きやしや)な車に盛装した高谷千代子が居る。地が雪のやうなのに、化粧を凝(こら)したので顔の輪廓が分らない、一寸私の方を見たと思ふと直ぐ顔をそむけてしまうた。
佳人の嫁婚(よめいり) !
油のやうな春雨がしとしとと降り出した。ちやうど一行の車が御殿山の森にかくれた頃の事である。
翌日私の下宿に配達して行つた新聞の『花嫁花婿』といふ欄に、工學士蘆(ろ)鉦次郎の写真と、高谷千代子の写真とが掲載されて、六號活字の説明にこんな事が書いてあつた。
工學士蘆鉦次郎氏(三十五)は望月貞子の媒酌にて窮行女學院今年の卒業生中才色兼備の噂高き高谷千代子(十九)と昨日赤阪の八百勘にて結婚式を挙げられたり。猶同氏は新たに長崎水谷造船所の技師長に聘せられ來る四月一日新婚旅行を兼ね一時郷里福岡縣八女郡白木村に帰省せらるゝ由なり。
蘆鉦次郎──高谷千代子──水谷造船所──四月一日、私は暫く新聞を見つめた儘身動きも出來なかつたが、私の身邊に何か目に見えない恐ろしい運命の絲が纏ひついて居るやうな氣がして、我知らず手を伸べて頭の髪を物狂はしきまでに掻きむしると、其手で新聞をビリビリ引裂いて仕舞つた。
二十五
品川の海はいま深い夜の靄(もや)に包まれて、愛宕山(あたごやま)に傾きかけた幽かな月の光が、宛然(まるで)夢のやうに水の面を照して居る。水脈(みを)を警(いまし)める赤いランターンは朦朧と四邊(あたり)の靄に映つて、また油のやうな水に落ちて居る。
四月一日午後十一時十二分品川発下の關直行の列車に乗る爲に小林浩平と私は品川停車場のプラットホームに、新橋から來る列車を待ちうけて居る。小林は午後三時新橋発の急行にしようと云うたのを、私は少し氣がかりの事があつたので、強て此列車にして貰つた。
「最早(もう)十五分だ」と小林はポケットから時計を出して、角燈(ランプ)の光にすがめて見たが、橋を渡る音がしてやがてプラットホームに一隊の男女が降りて來た。
私達の休んで居る待合の中央の入口から洋服の紳士が、靴音高く入つて來た。得ならぬ馨(かをり)がして、花やかな裾が灯影にゆらいだと思ふと其背後から高谷千代子が現はれた。
云ふまでも無く男は蘆鉦次郎だ。
見送の者は室の外に立つて居る。男は角燈の光に私達の顔を見つめて突立つたが、やがて思ひ出したと見えて、身軽に振り向くとフイとプラットホームに出てしまつた。
果して彼は私達を覚えて居た。
取のこされた千代子は、稍うろたへたが一寸瞳を私にうつすと、其儘蘆の後を追つてこれもプラットホームに出る。佳人の素振りはかゝる時にも、流石に巧みなものであつた。
「見たか?」と小林はニッコリ笑つて私の顔を覘いたが「睨んでやつたぞ!!」と云ふ。私は流石に見苦しい敗卒であつた。よもや蘆が此列車に乗らうとは思はなかつた。此夜陰に何といふ新婚の旅行だらう。私は有らゆる妄念の執着を断ち切つて、新しい將來の爲に、花々しい戦闘の途に上る。其初陣(うひじん)の門出に迄も、怪しい運命の絲につき纏はれて、恨み散り行く花の精の抜け出したやうな、彼女の姿を、今茲(こゝ)で見るといふのは何たる事であらう。
潮が満ちたのであらう。緩(ゆる)く石垣に打寄せる水の音、恐ろしい獣が深傷(ふかで)にうめくやうな低い工場の汽笛の聲、さては電車の遠く去り近く來る轟きが、私の耳には今宛然(まるで)夢のやうに聞えて、今見た千代子の姿が何となく幻影のやうに思ひ做(な)された。
「おい、汽車が來たやうだよ」といふ小林の聲に私は急いで手荷物を纏めてプラットホームに出た。
何時の間に來たのか乗客は可なりにプラットホームに群て居る。蘆の姿も千代子の姿も更に見えない。私は三等室に入つて窓の際に小林と相対して座を占めた。一時騒々しかつたプラットホームもやがて寂寞として、駅夫の靴の音のみ高く窓の外に響く。車掌は発車を命じた。
汽笛が鳴る……
煙の喘ぐ音、蒸汽の漏れる聲、列車は徐々(ゆるゆる)として進行を初めた。私はフト車窓から首を出して見た。前の二等室から、夜目にも鮮やかな千代子の顔が見えて、慥(たし)かに私の視線と會うたと思ふと、フト消えてしまつた。
急いで窓を閉めて座に就くと、小林は旅行鞄の中から二個の小冊子を出して、其一部を黙つて私に渡した。スカレット色の燃えるやうな表紙に黒い「総同盟罷工(ゼネラル・ストライキ)」といふ文字が鮮やかに読まれた。小林の知人で此頃政府から酷く睨まれて居る有名な某評論家の手になつた翻訳である。一時京橋の或る書肆(しよし)から発行されるといふ評判があつて、其儘立消(たちぎえ)になつたのが、どうしたものか今配布用の小冊子になつて小林の手にある。巻末には発行所も印刷所も書いてない。
汽車は今追懐(おもひで)の深い蛇窪村(じやがくぼむら)の踏切を走つて居る。
(明治四十年十二月「新小説」)
(しらやなぎ しゅうこ 本名・武司 小説家・評論家 1884.1.7 - 1950.11.9 静岡県引佐郡に生まれる。前期自然主義と初期社会主義から創作し、大逆事件以降は社会評論活動に転じた。「驛夫日記」は明治四十年(1907)十二月「新小説」初出。前年春に出た島崎藤村「破戒」を継承する社会的自然主義の記念碑的作品として忘れがたい。)
老
妓 抄
岡本かの子
平出園子といふのが老妓の本名だが、これは歌舞伎俳優の戸籍名のやうに当人の感じになづまないところがある。さうかといつて職業上の名の小そのとだけでは、だんだん素人(しろうと)の素朴(そぼく)な気持ちに還らうとしてゐる今日の彼女の気品にそぐはない。
こゝではたゞ何となく老妓といつて貫く方がよからうと思ふ。
人々は真昼の百貨店でよく彼女を見かける。
目立たない洋髪に結び、市楽(いちらく)の着物を堅気風につけ、小女一人連れて、憂欝(いううつ)な顔をして店内を歩き廻る。恰幅(かつぷく)のよい長身に両手をだらりと垂らし、投出して行くやうな足取りで、一つところを何度も廻り返す。さうかと思ふと、紙凧(たこ)の糸のやうにすつとのして行つて、思ひがけないやうな遠い売場に佇(たゝず)む。彼女は真昼の寂しさ以外、何も意識してゐない。
かうやつて自分を真昼の寂しさに憩(いこ)はしてゐる、そのことさへも意識してゐない。ひよつと目星(めぼし)い品が視野から彼女を呼び覚すと、彼女の青みがかつた横長の眼がゆつたりと開いて、対象の品物を夢のなかの牡丹(ぼたん)のやうに眺める。唇が娘時代のやうに捲(まく)れ気味に、片隅へ寄ると其処に微笑が泛(うか)ぶ。また憂欝(いううつ)に返る。
だが、彼女は職業の場所に出て、好敵手が見つかるとはじめはちよつと呆(ほ)けたやうな表情をしたあとから、いくらでも快活に喋舌(しやベ)り出す。
新喜楽のまへの女将の生きてゐた時分に、この女将と彼女と、もう一人新橋のひさごあたりが一つ席に落合つて、雑談でも始めると、この社会人の耳には典型的と思はれる、機智と飛躍に富んだ会話が展開された。相当な年配の芸妓たちまで「話し振りを習はう」といつて、客を捨てて老女たちの周囲に集つた。
彼女一人のときでも、気に入つた若い同業の女のためには、経歴談をよく話した。
何も知らない雛妓(おしやく)時代に、座敷の客と先輩との間に交される露骨な話に笑ひ過ぎて畳の上に粗相(そさう)をして仕舞ひ、座が立てなくなつて泣き出してしまつたことから始めて、囲ひもの時代に、情人と逃げ出して、旦那におふくろを人質にとられた話や、もはや抱妓(かゝへつこ)の二人三人も置くやうな看板ぬしになつてからも、内実の苦しみは、五円の現金を借りるために横浜往復十二円の月末払ひの俥(くるま)に乗つて行つたことや、彼女は相手の若い妓(こ)たちを笑いでへとへとに疲らせずには措(お)かないまで、話の筋は同じでも、趣向は変へて、その迫り方は彼女に物の怪(け)がつき、われ知らずに魅惑の爪を相手の女に突き立てて行くやうに見える。若さに嫉妬(しつと)して、老いが狡猾(かうくわつ)な方法で巧みに責め苛(さいな)んでゐるやうにさへ見える。
若い芸妓たちは、とうとう髪を振り乱して、両脇腹を押へ喘(あへ)いでいふのだつた。
「姐(ねえ)さん、頼むからもう止してよ。この上笑はせられたら死んでしまふ」
老妓は、生きてる人のことは決して語らないが、故人で馴染(なじみ)のあつた人については一皮剥(む)いた彼女独特の観察を語つた。それ等の人の中には思ひがけない素人も芸人もあつた。
中国の名優の梅蘭芳(メイランフアン)が帝国劇場に出演しに来たとき、その肝煎(きもい)りをした某富豪に向つて、老妓は「費用はいくらかかつても関(かま)ひませんから、一度のをりをつくつて欲しい」と頼み込んで、その富豪に宥(なだ)め返されたといふ話が、嘘か本当か、彼女の逸話の一つになつてゐる。
笑ひ苦しめられた芸妓の一人が、その復讐(ふくしう)のつもりもあつて
「姐(ねえ)さんは、そのとき、銀行の通帳を帯揚げから出して、お金ならこれだけありますと、その方に見せたといふが、ほんたうですか」と訊く。
すると、彼女は
「ばかばかしい。子供ぢやあるまいし、帯揚げのなんのつて……」
こどものやうになつて、ぷんぷん怒るのである。その真偽はとにかく、彼女からかういふうぶな態度を見たいためにも、若い女たちはしばしば訊(き)いた。
「だがね。おまへさんたち」と小そのは総(すべ)てを語つたのちにいふ、「何人男を代へてもつゞまるところ、たつた一人の男を求めてゐるに過ぎないのだね。いまかうやつて思ひ出して見て、この男、あの男と部分々々に牽(ひ)かれるものの残つてゐるところは、その求めてゐる男の一部々々の切れはしなのだよ。だから、どれもこれも一人では永くは続かなかつたのさ」
「そして、その求めてゐる男といふのは」と若い芸妓たちは訊き返すと
「それがはつきり判れば、苦労なんかしやしないやね」それは初恋の男のやうでもあり、また、この先、見つかつて来る男かも知れないのだと、彼女は日常生活の場合の憂欝な美しさを生地(きぢ)で出して云つた。
「そこへ行くと、堅気さんの女は羨(うらやま)しいねえ。親がきめて呉れる、生涯ひとりの男を持つて、何も迷はずに子供を儲(まう)けて、その子供の世話になつて死んで行く」
こゝまで聴くと、若い芸妓たちは、姐さんの話もいゝがあとが人をくさらしていけないと評するのであつた。
小そのが永年の辛苦で一通りの財産も出来、座敷の勤めも自由な選択が許されるやうになつた十年ほど前から、何となく健康で常識的な生活を望むやうになつた。芸者屋をしてゐる表店と彼女の住つてゐる裏の蔵附の座敷とは隔離してしまつて、しもたや風の出入口を別に露地から表通りへつけるやうに造作したのも、その現はれの一つであるし、遠縁の子供を貰つて、養女にして女学校へ通はせたのもその現はれの一つである。彼女の稽古事が新時代的のものや知識的のものに移つて行つたのも、或はまたその現はれの一つと云へるかも知れない。この物語を書き記す作者のもとへは、下町のある知人の紹介で和歌を学びに来たのであるが、そのとき彼女はかういふ意味のことを云つた。
芸者といふものは、調法ナイフのやうなもので、これと云つて特別によく利くこともいらないが、大概なことに間に合ふものだけは持つてゐなければならない。どうかその程度に教へて頂き度い。この頃は自分の年恰好(としかつかう)から、自然上品向きのお客さんのお相手をすることが多くなつたから。
作者は一年ほどこの母ほども年上の老女の技能を試みたが、和歌は無い素質ではなかつたが、むしろ俳句に適する性格を持つてゐるのが判つたので、やがて女流俳人の某女に紹介した。老妓はそれまでの指導の礼だといつて、出入りの職人を作者の家へ寄越して、中庭に下町風の小さな池と噴水を作つて呉れた。
彼女が自分の母屋(おもや)を和洋折衷風(せつちうふう)に改築して、電化装置にしたのは、彼女が職業先の料亭のそれを見て来て、負けず嫌ひからの思ひ立ちに違ひないが、設備して見て、彼女はこの文明の利器が現す働きには、健康的で神秘なものを感ずるのだつた。
水を口から注ぎ込むとたちまち湯になつて栓口から出るギザーや、煙管(きせる)の先で圧(お)すと、すぐ種火が点じて煙草に燃えつく電気莨盆(たばこぼん)や、それらを使ひながら、彼女の心は新鮮に慄(ふる)へるのだつた。
「まるで生きものだね、ふーム、物事は万事かういかなくつちや……」
その感じから想像に生れて来る、端的で速力的な世界は、彼女に自分のして来た生涯を顧みさせた。
「あたしたちのして来たことは、まるで行燈(あんどん)をつけては消し、消してはつけるやうなまどろい生涯だつた」
彼女はメートルの費用の嵩(かさ)むのに少からず辟易(へきえき)しながら、電気装置をいぢるのを楽しみに、しばらくは毎朝こどものやうに早起した。
電気の仕掛けはよく損じた。近所の蒔田(まきだ)といふ電気器具商の主人が来て修繕した。彼女はその修繕するところに附纏つて、珍らしさうに見てゐるうちに、彼女にいくらかの電気の知識が摂(と)り入れられた。
「陰の電気と陽の電気が合体すると、そこにいろいろの働きを起して来る。ふ一む、こりや人間の相性(あひしやう)とそつくりだねえ」
彼女の文化に対する驚異は一層深くなつた。
女だけの家では男手の欲しい出来事がしばしばあつた。それで、この方面の方弁も兼ねて蒔田が出入してゐたが、あるとき、蒔田は一人の青年を伴つて来て、これから電気の方のことはこの男にやらせると云つた。名前は柚木(ゆずき)といつた。快活で事もなげな青年で、家の中を見廻しながら「芸者屋にしちやあ、三味線がないなあ」などと云つた。度々来てゐるうち、その事もなげな様子と、それから人の気先(きさき)を撥ね返す颯爽(さつそう)とした若い気分が、いつの間にか老妓の手頃な言葉仇(ことばがたき)となつた。
「柚木君の仕事はチヤチだね。一週間と保(も)つた試しはないぜ」彼女はこんな言葉を使ふやうになつた。
「そりやさうさ、こんなつまらない仕事は。パッションが起らないからねえ」
「パッションて何だい」
「パッションかい。はゝゝ、さうさなあ、君たちの社会の言葉でいふなら、うん、さうだ、いろ気が起らないといふことだ」
ふと、老妓は自分の生涯に憐みの心が起つた。パッションとやらが起らずに、ほとんど生涯勤めて来た座敷の数々、相手の数々が思ひ泛(うか)べられた。
「ふむ、さうかい。ぢや、君、どういふ仕事ならいろ気が起るんだい」
青年は発明をして、専売特許を取つて、金を儲けることだといつた。
「なら、早くそれをやればいゝぢやないか」
柚木は老妓の顔を見上げたが
「やればいゝぢやないかつて、さう事が簡単に……(柚木はこゝで舌打をした)だから君たちは遊(あそ)び女(め)といはれるんだ」
「いやさうでないね。かう云ひ出したからには、こつちに相談に乗らうといふ腹があるからだよ。食べる方は引受けるから、君、思ふ存分にやつてみちやどうだね」
かうして、柚木は蒔田の店から、小そのが持つてゐる家作の一つに移つた。老妓は柚木のいふまゝに家の一部を工房に仕替へ、多少の研究の機械類も買つてやつた。
小さい時から苦学をしてやつと電気学校を卒業はしたが、目的のある柚木は、体を縛られる勤人になるのは避けて、ほとんど日傭取(ひようと)り同様の臨時雇ひになり、市中の電気器具店廻りをしてゐたが、ふと蒔田が同郷の中学の先輩で、その上世話好きの男なのに絆(ほだ)され、しばらくその店務を手伝ふことになつて住み込んだ。だが蒔田の家には子供が多いし、こまこました仕事は次から次とあるし、辟易(へきえき)してゐた矢先だつたのですぐに老妓の後援を受け入れた。しかし、彼はたいして有難いとは思はなかつた。散々あぶく銭を男たちから絞つて、好き放題なことをした商売女が、年老いて良心への償(つぐな)ひのため、誰でもこんなことはしたいのだらう。こつちから恩恵を施してやるのだといふ太々しい考は持たないまでも、老妓の好意を負担には感じられなかつた。生れて始めて、日々の糧(かて)の心配なく、専心に書物の中のことと、実験室の成績と突き合せながら、使へる部分を自分の工夫の中へ鞣(なめ)し取つて、世の中にないものを創り出して行かうとする静かで足取りの確かな生活は幸福だつた。柚木は自分ながら壮躯(さうく)と思はれる身体に、麻布のブルーズを着て、頭を鏝(こて)で縮らし、椅子に斜に倚(よ)つて、煙草を燻(く)ゆらしてゐる自分の姿を、柱かけの鏡の中に見て、前とは別人のやうに思ひ、また若き発明家に相応(ふさ)はしいものに自分ながら思つた。工房の外は廻り縁になつてゐて、矩形(くけい)の細長い庭には植木も少しはあつた。彼は仕事に疲れると、この縁へ出て仰向(あふむ)けに寝転び、都会の少し淀(よど)んだ青空を眺めながら、いろいろの空想をまどろみの夢に移し入れた。
小そのは四五日目毎に見舞つて来た。ずらりと家の中を見廻して、暮しに不自由さうな部分を憶(おぼ)えて置いて、あとで自宅のものの誰かに運ばせた。
「あんたは若い人にしちや世話のかゝらない人だね。いつも家の中はきちんとしてゐるし、よごれ物一つ溜めてないね」
「そりやさうさ。母親が早く亡くなつちやつたから、あかんぼのうちから襁褓(おむつ)を自分で洗濯して、自分で当てがつた」
老妓は「まさか」と笑つたが、悲しい顔附きになつて、かう云つた。
「でも、男があんまり細かいことに気のつくのは偉くなれない性分ぢやないのかい」
「僕だつて、根からこんな性分でもなさ相だが、自然と慣らされてしまつたのだね。ちつとでも自分にだらしがないところが眼につくと、自分で不安なのだ」
「何だか知らないが、欲しいものがあつたら、遠慮なくいくらでもさうお云ひよ」
初午(はつうま)の日には稲荷鮨(いなりずし)など取寄せて、母子(おやこ)のやうな寛(くつろ)ぎ方で食べたりした。
養女のみち子の方は気紛れであつた。来はじめると毎日のやうに来て、柚木を遊び相手にしようとした。小さい時分から情事を商品のやうに取扱ひつけてゐるこの社会に育つて、いくら養母が遮断(しやだん)したつもりでも、商品的の情事が心情に染(し)みないわけはなかつた。早くからマセて仕舞つて、しかも、それを形式だけに覚えて仕舞つた。青春などは素通りして仕舞つて、心はこどものまゝ固つて、その上皮にほんの一重大人の分別がついてしまつた。柚木は遊び事には気が乗らなかつた。興味が弾(はず)まないまゝみち子は来るのが途絶えて、久しくしてからまたのつそりと来る。自分の家で世話をしてゐる人間に若い男が一人ゐる、遊びに行かなくちや損だといふくらゐの気持ちだつた。老母が縁もゆかりもない人間を拾つて来て、不服らしいところもあつた。
みち子は柚木の膝の上へ無造作に腰をかけた。様式だけは完全な流眄(ながしめ)をして
「どのくらゐ目方があるかを量(はか)つてみてよ」
柚木は二三度膝を上げ下げしたが
「結婚適齢期にしちやあ、情操のカンカンが足りないね」
「そんなことはなくつてよ、学校で操行点はAだつたわよ」
みち子は柚木のいふ情操といふ言葉の意味をわざと違へて取つたのか、本当に取り違へたものか??
柚木は衣服の上から娘の体格を探つて行つた。それは栄養不良の子供が一人前の女の嬌態(けうたい)をする正体を発見したやうな、をかしみがあつたので、彼はつい失笑した。
「ずゐぶん失礼ね」
「どうせあなたは偉いのよ」みち子は怒つて立上つた。
「まあ、せいぜい運動でもして、おつかさん位な体格になるんだね」
みち子はそれ以後何故とも知らず、しきりに柚木に憎みを持つた。
半年ほどの間、柚木の幸福感は続いた。しかし、それから先、彼は何となくぼんやりして来た。目的の発明が空想されてゐるうちは、確に素晴らしく思つたが、実地に調べたり、研究する段になると、自分と同種の考案はすでにいくつも特許されてゐてたとへ自分の工夫の方がずつと進んでゐるにしても、既許のものとの牴触(ていしよく)を避けるため、かなり模様を変へねばならなくなつた。その上かういふ発明器が果して社会に需要されるものやらどうかも疑はれて来た。実際専門家から見ればいゝものなのだが、一向社会に行はれない結構な発明があるかと思へぱ、ちよつとした思付きのもので、非常に当ることもある。発明にはスペキュレーションを伴ふといふことも、柚木は兼ねがね承知してゐることではあつたが、その運びがこれほど思ひどほり素直に行かないものだとは、実際にやり出してはじめて痛感するのだつた。
しかし、それよりも柚木にこの生活への熱意を失はしめた原因は、自分自身の気持ちに在つた。前に人に使はれて働いてゐた時分は、生活の心配を離れて、専心に工夫に没頭したら、さぞ快いだらうといふ、その憧憬から日々の雑役も忍べてゐたのだがその通りに朝夕を送れることになつてみると、単調で苦渋(くじふ)なものだつた。ときどきあまり静で、その上全く誰にも相談せず、自分一人だけの考を突き進めてゐる状態は、何だか見当違ひなことをしてゐるため、とんでもない方向へ外(そ)れてゐて、社会から自分一人が取り残されたのではないかといふ脅(おび)えさへ屡々(しばしば)起つた。
金儲けといふことについても疑問が起つた。この頃のやうに暮しに心配がなくなりほんの気晴らしに外へ出るにしても、映画を見て、酒場へ寄つて、微酔(びすゐ)を帯びて、円タクに乗つて帰るぐらゐのことで充分すむ。その上その位な費用なら、さう云へば老妓は快く呉れた。そしてそれだけで自分の慰楽は充分満足だつた。柚木は二三度職業仲間に誘はれて、女道楽をしたこともあるが、売もの、買ひもの以上に求める気は起らず、それより、早く気儘(きまゝ)の出来る自分の家へ帰つて、のびのびと自分の好みの床に寝たい気がしきりに起つた。彼は遊びに行つても外泊は一度もしなかつた。彼は寝具だけは身分不相応なものを作つてゐて、羽根蒲団など、自分で鳥屋から羽根を買つて来て器用に拵(こしら)へてゐた。
いくら探してみてもこれ以上の慾が自分に起りさうもない、妙に中和されて仕舞つた自分を発見して柚木は心寒くなつた。
これは、自分等の年頃の青年にしては変態になつたのではないかしらんとも考へた。
それに引きかへ、あの老妓は何といふ女だらう。憂欝な顔をしながら、根に判らない逞(たく)ましいものがあつて、稽古ごと一つだつて、次から次へと、未知のものを貪(むさぼ)り食つて行かうとしてゐる。常に満足と不満が交る交る彼女を押し進めてゐる。
小そのがまた見廻りに来たときに、柚木はこんなことから訊く話を持ち出した。
「フランスレビュウの大立者の女優で、ミスタンゲットといふのがあるがね」
「あゝそんなら知つてるよ。レコードで……あの節廻しはたいしたもんだね」
「あのお婆さんは体中の皺(しわ)を足の裏へ、括(くゝ)つて溜めてゐるといふ評判だが、あんたなんかまだその必要はなささうだなあ」
老妓の眼はぎろりと光つたが、すぐ微笑して
「あたしかい、さあ、もうだいぶ年越の豆の数も殖えたから、前のやうには行くまいが、まあ試しに」といつて、老妓は左の腕の袖口を捲(まく)つて柚木の前に突き出した。
「あんたがだね。こゝの腕の皮を親指と人差指で力一ぱい抓(つね)つて圧(おさ)へててご覧」
柚木はいふ通りにしてみた。柚木にさうさせて置いてから老妓はその反対側の腕の皮膚を自分の右の二本の指で抓(つね)つて引くと、柚木の指に挾まつてゐた皮膚はじいわり滑り抜けて、もとの腕の形に納まるのである。もう一度柚木は力を籠めて試してみたが、老妓にひかれると滑り去つて抓り止めてゐられなかつた。鰻の腹のやうな靱(つよ)い滑(なめら)かさと、羊皮紙のやうな神秘な白い色とが、柚木の感覚にいつまでも残つた。
「気持ちの悪い……。だが、驚いたなあ」
老妓は腕に指痕(ゆびあと)の血の気がさしたのを、縮緬(ちりめん)の襦袢(じゆばん)の袖で擦(こす)り散らしてから、腕を納めていつた。
「小さいときから、打つたり叩(たゝ)かれたりして踊りで鍛(きた)へられたお蔭だよ」
だが、彼女はその幼年時代の苦労を思ひ起して、暗澹とした顔つきになつた。
「おまへさんは、この頃、どうかおしかえ」
と老妓はしばらく柚木をじろじろ見ながらいつた。
「いゝえさ、勉強しろとか、早く成功しろとか、そんなことをいふんぢやないよ。まあ、魚にしたら、いきが悪くなつたやうに思へるんだが、どうかね。自分のことだけだつて考へ剰(あま)つてゐる筈の若い年頃の男が、年寄の女に向つて年齢のことを気遣ふのなども、もう皮肉に気持ちがこづんで来た証拠だね」
柚木は洞察の鋭さに舌を巻きながら、正直に白状した。
「駄目だな、僕は、何も世の中にいろ気がなくなつたよ。いや、ひよつとしたら始めからない生れつきだつたかも知れない」
「そんなこともなからうが、しかし、もしさうだつたら困つたものだね。君は見違へるほど体など肥つて来たやうだがね」
事実、柚木はもとよりいゝ体格の青年が、ふーつと膨(ふく)れるやうに脂肪がついて、坊ちやんらしくなり、茶色の瞳(ひとみ)の眼の上瞼(うはまぶた)の腫(は)れ具合や、顎(あご)が二重に括(くゝ)れて来たところに艶めいたいろさへつけてゐた。
「うん、体はとてもいゝ状態で、たゞかうやつてゐるだけで、とろとろしたいゝ気持ちで、よつぽど気を張り詰めてゐないと、気にかけなくちやならないことも直ぐ忘れてゐるんだ。それだけ、また、ふだん、いつも不安なのだよ。生れてこんなこと始めてだ」
「麦とろの食べ過ぎかね」老妓は柚木がよく近所の麦飯ととろろを看板にしてゐる店から、それを取寄せて食べるのを知つてゐるものだから、かうまぜつかへしたが、すぐ真面目になり「そんなときは、何でもいゝから苦労の種を見付けるんだね。苦労もほどほどの分量にや持ち合せてゐるもんだよ」
それから二三日経つて、老妓は柚木を外出に誘つた。連れにはみち子と老妓の家の抱へでない柚木の見知らぬ若い芸妓が二人ゐた。若い芸妓たちは、ちよつとした盛装をしてゐて、老妓に
「姐(ねえ)さん、今日はありがたう」と叮嚀(ていねい)に礼を云つた。
老妓は柚木に
「今日は君の退屈の慰労会をするつもりで、これ等の芸妓たちにも、ちやんと遠出の費用を払つてあるのだ」と云つた。「だから、君は旦那になつたつもりで、遠慮なく愉快をすればいゝ」
なるほど、二人の若い芸妓たちは、よく働いた。竹屋の渡しを渡船に乗るときには年下の方が柚木に「おにいさん、ちよつと手を取つて下さいな」と云つた。そして船の中へ移るとき、わざとよろけて柚木の背を抱へるやうにして掴(つかま)つた。柚木の鼻に香油の匂ひがして、胸の前に後襟の赤い裏から肥つた白い首がむつくり抜き出て、ぼんの窪の髪の生え際が、青く霞めるところまで、突きつけたやうに見せた。顔は少し横向きになつてゐたので、厚く白粉をつけて、白いエナメルほど照りを持つ頬から中高の鼻が彫刻のやうにはつきり見えた。
老妓は船の中の仕切りに腰かけてゐて、帯の間から煙草入れとライターを取出しかけながら「いゝ景色だね」と云つた。
円タクに乗つたり、歩いたりして、一行は荒川放水路の水に近い初夏の景色を見て廻つた。工場が殖え、会社の社宅が建ち並んだが、むかしの鐘(かね)ケ淵(ふち)や、綾瀬(あやせ)の面かげは石炭殻の地面の間に、ほんの切れ端になつてところどころに残つてゐた。綾瀬川の名物の合歓(ねむ)の木は少しばかり残り、対岸の蘆洲(あしす)の上に船大工だけ今もゐた。
「あたしが向島の寮に囲はれてゐた時分、旦那がとても嫉妬家(やきもちやき)でね、この界隈(かいわい)から外へは決して出して呉れない。それであたしはこの辺を散歩すると云つて寮を出るし、男はまた鯉釣りに化けて、この土手下の合歓の並木の陰に船を繋(もや)つて、そこでいまいふランデヴウをしたものさね」
夕方になつて合歓(ねむ)の花がつぼみかゝり、船大工の槌(つち)の音がいつの間にか消えると、青白い河靄(かはもや)がうつすり漂ふ。
「私たちは一度心中の相談をしたことがあつたのさ。なにしろ舷(ふなばた)一つ跨げば事が済むことなのだから、ちよつと危かつた」
「どうしてそれを思ひ止つたのか」と柚木はせまい船のなかをのしのし歩きながら訊いた。
「いつ死なうかと逢ふ度毎に相談しながら、のびのびになつてゐるうちに、ある日川の向うに心中態(てい)の土左衛門が流れて来たのだよ。人だかりの間から熟々(つくづく)眺めて来て男は云つたのさ。心中つてものも、あれはざまの悪いものだ。やめようつて」
「あたしは死んで仕舞つたら、この男にはよからうが、あとに残る旦那が可哀想だといふ気がして来てね。どんな身の毛のよだつやうな男にしろ、嫉妬(やきもち)をあれほど妬(や)かれるとあとに心が残るものさ」
若い芸妓たちは「姐(ねえ)さんの時代ののんきな話を聴いてゐると、私たちけふ日(び)の働き方が熟々(つくづく)がつがつにおもへて、いやんなつちやふ」と云つた。
すると老妓は「いや、さうでないねえ」と手を振つた。
「この頃はこの頃でいゝところがあるよ。それにこの頃は何でも話が手取り早くて、まるで電気のやうでさ、そしていろいろの手があつて面白いぢやないか」
さういふ言葉に執成(とりな)されたあとで、年下の芸妓を主に年上の芸妓が介添(かいぞへ)になつて、頻(へき)りに艶(なま)めかしく柚木を取持つた。
みち子はといふと何か非常に動揺させられてゐるやうに見えた。
はじめは軽蔑(けいべつ)した超然とした態度で、一人離れて、携帯のライカで景色など撮(うつ)してゐたが、にはかに柚木に慣れ慣れしくして、柚木の歓心を得ることにかけて、芸妓たちに勝越さうとする態度を露骨に見せたりした。
さういふ場合、未成熟(なま)の娘の心身から、利かん気を僅(わづ)かに絞り出す、病鶏のさゝ身ほどの肉感的な匂ひが、柚木には妙に感覚にこたへて、思はず肺の底へ息を吸はした。だが、それは刹那的のものだつた。心に打ち込むものはなかつた。
若い芸妓たちは、娘の挑戦を快くは思はなかつたらしいが、大姐(おほねえ)さんの養女のことではあり、自分達は職業的に来てゐるのだから、無理な骨折りを避けて、娘が努めるうちは媚(こ)びを差控へ、娘の手が緩むと、またサーヴィスする。みち子にはそれが自分の菓子の上にたかる蝿のやうにうるさかつた。
何となくその不満の気持ちを晴らすらしく、みち子は老妓に当つたりした。
老妓はすべてを大して気にかけず、悠々(いういう)と土手でカナリヤの餌のはこべを摘んだり菖蒲園(しやうぶゑん)できぬかつぎを肴(さかな)にビールを飲んだりした。
夕暮になつて、一行が水神(すゐじん)の八百松(やほまつ)へ晩餐をとりに入らうとすると、みち子は、柚木をじろり眺めて
「あたし、和食のごはんたくさん、一人で家に帰る」と云ひ出した。芸妓たちが驚いて、では送らうといふと、老妓は笑つて
「自動車に乗せてやれば、何でもないよ」といつて通りがかりの車を呼び止めた。
自動車の後姿を見て老妓は云つた。
「あの子も、おつな真似をすることを、ちよんぼり覚えたね」
柚木にはだんだん老妓のすることが判らなくなつた。むかしの男たちへの罪滅(つみほろぼ)しのために若いものの世話でもして気を取直すつもりかと思つてゐたが、さうでもない。近頃この界隈(かいわい)に噂(うはさ)が立ちかけて来た、老妓の若い燕といふそんな気配はもちろん、老妓は自分に対して現はさない。
何で一人前の男をこんな放胆な飼ひ方をするのだらう。柚木は近頃工房へは少しも入らず、発明の工夫も断念した形になつてゐる。そして、そのことを老妓はとくに知つてゐる癖に、それに就いては一言も云はないだけに、いよいよパトロンの目的が疑はれて来た。縁側に向いてゐる硝子窓から、工房の中が見えるのを、なるべく眼を外(そ)らして、縁側に出て仰向けに寝転ぶ。夏近くなつて庭の古木は青葉を一せいにつけ、池を埋めた渚(なぎさ)の残り石から、いちはつやつゝじの花が虻(あぶ)を呼んでゐる。空は凝(こ)つて青く澄み、大陸のやうな雲が少し雨気で色を濁しながらゆるゆる移つて行く。隣の乾物(ほしもの)の陰に桐(きり)の花が咲いてゐる。
柚木は過去にいろいろの家に仕事のために出入りして、醤油樽の黴臭(かびくさ)い戸棚の隅に首を突込んで窮屈な仕事をしたことや、主婦や女中に昼の煮物を分けて貰つて弁当を使つたことや、その頃は嫌だつた事が今ではむしろなつかしく想ひ出される。蒔田の狭い二階で、注文先からの設計の予算表を造つてゐると、子供が代る代る来て、頸筋が赤く腫(は)れるほど取りついた。小さい口から嘗(な)めかけの飴玉を取出して、涎(よだれ)の糸をひいたまゝ自分の口に押し込んだりした。
彼は自分は発明なんて大それたことより、普通の生活が欲しいのではないかと考へ始めたりした。ふと、みち子のことが頭に上つた。老妓は高いところから何も知らない顔をして、鷹揚(おうやう)に見てゐるが、実は出来ることなら自分をみち子の婿にでもして、ゆくゆく老後の面倒でも見て貰はうとの腹であるのかも知れない。だがまたさうとばかり判断も仕切れない。あの気嵩(きがさ)な老妓がそんなしみつたれた計画で、ひとに好意をするのでないことも判る。
みち子を考へる時、形式だけは十二分に整つてゐて、中身は実が入らず仕舞ひになつた娘、柚木はみなし茄(ゆ)で栗(ぐり)の水つぽくぺちやぺちやな中身を聯想して苦笑したが、この頃みち子が自分に憎みのやうなものや、反感を持ちながら、妙に粘(ねば)つて来る態度が心にとまつた。
彼女のこの頃の来方は気紛れでなく、一日か二日置き位な定期的なものになつた。
みち子は裏口から入つて来た。彼女は茶の間の四畳半と工房が座敷の中に仕切つて拵(こしら)へてある十二畳の客座敷との襖(ふすま)を開けると、そこの敷居の上に立つた。片手を柱に凭(もた)せ体を少し捻(ねぢ)つて嬌態(けうたい)を見せ、片手を拡げた袖の下に入れて写真を撮るときのやうなポーズを作つた。俯向(うつむ)き加減に眼を不機嫌らしく額越しに覗かして
「あたし来てよ」と云つた。
縁側に寝てゐる柚木はたゞ「うん」と云つただけだつた。
みち子はもう一度同じことを云つて見たが、同じやうな返事だつたので、本当に腹を立て
「何て不精(ぶしやう)たらしい返事なんだらう、もう二度と来てやらないから」と云つた。
「仕様のない我儘娘だな」と云つて、柚木は上体を起上らせつゝ、足を胡坐(あくら)に組みながら
「ほほう、今日は日本髪か」とじろじろ眺めた。
「知らない」といつて、みち子はくるりと後向きになつて着物の背筋に拗(す)ねた線を作つた。柚木は、華やかな帯の結び目の上はすぐ、突襟のうしろ口になり、頸の附根を真つ白く富士形に覗かせて誇張した媚態(びたい)を示す物々しさに較べて、帯の下の腰つきから裾は、一本花のやうに急に削(そ)げてゐて味もそつけもない少女のまゝなのを異様に眺めながらこの娘が自分の妻になつて、何事も自分に気を許し、何事も自分に頼りながら、小うるさく世話を焼く間柄になつた場合を想像した。それでは自分の一生も案外小ぢんまりした平凡に規定されて仕舞ふ寂寞(せきばく)の感じはあつたが、しかし、また何かさうなつて見ての上のことでなければ判らない不明な珍らしい未来の想像が、現在の自分の心情を牽(ひ)きつけた。
柚木は額を小さく見せるまでたわゝに前髪や鬢(びん)を張り出した中に整ひ過ぎたほど型通りの美しい娘に化粧したみち子の小さい顔に、もつと自分を夢中にさせる魅力を見出したくなつた。
「もう一ぺんこつちを向いてご覧よ、とても似合ふから」
みち子は右肩を一つ揺つたが、すぐくるりと向き直つて、ちよつと手を胸と鬢(びん)へやつて掻い繕(つくろ)つた。「うるさいのね、さあ、これでいゝの」彼女は柚木が本気に自分を見入つてゐるのに満足しながら、薬玉(くすだま)の簪(かんざし)の垂れをピラピラさせて云つた。
「ご馳走を持つて来てやつたのよ。当ててご覧なさい」
柚木はこんな小娘に嬲(なぶ)られる甘さが自分に見透かされたのかと、心外に思ひながら
「当てるの面倒臭い。持つて来たのなら、早く出し給へ」と云つた。
みち子は柚木の権柄(けんぺい)づくにたちまち反抗心を起して「人が親切に持つて来てやつたのを、そんなに威張るのなら、もうやらないわよ」と横向きになつた。
「出せ」と云つて柚木は立上つた。彼は自分でも、自分が今、しかゝる素振りに驚きつゝ、彼は権威者のやうに「出せと云つたら、出さないか」と体を嵩張(かさば)らせて、のそのそとみち子に向つて行つた。
自分の一生を小さい陥穽(かんせい)に嵌(は)め込んで仕舞ふ危険と、何か不明の牽引力の為めに、危険と判り切つたものへ好んで身を挺して行く絶体絶命の気持ちとが、生れて始めての極度の緊張感を彼から抽(ひ)き出した。自己嫌悪に打負かされまいと思つて、彼の額から脂汗(あぶらあせ)がたらたらと流れた。
みち子はその行動をまだ彼の冗談半分の権柄(けんぺい)づくの続きかと思つて、ふざけて軽蔑(けいべつ)するやうに眺めてゐたが、だいぶ模様が違ふので途中から急に恐ろしくなつた。
彼女はやゝ茶の間の方へ退(すさ)りながら
「誰が出すもんか」と小さく呟(つぶや)いてゐたが、柚木が彼女の眼を火の出るやうに見詰めながら、徐々に懐中から一つづつ手を出して彼女の肩にかけると、恐怖のあまり「あつ」と二度ほど小さく叫び、彼女の何の修装もない生地の顔が感情を露出して、眼鼻や口がばらばらに配置された。「出し給へ」「早く出せ」その言葉の意味は空虚で、柚木の腕から太い戦慄(せんりつ)が伝はつて来た。柚木の大きい咽喉仏(のどぼとけ)がゆつくり生唾を飲むのが感じられた。
彼女は眼を裂けるやうに見開いて「ご免なさい」と泣声になつて云つたが、柚木はまるで感電者のやうに、顔を痴呆にして、鈍(にぶ)く蒼(あを)ざめ、眼をもとのやうに据ゑたまゝたゞ戦慄だけをいよいよ激しく両手からみち子の体に伝へてゐた。
みち子はつひに何ものかを柚木から読み取つた。普段「男は案外臆病なものだ」と養母の言つた言葉がふと思ひ出された。
立派な一人前の男が、そんなことで臆病と戦つてゐるのかと思ふと、彼女は柚木が人のよい大きい家畜のやうに可愛ゆく思へて来た。
彼女はばらばらになつた顔の道具をたちまちまとめて、愛嬌(あいけう)したゝるやうに媚(こ)びの笑顔に造り直した。
「ばか、そんなにしないだつて、ご馳走あげるわよ」
柚木の額の汗を掌でしゆつと払ひ捨ててやり
「こつちにあるから、いらつしやいよ。さあね」
ふと鳴つて通つた庭樹の青嵐を振返つてから、柚木のがつしりした腕を把(と)つた。
さみだれが煙るやうに降る夕方、老妓は傘をさし、玄関横の柴折戸(しをりど)から庭へ入つて来た。渋い座敷着を着て、座敷へ上つてから、褄(つま)を下ろして坐つた。
「お座敷の出がけだが、ちよつとあんたに云つとくことがあるので寄つたんだがね」
莨入(たばこい)れを出して、煙管(きせる)で煙草盆代りの西洋皿を引寄せて 「この頃、うちのみち子がしよつちゆう来るやうだが、なに、それについて、とやかく云ふんぢやないがね」
若い者同士のことだから、もしやといふことも彼女は云つた。
「そのもしやもだね」
本当に性が合つて、心の底から惚(ほ)れ合ふといふのなら、それは自分も大賛成なのである。
「けれども、もし、お互ひが切れつぱしだけの惚れ合ひ方で、たゞ何かの拍子で出来合ふといふことでもあるなら、そんなことは世間にはいくらもあるし、つまらない。必ずしもみち子を相手取るにも当るまい。私自身も永い一生そんなことばかりで苦労して来た。それなら何度やつても同じことなのだ」
仕事であれ、男女の間柄であれ、混り気のない没頭した一途(いちづ)な姿を見たいと思ふ。
私はさういふものを身近に見て、素直に死に度いと思ふ。
「何も急いだり、焦(あせ)つたりすることはいらないから、仕事なり恋なり、無駄をせず、一揆(いつき)で心残りないものを射止めて欲しい」と云つた。
柚木は「そんな純粋なことは今どき出来もしなけりや、在るものでもない」と磊落(らいらく)に笑つた。老妓も笑つて
「いつの時代だつて、心懸けなきや滅多にないさ。だから、ゆつくり構へて、まあ、好きなら麦とろでも食べて、運の籤(くじ)の性質をよく見定めなさいといふのさ。幸ひ体がいゝからね。根気も続きさうだ」
車が迎へに来て、老妓は出て行つた。
柚木はその晩ふらふらと旅に出た。
老妓の意志はかなり判つて来た。それは彼女に出来なかつたことを自分にさせようとしてゐるのだ。しかし、彼女が彼女に出来なくて自分にさせようとしてゐることなぞは、彼女とて自分とて、またいかに運の籤(くじ)のよきものを抽(ひ)いた人間とて現実では出来ない相談のものなのではあるまいか。現実といふものは、切れ端は与へるが、全部はいつも眼の前にちらつかせて次々と人間を釣つて行くものではなからうか。
自分はいつでも、そのことについては諦(あきら)めることが出来る。しかし彼女は諦めといふことを知らない。その点彼女に不敏なところがあるやうだ。だがある場合には不敏なものの方に強味がある。
たいへんな老女がゐたものだ、と柚木は驚いた。何だか甲羅(かふら)を経て化けかゝつてゐるやうにも思はれた。悲壮な惑じにも衝(う)たれたが、また、自分が無謀なその企てに捲(ま)き込まれる嫌な気持ちもあつた。出来ることなら老女が自分を乗せかけてゐる果しも知らぬエスカレーターから免れて、つんもりした手製の羽根蒲団のやうな生活の中に潜り込み度いものだと思つた。彼はさういふ考へを裁くために、東京から汽車で二時間ほどで行ける海岸の旅館へ来た。そこは蒔田の兄が経営してゐる旅館で、蒔田に頼まれて電気装置を見廻りに来てやつたことがある。広い海を控へ雲の往来の絶えない山があつた。かういふ自然の間に静思して考へを纏(まと)めようといふことなど、彼には今までにつひぞなかつたことだ。
体のよいためか、こゝへ来ると、新鮮な魚はうまく、潮を浴びることは快かつた。しきりに哄笑(こうせう)が内部から湧き上つて来た。
第一にさういふ無限な憧憬にひかれてゐる老女がそれを意識しないで、刻々のちまちました生活をしてゐるのがをかしかつた。それからある種の動物は、たゞその周囲の地上に圏(わ)の筋をひかれただけで、それを越し得ないといふそれのやうに、柚木はこゝへ来ても老妓の雰囲気(ふんゐき)から脱し得られない自分がをかしかつた。その中に籠められてゐるときは重苦しく退屈だが、離れるとなると寂しくなる。それ故に、自然と探し出して貰ひ度い底心の上に、判り易い旅先を選んで脱走の形式を採つてゐる自分の現状がをかしかつた。
みち子との関係もをかしかつた。何が何やら判らないで、一度稲妻のやうに掠(かす)れ合つた。
滞在一週間ほどすると、電気器具店の蒔田が、老妓から頼まれて、金を持つて迎へに来た。蒔田は「面白くないこともあるだらう。早く収入の道を講じて独立するんだね」と云つた。
柚木は連れられて帰つた。しかし彼はこの後、たびたび出奔癖がついた。
「おつかさんまた柚木さんが逃げ出してよ」
運動服を着た養女のみち子が、蔵の入口に立つてさう云つた。自分の感情はそつちのけに、養母が動揺するのを気味よしとする皮肉なところがあつた。「ゆんべもをととひの晩も自分の家へ帰つて来ませんとさ」
新日本音楽の先生の帰つたあと、稽古場にしてゐる土蔵の中の畳敷の小ぢんまりした部屋になほひとり残つて、復習直(さらひなほ)しをしてゐた老妓は、三味線をすぐ下に置くと、内心口惜しさが漲(みなぎ)りかけるのを気にも見せず、けろりとした顔を養女に向けた。
「あの男。また、お決まりの癖が出たね」
長煙管で煙草を一ぷく喫(す)つて、左の手で袖口を掴(つか)み展(ひら)き、着てゐる大島の男縞が似合ふか似合はないか検(ため)してみる様子をしたのち
「うつちやつてお置き、さうさうはこつちも甘くなつてはゐられないんだから」
そして膝の灰をぽんぽんぽんと叩いて、楽譜をゆつくり仕舞ひかけた。いきり立ちでもするかと思つた期待を外された養母の態度にみち子は詰らないといふ顔をして、ラケットを持つて近所のコートへ出かけて行つた。すぐそのあとで老妓は電気器具屋に電話をかけ、いつもの通り蒔田に柚木の探索を依頼した。遠慮のない相手に向つて放つその声には自分が世話をしてゐる青年の手前勝手を詰(なじ)る激しい鋭さが、発声口から聴話器を握つてゐる自分の手に伝はるまでに響いたが、彼女の心の中は不安な脅(おび)えがやゝ情緒的に醗酵(はつかう)して寂しさの微醺(ほろよひ)のやうなものになつて、精神を活溌にしてゐた。電話器から離れると彼女は
「やつぱり若い者は元気があるね。さうなくちや」呟きながら眼がしらにちよつと袖口を当てた。彼女は柚木が逃げる度に、柚木に尊敬の念を持つて来た。だがまた彼女は、柚木がもし帰つて来なくなつたらと想像すると、毎度のことながら取り返しのつかない気がするのである。
真夏の頃、すでに某女に紹介して俳句を習つてゐる筈の老妓からこの物語の作者に珍らしく、和歌の添削(てんさく)の詠草(えいさう)が届いた。作者はそのとき偶然老妓が以前、和歌の指導の礼に作者に拵へて呉れた中庭の池の噴水を眺める縁側で食後の涼を納(い)れてゐたので、そこで取次ぎから詠草を受取つて、池の水音を聴き乍ら、非常な好奇心をもつて久しぶりの老妓の詠草を調べてみた。その中に最近の老妓の心境が窺(うかゞ)へる一首があるので紹介する。もつとも原作に多少の改削を加へたのは、師弟の作法といふより、読む人への意味の疏通をより良くするために外ならない。それは僅に修辞上の箇所にとゞまつて、内容は原作を傷けないことを保証する。
年々にわが悲しみは深くして
いよよ華やぐいのちなりけり
(作者は、大正・昭和期の著名な小説家・歌人 1889.3.1 - 1939.2.18
東京都港区に生まれる。画家岡本太郎の母。短期間に、また没後にも集中的に充実した作品を光放つように世に問うた。短編の一代表作「老妓抄」は死の前年、昭和十三年(1938)「中央公論」十一月号に初出。底本は、筑摩現代文学大系42に拠る。この作家には、日本の作家、ことに女流作家にはめずらしい、一種の形而上学的な思想の反映が作意のそこに沈んで見える。この作品も独自のものをもっている。)
春は馬車に乗って
横光 利一
海浜の松が凩(こがらし)に鳴り始めた。庭の片隅で一叢(ひとむら)の小さなダリヤが縮んでいった。
彼は妻の寝ている寝台の傍から、泉水の中の鈍い亀の姿を眺めていた。亀が泳ぐと、水面から輝(て)り返された明るい水影が、乾いた石の上で揺れていた。
「まアね、あなた、あの松の葉が此の頃それは綺麗(きれい)に光るのよ。」と妻は云った。
「お前は松の木を見ていたんだな。」
「ええ、」
「俺は亀を見てたんだ。」
二人はまたそのまま黙り出そうとした。
「お前はそこで長い間寝ていて、お前の感想は、たった松の葉が美しく光ると云うことだけなのか。」
「ええ。だって、あたし、もう何も考えないことにしているの。」
「人間は何も考えないで寝ていられる筈(はず)がない。」
「そりゃ考えることは考えるわ。あたし、早くよくなって、シャッシャッと井戸で洗濯したくってならないの。」
「洗濯がしたい?」
彼はこの意想外の妻の慾望に笑い出した。
「お前はおかしな奴だね。俺に長い間苦労をかけておいて、洗濯がしたいとは変った奴だ。」
「でも、あんなに丈夫な時が羨(うらや)ましいの。あなたは不幸な方だわね。」
「うむ、」と彼は云った。
彼は妻を貰うまでの四五年に渡る彼女の家庭との長い争闘を考えた。それから妻と結婚してから、母と妻との間に挟まれた二年間の苦痛な時間を考えた。彼は母が死に、妻と二人になると、急に妻が胸の病気で寝て了(しま)った此の一年間の艱難(かんなん)を思い出した。
「なるほど、俺ももう洗濯がしたくなった。」
「あたし、いま死んだってもういいわ。だけどね、あたし、あなたにもっと恩を返してから死にたいの。此の頃あたし、そればっかり苦になって。」
「俺に恩を返すって、どんなことをするんだね。」
「そりゃ、あたし、あなたを大切にして、……」
「それから。」
「もっといろいろすることがあるわ。」
──しかし、もうこの女は助からない、と彼は思った。
「俺はそう云うことは、どうだっていいんだ。ただ俺は、そうだね。俺は、ただ、ドイツのミュンヘンあたりへいっぺん行って、それも、雨の降っている所じゃなくちゃ行く気がしない。」
「あたしも行きたい。」と妻は云うと、急に寝台の上で腹を波のようにうねらせた。
「お前は絶対安静だ。」
「いや、いや、あたし、歩きたい。起してよ、ね、ね。」
「駄目だ。」
「あたし、死んだっていいから、」
「死んだって、始まらない。」
「いいわよ、いいわよ。」
「まア、じっとしてるんだ。それから、一生の仕事に、松の葉がどんなに美しく光るかって云う形容詞を、たった一つ考え出すのだね。」
妻は黙って了(しま)った。彼は妻の気持ちを転換さすために、柔らかな話題を選択しようとして立ち上った。
海では午後の波が遠く岩にあたって散っていた。一艘(いっそう)の舟が傾きながら鋭い岬の尖端(せんたん)を廻(まわ)っていった。渚(なぎさ)では逆巻く濃藍色(のうらんしょく)の背景の上で、子供が二人湯気の立った芋(いも)を持って紙屑(かみくず)のように坐っていた。
彼は自分に向って次ぎ次ぎに来る苦痛の波を避けようと思ったことはまだなかった。此
夫々(それぞれ)に質を違えて襲って来る苦痛の波の原因は、自分の肉体の存在の最初に於て働いていたように思われたからである。彼は苦痛を、譬(たと)えば砂糖を甜(な)める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。そうして最後に、どの味が美味(うま)かったか。──俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、先(ま)ず透明でなければならぬ。と、彼は考えた。
ダリヤの茎が干枯(ひから)びた縄のように地の上でむすぼれ出した。潮風が水平線の上から終日吹きつけて来て冬になった。
彼は砂風の巻き上る中を、一日に二度ずつ妻の食べたがる新鮮な鳥の臓物(ぞうもつ)を捜しに出かけて行った。彼は海岸町の鳥屋という鳥屋を片端から訪ねていって、そこの黄色い俎(まないた)の上から一応庭の中を眺め廻(まわ)してから訊(き)くのである。
「臓物はないか、臓物は。」
彼は運好(うんよ)く瑪瑙(めのう)のような臓物を氷の中から出されると、勇敢な足どりで家に帰って妻の枕元(まくらもと)に並べるのだ。
「この曲玉(まがたま)のようなのは鳩の腎臓(じんぞう)だ。この光沢のある肝臓は、これは家鴨(あひる)の生胆(いきぎも)だ。これはまるで、噛(か)み切った一片の唇のようで、此の小さな青い卵は、これは崑崙山(こんろんざん)の翡翠(ひすい)のようで。」
すると、彼の饒舌(じょうぜつ)に煽動(せんどう)させられた彼の妻は、最初の接吻(せっぷん)を迫るように、華やかに床の中で食慾のために身悶(みもだ)えした。彼は惨酷(ざんこく)に臓物を奪い上げると、直(す)ぐ鍋(なべ)の中へ投げ込んで了うのが常であった。
妻は檻(おり)のような寝台の格子(こうし)の中から、微笑しながら絶えず湧(わ)き立つ鍋の中を眺めていた。
「お前をここから見ていると、実に不思議な獣だね。」と彼は云った。
「まア、獣だって。あたし、これでも奥さんよ。」
「うむ、臓物を食べたがっている檻の中の奥さんだ。お前は、いつの場合に於ても、どこか、ほのかに惨忍性(ざんにんせい)を湛(たた)えている」
「それはあなたよ。あなたは理智的で、惨忍性を持っていて、いつでも私の傍から放れたがろうとばかり考えていらしって。」
「それは、檻の中の理論である。」
彼は彼の額に煙り出す片影のような皺(しわ)さえも、敏感に見逃さない妻の感覚を誤魔化(ごまか)すために、此の頃いつも此の結論を用意していなければならなかった。それでも時には、妻の理論は急激に傾きながら、彼の急所を突き通して旋廻(せんかい)することが度々あった。
「実際、俺はお前の傍に坐っているのは、そりゃいやだ。肺病と云うものは、決して幸福なものではないからだ。」
彼はそう直接妻に向って逆襲することがあった。
「そうではないか。俺はお前から離れたとしても、此の庭をぐるぐる廻っているだけだ。俺はいつでも、お前の寝ている寝台から綱をつけられていて、その綱の画(えが)く円周の中で廻っているより仕方がない。これは憐(あわ)れな状態である以外の、何物でもないではないか。」
「あなたは、あなたは、遊びたいからよ。」
と妻は口惜しそうに云った。
「お前は遊びたかないのかね。」
「あなたは、他の女の方と遊びたいのよ。」
「しかし、そう云うことを云い出して、もし、そうだったらどうするんだ。」
そこで、妻が泣き出して了うのが例であった。彼は、はッとして、また逆に理論を極めて物柔らかに解きほぐして行かねばならなかった。
「なるほど、俺は、朝から晩まで、お前の枕元にいなければならないと云うのはいやなのだ。それで俺は、一刻も早く、お前をよくしてやるために、こうしてぐるぐる同じ庭の中を廻っているのではないか。これには俺とて一通りのことじゃないさ。」
「それはあなたのためだからよ。私のことを、一寸(ちょっと)もよく思ってして下さるんじゃないんだわ。」
彼はここまで妻から肉迫されて来ると、当然彼女の檻の中の理論にとりひしがれた。だが、果して、自分は自分のためにのみ、此の苦痛を噛み殺しているのだろうか。
「それはそうだ、俺はお前の云うように、俺のために何事も忍耐しているのにちがいない。しかしだ、俺が俺のために忍耐していると云うことは、一体誰故にこんなことをしていなければならないんだ。俺はお前さえいなければ、こんな馬鹿な動物園の真似(まね)はしていたくないんだ。そこをしていると云うのは、誰のためだ。お前以外の俺のためだとでも云うのか、馬鹿馬鹿しい。」
こう云う夜になると、妻の熱は定(きま)って九度近くまで昇り出した。彼は一本の理論を鮮明にしたために、氷嚢(ひょうのう)の口を、開けたり閉めたり、夜通ししなければならなかった。
しかし、なお彼は自分の休息する理由の説明を明瞭(めいりょう)にするために、此の懲(こ)りるべき理由の整理を、殆(ほとん)ど日々し続けなければならなかった。彼は食うためと、病人を養うためとに別室で仕事をした。すると、彼女は、また檻の中の理論を持ち出して彼を攻めたてて来るのである。
「あなたは、私の傍をどうしてそう放れたいんでしょう。今日はたった三度より此の部屋へ来て下さらないんですもの。分っていてよ。あなたは、そう云う人なんですもの。」
「お前と云う奴は、俺がどうすればいいと云うんだ。俺は、お前の病気をよくするために、薬と食物とを買わなければならないんだ。誰がじっとしていて金をくれる奴があるものか。お前は俺に手品でも使えと云うんだね。」
「だって、仕事なら、ここでも出来るでしょう。」と妻は云った。
「いや、ここでは出来ない。俺はほんの少しでも、お前のことを忘れているときでなければ出来ないんだ。」
「そりゃそうですわ。あなたは、二十四時間仕事のことより何も考えない人なんですもの、あたしなんか、どうだっていいんですわ。」
「お前の敵は俺の仕事だ。しかし、お前の敵は、実は絶えずお前を助けているんだよ。」
「あたし、淋しいの。」
「いずれ、誰だって淋しいにちがいない。」
「あなたはいいわ。仕事があるんですもの。あたしは何もないんだわ。」
「捜せばいいじゃないか。」
「あたしは、あなた以外に捜せないんです、あたしは、じっと天井を見て寝てばかりいるんです。」
「もう、そこらでやめてくれ。どっちも淋しいとしておこう。俺には締め切りがある。今日書き上げないと、向うがどんなに困るかしれないんだ。」
「どうせ、あなたはそうよ。あたしより、締め切りの方が大切なんですから。」
「いや、締切と云うことは、相手のいかなる事情をも退(しりぞ)けると云う張り札なんだ。俺は此の張り札を見て引き受けて了った以上、自分の事情なんか考えてはいられない。」
「そうよ、あなたはそれほど理智的なのよ。いつでもそうなの、あたしそう云う理智的な人は、大嫌い。」
「お前は俺の家の者である以上、俺から来た張り札に対しては、俺と同じ責任を持たなければならないんだ。」
「そんなもの、引き受けなければいいじゃありませんか。」
「しかし、俺とお前の生活はどうなるんだ。」
「あたし、あなたがそんなに冷淡になる位なら、死んだ方がいいの。」
すると、彼は黙って庭へ飛び降りて深呼吸をした。それから、彼はまた風呂敷を持って、その日の臓物(ぞうもつ)を買いにこっそりと町の中へ出かけていった。
しかし、此の彼女の「檻の中の理論」は、その檻に縛(つな)がれて廻(まわ)っている彼の理論を、絶えず全身的な興奮を持って、殆(ほとん)ど間髪(かんはつ)の隙間(すきま)をさえも洩(も)らさずに追(お)っ駈(か)けて来るのである。此のため彼女は、彼女の檻の中で製造する病的な理論の鋭利さのために、自身の肺の組織を日々加速度的に破壊していった。
彼女の曾(かつ)ての円く張った滑らかな足と手は、竹のように痩(や)せて来た。胸は叩(たた)けば、軽い張子(はりこ)のような音を立てた。そうして、彼女は彼女の好きな鳥の臓物さえも、もう振り向きもしなくなった。
彼は彼女の食慾をすすめるために、海からとれた新鮮な魚の数々を縁側に並べて説明した。
「これは鮟鱇(あんこう)で踊り疲れた海のピエロ。これは海老(えび)で車海老、海老は甲冑(かっちゅう)をつけて倒れた海の武者。この鰺(あじ)は暴風で吹きあげられた木の葉である。」
「あたし、それより聖書を読んでほしい。」
と彼女は云った。
彼はポウロのように魚を持ったまま、不吉な予感に打たれて妻の顔を見た。
「あたし、もう何も食べたかないの、あたし、一日に一度ずつ聖書を読んで貰いたいの。」
そこで、彼は仕方なくその日から汚れたバイブルを取り出して読むことにした。
「エホバよわが祈りをききたまえ。願くばわが号呼(さけび)の声の御前にいたらんことを。わが窮苦(なやみ)の日、み顔を蔽(おお)いたもうなかれ。なんじの耳をわれに傾け、我が呼ぶ日にすみやかに我にこたえたまえ。わがもろもろの日は煙のごとく消え、わが骨は焚木(たきぎ)のごとく焚(やか)るるなり。わが心は草のごとく撃(うた)れてしおれたり。われ糧(かて)をくらうを忘れしによる。」
しかし、不吉なことはまた続いた。或る日、暴風の夜が開けた翌日、庭の池の中からあの鈍い亀が逃げて了(しま)っていた。
彼は妻の病勢がすすむにつれて、彼女の寝室の傍からますます離れることが出来なくなった。彼女の口から、痰(たん)が一分毎に出始めた。彼女は自分でそれをとることが出来ない以上、彼がとってやるよりとるものがなかった。また彼女は激しい腹痛を訴え出した。咳(せき)の大きな発作(ほっさ)が、昼夜を分たず五回ほど突発した。その度に、彼女は自分の胸を引(ひ)っ掻(か)き廻して苦しんだ。彼は病人とは反対に落ちつかなければならないと考えた。しかし、彼女は、彼が冷静になればなるほど、その苦悶(くもん)の最中に咳を続けながら彼を罵(ののし)った。
「人の苦しんでいるときに、あなたは、あなたは、他のことを考えて。」
「まア、静まれ、いま怒鳴(どな)っちゃ。」
「あなたが、落ちついているから、憎らしいのよ。」
「俺が、いま狼狽(あわ)てては、」
「やかましい。」
彼女は彼の持っている紙をひったくると、自分の痰を横なぐりに拭(ふ)きとって彼に投げつけた。
彼は片手で彼女の全身から流れ出す汗を所を撰(えら)ばず拭きながら、片手で彼女の口から咳出す痰を絶えず拭きとっていなければならなかった。彼の跼(かが)んだ腰はしびれて来た。彼女は苦しまぎれに、天井を睨(にら)んだまま、両手を振って彼の胸を叩き出した。汗を拭きとる彼のタオルが、彼女の寝巻にひっかかった。すると、彼女は、蒲団(ふとん)を蹴(け)りつけ、身体をばたばた波打たせて起き上ろうとした。
「駄目だ、駄目だ。動いちゃ。」
「苦しい、苦しい。」
「落ちつけ。」
「苦しい。」
「やられるぞ。」
「うるさい。」
彼は楯(たて)のように打たれながら、彼女のざらざらした胸を撫(な)で擦(さす)った。
しかし、彼は此の苦痛な頂天に於てさえ、妻の健康な時に彼女から与えられた自分の嫉妬(しっと)の苦しみよりも、寧(むし)ろ数段の柔かさがあると思った。してみると彼は、妻の健康な肉体よりも、此の腐った肺臓を持ち出した彼女の病体の方が、自分にとってはより幸福を与えられていると云うことに気がついた。
──これは新鮮だ。俺はもうこの新鮮な解釈によりすがっているより仕方がない。
彼は此の解釈を思い出す度に、海を眺めながら、突然あはあはと大きな声で笑い出した。
すると、妻はまた、檻の中の理論を引(ひ)き摺(ず)り出して苦々(にがにが)しそうに彼を見た。
「いいわ、あたし、あなたが何ぜ笑ったのかちゃんと知ってるんですもの。」
「いや、俺はお前がよくなって、洋装をしたがって、ぴんぴんはしゃがれるよりは、静に寝ていられる方がどんなに有り難いかしれないんだ。第一、お前はそうしていると、蒼(あお)ざめていて気品がある。まア、ゆっくり寝ていてくれ。」
「あなたは、そう云う人なんだから。」
「そう云う人なればこそ、有り難がって看病が出来るのだ。」
「看病看病って、あなたは二言目には看病を持ち出すのね。」
「これは俺の誇りだよ。」
「あたし、こんな看病なら、して欲しかないの。」
「所が、俺が譬(たと)えば三分間向うの部屋へ行っていたとする。すると、お前は三日も抛(ほう)ったらかされたように云うではないか、さア、何とか返答してくれ。」
「あたしは、何も文句を云わずに、看病がして貰いたいの。いやな顔をされたり、うるさがられたりして看病されたって、ちっとも有り難いと思わないわ。」
「しかし、看病と云うのは、本来うるさい性質のものとして出来上っているんだぜ。」
「そりゃ分っているわ。そこをあたし、黙ってして貰いたいの。」
「そうだ、まア、お前の看病をするためには、一族郎党(いちぞくろうどう)を引きつれて来ておいて、金を百万円ほど積みあげて、それから博士を十人ほどと、看護婦を百人ほどと、」
「あたしは、そんなことなんかして貰いたかないの、あたし、あなた一人にして貰いたいの。」
「つまり、俺が一人で、十人の博士の真似(まね)と、百人の看護婦と、百万円の頭取の真似をしろって云うんだね。」
「あたし、そんなことなんか云ってやしない。あたし、あなたにじっと傍にいて貰えば安心出来るの。」
「そら見ろ、だから、少々は俺の顔が顰(ゆが)んだり、文句を云ったりする位は我慢(がまん)をしろ。」
「あたし、死んだら、あなたを怨(うら)んで怨んで怨んで、そして、死ぬの。」
「それ位のことなら、平気だね。」
妻は黙って了った。しかし、妻はまだ何か彼に斬(き)りつけたくてならないように、黙って必死に頭を研(と)ぎ澄しているのを彼は感じた。
しかし彼は、彼女の病勢を進ます彼自身の仕事と生活のことも考えねばならなかった。だが、彼は妻の看病と睡眠の不足から、だんだんと疲れて来た。彼が疲れれば疲れるほど、彼の仕事が出来なくなるのは分っていた。彼の仕事が出来なければ出来ないほど、彼の生活が困り出すのも定(きま)っていた。それにも拘(かかわ)らず、昂進(こうしん)して来る病人の費用は、彼の生活の困り出すのに比例して増して来るのは明かなことであった。然(しか)も、なお、いかなることがあろうとも、彼がますます疲労して行くことだけは事実である。
──それなら俺は、どうすれば良いのか。
──もうここらで俺もやられたい。そうしたら、俺は、何に不足なく死んでみせる。
彼はそう思うことも時々あった。しかし、また彼は、此の生活の難局をいかにして切り抜けるか、その自分の手腕を一度はっきり見たくもあった。彼は夜中起されて妻の痛む腹を擦(さす)りながら、
「なお、憂(う)きことの積れかし、なお憂きことの積れかし。」
と呟(つぶや)くのが癖になった。ふと彼はそう云う時、茫々(ぼうぼう)とした青い羅紗(ラシヤ)の上を、撞(つ)かれた球(たま)ひょうひょう
がひとり飄々(ひようひょう)として転がって行くのが眼に浮んだ。
──あれは俺の玉だ、しかし、あの俺の玉を、誰がこんなに出鱈目(でたらめ)に突いたのか。
「あなた、もっと、強く擦ってよ、あなたは、どうしてそう、面倒臭(めんどうくさ)がりになったのでしょう。もとはそうじゃなかったわ。もっと親切に、あたしのお腹を擦って下さったわ。それだのに、此の頃は、ああ痛、ああ痛。」と彼女は云った。
「俺もだんだん疲れて来た。もう直(す)ぐ、俺も参るだろう。そうしたら、二人がここで呑気(のんき)に寝転んでいようじゃないか。」
すると、彼女は急に静になって、床の下から鳴き出した虫のような憐(あわ)れな声で呟いた。
「あたし、もうあなたにさんざ我ままを云ったわね。もうあたし、これでいつ死んだっていいわ。あたし満足よ。あなた、もう寝て頂戴(ちょうだい)な。あたし我慢(がまん)をしているから。」
彼はそう云われると、不覚にも涙が出て来て、撫(な)でている腹の手を休める気がしなくなった。
庭の芝生が冬の潮風に枯れて来た。硝子戸(ガラスど)は終日辻馬車(つじばしゃ)の扉のようにがたがたと慄(ふる)えていた。もう彼は家の前に、大きな海のひかえているのを長い間忘れていた。
或る日彼は医者の所へ妻の薬を貰いに行った。
「そうそう。もっと前からあなたに云おう云おうと思っていたんですが、」
と医者は云った。
「あなたの奥さんは、もう駄目ですよ。」
「はア。」
彼は自分の顔がだんだん蒼(あお)ざめて行くのをはっきりと感じた。
「もう左の肺がありませんし、それに右も、もう余程(よほど)進んでおります。」
彼は海浜に添って、車に揺られながら荷物のように帰って来た。晴れ渡った明るい海が、彼の顔の前で死をかくまっている単調な幕のように、だらりとしていた。彼はもうこのまま、いつまでも妻を見たくはないと思った。もし見なければ、いつまでも妻が生きているのを感じていられるにちがいないのだ。
彼は帰ると直ぐ自分の部屋へ這入(はい)った。そこで彼は、どうすれば妻の顔を見なくて済まされるかを考えた。彼はそれから庭へ出ると芝生の上へ寝転んだ。身体が重くぐったりと疲れていた。涙が力なく流れて来ると彼は枯れた芝生の葉を丹念にむしっていた。
「死とは何だ。」
ただ見えなくなるだけだ、と彼は思った。暫(しばら)くして、彼は乱れた心を整えて妻の病室へ這入っていった。
妻は黙って彼の顔を見詰めていた。
「何か冬の花でも入(い)らないか。」
「あなた、泣いていたのね。」と妻は云った。
「いや。」
「そうよ。」
「泣く理由がないじゃないか。」
「もう分っていてよ。お医者さんが何か云ったのね。」
妻はそうひとり定めてかかると、別に悲しそうな顔もせず黙って天井を眺め出した。彼は妻の枕元(まくらもと)の籐椅子(とういす)に腰を下ろすと、彼女の顔を更(あらた)めて見覚えて置くようにじっと見た。
──もう直ぐ、二人の間の扉は閉められるのだ。
──しかし、彼女も俺も、もうどちらもお互に与えるものは与えて了(しま)った。今は残っているものは何物もない。
その日から、彼は彼女の云うままに機械のように動き出した。そうして、彼は、それが彼女に与える最後の餞別(せんべつ)だと思っていた。
或る日、妻はひどく苦しんだ後で彼に云った。
「ね、あなた、今度モルヒネを買って来てよ。」
「どうするんだね。」
「あたし、飲むの。モルヒネを飲むと、もう眼が醒(さ)めずにこのままずっと眠って了うんですって。」
「つまり、死ぬことかい?」
「ええ、あたし、死ぬことなんか一寸も恐(こわ)かないわ。もう死んだら、どんなにいいかしれないわ。」
「お前も、いつの間にか豪くなったものだね。そこまで行けば、もう人間もいつ死んだって大丈夫だ。」
「でも、あたしね、あなたに済まないと思うのよ。あなたを苦しめてばかりいたんですもの。御免なさいな。」
「うむ、」と彼は云った。
「あたし、あなたのお心はそりゃよく分っているの。だけど、あたし、こんなに我ままを云ったのも、あたしが云うんじゃないわ。病気が云わすんだから。」
「そうだ。病気だ。」
「あたしね、もう遺言も何も書いてあるの。だけど、今は見せないわ。あたしの床の下にあるから、死んだら見て頂戴。」
彼は黙って了った。──事実は悲しむべきことなのだ。それに、まだ悲しむべきことを云うのは、やめて貰いたいと彼は思った。
花壇の石の傍で、ダリヤの球根が掘り出されたまま霜に腐っていった。亀に代ってどこからか来た野の猫が、彼の空いた書斎の中をのびやかに歩き出した。妻は殆(ほとん)ど終日苦しさのために何も云わずに黙っていた。彼女は絶えず、水平線を狙(ねら)って海面に突出している遠くの光った岬ばかりを眺めていた。
彼は妻の傍で、彼女に課せられた聖書を時々読み上げた。
「エホバよ、願くば忿恚(いきどおり)をもて我をせめ、烈(はげ)しき怒りをもて我を懲(こ)らしめたもうなかれ。エホバよ、われを憐れみたまえ。われ萎(や)み衰(おとろ)うなり。エホバよわれを医(いや)したまえ。わが骨わななき震う。わが霊魂(たましい)さえも甚(いた)くふるいわななく。エホバよ。かくて幾その時をへたもうや。死にありては汝(なんじ)を思い出ずることもなし。」
彼は妻の啜(すす)り泣くのを聞いた。彼は聖書を読むのをやめて妻を見た。
「お前は、今何を考えていたんだね。」
「あたしの骨はどこへ行くんでしょう。あたし、それが気になるの。」
──彼女の心は、今、自分の骨を気にしている。──彼は答えることが出来なかった。
──もう駄目だ。
彼は頭を垂れるように心を垂れた。すると、妻の眼から涙が一層激しく流れて来た。
「どうしたんだ。」
「あたしの骨の行き場がないんだわ。あたし、どうすればいいんでしょう。」
彼は答えの代りにまた聖書を急いで読み上げた。
「神よ、願くば我を救い給え。大水ながれ来りて我たましいにまで及べり。われ立止(たちど)なき深き泥の中に沈めり。われ深水(ふかみず)におちいる。おお水わが上を溢(あふ)れ過ぐ。われ歎(なげ)きによりて疲れたり。わが喉(のど)はかわき、わが目はわが神を待ちわびて衰えぬ。」
彼と妻とは、もう萎(しお)れた一対の茎のように、日々黙って並んでいた。しかし、今は、二人は完全に死の準備をして了(しま)った。もう何事が起ろうとも恐(こ)わがるものはなくなった。そうして、彼の暗く落ちついた家の中では、山から運ばれて来る水甕(みずがめ)の水が、いつも静まった心のように清らかに満ちていた。
彼の妻の眠っている朝は、朝毎に、海面から頭を擡(もた)げる新しい陸地の上を素足で歩いた。前夜満潮に打ち上げられた海草は冷たく彼の足にからまりついた。時には、風に吹かれたようにさ迷い出て来た海辺の童児が、生々しい緑の海苔(のり)に辷(すべ)りながら岩角をよじ登っていた。
海面にはだんだん白帆が増していった。海際の白い道が日増しに賑(にぎ)やかになって来た。或る日、彼の所へ、知人から思わぬスイートピーの花束が岬を廻(まわ)って届けられた。
長らく寒風にさびれ続けた彼の家の中に、初めて早春が匂(にお)やかに訪れて来たのである。
彼は花粉にまみれた手で花束を捧(ささ)げるように持ちながら、妻の部屋へ這入(はい)っていった。
「とうとう、春がやって来た。」
「まア、綺麗(きれい)だわね。」と妻は云うと、頬笑(ほほえ)みながら痩(や)せ衰えた手を花の方へ差し出した。
「これは実に綺麗じゃないか。」
「どこから来たの。」
「此の花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒(ま)き撒きやって来たのさ。」
妻は彼から花束を受けると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼(あお)ざめた顔を埋めると、恍惚(こうこつ)として眼を閉じた。
(よこみつ りいち 小説家 1898.3.17 - 1947.12.30 福島県北会津郡に生まれる。昭和十年(1935)第一回文藝懇話会賞
掲載作は大正十五年(1926)「女性」八月号に初出、翌年改造社刊同題の単行書に収められる。川端康成と並んで新感覚派の旗手と謳われた優れた作者であった。この作品は新感覚派のここちよい優れた特色に溢れていて、悲しい物語であるにかかわらず作家が「表現」の喜びにうちふるえるように初々しく確かにモダンな日本語を績み紡ぎ出している。魅力横溢の初期代表作である。1.10.20掲載)
清貧の書
林
芙美子
一
私はもう長い間、一人で住みたいと云ふ事を願つて暮した。古里も、古里の家族達の事も忘れ果てて今なほ私の戸籍の上は、真白いまゝで遠い肉親の記憶の中から薄れかけようとしてゐる。
只ひとり母だけは、跌(つま)づき勝ちな私に度々手紙をくれて叱つて云ふ事は、──
おまえは、おかあさんでも、おとこうん(5字に、傍点)がわるうて、くろうしてゐると、ふてくされてみえるが、よう、むねにてをあててかんがへてみい。しつかりものぢや、ゆふて、おまえを、しんようしてゐても、そうそう、おとこさん(5字に、傍点)のなまえがちがうては、わしもくるしいけに、さつち五円おくつてくれとあつたが、ばばさがしんで、そうれんもだされんのを、しつてであろう。あんなひとぢやけに、おとうさんも、ほんのこて、しんぼうしなはつて、このごろは、めしのうゑに、しよおゆうかけた、べんたうだけもつて、かいへいだんに、せきたんはこびにいつておんなはる、五円なおくれんけん、二円ばいれとく、しんぼうしなはい。てがみかくのも、いちんちがかりで、あたまがいたうなる。かへろうごとあつたら、二人でもどんなさい。
はは。
ひなたくさい母の手紙を取り出しては、泪(なみだ)をじくじくこぼし、「誰がかへつてやるもンか、田舎へ帰つても飯が満足に食へんのに……今に見い」私は母の手紙の中の、義父が醤油をかけた弁当を持つて毎日海兵団へ働きに行つてゐると云ふ事が、一番胸にこたへた。──もう東京に来て四年にもなる。さして遠い過去ではない。
私は、その四年の間に三人の男の妻となつた。いまの、その三人目の男は、私の気質から云へばひどく正反対で、平凡で誇張のない男であつた。譬(たと)へて云へば、「また引越しをされたやうですが、今度は、淋しいところらしいですね」このやうに、誰かが私達に聞いてくれるとすると、私はいつものやうに楽し気に「えゝこんなに、さう、何千株と躑躅(つゝじ)の植つてゐるお邸のやうなところです」と、私は両手を拡げて、何千株の躑躅が如何に美しいかと云ふ事を表現するのに苦心をする。それであるのに、三人目の男はとんでもなく白気(しらけ)きつた顔つきで、「いや二百株ばかり、それも極(ご)くありふれた、種類の悪い躑躅が植ゑてある荒地のやうな屋敷跡ですよ」といふ。で、私は度々引込みのならない恥づかしい思ひをした。それで、まあ二人にでもなつたならば思ひきり立腹してゐる風なところを見せようと考へてゐたのだけれど、──私達は一緒になつて間もなかつたし、多少の遠慮が私をたしなみ(4字に、傍点)深くさせたのであらうか、その男の白々とした物云ひを、私はいつも沈黙(だま)つて、わざわざ報いるやうな事もしなかつた。
もともと、二人もの男の妻になつた過去を持つてゐて、──私はかつての男ちの性根を、何と云つても今だに煤(すゝ)けた標本のやうに、もうひとつ(3字に、傍点)の記憶の埒内(らちない)に固く保存してゐるので、今更「何ぞ彼(か)ぞ」と云ひ合ひする事は大変面倒な事でもあつた。
二
二人目の男が、私を三人目の小松与一に結びつけたについては一─
お前を打擲(ちやうちゃく)すると
初々と米を炊(かし)ぐやうな骨の音がする
とぼしい財布の中には支那の銅貨(ドンペ)が一ツ
叩くに都合のよい笞(むち)だ
骨も身もばらばらにするのに
私を壁に突き当てては
「この女メたんぽぽが食へるか !」
白い露の出たたんぽぽを
男はさきさきと噛みながら
お前が悪いからだと
銅貨の笞でいつも私を打擲する。
二人目の男の名前を魚谷一太郎と云つて、「俺の祖先は、渡り者かも知れない。魚を捕つてカツカツ食つて行つたのであらう」さういひながらも、貧乏をして何日も飯が食へぬと私を叩き、米の代りにたんぽぽを茹(ゆ)でて食はせたと云うては殴り、「お前はどうしてさう下品な女のくせが抜けないのだ。衿(えり)を背中までずつこかすのはどんな量見なんだ」と、さう云つて打擲し、全く、毎日私の骨はガラガラと崩れて行きさうで打たれる為のデク(2字に、傍点)のやうな存在であつた。
私はその男と二年ほど連れ添つてゐたけれど、肋骨(ろつこつ)を蹴られてから、思ひきつて遠い街に逃げて行つてしまつた。街に出て骨が鳴らなくなつてからも、時々私は手紙の中に壱円札をいれてやつては、「殴らなければ一度位は会ひに帰つてもよい」と云ふ意味の事を、その別れた男に書き送つてやつてゐた。すると別れた男からは、「お前が淫売をしたい故、衿に固練(かたねり)の白粉もつけたい故、美味(うま)いものもたらふく食べたい故、俺から去つて行つたのであらう、俺は今日で三日も飢ゑてゐる。この手紙が着く頃は四日目だ、考へて見ろ」──
この華やかな都会の片隅に、四日も飯を食はぬ男がゐる。働かうにも働かせてくれぬ社会にいつもペツペツと唾きを吐き、罵(のゝし)りわめいてゐる男が……私はこのやうな手紙には何としても返事が書けず、「貴方ひとりに身も世も捨てた」と云ふ小唄をうたつて、誤魔化して暮してゐた。
間もなく、魚谷と云ふ男も結婚したのであらう、大変楽し気な姿で、細々とした女と歩いてゐるのを私は見た事がある。丁度、そのをり、私は白いエプロンを掛けてゐたので、呼び止めはしなかつたけれど、私も早く女給のやうな仕事から足を洗はねばならぬと、地獄壷の中へ、働いただけの金を落して行く事を楽しみとしてゐた。
それから、──幾月も経たないで、正月をその場末のカフェーで迎へると、又、私は三度目の花嫁となつていまの与一と連れ添ひ、「私はあれ程、一人でゐたい事を願つてゐながら、何と云ふ根気のない淋しがりやの女であらうか」と云ふ事をしみじみ考へさせられてゐた。
三
「君は前の亭主にどんな風に叱られてゐたかね……」
与一は骨の無い方の鰺(あぢ)の干物を口から離してかういつた。
「叱られた事なんぞありませんよ」
「無い事はないよ、きつときつい目に会つてゐたと思ふね」
私は骨つきの方の鯵をしやぶりながら風呂屋の煙突を見てゐた。「どんなに叱られてゐたか」何と云ふ乱暴な聞き方であらう、私は背筋が熱くなるやうな思ひを耐へて、与一の顔を見上げた。与一はくずぬいて箸を嘗(な)めてゐた。私は胃の中に酢が詰つたやうに、──瞼が腫れ上つて来た。
「どうして、今更そんな事を云ふの、私を苛(いぢ)めてみようと思ふンでせう、──ねえ、どんなに貧乏しても苛めないで下さいよ、殴らないでよね、これ以上私達豊かにならうなんて見当もつかないけれど、これ以上に食へなくなる日は、私達の上に度々あるでせうし、でも、貧乏するからと云つて、私の体を打擲しないで下さい。もしも、どうしても殴ると云ふのンなら、私は……また貴方から離れなければならないもの、それに、私は今度殴られたら、グラグラした右の肋骨の一本は見事に折れて、私は働けなくなつてしまふでせう」
「ホウ……そんなに前の男は君を殴つてゐたのかね」
「えゝこのボロカス女メと云つてね」
「道理で君はよく寝言を云つてゐるよ。骨が飛ぶからカンニンしてツ、さう云つて夢にまで君は泣いてゐるンだよ」
「だけど──けつして、別れた男が恋しくて泣いてゐるんぢやないでせう。あんまり苛められると、犬だつて寝言にヒクヒク泣いてゐるぢやありませんか」
「責めてゐるわけぢやない。よつぽど辛かつたのだらうと思つたからさ」
「この鯵はもう食べませんか」
「あゝ」
飯台(はんだい)が小さい為か、魚が非常に大きく見えた。頭から尻尾まである魚を飯の菜にすると云ふ事は久しくない事なので、私は与一の食べ荒らしたのまで洗ふやうに食べた。与一は皿の上に白く残つた鰺の残骸を見て驚いたやうに笑つた。
「女と云ふ動物は、どうして魚が好きなのかね」
「男のひとは鱗(うろこ)が嫌ひなンでせう」
「鱗と云へぱ、お前が持つて来た鯉の地獄壺を割つて見ないかね、引越しの費用位はあるだらう」
「さうねえ、引越し賃位はね……でも八円のこの家から拾七円の家ぢやア、随分と差があるし、それに、昨日行つて見たンだけれど、まるで狸でも出さうな家ぢやありませんか」
「拾七円だつてかまふもンか、いゝ仕事がみつかればそんなにビクビクする事もないよ」
「だつて、貴郎(あなた)はまだ私より他に、女の人と所帯を持つた事がないからですよ。すぐ手も足も出なくなるだろうと私は思ふのだけれど──」
「フフン、君はなかなか経験家だからね、だが、そんな事は云はンもンだよ」
与一との生活に、もつと私に青春があれば、きつと私は初々(うひうひ)しい女になつたのだらうけれど、いつも、野良犬のやうに食べる事に焦(あせ)る私である。また二階借りから、一軒の所帯へと伸びて行く、──それはまるで、果てしのない沙漠へでも出発するかのやうに私をひどく不安がらせた。
四
風呂敷の中から地獄壺を出して、与一の耳の辺で振つて見せた事が大きいそぶり(3字に、傍点)であつただけに私は閉口してしまつた。何故ならば、遠い旅の空で醤油飯しか食つてゐない、義父や母の事を考へると、私は古ハガキで、地獄壺の中をほじくり、銀貨といふ銀貨は、母への手紙の中へ札に替へて送つてやつてゐたのである。いま、「割つて御覧よ」といはれると、中身が銅貨ばかりである事を知つてゐる私は、何としても引込みがつかなく白状していつた。
「割つてもいゝのよ、だけれど……本当はもう銅貨ばかりになつてゐますよ」
「銅貨だつて金だよ、少し重いから弐参拾銭はあるだらう」
この男は、精神不感性ででもあるのかも知れない。風が吹いた程にも眼の色を動かさないで、茶を呑んでゐた。
「金と云ふものは溜らぬものさ、──あゝたうたう雨だぜ、オイ、弱つたね」
私は元気よく、柱へ地獄壷を打ちつけた。
ひめくり(4字に、傍点)は、六月十五日だ。
大安(だいあん)で、結婚旅立ちにいゝ日とある。
午後から雷鳴が激しく、雹(ひよう)のやうな雨さへ降つて来た。
山国の産のせゐであらう、まるで森林のやうに毛深い脚を出して、与一は忙がしく荷造りを始めた。私はひどく楽しかつた。男が力いつぱい荷造りをしてゐる姿を見ると、いつも自分で行李(かうり)を締めてゐた一人の時の味気なさが思ひ出されてきて、「兎に角二人で長くやつて行きたい」とこんなところで、──妙にあまく(3字に、傍点)なつてゆく。
私は塩たれたメリンスの帯の結びめに、庖丁や金火箸や、大根擂(す)り、露杓子のやうな、非遊離的な諸道具の一切を挾んだ。又、私の懐の中には箸や手鏡や、五銭で二切の鮭の切身なんぞが新聞紙に包まれてひそんでゐる。
「そんなにゴタゴタしないで、風呂敷へでも包んでしまへよ」
「えゝでもかうやつて、馬穴(ばけつ)をさげて行かうかと思つてゐるのよ」
私達が初めて所帯を持つた二階借りの家から、その引越し先の屋敷跡へは、道程から云ふと、五町ばかりもあつたであらう。その僅か五町もの道の間には、火葬場や大根畑や、墓や杉の森を突切らない事には、大変な廻り道になるので、私達は引越しの代を倹約する為にも、その近い道を通つて僅かな荷物を一ツーツ運ぶ事にした。荷物と云つても、ビール箱で造つた茶碗入れと腰の高いガタガタの卓子(テエブル)と、蒲団に風呂敷包みに、与一の絵の道具とこのやうな類であつた。
蒲団は勿論私のもので、これは別れた男達の時代にはなかつたものである。浴衣(ゆかた)のつぎはぎで出来た滞団ではあつたが、──母はこの蒲団を送つてくれるについて枕は一ツでよいかと聞いてよこした。私は母にだけは、三人目の男の履歴について、少しばかり私の意見を述べて書き送つてあつたので、母は「ほんにこの娘はまた、男さんが違うてのう」そのやうに腹の中では悲しがつてゐたのであらうが、心を取りなほして気を利かせてくれたのであらう、「枕は一ツでよいのか」と、書いてよこした。私は蒲団の中から出た母の手紙を見ると何程か恥づかしい思ひであつた。上流の人達と云ふものは、恥づかしいと云ふ観念が薄いと云ふ事を聞いてゐるけれど──母親であるゆゑ、下ざまの者だから、なほさら恥づかしいと思ふまいと心がけても、枕の事は、今迄に送つて貰つてゐるとするならば、私はもう三ツ新しい枕を男の為にねだ(ねだ)つてゐる事になる。さう考へてゆくと、ジンとする程な、悲しい恥づかしさが湧いて来た。
そのころ、与一は木綿の掛蒲団一枚と熟柿(じゆくし)のやうな、蕎麦殻(そばがら)のはひつた枕を一ツ持つてゐた。私は枕がないので、座蒲団を二ツに折つて用ひてゐたので、さう不自由ではなかつたが、目立つてその座蒲団がピカピカ汚れて来るのが苦痛であつた。それで枕は二ツいるのだらうと云つて寄こした母の心づかひに対して、私は二ツ返事で欲しかつたのではあつたが、枕は一ツでよいと云ふ風な、少々ばかり呆(ぼ)やけさせた思はせ振りを書き送つてやつたのである。すると最も田舎風な、黒塗りの枕を私は一ツ手にした。死んだ祖母の枕ででもあつたのであらうが、小枕が非常に高いせゐか、寝てゐるのか起きてゐるのか判らない程、その枕はひどく私の首にぴつたりとしない。
後、私は蒲団の事については、長々と母へ礼状を書き送つてやつたのであるが、枕の事については、礼の一言も、私は失念したかの形にして書き添へてはやらなかつた。
五
躑躅(つゝじ)は勿論、うつぎや薊(あざみ)の花や桐の木が、家の周囲を取り巻いてゐた。この広い屋敷の中には、私達の家の外に、同じやうな草花や木に囲まれた平家が、円を描いたやうにまだ四軒ほども並んでゐた。
家の前には五六十本の低い松の植込みがあつて、松の梢から透いて見える原つぱは、二百坪ばかりの空地だ。真中にはヒマラヤ杉が一本植つてゐる。
「東京中探しても、こんな良い所は無いだらうね」
与一はパレツトナイフで牡蠣(かき)のやうに固くなつた絵の具をバリバリとパレツトの上で引掻きながら、越して来たこの家がひどく気に入つた風であつた。
玄関の出入口と書いてある硝子戸を引くと寄宿舎のやうに長い廊下が一本横に貫いていて、それに並行して、六畳の部屋が三ツ、鳥の箱のやうに並んでゐる。
「だけど、外から見ると、この家の主人は何者と判断するでせうね、私はブリキ屋か、大工でも住む家のやうな気がして、仕方がないのよ」
「フフン、お上品でいらつしやるから、どうも似たり寄つたりだよ。ペンキ屋と看板出しておいたらいゝだらう。──だが、こんな肩のはらない家と云ふものは、さう探したつてあるもンぢやないよ。庭は広いし隣りは遠いしねえ……」
「隣りと云へば、今晩は蕎麦(そば)を持つて行かなければいけないのだけれど、どうでせうか」
「幾つづつ配るもンだ ?」
「さうね、三つづつもやればいゝんでせう」
引越した初めと云ふものは、妙に淋しく何かを思ひ出すのだ。私は何度となくこのやうな記憶がある。別れた男達と引越しをしては蕎麦を配つた遠い日の事、──もう窓の外は暗くなりかけてゐる。私は錯覚を払ひのけるやうに、ふつと天井を見上げた。
「オヤ、電気もまだ引いてないンですよ」
「本当だ。引込線も無いぢやないか、二三日は不自由だね」
長い間の習癖と云ふものは恐ろしいものだ。私は立ち上ると、人差指で柱の真中辺を二三度強く突いて見た。すると、私自身でも思ひがけなかつた程、その柱はひどくグラグラしてゐて天井から砂埃が二人の襟足(えりあし)に雲脂(ふけ)のやうに降りかゝつて来た。
「ねえ、これはあンた、潰(つぶ)しにしたつてせいぜい弐参拾円で買へる家ですよ。どう考へたつて、拾七円の家賃だなんて、ひどすぎるわ、馬鹿だと思ふわ」
与一は沈黙(だま)つて、一生懸命赤い鼻の先を擦(こす)つてゐた。「この女は旅行に出ても、色々と世話を焼きたがる女に違ひない。前の生活で質屋の使ひや、借金の断りや、家賃の掛引なんぞには並々ならぬ苦労を積んで来たのであらう」与一はそんな事でも考へてゐたらしく、ズシンと壁に背を凭(もた)せかけて言つた。
「僕はとてもロマンチストなんだからね、だが、君のどんなところに僕は惹(ひ)かされたンだらう……」
さうむきになつて云はれると、私はまた泪(なみだ)ぐまずにはゐられなかつた。「またこの男も私から逃げて行くのだらうか」男心と云ふものは、随分と骨の折れるものだ。別れた二人の男達も、あれでもない、これでもないと云つて、金があると埒(らち)もなく自分だけで浪費してしまつて、食へなくなるとそのウツプンを私の体を打擲(ちやうちやく)する事で誤魔化してゐた。
「ねえ、私のやうな女は、そんなに惹かされない部類の女なの
? だつて夫婦ですものね、それに、私は誰からも金を送つてもらふ当(あて)はないし……」
与一は二寸ばかりの黄色い蝋燭を釘箱の中から探し出すと、灯をつけて台所のある部屋の方へ癇性(かんしやう)らしく歩いて行つた。真中の暗い部屋に取り残された私は、仕方なく濡れた畳に腹這つて、袖で瞼をおほひ、「私だつてロマンチストなのよう」と何となく声をたてて唄つてみた。
六
長いこと、人間が住まなかつたからであらう、部屋の中は馬糞紙(ばふんし)のやうな、ボコボコした古い匂ひがこもつてゐて、黒い畳の縁には薄く黴(かび)の跡があつた。
「おい、隣りだけでも蕎麦を持つて行つといた方が都合がいゝぜ、井戸が一緒らしいよツ」
カツンカツン鴨居(かもゐ)に何かぶつつけながら与一は不興気に私に呶鳴つた。
私は参拾銭の蕎麦の券を近所の蕎麦屋から一枚買つて来ると、左側の一軒目の家へ引越しの挨拶に出向いた。
隣りと云つても、田舎風にポツンポツンと家の間に灌木が続いてゐるので、見たところ一軒家も同然のところである。私は何度も水を潜って垢の噴き出たやうなネルの単衣(ひとへ)を着て、与一のバンド用の、三尺帯をぐるぐる締めてゐた。
「何をする人だらう」と考へるに違ひない。尋ねた場合は、「絵の先生をしてゐます」とでも濁(にご)しておかうと、私は私の家と同然な御出入口と書いてあるその硝子戸を引いた。
この家の主は、よつぽど白い花が好きと見えて、空地と云ふ空地には、早咲きの除虫菊(ぢよちゆうぎく)のやうなのが雪のやうに咲いてゐた。
屋根の上から白い煙があがつてゐる。
花の蔭では、蛙が啼くから帰らうと歌つて、男の子がポツンとひとりで尿をしてゐる。
一軒だけ挨拶を済まして帰つて来ると、与一は、私が買つて来て置いた、細い壱銭蝋燭に灯をつけて台所に続いた部屋の壁に何かベタベタ張りつけてゐた。
家の中はもう真暗だ。
「何をする人なンだ?」
「煙草専売局の会計をしてるンですつてよ」
「ホウ、固い方なンだね」
土色の壁にはモジリアニの描いた頭の半分無い女や、ディフィの青ばかりの海の絵が張つてあつた。
こんな出鱈目(でたらめ)な色刷でも無聊(ぶれう)な壁を慰めるものだ。灯が柔いせゐか、濡れてゐるやうに海の色などは青々と眼にしみた。
「その隣りが気合術診療所よ」
「ヘエ、どんな事をやるンかね」
「私一人でこの家を見に来た時、気合術診療所の娘が案内してくれたのよ、とてもいゝ娘だわ」
「さう云へば、僕もあの娘が連れて来てくれたんだが、俺ンとこと同じやうなもンらしい、瓜、トマト、茄子(なす)の苗売りますなんて、木の札が出てるあそこなんだらう」
与一が灯を持つて、三ツ部屋を廻るたび、私はまるで蛾のやうにくつついて歩いた。右側の坊主畳の部屋には、ゴッホの横向きの少女が、おそろしく痩せこけて壁に張りついてゐる。その下には箪笥の一ツも欲しいところだ。この部屋は寝室にでも当てるにふさはしく、二方が壁で窗(まど)の外には桐の枝がかぶさり、小里万造氏の台所口が遠くに見えた。
真中の部屋は勿論与一のアトリエともなるべき部屋であらうが、四枚の障子が全部廊下を食つてゐるので、三ツの部屋の内では、一番さうざうしい位置にあつた。
与一は、この部屋に手製の額に入れた自分の風景画を一枚飾りつけた。あんまりいゝ絵ではない。私はかつて、与一の絵をそんなに上手だと思つた事がない。それにひとつは私は、このやうに画面に小さく道を横に描くことはあんまり好きでないからかもしれない。「私は道のない絵が好きなんだけれど」さうも言つて見た事があるけれど、与一はむきになつて、茶色の道を何本も塗りたくつて、「君なんかに絵がわかつてたまるもンか」と、与一はさう心の中で思つてゐるのかも知れない。
七
山は静かにして性をやしなひ、水は動いて情を慰む、静動二の間にして、住家を得る者あり(山は、以下に傍点)、私は芭蕉の洒落堂の記と云ふ文章の中に、このやうにいゝ言葉があると与一に聞いた事がある。
そんなによい言葉を知つてゐる与一が、収入の道と両立しない、法外もなく高い家賃で、馬かなんぞでも這入つて来さうな、こんな安住の出来さうもない住家に満足してゐる事が淋しかつた。
台所の流しの下には、根笹や、山牛蒡(やまごばう)のやうな蔓草がはびこつてゐて、敷居の根元は蟻の巣でぼろぼろに朽ちてゐた。
「済みませんねえ。疲れてゐなかつたら台所へ棚を一ツ吊(つる)して下さい」
「棚なんか明日にして飯にでもしないか」
「えゝだけど何も棚らしいものがないから、どうにも取りつき揚がないわ」
「眼が舞ひさうだ。飯にしよう」
与一が後ろ鉢巻きを取りながら、台所へ炭箱を提げて来た。
鮭が二切れで米が無い。
それで、与一が隣りの部屋に去ると、私は暗がりの中に、貧割りそこなつた鯉の地獄壷を尻尾の方から石でもつてコツンコツンと割つて見た。
脆(もろ)い土層がボロボロ前掛けの上に壊れて、膝の上に溢れた銅貨は、かなりズシリと重みがあつた。どれを見ても銅貨のやうだ。私は一ツーツ五拾銭銀貨が一枚ぐらゐ混(ま)ざつてゐはしないかと、膝の上にこぼれた銭の縁を指で引掻いて見た。?
銅貨が丁度二十枚で、拾銭の穴明き銭と五拾銭銀貨が一枚づつ、私の胸は暫くは子供のやうに動悸が激しかつた。
抜き替へたこの一銭銅貨がみんな五拾銭銀貨であつたならば、拾円以上にもなつてゐるであらう──私は笊(ざる)を持つと、暗がりの多い町へ出て行つた。
軒の低い町並みではあるけれど、割合と色々な商(あきな)ひ店が揃つてゐて、荷箱のやうに小さい、鳩と云ふ酒場などは、銀座を唄つたレコードなんかを掛けてゐたりした。
その町の中程には川があつた。白い橋が架(かゝ)ってゐる。その橋の向うは、郊外らしい安料理屋が軒を並べてゐて、法華寺があると云ふ事であつた。
私は米を一升程と、野菜屋では、玉葱(たまねぎ)に山東菜を少しばかり求めて、猫の子でも隠してゐるかのやうに前掛けでくるりと巻くと、何度となく味はつたこれだけあれば明日いつぱいはと云ふ心安さや、又そんな事をいつまでも味はつて暮さなければならなかつた度々の男との記憶──いつそ、何処かに突き当つて血でも吹き上げたならば、額でも割つて骨を打ち砕いたならば、進んで行く道も判然とするであらう。仕事をする為にか、食べる為にか、どんな為に人間は生きてゐるのであらうか、私は毎日が一時凌(しの)ぎばかりであるのが、段々苦痛になつて来てゐた。
手探りで枳(からたち)の門を潜ると、家の中は真暗で、台所の三和土(たゝき)の上には、七輪の炭火だけが目玉のやうに明るく燃えてゐた。
「何処へ行つてゐたんだ?」
「私、ねえ……お米が無かつたから、通りへ行つてゐたのよ」
「米を買ひに? 何故さう早く云はないんだ。もう動けないよツ」
与一は大の字にでも寝てゐるらしく、さういひながら、転々と畳をころがつてゐるやうなけはひがしてゐる。
「早くさう云ふつもりで云ひそびれたのよ、……すぐ焚(た)けるからねえ」
「うん、──あのね、何も遠慮する事はないんだよ。金が無かつたら無いやうにハツキリ云ひ給へ。ハツキリと云へばいゝンだ。……俺は明日上野の博覧会にでも廻つてみよう。ペンキ屋の仕事のこぼれが少しはあるだらうと思ふンだ。働かないで絵を描いて行かうなんて虫が良すぎる。さうだよ!
芸術だの、絵だのつて、個人の慰みもンだアね、俺なんかペンキで夏のパノラマでも描いて、田舎の爺さん婆さんに見てもらつた方が相当なンかも知れないよ、それが似合つてゐるんだ」
「貴方、私を叱つてゐるんですか ?」
「叱つて。叱つてなんかゐないよ、だから厭なんだ、君はひねくれ(4字に、傍点)ない方がいゝ。──僕が君に云つたのは貧乏人はあんまり物事をアイマイにするもンぢやないと云ふ事だ。遠慮なんか蹴飛ばしてハツキリと、誰にだつて要求すればいゝぢやないかツ
! ヒクツな考へは自分を堕落させるからね」
米を洗つてゐると泪が溢れた。
卑屈になるなと云つた男の言葉がどしん(3字に、傍点)と胸にこたへてきて、いままでの貞女のやうな私の虚勢が、ガラガラと惨(みじ)めに壊(くづ)れて行つた。
与一はあらゆるものへ絶望を感じてゐる今の状態から自分を引きずり上げるかのやうな、まるで、笞のやうにピシピシした声で叫んだ。
「今時、溺れるものが無ければ生きて行けないなんて、ゼイタクな気持ちは清算しなければいけないんだ。全く食へないんだから……」
「食はなくつたつて、溺れてゐた方がいゝぢやないの……」
「君はいつたい何日位飢ゑる修養が積ンであるのかね、まさか一年も続くまい」
八
清朗な日が続いた。
井戸端に植ゑておいた三ツ葉の根から、薄い小米のやうな白い花が咲いた。
壁のモジリアニも、ユトリロもディフィも、おそろしく退屈な色に褪めてしまつて、私は、与一が毎朝出掛けて行くと、一日中呆(ぼ)んやり庭で暮らした。
人気のない部屋の空気と云ふものは何時も坐ってゐる肩の上から人の手のやうに重くのしかゝつて来る。まして家具もなく、壁の多い部屋の中は、昼間でも退屈で淋しい。
青い空だ。
白米のやうな三ツ葉の花が、ぬるく揺れてゐる。
「小母さんはどうして帯をしないのウ」
蛙の唄をうたつた小里氏の男の子が、こまつしやくれた首の曲げ方をして、私の腰のあたりを不思議さうに見てゐる。
「小母さんは帯をすると、頭が痛くなるからねえ」
「フン、──僕のお父ちやんも頭が痛いの」
私は、青と黄で捻(よ)つたしで(2字に、傍点)紐で前を合せてゐた。──ああ、疲れた紅いメリンスの帯はもうあの朝鮮人の屑屋の手から、どこかの子守女へでも渡つてゐる事だらう。帯を売つて五日目だ。もう今朝は上野へ行く電車賃もないので、与一は栗色の自分の靴をさげて例の朴(ぼく)のところへ売りに行つた。
「何程(いくら)つて?」
「六拾銭で買つてくれたよ」
「さう、朴君はあの靴に四ツも穴が明いてゐるのを知つてゐたんでせうか?」
「どうせ屋敷めぐりで、穴埋めさ、味噌汁吸つて行けつてたから呑んで来た」
「美味(うま)かつた?」
「あゝとても美味かつたよ……弐拾銭置いとくから、何か食べるといい」
私は朝から弐拾銭を握つたまゝ呆んやり庭に立つてゐたのだ。松の梢では、初めて蝉がしんしんと鳴き出したし、何も彼もが眼に痛いやうな緑だ。
唾を呑み込まうとすると、舌の上が妙に熱つぽく荒れてゐる。何か食べたい。──赤飯に支那蕎麦、大福餅にうどん、そんな拾銭で食べられさうなものを楽しみに空想して、私は二枚の拾銭白銅をチリンと耳もとで鳴らしてみた。
しんしんと蝉は鳴いてゐる。
透(す)けた松の植込みの向うを裸馬が何匹も曳かれて通る。
「良いお天気で……」
屑屋の朴が秤(はかり)でトントン首筋を叩きながら、枳(からたち)の門の戸を蹴飛ばして這入つて来た。
「朴さん、あの靴、穴が明いてゐたでせうに……」
「よろしいよ。どうせ屋敷で儲(まう)けるからねえ」
「助かりましたわ」
「よろしいよ。小松さんは帰りは遅いですか?」
「えゝいつも夜になつてから……」
「大変ですな。──ところで、石油コンロ買ひませんか、金は三度位でよろしいよ」
「えゝ……どの位ですゥ」
「九拾銭でよろしいよ。元々、便利ですよ」
朴は冷々(ひえびえ)と気持ちがいゝのであらう、玄関の長い廊下に寝そべつて、私が石油コンロを鳴らしてゐる手附を見てゐた。大分、錆附(さびつ)いてはゐたけれど、灰色のエナメルが塗つてあつて妙に古風だ。心(しん)に火をつけると、ヴウ……と、まるで下降してゐる飛行機の唸りのやうな音を立てる。
「石油そんなに要りません。一鑵三月もある。私の家もさう」
石油コンロを置いて朴が帰ると私はその灰色の石油コンロを、台所の部屋の窗(まど)ぎはに置いて眺めた。家具と云ふものは、どうしてこんなに、人間を慰めてくれるのだらう。
夕方井戸端で、うどんを茄(ゆ)でた汁を捨ててゐると、小里氏の子供が走つて来て空を見上げた。
「ねえ、小母さん! 飛行機が飛んでらア」
「何処に?」
「ホラ、音がするだらう……」
私は、空を見上げてゐる子供の頭を撫でていつた。
「小母さんところの石油コンロが唸つてゐるのよ、明日お出で、見せて上げるから……」
さういつて聞かせても、子供は、(炭や薪で煮焚きしてゐるのであらう、小里氏の屋根の煙を私は毎日見てゐる)不思議さうに薄暗い空を見上げて、「飛行機ぢやないの」といつてゐた。
九
与一は日記をつけることがこまめ(3字に、傍点)であつた。私であつたら、馬鹿らしく、なにも書かないでゐるだらう、そんな無為(むゐ)に暮れた日でも、雨だの、晴れだの与一は事務のやうにかき込んでゐた。
雨だの晴れだのが毎日続くと、与一自身もやりきれなくなつてしまふのか、終(つひ)には「蚊帳(かや)が欲しい」とか「我もし王者なりせば(我もし、以降傍点)と云ふ広告を街で見る」そんな事などが書き込まれるやうになつた。
だが飢ゑる日が鎖のやうに続いた。もうこまめ(3字に、傍点)な与一も日記をはふりつぱなしにして薄く埃をためておく事が多くなつた。
さうして、日記の白いまゝに八月に入つた或る朝、──跌づいた夢でも見たのであらう、私は眼が覚めると、私はいつものやうに壁に射した影を見てゐた。浅黄色の美しい夜明けだ。光線がまだ窗の入口にも射してゐない。
その時、私は新しげな靴の音を耳にした。「まだ五時位なのに誰だらう」そんな事を考へながら、襖を押して庭の透けて見える硝子戸を覗くと、大きな赭ら顔の男が何気なく私の眼を見て笑つた。背筋の上に何か冷いものが流れた気持ちであつたが、私も笑つて見せた。
「小松君起きてるゥ?」
「随分早いんですね、只今起します」
朝の光線のせゐか、何も彼も新しいものをつけてゐる紳士が、このやうに早く与一を尋ねて来ると云ふ事は、よつぽど親しい、遠い地からの友人であらうと、私は忙がしく与一を揺り起した。
「そんな友人無いがね、小松つて云つたア?」
「えゝ、起きてゐるかつて笑つて云つてゐるのよ」
「変だなア」
与一が着物を着てゐる間に、私は玄関の鍵を開けた。
すると、どうであらう、四五人の紳士達が手に手に靴を持つたまゝ、一本の長い廊下を、何か声高く叫びながら、三方に散つて行つた。驚いて寝室に逃げこむ私の後からも、二人の紳士が立ちはだかつて叫んだ。
「君が小松与一郎君かね?」
与一も面喰(めんくら)つたのだらう、唇(くちびる)を引きつらせてピクピクさせてゐた。
「一寸、署まで来て貰ひたい」
「へえ、……いつたい何ですウ、現行犯で立小便位なら覚えはあるンですが、原因は何んですウ」
「そんなに白つぱくれなくてもいゝよ」
「君は小松与一だらう?」
「さうですよ。小松与一と云ふペンキ屋で、目下上野の博覧会でもつて東照宮の杉の木を日慣らし七八本は描いてゐますよ」
「フフン君が絵を描かうと描くまいと、そんな事はどうでもいゝんだ、一応来て貰ひたい」
「思想犯の方でですか? ──僕は今ンところは臨時雇ひで、今日行かないと、また、外の奴に取られツちまふんですがね」
「まあ、男らしく来て、一応いひ開いたらいゝだらう」
「何時間位かゝるンですか? 長くかゝるンぢやないンですか?」
落ちついたのか与一は唇を弛(ゆる)めて笑ひ出した。
「二十九日だなんて事になると厭だから、こんなもンでもお見せしませう」
さういつて押入れの中から、与一は召集令状を出して見せた。
「本当に何か人違ひでせう? 僕はこの月末はかうして、三週間兵隊に行くンですがね」
他の二ツ部屋を調べた紳士諸君も呆(ぼ)んやりした顔で、
「オイ、どうも人違ひらしいぜ」
「そんな事はない。この男だよ、僕は確証を得てゐるンだ」
「さうかねえ、でも一寸をかしいよ君、──君、この与一は雅号ではないだらうね。本名は小松世市、かう書くンだらう」
「だから、召集令状を見たらいゝでせう」
一枚の小さな召集令状が、あつちこつちの紳士諸君の手に渡つた。
「不思議だねえ、もいちど探しなほしだ。ところで、他に客は無いだらうね」
枳の門の外には、白い小型の自動車が待つてゐた。仕入れに行く魚屋や、新聞配達等が覗いてゐる。
「チェツ、何の為に月給貰つてゐるンだ。おいツ! 加奈代、塩を撒いてやれ」
「だって、塩がないのよ」
「塩が無かつたら泥だつていゝぢやないかツ、泥が無かつたら、石油でもブツかけろ」
「こんなに家中無断で引掻きまはして、済みませんなンて云はないツ」
「云ふもンか……あンなのを見ると、食へないで焦々(いらいら)してゐるところだ、赤くなりたくもなるさ」
「小さい頃、私の義父(とう)さんも、路傍に店を出して、よく巡査にビンタ殴られてゐたけれど──全く、これより以上私達にどうしろつて云ふのかしら?」
十
上野の博覧会の仕事もあと二三日で終ると云ふ夕方、与一は頭中を繃帯で巻いて帰つて来た。
「八方塞(ふさが)りかね。オイー! 暑いせゐか焦々(いらいら)して喧嘩しちまつたよ」
「誰とさア」
「なまじつか油絵の具を捏(こ)ねた者は、変な気障(きざ)さがあつて困るつて、ペンキ屋同士が云つてるだらう、だから、僕の事なンですか、僕の事なら僕へはつきり(4字に、傍点)云つて下さいつて、云つてやつたンだ。するとね、あゝちんぴら絵描きは骨が折れるつて云つたから、何をお高く止つてるンだ馬鹿野郎、ピンハネをしてやがつてと怒鳴(どな)つてやつたら、いきなりコツプを額にぶつつけたンだ」
「マア、まるで土工みたいね、痛い?」
「硝子がはひつたけど大丈夫だらう」
バンド代りに締めた三尺帯の中から、与一は十三日分の給料を出していつた。
「日当弐円五拾銭だちつて、かうなると、五拾銭引いてやがる。おまけに、会場の方は俺達の方を四円位にしといてピンを刎(は)ねるンだから、やりきれないさ」
それでも、参拾円近い現金は、一寸胸がドキリとするやうに嬉しかつた。
「でも、故意に喧嘩して、止めさせるンぢやないの?」
「さうでもないだらうが、皆不平を云ひながら、前へ出るとペコぺコしてるンだからね」
「そンなものよ」
久し振りに石油を一升買つた。
灰色の石油コンロは、円い飛行機のやうな音をたてて威勢よく鳴つてゐる。
二人は庭へ出て水を浴びた。
つ上じ
黝(あをぐろ)くなつた躑躅(つゝじ)の葉にザブザブ水を撒いてやりながら、何気なく与一の出発の日の事を考へてゐた。
「もう後六日で兵隊だねえ……」
「あゝ」
「留守はどうしよう」
「参拾円近くあるぢやないか、俺の旅費や小遣ひは五円もあればいゝし、家賃は拾円もやつとけば、残金で細々食へないかい?」
「さうだね」
気合術診療所から貰つて来たトマトの苗が、やつと三ツばかり黄色い花を咲かせてゐた。あの花が落ちて、赤い実が熟する頃は帰つて来るのだらう。──私一人で何もしない生活の不安さや、醤油飯の弁当を持つて海兵団へ仕事に行つてゐた義父が、トロツコで流されたと云ふ故郷からの手紙を見て、妙に暗く私はとらはれて行つた。
唐津(からつ)出来の茶碗や、皿や丼などを、蓙(ござ)を敷いて、「どいつもこいつも、茶碗で飯を食はねンだな、ホラ唐津出来の茶碗だ。五ツで二分と負けとこウ、これでも驚かなきや、ドンと三貫、えゝツこの娘もそへもンで、弐拾五銭、いゝ娘だぜ、髪が赤くて鼻たらし娘だ!」
私は、長崎の石畳の多い旧波止揚で、義父が支那人の繻子(しゆす)売りなんかと、店を並べて片肌抜いで唐津の糶売りしてゐるのを思ひ出した。黄色いちやんぽん(5字に、傍点)うどんの一杯を親子で分けあつた長い生活、それも、道路妨害とかで止めさせられると、荷車を牽(ひ)いて北九州の田舎をまはつた義父の真黒に疲れた姿、──私は東京へ出た四年の間に、もう弐拾円ばかりも、この貧しい両親から送金を受けてゐる。
結局、義父たちが佐世保に落ちついてもう一年になるけれど、海兵団のトロ押しが、たうとう義父の働く最後であつたのかも知れない。
暗雲にヒツパクした故郷からの手紙だ。
──それで、おまへが、なんとかなれば七円ほど、くめんをして、しきう、たのむ、おとつさんも、いたか、いたか、きつてくれ、いいよんなはる。せきたんさんで、あらいよつとぢやが、べういんにいつたほうが、よかあんばいのごとある。
私は夕飯の済んだ後、与一に故郷からの手紙を見せようと思つた。与一は何か考へてゐるのであらう、何となく淋しさうに窗に凭れて唄をうたつてゐた。その唄の節はひどく秋めいた、憂愁のこもつたものであつた。私は何度となく熱い茶を啜(すゝ)りながら、手紙を出す機会を狙つてゐたが、与一はいつまでもその淋し気な唄を止めなかつた。
十一
沈黙(だま)つて故郷へは送金しよう、──私はさう思つて毎日与一の額の繃帯を巻いてやつた。
「一寸した怪我でも痛いンだから、これで腕や脚を切断するとなると、どんなでせう?」
「それはもう人生の終りだよ、俺だつたら自殺する」
「働かないとなると、生きてゐても仕様がないからね……」
与一が、山の聯隊へ出発した日は、空気が灰色になるほど風が激しかつた。「まるで春のやうだ、気持ちの悪い風だ」誰もさういひながら停車場に集つた。
「石油コンロは消してあつたかい?」
与一は、こんな事でもいふより仕方がないといつた風に、私の顔を見て笑つた。
奉公袋を提げて下駄をはいた姿は、まるで新聞屋の集金係りのやうで、私はクツクツと笑ひ出して、「火事になつた方がいゝわ」と、言葉を誤魔化した。
「一人で淋しかつたら、診療所の娘でも来て貰ふといゝ」
「大丈夫ですよ、一人の方が気楽でいゝから……」
与一に対して、何となく肉親のやうな愛情が湧いた。かつての二人の男に感じなかつた甘さが、妙に私を泪もろくして、私は固く二重顎(にぢゆうあご)を結んで下を向いた。
「厭ンなつちやふ、まつたく……」
私は甘いものの好きな与一の為に、五銭のキャラメルと、バナナの房を新聞に包んで持たせてやつた。
「どうせ今晩は宿屋へでも泊るンでせう?」
「知つた家はないし、どうせ兵営の傍の木賃泊りだ」
「召集されて随分悲惨な家もあるンでせうね」
「あゝ百姓なんか収穫時だ、実際困るだらう」
海水浴場案内のビラが、いまは寒気にビラビラしてゐて、駅の前を行く女達の薄着の裾が帆のやうにふくれ上つてゐた。
拡声機は発車を知らせてゐる。
「元気でゐるンだよ」
長いホームを歩いてゐる間中、与一は同じ事を何度も繰り返した。私は、そんな優しい言葉をかけられると、妙に胸が詰つた。で、いかにも間抜けた女らしく見せるべく、私は頬つぺたをふくらまして微笑(ほゝゑ)んで見せた。頬をふくらましてゐると、眼の内が痛い。私はぢつと唇をつぼめて、与一が窗から覗くのを待つた。
山へ行く汽車は煤けたまゝで、バタバタ瞼のやうに窗を開けた。窗が開くと、沢山の見送りが、蟻のやうに窗に寄つた。与一は網棚の上に帽子と新聞包みを高く差し上げてゐる。咽喉仏(のどぼとけ)が大きく尖つて見えた。その逞しい首を見てゐると、耐へてゐた泪が鼻の裏にしみて、私は遠い時計の方を白々と見るより仕方がなかつた。
「おいツ !」
与一はもうキヤラメルを一ツむいて、頬ばつたらしく、口をもぐもぐさせて私を呼んだ。
「何?」
「キヤラメルーツやらう」
誰も私達の方を向いてはゐなかつた。与一の座席は洗面所と背中合せなので気楽に足を投げ出して行けるだらう。与一は思ひ出したやうに指を折つて、「三七、二十一日もかゝるンかね」一人で呟(つぶや)いてうんざりしたかの風であつた。
「誰も見てくれるもンが無いンだから、病気をせんやうに、気をつけるンだぞ」
私は汽車が早く出てくれるといゝと念じた。焦々(いらいら)した五分間であつた。その辛い気持ちをお互ひにざつくばらんにいへないだけに、余計焦々して私はピントを合せるのに、微笑の顔が歪みさうであつた。
十二
一人になつたせゐであらう。昼間でも台所の部屋などは、ゴソゴソと穴蔵蛩(あなぐらこほろぎ)が幾つも飛んでゐた。与一が出発して九日になる。山から来た最初の絵葉書には、汽車が着いて、谷間の町の中を、しかも、夜更けて宿を探すに厭な思ひをしたと書いてあつた。
第二番目の葉書には、松本市五〇聯隊留守隊、第二中隊召集兵、小松与一宛と住所が通知してあつた。
三番目の絵葉書は、高原の白樺が白く光つて、大きい綿雲の浮いた美しい写真であつた。文面には、「今日は行軍で四里ばかり歩いた。田舎屋で葡萄(ぶだう)を食べて甘美(うま)かつた。皆百姓は忙がしさうだ。歩いてゐると、呑気なのは俺達ばかりのやうな気がして、何のために歩いてゐるのか判らなくなつて来る。かうしてゐても、気が気でないと云ふ男もゐた。留守はうまく(3字に、傍点)やつて行けさうか。知らせるがいゝ」こんな事が書いてあつた。
私は徒爾(むだ)な時間をつぶす為に、与一の絵葉書や手紙を、何度となく読んでまぎらした。あの下駄はどう処分したであらうか、逞しい軍人靴をはいて、かへつて、子供のやうに楽しんでゐるかも知れない。出発の日の与一の侘びしい姿を思ふと、胸の中が焼けるやうに痛かつた。
第四番目の手紙は、「どうも俺は、始終お前に手紙を書いてゐるやうだ。お前は甘い奴と思ふかも知れない。──遠く離れて食べる事に困らないと、君がどんな風に食べてゐるンだらうと云ふ事が案ぜられるのだ。まだ一度も君から手紙を貰つてゐない。君もこれから生活にチツジヨを立てて、本当に落ちついたらいゝだらう。落ちつくと云ふ事は、ブルジョアの細君の真似をしろと云ふのではない。俺と君の生活に処する力を貯へる事さ。金のある奴達は酒保へ行く。無いものは班にゐて、淋しくなると出鱈目に唄をうたふ。唄をうたふ奴達は、収穫を前にして焦々してゐるのだらう。俺の隣りのベツドに舶大工(ふなだいく)がゐる、子供三人に女房を置いて来たと云つて、一週間日に貰つた壱円足らずの金を送つてやつてゐた。そんなものもあるのだ。マア元気でやつてくれるやうに、小鳥が飼つてあるとか、花でも植ゑてあるならその後成長はどんな風かとでも聞けるが、そこには君自身の外に、何も無いンだからね。──元気で頼む」
かつて知らなかつた男の杳々(えうえう)とした思ひが、どんなに私を涙つぽく愛(かな)しくした事であらう。
私は手鏡へ顔を写して見たりした。「お前も流浪の性(たち)ぢや」と母がよく云ひ云ひしたけれど、二十三と云ふのに、ひどく老(ふ)け込んで、唇などは荒(す)さんで見えた。瞼には深い影がさして、あのやうに誇つてゐた長い睫(まつげ)も、抜けたやうにさゝくれて、見るかげもない。
紅もなければ白粉(おしろい)もない。裸のまゝの私に、大きい愛情をかけてくれる与一の思ひやりを、私は、過去の二人の男達の中には探し得なかつた。それに、子供の頃の母親の愛情なんかと云ふものは、義父のつぎのもののやうにさへ考へられ、私は長い間、孤独のまゝにひねくれてゐたのだ。
五番目の手紙には、「まだ、お前の手紙を手にしない。君は例の変な義理立てと云つた風なものに溺れてゐるのだらう。もう一二年もたつたらそれがどんなに馬鹿らしかつたかと解るだらうが、そんな古さは飛び越える決心をして欲しい。君は、僕に、なるべく悪い事を聞かすまい、弱味を見せまいとしてゐるらしいが、そンな事は吹けば飛ぶやうな事だ。マア、兎に角(とにかく)困つた習癖だと云つておかう。同封の金は、隊で貰つたのと、東京を出る時、旅費や宿料の残りだ。僕は壱銭もなくなつた。だが生きるやうなものは食つてゐる。困らない。山は快晴だ」
第六番目の手紙、「君は僕の心の中で、段々素直に成長して行く。手紙は読んだ。一字も抜かさないやうに読んだ。君のやうに怱々と読むンではない。君の姿を空想して読むのだ。僕の送つた弐拾円ばかりの金が、よつぼど応(こた)へたらしいが、何かあるのだらうとは思つてゐた。──お母さんへ拾五円送つたつて、そんな事を僕が怒ると思つたら、君は僕の事について認識不足だよ。僕からも、佐世保へ手紙を出しておかう。君は働きたいとあるが、それもいゝだらう。
弐円ぐらゐでは十日も保(も)つまいし、たゞ女給と云ふ商売は絶対に反対だ。威張る商売ではない。僕は色々の事を兵営で考へさせられた。──ところで、こんな甘いことも時に考へる。二人で佐世保へ新婚旅行ぐらゐしてみたいとね。兵営の中は殺風景で、寝ても起きても女の話だ。僕もそろそろ君への旅愁がとつつき始めた。十日すれば会へる。女給以外の仕事であつたら、元気に働いて生きてゐてくれ。小里氏が気が狂つたさうだが、気の毒な隣人は大いに慰さめてあげる事だ」
トマトの花が落ちて、青い実を三ツ結んだ。かつてなかつた楽しさが、非常に私を朗らかにした。私は与一の手紙が来てから、朴の紹介で、気合術診療所の娘と、朝早く屑市場へ浅草紙を造る屑を択(よ)りに通つた。
日暦を一枚一枚ひつぺがしては、朝の素晴しく威勢のいい石油コンロの唸りを聞いて、熱い茶を啜る事が、とても爽やかな私の日課となつた。
第七番目、第八番目、第九番目、山の兵営からの手紙は頬を染めるやうな文字で埋つてゐる。──吾木香(われもかう)すすきかるかや秋くさの、さびしききはみ、君におくらむ。とても与一の歌ではあるまい。だが眼の裏に浸みる歌のひとふしではあつた。 (昭和六年十一月)
(作者は、昭和のベストセラー作家であった。1903.12.31-1951.6.29 『放浪記』『浮雲』等がある。「清貧の書」は、昭和二年手塚緑敏との結婚生活をもののみごとに書き取って昭和六年「改造」十月号に発表した、短編代表作の一つである。転生の文学的把握のつよさが、しみじみとした表現を得させていて、さりげないしかも巧緻な秀作となっている。著作権切れの作品を有り難く収録する。 1.10.9掲載
)
或賣笑婦の話
徳田 秋聲
この話を残して行つた男は、今どこにゐるか行方(ゆくへ)もしれない。しる必要もない。彼は正直な職人であつたが、成績の好(よ)い上等兵として兵営生鯖から解放されて後、町の料理屋から、或は遊廓から時に附馬(つけうま)を引いて来たりした。これは早朝、そんな場合の金を少しばかり持つて行つた或日の晩、縁日の植木などをもつて来て、勝手の方で東京の職人らしい感傷的な気分で話した一売笑婦の身の上である。
その頃その女は、すつかり年期を勤めあげて、どこへ行かうと自由の体であつたが、田舎の家は母がちがふのに、父がもうゐなくなつてゐたし、多くの客の中でどこへ落着かうといふ当もなかつたので……勿論西の方の産れで、可也(かなり)な締(しま)りやであつたから、倉敷を出して質屋へあづけてある衣類なども少くなかつたし、今少し稼ぎためようと云ふ気もあつたので、楼主と特別の約束で、いつも二三枚目どころで相変らず気に向いたやうな客を取つてゐた。
その客のなかに、或私立大学の学生が一人あつた。彼は揉みあげを短く刈つて、女の羨(うらやま)しがるほどの、癖のない、たつぷりした長い髪を、いつも油で後ろへ撫であげ、いかに田舎(いなか)の家がゆつたりした財産家で、また如何(いか)に母親が深い慈愛を彼にもつてゐるかと云ふことを語つてゐるやうな、贅沢(ぜいたく)でも華美でもないが、どこか奥ゆかしい風をしてゐた。勿論年は彼女より一つ二つ少いと云ふに過ぎなかつたが、各階級の数限りない男に接して来た彼女の目から見れば、それはいかにも乳くさい、坊つちやん坊つちやんした幼ない青年に過ぎなかつた。
初めて来たのは、花時分であつた。どこか花見の帰りにでも気紛(きまぐ)れに舞込んだものらしく、二人ばかりの友達と一緒に上(あが)つて来たのであつたが、三人とも浅草で飲んで来たとかいつて、いくらか酒の気を帯びてゐた。彼等は彼女の朋輩の一人の部屋へ入れられて、そこで新造(しんぞ)たちを相手に酒を飲んでゐたが、彼女自身はちよつと袿(うちかけ)を着て姿を見せただけで……勿論どんな客だかといふことは、長いあひだ場数を踏んで来た彼女にも、淡い不安な興味で、別にこてこて白粉(おしろい)を塗るやうなこともする必要がなかつたし、その時は少し病気をしたあとで、我儘(わがまゝ)の利く古くからの馴染客(なじみきやく)のほかはしばらく客も取らなかつたし、初会(しよくわい)の客に出るのはちよつと面倒くさいといふ気もしてゐたので、気心を呑込(のみこ)んでゐる新造にさう言はれて、気のおけないやうなお客なら出てもいゝと思つて、袖口の切れたやうな長襦袢(ながじゆばん)に古いお召の部屋着をきてゐたその上に袿(うちかけ)を無造作(むざうさ)に引つかけて、その部屋へ顔を出して行つたのであつたが、鳩のやうな其の目はよくその男のうへに働いた。
「ちよいよいこんな処へ来るの。」
「いや、僕は初めてだ。」
「お前さんなんかの、余り度々来るところぢやありませんよ。」
彼女はその男が部屋へ退(ひ)けてから、自分で勘定を払はせられて、素直に紙入から金を出してやるのを、新造に取次いだあとで、そんなことを言つて笑つてゐたが、男は女に触れるのをひどく極り悪さうにしてゐた。
「今度来るなら一人で来るといゝわ。あんな取捲(とりまき)なんかつれて来ちや可(い)けませんよ。」彼女はまたそんな事を言つて、これも其の男に触れるのを遠慮するやうにしてゐた。
「それあ何(ど)うしたつて、こんな処にゐるものには、悪い病気がありますからね。不見転(みずてん)なんか買ふよりか安心は安心だけれど……。」彼女は幾分脅(おど)かし気味で、そんな事を話したが、男が彼女のここへ陥(お)ちて来た径路などを聞かうとして、色々話しかけると、若い癖にそんなことは聞かなくともいゝと言つた風で、笑つてゐた。
しかし何のこともなかつた。朝帰るときに、いつも初めての客にするやうに肩をたゝくやうなことも、わざとらしくて為(す)る気がしなかつたので、たゞ、「思出したら又おいでなさい」と、笑談(ぜうだん)らしく言つたきりであつた。
それから其の男は正直に二三度独りでやつて来た。そして馴染(なじ)むにつれて、お互に身の上話などするやうになつた。女は別にその男の来るのに、特別の期待をもつた訳ではなかつたが、部屋のあいてゐる時などには、ふと思出すこともあつた。むかし娘時代に、田舎の町で裁縫のお師匠さんに通つてゐる頃、きつと通らなければならない、通りの時計屋の子息(むすこ)に心を惹着(ひきつ)けられて、淡い恋の悩みをおぼえはじめ、その前を通るとき、又は思ひがけなく往来で、行合つたりした時に、顔が紅(あか)くなつたり心臓が波うつたりして、夜(夜)枕に就(つ)いてからも角刈の其の丸い顔が目についたり、昼間針をもつてゐても、自然に顔が熱したりした。勿論言葉を交す機会もなかつたし、そんな機会を作らうとも思はなかつたから、単純に美しい幻として目に映つただけで、微(かす)かなその恋の芽も土の下で其のまゝ枯れ凋(しぼ)んでしまつた。彼女の生家は、町でちよつと名の売れた料理屋であつたが、その頃から遽(には)かに異性といふものに目がさめはじめると同時に、同じやうな恋の対象がそれから夫(それ)へと心に映じて来たが、だらしのない父の放蕩(はうたう)の報(むく)いで、店を人手に渡したのは其から間もなくであつた。で、家名相当の縁組をすることもできなくて、今のやうな境涯(きやうがい)に陥(お)ちることになつたのであつたが、ちやうど其の時分の淡い追憶のやうなものが、彼(か)の大学生によつて、ぼんやり喚覚(よびさ)まされるやうな果敢(はか)ない懐かしさを唆(そゝ)られた。
彼は飲むといふほどには酒も飲まないし、どこか女に臆(おく)するやうな様子で、町に明りのつく時分独(ひと)りで上つて来たが、忙(せは)しいときなどは、朝客を帰してから部屋へいれて、一緒に飯を食べることもあつた。晩春の頃で、独活(うど)と半ぺんの甘煮(うまに)なども、新造(しんぞ)は二人のために見つくろつて、酒を白銚(はくてう)から少しばかり銚子に移して、銅壷(どうこ)でお燗(かん)をしたりした。水桶(みづをけ)だのお鉢だの、こまこました世帯道具が一切そこにあつた。女は立膝をしながら、割箸で飯を盛つてくれたり、海苔(のり)をやいてくれたりした。彼はこの世界の生活を不思議さうに眺めてゐた。女はとろりとした疲れた目をしてゐたが、やがて又窓を暗くして縮緬(ちりめん)の夜具のなかへ入つて.行つた。
「一体君たちは、こんなことをしてゐて、終(しま)ひに何(だ)うなるんだね。」彼は腹這ひになつて、莨(たばこ)をふかしながら、そんな事を訊(たづ)ねた。
「ふゝ」と、女は嗤つてゐたが、「まあ余り好いことはありませんね。親元へ帰つて行く人もあるし、東京でお客と一緒になる人もあるしさ。」
「君なんか何うするんだね。」
「何うしようと思つて、今思案中なのよ。」女も起きあがつて莨をふかしながら、「今のところ二人ばかり当(あて)があるんだけれど……。」
「商人かね。」
「さうね、一人は日本橋の木綿問屋の旦那だし、一人は時時東京へ出てくる田舎のお金持だけれど、どつちもお爺いさんよ。木綿問屋の方は、まあそれでもまだ四十七八だから、我慢のできないこともないのよ。その代り上(かみ)さんも子供もあるから、行けばどうせ日蔭ものさ。子供のお守(もり)なんかもして、上さんの機嫌を取らなくちやならないから、なかなか大変よ。田舎の隠居の方は、それにかけては気楽だけれど、お爺いさんは世話がやけて為方(しかた)がないでせう。だどっちから孰(どつち)も駄目さ。」
「君のところへは、何うしてさう年寄ばかり来るんだ。」彼は痛ましいやうな表情をして訊(き)いた。「君はまだ若くて美しいぢやないか。」
「ふゝ」と、女は袖口のまくれた白い肱(ひぢ)をあげて、島田の髷(まげ)をなでながら、うつとりした目をして天井を眺めてゐた。
「ほんとうに夢中になつて、君に通つてくるやうな若い男はないのか。」
「まあ無いわね。有つても長続きはしないのさ。」
「でも一度や二度商売気を離れて、恋をしたと云ふ経験はあるだらう。」
「それあ、そんな人は家(うち)にも偶(たま)にはあるのさ。それあ可笑(をか)しいのよ。七(しち)おき八おきして、終(しま)ひにその男のために年期を増すなんて逆上(のぼ)せ方をして、そのためにお客がすつかり落ちてしまつて、男にも棄てられてしまふつて言つた風なの。そんなのが江戸児に多いのよ。第一若いお客といへば、まあお店者(たなもの)か独身ものの勤め人なんだから、深くでもなれば、お互ひの身の破滅ときまつてゐるんですからね。それかといつて、貴方(あなた)のやうなお母さんの秘蔵息子を瞞(だま)せば尚(なほ)罪が深いでせう。先のある人を、学校でもしくじらせてごらんなさい、それこそ大変だわ。」
「だけれど、先きで熱情を以つてくれば為方(しかた)がないぢやないか。」
「熱情ですつて。それあ然(さ)ういふ人もあるわね。少し親切にすると、すぐ上(かみ)さんにならないかなんて言ふ人があるわ。だけれど其(それ)もこゝにゐるからこそ然うなんだよ。出てしまつちや、やつぱり駄目さ。」彼女は慵(ものう)げな声で言つて、空で指環を抜差(ぬきさし)してゐた。
「それはかうした背景に情趣を感ずるとでも言ふんだらうけれど、そんなのは駄目さ。ほんとうにその人を愛してゐるんでなくちや。」
女はまた「ふゝ」と笑つた。
「瞞(だま)すつて一体どんな事なんだい。」
「まあ惚(ほ)れさうに見せかけるのさ。」女は吭(のど)で笑ひながら、「だけれど私には何うしてもそれが出来ないの。たゞお客を大事にするだけなの。それに私なんか恁(か)う見えても温順(おとな)しいんだから、鉄火(てつか)な真似なんか迚(とて)も柄にないの。ほんとうに温順しい花魁(おいらん)だつて、みんなが然(さ)う言ふわよ。」
「あゝ」と、男は悩ましげに溜息をついたが、暫くすると、「僕は君のやうな人は、一日も早くこゝを出してあげたいと思ふね。」
「ふゝ」と、女は又持前の笑声を洩(もら)した。「そして、何うするの。お上さんにしてくれて?」
「いや、そんなことは何うでも可(い)いんだ。たゞ金のためにこんな処に縛られてゐて、貴重な青春をむざむざ色慾の餓鬼(がき)のために浪費されてしまふのが堪らないんだよ。恋もなしにそんな老人と一生寂(さび)しく暮すことにでもなれば、尚更(なほさ)ら悲しいぢやないか。君だつてそれは悲しいに違ひないんだからね。」男は熱情的に言つた。
「まつたくだわ。」女も感激したといふよりも、寧(むし)ろ驚いた風で、「さう言つてくれるのは貴方ばかりよ。」
そして彼女はまた腹這(はらば)ひになって、莨(たばこ)を吸ひつけて彼の口へ運んで行つた。
「わたし幾許(いくら)も借金がないのよ。」
「幾許あるの。」
「さうね、御内所(ごないしよ)の方は勘定したら何(ど)のくらゐあるかしら。それに呉服屋の借金がね、これが一寸あるわ。出るとなれば、少しは派手にしたいから、それにも一寸かゝるのよ。」
そして彼女は胸算で、五百円ばかりを計上した。勿論彼女としては、素人(しろうと)になれば買ひたいものも少くはなかつたが、単に足を洗ふにはそれだけの額は余りに多過ぎた。
「僕母に言つてやれば、その位は出来ると思ふ。母は僕の言ふことなら、何でも聴いてくれるんだから。僕の母はほんとうに寛容な心をもつた人なんだ。」
「それでも女郎と一緒になるといへぱ、きつと吃驚(びつくり)するわ。」
新造が入つて来た。
一週間ほどたつと、男はそれだけの金を耳をそろへて持つて来たが、女は其のうち幾分を取つただけで、意見をして幾(ほと)んど全部を返した。
夏になつてから、その学生は田舎(ゐなか)へ帰省してしまつた。勿論その前にも一二度来たが、女は何だか悪いやうな気がして、わざと遠ざかるやうに仕向けることを怠らなかつた。勿論彼女は、飲んだくれの父のために、不運な自分や弟たちが離れ離れになつて世のなかの酸苦をなめさせられたことを、身に染(し)みてひどく悲しんでゐた。彼女の唯一の骨肉であり親愛者である弟も、人づかひの劇(はげ)しい大阪の方で、?弱(よわ)い体で自転車などに乗つて苦使(こきつか)はれてゐた。彼女は時時彼に小遣などを送つてゐた。病気をして、病院へ入つたと云ふ報知(しらせ)の来たときも、退院してしばらく田舎へ帰つたときにも、彼女は出来るだけ都合して金を送つてゐた。最近彼の運も少しは好くなつてゐたが、客として上(あが)つてくる若いお店者(たなもの)などを見ると、つい厭な気がして、弟の境涯(きやうがい)を思ひやつた。そんな事が妙に心に喰入つてゐたので、自分の境涯に酔ふと云ふやうな事は困難であつた。彼女は所在のない心寂しいをりなどには、針仕事を持出して、襦袢(じゆばん)や何かを縫つたり又は引釈(ひきと)きものなどをして単調な重苦しい時間を消すのであつたが、然うしてゐると牢獄のやうな檻(をり)のなかにゐる遣瀬(やるせ)なさを忘れて、むかし多勢の友達と裁盤(たちばん)に坐つてゐたときのやうなしをらしい自分の姿に還つて、涙ぐましい懐(なつ)かしさを感ずるのであつた。しかし客によつては、色気ぬきに女を面白く遊ばせて、陽気に飲んで騒いで引揚げて行く遊び上手もあつて、そんな座敷では彼女も自然に、心が燥(はしや)いで、萎(な)えた気分が生き生きして来た。しかし体の自由になる時が近づいて来ると、うかうか過した五六年の月日が今更に懐かしいやうで、世のなかへ放たれて行かなければならぬのが、反(かへ)つて不安でならなかつた。どこを見ても、耀(かゞや)かしい幸運が自分を待つてゐてくれさうには見えなかつた。
大学生と別れてから、彼から一度手紙をもらつたきりで、こつちからは遠慮して……寧(むし)ろ相手になるのが大人気(おとなげ)ないやうな気もして、また別に書くやうな用事もなかつたので、いくらか気にかゝりながら返事を怠つてゐた。しかし其と同時に、余り自分を卑下しすぎたり、彼の心の確実さを疑ひすぎるやうな気がして、折角(せつかく)嚮(む)いて来た幸運を、取逃してしまつたやうな寂しさを感じた。取止めのない男の気持や言草(いひぐさ)が何だかふはふはしてゐて、手頼(たよ)りないやうにも思はれたが、真実(ほんとう)に自分を愛してくれてゐるのは、あの男より外にはないやうに思はれた。彼の好意を退(しりぞ)けたのが、生涯の失策だと云ふ気がした。そして其の考へが段々彼女の頭脳(あたま)に希望と力を与へてくると同時に、彼の周囲や生活を分明(はつきり)見定めたいと云ふ望みが湧いて来た。慈愛の深い彼の老いた母親や、愛らしい彼の弟が世にも懐かしいもののやうにさへ思はれた。
或日の午後、彼女は私(そつ)と新造(しんぞ)に其事を話して、廓(くるわ)を脱け出ると土産物を少し調(とゝの)へて、両国から汽車に乗つた。近頃彼女は、内所の上さんや新造と一緒に──時としては一人で、時々外出(そとで)してゐて、東京の地理もほゞ知つてゐたし、千葉や成田がどの方面にあるかくらゐの智識はもつてゐた。彼の妹は今年十九だとかいふので、何か悦(よろこ)びさうなものをもつて行きたいと思ふと、ふらふらと遽(には)かに思ひついたことなので、考へてゐる隙(ひま)もなかつたところから、客から貰つたきり箪笥のけんどんや抽斗(ひきだし)の底に仕舞つておいた、半玉でも持ちさうな懐中化粧函だの半衿(はんえり)だのを、無造作に紙にくるんで持つて来た。それに浅草で買つた切山椒(きりざんせう)などがあつた。
避暑客の込合ふ季節なので、停車場は可也(かなり)雑踏(ざつたふ)してゐたが、さうして独りで旅をする気持は可也心細かつた。十九から中間(ちゆうかん)の六年間と云ふものを、不思議な世界の空気に浸(ひた)つて、何か特殊な忌(いま)はしい痕迹(こんせき)が顔や挙動に染込(しみこ)んででもゐるやうに、自分では気がさすのであつたが、周囲の人と自分とを?(か)ぎわけ得るやうな人もなささうに見えた。実際また不断からそれを心がけてもいた。
海岸にちかい或町の停車場へおりたのは、暑い七月の日も既に沈んで、汐(しほ)つぽい海風がそよそよと吹き流れてゐる時分であつた。町には電気がついて、避暑客の浴衣姿(ゆかたすがた)が涼しげに見えた。
男の家(うち)は、この海岸から一里ほど奥の里の方にあつた。彼女は三時間ばかりの汽車で疲れてもゐたし、町で宿を取つて、朝早く彼を訪(たづ)ねようと思つたが、宿はどこも一杯で、それに一人旅だと聞いて素気なく断わられたので、為方(しかた)なしいきなり訪ねることにした。
俥(くるま)はやがて町端(まちはづれ)を離れて、暗い田舎道へ差懸(さしかゝ)つた。黝(くろ)い山の姿が月夜の空にそゝり立つて、海のやうに煙つた青田から、蛙が物凄く啼(な)きしきつてゐた。太鼓や三味の音色ばかり聞きなれてゐた彼女の耳には、人間以外の声がひどく恐しいもののやうに、神経を脅(おびや)かした。高い垣根を結(ゆは)へた農家がしばらく続いた。行水(ぎやうずい)や蚊遣(かやり)の火をたいてゐるのが見えたり、牛の啼声(なきごゑ)が不意に垣根のなかに起つたりした。
道が段々山里の方へ入つて行くと、四辺(あたり)が一層闃寂(ひつそり)して来て、石高(いしだか)な道を挽(ひ)き悩んでゐる人間さへが何(ど)んな心をもつてゐるか判らないやうに怕(おそ)れられた。灯の影もみえない藪影や、夜風にそよいでゐる崖際(がけぎは)の白百合(しらゆり)の花などが、殊(こと)にも彼女の心を悸(おび)えさせた。でも、彼の家を車夫までが知つてゐるのでいくらか心強かつた。
彼の屋敷は山寺のやうな大きな門構や黒い塀(へい)やに取囲まれて、白壁の土蔵と並んで、都会風に建てられた二階家であつたが、門の扉がぴつたり鎖(とざ)されて、内は人気(ひとけ)もないやうに闃寂(ひつそり)してゐた。それに石段の上にある門と住居(すまひ)との距離も可也遠かつたし、前には山川の流れが不断の音をたゝへて、門内の松の梢にも、夜風が汐の遠鳴のやうに騒(ざわ)めいてゐた。しかし生活(くらし)の豊かな此辺は人気(にんき)が好いとみえて、耳門(くゞり)を推(お)すと直ぐ中へ入ることができた。女はちよいと気が臆(おく)せて、其のまま其(その)俥(くるま)で引返へさうかと思案したが、四里も五里もの山奥へ来たやうな気がしてゐたので、引返す気にもなれなかつた。で、玄関の土間へ立つて、思ひ切つて案内を乞(こ)うてみたが、誰も応じなかつた。遠い奥の方から明(あかり)がさして人声が微(かす)かにしてゐるやうであつた。古びた広い家(うち)ががらんとしてゐた。何処(どこ)からか胸のわるい牛部屋の臭気が通(かよ)つて来た。
彼女は失望と不安とを強(し)ひて圧(おさ)へるやうにして、門の内を仕切つてある塀(へい)についてゐる小い門の開(あ)いてゐたのを幸ひに、そつと其処から庭へ入つて見た。庭は木の繁みで微暗(ほのぐら)く、池の水や植木の鉢などが月明りに光つてゐた。開放(あけはな)した座敷は暗かつたが、藤椅子が取出されてあつたり、火
の消えた盆燈範が軒に下つてゐたりした。ふと池の向ひの木立の蔭に淡赤(うすあか)い電燈の影が、月暈(つきのかさ)のやうな円を描いて、庭木や草の上に蒼白(あをじろ)く反映してゐるのが目についたが、それは隠居所のやうな一棟の離房(はなれ)で、瓦葺(かはらぶき)の高い二階建であつた。そして其処に若い男が浴衣(ゆかた)がけで、机に坐つて読書に耽(ふけ)つてゐた。顔は焦(や)けてゐたが、それは疑ひもなく彼であつた。
ふと窓さきへ立つた彼女の白い姿を見たとき、彼はぎよつとしたやうに驚いた。
「私よ。私来たのよ。」彼女は嫣然(につこり)して見せた。
「誰かと思つたら君だつたのか。僕はほんとうに脅(おど)かされてしまつた。」さう言つて彼は彼女を今一応凝視(みつ)めた。
「わたし何だか急に来て見たくなつて、私(そつ)と脱出(ぬけだ)して来たの。まさかこんなに遠い処とは思はないでせう、来てみて驚いてしまつたわ。」
「ほう、そんな好きな真似ができるのか。」彼は蒼白くなつた顔を紅(あか)くして、急いで彼女を内へ入れた。
「上つても可(い)いんですか。」彼女はちよつと気がひけたやうに入口で躊躇(ちうちよ)してゐた。
家は上り口と、奥の八畳との二室(ふたま)であつたが、八畳から二階へ梯子(はしご)が懸(かけ)わたされて、倉を直したものらしく、木組や壁は厳重に出来てゐたが、何となく重苦しい感じを与へた。で、上つて行つて、蒲団などを侑(すゝ)められると、彼女は里離れのした態度で、更(あらた)めて両手をついて叮嚀(ていねい)にお辞儀をした。彼は面喰つたやうな困惑を感じた。裏の畑にでもできたらしい紅色(べにいろ)した新鮮な水蜜桃(すいみつたう)が、盆の上に転つてゐた。
「しかし能く来てくれたね。まさか君が今頃来ようとは思はないもんだから、ふつと顔を見たときには、君の幽霊か、僕の目のせゐで幻(まぼろし)が映つたのかと思つて、慄然(ぞつ)としたよ。」
「さう。私はまた自分の気紛れで、飛んだところへ来たものだと思つて、何だか悲しくなつてしまつたの。夢でも見てゐるやうな気がしてならなかつたんですの。でも貴方(あなた)に会へて安心したわ。道がまた馬鹿に遠いんですもの、私厭になつちまつたわ。」
「夜だから然(さ)う云ふ気がしたのだよ。」
「貴方はこんな処にゐて、寂しかないの。」女はさう言つて四下(あたり)を見まはした。
「こゝが一番涼しいから。」彼はさう言ふうちも、どこかおどおどした調子で、時々母屋(おもや)の方へ目をやつた。
「私こゝにゐても可(い)いでせうか。貴方の御母さんや御妹さんに御挨拶もしなければならないでせう。」女も不安さうに言つた。
「いや、いづれ明朝(あした)僕が紹介しよう。それに親父は浦賀の方の親頚へ行つゐるんだ。多分二三日は帰らないだらうと思ふ。当分ゐたつて可いんだらう。」
「さうね、御内所の方は幾日ゐたつて介意(かま)やしませんわ。私貴方のお手紙で、海へでも遊びにいかうと思つて、来たんですけれど……それには色々話したいこともあるにはあるんですの。でも私こゝにゐても可いの。」
「それあ可いんだけれど、何なら町の方で宿を取つてもいいと思ふね。」彼は女に安心を与へるやうに言つたが、何処においていゝかと惑(まど)つてゐる風であつた。
話が途切れたところで、彼女は持つて来た土産物を出して、「急に思ひついて来たんですから、何にももつて来なかつたのよ」とさう言つて、彼の前においた。
彼はたゞ大様(おほやう)に頷(うなづ)いたきりであつたが、やがて女の傍を離れて、母屋(おもや)の方へ行つた。
彼の家(うち)は農家ではあつたが、千葉の方から養子に来た父は、元が商人出であつたから、ちよいちよい色々(いろん)なことに手を出してゐた。東京へも用達(ようた)しに始終往復してゐて、さう云ふ時の足溜りに、これまで女を下町の方に囲つておいたこともあつた。
大分たつてから、一人の女中がお茶や菓子を運んで来たが、間もなく彼も飛石づたひに此方へやつて来た。
「母に話したら、是非お目にかゝるから此方へおつれ申せと言つたんだけれど、僕は今夜はもう遅いから明朝(あした)にしたら可いだらうと言つておいたよ。」
「さう、貴方のお妹さんもいらつしやるの。」
「妹は東京へ行つてゐて、今家にはゐないんだ。」彼は気の毒さうに言つて、「僕は母には、友人の姉さんで、海水浴へ来たついでに、わざわざ訪ねてくれたんだと、さう言つて話したら、すつかり真(ま)に受けられて極りが悪かつた。」
「さう」と、女は寂(さび)しい微笑を浮べたが、やっぱり当(あて)にならないことを頼りにして来たのだと云ふ、淡い悔いを感じた。
その晩は葡萄酒(ぶだうしゆ)などを飲んで、遅くまで話したが、それも取留めのない彼の感激から出る辞(ことば)ばかりで、期待したやうな実(み)のある話は少しもなかつた。
明朝(あした)海岸の町の方へ出て行つたのは、お昼頃であつた。勿論母屋(おもや)の方へつれて行かれて、二階の座敷も見せられたし、五十ばかりの母親にも紹介された。母は東京で世話になる人だといつて、彼が誇張して話したとみえて、素朴ではあるが、ひどく慇懃(いんぎん)に待遇(もてな)してくれるので、彼女は挨拶に困って、可成(なるべく)口を利かないことにしてゐるより外なかつた。
裏の果樹園へつれ出されて、彼女は初めて吻(ほつ)とした。水蜜桃の実(な)るところを、彼女は初めて見た。野菜畑なども町で育つた彼女には不思議なものの一つであつた。茄子(なす)や胡瓜(きうり)に水をやつてゐる男が、彼女の姿を見て叮嚀にお辞儀をした。ダリヤが一杯咲いてゐた。薮蔭には南瓜(かぼちや)が蔓(つる)をはびこらせてゐた。朝露が名残(なごり)なく吸取られて、太陽がかつかつと照してゐたが、風は涼しかつた。一夏脚気(かつけ)の出たとき、朝早く外へ出て、跣足(はだし)でしつとりした土を踏んだことなどあつたが、いくら休が丈夫になつても、こんな処には迚(とて)も一生暮せさうもなかつた。彼は東京で暮すのだと言つてゐたが、他の男の子がないところから見ると、つまりは此処に落着くのぢやないかと云ふ気がした。
彼はそんな事については、少しも語らなかつた。
やがて支度をして、二人は家を出たが、山路とはいつても、海岸に近いので、何処を見ても昨夜(ゆうべ)あれほどにも心ををののかせたやうな深い山は何処にも見えなかつた。蒼々(あをあを)した山松や、白百合の花の咲乱れた丘や、畑地ばかりであさかひつた。そして思つたより早く、いつか町の垠(さかひ)へ出て来てゐるのに気がついた。
海岸の松原蔭にある新しい宿屋の二階の一室(ひとま)に、やがて彼女は落着くことができた。そこからはそよそよと風に漣(さゞなみ)をうつてゐる広い青田が一と目に見わたされ、松原の藁屋(わらや)の上から、紺碧(こんぺき)の色をたゝへた静かな海が、地平線を淡青黄色(うすあをぎいろ)の空との限界として、盛りあがつたやうに眺められた。真夏の日がきらきらと光り耀(かゞや)いてゐた。人間と人間との特殊な交渉より外には何物もない隘(せま)くて窮屈な小い部屋のなかに住みなれて来た彼女に取つては、際限(はてし)もない青空を仰ぐことすらが、限りない驚異でもあり喜悦でもあつたが、心ゆくまで胸を開いて、其等の自然に親しむことは迚(とて)も出来なかつた。
海風に吹かれながら、昼飯を食べてから、二人はしばらく横になつて話してゐたが、するうちに疲れた頭脳(あたま)も体も融(と)けるやうな懈(だる)さをおぼえて、うとうとと快い眠に誘はれた。下の部屋で学生がやつてゐるハモニカの音などが、彼等の夢心地をすやした。
四時頃に、二人は一緒に海岸へ出て見た。日は大分傾いてゐたが、風が出たので、海には波が少し荒れてゐた。焦(こ)げつくやうな砂を踏んで彼女は汀(みぎは)に立つて、ぼんやり波の戯れを見てゐたが、長く立つてゐられなかつた。目がくらくらして波と一緒に引込まれて行きさうであつた。海水衣に海水帽をかぶつた、女学生らしい女の群が、波に軽く体を浮かせながら、愉快さうに毬投(まりなげ)をやつてゐるのが彼女には不思議にも羨(うらや)ましくも思はれた。印度人のやうな黒い裸体が、そこにもこゝにも彼女の目を驚かした。
二人はやがて着物の脱ぎ場へ入つて、足を休めながら海気に吹かれてゐた。彼は彼女をかうした自由な自然の前へつれて来たことに、この上ない幸福を感じてゐるらしかつたが、彼女の頭脳(あたま)は其の感じを受容(うけい)れるには、余りに自分を失ひすぎてゐた。
するとその時、ぼうと云ふ空洞(うつろ)な汽笛(きてき)の音が響いて、いつの間にか汽船が一艘黒い煙を吐きながら、近くの沖へ来て碇泊(ていはく)してゐるのに気がついたが、間もなく漕ぎ寄つた一艘の端艇(はしけ)に、荷物や人を受取つて、陸(をか)の方へやつて来た。
端艇が浜へついたとき、懸(かけ)わたされた船板から、四五人の男女が上陸して来たが、その中に旧式なパナマを冠つて、小さい手提鞄(てさげかばん)と細捲(ほそまき)とをもつて、肥満した老人が一人こつちへ遣って来た。近づくに従つて、其の姿は段々はつきりして来て、白地の帷子(かたびら)や絣(かすり)や、羽織の茶色地までがきらきらする光線に見分けられた。帯の金鎖や眼鏡がちかちか光つてゐた。
彼女はじつと其の姿を凝視(みつ)めてゐたが、それは何うやら能く自分のところへ通つてくる、千葉在だと云ふお爺(やぢ)らしく思はれて来た。
おもて
と、それと同時に彼の面(おもて)にも暗い困惑の色が浮んで来て、やがて其処を立つて、そろそろ葦簀張(よしずばり)の外へ出て行つた。間もなく彼女もそこを離れた。
それが彼の父親だといふことは、後で彼が言つて聞かせたが、彼女は何にも語らなかつた。
其の晩も二人は町や海岸を散歩して、帰つてからも遅くまで月光の漾(たゞよ)ひ流れてゐる野面(のづら)を眺めながら話してゐた。彼は彼女の憂欝(いううつ)な気分を悲しく思つたが、女は自分を如何にして幸福にしようかと悩んでゐる彼を哀んだ。
三日目に、彼はちよつと家(うち)へ帰つてくると言つて立つて行つたが、その夕方彼女は宿へも無断でそこを立つてしまつた。 (大正九年四月)
(作者は、小説家。明治大正昭和を生きた文豪の一人であり、うまい水のように湛えた散文の藝術的達成には、驚異を覚えずにおれない。この作品、いかにも巧みに作られていながら、その手際よりもはるかに深く、一人の気持ちよい「売笑婦」のもののあはれに胸を打たれる。後味は底知れず寂しいが、澄んで清く、文学とはこういう達成を謂うのだと教えられる。著作権の切れているのに甘えて、慎重に校正し、採録させてもらう。 1.10.1掲載)
ぎしねらみ
三原 誠
古賀の信行はどうなっただろう──。
三年ばかりまえ、郷里の小学校同級生から届いたクラス会の通知が機縁になって、私は、ときおり、同級生だった古賀の信行のことを思い出すようになりました。
古賀の信行。
しかし、彼のことを話すまえに、私は、郷里の言葉で『ぎしねらみ』と呼んでいた、小さな闘魚に触れておこうと思います。なぜなら、古賀の信行のことを思い出すと、彼の面影よりも先に、その『ぎしねらみ』という魚の姿が浮かんできますし、するとそのとき、私の頭は水を満たしたうすいガラスのびんになって、その中心に、緑色の小さなその魚を住まわせてしまうからです。
『ぎしねらみ』とは、古賀の信行のあだ名でもありました。
ところで、その『ぎしねらみ』という魚が、一般には『親睨み』という名でよばれることを、私はついこの間知りました。というのは、郷里にいる頃は『ぎしねらみ』という名で誰にも通用していましたし、郷里を遠く離れた街住まいでは、もう食用にもならないそんな川魚の名まえなど、思い出される暮しざまではありません。ただ、私は古賀の信行のことを思い出すようになってから、『ぎしねらみ』と区切りなしの一語(ひとこと)によんでいたそれが、『岸を睨む』という意味のものだったことに気がつきました。そして、子どもの頃、サイキロと符牒のようによんでいた料亭の名が、『再起棲』という意味のある屋号だとわかったり、村のはずれの部落を『黒本郷』と呼んでいたそのよび名が、歴史を秘めたものだと知れたりしたときと同じように、今度もひとりで深い息をついたものです。
『ぎしねらみ』は、川魚にはめずらしい闘魚でした。全身が棘と小骨ばかりの角ばった小魚でしたが、それが、周りに一尾の魚も近づけず、岸辺に近い清流の中で、いつもあたりをうかがうようにじっと静止している──その姿をみると『岸睨み』という名が、まことに自然なものと思われてきます。それに、この魚の鰓蓋のふちのちょうど目のすぐ後ろにあたる部分には、金色で丸くふちどられたルビー色の斑点があって、それが水翳堵の揺れ加減では、威嚇を露わにした眼球に見えます。『親睨み』という名は、川魚族にしては鬼子ともいえる闘魚の性質と同時に、この反抗的な擬眼からつけられたものでしょう。
ああ、柳河の雲よ水よ風よ、水くり清兵衛よ、南の魚族よ──
これは、白秋の「水の構図」のはしがきの終節ですが、詩聖に「水くり清兵衛よ」と呼びかけられたこの魚は、実は『ぎしねらみ』こと『親睨み』のまたの名でもあります。私の郷里に近い柳河の『白秋生家』に行きますと、展示室の土間の片隅に、水槽に飼われた一尾の『水くり清兵衛』を見ることができます。彼は、捕われの身でありながら、その四角な水槽の中でまで、生まれもった性(さが)のまま、あたりに目をむいているのです。
『ぎしねらみ』のこうした水中の孤独なたたずまいには、確かに、詩人の想念に住まうに似つかわしい、澄みきったかなしさときびしさとがあるのかもしれません。
しかし、私たち郷里の子どもにとって、この『ぎしねらみ』は、どうにも手に負えない『根性の悪(わり)い』魚でした。この、小骨ばかりの魚が、文字通り「煮ても焼いても食えぬ」ことや、針にかかったそれをうっかり掌にとろうものなら、たちまち鋭い棘にさされることは承知のことで、腹も立たないのですか、我慢がならないのは、この小魚が私たちの「まほうびん漁」の邪魔をしてくることでした。
「魔法びん」といえば、今では(あるいは昔から)湯ざめを防ぐびんのことですが、私たちが郷里のことばで「まほうびん」とよんでいたのは、それとは違います。それは薄いガラス製の魚獲り器で、一升びんの周りを、そのまま二倍ぐらいに、ふとめた形のものでした。ただ、普通のびんと違って、底の部分が円錐形に内部にくぼみ、その先端が直径五センチぐらいの丸窓になっています。
魚を獲るときには、このびんの上口の内側に、酒粕や味噌を混ぜた手作りの練り餌を程よい厚さにぬり当て、口を金網で塞ぎます。そして、くぼみ穴のある底の方を下流に向くようにして、流れに沈めます。すると、上流からの水が上口の練り餌を少しずつ融かしながら、その芳香を底の丸窓から下流に流してくれるのです。
陽が落ちて間もない夕暮れのひとときをねらうのが「まほうびん」漁のこつでした。腹をすかしきった魚たちは、流れに縒られてくる白い餌汁をたどって来て、びんの丸窓の後ろにぞくぞく群らがって来ます。そしてそこで、白い腹をひるがえしては、群舞の小さな輪をつぎつぎに作るのです。さきほど失せた陽ざしのために、びんの肌はガラスの艶を消し、岸から見たのでは水との区別がつきません。が、魚たちは「びん」にさえぎられる流れの変化をあやしむのでしょうか。勇気のある、あるいは食意地の張った一尾が、円舞の群れからとび出して、底の丸窓を通りぬけるまでには、しばらくの時間が要りました。が、一度、一尾が内部に入れば、あとの魚たちは先に入った一尾がつきほぐす餌の余汁におそれを忘れ、次々に「びん」に入ってきますから、私たちはわずかな時間の間に、それこそ「魔法」を使うように魚を獲ったものでした。
しかし、どうかすると、魚たちが「びん」の入口に集まり始めるちょうどそのころ、『ぎしねらみ』が稲妻のよう姿を現わしてきました。彼は、あっというまに魚の群れを追い散らすと、その向っ気強さのままに、つつっと「びん」の内部に入ってしまうのです。
すると、「まほうびん漁」はそれで終わりです。
『ぎしねらみ』を嫌う魚たちはもう「びん」には近よろうとはせず、「びん」の底から流れてくる餌──外に出ようと大あばれする『ぎしねらみ』の棘につつかれて、白煙のような濁りで丸窓から吐き出される餌汁に腹を満たし、暮れ藻のかげに帰ってしまいます。そして、またたくまに餌を流し終わった「まほうびん」の澄みきった水の中には、煮ても焼いても食えぬ『ぎしねらみ』だけが、諦めともつかぬ落ちつきで、擬眼のふちを光らせているのでした。
まったく『ぎしねらみ』は、子どもたちにとって憎んでも余りある、やっかいなものでありました。
古賀の信行が『ぎしねらみ』というこの憎まれ魚の名でよばれていたことは初めにも触れました。が、それなら、信行が手のつけられない根性悪で、みんなに意地悪ばかりをする子どもだったかというと、そうではありません。反対に信行は、しょっちゅう友だちにいじめられ、それでいて何も仕返しのできない意気地なしでした。
私は、雨の日の誰かの気紛れないたずらで、下駄箱からほうり出された信行の履物が、雨あしのつくる円い波紋の乱れの中で、片方はゆるん.だ鼻緒と、一方はすりへった歯の跡をさらしながら、やむまなしの雨にうたれていたのを憶えています。そんなときでも信行は、それを先生に告げる勇気もなければ、誰の仕業かを質ねるでもなく、気弱な表情で傘もささず、人目を避けてゆっくりと雨の中からそれを拾ってくるのでした。
「おれが投げ出しておいたのを、どうして拾ってくるのだ」
と難題をつける悪童もいました。すると信行は、両手に下駄をさげたまま、背中をま.だ雨に濡らしながら土間の入口につっ立ち、では、どうずればいいのですかと、困惑の目をじいっと相手に向けるだけの始末です。嫌がるのを無理やり女子組の教室へ押しこまれ
「やあい、豆男、まめ男」
と囃したてられるときも、信行は、女の子たちがあわてて窓ぎわに散った教室の中にぽつんといて出口を塞いだ私達のほうへ、どうしたらいいかを質ねるような困惑の目を、いつまでも向けているだけでした。
あるときは
「信行はムケチンポコだ」
と言い触らされたこともあります。その日、信行はさすがによほど口惜しかったのでしょう。めずらしく
「おれ、むけちょらんもん、むけちょらんもん」
と抗議してきましたが
「それなら見せてみろ」
と言われるとたちまち困ってしまい、私たちを横目に見ながら、ゆっくりその場をはなれて行きました。
そのほか、私たちは、信行をいろいろとからかったりいじめたりしました。点数の低い信行の試験答案を、廊下の手の届かぬ高い所に肩車を作って貼りつけたときには、私たちがねらったように、隣の女子組の子までが、私たちの囃の輪にまぎれこみ、おもしろがったほどです。その時も信行は、自分では手が届かぬと知ると、ふらりふらりと頭を振りながら、人のいない教室の隅の方へ、私たちを離れていってしまいました。
こうして、人といればいじめられるだけの信行は、いつしか掛図置場の物置きや、校庭の隅の紙屑焼場のわきの、みんながあまり行かぬ所で、一人遊びをしていることが多なりました。それもあたりに目を配り、誰かが近づいていくと、またいじめられるのではないかと警戒の目を向け、ゆっくりゆっくりと後ずさりに相手を避けていく──それが、岸辺に近い流れの中で、周りに仲間が近づくのを嫌いながら、ひとりいる『ぎしねらみ』のたたずまいを髣髴させるのです。
もっとも信行は、みんなに教室や校庭の隅に追いやられる以前から、『ぎしねらみ』と呼ばれていました。それは信行の容貌のせいで、やせて細長い顔の両側につき出ている頬骨や顎の骨、尖がりをみせるおでこのふちは、『ぎしねらみ』の骨ばった頭部に似ていましたし、信行の両眼は、目と目の間が広くあいていて、その小さな瞳までが目尻寄りについていました。そのうえ、小柄な子どものくせに、いつもへの字に結んだ口もとの線も、正面から見た魚の口のように、左右に垂れて刻まれているのでした。
昔から、子どもはあだ名をつけることでは.天才だといいます。そして、あだ名をつけられた当人が、そのあだ名に似合いの仕打ちを受けるようになるのも、昔とかわりはありません。
しかも信行は、「古賀」部落の者でしたから、なおさらのことでした。
私の郷里は筑紫平野の一隅にあって、本郷村といいますが、古賀部落とは、村をつくるいくつかの部落のうち、村はずれの三、四十戸ばかりの聚落でした。そしてそこはまた黒本郷とも呼ばれる、全戸が「平田」姓を名のる隠れ切支丹の部落だったのです。普通、隠れ切支丹といえば、長崎、天草の一帯が世にもてはやされていますが、そこを遠く離れた筑紫野の一隅に、どうして神の飛領地のような部落ができたのか、よくはわかりません。私が、昔からの言い伝えだと聞いていたのは、古賀部落が、島原の乱の残党平田右京を祖とする一族だということでした。そして右京は、キリシタン名をジョアン又右衛門といい、古賀部落の近くのハタモン場で処刑され、その屍を葬った場所に、現在西日本一の古さを誇る今村大天主堂が建てられたといいます。これは、戦いがすんだ後、小学校の先生たちが編んだ「郷土資料集」という薄いパンフレットの一頁に、あまり確証もなげに記されていることです。しかし、古賀の切支丹が確かな(?)隠れであることは、浦上切支丹史に、本郷村字古賀の名が、隠れ切支丹部落としてあげられていることでわかります。
もっとも、こうした言い伝えや書物によらずとも、私の郷里の本郷村では、「キリシタン」とか「パーテル」とか、あるいは「ゼス様」とか「天主堂」とかいう古めかしい呼び名のことばが、村の子どもたちの普段の会話にも使われるあたりまえのものであることを思えば、部落の歴史の古さや信仰の強さは測れるというものです。実際、私たちは「キリシタン」の他にキリスト教徒を指す言葉を知らず、戦後になって「クリスチャン」という言葉を聞いたときには、それは古賀のキリシタンとはまるで結びつかず、それとは全く信仰の違った、しゃれてひどく都会的な、上流社会の華やぎのものとだけ聞こえたものでした。ジョアン又右衛門が処刑されたという「ハタモン場」という地名にしても、私たちはその言葉の由来も知らないまま、クスの大木が二三本あるだけで他に何の変哲もないその地域を、「ハタモン場」と符号のように呼んで何らの奇異も感ぜずにいました。しかし、辞書をめくってみると、「ハタモン」とは「機物」、すなわち布帛を織る機具のことで、その用材は、昔、人を磔にする材に使ったことが記されています。「ハタモン場」とは、まさに、処刑場のことでした。それが、言葉の意味、由来を知ろうとする気も起こさせないほどに、普段のものとなっているのです。
このように、古賀部落の発生は数百年の古さをもち、そこに集まり住む人々は、禁教のしきたりを長く隠れ守ってきていました。が、そのことはまた、同じように、まわりの人々の側にも、隠れ切支丹に対する古い人たちの、いわれない恐怖と侮蔑とが、根強く引きつがれていることでもありました。たとえば、「黒本郷」という呼び名の「黒」にしても、それは『クスル(十字架)から出たというが、切支丹の名の上に黒星をつける役所の慣例から、いつの間にか長崎では切支丹をそう呼ぶ風習ができていた』(大佛次郎著「天皇の世紀」)らしいのですが、長崎から遠い私たちの郷里の人々は、貧しい古賀の住人が着る衣服の、くすんだ色彩からそう呼ぶものだと思っていましたし、十二月の末になると、真夜中近いころ天主堂でいのると聞かされていることから、祈りの暗さを表すよび名だと思い、因縁話の丑の刻参りを聞くような怖さを覚えていました。あるいは、それは古賀部落の湿った土の黒さからつけられたもので、土の黒さは、部落に長く続けられた土葬の、死体に肥えた土の色だという者もありました。これは、私が子どもだった頃ばかりでなく、現に、郷里にいる私の甥など、もう五人の子持ちなのに、今もその説を信じています。
クリスチャンと呼ばれる街の教徒ですら、キリスト教徒だというだけで、以前には周りから白眼視されたそうですが、筑紫野の一隅の田舎のことです。私たちは「黒」という言葉にも、そこに秘められる歴史や由来をみるより、キリシタンに対する嫌悪の情を託していたのです。
私は、学校帰りの「古賀ぞう」たちを、「ハタモン場」で待ち伏せていたのを思い出します。「古賀ぞう」というのは古賀部落の住人のことで、「キリシタンぞう」とも呼びましたが、このぞうという言葉にしても、おそらく正しくは「族(ぞう)」を表していたのでしょうが、長い間にそれには「雑(ぞう)」という不純さを表す意味が加えられ、族のもつ排他的な性格といっしょに、相手を異端視する呼び名にされていたのです。
「古賀ぞう」たちは、学校へ来るにも帰るにも、仲間同士だけで行き来していました。そして「ハタモン場」にくるとそこで足を停め、クスの大木の方に向かって十字をきり、頭をたれていました。私たちは、その無防備な祈りのすきをねらって周りから一斉に飛礫をとばし、彼等をそこから追い払うのでした。別に、そこが私たちの遊び場だとか、友人の家の持ち畑だったとかではありません。ただ、古賀ぞうたちが、何の祠もないそこで「頭を下げる」のが目触りの、他に遊びのない日の「キリシタン」いじめでした。
クラスで何か失くなりでもすると、まず一番に古賀ぞうに疑いが持たれますし、級長が占うコックリ様の占いでも、占い箸の先は、古賀ぞうの名をなぞっていくのです。冬の時期の暖房器には、彼等が弁当を入れるのを拒みました。きたないとか、異臭がするとかがその理由ですが、先生も、私たちのそんな仕業を、見て見ぬふりをしていました。
信行は、こうした「古賀ぞう」の中の一人でした。しかも彼の母親は、子どもの世話にまでは手がまわらないのか、あるいはそれを大儀がる性質なのか、信行にはまるで構わないようでした。信行はいつもみすぼらしい態で、学用品も不揃いでした。クラスには他にも古賀ぞうが二三人いましたが、私たちは、意気地なしで、だらしのない信行だけをねらいうちにいじめたものでした。
もっとも、その他の「古賀ぞう」にしても、信行と遊ぶ子は一人もありませんでした。学校の行き帰りの彼等の中に信行の姿がないのは、信行がよくずる休みをし、休まない日でも毎日のように遅刻をしたり、ずる退けをしたりしていたからのことでしょうが、学校での休み時間にも、クラスの古賀ぞうたちが信行と口をきいていた記憶は、まるでありません。信行が私たちにいじめられているとき、彼等はどうしていたのか──。彼等も私たちのキリシタンいじめに遇っています。たとえは「ハタモン場」の襲撃です。しかし、いま、私たちの飛礫で逃げまどうのがキリシタンの誰々で、どんな表情を作っていたかを考えていると、その場の映像がしだいにぼやけていき、かわりに、その場に居もしなかった信行の、魚に似た面影だけが、まるで機械仕掛けのようにくっきりと浮かんできます。キリシタンいじめ──といえは、信行。そして、その信行のまわりには、仲間であるキリシタンの一人もいない──これはどうしたことだったのでしょう。
ある秋の運動会で二人三脚の競争をしたとき、仲間のキリシタンでさえ信行と足を結わえるのを嫌がり、信行はひとり、片足ケンケンで旗を廻ってきました。他の古賀ぞうたちは、信行と口をきくことで私たちの反感を増すことを怖れたのでしょうか。あるいは、信行の態や性質が、やはり、彼等の子どもらしい偏狭な潔癖さに拒まれたのか。もしかすると、同じキリシタンとはいえ、長い隠れ信仰の年月のうちには、キリシタン同士の諍いもあって、それが、幾重にも屈折したものとなっていまに引継がれているのかもしれませんし、または、もっと身近かなこと、たとえば信行の母親は「サイキロ」という、あいまい屋を兼ねた料亭で働いていましたから、キリシタンには、そのような場所で働くことを忌む教えがあったのかもしれません。
私は、休み時間じゅう、遊び相手のない信行が、花壇のレンガ縁(ぶち)の上を、飽きもせず何回も歩き廻っているのをみた事がありますし、連動場の隅にある肋木(ろくぼく)のてっぺんに腰をかけ、足をぶらぶらさせながら歌を唱っているのに出会ったことも憶えています。肋木のわきの大木が、秋の高い空に、真っ赤な葉炎を燃えたたせていました。信行が唱っていたのは私の知らない曲でしたから、おそらくアーメンの歌だったのでしょう。が、それに声を合わせるキリタンの子は、そばに一人もいませんでした。
ところが、誰一人友だちのいないはずの、こんな意気地なしの信行に、実は、誰も知らない一人の友だち──それも、その頃の誰もが持たない「女友だち」がいたのです。
「サイキロ」の悦ちゃん──です。
「サイキロ」というのが「再起楼」という屋号の、あいまい屋を兼ねた村の料亭ということは書きましたが、それは私の先家のすぐ裏手にありました。
私は、生家のわきに建っていた黒塗りの高い木戸と、そこから私の家の板塀ぞいに続いていた二間たらずの幅の露路を、今もはっきりと思い出すことができます。露路の奥には、私の家の裏庭から板塀を超えて枝をのばす金柑の葉群が、道の片側に濃緑の厚い庇を作っていました。
あれは幼な日のいつの夏でしたか。友だちとの学校帰り、露路のその葉庇の下がうす雪の白さに見えますから行ってみると、庇をつくる葉群れから、金柑の小さな固い花が霰のようにこぼれ落ちていて、その糸を引く白い花の間を、洩れ陽の条に体をきらめかしながら、丸い蜜蜂たちが忙しく飛び交うているのでした。
露路の片方は、低い焼板の柵で仕切られた狭い野菜畑で、畑のすぐそばに、端井川の流れがゆるいカーブをみせて近づいていました。六、七メートル幅の澄んだ流れは、あちこちに河骨の黄色い丸い花輪をゆらし、低い岸の向こうには、遠く耳納山塊のふもとまで拡がる筑紫の水田が見渡されました。
露路は「サイキロ道」と呼ばれ、子どもたちは入ってはならぬとされていましたが、夕暮れどき、金柑の葉庇の所まで行くと、板塀の裏手に消える露路のすぐ奥から、「サイキロ」の炊事場のせわしい水音や足音、それに混って人を呼ぶ甲高い声が聞かれましたし、儻(正しくは手ヘン=たも)網を持った料理人が、ふいと露路の口に現われることもありました。サイキロでは、家の側に流れてくる端井川の岸を削り掘り、前庭のふちに生簀(いけす)をこしらえ、そこに料理用の鯉を飼っていました。その鯉たちが、すくわれて水を離れる際にたてる水音が聞えてくる深夜、私は
「今夜は、お客が混んどるんじゃね」
と、子どもにはよけいなことを考え、それから生簀の面に浮いている桜の花びらの、白い揺れ模様を思いうかべながら、安心したようにまた深い眠りに入ったものです。
桜の木は、サイキロの前庭の中央にありました。大人の腕で一抱えに余る老樹で、風が吹いてくると、庭に散ったいちめんの花びらが、あちこちで小さなさくら色の竜巻きをつくりました。
サイキロには「ゲイシャさん」と私たちが呼んだ女性が四、五人いました。ゲイシャさんたちは、私たちがまだ遊び呆けている夕暮には、もう風呂あがりの化粧をにおわせて、前庭の床几に立ち坐りしながら客を待っていましたから、そこに行くと、村祭の宵か、お盆の精霊送りの日暮かに迷いこんだ気持ちになるのでした。
もちろん、そんなゲイシャさんたちが、ただ、サイキロの二階で客の賑の相手をするだけではないらしいことは、南国の子の早熟さで気がついてはいました。二階の広間のほかに、藤棚を添わせた廊下を伝っていく中庭の向こうの棟に、いくつかの小部屋が並んでいるのを私は知っていましたし、小部屋の障子は藤棚の花の翳をうす青く映して、いつもぴったりと閉められていました。
私はいつか、二・三人の友だちを誘って、サイキロの裏にまわり、その焼杉板塀の節穴に目をつけて、奥の小部屋の様子をうかがおうとしたことがあります。そのとき、私の節穴は、庭に咲くつつじの花輪の一つに目の前を塞がれ、部屋をみることはできませんでしたが、その朱色の花輪にとんできた蜜蜂が、花粉に汚れた丸い体を、ゆっくりと花芯に埋めていくさまを見るだけで、妙に息苦しく、胸がどきどきしてきたものです。
「子どもは、サイキロなんかに行くもんじゃない」
家人は、ときおり私に言っておりました。が、日が暮れると早々に灯りを消して寝静まってしまう村のくらがりの中で、サイキロという家は、子どもの中に、仔細のはっきりしない妖しい華やぎの記憶を、ぼんぼりのように残す場所でした。
「あなた、信行さんの、おともだち?」
見知らぬ小さな女の子に、街のことばでゆっくりと質ねられたのは、そのサイキロの川辺の庭で、私が信行と遊んでいる時でした。
というのは──。
古賀の信行に友だちがないことは書きましたが、実をいうと、私も友だちが多いほうではありませんでした。私は、両親が四十歳を過ぎてからの子で、その為か、母はことさらに私を溺愛したようです。私は、自分の小心と臆病とのすべてを母に帰するつもりはありませんが、蛇や猫の崇を本気で怖れたり、川の淵に主(ぬし)が住むのを信じたりしたのは、母の教えのせいといえましょう。しかし、近所の餓鬼大将は
「蛇が祟る? 祟るならデコに祟れ!」
と、わざと私の目の前で蛇の生皮をはぎ、私と私の母とを嗤い、猫をみつけると、たちまち飼犬のシェパートの牙に噛ませては、私の表情の蒼さをおもしろがりました。釣餌にする蜂の巣落とし、隣村の悪童相手の石合戦、墓石の上を跳び歩く義経八艘とび──近所の子が夢中になるそんな遊びを、母は決して私に許しませんでしたし、私自身、できるはずもありません。私が「ハタモン場」のキリシタン襲撃に加わるのは、餓鬼大将の忌諱に触れまいとする気遣いの外に、それには、殺生も危険も含まないことの気楽さからのことでした。ですから、私は、年上ばかりの近所の子どもから、遊びに誘われない日が多くあって、そんなとき、私は退屈しのぎに、馬車や荷車の通らないサイキロ道で、ひとりでメンコやビー玉遊びをしながら、遊び相手が見つかるのを待っていました。が、そこでみつかる相手といえば、古賀の信行よりほかにはいません。古賀の信行は、母親がサイキロで働いていましたから、学校から帰った後やずる休みの日など、サイキロのあたりにちろちろと姿をみせているのです。それをつかまえ
「ぎしねらみ、来い」
と呼び、信行にあれこれの用を言いつけては、自分がいっぱしの餓鬼大特になったような、いい気持ちになっていました。
それに信行といっしょならば、サイキロの勝手口から川辺の庭に自由に出入りができました。川に沿った三角形のその庭は客に隠された場所で、料理の汚水が流れたり、ゲイシャさんの赤い湯もじが干してあったりして、遊びの場所としてはあまりいいとはいえませんでしたが、そこに居れば、普段興味がないとはいえないサイキロの様子がうかがえましたし、信行と遊んでいることが他の者に知れずにすみます。そのうえ、その庭の岸には種々の果樹が植わっていました。びわ、ざくろ、ぐみ、かき、ぶどう、なつめ、もも、そして南国ではめずらしい桜桃まで。その四季おりおりの果実を信行とならば気兼ねなく採って──というのは、叱られれば信行のせいにできますから──食べることもできました。
学校では、みんなといっしょにいじめながら、家に帰ると、私は信行を家来のようにして遊んでいたのです。
「それならいいわ。だって、私、知らない男の子って嫌いですもの」
私が信行の友だちで秀彦といい、すぐ前の家の子だと、信行が、まるで私を自分の手下のように紹介しました。そのとき、私は、信行のその仕方を気に留めるよりも、秀彦という自分の名が少し恥しい気がしました。私はでこが張っていたので、秀彦というのを縮めて「デコ」と呼ばれていたのです。ですが、そのときには、見知らぬ女の子の口から出た「信行さん」とか「あなた」とか「おともだち」とかいう街言葉の優しさに、頭のしんがぼんやりさせられていたのです。そんな言葉で、しかも、未知の少女から話しかけられたのは初めてのことでしたから、少女のことばは、ちょうど童話の中の、物を言うたびに口から花をとび出させる少女の、その口からの美しい花をみる気持ちのものでした。それに、三つ編みの髪を長く両肩から胸に垂らした、私より体の小さな子なのに、初めて会う異性をとがめるように
「あなた、信行さんの一一」
と素性を質ねたり
「それならいいわ。だって私──」
と、自分の気持ちを言い渡したりする仕方にも、私はすっかり気圧されてしまっていました。
「なかで遊ばない? 秀彦さん、あなたもいらっしゃいな」
それまでのきびしさとはちがった、急な笑顔に、私は真っ赤になってしまいました。
「行こッ」
誘ったのは信行です。
「うん」
隣の女の子と話すのさえ、「豆男」と囃されるのに、信行の後を追う私の足どりは、地面に散らばった花を避けて跳ぶような、はずんだ勢いのものでした。
これが、信行の女ともだちの、サイキロの悦ちゃんと私との初めての出会いでした。
私たちより二つ年下の悦ちゃんは、サイキロの親類の子で、春の時期になると里帰りの母に連れられて、本郷村にやってきました。そして、四五日するとまた街へ帰るのですが、いつ頃からそんな里帰りが始められていたのか。信行は、悦ちゃんたち一家が
「シャンハイから帰って来らっしゃってから」
と言いましたが、それが何年ぐらい前で、信行が悦ちゃんと友だちになったのはいつのことか。悦ちゃんが来ると、信行は家の外に姿をちろちろさせることがなく、私は私で、わざわざ信行を誘いに行くこともなかったので、サイキロのなかのことがわからなかったのです。そしてこのことは、私が悦ちゃんと仲良しになってからも同じことで、信行をつかまえなければサイキロには行けず、悦ちゃんと遊ぶこともできませんでした。しかし、幸いなことには、信行は、自分が女ともだちを持っていることが知られてからは、悦ちゃんを私に自慢したいらしく、私がサイキロ道の金柑庇のあたりをちろちろしていると、きまって嬉しそうな顔で勝手口に姿を現わし、私を手招いて言うのでした。
「悦ちゃんが来てござるよ。秀ちゃんも遊びたい?」
悦ちゃんはどうしているのだろう──と思うと、午後の陽の映る障子の明るさを背に、色とりどりの綾糸が、鼓の締緒模様で浮かんできます。
私たちが遊んだ部屋は、どういうわけかゲイシャさんたちの仕度部屋の隣で、いつもお風呂場のようなにおいがし、午後になると、広い桟組の障子の片隅に、八ツ手の影が映っていました。
「そこよ。そこに小指をかけるのよ。そいで、その上の糸に人さし指をくぐらせて──それじゃないわ。」
ほら、それよ、それ、と言われるのに、急に強度の近視眼になったように目を近づけても、どの糸をとっていいかわからず、とまどいの目をそばの信行に向けると、信行は、両手に糸を張った悦ちゃんが、糸のどれそれを丸い顎で示す表情を、やはり信行の番に私がそうしていたように、うっとりと見入っています。
「だめねえ、男の子って」
悦ちゃんは、そんなとき、ひどく姉さまぶった言い方をしました。しかし、そう言われても、それと同時にいままでぴんと張っていた赤い毛糸のすじがふいとゆるみ、その端が、悦ちゃんの白い指のつけ根の間をするすると滑るのが目に入りますから、だめねえと言われた恥しさが、くすぐったい嬉しさに変わってしまうのです。
いつか私は同僚の女性に、男の無骨な指でひとり綾とりができるのをおかしがられた事がありますが、それは、八ツ手の葉影のある部屋で、悦ちゃんに習った名残りのものでした。
いまは小学生の子どもなら誰でもが知っている誕生日の祝い歌も、私にはなつかしいものです。それは遠い昔の、まだ村の子どもの誰も知らない、そして、英語が敵性語といわれていた頃に、サイキロの黄色い光の部屋で、悦ちゃんから初めて聞かされたものでした。なにしろ誕生会の習慣もない田舎のことです。ハピバースディトウユウと、悦ちゃんが大袈裟な唇の動かし方で唄い出すと、一度、悦ちゃんからそれを聞いたことがあるらしい信行が、わざわざ私の耳もとで
「英語の歌じゃけんねッ、英語のッ」
と力をこめて言いました。そして、歌のことばの間に三人の名をかわるがわるに入れこみ、そこで悦ちゃんがするように膝をぴょこんと曲げると、もうおもしろさが口からキャッキャッとはじけ、自然と足踏みまでが始まるのでした。
ハピバースディトゥユウ
ハピバースディトゥユウ
それがあまりに賑わしかったのでしょう、廊下を通りかかった風呂上りのゲイシャさんが障子を開け、長襦袢の紐を片手に抑えながら
「あんたたち、アーメンの歌がじょうずねえ」
と、感心して言いました。
それから、悦ちゃんは芝居が好きだったので、三人でいくつもの役を兼ねながら芝居ごっこに興じもしました。芝居ごっこといえば、私たちは村芝居でみた「旅鴉一人道中」とか「三度笠旅寝血祭」とかいうやくざ劇の真似ばかりでしたのを、悦ちゃんとの芝居は「七ひきの子やぎ」とか「眠り姫」とかいう西洋物です。いちど信行が、部屋の整理箪笥の上から尻もちをついて落ち、息をつまらせたのは、「三匹の子ぶた」の劇で煙突から落ちる狼をやったときだったでしょう。そのとき、目を白黒させながらころげ廻る信行に、悦ちゃんが大きく目をみはらせたのは、信行の演技に感心してのことか、あるいは、演技抜きの不器用な熱心さに呆れてのことか、いまは質ねるすべもありません。
サイキロの裏木戸を出て、キャベツ畑に飛ぶモンシロ蝶の真白な群れを両手でかき乱しながら、気がちがったように走り廻っていただけの日もありますし、端井川の浅瀬を渡って向こう岸のレンゲ畑で寝ころんで遊んだこともありました。そのとき、悦ちゃんがつけているパンティの真っ白な色が見え、すると私はなぜか、もう目茶苦茶に花の上をころがり、いちめんのレンゲの紅色と空の青色とが、私の頭の周りをいつまでもぐるぐるとまわり続けるのでした。
悦ちゃんが頒けてくれた飴玉を掌に置き、それが陽光につくる色翳を三人で額をくっつけて見せ合っていた日の、気が遠くなるほど静かだった午後のひととき──悦ちゃんと遊んだ春の日がパステル画のような記憶の一枚いちまいとなって私の中に積み重ねられているのが、ひいやりとした重さで感じられるのです。それに、そのパステルにしても、悦ちゃんに初めて借りたもので、固いクレヨンしか知らなかった私には、絵の具というよりも、両端に丸い切り口をみせる西洋の菓子のように思われたものでした。
しかし──。
私は、悦ちゃんと遊んだ日のことを、少し身勝手に思い出しているようです。
悦ちゃんは、たしかに私にとって初めての女友だちでした。だからこそ、悦ちゃんは私のおもいの中でたちまち小さな女王になってしまい、私はその親しみのまぶしさにめまいし、自分にできる献身のあれこれのみを思いわずらうようになるのですが、悦ちゃんと遊んだのは私だけでなく、古賀の信行もそうでした。いや、古賀の信行こそ私よりも先に悦ちゃんと仲良しになり、いつも、アレクサンドリヤ皇后に仕えるラスプーチンよろしく、悦ちゃんの側にいたのですから、信行をはずしての話ではまちがいが多くなります。それに私は、悦ちゃんと遊ぼうとしても、サイキロの家の前で呼ぶのは、信行という男の名で
「悦ちゃん、遊ぼう」
と呼ぶ勇気は、おしまいまで持てなかったのですから、なおさらです。
あるとき信行を呼ぶと、炊事場にいた信行の母親が窓に顔をはりつかせ
「信行はおりまッせん」
と言ったまま、こちらが
「それなら、悦ちゃんは?」
と質ねきれずにいるのを、部厚い唇に妙なうす笑いをのせて、いつまでも眺めていたことがあります。私は、その日に覚えた辱(はずか)しさが、いまも頬にほぬるい火照りでよみがえってくるのを覚えます。ところが信行は、母親がサイキロにいましたから、こうした気兼ねもいらずにいつでも出入りができ、それだけでも、私より悦ちゃんに身近だったと言わねばなりません。信行は、私の声を聞きとると、悦ちゃんと居る部屋の方から
「秀ちゃんかァ、上がって来んしゃい」
と、まるで自分の家にいるような返辞を送っていました。
前に書いたように、信行は、友だちにいじめられても仕返しも口応えもできず、人の来ない廊下や運動場の隅で一人遊びをするだけの意気地なしです。ときおり、私とサイキロの庭で遊ぶとしても、信行は私の言いつけに従うだけで、腹痛の原因(もと)になる梅の青い実や、それとわかっている渋柿を噛まされても、そのにがさにしかめる顔のあとには、いつもの気弱な追従の笑いを浮かべましたし、家の中から母親の呼ぶ声がしても、信行は私の顔色をうかがって、返辞をためらっているのでした。
その信行が、悦ちゃんと遊ぶときには、私と同じように目を光らせ、声を弾ませていました。私と同じように、悦ちゃんが操る指人形のおもしろさに、二人並んで坐っているのを少しでも前に出ようとし、ついには悦ちゃんが体をかくしている応接台の際で、二人が顔を仰向かせている始末にもなりました。ジャンケンをするにも、負けまいと体を斜めに構え、相手に勝つと、私たちがするように無遠慮な歓声をあげました。悦ちゃんが唱う歌を
『英語の歌じゃけんねッ、英語のッ』
と報らせた信行の得意満面な表情もさることながら、こちらが何も質ねないのに、自分のおもいを溢れさせてしまうなど、普段の信行には決してみられないことです。五目並べには傍目八目(はためはちもく)の意見を吐き、トランプの婆ぬき遊びで、自分の持ち札からジョーカーが抜かれていくと、信行は私たちがするように首をすくめ、隠さねばならない喜びを故意にさとらせようともしました。
私には、こうした日々の信行が、いつも、汗をきらきら光らせていたように思い出されてきます。が、考えるとそれは汗の為ではなく、信行が普段のようにはちぢこまらず、私たちと同じように生まれたままの少年にもどって、自由にふるまっていたせいだったようです。
それにくらべ、私は、日を重ねるにつれて、悦ちゃんの気持ちを忖(はか)ることだけに汲々となり、しだいに自分のおもいとふるまいとに自由さを失くしていきました。
信行が、たとえば、トカゲの尾を掌にのせ、そのピクピク動くさまを悦ちゃんに珍しがらせるのを、あるいは、草の穂先の輪で蛙を釣り上げてみせるのを、私は、どんなねたましさで眺めていたことか。信行は、その蛙のお尻から麦藁の茎を入れ、そこから息を吹きこんで蛙のお腹をふくらませ、悦ちゃんの眉を美しくひそめさせましたが、私は、そのように悦ちゃんの気持ちを曇らせるどころか、トカゲや蛙に手を触れることもできないのです。信行は、蛇の脱け殻を首に巻いて、嫌がる悦ちゃんの周りを囃し廻ったこともありますし、地表にとび出したモグラの屍を、どこかの畑から見つけてきたこともありました。そんなとき私は、悦ちゃんのそばで、私の小さな女王の気持ちに自分を似せようとし、こわごわとそれをのぞいているだけでした。かと思うと、隣の村で何かの催しがあるとみえ、その始まりを報らせる花火が空の高い所で合図の音を破裂させると、信行は、それが青空に残した白煙の流れを測り、たちまち猟犬のすばやさでかなたの麦畑に走り去ると、やがて、まだ火薬のにおいの残るその割れ殻を拾ってきては、要らないという悦ちゃんに無理にでも与えようとするのです。
信行がするように、私も悦ちゃんの前で平気にふるまい、悦ちゃんを珍しがらせ嬉しがらせる何かをしてやれたら──私は、いつしかその事だけを思いつめるようになっていました。しかし、街の悦ちゃんが珍しがりそうなことは、信行がしてやっているようなことばかりで、信行がすることは、臆病な私にはできそうもないことばかりです。
「古賀ぞうのくせに !」
私はその口惜しさの中で、自分が信行に退(ひ)けをとり続けているのを、はっきりと知りました。いえ、退けをとるというより、悦ちゃんと遊ぶとき、普段の私と信行との立場がまるで逆にされているのです。私が、教室の隅にちぢこまる信行のようにして悦ちゃんの気嫌をうかがっているのに、信行は、学校で一番の餓鬼大将のように勝手にふるまっています。このことは、私憤をはなれても許されぬ不道徳のものにさえ思われました。
「キリシタンのくせに !」
しかし、学校での信行の有様が悦ちゃんにわかるはずはなく、キリシタンがどんなものかも悦ちゃんにはわかっていません。それどころか悦ちゃんは、信行に連れられて、今村の天主堂を見物にさえ行きました。そして、私がまだそこに行ったことがないとわかると
「どうして? へんな秀彦さん。きれいよ」
と不思議がりました。私は、このときとばかり
「おれ、キリシタンじゃないけん、行くもんかッ」
と、故意に蔑みを露わにしたのですが、悦ちゃんは
「キリシタンってなあに?」
とたずねて嫌がりもしません。
「キリシタンは──」
私は、そのとき返事につまりました。キリシタンはキリシタンで、説明なんか要るものではないのですから。キリシタンの信行にだって説明できないものです。私が返事につまったとき信行は
「秀ちゃんは行きなさらぬ。ゼス様を知りなさらぬのじゃけん」
と口出しをしましたが、その信行も
「ゼス様って、教会にいたお坊さん?」
ときかれると
「ゼス様は──」
と、やはり応えにつまってしまったのですから。
ただ、私と信行とのちがいは、私が応えのできなかったことで恥しい無念さにさいなまされているのに、キリシタンの信行は、うまく応えができたように、悦ちゃんの前で顔を光らせていることでした。そして悦ちゃんも、キリシタンを普通の人間と違っては考えないふうでした。私はそのとき、信行と悦ちゃんの親しみに、はっきりと嫉妬を覚えました。
何か──悦ちゃんを喜ばせ、信行の鼻をあかし、私と信行の立場を元に戻す何か──私は頭のしんを熱くしてそれを考えました。が、そんなことは、普段、過保護な母に遊びのあれこれまでも選ばされていた私に、考えつけるわけはありません。といって、悦ちゃんという女ともだちのことは、友人にはかくした私と信行二人の秘密のものですから、誰の智慧を借りることもできず、家人に相談するような事柄でもありません。すると、私はどこまで甘くできているのか、それを信行にたずねたらうまくいくと思う、妙に錯乱した気持ちにさえなるのでした。
ところが、信行に相談しなくとも、悦ちゃんを確実に娯しませることのできるものが、すぐ身近にあったのです。しかもそれは、臆病な私にもでき、おそらく信行よりもうまくできると思われるものでした。
まほうびん漁──。
しかし、私がそれに気がついたのは、信行がサイキロの桜の花の下で、一心にその餌を練っているのを見たときでした。信行のそばに、悦ちゃんが目を輝かせて坐っていました。
かあっ──と恙(いか)りが体を走りました。
それは、残されていたものに気がつかなかった自分のうかつさを口惜しがるというよりも、私にできる一つの献身のものを、信行がまた遠慮会釈もなしに自分のものにしているという恙りでした。
「それは、おれがするつもりのもんじゃ。なんでお前がするか」
もし、悦ちゃんがそこにいなかったのなら、私は信行を古賀ぞう呼ばわりして、彼が練っている餌をとり上げるか、川に捨ててしまったかもしれません。が、悦ちゃんは信行の餌づくりにすっかり夢中になっていて
「おいしい?」
と信行の口もとをのぞきこんでいます。信行は、台所に捨ててあったらしい古いブリキの器の中の餌を指先にとり、舌の上で味わってみせまでしているのです。私は、信行が悦ちゃんにその餌を食べさせるのではないかと心配しました。餌の色からすると、それは黴で変色した味噌と炒り糠、それに小蛆のわいた酒粕を混ぜたものにちがいありません。
「まだ、おいしゅうない。ひと晩、ねまらせんといけん」
「眠らせるの。どうして?」
「眠らせるとじゃない。ねまらせる」
「ねまらせるってなぁに」
「ねまらせるちゃ──」
「秀彦さん、どんなこと」
「──」
ねまらせるとは、腐らせる──そして、もっと正確に言えば、ここで使う「ねまらせる」とは、腐らせることでなく発酵させる意味だったのですが、ふだん使いなれた言葉ですから、それを説明するのは「キリシタン」や「ゼス様」とかいう言葉と同じようにむずかしいことです。
が、幸いなことに、悦ちゃんは私たちの返事を待たず、そして餌をなめることもなく、
「ほんとに獲れるの?」
と、もう何度も質ねたにちがいない問題にかえっていきました。
「獲れる。ほら、ハヤはこれが好きじゃけん」
信行は、蚕のさなぎをつぶした褐色の粉を餌に混ぜながら、自信たっぷりです。
「秀彦さん、ほんとう?」
「うん、とれる」
信行は「まほうびん」を使うとわかったときから、私の頭を端井川の流れが横切っていました。川は、ちょうど二週間ばかり前に、彼岸の「川ざらえ」をしたばかりでした。「川ざらえ」とは、年に一度、春の彼岸近くに行う川掃除のことで、夏の間に繁茂した川藻を刈り、川底のごみをさらい、流れを整える部落の行事でした。まだ、水神祭を行っていた頃の事ですから、人々が故意に川を汚すこととてはありませんでしたが、部落のすぐ上流口に醸造家があり、冬の間そこから流される米の磨ぎ汁が澱となって、川の岸や藻を白く汚していました。ですから「川ざらえ」の後は、流れは川底に藻茎の白い切り口をいくつも残して、見ちがえるような清冽さをみせました。そして、その流れの中では、刈り残された藻の間を魚たちがいそがしく行き来しています。彼等は、澄みきった水に生気をとりもどしながら、餌にしていた磨ぎ汁や川底の澱の欠亡に、腹を空かしています。これは「まほうびん漁」にはもってこいの時期です。それに、信行が作る餌は、その味噌や酒粕のいたみぐあい、さなぎ粉の分量などからして、私たちでも滅多にこしらえない上等のものです。口惜しくとも、獲れるか、ときかるれば
「うん、とれる」
と応えるほかはありません。
信行は、餌の表面をぺたぺたと掌で丁寧に叩き、満足しきっていました。
「もう、できたの」
「うん。あした、びんいっぱい獲るけんね」
「ほんと? びんいっぱい?」、
ブリキの器に桜の花びらが散り、餌に白い斑点をつくりました。信行はその一枚いちまいを指でとり除き、指についた餌をなめました。そばに置いた「まほうびん」にも花が散りかかり、肌をすべっていきます。私は、それを眺めながら、信行が「まほうびん」を使うという日を、真っ黒な大きな塊のものに感じていました。どうすることもできません。もう負けです。
しかし、悦ちゃんにしてみれば、底に穴のあいたびんを川に沈めるだけで魚がとれるということは、どうしても不思議に思えるのでしょう。くどいほど念をおすのです。
「もし、獲れなかったらどうする?」
「とれなかったら、首ばやる」
「信行さんの首なんかいらないわ」
「百万円やる」
「お金なんかも要らない。そうね──」
悦ちゃんは、ちらっと私の方を見ました。
「とれなかったら──」
「………」
「私、もう信行さんとは遊ばない。いい ?」
信行が応えずにいるので、悦ちゃんはふいに私に目を向けました。そして私は、その目に、有無を言わせぬ共謀の誘いを見たのです。
もちろん、私に異存のあるはずはありません。すると信行は
「いいもん──」
と、私に同意をもとめてきました。
「いいもん。獲れるのじゃけん。ねえ、秀ちゃんッ」
そのとき、私は信行の誘いには耳も貸さず、とつぜん痛いまでに胸をふくらませてきた、怒りとも喜びともつかぬ気持ちを、懸命に抑えていました。
地面の桜の花びらが、丸いまほうびんのガラスの肌を通して、大きくゆがんだ形で見えていました。それが私に、少し吐気を覚えさせてくるのです。いや、花びらではなく、私は、胸にこみ上げてくる、正体のはっきりしない、黒光りのする情念に、吐気を覚えているのでした。
獲れなかったら、もう、遊ばないから。ねッ、秀彦さん──悦ちゃんの声が次々に頭の中で眩しくはじけ、幾重にもこだまし合いました。
が、魚は獲れるのです。
「川ざらえ」の後の澄みきった流れの中で、魚たちは腹をすかしきっていますし、信行が練り上げた餌は、一晩のうちにみごとな発酵をみせるでしょう。
魚は獲れる──私は、魚群に内部を黝ずませながら、流れの底に横たわっているまほうびんを、容易に想像することができました。
しかし、それではなりません。信行に魚を獲らせてはならぬのです。
獲れなかったら、もう信行さんとは遊ばないから。ねッ、秀彦さんッ──。
そうです。私は「まほうびん」に映る花びらのゆがみに吐気を覚えながら、決心していました。
信行に魚を獲らせてなるものか──と。
それなら、私はそのためにどうずれば良かったか。信行が作った餌を盗む。信行のたった一個のまほうびんを割る。いえ、餌もびんもサイキロの内部にしまうのですから、そんなことはできません。そして、できたとしても、そのために「まほうびん漁」がだめになると、それは信行のせいではなくなります。大事なことは、悦ちゃんが愉しみにしている「まほうびん漁」を信行にやらせ、しかも、魚を獲らせないことです。それには、たった一つの方法しかありませんでした。
端井川の岸辺沿いの部落の人々が、みな、この川を大切にしていたことには触れました。「川ざらえ」もそうですし「水神祭」もそうです。五月の初旬、近くの久留米市にある水天宮の祭の日には、川辺の家々が、みな、コップ一杯の清酒を端井川の水神に捧げます。
「水神様にあげます。河童さんにもあげます」
コップ酒に笹の葉をひたし、その雫を川面に撤きながら水難からの無事を祈るのですが、その帰りには、一度も川を振り返ってはならぬとされていました。水神や河童が、神酒を含む姿を目にする無礼を畏(かしこ)んだのです。
また川辺には、人々がそこで米を磨(と)ぎ、食器を浸し、下着を除いた洗濯物をすすぐ洗い場が、家々の裏庭からそこまでの道をつけて、いくつもこしらえてありました。それを私たちが「汲ン場」と呼んだのは、以前はそこから水を汲んでいたのでしょう。ひょっとすると、私が使った産湯の水も、そこから汲まれたものだったかもしれません。
ところが、川辺の人々にこんなに親しいその流れが、おびただしい死魚を浮かべて川面を不吉な色に変え、臆病な子どもたちをおびえさせることが時おり起きました。川面に浮いた死魚の近くのあちこちには、小さな円い波紋がいくつもその輪を波だたせ、その中心には、死に際の魚が口をぱくつかせているのです。
「また誰かが毒を流したごとあるね」
「下(しも)のことも考えんで、まあ」
大人たちのなぜか声低い言葉を聞きながら、私は、部落の女たちが、その魚をつかみどりするのを気味悪く眺めていたものです。
しかし、そのうち、私にもそんな出来事を起こすもとのわけが知れてきました。小学校に入って間もなく、私は近所の上級生に連れられて筑後川へ注ぐ隣村の川に行き、そこで魚とりの手伝いをさせられました。そのとき、私たちは浅瀬に石を並べて堰を作り、流れをとめたのですが、すると餓鬼大将は、そこから一粁ばかり上流の狭い川幅の岸で、何本もの草の根を石でつぶしたのです。石につぶされる草の根からは白い汁がにじみ、すぐその色を流れにまぎれこませていきました。が、おどろいたことには、餓鬼大将の持つ一束の草の根がまだ終わらないうちに、流れをとめられた下流の広い水面のあちこちに、丸い波紋がいくつもたち現われました。
「死なぬうちに、早ようとれ !」
私たちは、動きのにぶった鮎やハヤを次々と手づかみにしました。
「除虫菊を流したこと、言うな。言うとお前たちも駐在に引っぱられるぞ」
餓鬼大将は私にも獲物の鮎を頒け、そして毒殺漁の跡をなくそうと、大急ぎで下流の石ころ堰をこわしにかかるのでした。
相手にもらった鮎の、しだいに硬直していく囲みを掌に覚えながら、こわさに泣き出したくなるのを、空を染める夕焼の色の変化を眺めることでまぎらしていたことを、私は忘れずにいました。
端井川に死魚を浮かせるのは、そんな毒殺漁の、堰をはずされた川水にうす残るくすりのせいでした。もちろん、上流での仕業が誰のものかは分かりません。私たちがした毒流しも誰にもしられず、駐在もたずねては来ませんでした。
それなら──。
信行に魚をとらせない方法はこれしかありません。
川の魚を毒でみな殺しにしてしまうこと──です。
しかし、除虫菊の根から汁を川の水に混らせることは、思うほど容易ではありませんでした。石を持つ手の力が弱ければ、根はいっこうに輪廓を崩してくれませんし、力を強くすれば、石の当たるその部分からぷっつりと根茎を切らしてしまいます。そのうえ、手の震えがねらいを違えさせ、根を抑える指先にいくども石をうちおろさせてしまうのでした。
私は、家並みを離れた夜の川辺で、毒草の根をつぶしながら、臆病な私がどんな気持ちでいたかを、つぶさには思い出せません。いま考えると、おそらくそれは、水を湛えた器を懐(ふところ)にしながらする作業のようなものでしたろう。なぜなら、家を出るときから、魚を殺すという、つきつめた思いの中にも、夜をおびえる生来の臆病が地下水のようににじみ、決心の縁すれすれにまで盛りあがって来ていたのですから。その夜、私がたどった道筋や、草の根をつぶした川原のあたりの様子が、私の記憶にまるでないのは、私が故意に視野をせまくし、月を背にした自分の影だけをみつめていたからだと思います。道ばたの樹木が夜空に拡げる枝のふるえや、流れにゆらぐ川藻の翳にさえ私の心は動かされ、その底の小さな器でようようの平衡を保っている臆病さを、たちまち溢れさせようとするのです。もし、そこから一滴の臆病さがこぼれ落ちでもすれば、その一滴で私は全身を凍らせてしまうでしょう。私は、除虫菊の根を石打ちながらも、自分の臆病さから目をはなせませんでした。
「ちくしよう ! ちくしよう !」
石で指を打つ度に、まるで他人から受ける仕打ちのようにののしり声をあげたのも、そしてそのうち、夜の川辺で草の根をつぶさねばならぬことに、何か理不尽なめに遇わされているような怒りをおぼえたのも、そうした臆病さを心の底に閉じこめておくための、懸命な心動きのものだったようです。
それでも、いつしか私が手にする石は草の根になじみ、毒草の根は、ほぐされた繊維の間から、白い血のような汁を月の光のある流れにまぎれこませ始めました。
一本、二本、三本──すると私は、口笛でも吹き出しそうな、ひどく幸せな気持ちになって来ました。おそらくそれは、私の極度の緊張が生んだオーロラ模様の幻覚気分だったのでしょうが、それでもそうした気持ちのゆとりが、私の視野を少しずつ拡げていったのも事実です。そして私は、その視野の裾辺に、一尾の死魚が不意に現われ、その白い腹が流れにもまれて浮き沈みして行くのをとらえました。
ハヤが死んだ──
私はそれだけを思い、草の根を叩いていました。
毒で死んだ──そのとき、なぜか薄荷をなめたあとのような感じが舌の上に拡がりました。
が、私が、その根を打ち終わろうとしたとき、私にもう一度、ハヤが死んだ、毒で死んだというおもいが、ふいに逆流してきました。あの、白い腹をみせた死魚をありありと浮かべて逆流してきました。それは、さっきまでは藻の蔭で休んでいながら、私が流す毒を飲んで死んだ魚です。白い除虫菊の汁を飲んで──すると、それまで耐えていた夜のこわさとはちがう別のこわさが、私を襲ってきました。私は震えました。
まったくのところ、餓鬼大将のしたことを真似て魚を殺そうとしながら、私には、生き物の死にざまを見る勇気など無かったのです。
ほかのものを魚に見違えたのではないかと、あわてて思い返してもみました。実際、草の根をつぶすそんな手近な所に、魚が近づくことなどあるはずはありません。それは、上流から流されてきた一葉の枯笹だったのかもしれません。しかし、恐怖に撫でられた臆病さは、もうそのおびえを鎮めることはできません。それどころか、今のが死魚だったのか枯笹だったのか、確かめようとして見やった下流の川面に、一面の死魚の幻影を白い斑点で映し出すのでした。
「ちくしょう!」
私は、悲鳴をあげたくなりました。しかし、そうすればもっと恐しいものが一度に現われそうな気がします。こんなときにこそ、人には自分を支えはげます、たとえば労働歌のようなものが必要になるのです。
「そりばってん(しかしながら)、そりばってん──」
私は、そのとき私の口から出たことばを忘れることができずにいます。
「そりばってん、ゼス様、おひとりじゃけん、ゼス様、おひとりじゃけん」
それは、自分にも思いがけぬ、そして魚を殺す場合、まことに奇妙な呪文のことばでした。
「ゼス様、おひとりじゃけん」
というのは、古賀の信行がある月の神社朝礼で、先生の拳固で破られた唇から血を噴き出させながら、わめいた言葉でした。
神社朝礼とは、昭和の十年代に小学生だった人たちには憶えのあることかもしれません。普段は校庭で行うものを、鎮守の社まで馳足行進で行き、その拝殿の前での戦捷祈願に続いて開く朝礼のことです。私たちの小学校では、石時という校長がこれを始め、毎月の一日(ついたち)がその日に定められていました。私たちは、神社までの往復と境内掃除とに費される時間だけ勉強が減りますから、毎月の一日を大そう愉しみにしていました。
が、古賀の信行は、そのころからぼつぼつずる休みを始めていて、初めの頃の神社朝礼には出遇わせたことがなく、そんな新しいしきたりができた事も知らずにいたようです。ですから、その日も学校を出る時、信行は何が行なわれるのかもわからないまま、ただ、私たちのはしゃぎように、何か良い事があるように思っていたのでしょう。
ところがその神社朝礼には、拝殿に向けての敬礼もあれば、校長の捧げる祝詞を畏(かしこ)む低頭もあります。もともと、キリシタンは日本の神様を忌むという噂はありましたが、クラスのキリシタンたちには、毎月の神社朝礼で私たちと異なるそぶりはありませんでした。それなのに、おどろいたことには、信行だけは、初めて加わったその朝礼で、教頭先生がかける最敬礼の号令にもお辞儀をせず、校長先生の祝詞の間も、頭を上げたままでした。もちろん、こんな信行は、列の後ろに並んだ者の告げ口で、先生たちに激しい叱責を受けました。が、信行は、受け持ちの先生が何を質ねてもうんともすんとも言わず、力づくで頭を膝におしつけられても、そこで首をねじって顔をそむけ、お辞儀のさまを崩してしまいました。信行が先生に平手打ちを喰らったのはいうまでもありません。それは、まるで狂ったような仕打ちのものでしたから、信行は、みるみる頬をミミズ腫に腫れあがらせ、そばにいた女子組の先生は顔を青くひきつらせると、お辞儀をせぬのなら、そのわけを言いんさいと助け舟さえ出したのです。しかし信行は、そんな先生たちに、あの魚のような目をじっと向けるだけでした。しまいには信行は、高等科の先生から唇を切るほど拳固でなぐられました。そして、自分がどうしても許されないとわかってくると、信行は、さっき理由(わけ)を言いんさいと言った女の先生の背に逃げこみ、その蔭で、私たちが初めてきく大きな泣き声を空に向けながら、とぎれとぎれにわめいたのです。
「そりばってん、神様はゼス様、おひとりじゃけん !」
私たちは、信行の強情さに呆れながら、しかし、信行がとうとう吐いたその言葉を、なぜか、キリシタンの秘密を白状した者の、後に私たちが教科書で習う言い方をすれば、「転び者」の言葉のように聞きとり、その後しばらくは、信行をからかうのに、その言葉を囃したてたものでした。すると信行は、顔を真っ赤にして恥しがっていました。
その言葉が、月夜の川辺で恐怖(こわさ)に耐えきれなくなったとき、ふいと私の口を出てきたのです。しかもおかしなことに、それを手の動きに合わせて口にしていると、(それはまた、よく動きに合う調子のものでした)乱れていた石のねらいさえもがうまく定まってきたのです。
ゼス様、ひとり、ゼス様、ひとり、それッ、ゼス様、ひとり──
しかし、それは信行の場合、何百年もの間つぶやかれて来たものではあっても、私には所詮ひとときの借物にしかすぎませんでした。初めは手に合った拍子のそれも、やがて唇のわななきでとぎれとぎれのものになり、すると、その言葉の切れ目きれ目には、周りの静寂さが、氷のようなつめたさで、ぴたりと鼓膜にはりついているが感じられるのです。
とぽん一と、何かが川に落ちる水音が、幾度か起きたような気もしました。その度に、私の網膜に浮かんでいる死魚の幻影がゆらりと一度に揺れました。そして、その死魚の群れに、サイキロの鯉がひときわ大きい白翳をみせていることに気がついたとき、私は、ゼス様も手の石も一気に投げ棄て、歯の根も合わず家に逃げ帰りました。
翌朝、普段よりもいくらか早く目をさました私は、しばらく蒲団の中でじいっと耳を澄ませていました。
『誰かまた毒を使うたごとある』
『下(しも)のことも考えんで、まあ』
『水神様が祟らっしゃろうに』
死魚が川を流れるたびに聞いた、あの、笹が鳴るようなささやきが、川辺の方から風のように聞えては来ぬかと思ったのです。が、いくら待っても聞えてくるのは、台所で朝餉を作る嫂の物音と、裏庭で餌を探す鶏たちのつぶやきぐらいなものです。
私は、心を決めると嫂のいる台所に行き、前日の残飯の入った笊を持って、鶏に餌をやりに行くふうをして、サイキロの生簀に行きました。鶏のほかにも鯉に残飯を与えることもあったので、川辺に立っていても怪しまれることはありません。
裏木戸を出るとき、きゅうっと胸が締めつけられました。道のわきの狭い野菜畑のすぐ向こうに、端井川の流れが朝の光を泛べていました。
が、私は、自分の仕業の結果を徐々に知るよりも、一気に目にしたくて、前の夜と同じように、故意に視野を狭くし、しかし、ゆっくりと、生簀のふちまで歩きました。そして私は、生簀の鯉たちが──いつもと変わらず水底で鰭を動かしているのを見ました。
「──良かった」
私はそう思いました。ほっとしました。そして私は、そこから初めて川の流れを見やることができました。
何も変わりはありません
向こう岸近くの浅瀬の水は、小さい細長い丘陵をいく筋もつくって滑り流れており、こちら岸のすぐ左手にある「汲ン場」の水は、川底に沈んだ割れ茶碗の青い図柄をみせています。目を川面にそわせて上下させてもみました。が、そこには、腹をみせる一尾の白い浮き魚の影もなければ、死に際の魚がつくる波紋の小さな輪ひとつすらありません。
何も──すると、私は、サイキロの鯉が死ななかったことで覚えた安堵の気持ちが、ゆっくりと艶を消していくのに気がつきました。
毒は効かなかったのだろうか──私は笊をそこに置いて「汲ン場」におりて行きました。前にも書いたように、そこは米をといだり食器を洗ったりする場所で、魚がよく集まる所です。ですから、もし、私が流した毒が効かなかったとすれば、そこには魚たちがいつものように姿を見せているはずでした。
足音をたてぬようにして近づいて行きました。が、足音よりも先に水に映る人影に、いつもならぱっと輪をひろげる魚の影が、その日には見当たりませんでした。そして、そのかわりに、「汲ン場」をはなれた流れの中ほどを、つつっ、つつっと藻から藻の蔭へと鋭く移り動く魚影が、いくつも目につきました。それは、藻の外に一刻も身をさらすことをおびえるようにも、あるいは藻の蔭に瞬時も留まるのをおそれるようにもみえる、落ちつきのない、あわただしさのものでした。
いつもは、上流の藻の間から流れに身を任かせて近づいてきたり、あるいは、ゆっくりと川を横切って向こうの藻蔭へかえって行ったりしている「汲ン場」近くの魚たちです。それにくらべると、この、黒い稲妻の動きをみせる魚影は他所の魚のようにもみえ、そして、確かに異変をしらせる動きのものでした。
私はつい最近、ある女性の友人に、夕焼けの空を見ていると、からだじゅうの皮膚がひどく敏感になってしまいます。まるで愛撫をうけようとする際(きわ)のように、と聞いたことがあります。魚たちは、流れの水に夕焼けのように拡がっていった毒のために、その皮膚をひりひりと痛めているのでしょうか。実際、「汲ン場」から戻って鯉に餌を投げたとき、波立つ生簀の囲いのふちに、幾尾もの小魚が白い腹をみせて浮かんでいるのに気付きもしたのです。
私の流した毒はそれなりの効きめをはたらかせ、それなりの死魚を夜のうちに流し去っています。おそらく下流のどこかで大人たちは
『誰かが毒を流したごとある』
『下のことも考えんで、まあ』
と悔(くや)み、幼い子どもたちは、その白い浮き物におびえの目を向けていることでしょう。ただ、川を堰かなかったせいで、毒が早々と流れてしまったのか、それ以上に、私がつぶした除虫菊の根が足りなかったのか、死をまぬがれた魚たちもかなり残ってはいるようでした。しかし、このことは、考えるとそれほど都合の悪いことではありません。なぜなら、魚がわずかでも残っておれば、私がした毒流しが露見することはありませんし、しかも、その残った魚たちは神経を痛めつけられてしまっているのですから。そういえば、いつか、「まほうびん」を使っていた餓鬼大将が
『誰か上(かみ)のほうで毒でも流しよるのじゃろうか』
と、びんに集まる魚の少なさを訝しがってつぶやくのを聞いたことがありました。
とはいえ、気になることが全くないわけでもありません。それは、夕方までに大部の時間があるということです。その間に、魚たちはすっかり元気をとりもどし、かえって食欲を強めてしまうかもしれません。
「ようし」
私は、前の夜からの私の仕業の結果が、夕刻の信行の「まほうびん漁」にすべて賭けられたように思い、人しれぬ緊張を覚えました。
その日、サイキロの前庭から聞える悦ちゃんと信行の声に、私はあわてて裏木戸から出て行った記憶がありますから、私には、それまで外に出れない、家人に言いつけられた用事でもあったのでしょう。そして私にも、常識からくる安心と油断もあったようです。「まほうびん」を使うのに、日が沈む前後の刻(とき)を選ぶのは、村の普通の子どもにとっては常識のものでした。
しかし、それ以外の時間に「まほうびん」を使ってはならぬという法はないし、それに、悦ちゃんは外国帰りの街の子でした。
まだ陽があるというのに、信行は悦ちゃんにせがまれて「びん」を使い、とれる魚の少なさを詰られているふうでした。
「そげん事を言うても、まだ時間が早いけん、無理たい」
私がそこに行ったとき、信行は、めずらしく少し憤った表情を見せていました。
「して、そげん何回もしておると、魚が慣れてしまうけん、いよいよの時にいけんごとなるッ」
「でも、さっきからだいぶ時間がたったわよ。まだ、駄目なの?」
悦ちゃんは、言葉の終わりに私を見ました。どうやら、信行は、悦ちゃんが二度めか三度めの漁を促すのを、頑として肯かずにいるようでした。私も、まだ少し早いと思いました。
が、桜の根方で花びらを浮かべているバケツの水底には、十数尾のハヤやタナゴが泳いでいます。魚たちは、やはり元気をとりもどしているのです。ですから、時機を違えねば「びん」いっぱいの魚がとれるのはまちがいないでしょう。その時機を、私は自分の口から言うのが厭でした。それどころか、これならもっと毒を強くしておれば良かったと、悔まれさえしました。
「早かごともあるし、もう良かごともある」
私は悦ちゃんにそう応えながら、「古賀ぞう」の信行に、その時機がわかっていないことを願いました。が、信行は私の言葉にはまどわされず
「まだ早かよ、秀ちゃん」
と落ちついています。
「早くしないと、私、夕ごはんになるわ」
「まだ、ごはんにはならん」
信行は、悦ちゃんの夕餉の時刻まで知っているのです。
「あと、どのくらい?」
「もうすぐ、ばってん、いまは早か」
「じゃ、私がいない間に行っちゃだめよ」
悦ちゃんは、それからあわてて家の中にかけこみました。信行をせかせながら、自分は手洗いに行くのを我慢していたらしいのです。あるいは、時機がくるまでどうしても信行が動かぬとわかって、急にそれに気がついたのか──。
悦ちゃんが戻ってきてしばらくして、私たちは出かけました。信行が
「行こッ」
と「びん」を持ったのは、私が思わず
「うんッ」
と応えたほど、ほどよい陽翳りの時機でした。
悦ちゃんがいっしょですから、下流の浅瀬を渡って向こう岸に出ました。「まほうびん」を使うには、こちら岸の川水は少し深すぎ、流れも動かなすぎます。餌を融かしながら、それをゆっくり下流に届けていく、適度な流れが必要でした。
「ここでは、もう、しないの」
川辺を逆のぼっていく途中で、悦ちゃんが信行に声をかけました。見るとそこの川底に、「びん」を据えた跡がありました。それで、信行が、気の乗らない時機の漁は、そんな下流ですませていたことがわかりました。上流てすれば、餌が広い範囲に流されて、いざというとき、魚の食欲を刺激する効果がうすめられることを、ちゃんと計算しているのです。
「ここに漬ける」
信行が選んだのは、魚の集まりが多いサイキロの汲ン場の少し上流で、藻がまばらになった砂地でした。そしてそこは、私たちが「まほうびん」を使うとき、必ず「びん」を据える場所でした。
信行は、膝までの流れの中で、「びん」を両手に抱え、ゆっくり足で砂を掘りました。そうすると「びん」の据わりがよくなって流れに動かされなくなるばかりか、「びん」の底の丸窓が、魚の泳ぐ高さと同じになって、「びん」に入る魚の気持ちを楽にするのです。
信行は、砂のにごりをたてぬよう要心して足を動かしていましたが、私たちに向ける顔には、自信と期待とをありありと浮かべ、嬉しくてたまらぬ表情で、前歯が一本かけた歯並びを見せていました。
「つめたい?」
悦ちゃんが緊張した小声で優しく質ねるのに、信行は黙ってかぶりをふり、ゆっくりとびんを底の方から沈めました。「びん」の中には一粒の気泡も残してはいけません。
それか信行は、水音をたてぬように、しかし、大急ぎで岸に上がって来ました。
「今度は、うまくいくわねッ」
「うん」
悦ちゃんには構わず、真剣な表情で川を観ていた信行が私に顔を向け、にこっと、私に合図を送るようにしてみせました。そのときには私も気がついていました。二三匹の小魚が、もう、下流の藻蔭から姿を現わし、流れに混ってくる餌の小粒を追って、体をくるくる回し始めていることに。
その場に据えた「まほうびん」の魚の獲れようは、川か岸に上がってくるまでの、このわずかな聞にわかってしまうものです。この間に、どんな小魚でも構わないけれども、とにかく魚が姿を現わしてくれば成功ですし、そうでなければ、獲れ高はしれています。
「行こッ」
信行は、そこにかがんでいる悦ちゃんに声をかけました。いくら魚が腹を空かしていても、岸に人影があれば「びん」には集まってきません。
「こんどは、びん、いっぱいねッ」
悦ちゃんは、ゆっくりたち上がりながら、それでも川面から目を放さす、声も緊張に低くかすれていました。
「うん」
信行の声も、魚をおどろかすのをおそれるように、しずんだものでした。
が、その時、信行の声が、私には、妙に緊(は)りを失くしたものに聞えました。しかも、信行は、悦ちゃんにそう答えながら、私の方をちらっと盗み見したのです。
私は、その信行の目に、一瞬の狼狽が通りすぎるのを見ました。そして、同時に、その信行のおびえた目の光は、私の頭の中に一尾の「ぎしねらみ」の姿をくっきりと映し出しました。それは例うれば、信行の頭をよぎった勢いのあまり、私の中にまでとびこんできたような成り行きのものでした。
たしかに、信行に悦ちゃんへの返辞を躊躇させ、表情に一瞬のゆがみをつくらせたのは、信行のおもいを横切った一尾の「ぎしねらみ」であったに相違ありません。
そして、結果は、信行がおそれたその通りのものになったのでした。
私たちは、岸を畑の方に降り、土手の蔭に並んで腰をおろしました。待つ時間はほぼ二十分ぐらいの長さです。それより早く「びん」を上げれば、獲れるはずの魚を残すようになりますし、それより長く流れに据えておけば、ガラスの壁に沿ってだけ泳いでいる内部の魚たちが、しだいに泳ぎに慣れて丸窓の場所をさとり、外へ出て行ってしまいます。時計など持つわけのない子どもたちでしたから、その間合いをはかるのも、まほうびん漁のこつの一つでした。
しかし、慣れない子どもには、この二十分ばかりの時間は途方もない.長さに感じられますし、魚の集まりぐあいや入りぐあいも気になり、息苦しいほどです。まして、めずらしさいっぱい、期待いっぱいの悦ちゃんには、しまいまでじっとしておれるわけも、黙っておれるわけもありません。三分もたたないうちに、もう、
「まだ? ねえ、まだ?」
と、ひっきりなしに質ね始めました。信行は、時間をはかるのに、指を折りながら懸命に数を数えているふうでした。
「ちょっとのぞいていい? ねえ、秀彦さん。いいでしょう? だって、私、もう夕ごはんになるんですもの」
しかし、信行が漬けたものですから、さすがに私もいいとは応えかねるのです。
「つまんないわ」
悦ちゃんは、そう言って肩を落としてみせますが、すぐにまた目を光らせて、私や信行の表情をうかがいます。
が、そのうち、私は、ふと、数を数えているとばかり思っていた信行が、指をくんだ両手をしっかりと胸に当てているのに気がつきました。その唇が、声をたてずにいそがしく動いていました。
「ゼス様を拝んどるんじゃね」
私は、そう思ったとき、なぜか信行がひどく勝手すぎるように思え、厭な気持ちになりました。そして、ちょうど悦ちゃんが、
「のぞいていい ?」
と質ねたのに、はっきりと頷きかえしました。
悦ちゃんは、這うようにして土手を上がり、足さきを信行の頭の上に残しながら、俯伏せの恰好で川に首をのばしていました。が、すぐにずるずるすべるように信行の横に降りてくると、早口に告げました。
「いっぱいよ、信行さん。びんが真っ白になってるわよ!」
びんが真ッ白になっている──私の方を見た信行の表情は、いつも学校てみせている、意気地なしで卑屈な、「古賀ぞう」のそれに変わっていました。
びんを餌汁で真っ白にするのは、あのあばれもののぎしねらみの他にはいないです。
岸にあがって、悦ちゃんは「びん」を上げてくるように、何度も信行をうながしました。が、そこにうずくまって膝を抱いた信行は、その都度、あの、どうすればいいかとたずねるような困惑の目を向けるだけで、一向に動こうともせず、体をちぢこまらせるばかりです。
ああ、とうとう、信行は元の信行に、「古賀ぞう」の信行、「キリシタンぞう」の信行にもどったのです。その姿を見やりながら、私は
「日本の神様が勝った」
と、胸のすく思いがしました。
白濁したびんの中で、外に出ようとあばれる「ぎしねらみ」が、黒い影でガラスにつき当たっています。
「いじわる!」
とうとう、悦ちゃんは怒り出しました。
「信行さんって大嫌い。田舎の男の子って、大嫌い !」
そして、涙いっぱいの目で信行と私を睨むと、ひとりで下流の浅瀬の方へ歩いていきました。
「あげて来いや。もう、悦ちゃんはござらぬのじゃけん、恥(おか)しゅうはなかろうもん」
私は、信行に親切まがいの声をかけました。が、信行は黙って私を眺め、また、川面に顔をもどすだけです。
「びん」の濁りがうすれ、内部(なか)の「ぎしねらみ」が形を見せ始めていました。水の澄みように安心したのか、あるいは、びんの外に出るのを諦めたのか、または、周りに一尾の魚もいないことに満足したのか、彼はそれまでの激しい動きを鎮め、「びん」の中心で静かに鰭を動かしています。
春の川辺の夕冷えが、からだを包んできました。川向こうのサイキロの桜の花の周りの空気が艶を消しています。
「おれ、帰るけんね」
私は、まるで反応を失った信行を残して家に帰りました。
おれのせいじゃないもん──その日、家につくまで、川辺に残した信行と、それから自分自身とに、そう言いつづけてきた自分が、いま私に鮮やかによみがえってきます。
おれのせいじゃないもん、おれは何もしてないもん──。
「信行ィ。のぶゥ──」
日が暮れてしまって、サイキロの生簀のあたりで信行の母親の声が、二三度おきました。
川から帰って、家の夕飯のまえに見たときは、うす暗い川辺にかがんだ信行は、墨絵の中の童像のように見えていましたが、そのままサイキロの母親のところには戻らずにいたのでしょうか。
悦ちゃんが、次の春にもサイキロに来たかどうか、その後の悦ちゃんを私はよく憶えておりません。ただ、あの「再起楼」がその屋号にも似ず、戦争で商いを閉じたあと、今では人の住まない廃屋になっていることは、いつかの郷里.からの便りで知りました。
古賀の信行はどうしているだろう──と思います。
(作者は、昭和五=1930年生れの小説家。すでに惜しくも亡くなっている。昭和五十五年七夕の日に上梓単行本『ぎしねらみ』の表題作で、一代の代表作とも評価できる。本のあとがきに三原は書いていた。「ぎしねらみ」は、作品の中でも書いたように、清流にだけ住まう魚である。自分が子どもの頃は、故郷のどんな流れにも見かけられたが、この頃では全く姿を消していると。二三尾捕えておいてくれと気楽に依頼したが、電話の向こうの甥は、「それは、言うなれば雲をつかむようなこつでござります」と返事したと。さらに三原は言う、「清流にしか住めぬ傲りの性ゆえに、いまは虚空のかなたの青さの中に、じっと泳ぎすましている一尾のぎしねらみの性が、私にはたしかに見える」とも。三原誠がみずからを「ぎしねらみ」に擬していたかどうか、編輯者は言及しないが、この作品は、どうしても「e-文庫・湖」に欲しかった。今も夫君の意をつぐように「湖の本」を支えてくださる節子夫人の厚意から、三原の三代表作を得られたのは無上の喜びである。創作欄第二輯の第一=基底作として感謝をこめ、掲載する。 1.9.18掲載)