e-magazine湖(umi)=秦恒平編輯 12
 

* この頁には「自分史」の試み=スケッチ、を纏めてみよう。

だれもが、一度は書いてみたいと考える。なかなか書けないが、試みる値打ちはある。
完成度を考えない「スケッチ」のなかに、自ずと、「人」と「暮らし」と「誠」が、きらきら砂金のように光るなら、それもいいであろう。自分を「飾ろう」としたらダメである。
 

 



 
 
        小学校時代      祖谷 八寿子

 
 
 

        能褒野 (のぼの)

  昭和二十六年四月、私は、三月三十日生まれ最年少の生徒として三重県の能褒野(のぼの)小学校に入学した。
 入学式のことははっきりは覚えていない。写真を見ると、母が手作りの丸い襟白いブラウスの上に、やはり手製のおしゃれな紺のボレロとスカートで、紺色のつば広の帽子をかぶった私が、頬を光らせ、のけぞるように笑っている、真新しい茶色の豚革ランドセルを背負って。
 戦後間もなく、鈴鹿山麓の開拓団に加わり私の一家は東京から移って行った。敗戦の日まで陸軍大尉だった伯父夫婦、発明家で東京在住、会社を経営していた祖父母、そして母、私の六人家族だった。父は。父のことはまだ語り始める気になれないが、どうして、「東京の人」だった我々がそのような人生を選択したのか、本当のところ私にはよく分からない、戦争に蓄えのすべてを奪われ、乳飲み子の私を育てて行くためにもという以外は。
 若かった伯父伯母や母が、いきなり慣れぬ農作業に取り組んでみたものの、飛行場跡を耕した一町歩余りの畑地は、地味もやせ、実り少なかった。前途も険しい労働のあと、空腹がのどもとまで迫ると、三人はいもの茎を噛んで飢えをしのいだという。
 家にはいろいろな動物がいた。大きな黒い牡牛。やせた腹には毛がまばらに、しつこく虻が寄ってくる。牛は短い尾で追い払うが、何匹かの虻は吸いついて離れない。
「チョウ チョウ」
 伯父が声をかけると、牛はうつむきながら大八車を引いてとぼとぼと畑への乾いた道を歩いた。牡牛は伯父の命令にしか従わなかった。
 伯父は、そのほかにもやぎ、豚、うさぎ、七面鳥、鶏などの家畜を飼っていた。
「豚はきれい好きなんだぞ」
 ていねいに世話をされた豚は、ピンクの肌に真っ白い毛が光っていた。伯母はこわごわやぎやうさぎの世話をした。
 母はひよこを育てる係だった。孵卵器からかえった箱いっぱいのひなに卵の黄身をすりつぶしては、一羽ずつ口をこじあけて与える。ひよことゆでた黄身がまざりあい、妙に甘くなまぐさいにおいがした。
 あらゆる意味で蓄えのない新米の開墾農家では、一人娘のランドセルを買うにもこと欠き、私が「クイックちゃん」と名づけてかわいがっていた七面鳥を内緒で名古屋まで売りに行き、やっと豚革のランドセルを買ってくれた。茶色いランドセルにはぷつぷつと小さな毛穴がたくさんついていた。見るから新鮮なそれは、初めて買ってもらった宝物、ぴちんと錠を下ろしつるつるなで回すとぷーんと革のにおいがした。豚革のは、牛のよりもいくらか求めやすかったのだろう。
  貧しい開拓村に幼稚園のあるはずもなく、小学校にあがるまでは集団生活の経験がなかった。みなで仲間になり遊ぶ経験さえなく、誰もがいきなりピカピカの一年生だった。学校へ行けばきちんと椅子に腰かけて勉強しなければならないと、それだけはわかっていた。
 入学式の日、四十人足らずの生徒は緊張の面持ちで行儀よく自分たちの教室に入った。A組とB組の二クラス、私はA組、そして「菱川 八寿子」と書かれた真新しい名札を胸につけた。
 一年A組の担任は内山先生だった。セピア色になった昔の写真を見ると、若くて目の大きいキリッと美しい先生だが、私はどうしてもこの先生が好きになれず、隣のB組の佐藤先生が好きだった。内山先生はごつごつと硬く、佐藤先生はふわふわとやわらかい感じがした。
 内山先生に怒られたことがある。「よくできました」「もうすこしがんばりましょう」と桜の花の中に書いてあるはんこを、休み時間に数名の生徒達で手におして遊んでいた。「いたずらしていた人は前に出なさい」
怖い声で先生に言われた。正直に前に出た子もいたし、出ない子もいた。私は手を挙げて前に出た。
「はんこを押した手を上げなさい」と言われ、ほかの子たちは片手を上げたのに、ひとり両手を上げた。右にも左にもはんこを押して遊んでいたのである。先生は一人一人の頭を黒板にぶつけて怒った。いやな気がした、正直に前に出た子だけが辱められていた。それだけで済まず、あやまりかたが悪いと言い先生は鬼のような顔になって中の三人わ廊下に追い出された。京都からきていたはつこちゃん、もうひとりはせつこちゃん。そして私。
「そうや なきまねしよ」
 せつこちゃんが言った。廊下にうつぶして泣きまねしているうちに、無念の涙が出てきて、廊下に黒い染みをつけた。
「たたされとんのやな」
「この子 ほんまにないとるわ」
 上級生が顔を覗いて通り過ぎていった。
「そうや 佐藤せんせのとこ、いこ」
 はつこちゃんも佐藤先生が好きだった。
「A組やから ええくみや」などと言っていた私たちだが、佐藤先生のB組ならどんなによかったかと思っていた。三人で佐藤先生の教室にすたすた入っていった。
 一年生のクラスメートの顔と名前ははっきり覚えている。開拓団の子と地元の子、それから、ふっと転入してきてすぐどこかに行ってしまう子の、三種類あった。
 開拓団の原まさおくん。一番できた男の子。くりっとした目ではきはきしていた。
「でえちゃん(ねえちゃん が鼻がつまって、でえちゃんにきこえた)まめまきしよ」
 劇の練習をすると、まさおくんと私はすらすら科白が言えるのに、その後の子たちが続かなかった。(風の便りに、まさおくんはもう亡くなったと聞いている。)
  かとうたかしくん。親に力があり、たかしくんはいばっていた。二年の学級委員にはたかしくんと私が選ばれた。よくできていじわるしないまさおくんと学級委員をしたかったのに、と思った。
 森とおるくん。クラスでただ一人、坊ちゃんがりだった。しらみを予防するために、DDTの白い粉を頭からかけるという乱暴な「消毒」の行われたとき、女生徒全員と男の子ではとおるくん一人が消毒の対象になった。白い粉末はむせるようなにおいがした。
 原はつこちゃん。色白の女の子で、三重県のことばよりさらにやさしい京ことばが可愛く、いちばんのなかよしだったが、一年生の半ばで京都に転校してしまった。ぽつんと寂しかった。「京都」という土地がはつこちゃんのはんなりした印象と重なり合い、心に残っている。
 朝田よしこさん。開拓団の子。家が近いので、往き帰りがいつも一緒だった。地味でしっかりした子だった。せつこちゃん、最後に隣の席になった。つゆこちゃん。ピアノに顔を映して唇をちょっと上に上げるとつゆこちゃんの顔になった。
 校庭には桜の木が何本かあった。桜の木の幹から「やに」が出ている。この「やに」を小枝で巻くようにすくい取って水たまりに浮かべると、枝は水たまりを走るのである。茶色い濁ったやには「ふつうのやに」、黄色い透明なやには「ええ やに」で、私たちは黄色いやにの出る木を探しまわった。要領のいい男の子達は黄色いやにを木の枝いっぱいにくるくる巻きつけていたが、私は、低い所にある木のこぶから、濁って黒いブツブツの入ったやにを取るのがやっとだった。濁って黒いやにのついた木の枝は、水たまりにどよんと浮いたままで、動こうとしなかった。男の子達の黄色いやにの小枝は、軽快に曲線を描きながら、水たまりを走り回るのだった。
 「ガムの草」というのがあった。草の先を広げると、中にふわふわしたうすピンク色の穂が入っている。噛むと、ほんのり青臭いかおりと歯ごたえがあり、ガムのようにクチャクチャしているとほどよい弾力がある。帰り道、草むらを見つけては「ガムの草」をとっては、クチャクチャ口のなかで噛んだ。祖母や母には内緒だった。
 上級生の女の子が「能褒野神社に あめの かみひろいにいこ」と、誘ってくれた。「雨の神?」、一瞬首をかしげたが、すぐに「飴の紙」だと分かった。どこからともなくきた人が神社でお菓子を食べて、赤や黄色のセロファンの飴の紙を捨てていく。それを集めて折り紙にするのだ。神社に行くのを祖母が到底許してくれるはずはなく、「いかれへんのや」と小声で断った。
 印象的な光景がある。空から無数の金や銀に光ったものが、きらきらと輝いて舞い降りてくる。高い高い梢に、また何十メートルも下の地面に、ひらひら、ひらひら落ちてくる。私たちは夢中で追いかけた。やっと手に取ったときは金や銀のきらめきを失い、ピンクやブルーのざらざらしたただの紙きれになっていた。あのときの、あの失望──。空から飛行機が宣伝のビラをまいていたのである。
 あっという間に夏休みが来てしまった。友だちと遊ぶこともできず、一人っ子には退屈な日々だ。伯父も伯母も母も畑仕事に忙しく、楽しみといえば、はしごのついた小さなすいかの番小屋で、絵を描いていることだった。番小屋を通り抜けていく風が地上にいるより涼しかった。
 暑い夏だった。その夏、初めてすいかがたくさん取れたので、大勢の人を雇って「種なしすいかの種」を取った。「種なしすいかの種」というのが不思議だったが、問うことをためらうほどの人々のあわただしい手の動きと、夏の夕やみの中で次々に割られていった赤いスイカのにおいとが目の奥のほうに残っている。
 秋の運動会で全校のダンスがあった。秋祭りの踊りであったのかもしれない。六年生の輪の外に、一年生が丸い大きな輪になる。
「六年生ておおきいんやな」と見上げた。隣り合った大きな六年生の女の子の額に、みにくくおできがあった。こぶのある六年生はごつごつした長い手をぶきっちょにまげながら踊っていた。手をつなぎたくないなと思った。
 運動は何をしても下手だった。走るのも遅く、ボールも飛ばなかった。しかし、二年生の春の運動会で三等になった。私は覚えている。白いラインのちょっと内側を走ったこと、それがルール違反だったことも。
 一年生の学芸会は、小学校時代でたった一度の輝かしい思い出だ。「はるかぜさん」という劇で、主役の「はるかぜさん」に選ばれた。ガリ版刷りの脚本もすっかり覚え、本番で、まちがえることも上がることもなくせりふが言えた。しっかり言えた。が、一カ所「どうしたのかしら?」というせりふがあり、ここを東京風に「どうしたのかしら?」とすらすらいうべきか、先生に教わったように「どうしたの かしら?」と、切って言うべきか悩んだ。やはり本番では、先生に教わった通りに「どうしたの かしら?」と、一息切って言った。そして、われながら完璧にできたと満足した。ラストシーンではカーテンをほどいてつくった純白のベールをかぶって、「はるがきた はるがきた」と、舞台中央で踊った。スポットライトと拍手を浴びた小さな春の精は、そのまま空に飛んでいきたいほど幸せだった。
 小学校の校庭の向こうにはいつも鈴鹿山脈が見えた。春はふじ色にかすみ、夏はくっきり青々と連なり、冬になると雪をかぶっていた。季節が変わると山の色も変わることを当たり前に受けとめながら、遠い山なみを目指して通学した。季節はまた春を迎えようとしていた。
 小学校の入り口にため池があった。なぜ、そんな池があったのか分からない。すり鉢型だから一度はまったら上がれないので、危ない、気をつけるようにと言われていた。池はいつも灰緑色に濁っていた。その周りで歯磨きの練習をしたことがある。粉歯磨きだった。歯ブラシに歯磨き粉をつけようとしたとき、手からつるんと歯ブラシが滑った。歯ブラシはポチャンと池に落ち、すり鉢の底に吸い込まれていった。私はわっと泣いた。
 なれない開墾の百姓仕事も私が二年生になったころは、かなり軌道に乗ってきた。麦畑の畦にヒバリの子の巣を見つけたときはどきどきした。顔より大きく口を精一杯あけた雛たちは、血でも吐きそうにピイ ピイとかん高く鳴いた。親鳥は雛からはるかに離れた畑にまず舞い降りて、神経質そうにこちらの様子をうかがっていた。
 春、急に東京に引っ越すことになった。伯父の東京での就職先が決まったのである。
 畑での最後の光景がありありと心に残っている。菜の花畑の中の私。背よりも高い菜の花にすっぽりと包まれて。金色のカーテンは地平線の果てまで続いて豊かに揺れていた。
 二年生になって間もない五月、転校の日を迎えた。お別れのあいさつをするために、教室の前に立った。せつこちゃんのとなりの席だけがぽつんとあいていて、それはやけに遠く小さい場所に見えた。小さな私の席は、涙にぼやけて白く煙のようにかすんでいった。
 

      世田谷

 「ええ? ここが東京なの?」初めて世田谷の家に向かうとき、私はびっくりした丸い目でこう聞いたという。知っている東京は、街の真ん中の市ヶ谷だった。祖母の姉の家族の住む市ヶ谷の官舎が東京の家だった。おししもやってくるし、舗装道路にそって整然と垣根に囲まれた家並みがあった。ところが世田谷はちがう。道は泥んこ道。ススキ原やキャベツ畑がある。百坪の敷地に建っていた家は「赤い屋根のおうちです」と、伯父がくぎのような字ではがきに書いてきてから、夢にまで見て図画の時間に書き、友だちに「赤い屋根の家なんて・・」と笑われたようなモダンな家ではちっともなかった。くすんだオレンジ色の瓦が屋根に乗っている小さな家だった。予算がなかったそうだ。伯父は後々までも大工に混じってあの家を「自分で」建てたと言った。建材には三重県の古い家を取り壊したものも使われていた。
 伯父は私の教育のために、さんざん三重県の開拓団で非難をうけながら、東京に帰ろうと決めた話を繰り返ししてくれた。日頃から「東京に帰りたいね」とくりかえしていた祖母はじめ家族一同、浮き浮きしていた。まがりなりにも一軒家。昭和二十七年五月二十三日のことであった。
 世田谷区立の小学校まで徒歩三分。晴れると遠くに富士山がみえた。そのころは疎開先や、外地から帰る家族が多く、小学校の生徒数は目に見えてふくらんでいた。私の入った二年四組は木造二階建ての外階段を上ったすぐわきの教室だった。家では東京弁を話していたし、教科書はほとんど三重県で使っていたのと同じだった。気後れもしなかった。初めての授業のとき、算数の問題が出て、うしろにすわっているたくとくんが勢いよく手を挙げた。
「ぼく、いちばんにできた!」
 私は後ろをきっと見て、
「わたしだってできたわよ」
と言った、と、母に繰り返し聞かされた。記憶はない。母はどうして知っていたのか。
 ずいぶん遠いたくとくんの家へよく遊びに行ったし、たくとくんも遊びに来た。三重県から連れてきた雑種の「パピーちゃん」をつれて、二人で散歩に行った。レンゲがぎっしり咲いている畑で、二人でぼんやり寝そべったりした。たくとくんの家は「お大尽」で、兄姉がたくさんいたし、お母さんはピー ティー エーの会長だった。「ぼくのお母さんは利他主義なんだ」小さいたくとくんは、そんな変なことばも知っていた。たくとくんは一年遅れて私と同じ大学の経済学部に入った。合格した日に「行ってもいい?」と、電話がかかってきた。夜更けだった。大学に入ってどんなサークルに入ったらいい? などと取り留めのない話をしたが、私にはその頃、もうつきあっている人がいた。
 のぼるくんはバイオリンが上手だった。先生の息子で、よく似た弟もやはりバイオリンを弾いていた。私の家に来て、バイオリンとピアノの合奏を練習したりした。学校の帰りに、学校の裏山で笹の子をひきぬいていっしょに遊んだ。
 みっちゃんとたけしくんもなかよしだった。みっちゃんちもお金持ちで、きょうだいがたくさんいた。上のお姉さんは「芸大」に行ったという。みっちゃんちのこたつの中に三人で潜り込んで「げんとうごっこ」をした。懐中電灯で絵本を照らし出すだけのことだったが、みっちゃんちの絵本は珍しいのが多く、なんとなく秘密めいた心地もして楽しかった。冬になると、三人で縁の下にもぐった。三十センチもある長いつららがぶら下がっていた。冷たいとは思わなかった。みっちゃんとたけしくんは、奥までもぐって長いつららを取って私にくれた。
 みっちゃんちの垣根にはじんちょうげが植えてあった。二月になると良い香りが漂って、「お金持ちの家の花の香りなんだ」と私は思った。みっちゃんはかぜで休んでいた私にプレゼントをくれた。七福神とフランスの小さな香水だった。香水を高価なものとも思わずに、私はそのバラの香りを造花にかけてあそんだ。
 たくとくんもみっちゃんも、もうこの世にいない。
 二年生の学芸会は「ぶちぬき教室」といわれた教室の境をはずしたにわか作りの教室で行われた。三重県の学校では講堂があり、カーテンの閉まる舞台もあったのにと、がっかりした。
 私たちのクラスは「よびかけ」といって、全員が平等に出演できる工夫をした。けれど私はひとこと「おかあさん」というだけの役で、あとはバックコーラスを歌った。終わってから、祖母は「ひとり、ひどい音痴の子がいたね」と、不機嫌そうにぽつんと言った。ほかのクラスよりつまらない出し物だと思った。
 あまりに生徒が増え、二部授業が行われていた。六十人を越えるクラスの一番後ろの子など黒板にくっつくくらいなので、隣町に、新設校ができた。私たちはアーチを作って新設校にいく友だちを見送った。見送った中に平戸さんも、ようこちゃんもいた。せっかくできた東京の優しい友だちは、手を繋いでアーチの向こうに行ってしまった。
 いつから内気になってしまったのだろう。三年生になったとき、母の旧姓の祖谷を名乗るように言われた。そのころの名簿には両親の名前が載り、職業まで記入されていた。私とあと二名が母だけの名前で、母の職業は「保母」と書かれていた。「豆腐屋」「パン屋」「そば屋」のほか「大学教授」「医師」「会社社長」なども多いクラスだった。
 保母という職業を誇らしいとも恥ずかしいとも思わなかった。しかし、三重県にいたころ、母は小学校の先生になるはずだったのに、ならなかった、という事件があった。学校の先生になるかもしれないと聞いたとき、家中がわきたった。内山先生のように母が学校で教えるなんて、どきどきするくらいうれしかった。ところが、手続きをするために書類を取り寄せたとき、「何か」を母たちは知った。父に関することらしいと、苗字が変わったころにはうすうすと私も気づいた。
  そのまま先生になる話は立ち消えて、東京に引っ越す段取りが急に進められたのである。若くて見合い結婚をした母は、大学卒でもなく、それまで職業に就いた経験もなく、女性がすぐできる仕事として保母を選んだのだ。
 「お父さんは、戦争で外地に行ったまま帰らないの。行方不明になっちゃったのよ。」
  小さい頃そう聞かされていた。三重県をはなれ、東京でお墓まいりに行くと、母と一緒に「お父さんが帰ってきますように」と、手を合わせ、私はお願いした。しかし、「何か」が起きたときから「お父さん」に関する話題には、すっぽり蓋がされてしまった。夜、私が寝てから祖母と母が「今、岩手県のほうにいるらしいよ。」とひそひそ話すのを聞いても、別に驚かなかった。父は生きていてどこかにいるらしいと分かったが、触れてはいけないことと小さい心に封印した。
 伯父は印刷会社の中間管理職になり、野良姿とは打って変わった背広にネクタイの姿で虎ノ門に通っていた。花柳章太郎に似ているといわれた伯父にスーツはよく似合ったが、サラリーマン生活はストレスも多そうだった。年老いたころの伯父は作業衣に身を包むことが多かった。おそらく開墾百姓の頃の日々は私が想像するほどは苦痛なものでなかったのかもしれない。
 家に帰るとベートーベンの「皇帝」を繰り返し聴いていた。
 そのころの伯父の自画像もある。油絵に凝って、、自画像などを描いていた。 体を動かさずにいられなかったようだ、何年もかけて庭に池を掘り錦鯉などを飼っていたこともある。
 二年生のクリスマスは忘れられない。朝、目が覚めると、枕元に、小川未明 宮沢賢治 グリム童話 天文学の本など十冊以上の本が並んでいた。伯父からのプレゼントだった。
 母は、保母の仕事にのめり込んでいた。東京の西から東にまで通勤の毎日は容易でなかった。私が寝ている間に出勤し、寝ついてから帰るという連日で、娘と話すおりとて無かった。休日に、「あそんで」とねだっても、いつも「いそがしいから」という返事は、ただもう寂しかった。
 担任は、二年生からの小山先生が持ち上がりだった。先生はオルガンが下手だった。ばんそうは全部ドソミソで、ぶかぶかいやな不協和音が響いた。二年生の秋に私立のお坊ちゃん学校から転入してきたあつしくんが、ときどき、先生にかわって伴奏した。私もひけるのにと思ったが、口に出さなかった。
 あつしくんは、夏休み自由研究の宿題で、見るから綺麗な蝶々の標本を提出した。見たこともない色とりどりの蝶々が、燦然と標本箱に輝いていた。母に教えられながらノートに「折り紙」をはった私の提出物は、いかにも貧しかった。
 三年生の学芸会はこぶとりじいさんだったが、私に役はなく、あつしくんのピアノの補助役だった。前日くらいになって熱を出し、学芸会を休んだ。
 絵を描くのが大好きだった。図工の先生はピカソのような絵が良い絵だと言い張る先生だった。精密に描いて淡いピンクの濃淡をつけたチューリップの絵に低い点をつけて、裏に「おきれいね」となぐり書きして返された。好きな絵だったので悔しかった。その絵を二つにびりりと破いた私は、その後しばらくは漫画しか描かなくなった。
 初めてテープレコーダーという器械がクラスに持ち込まれて、読書の感想をテープに吹き込むことになった。私も吹き込んで、自分の声がなんて嫌な声なんだろうと愕然とした。あげく、マイクを手に、クラス一話せない子と同じ、「おもしろかった」の一言しか言えなかった。 
 給食時間は苦痛の外の何ものでもなかった。小山先生は、全部食べないと遊んでは行けないと言う。給食は、おかずにも脱脂粉乳の生臭くあぶらくさいにおいが染みついていて、まずくて食べられない。汚いアルミの容器に入れられた、泡立って生ぬるいあの脱脂粉乳など、とても人の食べ物と思えず、鼻をつめて一気に飲み込もうとしても、口の周りに泡はつくし、臭気は吸い込むし、苦痛そのものだった。パンは大きなこっぺぱんだったが、いつも焼き過ぎて黒くて硬いか、焼き足らなくてべちゃべちゃかの、どちらか。涙の出そうな思いで食べても食べても給食は減らず、学校では一言も口のきけない潤子ちゃんと二人で、掃除の始まったほこり臭い教室で、いつまでも給食を広げていた。
「まだ 食べている人は?」「一人だけでーす」と言われた。潤子ちゃんは数にはいっていなかったのだ。
  三年の思い出は何となく暗い。校舎も「ぶたごや校舎」といわれる仮設のバラック風、一階建ての校舎だった。一学期の三分の一は「かぜ」で休んだだろうか。家で天井の木目をいろいろな形に見立てたり、伯父に買ってもらった「少年少女文学全集」を読んだりして過ごした。
 四年生になって担任が変わった。加賀美先生と言う若い男の先生だった。就任の日に「きりん」の話をしてくださったのを覚えている。 勉強以外の面白い話をしてくれる先生に初めて出会った。嬉しかった。
 給食の時間に「ぼく、好き嫌いがあるんだよ」と、加々美先生は照れたように言われた。それを聴いて、のどにつかえていたものがすうっと流れていった。このときから不思議と給食は苦にならなくなり、友達とおしゃべりしながら、同じ速度で食べ終われるようになった。いちばん苦手なコッペパンは半分以上包んで持ち帰っていたけれども。
 あるとき先生は「ビルマの竪琴」という本がとても良かったので、給食のときに読んであげる、と言われた 。「先生 泣いちゃうかもしれないからね。後ろで読むよ。恥ずかしいから見ないでね。」
 ところどころ涙声になって読まれる「ビルマの竪琴」を60人の腕白生徒たちは、シーンと聞いた。
   この先生は詩も書かかれたし、詩人のY氏が父母会にいらしたことから「詩の教室」というのを開いてくださった。夏休み中の、冷房もない教室で開かれた「詩の教室」の優秀作品は、ガリ版刷りの小冊子に載せてもらえるというので、わくわくしながら参加した。生徒の多くは、あらかじめ用意の詩を作ってきており、それを書いていた。そうなんだと後で知った。私にはそんな知恵はなかった。なまぬるい風が吹いてくる様子を「うすめたような 風が ノートのページを めくる」と表現したのが、ありのままでよろしい、とY氏に批評されて佳作に選ばれた。
 思春期に近づき、微妙な憂鬱に添い寄られていた私に、文学の世界を初めて教えてくださったのも加賀美先生だった。 
 遠足には伯母がいつもついてきた。祖母が心配して必ず伯母を同行させたのである。私だけではなかった。一人っ子のよしえちゃんにはお母さん、アナウンサーになった新川たかひろくんにはお父さんがついてきた。親同伴の遠足なんて楽しいわけがなかった。伯母には冷たい顔を背けてばかりいた、今ごろ、申しわけなかったと思っている。
  五年生になって初潮を見た。十歳のときだった。知識もまったくなくて「たいへん! 血が出た!」と騒がれ祖母は当惑した。そんな顔つきだった。伯母が薬局で生理帯を買ってきてくれたが、「子ども用、っていったけどそんなのないと言われた」と、話しているのを聞いて、年齢不相応な事態になっているのだと思った。私より年齢のいった女生徒のだれひとりにもそれらしい兆候は見られなかった。身体検査では上半身裸にされた。ふくらみ始めた胸がそっと恥ずかしかった。記録紙などでさりげなく隠すのだが、
「胸 おおきいね」
 いじわるな女の子たちが、じろじろ見ながらそう言った。友だちよりずっと早く大人の体になってしまったことに、コンプレックスを感じた。

  数十年たったクラス会で、
 「五年生のときに、始まったでしょ?」と、酔ったついでに新川君から言われた。・・・遠足のときに、伯母が深い考えもなく話したことが、いつの間にか親から子どもへの秘密めいた話となって伝わっていたのだ、そのころ知らなくてよかったと思った。恥ずかしさで登校拒否になりかねなかったから。
六年の夏に行われた日光への修学旅行は、熱を出して休んだ。六年の遠足の大山登山は気分が悪くなって頂上を極めることもできなかった。さてというときにがんばれない心も体もひ弱な小学生だったのだろうか。
 学級委員というのがあった。生徒同士が投票で男女一人ずつを選ぶのである。私は四年生になってから毎年一番高い得票で選ばれた。親分肌でもなく体操が苦手、授業中も発言することの少なかった私が選ばれたのは、なぜだろうか。
 「だれにでも、優しかったからよ。」と、後日陽子ちゃんに言われた。そうだったのだろうか。潤子ちゃんの世話をずっとしていた春美ちゃん、学校にいつも花を持ってきた由紀子ちゃん、私よりも優しい女の子はたくさんいたような気がする。優しかったのではなくて、意地悪をしなかったからではないだろうか。
 傷つきやすかった。だから人を傷つけることもしたくないと思っていた。今は思う。意図的に傷つけようとしなくても、気がつかないことで人を傷つけたことはたくさんあったのではないだろうか、今でもそんなことがあるのではないか、と。
 意地悪はされた。特に女の子にいじめられた。
 「小さな家に住んでるね」と面と向かって言われたり、学級会などで単なる言いがかりを何人か束になって言われた。涙をためるだけで言い返せなかった。そんな様子を見て、男の子たちがかばってくれた。祖母はしょんぼりと帰ってくる私の様子を心配して、私立の中学に進学させることを考えていたようだ。
 陽子ちゃんと幸子ちゃんとは三人仲良しグループだった。陽子ちゃんはちょっと意地悪でときどき私を仲間はずれにした。でも私はわかっていた。幸子ちゃんが決して私を仲間はずれにしていないことを。三人は互いの家に行ってお菓子を作ったりして遊んだ。陽子ちゃんも幸子ちゃんも、今でもよく話す友達である。
 このクラスは、「過去の思い出」ではない。二年おきにクラス会が開かれている。あつし君は、そのたびに名簿と、ほぼ全員から届く五十通あまりの便りを印刷して、スナップ写真とともに送ってくる。逝去した友人以外は、今も一緒に年をとって行く。あつし君のおかげだ。あつし君の「クラス会ノート」には、卒業してから開かれた数十回のクラス会の出欠がすべて記入してある。私たちはそのノートを見て、感動のあまり声も出なかった。
 転校生も多かった。転校してしまった女生徒はみな美しかった。「黒百合は恋の花」と甘い声で歌っていたかおるさん、背が高く、ポニーテールをなびかせてドッジボールの玉でストレートな弧を誰よりも早く描くことのできたえりこさん、憧れの思いで見つめた。
 思いがけないことがあった。五年生のときに転向してきた靖男君が、
 「鉛筆、面白い持ち方をするんだね。」と言ったのである。そう指摘されるのは初めてだった。
 「どこがおかしいの?」と聞いて、靖男君の持ち方を見ると、ちがう。私の持ち方は、親指が人差し指の下に入ってしまっているのである。だれもが、親指と人差し指をくっつけるようにして持っているではないか。なぜ誰も注意してくれなかったのだろうか。誰も気づかなかったのだろうか。私のしつけは「形」にこだわらない「合理主義者」と自ら認める明治生まれの祖母によるものだった。
 四年生のときに「硬筆コンクール」で一等賞のまた上の特賞をもらったことがある。晴れがましい気持ちは、一年生のときに劇で主役をしたとき以来のものだった。賞状のほかに大きな記念品まであった。記念品はあまりはっきり覚えていないが、習字セットだったかもしれない。校長先生に呼ばれて全校生徒の前で賞状をもらうときに、緊張してくらくらした。足が震えて「足、震えてる。」と後ろでささやかれた。この特賞をとった文字は、面白い持ち方で書かれていたのである。選評者が私の鉛筆の持ち方を見たら、たちまち選外になったことだろう。
 「正しい持ち方」にしようと一応努力をしてみた。できないことはないが、今でも早く書こうとすれば「面白い持ち方」になってしまう。
 ちなみに靖男君はお箸の持ち方が「面白い」ことも教えてくれた。中指が二本のお箸の真ん中に入っていないのである。これも「正しいもち方」の練習をして、正しく持つこともできるようになったけれども、おいしく食べようとするといまだに「面白い持ち方」になってしまう。
 靖男君は今はマスコミ関連会社の「偉い人」になっている。社員の鉛筆やお箸の持ち方を今でも楽しそうに注意しているのだろうか。
 区立の小学校だったが、クラスの半数が中学校を受験することになった。国立大学の付属を受ける国立組、私立中学を受ける私立組、そしてそのまま公立の中学に進む組の三つに分かれた。その上、今だったら区立の小学校で決して許されないことだと思うが、加々美先生は、国立組・私立組についてそれぞれ課外授業をしてくださることになったのだ。子供の教育に熱心な父母が嘱望した結果にちがいない。
 伯父と伯母は学校に近い私の家で国立組の課外授業を行うことを提案してくれた。卓球台のように大きな机を伯父は一日で作ってくれた。6,7人の男女生徒が我が家に集まることになったのだ。たくと君、たけし君、あつし君もくることになった。夕食の時間になると、おばは貧しい生計の中から全員に親子どんぶりやカレーライスを作ってくれた。 
 勉強した内容は覚えていない。家に放課後に先生や友人が大勢集まって、食事をしながら騒いだ楽しさだけが記憶に残っている。
 あつし君と私は国立大学の付属に合格し、たくと君とたけし君は不合格だった。しかし、その後4人そろって同じ大学に合格した。陽子ちゃんも幸子ちゃんもそれぞれちがう私立中学に合格した。こうしてクラスの半数が、国立、私立の中学にそれぞれ旅立ったのである。 
                                                           ──了──
 

  
  ─未定稿─
 
 
 

(筆者は、「いや・やすこ」さん、ホームページのビジター。いわば初稿、草稿だろうと思われる、が、どのようなものに育ってゆくのかを見てみたい。湖の本の読者である。 1.6.21寄稿 2.1.27でこの稿は終点に達したと云うが、書き慣れない人が普通に書けば、よくて、こういう作文になる。そとは見ているが、自身の内側へ厳しい視線は通っていないので、把握が甘くなり表現も平凡に終っている。具体的なのはいいと思うが、せっかく書くなら自身をえぐり出す誘起が欲しい。)