書き下ろし長編創作欄
以下に掲載する寄稿作品は、かなりの可能性を、すでに見せていて、その長所は、短
所もかも知れないが、ほぼ点の打ちようもなく文章がよく書けていること。あまりよく書けるために、この作者は、長く書きすぎているかも知れないし、文面が
ややテキパキと乾燥していなくもない。
しかし、これだけの長編を一つの文体で渋滞無く書き込んであるということだけで、作品はもう豊かな可能
性をはらんでいる。作者も編輯者も、また読者も、お互いの立場で関わり続けてゆくのが、先へのたのしみである。小説とかエッセイとか、強いて分別の必要の
ない「文学」作品として、どの方角からも読み進めうる作品に出来上がっている。 表題だけは、いますこし工夫してもいいかも。
作中の語り手は情緒的に動揺していながら、作品の書き手はじつに理性的に書き進めている。情感がどう放
たれてゆくか、筆致がどう抑制してゆくか、そのせめぎあいが作にどう影響しているのか、みどころになっている。
ともあれ、一度手放して読者の前を一人歩きさせてみようと編輯者は考えた。ほとん
ど危ぶむ思い無く考えた。人に見られて作品が表情を動かしてゆくかどうか、急がず見ていたい。
この全くの新人作家を、編輯者は識らない。印象として、「私小説」ふうにこの作品が作者の実像を露わに
説明しているとは、思われない、と、しておく。湖の本の最近の読者であるが、秦恒平の作にはもう久しく深く触れて貰っているように感じている。1.7.8
掲載。
ドイツエレジー
──母への手紙──
山瀬 ひとみ
第一信 帰国
ママ、ドイツから帰国して、もうじき四年になろうとしています。四年前の八月のその日。思い出すのは、成田に着いてどうやら飛行機を降りて、外気に触れた
瞬間のことです
私はまといつくような湿気、八月のむっとする熱気のなかにいました。空気が重たいのです。重たいけれど、それは妙に懐かしくて慣れ親しんできた肌ざわりが
しました。ドイツのぴんと張りつめた冷気、清涼剤のような空気とは違って、どこか柔らかく私の肌に馴染むのです。なまぬるい風には、かすかに埃の匂いが溶
けこんでいます。気づくと、とりとめなく肥大していく空港のざわめきに囲まれていました。静寂に慣らされていた耳のなかに侵入してくる音また音。理解でき
る言葉の世界に戻ってきたのに、私は何も考えられず、鼓膜が膨張したように容量一杯になりました。日本の断片が一気に押し寄せて、眩暈がするほどです。と
りあえず喉の渇きを満たそうと口にしたウォータークーラーの水が、舌の上を濡らしながら、心地よく喉の奥深くへ流れ落ち、私はいっぺんに日本の軟質の水の
味を思い出しました。私が過去に和んでいた感覚が、少しずつ現実となって、甦ってきていました。
そして呆気ないほど簡単に税関を通り抜けると、ママがいました。ママのすばらしい笑顔は、ゆっくりと滲むように広がっていきました。私はついに母の場所に
帰ってきた。それが、凍りついた心にはなかなか現実のこととは信じられませんでした。ドイツにいる間に芯まで冷えきっていたのでしょうか。猛暑の日本に、
グレーの長袖ニットの上下を着て戻ってきた私は、暑いという感覚を忘れて、茫然と立ちすくんでしまいました。まるで、飛行機のなかで飲んだ鎮静剤が効きす
ぎたかのように、土気色の顔をして疲れはてていました。遠い、遠い旅をしてきたのです。
なぜ生きて、無事に帰って来られたのか。今でも不思議に思います。
帰国の二日前、またひどい心臓神経症の発作に襲われた私は、喘ぎ苦しみました。日本の土を踏む前にドイツで死んでしまうのではと脅え、うろたえました。深
夜のことです。一分間に百四十はあろうかという動悸がすると、一瞬も眠ることはできません。発作は心臓のなかで小型爆弾が破裂したように始まりました。動
脈と静脈が猛り狂うように心臓の壁にぶつかり、心臓がきしんで悲鳴を上げていました。この病気で死ぬことはないと、必死で言い聞かせても、断末魔のような
動悸や救いがたい息苦しさが、致命的な心臓の痙攣にしか感じられないのです。何度経験してもこの神経症の発作に慣れることは不可能でした。
発作は、いつも死の不意打ちを垣間見せました。夜中に一人きりで発作に耐えているとぞっとするほど孤独でした。心臓の破裂という幻覚を振り払いたくて、目
を見開くと、そこに広がるのはさらに不気味な暗闇でしかありません。時間ばかりがすぎ、闇はさらに深く濃く、真っ黒な絶望のように私の四方を取り囲んでい
ました。こんな暗黒の中でたった一人で死にたくない。ベッドの中で私は何かに縋るように、生き延びることを祈り続けました。
傍らに眠る賢一さんや瑠璃子を起こすことはできたかもしれません。事実もう少しで賢一さんを起こすところでした。が、いつもの発作、それもここ数カ月は日
常茶飯のことになってしまったような発作に対して、わざわざ騒ぎたてて二人の眠りを乱したくない、というほどの理性はかろうじて保つことができました。そ
れに仮に夫と幼い娘が心配して、私を見守ってくれたとしても死へのおぞましい恐怖はこの私だけに降りかかったことでした。別世界にいる二人に何ができると
いうのでしょう。優しさも愛情も無力でした。死にゆくことは、容赦のない孤独のなかに身を投じることなのでした。私は呼吸を止めないという意志だけを奮い
たたせ、長く苦しい夜を耐えていました。
四歳になったばかりの瑠璃子は、帰国が迫っていることがどういうことかもわからず、すこやかな寝息をたてていました。賢一さんは、かわいそうに、疲れはて
ていたのでしょう。寝返りもせず死んだように寝ていました帰国前一カ月の賢一さんを見ていると、一人の人間がよくもこんなに働けるものかと、驚くほどでし
た。帰国に際しての手続きは数かぎりなくありました。大学の研究論文のまとめ、学生を辞める事務的後始末、企業派遣の留学生でしたので、会社への帰国報告
の提出役所の手続き。銀行口座の始末、水道、電気等の始末。保険類の解約。大家との交渉、車やあらゆる家具の処分、海外引っ越しの準備等々。そして連日連
夜の送別パーティー。当然のことながらすべてをドイツ語でこなしたうえに、本来私の仕事だった、おみやげの手配、幼稚園への挨拶、トランクの荷物づめや間
借りしていた部屋の清掃まで一手に引き受けなければなりませんでした。壁塗り、窓拭き、床磨き、台所の換気扇の掃除などをやりすぎて彼は腱鞘炎になってし
まいました。一つの国をきれいに引き払って出国することは引っ越しを一カ月毎日続けるような過酷な労働だったと思います。賢一さんの獅子奮迅の活躍がなけ
れば、私達一家は帰国できなかったにちがいありません。
ドイツに住み初めて半年ほどすぎた頃から私は心も身体も病的な状態に陥ってしまいました。神経症を抱えるようになってからも、何とか病気と折り合いをつけ
ていこうと努力はしましたが、帰国を目前にしてとうとう力尽きてしまいました。帰国前のさよならパーティーを開くため、学生二十五人ぶんの食事を作ったあ
たりから、一時治まりかけていた神経症の前兆が出はじめ、手や足の先が痺れたような感じがつきまといました。帰国してから友人に、「幼児を抱えながら、
たった一人で二十五人ぶんの食事なんか作ったら、誰だって心臓ぐらいおかしくなるわよ」と言われましたが、そのときはあまりに仕事が多かったので、大量の
料理を作ることを無茶だとは思わなかったのでした。
このパーティーの直後から神経症の発作が以前よりも頻繁に起きてしまうドイツ滞在中最悪の日々になりました。医者からもらった鎮静剤を手放せないままの状
態で、帰国したのです。帰路の飛行機のなかで、突然呼吸困難に陥った乗客がいました。その姿を見て、私は発作の再発の恐怖にかられました。脂汗を流しなが
ら、鎮静剤を無理やり信じて辛抱するのが、最後の数時間のことだったのは不幸中の幸いでした。
空港のカフェでお茶を飲みながら、しばらく日本語の感覚のなかに漂ううちに、私はようやく凍っていた芯が溶けはじめていくのを感じていました。娘一家と再
会したママの、嬉しそうな様子を目の当たりにするうちに、身体中のこわばりがとけて安堵感が一杯に広がっていきました。ママにまた会うことができて本当に
嬉しかった。大袈裟だと人は笑うでしょうが、心底ほっとしました。もし倒れてもママの側で死ねる、ママのもとなら、死ぬ時も心を楽にしていられるかもしれ
ない。もうびくびく怖がることはありません。それと同時に息詰まるような生の実感、死の恐怖と表裏一体となっていた生命の底暗い胎動のようなものが急速に
希薄になっていったのです。もう自分は死ぬとか、生きているとかいうことを、あまり考えずにいられる。この国ではそんなことを意識せずに生活していけるの
かもしれない、などとぼんやり考えていました。
夏目漱石の時代ならいざ知らず、多くの日本人が世界のあらゆるところで生活し、順応して成功している人もたくさんいる時代に、ママの娘の薫はじつに不甲斐
なく、ドイツから敗走してきたのです。ノイローゼになり棺桶に片足を突っ込んだように疲れきって帰国しました。海外駐在生活が楽しかったという人は多いの
に、帰国後の私ときたらドイツでの何気ない生活の一コマを思い出すたびに、傷が疼くように、心臓が早鐘のように激しく波打つというさんざんな後遺症につき
まとわれました。帰国して一年、二年と本当にこの後遺症を抑える、ただそれだけですぎていきました。当時をふりかえると、病気と通院をするついでに生きて
いたように思います。
私が生涯の持病になるかと思われた心臓神経症の発作から、完全とはいえなくてもほぼ解放されたのは、瑠璃子の一カ月にわたる入院の頃からだと思います。年
末から新年にかけての長期の入院で、私は瑠璃子のこと以外何一つ考えていませんでした。瑠璃子の命を心配する気持ちがあまりに強すぎ、他の恐怖心や悩みが
かすんでしまって、私は自分の心臓がどうなるかという考えを忘れてしまいました。悩みごとを治す一番の方法はもっと深刻な悩みをもつことだったんですね。
毒をもって毒を制す。病弱な娘のお陰で私は回復できたんだと思います。
それから私は自分の生活を必死で変えました。神経症の発作を恐れて、近所のスーパー郵便局、銀行、病院の四カ所という最少限の外出しかできなかったのです
が、社宅の奥さん連中に誘われるまま料理教室、デパート巡り、テニス、おまけに自治会の役員まで、倒れてもしようがないとやけくそでやりましたそれは私に
はたいへんな苦しみでしたが、ママがかならず治ると言ってくれた言葉で、乗り切ることができたのです。私にとってママの言葉はいつも魔法の呪文でした。も
しママがいなかったら、絶対治らなかったと思います。
帰国して三年目頃から、薄紙を剥ぐように少しずつドイツの後遺症から脱することができたようです。瑠璃子は元気な小学生になり私は昔の私にちかくなりまし
た。自分の身体に無関心になるという無邪気な健康体にはなれなくても、ここまで回復すれば上出来です私が帰国後のさまざまな不調に苦しんでいた間に、ドイ
ツでは東西ドイツ統合という劇的な変化がありました。賢一さんは「だから統合前のベルリンに行っとけばよかったんだ。ベルリンの壁を見損なった」とぼやい
ていましたっけ。賢一さんはドイツにじつによく適応した人でしたし、帰国後も元気そのものでした。彼みたいな人は国際人になれるのでしょうね。私一人な
ぜ、ドイツに浸食されたみたいに病んで帰って来たのでしょうか。
四年という歳月を経て癒された傷があり、癒されぬ傷がありました。時の流れでも癒されぬ傷は、ほっておくとじくじくと膿んで腐っていくだけだと気づきまし
た。そういう傷は、あえて切開し消毒する以外に救う方法がありません。突き刺され、抉られたような傷を、さらに切り開くなどという作業は、苦しいもので
す。しかしそれが唯一の回復への道なのでしょう。私はドイツで負った癒しがたい傷がどのようなものであったか、言葉にするために、ママに手紙を書いていこ
うと決心しました。私が受けとめるべきドイツについて、心の傷口を白日の下にさらして書いていこうと思います。もちろんドイツにいた頃ママに送った手紙も
あちらでの経験を書いてはいました。しかし、今思い返すと昔の手紙に書いたことは、一杯に詰まった経験の引き出しを、何の脈絡もなくぶちまけただけのよう
な気がします。事実を書いていても、きっと真実に届いてはいなかったと思います。
今でも神経症の再発はごく稀にはありますが、四年経つと病気とドイツとの関係が、以前のようにぬきさしならない密接なものではなくなってきました。今な
ら、少しは客観的にドイツでの経験を語ることが可能で、自分が異常だった状態を追体験することに耐えられるような気がします。このままドイツでの経験の細
部が忘却のかなたに消えていくのにまかせたい。そのほうがよいと、心の片隅で誘惑する声もあるのですが、自分が何でこんなに弱ってボロボロになって帰って
来ざるをえなかったか。四年の間常に自問してきたことを、書いてみるべきなのです。
ある衝撃的な出来事や重い体験の本当の意味というのは、そのときに正しく理解されるものでしょうか。むしろ歳月を経て、自分の心の中で再生され反芻される
うちに、真実の姿が見えてくるのだと思います。けっきょく帰国して四年もの月日が、私には必要でした身辺に絶えず病気を抱えながらすごすうちに私は、よう
やくあのドイツ経験を言葉にすることができると思うようになりました。人間生きて知らねばならぬことがある、とさる批評家は言いました。私がドイツで出
会ったことは、まさに私が生きて知らねばならないことだったと思います。日本というぬくぬくしたなま温かい風土に安住していた私は、ドイツでの異文化体験
という荒療治で、それまで凝視したことも、熟考したこともないものを無理やり鉛の塊を飲まされるように、身体の一番奥底まで詰めこまれたのでした。
ドイツでの経験を語るといっても、それは気の遠くなるような作業です。小石を一つずつ運んでは海を埋めていくようなもどかしさがつきまといます。ドイツの
日々を思い返すうちに、当時のような激しい神経症の発作がぶり返したらどうしようかと恐れつつ、身体をなだめながらでなければ、書こうにも書けないので
す。一つ一つの出来事を、囁くように静かに書き綴っていきたいと思います。シューベルトのソナタのように、優しい声ではじまった旋律がいつの間にか何か
ぞっとするものの吹き荒れる音楽に変容している、そういう手紙になるかもしれません。ただ、私はシューベルトのような天才ではありませんので、ママをあま
りびっくりさせないようにしなくてはなりませんね。遅れてきたドイツ便りと思って、ママに読んでもらえたら、嬉しく思います。どのくらいの手紙の束ができ
ますか。今日はひとまずこのへんで。
帰国後四年目の八月某日 自宅にて
第二信 靴の思い出
今日、瑠璃子の発表会用の靴を買いにデパートに行きましたら、何の前触れもなしに心臓が早鐘のように動悸を打ち始めました。まったく忘れた頃にやって来る
ものです。こんなところでと慌ててしまいましたが、幸い靴売り場ですから、近くの腰掛けに坐って、じっと嵐の通り過ぎるのを待ちました。呼吸を整えて我慢
するうちに、しばらくしててどうにか遠ざけることができました。
過去のものだと思っていた神経症がなぜ起こってしまったのか。きっとママにドイツのことを書こうと決心したことが、頭のどこかにこびりついていて、昔の亡
霊を呼び起こしてしまったのです。前途多難という気もしますが、こういう事態を克服するためにも、とにかくドイツを書かなくてはいけないと思います。そう
考えながら、デパートでよくあるエナメルや革の黒い靴を見ていましたら、ドイツに来たばかりでヨーロッパでの買い物慣れしていなかった私の、最初に失敗し
た靴の買い物を思い出しました。
私達の住んでいた街アーヘンにある小さな靴屋でのことです。それは、子供のよそいきの靴はどこで買ったらよいかと聞いて教えてもらった靴屋ですが、場所を
聞いていなかったら、うっかり通りすぎてしまいそうな小さな店でした。狭い小路の一角にあり、ショーウィンドウにはほんの五、六足の子供靴が並べられてい
るだけでした。店というには心細いばかりのわずかな商品には値札も付いていません。どんな店か不安はありましたが、どうにかなるさと思いきって入りまし
た。
中年のやる気満々といった女店員が瑠璃子を一目見て、彼女に合うサイズの靴を出してきました。店の奥に商品のストックがあったというわけです。店員は三足
の靴を並べました。たしか、白、淡いピンク、ワインレッドの三種類の靴でした。当時三歳になったばかりの瑠璃子は、どういうわけか靴の好きな子で靴屋の前
を通るとかならず買ってくれとせがむので、わが家の靴姫と言われていました彼女は三足の靴を前にして目を輝かせています。小さいながらも一人前の大人のよ
うにおしゃれな靴を見て、嬉しくてたまらないようすです。私は外出用の靴が必要だと思い、ある程度の出費は覚悟してきたのですが、三足の値段を聞いて冷汗
が流れ、すぐこの店を出たくなりました。三歳の子供の靴が親の上等の靴よりずっと高いなんて思っていませんでした。どんな小さな店でも、値札のついていな
い店は、値段を気にする人間の入る場所ではないということを、骨身に染みて悟りました。子供のとてもよい靴が買えると聞いてきましたが、そう紹介してくれ
た人は、上流階級に属する人間でした。
しまったと思いましたが、わが家の靴姫はすっかり買ってもらうつもりになって、じつに楽しそうです。靴のサイズは瑠璃子の足にちょうどよい大きさですし、
デザインもぴったりで、高いという以外けなしようがありません。ここで彼女に納得できる正当な理由なしに買うのをやめたら、泣くでしょう。子供が泣かない
ドイツの街では、だだをこねて泣く姿は異様に映るにちがいありません。日本人の子供は躾が出来ていないと白眼視されてしまうし、店員には、ははあんお金が
ないんだなと思われ、まあ思われてもいいのですが店の格を見ないで入ってきたと軽蔑されることでしょう。これは愉快なことではありません。店員は情熱をこ
めて、こんこんといかによい靴かを、ほとんどわからないドイツ語でまくしたてていました。うまく断る方法はないかいろいろ考えている私に、雨あられとドイ
ツ語が降りそそぎ、とうとう私は覚悟を決めました。しかたありません。
靴姫は三足のなかで一番高い靴を選んでくれました。小さくてもなかなか趣味にうるさいのです。リボンのついたワインレッドの靴を選ぶかと思ったら、飾りの
何もついていないシンプルな形のベビーピンクの革靴を選びました。非常に良質の革を使ったイタリー製のハンドメイドで、つま先と踵のところだけ艶消しの革
が使われ、甲のまわりには少し色の濃いピンク色のラインが入っています。胴体のベビーピンクと同色の甲の紐には金の留具が付いていました。そして靴底は立
派なマホガニー色の革で出来ていました。高いはずです。靴姫は大いに満足でしたが、私はうちしおれて店を出ました。
このほろ苦い靴の買い物の経験はこれから先何度となく繰り返される経験の手始めでした。私は自分を日本人にしては、はっきり断ることのできる方だと思って
きましたが、やはり気兼ねする典型的日本人のようでした。店員は売るのが仕事で懸命に勧めるのであって、気に入らなければきっぱり断ってかまわないのに、
これがなぜか私には難しかったのです。靴屋の失敗に懲りてからは、ショーウィンドウの値段を穴のあくほど眺めてから店に入ることにしていました。それで商
品を選んでも何となく似合わないとか、しっくりこない場合、サイズが合っていると買わないと言いにくい雰囲気があちらの店にはあります
しかし、断り方が下手なのは私ばかりではなかったようです。アーヘンで知り合ったある会社の駐在一家のお嬢さんは、現地の高校に通うドイツ語に不自由しな
い娘さんでしたが、店員に断るのは難しいと言っていました試着室で気に入らない服を見て、なんと断ろうか悩むのだそうです。私から見た彼女はまさにドイツ
人そのもので、帰国したらどうやって日本に適応するのか心配するくらいの女の子でした。その彼女でさえ難しいことを、お上りさんである私にできるわけがあ
りません。ちなみに彼女は、この商品は百パーセント私の気に入らないから買わないと言うことが多いそうですが、こう言うのもなかなか度胸がいると言ってい
ました。
ドイツの観光地でもない田舎町の店員というのは、まず英語は通じません。仕事熱心な場合もそうでない場合も、強圧的なことでは共通点があります。私などい
いカモだったでしょう。買い物という単純なこと一つとっても、ドイツでは強硬な自己主張ができなければ、損のしっぱなしになってしまうのです。いろいろな
場面での私の交渉能力の欠如は、ドイツ滞在の最後までついてまわりました。
欧州に長く住んでいた日本人が、ときにものすごい性格になって帰国してまわりの日本人を驚かせることがあります。それは、絶対損をしてはなるまいというこ
の自己主張の激しさを身につけてしまったからだと思います黙っていれば馬鹿だと思われるわけですし、主張できなければ、相手のどんな理不尽な要求も通って
しまうのですから、諦めるとか譲るなんてとんでもないことなのです。ところが、日本では激しい自己主張は摩擦の種です必要最小限の自己主張こそ日本の社会
を円滑に生きぬくコツです。損をする場合でもお互いさまと思って引っ込み、相手の立場を考えて丸く納めるということが、一種の美徳になるわけですが、ドイ
ツに長くいればそういう慣習を捨てて、別の価値観で生きていかなくてはなりません。
私の友達で当時の西ベルリンの音大に留学していたNは、才能に恵まれた大柄な女性でしたが、五年の滞在で百キロの巨漢に変貌していました。その太いこと逞
しいこと、まさに男のようです。あまりのことに呆気にとられた私に彼女は言いました。
「ドイツにいれば、身体の大きさというのも必要よ。大きい身体で威圧できたほうが、交渉のときに有利な場
合もあるの。小さいだけで甘く見られることもあるんだから」
彼女の説が正しいのかどうか私には確かめようもありません。笑い話のようですがしかし、彼女がドイツ人との交渉にいかに苦しんだかは察するにあまりありま
す。日本人の何かを捨て、強烈な自己主張をしないかぎり、ドイツでの長期の留学生活を続けられないのですが、やはり日本人の彼女には自己主張をするにも限
界があって、代わりに身体を風船のように膨らませてしまったわけです。
靴屋の失敗を皮きりに、買い物の苦い思い出は数々あります。私の断れない、値切れない気の弱さのお陰で、靴姫ちゃんは、夏はお得意でベビーピンクの革靴を
履いて歩き、冬は家族中で一番高価なダウンコートを着て幼稚園に通いました。(参考までに言いますとドイツでは日本でいうオーバーはあまり冬の役には立ち
ません)ママもご存じのように留学生活は大赤字でした。ただ怪我の功名ということもあって、子供によい恰好をさせていて得をしたこともたくさんありまし
た。私達のような有色人種にとって、きちんとした身なりをしていることは、ドイツでは粗末に扱われないための必須条件のようなものです。
外国から出稼ぎにきた労働者か、それともお金を落としてくれる客か、どちらに見られたほうが扱いが良いかは歴然としています。ヨーロッパの人間の階級に対
する嗅覚の鋭さは、日本とは比べ物になりません。成り金趣味は軽蔑されますが、品のよいスタイルは大切だと思います。子供に運動靴しか履かせない親であっ
てはならないのです。優雅なマダムでいたければ、銀行がからっぽになるのもやむを得ないというわけです。
瑠璃子のベビーピンクの靴は私が貧血の治療を受けていたお医者さんのお気に入りでしたがもう一つ評判のよかった靴があります。これはママがプレゼントして
くれた靴で、赤のエナメル素材で飾りに黒地に細かい白い水玉模様のリボンがついていました。小さなカルメンといったこの靴を履かせてアーヘンでバスに乗っ
ていると、よく年配の御婦人からわけのわからないドイツ語をまくしたてられました。もしや子供の躾のことで叱られるのかと思いきや、にこやかに瑠璃子の足
を撫ぜてくれ、それで可愛い靴だと誉めてくれているのが分かりました。
ロンドンのハロッズの食堂でサンドウィッチを食べていたときには、隣で食事をしていた裕福そうな老夫婦の奥様が日本語にするとこんな感じで話しかけてきま
した。
「ごめあそばせ。ひとつ申し上げてよろしいかしら。わたくし、あなたのお嬢さまのお靴がとっても好きです
わ。可愛らしいお靴ね。わたくしにもちょうどあなたのお嬢さまくらいの孫がおりますのよ」
パリのカフェで簡単な昼食をとっていた場合だと中年カップルのいかにもインテリといった眼鏡のおじさまが、連れの女性との議論に一服して瑠璃子の靴に目を
やると、
「お嬢ちゃん、とっても可愛い靴だね。でも気をつけなくちゃいけないよ。もしかするとあんまり可愛いん
で、おじさんが取っていくかもしれないからね」
と、私達を観光客と気遣ったのか、フランス語ではなく英語で話しかけてくれました。靴ひとつのことで、行きずりの人々と思わぬ交流がありました。足下を見
るという諺がありますが、ヨーロッパでは足下を見られても困らないような靴を履くべきだという結論でとりあえず今回の手紙を締めくくりたいと思います。
今日は思わぬ神経症が顔を出しましたが、どうにかデパートで瑠璃子のピアノ発表会用の靴を買って帰りました。これから先ドイツの経験の根幹に触れるような
ことを書いていくことになるのですが、何だか心細くなってきました。
九月最後の週末の夜
台所から
第三信 チャン・レン・ハー
ドイツをはじめとする欧米と日本の決定的な違いの一つは、何だと思いますか?
私はさまざまな事情で自分の国に帰れない人々のその数の多さだと思います。命の危険、迫害経済的な理由や宗教、思想の自由などのために、国を棄てるしかな
い人間が世界にこれほど多く存在しているとは、迂闊にも三十歳になるまで日本にいた私には、実感できませんでした。町を歩けば知らないうちにきっとそうい
う人間とすれ違っているのです。
アーヘンにはホーテンというさえないデパートがありましたが、あるとき賢一さんの車でそのデパートに近い駐車場に入ろうとして道を一本間違えて変な通りに
出てしまいました。アーヘンはのどかな大学町と思っていたので、目に飛びこんできた娼婦たちの姿に、私は呆気にとられてしまいました。こんな小さな町の一
角にれっきとした娼婦街が存在していたとは・・・・・
。しかもこれほど美しい古都にここまで柄の悪い場所があったとは、ひどくそぐわない異様な感じでした。
日本で言う場末の温泉芸者より、さらにすさんだ表情の女達が、物憂げに通りを見ています。昼のことで客足もありません。夜でもおそらく客は多くはないで
しょう。女なら誰でもいいという、最下層の金のない男しか、この年増でブスの娼婦達を相手にしようとは思わないはずです。都会では商売にならなくなった女
達の流れついた果ての姿でした。
通りに立つ数人の醜い娼婦のなかでひときわ目を引いたのは、でっぷり肥った黒人の娼婦です。その驚くべき姿に目が釘付けになりました。季節は厳冬。昨夜の
雪があちこちに残る寒風吹きすさぶなか、その娼婦は自らの黒い素肌の上に真っ白なブラジャーとパンティしかまとわず、素足にサンダルの姿で客をひいている
のです。縮れた髪には白いリボン毒々しい化粧。みっともないほど肥っていて若くない黒人娼婦は、場末の遊廓で生き残るために、ここまでしなければならない
のでした。車で通り過ぎるほんの数十秒ほどの間、私は彼女の凍えるような寒さや心の痛みを嫌というほど感じました。たとえ彼女が裸で立っていたとしても、
誰が彼女を買ってくれるでしょうか。
その黒人娼婦がどうやってドイツの地方都市に流れついたかは知るよしもありません。彼女か彼女の親が、何らかの理由で自分の国に住めなくなり、故郷とはま
るで違う環境の異国で、辛酸を舐めつくしている事実が明らかなだけです。彼女はその少女時代に、真冬の街に下着姿で一日中立っている自分の未来を思い描い
てはいなかったでしょう。彼女を待つ国はあるのか、彼女が国に帰る日が来るのか、考えるだけ無駄というものです。
ドイツの裏通りを一歩入れば、敗残の人生というものがそこかしこに転がっているらしいということに気づきました。その後、友人に連れられて行ったリエー
ジュでは、駐車場を捜しながら見かけた風体の悪いぽん引き達の凶悪な表情に驚き、移民の多いアムステルダムの目抜き通りでは、娼婦どころか、ショートパン
ツの黒人男娼あり、麻薬でよれよれになって歩いている姿あり、麻薬の売人らしきあり、何でもありの様相です。しかもそれを何とも思わず当たり前のように歩
く人々が多く、私達家族三人茫然と立ちつくすのみでした。自国の傷を覚悟でここまで異民族を受け入れるオランダは偉いと妙に感心してしまいました。
国を出て落魄した人間のサンプルは少し注意深く街を歩けば簡単に見つけることができるのでした。でも、今日ママに書きたいのは国に戻ることができないなか
で、自活していこうと必死に戦う人、ヨーロッパの繁栄の陰の、暗黒の断崖の淵に立たされながら落ちまいと懸命に踏ん張る人のことです。
そんな知り合いの一人にチャン・レン・ハーという名の中国系のマレーシア人がいます彼女は賢一さんと同じアーヘン工科大学の留学生でした。賢一さんが、語
学研修のとき、シュトットガルトのゲーテ・インステイテュートで知り合いました。彼女のほうがドイツ語歴が長くて、たいそう流暢なドイツ語を話します。マ
レー系、中国系、インド系等からなる多民族国家のマレーシア人の彼女がいったい幾つの言語を理解するのかはっきり知りませんが、母国語の中国語は当然とし
て、英語もみごとなものでした。彼女のお兄さんはケンブリッジ大学に留学しているそうですから、マレーシアのインテリ一家の出というところでしょう。彼女
は私のドイツの思い出のなかでも忘れがたい友人です。初めて彼女に会った日の驚きは昨日のことのように覚えています。
私と瑠璃子がドイツのアパートに落ち着いてまだ一週間という日の夜、彼女は同じくアーヘン工科大学の留学生であるトルコ人のムスタファと一緒にシクラメン
の鉢を抱えて遊びに来ました。私にとって初めて出会うトルコ人であり、マレーシア人です。ムスタファは、背は低いものの、金髪碧眼でイスラム教徒らしい口
髭を除いてはトルコ人らしくない風貌の青年でした。
レン・ハーのほうは黒目黒髪とやや浅黒い肌、白縁のあまり似合わない眼鏡をかけていて、典型的な東南アジア系の容姿です。少年のようにスリムで凹凸のない
体型に着古したジーンズをはき、肩にかかる髪を切ったらまるで男の子でした。二人とも私達に好意的でしたが、その身なりから経済的に恵まれぬ苦学生である
ことが察せられました。ムスタファは癖のあるドイツ語しか話せないので、私には彼の話すことがよくわからず、賢一さんにお相手願いました。ドイツに来て間
がない瑠璃子は外人慣れしていなくて、あきらかにようすの異なるムスタファに脅えました。しかし同じアジア人のレン・ハーには親しみを感じたのか、彼女の
側にぴったりくっつきました。レン・ハーは私向きに英語、それも猛烈に早口の英語でこう話しかけてきました。
「ドイツの印象はどう? この国での生活をどう思う?」
彼女は初対面の私に、単刀直入に聞きたいことを尋ねてきたのです。私はドイツに来てまだ一週間しか経っていないので何とも言えないわ、と答えたような気が
します。彼女は私の答えが終わるや否や、堰を切ったように話し出しました。
「この国の人達はトルコ人や東南アジア人にたいして、不親切で薄情だわ。私はドイツ人は心がとっても冷た
い人種だと思う。私がドイツに来て一番最初に傷ついたことは買い物だったわ。来たばかりでドイツ語が下手だったから、買い物ではとても嫌な思いをした。私
が店員に対して少しでも言葉に詰まると、どこの店でも店員が舌打ちするのよ。この汚い黄色人種よ早くしろっていう感じに・・・・・買い物が本当に苦痛だっ
た。舌打ちされるのが怖くて、悔しくて涙が出たわ。イラン人やイラク人の境遇もひどいものなの。私の知り合いのイラン人の彼女は、国ではお医者さんだった
けれど、政変でご主人が行方不明になって、自分の身辺も危なかったので三人の息子を連れてドイツに亡命したの。彼女がたとえばスーパーなんかに買い物に行
くと、店員にあなたの子供はうるさい、出ていきなさいと言われるのよ。たしかに元気な盛りの男の子達だけど、目にあまるほど騒いだりしていないわ。あの子
達がドイツ人だったら何も言われないに決まってる。彼女がイラン人だからそういう扱いを受けるの。アパートも、子供がうるさいとひどく文句を言われるらし
くて、たびたび引っ越さなくてはならないのは気の毒だわ。ドイツ人にはアラブの子供の歩く音は特別大きく聞こえるみたい。亡命して女手一つで三人の子供を
育てるのは本当にたいへんなことよ。戻る国のない親子に対してこの国の人は冷たすぎると思うわ」
レン・ハーはおよそしゃれ気もなく可愛いとか綺麗という表現はあてはまりませんでしたが、表情が生き生きしていて、賢そうで舌鋒鋭いところが、私にはとて
もおもしろくて魅力のある女の子に感じられました。彼女は学生寮に住んでいましたが、そこでのお国ぶりを教えてくれました。たとえばノルウェー人はドイツ
に来るとお酒が安いので呑みまくっているとかフランスでもパリからきた女学生は口うるさいなど。
「私もムスタファもこの大学を卒業しても自分の国には帰れないの。マレーシアでは仕事がないし、たとえ
あったとしてもペイが安くて暮らしていけない。トルコだって事情は同じね。でも、ドイツで暮らしていくのはとてもタフ(この場合のタフは困難とかつらいと
か不愉快の意味だと思います)なことだわ」
レン・ハーは元気な溜め息をつきました。彼女はドイツ人に対して私を脅かしすぎたと思ったらしく、
「日本人は何の心配もいらないわ。私達と違ってひどい扱いを受けることはないと思う。日本人は何の問題も
ないはずよ」
と帰り際に強調しました。しかし、この晩のレン・ハーのドイツ人の意地悪に対する怒りの剣幕に、私はしばらく買い物恐怖症になってしまいました。買い物に
出るたびに、いつ舌打ちされるかびくびくしていました。当時の私のドイツ語でまともなのは挨拶と数字だけと言ってよいくらいでしたから彼女のような手荒な
応対をされる可能性は充分ありました。
ところが、彼女の予言が当たったのか、運がよかっただけなのか、ドイツ滞在の間、舌打ちされたことは一度もありませんでした。店員で不愉快な経験をしない
ですんだのです(行きつけの数軒のスーパーの一つに一人、人種差別主義の塊のような女がいましたがこれは例外中の例外)二歳の瑠璃子がスーパーの中で大声
で泣き出して、これはまずい追い出されると思った時も、レジのおばさんがビスケットを取り出してあやしてくれたくらいで、ドイツの店員は私達親子に冷たく
はありませんでした。瑠璃子連れで行くと、少子社会なので喜ばれると言ってよいくらいでした瑠璃子は郵便局で飴、クリーニング屋でチョコレート、肉屋では
ハム一枚ともらい、小さいお腹を一杯にして買い物を終えていました
私はどこに行っても日本人に見られ、「日本人は何の問題もない」とレン・ハーに指摘されたように、困ることはなかったのでしたこの事実はこう解釈できるで
しょう。日本人は有色人種のなかでは、自分達の土地に住みつかず、職業に侵入しない人々であり、自分達の税金で保護する必要のない、お金を落としてくれる
お客なのでした。政治的、経済的難民となることのない安全な外人の範疇に入るのです。レン・ハー達のように出ていけとばかりに冷たく扱う理由はありませ
ん。あるいは、私達一家の住んでいた場所が、比較的裕福な人々の住む地区で、外人の少ない場所だったことも不愉快な目にあわずにすんだ一因でしょう。日本
が第二次世界大戦の時の同盟国だった歴史か、いちおう先進国の仲間入りしているということで、アジア人ではあってもほんの少しの敬意は払われたという可能
性も否定できません。私達が舌打ちされなかったことは幸いでしたが、ムスタファやレン・ハーの受けた仕打ちを知れば複雑な気持ちになりました。日本人も、
もし国力がなくなり、流浪の民となれば酷い目にあうことは明らかなのですから。
ドイツで出会った日本人の某大学教授が、日本人はほかのアジア人と違って欧米ではよい扱いを受けると、自信に満ちて言っていたのを思い出すと、そのおめで
たい楽観と冷遇される人々への思いやりの欠如に、教育者失格だなと今さらながら思うのでした。在独の日本人のなかにはドイツ人がトルコ人を見るように、彼
らを見下す態度をとる者もいました。そういう日本人に限って、ドイツ人に対しては卑屈なまでに気弱に振る舞うのです。醜い優越感と不必要な劣等感を何回苦
い思いで眺めたことか。トルコ人やマレーシア人と友人になれない人間は、けっきょくドイツ人ともフランス人とも友人にはなれないことがよく分かりました。
レン・ハーは私達のアパートへときどきふらりと遊びに来るようになりました。彼女はいつもよく話してくれましたが、何度目かの来訪で初めて姉のことを話し
ました。
「私の姉は日本人と結婚して埼玉県に住んでいるのよ」
と私には意外なことを言いました。
「姉より二十歳も年上の離婚経験のある男性だから、両親は猛烈に反対したわ。とくに、両親の世代は第二次
大戦のせいで日本人にはよい感情をもっていないから、とんでもないことだったのね。姉は家を飛び出すようにして結婚したわ」
レン・ハーが初対面のときに、日本人の姻戚がいることを話さなかった理由がわかりました。
「お姉さんは、今お幸せにやってらっしゃるのかしら?」
と私が訊くと、
「私にはわからないわ」
と彼女は溜息をつくように答えました。
「姉は自分が一族の反対を押し切って結婚したというプライドがあるから、悩みや苦しみがあっても言わない
と思う。子供も三人いるし。父は去年初めて日本の姉の家を訪ねたのよ。やっと諦めがついて許す気になったんだと思う。そのときに父が姉に聞いたの。お前の
家にはどうしてプラスチックの食器しかないのかって。すると姉は、普通の食器だと主人が喧嘩するたびに叩き割ってしまうので、不経済なのと答えたそうよ。
姉が幸せかどうか、私にはわからないわ。姉はたとえ幸せでなくても、そうは言わないでしょう」
レン・ハーは結婚に関して、非常に否定的な見解をもっていましたが、お姉さんの結婚生活の凄まじさも影響していたのかもしれません。彼女の実家の隣に住ん
でいた外国人商社員一家の生活も彼女の結婚に対する悲観的な見方を助長しました。彼女の話によると、この夫婦は一週間に一度は激しい喧嘩をし、妻が夫の暴
力に耐えられなくなると、顔から血を流して泣きながら夜の街に逃げ出していくのでした。二時間くらいたつと怒りもおさまった夫がさまよう妻を連れ戻しに、
車に乗って出かけるのが恒例です。毎朝、ふんぞりかえって出勤する夫は見送りに出た妻を振り向きもしないそうです。二人の息子はこの傲慢な父親に脅えきっ
ているとのことでした。
レン・ハーはこの商社員がどこの人間か言いませんでしたが、彼女の口ぶりから私は日本人だなと察しました。男のなかには、自分が妻に暴力を振るうことを恥
だとは思わず、世間に隠さないタイプもいます。私の父親は妻と娘達に向かって、にたにた蔑むように笑い「お前達は俺が一発殴ればおしまいじゃないか。何だ
かんだ言っても俺の力に叶わないだろ」と言う人間でした。男が女に力で勝ったとして、それが自慢になるんでしょうかねマフィアの殺し屋に勝ったとか、やく
ざをやっつけたというならともかく。「俺は東大を出てるんだぞ」という自惚れとともに、父のこの二つの自画自賛はもっとも唾棄すべきものでした。
しかし、レン・ハー自身の育った家庭は幸せなものだったと思います。彼女の言葉の端々に暖かい家庭が感じられました。自分の家庭が修羅場でなかったレン・
ハーが他人の不幸な結婚を見て結婚願望のない女性になったのに、火宅育ちの私が結婚に走ったのは皮肉なことです。私にとって結婚とは、もちろん賢一さんが
好きになってしたことではあったのですが、忌み嫌う父親から解放される絶好の機会でした。それに幸せな結婚生活を送るというのは、家庭の安らぎと無縁だっ
た私と妹の悲願です。父親の顔色を窺って脅えることや煩わしい争いのない暮らしに憧れる気持ちは人一倍強いのでした。だいたいどんな男と結婚してもあの父
親よりはましだという自信がありましたから。それに比べ幸せな家庭の味を知っているレン・ハーがみすみす無謀な冒険に感じられる結婚に飛びこむ気持ちにな
れないのは、納得できることではありました。
私はレン・ハーに尋ねてみたことがあります。
「ドイツ人と結婚してみることを考えたことがある?
日本の古いタイプの男、たとえば私の父がそうだけれど、遺伝子に組みこまれたような、抜きがたい女性蔑視があるわ。私の父の信念は、男は男であるだけで女
より偉い。だから女には何をしても何を言ってもよい。父は父というだけで、子から尊敬されるべきだ。子供は父親が何をしようと、父を愛し崇めるのが当然
だ。何しろ男だ、主人だ、父だ、かぎりなく尊い存在だという理屈。人間は生きかたよりも、生まれがたいせつというきわめて封建的な考えよ。ドイツの男が女
を低く見ているかどうか、私にはよくわからないけれど、日本のある種の家庭で公然とされているような男尊女卑はないのでは?
レディ・ファーストだってもしかしたらかたちを変えた女性蔑視と言えるかもしれないけれど、私の育った家庭で堂々と行われてきたような弱い者いじめより
は、いくぶんましな気がするの。あなたはどう思う?」
「日本の男はそんなに威張った人が多いの?賢一は全然そんな感じしないわ」
レン・ハーが笑いながら言ったので、第二次大戦前に教育を受けた男に多いということと、威張っていても、母親や妻に依存している男が多いとつけ加えておき
ました。レン・ハーはわずかに顔を曇らせて、
「私はドイツ人との結婚は絶対無理だと思う文化が違いすぎるわ。ドイツ人とアジア人が理解しあえるとは、
思えないの。残念ながら……。ドイツ人は私にとって、巨大な異文化の壁のようなもの。ドイツ人は男も女も、自己主張が強烈だし、威圧的で意思が強くて、ま
ともに渡りあったら病気になりそう。私はこの国で生活していこうと考えているし、ドイツ人のなかには尊敬している人、友達と呼べる人もいるけれど、結婚な
んて、ハハハ、考えられない」
彼女の答えは予想した以上に強烈な否定でした。
「私の寮のルームメイトはフランス人なんだけど、ドイツ人の恋人がいて、先週末その彼氏が部屋に遊びにき
たの。初めは二人で普通に話していたし、二人きりにしてくれとも言わなかったので私は勉強を続けていたのよ。二人はベッドに腰掛けてキスをはじめたわ。ど
うしてもようすがわかってしまうから困ったけれど、そのうちやめると思って我慢したわ。ところが二人はもっと先に進みはじめて激しくなったの。私はびっく
りしてしまって急いで部屋を出ていった。それから彼が部屋から出てくるまで廊下でずっと待っていたわ三時間待った。私は部屋に戻ると、彼女に言ったわ。お
願いだから、二人きりになりたいときは前もって言ってちょうだい、出ていくから。そうしたら彼女は、そんなこと思いもつかなかったって言うのよ。私と彼と
の間のことだから、あなたは気にしなくていいわって。オー・マイ・ゴッド・そんなこと考えられる?
同じ部屋にいて恋人同士のラブシーンをずっと見せられるなんて。私はいないも同然てことかしら。とうてい理解できないわ」
このカップルがたまたま他人に見せることが好みだったのか、レン・ハーの存在を無視するほどに差別的であったのかよくわかりませんが、性的なモラルの厳し
い文化から来た彼女が呆気にとられたのは、当然でしょう。彼女や私が人前ではキスすることさえ恥ずかしいと感じるのは、ある程度共通する文化圏で育ったと
いうことかもしれません。それからレン・ハーはたいへん興味深いことを言いました。
「ドイツの男性と暮らして、ある日、僕はもう君を愛していないと言われたら、耐えられるかしら。私はそん
なに強くない」
ドイツという国は日本で想像する以上に、寒々と孤独を感じる国です。この風土で愛していないと言われることは、日本の男に、離婚したいとか、出ていけとか
言われるのとは次元の違った恐ろしさがあるように思うのです。
初めてアーヘンの街を歩いたとき、私は道行く人々の顔をつくづくと眺めて衝撃を受けました。その顔立ちは形態がたんに彫りが深いというようなものではな
く、突きつめたような険しい、厳しいものが刻みこまれていると感じられたのです。日本人とはあまりに違った民族の顔でした。いったい何だろうと考えながら
数週間すごして出た結論は、孤独の相だということでした。
その当時私がドイツ生活の心象風景に描いたものは、広い石造りの部屋で、ただ一人、鍵の束を持って寒さに耐え、静寂に耳を澄まし、誰かの訪れを待つという
ものでした。ドイツでは人間は徹底的に、一人きりの存在です。それを知り尽くしているからこそ、幼い頃から強い個人たれという教育を受けてきた彼らは、誰
も彼も自己主張の強烈なこと巌のごとくあります。そのために個人と個人が鋭くぶつかり合い、孤独を背負う宿命なのでした。
ドイツ人の孤独の底深さは、愛していると毎日でも言葉で言いあわなければ、贖えないほどだと思いました。愛していると言う以外に人間どうしを結びつける方
法がないのです日本人が家族一緒にいるだけで何となく心が暖まる、言葉にしなくても夫婦寄り添うだけで愛を感じるなどということは、一人ぼっちで生きる彼
らの世界では想像だにできないことでしょう。夫婦が生活を共にするうちに、互いに馴染んで存在が空気のようなものになっていく日本の男女の形態とはなんと
かけ離れていることか。
男女が激しく求めあい、毎日「愛している」と言い続けないと、心が凍えてしまうこの国で、もし「愛していない」言われたら、それは「死ね」と言われるに等
しい絶望です私は心底怖い。一人であることが骨の髄まで染みこんだドイツ人なら耐えられても、日本人の私はそこまでタフにはなれないと思います。レン・
ハーであっても、アジアの風土に育ったゆえにそれは耐えがたいことなのでした。異文化の壁とは、このような人間の在り方のなかに色濃く現れるのでしょう
か。
しかし、レン・ハーはドイツ生活に悩んでいるばかりではありませんでした。彼女は元気がよくて明るい学生でした。アーヘンに大雪が降った日、賢一さんと私
は瑠璃子のそり遊びのために、ヴェスト・パークに出かけて彼女に会いました。レン・ハーはカメラ片手にじつに楽しそうでした。
「マレーシアでは一度も雪を見たことがなかったから、嬉しい」
彼女はファンタスティクと何度も言いながら雪のなかを走り廻っていました。レン・ハーのような常夏の国の人間は、生まれつき毛穴が開いてしまっているの
で、ドイツの寒さは相当こたえるはずなのに、彼女はそんなそぶりもなく薄着で、ぴちぴちして威勢がよいのでした。
また、私達一家の帰国の二カ月ほど前にはレン・ハーは国に里帰りしたときのおみやげがあるからと言って訪ねてきました。電話では友達を一人連れて行くと
言っていましたがそれはインドネシア人のハリーというボーイフレンドでした。このとき玄関に現れたレン・ハーを見て、私は一瞬別人かと思いました彼女は付
き合いだしてから初めて、美容院でカットしたと思われる(それまでは自分で切っていたのではないかしら)きれいなシヨートカットにしていたうえに、似合わ
なかった眼鏡を外し、コンタクトにしていました。見違えるほど魅力的になっていて、思わず女は変わると思ってしまいました。彼女が変身した理由が、一緒に
来た留学生の彼だということはすぐ分かりました。結婚もしない、恋人も作らないようなことを言っていた彼女も、ついに陥落したようです。
ハリーはレン・ハーのような早口ではなく穏やかな話し方で、わかりやすい英語を話しました。彼は日本人と言っても誰も疑わないような容姿で、真面目さのな
かに少し愉快な感じが漂っていました。私は彼とレン・ハーがあまり仲良くくっついて坐っているのでおかしくなりました。ハリーはイギリスでも勉強していた
ことがあり、興味深いことを言っていました。
「たしかに、ドイツ人は冷たいけれど、僕は勉強するんだったら、イギリスよりドイツを選ぶ。イギリス人
は、表面はドイツ人より親切で人当たりもいいよ。でもイギリスの制度は冷たい。イギリスの制度は留学生にはとってもお金がかかる。日本人はお金があるから
そんなに感じないかもしれないけれど。僕のように豊かでない東南アジアからの留学生には、イギリス留学は苦しい。ドイツの制度のほうがずっと親切だ。僕も
インドネシアに帰っても仕事がないから、できたらドイツで仕事を見つけたいと思ってるんだ」
イギリス人は長い植民地支配の歴史がありますから、外人を不快にしないように、上手に扱う術にたけているのでしょう。それに比べ、ドイツ人は不器用なまで
に正直で損をしているのかもしれません。ハリーはアジアの中では日本と韓国が他のアジア諸国と性格を異にしている。そしてこの両国の国民性が似ていると思
うと言いました。レン・ハーも同意して、マレーシア人は現状にとても満足していて変えようとはしないけれど、日本人や韓国人はもっとよくなろうと頑張るみ
たい、と評しました。私はなるほどと頷いてしまいました。
このときレン・ハーは鳥の模様のワインレッドのバティックを持ってきました。ハリーがそのバティックの巻き方を説明してくれました。要するに胸に挟み込ん
で身体にぐるぐる巻き付けるという単純なものでしたが、胸の豊かでない私にはずり落ちてきそうです。けっきょく彼女に貰ったバティックはその後夏のテーブ
ルクロスとして使うことになりました。バティックは日本の夏にもよく似合います。帰国してから、このバティックを見るたび、私はレン・ハーの恋物語がどう
なったか気になるのでした。
もしレン・ハーやムスタファと知り合わなければ、私のドイツ人観は少し違ったものになったでしょう。ドイツの姿はもっと明快で一面的に映ったと思います。
彼女は私の味わうことのできない、ドイツひいてはヨーロッパの暗部への案内人になってくれました。私が接した限りでは、「ドイツ人は心の底から冷たい」な
どと思うことはとうてい経験できませんでした。彼女の一言は、じつは異国で暮らさなくてはいけない数多くの人間の宿命だったのかと思います。
将来帰る人間か、居座る人間かですべてが決まるのでしょう。日本人はほとんどが帰るから、親切を受け、トルコ人は帰らないから辛酸を嘗めるのです。ドイツ
のなかにはトルコ人人口が一割にも達する州があるのですから、ドイツ人の反応を一概に責めるわけにもいきません。欧米には亡命者や経済難民、それにちかい
レン・ハーやムスタファのような人間が新聞やニュースで知る特別なことではなく、日常茶飯のこととして、存在している事実を遅ればせながら、痛感しまし
た。母国を離れて暮らす人々の現実は情け容赦ないものなのですね。
私が数カ月通ったドイツ語の市民大学では十五人のクラスの生徒の国籍数が十三でしたさまざまな国籍の人間が同居するのが世界の潮流で、日本の純潔主義は非
常識とも言える孤立を意味するわけです。このなかであきらかな亡命者はイラン人の中年男女の二人。経済難民はポーランド人やシリア人、ボリビア人。そして
ドイツ語が下手だったのが、豊かなアメリカ人、韓国人、日本人の私。私はドイツ滞在中、育児と病気に追われたとは言えドイツ語が少しも上達しませんでし
た。大学の先生やドクターでさえ下手な人は多かったと思います。日本人は語学の壁をなかなか突き破れないのでしょうか。私はレン・ハー達を見ていて悟りま
した。帰れる国があれば、語学は上達しないと。今まで誰も教えてくれませんでしたが、語学習得の一番効果的な方法は留学ではなく、亡命です。人間追い詰め
られないと、外国語は本当には使いこなせないのです。よい例がユダヤ人ではありませんか。
世界には祖国で暮らせない人々がこんなにも多く、毎日どこかで厳しい闘いを繰り広げている。私はそんな人々を横目で見ながら、たよりなく神経の病気になっ
て遁走しましたやさしい日本という国のなかであまりにひよわで華奢で、人形のように育ってしまったとつくづくそう思います。
私が母国で病気を癒している間も、異国の友人達は奮闘していました。帰国して二年後NHKで『最底辺』というドキュメンタリーを見る機会がありました。こ
のドキュメンタリーはあまりに衝撃的内容でドイツでは放送禁止になりました。ドイツのトルコ人問題を扱った番組で、トルコ人がどのような境遇におかれてい
るか、トルコ人に扮装したドイツ人の目から告発した番組でした。
私はムスタファやその友人達が私の想像していたよりも遙かに劣悪な環境にいたことに愕然としました。ムスタファの友人達は私達の帰国の際、家具などの処分
で助けてくれました。ゴミを棄てることの難しいドイツを引き払うにあたり、一番苦労したのが家具や生活雑貨の処分ですが、彼らはこんなものどうするかとい
うものでも持って行きました。なかには商売上手もいてけっこう値切られた物もありましたが、ドイツ人は見向きもしない安物家具も、ぎりぎりの生活を送る彼
らにはありがたかったのでしょう。
レン・ハーやムスタファは今でもドイツで生活しています。私は豊かで恵まれた生活と輝かしい文明の地ヨーロッパの裏街道を行く二人が、『最底辺』のような
恐ろしい経験をすることのないよう、祈ることしかできません。二人は逞しく、けっして井戸底の人生に落ちまいと、大学で懸命に勉強しているのでしょう。そ
してときどき、ドイツの社会に潜む悪意に震えながら、自分で自分の傷を癒しているにちがいありません。私はレン・ハー達の必死の闘いが、今たまらなく愛お
しく思えてなりません。私には試みることすらできない、困難なこの闘いにどうか勝ち抜いてほしい、頑張れと心から声援を送りたいと思います。
しかし、逃げ帰って来られた私は、やはり幸せと言うべきなのでしょうか。
十月某日
自宅にて
第四信 フォン・コンタ夫人
世界中どこで暮らしても、そこには一人や二人、ちょっとうるさい近所のおばさんが存在しますが、我が家の場合、それはフォン・コンタ夫人という大変由緒正
しい貴族出身の御夫人でした。夫人は銀髪の美しい、痩身の上品な姿のひとでした。よく手入れされた銀髪のせいか、その高貴の血筋の流れのためか磨き上げら
れた銀器のような印象を与えました。八十歳を越しているにもかかわらず、いつもきちんとお化粧して身綺麗に装い、毅然と一人暮らしを続けていました。
貧乏留学生一家がよりにもよって、この貴婦人の真上の部屋に住むことになった経緯はというと、賢一さんが勉強することになっていたアーヘン工科大学の研究
室の知人が、私達の渡独前にここを見つけてくれたのです。同じ研究室で博士号を取得したばかりのB氏が、ドイツ北部の大学に職を得て転居することになり、
その空いたアパートの部屋を貸してくれたのでした。そこは、アーヘン南西部の落ち着いた住宅街にあり、治安は非常によく、ドイツらしいすみずみまで手入れ
の行き届いた家々の並ぶ地区です。土地勘もない外国で、このようなアパートが借りられたことは、幸運でした。アーヘンの東北部にはトルコ人が多いために、
外国人に対して排他的な雰囲気の強い場所があり、紹介もない外国人はえてしてそういう地区でしか住居を捜すことができないということが、後でよく分かりま
した。
アパートは茶色のレンガ張りの真四角の鉄筋二階建てで、各階に二戸ずつ部屋がありました。ドイツのほとんどの住宅がそうであるように、地下室と車庫と共用
の洗濯場所と庭がついています。フォン・コンタ夫人は一階の南側の部屋に住み、その真上が私達一家。北側の一階にはアーヘン工科大学の医学部に通う女学生
二人が住み、その上、つまりわが家の隣には機械工学科の美男の学生が、金髪の彼女と同棲中でした。フォン・コンタ夫人以外はみんな間借り人です。子供がい
るのはうちだけで、他の部屋はコトリとも生活音がせず、ときどき響く夫人のピアノ以外いつも森閑と静まりかえっていました。
汚したり、騒がないようずいぶん気を使いましたが、フォン・コンタ夫人には大きなストレスを与えたことと思います。夫人はドイツ生活の「いろは」を細々と
教えてくれました。夫人はおせっかいとも意地悪ともほど遠い人でしたが、彼女から見ればどこの馬の骨かわからない私達異邦人一家を、仕込んでくれようとい
う意気込みがありました。偶然にも、夫人の晩年に関わることになったのですが、私にとってもっとも強い印象を残したドイツ人の一人でした。
賢一さんはともかく、私は終始フォン・コンタ夫人のたいへん出来の悪い生徒であったと言わざるを得ません。また、夫人と私はまったく相互理解にいたりませ
んでした。二人の間柄は滑稽でした。懸命に何かを伝えようとする者と、わかろうと努力してもすべて徒労に終わる者。けっして諦めない教師と、匙を投げた生
徒。異文化を想像もしない人と、そればかりを感じてしまう人。そのやりとりの詳細はこれから書いていくことにしますが今思い出してもおかしくなります。
フォン・コンタ夫人を初めてわが家の貧相な部屋に招いた日のことから話します。夫人の家にはすでに何度も招待されていましたので、わが家との落差がはなは
だしいのは承知で、雑然とした部屋を片付けて貴夫人をお迎えしました。玄関に現れた夫人と挨拶をすませると、賢一さんは、日本では部屋のなかは土足で入ら
ない習慣ですから、申しわけありませんが、どうかこのスリッパにお履きかえくださいと、他のドイツ人にも言うように申し入れました。夫人はその言葉を聞く
と、なんとハイヒールごとスリッパに足を突っ込みました。賢一さんも私もあまりのことに言葉もなく、顔を見合せました。このような行動は予想もしませんで
したし、そんなことをしたドイツ人は今まで一人もいなかったので、唖然としました。本当に驚いたので、二人とも怒るとか、不愉快を感じる段階を通り越して
しまい、夫人にそれ以上何も言うことができませんでした。
夫人はハイヒールを突っ込んだ窮屈そうなスリッパで、つんのめりそうになって歩きました。こんなこと続けて転ばない人がいたら見たいものです。瑠璃子まで
そのフォン・コンタ夫人の姿を見て、目を丸くしてどうしてと何度も指差して聞くので、私はひっきりなしに指差してはいけませんと注意しなくてはなりません
でした。フォン・コンタ夫人にとって、人前で靴を脱ぐなど想像もできない屈辱だったにちがいありません。若い女学生ならともかく、マダムが素足になるのに
抵抗があるのはもちろん理解できました。エリザベス女王が訪日のおり、畳の上を靴を脱いで歩いて、女王が初めて人前で素足になったとニュースになったくら
いですから……。
何より部屋のなかで靴を脱ぐ確固たる文化の存在を、夫人は知らないのです。万に一つ知っていたとしても、それに従う気などありましょうや。夫人は徹頭徹尾
ドイツ流です。フォン・コンタ夫人のドイツ文化の鎧を見ていると、日本ではこうだなどと再度説明する気にもなれませんでした。ヨーロッパ人のヨーロッパ至
上主義は当然のことですし、夫人のような階級の年配の人に対して柔軟性を期待するのは、ないものねだりでしょう。夫人にお茶とケーキを出したのですが、こ
のとき何を話したのかは残念ながら何も覚えていません。ただ、最初から最後まで夫人の足下が気になっていました。夫人が賢一さんに手をとられ、何とか転ば
ずに玄関を出て行ったときはほっとしました。
フォン・コンタ夫人は本来お城に住んでいてしかるべき方だそうですが、ドレスデンの貴族でしたから、第二次大戦後東独に吸収されたドレスデンにその財産の
大部分を置いてきたと、後で知りました。夫人の家に初めて招かれたときに、夫人はすべての部屋を説明しながら見せてくれました。たとえそれが日本でいうと
ころの2DKだとしても、財産の大半を失った家としても、豪華絢爛なことは目を見張るものがありました。壁、天井、扉の造りから、家具、調度品、絵画な
ど、まるで小さな美術館といった風情がありました。多くの本、絵画、装飾品、ピアノが趣味よく展示されて、塵ひとつなく手入れされています。
先祖代々たいせつにされてきた多くのものが今も使われていました。応接ソファーの上に掛かる肖像画を指して、「これは私どもの先祖のフォン・コンタです
が、ゲーテと親しくしておりました」などと、夫人はさりげなく語りました。フォン・コンタ家は夫人の嫁ぎ先ですが、夫人の実家もたいへんな上流階級であっ
たことは、夫人の話のなかからもよくわかりました。賢一さんと私は夫人の家の素晴らしさに感嘆しながらも、二歳の瑠璃子が絨毯に菓子くずをこぼさないか、
きれいなテーブルクロスにジュースをこぼさないか、硝子戸に指紋をつけないか、歴史的置物をひっくり返さないか気が気でありませんでしたそうやってお茶を
ご馳走になってわが家に帰ってきましたら、瑠璃子が溜め息をつくように「るりちゃんのおうちって、きたないねえ」と言ったのは忘れられません。これが同じ
間取りのアパートだとは、私だって信じられませんでしたもの。
私達が引っ越した翌日から、フォン・コンタ夫人は毎日のように賢一さんを掴まえてはごみ捨て、共用部分の掃除、雪掻き、アパート生活のきまりなどについ
て、細々と注意を与えました。ドイツ語の下手な私にわからせるには、賢一さんにしつこく指導する必要があると思ったのでしょう。賢一さんはいささかうんざ
りしていました。夜中に私達の寝室の暖房がキーンというけたたましい音をたてたときも、夫人は翌朝一番にやって来ました私達まで飛び起きたくらいでしたか
ら、夫人にも迷惑だったでしょう。夫人は怒ってはいませんでしたが、暖房の栓を夜中も切らないで少し開けておくのがよいと、断固たる口調で言いました。そ
れ以来キーンという音をたてる癖のある暖房と格闘する私達の生活は続きました。音が出るたびに暖房の栓に飛びついて、いろいろにひねって音を静めるように
苦労したものです。
そんな夫人も私達の生活音に関しては、一回も注意しませんでした。私達の前の住人B氏は夫婦二人きりでしたから、二歳の幼児連れの家族が、どんなに気を
使っていたとしても、相当うるさかったにちがいありません。一度夫人に恐る恐る「娘はうるさいですか」と尋ねたところ、あっさり「ええ」と肯定されてしま
いましたが、それ以上一言も夫人は言いませんでした。こちらとしては他に遊び場のない二歳の子に、飛ぶな、跳ねるな、走るな、泣くなと一日中禁止すること
もできないので、ただただ謝るしかありません。夫人が瑠璃子の音を黙認してくれたことは、ありがたいことでした。
ヨーロッパ人は一般的に、階級意識というものが日本人よりも濃厚です。フォン・コンタ夫人の階級に対する誇りも大変なものだったと思いますが、夫人には上
流階級の人間がもつ、ある種の冷たさ、非情さがありませんでした。夫人はうるさくはありましたが、私達一家に関わろうとしてくれましたし、私に興味あるい
は、少しの好意さえ抱いてくれたように思います。それがドイツ流に仕込むという、上から下への好意としても、圧倒的多数の無関心や排他性に比べれば、得難
いものでした。夫人はドイツ語しか喋りませんでしたが、英語を聞くことはできたので、夫人のまくしたてるドイツ語を私が勘で察して、片言のドイツ語あるい
は複雑な場合、英語で答えるという、心もとない意志疎通の方法をとりました。
アパートに住み始めて一カ月ほど経ったある日の午後、私はフォン・コンタ夫人に呼び止められて、居間に招かれました。賢一さんという通訳がいないので、夫
人の甲高い声でまくしたてるドイツ語を理解するのは、至難の技でした。夫人は何冊かアルバムを持ってきて説明しながら、私に見せてくれました。察するとこ
ろ、「私は東洋の世界にとても興味をもっていて、この旅行に行ったことは印象的な思い出よ」などと、言ったようです。そのアルバムには、台湾の名所旧跡を
訪れたまだ五十歳代の夫人が写っていました。夫人はすでに未亡人になっていたようで、ご主人の姿がありません。一枚、一枚丁寧に説明してくれましたが、夫
人のわかりにくいドイツ語は私の頭のなかでさらにこんがらがりました。
懸命に台湾に関する私の乏しい知識を動員しながら、ときどき素晴らしいだの、美しいだの、歴史的に貴重だのと無意味な相槌をうって会話に穴をあけまいと努
力しました。夫人は台湾みやげらしい人形まで持ち出して、瑠璃子に触らせてくれましたが、その古めかしい人形はまったく瑠璃子の興味をひくものではありま
せんでした。素っ気ない瑠璃子の態度を取り繕うために、まあ、なんて可愛らしいお人形でしょうなどと驚いてみせたりしなくてはなりませんでした。
フォン・コンタ夫人にしてみれば、台湾旅行の写真を見せることで、私達に対する親しみの表現を示してくれたのだと思います。この夫人の態度は、たとえれ
ば、日本にいるドイツ人と仲良くなろうと試み、イタリアのアルバムを一所懸命見せるような滑稽なところがありました。夫人だけにかぎらず、ドイツ人の大半
にとって、おそらく日本と台湾の区別は明確ではありません。東洋に対する興味も情報も少ないヨーロッパでは、この二つがいかに異なる国であるか、想像もつ
かないでしょう。彼らには東洋の地図は一色なのです
もっとも、日本人だって似たような過ちを犯します。日本人にとってもヨーロッパ各国は同じような顔をしています。ドイツとフランスの違いはわかっても、同
じ言語を話すドイツとオーストリアとスイスの違い、ベルギーとオランダの違いをどの程度知っているでしょうか。私自身ドイツで暮らすまでヨーロッパと一括
りで言われる地域が、ここまで個性の異なる国々の集まりだとは、思いもしませんでした。国境を越えただけで、樹木の生え方や河川の流れ方まで変わってしま
う、その激変は衝撃的でした。二千年の間、ナポレオンが現れても、ヒットラーが台頭してもついに一国となることなく、複雑な文化圏を作っているのがヨー
ロッパなのです。とくにアーヘンはベルギー、オランダと国境を接した街で、車で十五分も走れば外国だったので、なおさらその印象は強いのでした。
フォン・コンタ夫人のアルバム事件からしばらくして、アーヘンの街はクリスマスを迎える季節になりました。街はクリスマスの飾り付けに彩られ、街の中心の
マルクト広場には、ツリーにする樅の木や飾りを売るさまざまな出店や移動遊戯場ができました。寒さは厳しく手足は凍え、吐く息は白くなりますがこの時期は
ドイツがもっとも華やかで美しい頃ではないでしょうか。明日からデュッセルドルフに泊まりがけで、クリスマス用品や不足した日本食の買い出しにいこうとい
う日、賢一さんあてに、フォン・コンタ夫人から便箋五枚にわたる長文の手紙が届きました。
賢一さんと私は思わず顔を見合わせ、やはり瑠璃子がうるさくて迷惑をかけているのかそれとも気づかずにマズイことをしていたのか、戦々恐々として封を切り
ました。賢一さんはさっそく読み始めましたが、「これはなんて読みにくい字だ。日本語で草書体の手紙をもらったようなもんだ。外国人相手の手紙はタイプし
てほしいよ」と音を上げながら、訳していきました。
引っ越しのどさくさで、この手紙は紛失してしまい(だいたい大切なものはなんでもなくしちゃう傾向にあるのが私です)、今手紙の詳しい文面を再現すること
はできませんが手紙の内容は私達の恐れていたこととは、まるでちがいました。時候の挨拶のようなものがあって、私達がここに来たことに対する歓迎の言葉が
あり、奥さんに、つまり私に、ドイツ語の素晴らしい先生を紹介する用意がある。その先生は九十歳になるが、非常に有能である。ぜひ習ってみることを勧め
る。私はあなた方の力になりたいといった内容が並べてありました。
「君のこと褒めてあるよ。あなたの奥さんは品があり、きれいな人という印象だと書いてある。貴族に褒めら
れて嬉しいだろ」
さすが欧米人はお世辞がうまいと思いました。賢一さんに言われるまでもなく、悪い気はしません。がしかし、フォン・コンタ夫人の申し出は気の重くなるもの
でした。さらに夫人の手紙の最後の一行は、驚天動地のものでした。
「私の孤独な生活にとって、あなた方とコミュニケーションをもつことは、嬉しいことです」
私は夫人からこのような言葉が出てくるとは、信じられませんでした。気位の高い夫人が「孤独な生活」であることを語り、私達のような得体の知れない外国人
にまで会話を求めている、その切実さがとうてい現実のこととは思えないのです。
夫人のような恵まれた老後を送ることができる人間が、いったい日本に何人いるでしょう。経済的に何の不安もなく、社会的にも尊敬された暮らし。家事は週二
回の通いの家政婦がやってくれ、夏休み、冬休みと一カ月はたっぷりある海外旅行で保養。美術館のような華麗な部屋で、好きな音楽に浸る美的な生活。ママや
私の老後に、夫人のもつ多くの恵みの一つでも与えられるでしょうか。夫人は他に苦労がないために、人生の根源的な「孤独」という苦しみと直に向き合うはめ
に陥ったのかもしれません。優雅きわまりない夫人の生活の代償が、これほどの寂寥感をともなうものだとは皮肉でした。
「つまり、この手紙の言わんとするところは今のままでは君のドイツ語は絶望的だから、フォン・コンタ夫人
はなんとか君にドイツ語を習わせて、自分の話し相手にしたいということだね」
賢一さんは夫人の手紙をそう結論づけました。
「何も私なんかと話さないでも、他にドイツ人はたくさんいるのに・・・・・
。ドイツ人はドイツ語ペラペラ。フォン・コンタ夫人にふさわしいお友達ならいくらでもいるでしょう?
それに近所付き合いがしたいなら、隣の医学部のお姉さん達がいいと思うわ」
「あの学生達みたいなのが、話し相手になるわけないよ。おっかなくて。あなたを尊重はしますけれど、こち
らの生活には絶対に入らないでっていう感じだろ」
「私が瑠璃子連れで九十歳の人にドイツ語を習って、うまくなると思う?
フォン・コンタ夫人の話し相手になれると思う?」
「まあ、天気の話ぐらいならね。」
私の愚痴に対して、賢一さんはあっさりと答えを出してくれました。
「日本人が珍しいのかな。それとも、君が素直そうで、扱いやすいと見られたか。よくわからん。これは返事
を書くのがことだな」
見知らぬ外国人にさえ、交遊を求めずにはいられない夫人の「孤独な生活」という言葉には、しんしんとする響きがありました。夫人に孤独だと告白されてみれ
ば、まさにそのとおりだというしかありません。フォン・コンタ夫人には息子が一人いました。それが、どの程度夫人の生活の慰めになっていたかわかりませ
ん。
ドイツの親子関係に詳しいわけではありませんが、息子一家が老親と同居するような習慣はないし、愛情はあっても互いに独立した個の生活を大切にできる距離
を保った付き合いだと思います。夫人と息子の互いの領域をけっして侵さない関係は、息子が半月に一度くらいの間隔で、夫人を訪問するというかたちでした。
ときおり見かける息子のフォン・コンタ氏は夫人の美貌を受け継がなかったようで、頭の禿げ上がった中年紳士でした。初めから長居をするつもりはないらし
く、わが家の車庫の前に、水色のベンツを駐車させるのですぐわかりました。たいてい一人で夫人を訪れ、三十分もすると帰って行きました。還暦にちかい息子
が、老いた母親とあまり話すこともないのでしょうが、どこか義務的な訪問の印象がぬぐえませんでした。
九十歳のドイツ語の家庭教師を紹介するという、フォン・コンタ夫人の親切な申し出、その行間の夫人の真意をあれこれ探り、私達は困惑しました。私はある意
味で夫人に見込まれたのに、ドイツ語が上達すること、そして一人暮らしの夫人の淋しい生活の慰めとなることのどちらも叶えられそうにないのが、情けなくな
りました。賢一さんに、素直と表現されましたが、私は他人から見るとどうも警戒心を起こさせないタイプのようでした。
日本でならともかく、私はアーヘンの街を歩いていても、道を聞かれることがよくありました。○○という店はどこかなど、どうしてドイツ人がわざわざ異邦人
の私に聞くのか不思議でした。そんなこと聞かれても、なぜ私が知ってるのと言いたくなります。パリを旅行して、初めて某デパートに行ったときのこと、私は
二度もフランス人らしき女性から「ウ・ソン・レ・トワレット?」トイレはどこかと聞かれました。何も初めてここに来た旅行者の私に聞かなくたって、と思っ
たのですが、これも私という人間の客観的な特徴なのだと今は認めることにしています。
その頃の私の生活は、一日中瑠璃子の相手でした。外は非常に寒く、長い時間連れ歩くことはできませんでした。公園に行ってもがらんとして遊び相手になりそ
うな子供の姿はありません。二歳のエネルギーの塊の幼児と二人きりで暮らしていると、三十分でも一時間でも集中して勉強するなんて不可能です。ドイツのテ
レビは、討論番組が多くてとても子守代わりにはなりません。日本語ですら覚えたばかりの幼児にベビーシッターをつけても、ドイツ語で「オシッコ」だの「の
どがかわいた」などの基本的なことすら伝えられないではありませんか。動きまわる瑠璃子を連れて授業を受けるというのは論外ですし、体力のない私は瑠璃子
との一日を終えるだけで疲れはててしまうのでした。
フォン・コンタ夫人の好意を無にすることは、たいへん心苦しいことでした。夫人とのコミュニケーションをやんわりとではあっても、拒絶することにちがいな
く、申しわけなかったと思うのです。その後賢一さんは事情を説明してうまく断ってくれましたので、この話は打切りになりました。私とフォン・コンタ夫人が
ドイツ語による理想的な交遊を結ぶ機会は失われてしまいました。他に選択の余地はなかったので後悔はしませんでしたが夫人に悪い気持ちもあり、またドイツ
語の必要はありましたから、私は夜遅い市民大学のドイツ語口座に通いました。賢一さんが大学から帰ってから瑠璃子を預けて出かけました賢一さんの都合で行
けたり、行けなかったり瑠璃子がひっきりなしに熱を出したりで、けっきょく数カ月通って中断してしまいました無理をすれば続いたのでしょうが、私は根性な
しというべきか、良くも悪くもあきらめがいいのです。身体の弱い子供を持ったのも運命ですから、子育てに専念しようと決めました。
そうやって月日が流れ、夫人には相変わらず早口のドイツ語で注意をされたり、親切にも幼稚園を紹介してもらったり、体調の悪い私に病院を教えてもらったり
などしながら生活していました。六月のある日曜日、何か用があって(どんな用事だったかさっぱり思い出せないのですが)賢一さんが夫人の部屋を訪ねて、
戻ってきて言いました。
「フォン・コンタ夫人、具合が悪いらしい。僕が行ったら、ガウン姿で出てきて、用があるなら、気分が悪い
ので手短にしてほしいって言ってたよ」
夫人のように気丈で、身だしなみのよい人が、ガウン姿で出てくるからには、よほど調子が悪いのだろうと思いました。その日は、瑠璃子も朝から「頭が疲れ
た」と言って起きてきて、三十九度の高い熱が出ました。顔中真っ赤で、目は充血し涙も出て、お尻や背中に彼女の持病である蕁麻疹が広がっていました。座薬
を入れましたが、直後から、一分ごとにぴくっと身体を震わせはじめました。痙攣まではいきませんが、高熱の子供が周期的に全身を震わせるのを見るのは、不
安でいたたまれません。言葉も習慣も異なる外国で子供が病気になるほど、おぞましい、やりきれないことはありません。震えは三十分くらいでおさまりました
が、その日一日私達は息をひそめて、医者に往診を頼むかどうか、瑠璃子のようすを見ていました。
暗い一日も暮れようとする夕方になって、夫人の家のブザーが鳴り、フォン・コンタ氏が現れたようでした。さすがに母親が心配になったのでしょう。私は機嫌
の悪い瑠璃子を抱きながら、部屋のなかをうろうろしてすごしていました。ふと窓の外を眺めると、フォン・コンタ氏がベンツに乗って出ていくのが見えまし
た。三十分くらいの訪問だったようです。夜になり、夫人の部屋は物音一つせず静まり返っていました。
「大丈夫かしら」
「年だし、心細いかもしれないな」
「夜は誰も来ないのかしら」
賢一さんと私は何度かそんなやりとりをしました。フォン・コンタ氏は母親のようすを見に来て大丈夫だと思ったのでしょう。夫人が平気だと言ったのかもしれ
ません。そう解釈するしかありませんが、私は一人で寝ている夫人の孤独を思わずにはいられませんでした。日曜日なんだから、息子はもう少しゆっくり母親の
側にいてあげてもいいのに。息子が都合が悪ければ、お嫁さんか孫でも来ていいはずだなどと、気を揉むのでした。
ドイツにも嫁姑問題はあると聞いていましたが、フォン・コンタ夫人と息子の妻は親密ではないのでしょう。私達は滞在中ついに一度も彼女を見ませんでした。
家族と一緒でも病気になると、ひどく気持ちが沈むものです夫人は一人には広すぎる寒々とした部屋で、老いの侘しさ、病の苦しさに耐えていかなくてはならな
いのでした。夜の闇が迫るなかで夫人は何を考えているのだろうと思いました瑠璃子を心配しているから、いっそう夫人のことが心に痛みました。夕食の時間に
なって夫人は夕食をどうするのかが気になりましたその日のわが家の夕食のメニューは、スープとスパゲティと簡単なサラダでした。
「こんなもの召し上がるかしら」
「ドイツ人は夕食はカルテスエッセン(火を使わない冷たい料理)だからね。それに食欲もないかもしれな
い」
賢一さんとそんなことを言いながら、夫人のようすを見にいく口実にもなるから、夕食を差し入れに行こうという話になりました。賢一さんが持っていった夕食
を夫人が食べたかどうかはわかりませんが、私達が夫人を心配している気持ちは受け取ってもらえるといいと思いました。今考えると、これが夫人の命を奪うよ
うな病気の始まりだったのでしょう。夫人は以来入退院を繰り返すようになりました。
一週間ほどして具合がよくなったのか、夫人は私に先日のお皿を返したいからと、お茶に招いてくれました。夫人は自分が回復したことに満足している様子で、
上機嫌でした。コーヒーとクッキーの簡単なもてなしでしたが、夫人はしばらく話してから瑠璃子を膝に乗せて、ピアノで遊ばせてくれた後、自分で弾き始めま
した。フォン・コンタ夫人は若い頃声楽を教えていたということですが、八十を越えた今も音楽に対する情熱の衰えることはなく、趣味で近所の奥さんの一人に
声楽を教えていました。夫人のピアノの音はときどき聞こえていましたが、間近に聴くのは初めてです。夫人の弾くピアノに音楽の美しさはありましたが、高齢
で指がまわらないうえに練習不足のために、ミスの多い演奏で、私はなんと褒めたらよいか、一瞬言葉を捜してしまいました。
ありきたりの表現もわざとらしいので咄嗟に思いついて「大変ヨーロッパ的な音色を聴かせていただいて嬉しい」と言ってみました思いがけず、この言葉はいた
く夫人を喜ばせました。私が見たなかで一番嬉しそうなフォン・コンタ夫人の顔でした。言葉がこれほど人を喜ばせるというのは、ヨーロッパならではですし、
ヨーロッパ的ということが、最上の褒め言葉の一つであることを知ったのはこのときでした。私が夫人に対して行なった、唯一のよいことだったかもしれませ
ん。
フォン・コンタ夫人は孤独ではあったでしょうが、まわりの人々からは大切にされていると、私は感じていました。ドイツは冬になると雪掻きという労働があり
ました。雪掻きを怠って、自分の家の前で人が転んで怪我をした場合、損害賠償をしなければいけません私達のアパートでは四軒で日を決め、交代で雪掻き当番
が回ってきました。当番表を作って玄関に下げるのはフォン・コンタ夫人でした。夫人のような高齢でも雪掻きをするのか夫人も平等に当番を分担していまし
た。ドイツ人は雪が積もりだすと、どんな早朝でも起き出して、暗闇のなかで雪掻きを始めます。ベッドにいながら、スコップの音で目覚め、雪が積もっている
ことに気づくことがたびたびありました。
大雪の降った翌朝、その日は夫人の当番日でした。賢一さんは夫人を手伝ってくると言って出かけ、しばらくして戻って来ました。
「あの年で雪掻きなんて変だと思ったけれどフォン・コンタ夫人は雪掻きしなくてもいいみたいだ。僕が行っ
たら、道の向こうのおばさんが、子供と一緒に雪掻きしてた。夫人の当番日はいつも代わりにやるんだって言ってた。ずいぶん親切なんだな」
ドイツは極度に乾燥しているので、日本の雪のようなぼってりした重い雪ではなく、さらさらした軽い雪です。それでも自分の家の他に夫人の家のぶんまで雪掻
きするのは、重労働でしょう。年老いた人に対して、ごく当たり前のこととして、このような奉仕が行なわれていることは、羨ましいことでした。キリスト教の
根づいた社会では、障害をもつ人や年老いた人に対して手厚いのでした。
フォン・コンタ夫人の誕生日、十二月二十日は、夫人が孤独であることを忘れ、大切にされていることを実感できる日です。この日ばかりは、静かな夫人の家が
一日中来客で賑わうのでした。次々と夫人を祝福する人が、花束を持って訪れました。夕方、賢一さんが大学から戻ると、私達家族もささやかな花束を携えてお
祝いの挨拶に行きました。扉を開けた夫人は、ローズ色のシルクのブラウスに真珠の首飾りのエレガントな装いでした。夫人の表情はいつになく華やいで見え、
喜んで花束を受け取ってくれました。部屋のなかにはフォン・コンタ氏と高校生くらいの孫が二人いて、挨拶を受ける夫人を見ていました。お祝いの夕食を共に
するのか、居間にはキャンドルが灯り、色とりどりの花が溢れ、何より夫人の家に久しぶりに暖かな人の気配がありました。家族に囲まれた夫人の姿は幸福そう
で際立っていて、一遍の美しい家族の肖像画のなかにいるようでした。この日が結局夫人の人生最後の誕生日になってしまいましたが、最後の誕生日がこのよう
な満ち足りたものであった夫人は、やはり幸せな人にちがいありません。
大晦日に、フォン・コンタ夫人は花束のお礼にと、ゼクトを持って来てくれました。ゼクトはシャンペンほど高級ではありませんがドイツ人がお祝いによく使
う、発泡性のワインです。大晦日のパーティでは、新年を迎えるときゼクトを開けて乾杯して祝うのです。夫人はひとしきりまくしたてました。語学学校を首席
で卒業した賢一さんでも、夫人の早口のドイツ語には苦労していたのですから、私にはさっぱりわかりません。あまりに理解できない言葉を聞いていると、勘だ
けではどうにもならないことを実感しました。夫人は私のぽかんとした顔を見ると、怒りと諦めの入り交じった表情を見せました。そして、
「ハッピー・ニュー・イヤー」
と英語で言いました。誇り高い夫人は英語を理解しても、けっして使うことはありませんでした。後にも先にもたった一度だけ聞いた夫人の英語でした。わから
んちんの私に、自分のドイツ語の要旨を簡潔に伝えてくれたのでしょう。頑固な夫人も、私に対する期待を失ったせいか、一年前に比べて柔らかくなりました。
新年から二月のなかばまで、夫人は静養を兼ねた旅行でいなくなり、帰宅後は入退院を繰り返しました。その頃からフォン・コンタ夫人はどこか印象の淡い人に
なっていきました。夫人のよく通る声はほとんど聞かれなくなり、部屋は以前にもまして静まり返っていました。夫人が闘病生活を送っていた頃は、私が頻繁に
神経症の発作に苦しんでいた時期でもありました。底なしの疲労感と不安に苛まれた日々でしたから、六月に入院したままの夫人が、八月になっても帰ってこな
いことを深く考える余裕はありませんでした。帰国の日程も決まり、その準備に追われながら、身体はがたがたで内科、眼科、耳鼻科に通院するはめになり、瑠
璃子も小児科の常連で、ドイツ滞在中最低の日々をすごしていました
八月十四日、日曜日の朝九時頃だったと思います。賢一さんも瑠璃子も私も前日の送別会の疲れでぐっすり寝入っていました。ふと何かの音で目が醒め、それが
フォン・コンタ夫人の部屋のピアノの音だということに気づきました。本当にひさしぶりのピアノです。退院した夫人が、帰宅するなりピアノに向かっているの
だと思いました。夫人もやっと元気になって、彼女の場所に帰ってきたのです夫人はためらいがちに弾き始めましたが、だんだんに嬉しさがこみ上げてくるよう
な弾き方になりました。
そのピアノはお気に入りの曲のあるフレーズを少し弾いては、次の愛着のある曲へと、とりとめなく、それでもきらめくように流れていきました。もし、しあわ
せの音楽と呼べるものがあるなら、まさに今夫人が弾いているモザイク模様のような音楽の断片が織りなす調べにちがいありません。もう戻れないかと案じてい
た場所に帰って来て、人生の友であったピアノにふたたび触れることのできたその夫人の熱い歓びの心が指先からこぼれ落ちるようでした。しかし、夫人は疲れ
ていたのでしょう。ピアノの音は急に弱々しくなりほんの数分間の至福の後に消えてしまいました。いつの間にか賢一さんも目覚めていました。
「やっと帰ってきたか」
賢一さんはそう言ってベッドから身を起こしました。夫人のことなど考える余裕もなかったはずなのに、やはり心のどこかで夫人の帰りを待っていたのかもしれ
ません。私は安心したのでした。
翌朝、階下の医学生のマルタがやって来ました。日頃挨拶を交わす程度の付き合いしかない彼女がわざわざ来るのは、何か大切な用事があるのです。私は彼女の
表情を見て、はっとしました。そして、次に彼女の口から出てくる言葉を読むことができました。
「とても悲しい報せがあるの。フォン・コンタ夫人が昨晩入院先の病院で亡くなったわ」
賢一さんの通訳を待たなくても、瞬時に理解しました。マルタが去って間もなく、大家のB氏からも、夫人の死を知らせる電話が入りました。私達の部屋は帰国
の荷物を出す準備でダンボール箱だらけでした。二日後の水曜日にはこのアパートを引き払ってホテルに移り、木曜日に賢一さんは会社の支店があるデュッセル
ドルフに帰国の報告に出かけ、私達と共にもう一泊し、土曜日に日本に出発の予定でした。夫人の葬儀は金曜日に行われると聞いていましたが、デュッセルドル
フから引き返してくる時間はなく、参列は出来ません。フォン・コンタ夫人は私達のドイツ生活の始まりと同時に現れ、ドイツを去るときにいなくなってしまい
ました。お別れの挨拶もありがとうというお礼も結局伝えることはできませんでした。
午後になって夫人の遺品か何かを取りに来たのでしょうか。ベンツが停まっていました私達はお悔みを述べに、夫人の部屋にいるフォン・コンタ氏を訪ねまし
た。外国語でお悔みの言葉を言うのは、難しいことです。表現辞典を引きながら苦労して考えた賢一さんの言葉の一つ一つを、フォン・コンタ氏は全身を聴覚に
集中させるように聞いていました。フォン・コンタ氏の顔は、深刻でした。私はフォン・コンタ氏を親孝行とは思っていませんでしたが、その落胆した痛ましい
ようすに彼が本当は、母親をとても愛していたことを知りました。フォン・コンタ氏の心のなかには、生前の母親を愛し尽くせなかった後悔もあったのでしょう
か。その姿は尋常ではありませんでした。
どんな年齢になっても、子供にとって母親に死なれるというのは、特別なことです。母親のように自分を愛してくれる人間は、もう二度と現れない、これほど明
白な真実はないのですから・・・・・。
人は母親を失ったとき、本当に一人ぼっちで世界に放り出されてしまいます。中年の禿げ頭のフォン・コンタ氏はその昔コインを飲み込んで手術を受け、若き日
のフォン・コンタ夫人を死ぬほど心配させた少年でした。彼の心に今どのような母の像が映っているのか。彼の傷心のようすに、私は竦みました。
幼い頃から、自分の父親が母親を殴り殺してしまわないかと、恐怖を抱き続けてきたので、目の前の母親を失った子供の現実の姿が自分の現実と区別がつかなく
なりそうでした私には親とはママのことだけです。生物学的な父親はいても、あれは子供を愛したことのない父親、本当の父親とは言えないのです。親の愛情は
ママだけが与えてくれました。その唯一のものも、永遠に続くのではない、こんな当たり前のことから目を逸らして生きてきました。極力考えまいと暮らしてき
ましたが、私には「別れの覚悟」ができていないのでした。フォン・コンタ氏の状態をこれ以上見ることは、耐えがたいことで、別れを告げて部屋に戻ると、膝
ががくがくと震えていました。賢一さんに顔色が真っ青だと言われ、椅子に倒れこむように腰掛けて、コーヒーメーカーに残っていたコーヒーを飲み干しまし
た。
その晩、私は激しい神経症の発作に苦しむことになりました。溢れる寸前まで水の張られたコップのような状態の私の心に、フォン・コンタ夫人の死が洪水のよ
うな衝撃で入りこんでコップを割りました。帰国準備や送別会の過労も加わって、身体が酸欠状態にもがくような苦痛に追いこまれてしまったのだと思います。
心臓が破れそうなほどの激しい動悸に冷汗が流れ、まだ死にたくない、こんな不意打ちで人生が終わってしまうのか、私がこの世に生きた証など何もない、怒り
と後悔と恐怖が全身を駆け巡りました。そんな混乱と忌まわしさの嵐の刹那に不思議と、諦めと感謝の感情もわきあがってきました。言葉にすると「私は自分の
人生をまだ生き切ってはいないけれど、今までの人生は充分に幸福だったではないか。私の育った家庭が酷いものであっても、それは人生の辛酸をなめたことと
は違う。賢一さんと瑠璃子に囲まれた家庭は私の望んでいたとおりのものだった」という思いにちかいでしょう。死はいつ訪れても理不尽なもので、無理やり自
分を納得させようとこんな感情を考え出したと言えるかもしれません。
自分の今までの人生に感謝しても、死を受容したとしても、何とか自分で悟ったつもりでもなお、どうしても私には最期にしたいことがあると発作の間中、痛切
に一つのことを思っていました。それは、死ぬ前にママに会って言わなくてはならないことがあるという抑えがたい思いでした。
賢一さんも瑠璃子も、私が消えてもいつかかならず幸せになることはできます。でもママは私が先に死んでしまったら、二度とは幸せになれないように思うので
す。ママの苦しみ多い人生で、私と妹だけが喜びだったかも知れない。だからこそ、私はママのいない異国ドイツで、死んでしまうわけにはいかないのでした。
ママより先に死ぬときはママの側で何かを伝えて死にたい。「ありがとう」と言うのか、「先に逝ってごめんなさい」と言うのか「愛している」と言うのか、そ
のすべての思いをママに分かってもらわなくてはならないのでした。
薬をのんで一時間ほどして、わずかずつ緩慢に発作が静まるのを感じながら、私はフォン・コンタ夫人が死の前にピアノを弾きに戻ってきたことを思いました。
夫人が最後に何が何でもしたかったことはピアノであり、音楽でした。フォン・コンタ夫人は人生最後のピアノを弾きに戻ってきました。自分の愛した部屋に
帰ってきました。自分の人生に大切だったすべてに別れを告げに来たのでした。それは私がママに会いたいと熱望した思いと同じものだったにちがいないので
す。夫人の付添いの人間によってその願いは聞きとげられました。
フォン・コンタ夫人には、もはや一曲を弾ききる力は残されていませんでしたが、数分間の身に滲みるような、夕映えのような幸福の音楽を聴かせてくれまし
た。それは、たとえればモーツァルトの人生最後の交響曲、『ジュピター』のような晴朗さでした。一度きりしかない人生の、一度きりであるがゆえのかけがえ
のない素晴らしさを歌いあげた音楽です。人生の終わりが近づいて、夫人に見えてきたものは暗黒ではありませんでした。夫人の喜びや悲しみをかきたてたもの
すべてに対する感謝がありました。孤独に苛まれ悶々とした日々を生きてきたこと、それすらもしみじみと幸福であったと、夫人のピアノは私に語りかけてくれ
ました。
ピアノの音色も、人間の生命も、泡沫のように消えていくものなのに、死の力に染められはしない。フォン・コンタ夫人はそう私に言い残して逝きました。フォ
ン・コンタ夫人はもういません。でも、もし叶うならば、私は夫人にこう伝えたいのです。
フラウ・フォン・コンタ、あなたはじつに優雅に、みごとに人生の幕を引きましたね。
十月も半ばを過ぎ、秋空が爽やかです
自宅にて
第五信 ドイツ的執念について
私が今までの人生で経験した、もっとも凄まじきもの、それは私が強調するところの、ドイツ的執念です。今日はママにこのドイツ的執念について腕まくりして
でも、説明しなくてはいけません。
ドイツ的執念とは、徹底的に目的をなしとげる能力であり力であり精神のことと考えてみてください。このドイツ的執念は、生活の隅々にまで浸透していまし
た。いちばんわかりやすい例が、ドイツ人の掃除にかける意気込みでしょうか。ドイツ人がきれい好きとは世界中に知られたことですが、掃除の得意でない私か
ら見ると、それはほとんど強迫観念と言ってよいほどです。ドイツ人は命がけで掃除をしているのではないかと疑いたくなります。
ドイツ語に「四角い部屋を丸く掃く」という諺はあるんでしょうか。私の印象では、ドイツ人は四角い部屋を丸く掃くことは絶対できない人種だと思うのです。
幸か不幸か彼らはいい加減にやるということが不得手な人々と言えるでしょう。彼らのきれいに暮らすことへの執念を示す例はいくらでもあげられます。
私達がアパートに住み始めてすぐ必要なものの中に洗剤がありました。幼児のいる家庭は洗濯物が多いのです。賢一さんと一緒にスーパーに行き、洗剤らしきも
のの並ぶ棚の前で、私は茫然と立ちすくみました。広大な棚に何列もぎっしりと並ぶ洗剤のあまりの種類の多さに、何を買うべきか途方にくれたのです。私は賢
一さんにいったいどういう区別がされているのか、通訳を求めました。
賢一さんも好奇心を覚えたようで、洗剤を手に取りながら説明してくれました。
「このへんは食器用の洗剤だね。これは漂白剤入りでこっちは入っていない。これは皿洗い機専用洗剤。これはグラス専用だって。どう違うんだろう。台所用、
水廻りに使うらしい。電熱プレートの掃除用、これは電熱プレートのまわりを拭くのに使うんじゃないかこれはオーブン専用。今度は窓。おい、窓拭き専用布っ
ていうのがある。こんなの初めて見た。床磨き用洗剤。絨毯専用。木製家具用革製品の家具拭きだって……。おお、こっちの棚は全部車用らしいぞ。これもいろ
いろあるぞ。見てみるか」
「もういいわ。私は普通の洗濯に使うのが欲しいのよ。どこかしら」
「洗濯用はあっちかな。行ってみよう」
賢一さんと一緒にやっと洗濯洗剤の商品の山にたどりつくことができましたが、これも簡単にはいきませんでした。
「これは、六十度までの洗濯に使える洗剤。こっちは九十五度まで。ウール専用洗剤。カーテン用。これも
カーテン用。カーテン用が多いんだなあ。レースカーテン専用のもある特別に白くする作用でもあるのかな。なんとこれは、手洗いでワイシャツを洗う人のため
の洗剤だって。すごいな。どれ買う?」
賢一さんも洗剤の探究には、つくづく疲れを覚えたようでした。ドイツでは景観上の理由や悪天候などのため、洗濯物を外に干すことはありません。それで、殺
菌もかねて洗濯機が九十五度の高温までで洗濯することができます。いろいろな温度設定やさまざまな用途に合わせての、洗剤の種類の多さは圧巻でした。さす
が、きれいに暮らすことに命を賭ける国民だと思います。後でヘンケル社の洗剤は世界一と言われていることを知りましたが、私が迷ったあげくに買った洗剤の
威力は強烈でした。日本では落ちないと諦めていた汚れが、すっかり消えているのに、非常に感動しました。感動のあまりママに、これは偉大な科学の力だと思
うと、手紙に書いたのを覚えています。洗剤だけではなく、洗濯機の機能も凄いのでしょう。これに比べれば、日本の洗濯機も洗剤も、泡が立つだけのおもちゃ
みたいです。
ドイツ人には汚れを落とすという究極の目的があれば、そのために頭を使いに使って研究し、世界一の製品を作り上げてしまう、初志貫徹の「力」があります。
ある目標に向かっていくその根性をドイツ的執念と呼ばずして何と言うのでしょう。ドイツの街並みの美しさは有名ですが、その清潔で秩序だった美しさを維持
するために、彼らが日夜いかに努力しているかは、私の想像をはるかに超えるものでした。とにかく猛然と掃除をします。ドイツでもベルリンなどの大都会に行
けば多少の汚れはあるでしょうが、アーヘンのようなさして大きくない町では、文字通りゴミ一つないのです。道で煙草の吸殻一つ見つけるのにも苦労するほど
です。
彼らは毎日、日本人の年末大掃除をやっています。立派な体格に体力が充溢しているので、朝早くから丹念に掃除機をかけた後、洗剤で扉やシャンデリアや窓ガ
ラスや家具を拭きまくり、最後にからぶきなどしても疲れる様子はありません。「もう窓拭きは終わった?」とか「掃除はすんだ?」などが、挨拶代わりになる
お国柄なのです。フォン・コンタ夫人宅の家政婦も、どこも汚れていない家を夢中になって掃除していました。筋骨逞しいドイツ女性の典型のような彼女が、パ
ワフルに窓拭きを始めると、、私は憂鬱になったものです。ピカピカのピッカピッカのフォン・コンタ家の窓と、二階のわが家の掃除の行き届かない窓の差が歴
然として、私も窓を磨かざるを得なくなるのです。
ドイツ人は窓が曇っていることに、生理的嫌悪感を感じるようでした。駐在員の奥さんで、お宅の窓が汚れているとか、カーテンがきたないなどの注意を受ける
人はけっこういると聞きました。しかし2DKのアパートとはいえ、その窓の広いこと、天井ぎりぎりまで高くて立派なこと、窓拭きだけで日が暮れてしまいま
す。(もっとも、ドイツの窓の頑丈かつ機能的なことは驚きです。防寒、防音に優れ、一つの窓が縦開きにも、横開きにもなる構造なのに、すきま風など入る余
地もなく、けっしてがたがたしません。こんなに堅牢で安心できて、美しい凄い窓を作れる人々がいるのかと感嘆してしまいます。)
とにかくきれいに住む、きちんと住むという大命題を掲げたドイツ民族は、たゆまざる努力と執念で、世界に類をみない美しい家や街並みを作り上げたのだと思
います。さらに二つ例をあげて、ドイツの家庭で掃除がどれほど重要な関心事かを述べたいと思います。もう、うんざりなんて言わないで下さいね。語っても語
り尽くせぬほど、実体は猛烈なのですから。
幼稚園に瑠璃子を連れて行って気がついたことがあります。おもちゃのフライパンや包丁で嬉々としてままごとをしているのは瑠璃子だけで、他の同じ年頃の女
の子は、ひたすら小さな子供用のテーブルやタンスを拭き掃除する真似事をして遊んでいるのです。私は日本の女の子で、拭き掃除遊びをする子に、お目にか
かったことはありません。もしそういう子がいても、例外的な子でしょう。日本の母親とは、第一に食事を作る存在だから、子供は料理の真似事をして遊ぶのが
普通なのです。ドイツの子が遊びでさえ掃除をするのは、母親は料理する存在というより、家中を磨き上げて掃除をする存在だという証明ですドイツの三歳児た
ちは、幼くしてすでに片付けの名人です。迎えに来た母親の顔を見るやいなや、何も注意をされなくても、それまで自分たちの使っていたおもちゃなどを素早く
元の場所にしまいます。三歳にして整理整頓をたたきこまれているのです。
子供だけでなく、男性もきれい好きです。賢一さんは日本人の中では、相当整理上手で几帳面な部類に入ります。しかし、その彼でさえ、自分の机が大学の研究
室の中で一番整頓されていないと言います。若い学生たちは机の上の物を全部片づけて、何もない状態にして帰宅するそうなのです。ドイツ人の書類いじり
(Deutscher
Papierkrieg)と皮肉る言葉があるくらい、すべてがみごとに始末されているのです。社会の隅々まで整理整頓が行き届いていて、窒息しそうなほど
きれいと言えるでしょう。
ただ、天は二物を与えずで、ドイツの家庭は料理にさく時間は少ないようです。ドイツの主婦は料理よりも、台所を磨くことに情熱をもっていることは疑いよう
もありません。よく、ドイツのシステムキッチンは立派だが料理をするときの使い勝手がよくないと評判されます。それもそのはず、料理よりも、収納や掃除の
やりやすさに重点を置いているにちがいありません。
賢一さんの大学の友人夫婦を招いたとき、ドイツ人は中華料理を好むと聞いていたのでメインディッシュに酢豚を作りました。二人ともたいへん気に入ったよう
で絶賛してくれました。そして作りかたを教えてほしいと請われ説明しました。メモをしながら熱心に書き取っていた妻のアンネマリーは、突然「残念だけど、
その料理はできないわ」と、メモを止めました。なぜかと尋ねると、お肉を揚げるのはだめ、と言うのでした。つまり揚げ物をすると、台所が油だらけになって
掃除が大変なので、いっさいやらないということでした。
なるほど、複雑な料理をしなければ、台所が汚れることはありません。後で他の人から聞いたところ、ドイツの家庭では揚げ物をしない家庭が多いそうです。ド
イツ人の大好きなポン・フリッツ、つまりフライドポテトも揚げるのではなく、フライパンに多めの油で炒めるように作る家庭が多いとのこと。ドイツの食べ物
はまずいという定評がありますがこれではいたしかたありません。おいしいものを作ろうとすれば、台所はどうしても汚れるものです。台所を汚さないでできる
料理などたかが知れています。日本人の私は、天麩羅やコロッケや唐揚げのある生活のほうが、ピカピカの換気扇より好きです。おいしいものを諦めてまで、台
所をきれいにする必要があるのは、本当にドイツ的でした。ドイツ人は掃除をせんとや生まれけん、なのです。
もう一つのエピソードもちょっとびっくりの話です。賢一さんと入れ違いに留学生活をしていた知人が、帰国に際しアパートの大家ともめたことがありました。
それというのも寝室に黴が生えてしまったからです。大家は「だから日本人には貸したくなかったんだ」とのたまって怒りました。けっきょく壁を店子の負担で
塗り直すことで解決しましたが、寝室に黴が生えた原因の一つには結露の問題があります。なにしろ外は氷点下十度など当たり前の寒さで、暖房の効いた部屋と
の温度差から窓にびっしり結露し、それが黴の温床となったのです。夜中も暖房を切ると寒くて寝られないので、寝室は長時間の結露にさらされることになりま
す。しかし、ドイツ人から部屋に黴が生えて困ったという話は聞かされたことがありませんでした。賢一さんが聞いてきた話では、
「ドイツ人は寝る前に窓を開け放して、外気と寝室の温度が同じになるまで充分冷やして結露を防ぐそうだ」
と言うではありませんか。まさか冗談でしょと言いたいところです。私はこれが真実の話だとは信じられませんでしたが、賢一さんは、絶対にそうだと確信して
いました。とはいえ、ドイツ人が部屋の結露を防ぐために何だかの対策をとっていることは、間違いないでしょう。だから大家が日本人に貸したくなかったと
怒ったのです。それにしても寒がりの私には正気の沙汰とは思えません。
「水だって零度で氷になるのよ。氷点下十度に冷えた、冷凍庫のような部屋で、凍りついた布団にくるまって
眠る気?
冬の五カ月毎日毎日そんなことしたら、肺炎になって家族全員死ぬわ。黴くらい何よ。黴を作らないために、あんな寒さに耐えるなんて、ドイツ人にしかできな
いことよ。たかが寝室の壁に黴を生やさないために、生命の危険に晒されるなんて真っ平よ。私は絶対そんなことしませんから」
私は賢一さんに宣言しました。寝室の窓を昼間は開けておくように気をつけましたが、やはりわが家にも黴が生え、帰国前に壁塗りに励むことになりました。賢
一さんも私も広大な壁を呪いつつ、何時間も手を動かし続け過労になりました。瑠璃子は親が忙しいのをいいことに、白いペンキの中で転がって遊んでいて、気
がついた私は、白く染まったわが娘を見て絶句したものです。
ところが先日、何気なく本屋で雑誌をめくっていましたら、ドイツ人は夜、窓を開けて寝る習慣があると書いた記事を発見しました冬でも暖房をつけながら窓を
開けて眠るのだそうです。氷点下の風が吹きこむので日本人には耐えがたいそうですが、彼らは平気とのことでした。四年たってやっとつきとめた真相は、私の
想像をはるかに超えていました。これでは結露して黴の生える心配はありません。それにしてもこれって、本当にすべてのドイツ人がしていることかしら。まさ
か!
ドイツ人の徹底癖は、清掃に対して非常に顕著に現れていますが、もう一つその経済観念にもよく表れていると思います。ドイツの大学を出てその後就職もドイ
ツでしているEは、ドイツの男性を評して一言「お金にものすごく細かい」と言いました。その青い瞳で見つめられると、ドキドキしてしまうような素敵な男性
もいるのに、彼女のその言葉は少しもロマンチックではないので、いささかがっかりしたのですが、今は彼女の言いぶんを納得しています。
賢一さんの大学の研究室で机を並べている博士号を目指して勉強中のC氏は明るい好青年ですが、自分の家から大学までの、車で十五分ほどの道のりを十通りく
らい考え、それぞれに要する距離、時間、車のガソリン量を正確に計算しています。それらをきちんとデータにとり、もっとも安いガソリン代ですむ道のりで通
学というわけです。日本円にしたら二円にも満たない違いではないかと思うのですが、無駄はすまいというドイツ的執念にもとづく計算と言えます。
そして、私達のアパートの隣人のB氏。彼は本当に美男で芸能界からお呼びがかかっても不思議ではないくらい。アーヘン工科大学の機械工学科の学生で、博士
号を取ろうと勉強しています。前にもママに書いたように、金髪の美女と同棲中ですが、彼は何と毎日自分の家の電気メーターの数量を記録していました。わが
家の玄関脇の電気メーターと同じ場所に隣のメーターもあったので、ときどき通りがかりにメモにかかれた数字は何かと不思議には思っていました。
ある日賢一さんが「一日平均の電気使用量のデータをとっているんだろう」と気がつきました。必要最低限の電気代以外は絶対払うまいという、ど根性というべ
きでしょうか。日本でも、電気代がもったいないから節約しろと言う夫はいるでしょうが、毎日の電気メーターまで監視するという男はちょっといないと思いま
す。あの美男が、今日は電気を使いすぎだとか、電気使用量が少ないけれど、どこに遊びにいってたとか、同棲相手に会話することを思うと興醒めしてしまいま
す。ガソリン代も電気代も日本に比べたらずいぶん安いドイツですが、彼らの綿密さとしつこさは異次元のものと言えます。日本のけちな男性でもここまではし
ないでしょう。
第二次大戦下のドイツの強制収容所では囚人一人一人について、食費、囚人服費、毒ガス代、屍体焼却費などの支出と、没収する金品、強制労働による生産、屍
体からの脂肪、肥料などの収入を細かく計算して、国にとっていくらのプラスになったかという書類まで存在しています。当時のことを書いた本を読むと、ナチ
ス政権下、ヒトラーに批判的な言動のあった人物は死刑になり、たとえば『凱旋門』の著者レマルクの妹もヒトラーの悪口を言った罪で処刑されました。死刑執
行後、遺族には彼女の最後の手紙とともに、死刑執行費用請求の明細書が送られてきています。処刑執行費、拘留費、請求書送付代××ライヒスマルク(ドイツ
の旧貨幣)といった具合です。日本で死刑囚の遺族にこのような支払い義務があるのか、また歴史上存在したのかどうか、寡聞にして知りません。しかし愛する
者を処刑された遺族に請求書の郵便料金まで払わせる、その少額であっても絶対見逃すまいとする執念には恐れ入るしかありません彼らはこうと決めたら水も洩
らさぬ徹底さでとことんやりぬくという、他の国民には容易に見出せない、希有な実行力があるのです。
そこで私の珍説がなりたつわけです。ドイツ人の極端なきれい好き、掃除における完全主義、目的への徹底的な実行力がユダヤ人大量虐殺の惨劇を引き起こした
最大の理由と考えられるのです。感嘆の声を上げたくなるような美しい町の景観も、ナチスも同じ性格の源から生まれたものだと考えると、複雑な心境になりま
す。悲運の民族であるユダヤ人の虐殺はそれ以前の歴史にも多く見られますがあのように組織的、計画的にユダヤ人を根絶やしにしようとした試みは、やはりド
イツでなければあそこまでの成果は挙げられなかったように思うのです。
ユダヤ人狩りには他国の人間の協力があったとはいえ、六百万という虐殺数は、ドイツ人以外では達成不可能な数字でしょう。民族の浄化という名目の大掃除
を、ひとたび決断して始めてしまったら、彼らは能力の限りをつくして、もうやってやってやり抜く。とどめようもありません。四角い部屋は絶対四角に掃く。
窓硝子の一点の曇りも気になって必死に磨かずにはいられない。そういう人々がユダヤ人という汚れを取り去るとき、目溢しなどできるはずがありましょうか。
最近ドイツではネオ・ナチと呼ばれる若者の集団が急激に台頭してきています。背景には旧東独の高い失業率などの問題があるとは言え、この極右勢力の難民収
容所襲撃事件などのニュースを聞くと不気味です。しかしドイツでこういう他民族への排他的行動が生まれることは、私にとっては意外なことではありません。
ドイツ人の性癖が招く、外国人嫌いの傾向は抑え難いのです。
ドイツ人が大好きでよく使う言葉に「すべてに秩序を」というものがあります。ドイツ人を象徴する言葉とも言えます。ルールを決めたら容赦なく徹底的に、秩
序達成に向けて働きます。秩序を乱すことは悪なのです。私の珍説を展開すると、生活習慣や言語の異なる外国人というのは、ドイツの整然とした社会秩序を乱
す異分子ですから、どうしても気にさわるのだと思います。だいたい世界のどこを捜しても、ドイツ人ほど徹底的に必死に掃除ができる国民はいません。まして
難民ともなれば、きれいにきちんと生活するのは困難です。掃除が行き届かないことに苦痛を覚えるドイツ人にとって、難民の掃除にかける熱意の不足は許しが
たい怠慢に感じられるに違いありません。
観光客だったら、ドイツはどんなによいところでしょう。食べ物はおいしくないとしても、ホテルはしっかり掃除が行き届いていて清潔。街並みはじつに美し
く、自然もよく手入れされ目に心地よい眺めです。ところが一度住人となるとドイツは日々の勤勉、努力、清掃、あるのみです。掃除の得意でない私がきれいに
住むことを人生の大目的とする人々の中に、二年近くも暮らした悲哀は、ついにナチスドイツまでまきこむ新説を打ち出すほどのものだったと言えます。
曖昧にごまかしたり、手を抜いてやるということは、ドイツ暮らし以前の私には、悪徳の一つでしたが、今はそう悪いことではないと思うようになりました。な
にごとも行きすぎはよくありません。物事を最後まで完璧主義でやりとげると、そこにはかならず何か非人間的なものが出てきてしまうように感じます。少なく
とも疲れてしまうことはたしかです。私はどこかに、ほっと息のつける逃げ道がほしいと思う人間です。ドイツ的執念には私の生理がついていけない、これだけ
は声を大にして言えます。世の中には百パーセントの善を行なおうとして、悪をなす場合もあるのだということを、遅まきながら学んだしだいです。
ドイツ的執念の現れについてはまだまだ書きたいことはたくさんありますが、今日は主に掃除に関することを中心に書いてみましたこれからの手紙にもおりおり
にドイツ的執念という言葉が出てくるかもしれません。執念という言葉は考えてみればみるほど、ドイツ人にふさわしい言葉だと思います。ドイツ人に比べる
と、日本人はほとんど執念が欠落しているといってよいくらいな気がします。
もっとも、賢一さんは清掃に関してドイツ人を見習えと、私によく言います。私の珍妙な論理は、要するに掃除をしたくない人間の言いわけであるというので
す。雑然とした部屋は、ママの部屋よりいくぶんきれいであるとは言えるものの、たしかにキタナイ、キタナイ。必要なものはきちんとファイルし、不要なもの
はただちに処分する。そういうドイツ人の整理整頓能力と、ママや私の人間味溢れる散らかりかたの心地よさを、足して二で割る方法はないものでしょうか?
十一月に入りました。おいしいものの大好きな私は、今お汁粉を作っているところです
台所にて
第六信 美人についての考察
美人が歓迎されるのは、万国共通のことですが、それでも国が違えば美人の基準もその価値も微妙に変化することを、外国暮らしで初めて発見しました。やは
り、島国を飛び出して広い世界に身を置くことは面白いことです。
日本での美人の基準は、まず若さと密接に結びついていると思います。日本人は素材の良さ、旬の瑞々しさを好む傾向が顕著です。年齢が若く、化粧も何もしな
い状態で天然自然に綺麗である、本来持って生まれた状態のままの新鮮な美に、大きな価値を置いていると思います。これと正反対なのがフランスではないで
しょうか。フランスではこういう生まれつきの若さの美を「悪魔の美しさ」と呼び、あまり尊ばれないと読んだことがあります。天から無責任に与えられた美し
さより、本人が自分の力で獲得した美しさに価値を置くようです。もう少し簡単に言うと、素材よりその調理の仕方の洗練度が大切という発想です。持って生ま
れたままではなく、いじくりまわしたもの、熟成して完成したものを好むのです。
フランスでは成熟の美しさ、頽廃の香りのようなものが好まれるから、若い女性より中年過ぎた女性の美しさが際立つのでしょう。厚化粧ではない化粧の上手
さ、ドラマを演じるような美の演出の巧みさ、おしゃれのセンス、エレガントな物腰など、知性で仕上げたものが美人の判断を左右するようです。アルレッティ
もミッシェル・モルガンも、かのカトリーヌ・ドヌーブだって日本だったら大スターになれたかどうか疑わしく思います。
イタリアはスタンダールの小説にも書いてあったように、本当に美人の多い国でした。そして美男も多い。みんなとてもおしゃれでいい女はいないかと鵜の目鷹
の目で歩いている感じです。彼らの目つきは「若い子も可愛い、中年マダムもいかしてる、いい女はみんな好き」と言いたげなようすでした。日本ほど極端では
ないけれど、素材の良さや生きのよさは重要でしょう。フランスに比べると、もう少し野性的、官能的だけれど、人為的に練り上げた演出は強く要求されない印
象でした。考えてみると日本料理、フランス料理、イタリア料理の違いに相通じるところがあると思いませんか。
旅行していて食事のまずさに定評のあるのが、イギリスとドイツですが両国とも美人は少ないように思いました。食べ物に関心の薄い国は、美人も作られないの
かと勘繰ってしまいます。紳士の国イギリスはロンドンしか歩いていないので、断言するのは憚られるのですが、私は故ダイアナ妃殿下がイギリスの女性の美し
さを一身に集めてしまったような非常に不公平な分配の法則が働いていると思いました。もっとも旅行者が接するのは私たちと同じような庶民に限られるし、イ
ギリスのような厳しい階級社会では、上流階級を見ないと正しい評価ができないかもしれませんゲインズボロの描く『ミセス・ロビンソン』のような洗練された
美女が貴族の中に見つけられるかもしれません。ヨーロッパの何代もの贅沢の蓄積によってできた令嬢、令夫人は目も眩むばかりかと想像できるのです。
そしてドイツに話を戻しましょう。この国は私が訪れたどの国ともちょっと変わっていました。美人も少ないのですが、女性達の身を飾ることへの欲求が、掃除
にかける情熱の半分もないように見受けられたのです。若い女性で化粧をしていない人が多いのは、発見でした。それは何故かと思いめぐらせると、ドイツでは
女にとって美人であるか否かが、それほど切実な問題にはならないという仮説がなりたつのです。独断と偏見と言われるかもしれませんが、私の充分に注意深い
観察によると、ドイツでは女の容姿の美しさが価値ではあっても、日本やフランスのように圧倒的な意味を持たないわけです。ドイツ人は女性の美醜に関して日
本人ほど敏感ではないしそれが女性の選択の際の絶対条件には、多分ならないのです。
例えば、クララ・シューマンとブラームスの極端な年齢差のある恋愛関係も、特別な人間だから可能だったことと長い間思ってきましたが、ドイツに暮らしてみ
るとこのような愛のかたちが実在したことを素直に納得できるようになりました。日本の新聞で老婆扱いされるような、年齢を重ねた容色の衰えた女は、けっし
て男の恋愛の対象にならないという思い込みは間違っていました。もしかしたら、ドイツでは、人間は外見より中身が大切という、道徳の教科書みたいなことが
受け入れられているのかもしれないと、私はいささか驚いてしまいました。
もちろんドイツでは美人が得をしないなどとは思っていません。ドイツの男性にインタビューしたわけではありませんが、やはり美しい女性は歓迎されるでしょ
う。しかし美貌は女の値打ちを決める多くの評価の中の一つに過ぎないのです。考えてみると、日本は女の容姿に関して相当うるさいお国柄だったのですね。日
本では女であれば、ピアニストでも作家でもニュースキャスターでも、その本業の実力より容姿が話題になることが多いではありませんか。日本人は先ず何より
も形を整えてから、内容を充実させようとする傾向がありますが、ドイツの国民性はその対極にあって、見た目より実質を重視するのです。
こんなドイツに生まれていたら、私の人生観はかなり変わっていたでしょう。少なくとも十代、二十代の頃、自分が美人でないことに、絶望とまでいかなくて
も、失望を感じて暮らすことはなかったでしょうね。男の子からだって案外もてたかもしれません。ドイツに赴任した駐在員は、よく「人間の景色があまりよく
ない」などと言いますが、確かにドイツの地方都市を歩いていて美人にお目にかかることはめったにありません。ドイツ人は頭のいい人種と言われますが、天二
物を与えずで、イタリアやフランスに比べると、美男美女は確かに少ないです。例外は十代の少女達、デュッセルドルフのような富裕な階層の多く住む都市、
フォン・コンタ夫人のような貴婦人でしょうか。ドイツの街を歩いていると金髪碧眼でもきれいとは限らないということが、よくよく実感できます。(ちなみに
ドイツ人は金髪より黒髪を好むという噂も聞きました)
ドイツでは女性、特に若い女性は着る物にあまりお金をかけていないようです。彼女達が日本の若い女性のブランド熱を知ったら、驚愕するに違いありません。
またドイツのような気候ではおしゃれをする楽しみも半減するのです。とにかく寒いですから、ミニスカートできれいな脚を見せるわけにも行かず、むくむくの
ダウンコートや、やたらに丈の長いコートで一年の半分近くを過ごすのです。四季の区別も明確ではないので年中似たような恰好をしているし、どう転んでも
ファッショナブルにはなりません。
中年を過ぎた女性は豪快な体格になります十代のガラス細工のように華奢な少女達が、かくも太い中年女になるのか、その激変は信じ難いものがあります。ア
パートの近所の、日本で言えば庶民の洋品店といった感じの店に一度スカートを買いに行った時、店員が私に首を横に振った姿が忘れられません。瑠璃子がお腹
にいた臨月の頃だって、こんなサイズのスカートははかなかったと言うような、ものすごい大きさのスカートが並んでいました。日本で太っていると言われてい
る人も、ドイツに来れば普通の体型になってしまうでしょう。九号サイズの私は子供服売り場に行くべきでした。賢一さんは日本では柔道選手のようにごついと
言われていましたが、ドイツの洋服屋では、店員に細いと評価を受けて喜んでいました。
賢一さんのまわりにいた、工科大学の女学生はたいていジーパンにだぶだぶのセーターかトレーナー姿で、ほとんど化粧もせずにいましたので、日本の女子大生
とはずいぶんな違いです。それだけ必死に勉学に励んでいるのかと、初めの頃はとても感心していました彼女達がスカートをはく姿なんて想像もできませんでし
たもの。ところが、彼女達もやることはちゃんとやっているということが段々に判明してきました。学生達の間で開かれるパーティーに賢一さんと一緒に出席し
たりするうちに、洒落っ気のないその女学生達が同棲中の彼を連れてくるのです。もともとの器量もけっして良いとは言えない上にこんなに女を磨かないでいて
も、ちゃんと彼氏ができるのですからたいしたものです。ドイツでは同棲してみて、じっくり相性を見てから結婚するカップルが多いですから、同棲なんて珍し
くもない現象ですが、男性が女性を選ぶ理由を是非知りたいものです。
日本で言えば、超一流校の学生そしてそこの教授という、いわゆるエリート達の恋人や妻を見るたびに、彼らが女性を外見で選んでいないことが、じつによくわ
かりました。彼らはドイツでも、平均以下の、はっきり言ってブスをわざわざ選んでいるのでした。多少なりとも美人と言える女性を選んでいたのはわが家の隣
人、機械工学科のハンサム氏くらいのものでした。かなり太めのブスで口紅一本ささない、同じ研究室のレノアの彼が素敵なのには驚きました。
私の周りのドイツ人達がたまたまそうだったのかもしれませんが、彼らが女の容貌より中身を選択していることが、私にはとても新鮮で立派に思えました。男が
女性を外見で選ばないとしたら、これまでの私の男性観がひっくり返ってしまいます。ドイツの男は掃除されたきれいな家に住みたいと思うほどにはきれいな女
と結婚したいと思っていないのかもしれません。
ドイツ人が美醜ということに、あまり左右されない人々だと断言する勇気は、私にはまだないのですが、少なくとも日本人よりはこの傾向が強いことは、確信で
きます。他の言葉で言いかえると、ドイツ人は視覚から入る刺激に、とてつもなく強靱で、救いがたいほど鈍感なのです。
トーマス・マンはドイツ人は世界に音楽を与えた、と言いましたが、美術を与えたとは言いませんでした。ドイツ音楽界の顔触れはざつと考えただけでも、バッ
ハ、ベートーヴェン、ブラームスの三Bをはじめヘンデル、メンデルスゾーン、シューマン、ワーグナーリヒャルト・シュトラウスなどそのまま人類の音楽を代
表するような豪華な面々です。それに比べると、ドイツを代表する画家は四人くらいしか思い浮かびません。すなわちグリュネヴァルト、デューラー、クラナッ
ハ、ホルバインで、彼らは天才であるかもしれませんが、その絵を正視することに喜びを覚える人はあまりいないように思います。彼らの絵はどう考えても「美
しい」ものではなく「凄まじい」ものです。見る者を傷つけ、震え上がらせるような芸術なのです。彼らの生み出した目の芸術を見ることは、ドイツ人の視覚の
頑健さと愚直を理解する手助けになるかもしれません。
四人の天才の絵はそれが傑作であり、人類の宝であることを認めつつも、見るのがじつにつらい。芸術には、身につまされるものと我を忘れるものの両方の行き
方があるでしょうが、彼らの絵は文句なしに身につまされる方です。文学や音楽なら、私は身につまされるものも大好きですが、絵画だけは我を忘れて陶酔でき
るものを選びます。絵というものが、あまりに直接的に視界に飛びこんでくるからでしょう。世の中に屍体を積極的に見たいという人間はそうはいないのに、彼
らの代表作はキリストの屍体なんですから。
堀田善衛氏の『美しきもの見し人は』という美術評論の中にドイツの画家クラナッハとグリュネヴァルトについて書かれた一文があります。私は帰国してからこ
の本を読んだのですが、ドイツに行く前に読んでおけばどんなに良かったかと思います。堀田氏はドイツ嫌いが「第二の性」であると書いているのですが、私が
ドイツの絵画を見て、生理的についていけないと感じたことに、完璧な説明を与えてくれています。例えばミュンヘンのアルテピナコテークにある、クラナッハ
の代表的な「十字架像」について次のように書いています。
クラナッハの、ミュンヘンにある著名な「十字架像」にしても、左側にいる二人の泥棒のハリツケにこそレアリテはあれ、キリス
トはいったい──たとえばなんのために妙な
装飾のビラビラつきのふんどしをしているものか、私には理解出来ないけれども、画面の左側の仕切りになっ
ている十字架の木目の、そのいやらしいまでの生々しさ、つまりは血の流れ方そのものを示唆した木目を描き切るクラナッハという画家については、いかに私と
いえども、やはりこの画家の、いやらしいまでの執念、ドイツ的執念に、やはり圧倒さ
れる。エロの方についても、(筆者注─この
前にクラナッハの裸婦像についての考察がある)また信心の方についても、かくまで強い連中は、とても私の
敵ではない
アルテピナコテークのこの「十字架像」のすぐ近くには、デューラーの傑作「四人の使徒」や「毛皮コートを着た自画像」が展示されています。ここのデュー
ラーの収集は見事なものです。幸い「四人の使徒」も自画像の方も見ていて気分が悪くなるような屍体ではありませんが、これらの人物像の迫力にはたじたじと
なります。四人の使徒ヨハネ、ペテロ、パウロ、マルコの気高く、信仰に燃える使命感の苛烈さは、彼らの視界に入る人間を一人残らずキリスト教に帰依させず
にはおかないほどです。彼らの前では、誰もクリスチャンになることを拒絶できないでしょう。その絵の威力は四人の使徒が画面を突き破って今にも布教のため
に飛び出してきそうなほどなのでした。私は信者なのに、この絵の前から後ずさりしていました。私のクリスチャンとしての信心の足りなさを、四人の偉大な聖
人達にたしなめられそうでした。ましてやクリスチャンではない人間は、この絵からくわばら、くわばらで一目散に逃げ出すしかないでしょう。
「毛皮コートを着た自画像」では自身をキリストにみたてたデューラーが、真正面からこちらを凝視していました。日本人である私は、今まで誰からもこのよう
ないささかの躊躇いもない鋭利な眼光で射られたことはありません。まるで絵の鑑賞者に対する挑戦のような自画像でした。その澄んだ目は炯々と光を放ち、見
る者の心の奥底まで見据えようとしていました。その目は微笑みを返されることをほんの僅かでも期待するものではありません。「お前は一体何者なのだ」とど
こまでも執拗に問いかけてきました。彼は私がどんなに空っぽの人間かを見抜いたにちがいありません。私はその両眼と数秒間視線を絡ませていましたが、思わ
ず目を伏せ降参したのでした。デューラーは自分の死後もこの絵の中で、多くの人々をまるで生きた人間のように見つめ続けているのです。まさに入魂の傑作で
はありましたが、私は身の置きどころなくやはり早々に退散したのでした。
次に語るグリュネヴァルトはデューラーとただ一度だけ出会っています。場所はアーヘンの街。このカトリックの街で教皇カール五世の戴冠式が行われた一五二
〇年のことでした。彼はこの時デューラーから自作の版画を贈られました。グリュネヴァルトはアーヘンで行われた絢爛豪華な戴冠式の光景と、私利私欲の大司
教の行状を見て、カトリックへの反感を強め、後にルターのプロテスタント運動に共鳴したのでした。グリュネヴァルトの畢生の大作「イーゼンハイムの祭壇
画」は、この人物らしく非常に厳しい絵と言えます。前述の堀田善衛氏によれば『世にこれほど怖ろしい十字架像は少ない』という代物です。
賢一さんの指導教授のヒルシュ氏の「素晴らしい絵だ」という勧めもあったので、チューリッヒで学会のある賢一さんに無理を言って、ドイツとフランスが昔か
ら国境争いをしていたアルザス地方のコルマールに寄ってもらいました。かってドイツ領だったこの街はドイツ風の木組みの家々が目につきます。この街の修道
院の一隅にグリュネヴァルトの多翼祭壇画が、まるで遺体のようにひっそりと安置されていました。この祭壇画が世界でもっとも重要な祭壇画の一つであること
は疑いようもないにしても、これを見ることが幸福の感情を喚起するものでないことは明らかでした。見なくてはならないものではあっても見なきゃよかったと
いうものが、人生にはどうしてもいくつかあるものですけれど、これがそういった物の一つであったことを、謹んでママに報告したいと思います。
日本人でキリスト教に抵抗を感じる人がいるとしたら、それは多分キリストの磔の姿の残酷さが容認できないのが、大きな理由の一つではないかと察せられま
す。ヨーロッパはどこかしこもキリストの磔刑ばかりですからどんなに苦しみ抜くその姿にもしばらくすると慣れっこになってしまうのですが、それでもこんな
磔の像はめったにお目にかかれるものではありません。
三歳の瑠璃子は親に教会だ美術館だと、連れ回されていましたが、キリストの磔刑の図を見ても何の関心も示したことはありませんでした。ところが、彼女はこ
の祭壇画を前にすると、目をまん丸くして叫びました。
「このひと、死んでる」
素っ頓狂な声で、世紀の大発見でもしたみたいでした。瑠璃子が絵に向かってこのような激しい反応をしたのは初めてでした。参観者は私達家族だけでしたの
で、子供の大声が非難の視線を浴びずにすみ幸いでした。今まで一度も「死」を見たことも考えたこともない三歳の幼女に、一瞬のうちに、まざまざと「死」の
存在を教えたのですから、グリュネヴァルトの天才たるやいかばかりか、お分かりいただけるでしょう。
画面中央に存在するキリストの身体からは血膿が流れ、傷だらけのその死体は一面の死斑に覆われ死後硬直や腐敗による変色が表れていました。残酷な刑死のも
たらす醜悪、恐怖、無惨の全てがあって、身震いせずにはいられないような絵。これと似たものを想像すると、芥川龍之介の書く『地獄変』の絵師の描いた凄絶
で酸鼻を極める地獄絵が近いような気がします。さらに堀田善衛氏の言葉に助けを借りましょう。
十字架につるされたキリストの苦痛苦悩もさることながら、世に、ここに描かれた聖母マリアの顔と手と衣裳、従ってその全体によって表現された、この絶望の 姿ほどにも、人間のするなる絶望というものが徹して描き切られたものは他にない。
愛する者に死なれてしまった人間の奈落がこれ以上はないほど冷徹で執拗に描き切ってありました。例えキリストが復活したとしても、この絵の中の聖母マリア
の絶望がはたして救われるものでしょうか。
そしてバーゼルの美術館で見たホルバインの「死せるキリスト」が、とどめの一撃で、私はドイツ人の視覚の世界にはとても耐えられないと思うようになりまし
た。バーゼルの美術館は私が知る限りもっとも感じの悪い館員に満ちた美術館ですが、今は彼らの嫌らしさはどうでもよしとします。とにかく灰色の顔をしたや
たらに感じの悪い館員が教えてくれたホルバインの部屋で、その絵を見た瞬間私は思わずハンカチで鼻と口を覆いました。
死臭の経験が一度もないにもかかわらず、その絵からはねっとりとしてまとわりつく、濃厚で胸の悪くなるような腐臭が、はっきりと漂ってくるのです。私はそ
の匂いの感覚を今でも思い出すことができます。絵から死臭が感じられるなんて、天才の技には違いないし、傑作という物が必ずしも美しいとか心地良い物では
ないのは確かなのですが・・・・・。
ドストエフスキーはこの絵を見て信仰を落とす人間がいると書きましたが、私は信仰を考える前に気分が悪くなって、吐き気を催したのでした。私にはこの絵と
対峙して、信仰について考察するという段階までいく強さが、既に欠如していました。一言ホルバインは痛撃であった事実を確認するのみです。
目に心地良いこと、外見の美しさを第一に追求しない資質は、とてつもない偉大な人格を造るかも知れません。しかし同時に醜悪残酷な姿にも無神経でいられる
という事態を招くことでもあります。ドイツの四人の天才画家達は、この両方の特質を備えた作品群を残したと思います。
美女を不必要にもてはやさないドイツ人は強制収容所のユダヤ人達の痩せさらばえたおぞましい姿に耐えることのできた人々でもありました。ソマリアやスーダ
ンで骨と皮になって飢えて死にいく人々の映像より、第二次大戦下のナチスの収容所にいたユダヤ人の映像の方が、ドイツ人の悪しき几帳面さによって着せられ
た縞の囚人服が揃っているだけに一層無惨で毒々しい図式になるのでした。あのような大規模な犯罪の実行は、ドイツの特徴を恐ろしいほど露呈してしまいまし
た。
意図的に飢えさせられた何百万もの集団をその屍体を、屍体から作られた諸々の物を両眼でしかと眺めることに、生理的嫌悪や吐き気や痛苦を感じないでいられ
たドイツ人の、その視覚の何という忍耐力、何という非情、何というタフさ。堀田氏ならずとも、『ドイツの森にはいったい如何なる残虐と絶望の魔が住んでい
るのか、とつくづくと思わざるをえなくなる』のでした。
美女の話がとんでもない方向にいってしまいましたがドイツ人の美醜に対する信じ難いほどの耐性は、日本との天地の隔たりを感じさせました。日本人は「お前
は悪い」と言われるよりも「お前は汚い」と批判されることの方が痛い民族です。日本人は究極のところきれいか汚いかで左右されるのです。良くも悪くもこの
特質が日本を支配し、ある限界を作っているかもしれません。
反対にドイツ人は美醜を乗り越えて突き進んでいくのです。その強固さ、過酷さ、気高さには、日本人の私にはとても太刀打ちできないけれど、こういう人々が
存在することを知るべきなのです。この国の美しさに耐え、醜さに耐えていくことは、どんなに困難だったか、次の手紙にも書いてみたいと思います
最後にこの手紙を書くにあたって多くの示唆を与えてくれた堀田氏の言葉で締め括りたいと思います。
しかし、ドイツという国は極端な国であるとつくづくと私は思う。卑俗さにおいて、愚鈍さにおいて、無慈悲さにおいて、崇高の念
において──それらのことはどこの国でも、
と言えば言えるのであろうけれども、これらの両極がいずれも私には理解しがたい形而上性をこの国において
もっていることにおいても極端な国である。
十一月中旬 居間にストーブを出しました
自宅にて
第七信 ドイツの四季
ドイツという国は、美しさも醜さもその表れかたにおいて、情け容赦のないところでした。もっともわかりやすい例が、その気候でしょうか。私はドイツには実
質的に、二つの季節しかないと思っています。一年の半分にちかい極端に醜い季節である冬と、残り半分の極端に美しい春、夏、秋です。最近新聞で読んだので
すが、初めて外国に暮らす人間の心理を分析すると、最初の半年を極度の興奮次の半年を極度の不安で過ごすそうです。振り返ってみると、私はこの図式のとお
りに、非常に暗くて寒い冬を興奮状態で過ごし、非常に美しい時期を不安にさいなまれて暮らしたことになります。まるで大きく振れた振り子の端から端までを
揺れ動くようなものでした。
生まれて初めての外国生活をまるまる五カ月ものドイツの冬から体験するなんて、今考えてもとんでもないことでした。私は日本の秋からまったく無防備にドイ
ツの真冬の世界に飛びこんだのです。ちょうど六年前の十一月、私と瑠璃子は最初のドイツの地、デュッセルドルフ空港に降り立ちました。準備のため三カ月前
からドイツ生活を送っていた賢一さんに会える喜びと、初めての外国に対する期待に胸一杯で、いったいどんな冬がそこにあるのかこれっぽっちも覚悟していま
せんでした。
税関を抜けると、当時まだ二歳の瑠璃子はつないだ手をぎゅっと握りしめて、嬉しそうに私を見上げて一言、「ここ、デパートでしょ」と言いました。外出好き
の母親に育てられたせいか、何よりデパートの好きな子で、空港に並ぶ商店の雰囲気が素敵だと思ったのでしょう。瑠璃子にとって初対面のドイツはデパートの
ような楽しい場所に映ったのでしょうか。その後の彼女のドイツ生活に艱難辛苦が待ち受けていることを知るよしもありませんでした。
私はというと、樺太と同じ緯度にあるドイツが寒いだろうとは想像していましたが、今までに経験したことのない種類のひどい寒気に襲われ、身体から血の気が
ひいていく感じがしました。全身が消毒液に浸かったような気分でした。人がこれほど集まる空港なのにまるで病院にでもいるような、滅菌されたあとのひんや
りした感触です。床は塵一つなく磨き上げられ、人々はおし黙ったまま憂鬱のベールを被って行き来していました。信じがたい清潔と静寂、得体の知れない寂寥
感に覆われ、私は思わず身震いしました。冷気がしんしんと背筋を這うように迫ってきました。空港の建物は暖房が効いていたにちがいないのに、この寒さの感
覚は拭っても拭いきれないのです。たとえストーブを胸に抱いていてもこの寒さからは逃れられないと思いました
ママはいつか言っていましたよね。外国暮らしの長い某ジャーナリストが、ある国で十年暮らした後の感想は、その国に初めて入ったときの第一印象とけっきょ
く同じだったと書いていたこと。私がドイツに足を踏み入れたときの骨身にしみて「寒い」という第一印象は、帰国した今でも私のドイツの思い出を貫くもので
す。ドイツをドイツたらしめたものは、北の国の寒冷で陰鬱な冬の心象風景でした。そこは気候的な寒さだけでなく、心まで寒くなる国でした。太陽の恵みから
見離され、誰も彼も孤独に生きています。日本のおてんとうさまの下での活気と喧騒とお金のやりくりの中ではけっして現れることのない、何か断固とした、恐
ろしい予感のする研ぎ澄まされた冷気が流れていました。
私が迎えた初めてのドイツの冬が、例年になく厳しい冬だったとは思いませんが、それは過酷なまでに太陽のない生活として、私の目の前に存在しました。五カ
月の間、いちおう晴れと言えるほど太陽が差したのはわずか五日ほど、片手の指で足りてしまいました。他の日々は太陽が照ってもほんの一瞬のことで、明けて
も暮れても鈍色の雲が空を覆うか鬱陶しい霧に包まれるか雪がちらつくか、凍てつく雨が地面を叩くかの毎日です。
外の非常に厳しい寒さのうえに、さらに重苦しいのは暗さでした。冬至の頃には、朝九時頃に太陽がやっと顔を出し、三時頃には日が傾いてしまうのです。人々
は暗闇の中を通勤、通学し、帰路も暗闇の中です。天気が悪いうえに、光のある時間が短いのですから、部屋では一日中電気をつけなくてはなりません。ドイツ
の冬を経験して太陽というのが人間生活にとっていかにたいせつか思い知らされました。太陽は空気を暖めるだけではなく人の心も明るくするのです。
ごく短い期間を除いて、洗濯物を外に干して乾くような好天などほとんど望めないのがドイツの気候だと知りました。それでもクリスマスまでは冬の圧迫感を紛
らわせる街の楽しさ、美しさもあるのですが、新年すぎて、二月、三月が出口の見えないトンネルのように長く、物憂く、不愉快で、耐えがたいのです。生まれ
たときからドイツに住むドイツ人にとっても、冬は我慢の限界といえるほど長く続いてつらいのですから、東京育ちの私にとっては、限界を通り越して拷問のよ
うでした。私は冬中スチームにかじりついて、ぞくぞくする震えや沈みがちになる気持ちをふり払おうとしていたのです。
新居に落ち着いて間もなく、雪が降りました。ついに冬将軍到来かと覚悟した私は、郵便局へ行く用があったので、瑠璃子に重装備させました。厚手のタイツを
履かせ、その上に靴下を重ねました。シャツの上にセーターコーデュロイのサロペット、裏地に毛のついたコート、おまけに毛糸の帽子、手袋、マフラー、ゴム
底の長靴です。横に転がしたくなるほど着ぶくれした瑠璃子は、玄関を出た瞬間、
「お顔が寒い」
と、泣きました。宇宙飛行士みたいなヘルメットがあればよかったのでしょうが、お顔ばかりは厚着をして覆うわけにはいきませんこれにはまいりました。寒さ
に慣れるまで瑠璃子はたいへんでした。外出の好きだった子供が外を嫌がり、連れ出すと寒いと泣きじゃくりました。少し風が吹いても、私に「寒い寒い」と抱
きついて離れません。子供心にもこの寒さは理不尽な感じがしたのかも知れません。
私達一家は冬と格闘していました。賢一さんは朝早くから賠償金を払わないための雪掻きに精を出し、大学に行く前には、車庫から三十分もかかって車(中古の
ポンコツですが必需品で仕方なく老夫婦から購入)を出していました。車庫の鍵穴が凍りついていたり、雪で出口が塞がっていたりするのです。とうとう彼はあ
かぎれができてしまいました。私は冬中布団を頭からすっぽり被って寝ていました。顔を出して寝るのは寒いので、頭上のほんのわずかの隙間から息をしていま
した。外出のときには肩がこるほど厚着をして、同じく寒雀のように丸く着ぶくれした瑠璃子を激励しながら連れ歩きました。冬は私達の生活にのしかかってい
ました。初めての異国の生活に気が高ぶり、石ころ一つ見ても嬉しくなるほどの感激状態にあつた人間が、ドイツの冬の閉塞感、圧迫感によってどんなに気落ち
したか、うちひしがれたか、想像してみてください。寒さと暗さは人を泣かせる充分な理由になることを知りました。
しかし、矛盾するようですが、私は日本に帰りたいとは一度たりとも思わなかったのです。冬一色に染まった陰気によどんだ世界には、それまでの私にはまった
く未知だったものが横たわっていました。荒涼として暗澹たる空を見上げると、三途の川を渡った世界を体験しているような気分になりました。救いがたいほど
鬱々とした季節は瀕死の病人のようでしたが、それゆえに侵すことのできない不毛のもたらす魅力もあったのです。
鉛色の冬に抵抗するかのように、華やかに暖かく飾られた店のウィンドウディスプレイドイツの奇妙にも静謐な街並み、人々の時間に追われない歩きかた、話し
声の固い抑揚、音楽のまるで透明なガラスの中でのような鮮明な響きかた、降り積もる雪の驚くほどの軽さなどのさまざまな情景が、不思議の国に入りこんだよ
うな感触で、いつまでたっても現実のこととは思えないのでした。帰国した今ふり返ると、私はドイツの厳しい冬に喘いでいたのに、地に足のつかない浮遊した
精神状態で暮らしていました。何かとんでもない経験をしているらしいのに、気持ちが右往左往していてそのことを理解できず、典型的な興奮状態にありまし
た。
そして本格的春を目前にして、私は自分でも気づかぬうちに危機的状態になっていきました。精神の均衡が少しずつ崩れて、私は自分で自分を操縦することが不
可能になっていきました。その経緯を再現するのは今となってはずいぶん難しいことです。思い出すのもおぞましいことなのですから。それはまず、四月の天候
から始まったのかもしれません。日本では「女心と秋の空」と言いますが、ドイツでは女心は四月の空でした。不順な天気は三月の中旬から四月とずっと続いて
世の中にこれほど乱れる天気がありえるとは、と驚く日々でした。とくに極端だった一日の天気を日記から捜すと、かっと晴れる、突然霰が降る。そして雪に変
わる。また晴れる。すごい雨が降る。気温は五度になったり、二十度になったりと劇的に変化していました。私はかって想像したこともない、めまぐるしく変わ
る空模様のせいか、頭痛に苦しんだと書いてあります。
私の高校時代の友人で、ドイツ滞在が七年になるYは私の体調の悪さを聞くと、春先特有の病気じゃないかと教えてくれました。ドイツには春先に体調不良にな
る女性が多いそうです。「とにかく、気温の変化も気圧の変化も激しいので、私も春先になると下も向けないほどの頭痛に苦しむことが多いのよ」
とYは、そういう症状のための薬も紹介してくれました。とにかく思い出すだけで、気分が悪くなってきま
す。寒いんだか、暖かいんだかめちゃくちゃです。雪掻きして暖房をつけたと思うと、日が差してきて厚着のせいで汗ばんできます。コートを着たり脱いだり、
傘を持って行ったらいいのか、いらないのか窓を開けたり閉めたり、安らぐことができません。瑠璃子に風邪をひかせてはいけないと朝から晩まで着替えさせて
面倒をみながら過ごすうちに、私の体調は春先の一過性のものとも思えないほどおかしくなってしまいました。
何か疲れて息苦しくて、肩で息をしていました。少し歩いただけでも心臓が動悸を打ちます。朝も目がまわって容易には起き上がれない。その上頭痛は慢性的に
私を悩ませていました。日常生活にも支障をきたすようになり、フォン・コンタ夫人に教えてもらった近所のドクターに行きました。血液をとられ、数日後の診
断で「ひどい鉄欠乏性の貧血」とされ、薬を処方されました。その女医からは「なんでこんなに鉄分の値が低いのか」と尋ねられましたが、医者にわからないこ
とが私にわかるはずはありません。血圧も低いので低血圧の薬まで出されました。貧血の薬が効き始めるまで一カ月くらいかかり、私は四月から五月の初めまで
寝たり起きたりの生活を続けました。
この年は春の訪れが例年より少し遅かったようです。五月に入ってまもなく、半年ぶりに見るような鮮やかな空が広がりました。その日は体調もよく、今まで
の、重い肩の荷を下ろしたような爽やかな気分でしたので、瑠璃子と散歩に出ました。アパートの裏手のいつも歩くスーパーへの道に足を踏み入れて、私と瑠璃
子は思わず息をこらしました。
「ママ、お花がいっぱいよ」
青々とした芝生一面に、白い花、黄色い花が湧き出るように咲き溢れています。一昨日通ったときにはこんなに花は咲いていなかったのに、どうでしょう。一気
に春になったのです。黄色い花はよく見ると、タンポポです日本にいる時は、タンポポはただの雑草で美しいなどと思ったことはありませんでした。ところが、
今芝生の上に黄色い絨毯のようにいっせいに咲いている姿の愛らしいことといったらありません。ドイツ語でタンポポは「レーヴェンツァーン」と言い、訳すと
「ライオンの歯」という意味だそうです。黄色い花びらが、ライオンの黄金のたてがみを思わせるからでしょう。そよ風に揺れる小さなライオンの歯は、春の可
愛い使者でした。長い忍耐の季節からようやく解き放たれ、自然は生彩を取り戻しました。晴れ晴れとして麗かな春の姿に、心地よく漂っていると、
「ママ、うさぎさんよ、見て見て」
瑠璃子が、感極まったように叫びました。瑠璃子の指す方を見ると、ピーター・ラビットの世界から抜け出してきたような、丸い目をした茶色い兎が二匹、芝生
の上を飛び跳ねています。それからはもう、兎を追いかける瑠璃子と走るわ、飛ぶわ、転ぶわの大騒ぎです。
日本の季節は微妙に移ろうところに風情があるのですが、この国では冬はある日突然春に変わるのです。生き生きと鮮やかな色彩の春が、怒濤のように訪れてき
ます。木々は世にも精妙な美しい若葉をつけ、あらゆる花が濃厚な香りとともに爛漫と咲き、鳥たちがフルートのように囀ります。鳥の歌声は本当にきれいで
す。いったい何という鳥の声か、詳しくない私にはわかりませんが、ヨーロッパに来て改めて、フルートが鳥の声を真似て作られた楽器だということを発見しま
した。(日本の笛は日本の鳥の声に似ていますね)
シューマンに「美しき五月に」という有名な歌曲がありますが、五月がたとえようもなく輝かしい季節であることを知りました。私がもっとも心うたれたのは、
夏に入る前の一時期、五月にだけ見られる青葉でした。五月の新緑は繊細で独特の色合いをしています。酸素のように澄んだ海の雫が、若葉の一枚一枚にしたた
り落ちたような色でした。木々の葉の中に青い濃淡が鱗のようにちりばめられて、春風に揺れながら輝いていました。
このような、唐突に訪れた喜びの季節に対処する方法は一つしかありません。有頂天のあまり、私は瑠璃子を連れて毎日毎日出歩きました。外に出かけずにはい
られないのです瑠璃子と近くの芝生に腰掛け、牛の昼寝に付き合ったり、馬のギャロップに見惚れたり、街に出てアイスクリームをなめながらウィンドウショッ
ピングに精を出す。夏時間になって夜は八時過ぎまで明るいので、夕食の後までアパートのまわりのそぞろ歩きを楽しみました。二週間に一度医者に通うように
なって体調はよくなったとはいうものの、こういう行動は私の体力に相応しくありません。事実私はこの生活を一週間も続けると、ひどく疲れてきました。
ところが、どんなに疲れてもこの行動を止められません。外の世界は輝きに満ちていて身を切られるように美しいのです。ママは笑うかもしれませんが、私の人
生に訪れた初めての春だと絶叫したくなるほどの季節でしたアーヘンの緑深い街を歩きまわることが、抑えがたい衝動になってしまいました。出歩かずにいられ
ない、まるで麻薬の中毒症状のようでした。賢一さんに「なんていう顔色をしているの」と言われても、何一つ変えられません。日ごと夜ごとに視覚の悦びは増
すばかりでした。自分でも体力がもたないとわかっているのに、どうしても身体が絶世の春の世界に向かっていきました。これは本当に苦しいことでした。
私は冬の憂鬱に慣れていませんでしたが、それ以上に過度の美しさというものに慣れていませんでした。許容量を超えた自然の美を前にしてなすすべもなかった
と思います。旅先で絶景を眺めるという状態なら、短い時間のことですから、感動を胸に暖める余裕があります。でも日常生活がすっぽりこのような美しさに包
まれてしまうと、いたたまれなくなりました。私は醜悪や不快にある程度の耐性はあっても、極端な美しさに長時間さらされることに耐える力に欠けていまし
た。春の訪れは不意打ちの衝撃でした。街全体が発狂したように美しいのです。美に対峙することがこれほど困難であるとは、夢想だにしていませんでした。
ドイツ人は、じつに逞しい人々です。あれだけの厳しい冬にも負けず、エデンの園さながらの春の楽園にも耐えられるのですから。これは民族的な強さです。私
は感嘆しましたとくに体力不足の私に関して言えることかもしれませんが、ドイツの極端な季節の変化は辛いものでした。私の命は擦り切れたように疲れはてま
した。私は醜さよりも美しさに傷つきました。
アパートの広い窓から、狂い咲く春を眺めやり、矢庭に「私はなんて幸せなんだろう。これはもしかすると、私の人生で最初で最後の春。正真正銘のたった一度
の春にちがいない」という想念にかられ、続いて凄まじい不安の波で、窒息しそうなほどの胸苦しさに襲われました。それまで何の曇りもない幸福の感覚を一度
も経験したことのなかった私は、こんな恐ろしい美しさが続くことは絶対ありえないと信じていました。早急に何かが失われるにちがいありません。これだけの
美に釣り合う不幸とは、いったいどのようなものか想像するだけで身震いしてしまいました。
ドイツ生活の後遺症から抜け出ることのできた今思うことは、人間は俗世の醜さ、苦しみ、不快を抱えていてこそ、健全に生きていけるということです。私は心
理学を勉強していなかったことを後悔しています。人間はストレスがないとノイローゼになるということだけでも知っていれば、ずいぶん助けになったでしょ
う。戦争中はノイローゼになる人が少なかったというではありませんか。異国での体験はどこか夢に似ていて、現実から隔絶されています。そこでひとたび不安
の渦に巻き込まれてしまえば、一気にノイローゼに落ち込むのでした。
臨床心理学者の河合隼雄氏が新聞のインタビューでこんな面白いことを言っています。人間の悩みというのはある程度その人を守っている。人は表層の悩みに
よって、深い悩みを感じないようにして生きているので、うっかり悩みを取ると、ものすごくおかしくなる人がいる。だから臨床心理学者はすぐに患者の悩みを
取らない。取ると危ない。私はこの記事を読んで唸りました。帰国してから分析しても仕方ないことではありますが、私の春先からのノイローゼ状態は、まさに
表層の悩みから解放された結果だったのでした。
私は物心ついてから恒常的に父親という異常人格にストレスを感じていました。私の父親は初対面の人間を、最初の五分以内に激怒させるという特技の持ち主で
した。父と話したことのある人間は誰でも、ただちに父のことを嫌悪しました。あらゆる歯医者と喧嘩しタクシー運転手からは金はいらないから降りてくれと言
われ、銀行をひっくり返る騒ぎにし、レストランの従業員を脅えさせました。些細なことであれほど他人を責め苛むことのできる人間を、私は他に知りません。
会社でも家庭でも激しく攻撃的な人で蛇蝎のごとく嫌われていました。自分ほど優秀で美男はいないと思いこみ、自分以外の誰をも認めず、愛さず、類稀なる吝
嗇で守銭奴。あの人間性がいかにママや私や妹を脅迫し圧迫していたことか。父と話していると、胃の具合が悪くなることはしょっちゅうで、三人とも胃薬が欠
かせませんでした。父は自分の家庭を針の筵にしていました。私は結婚しても絶えず父親にまつわるトラブルに巻きこまれていました。
それがどうでしょう。ドイツと日本は遠くて、父の存在が消えてしまいました。電話代が惜しい人ですから、声を聞く必要もないし死ぬことが心配で飛行機に乗
らない人ですから姿を見ることもない。私や瑠璃子に愛情がないので、手紙一本来ることはありません。ママもあの人の非常識でわがままな言動を国際電話で私
に伝えることはありませんでしたこれは驚くべき変化です。私は生まれて初めて父から自由になりました。冬の間は新しい環境に慣れることに必死でしたし、父
の脅威の余波が心に残っていたのでしょう。私は父から解放されたことに気づいていませんでした。そして精神はなんとか安定を保っていられたわけです。
突然春が来て、私は自分がかってないほど自由なことに愕然としました。父の存在を忘れる暮らし、父に虐待されるママを悲しむことのない生活。これこそ表層
の悩みのなくなった状態です。私の悲願は心安らぐ平和な家庭でした。その理想が凄まじい美しさの春とともに実現してしまいました。私はおかしくなるべくし
てなったと言えましょう。
過去に一度も完全な幸福感に充たされたことのない人間には、爆発的に訪れた喜びの急襲は不気味というより、恐怖を感じさせるものでした。優しい夫、かわい
い子供、芳しく麗しい春。まるで絵に描いたような幸福ではありませんか。賢一さんと瑠璃子がアーヘンの春の花畑を歩く姿を眺め、私はその親子の絵に涙ぐみ
ました。この絵は私の冥土へのみやげなのだ。私の死の瞬間に蘇るかけがえのない映像なのだ。そうとしか思えないくらいすべてが美しいのです。欠けているも
のが何もないのです。
幸福は続くものではありません。いえ、確実に失われゆくものでした。少女の頃から父親の理由のない不機嫌と命令、涎を垂らしながら怒り狂い、突発的にグラ
スを握り潰すような暴力によって、楽しみにしていた予定やうれしい夢のかずかずを打ち砕かれ続けた経験を重ねたので、完結しない願望はすでに私の人格の一
部になっていました。ドイツの生活は私の人生の耐えがたい重荷を一気に取り払ってくれました。急速に軽く自由になった人生は、糸の切られた凧のようなも
の。大空をコントロール不能の状態で漂う不安の塊です。私の精神はじつは父親という悩みによって守られていたことが、帰国して四年もたってようやく理解で
きるようになりました。
不安に苛まれた私はこう思うようになりました。極端に醜く陰惨な冬の代償が、至上の春の訪れであり、またこの生命の輝きの春の代償が冬の死の世界である。
私の今感じている幸福感の代償が何であるかは、もはや明白だ。それは死。私は間近に迫った死の恐怖に悪寒がして、青ざめました。
私は見る間に病気ノイローゼになったのです。発端は数カ月遅れで読んでいた、日本の週刊誌の記事だったと思います。ある女性ジャーナリストの乳癌の闘病記
でした。日本にいればこの種の生々しい記事は苦手で読みもしなかったでしょうが、異国で日本語の活字に飢えていた私は、どんな雑誌でも隅々まで読まずにい
られませんでした。そこには三度目の再発で癌が脳に転移し、声が出なくなったという内容がありました。癌を発病、乳房を切除し、抗癌剤で髪の毛を失い、果
ては転移で声を失う。絶え間ない頭痛と吐き気に苦しみ、医者から余命がいくばくもないことを宣告される。凄絶な闘病の記録に私まで声を失ったようなショッ
クでした。
アメリカで治る見込みのない患者を、本人の希望どおりに自殺させた医者が告発されたことを覚えていますか?
その医師が語っていた言葉は忘れられません。
「彼女(自殺させた患者)は、死そのものよりも、病気が彼女にもたらすものをひどく恐れていた」
死への恐怖とは、これにつきると思うのです。死後の世界の存在など、死ぬ瞬間と死を迎えるまでの苦悶に比べたら切実な問題ではありません。死ぬためにはど
れほどの苦痛に耐えなければならないか。私にとってこの死への惨憺たる過程こそ、死の恐怖の実相でした。赤ん坊は生まれ落ちるとき、母親の陣痛よりも苦し
い思いをしていると聞いたことがあります。死ぬときも同じように、病苦に蝕まれた肉体が痛みに喘ぎ、自分が愛していた全てのものに決定的な別れを告げる。
その恐れと悲しみに心が張り裂けるとしたら、私には到底試練に打ち勝つ自信はありません。
私はまもなく左胸に鈍痛を覚えるようになりました。乳癌ノイローゼの始まりです。目の前が真っ暗になりました。瑠璃子の相手をしていても、気が晴れること
などありませんでした。そのまま数週間が過ぎ、何気なく鏡を見たとき、私は自分の二の腕にある小さな黒子が、昔に比べて大きくなったように思い驚愕しまし
た。今度は乳癌の上に皮膚癌の始まりです。
日常生活すべてが深刻な癌ノイローゼに支配されました。私は毎日定規で何ミリかの黒子の大きさを計りました。計り始めてからは黒子の大きさは一定ですが、
私は昔の写真を引っ張り出しては、黒子が変化していないかと、疑い続けました。左胸も相変わらず鈍痛がありました。病院に行って宣告されることは空恐ろし
いことでした。持病の頭痛も間違いなく、脳腫瘍に思えてきました。世の中に脳腫瘍になりたい人なんているでしょうか。
私は夜中に死の恐怖から目覚めていることが多くなりました。夜中の暗闇は、四方を絶壁のように取り囲んでいました。私にはもう朝は来ないかもしれない。死
ぬとはこんなにも一人きりの孤独なことでした。賢一さんと瑠璃子は安らかな寝息をたてて眠っていました。たとえ賢一さんが一晩中起きていて私の手を握って
いてくれても、慰めにはなるでしょうが、私の出口のない恐怖には何の役にもたたないのです。心底孤独でした。
眠れない夜が続き、病気ノイローゼが進むと当然胃が悪くなります。食欲も失せ、胃がむかむかしたり、痛んだりして、次は胃癌です。春先の花粉のせいで、目
が痛くて開けていられないほどになりました。日本にはない種類の花粉でしょう。初めての花粉症です。あまり目が痛いので、頭まで痛くなり寝込んで、今度は
急激に失明する危険のある緑内症を心配しました。さいわいにこの目だけは眼科できれいに治りましたが病気の恐怖は次々に私を襲い、私は一人でときには夜を
徹して悩み続けました。
賢一さんには私のノイローゼの深刻さはわからなかったでしょう。彼は私がたんに体調を崩しているだけと思っていました。私は一度口に出してしまえば、病院
に連れて行かれて、すぐに病気が現実のものとなることにひどく脅えていました。それに健やかにドイツでの生活を謳歌している賢一さんに、私の暗さを伝染さ
せてはならないと考えました。留学ノイローゼになった学生を何人か知っていました。異国で一度精神の均衡を失ってしまえば、立ち直るのは容易なことではあ
りません。私にもその程度の分別が残されていて、本当にさいわいでした。
賢一さんは黒子の大きさを何ミリと定規で計る私を見て、
「その黒子をとったら、バラのタトゥでもしてみたら。似合うかもしれないよ」
などと、人を慰めてるんだか、茶化してるんだかわからないことを言うのでした。いろいろ書き並べてきたこの病気ノイローゼは、私には壊滅的なものでした
が、賢一さんの対応したように、他人から見れば滑稽で喜劇の様相が濃いことに気づきます。憧れの外国生活で、過去にひきずっていた父親の強度の呪縛から解
放され、幸福を感じたあまり極度の不安に陥り病気ノイローゼを患う主婦。まったく誰が同情してくれるでしょう。
私は見たことがないのですが、ウッディ・アレンの映画に病気ノイローゼを主題にしたものがあるそうです。主人公が次から次へと病気を疑っていく喜劇で、結
末は主人公が「人間はその日その日を楽しく生きればよいのだ」と悟りハッピーエンドとなるそうです才人監督の手にかかると、病気ノイローゼも立派な映画に
なるのですね。ウッディ・アレンもこのノイローゼに苦しんだことがあったのでしょう。誰でもある環境と条件が整えば簡単にノイローゼになれるのかもしれま
せん
七月に入り、夏と呼ばれる季節になりました。緑が深まりいい季節なのですが、この年は雨が多く、くる日もくる日も雨の降る寒い夏でした。アーヘンはモーゼ
ル河の近くなので、もともと雨の多い土地柄なのです。
「ハンブルグにいたときは一カ月雨の降り続いた夏があったわ」
某電気メーカーの駐在員の夫人がしみじみと言いました。たかが二週間降り続く雨ごときでうちひしがれるのは甘いのでした。私のイメージする夏とはあまりに
かけ離れていました。私はまだセーターを着ていたのですよ賢一さんはまわりが皆バカンスをとってしまったので、仕事がはかどらないとぼやいていました。賢
一さんは自分の実験が進められないのに業をにやして「イタリアでも行くか」と一言。私はこのまま雨のアーヘンにいたら鬱病まで抱えこんだでしょう。すぐ賛
成しました。イタリアに出かけたことは束の間であっても、大きな気分転換になりました。
病気ノイローゼもダ・ヴィンチやミケランジェロやジョットの前では一時霞んでくれました。あの国にドイツから旅行することは、生きるエネルギーを得ること
になるものですゲーテならずとも、ドイツ人が血相変えてイタリアに行きたがる気持ちがよくわかりますもしドイツ人から夏の南国行きのバカンスを奪ってしま
えば、彼らは確実に病気になるでしょう。イタリアの太陽はすべてのドイツの憂鬱を吹き飛ばしてしまいます。
しかしイタリアから戻ると、さっそく暗雲が垂れこめる日々が再現されました。ノイローゼを通り越して本物の病気です。私はイタリアの暖かさや湿度とドイツ
の低温で乾燥した気候の落差のせいか、持病の耳の病気になり、鼓膜の不調に一カ月も苦しみました。また帰宅早々瑠璃子は高熱を出す始末。高熱とともにイタ
リアで蚊に刺された跡が、人相が変わるほど腫れ上がりました。医師がマラリアの可能性は少ないと言ったせいで、私はかえってマラリアを深刻に心配するはめ
になりました。次々と病気、病気。ドイツに戻るとなぜか忌まわしい病害にからめとられてしまうのです。
何度も病院に通う道すがら、私の目は、水晶体がクリーナーで磨かれたような気がするほど清浄なドイツの夏の風景を味わいましたイタリアの眺めは、底抜けに
明るく、華やかだけれど、どこか埃っぽく掃除の余地があったのとは大違いです。ドイツの木々は春先より濃厚な松葉色の葉で覆われていました。ドイツの夏の
森は緑色に燃えるように火勢があり巌のように盤石に感じられました。その重厚さはやはり北の国の魔力を底に秘めた森です。あらゆる病気を復活させるほどの
力があるものでした。とまれ夏の足もとに既に秋の気配は近づいていました。
春の訪れが突然であるように、秋も一瞬に森を覆い尽くします。木々はその日にわかに「黄葉」するのです。森や丘や公園がさまざまな黄色に染め上げられ、
ヨーロッパが一番美しい姿を見せてくれます。ドイツの秋は、春よりさらに短く、瞬く間の時間しかありません。それは恐ろしく美しい時間です。すべてが死に
絶える、運命の冬の前の、慰めの季節。成熟と黄昏の季節に他なりません。春の姿は幸福と生命の輝きに満ちた悦びですが、秋の様相は終末を覚悟して飲みほ
す、甘美で芳醇に酔わせてくれる美酒のようなものです
九月から十月にかけての私と瑠璃子の病気もどうやら落ち着いてきて、迎えた十一月一日の日曜日、ひさしぶりに散歩に出ました。それはほとんど冬にちかい、
秋の最後のひと滴の一日でした。ドイツの休日は店が閉まり娯楽施設もあまりないので、散歩が手頃な楽しみです。ドイツ人は森の中をひたすら歩いて楽しんで
いました。家に閉じこもってつくづく病み疲れていた私は、歩くしかないわとやけくそ気分で出かけました。賢一さんも私もドイツの秋を知らずにいて、とんだ
しっぺ返しを受けることになったのですが……。
私達はまずヴェストパークに出かけました春には新緑の横溢していた公園が、黄色の洪水のような落ち葉の絨毯に敷きつめられていました。歩くごとに足首まで
その絨毯に埋まるほどの深さがありました。木々からはヘッセが詩の中で、「黄金のしずく」と表現したまさにそういう葉の一枚一枚が、次々に舞いながら流れ
落ちました。それはみごとな秋色を湛えて、息をのむ美しさです。噴水のある小さな池の上にも、秋の葉が無数にこぼれ落ち、その間を水鳥たちが器用に泳ぎま
わっていました。瑠璃子は落葉の中を小動物のように夢中で駆けまわって、公園の遊具でひとしきり遊びました。
賢一さんと私は秋の景観に取り憑かれたように、瑠璃子を抱いて車で出直し、アパート近くのゆるやかな丘陵を走らせました。アーヘン南西部の丘からは郊外に
広がる森が一望出来ました。頂上付近で車から降りて賢一さんと私は、言葉もなくその眺めに見入りました。夏の激しい緑が燃えつきて、金色のベールが舞い下
りたように、木々はさまざまな黄色、レモン色や琥珀色、鬱金や芥子色に染め上げられました。その木々の輪郭が霞むあたりに透けて見える空は、穏やかな晩秋
の光に黄ばんで見えました。
ふいに森の奥底から音楽のうねりがたちのぼるのを感じました。ソプラノの朗々とした響き、豊穰で物憂い調べ。私の記憶の中に封印されていたある音楽が堰を
切ったように流れ出し、すぐさま私の全身を黄金の光で満たしました。それは何の歌か。底鳴りするように森が奏でる音楽の正体は・・・・・
リヒャルト・シュトラウスの『最後の四つの歌』の中の第三曲『眠りにつくとき』、歌手はジェシー・ノーマン。シュトラウスが自分の人生の黄昏と死の予感の
なかに作曲した曲は、まさにドイツの秋の音楽だったのです。
私はシュトラウスの世界に酔いしれ、痺れたように動くことも出来ず、黄金に沈みゆく森を眺め続けました。栄華を誇った夏が過ぎ森はけだるく、眠りにつく前
の死化粧をしているのです。それは一日の終わりの、匂い立つような、夕映えの美しさに酷似していました。数々の思い出を溶かしこみ、森は今まさに秋の金色
に滅んでいこうとしていました。
「なんてきれいなんだ」
感動を直截に言葉にすることの少ない賢一さんが溜め息をつくように、呟きました。
私達はそのまま家に帰る気にはなれなくてまるで黄金の夢のなかを漂うかのように、アーヘンの街をひたすら車で走りました。目的地もなく、ただ秋を味わって
いたいがためにさまよいました。半時ほど走り、私達の車は墓地の前の信号で停止しました。前の二台の車は墓地に入ろうとして左折の合図を出していました。
後続車も左折の合図をしています
「墓地に入る車が多いけど、何かあるのか」
賢一さんがそう言ったので、私は万聖節のことを思い出しました。
「十一月一日は万聖節だわ。諸聖人をお祝いする日で、お墓に花を持っていくのよ」
「われわれも入ってみようか」
前の車に続いて私達も墓地の駐車場に入りました。その墓地はアーヘン西墓地でした。ドイツの墓地は手入れがいきとどき、花の多い美しく静かな場所ですが、
今日は墓地の入口にある花屋がとくに賑わっているようでした。年配の墓参者が多く、手にそれぞれの花束を持っていました。ドライフラワーや日持ちのする花
を合わせた茶系の、秋らしい色に整えられた花束が目につきました。
墓地の中はしずかに、秋に貫かれていました。鬱蒼と繁る木立が、金色の波の洗礼を受けて、朽ちゆく前の黄昏の色に煎じられています。そしてどの墓の上に
も、樹木から「黄金のしずく」が舞い落ちて、死者たちを、心地よく豪奢な、しかし二度と脱ぐことのできない、秋の衣服に包みこもうとしていました金茶色の
木々の間をぬって歩いていくと小さな教会の尖塔が見えてきました。ここで最後の別れをすませた遺体が墓へと運ばれるのでしょうか。私の耳の底には、途切れ
ることなくリヒャルト・シュトラウスが響いていました。「眠りにつくまえ」の私は、眠りについた人々の住む墓地に佇み、いつの日か自分もこのように終わる
ことを思わずにはいられませんでした。
ある墓の前では老いた婦人が、おそらく彼女の夫だった人のために祈りを捧げていました。もうじき自分もあなたの側に眠ると思っていることが、ありありとわ
かりました。すれ違う若い夫婦は、どちらかの両親の墓参りでしょうか。足早に去っていきました。ある老紳士は眉間に深い皺をよせて、こうもり傘を手にして
黙々と歩いていました。幼くして死んだ子供の墓には、もう嘆く人もいなくなったのか、花束はありません。
ときおり、墓地の中の季節の色にまったく不釣り合いな、目にも鮮やかな生花の花輪が溢れるばかりの墓がありました。できて間もない墓でしょうか。そこだけ
は遺族の熱い涙で、落ち葉までが溶けてしまったように、花々が精一杯、目を見開くように咲いていました。しかし降り注ぐ黄金の葉にのみこまれるのを、いつ
までも拒み続けることはできないのです。花の色香も滅びの季節の前では、無力でした。人間の一生のように、はかない抵抗です。私は墓地を歩き続けるうち
に、胸が焼けつくような気分に襲われました。
もの思いに沈んだように墓を見つめる人々の横顔が、何かいたたまれない感傷を呼び起こしました。どの顔もどの顔も、誰かの死を見つめ、それ以上にきたるべ
き自分の死を思いわずらっている。墓の前に佇む人々は、死が訪れることに一心不乱に向き合っていました。この墓地は切々と悲しい場所で、私を激しく傷つけ
ました。日本の墓地との違いは明らかでした。日本の墓地は死を思う場所というより、先祖と安らかに語り合い、先祖に礼をつくす場所としての要素が強いので
す。日本でお墓参りをする人は、ここまで深刻な孤独の相を見せはしません。たとえ親の墓参りであっても、そこにあるのは他人の死であって、人々は病院で感
じるような自分の「死」と直面してはいません。
西洋はやはり「メメント・モリ」の場所でした。人間の時間には限りがあると思わずにはいられない風土があるのです。自分という存在は、ただ一度、たった一
度、それだけ。そう囁く声が絶えず人を脅かすのです。これだけ美しい季節に住めば、そこに永住できないことを、一瞬たりとも忘れることなど不可能です。痛
切に死にたくないと思うではありませんか。
私はドイツの秋を見て、世界はなんて美しいのだろうと、圧倒されてしまいました。春に狂喜し「私の人生に訪れたただ一度の春だ」と感じたように、秋の姿も
「ただ一度」のものだと確信せずにはいられませんでしたその美しさはあまりに完全であるために、自分の人生でふたたび繰り返されるとは信じられなくて心の
中で慟哭するのです。私の知る日本には、こんな常軌を逸した、致命的なまでの四季の美しさや醜さは存在しないので、死ぬときにあの秋をもう味わえないと胸
をかきむしり、冬を迎えることに恐れ慄く必要はありません。
私達は墓地の中を言葉もなく放浪しました数多くの花束と、あまたの人生の残骸を味わいつくし、秋が墓地の中でみごとに凝集しているのを見つめました。黄金
のしずくは落ち葉のことでもあり、暮れ悩む涙のしずくのようでもありました。
誰も彼もみんな行ってしまった。たった一度、ただ一度。私も、賢一さんも、瑠璃子でさえも一回限り。ふたたびこの人生を歩み、この地を踏むことはない。秋
は運命の冬を目前にしているゆえに、いっそう鮮やかに光彩を放ち、生は死を覚悟して初めて、言いつくせぬ素晴らしさに満ちた映像を生む。そのかけがえのな
さの自覚は、胸抉られるようでした。私はこれ以上、墓石の前で自分を支えて立っていることさえ難しく感じました。
墓地を抜け出て車に乗りこむと、ハンドルを握りながら、賢一さんは噛みしめるようにゆっくりと、
「死んじゃうのか」
と、言いました。そして、
「死んじゃうのかよ」
深い溜め息とともに、もう一度呟きましたけっして弱音を吐いたことのない、楽観的な人の、心の奥底から、絞り出されるように呟かれた言葉でした。私がかろ
うじて耐えてきたものを、彼も必死で耐えてきたのだと知りました。このような至上の秋を見てしまった者は、いずれ迎える荒野の存在に身震いせずにはにはい
られないのです。私達は互いにどうすることもできず、ただ終わりがあることを思っていました。私には賢一さんの言葉に何をつけ加えることができたでしょ
う。「死んじゃうのか」そう落胆する以外に。
車はそのまましばらく走り、瑠璃子が「お喉渇いた」という、とても現実的な提案をしてくれたので、なんだか少し心がほぐれ、私達はカフェに向かったのでし
た。
十二月某日 街ではクリスマス商戦が始まりました
自宅にて
第八信 人を求める声
私達の帰国が決まったとき、かならず受けた質問は、
「あなたはまたドイツに来ることを望むか」 とか、
「ドイツにもっといたいと思うか」
あるいは、
「日本に帰りたいと思うか」
というたぐいのものでした。
最初は社交辞令のような質問かと思って、「ええ、ぜひまたドイツに来られることを願っています」などと、愛想よく答えていました。しかし、あちこちであま
りによく尋ねられ、彼あるいは彼女のその質問に対する並々ならぬ熱意に、私は考えこんでしまいました
はたして、私の儀礼的な答えを彼らは信じているのか。心から満足しているのか。彼らが求めているのは「また来たい」などというなまぬるい言葉なのでしょう
か。そんなはずがないという疑念は、日々膨らんでいき、やがて確信となりました。ドイツ人というのはもともと眼光鋭い人々ですが、彼らに射ぬかれるように
真っ直ぐ見つめられ、「ドイツにいたいか」と問われると、心が冷静さを失いました。被害妄想だと笑わないでください。彼らの執拗に人の心を求めてやまない
眼差しに、私はそれは不可能なことだと答えたくなりました。彼らの人に対する渇望の激しさはとうてい日本人の及ぶものではありません。彼らの願望をかなえ
ることのできる人間など世界のどこにもいないでしょう。
私が身にしみてそれを感じたのは、賢一さんの指導教授であったヒルシュ教授宅で、送別会をしていただいたときでした。そのときのパーティの様子なども交え
て、書いてみたいと思います。ヒルシュ教授は、金属工学の高名な学者で、研究室には世界各国から留学生が勉強に来ています。帰国を控えた賢一さんへの招待
も、誰にでも行なう、ごく当たり前の行動だったでしょう。教授は玄関前に立って私達の車が着くのを待っていてくれました。満面の笑みで玄関に私達を迎え入
れると教授は奥に向かって「ハニー」と呼びかけ、夫人が出てきました。
私は研究室のテニス大会ですでに夫人に挨拶したことがありましたので、初対面ではありません。「ハニー」と呼ばれるにははほど遠い、こわげで無愛想一歩手
前の印象を与える人です。温厚な紳士のヒルシュ教授とちがい、目つきが非常に鋭くて、もう少しで醜くなる寸前まで肥っていました。私達は夫人にも、招待の
お礼を述べ、ピンクと白と紫の薔薇で作った花束を渡して挨拶をすませました
通された応接間には到着したばかりの先客がいました。ヒルシュ教授が紹介してくれる前に、賢一さんが小声で「マオ教授だよ。世界的な数学者だから」と教え
てくれました。初老の品格のある中国系アメリカ人の学者でした。マオ夫人はベルギー人とのことで、ヒルシュ夫人と対照的に、ほっそりと小柄で、有能な秘書
のような印象を与える人です。
私は自分達が主賓でなかったことに、心からほっとしていました。送別パーティーで、もしや私達が主賓だったらどうしようかと恐れていたのです。賢一さんは
ともかく、私のドイツ語力で主客になった場合の無惨な結果は充分に経験していましたので、一番気の張る教授宅で他に重要な客があったのには、救われまし
た。一同それぞれ挨拶と紹介を終えると、ソファーに腰かけました。ヒルシュ教授はさっそくワインをサービスしつつ、簡単な世間話とユーモアで座をほぐしま
した。そして、
「今日は皆さん何語にしましょうか。ドイツ語がいいですか。英語でもフランス語でもイタリア語でもかまい
ませんよ。残念ながら日本語はちょっとむずかしいんですけれど」
と、私を気づかうように言いました。ヨーロッパのパーティで、参会者の国籍が単一であるなどということはめったにないことでしょう。ですからまずパーティ
は言語の選択から始まるわけです。私の出席したあるパーティではドイツ語とフランス語しか通じませんでした。英語が万能とはかぎらないのは、ヨーロッパ大
陸に英語圏の国がないことを思えば当然と言えます。ドイツ語もフランス語も片言の私は、その会の洪水のような二カ国語の会話についていけず、後で賢一さん
に「薫がそんなに無口な女だとは思わなかった」と皮肉を言われました。
マオ教授の母国語は英語、ヒルシュ夫人はアメリカ人、私は英語以外でまともな会話ができませんので、流れは英語になりました。ヒルシュ教授はドイツ語から
いつ変わったのかわからないくらい自然な、母国語のような英語で話し始めました。賢一さんが、ドイツの学生は英語なんかまったく喋らないという態度をして
いながら、いざ英語を話すと決めたときは驚くほど流暢で、なんで能力を隠していたのか呆れてしまうと言っていたことを思い出しました。
ヒルシュ教授が食前に出してくれたワインは、それまで私が知っていたのはワインに似た別の飲み物だったと思いたくなるほど、素晴らしいものでした。ワイン
がこんなにおいしいものだとは想像もしていませんでした。一口含んで、世界が薔薇色になったとはこのことです。お酒には弱くて、関心もなかった私でさえ次
の一口を求めてしまいました。常時百本のワインは貯蔵しているという、ワインコレクターのヒルシュ教授の選んだ一本、フランスの白ワインの銘柄も年代も覚
えていないのが悔やまれます。口当たりは柔らかいのですが、味わい濃厚で、ヨーロッパの風土や気候、歴史や美術や宗教といったものすべてが溶けこんでいる
ようでした。
優れたワインはヨーロッパのエッセンスが凝縮された、豪奢な飲み物です。喉ごしを通るときの快感や飲み終えた後に残る芳香の余韻に、私は自分の体質も忘れ
て、魅入られて思わずグラス一杯飲んでしまいました。十分くらいして、私は自分の足が自分のものでなくなったような酔いに気づきました。失敗です。頭の中
が空白になっていきました。賢一さんは会話に奮闘して成果を上げていましたが、私は始まったばかりのパーティでくらくらしてしまい、会話に穴をあけないよ
うにするのが精一杯でした。
ヒルシュ教授は食事の席に着く前に、初めての訪問だったマオ夫妻と私達のために四十畳はありそうな部屋を案内してくれました。横に長い部屋で、右端には
ぎっしり詰まった本棚とグランドピアノ、中央部は私達が座っていた応接セットが置かれ、左部分には大きなダイニングテーブルが配置されています。その横長
の部屋に合わせて、窓も全面に広く設けられていて、部屋のどこからでもアーヘンの深い森が一望できました。
欧米の人間にとって自宅は客を迎える公的な役目がありますから、それぞれの趣味に合わせて美しく整えられています。フォン・コンタ夫人宅の貴族趣味とは異
なり、ヒルシュ教授宅のインテリアはモダンと異国情緒の混ざったものでした。黒い革のソファに白い壁そのソファの置かれた部分には一面に本物のシャガール
の黒白の版画が掛けられていました。グランドピアノの側には昔日本からの留学生にプレゼントされたという、京都の竜安寺を抽象化した黒、白、茶の色彩の版
画が、似たような傾向の版画と一緒に飾られてありました。アンコールワットの遺跡のレプリカ東南アジアの民芸品のような、舌を出し、目を剥き出している形
相の彫像なども置かれていました。バラエティーに富んだ収集品でしたが、徹底した個性の嗜好が表現されていました。
一つ一つの美術品についての由来を聞きながら、私はヒルシュ教授の博覧強記に驚いていました。イスラム文化についても、アンコールワットについても、日本
の文化遺産についてもじつに詳しいのでした。そのうえ教授はピアノに向かいベートーヴェンでもショパンでもばりばり弾くことができました。あちらの教授と
いうものは、日本の大学の先生と違い、本当の知的権威なのだということを思い知らされました。
私は日本の国立大学工学部の教授、助教授講師を多く知っていますが、彼らの多くは専門分野にのみ優れた人でした。このように数カ国語に通じ、建築、美術、
音楽、文学、哲学、そしてワインにまで造詣の深いといった人物は初めてです。マオ教授も何でも知っている部類の教授でした。彼が日本の盆栽に詳しいのは、
恐れ入りました。そして人柄のよさがたいへん印象的でした。彼はヒルシュ教授夫妻に対しても、私達のような無名の留学生夫婦に対しても、同じように接しじ
つに好意的でした。学問の業績に関しては、おそらくヒルシュ教授よりも上なのですが、優秀さを自負する気配もなく、驕らず、楽しい話題を提供してください
ました。
ヒルシュ教授のひととおりの案内が終わると、一同はふたたびソファに戻り、ワインのお代わりを飲みながら談笑を続けました。私がこんな素晴らしいワインは
今まで飲んだことがないと、思わず本音をもらした一言で、ヒルシュ教授は美しい彩色のワインに関する百科全書を出してきました。ワイン作りの産地の地図や
土壌や気候について詳しく書かれたもので、教授はそれぞれの特徴などの説明を始めました。
「ワインに関して、私にアドバイスできる人間はほとんどいないでしょう」
と、教授は絶対の自信を示しました。気に入った葡萄畑を指定して、そこからできるワインを予約する購入方法があるということも教授の話で知りました。食前
のワインと会話は一時間ほど続いて、ようやく食事のテーブルにつきました。教授がメンバーの好みを尋ね、二本目のワインを開けました。このワインも絶品で
す。私は酔いを感じていましたがワインに口をつけないのは失礼ですし、ワインの誘惑にも抗しがたく、本当に少しずつ口に運びました。さらに顔が火照り、自
分の話している英語が単純な構文になっていくのが情けなくなりました。
食事に関してはまったく期待していませんでしたが、案の定完璧な冷たい食事で、スモークサーモンのオープンサンドです。ドイツ人の夕食に何度も招かれて、
そのつましさは充分に知りつくしていました。彼らは昼食に火の通った暖かい肉料理などの正餐を食べる習慣があるので、夜は軽くすませるのが普通です。した
がって人を招くときは、量は充分でも簡単な食べ物を出し、飲み物をたっぷり用意するのでしょう。ヒルシュ夫人が、明日からバカンスなので、簡単なものしか
用意できなくて、などと言い、焼きあがってから一時間以上たってすっかり冷えきった、固くて薄いトーストと、スモークサーモンの大量に入った銀のプレート
を並べたとき、この種のもてなしに対してありきたりのおいしい以外に何と言って感謝の意を表すべきか、私は言葉を捜しました。日本人であれば、たとえ正餐
でなくても人をもてなす場合は、もう少し何か色をつけるでしょう。
ヒルシュ夫人はどうやって食べるかを実演してみせてくれました。トーストを一枚皿にのせ、サーモンを数枚その上に並べ、ホースラディシュをぬり、トースト
の一隅をナイフで切って口に入れました。このとき、マオ教授夫人の言った言葉はおみごとでした。
「こういうお食事をするのは、初めてだけれど嬉しいわ。私はどんなことでも、新しいことを経験することが
喜びなの。だってそれは世界を広げてくれることですもの。素晴らしいことだわ」
私は心の中で唸りました。ヒルシュ夫人のどちらかというと、面倒なことは御免よというもてなし方に、絶賛ともいえる大袈裟な謝意を表し、よく考えれば一矢
報いてもいるのです。
私はマオ夫人が今までいかに夫を助けてきたか、想像できました。西洋と東洋では、言語のもつ価値と機能が違います。マオ教授はアメリカ人ではあっても、や
はり東洋人でした。自分の思いをすべて言葉に表さない人、一般の欧米人に比べれば言葉数の少ない人です。喋らない人間イコール愚鈍の欧米では、夫人が教授
のぶんまで語りつくす必要がありました。同じ東洋人の私には、マオ教授が黙っていても善意の人間であり徳の高い人であることが感じられるのですが、語って
語りまくる欧米の生活の中で、他人にどこまで理解してもらえるでしょうか。ベルギー人の夫人は夫のよさも欠点も知りつくしていて、パーティでは喋りまくっ
て、内助の功を発揮しているのでした。
ヒルシュ教授は自分の妻とは対照的に、じつに愛想よく私達に気配りしていました。例えば、
「この前のさよならパーティで松岡夫人の作っていたサーモンのサラダがとてもおいしかったから、今日は家
内にサーモンを用意したらとすすめたんですよ」
などと言うのでした。大学の学生パーティで私が作っていた料理など、よく覚えていたものです。さすが頭のよい人だと感心しつつスモークサーモンを並べただ
けのもてなしも教授のように言葉を操ることで、相手に歓迎の気持ちを伝えることができるのだと思いました。本心はどうであれ、欧米のパーティでは、巧言令
色はたいせつなことなのです。ご馳走ではなく言葉でもてなすことが、パーティの基本心得でした。ヒルシュ教授は百点満点のホストで、ユーモアを連発して来
客を完璧に言葉でもてなしました。
ヒルシュ夫人はチェーンスモーカーで、煙草を離すことなく、ときおり乾いた笑い方で鋭いことを言いました。教授があまりワインの進まない私に、ワインを
もっとと勧めながら、「ワインの楽しさを味わうと、歌ったり踊ったりしたくなって、人生しあわせですよ」
と言うと、夫人は間髪を入れず、
「でも、子供がごろごろできちゃうわよ」
という具合です。ヒルシュ夫妻の話題は多岐に及び、誰一人取り残される客がいないようにという、周到な心配りがなされました。私の上に話題が降りかかる度
に、私は自分の下手な英語にうんざりしました。学生時代の卒論について喋るはめに陥った私は、ワインのまわった頭で英語を話しながら、この英語は一体誰が
喋っているのか、夢であってほしいと思ったほどです。
ヒルシュ夫妻には一男一女があるということが分かってきました。この静まり返った家の中に、二人の子供のいる痕跡を感じることはできません。成長して独立
しているのでしょうか。この夫婦に子供がいて、過去におしめを替えた時代があったなどとは信じられません。生活の匂いがまるでしないのです。しかし、夫人
は娘のことを話し始めて、娘がイスラムの勉強をしているのが問題なのよ、と言いました。
「私達は復讐はいけないことだという宗教で育っているのに、イスラム教では復讐を禁じていないでしょ。ア
メリカに報復を、なんてデモはしょっちゅうやってるし。あまりに文化が異質だから、娘がイスラム文化を専攻して、そういうボーイフレンドをもつことは、心
配なんです」
夫人はヒルシュ教授と比べると、異文化に心惹かれることの少ないタイプでしょう。
スモークサーモンのサンドウィッチは一人せいぜい二枚も食べると充分でした。夫人のもっとトーストを焼いてきましょうかという声に対するイエスの答えはあ
りませんでしたヒルシュ教授はさらに新しいワインを出しにキッチンに行き、いろいろ選んでいるらしく瓶の触れ合う音が響きました。夫人が
「ダーリン。あなた台所中の瓶を持ってくるつもり」
と笑いながら呼びかけると、上機嫌の教授は新しいワインを手にして戻ってきて、全員のグラスに新しいワインを注いでから、
「息子の珍しいペットをお見せしましょう」
と、私達を階下の部屋に案内してくれました。というのも、教授夫妻の家は斜面を利用して建てられていて、玄関や居間、キッチンなどは一階ではなくじつは二
階で、子供部屋が階下になっているのです。教授の先導でメンバーはワイングラスを手にしながら、階段を下りました。
ドイツ人の部屋は、日本のように蛍光灯で白々と部屋全体を照らしたりしませんから、その部屋に入ったときは薄暗くて、何カ所かのスポットライトの下に何が
あるのか、見当もつきませんでした。それは広い部屋で、私達家族が今住んでいる2DKの社宅が全部入ってしまいそうでした。若い男性の生活しているような
気配はまるで感じられず、病院のように清潔な部屋にはシュルルル、シュルルルという奇妙な音が充満していました。
ベッドと大きな勉強机、それも整頓好きのドイツ人らしく上には何も置いていない机と部屋の三カ所に大きなガラスケースがありました。スポットライトの照ら
すそれぞれのガラスケースには<Vorsicht>、「注意」という意味のドイツ語が書かれた札が貼られ、中にはなんと数匹の小型の蛇がとぐ
ろを巻いていました。シュルルルという音は、ケースの中の蛇が尻尾を振動させている音だったのです
「信じられないわ。この凄い音」
マオ夫人がガラスケース越しに蛇の鼻先をつついて言いました。アメリカの砂漠に住む毒を持った種類の蛇だそうです。太くて青光りするような蛇だったら、私
は鳥肌が立ったでしょうが、幸いこの蛇はそういう類ではありませんでした。
三角の鋭角的な顔をした細い蛇で、褐色の縞模様をしていました。小気味よく引き締まった蛇で、よく見ると黒くてまん丸の、かわいいと表現してもよいくらい
の目をしています。尻尾からは四六時中激しい音をたてていましたが、そのつぶらな両目は闖入者を不思議そうに見上げていました。他のケースにいる蛇達も種
類は違うそうですが、よく似た細い縄のような蛇です。蛇の飼育場所であるガラスケースには、砂や枯れ木がオブジェのように几帳面に配置されて、とても丁寧
に塵一つなく掃除されていました。ガラスも一点の曇りもなく磨かれています。息子さんのこの部屋を病院のような部屋と表現しましたが、蛇達も飼い主に似た
清潔な病室に入れられていると思ってくだされば、ようすがわかるでしょう。
ヒルシュ夫人は「息子の変わった趣味にも困ったものよ」と言いながら、蛇を嫌がっている様子はまったくありませんでした。私は第一に毒蛇の中にもかわいい
顔をした蛇がいることを知りました。第二には、毒蛇をペットにする人間がいることに、新鮮な驚きを感じていました。昔アメリカに留学していた友人が、一
メートルはありそうな長くて太い蛇を身体にからませて、にっこり笑っている美女の写真を見せてくれたことがありました。これ、友達のペットなの、と言う説
明にグロテスクな趣味だと思いましたが、さして特異なこととは思いませんでした。ところがこのかわいい毒蛇たちの飼育は、それとは様相が違うような気がし
ます。
蛇にもいろいろありますが、この蛇達はペットにするには不向きに思えました。飼い主に安らぎを与えない動物です。不安や緊張をもたらすのです。いったいど
ういう人間が、毒蛇が尻尾を振動させるときのシュルルル、シュルルルルという、あの独特の音に慣れることができるのでしょうか。身体つきは小さいのに、彼
らが出す音量はかなりのものです砂漠でうっかりこんな音と出会ったら、思わず身がすくんでしまいそうです。目にみえないところで、危険が迫っていることを
知らせるような、不気味な響きです。
隣近所の生活音などめったに聞こえることのない静かな国ドイツの、森に囲まれた住宅街の一軒家の教授宅は、ひときわ静寂に包まれています。沈黙の建物の広
くて暗い部屋の中で、この音はほとんど唯一の支配的な音でした。一日この音の洪水の中にいたら、神経衰弱になりそうです。掃除や餌やりも気楽にはできない
でしょう。たとえたいした毒でなくても、相手はれっきとした毒蛇ですから、扱いは慎重にしなくてはいけません。もし逃げ出したらと思うと、私などとても同
じ部屋で安眠できそうにありません。
この蛇達の飼い主は、自分のペットの姿を見て、幸せを感じたり無邪気に笑ったりすることがあるのでしょうか。太い蛇を巻きつけて満面の笑顔で写真に写って
いた飼い主のような、蛇が犬や猫のようにただ可愛いという健康的な欲求は存在していません。かわいい顔をしていても、ここにいるのは警戒心に武装した毒蛇
で、決して愛玩物に甘んじるようすはありません。人に媚びず、旋回音をたてて威嚇を続けています。この蛇にふさわしい飼い主は、満ち足りた人間ではないで
しょう平和に、安心して暮らすことはできず、不安に苛まれることの多い孤独な青年です。彼が蛇を飼うのは、ともに目に見えないような、恐ろしい魔物に身構
えていくためではないかそんな気がしてなりませんでした。
全員が一巡して蛇の観察に好奇心を満足させると、ふたたび居間に戻り歓談が続きました。夜の八時半から始まった集まりも深夜になり、私は友人の家に預けて
きた瑠璃子のことが気になって落ち着かなくなってきましたもう寝てしまっていればよいのですが、泣いて迷惑をかけていないか心配です。ところがヒルシュ教
授は、時間を忘れたかのように、何度も私達を笑わせてくれる徹底した心づかいです。夫人は相変わらず煙草をもうもうとさせながら、ときどき夫の空になった
グラスにワインを注いだりしていました。夫人は肥っているせいか、動作が物憂いようすなのですが、教授に対しては、まめに気をつかっていました。外国の人
間の性格を見抜くのは、同国人に対するよりはるかに難しいものがあります。目つきの鋭い、険しい表情の夫人も実際は女らしい細やかさの持ち主だと考えられ
るし、ヒルシュ教授のほうは溢れるような愛想のよさと、ユーモアの下に、意外に冷淡な夫の素顔が隠されているのかも知れません
いずれにしろ、私にはヒルシュ夫人はとりつくろいようもないほど、不幸せに見えました。マオ夫妻の間に流れる安定した空気、必要以上に気をつかわなくてよ
い良好な関係がヒルシュ夫妻にはありませんでした。それは私がドイツ語とフランス語のパーティで、「ヒルシュ教授の愛人が・・・・」と言う言葉、会話のほ
んの断片を聞きとった影響なのかも知れません。私はヒルシュ教授を見つめれば見つめるほど、彼に愛人がいることが事実に思えてくるのでした。社会的地位と
経済力があり、ハンサムで人あたりのよい夫が、このように険しい表情の妻のいる家庭に喜んで帰ってくるでしょうか。たとえ、妻の不機嫌が自分の落ち度とし
ても、彼は他の女性の明るい笑顔を求めずにはいられないはずです。
「さあ、終わりにしましょうよ」
と、はてしなく続くと思われた会話の切れ目にヒルシュ夫人の一声が入ったとき、私は内心ほっとしました。そろそろ帰るという意志表示を、失礼にならないよ
うにいつ行なうべきか、丁重に招待のお礼を述べる英文をあれこれ考えながら、賢一さんも私もなかなか機会を掴めないでいました。主賓のマオ夫妻が早く切り
出してくれないかと気を揉んでいたのです。もう夜中の一時ちかくになり、遅くなるとは言ってあったものの、瑠璃子を預けた友人夫妻の迷惑も限界だろうと、
悶々としていました。ヒルシュ夫人がけりをつけてくれて、大いに助かりました。
もっとも賢一さんは帰宅した後に、自分から帰れと言うなんてヒルシュ夫人らしいけど変わってるよ、と言っていました。賢一さんの帰り際の挨拶はなかなか立
派でした。日本語では大袈裟すぎる言葉も、外国語だと自然に聞こえます。特に褒めるという使命において、英語の修飾は絶大な力を発揮しました。言語は人間
の表現をかくも変えてしまうよい例です。ヒルシュ夫人は最後に、けだるそうに「日本に帰ったら、私のテニスのパートナーだったミスター梶原(賢一さんの先
輩で同じ研究室に留学していた人)によろしく伝えてちょうだいな」と言いました。
ヒルシュ教授は玄関から二十メートルほど離れた空き地に駐車していた私達の車のところまで、見送りに来てくれました。もう一度別れの挨拶を交わしたあと、
ヒルシュ教授は賢一さんの目を真っ直ぐに見つめて、賢一さんと握手したその手を両の掌に包みこんで、こう言いました。
「きみの帰国は本当に残念でならない。きみとの二年間はなんて有意義だったろう。きみはぜひ、またドイツ
に来て、きみの優れた研究を続けるべきだよ。僕の研究室ではいつでもきみの帰りを待っているから、かならず戻ってらっしゃい。一日もはやくね。会社のほう
とのかねあいもあるだろうけれど、待っているよ。きみがまたこちらに来るために僕が手伝えることがあったら、奨学金のことでも何でも遠慮なく言ってくれた
まえ。きみなら何の問題もなく奨学金が貰える。きみが帰ってしまうなんて、心から名残惜しく思う」
賢一さんの目を見つめ、手を堅く握りながら言う、その言葉の深刻な響きに私は喫驚しました。どの留学生にも言う社交辞令にちがいないのに、あまりに真に
迫っているのです別れの挨拶を通り越して、帰ってくれるなという、哀願にちかいような響きさえありました。心から賢一さんとの別れを惜しみ、ほとんど悲し
みさえ現れていました。
心の中で私は、まさかと叫びました。賢一さんの研究がエリート集団の大学内で傑出していたとは考えにくいし、賢一さんだってそんなことは信じていないで
しょう。平均よりやや勤勉な学生が、まるでノーベル賞でもとれるくらいの人物に変身したみたいです。一瞬教授はゲイかと疑いました。しかしどう見ても教授
がそういった態度で賢一さんに接しているとは思えません。ヒルシュ教授には女性の愛人のほうがふさわしいですし、賢一さんも「お前はヨーロッパに行っても
ホモに狙われる心配だけはないな」と友人に断言されていました。
「一日も早くドイツにもどってきなさい」
切々と勧めるヒルシュ教授の目は、真摯でした。私には閃くものがありました。教授は本気です。たとえ、私達と別れた一分後にはこの言葉を忘れるとしても、
今この瞬間の言葉は、教授の真実の吐露なのです。社交辞令であっても、言っているその間は、心から賢一さんとの別れを惜しんでいるのです。
功なり名とげた教授が、アジアのはてからの留学生に、この刹那激しく執着していました。私から去らないでほしい、教授の目はそう訴えてやみません。たった
二年間の薄い師弟の縁しかない人間に対してさえ、このようにすがるとは、想像もつかないことです。私は教授の灰色の目の中に、数多くのドイツ人私に「また
ドイツに来たいか」と一途に尋ねた人々と同じ目の光を見ることができました
胸が衝かれました。自分たちがたいした価値をおいてもいない人間にさえ、彼らは夢中で何かを求めてきました。それほどまでに、彼らは他者に必死で執着せず
にはいられないとしたら、私に考えられる答えはただ一つです。真っ黒な孤独が彼らを骨の髄まで蝕んでいるのです。孤独に病み傷ついた、たった一人の人間と
しての集団がドイツ人なのか。彼らの顔に刻まれた孤独の相を思い、私は不覚にも涙が溢れそうになりました。
帰国して歳月が過ぎた今、私にはもう一つの見方ができるようになりました。ヒルシュ教授は賢一さんと私に別れを告げるとき、もう会えないと明確に意識して
いたのではないかと推測できるのです。数多くの留学生を育てた教授こそ、二度目の留学が簡単にかなわないことを、誰よりも知りつくしているのでした。教授
は、去って行った留学生がふたたび戻ることはないことを、見通すことができていました。教授は多くの若い学生の後ろ姿を見つめ続けた人なのです。私達はあ
のときヒルシュ教授が、心からのさよならを言ってくださったことが、わかってはいませんでした。人間を長くやらないとわからないことは世の中にたくさんあ
るのですね。もう会うことはないと知ればこそ、教授は賢一さんに猛然と執着したのでした。
車の場所からは、森の中の教授の家の玄関の灯がぽつんと見えました。家の中は、子供も独立してあまりいつかない、がらんとした大きな部屋があり、自分は愛
されていないことを知っている妻が待っていました。教授の帰る家庭に広がる孤独の荒野が、初めて恐ろしいまでの実体をもって迫ってきました。相手が誰であ
ろうと、別れを告げることは教授の寒々とした孤独をいやますのでした。賢一さんの再度の留学を切望しているという教授の言葉は憂いに満ちて、賢一さんの頬
は紅潮しました。
私には賢一さんが教授の思いのこもった言葉に、感動しているのが、手にとるようにわかりました。ありきたりの社交辞令が一転して、私達には燃えるように激
しい、人を求める叫びに聞こえました。このような声は私達がふたたび経験するものではないでしょう。こんな無我夢中の人間への渇望は、日本には存在してい
ないものでした。孤独が人を求めさせるのか、人への執着が強すぎて孤独になるのか、その因果関係は私にはわかりませんただ、孤独も、人を求める妄執も、ド
イツでは私を震え上がらせるように凄まじいものだったことは間違いありません。
別れのおりの、握手をした教授の手は私の倍もある、大きな手でした。その掌はどれほど多くの人間との別れの握手をしてきたことでしょう。その掌の感触を思
い出すたびに、私も賢一さんもなぜか、物悲しい気持ちになりました。たとえ、ヒルシュ教授がその後一度も私達を思い出すことがなかったとしてもまたその可
能性は大きいのですが、その感触の中に、かつて正真正銘の惜別というものがあったという記憶が甦るのです。惜別の実感というのは、やはりそれを示された立
場であっても、痛みに他ならないのです。
寒くなって外は雪がちらついています。
十二月某日 自宅にて
第九信 ハンブルクにて
滞独中、私達は二度ハンブルクを訪れました。それぞれたった一泊の旅、しかも最初の訪問では頭痛に苦しみ、後の一泊は用向きがありましたので、この北国の
美しい街について解説する資格は、私にはないでしょう。それでも私がこの街で遭遇したことは、今でも夢にうなされるほどの、目も眩むような経験で、人生で
そう何度も味わうことのない異常なできごとなのでした。
ハンブルクで、私はドイツのもっともドイツ的な面に触れることになりました。極言すれば、私にとってのドイツ体験は、ハンブルクでのことを語ればすむとさ
え言えるのです記憶のなかのハンブルクを呼び起こすことは暗幕を持ち上げるような重苦しさをともない神経症の発作がぶり返しそうな恐怖感すら覚えます。ハ
ンブルクの思い出は私の血管の流れを一瞬に止めてしまうほどの力を持っている、そんな場所です。私にはハンブルクをもう一度訪れる気力が、自分にあるとは
とうてい思えません。
当時西ドイツ下、ベルリンに次ぐ第二の都市であるハンブルクは人口百七十万、貿易港を擁する国際商業都市として活力のある街でベルリンを知らない私達に
とって唯一の、ドイツの大都会でした。アーヘンのような小都市と違い、道を行く人々もまるでパリのように国籍も階層もさまざまで、急ぎ足です。ドイツらし
い美しい街並みですが、大きくなりすぎて、ドイツらしからぬ騒々しさや掃除の行きとどかない汚れた場所もありました。
最初の旅では、私達はアルスター湖、市庁舎、聖ミヒャエル教会、ブラームス記念館など、観光客お決まりの場所を、瑠璃子をバギーに乗せてのろのろと徒歩
で、ときにはバスを使ってまわりました。「飾り窓」で有名なレーパーバーンは、バスを間違えたため偶然車窓から一部を眺めることができました。水清いエル
ベ河やアルスター湖を囲む古都らしい歴史的建造物や豪華なホテル街と、歓楽街レーパーバーンの毒々しい彩色のどちらもがハンブルクという港町独特の陰影に
富む魅力を作り出しているのでしょう。この非常に美しいものと、非常に醜いものの混在がハンブルクの特徴だとしたら、私にとって、ドイツ滞在中の最悪の経
験と最高の感動を同時に味わった場所がハンブルクだったというのも、納得できることかもしれません。
二度目の訪問は出張でハンブルクに滞在している賢一さんの叔父様に会うためでした。賢一さんが忙しかったため、夕方ハンブルクに着いて叔父様と一緒に数時
間過ごして一泊し、翌日の午後帰宅という強行軍でした。帰宅する日、私はアーヘン行きの電車に乗るまでの時間をエルンスト・バルラッハ・ハウスに行くこと
を提案しました。ナチスにその作品を破壊されたため、今ヨーロッパの美術館が血眼になって残された作品を捜している彫刻家の作品が、どのようなものか見た
いと思ったのです。
観光ルートにない、初めての場所に行くのはなかなかたいへんなことです。地図だめ、時刻表だめ、ドイツ語苦手の私は、いつも賢一さんにあそこに行きたい、
ここに行きたいと言うばかりでした。賢一さんは優越感たっぷりに地図を広げ、場所を捜しだしました。工学部出身らしく、アーヘン行きの電車に乗り遅れない
ように、往復の時間を綿密に算出してから出かけました。切符売り場で多少まごついたものの、何百本と電車の出入りする中央駅のホームで、無事目当ての電車
に乗りこみました。それはハンブルクの郊外に向かう電車で、最初は地下鉄で途中から外を走ったと、記憶しています。記憶というのはあてにならないものです
が、私はハンブルクの街をこの電車の車窓から眺めた覚えがどうしてもないのです。後に起きたことの印象が強烈で、この間の視界の記憶が欠落したのかもしれ
ません。
固くて坐り心地の悪い座席に腰かけて、ぼんやりしていると、ある駅で三人の車掌らしき人物が乗りこんで来ました。彼らの周囲には、何か私の気持ちをささく
れ立たせる雰囲気があり、私は注意を向けました。彼らが始めたことは、ただの検札でしたので少し安心したのですが、それにしてもこの狭い車両に三人の車掌
とはおおげさなことです。よく観察すると、一人は車両の中央の昇降扉の前に仁王立ちになり、他の二人は電車の進行方向の前と後ろに分かれて、一人一人の乗
客の検札を行なっていました。中央に陣取っている年配の銀髪の車掌は、車内を厳めしい目つきで見回すだけで、検札はしていません。
私は改めて車内の乗客を眺めました。すいていて、せいぜい二十人ほどの乗客しか乗っていません。日本にいても、私も賢一さんも電車賃を浮かせようという発
想などしませんから、まして外国できちんと切符を買わないわけはありません。悠然とかまえていればよいのですが、順番を待つうちに、何か居心地の悪さを感
じだしました。車掌たちのあたりを払うようなものものしさに、覚えのない嫌疑をかけられている気分に襲われたのです。
賢一さんが車掌に切符を見せるだけのことなのに、この切符は間違っているとでも非難されそうでなぜか緊張していました。銀髪の車掌の視線がこちらにじっと
注がれている感じです。若い車掌は念入りに切符を確認してから、賢一さんに切符を返しました。何の問題もなかったわけです。しかしその直後、私達の後ろに
坐っていた乗客が車掌に向かって何やらまくしたてました。思わずふり向くとアラブ系、おそらくイランかイラク方面の容貌の中年の母親と、小学生くらいの兄
弟二人の親子連れでした。外国人労働者の一家か、亡命してきたか、あるいは不法滞在のいずれかでしょう。ひどいなまりのドイツ語でしたので、彼女が何を訴
えているのか意味不明でしたが、切符を持っていない言いわけを懸命にしていることは明白でした。中央でふんぞり返って、車内を睨みつけていた、上役ふうの
銀髪の車掌が、顎をしゃくらせて、こっちへ来いという合図をしました。それは、警官が罪人を連行する場面そのものでした。
若い車掌に座席を立たされた母親と息子たちは、銀髪の車掌のもとへとひっぱって行かれました。もう一人の車掌も検札を終えていて、大柄な三人の車掌に取り
囲まれた母親は最初の勢いをなくし、口数少なく立っていました。ときおり、弱々しく一言、二言車掌に抗議しているようでしたが、これほど無意味なことはあ
りませんでした。彼女の息子たちは怯えたように母親を見上げていましたが、使命感に燃える車掌たちに、お情けを期待できるわけはありません。彼女は重罪を
犯したのです。次の駅で、三人の車掌たちに引き立てられるようにして、気の毒な親子はうちしおれて降りて行きました。
このできごとは電車の一駅区間の、わずか六、七分のことでした。車掌が検札に来て、違反者を連れて行く。それだけのことが、突風が吹き荒れたあとのよう
に、車内の様相を一変させました。下車する瞬間の、銀髪の車掌の表情を、どのように形容すればママにわかってもらえるでしょう。私は心底ぞっとしました。
彼の炯々と光る目のなかには、してやったりという、言うに言われぬ喜びが溢れていました。彼のしたことは、無賃乗車を摘発するという正義でしたが、それは
罪人を捕まえて職業的な義務感を満足させたのではありません。また一匹馬鹿な鼠を捕まえてやったという、きわめて質の悪い快感に浸っている目つきでした。
さらにその顔には「この薄汚いアラブ人め」とはっきり書いてありました。彼は強烈な人種差別を露呈していました彼はドイツ人を摘発しても、少しも嬉しくは
なかったのです。人間が本当に悪くなったときの顔というものを、まざまざと見せつけられた気がしました。
彼が下車する瞬間に、さらに私達のほうに投げかけた、ぎらりと光る目、その一瞥は、今度はアジア人のお前たちの番だぞと語っていました。この電車に乗り合
わせたアーリア人種以外の劣った人種、アジアやアラブの乗客はすべて摘発されるべきなのでした。私達が切符を持っていたことは、彼にとっては不本意きわま
りない結果だったでしょう。私達は彼の楽しみを奪ったのですから。私は、車掌たちに追い立てられていく母親と幼い兄弟に、同情を禁じ得ませんでした。あの
傲岸な車掌に、人種差別的な罵詈雑言を浴びて、深く傷つくにちがいありません。
ハンブルクのような都会に難民や不法労働者がたむろし、犯罪に関係している場合が多いことは事実かもしれません。ドイツ国民はヨーロッパのなかでも、特別
寛大な難民政策のもとに、相当の税金を彼らのために割いていることも周知のことです。政治の志は立派であっても、本来秩序と整理整頓の大好きな人間の集団
が持つ、異文化拒否、外国人排斥の本音が、正義の名のもとに、この一人の車掌の身体全体から噴出していました。
母親のした無賃乗車が悪いことであるのは万人の認めるところです。しかし、彼女が好きで異国に暮らしているのではなく、その生活が苦しく切羽詰まっている
のも、一目瞭然でした。私は異国で二人の子供を育てなければならない貧しい母親が、無賃乗車をしたことは、ただ罰金を取ればすむことで、あの車掌の人種偏
見に満ちた侮蔑や糾弾に値するほどあくどいことには思えないのでした。悪事といっても、たかがキセルじゃありませんか盗人にも三分の理という日本の諺もあ
ります
それなのに、車掌達の犯罪捜査の手際には驚くべきものがありました。彼らは三人という、狭い車両には多すぎる人数で、摘発に乗車したと同時に作戦を実行し
ます。ぱっと前と後ろと中央に分かれ、不正な者の逃げ道を完全に封鎖しました。電車が次の駅に着く前に、犯罪者が下車するのを防いで、一駅区間内に検札を
すべて終わらせる。そのため、三人のコンビは必要、最適の人数なのです。不心得者を逮捕するための、まさに水ももらさぬ検札体制でした。しかも、この車両
は日本のものと違い、隣の車両にドアを開けて移動できない種類の連結になっていたと思います日本のような、行き来が自由な車両をたった一人の車掌が、乗客
に頭を下げて検札する方法はざるから水がこぼれるようなものでしょう。
ドイツ、あるいは他のヨーロッパ内での検札の方法がいつもこのように行なわれるものなのかどうか、私にはわかりません。しかしこのコンパートメント式でな
い、日本でいうところの通勤通学用の電車を、三人で行なう検札は、ドイツ的な、あまりにドイツ的なものでした。キセルを摘発するという確固とした目的のも
と、誰一人見逃さないように、徹底的な作戦が実行されるのです。目指すは一網打尽でした。誘拐犯や殺人犯を捕まえるというなら話は分かりますが、たった数
マルクのインチキをする人間の可能性のためにさえこれほどの完全主義でことにあたるのが、ドイツ人なのです。正義と決めたことに対して失敗するようないい
加減なやり方はしないしできない。そんな能力と性癖でした。
大柄なドイツ人車掌が三人、頭脳的に出入口を封鎖して、ひどく威圧的な態度で行なう検札は、無実の私達でさえ犯罪者になったような気分にさせられました。
車掌達が獲物を捕まえて、満足気に下車してしばらくして、私は膝ががくがく震えてきました。心構えもなく突然に起きたできごとに茫然としていたのが、数分
後に恐怖の波が急激に押し寄せてきたのです。私は今までの人生でこのような種類の恐怖感を味わったことがありませんでした。東西冷戦時代のスパイ映画で見
た検問を通り抜けるときの緊張や恐怖を、地でいくような気分でした。
私が特に恐れたのは中央に立った銀髪、年配の男です。他の二人はまだ年若く、この男の命令を機械のように忠実に実行しているだけで、怖くはありませんでし
た。銀髪の車掌の投げかけた一瞥は、ドイツ人の恐ろしさを私に刻みつけました。彼は私が出会った一番残酷で醜い種類のドイツ人でした。私が彼から連想した
のは、ゲシュタポという歴史上の集団でした。映画で知る絵空事のゲシュタポではなく、生身の現実としてのゲシュタポそのものの人物を、私は経験したので
す。
私は恐怖のあまり、ドイツに住む外国人であることを呪いたくなりました。捕まる理由もないのに、思わず鳥肌のたつほどの恐ろしさです。第二次大戦中のドイ
ツには、銀髪の車掌のようなゲシュタポがうろうろしていたわけで、あの時代のユダヤ人の受けた恐怖はいかばかりか、想像もつきません。世の中には死んだほ
うがましという事態がありますがゲシュタポの脅威に晒されるというのは、まさにこういうことです。ドイツ人は拷問にかけても世界有数の能力の持ち主だとい
うことを、ママは知っていたかしら?
とくに拷問用に犬を訓練することに優れていたそうです前の手紙で、ドイツ人のお掃除にかける徹底癖が六百万とも言われるユダヤ人虐殺を可能にしたと珍説を
述べましたが、まったく彼らの掃除には呆れるくらいやり残しがありません。キセルを検挙する場合でも、これほど用意周到に逃げ道を絶つ方法を取るドイツ人
があのユダヤ人狩りにどんな恐るべき能力を発揮したかは、言うまでもないでしょう。逃げられたはずがありません。
日本の某銀行会長(仮にK氏と呼ぶ)が興味深いことを書いていました。K氏は昔企業研修でドイツ滞在中の一年間、デュッセルドルフの合唱団に入り活躍しま
した。それから二十七年後に経団連の代表としてドイツを再訪した際にK氏は、市長主催の晩餐会で驚かせることがあると言われます。そこで見せられたもの
は、何と二十七年前に合唱団に入ったときの入団許可証の写しでした。そのときはこんな大昔のものをよくとっていてくれたと嬉しかったのですが、後から考え
ると恐ろしくなります。
こんなたいした意味もない書類など、日本ではとっくに廃棄されていただろう。ドイツ人は味方にしたらこれほど頼もしい国民はなく、敵に回したらこれほど手
強い相手はないそうK氏は書くのでした。ドイツ人の徹底した秩序指向や、物事を整理し記録するという執念にたじろぐのは私だけではないのです。恐ろしいと
K氏が感じたのは、日本人なら当然のことでしょう。この調子で記録を保存してあれば、ユダヤ人がその出自を隠しとおすことは不可能に決まっていました。
ママが昔薦めてくれた、ミープ・ヒースの書いた『思い出のアンネ・フランク』は素晴らしい本でしたが、その中にこんな場面があったのを覚えていますか。ド
イツ人はユダヤ人狩りのために、ときどきアムステルダムの一角の路地封鎖を行なっていた。日によってその場所は変わる。ある日、封鎖が行なわれ家に戻ると
捕まってしまうユダヤ人の老婆がミープのアパート前の階段に腰かけて、逃げ場もなく途方にくれている。そのままでは捕まるのは時間の問題だ。ミープは助け
たいがアンネ一家など八人の命を預かっているうえに、自宅にも一人のユダヤ人を匿っていてどうしようもなく、やり過ごしてしまった。当時のアムステルダム
には、こういう逃げ場所のないユダヤ人があちこちにいた。
私はドイツ軍の路地封鎖というのが、どんなに厳密に、鼠一匹逃げられないほど徹底的になされたか、確信できます。ある一区画を封鎖する場合、頭のいいドイ
ツ人はたとえ占領した外国領土であっても、抜け道など調べつくして完璧に封鎖できる、救いがたいほどの能力に恵まれているのです。勤勉で努力家だから、見
落とすとか、目こぼしなんて絶対しない。一所懸命任務を遂行します。
日本では放送されなかったでしょうが、ミープ・ヒースの出演したテレビドキュメンタリーをドイツで見ました。ドイツ人にとってはつらい番組だったでしょ
う。戦中のアムステルダムで行なわれていたユダヤ人連行の映像などが映し出され、それは衝撃を与えるものでした。貨車に乗せられる行列の中で泣いている、
私と同年代の若い婦人を見たときに言葉を失いました。
行列の人々は家畜用の貨車に、坐ることもできないほどぎっしり詰めこまれて、収容所に移送されます。貨車の黒い扉には大きく数字が書かれていました。その
白いチョークで書かれた数字が貨車に詰めこまれたユダヤ人の数なのでした。一つの貨車にとんでもなく多くの人間が押しこまれたものです。ドイツ人のことで
すから、数え漏れなどということはなかったでしょう。その数字は堅牢無比に正確だったにちがいありません。貨車から降りたときに一人でも逃げていたら、そ
の貨車に乗っていた全員を銃殺にしたそうですから仕事能力も度を越すと、結果は歴史の語るとおりの、空前絶後の物凄さにしか、なりようがありませんね。
車掌達を見送った後、私は悟りました。もし今後、ドイツで日本人狩りが始まれば、私たち一家はけっして生きて帰れないだろう。サルトルの戯曲の題名のよう
に「出口なし」の状態になるわけです。いくら呼吸しても酸素が肺に届かなくて、窒息してしまいそうな息苦しさでした。どこにも逃げ場がないという恐怖の感
覚は、帰国して数年経ても、夢のなかにときおり現れては、私を夜中に寝汗とともに目覚めさせたものです。ヨーロッパは私の想像もつかなかったような、おぞ
ましさに満ちていました。世界にこのような確として動かぬ「悪意」というものが存在しているなら、無力な私などどうやって太刀打ちしたらよいのでしょう
か。
私は賢一さんに目的地に着いたことを知らされて、やっと何のために電車に乗ったのか思い出すことができました。沈んだ気持ちとはうらはらに、外は爽やかで
ドイツにしては珍しいほど、雲一つない青空が広がっていました。エルンスト・バルラッハ・ハウスはイェーニッシュ公園のなかにあるとガイドブックに書かれ
ています。駅の近くの公園はすぐにわかりましたが、バルラッハ・ハウスはなかなか見つかりません。案内板はあったのにその先にあるべき建物がなくて、いつ
の間にか広い公園の奥まで迷いこんでしまいました
人通りのない公園では尋ねようもありません。美術館は見つけやすいはずなのに、三十分近くも無駄に歩いてしまいました。帰りの電車の時間が気になってあせ
りだした頃に、ようやく最初に見た案内板の背後の木立の奥に、埋もれて隠れるように建っているバルラッハ・ハウスを捜し当てることができました想像してい
たよりずっと小さい、白くて四角い平屋建ての建物で、見逃すのも無理はありません。ナチスに厳しい迫害を受けたバルラッハにふさわしい、隠遁者の住居のよ
うなひっそりとした佇まいでした。
ナチスによる作品の破壊が相当なものだったのか、バルラッハのために作られたこの美術館ですら、館内の作品数は多くはありませんでした。小品が多く、ガイ
ドブックの白黒写真で見ていた作品が、ガラスケースにも入れられずに陳列されていました。芸術作品の評価は、しょせんそれを味わう人間の好き嫌いがものを
言う世界です。ナチスがバルラッハに頽廃芸術家の烙印を押し、嫌悪した理由はいろいろあります。共産主義国のロシア人を題材にした作品が多いが民族主義に
反するドイツ人を誇示したり美化せず、愛国的でない。姿勢が人道的、厭戦的で、ナチスの好戦的ヒロイズムと相いれない。どれもがいいがかりなのですが、四
百点近い作品、彼の重要な作品のことごとくが美術館や教会から撤去され、時代から抹殺されました。なるほど陳列作品は、どれもこれもナチズムに目の敵にさ
れるような精神性と世界観を顕していました。
バルラッハの彫刻を説明するのに、彼がある画家を評して言った言葉を借りましょう。「人間は静かにしていることもできるのだし静けさが大砲の轟音よりずっ
と大きな音を出すことがしょっちゅうあるものなのに、彼はそれを知らずにいる」
バルラッハの彫刻は大砲ではありません。思わず耳を澄まして、もの言わぬ彫刻たちの話を聞きたくなるような、そんな静かな、祈りのような作品なのです。私
の愛する天才ミケランジェロやロダンは、豪奢で流麗で見る者を激しく揺さぶり、圧倒的な感動を与えます。ところがバルラッハの素朴で骨太な輪郭は、見る者
の心を静かに貫くのです。
「母と子」「説教するキリスト」「笑う老女」「凍える老女」などの代表作が並び、ガイドブックの白黒写真に載っていた「再会、キリストとトマス」を見まし
た。私は写真のこの作品に魅せられ、日本ではあまりなじみのないバルラッハの作品をわざわざハンブルクのはずれまで、見に来たのでした。自分から永遠に失
われてしまった人に、もう一度逢いたいというのは、あらゆる人間の悲願でしょう。
キリストにしがみつくように抱きつくトマスと、トマスをそっと支えるキリスト。トマスの目は光で目が眩んだか、まるで盲目のように見当違いの視線のまま見
開かれました。彼はただ全身をぶつけてキリストの存在をたしかめようと試み、そして全霊でキリストを感じ、喜びに包まれています。トマスは肉体としてのキ
リストに再会しただけでなく、復活という奇跡に直面して、その魂がうち震えていました。細部の装飾を捨てて、これ以上削らなければ輪郭を失う極限までの単
純な造形のなかに、「再会」の本質がすべて表現されています。トマスの、かなわぬ願いがついに現実のこととなった、その歓喜がしみじみと伝わってきまし
た。私の心のなかはゆっくりと温かさに充たされていきました。
ナチス美学では、絵画はリアリズム、彫刻は古代ギリシア彫刻ふうのダイナミックな肉体表現をもてはやしました。ですから、よぶんなものをいっさい削ぎ落と
したこの作品は二匹の猿と呼ばれていたようです。ファシズムの狂気には言うべき言葉もありません。しかし、巨大な権力によって完膚なきまでにこきおろされ
た作品が、今私達の目の前にあるということは、驚くべきことだと思います。
徹底癖のあるドイツ人が、バルラッハの作品を全滅させようとすれば、簡単だったはずです。事実多くの作品が破壊されたなかで、代表作が残ったというのは、
危険を冒してまでバルラッハの作品を守った勇気あるドイツ人の存在を証明するものです。バルラッハを敬愛する人々、表現の自由を奪おうとする独裁者に抵抗
するドイツの良心が、命がけだったことは容易に想像できるのです。ドイツを吹き荒れたファシズムの嵐が強大であればあるほど、その力に屈伏しないドイツ人
の矜持も不死身なのでした。
親が鑑賞に没頭しているのをいいことに、背伸びをした瑠璃子が、「再会」のトマスの衣服の裾を好奇心いっぱいに、人指し指で触っていました。
「ママ、これ木?」
彼女は目の前の彫刻が不思議でならなかったようです。本当に油断も隙もありません。人類の文化遺産に手を触れるなど、とんでもないことでした。こら、と瑠
璃子を叱り急いでやめさせました。瑠璃子が大きくなって自分のした大それたことを知ったら、どう思うでしょう。
二十世紀の彫刻では石膏から型をとってブロンズ像をつくる方法が複製も作りやすく、主流をしめていました。しかし、バルラッハは労力と時間のかかる、硬い
木材を彫った作品を多く残しています。木材はブロンズよりも自然にちかくて温かみがあります。バルラッハは木肌のぬくもりが「再会」のテーマを表現するの
に、適していると考えたのかもしれません。瑠璃子が人指し指に触れた木の感触をずっと覚えていたら面白いのにと、ひそかに思いました。
賢一さんがそろそろ帰らないと電車に遅れるよ、とうながしました。心を残しながら帰ろうとしたそのとき、私の目はある一隅の陳列作品のなかの、キリスト磔
刑の像に釘づけになりました。時間を気にかけながら急ぎ足で鑑賞していたので、ひっそりとした一角のガラスケースに入っていたこの作品を見ていませんでし
た。今、バルラッハ・ハウスのカタログを見てもなぜかその作品はどこにも載っていません。「再会、キリストとトマス」のような木彫ではなく、白くて石膏の
ような材質でした。原型ではなく複製か鋳型だったのかもしれません。バルラッハの傑作と言われるマールブルクのエリザベート教会にある十字架像と関係があ
るものという推測も成り立ちますが、その像自体から受けた衝撃があまりに強かったので、題名を見たかどうかも記憶にないのです。ともあれこの場合、その作
品の出所や題名などあまり重要なことではありません。それが、キリストの磔の像だという事実がすべてです。キリストの最期の姿を刻んだ極限のような彫像の
前で私は動けなくなりました。
バルラッハの十字架上のキリストは、ナチスに嫌悪されるにふさわしく、神の子の威厳や栄光にはほど遠くて美男でもありません。骨と皮だけの痩せさらばえた
姿で、激しい肉体的苦痛に顔を歪め、呻きながら、断末魔の荒い息づかいをしていました。これ以上哀れで悲惨なキリスト像は、私にはちょっと思いあたりませ
ん。それはグリューネヴァルトやホルバインの描いたイエスの死に相通じる凄絶がありました。しかし、それだけなら私はこの像からすぐ目をそらしたくなった
はずです。バルラッハのこのキリスト像には視神経にとげのように突き刺さって、人の心に切迫した意味を呼びさます、何かがありました。私は胸がつぶれる思
いで、苦しく立ちはだかるキリスト像と向きあいました。
驚いたことに、微かに開かれたイエスの口もとは、喘ぎながら、私に向かって必死に何かを訴えかけていました。私は絶え入るばかりのイエスに囁きかけられて
いました。信じてもらえるでしょうか。数分して、私はその言葉をはっきり理解しました。声にならぬその言葉を、聞きとることができたのです。その言葉は日
本語に訳すことはほとんど不可能に思えました。ドイツ語で伝えなければ、なまぬるくなります。バルラッハのキリスト像は十字架の上から、一語、一語、渾身
の力をふりしぼるように、私に向かって
「Ich Liebe Dich」
と言いました。この絶望的な囁きの重さはドイツ語のもっとも厳しい表現です。それは肺腑を抉るような言葉でした。自分を裏切り命を奪おうとする恩知らずの
人間の代表であるこの私に向かって、イエスは怖ろしい言葉を吐きました。痛苦と孤独のきわみに追いやられながら、息も絶え絶えに、「Ich
Liebe Dich」と言い切って死んでいくのです。この世界のどこに、そんな愚かなまでに優しい存在がいるでしょうか。イエス以外に。
私はこのとき、愛するという行為のはての酷薄で非情な結末に慄然としました。「Ich
Liebe
Dich」という言葉はこのような、血を吐くような思いでしか語れない言葉なのか。真実の愛は、自分の愛を受けるに値しない人間、自分を傷つけ苦しめる人
間にこそ与えるもの。愛とは自分の人生すべて、命までをも与えて与え尽くすことなのか?
愛という言葉は、金輪際、幸福な笑顔で語ることのできないものでした。恋人たちが「愛している」と誓う時、それは「愛したい」という希望、楽観的な予測に
すぎないのでした。自分を手ひどく裏切る相手に、見返りを求めずただ愛していると告げるとき、初めて愛が貫徹されるのです。痛みが深ければ深いほど、愛は
かろうじてその本当の姿を現すのでした。恐ろしいことです。
イエスの、苦痛と悲しみをたずさえた臨終の言葉、愛しているという意志を放射された私の心は、痛みの激しい場所を突かれたように疼きました。このように大
いなる愛は信じがたいものです。愛は、自分に報いることのない人間のために、一生を棒にふることに他ならない。苦難を背負い犬死にすることそのものだとし
たら、そのような身の毛もよだつ愛は人間には不可能なことではありませんかところが、イエスはまさにそのとおりに愛したのです。イエスの全生涯は不可能な
愛を、一身を賭して実現するためのものでした。
「Ich Liebe Dich」と死の瞬間まで、訴え続けるものだったのです。
昔、妹の綾がまだ中学生の頃、なぜイエスがあんなかわいそうな死にかたをする必要があったのかと尋ねては、私を困らせました。ミッションスクールで教理を
習っている身としては、そのたびにむにゃむにゃと答えてはいましたが、正直なところ私自身もイエスのあれほど無惨な刑死について、説得力のある解答を見つ
けることはできませんでした。人類の罪の償いといっても、もう少し別の方法はなかったのか。心優しい人が見たら、あの磔刑の持つ毒々しい残虐さに、生理的
嫌悪を覚え、耐えがたく思うのも当然のことです。綾がクリスチャンにならなかった最大の理由は、イエスが十字架上であのような凄惨な死にかたをしたのが、
納得できなかったせいだと私は推察しています。
バルラッハの磔のキリスト像には、なんと長年の綾の疑問も氷解するような、みごとな答えがありました。綾は新婚旅行で行ったイタリアで、ダ・ヴィンチの
「最後の晩餐」を見た瞬間に畏敬の念に打たれました。イエスがどういう人間であったか、百万の書物を読むよりも、鮮明に理解できたからだそうです(そのせ
いで、よけいイエスが十字架で死んだ不当が許せないと感じたのでしょう)妹の強烈なダ・ヴィンチ体験と同様に、バルラッハの十字架像は私に、電撃が走るよ
うな、大きな啓示を与えてくれました。バルラッハはイエスがなぜ十字架で死んだかを、彫刻という手段以外では、絶対に表現できないようなやりかたで、提示
していました。私には、初めてイエスが十字架で死んだ意味が理解できました。十字架というかたちが、キリスト教の根幹をなすことが、とうとうわかりました
過去に見た数多くの磔刑の彫像、絵画、壁画で見えていなかったものが、突然見えたのです。思わず、「ああ、これしかなかったんだわ」と呟いていました。イ
エスは愛を教えるために、是が非でも死ななくてはならなかったし、磔以外の刑、首切りとか、縛り首とか、毒殺とかそんな死刑では駄目なのです。イエスは十
字架の苦悶のうちに死ぬことなしには、彼の生まれた意味や人生の真価を、世界に伝えることはできなかったでしょう。死は人生の完成される瞬間です。イエス
が十字架で死んだのは、救い主としての人生を決然とまっとうした瞬間でもありました。
バルラッハは物の姿形を見ることより、そこに造形的価値を見ることが、たいせつだと考えた彫刻家でした。普通の目で十字架上のキリストを見れば、そこには
肉体の苦痛に歪む一人の若い男が見えるだけです。では造形的価値とは何か。十字架に釘づけになったキリストの身体は、両手を大きく広げていますその両手を
広げた造形に、全地球がかかるほどの意味があることを、バルラッハは教えてくれました。
人間が言葉や行動でなく、その身体で「愛」というものを表現するとしたら、どういう形になるか、考えてみてください。それは、愛するものを胸に抱きしめよ
うとする瞬間の、両手を大きく伸ばした姿、それ以外にあるでしょうか。駆けよってくる子供を抱こうとするとき、恋人を迎えいれるとき、人間の身体は大きく
両手を広げます。たとえ相手が刃物を持って自分を刺そうとしても、まったく無防備な状態、つまり自分の生命を相手に差し出している姿です。自らの死を覚悟
で相手を受け入れ、抱こうとする形態は、究極の愛のかたちなのです。
死にいたるまでの長い道のりで、イエスは全身の血が燃えるような、塗炭の苦しみに喘ぎながらもずっと両手を広げ続け、そのままのかたちで死の瞬間を迎えま
した。イエスはあらゆる人々、自分を裏切り、嘲り、陥れた人間、自分の脇腹を槍で突き刺す人間でさえ両手を広げて迎え入れたのです。それゆえにイエスはあ
らゆる苦難のやさしい隣人なのでした。イエスの人生は、その言葉も行動もただ「愛」を伝えるためにありましたが、それが不可能になった死の場面でも、
「愛」をかたちとして残しました。両腕を大きく広げる姿は、すべてを許し、すべてを愛する、究極の愛の造形でした。
イエスは死ぬこと、そして死のかたちによって、彼の人生の本質であるところの「愛」を教えました。十字架の死という造形以外に「愛」を伝えるかたちはあり
えない。その発見は私のキリスト教観を一変させてしまうほどの感動でした。キリスト教とはなんと凄い宗教であることか。神父さまもシスターも教えてはくれ
ませんでしたが、十字架はキリストの苦難の象徴ではなく、壮絶な愛のかたちだったのでした。
私のこの感じ方が牽強付会でないことは、帰国後読んだ、『ヨーロッパ・キリスト教美術案内』のなかの一節でも証明されるでしょう。岡田勝明氏がマールブル
クの十字架像について、短くこう書いています。
十字架の横木に長くのばされた腕は、キリストの苦悩よりも、むしろあらゆるものをすくいとる、開かれた愛の表現のようにみえる
一人の天才の存在は、神の存在を証明してくれるものです。バルラッハはキリストの生涯の意義を掴みとった結晶のような十字架像を彫りました。バルラッハは
彫刻という手段をとおして、人間界から天界への橋渡しをしてしまったのかもしれません。
ハンブルクからの帰りの電車のなかでも、バルラッハの十字架像の残像は、私の胸の底にどすんと沈んだままでした。私はその重苦しさのなかで、ママが暮らし
てきた四十年あまりの結婚生活について考え続けました。平凡な、どこにでもいる六十歳の主婦の人生がイエスの苦しみや悲しみとどこかでつながっているよう
な気がしてなりませんでした。車窓から、真赤な夕日が血の塊のように落ちていくのが見えました。それは天空に目眩のするほど強烈な色を放っています。私が
思わず目を閉じると、瞼の裏までもほのかに充血していくような痛みを感じました。
そろそろ、私がママにドイツのことを手紙に書こうとした本当の動機について、告白しなくてはなりません。
ことの始まりは、私の人生からママが消えてしまう日が近づいているという胸苦しい予感でした。去年の八月に手紙を書き始める少し前から、私はママの病気を
漠然とですが感じていました。くるべきものが近づいている何度か検査して大丈夫と言われていたにもかかわらず、娘の直感は悪いほうへ悪いほうへと傾いてい
ました。そのころのママの顔色、急な痩せかたや疲れたようすを見るにつけ、私はある覚悟を迫られるように感じていました。C型肝炎のママにやはり肝臓癌と
いう結末が訪れるだろう……
私は弱い人間で、ママを失うという悪夢に青ざめていました。これ以上恐ろしいことがあるでしょうか。私の心は悲鳴を上げましたしかし私は、ママが私以上に
怯えていることにも気づいていました。過去に、自分の身体を文字どおり楯にして、父親の暴力から娘達を守りぬいていたママ。あらゆる困難に対して毅然とし
ていたそのママが、初めて娘にとり乱した表情を見せたのです。死の痛撃を目前にした人間の当然の反応であっても、私は目をそむけたかった。ママのなかの脆
い部分を見るのがつらすぎて、どうすべきかうろたえ、混乱していました。
私はドイツで神経症の発作に苦しんでいた日々のことをまざまざと思い出しました。それは私が死をこれまでの人生で一番身近に感じ、震えていた日々です。私
の三十数年の人生のなかで、あの暗鬱な日々だけが、ママの苦痛に似ていました。その頃の生活を、もし手紙というかたちでママに語ることができたら、私はマ
マの恐怖や孤独により添うことができるかもしれない。ふとそう思いました。惨めに怯えていた自分の姿をさらすことで、ママの人生により深く関われるかもし
れないそうできたらと願いました。気の晴れる内容の手紙が書けないことはわかっていました。それでも気休めの笑顔や、嘘に塗りこめられた励ましをみせるよ
り、真実のほうが必要なときがきてしまいました。
手紙のなかのドイツの物語が、ひとときの間だけでも、病気のママを別の世界に連れていくことができればいいのです。旅行など許さんという夫に仕えた結果、
ヨーロッパどころか熱海にさえ行くことができなかったママのために、私は書きたい。ママの愛したシューマンやカロッサの国の真実を。ママの目となり耳とな
り、私の感じたまま、考えぬいた結果のドイツの姿を書いていこう。私のドイツはママのドイツでもあるのです。
そんな決意で長い手紙を何通も書くうちに私は今まで経験したことのない事態に出会いました。手紙のなかで語られているのは、過去の回想なのに、そのなかで
私や賢一さんや瑠璃子が生きていて、ママも息づいているのです。語りかけられる存在のママは、手紙のなかでは病気の苦痛もなく、何より不幸ではありません
でした。私は手紙を書きながら、たしかにママの深い眼差しを感じていましたですから、私は手紙を書いている間だけ、ママとの別れの予感に、辛くも耐えるこ
とができました。
癌検査の前には底知れぬ不安に慄いていたママですが、先月の最終的な告知の後には凜として揺るぎませんでした。私は、ママがきわめて冷静に身辺の後始末を
はじめたことに目を瞠りました。ひとたび覚悟を決めてしまうと、母親とは何と強いものでしょう。
「パパは生命保険に入るのさえ拒絶した人だから、薫と綾に自分の財産を残したりはしないでしょう。だから、せめて私の保険金だけでもあなたたちにあげたい
と思って」と言い、ママが自分の生命保険証書と遺言状と実印を差し出したその晩、私は号泣しました。ママは夫からろくな生活費を渡されていませんでした。
ママは可愛い人だったのに、美容院に行くお金もないほどで、ささやかな女の楽しみも捨てて生きていました。そんなママが、どれほどの苦労で娘に残す保険の
掛け金を捻出していたかと思うと、こみ上げてくる感情を抑えることができなかったのです。
ママの結婚には、異常人格というものに触れたことのない人間には想像もつかないほど惨憺たる日々がありました。不幸といえば、これ以上不幸な結婚も珍しい
のです。私は少女の頃から、ママをあんな生活から何とか救うことができないか、そればかりを考えてきたように思います。日本では一年に百人以上の妻が、夫
の暴力によって殺されているという統計があります。ママは、その統計に入らない、潜在的な被害者でした。不運のきっかけは、ママが夫に蹴り倒されて肋骨を
骨折しその折れた骨が肺の一部を傷つけたせいで、緊急手術を受けたことにあります。手術の際の輸血でC型肝炎になり、そして肝臓癌という致命的な病気が待
ち受けていました。
四十年ちかい年月、ママは幾度もあの人間から逃げ出そうと思ったにちがいないのに、それができませんでした。ママの両親が早くに亡くなっていて、帰る場所
がなかった。経済的に締め上げられていて、電車賃にも事欠いた。身体が弱くて、仕事をもっての経済的自立は無理だった、などというのも理由ではありました
が、一番の理由は、二人の娘を手放すことができなかったことにあるのでしょう。夫は弁護士でしたから、親権や養育費を争っても勝ち目はありませんでした。
父がどのようにして異常人格へと変貌していったのか、その原因を知ることは難しいことです。ママの言うように父は「若いころはあんな人ではなかった」わけ
で、少なくともママが二人の子供を生むくらいまでは、癇癪持ちの傾向はあっても、やさしいところのある「普通」の範疇に入る人間でした。それが子供たちの
成長につれて、異様に恐ろしく、暴力的で偏執的な人間へと、徐々に歪んでいきました。
ある学者が、多くの犯罪者や異常人格者には脳に傷が見られると、テレビで解説していたことがあります。脳の研究が進んだ現在ならば、父の脳を調べる価値は
あるでしょう。私は父の脳には傷があるにちがいないと信じています。そうとでも信じなければ理解できないほど、父は暴虐な専制君主でした。
素人の私の推測では、赤ん坊のころの事故が脳の傷の原因です。父が赤ん坊のころ、お手伝いさんが急坂で乳母車の手を離してしまい、乳母車は坂道を転げ落ち
たと聞いたことがあります。父の叔母曰く「それ以来、宏樹さんはひきつけを起こすようになった」そうですから、悪影響があったにちがいありません。当時の
医学では、赤ん坊が脳に受けた傷など発見できなかったでしょうし、治療も困難でした。
父は表面上はたいした後遺症もなく健康に成長しました。途中に戦争という時代背景はありましたが、戦地に赴く前に終戦を迎え、大学を出て、司法試験にも合
格し、ママと見合い結婚して、前途洋々の道を歩みはじめたわけです。脳の傷は父の学力に影響は与えなかったわけですが、その性格をじわじわと破壊しまし
た。年を重ねるにつれ父は異様に金銭に執着し、実社会でもうまくやっていけなくなりました。脳の傷が、人間関係をつかさどる何かの脳内物質の不足か過剰を
招いたとしか思えないくらい、攻撃的になりました。誰とも友好的な関係を結べなくて、周囲すべてが敵でした。
社会に不適応な父は、家庭のなかで毎日荒れ狂って、うさ晴らしでもしていたのでしょうか。父の唯一の喜びは、妻子を支配し、責め苛むことにあったのかもし
れません。今さら、父が何をどうしたと書いても仕方のないことですが、凄まじい虐待の日々でした。ママはあの人の理不尽な要求や経済制裁に、口答えもせず
に耐えました。殺されることよりも、娘が殺人者の子供になることが怖いのだと、言いました。ママは娘二人の防波堤になりました。ママがいなかったら、あの
人の暴力は直接娘に向けられたにちがいないのです
自分の収入の大半を、自分の贅沢のためだけに使いたかった父は、高校を出た娘に働けと言いました。ですから父に土下座して借金するママがいなければ、娘二
人はとうてい大学など進学させてもらえなかったでしょう。結婚することも不可能でした。娘二人の幸福は、ママが命がけで戦ってくれた結果なのでした。ママ
は異常な人間を伴侶としたために自分の四十年の人生を棒にふったのでした。
「Ich Liebe
Dich」という言葉に凝集されたイエスの人生は、じつは凡庸で無名のママの人生のなかにもみつけることができました他人の目にはどのように映ろうとも、
私にとってママが生きてきた姿には、バルラッハの十字架像と同じような痛ましい愛がありました。一緒に生活したいような夫ではなかった仕方なく結婚生活を
続けた。それが事実であったとしても、あの異常な人格を必死で受け入れて、四十年も側にいたということが、夫から逃げなかったということが、その耐え忍ん
だ痛みの歳月が、それこそがひとつの愛のありかたなのだと私は思いました。ママはC型肝炎を発病したときも、癌になったときも一度として夫のせいだとは言
いませんでした服従することが習慣になっているだけだと言う人もいるでしょう。でも私にはわかるのです。ママは夫を受け入れたように、従容として病気を引
き受けた。毒薬であろうと、神が与えたものならば最後の一滴まで飲み干す。ママはそういう人間でした。
ナチスに迫害されて失意のうちに死んだバルラッハは、どのような思いであの十字架像を彫り上げたのでしょうか。救いようのない悲惨を与える脅迫者に対し
て、自らを破壊されずに戦う方法はただ一つしかあり得ず、それは愛の翼で覆うことなのだ。バルラッハはそう考えたような気がしてなりません。望んだことで
はなくても、結果としてママも、愛の翼を広げたのだと思います。
バルラッハの十字架上のイエスに命がけの「Ich Liebe
Dich」という言葉をかけられた私は、冷静ではいられませんでした。じつは愛しているという言葉ほど深く心を抉り、回復不能なくらいに人を傷つける言葉
はないのです。私の父親が十字架のイエスの愛に値しない人間であることは明白ですが、私もまた徹頭徹尾イエスに愛される価値のない人間でした。
ママには黙っていましたが、私は一度本心から父を殺そうと思ったことがあります。ママが肋骨を折られてたいへんな手術を受けていた間、私は待合室で一つの
妄念にとり憑かれていました。殺してやる。心臓から血が噴き出すように、私のなかに抑えがたい殺意がわき上がりました。父への憎しみのあまり、息苦しくな
るほどでした。「もし、ママが生きて手術室から出てこなかったら、私は絶対に父を許さない。父に復讐する」ママがいない家庭に戻るくらいなら、刑務所のほ
うがずっと心地よいとさえ思えました。私は包丁で父をメッタ刺しにしてやるつもりでした。殺人なんて誰にでもできる簡単なことに思えたのです。
さいわいに、ママは生きていましたから、私は父を殺さずにすみました。そのあと、私は自分の手を汚してまで、父を殺そうとは思わなくなりましたが、父が早
く死んでくれないかと、発作のように願って暮らすようになりました。世間は父親の死を望む娘を非難するでしょう。しかし、娘をそこまで追いつめた父は悪く
ないのかと私は反論します。
私は父が死んで、父の柩を火葬場の火のなかに送りこんだ瞬間の自分を、いく度も想像しました。そうすることで無残な家庭生活に耐えていたのです。想像のな
かで、私はじつに晴ればれとしていました。満面の笑顔を浮かべています。これほど爽快な解放感は二度とは味わえないと笑っていました。火に包まれた父の遺
体は、生き返って家族を苦しめることはありません。私は胸の腫れ物がつぶれていくような快感に浸るのでした。
父親も父親なら、娘も娘でした。周囲の人は、賢一さんでさえ、私のことを何の悩みもない、幸せで温和な人間と見ているのに、真相は忌まわしく冷えびえとし
ています。私は父親の死に心から笑い、良心の呵責など感じません。息もこおるほど冷たい人間でした。私のような人間を愛するから、イエスはやつれた姿で十
字架に釘打たれ、血の汗を流して苦しみ悶え、凄まじい悲惨のなかに死ななくてはならなかった。そういう声が響き、私の胸ははり裂けるようでした。私は聖書
の一節を思い出しました。「主は『わたしは、けっしてあなたを離れず、あなたを捨てない』と言われた」(ヘブル・十三・五)イエスは、父親に死んでほしい
と願う業の深い娘の隣で憂いに沈んだ目をして立ちつくしているのでした。イエスの熱い涙は、私の心の氷山を溶かそうとしているのでしょうか。
先週、ママを病院にお見舞いに行ったときのことです。入院してからは「底なし沼に沈むようにだるい」「よく眠れない」と嘆いていたママが、珍しく私の入っ
てきたのも気づかずに、静かな寝息をたてていました。私はママを起こさないように、そっとベッド脇の椅子に腰かけました。ママは、胸の上に小さなピンクの
子ブタのぬいぐるみを抱えたまま寝ていました。そのぬいぐるみは、瑠璃子がお見舞いにもってきたプレゼントでした。ママはその六百円の子ブタをとても喜び
ましたピンクの子ブタの鼻先が、ママにすり寄るようにして、なついてみえました。ママの胸が呼吸で上下するたびに、抱きしめたピンクの子ブタもかすかに揺
れていました。ぬいぐるみを抱きながら、孫のことでも考えているうちに、気持のよい微睡みに入ってしまったのでしょう。
ママの肌は黄疸で少し黄ばんでいましたがその寝顔はすこしも苦しそうではありませんでした。ママの寝顔は、まるで天国の夢でも見ているみたいにきれいでし
た。ママの口もとには、童女のようにあどけない微笑みが浮かんでいます。私はママの側に坐ったまま、うっとりとママの寝顔を見つめていました。見つめれば
見つめるほど、その表情に幸福が溶けこんでいました。ママの寝顔のどこにも長い不幸な結婚生活の汚れがついていないのです。恨みつらみもなく、透きとおる
ように無垢な安らぎありました。
長い結婚生活の間、ママが望んでかなえられた願いなどほとんどなかったのに、今病室に横たわるママの姿はふんわりして、満ち足りていました。父がすべての
自分の欲求を満たして、我慢忍耐を一秒もしないで生きてきて、それでも何ひとつ満足できずに、険しい表情を刻んでいるのとは対照的でした。権力と富だけを
欲した父は、どんなに崇められても、絶大な権力を握っても、巨万の富に埋もれたとしても、飽き足りることなどなかったでしょう。
ところが、ママときたら瑠璃子のくれた六百円のピンクの子ブタで最高に幸せなのでした。ママの求めた幸福は、ほんとうにささやかなものでした。影が深い場
所には、光も強くさしこんでいます。暗い結婚生活を送るママのまわりには、小さくてもきらきらする喜びがあふれていました。道端にひっそりと花を咲かせる
すみれや、ペットショップでふてくされるペルシャ猫の姿や、娘の弾くピアノの音色。ママはそこに無限の幸福をつかみ取ることができたのです。
私はママがこのまま、心和むような眠りを続けてくれたらどんなにいいだろうと思いました。ママの病気が治らない以上、一分でも長く、うららかな春のような
夢に漂っていてほしかったのです。私は半時ほど、ママの側にいてママの眠りを見つめました。それは、たとえようもなく美しい時間でした。私は、父の長年に
わたる常軌を逸した虐待が、ママの喜びのほんの一部分すら奪いとることはできなかったことに、ようやく気づきました。バルラッハの作品がヒトラーの強大な
権力によってさえ、抹殺されなかったように、ママの魂もあの異常人格に破壊されることはなかったのでした。
病室はしずかでした。私はママの澄みきった寝顔を見つめながら、かつてないほど平安な心で祈りました。物心ついてから初めて、憤りを持たずに祈るというこ
とができる気がしました。以前の私はママについて祈ろうとしても、最後まで言葉が続きませんでした。父のことが頭をよぎり、悪寒がするほどの憎悪と悔しさ
で、祈りのかわりに呪詛の言葉しか出てこなかったのです。私は「汝の敵を許せ」という神の意志に従うことなど、断じてできませんでした。父を許せというの
なら、神は先にママを救ってくれるべきでした。
それが不思議なことに、父に対するいっさいの感情が消えていました。私はただこんな
ふうに祈りました──。神様がどうしてもマ
マの命をお望みになるのなら、ひとつだけ私の願いをお聞き届けください。どうかママを今のような平和な眠
りのうちに、天国にお召しくださいますように。長い間さまざまな困難や病気と闘って、充分苦しんできたママが晴れやかな夢のなかで、虹の橋をわたるように
私達と別れることができますように。もし私の願いをきき入れてくださるならば、私は忌み嫌う父とかならず和解することをお約束します。今すぐ父と和解する
ことは無理ですが、この先いつの日にか、私に与えられた父親という存在を受容し、父の異常な人生も認めることを誓います。私は父を許す資格のあるほど、心
正しい娘ではありませんが、けっきょく最後は父と和解しなければならないことを知っています。なぜなら、この私自身も罪を許されなければならない人間の一
人だからです。ママが幸福の輝きのなかで、深い眠りをねむるとき、私はそのときこそ父を憎悪することをやめられるかもしれません。憎し
みには何の力もないことがわかりました──
ママが目を開けて、最初に見たのはピンクの子ブタでした。それから、ふっと私のいることに気づいて、ママは花びらのようにやさしい微笑みをみせてくれまし
た。
冷たい雨の降る一月 ある月曜日
自宅にて
第十信 幸福の瞬間
ママは病院で、私の手紙をくり返し読んでくれているようですね。でも、手紙を読むことも、だんだん疲れるようになったのではありませんか?
これからはいろいろなことをゆっくり語りあいましょう。長い手紙を書くのはこれで最後にします。今日は心をこめてドイツ生活の締めくくりを書いてみます。
ドイツから帰国したとき、私は自分がすっかり消耗してしまったように感じていましたドイツ経験に私は疲れはてていました。それはドイツひいてはヨーロッパ
の文化や歴史、人間や食事の重苦しさに耐えかねたということも、もちろん事実なのですが、不意打ちのように私を襲った幸福の瞬間のせいでもありました。ド
イツでの生活は、ときに信じられないような幸福感を味わうという経験を私にもたらしました。異国での暮らしは行きずりの多くの出会いに満ちていました。予
期しない時に出会うこの世のものとも思われない幸福の刹那が、思わぬ一撃となって私の胸を刺しました。幸福とか美しさとか、人が求めてやまないものが、心
を癒すどころか、反対にすり減らしたり、傷つけたりすることもあるのは、人生の謎のひとつです。十代や二十代の私には想像もつかないことでした。
詩人の石原吉郎の言葉に次のようなものがあります。
ほんとうの悲しみは、それが悲しみであるにもかかわらず、僕らにひとつの力を与える僕らがひとつの意志をもって、ひとつの悲しみをはげしく悲しむとき、悲 しみは僕に不思議なよろこびを与える。人生はそうでなくてはならないものだ
私の好きなこの文章のなかの、「悲しみ」を「幸福」に「よろこび」を「悲しみ」におきかえてみてください。「僕らがひとつの幸福をはげしく感じるとき、幸
福は僕に不思議な悲しみを与える」これもまた真実だと思いませんか。悲しみのなかのよろこび、幸福の瞬間の悲しみ、そのどちらもが縦糸となり横糸となり私
たちの生を織りなしていくのです縦糸と横糸の引っ張りあいが強すぎれば布が磨耗するように、私が衰弱したとしてもいたしかたないことではありませんか。
多くの幸福の瞬間のなかから、忘れられない思い出をママに話したくなりました。それはドイツでの初めての夏を迎えようとしていた六月二十八日のことです。
その日私は音楽会の切符を握りしめていました。アーヘンにはオイロッパザールという音楽会場がありましたが、そこでアーヘンの交響楽団とクラウディオ・ア
ラウの演奏会が予定されていました。賢一さんが瑠璃子の子守を引き受けてくれたので、私は瑠璃子が生まれてからすっかり足が遠のいていたコンサートを聴く
機会に恵まれました。
音楽会は夜の八時からでしたから、賢一さんと瑠璃子と早めの夕食をすませると、私はひさしぶりにスーツなど着ておしゃれをしました。瑠璃子は母親がどこに
出かけるかなどということに興味はなくて、パパとめいっぱい遊んでもらおうと、夢中になっていましたドイツに来てからはとくに瑠璃子と密着した毎日を送っ
ていたので、瑠璃子を置いて出かけると片手でも忘れてきたような気分で落ち着きませんでした。それでもバスを待っているうちに、だんだん嬉しくなってきま
した。ひとりで音楽会に出かけるなんて何年ぶりのことか。学生時代に戻ったような、解放感がこみあげてきました。
オイロッパザールまではバスで二十分ほどです。午後の日差しは七時を過ぎてもほとんど衰えることなく、暖かい太陽の光と麗かな陽気が、見慣れたバスの車窓
の眺めまで晴れ晴れさせて、私の気持ちをいっそうはずんだものにしました。ドイツ国内でも有名なカジノの白亜の建物のすぐ横に建つ美しいこのホールのなか
は、すでに夏の宵を音楽で楽しもうとする、着飾った男女で溢れていました。
私がアーヘンに滞在した当時、人口二十万にたいして日本人は二十五人くらいしかいませんでしたから、当然この会場にいる日本人は私一人でした。今は世界の
いたるところに日本人のいる時代で、有名な劇場などは日本人だらけのこともあるのですが、そこは観光地でもない地方都市のことですから、地元の人間ばかり
なのです。見回すと日本人どころかアジア系の人間の姿もありません。大柄なドイツ人の集団に紛れこんだ私は、子供のように彼らを見上げながら、自分の席を
捜して坐りました。自分と言葉の通じる人間はいない、共通の文化を持つ人間もいないという、異次元の世界に迷いこんだ気分です。
プログラムは、ベートーベンの第五番「運命」とピアノ協奏曲第五番「皇帝」。指揮者はディヴィッドという無名の指揮者でした。無名の指揮者を聴くというの
も、地方都市の音楽会の楽しみの一つです。ベームもアバドも最初は無名でした。カラヤンはナチ党員だったため、第二次大戦後干されていましたが初めてこの
アーヘンで指揮者の職を得ることができました。彼の輝かしいキャリアはアーヘンから始まったのです。その縁で、このホールのこけら落としにはカラヤンが来
て指揮をしたのですから、小さな地方都市の音楽会場も侮ることはできません。このホールの興味深い歴史に思いを馳せつつ、本日のソリスト、クラウディオ・
アラウの登場を待つとは贅沢な一夜となりそうです。
客席が暗くなり、照らされた舞台には三十歳そこそこくらいの、ラテン系の容貌をした指揮者が現れました。指揮棒がふり下ろされると、おなじみのダ・ダ・
ダ・ダーンが流れました。私が今までこの曲に抱いていた印象を一新するような、自由な解釈の演奏でしたそれが音楽的に正しい解釈かどうかは専門家に任せま
しょう。私はいまだかつてこのように晴れやかな出だしの「運命」の演奏を聴いたことがありません。構築的な響きというよりのびのびした鮮やかな色彩の音楽
に変貌していました。地中海のコバルトブルーの海を思い出したほどでした。指揮者は容姿のとおりにラテン系の精神の持ち主にちがいありません。あのベー
トーベンの「運命」が厳しく深刻な響きの音楽ではなく、朝の目覚めのように、柔らかに人生の扉を叩く音楽にもなりうるのでしょうか。あまりに有名すぎて
じっくり聴くことの少ないこの交響曲に、私は新鮮な驚きを持って入りこんでいきました。
ところが、そのうちに私は舞台のある一点に自分の視線が釘付けになって、動けなくなったことに気づきました。ある人間、チェロの首席奏者の隣で弾く青年
を、私は息をこらして見つめていました。グレアム・グリーンの自伝に、両親はそれぞれに子供の知らない「ある人」を知っているものだ、という印象的な一文
があります。私はこの言葉に思わずニヤリとしましたが、グレアム・グリーンにおこがましくもつけ加えると、子供のほうも両親の知らない「ある人」を知って
いるのです。そして、ドイツの小都市のオーケストラのなかに私は「ある人」を見出しました。十二年前に出会って別れ、二度と会うことはないだろうと思って
いた人でした。わが目を疑いました。見つめれば見つめるほどに、私の「ある人」に生き写しのドイツ人がいたのです。その若いチェロ奏者は鳶色の髪に灰色の
瞳を持ち、顎髭を生やしていましたが、まぎれもない「ある人」の再来として私の前に唐突に現れたのでした。
その昔私は、際立って美しい青年だった彼に話しかける勇気もなく、ただ遠くから追い求め、彼の姿を言葉に言い表しえぬほど待ち望んでいました。ある日、大
学の帰りに駅で電車を待っていると、向かいの反対方向のホームに教科書と愛用のホルンを抱えた彼がやって来ました。彼がすぐ私に気づいて、線路を挟んだ向
こうのホームから、まわりの人に聞かれるのも気にせずに、よく通る声でにこやかに話しかけてきた瞬間は、今思い出しても震えるように素晴らしい瞬間でし
た。まるで空気の色が突然変わったように感じました味気ないモノクロの映像に一条の光が差し込んで、突然世界が色彩に溢れた映像になったようでした。
その瞬間の魅惑の色の世界が、思いもかけず十年以上も経て今、目も鮮やかに蘇ってきました。私はドイツのチェリストを見つめながら、さまざまな昔の光景を
フラッシュバックさせました。彼は高等科の美術室に置いてあったギリシャ彫刻のマルスの石膏像によく似ていました。毎週飽きもせずに石膏デッサンをしてい
た私は、マルスの顔を熟知していましたから、現実の彼の横顔をたやすく描くことができました。それでも彼の何かに夢中になっているときの、憑かれたような
目、火のような激しさはとうてい表現できませんでした。ときおり彼は孤独の影を底に秘めた陰鬱な表情を見せました。まるで自分の未来を予見していたよう
な、重苦しい救いようのない眼差しでした。
歌はうまいとはいえなかったけれど、彼の深い声の響きは大好きでした。ある日の彼は横断歩道の信号が青になるのを待たずに、車の流れが赤で止まった瞬間の
渋谷の交差点をただ一人渡りはじめました。私と信号待ちの多くの群衆はなかば呆れながらも、彼の颯爽とした長身と、衆人監視をものともしない思いきりよさ
を、その白いシャツのように眩しく見つめていました。
さまざまな記憶の断片が集まり、一つの大きな奔流になって私の胸に流れこみ、失われていた「時」が戻ってきました。過ぎてかえらぬものが贈り物のように与
えられたのです神様はときどきえも言われぬ悪戯をしてくださるのですね。音楽は第二楽章に入り、瑞々しい浄福の音楽が、静かに澄みわたるように会場を充た
しました。まるで強い光に浸されるように、私は不意の幸福感に痺れていきました。
過酷な運命を生きたベートーヴェンは、じつはこの世界に生きてあることの喜びを、深く味わいつくしていたのでした。自らの不運や不幸を恨むことなく、どん
なに晴れて輝いていたことか。ベートーヴェンのあまたの補聴器に涙を流す多くの人間にとって、このようなやさしさや、歓喜に溢れた音楽の存在は感動的なも
のです。第二楽章は、命に花が咲いたような、この世界を讃える至福の音楽でした。それは燦々と降り注ぐ夏の陽光に似ています。生命力に満ちた青春の栄光の
ごとき夏。冬の苦難を知る者のみが獲得する、心に滲みいる微笑の季節。第二楽章はドイツの夏の森を被う緑のように力が深く、静かに燃え堂々としていまし
た。一つ一つの音から、偉大な夏の、鮮やかな青葉のきらめきが滴りおちるようでした。歓喜の季節が結晶した音の世界が、私を彼岸へと導いてくれると感じま
した。
ドイツは他のどの国よりも、音楽が美しく純度が高く鳴る国でした。一つ一つの音がなぜか透明で清冽に響くのです。ドイツで音楽に聴き惚れていると、この国
の空気は特別に澄んでいて、酸素よりなお青く、音の反響に邪魔になるような塵や埃や排気ガスや湿気や雑音などが何もないのだと思いたくなります「運命」の
第二楽章のまばゆいような生の喜びが、他の国で演奏されたときに、これほど胸に迫るものになることはあるでしょうか。
私は若いチェリストを見つめながら、自由に過去へと旅をしました。過去の「ある人」は私に恋をしていませんでしたし、私にとっては失恋さえできないような
無縁の異性でした。彼が恋していたのは、魅力たっぷりでありながら、最低の部類に属する女性でした。若さと潔癖さに占領されていた当時の私にはその女性の
身持ちの悪さや娼婦性は許せても計算づくのしたたかさは受け入れがたいものでした。特権階級への条件のよい結婚を望む女が、ごく普通の家庭に育った男を、
能力のいかんに関わらず選ぶはずがないということを、彼は知らなかったのでした。私は遠くから彼が恋に落ちて破れる一部始終を見ていました。人一倍誇り高
い男が都合のよい賛美者として利用され、古雑巾のように棄てられたその痛ましさや滑稽は、発狂してあらゆる記憶を消してしまいたいと思うほど、私を傷つけ
ました。
あれから十年以上経った今考えれば、彼がした愚かな恋を少しは理解することができます。人は、しばしば自分を裏切ると予感する相手にこそ恋をするものでし
た。失恋後の彼の人生はさらに急展開をし、風の便りに就職して派遣された南米の任地で事故に遭い、その事故の傷そのものは致命的でなかったものの、薬の副
作用による病気で亡くなったことを知りました。「ある人」はついに私の人生とほとんど接点を持たぬまま、墓標となったのでした。
プルーストは「音楽は思い出である」と語りました。ベートーヴェンは心に疼く過去の映像から、刺の痛みをぬいて、思い出を甦らせてくれました。夢の人と再
会するのは、やはり音楽という夢のなかでなくてはなりません。私は美しい音楽に身を委ね、二十歳の追憶に心地よく寄り添いました。かって私の心のすべてを
占めていた光の漲る「ある人」を幻であっても生まれて初めて自分だけのものとすることができました。過去に私を責め苛んだ嫉妬や絶望や悲しみはどこにも存
在しません。「ある人」が薬への拒絶反応で最期は全身の皮膚も剥けてしまったらしいと、知りたくはなかったその話をしてくれた人を私は呪いました。「ある
人」の美しい面影が無惨に苦しむさまが目の底に浮かび上がってきて拭っても拭いきれず私の記憶にこびりついていました。
ところが、今「ある人」は、ドイツで美貌の青年チェリストとして転生して、たとえようもない幸福の音楽に包まれていました。私の思い出は一気に浄化され、
祝福されたのです。このような甘美な夢なら、醒めないでいたいと切に願いました。人間は本当に逢いたいと思っている人には、かならず逢うことができる。そ
れは過去に読んだ本の言葉でしたが、素敵な真実でした。逢いたい人に望んだようなかたちで逢える場所。もし天国というものがあるとすれば、このようなとこ
ろにちがいないのです。
ベートーヴェンの第二楽章の演奏は私にずっと桃源郷を味わわせてくれました。それは次のピアノ協奏曲になっても変わることはありませんでした。クラウディ
オ・アラウはすっかり好好爺になっていましたが、彼の音楽の豊穰さ、生き生きとして濃厚で清新の気はますます磨かれて、聴衆の耳を喜ばせましたアラウはド
イツ人ではありませんが、私は彼の音楽のなかに、ドイツ芸術の根底に流れる善き楽観主義を感じました。人生はこんなもんだという悲観ではなく、人生はこう
あるべきだ、こうもなり得るという勇気ある楽観です。愛されなかったという悲観ではなく、愛したことの素晴らしさを讃える楽観主義。人間は死んでしまう存
在ではなく、たった一度きりであってもこの世界に存在し、かけがえのない人生を生きられるという楽観。アラウの演奏は、苦悩をつきぬけて歓喜に到れ、とい
うベートーヴェンの愛弟子にふさわしいものでした。人生に希望や信頼を持ち続けることは、絶望や諦めを友とするより、はるかに難しいことです。ベートー
ヴェンのように心から励ましてくれる人がいなかったら、苦難にどうやって立ち向かったものか、途方にくれてしまうでしょう。賛美歌の歌詞ではありません
が、涙の谷にも花咲きみだれて、「ある人」が短い人生を生きたことも、喜ばしいことだったと信じることができました。
私は生きかえったかのように、心も身体も清々しく洗われ、恩寵に包まれた感覚を味わったのでした。ドイツの地方都市の片隅に生きるハンサムなチェリスト
は、自分が異国の見知らぬ女に純粋な目の喜びを与え、これ以上ないほどの幸福感をもたらしたことなど、夢にも知らないことでしょう。アンコールが終わる
と、私はアラウの演奏に、交響楽団に指揮者とあのチェリストに感謝をこめて手が痛くなるまで拍手を続けました。拍手喝采を受けるアラウは音楽の新鮮さに比
べて、その姿は老齢そのもので、彼の演奏を聴く機会はもうないだろうと感じました。聴衆は立ち上がってアラウに拍手を送ります。
「日本の方かしら。貴方のお国の人とこの音楽会場でお目にかかるのは、珍しいことなんですよ」
隣の席の白髪をきれいに結い上げた年配の婦人が、拍手のなかで話しかけてきました。彼女には連れがなく、おそらくは未亡人の老後の楽しみで音楽会に足を運
んだのでしょう流暢な英語の話しぶりのせいか、彼女には知的な雰囲気が感じられました。私は彼女と演奏の感想など少し話しながら、帰ろうとする人々で混雑
しているロビーに出ました。そしてロビーの正面いっぱいの広い窓に切りとられた光景を前に、言葉も忘れて立ちつくしてしまいました。それは私の今の幸福感
にとどめの一撃を加えるような圧倒的な眺めなのです。
外は十時近いというのに、澄んだ水底のような陽光が残っています。過去に私の喜びと悲しみをかきたてたすべてを甦らせるような不思議な空の彩りでした。透
明な青色の夕暮れとでもいうような空です。闇が落ちる前に天上から銀の矢が降り注いで、世界を限りなく純粋の空間に変貌させているのでした。
隣に建つ、本来は遊興の場であるカジノの白い建物全体は、青ざめたような白銀に染まりました。さながらギリシャ神殿の廃墟のように荘厳な美しさを湛え、カ
ジノは六月の緑にむせぶような公園のなかに、鮮明な輪郭で浮かび上がっていました。その神殿を取り囲む公園の、手入れの行き届いた青い芝生や百花繚乱の花
壇、勢いのいい青葉を重ねる木立や、豊かな水を湛えた噴水は、夏の夜の夢の妖精たちが飛びまわる場所のように、神秘めいた水晶色を帯びています。その夕景
には何一つ欠けたものはなく、絢爛としていても、余分なものがありません。密やかな夜の闇が近づく前の一抹の哀愁と、蜜のような甘さが漂い流れているので
した。
それは私には完璧な美しさ、西洋の文明が語るところの「楽園」の黄昏の眺めに思えました。どこからともなく微風に乗って、空や森や六月の薔薇の匂いが、広
々としたホールの空気に滲んでくるようでした。私の胸は一杯になりました。こんな激しい幸福の感覚には慣れていません。耳の底にはまだベートーヴェンの旋
律が鳴り響いています。私は思わず溜め息をつきました。
「こんな美しい宵は、私の人生でそう何度も経験できるものではないという気がします」
と、やっと言葉に出して隣の老婦人に話しかけることができました。
「本当に素晴らしい音楽会だったこと。私も幸福よ。でもあなたはとても若いわ。若いってかけがえのないこ
とよ。美しいことはまだまだこれから数多く味わうことができるでしょう。あなたにお目にかかれてよかった。ごきげんよう」
彼女はそう言って心から微笑み、私に別れを告げると軽く左足をひきずるようにして、タクシー乗り場に向かいました。ふと彼女にもう逢うことはないという思
いに胸を衝かれクラウディオ・アラウとも「ある人」とも正真正銘のお別れなのだと思いました。
とりとめのない悲しみにおそわれました。幸福感はそれが大きければ大きいほど、不安や喪失の反動を呼び起こしました。幸福の瞬間はやはり悲しみの極みに似
ています。私は公園を横切ってバス停に向かいながら、その一歩一歩が過ぎていくのが止められなくて、取り返しのつかないような気持ちでした。一つの幸福が
天から降ってきて、私を包みました。しかしこの妙なる心地よさに生き残り、時よ止まれと言うことはできません。夜の闇が淡く、それでも確実に迫ってきてい
ました
帰りのバスの車窓からは、まだシャッターの下ろされない家々の部屋の様子が眺められました。ドイツの家庭は窓辺に特別気を使うので、それぞれ趣味よく美し
く飾られていました。整然と並べられた鉢植え、色の調和を考えられた花々。道行く人に見せるように飾られた窓際の彫像や置物の数々。純白のレースのカーテ
ンや重厚な布カーテンとタッセル窓から見える食卓の上の蝋燭の暖かな揺らめき。壁を飾る絵画。シャンデリアの硬質な光美しく暮らそうとする人々の願いが、
暮れゆく街並みに輝く小さな宝石箱のように、浮かんでは消え、浮かんでは消えていきました。
外の世界を覆いつくす孤独や空虚が深ければ深いほど、窓の奥にあるものは滾るように熱く、優しくあるべきでした。私には人間の生活のいとなみがこのように
愛おしく思えたのは初めてのことでした。私達の住む仮住まいのアパートからも、きっと灯がもれていてそこに夫と娘が待っていてくれる。私にも家族がある。
そのことが、私を有頂天に嬉しがらせました。私は夢から醒めても、まだ天国にいるのでした。
私が今まで生きてきた生活には劇的なことなど何もありませんでしたが、じつは鮮やかな閃光のひらめく瞬間がかぎりなく存在していました。家族の温もりも
「ある人」への小さな追憶も、日常の惰性にその光を失うことなく、私の生をそれだけで生きる価値のあるものにしてくれていたのでした。この事実は私が異国
の隔絶された環境におかれなければ見えてこないことだったかもしれません。日本で日々の些事に翻弄されていたら、私のような平凡な人間はよほど経験を重ね
て、年をとらないかぎり、幸福の閃光に打たれていることに無感覚でいたと思います。私はドイツの片隅の音楽会で味わった幸福の光景を、人生の終わる日まで
たいせつにしていくでしょう。
その後も幸福の瞬間が私を捉えることが、ドイツの生活のなかではたびたびありましたたとえばあるときは、大晦日の夜が新年の零時に変わった瞬間に、アーヘ
ンの夜空にいっせいに打ち上げられる花火の美しさでした。それは日本の夏を飾る隅田川の花火大会のお祭り気分とはまったく異質の世界です。ドイツでは花火
は凍てつくような寒空のなかで新年を祝うものでした。ある特定の場所で大規模に打ち上げられる仕掛け花火ではなく、街中いたるところから、個人が火をつけ
たちいさな花火が無数に舞い上がり、アーヘンの街全体の空が漆黒の闇から朝に変わるように明るく染まりました。
高台にある私達のアパートからは、白や金や赤や緑のいろいろな色彩の花火が風船のように夢見心地に、夜空に高く上がっては消えてゆく様子が眺められまし
た。一年に一度だけ夜空に幻想的な花が咲くような光景でした夜が明けるかと思われるほどの花火の点火は三十分ほども続きました。深夜の花火の渦には、暗黒
の世界を変えようとする新年への希望が、人々の希望への堅固な決意が溢れていました。私は賢一さんと二人で花火の世界を夢中で見つめていました。
「ヨーロッパはなんて美しいんだろう」という思いが抑えがたく湧いてきました。真冬の花火はそれだけでももちろん美しいのでしたが、私は夜の闇さえ突きぬ
けてしまおうとするドイツの人々のこの世界への妄執のような情熱、もう少しわかりやすい表現を使えば「愛」というものに感動していました。
この地に代々住む人々にとって、人生は美空ひばりの『川の流れのように』流れるものでもなく、「なるようにしかならない」ものでもないのでした。まして
「出たとこ勝負」なんてとんでもない。彼らには人生は自らの望みに近づくように、一歩一歩刻んで作り上げていくものでした。あらゆるもの、自然も社会も、
夜空さえもが自ら働きかけて、より善く美しく仕上げていくことの可能なものなのです。
小塩節氏が『ドイツの森』でヨーロッパ的なもの、ヨーロッパ精神の一つとして「人間の意志」という言葉をあげていました。ドイツでは町や都市すらも自然に
できたものではなく、人間が自分の意志で作ったものだというのでした。ハンス・カロッサの「蛇の口から光を奪え」という珠玉の言葉は、ドイツやヨーロッパ
の人々の意志の強靱さをよく表現していると思います。彼らは逆境にあってもそのなかから光を掴む闘志を求めます。光は与えられるものではなく、捜しあてる
ものでもなく、奪い取るものです。この人生に対する傲慢と紙一重の能動的な力は、みごとなものでした。それは私自身にもっとも欠けていたものだったかもし
れません。ドイツでレン・ハーや私が巨大な壁のようだと感じた異文化の本質とは、畢竟この岩盤のような人間の意志の存在に他ならないのでした。
生や死、愛や孤独、風土や社会、文化芸術あらゆる物事のありようが、日本とは決定的に異なっていました。ドイツでは絶えず人間の意志がぶつかり合い、なに
ごとにせよ戦わずに生きていくことが不可能なのだと骨身に滲みて悟りました。幸福も不幸もその現れかたが徹底的で、激しく、私はその両極に追いつめられる
ように生きなくてはなりませんでした。日本では幸福も不幸も、もっと淡い色合いをしていました。日本語では外国人のことを異人と表現する方法があります
が、本当にそのとおりなのでした。ドイツ人と日本人の間には誤解すら成立しないほどの違いが横たわっているのです。そのうえ日本人が彼らを理解しようと思
う十分の一も、彼らが日本に興味をもたないことも、事態を絶望的にしているかもしれません。
柔らかくて湿った空気を吸い、曖昧な作法と微妙な言葉づかいを駆使して、日本人は繊細に淡彩に暮らしてきました。そんな日本人にとって、断固とした意志の
作る、黒白はっきりさせずにはいられない、ひりひりした緊張の世界に生きることは、ものの見方を学ぶまたとない機会となりました。おおげさに言うと人生を
凝視する場所を与えられたと言えます。私にとって初めは観光や憧憬の対象でしかなかったドイツは、いつの間にか生の実相を見せてくれる唯一無二の場所にな
りました。行動する性格ではない私は、この国で死の恐怖から生の不安、爆発的な狂喜から痛切な感動まで、じつに多くのことを能うかぎりに味わいつくしたと
思います。
ドイツはときには悪意と奸計に満ちて、はかりがたい暗い深淵を覗かせ、ときには神の栄光に溢れ、想像を絶する美しさで魅了するのでした。私は怯えたり、喜
んだりしながら無我夢中で二年間を過ごしました。それは「楽しい」外国生活とはほど遠いものでしたドイツ経験はどこかで私の心の容量を超えてしまったので
しょう。私はドイツに不適応でありましたし、ひどい神経衰弱状態で帰国するはめに陥ってしまいました。心底疲れました。
私は戦う必要のない、心安らぐ温かい日本の土を踏み、数年間かかって少しずつ自分を癒すことができました。病弱な瑠璃子も日本の元気な小学生になりまし
た。ようやくドイツをふりかえる余裕が生まれ、ママに十通の手紙を書くことができました。手紙を書き終えてみると、私が心身の健康を損ねてまで経験したド
イツは、私を以前より豊かにしてくれたのだと思わずにはいられません。帰国後の私は若さを失ったぶんだけ、成長しましたこの成長に苦痛がともなったのは、
仕方のないことなのでした。ママの娘はドイツに行って、少しはママのことがわかるようになったのかもしれません。ドイツの思い出を語るのは、この手紙で終
わりにしようと思います。長い間手紙を読んでくれて、ほんとうに嬉しく思います。心からありがとうを言わせてください。
手紙の最後に、ひとつ愛らしい言葉を見つけましたので書いてみます。
ママ 田中 大輔
あのね ママ
ボクどうして生まれてきたのかしってる? ボクね
ママにあいたくて
うまれてきたんだよ
(川崎 洋編「こどもの詩」花神社)
当時三歳の作者の言葉を母親が書きとめたものだそうです。こどもというものは、ときどき、どのような詩人も顔負けの言葉を口にします。私はこれ以上の母親
への賛辞を知りません。私が三歳のときに、ママにこんな言葉を言うことができたら、ママをどれほど喜ばせてあげられたでしょう。大人になって、いろいろな
ものをつめこみすぎた娘は、このひと言が言えなくて、とうとう十通もの長い手紙を書かねばなりませんでした。
でも最後に三歳のこどものまねをして、ひとつ言わせてください。ママがそう遠くない将来、この世界からいなくなっても、それで終わりではありせん。私はマ
マとまた逢えることを信じています。私がある人とドイツで再会したように、私はかならずママに逢います。
ママの居場所がどこだかはわかりません。ニューヨークの街角か、インドの雑踏か、パリの美術館の絵のなかか、中国の映画のなかか、それとも「あの世」なの
か……。たしかなことは、逢いたい人にはかならず逢えるという真実です。私は生きているかぎりママを捜し続けます。
そしてもしこの人生の時間のなかで、ママに再会できなくても諦めません。私は自分の人生を終えるその瞬間に、無窮の夢を見ます
「私は、ママや私の愛した人にもう一度逢うために、死んでいく」
さよならは言いません。ママは私にまた出逢うために、別の世界に旅立つだけなのです
から──。
外は二月とは思えないほど暖かくて、桜の花でも咲きそうな陽気です
自宅にて
──(完)──
参考文献
『美しきもの見し人は』
堀田善衛 新潮文庫
『人間を彫る人生 エルンスト・バルラハの人と芸術』
宮下啓三 国際文化出版社
『ヨーロッパ・キリスト教美術案内
P・ミルワード 岡田勝明 ほか 日本基督教団出版
『ドイツの森』
小塩節 英友社